三国志正史スレッド 巻二

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936世界@名無史さん:02/11/30 02:51
土地的に豊かなのは圧倒的に蜀じゃないの?
人口も益州の方が多いと見た。
公孫氏は何か東夷の首長と通婚したり、首長の首の
すげかえとかもしてたような気がするから、それなりに
広範囲に影響力はあったとは思うけど。
937世界@名無史さん:02/12/02 14:53
a g e
938世界@名無史さん:02/12/02 16:05
>>934
四国時代とかいっているのは、管見では新人物往来社から
出ていたかなりインチキ臭い「中国歴代王朝秘史事典」という
本だけだと思ったけど・・
遼東公孫氏は燕を称してから一年で滅亡しており、
国として数えることが出来るかどうかはかなり疑問だね。
ちなみに新撰姓氏録には遼東公孫氏の子孫が出てくるよ。
939世界@名無史さん:02/12/02 16:17
今の四川や雲南では二期作、二毛作ができるみたいだから
蜀の生産力は高いと推察される。
940あやめ :02/12/02 17:47
>>934 >>938
「四国時代」というのはつい先日亡くなられた大庭脩さんの「親魏倭王」あたりが
早いんじゃないかしら?この本どこの出版だったか忘れましたが、最近復刻されてます。
魏の藩國というような形式を論ずると、呉も建安二十四年に曹操に臣と称し、魏の黄初
二年には曹丕から呉王に封ぜられています。呉が魏と決定的に対立するようになったのは
孫権が約束どおり任子を差し出さなかったため、翌年に曹休の攻撃を受けることになって
自立して黄武と建元してからです。この間は藩国というべき地位に在ったわけです。
一方で公孫氏も魏の官爵を蒙ってはいましたが、事実上は独立といって差し支えなく、
殊に景初元年に自立して紹漢と建元してからの2年間は完全に独立政権でした。
941世界@名無史さん:02/12/02 18:35
>>939
でも、重要なのは当時二期作・二毛作をしていたかどうかでしょ。
942あやめ :02/12/02 18:57
>>932 >>933
令狐氏が大原から敦煌に移った時期について「新唐書」の「宰相世系表」と「元和姓纂」
ともに王莽の乱を避けて、令狐邁が西奔したものと述べていますが、「全唐文」所収の
劉禹錫の作った「東都留守令狐楚家廟碑」では、令狐顆の三十七代の子孫の令狐キュウ
(札の木偏を虫偏に入替)が拓跋魏に仕えて敦煌太守に任ぜられてからとしています。
令狐楚が徳フンの子孫というのは楚の本傳に彼の自称として述べていることで、「宰相
世系表」では前記の令狐キュウの子の整が周に仕え、その子の煕が徳フンの父となる
わけですが、徳フンの兄(失名)の子孫が楚となっています。
なお令狐整は周から国姓の宇文氏を賜っています。隋や唐の先祖が周から貰った姓のため
鮮卑の出身と疑われているのと思い合わせると、あながち令狐氏=鮮卑説も否定できない
かもしれませんね。
943あやめ :02/12/02 19:30
あと令狐氏で思い出す人としては「月下氷人」の「冰人」の故事に出てくる
令狐策という人がいます。「晉書」の「藝術傳」の索タン(沈の三水を糸偏に
入替)の條に載っている話ですが、索タンは敦煌の人とされていますので
令狐策もたぶん同郷でしょう。この当時から唐代までの令狐氏は殆どが敦煌の
人士です。
944世界@名無史さん:02/12/02 22:11
あやめ、いきなり復活&連発はまずいぞ。
945938:02/12/03 00:11
>あやめさん
情報ありがとうございます。なるほど、
故・大庭先生が最初に唱えられたのですか。

ただ、「魏の藩國というような形式」で論じても僕は燕は国とはいえないと
思いますけどねぇ。おっしゃられたことを時系列にしてみますが
呉と燕では余りにも違いすぎるような気が・・


西暦222(呉王権・黄武元)年 魏より呉王に封じられる
  229(呉の大帝権・黄龍元)年 呉独立して皇帝を称す
  280(呉主晧・天紀四)年 滅亡


西暦190(公孫度) 遼東王を称す
  その後魏に服属(国としての体裁を成さず)
  237(公孫淵・紹漢元)年 自ら燕王を称し独立(皇帝を称していない)
  238(紹漢二)年 魏に攻められ滅亡
946938:02/12/03 00:14
(前の投稿の続き)
で、・・建国後60年弱続いた呉王朝と、建国後わずか二年で滅亡し、皇帝を
名乗れなかった燕を一緒にするのは流石に無理ではないでしょうか。
燕を認めるなら、オルドス地方で30年近く独立していた
宋建の河首平漢王政権も認めないと駄目ですよね。
でも、燕より長続きはした河首平漢王政権を国として認めた例を
知りません。大庭説は只単に日本に近く知名度の高い燕を贔屓
するためにこしらえたようなもので、到底成立しがたいのでは。
947世界@名無史さん:02/12/03 09:25
おぉ、生あやめを見た
( ;∀;) カンドーシタ
948あやめ :02/12/03 19:18
確かに公孫淵は呉から燕王の爵を受ける一方で魏にも通じており、上計吏も派遣していたようで
そうなると魏の諸郡國と同様の服属ぶりということになり、形式的ではあっても支配下に在った
ものと目すべきでしょう。一旦は呉を裏切っておきながら魏から攻められると、自立後にも拘らず
臆面なくまたも呉に称臣するなど、まるで腰が定まらない政権運営なので自立性を疑われても
やむを得ないかもしれません。ただそうしたウロチョロした動向に大庭さんは存在感を認めて
四国時代と言ったのかもしれません。
宋建も長期に亘り地方支配を維持していましたが、何せ遼東以上の辺陬で細々と過ごしていたので
存在感という点で今一ですね。せめて彼が建てていた年号が伝わっていればねえ。年号と言えば
袁術は「仲家」という国号まで称したくらいだし、当然のこととして建元していると思われますが
その年号が伝わっていません。本人にとっても残念です。

大庭さんの「親魏倭王」は学生社から出版されています。ここも昔は歴史関係の講座物をよく
出してたものです。
949あやめ :02/12/03 19:31
>>938
「姓氏録」に出てる公孫氏の後裔は右京と河内の蕃別の「常世連」ですね。
一般に「常世」というと田島守による橘果の伝来などから、南方の島という認識が
定着していて、民俗学などでは琉球のニライカナイなどとの関係を指摘する向きも
ありますが、「姓氏録」のころは遼東地方あたりが想定されていたのかもしれません。
950世界@名無史さん:02/12/04 00:41
あやめラッシュキタ〜
951世界@名無史さん:02/12/04 05:09
「仲家」?
袁術の朝号は「成」じゃなかったのか?これって演義の説?
952世界@名無史さん:02/12/04 17:40
>>951
成なんて演義にも書いてないと思うが・・・

ところで、公孫氏が滅亡してすぐ倭が朝貢しているけど、
これって倭と公孫氏は対立関係にあったという事?
953あやめ :02/12/04 18:22
「成」は光武帝と争った公孫述です
成都に拠ったことからの命名です
954世界@名無史さん:02/12/05 00:24
>>951
こないだ友人とそれについて話してたんだが
光栄が公孫述の記述と勘違いして、ゲームに採用した疑いあり。
955世界@名無史さん:02/12/05 06:03
誅滅された公孫氏に子孫がいるの?
956世界@名無史さん:02/12/05 11:26
「仲家」?
ちくま文庫の正史三国志だと仲家じゃなくて仲氏になってるぞ?

これをもし国号だというなら、漢家とか漢氏とかいう表現もあることから察するに
国名(王朝名)は「仲」じゃないのか、といってみるテスト。

もっともまぁ「称号を“仲氏”とした」とあるだけで
王朝名だとか国号だとか明言してないようにみえるが・・・
957あやめ :02/12/05 13:00
袁術の国号は「後漢書」の「袁術傳」では「仲家」としており、「三國志」の「袁術傳」では
「仲氏」となっています。
当時は天下を奄有する号は「漢家」や「魏氏」のように某家某氏と称していました。そこで
新都侯だった王莽は「新家」成都に拠った公孫述は「成家」を採用したのです。
そこで「仲家」ですがこの「仲」は「中」と同旨と見てよいと思っています。「三國志」の本傳の
裴注には典略を引いて「術は袁姓が陳に出で陳は舜の後にして、土を以て火を承け應運の次を
得るを以て、又た讖文に『漢に代る者は當塗高なり』と云へるを見、 自ら以へらく『名字は之に
當れり』と、乃はち號を建てて仲氏と稱す」とあります。
当時は漢は火徳を以て天命を受けており、五行相生の理から次の天子は土徳を受けた者となると
信じられていました。そして土徳に対応する方位は「中」で古帝は「黄帝」となっています。
そこで張角は黄巾を付けたわけですが、袁術の場合は黄帝軒轅氏の子孫と信じていました。
「仲家」=「中家」というのも土徳との関係かと思われます。
958世界@名無史さん:02/12/05 15:00
なんだこのデジャヴは?
959世界@名無史さん:02/12/05 16:35
令狐景は曹芳にパチンコで弾ぶつけられまくっていた
かわいそうな人です。
960世界@名無史さん:02/12/06 02:46
袁世凱が皇帝になった時の国号もふつうに「中華」だったときいたけど
うそだろ? ほんとはなんという王朝名だったんだろうか?

もし「中華」説が本当なら、先祖(?)の袁術の「仲」にならったのか。
961世界@名無史さん:02/12/06 20:13
袁術が国号とするとしたら、陳じゃないの?
出身地の汝南に近いし・・・
俺ならそうする。
袁術が陳国を滅ぼしたのもその辺にある気がするな。
中という国号は考えにくい。
962960:02/12/07 14:50
教えれ。
963世界@名無史さん:02/12/08 17:00
>>960-961
袁術が立てた国号は「成」です。
964世界@名無史さん:02/12/08 17:03
イッテヨシ
965世界@名無史さん:02/12/08 18:44
公孫述が成家と号したと書いてあるから、袁術が仲家を号したなら
国号は仲だが・・・
問題は由来が書いてない事だな。
中華の中が頻繁に使われるから、にんべんをつけたのか?
966世界@名無史さん:02/12/08 19:47
弘農郡陝県あたりに昔仲という国があったらすぃが
関係ないか
967あやめ:02/12/09 19:48
清朝考証学の大家中の泰斗と仰がれる錢大マは「二十二史考異」で「仲家」は「沖家」の
誤写であると主張しています。その根拠はこの部分の章懐注に「或は沖家に作る」とある
点です。そして「沖家」の意味については「沖人・沖子の猶きなり」と説明しています。
「沖人」というのは「尚書」の「金滕」と「大誥」に出ている周の成王の自称です。
この両篇で成王は事実上の統治者とも言うべき周公旦に対し、幼少で未熟な君主として
指導を仰ぐべく謙遜して「沖人」と自称しているのです。「沖」は「幼」と同義です。
ところが袁術はそんなしおらしい人物でもなく、周公のような謙だるべき偉い相手も
身辺にいません。なお彼は僭号以前には自称として「孤」を用いています。これは
春秋時代には諸国の君主が第一人称としていたものです。彼は「揚州伯」を称して
「揚州牧」よりステータスの高い地方長官として自らを位置付けていたわけです。
「仲家」=「沖人」説は錢竹汀大先生の仰せではありますが従い難いものがあります。
968あやめ:02/12/10 17:20
近人では復旦大学教授の呉金華は「三國志叢考」(上海古籍出版社刊)において次のように
説いています。
「魏志」の「袁術傳」の注に「典略」を引いて「乃はち號を建てて『仲氏』と稱す」とあり、
袁術が「仲」を国号としたのは両層の意味が考えられる。一つは五行説に根拠するもので
即ち漢を火徳とし袁を土徳とし、土は五行の方位において中央に位置する、人偏を付けたのは
人が中央に居ることを意味する。
もう一つは「仲」の読音に取ったもので、つまり「巧発奇中」の「中」である。袁術の字は
公路であって讖語の「當塗高」に合しており、正に天意に的中したもののように思える。
「後漢書」の注に「仲は或は沖に作る」とあるのを根拠にして「沖人」の意味に解釈しているが、
これは単に字形の訛変に過ぎず、錢氏の説は穿ち過ぎである。
以上が呉氏の説ですが、「仲」の読音に取ったもの云々とあるのは、「中」には平声東韻と去声
送韻と両読音があることを指摘したものです。前者は「真ん中」という位置概念ですが、後者は
「的中」や「中毒」などの「いい具合に(または運悪く)当ってしまった」の意味に使われます。
そして「仲」の読音は後者と同じ送韻であるので、予言にぴったり的中したものと袁術が考えた
結果、敢えて「仲」を国号にしたものだろうというのが呉氏の解釈です。
969あやめ:02/12/10 17:53
「仲」と「沖」が誤られやすいことについて、森鴎外は「帝諡考」において、
伊東東涯の「盍簪録」に仲哀天皇の諡号について「仲では伯仲の意味になって
しまい諡としては不適切だ、仲は沖と草書体が極めて似ているので間違えた
ものだろう」という趣旨の説を引用し、「従ふべきに似たり」として「大誥」の
「沖人」の句を掲げています。
なお仲恭天皇の「仲」については同書に引かれた「公文録神祇官部」に載せられた
神祇官の稟申には「御傳中一の取るべきなし、仲は伯仲の仲也、第三子」とあって
諡号を考案するには事跡に乏しいので、第三子というところから伯仲の仲を採った」
という、かなりいい加減な付け方をしたもののようです。
970世界@名無史さん:02/12/10 19:50
袁術が仲を称したなら伯となるのは漢なんか?
いずれにせよ、迫力のない国名だな。
971世界@名無史さん:02/12/10 20:13
そんなアホな国号にするかいな?
当時の捏造宣伝が三国志の原資料に紛れ込んだんじゃないの?
972世界@名無史さん:02/12/11 20:16
ちくまが秦[宀必]をしんみつと呼んでいるのは
誤りだよね。
973世界@名無史さん:02/12/12 21:27
次スレあったっけ?
974世界@名無史さん:02/12/13 22:25
明日あたり立てようかね。
ちょうど一年かw
975世界@名無史さん:02/12/15 17:16
えーん、立ってないの?
976中華@名無史さん:02/12/16 14:55
何で次スレ立てて有るのに誰も誘導してないのかな?

と言う事で次スレ告知↓

三国志正史スレッド 巻三
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1039840359/
977あやめ:02/12/16 21:28
>>972
ちくまが正しいようです。この字にはフクとミツの両音があり、フクは伏羲の別称に
用いられるくらいで、通常は安とか黙とかの意味に使われるミツが多いようです。
秦の字は子勅で勅は慎むという意味なので、ミツの方にマッチします。
決定的なのは「後漢書」の「董扶傳」に「秦密」に作っていることです。当時は彼を
「シンミツ」と読んでいたのは間違いないでしょう。
978世界@名無史さん:02/12/16 23:40
新字源にはミツの音はないよ。
フクかビツかヒツだ。
大漢和にはミツって載ってるのか?
979世界@名無史さん:02/12/17 15:09
sage
980あやめ:02/12/17 20:46
宀の下に必はフォントが無いので、以下の文では宀で代用します。
>978
ビツが出てるんなら即それがミツですよ、呉音か漢音かの表記上の違いだけです。
美という字はビともミとも読むでしょ、それと全く同じです。
「康煕字典」を引いてみましょう。音の部分には「唐韻に美畢切、集韻・韻會・正韻に
覓畢切並びに音は蜜」とあり、意味については「説文に安なり、玉篇に止なり、静なり、
黙なり、・・・・・・又た人名、三國志に秦宀あり」、別の音として「又た房六切、孟康の
漢書古文註に宀は今の伏字、皇甫謐云はく、伏羲は或は之を宀羲と謂ふ」とあります。
981世界@名無史さん:02/12/18 01:34
では「穢」のノギヘンとってサンズイにした文字[シ歳]は
ふつうワイという音だが、一説にカイという。
ところが諸橋大漢和でも藤堂漢和でもカイという音はない。
これいかに???
982あやめ:02/12/18 14:11
>981
「康煕字典」には「唐韻に呼會切、集韻に呼外切、並びに音はクワイ(歳の右に羽)、
説文に水の多き貌、又た廣韻・集韻・韻會・正韻に並びに烏外切、音は薈、・・・・・・
又た廣韻に於廢切、集韻・韻會に烏廢切、並びに音は穢、義も同じ、一に濁なりと曰ふ、
亦た穢と通ず、・・・・・・又た廣韻・集韻・韻會・正韻に並びに呼括切、音は豁」とあり、
クヮイ・ウヮイ・ワイ・クヮツと4音があります。前3音の呉音表記はヱとなります。
漢音のウヮイは表記上はワイに吸収されてしまってます。
そもそもこの類の字の子音はkh-で喉音のkは脱落するか聞取れないことが多いです。
クビライがフビライになってしまうような事例が普通です。
諸橋さんや藤堂さんがカイ(正しくはクヮイ)を採用しなかったのは、典籍上の実例が
乏しいからでしょう。

983あやめ:02/12/19 12:20
>>969
「仲哀」は「沖哀」の譌であるという説にも難点が無いではありません。
「沖」という諡字は意外にも諡号の典拠である「逸周書」の「諡法解」に出ていません。
しかし「後漢書」の「沖帝紀」の章懐注には「諡法に幼少にして位に在るを沖と曰ふ、
司馬彪曰く『沖幼にして早く夭す、故に諡して沖と曰ふ』と」とあって、幼少で即位し
夭逝した君主に贈られる諡号とされています。
ところで仲哀天皇の事跡を見ると「日本書紀」に拠れば、三十一歳で太子に立てられ
五十二歳で崩御ということになっています。記紀の伝える寶算というものも信じ難い
ものがありますが、生前に忍熊と鹿児坂の2皇子を儲け、神功皇后の胎中にも應神帝が
宿っていたのですから、どう考えても幼少とは言い難いものがあります。「沖」という
諡号が適切であるか大いに疑わしいと思います。仲哀天皇の崩御の事情が些か情けない
印象を与えるところからかもしれませんが、それにしても強引の嫌いを免れません。
そこでやはり「仲」の字に意味を求める解釈も考えてみましょう。天皇の本名は「足仲彦」で
景行天皇の「大足彦」成務天皇の「稚足彦」に連なる「タラシ系」の名ですが、この「仲」は
日本武尊の第二皇子であるという単純な理由で伯仲の「仲」を用いたとも考えられますが、
日本武尊から應神天皇へと皇統を引継ぐ「仲介」の意味を寓したのかもしれません。女帝の
場合にはこうした中継的に登位した「中天皇」が多いようです。
984世界@名無史さん:02/12/20 00:19

                   △〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
                   ┃天下統一・漢室再興 /
                   ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
                   ┃ |⌒|⌒P
               巛∧┃ [二二]   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
              / ・  ミ (´∀` )  < 諸葛孔明が2ゲットだ!
              《 /\ ミ⊂ # )   | おまいら朕にひれ伏せ!クソ共が!
                 (    /#/⌒)ミ ミ \__________
                〆  | |(__)| /  ミ
                \(/ /  /_|_|  (´⌒(´  パカパカパカパカ
                   / /   /_/_|≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
        ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(´⌒(´⌒;;
985世界@名無史さん
孔明のくせに朕とかいうな(ワラ