陣形と戦術

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1名無し三等兵
 石原莞爾の最終戦争論をWebで見つけ、読み始めましたが、
冒頭の陣形に関する記述がよく分りません。

 戦術と陣形とはどういう関係にあるのでしょうか?
2名無し三等兵:02/01/06 00:48
とりあえず専門の軍人(っつうか戦士?)で無い「市民兵」に
槍と盾持たせて密集させたのが陣形戦術の嚆矢か?
3名無し三等兵:02/01/06 00:49
糞スレの予感
4名無し三等兵:02/01/06 01:08
石原莞爾よく読みな。陣形は点、前々時代の戦争だと
書いているのだよ。無駄な逡巡はやめて、現代戦の
本質を理解するが近道。
5名無し三等兵:02/01/06 01:12
取るに足らないクソスレが乱立する中で、ごくごくまとも
な意見じゃないか。あまり攻撃するなや。
6某研究者:02/01/06 01:26
>戦術と陣形とはどういう関係にあるのでしょうか?

まあ陣形は戦術の一部であって
地形や自軍の兵種・敵の陣形や兵種がどの様な物かに拠って変更される物ではないのか
無論作戦や補給の程度・兵力数もどの様な陣形を取るか決定する要素と成り得るのではないのか
7名無し三等兵:02/01/06 01:28
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!!
8桜金造だが:02/01/06 01:31
とりあえず、いいスレ・タイトルだからファランクスとレギオンとスイス戦闘団とテルシオとマウリッツとフリードリヒ大王と
グスタフ・アドルフとオーダーミックスまで語っちゃえばいいじゃない。

んでもってマッチロックとホイールロックとスナップハンスとフリントロックとミュケレットロックとパーカッションロックの
マスケット銃の変遷にともなう戦術の変化とかさ
9某研究者:02/01/06 01:31
まあ敵の奇襲可能性の無い場合は横隊や縦隊が用いられ
敵の奇襲可能性の有る時は方陣や円陣が用いられたと言う所だろうか
(無論背後や側面に敵の侵入困難な崖や谷等が有れば完全な方陣は不要だろうが)
歩兵が騎兵突撃を阻止する為に中に兵士を満たした方陣を使用する事も有る様だが
(まあ此れは火力の集中と言う事も有る訳だろうが)
10桜金造だが:02/01/06 01:33
ま、>9みればわかるとおり(笑
考えることはみな同じじゃ。スレ有効活用でいこ
11某研究者:02/01/06 01:36
まあ騎兵に対しては奇襲を受けず共機動力で
歩兵の横陣の側面を突かれ得る訳だから
騎兵を自軍の他の歩兵や騎兵で阻止出来ぬ状況では
地形や柵でも利用し敵騎兵の側面攻撃を防がない限り歩兵は横隊は取れないのではないのか
124:02/01/06 01:37
>>5
スマヌ。まあ某研も来たことだし、盛り上がってくれるであろう。
13名無し三等兵:02/01/06 01:39
木火土金水
14某研究者:02/01/06 01:41
騎兵隊騎兵の戦いでは多数の横隊に対し少数の横隊で応じては
何れ包囲を受け側面や後方を突かれ殲滅され得る訳だろうから
自軍の騎兵が敵の騎兵に対し少数である場合は
方陣(中空か)や円陣が用いられた可能性は無い訳なのだろうか
(無論弓等を内部に投射されれば逆効果な場合も有るだろうが
 西欧の騎兵は弓を使わないから其の場合はどうだろうか)
これとて中空の円陣の内部に乱入され背後を突かれれば脆い訳だから
円陣や方陣の厚みを増した例は有る訳なのだろうか
15名無し三等兵:02/01/06 01:42
銀英伝と丁字戦法しか思い浮かばない
16投稿日:01/11/05 19:00 ID:pEaHym5Q
昨日、師団の検閲行ったんです。検閲。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで状況入れないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、敵GF活動活発化、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、GF活動如きで普段来てない検閲に来てんじゃねーよ、ボケが。
GF活動だよ、GF活動。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で検閲か。おめでてーな。
よーしパパ阻止攻撃頼んじゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、F2やるからその席空けろと。
検閲ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
平らなオーバーレイの向かいに座った幕僚といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
殺すか殺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと座れたかと思ったら、隣の奴が、KZ戦車つきで、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、KZなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、KZで、だ。
お前は本当にKZを構築したいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、KZって言いたいだけちゃうんかと。
検閲通の俺から言わせてもらえば今、検閲通の間での最新流行はやっぱり、
CT編成、これだね。
RCTで包囲機動。これが通の頼み方。
CT編成ってのは特科、機甲科が多めに入ってる。そん代わり火力が細切れ。これ。
で、それに包囲機動。これ最強。
しかしこれを頼むと次から統裁官にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、ペントミック編成でも取ってなさいってこった。 ,
17暗闇のはじめ:02/01/16 00:19
 4世紀から5世紀にかけて、フランク諸族はライン流域及びマース下流域より
ローマ領ガリアの地に進出し、この地のローマの支配にトドメをさした。
 諸士族はメロヴィング家のもとに統合されつつ、自らの王国を構え、
それはやがてガリアを越えて四周に拡大を始めた。
 クローヴィッヒ王(在位481〜511)の治世に、周辺の諸国、諸部族は
彼の軍門に降り、いわゆる「シャグリウスの国」が併合され、
2度の遠征でアレマニエン北西部も制圧された。
 この間、クローヴィッヒは部下3000とともにローマ・カトリックに改宗して
教会とローマ人支配層の支援を得、また王国人口の過半を占める旧ローマ属州民との
融和に成功した。
 クローヴィッヒは更にブルグンド王国に攻略軍を発してこれと軍事を結び、
その援軍を得て西ゴート王国を攻め、アクィタニアを占領した。

 かくして彼の晩年には、北はライン下流域、東はウェーゼル・ドナウ上流域、
南はピレネー山脈に達する広大なフランク王国の版図が打建てられるに至った
 もっとも、征服された地域に対する支配は磐石と呼べる代物ではなかった
 フランク人の軍事的進出が計画的に行われたのはアレマニエン北西部ぐらいで、
他の征服地では在地豪族や貴族との和平が維持され、全体としては軍事的に均衡が
保たれているに過ぎなかった


そんだけ
18軍事王権:02/01/16 00:20
 クローヴィッヒの死によって、部族古来の伝統に従ってこの広大な版図は4人の男子に
分割相続されることになった
 この分治時代においても四周への支配権の拡大政策は続けられた
 フランク人はチューリンゲン族を屈服せしめ、南では二次の戦役の末に
東ゴート王国からローヌ流域のブルグンドとプロヴァンスを奪った
 こうして530年代にはフランク王権の及ぶ範囲はクローヴィッヒの時代より
更に一層拡大した
 しかし、この時点でも征服地は軍事的に制圧されただけで、
支配民族としてのフランク人の入植やフランク王国の王制への編合といった施策が
行われた形跡は殆ど認められていない。

 558年、四分国はクロタール1世(在位511〜561)によって再統一されるが、
彼の没後再び四子に分治される
 諸王は競うかのようにアヴァール、バスク、ブルターニュへの征討や西ゴート、
ランゴバルド両王国への遠征に手を染めたが、これらの軍事行動が成果をあげたとは
言い難かった
 メロヴィング王朝指導下のフランクの大規模な征服の時代は6世紀中頃で終わった


そんだけ
19戦争のお時間:02/01/16 00:22
 6世紀後半以降のフランク王国は、血みどろの権力闘争、内乱と分裂の危機、
統合と分割を繰り返し、こうした混乱の間隙をぬって地方豪族や貴族は在地化して
独立化の傾向を強め、これへの対応を迫られたフランクの諸王は、
ますます貴族の支援を求めざるを得なくなった
 有名な「パリ勅令」は、クロタール2世(在位584〜629)の貴族層に対する
政治的譲歩を物語るものだった

 この後、一時的に王権の伸展がみられた時期がなかった訳ではないが、
7世紀後半以降のフランク王国は再び抗争に明け暮れることになる
 ノイストリアでは諸豪族の内紛と混乱があった
 200年にわたってメロヴィング王家に忠勤を励んだライン・ネッカール河畔の
スエビー族とアレマン族の離反があった
 これに宮宰ピピンとカルル・マルテル父子によるクーデターと内戦が加わった
 ピピンはまた、フリーセン族の反乱を鎮圧し、アレマニエン東北部に対して
709年以降数次の遠征の末にこれを征服し、バイエルン、アクィタニア、プロヴァンス
の再征服にも着手した
 カルル・マルテルは父の偉業を継いでフリーセン、ザクセンに繰り返し出兵すると
ともに、イスパニアから侵入してトゥール市に迫るイスラム教徒軍を撃破した

 マルテルの子カルルマンとピピンもこの事業を継ぎ、アクィタニアとバイエルンを
制圧し、アレマン族の反乱をも鎮圧した
 この後、アレマニエンではグラーフシャフト制に代表されるフランク王国への
国制上の編入が進められることになる


そんだけ
20ここまで前振り:02/01/16 00:23
 751年、ピピンはメロヴィング最後の名目上の王であるシルデリック3世
(在位743〜751)を廃して自らフランクの王位についた
 彼はランゴバルド王国を攻めてローマ教皇との関係を一層深めつつ、
イスラム勢力からナルボンヌを奪回し、彼らをピレネーの彼方に封じ込めた
 カルル大帝(在位768〜814)は、ランゴバルド王国を降し、
自ら「フランクとランゴバルドの王にしてローマ人の守護者」と称した
 大帝は東のバイエルン族、北方のザクセン族を平定し、南ではイスラムに対して
遠征軍を送り込み、イスパニア辺境領を建設した
 更に東方のマヴァール人やスラヴ系諸族もフランクの宗主権を認めることになり、
フランクの支配領域は北はオーデル中流域、東はドナウ中流域、南はイタリア及び
ピレネー南麓のエブロ流域に達した

 「カルル大帝伝」は、「(カルル大帝が)世界各地で行った戦争によってフランク王国を
大いに拡げ、父の大ピピンから受け継いだ王国にほぼ二倍の領土を加えた」
と述べてその偉業を讃えている
 大帝の支配権に取り込まれた周辺の諸地域では、住民のキリスト教化と司教座、
教区制の新設と並行して、各部族法典の整備とグラーフシャフト制の導入が進められ、
住民のフランク王国に対する服従を示す宣誓も要求された
 宮中伯や帝国書記局、諸侯会議といった権力中枢組織が整備される一方、
伯や辺境伯が各地に配置され、国王巡察使がこれらを監督した
 フランク王国の中央集権化は、このように一時的にせよ実現した
 フランク王国は、当時ヨーロッパ随一の軍事力を背景に成し遂げたのだった
 この時代は、軍事技術的に「失われた時代」「暗黒の時代」と呼ばれている


そんだけ
21野蛮人です:02/01/16 21:07
 メロヴィング朝の軍隊は、少なくとも一般に言われているような純ゲルマン的な
戦士集団ではなかった
 ローマ帝政末期のガリアにおける軍事的なシステムとノウハウが
メロヴィング朝フランク軍に流れ込み、新しいスタイルの軍隊が形成されていた

 例えば、クロートヴィッヒに降ったローマ・セナトール貴族軍は、フランク貴族と
その陪臣軍に倣ってフランク王に対して「誠実」宣誓を行い、軍事的奉仕関係に入った
 メロヴィング朝の召集軍となったのである

 ローマ帝政末期に租税台帳に登録され、納税と新兵提出義務を担っていた都市部の
土地所有層は、メロヴィング時代にも同じ義務を課せられていた
 こうした義務や租税負担を免れるために有力者に託身したり聖職者になろうとしたり、
あるいは王がこのような者を聖界に寄進したりした結果、彼らは「教会の従属民」と
なったが、意に反して自ら出軍する義務を負担させられるに至った
 しかしながら、7世紀以降はこの階層はインムニテート特権により軍役を免除され、
軍事的価値を失うことになる

 更に、ローマ帝政末期の「ラエティ」と呼ばれる国境域の要衝に入植させられていた
たゲルマン人は、軍役と引き替えに国領の用益権を得ていたが、
彼らは征服者クロートヴィッヒにそのまま仕えた
また、メロヴィング時代になってからも、新征服地や国境地域に「ラエティ」に倣って
軍事的植民が行われ、その地域は「ツェンテナ」と呼ばれた

 つまり、5世紀末から6世紀初頭のガリアには、ガロ・ローマ系の聖俗の有力者と
その軍勢、行政管区(キーヴィタース)や城塞(カストラ)に駐屯するローマの
辺境駐留軍(リミタネイ)、ローマ領に居住する軍役負担者(ラエティ)が
存在していたが、いずれもクローヴィッヒの支配下に入り、フランク系軍事システムと
融合していくことになる

 フランク軍にはまた、周辺部族の征服に伴ってブルグンドやチューリンゲン在来の
軍隊が編入され、6世紀後半にはノイストリアとアクィタニアの都市に伯を司令官とする
召集軍が編成されるようになる
 時には複数の「キーヴィタース」から兵士が召集され、この際には大公が指揮を執った
 いずれの場合も、動員されたのは武装の自弁可能な土地所有自由民だったと思われるが、
ごく稀に貧民や弱者を含む「キーヴィタース」の全男子住民の召集が行われたという


そんだけ
22文明人です:02/01/17 20:58
 一方ローマでは、ディオクレチアヌス帝(在位284〜305)が、
共和政以来のレギオンの伝統を継ぐ辺境駐留軍に加えて野戦機動軍を創設するとともに、
近衛軍にかわって帝都防衛軍を新編していた
 彼は、辺境駐留軍に歩兵25万、騎兵11万、野戦機動軍に歩兵15万、騎兵4万6千、
帝都防衛軍に歩兵2万4千、騎兵1万2千を配し、別に補助軍5万4千を確保しようと
した
 しかし、4世紀になるとますますローマ人の兵役には様々な障害と限界がみられる
ようになり、ゲルマン人の採用が行われるようになる
 彼らは「ラエティ」として帝国領内への植民と引き替えにローマ軍用道路網の
守備につき、あるいは補助軍兵として野戦機動軍に勤務した
 ウァレンティニアヌス帝(在位364〜375)の時代になると志願兵制が盛行し、
ついで降伏者への兵役負課が行われる反面、ローマ市民の兵役義務は法律的義務としても
消滅することになる
 これにかわる徴兵制度として案出されたのが、「ユガチオ・カピタチオ」制度、
いわゆる人頭税だった
 土地所有者は、所有地の面積、植樹の本数、奴隷や小作人の数、家畜の頭数を申告し、
税務当局は算定法に従って税額を査定した
 この財産額と税額は都市の租税台帳に記載され、土地所有者はこの評価額に応じて
穀物租税を納め、定められた数の兵士を提供しなければならなかった
 従って、多くの単位をもっている地主はその所領内の小作人から複数の、
またその単位が端数の場合は近隣の者が集まって一つの単位をなして一人の新兵を
提出しなければならなかった


そんだけ
 「テオドシウス法典」には、新兵の提出は「(土地所有者)自身の義務として
というよりはむしろ、その者の家産の内容に基づいてなされるべし」とある
 この文の意味するところは、(少なくともこの時点において)ローマの土地所有者に
課せられた軍事奉仕が、一般に言われているような市民皆兵の原理に立脚したものでは
なく、また土地所有者が自ら負った出征義務の原理とも異なっているということだった
 この新兵提供制度の運用実態は、「テオドシウス法典」によれば、概略次のようなもの
だった
1 新兵の兵役義務は5年、兵士の息子が応召する場合と健康上障害のある場合に限り
 兵役期間は短縮される
2 流浪者、逃亡者、老兵、奴隷、卑賤職にある者、アルコール中毒者は新兵として
 提出されてはならず、むしろ軍隊の駐屯する属州の出身者、租税台帳に記載されている
 小作人(コロヌス)、所領内余剰人員が新兵として提供されることが望ましい
3 コロヌスが入営した場合、兵役期間中の人頭税は免除され、5年の任期満了後は
 配偶者の人頭税も免除される
  ただし、この恩典は突撃専用の重装兵部隊か河川監視補助軍に所属した兵士に与えら れ、野戦機動軍勤務の場合には本人、配偶者のほか両親の人頭税も免除される
4 人頭税の税収の減少を防ぐ意味からも、可能な限り租税台帳に記載されていない者や
 所領内余剰人員を兵士として差し出すよう奨励する
5 新兵提供を「代納金」で済ますことも可能であり、その額は25ソリドゥスと兵士の衣食の実勢価格分の合計で、全額国庫に支払われるものとする
6 かかる義務を課せられるのは、元老院議員、政府高官、都市参事会員及び平民個人、
 あるいは皇帝領やローマ市等の団体である
  ただし、上記の者のうちで軍人として活動中の者や属州の司牧は新兵提出義務を
 免除される
7 防衛戦争の際は自由民は武器を持って立ち、この者の奴隷も従軍することを勧奨し、
 国家存亡の危機にあたっては、全自由民の参戦が督励される


そんだけ
 当然のことながら、上記のような軍事奉仕を負担させられた大小の土地所有者にとって、
新兵を差し出すことは決して好ましいものではなかった
 コロヌスが徴兵された場合、5年間にわたって農業労働力が減少するからだった
 そこで、皇帝領をはじめとする大所領では、コロヌスの軍役代納金として
人数分の代納金が支払われることになった
 また、元老院議員貴族や政府高官の家門では、一族の者が軍司令官につく場合も多く、
あるいは自ら私兵を率いて軍務につく者もいたため、彼らが新兵提出制度の枠内で
行動していたとは考えにくい
 他方、都市の富裕市民、中位の土地所有者である都市参事会員はこの新兵提出義務を
負担する最も主要な階層だったが、これらの人々も4世紀の過程の中で免税特権を持つ
有力者の保護を求めたり、国家の役人や軍人となって都市参事会員としての義務を
免れようとしたり、あるいは手工業者組合の組合員となる者や、聖職身分に入ろうとする
者が続出することになる

 これまた当然のことながら、これらの動きは既にディオクレチアヌス帝の統治の
末年には禁じられていたが、429年の勅令は、どの都市の参事会員身分の中にも
その役目を遂行するに相応しい者がほとんど見当たらないことを認めている

 このような状況の中で、早くも5世紀前半には上記の原則に基づいた徴兵システムは
そのままの形では維持されなくなっていた
 当時、軍役忌避や逃亡の頻発を推測させるような数々の勅令が発せられている

 444年、ウァレンティニアヌス3世(在位425〜455)は、帝国西部での
コロヌスの軍役を廃し、兵力の不足をゲルマン人によって補充するという形で
ローマの軍隊のゲルマン化をより一層推し進めることになった
 ところが帝国の東部国境では、当時のガリアではゲルマン諸族の侵入の危険が加わり、
ローマ軍の防衛ラインはライン河から後退していったのである
 結果、当地の有力な大土地所有者は競って私兵を擁するようになり、
一方ガリアの最高軍司令官(マギステル・ミリトリウム)麾下の軍勢も、
5世紀中期以降、私兵的性格を強めていくことになる

 このように帝国の統治能力の弛緩したガリアでは、「一種の反国家的な心情に
支えられた巨大地主制の台頭」と「豪族団による恣意的支配網の確立」が、
中小土地所有者の没落とともに展開していくことになる
 フランク族の南下が始まろうとしていた頃のガリアに残存するローマの軍事勢力は、
こうして一種の私兵組織と化していたのである


そんだけ
25タチムカウ:02/01/18 23:31
 クロートヴィッヒが北ガリアの占拠と定住を始めた頃、その地には既に
ローマの正規軍団は駐屯しておらず、僅かに大所領を抱えた
ガロ・ローマ系有力者が私軍を擁するにとどまり、皇帝領や国家領には雑多な部族から
採用された屯田兵(ラエティ)が存在していた
 そして、そのいずれもがクロートヴィッヒの掌中に入ることになった

 前述したように、帝政末期からフランク王国建国の頃までのガリアでは、
ガロ・ローマ系セナトール貴族ら有力者が私軍を擁して都市を拠点に割拠していた
 シドニウス・アポリナリスの従兄弟エクディチウスは私財をはたいて募った騎兵隊を
西ゴートに向けて進発させており、またティトゥスというローマ系有力者は
ガリアにおける私兵指揮官として勇名を轟かせて東の皇帝レオン(在位457〜474)
の関心を誘ったと伝えられている
 アポリナリスの言葉によれば、5世紀後半のガリアの地で政治的に成功するためには、
馬、武具、衣類、資金と並んで多くの家来を揃えていなければならなかったとされている

 こうしたガロ・ローマ系有力者の多くは、フランク王国軍の南下に先駆けて
ミラノやアルルへと難を逃れて疎開してしまった
 従って、ガリアの地に残ったセナトール貴族たちがその手勢とともに
クロートヴィッヒの侵略軍を迎撃し、華々しく戦った後に敗北したという事例は
ほとんど伝えられていない
 恐らく、北ガリアに留まったガロ・ローマ系有力者の多くは城塞に立て籠もって
短期間の抵抗を示した後、クロートヴィッヒに臣従し、旧来の所領や財産の安堵を
受けたと思われる
 彼らはフランク王への誠実宣誓ののちに直ちにフランク軍に編入され、
次々に展開される中・南部ガリアへの攻勢作戦に投入されている
 こうしたガロ・ローマ系有力者で現在史料上名の知られている約70名のうち、
半数はローマ名である
 また、6世紀後半になるとフランク王国の宮宰や王領代官等の上級職は
セナトール貴族層によって占められ、また優秀な軍事指揮官の多くもローマ系であったと
いわれている

 一方、ラエティは、「テオドシウス法典」によれば、重要な街道や軍倉庫を守備し、
あるいは国境域の要塞を守る軍事奉仕の見返りとして国家領に入植した者たちだった
 入植地における彼らの特別な地位は5世紀前半の一連の法律で定められていた
 土地の民間人への売却は禁じられ、租税その他の納付義務から解放されていた
 彼らの多くはローマ人以外の異民族で、帝政末期のガリアには多くのラエティが
駐屯していた
 西ローマの瓦解に伴い、彼らはシャグリウスのローマ人王国、ブルグンド、
西ゴート王国で継承されていくことになる


そんだけ
26416のつづき:02/01/19 04:05
ま、見る人は見る
27名無し三等兵:02/01/19 04:39
ああっ!「そんだけ」先生の新連載ですか?
28侵略者:02/01/19 08:58
 先王シルデリックより受け継いだ戦士団を擁したフランク王クロートヴィッヒは、
同族の小王であるカンブレのラグナカールと連合し、468年より南下を開始した
 シャグリウス軍との戦闘は5年に及び、ヴェルダン、ソアソン、パリの攻城戦を経て
セーヌ北岸一帯を制圧した
 シャグリウスの下にあったローマ軍団と、ランス〜アミアン間及びパリ〜サン・モール
間のサルマチア系ラエティとランス〜アミアン間のアレマン人ラエティが
クロートヴィッヒの掌握下に入った
 クロートヴィッヒがローマ軍を武装解除したか否かは不明だが、
軍事植民地は皇帝領ともどもそっくりクロートヴィッヒに継承されることになった
 恐らくそこに駐屯していたラエティたちは、誠実宣誓を強要された後、
引き続きそれぞれの地で軍事的役務を課せられたと考えるのが妥当だろう

 496年、対アレマン戦勝利の後、クロートヴィッヒはアタナシウス派キリスト教へ
改宗して一部の将兵の離脱を引き起こしたが、それに倍するガロ・ローマ系聖俗有力者の
支援を獲得することに成功した

 500年以降、クロートヴィッヒはセーヌ、ロワール両河間のアルモリカ
(ブルターニュ)への進出を企て、やがて自己の宗主権をアルモリカの民に認めさせた
 この地域には、ガロ・ローマ系有力者の私兵団、帝政末期の軍事機構を保持していた
ローマ正規軍団の後裔、オルレアンとその北辺の地のアラン人ラエティ、シャルトル、
バイユー、クタンス、ル・マン、レンヌの皇帝領ラエティ、バイユーに在留していた
ローマの同盟者ザクセン人が存在していた
 アルモリカ地方のこれらの人々は、既にアタナシウス派に改宗済みで、
西ゴート族のロワール北域への進出に危機感を募らせていたため、
フランク族の軍事高権をあっさり認めることになる
 この地域でも、クロートヴィッヒは広大な軍事植民地と多数のラエティを
手に入れることになる

 507年、ついにクロートヴィッヒは対西ゴート戦に踏み切った
 ポアティエ近郊のヴイイェでの野戦で西ゴートの野戦軍を撃破したクロートヴィッヒは、
その後アングレーム、サント、ボルドー、トゥールーズを次々に占領、
息子テウデリック(在位511〜534)の軍もアルビ、ロデズ、クレルモンの各市を
制圧した
 フランク軍は西ゴート族支配下の南ガリアを征服し、都市と要塞からゴート人守備兵を
追い払った
 こうしてロワール、ガロンヌ両河間の地域を支配下に入れたことにより、
クロートヴィッヒ軍は新たにポアティエ地方のタイファル人とサルマチア人のラエティ、
クレルモン要塞に駐屯していたアレマン人ラエティのほか、ロデズ渓谷のサルマチア人と
アラン人を併入した
 これらの征服地のうち、クロートヴィッヒはトゥールーズ、ロデズ、サント、
ボルドーの各市にフランク兵の守備隊を配した


そんだけ
29バキャベッリ:02/01/19 15:38
 お久しぶりです、相変わらずの素晴らしい情報量に感服しました。
しばらくの間、軍事関係の歴史講釈として楽しませて頂きます。
30名無し三等兵:02/01/19 17:13
うわーい!そんだけ氏再臨!また楽しませていただきます。

発見が遅れちゃったけど・・・・生きててよかった・・・・・・
 クロートヴィッヒの息子たちの時代になっても、版図拡大と軍事力増強という
基本的な戦略方針に変化は見られなかった
 ブルグンド王国を併合したフランク軍はガロ・ローマ系有力者を屈服させ、
その下にあった「施物を給付される者」(スポルトゥラリイ)と呼ばれる私兵集団や
かつてのローマ正規兵、ラエティ、更には傭兵をも編入して強大化していく
 初期メロヴィング時代のフランク軍は、シャグリウス、西ゴート、ブルグンドとの
戦闘の結果、勝利を収めて異種雑多な軍事的要素を内に取り込みながら
成長していったのである

 この時代のフランク軍は、概ね三つのファクターで構成されていた

 第一に、王は直属の家臣から選抜された武装兵力を常時擁していた
 彼らはいわば王の手勢、すなわち親衛隊であり、最も信頼の置ける精鋭だった

 第二に、フランク系及びガロ・ローマ系有力者とその私兵集団がいた
 特に後者は、メロヴィング王権下に入るにあたって、動産や所領、
私軍(いわゆる封臣軍)の所有を安堵してもらう見返りとして忠誠と軍事奉仕を
誓っていた
 彼らが味方につくか離反するかによって王国は安定もし混乱もする、
王権にとっては決して軽視できない存在だった
 前述のアルモリカ地方の旧ローマ正規軍団兵や、ブルグンドにおける
かつてのローマ正規兵は、フランク王の軍門に降るにあたって、
その指揮官共々そっくり受け容れられて一個の封臣軍と化していた
 当地がローマ帝国から切り離されて既に久しい以上、将兵の調達がローマ的徴兵原理に
基づいてなされていた訳ではなかった

 第三に、かつてのローマ皇帝の国境守備兵であるラエティが、
これまたかつてのローマの行政管区(キーヴィタース)や城塞(カストラ)、皇帝領に
存在していた
 メロヴィング王権は、そうした都市や軍事的植民の行われた公領を継承し、
ここに新たな軍事的植民地(ツェンテナ)を組織していく
 居住者は、国王の従士として前代に引き続き軍事的ないしは準軍事的役務を果たした

 メロヴィング朝の軍隊を構成していたのは、上記の三種類の兵士たちだった
 土地所有規模に応じた新兵提供制度がローマ帝国からフランク王国へと
持ち込まれた形跡は確認されていない


そんだけ
32軍隊に入る権利:02/01/20 10:14
 総じてゲルマン系諸部族国家にあって、被征服民であるローマ系住民への兵役義務の
拡大は稀で、あってもそれは建国後かなり時間が経過してからのことだった
 例えば東ゴート王国では、「ゴート人は戦闘を通じて社会全体を守る
 ゴート人が戦い、ローマ人は平和に暮らした」と言われていた
 勿論、ローマ人は時として要塞の維持にかり出されたり、ゴート人戦士の従者として
従軍する等、補助的な役割を果たしていた
 しかしそれは、いわば「公民」としての役務ではなかった
 また、ヴァンダル族も建国の地北アフリカの土着の民やローマ人に軍役を求めず、
ランゴバルド族も征服者と被征服者の子孫の平等化に長い間反対した
 ランゴバルド王国のローマ人は、8世紀中頃のアイストゥルフ王(在位749〜751)
のもとでやっと自由に軍隊に入ることを許されたという

 これに反してブルグンド族は、ガロ・ローマ系住民の軍事力を利用することを
躊躇しなかった
 西ゴート王国でも建国150年後の6世紀後半、ローマ系住民との婚姻が合法化され、
654年の両族法の消滅と共通法の発布を経て、ワンバ王(在位672〜680)は
イスパニア、ローマ人を含む全王国民に軍役義務を拡大しようとした
 エルウィッヒ王(在位680〜687)は、「特別法により、ゴート人であれローマ人
であれ軍務に就いている全ての者が、出征中は自己の奴隷を10人につき1人の割で
(従者として)伴うべきことを決定」しており、しかもその奴隷は、
「武器無しではなく、逆に各人が軍隊に随伴できるよう種々の武装を与えられるべきであり、
例えばある者は防具を身につけ、多くの者は円楯、刀剣、戦斧、槍、弓矢を有すべし」
とされていた
 エルウィッヒ王はしかし、奴隷主が決定に反して20人に1人の割ですら奴隷を
従軍させていないことに苦言を呈している
 また西ゴート王国は、ほぼ同時期に軍役の枠を聖職者にも拡大せんと図り、
第4回トレド教会会議はこれに非難の声をあげて反対している


そんだけ
333倍の法則:02/01/20 16:46
 フランク王国でも、クロートヴィッヒ時代の軍隊にガロ・ローマ系住民は例外的で、
状況に変化が見られるのは6世紀末から7世紀初頭にかけてからだった

 6世紀初頭に編纂された「サリカ法典」の人命金に関する規定の中では、
ローマ系土地所有者が「国王御陪食役」、「ローマ人土地所有者」、「ローマ人借地農民」
等に区分されており、ローマ人の土地所有者が社会層として健在であることを示している
 しかし、ローマ人は軍事・軍役関係の諸規定には一切示されておらず、
軍役を義務づけられていなかったと思われる節がある
 また、ローマ人の人命金はフランク人に比して低額で、それはフランク人の被征服民に
対する差別感のあらわれとされてきた
 それはそれとして、フランクの人命金秩序には顕著な二つの原則が存在していた
 一つは、国王勤務が人命金を3倍額にするというものであり、
もう一つは、軍隊勤務が人命金を3倍額にするという原則である
 それ故フランク人自由民にして国王の従士が軍中で殺害された場合、
単なるフランク人自由民が軍隊外で殺された場合の9倍額の人命金が保証されていた
 ローマ人の人命金がフランク人のそれに比して低く抑えられていたのは、
ローマ人が「サリカ法典」の編纂当時、軍役を義務づけられていなかったからではないか
と推測することもできる

 ついで573年以降トゥールの司教となったグレゴリウスは「歴史十巻」を著したが、
その中の6世紀第4四半世紀の巻の578年のくだりには、シルベリック王の命による
ブルターニュ遠征に従わなかった教会領民から『軍事罰令金』を徴収すべしとの指示が
見られ、また585年のくだりには、王位簒奪者グンドヴァルド征討軍に加わらなかった
教会領民から『軍役代替金』を徴収せよとの命令が出されている
 しかし、この記述のすぐ後には、それぞれ「しかしながら、これらの人々が公的役務を
行う慣例はない」、「彼らはこのような事件で出立する習慣を持たない」とする教会の
抗弁が続いている

 一方、メロヴィング期の聖職者の武器携行や軍役義務については、教会会議が
幾つかの決定を行っていた
 511年のオルレアンの会議では、俗人の出家は国王の許可が必要とする旨の決定が
なされた
 聖職者は軍事上、民事上の義務を負わないため、俗人が聖職者になれば、
国王は一人の戦士か官吏を失うことになるからだった
 この決定には、国王の利害関係と意志が強烈に投影されている
 これは、メロヴィング王権が6世紀中頃まで独自の立法を行っておらず、
教会会議に多くを委託していたからだった
 541年に再びオルレアンで開かれた教会会議では、聖職者が軍役その他の公的義務
から自由であることを確認し、また581年、583年のマレンゴでの教会会議は
聖職者の武器携行を禁じている
 同様の禁令は7世紀にも繰り返され、教会はこれを一つの特権として堅持しようとした


そんだけ
34内戦:02/01/21 20:24
 フランク軍を構成する三つのファクターのうち、国王の親衛軍と王に臣従する有力者の
諸侯軍は高い機動性を備え、頻繁に出陣したのに対し、国境域や都市、要塞を守備する
辺境駐留軍(リミタネイ)や皇帝領に居住するラエティは、基本的に屯田兵的性格を
有していたため即応性は高いものの機動性の点では劣っていた
 これをもって親衛軍と諸侯軍が騎兵編成だったからとする説は間違っている
 むしろこれは情報収集能力や兵站能力、組織管理スタイルの違いから来るものであった

 当時、ガリアにおける力関係の激変に伴う国境域の変更により、従来の軍事戦略図も
大幅に塗り替えられた
 5〜6世紀のガリアにおける戦闘は、境域や領域、つまり「線」や「面」を巡る戦い
というよりむしろ、「点」すなわち都市や要塞の攻防戦として展開された
 クロートヴィッヒは、南進の過程で多数の行政管区(キーヴィタース)を攻め、
その陥落後には己の部将を守備隊として配し、または恭順を誓ったラエティを
そのまま据え置いた
 このフランク化されたラエティやリミタネイは、王国版図の拡大に伴って
漸次その性格を変化させていく
 版図の拡大が従来の国境域を後方地域化したため、ラエティ等の守備兵力を
不要のものとし、一方、版図の拡大は長駆の遠征作戦を恒常化させ、
国内防衛兵力の軍事的価値を相対的に低下させることによる

 6世紀後半に入ると、フランク王国は国内の権力闘争が激化し、内乱と分裂、再統合を
繰り返すことになる
 こうした混乱に乗じて、被征服部族は再び反旗を翻し、地方豪族や貴族は在地化して
自立の傾向を強めていった
 このためラエティは、6世紀の後半には一変して近隣の都市を攻める戦闘や私戦に
用いられるようになり、本来有していた国家的性格を急速に薄めていく
 こうした私的な軍隊の恣意的な出動は、キーヴィタースや都市単位でかなり頻繁に
行われるようになる


そんだけ
35名無し三等兵:02/01/22 16:54
じーっと地下で待つ。いつか賞賛を浴びる日を待ち、功名心ではちきれそうなセミの幼虫
はきょうも着々と育つのであった。まる。

応援してるよん
 6世紀後半、メロヴィング朝フランク王国軍の軍制上に大きな変革が起こった
 グレゴリウスの「歴史十巻」の568年の章によると、ジギベルド王がアルルの都市を
攻略しようとして「クレルモンの人々に出動するよう命じ」ている
 クレルモン軍の指揮官は当市の行政管区伯(コメス・キーヴィタース)の
フィルミニウスだった
 伯に指揮されたこの軍隊は、在来の諸侯軍や王の親衛軍とは異なり、
クレルモン市在住者の中から徴募された召集軍だった
 この「都市召集軍」は、一般に兵役義務を負うフランク人自由民で構成されてはいなかった
 グレゴリウスの記述によれば、クレルモン市軍の兵は兜を被り円楯を持つ騎兵で、
「クレルモンの有力者たち」と称されていた
 つまり、都市召集軍に加わることのできる経済状態の者とは、単に装備と兵糧を
自弁し得ただけでなく、自分が出征しても生活に支障をきたさぬだけの十分な数の
従属民や奴隷を所有する土地所有階級を意味している
この有力者たちは出陣にあたって従属民も率いていたが、
この中には旧ローマのラエティも含まれていた
 また、グレゴリウスの記述によると、教会領民や貧民は6世紀の中頃までほとんど
召集されなかった
 これは、彼らが経済的な意味で弱者であったことの他に、彼らの存在が生産活動に
不可欠だったからであった

 更に、比較的広い領域の複数の行政管区(キーヴィタース)から召集され、
大公に指揮された「地方召集軍」が存在していた
 この地方召集軍の構成員は都市召集軍と何ら変わるところはなかった
 地方召集軍が動員された地域は、バイユー、シャルトル、シャトーダン、オルレアン、
ル・マン、ナント、アンジュ、トゥール、ブロア、ブールジュ、ポワティエ、サント、
アングレーム、ペリグー、クレルモン、ボルドー、アジャン、トゥールーズといった、
ノイストリアとアクィタニア地方のローマ的伝統の根強く残る諸都市に限られていた

 グレゴリウスの記述の中には、「強壮な兵士」や騎兵の他に、
歩兵でしかも軍事的に価値の低い「下層の者」や「弱者や貧者」も見出される
 こうした下層民を含む「一般召集軍」はごく希にだが動員されたが、
応召の基準は明らかにされていない

 このように新たに出現した軍隊、「都市召集軍」、「地方召集軍」、「一般召集軍」は、
軍事的には二義的な役割しか与えられていなかった
国王の親衛軍や諸侯軍に比べると装備や訓練の面で劣り、行軍距離や従軍期間の点でも
制約を受けており、その軍事的価値は決して高いとは言えなかった


そんだけ
37バキャベッリ:02/01/22 21:23
 エーッとつまり、それは騎士貴族階級でしょうか?。それとも所謂プロレタリアの
市民階級なのでしょうか?(ローマ的意味合いなら、此方かな)。少なくとも、被征服民
から召集された訳ですよね。
38王様の兵隊:02/01/22 21:26
 560年代末頃以降、様々な規模の軍隊召集が、キーヴィタース単位で行われるように
なった
 568年から591年にかけて、行われた13例の召集のうち、
5例は他の都市を襲撃し、略奪するために行われた
 この5例についてはその構成員の出自は明らかにされていない

 3例は、比較的有力な市民層で構成されているケースだった
 彼らは「有力者たち」と称され、あるいは王の命令を無視できる程の実力を有してもいた
 彼らの装備は、グレゴリウスの断片的な記述による限り、甲冑に身を包み、
楯を持って騎乗していたと伝えられている
 彼らは市の有力な貴族たち、具体的にはローマ以来の元老院議員の後裔や彼らと
融合して一つの社会階層を形成したフランク貴族たちであった
 彼らは私軍を擁し、事あらばそれを率いて出陣した
 こういう人々は行政管区伯(コメス・キーヴィタース)や大公など、王の官僚の指揮下
に入って出征することも多かった
 この場合、土地所有は決して従軍の前提ではなく、従士制的な主従関係が重要な役割を
演じていた

 最後の5例は、王の命令によって召集された部隊が軍勢を構成しているケースである
 前述の568年のクレルモン都市召集軍のこのケースである
 578年、シルペリック王(在位561〜584)の命でブルターニュに派遣された
王国軍は、トゥール、ポワティエ、バイユー、ル・マン、アンジュの人々からなり、
585年にグントラム王(在位561〜593)は「王国の諸族を動員して大軍を集めた」
が、その大部分はオルレアンとブールジュの人々だった
グントラムの軍勢はゴート人支配下のセプティマニアに向けて進軍したが、
行軍の途上でブールジュ、サント、ペリグー、アングレームの兵が軍令に反して
悪事を働くなど軍紀が乱れて対ゴート戦は進捗せず、遂に「フランク人は馬に乗って
辛うじて逃走」し、取り残された「歩兵は悉く捕虜となった」と伝えられている

この第3のケースでは、召集も戦闘も王命によっており、568年の事例では行政管区伯
(コメス・キーヴィタース)が軍事指揮権を掌握していた
 また578年の事例では、従軍しなかった者から「軍事罰令金」を徴収せよとの命令が
発せられており、グレゴリウスはこれを「公的役務」と表現している

 そもそも、フランク族を含むゲルマン系諸部族は、伝統的に異なる原理原則に基づく
2種類の戦争を戦っていた
 一つは、全部族を全体として拘束する公的性格の強い「国民の戦争」と、
従軍するか否かを各人の自由意志に委ねる私的性格の強い「従士軍の戦争」である
 すなわち、戦争目的に応じて2種類の軍隊が使い分けられていたということになる

 前に、フランク王権が578年にブルターニュ遠征に従わなかった教会領民から
「軍事罰令金」を徴収しようとし、一方585年の簒奪者グンドヴァルド征討軍に
加わらなかった同じ教会領民から「軍役代替金」を徴収しようとしたと書いた
 前者は対外戦争であり、公的性格の強い「国民の戦争」であったから違反した場合は
「罰金」なのであり、後者は内戦であり、従軍するか否かは「公的役務」の
次元の問題ではなかったため、命令に従わない場合は「代替金」が要求されたのだった

 つまり、先の3種類の召集軍のうち、有力市民層と彼らの私軍で編成された
第2のケースこそが私的性格の「都市召集軍」であり、国王の命により、
有力市民層のみならず、社会的弱者や貧者、更には教会領民まで召集しようとした
軍隊こそが公的性格の「一般召集軍」であった

 シルペリック王は対ブルターニュ戦で教会所属の貧者や弱者までも徴兵しようとし、
グントラム王の徴募した軍隊には約2000の(装備の貧弱な)歩兵が存在していたと
記されている


そんだけ
3938:02/01/22 21:48
>>37
敢えて言うならば前者ですな
プロレタリア(この時代にこの呼称が適切かはわかりませんが)な人たちは
「一般召集軍」にしか従軍できませんでした

40名無し三等兵:02/01/22 22:48
有り難う御座います、何だか世界史の講座に成って来ましたね。
面白い。面白いんだけど、漏れの視力がヲチル。
42名無し三等兵:02/01/23 14:41
>>41
テキストで保存して、
行間や背景を設定できるエディタか
読書用に特化したテキストビューワなどで開いて読むべし。

とりあえず、そんだけ氏の話の続きキボン。でも荒れたらやだからsage。
43根刮:02/01/23 21:43
 初期フランク王国は、国王の親衛隊を核とする武装戦闘集団である親衛軍と、
王に臣従するフランク系諸侯率いる諸侯軍とをもって征服を開始した
 ローマやゲルマン系他部族の支配領域を征服していく過程で、
フランク軍は多様な軍事的ファクターを取り込むことになる
 そしてこの短期間の内に起こった変化は、クロートヴィッヒの軍隊が氏族の枠を破り、
部族の壁を越え、そして恐らくは軍隊徴募の原則そのものからして全く異なる
 ローマ的ファクターを受け容れる過程でもあった
 当初は異なる原理に立つ種々の軍隊の併存だった
 これらの融合には恐ろしく長い時間が必要だっただろうが、うち続く戦乱が
諸ファクターの融合を促すことになった
 アタナシウス派キリスト教の聖所と聖遺物にかけて約束されたガロ・ローマ系将兵の
フランク王への誠実宣誓は、フランク軍内の諸ファクターの統合に僅かながら
貢献することになった

 しかし、やがて外征に向けられていたエネルギーが一変して内向した時、
 フランク王国軍を支えてきたファクターは再び分解し、
国王の軍隊すら分邦諸王のそれへと分裂、縮小の運命を辿ることになる
 かつてのラエティは有力諸侯との従士制的な関係のうちに消滅し、
私的かつ恣意的な軍隊召集が一般化した
 フランク諸王が、フランク人自由民はもとより、教会領民やローマ系住民をも含む
地域召集の原理を採用し、いわゆる「一般召集」を行おうとしたのは
まさにこのような時だった
 フランク王権は、まさにこの「召集軍」を王国軍の新たな支柱、新たな戦力に
位置づけようとした
 王権は更に、「従軍義務違反者」から戦争目的に応じて「軍事罰令金」を徴収し、
あるいは「軍役代替金」を取り立てようとし、これに教会は教会領民には一切の義務無し
と抗弁した
 グレゴリウスの記述は、ガロ・ローマ系住民や教会領民に対する軍役義務が、
メロヴィング王権によって新たに負課され始められようとしていることを示唆している

 聖界への軍役義務の拡大は即座に成し遂げられたわけではなかった
 フランク王権は、7世紀初頭に至ってようやく、一部の司教や修道院長を通じて
領民の動員、徴発に成功することになる
 故に、初期メロヴィング期においてはいわゆる一般徴兵の原則や「国民召集軍」は
未だ成立していなかったことになる
 確かに、ゲルマン古代以来全自由民の一般徴兵の原則は一貫して維持されていたが、
それは、紛争に際してフランク系有力者が自分たちの農民を戦争に巻き込むことを
躊躇しなかったからだった
 国王による「一般召集」もまた、有力者のそれと同様、臨時的かつ恣意的な強制であった
 この点で、当時の軍役は近代の国民皆兵制下の兵役義務とは全く異なる代物だった


そんだけ
 現在、封建制は一般に国家の近代化、民主化を阻害したもの、または阻害するであろう
ものであると定義されている
 軍事史においても同様で、「封建制度の成立により、マケドニアや古代ローマが
培ってきた優れた戦略、戦術が喪われ、封建制度の解体によりナポレオンに代表される
近代国家軍の誕生によってようやく古代ローマに互するまでに回復した」という考えが、
大抵の場合、無批判に受け容れられている
 更に凄いのになると、「中近世の軍事史は、ローマ崩壊により一挙に喪われてしまった
軍事技術を再び一から構築し直す歴史だった」と定義したり、「イッソスのマケドニア軍
はワーテルローのフランス軍と互角に戦える」という意見も存在する
 16世紀のイタリアでよせばいいのに共和政ローマ軍の復活を目論んで
人生を棒に振ったニッコロ・マキャベリが天才的軍政家として評価される
ようになったのもまさしく時代の要請だった

 同じような風潮は19世紀中頃のドイツ史学界でも見られた
 ドイツの歴史家たちは、ドイツ民族が近代的・統一的近代国家を持たない原因を、
中世以来の封建制に期するとともに、この制度の成立の契機を史実の中に求めた
 最初に歴史家たちは、宮宰カルル・マルテルとその後継者の時代に、
ゲルマン的な従士制とローマ的な恩貸地制が結合して封建制が成立したと主張した
 しかし、中央集権権力に対してネガティヴな働きをすると信じられていた封建制の成立を、
歴史上の英雄マルテルの責任とする点に不満を感じた愛国的なドイツの歴史家たちは、
その理由と歴史的背景を説明しようとした
 この要求に応えるべく一つの結論が導き出された
 マルテルはトゥール・ポワティエの戦勝後、イスラム騎兵の潜在的破壊力を見抜き、
フランク王国とキリスト教世界を救うべく重装騎兵軍を創り出し、
その際に封建制が成立した、というものである
 これは、当時のドイツにおいてまさしく絶対無敵にして最強の「定説」となった
 何しろ、この「定説」はドイツ分裂の原因となったシステムを創出した「原罪」から
ドイツ人自身を解き放ち、あわせてキリスト教世界の防衛と中世騎士道の
輝かしい伝統の起源をドイツ人のもとにもたらしたのだ
 これはもう人気を博さない訳がなかった
 こうして、この説は現代に至るまで定説の地位を占め続けており、とりわけ
「カルル・マルテルの兵制改革」は暗黙のうちに支持され、前提とされ、
補強され続けている


そんだけ
45名無し三等兵:02/01/23 23:33
ヤボを言って申し訳ないが、これは軍制の話であって陣形の話では無いと思われ。
46名無し三等兵:02/01/23 23:53
いや、これは前知識というか基礎知識だから。きっと。
そのうち、あとで「ああ、あの時のことが、こんな因果に」ってなるから。
つーわけで、     ↑の宝庫、戦略論スレの参照してみるよろし>45
>44
ありがとう。そうする

そんだけ氏の名前欄はいつも笑う(W
頑張ってくだされ。
マティガエタ47ハ>>42デス
 「定説」によれば、封建制は本質において軍事的であり、騎兵部隊を創設し維持する
目的のもとに組織化された社会類型である
 元来、フランク族を含む古ゲルマン諸部族は騎乗して戦うことも珍しくなかった
 カエサルの「ガリア戦記」によれば、ゲルマン人のスエビ族の長アリオヴィストの
率いる軍勢は、総兵力12万、うち騎兵6000を擁していたという
 また、マルコマンネン族の王マルボードの軍隊は、総兵力7万4000で4000の
騎兵を含んでいた
 もっとも、紀元前後の時代のゲルマン諸族にあっては、一般に王やその従士たちが
騎乗していたことが認められているものの、タキトゥスの「ゲルマニア」の語るように、
主力はあくまでも歩兵であり、打撃力としての騎兵は存在していなかった

 ところが3世紀後半のアレマン族は4万の騎兵と8万の歩兵を擁し、ヴァンダル族や
移動期のゴート族は有力な騎兵部隊を保有していた
 民族移動期のゲルマン諸族の軍隊において、騎兵は隆盛を極めた
 この時期のゲルマン人は、戦場で騎兵集団を有力な戦力として運用していた
 極言すれば、戦術的打撃力を期待できる騎兵部隊を編成していた、と言える

 民族移動を終えて定住生活に入ったゲルマン人は、牧畜から農業へと移行するに伴って、
軍馬を農耕馬に代えるようになる
 また彼らはキリスト教に改宗することによって聖馬や馬の供贄、馬肉食用の風習を棄て、
これに相まってゲルマンの軍制においても騎兵は減少することになった

 もっとも、この経緯を裏付ける史料は存在しない
 しかしながら、メロヴィング期のフランク王国では歩兵が主力兵科であったことが、
次の史料によって証明され得るとしている

1 グレゴリウスの「歴史十巻」によれば、5世紀末のフランクの閲兵式に集合している
 兵士の携帯している武器が投槍、剣、戦斧であり、彼らフランク兵たちが歩兵であった
 ことを示唆している

2 ビザンティン帝国の歴史家プロコピウス(5世紀末〜565)とアガティアス
 (536〜582)は、6世紀前期から中期にかけてのフランク軍について
 記述しているが、騎乗していたのは王とその側近だけだったと述べている


そんだけ
50世界@名無史さん:02/01/25 12:04
いいコテハン居るねぇ。
51馬はアラブに限る:02/01/25 20:30
 この状態はメロヴィング時代を通じて維持され、732年、トゥール・ポワティエで
イスラム軍と激突したフランク軍も、主として歩兵で編成されていたという

3 ベハのイシドールの作と考えれている「年代記」の一節によると、
 この時のフランク軍が、「壁の如く不動、氷帯の如く凝然として立ち連なり、
 アラブ人を剣で殺戮した」と記されている

 この時のフランク軍はアラブ軍に対抗するだけの騎兵戦力に欠けていたため、
白兵戦の後にアラブ軍を撃退したものの、追撃することができなかったという
 この戦闘を境として、マルテルはフランク軍を騎兵軍へと改編する必要性を痛感し、
ただちに改革に着手したとされている

 要するに、「定説」はメロヴィング時代のフランク軍が歩兵主力であり、
イスラム軍が騎兵主力であったことを前提としている
 前者についてはともかく、後者についての資料的根拠は意外と少ない
 795年のカルルの証書にイスラム軍からの戦利品として駿馬、胸甲、刀剣が
挙げられていること
 820年頃にエルモルドゥス・ニゲルスがイスラム軍を「騎乗に自信のある民」、
「モールの騎兵」と呼んでいること
 9世紀初頭のトゥールーズ攻防戦にアラブ騎兵5000の来援があったと
伝えられていること等が挙げられている
 しかし、これらの史料はいずれもトゥール・ポワティエ戦の60〜90年も後の出来事
であり、トゥール・ポワティエのイスラム軍が有力な騎兵戦力を擁していたことの
確たる証拠とするにはちょっと弱い


そんだけ
52馬主になる方法:02/01/26 10:45
 「定説」によれば、イスラム世界からの外圧は相当厳しかったとされており、
軍事力の整備がフランク王国の急務となった
 8世紀の軍制改革をは、次の3点の史料が示すような形で進められた

4 732年、トゥール・ポワティエ戦直後にマルテルはオルレアン司教を罷免、
 聖職禄を没収して従士に投げ与えた
  734年、サン・ヴァンドリル修道院長トイトジントに、52の荘地を
 ラートリハウ ス伯に貸与するよう命じた
  この後、マルテルの晩年からピピン統治の初年である751年までに、オセール、
 ヴィエンヌ、リヨンの教会領が没収されてアルヌルフィンガー・ピピン家の従士に
 分与されている
  こうした教会領の没収について、マルテルのもう一人の息子カルルマンは、
 743年に「差し迫った戦争と四周の他部族への追撃のため、我らの軍隊への援助」
 であるとし、一方被害者側の教皇ツァカリアス(在位741〜752)は、
 「サラセン人、ザクセン人乃至はフリーセン人の惹き起こした厄災のため」として
 諦めている

5 「モーセル年代記」によれば、755年、フランクの伝統的な閲兵式である
 「三月野会」が「5月に行われた」という

6 「ロルシュ年代記」によると、758年、ピピンはザクセン族からの貢物を
 牛から馬にかえ、年300頭を要求した

 つまり、カルル・マルテルと二人の孝行息子は、軍馬の飼育と騎兵の養成、維持に
べらぼうなの費用がかかることから、騎兵として軍役に就く自分たちの従士のために
教会領を押収し、野会を牧草が入手しやすい5月に移し、また増大する軍馬の需要を
満たすべくザクセンからの年貢として馬を要求した、という訳だった


そんだけ
5352:02/01/26 10:46
sage忘れ、すいません
54名無し三等兵:02/01/26 11:30
某国のo動隊員です。フーリガン対策に隊列(戦列とは言わない、はは)組む訓練ばっか
カエサルのレギオンごっこを毎日やっています。5月31日より海の向こうからやってくる侵略者とリアルロールプレイングゲームをする予定です。
テレビで見たって? あんなのマスコミ用にソフトにやって見せただけ。
マジ期待してください! 高校の先生はビデオに撮ってローマ軍の戦法だといって生徒に見せると世界史理解が早いかも
55騎士のはじまり:02/01/26 22:37
 こうして8世紀中期以降、フランクの騎兵戦力は際だって強化されることになり、
その証拠として次のような史料が呈示されている

7 プロコピウス、アガティアス、グレゴリウスの記述の中には、フランク族に固有の
 伝統的な武器として、投擲斧(フランキスカ)、投槍(アンゴン)といった
 歩兵特有の武器が挙げられていたが、「リプアリア法典」の8世紀に成立した第36章
 第11項には、刀剣、胸甲、甲冑、脚甲、槍、楯が見出されるようになる

8 アインハルトの「年代記」には、784年のザクセン戦争を「騎兵の戦い」と呼び、
 791年の対アヴァール戦でカルルの軍中の馬に疫病が蔓延したため、「全騎兵のうち
 十分の一すら(予備として)残留するよう命じることができなかった」という

 9 9世紀初頭に発せられた軍令では、「カバラリウス」と呼ばれる騎兵が
  召集されており、同時期の別の勅令も軍中における馬の存在を物語っている
   この後、フランク騎兵は更に発展し、864年にはノルマン向けの馬の輸出が
  禁じられる一方、881年、ルートヴィッヒ率いる騎兵軍は、ソクールの戦で
  ノルマン騎兵9000を撃破している

10 891年のデイルの戦では、「フランク人は徒歩での戦いの不慣れである」と
 伝えられている

 かくして、892年、パリ伯のオド(西フランク王在位888〜899)は
アクィタニア地方とその周辺地域から1万の騎兵と6000の歩兵を召集し、
921年、ロベール公はノイストリアとアクィタニアから4万の騎兵を召集するに至った
 ここに、マルテル時代に開始されたフランク軍の騎兵化は完成の域に達したとされている


そんだけ
 勿論、「定説」に対しては様々な反論が展開されている
 これは、「定説」を主張する人々の一部が、マルテルの兵制改革をフランク軍の
文字通りの騎兵軍化と捉えていることにも起因している
 いわば極端な「定説」派原理主義者たちは、「フランク騎兵軍」が質的にも量的にも
騎兵を主力として構成されたことにより、歩兵を基盤とする作戦立案から完全に
脱却したと捉えた
 当時の戦闘は職業戦士である騎馬封臣軍の進退のみで決し、歩兵は存在していたが、
そこらの農民を適当に引っ張ってきた装備も訓練も貧弱な寄せ集めに過ぎず
軍事的には取るに足りない連中だとされた
 更に極端なものでは、突っ込むしか能のない騎兵と頼りにならない歩兵では
作戦行動など不可能であり、結果、初期中世には戦術なぞ存在しないとする主張も
存在する
 故に、中世封建期は軍事技術史の「暗黒時代」なのだ、と
 何故騎兵突撃が戦術でないと断言できるかは謎だが、本来「暗黒時代」と称されるのは
断片的な史料のみで全体像が把握できないことを指している

 軍事史家は、多くの史料には8世紀中頃を境として騎兵が格段に増加した証拠はなく、
またこの時期に戦術上の決定的な転換も認められていない、と主張した
 つまり、騎兵の戦力整備の萌芽またはその傾向は、既にゲルマン古代以来存在しており、
騎兵の数は漸次増加してきたのであって、8世紀にある種の転換点を認めることは
出来ない
 フランク族は既に5、6世紀には重騎兵の保有が確認されており、またレーン制も
既に同時期に形成されていた
 勿論、カロリング末期まで歩兵の召集は行われており、クロートヴィッヒ以降
カロリング時代に至るまで、フランク軍は量的には歩兵を主力とするものであった

 国制史家や経済史家も「定説」に反論の声を上げた
 封建制の起点とされた恩貸地制と従士制の結合は、8世紀よりかなり早い時期に
認められ、土地授与の見返りに軍役を要求する慣行は、それ故マルテルによって
始められたものではないという
 また、マルテルによる教会領の没収はさほど規模の大きいものではなく、
封建制の成立と発展に決定的な役割を演じたとは考えにくいともされている

 もっとも、こういった反論にも関わらず、「定説」は今なお通説としての声価を
失っていない


そんだけ
 「定説」の第一前提は、カエサルの「ガリア戦記」に始まる
 カエサル時代のローマ軍が約25パーセントの騎兵保有率であったのに対し、
スエビ族の族長アリオヴィスト率いる軍の騎兵保有率は5パーセント程度であり、
古代ゲルマン諸族のもとでは騎兵の比率が低かったとしている
 タキトゥスの「ゲルマニア」の記述も同様である
 このような状況に変化が起こるのは民族移動期であり、ヴァンダル族にいたっては、
プロコピウスによれば全員が騎乗していたとされる
 しかし、ゲルマン人の定住後は再び旧に復し、騎乗の慣行は衰えたとされている

 しかし、騎乗の慣行が盛んになった例として挙げられているのは、ゴート、ヴァンダル、
アレマンの3部族のみで、フランク族について記した史料は見当たらない
 フランク族は長距離を移動したわけではないので、移動期といえども騎乗の習慣が
それ程拡がらなかった可能性は十分にある

 そう考えれば、グレゴリウス、プロコピウス、アガティアスの伝えるフランクの軍隊は、
移動・建国期にも大差なく当てはまり、騎乗していたのは王とその側近や主立った
従士だけであったことになる
 ただし、クロートヴィッヒの兵士が歩兵だった証拠とする閲兵式の兵(定説その1)は、
戦斧、投槍、剣を携帯しており、必ずしも歩兵とは限らない
 投槍は騎兵も携行しており、長剣は騎兵固有の武器であるとする説も存在するからである

 また、騎兵の保有率が極めて高かったビザンティン帝国の史家プロコピウスと
アガティアス(定説その2)には、フランク騎兵など取るに足らぬ存在と映った
かもしれない
 しかし、考慮しなければならないのは、この二人はフランク王国軍兵士の姿を一度も
実見したことがないことだった

 更に困ったことに、この二人はフランク歩兵が手斧と槍を携えた半裸の兵士の群れだと
記し、フランク軍で量的が、装備も訓練も貧弱で規律もとれていない農民歩兵軍であった
という説の根拠とされている
 このイメージは、程度の差はあってもほぼ暗黙裏に承認されている
 その理由は、身も蓋もなく言えばこのイメージを覆せる史料が存在しないことによる
 だがもし、このイメージの如きものであれば、恐らく軍事的に極めて価値の低い軍勢が
果たして存在したのか、存在する理由があったのか、更に、そのような軍隊が
何故あれ程の軍事的成功を収めることが出来たのか、
明確な解答はなされていない


そんだけ
58バキャベッリ:02/01/28 22:07
 錆びたフランキスカを持っていた兵士が撲殺された、と言う有名な逸話が資料的
価値が低かったと言うのは始めて知りました。やはり二次情報と言う物は分からない
ものですね。
59最終決戦:02/01/29 19:14
 初期メロヴィング朝のフランク軍にも相応の騎兵が存在していたとする証拠も幾つか
挙げられている
 5世紀の「官位録」に記載されているフランクの4軍団はいずれも騎兵隊だったし、
クロートヴィッヒの父シルデリックの墓には軍馬の頭部が副葬されている
 ランスのレミギウス司教は、洗礼を受けたクロートヴィッヒを「シカンベール」と
呼んだが、これは「ガリア戦記」に登場する騎兵2000を擁した勇猛な部族である
シカンブリ族にちなんだものだった
 クロートヴィッヒは、507年の対西ゴート戦に先だって軍令を発しているが、
それには馬の飼料と水以外の徴発が禁じられている

 これらの史料を信じるならば、初期メロヴィング時代にもフランク軍は有力な騎兵戦力
を有していたことになる
 ところが、トゥール・ポワティエ戦の頃になると、フランク軍の重騎兵に関する記述は
全く見られなくなる
 この戦闘については諸論あって、詳細は明らかではない
 フランク軍はローマ流の密集陣を構えて戦ったとする説もあるが、
徹底した射撃戦に終始したとする説もある
 そもそも、睨み合っただけでろくな戦闘もなく終わったとする主張も存在する
 もしかしたら、ただ単にトゥールとポワティエをつなぐ街道上のどこか(実際、
戦場の細部位置すら解明されていない)にフランクの野戦軍が集結しただけだった可能性もある

 それというのも、トゥール・ポワティエ戦の「勝利」はイスラム軍の突然の撤退という
思いもかけぬ幸運の結果であり、またこの年以降もイスラム軍の侵攻は一向に止まなかった
少なくとも当時の人々にとってはなんら画期的な事件ではなかったからに他ならない
 第一、トゥール・ポワティエでの勝利はマルテルの代表的功績とは言い難い
 インゲルハイムの王宮にある壁面浮彫には、マルテルの偉業としてフリーセン征服が
描かれている

 つまり、トゥール・ポワティエ戦は、これを境としてそれ以前の歩兵を中核とした
フランク軍を騎兵と中核とした軍隊へ改編しなければならなかった程に深刻な結果を
もたらした戦闘ではなかったのだった
 極言すれば、トゥール・ポワティエ戦は、フランク王国、ひいてはキリスト教世界全体
の命運を左右した運命の決戦ではなかった


そんだけ
 「定説」はまた、騎馬の増加に伴って牧草の需要が増したため、755年に閲兵式
(野会)の開催日を3月から5月に切り替えたとしている(定説その5)
 前年の754年、「ピピン王はフランクの習慣に倣って3月1日に王宮ベルナクルスに
出頭するよう全フランク人に命じた」が、翌755年には「(バイエルン大公)タシロ3世は
三月野会のためにやって来たが、(フランクの)人々は三月野会を5月に変更していた」
と述べられている
 更に、766年には「(フランク)王は王国に住むフランク人や多くの部族の全軍を
召集し、オルレアンに来た
 王はフランク人のために三月野会にかえて五月野会を開いた」と述べられている

 野会とは、有力諸侯が兵を率い年貢を携えて王宮に伺候することで、この機会を捉えて
王国会議や勅令の発布が行われ、更にこの集会の後にただちに軍事行動が開始される
こともあった

 しかし、実際には755年以前のフランク王国で3月に野会が開催された事例は
数えるほどしかなく、逆に5月に開催された事例も認められている
 牧草の確保には全く向かない筈の冬季に開催された事例もある
 755年以降、敬虔帝(在位814〜840)までの85年間でも、
5月に野会が開かれたのは28回しかなく、他の年は別の月に野会が
行われている

 そもそも、閲兵式といっても現代の観閲式のように部隊を並べて示威することが
主な目的のセレモニーと違い、王がそのまま全軍を率いて遠征の途に出てもも当然なのが
当時の野会だった
 いつ起こるとも知れぬ戦とそれに先立つ野会は年中いつでも開催され得た
 三月野会(campus Martius)のマルティウスが3月の意でなく、「春」を意味していると
する説もあり、また、慣例上「三月」と称していただけかもしれない
 いずれにせよ、三月野会が定期的な閲兵式ではなく、不定期に開催される野会だった
可能性は否定できない

 つまり、この間の悪い(ただしバイオレンスでピカレスクな人生を送った)タシロ3世
の記述は、野会が755年以降、3月から5月に移されていたことを示しているのではなく、
ただ単に野会を開催する旨は伝えれていたため指定された日時に到着したが、
諸般の事情によりこの年の野会は5月に移されていた、とも解釈できる
 一説には、予定が変更された理由は、アルプス越えのランゴバルド遠征を企図していた
ピピンが雪解けを待つためだったと言われている


そんだけ
 ザクセン部族からの貢納が、758年に牛から馬に変更された点(定説その6)に
ついてはほとんど説得力を持たない
 既に730年代から兵制改革が進められていたのであれば、何故もっと早い時期に
馬が要求されなかったのかについて説明がつかない

 891年のデイルの戦の様相(定説その10)は、「フルダ年代記」によると
次のように描写されている

 アルノルフ率いるフランク軍は戦場となる湖畔に「迅速」に到着した
 対するノルマン人は既に川を陣前に陣地を占領しており、しかも前面には湿地が
広がっていたから、フランク軍は射かけられる矢の雨の中、「一歩一歩」進まなければ
ならなかった

 「定説」は、この「一歩一歩」を「徒歩で」と解し、この部分を「フランク人は徒歩で
戦うことに慣れていない」と解釈した
 つまり、この時期のフランク軍が徒歩戦闘に慣れていない程に、
専ら騎乗して戦う習慣を身につけていた、としている
 しかし、この言葉は「迅速」という言葉と対で用いられており、字義通り「一歩一歩、
ゆっくりと、徐々に」と解釈することもできる
 「フルダ年代記」の著者が記述しようとしたのは、雨霰の如く降り注ぐ矢の中を、
しかも沼沢地に足を取られながら進まねばならなかったフランク兵の試練であり、
苦戦を余儀なくされたこの戦闘への弁明だったとも考えられる
 故にこの記述を、9世紀末のフランク軍が、「徒歩での戦いに不慣れ」と
なってしまった程、既に数世代も前からフランク軍の主力が重騎兵になっていたことを
物語っていると決めつけることは難しい


そんだけ
62名無し三等兵:02/02/01 00:12
>61
「一歩一歩』または「徒歩」の原語は
pedetemptim あるいは pedetentim
でいいのでしょうか?
単純に確認したいだけなんです。すみません。話の内容に関わらない些細な質問で。
語釈の話が出ると気になってしまって……。

ここはROMってる人が結構多いと思うので、
内輪話にならないようお節介ながら説明しておくと
pede-tentim は 「pes(足)」+「tendo(行く)」からなる語で、
言葉の語源を辿れば「足で行く」となりますが、
通常の用法では「一歩一歩・慎重に・ゆっくりと」などと訳すのが普通です。

なんかスレ汚しスマソ……。無視してくれても結構です……。
6361:02/02/01 00:45
>62
すいません、自分の説明不足でした
「pedetemptim」です

この後の文章で「徒歩で」を意味する「pedester」という語が用いられており、
「pedetemptim」が、「迅速に」を意味する「celeriter」と対をなす形で用いられていると考えると、
「『一歩一歩ゆっくりと』進まなければならなかった」と解釈することができると思います

勿論、「『徒歩で』進まなければならなかった」と訳することもできますから、
年代記の著者がどちらの意味で言いたかったのか単純に決めつけるのは
難しいでしょう
6462:02/02/01 01:40
>61
素早い回答ありがとうございました。これですっきりして眠れます。

スレ汚しになる事を恐れてなかなか書き込めませんが、
いつも楽しみに読ませていただいています。
これからも頑張って下さい。
65バキャ:02/02/01 19:53
 アアッ成る程「徒歩で戦うのに慣れて無い」と言うのは「重装騎兵だから、
鎧が重すぎて歩行戦では鈍重」と言う意味だったのか。馬鹿だから「足が退化
しちゃったの?ウソォ〜」って解釈してしまった……。
66もう一つの信仰:02/02/01 20:10
 フランク軍の兵士が半裸の歩兵から重騎士へと転換する契機をイスラム軍の来寇という
外圧に求めることは、様々な状況証拠から見て説得力に乏しい
 しかし、「定説」を支持する人々の中には、にも関わらずフランク軍において
マルテルの頃より兵制改革が始まり、騎兵戦力が整備され、騎兵突撃戦術が採用されるに
至った、と主張した
 フランク軍の騎兵軍への改編にあたっては、騎乗者が安定を確保する手段としての
鐙の採用が決定的であり、鐙の西ヨーロッパへの導入は、7世紀末から8世紀初頭のこと
であったとされる
 つまり、兵制改革の契機を鐙の到来とその利用という一種の技術革新に求め、
その根拠を次のように挙げている

 アレマン族は、完全にキリスト教化される730年頃まで馬を副葬する習慣を
維持していた
 アルザスで発掘されたあるアレマン豪族の墓には完全装備の騎馬が副葬されていたが、
鐙が欠如していた
 一方、ライン河畔やマインツ近郊での同時期の墓所からは鐙が出土している
 つまり、8世紀初頭まで、アレマン族には鐙が到来しておらず、対するフランク族は
既に鐙を使用しており、これはフランク族が他部族に先駆けて鐙を使用した証拠としている

 「黙示録」や「詩篇」の手書本のなかに描かれた挿絵には、鐙を装着した馬と騎乗者が
見られる
 そうした絵はいずれも9世紀中期頃から同世紀末に属するものであるが、
鐙が画工にまで馴染み深いものになるには相当の年月を要しただろうという推測から、
フランク王国への鐙の到来は、少なくとも数世代前のことと推定される

 8世紀前半までに、フランキスカ、アンゴン、スパタといった伝統的な歩兵用武器が
消滅し、かわって翼槍(刃部の基部に左右に張り出した小突起を備える槍)や片刃の長剣
が用いられるようになった
 これらは騎兵が突撃の際に用いる武器である

 いわゆる「定説」技術決定論派の主張は、要約すると次のようになる
 鐙の導入に伴う軍事技術の革新は、騎兵を有効な戦力として運用を保証した
 すなわち、後にヨーロッパの戦場で猛威を振るうことになる攻撃戦術、
重装備の装甲槍騎兵のスクラム・チャージによってのみ成し遂げられる騎兵突撃戦術の萌芽が、
8世紀中頃のフランク王国で初めて生まれることになる
 こうしてカロリング時代初期には、騎兵制とこの普及を促すためのシステムとしての
封建制が成立し、発展を始めたのだった


そんだけ
67名無し三等兵:02/02/02 02:49
真似して歴史を語っても、つれづれなるままに無意味に書いてるだけじゃん。
見ていて飽きて来るよ、落とし所はちゃんと考えているんだろうね?。だんだんレスも
付かなく成って来たし、適当な所で止めないとチョットしつこすぎるぞ。本題と関係無い、
面白くも無ければ、有意義でも無い事を何時までもダラダラ続けたってしょうがないっしょ!。
68名無し三等兵:02/02/02 03:00
まあとりあえず、
ロングボウ+補助部隊が最強じゃねーの?
問題はロングボウの養成期間が長いのと常時維持しなくちゃいけなかったコスト
ってことで
69名無し三等兵:02/02/02 03:02
世界から選りすぐりのパワフルな主婦100人コレ最強。
70名無し三等兵:02/02/02 03:03
61=62=63=64
71名無し三等兵:02/02/02 03:25
とりあえず、コピペ厨のあげ荒らしは死ね。地獄に堕ちろ。
72名無し三等兵:02/02/02 03:35
コピペなの?
原文はどこから?
73名無し三等兵:02/02/02 03:41
74名無し三等兵:02/02/02 03:50
ゲーム厨房の繰言コピペされてもなぁ・・・
このスレの読者(あえてこう言う)の気持ちは>64の後半にあるのだが・・・
空気が読めないのだろうか?ちょっと恥ずかしいぞ?マジで。
76名無し三等兵:02/02/02 14:01
困るなあ。AoEとかのゲーム好きなんだろうけど、ゲーム板の罵倒感覚でこられてもな。
 歩兵を基幹とする戦術遂行を専らとする軍隊から、有力な騎兵戦力を擁した軍隊への転換点を、
イスラム軍との交戦の教訓ではなく鐙の導入に求めるこの説にも、当然様々な批判が
展開された

 そもそも、この技術決定論は論理としての因果関係に問題があった
 鐙は騎兵の安定性と操作性の向上と、それによる新しい戦闘技術の採用を可能にした
だろうが、それを必然とはしなかった筈である
 フランク軍だけが鐙によって兵制改革を成し遂げることができたのは、
「アングロ・サクソン族は鐙を用いはしたが、それを十分に使いこなせなかった」
からであり、これに反して「フランク族だけが、恐らくカルル・マルテルの才覚に
導かれて鐙の効果を十二分に会得し、新しい社会構造に支えられた新しい戦術を編み出した」
からである

 つまり、「発明を受容するか拒絶するか、または受容するとして、
それに潜在する効果をどの程度認識するかは、主に社会状態及び指導者の想像力、
その発明自体の性質にかかっている」のであり、換言すれば、同じ鐙を導入しても、
即座に騎兵制導入と封建制確立に向かう場合とそうでない場合があり、それは社会状態や
指導者の才覚に左右されるのである
 そうであるならば、フランク族の置かれた状況や固有の社会状態こそが、
騎兵制と封建制の発展の起爆剤であったと考えることもできる
 もしそうであるならば、鐙の導入それ自体がフランク軍の兵制改革をもたらしたとする
主張は、論理的に説得力に欠けていることになる

 その根拠についても様々な批判が展開されている
 先に挙げたライン河畔やマインツ近郊の発掘データは、いずれもフランク族の定住地域
からのものではないとする説もあり、また、アレマン族、フリーセン族、ザクセン族の
居住地域からは8世紀に鐙の出土例がある

 挿絵に関する説明にも異論が出ている
 カルル大帝時代のフランク人が鐙を知っていた直接的な史料がただ一つ存在している
 800年頃に中部ライン地方で描かれたとされる「ヴァレンシア詩篇」の中の一枚の
絵である
 この鐙を装着した騎馬像が別の原画からの模写である可能性も否定できないが、
その原画が何世代前のものかを推定すること自体は無意味に近い
 8世紀後期に描かれた、北フランスのジェロン王立修道院の「聖礼式書」中の挿絵の
騎士像には鐙が描かれていないからである
 また、863年から883年にかけて、ザンクト・ガレン修道院の「黄金詩篇」に
描かれた挿絵には、確かに鐙を装備した騎兵が見られるが、
同じ絵の中に鐙をつけていない騎兵もいる
 少なくとも、画工が鐙それ自体にことさら神経を使っている様子はない
 これ以前のカロリング時代の画工は、「ヴァレンシア詩篇」を唯一の例外として鐙を
描いてはいない


そんだけ
78過大評価:02/02/03 12:31
 8世紀中頃に武装の転換があり、これは鐙による安定性の向上、
ひいては騎兵戦術が確立した結果だとする主張もやや無理がある
 まず、長剣は既に6世紀には存在していた
 翼槍はその独特の形状から、刺突のみに使用する槍というよりむしろ、
薙いだり敵の剣を払ったりすることが可能であることから、実質的には一種の矛槍に近い
 つまり、根本的な機能が後の装甲槍騎兵が用いた騎槍と異なっており、
騎兵固有の武器とは言い難い
 翼槍は騎兵も使用しただろうが、歩兵も使用したと考えられる

 仮に伝統的な武器が消滅し、新しく長剣や翼槍が登場したとしても、
それを用いたのが騎兵のみであったとは断言できない
そもそも、長剣も槍も既にフランク時代初期から歩兵用武器として用いられており、
8世紀中期に武装の転換を構想する主張は成り立ちにくい
なお、史料的根拠の一つとされている「リプアリア法典」の規定(定説その7)には、
胸甲、甲冑、脚甲への言及はあるが、馬具や鐙に関する記載がない
 しかもこの部分は7世紀の最初の法典編纂時から存在しており、
カルル大帝による改訂に対しても追加や修正はなされていない

 結局、鐙という技術革新が兵制と国制の一大転換の契機となったとする主張と
その根拠は、様々な批判の結果、ほとんど説得力はない
 鐙の導入は8世紀より以前に行われ、他方、装甲槍騎兵による突撃戦術は
もっと後の時代になってようやく一般化している
 鐙の効果は、たかだか騎乗者の安定を保ち、騎兵に素早い動作を可能にし、
高所から剣を振り下ろし、槍を突き出すことを保証したに留まる
 また、騎兵勤役が費用のかさむ軍事奉仕だったことから、
所領(封)の授受を仲立ちとして封建制の成立と発展が促進されたという主張も、
農耕馬も軍馬と同様に費用がかかるという事実を忘れている
 古代ゲルマン部族においても、歩兵が行軍や運搬のために馬を随伴していた事例は
珍しくない
イングランドのセインは、歩兵として従軍した場合でも、常時1〜2頭の馬を
所有していたという
 馬の所有と鐙の導入、所領の授与と騎馬勤役との間に相関関係を見出すことは難しい


そんだけ
79名無し三等兵:02/02/04 01:55
ヴァレンシア詩篇?
なんだそりゃ(笑)
80名無し三等兵:02/02/04 02:13
アルプス猟兵さん、そろそろイエローカードっす
81墓を開く:02/02/04 20:50
 マルテルの騎兵制導入によってフランク軍が劇的にモデルチェンジしたとする「定説」
の主張が正しいかどうかはともかく、カルル大帝の頃のフランク軍がクロートヴィッヒの
頃よりも多くの騎兵を擁していたことはほぼ間違いない
 当時の戦士墓の副葬品に関する発掘調査によると、6〜7世紀の騎兵の比率が
約5パーセントであったのに対し、8世紀には12〜19パーセントに増加している
 また、カロリング朝のフランク軍1個軍団の内訳は騎兵2500〜3000、
歩兵6000〜1000(騎兵保有率23〜29パーセント)と推測されており、
800〜840年のフランク軍には推定で騎兵3万5000、歩兵10万(騎兵保有率
26パーセント)の兵力が存在していたという

 これらの数字がどの程度正しいかは推測の域を出ないが、少なくともカルル・マルテル
の時代に、鐙の導入に伴う軍事技術の革新や、これによって可能になった騎兵戦力の整備
といった事実は認められず、またイスラム騎兵軍による外圧を前提とした兵制改革の
行われた形跡も認めらられない
 根拠として挙げられている史料には、解釈上問題点の含まれるものや反証も多く、
証拠として採用することは難しい


そんだけ
8281:02/02/04 20:51
sage忘れました
すいません
83墓を覗く:02/02/05 20:26
 武器装具を巡る軍事技術的な考察や発掘データについても、既に説得力を失っている
ものが少なくない
 例えば、1959年にケルンの大聖堂の下から発見されたテウデベルト王(在位534
〜547)時代の男児の墓の中身は次のようになっていた
 埋葬された男児の出自は王家か貴族門閥に属していたらしく、
兜を被り楯と片刃長剣(スクラマサクス)が側に副葬され、更に彼が成人したならば
用いたであろう武装一式として、両刃長剣(スパタ)、逆鉤付投槍(アンゴン)、槍、
投擲斧(フランキスカ)、矢が併葬されていた

 このうちフランキスカはスキタイの影響を強く受けたフランク特有の投擲兵器で、
北フランスからラインラントにかけてメロヴィング時代初期のフランク人の墓から
出土している
 トゥルネーで発見されたサリー系フランク族の小王シルデリックの墓からも
出土しているこの斧は、一般に全長約60センチ、刃長約20センチ、重量約1キロで、
投擲者の手を離れると約4メートルで一回転しながら標的に向かって飛翔し、
その有効殺傷距離は約12メートルと言われている
 プロコピウスによれば、539年に北イタリアに侵攻したテウデベルト率いる軍の
歩兵が楯と剣の他にフランキスカを携えていたという
 もっとも、フランキスカの出土した初期メロヴィング時代の墓からは、
馬具や拍車も発見されているから、フランキスカを副葬された者が歩兵だったか
騎兵だったかを一律に断定する訳にはいかない

 アンゴンは、ローマの投槍(ピルム)に似た槍で、恐らくピルムの影響を受けていると
思われている
アガティアスの記述によれば、投擲にも白兵戦にも使用でき、高い殺傷力を備え、
小さな穂先の左右に逆鉤を備えており、敵兵や楯に刺さると引き抜きにくい優れた
武器だったという(ただし、投擲しなかったという説もある)
 ビザンティンの史家の記述によれば、6世紀中頃のフランク兵は、戦士墓の発掘例と
同じく、長剣、楯、アンゴン、フランキスカで武装し、歩兵戦に長じていたとされている
 また、同時代の戦士は拍車や小鞍が副葬されている例もあることから、
例え歩兵として戦ったとしても、その一部は出軍時等においては騎乗していたものと
考えることもできる

 フランク族特有のフランキスカとアンゴンは、7世紀初頭以後の墳墓からは
出土しなくなる
 7世紀以降の戦士墓からの一般的な出土品は、両刃長剣(スパタ)、楯、槍及び
サクスと呼ばれる幅広の長大な片刃剣で、特にサクスの出土例はスパタを
大きく上回っている
 600年頃を境に、従来の遠近両用の武装を備えたフランクの戦士像は、
片刃で幅広の重い長剣を持つ戦士像へと一変することになる
 7世紀にはまた、上記の装備一式に加えて拍車、鐙、鞍等の馬具を副葬された戦士墓も
見つかっており、異なった社会階層出身の戦士の存在が推測できる

 つまり、墓所の発掘データによれば、少なくともフランクの軍事技術上の変化は
600年前後に発生していることになる


そんだけ
84バキャベッリ:02/02/05 22:27
 フランキスカにせよアンゴンににせよ白兵・投擲両用の武器ですし、
戦況に応じて歩行戦と騎馬戦を使い分け、厳密に騎兵戦に特化しては
いなかったと考えて良いのでしょうか?。フランキスカは手で持って
振り回す分には馬上でもあまり問題なく使えそうですし、槍もランスの
時代とは違って慣性の力を利用した使い方では無かった様ですし。
 考えて見れば古代ローマの時代では、騎兵が投げ槍を使う事も多かった
と記憶していますがどうでしょう?。
8583:02/02/06 00:02
>>84
状況によって騎乗して戦うか、徒歩で戦うか使い分けていたのは確実でしょう
しかし、これは中世後期や近世においても同様でしょう
竜騎兵をはじめ、騎兵が下馬して戦った事例は珍しくありません

投槍は古代から中世にかけて割とポピュラーな投擲兵器で、騎兵歩兵の区別無く
使用されています
86名無し三等兵:02/02/06 04:14
なんか長篠合戦の世界史でよんだことあるなあ・・・。
87名無し三等兵:02/02/06 12:28
・・・いうてはならんことを。確かに単語検索かけるとヒットしちゃうんだよな
88名無し三等兵:02/02/06 18:43
ま、本人もネタ本ありって言ってたからいいんじゃないの?
粘着君もいるし、そろそろ止めたほうがいいんじゃないか?
8983:02/02/06 19:42
確かに面白くもなければ有意義でもないですね
この辺りで終わりにします
お騒がせして申し訳ありませんでした
90名無し三等兵:02/02/06 19:50
>89
うそ〜ん!
ここでやめちゃうの?
別にネタ本ありでもいーじゃん。
ラテン語のネタ本なんてわしら読めないしさ〜。
それに元ネタをどういうふうにまとめたりつなぎ合わせるかってとこらへんも
実力の問われるところでしょ?
つーか楽しみにしてる人が大勢いるはずだからやめないでけれ。
91名無し三等兵:02/02/06 20:14
ずっとROMってましたが・・・
「長篠合戦の世界史」だけでは「陣形と戦術」に
まとまらないですね。そんだけ氏がこれから
どのようにまとめていくのか非常に楽しみです。
PDAに入れて読めるという利点もあるので、
ぜひぜひお願いします。



92バキャ:02/02/06 20:21
 確かに私は粘着かも知れんが……実際面白いし、
これはまださわりでしか無いでしょう。
 ここで止められては……
93名無し三等兵:02/02/06 20:35
粘着君ってここんとこ二日おき位にageてる厨房のことだろ?
そいつにとっちゃ面白くなかったんだろうな。
94名無し三等兵:02/02/06 20:55
>89は偽者と思われ
95名無し三等兵:02/02/06 22:09
>94
そうである事を激しくキボンヌ
96名無し三等兵:02/02/08 01:38
マジでこのまま終わってしまうのか……?
>89はほんとに、そんだけ氏だったノカー!? カムバーク!!
                         。・゚゚・。
                          ヘ( TД)ノ ウワァァァァァン!!!!!
            ≡   ≡   ≡   ≡ ( ┐ノ
                       :。;  /    ダッシュ


98名無し三等兵:02/02/08 02:11
age荒らしの粘着君に嫌気がさしたんだろ。
バキャ氏のことじゃないよ。
しかし何でsage進行のスレを荒らすかな。
99名無し三等兵:02/02/08 15:13
89は偽者だって信じてるよ!
きっとしばらくしてほとぼりが冷めた頃に
ひょっこり戻ってきて
何事もなかったかのように続きを書いてくれるさ!そうに決まってる!
100名無し三等兵:02/02/10 21:54
待機保全sage

気長にお待ち申し上げております。
101名無し三等兵:02/02/10 22:52
ffffffffffffff
102象太郎:02/02/12 21:12
このところ風邪をこじらせたり、仕事が忙しかったりで、
暫く2chに来ていなかったんだけど
こんなことになってるとは..............

取りあえず、「魚歌水心」ってことでどうですかね
再度の戦線復帰を心よりお待ち申し上げます
朋友よ
103名無し三等兵:02/02/17 01:01
保守
104名無し三等兵:02/02/19 22:16
保守
105名無し三等兵:02/02/19 22:33
ああああ・・・
期待してます。
10689:02/02/21 02:15
それでは何事もなかったかのように
107全ては主の御業:02/02/21 02:16
 フランク軍に関する史料は、概ねゲルマン系諸部族法典、勅令、年代記の三つに大別される
 このうち、年代記は実際の戦闘の模様や戦術、使用された装備等について、
比較的詳細な情報を提供しているものの、困ったことにその多くは断片的かつ恣意的で、
また軍事的な妥当性についても怪しい部分が多い
 これは、年代記の記述者の多くが聖職者だったことに起因している
 彼らは神を褒め讃えることに忙しくて世俗の戦略や戦術など知ったこっちゃなかったから、
その内容が多分に表層的であり、伝聞的であり、恣意的であることはやむを得ないことだった

 しかしながら、戦闘の描写に関する記述については(例え神の恩寵で片づけられていても)
書かれているだけマシで、軍隊を構成する将兵の動員に関しては多くの場合沈黙している
 更に、フランク系諸部族法典は、ランゴバルド系やバイエルン系の部族法典に比して
軍制に関する規定は凄まじく少ない
 部族法典は一種の刑法典であり、様々な違法、犯罪行為とその罰礼金を定めたものであるにも
関わらず、例えば6世紀初頭に編纂された「サリカ法典」は軍役に関する罪科と罰礼金の規定を
ほとんど含んでいない
 これは、法典編纂の時点でそもそも従軍に関して罰令権を発動しなければならないような矛盾が
存在しなかったからか、または軍事奉仕そのものが義務だと定義されていなかった可能性が
考えられている

 同じフランク系の「リプアリア法典」の8世紀中頃に追加されたと思われる条項の中には、
「誰かが法に従い国王の御用または軍役あるいはその他の勤役を命ぜられ、而してこれに全く
従わない場合」の罰礼金額についての規定がある
 この軍役は「宣誓の信約を行った後に命ぜられ」、場合によっては「従軍しない時」が
あったとこが明示されている
 また、「出征中の誰かが或る人を殺害した場合」には「三倍の人命金の責」があるものとする
規定がある
 これはフランク系部族法典における従軍義務違反に関する規定の初出であり、
懲罰の恐怖による強制のシステムがここから始まったことを意味している

 軍営内での殺人事件に関する似たような規定は「サリカ法典」にも見られる
 ここには、出征中の国王の従士である自由民、国王の従士でない自由民、軍役にある不自由民が
殺害された場合のそれぞれの人命金額が示されている
 また、「もし自由民が、主人とともに軍中にいる他人の半自由民を、その主人の同意を得ずに
国王の前で『デナリウス金貨投げ』により自由にした」場合の罰金が定められている

 もう一つのフランク系部族法典である「カマヴィ・フランク法典」(編纂時期は9世紀初頭)は、
軍役の内容をもう少し詳細に定めている
 そこには「武器を携行しての応召を命ぜられ」、または「馬を引いての応召を命ぜられ」、
これに従わなかった場合の罰礼金、更に「伯が命じた哨戒任務乃至は監視任務を怠った」場合の
罰礼違反金に関する規定が見られる
 また、「武器を取れとの叫びを聞きながらこれに従わなかった場合」という、非常召集時に関する
ことまで定められている
 ところが「カマヴィ・フランク法典」では、「サリカ法典」とは逆に、どのような階層の人間が
召集されて軍中にあったのかについて完全に沈黙している


そんだけ
108みっつの掟:02/02/21 02:17
 上記の「サリカ法典」、「リプアリア法典」、「カマヴィ・フランク法典」のフランク系三法典の
成立時期や、そこに含まれている軍制上の諸規則の成立時期は不明な点が多い
 しかしながら、フランク系諸支族が北ガリアのローマ領域に侵入し、征服戦争の中で統合されて
いったことを考慮すれば、フランク系の三支族にほぼ共通の軍制が行われていた可能性は高い
 上記の三つの部族法典を相互補完的に解釈するならば、フランク族の軍制の概要は
次のようなものであった

 軍事召集には、通常の召集と緊急時の非常召集の二種類に大別される
 召集を受けた者の軍役に就く形態は多様で、それに応じて召集兵も戦闘部隊や輜重部隊、
更には支配地域の哨戒部隊や警備部隊等に配された

 フランク時代には「国王勤務は人命金を三倍にする」という原則があったが、これに加えて
軍事奉仕もまた人命金を三倍にした
 このため、国王の従士でかつ従軍している自由民の人命金は九倍に達した
 これは軍中の規律保持を目的とした原則であったが、同時に軍役の重要性を如実に物語っている

 軍中にはこの種の自由民の他、国王の従士ではない自由民、これら自由民を主人とし、
主人に従って軍役に就いた半自由民や不自由民、ローマ人、教会または国王所属の被解放者等が
存在していた
 軍中では半自由民の解放も行われており、軍役と「自由」の因果関係を考える上で看過できない
事象も認められている

 このように、フランク系部族法典から得られる軍制上の情報量は少なく、自由民の軍事召集が
どのような前提、基準に基づいて行われたかについては不明であり、その手の情報の大半は勅令に
頼ることになる


そんだけ
109大急ぎで掻き集める:02/02/21 02:18
 フランク時代の勅令は、概ね二つのパターンに大別される
 一つは各地の聖俗有力者を召集して開催される王国会議で合議の末に発布される法令的性格の
勅令で、もう一つは社会情勢にあわせて臨機に国王書記局で作成、公布され、国王巡察使に持たせて
各地に伝達させる王令としての勅令である
 軍事召集令についてもこの二つのパターンがあり、あらかじめ計画された軍事遠征等は
国王会議に提議され、参集した有力者や将兵に直接伝えられた
 しかし、予測できない緊急の場合、召集令は巡察使により、または書状により伝達され、
場合によっては戦場に近い特定地域で非常召集が行われることもあった

 前者の場合、告知の日から出陣までには通常数ヶ月間の猶予があり、出軍を命じられた者は
この期間に装備を整えた
 兵士の召集、装備の点検、集結地までの引率を委ねられたのは主に伯、司教、修道院長だった
 伯は自らの家臣団の他に、管区内の住民から兵士を徴募し、時には聖界の恩貸地所有者や
王の封臣をも指揮下に置いた
 こうしてフランク王国軍が編成されたが、その全容を詳細に伝える史料はない
 やや時代は降るが、773年にランゴバルドに向けて発進したカルル大帝率いるフランク軍の
軍容は次のようなものだった
 まず先陣にカルル自ら率いる重装騎兵、その後を近衛軍(スコラ)と封臣軍、ついで召集歩兵、
最後に輜重隊が続き、更にこの本隊の前衛として先遣隊(スカラ)が存在していた
 その詳細な兵力は不明だが、籠城中のパヴィアでこの軍勢を目撃したランゴバルド王デジデリウス
(在位757〜774)は降伏を決意しなければならなかった

 こうした時間的な余裕のある動員と違い、緊急時に動員される軍隊もあった
 782年、カルル大帝のザクセン平定の直後に起こった同族の再蜂起に対し、
カルルは「急ぎ召集したフランク人を率い」、またティエルリィ伯テオドリッヒは
「急遽リプアリアで召集出来る限りの兵を率いて」ザクセンに取って返した
 こうした非常召集の際には、命令を受けた者は直ちに準備を始め、12時間以内に行軍を
開始しなければならないとされていた

 兵士の召集を行う地域も、戦闘の規模や性格によって異なっていたが、概して戦場に近い部族民が
主に召集された
 ザクセン族の征討にはフランク人、アヴァール人に対してはバイエルン人とランゴバルド人、
イベリアのイスラム教徒に対してはアクィタニア人が動員された
 更に援軍が必要な場合は、より遠隔の地の部族が動員された
 例えば、対ベーメン戦にブルグンド人、対ベネヴェント戦にアクィタニア人が召集されたことも
あった


そんだけ
110緊急展開:02/02/21 02:19
 兵力を動員する地域が異なれば、召集要領もまた異なっていた
 フランク王権は王国全土にあまねく統一的軍事統帥権を有していたが、動員の方法まで
統一することは出来なかった
 ガリア住民に対する動員令では所有する土地の規模に応じて出軍を命じているカロリング王権は、
フリーセンには馬の所有者に出軍を命じ、制圧直後のザクセンには人数割の出兵を定めていた

 また、軍令が軍事的緊張の高い前線に宛てられている場合は軍事的役務の内容も異なっていた
 前線には多くの封臣が土地を与えられて防衛の任についており、住民もまた哨戒と監視の義務を
負い、常に緊急度の高い防衛準備態勢を維持しなければならなかった
 守備兵だけでは足らない場合、機動力に優れた先遣隊(スカラ)と「エクスカリカティ」と呼ばれる小部隊が前線に投入され、召集軍の来援まで敵の侵攻を阻止した
 これらの別働隊の構成員は主に王の封臣で、その任務は緊急事態への即応にあったとみられている

 このシステムはビザンティンのテマ・システムほど単純ではなかった
 全ては彼我の力関係で決まるため、状況によって召集軍の規模もその召集地域も違ったし、
時には召集原理さえ異なる場合があった
 つまりこれは、時間と場所に応じて多様なパターンの召集が行われていたことを意味した
 軍事勅令は、常にその時々で内容を異にしており、あたかも各々のケースがそれぞれ独自の
セオリーに従っているかのようだった
 特に召集令はその場限りの時限立法的な性格を持ち、長期にわたる召集原理を明示していることは
まずなかった
 勿論、召集原理らしきものが明示されていないからといって、全く無原則に召集が行われていた
訳ではなかった


そんだけ
 一般的に、全ての自由民が軍役義務を負い、従って9世紀初頭までの軍令は、
全ての自由民を対象に発せられたととらえられている

 巡察使勅令(792乃至793年):「巡察使はその管区の伯とともに勤役の準備を行うべきで
あり、全ての者が例外なく、本年皇帝陛下の救援の命令が下れば出軍すべく、また国内行軍中の
平和を監視すべきである」

 宛ザクセン勅令(797年):「いかなる(ザクセン)人も、軍役に関して皇帝陛下の軍事罰令権
に違背して敢えて留まるべからず」

 宛イタリア勅令(801年):「(軍事罰令に関して)もし(軍役につくべき)自由民にして
余の命令を軽視し、軍役に就くべき者にして家に留まりたる場合、フランク法に従って
完全軍事罰令違反金である60ソリドゥスを支払うよう判決されるべきである」

 巡察使勅令(802年):「(軍役義務のある)いかなる者も皇帝陛下の軍令に違背してはならず、
またいかなる伯も手心や追従によって軍役義務のある者を免除してはならない」

 巡察使勅令(802年):「全ての者は余の命令があり次第、直ちに出征できるよう完全かつ
十分に準備しなければならない」

 アーヘン勅令(802乃至803年):「出征に関し、伯はその管区内において60ソリドゥスの
軍事罰令金により、全ての者が出軍するよう命じるべきであり・・・・」

 いずれの軍令も国王への軍事罰令権への恭順を命じたものであり、「全ての者」「いかなる者」
といった語句を含んでいる
 素直に読む限り、命令権者は全ての者の軍役義務を前提に指令を発している
 しかし、実際に全ての者を動員することは物理的に不可能であり、またその必要がなかった場合も
多かっただろう

 ただし、最初の例の巡察使勅令(792乃至793年)の「omnes generaliter veniant」は文字通り
「あまねく、全ての者」と解釈することができる
 この勅令では、「皇帝陛下の救援の命令が下れば」という危急の場合が想定されており、
つまり、祖国防衛戦争においては全住民が例外なく参戦せよと命令している
 また、802年にデーン人の侵入の脅威に晒されている沿岸地方に居住する自由民に対して
出された巡察使勅令では、「もし告知者が来た場合には救援に赴くべし
 然してこれを怠った場合、一人につき20ソリドゥス、半自由民であった場合は15ソリドゥス、
奴隷の場合は10ソリドゥスの責を負わせる」と定められている
 階層に関係なく全ての者が武器を持って立ち上がることが厳命され、違反者に対してそれぞれ罰令金が科せられているのである

 つまり、国土防衛を必要とするような緊急事態において軍務に就くことは、自由民はもとより
全ての者の当然の義務であり、このことが幾つかの勅令で明示されている
 これは、従来から言われている武装能力のある自由民のみで構成される軍隊とは明らかに異なる
 防衛戦争に対する全住民の参戦は、「国民意識」や「民族感情」が十分に形成された近代以降に
おいては恐らく「義務」や「責務」以前の問題だろうが、人命金相当の罰金や死罪をもって
強制しているところにフランク時代の国家と軍制の特徴があった

そんだけ
112We need you:02/02/21 02:21
 「全ての者」、「全ての自由民」と明記されているとはいえ、通常の戦役では全ての自由民を
動員することなど不可能だし、またその必要があったとは考えにくい
 召集令で繰り返し規定されているのは、例外のない全自由民の一般的召集ではなく、
軍役義務を負う人々についてだった
 勅令では、軍役を負担する人々を様々な形で具体的に次のように記述している

 「王の封臣及び騎兵(カバラリウス)と呼ばれる人々」、「恩貸地を所有する全ての封臣」と
称される王の封臣

 「主君と共に、あるいはもしその主君が既に出征している時は、その管区の伯と共に自ら戦いに
赴く」、いわゆる王の陪臣

 自弁で武装を整えられる恩貸地でない所有地を有する自由民

 出征兵士を援助する義務を負い、自らは在宅する比較的小規模な土地所有者

 土地も奴隷も有さず、動産のみを有する自由民

 上記のうち、封臣の軍役については614年のパリ勅令の規定の中に既にその原型が見られ、
恩貸地所有者の軍役は8〜9世紀の勅令に見ることができる
 特に、初期カロリング諸王は統一支配権を確立する過程で封建政策を展開し、
王国の各地に多数の封臣を擁していたため、彼らの軍事力を用いることが最も多かった

 王の直臣の軍事奉仕については問題はない
 問題は、国王にとって陪臣にあたる家士層の軍事奉仕だった
 陪臣が主君に従って従軍するのは、双方を結びつけている恩貸地の授受や家臣関係の故であり、
国王に対する役務ではないと解釈できる
 すなわち、主君が不在または出征しない場合にも出征義務があるとすれば、「封建制度が軍役を
義務づける」とする認識と矛盾することになる
 つまり、陪臣の国王に対する勤役義務の根拠を、国王との間接的な主従関係や、王領地や聖界所領
(準王領地)の再受領に求めることだけで説明がつくかどうかは未だ議論の余地がある

 9世紀初頭の勅令は、王の直臣である伯、司教、修道院長等の軍役奉仕を定める一方、
これらの家士(王にとっての陪臣)にも重装騎兵としての出軍を命じている
 前者は国王から直接王領地を封、官職領、聖界所領として受領し、後者はこれらの伯、司教等を
介して再受封している
 勅令は、国王にとっては陪臣である後者も含めて「全ての封臣」「土地を持つ全ての封臣」と呼び、
例外なく出征義務を前提としている
 故に、封地の保有に基づく陪臣の軍役義務は、どうやら一つの原理として王国内で通用していた
らしいと考えられる


そんだけ
113財布が全てを決める:02/02/21 02:22
 一方で、勅令は軍役を負担する自由民として、装備の自弁が可能なだけの土地を有する者と、
出征兵士を援助する義務を負い、自らは家に留まるか、または他の人々の援助を受けて出征する
比較的小規模な土地所有者をあげている
 これは、土地を所有する自由民が軍役等の公的役務を負担するという有産者負担の原理が
フランク王国において存在していたことを証明している

 現存するフランク王国の勅令で、土地財産を軍事奉仕の前提とし、または財産規模に応じて
負担を区分し、軍役を共同で負担させる措置を示唆している最も古いものは9世紀初頭のものである
 この軍隊召集上の実務規定が始まったのが本当に9世紀初頭なのか、または単にそれ以前の史料が
見つかっていないだけなのかは明らかではない
 しかしながら、9世紀初頭のカルル大帝の治世以降に急激に版図を膨張したカロリング王権は
膨大な軍事力の動員を必要としており、軍制の再建または新しい軍制の創出に迫られていたことから、
「財産規模に応じた自由民の軍役負担の原則」がこの時期に成立したことは十分考えられる

 ただし、8世紀中頃のランゴバルド族支配下のイタリアでは、財産規模に応じた軍役負担の慣行が
既に存在しており、フランク王国でもかなり古い時期からの慣行であった可能性も否定できない
 ランゴバルド王国では、所有地の規模や商業収入の高低で供出する兵科が定められていた
 すなわち、大規模な土地所有者や有力商人は重装騎兵を、中規模の土地所有者や商人は軽装騎兵を、
より小規模な土地所有者や商人は弓兵を、それぞれ差し出すか自らその装備を持って出軍するよう
義務づけられていた
 恐らく、財産規模と軍役負担の区分はより多様で細分化されており、状況に応じて召集権者の
裁量で適宜組み合わせられて出征していたことはまず間違いない

 ランゴバルド王国では、建国当初から「ヘールマンネン・エクセルキターレス」と称される
戦士身分が存在していた
 彼らはかつてイタリアを征服したランゴバルド族の自由民のみで構成されており、
その軍役は騎兵勤務だった
 しかし、8世紀にローマ系住民への軍役負担がはじまり、それが財産規模に応じた負担区分と
なって現れることになる
 もしフランク王国も同様の経緯を辿ったとすれば、フランク王国における同様の軍事的慣行も
決してそれほど古い起源をもつものではなかったとも言えるし、または軍事力増強の必要に迫られて
採用した窮余の一策であった可能性もある

 この慣行はその後のフランク王国では829年と864年の勅令でも見られたが、この時期には
既に軍事施策としての実効力を失っていた
 847年の軍令にはもはや封臣軍しか記述されておらず、830年代以降、フランク軍は
完全な封臣軍へと移行することになる


そんだけ
 カロリング時代の軍隊召集の原理は、召集地域の経済・社会状況に応じて様々であったにも
関わらず、祖国防衛戦争のような総力戦の際には文字通り「全ての者」が原則として軍務に
つかねばならないとされていた
 これ以外の戦闘では、主に王の封臣や陪臣、恩貸地や所有地を有する従士が召集された
 それはやがて、富の享受が公的責任と不可分であるという封建的感覚を産み、中世的な所有権の
概念を古代及び近代のそれと区別する契機となった
 一方、この封臣軍に加えて小規模な土地所有者や王、教会、有力者に帰属する自作農民が
召集される場合もあった
 つまり、祖国防衛戦を別としても、召集される軍隊は2種類存在していたことになる

 史料によると、フランク王国の召集のスタイルによって史料によると3種類に大別できる
 一つは、「軍務をなすべき全ての者」である「ホスティス(hostis)」
 もう一つは、「出軍せねばならぬ自由民」である「エクセルキトゥス(exercitus)」または
「エクセルキターレス(exercitalis)」
 最後に、「国王に軍事奉仕を提供すべく集まった全ての人民」である「ミリティア(militiam)」
 この三者の違いは単なる語彙上のそれにとどまらず、軍役の内容、軍隊の構成にまで及んでいる

 742年の勅令には、「神の僕は全て、武器を携帯し、戦闘に従事し、更には『エクセルキトゥス』
に所属し、また『ホスティス』に就いて出征することを・・・・」とあり、出軍する際も二つの異なる形態があったことを示唆している
 「ホスティス」の原義は「未知の者、敵、反対者、相手」等で、ローマ時代にはしばしば
「国家の敵(hostis publicus)」という形で用いられている
 「ホスティス」がこの意味で用いられている例はフランク時代になっても見出されが、
一方で「ホスティス」とその派生語は、「軍隊、軍勢」「遠征、出征、出軍」「行軍」「軍装・兵糧を
整える義務」を示すようになる
 更に、「エクセルキトゥス」と結びついて「フランク軍(exercitu hostium Francorum)」のように
用いられてもいる
 その用例の全ては、内に雑多なファクターを包含しつつ「国家のために動員された」ことを
明示しており、「ホスティス」は純然たる戦闘部隊としての「軍団」よりも広義の「軍隊」を
意味すると考えられる

 「エクセルキトゥス」は、帝政ローマ期より「ローマ軍(exercitus Romanus)」の如く、
様々な兵科で構成された軍隊全体を意味してきた
 「エクセルキトゥス」はexerceo(教え込む、訓練する、練習させる)という動詞の過去分詞形で、
前述の「フランク軍(exercitu hostium Francorum)」はまさに「訓練されたフランク軍」の意味で
用いられている
 つまり、「エクセルキトゥス」は「ホスティス」と明確に区分された、明らかに特定の訓練された
部隊、すなわち封臣軍団を意味していた

 「エクセルキトゥス」という語は、グレゴリウスの「歴史十巻」でも頻繁に用いられており、
 クロートヴィッヒと共に洗礼を受けた3000名は「エクセルキトゥス」だった
 自由民や陪臣の軍役が「ホスティス」と形容されているのに対し、「エクセルキトゥス」は
王の封臣の軍役のみに用いられていたのである

 ただし、時代が下るにつれて両者はほぼ同じ意味に用いられるようになり、
その違いを見出せなくなってくる
 これは、多くの従士軍が国王の軍事統帥権のもとに編入されて王国軍の一構成要素となり、
カロリング期の「エクセルキトゥス」は、かつての国王の私軍としての性格がほとんど失ってしまう
 やがて、「エクセルキトゥス」は「公的役務」と見なされるようになり、自由民は財産規模に
応じて出征すべきものとされるようになる
 出征については軍事罰令金の徴収という強制が働き、または封地の没収という脅迫が伴った

 だが、小規模な土地所有者の召集は必ずしも成功したとはいえなかった
 フランク王国軍の戦闘力は、従来にも増して戦うべく財を与えられた者どもへの依存を深めていく
 こうして封臣たちの軍事奉仕は一層純化されて「ミリティア」と称されるに至り、
戦士は「ミリテース」として一つの階層を構成するようになる


そんだけ
115114:02/02/21 02:23
続きはまたいずれ
116海の人:02/02/21 08:19
 わ〜い、復活だ〜:-)
 おつかれさまでした〜
117バキャベッリ:02/02/21 21:55
お帰りなさい、待っておりました。
118名無し三等兵:02/02/22 00:54
ああ、生きててよかった……
119殺されて当然:02/02/25 19:20
 キリスト教化される以前のゲルマン系諸部族の世界では、軍事統帥権はゲルマンの神々に帰すると
観念されていた
 タキトゥスの「ゲルマニア」によれば、ゲルマン人は「出陣する際、聖林から伐り出して作られた
神像か印章を携え」ており、「(軍を率いる)王にも決して無制限のあるいは自由な権限はなく、
将軍も権威によるよりも、むしろ自ら範を示すことにより皆を率いることができた」という
 そうであったから、軍中において兵士を「死刑、投獄、笞刑に処する権利」は、
「ただ聖職者のみに許され、しかもその執行は処罰として行うのではなく、また将軍の命によって
行うのでもなく、神の命令によって初めて行われるかの如く」であったとされている

 このような宗教的色彩の濃いゲルマンの軍隊において軍事上犯される罪は、それ故部族の法と
平和・秩序の攪乱であると同時に、神々に対する侮辱、涜神行為であるとされた
 従って、タキトゥスによれば、「裏切り者と脱走者は凶木に吊し(架刑)、臆病者と卑怯者は
頭から簀をかぶせて泥沼に沈める(溺殺刑)」等、軍律違反者は総じて極刑に処せられている
 この架刑は縊り殺したのではなく、凶木に身体を吊り下げておいて後は時間の経過に任せる
人身御供の名残で、これは風神に捧げる意味もあった
 風の神の代表格であるウォータンは軍神でもあり、烏と狼を従者としていた
 烏が刑死者の身体にとまって屍体をついばみ始めると吉兆とされたのは、神がその犠牲を
嘉納したとみなされるからだった
 また、簀巻きにして石を抱かせて沼に沈める刑は、沼のデーモンへの人身供犠の意味もあった
 沼という居住地域から遠く離れた地に違反者を沈め、しかもその身体に重しをのせ、
死霊が浮き出て害をなすことを防ごうとしたのだった

 こうした死罪に値する罪である「臆病・厭戦」には、出征忌避や脱走、逃亡といった規律違反
のほか、謀反や寝返り、利敵行為等の積極的な反逆行為も含まれている
 ゲルマン時代におけるこれらの行為に対する罰としての死罪は神霊的、呪術的な色彩が濃厚であり、
その宗教色故に公法体系上の死刑と同次元ではなかった
 同時にまた、聖職者によって執り行われた架刑や溺殺刑は、共同社会の掟を破り、
共同体に敵対した者に加えられた社会的な刑罰であり、かつ威嚇効果を伴った見せしめ的な刑罰でも
あった

 軍事上の犯罪に対する刑罰は、死罪の他にも禁固や笞刑等の懲罰があり、平和喪失刑(犯罪行為者
から共同体社会の成員としての諸権利を剥奪する刑罰)があった
 タキトゥスによれば、「(戦闘中に)楯を棄ててくることはこの上ない恥辱であり、このような
恥知らずには、聖式に預かり、または民会に列することは許されなかった」
 これはまさしく民権の剥奪であり、事実上、法の保護外に置くことに等しかった
 また、葬祭への参加を拒否することで共同社会からの放逐を意味した
 「故に、戦いに生き残った者で、このような不名誉の生涯を恥じて自ら縊死した者も多い」

 タキトゥスの記述による1世紀末頃のゲルマニアにおける戦時犯罪に対する処罰は
前述のようなものだった
 王に無制限の軍事統帥権はなく、指揮官である将軍たちにも軍事罰令権が許されておらず、
聖職にある者に絶大な権威と権限が委ねられていた
 出陣にあたって、聖職者は聖林からウォータンの象徴である蛇や狼を獲って兵士に分け与え、
軍中で勝敗の行方を占い、規律維持と戦意の高揚を担い、軍紀違反者に対しては神意に照らして
処罰を行った
 王も将軍も兵士も、部族の神々の意のままに動いた


そんだけ
120迫害されて当然:02/02/25 19:20
 2世紀後半になると、ゲルマン諸部族の一部はローマ帝国の国境域を侵し、そこに定住地を
戦いとっていくとともに、傭兵としてローマ軍に採用されはじめる
 ローマ社会に取り込まれたゲルマン人の間では、伝統的な部族的集団性が失われ、
並行して部族的戦争観も捨て去られてローマ的戦争観が受け容れられていった
 2世紀末以降、ローマ軍は人種構成の点で非ローマ化の度合いと多様性を深めつつあり、
これに伴い国家の神々への供犠や礼拝が盛んに行われるようになる
 一方で、これを頑なに拒否し続けたキリスト教徒は、それ故に繰り返し激しい迫害を受けることに
なった

 3世紀のローマ帝国内のキリスト教会は無条件の平和主義を標榜し、教徒が兵役につくことを
非難し、いかなる殺人をも禁ずる態度を鮮明にしていた
 キリスト教徒となった兵士はただちに兵役を忌避するよう要求され、全ての信者は兵役に
服さないよう要請されていた
 しかし、このようなキリスト教会の反ローマ・反体制的平和主義は、その後徐々に妥協的な性格を
帯び始め、やがて全ローマ帝国がキリスト教信仰において一致すれば、神はローマのために戦い、
多くの敵を倒してくれるであろうと声高に叫ぶようになる

 4世紀になるとこうした傾向はますます顕著となる一方、ローマ皇帝の対キリスト教政策にも
大きな変化が訪れた
 312年、コンスタンティヌス帝(在位306〜337)は、政敵マクセンティウスとの戦闘に
おいて、従来の守護神や軍神、太陽神にかえて、キリストの最初の二文字を組み合わせた印を軍旗と
して軍勢を先導した
 戦勝後、コンスタンティヌスはキリスト教信仰に自由を与え、自らもこれに改宗した
 「ミラノ勅令」直後の324年、コンスタンティヌスは東の皇帝リキニウスが領内のキリスト教徒
の迫害を再開したのを機にこれを攻め、これに勝利して単独のローマ皇帝となった
 キリスト教の神は最高神とされ、国家宗教への第一歩が踏み出された
 教会はローマ皇帝の支配権を神から導き出し、帝権を神聖化することによって体制を支える
新しいイデオロギーを創出することになる


そんだけ
121役立たずの神さま:02/02/25 19:21
 こうしてキリスト教化されたローマだったが、キリスト教は4世紀末頃以降にゲルマン系諸部族に
よって引き起こされた混乱に対して結局は何もしてくれなかった
 それどころか、410年に永遠の都ローマはアラリック(在位395〜410)率いる西ゴート族
の手に落ち、後のビザンティン帝国領域を除いて神の恩寵は失われた
 ヴァンダル族に包囲された北アフリカにおけるローマの要衝ヒッポ・レギウスで、北アフリカの
カトリックの第一人者である聖アウグスティヌスが「神国論」を著したのも同じような状況に
おいてだった
 彼は、「隣国と平和に過ごすほうが、戦争によって邪悪な隣国を征服するよりも大きな幸せである」
としながらも、一方で自衛戦闘や奪われた財産を奪い返すための戦争、平和の達成を目的とした戦争」
を「正義の戦争」と称し、これを許容した
 この「義戦論」は、5世紀以後のローマ教会と西方キリスト世界で規範的な意味を持つようになり、
初期教会の平和主義は、信仰の国家化、体制化の中で捨て去られた
 だが、西ローマ帝国領域の国家機構の崩壊とローマ軍の後退のなかで、この「義戦論」すら
何の意味も持たなくなっていく
 聖アウグスティヌスも、ヒッポの包囲から僅か3ヶ月後の430年8月、カトリックの教敵である
アリウス派を奉じるヴァンダル兵の怒号と鯨波を聞きながら死ぬ
 ヒッポが陥落したのはそれから1年後の431年8月のことだった

 大移動の混乱の中から、やがて旧西ローマ領域には幾つかのゲルマン系諸部族国家が成立する
 これらの国々で、ローマ系キリスト教会は当初は「平和の教会」を主張して自ら武装することを
拒否し、専らゲルマン系諸部族の武力に依存していた
 こうしたこともあって西ローマ帝国崩壊の後に成立したゲルマン系国家では部族的伝統が
維持され、特にイスパニアに居座った西ゴート族、長駆北アフリカの地に到達したヴァンダル族、
イタリアに支配権を確立したランゴバルド族は伝統的な戦士階級を擁して被征服民を圧倒していく
 こうしたこともあって、これらのゲルマン系国家は戦争観や軍事組織、その指揮統制についても
その伝統をよく維持していた


そんだけ
122棄神:02/02/25 19:22
 ゲルマン古来の軍事統帥権への認識が根本的な変化を遂げたのはフランク時代に入ってからだった
 クロートヴィッヒのローマ・カトリックへの改宗以後、フランク王権は宗教的な軍事刑罰権の
観念を捨て、厳格な国家的刑罰権を確立した
 死刑はその宗教色を払拭して国家的秩序維持に奉仕すべきものとなる
 これに伴い、様々な戦争犯罪に対する処罰権は最高軍事指揮官である国王の専管事項となる
 刑罰規定は多様化され、軍事法廷における刑量の軽減化が行われ、やたらと死刑に処することも
なくなった
 戦争の目的の一つであり帰結でもある平和もまた、国王の保障するところとされ、
平和を攪乱する者は「王の保護の外」に置かれた

 こうした過程が時代背景となったメロヴィング朝フランク王国は、王朝300年の過半が
血みどろの内乱に満ちた時代でもあった
 にも関わらず、フランク族はメロヴィング王家の血統という世襲の神聖な威信に対して
常に忠実であり続けた
 この守旧性は、決してメロヴィング王家自信のカリスマ性によってのみ維持され続けた訳では
なかった
 ガロ・ローマ系貴族やローマ教会の支援、あるいは東ローマ皇帝との関係性の故でもあった
 6世紀初頭の対西ゴート戦、いわゆるヴイイェの戦の際には、王家を取り巻くこうした環境は
既に整っていた
 この戦は、神の支援を得たクロートヴィッヒがアリウス派西ゴートを討つ「聖戦」ととらえられ、
多くの在ガリアのセナトール貴族が援軍として加わっていた
 また、時の東ローマ皇帝アナスタシオス(在位491〜518)は、この戦闘に先立つ505年に
ブルグンド、フランクと相次いで同盟を結び、イタリアの東ゴートを牽制することによって、
フランクの南下を掩護した


そんだけ
123大工の息子を信じる:02/02/25 19:23
 この限りで言えば、メロヴィング王権は、その草創期には既にゲルマン的神聖王権の域を脱し、
キリスト教化とローマ化を達成していた
 もっとも、同時代の史料の大半がガロ・ローマ系聖職者の手によるものであることから、
必要以上にキリスト教的に解釈され記述されている傾向は十分考えられる
 クロートヴィッヒの時代は、アレマン族、ザクセン族、ゴート族に対して幾多の掠奪と虐殺を伴う
戦争が行われた血塗れの時代だったが、キリスト教聖職者の目には、ローマ教会の支配権を
拡大せんとするカトリックの王の正当なる行為と映っていた

 中世初期のキリスト教会は、聖アウグスティヌスの唱える「戦争は平和の代償」とする戦争観と
平和観を保持し、平和の実現と維持を目的とした戦争を正義ととらえ、更に一歩踏み込んで、
迷惑なことにフランクの戦闘力をカトリックの伝道活動に結びつける努力を展開しはじめたのだった
 7世紀初頭以降、勅令にはやたらと「キリストの恩寵により」の一文が目立つようになる
 国内の平和と秩序の維持に、イエス・キリストの恩寵を求めるようになっていたのだった

 メロヴィング期のフランク王国軍は、無論のことフランク人が中核をなしていたが、他にも
ブルグンド人、アクィタニア人、アラン人、ザクセン人等の異部族の軍団も編入していた
 ガロ・ローマ系の将校も多数採用されており、人種・部族的に多彩なファクターを取り込んでいた
 当時のフランク王権は、こうした雑多な要素を統合して強大な軍事統帥権を確立するには
至っていなかった
 しかし、一時的に諸族を召集してライン右岸のフリーセン、ザクセン、チューリンゲン、
アレマニエン、バイエルンへの軍事遠征を企てるだけの力はあった
 フランク王権の軍事統帥権を他部族に及ぼすためには、統帥権の部族的性格を払拭して
これに普遍性を与えなければならなかった
 ローマ帝政末期に展開されたキリスト教的「義戦論」は、まさしくこのための格好のイデオロギー
だった
 やがて、メロヴィング朝の対外軍事戦略は濃厚に防衛的性格を強めていくが、これもまた聖職者の
目から見ればキリスト教会の要請に応えた宗教的性格を帯びた戦争だった


そんだけ
124地上げ:02/02/28 23:09
 8世紀に入ると、イスラム教とのキリスト教世界への圧迫は一段と激しさを増し、
トゥール・ポワティエ戦後も一向に衰えを見せなかった
 743年、フランク王国宮宰カルルマンは教会会議の同意を得て「差し迫った戦争と四周の他部族
への追撃のため、神の慈悲により教会財産の一部を我らの軍への援助として、かなりの期間確保する」
旨の決定を公布している
 この際、教会領は「各農園毎に年1ソリドゥス、つまり12デナリウスの賃租が教会乃至修道院に
支払われる自由借地の条件」で貸与せられ、「教会財産を貸し与えられていた者が死亡した場合は、
教会は所有権ともども財産を取り戻す」ものとされている
 ただし、「もし主君に必要とする事情があれば、自由借地契約は更新され、文書化されるべし」
とあり、他方「その財産が自由借地として与えられているが故に欠乏と貧困に苛まれている教会や
修道院があると認められ、かつ貧窮が逼迫しているのであれば、もとの所有権は教会に返還される
ものとする」とある

 これが、後の「王命による自由借地(プレカリア)」の先駆けとなるものであった
 カルルマンによるこの教会領の没収は、内戦を戦い抜き、ゲルマン系諸部族を再征服して王国の
支配権を再確立し、更にはムスリムをピレネーの彼方に撃退するという軍事的必要性からなされた
ものだった
 ローマ教皇ツァカリアスは、宮宰カルルマンの軍事行動がキリスト教会にとって有益であると認め、
この措置を受け容れている
 カルルマンはこの措置を通じて自らの従士すなわち子飼いの将兵に生涯保有の形で教会領を
恩貸地として授与し、安定した領主的生活基盤を保障した
 カルルマンはまた、この従士が死亡した場合、宮宰がなお軍兵を必要とすればこの恩貸地を別の
従士に再授与できる権利を留保できた
 しかしながら、土地に対する所有権は依然として教会に帰属していた
 このことを明示するために1ソリドゥスの年租が、受封者から教会に支払われるものとされた


そんだけ
125オイル・プレイ:02/02/28 23:10
 こうして従士は、宮宰に対して恩貸地の授受を通じて封建関係を結び、一方で教会に対しては
自由借地の貸借を通じて土地領主制的関係を結ぶことになった
 教会は少なからぬ所領をカロリング家の裁量に委ねることで、ローマ教会世界を維持・防衛する
軍団の編成を可能にした
 ローマ教会は、キリスト教的普遍性を実現する強力な「地上の王国」としてのメロヴィング王権を
見限った
 ローマ教会のカロリング家支援の態勢は、この743年の勅令が出された時点で確立したといえる

 747年にカルルマンが引退し、フランク王国の宮宰職はピピン一人の掌中に収まった直後、
ザクセンが叛旗を翻した
 ピピンはおのれの従士軍(エクセルキトゥス)に加えてヴェントとフリーセンの軍勢を率い、
ザクセンを再征服した
 この勝利によって勢いを得たピピンは、751年にローマ教皇ツァカリアスによる承認を背景に
メロヴィング朝の王ヒルデリヒ3世を廃し、ソアソンで聖ボニファティウスによって体中に聖香油を
塗りたくられて聖別され、自ら王位に即いた
 ヒルデリヒ3世はメロヴィング朝の王の象徴である長髪を切り落とし、身柄はサンベルタン修道院
に放り込まれ、その消息は定かではない

 聖別のための聖香油は、人格に新たに神聖な性格を授けることを意味しており、カロリング王権の
神政政治的使命はこの特殊な儀式によって確たるものとなった
 ピピンが教皇ステファヌス(在位752〜757)の要請に応えてランゴバルドと戦って教皇領を
献上したことは、ピピンがこの使命感を蔑ろにしていないことを端的に証明している
 カロリング王権は、やがてこの強大な軍事力を背景として、国の内外だけでなく宗教界に対しても
多様な戦略を展開していく


そんだけ
 これに対応して、カロリング王権初期の戦争目的は無制限かつ攻撃的となった
 領域的な拡大のみを目的とした戦争も、民族存続のための自衛戦争と同様に正義の戦いであり、
キリスト教徒の義務であると見なされた
 勿論、何時の時代の何処の戦争でも、仕掛ける側には常に大義名分が存在していた
 例えば「カルル大帝伝」では、ザクセン戦役について次のように記述されている
 「フランクとザクセンの平野部の国境で、殺戮、掠奪、放火が絶え間なく起こっていた
フランク族はこれに大層苛立ち、遂に単なる復讐ではなく、彼らに対し公然と戦いを宣告」した
 これがザクセン戦役の直接の原因だったが、更に「ザクセン人はゲルマニアに住む殆ど全ての
民族と同様に、生来獰猛で、悪魔崇拝に身を捧げ、我々の宗教に反感を抱き、神と人の法を汚し、
蹂躙することを不名誉と思わぬ」という宗教上の決定的相違が背景に横たわっていた
つまり、フランク国王の側にとってザクセン戦役は国教域を巡る自衛戦争であり、宗教的観点から
すれば一種の聖戦であった
こうした二つの側面は、現実には渾然一体で意識的に区別されることもなく、またフランク王権と
ローマ教皇権の関係の度合いが深まるにつれて一層不可分のものとなっていった

 それ故にカルル大帝は軍勢に司牧を従軍させ、また「(王国内の)全ての司教は詩篇を唱して
3度のミサを執り行うように、一つは王のため、一つは軍のため、一つは当面の危機のために」
と命じ、更に対アヴァール戦を前にして全将兵とともに3日間にわたって祈祷行軍を行い、
ミサを執り行って戦勝を祈願した

 ローマ教会の敵と対峙することは、このようにフランク将兵の聖なる義務でもあった
 かくしてカルル大帝の軍勢に屈服したザクセン人は、「悪魔信仰を捨て、祖国の宗儀を放棄し、
キリスト教とその聖儀を受け、フランク王国に統合され、彼らとともに同じ国民となった」


そんだけ
127名無し三等兵:02/03/02 07:58
ご講義、ありがとうございます。感謝感激感動であります。

・・・・しかし、たまには浮上しませんと・・・・そろそろ危険深度にさしかかっているような。
128名無し三等兵:02/03/02 15:43
>127 いくら沈もうと、書き込みがある限り、倉庫には落ちないよ。
129バキャベッリ:02/03/02 19:53
 我々の様に保守ageする人間が居ますからね、それにこれだけの長文を纏めるって
大変だろうし。別スレで柄にもなくやってみたら、エライ苦労しました。自分の言葉
で書くってのは労力がいるもんです、コピペとかと違って。
130さっどさっく:02/03/02 23:19
最近この板に来てなかったが、そんだけ氏がフカーツしてたとは!!
またROMさせて頂きますw。
漏れみたいに諦めてこのスレ覗いてない人もまだいるかも・・・
131名無し三等兵:02/03/03 00:11
まあ、読む人は読む。宣伝する必要は無いっしょ。
132キリスト教帝国:02/03/03 21:38
 8世紀末のフランク王国とその周辺領域は、宗教的な統一を確立する途上にあった
 このことは同時に東方教会やビザンティン帝国からの離脱を意味し、フランク王国域は教会の
普遍主義を実現する独立した権威と権力を必要としていた
 796年、カルル大帝は教皇レオ3世(在位795〜816)に宛てた書簡の中で、「神は我らを
導き、かつ恵み給い、キリストを信ずる民は常にその聖名の下に敵どもを撃ち破り、かくして我らの
主イエス・キリストの御名は全世界に輝く」と述べ、聖戦遂行の意志を喧伝している
 カルルの皇帝戴冠は、こうした経緯の中で行われ、更に802年以降の積極的な立法活動や臣民の
誠実宣誓、部族法典への勅令による干渉やチューリンゲン、ザクセン部族法典の成文化も
この延長線上にあった

 カルル大帝はまた、死の直前まで繰り返して平和令を発して私的なフェーデ(闘争)を禁じ、
国内での武器携行を禁止し、有力者の圧迫や役人の職権乱用から自由民を保護しようとした
 更に、フランク軍の精強化を目指して軍規・軍律を強化したため、9世紀のキリスト教会の目には
理想的な「鉄の戦士」と映った
 このためエルモルドゥス・ニゲルスは、「キリストの善良な戦士」に天国の扉が開かれ、
戦いに斃れ信仰に死ぬ者は天国に召されると説いてフランク軍将兵を祝福している
 また、カロリング期のフランク軍は「旧約聖書」の諸王の軍と同じであり、フランクの戦士を
「新たなマカベア族」と見なしている
 「ルートヴィッヒの歌」では、ルートヴィッヒ3世は「キリストの騎士」「神の封臣」と謳われ、
神からノルマン人の圧力から人民を救うよう命じられている
 この命令に従ったルートヴィッヒ3世は、十字架の軍旗を掲げて軍勢を集め、「神は朕を此処に
遣わし命じられた」と宣言して戦場に向かったとされている
 カロリング期の軍事行動はこのように聖戦視され、フランクの戦士は「神の戦士」と称されるに
至った
 こうしてカルル大帝や敬虔帝は、単なるフランク人の支配者ではなく、その支配下にある全ての
キリスト教徒に対する支配者であり、宗教的指導者となった


そんだけ
133世紀○救世主伝説:02/03/03 21:39
 カロリング王権の創始者ピピンは、ローマ教皇による聖別と即位式におけるフランク有力者の
誠実宣誓を経て、メロヴィング王権伝来のカリスマの移転を果たした
 このため、カロリング王権は、キリスト教の理念の体現者であり、一方ではフランク伝統の
分割相続の原理に立脚した家産制的王権でもあった
 しかもこの王権は権力掌握の過程で封建制の原理を採用していたため、その安定性や永続性には
軍事的に不安があった

 カルル大帝は更に宗教色を深めるとともに、ローマ・キリスト教的な帝国の統一の実現を目指した
 キリスト教世界の領域的拡大と防衛のためには、軍事的な封臣のみならず全てのフランク系住民が
動員されるべきであり、このために王のみに許された軍事大権が発動されねばならない
 一方でキリスト教世界の内部は平和が保たれるべきであり、王は弱者を保護し、治安と秩序を維持
しなければならないとされる
 9世紀以降、カルル大帝と側近の聖職者たちは、こうした目的で多数の勅令や教令を発している
 しかし、こうした勅令はいわばエリート聖職者の抱く観念の産物で、現実との乖離から
大きな抵抗を受けることになる

 ローマ教会の願望にもかかわらず、カルル大帝の死とともに彼の作り上げた帝国は再び分裂を
開始する
 帝国の統一的存続を図るべく817年に出された「帝国整備令」も、ゲルマン伝統の分割相続原理
を克服できなかった
 この局面で、封建制の原理は分裂的に作用し始める
 君臣の関係は弛緩し、異民族の来襲に対抗するだけの力を結集する原理も規範もなかった
 1世紀もたたぬうちにヨーロッパ・キリスト教世界は再び混沌に支配され、自力防衛のみが
生き残る唯一の道である群雄割拠の時代となった


そんだけ
 カロリング王権が確立する直前の宮宰時代においては、聖職者は武器の携行と戦闘行為は
禁じられていたものの、従軍司牧として軍隊に随伴することは容認されていた
 大抵の場合、1乃至2名の司教が司祭や助祭を伴い、戦勝をもたらす聖遺物を携えて従軍し、
勝利を祈願し、将兵を説教し、彼らの懺悔に耳を傾けた
 しかし、聖職者の中には前線で武器を持って戦い、異教徒のみならずキリスト教徒を殺戮すること
すら意に介さない司教も存在し、聖職者の戦闘行為に対する禁令は必ずしも遵守されていなかった

 カルル・マルテル以来、教会領は王権の直接的な用益下に入っていたが、初期のカロリング王権は
更に王国の支配機構の新旧交代を利用して高位聖職者のポストに直属の従士を就けた
 こうして教会は新王権の支配権下に取り込まれることになる
 ついでカルル大帝は、王命によらない聖界独自の所領貸出を可能にし、高位聖職者が
教会に奉仕する封臣を独自に擁することを容認した
 この結果、カルル大帝は没収した教会領を保有する封臣だけでなく、新たに教会領を恩貸地を
保有する教会の陪臣(聖界封臣)をも軍隊に動員することなる
 司教や修道院長は聖界封臣の主君として出征し、また王国集会に参加することを要請された
 教会はこうして国家戦略の一手段となり、その軍事奉仕も制度化されるに至った
 しかし一方で、高位聖職者の軍事行動はカノン法に照らして決して合法化されることはなく、
聖職者の武装を禁じる通達が繰り返し発せられ、歴代の教皇や大司教たちは軍事訓練に励む聖職者に
対してしばしば苦言を呈し、時には非難している

 このように、初期カロリング王権は教会を軍事的に利用しようとし、一方で教会は聖職者を
本来の聖務に立ち戻らせようとした
 この双方のせめぎ合いからやがて幾つかの妥協の末に現実的解決が図られていくことになる
 既に9世紀初頭以降、聖界の施設が独自の軍事力を整備する傾向は特に顕著に見られるように
なっていた
 デーン人の侵入や王国の分裂はこの傾向に一層拍車をかけ、ついに10世紀には聖界封臣軍が
確立することになる


そんだけ
135マーシャル・モンク:02/03/09 20:54
 初期カロリング時代における聖職者の武装や軍役の禁止条項は、いずれも司祭、助祭やその他の
下位聖職者を対象にしている
 司教や修道院長といった高位聖職者が条文から欠落しているのは、彼らの軍事役務に関する特別な
地位を物語っている
 当時既に、キリスト教会は貴族階級的な王国聖職者の「上級教会」と狭義の宗教的任務を遂行する
「下級教会」に区分され、後者が前者に帰属するシステムが完成していた
 後者に属する聖職者は、自ら軍役を果たす必要はなく、ただ彼の家人を軍隊に送り出せばよかった
 一方、前者に属する王国聖職者は、国王に仕えて軍役のみならずあらゆる世俗的任務を果たす
特別な地位を有していた
 彼らは世俗の封臣と同様に国王に委ねられた所領と政治権力の担い手であり、王権の代理人であり、
事実上、キリスト教会の法とは全く別の法に服していたと言える
 無論のこと、ローマ教皇庁の再三の異議申し立てにもかかわらず、彼らは実際の戦闘にも
参加していたのだった

 そもそも彼ら高位聖職者は、その系譜を王国帰属層に連ねる者たちであった
 彼らはその一員として当然のように軍事に長けており、むしろ、戦闘的、好戦的な性向を聖界に
持ち込んだのは彼らだった
 それ故、こうした聖職者の中には、召集によらずに従士制的な自由意志に基づいて軍役に参加する
者も少なくなかった
 やがてカロリング王権は、これを「国王への役務」ととらえて教会内部の貴族的伝統に
裏づけられた好戦性を国家のために利用することになる

 勿論、軍事奉仕を要求するにはそれ相応の見返り、すなわち経済的基盤や政治力が保障されている
必要があった
 カロリング王権は、宮宰時代に取り上げた教会領の一部を返還するとともに、教会や修道院に
対して国領や国王領を盛んに下賜するようになる
 司教や修道院長は王国集会への出席を命じられ、巡察使として地方行政を監察し、
外交使節として諸国を歴訪する等、国政のあらゆる分野で国王の信任を得て活動するようになる

 ついにカルル大帝の時代には、それまで出征を命じられることの少なかった司教や修道院長の
従軍が目立つようになる
 サン・ドニ修道院長はザクセン戦役に従軍し、フルダ修道院長はザクセン南部のエレスブルク要塞
の守備の指揮を執った
 791年秋の対アヴァール戦には、メッツ大司教、トーリア大司教、レーゲンスブルク司教、
ザルツブルク大司教、フライジング司教が出陣して王族の側近に仕えている
 彼らの仕事は、ミサを執り行い、詩篇を唱して戦勝を祈願するだけではなかった
 カルル大帝は、必勝を期したこの戦役に、王国軍の投入可能な全兵力を投入していた
 フランク軍は勝利したものの、メッツ大司教とレーゲンスブルク司教がアヴァール兵の手にかかって戦死している

 こうした事例は枚挙にいとまがない
 彼ら高位聖職者は、従軍にあたって護身の意味からも自ら武装し、封臣や家士からなる戦士集団を
随伴した
 司教や修道院長が、自らを主君とした一個の軍団を送り出すように要請されるようになるまで
時間はかからなかった
 こうした王権の意向に添う形で、聖界は自らを改造していくことになる


そんだけ
136なし崩し:02/03/09 20:56
 そもそも、元来、修道院それ自体には国王に対する軍事奉仕は義務づけられてはいなかった
 また、もし仮に課せられたとしても、それを可能にする物理的な前提条件が整わない限りは
遂行する能力もなかった
 フランク時代の修道院は、一般に建立者または王族による所領寄進を核に創建され、その後、
世俗信者の土地寄進を蓄積することによって肥え太り、広大な所領を保有するに至った
 当然のことながら、これらの地には、かつての国庫領や伯領、貴族所領の住民が居住していた
 彼ら住民の王や伯に対する役務は、土地の所有権が移転しても変わることはなく、依然として
公的役務が義務づけられていた
 故に、修道院は例え所領を寄進されても、当初は土地の用益にかかわる僅かな貢租を、
土地の住民から要求することができたに過ぎなかった
 この段階の教会と聖界所領民との関係は、その寄進地型荘園という成立事情のために極めて
錯綜していた

 だが、やがてこの複雑な状況は次の段階で大きく変化する
 修道院長が国王に対して誠実宣誓を行い、所領の安堵を求めてこれを寄託すると、
国王は当該修道院を国王の保護下に置き、修道院長を独自に選出する権利を保証した
 このことは、当該修道院は最強の世俗権力である王権の庇護を背景に、近在の司教教会や
他の大修道院の干渉と影響力から完全に独立することを意味した
 これは、国王への従属という「不自由」の見返りに獲得した「自由」でもあった
 更に国王は、聖界所領での裁判官の司法権を禁じ、住民相互の訴訟については修道院長の管轄下に
置いた
 聖界所領は、小事件に限っては伯の司法権から独立した別個の法領域と観念されるようになる

 更にカルル大帝は、伯や国王役人の権限に属ずる軍事罰令違反金の徴収を、聖界インムニテート
(不輸不入権)領域に及ばないようにした
 つまり、聖界所領の住民は軍事罰令違反金を伯等に支払う必要はなくなり、徴収の権限は修道院長
に委ねられた
 この軍事罰令違反金の徴収権の移転は、そのまま兵士徴発権そのものの高位聖職者への移転を
意味した
 国王は、このような特権を認めることによって聖界所領民に国庫領民と同等の法的地位を
認めるとともに、徴兵と軍の編成、指揮を修道院長に委ねたのだった
 このように、カルル大帝が採用したインムニテート政策は、軍事的に見れば、聖界軍事力の創設を
目的に展開されたことになる

 カロリング王権は、高位聖職者の軍事奉仕を既成事実化するための立法措置として様々な勅令を
発している
 司教や修道院長は、世俗領主と同様に武装した従士を常時随伴すべきであるとされ、出軍命令が
下れば配下の封臣や家士を率いて出陣しなければならぬとされた
 このため、フォークト(教会官吏)強制制度によって8世紀末に登場したフォークトは、
9世紀初頭にはインムニテート領民の軍役遂行を監視することとされた
 更に、動員令に違背した司教や修道院長は、軍事罰令違反金の上限額である60ソリドゥスを
要求され、場合によっては聖職位や所有地、恩貸地を没収された
 彼らはまた、自分の封臣の軍役拒否についても責任を負うものとされた
 聖界諸施設は、所領規模に応じた兵員の出征を義務づけられ、その兵員数分の装備、糧食その他の
雑品を常に備蓄しなければならないとされた
 更に、これらの軍需品を余剰の発生等の理由で処分する際は、事前に王宮官房にその旨を届ける
ものとされた
 このようにして、高位聖職者と彼らの聖界諸施設の国王に対する軍事奉仕は、制度化と合法化を
経て既成事実化していく


そんだけ
 このように、現実はカノン法の精神に真っ向から反するものであった
 早くも敬虔王時代に、教会に委ねる権限や財産を宗教上必要最低限のものにとどめ、
他は全て軍事目的に転用すべきだとする主張が貴族たちの間で展開されていた
 聖職者の中にも妥協的な発言をする者が現れることになる
 950年代にランス大司教は「(聖界は)聖なる教会の防衛のために、古い慣習に従って可能な
程度の軍役を提供すべきである」と述べた
 聖界諸施設は、軍役を果たすために所領の一部を恩貸地として俗人に与え、見返りに彼らから
軍事奉仕を要求した
 司教たちは、858年にカルル禿頭王に宛てた書簡の中で、「教会領が俗人に与えられれば、
そのことによって王国への勤役は増すであろう」と述べている
 聖界の軍事力は、主に軍事的な能力を備えた俗人を封臣化することによって確保されることに
なった
 恩貸地受領者の能力は厳格に査定され、また受領後に出軍不能となった者からは没収された

 こうして、カロリング王権は聖界恩貸地の保有者を、世俗の封臣と同様に軍事召集するように
なった
 軍事奉仕を課せられた高位聖職者たちは、兵士を確保するために所領の一部を割いて恩貸地として
貸し与えるとともに、軍役を完遂するために必要な軍需物資を調達するための所領経営を行わねば
ならなかった
 彼らは、国王の召集があればいつでも兵を率いて出陣できるよう、日頃から高レベルの即応態勢を
維持しなければならなかった


そんだけ
 サン・カンタン修道院長フルラドゥスは、カルル大帝の命で、806年6月18日に
ザクセン東部のボーデ河畔にあるシュタースフルトで開催される国王集会に出席することになった
 同修道院からシュタースフルトまで、直線距離で650キロあった
 フルラドゥスは彼の封臣と従士を引き連れてそこまで赴き、更にその上、「そこから朕の命じる
いかなる地方へも戦闘態勢で行軍できるように装備を整えて」いなければならなかった
 一行の中には「十分に装備した封臣」がおり、その配下に「楯、槍、剣、短剣、弓、矢、箙を持つ」
重装騎兵(カバラリウス)が従っていた
 更に行軍や戦闘に必要な雑具、3ヶ月分の糧食、装備を含む半年分の消耗品と衣服類を積載した
馬車を連ねていた
 カルル大帝は、補足事項として、「配下の者どもが悪事を働かぬよう」監督するために、封臣たち
に騎兵と馬車とともに行軍するよう指示していた
 このように、フルラドゥスの小さな軍団は、彼自身を頂点としてその下に封臣と重装騎兵、
更に馬車の御者や馬丁を含む輜重兵で構成されていた

 このような聖職者自身の従軍は、カルル大帝の頃には珍しくなくなっていた
 一方で、むしろ自分の教区に残って信者とともに国王と軍のために祈り、ミサを催し、祈願行進を
行い、貧者に施物を与えるべきであると主張する聖職者もいた
 聖職者は戦場に赴くよりも自らの場所で聖務を果たすべきであり、高位聖職者に軍役の代理人を
差し出す特典を認めるよう、国王に対して幾度も嘆願が行われていた
 高位聖職者の中には、国王に個人的に願い出て、自分の出征を免除してもらう者もいた
 817年までに、こうして軍役を免除された修道院は65にのぼった


そんだけ
139神様の土地:02/03/10 21:44
 もっとも、こうした修道院においても全くの無防備だった訳ではなく、自己防衛の必要上、
修道院の内外に兵を居住させていた
 彼らは聖界から恩貸地を受領しており、それ故に修道院長が出征を免除された場合でも従軍を
免れられなかった
 彼らは世俗の封臣と同様に装備を整え、管轄区の伯の指揮下に出陣しなければならなかった
 彼ら聖界恩貸地保有者は聖界軍事力の実質的な担い手で、その存在は軍事上極めて重要だった
 どの修道院がどの程度の兵力を擁し、どの程度の恩貸地を授与していたかは史料が少なく、
詳細は明らかではないが、恩貸地保有者は概ね二種類に大別されていた
 一つは比較的大規模な所領を受領する者たちで、もう一つは小規模な所領を受領する者たちである
 前者は独自の家士や隷属農民を抱え、別の修道院や世俗領主から所領を受領していることも
珍しくなかった

 当時の恩貸地、特に国王から下賜された恩貸地には様々な役務が課せられていた
 国王恩貸地を所有する国王役人等が、教会の創建に援助を要求されることもあったが、
恩貸地の保有者が負う主な役務は軍事的なものであった
それ故に、軍役を違背したり拒否した場合には恩貸地を没収することが法で定められていたのだ
 このような恩貸地の特性は、国王恩貸地のみならず、聖俗有力者から家士に与えられる
恩貸地についても同様だった

 政界恩貸地保有者は、修道院長の出軍義務の有無にかかわらず、国王から命令があれば装備を整え、
恐らくは彼ら自身の家士や従属民を伴って伯の下に集結した
 彼らは軍役につく自らを戦士(ミーレス)と称し、貴族的戦士としての自覚と自負があった


そんだけ
140教会の鎚:02/03/10 21:46
 グレゴリウスによると、6世紀末に国王の出軍命令に従わなかった聖界領民が罰令違反金を
徴収されようとし、これに対して教会は、これらの人々が公的役務を行うことは慣例にないと
抗弁している
 このことは、聖職者だけでなく聖界領民も、いまだこの時点では軍役を強制されていなかった
ことを物語っているのと同時に、メロヴィング王権が、この頃に軍役義務の拡大を目論んでいた
ことを暗示している
 一方で「リプアリア法典」の65章には、「軍役を命ぜられ、而してこれに全く従わなかった場合」
の対象として、フランク人、ローマ人と並んで「教会もしくは国王所属の被解放者」があげられて
いる
 この箇所は7世紀前半に成立した部分で、軍役義務負担者の拡大を企図する国王の意思が法典にも
反映されたことを意味している

 宮宰時代になると、聖界所領は「王命による自由借地(プレカリア)」を通じて世俗の戦士階級に
振り分けられ、王国軍事力の経済的基盤とされる
 従って、この時期に聖職者や聖界領民が軍役を要求されることはごく稀だった

 彼らの出征はカロリング時代に本格化する
 この変化に先行して、まず没収された聖界所領の返還がはじまり、ついで聖界諸施設に不輸不入
(インムニテート)権が付与される
 更に、高位聖職者は国王から王領を下賜され、政治的権限を委託され、個人的に出征を
義務づけられる
 彼らは資力のある土地所有者を支配下に引き入れるとともに、恩貸地を軍事的能力のある俗人に
与えることを通じて、分担兵力の一部を騎兵で編成するようになる
 また、軍役を課せられた聖界諸施設は、軍需物資を調達するため所領内の土地所有者に軍事的役務
を課した
 修道院長は、国王から出征命令があれば、いつでも恩貸地保有者から兵を動員し、小軍団を
編成した

 一方、修道院長自身とその領民が軍役を免除される場合もあり、この場合、聖界所領民の負担は
非軍事的性格が強くなった
 しかし、こうした修道院でも所領防衛のための戦力を保有しており、彼らに恩貸地を与え、
または装備や兵を提供した

 彼ら封臣は、王権により準王領地の扱いを受けた聖界所領を恩貸地として所有していたため、
王命による軍隊召集に応じなければならず、命令があれば伯の指揮下に入った
 教会や修道院は、国内の政情不安や異教徒の侵入を前にして、彼ら聖界軍事力への依存の度合いを
強め、やがて聖界封臣軍の確立期を迎えることになる


そんだけ
141ミニステリアル:02/03/10 21:47
 9世紀中頃になると、聖界軍事力は国王の軍事戦略遂行上不可欠の戦力を構成するに至った
 この時期の聖界軍事力の構成要素は、前述の恩貸地保有者と、聖界軍事力を常時構成する教会封臣
だったが、更に、「カサティ」と呼ばれる者たちがいた
 彼らはいわば「家住みの郎党」に近い存在で、自ら居住する小屋を除けば土地をほとんど持たず、
恩貸地の受領は将来の夢であり、当面は武具や金銭の給付に預かるにとどまる比較的貧しい者たちで
あった
 彼らは司教直属の軍兵で、司教の裁量できる財源である地代や献金によって維持されていた
 各司教のカサティは20〜30の重装騎兵を擁し、軽装騎兵や歩兵を含めれば50名に及んだ

 彼らは経済的にも軍事的にも比較的小規模な取るに足らぬ勢力であったが、実質的な常備軍でも
あった
 しかし、やがて教会は、土地を所有するのではなく貨幣を受け取ることによって戦う彼ら
「カサティ」による戦力の保持を理由に教会の富を正当化しようとする
 つまり、教会が国王に軍事奉仕を果たすには然るべき富を有すること、当時の「王命による
自由借地」や恩貸地等の土地を基盤とした軍制にかえて、教会領主によって維持され、これに緊密に帰属する独自の兵力の存在を現実的なものと主張するようになる
 やがて、「カサティ」は単なる「小屋住み」にとどまらぬ存在となった
 「カサティ」は、伯や司教、修道院長の封臣であったり、王の封臣や家士であったりするように
なる

 9世紀後半には、聖界軍事力は「カサティ」を中核に質的に大きく変化していく
 土地を保有する見返りに軍事力を提供することで成立する軍隊ではなく、貨幣を受け取る
「フルタイム・ソルジャー」によって構成された一個の独立した軍団の登場である


そんだけ
142名無し三等兵:02/03/11 10:49
    △
  △△△△
この陣形(?)は戦術的に見てどうなの?
素人だから良くわかんなくて
143名無し三等兵:02/03/11 10:50

ズレたね上の奴は真ん中にきます
144名無し三等兵:02/03/11 11:00
説明が足りないと思い、書き直し


  △ ↑進行方向
△△△△

戦術的に見てどういう戦術に向いてるんでしょう?
実際にあるかどうかもわかんない素人ですが…
145名無し三等兵:02/03/11 12:23
>>144
パンツァーカイル
146へまむし入道:02/03/11 12:47
>>144
http://203.174.72.113/appla/jinkei.html
より
短期速攻型。
「直接攻撃」の集約された力で、中央分断を
目的とする。パワー集約型の攻撃重視の型
中央に到達した時点で散会応戦すると
相手側は中心から攻撃される形となり切り崩せる。
  △
 △ △
△ △ △
陣形としてはこっちのほうが正確かも。

147144:02/03/11 13:14
>>145
>>146
ありがとうございます。
少しは理解できましたw
148リトル愚礼@ロズウェル逝きます:02/03/11 22:14
そういえば
中世の騎士様方の必殺陣形といえば
楔型陣形の騎士ラッシュだったような。
(というか、奴等はそれしか知らない?)
しかし、素朴に思ったのですが
徒歩の従者やら何やらに取り囲まれて、密集騎突など出来たのかと。
開戦前に、編制し直したのでしょうか?
149141:02/03/12 01:24
ようやく本筋
 フランク王国軍がどのような戦術で戦ったかについては、主に当時の年代記等の史料に
よるしかなく、しかもそれらの史料は内容が断片的かつ恣意的なものも多いが、
少なくともローマの影響を強く受けて続けていたことは間違いない

 ローマのレギオンが、重畳に展開した複数の戦列で戦ういわゆるマニプルス(中隊)
戦術を確立した直接の契機は、紀元前390年のアリア・ティベル両河間での敗北と、
続くローマ失陥を一つの頂点とするケルト人との紛争だった
 ケルト戦士の戦術がローマ軍の戦術に影響を与えたことはまず間違いない
 槍を投擲し、その後抜刀戦闘へと移行するローマ戦列兵の典型的な戦闘スタイルは、
まさしくケルト戦士の伝統的な戦法だった
 ケルト人に屈する以前のローマ軍は、ギリシア伝統のファランクス戦術で戦っていた

 ギリシア系都市国家間の抗争を通じて発展したファランクスは、重歩兵の戦闘正面への
衝撃力を極限まで高める試みの末に確立した戦術隊形であり、戦力発揮のためには常に
敵に向かって突撃機動を続けなければならなかった
 ファランクスを構成する重装歩兵は、時代が下るに従って次第に装甲化が進むが、
基本的な装備は片手槍と大型の長円楯と兜だった
 兵士は緊密な隊形を維持し、楯を連ね槍襖を構えて敵にひたすら突進した
 指揮官は戦術的判断や部隊指揮よりも隊形を最後まで緊密に維持することが要求された
 自ら範を示すことによって部隊を統率するため、指揮官は戦列で最も危険な場所である
密集陣の最前列最右翼に位置し、兵と肩を並べて戦った
 ギリシア系都市国家群固有の地理的環境がこの特殊な戦術を産み出した


そんだけ
151盗賊の夜:02/03/12 01:27
 一般に戦争の目的は時代と場所によって様々だが、古代の特に農耕を経済の基盤に
据える定住性共同体の抗争で、敵を屈服させ支配するための最もスタンダードな戦略は、
小規模な襲撃部隊を繰り出して破壊と略奪を展開し、最終的に敵の経済基盤を破壊する
ことにあった
 特に農耕地を破壊することは主要な収入源を失わせることであり、可能ならば直接的に
飢餓に追い込むことすら期待できた

 勿論、戦争の初期段階でいきなり敵の軍事組織を破壊し、敵の要塞や都市を奪い、
首都を攻略してしまえば手っ取り早く戦争に勝てたが、そのような芸当が可能な覇権国家
は限られていたし、それができる力の差があれば大抵は最初から戦争など起こらない
 経済の破壊が地域の占領や敵軍の撃破よりも優先されたのは当然で、必ずしも敵の
軍事力を破壊する必要はなく、軍事力の直接対決が生起することは皆無ではなかったが
稀だった
 襲撃行は長期間にわたって忍耐強く巧妙に展開され、時には精緻な外交戦を絡めつつ、
数年間、場合によっては数世代にわたって続けられた
 襲撃部隊は敵の警備の手薄な農地を襲い、敵の守備隊に捕捉される前に撤収した
 手強い敵と渡り合うことは必ずしも必要ではなかったため、もし襲撃の成果が上がる
前に優勢な敵軍が接近してきたら、さっさと撤退して次の襲撃目標に向かえばよかった
 奪うことは必ずしも重視されず、失わせることが優先された


そんだけ
152焼討時々野戦:02/03/12 01:28
 このような一種の消耗戦略に基づくスタイルの戦争を行う地域では、軍隊の編組や
戦術にもある共通の性格が認められた
 軍隊は、小部隊による機動戦、襲撃と警備、小規模な遭遇戦や攻城戦に対応するため、
軍隊は戦略的な機動性に優れる軽快な部隊を基幹として編成されるようになった
 ある土地を占拠するために遠征軍を発したり、またはそれに対抗するために大軍を
結集することがあったが、そのような機会は滅多になかった
 独立的に行動する大軍勢という代物は歩くだけで消耗してしまうし、例え実際に戦闘に
従事しなくとも、編成し維持するだけで凄まじいストレスが発生するからだった
 しかも、大規模な野戦軍は地域を制圧することはできても、占領し維持することは
できなかった
 真にその土地の支配権を確たるものにしたのは、野戦軍が帰還したり解散した後も
その土地に残って治安と秩序を維持する比較的小規模な守備隊だった
 こうした事情では、戦場での運用に特化した兵科をわざわざ編成する意義も必要性も
なかったし、戦場での戦術遂行のための訓練や演習もそれ程重視されなかった

 勿論、野戦の優先順位が低いからといって無視する訳にはいかなかった
 戦場で敵を撃破できる可能性が皆無であることは、それはそれで具合が悪い
 延々と続く小規模な小競り合いと、ごく稀に生起する大軍同士の会戦という戦争の
スタイルは、軍隊の編制にちょっとしたジレンマを与えることになった
 戦場で敵を撃破することを想定して整備された戦術的な兵科と、小競り合いを想定して
整備された戦略的な兵科とは各々の性質に基本的に相容れない部分があるからだった
 前者は野戦における戦力発揮を重視する傾向にあり、後者は広範な地域における柔軟な
展開能力を重視する傾向にあった
 両者は完全に矛盾しているという訳ではなかったが、二つの性質を完璧に兼ね備える
こともまた不可能だった
 結局、戦略的な環境が優先順位を決めた


そんだけ
 合理的かつ安上がりであることから最も一般的となったスタイルは、軽装備の兵科を
複数組み合わせ、運用することによって戦場での組織的な戦闘力を向上させることだった
 このような軍隊編制は、広大な生活圏を持ち、またそれ故にある程度の規模の野戦軍を
編成可能な国力の整備をいち早く達成できたアジアやアフリカで主に発展した
 無論、地域や時代によって差異はあるもののその狙いとするところは同じで、
一種の諸兵種連合軍を編成することによって戦闘力を組織的に強化することだった
 軽装歩兵や軽装騎兵、戦車といった、およそ戦場での独立的な運用に向かない兵科に
それぞれ戦術的役割を分与し、各兵科固有の弱点を補い利点を助長することによって
戦術遂行能力を高めようとしたのである
 このような軍勢ならば、通常は各地の要塞や国境線の要衝に展開して作戦し、
大規模な野戦が予想される状況になれば集結して野戦軍を編成することができた
 野戦の優先順位が低いことは、兵士の装備にも影響を与えた
 頑丈で重く高価な金属の装甲で全身を固めることは無駄なだけでなく無意味でもあり、
任務の妨げになりかねなかった
 戦場で矢の雨の中を敵兵と渡り合うだけならばそれでもよかったが、兵士の仕事は
それだけではなかったし、もっと優先順位の高い任務は幾らでもあった
 戦争に決着をつけるのは、指揮官の号令一下、整斉と進撃する重厚な巨大兵団などでは
なかった
 それは、伏撃と襲撃を繰り返し、小規模な遭遇戦を戦い、時には後退し、敵の村落を
掠奪し、住民を襲い、町の辻に障害物を積み上げるような戦いを延々と続ける、野盗と
見まごうばかりの兵士の集団だった
 古代アジアにおいて軽装備の兵士が主流となった理由は、技術的なものでも経済的な
ものでもなかった


そんだけ
154ホプリテス:02/03/12 01:31
 ところが古代ギリシアでは、この手の戦争は流行しなかった
 ギリシア地方の主要な農産物はオリーブと葡萄だった
 生木は松明程度の火力では簡単には燃えず、これは、農耕地を襲撃する際に最も有効な
手法である焼討が通用しないことを意味した
 オリーブも葡萄も成長するに従って根を地中深く張るため、伐採や伐根も相当な手間が
必要だった
 至短時間のうちに手早く片づけなければならない小規模な襲撃部隊ではオリーブ畑や
葡萄畑の機能に致命的な打撃を与えることはできなかった

 この経済破壊戦争に異常な靱強性を示す地盤が、この地の戦争のやり方を決めた
 敵の経済力への有効な打撃が殆ど期待できない以上、当然、敵軍事力の直接的な破壊や
要地の占領が重視されることになり、ギリシア地方の比較的狭隘な生活圏と相まって、
アジアやアフリカと一線を画する独特の戦略指向を形成した
 こうして、主力をもって戦場で敵の主力と渡り合い、これを一撃のもとに無力化する
ことが古代ギリシアの戦争の帰趨を決する唯一のスタイルとなったのである

 この徹底した決戦主義が戦場での戦力発揮に純化した異形の兵団ファランクスを
生み出した
 金属製の兜をかぶり巨大で重い楯と槍を携えた重装歩兵は、その重い装備故に個人単位
の戦闘には不向きだったが、集団で緊密な隊形を組んだ時に恐るべき威力を発揮した
 ファランクスの戦術的任務は、その衝撃力によって敵の隊列を崩し、その組織的戦闘力
を崩壊させることだった

 古代ギリシアの軍制は、決戦兵科であるファランクスの整備を主眼として成立していた
 重装歩兵として従軍することは市民の栄誉とされ、重装歩兵として従軍できない市民が
散兵として従軍した
 ペルシア戦争において最強の軽歩兵戦力とまで評されるギリシア散兵は、
あくまでもファランクスの補助兵科の域を脱することはできなかった


そんだけ
 重装歩兵たちは、やや斜めに構えた楯を隣の兵と互いに重ね合わせるように連ねて矢や
投石、投槍を防ぎ、雄叫びを上げて敵陣に突進した
 槍を水平に構え敵に楯ごとぶつかってしまえば、槍や剣を振り回す隙間も余裕もなく、
後はもうひたすら押しまくるだけだった
 この命がけのスクラムでは、いかなる理由であれ転倒したら最後、後列の戦友に
踏み殺される運命が待っていた
 敵陣に向かって隊形を保ったまま一直線に突撃するため、個人の武勇よりも戦友との
団結が重視された
 組織的戦闘力の発揮が最優先だったから、常に個人より集団が優先された
敗 北してなお生き残ることは、恐怖によって列を乱し、味方を敗北させた張本人である
と見なされたため、不名誉の烙印を押され、公的にも私的にも制裁を受けることになった
 兵士は自らの脳髄をアドレナリンに沈めて気違いじみた闘争本能を身を委ね、
これがファランクスの衝撃力のエンジンとなった

 この時点で、指揮官の指揮統制などは全く意味をなさなくなる
 ファランクスはただ前面の敵を圧倒しようと遮二無二突き進むのみで、前に進むこと
のみが勝利し生き残る唯一の道だった
 マラトンのミルティアデスによる両翼包囲やエパミノンダスの斜方陣も、
部隊の洗練された戦術行動によって成功したものではなかった
 それらは集団の運動エネルギーを単純かつ冷静に計算した結果だった

 マラトンは、まさしくアジアとヘレニズムという異なる生活圏で発展した軍事力が
戦場で本格的に衝突した最初の戦闘となった
 恐らく当時アジアで最も洗練された諸兵種連合軍だったペルシア軍の将兵は、最初、
机上の空想が産み出したようなファランクスを見て笑ったかもしれない
 しかし、その装甲の塊が自分たちに向かって一直線に転がり出した時、恐怖に駆られた
のはまず間違いなかっただろう
 このような「統制された狂気」で練り上げられた戦術と兵科は、当時のアジアには
存在していなかった


そんだけ
>いかなる理由であれ転倒したら最後、後列の戦友に
>踏み殺される運命が待っていた
漏れ、高校のときラグビーやってたので(激ヨワ)ちょっぴり気持ちがわかるw。ちょっとね。
押し合いの中で倒れるとお互の集団が踏ん張ってる訳で、その足の下は結構イタイ。(2回骨折したw)
しかも密集で転ぶ時は一人の力では踏ん張れない。(防げない)たかが十人ぐらいでこれなので、
何百人もがファランクス隊形で当たった日にはもう・・・合掌。

AoEで重装歩兵にバンザイアタックさせつつ、ちょっぴり同情(笑
スレ汚しスマソ


157名無し三等兵:02/03/14 19:55
講義熱烈感謝sage
158名無し三等兵:02/03/16 01:28
「そんだけ」氏の講義、面白いですね。いつも拝見させてもらっております。
すみませんが、どなたか「そんだけ」氏の書き込みがあるスレを、教えて頂け
ないでしょうか。過去ログに流れたものもあるのではないでしょうか?
159名無し三等兵:02/03/16 02:53
ヨーロッパの剣は… http://yasai.2ch.net/army/kako/995/995475623.html
戦争論 http://yasai.2ch.net/army/kako/998/998225170.html

言うまでも無い事だけれど、分量が途轍も無く多い。読破すると目が疲れる。
160名無し三等兵:02/03/16 03:17
某研氏の飛躍を再び
投票所 http://ccs.slyip.com:38420/test/vote/tvote.cgi?event=2chd
161名無し三等兵:02/03/16 05:54
某研age
162名無し三等兵:02/03/16 13:05
>159
すげぇ……500行く前に容量オーバーかよ。
俺、軍事版はたまにちょろっと覗くだけだから、
全然気付いてなかった。
「そんだけ」氏の書き込みに出会えて嬉しい。感謝!
163158:02/03/16 16:28
>>159
ありがとうございます。
それにしても、なんて量だ・・
 歩兵密集陣は、構造上脆弱な側背を衝かれると一挙に組織的戦闘力が瓦解してしまう
という特有の欠陥を抱えている
 正面に向かって前進することしか知らぬこの突撃兵器は特にこの傾向が強い
 しかし、実際に戦場で側背を攻撃することは容易ではなかった
 例えファランクスの側面に向かって機動したとしても、ファランクスも方向変換程度の
芸当はできたから、最も危険な敵に正対すればよかった
 さらに当然のことながら、大抵の場合、ファランクスは隣接するファランクスと相互に
側面を掩護していた

 ファランクスの側背に打撃を加える最も現実的な方法は、その正面を阻止・拘束しつつ
一部をもって側背に回り込むことだった
 包囲さえしてしまえば、正面にしか戦闘力を指向できないファランクスは脆い
 しかし、これも言うほど簡単ではなかった
 敵の機動を阻止し拘束することは包囲達成のために絶対必要な要件だが、不幸なことに
ファランクスとはまさしく戦力発揮のために前進し続けるよう宿命づけられた戦術だった
 敵陣を突き進むことにかけては絶大な破壊力を備えていたのだ
 錯雑地形を選び、または障害物を準備してファランクスの機動発揮を阻害する方法も
あったが、ファランクスのほうにも平坦で見通しが利き、できれば側面を防護された
地形を戦場に選ぶ権利があった

 古代ギリシアにおいて、多くの戦場で幾多のファランクスが、ファランクス同士の決闘
に敗れ、散兵の攻撃に消耗し、騎兵に追い散らされて斃れた
 しかし、圧倒的な兵力差に押し潰されたテルモピュライのような戦例を除けば、
常にファランクスの正面には敵手のファランクスがいた
 ファランクスの正面攻撃に耐え、これを拘束して包囲や側面攻撃のための条件を整える
ことのできる兵科はファランクスをおいて他になかった
 結局、ファランクスに対抗する最も有効で現実的な手段は、ファランクスを編成して
ぶつけることだった


そんだけ
 他の様々な戦術と同様、ファランクス戦術も戦力を発揮するためには前提となる条件を
満たさねばならなかった
 戦場での戦力発揮に特化したファランクスの任務は、敵の組織的戦闘力の破砕、
極言すれば敵の隊列の破壊にあり、そのためには常に攻撃し続けなければならなかった
 また、緊密な隊列を維持したまま機動しなければならないという性質上、機動の発揮を
容易にする平坦な地形を選定する必要があった
 ギリシア系都市国家間での抗争ではお互いにファランクスを繰り出して戦ったし、
対ペルシア戦役のペルシア軍は典型的な諸兵種連合軍であったため、このような問題は
さほど深刻な影響を及ぼさなかった
 そのような場合、勝敗は単純に彼我の戦闘力比で決まった
 しかし、ペルシア軍がマラトンで初めてファランクスと対峙した時のように、
全く想像の埒外にある軍勢、例えば軍隊より戦士団と呼ぶのが相応しいケルトの急襲戦術
に相対した時、必ずしも有効に機能できるとは限らなかった

 ケルト人は、当時のローマ人が嘲っていたような何も考えていない斬込戦法に
頼っていた訳ではなかった
 ケルト戦士は、投槍や弓、投石による準備射撃の後に散開した軽歩兵による強襲突撃を
かけ、敵の弱点に戦力を集中することによって敵を撃破し、突撃が頓挫した場合は
後退して再編成し、部隊の衝撃力が続く限り幾度も突撃を繰り返した


そんだけ
166足軽き者供:02/03/17 15:59
 軽歩兵は隊列を組まないため、一般に重歩兵よりも機動の発揮に優れ、迅速な戦闘展開
が可能で、更に展開のための地積をほとんど必要とせず、地形に対する克服能力が高い
 場所を選ばず、戦闘準備のための余裕を必要としないという特質は、敵の予想しない
時期と場所において攻撃をかける等の奇襲的な運用に適していることを意味していた

 しかしながら、緊密な隊列を組まずに戦う軽歩兵は、隊列を組んで戦う重歩兵に対して
組織的戦闘力の発揮という一点において致命的に劣っている
 すなわち、軽歩兵は重歩兵に対して戦力の集中性と縦深性で劣り、戦術単位としての
均質性で劣り、指揮統制の効率性で圧倒的に劣る
 しかも、重歩兵に比して戦術的判断を兵士個人に委ねる比率が大きく、兵士各個に高い
資質と訓練、経験が要求された
 戦史上、多くの軽歩兵が散兵として重歩兵の展開支援や側背掩護を専らとする
補助兵科に甘んじていた理由がここにあった
 少なくとも正面きって殴り合う戦場では、軽歩兵の利点が欠点を帳消しにすることは
簡単ではなかった
 このため戦術指揮官たちは、戦場で軽歩兵を主戦闘部隊に組み込むよりむしろ、
戦場以外の場所で運用することを好んだ
 編制部隊としての軽歩兵を整備しないことも珍しくなかった
 偵察や哨戒、小規模な襲撃や伏撃といった任務程度ならば、軽歩兵固有の欠点はあまり
問題とならなかったし、装備や訓練もそれ程必要とはされなかった


そんだけ
167河と河の間で:02/03/17 16:00
 ローマの歴史で無知と無謀と無秩序の象徴として紹介されているケルト人だが、
むしろ紛争の初期段階において主導権を握っていたのはケルトのほうだった
 ローマがケルトの戦術能力を軽視していたのに対し、ケルト人たちはローマの
ファランクスを知悉していた節さえ認められる
 紀元前390年7月18日、ローマ軍は、首都へ侵攻するケルト軍をアリア河の線で
阻止するために街道上に布陣した
 アリア河はティベル河の支流だが、実際には河川というより小さな溝と呼べる程度の
細流で、地形障害としての強度はあまり期待できなかった
 ローマ軍は、整然と並ぶ重装歩兵密集陣の威容を見せつければ、侵入者たちは家族と
家畜を連れて撤退すると考えていた
 過去の領土拡大戦争を戦い抜いた経験から、ローマ軍は自らの戦術能力に相当の自信を
抱いていたことは間違いない
 しかし、過去にローマが戦ってきた敵は近隣の都市国家で、戦闘は基本的に
ファランクス同士の衝突だった
 今度の敵は勝手が違っていた

 この時点でローマ軍は重大な錯誤を犯していた
 敵の作戦意図を読み誤り、純粋な戦術攻撃兵器であるファランクスを固定的な防御戦闘
に投入したことだった
 ケルト軍は躊躇うことなくアリア河を越え、ローマ散兵を簡単に排除してファランクス
に正面から強襲を加えた
 アリア河はケルト軍にとってはたいした障害とならなかったが、ローマ軍ファランクス
にとっては文字通り足枷となった
 機動の自由を封じられたローマ軍はケルト軽歩兵に対して有効な打撃を加えられず、
戦闘は河の線で膠着した
 やがて、ケルト軍は弱体化したローマ軍右翼に更に後衛戦力を投入してこれを後退させ、
そこからローマ軍主力に側背から圧力をかけはじめた
 ローマ軍ファランクスはケルト軍の側面攻撃に対処できなかった
 戦列は破綻し、多くの兵が背後から殺された
 ローマ軍は態勢を立て直すべく、ティベル河を越えてウェイイの廃墟に向けて後退を
開始した

 ケルト戦士は戦闘が一段落すると戦利品の収集に夢中になる習性があるが、この時は
違った
 ケルト軍はただちに追撃に移り、主力の後退掩護のために隊列を組もうとしていた
ローマ軍後衛を捕捉、これを撃破してしまった
 ケルト軽歩兵によるローマ軍後衛の駆逐は、後退を無秩序な敗走に変えるには
十分だった
 道は我先に後退しようとするローマ軍部隊で渋滞し、続いて部隊の統制が失われ、
遂にパニックを起こしたローマ兵は同士討をはじめた
 ケルト人に殺されるより、同胞の剣で殺された兵士のほうが多かったといわれている
 群集はパニック状態のままティベル河に殺到し、そこで大部分の兵が溺死した
 ローマ軍は事実上壊滅した
 その後、ケルト軍は戦場と近隣地域を2日間かけてのんびりと掠奪し、その後ようやく
首都ローマへ向けて進軍した
 防衛戦力を喪っていたローマは簡単に蛮族の手に落ちた


そんだけ
168大変身:02/03/17 16:00
 この敗戦は、それまで軍事力によって近隣諸国を圧倒してきたローマに少なからぬ
衝撃を与え、その影響は戦術のみならずレギオンの編制にまで及んだ
 ローマの軍事指導者たちが目指していたのは、ファランクス戦術の進化ではなかった
 彼らの目的は明らかにケルト軽歩兵に対抗できる野戦軍の整備にあった
 ファランクス戦術からマニプルス戦術への転換は、改革や進化ではなく変容と呼ぶべき
ものだった

 ローマ軍は、約1世紀かけて突撃戦部隊から白兵戦部隊へ改編された
 変化は個々の兵士の装備にまで及んだ
 兵士は、ファランクス重装歩兵の主武装だった槍に変えて、接近戦での刺突に適した
短めの両刃の片手剣を装備するようになった
 槍を剣に持ち替えた経緯は諸説あって定かではない
 一説ではケルト人の愛用した片手剣の模倣であると言われ、またファランクス重装歩兵
の副武装である短剣を由来としているとの説もある
 乱戦の最中、軍団付の料理人が敵の勇者を仕留めた際に使った肉切庖丁を原型にしたと
する伝説もある
 この白兵戦用の短剣は、第2次カルタゴ戦争以降、スペインのケルト人が使用していた
良質の短剣を複製した新型(グラディウス・ヒスパニクス)に更新されている

 また、当時最も標準的な投射兵器だった投槍が戦列兵の標準装備となったが、
これは明らかにケルト戦士の模倣だった
 この投槍は先端部に小さな逆鉤のついた細長い穂先を備え、衝撃で鉄部と木部の結合部
が故意に破損するように作られており、明らかに白兵戦には不適な構造をしていた
 先端部の逆鉤は、敵兵の楯に突き刺さった際に楯に喰い込んで槍を引き抜きにくくさせ、
敵兵が楯を投げ棄ててしまうことを狙いとしていた
 また、脆弱な構造は投擲した際に衝撃で破損することによって、敵兵に再利用される
ことを防ぐことができた
 楯は、並んで構えた際に出来るだけ隙間が生じないようにするとともに、地面に
据置した際に安定するよう長方形に変わり、白兵戦の際に衝撃を逃がすように左右方向に
緩やかに湾曲していた
 楯の握把は中央部に設けられていたが、この部分には金属製の突起が備えられており、
白兵戦の際にこの突起部で敵兵を殴りつけることができた
 楯と短剣を使った格闘術は、投槍の投擲術とともに新兵が最初に修得すべき戦技で、
この技術は敵兵と一対一で渡り合う際に威力を発揮しただろうが、集団戦闘の際に
どれ程効果があったかは疑わしい


そんだけ
169シンプルがベスト:02/03/17 16:01
 白兵戦では戦闘正面幅に投入できる戦力は物理的に制限される
 例え狭い正面に必要以上の戦力を集中したとしても、実際に戦っているのは最前列の
兵士だけだった
 前列の兵士が倒れて自分の出番が回ってくるまで、剣や槍の届かない後列の兵士は
声援を送るのが関の山だった
 限られた戦闘正面幅へ上限を超える過剰な戦力集中は無意味なばかりでなく、
指揮統制に対する阻害要因となった

 最前線に投入可能な戦力が限られる以上、白兵戦で名高いケルト軽歩兵に対抗する
手段は、部隊を複数用意して交互に戦闘加入させることにより、戦闘と再編成を繰り返す
ことによって組織的な戦力発揮の維持を図ることだった
 ただし、実際に敵兵と斬り結んでいる部隊を後方へ引き下がらせ、新たな部隊を前線に
放り込むことはそれ程容易ではなかった
 戦闘中の部隊にそのような複雑な行動を指示することは、無用の混乱を引き起こし、
戦況全体に多大な影響を及ぼしかねないからだった
 前線の兵士たちは文字通り肩を接して戦っており、そこに新たな兵士を投入しても
前線の混乱に拍車をかけることになるし、逆に前線の兵士を後退させようとしても、
後退がなし崩しに敗走に変わる危険もあった
 マニプルス戦術の最大の特徴は、この部隊交替を可能な限りマニュアル化することに
より、兵士個人の体力と気力の限界を超える長時間の戦力発揮を可能にした点にあった


そんだけ
170三段構え:02/03/17 16:02
 ローマ軍の戦術と編組は数次の兵制改革を経て少しずつ変化していくが、一応の完成を
見た紀元前2世紀頃のローマ軍は概ね以下のようなものであった
 ローマ軍の独立的な戦術単位として最小の編制部隊である軍団(レギオン)は、
10個歩兵大隊を基幹としており、各歩兵大隊はそれぞれ第1戦列兵、第2戦列兵、
第3戦列兵の計3個中隊を有していた
 第1及び第2戦列中隊は前列と後列の2個百人隊からなっていたが、第3戦列中隊のみ
は1個百人隊と散兵で構成されていた
 第1戦列兵、第2戦列兵は方楯と兜、臑当て、胴鎧を着用し、複数の投槍と短剣を
装備していた
 装備が自弁とされていた時代では第2戦列兵の装備のほうが第1戦列兵よりも上等
だったが、やがてこの差はなくなる

 軍団の標準的な戦闘展開では、全ての大隊を横一線に並べて縦深に3個戦列からなる
戦線を構成した
 無論、この3個戦列展開はあくまで標準であり、戦場の状況や敵との戦力差や戦力構成
等によって1乃至2個戦列で戦うことも珍しくはなかった
 各中隊は通常6〜8列横隊で整列し、10個中隊がそれぞれ1個中隊分の間隔をあけて
戦列をなし、後列の中隊が前列の中隊の間にくるように千鳥状に配置され、これが
マニプルス戦術の外観上最大の特徴となった
  □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 第1戦列
  ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ 第2戦列
  □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 第3戦列
 各中隊の歩兵方陣の縦深は主に戦闘正面幅により決定されたが、通常6〜8列横隊で、
前半分の横列に前列百人隊、後半分の横列に後列百人隊が整列していた

 第1戦列の前方には散兵が散開して展開していた
 初期の各兵士が武装を自弁していた時期には、散兵は重歩兵の武装を揃えることが
経済的に困難な下層階層出身者や若年層で構成されていた
 このため、ほとんどの散兵は小型の円楯を除けば防具を着用せず、投槍、片手剣、
投石器等で武装していた
 軍団内における散兵の編制定数は戦列兵の2割とされていたが、この比率は厳格に
守られていた訳ではなかったようで、特に戦時編制の際は3割近くまで増強され、
時には4割に達することもあった
 彼らは、主力である戦列兵の戦闘加入の前段階における小競り合いと戦列兵の
側背掩護に使用されたが、むしろ偵察や哨戒、警戒等が主な任務だった
 実際、戦場で散兵が戦闘にどれほど寄与できたかは疑わしい
 マリウスの兵制改革によって装備が支給されるようになると、散兵はローマ軍の
編制兵科リストから消滅し、その任務の一部は第1戦列兵に吸収されることになる


そんだけ
171出番です:02/03/17 16:03
 戦闘の際は、まず第1戦列を構成する各第1戦列中隊の後列百人隊が左前方に前進して
前列百人隊の左側に各中隊の間隙を埋めるように展開し、隙間のない完全な戦列を
形成した
 各歩兵は投槍の投擲と迅速な部隊行進を考慮して前後左右に約2メートルの間隔で
整列していた
 攻撃にせよ防御にせよ、敵との距離が約30メートルを切ると、第1戦列兵は一斉に
投槍を投擲した
 投擲は、直接敵を殺傷するだけでなく、敵兵を怯ませ、または隊列を崩すことによって
その衝撃力を挫くために行われた
 また、敵の楯を使えなくすることにより、その後の白兵戦を有利に運ぶことができた
 投擲を終えると兵は例外なく抜刀し、雄叫びをあげて敵に向かって突進した
 この時点で、それまで整然と並んでいた基本隊形は意味をなさなくなる
 後列の兵は最前列の兵の間に割り込み、横一線に隙間なく並ぶ長大な楯の列を
作り上げた
 こうなると後はもう楯の列の隙間からひたすら剣を突き出し、楯のスクラムで敵を
押し続けるのみだった
 既に軍団長の指揮や統制など介在する余地はなく、全ては下級指揮官にかかっていた
 この、厳格な軍紀と統制による軛から兵士を切り離して個々の蛮勇に任せる最後の
ギリギリの一線まで兵を束ねることこそ、百人隊長に要求される最も重要な指揮能力
の一つだった
 ローマ軍において最下級指揮官である百人隊長こそがレギオンの骨幹と言われる
所以がここにあった


そんだけ
172交替の時間:02/03/17 16:04
 勿論、兵士のアドレナリンの放出は永遠には続かない
 戦闘中の第1戦列にかわって第2戦列を戦闘加入させる必要が生じた際は、
第1戦列が第2戦列の中隊間の間隙を通路として後退し、その後第2戦列の後列百人隊が
前列百人隊の左側に並列に展開した
 勿論、戦闘中の戦列交替であるから整然と行われたとは考えにくい
 第1戦列は戦いながら少しずつ後退し、それを掩護するために第2戦列の後列百人隊が
第1戦列の兵士と一部重複するように展開し、一時的にせよ戦列が開放されないように
していたのだろう
 この際に兵士たちを整然と後退させることも、百人隊長の腕の見せ所だった

 もっとも、軍団長も百人隊長も、戦列交替という混乱を引き起こしかねない危険な行為
を戦闘中に行う真似は極力避けたかったに違いない
 実際には敵を撃退した直後等の戦況の緩な時や、追撃に移行するような状況を利用して
交替するほうを好んでいた
 しかし、例え戦闘中でも常に新手を投入できる手段があるという保証が計り知れない
利益となったことはまず間違いない

 この戦列交替が誰の統制によって行われたかは定かではない
 恐らく最前線の百人隊長は統制権者でなかっただろう
 マニプルス戦術の名が示すように、戦列交替は中隊間で行われたから大隊長の権限事項
であったとも考えられる
 しかし、各戦列は独立した戦術単位と考えることもできるし、大隊長には戦況全般を
把握することが困難であることから、軍団長または軍司令官である執政官が統制した
とも考えられる
 また、大隊は編制部隊ではなく、複数の中隊を集成して編成される一種の戦闘団だと
する説もある
 とは言え、軍団長や執政官が最新の状況を常に把握できたかどうかも疑わしい
 個々の戦例を見ても、戦列交替の統制権者は様々で一定していない


そんだけ
1733番目の兵士:02/03/17 16:05
 「第3戦列兵が戦い始める」は絶望的な状況を示す言葉として有名だが、第3戦列兵が
投入された戦例は珍しくない
 第3戦列兵だけが最後まで投槍を装備せず、片手槍を主武装として持ち続けた
 恐らく第3戦列兵は一種の軍団予備と考えられていたため、基本的に乱戦への投入は
想定されておらず、また敵の騎兵攻撃等に対処する場合には剣よりも槍のほうが
向いていたからだと思われる
 このような性格から、第3戦列兵は戦闘に投入されることなく、後方の拠点に警戒の
ために残置されることも珍しくなかった
 カンネーの敗因の一つとして、2万の第3戦列兵のうち1万が、宿営地の警戒のために
残置されていたことがあげられている
 最初の総攻撃の際に全ての第3戦列兵が投入されていれば、カンネーで一敗地に
塗れたのはハンニバルだった可能性は十分に考えられる

 もっとも、通信手段が発達している現代戦と違い、近代以前の戦闘において戦術的な
予備戦力を保有することはあまり賢明な考えではなかった
 無論、戦線の後方で待機する部隊が皆無だった訳ではない
 しかし、大抵の場合、そのような部隊は予め特定の任務を付与され、既にどの局面で
どのように使用されるかについて厳格な統制を受けており、狭義には予備戦力と定義
されない
 予備隊は、戦術方針や予想される戦況の推移に応じてある程度任務は決まってくるが、
明確な任務を付与されないからである
 当然、最終的に戦闘に加入することなく終わることもある

 予期し得ない戦況の変化に対応できる予備隊の存在は一見とても素敵だが、適時適切に
予備を投入するためには、状況を把握し、決心し、方針を決定し、命令を作成し伝達し、
命令を受けた部隊指揮官が隷下部隊に任務を付与し、それを受けた部隊が作戦準備を行う
という段階を踏まねばならなかった
 状況に即応するには時間がかかりすぎた
 勿論、対策は幾つか存在する
 司令部を戦場全般を見渡せる高所に設定する、情報収集に任務を限定した斥候を多数
配置して情報収集網を構成する、伝令を増強して意思伝達機能を強化する、予備隊を
司令部の近傍に配置する、予備隊指揮官に独立的な指揮権を委任する(これは指揮権の
放棄につながる危険な行為でもあった)、指揮官が予備隊を直率する等によって対応時間
の短縮を図ることができたが、現実的にはまず効果はなかっただろう

 結局、圧倒的の優勢な兵力を有しているような場合でもなければ、任務の定かでない
部隊を拘束しておくような贅沢は許されなかった
 相対的に機動力に優れた兵科、例えば騎兵はその機動性故に予備として機能できる
可能性を秘めていた
 しかしながら、その可能性を実現するためには騎兵戦力で圧倒的な優位に立っている
ことが前提であり、そのような戦例においても騎兵を純然たる予備戦力として運用した
ケースは極めて少ない
 近代以前の戦場においては、後手に回りかねないカードを大事に取っておくよりも、
持てるカード全てを一挙に切るべきだとする考えが常識だった


そんだけ
174バキャベッリ:02/03/18 20:06
 戦場での「摩擦」が古代の戦闘では計り知れぬ大きくて、
効果的な潤滑油が用意出来無い訳ですね(余計な茶々です)
175名無し三等兵:02/03/20 12:32
保存sage
176名無し三等兵:02/03/20 22:21
素晴らしいsage
 ローマ軍は重歩兵を主力として構成されていたが、だからといって必ずしも騎兵を
軽視していた訳ではなかった
 むしろ重騎兵の戦術的な重要性については早い時期から十分に認識しており、
騎兵戦力の整備には少なからぬ努力が払われていた
 実際、カンネーのような少数の例外を除けば、ローマ軍は大抵の戦闘において騎兵戦力
で優位に立っていた
 問題は、富裕階層で構成されていたローマ騎兵の戦場での働きが全く期待できない
ことだった
 軍団には約300の騎兵が配属されていたが、アジアやアフリカには、騎乗戦士である
ことを訓練ではなく生活の一部としてきた生まれながらの騎兵がごろごろ転がっており、
馬を買う財産があるという理由だけで騎兵として従軍していたローマ市民兵に生き残る
権利はなかった
 これは単に技量の問題だけではなかった
 ローマ軍は、伝統的に騎兵という兵科を戦術的に扱う経験に欠けていたのだった

 このため、ローマ軍は自ら騎兵戦力を整備することを諦め、同盟国から騎兵を調達する
ようになり、更には征服した民族から傭兵として騎兵隊を部隊単位で雇い入れた
 共和政時代のローマでは、サムニウムとヌミディアがローマと結んでいる時は強力な
騎兵を供給した
 ガリア戦争以降になるとガリアとゲルマンが主要な供給源となり、ローマ軍騎兵戦力は
ガリア騎兵とゲルマン騎兵を基幹に編成されるようになる

 ローマ騎兵の戦術的な任務は、攻撃においても防御においても我の歩兵の戦闘に直接
寄与することにあった
 このため、騎兵は特有の機動力を発揮して敵の翼側に向かって機動し、敵をを側背から
攻撃し、または牽制した
 これは、重歩兵を戦術遂行の中核に据える軍隊における騎兵の運用としては
ごく当たり前のものだったが、それ故にシンプルで有効だった

 極言してしまえば、敵の無防備な背後に機動してしまえば、わざわざ敵の隊列に
殴りかからなくても騎兵の任務は概ね達成されたと言えた
 正面で敵の歩兵と殴り合っている最中に敵騎兵に側背に回り込まれるということは、
すなわち包囲されたか包囲されかかっていることを意味した
 機動力に優れる騎兵を捕捉しこれを撃破することができる兵科は騎兵しかなかった
 騎兵が敵歩兵の隊列に正面から殴りかかる戦術上の必然性がないことと、騎兵に対抗
するには騎兵しかないということから、騎兵の装備と訓練は自ずと対歩兵よりも対騎兵が
重視された
 敵よりも有力な重騎兵部隊を揃える意義は、この騎兵戦に勝利することにあった


そんだけ
178お国自慢:02/03/20 22:59
 当然、同盟国に頼っていたのは騎兵だけではなかった
 同盟国軍は、ローマの軍事行動に様々な兵科を提供しており、その中にはアジアの
弓騎兵やアフリカの戦象も含まれていた
 特に戦列兵はローマ軍の軍制に従って編成され、ローマ軍戦列兵と同じ装備を
与えられて大隊単位で従軍し、各同盟国軍の大隊が集成されて軍団を編成した
 同盟国軍はローマ正規軍と同じ戦術ドクトリンの下で作戦し、これはローマ軍の軍制が
ローマの同盟国に幅広く普遍化していたことを意味していた

 大抵の場合、ローマ軍はローマ正規軍とそれを上回る兵力の同盟国軍で編成されていた
 戦場では、ローマ正規軍と同盟国軍の重装歩兵が並んで隊列を組んだ
 ローマ正規軍は常に戦闘の焦点となる主戦闘正面を担当していたため、大抵の場合、
ローマ正規軍の戦列兵が隊列中央部に配置され、その両翼に同盟国軍の戦列兵が展開した
 隊列の両翼または一翼には正規軍と同盟国軍から集成された騎兵が大隊単位で展開し、
前方には散兵が展開していた

 ローマ軍は、散兵についても多くを同盟国軍に頼っていた
 特に一連の対カルタゴ戦役では、大量の同盟国軍散兵がローマ正規軍団のために
強力な前衛を形成した
 これらの散兵は、出身国の伝統的な装備と流儀で戦った
 ギリシアの投石兵は伝統的に能力に定評のある散兵として知られており、その他にも
有能な射手として名高いクレタ弓兵が少数ながらローマ軍で散兵として従軍していた
 彼ら同盟国軍の散兵は、紀元前2世紀末にマリウスの兵制改革によってローマ正規軍で
兵科としての散兵が消滅した後もしばらくはローマ軍内に留まっていたが、紀元前1世紀
中頃には完全に姿を消す


そんだけ
179転勤族:02/03/20 23:00
 ローマ軍には、この他にも情勢の緊迫した戦時や準戦時に臨時徴募される補助軍が
存在していた
 危急の際には、大量の兵員を確保するために紛争地域住民による郷土防衛隊や
少年兵部隊、奴隷身分を召集して編成された軍団が編成されることもあったが、
通常、補助軍は市民権を有さない非ローマ市民で構成されていた

 版図の拡大に従い、広大な国境を防衛するローマ軍は大規模の軍事力動員を迫られた
ローマは、軍事力の需要の膨大な増加に対応するために補助軍に頼るようになり、
遂に初代皇帝アウグストゥス帝の兵制改革によって補助軍は常備軍化する
 補助軍の基本的な編制部隊は大隊だったが、ローマ正規軍団と同じ装備と訓練を
与えられ、正規軍団と同じ戦術で戦った

 当初、補助軍兵は徴募された地域の部隊に配属されていたが、やがて補助軍部隊は
出身地域から引き離されて遠隔地に配置されるようになる
 例えばハドリアヌスの城壁に面した墓所に埋葬されているあるゲルマン人補助軍兵の
墓碑によれば、彼は一旗あげようとイタリアでローマ軍に入隊し、北アフリカで現地の
娘さんを嫁に貰い、ヨークの駐屯地で満期除隊し属州ブリタニアで余生を送った
 このような人生は枚挙に暇がないが、このような配置は高度な戦略的判断によるもの
ではなかったし、非ローマ市民である補助軍団兵の反乱を防ぐためでもなかった
 単純に、ガリアとゲルマンを巨大な兵力策源とし、ここで徴募した兵力を帝国の辺境
へと投入するというローマ軍の兵員動員システムが確立したことを意味しているに
過ぎない
 ローマが築き上げた街道網は、後世に賞賛されているような軍団の戦略機動路として
建設された訳ではなかった
 それは、帝国の巨大な領域を維持するためにゲルマンの兵士を辺境へと押し出す
大動脈だったのだ


そんだけ
 ローマ興隆の原動力となったローマ軍だが、後にマキャヴェリがこれでもかと賞賛して
いたような無敵の軍隊ではなかった
 ローマ軍の戦術遂行の基盤となったマニプルス戦術も結局は対歩兵近接戦闘を重視した
重歩兵戦術であり、歩兵密集陣固有の欠陥である鈍重な機動力を克服できた訳では
なかった
 確かにマニプルス戦術はギリシア伝統のファランクス戦術に比べて攻防両面における
戦力発揮に適していたが、攻撃重視のファランクスが有する衝撃力、すなわち一撃で
敵陣を切り裂く能力に欠けていた
 衝撃力の不足は継続的な戦力発揮を可能とする戦列交替をシステム化と投槍の装備に
よってある程度は補完できたが、そのためには厳格な軍規と指揮統制、絶え間ない訓練、
装備の斉一等の代償を支払わねばならなかった
 対マケドニア戦役におけるローマの勝利は、ローマのレギオンがファランクスより
強力だったことの証明ではなく、圧倒的な戦力優勢を達成したローマ騎兵戦力のお陰
だった
 ローマはレギオンを支援する騎兵戦力を国外から調達するために、常にあらゆる努力を
払い続けていた
 紀元前2世紀のマケドニアにはファランクスの側面を掩護するだけの騎兵を最後まで
集めることができなかったのだ

 数々の戦役におけるローマ軍の勝因は、その優れた戦術にあったというより、
むしろ単純に大兵力をもって敵を戦場で徹底的に撃破することにあった
 ローマは、交渉の如何によっては敵に回りかねないような信頼の置けない同盟国が
ローマの軍制を採用し、ともに戦うことによって知識と経験を蓄積することを気にも
かけなかった
 ローマの圧倒的な人的資源に裏打ちされた凄まじい戦力優勢に対抗できるような国家は
存在しなかった
 仮に1個軍が丸ごと消滅しても、即座に十分な訓練と装備を備えた軍を新編することが
できた
 この単純きわまりない国力差こそローマの優位性を保証する最大の要因だった
 マリウスの兵制改革は軍役を市民の義務から職業にしてしまったとされ、
アウグストゥス帝の兵制改革はローマ軍のゲルマン化の契機となったとされて
それぞれ後世に非難されている
 しかし、これらの施策の狙いは、まさしく国家の資源を徹底的かつ効率的に
戦争の大鍋に放り込むことにあったのだ


そんだけ
 前述のように、3世紀末から4世紀初頭にかけて、ディオクレチアヌス帝によって
ローマ軍は辺境駐留軍、野戦機動軍、帝都防衛軍、補助軍へと改編される
 レギオンの伝統を受け継ぐ辺境駐留軍は一種の国境配置部隊で、ローマ軍の実質的な
中核兵力であり、国土防衛の要衝に配された
 野戦機動軍はいわば戦略的な打撃部隊であり、国内の軍用道路を使って移動して
辺境駐留軍を支援した
 ローマ軍は、従来の決戦軍から緊急展開軍へと改編されたのだった

 勿論この改編が、ローマの軍事戦略が完全な防勢戦略へと移行したことを示している
訳ではなかったが、かつての奔放な軍事作戦が困難になっていたのも事実だった
 ローマは、もはや戦場での決戦に勝利しても戦争に勝利することができないことに
気づいたのだった
 43年、クラウディウス帝(在位41〜54)がブリテン島の三分の一を併合して
属州ブリタニアとし、101年には五賢帝の一人トラヤヌス(在位98〜117)が
東の国境線をドナウ河流域まで進めていた
 しかし、ブリタニアを完全に制圧するには更に40年が必要だったし、ローマ軍が
ドナウ河の線に到達するために20年以上の時間と数次の大規模な軍事作戦が
費やされていた
 ギリシア諸国やカルタゴを滅ぼした時のような、決戦による敵軍事組織の完全な破壊と
それに続く敵国家体制の無力化といった単純な戦争のスタイルは通用しなくなっていた
のだ
 周辺領域のローマ化はローマの勢力圏を拡大させ、確かに膨大な経済的恩恵と
外交的安定をローマにもたらしたが、同時に周辺のゲルマン系諸国の国力を底上げし、
結果として軍事力の均衡化が進行した
 ローマの仮想敵国の兵士たちはローマの訓練を受け、ローマの武器で武装し、ローマの
戦術と弱点を知り抜いており、国境には小規模ながら要塞を建設するようになっていた
 無論、ローマの国力と軍事力はいまだ他を優越していたが、しかしかつての圧倒的な
優位は失われていたのだ
 2世紀中頃以降、南下するゲルマン諸族は増加の一途を辿り、ローマの国境域に
露骨な軍事的圧力を加えるようになる

 単純に決戦に訴えて戦争に決着つけることが難しくなってしまった以上、戦争は
精緻と忍耐を武器として戦わざるを得なくなった
 小競り合い、小規模な侵攻作戦、掠奪行と虐殺の応酬、巧妙な外交戦、詐欺のような
取引、経済封鎖、謀略、調略、裏切りと騙し合い、敵を嵌めるためには手段を選ばず、
敵が躊躇するような手を平然と使い、凄まじい消耗に耐え、そこまでして幸運にも
獲得できた土地も僅かで、しかも大抵はより有利な地位を得られるにとどまるような
戦いである
 この新しく汚い戦いの最前線に立ったのは辺境駐留軍だった

 更にこの戦いにもう一つのカードが加わる
 逃げ出した家畜を追って、あるいは狩の獲物を追ってケルチ海峡を渡ったと伝説の語る
遊牧民族、鍛え抜かれたステップ系騎兵、フン族である


そんだけ
182名無し三等兵:02/03/26 12:15
ローマのレギオンは、具体的にどのようにしてマケドニア・ファランクスを
撃破したのでしょうか? やっぱピルムで戦列を崩して、側面でも突いたの
かしら。
レスの流れを乱すくれくれ君みたいでスマソだが、ひとつご教授を。

そんだけ氏はエパメイノンダスの斜方陣によるレウクトラの戦いを、
どのように評価してらっしゃるんでしょうかね?
183181:02/03/27 01:24
>>182
マケドニアのファランクスは長い両手槍と袈裟懸けにした円楯という
フィリッポス2世以来の伝統のスタイルで戦っていますが、
かつてのような有力な騎兵を揃えることはできませんでした
結果、マグネシアの戦ではローマの第2戦列兵に側面に回り込まれて
撃破されています
ファランクスの側面を防護する騎兵戦力の不在が原因です

ピュドナでは、マケドニア軍は優勢なローマ騎兵の機動を制限するため
戦場を錯雑地形に選定しました
勿論ファランクスの機動も阻害されますが、地形克服能力は騎兵より
歩兵のほうが優れていることから戦術的な妥当性はありました
しかし、錯雑した地形のためにシンタグマ(大隊)の間に間隙が生じ、
この間隙から側面を攻撃されて撃破されています
マグネシアでもピュドナでもマケドニア軍は騎兵戦力の劣勢を承知しており、
ローマ軍より優れるファランクスの衝撃力を主体とした作戦を立案しましたが、
結局は失敗しました
騎兵戦力で同等以上であったなら、マケドニアの作戦は当然違っていたでしょう

エパミノンダスの斜方陣は作戦準備の勝利であり、戦闘展開が完了した時点で
レウクトラにおけるエパミノンダスの指揮官としての仕事は概ね終わっていたと思います
ただし、前スレでも書きましたが、一翼に戦力を集中して敵の翼を包囲しようとする戦術は
机上の空論と紙一重だと考えます
レウクトラでも、スパルタ軍の左翼を担当していた同盟国が攻勢に出ていたら
戦闘の推移は大きく変わっていた可能性もあります
184182:02/03/27 11:09
>>183
どうもレス、サンクスです。大学院でこの頃のローマ史なんぞやってますが、
ポリュビオスやプルタルコス読んでも、きちんとした会戦の推移なんて説明
してくれないもんで。結局は趣味で戦史なぞをひもといてますが・・・。
これからもそんだけ氏のご活躍に期待致します。
185名無し三等兵:02/03/27 17:56
下がりすぎで怖いので一時age
186バキャベッリ:02/03/29 22:25
 昔読んだ本ではレギオンがマケドニアのファランクスに勝てたのは、百人単位で
統制が出来るレギオンが乱戦に向いていた為、凹凸の多い地形に対応出来たからと
書いて有りました。また長大な槍に盾をぶら下げたマケドニアの歩兵は機動力にも
問題があったと。有る程度は事実なのでしょうが、此処までの記事を見ると両者の
武装はどちらが勝るかでは無く、あくまで攻撃力を重視するか、攻防のバランスを
重視するかの思想の違いでしかなく、勝敗を分けたのは純粋に国力と戦力の違いが
大きかったせいだと認識を改めました。ホント為に成る話ですね。
 ところで日本の戦国時代の長槍隊は、騎馬に対しては槍ぶすまで対応したけれど、
同じ長槍に対しては振り下ろす打撃力で対応したそうですが、これもやはり密集陣の
防御的戦闘と考えてよいのでしょうか?。少なくとも集団での突進力を生かした西洋
のファランクスとは運用が異なると多うのですが。
187バキャベッリ:02/03/29 22:48
済みません「運用が異なると多うの」は「運用が異なると思う」の間違いです。
188181:02/03/30 00:19
>>186
ファランクスとは運用は異なるでしょう
ただし、日本戦国時代の長柄足軽といっても、地域によって運用に差が見られますから
一概にそうだとは言い切れないと思いますが
189作らない人たち:02/03/30 00:21
 文字を持たなかったフン族の由来は明らかではないが、彼らはステップに棲息する
典型的な遊牧民族だった
 農耕民族が、自然に対して常に積極的かつ攻撃的に働きかけることによって
糧を得ようとする人々だとすれば、遊牧民とは、自然に全面的に依存し、
ありのままの自然がもたらす僅かな恩恵だけを当てにして生きる人々だった
 土地から採取できる食糧量の多寡が、その地で生きていく遊牧民族の生活水準を
左右した
 ステップ地方で家畜とともに生きていくと決めた人々も例外ではなかった
 問題は、彼らを育んでくれる大地が凄まじく貧相なことだった
 見渡す限り一面に広がる荒地、それに包囲されるように小さな草地が点在し、
どの草も貧弱で硬く、他の豊潤な地域の草食動物では見向きもしないような代物だった
 灼熱と極寒が交互に繰り返され、僅かに棲息する動物は狡猾で臆病で凶暴で痩せていた

 ステップの遊牧民は、食糧の多くを家畜から得ていたが、狩猟も食糧獲得のための
重要な手段だったし、野生植物の根を集めることも重要な仕事だった
 要するに喰えるものは何でも手当たり次第に喰うというライフスタイルで、
そのような生き方をしなければならないということは、すなわち常に餓えと渇きに
苛まれていることを意味していた
 ステップの遊牧民の経済と生活の基盤は農耕民のそれに比べて非常に脆弱で、
ちょっとしたアクシデントでいとも簡単に崩壊した
 彼らを取り巻く自然はどこまでも情け容赦なく、家畜の疫病、干魃、寒波、自身や家族
の傷病等、何でも簡単に死に直結した
 彼らは、死神と隣り合わせの日常を生きていくのではなく、生き抜いてきたのだった
 苛烈な日常を過ごす彼らが他人に対して苛烈になれない訳がなかった

 ステップ遊牧民には何かを生産する能力がなかった
 常に移動を続ける日常では、原材料を入手し、加工するような作業に余剰労働力を割く
余裕はなかった
 毛皮を除けば、彼らの衣服、武器、馬具、天幕、什器、その他諸々の生活必需品は
全て交易か掠奪によって得たものだった
 このことは、遊牧民がステップ周辺の農村地域に大きく依存しなければ生存できない
ことを意味していた
 遊牧民は絶えず農耕民とコミュニケートしていかなければならなかった
 例えコミュニケーションの手段が農民にとって有難くないものだったとしても


そんだけ
 ステップの遊牧民族にとって、定住の農耕民族のように、生活水準を高めるため、
または何らかの危機を乗り越えるために皆の力を結集して公共の事業を行うような真似は
論外だった
 たった一つの小集団を養うにも広大な地域が必要とされる以上、大集団を形成すると
いうことは自殺行為に等しかった
 人工的に食糧産出量が上昇している農地と違い、ステップの荒野の食糧産出能力は
ちょっとした人口の増加で簡単に破産した
 集められた家畜の大群はあっという間に牧草を喰い尽くし、手練れの猟師たちは
よってたかって獲物を絶滅させてしまうからだった
 集団の規模に比例して背負い込むリスクは増大したから、集団の規模が小さければ
小さいほど集団の生存は保証された
 それ故、遊牧民たちは多数の微小集団を形成し、牧草と水を求めて広大なステップを
彷徨い歩くことになった

 農耕民族では、細かい差異はあるものの、政治指導者を頂点とする支配体制が確立した
 しかし、ステップ遊牧民族の社会においては、部族の首長の厳格な支配権が入り込む
余地はなかった
 支配者が強固な支配権を確立するためには被支配者を掌握しなければならなかったが、
最大でも50人程度の集団が無数に分散し、しかも絶えず動き回っていたため、
誰が何時何処にいるのか正確に把握することは不可能だった
 ある日、もし一人の偉丈夫が部族全員に自分の強力な統制を及ぼそうと決心しても、
彼は実際にどうすればいいのかまでは思いつかなかったに違いない


そんだけ
 ステップでは部族の全力を結集して対処しなければならないような危機的状況は
まず起こらなかったし、その必要もなかった
 唯一の例外は戦争だった
 遊牧民には土地を私有するという観念がなかったから、土地が抗争の原因になることは
稀だった
 しかし、遊牧民はその他のありとあらゆる理由で争った
 家畜や人を巡り、または遺恨のため、果ては報酬によって他の遊牧部族と争い、
交易が不首尾に終わったり交換する毛皮を持っていなかった時や、明日の食糧や物資、
奴隷等を得るために、近隣の町や村を襲撃した

 フン族によるヨーロッパ圏への本格的な侵入がはじまると、ヨーロッパの人々の間で
馬上の襲撃者に関する様々な憶測が飛び交った
 ゴートの伝説は、追放された魔女と悪魔が荒野で交合して生まれた獣人だと記し、
一方キリスト教徒は、神の裁きの尖兵として煉獄から解き放たれた怪物に他ならないと
語った
 確かに、遊牧民特有の戦い振りや徹底した掠奪、彼らの醜怪な容姿等はヨーロッパの
人々に恐怖を喚起させるには十分だっただろう
 しかし、ヨーロッパのフン族に対する反応は、恐怖というよりも恐慌と呼ぶべきもの
だった
 ヨーロッパ人が真に抱いたのは、恐怖よりも根源的なものだったのは間違いない
 それは、理解できない「よくわからないもの」に対して抱く感覚だった
 ヨーロッパでフン族の馬蹄に追い回された人々は、何故フン族が無頓着に戦いを
仕掛けるのか理解できなかった
 遊牧民族と農耕民族では戦争に対する認識が根本で異なっていたのだ

 戦いを躊躇わないという点で、ステップの遊牧民の戦争観は極めて単純明快だった
 今日戦わねば明日は飢え死にするしかないような切迫した状況では、悠長な交渉や
外交に時間を費やす訳にはいかなかった
 妥協の末の平和的共存などという選択は論外だった
 敵と資源を分けあえる程にステップの大地は豊かではなかった
 ステップの遊牧民はいとも簡単に武力を行使した
 荒野を生き抜いてきた彼らにはそれだけの能力と覚悟があった


そんだけ
 戦争が間近に迫ってはじめて部族の全員は1カ所に集結し、軍事力が形成された
 首長は軍事指揮官として評価され、部族の人々からもそのように扱われていた
 むしろ軍事能力の如何が首長に要求される唯一の資質と言っても過言ではなかった
 しかし、首長の地位はそれ以上でもそれ以下でもなかった
 平時には部族は小集団に分裂し、戦時には自らの意思を部族に強要していた首長の権力
は物理的に消滅した
 恐らく、平時においては首長は敬意以上のものは殆ど得られなかったに違いない
 平時に何かを決めねばならないような時は、集団や家族の長で構成される部族会議が
開催され、出席者全員の話し合いによって決議された

 戦時のみ部族を強力に統制し、平時には部族の他の者と同程度の存在でしかなかった
という性質上、遊牧民の首長の地位は厳密には世襲ではなかった
 定住の農耕民族ならば、指導者は権威や財産にものを言わせて息子にその地位を譲る
ことができた
 しかし、遊牧民の首長には戦時以外に権威はなく、むしろ部族の軍事指導者という
限定された役割を担ったに過ぎなかった
 しかも遊牧民は皆一様に貧乏だった
 何しろ、部族の誰もが羊と担いで運べるだけの財産しか持っていなかったし、
首長も例外ではなかった
 結果として、ステップの遊牧民の部族の首長は殆ど例外なく部族きっての戦争屋が
選ばれていた


そんだけ
193全部貧乏が悪い:02/04/02 22:39
 フン族がヨーロッパ世界に侵入したのは、領土を拡大するためでも、神の鞭として
懲罰を与えるためでもなかった
 遊牧民族は、近隣の農村地帯に依存して生きていかねばならなかったため、より豊かな
農村地帯を求めてしばしば生活域を変更する傾向にあった
 しかし、ある豊かな農村地帯に遊牧民が過度に集中するようになると、遊牧民と農耕民
の間に摩擦が生じるようになる
 最初に交易が破綻した
 遊牧民が交換できるものと言えば毛皮くらいしかなく、すぐ供給過多に陥るからだった
 こうなると遊牧民に略奪に訴えることを躊躇しなかった

 問題は、遊牧民の増加に従い、略奪による食糧の供給が間に合わなくなることだった
 基本的に、略奪とは効率的な資源調達方法ではないからである
 交易の望みも絶え、略奪でも追いつかなくなると、遊牧民は地域の産出する食糧を
より効率的に獲得するため、農民を農地ごと支配しようとするようになった
 遊牧民族は、農耕民族のように獲得した地域を国家体制に組み込んだりはしなかった
 彼らはにとって、土地とは純粋に食糧策源の価値しかなかったから、食糧を産出しさえ
すればよかった
 農地を耕すのは、遊牧民によって奴隷化された農民だった
 本来、遊牧民にとって労働力を提供する奴隷は貴重な財産であったが、遊牧民が地域を
支配しようとする傾向に従い、次第に掠奪品リストにおける奴隷の優先順位は上昇して
いくことになる
 遊牧民は、自ら農具を握って地面を耕すなど最後まで思いつきもしなかった

 土地を得ることによって大量の食糧を確保した遊牧民は、更に豊かな土地を目指して
進出していく
 南ロシアの穀倉地帯を制圧したことによってより大規模な軍隊を組織できるように
なったフン族は、最初に東ゴートの東部国境域で生活していた同じ遊牧民のアラン族を
制圧して一方的な同盟関係を結び、東ゴート、西ゴートを蹂躙、ゲルマン諸族の大量の
難民を追い立てるようにローマ北部国境域に迫った
フン族のヨーロッパ侵略は、より豊かな土地を求める遊牧民にとってはごく当たり前の
本能的な衝動であり、当然の帰結でもあった


そんだけ
 フン族の戦士は全員が典型的なステップ系騎兵で、ほぼ例外なく合成弓を装備していた
 ローマ人が「スキタイの弓」と呼ぶ合成弓は、全長に比して強い張力を必要としたため、
威力の割に取り回しに優れ、馬上での扱いに適していた
 弦を引く距離も僅かだったことから、ステップ系騎兵は獣骨製の鏃を備えた全長の短い
矢を使用できた
 短い矢は、多く携行できるという利点のみならず、空気抵抗による威力の低下が長い矢
よりも小さく、長距離でも十分な威力を備えていることを意味した

 初期のフン族騎兵は弓の他に剣を携える者もいたが、楯と投縄しか持たない者のほうが
多かった
 投縄は放牧の必需品で、明らかに戦闘よりも、非戦闘員や家畜を捕らえるのに向いて
おり、事実そのように使われた
 これらのことは、フン族の騎乗戦士が純粋な弓騎兵であり、近接戦闘を想定して
いなかったかまたは重視していなかったこと、少なくとも戦闘と同等以上に掠奪品を
集めることを気にかけていたことを示しているとともに、金属製の装備が極めて貴重で
あったことを示している

 ステップ系騎兵は本質的に速度を重んじる騎兵であったが、すなわち軽装騎兵であった
訳ではなかった
 もっとも、遊牧民にとって戦闘と日常の境界は極めて曖昧だったから、戦闘に際して
特別な装備を準備するようなことは殆どなく、多くのフン族騎兵が日常と変わらぬ服装で
従軍していたのはまず間違いない
 それ以前に、貧しい彼らが満足な防具を所有していたかどうかも疑わしい
 毛皮と亜麻布で作られた彼らの衣服は、同時に寝具であり、天幕でもあったから、
戦闘に赴く兵にとって有り難い装備品だっただろう
 しかし、だからといって彼らが重い鎧を嘲笑し、常に軽装であろうと心がけていたとは
考え難い

 フン族の騎兵が、自分たちの装備や服装に自負を抱いていた訳ではないことは明らか
だった
 典型的な遊牧民である彼らは、自ら製造することはなく、あらゆる装備をステップ周辺
の農耕民から入手していた
 言い換えれば、彼らの装備は彼らの部族が依存している農耕民の生産品によって
決定された
 フン族は、交易や略奪で得たローマの装備を次々に導入していった
 ローマに傭兵として勤役し、除隊した際に装備をそのまま持ち帰った者もいた
 395年、氷結したドナウ河を渡河したフン族が東ローマへの本格的な侵略を
開始した際、多くのフン族騎兵がローマの鎧を着用し、箙には鉄の鏃をつけた矢が並び、
腰にはローマの典型的な騎兵剣であるスパタが吊るされていた


そんだけ
195四本足の人たち:02/04/02 22:42
 遊牧民族の戦争は、あらゆる面において馬が重要な役割を果たした
 むしろ、馬がなければ遊牧民族たちは戦争を遂行することができなかった
 彼らはその生活様式から土地を確保することに殆ど拘らなかったため、戦闘は極めて
機動的かつ流動的だった
 仮に水源や牧草地を支配しても、敵は全財産を担いで別の場所に移動してしまうため、
戦争の焦点は、敵の部族の軍事力を直接無力化するか、敵の貴重な財産である家畜を奪う
ことによって生活基盤を破壊するかしかなかった
 軍隊は長駆機動して敵の宿営地を直撃しなければならず、またはこれに対抗するために
急速に戦力を結集しなければならなかった
 それを可能とするには馬に乗らねばならなかった

 言うまでもないことだが、フン族の騎兵は、馬術に関しては当時のローマの騎兵戦力の
中核を担っていたゲルマン騎兵より遙かに優れ、騎射の技術では小アジアの弓騎兵より
遙かに優れていた
 ステップ系騎兵にとり、馬術と騎射の技術は戦闘のみならず生きていくための必須の
技術であり、遊牧民族として生まれたからには、この二つの技術を修得する以外に
生き残る道はなかった
ステップ系騎兵に対抗できる騎兵を農耕民族が編成できなかった理由がここにあった
 農耕民族は、彼らの戦技を自軍の騎兵に採用することは出来たが、ステップ系騎兵に
匹敵する弓騎兵を養成することは最後まで出来なかった
 農耕を基盤とする社会では、「地面に触れると死ぬと信じている人間」を作り上げる
ことは出来なかったのだ


そんだけ
196コンポジット・ボウ:02/04/02 22:43
 ステップ系騎兵の戦法は、基本的に機動力の優越を前提とした騎射戦法だった
 疾走する馬上からの射撃であるから、必中を期するためには約30〜50メートルまで
接近しなければならなかったが、ローマ人もゲルマン人もこの距離でフン族騎兵を
攻撃できる有力な兵科を保有していなかったから、非常な脅威であったことも事実だった
 敵に有力な投射兵科がいなければ、離れた場所に馬を止めて射撃できた
 この場合、命中率は更に跳ね上がった
 機動力に劣る歩兵や重騎兵はこの戦法に対抗できなかったし、軽騎兵ですら
ステップ系騎兵の馬術には対抗できなかった
 ただし、この戦法は一撃で敵を撃破するような決定的な打撃力に欠けていたため、
緊密な隊形を組んだ敵に対しては殆ど効果がなかった
 偽装退却による誘引撃破はステップ系騎兵のスタンダードな戦術だったが、敵が隊列を
維持できなくなることを狙ったもので、これはステップ系騎兵が打撃力に欠如している
ことの証明でもあった

 極言すれば、ステップ系騎兵は戦場においては機動力に優れる有力な弓兵以上の価値は
なかった
 このため、ステップ系騎兵は圧倒的に優れる機動力を活かした騎射による漸減を
繰り返す必要があった
 むしろ、ステップ系騎兵の勝ち目は、速度の優位を徹底的に活用する以外になかった

 機動を重視する思想はその隊形にも現れている
 アンミアヌスによれば、戦闘の際、フン族の騎兵は指揮官を頂点とする緩やかな楔形の
隊形を組んだ
 騎兵が楔形に並ぶ様は確かに勇ましいが、頂点に突角を形成するこの隊形は、
正面きっての戦闘には向いておらず、ましてやこれで突撃することは自殺行為を意味して
いる
 少なくとも、フン族騎兵が楔形の隊形で突撃しなかったことは間違いない
 この隊形の本質は、指揮官が隷下の全ての騎兵の前方に位置することによって部隊を
先導し、部隊の機動発揮の際の運動性と柔軟性を向上させることにあった


そんだけ
197地平線の彼方まで:02/04/02 22:44
 農耕民族では伝統的に歩兵を基盤とした戦術が発達していたが、遊牧民族は全員が騎兵
であることから、当然、歩兵兵科は存在せず、結果として重騎兵という兵科も発展
しなかった
 ステップ系騎兵の戦術は、迂回や奇襲、偽装退却による誘引と伏撃の連携といった機動
の発揮を前提とした軽騎兵の戦術が基本となっていた
 このような戦術自体は遊牧民族特有のものではなく、農耕民族の間でも取り立てて
珍しいものではなかった
 特に伝統的に軽歩兵を主力兵科としていたケルトやゲルマンではこのような戦術はごく
慣用的なもので、アルミニウスがローマ正規軍団を殲滅したのも同様の戦術を駆使した
結果だった
 ステップ系騎兵の最も恐るべき点は、その戦術を農耕民族の軍隊に比べて桁違いに
大きいスケールの時間と距離で遂行したことだった
 農耕民族の軍隊では戦略機動を必要とする距離を、ステップ系騎兵は戦術的に機動する
ことができた
 移動生活を日常とし、歩行より騎乗に習熟しているとまで言われる彼らの生活様式が
それを可能にした
これは、農耕民族と遊牧民族という両者の軍隊が戦う際に、騎乗や騎射の技術などよりも
凄まじい威力を発揮した

 ステップ系騎兵は、農耕民族の兵士に比べて、より長距離を移動し、より短い時間しか
眠らず、より少ない食糧で戦うことができた
 ステップ系騎兵は戦場においては重歩兵や重騎兵に対して攻防力で劣っていたが、
常に戦闘の主導権を握り続けることができた
 ステップ系騎兵は退却するとなると、荒涼とした大地を何日も退却し続けた
 ひとたび迂回を始めると、何百キロも離れた国境線を突破し、手薄な町や村を蹂躙した
 戦う時期と場所を選択できるということは、すなわち敵の予期しない時期と場所に
おいて敵に戦闘を強要できることを意味していた
 ステップ系騎兵で編成された敵を軍事的に打倒する試みは賢明ではなかった


そんだけ
198疾風のように現れて:02/04/07 11:11
 4世紀中頃以降、軍事的成功を積み重ねることによってフン族の各部族は次第に
その力を結集していく
 部族は寄り集まって部族同盟が形成されるようになり、初めて遊牧民の中で原始的な
王権が成立する
 ただし、初期のフン族の王権は全部族の一部に君臨していたに過ぎず、
決して半永久的なものでもなかった
 部族の首長が単なる軍事指導者であったのと同様、王権も実質的には戦時限定の
軍事統帥権であり、戦争になると発生し、戦争が終わると消滅するといったサイクルが
幾度か繰り返された
 しかし、ヨーロッパの豊かな大地に多くの部族が引き寄せられるようになり、
常に軍事的緊張が継続されるようになると、本来は戦時のみに発揮される王権は
永続化し、無制限化していく

 遂に420年代には、有事平時を問わず、あまねく全てのフン族部族を統べる恒久的な
遊牧王権がヨーロッパ世界の北部辺境に登場する
 極言すれば、フン族の王権は、軍事力のみを背景に、戦利品や朝貢品、または商業便益
の形で食糧や生活必需品を近隣諸国から獲得することによって成立していた
 部族同盟が王に期待していたのもやはり軍事指導者としての役割であり、
この遊牧民の帝国は積極的な軍事的成功によってのみ維持される宿命にあった
 フン族最初の王と目されているルーアは、東西ローマの政策に干渉してパンノニアの
属州を獲得し、ブルグンド王国を破壊し、西ゴートを攻撃し、更にドナウ河流域の
ローマ国境域を脅かした

 4世紀中頃、最初のステップ遊牧民の群れが豊かな大地を求めてヨーロッパ世界に
入り込んだ
 彼の地は豊饒であるが故に永年にわたって幾つもの強国が争いに明け暮れていた
当時恐らく地球上で最も戦争技術が尖鋭化した修羅の大地であり、一方、彼らは貧乏で
数も少なく、文盲で無学だった
 しかし、彼らはヨーロッパの歴史に登場して僅か数世代でこれらの国々を打倒し、
あるいは制圧し、極めて好戦的で強力な軍事力を擁する至極傍迷惑な一大勢力を
築き上げてしまったのだった


そんだけ
 もっとも、フン族がヨーロッパで撒き散らした猛威はそれ程長くは続かなかった
 ルーアの指導下で大規模な西方進出を推し進めたフン族の部族同盟は、453年の
アッティラの死を境に急速に崩壊へと向かい、フン族ははやくも470年代には他の民族
に吸収され、あるいは微細な集団に分散して民族としては完全に消滅する

 最終的にフン族が軍事的に失敗した最大の原因は、451年のカタラリウム平原での
敗北でもアッティラの死でもなかった
 一つには、遊牧民族固有の人的資源の限界によるものだった
 遊牧民族は土地当たりの扶養可能人口が少ないため、総人口で農耕民族を大きく
下回っており、フン族も例外ではなかった
 このことは、遊牧民族の動員可能な軍隊の規模が農耕民族の軍隊に比べて小規模に
ならざるを得ないことを意味していた
 東西ゴートを蹂躙したフン族の略奪部隊は大半が500名以下で、1000名を
越えることは極めて稀だった
 ヨーロッパや中国の史料ではしばしば遊牧民の軍勢が十万単位で描写されているが、
これは高度な機動戦を展開するステップ系騎兵集団の実勢を計りかねたからに他ならない
 そのような大軍勢の編成を可能にする余剰食糧を生産するだけの経済基盤をフン族は
持たなかった
 東西ゴート王国の征服によって膨大な余剰食糧を得たフン族は、ようやく東西ローマや
ゲルマン系諸国に匹敵する規模の軍勢を揃えることができるようになった
 しかし、フン族の総人口はそう簡単には増加しないため、大規模な野戦軍の編成は
フン族の人的資源の枯渇に拍車をかけることになった

 フン族は、占領地に食糧を産み出す以外の価値を見出していなかったから、その統治は
洗練されたものとは言えなかった
 安定した食糧供給を維持するためには占領地域の治安と安定の維持が不可欠だった
 しかし、フン族は被征服民を食糧を産出する単なる奴隷としか認識していなかったため、
被征服民の行政機構を取り込むようなことはなかった
 フン族は占領地の徴発と治安維持を任務とするフン族の守備隊を配置したが、これは
外征作戦に投入可能な戦力の低下を招いた
フン族は被征服民を徴兵して戦力低下に対応したが、これはまた占領地の反乱を
未然に防止する狙いもあった
 被征服民及びフン族と同盟関係を結んだゲルマン系諸族の軍勢は時間の経過とともに
フン族軍でかなりの比率を占めるようになり、特に攻城戦において重要な役割を演じたが、
軍内のフン族兵の比率を低下させ、更にフン族の軍事的な指導力の低下につながることに
なった


そんだけ
200出稼ぎ:02/04/07 11:13
 もっとも、フン族の軍事的なマン・パワーを破壊した最大の要因は、ローマによる
フン族傭兵の雇用だった
 フン族騎兵はゲルマン騎兵を上回る優秀な騎兵として知られていたから、ローマは
フン族騎兵を自軍に編入することに早くから熱心だった
 388年、テオドシウス1世が簒奪者マクシムスと戦った際、騎兵戦力で優位に
立てたのは、テオドシウス1世と同盟していたフン族部族が提供した騎兵によるもの
だった
 また、同時期に属州ラエティアに侵入したユトゥング族に対処するために、フン族騎兵
が動員されている
 フン族の一部族の絞り出せる総兵力が数百名程度に過ぎなかったのに対し、
東ローマの強力な兵站組織は1万以上のステップ系騎兵を雇い入れることができた
 フン族にとって、豊かな土地で装備を支給され、飢える心配もないローマ軍は魅力的な
就職口で、部族が丸ごと雇われることも珍しくなかった

 自ら雇われたフン族兵の他にも、ローマ軍の捕虜となり、そのままローマ軍へ入隊した
フン族兵も少なからず存在していた
 当時のヨーロッパでは、戦争捕虜で殺害を免れた者は奴隷として売却されるのが
常だった
 大抵は、戦争捕虜は農奴として自作農に売却されていたが、生まれながらの遊牧民で
あるフン族が農耕労働者として使い物にならなかったことは容易に想像できる
 このためフン族兵捕虜の大半は、捕虜の身分からの解放を条件にローマ軍への入隊を
勧められることになった

 ローマに雇われるにあたって、フン族兵たちに精神的な抵抗感が全く無かったことは
間違いない
 アッティラの旗下に結集したフン族の各部族ですら、国家意識のような上等の概念など
は持ち合わせてはいなかった
 小集団に分散する生活スタイルでは部族間の共同体的な意識も全く育たなかった
 彼らは単に、アッティラの旗の下にいれば利益になると踏んでいたからに過ぎなかった
 アッティラはローマ軍内のフン族兵を脱走兵と呼び、交渉にあたって彼らの返還を強く
求めていたが、ドナウ河を越えてフン族の勢力圏に帰還した兵はほとんどいなかったと
言われている


そんだけ
201貧乏に負けた:02/04/07 11:14
 フン族が軍事的に敗北したもう一つの要因は、東ローマによる経済封鎖だった
 遊牧民を軍事的に屈服させることは不可能だった
 農耕民族ならば、政経の中枢や人口密集地のような戦略的な要地を占領することは、
戦争の帰趨を決する重要な要件だった
 しかし、遊牧民族相手の戦争では事情が異なる
 強力な遠征軍をステップに送り込んでも、遊牧民は荷物をまとめて別の場所に
移動してしまうし、そもそもステップに戦略的に緊要な地域など存在しなかった
 それ以前に、ステップでステップ系騎兵と戦うこと自体が自殺行為だったし、
貧しいステップの大地で大部隊を運用することすら難しい
 例えステップの一角を占領しても何も産み出さない不毛の土地を得るだけで、
もし遊牧民の集団を捕捉できても貧しい彼らから奪える戦利品など殆どなかった
 遊牧民への軍事遠征のための支出を埋め合わせるだけの収入はまず期待できず、
将来的な利益となる可能性もなかった
 結局、軍事行動で遊牧民を屈服させようとする試みが成功する公算は極めて低く、
例え成功しても出費がかさむだけの暴挙だった

 ローマは、フン族に対してただ一つの例外を除いて遠征作戦を行っていない
 直接的な軍事行動によって屈服させることが難しい遊牧民に対して、東ローマが
採用した戦略はフン族の社会構造そのものを破壊することだった
 460年代に、東ローマはドナウ河流域の市を全て閉鎖してしまった
 ヨーロッパのフン族の大半はこの地での交易で生活必需品を得ていた
 フン族との交易を禁じただけならば、フン族にはまだ略奪という手段が残されていた
 しかし、経済活動を完全に停止されてしまうと、商品の流通が完全に途絶し、
略奪すべき戦利品すら消滅してしまった
 この一種の焦土戦略は、当地に居住するローマ人やゲルマン人にも多大な損失と
苦難を招いたが、蓄えの乏しいフン族に対して、より短期間でより深刻な打撃を
与えることになった
 更に455年、東ローマは各属州の長官に宛てた勅令で武器とその原料の輸出を
禁じることによって、武器を自給できないフン族の戦争遂行能力すら奪ってしまった
 フン族の各部族は、生活物資が得られる算段があったからこそヨーロッパに居座り、
部族同盟を結成して王の支配を認めていたのであって、その前提が崩れた以上、
ヨーロッパにいなければならない義理はなかった
 部族の結束は弱まり、フン族の帝国を構成する各部族は自力生存のために分散していく

 フン族は遊牧民族であることの利点を活かしてヨーロッパ世界に一大勢力圏を
築き上げ、そして典型的な遊牧民族であることから脱却できなかったが故に
消滅することになった


そんだけ
 フン族がヨーロッパの政治地図に及ぼした影響については諸説あるが、結局のところ、
ゲルマン民族の南下を促した以外には殆ど何の影響も残さなかった
 軍事技術の面において、フン族のステップ系騎兵は幾つかの僅かな痕跡を残したに
留まった

 遊牧民族に軍事力で対抗するためには幾つかの方法があった
 最も単純なやり方は、中国がやったように国境線に長大な要塞地帯を建設すること
だった
 遊牧民族は攻城戦用の装備を持たなかったから、この方法はかなりの成果を収めた
 ただし、それだけの規模の要塞を建設し、維持し、更に守備隊を駐屯させるために
必要とされる費用は半端でなく、しかもその費用は国境の辺境地域の治安と安定以外に
何の利益も生み出さなかったから、歴代の中国王朝は長城の増改築と維持で身代を
傾けることになった

 ローマは中国のような命がけの政策は採用しなかった
 ローマにも属州ブリタニアの「ハドリアヌスの防壁」を初めとする一連の要塞群を
建設した経験があったから、少なくとも無知だった訳ではなかった
 もっとも、長城が純然たる戦略防衛施設であったのに対し、「ハドリアヌスの防壁」は
領土拡張のための攻撃拠点としての性格が強かったため、両者の規模も建設された
戦略的な環境も異なっていた
 ローマにとって、将来的な採算の取れないインフラ整備が選択以前の問題だった
可能性は十分に考えられる

 ローマが遊牧民対策に大要塞建設を選択しなかった理由が、それが賢明だった故か、
それとも巨大な土木工事をやり遂げるだけの国力がなかったに過ぎなかったからかは
明らかではない
 もっとも、フン族の脅威は中国に対する匈奴ほど長続きしなかったから、
当時既に国境域に存在していた要塞群を更に拡張し、新築するまでの必要性を認めて
いなかった可能性はある


そんだけ
203模倣にも才能が必要:02/04/07 11:16
 ローマの軍事戦略の変化に伴って、4世紀から5世紀にかけてローマ軍は大規模に
改編された
 まず、消耗戦に対応するために小規模で機動性の高い部隊の重要性が増すことになり、
騎兵の需要が増加した
 もっとも、既にローマ軍の騎兵戦力は逐次増強される傾向にあったから、
量的な増加自体は別段注目すべきことではなかった

 フン族の傭兵とともに導入された合成弓は、たちまち重要な投射兵器としての大量に
導入されたが、騎兵にではなく、主に歩兵の武器として期待されていた
 合成弓を装備した弓兵は、従来の散兵としてのみならず、有力な投射兵科としての
地位を確立する

 騎兵に合成弓が配備されなかったのは、一つにはローマ人やゲルマン人の騎兵に
ステップ系騎兵のような働きを期待する訳にはいかなかったことによる
 確かに合成弓を装備した弓騎兵は編成されていたが、あくまでフン族を初めとする
遊牧民族出身の兵に限られていた
 彼らは常に数が少なかったから、ローマの騎兵戦力の中核をなすことはなかった
 しかしそれ以前に、ヨーロッパはステップの荒野ではなかったから、ステップ系騎兵の
戦術をローマの騎兵戦術としてそのまま採用する意義も必要性がなかった


そんだけ
204cataphractii:02/04/07 11:17
 ローマ騎兵に生じた最も重要な変化は、5世紀に新しい種類の騎兵「カタフラクト」が
編成され、ローマ騎兵の中核を占めるようになったことだった
 カタフラクトはもともとイラン高原でパルティア王国からササン朝ペルシアにかけて
発展した騎兵であり、一般に重騎兵と思われがちだが、実質的には重装軽騎兵と呼ぶべき
兵科だった

 その本来の任務は、第一にステップ系騎兵に対抗することにあった
 カタフラクトはステップ軽騎兵に対して機動力で劣ったが、攻防力では優位に
立っていた
 このため、カタクラフトはステップ系騎兵を捕捉しこれを撃破することは
できなかったが、ステップ系騎兵の脅威から地域を確保することができた
 この手の任務は要塞と歩兵でも遂行することができたが、騎兵であるカタクラフトは
歩兵に比してより小規模の部隊で同等の任務をこなすことができたから、地域防衛に
要するコストを低く抑えることができた

 勿論、カタクラフトの運用は哨戒や警備といった防御的な任務のみに限らなかった
 戦場以外の、例えば町や村では重装騎兵は例え小部隊であっても恐るべき脅威と
なった
 歩兵や軽装騎兵でカタクラフトの襲撃部隊に対抗することは不可能ではなかった
 しかし、攻撃側には攻撃する時期と場所を選択する自由があり、しかも重装騎兵を
相手とするになると半端でない兵力を揃える必要があった
 実際に襲撃が行われなくとも、その大兵力の即応性を維持するだけで地域の軍事組織は
自己崩壊してしまうだろう
 結局、カタクラフトに対抗するにはカタクラフトしかなかった

 ローマやゲルマン系諸国では、重装騎兵は戦場での機動打撃力を担う重騎兵として発展
していたから、カタクラフトの導入は単なる新兵科の導入ではなく、新しい戦術概念の
導入を意味していた


そんだけ
205その限界:02/04/07 23:26
 カタフラクトは、基本的に軽騎兵としての運用を前提としていたが、重装備であるため
戦場で重騎兵として機能することも可能だった
 ローマは、ササン朝ペルシアとの抗争を経て、この汎用性の高い騎兵に着目した
 カタフラクトは確かに高価な兵科だったが、他の兵科よりも小規模な兵力で任務を
遂行できたから、ローマはカタフラクトを騎兵戦力の中核として据えるだけでなく、
戦術遂行の基幹兵科として整備していく

 記録によると、カタフラクトの武装は弓、投槍、槍、剣、打根等、多岐に渡っていた
 これらの武器全てを携行して戦っていたとは考えにくいから、恐らく、戦況や任務、
個人の資質等によって武装を選択していたと思われる
 鎧は、それまでのローマ重騎兵の標準的な板金鎧から、次第に鎖鎧や鱗鎧に変わった
 カタフラクトの主任務である長駆機動しての襲撃や遭遇戦には、防御力に優れた鎧
よりも、防御性能を若干犠牲にしても動きやすい鎧のほうが適していた
 この結果、カタフラクトは従来の重騎兵よりも防御力で劣ることになり、
その戦場での任務は、敵重騎兵の駆逐よりも軽騎兵の駆逐や歩兵への側背攻撃が
重視されるようになった


そんだけ
 歩兵戦術も大きな変化が起こった
 ローマの軍事戦略の変化に伴って、レギオンの戦術的な価値は低下していた
 戦いが消耗戦の様相を呈してくると、レギオンは戦術単位としては余りに大き過ぎる
ようになった
 戦場に戦力をたっぷり集中できれば戦争に勝てるような素晴らしい時代は過ぎ去って
いたのだ

 ただし、これがすなわち歩兵の価値の低下を意味している訳ではなかった
 騎兵戦力は著しい充実を見たが、一方で野戦において正面を受け持つのはまだ歩兵の
任務だったし、戦術は地形に拠る歩兵を基盤として展開されていた
 むしろ、4世紀以降のローマ装甲歩兵は、敵の歩兵を相手にしていればよかった
レギオンの戦列兵に比べ、多様な任務を遂行するよう要求されていた
 かつては敵の騎兵に対処する任務は騎兵のものとされていた
 そのためにローマは有力な騎兵戦力の整備にあらゆる努力を払っていた
 しかし、重騎兵との戦闘に適していないカタフラクトが主力騎兵となると、歩兵は
敵騎兵の脅威に直接対処しなければならなくなった
 レギオンの第1・第2戦列兵の主武装であった短剣は、歩兵との近接戦闘を想定して
いたため、騎兵に対抗することはできなかった

 騎兵に対抗するため、槍が装甲歩兵の主武装の地位を回復した
 横列を組んだ装甲歩兵は楯を並べて楯壁(シールドウォール)を形成し、槍襖を構えて
敵騎兵の攻撃を防ぎ、投槍を投擲して戦うようになった
 装甲歩兵は衝撃力の点では従来の戦列兵に劣っていたため、再び投槍、弓、投石器を
携えた散兵の戦術的な価値が上昇した
 合成弓の導入は散兵の戦力向上に大きく貢献していた
 合成弓の長射程と威力により、弓兵は散兵として前哨戦を戦うだけでなく、装甲歩兵が
戦闘加入した後も有効な支援攻撃を行うことが可能となった

 かつてのローマは、攻防両面において歩兵を基盤とする戦術を構築していた
 しかし、4世紀以降、ローマ歩兵はその任務の重点を防御に移すようになった
 ローマ騎兵は、歩兵のための有力な補助兵科から、攻撃における主役としての地位を
確立した
 4世紀から5世紀にかけて発生したこの変化は劇的なものではなかったが、
各兵科の機能の独立と分業化という点で、まさしく中世から近世、近代に至る戦術思想の
根底をなすものであった


そんだけ
207昔はよかった探し:02/04/13 08:56
 勿論、この時期に各兵科の完全な分業化が確立した訳ではなかった
 騎兵は数の増加に伴って攻撃で重要な役割を演じるようになったが、歩兵に対して
正面から攻撃してこれを撃破するだけの能力はなく、依然として歩兵隊列の翼を衝くべく
旋回運動を余儀なくされていた
 装甲歩兵の楯壁は防御のみならず攻撃的にも運用され、それを可能にするために
複雑な戦術機動をこなした
 しかし、ファランクスやレギオンのような重歩兵を攻防両面における戦術遂行の基盤に
据え、他の兵科を主力兵科である重歩兵に従属させる従来の戦術とはそのコンセプトで
明らかに一線を画していた
 いまだ高度に専門化された兵科を組み合わせて戦術を展開するという概念は確立しては
いなかったが、指揮官と部隊がより複雑で多様な戦術能力を要求されるようになったのは
間違いない

 もっとも、この変化は革命的でも劇的でもなかったし、マキャヴェリが嘆き悲しんだ
ような失われたブラックボックスでもなかった
 かつてローマの覇権を担った栄光のレギオンとマニプルス戦術が消滅したのは、
ローマの衰退のせいではなかったし、ローマの遺産の価値を知らぬ愚かな蛮族のせいでも
なかった
 それは単純に戦略環境の変化に伴う戦術の転換に過ぎなかった
 ただ問題だったのは、ひとたび変化してしまったならば、もはや二度と後戻りは
できないことだった


そんだけ
 ローマ領ガリアに進出したフランク族は、当地のガロ・ローマ系有力者やローマの
辺境駐留軍、ラエティを自軍に取り込む際にローマ軍の戦術と兵科を導入していった
 しかし、メロヴィング朝初期の領土拡張期にあったフランク軍は、大量の兵力を
供給する必要から、いまだライン河の東に居を構えていた後進的なフランク系部族からも
大量の兵員を動員していた
 彼らの多くはフランク族の伝統的な戦士として独特の髷を結い、投擲斧(フランキスカ)
と槍(アンゴン)を携え、軽歩兵戦術で戦っていた
 このため、当時のフランク軍は、ローマの戦術で戦う軍隊と過去の伝統的な戦術で戦う
二種類の軍隊が同居し、更に被征服民や同盟国の様々な種類の軍隊も加わっていた
 勿論、これらの軍隊は個々の独立性を維持していた訳ではなかったが、対外戦争を
戦い続けるフランク軍に、大規模な改編と戦術教義の変更を遂行する余裕はなかった
 ローマの戦術や編制はフランク軍に徐々に浸透していったが、それが一応の普遍化を
見るのは、メロヴィング朝フランク王国の征服期がようやく終息した6世紀中頃に
なってからだった

 フランクの重装騎兵「カバラリウス」の戦術と装備もカタフラクトのそれを概ね
継承していたが、より重装甲化していった
 フランク騎兵の胴鎧は、袖と裾の長い鎖鎧または鱗鎧で、腕部は肘まで、脚部は大腿部
まで防護されていた
 動きにくい鱗鎧は不評だったらしく、やがて鎖鎧が一般に普及していった
 また、頭部と頸部、胴部のかなりの部分が装甲化された馬鎧も使用されていた
 ローマのカタフラクトの鎧は肩と腰までしか防護しておらず、馬も非装甲か一部しか
装甲化されていなかった
 北アフリカ原種の輓馬級の大型軍馬がイベリア半島のイスラム教徒を経由して
普及したことが、この重量増加を可能にしていた
 もっとも、フランク軍の中核をなす封臣軍の兵士たちの装備は騎兵に限らず自弁を
原則としていたために個人差が見られたが、フランクの重装騎兵は勅令によって
携行すべき装備が規定されていた
 特に鎧は必須の装備とされており、重装騎兵に定められた者が鎧を未携行のまま
従軍した際には、軍律に問われて地位や土地を没収されることもあった

 勿論、フランク軍の騎兵は全員が重装騎兵だった訳ではなかった
 むしろ量では軽装騎兵が重装騎兵を上回っていた
 攻防力では劣るが機動力に優れる軽装騎兵は、偵察や警戒、伝令等に運用され、
時には重装騎兵を支援して戦闘に従事した
 しかし、軽装騎兵の存在は、そのような戦術的な要求よりも経済的な事情のほうが
大きかった
 当時、重装騎兵に必要な軍用馬と装備一式を揃えるための相場は牛10頭以上に匹敵し、
予備の馬や装備も勘案すると値段は更に跳ね上がった
 騎兵を揃えようとすれば、どうしても廉価な軽装騎兵の比率が上昇せざるを得なかった


そんだけ
 戦場では、フランク騎兵は50〜100名、時にはより小集団で行動し、機動力を
活かして敵の側面や背後に一撃離脱を繰り返した
 フランク軍の騎兵と歩兵にとって、槍は最も一般的な主武装だった
 騎兵も歩兵も楯は標準的な装備で、通常、槍は片手で扱われていたが、必要に応じて
楯を置くか帯紐で肩の後ろにまわし、両手で槍を使うこともできた
 フランクの重装騎兵は重装甲と近接戦闘用の武器で武装し、投槍を殆ど用いなかった
 一方、軽装騎兵にとって投槍は主要な武器で、白兵戦用の槍と複数の投槍を
装備していた

 騎兵戦力の増強に伴い、攻撃での騎兵の果たす役割も次第に増大し、相対的に歩兵の
戦術行動は攻撃よりも防御が重視されるようになっていく
 歩兵は斜めに構えた槍の石突を地面に踏みつけて騎兵の突撃を待ち構え、更に楯を
揃えて緊密な隊列を組めば騎兵の攻撃を防ぐことができた
 すれ違いざまに斬撃や刺突を加え、または馬上から歩兵の頭上に槍や剣を叩きつける
戦法で戦っている限り、騎兵に勝ち目はなかった

 局地戦では、小規模な騎兵集団による機動作戦が攻防両面において重視された
 騎兵を主力とした襲撃や威力偵察、遭遇戦が繰り広げられたが、そのような戦闘で
歩兵が全く無価値だった訳ではなかった
 地形を確保したり、騎兵の機動発揮に適さない錯雑地形での戦闘等、歩兵が戦力を
発揮する局面は幾らでもあった
 このため、騎兵部隊には騎乗した歩兵部隊が随伴し、戦闘に際しては下馬して徒歩で
戦っていた

 弓兵の一部も騎乗して騎兵とともに行動し、騎兵の行動に掩護を提供していた
 弓騎兵も存在していたが、彼らは弓を専門とする本格の弓騎兵ではなく、騎兵の中で
腕に覚えのある者が状況に応じて弓を使っていた
 彼らはステップ系騎兵のように馬を疾走させながら騎射を行うだけの能力はなかった
から、射撃する際は馬を停止させるかゆっくり歩かせ、時には下馬していた

 騎兵も徒歩で戦うことを忌避してはいなかった
 特に攻城戦においては、フランク騎兵は徒歩で戦うことが要求されていた
メロヴィング朝初期のフランク王国の戦争が主に攻城戦に終始していたから、この要求は
決して不当なものではなかったが、彼らはしばしば歩兵としても優れた兵士であることを
証明している


そんだけ
 弓は投槍と並んで主要な投射兵器として使用され、弓兵は独立した投射兵科としての
地位を確立した
 ただし、合成弓はほとんど普及しなかった
 これは小アジアから合成弓を輸入できた東ローマと事情が異なっていたためだった
 合成弓の製法は半ば呪術的な秘儀とされており、これも製造法が普及することを阻む
一因となった
 このため、フランク軍で使用されていた弓は主に単材弓だった
 本来は狩猟用に使われていた短弓は、金属製の鎧相手には射程や威力で不足しており、
主に訓練や装備で劣る徴集兵の武器だった
 長弓は威力の点では合成弓に匹敵しており、訓練を受けた弓兵は長弓を使用していた
 弓の全長は威力に比例するため、主に原料にイチイを用いた長大な弓が製造され、
中には自分の身長よりも大きな弓を携えた兵もいた
 それ故に長弓は扱いに熟練を要し、満足な数を確保するのは難しかった

 弩も少数ながら使用されていたが、その実相は明らかにされていない
 古代ギリシアの頃から弩は使用され続けていたが、実際にどれだけの働きをしたかに
ついては諸説あり、具体的なことは何も解っていない
 弓部を安定したプラットフォームに据え付けた弩は射撃時の安定性に優れ、
単純に筋力に頼る弓よりも射程と威力を強化することができたが、一方で射撃速度で
弓に劣った
 かつてローマでも、弩砲は主に攻城戦で使用されていたが、携帯式の弩についての
記述は僅かで、恐らく重要な兵器として認識されておらず、少数が運用されていたに
過ぎなかったことは間違いない
 弩が悪魔の発明であり卑怯者の道具として軽侮され、無視されるようになるまでには、
もう少し時代を待たねばならない

 弓兵の戦術的な任務は我の歩兵や騎兵の戦術行動への射撃掩護だった
 彼らは通常、装甲歩兵の楯壁の前方に展開し、敵の戦闘展開を阻害し、攻撃準備射撃を
行い、阻止射撃を行った
 彼我が投槍の射程(約30メートル)以下に接近すると、彼我の歩兵の隊列が極めて
混交するため、弓兵は楯壁の後方に退避して今度は敵の隊列の後列に向けて仰角をかけて
矢を放った

 この時期の戦闘は、楯壁同士の投槍の応酬になる傾向が強く、そのような局面では
弓兵は味方の頭上を超過して有効な掩護を提供することができた
 しかし、射撃は敵の隊列の後列に向けて行われるため、直接戦闘に寄与できる訳では
なかった
 長弓はその構造上の事情から矢の全長も長くならざるを得ず、長射程では極端に威力が
低下し、例えば突撃破砕射撃を行って敵の攻撃を頓挫させるといった戦局に決定的な
影響を与えるには数も不足していた
 鎧の重装甲化が進むに従い弓兵の野戦における戦術的価値は次第に低下し、
むしろ攻城戦や小規模な小競り合いで威力を発揮する兵科として認められていく


そんだけ
211バキャベッリ:02/04/15 22:01
 この時代に付いては知らない事ばかりでコメントのしようが無い、
ただ知識を詰め込むだけ。鱗鎧から鎖鎧への移行は生産技術の発達も
関係して来る訳ですよね?。
212名無し三等兵:02/04/15 22:01
良スレ!!
213名無し三等兵:02/04/16 00:00
割とゲームとかだと弓兵ってヘボ扱いですが、ほんとめちゃくちゃ怖いんでしょーなー。
214名無し三等兵:02/04/16 21:28
ロングボウやクロスボウで無いと、結構鎧が抜けなくて苦労したはず。
215210:02/04/18 21:58
>>211
鎖鎧は共和制ローマの頃から使われてましたし、
鱗鎧も11〜12世紀頃まで結構使われていますから
生産技術の発達はあまり関係なかったのではないかと思います
 ローマ領ガリアにおける巨大地主制と豪族団の出現による地方勢力の台頭に伴い、
各地で要塞が建設されるようになった
 戦術的な理由から、要塞の建設場所は険しい丘の中腹や岩盤の崖の上等の高所が選ばれ、
丘のない平地では盛土で人工的な丘が作られた
 海岸や島嶼、河川の岬の先にも建設された
 要塞は山道や河の渡場、街道の交差点等の戦略上緊要な地形に建設され、敵も味方も
要塞を無視して行動することはできなかった
 それ故、要塞を巡る攻城戦とそれに連携した局地的な紛争は戦争の焦点となった

 もっとも、要塞や防衛施設を備えた都市は、既に太古の昔から建設され続けてきた
 古代エジプトでは、ヌビアからの軍事的圧力に対抗してアスワン河流域からヌビアに
かけて一連の要塞や要塞都市が建設された
 第12王朝の時代に建設されたブーヘン要塞は、厚さ5メートル弱、高さ11メートル
の城壁を備えていた
 外壁には多数の角形の塔が突出しており、その外側下部にもテラスと城壁を設け、
そこには半円筒形の塔が並び、更にその外側を幅9メートル、深さ7メートルの空堀が
張り巡らされていた
 全長140メートルの正面城壁の中央に構築された城門は正面幅11メートル、
奥行21メートル、高さ16メートルで、この要塞で最も戦闘的な施設でもあり、
コの字形に前方に口を開けてキルゾーンを形成し、侵入する敵を頭上からの射撃と
投石で撃破することができた

 紀元前380年頃に建設されたローマ最初の城壁であるセルウィウス市壁は、
全長11キロに達し、12基の城門を備えていた
 270年から280年にかけて建設されたアウレリアヌス市壁は煉瓦壁とモルタルの
構造で、厚さ3.6メートル、高さ7.5メートル(後に10メートル、一部は
17メートルまで増築)、全長19キロに達し、18基の城門を備えていた
 更に、高さ13メートルの塔が30メートル間隔で381基並んでいた
 408年から447年に建設されたテオドシウスの大城壁は、厚さ5メートル、
高さ12メートル、全長6.4キロで、96基の塔を備える内城壁の外側に、同数の塔を
備えた外城壁を建設し、更にその外側に幅20メートル、深さ7〜8メートルの堀が
掘られ、籠城の際には水を注いで水堀にすることができた
 この城壁は、後にイスラムの包囲に備えて1143年から1180年に
マヌエル・コンメヌスによって全面的な改修を施されている

 1098年、アンティオキア、プリニー等のイスラム都市連合体の要衝アンティオクを
攻めた第一次十字軍は、丘を越え谷を渡って延々と連なる石の大城壁に直面した
 十字軍はこの壁を突破するのに9ヶ月かかった


そんだけ
 既に古代の帝国の設計技師たちは、要塞を建設する際に考慮しなければならない要件を
十分に承知していた
 少なくとも、天才の閃きだけで着工されたようなお目出度い要塞など存在しなかった
 要塞の建設位置は、極力天然の地形を利用し、地形本来の防御力を強化し、かつ所要の
作業量を最低限にするような場所が慎重に選定された
 特に、要塞の規模に比例して、土量計算は作業計画の立案に大きく影響した
 設計者たちは事前に周到な測量計画を立案し、要塞建設の候補地の詳細な測量データを
収集した
 地形本来の強度をいかすため、地形を削ることは可能な限り最低限に抑えられた
 盛土の総量はできるだけ切土の総量と均衡になるように追求された
 両者の差が大きくなればなるほど、運土量が増大し、築城計画に負担をかけることに
なった
 要塞の施設は堅固な地盤の上に建設しなくてはならなかったから、地中深く穴が
掘られて地層が調べられた
 粘土層や腐土層のような軟弱な地層が見つかると、地面をその地層まで掘り下げて
荒砂利や礫に入れ換えるか、その場所を放棄するかが検討された
 要塞建設に従事する技師や作業員にとって最大の敵は水で、水脈の調査は徹底を極めた
 作業現場で湧き水が出ると作業そのものが頓挫してしまうため、水道を変更するか、
事前に排水作業を行わなければならなかった
 もっとも、軍事的な要求が常に技術的な制約に優先していた
 必要とあらば、起伏のない平坦な地形に要塞を建設しなければならないこともあった
 そのような場合でも、いやむしろそのような場合こそ、技師たちの優れた計画立案能力
が要求された


そんだけ
218お城の心得:02/04/18 22:04
 建設位置が決定されると、続いて要塞の防御施設の編成が計画された
 要塞は、大抵の場合、特定の正面に対して最も堅固になるよう設計されていたが、
あらゆる方向からの攻撃を想定して全周にわたって防御可能でなければならなかった
 また、各施設は戦力を効率的に編成するとともに、各個撃破を防ぐことによって強靱な
防御戦闘が可能なように、相互支援を行えるように編成されていた
 射撃は敵の攻撃を破砕するための主要な手段であり、城壁やその他の障害物と連携して
その威力を発揮しなければならなかった
 各施設は、一つの防御正面に対して少なくとも二方向、可能ならば三方向から射撃を
集中できるように編成され、ある正面を攻撃する敵を、斜めまたは側面から射撃できる
ように考慮されていた
 特に、城壁には外側に突き出すように塔が並べられた
 塔の間隔は標準的な投射兵器の有効射程により決定され、城壁の全周にわたってあらゆる地点に複数の方向から射撃できるよう配慮されていた

 更に、各施設は要塞が分断されても独立的な防御戦闘を遂行することによって縦深性を
確保できるように編成されていなければならなかった
 そうすれば、城壁が破られても、要塞内の要所を確保して敵を拘束し、逆襲によって
敵を撃退することができた

 城壁に突角を設けることは最も忌むべきこととされた
 その箇所は多正面から敵の攻撃に晒され、孤立する恐れがあった
 同じ理由で、城壁を円形に構築することは最悪だった
 突角部は可能な限り隣接する施設の支援を受けれるように設計され、かつその箇所は
塔が構築されて戦闘力を強化された
 また、あえて敵を誘致導入し、射撃を集中して一挙に撃滅するため、あえて突角を
設けることもあった

 攻撃には時期と場所を選べる権利があり、攻城戦でも戦闘の主動は常に攻撃側が
握っていた
 このため、要塞にはあらゆる状況に対応して柔軟性を確保しておく必要があった
 要塞は可能な限り有力な予備隊を編成するため、戦闘正面幅を可能な限り緊縮して
第一線兵力を節約しなければならなかった
 また、予備隊の機動を容易にするため、要塞内の機動路を整備して、迅速な戦力転用を
可能にしなければならなかった


そんだけ
219数で勝負:02/04/18 22:05
 ローマ帝政末期からフランク時代の間に建設されたヨーロッパの要塞は、
上記の古代の帝国やイスラム世界の大要塞に比べると明らかに小規模でささやかなもの
だった
 もっとも、これは中世ヨーロッパの「暗黒時代」を支配した無秩序と野蛮によって
ローマが折角完成させた技術が失われてしまったからではなかった
 土地の生産能力が低かった古代では、強力な中央集権体制を確立した国家によって
広大な地域の資源が一極に集中する傾向にあった
 この権力と財力、技術力、労働力の大集中が、古代の覇権国家が誇る大要塞の建設を
可能にしていた
 土地の生産能力の向上は地方勢力の台頭を促す一因となったが、一方で比較的小さな
地域を支配する権力しか有さない地方領主の掻き集められる資源の絶対量は、古代帝国に
比べればたかが知れていた
 しかし一方で、この時期にヨーロッパで無数に建設された要塞群の建設に投入された
資源の総量は、ローマの皇帝たちが要塞建設に注ぎ込んでいた資源の量よりもかけ離れて
大きい

 このような状態では、古代に匹敵する規模の大要塞を建設する訳にはいかなかった
 9世紀までに建設された要塞は、少数の例外を除き大半が木造で、今日では殆ど現存
していない
 木造構造は主に経済性と利便性を重視したためで、可能な限り現地の木材が用いられた
 大規模な要塞を建設するためには大量の木材が必要とされた
 スウェーデンのトレロボール要塞の建設のためには8000本のオークが伐採され、
約80万平米の林が消滅した


そんだけ
220ウッド・ウォール:02/04/18 22:06
 フランク時代に建設された典型的な要塞は、地方領主の館を防塞化したものだった
 太い丸太を密接させて地面に打ち込んで壁とし、屋根は藁葺きで、土間床の一室住居
だった
 土間の中央には囲炉裏があり、その一室で領主も家臣も一緒に食事し、一緒に藁か
イグサに潜り込んで寝た
 天井はなく、屋根を高くして煙出しの穴が設けられていた
 館の周囲は柵で囲まれ、更にその外周に堀が設けられていた

 やがてこうした野戦陣地に近い小要塞は、より安全と快適を求める方向に改良されて
いく
 まず、主屋は領主家族と家臣を区分する二室住居になり、その周囲に食糧、武器
その他の物資の貯蔵や様々な作業のための施設が増築されていく
 必要とされる地積はますます広くなり、やがて要塞内を内郭(本丸)と外郭(二の丸)
に区分し、内郭に領主家族の居住区と重要度の高い施設を置き、外郭には家臣の居住区
とその他の施設が配置された
 二つの区画がはっきりと分けられたのは、領主と家臣の主従関係を明瞭にして領主の
権威を示すためでもあったが、広くなった要塞内の防御区画を整理し、城内戦における
防御の核となる最終防御施設を準備するという戦術上の要求でもあった

 この戦術的な事情から、内郭の領主の居住施設は天守としてより堅固に、より高く建設
されるようになった
 高い物見の塔は観測点として四周を監視する重要な施設であり、領主の権威を示すため
にも好都合だった


そんだけ
221死神の出番:02/04/18 22:07
 攻城戦では、守備隊は食糧や武器の備蓄が続く限り、絶え間なく矢を放ち続けて
攻め寄せる敵を撃退しようとした
 包囲軍を追い払うために、宿営地や段列への奇襲も試みられた
 しかし、守備隊の最大の拠り所は、自分たちを守ってくれる要塞の強大な城壁に
頼ることだった
 実際、包囲軍の最も強力な武器は忍耐で、守備隊が飢餓と疫病で自己崩壊するのを
じっと待ち続けることだった

 守備隊は、絶えず不安な状態に置かれていた
 外部との連絡が途絶し、味方が有利なのか不利なのか、戦況がまるでわからなくなった
 城壁の外で野営している敵軍は、挑発や威嚇、偽情報で守備隊の士気を低下させようと
全力を傾けた
 守備隊には他にも懸案事項があった
 食事は制限され、水が欠乏しないよう絶えず井戸を監視する必要があった
 更に、常に疫病と栄養失調に怯えていなければならなかった
 包囲軍は、最初に先遣隊を派遣して周辺地域一帯の穀物を焼討し、家畜を殺して回った
 そうすれば、遅かれ早かれ要塞の食糧が底をつくことを承知していた
 籠城はしばしば1年以上続いたが、それだけ続くと、新鮮な食糧と緑黄色野菜の不足で要塞内の人々の体力は極端に衰弱した
 こうなると、ちょっとした傷から感染して壊疽で死ぬ者の数が戦闘で直接死亡する者を
上回るようになった
 切羽詰まると犬猫は勿論、鼠や雑草に至るまで喰い尽くされ、人間の屍体を貪りだす
ことも珍しくなかった
 その時が来ると、要塞に閉じ込められた人々は究極の選択を迫られた
 ことごとく飢えて死ぬか、それとも開城して生命と財産を敵の手に委ねるかを
選ばなければならなかった

 もっとも、大抵の攻城戦は事態がここまで悲惨な段階に至る前に終わった
 包囲軍にとっても、何ヶ月も、時には何年も軍勢を一箇所に貼り付けることが及ぼす
戦略的、経済的な負担は洒落にならなかった
 攻城戦が始まると、要塞の周囲は焦土と化したため、後方から食糧を運び込むなければ
ならなかった
 籠城している守備隊に比べればましだったが、疫病も警戒しなければならなかった
 このため、守備隊と包囲軍の間で脅迫とはったりを織り交ぜながら交渉が行われ、
妥協点が探り合われた

 攻城戦において、包囲軍の作戦方針は強襲、封鎖、交渉に大別された
 このうちどれか一つが包囲軍の作戦を全般的に支配することはむしろ例外的で、
大抵は三者が相互に影響しながら包囲軍の作戦行動を重層的に構成していた
 包囲軍はできれば封鎖によって要塞を干上がらせようとし、あわよくば交渉によって
有利な条件で開城させることを望んだ
 強襲による要塞奪取は常に最悪の選択だった


そんだけ
 寄せ手の戦術的な焦点は、突き詰めれば、城壁のもつ地形障害を克服して要塞内に
戦力を推進することだった
 突入路を設けて城壁を突破するためには様々な方法があったが、城壁を乗り越えるか、
城壁を直接破壊するかの二つに大別された

 城壁を乗り越える最も一般的な方法は、梯子をかけて突入部隊を城壁上に送り込むこと
だった
 梯子は軽易に使用することができることから企図の秘匿が容易で、奇襲的な突入に
適していたが、梯子をよじ登る兵士は無防備で、しかも高い城壁には明らかに向いて
いなかった
 実質的に装甲された梯子である攻城塔は、自走式と固定式に大別され、突入部隊を
防護しつつ城壁に直接達着させることが可能だった
 また、頂部に足場を設けて有力な射撃支援基盤を設定することもできた
 しかし、巨大な攻城塔を隠蔽することは通常困難であり、攻撃は文字通りの強襲に
なった
 これらの方法に共通の問題点は、守備隊の逆襲によって突入路が封鎖されやすいこと
だった
 守備隊は、突入部隊の態勢の未完に乗じて逆襲を発動し、突入部隊を城壁上から
一掃して城壁を回復し、あわよくば梯子や攻城塔を破壊することができた

 対処理性の高い突入路を設定するためには、守備隊の防御戦闘の基盤となる城壁
そのものを物理的に破壊して突破口を築き上げることだった
 守備隊にとって、城壁の補修は、梯子や攻城塔の破壊に比べて桁違いに困難な作業
だった
 ひとたび突破口を確保してしまえば、守備隊が城壁を補修しない限り、攻撃側は次々に
部隊を突入させることによって最終的に要塞内の戦力優勢を確保することができた
 城門は城壁の他の部分よりも構造的に脆弱で破壊箇所としては最適だったが、一方で
守備隊の防御施設と戦力が集中する箇所でもあったため、常に狙われるとは限らなかった
 破城槌は城壁の基部に打撃を加えて破壊することにより城壁を自重で崩壊させ、突破口
を形成した
 また、攻城塔に破城槌を装備することも珍しくなかった
 破城槌以外にも、坑道を掘り進めて城壁の地下の基礎そのものから破壊することも
できたが、これには高度な土木技術と労力、時間が費やされた


そんだけ
223赤猫:02/04/18 22:09
 攻城戦では火は攻防両面において多用された
 木造の施設や柵は火に対してはひとたまりもなかったし、あわよくば火災を引き起こす
ことができた
 攻城機械もまた木で作られており、攻城塔や破城槌が燃やされると攻撃そのものが
頓挫してしまった
 石造の城壁でも内部では木製の支柱が構造物を支えていたし、また、熱を加えることに
よって城壁の石材の間のモルタルや内部の骨材を脆くさせることも期待できた
 堆土は含水率が高いと崩壊しやすく、含水率が低いほど強固だが、完全に乾燥させて
しまうと逆に崩れやすくなる
 ユダヤ戦役において、エルサレムを包囲したローマ軍は土壁でできた城壁の下に可燃物
を集積して火をつけ、その後、破城槌によって城壁に穴を開け、その穴に可燃物を
押し込んで火をつける一連の作業を繰り返して城壁の一部を崩壊させた
 エルサレムの守備隊は、あらかじめ準備していた固土のブロックを積んでただちに
城壁を修復してみせたが、ローマ軍は今度は修復された部分を油を浸した獣皮で覆い、
または油を満たした壺を投げつけて火を放った後に破城槌の打撃を加えて城壁を再び
打ち崩した

 もっとも、ヒッタイト最後の首都ニネヴェやユダヤのマサダ要塞のような、天然の
岩盤を城壁としてその上に建設された要塞に対してはこれらの方法はまず通用しなかった
 これら難攻不落の要塞を攻略するため、メディア・新バビロニア連合軍やローマ軍が
とった最後の手段が傾斜路の構築だった
 傾斜路の先端は城壁の上面に達しており、楯を並べた歩兵が隊列を組んだまま要塞内に
突入することができた
 傾斜路は最も確実な手段だったが、膨大な労力と時間を必要とする巨大な土木工事でも
あり、強靱な兵站組織なくしては不可能だった
 マサダ要塞を攻略した際に、ローマ軍が2年の歳月を費やして構築した傾斜路は、
経年変化による劣化は認められるものの、現在でもほぼ完全な形でその姿を残している


そんだけ
224バッテリー:02/04/18 22:11
 城壁を無効化するための様々な技術は、かなり早い時期、恐らくアッシリア帝国の
頃にはほぼ確立していた
 これらの作業で問題となったのは、作業の大半が城壁に接近して行わなければ
ならなかった
 これは、攻城戦に従事する兵士が常に守備隊の妨害射撃に晒されていることを
意味していた
 城壁の上や内部には射撃用の狭間や石落としが設けられており、城壁に取りつこうと
する寄せ手を待ち受けていた
 斜射や側射を加えるために城壁から突出した塔は、隣接する塔や城壁と連携して
キルゾーンを形成し、寄せ手に複合射撃を浴びせた
 攻撃部隊が城壁の真下まで迫ると、守備隊は弓だけでなく、様々な物を敵に投げつけ
はじめた
 石や木材、雑多ながらくた、熱湯や煮えたぎる油、タール、生石灰、排泄物、土器や
家具等、手当たり次第に何でも投げ落とされた

 これらの攻撃を防ぐため、攻撃部隊は楯や遮蔽物で掩蔽される必要があった
 城壁に接近する必要がある攻城塔や破城槌は木製の掩蓋で防護され、更に火矢等で
炎上しないように濡れた獣皮で覆われた
 更に攻撃部隊を掩護するため、弩砲と投石機が守備隊の射点を掃射した
 弩砲は、弓よりも有効射程と威力で優れ、遠く高い場所の射点に対して精度の高い射撃
が可能だった
 投石機は、精度では弩砲に劣るものの威力で優れ、更に城壁を越えて要塞内に石弾を
放り込むことができた


そんだけ
225名無し三等兵:02/04/20 09:52
>213
>214
ロールプレイングゲームの火力評価はあまり信用しないほうがいいですよ
石弓や長弓はまともに火力評価をしてしまうと、膾にされながら剣を振るって
壁になろうというプレーヤーが居なくなっちゃいますから(藁
鎧に関しても板金鎧→鎖鎧→鱗鎧→環鎧→皮鎧というヒエラルキーが
ゲームでは設定されやすいですが、時代や場所によってトレンドが
異なるので鵜呑みにしないほうがよろしいかと思われます
226干城殺陣:02/04/20 20:30
 ローマ帝政末期から10世紀にかけて建設された要塞の大半が木造で、それ以前に
建設された要塞に比べれば防御構造物としては低強度であったことから、かつてのような
大がかりな攻城戦が生起する比率は低下していった
 勿論、過去にローマが建造した要塞や都市の多くはその機能を維持しており、
大規模な攻城戦の可能性が全くなくなった訳ではなかった
 しかし、大半の要塞は木造のささやかなもので、しかも矢鱈とあちこちに建設されて
いたため、いちいち大型の攻城機械を持ち出すのは割に合わなかった
 このため、この時期の仕寄道具は梯子と比較的小型の破城槌が一般的だった
 攻城塔のような大型機械の出番は皆無ではなかったが、確実に少なくなっていた

 一方で、個々の要塞がより軽易に建設されるようになり、更にその数が増加していくと、
要塞の任務は様々な戦略的・戦術的要求に従って多様化していった
 従来のように、敵の侵入を拒否して地域を確保するという純粋な防衛目的のみならず、
侵攻作戦のために敵地に打ち込まれる橋頭堡として、または我の作戦行動のための時間の
余裕の獲得や、敵の戦力を減殺してじ後の戦闘を有利に進めるため、あるいは地域の戦力
を節用して他正面に戦力を集中するために要塞が建設されるようになった
 6世紀後半から7世紀にかけてのフランク国内の混乱とそれに伴う軍事的緊張は、
更なる要塞の建設を促した
 とるに足らぬ町や村落でさえ自ら武装しようと努めるようになり、この傾向に拍車を
かけた
 これらの要塞群のもたらす軍事的な優位は圧倒的だった
 殆どの要塞はささやかなものだったが、全ての要塞を一つ一つ攻略するために
費やされる膨大な労力と資源と時間は、侵攻作戦そのものを躊躇わせるには十分だった


そんだけ
 9世紀中頃以降、北アフリカとイスパニアのイスラム教徒はシチリアを征服し、ナポリ、
アプーリア、カラブリアを攻め、ローマに侵入し、更にフランク人をイスパニア辺境伯領
まで押し戻してランドックやプロヴァンスの沿岸を略奪した
 東部国境ではスラヴ人が国境域に殺到し、北と西からはデーン人とノルマン人が
押し寄せていた
 ノルマン人は840年にはフリースラントの一部を占領、844年にはハンブルクを
略奪し、853年にはナント、トゥールを占拠した
 この頃より、ノルマン人は単なる略奪行から定住を目的とした侵入と占領へと戦略を
転換している
 内線の繰り返されているフランク王国では、これらの外部勢力にまともに対抗できる
軍事力を組織できなかった
 そうであったからこそ、軍事力の整備は急務とされ、聖界もまた自前の戦力を保持して、
イスラム勢力やノルマン人と自ら戦うようになる
 事態は状況に対応する形で動いていく

 同時に、官職の授封が盛んに行われるようになった
 伯も司教も、まず王に託身し、その後、官職禄の授与を受けて職に叙されるようになり、
封臣としての軍事奉仕を義務づけられることになる
 伯の一部は複数の伯領を領有するようになり、また、王の「戦士(ミーレス)」を
自称する者も登場する
 一方で軍事遠征を義務づけられた司教や修道院長が多数輩出され、聖界の軍事力が増強
の一途を辿り、王の封臣や伯の軍事力とともに、後期カロリング王権の軍事力の一翼を
担うまでに成長する

 内外のこのような情勢のもと、フランク王国の一体性は、870年にメルセン条約が
結ばれた頃には潰え、875年のルートヴィッヒ2世の死とともに、西ローマ皇帝として
の理念すら消滅した
 877年、キエルジー勅令によって官職禄や恩貸地の世襲が認められるようになると、
伯はもはや国王の役人ではなく、伯領と権力を己れのものとした一個の領主、地方権力に
他ならなかった
 この頃には複数封臣制がはじまり、他方、門閥による国王選挙が行われる等、
非王権的権力が優越する一種の無政府状態が現出した
 ローマ皇帝の理念が再現され、政治的結合がもたらされるには、ザクセン朝の
オットー1世(在位936〜973)の治世を待たねばならなかった


そんだけ
 9世紀後半から10世紀前半にかけての時代は、内乱と異民族の侵入が繰り返された
時代でもあった
 ノルマン人の略奪と破壊は苛烈を極め、難を避けることのできぬ市民や農民、
地方領主らの絶望的な抵抗が試みられた
 マジャール人騎兵の略奪行も徹底したもので、残忍さにかけてはノルマン人にひけを
とらなかった

 9世紀後半のカロリング朝は、王国分割の際に按分された12の「レクナ」で
構成されていた
 レクナはかつての大公や伯、辺境伯の血統の者に支配され、実質的に一個の独立した
小王国だった
 この頃から10世紀にかけてのヨーロッパは、独立自衛を旨とする軍事力再編の時代で
あり、新旧支配層の交替の時期でもあった
 絶え間なく続く軍事的緊張は、11世紀についに地方の有力者たちに石造の要塞を中心
とした領域支配圏を確立させるに至った
 特にイタリアを中心とする都市の急速な発展と、それに伴う商業経済の出現がこれを
後押しした
 聖界の諸施設も石の装甲に身を固めだした
 フランスのジェミエージュ修道院聖堂、カーンのアベ・オ・ゾーム及びアベ・オ・
ダーム修道院聖堂、トゥールーニュのサン・フィリベール聖堂、ドイツのトリアー大聖堂、
シュパイアー大聖堂、ヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエル聖堂、イタリアの
ピーサ大聖堂、ミラノのサンタンブロージョ聖堂、スペインのサン・マルタン・デュ・
カニグー修道院、サン・ヴィンセンテ・デ・カルドナール聖堂、イングランドの
ダラム大聖堂、イーリ大聖堂などが相次いで建設された

 更に、各地の聖俗有力者たちは、農耕技術の発達と商業経済の勃興によって増大した
余剰資源を消費することによって、独立した強力な軍事力の整備に狂奔していく
 これらの小軍団は、フランク王の権威が地に堕ちて後は容易に統合されなかったが、
異教徒の圧力を受けて封建諸侯間の連合が試みられ、徐々にヨーロッパ世界全体の
防御態勢が整備されていく

 ヴァイキングは、9世紀中頃に領土獲得へと戦略を転換したことによって、結果的に
この目新しくはないが強力なヨーロッパ防衛システムに自らはまり込んだ
 本来、ヴァイキングの強みは奇襲にあった
 彼らは、喫水の浅い快速ガレーによって、経海侵攻により各地を略奪してまわった
 沿岸と河川からなる長大な水線を完全に防衛することは事実上不可能であり、
ヴァイキングは防備の手薄な場所を狙って襲撃を繰り返した
 しかし、ヴァイキングが自ら陸地に上がり、土地を経営するようになると、
戦争のやり方も陸のスタイルに倣うようになる
 彼らは、自らの軍事的成功を保証していた奇襲の利益を自ら放棄してしまったのだ
 ヴァイキングの脅威は9世紀末にはほぼ沈静化してしまうことになる


そんだけ
229king makers:02/04/20 20:44
 フランク王国の各地では、新しい支配者による軍事力の再建が開始された
 ザクセン侯出身の王ハインリッヒ(在位919〜936)とその子オットーは、
933年と955年にマジャール軍の主力を撃破し、オストマルク辺境領を置いた
 955年の戦闘に動員されたオットーの軍勢は、国王封臣とザクセン人からなる
1個軍団、バイエルン・レクナの3個軍団、アレマニエン・レクナの2個軍団、
フランケン・レクナとベーメン・レクナの各1個軍団の計8個軍団で構成されていた
 この勝利によってマジャールの脅威は消滅し、オットーは軍団から皇帝と歓呼され、
その後のローマ皇帝権復興の端緒となる

 独立的であり、時に敵対することもあった各レクナ間の関係は、自らの上位に皇帝権
なり王権なりを捻り出し、これろ封関係を結ぶことによって変貌した
 独立性の高い各レクナの複数の軍団も、封主の軍事大権の下で一体化していく

 教会や修道院は、10世紀においても引き続き然るべき軍事力を保有していた
 聖界軍事力はレクナの軍事力を構成し、981年の「装甲騎兵一覧」によれば、
バイエルンのザルツブルク大司教とレーゲンスブルク大司教は各70騎、パッサウ司教は
50騎、フライジング司教は40騎、帝国修道院が200騎を提供するよう定められて
おり、バイエルンの聖界だけで800騎を超える重装騎兵戦力を擁していた

 この強力な軍事力は、西方キリスト教会が異教徒による攻撃と侵略から西ヨーロッパを
自力で防衛すべく生み出されたものであった
 東ヨーロッパでこのような独自の軍事力が成立しなかったのは、ビザンティン帝国の
強大な国家的軍事力が存在していたからだった
 西ヨーロッパでは、異教徒の脅威が薄れた後、イスパニアのレコンキスタ、
パレスチナへの十字軍運動が展開され、いずれにおいても結果的に強力な王権が
発生することになる
 この過程で、聖界の軍事力保持の慣行は廃れていき、西方教会の戦闘性が失われると
ともに、教会のエネルギーは再び宗教的次元の問題へと収斂していき、やがて内在化した
諸矛盾が噴出することになる


そんだけ
230我らの流儀:02/04/20 20:46
 10世紀中頃以降のフランク王国領域での軍事力の再建は、ヨーロッパ周辺の様々な
ファクターを融合しつつ進行していった
 最も影響を受けたのは要塞だった
 ヴァイキングの脅威が要塞の発展を促す最大の要因だったが、その他にもイスラム教徒
の攻城戦術、マジャール人の土塁壁の影響が流れ込んだ
 スラヴからは、要塞相互を機動路で結んで戦力の転用を容易にするネットワーク構築の
概念が流入した
 更に、弩が攻城戦における有力な道具として注目されはじめた

 10世紀後半には、ビザンティン帝国から、槍を抱え込んで突撃する重装甲騎兵
「クリバノフォロス」の戦術と装備が導入された
 ビザンティン帝国皇帝ニケフォロス2世が考案したこの新型の騎兵は、強引な衝撃力を
もって歩兵の隊列を正面から蹂躙できる可能性を秘めており、緩慢にではあるが改良と
発展を経て、13世紀にはついに戦史でも類を見ない特殊な突撃兵器、装甲槍騎兵として
完成する
 この新しい騎兵は、ビザンティン帝国では経済的理由により11世紀末には消滅し、
13世紀に逆にヨーロッパからビザンティンに輸入されることになる

 一方で、ドイツの都市群では、増大する騎兵の脅威に対抗して両手で扱われる長柄の
歩兵槍(パイク)が生み出される
 この安上がりの兵器は技術的には見るべきところはなく、登場した時点で
既に技術的発展の余地のないまでに完成していたが、その運用が完全に確立するには
14世紀を待たねばならなかった

 こうして、中世から近世にかけてヨーロッパの軍事力を構成する兵科と兵器は、
火器を除けば10世紀には殆ど出揃った
 これらの兵科は、技術的にはいまだ発展途上であり、その運用も未熟ではあったが、
それらの戦術的な意義は既に確立していた
 後はただ、戦術のセオリーに従って完成させていく作業だけが残っていた
 ローマ帝政末期からフランク王国に至る血みどろの「暗黒時代」に確立した
ヨーロッパの戦術教義が、果たしてヨーロッパの防衛を成し遂げ、更に周辺領域に
ヨーロッパの支配を拡げることができるか否かはまだ証明されてはいなかった
 11世紀末、イスラムに殴り込んだ十字軍はその最初の試金石となるのだが、
これはまた別の話


そんだけ
231230:02/04/20 20:47
お終い
232名無し三等兵:02/04/20 23:09
おおっつ!? ついに終わられてしまった! 今までご苦労様です! 押忍!
233バキャベッリ:02/04/21 15:20
お疲れさまでした、何れまた「別の話」についてお聞かせ下さい。
234さっどさっく:02/04/21 23:38
連載終了・・・「そんだけ」さん、御疲れ様ですた。
235海の人:02/04/22 00:19
 ほんとに読み応えありました、おつかれさまでした:-)
236名無し三等兵:02/04/22 09:50
そんだけ氏、お疲れ様〜!
全部保存しますた。
237バキャベッリ:02/04/22 21:26
私もヨーロッパの剣、戦争論と全部保存しております(w
238海の人:02/04/22 22:27
 「そんだけ」氏の論文って、中世のエッチング風の挿し絵をつけて
ウェブサイトに収めたら見栄えがするでしょうねぇ。
 誰かエッチング風のかっこいい挿し絵描ける人はいないのかなぁ。
239名無し三等兵:02/04/23 14:06
話の順番としたら「陣形と戦術」⇒「ヨーロッパの剣は」⇒「戦争論」
であってるかな?

そんだけ氏の著作をサイト作って、それに絵がうまい人や一部さらに詳しい人は
「参照」や挿絵を入れればいいと思う。こんなsagりっぱなしのスレで作品を腐ら
せてしまうのは忍びないです。

それと
次にそんだけ氏が公開されるならば、私はぜひ「戦理」等を説いて欲しいです。
本屋ではなかなか手に入れられない「戦術の根幹」だと思いますし。
そこから近代以降の戦術変遷を語って頂きたいです。
240名無し三等兵:02/04/23 20:18
つーか本書けば?
241名無し三等兵:02/04/25 03:40
次の講義に期待。でも何処で始まるのか解らない……
242名無し三等兵:02/05/11 02:27
保全しといた方がいい?
243象太郎:02/05/21 22:44
連載の終了は4月末の段階で知ってはいたのですが、完全に読了してから
挨拶をカキコしようと思っていた為、遅れてしまいました
特上の講義ありがとう御座いました、そしてお疲れ様でしたm(__)m
個人的に学生時代に学術用語で衝撃を受けたモノが二つあります
一つ目が法律用語の「みなす」、そして二つ目が「定説」です
定説が単なるその時期その地域の尤もポピュラーな説であるに過ぎないことを
初めて知った時はかなりの衝撃でした(それまでは漠然と真実に一番近い説
だと盲信していましたので)
今回の連載を読んで何と無くその時のことを思い出してしまいました
(いや、私事ですが.....)
本当に堪能させていただきました
次回の講義を心からお待ち申し上げます
244バキャベッリ:02/05/23 20:04
取り敢えず私は保存してあるので、落ちても大丈夫♪
245名無し三等兵:02/05/23 21:01
ところで「そんだけ氏」の論文に極めて似た本を見つけたのですが
246名無し三等兵:02/05/23 22:34
長篠の合戦の世界史とか火器の誕生とヨーロッパの戦争とか?
種本って言ってたと思う。。
247名無し三等兵:02/05/24 21:40
保守
248名無し三等兵:02/05/25 13:41
革新
249名無し三等兵:02/05/31 04:34
ageると言ったらageるんです。
250名無し三等兵:02/06/05 23:36
保守あげ
251名無し三等兵:02/06/06 00:17
>245
書名と出版社を教えてください
252SSBN:02/06/06 00:46
長篠合戦の世界史
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4495861514/ref=sr_aps_d_1_1/250-2421893-0227400
火器の誕生とヨーロッパの戦争
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582532225/qid%3D1023291664/250-2421893-0227400

他は知らない。役に立たなくてスマソ
253251:02/06/06 17:30
>252
どうもです。早速アマゾンにいってみましたが、高いですねえ(泣
お金に余裕が出来たら買います。
254バキャベッリ:02/06/07 22:19
蛇足ですが歴史群像はなかなか面白いですよ。
255名無し三等兵:02/06/13 19:19

256名無し三等兵:02/06/13 19:34
うーんこの程度で高いと・・・・・
つーかこれくらいは普通では・・・・

そんな事では軍オタやってられないぞ
257名無し三等兵:02/07/02 20:29 ID:???
復活記念age
258名無し三等兵:02/07/04 20:44 ID:???
名スレage
259名無し三等兵:02/07/05 22:01 ID:???
う〜んだれもいない。
そういやまだ大砲が直接射撃していて暴露陣地だった時代、
放列線が歩兵隊の真ん前によくあったけど、
歩兵隊はどうやって放列線を通過したんだろうなぁ?
等と書いてageてみる。
260名無し三等兵:02/07/06 03:23 ID:???
気合いと根性で耐える!メル・ギブソンのパトリオットではね。
261名無し三等兵:02/07/06 03:24 ID:???
ヒュー・ハドソンの「レボリューション」も観てください
262名無し三等兵:02/07/16 20:19 ID:???
>259
 炸裂弾が無かった時代は野戦砲に大して価値は無かった、散弾は近距離では威力が
有ったが射程は小銃にも劣り(砲身破裂の危険が高く、火薬量も減らされた)、それ
位なら安価で効果の高い小銃を大量に装備した方が良い。
 つまり放列線は無視出来る範囲の障害でしかなかった、だからこそ暴露陣地でも構わ
なかった訳でもある。当時の大砲とはあくまで要塞攻略用。
263名無し三等兵:02/07/17 22:48 ID:???
良スレage
味方の放列線通過の時は密集隊形を解いたのかな?
あれって明らかに味方歩兵の進撃の邪魔だよね。
それに通過してる最中は、混乱してそうで味方砲兵は撃てなさそう。
264名無し三等兵:02/07/25 22:45 ID:???
ageとく
265名無し三等兵:02/07/26 00:06 ID:???
ナポレオン時代の砲兵隊は、実体弾を撃っていますね。
また、ツーロンでは艦船を砲撃して勲功をあげたそうですが。
266名無し三等兵:02/07/27 09:17 ID:dQhsprEu
面白かった。近代戦もお願いします。
267名無し三等兵:02/07/31 15:13 ID:???
そんだけぇ〜カムバァック!
268名無し三等兵:02/07/31 15:41 ID:???
>>263
ナポレオニックの時代の話をするなら、砲兵は味方歩兵が進撃を
開始したら基本的に射撃中止。味方の頭越しには撃たない(撃てな
い)。

 砲撃戦は戦闘開始時(再開時)の歩兵が邪魔にならない時にまと
めて行うのが一般的。
269名無し三等兵:02/07/31 18:29 ID:???
後半明らかにモチベーション低かったから多分復活しないと思われ。
270名無し三等兵:02/08/12 18:00 ID:???
>268
撃ってたよ。頭越しに。
271名無し三等兵:02/08/12 18:08 ID:???
八門遁甲の陣
272名無し三等兵:02/08/12 18:14 ID:???
>>268
たぶん>>263が聞きたいのは友軍超過射撃が出来たか?
じゃなくって
開戦前には密集した歩兵陣の前に大砲が置かれている。
が歩兵は近接戦闘するために
大砲の置かれている位置より前進しなければならない
さて大砲が並べてある所を通過するとき
整然と隊伍を組んで前進する歩兵にとって大砲は大変邪魔にならないか
混乱をきたさないだろうかって事
じゃないだろうか
邪推だったらスマソ
273名無し三等兵:02/08/13 17:45 ID:???
>272
なるほど。
で、そうなると歩兵は、もしくは大砲は、どう動いたんだ?
274松尾:02/08/26 22:53 ID:???
男塾名物「直進行軍」
弾が有ればそれをまたぎ、大砲が有ればそれをよじ登って全身しました。
275名無し三等兵:02/08/27 10:20 ID:r9QiP0dC
 攻撃準備射撃の間は、砲を防護する位置にいて、砲撃後に、大砲の前方に展開、前進したんと違う?
276:02/08/27 19:33 ID:???
 オス!自分は弾が有ればそれをどけて、大砲が有ればそれに装填「されて」
敵陣を強襲致します。尚前の書き込みに「全身しました」なる表現が有りますが
言うまでもなく「前進」の間違いで有ります、本人に成り代わり謹んでお詫び
いたします。
277名無し土方 ◆Ij6u5gc. :02/08/27 20:54 ID:???
>>272-273
アメリカのビデオ「ゲティスヴァーグ」(国内絶版)に、南軍の最後の師団規模歩兵横隊の突撃があるけれど、見たことはあるかな?
リージョンフリーDVDプレイヤーを持っているなら個人輸入で、無いなら偶然中古屋でビデオを見つけることができたなら、見てみると良いと思う。
各砲の隙間を中隊ごとにすり抜けて、砲の前で横隊を再構成して、ゆっくりと歩いて前進していくから。

あと、なんて事の無い柵であっても、敵の歩兵横列からの一斉射撃の下では、とてつもない障害になるって事も凄く良くわかる(謎)
さらに身を隠して射撃する敵に対して歩兵横隊で突撃するのは、とってもデンジャラスっていうか、自殺行為も同然だって事もね。
確か、南北戦争くらいまでの砲兵の役割は、味方の歩兵横隊が敵に突撃する際に、敵の歩兵横列を崩すことじゃなかったかな?
歩兵横隊の一斉射撃は、それこそ距離20mとかになったら50%を超えるからね。
そりゃ、いくら精強な歩兵であっても、ど至近距離からの一斉射撃の衝撃にはそうそう耐えられるものじゃないわけでさ。
278名無し三等兵:02/09/15 02:51 ID:???
279名無し三等兵
単縦陣は海戦に於ける永遠のスタンダードです。
でも私はフォーメーション・フォックスロットが好きです。