1 :
世界@名無史さん:
でいこう
3 :
世界@名無史さん:02/12/14 22:25
いきなり沈み過ぎ。
4 :
世界@名無史さん:02/12/15 22:51
司馬師は子がいなかったんだっけ?
いたら、司馬昭の子らとお家争いが起きてただろうな・・・
5 :
世界@名無史さん:02/12/16 17:43
>>4 司馬昭の子、司馬攸が養子に入ってますな。
しかし、結局、その他の一門も含めて豪快なお家争いをやってしまった罠。
6 :
世界@名無史さん:02/12/16 23:44
そういわれたら、確かに八王の乱は凄すぎだな・・・
司馬懿の甥とかまで政権争いに加わったからなあ。
司馬一族は何げに異相な人物が多いね。
狼顧の相を持つ司馬懿
目の上?にこぶがある司馬師
手が膝下に届く司馬炎
腰回り十囲とかの王族もいたなあ・・・
7 :
世界@名無史さん:02/12/17 13:05
異相自体が貴い人をあらわすのに適当な表現だったからじゃないの?
>>7 確かに真相はそういうものかもしれん。
曹操「仲達、お前、よー首回るのー
・
・
後世の歴史家「司馬懿は正面を向いたまま、振り返ることができ…
司馬攸「うちの兄貴は手足が長ぉて、デルモみたいじゃのぉ
・
・
後世の歴史家「司馬炎の両手は膝に届くほど長く…
とか。
9 :
世界@名無史さん:02/12/20 22:14
正史についていくつか気になることがあるので教えてください。
劉備が建てた国の正式名称は「漢」ではないのですか?
一般的には「蜀」「蜀漢」と呼ばれていますが・・・
漢王朝の復興が目的であるから、劉氏である劉備みずから新たに漢王朝を建国し中華統一、
と思っていたのですが、
実際は「蜀」という漢とは関係ない国を建国して土台作り>曹魏、孫呉を滅ぼす>漢王朝を復興、という考えだったんですかね。
あと演義で劉備一派が長坂の戦いにおいて、数十万の流民を率いて逃走したとありますが、
それは正史の記述にありますか?
魏のあとを継いだ晋王朝に対してへりくだったんじゃない?
イリョウの戦いで「漢の武将は降伏しない」と言って死んだ人いたような。
にわか知識スマソ
>>9 単純に後世の我々が紛らわしいから「蜀」「蜀漢」と読んでいたと思っていましたが…
実際は「漢」のはずですよ。年号も継続してるし。
後々「後漢(こうかん)」なんて言う国家も出てくるようなところだし。
ちなみに、「蜀」ではなく「漢」を国号として採用しているゲームもありました。
>>10-11 お二方、お答え頂きありがとうございます。
要約しますと、
蜀側:漢王朝を復興。自らを「漢」と呼称していた。
魏(晋)側:漢王朝を滅ぼした張本人なので、漢の復活を認めるわけもなく、「蜀」と名付けた。
後世:正式名称は「漢」だが、前漢、後漢のように区別しないと紛らわしいので「蜀」「蜀漢」と呼称した。
という感じでしょうか。
>実際は「漢」のはずですよ。年号も継続してるし。
年号も継続ということは間違いなく「漢」なんでしょうね。
最近ふと疑問に思っていたことなんですが、すっきり解決しました。
どうもありがとうございました。
遅まきながら付け足すと、
蜀漢を正統とする意見の人々は季漢(末の漢の意味)と呼んできた。蜀漢というのは「蜀にある漢」ではなく、「蜀と漢中」の意味で
地名として古くから使われているからね。
現在「蜀漢」と呼ぶのは、「蜀」とのみ呼んでると、
劉備が「蜀」という王朝を興したかのように聞こえてしまうからだろう。
漢というと、ずるずる後まで続くので、面白いっちや面白い王朝だな
少なくとも匈奴の劉淵の漢までは、皆、前漢との関係性を主張してるしな
まあ、匈奴の漢の五代目、劉曜になって、さすがに漢の名に依存するのは
止めたけどね。
劉知遠の後漢(こうかん)は、ちょっと別物だな
劉邦や劉秀を先祖として形だけは祀ったみたいだけど。
だいたい皇帝になってから、国号を漢にするまで何年もブランクあるのでね。
15 :
世界@名無史さん:02/12/23 00:16
あの、魏・呉は漢と言わず、蜀と呼んでいたんじゃない?
張温は何かにつけ「蜀では・・・」とやって、孫権に嫌われた
らしいが・・・
16 :
世界@名無史さん:02/12/23 21:02
少典→黄帝→金天氏→玄器→高辛氏→帝堯唐陶氏→劉氏→劉累→御竜氏→略→唐社氏→略→士会→劉氏→豊公→太上皇→
漢高祖皇帝劉邦→孝文帝→考景帝→長沙定王発→春陵節侯買→外→回→欽→
後漢光武皇帝劉秀→孝明帝→考章帝→河間孝王開→解漢亭侯叔→略→孝霊帝→孝献帝
かなり適当
17 :
世界@名無史さん:02/12/24 00:27
>16
ご苦労、と言ってもいいが、その意図がわからん
19 :
世界@名無史さん:02/12/24 02:54
ところどころ考の字が帝号の前についてるがわざとか?
20 :
世界@名無史さん:02/12/24 02:58
*訂正*
少典→黄帝→金天氏→玄器→高辛氏→帝堯唐陶氏→劉氏→劉累→御竜氏→略→唐社氏→略→士会→劉氏→豊公→太上皇→
漢高祖皇帝劉邦→孝文帝→孝景帝→長沙定王発→春陵節侯買→外→回→欽→
後漢光武皇帝劉秀→孝明帝→孝章帝→河間孝王開→解漢亭侯叔→略→孝霊帝→孝献帝
かなり適当
21 :
世界@名無史さん:02/12/24 03:09
>>19 前漢・後漢の皇帝の帝号は正式には孝〜帝だ。
ただし高祖高帝の劉邦と、世祖光武帝劉秀は除く。
なお、劉備が(孝)献帝に諡したのが、孝愍帝。のちの匈奴の劉淵が劉禅に諡したのが、孝懐帝。
やっぱり法則通りだが、魏や晋は、それに倣わなかった。
その理由までは知らない。すまんね
>>19 すまん。よく読んでなかった.
逝ってくる
始皇帝の玉璽なるものは実在したの?
その後どうなったの?
24 :
世界@名無史さん:02/12/24 03:36
>>23 あやめが来るではないか
秦の宰相李斯が藍田の玉に刻して作った玉璽が漢の国璽
として使用されたのだよ。
最後にどうなったかはちょっと忘れた。
>23
始皇帝の玉璽の行方については五胡時代くらいまで、前に書いたことありますよ。
過去ログ倉庫を探してみて。
>>17-24 年も押詰り仕事と家事に追われて、カキコしてる余裕がないですぅ(涙)
てことで御心配なく、書きたいことはイパーイあるんだけどね。
近日中にADSL切替工事実施とOSもXPを導入となりますので
年明けからはバリバリ書くからネッ!!
ということで皆様あやめに今年もお付合いくださって有難うございました。
楽しいイヴと幸せな新年をお迎えください、そして今後もあやめを宜しくねm(__)m
それじゃ暫くはバーイ(*⌒ー⌒*)/~~
26 :
世界@名無史さん:02/12/24 23:39
>近日中にADSL切替工事実施とOSもXPを導入となりますので
年明けからはバリバリ書くからネッ!!
勘弁してくれ
27 :
世界@名無史さん:02/12/27 01:02
劉表と劉焉の父親について教えて下さい。
28 :
世界@名無史さん:02/12/27 01:06
大将軍何進萌え〜
車騎将軍何苗萎え〜
・・・わかりにくいな
30 :
世界@名無史さん:02/12/27 10:58
>>25 書くのも大変、読むのも大変な『圧倒的火力』を期待して待っておりますぞ。w
31 :
世界@名無史さん:02/12/28 00:51
劉備と禰衡の意外な関係・・・
平原県令の時に孫策に手紙を書いたところ、それを見た
禰衡があまりの文章の拙さを笑ったという。
一応、禰衡は劉備の身の回りにいたって事なんだろうね。
32 :
世界@名無史さん:02/12/31 00:20
age
34 :
世界@名無史さん:03/01/01 11:26
平原の相
35 :
世界@名無史さん:03/01/02 02:23
平原は国じゃないから相はいないのでは?
しかし、三戦板は末期症状のようですな。
36 :
世界@名無史さん:03/01/02 03:34
>>35 晋書の地理志では平原国があるな。
漢書でも平原相が散見するし、平原郡太守に相当するんじゃないか。
37 :
世界@名無史さん:03/01/02 13:29
先主伝には平原の県令を代行して、後に相となったとされているな。
桓帝の弟が平原王に任命されてるからその国相になったって事か。
38 :
世界@名無史さん:03/01/05 13:32
age
39 :
世界@名無史さん:03/01/05 23:56
夏侯嬰の子孫が劉邦の子孫から国を奪ったという事でよろしいですか?
40 :
世界@名無史さん:03/01/06 20:01
前漢・後漢の両時代に栄えた家ってあんまりないのか?
前漢建国の功臣の子孫も後漢時代はほとんどぱっとしないよね。
41 :
世界@名無史さん:03/01/06 20:24
前漢建国の功臣の子孫は、『史記』を見る限り武帝期までに
あらかた没落しているね。
年越しのカメレスですが
>>9 >あと演義で劉備一派が長坂の戦いにおいて、数十万の流民を率いて逃走したとありますが、
>それは正史の記述にありますか?
これに対応するのは、「jの左右及び荊州の人、多く先主に帰す。当陽に至る頃、
衆は十余万、輜重数千両、日に行く事十余里のみ。」で蜀書先主伝中の記述です。
43 :
世界@名無史さん:03/01/09 19:21
鮮于氏の祖先は朝鮮に領地をもらってそれを姓につけたらしいね。
(^^)
↑
これ、あっちこっちで見かけるが何?
流行ってるの?
46 :
世界@名無史さん:03/01/11 21:25
三国の最長寿な人物をそれぞれ教えれ。
47 :
世界@名無史さん:03/01/11 21:44
>45
ただの荒らしだから
少年漫画板が発祥かな?
48 :
おしえてくん:03/01/12 13:54
三国志の登場人物の関係が図柄で説明されているリンク先ってありますか??
49 :
世界@名無史さん:03/01/12 14:13
>>47 荒らしにしてはずいぶん地味な荒らしだなぁ
50 :
世界@名無史さん:03/01/12 17:37
>49
いや、ちょっと前にはどこでもかしこでもスレ立ててたバカなんだけどね
51 :
世界@名無史さん:03/01/12 22:32
当時の平均寿命って何歳くらい?
52 :
世界@名無史さん:03/01/14 00:43
三国志の話してないな・・・
>>51 30才くらいじゃないの?
戦乱の時代だし。
中国史上、一番平均寿命が短かったのはいつだろ?
楚漢の争いの頃?五胡の乱の頃?
53 :
世界@名無史さん:03/01/14 13:54
劉備って、武装流民集団の長だった、とか。
ないかな、ないよな、ないだろうな、ないな…
でも、拠点もなく転々としてるのに、同盟したり保護されたり。なぜ?
>>53 蒼天航路読めれ
多分少なくとも演技よりは実情に近い
55 :
世界@名無史さん:03/01/14 14:42
蒼天航路、最初のほうだけで挫折した。
演義系はまったく読んだことない。
正史はパラパラめくっただけ。
ダメじゃん、漏れ
57 :
世界@名無史さん:03/01/14 18:43
蒼天航路なんて進めんなよ
58 :
世界@名無史さん:03/01/14 20:11
蒼天で思い出したんですけど、
演義でも賈逵に「こぶ」がある云々の記述はあるんでしょうか?
>>54 長坂のことだけ言ってんの?
作品全体を通して言うなら演義より蒼天の方がひどいと思うが
60 :
世界@名無史さん:03/01/14 21:53
内容うんぬんよりキャラが笑いすぎているところがうけつけなかった
61 :
世界@名無史さん:03/01/17 01:05
賈逵にもこぶがあったの?
杜預のこぶは有名だが・・・
62 :
世界@名無史さん:03/01/17 02:00
>>55 曹操の親父は宦官曹トウの養子。
曹参と血のつながりはないだろ。
曹操の父親の曹嵩は夏侯氏の出と言われる。
63 :
世界@名無史さん:03/01/18 22:02
夏侯の姓の由来って何だっけ?
64 :
世界@名無史さん:03/01/19 17:45
夏王朝の禹の子孫が夏の地の侯爵として封じられたから、とか
そのまんまだな
66 :
世界@名無史さん:03/01/19 22:07
まんまですな
ちなみ曹は陸終氏の六人の息子の曹晏安からという話がある
67 :
世界@名無史さん:03/01/20 15:00
宦官の字ってほとんど伝わらないよね?
曹操の養祖父の騰は伝わってるけど・・・
宦官は字で呼ばれる事が無かったって事だろうか。
>>67 人間扱いされてなかったとしたら、字で呼ぶ必要もなさそうだしね。
誰からも、名で呼ばれてたのかも。
69 :
世界@名無史さん:03/01/20 21:08
>>68 スマン、あれから調べたら結構字がある宦官いる・・・
蔡倫とか曹節とか呂強とか。
十常侍とかは一人として伝わらないんだけどね。
70 :
世界@名無史さん:03/01/20 21:19
生まれが悪いんじゃない?>十常侍
字つけるのって士大夫だけだとどこかで読んだ気がする。。。
命の鐘の十常侍
72 :
世界@名無史さん:03/01/22 00:48
三つのしもべ(BFのもの)を従える諸葛亮孔明に惚れますた。
74 :
世界@名無史さん:03/01/22 14:52
霊帝と献帝を正字で書けるヤツはえらい。
>>74 いや、日頃から原点を読んでる人間なら、
そのうちの少なくとも半数程度が楽勝だとおもうのですよ。
それよりも霊の俗字のだな、雨の下に一本横棒が入ってることを
君は知っているか?
そんな漏れが間違えた
原点→原典
77 :
世界@名無史さん:03/01/22 19:24
靈帝と獻帝を俗字で書けるヤツはえろい。
78 :
世界@名無史さん:03/01/22 23:45
79 :
日本@名無史さん:03/01/23 17:04
「正史」の曹操のところで
赤壁の戦いは劉備に負けたと書いてあるのは何で?
80 :
世界@名無史さん:03/01/24 00:00
曹操のプライド
81 :
世界@名無史さん:03/01/25 00:38
司馬懿の魏においての謚は宣文侯なん?
82 :
世界@名無史さん:03/01/26 15:11
最初は文侯であとで(多分司馬師が死んでから)宣文侯(公?)に変えたんだと思ったよ。
83 :
世界@名無史さん:03/01/26 16:05
>>81 魏での謚は文侯→宣文公→宣王、晋に入ってからは宣帝だったと思う。
84 :
世界@名無史さん:03/01/26 17:32
魏の武将の二代目・三代目があまり出世できなかったのは
やっぱり家柄のせいなのか?
曹操が実力主義者だったために、血縁が重視されなかったからでは?
86 :
世界@名無史さん:03/01/26 22:24
チングンのせい?
87 :
世界@名無史さん:03/01/27 00:49
>魏の武将の二代目・三代目があまり出世できなかったのは
やっぱり家柄のせいなのか?
宮崎市定『九品官人法の研究』に纏められていますが、
魏の功臣の二代・三代はみな高位についています。
武将が評価されないのは武をいやしむ中国のお国柄からだと思われ。
>曹操が実力主義者だったために、血縁が重視されなかったからでは?
曹操は晩年になると、かなり妥協しています。血縁は六朝期一杯
重視される傾向にあります。最近は過度に曹操が実力主義者で
あったことを主張する作家が居ますが(誰とはいわんが)、
残念ながら作家自身の理想の投影に過ぎないようです。
曹操は相当妥協する政治家です。
妥協はするけど、曹氏や夏侯氏の一門に要職を独占させたりはしなかったろ
それでは「血縁を重視」しているとは言い難い。
>>88 それは「自分の」血縁でしょ。
要は皇族重視かどうかって問題じゃないのか。
今話題になってる血縁ってのは、いわゆる血縁による派閥みたいな物の事かと。
90 :
世界@名無史さん:03/01/27 15:16
>魏の功臣の二代・三代はみな高位についています。
高位とは爵位が高い事?
それとも高官についてるって事?
意味は微妙に違ってくると思うが・・・
91 :
世界@名無史さん:03/01/27 17:42
「血縁」って括り方がおかしいんだよ。
87のいってる「血縁」てのは「名族の」ってことだろう。
貧乏人にだって血縁はいる。
晩年で評価を決めちゃうと
漢の武帝や梁の武帝、唐の玄宗なんかは救いようのない暗君てことになるな。
93 :
世界@名無史さん:03/01/27 22:13
孫権や曹叡も暗君になるな
94 :
世界@名無史さん:03/01/27 22:53
珊瑚串
95 :
世界@名無史さん:03/01/28 12:18
曹操は血縁関係の協力で国を興し、その後も血縁を重視していた。
曹氏の血縁が重視されなかったのは曹丕の兄弟に対する猜疑心が根本にある。
(しかし、これは曹丕の死によって少し改善された。)
九品官人法も曹丕の代で機能を廃れさせ、結局は官僚のコネがモノ言う様になる。
97 :
世界@名無史さん:03/01/31 16:49
揚
98 :
世界@名無史さん:03/02/01 01:24
朝鮮にも皇甫っていう姓があるのな。
中国人の子孫だろうけど・・・
99 :
世界@名無史さん:03/02/01 04:13
いや、朴っただけと思われ。
100 :
世界@名無史さん:03/02/04 02:24
黄巾の乱は太平天国に匹敵する規模だと思うがどうよ?
101 :
世界@名無史さん:03/02/05 01:50
太平道は于吉の流派と同じと聞いたが・・・
102 :
世界@名無史さん:03/02/05 16:39
>>101 于吉(或いは干吉)の書いた「太平清領書」を張角が読んでいたそうです。
この本の名前から「太平道」という名前になったのかと。
ちなみに、現在でも「太平経」という道教の経典が残っていますが、
これは「太平清領書」の流れを汲むものといわれています。
103 :
世界@名無史さん:03/02/05 19:02
洪秀全は張角の遺志を継がんとして「太平」天国と
号していたりして。
104 :
世界@名無史さん:03/02/05 19:58
なんでキリスト教徒が道教徒の意志を継ごうと思うんだ?
105 :
世界@名無史さん:03/02/05 20:17
同じ農民反乱の指導者として(w
一応、当時の五斗米道などはキリスト教に近い面もあるよ。
懺悔とか。
>>31-37 遅レスだけど、平原郡平原県ということで宜しいか?
>>105 彼等の思想は、
キリスト教を母体にして、中国的思想の組み込みと曲解を行った、と聞いたが。
107 :
世界@名無史さん:03/02/06 18:22
>>106 平原の県令をやったあとに、平原国の相になったということだと思う。
平原国は何度か断絶しているが、桓帝のときに帝の弟碩(石)が王になっている。
たぶん建安十一年に廃止されるまでその家は存続していたと思われる。
>>107 補足有難う。そういえば相ですから平原国ですよね。
続漢書では郡になってるのは何故でしょう。
郡よりも国の期間の方が長かったはずなのに。単なる司馬彪のミス??
109 :
世界@名無史さん:03/02/07 18:26
どの時期で国と郡を分けたかの違いじゃないの?
110 :
世界@名無史さん:03/02/07 19:34
左慈は張角や于吉とは違って民間に布教とかは
してないの?
111 :
世界@名無史さん:03/02/08 22:20
左慈は単なる房中術の使い手じゃないの?
演義での曹操とのやり合いは正史にあったっけ?
>112
歌がイイ!!
114 :
世界@名無史さん:03/02/09 22:32
呉では仏教が流行ってたんだっけ?
115 :
世直し一揆:03/02/09 22:46
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的・ファイト満々(キモイ、自己中心)
●自尊心が異常に強く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は
個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。しかも冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
116 :
世界@名無史さん:03/02/09 23:57
いやがらせか?
117 :
世界@名無史さん:03/02/10 21:12
卑弥呼の上奏文って漢字で書かれていたのか?
だとしたら、書いた人って誰?
118 :
世界@名無史さん:03/02/10 21:13
通訳
119 :
世界@名無史さん:03/02/10 22:49
なるほど。
漢字文化は朝鮮半島にも及んでないか・・・
通訳は朝鮮(にいた)人の可能性は高いだろう
双方の言語を解することができなくてはいけないわけで、
それは中国(にいた)人や倭(にいた)人では難すい
121 :
世界@名無史さん:03/02/11 19:10
劉備が国相をつとめたころの平原って冀州?青州?
青州だろうね。田楷の麾下にあったわけだから。
>卑弥呼の上奏文って漢字で書かれていたのか?
だとしたら、書いた人って誰?
倭にいた渡来人じゃないのかなぁ。一応日本で発見されている最古の漢字
は卑弥呼以前だったように思うが・・
124 :
世界@名無史さん:03/02/12 00:33
なしめ とか
125 :
世界@名無史さん:03/02/12 02:46
いや、天才ロリロリ少女の伊代ちゃんとおもわれ。
126 :
世界@名無史さん:03/02/12 12:08
私は張遼と張任などが好きでつ。張飛は・・・(・A・)
夏候惇もイイ!!
そぼくな疑問なのですが・・・
そーてんこーろに出てくる劉備の息子って、
なんで劉封じゃないんでしょ。
オリジナル?
129 :
世界@名無史さん:03/02/12 22:36
張遼が今の世にいても大して役に立たないよな。
張飛なんぞはすぐに刑務所いりしそう。
>そーてんこーろに出てくる劉備の息子って、
なんで劉封じゃないんでしょ。
あの漫画は史実と全然違うから訳がワカラン・・
架空の劉備の子・劉冀の後に劉封も出していたよ・・
132 :
世界@名無史さん:03/02/13 01:05
>129
まぁ平和な時代にとって彼らのような人材は必要ないですからね。
彼らのような人材は世が乱れたときに自然とでてくるものでしょう。
133 :
世界@名無史さん:03/02/15 04:51
張遼は役に立つんでないかい?
頭も良さそうだし胆力もある。
どんな職業でもやっていけるんじゃない?
張飛はヤーさんだね。
134 :
世界@名無史さん:03/02/15 12:02
張飛は肉屋。
136 :
世界@名無史さん:03/02/15 16:25
>>134 目上を敬い下っ端に厳しい・・義理堅いので
出世してるかも?張飛は政治能力もあるしね
137 :
世界@名無史さん:03/02/15 17:41
>136 え・・・・
>>136 う〜ん、否定はできないけど、肯定はもっとできないなぁ
>>138 ただ、劉備が漢中を攻略した後、
衆目の見るところ、張飛が漢中太守になると予想されていたにも関わらず、
魏延が太守に任命された、という話がありますよね?
この点を考えると、
張飛に水準以上の政治能力(というか行政能力)が備わっていた、
とも思えるのですが。
あ、靡莫さんだ!
141 :
世界@名無史さん:03/02/16 03:59
俺もそう思う。
就いた将軍職も武勇一点張りの男には出来んしな
>>139 >衆目の見るところ、張飛が漢中太守になると予想されていたにも関わらず、
>魏延が太守に任命された、という話がありますよね?
何でこの記述から張飛に水準以上の政治力があったと予想されたのか判りかねます。
新たな魏の接点である漢中を、政治力がある張飛より武闘派の魏延に任せたという解釈ですか?
何をもって政治力というかは判断が難しい所ですが、張飛に関しては世間で思われているより
猪突猛進な「武」だけの将軍ではなかったという程度でしょう。
>>142 >>139が言いたいのは、↓じゃないのか。
張飛が太守になると思われていた=新たに前線となる都市を統治する政治力があると思われていた。
つまり、前半分のところまでの判断だろ。
実際は魏延が任されたことを考えると、魏延の方がその方面の能力は優れていたってことか。
張飛が漢中太守になれなかったのは、直前の下弁の戦いで敗北したことの影響が大きかったのだと思うぞ。
張飛、馬超は漢中戦役では、いいとこなしだったから、
魏延、黄忠が論功行賞で優遇されたのは、劉備らしい配慮だろう。
史書での張飛は演義のような筋肉バカのイメージは無いが、政治力云々では魏延の方がマシに見える。
おまいら、ふたつ言っていいですか?
1.張飛は既に巴郡太守だったが、巴は漢中と並ぶ要衝だった
2.張飛や関羽が要衝に派遣されたのは能力以前に信頼できたから、と考えるべき
曹休や夏侯尚が一方面を完全に任せられるほどの名将だったと思うか? 陸遜や曹真は納得できるけどねぇ。
なんで太守に「なる」「ならない」ってだけで政治力の話になるかねぇ。。。
言葉足らずのところがあったみたいで、すみません。
>>139での意図は、大体
>>143さんの仰るとおりです。
>>142 魏延が単なる武闘派だとは、僕には思えません。
単に軍指揮官として有能だっただけでなく、
軍政(占領地の行政)についても有能だったのではないか、と思えます。
その点が、魏延が漢中太守に任じられた要因の1つだと思えるのです
(張飛との能力の比較は、ここでは無意味でしょう)。
もちろん、この官職についたからこの人物の能力はこれ程である、
という単純な議論や主張は出来ません(
>>145さんの指摘の通りです)。
そして
>>144さんの指摘のように、論功行賞などについても、
この点を考える上で重要な要素でしょう。
僕の張飛や魏延の能力への評価は、
あくまで推測ということはお断りしておきます。
>>145 張飛は、巴郡太守じゃなく巴西太守では?差出口、失礼。
148 :
世界@名無史さん:03/02/16 17:05
どっちにしろ
目上を敬い義理堅い(信頼できる)のであれば能力云々でも
平和な時代だからこそ役に立つかもしれない
↑文章が変だぞ
150 :
世界@名無史さん:03/02/17 19:29
劉焉には子飼の武将とか文官とかいなかったのかな?
皆、益州牧になってから抜擢したのだろうか?
劉表のカイ兄弟・蔡瑁も荊州牧になってからの部下みたいだし。
151 :
世界@名無史さん:03/02/17 21:51
劉表は八及のひとりだからね
>>150 趙韓、[广龍]羲、董扶の益州3人衆がおりますがな。ヽ( ̄  ̄*)
153 :
世界@名無史さん:03/02/17 23:54
呉懿タンはパパと一緒に劉焉に従ったね。出身地は陳留。
154 :
世界@名無史さん:03/02/18 00:13
張イ壬も東州兵?で一緒に益州入りしたんじゃなかったっけ?
156 :
世界@名無史さん:03/02/18 21:15
普通に考えて、あまり手下を大勢連れて行くと赴任先の豪族の反撥をかうんじゃないだろうか。
それ以前にそんなに手勢連れて行ったら、
朝廷から謀叛するのかと疑われて当然だろう。
属官として随行した人はイッパイいたかもしれんけど
>>156 実際、劉焉は益州の地元豪族を大規模に粛清してますよね。
しかし劉璋の代に至っても、趙イの反乱に代表されるような、
益州豪族と東州兵との紛争が頻発し、
それが結局劉璋政権の命取りになったのでは、と思えます。
あー、だから益州豪族が劉備を引き入れたのか。
160 :
世界@名無史さん:03/02/19 00:52
袁紹の子飼いは顔良と文醜だけ?
田豊とか審配もそうだっけ・・・
>>158 曹操が張魯を逐って漢中を平定した時、巴の諸部族が曹操に降伏してるけど、
これを東州兵と見ても良いのでは?
あと、蜀の豪族って、巴や蜀西部、南中などに分布していた羌やテイなどの
非漢民族とは違って、物理的反抗の跡はあまり見受けられないと思うけど。趙韙も巴郡だし。
>>161 >巴の諸部族が曹操に降伏してるけど、これを東州兵と見ても良いのでは?
巴一帯に流入・駐屯していた東州兵が含まれていた可能性もありますが、
大部分はむしろ羌やテイだったのでは無いでしょうか?
>物理的反抗の跡はあまり見受けられない
劉焉の時代に任岐と賈龍(共に蜀郡出身)が反乱していますし、
趙イの反乱の時も、趙イは事前に益州豪族と結託し、
蜀郡・広漢・ケン(牛+健)為の各郡が趙イに呼応しています。
一方で黄権や王累、張任のように、
劉璋を支える側にまわった地元人士もいたわけですから、
益州豪族内部でも利害関係は複雑に絡み合っていたのだと思います。
163 :
世界@名無史さん:03/02/19 02:05
東州兵は苑らへんの人じゃなかったかな?
益州に入った後、やりたい放題で地元の反感を食っていたみたい
劉璋軍で劉備に最後まで戦ってたのも東州兵みたいです。
張任はどうだっか覚えてないです
>>160 顔良は琅邪の豪族らしいから違うかも。
田豊審配は地元採用。文醜はわからない。
子飼いという感じなのは、許攸・陳琳・逢紀あたりかな。あと淳于瓊。
劉焉ら入植者(東州兵)たち……イスラエル
任岐、賈龍など地元勢力……パレスチナ
扈[王冒]、甘寧など……PLF
と例えてみる。
>>163 劉備入蜀後に「東州兵」がどうなったかについては、意見が分かれていて、
「東州兵」は壊滅したという渡邉義浩氏などの見解と、
「東州兵」は勢力を維持したという上谷浩一氏などの見解とがあるようです。
法正や李厳、呉懿など、
南陽・三輔出身者が劉備の政権で重用していることから考えて、
個人的には後者の意見を支持しています。
>166のところ、呉懿は陳留出身でしたね。失礼しました。
一応、蜀関係者出身地一覧(所々当て字)
【幽州】
啄:劉備・張飛・簡雍
広陽:(傅)士仁
【冀州】
常山:趙雲・夏侯蘭
【司隷】
河東:関羽・裴儁
河南:孟光・郤正・鳳義
扶風:馬超・法正
【克州】
陳留:呉懿・呉班
山陽:伊籍
【青州】
琅邪:諸葛亮・諸葛均
北海:孫乾
【徐州】
東海:糜竺・糜芳
【豫州】
汝南:許靖・陳祗・陳到
魯:劉王炎
【荊州】
南陽:陳震・黄忠・李厳・郭攸之・王連・呂乂・杜祺・劉幹・許慈・宗預・張存・黄柱
襄陽:鳳統・馬良・馬謖・楊儀・羅憲・向朗・向寵・廖化・習禎・輔匡
義陽:魏延・樊建・董厥・胡済・来敏・登芝・傅月・赤普・劉邑
江夏:劉焉・劉璋・費王韋・費観
南郡:董和・董允・霍峻・馮習・登方
零陵:劉巴・蒋王宛・頼恭
武陵:廖立・藩濬
【益州】
蜀:任岐・賈龍・張裔・杜瓊・張松・張粛・常幡・何宗
広漢:任安・董扶・秦必・王商・彭漾・王沖・鐔承・王累・李召・李朝・王甫・王士
梓潼:李権・杜微・尹黙・李撰・李福
巴:甘寧・文立
巴西:趙是韋・周羣・礁周・黄権・馬忠・王平・張嶷・馬勲・馬斉・姚抽・襲禄・程畿
健為:楊洪・費詩・張翼・楊戯・王嗣
建寧:李恢
永昌:呂凱
漢嘉:王謀・衛継
【涼州】
天水:姜維
お、乙カレー・・・
結構作った時、時間かかったっしょ。
漏れも別のケースだったらやった事あったけど
とりあえず当て字を探すてみた。
涿、蒋琬、費褘、潘濬、龐統、龐羲、
郝普、彭ヨウ、趙韙、劉琰・・・
う〜ん、良かったら正確に教えて欲スい。。
あとは譙周、ケ芝、ケ方、劉邕、傅肜、犍為ぐらいかな?
あと広陽がホントに幽州でいいのかよくわからない(県なら益州にもある)…
>良かったら正確に教えて欲スい。。
面目ない。ちなみに親兄弟も省いてるのと省いてないのがいるのでヨロシク
>>172 表作成、おつかれさまです。
士仁は、幽州の広陽郡出身で間違いないはずですよ。
174 :
世界@名無史さん:03/02/22 05:09
何気に甘寧が入ってる・・・
益州人材のほうで重宝されてたのって
王平、黄権、張嶷、呂凱、姜維、秦[ウ+必]くらい?
176 :
世界@名無史さん:03/02/22 23:08
孝昭・孝安・孝霊・孝元って漢の皇帝の名前じゃないか。
177 :
世界@名無史さん:03/02/22 23:08
名前じゃなかったな・・・
↑話が見えないぞ・・・
謎だ・・・
180 :
世界@名無史さん:03/02/23 03:06
神武綏靖安寧懿徳・・・
181 :
世界@名無史さん:03/02/23 18:38
顔良がロウヤの豪族というのはどっから出た話だ?
182 :
世界@名無史さん:03/02/23 21:00
183 :
世界@名無史さん:03/02/24 01:34
孔子の子孫で一番出世したのって漢の丞相になった孔光?
皇帝になっていない以上はそうじゃない?
孔祥煕なんてどうよ
姜維が蜀に降った経緯は、やはり演義とは大分異なるんでしょうか。
187 :
世界@名無史さん:03/02/26 22:47
OVER LOADって閉鎖した?
188 :
世界@名無史さん:03/02/27 02:45
>>186 天水と南安なんかの民が魏に背いたとあるね。
姜維はそれを抑えられずに蜀に投降したみたいだ。
諸葛亮伝注では孔明が冀を落として姜維を虜にしたと
書いてあるけど・・・
演義の記述もまるきり創作ではないかな。
あった。スマソ
190 :
世界@名無史さん:03/03/01 00:39
しかし、孔明って王双をさくっと斬ったり、
張コウを見事討ち取ったり、戦の素人とするには
鮮やかすぎるよな。
涼州の民が孔明に呼応したのも政略の効果だろうし。
やはり軍人として有能だよね。
なんで、蜀じゃなくて魏が正統なんでつか?
朱子学のせい?
192 :
世界@名無史さん:03/03/01 00:55
漢から禅譲されたから。(献帝→曹丕)
釣りブームか?
あ、正統ね、スマソ
196 :
世界@名無史さん:03/03/01 03:20
蜀が魏より広ければ、蜀が正統とされていただろう。
国土の広さか?正統の基準は。
ちがわねぇ?
>>194 191は「朱熹が蜀正統を主張したにもかかわらず、
魏正統となっているのは、
継承した朱子学に何らかの原因がある」という
ことを主張したいのでは?
>>199 そこまで推察しなけりゃならんのか?(w
>>191の文章を見ると、どう考えても勘違いしてるとしか思えない。
やっぱり釣りブームだな
今日も釣れてますかぁ〜
今日も大漁ですかぁ〜
203 :
世界@名無史さん:03/03/01 13:11
>>197 かりに新と後漢が共存したとしたら、新が正統王朝とされた
事になるのか?
>191さん
多分、魏を正統にした司馬光『資治通鑑』と、蜀を正統とした朱熹『資治通鑑綱目』
を混同して居るんじゃないかなぁと思う。司馬遼太郎も混同していたので。
『資治通鑑綱目』は『資治通鑑』のダイジェスト版だが、
朱子学的に正しい歴史書を目指して各所で改変が行われている。
蜀正統論も改変の一つ。
なお朱熹自身は三国時代を「無統」(正統王朝無し)としていたようだが、
弟子が朱熹生前には未完成だった『資治通鑑綱目』を完成させた時に
蜀を正統にした・・といわれている。
それから『資治通鑑』は朱子学と関係はない。司馬光と朱熹の見解はかなり
相違があると本田済はいっている。
191です。
なるほど。ボクは勘違いしていたようですね。
中砂さんの『江南〜〜』に一章もうけて、
通鑑と綱目の変遷が述べられていました。
勉強しなおしてきまつ。お騒がせしました。
206 :
世界@名無史さん:03/03/01 21:03
孔明が有能な軍人というのは釣りじゃないんだが・・・
実際、王双と張コウを斬ったのは見事でしょ?
司馬懿も孔明の計略にびびって兵を引いたくらいだし。
街亭と陳倉くらいしか孔明のミスって見あたらないのでは?
207 :
世界@名無史さん:03/03/01 21:05
>>206 北伐自体がミスだと思うと言ってみるテスト。
北伐の実行自体はミスじゃないと思うけど、
将軍何人斬ったところで魏に打撃を与えたとは言い難い。
領土を広げないとな。。。
209 :
世界@名無史さん:03/03/01 21:19
北伐でただでさえ少ない国力、兵力を浪費したのは事実。
戦略的にも意味は無く、結局呉との協調もならなかったので政治的な意味も無い。
単なる冒険的な軍事行動であって、ミス以外の何ものでもない。
国力が少ないのははじめからであって北伐せずにチマチマ内政してても
どんどん差が開くのは同じだろう。
呉にやる気がないのも北伐云々以前の問題。
諸葛亮が死んで北伐が止んだあと数年で軻比能と公孫淵が片付けられて
るのには注目すべきではないかと言ってみるテスト。
北伐自体が間違っていたって言い方はいくら何でもないのでは?
北伐は蜀という国家の目標っていうか、存在理由そのものなんだから。
そういうこといったら、蜀を建国したこと自体がミスであったということに・・・
212 :
世界@名無史さん:03/03/01 21:46
司馬懿が出てくるまでは戦果は上がっていたと思うが・・・
実戦経験で言えば、司馬懿もそれまで自分で軍を率いた事は
無かったと思う。
それが何故か、司馬懿は練達の将軍で、孔明は軍事的凡才という
イメージが植え付けられてる気がする。
213 :
世界@名無史さん:03/03/01 21:48
孔明って実際戦争上手いよ
経験が少ないわりにあの時代でも有数の人じゃない?
個人的に、
孔明本人が三国鼎立を提唱して
三国のこう着状態を作ってしまうことをもくろんだにもかかわらず、
あんなにあせって北伐を進めたのでしょう?
215 :
世界@名無史さん:03/03/01 21:53
どっちかというと三戦板向きの話題ではないかと思う。
217 :
世界@名無史さん:03/03/01 22:34
>>210 軻比能・公孫淵の討伐が孔明の死後になったのは北伐が直接の原因ではない。
北伐の時期、魏の国内は曹真の派閥と司馬懿の派閥とによって暗闘が行われていた。
両者の討伐は、この政争に司馬懿が勝利を収め、実権を握った後の話だ。
>>211 そうかも知れない。
結局、呉との協調も荊州の確保も出来ないまま蜀を建国してしまった時点で、後の展開は決まっていたのかも知れない。
>>213 孔明の戦争指揮に見るべきものは無い。
戦争が上手いとか、あの時代で有数と言える材料も無い。
陳倉の攻略戦では、10倍の兵力を投入しながら郝昭を破れず、結局補給の失敗から退却している。
劉備の死後、いつ滅びてもおかしくなかった蜀を立て直した内政の手腕はともかく、戦争のセンスは無かったと思われる。
そう思うってだけだろ。三戦板逝け。。。
220 :
世界@名無史さん:03/03/01 22:48
やっぱり北伐ネタは食いつきが違うなw
221 :
世界@名無史さん:03/03/01 23:03
>>220 いつもいつも人が戦ってるのを笑いながら見てるだけなんだ、お前は!
唐 段成式「酉陽雑俎」
数人の盗賊が劉備の墓をあばきに入ると、
中には二人の男が灯りの下で碁を打っており、
その周りには侍衛の軍人が十数人武器を持ち控えていた。
盗賊どもが驚いて謝ると、碁を打っていた内の一人が振り返り、
彼らに一杯ずつ酒を飲ませ、玉の腰帯を一筋ずつくれた。
盗賊どもが喜んで外に出てくると、帯と思ったのは実は大きな蛇であった。
223 :
世界@名無史さん:03/03/01 23:23
孔明は演義のように(超人的な)戦争上手では無いと思う
三国志の時代は英雄豪傑の活躍が目立つが、実際は悲惨な内乱時代で
人口も百年間で6000万から600万に激減した時代
孔明が活躍した分野はむしろ兵站の維持・巨視的な戦略など「軍政家」としてだと思う
224 :
世界@名無史さん:03/03/01 23:25
シバイであろうが陸遜であろうが蜀一国からの統一は出きないんじゃない。
225 :
世界@名無史さん:03/03/01 23:33
今日某雑誌で始めて連弩を見た。春秋戦国の楚の奴だけど。
これまでは連弩って単に矢をまとめて数十本ぶちかます原始的な代物と思っていたがびっくり。レバーを往復させるだけで自動的に射撃し、二の矢を装填してくれるオートマチックなクロスボウですごいのなんの。
どーしてあれ、その後の東アジアのメーンウェポンにならなかったんだろ。凄い不思議なんだけど。
誰か解説して。ありゃパッと見中世ヨーロッパの戦術を一変させたロングボウの連射性能なんて目じゃないぞ。
226 :
世界@名無史さん:03/03/01 23:37
>>224 曹操ならどうだ? あいつは掛け値無しに中国史上屈指の怪物だと思うが。
孔明は有能な政治家ではあったろうし、リクソンもシバイも凄いとは思うが、曹操とはレベルが違わんか?
227 :
世界@名無史さん:03/03/01 23:39
>>226 同意。
曹操は掛け値無しにあの時代最高の傑物だろう。
228 :
世界@名無史さん:03/03/01 23:43
天下統一は出来なかったけどねw
229 :
世界@名無史さん:03/03/01 23:46
そうだよな〜。何故赤壁の時だけあんなポカをやったのか、そこがようわからん。
しかし曹操は意味不明に劉備を警戒していたわけで、
となるとやはり劉備最高!
しかしその劉備も陸遜(その他大勢)にこてんぱんに
のされているわけで・・・・。
曹操が軍人、政治家、詩人として傑出した存在なのは確かだが、
でも結局呉と蜀を滅ぼす事はできなかった。
当時の広くて人口密度の低い中国を統一するのは
誰だろうと極めて困難だと思われ。
231 :
世界@名無史さん:03/03/01 23:56
軍人、政治家として優れていたのは恐らく合理的思考を司る左脳が桁外れに優れていたからなんだろうな。
そして、左脳は言語を司る脳でもあるわけで、おそらく曹操は左脳が異常に高性能なタイプの天才だったんだろう、と言ってみるテスト。
因に絵書き系=右脳型の皇帝(北宋のキソウとか)は大抵アンポンだたんなのでは……。
>>230 そこで孔明の天下三分の計が意味を持って来るのね(w
232 :
世界@名無史さん:03/03/02 00:01
>>231 そうかな?曹操は詩文にも優れた才能を発揮していたのは周知の通り。
豊かな発想が合理的な思考を生んだとも考えられる。
曹操が左脳型の人間だったとは一概には言えないと思う。
233 :
世界@名無史さん:03/03/02 00:05
言語を司る脳=詩文にも優れた才能
と言いたいのでは?
234 :
世界@名無史さん:03/03/02 00:12
>>233 注釈すまぬ。
まぁ、そういうわけだ。言葉にし難い感情やイメージをキャンバスや音楽にぶつける場合、右脳型人間は絶大な力を発揮する。
しかし己のイマジネーションを万人に理解できる整然とした文書にするには、優れた合理的思考能力が必要なのだ。曹操はそういう力に長けた人物だったのだろうと言いたかったんだ。
余談だが、究極の右脳型人間レオナルド・ダヴィンチは文字を左右さかさまに書いていても、それに気付く事すら出来ない致命的な『文字音痴』だったらしい。(pとqの見分け、つかなかったりして)
235 :
世界@名無史さん:03/03/02 01:02
コーエーのゲームで孔明の知力が100とかなってるけど、
もし孔明や司馬イが100だったら、曹操の知力や政治力は200とか300って数字になりかねんね。
ゲームバランスってもんを考えてくれとマジレスしてみるtest
237 :
世界@名無史さん:03/03/02 01:06
あれは三国志演義が元ネタだからスレ違いとマジレスしてみるtest
239 :
世界@名無史さん:03/03/02 01:13
曹操はそんな大したタマじゃないでしょ。
天子を握ってたから相当有利だった事は確かだし。
謀臣の力による所も大きいと思うよ。
荀ケ・郭嘉・賈クその他知謀の士をやたらめったら
抱え込んでいたからな。
240 :
世界@名無史さん:03/03/02 01:21
曹操って結構こけてるしね。そこらじゅうで。
七転び八起きの人生だな
242 :
世界@名無史さん:03/03/02 01:23
てゆーか、三国志の何が面白いって、曹操というあの時代一番才能があって一番沢山の軍隊を持っていた男に、
野武士同然の劉備一党が無謀にも果敢に挑み、僅かな金と兵と才能を振り絞って勝利と一国を手に入れて行く、その爽快感じゃん。
ガンダムのシャアと同じ理屈。敵役がいいキャラだから面白い。
故に、曹操は圧倒的に強い存在じゃなきゃダメだよ。
現代の孫子の兵法のスタンダードとなってる曹操の注釈書にケチつけたりとかしちゃダメなのだ。なんでかケチつけてんだよねー、人形劇三国志とか横山三国志……。
243 :
世界@名無史さん:03/03/02 01:25
曹操って、赤壁でこけてなかったら天下とってたのかな?
戦略レベルを含めて、総合的に考えて。
で、そこで「円月青龍刀は伊達じゃない!」とかやってしまうと・・・。
てゆーか、某田中芳樹はそのあたりを理解して銀河英雄伝説書いてるよね。
圧倒的に強くて大軍率いてる美形の天才戦略家に、うだつの上がらない学者志望の男と少数の独立愚連隊を挑ませ勝たせるあたり……。
あいつ三国志には否定的な癖して、自作ではしっかりパクってんだよね。宇宙で三国志。
明らかにスレ違いなので下げ。
赤壁で孫権・劉備連合軍が敗れ去ったら
後に残るのは漢中の五斗米道・蜀の劉璋・湖南の諸豪族位。
いけてる可能性は高いが、曹操は自ら軍を率いる事が
多いのでそうすると慣れない風土で倒れる可能性が・・・って
劉備は平気だったな・・・。
袁紹「諸君らの愛してくれた弟公路は死んだ。何故だ!」
曹操「坊やだからさ」
とか?
ちっとも愛されてない罠
正統論で少しでも学術方面に引っ張っていこうかと
思ったのですが、全然イミなしでえいたね。とほほ。
250 :
世界@名無史さん:03/03/02 03:24
赤壁の戦いって二度目の元冦なんかと同じで、実は戦略的に見ると勝ち負けが初めから決まってたに近い戦いなの?
それともどっちに転ぶか判らない戦いだったの?
あるいは、あそこで呉が勝ったのは曹操の戦術レベルでのミスが原因で、かなりマグレ臭いの? そこんとこ誰か教えて下さい〜。
ついでに、もし戦略的に勝ち負けが初めから決まってたような戦いだったとしたら、曹操が普段の聡明さをどこかで回復したとして、戦略を立て直してきちんと侵攻したら曹操が勝つ方法ってあったの?
所詮は伝説の話よ。
イナバの白兎が皮をはがれたかはがれないかと
議論しているのにひとしいな。
戦略的に見ると勝ち負け?
戦略的な勝算が無い戦をする人間がいますかね?
戦略的に勝ち目がないなら、初めから戦争しないのでは?
「普段の聡明さ」!ですかw。
がんばって、曹操の「普段」を証明してみせてくださいな。
それとも、250さんは曹操の生れかわりなんでしょうか?。
>249
テーマ
「三国時代の道教について」
「魏晋の九品官人法について」
「東漢時代の軍制について」
などなどお好きな方向について語ってください。
当方、見守る位しかできませんが。
253氏は、私の身近にいる方のようですな。
「当方」と使われるかた、あまり多くはないようにお見受けしますが。
ところで249は煽りな匂いがするのですが?
ガンダム?人形劇?・・アホか。来る板間違えてるよ(呆
そういうリアル厨房の為に三戦板あるんだからさ・・・
魏書武帝紀には
「益州の牧、劉璋は、始めて徴兵の命に応じ、兵を差し出して軍に供給した」
(平凡社 中国古典シリーズ3より)
とあることから天下の帰趨は既に曹操の元にあり、統一は時間の問題だったと見られていた。ところが
「太祖は赤壁に到着、劉備と戦ったが打ち負けた。
このころ疫病が大流行し、官吏兵士の死ぬ者が多かった。そこで軍をひきいて帰った」
というような事になってしまい、統一のチャンスを逃してしまう。
これは曹操にとっては戦術レベルでのミスとかではなく、不幸な事だったといって良いのではないか。
もっとも疫病が流行した原因が南方の環境に兵が慣れておらず、
これを考慮していなかったということで曹操のミスといえるかもしれない。
>>256 これが事実であるならば、明らかに戦術ミス。
環境や疫病は当然考慮しておくべき事象である。
数で圧倒すれば呉は降伏するだろうと甘くみていたに違いない。
しかし、魏書と呉書では赤壁の戦いに関する記述に大きな違いがある。
魏書では赤壁についてあまり大きく取り上げられておらず、
あっさり諦めて撤退したかの様な印象さえ受けるが、
呉書ではもちろん大きく取り上げられ、大勝であったと記されている。
赤壁の戦い自体が無かったという説を挙げる歴史学者も実は少なくない。
ただ中国の史書には「春秋の筆法」的書き方や
旧唐書みたいに都合の悪い事は書き換えるといった事がある。
「魏書…自軍に都合の悪いことは適当にスルー」
「呉書…針小棒大」
かもしれない。
「赤壁戦虚構説」には与さないな。
>全然イミなしでえいたね。とほほ。
リアル厨房のおいらには「イミなしでえいた」という言葉のイミがわからないよw
260 :
世界@名無史さん:03/03/02 11:52
ガンダム論で少しでも厨房方面に引っ張っていこうかと
思ったのですが、全然イミなしでえいたね。とほほ。
>>255 漏れは三戦にも出入りしているが、
ここは歴史全般に興味がある人が多いせいか、社会性の無い厨房が多い気がするぞ
三戦はゲーム厨が多いが、ネタ的に止むを得ないだろうからね。w
>>225 googleで検索するとこんなのが出てきました。
非常に便利なものですが、威力は小さく、射程はわずか約35mにすぎません。
鎧甲で身を固めた兵士に対しては威力がないので、
宋応星はこの弩を盗賊(盗賊は鎧甲を着ていないので)を防ぐ道具であり、
兵器ではないとしていますが、茅元儀は非力さを補うために矢に毒を塗れば、
わずかな傷で敵を倒せるので、城壁の防御など軍事にも使えるとしています。
tp://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-211-2p.html
つまり、威力が弱すぎたみたいですね。
>>262 う〜ん、威力なら弓や弦の材質を変えるなりもっと強い奴に交換するなりしてやれば簡単に強化できると思うんですけどね〜。
それにレバーを引くだけで装弾&射撃が可能なわけだから、弦を引く部分は滑車&ハンドルでもいいわけで、腕力以上の弓を引く事も可能になって、
連弩は威力、連射双方で抗力を発揮し、分厚い鎧兜を史実より千年は早く時代遅れにできたよーな気がしたんですが……。
弓&弦の交換ってそんなに、難しかったんです? それとも連弩の複雑な機構は古代だと些かコストがかかり過ぎたのかなァ。
264 :
世界@名無史さん:03/03/02 15:01
勢い込んで呉に攻め込んだ曹操。しかし疫病と言う不確定要素の為、軍が立ち往生してしまう。
戦闘でも呉に破れ(決定的な大敗じゃない)自軍に継戦能力がない事を悟るとやむなく撤退を決定する……。
ってのが事実に近いよーな気がする。因に疫病はぺロポネソス戦争の時篭城作戦をとったアテネの指導者(名前忘れたがかなり有名な奴)も予期できなかったし、
どれほどの人物でもやっぱり難しいんじゃないかな、そこは。それに、当時疫病って呪や魔物の仕業と思われてた所あるし。
>>262-263 とりあえず当時の連弩の製造法は残っておりませぬ。
補足すると、後世における復刻版(on妄想)でして、
後世の技術でも射程&威力が弱過ぎたのれす。
威嚇が限界かと思われ。
そういえば、司馬懿が遼東征伐の際に連弩だったかを用いてるよね?
といっても、破城槌みたいな使い方だったっけ?
演義をネタにするのもなんだが、旧袁紹配下の張南らが
赤壁で戦死した描写があったと思う。
旧劉表配下の水軍や官渡戦後に降伏した袁紹の部下たちは、
曹操軍主力を温存するため矢面に立たされかなりのダメージがあったのではと
勝手に想像してみる。
268 :
世界@名無史さん:03/03/02 19:00
>>266 楚のある武人の家から実物が出土してるらしいから実物がどんなものかは判るんだっけ。
因にそれは、弦の瞬発力だけで(つまりパチンコと同じ原理で)矢を発射する代物だったらしい。んで、その推定射程が20メートル程度だったとか……。
けど、通常のクロスボウのような奴に同じ機構を使う事を考えなかったと思う方がおかしいわけで、やろうと思えば射程200メートル以上のも作れたと思うんだが。
やっぱりなんでだって思うよ、オレは。秦の記録じゃ鯨を倒したりもしてるらしいし(w
>>268 >けど、通常のクロスボウのような奴に同じ機構を使う事を
>考えなかったと思う方がおかしいわけで
そう思うんだったら、長い歴史の中で考えに考えたけど、
十分な威力と発射速度を持つ連弩はついに発明できなかった。
ただそれだけの話だと思うんだけど…。
素材に関する十分な知識や、武器の歴史に関する十分な知識がないと、
こういう議論はできなくない?
270 :
世界@名無史さん:03/03/02 20:10
三国志読むと何十万もの大軍での合戦のシーンが出てくるけど、蜀でさえ2,300万人
だったんだよね。実際の戦闘の規模ってどんなものなんでしょうか?
>>270 十万を超える野戦軍の動員なんて、三国鼎立以前は稀有。
官渡において袁紹が動員した兵力も、十万ほどだったかと。
272 :
世界@名無史さん:03/03/02 20:47
馬鈞の5倍強くした元戎が出てこないかなー
戦国時代の日本の人口って千万強くらいだっけ。それで三十〜四十万の軍勢を動員し、なおかつそれを朝鮮半島迄遠征させてるんだから、蜀も頑張れば十万くらいなら十分動員できたんじゃない?
>>269 いやはや全くそのとうりですな(汗)
サバゲー板とかにいったら、何故連弩が主力兵器にならんかったか、クロスボウに詳しい連中が解説してくれるかな?
275 :
世界@名無史さん:03/03/02 20:58
射程が短く、機構が複雑で壊れやすく、取り扱いも面倒だったから。
>>263 >弦を引く部分は滑車&ハンドルでもいいわけで、
弦を滑車やハンドルで引いていたんじゃあ「連射」出来ないのでは?
いちいち時間かけて弦を引いていたのでは簡略化出来るのは装填と引き金だけ、
複雑だと壊れやすいという欠点を考えれば、ほとんど有利ではないと思いますが。
滑車を使用した製品は、かなりの耐久性を必要するってことですな。
それを数千個も揃えるのは無理があることになるね。
装填に時間がかかるし費用が嵩む、そんな兵器イラン!ってか。
278 :
世界@名無史さん:03/03/02 22:31
弩と連弩は違うの?
弩は石弓と訳されてるが、どこに石を使ってるの?
279 :
世界@名無史さん:03/03/02 22:39
あ、そう言えば滑車式のクロスボウって聞かないよね。
足つかって引いた方が速いし、それで十分鉄板ぶち抜けたからかな?
それにしても、何故連弩が弩や弓と比べて威力が弱いのかはイマイチわかんない。
そこを誰か説明してくれ〜な。
280 :
世界@名無史さん:03/03/02 22:43
>>278 引き金を往復させるだけで次の矢を装填・射撃してくれる奴が連弩。
矢をつがえ直す必要がなく、レバーを往復させるだけでガンガン射撃できるので連弩という。
>>279 連続して弦を引こうと思えば弦の強度は弱くなり、威力も落ちる。
>>281 それは説明にならないんじゃない? 連弩は弦を引く時間じゃなくて、矢をつがえ直す時間を短縮するためのもんなんだし。
連続して引くからと言って弦の強度が落ちるとは……。
>>282 弦を引かずにどうやって矢を発射体勢に持って行けると?
子供でもわかる理屈だと思うが…。
>>282 それじゃあ大した時間の短縮にならないし、
強い威力で矢を飛ばすには強い力で弦を引く事が必要になり、
当然そこで時間がかかるんです。
結局威力と速射性は反比例します。
普通の弩の、矢をケースから取り出しセットする時間が必要なのを、
レバーを往復させるだけで矢をつがえ直す(+弦を引く)ようにして省略したのが連弩だろーもん。
これと弦がぜい弱になるのと、どー関係あるんだ? と聞いてるんだがなー。
>>284 つまり、サブマシンガン的な用途に特化した武器だったのが連弩だったと、そういうわけですな?
そう言えば、中世イギリスのロングボウ部隊はどうやって速射性と破壊力を両立させたんだろ。
>>285 >>262の記述を見る限り、連弩の再装填は簡単かつ素早く行えた様だ。
つまり、それが可能なほど連弩の弦は弱かったと言う事。
何でこんな簡単な理屈が判らないんだ…。
>>289 いや、実物の連弩の検証をやりたいわけじゃない。
何故弦の強い連弩が開発されなかったのが疑問なんだよ。弓を長くしたり、弦を太くしたり、といった程度の改良なら旧石器人だってできる筈だが、と。
追記>改良した結果弦が強くなって引くのに時間がかかるにしても、
矢の際装填時間を省略できるだけでもかなり有利だと思うんだが。
つーか、テコの原理つかってんのになんで弦の強度さげなくちゃいけないんだよ
>>290 改良した所で結局動力は人間の力だからね。
弦が強いとより多くの力が必要になる。
梃子や何やでそれをフォローしようと思えば弓自体が重くなる。
かと言って、フォローしないと連射速度は普通の弩と微々たる違いしかない。
改良の試みは当然あっただろうが、これ以上の改良の余地が無かったと見るべきでは?
>>292 真性なのか?
梃子を使っても強い弦を引くために強い力が必要なのは何も変わりない。
>>285 強い威力で矢を飛ばすなら強い力でで弦を引く必要があります。
レバーが手で簡単に往復できるていどなら、
そこから発射される矢の威力は弓と同じ程度です。
ちなみに普通の弩は両腕使って力いっぱい弦を引いたり、
滑車等を使って弦を引いていました、だから威力は強いが速射性に劣ったんです。
やっぱ射程距離は問題じゃないよ。それよりコストと故障頻度が問題だったんじゃないのか?
自転車スレなんかで該出だが、今ではやすくて単純に見える機械も、古代技術で作ろうとしたらバカ高くなってしまう。
それに粗雑なつくりの連弩だったら故障が頻発して、野戦じゃ使いにくかったんじゃねーのかねぇ。
>>285 強い威力で矢を飛ばすなら強い力で弦を引く必要があります。
レバーが手で簡単に往復できるていどなら、
そこから発射される矢の威力は弓と同じ程度です。
ちなみに普通の弩は両腕使って力いっぱい弦を引いたり、
簡単な機械等を使って弦を引いていました、だから威力は強いが速射性に劣ったんです。
威力では弓=連弩で、速射性能では弓と連弩ではそこまで大差がない。
そうなると故障の危険性がなく、コストも断然安い弓が主力武器として残った……と考えるのが自然か。
>>298 いや、問題は射程距離じゃなくコスト&故障頻度だった、といいたかったわけだが。
>>287 ロングボウは威力では弩におとり、速射性では小弓におとります。
結局威力と速射性は原則的に反比例します。
ロングボウが戦場で活躍したのは、威力と速射性のバランスが良かったからでしょう。
もちろん、兵士の訓練の度合い等の要素もありますが。
302 :
世界@名無史さん:03/03/02 23:50
武器オタやっぱウザイ。
別スレ立てろ。
このまま100以上連ド論争続いたらたまらん。
>>302 まあまあ、連弩論争も答えが出つつあるようですし。
ほかの話題でもふってみては?
>>302 貴様のようなゴミに指図される憶えはない。
嫌なら貴様が消えるか、もしくは氏ね。
まぁ、サブマシンガンならサブマシンガンで萌えるがね、連弩。
しかし孔明はどう使ったんだろ。やっぱ原始的に多数の矢をぶちまけたんかね。
306 :
世界@名無史さん:03/03/03 00:05
兵器の話題になると何故こんなにレスがつくの?
308 :
世界@名無史さん:03/03/03 00:20
>>305 サブマシンガンといっても威力も速射性も弓と同程度ですよ。
あるいは、弓より威力が弱くて速射性に優れていたか。
しかし、確かに孔明の使用法は気になりますね。
正史に具体的な記述はないのでしょうか?
弓スレの予感
>>308 連弩は威力は弓と同程度で速射性はかなり優秀だったんじゃねーの? そうじゃなきゃあんな複雑な機械、何世紀も継承される事なく廃れると考えるべきだと思うが。
逆説的だが、熱気球とか自転車も何度も発明されては廃れてるんだろーなー。歴史に残ってないだけで。
連弩は優秀な武器だがコストや信頼性で問題があり、護身やサブマシンガン的な用途に特化して継承されていた、と考えるのが自然じゃないかねぇ。
開けた平野で横一列になって撃ったのか、
城壁の上から浴びせたのか。
それとも他に用途があったのか。
>>310 「鎧甲で身を固めた兵士に対しては威力がない」って事は、威力は弓より低かったと言う事だろう。
まあ、諸葛弩の場合は極端な例かも知れないが、威力・連射性能ともに弓以上に優秀だったとは思えない。
また、これだけ問題の多い兵器を「優秀」とはとても呼べない。
>>311 諸葛亮の改良以前は城壁に設置して使うものだったらしい。
また、改良後も射程に問題があったならば防御兵器としての用途しかなかったのではないかと思われる。
314 :
世界@名無史さん:03/03/03 00:47
つーか熱気球や自転車の方が明らかに、連弩より有益でしょう。
それに複雑な兵器ってのはそれだけで有益でなくても価値が認められる事もあるし。
>>312 鎧兜に通用するタイプはコストその他の理由で弓に破れ廃れたが、とにかく速射性だけが必要なサブマシンガン的な連弩はある程度有用で生き残ったんじゃないか、と言いたかったんだが。
散々概出だが威力をあげようと思えば弦を太くするなり弓を長くすればそれで事足りる。
けど接近戦で、鎧をつけていない盗賊や暗殺者を倒すには(あるいは普段着の相手を不意打ちする場合、忠臣蔵の討ち入りみたいな場合には)威力や射程距離より、速射性能が遥かに重要だった。
よってそういう用途に使える、弦が軽くてとにかく連射が簡単な連弩だけが残ったんじゃないかと、オレはいいたかったわけよ。
で、時々孔明みたいな変わり者が正規軍同士の戦いで使えないかとあれこれ小細工し、そのつど挫折したんじゃないかと思うわけだが。
つまり、連弩は威力がないから普及しなかったんじゃなくて、威力を必要としない用途に特化したんじゃないか、というわけな。
>>314 実際、アンデス文明のナスカ人は熱気球発明してるがその後廃れてるぞ。
用途が例の地上絵を空から眺める位しかなかったからな。
やっぱ用途がなきゃ技術は廃れるんだよ。連弩が廃れなかったのは、それなりに使える代物だったからじゃねーの?
>>317 で?連弩は継承するものが残っていたが、ナスカンの文化は誰が継承したんだ?
技術が廃れる理由は色々あるが、大きいのはそれを理解して継承するものがいるかどうかなんだよ。
で、ナスカンの文化や技術は 誰 が 継 承 し た ん だ ?
>>313 >諸葛亮の改良以前は城壁に設置して使うものだったらしい。
正に、塹壕戦で使える武器はないものかと開発されたサブマシンガンそのものじゃねぇ?
敵が城壁の上までのぼって来た→普通の弓じゃ間に合わない→連弩でババババババ!
って用途で使ってたんじゃないかと妄想するがどう?
>>317 そういう(根拠のない)説もあるってだけでしょ?
熱気球
いくら何でもスレ違いなんで、「超古代文明を考える」にでもいって聞いてみては。
>>319 鎧を着た兵士には聞かない程度の威力じゃねー
>>322 まぁ、鉄の鎧来た兵士なんて古代にはそんなにいないし。
鉄の鎧はね。
>>321 最近じゃ結構有力な説らしいよ。
ところで、ナスカのどこが超古代なのかと小一時間……
物の例えに出した話のどこがスレ違いなのかと小一時間……
明代の連弩が35m。
火器のことを考えれば当然かな。
それ以前は大型連弩が主流じゃないかな。
>>319 まさに妄想。
改良前はかなり大型で、連射速度もたいしたものでは無かったようだが…。
>>320 ナスカンとインカ人の間に直接の文化交流の跡は見られない。
交渉があった証拠も無い。
よって、それらが発見されるまでは単なる妄想。
まあ、
>>321氏の言うとおりスレ違いなので熱気球ネタはここまで。
繰り返しになるけど、基本的に弦を引く力=矢の威力だから、
バババと簡単にレバーが引けるなら、矢の威力もその程度ってこと。
しかし仮に連弩が実用性皆無だとしたら、一体何故何世紀も使われ続けたのか不思議に思うのが普通じゃない?
野戦用連弩開発→コスト・信頼性で劣り、弓に負けた→速射性能のみ問われる用途(城壁や屋内など接近戦を強いられる環境での戦闘、あるいは不意打ちされた時の為の護身用)に特化→鎧には刃がたたず射程も短い者のみ残存→そういうののみ記録or発掘される
と考えた方が、一番スッキリすると思うが。「複雑な機械はそれだけで存在意義がある」なんて考えるよりずーっと。
>>326>>327 春秋戦国の楚の国から連弩の実物が発掘されとりまして、全長三十cm程の小型の代物ですが何か。
>>329 実用性が皆無と言う訳では勿論無い。
少なくとも装填の手間が省ける点は利点の一つだ。
だからこそ、諸葛亮が使ったように、騎兵に対する防御兵器として運用するのがベターだろう。
まあ、実用性皆無のものが長く作り続けられる例も無いではないのだが…。
どうも記録に残ってる連弩って、
全長数十cmでレバーを往復させるだけで連射可能な奴と、数十本の矢をまとめてぶちまける大形の弩の、全く別の二タイプがあって、
それが混乱を招いてるような気がするんだがどーかな。
因に孔明が使ったのは後者だと思うのだが。
>>325 そもそも、超古代文明の定義とは・・・・
という話しになってしまうので、スレ違い。
最近は有力ってのをホントに主張したいなら別スレ行くしかないでしょう。
>>332 そうですね、城壁に「設置」して使っていたとすると明らかに後者ですね。
>>334 城壁に立て掛けられてるだけでも「設置」というのかねー。微妙なとこだな。
336 :
世界@名無史さん:03/03/03 02:12
たまには正史の記述を引用してくれよ。
とりあえず最初の質問者への回答としては、
それほど有益なものではなかったから。
ということでよろしいでしょうか。
オレが見た連弩のイラストは本体の後部に差し引き型のレバーがあって、「カシャ、カシャ、カシャ、カシャ」位のリズム、一秒二発(銃口(?)が二つあった)位の速さで連射できそうな感じだったぞ。
長さ三〇センチ位なら取り回しも楽だろうし、射程20メートルって言っても屋内戦じゃそれで十分だろうし、接近戦用って考えれば弓なんぞよりよほど使えると思うが。
むしろ競争相手は弓よりも剣だったんじゃないかと感じたなぁ。
なんども言うけど、
「カシャ、カシャ、カシャ、」と簡単に撃てる程度では、
威力もホントに大したものにはならないのよ。
仮に一秒に二発も発射できるなら、鎧無しの人間にも効くかどうか疑問だ。
まあ、一秒に二発ってのは根拠のない推論なんでしょうが。
>>336 正史にろくな記述がない。少なくとも三国時代以前の物に関しては。
レバーの往復のみでで自動装弾、射撃が全て可能、弾倉に装填された数十発の矢を連続して発射できる物だった事が判ったのだって、実物が発掘されたからだぞ。
>>339 うん、根拠のない推論(w だからありゃ、鎧は仮想敵じゃないよ。矢尻に毒塗って始めて殺傷力が出る感じだった。
とにかくもうそれほど有効なものじゃなかった、ってことで
終了でいいじゃん。
343 :
世界@名無史さん:03/03/03 02:39
連弩ネタ以外希望。
いや〜、オレとしては連弩(連射型)の正体を明らかにしておきたいね〜。
でもま、三国志スレとはスレ違いになりそうだから終了しとくか。(どうでもいいが、なんで飛び道具スレとかないんだろ)
ところでオレ、蒼天航路読み過ぎでソウソウマンセー状態なんだが、ソウソウってどの程度のタマだったんだろうね。
孔明あたりより遥かに大物だった事は判るが。
それとカエサルなんかもそうだが、天才型指導者って文才ある奴が多いよね。ソウソウもその系統かな?
連弩,謂之元戎,以鐵為矢,矢長八寸,一弩十矢倶發.
これぐらいしかないし。
でも、弩の威力を考えれば、どうしてもこれを連発式にしたい、
今は使えなくても開発だけは続けようって思うかも。
347 :
世界@名無史さん:03/03/03 02:56
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康なんかはあまり文才無い感じだが。
光武帝もそんなに文才あったとは聞かないし。
文才があるヤツが天才型指導者でもないしな。
蒼天は曹操美化しすぎだから5割引でちょうどいい。
いや、そりゃ判るけどさ(w<ソウソウ美化
けど、蒼天航路の後書きに「劉備は儒教のプロパガンダで品行方正な優等生にされてるが可哀想だ。
奴は田舎豪族の不良息子で仲間を引き連れ夜な夜なバイク(馬)をかっ飛ばし〜」なんてあって、これは面白いと思ったよ。
天才型とは違うタイプの指導者っていうのはこういう血の気の多い奴が、ふとした切っ掛けでその有り余るエネルギーを理想なり野心なりに叩き付けるようになる奴。
しかも仲間を集めて遊び歩いてるうちに自然とそいつらの中心になってる奴。腕っぷしや頭が強くて仲間から頼りにされる奴。仲間内じゃ面倒見のいい人望の厚い奴。
そういうのが仲間と悪さして歩くうちに何時の間にか仲間をまとめる術を覚えて……ってなるんじゃないかと思った。
ガキ大将延長型というか、帝王学の一番の学び舎は不良グループのボスになることだ、というか(w
劉備はもちろんだけど、曹操もだよ。だからガキの時に「平和な時代なら大泥棒になる」なんて言われる。
多分信長もその口で、悪い仲間と遊び歩いてるのに困り果てた大人が「尾張のうつけ」とか言ってたんだと思う。秀吉なんかはその頃の信長の手下その1だと妄想するが(w
故に、曹操の優れた知性は権力者の絶対条件ではなく、まぁ、おまけみたいなもんだったんじゃないかなぁと思うのだが。
349 :
世界@名無史さん:03/03/03 03:31
劉備が無頼な人間という描き方も甚だ疑問。
劉備は口数少なく喜怒を表に現さない人間だよ。
だから、関羽や張飛に対する抑えも聞いたんじゃないかな。
劉備は曹操みたいに道徳を無視した行動をしたという事も
聞かないし。
光武帝の人柄を慕っていたように思うが・・・
実際、官吏としてはよく民政に努めて領民に慕われるタイプだったはず。
350 :
世界@名無史さん:03/03/03 03:35
劉備が督郵を打ち据えた話は乱暴きわまりないエピソードだったね。
まあ、よほど腹に据えかねた事があったんだろう。
漢晋春秋のみの記述だとしたら、信用度も下がるだろうしね。
いずれにせよ、あの記述だけで無頼とするのは賛成できない。
351 :
世界@名無史さん:03/03/03 04:19
勉強よりも賭事や歓楽を好み、
着飾った服装でスカした感じのヤシだったろリュービは。
劉備のもれのイメージは、「面倒見のいい賊のアタマ」なのだが。
これは祖先(?)の高祖にも共通するイメージだな。
チャラチャラしてるように見えて、なにげに真面目でいい奴っているじゃん。そういうタイプだよ。
民政に勤めて領民に慕われたのも、その延長線上にあったんじゃないかね?
353 :
世界@名無史さん:03/03/03 04:30
勉強はそれほどのめり込まなかったってだけでしょ。
一応の教養さえ身に着ければいいっていう感じで。
美服を好むのは単にファッションセンスの問題。
学問的に言えば、曹操・孫権・劉備の中では、盧植に師事
している劉備が一番学はありそうなんだがな。
孫権は張昭辺りに学問を教えられていたなんて事は・・・
無さそうだな。
一応の学歴では劉備が一番いい教育環境にあったかもしれないが、
実質的な学に関してはやっぱり曹操が一番でしょ。
戦時中でも書に関する事務を怠らなかったっていうし。
ただ、劉備の処世術の嗅覚は突出したモノがあったでしょうね。
355 :
世界@名無史さん:03/03/03 05:45
>>353 勉強にのめりこまずに
犬やら馬やらにのめりこんでたんだがな。
驢馬も
掘り返すようで、悪いんだけど…
>>336 『正史』の「方技伝」にある、「杜夔伝」のなかで馬鈞の事があるけど、なんでも
彼は諸葛亮の造った元戎をみて、性能を五倍にはできる、とか述べたとある。
有名な戦国・楚の時代といわれる代物をみても、明らかに擘張(手で弦をひく)だろうし、
散々の既出だろうけど、やはり防衛戦での使用を目的としたのも道理。
北伐で張郃を射殺したのがこの元戎だったら、納得できなくもない。
張角は超能力で人の病気治せたのに、どうして自分は死んだの?
359 :
世界@名無史さん:03/03/03 12:02
劉備が楽しんだ犬って何のこと?
ドッグレース?
>>358 そういうくだらない釣りは三戦板でやってください
361 :
世界@名無史さん:03/03/03 13:26
犬や馬にのめり込んだって、孫権が虎狩りを好んだのと同レベルでしょ。
庶民の娯楽だね。
確かに儒教の立場から言えば軽視される行為かもしれんが。
>>360 一応、病人は頗る癒されたとかいう記述無かったっけ?
信長は相撲が好きだったんだっけ。曹操は詩と少し高尚だが(w。
なにやら天下人は、趣味人が多いのう。仕事人間は大した事はできん査証か。
363 :
世界@名無史さん:03/03/03 20:03
狩と博打が同レベルだってさ。
364 :
世界@名無史さん:03/03/03 20:46
別に博打とは書いてないだろ。
365 :
世界@名無史さん:03/03/03 20:53
じゃナニ?トリマー??
366 :
世界@名無史さん:03/03/03 20:57
367 :
世界@名無史さん:03/03/03 20:59
トップブリーダー劉備
やっぱりドッグレースじゃないの?
俺の本では闘犬と競馬という解釈をしている。
物静かな893というものも世の中にはいるので、
劉備の性格から、彼が品行方正と決め付けるのは危険かも。
370 :
世界@名無史さん:03/03/03 21:40
ヤクザは民の事を思わないだろう。
まあ侠の心は共通するモンがあるかも知れないが。
当時は犬は喰ったんだろうか?
>ヤクザは民の事を思わないだろう。
偏見だ
373 :
世界@名無史さん:03/03/03 22:30
>>371 余裕で人間同士が食い合ってた時代だからね・・
今でも犬を食う民族は要るけどな・・
>>369 別に因縁つけるワケじゃないけど、
「俺の本」ってのが凄い気になるな。
なんていう本なの?誰が書いた本?
>374
三国志
376 :
世界@名無史さん:03/03/03 23:10
ただし書いたのは裸貫中
ちなみに連弩がよろいを貫けないことが上で問題になってたけど
三国時代だと士官クラスにならないと,甲冑なんて付けてなかったんじゃなかったっけ?
だから俺は威力的には大丈夫かなって少し思ったんだけど.
>>377 その手の話なら弓スレたってるからそこでやれ。
>376
プ
380 :
世界@名無史さん:03/03/03 23:37
どうした陣壽
イマイチ
>「劉備は儒教のプロパガンダで品行方正な優等生にされてるが可哀想だ。
奴は田舎豪族の不良息子で仲間を引き連れ夜な夜なバイク(馬)をかっ飛ばし〜」
流石蒼天航路だ、全く『蜀志』先主伝と違っているので笑える。
作者のおつむの程度が知れる記述だ。
>田舎豪族の不良息子
豪族どころか、劉備は「少なくして孤、母と履を販し席(むしろ)を織りて業と為す」
という貧民出身だ。荘園経営で自給自足をしていた後漢末の豪族とは
くらべモノにならない。
>仲間を引き連れ夜な夜なバイク(馬)をかっ飛ばし〜
これを書いたヤシは少なくとも正史は知らないんだな。
劉備は「狗馬・音楽・衣服の美なるを喜ぶ」ことはあったが、
夜仲間と馬を奔らせたなんて描写は何処にもない。
全体として蒼天航路は凄く痛い厨房臭さが鼻につくが、
史実お構いなしで作者の脳内妄想だけででっち上げた低次の創作であることは、
この記述を見ただけでも明らか。世界史板としては話にならないので、
蒼天航路を史実だと思っているヤシは三戦板で遊んでいるように。
383 :
世界@名無史さん:03/03/04 01:03
高島俊男の本に諸葛亮と諸葛瑾はホントは兄弟じゃない。
みたいなことが書いてあったんだけどマジですか?
>劉備が督郵を打ち据えた話は乱暴きわまりないエピソードだったね。
まあ、よほど腹に据えかねた事があったんだろう。
裴注に引く魏の史書『典略』にある話だね。魏のプロバガンダと違うか?
>学問的に言えば、曹操・孫権・劉備の中では、盧植に師事
している劉備が一番学はありそうなんだがな。
孫権は張昭辺りに学問を教えられていたなんて事は・・・
その認識は少しおかしくないだろうか?
曹操は儒教経典の研究家として後漢朝廷に迎えられた人物(堀敏一説)。
『孫子』の曹操の注釈は短いながらも優れたものとして知られる。
>>382 蒼天を史実だと思うバカはさすがにいないだろ。しかし蒼天の作者はアレを書くにあたって結構正史にあたってる風に感じたんだがな〜
386 :
世界@名無史さん:03/03/04 01:07
>>383 『三国志きらめく群像』だな
たしか。。。
>高島俊男の本に諸葛亮と諸葛瑾はホントは兄弟じゃない。
ちくま文庫の『三国志きらめく群像』の話?
この説は根拠が意味不明なので話にならない。
諸葛亮と諸葛瑾の字輩(字の通字)が違うから兄弟ではないと主張している
わけだが、三国時代の兄弟で字輩が異なる人物はたくさんいる。
この本は独自の見解があり面白いのですが、
厨房向け(横山光輝オタク向けに書いたと著者がいっている)
なので勇み足が多いです。
>しかし蒼天の作者はアレを書くにあたって結構正史にあたってる風に感じたんだがな〜
ちくまの誤訳が多い正史にはあたったんじゃないですかね。
あんなもん本当の訳者が仕事しないで死んじゃったから
学生に間に合わせでやらせたやつ。日本語もおかしいしあてになりまへんで。
小説や漫画を読んで「『正史』と違う。作者は馬鹿」
って言ってるヤツのオツムの程度はどれくらいなんでしょうな?
ちなみに究極の正史準拠小説は伴野朗の楊阜が主人公のヤツ(タイトル忘れた)だ。
なにしろ正史(含む裴注)の楊阜に関する記述を順番に並べただけなんだから
所々にこの「とき楊阜はこう思いました」ってのが追加されてるくらいで…
歴史的には正しくても小説としては最悪だろ。つまらんかった。。。
>小説や漫画を読んで「『正史』と違う。作者は馬鹿」
って言ってるヤツのオツムの程度はどれくらいなんでしょうな?
俺のことか。俺なら馬鹿だ。酒飲んで書いているし。
気に障ったら謝るよ。最近の三国志関係に鬱屈が溜まっていたので
言い過ぎたかも知れない。
>究極の正史準拠小説は伴野朗の楊阜が主人公のヤツ
伴野さんのはみんなそうだよ。でもそこが良いんだよなぁ。
時々挟まる描写が激しくて良いと思うが・・
>なにしろ正史(含む裴注)の楊阜に関する記述を順番に並べただけなんだから
所々にこの「とき楊阜はこう思いました」ってのが追加されてるくらいで…
まぁ史伝ものの小説は、森鴎外も井上靖もそんな風な感じだよ。
それが嫌いならしょうがないけど、嘗ては歴史小説にフィクションを
持ち込むことの是非が問われたりしていたので、伴野風のものが
多かった。
俺はアレ読んで楊阜に敵意を抱いたよ。
嫁に自殺してもらわないと馬超のもとから逃げられない主人公なんてイヤすぎる。
↑は数少ない創作部分だけど
392 :
世界@名無史さん:03/03/04 01:35
>曹操は儒教経典の研究家として後漢朝廷に迎えられた人物
これは一体どこのどういう記述を本にそう言ってるのか?
ふと思ったが、昔の中国人は賢いよな。 史実の羅列じゃつまらない。面白くするには……という事で『演技』と理を入れる事を思い付いたわけだから。
これで巷に溢れる『ここ、史実と違う! おかしいぞ!』的な事をいうやからの何割かを黙らせる事ができたわけだから。それでもやはり、そういう事いう奴が少なくなくて困るが(w
酒は飲んでも飲まれるな!
>これは一体どこのどういう記述を本にそう言ってるのか?
堀敏一の『曹操』(汲古書院)が、曹操が議郎に任じられた
という話と、『後漢書』に載る議郎募集時の布告を分析して
そう結論づけている。
>>395 そこまで引っぱりださんでもちくまでも『魏書』に
「古学に明るいという理由でふたたび召し出されて議郎に任命された」
とある。ここは誤訳じゃないわけだな。
儒教経典=古学か、なるほど。一つ賢くなった
そういや「蒼天航路」ってどこも解説本だしてなかったっけ?
ぜったい「蒼天航路・誰某注」って感じで本をだすとこがあると思ったんだがな。
人気が下火になった(?)今ではもう無理か?
>これで巷に溢れる『ここ、史実と違う! おかしいぞ!』的な事をいうやからの何割かを黙らせる事ができたわけだから。
黙ってない黙ってない、章学誠だの梁章キョなんかぼろぼろに
いうとりますわ。チョウセンの元ネタが李賀の漢詩だなんていう、
覚えても覚えなくても良いようなネタまで挙げていますでな・・
まあ演義だの蒼天だの無双だのの創作を事実と思いこんでるヤシもウザイが
それ以上に正史を一・二回読んだだけで「考察」とか言い出して突飛な自説
を展開しだすヤシはもっとウザク感じる昨今。まあ個人差だろうがな。
402 :
世界@名無史さん:03/03/04 02:20
>>399 まぁ、アレだよ。あくまでも黙るのは何割か。厨房はどこまでいっても厨房ってことさ(w
>厨房はどこまでいっても厨房ってことさ(w
ま、そんなもんでしょうな。章学誠なんか放浪してたみたいだしね。
ただ、伝統中国では小説を文学として認めず、『四庫全書』も黙殺している
ので、厨房の放浪学者・章学誠の方がまともなのかも知れませんな。
章学誠[しょうがくせい]という響きに何とも言えない趣が・・・
>ただのアンチ蒼天厨
ああ、そうだよ。でも悪いことを悪いと入って何が悪いのかね。
史実に基づいたといっている創作物の漫画が、
史実でも何でもない不当表示をしているから叩いたんだ。
嘘は嘘だという方がましだと思うがね。
しかし元気な酔っぱらいだな。いや、酔っぱらってるから元気なのか?
そろそろ寝ないと明日きついぞ。
>そろそろ寝ないと明日きついぞ。
ご忠告ありがとうございます。泥酔状態なのでもう寝ます。
熊本のいい焼酎が手に入ったのでがぶがぶ呑んでいました・・
泥酔状態でよく、昔読んだ堀敏一なんか出てきたと思うよ。
>>406 この調子で「天地を喰らう」や「青春の尻尾」もよろしくおながいします
>>409 それらは最初から虚構を元に創作された三国志漫画なので
ツッコミを入れるのは野暮という事になります。
411 :
世界@名無史さん:03/03/04 04:20
いろいろと批判の多くなってきた蒼天航路だけど(w、
少なくとも、在日の原作者(名前忘れた)が存命していた
5巻までは史実に近いストーリーになっていたと思う。
ゴンタ一人で描き始めてからは、もう無茶苦茶だけど。
ただ、曹&夏候兄弟の中で一番若い曹操(本当は最年長)や
青年期からすでに許[ネ’者]と知り合いになってる点などは
ハァ?って感じだったけど。
漫画として重要なのは「読んで面白いかどうか」だからどうでもいいけどな。
史実に基づいたというウソがあるならそこだけ叩けばいいのに、
作品全部を否定しようとするから荒れるんだろ。
つーかここは正史スレなわけで。
阪神大震災で、政府よりもはやく活動に動いたのはヤクザだって聞いた
414 :
世界@名無史さん:03/03/04 12:22
アンチ蒼天が劉備を品行方正と決め付けようとして
「ハァ?劉備は品行方正か」という点で反対意見がでたのに、
それにたいして蒼天の批判しかしなかったから荒れたんだろ。
415 :
世界@名無史さん:03/03/04 13:21
>>414 まあまあ、煽りなさんな。
でもまあ、蒼天の劉備像の方が、三国志業界最大手である
吉川三国志ひいては横山三国志の劉備像よりも近いだろうと、個人的には思うがな。
正史にも遊学先で「侠」の交わりをもって慕われたというわけで、
それを吉川・横山が全く捨象してしまったのはどうかとも思うからな。
これぐらいでは「荒れた」などとはいえません
「活気付いてきた」が正解です
418 :
世界@名無史さん:03/03/04 15:51
蒼天の劉備は喜怒を表し過ぎだろう。
大げさに喜んで踊ったり涙を流したり・・・
あれは萎える。
実際の劉備はもっと渋いはずだ。
蒼天の劉備は劉備より劉邦に近い。
>>418 渋いかなあ?
劉邦に近くていいんじゃないか?
順番が逆になるが、
ほら、演義や吉川三国志であったじゃないか。
黄巾の乱後、県令に任ぜられ、中央から役人が査察にやって来る。
役人は賄賂を要求し、怒った張飛は、役人を木に縛りつけて懲らしめる。
まあ、こいつは、正史では、劉備自身が、怒りに任せてやってるわけだよな。
張飛に相応しい行動をやってるのが、劉備であり、渋いなんてもんじゃない(笑)
蒼天のは確かに崩れすぎてるといえば崩れ過ぎだがな。
それは蒼天の作品世界全体の雰囲気がそんな調子だからなぁ。
最近でも韓遂なんかエラいことになってる
だからさぁ、蒼天の話は三戦板でやればいいんじゃないの?
板違いだよ。
422 :
世界@名無史さん:03/03/04 18:33
劉備の督郵鞭打ちの話は漢晋春秋と典略の二つに出てるね。
一応実際にあった事だとして良いだろう。
劉備と督郵は前から面識があったとされているし、
それ以前にかなり嫌がらせされていた可能性が高いな。
その後の劉備は特に乱暴な行動はしてないし、残忍な
エピソードも無い。
劉備をそこまでキレさせた督郵が相当の悪人だったって事では?
>>422 一応、殺さずに逃がしてやったって事だし、特に悪い話じゃない思う。
曹操の場合は、若い頃やってた門番警備でどんなお偉方でも
禁をやぶれば棒で殴り殺したそうじゃん。
424 :
世界@名無史さん:03/03/04 20:04
425 :
世界@名無史さん:03/03/04 20:25
しかし小説やマンガを読んで史実と違う、低俗というのは、
サッカーを見て、野球とルールが違う、サッカー低俗
と言ってるようなもんだよなぁ
>>425 さすがにそこまで極端じゃないと思うが、
「ビューティフルマインド」って映画を見て「あんなガタイのいい数学教授がいるか」
と突っ込む精神に似ている気がする。
あるいは怪獣映画を見て「あんな巨大な生き物は科学的に有り得ない」
とか言い出すヤツ。。。
正史原理主義者とでも言うべきだな。
早春の候、
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>>426 漫画を読んで「史実に近い」とのたまう阿呆を揶揄してるだけ。
正史(もしくは裴註)原理主義が嫌いなら三戦板あるだろ?場違いを弁えたまえ。
>漫画を読んで「史実に近い」とのたまう阿呆
を揶揄したいなら三戦板あるだろ?場違いを弁えたまえ。
>>429 わかった。じゃ、俺も逝くから、漫画の話するゴミ共も一緒に逝こう。
>>406 蒼天って史実に基づいているなんて言ってないのでは?
ちょっと思いこみが入っているように思うが。
>>374 亀レスだが、谷崎旭寿という人の書いた『三国志』(新人物往来社)
一応、本人は正史を元にして書いたと言ってる。
まあ、信用するなり、馬鹿にするなり、ご自由に。
>>383 前述の通り、字の整合性を取ろうとすると、
諸葛瑾と合うのは亮ではなく、諸葛玄になってしまう、というお話。
それはそれで納得できる説なんだけど、
同じ子の字を用いた曹丕兄弟と曹仁兄弟らは同世代か?というと、そんな筈はないんですよね。
"子"は別とも言えるけど…
434 :
世界@名無史さん:03/03/05 00:10
そういや劉備が貧民出身云々は多くの人が言っているが、どうだろ?
祖父は孝廉で推挙され、県令まで(東郡范県は比較的大きなとこだろ、確か?)
父も出仕してる。つまり吏じゃなくて官。
しかも叔父の出資で洛陽に遊学。盧植のようなそこそこ高名な人間の門下に
入るには、やはりしかるべき筋の推薦なり必要と思うしな。
そもそも叔父、金持ちじゃん。字あるしな。平民じゃないよな。
「やくざのような」というのだが、曹操、袁紹など、
みんな若い頃は悪童と連んでるしな。そうやって士を養うわけだし。
義兵というのも、いかにも「民間人が」的だが、よく考えりゃ
軍権のない人間が率いる軍勢は皆、義兵だろ。
大豪族でも高級官僚でも、軍権ない人の軍は全部、義兵。
中世頃までは「少くして孤」となって「家産なし」とか「産業を治めず」とかよくあって、
結局、「士大夫たるもの商工業なんぞに手を出すのは…」という
まぁ、建前の場合が多いだろうけど、一種のモラルみたいなもんでさ、
士大夫は国に仕えての俸禄以外での生活はしないっていう。
だから官僚や将軍やってる親父とか兄貴とか死んじゃって、
跡継ぎが幼かったり、いなかったりすると、収入なくなっちゃうの。
そんで劉備の筵織りなんてのも、そうやって商売してたことを揶揄してるだけで、
極貧生活の末、なんてのには思えないんだよね。上の経緯からも。
母子二人の生活じゃなくて、一族郎党を養うレベルでの話でさ。
親父が長生きしてたら、きちんと官僚になれた身分の人だろ、と思うのですが
士大夫階級の人ということで。
三国時代に詳しい人としてはいかがなもので?
>>434 たまたま親戚に豪族がいたってだけの事じゃない?しかも、
どっかの酒飲みが書いてる通り、自給自足で軍勢持てるほどの豪族じゃなかった。
劉備になんらかの才能がなきゃ貧民同然の暮らしは変わってなかったハズ。
それに彼の旗上げ時にはどっかの商人から金もらって軍勢を整えた。
豪族並の経済力があった農民の末っ子に生まれついた劉邦に比べりゃ、
かなり恵まれていなかったと推測するが。
定説では「豪族の下の下」だったと思うけど。
父や祖父に留まらず、叔父まで相応の資産と家業を持っていた訳だから、
「親父が長生きしてたら」と言って良いと思われ。
ところで、劉邦って経済力あったの? 呂后の経済力ではなくて?
>>434−436
この話、去年も三戦板で見たが少なくとも2chでしか見た事ない説だ。
歴史学者でこの説を取り扱ってる人がいれば出版物など教えて欲しい。
お願いします。
三戦板に帰れよ
高島氏は文学者かな?
>>437 歴史学者って劉備の出自に関してはどんな説を唱えてんの?
>>435 >どっかの商人
中山の張世平、蘇双という馬商人。
彼らが幽州付近を通る時に、劉備が用心棒になっていた。
そのうち馬商人達は劉備に注目し、
黄巾乱時に金を与えて、劉備の募兵を助けた。
442 :
世界@名無史さん:03/03/05 20:42
>>440 知らないから聞いてんじゃないの?
俺も知らんけど
既出だったら御容赦を願いたいんですが、孫権が帝位についた際、孫堅を武烈皇帝、
孫策を長沙桓王と諡(?)してますよね?
孫策の諡号(と呼んでいいのだろうか?)が王であるのは、孫堅に阿ったというか遠慮か
何かですか?
無知なもんで、なにとぞ…。
444 :
世界@名無史さん:03/03/06 16:03
帝とすべきだと言いたいの?
まあ、父にだけ帝と追尊すればいいと思ったんじゃないの?
孫策の代は短いし。
>>443 孫権の孫策に対する尊敬が十分じゃないから。
って裴註に同意。
兄に対するコンプレックスっていうか、含むところがあったんじゃないのかな?
>>443 孫策には息子がいる。
もし孫策に帝号を贈ると、その息子(またはその子孫)が
「次の皇帝は俺だ」と言い出してお家騒動に発展する可能性がある。
ま、結局お家騒動は起こったわけだが。
447 :
世界@名無史さん:03/03/07 08:00
>>399 チョウセンの元ネタって李賀の詩だったん?
漏れはてっきり世説新語の注釈だとおもうてたわw
今度調べてみよ
449 :
世界@名無史さん:03/03/07 22:22
>>446 孫奉が帝位につくという噂が流れ孫皓に殺されているやつのこと?
450 :
世界@名無史さん:03/03/08 00:26
家督、という問題が絡んでくるのかな。
孫堅→孫策は普通の流れで、家督を継いだ形になるけど、
孫策→孫権は、別に珍しくはないが、父→子じゃなくて
孫策家→孫権家に家督が譲られた形になるわけで。
だから孫権が皇帝になった時、孫策家は分家筋になってるわけだから、
理念的には(例外は山ほどあるけど)父→子に譲られる皇帝位、王位、爵位を
分家筋の者に追尊までする必要はないわけで。
後、445氏が言ってるところは「尊崇未至」(?)の部分のこと?
あれは孫策の息子たちを侯爵止まりにしたことを指してると読んでたが…
違うのかな…
451 :
世界@名無史さん:03/03/08 00:40
孫策は帝というより王がお似合いだ。
項羽の生まれ変わりみたいだし。
事実上、呉王朝作ったのは孫策だからなぁ。
どうした?
しかし、刺客に狙われて死ぬってのが何とも・・。
一応は生き残ったけど、その傷が元で死ぬ。
もっと警備体制ちゃんと敷いとけよ。
まぁ、太史慈とタイマンはるぐらいの豪傑だから仕方ないのか。
>>454 孫策の場合、正史にきちんと一騎打ちやらかした事が残されている稀有な人なんだよな・・・
456 :
世界@名無史さん:03/03/08 22:11
孫策が生きていたら、曹操とどう対決していただろうね。
結構、曹操を追い詰めた気がするが。
>>456 ああ、彼ならやるね。
官渡のときを狙ってたんだよな。
周喩も当然健在だし、曹操も危なかったんじゃないか?
それしても郭嘉、予知能力でもあったんじゃないだろな(w
458 :
世界@名無史さん:03/03/08 23:52
郭嘉は自ら許貢らと計って孫策暗殺の機会を窺ってたんだよ。
そうじゃなきゃ横死なんて予想できないって。
>458
安国寺叡恵みたいな例もあるし、絶対無理ではないだろう。
予言なんてみんな当たったヤツしか憶えてないもんだ
>>455 「一騎打ち」というよりは「タイマン」って言葉の方があってると思う(w
お互い偵察中に鉢合わせになって取っ組み合いの状態になったから
462 :
世界@名無史さん:03/03/09 02:14
郭嘉の予言は捏造みたいなもの
なんで陳寿はこんな怪しいものを採用したんだ?
単に陳登と許貢の食客と謀り暗殺しただけだろうに
しかし孫策、曹操は倒せてもエンショウは倒せたのかね?
中国のジンクスと言うか南から天下を捕るのは相当難しいしねぇ……。
曹操を倒せば、中原の一部を領有してるし問題無いんじゃないか?
ただ、後方で叛乱が頻発しそうな気がするがな。なにせ孫策だから。
>>462 当時の史家としては珍しいことじゃなく、どちらかと言えば普通にしていたこと。
漏れの無い知識の限りでは、司馬遷が最も酷い。「あれは小説みたいなモン」と言われる所以だな。
班固や范曄、裴松之なども多く行っていたよ。
466 :
世界@名無史さん:03/03/09 03:48
献帝も孫策に補佐された方が幸せだったろうな。
そう言えば今蒼天航路でやってるので、カンスイが言う「長安を押さえて篭城すれば、そのうち劉備が蜀をとる。これと連係して〜」って戦略。これってどの程度やれそう?
北伐の手間省けるし、西方の精強な騎兵を使えるしで、結構面白いと思うんだが。
まぁ、ネタ元が蒼天なのであんまり間に受けないでね(w
>>464 もし本当にそういう事があっていたら、華麗なる美貌の天才軍師シュウユを主人公にした小説でも書かれそうだね(w
>>467 周瑜の構想とほぼ同じだな。
西涼勢力に長安を攻撃させて、その間に荊州と巴蜀の地を確保、後に北上して雌雄を決すると言うものだったようだ。
>>466 そこまではしないよ(w
ただ、躊躇無く禅譲させるとは思うけど。
針のむしろにはならなかったと思うけどな。
ごめん、誤爆。
470へのレス
473 :
世界@名無史さん:03/03/09 09:25
孫策は袁術が皇帝名乗ろうとした時に、
皇帝になるなら縁切るよって通告してるくらいだから
大それた野心は無かったかもね。
つーか、家柄低すぎだし・・・
丞相にもなれないだろうな。
関羽が荊州を保ててなおかつそのまま許昌まで突っ走る事が出来たら蜀は天下を取れたのかなぁ
極めて困難と思われ。
それが可能なら、南朝の最盛期には余裕で北朝を併呑できたはずだし。
そういや長江流域〜蜀の勢力で中国統一を果たしたのって、
明の朱元璋ぐらいだね。
(劉邦も一度漢中に押し込められているから入れていいのかもしれないが)
>>276 南の人間程温厚で戦いが苦手。故郷が豊かだから他人から奪ってまで豊かになりたいとは思わないし、馬も乗りこなせない……。
中原と江南の経済格差もさる事ながら、そのへんにも原因がありそうだね。優秀な戦士は北で育つってジンクス。
明の頃になると揚子江流域が経済力で中原を圧倒し始めてたし、あまり参考にはならんかもね。
そういえば楚の項羽はどう? あいつも南の勢力の出身じゃないっけ?
479 :
世界@名無史さん:03/03/09 14:27
人口比の問題もあるし、
中国社会の中心は北にあるって認識ができてたことにもよるんだろうね。
野心家や有力者は、どうしても北に居がちになるので。人材もモノも。
また、南から出た人間は一時的に勝利しても、
それから北で地盤を築く努力を要求されるからね。
項羽の失敗はそこだと思う。
孫策の場合はどうなんだろう。
彼の在世時、勢いこそあれ、呉はまだ小勢力だしなぁ。
曹操が倒れても、結局、袁紹に屈服するか…いずれにしても袁紹がいるしね。
何とも言えない。曹操亡き後の河南を掌握しつつ、戦争までできるのかなぁ?
朱元璋の場合は、華北を元がどうにかこうにか押さえてたからねぇ。
逆に北から統一する新勢力が生まれなかったというのもあるね。
南の経済力の強大さが背景なのは無視できないけど。
袁紹って書いて思ったけど、袁氏は汝南が基盤だから、
袁紹が一族とべったりだったら、南(ていうか微妙な)からの統一があったかも
しれないね。
何か、袁紹と袁一族の関係って、凄く希薄に感じるんだよなぁ。
総帥、総帥言う割には。仲悪かったのかね。
物理的な援助って言うか、そういう影がほとんど見られない。
まぁ、袁紹を一族と引き離したのは董卓だけどさ。
>>479 じゃあ、孫堅に生きててもらうのはどう?(w
彼に頑張ってもらって早い段階で江南を押さえさせ、その上で袁紹と曹操の対立の間隙をついて北上するっての。
なんなら孫堅が江南で留守番して、孫策がシュウユらと北上し、曹操を挟撃した上で袁紹を倒すの。
何だかんだ言って、袁紹は曹操に比べれば楽な相手だしね(w
孫堅が生きてたら・・・・・・、ずっと袁術の臣で終わるんじゃ。
483 :
世界@名無史さん:03/03/09 18:45
孫堅は漢の忠臣
袁術が皇帝を名乗る時点で完全に見限る
484 :
世界@名無史さん:03/03/09 18:49
>>483 曹操だって漢の忠臣だ。
少なくとも孫堅と同じ時期に身罷っていたら、史書にはそう記録されたはず。
485 :
世界@名無史さん:03/03/09 18:51
>>479 敗れた曹操勢を相当数吸収するだろうから、
互角以上に戦えたでしょう。
486 :
世界@名無史さん:03/03/09 18:54
ふぅむ、こうやって後世から見直すと、やりようによっては蜀なり呉なりも天下をとる手段は幾つかありえたんだ。
面白いね。コーエーのゲームが売れるわけだ(w
曹操、劉備には、危機一髪ともいえる場面がその生涯に何回かあった。
それで最後まで生き残った彼らと、流れ矢に当たった孫堅と
刺客に射殺された孫策。
運の差といえばそれまでなのかな?
春だな。
春厨だな。
>>474 不可能。
関羽が荊州を保てたら、という前提が現実味無さすぎ。
孫権は劉備軍に荊州くれてやる気はさらさら無いからね。
491 :
世界@名無史さん:03/03/09 21:59
逆転の発想(w
ところでさ、何もあのだだっ広い中国大陸を統一する必然なんてどこにもないわけだし、
三カ国で分割統治したまま百年二百年小競り合いはあるが平和な時代って作れんかったの?
どのみち司馬氏の統一だって長続きしないんだし、統一を諦めて平和で経済的にも豊かな時代を作る事ってできなかったんかね。
492 :
世界@名無史さん:03/03/09 22:02
張牛角
>>491 無理じゃないか? だって中国人なんだよ。
>>491 『老子』の「小国寡民」の話ですか?
文字を使わず、縄の結び目で意思疎通をするとか。
(インカ帝国かいw)
この間「これで三国志が解る100(?)」だったか立ち読みしたんだが
司馬懿の奥さんって確か4人だよな。
なんか1人って書いてあったよ、それは息子の司馬昭じゃなかったけ?
的確なところとかあったんだがな〜、正史と演義が混じってた。
題名からして怪スイのは明白だね。\500以上だったら詐欺と思う宣。
497 :
世界@名無史さん:03/03/11 14:24
あ〜。俺もリア厨の頃は「三国志」って字が入ってる本は
すぐに買って読んでたなぁ。光栄の本とかもね。
SF三国志でも読め
500get!!
501 :
世界@名無史さん:03/03/11 22:03
関羽=ロプロス
張飛=ポセイドン
趙雲=ロデム
孔明=コンピュータ
503 :
世界@名無史さん:03/03/11 23:32
よく考えると、羽・飛・雲っていかにも天に上りそうな
名前ばっかりだな・・・
益徳は鷁徳と書くって聞いたんだけど
これなら、飛の名前にあった字だよね
雲長というのもまた気象系の名前だね
あと子龍、玄徳、孔明となにやら創作っぽいなあ(w
創作っぽいね。
でも創作されただけいいかも。
性は劉、名はあんちゃん、字は末っ子。
などと後世に残された日には(W
おお!性は劉ですか・・・ていうのは、おいといて、
父親の名はおじいさん、母親の名前はばあさん・・・・と続く
(^^)
509 :
世界@名無史さん:03/03/13 16:14
関羽はの名は創作っぽいかも。
昔、三国志の民間伝承を集めた本を読んだんだが、
その中に若い頃の関羽のエピソードがあった。
塩の密売人として追われる身となった関羽。
山の中に逃げ込んで一月が流れた・・。
その間に関羽の髯はみるみる伸びて、まるで別人の顔に。
生まれ故郷を去ろうとしたが関所で足止めを食らう。
「貴様の性と名と字を名乗れ!」と官兵に聞かれる。
空を見上げた関羽の目に映ったのは流れる長い雲と
不意に舞い降りてきた鳥の羽だった(フォレストガンプかよ)。
関所で見た羽と長い雲。関羽が口についた言葉は、
「性は関、名は羽、字は雲長」だった。
とりあえず、正史には「元の字を長生という」と記述がある。
>>509 その話は知ってるけど、関羽はもとは、姓を馮、名を賢で、字を寿長と
いったらしいけど。
>>510 それ、演義の話じゃないの?
少なくとも、正史や裴註には無いね。
馮賢で検索してみたらいくつかヒットしたけど
『三国志の謎徹底検証―諸葛孔明の真実』加来耕三(著)
が出所か?誰か読んだヤシいる?
513 :
世界@名無史さん:03/03/13 21:47
>>512 諸葛亮と劉備は筆談で天下三分の計を語り合ったと力説してる人ですからね。
加来って人はちょっと電波入ってる気がします。
何だよ、加来かよ。信頼性無しじゃん。
ところで、元の字は長生じゃないの?
そういや甘寧も後で着けた字っぽいね。威勢がよすぎる。
なんで威勢がよいってだけで後で着けたことになるんだ?
「関羽字雲長、本字長生、河東解人也。亡命奔【タク】群。」
と陳寿の伝にありますので、信用していいかと
518 :
世界@名無史さん:03/03/14 16:11
age
甘寧の名前は実はカルタゴのハンニバルがローマ軍を
撃破した古戦場、カンネーから来ているのです。
ハンニバルの勇名はシルクロードを通じて中国にまで広がっていました。
甘寧はもともと盗賊でした。その剽悍な働き振りを見て、盗賊仲間たち
がそのようなあだ名をつけたという事です。
>>519 沙摩柯の名前はアフリカに上陸したローマのスキピオが
ハンニバル軍を撃破した古戦場、ザマから来ているというのも聞きました。
スキピオの有名のみならず、その度量の広さはシルクロードを通じて
中国にまで広がっていました。
沙摩柯はもともと少数民族の部族長でした。その指導者としての力量を見て、
部衆がそのようなあだ名をつけたという事です。
劉備の東征で両者が戦ったのには、運命的なものを感じますね。
521 :
世界@名無史さん:03/03/15 01:03
民明書房の人ですか?
522 :
世界@名無史さん:03/03/15 02:04
甘寧の字の興覇は孫権が名づけたって話聞いたけど?
523 :
世界@名無史さん:03/03/15 02:07
そういう話にはソースをつけるものだ。
524 :
世界@名無史さん:03/03/15 07:42
誰から聞いたんだよ?
525 :
世界@名無史さん:03/03/15 08:56
確か光栄の本、大量に本棚につまってるから、どれかわからんが探してみる
光栄の本って・・・・(w
本当に春なんだねぇ。
527 :
世界@名無史さん:03/03/15 16:43
武将ファイルや光栄本しか読まないのがダメなわけで
別に光栄の本が悪いわけではない
光栄本の知識のみで正史スレで語るのがダメなわけで
別に光栄本しか読まないのが悪いわけではない
正史>>>>>>越えられない壁>>>>>>>光栄本
光栄の本と一口にいっても『三国志平話』の和訳もだしてたりする
531 :
世界@名無史さん:03/03/15 20:33
rログインの別冊で出してた「三国時代スペシャル」って本も
なかなか斬新な考証などあって面白かった。
わかーんなーい
きゃははははははははははははははははははははは
そういや
>「三国時代スペシャル」
書いた大澤良貴が出した別の本「真実の『三国志』」
だと袁術の国号が「陳」になってたんだがアレの出典はなんなんだ?
534 :
世界@名無史さん:03/03/15 22:07
>>533 >典略曰:術以袁姓出陳,陳,舜之後,以土承火,得應運之次.
>又見讖文云:「代漢者,當塗高也.」自以名字當之,乃建號稱仲氏.
魏志袁術伝の注釈
冒頭の部分を勘違いしてるのか、他に出典があるのか?
後漢書の方にはなかった。
535 :
世界@名無史さん:03/03/16 00:24
国号は成じゃなかったっけ?
536 :
世界@名無史さん:03/03/16 00:34
>534は「袁氏は(春秋時代の)陳から出ている。陳は舜の子孫である。
陰陽五行説でいうと漢の火徳を継ぐのは土徳(舜は土徳らしい)の袁氏である」
つーことがかいてあるだけで、国号を「陳」にしたとは書いてないな。
基本的に国号は諸侯に封じられた地名からつけるのが原則
(遼、金、元、清の北方騎馬民族王朝は除く)
538 :
世界@名無史さん:03/03/16 01:35
あやめタンどこいったんだろう?
539 :
世界@名無史さん:03/03/16 01:44
あれ?当塗高は?
国の名前はなんでいつも漢字一文字なんだろ?
「俺」「僕」「我」とかいう国あったら面白かったのに
全然面白くない
春だな。
花粉の季節だ。脳がやられるんだろうな。
544 :
世界@名無史さん:03/03/16 18:01
劉備の一族って誰一人蜀にたどりついてないよな。
関羽・張飛・趙雲も一族の名前も伝わらないし、
やっぱり曹操の手で皆殺しですか?
545 :
世界@名無史さん:03/03/16 20:09
安楽公
546 :
世界@名無史さん:03/03/16 22:46
>>544 蜀の右将軍劉隗は劉備の従兄ですが、何か?
衛尉南充侯郭毅は劉備の甥ですが、何か?
547 :
世界@名無史さん:03/03/17 01:27
548 :
世界@名無史さん:03/03/17 01:33
549 :
世界@名無史さん:03/03/17 01:40
そんなとこだろうと思った
ところで
>関羽・張飛・趙雲も一族の名前
はどうなんだ?
>>546よ
教えれ
>>550 自分で調べろよカス野郎。
人に聞かなきゃ何もできんのか?
教えてクンはそろそろ卒業しろって。
というか、550は華陽国志とか言われて、
小説か光栄のハンドブックだと思ってるのだろう
正史、別史、野史をそれぞれぐぐってみて、
それぞれの意味を理解することをお勧めする
野史じゃなくて雑史だた。
まぁ、野史もついでにひいておけ
554 :
世界@名無史さん:03/03/17 06:30
華陽国志の邦語訳って簡略のあれ1冊だけなんかな?
>>552 面白い事いうなぁ…でも、言い過ぎな気も。
>華陽国志とか言われて、
>小説か光栄のハンドブックだと思ってるのだろう
そんなこと思ってないんだけど・・・
聞き方が悪かったようだな。スレの雰囲気が悪くなってすまなかった。三戦板に逝ってきます
おたっしゃで・・・
559 :
世界@名無史さん:03/03/17 20:53
探してみたら,中林史朗という人が華陽国史と後漢紀
という作品を出しているけどこのことですか?
560 :
世界@名無史さん:03/03/17 21:07
スレの雰囲気が悪くなったのは551のせいの気がするが。
『華陽国志』のイメージ
三星堆遺跡の発見で少しメジャーに。
個人的には『竹書紀年』と並ぶ謎の中国歴史書。
書虫で買うしかない?>華陽国志
563 :
世界@名無史さん:03/03/17 22:05
『華陽国志』は晋の常キョ撰で、十巻。裴松之注にも確か引用されている。蜀の劉焉時代からの歴史を述べたもので、
三国時代の野史としてはメジャー。
中林史朗氏は訳者であり、著者ではない。
>>550 すまなんだ。深夜まで仕事してて思考力も落ちていた。
あと、上で書いたようなことも知らんようなのが正史厨・演義厨だと言って
もめるのをよく見てたのでな。
特に罵ったつもりではない。悪い。
華陽国志は書虫で買っても安いので良いと思うが
シニカの三国志のとこでも読める。
後、どっかのパクリっぽい漢籍サイトでも。
しにかの三国志の火曜国志わ陳壽伝だけじゃねーか
武将を字(あざな)で呼ぶ事は馴れ馴れしいんですかね?
567 :
世界@名無史さん:03/03/18 11:22
武将に関して言えば、滅多なことじゃ有り得ないと思うよ。
地方の吏だとどうなんでしょうねぇ。
>>566 普通は役職で呼ぶのです。劉予州、とかね。
特に、目上に対して字で呼ぶのは失礼に当たるはず。
会社勤めの人は、課長だの部長だのを名前では呼ばないでしょう?
新井課長とか、そんな風に呼ぶでしょう。それと同じ。
字で呼ぶのは、結構親しい間柄の人だけですよ。
あとは目下の人に対してとか。
569 :
世界@名無史さん:03/03/18 19:50
役職が無い場合は何て呼ぶの?
570 :
世界@名無史さん:03/03/18 20:32
下町のプーさん
曹大人とかそんな感じか
573 :
世界@名無史さん:03/03/19 01:43
目上の相手なら老爺とか言うよな若くても。
574 :
世界@名無史さん:03/03/19 03:27
君とかつけるんだろうね。
雑兵が、「よー猛徳!」とか言ったらプチ殺されますね(笑)。
でも言ってみたいですね(邪)。
576 :
世界@名無史さん:03/03/19 08:02
三国人正史
ん?性と名で呼ぶの一番の侮辱だと思うが?
「孟徳!」よりは「曹操!」って呼ばれる方がキレる。
字をつけるのは名を直に呼ばれない為の理由もある。
578 :
世界@名無史さん:03/03/19 16:51
名で相手を呼んでいいのは命令出来るほど立場が違う間柄の場合だけ
579 :
世界@名無史さん:03/03/19 17:03
劉邦はどうなる?
580 :
世界@名無史さん:03/03/19 17:06
ハァ?
581 :
世界@名無史さん:03/03/19 19:16
ハァッ!
582 :
世界@名無史さん:03/03/19 19:27
ハァチャァッ!!
583 :
世界@名無史さん:03/03/19 19:43
んはああーーーーっっっ!!!
584 :
世界@名無史さん:03/03/19 19:52
585 :
世界@名無史さん:03/03/19 20:04
587 :
世界@名無史さん:03/03/19 20:23
>>587 許攸が曹操を幼名で呼んで云々
て話が正史にあったろ。確か
ない。
そう。
操
592 :
世界@名無史さん:03/03/19 23:04
春。
593 :
世界@名無史さん:03/03/19 23:06
夏。
三戦板の厨が嫌いだから
わざわざ世界史板で三国志正史を語りに来たんじゃねえのか?
>577
そうだったんですか。
名前のほうは武将の皆さんはあまり言わないですもんね。
最初。曹猛徳って誰だろうって思っちゃいましたもん。
>>596 曹猛徳って誰だろうな。
曹孟徳ならわかるけど。
と、最近この間違いをいくつか見かけたので、修正してみました。
>>568がどうしたというのだろうか?
中国史ちょっと齧った香具師なら誰でも知ってる事じゃん。
600 :
世界@名無史さん:03/03/20 09:35
600!!!!!!!!!
だから話の流れくらい読めってことさ
( ´,_ゝ`)プッ
603 :
世界@名無史さん:03/03/20 19:03
>>569 亀レスだが官位の無いヤシは、元高官なら到達した最高官の敬称で。
(例:元太守は府君。元尚書令・中書令は令君)
または、使君(閣下)、公、卿、君など、ポピュラーな敬称で呼ぶこともある。
侯に封じられてるヤシは封号で呼ぶのが、正しい。
高官に就いた経験が無い場合は、姓+字、または姓+君で呼ぶ。
ただ、とてつもない名士や高齢者の場合は、公と呼ばれることもある。
呂公って偉いの?
606 :
世界@名無史さん:03/03/20 23:50
馬超が美男子だっていうのは史実か?
( ・3・)えー、呂公は偉いって聞いちゃ駄目なのかYO
609 :
世界@名無史さん:03/03/21 03:23
呂公って黄祖の部将だろ?
えらい訳がない。
呂公望は偉い
つーか、「えらい」って何だよ(w
小学生か?
>>597 紛らわしい名前にした曹操がワルイ!うん。
614 :
世界@名無史さん:03/03/21 10:39
呂公=呂常だったりして
他にも、張虎=張碩、陳生=陳就、蘇飛=蘇非ってどう
615 :
世界@名無史さん:03/03/21 21:41
616 :
世界@名無史さん:03/03/21 21:49
>>613 おそらく斉太公望のことを言いたいのだろうが
なにか混線している模様。
( ・3・)呂公望は封神演義に出てくるチョイキャラだYO
太公望とは別人だYO
>>616 なるほど
本気でわからなかったんですが、納得しますた
このスレ好きだったんだけど、なんかレベル落ちてるよね
「えらい」て何ですかね(藁
ま、春だから仕方が無いんだけど
2chは季節感満点だなぁ
619 :
世界@名無史さん:03/03/21 22:50
620 :
世界@名無史さん:03/03/21 22:59
粘着質のアフォだな
そういえば春秋呉の伍子胥も「子胥」は字で、名前は「員」なんだよね。
まあ「貝」つながりなんだろうね。
貝?
月と貝?
>621
項羽もそんな感じだよね。羽は字だっけか?
員って鼎じゃなかったっけ?
625 :
世界@名無史さん:03/03/22 21:15
馬超の容貌については記述無いっぽいね。
父の馬超は目鼻立ちが立派だったとあるけど。
羌の血が入っているのは確からしいけど、
羌ってトルコ系だっけ?
満寵みたいにごっついのばっかり家族だったら嫌だなぁ
627 :
世界@名無史さん:03/03/22 22:03
狂は西蔵系
>>623 そうです。項羽の名前は「籍」です。
>>624 手元に漢和辞典がないのでなんとも・・・(そんなんで知ったかしちゃいかんな)
629 :
世界@名無史さん:03/03/23 20:35
史書においてまで親父の名前を避けるのってどう思う?
どうとも思わない
631 :
世界@名無史さん:03/03/25 19:43
陳寿は父親の名を避けてると思うか?
陳寿の父が噂通り陳式なら、避けてないと思うが・・・
晋の皇帝の名は避けてるよね。
ちなみに班固は父彪の名を記してる。
范曄は父泰の名を避けてる。
晋書は劉淵を劉元海にするなど唐の皇帝の名避けまくり。
晋書の成立について知らずに読んだ時、「高祖の諱を犯す」の高祖が誰だかわかんなくて悩んだことがあった。
633 :
世界@名無史さん:03/03/26 00:38
高祖パワーのトップに決まってんだろ!
今日のNHKの三国志番組は孔明寄りかよ〜
635 :
世界@名無史さん:03/03/26 20:07
三国志って恵帝の諱は避けてた?
魏の皇帝って微妙に名が被ってる人いないね。
やっぱ避けやすいようにつけてたのかな。
元帝の諱が避けにくいってんで改名したって記事があったよね。
おいNHK、孔明ひいきはいいけど
「すべては民衆のために」はねーだろ。
俺は魏が好きだー!チクショー!
639 :
世界@名無史さん:03/03/27 00:19
くだらねえ質問でスマソ
漢が滅亡した後、劉備が皇帝の位についているわけですが、
その時劉協って生きてますよね?
魏から連れてきて劉備のかわりに蜀漢皇帝にさせる、とかいうのは出来なかったんでしょうか?
物理的に魏から連れてくるのは無理とか、一度禅譲したんだから皇帝にはなれない、とか
いろいろ理由あったんでしょうか。
>>640 ハナから劉協タンなんぞに帝位をくれてやる気などありませんでした。
蜀では献帝は死んだという情報が流れたから。
>>640 生きてるのが分かったとしても、連れてくるのは無理だと思うが。
645 :
世界@名無史さん:03/03/28 06:20
糜芳と曹芳は名がかぶってるな・・・
そういえば、正史で糜芳は劉備に殺されてなかったような。
どうだった?
646 :
世界@名無史さん:03/03/28 07:00
殺されるとか以前に引き渡されてないし、
呉でそこそこ活躍してるし
>そこそこ活躍
は言い過ぎだろ
648 :
世界@名無史さん:03/03/28 22:58
呉軍の主力部隊だった賀斉軍で、艦隊を率いられるぐらいの地位に居たんだから、
そこそこは活躍したんだろうが…。
でも、蜀漢では南郡という超重要拠点の太守やってたことを思えば、
ずいぶん落ちぶれたもんだって感じはするよな。
>641-644
情報ありがd
死んでいるって話だし、連れてくるの無理だし、
そもそもせっかくの帝位をくれてやる気はないですか。
納得しますた。
>648
蜀での地位は実力が評価されたものかな?
>>650 糜竺の伝記に引用されている徐州時代の曹操の上奏文によると、
糜竺と糜芳は文武両道に才能があったそうな。
この上奏のおかげで、糜芳は太守の官位を貰っている。
当時の曹操幕下の重臣でも、正式な太守の官位を持っているのは、
相当な大物ばかりだから、やはり糜芳の実力は本物だったんだろう。
徐州を懐柔するための捨て官位じゃないか?
>>652 それでも、二千石は二千石だから、それなりの人間は選ぶだろう。
一族の棟梁である兄貴と別個に官位貰ってるんだから、
糜芳には、糜一族の財力だけでない何かがあったんだろう。
美人の妹がいたとか
655 :
世界@名無史さん:03/03/29 06:02
それも実力のうち。w
656 :
世界@名無史さん:03/03/29 19:19
つまり当時の徐州では、その一族の実力が一番だったってことだろう。
幸運の女神がついてたのかも、火徳の
>>657 >火徳の
ほとんど関係無いし話自体が眉唾だけど、『捜神記』の、靡竺の家が燃える話を
思い出してしまったよ…。
>658
うん、それそれ
660 :
世界@名無史さん:03/03/31 13:18
漢 火徳
魏 土徳
晋 金徳
劉漢 水徳
って事でよろしいか?
火徳の話は色々聞くけど、他の王朝の○徳の
話はあんまり聞かないね。
劉漢は閏水かと、共工とか、そのへんの
劉漢とは劉淵の漢のことですな?
それなら序盤は
前漢〜後漢〜蜀漢〜彼らの漢(劉漢)を
それぞれ独立した4つの王朝としてではなく、
連続した一つの王朝という建前にしているので
火徳の王朝。
が、劉曜の時(だったか、不安になってきたぞ…)に
水徳の王朝とし、まもなく国号も趙にしている。
この時、漢・劉氏の威光というか、
そういうものを切り離した&切り離すことができたのだろう
ちょっとスレ違いですが
>>660 秦は水徳の王朝だったかと思うけど、
何で水徳(秦)→火徳(漢)になるんでしょう?
火徳の前は、五行相生なら木徳、五行相克なら金徳ですね。
俺の持ってる本では
相克の場合 秦(水徳)→漢(土徳)
相生の場合 周(木徳)→漢(火徳)
ってなってるよ。
665 :
世界@名無史さん:03/04/02 11:13
秦の色って白?
>>665 水=北=冬=黒=玄武
木=東=春=青=青竜
火=南=夏=赤=朱雀
金=西=秋=白=白虎
668 :
世界@名無史さん:03/04/03 13:35
劉邦が白蛇を斬ったっていうのは色は関係無かったの?
あの場合の白蛇の白は、神聖な、って意味でしょ
秦献公のとき金の雨が降り、西畤を造って白帝を祭ったって故事から、秦は金徳(方角=西、色=白)とされてまふ。
対する漢は、白蛇の母親が「赤帝の子(漢)が白帝の子(秦)を斬り殺しただ〜(ウェーン」って言ったように火徳の赤。
んで、これは火克金の相克で正解!
黄帝(土徳)→少昊(金徳)→センギョク(水徳)→帝コク(木徳)→帝尭(火徳)
→帝舜(土徳)→禹王(水徳)→湯王(金徳)→文王(火徳)→秦(金徳)
おや?
黄帝=土徳
殷=金徳
周=火徳
秦=水徳
あたりは異論のないところかな?殷以降は相克だね。
後はかなり混乱しているようだ。
ところで、鄒衍は五行相克説でよかった?
源平交代思想
675 :
世界@名無史さん:03/04/05 18:11
蒼天って漢を木徳としてるの?
この場合の蒼天は暗い天だとか
677 :
世界@名無史さん:03/04/05 21:17
ちなみに五行では”蒼”は、
蒼=青=東/春etcではなく
蒼=黒=北/冬etcだとされる場合がある。
蒼(あおぐろ)と読むそうだ。
678 :
世界@名無史さん:03/04/05 22:54
誰の説でつか?
679 :
世界@名無史さん:03/04/05 23:46
「蒼き狼」の「蒼」も、「青」じゃないね。
スレ違いとはいえ、興味深い話題だ。
蒼き狼は、灰色だっけ?
682 :
世界@名無史さん:03/04/06 18:43
虹色か桜色
683 :
世界◎名無史さん:03/04/06 20:44
何、馬の蒼鹿毛の蒼ってこと?
あぁ、そんな感じ。普通は青鹿毛を用いると思うが
685 :
世界@名無史さん:03/04/07 14:18
糜芳の投降ってやむなくって感じだっけ?
それとも完全にやる気無くて降伏?
いずれにせよ、劉備が手ずから首を斬るなんて残酷だなあ
と思ってたよ。
糜竺が斬首を願い出たっていう話の方を演義に載せた方が
良かった気がするな・・・
三統説では漢は黒になるんじゃなかったか?
687 :
世界@名無史さん:03/04/09 15:58
>>685 すまん。言ってる意味も言いたい事も分からん
688 :
世界@名無史さん:03/04/09 17:31
>>687 気にするな。
劉備が怒って劉封を斬ったっていうのもひどい史実改竄だよな。
実際は孔明が斬首を勧めた訳だが・・・
やはり孔明の忠臣というイメージにそぐわないから
変更されたのか?
しかし、劉備も劉禅が生まれたのに何で養子にしたんだろう?
悪名高い人物でも息子を殺す事はほとんどないし、後は孫権くらい
しかいないな。
>>688 すまん。言ってる意味も言いたい事も分からん
690 :
世界@名無史さん:03/04/09 19:27
春休みは終わったハズだが・・・
…春 …終わった? ⊂⌒~⊃。Д。)⊃
693 :
世界@名無史さん:03/04/12 14:06
遼東討伐の時に司馬懿に処刑された仇連って何者?
正史には出てこないし、仇なんて姓、他にいたっけ?
仇犯
695 :
世界@名無史さん:03/04/12 22:54
曹丕の妃に仇氏っていうのがいたな。
その親族か?
卑姓とか仇姓とか意味の悪い姓には何か
いわくがあるのか?
696 :
世界@名無史さん:03/04/13 02:03
>694
それって、重耳の臣下じゃないか?
トウカイテイオー曹霖の母・仇昭儀
698 :
世界@名無史さん:03/04/13 19:41
>>697 トウカイテイオーって言いたかっただけちゃうんか・・・
あっちで無視されたんで、こっちで聞く
シ巳水関と虎牢関って同じ場所だよね?
ぶんた
701 :
世界@名無史さん:03/04/14 20:44
>699
あっちってどこ?
あとシ巳水関と虎牢関は確か別の所の筈。『三国志』の地理なら趙一清が多分調べていると思うけど、
手元に趙さんの『三国志注補』がないんでわかんねーや。
702 :
世界@名無史さん:03/04/14 21:00
>>699 多分同じじゃないの?
演義での虎牢関の戦いは架空だな。
水は一応WINなら表示されると思うが・・・
虎牢を検索したら無双ページが腐るほど引っかかって萎えた。
>シ巳水関と虎牢関
どうも間違えていたみたいだ。すまん謝る。二十五史に検索を掛けてみたら、『新唐書』地理志に「水、(中略)虎牢関有り」
と出てくるね、同じ場所らしいや。
いずれにしても正史『三国志』には出てこない。この関は唐以前にはなかったようだね。
あっちのすれ(正史『三国志』スレ)で聞くのは間違いかも知れない。
時代によってどちらで呼ぶか、まちまち らしいよ。
水は地名でもあるから、水関は「水にある関」という通称かもしれない。
でも、虎牢関って、響きが俗称っぽいよな。
虎牢って、周代に名づけられたんじゃなかったっけ?
虎牢も地名だった筈だが?
そもそも、関が築かれたのは何時のハナシなんだ?
709 :
世界@名無史さん:03/04/16 23:29
主殺し成済は太子舎人だったらしいが、あの頃の太子って誰?
(^^)
711 :
世界@名無史さん:03/04/17 13:57
保守あげ
皇太子府って皇太子がいなくてもアリでしょ
713 :
世界@名無史さん:03/04/18 19:51
>>712 府はあっても官は置かないっしょ。
関係ないけど、発見された呉の竹簡でどんな
事が分かったか詳しい人いる?
714 :
世界@名無史さん:03/04/18 21:28
>>713 いや、曹叡の時代にも張茂が太子舎人の身分で曹叡に諫言してるし
太子が任命されてなくてもいろいろ準備とかしてるんじゃないの?
想像だけど・・・
呉の竹簡って、朱然の?
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
717 :
世界@名無史さん:03/04/20 12:04
>呉の竹簡
走馬楼呉簡じゃないの?一度見たことはあるが、内容は知らないなぁ・・
718 :
世界@名無史さん:03/04/23 21:24
親魏倭王の印を送られた倭って匈奴より格上扱い?
月氏と同格
720 :
世界@名無史さん:03/04/23 23:20
親魏倭王って魏に親しい倭王っていう意味?
一応属国扱いではないよね?
722 :
世界@名無史さん:03/04/24 00:40
親愛なる魏の倭王っていう意味か!?
王に「任命」したわけだから属国扱い。
印を受け取ってる時点で,贈り主より一段下な訳で・・・
西漢代の匈奴は対等外交だったような。
もっとも印は印でもあれは璽だけど・・・・
漢の連中は「西域の国は兵も武器も弱い!」とか言って
交渉・征服・暗殺色んな手で西域を荒らしまわったほどだからな・・・。
奴らの意識には,「使者とかを送る以上は全て属国」みたいな気持ちがあったんじゃなかろうか。
王が皇帝と同列であってたまるかよ〜
ま、あれだ
いわゆる「中華思想」ってやつだ
中国(適切な表現ではないが)の文化を受け入れない奴らは低俗な蛮族であるってやつ
だから、他民族(これも適切じゃないが)から使者が来ると、
「ほほう、いい心掛けではないか。かわいい香具師め」
と、使者が携えてきた贈り物以上の物品を下賜したりしている
こんな思考法だから、
>「使者とかを送る以上は全て属国」
というのは間違った認識ではない
729 :
世界@名無史さん:03/04/27 19:57
王って夜郎とかも王だっけ?
730 :
世界@名無史さん:03/04/28 22:08
ホウ統の叔父のホウ徳公の子が孔明の姉を娶っている・・・
って事はホウ統と諸葛亮は遠い縁続きだったんだね。
731 :
世界@名無史さん:03/04/29 18:51
印には「金印」「銀印」「銅印」とオリムピックのようなランクがあったはず。
扱いとしてはカナリ上のランクだよ。
高い位与えたのは呉と組ませないため?
733 :
世界@名無史さん:03/04/29 19:43
>>732 邪馬台国との外交を担当していたヤシが、
自分の功績をでかく見せるために、
いろいろ吹いたからじゃねえか?
王としては普通ダヨ。
中国内の諸侯王も金印だし。
金印でも取っ手の形や組紐の色で更にランク付けがあるのだ。
金印だからって高い位とは言い切れない。
735 :
世界@名無史さん:03/04/29 22:41
金印のつまみ部分の動物って、
異民族の場合は亀が多いんでしたっけ
中国国内の諸王ってのは、たいてい「皇族」。
比較対照としては合っていないと思われ。
もしかして、銀印しか貰った事の無い国の人?
漢書見直したら、列侯でも金印、諸侯王は金「璽」だったよ。
西漢の話だけどね。
金印でも、列侯クラスか諸侯王クラスか、ってのがあるんだろうね。
匈奴がはじめて漢から印を受けた時、「黄金璽」を貰ってるよ。
倭は金印だからそこまでじゃあない。列侯と同格。
当時の中国側の意識としては、倭を重要視する理由がなかったんじゃないかな?
「よく来たね〜。エライからこれやるよ」みたいに金印あげた、みたいな。
金印やるだけならタダみたいなもんだよ。あとからその国に内政干渉したりできるし。
三国時代とはいえ、倭は魏にも呉にも戦略的価値はなかったんじゃないか?遠すぎるし。
価値を認める勢力があるとすれば、公孫氏の燕くらいじゃなかろうか。
邪馬台国が魏に朝貢したのは、その公孫氏(公孫淵)が魏に滅ぼされた直後だった筈だよ。
ヤバイって思ったんだろうねぇ。(藁
公孫氏とは交易その他で何等かの繫がりのあった国であろうから。
で、魏は、おそらく真っ先に朝貢してきた邪馬台国に金印贈ったってのが真相では?
匈奴は「敵国」(=対等な国)だから「璽」になったんだよ。
つーか、力関係では漢より上だったし。>匈奴
と、人から学んだ説を自前のように語る
>>738であった
面白いヤツやな、お前さん。w
あんたは度量の狭い厨房だな。w
いいからおまいらみんな精子飲め
蒼天スレ住人ハケーン!
746 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/05/01 07:59
>>746 能力評価自体には興味がないので、事実誤認についてのみ指摘します。
あなたは「母親の身分がモノを言う」の意味を御理解されていないと思われます。
この時代の「母親の身分」とは、「実母」であることではなく、「嫡妻」であることを
意味します。違いがわかりづらいかと思いますが、要は
「母が誰であろうと正妻が(養)子と認めればその家の後継ぎである」
ということです。(当然、養子は血のつながりが大前提ですが)
例として後漢皇帝を検証しましょう。
後漢において先帝の皇后が皇帝の実母であったのは、光武陰太后→明帝と、
何太后→少帝の二例、あとは皇太后が養子を取るという形で継承されます。
明帝馬皇后は実子がなかったため、帝から(後の)章帝の育成を任じられ、
「実の子かは関係ない、親子の情愛の有無だけ心配すればいいのさ」
と激励の言葉をかけられています。その家の祭祀を執り行うのは主と嫡妻ですから、
主亡きあとに家を仕切るのは当然嫡妻です。嫡妻に実子がいれば最も理想的ですが、
家を絶やすことが最大の不徳とされる世界では、妻腹も養子もいざとなれば
主の遺言or嫡妻の判断で継嗣に立てるのが当然なのです。
それこそが「母親の身分」なのであって、妾腹かどうかは二の次となります。
袁紹が袁逢の妾の子で、実子なく早死にした逢の兄の袁成の養子となった、
というのは、集解等見ましても、どうやらほぼ事実のようです。
この場合、袁成の正妻(名前不詳)が袁紹を養子と認めての後継ですし、
袁紹が袁成家を継ぐことに、袁逢も同意していたことがうかがえます。
袁成の上には平という兄がいたようですが、子の記述が無いことから一先ず置きますと、
成の子の紹と逢の子(しかも次男)の袁術とではどちらがえらいのか?
当然、長幼の序でもって、兄の子である紹がえらいのです。まして袁逢は、
弟の袁カイに三公の座で先んじられ、しかも先に死んだので、霊帝期で実質的に
袁家を仕切っていたのは袁カイです。カイにとって実子でない以上、大兄の子である
紹が、小兄の子の袁基・袁術より上と見なされるのは、実に当然のこととなります。
袁カイは外戚何進とともに少帝の後見人となった士大夫の実力者であり、これの
目が黒いうちは、袁術がどんな陰口を叩こうが、名門袁家の次期総領は袁紹に
ほぼ決定していた、と思われます。となれば、彼が出生で苦労したなどとんでもない。
袁紹こそは、董卓なんぞに立てられ後見人たる外戚もロクにいやしない献帝より、
よっぽど血筋に恵まれた男であるとして過言ではありません。
袁紹が出生ゆえに苦労したとすれば、それは母の三年喪に服したあと、
さかのぼって父の三年喪に服した、という記述がそれにあたるでしょう。
養子であることの弱みは、袁紹本人が一番よく知っています。
だからこそ彼は、当時にあっても珍しい、連チャン三年喪に臨まなければ
ならなかったのだと思います。子が父母に対して取る最大の美徳は何か?
「孝」です。否、孝であることは、後漢の士大夫にとって最高の美徳です。
袁紹は若くして郎となり、二十歳で長に任じられ、その後母の喪に服しています。
官職をなげうって父母の喪に服すのは、当時にあっては常識といっていい行為です。
袁紹が出生ゆえに苦労したとすれば、それは母の三年喪に服したあと、
さかのぼって父の三年喪に服した、という記述がそれにあたるでしょう。
養子であることの弱みは、袁紹本人が一番よく知っています。
だからこそ彼は、当時にあっても珍しい、連チャン三年喪に臨まなければ
ならなかったのだと思います。子が父母に対して取る最大の美徳は何か?
「孝」です。否、孝であることは、後漢の士大夫にとって最高の美徳です。
袁紹は若くして郎となり、二十歳で長に任じられました。これは袁逢・カイの
引き立てがあったことは言を待ちません。のち母の喪に服すわけですが、
官職を捨てて父母の喪に服す程度では当時の常識でしたから、養子の袁紹としては、
これを超える「孝」を見せつけ、実子以上の孝行息子、と士大夫から評価される
ことが、自分の地位の安泰を意味しました。
これだけでは満足せず、出仕しないで評判の名士と交友を深めます。
ヤクザってああた、張バクがヤクザのわけあるかい。袁カイが「一族の恥」と言った?
派手すぎて宦官に目ェ付けられててる、党錮くらって一族滅ぼす気か、の間違いだ。
この時期に袁紹は、後の大勢力を生み出す人脈を作り上げているのです。
グレた? ヤクザと付き合った? 馬鹿おっしゃい!(横光風)
一方袁術です。あなたの言う「袁紹が妾腹だから云々」というのは、
おそらく袁術の同盟者かつ袁紹の敵対者公孫サンの上奏に基づいたのだと思いますが、
そりゃ袁術が巻き返しを図ったってことでしょう。
袁逢およびその正妻視点で判断すれば、嫡子の袁術の方がそりゃえらいでしょう。
しかし袁術は名門の子弟とはいえ次男坊です。家は継げない。しかし董卓が、
伯父貴の実力者・袁カイも、長兄の袁基もブッ殺してくれた。その責任は袁紹の
裏切り行為だって名分もある。ようやくチャンスキタ―――ってなもんです。
ここでまた皇帝の例を引きます。光武帝は最初郭皇后を立て、その嫡子劉彊を
皇太子としますが、元々陰皇后を愛していたので、のち郭皇后を廃しました。
この時劉彊は『公羊伝』を引き、子は母が尊さ故尊く、母は子の尊さゆえ尊い、
嫡妻となった陰皇后は私の実母より尊いから、当然私より陰皇后の嫡子である(後の)
明帝が尊い、皇太子を辞退して明帝に譲る、と言い出し、受理されます。
公孫サンが袁紹攻撃のため引用した『公羊伝』の箇所と同じじゃありませんか?
「母親の身分」を決定する経文は何通りかあり、その時の状況によって都合の
いい方が利用されるんです。「袁紹の母が卑しい」というのは、袁術サイドの正統論、
袁術側の言い分です。袁紹にとっては痛い所ですが、それを跳ね返すだけの名分、
「俺が兄貴だ。兄貴が継ぐのが当然だ。実子以上に孝行だし人気もあるぜ」
というのを彼は若いころ頑張って作り上げているのです。大多数の士大夫が兄と弟
(正確には従弟にせよ)だったら兄を支持するのは、曹ヒ曹植の争いの結果を見れば
御理解いただけると思います。実母の身分など、問題じゃないんですよ。
そのくせ自分の後継選びで失敗するのはマヌケですが。
袁紹に人材がいくらでも寄って来た理由、彼が当代最高の名声の持ち主だったからです。
結果的に虚名に終わってしまうにせよ、それを「勘違い」というのはあまりに酷でしょう。
無視されますた(´・ω・`)
>>750 おっしゃる通りです。長文スマソ。
ひとつ言い訳すると、向こうに書いてもしょうがなさそうだったんで。
このスレに栄光あれ。
おまけ。劉彊の子孫が劉虞。妾腹の劉彊の一族が皇帝になるなんて、
嫡妻嫡子正統論者の袁術にゃ認められるわけないですな。
後半は後漢の皇帝みんなそんなのばっかだけど。
皇帝になる野心ゆえ反対した、だけじゃあないだろうと。
754 :
世界@名無史さん:03/05/02 00:34
>しかし袁術は名門の子弟とはいえ次男坊です。家は継げない。
そんな事はないんじゃないのか?
大体、袁術に家継がせる為に袁紹は養子に出されたんじゃ?
正嫡の弟が家を継ぐっていう例も探せばいくらでもありそうな
気がするが・・・
755 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/05/02 00:47
>くらすあてねさん
緻密な論証をありがとうございます。
なぜ、分家筋の袁紹が、六年間もブランクがあったのに、若くして司隷校尉までなれたのか?
あと、袁一族のプリンスで、若くして九卿の地位にあった袁基の影が、やたらと薄いのは、なぜなのか?
不思議で不思議でしょうが無かったのです。
袁逢家ではなく、袁成家が袁氏嫡流だったんですね。
これで、長年の疑問が解けました。
あと、私が勝手に意訳というか、超訳しまくった部分を、訂正いただいて、感謝しております。
「男だてをもって有名だった」と称される張孟卓を「男だて=侠」と決め付けて、侠客扱いしたのも、
「豪傑」を「ヤクザ」と意訳したのも、ちくま版の日本語が生硬すぎてつまらないので、
勝手に意訳して読んでおりました。
>袁紹に人材がいくらでも寄って来た理由、彼が当代最高の名声の持ち主だったからです。
>結果的に虚名に終わってしまうにせよ、それを「勘違い」というのはあまりに酷でしょう。
そうですね。あれだけ個人的資質に恵まれ、しかも当代きっての高い名声の持ち主なら、
誰だって「天下取れるんじゃねえの、オレ?」って思いますからね。
>752
すみません、749書いたあと751書いててリロードしてなかったっす。
で、750見て753書いてる間に… 重ね重ね失礼を
>754
あくまで袁逢家を継ぐ人間というつもりで書いてます。
袁逢には袁基という嫡妻の長男がいて、嫡妻の次男が袁術です。
逢の死後袁基が正式に封地を継ぎ、太僕に至りましたが、董卓に
あぼーんされますた。袁紹が養子に出ても、袁術は袁基が死なない限り
袁逢の封地は継げない=後継者ではないのです。
757 :
世界@名無史さん:03/05/02 01:37
袁氏本流は袁平−袁遺じゃないの?
関係ないが、袁術・孫堅と袁燿・孫権って
今川氏と徳川氏の関係に似てるな。
>>749の
>袁紹が出生ゆえに苦労したとすれば、それは母の三年喪に服したあと、
>さかのぼって父の三年喪に服した、という記述がそれにあたるでしょう。
>養子であることの弱みは、袁紹本人が一番よく知っています。
>だからこそ彼は、当時にあっても珍しい、連チャン三年喪に臨まなければ
>ならなかったのだと思います。子が父母に対して取る最大の美徳は何か?
>「孝」です。否、孝であることは、後漢の士大夫にとって最高の美徳です。
なんで2回も同じことを・・・決めゼリフ?
↑というか「否」の使い方間違ってない?
>>758 自分も何でと思ったが、ここがサビなのだと納得する事にした
というよりも、だ。
全く理論になってないし、文章構成として明らかにおかしい。
孝行であった理由を言及した後に、だから孝行者なんだ、だと。
若年痴呆か?w
762 :
世界@名無史さん:03/05/07 00:10
馬良って諸葛亮と縁戚関係あったっけ?
( _,, -''" ', __.__ ____
ハ ( l ',____,、 (:::} l l l ,} / \
ハ ( .', ト───‐' l::l ̄ ̄l l >762 │
ハ ( .', | l::|二二l | ハ こ .|
( /ィ h , '´ ̄ ̄ ̄`ヽ | ハ や │
⌒⌒⌒ヽ(⌒ヽ/ ', l.l ,' r──―‐tl. | ハ つ │
 ̄ ', fllJ. { r' ー-、ノ ,r‐l | ! め │
ヾ ル'ノ |ll ,-l l ´~~ ‐ l~`ト,. l |
〉vw'レハノ l.lll ヽl l ', ,_ ! ,'ノ ヽ ____/
l_,,, =====、_ !'lll .ハ. l r'"__゙,,`l| )ノ
_,,ノ※※※※※`ー,,, / lヽノ ´'ー'´ハ
-‐'"´ ヽ※※※※※_,, -''"`''ー-、 _,へ,_', ヽ,,二,,/ .l
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ `''ー-、 l ト、へ
このスレのレベルも下がってきたな・・。
おまえのせいでな・・。
766 :
世界@名無史さん:03/05/07 22:21
諸葛亮の岳父の黄承彦って正史に出てきた?
出てるよ、諸葛亮伝の注に
曹操が「赤壁では劉備にやられた」と言ったって本当?
劉備軍が何したんだろう?
三戦板はゲー厨しかいないので、ここまで飛んできました。
どうか教えてもらさい。
770 :
世界@名無史さん:03/05/08 18:51
黄皓って処刑されてないよね?
>>768 三戦板で教えてもらえなかったのはゲーム厨のせいではなく
ひとえにお前の問題であることを理解しておけ。
少々そそる話題ではあるがな
773 :
世界@名無史さん:03/05/10 17:39
蜀の皇子は梁王やら魯王やらに封じられても
行き場が無くて成都でじっとしてる他は無かったんだろうな。
呉は一応、自国の領内に王を封じてたっけ?
呉にも魯王がいますが。
そういや漢ではちゃんと封地行ってたから、黄巾の時に領内に賊が攻めて来て必死で防戦した諸侯王とかいたっけな、確か。
776 :
世界@名無史さん:03/05/11 00:52
いやあ、三国志の正史・演義どっちも漢の諸侯王ってあんまり出ないよね。
>>775 でもあまり脚光浴びてないところが少し寂しい。
一応つっこむ
三国志に漢の諸侯王があんまり出んのは当たり前と思うが?
後漢書なら話は別だがな
後漢書の董卓伝読みたい
781 :
世界@名無史さん:03/05/13 23:11
曹丕が曹操の後宮の女を全部自分の後宮に入れて
郭太后に罵られたというが、天下の一等の美女を集めまくった
んだから、それを民間に帰すのって非常にもったいない気がする。
歴代皇帝はそんなもったいない事をずっとしてきたの?
782 :
世界@名無史さん:03/05/14 00:42
ハァ?
曹操の後宮ってなんでつか?
後室
785 :
世界@名無史さん:03/05/14 00:51
「反三国志」の作者は典型蜀ヲタですか?
786 :
世界@名無史さん:03/05/14 01:11
>>784 曹丕が曹操の後室の女を全部自分の後宮に入れた
ってなんでつか?
787 :
世界@名無史さん:03/05/14 06:13
ほぉ〜。
>>784のサイトには曹丕や曹操の後室について書いてんのか。
788 :
動画直リン:03/05/14 06:20
789 :
世界@名無史さん:03/05/14 10:43
>>782 786
2回も言わなくていいよ。
曹操は王なんだから後宮くらいあるだろ。
790 :
世界@名無史さん:03/05/14 10:45
まあ、後宮じゃなくてもそれに相応するモノがあったって
いう想像だがな。
つーか、歴代皇帝が天下の美女を惜しげもなく解放するのは
もったいないという話なんだが・・・
791 :
世界@名無史さん:03/05/14 11:01
792 :
世界@名無史さん:03/05/14 11:34
>>790 おいおい、想像で語りたいなら三戦板にカエレよ。
仮に歴代皇帝の後宮の話だとしてもスレ違いなんだがな。
793 :
世界@名無史さん:03/05/14 11:39
>>792 チャチャ入れしかしないヤツが偉そうにいうなよ。
スレ違いとは791みたいなクソを言うんだよ。
業者じゃなくてわざとやってるくさいが・・・
794 :
”管理”人:03/05/14 11:39
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795 :
世界@名無史さん:03/05/14 11:49
>>793 とりあえずマルチポストがスレ違いかどうかなんて
クソみたいな意見はどうでもいいので
>>781の出典は脳内以外になにかあるのか?
796 :
世界@名無史さん:03/05/14 14:46
>>795 裴注全部読めばそんな感じのエピソードは出て来るぞ。
797 :
世界@名無史さん:03/05/14 15:32
>>796 文帝紀?
郭皇后伝じゃないよな。
一体どこの裴注ですか?
798 :
世界@名無史さん:03/05/14 16:00
おれも
>>781のエピソード読んだことあるぞ・・・。
曹丕の母親が怒ったというエピソード。
799 :
世界@名無史さん:03/05/14 16:35
曹丕の母親といえば卞皇后になるが?
郭皇后はどこへいった?
800 :
世界@名無史さん:03/05/14 23:04
卞皇后の間違いだ。
知ってて知らないふりしてたのか?
そういう陰険なヤツいるよな・・・
誰とはいわんが。
801 :
世界@名無史さん:03/05/14 23:33
>>800 なぁ、それよりどこに書いてあるのか教えてくれよ。
卞皇后伝にも書いてないぞ?
なんか殺伐としてるなあ。
803 :
世界@名無史さん:03/05/14 23:48
烝は遊牧民の習慣。
んでも遊牧民がガンガン入って来始めた頃だからどーなんだろ?
漢人も影響受けた?
805 :
世界@名無史さん:03/05/15 18:25
>>803 いや、俺は確かに読んだ事あるぞ。
とりあえず、調べてみる。時間をくれ。
むーん。かなり時間をくれ。
807 :
世界@名無史さん:03/05/15 21:54
魚豢って正史に名が出てこないよね?
儒学者らしいけど・・・
>>804 烝って何だい?
>>807 魚豢って『魏略』書いた人ね。
読んでないけど自伝は書かなかったんじゃないの?
陳寿は『魏略』参考書にして『魏書』書いたんだけど、参考書に書かれてなかったことは書かなかったと...想像ですけど。
遊牧民の厳しい生活環境では女はおっぽり出されると野垂れ死ぬしかない。
だから父親が死ぬとその女は息子が引き継ぐ。
漢族には烝といってタブーだった。
でも唐朝には当たり前になってますね(則天武后とか楊貴妃とか)。
曹丕の頃に既にタブーでなくなったかどうかは知りません。
失敬、楊貴妃は逆だった。
息子の女をオヤジが取った。
馬超が曹操を狙う際に、許緒がいて手出し出来なかったと
ありますが、圧倒的財力のある巨人軍の4番のような許緒
とは、三国志の豪傑の中でも一等の評価がありえますか?
劉備のもとに居たなら、豪傑として、関羽や張飛くらいの評価
がされた可能性は無いですか?
813 :
世界@名無史さん:03/05/18 13:46
>>809 曹丕の頃もタブーでしょ。
兄嫁ならまだしも・・・
曹丕の場合は、何人も自分のモノにしていたようだから、
高宗や玄宗よりひどいかも。
でも、実話かどうかは不明なんだよね。
曹丕ってタブー破りで有名じゃなかったっけ
815 :
世界@名無史さん:03/05/19 00:36
三国志集解のレア話部分だけを集めた本ってないの?
816 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/05/19 21:01
>>811 許チョは、親衛隊の指揮官
関羽は、方面軍の司令官
張飛は、一軍の司令官
同列では語れないと思いますよ。
>>816 そんなマジレスしちゃいけません。
適当に遊んであげなさい。
劉備の能力について質問です。
曹操や数多ある軍師の持つ戦略的な能力や、
関羽、張飛のような豪傑のごとき戦闘能力はないけれど、
彼の戦場における戦術指揮能力は、戦べたどころか、
義勇兵を率いて戦場を闊歩してきたキャリアからすれば、相当に高いはず、
というような説に、どこかでお目にかかったことがあるんですが、
そういう評価は一般的なんでしょうか?
819 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/05/20 21:07
>>818 劉備は元々、傭兵として反乱鎮圧に参加しては、
官職にありつくということを商売にしていました。
世が乱れると、友人の公孫讃の配下となり、
青州戦線に参戦し、平原国の相という高いポストにまで昇進します。
おそらく、何らかの戦功があったのでしょう。
彼はその生涯において、常に軍の主力を率い続け、
曹操配下の夏侯惇、劉岱、王忠、蔡陽らを打ち破りました。
決して戦略的に有利とは言えない益州攻略を成し遂げ、
漢中攻略戦でも、曹操を撤退に追い込んでいます。
彼がその長い軍歴で敗北を喫した名のある武将は、曹操と陸遜だけでした。
劉備の軍事能力は、当時においては屈指であったと思われます。
>>818 そもそも、少数兵と大軍の統率力を同じに見ること自体が変じゃないか?
822 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/05/20 22:37
>>819 曹仁に敗れたのは、主に兵力の質と量の差によるものだと思われます。
曹仁は当代屈指の名将でしたが、互角の条件で戦っていたら、軍配は劉備に上がっていたのではないでしょうか。
そのため、敗戦には加えませんでした。
実戦指揮能力に問題があると思われる夏侯惇はともかく、軍功によって列侯に封じられた劉岱、
少数の私兵で南陽に割拠していたロウ圭を打ち破り、曹丕の時代まで軍部の重鎮として重きをなした王忠、
汝南で蠢動する劉備軍の殲滅を命じられるほど、曹操に信頼されていた蔡陽など、
決して無能ではないと思われる将帥たちが劉備の前に敗れています。
そして、劉備は益州攻略戦、漢中攻防戦で、大軍の統率力にも長けているところを見せています。
>>822 でも曹仁は「劉備が強兵を以て臨んでいる」と言っているし
当時は袁紹の客将だったのだから数も少なくはないと思う
まあ、漏れが言いたかったのは曹操、陸遜以外に曹仁にも負けていると言いたかっただけで
劉備が戦上手だというのには同意だよ
menu:818
>そういう評価は一般的なんでしょうか?
一般的だとおもいますけど。なんか質問の内容がしっくり来ないです。
イキマス
いやぁ、一般的ではないと思うが・・・。
実際、劉備が勝利を得ているのは局地戦がほとんどで、
重大な戦局で見誤ってる事が多い気がする。
まぁ、重大な戦局といっても数えるほどなので、
総合的に見ると戦勝率はやはり高いと思われます。
あと、赤壁での劉備の功績は意外に評価が低い気もする。
827 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/05/21 00:23
>>826 劉備は戦術能力には長じていましたが、戦略眼に欠けていました。
そのために、荊州名士の支持を得るまで、確固とした基盤を築くことが出来なかったのです。
なお、赤壁戦においては、追撃の指揮を取りましたが、
決断の遅れから、曹操軍主力を殲滅するチャンスを逸しています。
過大評価だな
>>822 勝率が5割程度の劉備が同じ条件で魏一の名将曹仁に勝てるとはとても思えんが
というよりも、兵力等の差があって負けたからと言って、
「同等なら勝ってたでしょう」と言ってる事自体がヲカシイだろ。
それに、曹操が蔡陽を高く信頼していたなんて、どの記述から分かるんだ?
青は論理が飛躍しすぎ。
なんだっけ、華陽道で火つけるの遅かったんだよね、確か
833 :
世界@名無史さん:03/05/21 10:57
>>830 つーか、勝率が5割って根拠は何?
脳内で思い込んでるだけのバカは三戦板に帰った方がいいよ。
シバイに鎮圧されたコウソン氏ですが、シバイが
攻略の際に強敵であったとありますが、勢力的にも
巨大であったのですか?簡単に鎮圧されたイメージが
強いのでしっくりしないのですが。コウソン氏について
しりたいです。
835 :
世界@名無史さん:03/05/21 12:05
ちょっと遅いレス(
>>699-708らへん)
「春秋」魯の襄公二年のところに
冬、仲孫蔑が、晋の荀オウ・斉の崔杼・宋の華元・衛の孫林父
曹人・チュ人・滕人・薛人・小チュ人と戚で会盟をおこない、ついに虎牢に城壁を築いた
とあった、多分これが虎牢関の元になるヤツだと思うんだけど
>>837 そうだとは思うけど、しばらくそこから名が見えないんだよね。
数十年程度だったら納得できるけど、そんなモンじゃないから。
元だとは思うけど、それ以降との繋がりはビミョ〜だよね。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
833=838
おまえがアホだろ
先主伝もろくに読んでないのがバレバレだぞ(藁
842 :
世界@名無史さん:03/05/22 00:16
煽り厨か
やっと覚えたんだろう。
煽りも、曹仁も。そっとしておいてやれ…
845 :
世界@名無史さん:03/05/22 04:09
>>834 淵 遣 將 軍 卑 衍 、 楊 祚 等 步 騎 數 萬 屯 遼 隧 ,
圍 塹 二 十 餘 里。 宣 王 軍 至 , 令 衍 逆 戰 。
宣 王 遣 將 軍 胡 遵 等 擊 破 之 。
兵力が書かれているのはこんなもんだろう。
ま、せいぜい総勢十万くらいの兵力だったって事だ。
あっけなく破られてますな。
846 :
世界@名無史さん:03/05/22 04:55
自分が論破されると荒らし扱いかよ。とことんクズだな。
どうでもいいから、勝率が5割の根拠をはよ出せや。
ソース出せないなら、オマエが煽り厨で決定だな。
>>845 ありがとうございます。規模もそこそこなので
兵隊が戦う気がなかったのかもと推測します。
まさに張子の虎ですな〜
>>846 おまえも何でそうなるんだ?
5割について833が検証して納得いかなかった理由を書けば根拠も書いたよ
調べれば簡単に劉備の戦歴なんてわかるだろうに
それをした姿勢もなく煽りの連発だもんなあ
で、5割の根拠は正史の先主伝の戦歴はだいたい21戦ぐらいにわけられる
まあ21戦というのは受け売りだが自分で検証しても特に問題はないと感じた
それから勝敗をつけると21戦10勝9敗2分け勝率5割
戦績について、個人の見解で多少食い違いはあるだろうが
極端な差はでないはず、後赤壁の戦いなどは一切認めない人もいるだろうが
先主伝にしたがって勝ち勘定に含めた
849 :
世界@名無史さん:03/05/22 19:52
851 :
世界@名無史さん:03/05/22 20:58
劉備は兵法に通じていたかというと、そういう記述はない。
もっぱら関羽・張飛・趙雲らの槍働きに頼っていたのだろう。
徳川家康みたいなもんじゃない?
>>851 そういう連中を集め、かつ牛耳るというのも、統率力…軍事的才能の一つだと思うが?
>>850 まあ詳細がわからないけど
そのサイトの方が色々と細かく検証してるのかな
ただ曹操は67戦58勝9敗っていうのもあるし
どれを信用するかは難しいところでは
>>837>>839 春秋期の虎牢も、鄭領内の黄河南岸に存在し、対岸には刑丘があるようで、
おそらく漢代の水関と場所は同じなんではなかろうか。
『春秋左氏伝』にみえる記述では、黄河の南岸に城くことで、鄭に脅威をあたえ
られるとあるし、この時代から戦略的意義をもった場所だったんだろうか…。
>>853 たださ、演義や吉川・横山三国志、あるいは蒼天がイメージするような人徳だけの人物じゃなく、
義勇兵時代からの場数を踏んだ、プロの戦争屋には違いないと思うよ。
上手いか下手かも兎も角として、経験の豊富なね。
名将と呼ばれる者には歯が立たないが
並みの武将なら軽く返り討ちにできるぐらいの器量はある
そういうイメージだな劉備は
857 :
世界@名無史さん:03/05/23 15:42
「俺と馬超」
ガタン!ゴトン!バッターン!!
寝床が激しい音を立ててきしんでおります。
俺(何という猛将だ…)
馬超「俺の名を呼べっ!」
俺「馬超殿!」
馬超「もう一度!」
俺「錦馬超っ!!」
そして、馬超殿は絶頂に達する時、この様に叫ぶのです。
「父上ーーー!!鉄っ!休ーーーーーーー!!!!!
ぉのれ、曹操おおおおおおぉぉ・・・・!!!!!!!!!!!」
激し過ぎる情事の末、俺は華陀の元へと運ばれました
>>857 三戦でやれ。あっちなら感想も聞けるかもしれん
いま思いついたことだ。
ずいぶん昔、このスレの初代か二代目で、なんで三国志だけ「志」なのかが話題になった。
今、思えば「志」は他の正史では、お馴染みではないか。
文体明辯によれば、「志者、記也」とあり、事物の記録を指すもの、
これは漢書の体裁に倣ったもの、という。
なお、これは今、大漢和辞典で孫引きしたやつだ。こんちくしょう。
三国志には食貨、地理、天文、音楽、職官などの、いわゆる「志」が存在せず、
魏志、蜀志、呉志が存在する。
つまり三国志とは、魏、蜀、呉についての志が三つあるだけのもので、
通常の正史の体裁を保っていないのだ。
ただ、三国の志を記すにあたって、紀伝体の体裁をとった。
ゆえに本紀、列伝は存在するが、志と同列ではなく、その中身となっているのであろう。
そして、その他の志が存在しないのだろう。
陳寿は完成された紀伝体の歴史書を記したのではなく、
たんに志を三つ作っただけなのではないか?
だから、これは魏書でも三国史でもないのではないか?
曹氏のみ皇帝家の体裁で書かれているのは、それこそ晋朝に憚ったものだろう。
本来、陳寿は魏呉蜀、いずれにも正統性を認めていないのだ。
それは陳寿一人の考えか、当時の一般的な風潮かまではわからない。
なお、これ全部、俺の妄想。根拠はない。
一応言っておくが、旧唐書では
魏国史
呉国史
蜀国史
として三書別々に記されている。
あと、魏志・呉志・蜀志は通称で、三国志内なら魏書・呉書・蜀書だな。
残念だったが、次はがんがれ。
他にも指摘したい箇所を見つけちゃったけど、まぁ今回はいいや
862 :
世界@名無史さん:03/05/25 01:12
荀ケって中常侍の唐衡の娘を娶ったってされてるけど、
宦官の実の娘って事はないから養女?
普通、養子だけかと思ってたが・・・
やっぱ名家と縁戚になる為の手段なんかのー。
863 :
世界@名無史さん:03/05/25 01:14
そのケースはどうか知らんが、実の娘もあり得る。
繁殖後に去勢されるケースもあるから。
少なくとも前漢にはあったよ。張賀とか。
865 :
世界@名無史さん:03/05/25 05:38
陳寿が姓+字で記してるヤツって
名前が懿・師・昭・炎の可能性があるよね?
衷も避けてるのかな・・・
韋昭が有名
正史ってどこで読めるんだ?
演技と正史が混じったような、本なら結構みれるんだが
>>867 ド素人は三戦板にでも逝っててください・・・・。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
鎮守のを訳したのを読めばいい。
換羽が顔料を破ったのは事実だし、卯筋が名勝だし、火口縁も名勝だし
総人も名勝。まぁ一番はなんだかんだ曹操か
871 :
世界@名無史さん:03/05/28 15:31
程育が関羽と張飛を一万人相手にできるぜ!!奴らは
っていったのって正史だっけ?演技だっけ?
>>870 読みにくい誤変換しないでくれよ。
ま、一番は曹操でいいとして、次に来るのは陸遜と諸葛亮じゃね? 正史での扱いなら。
>卯筋が名勝だし、火口縁も名勝だし
どうしてこういう馬鹿が来るんだよ・・『魏書』列伝の何処を読んだらそうかいてあるというんだっ・・
・・・三戦板へでもどこへでも・・いけっ・・
874 :
世界@名無史さん:03/05/28 22:34
夕刊フジでは、災難よけのために、紙の人形に顔を描いて、
それを身体になでつけて、息をふきかけて川へ流す方法を
紹介しています。これは神社での厄落としの方法と同じです。
厄落し用の人形を見たことのある人はご存じかと思いますが、
この人形の特徴は、口がありません。顔そのものがない場合も
あります。このいわれは、中国の『魏氏春秋』の話が元になって
います。
「杜畿(とき)という人が、ある日不思議な童子(どうじ)に
出会った。童子は、まもなく杜畿が死ぬことを宣告した。杜畿が命乞い
をすると、「今後、いっさい口をきかない」ことを条件に、童子に命を
助けてもらった。二十年後に、思わず言葉を発した瞬間、杜畿は死んだ」
875 :
世界@名無史さん:03/05/28 22:36
上はあるサイトのコピペだけど、杜子春の元ネタか?
魏志では杜畿は曹丕の時代に船が転覆して死んだらしいが・・・
別人か?
876 :
世界@名無史さん:03/05/28 22:42
スマン、この話そもそも魏志の注に載ってたわ。
別人も何も同じ人だった・・・
>>875 杜畿伝にて裴注に引かれてるから、同一人物だと思う。
神仙童子の話はいかにもな民間伝承風だから、
そういう話があって、たまたま杜畿を主人公に当てはめたものが
どこかの地で語り継がれたものでしょう。
878 :
世界@名無史さん:03/05/28 22:54
879 :
世界@名無史さん:03/05/28 23:15
正史もなんだかんだで嘘くさい
伝、紀の本文の長さ。
・・・もっとも後主伝のような内容で長くても問題だが。
882 :
世界@名無史さん:03/05/28 23:24
>>880 曹操が三国時代で一番優れていた人物であることは
間違いありませんがなにか?
883 :
世界@名無史さん:03/05/28 23:52
非情の人、超世の傑。男ならこんなふうに評価してもらいたいもんだ(ふぅ
884 :
世界@名無史さん:03/05/29 01:27
>>873 干禁と夏侯淵は間違いなく名将だろ。
それまでの功績を無視して最後だけで評価してる香具師が、
ちゃんと正史を読んでるとはとても思えんな。
夏侯淵は確かにすごいな。劉備の評価が信じられない
夏侯淵は、機動戦が得意で
拠点防御は不得手という説を聞いた。
だとしたら、そんな奴に漢中を預けた奴が悪い。
887 :
世界@名無史さん:03/05/29 01:52
遼来来
しょうべんちびっちまった
なんか、レベル低いね、最近。
三戦板の正史スレの方がマシかも。
892 :
世界@名無史さん:03/05/30 12:42
>>886 どこで?漢中戦でそういう評価になっただけでは?
韓非の影響が三国志にはあまり見られない。
あれほどの思想を。
894 :
世界@名無史さん:03/05/30 13:05
皆さん博識ですね〜
自分で翻訳しようとしたけど、仕事しながらだときついわ
後漢書の邦訳でほぼ完訳ないのかなぁ・・安くて
897 :
世界@名無史さん:03/05/30 20:29
5000円で売ってる
899 :
世界@名無史さん:03/05/31 00:11
>>898 上手いタイミングで貼るなぁ(w
もうちょいでクリックする所だったよ。
>>899 クリックしちゃったwタイミングいいよね
「捜神記」だとお馴染みの武将の怪談奇談がいっぱいあるけどなぁ。
演義に採用された話しもそうでないのも。
皆さん呉は地味ですか?そうですか。
>>902 せっかく三国が分けられてるのだから
つべこべ言わず、正史を読め
呉書あたりを読めば読むほど
「周瑜(・∀・)マンセー」「孫策(゚д゚)ペッ」
ってなるのは自分とその友人くらいでしょうか。
ちなみに友人は呂布・袁紹・袁術、自分は皇甫嵩・孫堅のマニアでつ(´Д`)
905 :
世界@名無史さん:03/06/02 03:03
三国志の志は郡国志の志と同じだろうね。
どれも中華の統一王朝ではなくて一地方政権という意味合いだろう。
統一王朝の漢・晋の歴史書は漢書・晋書だからな。
王沈は魏を正統王朝だとしたから魏書としたんだろう。
906 :
世界@名無史さん:03/06/02 09:01
907 :
世界@名無史さん:03/06/02 09:05
世界史板とは思えないほどレベルが低くなってきたな…
909 :
世界@名無史さん:03/06/02 10:11
>>383 渡辺精一の「諸葛孔明 影の旋律」という本の中に諸葛亮と諸葛瑾の非兄弟説が載ってた
>>909 でも、非兄弟説を主張するやつ等って、孫権と諸葛恪の問答とか、どういうふうに
決着つけてるんだろう。
912 :
世界@名無史さん:03/06/03 15:18
張松も語ってやってくれないか?
913 :
世界@名無史さん:03/06/04 12:33
張松が生きていたら法正以上に重用されてたんだろうな・・・
しかし、兄貴は劉備の成都入り後どうなったんだろう?
探したけど、無かったyo <兄貴
張粛だっけ?
>ハリマツ
所詮は謀反する、クーデターする、裏切ってる、っつう緊張感に
耐えられなかった香具師だしなー。
あの最期は香具師の器がさほどでもなかったことを証明してるような。
ま、それなりに頭の切れる男だったかもしれんけど
読み直したら異母兄弟説だった>諸葛孔明 影の旋律
非兄弟説もあるよ
919 :
世界@名無史さん:03/06/11 11:15
魚豢の魏略って典略の中の一つの巻っていわれてるけど、
蜀略や呉略もあったのかな?
ないような気もするが・・・
たしか、魏略の他に志などがあったけど、
呉や蜀は関係なかったと思われ。違ってたら誰か訂正きぼん
921 :
世界@名無史さん:03/06/12 01:28
徐バクがボラの絵を描いて川辺に置いたらカワウソが集まってきた
という話は正史と注にはないよね?
922 :
世界@名無史さん:03/06/16 17:10
age
とりあえず、ちくまのヤツには書いてなかった
924 :
世界@名無史さん:03/06/17 20:26
呉・晋に仕えて交州刺史となった陶コウって
陶謙と同じ丹陽郡出身だけど、子孫もしくは一族かな?
925 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/17 21:14
>>924 晋書陶コウ伝によると、陶コウの父は呉の交州刺史陶基です。
それ以前の先祖に関する記述はありません。
もし、陶謙ほどの著名人が近い系統にいたら、必ず史書に記述があるはずです。
同族の可能性はありますが、それでも遠い系統でしょう。
蛇足ですが、建業に迫っていた晋軍に最後の決戦を挑んだものの、
夜中のうちに兵に逃げられて戦えなくなったという大恥を晒した呉の荊州牧・鎮南将軍陶濬は、陶コウの弟です。
926 :
世界@名無史さん:03/06/17 21:22
しかし、陶謙の子二人はその後行方不明だよね?
呉に仕えたと考えてもおかしくない。
陶基なる人物が刺史になれたのは陶謙の知名度による物と
考えられないか?
とすると、かなり近い血縁関係にあったのではなかろうかと・・・
927 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/17 22:26
>>926 魏晋南北朝の時代は、家柄がとやかく言われた時代だったのでした。
そのため、近い系統に仕官した人物がいたかどうかは、士人にとっては大問題でした。
東晋の大将軍陶侃の父である呉の揚武将軍陶丹は、
陶侃の父であったということ以外に事跡のはっきりしない人物でしたが。
それでも晋書に名前が記載されています。
まして、陶謙は後漢の徐州牧・安東将軍・栗陽侯となった実力者であり、魏書に立伝されるほどの人物でした。
近い系統の先祖にこれほどの大物がいれば、晋書にもそのような記載があったはずです。
晋書陶コウ伝に、陶基以前の先祖に関する記載が無いのは、
陶基の交州刺史が、陶コウの近い系統の一族が得た唯一のめぼしい地位だったからでしょう。
928 :
世界@名無史さん:03/06/17 22:35
刺史にはそれなりの血筋がないとなれない気がするが・・・
陶侃は廬江の人となってるね。
丹陽の陶氏と関係あるのかどうか。
丹陽は丹楊とも書くね・・・
三国志では圧倒的に丹楊なんだけど何でだろう。
929 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/17 22:46
>>928 おそらく、陶基一族は丹揚ローカルの豪族だったと思われます。
そして、陶基の代に武功で交州刺史の地位を獲得し、軍人貴族に成り上がったのでしょう。
呉書には、ローカル豪族が武功で高位高官を獲得した例は数多く見られます。
>>929 中国じゃ、出身が同一の同姓を、同族と見る向きがあるが…
魏晋の頃はどうだったんだろう…
931 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/17 23:41
>>930 ヘイ州太原郡には、後漢の司徒王允・魏の大尉王凌を輩出した一族と、
魏の司空王昶・西晋の司徒王渾・西晋の驃騎将軍王沈を輩出した一族の、
二つの名門の王氏が存在していました。
しかし、この二つの王氏は同族扱いされていません。
もっとも、二つの一族は同郡でも、出身県が違うのですが。
932 :
世界@名無史さん:03/06/17 23:53
王姓はメジャー過ぎ。
陶姓くらいだと同族の可能性は十分ありうる。
>>931 返答ありがとう
と言うことは、王允の一族と王昶の一族は、同郡出身という地縁と
同姓であるという縁(結婚が出来ないとか…)位しかないわけですな
上に出ている、陶謙と陶コウも、その程度に縁で
仮に同族であっても、祖先だけが同じっていう程度なんでしょうね
934 :
世界@名無史さん:03/06/18 00:12
太原王氏の一件だけでそう決めつけるのは早すぎる。
935 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/18 00:33
>>933 なお、七王の乱で暗躍した梟雄張方は晋書に立伝されている人物ですが、
黒山賊の首領であった後漢の平北将軍・安国亭侯張燕の一族であることが、明記されています。
この例からも分かるように、立伝されるほどの人物と近い系列に大物がいれば、必ず記載されるのです。
陶謙と陶基は同族ではないか、同族だったとしても遠い系列だったと思われます。
陶基一族は、陶基・陶コウ・陶威・陶淑・陶威の子の陶綏の四代五人が、
呉・晋の時代にまたがって交州刺史を務めた軍人貴族であり、
その族譜も晋代には明らかだったはずです。
それなのに、史書に陶基以前の人物の名前が挙がっていないのは、
めぼしい人物がいなかったからと思われます。
936 :
世界@名無史さん:03/06/18 01:03
必ず記載されているかどうかは分からないはずだが?
記載されているのは編者がそれを知っていてなおかつ
それを記したという事であり、編者の知識の及ばない
所も必ずあるという事。
史書がもれなく先祖を記すという事は無理であり、代々名族
とされる人物にも先祖の名を記さない事がよくある。
938 :
世界@名無史さん:03/06/18 09:00
次は?
双方の意見は判るのだが、両方とも論が強引すぎないか?
同族の可能性もあるね、で十分だと思われ
940 :
世界@名無史さん:03/06/18 22:10
陶謙の二人の子の行方はどうなったと思う?
941 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/18 22:39
>>939 そうですね。
出身県が同じ県であれば、同族である可能性は捨てきれないと思います。
ただ、直系の子孫と考えるのは、難しいと思います。
>>940 陶応、陶商は仕官しなかったそうです。
その後、丹揚に帰ったか、徐州に留まったかは定かではありません。
どちらにしても、二人には苛烈な運命が待ち受けていたことでしょう。
942 :
世界@名無史さん:03/06/19 00:55
陶謙と孫氏には確執は無かったと思うけど?
丹楊に帰ったなら普通に暮らせたんじゃない?
丹楊は孫権の弟が治めてたんだっけ?
943 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/19 01:31
>>942 呉書によると、孫堅の遺族は徐州に近い江都に住んでいましたが、
陶謙の迫害を恐れて、孫策は丹揚に、他の一族は曲阿に移り住んでいます。
また、孫策と家族ぐるみの付き合いをしていた呂範が陶謙に逮捕されて、
拷問を受けるという事件も起きています。
もともと、陶氏と孫氏の関係は良くなかったようです。
ただ、孫策が江東を平定すると、
曹操の徐州大虐殺を逃れてきた人々が大勢流れてきたため、
相対的に孫氏政権内での陶謙の評価は上がったようです。
魏書陶謙伝において、陶謙に対して良い評価を与えている文章のほとんどは、
裴松之が引用している呉書・呉録といった、呉で編纂された書物でした。
孫氏と陶氏の間に確執は存在していましたが、
徐州出身者に対する配慮や、プロパガンダのため、水に流すことに決めたようです。
>>943 そういや張昭も陶謙に非道い目に遭わされているよね
張昭が、親への恨みを子で晴らすとは思えないが…
陶謙の子供からしたら、張昭とは会いたくないよなぁ〜
陶謙って意外に悪者だね。
946 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/19 02:19
>>942 漢末の丹揚郡は激しい戦乱の渦に巻き込まれていました。
本来の丹揚太守は周マでしたが、袁術の将軍呉景の侵攻を受け、敗北しました。
この戦いはかなり凄惨なものだったようで、呉景の無差別虐殺によって決着が付いています。
しかし、丹揚太守となった呉景は、揚州刺史劉ヨウに攻められ、丹揚を追われます。
呉景は何度も反攻を試みますが、劉ヨウの将軍張英に撃退されます。
しかし、袁術の将軍孫策が呉景軍と合流すると、形勢は逆転し、敗北した劉ヨウは豫章に撤退します。
それでも、民衆反乱軍首領の祖郎や、劉ヨウの元将軍で丹揚太守を自称する太史慈の勢力が抵抗しており、
孫策が袁術からの独立を策して、袁術が任命した丹揚太守袁胤を武力で追放するなど、騒乱状態が続いていました。
最終的に丹揚が安定するのは、197年に孫策が祖郎を捕虜にしてからです。
なお、陶謙が死亡したのは194年。
呉景と劉ヨウが丹揚を巡って争っていた頃です。
この時期に陶応と陶商が帰郷したとしたら、彼らは荒廃した故郷に愕然としていたことでしょう。
そして、激しい戦乱に巻き込まれていたことでしょう。
丹揚が安定するまで生き抜いたとしても、今度は孫策の統治下で暮らすことになります。
彼は多くの名士や豪族を殺害し、父の友人であった王晟まで殺そうとした苛烈な人物です。
果たして、怨恨のある陶謙の息子が、無事でいられたのでしょうか?
947 :
世界@名無史さん:03/06/19 02:21
孫策の江東平定って何年だっけ?
後、徐州から大勢人が流れてきたら、何で陶謙の評価が
上がるのかよく分からないのだが・・・
>>947 そんくらい自分で調べろアホ。
人にモノを尋ねる時は丁寧に言え。
949 :
世界@名無史さん:03/06/19 02:30
人をアホ扱いするヤツが丁寧語を要求するなよ。
950 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/19 02:40
なお、陶謙に対して高い評価を与える資料が編纂されたのも、
孫氏政権がむやみに人を殺さなくなったのも、孫権の時代になってしばらくしてからです。
陶謙に個人的な恨みがあり、残虐なことで有名だった孫策の時代なら、
有無を言わさず殺されていてもおかしくは無いはずです。
なお、197年に孫氏政権下で最初の丹揚太守となったのは、
袁胤襲撃を指揮した将軍徐昆でしたが、すぐに呉景と交代しています。
203年に呉景が死ぬと、孫権の弟孫翊が丹揚太守になりました。
204年に孫翊が殺されると、孫権の従弟孫瑜が丹揚太守になりました。
951 :
世界@名無史さん:03/06/19 02:54
丹揚という呼び方は一般的ではないよ。
漢書地理志に出てくるけどさ・・・
丹陽または丹楊と書かれる場合がほとんど。
孫策が残虐かどうかは微妙だと思うが・・・
また、孫氏一族が陶謙により実害を受けたって事もないんでしょ?
頼ってきた子供を殺すまではしないと思うけど。
曹操は親の仇の子だから、当然血祭りに上げただろうね。
952 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/19 03:06
>>947 >孫策の江東平定って何年だっけ?
孫策の江東平定は、200年の盧陵平定をもって完了します。
>後、徐州から大勢人が流れてきたら、何で陶謙の評価が
>上がるのかよく分からないのだが・・・
曹操の大虐殺で故郷を離れざるを得なかった人々から見れば、
陶謙の統治下で平和に暮らしていた時代は懐かしく思い起こされたことでしょう。
孫氏一族は陶謙に苦しめられましたが、徐州出身者が江東に定着するにつれて、
彼らの声を無視できなくなったように思われます。
また、三国はいずれも盛んにプロパガンダ文書を作り、自国を持ち上げ、敵国を貶めることに熱心でした。
呉は徐州大虐殺を、魏の正当性を貶める材料として持ち出していました。
裴松之が徐州大虐殺の項で注に引用した文章の出典は、呉で編纂された「曹瞞伝」です。
陶謙が孫氏一族の仇敵であったにも関わらず、呉で編纂された書物で好意的に扱われているのは、
曹操を憎悪し、徐州が平和だった時代を懐かしむ徐州出身者の感情への配慮と、
徐州大虐殺を行った曹操を非難するために、陶謙を持ち上げる必要があったからだと思われます。
954 :
世界@名無史さん:03/06/19 03:20
陶謙は徐州で善政を布いていたようには思えないのだが・・・
あと、陶謙自身も曹操を怖れて丹楊に逃げ帰ろうとしたみたいだね。
955 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/19 03:40
>>951 >丹陽または丹楊と書かれる場合がほとんど。
呉志を読んでみたところ、おっしゃる通りでした。
御指摘をいただき、ありがとうございました。
>孫策が残虐かどうかは微妙だと思うが・・・
孫策は自分の部下と民衆には寛容でしたが、豪族や自分に従わない名士には苛烈でした。
>また、孫氏一族が陶謙により実害を受けたって事もないんでしょ?
実害を受ける前に江東に逃れたから、実害を受けなかったのです。
>頼ってきた子供を殺すまではしないと思うけど。
劉ヨウが197年に死んだ時、長子劉基は14歳でした。
彼は故郷の東莱郡に帰ることが出来ず、江東に留まらざるを得ませんでした。
呉志に「劉基は多くの苦難に見舞われ、苦労をなめ尽くした」という記述があり、
王朗が孫策に、劉基の立場を心配する手紙を送ったことなどから、彼は孫氏政権下でかなり苦労したようです。
劉基が孫氏政権に仕官して、ようやく地位が安定したのは214年。
父が死んでから、17年もの月日が経っていました。
少年に過ぎなかった劉基でさえ、17年間も苦しい立場に置かれて来たのです。
132年に生まれ、194年に没した陶謙の息子なら、劉基より年上である可能性が高いでしょう。
そんな彼らが帰郷した場合、孫策の豪族・名士弾圧政策の標的になる危険は、
劉基よりはるかに大きかったと思われます。
彼らが陶謙の晩年に生まれた子供なら、江東に渡るより、
父の恩顧を受けた劉備の保護下にいる方がはるかに安全だったでしょう。
956 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/19 03:51
>>954 >陶謙は徐州で善政を布いていたようには思えないのだが・・・
陶謙はロクな政治をしていませんでしたが、
それでも徐州の黄巾を平定し、徐州の治安を安定させました。
そのため、徐州には中原から多くの流民が流れ込みました。
曹操の大虐殺によって、安定した生活を失い、
未開の江東に逃れざるを得なかったという事は、
悪夢以外の何物でもなかったでしょう。
957 :
世界@名無史さん:03/06/19 23:41
劉ヨウが死んでから孫策が死ぬまでわずか3年な訳だが、
その間に劉基が辛酸をなめ尽くしたなんていえるの?
なめ尽くさせたとしたら孫権の代じゃないの?
孫策は旧怨を捨てるときは割とあっさり捨てるよ。
それに陶謙とは直接矛を交えた訳じゃないから、息子が困って
身を寄せたら保護すると思うけどな・・・
陶謙の二人の子は最初は劉備の下にいたんだろうね。
徐州が呂布の手に落ちた後、呂布に仕えたとしたら、曹操が
攻めてきた時に逃げ出したかもね・・・
逃げる先は当然故郷の丹楊だろう。
>>957 だな。そんなに冷遇されてたら、大農になんか任命されないよ。
大農もそうだけど、平尚書事は最高権力者だよ。
>孫策の豪族・名士弾圧政策
漏れは孫策をあまり好んではいないけれど、これは酷すぎる。
何をどう読まれたかは存じないが、張昭や張紘、秦松、陳端、
さらに華歆や王朗など、名士を引き入れることには拒否反応を示していない。
あと、孫権が劉基を冷遇したかのように書かれておられるが、東曹エンはかなりの厚遇でしょう。
ちなみに、東曹エンは府の属官で、長史の次席のようです。
三戦ならともかく、世界史板で書かれるのは軽率と存じます。
961 :
世界@名無史さん:03/06/20 23:12
sageで書くのは何故?
別に荒れないでしょ?
東曹掾は将軍府の属官でしょ?
驃騎将軍・孫権の幕府の属官、ですよ。
事実上、劉基は呉という半独立国の要職に就いていたわけ。
sageについては、専用ブラウザを使っているから。
それと、ageない方がより荒れないから。
dat落ちしない程度に、
たまにageればいいんでないの?
つーか、どっちでもいい。
いや、ageでもsageでも保守は出来るから
問題は最終投稿時間だからね
ageる必要は無いよ
967 :
世界@名無史さん:03/06/21 23:45
下にあると目立たないから書き込み少なくなるんだよ。
できるだけageた方が良いと思われ・・・
ところで、次スレはいつ頃?
諸葛亮の北伐と韓信の北伐を一緒にしている人へ(某スレの374
まず全然状況が違うことを頭に入れたほうがいいと思う。
誤爆?
>>968 うむいいことに気づいた。
980が踏んだ人が立ててください。立てれない場合は踏まないでください
972 :
世界@名無史さん:03/06/22 04:50
>>965 sage保守は人気潜水スレでないとdat落する可能性が高い。
973 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/23 03:19
>>957 >劉ヨウが死んでから孫策が死ぬまでわずか3年な訳だが、
>その間に劉基が辛酸をなめ尽くしたなんていえるの?
14歳の少年にとって、戦乱の中で父が死んでしまい、
しかも現在滞在している土地の支配者が、父の敵だった相手となれば、
3年でも十分に辛くはないですか?
また、孫権時代にもそれなりの苦労はあったでしょう。
>それに陶謙とは直接矛を交えた訳じゃないから、息子が困って
>身を寄せたら保護すると思うけどな・・・
祖郎に負けた時は自分の馬の鞍に刀を切りつけられるような目にあってますが、
あっさり許して部下に加えていますしね。
ただ、陶応・陶商としては、名声が無い(一介の武人である)上に、父とうまくいっていなかった孫策よりは、
名声があって、かつ父の恩を受けている劉備の方がずっと頼りやすかったように思います。
>徐州が呂布の手に落ちた後、呂布に仕えたとしたら、曹操が
>攻めてきた時に逃げ出したかもね・・・
>逃げる先は当然故郷の丹楊だろう。
呂布が徐州を奪ったのは、196年。
その頃の丹陽は、孫策軍主力が会稽と呉に向かっている間に、
祖郎や大史慈の勢力が蠢動を続けていて、不安定な時期でした。
劉備に付いて、小沛に移った方が、まだ安全なような気がしますが。
徐州が奪われたのも、無血クーデターですし。
974 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/23 03:55
>>960 >>孫策の豪族・名士弾圧政策
もう一度呉志を読み直したところ、
明らかに孫策に殺された名士は、高岱だけでした。
それも誰かの陰謀らしく、孫策の政策とは無関係に殺されたみたいです。
また、沈友・盛憲殺害事件を、孫策時代の事件と勘違いしていました。
失礼いたしました。御指摘いただき、ありがとうございます。
>張昭や張紘、秦松、陳端
秦松、陳端については資料が少ないので不明ですが、
伝を読む限りでは、張昭や張紘は名士として招かれたというよりは、
孫策との個人的なつながりで参加したようです。
975 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/23 04:00
>さらに華歆や王朗など、名士を引き入れることには拒否反応を示していない。
確かに、彼らに一応の待遇は与えました。
しかし、政権の意思決定には参加させていません。
孫策政権の中枢を担ったのは、孫一族と、軍人と、
孫策と個人的に親しい北方の名士と、孫氏に恭順的な江南の名士(豪族)でした。
なお、華歆は豫章の一部しか実効支配できておらず、江南では大した影響力を持っていませんでしたが、
王朗は孫策の親の代からの仇敵であった元九江太守周昴の兄であり、
叔父の呉景をさんざん苦しめた元丹陽太守周マと組んで、徹底的に抵抗しました。
補給路を断たれ、周マを失った後、逃げに逃げて、ようやく降伏します。
果敢な抵抗ぶりと、会稽の名門周氏と組んでいたこと、
兵を失ってからも会稽郡の中を逃げ回っていたことなどを考えると、
相当な影響力を会稽郡内に有していたと思われます。
はっきり言って、許貢なんかよりずっと危険な人物です。
彼が生きて北方に帰れたのは、よほどうまく立ち回ったからでしょう。
976 :
永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/23 04:13
>あと、孫権が劉基を冷遇したかのように書かれておられるが、東曹エンはかなりの厚遇でしょう。
>ちなみに、東曹エンは府の属官で、長史の次席のようです。
劉基が初めて就いた官位は驃騎将軍府の東曹エンで、これはかなりの高官です。
また、輔義校尉・建忠中郎将の官位も得ています。
しかし、この地位に就くまでの17年間は、どうしていたのでしょうか?
呉書の記述からすれば、やはり良い待遇は受けていなかったみたいですが。
ちなみに、仕官後まで彼が冷遇されたとは書いていません。
日の当たる場所に出られるまで、17年もかかったというのが、冷遇だと思ったのです。
仕官後の劉基は、これまでの不遇ぶりがウソのように栄達しました。
49歳で亡くなった時には、郎中令・分平尚書事という、宰相クラスの地位に登っていました。
仕官する以前から、孫一族から格別の待遇を受けていたエピソードもなく、
もともと自前の兵力を持っていたわけでもないので、おそらくは自力で叩き上げたのでしょう。
977 :
世界@名無史さん:03/06/23 18:25
なんかグダグダだな
とうとう青が壊れたのか
比較の問題が抜けてる罠。
張昭とか、諸葛瑾とか、孫邵とか…
ぎっじょぶ
984 :
世界@名無史さん:03/06/24 18:56
ヾ川ノノ
ミミ 彡ノノ
ミ ル'ノ
ミ 彡 バ
ミミミミ 彡
ミミ ツノ キ
ミミ r‐―'''イ
ミミ l .,!、 ッ
ミミ f~`ー''" ,(_rtj'
ミミ l 6 'rヽ ! __.__ ____
彡 ゝ f;;;く (:::} l l l ,} / \
彡勿リハル'" `'' .ノ;;;[´ l::l ̄ ̄l l │
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---――‐.゙゙'''‐ ,,,」;"';.',゙'―-- ,,/ l ', .l ト、へ
うめ
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