宣伝は勿論していなかっただろうが、
劉備が蜀に来るって時点で聡い人間は気づいたし
楊懐高沛を斬った時点で誰もが悟っただろう。
644 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 00:12:13 0
群雄の1人が他の群雄の為に戦うわけないからね。
645 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 00:25:18 0
群雄なんて括りは後代から見た類別に過ぎないよ
臧覇、太史慈、ホウ義、張燕、劉勲、張魯、張粛、馬超、楊秋、皆自立したか自立を試みたが、
結局帰順してある者は「他の群雄」のために戦っている。
張粛じゃない、張繍だ
647 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 00:37:50 0
>>634 いや南北朝よりず〜〜〜っと昔から発音に違いはあった。
むしろ南北朝時代に北支那から人民の流入があったから、違いは無くなったほう。
やはり今ですら発音は大分違うのだから、千八百年前ならより違いは大きいだろう。
通訳、筆談が必要なくらいに。今の日本語と中国語並みの違いはあったんじゃなかろか。
>>648 最後は「あったんじゃなかろか」というただの推測なのに、
前半の断定の根拠はなんなんだろうか?
651 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 11:05:46 0
>>641 早くとも諸葛亮没後の話しだろうね。
ただ、考え方自体は魏の方も気がついてた可能性が高い。
劉備が漢中を攻略し、関羽が北上した時に、関羽と孫権が不和なのを利用
して荊州を呉に攻めさせるよう計略をめぐらしている。
ただ、呉が鮮やかに荊州南部を瞬く間に占拠するとは考えていなかったかも。
戦いが長引き共倒れを願っていたと思う。
情報化された狭い日本ですら通じにくい方言があるというのに、広い国で方言が少ないということはないだろう
漢民族が中国全土に分布してから時僅かならいざ知らず
とはいえ
>>648の
> 今の日本語と中国語並みの違いはあったんじゃなかろか。
それはないw 語族が違う
同様のたとえをするなら、地続きで同じラテン語を基礎とするフランス語とスペイン語くらいじゃないか?
国境近辺に住む人は国境越えても言葉が通じるが、フランス語標準とスペイン語標準では通じないっていう
文字と文法が一緒なんだから、違うのは発音だけだろ
日本で言えば青森弁と鹿児島弁の違いをもっと強くした感じじゃね?
秦漢以降はその土地の統治者は中央から派遣されてくるから
地主階級や知識者層なんかは当然中央の言葉も身に着けているだろうし
>>653 > 青森弁と鹿児島弁の違いをもっと強くした感じ
それがどのくらいかで話し合ってるんだと思うが
> 地主階級や知識者層なんかは当然中央の言葉も身に着けているだろうし
「当然」の根拠は?
そもそも現代の中国語が地方ごとで通じないというレベルがピンと来ない人は
wikipediaで「言語のグループの一覧」を見てみるといいよ
日本語と中国語がどう内訳されてるか分かるから
日本なら、青森のズーズー弁のおじいちゃんでも沖縄のおばちゃんでも、
あっちの言うことは聞き取れなくても、こちらが標準語を話せば理解はしてくれる
現代中国語では北京と広東の人はお互いに通じない
文法だって北京語と上海語や広州語では結構違いがあるぜ。
>>655 地方毎の発音の境界は五代十国の頃に固定されたって話もあるから(地方ごとの発音はそれ以降も変化している)
標準語ってのはそれ以前に政治の中央だった黄河中流域の話し言葉なんだろ
だから広東で北京話すってのは、鹿児島で青森弁でしゃべってるようなもの
描き言葉は一緒でも話し言葉が違うってだけだから、一般的な鹿児島の人は青森弁を身に着けようとしないだけで
慣れれば何言ってるかは聞き取れるようになるって感じじゃねぇの
当時の雅言をある程度使いこなせるのって基本的に文字を解する階級以上だし、
ここで論じられてる民衆レベルでの地域的な言語の区切りっぽいものに関しては
揚子法言あたりをちょい読みすれば
単なる語彙レベル以上に全然違うってのはわかると思うんだが。
当時の山越とかはどういう言葉しゃべってたんだろうね。
意外と酋長クラスは楚系文字とか読めたりしてw
中華文明は、語族自体が違う遊牧型の北方民族と農耕型の南方民族が融合してうまれたものだから、
その伝播速度によって地方毎に語順変化の波があったし、歴史的に変化を続けている。
口語しか知らない庶人同士では筆談出来たとしても通じたかわからないな。
でも教育を受けた士人階級には、「古典」という強力な標準語が存在していて、
これによって少なくとも滞りなく筆談する素地が作られたと思う。
さらに古典は暗誦して覚えるものなので、先生が中央政界の経験者なら
その際に訛りはしっかり矯正されただろう(多分)。弁舌は士人の大事な教養だから。
話を最初に戻すと、劉備は、当代名の知られた学者であり初めに博士として徴されたほどの
人物に教えを受けたわけで、
少なくとも諸葛亮、許靖、劉璋、荊州士人らとの間では会話に苦労しなかったと思う。
>>657 中国の方言を日本でたとえようというのが無理なんだよ
661 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 19:56:02 0
>>659 廬植の門下にいたんだよね。でも優秀な生徒だったの?
不良少年だったという話はよく聞くけどな。
662 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 19:58:23 0
663 :
世界@名無史さん:2008/10/06(月) 20:43:14 0
三国志の時代の荊州と益州なんて
異民族の居住区に中原の人が移住してきたみたいなもんだろ。
頻繁に会話する人達は中原から移住してきた中国人。
つまりそんなに言語の違いは無いのでは?
ま、山越とか南蛮とかには当然言葉は通じなかっただろう。
>>663 中原の人が移住してきたのっていつなのか教えて欲しい
呉語
声母
* 清濁の対立 - 他の多くの地域で失われた中古中国語音韻体系における全濁音が保存されており、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%AA%9E とウィキベディアに書いてあるところを見ると、古い中原音が残ったのが上海あたりの言葉。
北京語は元、清代に主に入ってきた北方音て言うことみたいね。
ということは、元より前は小異はあってもほぼ中古音体系でみんな理解できたんじゃないかねぇ?
もちろん
>ま、山越とか南蛮とかには当然言葉は通じなかっただろう。
である広州語は明らかに別系統だろうが。
>>661 劉備が教養を売りにしたことはない。人に認められたのは何よりも武勇とそれから盧植の弟子という体裁だろう。
だが名を挙げた青州時代以後は諸侯名士に歓待されて面と向かって侮られたことは無く、
陳登のような人物と認め合い、劉表、許子将と席を同じくして論談できたことから
少なくとも名士と交流するには差し障り無い教養があった事がわかる。呂布なんかもそうだけど。
それから、信憑性は不明だけど建業の地勢を見て官府を移すのを薦めたというのは
地理(今で言う風水のようなもの)の素養があった事を示している。
>>665 なるほど。当時は現代のように別言語ではなくて、一つの言語の訛りの範疇だったわけだ
端から端までの距離は日本の比じゃないから下々まで「みんな理解できた」かどうかはまだ分からないが、
知識人層は数年間学校に通っている間に自然と訛りを矯正できる程度だったかもね
>>665 その「中古中国語音韻体系」っての自体が長安や洛陽のような首都圏で
話された音韻のことであって、当時の他の地域の方言はまた別だよ。
>>666 南宋の陸游も「建康はまさに形勝の地で、重要性が分かっていない人は思慮が足りない」と言ってる
劉備のそれが本当ならまさに地理の素養であって、風水よりも実利的な話じゃないだろうか
風水というのは今では占いとしか機能していないが
本来地理と呼ばれて占いと実用的な学問が渾然としたもの(とあくまで現代からは見えるだけだけど)で
あり、その教えはマニュアルでもあった。
山河に囲まれた平野や盆地を「気脈が充実している」などと言って遷都を薦める事があるが、
それは同時に防御に向き、穀倉地帯を抱える土地だということでもある。
現代数学の定理みたいなもんだ。経書や兵書と同じく、教養として学ぶことで実地で応用する基礎とする。
劉備の件は事実かどうかはわからないけど、当時学問を学んだ人間が
判断基準として当時の基礎学問をベースにしていないということは無いと思うよ。
>>670 劉備の師匠盧植が得意とした書経は一種の治水の実用書・地理書だからな
劉備が一番学んだのは書経だったのかもしれん
>>668 >その「中古中国語音韻体系」っての自体が長安や洛陽のような首都圏で
>話された音韻のことであって、
それが今の上海あたりに残ってるんだから、「長安や洛陽のような首都圏で
話された音韻」が地方までいきわたってた証拠でしょ。
中古(唐代前後)に「長安や洛陽のような首都圏で話された音韻」が、
科挙教育などによって古来の地方方言を駆逐して現代中国語の多くのベースになったんだよ。
漢も後漢の頃は地方でも経学に通じた学者を輩出してるんだから
知識者層や選挙などで中央政界とつながりや進出をしていく地方の豪族階級なら
一般教養として少なくとも中央の言葉は扱えると思って問題ない
675 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 06:24:38 0
姜維は名将だったのか?
676 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 06:47:55 0
派手な戦功もあるけど大失敗もある。
トータルするとマイナスが多いと思う。
255年に王経を大破して、魏軍に5桁に登る将兵を討ち取る大戦果を
挙げたが結果はそこまで。結局は領土拡張にならなかったし、翌年には
逆に段谷の戦いで大敗。それ以降の遠征では何の戦功も無い。
677 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 06:49:59 0
秦の始皇がいまの南京(建業)のあたりを行幸したさい、王業の「気」がでているのをみて危惧したって話があったような。
出典は史記だったかな?ひょっとして史記の受け売りってことはないかな。
受け売りも何も、張紘は始皇帝の故事を引用して孫権を説得している。
その程度のことは一般教養だろう。
>>674 選挙といったって科挙ほど厳密じゃないからねえ。まあ全部筆談や
通訳ということは無いだろうけど、やはり多少は有った、と考える方が自然。
680 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 17:25:30 O
魏の五大将軍教えてくれませんか?
魏書第二十六に列伝がある満寵・田豫・郭淮・牽招+陳泰
682 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 18:47:47 0
>>680 張遼・干禁・楽進・張合・徐晃
この5人じゃない?
683 :
世界@名無史さん:2008/10/09(木) 20:45:39 0
>>680 魏で大将軍になったのは
曹仁
曹爽
三司馬
の五人だけじゃないかな
684 :
世界@名無史さん:2008/10/10(金) 06:12:56 0
曹真も大将軍でなかった?
すると蜀漢は三大将軍だったわけか
出土品でも地域でかなり特徴があって面白いから、言葉にもあれくらいの地域差があったらいいなぁ
議論は楽しいけど、史書にエピソードが残ってないとハッキリしないね。前後の時代でも何か無いのかな?
「○○と△△は文字が書けないため会話には身振り手振りが必要だったが親交は厚かった」とか何とか
ちょっと思い当たらないなあ
逆に「文字は書けなかったが書物は暗誦していた」という話はよくある。
むしろここから解るのは、やはり書物を通して少なくとも政治的な言語は統一の度合いが高かったこと。
文字を学べなかったような環境で育っても古典を暗誦できるわけだから。
方言のような文化的な話は前近代の史書には殆ど残らないから、
それこそ揚子方言
>>658でも読んでみないとなんとも。
688 :
世界@名無史さん:2008/10/11(土) 01:39:31 0
689 :
世界@名無史さん:2008/10/11(土) 03:26:14 0
690 :
世界@名無史さん:2008/10/11(土) 05:23:50 0
丞相>大司馬>大将軍
みたいな序列でよいのかな?
蒋苑は大将軍→大司馬という昇進をしている。
そこで『三国職官表』ですよ。
夏侯惇 建安二十五年(延康元年)(220) ※同年に死亡
曹仁 黄初二年(221)車騎将軍より移る→同年大司馬へ移る
曹真 黄初七年(226)中軍大将軍より移る→太和四年(230)大司馬へ移る
司馬懿 太和四年(230)驃騎将軍より移る→青龍三年(235)太尉へ移る
燕王宇 景初二年(238) ※四日で免官
曹爽 景初二年(238)武衛将軍より移る→嘉平元年(249)免官誅殺
司馬師 嘉平四年(252)撫軍大将軍より移る→正元二年(255)死亡
司馬昭 正元二年(255)衛将軍より移る→景元四年(263)相国へ移る
夏侯惇は後漢の王国としての魏国の大将軍だね。あと黄初二年に孫権を大将軍・呉王として
いるけど、まあこれは名誉称号だわなあ。
692 :
世界@名無史さん:
大尉と大将軍はどっちが位階が上だったけ?