【コラム】「天を掴めなかった男」袁紹 (?〜202)
1.統率
彼は、おそらく後漢末で唯一の武力90を有すると思われる名将麹義、
冀州乗っ取りで主導的な役割を果たした策士張導、公孫讚で多くの功績をあげた名参謀田豊など、
多くの功績ある人材を使い捨てにしてきました。
袁紹軍は急激に膨張したため、
逢紀・許攸を中心とする、漢が平和だった時代からの子飼いの部下、
郭図・辛評らを中心とする、頴川出身者のグループ、
沮授・田豊・審配・張コウといった、冀州乗っ取り後に参入してきたグループなど、
多くの派閥を内部に抱えていましたが、袁紹はそれをうまく統御することが出来ず、
無用な派閥争いで自陣営を無用に消耗させてしまいました。
その隙を知力の高い曹操に付け入られ、天下を取れなかったのです。
よって、統率力は苦手レベルの「39」とします。
2.武力
袁紹は自ら軍を率いて戦うタイプの指導者であり、
多くの戦いを指揮し、多くの野戦攻城で勝利を収めてきました。
特に河北統一期の彼の指揮は冴え渡っており、
遠征している隙に本拠地の魏郡を黒山賊に奪われたにも関わらず、
迷うことなく黒山賊の大軍に戦いを挑んで勝利したり、
界橋の戦いで公孫讚軍に本陣を奇襲された際にも、
自ら先頭に立って抗戦し、主力を率いる麹義と合流するまで耐え抜きました。
官渡で敗北したのは、統率力と知力の欠如によるものであり、
彼自身の武力の低さによるものではありません。
むしろ、袁紹は戦上手といって良いぐらいです。
よって、武力は優秀レベルの「76」とします。
3.知力
彼は策謀好きで、さまざまな謀略を画策してきましたが、
どれもロクな結果を生み出しませんでした。
大将軍何進の参謀となって宦官皆殺しを計画したら、
もっと危険な董卓を呼び込んでしまうし、
袁術配下の将孫堅が董卓を洛陽から追い払い、河南一帯を抑えつつあった時、
いきなり孫堅の根拠地を部下の周昴に攻めさせ、孫堅を河南から撤退させ、
董卓に河南の再確保を許してしまうという、反董卓連合軍の盟主としては、
やってはならない致命的なミスを犯してしまいます。
また、皇族の劉虞を皇帝に擁立しようとしますが、曹操や袁術の反対に遭い、
さらに劉虞との関係を悪化させただけで、失敗に終わりました。
これだけミスを犯しているのに、天下を掴みかけるところまで行ったのは、
不思議としか言い様がありません。
ただ、彼がミスを犯したのは、董卓・袁術・曹操など、知力が高い人物相手であり、
公孫讚や黒山賊の諸将など、知力の大して高くない相手には、それほど苦労していません。
よって、知力は凡人レベルの「45」とします。
4.政治力(1)
袁紹は後漢政府の中で順調に出世街道を歩き、若くして司隷校尉(警視総監)の重職に就きます。
こうして書くと、エリート然とした貴公子という姿が浮かびあがってきますが、
実際はそれほど順調な人生を歩いてきたわけでは無かったようです。
名門の出身とは言え、彼は妾の子であり、母親の身分がモノを言う当時では、
本来なら日の当たるところに出られる人物ではありませんでした。
ですから、若い頃はかなりグレて、豪傑(ヤクザな奴ら)とつるんでいました。
そして、あまりにワルとして名が売れすぎて、
叔父で当時の袁一門の総帥であった袁隗に
「お前みたいのが居ると一族の恥さらしになるから、とっととマトモな仕事に就いてくれ」と言われ、
ようやく役所勤めするようになったのです。
それ以後は、信じられないようなスピードで出世し、
袁一門嫡流のプリンス袁術の地位をあっという間に追い抜いてしまいます※。
袁紹の実務能力が、よほど高かったことが伺われます。
話は飛んで、反董卓連合軍が失敗した後に移ります。
この時、彼は渤海郡しか持っておらず、かき集めた大軍を食わせるのに苦労していました。
かなり危機的な状況だったのですが、逢紀の策によって、冀州乗っ取りに成功します。
あまりに汚いやり口だったので、周囲の総スカンを食らいました。
当然、民衆の反発も強かったものと思われます。
※宦官皆殺し当時、袁紹は司隷校尉。袁術は虎憤中郎将(近衛軍の指揮官の一人)でした。
前者よりは、後者の方が格下のポストです。
エリートコースであることに変わりはないのですが。
4.政治力(3)
しかし、袁紹はよほどの善政をしいたのでしょう。
短期間で冀州の内地化に成功し、餓死寸前だった袁紹軍は、
食い物には困らない袁紹軍に生まれ変わったのです。
後年、袁紹は圧倒的な大軍を率いて曹操と官渡で対峙しますが、
先に兵糧が切れたのは曹操の側でした。
官渡で惨敗した後、冀州の各地で反乱が起きましたが、
彼は軍を再編成して、これを鎮圧しています。
以後、彼が死んでからも、冀州は袁一族に忠実であり続けました。
冀州平定後、曹操は敵討ちと厚葬(派手な葬式)を禁止しました。
袁紹の重臣達は皆、職権を濫用して私財を貯め込んでいました。
冀州は長い間、袁一族の兵站基地となってきました。
それでもなお、冀州の民衆は、派手な葬式をやるだけの余裕があったのです。
「袁紹様の時代は良かったなあ」と、河北の民衆は言っていたそうです。
それを証拠付けるかのように、冀州平定から十年以上経ってもなお、冀州では民衆の反乱が起きていました。
魏が冀州の内地化に成功するのは、曹操が死んで、統率力と政治力の高い曹ヒの時代になってからのことです。
統率力の低い袁紹が、冀州を上手く治めることが出来たのは、高い政治力を持っていたからでしょう。
よって、袁紹の政治力は一級レベルの「83」とします。
5.魅力(1)
袁紹は容姿端麗な美男子で、押し出しも立派でした。
若い頃、ヤクザな生活を送っていましたが、
物凄い人望があって、いつも4人の高名な豪傑(ヤクザ者)を連れ歩いていました※。
あまりに人気者過ぎて、ビビった叔父の袁隗に、仕官するよう泣き付かれたぐらいです。
妾の子で、家門を背負えなかったのに、これだけの人気を得たのですから、
袁紹の人間的魅力には凄まじいものがあります、
仕官してからも、袁紹の人気はとどまることを知りません。
あまりに多くの人が袁紹の元に集まるので、
袁一門嫡流のプリンス袁術は、その人気を妬んでいたそうです。
5.魅力(2)
反董卓連合軍が結成された際も、人々は袁一門のプリンス袁術を差し置いて、
袁紹を盟主に推しました。
冀州乗っ取りの際、袁紹のブレーン達は、
「袁紹は人気者だから、冀州を譲ってやって恩を売っといたほうがいいと思うよ(かなり意訳)」
と言って、冀州牧(冀州総督)韓馥を説得しました。
また、統率力の項でも述べましたが、
袁紹には、人材を使い捨てにする悪癖があります。
にも関わらず、袁紹配下には次々と新しい人材が集まり、
官渡まで破綻しなかったのです。
その人格的吸引力には、凄まじいものがあります。
よって、魅力は一級レベルの「82」とします。
袁紹の最終的な評価を発表します。
【統率】39
【武力】76
【知力】45
【政治】83
【魅力】82
統率力と知力が低いので、指導者には向いていません。
武力が高いので、軍人としては、かなり使える部類です。
ただ、知力が低いので、単独で軍を率いさせると、
敵方に戦略的優位を確立されるおそれがあります。
良い参謀を付けても、言うことを聞かない恐れがあるので、
知力の高い方面軍司令官の下で、一軍を率いさせるといいでしょう。
政治家としては、政治と魅力が高いので、かなり使えます。
政策実務や対外宣伝に従事させれば、いい仕事をしてくれます。
これだけ能力があれば、勘違いして天下を取ってみたくなる気持ちも分かります。
人に使われてこそ、能力を発揮できる人なのですが。
魅力が高すぎるために、指導者の地位に押し上げられてしまったことが、
この人の悲劇でした。