大昔の戦争19世紀以前

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名無し三等兵
19世紀以前の戦争についてのスレがあんまり無いので。
2名無し三等兵:03/12/27 07:57 ID:???
阻止じゃ
3名無し三等兵:03/12/27 08:15 ID:???
漠然としすぎだよ。
4名無し三等兵:03/12/27 08:23 ID:ni+cWm9s
世界最古の記録にある戦争はBC4000年頃の
エジプトとヒッタイトの戦いですが何か?
5名無し三等兵:03/12/27 08:29 ID:???
19世紀はつい最近
6名無し三等兵:03/12/27 08:31 ID:???
>>4
> 世界最古の記録にある戦争はBC4000年頃の
> エジプトとヒッタイトの戦いですが何か?

ひょっとしてカデシュの戦いの事を言いたいのかな?
だとしたら年代がえらく違ってるぞ。
7名無し三等兵:03/12/27 09:02 ID:???
あんまり古い戦いは世界史板で聞いた方がレスはたくさん付くと思うよ。
8名無し三等兵:03/12/27 09:03 ID:???
ちょっとお借りしますよ
今年中に終わらせないと気持ち悪いもんでね
前スレリンク無し
加筆修正有り
最初から仕切り直し
9犬と呼ばれる商売:03/12/27 09:04 ID:???
 金銭を得ることを目的に軍役に就く者を傭兵と呼ぶならば、傭兵はいつの時代の戦場にも多かれ少なかれ存在した
普遍的な存在といえる
 しかし、一つの軍制としての傭兵制度はそのような普遍な存在ではなく、ある特定の時期に成立し発展し消滅している
 代表的な傭兵としては、古代ギリシアのギリシア人傭兵やローマ帝国のゲルマン人傭兵、中世封建制下の傭兵、
絶対主義期の傭兵等をあげることができる
 特に、絶対主義時代における傭兵制度については、19世紀の軍人たちが専ら国民軍の見地から盛んに批判的に論じており、
彼らの見解は現在においても有力な定説と目されている
 そして、その中には傭兵制の歴史的過程をかなり明確に指摘しているものもある
 「戦争は政治の一手段である」と身も蓋もなく言い切ったクラウゼヴィッツは、その著書「戦争論」の中で次のように
述べている
 「封建制度は漸次に衰退し、統一的領土国家が形成され、国家的結合は一層緊密になり、身分上の服従関係物質上の関係に
変じ、ついで金銭関係が漸次に大多数の関係を支配し、封建的軍隊は給金を給付される軍隊となるにいたった
 傭兵制度はかかる変化への過渡を形成するものであって、従って一時は大国の器械ともなった
 しかしそれは長くは続かなかった
 短期の契約で雇用された兵士は常設的な軍隊に変じ、国家の兵力はいまや国庫の負担をもって設けられた軍隊によって
維持されることになったのである」
 そしてクラウゼヴィッツは、アンリ4世の治世には封建軍と傭兵と常備軍の三種類の軍隊が並用され、その後、傭兵は
三十年戦争の頃まで残存し、18世紀においても僅かながらその存在の痕跡を認めることができると述べている
 確かにクラウゼヴィッツが指摘するように、近世初期の傭兵制は一時的偶然的に成立したものではなく、封建制の解体と
続く絶対主義の確立と密接な関係をもって成立した産物であった
 傭兵制はクラウゼヴィッツが主張するように封建軍から常備国民軍への過渡的形態に他ならないとしても、その過程は
彼が言う程に短期のものではなく、またそう単純でもなかった


そんだけ
10money-fief:03/12/27 09:05 ID:???
 正規の、もしくは純粋な意味での封建軍は、封土を媒介して成立した軍事的主従関係を基礎として成立する
 この場合、軍役奉仕すなわち出軍義務には時間的空間的な制約条件が付加されていたが、臣下が軍役免除金を支払って
軍役を免れる慣行もまた存在していた
 ドイツ皇帝フリードリヒ・バルバロッサは、イタリア遠征の際にこの免除金によって現地傭兵を大量に調達できた
 このような軍役免除金の慣行は、他面においては金銭を支給されて軍役奉仕を行う者の存在を示唆している
 彼らは、封建軍の中ではいまだ「給金を支払われている補助軍」的な存在ではあった
 しかるにこの手の「補助軍」的な存在が封建軍の中で次第に幅を利かせるようになると、封建制の紐帯とも言うべき封土が
金銭化するようになっていく
 最も注目すべき点は、これらの金銭が主君からの恩恵としてではなく、正当な労働に対する報酬としての意味が強いことで、
これはすなわち封建的主従関係の希薄化を意味していた
 こうして封土による主従関係を基として成立していた封建軍は大きく変化を見せる
 軍役提供に際して土地を担保に金銭を授与するようになり、封土よりもむしろ金銭の授与に重点が置かれるようになる
 こうなると出陣のために金を払うことと封土にかえて金を与えることの差がなくなり、一人で複数の主君に対して
軍事的な主従関係を結ぶことも、また全く封建的主従関係にない人間のために金銭の獲得を目的に軍事奉仕を提供することも
可能になってくる
 このいわば「傭兵化した封建軍」は、14世紀のヨーロッパ諸国で広く見られるようになっていた


そんだけ
11契約戦士:03/12/27 09:06 ID:???
 この「傭兵化した封建軍」においては、封土が金銭に変わってはいたが、いまだ主従の間には封建的身分関係が
明示されており、それに基づいて一定の契約金が付与されていた
 故に「傭兵化した封建軍」の傭兵化がどれだけ進展したとしても、純然たる傭兵軍とは言い難い
 むしろ傭兵軍は封建制の崩壊を伴って出現した
 封建関係の崩壊の過程で伝統的な主従関係を喪失した貴族や騎士を中心に農民や下層民をも加えた一個の武装集団が
封建社会解体の混乱期に形成された
 彼らは言うなれば一種の野武士団、盗賊騎士団であり、各地に散在し、専ら金銭の獲得を目的として求めに応じて
有力諸侯に雇用されて従軍した
 戦争を商売とするこの集団は有利な条件を求めて諸侯、君主とも雇用契約を結び、平時には一種の失業状態に陥って
略奪を行うこともあった
 この手の傭兵集団は、14世紀のドイツではrittergesellschaft、百年戦争期のフランスではcompagnie、15世紀の
イタリアではcompagnie di venturaと呼ばれて悪名を流しまくった
 これらの傭兵軍はどれも雑多な階層で構成されており、騎士身分の下級貴族がその中核をなし、それに郎党、奴隷、農民、
職人等が参加していた
 しかし時には有力貴族の庶子や次男三男も多く参加しており、諸侯が高額な契約金をもってこのような傭兵集団を
雇用していたという事実と相まって、封建制の危機の深刻化を物語っている


そんだけ
12悪党と手を結ぶ:03/12/27 09:06 ID:???
 封建危機の進行は、封建制の国家規模での再編成によって、絶対主義体制の確立により一応の克服を見た
 政治的に見れば、混乱した封建秩序を再建し強力な絶対主義を築き上げるために、第一に軍事力の集中強化が要求された
 傭兵軍は封建的秩序の混乱を体現した忌むべき存在ではあったが、皮肉にも同時に当時唯一の頼みとなる軍事力でもあった
 王権はこれを整理統合し、自己のみに所属する軍隊を編成することにより、絶対王権形成のための軍事力の集中を図った
 こうして傭兵軍はいわば常備軍化していく
 フランス王シャルル7世の編成した軍隊は、封建的要素が色濃く残るものの、同時にこうした常備軍的性格を
もつものでもあった
 また15世紀のイギリス軍は、全国的統一規模のものではなく、有力諸侯によって編成された軍隊であったが、
やはり常備軍としての要件を備えていた
 勿論、このような常備傭兵軍による軍事力の集中を可能とするためには、その物的基盤を保証する王室または諸侯の
財政の充実が前提となっていた
 王領からの収入のみならず、臨時税や間接税、戸別税等の様々な徴税権の独占が同時進行していた
 更にその常備傭兵軍の中核が貴族や騎士と呼ばれる階層で構成されており、根底には封建的性格が根強く残っていた
 しかし、絶対主義下の軍隊が全てこの常備傭兵軍によって構成されていた訳ではなかった
 常備化された傭兵集団は間もなく壮丁の徴募兵と俸給制度を基礎とした常備軍へと改編され、純粋な意味での常備傭兵軍は
主に外国人傭兵部隊として存続した
 例えばフランスでは伝統的にスイス人とドイツ人で編成された部隊が維持し続けられた
 無論、これらの他にも僅かではあるが純粋な封建軍も存在していた
 しかし、いずれにせよ絶対主義軍隊が傭兵的性格が濃い常備軍であったことは否定できない


そんだけ
13悪人認定:03/12/27 09:07 ID:???
 法制史において、法廷外の係争処理のための制度であるフェーデの克服運動として出現したラント・フリーデは、
直接には当時ドイツで猖獗を極めた盗賊騎士団raubritterの活動を封じ込めることをその主たる目的の一つとしていた
 1389年に、ライン、バイエルン、シュワーベン、フランケン、ヘッセン、マイセン等の各地方に施行されたエーガーの
ラント・フリーデでは次のように記されている
 「神の意志に反し悪しき集団が力を得てこのラント・フリーデ地域で再結成されたり、またはこのラント・フリーデ地域に
やってくることがあれば、我々は全力を挙げてそれに対処し、その全員を追放するであろう」
 この、「悪しき集団」とはすなわち当時ドイツに跳梁していた盗賊騎士団のことである
 このような盗賊騎士団への抑圧は、多かれ少なかれ他のラント・フリーデにおいても重要な関心事だった
 「呪うべき、しかして聖なる法律に違反せる、都市の内と外、都市相互、私人相互、私人と都市の間に結ばれた種々の
不法な団体や、我々が堕落と認めた方法によって設立された同盟や協定は、いかなる口実を持つ誓約団体であっても、
我々はこれを拒否し否認する
(中略)
 我々は、我々の前任者たる神聖なる皇帝たちの聖なる法が躊躇なく禁止し解散を命じたがごとき団体を、現在までに結成し、
将来においても結成せんとする動きがあることを知るが故に、此処にこのことを宣言する
 ただし、諸侯や都市やその他のものが、州や国土の一般的な平和のために相互に組織する同盟や協定は、少なくとも
この禁止令からは除外される」
 この1356年の金印勅令の規定は、当然のことながら大空位時代(1253〜1273年)以後、あらゆる禁令を
無視して事実上の政治勢力となっていた都市同盟には適用されていない
 ここで主に取締の対象となっているのは、多くのラント・フリーデで結成を禁止された盗賊騎士団に他ならなかった


そんだけ
14仁義なき人々:03/12/27 09:08 ID:???
 実際のところ、盗賊騎士団raubritterなる名称自体が、史料の上で明確な用例を持つ用語ではなく、後世になって
諷刺語として普及した用語だった
 このような諷刺語が通り名とされた背景には、フェーデを完全に犯罪視する近代的概念によるところが大きい
 むろん、フェーデ権の濫用による逸脱行為により盗賊騎士と呼ばれるに相応の騎士が存在していたことは事実だが、
だからといって盗賊騎士団が単なる武装難民の群れだったとは言い難い
 ゼルバッハのハインリヒ・ズルトの年代記によると、1356年、アプリア、トスカナ、イタリアその他で略奪や暴行、
放火を働いていたソキエタスと呼ばれる武装集団が、アウグスブルクの司教アルクゥルトに率いられ、ミラノ領主に対して
攻撃を仕掛けたが、彼は500名の兵士とともに捕虜になった
 1357年、プロヴァンス地方のマルセイユ及びエークト市近郊でカールなる人物がソキエタスを結成し、城を襲撃し
人命を殺傷し財産を略奪したが、教皇領を荒らすことはなかったため、教皇はカールに対しプロヴァンス地方からの退去を
条件に2万4000フローリンを与えている
 1361年及び1362年には、ブレティニーの休戦によって解雇されたイングランド傭兵が中心となってアヴィニヨンで
ソキエタスが結成された
 彼らは聖堂及びローヌ河の橋梁を占拠して教皇領への糧道を遮断し、その周辺地域で略奪を働いている
 教皇は皇帝と諸侯に対し援助を請い、結局3ヶ月余り暴れ回ったソキエタスは結局金銭によって和解し、ミラノに向けて
立ち去った
 このソキエタスはその後再び舞い戻ってアヴィニヨン市に侵入したが、この際に一部が捕らえられ、10名がローヌ河で
溺死刑、11名が絞首刑に処されている


そんだけ
15大強盗団が往く:03/12/27 09:09 ID:???
 ニュルンベルクのマティア年代記では、1354年にミラノ大司教がソキエタスの隊長ヴェルネルスに金を与え、
ソキエタスは帰国してシュワーベンで解散したと記されている
 彼は「神の敵、信心の敵、慈悲の敵」と刻まれた胸当をつけ、1500から2000の騎士団を率いてイタリア半島を
荒らし回っていた
 その後1万人の兵士からなる別のコムパニアが結成され、プロヴァンスのメモリアレスなる者を隊長として
ロンバルディア地方に進出した
 このコムパニアはプロヴァンスに戻ってシュワーベンのランドウという男を隊長としてミラノ市の近傍に野営地を構え、
同市を攻撃しないかわりに食糧の提供を受けたり、領主や都市に食糧の提供を強制した
 このコムパニアは永年にわたってヴェニスに雇われて皇帝の側に立って戦い、その後ラヴェンナに向けて移動している
 1365年には、主任司祭と呼ばれるイングランド人に率いられた1万2000の騎士を含む無数の兵からなる
ソキエタスがアルザス地方に侵入したと記されている
 彼らは夜を徹して多くの家屋を焼き払いつつ前進し、夜明けとともに攻撃準備を整えてシュトラスブルク市の城壁の前に
到着し、都市と周辺の住民は防備の整えられた城壁内に逃げ込んだ
 同じ頃、アヴィニヨンから来たカールという人物がこのソキエタスを撃退するためにゼルツ市で軍勢を募った
 このことを知った主任司祭は麾下の軍勢を率いてアルザス地方を退去したが、この際に彼は、「我々は皇帝の命で
やってきたのに、その我々を追放するために軍勢を集めるとはけしからぬことだ」と、皇帝を非難したと言われている
 また、1375年にもイングランド人のソキエタスによるアルザス侵入があったと記されている
 リムブルク年代記では、1365年に大ゲゼルシャフトがアルザス地方の各地を1ヶ月にわたって略奪した
 このゲゼルシャフトは婦女子を除いても2万人の大所帯だったと記されている
 また、1380年には、リムブルク市の近くで大きな戦闘があり、ニーダーラントやオーベルラントの優秀な騎士、
あるいは日出ずる東洋の国の人々など、300グレーフェン(グレーフェンは重騎兵1名と軽騎兵2〜3名からなる
騎兵の編制単位)からなる軍勢がリムブルク市の前市で放火と略奪を行ったと記されている


そんだけ
 これらのエピソードは、年代記という史料の性質上、時期や人数、地名やその他細部について錯誤や恣意、誇張が
見られることは避けられない
 しかしながら、ここに出てくるソキエタスやコムパニア、ゲゼルシャフトと呼ばれる集団を構成した兵士が各地で展開した
略奪や破壊は、彼らが字義通りの意味での盗賊騎士と呼ばれるべき存在であり、年代記作者にとって彼らが野盗の群れに
他ならなかったことを示している
 特に1361年にアヴィニヨンに出没したソキエタスや1365年にアルザスを襲撃したソキエタスは、1360年の
ブレティニーでの英仏休戦の結果、解雇され見知らぬ大陸で生計の途を失ったイングランド人傭兵の成れの果てだったことを
考慮すれば、彼らが野盗化して各地を放浪するのはある意味当然のことだった
 1338年、ニーダーラインのエッセン女子修道院長が、
「エッセン修道院領内の住民は、悪しき人々の攻撃のために非常に苦しめられ、彼らの生命財産は、日夜冷酷残忍な
手によって脅かされている
 領民がかかる不当な暴力や悪意ある侵入に対して自発的に抵抗し、乱暴者の乱暴を防ぐためには(以下略」
と語っているのも、このような盗賊騎士団を対象にしたものだった
 しかし、このように年代記作者の目には好ましからざる存在として映ったソキエタスやコムパニア、ゲゼルシャフトの、
アウグスブルク司教と同盟したり、教皇やミラノ大司教から金銭を貰ってアヴィニヨンやミラノから退去したり、
皇帝の命を装ってアルザスに侵入したり、または野営地を構えて食糧を要求した等の行為は、彼らの行動が必ずしも
強盗団のそれと同一ではなく、金になる仕事を求めて各地を放浪するうちに、適当な機会に恵まれず野盗化したという
事実を示唆しているに過ぎない
 1385年、教皇ウルバヌス6世はオーストリアのヘンゼルなる男が率いるドイツ人ゲゼルシャフトを雇って
ルツェルンで作戦させており、1394年、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルは盗賊騎士団を傭兵として雇い入れ、1396年に
解散させた後はその成員を自らの臣下として丸抱えで抱き込んでいる
 この手の盗賊騎士団の真の目的が傭兵として活動することにあったことは否定できない


そんだけ
17お呼びとあらば即参上:03/12/27 09:11 ID:???
 盗賊騎士団が一個の独立した部隊として軍務に就いていたことを示す史料は少なくない
 1328年、イゼンブルクのヨハネス以下25名の人物が皇帝ルードヴィッヒ4世と傭兵契約を交わした
 この契約書は、「我々は、我々自身と我々の仲間全員のために皇帝と次の如き協定を結んだことを宣言するものである」
で始まり、「良好にして合法的に奉仕」することを約した彼らに対する具体的な賃金とその支払方法が約された後、
「皇帝は、我々がヴィナリとケルグリの両要塞を保有してそこに駐留し、もし上記の賃金の支払が定められた期限までに
なされない場合には、我々傭兵が敵と通じて勝手にこの要塞を処分することを許した」とした上で、「しかし支払が満足に
行われて所定の期間が経過した場合には、我々はこの二つの要塞を皇帝に返還することを約するものである」と記されている
 1303年、ボヘミア・ポーランド王ヴェンツェスラウスとフランス王フィリップ4世が神聖ローマ皇帝アルプレヒト1世
に対抗すべく結んだ軍事協定では、両者が来る使徒ヤコヴの祭日までに10万プラーグ銀の軍資金を費やしてドイツで傭兵を
掻き集めることをお互いに約している
 外国の君主が短時間のうちに大量の現地傭兵を動員できるという事実は、すなわち盗賊騎士団が有力な兵力供給源として
機能していたことを示唆している
 1327年、皇帝ルードヴィッヒ4世がその勅令で、「もし何らかの重大な理由により貴下自身が出陣し、または貴下の
軍隊を派遣することが不可能な場合、貴下の希望によっては、傭兵を集めるための資金の提供によって貴下の出陣義務を
免除することを余は承認するものである」と言っているのも、容易に傭兵として雇用し得る盗賊騎士団の広汎な存在が
前提にあったことに疑問の余地はない
 教皇庁をはじめとするイタリアの各都市がしばしばドイツ人傭兵を多用していたという事実も同様に解釈することができる
 特に、教皇のアヴィニヨン捕囚、皇帝権の失墜等に象徴される14世紀のイタリアでは、諸都市の分裂抗争が続き、
盗賊騎士団の活動に絶好の場を提供していた
 フィレンツェで権勢を得たイングランドの傭兵隊長ジョン・ホークウッドの成功の陰には、このようなイタリアの
社会状態が背景となっていた


そんだけ
 盗賊騎士団はその社会的立場と成立の経緯から、当時の封建社会と異なる一種独特の組織的体質を有していた
 前述の1328年に盗賊騎士団が皇帝と交わした傭兵契約によれば、イゼンブルクのヨハネス以下25名にのぼる
多数の人物が皇帝と契約を結び、しかも彼らが、「我々自身と我々の仲間全員のために」と言明していることから、
盗賊騎士団が封建的階層秩序を止揚した、いわば成員の平等を原則とする同志的結合とも呼ぶべき代物の上に成立している
ことが推察できる
 さらに、フリードリヒ1世バルバロッサが1158年に発した勅令では、「都市の内と外、都市と都市、私人と私人、
あるいは都市と私人の間に結成される集団、あらゆる誓約団体は、血縁的結合をも含め、いかなる形のものであれ、
余はその結成を禁止し、既に成立したものに対してはこれを解散せしむるものである」と述べ、かかる同志的結合集団が
既にこの時期に発生していたことを示唆している
 同様のことが1224年のフリードリヒ2世の治世の際にも発生している
 フリードリヒ2世の忠実な封臣リバルドゥスの従士たちが、ハウスブルク渓谷に拠り、誓約によって成立する団体や同盟の
ごときものを勝手に結成しようとした
 その団体の中にはリバルドゥスの軍事力の中核を担っていた従騎士が多く参加しており、しかもあろうことか彼らが
この団体の指導的立場にあったことから、処置に困ったリバルドゥスはそのような団体の結成の可否についての裁決を
皇帝に求めざるをえなかった
 これに対し、フリードリヒ2世は自らの許可無しにいかなる団体の結成をも禁ずる決定を下している
 このように、従士たちが領主を除外した誓約によって、恐らくは各自平等の立場から結成した団体を、そのまま
盗賊騎士団と同一視することは出来ないが、彼らが容易に放浪して盗賊騎士団へと変容していくことは十分に推測できる


そんだけ
19義理と人情の渡世:03/12/27 09:12 ID:???
 しかしながら、盗賊騎士団の同志的結合と呼ぶべき性格は、いわゆる高度に理念化されたものではなかった
 前述の年代記の記述でも見られるように、彼らは幾度も離合集散を繰り返し、しかもそれは何らかの金銭的な利害と
常に絡み合っていた
 このことは、彼らの同志的結合が、より刹那的でかつ極めて稀薄な性質になる傾向にあったことを示している
 つまり、盗賊騎士団内の封建的階層秩序を否定するという性質が、成員の金銭的利害の一致という一時的な動機によって
導かれているということ、そしてこの金銭的利害こそが彼らの組織の本質を決定していたことを意味している
 盗賊騎士団が戦闘員の他にも家族をはじめ多くの非戦闘員を含んでいたのも、また騎士身分のみならず雑多な階層で
構成されていたことも、このような組織的性格を前提としていたからである
 盗賊騎士団の利害追求型同志的結合は、妻子や売春婦のような非戦闘員のみならず、金銭的利害を媒介することによって
一般の都市民や農民、下層民をも積極的な戦力要素として内に取り込むことになる
 かのジョン・ホークウッドもその出自は鞣革業者の息子だったと言われている
 いずれにせよ、盗賊騎士団は従来の封建軍隊の中核をなしていた封臣軍とは全く別の種類の軍隊だった


そんだけ
20戦争の犬のプロ:03/12/27 09:12 ID:???
 ケルン年代記によると、1228年に、ブラバント公ヨハネスとゲルレンス伯レイノルトの不和が募り、遂に両者が
戦争準備をはじめたことについて次のように記されている
 この際、「ブラバント公ヨハネスはケルン市民及びその他の多くの貴族や従者に報酬を与えて味方に引き入れた
 これに対してゲルレンス伯レイノルも多くの者を味方にしたが、彼らは各地で行われた種々の戦争に熟練している連中で
あった」
 「種々の戦争」というものが、大軍同士による野戦というよりむしろ、小規模な攻城戦や小部隊による襲撃、伏撃、
略奪といった小競り合いであり、そしてその手の小競り合いに「熟練している連中」が容易に盗賊騎士団に身を投じる
存在だったことは言うまでもない
 しかし一方で、この係争にケルン市民もまた報酬を得て参加していることを考えると、この戦争熟練者の中に、
民兵としての経験にものをいわせて盗賊騎士団にその身を託することによって、ようやく生計の途を見出した都市部の
下層民が含まれていたことが推定できる
 15世紀以前の都市における階層分化が具体的にどのようなものであったかは明らかではないが、多かれ少なかれ
時代が下るにつれて都市民間の貧富の差が顕著となって貧困化無産化が進行する傾向にあった
 特に、アウグスブルク、ゲールリッツ等の商業と輸出工業が発達した都市ではこの度合いが極めて深刻で、社会構造全体に
おいて安定性に欠けていた
 少なくともケルンのような大都市ではこのような傾向が早い時期から存在し、その内部に相当数の無産下層民を抱え込んで
いたと考えられる
 特に、1329年のブレスラウ、1351年のシュパイエル、1392年のハルシュタット及びラウフェンで、それぞれ
職工が賃金問題を巡ってストライキやサボタージュや一揆を起こしていることは、ギルドの閉鎖性が強化された結果、生計の
目途が立たずにランツクネヒトに身を投じた15世紀末の遍歴職人のように、既に14世紀において盗賊騎士団に身を投じて
熟練兵となる以外に生きていく方策のない下層民が、都市の内部に相当数潜在していたことが推測できる


そんだけ
21手に持つ鋤を槍に替え:03/12/27 09:13 ID:???
 農民であっても事情は変わらなかった
 1244年、バイエルンのラント・フリーデは、次のような布告を行って農民の武装に制限を加え、騎士と農民の間に
明確な一線を画そうとした
 「農民及び彼らの息子は、教会に行く場合に限って、鉄兜、鉄帽、革鎧、両刃の短剣、鎖鎧その他の軍装を着用することを
許可する
 農耕に出る場合には、短いナイフと鋤だけしか携行してはならない
 帯剣できるのは家長のみで、その他の者には許されない
 ただし、犯罪人を捕縛し、外敵の侵入を防ぎ、国の危難に備えるために必要なものは、欲すれば如何なるものであれ
家の中に貯蔵してもよい」
 しかし、このような12世紀の身分法思想の名残はすでにこの時代においてはほとんど消滅していた
 前述のエッセン女子修道院長が1328年に発した布告では、「悪しき人々の攻撃」によって苦難に陥った修道院領の
農民を守るため、「領民にして、馬、甲冑その他の武器を所有する者があれば、その馬や武器は所有者の死後もエッセンの
防備のために子孫または相続人の手に保有されるべきである
 余も余の役人も、かかる馬や武器を遺産相続やその他の理由によって没収してはならない
 また何人も、これらの馬や武器を負債の故をもって差し押さえてはならない」と規定されていた
 盗賊騎士団が横行した14世紀では、むしろ農民の武装化は強化される傾向にあり、これは逆に農村部の下層民が、
容易に盗賊騎士団に身命を売り渡せたことをも意味していた
 特に農民戦争期のドイツ南部では、農地の細分化と農民の小作農化貧農化が進行したが、14世紀においても
このような傾向は既に認められていた
 正業をもってしては生活し得ない貧困小作農にとって、盗賊騎士団が極めて魅力的な職場となったのは当然だった


そんだけ
22赤貧の騎士:03/12/27 09:15 ID:???
 これらの都市民や農民の下層分子を組織し取り込んだ盗賊騎士たちも、何も好き好んで放浪していた訳ではなかった
 この時期に出現したテリトリウム(領邦制)国家の形成は、それ以前に存在していた個々の権利の集積ではなく、
かつてのインムニテート(不輸不出権)圏の散在性を否定し、隣接地に対してはインムニテート圏の不当な拡大、
新しい特許状の獲得、売買、交換に対し、広汎な封鎖地域を形成し、そこに新しい権力原理による統一主権を確立しようと
するものであった
 大グルントヘル(荘園領主)が領邦領主へと変貌していく反面、他者はそれに服属していった
 領邦国家を作ることができなかった大土地所有者は領邦領主の主権にとっては障害物であり、消滅する運命にあった
 この場合、地代収入の減少や公権利の消失は彼らの没落を早めた
 このような競合関係が生じた際にこうした抗争に巻き込まれた小土地所有者である騎士階級は、新しい領邦領主に
従属するか、または盗賊騎士団を結成して各地を放浪するかしかなく、いずれにせよ没落の道を避けられなかった
 騎士身分で領邦領主となった事例は僅かしかなく、14世紀には、同一家系の出身でありながら、ある者は騎士として
生活していたのに対し、他の親戚は農村や都市で労働に従事しているような例さえ少なくない
 無論、全ての盗賊騎士が土地を失ってしまった訳ではなく、盗賊騎士団の中には一定の根拠地を持ち、そこを基点に各地で
活動した集団も少なくなかった
 しかし、いずれにせよ領邦成立に伴う経済変動によって、騎士たちが彼らの土地からの収入のみを頼りにして満足な生計を
立てられなくなっていたことは明らかであり、そこに彼らの没落の原因があった
 更に、種々の事情で土地を手放さなければならなかった場合、彼らの没落はより凄まじかったに違いない


そんだけ
23支配者の剣:03/12/27 09:15 ID:???
 前述したように、領邦国家の出現により、下級貴族である騎士は大別して二つの選択を迫られた
 領邦に隷属した騎士は、後に等族議会を通じて領邦の絶対主義化に抵抗する機能を果たすことになる
 もう一つは、いずれの領邦にも属さず、結果として帝国議会に出席権を持たない帝国騎士たちで、彼らのうちの
少なからぬ数が盗賊騎士へと転身することになる
 ドイツにおいて、盗賊騎士団がシュワーベン、フランケン、アルザス、ラインの各地方で多数発生したのは偶然では
なかった
 これらの地方は、いずれも強力な領邦が成立していなかった
 多くの群小領邦が発生したこれらの地方ではそのどれもが弱体なため、騎士が領邦に吸収される可能性も低く、それだけに
帝国直属の身分を維持しつつも、それ相応の経済力を持ち得ない彼らは盗賊騎士団として活動していく
 前述したように、ラント・フリーデ運動がこうした盗賊騎士団の絶滅を意図したものであるのも当然だった
 ラント・フリーデ運動によって支配権の確立を目指した領邦にとって、主として都市を喰い物にする盗賊騎士団の活動は、
領邦領主の経済的基盤を実力で脅かすものと考えられたからだった
 ただし、領邦成立の過程における必然的結果として盗賊騎士団が発生したと単純に結論づけられるほど、事態は単純では
なかった
 領邦成立期に盗賊騎士団を傭兵として使ったのは、実は領邦領主自身だった
 1283年、ルドルフ1世はその勅書の中で、土地の永久平和を守るために傭兵軍を編成する権利を認めている
 また、1356年に金印勅書の結社禁止規定では、諸侯や都市が国土の治安と防衛を目的とした相互協定や同盟の結成が
承認されている
 実のところ、盗賊騎士団の活動こそが領邦の発展を強化し、それが更に盗賊騎士団自身の消滅をも早めることになった


そんだけ
24王様は二言目には金と言い:03/12/27 09:16 ID:???
 フリードリヒ1世バルバロッサは、軍役免除税に関して三つの勅令を発している
 1158年に発せられたものでは、「余は、ドイツ及びイタリアにおいて皇帝戴冠式のために公示された出征に、自ら
出陣するか、または封土に応じて軍費を支払うことによっておのれの主君を助けざる者はその封土を失い、主君はそれを
没収して自らの用に供する権利を持つことを、ここに厳に布告するものである」と記されている
 また同年、「公示された出征において、主君によって召集された者は誰でも定められた期間を自ら従軍するか、適当な
代理人を主君に提供するか、あるいは封土の年収の半分を主君に納めることをなさない場合は、主君は彼の者の封土を
没収して自らの用に供する権利を持つことを、余は厳に布告するものである」
 さらに1160年の「ローマ進軍についての規定」では、「この法によって出征を命ぜられた者で、主君に従って軍勢を
引き連れて集合しない場合は、余の面前で権利回復の望み無しにその封土を奪われるべきである
(中略)しかし、留まらんと欲して主君の許可を得た者は、その年の封土の現金その他の収入を軍費として支払わなければ
ならない」
 軍役免除税を意味する「軍費」の徴集こそ、「他の傭兵を集め得るための金銭の提供」であり、盗賊騎士団を雇い入れる
ための有力な財源となった
 このような重大な意義を持つ軍役免除税を納める相手が、皇帝に対してではなく自己の主君に対してであったこと、
そしてこれを怠った場合に没収された封土の所有権が皇帝ではなく当該主君に帰属することは、既にオットー2世の勅令でも
示されており、軍事統帥権の二重構造を示唆するフリードリヒ1世の勅令は、当時既に慣行となっていたものの再確認に
過ぎない
 もともと現実の出陣の代償としての意味を持つ軍役免除税は、中世初期以来、名目的に存在していた自由民の一般的な
従軍義務を理由として広く徴収されて傭兵を雇うための有力な財源となっていた
 やがてこれらの主君が領邦領主へと移行していき、その過程で実際の出陣よりもむしろ軍役免除税の納付を奨励することに
よって、自らの勢力拡大のために盗賊騎士団を傭兵として利用していくことになる


そんだけ
25最初の一匹はどこに:03/12/27 09:17 ID:???
 もっとも、領邦国家成立の時期はフリードリヒ1世バルバロッサの時代よりも後のことであり、シュタウフェン家滅亡と
それに続く大空位時代こそが領邦の発展に絶好の地盤を提供することになる
 しかし、当時既に新しい領邦成立の萌芽はすでに芽生えていた
 1180年のハインリヒ獅子公失脚の際に出されたフリードリヒ1世の宣告文では次のように記されている
 「かつてバイエルン及びウェストファーレン公であったハインリヒは、教会と帝国貴族の自由と彼らの財産を奪い、彼らの
権利を侵すことによって著しく圧迫した
 このため、諸侯及び貴族の激しい訴えによって召喚されたが、余の面前に出頭することを怠り、その後も教会と諸侯並びに
貴族の権利と自由を侵害することを止めず、(中略)
 バイエルン、ウェストファーレン、エンゲルン公領並びに彼が帝国より受封した全ての領地は、ヴェルツブルクにおいて
開催された厳粛なる法廷において、諸侯の一致した判決によって没収されることになった」
 この事件の告訴が諸侯と貴族からなされているのに対し、判決に関与したのは諸侯のみであり、ここでは諸侯と一般の
貴族が明確に区別されて用いられている
 この宣告文が発せられた時には既に、単なる「主君」の間に分裂が起こり、そのうち一部が諸侯と呼ばれる存在へと
変化しつつあったことを示唆している


そんだけ
26都合のいい人々:03/12/27 09:17 ID:???
 封土を介して発生した封臣の軍役義務は、必ずしも無制限なものではなかった
 国土防衛戦のような総力戦における根こそぎの総動員令を除けば、「東部地方へ」、「州の中で」、「二日行程は自弁で」、
「河岸まで」、「一日行程の行軍」等、地域的時間的な制限があらかじめ決められているのが常であった
 もっとも、この手の制約は封建軍に限ったものではなく、国民徴集軍でも同様だった
 そして、このような制約の多いシステムの克服こそが、領邦実現を目指す王権にとって克服すべき重要な課題の一つで
あった
 貨幣収入の増加によって自らの強化を図った領邦王権が、一方で軍役免除税の徴収によって封建軍の現実の出陣を無用とし、
他方で貨幣の力によって思うがままに運用し得る軍隊、すなわち傭兵軍を自らの権力の基盤に据えようとしたのもある意味で
自然の成り行きだった
 こうして盗賊騎士団が脚光を浴びることになる
 1360年、ブレティニーの休戦によって敵地で解雇されたイングランド傭兵のように、何時でも何処でも放棄して他と
代替できるこの軍隊は、権力強化を目指す領邦王権にとって極めて有力な手段を提供した
 1314年にゲルレンス伯レイノルトとオーストリア公フリートリヒが交わした協定では、ゲルレンス伯がオーストリア公
の要請に応じて、契約金を受け取って自らの指揮下にあったソキエタスを提供している
 このような盗賊騎士団の雇用は、領邦権力にとって必要不可欠なものだった
 没落騎士を中核として都市民や農民の下層分子をも内に取り込んだ盗賊騎士団は、領邦実現を目指す諸権力の競合の産物で
あると同時に、自らを傭兵として領邦権力に身売りすることをその本質としていた
 彼らが出没したのが、シュワーベン、フランケン、ライン、アルザス等の各地方であったのも、群小の領邦国家が発生した
これらの地方が、単に領邦の吸収を免れた盗賊騎士を多く輩出しただけでなく、彼らが傭兵として雇用される機会が極めて
多かったことをも示している


そんだけ
27全てを解決する素敵な道具:03/12/27 09:18 ID:???
 領邦成立を巡る競合関係の煽りを受けて没落を余儀なくされた騎士が、非騎士階層まで抱き込んで組織した盗賊騎士団が、
領邦権力に有力な軍事的基盤を提供していたことを考慮すれば、領邦国家にとって盗賊騎士団は必ずしも全面的な抹殺の
対象にはなり得ない
 「土地の永久平和を守るために傭兵軍を編成」したり、金印勅書の結社禁止令で「州や国土の一般的な平和のために
相互に組織する同盟や協定」が除外されているのがいい例である
 しかし、一方で領邦国家が支配権確立の有力な手段としたラント・フリーデが、その主要な目的として盗賊騎士団の根絶を
掲げていることも否定できない
 この盗賊騎士団の二つの矛盾する性格は、いつ解雇されてもおかしくなかった彼らの不安定な立場に起因している
 ラント・フリーデが実は一種の空文規定だったのか、それとも盗賊騎士団が必要悪的存在だったのかについてはこの際
どうでもいい
 最も注目すべきは、貨幣収入が増大した領邦国家にとって、金銭で動員可能でありそれ故に非常に指揮掌握が容易な
盗賊騎士団が、極めて使い勝手の良い軍事力だったという事実にある
 もっとも、盗賊騎士団自体は必ずしも当時のドイツの軍制を代表する存在ではなかったし、ドイツに存在した軍事力の
中核をなすものでもなかった
 現実の軍役奉仕のかわりに提供される軍役免除税が傭兵動員の有力な財源になるという慣行は、すなわち正規の封建軍も
また傭兵として出陣できることを意味していた
 強力な財源を有する領邦国家は、封建契約外の従軍に対して金銭の支給を行うことによって封建軍の地域的時間的制約を
克服しただけでなく、実質的に金銭契約下の傭兵軍と酷似した封建軍を無制限にそして大量に戦争に投入することになる


そんだけ
28名無し三等兵:03/12/27 09:20 ID:???
そんだけ氏キキキキタァァァ(゜∀゜)ァァァアア!!
29お手当をください:03/12/27 09:22 ID:???
 14世紀以降、伝統的な封建軍の傭兵化が進行していく
 封建軍動員文書で金銭報酬の支給に関して記されたものは13世紀以前にも存在しているが、それでも金銭支給に関する
規定の全く見られない文書も相当数存在していた
 これが14世紀に入ると、動員文書の殆ど全てで金銭報酬の支給が言及されるようになる
 そこには、支給される手当が主君からの一方的な恩恵ではなく、正当な労働に対する報酬だとする認識が強く働いている
 1311年6月、皇帝ハインリヒ7世は、「オーストリア・シュタイエル公レオポルドは来る聖ニコライ殉教日
(12月6日)まで、イタリア地方において100名の騎兵と100名の弓兵をもって余に奉仕することを約したので、
余は当該期間における奉仕の代償として、6000マルクを与えることを公に約した
 しかして、余はその支払を、まず10日以内に1500マルク、ついで7月に1000マルク、8月に1000マルク、
9月に1000マルク、10月に1000マルク、11月に500マルクを支払って、聖ニコライ殉教日までに
6000マルクを完済せんとするものである」と述べている
 当時の傭兵の1ヶ月分の報酬の基準は、騎兵で4マルク、装備練度の優良な歩兵で3マルク程度であり、このことを
考慮すれば、各月ごとの支払が月々の報酬を意味していると考えてまず間違いない
 オーストリア公レオポルド麾下の封建軍は、紛れもなく賃金の対価として軍役に就いているのである


そんだけ
30クリスマスまでに:03/12/27 09:23 ID:???
 1310年、ホーエンベルク伯ルドルフは、「公正なる我が主君ローマ皇帝ハインリヒ7世は、余に500マルクを
与えたので、余は主君を助けることを約束するものである」と語って出陣しており、金銭給与を軍役の前提条件とする慣行が
一般的だったのはまず間違いない
 1314年、バイエルン公ルードヴィッヒは、皇帝即位のための兵力提供を各地の封建領主に要請した際に、
「戴冠について支障が起こった場合でも、クリスマスに半分、復活祭に残り半分というように、前述の金額は支払われるで
あろう」と、計画が失敗しても約束した金額を支払うことを明言している
 ここで、いかなる政治的陰謀とも関係せずに専ら傭兵として従軍する封建軍の存在が、軍事作戦立案において必要不可欠な
前提条件となっていたことはまず間違いない
 また、1310年にハインリヒ7世がフォーシニーのユゴーに宛てた文書で、「もし前述の数以上の軍勢が集められる
ようなことがあっても、余は汝が満足できる待遇をなすことを約束するものである」と記しているのは、場合によっては
契約外の兵員の提供をも辞さない程に、封建軍の傭兵としての従軍が非常に有利だったことを示している


そんだけ
31戦争の算段:03/12/27 09:24 ID:???
 封建軍に対する報酬が、上からの恩恵ではなく軍役奉仕のための条件となっていた以上、報酬の支払に対して確実な保証が
要求されたのは当然だった
 1310年、ハインリヒ7世は「余の忠実なるヴァイセンブルクの貴族ヨハネス及びペトルスの兄弟は、彼らが常に
聖なるローマ帝国に対してなしてきた真の忠誠と誠実を余に約して慣習的に調達された武器と馬をもって8名の騎兵と2名の
弩兵とともに忠実に奉仕することとなったので、余はこの兄弟に対し、軍費を自ら調達する必要がないように184マルクを
与えることを約束するものである
 しかしながら、余はこの金額を直ちに調達することはできないので、余及び帝国の所有しているハスレ渓谷を土地住民を
含め担保として提供し、秋に60マルクを、残りを謝肉祭までに必ず支払うこととする
 それができなかった場合、前述の渓谷は彼らの保有に任せることを認めるものである」と述べている
 このように支払完了まで土地の占有を許した例はかなり多い
 またハインリヒ7世が1313年にサボイ伯アメデゥスに手交した文書では、「余がアルプスを越えてより次の一ヶ月間に
至るまで、伯が余に提供した奉仕に対し、伯が余より既に受け取ったものを除いて、余は今なお8000フローリンの借財を
伯に負うものである」と記されており、借用証書の意味も持っていたと考えられる
 更に、「ギレルムス伯またはその後継者に前述の金額が支払われるまで、全ての兵士と楯持ちはケルン市に進入し、そこに
留まって撤退しないであろう」という宣言も見られ、場合によっては実力行使さえ躊躇われなかった


そんだけ
32忠誠のお値段:03/12/27 09:25 ID:???
 このように、封建軍が賃金の報酬を前提に従軍するようになり、しかも報酬の履行のために様々な効果的な方策が
とられていたことは、封建軍の性格に大きな変革をもたらさない訳にはいかなかった
 1301年に提出された文書では、「我々は尊敬すべきトリエル大司教ディルテルスに忠誠を捧げ、10名の軍勢とともに、
皇帝となった前オーストリア公アルベルトに対し、大司教を援助することを約した
 それに対して、大司教は我々の一人ヨハネスに対して年内に90マルクを支払うことを約した
 それが履行されるまで、我々は相応の土地を占有するものである」
 また1314年、皇帝ルードヴィッヒは、「余の忠実なる貴族ヨハネスは、余の帝国の繁栄のために示した献身的にして
誠実なる真情と、彼が余ならにに帝国の騎士であることを鑑み、余は彼が慣習に従って葡萄酒その他の商品に課税して
300マルクを得ることを認めるものである」と文書に記している
 忠誠を捧げた者に対して封土の授受よりもむしろ金銭の給与が考えられるようになっており、封建的主従関係においても
もはや封土が第一義的な価値を持つものではなくなりつつあった
 しかも、ここで述べられている金銭授与は傭兵に支払われる金銭給与とは事情が異なっている
 こうなると、封土の変形としての金銭の授与と、軍事作戦の都度支払われる報酬との間に明確な一線を引くことは困難で
あり、同時に数十人の諸侯と忠誠関係を結んだナッソー伯ゲルラッハは極端としても、封建軍が金銭さえ貰えればどこにでも
出陣する傭兵軍と類似してくることは避けられなくなっていた


そんだけ
33ご褒美を下さい:03/12/27 09:25 ID:???
 傭兵化した封建軍と盗賊騎士団には、両者ともに傭兵契約下で従軍していただけでなく、前者は後者に容易に移行する
傾向にあり、その性格に極めて似通った部分が少なくない
 しかしながら、両者の間には契約締結上の明白な差異が存在していた
 1328年、ヨハネス以下24名の盗賊騎士が皇帝と交わした傭兵契約書で、「我々自身と我々の仲間全員のために」
と記しているように、契約当事者は単なる代理人として軍役奉仕を約束するだけで、何ら特別の報酬を要求する者では
なかったのに対し、傭兵化した封建軍は、皇帝ハインリヒ7世がフォーシニーのユゴーに宛てた文書で、
「余は準備金として130マルクを支払い、彼が軍勢を率いて余のもとに到着してより1ヶ月以内に更に2400ポンドの
銀を与えることを約束するものである」と述べているのをはじめ、多くの場合、一種の契約金が問題となっている
 このような両者の契約上の差異は、一種の同志的結合を本質としていた盗賊騎士団に対し、封建軍が大幅に傭兵化しても
なお階層的身分秩序を維持していたことに起因している
 そして、契約金不要な盗賊騎士団が領邦権力を補強する新しい軍制の萌芽となる可能性があったことは一面において
否定できない
 皇帝ヴェンツェルがシュワーベン地方のシュレグラー・ブントなる盗賊騎士団を1394年に雇い入れ、1396年の
解散後にその成員を自己の家臣団に組み込んでいるし、1370年代以降、盗賊騎士団の野盗的な活動は漸次沈静化の
方向へと向かっている


そんだけ
34神は重い槍を祝福する:03/12/27 09:26 ID:???
 15世紀に入ると、傭兵の契約形態に大きな変化が認められるようになる
 1427年、帝国議会はある決定を下した
 「異端に対する戦いを遂行し、神の加護によって事件を落着せしめるため、傭兵を集めるに決した
 しかして金銭を受け取って従軍したい者は誰でも、例え囚人であっても受け入れられるべきである」
 ここで言及されている「異端」とは、紛れもなくボヘミアのフス派のことである
 市場や祭などの群衆の多数集まる場所で、請負人によって鳴り物入りの宣伝と募集が行われたランツクネヒトのように、
集団傭兵契約を行う盗賊騎士団を介さず、市民や農民を個人契約の形で吸収することによって成立する新しい傭兵制度の
普及である
 この変化には戦術上の要求が大きく関わっていた
 クルトレーとモン・ザン・ペヴェールのフランドル民兵軍や、ナンシーでブルゴーニュ公を殺したスイス槍兵は、
当時無敵を誇った純粋攻撃兵器である装甲槍騎兵に対して重槍兵密集陣の防御兵器としての戦術的可能性を示した
 一度、戦場における歩兵の戦術的有効性が認識されるや、量的に大量の兵員を調達できる有力な源泉として、市民や農民が
領邦領主の前に大きくクローズアップされるようになった
 戦史上類を見ない畸形的な衝撃力を備えた装甲槍騎兵の圧倒的な戦術的優位に翳りが生じはじめた
 勿論、装甲槍騎兵が戦場から姿を消すのは16世紀末まで待たねばならなかった
 しかし、無敵の突撃兵器である装甲槍騎兵の威力に対抗できる可能性が保証されつつあった
 装甲槍騎兵がデビューする前の10世紀以前の戦場を支配していた戦闘の方程式が、再び少しずつ戦場を支配し始めようと
していた
 戦場に単純に大量の兵力をぶち込めばぶち込む程に勝利の可能性が見えてくる戦争のスタイル対応すべく、軍隊は変容して
いく
 克服すべき障害は幾つもあり、更なる年月と労力と創意と血肉が要求されることになるが、変化は止まらなかった
 騎士と市民と農民を同列に置いた新しい軍隊に、盗賊騎士団の付け入る余地は全くなかった


そんだけ
35遍歴の騎士故郷に帰る:03/12/27 09:27 ID:???
 盗賊騎士団の中核をなしているのが騎士である以上、各地を放浪する盗賊騎士団は、領邦領主と対等の立場で双務的な
傭兵契約を結ぶことを望みこそすれ、必ずしもその永久的な隷属下に入ることを望まず、場合によっては領邦権力に反抗する
危険性すら持っていた
 この傾向は特にイタリアの傭兵隊長に顕著で、比較的主権の確立していたドイツではイタリアほど極端ではなかったが、
彼らドイツの盗賊騎士団も一つ間違えれば危険物となり得る不羈奔放な性格は同様であった
 盗賊騎士団を構成していた没落騎士が、必ずしも土地を所有しない浮浪の徒ばかりだった訳ではないこと、あるいは
帝国騎士の没落は否定できない事実としても、全ての騎士が盗賊騎士という諷刺語そのままの状態にあった訳ではなく、
なお相当量の土地を所有していたこと等はこのことを裏づけている
 14世紀末、盗賊騎士団と比較的良好な関係にあった皇帝ヴェンツェルに対し、多くの領邦領主が盗賊騎士団の解散を
要求して圧力を加えたのも当然だった
 当時、領邦主権と等族議会の二元構造が必然だったとしても、権力強化を目指す領邦にとって、領邦権力に本質的に
超然的な立場をとる盗賊騎士団の存在を公認する訳にはいかなかった
 領邦を側面から支えるラント・フリーデ運動において盗賊騎士団が攻撃対象になったのもこのような事情によるものだった
 そしてその動きは領邦の強化と等族議会の弱体化が進むにつれて加速していく
 やがて15世紀に入って戦術上の変化が軌道に乗り始めた時、没落の度合いを深めた騎士、市民、農民が従来とは全く
異なる立場から新しい傭兵軍に参加するようになると、盗賊騎士団は完全に消滅する


そんだけ
36領主のものは領主へ:03/12/27 09:28 ID:???
 中世国家の形成に際して、レーン制は個々に発生した地方領主権力の組織者としての役割を演じた
 しかし一方で、このレーン制による支配関係では、封臣の封主に対する独立性の維持、封主の封臣に対する服従の要求と
いう不断の利害の対立があり、この対立は結局は両者の実力関係いかんによって解決された
 このような対立は封主と封臣の間だけでなく、更に独立的な権力者相互間においても常に不可避的に存在し、この一種の
無政府的な闘争状態に対処するために、封建的支配者は自ら武装せざるを得なかった
 しかし封建的支配者の軍事力は、彼ら自身のフェーデに備えるためのみならず、被支配階層の反抗を抑圧する機能もまた
有していた
 勿論平時に農民を規制する手段としてはまず荘園裁判があり、農民の個人的反抗に対して直ちに軍事力が行使された訳では
ないが、それでも封建権力の基盤をなす軍事力は、領主権にとって潜在的かつ基礎的な強制力として働いていた
 しかし農民の反抗が個々の領主の保有する軍事力を超えて集団化組織化された時、封建領主たちは必然的に平時の
無政府的対立を放り投げ、ここに反乱鎮圧のために統一された封建軍事力が動き出すことになる


そんだけ
37本命:03/12/27 09:28 ID:???
 中世末期最大の農民一揆であるドイツ農民戦争においても、多くの領主が同盟や協定を結んで農民団と対立した
 ロートリンゲン公アントンは、1525年5月、自領であるロートリンゲンの一揆を鎮圧し、ついでアルザスに侵入し、
5月15日、ツァーベルンで当地の農民団を撃破し、1万8000の農民が殺されたと言われている
 その後、5月下旬に帰国するまで中部アルザスの農民を襲撃してまわっている
 ヘッセン方伯フィリップは、1525年5月上旬、フルダ修道院領の一揆を鎮め、5月15日、フランケンハウゼンで
ミュンツァー指揮下のミュールハウゼン一揆軍を撃破し、その後、ザクセン公ゲオルグと協同してミュールハウゼン一揆を
完全に鎮圧した
 ブランデンブルク辺境伯カジミールは、シュワーベン地方とフランケン地方に挟まれたリース及びその周辺の農民一揆を
各個撃破して5月8日にオストハイムでその主力を撃破し、更に北フランケンに進軍してキッツィンゲンで
ビルトハウゼン農民団を殲滅した
 彼らは一揆農民に対する残虐な仕打ちで有名になったが、それでも各地で農民団を軍事的に撃破した事実は間違いない
 しかし、彼らは個々に独立して戦っていたに過ぎず、農民戦争で決定的な役割を果たしたとは言い難い
 反農民勢力の中核をなしていたのは、強力な封建諸侯の個人的な軍事力ではなかった
 それは文字通り危機に直面したドイツ南西部の中小封建領主によって組織されたシュワーベン同盟軍である


そんだけ
38戦う農夫:03/12/27 09:29 ID:???
 ドイツ農民戦争の時期は、ドイツ傭兵ランツクネヒトが一般化しつつある時期でもあった
 ランツクネヒトの普及は同時にドイツにおける優秀な歩兵軍の出現を意味していたが、ランツクネヒトの普及が
マクシミリアン1世の政策によるかどうかは別として、とにかく農民戦争の時期ががその勃興期に当たっていたことは
間違いない
 ドイツ南西部はランツクネヒトの故郷であり、多くの農民は傭兵に応募した経験があり、このためにしばしば農民団は
傭兵団として組織され、傭兵が指導者となった
 リース農民団は、各村から選ばれた24名の委員からなる委員会が最高指導部を形成し、これによって役員が任命されて
いたが、委員も役員も全て傭兵上がりで、中には1525年のパヴィアの戦闘から帰ったばかりの者もいた
 5名の隊長には各々7、8名の護衛兵が配属され、旗手、下士官、衛生下士、給養下士、書記、鼓笛手、陣営内の警務を
司る憲兵1名が任命されており、全員に報酬が支給されていた
 また、リース農民団の旗には、握手した農民と傭兵の姿が描かれていた
 このような傭兵団的な組織の農民団はリース農民団に限らず、タウベル農民団、フルダ農民団、ヴェルテンベルク農民団、
ミュールハウゼン農民団等、至る所に存在しており、他にも傭兵が村々に一揆を煽動し指導して歩いていた例少なく
なかった
 農民戦争を戦った農民団はその名からイメージされる純朴な農夫の群でも、圧政に耐えきれず立ち上がった義民の集団でも
なかった
 彼らは紛れもなく一線級の訓練と経験を積んだプロの戦闘集団だった


そんだけ
39全てのものを野に集めて:03/12/27 09:31 ID:???
 1487年6月26日、皇帝フリードリヒ3世はニュルンベルクの帝国議会からシュワーベンの等族に勅令を下した
 その勅令では、1486年にフランクフルトの帝国議会で結ばれた10年間のラント・フリーデを守るため、また彼らの
権利を守るため、来る7月26日にエスリンゲンで会合し、同盟を結成するよう記されていた
 勅令は、等族内部の階層性を完全に無視しており、シュワーベン全ての聖俗諸侯、騎士及び都市に宛てられていた
 そこではウェールデンベルク伯フークが皇帝の代理人として提案を行い、同盟規約の起草のために少数の委員が選出され、
更に8月24日と9月3日に再びエスリンゲンにおいて会議が開かれ、その席上で規約の草案に修正が加えられて同盟の
承認と成立が最終的に決定されたのは翌1488年2月14日のことだった
 このような同盟が成立したのにはそれなりの訳があった
 シュワーベン地方ほど無数の小領邦国家と帝国都市に分裂した土地はなく、そしてそれらは絶えず周辺の強大な領邦国家
からの侵略に晒されていた
 特に15世紀末には、バイエルンを本拠とするウィッテルスバッハ家のバイエルン公ゲオルグとアルブレヒトの兄弟の
台頭が著しく、着々とその所領を拡大し、周辺の帝国都市にもその支配権を拡大しつつあった


そんだけ
40鷲掴む腕:03/12/27 09:32 ID:???
 バイエルン公ゲオルグは、ティロル大公ジギスムントからハイデンハイムとキルヒベルクを買い取り、1458年に
ドナウウェルト市、1485年にネルドリンゲン市を支配下に収め、更にウルム市にもその食指を伸ばしつつあった
 群小領邦国家においてもバイエルンに対する恐怖は同様で、ここに同盟結成の第一の動機があった
 皇帝フリードリヒ3世もまたバイエルン公兄弟と激しい対立関係にあった
 1487年初頭、皇帝と同じハプスブルク家の系列に属するティロル大公ジギスムントが、バイエルン公アルブレヒトに
死後の遺産相続を約束し、しかも既に前オーストリアの管理を委ねてしまっていた
 皇帝としては、このようなハプスブルク家の勢力を殺ぐ行為を許すわけにはいかなかった
 かくして皇帝、諸侯、シュワーベンの等族を結合させたのは、バイエルンに対する政治的対立であり、その際に仲介者、
調停者としての役割を担っていたのが、皇帝の顧問官であり、しかもシュワーベンの貴族の最有力者でもあった
ウェールデンベルク伯フークだったのもまた当然と言えた
 ただし、シュワーベン同盟の成立自体は15世紀を通じて問題になっていた「帝国改革」運動とは直接には無関係だった
 このため、帝国改革に熱意を持てなかったフリードリヒ3世は、シュワーベン同盟の成立に対しても余り積極的でなかった
とも言われている


そんだけ
41ハプスブルクの道具:03/12/27 09:33 ID:???
 シュワーベン同盟は、成立当初はバイエルンに対するシュワーベンの小領邦国家と帝国都市、皇帝の相互依存の意味合いの
強い同盟だったが、時間の経過とともに次第に変容していった
 同盟とバイエルンの対立は1489年に戦争勃発寸前にまで緊迫したが、後の皇帝マクシミリアン1世の調停によって
一時的な和平が結ばれた
 これ以後、バイエルンはハプスブルク家と協調する方針をとって同盟と接近するようになり、1500年には
マクシミリアン1世の要請によって同盟に加入している
 一方で皇帝の勢力は日増しに増大し、遂に同盟はハプスブルクのオーストリア政策の尖兵を務めるようになる
 当時、スイス誓約同盟はハプスブルクの帝国改革に強く反発していたが、それに火に油を注いだのが、帝国裁判所が
ザンクト・ガレン市に下した帝国破門の判決だった
 それはすなわち、ザンクト・ガレンの商人の生命と財産がもはや安全でなくなったことを意味していた
 この判決を受けてハプスブルクのワルンビューラー一党がドイツとイタリアの街道で輸送中の商品を襲い、
ザンクト・ガレン市の麻織物商業を半身不随に追い込んだ
 これを契機として1498年にレーティエン地方の群小領邦がグラウエン同盟を結んでスイス誓約同盟に加入し、
1499年にハプスブルクの勢力拡大政策と真正面から激突した
 7月22日、バーゼル西方のドルナッハでマクシミリアン1世の軍勢はスイス槍兵密集陣によって壊滅的な打撃を受け、
これが決定打となってバーゼル和約が結ばれてスイスは神聖ローマ帝国から事実上の独立を果たす
 いわゆるシュワーベン戦争で、この戦争で帝国のスイス侵攻軍の主力を担ったのはシュワーベン同盟だった
 また1519年にハプスブルクの意を受けてヴェルテンベルク公ウルリッヒを国外に追放したのもシュワーベン同盟だった
 こうして、農民戦争直前のシュワーベン同盟はハプスブルクの強力な支柱となっており、マクシミリアン1世の没後も
オーストリア公フェルディナント、バイエルン公、ブランデンブルク辺境伯等の大諸侯の利益のために行動するように
なっていた


そんだけ
42大声が会議を仕切る:03/12/27 09:34 ID:???
 シュワーベン同盟は、ラント・フリーデの擁護者として違反者に対して制裁を加え、また外部からの脅威に対抗するために
実力を備えた組織でなければならず、従って同盟は文字通りの軍事組織でなければならなかった
 その最高指導機関である同盟委員会は結成当初は委員長2名と委員18名からなり、委員は諸侯、貴族、都市から
各々6名ずつ毎年選出されたが、これは1500年には委員長3名、委員21名に改正されている
 委員長の選出は同盟委員会の下部組織である各等族議会において行われることになっていた
 委員会は必要に応じて随時に委員長によって召集され、開催地は、ウルム、エスリンゲン、アウグスブルク、
ユーバーリンゲン等一定しなかったが、1500年以降はウルムで開催されるようになった
 また、11月中旬に年1回の定例委員会に限っては、ウルムとエスリンゲンで交替に開催されていた
 委員の主要な権限は、同盟内部の紛争について裁決する他に、同盟への敵対行為や攻撃に対する防衛の決議にあり、
その決議に関する委員会の指導権は常に無制限で行使されていた
 このように同盟委員会は、同盟の内部統制を保ち、その対外行動の方針を決定する中枢機関としての機能を有し、
いわば実質的な連合政府と呼べるものであった
 同盟委員会を構成する21名の委員は、諸侯、貴族、都市から各々7名が選出されていたが、そこでは必然的に諸侯及び
有力な帝国都市の勢力が支配的だった
 1500年当時、オーストリア、マインツ、アウグスブルクの司教、バイエルン、ブランデンブルク、ヴェルテンブルク、
ヴェルテンベルク、バーデンの各諸侯は各1名の委員を推す権利を有し、また都市では、ウルム、アウグスブルク、
メムミンゲン、エスリンゲン等の富裕で強力な帝国都市が委員を独占しており、群小の貴族や都市はほとんど発言する機会を
封じられていた
 上記の諸侯と大都市の面子は時期によってかなりの変動があるが、シュワーベン同盟の寡頭制的性格、すなわちドイツで
発生した領邦国家の利益擁護機関としての性格が、委員会の構成に端的に見出すことができる


そんだけ
 シュワーベン同盟軍の運営は、同盟委員会の政治的な指導の下で行われていた
 軍は常備的なものではなく、事態の発生とともに召集された
 召集兵数は予め各諸侯、貴族、都市に割り当てられていたが、実際の動員数は同盟委員会が決定したが、多くの場合、
実際の動員数は動員定数の6割程度だった
 シュワーベン同盟軍が大規模動員された年の召集動員定数は概ね下記の通りだった
 1490年:騎兵2340、歩兵1万9500  1492年:騎兵3500、歩兵1万4000
 1500年:騎兵1350、歩兵1万350   1512年:騎兵1062、歩兵8435
 1522年:騎兵1330、歩兵9475    1524〜1525年:騎兵1892、歩兵11285
 ただし、農民戦争に際しては同盟委員会は騎兵200、歩兵2000の予備軍を別に編成しており、
更に同盟の費用で召集されながら、諸侯個人の指揮下で運用され、同盟軍に算入されていない軍隊も存在していたから、
農民戦争においてシュワーベン同盟の動員した兵力は動員定数をはるかに上回っていた
 軍隊の装備と食糧は各同盟加入者の負担が原則だったが、同盟規約第74条によれば、召集した兵員に金銭を支払うか
食糧を支給するかはそれぞれの同盟加入者の裁量に任されていた
 また、諸侯や大都市によって編成された砲兵隊の費用は同盟全員に配分されていた
 召集兵員の配分は、当初は諸侯と等族の比率が1:1だったが、後には5:2となり、諸侯の実力が動員力でも
決定的だったことがわかる
 同盟軍の総指揮に任ずる同盟軍総司令の下には司令と砲兵司令が任命されており、総司令は当初は同盟会議によって
選出されていたが、1512年以降は皇帝に任命権が委ねられている
 しかしこれには6名の同盟委員が帯同して一種の軍監としての役割を果たし、総司令は、「この軍事顧問の了解のもとに
振る舞うべし」と定められていた


そんだけ
44泣きを入れてみる:03/12/27 09:35 ID:???
 1525年1月下旬から2月にかけてオーベル・シュワーベンの農民蜂起が急速に激化しつつあった時、
シュワーベン同盟の委員としてウルムに滞在していたバイエルンのエックは、2月11日にバイエルン公ヴィルヘルムに
宛てて一通の手紙を書き送った
 「畏れながら、例え早急に歩兵を送ることができなくとも、使いものになりそうな騎兵だけは緊急に送っていただきたい
 何故なら、この場合一刻の躊躇も許されないからです」
 この要請に基づいて、2月13日に貴族に対して召集令が発せられた
 「何時、何処へ諸君を召集しようとも、諸君は諸君の職務によって定められているに相応しく、従者、馬匹、甲冑を携え、
装備を整えておくように」
 しかし、当時の貴族の大多数は貧困を極めており、この召集に対して当然のことながら苦情が相次いだ
 ヴォルフ・ヴァルフという貴族は同盟委員会に対して嘆願書を送っている
 「私は既にヴェルテンベルク戦争において財産以上の装備を整えなければなりませんでした
 この度は、私に家計を支えられるだけの給金か糧食の支給の約束が与えられますならば、それでやっと4頭の馬を
支度できましょう」
 また、ルドルフという郷士は次のように訴えている
 「私は3週間も瀕死の床についておりまして、ただ今も病気で家から一歩も出ることがかないません
 そこで息子に馬と甲冑をつけて同盟軍に差し出しますが、私自身はこの度は馳せ参ずることができない次第です」
 ファイト・ロートレックなる貴族はもっと悲惨だった
 「私はほんの僅かな財産しか持っておりません
 貧しい貴族であるという以外は資産も官職も身分も持たず、ただこの僅かなもので家族を養わねばならない有様です」


そんだけ
45発破をかけてみる:03/12/27 09:35 ID:???
 下級貴族たちの苦悩をよそに、2月18日に再びエックから報せが届いた
 「本日、事態について熟考いたしましたが、書面に示されているよりもより多くの援軍を送ることが望ましいようです」
 この報告を受けて、2月21日に今度はバイエルン諸都市にも召集準備の命令が下った
 それによると、都市は馬と兵車を用意すべきであり、「市民並びに都市住民はただちに武器と甲冑を完全に整え、
4隊を編成してうち2隊は長槍兵、1隊は弩兵と銃兵であるように」要求されていた
 しかし、事態はますます緊迫の度を増していたため市当局が頼りの民兵を手放す訳がなく、3月31日に閲兵場に
到着した都市の召集兵は僅か877名で、しかもその多くは明らかに兵士としての適性に欠けていた
 このため、4月26日に次のような布告が出された
 「困難なる事態はなおも終結しそうになく、永らく妻子から離れることは市民にとって苦痛であろう
 それ故、市民を呼び戻して、その後は毎月、月の終わりまでに、人または給金のいずれにせよ、金銭を送るか、
あるいは市民自身の代理となるような傭兵を送るか、いずれかを選ぶように」
 この市民の召集に代わる金銭の供出額はかなりの高額で、この軍役免除税が傭兵を雇い入れるための費用に充てられた
ことは間違いない
 バイエルンの場合、割り当てられた兵員の3分の1はこうした軍役免除税で供出されたため、都市民や農民からの
大規模な兵員徴募はかなり後になるまで行われなかった
 これには、農民がしばしば一揆勢に脱走したため、農民の徴募に慎重を極めたことも起因していた
 しかし、隣接したアルゴイ農民団の脅威が増大し、しかもヴェルテンベルクで作戦する同盟軍からの援軍が
当てにならなくなったため、5月14日に初めて農民に対する募兵が発令されることになる
 地方の世話役や判事は農民を集合させ、書記によってこの布告文を朗読させた



そんだけ
46布告文を読み上げてみる:03/12/27 09:36 ID:???
 「傲慢なシュワーベン農民は今やレッヒ河を越えて侵入し、バイエルンの農民に行を共にするよう強要している
 彼らに組みせぬ者は追われ、既に多くの者が家族と家畜を伴いランズベルクやショーンガウへと逃亡しつつある
 加えるにシュワーベンの輩はバイエルン公並びに高貴な人々に向けて不遜極まりない脅迫状や果たし状を手交し、
軍使として派遣された丸腰の騎士を捕らえるに至り、我ら大公は契約に反しても武器を取らざるを得ない
 しかして、レッヒ河を越えてバイエルン公国に侵略してきた者どもおよそ1万4000は、シュタインガーデン修道院を
略奪し、破壊し、焼き払い、今またライテンブーフ修道院もその所領内に住む全ての村人、農民を含め、その恐ろしき
脅威のもとに晒されつつある
 しかしながら、ライテンブーフ修道院の農民たちは屈することを欲せず、シュワーベン農民とは何事も共に為さざること、
彼らが生死を共にする領封の御領主にして慈悲深きバイエルン公のお側に最後まで踏みとどまる旨をシュワーベン人どもに
告げ、かくして数百人のバイエルン農民はパイセンベルクその他の山々に拠ってシュワーベン農民を防ぐべく、良き武器を
携え集まった
 しかして彼らは慎ましき臣下として慈悲深き御主君に身命を捧げ、神の御加護と共にシュワーベン農民の傲慢にして
暴虐な振舞にとどめを刺さんことを雄々しく誓い合った(中略)
 我ら慈悲深き御主君には、忠良にして誠実なる汝らに思いを寄せられ、汝ら全ての祖国、汝ら自らの名誉、資産、家族、
住居をあくまでも維持し、救い、守らんとの思し召しである
 畏れ多くも、汝ら忠良にして慎ましき農民には疑いもなく満幅の信頼を寄せられ、かくては邪悪にして不逞なる
シュワーベン農民が例え四倍に余る多勢であっても、神の御加護の下に勝ちまさるであろう
 また汝らの中には、この領邦の法廷の下において不正なる重荷に困窮しつつあると思い違いをする者もあろうが、
汝らの慈悲深き御主君には、この騒乱、騒擾の鎮まり次第、慈悲深き御配慮と正しき改善を願われている
 しかして畏れ多くも、いかなる疑い、不信を汝ら一人だにも寄せられざる如く、汝ら世話役もまた思慮、情意をあげて
これに思いをいたさんことを」


そんだけ
 バイエルンに限らず、シュワーベン同盟の勢力圏内での農村に対する召集令は大抵がこのような調子で、実際に大きな
反響を呼んだ
 しかし、布告文への反響と、その内容が当時の状況を正確に伝えていたか否かとは全くの別問題だった
 前述のブランデンブルク公の布告文で述べられているシュタインガーデン、ライテンブーフ両修道院領の農民は、
シュワーベン農民を拒絶するどころか、むしろこれに呼応して600名が農民団に加わっていた
 また、武装してパイセンベルクに集まった農民250名は、蜂起農民に対抗すべく集結したのではなかった
 実際には、秘密裡に集まった彼らはより大きな農民団を組織すべく談合していた蜂起農民の指導層だった
 バイエルン公国の至る所で農民の不満が充満していた
 アイハッハの世話役の5月21日の報告によれば、「役人が死刑の脅迫によって農民を武装させ検閲に赴くよう命令した」
時、「彼らは命令に従うべきか、それとも農民団を結成して蜂起すべきか、数時間にわたって協議した」と記されている
 また、ミューニッヒの世話役は、6月10日に、「大公の勅令を奉読した際に、クリスチャン・ライトナーなる男が
これに公然と悪口雑言を吐き散らした」と報告している
 バイエルンはこうした農民の不穏な言動に対して、強力な警察力をもって弾圧した
 既に1525年3月6日には警戒令が敷かれ、「他国者、見知らぬ乞食、巡礼、その他嫌疑のある者に対して食事を
給したり歓待したりしてはならない」と命じている
 そしてこれは農民戦争の激化とともにますます強化されることになる


そんだけ
 下級貴族、都市民、農民の徴集がこのような状況であったから、こうして強制徴募された兵からなるシュワーベン同盟軍が
どのような状態だったかは容易に想像できる
 3月1日、エックは委員会に宛てて、バイエルン公ヴィルヘルムから同盟に送り込まれた軍勢について、次のように
書き送っている
 「歩兵隊の隊長シュテッケルが本日私に通報したところによりますと、100名が脱走してミュンヘンへ向かったと
いうことです
 しかもシュテッケルの手許には金もなく、書記も一人としておらず、全く聞くに堪えない汚らわしい話です
 畏れながら、この悪人どもについていかが思召されましたでしょうか
 シュテッケルは兵の多くがミュンヘンの者だと申していますが、奴らはしたい放題の破廉恥極まりないならず者ばかりです
 奴らに対しては、畏れながら無慈悲に振舞わねばならず、笞で打つこともまたやむを得ないでしょう
 我々は踊りに来たのではなく、戦争に来ているのです
 金を貰う時は一人も欠けることはないのに、検閲となると多くの脱走兵が出るのを私自身よく存じております」
 当事者たちの不満がこうであったから、ましてや民衆の同盟軍に対する嫌悪はこれ以上だっただろう
 同盟軍では軍律など存在しないに等しかった
 2月24日、ヴェルツブルク市参事会がバイエルン政府に訴えたところによれば、バイエルンの部隊がヴェルツブルク市を
通過した際、隊長か憲兵が諸経費を支払って市の制度を尊重するよう前もって文書で確約されていたにもかかわらず、
「全ての約束が守られず、夜となく昼となく市の門は開放され、これを閉めようとした市参事会の者は殴り倒され、
今日においても軍需品その他の提供に対する支払の多くが行われておらず、市民は兵士によって笞打たれている」
と述べられている
 「要するに市民誰一人として日々自らの家庭の平和を保ち得ない」ような恐るべき事態が至る所で現出していたのだった


そんだけ
49村のみんなとは戦えない:03/12/27 09:40 ID:???
 強制であろうがなかろうが、徴募兵における農民の比率がどうしても高くなることは避けられない
 シュワーベン同盟軍においても例外ではなく、農民出身の徴募兵はかなりの割合を占めていた
 そして彼らの多くが自らと同じ社会階層である蜂起農民に対して敵愾心を抱いておらず、募兵の段階で既にこのことを
言明していた
 エックの書簡でも、「我々は農民に対しては使われたりはしないと決心している兵を4000人も所持している」とか、
「グレームリヒが同盟軍の歩兵2000を率いて進軍したが、彼らは農民と戦うことを欲せず、安穏なるままにおかれんこと
を嘆願する有様で、我々が命令に服従するよう命じれば脱走してしまう」と記されている
 オーストリア大公フェルディナントも、「兵士たちにはよく働けるように絶えず給金を支払わせている
 しかし彼らはいかなる待遇いかなる報酬があっても、決して農民に対して立ち向かったりせず、これを拒絶し、支払が
あった後でお互いにこっそり好き勝手に逃走してしまう」と嘆いている
 バイエルン公ルードヴィッヒが共同統治者である兄のヴィルヘルムに宛てた信書には、
 「騎兵は役立たず、歩兵は信用できず、奴らはみな農民だ
 あなたも知っているように、奴らは理由もないのに進もうとしない
 要するにチンピラどもを信用してはならない」と記されている
 同盟軍内の農民出身の兵の脱走、寝返り、不服従、農民団への通敵を示す史料は枚挙に暇がない
 同盟軍は常に分裂の危機を内在していた


そんだけ
50戦場に群がり集う狗:03/12/27 09:40 ID:???
 シュワーベン同盟軍は、一面では確かに分裂と寝返りの危機をはらんだ軍隊ではあったが、実際にはそうならなかった
 そして勿論、そうならなかっただけの理由があった
 エックはヴィルヘルム公宛てに次のような進言を行っている
 「畏れながら、私が憂慮いたしますように、土着の者から有力な武装兵を召集し得ないとお考えになり、
マントヴァに書面を送って200乃至300名の軽騎兵をすぐに掻き集め、適当に養っておいてはとお考えになろうとも、
私は別に異存はありません
 何故なら、ヴェネツィアがそのような軽騎兵を多数召し抱えているという話ですし、手を尽くせば精々一月足らずで
200乃至300、あるいは400位は集められるものと思います
 農民に対して非常に『いい奴ら』です
 というのは、公国に一揆が起こるような場合、このような軽騎兵とかボヘミア人といったような外国兵を使って鎮めるのが、
またとない名案に他ならないからです」
 事実、多数のボヘミア人歩兵が手段を尽くして集められ、4月の時点でヴィルヘルム公の手許だけで既に1000名に
達していた
 また、同盟軍も多数のボヘミア人傭兵を雇い入れていた
 外国人傭兵だけでなく、賃金に対して雇われたいと望む農民は地元でも多数存在し、傭兵隊の編成は容易に行われた
 例えば、5月11日、上アルゴイ農民がバイエルン公国に侵入した際、ザルツブルク大司教は、歩兵350名のために
1400フローリン、騎兵50名のために600フローリン、計2000フローリンを傭兵調達資金としてバイエルン公に
贈っている


そんだけ
 シュワーベン同盟は実質的に軍事組織であり、その最高指導機関である同盟委員会は同時に同盟軍の総司令部でもあった
 しかし、委員会は決して最初から農民団に対して強硬姿勢で統一されていた訳ではなかった
 特に都市の代表者はしばしば平和的な交渉によって事態を収拾することを主張しており、その中心的人物である
アウグスブルクの委員アルツトは主戦論に反対して次のように述べている
 「私は全く反対だ
 例えなにがしかの富を得ようとも、それは我々にとって快いものだろうか
 我々が剣をもってせしめたものは、我々全てにとって快いものだろうか
 土地と人間の荒廃、夥しい流血がきっと起こるだろう
 それ以外の何ものでもないのだ」
 また、皇帝の代理であるバーデン辺境伯フィリップ、ザクセン選帝侯フリードリヒも、「穏やかに協定を結び、大規模な
戦争にまで拡大しないよう」同盟委員会に勧告している
 このような穏健派に対し、強硬派としてはバイエルンがあり、またヘッセン方伯フィリップなども容赦ない農民弾圧を
主張していた
 これらを代弁しその推進者となったのが、バイエルンの官房長ラインハルト・フォン・エックである


そんだけ
52声高に叫ぶ人:03/12/27 09:42 ID:???
 エックは早くから詭弁と強引さと陰謀の人として知られていた
 初めて同盟委員会に出席したのは1513年2月23日だったが、その時から精力的な活動によって同盟を主導し、
彼無しには委員会は決議が進まず、決議の文案さえもエックの添削を受けたと言われている
 また彼はあらゆる作戦に直接関与し、彼自身が自負しているように、「彼がいない限り、誰も戦争に赴こうとは思わない
と他の委員たちが懇望する」有様だった
 そして絶えず都市の穏健派の克服に努め、国外追放されたヴェルテンベルク公ウルリッヒが農民と協同して
シュワーベンに来襲しつつあると脅迫的な警告を振りまき、ついに同盟委員会を主戦論でまとめ上げることに成功した
 彼は文字通り戦争準備に没頭し、2月15日の手紙で、「私が例え1時間でもありとあらゆる奸計や悪巧みの話を
していることがあれば、10フローリンの金をやってもいい」と言明するくらいで、3月17日の手紙では、
「恐らく過労のため、神の御意志のため、体が少なからず弱まった」とも記している
 ただし、10フローリン程度の端金よりも奸計を巡らすほうがエックにとっては大事だった
 エックは農民一揆の原因を全てルターにあると主張していた
 1523年の書簡では、「全てはルターの教説に少なからず原因があり、しかも日毎に勢いを増しており、恐らく何よりも
憂慮されるべきです
 このような不服従からはキリスト教信仰の頽廃ばかりでなく、臣下たちに御上への蔑視と根絶の企てを引き起こすでしょう」
と警告を発している
 戦争の激化とともに論調は激しさを増し、「これらの出来事は全てルターのせいで起こったのです」、
「ヘーガウ、ブライスガウ、シュワルツワルト等の農民蜂起は全てルター派の坊主どもが起こしているのです」
と言い始め、ついには「諸侯や貴族を打ち倒そうとするこれらの振舞は結局のところ、その根源をルターの教説に発している」
と叫び続けた


そんだけ
53:03/12/27 09:42 ID:???
エックには、農民の行動に対する冷静な判断、農民からの要求を理解しようとする努力などは端から眼中になかった
 彼は、「なるほど農民たちはその貪欲のために神の言葉、福音、隣人愛を引き合いに出している」、「しかし私は農民の
兄弟愛には全く反対だ」、「もしフッガーが私と隣人愛を分かち合うとすれば、これほど残念なことはない」などと
語っている
 そして農民の要求に対しては、「どれ一つとってみても、驚かされないものはありません
 奴らは河川を全て自由にしようとしているのですから」と言うだけで、有名なシュワーベン農民の十二箇条についても
これを黙殺し、最後には「貴族は皇帝に至るまで全て皆殺しにし、いささかも容赦しないつもりだとハイルブロンの農民が
宣言した」と曲解する始末だった
 要するに彼は徹頭徹尾、反農民で一貫していた
 「農民どもは正真正銘の悪魔で、奴らを信じてはなりません」、「農民どもは本物の野獣です」、「この悪魔どもは絞首刑に
してから破門しなければなりません」、「もし(農民との)交渉が決裂するような事態になれば、トルコ人が攻めてきたと
思って振舞う以外にはありません」などと絶えずバイエルン公に進言し続けたのだった


そんだけ
54世界を敵に回しても:03/12/27 09:43 ID:???
 このような調子だったから、当時の人たちも流石にエックはやば過ぎると感じていた
 皇帝カール5世はエックの人物像を次のように評している
 「あれは裏切りや破廉恥にかけてはユダヤ人を上回り、金のために祖国や帝国、全世界だって売りかねない
 たんまり金を掻き集めた後で一人で死んでいくだろう」
 この証言は戯画化されてはいるものの、確かにエックは目的のためなら手段を選ばなかった
 「援軍が来るまで、我々は悪漢どもと交渉を引き延ばすつもりだ」
 農民団の勢力が優勢だった場合、彼は協定を結ぶことを躊躇しなかったが、その狙いは時間の余裕の獲得で、交渉の
結果など最初から気にしておらず、十分に兵力を整えた頃、彼は農民を挑発し協定を踏みにじり、攻勢に出て農民団を
徹底的に粉砕するのが彼の得意技だった
 更に、彼は農民の処断に当たって一片の慈悲も見せなかった
 前線からバイエルン公に宛てた書簡のほとんどで、彼は隠しきれぬ喜びをもって処刑した人数を報告している
 「ロートリンゲン公がエルザス・ツァーベルンで農民2万人ほどを斬り殺しました(中略)
 プファルツ伯ルードヴィッヒは農民1万8000ほどを撃ち殺しました(中略)
 21日にヴァインスベルクを焼き払い、何一つ残しませんでした(中略)
 (捕虜2名を得ましたが)その1人の首領は木の下でじりじりと焼き殺しました
 その他の刑罰はとても思いつかなかったからで、もう1人は斬首しました」
 こうしたエックの目指していたのは領邦権力、この場合はバイエルン公国の権力強化だった
 彼はそのために全力を傾け、周囲の誹謗中傷にもかかわらず、その政策を遂行した
 彼を理解し、終生親密であり続けたのはバイエルン公ヴィルヘルムだけだった
 ヴィルヘルムの弟ルードヴィッヒは次のように語っている
 「兄はエック以外は誰も信用しようとしない
 『似た者同士』というが、彼はまさしくそれだ」


そんだけ
55法難:03/12/27 09:44 ID:???
 エックはまた、農民戦争の機会を利用して教会財産の奪取をも目論んでいた
 シュワーベン同盟軍に提供した部隊やバイエルン公国領を防衛する部隊にそれぞれ莫大な給与を支給しなければ
ならなかったが、この負担を農民に押しつけることが更なる一揆を誘発することは流石に彼も気づいていた
 このためバイエルン政府は、教会、特に修道院に軍費の財源を求めた
 「全ての教会から金を集め、特に修道院からは数千グルデンの賦課がなされるべきです」と彼は書き送っている
 既に1523年、緊急の際には教会財産を使用する許可を教皇から獲得し、1525年2月18日、特別委員が任命されて
差し当たって総計3万フローリンの集金が決定され、目立った反発もなく実行されている
 4月2日、委員は教会と修道院を巡回して金銭や銀器の供出を命じ、続いて4月23日には一般の聖職者にまで
資金供出負担の範囲が拡大されることになった
 5月7日、第二次強制募金が修道院に命じられ、回状には「農民は司教、修道院長、司祭をはじめ全ての聖職者を
追放しようとしている」という脅迫的文言がご丁寧に記されていたが、貧困な下級修道院や聖職者はこれに応ぜず、割当額の
半分も集まらなかったと言われている
 それどころか無数の苦情が寄せられ、ベネディクトボイエルン修道院長は、「当修道院は以前より負債を負い、誰も金を
貸してくれない」、ロール修道院長は、「最善を尽くしたが、最初の集金のため当修道院は破産状態にある」と言い、
「真実を申し上げれば、教職者たちは酷く貧乏しております
 さもなければ全くこのことを喜んだでありましょう
 司祭様に1グルデン差し上げるより、慈悲深き我が御主君に4グルデン差し上げるほうが嬉しく存じます」と訴えている
 しかしバイエルン政府は容赦なく6月12日に三度目の寄付を強要し、最後に既に戦火の収まった9月上旬、
5万フローリンの募金を割り当てている
 こうして教会財産の略奪は常軌を逸した横暴を示し、例えばテーゲルンゼー修道院の被害だけでも、
軍費4000フローリン、現物1000フローリンに達している


そんだけ
56自転車操業:03/12/27 09:45 ID:???
 実際のところ、同盟軍の財政はほとんど整備されておらず、このため資金調達は泥縄で行われた
 兵の装備と糧食は各当事者の負担だったが、その他の費用を巡っては都市と下級貴族の間で果てしない争いが
続けられていた
 1500年の決議でようやく、各加盟者の収入の1パーセントを払い込むことが決定された
 しかし貴族はほとんどその義務を果たすことが出来ず、またこの頃頻発した戦争のために軍費は到底賄いきれないほどに
膨張し、結局、貴族と都市を問わず、人口に応じて軍費が割り当てられるようになった
 農民戦争が勃発すると同盟委員会はますます財政窮乏に迫られ、ついに加盟者に割り当てられた軍役提供の3分の1を
金銭で代納するよう各加盟者に呼びかける有様だった
 しかもその払込みすら滞ったため、鎮圧された一揆農民から過酷な罰金を徴収することによってかろうじて急場を凌ぐ
ことを余儀なくされていた
 罰金額は農民一人当たり6〜8フローリンが相場で、例えばラインガウの農民たちは1万5000グルデンを
支払わねばならなかった
 また、シュワーベン同盟はアウグスブルク、ニュルンベルク、ラーフェンスブルクの大商人に寄付を勧誘したが、いずれも
拒絶され、ただヤコブ・ブッカーだけが4000フローリンを寄付していた
 フッガーは同盟の有力な諸侯であるオーストリア大公フェルディナントに、農民一揆に対抗するための資金として
1524年に2万5000フローリンと2000ドゥカーテン、1525年に5万9562ドゥカーテンを融通している
 フッガーが農民戦争で無関心な中立を保っていたとする説もあるが、少なくとも資金面で同盟を援助した反農民運動の
強力な支持者であったことは否定できない


そんだけ
57妥協は存在しない:03/12/27 09:46 ID:???
 前述のように同盟内部でも穏健派と強硬派が存在しており、この態度の相違にによって農民戦争の経過もまた交渉や調停の
時期と武力衝突の時期という二つの段階に概ね区分される
 例えばマインツ大司教領に属するラインガウは経済的に裕福な地域だったが、同時に過去にも何度か一揆が発生しており、
潜在的な危険地帯でもあった
 1524年11月頃にマインツのヘディオという改革派教職者の煽動によって蜂起の準備が整えられ、翌1525年
4月23日、エルトヴィレ市民が市参議会に訴状が提出されたのを契機に一揆は各地に拡大し、間もなく29箇条に及ぶ
訴状が作成された
 この訴状は大司教の代理人に手交され、交渉は長引いたものの、やがて在地貴族が市民と農民に加盟するに至って
5月18日にその要求が全面的に認められることになった
 ところが両者の協定が施行されようとしていた時になって、部外者が全てをひっくり返してしまった
 ベーブリンゲンでフランケンの農民団を撃破したシュワーベン同盟軍が、余勢を駆ってマインツ領に進出してきた
 注目すべきは、農民団に妥協した立場のマインツ大司教でさえ同盟軍を歓迎しなかったことである
 この時、マインツ大司教の代理人であるシュトラスブルク司教ヴィルヘルムは、同盟軍にマインツ領への進軍を中止する
よう申し入れている
 しかしこれに対して同盟軍の総司令で、「農民のイェルク」の悪名でドイツ史上に燦然とその名が輝いている
トゥルフゼス・ゲオルグ・フォン・ヴァルトブルクは、この要請を拒否して次のように答えたと伝えられている
 「我々は、農民の放縦、乱暴、由々しき誤謬に対しては厳粛かつ断固とした態度をとるように命令を受け、その責務の
ためには、我々は汝らの御主君(マインツ大司教)の慈悲深き嘆願を受け入れられないし、また言われるべきではないのだ」
 これでマインツの農民たちの運命は決まった


そんだけ
58神罰の味:03/12/27 09:47 ID:???
 和平交渉は、ラインガウに限らず、多くの地域で試みられていた
 フルダ修道院領は、4月22日に副修道院長と一揆勢の間で平和裡に協定が結ばれたにもかかわらず、5月3日に制止を
押し切って進攻してきたヘッセン方伯フィリップの軍勢に蹂躙されている
 他にも5月26日にはレンヘンで穏健な内容の「オルテナウ協約」が成立していたし、バーデン・ドゥルラッハ、
シュパイエルのブルーライン、ブレッテンのクライヒガウ、その他多数の地方において、交渉による解決の可能性は十分に
あった
 こうした交渉は全て4月あるいは5月上旬に結ばれ、農民団への血みどろの攻勢は上シュワーベンを除けば5月に始まり、
6月にはその頂点に達する
 この5月上旬が、農民戦争における平和交渉から武力衝突への転換点となった
 ただし、5月上旬までの交渉による解決への努力は過大評価できない
 確かに農民に対して穏健な領主は例外的に存在しただろうが、領主と農民が結んだ、あるいは結ぼうとしていた協定の
中には、領主に強制されたものや、その場凌ぎの時間稼ぎのために領主によって譲歩されたものが圧倒的に多かった
 上シュワーベン、アルザス、プファルツ等では、時間を稼ぐために、交渉があからさまに引き延ばされている
 また、中には農民に力ずくで協定を強制された領主も少なくなかった
 農民戦争の起点であるシュトーリンゲン村の一揆とワルズフート市の蜂起からして、領主との交渉やシュトックアッハの
調停裁判にかけられており、しかもそれは領主側にとっては単に時間の余裕を獲得せんがための方策に過ぎなかった
 ともかく4月までの交渉と協定の時期は、個々の事情はどうであれ、客観的には帝国の作戦準備期間であり、5月以降、
帝国領各領主の反攻が一斉に開始された
 そして、反抗戦力の唯一の中核的存在こそがシュワーベン同盟軍だった


そんだけ
59足りないのは覚悟だ:03/12/27 09:48 ID:???
 1524年末から1525年2月中旬にかけてのシュワーベン同盟軍はお話しにならないくらい劣勢で、ただ拱手して
一揆の拡大を見守る以外になかった
 2月中旬、追放されていたヴェルテンベルク公ウルリッヒが農民兵とスイス人傭兵を率いてヴェルテンベルクに侵入し、
シュトゥットガルトを占領する直前にまで迫ったが、後援者であるフランス王フランソワ1世がパヴィアで敗北した上に
囚われてしまったため、後方連絡線が途絶したウルリッヒ軍は自壊してしまった
 この時、シュワーベン同盟軍はシュトゥットガルトの防衛についていたが、これを契機に戦力を回復していく
 逐次陣容を強化した同盟軍が行動を起こしたのは、ようやく4月に入ってからだった
 統一した作戦展開能力に欠く農民団側は同盟軍の機動作戦に抵抗できなかった
 まず4月4日、トゥルフゼス・ゲオルグ・フォン・ヴァルトブルク率いる同盟軍はウルム近郊のライプハイムで
バルトリンゲン農民団を襲撃してこれを撃破した
 この際、農民1000名が殺され、3000名が捕らえられたという
 続いて4月中旬までにバルトリンゲン農民団の残余を殲滅してこれを完全に解体し、次いで15日から16日にかけて
ヴァインガルテン修道院近郊でボーデン湖畔農民団と対峙した
 両軍の兵力は農民団1万2000、同盟軍7000と同盟軍が劣勢で、しかもボーデン湖畔農民団は農民団きっての
武闘派と言われており、大砲すら装備していた
 そこでヴァルトブルクは4月17日に「ヴァインガルテン協定」を結び、戦闘を避けてヘーガウに撤退した
 この協定は、同盟軍の破滅を救ったのみならず、シュワーベンにおける、ひいては帝国全域における農民蜂起を挫折させる
ことになる
 農民団は、団の規約文書や旗を引き渡し、要求書をオーストリア大公の主催する調停裁判に提出し、それまでは従前通り
租税を納めるという妥協的な、そして戦略的敗北に等しい協定に満足し、それと引き換えに、総計3万に達するとまで
言われる戦力を擁する農民団は、戦争に一挙に決着をつけられるかもしれない最良の瞬間に解散したのだった


そんだけ
60機動戦:03/12/27 09:49 ID:???
 ヘーガウに向かった同盟軍は、シュトックアッハで進路を北に転じ、ヴェルテンベルクに入った
 ここで一揆勢の中でも穏健派のマーテルン・フォイエルバッヘルに率いられたヴェルテンベルク農民団1万2000が
同盟軍を迎え撃ち、5月10日、ヘレンベルクで対峙した
 ヴァルトブルクは敢えて攻撃せず、農民団と交渉をもち、5月12日、休戦条約を結んでベーブリンゲンに進駐するや、
直ちに条約を無視して砲撃を加えて農民団を撃破した
 この戦闘で、農民約2000から3000、一説には8000が殺されたと言われている
 続く23日、同盟軍はキルヒガウ農民団を撃破してプファルツ選帝侯ルードヴィッヒの作戦を掩護した
 選帝侯軍がブルーライン、ブルフザールを占領してプファルツの一揆を鎮圧した後、同盟軍は選帝侯軍を加えて
フランケンに転じた
 一方、農民蜂起の精神的指導者であるトマス・ミュンツァー率いるテューリンゲン農民団は、5月15日、
フランケンハウゼンで諸侯軍に惨敗し、その本拠地ミュールハウゼン市もザクセン選帝侯によって占領された
 ミュンツァー一派の運命が決した同じ15日、フランケン地方ではラウベルタール農民団、
オーデンヴァルト・ネカータール農民団、計1万5000がヴェルツブルク司教領で合同し、ウルゼルフラウエンベルクを
包囲しつつあった
 この攻撃は完全に失敗し、しかも彼らは部隊を再編成するどころか逆に分裂をはじめ、何かと口実をつけて離脱する者が
続出した
 こうした農民側の無為無策に乗じてフランケンに入った同盟軍は5月29日にカールスウルムを奪取し、次いで6月2日に
タウベル湖畔のケーニヒスホーフェンで敵前強襲渡河して下フランケン農民団を撃破、4日にインゴルシュタットの城址で
農民団残余の英雄的な抵抗を掃討し、7日にヴェルツブルク市を奪回してフランケン地方の農民一揆を完全に鎮圧した
 6月17日、バムベルク司教領に進出した同盟軍はハルシュタットを焼き払った
 この際、「騎兵たちは何人も容赦せず、隊長を激怒させ、味方でありながら敵よりもなお有害な存在だった」
と伝えられている


そんだけ
61彼らの自慢も終わりを告げ:03/12/27 09:49 ID:???
 シュワーベン同盟軍という独立的に行動するたった一個の野戦軍によって、農民団がこれほど短期間の間に次々に
撃破されていったのにはそれなりの理由があった
 一つには、よく言われているように、農民たちに軍事的、政治的な指導者を欠いていたことにあった
 農民戦争における一揆勢は同時多発的に発生した各地の蜂起の総和に過ぎず、決して各農民団が組織的に連携していた
訳ではなかったため、作戦展開における戦力集中の点で農民たちは圧倒的な不利にあった
 前述の通り、農民団の軍事力の中核は同盟軍や諸侯軍と同様にランツクネヒトだったが、「戦い慣れたランツクネヒトは
下士官としては優秀だったが、司令官としては駄目だった」
 トーマス・ミュンツァーは一揆勢の精神的指導者だったが、彼でさえ狂信的な小集団を統率できたに過ぎず、統一した
戦線を構築するだけの力量はなかった
 もう一つは、農民団の戦術的限界にあった
 騎兵戦力で劣勢を余儀なくされていた農民団の慣用していた戦術は、フス戦争でフス派が編み出した車両要塞の発展型
だった
 車両要塞は基本的に陣地防御戦術であり、軽砲や弩、アルケブスと、それを防護する車陣と長柄武器で構成されており、
陣地防御の要件である火力と障害を連携させることによって、フス戦争においては確かに教皇の装甲槍騎兵の突撃を
破砕してみせた
 しかし、大砲が当たり前のように野戦に投入されるようになっていた農民戦争の頃にはもはや通用しなくなって
いたのだった


そんだけ
62不実と悪意の故に:03/12/27 09:50 ID:???
 生き残っていた農民団は今や二つに過ぎなくなっていた
 そのうちヘーガル・シュワルツワルト農民団は7月2日にオーストリア大公フェルディナントの軍によって撃破されて
四散し、残るアルゴイ農民団は、7月15日、ヴェルツブルクから急行軍で南下してきたシュワーベン同盟軍にロイバスで
蹴散らされた
 ザルツブルクの一揆は、ゲオルグ・フォン・フルンズベルク率いる同盟軍支隊と戦ってかなり有利な協定を約束されつつ
8月末に鎮められた
 1525年12月7日、一揆の発祥地であるワルズフート市が同盟軍とオーストリア諸侯の部隊によって占領され、
かくして農民戦争は完全に終結する
 ちなみに、ザルツブルクの一揆勢は翌1526年4月上旬に再び大規模な蜂起を起こし、今度は同盟軍主力によって
粉砕されている
 同盟軍の作戦を見ると、シュワーベン同盟軍が4月上旬から7月にかけての4ヶ月間にドイツ南西部を旋回しつつ、
しかも要所においてはかなりの速度で行動していたことがわかる
 そしてその至る所で、単独で、あるいは諸侯の軍と連携しつつ、蜂起農民を撃破した
 まさしく同盟軍こそが、この戦争において恐らく唯一の戦略機動打撃部隊であり、領主側の反撃のための切り札に
他ならなかった


そんだけ
63純粋戦闘手段:03/12/27 09:51 ID:???
 シュワーベン同盟軍が、多くの傭兵によって構成されていたことは様々な点から指摘することができる
 同盟委員会は1525年2月上旬に各加盟者に対して3期に分けて兵員提供を命じているが、それは金銭によって
代納してもよく、実際に2月末に2万4700グルデン、5月半ばに3000グルデンが現金で代納されている
 また、兵員を提供する場合でも、騎士や民兵、強制徴募兵、傭兵等、その出自は問われなかった
 市民の多くは軍役を忌避して代理人を出すか、免除金を支払うほうを選んだ
 同盟とは別に諸侯が独自に行っていた徴募も実際には金銭獲得の名分に過ぎなかった
 こうして集められた軍資金は、ほとんどが同盟委員会、あるいは諸侯による傭兵の雇用に充てられた
 更にボヘミア人傭兵や北イタリアのラテン系職業傭兵が同盟軍の一翼を担い、「一揆鎮圧の最良の手段」とまで
評されている
 また、農民出身の強制徴募兵は信頼性に問題があり、しばしば命令不服従や通敵の傾向が見られたが、金銭を目当てに
同盟軍に応募してきた農民出身の傭兵は、本来同胞である農民に対してほとんど呵責を感じておらず、少なくとも農民への
同情から略奪や暴行を手控えたような史料は存在しない
 そして、同盟軍を指導していたのもまた全ての封建支配階層ではなかったし、同盟自体が全ての支配階層の利益擁護機関
ではなかった
 同盟の結成の経緯自体が、強力な領邦国家の寡頭制的支配のための手段に他ならず、絶対主義の形成期に要求された
傭兵軍の原型となるものであった
 なお、シュワーベン同盟は農民反乱の危機を克服後、その役目を終え、1534年、ヘッセン方伯フィリップに支援された
ヴェルテンベルク公ウルリッヒの帰還を直接の契機として解散した


そんだけ
64フランスの事情:03/12/27 09:51 ID:???
 封建制とは、土地を媒介として成立する軍事的主従関係であり、故に封建軍の中核をなしているのは、封土の所有を
前提に本来無報酬で召集に応じる家臣団である
 換言すれば、王領地においては封土を保有する全ての貴族、王領地の外にあっては王と直接の封建的主従関係を結んだ
大貴族や諸侯と彼らの率いる陪臣団であり、両者が王の軍隊を構成している
 しかし、こうして形成された軍隊は、局地戦ならばともかく、大規模な総力戦を戦おうと決心した王にとって、慣習上、
または契約上、余りにも大きな制約を内在していた
 第一には、軍役奉仕の時間的空間的制約で、従軍する範囲は地域的に限定されていた
 第二に、諸侯たち封臣軍の軍役奉仕は安定性、永続性に欠け、また提供する兵力は常に不十分な傾向にあった
 このような問題は封建軍固有のもので、中世フランスにおいても例外ではなかった
 慣習上、フランス貴族は自らの属する州の外にあっては40日を越えず、また諸侯たちが国王に提供する兵力は彼らの
保有兵力の1割程度だったと言われている
 11世紀末、バイユー司教は、騎士100名の封主として彼らの軍役奉仕を受けていたが、司教の封主である
ノルマンディー公に提供すべく義務づけられていたのはそのうち20名だけだった
 しかもノルマンディー公が国王への軍役奉仕のための兵をバイユー司教に求める場合、司教が提供することになっていた
のは僅か10名に過ぎなかった
 一般に、フランス国王に対して諸侯たちが提供した騎士は総計でも1000名を越えることはなかった
 当然、国王は軍隊の主力を王領地貴族に求めざるを得ず、その兵力もまた大きな限界を免れ難かった


そんだけ
65騎兵の時間:03/12/27 09:52 ID:???
 勿論、フランスの軍事力を構成していたのは貴族のみではなく、都市や農村も主に歩兵を提供していた
 しかし彼らも貴族同様に時間的、空間的制約と兵力の限界を避けることはできなかった
 彼らを召集すべき国王の総動員令も、理論上はともかく、現実には王領地以外に及ばず、しかも彼らの軍役服務期間は
3ヶ月以上は許されなかった
 しかも、装甲槍騎兵の発展に伴い、野戦における歩兵の戦術的価値は相対的に低下していく傾向にあった
 また、余りにも巨大な野戦軍は兵站上維持し得ないという事情もあった
 このため、むしろ国王は歩兵を大量に徴集するよりも、軍役免除税の代納を推奨し、彼らの軍役奉仕義務をフランス全土に
拡大・強制しつつ、その金銭による代納を要求し、その軍役免除税をもって無制限に運用できる傭兵を適時に雇用し維持する
ようになっていく
 このような事情であったから、フランス国王が実際に召集し、運用できる兵力はそれ程大きくなかった
 ルイ6世とルイ7世が対イングランド戦に投入したフランス野戦軍の兵力は、1194年で騎兵300〜400、
歩兵5000、1203年で騎兵300〜400、歩兵8000、1214年のブーヴィヌの戦で
フィリップ2世の軍勢は騎兵3000(うち装甲槍騎兵1000)、歩兵8000〜1000、1268年の
十字軍にサン・ルイが派遣した兵力は非戦闘員を含めて約1万、カペー朝末期においても王の召集する野戦軍は
騎兵2500、歩兵1万〜1万5000程度が上限だった
 しかも、これらの数字に少なからぬ数の傭兵が含まれていたことはまず間違いない
 以上のように、中世フランスの封建軍がそれ自体固有の制約を内包している以上、比較的大規模な作戦を控えた国王や
諸侯が、金銭によって無制限に運用できる傭兵の雇用を躊躇う理由はどこにもなかった
 傭兵は中世封建軍制の制約を打破する不可欠の要素として、中世を通じて存在していたのだった


そんだけ
66異邦の兵:03/12/27 09:53 ID:???
 既に992年にアンジュー伯フルコがブルゴーニュ公コナンとの抗争に派遣した軍は傭兵軍だった
 1066年、ノルマンディー公ウィリアムのイングランド征服に従軍した兵の大半もまた傭兵だった
 1103年、フランドル伯ロベールがイングランド国王ヘンリーに対して年400マルクの報酬で毎年1000名の騎士を
調達することを約した傭兵契約は、低地地方に存在する傭兵の存在を示唆している
 1174年、ルイ7世がドイツとフランスに巣喰う傭兵の一掃について皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサと結んだ
協定では、「ブラバント人と呼ばれる非道の輩」を両国から追放することが約されていた
 1179年のラテン宗教会議では、「ブラバント人、アラゴン人、ナヴァール人、バスク人」及び彼らに対して
武器をとることを拒む者には教会が厳罰を加えることが指令されており、当時フランスで、ブラバント、アラゴン、
ナヴァール等の出身の傭兵が横行した事実を示している
 12世紀以降、傭兵の比率は増加し続け、14世紀になってもこの傾向は続く
 その反面、フィリップ4世の治世になると、彼らの略奪は公共の治安に対する最大の敵となった
 1312年、フランドル遠征から帰還した傭兵数百名が略奪の罪を問われてブールジュにおいて絞首刑に処されている
 この時期のフランスで注目すべき傭兵として、フィリップ4世の治世以降に雇用されるようになった帝国騎士と
ジェノヴァ弩兵がいる
 フランスの東辺には、神聖ローマ帝国に属しながら事実上半独立の公伯の領国が多数存在しており、ロレーヌ公、
ブラバント公、ルクセンブルク公、ブルゴーニュ伯、サヴォイ伯等の公伯は、専ら報酬を目当てに、しかもこの報酬を
もって法理上一種の封土とみなして擬制的な「臣従宣誓」を捧げながら、フランス国王と一時的な軍事奉仕契約を結び、
国王は彼らが提供する帝国騎士をもってその軍隊を補強していた
 一方、ジェノヴァ弩兵もまた契約によってジェノヴァ市が提供していた
 イタリアやドイツに比して都市工業の発達が遅れていたフランスでは、12世紀以来次第にその戦術的地位を向上させつつ
あった弩の専門射手を国外に求めなければならなかった


そんだけ
67極悪人:03/12/27 09:53 ID:???
 帝国騎士やジェノヴァ弩兵は、百年戦争期を通じて継続的に雇用され、その数も増加する傾向にあった
 1346年のクレーシーや1382年のローズベーケでは彼らが重要な役割を担っていた
 また、この他にもフランス軍にはイタリアやスコットランド等から継続的に傭兵が供給されていた
 1424年のヴェルヌーイエ戦では、フランス軍1万4000のうち、ミラノ公が送ったイタリア人傭兵が500ランス、
スコットランド王が送ったスコットランド人傭兵が5000、その他にスペイン人傭兵400〜500ランスが従軍していた
 これらの傭兵たちは、それでも基本的に封建的な体質を保持しており、封建制を破壊もしくは否定する存在というより
むしろ封建制を補強する存在と言えた
 そして、フランス軍にはこれらの傭兵の他にも、封建的主従関係から独立し、封建軍制の枠外で行動する傭兵団、
いわゆる野武士団compagnie、ドイツでは後世に盗賊騎士団と諷刺される武装集団が存在していた
 その起源は必ずしも明らかではないが、初めて登場するのは14世紀中頃、すなわち百年戦争初期である
 それは、イングランド人を首領としてブルターニュで結成され、1347年にエドワード3世に雇用された幾つかの
野武士団がその最初だったと言われている
 しかし、フランスにおいて野武士団がその略奪行為が顕著となるのは、1356年のポワチエ戦の後、特に1360年の
ブレティニーの休戦以降のことで、これらの野武士団がもともと傭兵団として英仏のいずれかに雇用されて従軍していたのか、
それとも休戦の結果、本来の封建軍が野武士団化したのかは明らかでないが、恐らく両者ともあったと思われる
 前にも述べたが、ブレティニーの休戦後、英仏両軍、特にイングランド軍から解雇された野武士団の略奪こそが、
フランス全土を震撼させた最初の事例となった


そんだけ
68Tard-Venus:03/12/27 09:54 ID:???
 一般に、野武士団は戦争以外には略奪しか生活手段を持たない
 ブレティニーの休戦は彼らから生活の糧を奪い、とりわけエドワード3世と当時ノルマンディーの大半を領有していた
ナヴァール王シャルル・ド・モーヴェーによって給与の支給を停止されたイングランド軍内の野武士団は、彼らの撤収と
彼らの占領する要塞のフランスへの譲渡を約した休戦条項に反して引き続き現地に留まって要塞を占拠するか、あるいは
略奪目当てに各地を横行する以外に生きていく手立てがなかった
 ノルマンディー及びイル・ド・フランスでは多数の野武士団が残留して各地の要塞を占領し続けて絶えず周囲の住民を
脅かし、とりわけノルマンディーでは、ヒュー・オブ・カルヴァリーやジェームズ・パイプ等のイングランド人首領に
率いられた野武士団の活動に悩まされた
 特に、ジェームズ・パイプは、コルメイユ修道院を占拠して上下ノルマンディーを脅かした
 また、同じくイングランド人首領ロバート・マーンコートはシャルトル近郊かヴァンドームを襲い、ヴァンドーム伯夫人と
その姫君をさらって身代金4万フローリンを強要している
 パリ周辺はいうまでもなく、オルレアンさえ他の野武士団の脅威に晒されていた
 シャンパーニュでは野武士団が蝟集し、1360年夏以降、ブルゴーニュ、ローヌ河流域、更にラングドックへ南下を
企てた
 これらの地方は今まで戦禍を受けることが少なく、従って略奪の絶好の対象だった
 幾つかの野武士団は集合して大集団を形成し、「大兵団grand compagnie」と呼ばれ、著名な首領として、
ジョン・ホークウッド(イングランド)、セガン・ド・バードフォル(ペリゴール)、ベルチュカ・ダルブン(ガスコーニュ)、
プチ・メシャン(ラングドック、一説にはサヴォイ)等が参加していた


そんだけ
69鬼畜の功夫:03/12/27 09:55 ID:???
 「大兵団」は1360年末にアヴィニヨン近郊のポン・サン・テスプリを奪取して教皇領に脅威を与えたため、
教皇イノケンティウス2世は彼らを破門してしまったがやっぱり何の役にも立たず、皇帝やフランス国王に救援を
要請しなければならなかった
 翌1361年2月、ようやく協定が結ばれて彼らはポン・サン・テスプリを去り、多くはラングドックに移動し、
ヴレーやオーヴェルニュを略奪してまわった
 一部はミラノのヴィスコンティと戦うべくアルプスを越えたが、ホークウッドの兵団を残して間もなくフランスに帰った
 その後、これらの野武士団はラングドックの三部会の委嘱を受けたスペイン人傭兵に追われて北上する
 1362年4月、リヨン南方のブリニューでフランス国王の軍を撃破した彼らは、リヨンネー、フォレ、ニヴェルネー、
オーヴェルニュ、ヴレー、ラングドック等に分散して略奪を続けることになる
 野武士団は各地において残虐の限りを尽くし、殺人、放火、食糧や香料、毛皮の強奪、婦女暴行、誘拐、不法な通行税の
強要等、およそ悪逆非道と呼ばれることは一通りやった
 神にすら敬意を払わず、聖職者を捕殺し、教会を焼き、聖器を涜してはばからなかった
 イングランドのジョン・オブ・ハールストンは、百余の聖杯をコップがわりに食卓に使用していた
 特に、富裕な市民、聖職者、貴族、あるいはそれらの子女を捕虜または人質として強要する巨額の身代金は、
彼ら野武士団にとって最も魅力的な収入源だった
 しかも、各地方、各都市は彼らを撃退する能力を持たず、むしろ戦闘による被害を怖れ、立退料を払って被害を他地方に
転嫁するという安易な手段を選ぶことが多かった


そんだけ
70猟狗を野に放つ:03/12/27 09:55 ID:???
 当然のことながら、フランス国王は野武士団の跳梁を黙視しなかった
 ノルマンディーとイル・ド・フランスにおいては、多数の赦免状を発して慰撫に努めるとともに、
ベルトラン・デュ・ゲクランを起用して野武士団の掃討に当たらせた
 デュ・ゲクランはジェームズ・パイプと交渉してコルメイユ修道院から立ち退かせ、リヴァロでジャン・ジュエルを撃破し、
1363年にはカーン、サン・ロー、ヴィール間の全地域を解放した
 しかし、南東諸地方の野武士団対策は困難を極めた
 前述の、ラングドックから北上するセガン・ド・バードフォルやプチ・メシャンの率いる野武士団1万とこれを迎え撃つ
国王軍の間で生起したブリニュー戦では、フォレ伯、ジョアニ伯、ラ・マルシュ伯等が戦死し、総指揮官タンカルヴィル伯を
はじめ多数の捕虜を出して国王軍の惨敗に終わった
 その後、方針が変更されるようになり、野武士団を軍事力で制圧するよりも、彼らを国外に誘導して一時的にでも
フランス国内を彼らの略奪から守ろうと試みられるようになった
 しかし、野武士団を国外に誘導しようとする様々な施策は、少なくともジャン2世の頃には実を結ぶには至らなかった
 例えば、当時ラングドックに亡命していたカスティリア王子アンリ・ド・トラスタマールは、ブリニュー戦の直後、
故国に攻め入るためにベルチュカ・ダルブレやプチ・メシャンら野武士団の首領と契約を交わしたが、必要な報酬の金策に
奔走する間に、野武士団は約束を破って折しも戦闘中のフォア伯とアルマニャック伯の軍隊に投じている
 また、1363年3月にキプロス王のアヴィニヨン来訪を契機に立案されたイェルサレム王国再建計画も、野武士団の
軍事力を利用する予定だったが、結局計画倒れに終わっている


そんだけ
71征けば生きては帰れず:03/12/27 09:56 ID:???
 1364年のシャルル5世の即位直後からフランス国内の政局は急展開を見せる
 まず、ブルゴーニュ公位を巡ってフランス王とナヴァール王シャルル・ル・モーヴェーの間で争われていたいわゆる
ブルゴーニュ継承問題が、デュ・ゲクランの介入で1365年3月にナヴァール王が屈したことによって解決した
 次いで、イングランド王が推すジャン・ド・モンフォールとフランス王が支持するシャルル・ド・ブロアの間で
争われていたブルターニュ継承問題が、1365年8月にブロアが戦死してモンフォールがブルターニュ公位についたことで
決着した
 こうした軍事的な緊張と弛緩によって、新たな野武士団が再びノルマンディー、メーヌ、オーヴェルニュに流れ込み、
その被害もまた増加していった
 前述したように、野武士団を国外に誘い出して一時的に国内の被害を局限する施策、すなわちその目的で彼らを一時的に
雇用する施策が執拗に試みられた
 既に1365年5月には、シャルル5世は教皇と皇帝の諒解を得て、オスマン・トルコの侵攻に対抗すべく
ハンガリー十字軍を計画している
 ただし、余りにも遠くしかも多大な危険を予測させるこの計画に野武士団は何の魅力も感じず、ストラスブール近傍まで
進軍した僅かな野武士団も2ヶ月で帰還する始末だった
 しかし、イングランドとナヴァール両国王を味方と頼むカスティリア王ドン・ペドロと、その庶出の兄弟にして
アラゴン王アンリ・ド・トラスタマールとの、カスティリアの王位を巡る紛争が絶好の機会を提供することになる


そんだけ
72盗賊帰還:03/12/27 09:57 ID:???
 アラゴン王と、ラングドックに亡命中のアンリ・ド・トラスタマールの要請を受け、1365年以降、デュ・ゲクランは
各地の野武士団を結集し、彼らを率いて年末にはピレネーを越えた
 この軍勢には各国出身の野武士団が、中にはヒュー・オブ・カルヴァリーのように従来イングランド陣営にいた
野武士団まで参加し、一説では総勢3万に達した
 その後のカスティリア戦役は、1366年4月にペドロの敗走とアンリの即位、1367年2月、黒太子の介入と
ペドロの王位回復、アンリとデュ・ゲクランの反攻と続き、1369年3月にペドロの戦死とアンリの再即位で一応の
決着を見るが、ともかく一時的にしろ野武士団を国外に連れ出そうとしたシャルル5世の計画は成功した
 もちろんこれによって野武士団がフランス国内から消滅したわけではなく、カスティリアへの遠征に最初から
参加しなかった野武士団は依然としてブルゴーニュその他の地方で活動していたし、その上カスティリアから帰還した
野武士団は再びラングドックやオーヴェルニュ、アンジュー、シャンパーニュ等、各地に侵入して再び略奪を働いている
 しかしその頃には、フランスの各都市や各地方でも、野武士団の略奪に対する防備が組織され強化されていた
 ラングドックでは1365年にアルビ市と周辺の農民が武装して侵入してきた野武士団を撃退しており、
またナルボンヌでは野武士団と交戦してこれを全滅させ、ブルゴーニュではディジョンの代官ユーグ・オーブリオが
野武士団を狩り出して極刑に処している
 この時期、野武士団の活動による被害は一応は峠を越したことになる


そんだけ
73狼藉御免:03/12/27 09:58 ID:???
 以後しばらく野武士団の活動は、英仏間の暫時の小康状態が野武士団の発生を抑制したことにより、全く根絶された
わけではないが、比較的少なくなっている
 しかし、1415年のアジャンクール戦を契機に英仏領国の緊張が増し、1422年のシャルル7世の即位以降、
野武士団の活動が再び活発化する
 既に国土の大半を喪った「ブルージュの王」シャルル7世は、十分な給与支給の能力に欠きながらも、アルマニャック党の
兵力以外に頼むべき軍事力を持たなかった
 1429年5月のオルレアン解囲や7月のランスにおける国王の戴冠を可能にしたのはこれらの兵士たちの活躍にあった
 けれども彼らの活動を促した決定的な要因は、間違っても哀れな国王に対する忠誠心でも、
ましてやイングランド・ブルゴーニュ軍の圧力からフランスを解放しようとする情熱でもなかった
 百歩どころか地球の裏側まで譲っても、そのような動機はたかだか副次的な要因でしかなかった
 むしろ彼らを動かした動機は戦争そのものにあり、ことに戦争に伴う破壊的な略奪にあった
 シャルル7世が頼みとしたほとんど唯一の軍事力は、アルマニャック党の野武士団だった
 従って、1430年以降、戦線の膠着状態は彼らの略奪を軟化するどころか、むしろ加速させ促進させることになった
 年代記者オリヴィエ・ド・ラ・マルシュは次のように記している
 「フランス王国全土は略奪横領に明け暮れる城や砦で満ち満ちている
 王国のまっただ中に、『追い剥ぎescorcheurs』と呼ばれる種々雑多な戦士たちが蝟集し横行し、生きんがため、
奪わんがため、食糧と冒険を求めて地方から地方へと移動し、フランス王の直領にすら斟酌を加えない
 いかにポトン・ド・サントライユとラ・イールがフランスの主要にして著名な指揮官であったにせよ、彼らはこれら
略奪の徒、これら追い剥ぎの徒に属した」
 そればかりではなく、オルレアン公シャルルの庶出の弟でオルレアン防衛を指揮したデュノアでさえ野武士団の首領に
過ぎなかった


そんだけ
74聖少女の愉快な仲間たち:03/12/27 09:58 ID:???
 旗を振り回す電波女を助けて活躍したことで知られているラ・イール(本名エチエンヌ・ド・ヴィニヨール)、
サントライユ、アンブロアーズド・ロレをはじめ、デュノア、アントアーヌ・ド・ジャバンヌ、フロケ、
ギー・ド・ブランシュフォール、アルノー・ギラン・ド・バルバザン、ゴーチェ・ド・ブリュザック、フォルテピス
(本名ジャック・ド・ブイイ)、レストラック卿、アルマニャック家の庶子、ノアイユ家の庶子、ブルボン家の二人の庶子等
が率いるアルマニャック党の「追い剥ぎ」たちは、それぞれあるいは前線にあって、あるいはむしろ戦線を遠く離れて
各地で横暴を極めまくった
 とりわけ王侯のような威容と財力を誇り「盗賊の王」の異名を持つカスティリア出身のロドリグ・ド・ヴィランドランドは、
ほとんどフランス全土、中でもラングドックやブルゴーニュ、オーヴェルニュ、アンジューを荒らし回り、人々は彼が
進軍してきたという噂だけで恐慌し、この恐怖は彼を伝説化した
 例えば、リヨンの評議会は彼が接近しているとの報せに議論が沸き、ニームでは彼に対する恐怖から特別の監視役が
任命されていた
 また、ジャン・ド・ラ・ロシュはポアトー、リムーザン、ペリゴール、サントンジュの各地方、更にブルゴーニュで
活動している
 彼ら「追い剥ぎ」による被害は前世紀の同業者たちのそれに優るとも劣らない
 彼らは耕地を荒廃させ、農具を破壊し、農作物を奪い、住民を拷問し、婦女子を強姦し、更に都市や教会から多額の
身代金を強要し、至る所に恐怖を撒き散らした


そんだけ
75陵辱の大地:03/12/27 09:59 ID:???
 しかし、このような「追い剥ぎ」すなわち野武士団の暴虐が最悪を極めたのは、1435年にフランス(=アルマニャック)
とブルゴーニュの間で成立したアラスの休戦以後のことだった
 王国を割っていた両派の接近は人民を喜ばせたが、一方で、失職による事態の悪化を危惧する野武士団に不安を
巻き起こすことになった
 イングランドとの戦争が今後も続いたとしても、今までのような多数の兵力は必要とはならないだろうこと、
シャルル7世が伝統的な流儀に従って彼らを解雇するだろうことを彼ら自身が完全に理解していた
 こうして、フランス、ブルゴーニュ両軍から解雇されて野武士団化した兵士が続出し、「追い剥ぎ」の活動は一段と
激しさを増していく
 しかも、彼らを引き続き雇用するに足るだけの財政的余力に欠いていたシャルル7世は、人民の筆舌に絶する苦難に対して、
「彼ら(野武士団)も生きねばならぬ」と無責任な回答しか与えられなかった
 当然、野武士団の活動はフランス全土に及び、パリ周辺、ボーヴェジス、ピカルディー、ヴァロア、シャンパーニュは
アルマニャック党だけでなく、ブルゴーニュやイングランドの野武士団まで横行していた
 1443年12月、ソンム諸都市の総督ボードゥアン・ド・ノアエルは、メーニュレー及びサンス地方が、「その近傍に
あってこれらの地方での農耕を妨げているクレイユ、クレルモン、ムーイ、グルネーその他の要塞の守備隊」のために、
4年間何の収益も得られていないと嘆いている
 ロアールではブールジュの代官が野武士団によって殺害され、ノートルダム・ブールディユー僧院は周辺住民の避難所と
なり、「幼児の泣き声と妊婦の出産の叫び声の中で」ミサを執り行わねばならなかった
 オーヴェルニュはロドリグ・ド・ヴィランドランドの草刈場となり、ラングドックはあろうことか自らの総督である
ジャン・ド・グレーリによって荒らされていた
 中でもブルゴーニュは、ラ・イール、サントライユ、ヴィランドランド、アントアーヌ・ド・ジャバンヌ、フロケ、
ブルボン家の庶子ギー・ド・ブランジュフォール、ゴーチェ・ド・ブリュザックらの破壊的な訪問を相次いで受け、更に
彼らに迎合した在地貴族や、あるいは公領救援に派遣されたピカルディー兵の略奪を甘受しなければならなかった


そんだけ
76平和はお前を解放しない:03/12/27 10:00 ID:???
 以上のように、百年戦争期の野武士団の活動が集中した時期は概ね二つに区分できる
 ブレティニーの休戦後のジャン2世からシャルル5世の治世の時期と、シャルル7世の治世、特に1435年から
1444年の時期である
 これら二つの期間のそれぞれの野武士団の軍事的性格にはほとんど差異は見られない
 彼らの広汎で長期にわたる活動の基礎は、戦闘集団としての個々の野武士団の統一性と団結にあり、ドイツの盗賊騎士団と
同様に、成員の間には通常の封建的主従関係は存在しない
 野武士団は国王や諸侯と軍事的な主従関係を結び、しかも解雇されればその主従関係もまた消滅する
 デュ・ゲクランがピレネーを越えてカスティリアに殴り込んだ際に率いていた軍勢の中には、もともとイングランドに
与していた野武士団もいた
 また、15世紀においても、ヴィランドランドはブルゴーニュ公、シャルル7世、その側近ラ・トレモイーユと雇用主を
転々とし、ジャン・ド・ラ・ロシュもペリゴール伯ジャン・ド・ブルターニュ、ラ・トレモイーユ等に雇われている
 このように、各野武士団はそれぞれいわば一個の独立した勢力を形成していた


そんだけ
77介者たち:03/12/27 10:01 ID:???
 野武士団の活動の動機は報酬のみであり、戦争とそれに伴う略奪が彼らの稼業だった
 しかも講和や休戦は彼らを解散させることは出来ず、むしろ収入源を失った野武士団は略奪に走り、故に彼らの破壊的な
活動は戦時よりも平時において甚だしかった
 そして、傭兵としての報酬と略奪の戦利品は、時として野武士団に莫大な財産をもたらした
 主にブルゴーニュ党に属してラ・シャリテを中心に活動したペリネ・グレッサの財力は、ブルゴーニュ公自身が彼に
資金援助を頼るほどだった
 またヴィランドランドもその晩年には教会に多額の寄進をし、かつ膨大な遺産を子孫に遺している
 ただし、特殊な場合を除いて野武士団は相互の連絡もなくそれぞれ単独で行動し、しかも個々の野武士団の兵力は必ずしも
大きくはなかった
 数百名に達することは極めて稀で、通常は多くても100名程度で大抵の場合は100名に満たなかった
 1362年のブリニュー戦におけるアルノー・ド・セルヴォール麾下の兵力は騎兵200ランス、弩兵400名を
誇っていたが、これはむしろ例外だった
 オルレアン防衛のために兵員数が最も増加した1429年3月でさえ、オルレアンの庶子デュノア、
ポトン・ド・サントライユ、ギョーム・ド・サルネーの率いていた兵力はそれぞれ85名、61名、12名しかいなかった
 ジャン・ド・ビュエイユが率いていた兵力は1428年の時点では42名に過ぎず、数年後には約600に増加しているが、
これも例外的である
 もっとも、野武士団の周辺には常に蹄跌職人、靴職人、屠殺人、桶職人、洗濯女、書記が付き従い、野武士団と一緒に
宿営しており、その周りには更に住民たちから巻き上げた品物を売買する古物商がいたため、所帯自体は相当に大きかった


そんだけ
78武者揃:03/12/27 10:02 ID:???
 これら14世紀と15世紀のフランスで活動していた野武士団の出身地は種々雑多で、 ブルターニュ、ガスコーニュと
いったフランス国内のみならず、イングランド、ウェールズ、ナヴァール、アラゴン、ブラバント、ドイツ等の近隣諸国出身
の野武士団は珍しくなかった
 出身階層についても事情は同じで、彼らの社会階層は決して単一ではなかった
 彼らの多くが騎士すなわち下級貴族の出身だったことは注目に値するが、従僕、職人、農民等の非貴族層の出身者も
決して少なくなかった
 例えばジョン・ホークウッドは鞣革業者の息子、プチ・メシャンは騎士の従僕、ロバート・ノールズは織布工だった
 このように、出身地及び出身階層が雑多を極める彼らの社会的性格は、14、15世紀を通じて一貫しているが、
14世紀に比して15世紀には比較的多数のフランス人、しかもフランス貴族が野武士団に参加していたという
僅かではあるが簡単には見過ごせない相違点もあった
 14世紀の著名な野武士団の首領としては、セガン・ド・バードフォル(ペリゴール)、ベルチュカ・ダルブレ
(ガスコーニュ)、プチ・メシャン(ラングドック、一説にはサヴォイ)、アルノー・ド・セルヴォール(オーヴェルニュ)
等のフランス出身の他に多数の外国人の名を挙げることができる
 ウェールズからジャック・ウィン、スペインからガルシオ・ド・カストロ、ドイツからフランク・ヘネクィン、
そしてイングランドから、ヒュー・オブ・カルヴァリー、ジェームズ・パイプ、ジョン・ホークウッド、
ロバート・マーコーント、ジョン・オブ・ハールストン
 このように、イングランド人を中心とする外国人が多数参加し、彼らの率いる野武士団がむしろ主流を占めていたことは、
14世紀の野武士団の多くがイングランド軍から解雇されたという事情に因るところが大きい
 勿論、15世紀の野武士団に外国人がほとんど参加していなかったというわけではなく、15世紀においても
カスティリアのヴィランドランドのような外国人が外国からフランスに相当数流入していた
 しかし、シャルル7世の治世の頃には、没落貴族、中小貴族の非嫡子、あるいはオルレアン家、ブルボン家といった
大諸侯の庶子等、フランス貴族層から多数の野武士団が生まれることになる


そんだけ
79傭ヲ賃シテ之ヲ戦ワシムル:03/12/27 10:02 ID:???
 前述のように野武士団には様々な社会階層の出身者によって構成されていた
 中世末期の社会変動、特に百年戦争による混乱が、市民や農民の一部を野武士団に参加させたことは間違いない
 15世紀にはタバリと呼ばれる農民が主に農民で構成された兵団を率いて数年にわたってリヨンの森に立て籠もり、
イングランド、フランス、ブルゴーニュの別なくあらゆる軍隊に攻撃を加えたと言われている
 しかし注目すべきは、このように雑多な社会階層のうち、多くの貴族が野武士団の中核を形成していたこと、
特にシャルル7世の時代に盛んに活動した「追い剥ぎ」は、フランス貴族階層が構成員の大半を占めていたことにあった
 直属家臣団の召集を中核とする封建軍制は、必然的に深刻な時間的空間的制約と兵力の限界を伴う
 このような制約下で比較的大規模な軍勢の動員を妨げられた国王や諸侯は、制約を克服すべく帝国騎士やジェノヴァ弩兵に
代表される外国人傭兵の雇用を試みた
 しかし、これらのエリート兵としての外国人傭兵は、その高い軍事能力に劣らぬ高額な報酬を要求したため、量的制約を
克服するには至らなかった
 封建軍制の有する諸制約、差し当たって特に時間的制約を克服する基本的な手法は、封建軍を構成する個々の貴族への
給与の支給だった
 本来封臣の軍役奉仕期間の延長を求めるための給与支給は、同時に封建軍の行動半径の拡大を伴い、併せて従来軍役義務を
怠りがちだった貴族の従軍を促すことによって兵力の増強をも期待できる筈だった
 換言すれば、金銭による給与支給は、封建制の枠内で固有の諸制約を克服しつつ封建軍の軍事力を強化しようとする試み
だった
 フランスでも十字軍を契機として既に12世紀に出現したこのような給与支給は、その後13世紀末までに普及して
規則化し、1274年の勅令では、指揮官級の高級騎士、平騎士、騎士見習の日給はそれぞれ20スー、10スー、
6〜7スー、弩兵は15デニエ(4デニエで1スー)、一般の歩兵は1スーと定められていた


そんだけ
80田を分かつ者:03/12/27 10:03 ID:???
 ただし、このような貴族の軍役奉仕に対する給与の支給が、封建軍の傭兵化あるいは封建軍制の解体の直接の原因に
なった訳ではなかった
 本来、給与は軍役奉仕期間の延長に対応したものであり、実質的には「封土」の特殊な一形態と解釈される限り、それは
単に封建軍制を補強するものに過ぎない
 しかし、給与が延長された軍役奉仕期間に対する報酬という本来の性格を超えて軍役奉仕全般に対する報酬としての意味を
持つに至れば、話は違ってくる
 一般に、百年戦争はフランス貴族層の消耗と没落を促し、王権による権力の集中を準備したと言われている
 しかし実際には、フランス貴族の疲弊とそれに伴う領主権力の解体は既に12、13世紀には著しい進展を遂げていた
 十字軍以降、農奴の解放が徐々に進行し、領主の直営地が永代農民保有地に分割され、更に農民の負担は軽減していく
 この過程は、広範に行われた開墾が多数の自作農を生み出すことによって更に促進される
 一定の諸負担を代償に保有地の自由処分権が農民に譲渡され、逆に多くの領主は一定の限られた地代の取得者に
過ぎなくなった
 13世紀末には定期小作農が出現し、これに伴い農業賃労働さえその萌芽を見せはじめる
 当然、領主である貴族階層の経済的基礎は危機に瀕した
 事態は中小領主にとって一層深刻で、封土の細分化の傾向がその疲弊を更に推進した
 相続権の平等が一般に認められていたフランス南部の成文法地域は言うまでもなく、長子相続法が確立していた北部の
慣習法地域でも、事実上封土は子弟たちの間で分割され、時には娘の婚姻の持参金がわりにされていた
 既に領主の収入源としての価値を徐々に減少しつつあった封土のこのような細分化は、個々の貴族の経済的没落を
決定づけた


そんだけ
81悪代官:03/12/27 10:04 ID:???
 勿論、これに対して長子以外の子弟すなわち次三男や庶子の相続権を制限ないし禁止し、あるいは彼らを半強制的に
宗門に入れる等、非嫡子を意識的に貴族階層から排除することによって封土の細分化を阻止しようと試みられてはいたが、
部分的な成果しかもたらさなかった
 いずれにせよ中小領主の貧困化は阻止されがたく、貴族階層としての経済的基盤を掘り崩され、実質的に支配階層から
転落しつつあった
 一方、公伯諸侯では一般に長子相続制が支配的で、領土の不可分割性が確立されていたため、中小領主が直面していた
封土細分化は一応問題にはならなかったが、中小領主の経済的疲弊をもたらしたのと同じ経済的発展、すなわち領主収入の
減退は作用していた
 このため、特に大貴族で問題になっていたのは、権力集中の犠牲となって貴族としての十分な経済的保障を許されず、
寄生的な生活に追いやられた非嫡子の存在だった
 このような危機は12、13世紀には既に著しく進行していた
 ブルゴーニュ公ユーグ3世は自領を通過するフランスやフランドルの商人に追い剥ぎを働き、ルノー・ド・マルタンは
領民の家畜や穀物を強奪し、説教僧ジャック・ド・ヴィトリは、「農民が一年間刻苦精勤して蓄える全てを貴族は一時間で
奪い尽くす」と語っている
 この手の事実は、貴族の単なる横暴、好戦性を示すというよりむしろ、深刻な危機にさらされていた領主が気狂いじみた
収奪に走らねばならなかったことを物語っている
 貴族の中にはイタリア商人からの負債に悩み、その封土さえ抵当に入れねばならなかった者も珍しくなかった
 シャンパーニュ伯アンリ2世は43パーセントの高利でしか融資を受けられず、アモーリ・ド・モンフォールは両親を
抵当に入れねばならなかった


そんだけ
82賞ヲ干メ利ヲ蹈ム兵:03/12/27 10:04 ID:???
 このように疲弊し弱体化した貴族階層によって構成されるべき封建軍が極めて維持困難だったことは言うまでもなかった
 本来、封建軍は個々の貴族の自主独立的な軍事力を基盤としている
 前述の給与支給も、貴族の自主的な軍事力の維持を前提としてのみ、それを補うものとしての補助的性格を持ち得た
 しかし、貴族の経済的な没落は貴族の軍事力の経済的基盤を崩壊させ、同時に収入源としての価値の低下した封土は
封建的主従関係を媒介する意義すら下落させた
 そして、貴族の自主的な軍事力の崩壊は彼らの軍役奉仕を基礎とする封建的主従関係を弛緩させる
 こうなると、金銭給与が本来の補助費的なものから、あらゆる軍役奉仕を対象とする一般的なものへとその性質を
変換せざるをえなくなってくる
 給与支給は本来の封建軍制を補強するに留まらず、その構成員に傭兵的な性格を付与することによって封建軍制そのものの
変容すら引き起こした
 封建軍制において軍役義務を負う貴族すなわち封臣はもはやその義務の履行を必ずしも全うしなくなっていた
 軍役免除税は史料上でも既に11世紀には存在していたが、特に12世紀以降、著しく増加していた
 1274年には軍役忌避に対する罰金が規定され、1316年には軍役免除税の金額が公布されており、これらの事実は
貴族階層の少なからぬ部分が既に封臣軍召集から脱落していたことを物語っている
 軍役免除税の納付と軍役奉仕に対する金銭による給与支給は表裏一体で、軍の維持を欲して給与支給の財源を求める国王や
諸侯は、むしろ軍役忌避者の免除税納付を奨励した
 ここに封建軍の傭兵化への変容の起点が存在している
 この時点で、貴族はもはや必ずしも軍役奉仕の直接の担い手ではなく、貴族はもはや戦士の同義語ではない
 貴族は、単に一定の給与を支給されて従軍する兵士たちの供給源としての機能しか要求されなくなった


そんだけ
83戦争職人:03/12/27 10:05 ID:???
 中世フランスの基本的な戦術単位は「旗団banniere」と呼ばれており、兵員数は一定していないが複数の装甲槍騎兵を
中核として軽騎兵や弩兵、槍兵等で構成された最小の諸兵科連合チームで、中核となる装甲槍騎兵の数は5〜6名以上、
14世紀以降には15〜30名以上に増加している
 しかし、封臣団の無償軍役奉仕という本来の性格を失い傭兵化しつつあった封建軍は、当然その編組や指揮系統に重大な
変質を余儀なくされた
 旗団の指揮官である高級騎士chevalier banneretは、もはや必ずしも上級貴族である必要はなくなった
 貴族たちは政治的社会的紐帯の有無にかかわらず、自らの代理人として声望と軍事能力に優れた高級騎士を求め、
そのような高級騎士は兵員募集人としての性格を帯びるようになる
 封建的主従関係ではなく給与支給によって統率されるようになった旗団において、高級騎士が隷下の兵士に対して極めて
強力な指揮権を発揮できたのは当然で、こうして野武士団の首領の無制約な指揮権に非常に類似した指揮権が封建軍内で
成立することになる
 14、15世紀フランスの野武士団はこのような軍制上の変容から発生した
 野武士団の発生要因は封建軍制そのものの中に準備されていたのだった
 百年戦争勃発後、「旗団」はその組織的性格の劇的な変化に伴い、その名称も「兵団compagnie」へと変化する
 百年戦争、1347年以降の黒死病、ジャックリーの一揆は、既に進行していたフランスの封建制の危機を更に促進させた
 戦争と疫病による耕地の荒廃は農民を貧窮化させ、必然的に封建領主の窮乏を加速させた
 しかも、イングランドとの戦争で捕虜になった貴族は更に深刻で、巨額の身代金は彼らの経済的没落を決定づけ、
彼らを支配階級から転落させた
 15世紀の例になるが、ケルシーのレーモン・ベルナール・ド・ゴールジャックはイングランド軍によってその居城を
占領され、自身は僅か1年の間に捕虜になること5度にわたり、その身代金のために全資産を売却して破産している


そんだけ
84上から下から:03/12/27 10:05 ID:???
 このような危機の深刻化は、諸侯や大貴族の間で、非嫡子の権力からの排除による嫡子への権力集中を促した
 当然、ヴァロア王家も例外ではなかった
 1374年10月の勅令で、シャルル5世は次男ルイへの采邑地の授与、すなわち王領地の分割を認めず、
1万2000リーヴルの地代年収と4万フランの一時金を与えること、長女及び次女にはそれぞれ10万フラン、6万フラン
の一時金で満足すべきことを定めている
 このような王室や公伯諸侯による権力集中は、一方で王権や諸侯権力による中小領主への侵害を伴っていた
 シャルル5世が、ボージュー卿の所領のボージョレーや、ジャン・ダルマニャックの所領のシャロレー伯領で間接税の
徴収に成功したように、国王や諸侯の徴税吏はその権限を領主たちの所領に浸透させていく
 多くの領主は慣例的に自己の領内で徴収される税の3分の1乃至3分の2を取得する権利を認められていたが、
そんなものは何の役にも立たなかった
 こうして貴族階層の大半は軍事力の経済的基盤を喪失していった
 彼らは既に各自の城塞を維持する能力すら喪っていた
 要塞の修理と防衛のためにアランソン伯は1000フラン、ヴァンドーム伯夫人は600フランをシャルル5世から
支給してもらわねばならなかった
 また、ラ・マルシュ伯は自領防衛のために40ランスの兵力の支援をシャルル5世に仰いでいる
 その結果、シャルル5世はこのような要塞に対する監督権を強化していった
 折しも、イングランド軍の長弓戦術で何度も地獄を見たフランス軍は、ポワチエ戦後、戦略方針を転換して
イングランド軍との野戦を回避し、攻城戦と局地戦を重視しつつあり、王権の要塞への介入を更に加速させた
 1367年7月、シャルル5世は勅令を発し、全国の要塞の調査、要塞の防護力の強化、防備の手薄な要塞及び
その周辺地域の王領地への併合、防衛困難な要塞の即時撤去を命じている
 もはやフランス貴族の自主的な軍事力の整備は死文に等しかった
 既に百年戦争が始まる前から変容しつつあったフランスの封建軍制は、戦争とともに急速に解体していくことになる


そんだけ
85べからず:03/12/27 10:07 ID:???
 フィリップ6世以降、ジャン2世、シャルル5世等、歴代のフランス国王が対イングランド戦で用いた戦力の中核は、
一部の外国人エリート傭兵を除けば、給与の支給に頼る傭兵化した封臣軍だった
 シャルル5世の時代においてもなお純粋に伝統的な封建軍は部分的に存在し続けたが、それは主にドーフィネのような
辺境地方に限られていた
 むしろフランス王室は、既存の情勢を把握し利用しつつ、可能な限りの軍事力を整備し維持すべく努力を注いだ
 召集を期待できる貴族の調査が全国規模で実施され、兵科に基づく給与体系が確立した
 シャルル5世は兵士の日給を倍増させ、高級騎士で40スー、平騎士で20スー、騎士見習で10スー、弩兵で
5〜10スーに定めている
 更に幾度も発せられた勅令において、彼らの装備と乗馬の査閲が月2回予告無しに行われることが定められていた
 このような入念な施策、特に同一内容の勅令が幾度も発せられたことは、当時の軍隊が勅命を遵守せず、ややもすれば
国王の統率から逸脱する傾向にあったこと、戦術単位としての各兵団が恣意的な行動に走りやすかったこと、また、兵員数や
装備に関する虚偽の申告が頻繁に行われていたこと等を物語っている
 1374年にシャルル5世が発した勅令では、各兵団長が兵員数をごまかし、部下に給与を支払わず、かつ軍の規律が
無視されていることが記されている
 そして、将軍は4名の副官をそれぞれ査閲のために任命することを指示し、続いて「充分に武装して自ら出席する
立派な戦士以外は」査閲を受ける資格がないこと、これらの兵士に対して「都市や要塞において正当な価格を支払わずには
如何なる物品も手にせず、誠実かつ潔白に身を処すること」を宣誓させるべきこと、正当な理由無しにいかなる休暇も
許されるべきでないこと、軍隊に随伴する者は「軍に役立つ職人、商人」でなければ立退きを強制されるべきこと、
兵は100名の兵団に編制され、各々に兵団長が任命されるべきこと、兵団長の任命権は国王あるいはその代理人のみに
帰されるべきこと、100名の兵を率いる者は月100フランを受領し、部下が犯す無秩序の責任を負うべきこと等が
規定されていた


そんだけ
86悲惨の城:03/12/27 10:07 ID:???
 このような勅令によって軍規を保たねばならなかったということは、その軍隊が実質的に野武士団の集合体と紙一重だった
ことを物語っていた
 兵団長と野武士団の首領は本質的に相違点がほとんどないと考えてまず間違いない
 封建軍の変質は極限に達し、もはや伝統的な封建軍は存在せず、もう野武士団への変容はあと一歩だった
 ただし、14世紀においてはこの変化はまだ一般的ではなく、この時期に従軍したフランス貴族は
一般に従軍直前に軍役奉仕の契約を結び、作戦が終了すれば、一部は野武士団として略奪を続けてはいたが、大部分は
解散してそれぞれ自領に帰還していた
 14世紀の野武士団におけるフランス出身者の比率は15世紀と比較すれば低い
 14世紀において既に極めて深刻化していた封建危機も、まだフランス貴族の社会的経済的基盤が、野武士団に
転職しなければならなかった程には破壊されてはいなかった
 封建危機が洒落にならなくなるのは15世紀のシャルル7世の治世においてだった
 戦禍で荒廃したノルマンディーは言うに及ばず、フランス貴族の没落は全フランスに及んだ
 ガスコーニュでも貴族の没落が著しく、プレーニャンの領主ベルトランは債務決済の能力を欠いて破門され、
プロヴァンスでは多数の乞食貴族を輩出した
 一方で権力の強化と集中を推し進めていた大貴族では、ブルボン、オルレアン、アルマニャック等の諸侯のように、
非嫡子がそのツケを払わされた
 従軍した貴族階層の脱落者たちは、軍事行動が終了して給与の支払が停止した後も兵団を解散することなく、
野武士団として略奪行為に走った
 これは、彼らの多くが帰還すべき所領を持たず、あるいは自らの貴族としての地位を保障する収入源としての領地を
欠いていたからに他ならない
 彼らにとって貴族という身分は単なる名目にしか過ぎず、実質的に彼らは貴族ではない
 既に極度に弛緩した貴族間の封建的紐帯は問題とならず、彼らは純粋に戦争技術者であり、傭兵であり、もはや封建軍を
構成していた封臣とは全く別の種類の人間だった


そんだけ
87苦悩の王:03/12/27 10:09 ID:???
 15世紀のフランスにおいて封建軍制は完全に崩壊し、既に変質しつつあった封建軍は多数の野武士団に解体した
 そして、これら野武士団こそシャルル7世の治世において存在したほとんど唯一の軍事力だった
 権力の集中を企図していた王権が軍事力集中の直接の対象としたのは、これら野武士団以外にはなかった
 1365年12月、デュ・ゲクラン率いる野武士団の大軍が入国した際、アラゴン王は彼らの略奪や破壊を怖れつつ、
野武士団以外に頼みとする軍事力が存在しないが故に、彼らの来援を歓迎しなければならなかった
 フランス国王もまた、野武士団のビジネスライクな性格と破壊活動を甘受し、唯一有効な軍事力として利用すべく、
心を砕かねばならなかった
 ジャン・ド・ラ・ロシュは1431年4月に赦免状を与えられ、更にポアトーの代官に任命されている
 また、ヴィランドランドは1432年に「フランス国王顧問侍従」の称号を与えられ、かつジャン・ド・ブルボンの娘との
婚姻を許されて王家の親族に列している
 このように、野武士団の首領たちに対して多くの赦免状を発行してその罪を許し、更に高位の官職への就任を認可して
その歓心を買ったのは、このような国王の配慮に基づくものであった
 しかしながら、対イングランド戦に最後の勝利を握らんとしていたシャルル7世にとって、野武士団の略奪や反抗のような
恣意的な無政府的活動を放置することはできなかった
 粛清を断行し、彼ら野武士団を強力な王権の統制に服させることは緊急にして不可欠な課題となった
 もっとも、こうして緒についたばかりの軍事力集中の道は決して平坦ではなく、目の前に横たわる障害の克服は容易では
なかった


そんだけ
88野盗の尊厳:03/12/27 10:09 ID:???
 個々の野武士団は一個の独立した勢力であり、王権その他のいかなる権力に対してもほとんど拘束されない戦闘集団だった
 自ら野武士団を指揮してシャルル7世の下で戦ったジャン・ド・ビュエイユが晩年に著した歴史物語「ル・ジュヴァンセル」
は野武士団の貧乏ながら大胆な貴族たちの物語だが、その中で登場人物の一人にこう言わせている
「生まれながらの貴族でない者も、それ自体高貴な軍務の訓練によって貴族である
 その素性の如何を問わず武器は人物を高める」
 このような自負と自信、武器を手にする生活への絶対的な信頼は、彼らが構成する野武士団の自主独立性に由来していた
 この物語の中で、野武士団に身を投じた貴族たちは、直接従軍しない国王側近の貴族に対して軽蔑を隠さない
 国王の許への出仕を希望するある青年に、野武士団の先輩は次のように語っている
 「お前は馬鹿げた真似をしたいのか
 御殿でとりとめもないお喋りをしたり、お上品なシャッポ、でかい頭巾、流行の帽子を被ったお上品な連中と
お付き合いするより、我々の仕事のほうがはるかに立派だ」
 このような野武士団の旺盛ではあるが奇妙な自尊心にもかかわらず、一方で権力への接近を求める傾向が多少なりとも
存在していたことは否定できない
 また、フランス土着の貴族にとって、王室との直接間接の封建的紐帯が彼らの独立性をある程度制限していたことも
まず間違いない
 しかし、この時期の極度に弛緩した封建的紐帯が、彼らの無拘束で恣意的な活動を完全に制御する能力を喪失していた
こともまた事実だった


そんだけ
89争議:03/12/27 10:12 ID:???
 野武士団は、必ずしも直接に国王に雇用されていた訳ではなく、むしろ彼らは諸侯や有力貴族に、しかも前述の
ヴィランドランドやジャン・ド・ラ・ロシュのように、転々と雇用主を変えて雇用されるほうが多かった
 このような場合、当の諸侯や有力貴族が国王と敵対関係にあれば言うまでもなく、例え国王と友好関係にあったとしても、
彼らが雇用する野武士団と国王の間の軍事統帥権は間接的なものに過ぎなかった
 1424年にブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンとシャルル7世との間で、両派の野武士団が占領する全要塞の
国王への明渡しを定めた休戦条約が結ばれた際、ブルゴーニュ党に属していたペリネ・グレッサールは、国王と
ブルゴーニュ公の説得にもかかわらず、自らの預かるラ・シャリテ城の明渡しを頑強に拒否し、更にブルゴーニュ公に
使したラ・トレモイーユをその途上で捕らえて1万4000リーヴルの身代金を課した
 その後1436年に彼はようやくシャルル7世と和解したが、その代償として国王は彼をラ・シャリテの守備隊長に任命し、
毎月400リーヴルの給与を与えねばならなかった


そんだけ
90無賃:03/12/27 10:13 ID:???
 多くの野武士団に対して本来このような間接的な主従関係しか持ち得なかった国王による野武士団の直接的な掌握、
即ち王権の絶対的な軍事統帥権の確立による軍事力の集中への試みは、当然、野武士団を雇用することで直接的な
軍事統帥権を握る個々の諸侯や有力貴族の抵抗を覚悟しなければならなかった
 当時のフランスでほとんど唯一の軍事力である野武士団を独占集中せんとする企図は、必然的に諸侯たちからの軍事力の
収奪を意味するからだった
 しかし、軍事力集中を目指す王権にとって最大の障害は、野武士団の独立性や諸侯の抵抗よりも王室の財政難にあった
 財政逼迫故に少数の野武士団しか雇えず、しかも彼らへの給与は不十分で、時には金庫の中身が完全に枯渇して給与の
支払が停止され、いずれにせよ野武士団の略奪を黙認せざるを得ないような状態では、全野武士団の活動を王権の拘束下に
置くことなど不可能だった
 ある「追い剥ぎ」に与えられたシャルル7世の赦免状によれば、その者は「若いときから我が軍に属して従軍し、宿年の
敵イングランド軍及びその他の敵と戦い、しかもその従軍期間中、給与も報酬も精々ほんの僅かしか支給されず、この理由の
ために敵味方の区別無く犠牲にして略奪に走ることを余儀なくされた」のだった


そんだけ
91grande ordonnance:03/12/27 10:14 ID:???
 1439年11月2日、シャルル7世は、オルレアンに会する三部会の承認を得て「大勅令」を公布した
 国王のみが軍隊を召集し兵団長を任命する権限を持つこと、貴族はただ各自の要塞の守備隊を保有する権利のみ
許されること、兵の大部分は解雇され、有能な者のみ軍役に留まること、各兵団長はそれぞれの兵団について定められた
兵員数を正確に維持し部下に対して責任を負うべきこと、国王の雇用から漏れた兵団及び略奪を行った兵は草の根分けても
追い詰めること、そのために平民が彼らの略奪と襲撃を武力で撃退する権限を許されること、以上を貫徹するために
不可欠な財政的措置として、徴税の権限もまた国王の独占に帰するべきこと、すなわち領主は各自の領民に対し慣習的な
負担以上を課することを禁じること
 以上が「大勅令」の骨子だったが、その発布が直ちに効果を上げた訳ではなかった
 直ちに施行されたのは、国王に属する各兵団が配置されるべき要塞の決定と、その一月分の給与に該当する資金の調達
だけだった
 ジュヴネル・ド・ジュルシンが言っているように、「多くの勅令が作られるが、それは文書が公布されるだけ
 全く馬鹿げたこと、嗤うべきこと、王にとって不名誉なこと」だった
 しかも、その内容自体も決して目新しいものではなかった
 一般に王権による軍事力独占の試みは、1314年及び1320年に貴族による軍隊動員権の要求を受けて必ずしも
達成されなかったが、既に14世紀初頭に行われていた
 特に、1374年のシャルル5世の勅令は、軍隊の厳正な軍規の維持を求める点で類似の内容で、シャルル7世の大勅令は
むしろシャルル5世の時期の軍制の再現を当面の目標としていたと考えられている
 ただし、大勅令の要旨である、封建貴族からの軍事権の収奪による国王の独占的な軍事統帥権の確立、兵団すなわち
野武士団の粛清と軍紀の粛正、その物質的基盤としての徴税権の独占は、軍事力の集中独占の全過程そのものを示している
 換言すれば、この勅令はフランス王権による軍事力の集中の全プログラムの集約的表現だった
 例え直接的には野武士団の耐え難い横暴と対イングランド戦争遂行の必要性から生じたものであるにせよ、シャルル7世の
軍制改革はこのプログラムの忠実な履行によってのみ達成されたのである


そんだけ
92:03/12/27 10:15 ID:???
 勿論、シャルル7世の軍制改革の道程は容易ではなかった
 軍事権の収奪とそれに並行する徴税権の剥奪の危機に怯える諸侯や有力貴族と一部の野武士団の激しい抵抗が
起こるべくして起こった
 シャルル7世に対する諸侯たちの反抗は、既に1435年のアラスの休戦の直後に芽生えていた
 政治的野心から王権を利用するために、または必要に駆られて年金その他の贈与を国王から獲得するために宮廷に
接近しようとする諸侯たちと、国王の側近で排他的優越的な地位にあったメーヌ伯シャルル・ダンジューやリッシュモンとの
軋轢がその直接の動機だった
 しかし、1437年4月、ブルボン公シャルル1世、アランソン公ジャン2世、ブルターニュ公ジャン5世、
アンジュー伯ルネ、アルマニャック伯ジャン4世ら不平貴族が企てた反乱は、国王軍の迅速な行動によってあっけなく
失敗している
 更に1439年の大勅令はこれら諸侯の神経を逆撫でし、しかもこの軍制改革案によって存在を脅かされた「追い剥ぎ」
も反国王陣営に加わることになる
 先の不平貴族たちに加えてヴァンドーム伯、ラ・トレモイーユ、デュノアが参加し、ジャン・ド・ラ・ロシュ、
アントアーヌ・ド・ジャバンヌ、ブルボンの庶子アレクサンドルらの率いる野武士団が加わり、その上更に彼らは
太子ルイを擁立した
 いわゆるプラグリーの乱である
 1440年2月に始まったこの戦争は終結に数ヶ月を要したが、国王とリッシュモンの軍隊は反乱軍の拠点ポアトーを
制圧し、更にオーヴェルニュを席巻した
 結局、国王はルイにドーフィネの領有を許し、ブルボン公に1万5000リーヴルの年金を約するなど不平貴族に対して
慰撫に努めなければならなかったが、ともかく王権に対する反抗は失敗に終わった


そんだけ
93黄金で埋め尽くす:03/12/27 10:16 ID:???
 プラグリーの乱以降も諸侯の反抗は根絶されたわけではなかった
 1442年2月に、今度はブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンとオルレアン公シャルルの主導のもと、ブルターニュ公、
ブルボン公、アランソン公、ヴァンドーム伯、ユー伯、ヌヴェール伯らほとんどの諸侯がヌヴェールに会して国王に対して
要求を突きつけている
 しかし少なくとも者シャルル7世の治世において貴族たちの集団的反抗はこれが最後となった
 この時点で、シャルル7世の軍制改革に対する障害の一角は崩壊した
 もっとも、これには買収、年金の付与、徴税権の部分的許容等、国王にとって少なからぬ経済的負担を要求した
 アランソン公とデュノアは買収されて不平貴族の列に盃を返した
 ヴァンドーム伯、ラ・マルシュ伯、ユー伯、フォア伯は6000リーヴル、ヌヴェール伯は8000リーヴル、
アングレーム伯は1万1000リーヴル、アランソン公は1万2000リーヴル、オルレアン公は1万8000リーヴルの
年金を得た
 また、オルレアン公は16万8900エキューの間接税徴収権を獲得した
 しかし、不平貴族に対する徹底的な懐柔によってこの最後の反抗が慰撫されて後は、貴族はもはや激しい抵抗をほとんど
示さなくなった
 それでも抵抗の姿勢を見せた貴族は皆無ではなかったが、今度は国王も容赦しなかった
 シャルル7世の治世末期に若干の抵抗を見せたアランソン公は1456年に、アルマニャック伯は1460年に、それぞれ
所領を没収されることになる


そんだけ
 諸侯に対する王権の強化と並行して、他方では野武士団の粛清と掌握が進行していた
 1441年、シャンパーニュに軍を進めたシャルル7世は、ブルボンの庶子アレクサンドルをはじめ野武士団の
首領十余名を処刑し、更にヴォークルールでも野武士団の首領ロベール・ド・サルブリュックを処刑した
 しかし、真に処罰に値する野武士団の多くは国王の追求を逃れて依然として各地を横行しており、この粛清行は極めて
部分的な成果しかあがらず、しかも1444年5月のツールの休戦は、更に新手の野武士団を野に放った
 やはり、かつてデュ・ゲクランが行ったやり方、すなわち野武士団を国外の戦争に連れ出す以外に有効な手はなかった
 チューリヒの裏切りに激怒するスイス誓約同盟諸都市とチューリヒを支援する皇帝フリードリヒ3世との抗争、
アンジュー公ルネとメッツとの債務を巡る紛争が絶好の機会を提供し、シャルル7世は、「秩序と軍紀が殆どまたは全く
保たれない兵士たちを集め、自らメッツとロレーヌに向かおうと決心した」
 野武士団は当時のフランスに存在するほとんど唯一の軍事力であり、従って彼が企図する軍事力集中の唯一の対象でも
あったから、国王は野武士団を国外で無駄に消耗させようと考えていたわけではなかった
 国王は、皇帝や諸侯の軍資金負担を利用して暫時野武士団を国外に誘導し、その活動によってロレーヌ諸都市の制圧という
年来の野望を達成するとともに、軍制改革の準備のための時間を捻出しようとしたのだった
 1444年7月、ラングルに集結した野武士団の大軍約4万は、太子ルイに率いられてスイスに入り、8月26日、
ザンクト・ヤーコプでスイス誓約同盟軍1500と衝突した
 この戦闘は後にヨーロッパ中で恐怖と憎悪で語られることになるスイス槍兵密集陣のデビュー戦となったが、ともかく
この戦闘でスイス軍を皆殺しにしたフランス軍は、10月に誓約同盟と和解した後にアルザスに転進し、翌年4月まで
アルザスに留まって暴虐の限りを尽くした
 一方、国王が直率する軍勢も1444年9月にロレーヌに侵入し、翌年2月の和約までメッツ周辺を略奪し、2月以降も
なお数ヶ月にわたってこの地方の諸都市を攻撃した


そんだけ
95compagnies d'ordonnance:03/12/27 10:17 ID:???
 この間にナンシーに滞在していたシャルル7世は、1445年初頭以降、元帥リッシュモンをはじめ、アンジュー公、
クレルモン伯、フォア伯、タンカルヴィル伯、デュノアらの協力を得て、軍制改革の準備を始めた
 速やかに野武士団の粛清を行い、同時にこの休戦期間中に国王直属の常備軍を編成することが計画された
 既に内密に国王軍への雇用を保障されていた主要な野武士団の首領たちは、予想される他の野武士団の反抗に率先して
対抗することを約束していた
 4月にはリッシュモンは自らロレーヌに赴いて信頼できる野武士団に国王への忠誠を誓わせ、またアルザスから帰還した
軍勢にも同じく忠誠を宣誓させている
 この根回しはものの見事に成功し、計画は期待を裏切って支障なく運んだ
 国王の常備軍への雇用に漏れた野武士団には、過去の悪行の特赦令が発布され、同時に武装解除と兵団の解散が
命じられたが、彼らにはもはやこれに抵抗して武力蜂起を試みるだけの力も意志もなかった
 残る課題は雇用を約束された野武士団の国軍への編入で、その詳細は1445年5月26日の勅令で規定された
 フランス陸軍は15個の兵団からなり、各兵団はそれぞれ100ランスで構成するよう定められた
 ランスの定数は時代と場所で一定ではないが、この時期の一般的な構成は装甲槍騎兵1名、剣または槍兵1名、弩兵2名、
従僕1名、小姓1名の計6名で、少なくともフランス軍の法規上の総兵力は9000に達した
 しかし実際には、各兵団隷下のランスの定数及びランス内の兵員数は必ずしも規定量には達していなかった
 このため、兵団数を当初の15個から20個に増加することによって兵力の不足を補い、更に1446年にこの規定を
ラングドックにも拡張適用して新たに5個兵団を追加し、総兵力は1万程度にまで増強されている
 軍はランスを単位として要塞や都市に分散配備され、それぞれの地方の住民が負担する租税によって維持され、通常、
1ランスにつき毎月30リーヴルの給与を支給された
 各兵団長の任命権は国王が独占し、王の官吏は給与の支給に先立って各兵団の兵員数を検閲し、駐屯地を巡って軍紀違反を
罰した


そんだけ
96francs-archers:03/12/27 10:18 ID:???
 こうして成立した新しい軍隊「勅令騎兵団」は、直接的には対イングランド戦に備えて創設されたものであり、
戦後も永続的に維持されるかどうかは怪しいものだったが、間違いなくフランス最初の常備軍だった
 かつての軍事統帥権の拡散に終止符を打ち、軍事力の集中はようやくその最初の成果を得た
 ただし、シャルル7世の軍制改革は勅令騎兵団の創設のみを指している訳ではなかった
 1448年4月28日の勅令で組織された「自由弓兵」は一種の民兵制度であり、弓または弩の操作を修得した壮丁を
各小教区から1名乃至数名の割合で集め、戦時召集に備えて祝祭日に訓練を強制した
 その代償として、自由弓兵は戸別税を免除され、召集中は月4フランの給与を支給された
 装備は各人の自弁が原則だったが、1451年以降は貧しい兵に対しては各小教区が費用を負担するようになっていた
 しかしこの制度は、フランドルやアルトアを含むブルゴーニュ公領、更にブルターニュ、ラングドック等をその適用範囲
から除外し、しかも徴兵官の恣意と不正もあって、シャルル7世の治世にはその総兵力は8000を超えることはなかった
 その上、こうして編成された自由弓兵は、現代では国民兵の先駆けとして過大評価されてはいるが、実戦では
余り役に立たなかったと言われている
 例えば、サンリス出身のある弓兵は、自身が軍役に適さないにもかかわらず、専ら戸別税の免除を目的とした強欲な
老人だった
 ルイ11世は自由弓兵の徴募率を50戸につき1名に引き上げて総兵力を1万6000に増員させたが、その治世の
末期にはこれを疎んじて一時この制度を廃止している
 結局この制度は約1世紀間にわたって細々と維持されたが、1535年12月24日の布告によって最終的に廃止され、
類似の民兵制度「レジョン」が後を継いでいる


そんだけ
97compagnies de petite paye:03/12/27 10:19 ID:???
 更にシャルル7世の治世中には、「薄給騎兵団」と呼ぶしかない特殊な軍隊が存在していた
 勅令騎兵団の総兵力は1万を上回り、うち戦闘員は7000程度に達していたが、やはり兵力不足は否めなかった
 このため、1449年に対イングランド休戦期間が満了した直後に徴募されたのがこの薄給騎兵団だった
 これは勅令騎兵団への編入に漏れていた貴族や非貴族階層で構成された軍勢で、その名称のちょっと嫌なイメージに
反して編制や運用は勅令騎兵団と変わらなかったし、兵員の装備訓練も勅令騎兵団に伍するものだった
 その地位も勅令騎兵団の補助部隊ではなく、実質的に勅令騎兵団と相互連携しつつ行動する独立した作戦単位であったが、
その名の示すように給与の額は幾分低かった
 ただし、薄給騎兵団は勅令騎兵団に比して非貴族階層の比率が高く、この点で過去のシャルル5世の時代の典型的な
傭兵的封建軍に近かった
 勅令騎兵団では、中核兵科である騎兵のみならず、本来平民の兵科と目されていた弩兵や槍兵にも貴族階層出身の兵が
数多く見られ、過去の純然たる封建軍よりも貴族的な軍隊だった
 これは、勅令騎兵団の母胎となった野武士団にフランス貴族が多く存在していたことが原因だと考えられる
 また、勅令騎兵団への入隊を機に貴族の身分を許された非貴族階層出身者も珍しくなかった
 少なくとも、非貴族階層の入隊を制限して勅令騎兵団を貴族階層で独占することを意図するような史料は存在していない


そんだけ
98徒花:03/12/27 10:20 ID:???
 シャルル7世は、野武士団化した貴族を再編成し、野武士団固有の傭兵的性格を払拭することによって比較的安定した
常備軍である勅令騎兵団を創設した
 14世紀後期に登場した歩兵の携行火器である手銃は15世紀中頃にはアルケブスへと発展し、15世紀末には
ヨーロッパ中に急速に普及した
 16世紀中頃には銃兵と槍兵を連携させる運用と実績が蓄積され、野戦戦術に大きな変化を促すことになる
 一方で中世伝統の騎兵突撃に頼る旧態然とした戦術と、騎兵中心のランスという昔ながらの古い戦闘単位で編成された
勅令騎兵団はしかし、なおも戦場で自らの戦術的有効性を証明し続けた
 1543年、フランス軍が銃と槍で改編された時でさえ、勅令騎兵団は野戦軍の主要な一角を占め続けていた
 勅令騎兵団は騎槍をホイールロックピストルとサーベルに持ち替えて、ヨーロッパで装甲槍騎兵の戦術的価値が消滅した
16世紀末以降も存在し続け、最終的に17世紀中頃まで生き延びた
 しかし、シャルル7世の軍制改革の主眼としていた、選抜された常備野戦軍としての勅令騎兵団が成功したとは
言い難かった
 軍事力整備の重点は、常備軍ではなくフランス内外から徴募された純粋な傭兵へと移行しつつあった
 16世紀以降、フランス国王の軍隊は、スイス槍兵、ランツクネヒト、イタリア軽騎兵等の外国人傭兵の比率が著しく
上昇する
 軍事能力に定評のあるこれらの外国人傭兵こそが、職業的な兵士を中核とする絶対主義の軍隊の主力を占める
かけがえのない存在だった
 シャルル7世の常備軍構想は、絶対主義への傾斜を辿るヨーロッパ王権の軍事力集中の最初の成果でありながら、
皮肉にも絶対主義の成立と前後してその軍事制度から排除される過渡的な運命を担うことになる


そんだけ
99stipendarii milites:03/12/27 10:21 ID:???
 早くもシャルル7世の治世下で常備軍化への途を模索したフランスの軍制と対照的に、イギリスではかなり後になるまで
名実ともに傭兵が軍事力の主流を占め続けた
 封建軍制の確立するノルマン征服以降の中世イングランドでは、ヘイスティング戦で既に傭兵の活動が認められており、
初期ノルマン朝期には既に傭兵は普遍の軍事力としての地位を確かなものにしていた
 封建的無秩序が支配したスティーヴンの時代を契機として、続くプランタジネット諸王の軍隊にはブラバントや
フランドル出身の傭兵が大量に参加していた
 ヘンリー2世、リチャード1世の大陸での長期にわたる軍事作戦を遂行した軍勢を構成していたのも傭兵だった
 1204年のノルマンディー喪失後の大陸傭兵軍の本国召請はジョン王の不評の原因の一つに挙げられている
 マグナ・カルタの一条には、戦後「王の不名誉たるべき」「外国人騎士、弩兵、傭兵」の即時追放が規定されているが、
ヘンリー3世の治世下でも傭兵は大量に使用されていた
 外国人傭兵の役割が減少したと言われているエドワード諸王の時代からランカスター、ヨークの治世にかけての百年戦争、
薔薇戦争等には、また別な形態の傭兵制、いわゆるインデンチュア制が広汎に採用された
 イギリスに一応常備軍の萌芽らしきものが形成されるのは、1645年、市民革命下のニュー・モデル・アーミーまで
待たねばならないが、この期に及んでもまだイギリスの絶対王政は傭兵軍を頻繁に使用していた
 1547年の対スコットランド戦では、サマセット摂政はスペインとイタリアの傭兵を大量に動員した
 1549年のケットの反乱では、ノーサンバーランド麾下のドイツ人傭兵1400が反乱の鎮圧に投入されている
 三十年戦争では多くのイングランド人がドイツ諸侯の傭兵として続々と海峡を渡った
 市民革命において、議会軍、王党軍の中核をなしていた志願兵の多くは、大陸の戦線から帰還した古参の傭兵、
クロムウェルが言うところの「腐れ切った給仕人」だった


そんだけ
100拝啓:03/12/27 10:25 ID:???
 1469年夏、薔薇戦争は北部のランカスター勢の反乱によって新局面を迎え、翌年10月、ヨーク家エドワード4世の
逃亡、ランカスター家ヘンリー4世の短命な復位へと続いた
 この騒乱の1470年の9月12日、マーガレット・パストンはロンドンの息子ジョンに次のような書状を送っている
 「母は貴台の弟、朋友たちがケイスターにおいて危難に立ち、兵糧もなく、ドーブニー、バーニーらは既に死し、
他の多くの者たちも大きな痛手を蒙ったことをお知らせしなければなりません
 また矢弾も尽き果て、ケイスターは敵の大筒に酷く荒らされ、もし早急な援軍がなければ、彼らは命もろともその場所も
失わんこと計りがたい様子であり、加えて公はますます激しく攻撃を加え、以前にも増して残酷の度を加えております
 彼はあらゆる地方から彼の農民その他の者を呼び寄せ、来る火曜日にはケイスターに臨まんとする勢いです
 恐らく当日は多くの人々が其処に相見えることでしょう」
 ノーフォーク公によるパストン家の一荘園ケイスターの包囲の模様を伝える「パストン家書簡集Paston Letters」の一節だが、
この土地はもともとはノーフォーク州ヤーマスに近い景勝の地を占めたサー・ジョン・ファストルフの壮大な居城だった
 1459年のファストルフの死後、ケイスター荘を含む莫大な遺産は一旦遺言によってマーガレットの父にあたる
生前の「畏友」ジョン・パストンの所有に帰したが、これを不服とした共同遺言執行人が裁判所に訴えたため、ジョンの
半生は不毛な法廷闘争に費やされることになった
 1466年にジョンが死ぬと、この係争は息子のジョン・パストン2世に引き継がれ、その破局としてやって来たのが
ノーフォーク公の暴力的な訪問だった
 父ジョンの仇敵でありファストルフの共同遺言執行人であるウィリアム・イェルヴァトンとトーマス・ハウズは
ケイスターに関するファストルフの遺言を無効としてノーフォーク公にケイスター荘売却の交渉を始めており、息子ジョンが
首都ロンドンにいたのは、まさにこの係争を有利に運ぶべく宮廷の知己に支援を仰ぐためだった
 しかしこの年の戦争の形勢逆転に乗じてノーフォーク公は兵3000を率いてケイスター奪取を企てたのだった


そんだけ
101殺伐:03/12/27 10:27 ID:???
 注目すべきは、当時、土地に関する係争において実力行使がさして珍しくなかったこととともに、当時の有力者が
相当数の私兵を自由に動かし得た点にあった
 この種の争いはケイスターに留まらず、1450年には同じパストン家の所領グレシャムがモリンズの武装兵1000に
襲撃され、マーガレットによれば、「(彼女は)門の前に引き出され、家々の柱は粉々に切り裂かれ、引き倒され」ている
 この事件もまたグレシャム荘の土地所有権を巡る紛争に端を発していた
 この際にモリンズを指唆したのが当時トマス・タデナムとともにノーフォーク州に悪名を流していたジョン・ヘイドンで、
この二人は「パストン家書簡集」を通じて15世紀の社会悪の象徴として後世に名を残すことになる
 「パストン家書簡集」にはこのような険悪でアナーキーな当時の空気がしばしば見られるが、これは何もパストン家の
奥方の主観的な印象に限ったものではなく、当時の公文書からも読みとることができる


そんだけ
102ご無体:03/12/27 10:28 ID:???
 1459年の議会議事録には次のように記されている
 「陛下の王国の全域にわたり、陛下の忠良なる貧しき人民は、自らに加えられる強奪、搾取、圧迫、反乱、非合法集会、
不正投獄に対して大いに悲嘆している
 しかもその悪党どもは、明らかに陛下の法に反して彼らに恩を施す有力者の庇護を受け、また無謀にも王国全域にわたって
巡回裁判官並びに治安判事をも攪乱する盗賊、暴徒、悪人の数がかくも多いため、陛下の忠良なる人民は生命の危惧によって
敢えて陛下に申し立てることもせず、さりとて法廷に救いを求めることもなく、むしろ詮無く悪事を耐え忍ぶのみ」
 1472年の議事録では、「嫌悪すべき殺人、強盗、搾取、圧迫、その他諸々の訴訟幇助、悪政、不法占拠が、
有力者自らによって、あるいは有力者の恩顧を蒙れる者によってなされている」状況を報告している
 大法官衙初期の文書、枢密院議事録、検屍官帳簿等もこの点についてほとんど例外ではない
 ノーフォーク公とパストン家の所領ケイスターを襲ったその配下との関係については、「パストン家書簡集」以外に
これを実証する決定的な史料に欠けているが、当時有力な諸侯がその家産的家臣団、すなわち封臣や陪臣の他に、
バチェラー、ナイト、エスクァイア等からなる多数の家臣団を擁しており、しかも彼らとの関係は、土地を媒介する
封建的契約とは異なるインデンチュア(契印証書)と呼ばれる特殊な契約文書に則ったものだった


そんだけ
103サプライ:03/12/27 10:31 ID:???
 遅くとも13世紀末には確立していたインデンチュア制は、従来の封建制に代わる動員システムとして登場した
 史料上に最初に姿を見せるのはエドワード1世治世下の対ウェールズ戦役においてだったが、その後この制度は発展の
一途を辿り、百年戦争の全期間を通じて大陸の戦場に大量の兵力を供給するほとんど唯一の動員手段となった
 この制度の軍制上の特徴は、西欧のその他の地方と同様、時間的空間的制約からくる封建軍の低い展開能力を補完する
ものだった
 しかし真に注目すべきは、ドイツの盗賊騎士団やフランスの野武士団と違ってこの制度が単に対フランス戦争という
対外的局面にのみ限られず、平時においても社会生活の内部に深く根付き、有力諸侯を中心とする多数の家臣団の形成に
おいて、新しい領主権力のスタイルを打ち出した点にあった
 これこそ憲政史家が「新封建制」または「疑似封建制」と呼ぶもので、この限りにおいて封建危機期のイングランドで
一種の秩序形成の役割を果たしていたという見解は否定できない


そんだけ
104従騎士:03/12/27 10:32 ID:???
 インデンチュア制について、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの「記録簿」には次のように記されている
 「カスティリア及びレオン王、ランカスター公ジョンとエスクァイアのジョン・スカーガルとの間に結ばれし
この契印証書endentureは以下のことを証する
 すなわちジョン(ジョン・スカーガル)は生涯平時と戦時を問わず、当該王並びに公たるジョン(ランカスター公ジョン)
に仕えるものにして、その詳細以下の通り
 ジョンは和戦両時を問わず、一生涯公に奉仕すべきものにして充分の戦備を整え、公の欲する如何なる処へも彼に従うべし
 ジョンは平時には公の命令ある時は何時なりとも公邸より食糧と賃金を受けるべし
 またジョンは戦時には彼の戦費として年20マルクと食糧を公の戦時財務官を通じて公邸より支給されるべきものとする
 もしジョンが身分を変え、騎士の位階を得ん場合には、戦時には彼の兵に対して戦費として年40マルクを戦時財務官を
通じて、彼及び彼のエスクァイアに対しては食糧を公邸を通じて支給すべし
 公の軍に奉仕して捕らえられ、または軍馬を失いたる時には、また戦争の開始時についても、彼または彼の配下の得た
捕虜その他の戦利品についても、また彼の配下、馬、その他彼らの装備の準備についても、公は同位階の他のエスクァイアに
為すと同じく彼に為さん
 これをロンドンにて与う 6月30日」


そんだけ
105御目見得:03/12/27 10:33 ID:???
 この手の契印文書は従来の封建契約文書とは書式が全く異なり、またこれ自体が次第に定型化した独自の書式を
形成しつつあった
 従来の封建契約文書、特に騎士施封文書はイングランドではチャーターの型式で保存され、諸侯もこの書式に倣っていたが
これも既にヘンリー2世の頃までにはほぼ定型化していた
 騎士施封文書の大半が、Willelmus Peuerel de Duure omnibus hominibus suis et amicis Francis et Anglicis salutem. といった
「挨拶」で始まっているのに対し、契印文書は全て、Ceste endenture faite parentre notre seignur Johan Roy, etc., dune part et
Thomas de Braddeley dautre part tesmoigne que で始まっている
 このことは、最初期のインデンチュアであるRoger le Bigod と、John de Segrave でも同様である
 契印文書では、主従関係はもはや完全に金銭を媒介した双務的なものへと変化していた
 文書はのっけから「一方 dune part」、「他方 dautre part」という対偶的な契約主体の配列が明記され、当事者間の任意の
選択の余地が保障されていた
 また、この手の契約は長である一人の契約主体を通じて国王や諸侯と結ばれていた
 しかも大抵の場合、この契約主体者はエスクァイア以下、すなわち伝統的な封建軍制では国王と直接軍事的主従関係を
結べるような立場にはない下級身分だった


そんだけ
106homaguim:03/12/27 10:34 ID:???
 もともと中世イングランドの軍制は、フランクの伝統を継ぐ大陸封建制の輸入で、ほぼ完全に近い施封が行われていた
 それ故に当然ながら軍役免除税のシステムも当初から確立していたし、これが傭兵徴集の財源に充当される経緯も
大陸のそれとほぼ軌を一にしている
 中世中期頃には既に中小荘園の領主として成長していたナイトフッドの階層は、しばしば大領主と利害が衝突することも
あり、両者の封建関係に則った軍事的主従関係が完全に確立していた訳ではなかった
 むしろ、彼らの在地への利害が深まれば深まるほどに、軍役奉仕は自ずと制限されざるをえなくなっていた
 シモン・ド・モンフォールの運動における在地騎士団の活発な活動は、次第に懸隔する両者の利害関係を示唆している
 グラストンベリー修道院古文書によれば、1277年、エドワード1世の対ウェールズ戦役に際して、修道院は3名分の
騎士軍役の代償として25ポンドを王室納戸掛に支払い、1282年には同じく30ポンドが支払われ、3名分の軍役奉仕が
金銭に代替されていることが記されている
 しかも、この軍役奉仕を巡って修道院当局と騎士采邑保有者の間でしばしば係争が見られており、軍役免除税の支払が
実行され難かったことを示唆している
 当時イングランドで最強の聖界軍事力を擁していたグラストンベリー修道院においてすらこの有様だったから、その他の
聖俗封建領主においても軍役奉仕が忠実に履行されていたとは考えにくい
 既にヘンリー2世の治世から土地を媒介する純然たる封建軍制にかわって金銭を媒介する軍役奉仕が出現し、
プランタジネット諸王の対フランス戦役の展開とともに、伝統的な封建軍制は金銭授受による軍役奉仕に代置される
 この制度は、なおも臣従の実行、最終的には封地の保証等、依然として封建軍制の主要要素を内含していたが、
やがてそれは来るべき純粋な金銭契約原理に基づくインデンチュア制の先駆けとなった
 後者の二制度はともに封建軍制固有の純軍事的欠陥を補って兵力索源としての重要性を増大させることにより、完全な
土地所有に立脚する封建軍制にトドメをさすことになる


そんだけ
107漢たちのペアルック:03/12/27 10:34 ID:???
 インデンチュア制では、従来は下級封建身分と見なされていた者たちが「コンドチェーリ」として自らの配下に対する
戦争請負の衝に当たっていた
 契印文書には「彼がもたらす限りの兵士と射手」、「彼の同僚、エスクァイア、その配下」等の言葉が見られる
 このことからも、インデンチュア制が本質的に傭兵制であったことは間違いないが、封建制において、そして金銭契約に
おいても同様に、従来は当然とされていた「信義」の観念が、文書上からも実践上からもほとんど消失しているのは注目に
値する
 インデンチュアが戦時や緊急時に限定されていた場合では、この傾向は更に強い
 そして彼らこそが、当時の立法が「徒党」として禁じ、民間史料が恐怖と嫌悪をもって語っている集団だった
 幾度の禁令にもかかわらず、彼らは揃いの「仕着せ」を着込み、同じ「記章」をつけてはばからなかった
 そして、このような関係が、有事ならばともかく平時に持ち込まれるようになると、伝統的な封建関係とは異なる
支配系列が固定化するようになる
 前述のパストン家を襲った私兵や、15世紀の議会への請願に見かける組織的な盗賊団は、大抵の場合、このような
種類の徒党だった
 その成員は、盗賊騎士団と同様、貧窮したエスクァイアや騎士を中核としており、これに荘園制の解体の過程で発生した
逃散農民等の下層民が多く参加していた
 1436年の国費補助金査定報告書によれば、年収150ポンドを上回り、中には400ポンドに達する富裕騎士がいる
反面、大多数の騎士は中位以下の財産保有者であり、ケンブリッジ、ハンティンドンシア、リンカーンシア等の豊かな州に
おいてさえ、年収5ポンドや6ポンド、8ポンドと査定されるに過ぎなかった騎士がいたほどだった
 貧しいダービーシアにおいては、7名のエスクァイアがそれぞれ5、13、16、26、27、60ポンドと査定され、
5ポンドと査定された騎士が5名もいた
 この査定の最低額は5ポンドで、それはつまり、それ以下の年収しかない騎士、エスクァイアが水面下に相当数存在して
いたことを意味している


そんだけ
108残ったのは剣と馬:03/12/27 10:35 ID:???
 年収5ポンドという金額は、当時の弱小なヨーマンと同程度の生活水準でしかないことを意味していた
 また彼らが従軍するにしても、日給は一般にエスクァイアで1日1シリング、騎士で2シリングしかなく、その収入は
標準的な手工業業者すら下回っていた
 しかもこれに賃金の不規則な支払を勘案しなければならず、まして戦争が休戦となればその貧窮は文字通り生死に関わる
 エドワード3世が24名の貧乏騎士のためにウィンザーに居住と年金を与えたのも、このような事情があったからだった
 1376年には、議会に対して「戦争で悪事を覚えた」ジェントルマンの集団略奪が報告されている
 従って、封建軍事力の底辺を構成していた下級貴族にとって、諸侯とのインデンチュアは、少なくとも契約に示された
期間は食い扶持にありつける絶好の機会だった
 ジョン・オブ・ゴーントは、このようなエスクァイア100名以上と契約を結んでおり、このおかげで1382年の
対スコットランド戦の出征で600名の騎兵と9000名の弓兵を動員することができた
 1403年、ウェールズや北部辺境地域で動員された兵は「仕着せ」を与えられ、「同じ新月の標識を武器に刻んで」
辺境伯に従っている
 この際、諸侯等の上級貴族との契約に先立って、騎士たちは徒党の長として自らの裁量で配下の兵を集め、契約が不首尾に
終われば彼らは近隣を略奪してまわることを躊躇しなかった
 議会への請願に認められる盗賊団や、「パストン家書簡集」に頻出するトマス・タデナムやジョン・ヘイドンも
このような種類の人物だった
 前述したように、国王や諸侯とインデンチュアを結んだ徒党には、相当数の逃散農民が含まれていた
 ハンティンドンシア・ウェイストン荘の1309年の裁判記録には、「被告は修道院長に服従しようとせず、彼の動産を
もって彼の土地に住もうとせず、むしろ他の有力者の庇護下に投じた」といった文が随所に見られる
 これはこの荘園に限った話ではなく、逃散農民が他所の領主の召集に応じて従軍することは珍しくなかった
 契印文書には兵の出自に関する記述は全くといって良いほど見られないが、それでも彼らを保護したロビン・フッドが
至る所にいたことは間違いない


そんだけ
109質量と速度が全てを決める:03/12/27 10:36 ID:???
 こうして諸侯の支配下にあった徒党は、百年戦争のように軍事力として利用されたことは当然だが、対外戦争終結後も
契約が解除されず、時には積極的に維持された
 看過できないのは、このような芸当を可能にした諸侯ら上級貴族の強力な財源だった
 14世紀から15世紀にかけてのイギリスでは、土地財産が次第に少数の貴族に集約される傾向にあったが、それのみが
諸侯たちの富裕化の決定的な要因ではなかった
 むしろ、当時の公文書や裁判記録でたびたび報じられているように、薔薇戦争による政治的行政的な後退と相まって、
荘園諸施設、穀倉、その他の諸家屋の著しい損耗、特に15世紀末には遂に荘園施設の大半が消滅し、更に農民の逃散が
続出したため、この時期の農地収入は減少の一途を辿っていた
 いわゆる「封建危機」であり、領主たちはこれに対処すべく何らかの対抗策を講じねばならず、事実、講じられた
 15世紀以降、イギリスでは裁判の訴訟記録、特に民訴裁判所のそれが激増した
 多くの場合、土地の所有ないし占有に関わるもので、これこそが新興ジェントリー階層の財産権確立の動きであり、
荘園制の解体が惹起した経済的混乱の政治的・法制的な投影に他ならなかった
 しかし、当時の諷刺詩によれば、当時は「法多く権利少なき」状態であり、「力が法を蹂躙し、訴訟幇助が法に代わった」
時代でもあった
 後世の歴史家が讃えたいわゆる「テューダー神話」の理想と現実の乖離がここにあった
 法制が著しく進歩した15世紀イギリスにおいて、法廷闘争を有利に導いたのは法律家や行政官の良識ではなく、
彼らを動かす物理的な暴力だった
 「パストン家書簡集」の、「実際世間とはそうしたものだから、貴君がもしサフォーク公のよき庇護を得なければ
決して平和には暮らせない」という一文は、この状態を如実に示唆している


そんだけ
110Star Chamber:03/12/27 10:37 ID:???
 ここで言われている「よき庇護」とは、言うまでもなく地方行政を左右し、法を曲げることのできる諸侯のことである
 そして、彼らが法的手段として多用したのが訴訟幇助であり、その実行に任じられていたのが、仕着せを与えられた
いわゆる「リヴァリーメン」だった
 当時の立法が「仕着せと庇護livery and maintenance」に攻撃の矛先を向けていたのは偶然ではない
 「丸腰で鷹を招き寄せる」ことはあくまでも不可能だった
 前述の悪党タデナムが訴訟幇助者としてスケイルズをもち、同時に水面下でサフォーク公と繋がっていたのは注目に値する
 仕着せを受けた徒党と当時の非合法活動とは不可分な関係にあった
 しかもリヴァリーメンはインデンチュアを介して実質的に諸侯の傭兵的家臣団であり、諸侯の非合法活動は彼らの武力を
背景に容易に行使することができた
 さらに注目すべきは、パストン家の所領襲撃のように、現実の土地占有にまで行使されたその非合法活動は、
封建領主経済の封鎖的危機を回避しようとする政治的施策でもあった
 こうしてインデンチュアによる傭兵集団は諸侯の道具として平時においても相互に扶持され、果てはそれ自体が封建危機の
集中的な表現である薔薇戦争の戦乱に放り込まれることになる
 チューダー絶対主義の方向性は、この社会的様相の克服過程として出現した
 それは行使委任状の理論を振りかざしてこのような領主権力の拡大を封建的に集約し再編成するものだった
 中央官制「星室裁判所」はlivery and maintenanceに対して投入された最後の切り札となった


そんだけ
111山岳傭兵:03/12/27 10:38 ID:???
 ルイ14世の側近とスイス大使の掛け合いで、パリからジュネーブまで道路を黄金で舗装したり河を真っ赤にしたりと
何かと大変なフランスとスイスだが、1474年以降、スイスは強力な歩兵軍をフランスに供給してきた
 フランス以外のヨーロッパ各国にもスイスは大量の傭兵を送り込み、これが最終的に禁じられたのはようやく1927年に
なってからだった
 現在ヴァチカンで観光客のマスコットになっているスイス護衛兵も、その起源は1505年に教皇ユリウス2世が
スイス傭兵を雇用したことに端を発している
 中世封建軍において、歩兵の大量出現は確かに画期的な出来事だった
 中世の野戦戦術は装甲槍騎兵の衝撃力を基盤として展開されていた
 畸形的に発展した装甲槍騎兵は他の兵科では真似できない衝撃力を備えていたから、封建領主たちが自領の戦争資源の
少なからぬ部分を装甲槍騎兵の整備に投資していたのも当然だった
 一方で、戦争における攻城戦の重要性は中近世を通じて増加する傾向にあったから、歩兵の戦術的価値が軽視されていた
訳ではなかった
 弩兵や銃兵のような投射兵科は城壁の上でこそ真価を発揮する兵科で、近接戦闘に巻き込まれると屠殺される運命にあった
 投射兵科を城壁から降ろすためには、野戦築城や他の兵科で十分な防護の手段を講じ、しかも野戦で十分な戦力発揮を
成立させるためには数を揃えなければならなかった
 こういった事情から、中世の軍隊は各兵科をバランスよく整備する必要があった
 攻城戦では歩兵が主力となったが、野戦においては装甲槍騎兵の衝撃力を無視して戦術を展開することはできなかった
 スイス槍兵密集陣は、このような戦術的閉塞を打破すべく編み出された
 スイス人は、長槍や矛槍、弩や銃で武装した歩兵の方陣が攻防両面で戦闘の主力となれること、すなわち歩兵が
装甲槍騎兵の打撃力を代替できることを証明した最初で最後の唯一のケースとなった
 このため、戦術史上においてスイス槍兵は革命的な意義を持つ存在であると高く評価されている
 問題は、そんな気狂いじみた真似ができたのがスイス人だけという事実が無視されていることだった
 畸形的な兵科に対抗できるのは畸形的な兵科しかなかった


そんだけ
112暗い幕:03/12/27 10:38 ID:???
 スイス兵の傭兵化は、15世紀中頃から始まる
 1450年にニュルンベルク市が、騎兵500歩兵4000からなるブランデンブルク選帝侯軍を撃破した
ピーレンロイト戦では、1000名程度のスイス兵が参加していた
 1475年、ケルン大司教領の等族がブルゴーニュ公シャルルと対峙したノイス戦では約200のスイス兵が参加していた
 その時のスイス兵の指揮官は、テュービンゲンの騎士で後にミュルタンで大勝ちするウィルヘルム・ヘルターで、
ケルン側から傭兵契約の交渉を受け、400名の傭兵と15頭の馬を提供する旨を返答した
 しかし馬のほうは拒絶され、折り返しヘルターは兵士1人に1ヶ月4グルデン、隊長に8グルデンの給与を要求したが
返事を貰えず、足元を見られたヘルターは今度は給与の額は並でいいと書き送ったが、ケルン側はまだ傭兵を重視して
いなかったため破談となっている
 スイス兵が本格的に傭兵化したのはブルゴーニュ戦争からだった
 この戦争の根本的な原因は、フランス国王ルイ11世、ブルゴーニュ公シャルル豪胆公、皇帝フリードリヒ3世の
鼎立状態にあったが、直接的な動機は誓約同盟の一員であるベルン市が勢力拡大を狙ってオーストリアに売った喧嘩だった
 1468年6月、オーストリアの圧迫下にある帝国都市ミュールハウゼン市を救援するという口実の下、ベルン市は
1万3000のスイス兵をアルザス地方に進めた
 ミュールハウゼン市は、ベルン、ゾロトゥルン両市と25ヶ年間の攻守同盟を結んでおり、これがベルン市の侵略戦の
大義名分となった
 侵略軍の指揮官ニクラウス・フォン・ディースバッハはフランス国王と個人的に親しい間柄にあり、このフランス、
ブルゴーニュ、帝国の勢力均衡を破るきっかけを作った黒幕は他ならぬルイ11世だった
 ブルゴーニュ公はフランス国王にとって譜代第一の臣であるとともに、王権拡大の最大の障害物でもあった
 更にハプスブルク家もフランスの勢力拡張に反発する宿敵であり、遅かれ早かれフランス国王は何らかの手段で
彼らを打ち倒す必要があった
 従って、ベルン市のオーストリア攻撃は、例えフランス国王の直接的な関与で行われたものでなかったにせよ、
その意図に応じた行動に他ならなかった


そんだけ
113どいつもこいつも:03/12/27 10:39 ID:???
 喧嘩を売られた形のオーストリア公ジグムントは、フランス国王に援助を要請して拒絶され、やむなくブルゴーニュ公に
頼り、シャルル豪胆公はこの機会を利用して上アルザスを占領しようと企てた
 1469年5月9日に結ばれたザンクト・オメールの和約によってシャルル豪胆公が進駐することになった地域は、
ワルズフート、南シュワルツワルト、ラウフェンブルク市、ラインフェルデン市、ゼッキンゲン市、ブライザッハ市、
プファルツ伯領で、豪胆公はこれらの占領地の代官としてペーター・フォン・ハーゲンバッハを任命した
 この男は悪政の限りを尽くした末に74年5月の農民一揆で虐殺され、これを契機にブルゴーニュ戦争は開幕することに
なる
 ところで、ザンクト・オメールの和約後、ブルゴーニュ公はオーストリア公との協定を履行しなかった
 ジグムントはブルゴーニュ公の武力援助に対して5万グルデンを支払うことになっており、ブルゴーニュ公に対して
ワルズフート等のオーストリア領の一部の支配権を提供したはその担保だった
 ところが、支払が完了した後もブルゴーニュ公は占領を継続して軍を撤収しようとしなかった
 このため再びルイ11世に頼ることになったジグムントは、この老獪な外交手腕を備えた陰謀屋の仲介で、かつての敵に
救援を頼まねばならない羽目に陥ってしまった
 オーストリアとスイスの交渉は、ルイ11世の紹介で1473年7月に始まり、1474年1月には本格化した
 特にスイス側の担当者ニクラウス・フォン・ディースバッハとルーツェルンのベロミュンスター修道院長ヨストは
この交渉に大張り切りで、1474年3月30日、誓約同盟とオーストリアの間に「永遠の協調」が結ばれる
 同時にスイスと、シュトラスブルク、コルマール、シュレットシュタット、バーゼルの四市、いわゆる低地同盟との
間にも攻守同盟が結ばれ、ここに対ブルゴーニュ連合戦線が完成する


そんだけ
114天幕を引き倒す:03/12/27 10:39 ID:???
 この軍事同盟は、ブルゴーニュに対し直接的な利害関係のない誓約同盟をシャルル豪胆公の正面に引きずり出し、
自ら傷つくことなく本来の敵を打倒せんとするルイ11世の外交的勝利を意味していた
 1474年9月6日、誓約同盟会議の席上で、ルイ11世の代理人は国王の言葉として、誓約同盟がブルゴーニュと
事を構えることになればフランスは全力を挙げて支援すること、そしてそのための軍事行動に対して年間2万9000フラン
を提供することを伝えている
 「もし諸君がフランスの援助なしに戦争を遂行するならば、私は戦いの続く限り諸君に友愛の証として年間8万フランを
提供しよう
 これに対してスイスは報酬に対して立派に義務を果たせる者を多数派遣すべきである」
 この提案は明らかに傭兵契約で、誓約同盟がこれに同意したのは10月26日のことだった
 かくして、スイス兵はフランス国王の傭兵としてブルゴーニュ戦争に臨むことになった
 スイス軍は昔から錯雑地形での戦闘に定評があったが、ブルゴーニュ戦争でもその評価を裏切らなかった
 1474年11月、同盟軍1万8000がエリクールに集結中のブルゴーニュ軍騎兵8000、歩兵4000を奇襲し、
その野営地を蹂躙した
 同盟軍のうちスイス兵は8000、残りの大半はシュワーベンのドイツ人傭兵で、同盟軍には騎兵は700しかいなかった
 槍兵密集陣の戦闘隊形のデビューはザンクト・ヤーコプだったが、この戦闘では3個梯隊による戦闘展開が初めて実戦で
試された
 この戦闘は同盟軍の完全な奇襲となったが、これは第1梯隊の主力を務めたスイス兵の短兵急な突撃のおかげだった
 もっとも、この戦闘は正面きっての野戦ではなかったため、歩兵突撃という自殺的な戦術スタイルの有効性については
誰もが懐疑的だった
 ブルゴーニュ豪胆公もその一人だったが、彼は自らの不明を自らの命で贖うことになる


そんだけ
115卑劣の愉悦:03/12/27 10:40 ID:???
 1475年7月、低地同盟はスイス傭兵3000を含む騎兵1250、歩兵1万2000の野戦軍を編成し、
ブルゴーニュ領の攻略を企てた
 まずリーズル市を奪取し、続くブラーモン市攻略では、1000グルデンの契約料でベルン兵2500、バーゼル市等の
傭兵1700が増強された
 リーズル市占領で得た戦利品はオーストリア公、低地同盟、誓約同盟で三分される筈だったが、スイス兵は手当たり次第に
略奪し、「スイス兵は得物を振り回して市民や農民を脅し、獲物を即座に奪い取った」と伝えられている
 この略奪行為は戦利品の分配を巡ってスイス傭兵とドイツ傭兵の対立を深刻化させ、給与の遅配も重なって、
ニクラウス・フォン・ディースバッハが戦死した直後の8月に野戦軍は解散した
 これと前後して、1475年5月、皇帝フリードリヒ3世は、その子マクシミリアンとブルゴーニュ公の継嗣マリアとの
婚姻を条件に休戦を結び、ルイ11世もまた9月にブルゴーニュと単独講和した
 このことはシャルル豪胆公にスイスを攻撃する絶好の機会を与えることになった
 この休戦によって、ルイ11世は戦争の重荷を誓約同盟に転嫁し、同時にスイス傭兵への巨額の出費からも解放された
 しかもブルゴーニュ公は孤立したスイスに対して復讐戦を企てており、フランス国王は全くの中立的立場から、自らは
指一本動かすこともコイン1枚投じることもなく、宿敵と傭兵の死闘を傍観していればよかった
 フランスが外交的に休戦したとはいえ、スイスは事実上の傭兵としての意義を失ったわけではなく、現実にはむしろ
その逆だった
 こうして戦争は、強力な騎兵戦力と高度な火力を擁してヨーロッパの軍事技術の最先端を具現した軍隊と、悪鬼の如く
怖れられる歩兵集団が正面から激突する実験場となった


そんだけ
116槍の立方体:03/12/27 10:47 ID:???
 1476年3月のグランソン遭遇戦はこうした複雑な政治的思惑の当然の帰結として生起した
 ブルゴーニュ軍2万に対してスイス誓約同盟軍は1万8000で、7130名のベルン兵が加わっていた
 不期遭遇戦という野戦指揮官にとって最低最悪の状況の中で、豪胆公はその名に恥じぬ最善の手を打った
 遭遇戦の焦点となる戦力集中レースを制して戦場を支配していたのは明らかに豪胆公のほうだった
 スイス軍の準備未完に乗じてブルゴーニュ軍主力の速やかな戦闘加入を狙って、豪胆公は混乱した状況の中で驚くべき
努力をもって麾下の騎兵と砲兵を掌握しスイス軍へ突撃をかけた
 ベルン兵を中核に編成されていたスイス軍前衛梯隊1万は何とかブルゴーニュ軍を突撃開始線の向こうに押し戻すことに
成功したが、ブルゴーニュ騎兵は後続を加えて再び攻撃開始線に整列しはじめ、砲兵たちはスイス軍の方陣を縦射できる
小高い丘の上に放列を押し上げようとしていた
 急進してきたスイス軍の中央梯隊と後衛梯隊が豪胆公の火力支援基盤に超越攻撃をかけたのはまさしくこの瞬間だった
 騎兵のように斜面を駆け上ってきた槍の林が一瞬で大砲を呑み込み、自分たちに向かって突進してくるのを見た
ブルゴーニュ兵の間でパニックが広がり、やがて全軍が壊乱した


そんだけ
117異常の敵:03/12/27 10:49 ID:???
 この大敗北はしかし、ブルゴーニュ豪胆公の戦争意志を破壊することはできなかった
 グランソンから3ヶ月後の6月9日、豪胆公は再建した軍を率いて今度はミュルタンを包囲した
 ミュルタン守備隊の指揮官はアドリアン・フォン・ブーベンブルクで、ブーベンブルク家はもともとブルゴーニュ公の
専属金融業者を任されて報酬を受け取る関係で、アドリアン自身もミュルタン戦の直前まで豪胆公から金を貰っていた
 この恩知らずは城壁の上に軽砲を並べ、一方のブルゴーニュ軍も城壁破壊用の重砲を持ち込んでいた
 ミュルタン戦は、ミュルタンを救援せんとするスイス誓約同盟軍とブルゴーニュ軍の間で行われた
 今度はブルゴーニュ軍は野戦陣地を構築してスイス軍を迎え撃った
 当時の軍事的常識で推し量れば、周到に準備された陣地に歩兵突撃を行うことは自殺に等しい筈だった
 しかし、砲と弩と手銃で編み込まれた突撃破砕射撃の火網に真っ正面から突っ込んだスイス軍は、凄まじい損害を無視し
速度を維持したまま陣地線を貫通し、陣内を蹂躙してブルゴーニュ軍後衛を瞬殺した


そんだけ
118大往生:03/12/27 10:49 ID:???
 かつてブルゴーニュ公によって領地を奪われたロートリンゲン公ラインハルトは、シャルル豪胆公の度重なる
軍事的失敗を見て復讐を決意した
 彼は軍を組織してナンシー市を奪ったが、ここでシャルル豪胆公の反撃に遭って八方が塞り、1476年11月、
ルーツェルンの誓約同盟会議に臨み、4万グルデンの傭兵契約料を提案した
 会議はこれを拒否したが、傭兵の徴募を許可し、8400の傭兵がバーゼルに集められた
 ロートリンゲン公は、全ての希望をスイス傭兵に賭けていた
 チューリヒのハンス・ヴァルトマンが傭兵1500を率いてバーゼルに到着したとき、ロートリンゲン公は馬から降りて
非常な親しさをもってヴァルトマンを迎え、彼の乗馬と並んで歩いた
 恐縮したヴァルトマンはロートリンゲン公に乗馬を勧めても公はこれを断り、バーゼル市門でようやく公は馬に乗って
ヴァルトマンと並んで市内に入った
 しかし集まった傭兵は全てが満足な兵士だったとは言えず、1000名以上の「なお年端もいかぬ子供に過ぎ」ない者を
帰国させねばならなかった
 また残りの大部分も年若く胸甲も持たぬ劣悪な装備で、こんな連中を送ってくれるよりも「年のいった者」を
2000人ほど送ってくれたほうがいいとロートリンゲン公が嘆く有様だった
 しかし、ロートリンゲン公にとって悪いことばかりではなかった
 ナンシーへ向けて進軍する傭兵軍に低地同盟から騎兵200を含む1万2000の援兵が加わり、総兵力は2万に達し、
数の上ではブルゴーニュ軍に倍する兵力に膨れ上がった
 ナンシー戦は文字通りの鏖殺戦となった
 スイス軍は堅固な地形に拠って防御するブルゴーニュ軍1万2000を数の暴力で押し潰し、戦闘やその後始末で殺された
ブルゴーニュ兵は7000に達し、豪胆公自身は斬り刻まれた体が溝の中に散らばっているのを発見された


そんだけ
119兇名:03/12/27 10:55 ID:???
 ブルゴーニュ戦争は、兵力や戦術上の勝利の点で、ほとんどスイス兵によって戦われたといっても過言ではない
 そしてその結果はどうなったかと言えば、王権拡大に狂奔するルイ11世ほどブルゴーニュ公の破滅に心から狂喜した者は
おらず、彼はスイス兵とその同盟者が戦場で勝ち取った果実の採り入れに忙殺された
 ルイ11世はただちにブルゴーニュ公領を併合し、更にブルゴーニュ伯領に対しても領有権を主張したが流石にこれは
誓約同盟と皇帝に反発され、1478年1月、マクシミリアンの相続権を承認することによって決着した
 こうして、ヴァロア、ハプスブルク両家はそれぞれの目的を達成したが、この戦争の立て役者たるスイスには
取りたてて言うべき何の利益ももたらされなかった
 強いて挙げるならば、スイスが得たのは戦場でのスイス兵の血みどろの評判だけで、ブルゴーニュ戦争の一連の戦闘で、
スイス軍はそれまで愚行とされていた強引な歩兵突撃によって有力な戦闘部隊を撃破できることを証明した
 ただしそれは、よく言われているように野戦戦術が騎兵中心から歩兵中心へと移行する契機とはならなかった
 ブルゴーニュ戦争以後も、騎兵は攻撃兵器として重要な役割を担い続けたし、スイス軍を真似て戦闘の決定的な瞬間に
歩兵方陣を突撃させたがる困った指揮官もいなかった
 防備を固めた重槍兵の方陣は強力な防御兵器だったが、更にスイス槍兵は騎兵さながらの突撃をもやってのけ、
しかも容赦のない殺戮はスイス兵と相対した者に確実な死が約束されていることを無言のうちに声高く宣言していた
 地理的な事情や様々な因縁から戦場でスイス兵を敵に回す可能性が高いドイツでは深刻だった
 ドイツで大規模な歩兵軍が登場し、しかも重槍兵が高い比率を示していたのは、スイス軍を模倣したからではなく、
スイス槍兵の突撃に対抗するためだった
 騎兵の対抗兵科としての重槍兵の増強はドイツのみならずフランスやイタリアでも認められていたが、ドイツにおいて
最も顕著だったのはこういった事情からだった
 ドイツ歩兵は、装甲槍騎兵のように突進してくる狂ったスイス槍兵密集陣と戦わねばならなかったのだ


そんだけ
120血塗れた希望:03/12/27 10:56 ID:???
 ブルゴーニュ戦争の終結によって北方の領土分割が一段落すると、今度はヴァロア、ハプスブルクの対立の焦点は
イタリアに移った
 フランスは公然と対外遠征を敢行し、スイス兵は傭兵として重宝された
 しかし、雇用主はフランスに限らず、フランスの敵である教皇、イタリア諸都市、神聖ローマ帝国皇帝が争って
スイス兵を求め、これにスイス自身の利害が絡まり、複雑な様相を呈することになる
 1494年、フランス王シャルル8世は、3万に達する軍を率いてナポリを攻撃した
 この遠征軍には、スイス誓約同盟が傭兵の応募を禁じていたにもかかわらず、スイス傭兵7400が参加していた
 ナポリ王国の征服後、皇帝マクシミリアン1世とミラノ公を中心とする同盟結成の報せを受けたシャルル8世は、
急遽本国への撤退を開始したが、1495年7月、フォルノヴァで包囲されてしまった
 この戦闘で、度重なる突撃を歩兵の方陣に撃退されたイタリア騎兵は、迂回してタロ河を強行渡河しようとして
逆にフランス騎兵によって撃破された
 その後、スイス兵が決死的な突撃を行って包囲網を穿孔し、フランス軍は整然と後退した
 イタリア軍の損害は3000に達し、一方フランス軍の損害は100に満たなかった
 この戦闘で決定的な役割を演じたのは間違いなくフランス騎兵だった
 フランス騎兵は持ち前の機動力で火消し役として随所でイタリア軍の突破を防いで歩兵を死地から救い、最終的に
イタリア軍の包囲の企図を挫いた
 これは、徒歩で移動しなければならないスイス槍兵ではどうやっても真似できないことだった
 それでも、損害を受けつつ騎兵突撃に耐え、最後に退路を確保したスイス兵の働きもまた無視できなかった
 グィッチャルディーノは、この戦闘でのスイス兵を「軍の華にして希望」と讃えている


そんだけ
121密告:03/12/27 10:57 ID:???
 この間、オルレアン公ルイは、シャルル8世の行動を側面から支援すべくミラノ公国を攻撃し、ベリンツォーナ、
ルガーノ等を与える約束で、ウリ、シュヴィツ等の森林州から傭兵2000が参加していた
 しかし、1495年6月、逆にミラノ公ロドヴィコ・イル・モロによってノヴァラに包囲され、2ヶ月後に降伏したが、
この際にフランスではディジョンの代官アントワーヌ・ド・ヴェーゼによって、救援軍としてスイス兵2万が集められていた
 シャルル8世の死後、オルレアン公は王位についてルイ12世となり、1499年に彼は誓約同盟と10年間の
同盟・傭兵契約を結び、その加勢を得て同年夏にミラノ市を占領した
 ミラノ公ロドヴィコは皇帝のもとに逃れて2万の軍を組織した
 この軍勢にはスイス傭兵7〜9000、ドイツ傭兵7000、イタリア傭兵3000が参加していた
 ミラノ軍はミラノ市を奪回し、1500年4月、両軍はノヴァラで対峙した
 この時、フランス軍には1万5000のスイス傭兵が与していた
 ところが、誓約同盟にはこの恐るべき衝突を阻止する統制力に欠けていた
 誓約同盟は決して統一政府ではなく、利害関係の異なる州政府の地域的な連合に過ぎず、西部諸州はフランスに、
東部諸州は皇帝やミラノに与力していたのが実情だった
 スイスの西部と東部の対立の因縁はブルゴーニュ戦争の頃から表面化しており、イタリア戦争の経過とともにますます
深刻化していた
 それでも誓約同盟は一応は戦闘中止の命令を両軍のスイス兵に伝えるべく使者を派遣したが、合戦には間に合わなかった
 結局、スイス兵同士の殺戮劇はミラノ側のスイス傭兵の裏切りによって回避され、ミラノ公自身はスイス傭兵に偽装して
脱出を図ったが、ウリ出身のスイス傭兵の通報で捕殺された
 このことは誓約同盟の統制力不足を如実に示すとともに、スイス傭兵の悪評に輪をかけることになった
 「ノヴァラの出来事は異常な衝撃を与え(中略)、ミラノ公が裏切りの犠牲にされたという感情が一般を支配し、
人々はスイス人全てが金欲しさからあのように恥ずべき裏切りに走ったのだと信じ込んだ」
 この通報者は2年後に帰国したところを捕らえられて処刑されている


そんだけ
122存在理由:03/12/27 10:58 ID:???
 以後もスイス傭兵はイタリア半島の各地で戦い続けた
 ナポリでチェザーレ・ボルジアに与し、1501年から1504年にかけてフランスと戦い、1507年には
ジェノヴァと戦い、1509年5月、ヴェネツィアが大敗したアニャデルロでは皇帝軍に加わっている
 ところで、スイスがフランスと組んで傭兵契約を結んだ動機は、報酬という利益の他にも存在していた
 もともと誓約同盟は北イタリア、南西ドイツを連絡する峠、特にザンクト・ゴタルト峠を中心とする森林州によって
結成されたもので、この峠を通過する交通路のイタリア側の登攀口であるベリンツォーナ、ルガーノ、ロカルノを支配下に
収めることは誓約同盟の宿願であり、14世紀以降、ミラノ公と抗争を繰り広げていた
 ザンクト・ゴタルト峠からベリンツォーナに至る地域はスイスのいわゆる「古い州」に比して自立が遅れており、
14世紀初頭以降、この地域を支配するディエンティーヌ修道院長と「古い州」との間で対立が続いていた
 1377年、ミラノ公の妻がこの地の領主となり、ミラノの勢力拡張に対するスイス側の抗議を避けるため、彼女は
スイス人に対してコモの関税を免除している
 1390年代にはミラノの支配域はザンクト・ゴタルト峠の頂上まで及んだ
 これに対して誓約同盟はこの支配を打ち破ろうとしばしば軍事作戦を展開し、1422年、アルベドで決定的に敗北した
 この戦闘で、スイス軍の中核を構成する矛槍兵の緩やかな方陣は、優勢なミラノ騎兵にズタズタに粉砕された
 機動の発揮を保証する地形における騎兵の戦術的優位は、精強で知られたスイス矛槍兵でも覆せなかった
 この戦術的敗北は、スイス軍が長槍を主力とする密集方陣への転換を余儀なくされる契機となった
 この敗戦後も、コモのスイス人の関税免除の特権は維持されていたが、誓約同盟の憎悪と屈辱を晴らすことはできなかった
 そしてこの劣勢を挽回すべく、ルイ12世のミラノ攻撃に誓約同盟は嬉々として協力を誓ったのだった
 1499年、ミラノ攻略を企図したルイ12世と傭兵契約を結んだ際にも、ベリンツォーナの譲渡は重要な条項として
約されていた


そんだけ
123御簾の中の人:03/12/27 10:58 ID:???
 しかし、北イタリアに覇権を確立したフランス王は、この約束の履行を拒否し、あろうことか傭兵への給与の支払を
遅らせてスイス兵を激昂させた
 1501年夏の時点で給与不払額はほぼ30万クローネンに達していたが、ルイ12世は余りに高いとして手八丁口八丁を
駆使した結果、4万クローネンにまけさせた
 王の姑息はフランスと誓約同盟の関係を険悪にさせるには十分で、誓約同盟内部で反仏派が主流を占める原因になった
 「今や全ての12州は、アッペンツェル、ザンクト・ガレン市とともに、1503年7月21日、バーテンに会し、
協定を締結した
 彼らはお互いに、外国の君主から公的なあるいは非公然に提供された報酬、賞与、贈物を拒絶する義務があり、
同盟所属者の勝手な出稼ぎに対しては、名誉、身体、財産における重罪によってこれを禁じ、誓約同盟の全領域において
対外戦争のために徴募が行われた場合には、これを死刑をもって禁止する義務がある」
 実際の行動はこの会盟よりも早く、1503年1月には実力をもって因縁のベリンツォーナを占領し、4月には
アローナの和約によってフランスにその領有権を承認させている
 一方、時の教皇ユリウス2世は、この両国間の紛争を見て、スイス兵を利用してフランスをイタリアからの駆逐を企図した
 こうした教皇の意を奉じて反仏運動を指導したシオンの司教である枢機官マットォイス・シンナーだった
 彼は、スイスのヴァリス州ミューレバッハに生まれ、ベルン、チューリヒ、コモで学び、エルネンで生涯を聖界に沈めた
 一僻村の説教師から身を起こして司教まで上りつめた彼は全くの謀略と煽動と苦労の人で、スイス出身である人脈を
駆使して1509年にルイ12世との傭兵契約の更新を拒否させることに成功した
 1507年、絹染色工ノヴィのパオロを指導者としてジェノヴァの下層民が反乱を起こし、ルイ12世はスイス兵
6000の援軍を得てこれを鎮圧した
 これが、フランスに対するスイス傭兵の最後の仕事となった


そんだけ
124犬の分限を超えて:03/12/27 10:59 ID:???
 1510年3月、スイスは水面下で教皇と連携し、5カ年の傭兵契約を結んだ
 有事の際には、スイス誓約同盟は教皇に傭兵6000を送り、それに対して教皇は各州に年金1000グルデンを
支払うこと、従軍中の給与として兵士は月6フラン、将校はその倍額が支払われることが約された
 更に1511年2月、皇帝マクシミリアンと誓約同盟の間にも「永世同盟」が結ばれ、スイス軍は公然と対仏軍事行動を
開始し、1511年11月、チューリヒのヤコブ・スタッファーの指揮するスイス軍1万が南下してミラノを包囲した
 しかし、この軍勢は前代未聞の極寒のために攻撃を行わず帰国し、その際にロンバルディアの諸都市を略奪して
3000戸が焼かれたと伝えられている
 かつての同盟者であるフランスとの決定的な衝突は、1512年6月、ラヴェンナを巡って開始された
 ヴェネツィアの騎兵4200、歩兵5500、多数の砲兵を含むスイス軍1万8000は、
男爵ウルリッヒ・フォン・ホーエンザックスとヤコブ・スタッファーに率いられてラヴェンナ、パヴィアを抜き、
更にジェノヴァに進んで北イタリアからフランス軍を一掃した
 フランスの退場と同時に北イタリアの分割が企てられ、教皇、皇帝、ヴェネツィアに交じって今度はスイスも口を出した
 スイスはこの機会に際して、単なる傭兵として脇に押しやられるままになろうとは思わなかった
 スイスは北イタリアに号令できる決定的な成果を要求していち早くドーモ・ドッソーラ、ルガーノ、ロカルノ、
メンドリジオ、ルイーノ、ボルミオ、キアペンナを占拠し、これらを「共同領有地」と宣言した
 バーデン会議の決定により、ミラノ公国はロドヴィコ・イル・モロの息子マッシミリアーノ・スフォルツァに委ねられたが、
彼はスイスに対してミラノ市門に至るまでの関税免除の特権を保障し、既得の領土拡張を承認し、しかもその保護下に
入ることを約束した
 こうしてスイスはミラノ公国を支配下に押さえ、北イタリアに隠然たる勢力を誇った
 この時期のスイス兵は、誰に雇われ、利用されるということもなく、その強力な軍事力を利己的に行使し、いわばスイスの
黄金時代を築き上げた
 余りにも一瞬の黄金時代ではあったが


そんだけ
125:03/12/27 10:59 ID:???
 前述のように、1510年、誓約同盟は教皇と5年間の傭兵契約を結んでいたが、教皇の賃金不払はルイ12世よりも
甚だしく、このために誓約同盟は内部分裂を起こして親仏派が再び台頭する
 この間にルイ12世は捲土を期して兵力を整え、1513年春、騎兵8000、歩兵1万4000を率いてミラノ攻略の
構えを見せた
 フランス軍の中には、皇帝の禁令にもかかわらずランツクネヒト7500が加わっていた
 これに対し、強行軍で到着したばかりのスイス軍1万はまだ準備の整いきっていなかったフランス軍の野営地を強襲した
 砲と弩と銃による突撃破砕射撃の火制地帯を抜けたスイス軍はフランス軍を文字通り粉砕した
 この戦闘でフランス軍の火箭の弾幕から生還したあるスイス兵は次のように語っている
 「生まれてこのかた誰もこんな恐ろしい砲撃と苦悶を聞いたことがなかった
 そして誰の胸にも、ただ一人としてこの戦場から生きて帰れるとは考えなかった」
 「辺りに聞こえるのは鋭い武器の叩き合う音と死者の低い呻きだけだった」
 しかし、真に恐るべきはこのような業火の中でなお突撃をやめなかったスイス兵のほうだった
 最初の陣地線に達した時には既にスイス兵は隊列を維持できなくなっていたが、もはや厳格に隊列を組む必然性も
存在していなかった
 フランス軍は組織的戦闘力を完全に破壊され潰走した
 最後まで逃げずに踏みとどまり、スイス兵の蹂躙攻撃に立ち向かおうと方陣を組んだランツクネヒトたちは誰一人として
生きて帰れなかった


そんだけ
126撃つべき銃すらなく:03/12/27 11:00 ID:???
 このノヴァラの戦闘は、まさしくスイス槍兵密集陣の絶頂が戦場でどれだけ猛威を振るえるかを証明する戦闘となった
 しかし同時に、この戦闘はスイス軍の戦場での栄光の最後となった
 1515年9月、スイス軍はマリニャーノにおいてフランソワ1世率いるフランス軍と激突した
 この時、フランス軍には装甲槍騎兵2500ランスを中核として、槍兵8000、アルバニア軽騎兵1500、
ランツクネヒト2万4000、スペイン傭兵1万等からなり、総兵力は5万5000に達していた
 ガルララーテの和約によってベルン、フライブルク等の親仏派西部諸州のスイス兵1万4000が離脱したため、
森林州の兵を中心とするスイス軍2万は、再びフランス軍陣地を正面から急襲した
 フランス軍はノヴァラから学んだ教訓を無駄にはしなかった
 今度はフランス軍は周囲に壕を掘った土塁の背後でスイス軍を迎え撃った
 土塁上には砲兵と銃兵が十分に射線を計算されて配置され、その背後ではランツクネヒトがスイス兵の激流の
最後の防波堤となるべく並んでいた
 ランツクネヒトの任務は、砲兵と銃兵が1発でも多くスイス兵の方陣に弾を撃ち込めるように、壕を越え土塁を
駆け上がるスイス兵に逆襲をかけ、彼らを守って彼らの前で死ぬことだった
 この周到に準備された陣地はしかし、スイス軍の突撃への誘惑を諦めさせることはできなかった
 十文字砲火を冒して突撃したスイス軍は凄まじい損害を受け、更にフランス騎兵の中世的な騎兵突撃を無防備な側面に
受けて前進を阻まれた
 スイス軍が壊滅的な打撃を受けてなお整然と後退できたのは、スイス軍の後衛梯隊が退路を確保し、主力の後退を
掩護したからだった
 速度と大胆に頼る攻撃戦術はついにマリニャーノで火力集中による防御戦術の前にその限界を露呈した
 スイス槍兵密集陣の無敵の戦術的優位はもはや消滅しつつあった
 1516年11月、誓約同盟はフランスと「永遠の協調」を結び、南アルプスの支配地を放棄する


そんだけ
127ツール:03/12/27 11:01 ID:???
 1516年以降、スイスはほとんどフランスの傭兵に終始することになり、1521年5月、フランソワ1世は
スイスと終身傭兵契約を結んで、各州に年3000フランを支払う代償に一時に6000〜1万6000名のスイス兵を
動員することが約された
 おかげでフランソワ1世は、スイスとの同盟復活後の30年間に延べ12万のスイス兵を使うことができた
 この時期は宗教改革の時代でもあり、ツヴィングリの激しい傭兵反対論の影響をもろに受けたチューリヒやベルンでは
16世紀を通じて傭兵に対する悪感情が高まり、また商工業経済の発展も相まって、こうした傭兵稼業とはかなり疎遠に
なっていく
 これに対してウリ、シュウィッツ等の森林州は十分な産業を持たず、安定した傭兵の供給源となった
 アンリ2世は1549年に終身傭兵契約を結び、1552〜1568年、メッツ、トゥール、ヴェルダンの奪取、
ブローニュ、カレーの奪回に際してスイス傭兵5800が参加し、これに対して年額3万リーブルの報酬が支払われている
 シャルル9世はユグノー戦争の勃発とともに契約を更新し、続くアンリ3世も1582年に契約更新を行って
スイス兵1万2000を得てカルバン派新教徒軍に対抗し、そのための負債額は200万リーブルに達した
 アンリ4世は1万3000のスイス兵に支えられて新教徒軍を退けたが、1594年から1605年の間に総額で
3600万リーブルの傭兵報酬を支払わねばならなかった
 ルイ14世の治世に入ると、1663年以降、傭兵契約料は高騰し、その報酬は1703年だけで45万リーブル、
1705年には500万リーブルに達し、常に2万程度のスイス兵がフランス軍に加わっていた
 オランダ戦争には2万5000、ファルツ戦争には2万9000のスイス兵が投入され、スペイン継承戦争では
フランスに2万5000、オランダに1万6000、オーストリアに4800、サヴォイに4900、合計約5万の
スイス兵が敵味方に送られ、まさしくスイス傭兵制の絶頂期を迎える
 1777年、ルイ16世は防衛目的に限定してではあるが50年間の傭兵契約を結び、1792年8月10日、
テュイルリー宮殿のスイス近衛兵の死闘で幕を下ろした
 8月20日、立法議会によってスイス連隊は解散を命じられた


そんだけ
128お腹一杯になったから帰る:03/12/27 11:02 ID:???
 スイス傭兵の活躍したブルゴーニュ戦争、イタリア戦争は、絶対主義成立期に生起した戦争であり、それ故に一つの
共通点が認められる
 すなわち封建危機という内的危機を外的危機にシフトさせ、対外侵略と征服によって統一的国家権力を強化し、
この国家権力によって封建危機を克服しようとしたところに、絶対主義成立に伴う対外戦争の意義があった
 スイスも例外ではなく、1513年7月にスイスで大規模な農民一揆が勃発した直後の同年8月、皇帝の援助のもとに
3万に及ぶスイス兵が動員され、ブルゴーニュ公領ディジョンの攻略が企てられた
 この軍事行動は9月13日に休戦し、フランスは40万クローネンの賠償金を支払うことが定められたが、出兵した
スイス兵たちは誓約同盟の休戦条約批准を待たずに本国に帰還していた
 何故なら、スイス兵たちは、「乱行を欲しいままにし、破廉恥にも国中至る所を掠奪してまわり、羊、牛、馬、豚、
あらゆる家畜を連れ去り、莫大なる家具を貧しい人々から強奪し」尽くしたからだった
 また、ドイツ農民戦争鎮圧直後の1527年、皇帝カール5世はイタリア遠征を敢行し、有名なローマ大荒掠を行っている
 この大荒掠に参加していたヴェネツィア軍の一指揮官であるミカエル・ガイスマイルはティロル農民蜂起の首領として
活動した経歴を持ち、農民戦争の終結した1516年にはザルツブルクに潜入し、ここでも農民蜂起を組織していた
 しかもそれは彼自身の自発的な意志からではなく、ハプスブルク家の宿敵ヴェネツィアから高額の報酬を受けていたから
だった
 これらの動きを、農民の革命的エネルギーを本来の目的から逸脱させ腐敗させようとする権力の陰謀と断ずる考えが、
20世紀の一時期、世界を赤く塗り潰す妄想に耽溺する人々の間で流行したが、何でも階級闘争に結びつけようとするのは
ちょっと無理がありすぎた
 当時の人々にはそのような高尚なゲームに耽る余裕などどこにもなかった


そんだけ
 ブルゴーニュ戦争中のブラーモン市攻略の際、シュトラスブルクからは農民434名、手工業者135名が功囲軍の
兵士として参加していた
 スイス傭兵も事情は同じで、例えばチューリヒのエルグ村で傭兵に応募した人数は、1503年に13名、1511年
11月に17名、同年12月に25名、1512年5月に55名、1513年に13名だった
 同じくチューリヒのホルゲン村で1515年のマリニャーノ戦に参加した者は、政府徴募54名、志願43名だった
 両村の住民はそれぞれ131世帯、150〜200世帯であり、このことは住民の約1割が恒常的に傭兵として出かけ、
時には3分の1から2分の1強が離村していたことを意味している
 都市における比率は農村より若干低く、例えばヴィンタートゥール市には379名の兵役義務市民がいたが、
1503年には40名、1512年5月には僅か23名を派遣しているに過ぎず、明らかに農民が傭兵の大半を占めていた
ことを示している
 傭兵に身を投じた人間の中に、確かに冒険のスリルと一攫千金を妄想したルネサンス的人間がいたことは否定できない
 前述のエルグ村で、1512年に離村した55名のうち、21名が1531年の租税台帳に記載されているが、
12名が資産900フライブルク・クローネン以下の極貧農に属し、残る9名が1100〜7200フライブルク・
クローネンの中農だった
 これだけで富裕農民の傭兵への参加を結論するのは早計だが、このように生活の困っていないはずの裕福な農民が
傭兵稼業に手を染めていた事例も皆無ではなかった
 しかし傭兵の大部分にはスリルとスペクタクルを享受する余裕などなかった
 「キンデンのウルリッヒはふざけた気持ちからではなく、自分と5人の子供を困窮と借金から救い出そうというまさしく
貧困のために出かけてきたのであり、ルーツェルンのベルレは彼とその他の8名に20クローネンを与えてウリに赴かせたが、
その途上で傭兵たちは彼を隊長に選んだ」


そんだけ
130reislaufとwerbung:03/12/27 11:03 ID:???
 傭兵と下層民との関連を示唆する事例は多い
 前述したように、ナンシー戦においてロートリンゲン公に雇われたスイス兵の少なからぬ数が年端もいかぬ子供で、
しかもろくに満足な装備も持っていなかったし、シャルル8世がイタリアから撤退した際、その軍勢には大勢のスイス人が
女子供に至るまで貧困から逃れようと付き従い、群衆はピエモントのアルプスの峠までフランス軍に追いすがった
 1495年、ナポリ遠征に従軍していたあるスイス兵は、別の隊の飢え死にしかかっていた兄弟に食糧を与えたことを
賞賛され、同時に軍法によって処刑されている
 ミラノ公ロドヴィコ・イル・モロを裏切ったノヴァラ戦の後の1500年、チューリヒで兵士への審問が行われたが、
この際に兵士たちは報酬への誘惑の板挟みになり、報酬の二重取得の魅力に負けて遂に裏切り行為に走らざるを得なかった
ことを縷々訴えている
 ヨーロッパで精兵の名を欲しいままにしたスイス兵は、一方で飢え死にしそうなほどの乏しい給与に悩みつつ、なおも
僅かな金銭を求めて傭兵に応募した惨めな下層民でもあった
 これらスイス兵の募兵には大別して二つの方法があった
 一つは自発的な出稼で、この場合、州政府は徴募には一切関与しない
 この自由な「出稼人」に対し、第二のより重要な方法として州政府自身による徴募があった
 この場合、徴募依頼者側から斡旋人が派遣され、傭兵契約の交渉にあたった
 ディジョンの代官アントワーヌ・ド・ベーセは老練な斡旋人として知られており、「誓約同盟の会議に臨席する彼の
押し出しの立派さは『あたかも我々の本当の領主であるかのように』辺りを威圧するものがあり、会議があまりなくなると、
この不敵な募兵業者は絶えず金貨の袋を揺さぶりながらあちこち歩き回った」
 彼はまた知人に「つまるところ問題は金であり、私が金の袋を振れば全てはうまくいくのだ」と豪語していた
 そして契約がまとまれば報償金や補助金が支払われ、その金額は既に述べているように莫大な額に達した
 この報償金制度をスイスに最初に持ち込んだのはニクラウス・フォン・ディースバッハだと言われている
 彼はルイ11世から渡された巨額の金でもってブルゴーニュ戦争のためにベルンの市参議会員を買収したのだった


そんだけ
131urkanton:03/12/27 11:03 ID:???
 スイス傭兵は主としてこの州政府の徴募によって動員されたが、このシステムでは州政府自身が傭兵仲介業者であり、
報償金によって巨大な利益を獲得する傭兵企業家であることを意味していた
 そして、下層民、貧困民は政府を通じて外国軍隊に雇用されるというスタイルが恒常的な制度として確立した
 一般にスイス農民は自由農民が量的にも主流を占めていたが、誓約同盟自体がもともとはウリ、シュヴィツ等のいわゆる
「古い州」の自由農民によって結成されたものだった
 この誓約同盟の独立運動は、ハプスブルク家の伯領や守護領の浸透から森林州を防いだが、農民が荘園領主制や体僕制から
解放された訳ではなかった
 森林州は対外的な独立は獲得したものの、内には依然として荘園領主制や体僕制が存在し続けていた
 神聖ローマ帝国から分離独立した後の森林州を支配したのは荘園領主や体僕領主であり、すなわち封建貴族と上層自由農
だった
 上層自由農は実質的には商工業を兼営する寄生地主で、相互に閉鎖的な団体を結成し、下層自由農や小作農から政治的権利
や共有地用益権、商工業の独立営業権を奪い、小作農の土地の獲得や賃借を禁じていた
 封建貴族と上層自由農の閉鎖的特権的な寡頭制がウリやシュヴィツ等において顕著となるのは16世紀後期に入って
からだが、その傾向はかなり以前から強く存在していた
 ベルン、ルーツェルン、フライブルク、ゾロトゥルン等の西部諸州では体僕制はほとんど意義を持たなくなっていたが、
荘園領主制はより強固に維持されていた
 ただし、農村を支配していたのは個々の荘園領主ではなく、封建小領主出身の特権的市民によって構成された市参議会
であり、彼らは一般市民と区別して「土着市民」と呼ばれていた
 そしてこの閉鎖的な特権市民団体の中で、更にごく少数の都市貴族が実質的に権力を独占し、絶対主義的寡頭制の
頂点に君臨していた


そんだけ
132大きな単位と小さな単位:03/12/27 11:04 ID:???
 チューリヒを中心とする東部諸州はスイスでも比較的工業の発展した地域だった
 コンスタンツ、ザンクト・ガレン等を中心とするいわゆるボーデン湖畔地域では、14世紀以来、問屋制麻織物業が
華やかに展開し、チューリヒ市でも14世紀には毛織物、麻織物、絹織物の生産が発展した
 1336年、チューリヒ市では騎士ルドルフ・ブルンの煽動でツンフト闘争が起こり、一般市民に市政参与の途が
開かれた
 しかし全体的に見れば東部諸州もまた農村的性格が支配的で、チューリヒでは15世紀以降、工業は急速に衰退し、
ツンフトの勢力は市政から次第に退いていった
 1442年には既に麻織物工、毛織物工のギルドが消滅し、1404年から1544年のほぼ一世紀半の間、市には
絹織物工は一人も存在せず、1498年には最後の絹商人が店をたたんでいる
 この工業の衰退に伴い、チューリヒの人口は1374年1万1000人から1529年5700人にまで減少している
 これと反比例して市の支配圏は逐次拡大しており、農村を支配していた封建領主や有力自由農が市民権を獲得し、
市参事会に参画していった
 特に封建領主は所領を次々に農民に売却して都市に移住し、中世に最大270名を数えた在地領主は、宗教改革時代には
54名にまで減少していた
 こうしてチューリヒでは、ドイツ南西部の発展と軌を一にして、荘園領主の直営地経営の消滅、フーフェ農地の解体が
起こり、農民階層の分化が発生した
 市当局は各農村に官僚を配置して支配させ、農民に対して手工業の禁止、自治権の制限、徴税の強化が行われた
 こうした国家的・中央集権的農村支配の強化は必然的に農民の反抗を引き起こした
 例えばグリューニンゲンでは、1436年、1489年、1513年、1516年、1523年、1524年と
農民一揆が執拗に繰り返されることになった


そんだけ
133貧乏は強い兵隊を作る:03/12/27 11:05 ID:???
 中世末期のスイス社会は間違っても平等な自由農民の社会ではなく、純粋な絶対主義の形態こそとってはいなかったが、
封建領主、市民的寄生地主、上層富裕農による絶対主義的寡頭制が形成されつつあり、これが各州政府の実権を握っていた
 このような絶対主義的な性格の強い支配体制が成立していた反面に、貧困と借金に悩む下層民衆、生存の限界以下にあった
零細小作農が量産され、彼らにとって、出稼人として離村しまたは徴兵官の太鼓や笛に従って僅かな報酬にありつくことは
生存のための一つの可能性に他ならなかった
 無論、彼らはこのような悲惨な現実に甘んじていた訳ではなく、1513年、ノヴァラ戦の直後にはスイス全域にわたって
農民一揆が勃発している
 一揆勢は州政府の徴集による傭兵勤務の負担過重に反発し、「フランス王から年金をせしめている都市貴族」、「年金で
私腹を肥やしている連中」の処罰と傭兵契約の解除を要求し、チューリヒ、ルーツェルン、ベルン、ゾロトゥルンの兵士は
軍を解散して故郷に引き揚げている
 スイスでは17世紀中頃まで絶えず農民一揆が頻発しており、中でも1513年の一揆は傭兵制反対を基本的要求に
掲げている
 1646年、チューリヒ州クノーナウ守護領で起こった一揆は各地に飛び火し、1653年にはスイス全土を巻き込んだ
内戦へと発展し、ベルンのエムメンタールの富裕農ニコラス・ロイエンベルガーとエントレーブフの傭兵隊長である
ハンス・エムメネガーは農民2万を率いてベルン市に押し寄せて一時は農民の「古き権利」を認めさせたが、6月4日と
8日に森林州農民を主力とする政府軍に連敗して壊滅している
 こうした国内の不穏を抑えることが州政府にとって最大の関心事となっていたのは当然で、傭兵契約によって強力な
列強と同盟し、それを後盾にした二重の圧力によって内部の反抗を抑制する政策が不断に採られていた
 換言すれば、スイスの絶対主義的寡頭制の権力構造が必然的に傭兵契約を必要としていたことになる
 巨額の傭兵契約料は慢性的な破産にあった州政府の財政を辛うじて救うことになり、スイスが傭兵国家として生存して
いかねばならなかった最大の理由がここにあった


そんだけ
134名無し三等兵:03/12/27 14:31 ID:???
そんだけ氏のレスは、大変興味深く、勉強になります。ありがとうございます。
ちなみに、そんだけ氏が参考にしている文献などありましたら、お教え願いたいのですが・・・
135長靴をはいた犬:03/12/27 14:43 ID:???
 一般に中世ヨーロッパの都市では、市民が政治的機会均等と経済的自由を獲得し、司法、財政、軍事の自治権を確立して
都市自治体(コムーネ)を形成していた
 市民はコムーネの自由と独立を維持するために民兵を整備して治安維持と防衛に任じた
 中世イタリアの自由都市も例外ではなく、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、ピサを筆頭に北イタリアの自治都市が
民兵で軍隊を組織し、コムーネの自治の確立と維持のために戦った
 中世都市の自由はこうした市民自らの命がけの都市愛郷心すなわち愛国心によって支えられていたというのが定説と
なっている
 にもかかわらず、イタリア自由都市全盛の14世紀から15世紀にかけては、傭兵隊長コンドッティエーリが全盛を
極めた時代でもあった
 有名どころとしては、14世紀のジョン・ホークウッドやヴェルナー・フォン・ウルスリンゲン、15世紀の
アテンドロ・スフォルツァ、ブラッチョ・ダ・モントーネ、ニッコロ・ピッチニーノ、フランチェスコ・スフォルツァ等が
挙げられる
 彼らは都市や封建諸侯の間で高報酬を求めて放浪する典型的な傭兵隊長で、中には都市の政権を奪って僣主化する者もいた
 フランチェスコ・スフォルツァは1450年にミラノの政権を奪い、ミラノ領主になっている
 実際のところ、都市の自由独立を保障していたのは専らこれら傭兵によるものであって、市民の手によるものではなかった
 マキャヴェリはこれらの傭兵を盛んに非難し、民兵制度による国土防衛を主張し、実践しようとした
 しかし、北イタリア諸都市の軍制は、その経緯は様々だが、軍制の主体を民兵から傭兵へと転換していく
 この動きはフィレンツェですら例外ではなかった


そんだけ
136primo popolo:03/12/27 14:43 ID:???
 フィレンツェにおいて、ポポロと呼ばれる市民階層が都市貴族と争い、これを排除して市政に関与するようになったのは
13世紀中頃のことだった
 この革新的な市民集団は市の政治権力を掌握するや、貴族の権力の復活を抑え、自己の政権を防衛するために民兵制度を
設立した
 ジョヴァンニ・ヴィラニーの年代記によれば、フィレンツェではじめて民兵制度が設立されたのは1250年だった
 この年は、フィレンツェに第一次市民政府がつくられ、ゲェルフ(教皇派)またはギペリン(皇帝派)に属する都市貴族と
市内の6個地区から12名の委員と1名の民兵隊長が選出されることが規定されていた
 こうしてポポロははじめて市政に参与し、その公職を貴族と折半した
 彼らは速やかに民兵制度を設け、市内における貴族の活動を抑制し、外敵への防衛の任に当たらせた
 市内に20コンパニ(1コンパニは兵50名)、各郡は96個教区に従って96コンパニの民兵部隊が編制され、
フィレンツェ領内の壮丁は残らずこのコンパニに選出された
 各コンパニには指揮官が任命され、総指揮官としてポポロのウベルト・ダ・ルッカが民兵隊長に選出された
 民兵は、市庁舎の鐘が危急を告げて鳴らされたならば、直ちに民兵隊長の指揮下に入って戦ったと言われている
 ヴィラニーの年代記によれば、1312年、皇帝ハインリヒ7世が騎兵1800と多数の歩兵を率いてフィレンツェを
急襲した時、市政府は鐘を鳴らして市民を集め、市民は武装して民兵軍の旗を掲げて市庁舎前の広場に集まり、
司教までもが武装して馬に乗って駆けつけて市民を鼓舞したという
 民兵軍は市門を固めて皇帝軍の攻撃を防ぎ、フィレンツェの危急を救った
 ヴィラニーの話は多分に誇張され理想化されているが、古い民兵制の理念は概ねこのようなものだった


そんだけ
137太鼓を抱え父の剣を背負って:03/12/27 14:45 ID:???
 民兵は単に治安維持と自衛のみならず、積極的な対外戦争にも従事した
 1254年、東方貿易の拠点となるタラモーネとポルト・エルコーレの港をピサと奪い合った際にもフィレンツェの
民兵は出兵している
 フィレンツェ民兵軍はまずピサの同盟都市であるピストイアとシエナを占拠し、その後ピサ軍を撃破して目的の二つの港を
奪取した
 1260年の対シエナ戦は、フィレンツェの民兵の大半が動員され、しかも徹底的な敗北を喫したことで現代まで
語り草になっている
 ヴィラニーの年代記によれば、この戦争はフィレンツェ全市をあげての総力戦で、従軍できる者は全員動員され、
家族の誰かが戦場に赴いていない家庭はなかったと言われている
 この戦争の目的は多数の亡命者を保護していたシエナを討伐することで、市政府は民兵の全力を文字通り結集し、
それにゲルフィ同盟のルッカ、ボローニャ、ペルジア、オルヴィエートからの援軍をあわせてフィレンツェ軍を編成した
 総兵力は騎兵3000、歩兵2万に達し、総指揮官であるボデスタのフランチェスコ・トロギジオに率いられ、
モンタペルティでシエナ軍と衝突した
 兵力で劣勢だったシエナ軍はドイツ人騎兵を雇って応戦し、フィレンツェ民兵軍はプロフェッショナルな装甲槍騎兵の
突撃によって粉砕されたのだった


そんだけ
138僕たちの町、僕たちの軍隊:03/12/27 14:46 ID:???
 1266年、ギルド市民が市権力を完全に掌握するとともに、民兵制度は更に強化された
 12のギルドが結成され、そのうち、法律家と代書人のギルド、カリマラギルド、羊毛ギルド、絹織物と聖マリア門の
ギルド、金融ギルド、医師と薬剤師のギルド、毛皮商ギルドの七つが大ギルドと呼ばれ、亜麻商人と古着屋のギルド、
靴屋ギルド、鍛冶屋ギルド、左官と大工のギルド、肉屋と屠殺人のギルドの五つが小ギルドと呼ばれた
 これらのギルドの成員が民兵軍を構成し、ギルド組織はそのまま市の軍事組織となった
 全てのギルド・メンバーは有事の際には武装して各々の所属するギルドの旗の下に集まり、ギルドの親方の命令に
従うよう定められていた
 ギルド市民が市の政治権力と軍事力を掌握したことにより、彼らは自己の共同の利益を擁護するために結束し、
そのためにも自分たちの自治都市を防衛しようとした
 1266年に皇帝マンフレッドの副王グィドがフィレンツェに駐在した折りに、部下の兵士に給与を支給するために
市民から税を徴収しようとした時、ギルド市民兵は実力でグィドを追放している
 このように古い都市貴族の権力を排除し、自由な自治都市を建設しようとする理念に燃えた市民による民兵組織こそ、
ヴィラニーが理想化し、後にマキャヴェリが恋慕した軍隊に他ならなかった


そんだけ
139ジャスティに生きろ:03/12/27 14:47 ID:???
 フィレンツェを牛耳ってきた市民階層だったが、やがてその中で階層分化が起こり、ポポロはポポロ・グラッソと
ポポロ・ミヌートに分かれ、一部のポポロ・グラッソが市政を掌握するようになる
 こうなると都市自治体の軍制も当然変化しなければならなかった
 1282年、ギルド代表委員会が設立され、12ギルドの中でも最も富裕なカリマラギルド、羊毛ギルド、金融ギルドの
三大ギルドが市政府首席(プリオリ)に選出され、後に彼らはシニョリと呼ばれるようになる
 プリオリ(シニョリ)の職務は自治体の財産を管理し、市民の安全と福祉を旨とし、貴族の横暴を抑え、ポデスタ(市長)
と民兵隊長を監督して法を遵守せしめ、無益かつ過大な出費を抑えることだった
 更に、彼らの許可無くしては市政顧問の会議、民兵隊長の会議、ポデスタの会議等、いかなる会議をも招集することが
できなかったばかりでなく、いかなる法律をも提案することができず、いかなる審議をも許されなかった
 シニョリは市政府の最高権威者であり、あらゆる役員と民兵隊長の任免権を握り、市政の実権は彼らに集中した
 更に1292年、「正義の法令」が制定され、富裕市民の政権は確固たるものになった
 この法令は実質的には一種の治安維持法で、建前は貴族の乱暴を抑制するためのものだったが、実際にはポポロ・ミヌート
への圧力を意味していた
 この法令を遂行すべく、「正義の旗手」が制定され、旗手には貴族の逮捕権と市民騒乱の鎮圧権が与えられ、これらの
任務のために市内各地区より集成された1000名の民兵の指揮権が委ねられた
 これと同時に従来のギルド民兵組織は解散され、この新しい民兵軍は1年後には4000名に増強されることになる
 これは、市民全体の利益を擁護するという理念の下で組織された市民軍の伝統の消滅を意味していた
 軍事統帥権はポポロ・グラッソに集中され、ポポロ・グラッソは自己の政策を遂行し、軍事行動を行う時には、
その軍事力をポポロ・ミヌートのアマチュア兵に求めることなく、市外から傭兵を雇い入れた
 こうして、フィレンツェの軍事力は軍事能力の怪しい民兵からプロフェッショナルな傭兵へと転換する


そんだけ
140ハードなゲーム:03/12/27 14:48 ID:???
 もっとも、それ以前においてもフィレンツェが傭兵を雇用した前例は存在していた
 1267年、サン・イラリオを攻撃する際にはモンフォールとフランスから騎兵800が雇われ、1269年の
シエナ戦では、アンジューのシャルル1世の代理人ジャンベルタルドとフランス騎兵400が雇用されていた
 しかし、本格的な傭兵軍が組織されるようになったのは、1282年の大商人政権の成立後だった
 1288年から1291年にかけての対ピサ戦ではシャルル2世の封臣のアメリゴ・ド・ナルボンヌと当時ヨーロッパで
最強を謳われていたフランス装甲槍騎兵400が高給で雇われている
 1301年には教皇に仲介を頼んでフランス王弟シャルル・ド・ヴァロアとフランス騎兵800が、1305年には
ピストイア攻撃のためにカラブリア王ロベルトと騎兵300が、1316年にはランド・ダ・グッビオが市内の治安維持の
ために雇われている
 1325年の対ピストイア戦はフィレンツェ軍制の傭兵軍への転換を決定的にした点で注目すべき戦争となった
 カストルチオはボローニャへ至る要衝ピストイアを占領し、フィレンツェを脅かしていた
 ボローニャ地方を主要な市場とするフィレンツェにとって、ピストイアはまさしくフィレンツェの産業にとり重要な
拠点であり、それ故にこの戦争は文字通りフィレンツェの生死を決する戦争となった
 もはやフィレンツェには美しいだけの理念や建前に気を配る余裕はなかった
 フィレンツェは莫大な軍資金を投入し、市の歴史上未曾有の大軍が編成された
 フィレンツェ軍の主力はフランス人傭兵で占められ、それにペルジアやボローニャから送り込まれたドイツ人傭兵、
ボルテルラ、キウジ、グロッセート、モンテプルチーノからの援軍が加わって総兵力は騎兵3500、歩兵1万8000に
達し、この大軍を率いたのはスペイン人の傭兵隊長レイモンド・ディ・カルドナだった
 この軍勢に参加していたフィレンツェ民兵は僅か500に過ぎなかった


そんだけ
141お花畑まで罷り通る:03/12/27 14:49 ID:???
 1325年の対ピストイア戦を転換点として、フィレンツェの軍制において民兵は全く見られなくなるか、または付随的に
極めて少数が参加するに過ぎなくなり、フィレンツェの軍事力の主力は外国人傭兵によって構成されるようになった
 1328年の対カストルチオ戦では騎兵300、歩兵1000の傭兵軍が主力を担い、民兵は少数が補助的に随伴して
いたに過ぎず、1336年から1341年の対ピサ戦の際もその主力は3000名の傭兵で、これにマスティノから
これまた1600名の傭兵が増援されており、民兵の姿は全く見られなかった
 こうしてフィレンツェの民兵制度は14世紀には本来の軍事的意義を喪い、外国人傭兵がそれに取って代わった
 この転換の最大の要因は、訓練と装備が行き届き経験豊富な外国人騎兵がイタリアの戦場に登場したことによって、
民兵というアマチュアが通用するほどファンタジーな場所ではなくなっていたことにあった
 この時期の装甲槍騎兵はその衝撃力が完成の域に達してあらゆる兵科を圧倒して戦場を支配していた
 短い矛槍を手にした訓練未熟な民兵の脆弱な隊列は、全身を鉄で装甲された突撃兵器に抵抗できなかった
 装備と士気に優れるフィレンツェの民兵はイタリア最強の市民歩兵軍として知られていたが、それでもフランス人や
ドイツ人の騎兵の圧倒的な戦術的優位を認めない訳にはいかなかった


そんだけ
142壁の内側:03/12/27 14:50 ID:???
 1265年、カストルチオと戦ったフィレンツェ民兵軍は、カストルチオに雇われていた少数のドイツ人騎兵の突撃に
よって戦列を分断されて絶望的な抵抗の末に壊滅し、肉親を失わなかった市民はいなかったと伝えられている
 この戦闘から生還したフィレンツェのある貴族は、貴族と市民の合同会議の席上で、「ドイツ人騎兵は民兵よりはるかに
強力で、その戦術も格段に進んでいるため、フィレンツェの民兵はドイツ人騎兵に全く抵抗できない」と語っている
 1312年、ハインリヒ7世が訓練されたドイツ人騎兵800とイタリア人騎兵1000を率いてフィレンツェを
急襲した際、フィレンツェの民兵は専ら城壁に頼って防衛に徹するしかなかった
 辛うじて市を守りきれたのは、司教が押っ取り刀で駆けつけて市民を励ましたからではなく、ハインリヒ7世が病気に
倒れてフィレンツェ攻略を断念したからだった
 実情はヴィラニーのドリーミングなストーリーとはかなり違っていた


そんだけ
143戦うかその俺と君は:03/12/27 14:51 ID:???
 フィレンツェ市民歩兵軍の外国人傭兵、特に騎兵に対する劣勢は明らかだった
 市民が騎兵としてドイツ人やフランス人の騎兵に対抗することも決して不可能ではなかったが、民兵をそこまで
鍛え上げるための労力と時間と費用を考えれば限りなく不可能に近かった
 経済活動に忙しい民兵には初歩的な軍事訓練を受ける余裕すらなかった
 一般に、中世ヨーロッパの陸戦技術は野戦であれ攻城戦であれ兵科の細分化と専門化が進行する傾向にあり、戦場は
騎兵歩兵にかかわらずあらゆる兵科の兵士に高い技能が要求される場所だった
 従って、気高い理想や高い士気を誇っていても訓練も戦術も不十分な民兵に軍事的価値は全くなかった
 物心つく前から馬に乗って人を殺傷する修練を積んできた者、重い鎧を着てあらゆる殺人技術を発揮することが天職だと
信じている者、戦士であることが呼吸することと同じくらい当たり前の社会で育ってきた者、槍や弩のテクニックを
修得できなければ行き倒れる運命しか残されていない者、そのような連中が往来する場所ではフィレンツェ市民兵は
場違いな存在だった
 更に、13世紀末に毛織物工業、金融業、海外貿易が緊密な関連を保ちつつ発展しはじめると、これら商工業に携わる
市民は利益の見込める経済活動に従事するようになり、割に合わない兵役を忌避するようになった
 フィレンツェが余りに戦争に淫しすぎていたことも無視できない要因だった
 1251年から1254年に対ピサ戦、1253年にピストイア攻撃、1254年にシエナ攻撃、1256年に対ピサ戦、
1260年に対ピサ戦、1267年にルカ、ポルト・ピサノ攻撃、1269年に対シエナ戦、1274年にピサ攻略、
1289年から1293年に対アレッツォ戦と、フィレンツェはほとんど絶え間なく周囲に喧嘩を売り続けていた
 市民が市権力を掌握し、市の軍制の基礎として民兵制度が確立して以降のフィレンツェの過剰な好戦性には目を見張る
ものがあるが、流石に市民も軍役奉仕を喜ばなくなってきた
 1282年以来、対外戦争が始まると特別の戦争対策委員会が設立され、委員に選出された者はコムーネから資金を
受領してフィレンツェ領内から民兵を掻き集めなければならなかった


そんだけ
144刀狩:03/12/27 14:52 ID:???
 やがてフィレンツェの富裕な市民は従軍するかわりに市政府に金銭を支払って軍役奉仕を免れるようになり、
1325年、遂に市は軍役免除税を正式に規定した
 この軍役免除税によって、富裕市民は名誉を守りつつ兵役から解放されることになった
 しかし、軍役免除税は豊かではなかったポポロ・ミヌートにとっては過大な戦費負担にしか過ぎなかった
 ポポロ・ミヌートにとって、ポポロ・グラッソの政権獲得後に頻繁に行われた戦争は、全てポポロ・グラッソの
経済的利益のために行われていると映った
 しかも戦場は軍事能力が皆無に近いフィレンツェ市民にとって鉄と肉の怪物が横行する鉄火場だった
 こうなると、ポポロ・ミヌートがあからさまに軍役奉仕を忌避するようになるのは当然で、ポポロ・グラッソは
ポポロ・ミヌートに軍事力を期待できなくなり、遂に彼らを武装させることに危惧を覚え、ポポロ・ミヌートの武装解除に
踏み切ることになる
 こうして民兵の戦術的限界と市民の兵役忌避により13世紀末から14世紀初頭にかけてフィレンツェ民兵軍は消滅し、
かわって外国人傭兵が台頭した
 もっとも、この外国人傭兵は15世紀のコンドッティエーリとは違い、傭兵化しつつある封建軍だった
 中世末期の封建制の崩壊と封建貴族の経済的基盤の変動によって騎士身分に代表される小貴族の多くが封主との
封建的主従関係を維持しつつ、他方で金銭収入を求めて他国の諸侯や都市自治体に高い報酬で雇われるようになっていた
 ドイツ、フランス、スペインの小領主や封建騎士たちが、自らの軍事技術を買ってくれる新しい雇用主を求めて、
手勢を率いてアルプスを越えた
 ルクセンブルクのハインリヒ、オーストリアのフリードリヒ1世、バイエルンのルードヴィッヒ、ボヘミアのヨハン等の
封臣軍が続々と職を求めてイタリアに入ってきた
 イタリアの諸都市はこれらの外国封建諸侯の訓練された軍勢によって自国の軍事力を強化できることに気づき、
高給をもってこれらの外国人軍隊を迎え入れた
 戦争に生涯を捧げた外国人たちは、市民の最も技術の優れた職人よりも高い報酬を要求した


そんだけ
145外套と天秤と鎚鉾:03/12/27 14:53 ID:???
 フィレンツェもこうした解体しつつある封建軍を傭兵として雇い入れ、自国軍の強化を図った
 1267年、アンジューのシャルル1世の臣モンフォールのギーとその手勢のフランス騎兵800が、
1289年、アンジューのシャルル2世の臣アメリゴ・ド・ナルボンヌとフランス騎兵400、
1301年、フランス王弟シャルル・ド・ヴァロアとフランス騎兵800、1305年、カラブリア公ロベルトと
騎兵300、1315年、ランド・ダ・グッビオとその手勢、1325年、スペインのレイモンド・ド・カルドナと
その手勢のブルグンド騎兵100、フランス騎兵130、更に他の都市から増援として送り込まれていた
フランス騎兵1500、ドイツ歩兵500、1326年、ナポリ王ロベルトの子カラブリア公と騎兵1000、
1336年、騎兵2000
 これらの兵力が13世紀末から14世紀前期にかけてフィレンツェに雇われた外国人傭兵軍だった
 彼らは全て純粋な意味での傭兵ではなく、傭兵化しつつある封建軍だった
 13世紀以降、フィレンツェが外国人傭兵を用いた戦争は、市の基幹産業である毛織物工業、カリマラの毛織商、
金融業と密接に関連していた
 1266年、ギルド市民政権が成立した際、大ギルドの成員が重要な役職についたが、1282年、シニョリの成立と
ともに羊毛ギルド、カリマラギルド、両替商ギルドの三大ギルドの政権が確立した
 これ以後、市の全ての経済活動のみならず全ての行政権がポポロ・グラッソに握られることになる
 ポポロ・ミヌートの指導者ディアノ・デルラ・ベルラは1292年にポポロ・ミヌートの支持を得てプリオリに就任し、
1293年に「正義の法令」が制定された際に民衆を煽動してポポロ・ミヌートによる市政の乗っ取りを画策したが、
大商人の反撃によって失敗し、1295年に市から追放された
 この事件を契機にポポロ・グラッソの政権は決定的なものとなり、大商人政権の下で経済と政治は完全な融合を果たした
 こうして、フィレンツェの対外戦争は全て毛織物工業と金融業の発展のために遂行されることになる


そんだけ
146大商人:03/12/27 15:00 ID:???
 フィレンツェの毛織物工業の由来は余り明らかではないが、もともとフィレンツェで生産されていた毛織物は非常に粗雑で
生産量も極めて僅かだったため、フィレンツェ領内とその周辺の限られた範囲でしか流通していなかった
 ところが、半製品的な外国産毛織物が輸入され、それがカリマラという商業資本家によって加工されるようになってから、
フィレンツェの毛織物工業は急速な展開を始めた
 カリマラ商人とは、資本をもって原料購入及び製品販売を独占すると同時にいまだ手工業の段階にあった毛織物製造工程の
一部を管理する商業資本家すなわち問屋商人だった
 従って、カリマラギルドは主に毛織物を取り扱う商人ギルドだった
 彼らは当時の世界的市場だったシャンパーニュ大市で商品と貨幣の取引で活発に活動しており、この市場から北フランス、
フランドルの毛織物、特にアラビアの良質なガルボを輸入した
 12世紀中頃、アラビアの毛織物工業が没落して以降は、フランドル、オランダ、ブラバントから良質な粗布が流入する
ようになった
 染料は、大青をエルフルトから、緋をアジアから、明礬をフォケーア、ヴォルテルラ、ジェノヴァから購入した


そんだけ
147殖産:03/12/27 15:01 ID:???
 この製品に対する需要は最初からイタリア全土に根強く存在していたが、後には西アジアにも輸出され、その地の染料や
薬品などと交換された
 更に販路はフランスやイングランドにまで拡大されたが、原料輸入と製品輸出はほとんど全てピサを通して行われていた
 フィレンツェが頻繁にピサに戦争を仕掛けていた理由がまさにここにあった
 市場の拡大に伴いフィレンツェの毛織物工業は毛織物の大量加工生産が要求されるようになり、1338年には市内に
展開したカリマラの卸店は20店舗を数え、市内で処理される毛織物だけでも年1万反、金額で30万フローリンに達した
 こうしてカリマラの商業資本はまず染色と仕上げの生産部門において産業資本への転換を開始した
 この染色加工工程の詳細な内部関係は明らかではないが、カリマラ商人は手工業者である染色工を問屋制的な支配下に置き、
原料と生産工具を前貸しすることによって染色工を事故の商業資本に隷属させた
 多くの染色手工業者がカリマラ商人から仕事を与えられ、彼らに経済的に支配された
 後に本来の毛織物生産が発展するに伴い、カリマラ商人に隷属していた染色工は新しい毛織物商人の下で再編成される


そんだけ
148ワーキング・モンク:03/12/27 15:01 ID:???
 カリマラの展開に並行して毛織物生産も発展していった
 元来良質でなかったためにその発足に立ち遅れたフィレンツェの毛織物工業は、先進産業の技術輸入によってその遅延を
克服しなければならなかった
 1256年、北ドイツで毛織物製造技術を修得して帰ってきた者たちによって結成された技術集団ユミリアート伝道団が
市政府から様々な特権を約束されて招聘された
 ユミリアート伝道団の第三教団に属して在俗のまま禁欲的な修道生活を送る第三会員は、布施を得て生活する一方で
毛織物生産に従事した
 アルノ河の両側にユミリアート伝道団の工場が建ち並び、市の取扱業者が集結した
 この工場の生産様式は多分にマニュファクチュア的で、ユミリアート伝道団は人手不足を補うためにポポロ・ミヌートを
賃金労働者として雇い入れた
 この毛織物生産は利潤追求そのものが目的ではなく、そこから得た利潤を宗教的目的すなわち貧者救済に使うためだった
 彼らは製品を公正価格で販売してフィレンツェ商人を喜ばせ、利益はユミリアート伝道団の共有財産とされ、しばしば
土地に投資された
 ユミリアート伝道団は、先進的なマニュファクチュア的生産様式を持ち込むことによって粗悪はあるが丈夫な粗布を
大量かつ低価格で市の毛織物商人に供給した
 この低品質ではあるが廉価な製品の大量生産は他市の毛織物産業を事実上破産させ、強力な販路を構築した
 ユミリアート伝道団がフィレンツェの毛織物工業を大きく発展させる一方、13世紀以降活発化しつつあった地中海貿易は、
海外から良質の羊毛をフィレンツェにもたらしつつあった
 羊毛原料はスペイン、ポルトガル、北アフリカから大量に流れ込み、他にもプロヴァンス、ブルグンド、ラングドック、
ドイツ、ギリシアからも持ち込まれた
 その製品はヨーロッパ全土に送られ、他国の毛織物より優位を占めるようになり、13世紀中頃にはアラビアやフランドル、
ヴェロナと肩を並べる高品質な製品が生産されるようになる


そんだけ
149クリティカル・パス:03/12/27 15:03 ID:???
 12世紀末まで、羊毛ギルドは手工業者によって構成されていたが、その後の生産体制の発展によって生産工程に分業が
行われるようになると、手工業者の中にも分化が生じ、織元である商業資本家が台頭して他を支配するようになった
 織元は原料購入と製品販売を確保し、小生産者に原料と生産工具を前貸することによって彼らを経済的に支配した
 最初に原料の準備工程の部門である打毛工、梳毛工、刷毛工が織元と賃金労働関係を結び、織元の用意した仕事場で
働くようになった
 続いて織物生産の基軸である織布工程を担当する紡毛工と織毛工が独立性を失い、フィレンツェで特に必要だった染色工は
特に強力な規制下に置かれた
 こうして商業資本家層が手工業者層を隷属させるとともに、羊毛ギルドの支配圏を握り、手工業者は政治的発言力を失った
 1280年頃、イギリスの良質な羊毛が大量に輸入されるようになり、毛織物工業はフィレンツェの最も重要な基幹産業となった
 フィレンツェの商業資本はイギリスの封建社会に確固たる地盤を獲得し、バルディ、ペルッチを先頭に金融業者が
こぞって聖俗封建領主に寄生していった
 特に当時主要な羊毛生産者だったイギリス修道院の約3分の1に当たる221の修道院に貸付することにより、代償として
数年間にわたる羊毛供給契約を結んだ
 イギリス産羊毛の輸入はフィレンツェ毛織物工業の著しい進展をもたらし、1300年には市内の毛織物工場は300を
数え、年間生産量は10万反を上回った
 その後、弱小な工場がより大きな工場に吸収されることによって1338年には工場数は200程度まで整理されて
生産量も7万〜8万反程度に減少したが、製品ははるかに良質になり、価格は約2倍に跳ね上がってその収益は
約120万フローリンに達した
 この額の3分の1が労働賃金に支払われ、フィレンツェ総人口の約3分の1に当たる約3万人の市民の生計を支えた
 こうして商業資本家である織元は市民の3分の1を経済的に支配し、それを基盤として都市自治体における確固たる
政治的支配を確立したのだった


そんだけ
150last boss:03/12/27 15:05 ID:???
 フィレンツェの経済でもう一つの無視できないファクターが金融業だった
 フィレンツェでは金融業と毛織物工業が不可分に結合しており、しかもこの高利貸両替業者は同時にカリマラ商人であり、
また織元でもあり、三者を兼業しているのが普通だった
 もともと金融ギルドは13世紀初めにカリマラ・ギルドから分離して成立したのだが、独自の組合が組織された後に
なってもカリマラの商業資本は高利貸付両替業の分野に活動し、諸国の封建領主と結合して大規模な商取引を営んだ
 高利貸資本的機能と商取引資本的機能の巧妙な結合はフィレンツェで大商人として認められるために必須の技能だった
 フィレンツェの金融業者を肥え太らせたのは諸国の封建領主との金融取引だったが、特にローマ教皇庁との密接な関係に
よるところが大きかった
 東西に展開する全ての司教や修道院長から莫大な収入が教皇庁に流れ込んでおり、フィレンツェの金融業者は
この世界最大の浮遊貨幣資本との取引を独占するために手段を選ばなかった
 最も手強い敵は早くから教皇庁と金融取引を行っていたシエナ商人だった


そんだけ
151鉄一色:03/12/27 15:06 ID:???
 1254年、ファルコニエリがフィレンツェ商人としてはじめてシエナ商人ブオンシニョーリやトロメイと肩を並べて
教皇アレキサンドル4世と金融取引をして以来、フィレンツェ商人が次々に教皇庁に進出し、次第にシエナ商人を排除して
教皇庁における最も有力な銀行となり、教皇ボニファキウス8世の時に遂にフィレンツェの銀行が教皇庁の金融取引を
完全に独占した
 彼らはイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインから教皇庁に入る収入(主に十分の一税)を委託されたのみ
ならず、多額の金を教皇庁に貸し付けた
 その他にもイギリス王室、フランス王室を筆頭に封建諸侯、騎士、都市に対して多くの高利貸付を行った
 アヴィニヨン、ブラッセル、パリ、シエナ、ローマ、ナポリ、ヴェネツィア、コンスタンティノープルに支店が展開し、
市内でも1338年には約80の両替店が軒を並べていた
 こうして問屋制的商業資本と金融業者であるポポロ・グラッセが直接的な生産者であるポポロ・ミヌートを経済的に
支配していく過程において、フィレンツェに雇用された傭兵軍に課せられた第一の任務は対外戦争の遂行にあった
 訓練されたよく装備された外国人騎士の参戦によって民兵の救い難い軍事能力の低さが露呈し、その上に市民の軍役奉仕の
忌避が加わって、市政府は市民に軍事的な役割を期待できなくなっていく


そんだけ
152銀の流れる道:03/12/27 15:07 ID:???
 フィレンツェがその歴史の中で最も頻繁に戦った外敵はピサだった
 1273年、1293年、1327年、1329年、1343年、1406年と相次いで傭兵を動員して遂行された
一連の対ピサ戦は、例外なく通商路確保という商業目的のために行われた
 前述のようにフィレンツェの産業は原料供給地と製品販売市場をともに外国に持っていたため、海外貿易への依存が
極めて大きかった
 皮肉にもフィレンツェは内陸都市で海に面していないという致命的な地理的障害を抱えていたため、フィレンツェ商人の
貿易港獲得に対する情熱には並々ならぬものがあった
 13世紀から14世紀にかけてフィレンツェが手掛けた戦争のほとんどは、この商人の願望を充たすために戦われたと
言っても過言ではない
 フィレンツェのカリマラ商人と毛織物商人はトスカナ海岸の港湾ポルト・ピサノとリヴォルノを通じてイギリス、フランス、
フランドル、スペイン、オリエントから羊毛、粗布、染料、薬品等の原料を輸入し、毛織物製品を再びこれらの地方の市場に
輸出した
 そして、フィレンツェとこれら二港を結ぶ街道を扼する場所に位置していたのがピサだった
 この結果、ピサの産業は繁栄し、しかも海上を支配してフィレンツェの産業に挑戦するまでに成長した
 ピサを通るフィレンツェ商品に思い通行税が課せられるようになると、遂にフィレンツェはこの競争相手に対して
経済的優位を保つために武力行使を決心した
 こうして両市の間で経済的利害を巡る闘争が繰り広げられたが、このような事情から、両市の間で戦争の末に交わされた
条約は常に経済的商業的な内容だった
 1273年、敗北したピサに対してフィレンツェは自国商品の無制限な通行を要求している
 1293年、1327年、1329年にも、ピサを降したフィレンツェは同様の要求を行っている
 既に1254年のピサの降伏条約の中にも、フィレンツェのピサに対する経済的支配の兆候が認められている
 フィレンツェの商品はピサにおいて通行税、輸入税をはじめ一切の税を免除され、ピサはフィレンツェと同じ度量衡単位を
採用することが規定された
 1406年にピサを完全に制圧して以降、フィレンツェの産業は急速に発展して黄金期を迎えることになる


そんだけ
153ミスタバンカ:03/12/27 15:07 ID:???
 フィレンツェが打ち倒すべき敵はピサだけではなかった
 1269年、フランス人騎兵を投入して戦われた対シエナ戦は、フィレンツェの金融業者がローマ教皇庁という巨大な
封建勢力に接近し、それを通じて自己の金融資本を強化すべく行われた商業目的の戦争だった
 13世紀初頭以降、ローマ教皇庁における最強の銀行はシエナのブオンシニョーリ銀行で、クレメンス4世の時代に
シエナ金融業者の勢力は絶頂に達していた
 それ故に、フィレンツェの金融資本が教皇庁に進出するためには、ローマの近隣という有利な地理的条件を備え、富や
勢力圏、人的資源においてフィレンツェに互し、しかも既に確固たる勢力を張っていたシエナ商人を打倒する必要があった
 1260年には敗北したが、1269年には勝利し、これ以後フィレンツェ金融業者は次々にローマに進出していった
 更にフィレンツェは教皇庁の金融市場における自己の勢力を確実にすべく、ローマへの途上にある都市を攻撃し、
政権を奪い、同時に経済的に支配していく
 1274年にはアシアノが、1290年にはアレッツォが征服され、14世紀初頭にはフィレンツェ金融業者が
ローマ教皇庁の金融取引を事実上独占した
 他にも、フィレンツェはトスカナ全域における経済的支配を独占すべく近隣の都市を攻撃した
 ボローニャ地方はフィレンツェ経済にとって重要な市場であるという理由で早くも1203年に攻撃され、
フィレンツェ商品に対する通行税を廃止されてフィレンツェ経済を支える大動脈の一つとなった
 1282年には、ルッカ、プラトー、ボルテルラ、ピストイアを打ち破り、フィレンツェ商品の自由通行を保障する
条約が結ばれた
 1325年、1326年、1328年に莫大な戦費を投じて傭兵を動員し、ピストイアへ出兵を繰り返したのも
ボローニャ市場の支配を確実にするためだった
 フィレンツェは条約によって1331年にピストイアの、1332年にコルトーナの、1337年にアレッツォの、
1338年にコルレの支配権を獲得し、周辺地域の諸都市をフィレンツェ経済圏に包含していく


そんだけ
154エコノミー・カースト:03/12/27 15:08 ID:???
 フィレンツェの傭兵を用いた戦争はほとんど全てがフィレンツェ産業のために必要な原料購入経路確保と販売市場の
拡大を目的としていた
 この点で、フィレンツェにおける外国人傭兵の存在はポポロ・グラッソの経済的支配を確立するための手段だったが、
傭兵には市内の治安維持というもう一つの役割が与えられていた
 13世紀末以降、毛織物工業と金融業が結合して発展し、ポポロ・グラッソがポポロ・ミヌートの大半を占める手工業者を
経済的に支配していったが、14世紀初頭まではその支配は完全とは言えず、手工業者の中には自ら企業家となって
産業資本へと傾斜し、商業資本の問屋制支配としばしば衝突した
 直接生産者のこうした資本家への成長を阻み、彼らを手工業的生産様式の段階にとどめたまま支配することが
自己の地位を維持することを意味していたため、大商人は市の政権担当者としての地位を通じてあらゆる政策を用いて
直接生産者の成長を抑制しようとした
 直接生産者であるポポロ・ミヌートは被選挙権を失って政治的権利を剥奪され、更に同盟禁止令が布告されて
生産環境改善の手段と彼らの数的な優位を利用する可能性を奪った
 外国人の官吏が採用されて生産管理と裁判の判決執行権が委ねられ、労働者の徒党化は法治国家に対する反逆行為であると
宣言された
 1315年に始まった所得税と財産税の撤廃は1342年に完了し、この結果、税負担の大部分がポポロ・ミヌートに
転嫁されるようになった
 当然のことながら、これらの政策の遂行にはポポロ・ミヌートの激しい抵抗が予想されたため、それに対処する手段が
必要とされたのは言うまでもなかった
 ポポロ・ミヌートの軍役奉仕義務の消滅には、ポポロ・ミヌートの絶望的な軍事能力と軍役忌避の傾向のみならず、
ポポロ・グラッソの政治的経済的支配権の強化という思惑も存在していた
 フィレンツェ市政府は軍事能力に優れた封建軍を招き入れ、傭兵隊長は市の治安維持の任務が与えられた


そんだけ
155らいあっと:03/12/27 15:09 ID:???
 1282年、商人政権はギルド民兵隊を解散して市民皆兵制を廃止した
 1293年、「正義の旗手」に直属した1000名の民兵は政府の親衛隊だった
 彼らはポポロのための兵ではなく、むしろポポロの大多数を占めるポポロ・ミヌートを抑え込むためのポポロ・グラッソの
護衛兵だった
 こうして軍事力がポポロ・ミヌートから大商人の手に移行し、ポポロ・ミヌートは大商人の支配に反抗する可能性を失った
 前述のようにこれはポポロ・グラッソの政治的思惑のみならず、ポポロ・ミヌートが自ら望んだ結果でもあったことは
否定できない
 大商人は民兵に代わる軍事力として雇った傭兵に警察権を与え、ポポロ・ミヌートの抵抗を取り締まる任に当たらせた
 更にしばしば行政権をも与え、市政を委ね、市政府の権威を強め、ポポロへの圧力を強化した
 1313年、ナポリ王ロベルトがシニョリとして迎えられ、行政権と警察権が与えられている
 1315年、ランド・ダ・グッビオが警備長官として雇われた
 1325〜1328年にはカラブリア公が20万フローリンでシニョリに招聘され、1342〜1343年には
アテネ公がシニョリとして迎えられた
 傭兵隊はポポロ・ミヌートへの弾圧装置としての性格を有していたため、しばしば一般民衆から歓迎されなかった
 特に独裁者のような態度で振る舞ったカラブリア公への民衆の反感は強く、彼が市を去った後もシニョリへの嫌悪感が
長く市民の間に残ったと伝えられている


そんだけ
 こうした傭兵を雇用するために、しばしば大金が投ぜられた
 1325年、カストルチオとの戦争で、コムーネは傭兵軍への報酬として毎日3000フローリンが支払われた
 1326年に迎えられカラブリア公は年に20万フローリンの約束だったが、実際にはその2倍の40万フローリンが
支払われている
 1339年のフィレンツェ・コムーネの年間通常支出が4万フローリンであったことを考慮すれば、傭兵雇用の費用は
凄まじい経済負担をフィレンツェに課していたことになる
 こうした出費を支えるために様々な施策が用いられた
 ほとんどお約束のように市政府は戦費調達の名目でポポロに重税を課していた
 戦争のような国家の特別支出に対しては市民の個人個人が市政府に協力すべしという規定が13世紀末に定められ、
その目的のために市民の資産調査が行われ、これは1319年にも再調査が行われている
 1301年、市の全教区に課税することが法律で定められ、その負担は全教区民の間で分担された
 1312年、市の全家族に対してポポロ・グラッソであれポポロ・ミヌートであれ例外なく一家族につき9ソルディの
税金が課せられた
 また、金銀の装飾品の使用禁止、女性の華美な服装の禁止、冠婚葬祭の浪費禁止、金銀什器の禁止、食糧制限等を定めた
奢侈禁止令が出され、戦費供出のために日常生活の節約が図られた
 ポポロ・ミヌートにとって戦争は重税負担とそれに伴う耐乏生活を意味したため、あらゆる戦争は恐怖の原因となった
 このため、ポポロ・ミヌートは一部の大商人のための戦争への反対の態度をとり、小ギルド員たちが戦争反対を唱えて
軍役を拒否したこともあった
 これに対して市政府は1325年に軍役免除税を制定して軍役拒否の代償として税を納付することを規定した
 この税は軍役から解放されて経済活動に従事することを望む富裕層には自尊心と名誉を守る都合の良い法律だったが、
一般の市民にとっては一層の重税負担に他ならなかった


そんだけ
157黄金は力の源泉:03/12/27 15:11 ID:???
 外国人傭兵を雇用する戦費が市民の大部分を構成するポポロ・ミヌートに非常な負担を負わせていたのは事実だったが、
そんなことで得られた程度の端金で傭兵軍が維持できた訳ではなかった
 フィレンツェが大規模な傭兵軍を整備できた最大の要因は、フィレンツェの経済的発展にあった
 13世紀末に中世的なギルド的生産様式が商業資本の下で再編成されて問屋制的生産様式へと移行し、一部には
小規模ながらマニュファクチュア経営さえ見られるようになり、フィレンツェの産業は毛織物工業と金融業を中心に
非常な躍進を示した
 この繁栄が市政府の傭兵軍動員の経済的基盤を作り上げた
 傭兵軍を大量にしかも頻繁に使用するようになる14世紀前半は、フィレンツェが経済的財政的に異常な発展を示した
時期でもあった
 1339年のフィレンツェ市政府の収入は30万フローリンだったが、市内200の毛織物工場では120万フローリンに
値する8万反の毛織物が製造され、カリマラ商人たちは1万反の外国製粗布を加工して30万フローリンを稼ぎ出していた
 市の貨幣鋳造所では3年ごとに35万〜40万フローリンの貨幣を鋳造していた
 13世紀初頭には1万程度だったフィレンツェの人口は、14世紀初頭には3万に、1340年頃には9万に増え、
1347年には急激に増加して12万に達した
 個々の商人の財産目録は様々だが、新しい生産様式を支配したポポロ・グラッソが経済的に富裕だったことは
まず間違いない
 そしてこの経済力を持った大商人層が政治権力を掌握してコムーネを構成したからこそ、毎日3000フローリンを
支払ったり、年に40万フローリンを支払ったりと、大枚をはたいて傭兵を雇うことができた
 すなわち、従来のギルド市民とは比較にならぬ財力を備えたポポロ・グラッソの未曾有の富が、莫大な富を要求する
傭兵の雇用を可能にしたのだった


そんだけ
158傭兵王:03/12/27 15:12 ID:???
 傭兵はその本質において雇用主の部下でも家臣でもない
 戦場で傭兵がどれ程戦功を立てても、例えそれが雇用主の予想や契約をはるかに上回るものであろうとも、その結果、
彼が得るものは報酬の増加に過ぎない
 傭兵が雇用主の権力構造に組み込まれ支配階層に吸収されたならば、彼はもはや純粋な意味での傭兵ではなくなる
 そして、中近世ヨーロッパではこうした事例は珍しくはない
 これは傭兵個人のみならず、彼らを率いる傭兵隊長たちにも当てはまる
 時の経過とともに傭兵隊長が雇用主の家臣となったり、雇用主を凌ぐ権力を持つに至ったりするだけでなく、
更には雇用主に代わって権力を握るような事態、特に傭兵隊長が実力によって雇用主を打倒してそれに取って代わるような
極端な逆転現象は十分にあり得た
 もっとも、このような事態が実際に生起した事例はフランスやドイツ、イギリスでも皆無に近い
 問題は、このようなヨーロッパで極めて例外的な事態が、ルネサンス・イタリアではあまりにも頻繁に生起している
ことだった
 ヤコポ・デル・ヴェルメ、ニッコロ・フォルテブラッチョ、ニッコロ・ピッチニーノ等、傭兵隊長が雇用主を蔑ろにする
ほどの権力を握って威を振るう事例は枚挙に暇がないのみならず、傭兵隊長が政権を奪い、更にはその権力が永続化して
傭兵隊長によって王朝が開かれることもあった
 ミラノのスフォルツァ家は傭兵隊長によって開かれた王朝として余りにも有名である
 手柄を立てた傭兵隊長がまず自己防衛しなければならなかった相手が他ならぬ彼の雇用主だったという現象は、
傭兵による政権簒奪が横行していた当時の状況を如実に物語っている
 「実際のところ、傭兵隊長は何よりもまず雇用主に対して身を守らねばならなかった
 戦闘で成功すると危険だとされてこの世から葬り去られてしまった」
 「我が変転常無きイタリアにおいて確固たるものは存在せず、古い支配権力もなく、一兵卒も易々と王侯貴族に
成り上がる」


そんだけ
159ニッコロくんの意見:03/12/27 15:12 ID:???
 ルネサンス・イタリアでは、国家が自ら雇用した傭兵隊長に脅かされたり、権力を巡って闘争を交えたり、あるいは
傭兵隊長によって国を乗っ取られたりすることは極めて当たり前の現象だった
 このような状況の中で例外的な存在がヴェネツィアとフィレンツェの二つの共和国だった
 両市は共に主として傭兵を対外戦争の遂行に使用した国家だった
 共に常備軍らしい常備軍を保有せず、傭兵を雇用する場合もほとんどが期間限定だったという点でも一致する
 両市は強力な財力に物を言わせて対外戦争の度に傭兵を動員して大部隊を編成した
 ヴェネツィアはナポレオンに屈するまで、フィレンツェはルネサンス末期まで共和政治の伝統を維持し、独立を保った
のみならず、傭兵の横行や反乱の脅威に晒された経験がほとんどないという特質も共有している
 これについてマキャヴェリは、彼の「戦術論」等で、フィレンツェで傭兵が暴威を振るわなかったのは、都市の存亡に
関わるような重要な戦闘が無く、従って傭兵隊長が戦功を立てることによって市の政権を掌握するに足りるだけの人望や
社会的地位を獲得する機会がなかったからだと主張している
 流石は傭兵を絶対悪と見なして強い傭兵制否定の立場に立つマキャヴェリらしい主張だが、傭兵隊長の権力獲得を
戦場での功績のみに求めるのは余りにも暴論だし、格別の戦功もない傭兵隊長が政権を奪取した事例はミラノの
フランチェスコ・スフォルツァのように珍しくはない
 スフォルツァは純粋に軍事的な手腕よりもその人格的な魅力で名を上げた傭兵隊長で、マキャヴェリ自身もそれを
認めている
 傭兵を否定することで知られるマキャヴェリだが、この主張にはちょっと無理があると言わざるを得ない


そんだけ
160外から狼を招く:03/12/27 15:13 ID:???
 実際、フィレンツェといえども14世紀末までは傭兵禍に悩まされ、時には市政権力を奪われたこともあった
 フィレンツェがナポリ王ロベルトの下でピサと戦った際、フィレンツェの反ロベルト派はロベルト追放を企図して
フランスとドイツで兵を募ったが失敗し、最後にランド・ダ・グッビオを警備長官として迎えた
 しかし、ランドは市政府の主権を無視して兵を率いて横暴を働き、市民を殺傷し、遂には贋金を鋳造するに至ったが、
誰もこれに反抗することはできなかった
 マキャヴェリに言わせれば、無様な内紛がこのような大きな暴力を招来したのだった
 ランドの勢力を打倒すべくロベルトは名代としてグィド・ダ・バッティフォルレを派遣したが効果はなく、ロベルトの
息子の妻でボヘミア王アルベルトの娘がフィレンツェに滞在した際にその力を借り、勧告を容れて紛争を中止して
ようやくランドを追放することができた
 マキャヴェリはこの傭兵隊長の横暴を防止できなかったのはフィレンツェ市民すなわち貴族と大商人の党争にあると考えた
 マキャヴェリはランドが警備長官として「無限の権力」を与えられていたと記しているが、ランドがポデスタから
完全な主権譲渡はもちろん、部分的な執行権ですら譲り受けていたとする形跡は認められていない
 本来、警備長官はそのような権限を持つものではないので、この記述は警察権の付与を意味していると考えるのが妥当で、
ランドが主権者を無視して恣意的に警察権を拡大行使できたのは、当時のフィレンツェ社会、特にその権力がランドを
制御できなかったという事態に深く関連している
 市民の党争がこのような巨大な権力を育てたというマキャヴェリの考察は、あくまで一般的なものに過ぎない


そんだけ
161全部お前のせい:03/12/27 15:15 ID:???
 1324年、フィレンツェが皇帝麾下のカストルチオ・カストラカーニと戦った際、アラゴンのレイモンド・ド・カルドナ
はブルグンドとフランスの騎兵を率いてフィレンツェに着到し、フィレンツェ軍の総指揮官に任命された
 彼はブルグンド騎兵100、フランス騎兵130を連れてまずシエナに乗り込み、更にフィレンツェに入った
 「薄明の中に鐘が打ち鳴らされ、市民たちは洗礼堂とドームの間に集められ、大衆会議が開催され、彼はその前で
引き受けた義務に忠誠を誓った」
 市民たちはこれに勇気づけられて戦争に乗り出した
 ピストイアへの出撃が計画されたが、トスカナ地方諸都市はこれに同調せず、援軍を出したのはシエナだけだった
 騎兵3500と重装歩兵5000を含む歩兵1万8000が動員され、彼らのために麻製の天幕860張が用意された
 フィレンツェは毎日3000フローリンを戦費として供出したが、戦争は必ずしも有利には運ばなかった
 1325年9月のアルパシオ戦でレイモンドは捕虜となり、釈放後に裏切者として息子とともに投獄されている
 後に彼は皇帝ルードヴィッヒとアラゴンのアルフォンソの働きかけで出獄し、再びアラゴンの将軍に返り咲いている
 レイモンドはフィレンツェが窮状となれば容易に政権を奪えると見て自ら裏切ってフィレンツェを窮地に陥れ、市の政権を
簒奪しようとして失敗し、しかもそのためにフィレンツェが大敗するに至ったとマキャヴェリは主張している
 実際、レイモンドはアーサー王の物語に出てくる騎士のように戦場での個人的な武勇で名を上げてきた端武者で、
野戦指揮官としての指揮能力にはあまり恵まれていなかった
 5000の損害を出した1325年9月のアルパシオ戦の敗因はフィレンツェ上流市民隊の早期崩壊と戦線離脱が
引き起こしたもので、レイモンドは最後まで踏み止まって奮戦した末に捕虜となっている
 レイモンドはこの戦闘の前にカストルチオに対して和議を申し入れていて、後にこれが彼の裏切りの証拠だとされたが、
この申し入れは彼の単独行動ではなく、実際には全部隊が承知した上での行動だった
 故にこの敗戦は単なる軍事的敗北であり、マキャヴェリの言うように傭兵隊長の謀反の失敗とそれを阻止した共和政府の
確固たる意思と実力を証明する事例とはならない


そんだけ
162馬を並べて入城する:03/12/27 15:16 ID:???
 カストルチオに敗れたフィレンツェは、今度はナポリ王ロベルトの子であるカラブリア公シャルルに援助を求めた
 フィレンツェの出した条件は、一切の官職を授けて年2万フローリンを給付するというもので、シャルルは騎兵1000を
率いてフィレンツェに入城し、フィレンツェの支配者となった
 彼は市の官職全ての任命権を握り、シニョリの権限すら奪って多額の税を市民に課した
 十人委員会や十二上級組合特別顧問会、三百人全体会議では市民によるシャルル追放が計画されたが、シャルルの警察力に
よってことごとく阻止され、1327年のシャルルの死という超政治的偶然によってようやくフィレンツェは解放された
 シャルルが死んでようやく僭主から解放されたフィレンツェだったが、1342年にピサに敗れると、今度は
アテネ公グヮルティエリに支援を要請することになる
 アテネ公国は十字軍がビザンティンに作った国とされているが、実際には単なる虚名で、彼はロベルトの食客に
過ぎなかった
 マキャヴェリによれば、アテネ公執政の状況はあまり喜ばしいものではなかったという
 「貴族と下層市民はアテネ公を支持し、特に貴族は市民の支配を憎んでいたため、アテネ公をけしかけて市権力を
簒奪させようとした
 アテネ公は対ピサ戦の責任者である市の支配者を処罰したため、市民は異常な恐怖を抱いた
 同年9月、彼は遂に終身領主権を確保してシニョリを弾圧し、町人会の旗を没収し、フィレンツェの自由の擁護者を
圧迫し、市民に新たな税を課し、多数の農民を虐殺する等の虐政を施いたが、ただ彼は賤民に資金を与えてこれを懐柔した
 フィレンツェはこのために非常に荒廃疲弊した
 今度は遂にフィレンツェの貴族を含む全市民が一致して反乱を起こし、1343年、フィレンツェ大司教がこの反乱を
支持するに及んで、やっとアテネ公をフィレンツェより放逐することができた」
 ヴィラニーによれば、アテネ公は軍事能力には多少優れてはいたが政治的な才能は欠落していたらしい


そんだけ
163召喚者:03/12/27 15:20 ID:???
 アテネ公の簒奪を貴族の思惑の結果だとするマキャヴェリの解釈は、当時のヴィラニーの年代記に従ったものだったが、
実際には事情はもう少し複雑だった
 当時、エドワード3世の計画倒産は、王に多額の貸付を行っていたフィレンツェのバルディ、ペルッティ両家の破産を
はじめ、これら金融業者を通じて貸付を行っていた中産市民を恐慌させ、銀行家たちは預金引出との対決を余儀なくされた
 市の財政はポポロ・グラッソの手にあったが、相次ぐ戦争で危機に陥り租税は増加する一方だった
 バルディ、ペルッティ等の有力市民層は、強力な指導者を擁立し、彼を援助干渉してその統一された戦争指導の下に、
ルカその他への侵略戦を大規模に行ってこの危機を脱しようと企図したのだった
 この時期のフィレンツェでは既に貴族と有力市民の区別は不可能になっており、市の支配階級には相当多数の金融家や
大商人が含まれていた
 実際、当時の貴族たちはマキャヴェリが考えていたような本来的な意味での貴族ではなく、既にこの頃には漠然と
富裕市民を示す言葉に過ぎなくなっていた
 彼らが市の実権を握っており、アテナ公を擁立したのも彼らだった


そんだけ
164独裁者は人気者:03/12/27 15:21 ID:???
 アテネ公グヮルティエリは、magnateと呼ばれる富裕市民と、彼らに与する市民、下層市民の絶大な支持を受けて、
市民を広場に集めることを要求した
 集まった群衆の支持は圧倒的で、彼の支配権を一年間に限定する旨の動議を提出した市参事会員は、怒り狂った群衆から
罵声とともに死刑を要求された
 この熱狂的な空気の中で、市政府委員はアテネ公を終身のシニョリに任命し、勝ち誇った市民は「a vita(終身)!」と
叫びつつ彼を胴上げして市中を練り歩いて市庁舎へ運び込み、市の旗が引き抜かれ、アテネ公の旗が高々と掲げられたという
 こうした市民の熱狂的な人気がアテネ公の独裁権力の獲得を可能にした
 アテネ公は、対ルカ戦に備えて商人に与えられていた担保の取消、新所得税の導入、市政府委員の敷地内での集会の禁止、
ピサとの和約といった反大商人政策の他にも、下層市民の支持獲得策として祭礼の奨励や資金贈与を行い、一般市民の
ギルド結成を指導して大商人たちの神経を逆さに撫でまくった
 その政策は主に貴族や大商人の特権を剥奪してその利益を抑えることを主眼とし、その失墜もまたこの独裁権力が
大商人たちの利益と相反するに至って起こった


そんだけ
165職人の政府:03/12/27 15:22 ID:???
 これらの傭兵隊長が活動した時期は、以前の13世紀における毛織物工業の発展が頭打ちとなり、流通を握る大商人層の
生産支配が強化された時期でもあった
 大商人たちは同時に金融業も営んでいたが、この生産関係の諸矛盾が14世紀には目立って激化していた
 この状況は北部ドイツ諸都市とほとんど同じだが、北部ドイツでは生産者である手工業者の市政参与の形で妥協が
行われたのに対し、フィレンツェでは問屋生産を支配するポポロ・グラッソと、染色業者を中心に比較的独立的な地位を
確保していた親方、職人、中小商人からなるポポロ・ミヌート、梳毛工、無産労働者等からなる下層市民(プレベ)の
利害の対立が、大ギルド対小ギルド、小ギルド対賃金労働者等の形で展開した
 大商人たちの生産支配が簡単に達成できなかった要因は、東方貿易を独占したイタリア諸都市、特にフィレンツェの
毛織物工業の規模が巨大であったため、生産の全工程を容易に商業資本の支配下に組み込むことができなかったからだった
 また、奢侈品生産でその販路が限定されていながら、ヨーロッパ全域と近東、インド方面等を独占していたフィレンツェの
毛織物産業が、その全流通過程を制御できず、生産者が生産品を部分的ながら自己の裁量で処分できる余地が残されていた
 こういった事情から、小市民は容易に大市民には屈しなかった
 その頂点となったのが、1378年に発生したチオンピ(梳毛工)の乱と呼ばれる民衆暴動だった
 下層の梳毛工を中心に毛織物製造業者たちが梳毛工ミケル・ランドに率いられて市庁舎を占拠し、ランドは新しい
市参事会員に指名されて、下層市民4名、大ギルド2名、小ギルド2名からなる新しい市参事会が作られた
 この新しい民衆政府は事態を収拾する能力が無く、大市民のみならず一般の市民の激しい抵抗を受け、1382年に
ランドが追放されるまで一種の無政府状態がフィレンツェを支配することになった
 これを転換点として以後大市民勢力が急速に支配的になり、大市民による寡頭政治が実現した
 中でもメディチ家に急速に権力が集中し、やがてメディチによる独裁政治が始まることになる


そんだけ
166white company:03/12/27 15:22 ID:???
 この時期のフィレンツェで活動した最も有名にして最も典型的な傭兵隊長がジョン・ホークウッドだった
 前述したように彼は鞣革業者の息子と伝えられており、ロンドンで徒弟生活を送っていたが、イングランドの大陸侵征軍に
加わって一雑兵としてフランスに渡り、そこで頭角を現して1360年のブレティニーの英仏休戦以後は「白色兵団」を
率いて北イタリアに入り、傭兵隊長としてモンフェラート候やピサなどに雇われていた
 1377年にはフィレンツェと傭兵契約を結んだが、これは教皇に解雇されたホークウッドがフィレンツェを脅かし、
略奪をほのめかして引き換えに金銭や食糧などの提供を要求してきたため、当時の市政府がやむを得ず傭兵契約を
結んだと言われている
 ホークウッドは、5年間フィレンツェの防備につくことを条件に即金で13万フローリンを受け取り、更にピサ、
アレッツォ、ルカ、シエナとも同じような契約を結んで総額9万5000フローリンを手にした
 コルッチョ・サルターティの年金ですら、他の学者や芸術家に比べれば極めて高額とはいえ1200フローリンでしか
なかったことを考えれば、ホークウッドの荒稼ぎぶりは想像を絶していた
 しかもホークウッドは政府に雇われながら反政府勢力の大市民たちとも秘かに通じ、1382年に大市民たちが指導した
下層民による反政府暴動の鎮圧に出動しなかった
 こうして大市民政権が樹立されると、ホークウッドは警備長官として反政府運動の鎮圧に従事し、功労者として年金と
免税の特権を与えられ、その葬儀は公費によって行われ、市の大聖堂の本堂内のファッサードには武装して騎乗した姿が
描かれた
 これほどの市民的栄誉を享受できた果報者は他に約半世紀後のニッコロ・ダ・トレンティーノがいるが、外国人傭兵と
しては彼以外に存在しない


そんだけ
167毒犬注意:03/12/27 15:24 ID:???
 ホークウッド以降、フィレンツェにおいて著名な傭兵隊長は、ジョヴァンニ・メディチ以後のメディチ家による
独裁的な支配下で活動している
 1429年、対ヴォルテラ戦の勝利とともに対ミラノ戦が一応の終結を見ると、フィレンツェはそれまで市のために
働いてきた傭兵隊長ニッコロ・フォルテブラッチョを突然解雇してしまった
 マキャヴェリによれば、時のフィレンツェの指導者リナルドは、ニッコロにルッカ攻略の指揮権を約束していたらしい
 しかし、ニッコロは解雇されても別にフィレンツェに反抗することもなく、「独力で騎兵300、歩兵300を率いて
ルッカ領に攻め入り、ルオティ・ディ・コムピート城を奪取して付近を荒掠した」
 ニッコロはこうして後には数都市を領有し、1438年にフランチェスコ・スフォルツァと戦って戦死したが、
その時にはホッピ伯の娘と結婚し、ボルゴ・サン・セポルクロ城に居を構える堂々たる一諸侯だった
 このフランチェスコ・スフォルツァの麾下にいたミケレット・アッテンドロは有能な戦争屋として知られ、1433年に
ミラノ公とシエナの同盟軍に対抗するフィレンツェに傭兵隊長として雇われている


そんだけ
168カモナマイハウス:03/12/27 15:24 ID:???
 1434年には、フィレンツェは教皇、ヴェネツィアと同盟してミラノと争った
 この戦争では、ガッタメラータとニッコロ・ダ・トレンティーノが傭兵隊長として雇用されていたが、フィレンツェ軍は
各地で敗れ、今度はかの悪名高きフランチェスコ・スフォルツァを雇い入れた
 その後数年間、彼は一進一退の戦局を戦い抜いたが、1437年、ミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティとの間で
和平が結ばれると、今度はミラノに雇われて対ヴェネツィア戦に従事した
 しかし、1447年にフィリッポの死を契機に共和制へと移行したミラノは、スフォルツァの勢力拡大を怖れて
ヴェネツィアと結んで対フランチェスコ包囲網を敷き、進退窮まったスフォルツァは軍を返してミラノを攻撃した
 1450年、ミラノでは下層民の暴動で共和政府が打倒され、ヴェネツィアの大使も殺害されてしまった
 その後、スフォルツァは指導者として迎えられることになり、彼は意気揚々とミラノ公の地位についた
 スフォルツァが入城する際、熱狂した群衆が彼に下馬の暇も与えず馬上のまま彼を聖堂まで担ぎ入れたと伝えられている
 この点についてマキャヴェリは沈黙しているが、僭主排撃を身上とする彼にとって書き記すのは耐え難かったからだろう
 ただし、このような描写をもって君主の人望を表現することは当時の修辞的伝統でもあったからその真偽は定かではない
 しかし、それが修辞的であったとしても、ミラノの民衆がスフォルツァを歓迎していたことはまず間違いない


そんだけ
169裏切る理由:03/12/27 15:26 ID:???
 対ナポリ戦において、先祖代々フィレンツェの支配下にあったバーニョ盆地の領主ゲラルド・ガムバコルティは、
フィレンツェを裏切ることを決心した
 ナポリ王アルフォンソが所領の一部を譲渡することを約束したからだとマキャヴェリは記しているが、実際にはナポリの
圧力に抗しかねた末の降伏に過ぎなかった
 しかもゲラルドの裏切りは家臣の内通によって失敗する
 ゲラルドの家臣と軍隊はナポリ軍に降伏しようと城門を開けた彼を外へ放り出して門を閉めてしまい、彼は妻子と全財産を
捨てて単身ナポリに落ちるしかなかった
 その後、フィレンツェはミラノ公と協同してアンジュー公ルネに援助を求め、ルネは兵4200を率いて来援した
 フィレンツェは彼にまず手付として3万フローリンを、その後戦争終結までに年1万フローリンを支払うことを約した
 この契約は実行されたが、ルネはミラノやフィレンツェの懇願にもかかわらず自子を代将として残して帰国してしまった


そんだけ
170赤牛:03/12/27 15:26 ID:???
 1467年にはフィレンツェは対ヴェネツィア戦の指揮官としてウルビノ公フェデリゴを雇った
 同年7月、フェデリゴの率いるフィレンツェ軍は、これも高名な傭兵隊長コルレオーネの率いるヴェネツィア軍と
リカルディナで激突し、戦闘の決着のつかぬまま双方に多大な損害を出して和議に及んでいる
 フェデリゴは大フェデリゴとも称され、文芸を愛好し、法を遵守して公明正大に領地を治めた名君として知られており、
彼が傭兵隊長としてフィレンツェに雇われたのも、領民に重税を課すことを嫌ったからだと伝えられている
 ただし戦地での彼はそうではなかったようで、彼の軍勢も他と同じく慣習としての略奪を躊躇することはなかったし、
ヴォルテラに対する略奪に至ってはヴェネツィアとの和議の条約に違反するものだった
 1474年、キプロス島を巡って教皇、ナポリ王とフィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィアの間で衝突が起こった
 フィレンツェにはウルビノ公フェデリゴがいたが、教皇は彼に内通して自己の陣営に引き入れ、自軍の総司令官に
迎え入れてしまった
 これに対してフィレンツェはロベルト・ダ・リミニを雇い入れた
 このロベルトは凄腕の戦争屋で知られており、その後もフィレンツェに雇われて1479年には教皇軍に大打撃を
与えている


そんだけ
171ご褒美に毒杯:03/12/27 15:27 ID:???
 しかし威勢が良かったのはロベルト・ダ・リミニだけで、フィレンツェは他の戦場で連敗を重ね、国内では反メディチ勢力
による内紛もあり、戦局は悪化の一途を辿った
 マキャヴェリによれば、単身敵地に乗り込んだロレンツォが舌先三寸でナポリと単独講和し、フィレンツェは窮地から
脱したとされている
 1482年の教皇、ヴェネツィアとフィレンツェ、ナポリの戦争では、ロベルトは教皇に雇われて総指揮官に任ぜられ、
ローマ近郊でカラブリア公アルフォンソ率いるフィレンツェ軍と戦って激戦の末に壊滅的な打撃を与えたが、ロベルトは
この戦勝の凱旋祝の最中に急死した
 彼の死は教皇シクストゥス4世による暗殺だったとも言われており、事実、彼の死の直後に教皇はその所領を攻撃している
 ちなみにロベルトの遺児パンドルフォ・マラテスタ・ダ・リミニはヴェネツィアの傭兵隊長を務めていたが、
彼もヴェネツィア政府に毒殺されている
 1478年、対ナポリ・教皇戦でフィレンツェに雇われていたフェララ侯エルコール・デステは、リミニの指揮下で
従軍していたが、戦利品の分配で同じ傭兵隊長のマントヴァ公フェデリゴ・ゴンザガと揉めて解雇され、部隊を率いて
帰国してしまい、これがフィレンツェの劣勢の遠因になったと言われている
 後にエルコールは教皇とヴェネツィアに攻められ、フィレンツェやミラノと同盟して戦ったが、その最中に陣没している
 フェララ侯エルコール・デステが抜けた穴を埋めるために雇われたのがニッコロ・ヴェルティルリだった
 彼は所領チッタ・ディ・カステルロを教皇に何度も執拗に攻撃されており、この時も自らの領地から追い出されていた
 彼は1482年に城を奪回してローマに進軍したが、教皇に雇われたロベルト・ダ・リミニの活躍によって教皇と
フィレンツェの間で手打ちがなされると、彼はあっさり見捨てられ、1483年に教皇は再び彼の所領を攻撃した
 孤立したエルコールはしかし自領内で頑強に防衛戦を展開して、最終的に教皇が大幅に譲歩する形で講和が結ばれている
 一方、1479年にフィレンツェに軍監兼傭兵隊長として雇われていたヤコポ・グィチアルディニは、1487年に
サルツァーナでジェノヴァ軍に大勝し、以後1492年のロレンツォ死去までフィレンツェは平和を享受することになる


そんだけ
172裏切り者の名を受けて:03/12/27 15:28 ID:???
 以上、コシモからロレンツォまでのメディチによる実質的な支配下にあったフィレンツェで活動した主な傭兵隊長12名の
うち、雇用主への裏切りを画策した疑いがある者はジョン・ホークウッドとゲラルド・ガムバコルティの僅か2名で、
その他は忠実に傭兵契約を守っており、1378年以前のフィレンツェに雇われた傭兵がことごとく主権簒奪者になっている
ことと対照的である
 傭兵の陰謀を大袈裟に表現する傾向の強いマキャヴェリですら言及していない以上、この10名が雇用主に叛意を抱いて
いなかったことはまず間違いないし、例外の2名のうちゲラルド・ガムバコルティは嫌疑をかけるのも気の毒なくらいで、
しかも完全な失敗に終わっている
 ロレンツォの死後、彼の個人的な能力に依存していたフィレンツェの対外政策は急速に破綻していった
 何よりも新たな脅威が突如として眼前に出現した
 イタリアの諸国家が依然として中世都市国家的な利害の中で角逐している間に、アルプスの彼方ではイタリアの都市国家
など比較にならぬ強大な権力、中央集権国家が成長しつつあった
 最初の敵はフランスだった
 ロレンツォの死後僅か2年後の1494年、フランス王シャルル8世は、軍を率いて長駆イタリアに侵入し、潮の如く
南下してフィレンツェに迫った
 ロレンツォの後を継いだピエロ・ド・メディチは、フランス軍の野営地を訪れ、20万ドゥカーテンを献上して降伏する
ことを約束したが、フランス軍をその目で見たわけではない市民は降伏を聞いて憤慨し、市は暴動状態に陥った
 市民に感謝されて当然と思って帰還してきたピエロは、フィレンツェの混乱を見て市権力を完全に掌握するため、
11月9日に市庁舎に入って市民に呼びかけようと試みた
 しかし、市庁舎の門衛はピエロを阻み、市参事会も彼の呼びかけに応じなかった
 思わぬ抵抗を受けたピエロは、再び武装して強引に押し通ろうとしたが、緊急召集を告げる市庁舎の鐘が打ち鳴らされ、
武器を持った市民に取り囲まれてしまった
 市民たちの怒号の中で、市参事会はピエロの追放と、その財産の保証として彼に4000フローリン、弟のジョヴァンニに
2000フローリンを要求した


そんだけ
173最初に逃げた男:03/12/27 15:29 ID:???
 ピエロ・ド・メディチは、絶望的になった自己の地位を回復すべく、メディチ家が日頃から恩恵を施していた
サン・ガルロ門前の貧民街に赴き、自ら声をからして下層民たちに支持を訴えた
 しかし、彼の演説は何の効果もなく、「最も卑しく最も貧しき者」でさえ彼を軽侮し市庁舎に通報しようとした
 これが直接の引き金になって、彼は自邸に戻らずそのまま逃亡してしまった
 注目すべきは、下層市民でさえピエロに対して反抗の姿勢を明らかにしていたのに、フィレンツェに雇われていた傭兵が
ピエロに反逆することもなく、一方で新共和政府に恭順するわけでもなく、また騒動に乗じて自ら政権を奪取しようと
活動した兆候すら見られないことだった
 民心は主戦論に集まり、傭兵たちは戦意なく、主戦論は市民皆兵的な気運とともに共和政府の主導下にあった
 ピエロが脅迫や懐柔、煽動とあらゆる手を尽くして地位回復を図った挙げ句に失敗してフィレンツェを脱した直後の
1494年11月17日、フランス軍は全く抵抗を受けることなく聖フレディアノ門からフィレンツェに入城した
 北の中央集権国家が練り上げたヨーロッパ最新の野戦軍は、これまで中世封建的な傭兵軍を見慣れたフィレンツェ市民の
想像を絶しており、ただその姿を街道に晒しただけで市民たちの戦意を砕いた
 フランス軍は「フランチア、フランチア」という市民の驚嘆の声の中を進んだと伝えられている


そんだけ
174街道の悪魔:03/12/27 15:30 ID:???
 当時の年代記によれば、入城したフランス軍の陣容は、騎兵3000、ガスコーニュ歩兵5000、スイス歩兵5000、
ブレトン弓兵4000、弩兵2000で、他に新型の前装砲を多数引き連れていたという
 この軍勢の威容と整然さを見たマキャヴェリが国民兵制度の復活を叫んだのも無理はなかった
 結局この大軍は、フィレンツェの新しい指導者カッポーニの応対とサヴォラナローラの説得を容れたシャルル8世の
不可解とも言える決断によってフィレンツェを略奪することなくナポリへ進軍していった
 このシャルル8世の軍勢は勢力規模のみならずその戦闘能力においても隔絶した存在だった
 前述したように、後にフランス軍がイタリアから撤退する途上の1495年7月、9000の兵力でアペニン山脈下の
フォルノヴァにおいてイタリア諸都市連合軍に捕捉され不利な地形で包囲されたにもかかわらず、壊滅的な打撃を受けたのは
イタリア軍のほうだった
 後の1527年に皇帝カール5世の軍勢によるローマ荒掠がルネサンス文化の息の根を完全に止めてしまったことを
考えれば、フランスに屈辱的講和を結んだピエロ・ド・メディチの判断は結果的に間違っていたとは言い難い


そんだけ
 フィレンツェに雇われた傭兵隊長の行動には一定の特徴が見られる
 14世紀の共和制時代の傭兵隊長は、いずれも市政府の権威を無視した僭主的存在、もしくは僭主そのものになっている
 一方、14世紀後期の金融資本家による寡頭政治以降、傭兵隊長は例外なく一戦役もしくは戦闘のための極めて一時的な
雇用関係に留まり、しかも彼らは形勢不利であっても契約を遵守して忠実にフィレンツェのために戦い抜いた
 中には敵側に奔る者がいても判明しているのは一名のみで、反乱を企てたり政権を奪取しようとする者はいなかった
 実際に傭兵隊長たちは戦時ともなれば政権を奪うに十分な兵権を握っており、やろうと思えば易々と成し遂げられる
立場にいた
 傭兵隊長たちの経歴を見れば、前述したマキャヴェリの傭兵隊長非戦功説は十分な説明にはならない
 最も有力な定説となっているのが、雇用者の報酬支払能力の問題である
 戦争が頻発した結果、傭兵隊長の需要が増加し、傭兵隊長を雇い入れること自体が困難になっていた
 また、傭兵隊長は自分たちをできるだけ高く売りつけようと努力していたし、雇用者側も傭兵が十分に働くように戦功に
応じて特別報酬を準備することはごく当たり前に行われていた
 例えば、城壁に最初に取りついた部隊に通常の2倍の特別報酬が支払われるのは当時の一般的な慣例だった
 こうして傭兵を雇うための費用は高騰し、都市や君主は戦費の調達に苦労するようになる
 戦争に勝てば、賠償金や戦利品を獲得して傭兵たちを満足させられたが、負けた時は悲惨だった
 傭兵たちの不満は反乱につながり、政権の簒奪につながり、あるいは領土の一部を割譲して傭兵を領主に据えざるを得ない
ような事態につながった
 フィレンツェやヴェネツィアのような富裕な商業都市であってはじめて、いかなる場合でも傭兵への報酬の支払に
事欠かないでいられた
 この考えは基本的に正しいが、これだけではフィレンツェの傭兵隊長たちの行動は説明できない
 1378年以降のフィレンツェの傭兵隊長は、突然の解雇や報酬の不履行に対して反抗していないし、それ以前の
傭兵隊長たちの専横も、報酬の支払と直接関連があったとは考えにくい


そんだけ
176英雄崇拝:03/12/27 15:33 ID:???
 大商人特にメディチ独裁下のフィレンツェが傭兵隊長を完全な制御下に置いておけたのは、その社会制度や権力構造、
経済力といった社会的要因ではなく、コシモやロレンツォのような偉大な個性によるものだったと主張する向きもある
 特にロレンツォはこの手の逸話には事欠かない
 ロレンツォの外交手腕の凄みは、戦争を行いつつも必ずしも戦争の勝敗に依存していなかった点にあった
 彼は直接には戦争指導には関与しなかったが、戦局劣勢の折りにはあたかも野戦指揮官の如く振る舞っている
 例えば、1487年の対ジェノヴァ戦でフィレンツェ軍はサルツァナの要塞を包囲したが容易に陥落せず、撤退すら
検討されたが、ロレンツォはもう一度攻撃を行おうとして前線に出た
 マキャヴェリによれば、「彼が陣屋に姿を見せたので、味方は新しい元気を取り戻し、サルツァナの城兵はことごとく消沈」
したという
 一般将兵の信頼はこうして直接ロレンツォに集中し、中間に位置する傭兵隊長への人望や人気を発生させる余地を
生まなかった
 ロレンツォは更に軍事的な危機を自身の果敢な外交交渉によって打開している
 1478年、対教皇・ナポリ戦で敗戦が続き、厭戦した市民が公然とロレンツォに対して停戦を要求するという異常な
非常事態において、彼は単身ナポリに乗り込み、ナポリ王の宮廷で熱弁を振るい、3ヶ月間軟禁されたものの、遂に和解を
約束させて故郷に凱旋した
 不満分子はロレンツォによって圧服され、フィレンツェの危機は完全に回避された
 同年、オスマン・トルコ侵入の際にはロレンツォは巧妙に教皇と和解し、更にこの危機的状況を利用してナポリとの
同盟関係を強化した
 こうしてフィレンツェの内憂外患がロレンツォの個人的能力によって回避されたことを証明する事例は事欠かない
 確かに成功者の成功の原因は全てその個性や個性的行動に帰して説明することは可能だが、何故その個性の活躍が
可能でかつ成功したかという、より普遍的な前提について考慮する必要がある
 傭兵隊長を完全にコントロールできたのはロレンツォのみならず代々のメディチ家当主の多くに言えることであり、
更に言えば傭兵隊長の活動が安定期に入ったのは14世紀末の寡頭政治時代からだった


そんだけ
177独裁者の記憶:03/12/27 15:35 ID:???
 一般に、イタリアにおいて政権簒奪に成功する最大の要因は、民衆それも大多数を占める下層市民の支持にあった
 フランチェスコ・スフォルツァを新しい支配者に迎えたのは他ならぬミラノ市民だった
 フィレンツェでも、アテネ公グヮルティエリの政権は広場に集まった民衆の支持を基礎にして成立した
 これは必ずしも権力者への修辞的な讃辞ではなかった
 後の1378年のチオンピの乱において、下層民たちはアテネ公に授けられたギルド旗を掲げてその下に集まり、
政治的軍事的な集合体として武装し、隊列を組んで蜂起した
 財産評価(estimo)税は、小ギルドの支持によってカラブリア公によって始められ、大ギルドの反対を押し切って
アテネ公によって改良徹底され、彼の追放によって消滅したが、チオンピの乱の際に下層民たちはその再開を蜂起の目標に
掲げていた
 これらの事例は、マキャヴェリの筆によって後世に悪評高いアテネ公グヮルティエリの支配が、当時の民衆の目に
どのように映っていたかを示唆している
 アテネ公の失敗の最大の原因は、貧しい下層市民に対して余りにも味方であり過ぎたことだとさえ言われている


そんだけ
178八丁堀が千人:03/12/27 15:35 ID:???
 政権の交代や奪取に一般民衆の圧倒的な支持が必要であることは他の多くの事例からも証明できる
 一方、常に傭兵隊長の指揮下にある兵力はそれ程多くなく、戦時においては更に複数の傭兵隊長を雇い入れることが
一般的だった
 出来るだけ軍事費を節約するために戦争の都度、臨時に傭兵を動員し、平時の常備兵力を極力少規模に抑えるのが、
イタリア・ルネサンス傭兵制の最も基本的なコンセプトだった
 勿論、軍事的な必要性から指揮権はその中の有力な一名に与えられたが、この一時的な軍司令官の軍事統帥権には
時間的空間的な制約が常につきまとっていた
 ホークウッドは対ナポリ戦で騎兵6000、歩兵1万5000を指揮したが、それでも平時に彼が指揮できた兵力は、
軍事力としては期待できない警吏を含めても1000に満たなかった
 傭兵隊長ですら彼の手勢のみをもって都市を軍事的に制圧できない以上、反乱やクーデターの成否は、一般民衆特に多数を
占めていた下層民の支持の獲得如何に関わっていた
 メディチ家の支配権は、特に下層民を手懐けることによって維持されていた
 チオンピの乱の背後にはメディチ家がいたとまで言われている、というより鉄板でメディチ家が仕組んだものだった


そんだけ
179偶像:03/12/27 15:38 ID:???
 フィレンツェやヴェネツィアのような商工業都市では商人間の対立抗争も激しく、民衆の反対運動も強力で、専制政治の
維持は容易ではなかった
 フィレンツェの実質的な君主となった最初のメディチ家当主であるコシモも、このことを十分に理解していた
 このため、コシモは市の民主的な制度には干渉せず、ただ官職の選出に当たって圧力を加えてメディチ家由縁の人物を
選出させ、民衆の間で自分の人気を保つために世論に非常な注意を払った
 ロレンツォはメディチ家代々の当主の中でも政治の表舞台に出たことで異色を放ったが、この伝統から脱していないし、
むしろこの方針の強力な信奉者であった
 このようなメディチ家の民衆掌握は、コシモやロレンツォの個人的才覚や政治能力によるところが大きかっただろうし、
幾多の危機を切り抜けたロレンツォの雄弁は高く評価されるべきだが、だからといって彼らの個人的能力が全てを決めていた
わけではかった
 15世紀のフィレンツェは、毛織物産業が14世紀中頃を頂点に緩やかに減退しつつあった


そんだけ
180とてもいいひと:03/12/27 15:39 ID:???
 その打開策としてフィレンツェは頻繁に侵略戦争を試みたが、それと並んで行われたのが、公共事業への投資や祝祭の開催、
庁舎や自宅、行進等で貧民に金銀を施すことで、メディチ家はこれを半ば政策化した
 メディチ家は1434年から1471年までに66万3755グルデンを支出し、その中でコシモだけでも40万グルデン
を超えていたと言われている
 フィレンツェの歳入が30万グルデンだった当時に、コシモは年平均して4万グルデンを撒き散らしていたことになる
 当時の市民は年収が100から200グルデン程度あれば金持ちだと言われていたし、ヴェネツィアの貴族が参事会に
出頭して、年収僅か16ドゥカーテンで、9人の子女と60ドゥカーテンの負債があることを訴えている
 ちなみにこの頃のグルデン金貨とフローリン金貨は等しく純金3.75グラム、ドゥカーテン金貨は純金3.9グラムで、
ドゥカーテン貨はグルデン貨より若干価値が高かった
 ともかく、フィレンツェの人口約10万の中で下層市民がどれだけ占めていたかを示す明確な人口調査資料はないが、
それに対する年間4万グルデンという金額は決して少ないものではなかった
 メディチ家の人心掌握の根底はその無尽蔵な出費を可能にする財力にあったと言っても過言ではない


そんだけ
181散財者たち:03/12/27 15:39 ID:???
 メディチ家の財産、収入、財政の全貌を具体的に正確に知り得る史料が存在しないため、その総財産額は明らかではない
 ただ非常に富裕だったことは間違いなく、例えばコシモ個人が所蔵していたコレクションだけで、宝石1万2200、
リング2000、メダル2600、陶器4600、銀製品6700、書籍2800で計3万4500フローリンに達している
 メディチ家の主要な収入源は金融業特に外国君主への貸付にあり、この仕事は国内民衆の一般的な利益とは原則的に
対立しなかった
 一般に富裕階層の成長は国内の一般民衆との間の矛盾を激化させるが、メディチにはこの基本的な関係が成立しなかった
 かつてのバルディ、ペルッティ両家はメディチ家と同様な性格を持つ金融資本家でありながら、フィレンツェ市民と
対立抗争を演じたが、これは両家のエドワード3世に対する貸付が回収不能となり、その補填を国内からの吸い上げや
無謀な外征に求めたからだった
 バルディ、ペルッティ両家よりもはるかに巨大な資産を持つメディチ家は、そのような露骨な手段に訴える必要はなかった
 コシモほどに私財に長けず、政事に熱中してメディチ家の富を傾けたロレンツォに対しては、私財を投げ打って市の利益、
文化の保護、民衆の救済に努力したという讃美や、反対に公金と私金の区別無く市の様々な積立金融金を消費したという
非難が既に当時から存在している
 このどちらが正しいかを明確にすることは出来ないが、少なくともメディチが公共事業に投資するために重税を課した
ことは一度もなかった
 いずれにせよロレンツォが公私の別を明確にしなかったのは確かだが、要するに両者を公共事業や祝祭その他の奢侈的な
消費に注入したことが彼の人気の基底をなしていたことは間違いない


そんだけ
 一介の傭兵隊長がしばしば一国の君主へ成り上がったという事実から、いかなる卑賤の身も無限の可能性を秘めた一兵士
として参加できる傭兵軍を、全てのルネサンス人に等しく開かれた才能と個性の最高の表現の場であったと考えている
ルネサンス研究家は多い
 確かに15世紀の有名な傭兵隊長の中で、アテンドロ・スフォルツァは農民、ブラッチョ・ダ・モントーネは亡命者、
ニッコロ・ピッチニーノは屠殺業者、ガッタメラータはパン職人だったが、一方で封建領主や都市貴族出身の傭兵隊長も
少なくない
 神聖を嘲笑し残酷非情で打算的な傭兵隊長の一般的な人間類型を、逆にあらゆる偏見から脱して高度に洗練された
個人的才覚の結着として耽美的に鑑賞しようとする立場は、19世紀以降の個性を臆病なまでに珍重するロマンティシズムに
由来している
 現代の傭兵隊長像はともかく、当時の人々の傭兵への見方にはあまり浪漫風味は感じられない


そんだけ
183否定する人たち:03/12/27 15:42 ID:???
 15世紀には既に金銭を受け取って軍役に従事することが罪悪か否かという問題が提起されている
 ヨーロッパで学術の最先端に位置していたイタリアでは、知識層が軍人との接触を避けるようになっていた
 傭兵軍に依存する政治家でさえ、既存の軍制への信頼は失われつつあった
 1474年、フィレンツェに駐在するフェララ大使は次のように記している
 「もし夢想だにし得ない事態が起こりさえしなければ、我々は将来において、傭兵の間で戦われる戦争よりも、鳥獣の
喧嘩のほうを絶えず耳にするようになるだろう
 (中略)戦争の真の目的は平和なのだ」
 これと同時に、戦争と傭兵制のもたらす災害を根絶させる可能性が議論されるようになっていた
 ローマ及びローマ史への熱中故に、軍事活動とその組織は、国家の偉大な政治的本質であると考えられるようになっていた
 プランティーナは、1468年に「武器の使用法が皆目解らなくなってしまったこと程、イタリアの力を弱めたものは
他にない」と記している
 一方でマキャヴェリに先んじてフィレンツェの政治家パルミエーリは、傭兵制を痛烈に批判して全市民を武装させることを
唱道していたし、パトリキウスも全ての青年に義務的な軍事教練を課すことを提案している
 これら人文主義者に共通していたのは、古代ローマ軍への回想に端を発して現行の軍事機構である傭兵制を批判し、
新しい軍制を探求することにあった


そんだけ
184兵隊はみんな怠け者ばかり:03/12/27 15:43 ID:???
 傭兵制を批判していたのは、政治家や人文主義者だけではなかった
 当時の人々の目には、傭兵たちの戦い振りはいかにも不真面目に映った
 「それは戦争ブローカーの制度に過ぎない
 傭兵隊長たちは報酬を引き続き受け取るために戦争を長引かせ、敵を殲滅するよりも身代金のために捕虜を求める
 フェララ公は常に敵と2日行程の間隔を保持していたし、ピサからサルツァーナに至る僅か50マイルの進軍に3週間を
費やしている」
 1467年2月にナポリ王が側近に送った書簡によれば、「もし君が、我々にあまり好意を寄せていない人から、
我が軍が前線に到着する前に多くの兵隊が四散してしまうだろうと聞かされても気にしてはならない
 むしろ神の御助力によって手に負えぬ兵隊どもを追い出せたことを喜びなさい」と記されている
 規律と素質に劣る兵士に悩まされたナポリ王にとっては当然の発言であった
 更に8月には、「我が軍の一部が逃亡したことは私の心をいたく悲しませた
 この大きな手違いは、兵隊に対する我々の待遇ではなく、兵隊どもの素質の悪さと臆病さにある」と記している
 このような傭兵に対する不満は、一般市民の中にも浸透していた
 フィレンツェの市民ランドゥッチの日記には次のように書き記されている
 「(1478年1月、)敵はラモーレを占領した(中略)
 イタリアの傭兵軍隊のしきたりは次のようなものだ
 『我軍はここを荒らすから、貴軍はあそこを略奪したまえ
 敵味方が接近しあう必要は毛頭あるまい』(中略)
 我々は北方の軍隊が本当の戦争を教えてくれることを望んでいる」


そんだけ
185エナジェティック:03/12/27 15:44 ID:???
 15世紀イタリアのあらゆる立場からの傭兵制批判の頂点に立っていたのがマキャヴェリだった
 マキャヴェリの軍事思想の根底には古代ローマ軍制復活の熱望があり、歩兵を重視して騎兵や砲兵を軽視し、歩兵の
補助兵科と位置づけていたのはその影響によるものだった
 彼が構想した片手剣と楯を装備した重歩兵による3個単位の戦列を中核とする歩兵軍はローマのレギオンの復活だった
 古代ローマ復興の風潮は当時のイタリアでは一般的で、マキャヴェリが非常な影響を受けていたことは確実だった
 スペインの円楯兵はフランスやドイツでは時代遅れとされていたが、マキャヴェリは円楯兵が古代ローマの戦列歩兵と
同じような装備をしているという理由だけで絶賛を惜しまなかった
 しかも困ったことにマキャヴェリは思索の人に留まらぬ実行の人でもあった
 彼は民兵組織の設立を当時のゴンファロニエーレのソデリーニに力説し、一方でソデリーニの実弟である枢機卿に書簡を
送ってその説得を依頼している
 また、共和国全土を訪れて武器を分配し、歩兵を兵籍に加え、しきりに軍事問題に精励する一方で、無数の書簡を発して
民兵制の必要性を各界に力説した
 1506年に発布された画期的な徴兵令の基礎となった「新民兵制度に関する覚書」の草案を作成したのは他ならぬ
マキャヴェリだった
 人文主義者としての古代ローマ軍への崇拝、ルネサンスの特質の一つである技術への関心、新軍制立法者である軍制の
専門家の立場によって、マキャヴェリの傭兵観はルネサンス期の傭兵観の集成であり完成であるといっても過言ではない
 彼の傭兵観は「君主論」に余すことなく表現されている
 彼は「戦術論」において彼の軍事思想の技術面を記し、「君主論」と「リヴィウス論」でその信条を記した
 すなわち、「戦術論」は軍制改革の積極的プログラムであり、「君主論」と「リヴィウス論」は主として現行の軍制、
つまり傭兵隊長を中心とする傭兵制への否定だった


そんだけ
186駄目人間たち:03/12/27 15:44 ID:???
 マキャヴェリは、傭兵制についてその態度を鮮明に表明している
 「優れた軍隊のないところに善き国政は行われず、立派な軍隊があれば必ず善政が施されるものだ」と述べ、当時の
イタリアの軍事力を構成していた傭兵に言及している
 「傭兵も外国人兵もともに役立たずで有害である
 これらによって自領の安全を求めても、決して安定を確保できない
 彼らは不統一で野心的で、訓練もされていなければ忠誠心も持ち合わせていない
 味方に対して残酷で敵に向かっては臆病この上もない
 彼らは神を怖れず人間を信じない(中略)
 彼らは雇い主が平和な状態にある限り、その部下たる兵士に甘んじているが、戦争になると一目散に逃亡してしまう」
 そして、「イタリアの没落は、我々が長年にわたって傭兵軍隊に依存してきたという理由を除いては考えられない」
と断言している
 イタリア没落の原因を傭兵制に求めたマキャヴェリは、更に彼の著作の中で傭兵に対するより具体的で皮肉に満ちた
叙述を展開している
 そこに見られるのは傭兵に対する不満というよりも凄まじい憎悪の結晶である
 「(ツァゴラナ戦において、)ロドヴィコ・デリ・オビッツィとその部下2名を除いて誰も戦死しなかった
 また彼と部下2名の死も、実は落馬して泥で窒息したものであったことは、全イタリアで有名だった」
 「12時から24時まで続いたアンギエーリの戦いにおいて、たった一人だけが殺された
 その男は負傷したり一撃で戦死したのではなく、落馬して踏み殺されたのだった」
 「(モリネルラ戦では、)戦闘は半日続いたが、誰も死ななかった
 ただ馬が何頭か傷つき、一方が少数の捕虜を得た」
 マキャヴェリは著作のいたるところで傭兵軍隊への不信を表明している


そんだけ
187信者だから全肯定します:03/12/27 15:45 ID:???
 マキャヴェリは、全イタリアに財政的配慮が行き渡っていたことが15世紀の戦争指導と軍制を決定したと考えていた
 個々の兵士は傭兵隊長にとって資本であるが故に、傭兵隊長は部下を消耗することを極度に避ける
 そのために彼は激戦を忌避し、八百長合戦に終始する
 万一戦闘が避けられない時は、戦争の犠牲を最小限に留めようとする
 これがいわゆる無血戦だが、短期間で終わる戦争も傭兵隊長の利益にはならないため、彼は戦争の延長すら策する
 更にマキャヴェリは、イタリアにおける歩兵軽視さえも傭兵隊長の策謀によるものと推断している
 傭兵隊長は自己の名声を保つために歩兵の名声を低くしようとした
 彼らは自己の領土を持たないので、少数の歩兵では戦うことができないし、また多数の歩兵を維持することもできない
 騎兵は多数を必要とせず、しかも名声を保つことが出来る
 傭兵隊長は自分の軍隊が疲弊したり危機に遭遇したりすることを避けるためにあらゆる手段を尽くし、合戦しても
殺し合わず、傷つけずに捕らえて身代金は要求しない
 夜は戦わないし冬も戦わない
 以上のことは全ての傭兵隊長の間で認められているもので、それらは疲労と危険を避けるために彼らが考え出したのである
 故に、万一徴兵による歩兵軍が確立すれば、その容易な徴集と簡易な装備と低廉な費用のために、騎兵を主とする
傭兵軍隊の存在を危機に導くであろう
 このため傭兵隊長は自己否定の端緒となる歩兵の採用を避けるである
 マキャヴェリの考えを要約すれば以上のようなものだった
 ルネサンス期の傭兵観の頂点としてのマキャヴェリの所説は、そのまま近代史家に継承され、現代でも最も有力な定説と
なっている
 身も蓋もなく言えば、マキャヴェリの戦争に関する記述は、全く検証されることなく歴史的真実としてそのまま引用されて
いるのである


そんだけ
188art of war:03/12/27 15:47 ID:???
 マキャヴェリの戦争観は古代ローマ軍を理想像として無批判に崇敬した観念論に終始しており、実際にイタリアで
戦われていた戦争に対して何ら注意を払っていなかったのは確実だった
 この時期のイタリアでは、群立した都市国家がこぞって市を城壁で囲むようになったことによって、攻城戦への比重が
増加し、野戦の機会が減少する傾向にあった
 攻撃に対する防御の戦術的な優位は明らかだったから、防者は優勢な敵に野外決戦を挑む危険を冒すよりも、城壁を
より厚くより高くし、食糧を蓄え、城壁上に弩兵や銃兵を並べるほうを選択した
 攻城戦に投入される資源と時間はより大きくなり、必然的に戦争は長期化し、攻城戦を基準に展開された
 決戦によって一撃で戦争の帰趨を決することが期待できなくなった以上、軍の作戦目的は、敵軍を物理的に破壊すること
よりも、その攻勢と兵站の限界を引きずり出すことが重視された
 野戦軍に期待された最も重要な役割は攻城戦に寄与することであり、その行動も、真面目で積極的な野外決戦よりも、
陽動や牽制、時には交渉が優先された
 後の近代史家は当時の戦争を揶揄して「戦争の芸術品」と呼んだが、傭兵隊長たちの手腕は皮肉でなく戦争の芸術品だった


そんだけ
189影は光とともにあり:03/12/27 15:48 ID:???
 攻城戦は必然的に膨大な準備と長期にわたる作戦期間を必要としたから、傭兵隊長は戦術能力以上に管理能力が重視され、
部隊の兵站見積書を横睨みつつ、精緻で巧妙な作戦計画を作成し実行しなければならなかった
 攻城戦が焦点となる以上、歩兵の戦術的価値は決して軽視されるべきものではなかったし、軽視されてはいなかった
 古代ローマの決戦戦争を知るイタリアの人文主義者には、こうした消耗戦争が理解できなかった
 彼は、戦場で決戦に及んで一挙に戦争に決着をつける古代ローマの戦争と対照的に、長期にわたって延々と行軍と
攻城戦が続く15世紀イタリアの緩慢な戦争の原因が、傭兵たちの怠慢と堕落にあると信じていた
 実際にイタリアの戦争のスタイルを決定したのが、他ならぬ彼らの国家が矢鱈滅多に建設した要塞群にあったことに
気づいていなかった
 フィレンツェの一市民の望み通り、北方の軍隊は確かにイタリアに本当の戦争を教えてくれた
 傭兵を非難していた人々は、彼らが考えもしなかった「本当の戦争」を眼前に突きつけられることになった
 軽量で機動性に優れた攻城放列と経験を積んだ工兵を引き連れたフランス軍がアルプスの北向こうから持ち込んだ戦争は
イタリアの防衛戦略を根底から覆してしまった
 イタリアの安穏を保護してきた城壁は、中央集権国家の軍隊によってちゃぶ台返されることになる


そんだけ
190戦場の幻影:03/12/27 15:50 ID:???
 戦争とは戦場での華々しい流血戦だと信じていたマキャヴェリにはこのような傭兵隊長たちの戦争が許せなかった
 彼の崇拝する戦争のスタイルは古代ローマの決戦戦略と歩兵軍であり、消耗戦略と諸兵科連合軍ではなかった
 両者の違いは軍事的な戦略環境の違いによるものだったが、マキャヴェリには理解できなかった
 それ故にマキャヴェリの傭兵制否定は理論ではなく信仰の域にまで昇華されることになった
 彼の著作には、その信仰すなわち傭兵制とイタリア没落の関係を力説するあまり、恣意的な誇張や誤解、曲解が少なくない
 フィレンツェとヴェネツィアが対峙したアンギエーリ戦で実際に戦死したのは落馬した1名だけでなく、少なくとも
1000近い将兵が死傷し、更にヴェネツィア側に捕虜1300を出し、奪われた馬匹は600に上った
 両軍合わせて1万程度の戦闘による損害としては決して少ないものではなく、むしろ激戦だったと言える
 戦後のフィレンツェの処置も過酷を極め、捕虜の解放に際しては破格の身代金が要求され、しかも用意された身代金は
しばしば強奪されている
 そこには八百長を示す要素は全く見られない


そんだけ
191全部お前らが悪いったら悪い:03/12/27 15:51 ID:???
 また、マキャヴェリの言明にもかかわらず、15世紀後期には多くの傭兵隊長が攻城戦に対応するために信頼できる
歩兵部隊を組織化し、砲兵さえも整備しようと努力を傾けるようになっていた
 そこには傭兵同士の合意による馴合いの戦争など存在せず、傭兵隊長自身、マキャヴェリの主張するように自己の名声と
野心のためにも目前の敵を粉砕することに全ての努力を傾けていた
 15世紀後期に小領主が傭兵隊長に転身するようになると、傭兵隊長の就職口は供給過多になり、傭兵隊長の雇用主に
対する立場は著しく不利になっていた
 支払の良い雇用主に雇われるために、傭兵隊長は、彼の率いる軍勢が新しい戦術と装備に基礎を置き、軍事的信頼を
保証できる強力な軍団であることを実戦で証明する必要があった
 まさしく傭兵隊長のみがルネサンス社会の激しい生存競争から免れ得ることはありえなかった
 故意に長引かせたと言われる無血戦も、当時のイタリアの消耗戦争の一側面にしか過ぎない
 マキャヴェリの冒した最も酷い誤りは、イタリアの没落の一番本質的な社会的政治的な原因を追及せず、表面的な
軍事問題に求めて満足したことだった
 彼は内なる心の怒りをイタリアの傭兵制に向け、しかもそれ以上には出ることはなかった


そんだけ
192異邦の客:03/12/27 15:52 ID:???
 イタリアの傭兵はしばしば「動く国家」や「動く城」とも称される
 傭兵隊は医師、司祭、書記、会計、職人、料理人、娼婦その他の人間を段列に組み込み、隊内の司法行政権も傭兵隊長の
管轄下にあり、一定の国土に固着しない点を除けば一個の国家のような形態を取ったからだった
 当時のイタリアの戦争は消耗戦で長期にわたり、イタリアの政治状況のせいもあって不慮の戦争勃発の可能性は常に
つきまとっていた
 一方で常備的な軍隊はコストがかかり過ぎ、特に小国では常備軍を整備するだけの経済力が無いことも珍しくなかった
 このため、必要な時に必要な兵力を動員でき、かつ烏合の衆でない軍隊は喜ばれた
 このように雇用主を替え、その注文を待ちつつ、いかなる時でも直ちに役立てるように部隊を維持整備することは、
戦術遂行能力は勿論、部隊の員数、装備、収支を把握することにおいて最高度の技術が要求された
 財政上の操作に関してもエキスパートとして真の合理主義が必然的に要請されていた
 傭兵隊長が僭主として成功することが多かった理由の一つは、このような組織管理上の熟練という点に求められる
 14世紀のフィレンツェで活動していた傭兵隊長たちはほとんど全てがイタリア外から来た外国人だった
 最初の傭兵は皇帝のイタリア侵入に従っていたドイツ人で、続いてフランス、プロヴァンス、ガスコーニュ、ブレトン、
ハンガリー、イングランド等の傭兵がフィレンツェに雇われていた
 しかし、15世紀になると外国人傭兵はジョン・ホークウッドを最後に姿を消す
 アルベリコ・ダ・バルビアーノが登場し、彼の軍はまるで傭兵隊長養成校のようにそこからブラッチョ・ダ・モントーネや
アテンドロ・スフォルツァが現れ、傭兵隊長の全盛時代を築き、1482年のフェデリゴ・ダ・モンテフェルトロと
ロベルト・マラテスタの死で傭兵隊長の時代が幕を下ろすまで、イタリアの傭兵隊長は全てイタリア人で占められた
 イタリアで外国人傭兵の消滅した15世紀は、ドイツでは領邦権力の成立過程にあり、フランスでは百年戦争末期の
シャルル7世以降の中央集権の確立期であり、スペインではムーア人を追ったアラゴン、カスティリア、ポルトガルの
三王国が強力な王権を確立しつつあった時期でもあった


そんだけ
193サラブレッド:03/12/27 15:53 ID:???
 このような傾向はイタリアにおいても無縁ではなかった
 イタリアの常備軍化の傾向は概ね二つに大別される
 一つは、要塞や国境線、戦略上の要点に駐屯して規定の報酬を定期的に受ける常備傭兵で、もう一つは、突発的な
事件発生の際に軍役奉仕を提供する契約を結んでいた「動く国家」の形態をとる徴募傭兵である
 これらは国境の内外で雇用された傭兵隊や、場合によっては成立しつつあった国民的背景を持つ常備兵が中核となり、
それに有事の際に動員される兵力が加えられた
 常備傭兵への移行を明確な形態で示しているのがミラノ公国である
 フランチェスコ・スフォルツァは父祖の代から代々傭兵隊長の家系で、いわば傭兵隊長の純血種だった
 教皇ピウス2世は、スフォルツァについて次のように述べている
 「謹厳なる容貌、温容迫らざる談話、挙止全てが王侯たるにふさわしく、心身の天賦欠けることなく兼ね備えている
 まこと当代無比の人物で、戦場においても無敵
 かかる人物こそ卑賤より起こって一国の主権を掌握したその人である」
 これは彼がミラノ公になった後の話だから誇張されていることは間違いないが、それでも彼の傭兵隊長としての手腕は
一流だった
 1450年の彼のミラノ征服は、多くの傭兵隊の移動を常とする流動的な傾向から、土着的定住的軍隊として土地に
結びつける役割を果たした
 一方で「騎兵税tassa dei cavalli」による確実で定期的な国庫収入を通じて傭兵隊を中核とする常備軍が確立していき、
1493年には5829ランスの定員を保持していた
 スフォルツァ以前においても、既にヴィスコンティは多くの傭兵隊長に国境周辺を封土として与えて土地に緊縛していた
 ニッコロ・ピッチニーノはエミリア街道沿いのアペニン峡谷地帯その他に100ヶ村を与えられていたし、1441年には、
傭兵隊長への報酬支払の際にその一部を積み立て、装備、糧食、特に大砲の補給に使用する基金が設立されている


そんだけ
194lance spezzate:03/12/27 15:54 ID:???
 1472年から1474年にかけての対ヴェネツィア戦におけるミラノの動員準備計画によれば、ミラノ軍は2個兵団に
編成されていた
 第1兵団はガレアッツォ公の指揮下に29名の傭兵隊長の名が記されている
 そのうち3名はガレアッツォ公の兄弟、2名は庶出の兄弟、5名が親戚関係、11名が公国直属の家臣で、これに
ロマーニャ貴族の非嫡子で公国の官職を与えられた者3名、スフォルツァ直属の4名が加わっていた
 残るたった1名だけが自由契約のいわゆる「コンドッティエーリ」だった
 この29名の傭兵隊長は、各自の領地やロマーニャ地方から兵を動員する計画を与えられていた
 第1兵団の総兵力は、公国家直率の装甲槍騎兵450ランスと、遊撃兵と呼ばれる軽騎兵として独立的に行動する
装甲槍騎兵452ランスの約900ランスで、公国の騎兵戦力の約3分の1に当たり、直接間接に政府の指揮下にあった
 これに徴集兵や常備傭兵、強制徴募兵で構成された歩兵及び砲兵約1万2000が加わり、ミラノの旧家である
ドナート・ド・ブルリに指揮されていた
 第2兵団は第1兵団とはかなり異なる編成で、スフォルツァ一門と4組の諸侯が中心となっており、その中には
公国最精鋭として知られていたマントヴァ侯率いる300ランスも含まれていた


そんだけ
195動員下令:03/12/27 15:55 ID:???
 兵団の全兵力の少なくとも7割以上を公国領内で徴集する計画で、歩兵は6500が徴集兵だったが、兵員の増強には
異常な努力が払われている
 多くの指揮官が兵員の徴募を義務づけられており、一方では新たな傭兵隊長の雇用も計画されていた
 これら新規の傭兵隊長11名のうち、1名がスフォルツァの身内、6名が家臣団の出身、3名が軍事官僚だった
 このミラノ公国の動員計画によれば、動員兵力の計画上の最大値は5万2500に達した
 恐らくここまで動員できたとは考えにくいが、着目すべきはその具体的な内容よりも計画の根底を貫く方針にあった
 ミラノはこの計画を実行するためにその軍事力を自国領内に求め、やむを得ない場合にのみ、ピエモント、マントヴァ、
ボローニャ、ロマーニャに支援を求めていた
 しかも、軍隊の主力はいわゆる「動く国家」スタイルの徴募傭兵ではなく、親族、家臣団、小領主とその子弟、並びに
スフォルツァの分家で構成されていた
 ミラノ常備軍は家臣団の兵員と近隣小領主より構成され、他に臨時に召集される「地方選抜兵」を加え、いわゆる
外部の傭兵にほとんど依存しない独自のスタイルを作り上げた


そんだけ
196剽騎:03/12/27 15:57 ID:???
 ヴェネツィアの軍事力は、封土を与えられ、高い即応体制を維持して命令によって配置につくことを定められていた
傭兵隊長の率いる部隊と、要塞に常駐する駐屯兵で構成されていた
 スフォルツァの軍隊がミラノ公国で強固に組織化されたように、ヴェネツィア領内では、傭兵隊長のコレオーニや
ブラッチョがその役割を担い、1475年のコレオーニの死後もこの伝統は引き継がれて共和国の戦争に参加している
 ヴェネツィア領内にもミラノのように、ブレシアのガンバラとアヴォガドロ、ヴェローナのノヴェルロ、ヴィチェンツァの
マンフローニとマルヴェッツィ、フリウリ市のポルチアとブルニェラ等の傭兵隊長となる土着の都市貴族が存在していた
 しかし、これらの貴族を内陸地方terrafermeの軍事担当から除外することは、共和国の性格上避けることは出来なかった
 それぞれが市内に確固たる地歩を持ち、その周辺に有力な家臣団を率いるこれらの貴族が、土着の傭兵隊長として
内陸地方の軍事組織を左右すれば、これらはヴェネツィアの支配を脱して独立し、僣主化する可能性があった
 地方都市貴族あるいは権力を奪われたヴェネツィアの旧貴族への共和国の不信と猜疑心が、ミラノのような国内動員軍の
整備を妨げており、ヴェネツィアはミラノよりもはるかに多くの傭兵隊長を、自国領外、特にマントヴァ、ロマーニャ、
マルケから求めなければならず、また東方植民地から導入した騎兵は優秀な軽騎兵として有名になった
 1483年にヴェネツィアが契約していた傭兵の名簿によれば、123個部隊のうち、ヴェネツィア国家直属の傭兵と
ヴェネツィア市内及び地方在住貴族の部下が4分の1を占め、3分の1近くが教皇領、特にロマーニャからの傭兵で占められ、
残りは国境周辺地域、特にマントヴァ、ミランドラ、パルマ出身となっていた
 また、他にも2万近い歩兵が自国領内のみならず、ロマーニャから大量に徴集されていた
 ヴェネツィアは防衛戦略上、地理的条件に恵まれていたこともあって、ミラノに比して常備軍の必要性が薄く、臨時に
徴募される傭兵隊の使用が大半を占めていた
 しかもその傭兵も国境外や本国領以外で徴募される比率が高かった
 ミラノ公国の常備傭兵軍的な傾向はヴェネツィアでは低く、結果として国外への軍事依存度は逆に強められていた


そんだけ
197需要と供給:03/12/27 16:01 ID:???
 ミラノとヴェネツィアは程度の差こそあるが、両者の傭兵制の展開は、平時から即応性の高い軍隊を整備するという点で
同じ方向を指向していたが、フィレンツェではかなり異なった様相を見せていた
 伝統的に軍事を担当する封建貴族は非常に早い時期に打倒されて市内に定住していたし、郊外農村部は市内商工業者の
支配下に属していたため、外来の傭兵隊長に封土として分譲する余裕もなかった
 このため、ミラノやヴェネツィアで見られる土地に固着した常備的傭兵隊長は存在しなかった
 傭兵隊長トリヴルツィオはフィレンツェの軍隊について次のように述べている
 「フィレンツェは輜重兵も工兵も持たず、平時には僅かに150名の歩兵がいるに過ぎない
 フィレンツェにはミラノやナポリのように軍役を担う貴族がおらず、ヴェネツィアのように完備された傭兵制度もない」
 こうしたごく少数の兵力の除けば、フィレンツェには殆ど常備兵力と呼べるものは存在しなかった
 そのかわり傭兵制は発達して質量ともに良好に整備されていたのは前述の通りで、しかもその大部分が自国領内ではなく
教皇領内で動員されていた
 このように傭兵隊長となる軍事貴族階層とsの家臣団の不在がフィレンツェ共和国の歴史を貫通する厳しい現実だった
 フィレンツェは好戦的に近隣への侵入を試みているが、特にロマーニャ地方への侵攻は、ロマーニャの有力な傭兵隊長を
自国のために確保することを目的の一つにしており、メディチ家とオリシーニ家との縁組は、この武闘派として有名な
ローマ貴族から軍事援助を期待して取り交わされてた
 このようにフィレンツェの軍制は、ミラノやヴェネツィアとは一線を画していたが、それでも一点だけ共通点が認められる
 それは、依存度の差はあっても教皇領からの兵力を求めていることで、換言すれば教皇領こそがイタリア諸国に対する
傭兵軍の策源だったことを示している
 教皇庁は、ロマーニャ、マルケ、ウンブリア等のイタリアでも最も戦闘的な小領主群を領内に保有していたため、
良質な傭兵軍を領内で調達することができ、他国へ依存する必要はほとんどなかった
 しかし、容易に軍隊を編成できたという理由から、教皇国家内では他に見られるような常備軍は発展していない


そんだけ
198新しい旗の下で:03/12/27 16:06 ID:???
 15世紀後半のイタリアを支配する勢力のうち、ナポリ王国のみは封建制が根強く、独特の軍制を維持していた
 ナポリ王ラディスラオの時代から軍役奉仕が金銭の代納に変わりつつあり、アルフォンソの治世下に一歩進んで常備軍の
創設が試みられて1443年に常備軍創設のための税法が議会に上程されたが、結局は財政の破綻で消滅している
 1477年にはオルソ・デリ・オルシーニは総兵力2万の常備軍の創設を進言したが、これも47万ドゥカーテンの
年間予算が必要とされ、国庫歳入の約半分に達するために結局は実現しなかった
 ナポリ王国の封臣団の不服従は有名で、王の宮廷は少数の信頼できる諸領主で守られていた
 彼らは有事の際には自領から部下を率いて傭兵隊長と同じように軍役奉仕したが、ナポリ領内のみならず、ローマ貴族の
オルシーニ、コロンナ両家が王国の采邑を受け、トリヴルツィオやセッコ等のロンバルディア貴族にも封土が与えられている
 ただし、当時の傭兵雇用関係は非常に複雑で、オルシーニが自費でカラブリア公を傭兵に雇ったこともあった
 これらの貴族は、ナポリ王国の構成員として国王の軍事統帥権の下に軍隊を構成した
 これは、在来の信頼できない封臣団を除き、強力な軍事力を擁するイタリア各地の諸貴族を、傭兵制を利用して国王配下の
諸領主として迎え、既存の封建制度と並立させて最終的にこれを吸収し、強力な封建体制を再構築しようとする積極的な
意欲の表出に他ならなかった


そんだけ
199逐われた者たち:03/12/27 16:07 ID:???
 この計画は、単に新封臣獲得のために適用されたばかりでなかった
 アラゴンの宰相カラファは、有事の際に頼りになる騎士階級を育成する目的で、彼らに土地や俸給、補助金を与えて
軍役を奉仕させるよう進言している
 こうして既存の封建体制の外に、傭兵制を利用して独立した新しい体系を確立しようとしたため、旧来の王の支配から
切り離された封臣は傭兵隊長として生計の道を国外に求めることになった
 15世紀末にしばしばフィレンツェの傭兵として活動したカラブリア公はその好例で、フィレンツェのランドゥッチの
日記には次のように記されている
 「(1483年1月5日、)カラブリア公、フィレンツェに入る
 部下800名を率い、中にはトルコ人もいて、市で大歓迎を受けた」
 「(1486年2月、)兵隊がどんどん雇われてカラブリア公の許に送られた
 カラブリア公は破門されたフィレンツェのために教皇軍と戦っているのだ」
 こうして、ナポリの傭兵制は、国外より傭兵を雇い入れると同時に、国外へ傭兵が出稼ぎに出るという、傭兵の需要地と
供給源という相反する二重の性格を持つことになった


そんだけ
200我が道を行ったきり:03/12/27 16:08 ID:???
 15世紀後半のイタリアの支配勢力であるミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、教皇領、ナポリの傭兵制一般の概要は
以上のようなものだった
 これらの中で最も注目すべき特質は、常備軍の発生だった
 フィレンツェと教皇領にはこの形態は認められていないが、フィレンツェはそれを代替する施策が行われ、教皇領では
その必要がなかったからだった
 これらの常備軍の主要な特徴は、雇主国家からの報酬が現金ではなく主に土地所有であったことで、流動的な「動く国家」
から土地に固着された常備軍への移行が認められるとともに、逆に領主が経済的な理由で傭兵隊長に転向する現象が
見られるようになっていた
 もう一つはそれぞれの地域的特殊性で、各々の傭兵制はその前後の政治体制の進展と並行した形態を示している
 絶対主義国家へと移行しつつあったミラノでは絶対主義常備軍としての性格が強く、共和制ながら厳格な寡頭政治が
行われていたヴェネツィアでも常備軍の整備が進展していた
 一方で中世商業都市の典型としてのフィレンツェには、支配階層である大商人の軍役忌避を根底に外来傭兵への依存度が
高く、常備軍の成立は見られない
 しかし、絶対主義諸国の常備軍の脅威を目前にして、それに対抗するための民兵制をはじめとする様々な軍事制度が
空しく探求され続けることになる
 最も先鋭的な軍制が絶対主義国家としてのミラノに見出されるのと対照的に、ナポリは封建制の解体を具現していた
 しかしナポリだけが立ち後れて進行していたのではなく、むしろイタリア諸地域との複雑な相互作用によって促進され
規定されていたのだった
 中央集権の欠如した教皇領は、傭兵の策源として他のイタリア諸国の傭兵制の展開に積極的な役割を演じていたが、
それ以外では何もしていないし何も考えていなかった


そんだけ
201泥と黒色火薬の戦争:03/12/27 16:08 ID:???
 中近世ヨーロッパの軍事戦略を一貫して支配していたのは消耗戦略だった
 有り体に言えば、消耗戦略とは、致命的な決戦を回避して兵力を温存しつつ、穀倉地帯や産業地帯、人口や交通の密集地、
要塞等の戦略上の要点を占領し、敵の軍事力の本源を覆滅することを目的としている
 そこでは、軍事活動のみならず、政治、経済を含む国力の総計が武力闘争という手段を媒介して総力戦を遂行しており、
イタリア諸国においても消耗戦の支配下にあって傭兵制が展開していた
 中世末期にこの消耗戦略の閉塞に風穴を開ける努力が試みられた
 フランスの攻城砲の放列は、消耗戦略を保証していたイングランドの要塞群を組織的に破壊して百年戦争に決着をつけた
 フランスの「国王砲兵隊」は、攻城戦において大量の攻城砲を安定的に供給できる体制を作り上げた
 一方で野戦においては、試行錯誤の末に装甲槍騎兵への対抗兵科として戦術的地位を確立した重槍兵を基幹に歩兵が
再編成され、砲兵も限定的ながら野戦に投入されるようになっていた
 このような大砲を使用したシステマチックな攻城戦術の確立と野戦における諸兵科連合の洗練は、15世紀のヨーロッパの
軍事戦略に影響を与えないわけにはいかなかった
 ただし国によって受けた影響は様々で、改革を成し遂げるためには戦争資源の中央集権的な圧倒的集中が要求されたから、
中央集権体制を確立していった大国に新しい可能性を与えると同時に、イタリアの諸国家のような小国の防衛戦略を破綻
させることになった
 これまで徴募傭兵軍を主力として長期の消耗戦に対応してきたイタリア諸国も、強力な火力に対抗するために国境地域に
新たな要塞を整備し、火力戦装備を充実した重装備の常備傭兵軍への改編が進めつつあった
 こうした施策は異常な出費を伴ったが、フランスその他の中央集権国家の脅威の下、イタリアも強制徴税や新税の設定等の
非常手段で新しい戦争のスタイルに対応する軍隊を準備しなければならなかった
 15世紀後半のイタリアの傭兵制の展開、すなわち火器への依存度の増大と常備化への傾向は、こうして凄まじい財政的、
経済的課題をイタリア国家群に課すことになった


そんだけ
202エコノミックのルネサンス:03/12/27 16:09 ID:???
 1494年から1530年の間にイタリアを襲った災厄は、それまで内含していた様々な危機的要素が軍事的な導火線に
よって爆発的に顕在化した
 イタリアの遠距離通商路支配による原料獲得と商品販売の独占、金融支配による経済的優越を基礎にルネサンス期における
イタリアの繁栄が築かれたが、1350年を境に新しい情勢が展開していた
 1350年以降、イタリアにとってあまり好ましくない事態が徐々に台頭しつつあった
 かつては高利で貸付を切望していたヨーロッパの列強は、政治的軍事的圧力を露骨にかけるようになり、一方でフランドル、
イギリス、フランスの経済発展によるイタリアの輸出の減少は、イタリア国内の生産体制に打撃を与えはじめていた
 15世紀以降のイタリア社会には、オリエントにおけるヴェネツィアとジェノヴァの植民地の喪失と交易の減少、
西欧列強の産業発展とイタリア商工業の危機という二つの要素が相携えて暗い影を落としていたと一般に言われている
 確かにジェノヴァにとって、オリエント植民地の喪失は急激でしかも圧倒的な現実だった


そんだけ
203失地:03/12/27 16:10 ID:???
 一般に、ジェノヴァが没落へと傾斜しはじめたと言われている1382年のキオッジア戦後でさえ、ジェノヴァは
植民地支配を強化して黒海北岸全域を支配下に置き、小アジアに至るエーゲ海の諸島を直接間接に支配した
 レスボスから発して1427年以降にはレムノス、タソスに展開し、キオス島を根拠としてスミルナ近在の明礬鉱山を
占有し、一方でペラに大規模な商業拠点を建設した
 トルコの侵入に際しても、エーゲ海方面のジェノヴァ根拠地は朝貢によって一応の自治を確保することができた
 しかし、コンスタンティノープル陥落によるペラ植民地の解体、ジェノヴァの主要な鉱山だったフォケア鉱山の喪失を
はじめ、タトス、イムブロス、サモタリカ、レムノスが喪われた
 一時は教皇艦隊がレムノス、タソス、サモタリカを奪回したこともあったが、永年の財政負担にあえぐジェノヴァ共和国の
凋落は誰の目にも明らかだった
 ただし、原因はコンスタンティノープル陥落のみには帰せらるものではなく、そもそもジェノヴァ本国自体が植民地防衛に
ほとんど熱意を持ち合わせていなかった
 政府はサンジョルジオ銀行に植民地防衛を任せ、銀行は利潤本位で植民地政策を行ったため、多額の戦費と艦隊の急派を
要求する植民地の救援要請を拒み続けていた
 コンスタンティノープル陥落より僅か20年間で、ジェノヴァは黒海、小アジア、エーゲ海域に展開していた全ての
植民地を失うことになる


そんだけ
204連鎖:03/12/27 16:11 ID:???
 ジェノヴァ共和国と対照的に、15世紀のヴェネツィアの歴史はトルコへの激しい抵抗に彩られている
 1422年にコンスタンティノープルの包囲を完成したトルコは、ヴェネツィアの激しい抵抗と年平均70万ドゥカーテン
の出費にもかかわらず、1430年にサロニカを占領した
 この結果、トルコの海上勢力の脅威は重大化したが、直接的にはヴェネツィアの対外活動の縮小を意味しなかった
 1452年、アッティカからペロポネソスに至る戦略上の要点であるエギナを占領し、なおコンスタンティノープルの
陥落直後ですら、エウベ周辺のスキュロス、スコペロス、スキァトス等の諸島がヴェネツィアの保護下にあった
 1462年、ヴェネツィアは良港マルバシアを得てペロポネソス半島に散在する植民地群を統一した
 コンスタンティノープル陥落はヴェネツィアの植民地支配に重大な影響を与えなかった
 しかし、1463年のトルコのアルゴス攻撃にはじまる17年間の抗争で、ヴェネツィアは、年間120万ドゥカーテンを
費やしたにもかかわらず、アルゴス、エウベア、レムノス、ペラ対岸のスクタリの放棄を余儀なくされ、これを引き金に、
コンスタンティノープル、アドリアノープル、フォケア、ブルッサのヴェネツィア商館が相次いで破産することになる
 ただし、ヴェネツィアの活動力は衰退しなかった
 この戦役中の1473年、キプロス島がヴェネツィアの保護下に入り、更にナッソ島も領土に加えることにより、
ジェノヴァの収益は損益を上回ることになった
 少なくとも1494年以前のヴェネツィアの地位は全般的に見ても決して悲観的ではなく、トルコに対して余力を
もって抵抗し、時には拡張さえしている
 結局、コンスタンティノープル陥落はイタリアの全面的なオリエント植民地喪失の契機とはならなかった


そんだけ
205海を奪う:03/12/27 16:12 ID:???
 事実、ジェノヴァ、ヴェネツィアが喪いつつあった海外植民地は、海外進出に乗り出したフィレンツェの努力によって
補われつつあった
 1406年にピサを降し、続く1421年にリボルノを得て宿願の港湾を得たフィレンツェは、翌年にはフィレンツェ初の
ガレー船団をアレキサンドリアに送り込んだ
 1422年11月28日、海上兵器の建造と商業ガレー船団編成の任を帯びた海務省が発足し、フィレンツェ商船隊は
オリエントとフランドルに向けて出航した
 15世紀後半には、フィレンツェ商船隊の規模はジェノヴァを追い越し、ヴェネツィアに比肩するまでに成長していた
 少なくとも、コンスタンティノープル陥落は、フィレンツェの進出に全く何の影響も及ぼさなかった
 1453年以降、フィレンツェ商人はトルコ領と否とにかかわらず、オリエント各地に散在して活動していた
 1463年から1479年にかけてのトルコとヴェネツィアの戦争や、同時期のジェノヴァの黒海植民地喪失によって、
フィレンツェは易々と古い競争相手の地位に取って代わっていった
 他方、トルコはヨーロッパ・アジア通商路の死命を制するためのエジプト、シリア制圧には程遠い状態にあった
 こうして15世紀イタリアは多くの局地的障害を克服しつつ、なおも東西交通の要路を確保し続けていた
 ドニュプルとラインまたはローヌを結ぶ東西河川交通路が破壊されていた当時にあって、海上交通で多少の障害が
生じたとしても、イタリアの地位は高まることはあっても決して低下することはなかった
 また、15世紀では殆ど問題にならない仮定だが、万が一その海上交通をトルコ海上勢力によって遮断されたとしても、
フィレンツェにはまだ、アンコーナよりアドリア海対岸のラグーサを経てバルカン半島を横断し、アドリアノープル、
コンスタンティノープル、ペラに至る陸上通商路が確保されていた


そんだけ
206商人の世紀:03/12/27 16:12 ID:???
 15世紀中頃まで、イタリアの毛織物は文字通り世界を支配していた
 14世紀末に原毛をイギリスから容易に得ることによって、フランス、イギリス、ドイツに販路を確立したフランドルの
毛織物工業は唯一イタリアに対抗できた存在だったが、年間生産量4万反を誇ったフランドル最大の毛織物工業都市ガン
ですら、同時期のフィレンツェの生産量の4分の1に過ぎなかった
 有力な生産国として成長しつつあったイギリスは、1485年にピサに支店を確保してフィレンツェの独占に挑戦を始めた
 しかし、イギリス商船隊が地中海に入るのは1501年以降のことで、少なくとも15世紀のヨーロッパでは、イタリアは
東方貿易の独占支配を維持していた
 15世紀の東西通商は、東方よりフランドル市場までを独占するイタリア商人、フランドルより北海、バルチック海を
支配するハンザ商人に大別され、イギリスとそれに続くオランダの興隆に怯えたのは最初はハンザ商人のほうで、
イタリア自体はまだその脅威に晒されてはいなかった
 一方、フランスでは、イタリア資本と国家の保護を受けた大砲製造業は別にして、百年戦争で大打撃を受けた毛織物工業は
取るに足らず、ドイツは織物業は論外で武器製造もミラノやブレシアに劣り、有名な鉱山業も躍進するのは16世紀に
なってからで、15世紀のフランスとドイツはともにイタリアの産業の競争相手としては明らかに役不足だった
 スペインも、イギリスに代わって原毛をイタリアに提供しただけでなく、オリエントを撤退したジェノヴァ金融業にとって
新しい投資場となっていた
 イタリアを一個の個体として見なすと、こうした状況は楽観的な結論を導き出す
 東方植民地の局地的喪失、トルコの進出、コンスタンティノープルの陥落にかかわらず、イタリアは東方貿易を独占する
一方、西欧諸国の産業発展はいまだイタリアの優越を脅かすには至っていなかった
 この意味で、15世紀末までイタリアはなおもその農業と商工業において最高度の繁栄を示していたと言える


そんだけ
207商業帝国:03/12/27 16:13 ID:???
 フィレンツェではカリマラギルドにかわって羊毛ギルドが優位を占め、1378年のチオンピの乱によって労働者の
離散はあったものの、ほぼそれを回復して1423年にはフィレンツェはヴェネツィアに1万6000反の羊毛地を送り、
そこからエジプト、シリア、キプロス、ローディ、カンディア、ビザンティン、モレア、イストリアに輸出され、見返りに
原毛、絹糸が輸入されている
 その後、フィレンツェの海運業の躍進とトルコの直接交渉により、1472年にはフィレンツェの羊毛地を東方に
大量輸出して、明礬、染料、蝋、香料が輸入されている
 1483年には、トルコのバイアゼット2世がフィレンツェから羊毛地5000反を購入しており、当時のフィレンツェの
基幹産業が毛織物工業から絹織物工業へと移行していたにもかかわらず、なお大量の羊毛製品の注文を受け入れるだけの
地盤がフィレンツェ羊毛業界にあったことを示している
 1507年においても、コンスタンティノープルにはなお60〜70名程度のフィレンツェ商人が駐在しており、
50万から60万ドゥカーテンの資金が流通している
 エジプトとの通商やチェニス商権の独占等、東方貿易の増大を裏づけとしてフィレンツェの製造業は上昇傾向にあった
 調子が良かったのはフィレンツェだけではなかった
 ロンバルディア地域の輸出工業の中心地であるミラノは、15世紀中頃においては絹織物工業はたいしたことはなかったが、
毛織物工業においては15世紀後半にトスカナを凌駕し、アルプスの街道を縫ってドイツへ、ヴェネツィアを経由して
オリエントへと進出した
 1423年にはミラノはヴェネツィアに12万反の羊毛地を送っている
 ロンバルディアから搬入された量は29万反に達し、ヴェネツィアはロンバルディア製羊毛製品をシリア、キプロスを
はじめとする東方及び西欧各地に輸出していた
 同時期のフィレンツェの毛織物製品搬入量は、既に絹織物工業へと主要産業の転換を果たした関係もあって、全盛期の
1割以下の1万6000反に過ぎなかった
 ミラノを中心とするロンバルディア毛織物工業のイタリア制覇は別として、クレモナは大規模な木綿工業を興し、一方、
コモは15世紀後半に毛織物工業の全盛期を迎えていた


そんだけ
208ひとりでできた:03/12/27 16:15 ID:???
 一般にイタリア経済の低下または停滞の時代と言われている15世紀であるが、実際には、フィレンツェが新興した
絹織物工業の絶頂と東方貿易量の増大と独占、ミラノ、クレモナ等の毛織物工業の躍進、ロンバルディア後進都市の
各種工業の飛躍的な勃興という事実から、15世紀後半のイタリア経済の特徴は、トスカナ、ロンバルディアを中心とする
工業生産量の明確な向上が認められている
 もっとも、イギリスをはじめとする毛織物工業は、イタリアの東方輸出貿易を阻害しないまでも、各国が自給自足体制を
確立してイタリア経済の支配より独立する傾向にあった
 15世紀後半の西欧市場における羊毛販売の緩慢な縮小と相まって、イギリスをはじめとする西欧からの原毛輸入は
困難になりつつあった
 こうした輸入原毛の減少は、原毛の高騰を招来し、緬羊畜産は一般の農業に比して非常に高い収益率を示しだしたため、
イタリアでは畜産に転向する者が多く国内産原毛供給が飛躍的に上昇する
 トスカナを中心にイタリア製原毛による羊毛地が存在していたように、質において外国産に劣ってはいたものの、元来、
イタリアには緬羊畜産が行われる広範な素地があった
 更に羊毛地の主な輸出先が東方に向けられるようになると、西欧向けのイギリス原毛使用の奢侈品よりも、イタリア原毛
による粗悪でも大量に生産できたほうが何かと有利だった
 こうして、原料を長距離通商によって入手していた時代から、国内原毛生産によって近距離で原料を大量かつ容易に入手
するようになって、イタリアの毛織物工業は、イギリス原毛輸入の減少を克服し、逆にロンバルディアを中心に飛躍的に
生産が上昇することになる
 また原糸を東方に依存していた絹織物工業も、良質の桑の栽培による国産原糸生産の増大により著しい発展を見せていた
 15世紀イタリアの原料輸入の困難性は、イタリアの工業生産を阻害することはなく、逆に原料獲得の手段を刺激して
イタリアの工業生産を促進させることになった


そんだけ
209赤字の螺旋:03/12/27 16:16 ID:???
 むしろイタリア経済の危機は別の形態で存在していた
 フィレンツェの東方貿易の進展にもかかわらず、西欧に対する輸出の減少と国内生産量の増加というアンバランスが
生産過剰の形で顕在化していた
 イタリア諸国にはそれを相殺するだけの国内市場はなく、結果として停滞する輸出量と膨張する国内生産が引き起こす
イタリア諸国内におけるイタリア製品の競争が発生した
 1394年、フィレンツェの羊毛ギルドは若干の例外を除けば外国製毛織物製品に対して強力な保護関税を設けて
アルプス以北の諸国との競争に備えたが、1458年には更に厳重な規定を適用して保護関税をトスカナ以北のイタリア
諸地方からの輸入品に向け、その上遂に近隣のピサ、プラートの製品にも適用した
 このことは、フィレンツェの販路獲得競争が海外市場からイタリア内部の諸国間へと移行していた過程を示している
 こうした15世紀イタリアの国内市場獲得のための戦いは、政治的、外交的、軍事的な戦いでもあった
 15世紀中頃にはイタリアに割拠する勢力は固定化され、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ナポリに集約されていく
 これらの強国は東方貿易独占を巡って争う一方で、イタリア半島内における経済市場を獲得し維持するために、軍隊も
重装化と即応性の強化を図らねばならなくなった
 イタリアの諸国は、製品販路の伸び悩むから、生産高の増大に伴うだけの現金収入の裏づけが無く、強いて必要量の
現金収入を求めるならば、販路獲得のためには軍事行動に頼らねばならず、そのために高い出費を要する強力な軍隊の
質量両面での増強を図らねばならないといった悪循環にはまり込んだ
 15世紀イタリアに出現した強力な常備傭兵軍は、海外市場争奪より国内市場獲得のための経済闘争への移行の過程で
必然的に産み出されたのだった


そんだけ
210殿様は出稼ぎ:03/12/27 16:16 ID:???
 15世紀中頃にイタリアが次第に安定した諸勢力に統一されるようになった反面、周囲の群小国家はこれらに吸収され
脱落していった
 市場獲得を目的とする近隣の強国によって、関税障害、原料搬入の阻止、通商路遮断による製品輸出の妨害等を通じて
経済的に窒息させられると同時に、強国の常備傭兵軍の執拗な消耗戦略の打撃により、都市も農村も生産基盤を破壊された
 こうして経済的に完全に破綻した小国は、自国に残された唯一の財源として、強国への軍役奉仕の途を選ぶしかなかった
 君侯自らが傭兵隊長として出役した15世紀のイタリアの傭兵事情の裏にはこうしたどうにもならない台所事情があった
 このような小国は言うまでもなく、主要な強国の中に共通するのは生産過剰を伴う現金不足の朝貢だった
 百年戦争によるキリスト教諸国の荒廃のためにローマ教会への入金は減少し、イタリアの銀行業務も退潮し、現金不足は
フィレンツェにおいても明白な形で商工業運営に支障を来すことになり、その運用資金の利息は30パーセントまで
跳ね上がった
 15世紀のイタリアの生産過剰と現金不足は、イタリア社会の本質的な特質となり、新大陸発見の必然性と現金不足の
反動による価格革命はこの事態を打破すべく試みられたのだった
 こうした事情から、イタリアの傭兵制の特徴である定着的な常備傭兵が展開した
 抜きがたい現金不足から傭兵雇用に際して現金支給を免れるために傭兵隊長に土地を支給して財政的に独立操作を
可能にするとともに、元来は流動的であった傭兵隊を自領内に定住させて高い即応性を維持しようとした
 同時に、質量ともに増大した傭兵への現金支給を避けるために、ミラノでは強制徴募兵や非常時の出動に応じる召集予備軍
の採用が行われ、フィレンツェでは民兵制度が試みられたのだった


そんだけ
211求人難:03/12/27 16:17 ID:???
 15世紀のイタリア傭兵制は、イタリア社会の動きを主軸として、土地に定着した強力な常備傭兵へと移行していく
 しかし、ことはそう簡単には運ばず、各国の財政的な事情故に、その常備軍は高度の軍事技術を備えた少数の専門家に
限定されることになった
 系譜的には14世紀の移動傭兵隊compagnie di venturaの後裔であり、高度に装備訓練され、土地に固着されて特定の
国家に軍役奉仕することを義務づけられた少数の職業的常備傭兵軍を量的に充実させるため、彼らを基幹に絶対主義権力に
よる徴募兵や徴集兵、民兵制度が導入されたが、それにも限界があった
 傭兵の常備化は常備軍への道を歩むものではあったが、一方で従来の徴募傭兵も消滅したわけではなかった
 フィレンツェは全面的に、ヴェネツィアやナポリでも部分的に移動傭兵隊すなわち徴募傭兵に依存していた
 いかなる雇用主にもその要求に応じて従軍する徴募傭兵はいまだ健在だった
 実際のところ、各国の軍制の差異、すなわち常備傭兵、徴募兵、徴募傭兵への依存度の差は、各国の地域的特殊性によって
決定されたと言っても過言ではない
 15世紀初頭以降、北イタリアの工業の飛躍的な発展と、都市人口の膨張による食糧供給源としての農村部の労働人口の
不足から、大量の労働者を必要としていたミラノでは、従来のように徴募傭兵を雇用することが困難になっていたため、
常備傭兵軍を整備しなければならなかった
 一方、ロマーニャと比較的近い距離にあったおかげで徴募傭兵の獲得に最も便利な位置にあったフィレンツェでは、
ほとんど常備傭兵に頼る必要はなかったし、ヴェネツィアも教皇領から徴募傭兵を入手しやすい地歩にあった
 結局、イタリアで常備傭兵の切実な必要性をもたらしたのは北イタリアを中心とする生産過剰による国内販路獲得競争に
あった


そんだけ
212百姓の島:03/12/27 16:20 ID:???
 しかし、15世紀のイタリアは、北イタリアの工業の異常な発展があったとはいえ、本質的には農業国であり、特に
シチリアを含むナポリ王国や教皇領は農業地帯だった
 シチリアやプリアは重要な穀倉地帯であり、教皇領ではロマーニャがヴェネツィアに輸出する余裕をもっていた
 シチリアの人口は希薄で、島内の消費には限りがあったため必然的にイタリア各地の穀倉となっていた
 ジェノヴァ、ヴェネツィアの仲介貿易によってボストンからスペイン本国に輸入されていた穀類輸入が途絶される状況を
想定していたアラゴンは、シチリアを食糧供給の戦略拠点に育て上げていた
 中部イタリアは古くから有名な穀倉だったが、熱風と干魃によって生産量は常に変動していた
 総じてナポリ王国は穀類を輸出しており、オリーブ油が有名で、教皇領は穀類生産は自給自足で、ロマーニャやマルケは
ヴェネツィアに輸出していた
 ジェノヴァは木材が豊富でシチリアからの穀類輸入を賄い、ミラノ公国は植民地アレクサンドリアに食糧を求めていた
 北イタリアではポー河南岸のパルマとピアツェンツァで農業が盛んで、完備した運河による灌漑施設が有名だった
 トスカナは多くの消費都市を抱えていたために十分な穀類を自足できず、中南部イタリアから補給していた


そんだけ
213自足の半島:03/12/27 16:21 ID:???
 このように、トスカナやジェノヴァのリグリア、ヴェネツィアは自給自足が困難で、トスカナは中南部イタリアに、
リグリアはシチリアに、ヴェネツィアは一部を中南部イタリア、残りをトルコ支配下の東方に求めていた
 これらの食糧不足に悩んでいた共和国が隣接した農業地帯であるロマーニャの獲得に腐心したのも当然だった
 こういった事情はあったものの、「山地不毛地の地方でも平地や土の肥えた地方と同じように耕された」とまで言われた
ように、イタリア農業は1000万の人口も養うことができたと言われていた
 実際、各国が農村政策に意を用いるようになったのは15世紀からで、運河の開削や沼地の開拓により、穀類や麻、桑、
オリーブの栽培が盛んに行われ、中でも桑の品種改良はイタリア絹織物工業に重大な転機をもたらしていた
 更に、造船業や鉱山業の発展による木材不足を調節するため、ジェノヴァ、ヴェネツィア、教皇領では森林保護政策が
行われている
 稲作が始まったのも当時からで、15世紀中頃、ポー河南岸地帯で米の栽培が拡がり、1475年にはフェララ地方に
拡大して1530年頃には北イタリアの特産になっている


そんだけ
214guastagrani:03/12/27 16:21 ID:???
 ただし、イタリアの農業が全て順調だった訳ではなかった
 むしろ、耕地の拡大や生産量の向上が達成された裏には、そうしなければならなかっただけの理由があったりする
 15世紀のイタリアの商工業が凄まじい進展を見せながらもそこから得られる収益が少ないことのツケを農民たちは
支払わされることになった
 地代は高騰して地主の権力が強化され、本来は生活水準の上昇に供されるべき利益すら都市に吸収された
 15世紀のイタリアでは大土地所有階層が厳然と存在していたため、小作人の状態は決して良好ではなかった
 農村部の地主であると同時に市内商工業者でもあった上層市民でさえ、都市の食料品を低廉に抑えるために農民に犠牲を
強いることを躊躇しなかった
 傭兵隊の略奪は前世紀から相変わらずで、傭兵の脅威に晒されなかったのは1454年以降の約10年間だけであり、
しかも場所はトスカナ、ポー河流域に限られていた
 ナポリ王ラディスラオがフィレンツェ農民に「作物荒らし」と怖れられていたように、敵の戦争遂行基盤を破壊するのは
消耗戦略の基本中の基本だったから、農村部への略奪は必ず行われた
 むしろ都市に比べて防備の薄い農村は格好の攻撃目標になり、攻防の焦点になり、戦場になった
 15世紀のイタリアの戦争は攻城戦を主軸に展開されたため、必ず都市周辺の農村地帯で戦闘が生起した
 1494年にフィレンツェとピサの間で戦われた戦争では、数年にわたって国境付近の農村地帯で膠着状態となり、
飢餓に瀕したフィレンツェ農民が遂に暴動を起こし、フィレンツェ軍の野営地に乱入した
 更に多くの農民が食を求めてフィレンツェ市内を徘徊し、餓死者が市内の至る所に転がった
 戦争による農村の荒廃は増大することはあっても、決して減少してはいなかった
 このような状況であったから、逃散農民の存在は15世紀のイタリアの農村部における共通の現象だった


そんだけ
215難民:03/12/27 16:22 ID:???
 ロンバルディア、トスカナ一帯の諸工業の異常な生産量の増加は、都市人口の増大と表裏するものだった
 郊外に大土地を所有する市内商工業者が、商工業に従事する労働人口を支えるために農村から廉価で食糧を供給した事実は、
農民の都市への流入と商工業による農村人口の吸収を示している
 15世紀後半における諸都市の人口増加は、都市に対する農村人口の流入を意味していた
 農村からの流民は、例え都市内で定職を得られなくとも、下層民として何らかの形で生活手段を見出す可能性があった
 また、ミラノやヴェネツィアのように徴募兵を必要としていた国家では、予備軍の中に多くの逃散農民がいた
 少なくともトスカナやロンバルディアでは、逃散農民は都市商工業や常備軍に吸収されることが期待できたため、彼らが
徴募傭兵に身を投じることは少なかった
 しかし、同じような立場にあった中・南イタリアの逃散農民の場合は別だった
 教皇領にもナポリ王国にも、北イタリアで見られた多数の商工業都市も大量の兵員を要求していた常備軍も存在しなかった
 そして、教皇領ナポリも徴募傭兵の揺籃の地であったから、彼らが徴募傭兵に身を投じたのも当然だった
 中・南イタリアにおける唯一の大都市ナポリでは、「王の御慈悲と廷臣たちの豪奢な生活の恩恵を受けた」下層民が、
フィレンツェと同じように15世紀中頃以降に激増していた
 ナポリの人口は、1400年頃は4万、1420年代には6万弱、1460年代には7万5000、1490年代には
12万と、僅か1世紀の間に3倍に増加した
 彼らは階層的にはフィレンツェ等の下層民と同じと考えて間違いないが、その数と貧困度の凄まじさで、英語、ドイツ語、
フランス語にそれぞれ固有名詞を持つほどに全ヨーロッパにその名が轟いていた
 ナポリ市の人口は、少数の貴族、ユダヤ人を主体とする富裕層、経済的に貴族と結びついた職人を除けば、ほとんどが
下層民で構成されていたから、この人口増加はほとんど下層民の増加と考えてよかった
 そして、この下層民の増加は、地方農村からの逃散農民が1世紀にわたって後を絶たなかったことを示している


そんだけ
216悪代官:03/12/27 16:23 ID:???
 ナポリ市の流民の収容力には驚くべきものがあったが、それ以上に驚愕すべきは、ナポリ王国で逃散農民が行き着く
場所がナポリ市しかなかったという現実だった
 農民が比較的良好な状態にあったのは小規模自作農が普及していたカンパニア平原だけで、牧羊民や農民の悲惨さは
イタリアでも最悪だった
 特にプリア地方の山岳地帯で半遊牧の生活を送る牧羊民はほとんど山賊同然だった
 農村における小作農は事実上農奴に等しく、重税のうえに南イタリア独特の不毛と気候の激変による凶作、マラリアの
脅威に晒されていた
 事実、王国の財政政策は牧羊民と農民を対象にしたもので、特にアルフォンソ王は羊100頭に8ドゥカーテン、
牛馬25頭に6ドゥカーテンの飼育税を課して牧畜業に大打撃を与えた
 しかも王は貴族の歓心を買うために、ラディスラオ以来貴族が軍役奉仕の代替として支払っていた軍役免除税を廃止して
しまい、これまで貴族が負担していた税収の肩代わりとなる新しい財源を探さねばならなかった
 1433年には議会は王に各戸に対してその貧富を問わず10カルリーニを課すいわゆる戸割税の権限を与え、更に
1449年にはミラノ継承戦争で打撃を受けた貴族に対して課税が許可されて追い打ちをかけた
 ナポリの歳入80万ドゥカーテンのうち、35万ドゥカーテンは入市税、専売税、関税、物品税等で、大部分は小市民階層、
特にカンパニアの小地主や自作農が対象となっており、貴族には相続税以外は一切除外されていた
 しかし、残り45万ドゥカーテンは全て牧羊民と農民が対象になっていた
 こうした牧羊民と農民への致命的な課税の他、原毛と穀類を除く諸原料や生活必需品としての酒、油脂、絹、サフラン、
綿、チーズへの課税とそれによる影響も農民の負担となっていた


そんだけ
217裏目に出る:03/12/27 16:23 ID:???
 もっとも、牧羊民や農民に課税対象が集中する傾向を是正するために幾つかの努力が払われていた
 しかし、それらは財政政策の朝令暮改に終始したために効力を発揮できなかった
 アルフォンソは協会の同意を得て農民に対して土地価格の1割を超えない範囲で貸付を与えることを決定した
 これは抵当をとった上で小土地所有農民への利益を図り、大きな範囲で様々の地役形態からの解放に役立ったが、
結果的にこの政策は農業の繁栄には役立たず明白な損害を与えることになった
 貧困な土地はこの程度の資金では改良されず、貧困故に資金は生活費に投入され、結局は貸付は負債となって土地さえも
失うことになり、結局は土地やその返済金は投資者や徴税吏、貴族、大地主の懐中に入ったのだった
 また、農耕地帯と牧羊地帯が交錯するプリア地方のタヴォリエレでは、アルフォンソは当時ようやくナポリ王国に興った
毛織物工業の発展に寄与するために、この地帯を牧羊専用地にしようと図り、牧羊民を優遇し牧羊業のための必需品を
値下げし、その課税を減少した
 このため実質的に国家専売事業となった牧羊業は繁栄して税収は8万ドゥカーテンから10万ドゥカーテンに増収したが、
農民は圧迫され、旧地主は農耕地を回復しようとして貴族と連携し、牧羊群の通行税を過重にして対抗した
 国王フェルランテは、牧羊業のみならず農業にも配慮して各農民に収入に従って課税しようとして、1473年には
代議員で構成される専従の委員会を設立しようとしたが、結局は実行できなかった
 1481年に前述したように原毛と穀類を除いて諸物品に課税したのは、牧羊民と農民の負担を都市民へ移そうとする
革命的な試みだった
 しかし、商工業の欠如と貴族の課税対象からの除外のため、やむなく1484年には旧税制が復活し、併せて生活消費物資
への課税が直接間接に牧羊民と農民を圧迫していた
 15世紀後半、ナポリ王国は対外政策による臨時支出に迫られて歳入を80万ドゥカーテンから100万ドゥカーテンに
引き上げ、結局これも牧羊民と農民に更なる負担を強いることになった


そんだけ
218烏合:03/12/27 16:24 ID:???
 半封建的体制の下で最悪の契約によって土地に固定され、一方で重税の圧力を受けていたナポリ王国の農民層が、
こうした現実から逃れるために逃散を企てたのも当然のことだった
 強度の徴税と低調な生産力は、農民に暴動の可能性すら奪い、結局は封建領主や徴税吏、大地主から逃亡するしか方法は
なかった
 事実、15世紀のイタリアにおける農民反乱の事例は極めて少なく、僅かに1459年から1464年にかけての
カラブリアの暴動くらいだった
 そして、この暴動も農民間の統制力を欠け、その暴動目的も不統一で、多くは単に徴税吏の追求に反抗するだけのもので
しかなく、彼らのスローガン自体が、「国王万歳、納税反対」というシンプルでありながら物凄い矛盾を抱えていた
 国王に反抗的な農民派の貴族がこの暴動の組織化を試みたこともあったが、結局は農民の不統制によって失敗している
 逃散した農民はナポリ市を除いて流入できる都市もなく、確固たる封建軍隊が存在するが故に軍役につく希望もなく、
結局はナポリ王国を離れて移住するか、または出稼ぎの傭兵隊にでも加わる以外に生きていくことはできなかった
 こうして、武器も駄馬も持たない徒歩の小集団が幾つも連なって中・北イタリアへと放浪していった
 そして、彼らを組織化したのが、経済的に逼塞して軍役提供を唯一の財源とする中・南イタリア地方領主だった
 大量のナポリ逃散農民を組み入れて編成された軍勢こそ、15世紀後半の徴募傭兵の主要な担い手だった
 事実、ナポリはその経済の貧弱さに似ずイタリアで最大の人口を保有していた
 そして、その大半を占める貧窮農民こそがイタリア各地で傭兵として各国の軍制を支えることになった


そんだけ
219剣騒の地:03/12/27 16:25 ID:???
 教皇領はイタリアでナポリ王国に次ぐ人口を保有していたが、ナポリ王国と同様の農業経済を基礎としていた教皇領の
農民にも、逃散して傭兵隊への参加したナポリの農民と同様の現象が見られた
 古くはダンテが「専制の君の心に汝がロマーニャは、戦のなき時がなく、かつてなかりき」と絶叫したように、ロマーニャ
やウムブリアを領する教皇領は、その政治的混乱においては微弱ではあったが中央集権を持つナポリを凌駕していた
 小領主同士の抗争によって土地を追われた農民や、小領主自身がこぞって活路を求めて傭兵として国外に赴いていた
 この地が傭兵揺籃の地と呼ばれたのもまさにこの理由からだった
 更にこの戦乱と無政府状態が、ロマーニャ平原を粗放農業と牧羊地帯へと変えた
 もっとも、この地方の農業政策の底流には、ナポリのように粗放農業の必然の帰結として台頭する大土地所有階層の
存在を排除しようとする確固たる意思が働いていた
 比較的豊饒なロマーニャ平原の粗放農業を集約農業へと転換して農業生産を向上させ、教皇領の財源増大を図り、更に
大地主や小領主の中間搾取を廃してローマによる中央集権を確立することは歴代教皇共通の悲願だった


そんだけ
220黒羊:03/12/27 16:27 ID:???
 中部イタリアの山岳地帯では、秋になると谷間を縫って緬羊の大群が平地に下っていく文字通り牧歌的な風景が見られる
 この放牧群が通過するための通過税、飼育税等、牧羊民から支払われる税金が教皇国家の主要な財源だった
 しかし、シクストゥス4世は、飢饉に備えるために集約農業の確立を意図して、その全域の全住民に対し、個人や教会等の
共有地に属する土地の中で、未耕地、特に放牧用にしか使用されていない土地の3分の1を、その所有者の同意を得ずして
耕作しても差し支えないことを決定した
 この場合、簡単な政府の許可は必要とされたし、土地を失った土地所有者は委員会に申し出れば保護されるようには
なっていたが、牧畜業にとって大きな打撃となった
 シクストゥスの政策は、大土地所有制に挑戦して中小自作農の確立を狙った極めて野心的なものだった
 しかし、教皇領には全域にわたって穀類の移動を禁止する封鎖的な法律が残存していた
 農地解放による穀類生産高の急激な上昇は、この穀類輸出禁止令と相乗的に作用して穀類価格の暴落を引き起こして
農民に異常な廉価で作物を売却させ、逆に飢饉の際の高騰や密輸を目当てに大地主や封建領主がこれを最低値で買い占める
結果になった
 このため、増産によって食糧不足に備える当初の目的は達したものの、基本的な課題である中小自作農確立の意図は
空しく挫折し、逆に大土地所有階層の勢力を促進することになった


そんだけ
221古い兵隊:03/12/27 16:28 ID:???
 その農業奨励策の失敗と牧羊業の受けた損失を認めたシクストゥス4世は、1481年以降、今度は牧畜業保護に転じた
 牧羊民への減税を断行して一応の成果を収めたが、ナポリと同じく土地保有者階層の抵抗にあい、通過税の増税等によって
妨げられ、次の教皇アレキサンドル6世が即位したときには、農業も牧羊業も見る影もなく衰微していた
 こうして、農民は作物を捨値で処分しなければならないという決定的な追い打ちを受けて、農地を捨てて山賤同然の牧羊民
になるか、間断ない戦闘が要求する傭兵隊に身を投じることになった
 ナポリよりも地理的政治的にトスカナ、ヴェネト、ロンバルディア地方に近接する教皇領では、ロマーニャ、ウムブリアの
各君侯が一国を挙げて傭兵軍を編成して北部諸国と契約した
 こうした軍勢には農地を捨てた無数の貧農が加わっていた
 時には農民の小集団が国境を越え、より好待遇の近隣国の兵員徴募に応募することもあった
 特にフィレンツェでは常備戦力をほとんど保有していないこともあって頻繁に兵員の募集が行われ、1479年以降は
大量の歩兵が徴募されていた
 ナポリでも教皇領でも、最悪の状態にあった農民が、北イタリアの経済力に圧倒されて出稼ぎに出る小君侯に組織され、
時に応じて北部諸国間の抗争に参加した
 常備軍が確立しつつあった15世紀においてもなお質量ともに根強く機能していた流動的な徴募傭兵のシステムを
支えていたのは、ナポリや教皇領の土地を失い、または自ら脱出した農民に他ならなかった
 こうして15世紀イタリアの傭兵制は、国内販路獲得競争に促されて確立した常備傭兵と、旧来の徴募傭兵という二つの
異なる形態を備えたファクターで構成されていた
 イタリア諸国の軍制はそれぞれの地理的、経済的、政治的な特殊性によって決定され、異なるスタイルの軍隊が
整備された
 そして、これらのバリエーションに富んだ軍隊は、1494年に西欧で最も先鋭化した軍隊と直面することになる


そんだけ
222陣借の本性:03/12/27 16:29 ID:???
 絶対主義国家において傭兵は重要な軍事的支柱だったが、その全期間を通じて傭兵軍が常備されていた訳ではなかった
 特に、それを常備するに足る財政的基礎が確立していない絶対主義権力の形成期においては、平時には若干の中核的な
部隊と国境や要塞の守備隊を整備したに過ぎず、戦争の危急の際に必要な兵力を徴募した
 徴募傭兵と常備傭兵の併用において後者に重点が置かれるようになるのは、大規模な常備軍を支えるに足る財政的基礎が
確立された絶対主義権力の完成期になってからである
 非常備的な徴募傭兵が主流となった時期にあっては、絶対主義権力は軍隊募集の必要に際して自らが直接個々の兵士を
雇用したのではなく、大小の傭兵隊長が自らの資金で軍隊を動員し、国家の要求を満たしていた
 これらの傭兵隊長は一種の投機業者であり、その目的は利潤の追求にあったから、信用に関わるあからさまな寝返りこそ
ほとんどなかったが、契約が終わればしばしば雇用主を変更し、かつての敵軍に雇われることも辞さなかった
 傭兵隊長にとっては軍事力の提供は投資であり、利益の獲得こそが唯一の目的であったのに対し、彼らを雇用する国家に
とって、傭兵は絶対主義権力確立のための手段に他ならなかった


そんだけ
223黒衣の将軍:03/12/27 16:30 ID:???
 こうして両者の間には一種の緊張した関係が築かれる
 そしてこの緊張関係は両者の力関係によって変化した
 イタリアの都市国家のように国家権力が弱体な場合は、傭兵隊長の利は極限まで拡大され、国家権力の簒奪すらありえた
 一方、フランスのように強力な絶対主義権力下では、傭兵隊長は国家権力の手段としてその枠内で利益に与ることになった
 三十年戦争というそれまでの戦史上最大の兵力が動員されて戦われた戦争において、最大最強の傭兵隊長であった
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインも例外ではなかった
 ヴァレンシュタインは、彼の雇用主である皇帝にとって、皇帝、ドイツの新教勢力、旧教諸侯、ドイツ周辺諸国の介入を
交えた絶対主義権力確立過程の戦争である三十年戦争における皇帝権力拡大強化のための軍事力の提供者であり、従って
皇帝権力拡大強化のための手段だった
 しかし、本来は自己の利害を最大の行動規範とするヴァレンシュタインの傭兵隊長としての性質は、常に皇帝から離反する
可能性を包蔵していた
 更に、自らの権力下に絶対主義国家を確立しようとする旧教諸領邦君主の反発や圧迫が皇帝とヴァレンシュタインの協力
あるいは緊張関係に入り込み、事態をややこしくしていた
 事実、皇帝軍司令官時代の彼の行動は、皇帝の政策、彼の傭兵隊長としての本質、旧教諸領邦の政策の三者の錯綜した
絡合のうちに展開されていた


そんだけ
224独逸皇帝御預:03/12/27 16:32 ID:???
 ヴァレンシュタインが皇帝軍総司令官として軍を率いたのは、1625年7月から1630年8月と、1632年1月から
1634年2月(罷免令が発せられたのは1月)の前後2回にわたる7年間だった
 そしてヴァレンシュタインが総司令官に任命されたのは、彼と皇帝フェルディナント2世の妥協の結果だった
 当時、ボヘミアの内乱に始まった三十年戦争は、ドイツ帝国内の領邦諸侯の旧教派連合と新教派同盟の対立に始まり、
これにデンマーク王クリスティアン4世の同盟支援を口実にした介入、イギリス、フランスの財政的な支援が加わって、
ジャン・セルクラエス・ティリーの指揮するリガ軍のみでは対抗できない状況にあった
 リガの指導的立場にあったバイエルン公マクシミリアン1世は皇帝フェルディナント2世にしばしば援軍を要請していた
が、一方皇帝のほうも財政難で現有兵力の維持すら厳しく、かえって宮廷財務官から軍隊の削減を進言されていたような
有様で、とても独力でバイエルン公の要請に応じられるような状態ではなかった
 ヴァレンシュタインが資金の立替による募兵とその指揮を皇帝に申し出たのは、こうして皇帝がバイエルン公と財務官
双方の要求の板挟みになっていた時期だった
 ヴァレンシュタインがこのような提案をしたのはこれが初めてではなく、1623年にも同様の提案を行っていた
 その時は皇帝はこの提案を退けていたが、今度は事情が違っていた


そんだけ
225大勢:03/12/27 16:33 ID:???
 ヴァレンシュタインの申し出た兵力は5万だったが、皇帝は2万のみ承認している
 ヴァレンシュタインの率いた皇帝軍は、総司令官就任当初は皇帝の承認した兵力をやや上回って彼が徴集した2万4000
に、リガ軍から彼の指揮下に入った1万6000の旧皇帝軍からなる約4万だった
 その後、兵力は急速に増強され、翌1626年には5万2000、1627年には10万に達した
 1628年には戦争の小康と強大化する皇帝権力を危惧したリガ諸侯による要求で1万3000が解雇され、他の
1万3000がポーランド方面に転用されているが、1630年には再び10万まで回復している
 ヴァレンシュタインの第一次総司令官期に彼の指揮下にあった皇帝軍は帝国領内の皇帝軍のみで、皇帝世襲領の軍隊は
彼の指揮の外にあった
 1632年に皇帝の要請を受けて再び総司令官に返り咲いたヴァレンシュタインは、3万まで減少した皇帝軍の増強に
着手して即座に10万の軍を揃えると請け合っていたが、作戦域がオーストリア近傍に限定されていたこともあって、
1632年、1633年の兵力は実際にはそれをはるかに下回る4万5000程度だった


そんだけ
226兵隊志願:03/12/27 16:34 ID:???
 三十年戦争当時における募兵要領は、16世紀頃のランツクネヒトのそれとほとんど変化していない
 まずヴァレンシュタインが連隊長に募兵特許状を交付し、彼らは更に部下の将校に募兵の実務を委託する
 こうしてこれら下級将校がかつてと同様に「楽器を打ち鳴らし」つつ兵士を募った
 それに応じた者は、まず支度金と最初の1ヶ月分の給料を手付金として手渡された
 その金額は一定せず、徴募のための予算と他の募兵官の交付する金額の高によって上下したが、騎兵は馬の帯同を条件に
12フローリン、歩兵で3フローリンが相場だった
 もっとも、様々な事情からそれを上回ることもしばしばで、スウェーデン軍は特に騎兵を優遇して相場を上回る手付金を
支払うことで知られていたし、リューネブルクでは他の地域の相場より5割ほど高額なことで有名だった
 応募者の出自は、都市民、農民、貴族の子弟、徒弟、騎士の従者等、広範雑多にわたったが、大部分は農民だった
 その国籍も様々で、「1個連隊の中に10の異なる国の人間を数えることができた」
 宗教を名目に始まった戦争だったにも関わらず、兵の宗派が重視されたのは最初だけで、そのうちに誰も個人の宗教的信条
など気にしなくなった


そんだけ
227:03/12/27 16:35 ID:???
 ヴァレンシュタインの軍勢も同様で、連隊長にはスペイン人、イタリア人、ワルーン人、ドイツ人が多く、兵士は多くが
ドイツ人だったが、多数の領邦の出身者からなっていた
 中でもブランデンブルク、ザクセン、ポンメルン、ラウエンブルク、ホルシュタイン等の北ドイツ諸領邦の出身者が
多かったが、これは主戦場が北ドイツだったことに起因していた
 集合地で手付金を受け取った応募者は、続いて検閲場に赴き、誓約書に列記された条項の遵守を誓約し、兵科や所属部隊を
決定されて検閲を受けた
 連隊は通常10個中隊からなり、中隊の定員は歩兵中隊で300名、騎兵中隊で100名とされていた
 人員数のごまかしは厳禁され、処罰されることになっていたにもかかわらず、中隊長が互いに兵を貸借したり、馬丁や
個人的な従卒を隊列に加えること等は半ば慣用的に行われており、実数が定数に満たないことは珍しくなかった
 検閲時においてこうだったから、作戦中の部隊においてはその傾向は一段と著しかった
 戦病死や脱走による兵員の損耗に対して補充が常に要求されていたにもかかわらず、常に損耗が補充を上回っていた
 このため、野外で作戦中の中隊の実数は定数の3分の2以下が一般的で、半数に満たない中隊も珍しくなかった


そんだけ
228黄金脈:03/12/27 16:35 ID:???
 兵員の徴募や編成の要領はどこの軍隊でも同じで、ヴァレンシュタインの軍隊も同様だったが、彼の軍隊では将校に
支払われていた給料が他の軍隊に比べて著しく高額だった
 この傾向は軍司令官時代初期の連隊長級以上の高級将校に著しく、相場の3倍以上の高給が支払われていた
 ヴァレンシュタインは最初の募兵を彼の資金で行うことを約束していたが、それだけでなく、その後の募兵や部隊の維持に
ついても皇帝からほとんど財政援助を期待できない状態だった
 第二次総司令官期には戦費の大部分が皇帝世襲領からの軍税によって賄われていたが、第一次総司令官期には、戦費の
調達はヴァレンシュタイン自身に委ねられていた
 彼はその対策として軍隊の維持費を専ら宿営地域に課した軍税に依存し、募兵の資金もそこから支出していたが、当初は
募兵金や部隊新編後数ヶ月分の維持費を自ら調達しなければならなかった
 そしてヴァレンシュタインはその金額の一部を高級将校に分担させていたのだった
 ただし、分担の額は一定ではなく、連隊長のある者は募兵金と最初の数ヶ月分の維持費を丸ごと支出し、ある者は募兵金
のみを、ある者は全く負担しなかった
 ヴァレンシュタインは傭兵隊長として戦争に出資していたが、小出資者である連隊長たちも実質的に小傭兵隊長だった
 ヴァレンシュタインとともに戦争に出資している以上、それ相当の配当がなければならなかった
 連隊長への驚くべき高給は、単なる軍役への報酬の他に、利子や元金の返済をも含められたものだった
 高級将校の利益の獲得がヴァレンシュタインの軍隊経営の第一義的な原則だった
 こうして戦費の一部は高級将校によって分担されてはいたが、しかしその相当部分はヴァレンシュタイン個人によって
調達されていた
 彼の皇帝への立替金は、最初の募兵で20万フローリン、27年中頃には60万フローリンに達した
 個人の負担としては恐ろしく巨額だが、その全てが彼の個人資産から支出されたのではなく、金融業者からの借金も
少なくなかった
 しかし、少なくともその過半は純粋に彼の資産から支出されており、彼自身が巨大な資本の所有者だった


そんだけ
229長者:03/12/27 16:39 ID:???
 ヴァレンシュタインは、1583年9月、チェコの一新教小貴族の家に生まれた
 青年に達して後にイタリアを旅行し、その際に旧教に改宗しているが、彼に深い宗教的動機があったとは考えにくい
 宗派的不寛容は生涯を通じて彼には無縁だった
 20歳を過ぎて彼はオーストリア公フェルディナント、後の皇帝フェルディナント2世の宮廷に仕え、その後間もなく
裕福な寡婦と結婚し、彼女の死によってメーレンに広大な所有地を得た
 ヴァレンシュタインが組織管理の非凡な手腕を発揮するようになったのはこの時からで、彼は土地経営者として、次いで
市民に対する金融によって相当の財産を作り、1618年にボヘミアの内乱勃発に際して皇帝に4万グルデンを立て替えて
兵1000名の徴募を申し出ている
 この報酬として彼は反乱軍に加わった親族の土地を与えられ、その没収地を売却した利益でフリースラントを入手している
 その後も彼は1620年に16万グルデン、1621年に20万グルデン、1623年に50万グルデンを皇帝に対して
戦費として立て替え、宮廷に深く喰い込んで1623年にはフリースラント侯に列せられた
 更にこの年の末にハラッハの娘イサベラと再婚し、彼は宮廷に確固たる地盤を確保した
 こうして彼は広大な領地からの収益と、市民や皇帝を相手にした金融業によって莫大な利益を得て人生に成功を収めた


そんだけ
230金のためなら何でもします:03/12/27 16:41 ID:???
 その前半生において、彼が傭兵隊長らしく振る舞ったのはボヘミアの内乱で半個連隊にも満たない小軍勢を率いたくらいで、
彼の本分はあくまで大土地経営者であり金融業者であった
 ただし、この軍人としてはささやかな経験がヴァレンシュタインの飛躍的な発展の契機となったのも確かで、恐らく彼には
傭兵隊長という職業が軍事力と結合しているか否かを除けば金融業者と本質的に同質であり、すなわち利益を追求するに
魅力的な職だと映ったに違いない
 ヴァレンシュタインは戦費の貸付や婚姻関係によって宮廷に勢力を扶植し、その宮廷における彼の支持勢力が
総司令官就任の一助となった
 その行動は過去の在野の傭兵隊長よりもむしろ常備傭兵軍制下の軍人貴族に近い
 しかし、彼の行動の根底に流れていたのは地位でも名声でもなく最後まで利潤追求であり、総司令官就任はそのための
手段に過ぎなかった
 この点で、彼は紛れもなく中世末期の傭兵隊長たちと本質において同一であり、そしてそれ故に最後の傭兵隊長となった


そんだけ
231人数が全てを決める:03/12/27 16:45 ID:???
 16世紀末以降、野戦戦術は大きく変化していた
 装甲槍騎兵の消滅は圧倒的な衝撃力を備えた兵科の消滅を意味し、中世以来の諸兵科連合軍は永遠に失われた
 装甲槍騎兵の消えた穴を塞ぐために各国の軍隊が選択したのは、他の兵科、特に歩兵の量的な増強だった
 一撃で敵の組織的戦闘力を破壊することが期待できなくなり、火力を積み重ねて敵の戦力そのものを破壊する以外に
野戦で勝利する見通しがつかなくなると、将軍たちは躍起になって銃兵を増強しはじめた
 重槍兵は近接戦闘で銃兵を防護する唯一の兵科だったが、火力への偏重からその比率は減少していく傾向にあった
 装甲槍騎兵が消滅した後も兵科としての重騎兵は存在し続けたが、その戦術的有効性は明らかに後退していた
 騎兵突撃は攻撃においてはなお重要な役割を担っていたが、もはや攻撃の中核を担うことはなくなっていた
 野戦戦術は再び歩兵を中心に展開されるようになり、銃兵をどれだけ投入できるかが勝敗の鍵を担うようになった
 衝撃力の不在と火力への依存は凄まじい損害を引き起こし、後方兵站業務の重要性はますます増大していった


そんだけ
232山を動かした男:03/12/27 16:45 ID:???
 量の追求は野戦だけではなかった
 要塞への依存が増加する傾向は17世紀になっても変わっていなかった
 攻城砲は一時期要塞の戦術的優位を覆しかけたが、築城技術の進歩が再び要塞の価値を取り戻した
 新型の要塞はイタリアで登場し、瞬く間にネーデルラントやフランスに普及した
 ドイツは新しい要塞技術に関しては後進地域だったが、それでも昔ながらの要塞は多く、しかもこれらの要塞は簡単な
改修工事で攻城砲に対抗することができた
 こうして17世紀ヨーロッパの戦争は、野戦でも攻城戦でも大量の兵力と長期にわたる作戦期間を必要するようになり、
それに見合うだけの十分な人員や補給品を揃え、維持し、補充し、時には拡大しなければならなかった
 戦略と戦術の変化は膨大な戦争資源を国家に要求したが、こうした大軍勢、戦力の大集中を可能にすることは容易では
なかった
 北の獅子王でさえ失敗した
 失敗しただけでなく、国家の資源を破壊し、最後には端武者のように死ぬ羽目になった
 軍事技術の要求に見合うだけの量を揃えるには、当時のインフラや行政組織はまだ力不足だった
 この軍事上の難問を最初に解決したのがヴァレンシュタインだった
 彼は当時最大の軍隊を組織し、維持し、ほとんどそれだけで成功を収めてしまった


そんだけ
233kontribution:03/12/27 16:46 ID:???
 ヴァレンシュタインが率いた兵力は最小時には4万、最大時には10万に達した
 その募兵費は後には軍税で賄われることが多かったが、当初は、一部を高級将校に分担させてはいたものの、多くは彼が
皇帝に対して立て替えるために支出した金銭で支払われた
 募兵費でさえこの有様だったから、徴募された膨大な兵力を維持するための費用を皇帝が出せるわけがなかった
 当時、皇帝の苦しい財政事情は広く知られており、「(皇帝が)兵士に対する正規の給料支払を行わない犠牲的奉仕の
約束で募兵を行った」という噂がまことしやかに流れていた
 1625年6月にザクセン選帝侯に宛てた書簡で、皇帝は「余は如何なる苦難な事態にあってもそのような方法を
とろうなどとは考えたこともない」と釈明しているが、どちらにせよ何らかの新しい方法を講じない限り、給与の支払は
到底不可能だった
 結局、皇帝のとった打開策は、ヴァレンシュタインに「占領地」において「堪えうる程度」の軍税徴収権を与えるに
とどまった
 そして、その程度の打開策で4万から10万の兵力を維持できたかと言えば、勿論維持できなかった
 そもそも軍税とは軍隊の給養のために課せられる臨時税であり、三十年戦争初期においては、ザクセン軍、ティリーの
リガ軍、皇帝軍が軍税を徴収している
 ザクセンでは、1623年から翌年にかけて徴募された部隊の給養のために施行され、一部の地域に宿舎と灯火、薪等の
無料提供が命ぜられ、その他にバター、蜂蜜、桜桃ジャム、石炭、干草、飼料等が加えられた
 ザクセン軍の兵士は1日肉1ポンド、パン2ポンド、ビール2乃至3リットルの給与を得たが、軍馬の糧秣とともに
それらの供出も住民に課せられていた
 ただし、これらは無料供出ではなく、その金額は兵士の給料から差し引かれて住民に支払われていた
 従って、住民の無償負担は宿舎とそれに付随する上記の消耗品のみだった


そんだけ
234処女マリアが守護聖人:03/12/27 16:47 ID:???
 ザクセンにおける軍税に比較して、ティリーの賦課した軍税ははるかに大きかった
 リガ軍も最初から給養を軍税の徴収に依存していたのではなく、戦費はリガ加入諸侯によって分担され、兵士の糧食も
バイエルンから供給されていた
 しかし、戦争の長期化に従って諸侯も財政的に兵士への給与支払が困難になり、作戦地域が北ドイツに移ると上記のような
糧食補給もとれなくなり、軍隊の維持費の一部を自ら調達しなければならなくなったティリーは、とうとう現地における
軍役賦課に踏み切った
 ティリーはヘッセンとカッセルで1623年11月から1625年7月まで部隊を宿営させたが、その時、彼は住民に
宿舎の他に糧食と飲料水の提供を命じ、1623年末と1624年8月には現物と等価の金銭による代納を認めている
 建前上、物納と金納の選択は住民の判断に委ねられていたが、実際には金銭による支払が望まれ、しかも後になるに
従ってその額は現物の価格を大きく上回って定められた
 このティリーが賦課した軍税は、それが国外で賦課されていること、賦課の負担が大きかったこと、特に現物に対する
金銭の返済が全く考慮されていなかったこといおいて、ザクセンのそれとは大きく違っていた
 皇帝が皇帝世襲領で施行した軍税もティリーのそれとほぼ等しかった
 フランツ・フラスト・フォン・ディートリッヒシュタイン侯は1621年秋にその軍勢をメーレンに宿営させ、翌年11月
には軍隊給養法に関する布告を発している
 住民は、兵士に1日1ポンド半のパンとその馬に干草及び藁の供出を命ぜられ、それとは別に兵士の給料月2グルデンと
燕麦がメーレン全域に課せられた一般軍税から支払われることが定められていた
 このように、リガ軍と皇帝軍の軍税はザクセンに比べて大きかったが、しかしそれも軍隊の宿舎や糧食、給料の支払を
目的としている程度で、しかも現実には給料の支払は満足に行われてはいなかった
 月々給料を受け取ることになっていたリガ軍の将兵は、次第に支払が遅れ、1627年3月には既に1面3ヶ月分の給料が
滞っていた


そんだけ
235えくすぺりめんと:03/12/27 16:48 ID:???
 皇帝がヴァレンシュタインに軍税徴収権を与えた時も、こうした前例の踏襲を彼に許したに過ぎなかった
 しかし、その程度の軍税では宿舎と糧食は確保できたとしても、軍隊の維持、更に作戦の実施は事実上不可能だった
 兵士は装備を揃えねばならず、騎兵は馬が必要だし、銃兵や砲兵には弾薬が必要だし、そもそも兵の大半は食い詰めて
徴募に応じたくらいだから靴から服から手当してやらねばならず、その他にも資材や消耗品を山のように調達しなければ
ならなかったし、中には事故で失われたり不良品が混ざってたり戦闘で損耗するならまだましで、兵隊どもはなくしたり
壊したり捨てたり勝手に売り払ったりピンはねしたりするからある程度の予備も考えなければならなかった
 また、後方連絡線を維持して大量の補給品を間断なく輸送するためにもそれなりの費用がかかった
 従って、ヴァレンシュタインは皇帝の厚意だけでは到底足りない戦費を何らかの手段で補わねばならなかった
 彼が軍税徴収のために最初に発した命令によれば、この施策は月々の給料を支払えるようにすることが目的であると
記されていたが、彼の施行した軍税は、その限度をはるかに超えて戦費の大部分を充たすまでに拡大されていた


そんだけ
236マネーマシン:03/12/27 16:49 ID:???
 彼の課した軍税で最も一般的なものは、ラント税の率に応じて宿営地のラント住民に割り当てた賦課で、これだけで
兵の給与を弁ずるに十分な額だった
 しかしそれのみに尽きず、連隊長が募兵金を賄うために徴募兵の集合点や検閲場の周辺地域に賦課したもの、集合点や
検閲場、宿営地に指定された都市や村落が兵士の略奪を怖れてその免除を願い出た時に課した免除税等が加えられた
 この免除税は法外に高額で、1625年に検閲場に指定されたニュルンベルク市は免除税として10万フローリンを、
続いて宿営地に指定されることを免除されるために更に1万5000ターレルを支払わねばならなかった
 その後も1627年に6万フローリン、1628年に10万フローリン、1629年6月から1630年2月にかけて
19万フローリンを支払っている
 その他にも、略奪中止の請願にも金銭が徴収され、トロッパウ市は1627年に6万ターレルを支払わねばならなかった
 一般的な軍税も、陣地構築の際には通常よりもはるかに高額を賦課され、集合点や検閲場、宿営地に対する軍税も、
部隊が定数に満たなくとも、定数分が要求され、差額は連隊長に着服されていた
 兵に対する給養の必要もないのに徴収され莫大な額に達した免除税は、艦隊の建造やバルト海沿岸の陣地構築、火器弾薬の
購入等に当てられていた
 ヴァレンシュタインの第一次総司令官期における徴収軍税総額は少なくとも2億から2億5千万ターレルに達した


そんだけ
237兵隊という名の疫病:03/12/27 16:50 ID:???
 ヴァレンシュタインの軍税は住民の生活に破滅的な影響を与えた
 ヴァレンシュタイン軍に比べればはるかにささやかな軍税を賦課していたティリーのリガ軍ですら、1623年10月から
1625年7月まで宿営したヘッセン、カッセルにおいて徴収した軍税総額331万ライヒスターレルは、1619年及び
1620年の両市のラント税の10倍に達している
 「武装した修道士」とまで呼ばれたティリーですらこうであったから、ヴァレンシュタインの軍税の苛烈さがそれを
はるかに上回っていたのは間違いない
 ヴァレンシュタインが最初の宿営地に選んだハルバーシュタットでは、2000戸が宿営半年後に700戸まで減少し、
農民の絶望的な反乱が各地で頻発していた
 ヴァレンシュタインの軍税は「堪えうる程度」どころではなかったが、「占領地」に限るという地理的制限すら全く考慮
されなかった
 ハルバーシュタットは皇帝に対して敵対していなかったし、ハルバーシュタットと同時期に宿営地に指定されて軍税を
賦課されたマグデブルクは、皇帝に対して反抗的な態度ではあったが武力行動に訴えていたわけではなかった
 その後の軍税賦課地にも、同様に皇帝に対して敵対行動をとっていないラントは少なくない
 しかもそのほとんどの場合、ヴァレンシュタインは皇帝に許可を求めることなく自らの署名において軍税徴収の命令を
発しており、彼が皇帝に配慮を見せた唯一の例外は皇帝世襲領だけだった
 こうしてヴァレンシュタインの軍税は、その額や地域に関して皇帝の指示を無視し、また彼の名において徴収された
 それは皇帝にあてがわれまたは委任された財源ではなく、彼自身の開拓した財源だった
 彼の軍隊は編成当初に既に彼の個人的財力と手腕で募集されたものだったが、その後引き続いて行われた募集と軍隊の
経費、維持費の支払もまた彼自身の開拓した財源によって賄われた
 こうして彼の軍隊は、例え皇帝軍とはいえ、彼自身が徴募し編成し装備し訓練し兵站し指揮した彼自身の軍隊だった


そんだけ
238ご主人さまの名前:03/12/27 16:50 ID:???
 ヴァレンシュタインの軍隊が彼の私兵的性格を帯びていたのは、戦場であり宿営地であったのが北ドイツであり、彼の
軍税の賦課が皇帝世襲領外の帝国領で行われていた第一次総司令官期に限定される
 ヴァレンシュタインが第一次総司令官期に皇帝世襲領から徴収した軍税は、1627年にボヘミアより80万フローリン、
1628年にシュレージエンより60万ターレルで、その他に皇帝から受け取ったのは1626年に10万ターレルのみ
だった
 彼の第二次総司令官期には、戦場が帝国東南部と皇帝世襲領に移り、従って戦費も皇帝の補助金と皇帝世襲領の軍税のみ
から支払われた
 この時期には、ヴァレンシュタインは皇帝から月20万グルデンの補助金を受け、皇帝世襲領から巨額の軍税と宿営のため
の現物支給による兵の給養等を得ていた他に、1633年には下部オーストリアから70万フローリン、シュタイエルから
40万フローリンの軍税を徴収している
 こうなると事情は違ってくる
 ヴァレンシュタインは相変わらず軍税を徴収していたが、軍隊維持に当てられた軍税が皇帝世襲領から徴収されている以上、
その軍隊はヴァレンシュタインの私軍であるよりも、皇帝の軍隊としての性格を濃厚に持つことになった
 後にヴァレンシュタインが皇帝と対立するに至った時、彼の頼みとしていた軍隊が彼の期待を裏切った理由の一つは、
この軍隊の性格の変化にあった
 皇帝世襲領から徴収された軍税は、軍隊が維持されている限り、創設者であるヴァレンシュタイン個人の存在を離れても
継続が可能だった
 ヴァレンシュタインの出現前に強力な軍隊を保持できなかった皇帝が、彼の死後もほぼ同等の兵力を維持して戦争を
戦い抜いたのは、こうした事情によるものだった


そんだけ
239全ては帝国の旗の下に:03/12/27 16:52 ID:???
 ヴァレンシュタインと皇帝との関係は、ヴァレンシュタインの野望と皇帝の危惧をもって始まったが、ヴァレンシュタイン
の第一次総司令官期は、多少の摩擦はあったが、両者の目的を満足させつつ進展していった
 ヴァレンシュタインは総司令官就任後、その兵力を次第に増強していった
 ヴァレンシュタインの軍隊は、皇帝に脅威を全く与えなかったわけではなかったが、皇帝の直面していた軍事的危機を
解消しただけでなく、帝国内の反皇帝勢力に圧力を加えて皇帝の要求に十二分に応えた
 三十年戦争における皇帝の追求した目的は、皇帝世襲領内における絶対主義権力の確立と、帝国内における領邦諸侯権力の
制限すなわち皇帝権力の強化にあった
 三十年戦争の端緒となったボヘミアの内乱自体がボヘミアにおける反宗教改革の強行と、身分制議会の享受してきた
政治的特権の削減の結果であり、ヴァレンシュタインによる軍事的勝利後、皇帝は直ちにボヘミアの反乱によって中断された
諸改革の強化推進に着手している
 1627年、皇帝はオーストリアにおける信仰の自由を廃し、宗教裁判によって改宗を拒否した者の追放を強行したが、
同年、ボヘミアにも同様の措置を講じている


そんだけ
240landtafel:03/12/27 16:54 ID:???
 皇帝の圧力は宗教問題のみに向けられていたのではなく、当然身分制議会の特権にも及んだ
 1627年5月、「新ボヘミア・ラント法」が発せられたが、これによってボヘミア王の世襲制が定められた
 それまで、身分制議会はボヘミア王の選挙権乃至は承認権を持ち、従ってフェルディナントのボヘミア王位を拒否して
ファルツ伯フリードリヒ5世を選挙したように、ハプスブルク家以外の人物の選挙によって、あるいは即位の不承認によって、
議会は彼らの特権を擁護することができた
 更に身分制議会において議題提出権は国王のみに保留され、かつ議題の中で議会が承認権を持つのは租税賦課のみに
限られ、しかもその場合、不正な条件を付加すること、新たな特権を要求することは許されなかった
 また、身分制議会が事前に協議して一致した投票に出ることが禁止され、従来は王権の代弁者であると同時にラントの
代表者という二重の性格をもっていたラントの高級官吏は、今後国王のみに義務を負い、その任命権は国王に独占された
 その他、司法、行政、議会でチェコ語のみを用いた慣習が廃され、チェコ語とともにドイツ語をも用いること等、
ハプスブルク家の王権強化のための諸規定が定められた
 これは、明らかにボヘミアにおけるハプスブルクの絶対主義的権力の確立を意図したものであった


そんだけ
241パイを切り分ける:03/12/27 16:54 ID:???
 1628年1月、帝国副宰相ペーター・ハインリヒ・フォン・シュトラーレンドルフが皇帝、皇太子フェルディナント3世、
宰相ヨハン・ウルリッヒ・フォン・エッゲンベルク侯に提出し裁可された建白書には、次のように定められていた
 クリスティアン4世は、先に承認した和平条件の他に、シュレスヴィッヒ公領を皇帝の自由な処分に委ねること
 下部ザクセン行政管区の諸侯で、裁判手続きに関し、1625年、1626年に発せられた皇帝の警告状に違反した者は
その所領を没収されるべきこと
 ハンザ諸都市は「彼らの最初のハンザ」すなわち同盟締結文書を皇帝に提出し、その合法か否かの判定を受けるべきこと
 而して今後は如何なる帝国議会出席身分も、皇帝の承認を得ずに武力を持ち、あるいは同盟すべからずこと
 宗教問題の決定は、1627年10月にミュールハウゼンで開催された選帝侯会議での要求通りに取り扱わされるべきこと
 バルト海、北海における海軍力の建設が直ちに着手されるべきこと
 皇帝位はハプスブルク家の世襲制とすべきこと等
 そしてこの建白書は、皇帝権がかつての権力にまで、カトリックがかつての盛んな様にまで強化されるべきであることが
強調されている
 こうしてヴァレンシュタインの軍事的成功によって皇帝はその目的を達成するかに見えた
 デンマーク王クリスティアン4世と北ドイツ諸侯を撃破した後の1628年及び1629年は、皇帝の勢力が絶頂に
達した時期でもあった
 当時北ヨーロッパ最強の君主の一人に数えられていたデンマーク王は再起できる余力はなく、ドイツ帝国内部にも単独で
皇帝に対抗できる諸侯は存在しなかった
 まさにフェルディナント2世は、「カール5世以来並ぶ者なき権力を持ち、その権力は時と手腕を以てするならば、蘇った
統一ドイツ帝国の基礎たりうる」ものだった


そんだけ
242最も危険な道具:03/12/27 16:55 ID:???
 自らの資金と手腕で軍隊を組織し、新しい軍税制度によってそれを維持し戦うことにより、皇帝の絶対主義政策の
軍事的支柱としての役割を果たしたヴァレンシュタインは、徴収した軍税や戦利品、占領地からの収益等を得たが、更に
皇帝からの報酬として1628年3月にメックレンブルク領と大公の称号を与えられた
 勿論この間における両者の協調関係には、全く摩擦がなかったわけではなかった
 単なる軍人、皇帝の軍事的支柱の域を越えて自らの政治的構想を持つヴァレンシュタインは、皇帝の軍事的絶対主義権力を
肯定していたが、一方で皇帝の政策を全面的に是認してそれを軍事面より推進したのではなかった
 皇帝がドイツにおける領邦諸侯権力の制限すなわち皇帝権力の強化政策を推進するに際して、同じハプスブルク家の
支配するスペインと同盟しようとし、ネーデルラントと抗争中のスペインもそれを要望していたのに対して、
ヴァレンシュタインはスペインの利害に左右されるそのような同盟関係を必ずしも賛成しなかったし、また宗派的紛争を
避けて皇帝権力の強化のみを追求していた彼は、紛争の種を播く「回復勅令」の発布に反対していた
 しかしながら、両者は互いにその本質的要求を満足していたから、こういった見解の対立がそのまま両者の決裂に
つながったわけではなかった
 1630年8月にヴァレンシュタインは総司令官を罷免されたが、これは皇帝自身の意志ではなく、領邦諸侯からの圧力の
結果だった
 既に1627年10月のミュールハウゼン選帝侯会議でヴァレンシュタインは、連隊長による軍税横領、軍隊の略奪行為、
軍隊の募集、集合、検閲の費用に充てるべき軍税の要求、リガ軍の宿営に対する干渉等が列挙されて、帝国の法の侵害を
理由に非難されている
 皇帝は監査局の設置を要求されたが、ついで翌年彼のメックレンブルク公叙任の17日後、マインツ選帝侯は、皇帝軍が
ヴァレンシュタインの指揮下にある限り皇太子の皇帝選挙は保証できないという選帝侯一同の署名になる宣言文を皇帝に
突きつけている
 それは、ヴァレンシュタインが皇帝の諸侯権力の制限と皇帝権力の強化政策の強力な軍事的推進者であるとともに、
彼が皇帝以上にその政策の強力な主張者であったからだった


そんだけ
243犬は煮られて兎は奔る:03/12/27 16:56 ID:???
 この選帝侯の威嚇は一旦は無視された
 ヴァレンシュタインを手放すことは皇帝にとって大きな痛手であり、例えスペインからの援助があったとしても、
10万の私兵に等しい軍勢を擁する彼を罷免した損失を補完することは不可能だった
 このため、皇帝はヴァレンシュタインの兵力を削減する措置によってその場を凌ごうとしたが、選帝侯たちはその後も
ヴァレンシュタインの罷免を画策し、1630年6月、レーゲンスドルフ選帝侯会議で、かつての要求と威嚇をより声高に
繰り返した
 しかもリガの指導的立場にあったバイエルン公マクシミリアン1世は水面下でフランスと結び、事と次第によっては
反皇帝的行動をとることも辞さない態度を示したため、皇帝も遂にヴァレンシュタインの罷免を決心した
 1630年8月、ヴァレンシュタインはその職を去り、皇帝軍はその兵力を削減されてリガ軍の司令官ティリーの指揮下に
入り、巨大な兵力と皇帝の政策の強力な推進者であった総司令官を失って皇帝の政策は選帝侯の反撃によって頓挫したの
だった
 ヴァレンシュタインの罷免後、スウェーデン軍グスタフ・アドルフの乱入によって戦況は引っくり返った
 1632年1月、皇帝は再びヴァレンシュタインを起用する羽目になったが、この第二次総司令官期における皇帝と
ヴァレンシュタインの関係はかつてとは大きく様相を事にしていた
 第一次総司令官期の両者の関係は、多少の対立はあっても両者はほぼ協調を維持しており、その破綻も両者の対立ではなく
選帝侯の圧力の結果によるものだった
 しかし、今度は就任後僅か2年後の1634年1月に罷免令が発せられ、更にその1ヶ月後には謀反の疑いにより
ヴァレンシュタインは刺殺されている
 皇帝とヴァレンシュタインの関係が円滑を欠き、対立が表面化したのは、1632年11月のリュッツェン戦後である
 この戦闘自体はヴァレンシュタインの戦術的敗北に終わったが、スウェーデン軍は国王を喪って攻勢が頓挫しており、
必ずしも皇帝のヴァレンシュタインに対する信頼を失わせるものではなかった
 しかし、その後のヴァレンシュタインの行動は皇帝の命令に対する不服従が目立つようになり、作戦もかつての精彩を欠き、
軍事的失敗が続く


そんだけ
244スランプ:03/12/27 16:57 ID:???
 1633年1月、スウェーデン及びザクセン・ヴァイマール連合軍のバイエルンに対する攻勢に脅かされたマクシミリアン
から救援を要請された時も、僅かな兵力を送って糊塗したに過ぎず、同年秋にレーゲンスブルクが連合軍に包囲され、
皇帝から速やかな救援を求められたにもかかわらず、彼は部下のヨハン・フォン・アルドリンガーを向かわせる旨を
返事したのみで、それすらも実行しなかった
 その後彼は自らレーゲンスブルクに赴いているが、しかし既に時機を逸し、同市が陥落した後のことだった
 更に同年秋にアルドリンガーがバイエルンで作戦した際に、戦禍によって疲弊していた地域に宿営し、農民の暴動を
引き起こしたことはマクシミリアンの怒りと恨みを買い、ヴァレンシュタイン自身も同年12月に皇帝世襲領に対する
軍税の軽減を求めた皇帝の命令を拒絶していた
 しかし、何よりも皇帝とヴァレンシュタインの対立を決定的にしたのは、ヴァレンシュタインが行った和平交渉だった
 リュッツェン戦の数ヶ月後、少なくとも1633年4月24日以前にヴァレンシュタインはザクセンの将軍
ハンス・ゲオルク・フォン・アルニムを通じてザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクと和平条件の検討を重ねていた


そんだけ
245トレード:03/12/27 16:58 ID:???
 これは通敵や皇帝への反逆といったものではなく、和議成立とともにザクセン軍、更にはブランデンブルク軍を彼の
指揮下に統合してスウェーデンに当たることを目的としており、従って皇帝もそれ自体に対しては反対ではなく、ただ
ヴァレンシュタインが皇帝の承認を得ずに独断で和議を画策していることに不満を抱いたにとどまっていた
 しかし、後にヴァレンシュタインが和平の条件として帝国の秩序を1618年以前に戻すことを認めるような態度を
示したため、皇帝の不満は不信へと変化していく
 この和平交渉は、結局スウェーデンからの離反を認めないゲオルクの反対で成功しなかったが、その後7月以後に
ヴァレンシュタインは再びアルニムと和平交渉に入った
 今度はヴァレンシュタインは「宗教並びに政治的平和」が再び「正しい秩序の下に」すなわち戦前の状態の上に礎かれる
べきことを確言した
 更にアルニムは、ヴァレンシュタインがスウェーデンとも和平を結び、もし皇帝がこれを認めない場合には皇帝とも
決裂することを期待したが、ヴァレンシュタインがスウェーデン及びフランス、スペインを帝国から駆逐することが最優先で
あることを言明したため、交渉は再び決裂した


そんだけ
246王様になろうとした男:03/12/27 16:59 ID:???
 一方でヴァレンシュタインは1633年5月中旬にスウェーデンの将軍ハインリヒ・マティアス・トゥルンと和平交渉に
応じ、カトリックとプロテスタントの同権、権利を侵害された者の権利回復、「かつての自由と正義」の再建をその条件と
して提示している
 この交渉もスウェーデンの宰相アクセル・ウクセンシェルナがその実行の担保として、皇帝及びリガと対立してでも
スウェーデンと同盟することを求めたために破れたが、ヴァレンシュタインはザクセンとも和平交渉に応じ、必ずしも
スウェーデンとの和平をも辞さない態度を取り続けた
 7月に入ると、ボヘミアの追放貴族の指導的立場にあり、1633年におけるボヘミアの反皇帝農民運動の煽動者だった
ウィルヘルム・キンスキーの仲介でフランスの将軍マッセナ・ド・パ・フーキエールと和平交渉を行い、しかもその条件の
中には、ヴァレンシュタインが皇帝から離反する代償として彼をボヘミア王とする条項が含まれていたと言われている
 ヴァレンシュタインが和平交渉に際してボヘミア王位を狙っているという噂は、既にザクセンとの最初の和平交渉の時から
撒かれていた
 6月6日、ハイデルスドルフでヴァレンシュタインからザクセンに提出されたと言われている和平条件にはその一項があり、
それが皇帝の手に渡ってヴァレンシュタインへの疑心を深めたが、その和平条件書はヴァレンシュタインの政敵の偽作で、
従ってボヘミア王云々は悪意ある噂に過ぎなかった
 ヴァレンシュタインがボヘミア王位を現実に考えるようになったのはこのフランスとの和平交渉においてである


そんだけ
247背信:03/12/27 17:00 ID:???
 フランスとの交渉は1634年に入っていよいよ具体化し、彼の謀反は、例えそれが秘密裏に行われていようとも
もはや疑うべくもなかった
 一方で敵と和平交渉を独断で進めつつ、それと符合するかのように作戦にかつての鋭さを欠いたヴァレンシュタインに
対する皇帝の疑念は既に1633年6月頃から深まりつつあった
 それに拍車をかけるように、ヴァレンシュタインとの年来の対立者バイエルン公マクシミリアンはヴァレンシュタインを
罷免して軍の指揮を皇太子フェルディナント3世に替えることを勧め、スペインもそれに賛成した
 その後の事態の推移は皇帝の疑念をより確かなものとし、1633年12月末、皇帝はヴァレンシュタインの罷免を決意、
1634年1月24日には罷免状を発し、翌月25日には竜騎兵連隊を派して殺害した
 罷免を決意してから最後の行動に出るまでの2ヶ月間は、罷免の方法、すなわち単なる解任か処刑かの決定と、
ヴァレンシュタイン隷下の指揮官への離反工作に費やされた


そんだけ
248:03/12/27 17:01 ID:???
 皇帝とヴァレンシュタインの対立の最も根源的な原因は、ヴァレンシュタインの傭兵隊長の本質にあった
 ヴァレンシュタインにとって皇帝が故なく彼を罷免したことは雇用主として許し難い契約違反であり、皇帝への不信を
抱かせ、傭兵隊長の契約において雇用主と同等であるという信念と自らの利益を最優先に追求する本能が露骨に顕現した
 更に彼の個人的な事情の変化が、軍事的勝利を積み重ねて利益を獲得してきた従来のスタイルへの自信を喪失させていた
 リュッツェンにおいて彼は痛風を病み、以後彼はその苦痛に悩まされていた
 リュッツェン戦後の彼の軍事行動には、正確な状況判断、慎重緻密な計画と果断な実行という彼本来の特徴が見られない
 それは和平交渉への考慮の結果というよりむしろ、戦況に対する判断の誤りと逸機の結果だった
 自らの心身の衰えから自己の能力への信頼を喪失したヴァレンシュタインには、自らの利益を確保するために、敵との
和平と皇帝への反逆以外に道は残されていなかった
 ヴァレンシュタインは刺殺された時になお4万5000の兵力を統率していたが、実際には彼が頼みにしていた部下は
彼から離反して皇帝に加担し、彼の失脚と殺害に助力していた
 ヴァレンシュタインの部下はそれぞれが一個の傭兵隊長であり、ヴァレンシュタインが極めて苛酷な人物として将兵から
怖れられ憎まれていたにもかかわらず、彼らがヴァレンシュタインに従ったのは利得に対する期待に他ならなかった


そんだけ
249雨に濡れる:03/12/27 17:02 ID:???
 軍隊をヴァレンシュタインと結合していたものは、何よりも物質的な絆だった
 彼らは募兵と兵の武装のために高額の立替を行い、彼から将官への昇任を期待していたし、将校や兵士は彼個人の中に
戦功の報賞と莫大な戦利品に対する保証を見ていた
 しかし、リュッツェン戦後の彼の将兵に対する態度には常軌を逸するものがあった
 リュッツェンの敗戦直後に、彼は怒りと恥辱の代償を求めて将校13名と兵士5名に怯懦と裏切りの罪を着せ、部下の
制止を振り切って処刑してしまい、恐怖による規律の強化を狙った彼の決定は、逆に忠誠と尊敬を失う結果になった
 更にヴァレンシュタイン自身が軍事能力に衰えを見せ、かつ皇帝に対する反逆を企図しているという疑惑は、彼に従うこと
の可否を疑わせるようになっていた
 しかもヴァレンシュタインの軍隊はもはや彼の個人的能力によって維持されているのではなく、主に皇帝世襲領からの
軍税によって維持されて実質的に「皇帝軍」となりつつあり、もはやヴァレンシュタインを必要とはしていなかった
 従って、彼と運命をともにして博打を打つよりも、皇帝の提供する離反の報酬に与り、将来における地位を確保するほうが
部下たちにとってより確実で賢い選択だった


そんだけ
250仏に会えば仏を殺し:03/12/27 17:05 ID:???
 ヴァレンシュタインの和平交渉が活発化し、謀反の疑いが濃厚になりつつあった1633年8月、マルケス・グラーナ侯が
2個連隊を率いてウィーンに走り、宮廷軍事委員会の一員となった
 その後も高級将校の離反が相次ぎ、アルドリンガーもマクシミリアンと皇帝に接近しつつあった
 6月6日のハイデルスドルフでの和平交渉の条件書をマクシミリアンに送ったのもアルドリンガーだった
 1633年12月、皇帝がヴァレンシュタイン罷免を決心して以降、彼の部下への離反工作はより積極的に推進された
 1634年1月にはアルドリンガーとマティアス・フォン・ガラスがヴァレンシュタイン失脚のために動いている
 2月上旬に、ヴァレンシュタインが自らボヘミア王となり、ルイ13世をドイツ王としてザクセン、バイエルン、マインツ、
トリエルの選帝侯領の分割を画策しているとの流言を撒いて将兵の動揺を誘ったのはオッターヴィオ・ピッコロミーニだった
 ヴァレンシュタインへの最終的措置が進められつつあった2月20日、ヴァレンシュタインはピルゼンでの2回目の集会に
おいて、連隊長たちに対して自分と行動をともにすることをを要求したが、皇帝に反しない限りという条件が付加されていた
にもかかわらず、中には署名を拒否する者もいた
 結局、最後まで彼に従ったのはアダム・トルシュカとクリスティアン・イーロウの2名だけだった
 小傭兵隊長である連隊長たちは自分たちの傭兵隊長の本質に従ってヴァレンシュタインを見捨てたのだった


そんだけ
251傭兵退場:03/12/27 17:06 ID:???
 こうして第二次総司令官期におけるヴァレンシュタインの皇帝への反逆は、彼の軍事能力の衰えという個人的事情に
由来する傭兵隊長的な本質の露呈だったが、皮肉にも実質的に彼が創始した軍税制度は皇帝軍に兵力維持の可能性を与え、
更に三十年戦争後、オーストリア皇帝に常備傭兵軍を維持させる財政的前提となる役割を演じた
 本来軍税は戦時の財政的需要に対する臨時租税であり恒久的な租税ではなかったが、その徴収が可能になったのは、強力な
軍事力によって身分制議会の勢力が抑圧された結果だった
 三十年戦争後、臨時租税としての軍税が廃止されたかわりに、常備軍の維持に要する費用が租税として徴収されることに
なり、その徴収も軍税のように軍隊によることなく皇帝や議会の直属行政機関に担任させ、また週や月のように短期的徴収を
行わず、長期的かつ定期的に一定額を徴収し、恒久的な租税にしたのだった
 常備兵力の増大強化のためには国庫収入の増加が不可欠の前提で、従って富国強兵政策として国庫収入の増大を目的とした
重商政策とともに、農民の担税力を増大させるため、農民保護政策がとられていく
 常備傭兵軍隊増強を意図した絶対主義的富国強兵政策としての農民保護政策はドイツ諸領邦についても同様で、やがて
マリア・テレジアやヨゼフ2世によって採用されるべき啓蒙専制君主的農民保護政策は、オーストリア継承戦争、七年戦争後
の軍事力の再建強化を意図した富国強兵政策に他ならないのだが、絶対主義完成期の常備傭兵制についてはまた別の話


そんだけ
252251:03/12/27 17:08 ID:???
おしまい
253名無し三等兵:03/12/27 17:19 ID:???
お、おまえさんは午前中からひたすら張り続けてたのか・・・
254トルエン大尉:03/12/27 17:32 ID:???
そんだけ氏乙です!
255名無し三等兵:03/12/28 01:54 ID:???
そんだけ氏おつかれさまでした。
講義みられて良かったです
256名無し三等兵:03/12/28 02:23 ID:???
おお!これが噂の集中講義!
律儀なそんだけ氏に乾杯!!!
257名無し三等兵:03/12/29 22:06 ID:???
某スレでそんだけ氏降臨の情報を聞き、ようやく探し当てました。
txtに保存して、ゆっくりと読ませていただきます。
そんだけ氏、ご講義お疲れさまでしたm(_ _)m
258名無し三等兵:03/12/30 00:44 ID:???
久方ぶりのそんだけ氏降臨!
陣形と戦術スレ以来ですか
過去スレご存知の方は情報をカキコしませんか
259名無し三等兵:03/12/30 01:48 ID:???
「ヨーロッパの剣」かな?
260258:03/12/30 02:04 ID:???
2年ぐらい前だが
ヨーロッパの剣、戦争論、陣形と戦術。
それ以降は、わからないな。すまぬ。
261名無し三等兵:03/12/30 14:40 ID:???
あれ? 正確なスレ名忘れたけど、今年の夏頃にそんだけ氏が降臨したスレって落ちた?
昨日までは有ったはずなんだけどなぁ。
そのスレで、ここの事を知ったんだけど
262名無し三等兵:03/12/30 15:20 ID:???
ごめん、見落としてた。
まだ残残ってたね。

と言う事で、「日本と世界の歴史的な戦争を語りましょう」スレにもそんだけ氏は降臨してるよ。
あと土方氏の朝鮮戦争講義も勉強になるよ
263名無し三等兵:03/12/30 16:17 ID:???
でもあのスレは中断したしおまけにこのスレで最初からやり直してるからな・・・・。
264名無し三等兵:03/12/30 19:18 ID:???
>>263
どの辺りを修正・加筆したか比べるのがいいかと・・・

265名無し三等兵:03/12/30 19:40 ID:???
いつまでもあのスレを引き合いに出してはあのスレの>>1の立場がないだろ。
氏が最初からやり直したのはそういった気配りもあったと思われ。
読み比べといっても小説じゃないんだからあのスレはこのまま忘却の底に沈めるが吉。
266名無し三等兵:03/12/30 22:37 ID:???
うっ・・・「日本と世界の・・・」
鯖が落ちる前までROMしてたスレだ
なんてこったい
月に一回はそれらしきスレを探していたのに・・・


267名無し三等兵:04/01/03 23:30 ID:???
偶然立ち寄ったものですが良いスレですね
スレ数にあわぬ容量で変なAAスレを引っ掛けてしまったかと危惧していたのですが
非常に濃い内容に圧倒されております
さて教えて君で申し訳ありませんが
「ヨーロッパの剣は・・・」
ttp://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/995475623/l50
「戦争論」
ttp://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/998225170/l50
「日本と世界の歴史的な戦争を語りましょう」
ttp://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1053936480/l50
以上の3スレは見つけたのですが
「陣形と戦術」スレッドがわかりません
もしご存知の方がいらしゃいましたらお教え願えないでしょうか
268名無し三等兵:04/01/04 19:46 ID:???
269名無し三等兵:04/01/04 23:10 ID:???
ありがとうございます

しかし、そんだけ氏とは何者なんでしょう
有名な方なんだろうか
270名無し見学者:04/01/07 01:17 ID:???
>>267
上の2つ鯖間違っていますよ。

「ヨーロッパの剣は…」
ttp://yasai.2ch.net/army/kako/995/995475623.html
「戦争論」
ttp://yasai.2ch.net/army/kako/998/998225170.html
271名無し見学者:04/01/17 02:53 ID:???
一応保守しておきましょうか。
272名無し見学者:04/01/24 03:53 ID:???
もう一度
273名無し三等兵:04/02/04 19:42 ID:???
保守
274名無し三等兵:04/02/05 00:55 ID:BnqguTZY
温故知新
275名無し三等兵:04/02/08 08:47 ID:???
保守して置きます。指輪の第三部上映間もなくですね。今週の土曜日か。
熊人を見るのが楽しみです。
276名無し三等兵:04/02/14 12:39 ID:vxmjYd5C
そんだけ死ね
277名無し三等兵:04/02/22 17:45 ID:???
講義終わっちゃったのか。残念。
278名無し三等兵:04/03/04 23:23 ID:coBqmJcE
279名無し三等兵:04/03/04 23:42 ID:???
保守
280名無し三等兵:04/03/05 00:08 ID:???
包囲されている都市の城壁上に投石機が据え付けられているのは面白かったかも。
ゴンドールはビザンツのような帝国に思って居たのですが、投石機を見ると
トレビュシェットを使っていた。中世欧州では使用されていたそうですが。

一方、ゴンドールの兵士の鎧と兜を見るとマクシミリアンやばら戦争の時代より
ずっと以前で十字軍の時代の兜よりも前のように思える。
281名無し三等兵:04/03/08 21:48 ID:???
保守
282名無し三等兵:04/03/19 01:06 ID:???
ほしゅ
283名無し三等兵:04/03/19 20:28 ID:???


284名無し三等兵:04/03/23 21:59 ID:???
uii
285名無し三等兵:04/04/01 19:44 ID:???
age
286名無し三等兵:04/04/21 22:41 ID:???
そんだけ氏をひたすらに待ちつづける保守
287名無し三等兵:04/05/05 22:33 ID:q7sGABKT
age
288名無し三等兵:04/05/05 22:50 ID:???
ところで藻前ら、これ読みましたか?
長いしちょいムズな所はあるけど
中世近世の戦闘を理解するには必読な感じですぜ。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1046634307/583-602
289名無し三等兵
$300しないんなら、購入して読んでみるか。