おつ
早速前スレの続きをやるか。
えと、クリーミィマミの話だったよな?
5 :
世界@名無史さん:2005/10/03(月) 22:44:37 O
いや明日のナージャの話ですよ
6 :
世界@名無史さん:2005/10/03(月) 23:33:37 0
横浜の中華街の雑貨やで三国志関連のグッズ売ってる所ある?
7 :
世界@名無史さん:2005/10/04(火) 05:40:49 0
少なくとも三国志トランプはあったよーな
9 :
世界@名無史さん:2005/10/05(水) 22:15:48 0
帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士_→ 士缺→士會→劉氏→劉明→劉遠→劉陽→(十世)→
魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)→劉邦(漢高祖)→劉恒(文帝)→劉啓(景帝)→劉勝(中山靖王)
10 :
世界@名無史さん:2005/10/05(水) 23:42:32 0
そんなことより王凌と司馬懿の関係について語ろうぜ
11 :
世界@名無史さん:2005/10/06(木) 01:07:01 0
そんなことより郭淮と陸績の関係について語ろうぜ
14 :
世界@名無史さん:2005/10/07(金) 00:17:43 0
王凌って魏朝擁護の為に決起したのか
それともたんに司馬懿に代わって権力が欲しかったのかどっちなんだろ
漢晋
そんなことより王忠と司馬防の関興について吾粲うぜ
16 :
世界@名無史さん:2005/10/07(金) 20:22:12 0
帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士_→ 士缺→士會→劉氏→
劉明→劉遠→劉陽→(十世)→ 魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)→
劉邦(漢高祖)→ 劉恒(文帝)→劉啓(景帝)→劉発(長沙定王)→ 劉買(春陵節侯)→劉外(鬱林太守)→劉回(鉅鹿都尉)
→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝)→劉荘(明帝)→劉タツ(章帝)
17 :
世界@名無史さん:2005/10/07(金) 20:23:20 0
帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士_→ 士缺→士會→劉氏→
劉明→劉遠→劉陽→(十世)→ 魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)→
劉邦(漢高祖)→ 劉恒(文帝)→劉啓(景帝)→劉発(長沙定王)→ 劉買(春陵節侯)→劉外(鬱林太守)
→劉回(鉅鹿都尉)→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝)→劉荘(明帝)→劉タツ(章帝)
18 :
世界@名無史さん:2005/10/07(金) 21:27:11 0
>>14 司馬懿が権力を握って間も無い事と、楚王彪を担ぎ出してる事を考えるに、後者の可能性が高いと思われ。
19 :
世界@名無史さん:2005/10/08(土) 21:18:04 O
漢王朝による捏造系図を貼ってる奴の意図がわからん
20 :
世界@名無史さん:2005/10/08(土) 22:24:17 0
21 :
世界@名無史さん:2005/10/08(土) 22:40:46 0
脳内
22 :
世界@名無史さん:2005/10/08(土) 22:44:51 O
執嘉なんて言ってる時点で信用には値しないな
23 :
世界@名無史さん:2005/10/08(土) 23:42:52 0
また立て逃げか・・・
なんで裴松之は陸遜嫌いなの?
陳壽が陸遜を持ち上げすぎた反動とか?
>>24 陸遜が儒の精神を重要視しないマキャベリストだからだろう。
つっても、陸遜を中傷するような内容の事績を引いていたのは陳寿の方だったような。
27 :
世界@名無史さん:2005/10/09(日) 22:26:14 O
陸遜ら呉の二宮事件における太子派はいろいろと事跡が粉飾と隠蔽だらけのような希ガス
各種異説を集めた裴松之には真っ黒い陸遜が見えたのかもな。
マキャベリスト言うなら孔明も結構なモンだと思うけどなあ
マキャ?
ウキャ?
マヒャド?
キャベツ?
陸遜はマヒャドキャベティスト
晋書の司馬懿伝みたけど、殆どが作り物みたいになってて
全く本人の性格だとか考えが読めない。
34 :
世界@名無史さん:2005/10/11(火) 11:07:32 O
司馬懿伝なんて存在しないからな
ありもしないもの読んでも何もわからないと思うぞ
そうなんだ。変なもん見ちゃった!>_<;
司馬懿伝におもわずお茶吹いたw
芝居伝
なお前等なんか勘違いしてる
いいか?
>>33の言ってる事は正しい
なぜなら晋書は晋書でも
>>33の晋書は正史晋書ではないってことさ
いわゆる私選の書、ちなみに著者は
>>33 なんとその中にはちゃんと司馬懿伝があるのだ!
いい加減煽ってばかりいるダメ野郎どもは帰れ!
みなさんおは!
だって書いてあったんだよー
司馬懿の伝は正史にはないため晋書より載せましたって
きっとおかしな事言ってるんだろうな…
勉強しなおしてきます。すいませんでした。
なんかもう可哀相になってきたから助け舟
司馬懿は晋書では皇帝扱いされているので「伝」は有り得ない
晋書にあるのは宣帝紀
46 :
世界@名無史さん:2005/10/12(水) 11:19:50 0
三国志に司馬懿伝が無いというのは正しい。
どうみても正史です。
本当にありがとうございました。
>>45-46 ありがとうございました
じゃぁ私が見たのはその宣帝紀だったんですね
出師の表・前
出師の表・後
ちなみに李儒の名前が出てくるのは後漢書のみ
51 :
世界@名無史さん:2005/10/12(水) 17:52:33 O
何進の弟の車騎将軍何苗の本名は朱苗
何進とは父が違う
52 :
世界@名無史さん:2005/10/12(水) 17:58:53 0
漏れの個人的な感想ですが、三国志の登場人物のイミナはオクリナみたいだと思いませんか?
曹操の操は後漢の皇帝を「使った(操作した)」魏の人物、
劉備は蜀漢の皇帝を「備えた」蜀の人物、
孫堅は孫家の土台を堅く強固にし、策は策をもって栄えさせ、権はその名のとおり
権力を手中に収めた・・・
考えすぎですかね?
53 :
世界@名無史さん:2005/10/12(水) 18:02:42 O
その調子で諸葛亮とか司馬懿とか董卓もよろしく
54 :
世界@名無史さん:2005/10/12(水) 18:06:22 0
その辺は分かりませんwシバイのイなんて意味分からないし。
55 :
世界@名無史さん:2005/10/12(水) 18:09:12 0
北魏の孝荘帝は
「朕は寧ろ高貴郷公となるも、漢の献帝とはならじ」
と決意して権臣の爾朱栄を誅殺した。
その後爾朱一族に復讐されて殺されてしまったが。
56 :
世界@名無史さん:2005/10/12(水) 18:09:37 0
>>45伝と記って記される人物の階級によって違うのですか?初めて知りました。皆さん碩学ですね。
57 :
55:2005/10/12(水) 18:14:05 0
献帝ではなく魏の常道郷公=元帝だった・・・。
>>56 紀伝体がどんな形式かちゃんと調べた方がいいよ
でないと今後は釣扱いかスルーされるよ
>>55 即位の経緯は漢の献帝と似たようなもんだけどね。
むしろ事実上、次の皇帝、孝武帝の方が高貴郷公っぽい。
司馬懿は諡法の如く、「柔弱な振り」して曹爽一派を駆逐した。
司馬師は大将軍として魏に君臨したから「師」。
司馬昭は簒奪への道を明らかにしたから「昭」。
司馬炎は轟々と燃えさかる炎のように後宮で頑張った。
>燃えさかる炎のように後宮で頑張った。
ワロス
>52
あのスレたてたのはお前かー。
62 :
世界@名無史さん:2005/10/12(水) 22:47:30 0
馬一族で良はその名のとおり最も優秀で、バショクは切られた。
63 :
世界@名無史さん:2005/10/12(水) 22:48:38 0
司馬炎は勢力盛んなりと、炎をつけられたのでは?
64 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 00:59:03 O
↑知らね。
でも霍去病の名付け親は自分が病気がちだったから。
ってのは聞いたことある。
65 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 01:42:22 O
>>56 余計なお世話かもしれないけど
紀伝体で書いてある歴史書は帝王について書かれたメインの部分を本紀
その他の人物について書かれた部分を列伝といいます
無双厨の腐女子に何を教えてもムダ
そんなことより
糸コンニャクを噛まずにいっぱい食べた翌日
ケツの穴から、糸コンニャクを引っ張り出すと
気持ち 工エエェェ(゚∀゚)ェェエエ工
何か新発見されないかな〜(イェイ!)
>>68 世界最古の麺、中国・青海省の遺跡で発見
中国・青海省の新石器時代の遺跡から「世界最古の麺(めん)」が見つかり、
中国科学院が13日付の英科学誌ネイチャーで発表した。
この遺跡は約4000年前に黄河の洪水などで埋まったとされ、“中国のポンペイ”
とも呼ばれる住居跡。
研究チームが、3メートルの堆積(たいせき)層の下から掘り出した土器に、
ラーメンに似た直径3ミリ、長さ50センチの黄色い細麺が入っていた。
これまで、麺は約2000年の歴史があると言われていた。
古井戸の底から蜀の政治や宮廷の内情、人物について郤正が個人的に記録していた書簡が発掘された
という夢を見た
目が覚めたときすげえガッカリした
劉備の備は、終わるという意味
劉禅の禅は、渡すという意味
つまり、これは漢王朝が終わって他の王朝に渡すという意味だったんだ!
>>52 >孫堅は孫家の土台を堅く強固にし
孫堅死後、孫家勢力はバラバラになってるから
強固も糞もねーぞ
73 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 15:35:08 0
孫堅がいなけりゃ孫呉もクソもないわけだが
>>69 あんたには何の怨みもないが、
>>67の後に麺の話をされたので
何かしら嫌なものを感じてしまったのは俺だけだろうか?
孫堅は一代で勇躍させた孫家を危うくぶっつぶす所だったわけだが
76 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 16:19:48 0
というか正史にしろ演義にしろ兵士の人数が多すぎ。当時の人口で100万の兵隊とかってありえないだろ。
漏れは演義に出てくる数字は二桁ほどとって脳内変換している。
支那白髪三千丈。
77 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 16:36:37 0
赤壁の戦いも魏が十万で呉が三万程度だと思われ
78 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 16:57:38 O
確かに演義の兵力はありえないと思うけど、二桁も減らすと第五次北伐時に諸葛亮が率いていた軍は約3000少々になるんでは?
蜀滅亡時の人口が94万だからありえないとは言えないけど。
五丈原の戦いでは蜀軍十万、魏軍三十万と記録されている。
おそらく蜀の最大動員数だろう。
蜀の最大動員は15万はいかないけど10万は余裕を持って越える程じゃないかな
対呉防衛線にも数万残しておかないとヤバイ
81 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 18:34:16 0
>>77 赤壁は曹操が河北から連れてきたのが15万ほどで、荊州からの降伏組みが6,7万で併せて22,3万ほど、と周喩が語ってたかな。
概ねそんなもんでないかね。
>>80 蜀は帯甲10万4千との記録があるので、10万を越す兵力を余裕で動員出来たとは思えません。
かなり無理をして15万に届くかどうか、と言う所では?
なにせ人口が
>>78さんのおっしゃるように100万足らずですから。
五丈原の時、陳寿の言葉を借りれば「大衆、悉くして」ですから総動員、って感じで10万くらいの兵力を動員したのではないでしょうか。
82 :
78:2005/10/13(木) 19:05:40 O
自己突っ込み。
なんで第五次北伐の時二桁減らしたら蜀の兵力が3000になるんだ…10万から二桁減らしたら1000じゃないか。
やっぱり五丈原での動員は約十万、後方要員等を除いて実動できたのは約四〜五万、多くて六万程度に落ち着くのかな。
83 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 19:12:45 0
そんなに動員できますかね?内務班や炊事兵などもろもろの「兵站」にいる兵が数十万というところなのでは?
で合戦で敵と戟を交えるのはその十分の一くらいで。
支那人自身も言っているが、「実際の数は問題ではない。史実かどうかも実はどうでもいい。気持ちが大切なんだ」
という考え方が支那の歴史にはある。
だからやぱり二桁くらいは差し引いた方がいいのでは?無論数十人の従者を連れて逃げ回った、とかは減らしようもないが。
兵站や後方要員含めての十万なら納得いくな。
何せ五丈原では食糧に、粟を植えていたらしいから。
85 :
78:2005/10/13(木) 20:00:50 O
>>83 兵站入れても絶対に数十万はありえないとは思うけど。
兵糧を前線に運ぶ人夫含めれば数十万も考えられるけど
当時、三国王朝が支配していた人口数から考えると、疑問符がつく。
87 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 20:34:51 0
五丈原・・・率いたのは、多くて3軍3〜4万程度だと思うが
予測でしかないなぁ
五丈原の際は呉と共同作戦取ったから、国内は最低限の兵力置いて
ほぼ全軍で出撃したと思う。
ただ魏軍の兵力三十万〜五十万というのも大げさな気がするが。
89 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 20:47:55 O
当時は
「国家の支配下ではないけど兵士としては動員できる数」
がかなりあったから、(私兵とかな)
国家が支配する人口から兵士数を割り出すのは難しいと思うぞ
兵戸制導入していた魏なら、ある程度は割り出せる。
ただ、諸豪族・将軍配下の私兵や南蛮兵まで入れた蜀軍となると不明な点が多い。
>>89 なんか突っ込むのめんどいから
「兵戸」って言葉ぐぐって勝手に調べて。
92 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 20:55:34 0
現在の日本で兵役人口ってどれくらいだろうね?
もちろん、実際戦争が起きた際に「前線にまで動かせる兵士の数」だけど。
自衛隊員が全てじゃね?
上古から現代に至るまで
支那の統計数字は全くあてにならんというのが定説
( ´_ゝ`)
97 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 04:08:31 O
劉備と曹操の漢中の戦いでは軍の規模ってどれぐらいだっけ?
98 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 06:52:10 0
>>97 劉備側が6,7万で、曹操側が夏侯淵軍も含め10数万程度ってトコだったようです。
劉備負け負け
100 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 11:06:54 0
101 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 12:56:56 0
戦果の10倍まで許されるんだろ?
102 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 15:31:53 0
ナンキンダイギャクサツだっけ?犠牲者が0.5億人だそうだ・・・
だったら正史は全部信用できないってことで終わりだな
支那が信用ならん
105 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 19:40:30 0
もしかしたら、三国時代なんてなかったのかもな
曹丕が先走らなければただの王朝交代だったのかも
107 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 20:14:26 0
支那人自身が「細かい数字などどうでもいい」と・・・
三国志演義のタイ語欽定訳『サームコック』は1801年に出版された。
109 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 21:44:39 0
人口とか兵数の話になると異様に書き込むヤツがいるな。
110 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 22:35:02 0
「刑道栄」て名前からして処刑ばっかしてるイメージがあった。
インパクトがあって好きだ。
111 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 22:42:52 0
そんなヤツいねえし。
二重の意味で。
刑道栄は武力はまーまーあるね。
113 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 23:02:05 0
そんな事どこに書いてあるんだ?w
115 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 23:36:10 0
もう一度スレタイ読んでくる必要がある人間が多いようですね
そうそう。
あくまで正史認定されてる三国志及びその注釈という史料を語るスレ。
ゲームスレでも小説スレでも三国時代スレでもない。
本題に戻すためにも、何か話題をふったほうがいいのかな。
蜀書に単独で伝をたてるには微妙な良将が、
たくさん出てくる謎、とか。
119 :
世界@名無史さん:2005/10/15(土) 01:27:39 0
ここは三国時代のスレだぞ!
三国志には、こんなことも書いてある。
公孫淵の家には、しばしば怪しげなことがおこった。
犬が屋敷の屋根の上で冠をかぶって赤い着物を着ていた。子供が蒸し器の中で死んでいた。
襄平の市場では、生肉に頭と目と口と喙があって、手足がないがふるふると動いた。
占い師は言う:『これは国が亡ぶ前兆である』
かくて、公孫氏は度が遼東に立って以来、およそ50年で亡んだ。
他にもこの手の怪異話ある?
話題と言うことで。
太平道のスローガンだけど、「黄天當死」が吉川英治の小説や横山光輝の漫画だと
「黄夫當死」になってて(他は三国時代関係のムック本とか新書とかで散見)、
黄色の男たち、のような解説までされてたりしますわな。
正史(といってもほとんど後漢書と三国志。宋書符瑞志に一カ所)でも
三国演義でも「黄天當死」がとられてて、
また張角が「黄天(太平)」を称してるんで、まあ後世の誤植だとは思うんだけど。
いったい、どこから始まった間違いなんだろうかと、ふと思った。
それとも間違いじゃなくて、そういう記録があるのか?
上、三国演義は原文のこと。
といっても演義についてはシニカで検索しただけだので、
それが誤植の場合は無意味な話したことになる。
「當死」じゃなくて「當立」だった…orz
演義話はやめよっズェ!!
シラネ
正史関係の校勘記見ても「夫」に作ったテキストはないみたいだから
史書の字句の問題じゃないだろ。
だとすれば「文学」としての三国志の問題だから板違い。
大体このスレ自体、三戦の方がいいんではってぐらいデリケートな状態だからな
かなり史学に偏った話題じゃないと
でもさぁ、ここにいる人って結局、正史の中でも演義がらみの話しか興味ないでしょ?
素直に三戦行ったら?
演義と正史の対比みたいなことはグレーだろうけど、演義だけの話しになるなら三戦ってことでいいんジャマイカ
このスレは物凄く濃い人(知識の多い人)と
薄い人(演義やゲームから入った正史好き)とが居るからね。
ま、仲良くやろうズェ!!
そもそも演義とか吉川とか読んだことないんだよな、俺
北方読んですぐ正史に入っちゃったから・・・
北方はつまらんかったな
なんか名前や世界だけ借りたくどいライトノベルみたいな感じで
>120
諸葛格が死ぬ前に、猫が引き止めたとかいう話とか
呉の将軍 朱治の侍女は、飛頭蛮だったとか
女性が男になったとか
探せばいろいろある。
135 :
世界@名無史さん:2005/10/15(土) 21:19:09 0
>>132 対象内だっつーの!
じゃあどこで話すんだ?
136 :
世界@名無史さん:2005/10/15(土) 22:08:20 0
>>134現代からみて普通に考えれば文官どもの眉間の間からでた戦略への縁起付けなのにね。
魏書の方技伝なんざ怪異話ばっかりだが
139 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 01:03:58 O
ここで長沙走馬楼呉簡とかを語ることはできないのか
できない。
荒れた後のいつものパターンだな。>陳寿編著三国志の話題以外ダメ
ある程度は幅を持たさないと文献史料の検証スレにしかならんのでは?
それならちくまの訳本だけで語ってる奴も論外になるぞ。
所詮、第三者の手が加わったものだし。
アホクサ
このスレの三国志ヲタが本当に考古学話するとでも?できるとでも?
ありえない仮定の是非に熱くなって議論すんなや
>>142 同意。
だからこその正史スレなわけで。
144 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 01:28:08 0
そもそもスレのルールなんてどこにも明記されてないのに
出土史料の話は無しとか言い出す事がおかしい。
ここは昔から三国時代全般の事が語られてるよ。
んだんだ
どうせ過疎ってんだ臨機応変でいこう
精子オンリー派は文学板にいけよ
イタチ外
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・) はいはい、わろすわろす
`ヽ_っ⌒/⌒c
そんなことより
糸コンニャクを噛まずにいっぱい食べた翌日
ケツの穴から、糸コンニャクを引っ張り出すと
気持ち 工エエェェ(゚∀゚)ェェエエ工
スレタイの「正史」の文字は演義を排除する以上の意味はないだろ。
演義は神がかりな人物達が活躍する小説だから。
次スレから中国三国時代スレッドとか三国志時代スレッドにしないか?
【正史】三国志時代 第九【実証】とか。
>>151 正史以外は一切認めないなら、正史以外の話題をちょっとでも出したレスは片っ端から削除依頼出せば?ww
>>154 駄目だろ。勝手に決めるなよ。
三国志正史スレッドでずっと来たわけだが。
別スレでも立てろ。
>>156 めんどい
演義話や無双話でさえ削除以来出されてなくて注意だけなわけだが
っつか、
>>157一人が騒いでるのにみんなが従う道理はない。
>>157 削除依頼は面倒なのに、正史以外のネタつぶしは熱心だねwww
161 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 12:34:50 0
正史とは正しい歴史という意味だ。
陳寿の三国志のスレではない。
| | | | | | | | | | || | |
| | | レ | | | | | J || | |
| | | J | | | し || | |
| レ | | レ| || J |
J し1 | | || J
| し J|
J レ
/V\
/◎;;;,;,,,,ヽ
_ ム::::(l|l゚Д゚)| …?????
ヽツ.(ノ::::::::::.:::::.:..|)
ヾソ:::::::::::::::::.:ノ
` ー U'"U'
また中国史の初歩も知らないアホが沸いたな。
このスレは面白すぎる。
166 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 14:33:03 0
正史三国志と書けば陳寿の三国志だけどな。
演義は偽史、史実は正史という訳だ。
そんなに正史の話がしたいんなら北斉書と遼史と明史の話でもしようか?
後漢書もまぜろよ!
169 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/10/16(日) 21:47:13 0
>>121 吉川版「三國志」に「黄夫當立」となっているのは次のような事情からです。彼は元来
俳句や川柳の投稿からスタートした人で、漢文や支那語には全く通じてませんでした。
ただ少年時代に「通俗三國志」を知り親に叱られながらも深夜まで耽読したものだったと、
随筆で回想しています。
支那事変が勃発し彼も雑誌社だったかの執筆要請で大陸を旅行します。帰還後に新聞に
昭和14年から「三國志」の連載を始めます。当初は自分の創作アイデアで構成しようと
考えていたようですが無理と気付きます。そこで彼がベースにしたのが有朋堂文庫版の
「通俗三國志」でした。この本は元禄時代に天龍寺の坊さんが和訳したものの復刻です。
吉川さんは9割方はこの本の文章を現代語に水増ししたものです。さすがに最後の方の
巻には学者に助言されたかして、多少は他書から三國時代の話題を採用した部分も若干
ありますが、「通俗三國志」引き写しの基調は一貫しています。
実はうちにも有朋堂文庫版の「通俗三國志」があります。叔父が古書店で買ったものです。
この本の最初の桃園結義の個所を見ると張角が「蒼天已死、黄夫當立」と呼号していたと
書かれています。この本の誤植でないことは「黄夫」2字に「くわうふ」と振仮名が付いてる
点から見て疑いありません。つまり「黄夫」は吉川さんが依拠した有朋堂本が発信源でした。
170 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/10/16(日) 21:49:59 0
吉川さんが有朋堂本を全面援用してることは次の事例からも推測できます。劉璋が劉備に
降参し彼の旧臣が続々と劉備に帰服する事態を述べた個所に、帰服した人々の名が列挙され
末尾に「誰某、誰某、汎汎といった人物である」と吉川さんは書いています。有朋堂本では
この部分は「誰某、誰某、汎汎の人なり」とあって、どうやら吉川さんは「汎汎」を特定人の
姓名と思い込んだようです。しかしこれは現代文でいえば「等々」と同じで一絡げに省略した
表現なのです。
ところで「通俗三國志」については高嶋俊男さんは「三国志きらめく群像」で訳者の湖南文山を
「ヘッポコで無責任なヤツ」と罵倒しています。少し言い過ぎのようにも感じますが、確かに
原書や正史を参照した手堅い仕事ではなさそうです。「黄夫」は正にその一端を露呈したものと
言えそうです。
171 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 22:06:22 0
長分うざい
あやめさん、みんなから行間をあけない長文の問題を指摘されているのに相変わらず直しませんね。
>彼は元来
俳句や川柳の投稿からスタートした人で、漢文や支那語には全く通じてませんでした。
彼は六歳の頃に十八史略の素読を授けられています。
>そこで彼がベースにしたのが有朋堂文庫版の
「通俗三國志」でした。この本は元禄時代に天龍寺の坊さんが和訳したものの復刻です。
吉川氏は久保天随訳にも目を通しているのですが…
ちなみに、吉川氏は有朋堂本を底本にしたと一言も逝っていません。
あなたが有朋堂本を底本にしたと断言する理由が「黄夫」の誤植と
「誰某、誰某、汎汎の人なり」の箇所のみというのは余りにも弱い。
青梅の記念館で吉川氏の蔵書でも調べてからでないと断言は出来ないと思います。
>高嶋俊男
高「島」俊男ですよ。
173 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 22:54:47 0
何かまたいい具合に殺伐としてきたな。
空気読まないで書き込むあやめタン(;´Д`)ハァハァ
って、いい加減読みやすい改行しろよw
175 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 23:06:37 0
あやめはみんなに指摘されてるんだから、いつまでも意地を張るな。
改行しないことに何かこだわりでもあるのか?
おまえの長文(つーか字の塊)は読みにくいんだよ、このタコが!!
長文に改行スペースを入れると量をとって資源の無駄だろ。
そもそも、長文読まない人は長文というだけで読まないでしょう。
あきらめなさい。
それより、あやめさんが普段何してる人なのか気になる。
よく古書漢籍が出てくるなあ。
177 :
世界@名無史さん:2005/10/16(日) 23:25:23 0
あやめは強情すぎ。ゴーイング・マイウェイはやめなさい。
文体なんて人それぞれだろ
一々どーしろこーしろなんて言える程偉い人間でもないんだからやめとけ
と言うかこの程度読めなくて学問板に出入すんな
>>178 君は根本的なところが欠落していますね(プゲラ
180 :
世界@名無史さん:2005/10/17(月) 01:05:10 0
よく見ろ。
あやめもちょっとずつ改行してるんだ。
前は全く改行無かったからなw
ま、改行してようと読まない奴は全く読まんからな。
世界史板に来ておいて、改行や長文が嫌なら目をそむければいいのに。
182 :
世界@名無史さん:2005/10/17(月) 07:08:06 0
あやめも妥協ということを覚えろよ。
個人攻撃はやめよっズェ!
184 :
世界@名無史さん:2005/10/17(月) 08:55:25 0
あやめは結婚しても失敗するタイプ。
周りの空気が読めてない。
友達もいなそうだ。
コテ叩きは最悪板で
>>184は結婚どころか、友達すらできないタイプだな。
188 :
世界@名無史さん:2005/10/18(火) 11:03:45 0
信者うざいねw
あわよくばあやめに相手して貰いたいんだね。
自作自演乙w
さて、蜀書には諸葛亮達を、呉書には孫権を貶める巻がありますが
詳しく教えてください
192 :
世界@名無史さん:2005/10/19(水) 21:35:49 0
魏書は曹操をもって「あふれるほどの才覚を持ちながら、軽率な人間」とか書いてたよ
193 :
かなめ:2005/10/19(水) 21:38:42 0
皆さんに解いてもらいたい暗号があります。プシリベイター、アングロサクソンを足したモノの後にプレイシャスを足すと数字の番号になるらしいです。
呉の成立年次って調べてみたら
「222年」(年号を黄武と定める)とするのと
「229年」(孫権が帝位に就く、建業に遷都する)とするのと
二パターンあるみたいなんだけどどっちが一般的?
個人的には229年とするのが妥当かなと思ってたら
Wikipediaでは222年からとしていたのでちょっと悩んでます
あとWikipediaを見ると孫権の在位も「222-252」になってるけど
在位って帝位に就いてから数えるんじゃないの?
>>194 ああ、要するにおまいは藩国時代を建国されてると認めたくないわけか。
皇帝を名乗ってもいないのに独立国とみなすとは何事か、と。
インジャネ?それはおまいの主観だ。
俺は王として呉という国号を名乗って宗廟を建てたなら建国とみなしていいと思うけど
そのへんは史実がどうかというより、純粋に言葉の定義ってか観念論の問題だしな。
正直、「国家の成立とは」みたいな言葉遊びの海にもぐりこみたいとは思わない。
というか、「事実上独立」を言い出すと蜀だって劉備が漢中王を
名乗ったあたり(219年)で既に事実上独立じゃない?
他二国と違って呉だけ「事実上独立」の年次を示すのはなぜかな、と思って
後代の五胡十六国とかだと王を名乗った時点で建国とみなす方が普通だけど
197 :
世界@名無史さん:2005/10/20(木) 03:47:45 O
独自の年号が決め手?
198 :
世界@名無史さん:2005/10/20(木) 05:59:07 0
歴史の反省じゃね?
199 :
世界@名無史さん:2005/10/20(木) 06:11:39 0
WW2での支那の犠牲者数0,5億人→180万人
南京大虐殺30万人→ない
旧日本軍の毒ガス弾200万発→40万発
・
・
・
赤壁の戦いの曹操側100万→
五丈原50万→
またお前か
201 :
世界@名無史さん:2005/10/20(木) 18:05:40 0
日本人は相手の思想を理解しないからね。
三国志のテキストなんて蜀の官僚の我田引水オナニー歴史じゃねえかよ。なんだあれ、
五虎将軍だっけ?ありえねえよ。孫子の生まれ変わり?うそこくな。周りの人が「ええ?
あの軍師は普通の感じの人でしたよ?」と言ってただろうが!それに何が高祖の面影だよ。
現代で言ったら単に極右の任侠じゃねえか!
と蜀が嫌いな漏れは病気ですか?
>>201 熱く語ってもらったところ悪いんだが、五虎将軍は正史にはなかったはずだが?
蜀=善という史観は演義関係だと思うんだが(正史では「魏」が正統)
蜀=善というのが嫌いなのは同意。
203 :
世界@名無史さん:2005/10/20(木) 18:59:41 0
孫子の生まれ変わり
孫子の生まれ変わりw
205 :
世界@名無史さん:2005/10/20(木) 20:28:19 0
>>201 いかにも正史読みたてで
諸葛亮ウンコ曹操マンセーと言うフンイキが出ていてよろしいかと。
そもそも正史に五虎将軍なんて単語出てこないし。
・・・釣られた?
209 :
世界@名無史さん:2005/10/21(金) 00:04:58 0
簡単に三国志をまとめると、
あるとき巨大な一流企業“漢”が倒産しかけ、それをきっかけにその社員たちが次々と起業していく物語である。
まず営業部長のトウタクが漢の不良債権の処理に失敗し、それに憤慨したOLや平社員、清掃会社のおばちゃんなどが
黄色いバンダナを身に付け大規模なストライキを開始、あげく社員食堂で食い逃げをしたり、会社の自動販売機を
バールのようなもので壊したりするなど、社内規律が大いに乱れ、ついに大会社漢は倒産するかにみえた。
そこで意を決し、それを沈静化しようと立ち上がった会社の経営陣たち。そこには名門氏族の課長、エンショウ、
暴走族上がりの係長ソウソウと極右活動家の契約社員リュウビ、若手実力NO、1のソンケンなどがあり、みごとスト破りに成功した。
しかしその「黄布の乱」で会社の信用を大きく損ねた株式会社“漢”は、やがて社内で実力をつけ始めたこれらの
社員に蚕食され、ついに株式会社「技官」・「食感」・「五感」に鼎立し、大乱世になるのであった・・・
210 :
世界@名無史さん:2005/10/21(金) 00:54:43 0
孫子の生まれ変わり
211 :
世界@名無史さん:2005/10/21(金) 02:04:23 0
正史で地味に強い群雄といえばシショウだよな。残念ながら変換できないがw
孫権でさえ奴が生きてる間は兵を出せなかったっていうし。しかも70以上生き
てるのが微妙に笑える。死ななさ杉!そりゃー孫権も焦るっつーの。
しかし、演義ベースのゲームだとこれでもかってくらいに弱いな。
何度やっても「流言⇒配下喪失⇒1人で孫権侵略に対抗⇒死亡」を繰り返して
やがる…。
212 :
世界@名無史さん:2005/10/21(金) 02:45:53 0
孫子の生まれ変わりw
なかやまやすし
淡路島
士燮ねえ、70どころか90まで生きてたろ。
『左伝』『尚書』に通じてた文化人でもあり、
中原の争乱をさけた士人の受け皿にもなった。
呉書を読むかぎりではけっこうエロ…じゃない偉い人。
216 :
世界@名無史さん:2005/10/21(金) 19:18:27 0
孫子の生まれ変わりw
コピペは削除対象
218 :
世界@名無史さん:2005/10/21(金) 22:48:16 0
パピコはちゅぶりりゃちゅぶりりゃりゃー
「三国志」で確認できる限りだと、特別長寿なのは蜀の来敏(97歳)と
呉の呂岱(96歳)?
他にいたらもうしわけない。
干吉
はいはい于吉于吉
当時90まで生きたら仙人扱いだよな
なんでこんなにクソスレ化してんの?
じゃあ…朱然の墓の話でもしようよ
朱然の墓ったら、下駄が出てきたことぐらいしか知らんなぁ
脇息もね。マットは畳…のようなものだったんだろうか?
なに考古学話にもってこうとしてんの?
スレ違い。
スレ違いへのツッコミも正史に関係ないのでやめてください
名刺も出てきたんだよね
碁盤もね。…戦前のサラリーマンみたいな取り合わせだw
231 :
世界@名無史さん:2005/10/27(木) 16:59:43 0
後漢末期のころは人を外見で判断するというような、現代でいえば太っているのは自己責任という
アメリカのような風潮があった、というのは史実ですか?
だから、スレ違い。
233 :
世界@名無史さん:2005/10/28(金) 08:48:07 O
ならばよし!
>>231 後漢に限らず、容貌で人格を評する習俗は清朝時代まであった。
今はシラネ。
楽器隊ってなんですか?
236 :
世界@名無史さん:2005/10/28(金) 14:38:33 0
>234とういうことは、劉玄徳はやはり相当なイケメンだったので?
>>236 イケメンである必要は無さそうだ。
明らかに普通の人と違った容姿であれば良さそう。
孫権とか劉備の伝わっている容姿は、人間かよ?ってっツッコミたくなるけど、
そもそもそういう容姿が特筆されている点からして察するべし。
ホウトウはぶさで損してたね
239 :
世界@名無史さん:2005/10/28(金) 18:04:59 0
>明らかに普通の人と違った容姿であれば良さそう。
ごめん、この一文の意味が分からんのだが
場長がかぶっているシーサーはなんか言われがあるんですか?
241 :
世界@名無史さん:2005/10/28(金) 21:26:36 0
獅子がしらか?
まあ、ギリシア・ペルシア起源だろう。
実際に馬超がかぶっていたという記述はない。
劉備の外見描写は仏教の影響が見られるって話を聞いたことがある
耳がでかい、腕が長いってのは仏サマの特徴のひとつなんだそうな
>239
尭は八彩
舜は重瞳
文王は四乳
244 :
世界@名無史さん:2005/10/28(金) 23:29:57 0
張飛の虎ヒゲの元ネタは?
明日びじくの家に放火します
246 :
世界@名無史さん:2005/10/28(金) 23:46:10 0
247 :
世界@名無史さん:2005/10/29(土) 07:52:27 0
>>237孫権は正史にただ眼光鋭いというような記述があって、それが後に碧眼紫髪の人というような
描写になった、って聞いたのですが。
>>247 孫権の容貌に関しての正史の記述は呉主伝に劉琬の評として「人なみすぐれた容貌を持ち、骨相も非凡」というのがあるだけだな。
眼光鋭い云々は注に引かれた『江表伝』の記述で「頤が張って口が大きく、瞳にはきらきらとした光があった」とあるのがそうかな。
とりあえずぱっと見、色についての記述は見当たらない。
もしかしたら他の人の伝に孫権の容貌についての記述があるかもしれんがわからん。
249 :
世界@名無史さん:2005/10/29(土) 11:02:00 0
呂布と張飛は本当に矛を交えたのですか?
250 :
世界@名無史さん:2005/10/29(土) 11:04:02 0
>>248 色は世説新語の
「劉尹道桓公:鬢如反蝟皮、眉如紫石稜、自是孫仲謀・司馬宣王一流人。」
や晉書の
「温眼如紫石稜、鬚作蝟毛磔、孫仲謀・晉宣王之流亞也。」
からきているかもね
白眼視と青眼視
>>239 美醜に拠らず、特異な容姿を評価したってことだろ。
よくあるだろ、ほら。「〜の相」とかってのが。
255 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 11:01:27 0
今で言うところの俳優のような根鼻整った顔じゃなくて、特定の相によって美醜の基準にしていた、ってことですか?
258 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 16:42:18 0
すみません。生来愚鈍なもので。反省します。
徳のある人は異相であったという事
毛むくじゃらやら、一枚肋、一枚歯、チビ、背ぇ高、八の字眉、二重瞳、禿、複乳、四つ目、おでこに角のような突起物
牛首、蛇身、鳥の体、耳に穴三つ、せむし etcetc
帝位に付く人間は天命があるという思想に基づき、
何かしら気色の悪い(特殊な)身体的特徴を与えられる
劉備の大耳テナガザルとか、司馬懿の首大回転とか
こうしておけば、平凡な人間は帝位につけない=反逆を防げるでしょ
>249
厨房の頃似たような動機から読んでみたんだが覚えている限りではなかった。
つうか一騎打ちに類する行為は孫策VS太子慈ぐらいしか無かったと思う。
どちらも斥候してて、偶然遭遇、どっちも血の気が多かったみたいで
本来なら撤退すべき所組み打ちにまで発展してる。
次点は合肥で張遼が孫権に肉薄したぐらい。
262 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 22:12:16 0
いらっしゃいますんでこんにちは・・・ごちゅもんは?
司馬炎は床につくほどの長い髪だっけ
264 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 22:24:42 0
孫ケンはカユウと一騎打ちして撃ち取ってる。
華雄か葉雄か
267 :
世界@名無史さん:2005/10/31(月) 20:02:05 0
蜀書読むだけで精一杯
268 :
世界@名無史さん:2005/11/01(火) 14:06:21 0
蜀書はまだいいだろ
文帝紀、明帝紀がとにかくだるい
三少帝紀もだるい
あやまれ! 曹髦にあやまれっ!
まげ野郎のところがうざい
お前ら三戦板いけや
274 :
世界@名無史さん:2005/11/04(金) 15:55:02 0
董卓の暴政って具体的にはどのようなことをしたのですか?
後宮に押入って公主とセクースした。
276 :
世界@名無史さん:2005/11/04(金) 18:11:57 0
それ蒼天航路だろw
>>274 長安への強引な遷都
反対者の粛清
少帝並びに何后を廃立・殺害
よく考えると、後の南北朝時代の皇帝と大して変わらんな。
278 :
世界@名無史さん:2005/11/04(金) 18:28:15 0
それなら
許都への強引な遷都
反対者の大粛清
献帝の権力を最大限削いだ
曹操のが逆臣な気が・・・
279 :
世界@名無史さん:2005/11/04(金) 18:29:57 0
>>277どこかで「董卓は経済政策に失敗し、それを補うためにあるいは実現するために
洛陽の富裕層から金をむしりとり、遷都した」と聞きましたが、具体的にはどのような
政策をしいたのでしょう?
>>279 確か銅貨鋳造で失敗してインフレ起こして
その穴埋めに洛陽の富豪に濡れ衣の罪被せて財産没収&盗掘したらしい。
281 :
世界@名無史さん:2005/11/04(金) 18:43:52 0
洛陽を焼いて廃墟にした、とかは「経済政策に失敗し、豊かな首都を混乱させた」という
ところから来ているのだろうか・・・
282 :
世界@名無史さん:2005/11/04(金) 19:12:37 0
どうせ敵に利用されるくらいなら街ごと焦土と化して明け渡すのが
中華の伝統です。
董卓にとって洛陽なぞ何の未練も無かっただろうし。
三国志について詳しく知りたいのですが、何から始めればいいかわかりません。
どうやって知識を高めるのですか?本は難しくて。
諦めろ
285 :
世界@名無史さん:2005/11/04(金) 21:20:02 0
人形劇三国志でも見て寝ろ。
キヒ
キヒヒヒ
李斯が死におった
漏れは毎月李斯に苦しめられとるよ・・・。
成都への強引な遷都
反対者の粛清
献帝を殺害
劉備も負けてないぜ
正史でも演義でも吉川でも横山でも北方でも全部やってるね
成都への強引な遷都>劉備が漢帝を名乗り都は成都にした(それまでは許都だったのに)
反対者の粛清>蜀取りで色々やったな
献帝を殺害>献帝を殺害(されたことにした)
劉備も確かに極悪非道だ
劉備程度で非難されるなら歴代中華皇帝はたいていみんなダメだな
>>291 >献帝を殺害>献帝を殺害(されたことにした)
東スポの見出しかよw
294 :
289:2005/11/05(土) 20:29:17 0
いや、非難じゃなくて278が屁理屈こねるんで書いてみただけだが
たいていみんなダメと同じくらいの人数、ただただひたすら可哀想なのもいるな
297 :
世界@名無史さん:2005/11/06(日) 22:41:53 0
やっぱ英雄なんて屍山血河を築いて、かつ勝った奴なんだよな。
負けた奴(董卓やら呂布やら劉禅やら日本やらドイツやら)はみんな「悪者」だもの。
だれかWW2演義を書いてくれ。主人公は昭和帝かヒトラーで。
「残虐で非人道的な植民地支配に立ち上がった東京の人、すなわち昭和帝、ヒロヒト」
みたいな感じでさ。
おまえら三戦板行け
もっと学術的な実のある話を・・・
299 :
世界@名無史さん:2005/11/06(日) 23:02:58 0
なんか新手の反三国志が湧いてるなw
300 :
世界@名無史さん:2005/11/06(日) 23:05:52 0
歴史なんて多かれ少なかれみんな演義ものだよ。
それを「我々歴史のプロは真実を知っている」と言い張れるのが歴史家という職業。
301 :
世界@名無史さん:2005/11/06(日) 23:08:28 0
>>300 カカレタレキシハミンナウソ、ってかいw
まぁ歴史家という職業自体が推理作家みたいな
ものさ。
302 :
世界@名無史さん:2005/11/06(日) 23:21:48 0
歴史家から暗記能力をとったら単なる粗大ゴミだろ
303 :
世界@名無史さん:2005/11/06(日) 23:26:50 0
304 :
世界@名無史さん:2005/11/06(日) 23:31:39 0
曹操は痩せで背が高く、
劉備はデブだった、って本当ですか?
305 :
世界@名無史さん:2005/11/06(日) 23:32:56 0
歴史時代を専門にする学者は必ず「政治」に邪魔されるからねぇ。
歴史が決して学問の一分野にならないのは、政治家の影響を脱しきれないからだ。
支那や朝鮮ではまさしくそのとおりだが
日本では違うなぁ
307 :
世界@名無史さん:2005/11/07(月) 00:22:26 0
↑おめでたいねぇ
おまえがな
日本は言論、思想の自由があるからまだマシ
かの国はそんなモンは無いから
日本の言論も自由とは言い切れないんだがね。
在日犯罪は日本人名報道でされるし、されるだけマシだけど
されない場合も多いし。マスコミは何故か取り揚げない。
嫌韓流って本が売れるわけだよ。
鳥取じゃ変な条例も可決されるしね
>>302 学者はわざわざ暗記なんかせんよ。
受験生だけ。
歴史のパターン化みたいのなのは考察するし覚えとくけど年号暗記とかは自然に覚える以外に暗記とかはせんな
313 :
世界@名無史さん:2005/11/07(月) 18:55:40 0
日本の歴史なんて政治家の思惑そのものじゃん。
WW2以降は実質戦勝国の英雄譚だし、堂堂と南京ナントカだのホロコーストだのが注釈抜きで載ってるわ、
在日朝鮮人が全て強制連行の被害者だわ、やりたい放題だろ。
315 :
世界@名無史さん:2005/11/07(月) 20:18:35 0
教科書レベルでは議論もクソもないわな。単に暗記科目だし
周倉ってどうよ?
どうよって何が
墓とか
黄権萌え
ホモが来たぞ
あらされて糞同然だが仮にも正史スレで周倉の墓って…巧妙な釣りか?
それとも関帝廟スタンプラリーでもするつもりなのか?(;´Д`)
322 :
世界@名無史さん:2005/11/07(月) 22:52:09 0
正史に「石火矢は西海(羅馬あたりか?)からもたらされた最新兵器」というような
記述はありますか?
周倉に相当する人物がいるんじゃないかって説はあるにはあるがそれもどうなのよって感じだしなぁ
戦前の学者は東アジアの後進性と日本の「西欧性」を主張し、
戦後になれば軍部の悪行を描き出す。
歴史研究とは結局その時代の需要に沿ったものであると自覚しなければ、
真に政治から独立した「歴史」を描き出すのは不可能。
そして、真に「政治から独立した歴史」がどれだけ有用か、と言うのは永遠の課題。
>>324 日本の史学界は全体主義ではないし政治に奉仕してもいないので、
大まかな傾向はあったとしても、多様性はいつの時代でもある。
支那や朝鮮では、違った歴史観は弾圧・封印されて、認められないので
日本とは比較にならない。
>>325 ならば日本の東洋史学が朝鮮→満洲→蒙古→中国本土と、日本の勢力が拡張するにつれ
研究対象が移っていったことに対する見解をお願いしたい。
日本の学問(のうち、最高レベル)が全体主義でないことには同意するが、
だからといって研究対象は常に眼前の状況に左右されていた事は否定できない。
戦後の歴史学の現実からの遊離は、戦前の状況からの、反省とも逃避とも言えるのではないか。
327 :
世界@名無史さん:2005/11/08(火) 01:15:04 0
朝鮮が常に支那と日本のどちらかに自大していることをなじるなら、
日本などそれこそ欧米にまで自大している。最初は大英帝国に、ついでドイツに、
そして現在はアメリカだ。
朝鮮と日本は本当に良く似ている。
何も分かってなさすぎて思わず笑っちゃうな。日教組の洗脳がよく行き届いていること。
サヨク先生には誉められただろうねw
目立つ傾向だけ捉えて、全体がそうだと思うなっつーの。
日本の歴史学者全員が同じ歴史観になったことは過去一度も無い。
戦前の日本の歴史学者が全員皇国史観だったわけでもない。
日本の東洋史学は、領土の拡張とは無関係に発展している。相関関係は
むしろほとんどないと言った方がいい。
>>326の見解は典型的な戦後の後付知識。
もちろん軍部や政府の御用学者が全くいなかったわけではないが
御用学者以外がほとんど存在しない支那・朝鮮とはアカデミズムの構造が全く異なる。
>>327は典型的な感情的反米論。何も根拠が無い勝手な判断。意味が分からん
あと「自大」じゃなく「事大」な。基礎的な知識もないね
329 :
世界@名無史さん:2005/11/08(火) 07:49:56 0
そりゃそうだ。自国のお調子者ぶりと視野の狭さを省みずに大国に「自大」とはまさによく言ったものだ。
最近の朝鮮は支那に、日本は情婦としてアメリカに、それぞれ安い股でも広げていればよい。
最近の右翼なんてアメリカ白人に自分の娘の乙女を売ってなんぼだものな。
>>328 「御用学者」云々じゃなくて、研究者の問題意識はどうしても現実的な問題に向く、ってことだよ。
それは何も権力が研究対象を押し付けるわけじゃなくて学者としての本能。
現実と歴史学が遊離した状況なんて、列島に封じ込められた戦後日本に特有な現象だろう。
ところで白鳥庫吉や津田左右吉が国策会社満鉄から研究資金を受け取っていたのは知っているよね?
結局彼らは満州統治には役に立たない研究をしていたんで、資金提供を打ち切られるわけだが、
まあその程度の抵抗がせいぜいだったんでしょう。
いつになったら三国志の話題になるんですか?
他人に頼るな
自分で切り拓け
周倉のこと だれかたのむ
ここで「事大」ってなに?という方にトリビアを。
「事」という字には「つか・える(仕える)」と言う意味があります。
つまり、「事大」とは「大(きなもの)に事(つか)える」ということです。
事大主義について辞書にある説明が「強いほうに従う」主義だと書かれてる所以です。
仕事という熟語(単語)は恐らく明治に作られたものだと思いますが、
つかえるという意味の字を二つ重ね合わせるなど、考えてるなぁと言う印象を受けます。
明治期に作られた熟語はこんな感じで同じような意味の字を重ねて作られたものが
結構あります。
思いがけず発見してしまうと楽しいです。
>>337はなんでイライラしてるんだろう
ネット弁慶はみっともないだろうに…
339 :
世界@名無史さん:2005/11/08(火) 22:04:25 0
劉備は本当に漢王朝の末裔だったらしい
だからといって何が変わるわけでもないな
事大錯誤
おれは
痔だい!
夜郎自大の方かと思た。
344 :
世界@名無史さん:2005/11/09(水) 05:35:32 0
周倉は正史に登場しない。チョウセンも。
李儒
>>336 >>337のように怒り狂う訳ではないがそれはトリビアじゃなくてコモンセンス
常識って奴なんで曲がりなりにも学問板に誇らしげに書き込むのはやめとけ
それこそ「常識」を疑われるぞ
triv・i・a /trvi/
ささいな[つまらない]こと
Trivia, ae, f.
月の女神としてのHecateまたはDiana(その神殿がしばしば三つの道の出合った場所にあったため)
陳寿の三国志正史以外の史料は全て板違い馬鹿にとっては、
李儒の話題は板違いなんだろうな。
350 :
世界@名無史さん:2005/11/10(木) 00:31:57 0
劉備の一族で彼の挙兵に従った奴っていないの?
>>350 従弟の劉奮が従っている。
徐州を領すると東海の相に任ぜられたが、
後に戦死した。
劉備関羽張飛が義兄弟の契りをかわしたとき
お互いの家族が足かせになるといけないからって
殺しあったという話は真ですか?
花関索伝はさすがに別だろう
>>352 >義兄弟の契りをかわしたとき
交わしていません。
355 :
世界@名無史さん:2005/11/10(木) 12:30:37 0
そそそそそそそそそ孫氏〜♪
そ、そ、そ、そ、孫氏ちゃうわ!
名前と字は連結してるよな
徳を備えるとか徳を操るとか権謀とか
3人の性格がよくわかる
今頃そんなこと得意げに書かれても返事に困る
今頃そんなこと得意げに突っ込まれても返事に困る
360 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 11:07:47 0
張飛の娘は劉禅と洛陽に入ったんだなあ。
361 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 11:57:26 0
正史も真実7割、我田引水3割なのだよ。
本当にあった出来事
なんてのを知ることが出来るのは、
後100世紀くらい必要かもな。
もちろん、過去に行くということが可能になるという前提で。
歴史家なんて馬鹿だよ。
362 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 12:08:28 0
魏風って何者?
363 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 13:15:46 0
364 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 14:44:48 0
>>361 陳寿は与太話をできるだけ取り除いたことで、高く評価された。
その分、内容がいまいち薄いので裴松之が注釈に力を入れる。
365 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 14:53:36 0
なんでそんなこと知ってんの?おまえ1800年以上も生きてるの?w
366 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 14:54:41 0
>>365 君は自分経験したこと以外は一切語らないってことだね。
>真実7割、我田引水3割
得意げに数字まで出して言われてもなあ…
たぶん
>>364の様な考えなんて思いもしないんだろうし、
小説でも読んでれば幸せなんじゃない?
368 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 16:05:49 0
正史には真実が書いてあるのだ。創作などは演義本で十分。
レベル低ス
ギフウも知らんヤツがこのスレくるな
三戦いけや
魏風ぢゃなくて魏諷ぢゃろということかもしれない。
372 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 21:05:03 0
蒼天航路って魏諷の話ちゃんと決着着けたの?
曹丕に殺された
374 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 21:43:12 0
蒼天の終わり方笑った。
劉備とか一瞬で殺されてるしw
官渡の戦いの兵数とかは裴松之が少なすぎるんじゃないのと
ツッコミ入れてるとこもあるね
あとは赤壁の魏側の記述とか陶謙が三国志と後漢書とで全然違う人みたいだとかか
それでも我田引水3割には達しない気がするが
376 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 23:57:59 0
電波のいう事など放っておけ。
正史を読みなさい、そうすれば僕たちのように偉くなれるよ。真実を知ることも出来るわけだし。
378 :
世界@名無史さん:2005/11/15(火) 12:31:40 0
陶謙って三国志でも後漢書でもろくでもないやつと思うが
真実を知る我々としては、そのようなことは一切ないといえます。
正史は全て真実が記述してあるので、歴史を知りたい人はぜひどうぞ。
「正史には真実が〜」とか嫌みのつもりで言う奴って
研究者はみんな、そう考えているんだと思ってるんだろうなあ。
で、自分はそんな研究者よりも偉いんじゃねえかって。
事実は一つ
史実は複数
真実は無数
だコノヤロウ
僕は事実を知っている。だって史料に書いてあるもの。え?うそこいてるかもしれないって?
そんなわけない。昔の人はウソなんてつかないし、史料にそのようなことが記されていると証明した
人はいない。我々歴史のプロは全てを知ってるのですから。
なんかウザイのが1人いるな
史実マンセーしているフリをした演義厨のフリをした
駆け出し正史厨右派ってところか?
歴史はひとつ。
三 戦 板 い け
三国志演義にも真実があるとか言う奴に限って、
三国志との比較検討なんてしたことないし、
その他の史料の存在なんて知りもしない。
388 :
世界@名無史さん:2005/11/15(火) 20:05:37 0
ちくま学芸文庫版見ると全部読めそうな感じがする
漢書、後漢書はもちろん史記全部読むのも大変だけど
三国志は読めそうな気がする
そうやって全巻揃えたが結局蜀書しか読まない
事典みたいに使って飛ばし読みするか・・・
蜀書だけじゃ偏った記述しかされてないから不便だろう
390 :
世界@名無史さん:2005/11/16(水) 11:15:04 0
呉書結構おもしろいけどなぁ
仙人みたいなのが結構出てくるし
魏書=なんかマジメぶってる
蜀書=なんかマジメぶってる2 記述少ない
呉書=DQN列伝
392 :
世界@名無史さん:2005/11/20(日) 01:09:41 O
目が碧かった人って誰だったっけ?
欧陽春
ゲン籍
阿合馬
>392
呉の大帝の眼が青いってのは創作。
>>392 ミキサー大帝のネジが抜けたったのは創作。
398 :
世界@名無史さん:2005/11/20(日) 23:03:18 0
ジャングル大帝をパクったのがライオンキング
399 :
世界@名無史さん:2005/11/21(月) 01:19:34 0
マジレスすると胡車児
400 :
世界@名無史さん:2005/11/21(月) 13:13:44 0
現存する正史の最も古いのは500年位前
401 :
世界@名無史さん:2005/11/21(月) 18:36:48 0
孫権の足が短いってのは事実?
孫堅の腰が虎って事実?
403 :
世界@名無史さん:2005/11/21(月) 23:08:49 O
406 :
世界@名無史さん:2005/11/23(水) 17:59:57 0
鮮卑と匈奴どちらがウザイ?
>>406 拓跋珪「よう、殺すか? 怨敵
赫連勃勃「ああ、殺すか。宿敵
408 :
世界@名無史さん:2005/11/29(火) 07:52:54 0
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409 :
世界@名無史さん:2005/11/29(火) 07:53:35 0
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410 :
世界@名無史さん:2005/11/29(火) 07:53:58 0
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411 :
世界@名無史さん:2005/11/30(水) 22:10:35 0
三国志展とかってなかなかないね。
>>411 三国時代は独自に展覧会を開けるほどの遺物がないんじゃないか?
413 :
世界@名無史さん:2005/11/30(水) 23:31:52 0
乱世だったし正史と演義でごちゃごちゃだからね
でも建安文学は評価されるんじゃない?蒼天航路を見る限り…
創元社から「図説中国の歴史」ってシリーズが出版されてて、
秦の巻が値段の割りに結構良かったんで三国時代の巻にも期待してたんだが、
三国時代ほとんどスルーでほとんど晋の史料しか載ってなかった・・・
魏晋南北展で
416 :
世界@名無史さん:2005/12/01(木) 17:50:43 0
三国志は演義や京劇関連の資料や各地の三国志関連の遺跡の
パネルだけでも結構人が呼べそうだが・・・
後漢魏晋展とか
後漢魏晋南北朝隋唐展なら大入りだったが…
そんなの本当にあったのか?
422 :
世界@名無史さん:2005/12/02(金) 19:03:37 0
三国志ファンはなめられてるな。
漢や隋唐のおまけじゃねんだよ。
実際三国志展開催すれば無双厨も含めて
どの中国史展より盛況になるだろ。
三国志展は遺物が少なくて「歴史の展示会」としてはむりぽ
京劇の衣装とか並べて演劇方面によったりするのが関の山
424 :
世界@名無史さん:2005/12/02(金) 20:00:45 0
遺物なんていらね。
楼桑村の風景とか木牛の復元したのとかでも十分だ。
あとは諸葛家の系図のコピーとか玉璽のレプリカでも
オタは十分ありがたがるよ。
425 :
世界@名無史さん:2005/12/02(金) 20:11:19 0
演義もありなら諸葛亮とその嫁が発明した謎のロボットとか、司馬仲達を爆殺
しようとした地雷の復元模型きぼん
演義ネタなんてちょってかじってれば痛すぎてかなわないよ。
朱然の副葬品とか、史実に即したものであれば、「演義」ファンにしてみれば
何気ないものでも物凄くありがたい発掘品を見てみたいもんだよ。
やはり当時の服飾や風俗を掴む手がかりになるものが見てみたい。
張飛の肉屋が肉冷してた井戸の煉瓦とか
428 :
世界@名無史さん:2005/12/02(金) 22:39:35 0
演義ファンにとっての朱然=調子に乗って深追いして
趙雲に串刺しにされたB級武将
朱然墓と走馬楼呉簡あたりならメイン張れるかな?
ほかに三国時代の遺物って何かあったっけ?
430 :
世界@名無史さん:2005/12/02(金) 23:09:21 0
とりあえず五虎大将の墓を特定しろ。
話はそれからだ。
曹操の爺さんの墓ってあったんじゃなかったっけ?
蒼天己に死すとか読める煉瓦があったとかどうとかの・・実際は違ったという話だけれど
432 :
世界@名無史さん:2005/12/02(金) 23:41:13 0
曹操のくされジジイの墓なんて興味ないわ〜!
>>426 当時の中原と江南は風俗とかでも地域差とかなかったのかな?
このスレ今まで知らなくて、今日初めて1から読んでみたが300位でギブった。
このスレの住人は三戦板の正史厨以下じゃね〜かよ。と
あまりにも排他的過ぎるし、揚げ足取りがひど過ぎる
好きな奴が色々語ろうぜぃ!ってな雰囲気はまるで無し。
なんか悪い表現だけどキモヲタの馴れ合いオナヌースレにしか見えないのよ
前スレの雰囲気知らんしこのスレも300以降に良くなってるのかもしれんが。
ま、そんな感じで良識ある方の路線修正を願ってage
ちなみに俺はしばらく来ないので煽り返しは勘弁な。
>>434 どこを縦読みするのかわからないが、300までしか読んでないなら、
俺が周倉の墓の話題を出してスレを盛り上げようとしたことも読んでないな。
437 :
世界@名無史さん:2005/12/03(土) 23:37:17 0
昭烈帝陵は盗掘済み?
438 :
世界@名無史さん:2005/12/03(土) 23:57:41 0
賈皇后の贈り名って何?
sageまん
440 :
世界@名無史さん:2005/12/05(月) 20:32:37 0
早く三国志板が設立されねーかな。
三戦板は無双厨とやらの大量発生でさらに
ひどいことになってるらしいし。
無双なら、歴ゲー板に強制排除になったんじゃないの?
442 :
世界@名無史さん:2005/12/05(月) 23:51:11 0
三戦板の厨に隔離される無双厨っておそろしいなw
このスレの奴らもも無双厨と大して変わらんだろう…
昔は違ったのだがなあ
444 :
世界@名無史さん:2005/12/07(水) 11:57:28 0
まあ、所詮2chだからな。
劉備善玉、曹操悪玉という構図はいつからはじまったのか?
南北朝時代
張飛の髭と笑い
民間では南北朝〜唐代の説話講談。
学問的には南宋の朱熹が蜀正統論を展開。
劉備が勝つと喜び
曹操が勝つと泣く
馬謖は頭でっかちの実戦を知らない軍事ヲタ
それを溺愛した孔明も似たようなもんだ
机上の空論止まりの軍師
451 :
世界@名無史さん:2005/12/19(月) 01:19:19 0
クマァ──────── ∩ ────!!
r/ ̄ ̄ ̄ \ /:::::::::::::::::,.;ゝ.
/ ● \ /:::::::_,.-‐''~ ,、人
●_) \ _ /:,.;‐''~ ,.ィ‐'~ |~`―-
ヽヽ ヽ / \~~~``ー--ゥ'~ ,.;;-‐''~~ |, :-| |
ヽ) ミ彡 / ::::::::`> ,.-''~.‐'~~-‐''~~.| .| | |
工___ \ ミミ|彡ム-''~~ーv'~ ~:::::;;;:: i-‐i |~~| | |
\===| \ ミ-‐''~:::::_,.ィ''~~|~ ~~`|~ |T | |~I.| | |
\==|======i__ \ >,-|~~`i'~I | | | | | |_,.+‐ !┴!―--'
\=|======|==|┴‐┐┐从 ,-、v-'~ 十''' |-‐'''~~~|| ,.. -‐''~~ ̄ ,,.;'~`i~`~`‐-,
||`i'~~`'~~'~~ミ―┼(`)‐i ̄~i→;;;;;/ ノヽ|~l ミ|'~::::::::::::__.|l'~ ;'`'`゜ ;;; `i _
|r'~ ミ |. |ゝ-'| |~l~`1;;;;;;;;;;;;;L!;;|,,,,.i'~''1~T~~  ̄|__,,,.....r-‐ミ ;; ;;;;;;;;;;;:;;;;;;;;;;;;::| ̄
,;'~ ~~~`iー‐、二ヽ ̄o~/--‐'~~コ:::::::::j. | | |エエエエ |:::::::ミ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
(,,゚Д゚) あぶないからぁー!下がって下がってー!!
⊂ ノノ ⊃
⌒⌒⌒( ゚Д)⌒⌒(⌒)⌒(⌒)⌒Y⌒⌒(⌒)⌒(⌒)⌒⌒⌒(⌒)(⌒)⌒⌒('A`)⌒)⌒)⌒)⌒⌒⌒
モシモシ?オレオレー (`∀´)】o ( ´Д`) こちら現場です ⌒ ⌒Y⌒
/ っ♀ これは怪獣映画ではありません!
452 :
世界@名無史さん:2005/12/19(月) 02:36:18 0
あのときのバショクは何がいけなかったのだろう
街道抑えて本体の到着を待ってれば普通に良かったと思われ
454 :
世界@名無史さん:2005/12/19(月) 08:29:46 0
おい、何くだらない事で書き込んでんだよ。
いい具合に落ちそうだったのに。
取りあえず山に登らずにチョウコウの進撃を押さえていたらどうなっていたのだろうか
どうなっていただろうかと言われても
そっからはパラレルワールドなんだが
三戦板へ行けってこった
>>455 確かに三戦いってやる話題だ。
でも敢えて一度だけ私見をレスしてみるなら状況は芳しくない。
明帝が後詰で長安入りしているから後方から大増援が曹真へ送られる。
この頃には趙雲が陽動であることはバレているだろうから、曹真は増援と併せて
自軍より独立軍集団を一つ抽出しなおして誰か適当な人材をあてがい、趙雲へ対峙させる。
自分は諸葛亮へ向かうだろう。
採るルートは朧関を通って涼州入りするルートと思われる。
このルートを採ると馬稷軍は張コウと挟撃する形勢となる。
諸葛亮はこれに対処するため朧関を抜けてきた曹真に対峙しようと動くだろう。
そうなると史実でもそうであったように、それまで包囲してた郭淮へ最小限の
部隊だけを貼り付けることになる。
やはり史実でそうであったように、郭淮はその機を逃さず逆撃する。
最初の北伐で馬稷を助けに動いた諸葛亮本体が大崩壊を起こして撤退したのは、
馬稷軍の敗北に加えて、諸葛亮が動いたあと、残された郭淮包囲軍が
郭淮の逆撃で破られ、諸葛亮本体および敗走中の馬稷軍共に退路を絶たれそうに
なったから。
いまのシミュでもほぼ同じ状況になるものと思われる。いじょ
曹真や諸葛亮の行動が飛躍しすぎてどーも・・・
460 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 02:32:13 0
>458
明帝自身が長安に行ったが、大規模な軍勢も含めて行幸したのは不明。
まぁ、皇帝親征だからそれなりの兵力だったろうが、いきなり曹真の増援となるべく野戦軍として機能したかどうか。
それに、数万単位の兵力をあらたに長安より西に増援するのは兵站面で厳しいかと。
魏側としても兵站面の問題から隴山以西に史実以上の兵力を送るのは難しいかと。
実際、祁山の役で司馬懿が始めて諸葛亮と対戦した時、蜀漢軍と同規模(6,7万)の兵力だったけど、兵站がかなり苦しかった模様。
隴西への大軍派兵が容易であったなら、成国渠の整備や上邽への屯田兵の派遣も必要なかったろうしな。
>460
推測だが、首都近傍で養われていた戦略予備2万前後と思う。
234年最後の北伐に臨んだ諸葛亮と対峙していた司馬懿への増援として派遣された
征蜀護軍秦朗の率いていた軍がそれだと考えられる。
同様に229年、陳倉の戦いの時に急遽荊州から呼び戻された張コウが率いることに
なったのが、河南にいた南北3万の軍ということからも(首都の2万+荊or予の1万
または河南+河内の南北3万)数字的に其れ位と読んでいいだろう。
明帝紀からは事を非常に重視している明帝の姿が窺われるので、大規模な軍が含まれた
可能性は高い。
それが野戦軍として機能しえたかどうかについては可能だったろう。
この軍は時期的に見て恐らく文帝が親征の為に首都圏で抱えていた常備軍を引きついだ
ものだっただろうから。
兵站面で難しいからやらないかというと、明帝の意気込みを見ればやる方が高い。
この時諸葛亮が撤退したあと、曹真軍はそのまま離反した涼州三郡を平定しに入ってる。
史実でもこの方面に曹真が軍を進めていたのだから、無理とは思えない。
なお、祁山の役で魏側の兵站が苦しくなったのは、当時、丁度実りのなかった時期
だったことにも一因があるのは、郭淮伝に記されるとおり。
>461
成国渠の整備や上邽への屯田兵の派遣が必要になったのは、
1.231年の役でこの方面が疲弊しきったから。
2.231年の役以降、諸葛亮側が木牛により兵站システムを構築したため
魏側も諸葛亮の仕掛ける長期に渡る兵站戦と言う戦いに対処する必要に駆られた。
ということが大きい。
上邽への屯田兵の派遣は231年の役で衰えた民力をカバーするためであるし、
成国渠の整備は231年を境に長期的な兵站維持力を確保した諸葛亮の戦い方へ
対処するためのもの。
これらは231年を境に条件が変わったものであるため、それを元に議論を進める
べきじゃないと思う。
>>458 郭淮って諸葛亮に包囲されてたっけ?
高翔の守ってた列柳城って街亭の近くじゃなかった?
あとスレ違いだがオタクのサイト、文字化けするよ。
Shift-JISで定義してあるようだけどEUCでエンコードしなおすと直るのでソースを見直してくれると嬉しい。
ちょいと質問なんだけどさ、
幼名っていつまで使うんだろう
15歳に字がつくんだよね?
>>463 それは「演義」。
「演義」では列柳城に限らず位置のおかしい場面がままある。
>>465 じゃあ列柳城は祁山の近く?
転進した諸葛亮軍の後詰めとなったわけ?
そういえば高翔は劉備の夏侯淵攻めの際に陽平関から定軍山へ転進した時も後詰めを任されてたっけ。
この時も結局は曹真に撃ち破られてるけどw
467 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 21:32:14 0
>462
街亭の後、確かに曹真が隴西諸郡を平定しているが、蜀漢軍の撤退後であって、軍を派遣すれば即平定で出来る程度のものでは?
そんな大軍を派遣したとも思えず、元々関中方面に駐留していた諸軍だけで平定したものでしょう。
つまり、隴西地方で蜀漢軍と対峙中と言う状況とは比較できないと思うのですが。
数万単位の大軍を派遣せずとも、すぐに平定が予想される軍事行動と、数万の軍勢が対峙し、どういう状況になるか読み辛い軍事行動ではね。
明帝自身の意気込みは同意しますが、隴山以西にさらに大規模に軍勢を投入するのは厳しいかと思います。
また、231年以降と状況は違うとは思いますが、街亭の役の頃、蜀漢が隴西3郡を押さえており、231年時より、兵站面における担保はあてに出来ないと思います。
468 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 21:42:30 0
列柳城の位置は不明としか・・・。
街亭ですら、人によってはイ水沿岸とする人も居るし。
ただ、郭准は北伐当初に上ケイに逃れてる。街亭の頃まで上ケイを守備してたのは予想できる。
それで、街亭での勝利を知って戦果拡大のために出撃し、高翔を破ったんだろう。
このとき、街亭の結果を郭准の方が蜀漢側より先に知ってたとすれば、列柳城が(一般的に思われてる場所の)街亭付近だったとしてもおかしくは無い。
蜀漢側は向朗が報告を怠って、街亭の結果を掴みきれず、全軍が大混乱と言う状況だったかもしれんし。
>467
離反した三郡の平定には曹真ばかりでなく張コウも関わっている(曹真伝、張コウ伝)
後世の視点で見れば確かに
「蜀漢軍の撤退後であって、軍を派遣すれば即平定で出 来る程度のものでは?」
と見えるだろうけれど、当時の視点から見ればそうは見えないと思う。
実際、この方面は文帝時にも度々争乱が起こされている地域だし、張コウが馬稷を破った
後でさえ、安定では楊条が官民を連れ去って月支城に立てこもっている。
それに天水郡は曹操の頃に武都、陰平から異民族を移住させて兵力源にしていたこともある。
彼等が叛乱側に加担していた場合、厄介な戦力となろう。
実際朧西の異民族の名家の唐テイを郭淮は討伐することになっている。
離反した諸郡大守への厳しい処置といい、平定には最大限の努力を払ったと思われる。
朧山以西への大軍投入の可能性だが、蜀側が押さえたばかりであるからこそ大軍は投入されるだろう。
可及的速やかな奪回と恢復こそが求められたろうから。
朧西郡では太守の遊楚が郡治を保持していたし、その北に有る涼州金城郡では刺史の徐貌が金城郡の軍を
治めて抵抗を決意していた。彼等を見捨てることはできないということもあるからだ。
張コウの派遣はだからこそ行われた。
その張コウが朧山以西へ入ることができず街亭で止められてしまったなら、魏側としては
別ルートからの進入を試みるだろう。つまり>458のような動きになるということ。
470 :
世界@名無史さん:2005/12/24(土) 09:05:15 0
>469
いや、だからさ、私が言いたいのは隴西3郡の平定には蜀漢郡と実際に交戦した諸軍のみで対応した(つまり、兵站面で問題が起きない範囲)んじゃないか、と言う事です。
明帝が率いて行った部隊は蜀漢軍が去った段階で、さらに動員する事はなかったのでは?、と。
蜀漢軍が隴西に勢力を張っていた状況と、去った状況では異民族の脅威の程度も格段に違うでしょう。
>>朧山以西への大軍投入の可能性だが、蜀側が押さえたばかりであるからこそ大軍は投入されるだろう。
>>可及的速やかな奪回と恢復こそが求められたろうから。
>>朧西郡では太守の遊楚が郡治を保持していたし、その北に有る涼州金城郡では刺史の徐貌が金城郡の軍を
>>治めて抵抗を決意していた。彼等を見捨てることはできないということもあるからだ。
>>張コウの派遣はだからこそ行われた。
隴山以西に、蜀漢軍が張り付いている場合、張コウ軍以上の派遣は厳しいのでは?
張コウ軍も5万からの部隊。231年時の司馬懿は蜀漢軍と同規模だったけれど、兵站面で困窮したようです。
これは蜀漢軍の同地域での軍事行動によるもの、とおっしゃいますが、228年前後の段階での蜀漢軍の軍事行動はもっと活発であって、より厳しい状況でしょう。
隴西以西を絶対に見捨てない、そのために張コウ軍5万を動員した、というのは同意です。
しかし、それが街亭で食い止められた場合、それ以上の派遣はかなり厳しくなるでしょう。
231年の段階では隴西諸郡を確保していても兵站面で問題があったのに、この段階では街亭が抑えられた場合、極端な話隴西に一兵も入れないと言う情況です。
それでも隴西を見捨てないために
>>458氏のルートで軍を派遣してくるとしたら、その辺りは諸葛亮も折込済みで、蜀漢側の思惑通りになるのでは?
ようやく正史三国志スレッドらしきなってきた!
>>470はちょっと先走りすぎっていうか、おちつけっていうか、そんな感じ。
この当時の人々の生活を知るのに、お勧めな本ってありますか?
中文書でもいいです。
474 :
世界@名無史さん:2005/12/25(日) 14:15:09 O
「漢代の文物」
475 :
世界@名無史さん:2005/12/25(日) 15:33:40 0
もう魏蜀戦争の話題はウザイだけだ。
476 :
世界@名無史さん:2005/12/25(日) 18:25:56 0
「魏晋南北朝社会生活史」 朱大渭 他
ってどう?買ってみようかと思うんだけど。
魏晋南北朝ほど、人命が軽視された時代も珍しい。
478 :
世界@名無史さん:2005/12/25(日) 18:46:00 0
「魏晋南北朝社会生活史」 朱大渭
だいたい正史から関係する部分を抜き出して解説したような漢字の本ですよ。
この手の本はけっこうあります。思ったほど役に立たない、というのが自分の
印象。
>473
『図説中国文明史』の魏晋南北朝史巻。中国原書で買えばそれなりに安い。
『漢代物質文化資料図説』とかですかね。
和書なら以下の書(といっても、著者名のみ。あとはググってね//笑)。
林巳奈夫・渡部武・籾山明諸先生の一般向けの書。あと、ほとんどウェブ
で紹介されないけれど、『世界美術大全集』東洋編 の該当巻を通読する
だけでもかなり当時の人々の生活風景はイメージできる。
479 :
473:2005/12/26(月) 07:43:38 0
>>474さん
>>476さん
>>478さん
どうもです!
「魏晋南北朝社会生活史」
さっと概観するにはいいのでしょうか。
入門という感じで。
>>478 この図説とついたもの2つ、是非探してみます!
いえいえ、著者名のみで大丈夫です!
いろいろ著書も出しておられるでしょうし、調べます。
そこまでお手数かけませんw
世界美術大全集は小学館のですね。
けっこう値が張りそう…w
ですが興味あります。
この時代の生活や風俗の方に興味が強くなってきたところでして、
どうやって手を付けたものかな、なんて思ってました。
貴重な情報ありがとう、大変為になりました。
480 :
世界@名無史さん :2005/12/29(木) 10:25:29 0
漏れも三国時代の生活や風俗の方に興味が強くなってきたところでして
この時代にも売女とかいたのかな?
481 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 13:37:10 O
いた
漢の武帝の衛皇后などは娼家の人間という
482 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 14:55:08 0
劉氏出自祁姓.帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名.能擾龍,事夏為御龍氏,
在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏.至宣王,滅其國.其子隰叔奔晉為士師,生士_.
_生成伯缺,缺生士會.會適秦,歸晉,有子留於秦,自為劉氏.生明,明生遠,遠生陽,十世孫,
戰國時獲於魏,遂為魏大夫.秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛.生仁,號豐公.生_,字執嘉.
生四子:伯、仲、邦、交.邦,漢高祖也
483 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 16:55:28 O
なんででっちあげの劉氏の由来を貼ってるの?
484 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 17:13:05 0
なんででっちあげなの?
485 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 17:17:03 O
天下取った後から「我々はこんな偉い一族だったんですよ」なんつーこと言われてもなぁ
ま劉氏(劉邦)の場合は偉くもなんともなかった中で天下取ったのが凄さなんだが。
>>484 以前から関連スレにマルチでコピペしてるのはお前か。
487 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 17:19:09 0
>>485 唐杜氏なんて別にそれほど偉くないだろ?
488 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 17:23:29 0
絶対正しいという根拠もないが、でっちあげという根拠もない。
んなこといったら周や商の由来も十分うさんくさい
>>488 >んなこといったら周や商の由来も十分うさんくさい
実際胡散臭いだろ。
490 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 17:29:15 O
かなり純真な人がいますね。
オレオレ詐欺にひっかかるタイプですよ。気をつけて!
>>488 俺は実は南朝の皇族の末裔なんだ。でっちあげというなら証明してみろ。
492 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 17:37:44 0
唐杜氏なんて詐称してもふーんて感じな氏族だよ。
詐称するならもっといいところにするだろう。
問題はそこじゃなく堯の血筋だというところだろ
「姓」をはっきりさせる意味もあるんだろうな。皇帝にまでなって姓がよくわからんってのも困るんだろ。
江戸時代の大名が源平藤橘いずれかを称したのと似たようなもんじゃね?
姓をはっきりさせると自動的に先祖が決まってしまうが。
495 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 17:54:34 0
>>493 ?劉邦の話を別にしても唐杜氏は堯の子孫って左伝にも書いてあるけど?左伝の記述も疑うというなら話は別だが。
しかしみんな必死なのが笑える。劉邦の祖先が名族だとなんか困るのか。
史料の検討もろくにせずに信じるのは史学のやり方に反するだろ。
497 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 17:58:07 O
なんかあんた考えズレてる
劉氏はまず「堯の子孫」と決め、そこから地理的な要因などからどの氏族を間に挟むかを考えたんだろ。
名族でも困りはしないが、事実認定に無理があるからな。
498 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 17:58:38 0
>左伝の記述も疑うというなら話は別だが。
そこからわかるのは(成立が春秋なのか戦国なのか知らんが)当時そういう認識があったということだけだろ。
500 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 17:59:42 0
>劉氏はまず「堯の子孫」と決め、そこから地理的な要因などからどの氏族を間に挟むかを考えたんだろ。
根拠は?
ピラセの与太話(春秋は田斉のプロパガンダ、左伝は韓のプロパガンダ)を読んでたほうがよっぽど面白い。
502 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 18:02:59 0
俺が劉氏の立場で出自を詐称するとしたら子爵だった姫姓劉氏を詐称するけどな。周の王族だし。わざわざ堯の子孫を詐称する意味がわからん。
>>502 アホか。すでに天命の離れた姓を名乗ってどうするよ。
505 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 18:06:50 0
>>503 なら堯の子孫を名乗る理由がなおさら分からないな。
506 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 18:08:07 0
507 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 18:09:40 0
>>504 「唐杜氏は堯の子孫」という認識が左伝成立時期にあったということ。
509 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 18:19:58 0
古代氏族のうさんくさい系図は他にごまんとあるのに、それはスルー。
一方で劉邦に関してはとりたててバンバンたたかれる。
やっぱりイメージがものを言っているのかな。
劉邦が貧農出身ていうのは中共が流したプロパガンダだよ。
510 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 18:24:04 O
スルーじゃなく、話として取り上げられないだけやろ
劉邦ら劉氏はその地の比較的富裕な(中の上くらい)家としかわからん。
>>509 お前が書かなけりゃ、劉氏もスルーしてるよ。
他のうさんくさい系図も別に信じてないしな。
劉氏だけを特別扱いしたりはしていない。してるのはお前だけ。
513 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 19:12:15 0
>>513 君は学問板で悪魔の証明を求めるのかい?
515 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 19:16:37 0
>>513 そろそろスレ違いということを認識して出てってくれないかな。
517 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 19:18:23 0
でっちあげという根拠はないの?
518 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 19:19:40 0
>>514 こういう場合は悪魔の証明とはいわないのでは?
>>517 はいはい、本当という証拠もうそという証拠もないからさっさとスレ違いということを理解して去りなさい。
520 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 19:21:22 0
赤壁の戦いで曹操軍百万は本当か?
521 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 19:23:12 0
三国志ってでっちあげじゃねえ?
じゃあ、あらためて周倉の墓について
周倉かよ!
524 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 19:44:36 0
>>521 本当という証拠もうそという証拠もないからさっさと版違いということを理解して文学版にでも去らないと。
525 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 21:44:38 0
お前ら、過疎らせたり煽り合ったり、落ち着き無さ過ぎ。
成王、唐を滅ぼし、人を杜にうつす。 故に唐杜氏という
527 :
世界@名無史さん:2005/12/29(木) 22:02:24 O
つまりネタが欲しいんだよ。
例えば、曹操は自分が禅譲という名の簒奪をする気だったか、とか。
もちろん簒奪しようとしてたわけだが。
寿命が足りずに出来なかっただけで。
528 :
世界@名無史さん:2005/12/30(金) 01:32:05 0
質問なんですが、劉備が漢中を曹操から奪取した直後くらいに劉封・孟達・李平らを派遣して上庸を確保した、との記述が先主伝にあるのですが、この李平は李厳と同一人物なのでしょうか?
李厳だとすると、前年(218年)に益州本国での叛乱鎮圧をした後、輔漢将軍に昇進し、建夷太守は今まで通り、とされてます。
219年に2万前後、漢中に追加派兵した際に動員された可能性もありますが、郡太守が全く隣接していない地域の遠征に参加することがあるのかどうか・・・。
また、仮にこの李平なる人物が李厳と同一人物だったとしたら、上庸出兵の総指揮官は劉封な訳で、輔漢将軍である李厳が、副軍中郎将の劉封の指揮下に入る事はあるのでしょうか?
これらの事について、何かご存知の方がいたら、教えてください。
>>528 微妙だけどおそらく別人だと思う。
李厳が李平に改名したのは劉備死後だし、上庸派遣直後の劉備を漢中王に推挙する上表文の中には李厳と記述されてる。
また後主伝をみると李厳が改名する以前は李厳、改名後は李平ときちんと区分けして記述されてる。
よって先主伝において後の名前で統一されて記述されてるとは、ミスでない限り、あるいは李平→李厳→李平という変遷があったのではない限りありえない。
ただ、
> また、仮にこの李平なる人物が李厳と同一人物だったとしたら、上庸出兵の総指揮官は劉封な訳で、
> 輔漢将軍である李厳が、副軍中郎将の劉封の指揮下に入る事はあるのでしょうか?
これ自体、副軍中郎将の指揮下に輔漢将軍が入る事はありうると思うよ。
そもそも孟達自身、当時宜都太守であったわけで、ということは将軍号を帯びているわけで。
まあ孟達の将軍号が何品に当たるかは不明だけどね。
ただ劉封が劉備の養子であることを考えれば、その辺がどうあれ問題ないでしょ。
530 :
世界@名無史さん:2005/12/30(金) 17:42:29 0
>529
ありがとう、ございます。
劉封の指揮権については、劉備の養子と言う立場で行使した、とすれば問題無いですね。
そうで無いとすると、輔漢将軍の格式が雑号将軍の中では上位であると思われるので、やっぱり別人なのかな、と思います。
孟達は宜都太守でしたけど、劉備政権でも、郡太守は将軍号も帯びるのでしょうか?
後年の魏は太守になると将軍号も帯びた様ですが。
三国時代に関する新しい資料発見されないかな。
昔、毛沢東が歴史的な古文書にガソリンかけて焼いたらしいが、
その中に三国時代の貴重な資料があったかもしれないと思うと
無念で仕方がない。
曹操の真筆の詩とか、諸葛亮の著作とか。
まあ…現存してないだろうなあ。
呉簡がかなり出てきてるジャマイカ
三国志挙げ
534 :
世界@名無史さん:2006/01/03(火) 23:53:25 0
呉簡ってほとんど戸籍だろ?
いらねえよw
>>534 ああ、あんたは学問板向きじゃないわ。三戦板へドゾー
まったくだ
537 :
世界@名無史さん:2006/01/04(水) 12:27:18 0
三国志はでっちあげ。学問版向きじゃない。
538 :
世界@名無史さん:2006/01/04(水) 13:26:14 0
じゃあ、呉簡の戸籍を基にした学問的な話をヨロシク。
そもそもが戸籍だけじゃないし
541 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 00:53:42 0
何でもイイから呉簡を基に学問的な話をしてくれよw
>>541 いいか、マタマタ聞きぐらいだからソース聞くなよ。
走馬楼呉簡によれば、呉は湖なんかにも官吏を置いていたらしい。
何をするかっていうと、魚をとって売って金にしていたと言うのだ。
その倉庫への出納が明記されている簡があるらしい。
開発が以前より進んだとは言え、やはり呉は未開地が多くて収入が不安定であった。
だから山川叢沢などから上がる利益を国家が吸収していたのだよ。いじらしいね。
とかいえば満足か?まだ不足か?
543 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 01:37:18 0
そりゃ、呉には湖多いからな。
そこで、獲れる魚を管理してても普通だろ。
つか、ネタ的に面白いか?
>>543 中国の歴代王朝では山川叢沢からのあがりが国家の税収にされる事はありません。
呉に特異な状況です。
このネタを面白いと思うか思わないかは人によると思うが、
自分から見れば呉という国の財政の一端が窺われて面白いし、
国家の収入源に関しては立派な学問分野になるだろう。
戦争ばっかりみて楽しんでいるのは学問的とはいえない。
ちがうな。
税収として、じゃなくて国家が漁業とその販売を行うこと、だな。正確には。
少なくとも自分からしたらいつ何処に誰が何万人を率いてうんぬんより、こっちのほうがよっぽど面白いと思う。
同じく
三戦板と同じ話でダラダラは勘弁
547 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 05:27:28 0
劉備が漢中王になったとき
曹操が「むしろ売りの分際がついに漢中王を名乗ったか」
とぶちまけた演技のシーンは史実ですか
曹操好きの私には信じられないので^^;
呉簡の大量出土で楷書などの成立過程も明らかになったとか。
当時の書だと魏の鐘ヨウとかが有名だが、当時の真筆なんてなかなかないし。
租税品に皮革での納税なんかもあったらしい。
もう少し整理できたら年代ごとに納税地をポイント打って
山越を支配下において納税区域が広がる様子なんかや、
呉のおおまかな人口分布なんかもわかるかもしれない。
名刺のもとになったのが出てきたんだっけ
朱然墓の謁とかのこと?
漢墓から同様のものはすでに出てると思うが
551 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 11:39:51 0
中国の歴代王朝では山川叢沢からのあがりが国家の税収にされる事はありません。
↑
岩塩や鉱物は官が管理してたんじゃないの?
552 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 12:35:24 O
専売収入≠税収
>>551 まあ、資源類はそうだね。呉楚七国の乱の原因も塩銅の専売権を国が握ったからか。
でもお魚売る呉国って素敵w
554 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 15:48:23 O
呉の話題が出てるんでちょっと訊きたいんですが、山越ってやっぱり異民族なんですか?
以前、自分が読んだタイトル忘れちゃったけど講談社新書の本には「異民族って言うより圧政を逃れて山に住んじゃった人達」みたいな事が書いてあったんですが。
555 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 16:52:33 0
異民族と言って過言じゃありません。
漢の時代に「ケツ」と言う国がありましたのでその後継かと
そもそも荊楚呉越なんて別民族でしょ?
巴蜀、長安以西なんかもそうだし。
まずは民族の定義を…
って言っても始まらんかね。
元々は異種なんだろうけど、三国時代には漢化した山越とか
山越化した漢人とかその他色々入り混じっていたと見るのが妥当かと。
現在でも広西自治区になってる。
559 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 21:49:55 0
結局、呉簡の大部分を占める戸籍は大して役に立たないんだろ?
空気の大部分は呼吸に役立たないんだろ?
みたいな発言だ
561 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 22:01:06 0
それは詭弁。
馬王堆と比べたら近年の呉簡は明らかにしょぼい。
562 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 22:06:31 O
馬王堆と比べるのはどうかと思う
しょぼくても新発見史料には違いない
563 :
世界@名無史さん:2006/01/05(木) 22:10:16 0
朱然の墓より張昭の墓が見つかった方が大発見に
なるっぽいな。
>>563 曹否が与えたという紙で書かれた典論が発見されたら尚凄い。
呉蘭
戸籍研究がどれだけ重要な事かわからん奴は三戦(ry
ってかこれからの三国時代関連の新出史料なんて、走馬楼のは出ないんじゃないか?
走馬楼以上の情報量が有るのは、のまちがい
実は
>>566は何も分かってないと言うオチ
戸籍研究は凄い!ただそれだけしか分かってなさそうw
俺も無知な住民のひとりだけど、いまの流れと関係するネタは興味あるし
いろいろ知りたい。
三戦板は誰が強いとか勝った負けたの話が多くてあまり楽しめないし。
570 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 02:54:01 0
結局、呉簡ごときじゃすぐネタが切れるって事だ。
571 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 03:00:23 O
では貴方が次のネタをどぞ
張昭が張昭について
なんで避けられてないの?
573 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 10:04:29 O
日本語でお願いします
張昭の昭の字は避けられるはずではないか?
と
575 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 10:23:43 O
董昭とかな
結論としては避諱されてないんだよ昭
ゆえにその辺を語ろうかと
逆に「壱」が付く人物は全員「懿」なのか?
孫壱とか実際は孫懿?
578 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 10:34:53 O
違うかもよ
壱が正しいかも
韋曜も実は韋曜であってるとか?
580 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 10:40:54 O
昭の別名というだけなんじゃない?
581 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 15:25:39 0
張昭とか董昭は名族だから遠慮したのかもよ。
司馬昭の諱自体が改竄されていたんだよ!
583 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 20:37:43 O
そうそう、そういえばよくこの時代の話で家柄の話ってよくでてくるけど三国志の時代の家柄ランキングって作れないのかな
584 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 20:52:10 0
>583
三国時代って言っても100年くらいあるから、一概には作れないような・・・。
ちょっと後の時代だと、清河の崔氏とか范陽の盧氏、太原の王氏とかが有名だけど、
崔[王炎]、盧植、王允が先祖ってことでいいの?
後に東晋の成立に大きく貢献した王導や、書家として有名な王羲之を輩出する
南北朝期を通じて第一級の名族である琅[王邪]の王氏には
孫堅にヌッコロされた荊州刺史の王叡がいたような・・・
587 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 21:09:54 O
584
無理かな?
後漢時代の目線で、って事なら出来るんじゃないかなと思うんだけど。
つっても何分自分には知識がないんで劉曄あたりは王族だからさぞかし良い家柄なのかな、とか考えてみるだけなんだけど
三国時代は家柄が確定され始める時代だからな。
既にその芽はかなり出てるけどね。当時だったら荀家がトップかねぇ。後代ではパッとしないけど
589 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 21:48:59 0
劉氏
>>586 三国時代では孫権の王夫人や、魏の王雄などがいる
591 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 22:34:21 0
>587
後漢目線だと、袁氏とかでね?
劉曄は王族と言っても、何世代も経ってるから、地方の官吏になるにあたって、少々有利だった、って程度らしいよ。
後の出世は本人の能力次第と言う感じで。
劉焉もそんな感じだし。
後漢目線なら楊氏も。
袁氏ばかり強調されてるが、楊氏も四世三公の名家だ。
楊氏でも弘農楊氏とか地名と合わせて書かないとわからなくなっちゃうよ
後漢末に限れば曹操の曹氏。
父曹嵩に限らず、曹騰の一族全てが大出世しており、名族というよりはかなりの権勢家だった。
曹操が初任官に洛陽令を望んでいたと言うのも、その権勢でねじ込めた筈だという恨み言が入っていたように思う。
司馬防は曹氏の権勢に完全には屈しなかったんだろう。
595 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 23:09:09 0
>594
曹氏の場合、確かに名族ではないし、権勢ってよか、曹騰のコネの七光りみたいな感じだが。
曹嵩については大尉を金で買ったが、数ヶ月で解任されてる様に、権勢があったとは思えんが。
>>595 曹仁、曹休、曹洪の父らの官歴を見たら、彼ら曹氏が当時の地位的にかなりのものだったとわかるよ。
もちろんその根源は七光りだが、曹嵩の太尉についても無位無官から買ったわけではないからね。
曹嵩、曹操で二世三公だしね。一応。
>>595 当時の三公は就任して数ヶ月で免官されている場合も多いから
曹嵩も普通(?)と言えば普通だな。
598 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 01:10:54 0
お前らどっから涌いて出たんだ?
昨日まで超過疎ってたぞ。
躁鬱症かw
600 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 06:44:07 0
>595
まぁ、社会的地位の高さは同意なんだけど、当事の人々からすると、立派な人物だったにしても宦官である曹騰の七光りである以上、名門・名流とは思われてなかった様な・・・。
>597
確かに、数ヶ月で免官されてる者も多いけど、三公でないにしても復職してる人も多いような気が。
曹嵩の場合、金で買ったから、災害責任で終了、ってのはお金で買った任期終了って感じがする。
袁氏は4代前が占い師かなんかじゃないか?
莫大な賄賂を贈って三公に昇るって事は就任したら贈った分以上の利益が
見込まれる訳かな?名誉+資産が増えるって事かな。。
>>601 詳しく
603 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 19:39:42 0
>602
曹家の場合、曹騰の七光りである程度の家格を得たけど、所詮成り上がりだから、2世代目の曹嵩が三公に就く事で、家格の定着を目指したんでないのかな。
名誉は得られるだろうが(金で買った部分で相殺か?)資産は増えないんじゃないかなぁ。
曹騰のコネって宦官勢力だけの間だったのかな?
張奐とか張温を推挙したのも曹騰だったな。
現実主義的な豪族たちとも何らかの関係があったと考えていいのかな。。
605 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 22:08:48 0
>604
誰だったか忘れたが、曹騰の死去後に三公に昇った人物が、今の自分があるのは曹常待のおかげ、みたいな事言ってるな。
宦官とは言え、立派な人物ではあったから、官僚・豪族等にも影響力はあったかも。
ただそれも、じかに接した人物のみかもね。
一般的に曹家は「宦官の子孫」ってだけで。
となると若き曹操を評価した人物が少ないのも「宦官の子孫」というレッテルのせいかな。
ちょっと調べてみたけど(間違ってたらスマン)曹嵩は大司農・大鴻臚の地位を金で得てるようだ。
曹騰の築いた土台を曹嵩が強固な物に仕上げている感じだね
607 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 23:13:13 0
>606
曹操にそう言う部分はあったと思うよ。
曹嵩自身も「宦官の子」って意識は強かったんでないかな。
自分の時代は「宦官の子」「宦官の資産で買った官位」って言うのがついて回るけど、時代が過ぎ、子孫が重職を重ねれば名門の仲間入り、とでも考えたのかもね。
既に曹操の親世代が要職についてるよ。尚書令や穎川太守ね。
すでに曹操の時には名門に片足くらいは突っ込んでたんだよ。
袁紹との付き合いなどはその証拠。
権勢家と名門は必ずしも一致しないからねぇ
610 :
世界@名無史さん:2006/01/11(水) 23:55:57 0
荀ケは宦官唐衡の養女を娶る事を反対されてなかったか?
あの時代、宦官の子弟はのきなみ栄達していたよ。
ああいうのは名門じゃないだろう。
反対というか、結婚したので白眼視されていた。
袁氏も宦官を出しているし、
あんな乱世にならないと仮定すれば、曹氏の場合も、
曹操の次の世代くらいまで続けば名門と呼ばれたんじゃないかな。
もちろん曹操の時点では名門の入り口といったところだろうけど。
ワイワイと楽しいスレ。
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袁氏も宦官出してるってどの辺に記述ありますか?
>>613 霊帝の時代に袁氏と同姓の宦官がいたらしい。繋がりは確認できなかったが
いた「らしい」
繋がりは確認「できなかったが」
袁征凱って袁紹と生まれがかなり近いんだが
まさかね
ミス、袁世凱
618 :
世界@名無史さん:2006/01/13(金) 02:44:26 O
劉邦と三国志の間の歴史小説なんて、ありますでせょうか
劉辟って196年か200年に没したかわからないんですよね?
621 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 14:47:53 0
蔡文姫のコカ18拍ってサイトで閲覧できるところ知りませんか?
最近、パソコンなのにぐぐれないとかいうジョークが流行ってるようだが、
面白いのか?
笑うべきなのか?
それともコカでハイになってるのか?
蔡邑の書いた書物を読めるトコある?
624 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 18:06:26 0
質問なんですが、
結局どこの国が統一したのでしょうか?
蜀は確か滅んだような気が…
晋
魏→蜀
晋→魏
晋→呉
で、晋が勝った。
627 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 19:03:08 0
629 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2006/01/16(月) 19:53:04 0
630 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2006/01/16(月) 20:04:14 0
「蔡中郎集」(齊魯書社刊)は入手可能かと思います。
「獨斷」だけなら「漢魏叢書」に入っていて更に容易に入手できるはず。
631 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 20:17:07 0
漢魏叢書なんて普通の本屋に置いてないだろ。
容易のレベルが違いますね。
633 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2006/01/16(月) 20:26:13 0
中文の取次ぎしてる本屋さんは幾つかありますよ。
634 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2006/01/16(月) 20:36:45 0
「漢魏叢書」は台湾の大化書局のものあたりが入り易いかも。
635 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 21:29:52 0
623 :世界@名無史さん :2006/01/16(月) 17:56:59 0
蔡邑の書いた書物を読めるトコある?
こんな事聞くヤツに漢魏叢書と返すヤツも返すヤツだよな。
だってあやめタンだもん
んじゃ、東方書店に行ってみる
638 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 22:18:53 0
>>637 漢魏叢書ってそんな気軽に買える値段だったか?
気軽に買えないのぉ!?
640 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2006/01/16(月) 22:30:45 0
線装本だったら高いでしょうが普通の排印本ならそこそこの値段で買えます。
641 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 22:32:31 0
線装本とか排印本って言いたかっただけちゃうんかと。
あやめは完全に歴史好きアマチュアを眼中に置いてない
から腹が立つんだよ。
マニアックな言葉を使うときは()して解説入れたり
しろや。
これがゆとり教育の弊害というやつか?無知は自分の責任なのにな・・・
643 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 23:05:25 0
無知って線装本とか排印本とか書誌学の世界だろ。
普通に史学科の学生じゃ知らないだろ。
>>643 自分で検索すればよかろう。
それもできないから馬鹿にされる。
645 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 23:17:35 0
小室直樹の「中国原論」は面白い。
毛沢東が何故政権をとれたか?が書いてある。
秘密は三国志にあり!
蔡中郎集なら東京大學東洋文化研究所漢籍善本全文影像資料庫で読める
647 :
世界@名無史さん:2006/01/16(月) 23:56:15 0
>>644 何で他人のカキコを検索してまで理解せにゃならんのかw
>>647 ゆとり教育キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!
649 :
世界@名無史さん:2006/01/17(火) 00:22:33 0
蔡中郎集って何が収録されてんのよ?
詩文?
無知と言うかさ…
例えば「僕は横山三国志・三国志演義を読みました、正史に挑戦しようと
思いますどこがオススメですか?」に対して
「中華書局の印影本正史三国志をオススメします」と言ってるようだぞ
651 :
世界@名無史さん:2006/01/17(火) 00:30:00 O
日本語で読みたい、とか書いてない方も不注意だなあ、というところ
652 :
世界@名無史さん:2006/01/17(火) 00:35:40 0
まあ、あやめも相手が素人とか全く考慮しないよな。
どんなときも全力を出すのが漢ですばい
>>650 悲しいかな、ここ、学問板何だよな
義務教育ならまだしも、それ以上だったら100説明されるようじゃ駄目だよ
偏屈な人の集まりですね
だが、それがいい
656 :
世界@名無史さん:2006/01/17(火) 01:37:05 0
学問板のワリにはこのスレ三戦板とレベルが変わらないもまた事実
658 :
世界@名無史さん:2006/01/17(火) 03:12:38 0
蔡文姫の質問をしたものですが、ググっても中途半端なものしか出てきません。
なんか本でもいいんで教えてください
あれで中途半端に感じるなら、自分で探す能力があると思うんだけど。
660 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2006/01/17(火) 13:02:03 0
661 :
世界@名無史さん:2006/01/18(水) 10:34:28 0
自分もさんざん初心者への配慮に欠けると言われているのになあ・・・
あやめをいじめんなや
いろんな所から厨が流れてくるようになったな、ここも。
あやめ氏はよくやってるよ
学問板で初心者は言い訳にならんだろ
665 :
世界@名無史さん:2006/01/18(水) 23:39:09 0
2chで学問って、ホントにそれでいいのか?
>>664 頭が堅そう
柔軟に臨機応変に対応できないタイプ
あるいは知識至上主義者で教授とかに頭上がらないタイプ
ここにちょくちょく書き込むあやめは重要な存在であり、それを中傷し妨害する行為はスレへの妨害
一方的に言ってるだけだし荒らしって言われても仕方ないわな。
つーかコテハン叩きはそれ用スレがあったろうがハゲ
>>666 下手な煽りだな。
わからないことがあったら自分で調べるぐらいでないと学問はできないぞ。
ここで語られる9割程度はgoogleで対応できるんだから。
669 :
世界@名無史さん:2006/01/19(木) 12:48:02 0
ぐぐれ厨程偉そうでウザイ存在は無い。
学問ってのはそんなに敷居の高いものでもあるまいに
671 :
世界@名無史さん:2006/01/19(木) 14:56:17 0
しかし「分からない事は自分で調べる」
その心構えは重要
だが、彼は偉そうだなw
672 :
世界@名無史さん:2006/01/19(木) 23:20:49 0
線装本って和装本みたいに糸で綴じてる本のことか。
排印本って近代的な活字で印刷されたものだったのね。
リトグラフは石版本だけじゃなくて漢籍の世界じゃ
「石印本」ともいうのか。なるほど。
wikははじめ貧弱この上なかったけど最近はそこそこ
充実するようになったなあ。
調べものするときの足掛かりには丁度良くなったというか。
673 :
世界@名無史さん:2006/01/19(木) 23:35:50 0
糸で綴じた活字本ってのはないのか?w
>>671 偉そうなの事と内容に含蓄のある事は相反しない
他山の石って奴だ
675 :
世界@名無史さん:2006/01/20(金) 20:42:19 0
質問した当事者にぐぐれってのはまあ一理あるけど、
何も関係ないROMにまで検索を要求するような
レスは良くなくね?
ROMなんて空気みたいな奴に気を遣ってどうする
677 :
世界@名無史さん:2006/01/20(金) 21:47:49 0
ROMというか、このスレに書き込んでる他のヤツらにまで
って事だ。
ようするに学問板の三国志スレなわけで
当たり前な三戦板でもレスつくような質問はするなと言う事だ。
確かに当たり前でググレば分かる程度の質問をこの場でする前に三戦板で
質問しろよとは思う。
ここはもっと崇高な場所であるべき
じゃあ、周倉の墓についてもう一度話そうか。
周倉の墓はデッチ上げ
681 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 17:58:32 0
張昭と孫権の話しようよ
愉快な漫才コンビ
683 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 22:39:06 0
司馬昭と諸葛誕の話がしたい
684 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 23:56:53 O
愉快な漫才コンビ
685 :
世界@名無史さん:2006/01/23(月) 00:22:44 0
諸葛誕は単独で司馬昭を倒せる気だったのかな?
呉に援助頼むなんて本末転倒と思うが・・・
686 :
世界@名無史さん:2006/01/23(月) 00:35:43 0
もうそれ三国志じゃないんじゃないの
687 :
世界@名無史さん:2006/01/23(月) 01:33:49 O
夢想厨にとっては三国志じゃないんだろう
極端にレベルの低いスレだな
ボケ
煽りしかしてねえじゃねえかカス
名前欄に「孔明」と書き込む時どんな気分ですか?
水滸伝の役立たずになった気分
ここも向こうも同じかw
>>691 なんつーかさあ、孔明名乗って改めて頭の良い立場から見るとさあ、
お前らの馬鹿さが際だって見えるよ、ボケ
696 :
世界@名無史さん:2006/01/24(火) 16:22:39 0
孔明って正史だと法正のほうが
697 :
世界@名無史さん:2006/01/24(火) 16:25:27 0
孔明って地道な官僚だろ。
戦争下手っぴだったし、人材登用も失敗だし。
とくに斬新な政治改革もないし、
それこそ、「出師の表」を書いていなかったら、
歴史に底のほうに埋没してたんじゃない?
698 :
孔明 ◆rsqKOQYKG6 :2006/01/24(火) 17:54:06 0
おいおい
三戦に留まらず俺様まで嫉妬するのかよ
もっとも
こんなにレベルが低けりゃ嫉妬したくもなるよな
ときに、前趙の劉淵の祖父にあたる南匈奴王家の当主於夫羅が、
一時長安から逃げ出していた献帝を救出してこれを護衛していた、
という話を最近聞いた。
あんまりこの時代のことは詳しく無いので「献帝」と「匈奴」という
組み合わせがどことなく不思議な感じがして、思えば、漢末から三国時代の
匈奴ってどうにも随分と目立たない感じがするけども、当時の華北での
匈奴の位置付けってどんな感じだったのかねえ?
後年の『晋書』では匈奴の部族構成とかけっこう詳しく載せられている
ようだけど、三国時代で「匈奴」と言われてもピンと来ない。やはり
『三国志演義』の影響なんだろうか。
その辺は内田吟風『北アジア史研究』匈奴編を読まれよ。
劉淵の祖父だとしたら、その天夫羅というのはえらい長生きだな。
702 :
世界@名無史さん:2006/01/25(水) 00:05:16 O
意外に思うだろうが、
漫画の龍狼伝は匈奴について案外よく調べてたな
703 :
世界@名無史さん:2006/01/25(水) 00:34:12 0
孔明ってローマの水準で言うと小カトーぐらいの能力かな
704 :
世界@名無史さん:2006/01/25(水) 04:07:18 0
孔明ってなんで演義だとあんなに凄い軍師なんだ?
孔明の政治力は、西洋史でいうとカウニッツくらいかな?
706 :
孔明 ◆rsqKOQYKG6 :2006/01/25(水) 13:44:16 0
おいおい
嫉妬するなよ
もっとも
お前らほどレベルが低けりゃ嫉妬したくもなるよな
707 :
世界@名無史さん:2006/01/25(水) 14:19:26 0
孔明は外交官としてはかなり凄いと思うよ
んじゃ現実の孔明の能力は小カトーぐらいと
諸葛亮はカトちゃん
710 :
孔明 ◆rsqKOQYKG6 :2006/01/25(水) 18:27:52 0
なめんなよ
ボケが
↑エエェェ(・д・)ェェエエ
小カトーに例えられるのなら光栄じゃない。
もしかして小カトー知らないとか…、「小」がついているからバカにされたと思っているとか。
712 :
世界@名無史さん:2006/01/25(水) 19:12:43 O
孔明てあれだろ
たしかどっかの山賊の108人の首領の一人で気が付いたら病死してたやつだろ?W
小日本
孔明の政治能力はいいと言えばいい。
世界史でみた孔明の政治能力値はKOEI基準でいうと80前半かな?
>>712 それは違う孔明だろwwww
毛頭星 孔明のほうだなwwだがそんなに影が薄い人物じゃないぞ。
俺的には結構良い人物だったと思う。結構戦ってるし。
あw釣りかwwwしかもここで水滸伝の話するのもなぁww板違いww俺バカスw
715 :
キッド:2006/01/26(木) 02:38:50 O
>>286 馬お前はまさに、哀れ、惨め、醜い、無様、無粋、汚物、下郎、などの単語は貴様にこそ相応しい言葉だ糞虫。
以上の侮辱語を貴様にやるよ
遠慮するな取っておけ糞虫。
716 :
世界@名無史さん:2006/01/26(木) 08:47:24 0
誤爆?
717 :
世界@名無史さん:2006/01/26(木) 14:16:47 0
陳寿は蜀びいきでFA?
FA
719 :
世界@名無史さん:2006/01/27(金) 08:28:20 O
陳寿は晋びいきだろ。
司馬氏に最大限配慮した形で編纂している。
720 :
孔明 ◆rsqKOQYKG6 :2006/01/27(金) 13:54:17 0
お前らさっさともっと学問に励めよコラァ
>>719 それは当時の彼の立場を考えれば至極当然のことで
陳寿自身が特に肩入れしてたのはやはり蜀だったんじゃないかと思う
同じ僭称皇帝なのに蜀漢の方は先主・後主なんて呼んでるし
723 :
世界@名無史さん:2006/01/27(金) 16:34:47 O
肩入れしてあのスカスカな内容というのが悲しいね
それは孔明のせい…
>>732 激しく同意。
個人的には趙雲と黄忠についてもう少し詳しく調べられなかった
のか…といつも思う。
逆に肩入れしながら過剰な美化を為さなかったという点で陳寿の史家としての見識は評価されるべきだと思うが
黄忠や趙雲についてもちゃんと調べたが特に書き記すに値するような事跡がなかったというだけのことかも知れんし
それよりも趙雲別伝について著者とかを全く記さなかった裴松之のが問題
全くの捏造とは思わんが不明瞭な点が多すぎてどこまで信じていいものかわからん
いやいや、流石に普通は引書の著者名までは記さないから。
晋書みたいに、複数の著者による複数の同題本がある場合は別だけど。
728 :
世界@名無史さん:2006/01/27(金) 23:31:03 O
んなこたぁない
適当いうなや
普通は著者や編者がわかるようにするものだ
全くわからないのは異常
釣れますか
などと文王
側により
>>726 陳寿は歴史の流れに関係ないと思った物はバッサリ切り落とす編纂スタイルだよね
731 :
世界@名無史さん:2006/01/29(日) 12:38:05 O
陳寿の三国志は晋皇室や呉の皇帝・大臣に対する美化や隠蔽がけっこうある
それは立場上の問題であって陳寿の思想とは関わりない希ガス
あの時代ならそういうスタンスで執筆しなければ後世に残ることすら許されなかっただろうし
呉も?
つまり陳寿は呉びいきだったと。
734 :
孔明 ◆rsqKOQYKG6 :2006/01/29(日) 14:28:41 0
さっさと学問に励んで世の発展に努めろよコラ
呉書は別の呉の人がそれ以前に書いた物を丸写しの可能性があるそうな
736 :
孔明 ◆rsqKOQYKG6 :2006/01/29(日) 19:19:32 0
んなこたあ知ってるよ
仮にも皇帝を権とか呼び捨てにしちゃってる段階で蜀の扱いとは大きな隔たりがあると思う
738 :
世界@名無史さん:2006/01/30(月) 08:22:32 O
それは建て前で各列伝内では孫権を即位前から皇帝として扱っていたり、呉びいきの姿勢が見え隠れしているよ
739 :
孔明:2006/01/30(月) 09:33:45 0
辺境民族チャンコロのことなんかどうでもいいよ
>>738 それは陳寿じゃなくて韋昭のせいなんじゃないか?
741 :
世界@名無史さん:2006/01/30(月) 12:13:40 O
韋昭の呉書を全面的に採用したんだから、陳寿の編集方針は呉の正統性を認めているんだよ。
呼び捨ては晋の役人などのうるさい一見さんを欺くカモフラージュ。
なるほどな
ひそかにアンチ晋だったという可能性もあるな
呉?まあ、どうでもいいや('A`)マンドクセ
が真相。
つまり陳寿はマンドクさがりで、歴史家としては失格
ということだよな。
745 :
世界@名無史さん:2006/01/30(月) 14:38:43 0
「なんだこの話は・・・意味なし」といってばっさり落とす陳寿と
「なんだこの話は・・・嘘くせぇ、んなのありえん!ブツブツ」といいながらも律儀にのせる裴松之
ちょっと質問。人物列伝とかによく出てくる、領邑っていわゆる領地のこと?
領邑を与えられたことによる、社会的・経済的な効果はどういうものがあるの?
747 :
孔明 ◆rsqKOQYKG6 :2006/01/31(火) 18:15:46 0
お前そんなことも知らないのかよ、ボケ
やっぱり世界史はレベル低いな
答えも書かず、罵るだけの馬鹿コテがいるのはここですか?
君子は煽らず。
煽るのはチャンコロの反日デモ
751 :
孔明 ◆rsqKOQYKG6 :2006/02/06(月) 16:11:22 0
んだとコラ
なめんなボケが
んだとコラ
喋んなボケが
かまわない。
754 :
世界@名無史さん:2006/02/09(木) 16:44:46 0
糞コテが現れて全く不毛になったな。
755 :
世界@名無史さん:2006/02/09(木) 16:50:58 0
まだいたのか
ここのスレにはスルーてって言葉を知らない人が若干名いるようですね。
諸葛亮の北伐ルートが西に傾いているのは西域諸国と魏の交易ルートの分断と
涼州方面の良質な軍馬・兵員の調達が主な理由だそうだ。
まぁ涼州なら資源云々よりも
董卓・馬騰・韓遂の残党軍閥とか埋もれてるっぽいもんな
アンチ曹を誓ってそうだし
益州は騎兵少なかったろうしな
>主な理由だそうだ。
せめて文章に説得力もたせてくれ
誰かの主張なのかな
内容はわからんではないが、単純に長安からの魏軍の動きを意識してるだけなんでは
馬超が侵攻して来たころの長安の防備って、どんな感じだったんだろうなあ。
>>757 つーか普通に兵站維持の問題からじゃまいか?
曹操が張魯を討った時のルートと諸葛亮が231年に進出したルートは重なる。
兵站を維持する上で一番楽だったということだろう。
西域については影響を過大評価してる論調が多いような気がしてならない。
韓遂の影響力だけはガチ
そうかね?「中国史」にこだわるとそう見えるかも知れんけど、むしろまだ注目が足りないのではないかと
KOEIだと、あそこらへん取ってもメリットなくね?
最近のは変わってるの?
ところで、この時代の気候ってどんなかんじ?
炭素14から推測される太陽活動は平均的だったようで
かしゅへーかんおぉそーけん
769 :
世界@名無史さん:2006/02/11(土) 22:32:34 0
何で1が煽り調子なの?
>>766 学問板でゲームの話をするのも何だが、後背に敵がいないことによる生産地確保、
また強力な騎兵の産地としての特性がある。
逸れついでにちょっと質問を。
後漢〜三国の頃の晋陽の重要度というのは、どの程度だったのでしょう。
五代史がらみで晋陽(太原)にポイントが当たってますんで、参考にと。
匈奴などとの抗争をあまり聞かないもので。
晋陽には後漢時代には烏丸が入り込んでいるし、
少し西の山に入れば南匈奴の遊牧地が展開している。
漢人勢力の最前線であったことは間違いなかろ
>>772 さっそくの回答、サンクス
烏丸といえば、新末後漢で耿家率いる烏桓突騎を思い浮かべる。こっちは上谷だから幽州に属するのかな。
五代でいえば北平王の領地。
このあたりは公孫さんの勢力があったところですよね。
幽州と并州を結ぶ線が、おおよその後漢勢力圏といった感じですかね。
とすると、この頃も内地に異民族勢力が入り込んでいたということか。
774 :
世界@名無史さん:2006/02/17(金) 22:18:27 O
并州は魏には州自体廃止されるほど漢人は減ったらしいよ。
>774 そうか! それで肥三国志での晋陽の田舎っぷりに合点がいく。
776 :
世界@名無史さん:2006/02/18(土) 02:10:01 O
太原の王氏と匈奴の王子が仲良く交流するくらい、
匈奴は内地に入りこんでいた
逆に漢人は減っていた
つうこと
光武帝の焦土作戦のあと、またそのあたりに人が戻ったのではなく、軍・官関係の施設運営のみが継続されてたのでしょうか。
太原王氏はその方面の軍指令かなにか? 王昶くらいしか知らないけど、この人は曹操北行以降の人ですよね…
王允
779 :
777:2006/02/18(土) 22:27:06 0
ほんとだ…
>太 原 祁 人 也
無知スマソ。 満足しました、ありがとう。
王凌
呂布が匈奴の王子っていう設定の小説を何時だったか読んだんだが。
太原王氏の関係を読むと、あながち的外れでもなかったのね。
そこまで匈奴が中原に接近してくるのは曹操の政策なので、呂布の段階では十分的外れ。
小説だからいいんじゃない?ってレベルですよ。
であるか。
いや、白波賊は匈奴と連合しているし、一概にそうとは言えないんじゃないか?
蔡文姫が匈奴に攫われたりしてたしな。
劉備の蜀侵攻の際に、ホウトウを連れて行ったのはホウトウのほうを諸葛亮より重用してたから
って書いてる本があったけどさ。
単純にホウトウのほうが軍才があったからっていう解釈は幼稚?
蜀侵攻時の段をみると軍事センスはいいとおもうけど、その前段階の従軍させた理由時点で
諸葛亮より重用してたからと断定するのも軍才があったからというのも、どっちもどっちかと
諸葛亮を残す必要性からのアプローチならわからんではないけど
ホウトウは情報が少ないからなぁ
つーかそういう風に劉備が見てたってことかな。実際の軍才の多寡については謎。
公安に移ってからの新しい配下でだから、警戒されないために連れて行った、とか。
蜀へ行くときって、古参はほとんど南荊防備に残してしたわけでしょ。
軍才は未知数でしょうな、その時点では。
790 :
世界@名無史さん:2006/02/28(火) 22:20:25 O
周瑜と蜀取りの戦略練っていたから蜀に連れてった。
これが一番の理由だろ。
もう一つは制圧したばかりの南部諸郡を統治するのに諸葛亮以外の人がいなかったからってのもありそうだが
蜀奪取が確定的になったら今度は諸葛亮が建国のために入蜀してくるし
史料を読むとホウ統は人物観察と調整能力に秀でている様には覗える。
益州という未知の土地へ行くにあたってその辺の能力も買われていたのでは
ないかと推察。
諸葛亮に関しては
>>791に同意。
関羽や張飛を残してるあたり、当時の劉備も場数を踏んできただけに、曹操や
孫権への警戒心の方が大きくて益州はいくぶん楽観視してたはず。
はじめからホウ統(というよりも軍事参謀)をアテにしてなかったかのかも。
一応意見は聞いてるみたいだし全くアテにしてなかったってことはないんじゃないかな
ただ、諸葛亮に関しては劉備はその政治手腕をこそ何よりも高く評価してたのは確かだと思う
794 :
世界@名無史さん:2006/03/05(日) 12:07:56 0
なんでホウトウって周瑜のとこから離れたの
795 :
世界@名無史さん:2006/03/05(日) 12:21:57 O
周瑜の方がこの世から離れてしまっただけだと思います
亡骸を運ぶって事は結構重用されてたって事だよな
孫権が重用してくれなかったので劉備についた、らしい
江南に土着してる豪族(陸氏・顧氏など)や
他地方の名門(魯粛・周瑜・張昭)が文の面で重用される呉じゃ
自分の居場所が無いと考えて劉備陣営に走ったのでしょ>龐統
ホウ統は荊州名士サロンの一員だし一応豪族
風采が上がらない見栄えのせいで孫権に用いられなかったせいじゃないか?
呉は新参者には厳しい国だからな。
仮に登用されても古参の寒門軍人の参謀が限度だったのだろう。
800 :
国:2006/03/07(火) 22:26:05 0
やはり、顔は重要だということか。
当時は容姿も才能の一つと見られてたからね。
ところで
諸葛孔明の 亮 の字は普段使わないんだよね?
劉備の 備 や曹操の 操とか氏 名の間の字は特別な名なんだっけ?
詳しい方、どうかレスをおねがいします。
日本語が
>名の間の字
ここの意味がわからない
とりあえず、姓(氏)、名(諱)、字、の区別くらいつけて質問するべき。
名(諱)についての質問です、すみません無知なもので・・・・
日本でも、目下から名前だけよばれたりするのは、結構不愉快でしょ。
普通呼び方は官職名、あるいは数字。 張家の次男坊だと、張二、とか。
>張二
三国時代でもあったっけ?
>>807 張家の次男だと三国時代辺りは張仲だろ
なんだ張二って
>808 >807 ごめん誤爆った。 庶民の呼び方でも、これは名のほうになるんだった。
スレ汚しすまん。
811 :
世界@名無史さん:2006/03/09(木) 13:23:57 O
誤爆とか庶民とかじゃなく、時代が違うだろうと
いや、庶民層だとどうやら三国時代でもあったようだぞ。<某二,某三という呼び名
『図説中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明』に、そのような木簡の写真が載ってた。
だから、それはあざなではなく、名のほうであって、質問に対する回答にはなってないという…
そもそも質問の意味がわからん。
何を質問してるんだ?
>>814 相手が 何の面識も無い他人でも
諸葛亮
諸葛孔明
諸葛亮孔明
どちらで呼んでもいいのでしょうか?
803 は釣りとして。
質問の内容は名前の呼び方や表記についてだと思う。
ただ、劉備が姓で、玄徳を名だと思ってる可能性アリ
>>815 名も字も呼ぶのは失礼。
司馬朗(司馬懿の兄)の伝に子供の頃、父司馬防の字を言う者に対して「他人の親をバカにするものは自分の親を尊敬しない人です」と注意したという記述がある。
>>817 ええーーーー?じゃあ周りの人達は当時、彼をなんと呼んでいたのでしょうか?
諸葛殿?
諸葛丞相、諸葛侯とかでないか?
>>818 日本でもそういうのあったけど姓+役職なんていうのが多いんじゃない?
必ずそうだったというわけでもなかろうが。
劉備の場合、豫州牧時代は劉豫州、左将軍時代は劉左将軍みたいな感じで。
>名を呼ぶのは失礼です。避けなければなりません。そのために字ができました。
>でも,いつも字を呼んでいると,字が名と同じように思えませんか。
>この時代には,儒教で定められた礼をわざと過分に行う(過礼といいます)
>ことが「名士」の間で流行し,それが名声を高めることに利用されていました。
>ここでは,礼で避けることがあたり前の名に加えて,字まで避けることにより,
>親への孝行を示そうとしているのです。諸橋轍次先生によれば,唐代には帝号
>や元号まで避けることが行われたようです。お近くの図書館に『諸橋轍次著作
>集』第四巻があれば,285〜287ページの避諱の変態という項で説明されています。
>名も字も呼ぶのは失礼。
って言ってるのは高島俊男だけじゃない?
824 :
世界@名無史さん:2006/03/09(木) 23:35:20 O
字は失礼というか、なんかなれなれしいみたいな感じみたいだな
同格かつ親しい同士のみ字で呼び合うみたいな
だから人を簡単に字で呼ぶ奴はいやがられる
そういう意味では、『蒼天航路』の演出は上手かったと言える。
曹操のことを「孟徳」と呼ぶのは夏侯惇や袁紹ぐらいなもので、
ちょうど現代日本で下の名前を呼ぶような感じに仕上げてた。
>人を簡単に字で呼ぶ奴はいやがられる
この実例ってあったっけ?
827 :
世界@名無史さん:2006/03/10(金) 01:38:12 O
馬超とかがそうじゃなかったかな?
>>828 与太であろうとなかろうと主君を字で呼ぶなんてのは過礼どころか非礼もいいとこ。
>主君を字で呼ぶなんてのは過礼どころか非礼
な与太話じゃ
>人を簡単に字で呼ぶ奴はいやがられる
の実例にはならないんじゃない
>>830 「主君を字で呼ぶなんてのは過礼どころか非礼」というのが常識でなければそんな与太話は成立しない。
しかし、主君をあざなで呼ぶような例があるのかな?
あるとしたら説話とか… 現代の小説ならありそうだけど。
役職の無い時や役職の無い一般人同士はどう呼び合うのでしょうか?
例えば 出会ったばかりの 劉備と関羽、張飛はお互いどうよんでいたのでしょうか?
最後に 僕のような三国志の人物に何の関りも無い人間は、彼等をどう呼べば失礼にあたらないのでしょうか?
>>834 普通に立場に合わせた二人称だろ。
で、それなりに親しくなれば字なりなんなりになるでしょ。
この時代って農民とか庶民も字もってたの?
庶民はあざなはないよ。上でも言ったように、名前。
あざなもってるのは知識人とか名士とか上中流階級じゃないかな。
地主とかだったら、張大尽とかそんな感じ?←時代違うかも。
ああ、地主のところは呼び方ね。 字が大尽というのではなく…
あと、員外っていうのもあるな。
839 :
世界@名無史さん:2006/03/10(金) 23:52:51 O
員外はあれだろ?
○○員外郎から来てるんだろ?
時代が違うわな、一応言っとくと
じゃ、庶民出のキョチョやガクシンは自分でつけたの?
841 :
世界@名無史さん:2006/03/11(土) 00:01:38 O
臧覇たちの名前は一名の方が本来の身分での通り名なんだろうな
奴隷っぽい
後で主君からもらうという事もあると聞いた事がある
>>840 許チョは宗族数千を指揮する庶民とはちょっと違う存在だし
楽進も曹操に早くから付き従う=交流アリで庶民じゃない
844 :
世界@名無史さん:2006/03/11(土) 15:48:01 O
下層民の出だとしても、出世してから字付けてたんだと思うよ
>839 補足すまんね。 三国志好きだけど、唐宋がメインなもんで。
846 :
世界@名無史さん:2006/03/11(土) 19:20:33 0
>>844 時代が違うけど朱元璋もそうだな。
(元の名前・重八)
848 :
世界@名無史さん:2006/03/27(月) 11:43:59 0
age
849 :
世界@名無史さん:2006/03/27(月) 12:19:24 0
底辺出身皇帝は劉邦と種減少だけ?
劉邦は亭長なんてやってるし、底辺ではない。
中国全土を統一してなくてもいいなら石勒。
劉邦がアリなら劉裕も
むしろ売り
最下層ってやっぱ朱元璋?
しかし乞食托鉢僧から、あっという間に郭子興の有力部将になったのは何で?
ってスレ違いか
>>853 スレ違いだけど、郭子興の養女の馬氏と結婚して義子扱いされた事と
早くから独自の軍を編成していた事かな。
最下層なら石勒(異民族+奴隷+文盲というハンデ)だけど
彼は華北限定だから朱元璋とは別個と見るべき。
漢宣帝はだめ?
南唐の徐知誥(李昪)なんてのは?
孫皓の代に車騎将軍にまでのぼった劉簒ってのが居るけど、コイツどういう奴なんだろう?
記述も詳しくないのに車騎将軍ってのが良く分からない。
孫皓と蜀取りの戦略を練ったり、孫峻が諸葛誕を救援させた時にそのメンバーだったり
いろいろと重要な場面には登場するんだが、重役なのに経歴がサッパリ・・・
書家として有名らしいけどその手の本はまったく読んだことがない
宋建
861 :
世界@名無史さん:2006/03/32(土) 18:35:25 O
>>858 劉纂は孫権の娘を二度に渡り娶り(孫魯育は朱拠のあとこいつに嫁いだ)、
どうやら孫亮・休・皓時代を通じて車騎将軍だったらしい。
しばしば軍を率い、呂岱を捕らえる時も参加しているなど、
呉末期においては経験豊富な将軍として貴重な重鎮だったと思われるが、
伝もなく詳細不明。
書家というのも出典がわからない。
あるいは劉阿なんかと関係あるんだろうか?
>>858 劉簒というのは誤記で、留賛だったり……流石にないか。
>書家というのも出典がわからない。
抱朴子
865 :
世界@名無史さん:2006/03/32(土) 22:58:48 0
>>849 劉邦は高祖父が魏の大夫。底辺ではない。
867 :
世界@名無史さん:2006/03/32(土) 23:33:15 O
>>865 底辺ではなくある程度の地位と財産を有していたことは確かだが、
魏の大夫うんぬんは事実かどうか怪しい上に、劉邦の時代にどうだったかはまた別だろ。
868 :
世界@名無史さん:2006/04/02(日) 00:10:48 0
呉に仕えて栄達した劉氏と言えば、揚州刺史劉ヨウの一族じゃないか?
869 :
世界@名無史さん:2006/04/02(日) 00:20:33 0
吉川三国史だと劉備玄徳が人肉を食べるという話が美談として、
載っていたのだが、あれ正史の方だと載っていないのだよなぁ。
わざわざ庶民が演技のほうで作り上げるのだからなぁ。
中国人は日本人とは完全にちがうなぁ。
870 :
世界@名無史さん:2006/04/02(日) 00:24:44 O
>>869 その親族なら彼の伝で多少は言及されまいか?
演義では曹操が董卓をヌッ頃そうとして途上でばれて逃げ出した描写があるけど、これって史実ですか?
いいえ
ってことは曹操って単に董卓の後継者やんw
でも董卓に反旗を翻して逆賊討つべし、と言ったのは曹操とエン州グループが一番最初
自民党と民主党の戦いみたいなものか。で共産は張魯
876 :
世界@名無史さん:2006/04/02(日) 15:43:25 0
島田紳助・松本竜助というと、NHK人形劇三国志を今だに真っ先に思い出す。
3分の2ほど放送が進んだ頃、
紳助「魏・呉・蜀の3国が中国を分けて争ったから、この時代を三国時代というのです。」
竜助「あ、それで三国志というの!そうだったの!」
紳助「おまえなあ、今頃それがわかったんか。今まで何をしてたんねん。」
竜助「うんうん、なるほどなるほど。」
松本竜助とは、タイムリーな…
人形三国志でもチョウセンが董卓のチンコで処女を失う場面があるの?
貂蝉は王允にすでにやられている
そもそも華佗の作ったサイボーグだから最初から処女膜なんかありません
俺はもともと朝鮮は呂布の妻だったと聞いたが
最後には関羽に斬られたとか
882 :
世界@名無史さん:2006/04/03(月) 10:55:08 0
age
883 :
876:2006/04/03(月) 12:20:27 0
>>877 そのニュースを聞いてレスしたんですけど。
884 :
世界@名無史さん:2006/04/04(火) 15:53:47 0
三国志の事なら何でも知っている紳々。
シショウは聖人にした劉備とキャラが被るので、演義においてはいないことになっているかわいそうな人。
886 :
世界@名無史さん:2006/04/08(土) 03:21:02 0
師匠?
>>886 交州の半独立勢力、士燮の事でないかい?
読みはシショウでいいんだろ?
>888
Yes
交州と関係あるのって孫権くらいなんじゃないの?
演義とか蜀漢マンセー物語に出てこられても、しょせん名前だけ、とかそんな感じ。
891 :
世界@名無史さん:2006/04/08(土) 11:28:55 O
>>890 荊州を出て劉備はこいつの元にいこうと考えたことがある
呉巨じゃなかったっけ?
>893 あれ? 話の流れ的に演義でなかったの? >885
どうみても演義のはなしでしょ。
896 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 02:40:21 0
>>874 でも速攻で返り討ちにされたのも曹操。
まともに戦ってたのは孫堅だけ。
897 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 15:13:34 0
粘着正史ヲタは放置
898 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 16:43:37 0
質問なんだが、黄忠は征西将軍→後将軍、趙雲は征南将軍→鎮東将軍と魏の官制
からいくと降格人事なのだが、蜀でも降格人事なのだろうか?
話しの流れから言うと降格人事とは思えない。
899 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 17:11:36 0
後漢書では「車騎・衛將軍・左・右・前・後皆金紫、位次上卿」とあって、四方将軍より
高位だったと思われる。
900 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 17:16:48 0
征南将軍→鎮東将軍も後世の征鎮安平のランク常識からは奇異だが、
南よりは東の方が上とかいう基準があったのかも。
901 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 17:22:20 0
趙雲は征南将軍→鎮東将軍
魏延は鎮北将軍→征西将軍
どちらも昇進人事(筑摩書房による)なんだけど、四鎮将軍と四征将軍と
どちらが上かわからない。
902 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 17:30:09 0
>>900 なるほど、東南西北という順位ですね。
順位的には征東・鎮東・征西・鎮西・征南・鎮南・征北・鎮北なのかも。
後は年功で何になるか適当に決まるのかも。
蜀は小国だからあんまり方面軍という考えは無かったかも。とりあえず
重要なのは魏との国境の漢中と呉の国境の白帝くらいだからな。後は蛮
族が騒ぐ程度でその都度対応すればよいのかもしれない。
903 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 18:23:12 0
東南西北の順位の考えでいくと面白いことが浮かび上がってくる。
劉備が皇帝に即位すると、魏延は鎮北将軍に就任。趙雲は四鎮・四征将軍にも
なっていない。しかし、諸葛亮が国政を握ると趙雲は征南将軍に就任、ほどな
く鎮東将軍に昇進。魏延を短期間で追い抜いてしまっている。そして第一次北
伐に失敗すると降格されたのは諸葛亮と趙雲。囮の軍隊が敗北しても降格はお
かしい。ようは第一次北伐は諸葛亮と趙雲が中心になって企画されたと思われ
る。中心計画者だからこそ諸葛亮と共に責任を取ったのだろう。
そして劉備は魏延をかわいがり、趙雲を疎んでいた可能性が高い。趙雲別伝では
結構直言しているので煙たい存在だったかも。特に呉東征に反対したのは決定的
だったかもね。逆に諸葛亮は組織運営上、趙雲みたいな厳格なタイプを好み、魏延
みたいな跳ねっ返りを嫌った。
904 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 18:42:55 0
東西南北にいる敵の強さによって地位が違ってこないか?
905 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 22:11:33 0
蜀漢の場合、劉備がかつて鎮東将軍になっていた、ってのも大きいのでは?
初代皇帝が臣下時分に就いてた官位だし(しかも、自称ではなく、正式に漢朝から頂いたもの)。
だとすれば、鎮東将軍のみ位階を上げるのも不自然だから、鎮四将軍全体の格上げをしたのかな、とも思う。
>903
魏延の場合、鎮遠から鎮北への昇進が異常に早いでしょ。わずか2年ほど。それ以前の牙門から鎮遠へも4年程度だし。
その間、趙雲が全く昇進してないから、どっちもどっちとも言えると思うけど。
趙雲の場合、公人としての識見がしかりしてるから、閲歴は古いけど、新参が多い劉備陣営内で官位については結果的に我慢してもらう役割だったような気がするが。
北伐失敗の責任にしても、街亭方面の責任者は死罪、あるいは軍権剥奪等行ってる。
趙雲も、囮任務はともかく、独立した別働隊の指揮官として、ある程度の責任は負わなきゃならん、って事では?
結局北伐のときの諸葛孔明と司馬仲達はどちらが勝ったといえるのだろうか。
907 :
世界@名無史さん:2006/04/10(月) 22:59:41 0
>906
司馬懿の勝ちでしょ。
結局、諸葛亮は目的を全く達成出来なかったのだから。
姜維は征西将軍→(輔漢将軍)→鎮西大将軍
張翼は征西大将軍→鎮南大将軍
蜀では鎮>征だったんじゃないかな。
魏延は鎮北将軍→征西大将軍だけど、「大」がつくと1ランクUPなので同格異動か。
>>903 追い抜いたってのはいかがなものか。確かに後主の代になって趙雲は鎮東将軍となり、
鎮北の魏延と同格にはなったものの、建興五年(227)の諸葛亮漢中駐屯に当っては
魏延は丞相司馬・涼州刺史・督前部の兼任となっており、全然格は魏延の方が上。
好き嫌いってのもなあ。なんにせよ魏延は諸葛亮のもとでも着実に戦果を上げて昇進
してるわけで。最終的には征西大将軍・前軍師・涼州牧となっており、丞相の属官・前線の
民政官を常に兼任したという事実はやっぱり重いでしょう。
>>905 >魏延の場合、鎮遠から鎮北への昇進が異常に早いわずか2年ほど。
>それ以前の牙門から鎮遠へも4年程度だし。
前者は劉備が帝位についたタイミング、後者は漢中王に即位したタイミングだからね。
同様にそれぞれのタイミングで馬超は左将軍→驃騎将軍、張飛は右将軍→車騎将軍に
昇進している。言い換えるなら、このタイミングでも昇進できなかった趙雲の格ってのは
だいぶ低かったのではないかな。
>>907諸葛側の国力と司馬側のそれとを比較検討する必要もあるだろうね
910 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 06:35:55 0
911 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 07:36:07 0
>908
関・張らと比べると明らかに格下なのは分かるんだけどねぇ。
ただ、(別伝だったと思うが)劉備が益州入りした際(211年頃)、牙門将軍で桂陽太守でしょ。
若干格下にせよ、太守クラスと言う意味では関・張とほぼ同じ。
益州平定では関・張も事実上昇進してないから別として、漢中平定に際しては劉備から「一身、肝なり!!」って賞賛されてるから昇進があっても良いと思うんだが。
魏延は漢中戦役では全く記述が無いのに、平定後は大抜擢。まぁ、記述に無い活躍があったのだろうけど、それでもやっぱり不自然な感じ。
関・張や魏延らと明確に差が出てきたのが漢中戦役後なんだよね。
912 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 07:41:03 0
>909
国力も加味しても、あまり意味ないと思うよ。
国力差は明らかなのが前提で諸葛亮も北伐をした訳で。
あの国力差で「よく頑張った」けど失敗でした、って感じでしょ。
勝ちか負けか、と言ったら失敗した以上負けかな、と。
>910
中原の回復。って言うと(諸葛亮は言ってるが)ハードルが高すぎるんで、関中の奪取ってトコでは?
さらにハードルを下げると、隴西の奪取って感じかと。
913 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 08:07:18 0
>>911 関羽は荊州失陥という大失態をしているから本当は功績という面ではマイナス
要素が大きい。馬超は正直言って宣伝用に重用されただけでしょう。軍功という
点では皆無に近い。張飛と黄忠は軍功は大きいな。ただ張飛は性格的に問題あり
みたいだけどね。趙雲は古参で皇太子を助けているくらいだからもっと昇進して
もよいはずなんだけどね。軍功だってそれなりにあったはず。やはり劉備と上手
くいっていなかったと思う。諸葛亮が劉備没後にそこら辺は修正した感じかな。
逆に魏延はもちろん軍功もあったけど、劉備に気に入られていたというのが大き
いと思う。でないと張飛を飛び越えて漢中を任されるなんてあり得ない。結果的
には適任ではあったが。当時は実力社会とは言えなかったので必ずしも功績が官
位に結びつかなかったのだろう。
今も実力社会じゃないぞw
915 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 09:41:09 0
実力社会ってのはあれだ、北斗の拳みたいな世界。
916 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 11:00:02 0
>>908 趙雲の功績とはどんなものなんだろうな。
いちおう関羽達に少し遅れて諡号が追贈されている。季漢輔臣賛で趙雲と並び称せられた
陳到なんて諡号は当然ないし、伝記すらもない。関羽や張飛は魏の人達に結構知られてい
たので名声が高かったけど、趙雲はそうでなかったので実力よりも低く評価されたのかも。
諡号が贈られたことを見ると功臣なのは間違いないようだが。
917 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 11:20:04 0
譜代というか子飼いの部下はあまり昇進させず、
新任の者を重んじるというのは董卓がやっていたと思うけど。
918 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 20:43:06 0
>913
関・張は劉備との特別な関係から、馬超はかつて劉備と同格かそれ以上の群雄であった事から、黄忠は益州攻めから漢中奪取までの飛びぬけた軍功から、それぞれ立身したのであって、特異な例と言える。
また魏延も益州入り意向の軍功と、関・張等らの次世代への期待と言う意味での出世。
趙雲の場合、出身地程度しか分からないような出自であるのを考慮すれば、一地方政権にせよ、劉備時代には将軍号を許され、最終的には鎮東将軍で亭侯に封じられてるんだから、
ある意味、出世したと言えるのでは?
230年頃に蜀漢では大規模な人事異動が行われて、戦功で昇進した魏延・呉懿以外にも多くの者が昇進してるから、趙雲も229年の死去よりもう少し存命であれば、さらに昇進してた可能性が高いね。
劉備が益州入りした際、劉備の家事を任されたりしてる辺り、公私に渡って劉備からの深い信頼を受けていたと感じるけど。
劉備の勢力が大きくなって、一族格の関・張が親族に代わって外に出る様になった時、趙雲まで外に出してしまうと信頼出来る古くからの側近が少なくなる、って部分も考慮されたんじゃないかな?
曹操の例で言えば、漢中の司令官を誰にするか検討した際、側近の韓浩を推薦する者がいたけど、曹操が「側近から外せない」と言って却下した例と同様かと。
諸葛亮時代になり「劉備の側近」と言う任務の必要性が無くなり、逆に関・張等の第一線の将軍が少なくなった事から、趙雲を指揮官に遷したってことじゃないかな。
しかし趙雲て劉備より年長だとはつい最近まで知らなかった。
920 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 20:49:20 0
>916
季漢輔臣賛に載せられてる上、諡号が追贈されてるって事は蜀漢内では相当有名だったのでは?(その史書に残らない功績も含めて)
功績については、正史自体の記述が少ないから、なんとも言えないけど「劉備の股肱」って事だから、劉備の事跡に埋没しちゃったのかもね。
921 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 20:55:12 0
>919
不明なはずだよ。劉備よか年長ってのは演義系統(ゲームも)だと思うけど。
922 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 21:00:57 0
>>918 趙雲は劉備の死後は中護軍征南将軍だから南方への備えと首都防衛を双方担当
していたのかな。諸葛亮の南征が成功し、北伐を行う為に諸葛亮と共に漢中へ
という感じだろう。鎮東将軍という位はその為のものだろうな。劉備の側近で
もあり、諸葛亮の側近でもあったという感じかな。古くから忠節を貫いていた
から劉備・諸葛亮の信頼が厚かったのだろう。当陽の戦役でも劉禅を護衛して
いたから一貫して側近役だったのかな。
923 :
世界@名無史さん:2006/04/11(火) 21:24:27 0
>922
職務階級制だったかは分からんけど、後主即位時、蜀漢で戦歴豊富な将軍と言うと、趙雲・魏延程度。
そんで、魏延は漢中鎮守の関係から動かせない以上、趙雲が首都南方担当だった可能性はあるね。
成都と南中は案外近いし、その途上の漢嘉郡も劉備死去前後に叛乱が起きた場所で治安上の懸念もある。
趙雲は部隊指揮の記述が少ないから、日本で言えば馬廻みたいな感じかね。
ただ、諸葛亮時代は別働隊任されてるから、側近では無いような。
几帳面な諸葛亮なら、営内の仕事も任せるとしたら、丞相府内の何らかの役職に就けると思うけど。
そんでも、趙雲を信頼していたには違い無いと思うけど。
あと趙雲には阿斗補正がかかってるってのもあると思うよ。
>>923 陳到とか輔匡、劉繇などもいるよ。
輔匡や劉繇は荊州時代からだけど、彼らは李厳の補佐みたいになってたはず。
925 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 15:50:23 0
今日の朝日を読んで貂蝉が米脂出身て初めて知ったよ。(演義ねたスマソ)
しかし米脂って確か李自成の出身地じゃなかったっけ?
927 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 16:42:54 0
北伐ってずっと中原回復のためだと信じて疑わなかったけど
馬超を優遇していることからして実は涼州目当てだったのか?
928 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 17:31:03 0
蜀から中原を狙うには、涼州は側背のトゲにあたるから。
また涼州は西方貿易の要地であるので経済的にも奪取する意味はあるし、
強力な騎兵軍団をゲットできる可能性もある。
929 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 18:09:45 0
>>926 そこ読んだら貂蝉の記事の下の方に、闖字麾下の女統営の高秀英が黄河や長江を跨いで
南北に転戦し、英武は世を盖うとかかいてある。李自成の部下に支那人が大好きな女英雄が
いたことになっている。演義なんてものもこうして生成されたんだろう。
930 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:04:59 0
>924
陳到はともかく、輔匡らは、事跡が不明過ぎるからねぇ。
夷陵にくっ付いて行っただけだから、戦歴豊富とは言えないような・・・。
ちなみに輔匡は李厳の補佐官でなく、人事序列が李厳の次ぎくらい、って事かと。
陳到は、北伐人事で李厳の指揮下に入ってる様だけど。
931 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:15:02 0
夷陵ではほとんど無名な奴が総司令官だったな。
参加した武将もほとんど無名な将軍ばかりだし。
932 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:20:42 0
>926
北伐の最終目標は中原回復だったかも。
ただ、それがすぐに可能ではないから、第一段階として、隴西以西を確保する。
そうなれば、涼州は分断されるんで立ち枯れになり、比較的容易に奪取できるかもしれない。
その結果、
>>928氏の指摘してる部分も加味されるかもしれない。
蜀漢が隴西を奪取し、涼州が魏・本国と分断されれば、魏側も涼州を見捨てる訳に行かないから、隴西に遠征軍を送る事になる。
そうなると、魏側は、自領防衛・維持のためなのに、軍を「遠征」させる、ってハメになる。
実際の戦況でも、隴西で魏・蜀が衝突した際、魏側も兵站の維持に苦労してる。
隴西を確保している状況でも、兵站に苦労してるのに、それが「遠征」になったらもっと困難になるだろう。
蜀漢側は迎撃すれば良く、史実の苦労はかなり解消されるかもしれない。防衛の方が比較的容易なのは戦史が教えてくれるところ。
その後、隴西以西を維持して、蜀漢の統治を行き渡らせる事が出来れば、関中盆地にも蜀漢の影響力を及ぼす事も可能になるかもしれず、関中を弱体化できるかもしれない。
そうなれば、関中盆地を蜀漢の版図に組み入れる事も可能かもしれんし、益州1州のみと言う脆弱な状況からも脱する事も可能だろう。
↑の所が諸葛亮の第一次北伐から祁山の役くらいまでの構想かな、と推測してるんだが、どうだろ?
長くてすまん。
933 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:28:18 0
>>932 概ねそうんなところでしょう。
祁山あたりの麦を目当てにしていたみたいだね。そうすれば長期持久戦も可能
とうわけだ。
934 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:29:56 O
>>931 無名なのが従軍したんじゃなく、
敗死したから無名で終わったんじゃまいか
935 :
932:2006/04/12(水) 21:33:41 0
>933
祁山の麦で、長期自給が可能だとは思わないけど、隴西に橋頭堡を築くくらいまでならアテにしてたかもしれんね。
あくまで、隴西以西の確保が、長期自給の前提になるかな、と。
実際、隴西以西を確保しても、数万の兵力を長期に駐留させる事が出来たかわからんが。
ま、現実は隴西確保どころか、国境付近をうろついてたに終始しちゃったけどね。
そんでも、街亭で失敗しなければな、とは思ってしまう。
936 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:35:59 0
>934
それにしても、登場した瞬間に戦死だからねぇ。戦歴豊富とは・・・。
実際の所、益州平定や漢中戦役で活躍はしたんだろうけど記載が全く無いからなぁ。
937 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 22:11:59 0
>>936 まあ、関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲・魏延よりは格下の武将ばかりだろうな。
参加した将軍の中では尚寵が出師表で出てくるくらいかな。呉班、寥化、輔匡
あたりは名将とは言い難い人物かも。蜀にとって痛かったのは黄権と馬良の二人
を失ったことだろうね。二人は後も蜀に存在していれば諸葛亮の良き補佐役とな
ったと思う。黄権がいれば李厳がbQになることはなかったでしょ。それまで李
厳はそれほど重きを置いていなかった感じだし。夷陵での有能な人材喪失が相対
的に李厳の地位を押し上げたのだろう。
938 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 22:42:28 0
>937
馬良は、その後も存命なら、すんなり丞相長史ってトコだろな。
第一次北伐で、留府長史を誰にするかで揉める事もなかった、って程度かと。
まぁ、優秀な人材であることには変わりは無いが、諸葛亮の負担が少々軽くなる程度で。
李厳と黄権を比較すると、劉備存命中も、引き立てられてるのは李厳かな。
黄権が偏将軍の頃、李厳はすでに興業将軍で、益州では重要な郡である建為太守。
黄権は劉備の数多くの有力・優秀ではあるが、幕僚の一人に過ぎないけど、李厳は重臣の一人で、漢中戦役の頃には比較的高位な将軍である輔漢将軍を加えられてるし。
黄権の方が、俺も有為な人材だとは思うけど、夷陵後に蜀漢に留まっていたとしても、李厳より上に行くとは考えにくい。
939 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 01:03:00 0
蜀は陳寿が敢えて評価を抑えてるから正史から
実力なんざ分からないよ。
ならツガン読めや
941 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 11:55:28 0
陳寿が記した三国の歴史書物は、結局東晋のときに支那国史として採用されたのか、
それともずっと後になってから24史のひとつとして採用されたのか、それによって事実に
近いか遠いかある程度見当がつくはずなんだが。
942 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 12:20:51 O
940と941のあまりな見当違いっぷりは見てて逆にすがすがしいな
スパーツガン
すがすがしい、か。 釣ったつもりが…
ハコをかぶって地方へ飛んでいく旧法派
司馬さんは劉秀をあまり評価しない
倭国の遼に及ばない方じゃないよな?
>>930 賛を見るに輔匡、劉邕は荊州時代に臣従し、益州入りに随行し、平定後に前者は巴郡、後者は江陽郡の太守に任じられている。
また費観の賛を見るに輔匡らは都護の李厳の護軍となってたようだから補佐的立場にあったとみても差し支えないんじゃないかな?
949 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:04:49 0
>948
随行した後、太守になったけれど、どんな戦歴があったかは不明でしょ。
輔匡の夷陵くらいじゃないかな。
費観の賛でも、李厳が都護、護軍の輔匡は李厳に次ぐ、年齢・閲歴で・・(略)、って事で「李厳の護軍」では無いでしょ。
ただ単に李厳の性格の強さを強調する事例に持ち出されてだけで、李厳指揮下って訳じゃぁないと思うよ。
>>949 巴郡と江陽郡の位置、中都護の意味、李厳の任地を考えると諸葛亮の幕府ほどではないにしてもそれに準ずる関係にあったと見てもいいと思うけどな。
951 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:34:14 0
李厳はそんなに有能だったのかな?
伝記を読むとそれ程でもないんじゃないかという感想しかないのだが。
軍人として有能だったのか、文官として有能だったのかも定かではな
い。烏合の衆の反乱の鎮定くらいしか事跡がないんだけどね。
952 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:34:24 0
>950
ハッキリ言えないけど、輔匡らの巴郡・江陽太守だった時期が不明な訳で。
益州平定前後(益州平定の後とあるから、平定直後くらいの人事だろう)に巴郡太守だとすると、214年頃で、李厳が都護になったのが223年頃。
さらに江州都督を兼任した時期は226,7年で、それまで巴郡太守と言うのは長すぎると思う。
輔匡の伝記(賛)では、巴郡太守のあと、建興年間(223年〜237,8年)には鎮南将軍に遷ってる。
兼任したとも考えられるが、兼任なら「〜将軍を加えられる」だろう。
劉備の漢中王、蜀漢成立、後主即位、北伐と大規模な人事異動が行われているから、輔匡らが太守だった時期が214年〜219年頃だったとすれば、李厳が都護兼江州都督になった頃には替わってると考える方が自然だと思う。
しかも、費観も巴郡太守になった、とあるからね。
多分、輔匡→費観と言う太守人事かと。
953 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:38:01 0
954 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:40:38 0
>951
軍人と文官と分けるのはどうかと思うけど、5千ほどで異民族も含まれる数万を蹴散らすのは大したもんだよ。
劉表・劉ショウ時代から県令・長で有能と評されてるし(特に州都の県令も勤めてる)、諸葛亮も北伐前に、その事務処理能力を激賞してる。
行政面でも実務能力は相当あったんだろう。
ただ、蜀漢の人材の中では、って感じだと思うが。
>>952 李厳の中都護就任は223年。
任地は永安。226年に江州(巴郡)に陣営を移す。
その際に「護軍の陳到を留めおいて永安に駐留させ、すべて李厳の支配下においた」
」。
輔匡、劉邕についてはいつまで巴郡・江陽の太守だったかは不明。
だが費観が223年までには巴郡太守になってるので輔匡はほどなく転じたと思われる。
また夷陵の戦役で戦死した程畿は賛では江陽太守とあるので劉邕もその頃までには転じたと思われる。
ただし注には程畿が江陽太守に任じられたのは劉璋時代であるようなので、最後の官職ではなくたんに生前中の最高位(?)であるだけかもしれない。
趙雲が征南将軍とされてるように。
補足として彭羕が江陽太守に左遷されそうになった折に馬超に不満を漏らしてその件で処刑されてる。
時期的に220年前後と思われる。
957 :
952:2006/04/13(木) 21:12:35 0
>>955,956
詳細な解説、ありがとうございます。
彭ヨウが左遷されそうになったのは法正が健在だった頃の様なので、214年〜220年までの間ですね。
958 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 21:25:45 0
李厳が黄忠と一騎打ちしてたのは幻ですか?
959 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 21:57:46 0
>958
演義のお話です。
実際のトコ、李厳は劉備と交戦してないかも。
劉ショウの命令で、出撃したけど、一戦も交えず降伏した可能性もある。
むちゃくちゃ初歩的な質問ですけど、正史のほうの三国志って日本語訳で読めるものって出てますか?
演義では諸葛亮は李厳を陸遜に劣らぬと評価していたけど
実際は政敵として見ていたんじゃない?
北伐の際の兵糧輸送の件も無理難題押し付けて失脚に追い込んだように
見えなくも無い。
962 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 22:18:11 0
李厳に政治力があれば孔明の死後すぐ復権しとる。
>>960 ちくま。文庫が入手しやすい。全8巻各1,500円。
964 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 22:30:08 0
>961
既出だが、輸送失敗が原因で失脚したんじゃないよ。
天候不順で輸送が無理、ってを諸葛亮に通告して撤退を勧め、諸葛亮もそれを承諾して撤退。
これだけなら、李厳は全く問題無い。
ただ、「なんで撤退したのか」と諸葛亮を難詰した上、部下に責任転嫁して殺害しようとしたり、さらに、後主に「偽りの撤退で、敵を誘き寄せる作戦です」と嘘の上奏をしたのが問題。
特に偽上奏は大問題だろうね。
965 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 22:36:24 0
まあ、李厳にしてみれば孔明においしい所持っていかれて
ばっかだったからな。
何か足引っ張ろうとしてもおかしくない。
966 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 23:08:46 O
趙雲の官位に関しては、演義か正史か忘れたが漢中王即位時に費詩が関羽を諭した時の【韓信と曹参・夏候嬰の話】の様に、馬超・黄忠・魏延に二心を抱かれないように高位につけ裏切る心配がないと信頼していた趙雲には我慢してもらったんジャマイカ。
967 :
世界@名無史さん:2006/04/13(木) 23:22:31 0
>966
費詩の話は、劉備と関羽の関係の特別さを強調するためであって、黄忠らの忠誠心云々の内容では無かったと思うが。
ま、趙雲も特別組の方で、我慢してもらった、ての同意だね。
969 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 06:02:37 0
黄忠・魏延は荊州以来の家臣だから譜代の家臣と言えるかもね。
まあ馬超は外様もいいところだろう。正史でも自分の身の安全に危惧を感じていた
とう記述があったね。自分自身もそんなに信頼されていないことがわかっていたと
思う。武将の信頼感では
関羽・張飛・趙雲>>黄忠・魏延>>>馬超という感じだろう。
970 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 06:20:02 0
>>962 李厳は劉備に高く評価されていたから諸葛亮も持ち上げていたし、回りもそうだったのだろう。
でも実際は有能ではあっても傲慢で厄介者家臣だった。だからだれも復活させようななんて思わ
なかった。諸葛亮の足を引っ張ろうと思ったけど、失脚して冷静に考えると自分の後ろ盾は諸葛
亮しかいなかったことに気がついたのでは。
本来北伐は実績から言って李厳が行うはずだった。
でも諸葛亮は後方支援に回してしまった。
それで不満が溜まって→爆発→不正→解雇
こんな流れですよね?
ほぉ。 李厳に北伐の意思があったの?
歴史的にみて隴西攻略は、よっぽど相手国に異変なり混乱なりがなければ、成功した軍閥の例をみないように思うのですが。
諸葛亮の実績は(不発に終わりますが)大したものと思いますが、まさか李厳の戦略案とか?
973 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 19:15:18 0
>971
李厳の職務は、劉備臨終の頃から中都護として国内守備。
この劉備の人事にプラスして、北伐の後方勤務が加わった、ってとこ。
後方勤務の重要性は古来から変わらんし、行政官僚から立身した李厳も充分承知してたろう。
不満は待遇面だろう。蜀漢の事情を考えればかなりの好待遇だったと思うが、実権のある州刺史(あるいは牧)、開府あたりが欲しかったんだろ。
蜀漢じゃぁ無理だと思う。
974 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 19:48:27 0
蒋苑は後方勤務で諸葛亮から評価されて後継者に抜擢されたからな。
李厳も真面目に職務に励んでいれば良かったのだが。結局、天下国家よりも
私利私欲で行動したから身を滅ぼしたといえるだろう。
975 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 22:58:24 0
李厳って劉璋政権ではどの程度の待遇だったの?
メン竹守備にあたってたから結構高い地位じゃね?
成都の令 劉備が攻めて来ると護軍に任命して綿竹の守備をまかせたとある。
978 :
世界@名無史さん:
黄色と黒は勇気の徴ですか?