952 :
世界@名無史さん:2007/06/21(木) 23:08:48 O
>>943 北条氏の統治下って、年貢は安くても賦役が重くて逃亡する民も出たって聞くけど
>>952 曹操がどうのじゃなくってさ、袁氏の統治を懐かしんだってのは
好き勝手できた豪族くらいで、貧民層にとっては苛酷なんだってこと。
>>934みたいな誤解が多いから注意だ。
長いスパンで見たら北条がそんなに良いとも思えないがな。
>>954 ちょいと質問、良かったら二重に搾取され過酷だったってソース教えてほしいんだけど…
あまり信用がないらしい献帝春秋の記述ではかなり慕われてたようなんだけど…
武帝紀の建安九年九月とか。
それに袁氏を慕ったっていうのは当時甘い汁を吸ってきた豪族だから、
別に献帝春秋が嘘書いてるわけでもない。
法の運用がゆるいってのは、
権力を持った豪族らの不正行為を放置するってのと同じ意味なんだよね。
別に袁紹に限った話じゃないよ。
958 :
956:2007/06/23(土) 00:35:53 0
>>957 歴史的には、袁紹に限った話では無いんだが、200年前後で残った諸侯の中では、となるとまた変わるよね。
以下、領土順北から
遼東:公孫氏による専制
河北:袁紹は今までに当スレで出ている通り
河南:曹操は今までに当スレで出ている通り
涼州:馬騰・韓遂領には搾取できるような生産力が無いデース(餓死者、食物の奪い合いによる戦乱多数
荊州:劉表は着任当初に不平豪族を一掃した。が、多頭制からカイ、蔡、劉の3氏の寡頭制に変わっただけかも。
益州:劉焉は有力豪族に迎え入れられながら、彼等を全て粛清し、劉家による専制を敷いた。
揚州:北来名士と、揚州の豪族、孫家の権力闘争が呉の滅亡まで続く。
こうしてみると、袁紹と劉表と孫家って本当似てるねぇ。
>>959 似てるというかそれが普通だったんじゃない?
>>960 でも、戦乱にはいると同時に、群雄はやがて専制的になってるんだよね。
(そもそも劉焉が提唱した牧制度というのが、地方の裁量権を強化するものだし
そういう意味では、袁紹、劉表、孫権は稀有な気がする。
涼州でも強者による弱者搾取はあったよ。倉慈伝なんかに出てくる。
基本的にないことはないという感じ。
涼州の場合、誰かの支配権が確立した上での税収ではなく、群盗やらの略奪と収奪の繰り返し。
土地荒廃からくる飢饉で食えないから、有る所から奪ってるのに過ぎない。
他の地方の搾取とは同列に扱えない。
とりあえず倉慈伝を読んでから書くべき。
>>962>>965 倉慈伝の内容をここで書かずに、読めとだけ言われてもなぁ。
議論というのは、資料を提示する側が一次資料をどのように解釈しているのかも示さなければ進まない。
俺は一応読んだけど、話してる内容が他の人に分からないというのもある。
とりあえず以下記述。
倉慈伝
太和年間、倉慈は敦煌の太守となった。当時、敦煌は豪族達が好き勝手に振舞っていた。
古くからの氏族は広大な私有地を保有し、公民には耕す土地すら無かったという有様であった。
前任の尹奉らは旧態依然とした統治にとどまったが、倉慈は彼等を厳しく取り締まった。
倉慈は公民に土地を耕させる為、大豪族の所有地を官の物とし、戸数に従って土地をあてがった。
また、異民族の朝貢、交易を豪族が妨害していたが、倉慈は彼等に都までの通交証を与えた。
コレは官民間での土地所有権問題だな。
倉慈伝付『魏略』 顔斐伝
青龍年間(233〜237)、司馬懿は長安におり(孔明の第四次北伐の時にあたる)、
軍市(軍営の市場。定期に立つものではなく、軍が駐留する際に臨時に作られる)を立てた。
しかし、軍属の官吏、兵士は民を侮り、金品を奪う者が多く現れた。
司馬懿は腹を立て、事件を起こした者を鞭打ち、以後は軍属の者を厳しく扱った。
これは、軍令が行き届かず、駐留軍が乱行を起こした事件だな。
これらは辞書上での搾取(非生産層が、生産層から労働生産物以上の物を奪い通る)にはあたる。
が、他の州郡に存在する、豪族の恒常的搾取行為とは全く別問題であり、同列には扱えない。
つうか、
>>967書いて思ったが、
司馬懿は、駐留地の住民とトラブルを起こさない、という基本的な軍法も行き届いていない軍を率いて勝ち、
諸葛亮は、自ら立案した軍令を用い、そして行き届いていた蜀軍を率いながら敗れたのか。
ドンだけの戦力差なのかと… orz
正史スレなのに、倉慈伝とまで限定しても内容を書かなきゃ分からない、
自分で引用したものを読んでも官民間の問題だと読んでしまう…。
いくらなんでもそれはあんまりじゃないだろうか。
>>969 あんまりと言われてもなぁ、そもそも
>>965が倉慈伝の何処が該当するか述べて無い。
それに、文脈では氏族の私有地は先祖代々の物。元々公民が持っていたものを接収したとは書いて無い。
では、大氏族から倉慈が土地を奪った事を搾取と言って良いのか?
となると、これは基本的にGHQの農地改革と同じ事をやってるだけ。搾取には当たらないだろう。
論陣というのは自身で貼らないと意味が無いって。
倉慈伝は武帝紀などと違ってもともと分量少なく、
しかも豪族について書かれてるのはごく一部なのに、それでも該当箇所が分からない。
先祖代々の私有地であるとして、それがいかなる過程で私有されてきたか想像も及ばない。
倉慈伝に明記されてないから涼州民衆は搾取されていないと主張する一方、
他の地方の民衆が搾取されたと明記する史料も出さない。
「他の地方の搾取とは同列に扱えない」という主張を
根拠がなかろうが何がなんでも維持したいだけなんじゃないか。
よく分からないよ。
>>971 自分が記述を持ち出していないのに相手にそれを求めるの?
原文には、舊大族田地有余,而小民無立錐之土としか無いわけだよ。
富の偏在は明記されてるけど、搾取行為が実際にあったと取るのは、あまりに乱暴。
であるのでで、「涼州で搾取があったとはいえない」と述べてるのに過ぎないんだが。
読めといわれて読んだ。
ちくまはもとより、原文も探してきて読んだ。実際にそれもここで晒した。
他の土地で搾取が有ったというのは、俺のレスだけでなく、他のレスでも行われている。
一人だけが主張する論理と言うわけでも無い。
読んでみた結果、倉慈伝の記述は、涼州で搾取が有ったという事の論拠にはならない。
何故なら、文章の内容にそれを示唆する記述が無いからだ。
そう判断し、そのように主張するのがそんなにおかしい事だろうか?
そもそも、ちくまでも倉慈伝で「搾取」とは書いて無いんだが。
971じゃないですが、
倉慈伝の該当箇所には「太守の存在しない空白期間が20年あった。
大姓が雄張し、それがそのまま習慣になった。」という記述があるね。
これが、大族と少民の格差拡大の要因の一つであることは、十分読み取れる。
つまり、ここは搾取があったことを示唆する記述であるということだ。
文章の部分、部分のみを見て直接的な搾取という言葉が無いと言い張るのでなく、
文章全体の内容を考えないといかんよ。
>>971が言ってるが、自分の主張にガチガチにこりかたまってると、
どんな史料を見ても、自分の意見に沿うように、都合のいいようにしか読めなくなることは、
専門の先生でも陥ることがあるね。
涼州は確かに辺境ならではの特殊性を持っていると思うが、
だからといって、一方での共通性を頑なに否定する必要はないと思う。
>>974 倉慈の行為を正当化するためなら、大姓の悪事は誇張されてた方が曹魏側には都合が良い訳ですよね。
しかし、そのような作為的な正当化は成されておらず、大姓の直接的行為は明言されていません。
(宛城での侯音が乱を起こした際には、賦役が厳しかった事が武帝紀注曹瞞伝に明記されています。
倉慈は半ば強制的に土地を官に召し上げ、戸数に応じて再分配しています。(慈皆隨口割賦,稍稍使畢其本直。
本直の訳は微妙で、ここは意見が分かれるところだと思いますが、決め手にはならないように思えます。
以上の事から、本文中で倉慈の行為は政の本道に則った事によってのみ正当化されているように思えるのです。
976 :
975:2007/06/25(月) 10:41:10 0
侯音の反乱に関して。
高紀郷公紀注『楚国先賢伝』付応余伝、曹仁伝、ホウ徳伝、には曹瞞伝であげられたような賦役への言及は無く、
田豫伝では「侯音は郡で盗賊行為を働いた」などと、
今度は魏の政策を正当化させる、正反対の事項が上げられている事を追記しておきます。
977 :
世界@名無史さん:2007/06/25(月) 13:01:40 0
>>968 おそらく2〜3倍程度の戦力差だったのでは?
仮に蜀が10万の軍を動員できても、遠征軍は三分の一程度の兵力は輸送部隊となる。
だから戦場で実際に戦うのは6〜7万程度。司馬懿は自国領内で戦うのだから実戦部隊
が多目でいける。しかも動員できる兵数は圧倒的に魏の方が多いのは明白。同じ10万
の動員でも実戦部隊は魏の方が多いし、動員数が多ければさらに戦力差が広がる。
知謀の司馬懿を相手に兵数でも劣っているのに大敗しなかった諸葛亮の軍事的才能はかなり
高いと見るが妥当。司馬懿が「奇才なり」と賞したのは褒めすぎではない。対戦相手が一番
実力がわかるわけさ。
しかし、太守不在の20年間、勢力を伸ばしてやりたい放題だったのに、
弱き民からの搾取は全くしない豪族というのなら、それは立派だな。
太守がいないのをいいことに、ひたすら未開の地を開発し、新しい農地でも開墾してたのかな?
そして、土地を失った人達、彼等のもとの農地はどこに消えてしまったんだろう?
>>975-976 侯音の例を挙げて、何を主張したいのかいまいち理解できないのだが。
『曹瞞伝』では官の賦役が厳しいため、
それに不満を持つ民をまとめて侯音が反乱を起こしたという話。
田豫伝では侯音が反乱を起こし人数を集め、盗賊行為を働いた。
これは反乱の内容を少し丁寧に書いただけで、他伝の内容とも特に変わらない。
反乱を起こした者が賊扱いはごく当たり前の話。
要は、反乱の理由が『曹瞞伝』以外にはろくに書かれてないというだけ。
これと倉慈の件がどう関係あるの?
>>978 倉慈が土豪から土地を取り上げた手法は、不明なんですよね。
そもそも、大姓の広大な田地の由来が不明なんですよね。とりあえず、考えられるケースを上げてみます。
case1:漢への謀反の意思も露わに土豪が公民から土地を取り上げ、勝手に食邑を広げた
case2:先祖の功績などにより、土豪が食邑として田地を持っていた
どちらのケースにしても、武力行使でもしなければ土地没収は不可能でしょう。
本来、土豪の粛清や財産没収も、相手が謀反人であるなど正当なものである場合、手法も含めて載ります。
何故なら、謀反人、汚吏、民を圧迫する豪族などを取り締まるのは、善行の最たるものだからです。
魏書・劉表伝注『戦略』
→劉表が刺史となった頃、江南では土豪が朝廷に従わず、好き勝手に振舞っていた。
劉表はカイ越らと謀り、宗族の長らを招くと皆殺しにした。
魏書・趙ゲン伝
→趙ゲンが朗陵県の長となった頃、豪族が権勢を誇り、好き勝手に振舞っていた。
趙ゲンは行いの特に悪い者を調査し、法に照らし合わせて逮捕し、後に上役に上申して彼等を釈放させた。
これら趙ゲンの恩愛ある態度に、人々は富貴なく皆心を改めた。
呉書・潘濬伝
→潘濬が江夏の従事となった頃、沙羨県の長が土豪と癒着し、賄賂を取っており、法は蔑ろにされていた。
潘濬は法に照らし合わせ彼を死刑に処すると、郡は震撼し、皆心を改めた。
一方、宛城における侯音の反乱の理由が曹仁伝に載っていないのは、曹仁の失点だからです。
しかし、侯音を討った事自体は功績であるので、侯音の謀反の記録があるわけです。
伝というものは、基本的に正統王朝の功臣を称えるための物であり、
功績は余す所なく網羅され、都合の悪い事項は切り捨てられる、あるいは他伝に載る。
これらの事は、皆さんもご存知だと思います。
以上を踏まえると、倉慈伝でこの辺りが不明瞭である理由は、以下の3つのケースに該当すると考えられます。
・陳寿、裴松之が資料を集めた段階で既に遺漏があった→この場合、土地問題の経緯含めて詳細は不明
・立伝された人物に都合が悪い事項だった→問題の詳細は不明だが、法倫理的にグレーな手法が用いられた
・何だか良く分からないが、誰にも理解も表現をも出来ない手法で、倉慈は土豪から土地を取り上げた
→コレは冗談に近いけれども、一応。
いずれの場合でも、倉慈伝を理由に敦煌で土豪が搾取していたと断定するのは、早計であると言えると思います。
>>979 詳細が載っていないという点で、一つ間を置き、記述について考えてみなければならないという事です。
つまり、倉慈伝のこの事に関する記述、
太和中,遷敦煌大守。
郡在西陲,以喪亂隔絶,曠無太守二十歳,大姓雄張,遂以為俗。
前太守尹奉等,循故而已,無所匡革。
慈到,抑挫權右,撫恤貧羸,甚得其理。
舊大族田地有余,而小民無立錐之土,慈皆隨口割賦,稍稍使畢其本直。
で確実に分かる事は、
・陳寿と裴松之の時代には既に分からなくなっていた事が、我々に分かるはずが無い。
・倉慈は大姓達に濡れ衣を着せて一掃すると、非生産層を生産に従事させ、地方の税収を増やし、貢献した。
・倉慈がお願いすると、大姓達は土地を差し出しました。敦煌では皆幸せになりましたとさ。めでたし。めでたし。
のどれかでしかないってことです。
983 :
982:2007/06/25(月) 14:30:52 0
いや、濡れ衣を着せたというのは、俺も妄想飛びすぎですね。
・倉慈は何らかの手段で大姓から土地を取り上げた。
非生産層を生産に従事させ、地方の税収を増やし、地域振興に貢献した。
しかし、その手法は倉慈の功績に傷をつけるものであったため、本人の伝では記載されない。
という感じでしょうか。
> case2:先祖の功績などにより、土豪が食邑として田地を持っていた
なるほどね。涼州豪族は正当な手段によって農地を獲得した可能性があると。
なのに、倉慈は、豪族らの正当な所有権を認めずに農地を剥奪しちゃったと。
ワルいやつですねー、倉慈ってのはww
一方、貧困であるのが当然なはずの民衆は、
先祖が功績を立てたわけでもないのに、倉慈から利益供与を受けたわけですか。
ワルいやつですねー、敦煌の貧民ってのはww
しかも、それが「本来あるべき公正な線」(ちくま)だったとか。
意味わからんけど、きっとちくまの誤訳なんでしょうww
> 本来、土豪の粛清や財産没収も、相手が謀反人であるなど正当なものである場合、手法も含めて載ります。
> 何故なら、謀反人、汚吏、民を圧迫する豪族などを取り締まるのは、善行の最たるものだからです。
なるほどね。倉慈伝が豪族の土地を取りあげたことを詳細に記しているのは、
かれらが「謀反人、汚吏、民を圧迫する豪族」だったからなのか。
………合ってるじゃんww
>>984 土地を取り上げた手段が書かれてません。
公民、異民族についてはその後詳細がありますが、大姓のその後は一切不明です。
いい加減、見苦しい。
987 :
975:2007/06/25(月) 15:14:26 0
>>986 こちらは詳細上げて順序だてて論理を構築していますが、
>>984のように言葉尻だけを取って反論されても真実からは遠ざかるかと。
988 :
968:2007/06/25(月) 15:27:07 0
>>977 2〜3倍…城攻めの常道「三倍の兵をもって挑むべし」から考えれば、もう勝てる戦力差ではないですね。
戦力比が逆な訳で。しかし、だからといって篭る事は出来なかった。
篭れば、国力差諸々からジリ貧になり、士気も落ちて出兵が回避されるようになるから。
そうなったら、劉ショウと同じ末路ですよね。
諸葛亮が大きく崩れなかった事は、戦力比、司馬懿の能力を考慮すれば、素直に評価して良さそうですね。
次スレよろ
↓
>>982 一方で、直接書かれなかった事は不明と切り捨てつつ、
「その手法は倉慈の功績に傷をつけるものであったため、本人の伝では記載されない」
というのも、都合の良すぎる解釈じゃないか?
一方で推測は認めないと切り捨てつつ、自説には推測OKというのもねえ。
>>980で挙げられてる3例も、倉慈の件と本質的に大差無いように見えるが。
涼州の特殊性ばかり主張したいという意識ばかりが強すぎて、
理論に一貫性がない、その場その場で都合のいい理解をしているように感じる。
理論の構築の仕方に問題があるから指摘をされるのに、
>言葉尻だけを取って反論されても真実からは遠ざかるかと
なんて開き直られてもなあ。まず、結論ありきの理屈にしか見られなくなるよ。
>>991 いや、史書の場合そういう書かれ方が通常なので、書かれていない事柄に対して好意的な推測をするのは危険。
しかし、基本的には不明なので断定は出来ない、分かる事が少なすぎるので、
倉慈伝は何かしらの論拠にするのは危険だ、という主張です。
まぁ、このスレも終わるので、俺もここらで一度自説を取り下げて引っ込みます。
説得できなかったようだし、これ以上こちらが意固地になって主張しても場が荒れるだけっぽいし。
993 :
992:2007/06/25(月) 15:47:58 0
追記。
倉慈伝と例に挙げた3伝の違いは、当事者の末路が明確になっているという点です。
劉表と潘濬は皆殺しにしましたし、趙ゲンは許した事が明記されています。
倉慈伝だけ書かれていない事が奇異である事を述べたかったんですが、上手く伝わらなかったようで。
とりあえず、次回登場までには、もっと説得力のある論理が構築できるように精進します。
1000 :
世界@名無史さん:2007/06/25(月) 18:35:39 0
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。