正史に沿った話題ならok
三戦板じゃねぇかwwww
…まぁ、世界史スレッドに無理して立てなくとも…と言う感じにはなってきたな
6 :
世界@名無史さん:2007/06/28(木) 08:30:54 0
簡雍憲和は実は関羽張飛より格上だったという説
関羽の字は張飛じゃないよ。
簡雍って正真正銘劉備の弟分だったしな。
10 :
世界@名無史さん:2007/06/28(木) 20:38:46 0
少なくても劉備存命時は孔明より簡雍のが上だったようで
劉備より上なのは確かだが、孔明より上かどうかは判断できん。
簡雍が。
14 :
世界@名無史さん:2007/06/30(土) 22:40:22 0
簡雍が劉備より上なのか カオスだな
簡雍伝に「諸葛亮以下に対しては自分だけ長椅子を占領し首を枕に乗せ横になったまま話をし
彼らのために自分の気持ちを曲げるようなことはしなかった」とある
これは単にキャラ的に尊大に構えてるだけなのか
若い時から劉備の知り合いとあるので関羽や張飛と同期の最古参のうちの一人だろうから
簡雍が劉備陣営において割と大きな存在だと推測するのはまんざらあり得ない話でもないかと思う
簡雍が賓客の一人だったことをご存じないのかな。
>>11 劉備よりも上は確かで、孔明より上かは判断できんということは、
孔明は劉備と同等か、それ以上ということになるな。
劉備軍団の序列を見直す大胆な新説だ。
劉備どんだけ扱い悪いんだよw
17 :
世界@名無史さん:2007/07/01(日) 06:11:14 0
客は遠慮しないからな。
>客
侯生とか蒯生とか酈生みたいな純粋な手下とは違う顧問みたいなものだ。
それにしても、なんか時代錯誤だよな。劉備の流浪時代の側近たちって。
糜竺なんか呂不韋モドキだし。
戦国期の徒花たちがタイムスリップして来たような感じ。
ちなみに「生」ってのは「先生」という意味。
官庁から天下って民間企業の顧問やってるようなもんで、
形式上は一社員だが、実際には社長より発言力が強い、みたいなもんだな。
簡雍は本当に偉い人だったのか
24 :
世界@名無史さん:2007/07/01(日) 17:04:05 O
質問です。
孔明の気球の話って本当なんですか?
それとも昔からある創作なんですか?
教えて下さい。
民間伝承です。
>>19 >世俗の地位を超越してるわけ。
>聖師として教えを乞うため。
なんか、新興宗教の教祖様みたいな話になってきたなw
>>22 全く的外れなたとえだな。
簡雍の出自がそんな大物だったって、どこに書いてあるんだよ?
とりあえず必死なのは分かったから、一度頭冷やして、落ち着いて正史読んでみ。
簡雍は何度もいうように劉備と同郷で旧知の仲
客とか師とかじゃないよ
自分の主張が否定されたからといって、
相手を必死呼ばわりするのは、自説の根拠に自信がないからなんだろうな。
淳于瓊が西園八校尉に選ばれた経緯と、その後袁紹配下に収まった理由はなんだ?
>>20 時代錯誤か?
ところで、孔明は客なのか?
三顧の礼
おかしなのが暴れてるようだが、
>>27が正解。
「為賓友」を根拠にしてるんだろうが、賓客待遇で優遇されただけで、
特別扱いにはかわりないが、あくまで優遇された臣下。格上のわけがない。
挙兵以来の最古参として大事にされてるだけで、師として扱われたなんて記述はない。
劉備と下ネタで話せるあたり、私的な面では友達感覚もあったかもしれんがw
三戦板じゃないんだから、少しは自分で史料読んで考えなおせと言いたかったんだがね。
そもそも此の頃の「客」て奴隷階級に近いんじゃなかったっけ?
世俗的地位でいえば臣下なのはみんな分かって言ってるんだよ。
たぶん上賓の礼とか不臣の礼という言葉を知らないんだろう。
下臣であり、師父であるっちゅー両義性を理解できないわけだ。
張昭とかなんかは孫氏の客じゃないか?
張昭は師っつうより後見人だな。
しかし、お上の権威を侵すこど田豊より甚だしく、赤壁で恨みを買ったのでついに丞相になれなかったw
張昭や程普は公と呼ばれたが、公ってのは親爺さんって意味。
三公という官職も父親のメタファーから来た官名なんだな。
後見人って漢文でどう書くの?
>>36 だから、簡雍がいつ師父になったんだよ?
不臣の礼といえば、夏侯惇が有名だけど、
あれも惇を優遇してるだけで、曹操よりも格上に扱ってるなんて言い出すやつはいないだろ?
理解できてないのは君のほうだよ。
賓客身分の両義性について言及したら夏侯惇は格上じゃないとか言い出す。
なぜ唐突に全然関係ない夏侯惇が出てくるのか。訳がわからんわ。
簡雍は賓客の一人だよ。陳寿は先主伝にもそう書いているし、
許靖や孫乾とともに簡雍を同一の巻にまとめている。
ところで
>>41は劉備が諸葛亮を父として仕えよと劉禅らに遺命したことを
どう解釈するつもりなんだろう?父を臣下扱いするということか。
父子は肉によって決まり、君臣は官によって決まり、師弟は学によって決まる。
各人の上下関係は何を基準にするかによるし、場合により逆転することもある。
たとえば三国でいうと魏の陳留王は官において曹宇を下臣としたが、
肉において忍びなく不臣の禮をもって待した。
父子、君臣、師弟の関係がつねに他方でも一致するとは限らない。
簡雍が官においても劉備の上にあったとは誰も言っていない。
ところで、おれは簡雍の賓客としての地位を認めないやつから、
「カオス」「大胆な新説」「全く的外れなたとえ」「必死」
「おかしなのが暴れてる」「三戦板」「少しは自分で史料読んで考えなおせ」と、
さんざんな言われようなんだが、ちぃとばかり口が過ぎるんじゃないかい?
全部、同一人物による発言か?だとしても、しなくても、ひどすぎるな。
論理性をかなぐりすてて情緒に走ってるようにしか見えん。
少しは落ち着け、と言いたい。
>>44 お前さんも落ち着け。
「為賓友」という記述が先主伝にあるのは
>>33も認めてるだろ。
問題なのはお前さんが、簡雍が「劉備より上なのは確か」と言ってることだぞ。
>>42 夏侯惇の例を出されて、
>なぜ唐突に全然関係ない夏侯惇が出てくるのか。訳がわからんわ。
と言いながら、諸葛亮や曹宇の例を持ち出して根拠にするのは矛盾してないかい?
陳留王と曹宇という親子の例を持ち出して、簡雍も同様と言い出すほうが、よっぽど唐突で暴論だよ。
お前さんも充分「論理性をかなぐりすてて情緒に走ってる」よ。
もう少し落ち着いて、簡雍についての記述を読み直したり、
「賓友」の意味するところをよく考え直してみるといい。
おれは賓客と呼ばれる連中が世俗的地位とは独立して、
官位とは違う基準により尊敬されてきたと書いている。
そしてその基準においては君主より上の地位を占めたと書いた。
問題は、
>>33らが官位以外の秩序、基準の存在を土台から無視していることだ。
だから、おれは官位以外にも序列を定める基準があることをくどくど説明している。
下臣であると同時に師友でもある実例も示し、両義性を述べてきた。
これに対し
>>33らは、いまだに官位以外の秩序の存在を認めず、
それどころかそのようなものがあるという認識すらしていないように見える。
>諸葛亮や曹宇の例を持ち出して根拠にするのは矛盾してないかい?
矛盾していない。おれが曹宇の例を引いたのは、君臣か父子か、
どの秩序を選択するかにより、地位の上下が逆転しうることを説明するためだ。
そしてその逆転を示すことにより、官位以外の秩序が存在することを傍証している。
曹操と夏侯惇との関係ではその説明も反証もできない。
>陳留王と曹宇という親子の例を持ち出して、簡雍も同様と言い出す
だれもそのような主張はしていない。
官位以外の秩序が存在するという他には。
>問題なのはお前さんが、簡雍が「劉備より上なのは確か」と言ってることだぞ。
そのとおり。賓客の秩序においては簡雍や諸葛亮は劉備より上位にある。
官位において上位だとは言っていない。
要するに簡雍や孔明は実際には劉備の臣下であるが
劉備の個人的なスペシャルゲストって事ですか?
そうです。
劉備の臣下(部下)であると「同時に」劉備の師友でもあるというわけ。
ひとつ質問なんだけど
劉備個人からすれば簡雍などは特別な存在であるっていうことは分かりましたけど
劉備の他の臣下からも師とか客というのは優遇された存在なんですか?
それともよほど能力があって功績があったり
直属の上司でもなければ表面上は敬いこそすれ半ば無視されたような存在?
師友というのは君主の父や兄にあたるので(師は父、友は兄の見立て)、
その臣下にとっても敬うべき対象になります。
だから皇帝の師は天下万民の師とされます(のちの国師の原型)。
三国志でも君主の子弟賓客が寵愛をよいことに不法行為をはたらき、
だれも取り締まることができなかったという記述がよく見られます。
賓客を追及することは君主への挑戦と目されていました。
ただ、賓客といえども官職を与えられなければ当然、公的な職権はありません。
よく分かりました ありがとう
>>46 >これに対し
>>33らは、いまだに官位以外の秩序の存在を認めず、
>それどころかそのようなものがあるという認識すらしていないように見える。
充分お前さんも感情的で喧嘩腰だよ。
自分への反対意見をする奴は、何も知らん馬鹿という傲慢な思い上がりじゃないかな?
お前さんは「賓客」という種類の人間が一律杓子定規に君より上の立場と考えてるが、
果たしてその前提は正しいのか?簡雍はどうなのか?という問題なんだよ。
「地位が逆転しうること」があるのはわかっているが、
イコール簡雍もそうであるという論法の飛躍が大問題。
だから、曹宇の例をあげても「いや、それはそれでしょ」としか言えんわけ。
曹操に不臣の礼を取られた夏侯惇が、曹操より上の立場とでみなせなければ、その理論はくずれるでしょ。
自説にガチガチに固執してばかりでなく、他人の問題点の指摘をもっと謙虚に受け止めなきゃいかんよ。
あとはだね、簡雍についてもそうだったと主張したいのなら、
もっと簡雍自身の分析が必要。現時点ではそれが全くといっていいほどなされてない。
だから
>>45で
>もう少し落ち着いて、簡雍についての記述を読み直したり、
>「賓友」の意味するところをよく考え直してみるといい。
と書いたんだよ。
>>47,49ですが
>>46他の説明を聞いてから簡雍伝を読むと
劉備や孔明以下に対して簡雍が尊大な態度をとっていたとしても
咎められなかった辺りは納得したので賓客の礼について言ってることは
あながち間違ってるとも飛躍してるとも思えないけど
孔明は功績がある人物で劉備自身が招いて陣営に加わってもらったのに対して
簡雍は旧知の間柄というだけで功績もいまいち少ないので違和感は覚えるし
賓客だから必ずしも格上というのが当てはまらない部分も感じるのは確かだね
おれはその主張に反対するにもいちいち根拠をあげているが、
>>33らはどうか。自説の根拠も示さずに「必死」「おかしなやつ」と
相手をラベリングしてきた事実がある。それが論理的でないとした所以だ。
>お前さんは「賓客」という種類の人間が一律杓子定規に君より上の立場と考えてる
そのような主張は全くしていない。賓客には賓客の秩序があり、
身分の上下を官位のみで推しはかることはできない、とは言っている。
その上で、陳寿の記述にもとづき簡雍は麋竺、孫乾にならぶ地位にあり、
また簡雍自身が諸葛亮より上位であると自己の立場を主張しており、
その諸葛亮が劉備の遺命により劉禅の父として位置づけられ敬われたという事実から、
総合して、賓友秩序からは簡雍が劉備より上位にあったと考えた。それが
>>11。
>曹操に不臣の礼を取られた夏侯惇が、曹操より上の立場とでみなせなければ、その理論はくずれるでしょ。
なぜ夏侯惇が不臣の礼を得るのに曹操より上位である必要があるのだろうか。
夏侯惇を引きあいに出したのはおれじゃないのだから、
きちんと説明してくれなければ、当方としてはまったく理解できない。
赤壁の戦いのとき、蜀からは諸葛亮、呉からは魯粛が両国の折衝役を務めたけども、
このとき二人とも無位無官の身だったわけです。
これは賓客分というのが官位に超越した身分であることの証左になります。
そして諸葛亮にしても魯粛にしても、官に就いていないので、
国家に対する具体的な功績ももちろんなかったわけですよ。
賓客の地位は、官位の高低、功績の大小をもって決められないのです。
麋竺は徐州の名士であるうえに徐州や私兵を献じた恩功があり、
孫乾や伊籍は高名な学者であり、彼らが賓客として寵愛された理由はよく分かる。
けれども簡雍がなぜあれだけ寵愛されたのか史書にはまったく記されてない。
しかし史書に記されていないことは敬われるべき理由がないことを意味しない。
郷里では知られた名家の出身なのかもしれないし、孫乾にならぶ学識者だったかもしれない。
理由は分からないけれども劉備に寵愛された。その事実があるだけですね。
>>56 >> けれども簡雍がなぜあれだけ寵愛されたのか史書にはまったく記されてない。
その辺りが疑問なんですよね
もともとなにもなかったのか、それとも蜀漢に史料が残ってなかったのか
陳寿ほかが取り上げなかったのか
簡雍は劉備が行動を起した最古の数少ない生き残りのウチの一人で
劉備は気心が知れる人だしそれに報いる気持ちでもって
仮に「賓客扱いとした」というような事なのかな?
そんな軽々しいものではないかも知れないけど
まあファンタジーといえばそれまで、ですね
ただ単に同郷で旧知というだけだったら、それは簡雍一人だけじゃなく、
とてつもない数の人々が諸葛亮の上に位置することになってしまうので、
なにか他に理由はあったんでしょうけど、それ以上は分からないですね。
劉璋にも敬愛されたというのがある程度、想像の手がかりにはなると思う。
史書が残ってないだけかも知れないですが
もっとも初期の頃から劉備に付き従ってる主立った人物は
関羽と張飛と簡雍ぐらいしかいないんじゃないかと考えたのが
>>57での発言でした
劉璋に愛されて説得に応じるあたりは簡雍は魅力的な人物だったのかも知れませんね
のびのびとした態度でみごとな論をなし、とあるあたり、
人を説得したり取り入ったりするのが上手かったのかも知れませんし
まああまりにも簡雍に関しては残っているものが少ないので判断できないんですけどね
蜀書には不思議なことに劉姓の将軍がほとんど登場しないんですね。
せいぜい劉エンとか劉ヨウ、劉敏くらいです。
しかし別の史料には十数人もの劉姓の将軍が記載されています。
ですから、一つの史料に記述されてないからといって、
事実がなかったというのはちょっと乱暴なんです。
簡雍は同郷だから重用されたという見方は、その失敗に基づいてますね。
ちなみに幽州出身者には、他に士仁という将軍がいます。
簡雍が敬愛された理由は不明としか言いようがないと思います。
ああごめん。全然うそ。
>しかし別の史料には十数人もの劉姓の将軍が記載されています。
いま見たら三、四人だったわ。速攻撤回。
>>55 他人には「きちんと説明してくれなければ、当方としてはまったく理解できない」
といいながら、
>>11の簡雍について具体的に説明したのはここが初めてだね。
つまり、それまで君の主張を読んでた側は、君と全く同じことを思ってたわけだ。
自分を省みず、他人の批判ばっかしてたらいかんよ。
さて、肝心なその論旨だが、簡雍と諸葛亮の関係については、
入蜀時のころは、そもそも官位秩序からして同格かそれ以上の可能性が高い。
一方、劉備の遺命の際の諸葛亮は、群臣の最高位。
そのころ簡雍はというと、全く不明。死んでる可能性が高いね。
立場も全く変わった別の時期のものを比較対象にするのは不適切。
小六さんは昔藤吉の親分格だったから、豊臣政権でも太閤殿下より上の扱い、とかいうようなもの。
そして、劉禅に「父と思ってつかえよ」とは言っているが、
劉備自身は、諸葛亮を師父として扱ったという記述はない。
以上のように、問題点や論の飛躍が多々あるわけだ。
これでは簡雍が優遇されたことがわかるにとどまり、
「劉備より上なのは確か」などとは、とてもでないが断定できんよ。
また、賓友として寵愛することと、師父として尊重するのは別物。
赤壁の時の諸葛亮と魯粛にしろ、本当に無位無官だったかはわからんが、
賓客として礼遇されたにせよ、君臣間の秩序の逆転とまでいえるほどのものは見出せない。
賓友として礼遇されたという事実と、君臣間の秩序の逆転という全く別物の問題を
ごっちゃにして説明し自説を展開してるが、理論のすりかえのような手法はいかんよ。
>といいながら、
>>11の簡雍について具体的に説明したのはここが初めてだね。
そうだよ。賓客秩序における簡雍の地位の高さを説明する以前に、
そもそも賓客秩序が官位とは別個にあることから説明する必要があったからね。
まさかそこから説明せねばならんとは思いもしなかったが。
>立場も全く変わった別の時期のものを比較対象にするのは不適切。
なに言ってんの。官位とは別に賓客の秩序があるという説明なんだが。
それはむろん時期を前後しようとも変わらない。
>小六さんは昔藤吉の親分格だったから
蜂須賀が秀吉の親分ってのは講談の中での話。
どうせなら漢高と王陵くらいは思いだしてほしかったな。
秀吉を出すなら出すでなぜ御咄衆に言及しないのか。逃げ、か。
>劉備自身は、諸葛亮を師父として扱ったという記述はない。
三顧の礼や水魚の交わり、後主への遺訓を知らないのかい。そりゃ困ったね。
これは古代中国において下臣を師父として遇する基本的な文法なんだが。
>君臣間の秩序の逆転とまでいえるほどのものは見出せない。
赤壁当時における諸葛亮の官位を根拠に、君臣の地位の上下が逆転したとは
だれも言っていないのだが。
官にもとづく君臣秩序と、学にもとづく師弟秩序は独立に存在するということと、
師弟秩序において簡雍の地位がどうであったかという2つの問題を混同してないか。
おれは簡雍の賓客としての地位が高かったと言ったわけだが、
それには官位秩序とは独立に、賓客秩序が存在することが前提としてある。
しかしここではその前提が共有されていなかった。
だからおれは官位とは別に、賓客には賓客ならではの秩序があることを説明した。
そしたら今度は簡雍の地位の高さの説明になってない、と来たもんだ。
おれはどこから説明すればよかったのかね。
なんか前スレにもいたな、こんなやつ
67 :
世界@名無史さん:2007/07/02(月) 18:50:02 O
古今東西、ピエロの類は主君に対して無礼講が許されていた
似たようなもんさ
惇兄もピエロか?
蒼天の惇兄はある意味w
70 :
世界@名無史さん:2007/07/02(月) 21:22:32 0
自分の中の前提をさも当然のように論を展開する奴か
仕事できない奴の典型だな
東方朔、淳于コンの類い
74 :
世界@名無史さん:2007/07/02(月) 23:36:03 O
うこっけい列伝
三国志の正史はれっきとした歴史書だろうが。
失せろ中二病。
NGワード指定完了、っと。
誰かネタ投入してくれー
覇の兄弟について語ってくれ。
彼らはどうなったん?
>>65 バカはほっとけ
中国史では客分の扱いってのは当然抑えとくべき最低限のポイントなんだし
学問板でそんな大前提をわかってない様なのは相手にしなくていい
自分の意見が認められないのは、相手が馬鹿だからw
あいてが馬鹿だから、論破できなくても自分に問題があるわけではない。
いやあ、さすが学問板に来るだけあり、レベルの高い人だ。
重要拠点の合肥に7000しか兵を駐屯させなかったのは曹操のミス?
でなきゃ張遼があんな決死なことしなくても済んだのに。
それくらい戦力集中しなければ攻め落とせない難所だったってことだろ
まだそれ程の経済的余裕が曹操に有った時期じゃないし
88 :
世界@名無史さん:2007/07/15(日) 14:37:10 0
軍隊を駐留させるとそれだけ経費がかさむからね。
どこを攻められるかわからない段階で無闇に守備兵を増やすのは自殺行為。
迅速に援軍を出せるかが鍵だね。日本の戦国の河越夜戦なんかも籠城兵は
数千程度。城内に万単位の兵を籠城させるのは兵糧、場所の面からも難しい。
それと、城攻めは最低でも相手の3倍以上の兵力がないと成功しないと言われ
ている。寡兵の籠城軍に大軍で挑むのは戦では当たり前。
三国志?中国人の創作偉人伝がなんでこんなに少年達の心をつかむのか理解に苦しむ・・・
きっとおばさんが、ヨンさまにゾッコンになるように、純真無垢な少年は中国人の壮大な妄想物語
にはまるんだろうな・・・
中国の歴史は虐殺と圧政と奴隷の歴史なのに・・・
現在の中国人のずるさとチベット圧政を見れば彼らの本質がわかろうて・・・
お前は一体何の話をしているんだ?
91 :
世界@名無史さん:2007/07/18(水) 09:48:27 O
92 :
世界@名無史さん:2007/07/18(水) 18:26:01 0
正史で反董卓の檄文作ったのって橋瑁だっけ?
うん、その跡、劉岱に殺された
96 :
世界@名無史さん:2007/07/25(水) 00:01:28 0
三国志シンポジウム行く人いますか?
98 :
世界@名無史さん:2007/07/29(日) 22:52:31 0
賈逵が司馬懿の夢に出てきて、司馬懿がこれを嫌ったのって何で?
いい加減にしろよ自治厨
削除整理板でも無視されてるじゃねーかw
101 :
世界@名無史さん:2007/08/01(水) 00:15:31 0
ここで話せる正史三国志の範疇を示して下さい
大喬はふたなりだったんだぜ。
>103
101 名前:世界@名無史さん 投稿日:2007/08/01(水) 00:15:31 0
ここで話せる正史三国志の範疇を示して下さい
105 :
世界@名無史さん:2007/08/12(日) 20:50:35 0
何じゃこのスレの惨状は・・・
ところで張飛の子孫って名前伝わってないの?
106 :
世界@名無史さん:2007/08/13(月) 00:20:03 0
張苞と張紹くらいしか知らないなぁ。
皆殺しなんてあったっけ?
109 :
世界@名無史さん:2007/08/13(月) 12:11:24 0
成都の乱で大分巻き添えで殺されたけど。
張紹は晋に仕えて侯に封じられてるから子孫が残ってても
良さそうなんだけどな。
110 :
世界@名無史さん:2007/08/14(火) 03:02:26 0
よく中国人は自分は歴史上の人物の子孫だって名乗る事が多いけど
関羽みたいに子供も殺された人の子孫っていうのは一体・・
直系じゃなくても関姓で血のつながりがあれば子孫って事になるのかな
関羽の子供って一人じゃないような
関羽の子供が一人だったかどうかは知らないけど孫は蜀漢の降伏時に殺されたよね
ホウ徳の息子によってね
114 :
世界@名無史さん:2007/08/17(金) 11:38:43 0
記録に残っていないからいないというわけではないと思うがな。
水滸伝の関勝って実在の人物だって聞いたが
関羽の子孫かどうかはともかく
116 :
世界@名無史さん:2007/08/26(日) 00:59:19 0
馬超ってホントに父親に無断で反乱起こしたのかな?
住んでいる所が離れてたし
「今から反乱おこすんでお父さん殺されますよ」とはわざわざ断りいれなかっただろうね
118 :
世界@名無史さん:2007/08/26(日) 11:54:55 O
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした
あなたを父親だと思うことにするからと韓遂に言ってるね。
120 :
世界@名無史さん:2007/08/26(日) 14:57:45 0
親子仲悪かったのかな?
上手く内外連絡取れば曹操の天下をひっくり返せたかも
知れないのに。
121 :
世界@名無史さん:2007/08/26(日) 16:59:34 0
三国時代に双子の人物っていた?
リンリンとランラン
123 :
世界@名無史さん:2007/08/27(月) 00:17:27 0
馬騰もいまいち何がしたいか分からないんだよね。
漢朝に対してどんだけ忠誠心があったのか。
124 :
世界@名無史さん:2007/08/27(月) 01:58:11 O
中国ではお墓を取り壊されてしまうほど嫌われている魏延ですが、みなさんの彼に対するイメージはどんなものですか?
私個人としては、塩野七生先生の描くハンニバルのような孤高な軍人というイメージです。
彼の様々な功績、長安奇襲策の成功可能性、そして悲運の最期などと合わせて語ってみましょう。
>>123 漢に対する忠誠心なんかありゃせんよ。
革命を志してた韓遂に合流したくらいなんだから。
126 :
世界@名無史さん:2007/08/27(月) 20:01:44 0
馬騰と韓遂は最終的に仲違いしたんだよね。
馬超は韓遂についてオヤジを裏切ったってことか?
韓遂って馬超の母を殺してるんだよね?
そんくらいググレカス
ググっても出てきませーん。
ぐぐれっていうか頼むから正史三国志ぐらい読めよ
漢字が多くて読めないんだろうよ
正史を読んでも韓遂が馬超の母を殺したなんて書いてないって。
つーか、ソースは正史なんだな?
しかし正史にはそんなこと書いてないわけで、
>>127はガセだな。
あれ、演義の話だったか、すまそ。
138 :
世界@名無史さん:2007/09/01(土) 12:46:39 0
馬超は弟か妹を殺されても韓遂と組んだのか。
やっぱドキュソだな。
それよりもギョウに軟禁されてる父親が殺されることをみこして反乱した事にこそ注目すべきなんでは?
あれは、むしろ馬騰による関中諸将への裏切りだからな。
関中に残った馬超が諸将を代弁するのも必然だと思う。
馬騰って楽隠居だったのでわ。
142 :
世界@名無史さん:2007/09/02(日) 21:45:39 0
九卿に上っておいて楽隠居はないだろ。
まあ、当時の九卿はお飾り的要素が強いが・・・・
143 :
世界@名無史さん:2007/09/09(日) 12:17:48 0
馬騰にしてもそうなんだが、地方で割拠していた群雄が朝廷入りしたとき、
その待遇として九卿クラスをあてがわれることが多い。
群雄配下の部将に偏将軍や中郎将が与えられるのと同じく、
いわば相場みたいなものだと思う。
馬超は前しか見えないかわいらしい子なんだよきっと。
ところで名前の話なんだけど、この頃って名前は主君や両親、字は
親しい友人意外は呼ばない大事なものだったってことで、基本役職の名前で呼んでいた
らしいんだけど、役人でもなんでもない一般庶民や一兵卒はどう呼んでいたのかな?
あと女性の名前のつけ方が解らない。正史呼んでも資料見ても、名字+夫人とか名字+氏とかで
さっぱり解らない。
まさか名前をつけないってわけでもあるまいに。知ってる人がいたらご教授下さい。
>>144 一般庶民はナンバリングが多かったんじゃなかったっけ
張さんちの長男が張一、次男が張二、三男が張三。
女性ももちろん名前はついてる。
有名どころでは曹操の娘で献帝に嫁いだ曹憲、曹華、、、あとだれだっけ?
>>145 節じゃないかな。じいさんと同じ名だっていうやつ。
すまん。騰の父だから、ひいじいさんか。
その人は節じゃなく萌という話もある>ひいじいさん
レスついてる、ありがとう!
そういや蔡[王炎]とかとか名前残ってたよね、項羽や蒋介石みたいに字の方の文姫の方が
頭にあって思い浮かばなかったんだけど。
あ、ってことは女性にも字があるのが一般的だったのかな?
京劇とかの創作では月英とか尚香とか二文字の名前だけど、
これってこの頃の名づけ方じゃないよなって漠然と思ってたんだけど
これも実は字だったりする?
ところで馬騰と韓遂だけど、叛乱と叛乱の間の記述って見当たらないよね。
とりたてて記載する事もない程度の事だろうからほっておかれてるんだけど
結構気になる。叛乱の準備か?
庶民の女子にも名前はあったのかな?
清国の時代になっても女子には名前がなくて、かの地に初めての女子校を開いた日本人達が困った、
という話を高島俊男の本で読んだことがあるんだけど。
張春華は?
春華は諱。
153 :
世界@名無史さん:2007/09/18(火) 21:09:48 0
孫権短足説って出典どこ?
呉主伝第二
この時代の戦争ってやっぱり弓が主役?
弓じゃなくて弩だろうと思うけどね
157 :
世界@名無史さん:2007/09/19(水) 19:56:06 0
孫権が短足ってことは孫策も短足だったんかな
そろそろテンプレ君がやってきます
160 :
世界@名無史さん:2007/09/22(土) 03:55:47 0
呉は長江以北も根拠地あったみたいね。
背後川なのによく領土保てたな。
異民族の血が入ってる人物、異民族出身の人物ってどれくらいいる?
馬超とかカヒノウ、トウトンくらいしか思いつかない。
金旋親子とかあとは匈奴伝やら烏丸鮮卑伝やら東夷伝やら注についてる西域伝やら読めばしこたま出てくるだろ
スマン、書き方悪かった。
異民族系で三国に仕えた人物、ってことです。
164 :
世界@名無史さん:2007/09/22(土) 16:52:06 0
孫権は何を根拠に劉備に荊州を返せと要求したの?
劉備が荊州の牧なんだから元々劉備の物じゃないの。
167 :
↑:2007/09/23(日) 07:34:35 0
世界史板住人じゃ無いんだろうな(プ
168 :
世界@名無史さん:2007/09/23(日) 10:30:57 0
>>165呉は、赤壁での勝利で荊州は自軍のものになると思ってたんだよ。それを何の働きもしておらず、命を助けてもやったような劉備が所得してるのが気に食わなかった訳だ。
>>150 高島俊男先生も偉大な方ではありますが、時々奇説を唱えることがありますから、いずれにせよ
裏を取ったほうがいいと思いますよ。
>>163 呉の陶丹とか(渓族出身者だと記録されている)、ミャオ族の沙摩柯とか色々いますね。
170 :
世界@名無史さん:2007/09/23(日) 14:45:24 P
左慈とは何者?
171 :
世界@名無史さん:2007/09/23(日) 15:31:21 0
蔡文姫って文姫が字だよな?
張春華も春華が字っぽくね?
173 :
世界@名無史さん:2007/09/23(日) 16:50:23 0
そんな人のレスを引かれても・・・
ぐだぐだ言わんと晋書后妃列伝でも読め
宣穆張皇后諱春華。
景懐夏侯皇后諱徽,字媛容。
景献羊皇后諱徽瑜。
文明王皇后諱元姫。
武元楊皇后諱艶,字瓊芝。
武悼楊皇后諱芷,字季蘭。
左貴嬪名芬。
胡貴嬪名芳。
諸葛夫人名婉。
恵賈皇后諱南風,小名旹。
恵羊皇后諱献容。
謝夫人名玖。
懐王皇太后諱媛姫。
元夏侯太妃名光姫。
元敬虞皇后諱孟母。
明穆庾皇后諱文君。
成恭杜皇后諱陵陽。
穆章何皇后諱法倪。
哀靖王皇后諱穆之。
廃帝孝庾皇后諱道憐。
簡文宣鄭太后諱阿春。
簡文順王皇后諱簡姫。
孝武定王皇后諱法慧。
安徳陳太后諱帰女。
安僖王皇后諱神愛。
恭思褚皇后諱霊媛。
ここ、正史スレッドだよな?
176 :
世界@名無史さん:2007/09/23(日) 21:23:07 0
諱が二字の場合、字が書いてないことが多いのか?
逆に字が伝わってる場合、名は一字のことが多いようだな。
つーことはどういうことだ?
177 :
世界@名無史さん:2007/09/24(月) 07:51:28 0
つーと言えばかー
178 :
世界@名無史さん:2007/09/24(月) 11:12:04 0
三国〜西晋は女性も名は一字が基本だよね。
180 :
世界@名無史さん:2007/09/24(月) 19:12:41 0
大体の女性は一字じゃねえの?
伏皇后 寿
曹皇后 節
みたいに。
西晋の時期にいきなり女性の二字名が増えたんか?
陰麗華ちゃんとか
この緑字君は自分の信じたいものしか見たくないんだろうさ。
ならば何を言ってもムダだな。
183 :
世界@名無史さん:2007/09/24(月) 20:06:52 0
蔡文姫の例から見ると、○姫ってのは字の可能性もあるよな。
名は大体婉とか恵とか性質を表す文字を使うことが多い。
俺の目からはみんな緑字の名前に見えるんだが。
きっと俺の目がおかしいに違いない。
自分の目で見えてるものがすべてだと思わないようにしなくちゃ。
185 :
世界@名無史さん:2007/09/24(月) 21:07:19 0
>170
詐欺師。
名前関係について裏取れる資料ってないかな?>176じゃないけど
自分も2文字名前の人は字が伝わってる数が少ないの気になる。
この頃って誰誰の妻って形以外では全然女性の伝って残ってないよね、
他の女性と違って個人の能力が夫を凌駕してる蔡エンや王異ですらそうなんだから、
なかなか彼女らのパーソナリティを感じられなくて切ないよ。
189 :
世界@名無史さん:2007/09/28(金) 23:38:28 0
蔡文姫の伝は後漢書の董祀妻伝だよ。
荀攸って何で生きてる間に養子取らなかったんだろう。
193 :
世界@名無史さん:2007/10/09(火) 23:18:02 0
194 :
世界@名無史さん:2007/10/21(日) 18:46:49 0
正史ってどういうイントネーションで発音するものなの?
マジレスたのむ。
精子とか生死とかと一緒。
製紙とか制止と同じだろ?
197 :
世界@名無史さん:2007/10/22(月) 12:14:07 0
隋唐明にしても今の中華は曹操の魏が母体なんだろ?
劉備とか孫権はたんなるかませの存在なんだよな
199 :
世界@名無史さん:2007/10/22(月) 22:07:21 Q
何やかんや言うても最後に勝ったのは司馬一族やろ。
司馬懿の孫が晋の武帝やったっけ?短命政権やったけど
一応は統一したんだよね
俺は
>>196の方が多い気がするが、
一般人相手には「歴史書の三国志」と説明するへたれだw
201 :
世界@名無史さん:2007/10/25(木) 01:13:59 0
>>201 そんな個人の印象でしかない文章は編集しちゃっていいんではなかろうか。
203 :
世界@名無史さん:2007/10/26(金) 14:07:18 0
204 :
世界@名無史さん:2007/10/27(土) 22:35:14 0
中国・四川省の古石山(こせきさん)遺跡で、愛媛大学東アジア古代鉄文化
研究センターと成都市文物考古研究所などの日中調査隊が、後漢代
(1世紀ごろ)の製鉄遺跡を発見した。
中国の中心部である中原(ちゅうげん)以外で、漢代の製鉄跡が見つかったの
は初めてで、221年に劉備が、この地域に三国時代の「蜀(しょく)」を
建国した理由を解明する上でも重要な発見として注目される。同大で27日午後に
報告される。
秦の始皇帝(在位・紀元前221〜210年)が現在の四川省に鉄生産の役所を
置いたとの記録があることから、調査隊は同省内で昨年から発掘調査を行ってきた。
その結果、今年6月に、成都市蒲江(ほこう)県の古石山遺跡から、高さ1・5メートル、
幅最大1メートルのレンガ造りの製鉄炉の跡が出土した。炉は4メートルほどの
高さがあったと推定され、日本では幕末から明治にかけての製鉄炉と同じ規模という。
調査に携わった村上恭通・愛媛大教授(考古学)は「諸葛孔明や劉備たちは
山間部の蜀に追い込まれたというよりも、鉄を得るために積極的に入っていた
可能性がある」と推測している。
ソース:読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20071027i506.htm?from=main5
>>142 ヒント後漢末に横行した売官行為で地方の豪族がごぞって官位を買った。
曹一族も有名だわな
劉備がエンショウの元を去ったのって、官渡中?それとも以後?
「去った」ってのは汝南の劉辟のとこに行かされたって意味?
それとも袁紹陣営の傭兵隊長みたいな立場を離れて荊州に流れたって意味?
ふと思った、カコウトンはよく眼だけですんだよな。
当時の弓矢の威力が分からないけど、眼から頭蓋骨到達して死んでもおかしくは無いと思うけど。
別によくある話だろ。距離が伸びれば当然減衰するし。
日本の話になるけど雑兵物語に
木に頭をくくりつけてペンチで目玉に刺さった矢を
抜く足軽の応急処置の方法が諸注意つきで書いてある。
ついでにいえば、鉄砲玉が鼻の辺りにあたったけど距離があったせいか
そのままぽろっと落ちたって話も出てくるな
212 :
世界@名無史さん:2007/11/03(土) 23:47:57 0
. -―- .
/ ヽ
// ',
| { _____ |
(⌒ヽ7´ ``ヒニ¨ヽ
ヽ、..二二二二二二二. -r‐''′
/´ 〉'">、、,,.ィ二¨' {. ヽ _ _
`r、| ゙._(9,)Y´_(9_l′ ) ( , -'′ `¨¨´ ̄`ヽ、
{(,| `'''7、,. 、 ⌒ |/ニY { \
ヾ| ^'^ ′-、 ,ノr')リ ,ゝ、ー`――-'- ∠,_ ノ
| 「匸匸匚| '"|ィ'( (,ノ,r'゙へ. ̄ ̄,二ニ、゙}了
, ヘー‐- 、 l | /^''⌒| | | ,ゝ )、,>(_9,`!i!}i!ィ_9,) |人
-‐ノ .ヘー‐-ィ ヽ !‐}__,..ノ || /-‐ヽ| -イ,__,.>‐ ハ }
''"//ヽー、 ノヽ∧ `ー一'´ / |′ 丿! , -===- 、 }くー- ..._
//^\ ヾ-、 :| ハ  ̄ / ノ |. { {ハ. V'二'二ソ ノ| | `ヽ
,ノ ヽ,_ ヽノヽ_)ノ:l 'ーー<. / |. ヽヽヽ._ `二¨´ /ノ ノ
/ <^_,.イ `r‐'゙ :::ヽ \ `丶、 |、 \\'ー--‐''"//
\___,/| ! ::::::l、 \ \| \ \ヽ / ノ
曹操の配下ってこんな感じで曹操についていってる気がする
まあ蒼天は曹操超人伝説だし
なんで蒼天が出てくるんだアホが。
>>165 呉書見聞というサイトが判り易いな
あれが全てじゃないけど
>>204 それ大分前から言われてる
俺の知る限り20年くらい前から
>2213
靈曰「靈觀人多矣,無若曹公者,此乃真明主也.
今已遇,復何之?」
>>216 そんな朱霊を冷遇した曹操ってほんと酷いと思う。
218 :
世界@名無史さん:2007/11/11(日) 11:15:58 0
曹操って儒家嫌いなの?
董卓伝読んでて思ったんだけれど、司隷校尉って一人の役職だよな?あんなにころころ人が変わるものなんか?
>>219 要職だから権力者の交代や意向によってはコロコロ変わるよ
荒れてた徐州を任されたシャチュウって実は名将?
ただ殺されただけで、別に何かしたかは残ってないでしょ
残ってる云々っていうより、危険地域に派遣されることを考えれば優秀だったんじゃないの?
まあ、期待されてたとは言える。
225 :
世界@名無史さん:2007/11/16(金) 20:01:41 0
曹操は虐殺しまくって怨まれてたから、徐州で声望あるやつをおいたとか?
呉の会稽太守車浚は南平の出身で、曾孫の車胤は晋書に本伝がある。
車胄と関係あるかどうかは知らね。
車姓 田氏の出
黄帝の臣に車区有り。秦の公族に子車氏有り。(世本)
漢武帝の時、丞相田千秋、年老いて小車に乗って省中に入る事を許され、「車丞相」と号す。子孫これによって氏となす。
魯国、南平、淮南、河南に多くいる。(元和姓纂)
228 :
世界@名無史さん:2007/11/17(土) 14:40:50 0
つーか、陳登って劉備の味方なんか曹操の味方なんか
どっちだよ?って感じだよな。
いっしゅん相田千秋と読んでもうた。
田千秋からだと時代が近いけど徐州とは縁もゆかりもなさそうだな。
陳登は最初から曹操の味方だよ。
たぶん伯父の陳球が三公にだったころから曹氏とは関係を持ってたんだろう。
>>229 丞相田千秋の子は田順と呼ばれてる
つまり車を姓にしてなかったわけで、車冑の車氏は田千秋とは関係ないのではないか
>>228 どっちでもない
徐州での自分たちの権勢を認めてくれれば誰にでもつく
232 :
世界@名無史さん:2007/11/17(土) 15:03:42 0
陳登は腹に虫が涌いて死んだんだっけ?
んだ。刺身食って虫涌いてサヨナラ。
方技伝に書いてある
呉の連中とかもかなりの数、寄生虫と食中毒で死んでそうだよな。
>231
でも、春秋とかは祖父の字を姓にする例とかはよく出てくるよ。
息子じゃなく、孫かもしれない。
赤壁後、孫権は劉備の上奏により車騎将軍になれたのはなぜですか?
曹操が上奏を認めた背景として、官位を与えておとなしくさせたかったからでしょうか?
>>237 では、献帝が独断(?)で認めたのでしょうか?
そういうことをすれば曹操から睨まれて、危険だと思うのですが。
240 :
世界@名無史さん:2007/12/11(火) 07:11:34 0
>>238 基本的に勘違いしてる。
献帝は別に曹操の部下ではないし、そもそも曹操自身、漢王朝の臣下として行動しているから、
皇帝たる献帝の決定は絶対的なものなのだよ。独断も糞も無い。
ついでに言うと、曹操と献帝は同じ場所に住んでないんだよ。別々に府を開いている。
だから一方では曹操は独自の府を開いて自らの節を与え、献帝は皇帝として当然のように封爵を与えてる。
>>240 ありがとうございます。ということは、よく小説などで献帝が
「何かしてやりたいけど曹操が怖くてできん。自分は傀儡だ」など嘆いていたりする描写も
間違っているということなんですね。
242 :
世界@名無史さん:2007/12/11(火) 11:52:23 0
>>241 それは間違ってないでしょ
でも献帝も別に無力だったわけじゃないんだよ
朝廷は相変わらずあったわけだし
献帝も無力じゃなかったけど、力関係としては曹澡の方が上だったから、曹操とケンカしてまで何かすることはできなかった。
というところでしょうか。
まあそんなところじゃないかな。
漢朝廷とは別に開かれた曹操の府で政治は行われていたから、献帝の関知する所のものはほとんど無かったはず。
実際史料にも献帝は目立った行動してないから。
ただ、曹操(魏郡)ではなくて献帝(許)に拝謁する人に対しては、皇帝として曹操を無視して封爵を授ける。
>>240 勘違いはキミだよ。全然違う。
曹操は一応漢の臣下だったが、実質的には献帝は曹操の監視下に置かれていた。
権力を握った外戚なんかがやってたことと同じで、完全に皇帝を囲い込んでいた。
皇帝の決定自体は絶対かもしれないが、
曹操は軍事力と行政の長たる権力だけでなく録尚書事という皇帝の決定権に口を出せる職を持ち、皇帝の詔を起草する尚書や皇帝の側近である侍中を自分の支配下においていたから、
皇帝が曹操の意に沿わない決定を下すことは実質不可能になっていた。
妊娠していた貴人や命乞いする皇后を助けることもできなかったのは有名な話。
曹操が魏公になってから、曹操は魏国いても曹丕が副丞相としてにらみを利かせていたり、王必のような腹心が兵を持って監視していたりしたから、皇帝が自由にできることなんて無かったと言っていいよ。
劉備たちの封爵は基本的に自称。
ただ、劉備と孫権がお互いに推薦し合ったり、部下が推薦したりという形を取っていたから、呉や蜀の限られた空間ではそれが正式なものとして通用していた。
曹操だって最初は自称州牧だったし、ぎゃくに献帝が認めた州刺史を退けたりしてる。袁紹は皇帝の詔を自分で作っていたなんて話もある。
みんなやってたことなんだよ。
あの時代においては献帝が出したものだけが官位というわけでもない。
しかし事実孫策には校尉を与えてるし、劉表の部下を取り立てたりと、少なくとも曹操の影響外は十分独断でやってるよ。
だけど、そういう権限が徐々に小さくなって、曹操影響外の者も帝を頼らなくなって、献帝は完全に傀儡と化したのは認める。
趙雲や陳登の字には、龍が使われていますが当時でも龍=皇帝の象徴ではなかったのでしょうか。
帝やその一族しか許されなかった龍を、字とはいえ使って良かったのでしょうか。
そりゃ事実が示すとおりとしか言いようがないけど。
四本指の龍は使っていいんでしょ?
五本指は皇帝の龍だから使っちゃダメだけれど
陸雲士龍ってのもいたね
自分の主や皇族と同じの字を避ける意味で改名した人もいたようだけど
龍を使うこと自体は問題なかったみたいだね
凄まじい寂れっぷり…
252 :
世界@名無史さん:2008/01/10(木) 21:25:44 0
新しい資料が発見されればこのスレも凄まじい燃え方を見せると
思うんだけど、毛沢東が焼いた資料の中に、とんでもないレアもの
があったかもしれないと思うと悔やまれてならない。
どうして誰も毛沢東を止めなかったのか…。
旧ソ連が崩壊してからいろいろ新情報が出始めたように、中国
共産党が崩壊すれば、隠されていた資料が出始めるかも…。
253 :
世界@名無史さん:2008/01/11(金) 04:56:59 0
ごめ、俺が尻拭いたわ
歯ぁ食いしばれ!!オラッ!!
255 :
世界@名無史さん:2008/01/12(土) 05:03:37 0
256 :
世界@名無史さん:2008/01/12(土) 16:03:51 0
いや、253を宮刑にせよ!
257 :
世界@名無史さん:2008/01/13(日) 08:56:50 0
精子
258 :
世界@名無史さん:2008/01/18(金) 15:36:11 0
漢は火徳だから竜じゃなくて龍が使われるよね
竜は水の生物だからさ
こんな寂れた溜池で、釣れますか?
261 :
世界@名無史さん:2008/01/21(月) 11:10:42 0
262 :
世界@名無史さん:2008/01/27(日) 04:49:40 O
梁冀について語ろうぜ!
263 :
世界@名無史さん:2008/01/27(日) 04:55:31 O
梁冀について語ろうぜ
携帯でか
265 :
世界@名無史さん:2008/01/30(水) 07:36:33 0
266 :
世界@名無史さん:2008/02/01(金) 19:40:17 0
携帯刑事?
このスレって意味あんの?
中国英雄板のsageられてる各正史スレのほうがクオリチー高いよね
268 :
世界@名無史さん:2008/02/04(月) 22:01:54 0
269 :
世界@名無史さん:2008/02/08(金) 11:31:07 0
「名士」に対してこんな感じの理解をしてるけど、間違ってる?
・党禁で現実の官位という名声を失った豪族が、儒教の道徳に基づいた社会的名声を背景にするようになったのが名士
・名士同士は人物評価しあって自分達のコミニュティを形成 それがまた社会的名声となる
・公孫サンや呂布は名士の支持を受けれなかった
・袁紹や劉表は名士層を取り込んだけど、その力が強すぎて君主権を確立できなかった
・曹操は名士を取り込みつつそれと対立 孔融、崔エンなどを処刑するも結局妥協
・結果、名士陳羣らの力で、名声を基準に登用を行う「九品官人法」の成立に至る
・司馬氏があっさり魏で実権を握れたのも司馬氏がバリバリの名士だったから
・これらの名士層が後の貴族階級へと変化していく
270 :
世界@名無史さん:2008/02/08(金) 12:11:53 O
劉曄と孫乾の意外な共通点について語りましょう。
>>269 釣りか?と思えるほどにまんま「渡邉義浩」の名士論じゃないっすかw
渡邉さん本人?w
間違ってるかどうかは他の学者の論文や著書を読んで自分で判断つけることをお勧めする。
ちなみにその渡邉名士論に対して現在進行形で反論してる人もいるし。
272 :
世界@名無史さん:2008/02/08(金) 15:56:55 0
>>271 まあぶっちゃけ渡邉義浩の名士論ってどこまで妥当なのかなあと思ったわけで。
やっぱり自分でいろいろ読んでみるのが良いみたいだね。
273 :
世界@名無史さん:2008/02/08(金) 17:18:34 0
基本的に「間違ってる」「正しい」なんて言い切れるわけが無いんですよ。説を唱えてる本人以外は。
ましてや、渡邉さんの説すら既存の学説の否定から入ってるわけだし、渡邉以前の旧説を支持してる人もいるから。
274 :
世界@名無史さん:2008/02/08(金) 17:46:23 0
>>273 まあそういうことですな。
現状を調べるのが面倒だったからここで聞いて済まそうとするような怠惰は駄目だとw
図説雑学でほぼ同じ内容の名士論を読んだ記憶がある
>>269 >・党禁で現実の官位という名声を失った豪族が、儒教の道徳に基づいた社会的名声を背景にするようになったのが名士
これ逆でしょ。
後漢の朝廷では出世するコネがない新興の豪族が「儒教の道徳に基づいた社会的名声」を看板にして政治の世界に進出するようになったのが名士じゃない?
しかし「儒教の道徳に基づいた社会的名声」が皇帝(中央政府)にコントロール出来ない権威になってゆくと、党錮という形で弾圧された。
弾圧されて生まれたんじゃなく、生まれてから弾圧されたんだよ。
277 :
世界@名無史さん:2008/02/16(土) 10:39:50 0
質問です。
三国志正史が日本に持ち込まれたのはいつの時代で、
最初に読んだと思われる日本人は誰でしょうか?
wikiには
『三国志』の伝来時期は正確には判明していないようである。
天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、
すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。
天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている(『続日本紀』巻23)。
と書いてあるな
まぁ、少なくとも760年よりは前って事じゃね?
大織冠伝は入鹿をけなすのに「王莽・董卓」と呼んでるから後漢書の知識で書いたかも知れん
後漢書が日本に入って来てたなら三国志が入ってきてても不思議じゃないが
三国志の伝来時期が確定するのは大宰府が「史記・漢書・後漢書を読みたい」と奈良朝廷に頼んだら
おまけで三国志と晋書が送られてきた時点だろう
ああ、確定じゃなくて遅くとも769年には日本に存在したって事
281 :
世界@名無史さん:2008/03/04(火) 13:51:49 0
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
カコウエンの死に対して、曹操が
「勇気だけじゃダメだよ・・・」と言ったとよく聞くけどさ。
これを基に、カコウエン=猪武者って評価はどうなんだろう。
猪武者に方面軍司令官まで任せたりするか普通。
夏侯淵ぐらい漢字で書けやこのゆとりがっ!
そもそも猪武者の定義はどうなん?
>>282 方面軍を任せるのに不安があるからこそ、任命した曹操自身が
「白地将軍」「のこのこ逆茂木を直すとは言語道断」と言ってるんじゃないか。
じゃあなんで変えなかったの?
>>286 都督には優秀で信頼できる親族か腹心を置きたい。でも放棄予定の漢中だから中継ぎでいいや。
曹仁は荊州、夏侯惇は洛陽にいる
曹洪は信頼性に欠ける
曹真、曹休は流石にまだ若い
韓浩は鶏肋の地に置き去りにするには勿体無い
消去法で夏侯淵に決まりました
せっかく属将が理知的で冷静な徐晃や張コウ、郭淮なんかだったのにね…
白=無、地=文字通り
つまり白地将軍とは、敵地を無人の荒野にするが如く蹂躙する名将をぶりを
称えた称号だったんだ!!!!
ククククク・・ まるで白地だな・・(Byアカギ)
291 :
世界@名無史さん:2008/03/11(火) 01:31:11 0
韓浩って優秀なの?
293 :
世界@名無史さん:2008/03/12(水) 16:32:58 0
うn
どんな風に?
>>294 漢中落とした時に誰に任せるかって話しになって
配下がじゃあ韓浩、って言ったら曹操が俺が戦えなくなっちゃうって言って夏侯淵を指名した
夏侯淵「・・・・・・。」
夏侯淵が代わりに守ったとあればある程度優秀っていうか信頼されてたコトは分かる
夏侯淵が打ち取られた時は「だから韓浩に任せとけば」って感じだったのかね やっぱ
夏侯淵の他にはいなかったのかな
夏侯淵は曹操に戦の時にあんまり戦線まで出ていくなって注意されてるよね
陳寿って事実を書いたのかな?
正史=史実ってわけでも無いけどな。
袁紹の扱い(略
史実は事実じゃないって言ってるんだろ
302 :
世界@名無史さん:2008/03/15(土) 22:54:13 0
陳到
史料上の事実≠史実=事実
じゃないの?
その時代の史料から導き出される事実=史実≠事実
だろ。
そういうことだね。
史実という言葉は解釈が二通りあるから使わないほうがいいってことだな。
"史実"でぐぐってみても、やっぱり二通りありそう。
史実=歴史上で正しい(とされている)事柄 でしょ
それ以上は勘ぐってもしょうがない
無限に可能性があるってことになるからな
黄門様のそばにお銀という女性がいたことは史実ではないが事実である可能性はある
史実は解釈や新史料の発見などによって改定される。
事実は改定されないが、事実として確定されることはない。
袁紹が曹操以上の傑物だった可能性は高いよな。
演義ではなにかと袁紹とか袁術は「名家」だから人が集まったってことになってるけど
三国時代ってそうでもなかったように思うんです
実際、当時の感覚で三公を出した家柄は実質的な面でかなりネームバリューあったと思いますか?
>>311 ネームバリューはあっただろうけど、乱世で役にたったかどうかは微妙
そんなに神通力があるんだったら袁紹より楊彪が最大勢力になれる
それに曹操も父は三公なんだが、曹操も「名家」だから人が集まったとは言われない不思議
宦官の息子が買官で三公になったから、尊敬されなかったんでは?
結局劉備の人徳で有能な人材が集まってきて
劉備なきあと孔明がその人材を運用していった
ことでいいの?
漫画を見る限り趙雲がパーフェクトプレイヤーに見えてくる
のだが実際はどうなの?
シバイが実際に孔明に負けを認めて尊敬すらしている
話って本当なのですか?
劉禅のことは日本人は馬鹿には出来ないだろうな
557 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:10:19 ID:???
>>553 官職、官位とか、いろんな国のが含まれているアイテムはともかく、驚くほど精巧
下手な三国志解説サイトよりも詳しい
558 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:11:21 ID:???
官職とか、嘘の説明書いてたな
559 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:11:48 ID:???
初期の人口なんかも当時の後漢書地理史とほぼ同等
お前らが適当に作ったと評価しているものは三国志NETとは全く違うコンセプトで出来ている
566 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:15:02 ID:???
三国志じゃねえんだってキレてたのはお兄ちゃんなんだが
568 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:16:00 ID:???
三国市中で皇帝が廃止される前の時代が後漢
皇帝が廃止されてからが三国志の乱世時代
一般的に三国志と呼ばれるものの時期は後漢末期〜が正確な記述で三国志の書物は後漢書から引用が多い
572 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:17:24 ID:???
>>566 三国志というのはもともと色々な逸話を集めて歴史家が編集した創作歴史小説
途中で中国が正史に分類して歴史と定めた
最初から肯定の内容を記した後漢書とは違うよ
573 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:17:30 ID:???
だから三国志じゃねえんだってキレてたのはお兄ちゃんであって
誰も後漢末の争乱時代が三国志じゃねえとか言ってないから
575 名前:セル ◆MANK0SaeeA [sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:20:03 ID:???
後漢の地理史w そんなのあったっけ?w
漢書地理史はあるが、あれは前漢の頃だったはずだが。
動乱の中で、正確に人口を把握できないと思うが。
576 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:20:28 ID:???
皇帝の内容を記した後漢書な
実際の三国志には後漢書又は別な当時の書物や民話からの引用が相当な分量ある
要するに三国志という書物は実際は当時の奴が纏め上げた複合歴史小説
これは正史に関しても演義に関しても同じ
579 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:22:55 ID:???
後漢書郡国志のことなんじゃねえの
580 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:23:42 ID:???
三国志からの引用で三国志ゲームとかいってる奴は素人なのは間違いないよ
三国志そのものが他の書物からの引用文だらけ
583 名前:セル ◆MANK0SaeeA [sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:26:00 ID:???
あぁ、後漢書郡国志か。かなり適当な作りのw
間違いが結構あるし、人口も相当曖昧なんだよな。説明抜けてるところ多いし。
586 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:27:36 ID:???
>>577 その部分はあるだろうな
もう少し前の時代から含まれている
俺が言いたいのは三国志が元とか恥も隠さず言う奴は何もわかって無いということ
三国志という書物は地方に伝わる民話、当時の他の書物、当時の武将の末族からのアンケートに創作加えて作られた書物
だから最初中国は三国志を歴史書にはしてなかった
現在は人気でたから正史のみ歴史扱いしてる
587 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:28:45 ID:???
日本で三国志をテーマにしてる作品はほとんど全部が三国志演義のことを指してると思うよ
だからその指摘は無意味
589 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:30:32 ID:???
>>587 三国志演義題材にしているというと三国志の二次創作だな
三国志の二次創作で内容が光栄に似てるとか常識的にまずいだろw
3次創作ジャン
592 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:32:22 ID:???
意味分かって言ってるのかお兄ちゃん
593 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:34:10 ID:???
後漢の書物を題材にして作られたゲームは、三国志時代を扱っているといえるんだよ
三国志自体が後漢書とか後漢の書物の引用文が相当な量入っている
ようするに写本である三国志を基にゲーム作るか後漢時代の原本でゲーム作るかの差だ
599 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:36:32 ID:???
国取が三国志もとにしたのでは無いというのも正しいが
三国志の時代を国取が扱ってるゲームというのも正しい
なぜかというと三国志自体二次創作物だから
三国志の翻訳前の読んでこいやお前らw
603 名前:名無しさん?[sage] 投稿日:2008/03/19(水) 11:39:23 ID:???
三国志の翻訳前の一部分でも読んだことある奴なら
後漢書が元だから三国志では無いとか恥ずかしくていえない台詞だよ
実際の三国志は注訳や引用だらけ
書かれた時代がだいぶ後になってからだろ?
実際は当時の生の記録ではなく編集本なんだよ
ラウンジの国取スレかなんかか?
正史読みたいんだけど、書店で売ってる?
無かったらe-honとかで取り寄せたら?
正史だったら中華書局のがいいんじゃね?
と思って検索してたら、集解の新しいのがいつの間にか出てたのか。
専門じゃないけど欲しくなった。
ちくまは駄目?
正史って陳寿の三国志の事でしょ
>>326 ありがとう、ちくまも見てみます。
はい、陳寿の三国志です。
演義は岩波のが好きだったんで、
出来れば現代語訳され過ぎてないのがいいですね
ちくまにはちょっとひどい訳があるから注意
簡単なさわり程度なら、光人社の坂口和澄氏の正史三國志群雄銘銘伝なんかもよい。
ちくまのは安くて入手しやすいからね
誤訳についてはよく聞くけど詳しいトコはどういった所か分からないので
ご存知の方にお聞きしたいですね
なんか誤訳というより誤植の類のような木が・・・・・・
333 :
世界@名無史さん:2008/03/30(日) 21:50:02 O
一番有名でクリティカルなのは「陸遜流罪」だろう
>>333 それはどういったものですか?
ちゃんと校正しなかったのかな
>>330 重箱の隅を突付くといくらでもあるよ
細かいニュアンスの違いとか、時勢の間違いとかのせいで断片的に読むとかなり騙される
>>336 できたら詳しく
訳文ばかりに頼っていると、一生かかっても陳寿や裴松之に追いつけないというのが俺の信条。
つか学問板中国史スレにいて原文読めない奴いるのかと。
ノシ ノ
>>338 324を書いた俺は間違ったレスをしたと思っていたが
せっかくだから、
>>338に教えてもらおう。
三国志のこれ、意味教えて。
辰王治月支國、臣智或加優呼臣雲遣支報安邪シュク支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。
そこは昔っから意味が分からんとされるところだろw
文の体を為してないところはわからんよ。
苦しい解釈をするなら「辰王は月支國を治所とする。
臣智もしくは加優呼臣雲遣支報安邪シュク支濆臣離兒不例拘邪秦支廉と呼ばれる」程度?
343 :
世界@名無史さん:2008/04/19(土) 12:09:52 0
>>341 >>342 その今伝わる原文にテキストの混乱が無いとすれば、
辰王治月支國
まあこれはいい
臣智或加優呼臣雲遣支報安邪シュク支濆臣離兒
臣智(長帥の大なるもの)はあるいは優を加えて「」と呼ばれる
どこからどこまでが「」に入るのかは不明といわざるを得ない
不例拘邪秦支廉之號
「邪秦支廉」の号の例にこだわらない
だろうか
「臣雲」以下はまるで分からんし、「邪秦支廉」もなんだか分からん
344 :
世界@名無史さん:2008/04/19(土) 16:07:37 O
五代十国時代では、
なぜ後唐だけ都が洛陽で
そのほかは開封だったの?
345 :
世界@名無史さん:2008/04/19(土) 17:59:17 0
遼来来の出典て何?
347 :
世界@名無史さん:2008/04/24(木) 18:40:37 0
>>346 蒼天航路
史書に載っているのは「遼来遼来」
>>348 墳墓とかから新しく別本の三国志が発見されるまで待とうぜ
史学を学ぶ人間は自分達の生きている間に答えが出ない事は覚悟しなきゃ
…まあ史学に限らないか
史観を磨くくらいしか出来ることはないのかねえ…
三国時代や外国の歴史書でオヌヌメのあったら教えて↓
日本語で正史の三国志を読もうと思ってネット書店で検索すると
「正史 三国志」(ちくま学芸文庫)や「正史三国志英傑伝」(徳間書店)などがでてくるのですが
どれを読めばよいのでしょうか?
「三国志訳本」で検索
>>352 前者とネット上の誤訳部分を書いてあるサイトを合わせて読めば、まあ間違える事は無いね
>>346 魏略の記事。太平御覧に引用されてるけど裴注には引用されてない。
357 :
世界@名無史さん:2008/05/04(日) 18:21:33 0
中国学科教員 問題言動集
N.S教授・・・・・授業中に、
「人間は働かなくても生きていける」
「(自分のことを棚に上げて)中国語学科の学生は常識が無さ過ぎる」
「(上に同じく)教育学科の学生はロリコンだらけ」
「三国志が好きな奴は中国学科に来るな」
「一般教養など必要ない」
「セクハラというものはその行為を行う本人に悪気が無ければセクハラには当たらない」
「大学教授は世間を知らなくて当たり前だ」
etc迷言・珍言多数
W.Y教授・・・・同じく授業中に、
「第123代天皇は精神異常者」
「N.K(D大名誉教授)、F.N(T大教授)、S.T(元G大教授・故人)、H.I(元N大教授)、
I.S(芥川賞作家・都知事)、K.Y(妄想漫画家)は人間のクズ」
「金持ちに対する税制優遇を廃止して、税金をできるだけ多く搾り取るべきだ」
Y.Y准教授・・・・退学願を提出した学生に対して、
「私の言う通りに行動すれば、君の要求が通るように私が裏で話をつけておいてあげよう」
という内容の取引を持ち掛けた。
以上のように、中国学科はキ○ガイ教員の巣窟です。
これから大○文化への入学をお考えの皆さんは、
中国学科にだけは絶対に出願をしないようにして下さい。
358 :
世界@名無史さん:2008/05/14(水) 16:57:56 0
>>341 辰王治月支國、臣智或加優呼臣雲遣支報安邪シュク支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。は、
辰王治月支國、臣智或加優呼 臣雲遣支報安邪シュク支濆臣離兒不例拘邪秦支廉 之號。と読む。
臣雲遣支報安邪シュク支濆臣離兒不例拘邪秦支廉は
しうくしふ あやしきひしりにふる からすしら と読む。
意味は、
東大国(しうく)皇(しふ)
奇(あや)しき 聖(ひしり)にふる
神族(から) 統(す) 治(しら)
浜名寛祐が発見し、解読した「契丹古伝」に
しうくしふ
あやしきひしりにしふる
からすべしら
むらしこなもめ
という古歌が載っていたことから、魏志の不明文も解読出来た。
「むらしこなもめ」の意味は、
群(むら)醜(しこ)なも召(め)
或いは、群(むら)醜(しこ)なも愛(め)と解読出来る。
すなわち、東大国皇の徳は異民族にも及んでいるという意味。
「契丹古伝」は八幡書店から復刻版が出ているので、興味のある方はどうぞお読み下さい。
359 :
世界@名無史さん:2008/05/28(水) 17:49:11 0
三国時代ってまさに今のソマリアみたいな状況だったのかな。
>>360 例えばだ。
ソマリアが50年後までに三分しててもいいから小康状態に落ち着くところを想像できる?
と言うか現状では飢餓、疫病、戦争という三重苦のない中南アフリカが想像できない。
つまり三国時代のほうがまだマシと思われる。
董卓が洛陽入場した時の正確な流れがイマイチつかめないんだが・・・
どっちが先なのか後なのか
>>362 どっちって比較対象がわからんのだけど
お前の疑問点をもうちょっとちゃんと文章にしろよ
364 :
世界@名無史さん:2008/06/03(火) 00:23:45 0
三国志の時代、人口は激減した
一方のソマリアは、あれだけの惨状なのに人口は増えるこの不思議
366 :
世界@名無史さん:2008/06/03(火) 03:46:27 O
勉強になるなぁホント
>>365 後漢の後期は限界近くまで人口が増えてるからな。
つーか、ほんとうに人口が減ったわけじゃなくて、
三国鼎立の混乱のために正しく人口が把握できなくなっただけじゃないか?
兵戸制で兵戸に組み込まれて民戸から消えた世帯も多数。
>>368 それは確かによく言われてるね
けど実際に死んだ人もかなりの数にのぼったはず
そういえば中国で正史があまり読まれなかったり、政府が「演義こそ正しい歴史」とか言ってるのって、
正史にゃ北方南方での異民族の歴史と、特に呉による越族の漢化の記述があるのが原因なのかね。
「一つの中国」という原理原則にとって都合が悪いから。
>演義こそ正しい歴史
ちょwww国外出れば一瞬でバレる嘘だな。
ウィキペとかも検閲されてんのか?
> 政府が「演義こそ正しい歴史」とか言ってるのって、
どの要人の発言すか?
「抗日演義」とかリアルタイムでつくってるから笑えんな。
ふと思ったのだが、黄巾の乱の後、後漢王朝は衰亡極まる…とか言っても、ちょっと変だよな。
当時、
幽州には劉虞、エン州には劉岱、豫州には劉寵、益州には劉焉、荊州には劉表、
揚州には劉ヨウ(正礼)…とまぁ、天下の8割がたは後漢皇族が実効支配ていた訳で。
先々崩れていくにしろ、同時代の中で一番皇族の力が強かった時期なんじゃねぇの?とか思わんでも無い。
その地方の皇族どもが皇帝をないがしろにしていたら意味がない。
劉焉なんか帝をお助けするどころかさっさと益州に引きこもっちゃうし。
378 :
世界@名無史さん:2008/06/18(水) 00:02:00 0
>>376 漢は皇族に特権は与えても政治軍事の権力は極力与えてこなかったから、一番力が強かった時期なんてのは末期もいいところだよ
劉表を詔勅で荊州刺史にしたのは董卓でおk?
劉表は董卓派?
380 :
世界@名無史さん:2008/06/18(水) 07:05:08 0
>>379 董卓が任命しているが、だからといって董卓派かどうかは謎。
反董卓連合に参加していたという記述があるけど、連合側の袁術を牽制していたりするし。
なんだかよく分からん。劉表は派閥で括らないほうがいいかも。
>>380 派閥と実益の両面で考えるといいんじゃないの?
反董卓だけど当面の実益として邪魔な袁術の牽制
そんなのは同じ反董卓の中でも利害の対立した物同士が連合内で散々潰し合った事実に鑑みれば普通
反董卓連合に参加してたっけ?
してるけど、他の諸侯同様本気で董卓を相手にするつもりはなかったようだし
孫堅もぬっ殺してるし、実質的に見れば董卓に敵対してるようには見えない
後に張繍を庇護してるし
劉表は回りに喧嘩撃ってて董卓どころじゃなかった感じか
反董卓連合って、主婦で言えばPTAに参加する程度のもんだったのかな
本気で董卓を討つことも考えてないし、本気で教育界のことを考えてるつもりもない
なんちゃって連合
董卓が本拠地を長安に移したのは
西の馬騰と韓遂を警戒したからだと思う
それだけってことは無かろう。それも理由の一つってだけで。
389 :
世界@名無史さん:2008/06/19(木) 12:26:19 0
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
むしろ馬騰と韓遂が董卓寄りだったから移したんじゃない?
てかなんで警戒してるのにわざわざ喉元を近づけるんだよ
董卓はいわば「後漢の信長」
これは董卓が信長ぐらいすごいという意味ではなく、
信長なんて長い目で見ればそんな程度だろという意味
>>391 そういうことを唐突に言い出すと荒れるから止めろ。
もう、信長と董卓を比べる論争は飽き飽きだ。くだらんにもほどがある。
信長と董卓を比べる論争なんて存在しなかったはずだ
こういうことを唐突に言い出すと荒れるという保証もない
くだらんというのは
>>392の主観
よって
>>392自身があれる原因を作ってる
謝れよ
>>392
いきなり人のレス指しといてくだらんとか何様だよお前
>>392 謝れ
今日中に謝れ
信長と董卓を比べる論争なんて聞き飽きるほど過去にねえんだよ
では気を取り直して
董卓はいわば「後漢の信長」
これは董卓が信長ぐらいすごいという意味ではなく、
信長なんて長い目で見ればそんな程度だろという意味
NGワード:「信長」
>>399 いやNGワードにしなくていいから?
お前
>>392だろ?浅ましいことしてないで謝罪したら?
そうやって自分の罪から逃げるな
曹操=イ言長よりはしっくりくるかもしれん。
曹操と比べるのはkoeiのやりすぎだな
どうみても自演にしか見えなくてワラタ
誤爆?
>403
上っ面の体面さえ保てればそれでいいんじゃね?
ID無し板でそういうことしても普通の人なら虚しくなるだけなんだがw
まぁ
>>392はちゃんと謝ったし
あんまいじめてやるな
>>390 馬騰が反董卓連合だったのは演義での話だろ。
董卓側なわけがない。
しかし最近の世界史板はヘンなのがいっぱい居るな。
sage進行なのに1〜2分ごとにレス追加される
>>393-400の流れにワロタ
すごいやつがいるもんだな
>>414 2ch脳乙
自演だという証拠もないのにスレ違いの話題を出さないように
ここは正史三国志について語るスレだ
>>371 国民レベルではともかく学者レベルでは日本より詳しい人が多い
しかし痛いヤツも居たもんだな
>>415-416 セルフディフェンスしてるつもりだろうけどそれは自傷行為だよ。
あんまり動かない方がいい。傷が深くなるだけだ。
あと、句読点くらいたまには使ってやれよ。
だから短時間に連続レスするとバレバレだって言われてるのに懲りないんだな、こいつは
だめだこいつ
>>421は…。何を言ってももう駄目かも分からんね。
しかし信長が董卓に似ているというのは北の軍神の櫻井氏がそう言ってたこともあり、
あながち的外れではないと思うんだよな。
しかしいかんせんスレ違いだし、何よりあの一連の自演レスは痛すぎた。
こうして董卓と信長の比較話はNG扱いとなるのでしたとさ。
まあそもそも発端の
>>391からして、董卓評ではなく信長評であるから板違いだし。
キティに絡まれた
>>391はたまったもんじゃないな
客観的に見ればいきなり人のレスに噛み付いてきた
>>392が悪いわな
ここまでくるとアスペルガーとか疑いたくなるな
いっそもう全板で強制IDにして欲しいぜ。
>>424-425 誤爆扱いするのが分かりやすいと言われたので、釣り扱いしてみました。
ということですか?w
>>427 それは絶対に必要だな。
なぜIDを伏せる必要が
あるんだか……。
↓以下、何事もなかったかのように続行
>>429 世界史板は自演してまで粘着するようなオコチャマ向けの板ではない
というコンセプトと学識を戦わす場であるから、そんな真似をしないという矜持を信じてID無し
世界史板にIDを求めるべからず
最悪トリップ使ってコテ以外全無視っていう手法による討論だって可能なのだからな
>>428 そういう目でしか見れないのは2ch脳だよ
>>430 いいえ、IDがないからこそ
自作自演が非常に容易で
迷惑なのですが……。
>>433 だから、そんなIDの無い板で自作自演して満足するような志の低い輩は放置しなって
スルースキルを高めようぜ、三国志に学んで張紹のように家に火をかけられても華麗にスルー!
土を門に持ってでもスルーだ!
お前等
>>392の自演に過剰反応しすぎだと思うんだが。
確かに
>>392は空気読めない発言だったとは思うが
一応謝罪はしてるんだしこれ以上引っ張る必要もないだろう。
まぁ、これはわざと荒らそうとしてんだろうな。
>>435 392じゃねえ、391の言動が狂ってると言ってんだよ。
さりげなくすり替えてんじゃねえよ、391w
謝罪て…
>435は「ID無し」の意味も理解出来ん池沼か?
董卓が悪貨を乱造したのは銅の供給ルートを抑えられたせい、って説を聞いたことがあるんだけど
この話の信憑性ってどんなもんなんでしょう。教えてえらいひと!
それだとそもそも銅の供給地はどこだって話になるよな。
詳しくは知らんが中原ではないような気がするが…。
>銅
古い有名どこだと呉の丹陽とか。
漢時代は益州とかも有名だね
董卓に直接関係ありそうなあたりだと藍田とか晋陽あたりも
後漢の始めごろからかなり大規模に銅山開発が行われてたはず。
改鋳と「悪貨は良貨を駆逐する」系のインフレの関係に気がついてたかはともかく、
結果的にはヤバいことになってるけど、目の付け所は悪くなかったかも、とも思う。
穴が開いてないとかバリが取れてないって記述からすると
秦時代の置物鋳潰してるぐらいだから当然一時的な不足はあったんだろうけど
どっちかっていうと産物としての銅の不足っていうより
遷都の混乱等で流通、技術インフラが崩壊してるように思える。
それと、記述が正しいなら局地的なものだったとしても
この時のインフレ率が数年で数万%みたいな
WW1敗戦時のドイツ並みのハイパーインフレなんで
きっかけにはなったかもしれないけど銅の不足や改鋳問題だけで起こりうるレベルじゃない。
遷都と新規造営に際して富裕層から借財したうえ
である程度意図的にインフレ起こして借金の踏み倒しを狙ったとかそういう裏があったような気もする。
大商人からの支持と信用を失ったとすれば流通、技術インフラの混乱にも結びつくし。
長安への流入民が予想以上に多かったとか、
ビに集めたっていう戦時物資の見込み買占め等で
想像以上にインフレの規模が大きくなったのかもね。
もう見えない敵と戦わなくてもいいんだよ。
>>439 あれ?そもそも銅の供給がストップして銅銭作りましたっておかしくない?
いや銅人の純度が…という話だったら分からんでもないけど、
それは製錬技術の問題になってくるので、やっぱ供給量の問題じゃないよね。
俺もあんま詳しくないからひょっとしたら的外れなこと言ってるかもしれないんだけど。
例えば市場に出回ってる既存の貨幣を回収しつつ金貨や銀貨を改鋳して
以前より金銀の含有量の低い同じ額面の貨幣を回収した額面とほぼ同じだけ発行する、とかなら
もちろんインフレ圧力はかかるけど一応金銀の節約にはなるし、
回収改鋳再発行にかかる経費を差し引いても通貨発行益が出せる可能性もある。
でも銅銭みたいな地金そのものの価値が(一時的に不足してるとしても)
本来そんなに高くなくて日常的に使われる貨幣だと通貨発行益はだしにくいし、
製造コストも比率的には大きくなって“割に合わない”ことになりやすいと思う。
それに青銅の加工しやすい合金比率って割と幅がないと思うんだよな。
錫を無理やり増やすと脆くて硬くて文字の鋳込みとかが
きれいに仕上げられなくなるんじゃないだろうか。
そんなこと言ってたらこんなページ発見。
董卓五銖、、、すごく、、、ワッシャーですwww
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kosen/sub/gosyu_4.html
>>447 そのページの解説を見ると、董卓銭自体が大量に発行されたからじゃなく、
私鋳しやすくて鐚銭が流行したから貨幣価値が下がったみたいな書き方だよね。
やっぱ素材の供給量とはあんまり関係なさげな感じ。
あるいは董卓五銖自体も帝を擁しているとはいえ漢というより
董卓政権による軍票チックな、限りなく私鋳に近いものだった、
みたいな捉え方もできるかもしれないね。
技術インフラが準備できてなかったっぽいのも、
従来の造幣局みたいな漢の技術系譜から離れたとこで
勝手に始めたんだとすれば記述にも納得がいってくる。
曹丕の代になって魏も貨幣を改鋳してすぐ廃止して
再び布とか穀物基準での取引を推奨したりしてるけど、
これも銅資源の問題以上にそもそも董卓ショックの後遺症で
中原の連中が銭に不信感があったとこに
銭貨が不足してるから物々交換に戻ってんのかな的なおせっかい心と
王朝の代替わりを印象付ける意味でも改鋳とかやってみたんだけど
想像以上にインフレが進んで経済混乱が起こりかけたから
慌てて市場の慣習を追認した、みたいな政策の流れの一環としてみた方がいいのかも。
450 :
世界@名無史さん:2008/07/12(土) 19:53:38 0
かなり昔の話だが、日本で太安万侶の墓が発見された時、大ニュースに
なったけれども、遺骨はほとんど崩れていて原形をとどめてなかった。
三国時代の人の墓を調査しても、遺骨はもはやカケラも残っていない
だろうと思うとちと寂しい。
現代の中国でも孔子の子孫とかいう人たちもいるが、怪しい…。孔子の
遺骨が残っていればDNA鑑定とかできるだろうに。
451 :
世界@名無史さん:2008/07/12(土) 20:35:00 O
中国の埋葬技術は古代から高いので、日本の古墳より保存状態のいい遺体が発掘される可能性はある
もちろん、盗掘されてないってのが大前提だが
子孫の証明のためにDNA鑑定ってのは本質的には無意味だよ。
家制度はかならずしも血縁関係を最重視してるわけじゃない。
朱然墓って遺骨も出てなかったっけ?
453 :
謎:2008/07/12(土) 21:43:24 0
三国志史上最大の戦争はなんですか
454 :
謎:2008/07/12(土) 21:44:01 0
三国志史上最大の戦争はなんですか調べています教えてください
やだね
たぶん平呉戦だよ。
蜀の南蛮征伐だよ
確かに息子が生まれなくて養子をとったとかがあったら無意味になるな
日本の家制度とちがって中国じゃ血統第一だろ。
養子を取るにしてもどんなに遠くても血族・親族からだろうし。
>>459 ちょっと思いつくだけでも曹嵩、劉封、呂布とか。
建前は建前として無視するわけにはいかんけど
現実に血族、親族でない養子関係は沢山あるよ。
むしろ韓国みたいな儒教の奇形児っぽいガチガチの運用の方が異常だろう
反対に曹操と夏侯氏、陳矯と劉氏みたいな血縁内での婚姻もあるしね。
儒教の建前も決して軽くはないが絶対でもないってことだな。
そのへん中国人は建前を重視するけど現実的だな
たまたま朝鮮日報を見る機会があったんだけど
記事で○○は□□の何年先輩とか書いてたりして気持ち悪かった
いつのまにやら恋姫無双がアニメ化されて放映が始まってるな
スレ違いもわからないオタクって生きてる価値あるんだろうか
>>459 血筋を重視するのは分かるがそれは必ずしも孔子などの流れを汲む血筋とは限らないということですが
467 :
世界@名無史さん:2008/09/14(日) 20:40:22 0
蜀は四鎮将軍と四征将軍とはどちらが位が上なのかな?
それと前後左右将軍と四鎮・四征将軍とはどちらが上なのか?
なんか魏の官制とちがうみたいなんだが・・・・・・・・・・・・・
趙雲 征南将軍→鎮東将軍
黄忠 征西将軍→後将軍
魏延 鎮北将軍→征西大将軍
姜維 征南将軍→輔漢将軍→鎮西大将軍
どういう法則があるのだ?
468 :
世界@名無史さん:2008/09/15(月) 16:38:24 0
張翼の場合はこうだな。
征西大将軍→鎮南大将軍
蜀はどうやら四鎮大将軍>四征大将軍>四方将軍>四鎮将軍>四征将軍という序列か?
469 :
世界@名無史さん:2008/09/15(月) 21:38:31 0
230年に魏延が征西大将軍、呉壱が左将軍に同時に昇進している。
席次では魏延が上の可能性が高いから四征大将軍>四方将軍なのか?
>>469 多分、「大」がつくと付かない前後左右より上になる
471 :
世界@名無史さん:2008/09/16(火) 05:36:07 0
考えてみると、趙雲は劉備にはあんまり重用されてなかったんだな。
劉備が在位中には四征将軍にすらしてもらってない。でも劉禅が即位し、
諸葛亮が全権握ると四征将軍に就任、短期間に四鎮将軍に昇進している。
第一次北伐で降格になったのは諸葛亮と趙雲。偽装進軍で敗北しても
責任問われるというのは全体の作戦立案に関わってからもね。
逆に魏延は219年に漢中守備を命じられ、劉備在位中に鎮北将軍になるまで
はスピード出世。だけど諸葛亮が全権握ってからは大功があった230年にやっと
征西大将軍。明らかにスピードが遅くなっている。これが普通なのかもしれないが、
魏延が諸葛亮に不満を持つのもわからんでもない。
>>471 蜀攻めでも諸葛亮の部将となっているから、それほど高い地位にいたわけでもないのは確かだね
でも、翊軍将軍が征南将軍などと比べてそれほど低い位だったのかは議論の余地があるよ
それに曹操の下の韓浩もそうだけど、君主の中軍を実質的にまとめ指揮したり中軍の別働隊になったりする職って、どうも輝かしい功績や出世と縁が薄くなるもののようだ
表向きの地位は低くても主君の信頼は抜群、というのもありうるわけだ
劉備は自身の直轄下で働かせ、諸葛亮は独立した将軍として働かせた、信頼の度合いは変わらないが用途が違うというだけなんじゃないだろうか
陳到の立場は…
474 :
世界@名無史さん:2008/09/17(水) 18:30:14 0
何で関羽は神様として祀られてるのに、劉備や張飛は祀られてないの?
道教で神になる基準って何?
475 :
世界@名無史さん:2008/09/17(水) 19:51:53 0
関羽・張飛・馬超は中原の名士に人気があったから名位が高かった。
黄忠は大功があっても諸葛亮が関羽らと同列にすることに疑義をはさむ
ほどだった。幾ら古くから使えていても、趙雲・陳到は中原の名士には無名
だったので関羽等と同列にまで出世させるなんて無理だったんだろう。
趙雲にとって転機になったのは、長阪では劉備の子供の1人を救ったに過ぎなかった
のが、劉禅が二代皇帝に即位して皇帝を救った功臣となった。劉備生存時には関羽等とは
名声がかけ離れていたが、蜀王朝が何十年か続くうちに皇帝を救った功臣として趙雲を関羽
等と同等に見るようになった。だから関羽等が諡号を贈られた後に、趙雲も諡号が贈られる
のが当然という意見が起こった。大体こんな流れだと思う。陳到はそうした勲功が無かった
ので伝記すら立てられなかった程忘れ去れた。
476 :
世界@名無史さん:2008/09/17(水) 21:27:30 0
>>472 黄忠も先鋒隊で活躍したという感じだよな。
たまたま夏候淵を討ち取るという大戦果をあげたけど、一軍の総司令という
感じではなかったみたい。仕事の重要度からいうと漢中の守備を任された魏延
の方が重いな。ただなんで魏延があそこまで重用されたかは謎だね。
477 :
世界@名無史さん:2008/09/17(水) 23:38:10 0
>>475 諡号ってのを貰うと神様になるんだね?
てことは、趙雲も、道教の神様って事?
神様は関係ない。ちょっと上のレスを見りゃその話してないのが分かるだろ
>>475 趙雲の諡号追贈を劉禅を救ったことだけに結びつけるのはどうかと思う
姜維らが諡号を追贈するように述べた上表を見れば
劉禅を救ったことは趙雲の功績の最たるものではあっても全てではない
当の劉禅が意見されるまで諡号を贈ろうとしなかったのだから、
死んでから名声が上がるというのは不自然だと思う
むしろ趙雲にとっての転機は劉備の死後諸葛亮が実権を握ったことじゃないだろうか
そのときから急に官位が上がっている。名声も比例するように上がったのだろう
もしくは、それ以前から「趙雲って古参だし頑張ってるし人柄も良いのに官位上がらないね」
って空気があったかもしれない。いや、これはただの想像だが
張飛、黄忠、馬超は相次いで死ぬし、劉備の主力軍も壊滅して
魏延、李厳、呉壱くらいしか大駒が残ってないし
趙雲が出世するのは当然
>>474 ・六朝時代の道教における神格化された人間の一覧『真霊位業図』には曹操・劉備がいる
・「貫斗忠孝五雷武侯秘法」という道教経典で、雷部神としての諸葛亮の配下神として五虎将が配されている
らしいよ。一部の経典にすぎないけど一応神様だな
他には甘寧も南宋で呉王に格上げされてるらしい。
甘寧も張飛も関羽のような全国的な信仰ではなくて、一地方で祀られてる
関羽にしてもそうだけど、土着信仰はいつから始まったかはっきりせず、
経典に名前が出たりするのは北宋より後、つまり講談や演劇で三国志の人気が出た後だ
関羽神格化の決定打は徽宗 熹宗でググればいい。wikiの関羽の項にも載ってる
道教で神になる基準はその辺りを見れば分かるだろう
482 :
世界@名無史さん:2008/09/19(金) 07:59:46 0
>>481 おお!!
ありがとうございます。
それにしても珍しい文化ですね、
神代の話ならともかく、しっかりした法律がある時代の人間を神にするなんて、面白いです。
483 :
世界@名無史さん:2008/09/19(金) 08:22:11 0
>>476 魏延の場合元々、部局を率いて参戦してる
つまり自前の部隊を持ってた
んで戦果が華々しいので劉備が牙門に加えた
スタートラインが部隊長でエリートとは言わないまでも出世街道驀進してる魏延と他を比べちゃダメでしょ
神になるとき、呼称が○公、○王、○帝って変わっていくけど、
○王からが一応神様って思っていいんだよね?
486 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 02:42:36 0
>>483 そういう意味では趙雲は古参だけど、自前の部隊なんて無かっただろうから
出世にはハンディだな。しかも漠然とした名声というものも無かったしな。
まあでも、死後に諡号を追贈され、関羽らと同列に扱われるようになったのは
大出世だよね。
魏延って史実でも劉表配下だったの?
韓玄配下だったことは無いみたいけど。
488 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 06:46:55 0
魏延は劉表配下という記述も無かったのでは?
確か一隊長として劉備に随行して蜀入り、戦功を立てたので牙門将になった
と書かれているだけだったと思う。反骨の相とか韓玄配下というのは演義の
創作でしょう。ただ、頭から角が生える夢の話しは正史・魏延伝にも出てい
る。
489 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 08:09:55 0
>>479 趙雲別伝では東征の時に劉備に意見して国内に留め置かれたみたいな記述がある。
黄権も作戦に意見して別働隊にされてるしね。あん時の劉備は人の意見に耳を貸す
状態ではなかったのかも。ほとんど活躍したという記述がない将軍が総帥だったか
ことを考えるとイエスマンだけで固めたのかも。
趙雲は直言して憚らなかったから出世に響いた感じなんでしょ。だから劉備死後に
諸葛亮が功績に見合う分くらいの官位に引き上げた感じかな。
490 :
479:2008/09/20(土) 11:20:37 0
>>489 最後1行以外は全く同意。
最後1行は、趙雲ファンとしてはそうだったらいいなとは思うけど、
>>472の言うことに関連して官位が低いと大きな功は立てにくいという側面もあるし、
>>480という背景があるから、「功績に見合う」と断言できないと思う
趙雲が出世しただけだったらそう思えたかもしれないけど、
>>471の言うように魏延の出世スピードが落ちているという事実もあるから、
諸葛亮の派閥寄りだったという可能性が捨てきれないんだ
かといって
>>471のように趙雲が劉備に重用されていなかったとは思ってないけどね
「あいつ有能でいい奴なんだけどちょっと頭硬いんだよなー」とは思われてそうだが
491 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 12:56:29 0
492 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 15:47:56 0
>>490 趙雲が諸葛亮派だった可能性は高いかもね。
第一次北伐で囮軍なのに敗北の責任を取らされている。
有力な将軍への相談なしに諸葛亮が作戦を全て立案するわけもない
街亭への守備も魏延や呉壱が候補として出たとおり、相談はしていたのだろう。
ただあん時は他の人の意見を退けた結果敗退だったけどね。
おそらく北伐前には趙雲にも作戦の諮問はあったのだろう。
だから囮部隊の指揮も引き受けたのだろうし、作戦立案にも深く関わっていた
はず。そうでないと劉備流浪時代からの古参の将軍にいきなり囮をやれとは言え
ないし、まして少数の部隊で大軍相手に負けた責任なんて負わせられない。正史
での趙雲の北伐後の降格の記述は作戦計画に深く関わっていたことを物語ってい
ると解釈している。諸葛亮といっしょに作戦失敗の責任とったんだろうな。
>>491 じゃあ柿本人麻呂でもいいけど
有史以降の人間を神にするのは別に珍しくないって思うだけだから
>>482 道真の場合、神社ではなく「廟」に祀られていたもので、彼も彼を崇敬して
いた人々も文章道(漢文・中国史)の専門家であったことを思えば、人を祀
るということ自体に六朝以降の中国文化の影響を見る必要がありそうですね。
怨霊としての道真像が喧伝されるのは11世紀以降で、それ以前に文人たち
の間で文芸の道を司った人物として廟前で詩会が行われていました。
死後30年ほどして相次ぐ皇族の死が道真の仕業だと言われたことはありま
したが、その後の祭祀を生んだ思想はそれとは別であったようです。
日本にもあるという点では「珍しくない」文化ですが、
>>481以降の伝播を
考えた方がいいでしょう。
現在は神社扱いでひとくくりにされている歴史上の人物を祀った施設という
ものも、古くは道真のものを始めとして「廟」と呼ばれていた例が多い。
この辺りの境界が曖昧になるのは、かなり後のことだと思います。
「道真が死後神になった」というのも、記紀に登場するような神ではなくて、
仏教の六道の中の天道に転生したという意味であったらしい。
仏教といえば、建初寺を建立したのが孫権でしたね。『高僧伝』の説ですが。
495 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 20:06:00 0
正史の版本・注訳書が欲しいんだけど、ネット上にリストとかある?
496 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 20:07:26 0
>>490 諸葛亮と共に劉備の後事を託された李厳の官位の兼ね合いと考えると面白い。
劉備死後、李厳は尚書令になって政治的には重責を担っているけど、軍事の官位
として弱い。226年に前将軍に就任。古参の実戦で勲功を挙げてきたきた将軍
も李厳よりも席次で上にならないように配慮されているのでは?
趙雲や魏延という古参の将軍も李厳より官位で上にいけていない。
趙雲が鎮東将軍に昇進したのが何時かは不明だが、おそらく226年位だろう。
征南将軍になったのが223年。南征が終わった後の人事異動での昇進という
感じでしょう。李厳は趙雲より上位の前将軍になっている。
230年に魏延は魏軍を撃破するという軍功をあげて征西大将軍に昇進してるが、
同年に魏延より上位の李厳は票騎将軍に就任している。
497 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 20:11:05 0
王異は自身の身体の危険の際に「まして私の容姿は西施ほどではないのだから」
と言ったとされるが、この発言ってなかなかすごいと思うのは俺だけ?
西施ほどではない=西施には及ばないが、それに近いものがある。って事になるよな。
今の日本語の概念で捉えたら。
この記述が本当であれば、王異もかなりの美女だったって事になるよな。
つーかローマ皇帝なんかキリスト教化するまではみんな神様じゃね
有史以降、人を神様にせずに聖人やら預言者なんてのにする連中のほうが後発の少数派だろ
>>494 菅原道真は怨霊信仰じゃないんですね。
平将門とかも、やっぱり違うのでしょうか?
500 :
世界@名無史さん:2008/09/20(土) 23:55:40 0
怨霊ですよ。
ちなみに東条英機も先の戦争のA級戦犯達もみな怨霊ね。
だから靖国でまつられているのだよ。
501 :
世界@名無史さん:2008/09/21(日) 04:54:21 0
>>494 やはり道教の影響ですか。
というか、怨霊説が後付けとは……。
502 :
世界@名無史さん:2008/09/21(日) 09:23:16 0
魏延が劉備にすごく気に入られていたのはなぜなのか。
>>499 >>501 道真が怨霊とされたのは事実です。
ただそれは道真の死後30年も経って時の権力者に不幸が相次いでから道真
に原因を求められるようになったもの。
怨霊信仰の嚆矢(一説に長屋王)である早良親王もそうでした。
本人が亡くなって、かなり経ってから災害と共に思い出されています。
ただ早良親王ほか6名の鎮魂(『仁王経』が読まれるなど)行事があったと
はいえ、これらはただちに神として祀られていません。
現在は京都の御霊神社の祭神で、歴史的にも中世まで遡れますが、もっと後
になって祭神とされたのではないかと思います。
廟に天満天神ないしは自在天神(自在天は仏教の神)として祀るのは中国の
祭祀の影響を受けていたのではないかと思います。
道真の怨霊としての側面は後世もしばしば出て来ますが、道真=天満大自在
天神の災害に対する霊威を強調したものでしょう。
怨霊として主催する災害の恐ろしさを喧伝する一方で、信仰すればそれらを
免れることが出来ると言われた訳で。
中国思想を儒教か道教かはっきり分けることは難しい場合がありますが、こ
の場合は儒教の影響が強かったのではないかと思います。
>平将門
彼が没してまもなく書かれた『将門記』によれば、八幡大菩薩と道真(神で
はなく大臣位を贈られた霊とされている)の許可を得て挙兵したという彼は
死後地獄に堕ちましたが、生前書写していた『仁王経』の功徳で時折休息を
得ていると、人にとりついて語ったそうです。
『仁王経』は上にも出ていますが、国土を災害から救う経典でした。
ここでは地獄に堕ちた霊という扱いで、11世紀の文献でも地獄ではなく修
羅道に堕ちたとされるだけで、神ではありません。
神田の祭神とされるようになるのは、もっと後のことだろうと思います。
将門の死後、敵味方を問わず仏事による鎮魂が図られていますが、神として
祭祀したという記録はありません。
>>500 靖国・護国の前身である招魂社は、水戸学(朱子学)の影響が強いですね。
国事に殉じた人物のみ祀るということは、死霊鎮撫としてはなかったこと。
こうした功績ある人物を祀る規定は『礼記』に見えており、朱子学の影響下
で成立した文献にはしばしば引用されていましたから、我が国の先学がその
影響を受けて新たな祭祀施設を造営した可能性は高いでしょう。
天皇陛下のお田植えや、皇后陛下の養蚕というのも元々中国にあったもので、
近代になって導入されたものですが、近代日本で出来た(実際には江戸時代
に各地で儒学・朱子学を学んだ人々の間に萌芽はあった)「伝統行事」の中
には、中国文化の影響も存在していました。
江戸時代には儒学者も国学者も「外来」であるとして仏教を排除して日本古
来の道を探ろうとし、今の神道の基礎を作り上げていますが、平田国学には
西洋文化の影響がありましたし、水戸学は言わずもがなでしたから、結局我
が国は常に外来の文化の影響を大なり小なり蒙っていたことになります。
>>506 寺社のサイトというものは大抵の場合史実と伝承の区別をつけないので採用
しませんし、この場合も史料的根拠が示されていないので鵜呑みには出来ま
せんが、この時代に時衆の遊行僧が死霊を鎮めたことや、鎮めた霊を神とし
て祭祀することがあったのは事実(実社神と言う)ですから、つじつまは合い
ますね。どうもありがとうございました。
508 :
世界@名無史さん:2008/09/23(火) 02:36:47 0
>>502 劉備は関羽、張飛、魏延みたいなクセのある人間は好きなんだよ。
逆に組織型人間はイマイチ好きになれない。
劉備ってなんていうか、変な意味や中傷じゃなくゲイっぽいとこあるよな。
ケツ狙ってるとかそういう感じっていうより、
アラブとか福建の田舎いくとけっこう男同士でベタベタしてるのをみるような
相手の全人格をひっくるめて愛する手段として
好きな奴にはもうほんとひっきりなしにベタベタするような人懐っこさを感じる。
逆に女関係(家庭)は曹操や孫権に比べると、前半生の境遇の差はあるにしても
寂しいというかそっけないというか逸話の数も少ないし
捨てたとか離縁したみたいな話ばっかな気がする。
ホモソーシャルだな。
孫策辺りにも似たような点がある。
曹操も女性関係は多いけど意識としてはそっちに近いんじゃないか。
それは正史でいうところの「侠」ってやつじゃないの?
どっちかっていうと「恩愛」とか「恩恵」に当てはまると思う。
関張の「恩愛兄弟の如し」とか袁譚のところで「恵み深い」とか書いてるあれ。
「侠」は頼まれたら見ず知らずの他人のために命を張ったりするんだよな。
513 :
世界@名無史さん:2008/09/23(火) 22:01:13 0
514 :
世界@名無史さん:2008/09/24(水) 19:26:02 0
>>512 諸葛亮だって侠の精神の持ち主だよ。
劉備に使えた時は寸土の領地も持たない君主に使えたわけだらね。
兄を頼って呉に使えたり、親族頼って魏に使えてもそこそこは出世はしただろう。
50歳近い流浪の君主に使えるなんてことは頭の良さだけではできないよ。
そして劉備の子供を輔佐までやっているのだから関羽や張飛に劣らない
侠の精神の持ち主。
>>512 「侠」に見ず知らずの他人〜って定義があるとは思わないけど。
どっちかっていうと義理堅さとか面倒見のよさがある人じゃないかな
劉備も(孫権、袁紹、董卓、袁術もだが。曹操も一応)正史に侠って書かれてるね
妻子より配下を大事にするなんて侠の典型だろう
閻温伝に引かれてる『魏略』勇侠伝に、鮑出って人物のことが書かれてるんだけど、
「若くして遊侠」とは書かれているもののメインは親孝行のエピソードだ
一口に侠といってもなかなか幅広いね
侠って少なくとも後漢ぐらいまでの段階でいえば精神的な規範ていうより
一種の契約を軸とした擬似共同体とその思想じゃないか?
氏族・地縁的な共同体の保護力に頼れない、
新興の零細商工業者とか食い詰めて流れてきた元農民とかの要望を掬い上げる形で
庇護を与える代わりになんらかの見返り、
例えば労力や場合によってはテラ銭を収めさせるような。
漢代の儒教ももちろん仁と忠は思想の根幹にはなってたけど、
それでも宋代以降みたいな主従関係とより密接に結びついたお役人の道って感じっていうより
考廉の建前にみるような士大夫の人格規範だったっぽいから、
より私的なご恩と奉公色が強い侠とはちょっと色合いが違う。
諸葛亮の場合は少し後の玄学や竹林の七賢っぽいのを若干先取りしたひきこもりと、
単に縁があったんで劉備が拾ったのが大成したって感じだと思う。
劉備の評価も諸葛亮が初めて会った段階では「流浪の君主」っていうより
「中国全土で名の知れた歴戦の傭兵隊長」みたいな感じだったと思うし。
もうネタにしか見えない。だからつつかない。
つつかないぞ。絶対つつかないんだからな。……くっ!
519 :
世界@名無史さん:2008/09/26(金) 19:45:38 0
>>502 結果的には劉備が魏延の能力を高く買っていたのは間違いではない。
何故張飛を漢中総督にしなかったのかは不明だけどね。士卒に厳しくて冷たい
張飛を前線にもっていくと足下すくわれると思ったのかもしれない。野戦の将
としては張飛は有能だけど、どうも行政までとなると魏延のほうが上だったの
かも。
高校以来漢文勉強したこともないのにに三国志集解買っちゃったよ
これはwwwwヤバイw面白すぎるwwっうぇっうぇwwww
一昨日から脳内こんな感じ
話戻すが、趙雲は入蜀前なら劉備陣営武官ナンバー3&桂陽太守だよ
この時将軍号を持っているのは関羽張飛趙雲の三人しかいない。
諸葛亮、ホウ統は中郎将なのでその下に入る。
(雑号中郎将がこの時既に将軍号の下位に置かれていたとしてだが)
ここで趙雲別伝を疑う理由はないと思うが、劉備が蜀に入ると
留営司馬(劉備不在の荊州左将軍府軍事責任者)に為り、
蜀に入るときは張飛、諸葛亮と並ぶ独立した三軍の一。
華陽国志には三人が分担して諸県を攻略したことが記されている。
その後、位階では黄忠、仕事の重要度では魏延に追い越されるわけだが。
諸葛亮時代では趙雲は魏延と並んで四鎮将軍として並び立つわけだけど、
この頃になって初めて重用されたわけではない。
522 :
世界@名無史さん:2008/09/27(土) 04:10:07 0
趙雲が重用されていないとは思わないが、
入蜀から劉備没までの期間の出世が止まっている印象を受けるのだろう。
まあ上がりようが無いんだけどね
漢の官制では雑号(四鎮征含む)の上が四方だもの
雑号の中で細かい格式があったのだろうけど、
それを推測するのは難しい
李厳って何で改名したんだろ。
525 :
世界@名無史さん:2008/09/27(土) 16:32:29 0
>>523 そうだな、
蜀で官制ハッキリしてきたのは劉備が皇帝に即位した以降だろう。
託孤の臣の1人の李厳が前将軍になったのが226年だからね。趙雲や魏延が
それ以上になるのは難しかったかもな。北伐時の実戦指揮官の序列では趙雲は
諸葛亮や李厳の次、魏延と同等のbRという感じだったのかな。陽動作戦の
立案にも関わっていただろう。だから北伐失敗後に諸葛亮と共に降格処分だった
と考えるのが妥当かな。
526 :
世界@名無史さん:2008/09/27(土) 19:05:51 0
馬超や許靖の位階が高かったのは対外宣伝の為。
馬超なんかは劉備の家臣になった後でも身の不安をもっていた。
位は高くても信頼はされていなかったのは自覚してたのだろう。
対内でもある。が、それを宣伝といってしまっては
この時代の士人名士というものの価値を無視しすぎているだろう。
528 :
世界@名無史さん:2008/09/27(土) 22:26:06 0
バチョウ,きょせいは多くの部曲を連れてきたから。
529 :
世界@名無史さん:2008/09/27(土) 22:33:00 0
勉強になった
馬超は一族壊滅し、蜀に来たときはわざわざ劉備が密かに兵を与えてはったりを効かせる必要があった。
許靖は交州経由で避難して生き残ったのは「十のうち一、二」と自ら書いた。
それで重んじられるほどの民を率いていたとは思えないな。
部曲を言うなら可能性が高いのは呉懿、李厳らだね。特に呉懿なんて劉璋、劉備と続けて縁戚とかとんでもないな。
531 :
世界@名無史さん:2008/09/28(日) 06:20:29 0
呉懿はなんで伝記が残らなかったのだろ?
結構活躍した勇将みたいし、劉備の外戚だったのに事跡が伝わっていないとは・・・・・・
陳至も伝記が残ってないないね。古参の将軍なので趙雲伝に付載されてもよかった
感じはするけどね。
532 :
世界@名無史さん:2008/09/28(日) 08:20:49 0
信憑性は別の問題としてものちに多くの地方史が書かれたことから、
陳寿が拠ったのとは別の史料が多く呉蜀の地に残っていたことは想像できる。
多分、郡県の官府や蜀呉に残った士人はそれぞれ記録を持っていたが
陳寿が洛陽で三国志を書いた時点ではそれらをあまり参照できなかったんだろう。
未編纂の生データを持ち出すのは手間が掛かりすぎるから。ていうか
この時代ではおそらく殆ど不可能で現地調査するしかないんじゃないかな。
ために、蜀志は非常に乏しい分量にならざるを得なかった。
一方、呉には史官が置かれたために既に「呉書」が書かれており、
一編の書物となったそれは勿論洛陽に伝わっていた。
陳寿の呉志部分はそれに多く拠った(拠らざるを得なかった)ため、
蜀に比べても多く記述することが出来たが、同時代史である「呉書」の欠点を
ダイレクトに引き継いでしまった。
そんなとこかと想像している。
533 :
世界@名無史さん:2008/09/28(日) 10:22:58 0
多くの部曲を率いて帰順したといえば、雷緒。
しかしどういう人かもよくわからないし、帰順後の扱いもまるでわからん。
おれは雷緒=魏延とおもっている。
うぃきを見ると虎牢関とシ水関は同じ場所とかいてあるけど、
別のサイトによるとそもそも虎牢関という関があった記録がなく架空のものだとか。
それなら同じ場所でも別の場所でもどうでもいいはずだけど。
一方、現地には虎牢関古戦場なるものもあるらしいし、いったいどうなってんの?
後付けなんじゃね?
赤壁なんかもそれっぽいよな。
赤壁は結構早い時代から長江沿いのあちこちが赤壁を名乗ってるから
当時から赤壁って名前だったんじゃないかな
夕陽に燃えるような崖とかなんとか(適当)
537 :
世界@名無史さん:2008/09/30(火) 12:20:03 0
>>530 馬超も許靖も中原での有名人。
こういう名士・有名人を厚遇しておかないと、周囲から有能な人間を使わない
ダメ政権というレッテルを貼られる。投降した人間も比較的対敵国用の宣伝とし
位階は高くなる。魏における黄権や蜀における夏侯覇そうだね。
538 :
世界@名無史さん:2008/09/30(火) 13:18:54 Q
>>534 虎牢に関があるという記述が現れるのはもっと後のこと。
だから存在しなかったとは即座には言えないが、
ともあれ三国時代までに「虎牢関」が争奪の的になったという記録はない。
539 :
世界@名無史さん:2008/09/30(火) 16:08:26 0
>>533 確か出身地が違う気がするのだが・・・・・・・・・・・・・・・・
黒駒は悪く描かれ過ぎだよね。天田愚庵と神田伯山が悪い。
541 :
世界@名無史さん:2008/09/30(火) 19:31:38 0
陳到は名声は趙雲に次ぐということだけど諡号はない。
朱霊も名声は徐晃らに次ぐというけど諡号はない。「次ぐ」という言葉かなり
曲者だね。句扶も名声は王平に次ぐということだけど簡単な記載で字も記載され
ていない。名声が数値化できたらポイント数で相当差があるのでは?
趙雲は建国の功臣だけど陳到は単なる古参の家臣でしかない扱い。
いったい何がこれほど差をつけたのか。
542 :
世界@名無史さん:2008/09/30(火) 20:17:16 0
陳到は伝記すらないな・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『季漢輔臣賛』に趙雲と一緒に賛が記載されている。
一応は劉備が流浪時代からの将軍だから忠誠心は強かったみたい。
226年頃は存命で、永安に駐屯して李厳の配下だったことくらいしか
わからない。
543 :
世界@名無史さん:2008/09/30(火) 21:55:21 0
霍しゅんなんか決して名士ではないだろうし地縁をもってた人とは思えない。
それでも劉備が墓前で一泊して。
列伝に入っていて。
かぼう関?を守り抜いたという事があの時期の劉備にはよほど有り難い事であったのだろう。
陳到は知られる限り征西将軍・永安都督。
蜀漢が後漢末の慣例を継いで四鎮を雑号将軍の中でも高位に置いていたとしたら、
やはり当時の趙雲・魏延とは格が落ちる人物だったということで間違いないと思う。
ただ劉備が荊州に来る前から従った生粋の武官なので趙雲の輩と看做されたんだろう。
記録が残っていなかったのもあるだろうけど、純粋な武官の扱いが低いのは
この時代としては仕方ないのかもしれない。
日本の武将で考えてみよう。例えば豊臣秀吉の臣下。
趙雲はさながら加藤清正か。
陳到は加藤嘉明だろうなぁ。
546 :
世界@名無史さん:2008/09/30(火) 22:34:40 0
むかしの話だけど。
オレ。小学校一年生のときに子供向けの本だったけどはじめて三国志を読んだ。
夏休みの読書感想文。
さんごくしをよんで。
りゅうびとかんうとちょうひのさんにんはきょうだんのちかいをたてるのです。
そしてそうそうとたたかってしょくのくにをたてるのです。
えらいな、とおもいました。
そのときの担任の教師が書いたコメント。
「なにをかいているのかわかりません。」
かなしかった。
549 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 17:32:13 0
>>544 呉壱に関しては事跡が伝わってないから伝記を立てなかったと明示している。
陳寿としては結構活躍した人だし、高官で外戚だから伝記は立てたかったのかも
しれない。
だけど陳到に関してはそういう記述もない。
関羽・張飛・趙雲・孫乾・簡擁といった劉備流浪時代の家臣は裏切った人以外は
伝記があるんだけど、全く陳到だけは無い。古参だからといって活躍した訳では
ないんだけどなあ。
550 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 18:46:14 0
>>543 敵の領地に孤立してた状態だったからな。
下手すりゃ全滅の可能性も十分あったわけだ。
それと、諸葛亮・張飛・趙雲が長江遡って諸県を平定しなかったらやばかった
だろう。
551 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 20:08:07 0
劉備が戦下手だったのは確かなんだろうなぁ。
だが諸葛亮が軍師的才能がそんなに有ったかというと。
曹操相手に漢中攻略戦で見せたあの戦略のさえは誰のものであったのか。
黄権がその主であると考える小説家もいるが。。
魏延こそそうだったんではないかなぁ。
だからこそあの抜擢があったのだとおもうなぁ。
552 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 20:16:49 0
字というものがしばしば名と関連している事をこの間知りました。
諸葛亮 の 亮 は 月亮々たり。とか言う様に光が周囲を照らす形容詞。
だから 字は 孔明=はなはだ明るし。 としたんだと。
徐晃公明なんかもそういうことなんだろうな、と。
魏延文長もそういうかんじ〜?
関羽雲長もそうかな? 羽ばたいて雲長し。なんつって。
張飛翼徳(益徳だけど)もなんか関連してそう。
どうなの?
553 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 20:55:08 0
>>551 諸葛亮の軍事的才能は高かったと思うよ。
ただ、三国志演義のような奇想天外な奇策を使うような才能は名かっあけどね。
野球の監督で言えばランナーを確実に進め、守りを重視する正攻法を用いるタイプだね。
陳寿の批判は奇策が得手でなかったということで、軍事的才能が無かったとは言っていない。
軍事的才能が無ければ司馬忠達や張合相手に戦えないし、しばしば追撃軍を撃退したりはで
きない。姜維が大勝もしたけど大敗もしたのとはだいぶ違う。231年の祈山の戦いでは
局地戦では勝利している。兵力が劣るのに名将相手にこれだけの戦いができるのは軍事的
才能が無いと不可能。
554 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 20:59:53 0
そこが不思議なんだよ。
軍勢を指揮する才能、駆け引きをする才能ってのは 諸葛亮みたいな書斎の君子の得手とするところではなくてさ。
それこそ霍峻みたいな人間の得意とするところなんだとおもうんだよね。
555 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 21:00:31 0
>>551 法正と黄権の存在が大きかったのでは?
基本計画は黄権、戦闘指導が法正という感じかな。
東征で戦略に長けた黄権を別働隊にした時点で蜀軍敗北は決定的になったのでは?
法正も既に亡く、劉備に戦闘のアドバイスする人もいなくなったしね。
しかも張飛は戦闘開始前に暗殺されたし、趙雲・魏延といった名将の参加もない。
556 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 21:08:09 0
不思議と諸葛亮は実務家であったみたいだけどねぇ。
そういう能力をどこで養ったのだろう。
若くして荊集まで一族を率いて逃れてゆく経験をしているから、それぐらいのことは当然なのかもしれないが。
557 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 21:08:22 0
>>555 群雄割拠の状態だと1回の戦闘の勝敗で様相がガラリと変わるけど、
お互いに国の基盤ができあがった国家間の戦争となると、個々の戦闘の
駆け引きではどうにもならない。諸葛亮が丞相になったときは既に国家
間の戦争。
曹操は赤壁で負けても魏は滅びなかったし、蜀も東征で大敗しても滅びなかった。
ダメージがあっても政治がしっかりしてれば立ち直ることもできる。
>>549 最後の一文の意味が取れないけど、
活躍=武功で良いのならば、武功の無い人間に永安督なんて部署を任せるはずがないだろう。
蜀書に伝が立てられている人物を調べると、純粋に武門にて出世した人物は
関羽・張飛を別格にすると黄忠、趙雲、魏延しかいない。
歴史的な評価での武人の地位というのはこんなものだったのだろう。この三人が特異な部類なんだ。
流浪時代にも蜀建国後にも、文武を問わず人材は数多くいたはずで、
蜀建国まで残った人物が伝を立てられている10人未満+陳到だけのはずがない。
だが、史書として編纂される際には多くが削られて名前も残らず、
特に武人は小勢力のうちに重用されれば良いが組織が安定してからは士人に上位を占められてしまうため
埋没の度は甚だしかっただろう。陳到という人物は、そういう荒波に耐えて史書や賛辞に名を残す
境界線のぎりぎりの地位にあったということなんだろうよ。
559 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 21:59:35 0
20代後半で劉備に仕えた諸葛亮がどこで実務の能力を鍛えたのか
というのは確かに不思議な問題だよな。
知識としての政務軍務は当然士大夫教育の基本素養ではあったけれど、
207年ごろに劉備に仕えて(といっても属官になったわけではないようだ)、
210年ころまでには軍師中郎将・督三郡
213年には指揮官として実戦参加
214年、軍師将軍・左将軍府事
218年、漢中戦で兵站担当。
明らかに将帥・長吏たることを期待されて任用されてる。つーか何このバケモノ。
荊州争奪戦のころに劉備の下で下積みしたとしても、
やはりそれまでにそれなりの規模の部曲を率いていたのだろうか。
でも父を失って叔父に頼り、豫章・荊州と移ってから独立した人間がどれほどの
財産を持っていけたかというと甚だ怪しいわけだが…。
560 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 22:02:06 0
陳到さんの偉さはみんなにはわからないみたいだけど、おいらにはわかる。
陳到さんは「地上の星」なんだよ。
陳到さん、くじけるな〜
561 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 22:02:24 0
>>561 それじゃ遅いんじゃね。「部曲や宗族を指揮・管理して実務の経験を積む」には。
それに、娘を一人貰って財産がどれだけ付属してくるのか…いや不勉強ゆえ判らないけど。
563 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 22:11:02 0
不美人でも性格が良くかしこい女の人を娶った。まさに実務家なのである。
564 :
世界@名無史さん:2008/10/02(木) 22:23:30 0
孔融みたいに名声のみで実際の能力はまるでないのも多かったんだよな。
>>556 諸葛亮の場合、単なる官僚畑を歩もうと志していたわけではないようなので、
左伝をはじめとした史書の他、兵書等、多くの書から過去の戦役を数多く学んで
いたという可能性も皆無ではないのかもしれない
たとえそれらが机上の学問の範疇を超えないにしても、本腰を入れて検証や
考察を深めていけば、戦場における機動や持久、兵站の重要性などが
如何なるものか、重要であるかなどは学びえたのかもしれない
尤もそれらを入蜀以降に実践していったとしても、長く戦場経験を積んできた
人間がもつ独特の感性なんかまでを培う時間的な余裕はなかったろうし、
劉備が歿した後の蜀の内情や魏との格差も踏まえれば、不確定な要素や
可能性といった部分を感覚的に計量して投機的な作戦を立てる事ができなかった
んじゃないかと思う
この辺はやっぱり諸葛亮個人の資質だけの問題とは思えない気がするわ
>>565 後年に至る諸葛亮の「得意分野」の話になるなら、個人的な資質の面が大きいと思うな。
荀攸は(196年以降)曹操に呼ばれて汝南太守になるまで、実戦どころか軍務経験さえゼロだよ。この時40歳近い。
それで張良・陳平に次ぐと言われる智謀を発揮した。
それに比べれば若くから軍事に身を置いた諸葛亮が「応変の軍略は得手ではなかった」というのは
慎重で実直な(堅苦しい)性格によるものだろう。
個人的には洒落者だったらしいからなんの面白みも無い人間だったわけではないようだけど。
567 :
566:2008/10/03(金) 00:00:50 0
あ、ごめん。ちょっと読み違えた。
蜀漢の国力や政情を考えれば、諸葛亮が投機的な作戦を実行するのは無理だった、
という点には全面的に同意する。
>>551 劉備が戦下手っていう評価もどうかと思うけどね。
曹操が俺の同類だけどちょっと閃くのが遅いかな、みたいな話を実際にしたかどうかはともかく、
各地で雇われ将軍やってVIP待遇受けてる事実だけでも
同時代の群雄から軍事的な才能を評価されてた傍証になりうるし、
ざっと記録だけ追っても特に長期間戦争を継続して軍団を破綻させないって分野では
劉備の能力は同時代で群を抜いてる。
徐州防衛、蜀攻略、ついでに呉討伐、どれもまともな補給もできなさそうな状況なのに
ほぼ間断なく戦い続けながら年単位で軍を維持できてるってのはちょっと基地外じみた才能だ。
気合や人徳でどうにかできるレベルの粘り強さじゃないから、
少なくともロジスティックス的なそろばん勘定に異様に長けてて
非常時の統率力ととっさの判断力には恵まれてたんだと思う。
569 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 10:17:05 O
下手ではないには賛成だが…
雇われ将軍やってVIP待遇受けてる事実だけでも←劉備の名声(下手に扱えば悪人になる恐れ)と前線での関、張を含めた利用価値で
ざっと記録だけ追っても特に長期間戦争を継続して軍団を破綻させないって分野では←破綻してると思うが??
徐州防衛、蜀攻略、ついでに呉討伐、どれもまともな補給もできなさそうな状況なのに
ほぼ間断なく戦い続けながら年単位で軍を維持する←劉備より後方支援した者の力だと言える
個人的には漢中戦を評価しています。
天竜川で次郎長が都鳥をやっつける様はかっこいいよね
知多で保下田の久六に誅を下すのに並ぶ仇討ち
演義から離れよう。
劉備の戦績の前半生で関張の存在が劉備への評価を左右したことはない。
劉備、というか関羽張飛は少なくとも戦は強かっただろう。
573 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 21:01:34 0
諸葛亮という人は本当に統一を目指して北バツしていたのか?
実はちがうんだろうと思っている。
574 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 21:12:35 0
劉備の本当のチャンスは徐州を手に入れたときだっただろう。
だけどそこで曹操、呂布に競り負けた。
本当はもう終わった人だよな。新野時代の劉備なんて。
ひ肉の嘆。なんて夢破れた中年のおっさんの絶望のうめきだよ。
だけどそこに「あんたには再挑戦のチャンスがまだありますよ。」とそう言ってあげたのが諸葛亮。
魏の支配体制の不安定さから言って、雍州での局地戦で大勝し西方軍と洛陽からの中軍をを壊滅させて
長安以西を支配下に治めることができれば、「夢」ではなくなる。
おそらく魏は豊かな冀州を根拠地にしてまさに三国「中原に鹿を追う」体勢に入るだろうから
その後の展開は水ものだけど。
少なくとも諸葛亮の時代では、北伐というのはそれほど馬鹿げた遠征ではなかっただろう。
576 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 21:20:46 0
劉備が益州というものの存在を知らなかったはずがない。
しかし劉備は歴史は知らなかった。
だが諸葛亮は歴史を知っていて、何より荊州に住んでいたから楚の国の住民が中原の国や呉の国に上に絵立たれることを潔しとしていない事を知っていた。
つまり中国って国に荊州を境にミシン目が走っている事を知っていたんだ。
>>574 あの時点で北を睨み続けて五年、新野一城のみで未だ中原の隙を窺い覇を争うつもりで時間を費やすばかりだった劉備に、
「南と西があります」と本当に三分の計を持ちかけたのなら、諸葛亮の慧眼ってのはちょっと想像を絶するものがある。
578 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 21:23:40 0
三国鼎立が実際に可能であることを劉備に説明できた。納得させる事が出来た。
それが諸葛亮の才能だよね。
579 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 21:25:50 0
他人に納得させる様に説明できた。実務家だからだよね。
580 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 21:36:03 0
きっとあの時代、劉備にだっていろんな意見を聞かせにくる遊説家がいただろう。
こいつをタネに一旗オレもあげるぞ。という手合い。
そんなモノ達の空想は聞き飽きていたことだろう。
だからこそ三顧の礼だよね。
あれだけの手間をかけた。諸葛亮の方も。
そしていきなり軍資金を自分のコネで準備してみせた、荊州の人民との仲立ちをしてみせた。
実務家なんです。
口だけの人ではなかったんです、諸葛亮は。
えらいなぁ。
>>580 あなたももうちょっと実務家っぽく話してくれw
軍資金や荊州人との仲立ちというのは初耳だし、諸葛亮にそれは無理だったと思う。
荊州人士が曹操でも孫権でもなく劉備に集まったというのは(話半分に聞いておくべきだろうが)、
左将軍・豫州牧としての名声信望だろう。それから劉gを荊州刺史に立てて劉表の後継者とアピールしたこと。
諸葛亮は荊州争奪戦以前ではその才知を認める者が少なかった。独立の伝を立てられるほどの士人なら
「誰某に招聘されたが断った」とかいう逸話があるものだが、諸葛亮を認めた著名人として名前が残るのは
師や友を除いては劉備と劉gくらいしかいない。
しまった、大事な黄承彦を忘れていたな
嫁を貰ったのはいつの話なんだろうなあ
583 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 21:49:05 0
私は実務家じゃないしぃ〜
ただ、諸葛亮が保証人になって地元の富豪から軍資金を借りたのは有名ではない?
あれって作り話?
裴注三国志でも演義でも記憶に無いなあ
襄陽からすっとんで逃げて当陽で負けて、おそらく官位とか名分とかを盾に
夏口の劉g軍を吸収してそのまま赤壁の流れだから軍資金も何もなかったと思う。
江陵攻防の期間に入れば反曹操の豪族がこぞって集まってきただろうし。
585 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 21:56:14 0
いや。
演義ではなくて正史で読んだ事が有るんだよ。
586 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 21:58:48 0
新野時代のことだよ。
見つからない。解らん。
588 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 22:11:23 0
諸葛亮が保証人になれるくらい世間の信用が有ったのは事実だよ。
589 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 22:14:51 0
その事実がどこに書いてあったのか頼む
別にちくま三国志の何ページとか指定しなくていいから
豚切り失礼します。
最近三国志を読んでみたくなったんですが、
お薦めの本というか初心者でも楽しめる本は有りますか?
三国志は学生の時に授業で触れた程度です。
スレチならスルーして下さい。
歴史書、古典、小説、漫画。どれを読みたいのか。
世界史板的には、入門書はちくま文庫「正史 三国志」以外にないけど。
>>591 さっそくのレス有難うございます。
出来れば小説でお願いします。
593 :
世界@名無史さん:2008/10/03(金) 22:26:25 0
吉川三国志でいいんじゃね?
読みやすい。
有難うございます。
明日本屋に行ってみます。
スレチ失礼しました。
>>595 またまた有難うございました。
では失礼しますノシ。
正史自体、史実とは言い切れないけどね。
袁紹の記述とか。
何寝言言ってるんだ。
正史とは正しい歴史という意味ではないし、
根源的に歴史は「かつてあった事実」を決して記述できないというのは基本だろう。
599 :
世界@名無史さん:2008/10/04(土) 11:16:23 0
正史=公式見解
>>595 初心者に宮城谷昌光とか北方謙三とか教えたら駄目だろ…
スレ誘導だけしてあげたほうが親切というものだ
>>595 もういないだろうが、念のため
基本は三国志演義の訳本(岩波とかちくまとか)。小説としては吉川英治。
601 :
世界@名無史さん:2008/10/04(土) 11:59:32 0
最近はいきなりゲームから入ったりするからね〜
602 :
世界@名無史さん:2008/10/04(土) 14:16:44 0
字の命名法則などはありますか?
どういう意味で、どういう漢字を使うなどの、解説された本は何かありませんか?
女性には字は付かないのですか?
字に誓ってはいけない漢字などはありますか?
603 :
世界@名無史さん:2008/10/04(土) 14:24:14 0
字は親子で同じ漢字を受け継ぐ事は無い。
兄弟間は割と同じ漢字を使ったりする。
あとは伯仲叔季ね。
>>602 具体例を数個あげる程度のサイトならあちこちにあるが、網羅したような本は聞いたことが無い
女性は成人(二十歳頃)の時つけるとか、婚約したときにつけるとか聞いた、
そのうち早いほうを実行するのか、どっちかが間違いなのか、俺は知らない
法則ってわけじゃないけど有る程度のパターンはある。
>>603の以外では、
意味のつながりでつけることが多い。古典にある文字の並びをそのまま使ったりもする
前者の代表的な例は、周瑜-公瑾と諸葛瑾-子瑜(瑜も瑾も美しい玉という意味+偏も同じ)
後者は俺の推測だけど、関興-安国とかがそれに当たると思う
兄弟は偏をそろえることも多い。親子は偏も同じにしない。
特定の誰かの字の意味が知りたいとか、小説の人物の名前で悩んでるとかだったら
漢和辞典を調べればいいよ。ほとんどの人は意味が繋がってる
名も字も時代ごとに流行りがあるようだから概括的に言うのは難しいだろうな
逆に言えば本一冊書けるネタだとは思うが
>>603 >>604 >>605 ありがとうございます。
字とは、自分でつけるのですか?他人がつけるのですか?
卑しい文字とか、使っては駄目な文字とかありますか?
日本人には字は付かないのですか?
607 :
世界@名無史さん:2008/10/04(土) 23:15:16 0
もちろん字は自分でつけるんですよ。
本名、幼名は親とかがつけるけどね。
日本人には字というものはありません。
でも似た様なものは有るけど成り立ちがちがう。
>>605 俺の場合三国時代しか知らないから他の時代と間違うことはなくて安心だぜ、ある意味w
>>606 孫休伝の注にこんな詔が載ってる(一部抜粋)
「名や字は師友や父兄が付けたり、自分で付けたりするが、(略)
師友はともかく父兄が立派過ぎる名を付けるのは間違いで、自分で付けるなど不遜の限りだ」
使って駄目なのは既に出てるだろ。親やおじや先祖の名や字と同じ文字。失礼だから
同様に皇帝や主君や師匠の名や字と同じ文字も使わない
特にこの文字が卑しいというのは自分は知らん
呂蒙が暗いという意味の名なのに子明という反対の意味の字をつけていることから想像すれば、
わざわざ元々悪い意味を持つ漢字を字につかう奴はあんまりいないんじゃないか
あとは本当の良家の娘は女っぽい名・字ではなく男と同じような名・字をつけるらしいってくらいか
日本人も昔は身分のある人は付けてた。スレ違いだから日本については他のスレに行くか自分でググってくれ
609 :
608:2008/10/04(土) 23:25:53 0
被った。俺は日本については詳しくないから(成り立ちまでは知らん)無視してくれ
610 :
世界@名無史さん:2008/10/04(土) 23:32:02 0
いや。
日本人の字があるのかどうかは私も断言できない。
611 :
世界@名無史さん:2008/10/04(土) 23:36:49 0
字ってものはね。
古代は無かったものだよね?
たしか漢字2文字の姓名のみでは人口が増加した漢代には同姓同名が多くなってきて、字というもので区別する必要が出てきた、となんかで読んだ。
>>611 話混じって無い?
昔は字は1字だったが同じ字が増えて2字になったとかなら聞いたことあるけどなぁ
字は本来人を区別するためのものではなくて言霊信仰に由来するものだから、
(本名を呼ぶことはその人を支配することになる→親とか主君しか呼べない
日本でも万葉集では女に名を問うことが求婚を意味する)
昔字があって現代では使わないわけで、だったら昔のほうが必要性は高かったんじゃないだろうか
周の人物でも字あるみたいだよ。全員かどうかは知らないけど
他にも曹操の阿瞞とか小字(幼名)ってのがあるよな
614 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 00:06:30 0
それなら日本もおなじだねぇ。
忌み名=本名をよばずに 源太とか平次とか弥太郎とかっていうものね。
615 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 00:14:26 0
>>608 ありがとうございました。
先祖と同じ物が駄目というのは、儒教ぽいっですね。
西周以前の記録は錯綜してるから、公式記録として残ってる情報が少ないんだよな
太公望にしたって姓が姜姓で先祖の封地が呂だから姓を呂にしたとか、
名は望だ、いやいや尚だ。
じゃあ号が太公望だ、いやそれゃおかしくね?とキリがない。
ちなみに字だとされてる子牙は古い記録には出てこない。
617 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 00:26:46 0
項羽の羽は字なんだよね。
>>613 小字はほとんど伝わってないからなぁ…
曹操の小字・阿瞞(嘘つきという意味)は『曹瞞伝』の記述だから信用ならないって話もあるが、
曹爽の小字は「黙」だっていうし(静かという意味もあるが)、
日本にもある、悪い名前をつけたほうが悪霊に攫われにくいっていう考えでつけたんじゃないかと思う
呂蒙とかも同じ理由なのかねぇ
>>616 言われてみたら子牙ってあんまり古く感じないな。牙だけならまだしも
>>611 俺は
>>612だけど、考えてみたら
本名を避ける必要性は古代の方が高くても、代わりが字である必要性はないな
三国志の部将達がそうであったように、役職名で呼び合ってたのかもしれん
だから
>>611を否定したのは間違いだった。ごめん
>>617 確実に字があったと言えるのは秦末なのかねぇ
日本の場合
徳川・・・苗字 次郎三郎・・・字 源・・・氏 朝臣・・・姓 家康・・・諱
中国の場合
先秦時代(主に東周)
子・・・姓 孔・・・氏 丘・・・諱 仲尼・・・字
秦漢〜中華民国くらいまで?
曹・・・姓 操・・・諱 孟徳・・・字
日本と中国じゃ姓と氏の成り立ちが違うらしい。
諱と字のニュアンスは似てるけど、日本では字と名を並べて名乗ることも多い。
次郎三郎は字ではないのでは?
>>620 一応、通称=あざな=字だから、忌み名を避ける意味で字ともいわれていた。
日本人で字っていうと、
貝原益軒の子誠とか、藤原惺窩の歛夫とかじゃないの?
スレ違いですまんけど。
>>622 そっちは中国かぶれで中国風の字を付けてるだけ
日本であざなといえば通称の方でとられる
>>602 礼記」の「曲礼」に
「男子二十冠而字 父前子名 君前臣名 女子許嫁 笄而字」
とある様に、男は二十歳で加冠を迎えて成人し、そこで字をもつ。
女は十五歳で成人し、結婚すると笄を用いて字をもつ。
命名に際しては国名、日月干支名、人目に触れない傷や病名、山川名などは
用いるな、というのが一般的。
また、「春秋左氏伝」には名をつけるうえで五つの法則がある。
「信、義、象、仮、類」の五つで、
信‐生まれながらに(身体に表示されていたり)もって生まれる。
義‐将来を言祝ぐ意味合いをもたせた。
象‐容貌にちなんで。
仮‐誕生時にまつわる物にちなんで。
類‐父と関連性をもたせて。
のいずれかに則って名づける、ということらしい。
もうひとつ、名、ことに君主の系統が用いてはならない字としての原則もあり、
「國、官、山川、隠疾、畜牲、器幣、を以ってせず」、とあり、
国名、官名、山川名、病名、祭祀に用いる犠牲の名、礼物に用いる器物や
玉帛名、これらは禁じられてる。
尤もこれらは漢代ではだいぶ廃れた様だが。
626 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 16:18:25 0
>>578 劉備は諸葛亮が家臣になって初めて計画的行動をやるようになった。
それまでは場当たり的でしかなかった。赤壁後の荊州南部占領、益州占領から
漢中占領まではほぼ諸葛亮のプラン通り。
気位が高い関羽も諸葛亮に関しては一目置いていたことがわかる。
馬超が劉備陣営に加わった時、馬超の力量はどれ程かと諸葛亮に尋ねている。
一目置いているからこそ諸葛亮に手紙を書くのだし、その一目置いている相手
があんたの方が上と返答したのだから大喜びだった。旧知の人間なら諸葛亮
以外にもいるし、軽んじている人間がお世辞言っても気位の高い関羽はそうは
喜ばない。こういう間接的エピソードにも諸葛亮が如何に特別な存在かがわか
るように『蜀志』は書かれている。
627 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 16:22:56 0
中国って今でも地方ごとで言葉が通じなかったりするって言うけど
この当時はどうだったの?
劉備って今でいう河北の出身で孔明は山東だよね。
現代の北京語みたいなのがあって共通語として使われていたのかな。
628 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 16:38:39 0
>>627 あるとしたら黄河流域の中原地区の言葉だろうね。
後漢の首都が洛陽だから、そのあたりの言葉が都の言葉だったかもね。
日本語でも方言がきついと意味だわからんけど、慣れてくると解るように
なる。そんな程度の差でない?
>>574 諸葛亮は長江流域の経済の潜在能力を見抜いてたとも言えるね。
後に荊州は中国でも有数な穀倉地帯になったし、益州も商業が盛んな地区に
なったしね。荊州は失ったけど、中原を完全に抑えていた魏に対してしばしば
攻撃を仕掛けるのは経済力が無いと無理。「天下三分の計」も要約すれば荊州
と益州の地理・経済的重要性を説いたもんだし、しかも治めている君主が暗愚
だから早く奪えと勧めた話しだから。
>>627,628
少なくても現代日本語の方言のレベルではないはずだよ
現代でも「私は六ヶ国語が話せます」って言うとき北京語(普通話)と広東語は別に数える
別言語と見なす理由は通じないことだけでなく、国土の広さと使用人口があるだろうけどね
近代日本では学校教育を一応標準語で教えているしテレビ・ラジオ等があるから、
沖縄・東北の人でも標準語を理解できるし、若い人を中心に意識すれば標準語に近い言葉を
話すことも出来るけど、それはごく最近のことだろう
当時は一部の官僚が出身地を離れるだけで、下っ端役人等大多数の人間は出身地で働く
方言は現代よりもキツかったはずだよ
未成年の頃に都に遊学したお坊ちゃんや、中原に勤務したことのある人物や、
出世コースを夢見て中原の人と接して中原の言葉を身に着けた人もいるだろうけど、
劉備陣営は基本的に口頭では通訳を使うか、
かなり努力して荊州・益州の言葉を話せるようになったんじゃないかな
伝達ミスが無いのは筆談で、全国どこでも識字層には通じるから、通訳よりは筆談を選んだかもしれない
630 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 17:13:09 0
天下三分の計がいつ頃世間に公表されたんだろうね。
631 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 18:43:35 0
633 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 19:12:38 0
>>577 そうでなければ劉備が死ぬ間際に劉禅が不才なら国を奪えとはいわなかっただろう。
諸葛亮がいなければ一国の主になれなかったのは自覚してたのさ。
それと、劉禅は後世で言われている程暗愚では無かったと思うよ。
諸葛亮・蒋苑・費偉と言った名臣を左遷することもなく信頼してたし、気に入らなかった
董允も左遷はしなかったしね。在位が長くて晩年政治に飽きたという感じじゃないかな。
孫権なんかも晩年はとても褒められたもんではない。孫権在位期間に呉が滅びなかったから
三国の英雄扱いだけど、晩年だけならかなり暗愚な振る舞いが多い。
劉禅の決定的な欠点は自分で人材を見極められなかったこと。
ここら辺は17歳で帝位についた坊ちゃん育ちには無理だったんだろう。
父親みたいな艱難辛苦を経験してれば身についたかもしれんけどね。それと
劉禅の代で国が滅んだから必要以上に悪く言われたけど、晩年の孫権の振る舞いや、
孫碧の暴虐なんかに比べるとそんなに暗愚だったかという感じがする。
>>629 北と南で発音が大きく変わったのは、南北朝以降、
北方民族が入ってきてからだとか聞いたけど。
635 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 19:28:45 0
始皇帝が全国統一後にしたことが漢字の統一。
文字ですらそうだったのだから読む方は方言がかなり有ったんじゃない?
でも、通訳が必要だった、とかっていうかんじではないんだよなぁ。
支配層は共有する文化をもってたからかな?
科挙ってものを受けるわけでしょ?
636 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 19:35:42 0
劉禅には二代目の限界があるのだねぇ。しかたないよ。
良きに計らえ。で押し通したよね。
語順や文法が同じで読み方が違うだけなら、そのうち慣れるんじゃないか?
638 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 20:22:12 0
いずれにしろ英語と日本語ほどの差はないだろうな。
639 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 20:37:01 0
>>558 まあでも、蜀はそれなりに武人は出生した方では?
趙雲・黄忠は関羽や張飛と並んで列伝を立てられる程の評価になったし、
文字が10文字程度しか知らない王平も外戚の呉壱の後任を勤める程
出世した。王平と並び称せられた句扶も武人だろう。姜維も名門出身という
わけではない。列伝に武人が占める割合は結構高いよ。
640 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 20:53:06 0
馬謖を軍司令官としてでなく文官として用いたら評価されたかな?
641 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 21:47:21 0
天下三分の計があったとして。
それが世に知られる様になったのは当然、三国鼎立後だよね?
642 :
世界@名無史さん:2008/10/05(日) 21:53:28 0
入蜀前とか蜀奪取直後にばれてたら世間から総スカン食うよね?
宣伝は勿論していなかっただろうが、
劉備が蜀に来るって時点で聡い人間は気づいたし
楊懐高沛を斬った時点で誰もが悟っただろう。
644 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 00:12:13 0
群雄の1人が他の群雄の為に戦うわけないからね。
645 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 00:25:18 0
群雄なんて括りは後代から見た類別に過ぎないよ
臧覇、太史慈、ホウ義、張燕、劉勲、張魯、張粛、馬超、楊秋、皆自立したか自立を試みたが、
結局帰順してある者は「他の群雄」のために戦っている。
張粛じゃない、張繍だ
647 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 00:37:50 0
>>634 いや南北朝よりず〜〜〜っと昔から発音に違いはあった。
むしろ南北朝時代に北支那から人民の流入があったから、違いは無くなったほう。
やはり今ですら発音は大分違うのだから、千八百年前ならより違いは大きいだろう。
通訳、筆談が必要なくらいに。今の日本語と中国語並みの違いはあったんじゃなかろか。
>>648 最後は「あったんじゃなかろか」というただの推測なのに、
前半の断定の根拠はなんなんだろうか?
651 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 11:05:46 0
>>641 早くとも諸葛亮没後の話しだろうね。
ただ、考え方自体は魏の方も気がついてた可能性が高い。
劉備が漢中を攻略し、関羽が北上した時に、関羽と孫権が不和なのを利用
して荊州を呉に攻めさせるよう計略をめぐらしている。
ただ、呉が鮮やかに荊州南部を瞬く間に占拠するとは考えていなかったかも。
戦いが長引き共倒れを願っていたと思う。
情報化された狭い日本ですら通じにくい方言があるというのに、広い国で方言が少ないということはないだろう
漢民族が中国全土に分布してから時僅かならいざ知らず
とはいえ
>>648の
> 今の日本語と中国語並みの違いはあったんじゃなかろか。
それはないw 語族が違う
同様のたとえをするなら、地続きで同じラテン語を基礎とするフランス語とスペイン語くらいじゃないか?
国境近辺に住む人は国境越えても言葉が通じるが、フランス語標準とスペイン語標準では通じないっていう
文字と文法が一緒なんだから、違うのは発音だけだろ
日本で言えば青森弁と鹿児島弁の違いをもっと強くした感じじゃね?
秦漢以降はその土地の統治者は中央から派遣されてくるから
地主階級や知識者層なんかは当然中央の言葉も身に着けているだろうし
>>653 > 青森弁と鹿児島弁の違いをもっと強くした感じ
それがどのくらいかで話し合ってるんだと思うが
> 地主階級や知識者層なんかは当然中央の言葉も身に着けているだろうし
「当然」の根拠は?
そもそも現代の中国語が地方ごとで通じないというレベルがピンと来ない人は
wikipediaで「言語のグループの一覧」を見てみるといいよ
日本語と中国語がどう内訳されてるか分かるから
日本なら、青森のズーズー弁のおじいちゃんでも沖縄のおばちゃんでも、
あっちの言うことは聞き取れなくても、こちらが標準語を話せば理解はしてくれる
現代中国語では北京と広東の人はお互いに通じない
文法だって北京語と上海語や広州語では結構違いがあるぜ。
>>655 地方毎の発音の境界は五代十国の頃に固定されたって話もあるから(地方ごとの発音はそれ以降も変化している)
標準語ってのはそれ以前に政治の中央だった黄河中流域の話し言葉なんだろ
だから広東で北京話すってのは、鹿児島で青森弁でしゃべってるようなもの
描き言葉は一緒でも話し言葉が違うってだけだから、一般的な鹿児島の人は青森弁を身に着けようとしないだけで
慣れれば何言ってるかは聞き取れるようになるって感じじゃねぇの
当時の雅言をある程度使いこなせるのって基本的に文字を解する階級以上だし、
ここで論じられてる民衆レベルでの地域的な言語の区切りっぽいものに関しては
揚子法言あたりをちょい読みすれば
単なる語彙レベル以上に全然違うってのはわかると思うんだが。
当時の山越とかはどういう言葉しゃべってたんだろうね。
意外と酋長クラスは楚系文字とか読めたりしてw
中華文明は、語族自体が違う遊牧型の北方民族と農耕型の南方民族が融合してうまれたものだから、
その伝播速度によって地方毎に語順変化の波があったし、歴史的に変化を続けている。
口語しか知らない庶人同士では筆談出来たとしても通じたかわからないな。
でも教育を受けた士人階級には、「古典」という強力な標準語が存在していて、
これによって少なくとも滞りなく筆談する素地が作られたと思う。
さらに古典は暗誦して覚えるものなので、先生が中央政界の経験者なら
その際に訛りはしっかり矯正されただろう(多分)。弁舌は士人の大事な教養だから。
話を最初に戻すと、劉備は、当代名の知られた学者であり初めに博士として徴されたほどの
人物に教えを受けたわけで、
少なくとも諸葛亮、許靖、劉璋、荊州士人らとの間では会話に苦労しなかったと思う。
>>657 中国の方言を日本でたとえようというのが無理なんだよ
661 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 19:56:02 0
>>659 廬植の門下にいたんだよね。でも優秀な生徒だったの?
不良少年だったという話はよく聞くけどな。
662 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 19:58:23 0
663 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 20:43:14 0
三国志の時代の荊州と益州なんて
異民族の居住区に中原の人が移住してきたみたいなもんだろ。
頻繁に会話する人達は中原から移住してきた中国人。
つまりそんなに言語の違いは無いのでは?
ま、山越とか南蛮とかには当然言葉は通じなかっただろう。
>>663 中原の人が移住してきたのっていつなのか教えて欲しい
呉語
声母
* 清濁の対立 - 他の多くの地域で失われた中古中国語音韻体系における全濁音が保存されており、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%AA%9E とウィキベディアに書いてあるところを見ると、古い中原音が残ったのが上海あたりの言葉。
北京語は元、清代に主に入ってきた北方音て言うことみたいね。
ということは、元より前は小異はあってもほぼ中古音体系でみんな理解できたんじゃないかねぇ?
もちろん
>ま、山越とか南蛮とかには当然言葉は通じなかっただろう。
である広州語は明らかに別系統だろうが。
>>661 劉備が教養を売りにしたことはない。人に認められたのは何よりも武勇とそれから盧植の弟子という体裁だろう。
だが名を挙げた青州時代以後は諸侯名士に歓待されて面と向かって侮られたことは無く、
陳登のような人物と認め合い、劉表、許子将と席を同じくして論談できたことから
少なくとも名士と交流するには差し障り無い教養があった事がわかる。呂布なんかもそうだけど。
それから、信憑性は不明だけど建業の地勢を見て官府を移すのを薦めたというのは
地理(今で言う風水のようなもの)の素養があった事を示している。
>>665 なるほど。当時は現代のように別言語ではなくて、一つの言語の訛りの範疇だったわけだ
端から端までの距離は日本の比じゃないから下々まで「みんな理解できた」かどうかはまだ分からないが、
知識人層は数年間学校に通っている間に自然と訛りを矯正できる程度だったかもね
>>665 その「中古中国語音韻体系」っての自体が長安や洛陽のような首都圏で
話された音韻のことであって、当時の他の地域の方言はまた別だよ。
>>666 南宋の陸游も「建康はまさに形勝の地で、重要性が分かっていない人は思慮が足りない」と言ってる
劉備のそれが本当ならまさに地理の素養であって、風水よりも実利的な話じゃないだろうか
風水というのは今では占いとしか機能していないが
本来地理と呼ばれて占いと実用的な学問が渾然としたもの(とあくまで現代からは見えるだけだけど)で
あり、その教えはマニュアルでもあった。
山河に囲まれた平野や盆地を「気脈が充実している」などと言って遷都を薦める事があるが、
それは同時に防御に向き、穀倉地帯を抱える土地だということでもある。
現代数学の定理みたいなもんだ。経書や兵書と同じく、教養として学ぶことで実地で応用する基礎とする。
劉備の件は事実かどうかはわからないけど、当時学問を学んだ人間が
判断基準として当時の基礎学問をベースにしていないということは無いと思うよ。
>>670 劉備の師匠盧植が得意とした書経は一種の治水の実用書・地理書だからな
劉備が一番学んだのは書経だったのかもしれん
>>668 >その「中古中国語音韻体系」っての自体が長安や洛陽のような首都圏で
>話された音韻のことであって、
それが今の上海あたりに残ってるんだから、「長安や洛陽のような首都圏で
話された音韻」が地方までいきわたってた証拠でしょ。
中古(唐代前後)に「長安や洛陽のような首都圏で話された音韻」が、
科挙教育などによって古来の地方方言を駆逐して現代中国語の多くのベースになったんだよ。
漢も後漢の頃は地方でも経学に通じた学者を輩出してるんだから
知識者層や選挙などで中央政界とつながりや進出をしていく地方の豪族階級なら
一般教養として少なくとも中央の言葉は扱えると思って問題ない
675 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 06:24:38 0
姜維は名将だったのか?
676 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 06:47:55 0
派手な戦功もあるけど大失敗もある。
トータルするとマイナスが多いと思う。
255年に王経を大破して、魏軍に5桁に登る将兵を討ち取る大戦果を
挙げたが結果はそこまで。結局は領土拡張にならなかったし、翌年には
逆に段谷の戦いで大敗。それ以降の遠征では何の戦功も無い。
677 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 06:49:59 0
秦の始皇がいまの南京(建業)のあたりを行幸したさい、王業の「気」がでているのをみて危惧したって話があったような。
出典は史記だったかな?ひょっとして史記の受け売りってことはないかな。
受け売りも何も、張紘は始皇帝の故事を引用して孫権を説得している。
その程度のことは一般教養だろう。
>>674 選挙といったって科挙ほど厳密じゃないからねえ。まあ全部筆談や
通訳ということは無いだろうけど、やはり多少は有った、と考える方が自然。
680 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 17:25:30 O
魏の五大将軍教えてくれませんか?
魏書第二十六に列伝がある満寵・田豫・郭淮・牽招+陳泰
682 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 18:47:47 0
>>680 張遼・干禁・楽進・張合・徐晃
この5人じゃない?
683 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 20:45:39 0
>>680 魏で大将軍になったのは
曹仁
曹爽
三司馬
の五人だけじゃないかな
684 :
世界@名無史さん:2008/10/10(金) 06:12:56 0
曹真も大将軍でなかった?
すると蜀漢は三大将軍だったわけか
出土品でも地域でかなり特徴があって面白いから、言葉にもあれくらいの地域差があったらいいなぁ
議論は楽しいけど、史書にエピソードが残ってないとハッキリしないね。前後の時代でも何か無いのかな?
「○○と△△は文字が書けないため会話には身振り手振りが必要だったが親交は厚かった」とか何とか
ちょっと思い当たらないなあ
逆に「文字は書けなかったが書物は暗誦していた」という話はよくある。
むしろここから解るのは、やはり書物を通して少なくとも政治的な言語は統一の度合いが高かったこと。
文字を学べなかったような環境で育っても古典を暗誦できるわけだから。
方言のような文化的な話は前近代の史書には殆ど残らないから、
それこそ揚子方言
>>658でも読んでみないとなんとも。
688 :
世界@名無史さん:2008/10/11(土) 01:39:31 0
689 :
世界@名無史さん:2008/10/11(土) 03:26:14 0
690 :
世界@名無史さん:2008/10/11(土) 05:23:50 0
丞相>大司馬>大将軍
みたいな序列でよいのかな?
蒋苑は大将軍→大司馬という昇進をしている。
そこで『三国職官表』ですよ。
夏侯惇 建安二十五年(延康元年)(220) ※同年に死亡
曹仁 黄初二年(221)車騎将軍より移る→同年大司馬へ移る
曹真 黄初七年(226)中軍大将軍より移る→太和四年(230)大司馬へ移る
司馬懿 太和四年(230)驃騎将軍より移る→青龍三年(235)太尉へ移る
燕王宇 景初二年(238) ※四日で免官
曹爽 景初二年(238)武衛将軍より移る→嘉平元年(249)免官誅殺
司馬師 嘉平四年(252)撫軍大将軍より移る→正元二年(255)死亡
司馬昭 正元二年(255)衛将軍より移る→景元四年(263)相国へ移る
夏侯惇は後漢の王国としての魏国の大将軍だね。あと黄初二年に孫権を大将軍・呉王として
いるけど、まあこれは名誉称号だわなあ。
692 :
世界@名無史さん:
大尉と大将軍はどっちが位階が上だったけ?