1 :
世界@名無史さん:
2 :
世界@名無史さん:2006/09/16(土) 16:38:21 0
3 :
世界@名無史さん:2006/09/16(土) 16:38:57 0
4 :
世界@名無史さん:2006/09/16(土) 16:44:01 0
まずはテンプレつくりからはじめたいと思います。
統率力90台
統率力80台
統率力70台
をそれぞれ決定しましょう
>>1 歴ゲ板にでも逝ってやれば?
厨臭くてキツいよ
兵の統率力ってことだよね?
項羽か韓信かな。
項羽の兵の核は同郷の精鋭だろうから、寄せ集めを統率した韓信のほうがちょっと上かな。
冒頓単于はちょっと毛色が違うような。
章邯
曹操は将の将の側面のほうが強い気がするし、諸葛亮とか関羽は論外でしょ。
周瑜は大きい戦いは赤壁だけなのがな。早死にしちゃったから。
>4
え?
ゲームの話なの?
>>5 厨臭いのは事実だが、ここ以外にふさわしい板はない。
三戦では時代違いだし、歴ゲーでは該当するゲームがない(と思う)。
8 :
世界@名無史さん:2006/09/16(土) 17:02:46 0
>>5 厨臭くてすまない
スルーしていただいて結構なので・・。
>>6 なるほど。
ではでは続いて霍去病・衛青・李広などの考察もよろしく
>>7 うむ。同意者がいてくれて余もうれしいぞ
さてはyouは歴ゲーの宣伝書き込みを見てきてくれたのかな?
>>6 関羽はどうでもいいが、諸葛亮の統率力は非凡でしょうに…
陳湯とかはランクインしないのかね。
あと、晋ってのは西晋までってことかな?
>>9 ええ?
どのへんが?
美化されてる演義ですら項羽や韓信には到底及ばないと思うが。
条件を厳密にしとかないと、高祖と光武帝がサイキョ!で終わり
秦の時代って統一後かね。
それとも始皇帝を名乗る前、秦王に即位してからなのかその辺はっきりしてくれ
>>10 いや… 韓信ほどすごいのはそういない。 そうじゃなくって、論外には決してならない非凡さを持ってる、あの当時。
別時代の人間との比較は難しいから、同時代でいえば司馬懿も絶賛ですよん。
>>11 光武帝が文武ともにサイキョ だな。
>>7 ローカルルールよりも強い2ちゃんねるのガイドライン違反です。
板が所属するカテゴリーのほうが重要です。
そもそも統率はゲームの要素として普及した能力の概念として使われています。
趣味のカテゴリーか歴史ゲーム板へ移動願います。
歴史ゲーム板には単一のゲームの話題しか語ってはいけない決め事はないし
どれかのゲームに必ずしも帰属しない武将スレが多く散見されるので問題ないはずです。
他板のローカルルールや論争の思惑を元に
趣旨に沿った歴史ではないもののスレをこの板に持ってくることはやめてください。
だいいち
>>1の指す統率力って何?
コーエー三国志の統率力を言いたいのか、一般的なものか、それすら
示さんで考察なんてちゃんちゃらおかしいんだが
>>15 三戦板で秦の時代は時代違いで削除対象です。
削除対象のスレに誘導されて困る。
まあ統率いくつとか数値化するのが問題なら各人の軍事能力を比較するのを目的とすればいいなじゃね?
でも以前に世界史板で色々な人間の能力値を出していくスレがあったような?
>>18 歴史ゲーム板ができる前の時代に立てられたスレの話でしょ。
こういうやり取りを排除するために他板にスレを立てるとは・・・・・
光栄三国志の理不尽な能力について語れ32
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1157984056/939-944 939 名前:♀校生 ◆AAA/JTPRVg [] 投稿日:2006/09/16(土) 01:59:40
940 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/09/16(土) 13:07:38 ←ここでやるな
1 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2006/09/16(土) 16:36:51 0 ←このスレの1
944 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2006/09/16(土) 16:42:13 ←新スレ立てました
21 :
世界@名無史さん:2006/09/16(土) 19:18:34 0
>>20 三戦板もスレ違い
秦から晋の時代のゲームも発売されてないのでスレ違い
歴史上の人物をあつかってるからここでいいと思う
幼稚かもしれないが、それについてどうこう言える人間なんていないはず。
22 :
世界@名無史さん:2006/09/16(土) 19:20:13 0
たまたま見かけたのでレス
統率力
項羽は、目の届く範囲内の兵(そこそこの数)を統率するのは神レベル=最強の部隊長
韓信は、戦場全体の将兵(大軍団)を統率するのが神レベル=最強の将軍
という感じがするんだけど・・・。
項羽は陣頭に立って士気を鼓舞するタイプ
韓信は後方で兵を手足のように操るタイプ
25 :
世界@名無史さん:2006/09/16(土) 19:35:57 0
>>22 項羽ってけっこーたくさんの兵を指揮して勝ってたような・・
26 :
世界@名無史さん:2006/09/16(土) 19:38:05 0
>>23 なるほどね
そういうイメージがたしかに強い
27 :
世界@名無史さん:2006/09/16(土) 19:40:04 0
>>25 そう。だから一時的とはいえ覇権を確立するんだけど、大兵力を要した戦争は、幕僚が事前に組み上げていて、項羽のになった役割は、全軍の士気を鼓舞するような部分が大きかったんじゃないかな?もちろん個人的な武勇でも傑出していたと思うけど。
自分で会戦をマネジメントできてはいなかったと思う。
長文スマン
なんで秦から晋までなのかが、全くわからんのだが
三戦や歴ゲーだとやりにくいから、むりやり範囲を広げたとしか思えん
29 :
誘導:2006/09/16(土) 19:56:56 0
>>25 組織化に対応できなかったって感じ。
にもかかわらずあれだけの戦績を残せた事を考えるとちょっと規格外中の規格外って気がする。
時代の影響もあったから一時的な功績を残せたということなのかもしれないが。
31 :
世界@名無史さん:2006/09/17(日) 04:46:43 0
教育改革国民会議の迷言集w
ソース:首相官邸公式サイト
http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/1bunkakai/dai4/1-4siryou1.html ・子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう
・家庭教育について対話できる土壌をつくるため、企業やテレビと協力して古来の諺などを呼びかける
・「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
・名刺に信念を書くなど、大人一人一人が座右の銘、信念を明示する
・遠足でバスを使わせない、お寺で3〜5時間座らせる等の「我慢の教育」をする
・ 地域の偉人の副読本を作成・配布する
・ 学校に畳の部屋を作る
・学校に教育機関としてのシンボルを設ける
・有害情報、玩具等へのNPOなどによるチェック、法令による規制
・バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う
・団地、マンション等に「床の間」を作る
・警察OBを学校に常駐させる
・文部省、マスコミが1、2週間程度学校で過ごす
・教育基本法を改正を提起し、従来の惰性的気風を打ち破るための社会的ショック療法とする
<小学生>簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
<中学生>簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
<高校生>満18歳で全ての国民に1年ないし2年間の奉仕活動を義務づける
カルトの見本市ですなw
学問板にこんな糞スレが立つとは。。。
だいたい「統率力」って何だよ。定義を示せよ。
その上で、それを現実の人物を評価する際の尺度として
どう用いるのか、そういう自分なりの考えも示せずに幼稚すぎ。
小学校だったら
>>1にレベルの合う子一杯いるんじゃない?
32みたいなネクラが学問板には多そうだな
34 :
世界@名無史さん:2006/09/17(日) 09:48:26 0
秦から晋までだったら項羽と韓信が有力か
霍去病・衛青・李広等は、武帝時代の屈強な兵と強大な国力を背景に
功績を残せたと考えるのがベターなので、考察は難しい
>>25 項籍は戦術レベルの戦いならば、韓信にも負けない実力があった。
しかし彼の強さは旗揚げ当初からの精鋭によるものが大きい
しかし上の方のレスでも語られてるように、韓信は何もない状態から強い兵をつくり
勝利した。
何もない状態から精兵を作って数国を落とすなんてすごすぎる
37 :
世界@名無史さん:2006/09/17(日) 12:49:26 0
項羽の戦術レベルの強さって具体的にどんなものだったのでしょうか?
38 :
世界@名無史さん:2006/09/17(日) 16:43:06 O
後漢の武将を忘れてもらっちゃ困る
耿エン、班超あたりが最強でしょう
39 :
世界@名無史さん:2006/09/17(日) 17:03:24 0
魏武最強なり!
耿弇は大軍の統率という点では実績がないんじゃないか?
少数での戦術指揮は神レベルだろうけど。
群雄、元帥、将軍、部将などの違いや時代背景・周辺状況の違いがあるからなあ。
それらを十把一絡げに考察するというのも乱暴だなあ。
こういう糞スレが立つと、韓信>項羽の認識の人が必ずいて唖然
43 :
世界@名無史さん:2006/09/17(日) 21:09:43 0
44 :
世界@名無史さん:2006/09/17(日) 21:10:51 0
韓信を超える用兵
耿弇の用兵の特徴は、情報操作により敵をミスリードして、こちらの思うように動かしてしまうことにある。
そしてここ一番は、自ら精鋭の突騎を率いて急所を襲撃して力戦し、大破するのである。常に敵の半分以下で戦い、
そして勝ち続けた。河北、南陽、斉、隴西を転戦、四十六郡を平定し、陥落させた城は三百、彼の行く手を阻むことが出来るものはいなかった。
建武五年のこと。既に、彭寵、張豊、冨平と獲索は平定されていた。そして最後の張歩を討伐することになった。
耿弇は、降伏させたばかりの冨平と獲索の兵士四万人を集めて軍を編成し、騎都尉劉音、泰山太守陳俊を率いて張歩攻略に向かったのである。
張歩はこれを聞くと、その大将軍費邑を歴下に、また別に兵を分けて祝阿に屯させ、さらに鐘城に数十の陣を列ねて耿弇を待ち受けた。
張歩は斉王を称する山東の大勢力であり、その総兵力は二十万前後である。それにたいして耿弇の勢力は、劉音と陳俊を合わせても五、六万程度。しかも新たに編成したばかりであるから、その兵力の劣勢は明白である。だが、この寡兵をもって斉を攻略する自信があった。
なにを今更。
46 :
世界@名無史さん:2006/09/18(月) 07:52:30 0
かの有名な田中氏の小説では
ケ禹が過大評価されてる。でもトウウは、名将とは言えないですよね?
何を勘違いしてるのだろうか、田中氏は。
河北にあって上谷の耿家は有力で、中でも耿弇の戦術能力は飛びぬけていると思うのに、スルー…
あと、35歳くらいで隠居したいと言い出したりと、田中氏好みと思うけどね。
なぜに三戦のをコピペするか…
48 :
世界@名無史さん:2006/09/21(木) 15:03:43 0
やっぱ霍去病でしょ。
49 :
世界@名無史さん:2006/09/24(日) 03:40:55 0
霍去病(かくきょへい)は、衛子夫の姉の衛小児の子供で、
匈奴と戦うために生まれてきたような人物である。
少年のころから宮中に出仕しており、君寵を受けた。
このため、彼は、叔父の衛青とは逆に、傲慢で思いやりに欠けていた。
自分の食料を兵士に与えるという発想は無く、
強行軍で疲れた兵士に蹴鞠場を作らせて興じていたという。
しかし、頭脳明晰である点と古来の兵法に基づかない点では、叔父の衛青と同じであり、
後者においては、それ以上であった。
あるとき武帝が孫呉の兵法(孫子と呉子の兵法)を示そうとすると、
即座に
「方略の何如なるかを顧みるのみ!
古の兵法を学ぶに至らず。
(顧方略何如耳! 不至学古兵法。)」と言ったという。
50 :
世界@名無史さん:2006/09/24(日) 03:42:07 0
霍去病が、B.C.125年の戦役に従軍したのは、わずか18歳のときであった。
衛青麾下で、騎兵800を率い、本隊よりも数百キロ前方まで進出して、
偵察と掃討を行い、2000名以上を殺害した。
これにより、霍去病は軍功第一とされ、冠軍(軍功第一)侯に封じられた。
18歳にして、天才的戦術で匈奴に衛青以上に恐れられた将軍となった。
B.C.121年、霍去病は驃騎将軍に任じられ、
河西回廊を制圧しシルクロード交易の利を匈奴から奪い返すために、
一万の兵を率い、隴西より出撃した。
51 :
世界@名無史さん:2006/09/24(日) 03:44:50 0
休屠王を襲い、焉支山を経由して、渾邪王を破り、その王子を捕らえ、酒泉にまで至った。
匈奴軍は約8000人の損害を出したが、霍去病率いる漢軍の損害は500にも満たないだった。
しかし、霍去病の進軍が直線的過ぎて、大部分が戦禍を逃れており、
河西回廊における匈奴の勢力はいまだ健在であった。
このため、同年の夏、再び攻勢を発起した。
当初の予定では、公孫敖が河西回廊の正面を突き、
霍去病が武威・居延を経て河西回廊の裏口から攻撃をかけ、
挟撃するということになっていたのだが、
公孫敖が道に迷ってしまったため、この作戦は破綻した。
しかし霍去病は単独による作戦決行を決意した。
休屠王と渾邪王の部族は、酒泉より約15キロのところに集結し、
東側を、漢の攻撃に備えて警戒していたが、西側は無防備で、
霍去病は捕虜・戦死あわせて30000以上の戦果を上げた。
強力な異民族相手にこの戦果は異常とも言える戦果であり、武帝までの時代最高の将軍として
匈奴を震え上がらせた。
単于に出頭を命じられた渾邪王は、敗戦の責任をとらされることを恐れ、
部族ごと漢に投降した。
52 :
世界@名無史さん:2006/09/24(日) 03:48:14 0
霍去病は、土壇場で降伏をためらった8000名に突撃してこれを殺害して、
この降伏を成功させ、領邑7000戸を加増された。
かくして、河西も漢の支配下に加えられたのだった。
なお、この戦役においては、"飛将軍"李広と、かつて西域に派遣された張騫とが、
河東方面に攻勢をかけていたが、合流できず、李広の軍などは半数の損害を受けて敗北した。
当然、この時代李広や張騫を遥かに上回る名声と実力をもった将軍として、
霍去病は君臨することになる。
しかし彼は24歳で逝去。
53 :
世界@名無史さん:2006/09/24(日) 03:55:08 0
霍去病は左賢王の軍を打ち倒しながら猛烈に前進し、最終的にはロシア近くまで至った。
この間に霍去病の上げた戦果は殺害・捕虜・敵軍怪我人合わせて10万以上にも達した。
この遠征の結果、匈奴は大打撃を受けてゴビ砂漠以北に追いやられた。
武帝は、この遠征を最後に対匈奴戦争を打ち切った。
霍去病の一連の18歳から24歳までの軍事活動は、
中国史の騎馬戦術の中ではトップクラスであり、
彼がもう少し長生きしてれば、間違いなく中国史上最高の将軍になっていたことだろう
範囲が駄目だな、肝心の戦国時代が入ってない
周から後漢ならよかったのに
56 :
世界@名無史さん:2006/10/09(月) 09:07:03 0
項羽最強伝説
57 :
世界@名無史さん:2006/10/11(水) 11:23:23 0
>>59 いや、俺が聞きたいのはそういうことじゃなく、正史における根拠だよ。
62 :
世界@名無史さん:
項羽と韓信って戦ったことないの?