『西漢』 → 『新』 → 『東漢』(光武帝)

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1中華@名無史さん
西漢を混乱に陥れた”王莽”
”光武帝・劉秀”を始め、その配下の二十四将の活躍
更始帝を頂点とする”緑林軍”
時代の一陣を駆け抜けた”赤眉軍”
”王郎”・”公孫述”等の群雄達

この時代も色々有った。
興味の有る方達、どうぞ語って下さい。
22:02/06/09 02:06
2
3世界@名無史さん:02/06/09 03:34
三国・戦国板にも、同じようなスレがあったぞ?
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1004362936/
4中華@名無史さん:02/06/09 03:53
>3
漏れもそのスレの存在は知ってますが(と言うか自分も何回か書いてるし…)

中国史上最高の皇帝は誰?
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1014413949/l50
のログを見て戴くと判ると思いますが、この人物を話題に出すと何故か荒れます。
&「マンセーの奴は新スレ立てろ」と五月蝿い奴が何時も登場するので(全部同一人物?)
5世界@名無史さん:02/06/09 07:46
>>3のスレでやってればいいんじゃないの?
6世界@名無史さん:02/06/09 11:43
致命的な欠点が中国史上最高の皇帝。
7世界@名無史さん:02/06/09 16:01
光武二十八将の中では地味だけど、寇恂の功績は大きい。
前線への物資補給や領土の治安維持といった、地味だけど極めて重要な任務に専念。
しかし軍の司令官としての才覚もあり、更始帝配下の名将朱鮪を破る活躍も見せた。

>4のリンク先で、ケ禹が後方で兵站の任務にあたった、と言ってるヤツがいたけど、正しくは寇恂。
ケ禹が寇恂を推薦したのは事実だが。
8世界@名無史さん:02/06/09 17:14
奴隷解放を断行した世界史上屈指の皇帝である!!!!
9中華@名無史さん :02/06/15 11:16
1を読み返して気付いた。
二十四将ってなんだよ・・・
二十八将だよね・・・・ゴメソ
1はずっと残る文だから鬱だ
10世界@名無史さん:02/06/15 23:03
”井の中の蛙”
”烏合の衆”
”柔よく剛を制す”
”人は足る事を知らず、既に隴得てまた蜀を望む”

この時代の成語。他に有る?
11世界@名無史さん:02/06/15 23:20
>9
正確には馬援を入れて二十九将です
廟堂の二十八将肖像のうち誰か1人抜いて二十八将と言い張っても
かまいませんが(w
12世界@名無史さん:02/06/16 00:59
某甲斐の騎馬軍団も二十四将と自称していたね。
信玄も厨房だな。

13sineya:02/06/16 11:34
洪武帝・朱元璋よりはマシ。
14世界@名無史さん:02/07/07 18:30
>>10
「糟糠の妻」・「矍鑠」・「青史に名を刻む」・「錚々」あたりもそうだな。
あと「妻を娶らば○○○」も光武帝の若い頃の口癖が元ネタ。
15世界@名無史さん:02/07/07 21:39
>>12
おまえも田中芳樹と同じ様なこと言ってやがるな
もしかして田中厨房ですか?
武田二十四将は後世の浄瑠璃作者の創作だよ
何で信玄が厨房なんだよ。

ドキュン田中芳樹も、日本の○○将というのはすべて
光武のまねなどと痛い事言ってたが、
無知丸出し。
16世界@名無史さん:02/07/07 21:44
中国史を見たときいつも思うのだが万世一系の天皇家ってありゅ嘘だな。
17米好き:02/07/07 21:45
>>16

嘘は嘘だが、それでも王朝が根絶やしにされた中国とはだいぶ事情が
異なるよ。
18米好き:02/07/07 21:47
天皇制は、中国王朝よりも、カリフやローマ法王とのアナロジーの方が
まだ合っていると思われ
19世界@名無史さん:02/07/07 21:49
>>17

つか、男系にこだわらない限り(継体のことね)
有史以来天皇家がずっと血脈を
ついでいた事は明らかな事実なんですが
いったい何が嘘なの?
20米好き:02/07/07 21:56
>>19
>男系にこだわらない限り(継体のことね)

俺は、継体天皇の迎え入れって、要は継体による征服なのだと解釈していたよ。
都に入るのに、随分時間かかってるでしょ?
21世界@名無史さん:02/07/07 23:17
>>20

解釈じゃなくって妄想だね。
薀蓄たれたいならもうちょっと勉強してね
22米好き:02/07/07 23:21
>>21

継体帝への移行は平和裏に行われたと?
23米好き:02/07/07 23:27
少なくとも皇国史観といわれるような、整然とした万世一系の天皇家
ってのは怪しい。嘘ってのはいい過ぎたかもしれないが

>>19

も、男系にこだわらない限り、と限定条件をつけている。
少なくとも、万世一系にいろいろと限定条件がつくのは間違いない。
24米好き:02/07/07 23:39
日本書紀では、継体帝は仁徳帝の五代後の子孫だと記している。
"万世一系"の根拠が父系の血統で示されているのは面白いと思うよ。

皇国史観の"万世一系"は、父系でのつながりが根拠。
19が、母系のつながりで"万世一系"を擁護するなら、その時点で、
皇国史観とは別の"万世一系"観を提示しているわけで、

ならば、皇国史観の"万世一系"に対して唱えられた異への反論には
ならんでしょう。
25米好き:02/07/07 23:48
19は、継体帝は仁徳帝の五代後の子孫ってところは信じているの?
26世界@名無史さん:02/07/08 00:34
微妙にすれ違い
27世界@名無史さん:02/07/08 12:22
微妙っていうかめちゃくちゃ違うな
28世界@名無史さん:02/07/08 12:27
>>24は、日本史に女帝がたくさんいることも知らない厨房
29nanasi:02/07/08 13:30
>>28
日本では女帝の子が帝位について、以後それを引き継いでいったことなんて
ないってことも知らんのかこいつ。
30世界@名無史さん:02/07/08 13:42
>>28
父系で女帝が出たって構わないんだろ。
父系/母系と言う区別分かってるの??

例えば、
父系では、男王でも女王でもある王に子供がいなかった場合、その姉妹かその子孫に王位が移る
王位継承の優先順位は文化ごとにいろいろだけどね。
父系だと、兄弟が姉妹より優先されるか、姉妹が排除されることが多い。

女系だと、ある王に子供がいなかった場合、その姉妹やその子供に王位が移る。

31=30ちょい訂正:02/07/08 13:43
×>父系では、男王でも女王でもある王に子供がいなかった場合、その姉妹かその子孫に王位が移る

訂正>父系では、男王でも女王でもある王に子供がいなかった場合、その兄弟姉妹かその子孫に王位が移る
32世界@名無史さん:02/07/08 15:28
日本史板逝けyo!さも無くばsageでやれ>天皇家話題
33 :02/07/08 17:03
実際に光武帝の度胸ってすごくないか?
誇張されてる部分もあるけど常に少数で大軍につっこんで勝ってるよね?
34世界@名無史さん:02/07/08 17:06
>>30
だからそもそも、女帝が存在してる時点で儒教的
父系主義と日本の皇統の伝統は隔絶してるんだから
>>24
>皇国史観の"万世一系"は、父系でのつながりが根拠。
ということ話自体根拠がないだろ。
君は厨房ですか?
35世界@名無史さん:02/07/08 17:22
>>34
>君は厨房ですか?
板違いの話を蒸し返すおまえもな。
日本史板逝けや。
36世界@名無史さん:02/07/09 06:18
>>米好き
●継体天皇の生立ちについて考察すれ!(第二部)●
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1005968505/l50

パート1はこちら >> http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/997471414/

読め 繋がってるYO
37世界@名無史さん:02/07/10 06:16
緯書ってどうよ?
38米好き:02/07/10 07:06
>>36

どうも。

森浩一が継体新王朝説を提唱したことがあったり、
他にも、応仁新王朝説があったり、
その一方で、継体以降も応仁系の神話がそのまま受け継がれたから
新王朝ではない、という考え方もあったり、

ということね。
39世界@名無史さん:02/07/13 21:30
40世界@名無史さん:02/08/04 22:40
age
41中華@名無史さん:02/08/29 22:10
保守sage
42中華@名無史さん:02/08/29 22:10
ってageちゃった(汗
43世界@名無史さん:02/09/12 22:09
age
44中華@名無史さん:02/09/30 03:07
hosyu
45世界@名無史さん:02/10/03 08:42
age
46中華@名無史さん:02/10/14 13:18
途中からスレ違いどころか、板違いな話題のスレに成っちゃってましたね?
人も一気に減っちゃったみたいだし…
初めは、他スレでの会話の流れで立てちゃったこのスレでしたが、
やっぱり、この時代の話題が出来るのは此処しか無いし、(三戦板のはdat逝き)
勿体無いので、そろそろスレ立て当初の、アンチ光武帝君の事は無視して
本格的に盛り上げてみようかな?と思います。
(定期ageしてくれる名無しさんも居る様だし)

と言う事で、先ず初めに東漢勢力以外の、この時代の群雄達をageてみます。
(光武帝単独話題スレに成らない様に)
47中華@名無史さん:02/10/14 13:19
東漢以外の群雄

王匡(新)
新王朝、初代皇帝王蒙の一族。
初め朝廷の軍司令官として西進して来る”赤眉軍”と対するも正規軍の軍規が
乱れている事から民心を得ず敗北。
続いて洛陽守備軍として”緑林軍”と対するが、またも敗れ、
相手軍内の司令官で、同名の王匡に斬られる。
48中華@名無史さん:02/10/14 13:20
劉玄(更始帝)
字は聖公、緑林軍勢力の豪族層が皇帝として立てた人物。
初め、地元の豪族、陳牧・廖湛勢力(平林軍)に匿われていたが、その被庇護の豪族衆が、
周辺に勢力を伸ばしてきた緑林軍に降り、緑林勢力として加担すると、自身もその勢力に入った。
その後、軍の規模も大きく成り、軍の統率を取る為に軍内の長の中で主として仰ぐか?
と言う話に成った時、余り有能な人物では諸豪族が勢力を振るえなく成る。との判断から、
余り有能では無い彼が擁立された。と言う内実も有った。
その後彼が皇帝に即位し、新王朝も倒れ、緑林勢力は中央を制圧した有力な政権で有る事から、
彼が次代の主に成るかにも見えたが、前述通り彼は即位後、酒色に溺れて政治を乱し、
求心力を失って行った。結果正当な存在には成りえず、関中に攻め込んで来た赤眉軍勢力に敗れた。
49中華@名無史さん:02/10/14 13:21
王匡・王鳳(緑林軍)
若い頃は荊州の侠客として鳴らし、新王朝成立後の世情の混乱から反乱を決意。
緑林山に仲間&子分等と立て篭もり、山賊化するも、求心力が有り有力な勢力へ、
後にこの時代の代表的な勢力と成る”緑林軍”の創設者でも有る。
が、その後山を降り、勢力を全国に広めて地方有力軍閥勢力層を取り込んで行くうちに、
自身は軍内の一武将に成ってしまった。
50中華@名無史さん:02/10/14 13:22
徐次子・樊崇(赤眉軍)
この時代の代表的群雄組織、緑林軍と並び賞される赤眉軍を創設した中心的一人。
事の発端は、地元青州での有力者の未亡人、呂母の息子”呂育”がならず者で、
それを取り締まった県令の杜先が呂育を殺してしまった。その復讐戦で、
挙兵に協力したのが徐次子だった。 その後朝廷の討伐を恐れ、集団は海上に逃れ
海賊兵団を結成。が、直後に呂母が死ぬと、その集団を引き継ぎ、
さらに数万の兵力を海上で養うのは不可能と判断して上陸。そして当時、泰山周辺で
暴れていたのが樊崇だった。結果二つの勢力は合流し、当代でも緑林軍以外には
並ぶものが無い、数十万の大軍勢に膨れ上がった。
しかし基盤を持たない彼らは、地元に残っても兵が帰郷して勢力が減退するだけだと感じ、
一気にその勢力で上洛する事にした。その中での途上、付近で牧童をしていた
漢王朝の皇族、”劉盆子”を見つけ出し、皇帝に立てた。結果その勢力は
当時内訌著しい緑林軍を倒し、関中を落としたが度重なる戦でその軍は疲弊し、
最期は公孫述配下の延岑に敗れ、最期は河北平定を終らせた劉秀に平定された。
51中華@名無史さん:02/10/14 13:23
王郎
趙国は邯鄲の人。初め付近で占術を生業としていたが、その頃邯鄲を治めていた
皇族の趙王劉林が、その占術を好んだので、その人脈から周辺の豪傑とも交流を
深めた。 その後新朝の動乱期に突入すると、世の混迷が深まるのを利用し、
その弁舌の上手さから自らを先の名君、成帝の御落胤児”劉子興”と称し、
劉林勢力も吸収し、河北地方の豪族を糾合して、当代でも有数の群雄に成長した。
が、河北平定に乗り出していた緑林系の劉秀に敗れ、その夢は途絶えた。
52中華@名無史さん:02/10/14 13:24
隗囂
隴西地方に割拠する有数の群雄の一人。
しかし、劉秀の勢力が協力に成り始めた頃に、
南に隣接し、蜀地方に割拠する勢力公孫述と、劉秀のどちらの勢力と
同盟を結ぶか悩み、配下の馬援に両勢力の偵察に向かわせ、
その結果、劉秀の方が人物が上だと報告を受け、一度は劉秀と結ぶが、
結局公孫述と手を組んでしまい、最後は東漢勢力に因って滅ぼされた。
53中華@名無史さん:02/10/14 13:25
公孫述
蜀地方に割拠した群雄。
しかしその人柄は実力以上に尊大に成る性格らしく、
当時有数な群雄では有ったものの、しかしその支配地域は
蜀のみだったにも関わらず、しかも皇族とも所縁も無く
皇帝を称し、”成王朝”を建国する。
そんな事からも、偵察に来た馬援の人物評として
「井の中の蛙、大海を知らず」と言う有名な故事を生む事に成る。
が、しかし無能の者と言う事は無く、地方に版居する群雄と言う事で言えば、
治政は安定して居た。また軍事面に関しても、配下に、延岑・呂鮪・王元、
また弟には公孫恢と、言う配下も居、東漢軍との戦でも前線した。
ちなみに、三国志で有名な、劉備が最期を迎えた城、”白帝城”は
彼が築城した城である。
54中華@名無史さん:02/10/14 13:26
耿況
西漢時代は上谷太守として二千石の大禄を得ていた。
そしてこの地は遊牧民と境を接した北方守備の要衝でも有り、
その配下には漢帝国でも最も精鋭軍隊である、烏桓突騎が配備されていた。
と言う事で、新王朝治政下の動乱期では、小規模ながらも群雄としてその地に割拠した。
その後、更始帝が立つと全国に順撫使を送ったので、それに従い、
その政権下に組み込まれた。
ちなみに配下や息子には、後の二十八将に名を連ねる者や、突騎を率いて
名将となる、”景丹”等が居た。
55中華@名無史さん:02/10/14 13:54
高峻
隗囂の残党として隴西でなおも城を守って降伏しなかった。
光武帝は親征し、使者を送って降伏を勧めたが、高峻は、軍師の皇甫文が配下に居た為
容易には屈服しなかった。 が、劉秀の方針で何とか交渉の席を設け、皇甫文を
その交渉の任に就かせるも、劉秀配下一の知恵者、”寇恂”に皇甫文を斬られてしまい、
策を授かる人物を欠いた事で動揺し、降伏した。
56中華@名無史さん:02/10/14 13:54
張歩
東漢創立の動乱期、青州(山東半島付近)の琅邪や臨緇を中心にに割拠。大将軍”費邑”を始め、
祝阿・鐘城・重異、等の将を軍中に擁し、弟の藍、弘、寿も将としてひかえた。
その軍勢も二十万の大軍を擁していた。
が、劉秀配下の耿〔合廾〕(二十八将)の計略と武勇に因って平定された。
57中華@名無史さん:02/10/14 13:55
徴姉妹
徴側と徴弐と言うこの二人は、交址(現在のベトナムハノイ近辺)で、
中華に対して反乱を起こした姉妹。 史書によれば「甚だ雄勇」と有り、
非常に気丈な姉妹だった。 また、当時の交址は、版図では中華に組み込まれていたが、
言語や風習等は独自の文化を持っていたし、民族的にも漢民族とは違う人種だった
と言う事も有り、九真・日南等、ベトナム全域でその反乱に参加し、
実質は中華からの独立戦争の様相を呈した。
そんな事も有り、現在でもこの徴姉妹はベトナム独立の英雄と成って居る。
しかし、この時は馬援将軍に鎮圧され、敢え無く独立の夢は消された。
58中華@名無史さん:02/10/14 13:57
劉永
初め緑林軍系の将として居たが、雎陽地方に進出した後、更始帝の影響力が弱まると、
梁王と自称し、自立して雎陽で割拠する。

秦豊
東漢創立の動乱期、楚の黎王と号し、襄陽近くの黎丘(荊州)に割拠。

董憲
東漢創立の動乱期、東海(徐州)に割拠。
59中華@名無史さん:02/10/14 13:58
その他、以下の人物の情報も知っていたら教えて下さい。
南陽の登奉、
漁陽の彭寵、
揚州の李憲、竇融、劉望、
また、>58 の群雄に対しても、情報量が少ないので同じく
60中華@名無史さん:02/10/14 14:01
以上、あくまでも漏れの独断と偏見も混じった紹介文なので、ROMしている方々には、
納得のイカナイ部分も、多々有ると思われます。
もし有ったら遠慮無く突っ込んで下さい(スレが盛り上がればそれで嬉しい)
あと、他に御存知な群雄、お勧めな群雄等居ましたらそちらも教えて下さい。
他の話題(群雄ネタ)でも、この時代の話題で有ればどんどん出して下さい。
二十八宿で面白い人。や、この時代に生まれた故事等。

ちなみに、次は東漢勢力の主な将達をageる予定です。(何時に成るか判りませんが)
61世界@名無史さん:02/10/29 03:30
ほしゅ〜!
62世界@名無史さん:02/10/30 01:17
age
63世界@名無史さん:02/10/30 18:10
寂しいスレだな・・・
64世界@名無史さん:02/10/31 05:25
>>63
まぁ、群勇もマイナーなのがほとんどだし。
この時代は、なんで、こんなに扱いが悪いんじゃろか?
65世界@名無史さん:02/11/04 03:35
なるほど
66世界@名無史さん:02/11/04 03:42
馬援は有名じゃない?
でもないか・・・
67世界@名無史さん:02/11/04 05:45
要するに各地に割拠した将軍ってのは
マスードとかドスタムとかイスマイル・ハーンとか
で、ザヒル・シャー国王が前漢の皇帝で
ダウド・タラキ・アミンが3人で王蒙
カルマル・
68世界@名無史さん:02/11/04 05:46
67だす。失礼。書き込まないつもりで間違えて書き込む押してもうた。
69世界@名無史さん:02/11/04 06:02
自分もこの時代って面白いとは思うんだけどもね…
やっぱり一番はこの時代を扱った有名な小説なり書籍が無いのが
今一メジャーに成れない原因として大きいんじゃ無いかな?

ちなみに自分自身知りたいって言うのも有るけど、この時代を扱った小説とかは
何か有るのかな? 知っている人居る?
70世界@名無史さん:02/11/04 06:12
>書籍がない

作家が元ネタにできる現代語訳が今までなかったからね・・・。
71日本@名無しさん:02/11/04 12:33
確かに。劉秀も王蒙も結構面白いとおもうが、漢楚軍談や三国志、隋唐演義みたいなの、無いの?
72世界@名無史さん:02/11/04 14:20
続中国任侠伝が、裏からこの時代書いているね。
まぁ、一般的じゃないけれど。
73世界@名無史さん:02/11/04 17:43
>>71
中国の本で後漢演義というものがある。
こないだ買ったけど読んでない。

ただ、光武帝の時代だけを取り上げたものではないしなあ。
74世界@名無史さん:02/11/05 02:06
それにしても『シン』という名の国は短命だな。
実際にどう発音してたかは知らないけど。

あ、「清」があったな。
75世界@名無史さん:02/11/17 13:29
そう言えば、この時代って、西漢〜新と言うのは禅譲に拠る国の継続なので、
制度的には正当な王朝だと思うけど、
新〜東漢と言う流れは、そう言う前王朝からの引継ぎって無かったよね?
76世界@名無史さん:02/11/17 15:01
>>75 つまり、放伐。
77世界@名無史さん:02/11/30 22:44
雲台二十八将age
78世界@名無史さん:02/11/30 23:31
てか実は前漢とか後漢っていう言い方古い?
79世界@名無史さん:02/11/30 23:37
古くはないと思うけど
本場では東西の漢という言い方が多いんだろうか?

前漢に仕えていた中央の官僚群は
殆どが王莽に仕えて
結果「賊」の赤眉軍や更始帝集団と戦う破目になったんじゃ・・・。

80世界@名無史さん:02/11/30 23:48
漢書の『王莽伝』末尾の
王莽の最期の描写

異様に迫力を感じるんだけど
みんなどう?

疲れ果てた王莽が、宮殿の階段を斜めに下って車に乗ったと書いたり
宮女たちの悲鳴とかを記録したり
未央宮の最終局面の悲惨さが
2000年後でも想像できる。

平帝を毒殺せず、劉嬰を残酷なやり方で幽閉したりしなければ
王莽は揚げ足取られることもなかったかも。

彼より残虐非道な方法で前王朝を迫害、絶滅している簒奪者なんか
中国史上いくらでもいるのに、彼はいつまでも帝号もなく
ただの「莽」。
8180:02/11/30 23:55
憶測だが

最期の時を迎えた王莽に
必死で付き従って只管その言動を記録し続けた史官が
いたんじゃないだろうか。
生き残ってその場の様子を後漢王朝に伝えた。
82世界@名無史さん:02/12/01 00:01
小説とかドラマでウケるのは『悲劇』が多いからなぁ。
ハッピーエンドな大河ドラマは大衆受けしないのかな?
83法主:02/12/01 17:33
>>71
漢楚軍談の姉妹本「西漢紀事」「東漢紀事」がある。
明治時代にかかれて本で大きい図書館で探したらあるかも。
「通俗二十一史」の一冊となっていると思う。漢文調の本だけど
中国語よりもよみやすい。
「東漢紀事」は王莽の簒奪から光武帝の天下統一まで扱っている。
84世界@名無史さん:02/12/12 08:17
age
85世界@名無史さん:02/12/25 22:18
ネタが無いのに空ageだと、上がっているのを見て喜んでスレ確認すると
只の空ageでガクーリする事が有る。 なので、ネタ無し空ageは止めよう。

と言う事で、取り敢えず保守sage
86世界@名無史さん:02/12/25 23:19
どうもすんまそん。でも一応からあげ。
87世界@名無史さん:02/12/25 23:38
>80
中国人はむかしっから、歴史と物語をあんまり区別しない民族だからなぁ。
88世界@名無史さん:02/12/26 14:47
>>80

横道に逸れるが、王莽が平帝を毒殺したという根拠をあげてくれ。

賊軍の檄文以外に発見できんかった。不勉強でスマソ。
89世界@名無史さん:02/12/26 16:24
蜀漢が「曹丕が献帝を殺した」とか喧伝したのと同じ感じなのかな。
90 :02/12/26 21:02
班超マンセーしたいのだが、このスレでいいのかな?
「虎穴に入らんずば虎子を得ず」
「水清ければ魚棲まず」
武力・統治力を兼ね備えた偉人だと思う。
もし乱世に生まれてたら、王朝を作れたんじゃないかな?
91世界@名無史さん:02/12/29 22:06
光武帝は、中国史上最高の名君。
92世界@名無史さん:02/12/29 22:13
光武帝は、中国史上最高のボケ好き君主。
93世界@名無史さん:02/12/29 23:51
>>90
西域をほぼ独力で支配したもんなぁ。もし皇帝が光武帝じゃなく
もっとカリスマ性の低いヤシだったら、班超は西域で独立したん
だろうか? って、後年は望郷の念が強くなって帰還したんだから、
もしそんなことをしていたら班超にとっては不幸なことになった
だろうけど。
94世界@名無史さん:02/12/30 23:38
*訂正*
少典→黄帝→金天氏→玄器→高辛氏→帝堯唐陶氏→劉氏→劉累→御竜氏→略→唐社氏→略→士会→劉氏→豊公→太上皇→
漢高祖皇帝劉邦→孝文帝→孝景帝→長沙定王発→春陵節侯買→外→回→欽→
後漢光武皇帝劉秀→孝明帝→孝章帝→河間孝王開→解漢亭侯叔→略→孝霊帝→孝献帝

かなり適当


95世界@名無史さん:03/01/02 18:32
業績なら唐太宗・明永楽帝・清康熙帝の方が上だと思うが、
仕えるならこの3人よりも光武帝だなぁ。
妻を娶らばとか、望蜀の嘆とか、何か人間味があって好きだ。
96 :03/01/02 21:40
仕えるなら光武帝と超匡胤が双璧
97世界@名無史さん:03/01/02 21:44
 使ってもらえそうな、汝の能力はなにかね?。
君主にだって、部下を選ぶ権利がある。
 社会の役に立たない非生産的なヒキコモリは必要ないな。
98世界@名無史さん:03/01/02 21:46


今年も、、今年こそ、、
いい思いをしちゃいましょう(^▽^)v

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99世界@名無史さん:03/01/02 22:02
 明の太祖は、実力本意で使ってくれそうだ。
しかも能力だけじゃなく処世術って面でも。
目つけられたら、あっさり疑獄事件で一族もろとも・・。
おとなしくしてるにこしたこたぁないね。
100世界@名無史さん:03/01/02 22:18
100ゲト!!
101世界@名無史さん:03/01/02 22:31
>>97
板(時代)違いだが、孟賞君ならヒキコモリにでも飯食わせてくれそうだな

                ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                ( ・∀・)< 食事に魚ないのー?
             _φ___⊂)__ \_______________
           /旦/三/ /|
        | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
        |愛媛みかん|/
102世界@名無史さん:03/01/02 22:39
 あー、能無しが能無しでもメシ食わしてくれるのが「良い」君主かぁ。
そいつはいいや。俺もそんな国家に住みたいわぁ。
103世界@名無史さん:03/01/06 14:48
>>101
不覚にもワラタ
104山崎渉:03/01/11 13:13
(^^)
105世界@名無史さん:03/01/16 09:24
>>101
諸葛孔明はひきこもり出身っす
106世界@名無史さん:03/01/16 10:15
塚本史の『王莽』は、ここの御歴々としては、どう?
107世界@名無史さん:03/01/21 12:18
この時代はあまりにも光武が偉大すぎて他の勢力や人物を圧倒しているので面白くないんだよね。
三国志の時代みたいに魏がとびぬけてはいても、三国の勢力が拮抗していて、
しのぎを削っていると物語としても面白い。
そう考えると光武は可哀想だなあ。
上のレスにも見られるようにあまり正当な評価を得ているとは思えない。
108世界@名無史さん:03/01/25 21:17
>>106
王莽の血筋って簒奪が好きなんだね。
彼の先祖も昔、斉で簒奪してる。中国史上ではすごい家系にはちがいないけどね。聖人の子孫だし。
109梵阿弥:03/01/26 23:02
新の貨泉は北部九州と摂河泉から出土したそうです。
110世界@名無史さん:03/01/28 23:18
唐突なリンクで恐縮ですが、博識な方、どうかコメントお願いします。

黄巾の乱後の中華人口大激減 
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1043762877/
111世界@名無史さん:03/02/02 19:39
>>105
孔明は無職ひきこもり
太公望は無職乞食老人
劉邦はヤクザ
韓信は乞食またくぐり
中国はふところが広い。だからでかい人間が世にでるんだねぇ。
112世界@名無史さん:03/02/02 19:41
ヒキコモリが三国志ヲタになるわけだ(w
113中華@名無史さん:03/02/03 18:30
ちょっとこちら↓の

明王朝について語ろう
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1032093150/270-291
の270-271-272-289-291辺りが新の王朝名の由来に付いての話題が出ていました。

で、誘導されたので、こちらに書いて見ます。

王莽は、三十歳頃に新都侯に叙せられました。(ちなみに新都は現在の四川省に有る)
その後国丈(皇帝の舅)と成ると、周りの臣下にその徳は周公旦に匹敵する。として加増を奏させた。
そして王太后より荊州の新野県を加増されました。(ちなみにこの時の爵位は安漢公)

で、当時は封地の地名から国号とする考え方から、新王朝の新は、一番最近の封地で、
新野の方が中央に近い、新野県の新だろうと考えます。
114世界@名無史さん:03/02/04 10:50
>>113
新都侯に封ぜられた後、新野県を追加で与えられた?
新都侯の封地=新野県なんじゃないの?
115世界@名無史さん:03/02/05 20:17
>>111-12
孔子はリストラ無職オヤジ。
リストラオヤジは儒教ヨタになってやり直そう!
116世界@名無史さん:03/02/05 20:25

   _、_  >>115  OK!
 ( ,_ノ` )      n
 ̄     \    ( E)
フ     /ヽ ヽ_//
117 :03/02/05 20:33
118中華@名無史さん:03/02/11 03:59
>>114
激しく遅レススマソ!
結論から言うと新都侯の封地=新野県。では無いみたいですね。
かく言う漏れも、嘗ては新野≒新都(新野県を美名にして、封爵名にして居る)
と思って居たんです。が、その後の調べで新都と言う土地も、今の四川地方に
別に有った事が判りますた。

まぁ新王朝の「新」は、地名から取った「新」と言う事は確かですよね。
119世界@名無史さん:03/02/11 10:53
光武二十八宿ってのは星座の数と語呂合わせただけ?
ケ禹なんて腰ぎんちゃくまで入ってるし
120世界@名無史さん:03/02/17 21:14
>>119
だけ、というのは適切じゃない。
まず人ありきではなく、まず運命ありき。(天命のほうが適切か)
いまとはそのへんの価値観が相当違うので
多少強引にでも数が何らかの運命数であるほうが大事だったのでは?

121世界@名無史さん:03/02/19 03:11
後漢書や班親子の文書等を読むといかにも光武帝は正統且つ天命を受けた偉大な皇帝みたいな感じだが、
200年程度で滅んじゃったので、なんか拍子抜けだ。800年くらい続けばまた別だろうけど。
122世界@名無史さん:03/02/19 04:08
神農氏の五百年、夏の四百年、殷の六百年は伝説時代だからさておいて、
中国の歴代王朝の中では周の八百年、漢の四百年、唐の三百年は格別。
123世界@名無史さん:03/02/19 04:14
>>121
光武帝は建国の祖じゃなくて中興の祖だから、後漢だけで200年という評価は
昔の中国人にはあまりないんじゃないのかな。漢はあくまで前漢からとおしての評価しかないと思う。
あ、王朝の長さね、単に。(子孫の祭祀が何年続いたかで聖人の程度をみる発想)
124世界@名無史さん:03/02/19 10:56
民衆の意識ではさらに蜀漢の43年も付け加えて・・・・・
125123:03/02/19 23:49
あ、そうそう。
でも南朝滅亡後は「民衆の意識」に限定する必要はないと思うけど。士大夫層にも蜀漢正統論は普通にあるし。
126世界@名無史さん:03/02/20 10:50
漢文の十八史略の巻頭の年表に

秦−西漢−東漢−蜀漢−晋−東晋−・・・・  が正統と書かれ、

呉はともかく、新、魏が傍流になっていたのにはびっくりしたっけな。
127世界@名無史さん:03/02/20 12:30
>>126
日本でも、京都から追っぱらわれた吉野朝が正統ということになってるし……
128622:03/02/20 13:15
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129世界@名無史さん:03/02/20 14:34
>>113
一応、新の帝都は新野だったらしいよ
130世界@名無史さん:03/02/20 21:52
元はどこの地名なの?
131世界@名無史さん:03/02/20 22:14
「新野」はたしか河南省南陽市だったよね。
132世界@名無史さん:03/02/22 16:59
>>126
>新、魏が傍流になっていたのにはびっくり

新は普通、傍流でそ。
133世界@名無史さん:03/02/23 23:16
新は悪の簒奪政権
134世界@名無史さん:03/02/23 23:42
新は禅譲じゃん
135世界@名無史さん:03/02/24 00:40
魏は悪の簒奪政権
136世界@名無史さん:03/02/24 01:46
魏も禅譲だね
137世界@名無史さん:03/02/24 07:44
晋は悪の簒奪政権
138世界@名無史さん:03/02/24 10:12
晋も禅譲だよ
139世界@名無史さん:03/02/24 14:07
しつこい。
実態は簒奪でも建前では禅譲の手順を踏むのが普通。
140世界@名無史さん:03/02/24 21:19
>>139
ある時期以前はそうだね
141世界@名無史さん:03/02/24 23:02
>>139
じゃ簒奪じゃないじゃん
142世界@名無史さん:03/02/24 23:09
>>139
洒落のわからん香具師w
143世界@名無史さん:03/02/24 23:16
「禅譲か放伐か」という話と「正統か簒奪か」という話はちと次元のちがう話だぞ。
禅譲というのは形式にすぎないから、たとえ禅譲革命がなされたとしても
新のように滅んでしまえば後漢王朝から「あれは簒奪だった」ということにされてしまう。
また、禅譲という形式を踏まなくても、放伐革命も儒教的には正統王朝の
樹立のパターンとして認められている。
144あぼーん:あぼーん
あぼーん
145世界@名無史さん:03/02/24 23:29
いいじゃん、簒奪とはいえ「禅譲」という形をとってるんだから。
皇帝が首くくって死ななきゃならないような事態よりはマシ。
146世界@名無史さん:03/02/25 01:32
まぁね。事情が許せば放伐よりは禅譲の方が望ましい。
いかにも徳が余ってるみたいで。エネルギーロスも少ないだろうし。

でも前王朝がよほど評判悪くて憎まれてると禅譲は逆効果の場合もあるだろうな。
147世界@名無史さん:03/02/25 10:10
つまり
「禅譲で政権を受けついだ王朝は悪の簒奪」
「放伐で政権を打ちたてた王朝は善で正統」

理由
商→夏の傑を放伐して天子となる。
周→商のチュウを文王が放伐して天子となる。
前漢→秦・楚を放伐(?)して天子となる。
後漢→新を放伐して天子に返り咲き。


といってみたい。
(舜やウも悪になる・・)
148世界@名無史さん:03/02/26 23:08
149世界@名無史さん:03/02/27 00:18
>>148は悪の簒奪政権
150世界@名無史さん:03/02/27 00:53
>>148は禅譲じゃん
151世界@名無史さん:03/02/27 01:16
>>150
しつこい。
実態は簒奪でも建前では禅譲の手順を踏むのが普通。
152世界@名無史さん:03/02/27 02:49
さて、元々は正統、傍流云々から始まってるような気がするので。

統治者が別の一族にかわり、かつ短命の場合は傍流扱い。(時代により扱いが異なる場合アリ)
それに対抗して元統治者の一族が政権を建てた場合正統扱い。

扱いと書いたのは、歴史としての観点から見た場合だからで
形式上の正統(禅譲・放伐)とは必ずしも一致しない。

当時の手続き上の立場と後世の史観で違う事があるのは当たり前で争うのはおろかと思われる。
153世界@名無史さん:03/02/27 03:06
悪の簒奪政権かどうかだろ?
154世界@名無史さん:03/02/27 22:38
善悪は立場によるから
今の話題に対しては不適当だと思います
155世界@名無史さん:03/02/28 20:38
今の話題は善悪かどうかだろ?
156世界@名無史さん:03/02/28 21:05
>>155
自己の欲求を最優先としている政権を維持させるのが悪で
それを是正すべく天命の名の下に政権交代をもくろむのが善か
はたまた自己の名声のために反乱を起こし略奪を旨とするのが悪で
略奪から人民を保護しようと政権の下にはせ参じるのが善か
どこに視点を置くかも不定なまま正義も悪もありゃしない。
人民からすればどちらでもいいが自分を守ってくれれば善だとおもうけど。
157世界@名無史さん:03/02/28 21:39
悪の政権が簒奪したのか
簒奪した政権が悪なのか
簒奪が悪なのかハッキリしる
158世界@名無史さん:03/02/28 21:51
この場合
西漢:善→悪
新:    善→悪
東漢:      善

西漢がダメになったから新が善として扱われ
新がやっぱりダメだったから東漢が善として・・・
と言う流れでよいと思われるが。
この時代に限っては簒奪(放伐)は善となりそうだ。
159世界@名無史さん:03/02/28 22:06
善悪言っている人は
劉邦や朱元璋はそれぞれどっちだと思うのでしょうか
160世界@名無史さん:03/03/01 00:40
朱子学の正統論をもっかい勉強しないとね。
161世界@名無史さん:03/03/01 01:01
禅譲にするか放伐にするかはその時々の流行みたいな感じもするが。
禅譲のはじめは漢→魏の時で、その後、晋、宋・・・・と
南朝滅亡まで禅譲でつながってんじゃかなったかな。
北朝は異民族の乱戦から成り上がってきたから放伐ばっかり?
あとは元→清の禅譲が例外で放伐だらけのような気がする
162世界@名無史さん:03/03/03 15:09
>>161
流行じゃないよ。禅譲ってのは旧政権に入り込まないと出来ないでしょ。
禅譲の方が放伐よりも楽でいいんだから可能なら誰でもそう持っていきたい。
出来るときは禅譲、出来ないときは放伐。
ま、言葉遊びって事だな。
163世界@名無史さん:03/03/04 12:53
まあ、なんだかんだ言っても王莽が漢を禅譲によって簒奪したやり方が
その後のスタンダードになったわけだから、その意味では先駆者だな。
能力的にはDQNだったが。
164世界@名無史さん:03/03/04 15:01
つまり
「禅譲で政権を受けついだ王朝は悪の簒奪」
「放伐で政権を打ちたてた王朝は善で正統」

165世界@名無史さん:03/03/04 16:20
つまり
北宋は悪の簒奪王朝だったのカ。

禅譲のポーズをとっていても
実態は(?)簒奪だから悪の政権だ。
とかワケワカランこと逝ってるDQNに
みんな釣られたってワケだね。
166世界@名無史さん:03/03/04 17:14
そして元は善の放伐王朝(藁
中原の漢人を皆殺しにして牧草地にしようとした王朝が
善なら、悪なんてあるのか?
167世界@名無史さん:03/03/04 23:08
善から見れば他は悪〜
168世界@名無史さん:03/03/05 11:48
正統論なんつう儒家の戯言を無視すれば、放伐は
すべて征服なわけだが
元と清は征服王朝の扱いだよな、普通
169世界@名無史さん:03/03/05 18:42
王莽以降の禅譲は強要してるので、まあ悪だろ。
170世界@名無史さん:03/03/06 23:28
心からの禅譲は無いやろ
171世界@名無史さん:03/03/07 00:10

まだ悪とか逝ってる
172世界@名無史さん:03/03/08 02:41
ところで光武帝は美男子だったらしいね
173世界@名無史さん:03/03/08 02:52
嫁が美人なのは知ってるが
174世界@名無史さん:03/03/08 11:19
淫隷化
175世界@名無史さん:03/03/09 01:06
官に就くなら執金吾
妻をめとらば陰麗華
176世界@名無史さん:03/03/15 07:54
聖皇とよばれているのは光武帝だけですか?
177世界@名無史さん:03/03/20 23:26
>>176
聖徳太子とか
178世界@名無史さん:03/03/25 10:54
聖徳太子は聖「皇」じゃないだろ
179世界@名無史さん:03/03/25 14:43
漢ー三国時代までの禅譲は皇族らの命を真っ当させたが、
五胡十六国以降は血なまぐさいね。
やはり朝鮮人の血がまじってきたのだろうか。
180177:03/03/25 23:58
聖皇本紀(ひじりのきみのもとつふみ)に
聖徳太子の事跡が書いてあったのでつい
181世界@名無史さん:03/03/31 23:29
塚本史の王莽、やっと読み終えました。
誰か漫画化してくれればもっとメジャーな時代になれるんだけど
182中華@名無史さん:03/04/01 00:56
>181
漏れはまだ未読なのですが、書評等に拠ると、かなり王莽に好意的な書
と言うのを見たのですがそうなのですか?
183世界@名無史さん:03/04/03 11:38
>>176
まさに偉大且つ唯一正統なる聖皇帝、それこそが光武・・・
184106:03/04/03 12:26
>>181>>182
主人公なのに、肩入れし難い書かれ方だった。
185世界@名無史さん:03/04/03 18:12
光武帝のスレ見ると、何故か荒らしたくなるのは漏れだけでしょうか?
186世界@名無史さん:03/04/16 20:14
光武帝は立派だけれど後漢そのものは短命におわった。。
187世界@名無史さん:03/04/16 20:22
>>186
200年続いたのに短命?
188山崎渉:03/04/17 09:17
(^^)
189楊広:03/04/17 21:26
>>186
儂の立場は?
190世界@名無史さん:03/04/18 04:46
191世界@名無史さん:03/04/18 08:28
後漢には中興の祖が最後まで現れなかったのが・・・・・・
192世界@名無史さん:03/04/18 09:31
 大人になったのは3代目までと最後の1人で、
 その他は赤ん坊、子供ばっかり・・・
193世界@名無史さん:03/04/18 19:27
>>186>>192は日本語が不自由
194世界@名無史さん:03/04/19 21:14
200年は短いのか長いのか・・

微妙だし・・
195あぼーん:あぼーん
あぼーん
196山崎渉:03/04/20 04:33
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
197世界@名無史さん:03/04/24 18:22
>>194
短くはないだろ。
もっと短命だった統一王朝がいくつもあるしな。
198世界史@名無しさん:03/04/25 20:06
塚本の「光武帝」が出たのに盛りあがらないな…。
下巻が発売されたら評価されるのかな?
199世界@名無史さん:03/04/26 13:23
光武帝みたいに時の文人に詩や論でべたほめされている皇帝って他にだれがいるかな?
200世界@名無史さん:03/04/28 00:52
>>198
項羽がそれほど面白くなかったので買うのを躊躇してます
文庫待ちかな
201世界@名無史さん:03/04/28 00:56
>>199
趙匡胤
202世界@名無史さん:03/04/28 03:19
>>201
誰にべたほめされてる?
203世界@名無史さん:03/04/29 12:36
光武帝と謚された皇帝って他に誰かいる?
204世界@名無史さん:03/05/03 18:34
漢の昭烈帝こと劉備。

昭=光る=光
烈=激しい=武

劉備の諡は「第2光武帝」です。
205世界@名無史さん:03/05/04 04:25
僭越な。
206世界@名無史さん:03/05/08 23:50
塚本「光武帝」とりあえず上巻読み終えました
感想はまだ保留で
207世界@名無史さん :03/05/11 07:48
漢代の玉器について語ってください。
208世界@名無史さん:03/05/16 14:30
>>201
誰にべたほめされてる?
209世界@名無史さん:03/05/17 22:00
塚本『光武帝』は後漢サイト見る限り、そうとう評判が悪いみたいだ。
『漢書』の日本語訳しか読んでない???
210世界@名無史さん:03/05/17 22:13
塚本精子はねえ・・・。
全部は読んでないけど、読んだやつはどれも尻すぼみなのが印象。
漢書しかも訳だけなのかどうかはしらん。なにか根拠あるの?
211世界@名無史さん :03/05/20 23:23
>>210

ここが209のいったサイトのようだね
ttp://www.aya.or.jp/~ein/dan/index.html
212世界@名無史さん:03/05/20 23:39
なりゅほど。
新資料=後漢書訳本?
だとしたらなんかスゴイな。いろんな意味で。なんで後漢に手を出す製紙よ!
213山崎渉:03/05/21 22:19
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
214世界史@名無しさん:03/05/21 22:42
だって制止の目標は、現代に至るまでの全時代を小説にしていくことだもん。
はっきり言って、




 や  め  て  く  れ  
215世界@名無史さん:03/05/21 23:12
マジで!?
なんかで言ってたの?
216世界史@名無しさん:03/05/22 22:13
>215
たしか「呂后」の解説だと思うけど、生死がそう言っていたと書かれてた。
隋唐とかもやる気マンマンみたいだ。
217世界@名無史さん:03/05/27 07:44
218:03/05/27 07:47
これはもしかしてモロっすか?
なんでもあり?

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/bubbs207/
219世界@名無史さん:03/05/27 08:33
光武帝×ケ禹
ロリショタペドだったってホント?
220世界@名無史さん:03/05/27 10:26
>179
五胡十六国の頃に「朝鮮人」というカテゴリーがようやく現れはじめたわけで、
その言い方は不適当。
「鮮卑系民族が、中国大陸及び朝鮮半島に浸透した」
と言うべきだろう。しかも漢民族系の南朝でも、廃帝が殺されるのが
常識になってきてるしな。
221山崎渉:03/05/28 15:00
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
222世界@名無史さん:03/05/29 09:36
山崎対策で保守します。
223世界@名無史さん:03/05/30 06:55
age
224世界@名無史さん:03/05/30 08:14
>>204
遺された孔明たちの気持ちが痛い程よく分かる。
225世界@名無史さん:03/06/01 13:47
何で高祖の生年って二説あるんだよ?
どっちが正しいとすべき?
226世界@名無史さん:03/06/24 14:04
初耳>225
227世界@名無史さん:03/06/24 14:48
寇恂=ショウカ
228世界@名無史さん:03/06/24 14:49
自分の知らないことは事実でない厨がいるスレはここですか。
229世界@名無史さん:03/06/24 15:22
攻められる心配の無い関中全土を統治していた蕭何と違って、寇恂は一郡の太守。
確かに補給で活躍したが、前線の守将も兼ねていたから、
蕭何みたいな人物とは言いがたい。
軍事的にも政治的にもヤバイ地域に置かれた重石と考えるのが正しい。
天下が統一されるまで生きてたら、間違いなく三公のどれかになっていたとは思うが。
230世界@名無史さん:03/06/24 15:58
>>225
BC257説と、BC247説だな。
スレ違いだ。劉邦スレ言って聞いて来い。
231世界@名無史さん:03/06/24 17:24
>>229
http://www2.justnet.ne.jp/~kays/n-kojun5.htm

いや、登禹が寇恂を劉秀に押したときに蕭何が念頭にあるのだが。

「むかし高祖は蕭何に関中を任せ、背後の心配がなくなりました。
そのため山東の戦いに専念でき、ついに大業を成し遂げたのです。
河内は黄河の防御があり、人口多く物産も豊か、北は上党郡、
南は洛陽に通じる要衝の地です。寇恂は文武兼ね備え、人々を
統率する才能があります。彼以外には使うべき人はおりません」
 これが登禹の答えであった
232お良 ◆NRtIkON8C2 :03/07/09 20:08
哀帝を語ってもいいのかね?
233世界@名無史さん:03/07/11 01:14
語ってみなされ
234ON良 ◆NRtIkON8C2 :03/07/11 07:30
おう。語るぜ。

漢の哀帝。
ホモっぷりばかりが有名だけど、彼はなかなか優れた人物だったようです。
王莽はもちろん、自分が帝位に就くのを正当化しなければならない関係からか後漢からも正当に評価されていないように思いますが。
例えば、王鳳以来ずっと輔政の地位にあった外戚王氏を退け、董賢を重用するゴリ押しを成功させ、三公制などの官僚制度改革を進めました。
これらは彼の短い治世での話です。
もちろん、もっと長い治世ならボロ出していた可能性もありますけどね。
でもいよいよこれからオレの時代だ!ってな時に死んじゃったので、彼の治世をもっと長く見てみたかった気はします。
235世界@名無史さん:03/07/11 08:29
>234
では、優秀だったから殺されたとも言えるのかな?
改革派は苦労するものなんだねぇ。
236怨良 ◆NRtIkON8C2 :03/07/12 10:31
まあ、公式には病死なのですが、26歳で死亡です。
上に書いた事は全て10代20代の若さで進めたのです。
班固の賛も彼が優れた資質を持っていた事、武帝・宣帝の手法に倣った事を記し、若年での死を嘆いています。

軽度とは思われますが下半身麻痺か何かの障碍があったようでして、若くしての死も関係あったかもしれません。
しかし、一方で哀帝死亡直後にそれまで雌伏を続けていた太皇太后王氏、王莽らが決起、玉璽を董賢から強奪し平帝を擁立するという事件が起こっており、哀帝死亡が王莽らによるクーデターのために引き起こされたもの、
(要するに暗殺)
という妄想をしたくなります。
237世界@名無史さん:03/07/13 14:50
余りにも早い死から、水銀かなという気もする。
238怨良 ◆NRtIkON8C2 :03/07/13 21:18
水銀中毒はこの時代一般的ではないようですね。
稗史では先代成帝が強精剤飲んで死亡なんて言ってるようですが。
239山崎 渉:03/07/15 12:34

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
240怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/16 20:19
誰か語ろうよう。

哀帝の改革路線だが、これは時代の趨勢であった。
先代成帝末期にも官僚主導での官制改革が行われていたし、哀帝死後政権を握ったおなじみ王莽もハデに制度改革をやっている。

当時、どうやら「漢の命脈は終わりだ」という説というか噂というか流言というかがあったらしく、それに呼応するかのようにその前後は地方で小反乱が多発している。
哀帝はそんな世紀末チックな雰囲気をどうにかしようと改革を進め、かつ皇帝の権力・権威を取り戻そうとしたのである。

哀帝による改革路線は失敗した訳だが、その路線、方向性が間違ってはいなかった事は、後漢の制度が大方は哀帝が最後に行った官制改革に基いている点からわかるだろう。
241235:03/07/17 01:14
>240
知らないから語れないけれど、
読んでいるから一代記を語ってくれ。

為すすべもなく簒奪されたと思っていたので
そのような皇帝がいたのか!と楽しみにしている。
242怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/17 07:50
ありがとう。では

哀帝はついに子に恵まれなかった伯父、成帝の後継者として選ばれて皇太子となった。
この時すでに優れた資質を見せ、それが成帝らに認められたらしい。

さて彼が即位した時、彼の前にどれだけの問題が山積みだったか?
・頻発する反乱など、中央の支配力の低下
・強力な儒家官僚派閥
・長期間に渡る輔政者、外戚王氏
・制度改革の必要性
・漢の天命は終了?
ざっとこんなところだろうか?
哀帝はこれら問題点を、時に反対勢力と妥協し、時には強硬に、失敗もあったものの何とか潰してゆこうと務めた。
243怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/17 08:29
まあ、もちろん全てが哀帝一人で考えたわけでも無いのだけれど、それでも哀帝自身が問題点を認識し努力していたのは確かだ。

・頻発する反乱など、中央の支配力の低下
これに対応しようとしたのが、即位直後の「名田」制だろう。官僚・富民の農地・奴婢の私的所有を制限するものだ。
これは儒家の側から出た政策で、しかも完全に失敗してはいるのだが、即位直後からこういった改革を進める路線は出来ていたのである。

・強力な儒家官僚派閥
実はこれが哀帝最大の敵だった。彼らは故吏関係、師弟関係などのコネで繋がり、私党を形成していたのである。
しかも当時の感覚で言えば優秀で、しかも硬骨漢が多かったので余計に始末が悪い。
それでも、強権発動で丞相王嘉を獄死させたように力でねじ伏せ、最後には丞相孔光を腹心董賢にひざまづかせる事に成功している。
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
245235:03/07/18 00:55
一つ疑問なんだけれど、
儒家官僚派閥にしても、王氏にしても
優秀な皇帝は邪魔なはず。
それなのに優れた資質を見せていた哀帝が
皇帝になれたのは不思議ではないですか?
246怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/18 01:04
寝る前に一言お答えしま。

まず何よりも、選んだのは成帝だってことですな。
成帝が後継者候補の二人、甥の哀帝と自分の弟の中山王(平帝の父)を比べ、甥っ子の方が優れていたので気に入った、という記録があります。
また、確かにあまりに優秀かつ強権的な皇帝は外戚や官僚にとって危険ですが、一方で当時の皇帝という職業は結構激務で、ちょっと白痴っぽかった中山王では務まりそうに無い、と各勢力の意見が一致したのではないでしょうか。

ではおやすみ。
247世界@名無史さん:03/07/18 01:58
なんか急に文体が偉そうになったが、
ちゃんと応えてくれたからまぁいいや。

成帝が跡継ぎを決められる
権限をまだ持っていたんだとすると
それなりに皇帝の権威はまだあったんだなぁ。
その決定を握りつぶして、自分たちに都合の良い者に
跡を継がせることが得着なかったわけだからさ。
248怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/18 20:27
偉そうな文体でゴメンよ。別に考えなく、ただ気分転換にデスマス調にしたの。

じゃあ>>243の続き。

哀帝の先代成帝はマトモに仕事しないで宮殿外ほっつき歩いたヤツだが、それでもすべてナスガママというわけでもなかった。
皇帝の権力がオカシナ事になったのは幼年で即位した(というか担ぎ出された)平帝から。

んで哀帝期の問題点。
・長期間に渡る輔政者、外戚王氏
実は王氏は哀帝即位の頃には下り坂をまっしぐらだった。
よく概説書なんかだと、「王鳳以来王氏が権力を握り続け、ついに王莽が簒奪した」みたいに説明されているみたいなのだが、これははっきり言って誤り。
王氏は王鳳の後はどんどん小粒になった上、成帝後半の丞相テキ方進一党が王氏を攻撃したのでかなり弱っていた。
哀帝も王莽を退け、太皇太后王氏を孤立無援にしている。
よって、哀帝一人の功績でもないが、王氏はほとんど死に体になったのである。
249世界@名無史さん:03/07/19 10:56
>248
北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直を語るスレ
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1031826684/l50
の中期の展開みたいになってもくじけずに続けて
他の人も呼び込めると良いですね。
と言うわけで、文体が気になっただけなので
あんまり気にしないでください。

官僚も外戚も、平帝のパターンを狙わずに
哀帝が登場したことは非常に面白そうですね。
成帝も本当は優秀な人だったのかもしれませんね。
250怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/19 12:38
>>249
応援ありがとう。哀帝や成帝やテキ方進や王鳳を語りたくても相手がいなくて寂しいよ、今は。

成帝は若い頃少しは意欲あったらしいけど、輔政者の大司馬大将軍領尚書事王鳳に抑えられて以来、なんかスネちゃった感じ。
それでも、「やる気無くて王氏と丞相に丸投げ」してはいますが、完全な操り人形ではありませんでした。
王氏の横暴な行為を知って怒ったり、死亡直前ですが丞相テキ方進の失政をものすごい勢いで叱責したりしてます。

また、余談ですが成帝は怖い王鳳が死ぬと王宮を抜け出して微行しています。
武帝や宣帝(即位前)の真似をしていました。
有名な趙飛燕との出会いは抜け出して遊んでいた時だったはず。
251世界@名無史さん:03/07/20 13:31
怨霊タン、ホント漢書好きだねぇ。
252世界@名無史さん:03/07/21 00:53
宣帝について語ってくだはい。
253怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 00:59
>>251
ええ、大好きです。面白いですよ漢書。
皇后の上奏文がほぼそのまま掲載されているのは史書全体でも珍しいんじゃないですか?

>>252
私が語ると宣帝のイメージ変わってしまうかも。
瑞祥偽作、宦官重用、大臣下獄・・・。
それでもよければ私は語っちゃいますよ。
宣帝は好きなんですがね。
254世界@名無史さん:03/07/21 03:24
>>253
そんなコトで嫌うヤツは、勝手に嫌っててもらえw
正直、そんなヤツが歴史の大家とでも言われようなら、
歴史学の進歩の重大な妨げになるだろうよ。
255怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/21 12:05
>>254
じゃあ、語りましょう。宣帝裏面史。

宣帝で有名なのは即位までの経緯と、霍氏誅殺までじゃないでしょうか。
しかしそれ以後の宣帝の時代全体を見ると、まず目に付くのが「やたらと瑞祥が多い」事でしょう。
元号もそれにちなんでいるものが多いです。
しかし、当時からこの「瑞祥」には疑問があったらしく、控えめながら漢書でも循吏伝などでその疑問が記事になっていますし、楊ツ(司馬遷の孫)などはそれを皮肉っています。
恐ろしいのはここからで、「瑞祥」を疑問視し誹謗した者を宣帝は許しません。
楊ツもその舌禍が元で罪に落ち死んでいます。
どうも宣帝のデリケートな部分だったようです。
おそらく、出自が微妙な宣帝は「瑞祥」を利用して自分が「天より選ばれた、天子に相応しい人物」だという(サブリミナルな)宣伝を行う必要があったのでしょう。

もう一つ、宣帝は実は宦官を使って皇帝権力の維持拡大を図ったという面を持っています。
硬骨漢の官僚はそれに反発するのですが、これまた宣帝は容赦しません。
堂々と宦官を指弾した蓋寛饒はそれが元で命を落としましたし、しかも霍氏誅滅に功績のあった名宰相魏相も、宦官と対立し、宦官排除を狙ったけれど反撃されたという記録があります(史記、チョ先生補より)。
宣帝を保護した張賀や許皇后の父など宦官と縁深い彼ですが、それだけではなく宣帝は宦官を利用して官僚を操作する秘密政治を行ったようです。
それは、後継者である元帝の時の弘恭、石顕が実権を握ったという事からもわかるでしょう。
石顕らは宣帝の元で活躍した宦官だったのです。
256252:03/07/23 00:34
うーん、やっぱいいです(w
257怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/23 00:44
>>256
ガビーン!!
ダメ出しされてしもうた。

でもオイラは>>255に挙げたような辣腕な宣帝が好き。


全然関係ないけど、漢の成帝は若い頃最初の皇后許氏とばかりセクースしてて、臣下に
「他の人ともやってくれ、後継ぎ出来ないから」
と言われた事がある。
258世界@名無史さん:03/07/23 01:20
>>256
イイ!(・∀・)       or       いいよ…(--;)

        さ ぁ 、 ド ッ チ ?
259世界@名無史さん:03/07/23 02:08
>258
んな、駄目を押すようなことせんでもよかろうに。
260怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/23 18:44
そうか・・・。燕王旦のように諸侯王の印綬で逝くよ・・・。
  ,、|,、
 (f⌒i
  U j.|
  UJ

261258:03/07/23 19:36
>>259
俺は前者だよ(・∀・)
262怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/23 22:50
>>261
ありがとう。
じゃあ自死やめた。
ともだちの如くトリックだったので大丈夫。

懲りもせず文帝のヤバイ話とか書いてみる?
小ネタだけど。
263永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/23 22:55
>>262
どうぞ。
って言うか、文帝・景帝の二帝も相当キナ臭い人物じゃないですか。
264怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/23 23:06
>>263
まあ、キナ臭いヤツらでもなけりゃあれほどの大帝国作れませんよ多分。

文帝のは大した話じゃないッス。
代王時代に王后(正妻)が居て、男子4人産んでいるのに、即位前後にその正妻も男子も続々と死んだという・・・。
(これが王莽だったら、「出世のために妻や子を殺したんだ」とか言われているでしょうにね)

さて代王后と王子たちがどうして死んだか?
あくまでも推測(妄想)ですが、その后はきっと呂氏。
(なお史記・漢書等ではその后の姓は不明です)
実際、趙王などの例を見ると呂后時代に諸侯王の元には呂氏関係の后や丞相などが送り込まれていたようですから。
そして、クーデター後に代王が即位する裏条件が
「呂氏に連なる者を全て消せ」
だったのではないかと。
呂氏を滅ぼしたクーデター派の功臣たちは呂氏の復讐を恐れたのです。

後の文帝はこの条件を飲み、正妻&子供達を排除・・・。

というお話。
265世界@名無史さん:03/07/23 23:38
名君は時に残虐性も必要だよ。残虐性はよく言えば「思い切り」なんだけど。
266世界@名無史さん:03/07/23 23:40
と書いてみたんだが、残虐性って何か変な日本語ですね。残虐志向がいいかな。
267252です。:03/07/24 00:04
>>258
後者です。
内容じゃなくてもちっと見やすい文章にしてくれると助かります。
268怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/24 00:20
>>267
確かにそうだね。気を付けます。

・・・忘れなければ。
269永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/24 00:30
>>264
呂氏は族滅されてますからね。
呂后の妹の子である樊伉(樊噲の嫡子)も、
呂氏の血が入ってるという理由で殺されてますし。
それを考えれば、あまりキナ臭い話でもないですね。
(審食其が罷免だけで済んだのは、かなり不可解ですが)

むしろ、代から連れて来た腹心の宋昌(楚の上将軍宋義の孫)を臨時に将軍に任命して、南軍と北軍の軍権を掌握させ、
張武をその場で郎中令に任命して、宮中を押さえさせた行動の方に、キナ臭さを感じます。
その後、代から連れて来た腹心6人(たぶん、宋昌と張武も含まれています)を九卿に任命したのも、
皇族や元勲を抑えて、独裁権を握ろうとした一種のクーデターのような気がするのです。
特に宋昌と張武は重用され、宋昌は壯武侯に封じられ(景帝の代に剥奪されて関内侯に落とされていますが)、
張武はたびたび将軍として出征しています。
270怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/24 00:47
>>269
文帝に密談を要求する周勃に対して宋昌は
「密談しないよ。堂々とみんなの前で言いなさい」
って言ってますよね。
多分本当は功臣達主導で打ち合わせみたいなのをするつもりだったんでしょう。
功臣の人事や論功行賞など。
でも堂々と言えない事だから功臣は当てが外れた。

あと審食其は、これも推測ですが呂后死後は不遇のようでして、
呂氏を倒す時には功臣側に積極的に協力したのではないでしょうか。
だから呂氏側とは見なされなかったのではないかと。

それに、彼も沛人で周勃らとは旧知のハズですし。
271永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/24 01:09
>>270
>あと審食其は、これも推測ですが呂后死後は不遇のようでして、
>呂氏を倒す時には功臣側に積極的に協力したのではないでしょうか。
>だから呂氏側とは見なされなかったのではないかと。
審食其は呂后が死ぬと同時に、左丞相を罷免されて、太傅に棚上げされてます。
呂后に追い落とされた王陵と同じパターンです。
文帝が即位すると、その太傅の地位も剥奪されてますが、
「命と辟陽侯の爵位は保障する」という何らかの密約があったんでしょうね。

>それに、彼も沛人で周勃らとは旧知のハズですし。
審食其は「功臣が生きてると物騒だから、皆殺しにしてしまえ」と、
呂后に吹き込んだ男なんですけどね。
旧知の情は、審食其と沛人の元勲の間には、
もはや存在していなかったように思われます。
272世界@名無史さん:03/07/28 01:17
なんだ、もう語る事がないのか・・・
浅いな。
273怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/13 11:05
すごい沈んでるな〜。

クイズ。
漢で二回丞相になったヤツの名前を挙げてみよう。
274世界@名無史さん:03/08/13 16:55
>273
三板のスレ見てるよ。
275怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/14 23:06
>>274
ありがとう。


だれかクイズ答えて。淋しいノヨ。
276世界@名無史さん:03/08/18 12:02
とりあえず保守がてら…

『王莽』が文庫化されたみたいだ。
277世界@名無史さん:03/08/20 16:55
結局、漢代の名君は武帝ですか?
278世界@名無史さん:03/08/20 17:01
スレッドストッパー青が来たからな
誰もレスを付ける気が起きないんだろ
279怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/20 19:36
>>277
宣帝の方が名君には相応しいと思うなぁ・・・。

そんなことより諱の残っていない少帝(恵帝の子)がかわいそうです。
280世界@名無史さん:03/08/20 19:57
実は景帝の方が上かもしれないよ
281世界@名無史さん:03/08/21 00:52
というか、武帝を名君と呼ぶヤツが珍しいだろ。
282世界@名無史さん:03/08/21 09:19
前漢だと文帝、景帝、宣帝、後漢だと光武帝ってとこですか<名君

ルイ14世を名君と呼ぶのであれば、武帝も名君っぽいけど国庫を
浪費して国力を低下する遠因を作ったからなあ。
283世界@名無史さん:03/08/21 18:16
ルイ14世は名君とは呼ばんし。
284世界@名無史さん:03/08/21 18:40
>>283
ニュアンスが伝わらなかったらしい…

もし「ルイ14世を名君と呼ぶのであれば」という仮定の話。
私もルイ14世は名君とは思わん。
ただ、西洋史に詳しくない一般的な人からすれば、太陽王ルイ14世は
「名君」なんだ、と思ってる人もいるなあと思ったんだよ。
285世界@名無史さん:03/08/21 22:06
フィリップ2とシャルル5以外にも名君がいたのか
286怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/23 19:03
いつからフランスのスレになったんだい?

能力という点では哀帝も優れていたと思うが、名君じゃないのは間違いないね。
景帝は呉太子を殴り殺す豪胆さと腕力に萌えましょう。
287世界@名無史さん:03/08/23 19:35
景帝が萌える姿に萌え
288怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/08/30 11:58
兄が4人いたのに文帝即位の頃にバタバタ死んで皇太子になる景帝萌え。
289怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/04 22:24
宣帝は宋代あたりの関中方面の餅屋で祀られていたそうですよ。
餅屋の神様として。
290世界@名無史さん:03/09/07 01:03
>餅屋の神様として
餅好きだったから?
291怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/07 01:11
>>290
コイツが来ると餅屋がもうかるというジンクスがあったから。
292世界@名無史さん:03/09/07 02:59
それより関係ないが、
孫ビンは靴屋の神らしいぞ
293煽り君:03/09/07 16:44
『光武帝』塚本史読んだよ。なんか、いや、とてつもなく変に思えたので、
『漢書』ちくま学芸文庫で、王莽あたりと、『後漢書』岩波書店(高いのよ、
これ)で確認した。
 塚本史サイテー、歴史の裏を構築するならともかく、表の歴史さえ違う。
まず間違いなく『後漢書』読んでいないよ。
294世界@名無史さん:03/09/08 11:34
>>292
孫ビンて足無いよね。その辺に因果関係があるの?
295世界@名無史さん:03/09/08 12:00
>>293
そうなのか?
自分は『王莽』はかなり前に読んだけど、『光武帝』はまだなんよ。
すこしというか、なにかひとつでもここで語ってもらえない?
相違点みたいなものでいいから。
296煽り君:03/09/08 21:52
>>295
 例えば、兄伯升が聖公らに殺される状況で。『後漢書』の馮異伝では、(馮)
公孫だけが、文淑が一人の時は肉を取らず(つまり喪にふし)、枕を涙で濡らし
ていているのを知って「愛惜の情をお捨てになって下さい」と諌めている。
 まあ、知っているのは公孫と文淑だから、こちらがフィクションだということ
もできるが、塚本史の劉文淑は兄が殺されるを(好都合だと)看過している。

 また、『後漢書』では陰麗華を迎えたのは、更始元年(西暦23年)の場所
は宛、郭聖通を娶ったのは更始二年(西暦24年)の場所は真定。塚本史は
郭聖通を娶った後に、陰麗華を迎えたことにしている。

 他には『後漢書』皇后紀の光烈陰皇后伝には

 因嘆曰、仕宦當作執金吾、娶妻當得陰麗華

 と、「曰く」、つまり口に出して言っているのに、塚本史は胸に秘めてい
る扱いにしている。ついぞ言わなければ、この名言も歴史に残らなかった筈。
また、文淑の軽口はよく記述されているので、これも本人の口から出たと考え
るのが自然ではないか。

 おまけ

 塚本史は『漢書』は読んでいるのだ。力子都という人物に、手裏剣投げの
娘の名(名前が浮かんでこない)は『漢書』には出てくる。
297煽り君:03/09/11 23:38
南陽のケ奉
 光武帝の破虜将軍ケ奉はケ晨の兄の子なり、請いて故郷の新野に帰省し
が、呉漢のその地を掠奪せしむを怒り、ついに反することとなる。漢軍を
破り、[水育]陽に構えて、諸賊と合従す。岑彭は、朱祐、賈復、耿[合廾]、
王常、郭守、劉宏、劉嘉、耿植を率いてケ奉を攻めるも、ケ奉に南陽の精
鋭ありて、連月勝たず。
 光武、親征するに至って、ようやくその将をくじき、ケ奉ついに小長安
にて、その捕らえたる朱祐の口利きにて降る。帝、旧功臣かつ端緒が呉漢
故これを許さんとするが、岑彭、耿[合廾]は、ケ奉は恩に背きて反し、為
に傷するや捕わるる将あり、帝至るにも陣にありて、兵破れて初めて降る
故、これを誅せず誰を誅するかと諫言し、ここにおいてこれを斬る。
298煽り君:03/09/11 23:39
漁陽の彭寵
 新の王邑に従軍。呉漢と共に逃れて漁陽に至る。父が漁陽太守だった
故、その役人を頼る。更始立つや、その使者の権威でもって、漁陽太守
と偏将軍を兼ねる。呉漢を安楽の令とす。
 光武が河北に至り、王郎が偽って立ち、上谷と漁陽は光武に帰順す。
王郎の死後、その功を頼んで望み高く、不平多し。元の部下である呉漢
と王梁は三公に至るも、彭寵残り、いよいよ楽しまず。
 彭寵、光武帝に召されるが、讒言の所以かと疑い、ついに兵乱を起こ
す。ケ隆の軍を破り、匈奴並びに各所の群雄と結び、燕王となる。しか
し、その末路は、あっけなく、奴僕に殺害さるるところとなる。
299煽り君:03/09/11 23:41
揚州の李憲
 王莽により偏将軍並びに廬江の太守となるが、王莽破れて自立し、淮
南王と称す。更には天子と称す。光武帝は馬成らを遣わし、李憲を撃つ。
逃げ切れず、追手に斬らるるところとなる。
300煽り君:03/09/11 23:43
竇融
 王莽の将王匡に従軍するが昆陽に破れ長安に戻る。王莽破るるや、更
始の将趙萌に降る。推された鉅鹿太守を譲り、張掖属国都尉として河西
に出づ。更始破るるや、五郡の役人らで衆議し、推されて河西五郡大将
軍を兼ねしむ。
 時に、隴に隗囂、蜀に公孫述在り。竇融、光武の噂を聞きたれば、衆
議し、これに降らんとす。よって、涼州牧を拝す。
 光武の軍に従い、隗囂を撃つ。河西の実権を握りたれば、これを懼れ、
しばしば上書して代わらんことを求むが、光武諭して、これを許さず。
隴蜀を平した後は、入朝し、大司空にまで上る。都度都度、職を辞し、
封土されんことを願うが、光武、その才と謙譲を尊ぶ故に叶わず。
301煽り君:03/09/11 23:46
劉望
 前の鍾武侯劉望或いは劉聖、王莽の世の末、兵を起こす。時に、王莽
の将厳尤と陳茂は昆陽に敗れ、王莽も長安にて殺された所以、劉望に帰
順す。劉望は天子を称し、厳尤を大司馬、陳茂を丞相と為す。更始はそ
の将劉信をして汝南に殺さしめる。同じくして、厳尤と陳茂も誅される。
302煽り君:03/09/13 11:11
陰麗華と郭聖通

 更始元年(西暦23年)六月、光武は陰麗華を宛の当成里に納れる。時
に年十九。(光烈陰皇后紀)

 更始二年(西暦24年)春、光武は王郎を撃ちて真定に至り、郭聖通を
納れ、寵有り。即位するに及んで、以って貴人と為す。(光武郭皇后紀)
 郭聖通の母は真定恭王劉普の娘。よって、郭聖通は真定王劉揚の姪に
あたる。

 建武元年(西暦25年)、郭貴人、皇子彊を産む。(光武郭皇后紀)

 建武二年(西暦26年)正月、真定王劉揚、臨邑侯劉譲謀反す。帝、前
将軍耿純を遣わしてこれを誅せしむ。(光武帝紀第一上)

 真定王劉揚は「火徳の九代目(すなわち光武)の後、首に瘤ある揚(
すなわち劉揚)、主公と為る」の予言の書を捏造し、衆を惑わせんと欲
す。建武二年(西暦26年)春、光武は騎都尉陳副と游撃将軍ケ隆を遣わ
して召すが、応じず。そこで、光武は耿純に節を持たせて遣わし、各王
侯を労いさせ、密かに「劉揚が謁見すようであれば、これを捕らえよ」
と命ず。耿純は役人百騎ほど連れて陳副とケ隆と共に真定の伝舎に止ま
るが、劉揚は病と称して謁見せず。耿純は劉揚の甥であったので、使者
に書を託し、面会せんとすならば伝舎に出ずべしと伝える。
 ここに至って、劉揚は弟の臨邑侯劉譲と従兄劉細、各々兵数万人を擁
して伝舎に赴く。劉揚は多勢を頼むが、耿純は慌てず騒がず。劉揚はま
ず兄弟と軽兵を門外に置き、自分は耿純に見える。耿純は敬礼を持って
接する故、劉揚は安心し、兄弟を招き入れる。その全員が入るや、耿純
は内門を閉じ、全員を誅殺す。(耿純伝)
(続く)
303煽り君:03/09/13 11:13
 建武二年(西暦26年)五月、帝、故真定王劉揚の子の劉徳を真定王と
為す。(光武帝紀第一上)

 建武二年(西暦26年)六月、帝、貴人の郭聖通を皇后、子の劉彊を皇
太子と為す。(光武帝紀第一上)

 光武即位するや、陰麗華を迎えさしめ、以って貴人と為す。帝、陰貴
人は雅性寛仁なるを以って、皇后にせんとすも、陰貴人、郭貴人に子有
ることを以って、これを固辞す。故に郭皇后を立つ。(光烈陰皇后紀)

 建武四年(西暦28年)、陰貴人、帝の彭寵を征するに従い、皇子荘を
元氏に生む。(光烈陰皇后紀)

 建武十七年(西暦41年)、帝、皇后郭氏を廃して、陰貴人を皇后に立
つ。(光烈陰皇后紀)

 皇后郭氏、帝の寵の衰えしを以って、しばしば怨みを抱く。建武十七
年(西暦41年)、廃されて中山王太后と為す。(光武郭皇后紀)

 論に曰く、しばしば、光武の郭氏を娶りたるは、政略に因らん。これ
は郭氏の叔父が真定王劉揚故である所以なり。さすれば、劉揚を誅すれ
ば、郭氏を皇后に立てし所以なく、陰氏に子が出来るまで待つ術もあら
ん。しかして、光武は皇后に郭氏を立て、これを長く据え置きしなり。
光武のその性柔なる所以か。
 最後は、皇后郭氏を廃することになるが、罪を問いて殺さず、その子
の中山王に託すは、光武のまさに他の皇帝と異なる資質と言えんや。

 果たして、塚本史の『光武帝』の『後漢書』と違えるは、如何ばか
りなりし。真実は小説よりも奇なりと言わんが、そは小説の凡庸にあら
ざらん。
304世界@名無史さん:03/09/13 13:34
歴史小説ってやつは
史書に書かれてることとあってなきゃダメなものなのか?
違うだろ?
305怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/14 00:25
303までの人、乙。

>>304
そうなんだけど、その場合の問題は「面白いかどうか」。
光武帝は読んでないんだが、王莽があれだと期待は出来ないってのが正直な気持ち。

>塚本史は『漢書』は読んでいるのだ。
そうだろうね。そっちの方が先に全訳出てるし。
いや、訳どころか光栄作のゲームの解説本しか読んでなくても、面白ければ
(納得できれば)いいとは思うけどね・・・
306煽り君:03/09/14 11:54
>>304
 モノによると思う。以下、小生の思うところを述べる。

 小説家が自分の思うままに小説を書きたいなら、その場所も時代も登
場人物も思うが侭に架空とすれば良い。これは何の問題もない。
 歴史を題材として小説を書く場合、その歴史事実が題材として面白く、
それを基礎として描くなら、何故に一部の史実を曲げることをするので
あろうか?
 劉玄徳と諸葛孔明を主人公とする『三国志演義』なら、本来歴史では
意味のない善役と悪役に、劉玄徳と諸葛孔明、曹孟徳を割り振り、読む
側を単純にわくわくさせるエンターテイメントにすることを心がけ、そ
のため、史実を歪曲している。
 更に劉玄徳が中華を制覇する『反三国志』なら、作者は列強にねじ曲
げられ、悪人=売国奴が溢れる中華に憤り、ために『三国志演義』では
善人であり、それなのに倒れる劉玄徳をして、これを成功させんという
思いで描いている。これは小説としても有りだと思う。
 小説家が史実と異なることを敢えて書くのであるなら、そこにこそ、
小説家の狙いやテーマが有るはずである。

 しかし『光武帝』においては、劉文淑のように、日本ではことさら知
られていない人物の歴史に則った成功譚を描きながら、細かな史実を踏
外すその狙いやテーマが見えてこない。エンターテイメントとして書い
ているつもりでも、寧ろ史実通りのエピソードの方が余程面白いのであ
る。もし、作者が史実を分かった上でそれを違えて、面白くしているつ
もりなら、ツボを外すこと甚だしいと思う。それよりこれは単に小説家
の不勉強であると考える方が筋が通ると思う。
 よって、史実と違えるをもって、なじるのである。
307世界@名無史さん:03/09/15 16:05
>>煽り君氏
もうしわけない。
自分、>>295なのだが、しばらく離れてて閲覧が遅れてしまった。
丁寧な解説をいただき、ほんと感謝します。
308煽り君:03/09/17 20:42
雎陽の劉永
 劉永は梁郡雎陽の人、梁孝王の八世の孫なり。更始即位するや、先ん
じて洛陽に至り、封じられて梁王となり、雎陽に都す。更始帝の権弱ま
れば、兵を起こし自立し、雎陽に割拠す。弟の劉防を輔国大将軍となし、
また弟の少公を御史大夫並びに魯王と為す。豪傑の周建等を招いて将帥
となし、攻めて済陰、山陽、沛、楚、淮陽、汝南を下す。また使いを遣
わし、西防の賊帥の佼彊を拝して横行将軍と為し、東海に立てる董憲を
翼漢大将軍、斉の地に立てる張歩を輔漢大将軍と拝す。
 建武元年(西暦25年)十一月、更始破るるに及んで、天子と称す。
 建武二年四月、帝の軍、劉永を囲む。元更始の将蘇茂は蓋延とそりが
合わず、淮陽太守を斬りて、劉永につく。六月、蓋延は雎陽を落とし、
劉永は[言焦]へ奔る。十二月、蓋延、劉永を沛の西に破る。
 建武三年二月、劉永は董憲を立てて海西王と為し、張歩を斉王と為す。
張歩は先の十一月に降りしが、劉永の使いが及ぶに光禄大夫の伏隆を殺
して反す。四月、光武の将呉漢、七将を率いて、蘇茂と広楽に戦い、こ
れを破る。蓋延、劉永を雎陽に囲む。七月、劉永、その配下に殺害され
り。劉防、城を挙げて下れり。
 蘇茂と周建は劉永の子の劉紆を立てて梁王と為す。
 建武四年七月、光武、馬武と王覇を遣わして、劉紆を垂恵に囲む。
 建武五年二月、光武の軍は垂恵を破る。周建、蘇茂、劉紆は遁走す。
周建は途中で死し、蘇茂は董憲と合し、劉紆は佼彊に奔る。光武の将杜
茂、佼彊を西防に攻め、佼彊と劉紆は董憲に奔る。
 建武五年三月、光武の将[广龍]萌反し、楚郡太守を殺し、董憲につく。
 七月、帝は昌虜に攻め、董憲を破り、光武の将呉漢追撃し、佼彊は降
り、蘇茂は張歩に奔る。更に呉漢は、[炎β]を落とし、劉紆は配下によ
って斬られる。
 十月、張歩は蘇茂を斬って降る。
309煽り君:03/09/17 20:44
東海の董憲
 更始の政治は滞り、董憲は東海(徐州)[炎β]に割拠す。
 建武四年春、光武の将蓋延は、周建、蘇茂を攻め、董憲と留の下に
戦ってこれらを破り、[广龍]萌を率いて、西防を攻め落とす。再度、
周建、蘇茂を彭城に破り、二将は逃走す。
 建武四年七月、董憲の将賁休、蘭陵城を以って降るが、董憲、これを
奪い返し、賁休を殺す。
 建武五年三月、光武の将[广龍]萌は、董憲を撃つ詔書が蓋延独りに下
り自分に及ばなかったことを蓋延の誹りと思い、これを疑いて遂に反し、
楚郡太守を殺し、董憲につく。自ら東平王と号す。
 七月、光武、昌虜に攻め、董憲を破る。
 八月、光武の将呉漢、進軍し、董憲と[广龍]萌を[月句]に囲む。
 建武六年二月、呉漢、[月句]を落とし、董憲と[广龍]萌を斬らしむ。
310煽り君:03/09/17 20:45
黎丘の秦豊
 秦豊は黎丘郷の人。黎丘は楚の地なれば楚の黎王と号す。
 建武三年七月、光武の将岑彭、三将軍を率いて秦豊を撃ち、黎丘に戦
ってこれを破る。
 建武四年十一月、光武の将朱祐、二将軍を率いて秦豊を黎丘に囲む。
 建武五年六月、朱祐、黎丘を落とし、秦豊を捕える。秦豊、洛陽に送
られ、そこで斬られん。
311煽り君:03/09/23 17:02
皇太子劉彊のエピソード

 [至β]ツ(しつうん)伝に見える話。時に[至β]ツは皇太子劉彊に『
韓詩』を授ける役についていた。
 建武十七年(西暦41年)十月、帝は皇后郭氏を廃して、陰貴人を皇后
に立てる。[至β]ツは帝に対して「夫婦の仲は近親も知らぬもの。臣下
において尚更です。よくよく熟慮されたうえ、天下の民にあれこれ言わ
せないよう」と言い、帝はこれを受けて言う「良く君主の心を推し量り、
我の裏表あって天下を軽んじている訳では無いのを知っている」。
 皇后が廃されて、皇太子劉彊は心安らかならざる。そこで[至β]ツは
説いて曰く「疑いの目で見られる地位に長らく居るのは危険です。昔の
名君賢臣と言えども、後妻により孝行息子を放逐したことはございます。
されば、母は子を以って尊しと為すと申します故、皇太子は自らに罪が
あると引責し、身を引き、母につき聖教を明かにされるべきです」。皇
太子はこれに従い、帝も結局これを許す。

 建武十九年(西暦43年)六月、帝は皇太子劉彊を廃して東海王と為し、
東海王劉陽を皇太子に立て、劉荘と名を改めさせる。この時、帝曰く「
彊は謙退を尊び藩国につかんことを願う。父子の情として、いつまでも
この気持ちに違えるわけにはいくまい」。(光武紀第一下より)
 劉荘はすなわち、後の明帝である。
312煽り君:03/09/23 17:04
東海公あるいは東海王劉陽

 劉隆伝に見える話。
 建武十五年(西暦39年)、帝、州郡の墾田面積と戸数年齢登録を調査
させるも、刺史、太守はたいてい公平でなく、豪族に甘く弱者を痛めつ
けていた。百姓(ひゃくせい)は嘆き怨み、道を遮って号泣した。
 帝、陳留の役人の木の札に書いているものに目を止める。それに曰く
「潁川と弘農には問う可きも、河南と南陽には問う可からず」。帝、役
人にこの木札の由縁と訳を訊くも、役人は欺いて道でこれを得たりとい
う。帝、怒る。
 東海公劉陽、時に歳十二、帳の向うにあって曰く「役人は郡のいいつ
けで、他の郡と陳留の墾田面積を比較しようとしていただけなのです」。
帝曰く「それでは、何ゆえ河南と南陽には問えないと言うのか」。劉陽
答えて「河南は帝の城下にて近臣が多く、南陽は帝の出身ですので親類
縁者が多く、土地屋敷は桁外れで、比較のための基準とはなりません」。
 帝、護身の兵の将を使い、役人を詰問せしめたるところ、白状するこ
と劉陽の言う通りであった。

 臧宮伝に見える話。
 建武十九年(西暦43年)、妖巫の弟子たちが妖言を用いて集合し、原
武城に入り、自ら将軍と号す。帝、ここにおいて臧宮らを遣わしてこれ
を囲ましむ。賊に穀類多く、しばしば攻めるも降らず、士卒死傷す。
 帝、公卿ならびに諸侯王を召して策略を問うに、皆曰く「懸賞金を重
く致すべし」。ただ東海王劉陽答えて曰く「妖巫が脅かすと言えども、
勢いが長く続きません。その中には逃げ延びたいと思う輩もありましょ
う。只、包囲がきつく逃れられないのです。囲みを緩め、逃亡させるべ
きです。逃げてしまえは、一亭長でも捕まえることができるでしょう」。
帝、その通りと、臧宮に囲みを緩ませる。賊衆分散し、すなわち妖巫の
弟子たちを斬る。
313怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/23 18:07
>>312
後漢が初期から既に民や土地の把握に苦労していた事を示してますね。
この時は河南、南陽だけでも今に穎川あたりも・・・?
314煽り君:03/09/23 20:32
>>313
『黄巾の乱後の中華人口大激減』のスレに関する話になりま
すね。
 後漢初期は、外戚関係と宦官が力を持っていませんでした。
郭氏・陰氏は光武帝が力を持たせないようにしていましたし、
馬氏は馬皇后自身がそれを意味嫌うくらい避けてっていまし
たから。だからまだましと言えますね。
 特に外戚関係が頻繁に問題になる後漢後期は、その一族の
封土が益々、官の目から外れますし、そのうえ、宦官にまで
恩寵をくわえ出すと、果たしてどれだけ管理できていたか不
明ですね。
315煽り君:03/09/23 22:08
皇太子劉荘と東海王劉彊のエピソード

 趙憙伝に見える話。
 中元二年(西暦57年)、光武帝崩御するに及んで、趙憙に遺詔して喪
礼を司らせる。この時藩王は全て京師にいた。王莽の簒奪以来旧典は無
かったゆえ、皇太子と東海王等はごちゃごちゃに席を入り乱れて、上下
の序列がなかった。趙憙、そこで顔色も厳しく、宮殿の階段に剣を横た
え、諸王を脇から抱えて階段から引き降ろし、これによって尊卑を明ら
かにす。

 通常、趙憙の朝廷における秩序をもたらした仕事を誉めるエピソード
なのだが、皇太子と東海王等がごちゃごちゃになっているというのは、
光武帝の家族関係が、ほのぼの状態の、かなり円満であったことを意味
していると思える。郭皇后が廃されて、陰皇后が立てられ、それに従っ
て、かっての皇太子は東海王となり、かっての東海王は皇太子になって
いるのにである。
316怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/09/27 10:58
>>315
東海王彊が始末されなかったのはなかなか面白いですね。
こんな微妙な立場のヤツは消すのが定石のような気がしますが。


さて、ヒマなので前漢末からの官制改革について語ってみよう。

この時期の大きな改革といえばこんな感じかな。

成帝末、翟方進、何武の改革(綏和元年)
 第1次三公制と州牧制
哀帝即位直後の詔(綏和2年)
 限田制、任子令廃止等
哀帝元寿2年の改革
 第2次三公制、司隷、司直等の改革、未完のまま哀帝死亡
王莽の官制改革(始建国元年)
 第3次三公制、官名、編成の大改革
光武帝の制度復古
 第4次三公制
317煽り君:03/10/02 00:00
光武帝の宿将たち 1 雲台二十八将

 ご存知のように、顕宗(明帝)が先帝の功臣を南宮の雲台に図画したのが二十八人
(後で四人加えられて三十二人)。これを持って、雲台二十八将といいますが、適
当に考えると幾つかに分類できます。
 『古参』
 最初兵を挙げた時に参軍したもの。その軍に帰順したもの。取り敢えず、河北へ渡
る前が古参としましょう。
 馮異、朱祐、祭遵、銚期、臧宮、王覇。馬成もこっちかな。
 『河北在住組』
 河北へ渡った劉秀には、王郎の挙兵という思いもよらぬ事態が待っていました。そ
の劉秀を救うことになるのは、反王郎勢力の信都・和正、更に昌城。劉秀を掲げて反
王郎勢力を築こうとする漁陽・上谷の太守やその配下たちである。
 呉漢、耿[合廾]、寇恂、景丹、蓋延、耿純、王梁、任光、李忠、万修、[丕β][丹彡]、
劉植
 『河北参内組』
 河北へ渡った劉秀を追った者。更始を見限り劉秀を頼っている。
 (時系列が多少怪しいけれど)
 王郎挙兵前…ケ禹
 王郎挙兵後…賈復(推薦付)
 王郎平定後…劉隆、陳俊(推薦付)、傅俊(古参に近いかも)、堅鐔(推薦付)
 ?杜茂
 『その他』
 降将の馬武(総大将が斬られたのでは)
 岑彭(兄劉[糸寅]まで話が繋がるエピソードがある)

 この二十八将の選定条件ですが、後で加えられた四将を考えないことにして、
二十八将の末位の将軍の功績と比べて劣らない重要な将として馬援、来歙が入
っていないことから、どういう理由かと考えたのですが、実は劉秀即位前に帰
順した将たちと考えるとすっきりします。二十八将全員、この条件を満たしま
す。馬援、来歙、それにその後加えられた四人はこれに外れます。
318煽り君:03/10/02 00:04
光武帝の宿将たち 2 雲台二十八将
名 字 没年 生地 帰順地 備考
劉秀 文淑 57 南陽蔡陽 ‐ (略)
『雲台二十八将』
ケ禹 仲華 58 南陽新野 河北・[業β] 劉秀を河北へ追って陣営に加わる(馴染み)
呉漢 子顔 44 南陽宛 河北・漁陽 漁陽組
賈復 君文 55 南陽冠軍 河北・柏人 劉嘉の推薦で河北へ行き陣営に加わる
耿[合廾] 伯昭 58 扶風茂陵 河北・盧奴 上谷組
寇恂 子翼 36 上谷昌平 河北・上谷 上谷組
岑彭 君然 35 南陽棘陽 河南・懐 劉[糸寅]に助けられる
馮異 公孫 34 潁川父城 潁川父城 劉秀個人に帰順した古参
朱祐 仲先 48 南陽宛 河南 劉秀の馴染み・古参
祭遵 弟孫 33 潁川潁陽 潁川潁陽 劉秀の誘いで従軍した古参
景丹 孫卿 26 馮翊櫟陽 河北・上谷 上谷組
蓋延 巨卿 37 漁陽要陽 河北・漁陽 漁陽組
銚期 次況 34 潁川[夾β] 潁川 古参
耿純 伯山 37 鉅鹿宋子 河北 劉秀が河北へ行った際、陣営に加わる
臧宮 君翁 58 潁川[夾β] ? 下江軍出身でいつのまにか陣営の古参
319煽り君:03/10/02 00:06
光武帝の宿将たち 2 雲台二十八将
名 字 没年 生地 帰順地 備考
劉秀 文淑 57 南陽蔡陽 ‐ (略)
『雲台二十八将』
馬武 子張 61 南陽湖陽 河南・射犬 昆陽参戦、王郎平定後に更始の降将となる
劉隆 元伯 57 南陽 河南・射犬 更始軍から、劉秀を河北へ追って陣営へ
馬成 君遷 56 南陽棘陽 河北・蒲陽 更始軍から官を捨て河北へ劉秀に随行
王梁 君厳 38 漁陽要陽 河北・漁陽 漁陽組
陳俊 子昭 47 南陽西鄂 河北 劉嘉の推薦で河北へ行き陣営に加わる
杜茂 諸公 49 南陽冠軍 河北 劉秀を河北へ追って陣営へ
傅俊 子衛 31 潁川襄城 潁川襄城 劉秀に従い昆陽参戦、帰郷、河北へ渡る
堅鐔 子[イ及] 50 潁川襄城 河北 某者の推薦で河北へ行き陣営に加わる
王覇 元伯 59 潁川潁陽 潁川潁陽 古参・昆陽参戦
任光 伯卿 29 南陽宛 河北・信都 昆陽参戦・信都組
李忠 仲都 43 東莢黄 河北・信都 信都組
万修 君游 26 扶風茂陵 河北・信都 信都組
[丕β][丹彡] 偉君 30 河北・信都 河北・信都 和正組
劉植 伯先 26 鉅鹿昌城 鉅鹿昌城 昌城組
320怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/05 11:44
さて>>316の第1次三公制と州牧制について語っちゃえ。

第1次三公制の頃の情勢。
当時の政権担当者は丞相翟方進。
彼の権勢は大将軍王鳳亡き後の外戚王氏を凌ぐもので、
古文派の儒者かつ天文・暦学の大家でもあったという能力やコネをも生かして
政治を牛耳っていました。
彼は中央政府・地方統治の再建を重要課題として認識していたようです。
今でなら「リストラ」「構造改革」などと表現されるものかもしれないですな。
州牧制は地方再建策の一環として考えられたものだったと思われます。

そして、丞相翟方進らによって進められたと思われるもう一つの改革。
それが第1次三公制でした。
321煽り君:03/10/10 23:39
王莽の将厳尤は塚本史の『王莽』と『光武帝』に荘尤として出てくる。
なぜ『光武帝』において、荘尤の最期についてスポットライトを当てる
のかと思ったのだが、『王莽』を読んで、王莽に諫言する硬骨漢であり、
なかなかの知恵者であったからだと、作者の思いが分かった。しかしな
がら、小説における彼の最期も歴史的事実とは異なる。
322煽り君:03/10/10 23:41
王莽の将厳尤と陳茂 1
 陳茂は元始二年(西暦2年)九月に、執金吾候丞として初めて見える。
(漢書・平帝紀)
 厳尤(荘尤であるが、明帝劉荘の諱を避けて厳尤という)は、始建国
二年(西暦10年)十二月に、討穢将軍として初めて見える。(漢書・王莽
伝中)

 始建国四年(西暦12年)、王莽は高句麗に胡を討たせようとしたが、上
手く行かなかった。厳尤が「高句驪を責めず寧ろ慰撫しませんと、返っ
て反乱いたします」と奏上したが、王莽は聞かず、結果、高句麗は反乱
する。王莽は厳尤に高句驪を討つよう命じる。厳尤は誘き寄せて、高句
驪侯[馬芻]を斬る。
 天鳳二年(西暦15年)二月、先の大司馬が左遷され、延徳侯陳茂が後に
納まる。
 天鳳三年(西暦16年)七月、陳茂は日蝕のため免ぜられ、武建伯厳尤が、
大司馬となる。(漢書・王莽伝中)
323煽り君:03/10/10 23:42
王莽の将厳尤と陳茂 2
 天鳳六年(西暦19年)、匈奴の右骨都侯が王昭君の娘婿であるので、王
莽は、掌中に置こうと画策した。この時、厳尤は「右骨都侯の支配下は
中華を犯す位置にあらず、しかも単于の動向をたやすく語ってくれる故、
長安まで連れてくる必要はありません。連れてくれば、一人の胡であり、
匈奴への影響もなくなります」と諫言したが、受け入られなかった。
 また、王莽は厳尤らに匈奴を討たせようとしたが、厳尤は内優も甚だ
しきに外患を討つ非を何度も諌めた。王莽は大いに怒り、ついに大司馬
武建伯を返上せよと言い渡す。(漢書・王莽伝中)

 後漢書の注によれば、厳尤は劉文叔(光武)と会っていた。時に地皇
元年(西暦20年)、劉秀は叔父の舂陵侯劉敞の為に、大司馬府に詣でて、
時の大司馬厳尤に滞納の田租について陳情していた。同じく宛の人、朱
福もまた舅の為に租を厳尤に訴えるも、厳尤、車を止めてただ劉文叔の
みと語り、朱福を見なかった、とある。厳尤は、劉文叔をなかなかの人
物と受け止めていたようである。
 恐らく、王莽が諫言を繰り返す厳尤を大司馬から降ろしたのは、地皇
元年になってからであろう。年代のずれは執筆者の意向で隠れているの
ではないかと思う。つまり、途中で年代を入れると、年代順に書かれて
いるので、次に来る王莽の話は時代を遡る記述になり、年代を律儀に守
るとエピソードが断ち切れになるので、エピソードを守って、年代を記
さないことで、表面上の齟齬がないようにしたのであろう。
324煽り君:03/10/10 23:45
王莽の将厳尤と陳茂 3
 地皇四年(西暦23年)、王莽は納言将軍厳尤と秩宗将軍陳茂に荊州を討
たせる。
 劉伯升らは新市・平林の兵と共同で棘陽を陥落させたが、厳尤と陳茂
は下江の兵を破る。(漢書・王莽伝下)

 更始元年(西暦23年)、劉伯升は、納言将軍厳尤と秩宗将軍陳茂を[シ育]
陽に破り、進んで宛城を囲む。二月、劉聖公、帝に立てられる。三月、劉
文叔(光武)は別将と共に、昆陽、定陵、エンを攻め取る。
 王莽は、甄阜、梁丘賜が斬られ、漢帝が立てられたと聞くと大いに懼
れ、大司徒王尋、大司空王邑を遣わし、百万の軍勢を率いしめる。その
うち、武装兵は四十二万人。五月、新軍は潁川に至り、厳尤と陳茂と合
せり。
 劉文叔が下した城から新軍に降った者が、劉秀は財物を奪わず、計略
を練るばかりであると聞くと、厳尤、その昔を思い出して、笑って曰く
「そやつは、鬚と眉が美しい者であろう。(昔は叔父貴の税の滞納で汲
々と訴えていた者が、)またどうして、そんなに度量の大きな人物にな
ったのであろう」(後漢書・光武帝紀第一上)
325煽り君:03/10/10 23:47
王莽の将厳尤と陳茂 4
 新軍は昆陽に至り、劉文叔の乾坤一擲の反攻が企てられている最中、
それを知らない新の陣営にあって、厳尤は王邑に説きて曰く「昆陽は小
城なれど堅し。そして今、帝号を称する者は宛に在り。すみやかに大軍
を進めれば、彼をして敗走せしめることが出来ましょう。宛が落ちれば、
昆陽も自ずと落ちましょう」
 王邑は答えて曰く「昔、叛臣の[羽隹]義([羽隹]方進の末子)を囲ん
だが、生け捕りに出来ず、大いに責められた。今、百万の軍勢を率いて
敵の城に当たり、下していないのだ。如何なるつもりで、そんなことを
言う。(どう責めれられるか、わかったものではないぞ)」すなわち、
昆陽を何重にも囲い、これに降らんとする敵将を許さじ。(後漢書・光
武帝紀第一上)

 漢書では、厳尤の同じ戦略に対して、王邑答えて曰く「百万の軍勢な
れば、その行く先々の敵が滅んで当然、今、この城を屠り、流血を踏ん
で進み、前に歌い後に舞う、思うに痛快ではないか」と、城を何重にも
囲み、城内の降伏を許さなかった。厳尤はまた説いて曰く「帰らんとす
る兵を遮ることなかれ、城を囲めば敵の敗走のため一方を空けよと申し
ます。兵法の云うところを行い、敗走兵によって宛まで怖れさせましょ
う」 王邑この策を取らず。(漢書・王莽伝下)

 歴史には、寡兵でもって大軍を破る勝利を上げて、劉文叔は名を轟か
せる。王尋は斬られ、王邑、厳尤に陳茂は散り散りとなる。
326煽り君:03/10/10 23:48
王莽の将厳尤と陳茂 5
 前の鍾武侯劉望或いは劉聖は王莽の世の末、兵を起こす。時に王莽の
将厳尤と陳茂は昆陽に敗れ、劉望に帰順す。更始元年(西暦23年)八月、
劉望は天子を称し、厳尤を大司馬、陳茂を丞相と為す。九月、王莽、漸
台に斬られる。十月、更始帝はその将劉信をして汝南に殺さしめる。同
じくして、厳尤と陳茂も誅される。(後漢書・劉玄伝)

 漢書では、厳尤と陳茂は敗れた後、沛郡に至り、漢の将軍と号し、吏
民を集めた。厳尤は王莽の簒奪も天の時によって滅び、漢が復興した世
を称えたが、陳茂は伏して涕泣した。劉聖が衆を汝南に集め尊号を称す
ると聞いて、厳尤と陳茂はこれに降伏した。厳尤は大司馬、陳茂は丞相
となったが、十余日で敗れ、厳尤と陳茂は戦死した、とある。(漢書・
王莽伝下)
327怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/18 11:50
>>320続き。

第1次三公制は、このようなものでした。
・御史大夫を「大司空」と改称し、丞相待遇とする。
・大司馬将軍を「大司馬」と改称し、将軍位を外す。
・丞相はそのまま。
政治情勢的に言うと、これによって損をする可能性があるのは
外戚筆頭として大司馬将軍領尚書事であったのに「将軍」を外される事になる外戚王氏。
一方、官僚層にとっては副丞相的存在だった御史大夫が丞相待遇の宰相になったことで、
むしろ宰相ポストが増えて勢力拡大とより早い出世が望めるという事になります。

また行政面から言えば、当時の繁忙化する一方と思われる行政を、
今までは丞相一府がさばいていたものを三府で分担するようになったという事で、
業務の分担、平均化を狙ったと思われます。

そして最後に皇帝の立場からすれば、
今までは良くも悪くも行政は丞相一人、あるいは大司馬将軍の輔政任せだったのが、
両者を同列にまとめた上でもう一人追加する事で、
権力の極端な集中を抑えられるという利点があります。

このように、第1次三公制は「業務の分担」と「権力の分散」を表の目的に掲げつつ、
同時に当時の権力者丞相翟方進とその与党が有利になるように仕組まれたものでした。
328煽り君:03/10/30 00:06
赤眉の乱時代の同姓同名

 漢で同姓同名と言えば、まず韓信であろう。韓信「斉王->淮陰侯」と
韓王信「韓王->潁川王」である。紛らわしい。他にどんな同姓同名がい
るかと探してみる。

 王莽は漢の簒奪者、字は巨君、元皇后の甥が有名であるが、昭帝の時
に右将軍、衛尉になった人物もいる(時代がずれているから間違えること
は無い)。
 王商は王莽の伯父王鳳の政敵である王商と、王莽の叔父の王商である。
有名なのは前者(両方とも有名でないかも)。
 王鳳は王莽の伯父と、更始帝の宜城王(時代がずれているから間違える
ことは無い)。
 王匡は王莽の太師と、更始帝の定国上公王匡。実際に戦うことがあった
から紛らわしい。

 小生が、引っかかったのは、樊崇である。
 赤眉の将樊崇細君で、光武に降った後、謀反をして死んだとあるのが、
西暦27年の夏である。ところがケ禹の列伝に驍騎将軍として樊崇というの
が出てくる。登場して間もなく赤眉と戦い、亡くなるのは西暦25年である。
時系列を追えば、同姓同名の人物とは分かるが、当初、混同しかけました。
329怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/30 00:25
>>328
私は京房が二人いることに驚きました。しかも両方とも易学者。
330煽り君:03/10/30 22:56
>>329
 それ、分かりませんでした。
 京房が二人と言うので『漢書』(ちくま学芸文庫)で、探してみました。
8巻の巻末に人名索引があるので、京房を探すと、全人名の中でここだけ
二つの列伝を示してある。
 一つは伝第四十五、もう一つは伝第五十八の儒林伝でした。最初、伝第
四十五と伝第五十八を読むと別人のような印象を受けたのですが、儒林伝
(7巻)357ページに至ると、石顕によって殺され、よって伝があるとあり、
それに該当するのは伝第四十五(6巻)でした。…同一人物だった。

 よって、小生の調査では、もう一人の京房は、分かりませんでした。願
わくは、御教授されんことを。
331怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/30 23:06
>>330
もう一人の京房は漢書儒林伝、梁丘賀の伝中に出ています。
「太中大夫京房」とあり、その略歴等からして有名な方の(漢書75に立伝されている方の)
京房とは別人と思われます。
ちくま文庫訳本なら7巻P355です。

立伝されている京房は元「李」姓だったそうですが、
もしかしてわざと「京」を名乗ってもう一人の京房と同じ名前にしたのかも?
332煽り君:03/10/31 22:26
>>331
ありがとうございます。
わずか2ページの灯台下暗しでした。
宣帝の時の太中大夫の京房。師はシ川の楊何。

元帝の時、郎に上がった京房。師は梁の焦延寿。
確かに別人です。
333怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/10/31 22:44
同姓同名といえば劉秀を忘れてた・・・。
334煽り君:03/10/31 23:46
>>333
 それは、すぐに分かりました。後漢書のケ晨伝に載っている
エピソードが、比較的分かりやすいですね。

 王莽の末期、劉文叔は兄の伯升とケ晨と共に宛に行き、穣の
人蔡少公とたわいもなく話していた。蔡少公は図讖に精通して、
「劉秀当に天子と為るべし」と言う。その時、ある人が「それ
は、国師公の劉秀(劉[音欠]の改名後の名)のことだね」と言う
と、劉文叔はおどけて「どうして、僕でないと分かるんだよ」
と言う。一同は爆笑した。この時、密かに本気にしたのは、劉
秀文叔の義理の兄になるケ晨であった。

 こうして幾つかの図讖に出会った劉文叔だが、当初信ぜずに
いて、結局、帝についたもんだから、占いって当たるもんだな
と、占いオタクになってしまった、というのが小生の光武帝の
イメージなんです(これは脱線ね)。
335世界@名無史さん:03/11/04 10:38
なぜか沖縄本島から新の銭が出土している・・・
336世界@名無史さん:03/11/04 11:58
南北朝の頃までは姓1字、名1字が普通だから、
同姓同名が続出しても不思議ではないな。
337世界@名無史さん:03/11/04 12:00
そして文革以降再び姓1字、名1字が増加・・・
現に人違いが悩みの種だそうな。
338怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/11/29 22:55
すごい久し振り。
後漢、三国では同姓同名たくさんいるよね。
霊帝の時の宦官曹節と献帝曹皇后とか。
339世界@名無史さん:03/12/05 12:00
>>338
王郎も、そうかな?
340世界@名無史さん:03/12/06 18:06
>>339
多分、これのことでしょ?

王郎
 邯鄲の群雄・王郎(王昌)

 三国時代の王郎景興(文官としては有能だが、孫策に江東から追
 い払われ、演義では魏陣にて諸葛亮と舌戦を繰り広げて負ける)

 他にも三国時代にはいるんですよ。

賈逵
 明帝・章帝の頃の儒学者・賈逵景伯

 三国時代の魏の文官・賈逵梁道、曹操の葬儀委員長

王平
 明帝頃の偽預言書作成者(楚王英伝)

 三国時代、魏将から蜀将となった、王平子均 


 今見つけた同姓同名の人物・・・別人だと思う(もし同一人物
なら、それだけで小説のネタになる)

 李育
   王郎の大司馬(本紀一上)
   公孫述の将(隗囂伝)(公孫述伝)
341世界@名無史さん:03/12/06 18:09
三国時代の有名な宰相・「王ろう」は「王朗」。
342怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/12/06 21:16
もうひとり王平
斉人、前漢昭帝の時の廷尉
字子心
343世界@名無史さん:03/12/06 22:17
160年頃、悪名高い、下ヒの宦官徐コウの親族で
地方長官として横暴を働き罰せられた名を、同じ徐州
で、広陵の徐宣・瑯邪の徐盛の親がつけている。
344煽り君:03/12/10 19:53
>>343
出典は何ですか? 『後漢書』(岩波)の列伝には名前が無いので。
ひょっとして、『三国史(正史)』?
345世界@名無史さん:03/12/11 21:59
>>344
後漢書の宦者列伝(単超)の所です。
346煽り君:03/12/11 23:13
>>345
ありがとうございます。
 小黄門の徐[王黄]ですね。跋扈将軍こと梁冀伝にも徐[王黄]の名は
ありました。

 後漢書の宦官列伝なら、600円でダウンロードできますが、漢文が
読めるのでしたら、岩波の高い『後漢書』買っていないので、チェッ
クはパスさせて頂きます。すみません。
347世界@名無史さん:03/12/17 18:37
>>317
馬援については、外戚だから除外された、
と本伝に理由が明記されているので参照まで。
348煽り君:03/12/20 12:14
>>347
 外戚関係だから馬援を外したのは、おっしゃる通りです。

 馬援伝より
 永平(58-75)の初、馬援の娘、皇后に立つ。明帝は建武中(25-56)の
名臣列将を雲台に図画するも、皇后の故を持って独り馬援に及ばず。
東平憲王蒼、図を見て明帝に言いて曰く、「どうして伏波将軍(馬援)
の像を画かないのですか」。明帝笑いて言わず。

 ただ、(三十二将でなく)二十八将の選定理由を考えた場合、外戚
除外則以外に、光武即位時点で既に帰順していた将であり、且つその
後も忠義一節で一生を終えた将であるというルールもあると思うわけ
です。この定義は長いので、ここでは勝手に宿将優先則とします。
 外戚除外則にあたるのは、馬援だけでなく、陰識も明帝の伯父にあ
たり除外(なお、陰識が帰順したのは光武の即位後、妹の陰麗華を連
れて、すなわち光武は新妻を義兄に預けて、単身赴任していたわけで
す)。また、光武が立つ前に河北に同道したケ晨(光武の姉の元の婿
でもある)は二十八将に含まれていませんので、宿将優先則から外れ
るので悩みました。
 これについては、ケ晨が皇太后陰麗華の親族であるなら(陰麗華の
母はケ氏であるため)、理解できます。同じケ性でもケ禹は親族では
ないのでしょう。

 来歙を二十八将から外しているのは、宿将優先則がないと分からな
いです。他の理由としては来歙が光武の外兄であるためとも考えられ
ますが、帝室に影響を与える外戚とまで言えるかどうか?
 後で加えられた四人、王常、李通、竇融、卓茂は前にも書きました
が、宿将優先則に外れます。血族という点では李通は光武の妹・伯姫
の婿ですが、公主婿程度では問題にならないのでしょう。
349煽り君:03/12/20 12:17
 二十八将の選定基準を考えたのは誰かというと、明帝一人だけでし
ょう。もし選定委員会のようなものがあったとしたら、その中に東平
憲王蒼が含まれていると思うからです。
 劉蒼は、明帝と同じく父光武、母陰麗華。

東平憲王蒼伝より
 蒼若くして経書を好み、非常に頭が良かった。風体は、顎鬚と頬髯
が美しく、腰回りが十囲(恰幅があった)。明帝甚だ蒼に親しみ重ん
じた。明帝即位するに及んで、蒼を驃騎将軍となし、役人に四府の定
員を越える四十人を与え、位は三公の上にあらしめた。

 永平十五年(西暦72年)、明帝、東平に行幸し、蒼に賜う。帝、作り
し所の「光武本紀」を以って蒼に示し、蒼は因って「光武受命中興頌」
を奉る。

 明帝は自分の同腹の弟であり、頭も良いため、蒼をブレインとして
していた。明帝自体、即位以前に聡明さを示すエピソードがあり、後
漢二代目皇帝としても名君と言われている。その明帝が劉蒼を重んじ
て、三代目の章帝(彼も名君と言われている)も劉蒼を重んじている。
 この劉蒼が「どうして伏波将軍(馬援)の像を画かないのですか」
と言うのだから、二十八将の選考には余人は拘わっていなかったと思
えます。候補者推薦くらいはしたかも知れませんが。
350世界@名無史さん:04/01/16 16:35
くわしいね
351世界@名無史さん:04/01/17 00:04
名前の割りに律儀だし
352煽り君:04/02/01 21:43
隗囂季孟 その1
 隴西に立ちたる群雄の隗囂、勢力の均衡地帯にあったがゆえ、風見鶏よ
ろしく立ちまわりしが、畢竟、光武に倒されることとなる。しかし、その
生涯は、寧ろ地方勢力としての地位を築くまでが面白い。
 先ず王莽の国師劉[音欠]に招かれるが、[音欠]死して、帰郷。その後、
王莽が敗れ続け、更始が勝ち続けると、隗囂の末の叔父隗催・隗囂の兄隗
義らが漢に応ぜんとす。隗囂は一族に危険が及ぶと、これを止めしが聞き
入れられず、天水郡の郡守(漢の呼び名で)が殺される。その反旗の旗頭
に隗囂は上げられ、自分の意見を聞くならと、これを呑む。
 隗囂が立つや、軍師として方望を招聘し、この言に沿い、漢に付く事を
鮮明にす。すなわち漢の祖廟を立て、これを祀り、「劉氏一族を興し輔け
ん。違うなら族類は滅亡すべし」と血盟を結ぶ。
 隗囂は反王莽の檄文を飛ばし、兵十万を整え雍州牧を殺し、王一族の安
定太守は説得に応じず故、捕えて殺す。時に長安では王莽が誅殺され、隗
囂は諸将を遣わせて隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌を攻め取
る。
353煽り君:04/02/01 21:45
その2
 更始二年、帝の使いにより、隗囂らは招聘される。方望は更始はまだ末
が分からないからと、固くこれを止めるが、隗囂らは聞かず。方望は一筆
書き辞去す。こうして長安に至る。その冬隗催隗義は叛き帰らんと欲す。
隗囂、禍が及ぶのを怖れ、之を告げん。隗催隗義は誅殺され、隗囂は御史
大夫となる。
 明年夏、赤眉軍が関内に入り、一方、光武が河北に即位するとの流聞す
るや、隗囂は更始に、政治を光武の叔父国三老劉良に任せるよう説くが、
更始は聞かず。更始軍内に謀略が張られ、隗囂もそれに加わる。事は漏れ、
隗囂は更始に呼び出されるが病と称し、入らず、且つ兵を整える。更始は
執金吾に兵を持たせ隗囂を囲ませるが、隗囂、これを防ぎきり、遂に囲み
を潰し、数十騎と共に夜半に関を斬り、天水に帰る。衆兵を集め、ここを
拠点とし、西州上将軍と自ら称す。
 更始破るるや、長安の長老に士大夫は隗囂に帰す。こうして隗囂は群雄
として隴西に割拠することになる。

 ここからは、お馴染みの光武、公孫述との風見鶏駆け引きになる。方望
の言う通り、様子見をしていれば、或いは竇融と同様に素直に光武に降っ
ていれば、と思うがそれは歴史のifですね。歴史短編として描きたくなる
素材のような気もします。
354煽り君:04/02/02 00:22
公孫述子陽 その1
 蜀に立ちたる群雄の公孫述、かっては劉邦が漢中に追いやられ、そこか
ら、全国を制覇したその端緒に立ちながら、ついにはその夢も潰えてしま
った。彼が群雄として立つまでは余り言及されないが、これまた含蓄に富
んだものである。
 哀帝の頃、父公孫仁の官位のお陰で郎となる。後に清水(甘粛省清水の
西)の長となる。河南都尉であった公孫仁は若年な公孫述を思い、部下を
遣るが、その部下は余り月日を得ずして戻り、曰く「述は教えを待つよう
な人物ではありません」。後に公孫述の上司の太守は、能吏たる公孫述に
五県を掛け持ちさせるが、政事は修まり、姦盗は起らず、郡中、鬼神と噂
す。王莽の天鳳年間には蜀郡太守(漢の呼び名で)となり、能吏の名を馳
せる。
 王莽が倒れ更始が立ち、豪傑が各処に現れ漢に応ず。南陽の宗成、商の
王岑が立ちて合す。公孫述これを聞きて、宗成らを成都に迎えしが、略奪
すこと甚だなり。公孫述、之を憎み、県中の豪傑を召し曰く「天下は、新
に苦しみ、劉氏を慕う。そこで漢の将軍というので迎えたが、之は寇賊の
類であり、義兵にあらず。吾は郡を保ち守り、真の主を待たんと思う。力
添えしようと思う者は残ってくれ、そうでない者は去るがよい」豪傑一同
叩頭し命を託さんとす。公孫述、偽って漢の使者によって、輔漢将軍にし
て蜀郡太守兼益州牧の印綬を授かったと称し、精鋭の兵を選んで宗成ら撃
ち之を下す。
355煽り君:04/02/02 00:23
その2
 更始二年、更始は李宝、張忠の二将を遣わし、蜀と漢中を押えんとすが、
公孫述は、人民が懐き地勢険なのを頼み自立せんと志す。弟公孫恢を送り
李宝、張忠を破る。公孫述、功曹の李熊の言に従い、ついに自立し、蜀王
と成り、成都に都す。更には建武元年四月、自らを天子と為す。

 ここからは、歴史に見える地方の群雄公孫述の話となる。蜀を基に中原
を覇せんとすは、漢の劉邦や劉備、或いは晋の鍾会とも重なる。性格的に
は鍾会に近いか。
356煽り君:04/02/02 00:27
>>355
禿しく突っ込まれそうなミスだな。鍾会は魏の武将、実権が司馬昭に
あっても、まだ晋には成っていない。
357世界@名無史さん:04/02/04 19:53
>>356
自分でしっかり訂正してるんだから問題ないな。
そこまで野暮なツッコミもどうかと思うし。
358煽り君:04/02/05 23:32
方望
 方望は隗囂伝、本紀一、劉玄伝、劉盆子伝に名が見えます。そこで、そ
れを全て列記します。隗囂伝と他の文献の方望が同一人物という保証はな
いですが、平陵の方望というのが共通なので、恐らく同一人物だと思いま
す。そうすると意外な一人物の歴史への影響が見えてきます。

 方望は平陵の人。隗囂らが蜂起した際に、隗囂の招きで参謀となった。
 更始二年(24年)、隗囂が更始に招聘された時、更始の行く末が分からな
いと、更始に降るのを諌めたが聞き入れられず、辞去する。(隗囂伝)
 更始三年(25年)正月、弓林らに言いて、前の帝孺子(王莽の傀儡帝)の劉
嬰を立てて天子と為す。更始は丞相李松を遣わし、之を斬らしむ。(本紀一)
(劉玄伝)

 更始三年(25年)、赤眉軍は華陰に至る。巫騒動があり、更始の兄を殺さ
れし方望の弟方陽は、この機に樊崇に説いて曰く「更始は荒れ放題で政令
は行われず。故に将軍はここまで来れました。しかし称号は無く、群賊で
す。このままでは保てません。そこで、宗室を立て義を持って誅伐すれば、
何を持って歯向かいましょう」 樊崇、然りと為す。
 六月、遂に盆子を立てて帝と為す。(劉盆子伝)
359煽り君:04/02/08 21:43
漢中の延岑
その1
 漢中の延岑、字は叔牙。更始の将劉嘉(光武の族兄)に冠軍にて下され
るが、再度反旗を翻し、漢中王・扶威大将軍劉嘉の都、南鄭を囲み、劉
嘉は敗走する。(劉嘉伝)
 建武二年(26年)二月、延岑、自ら武安王と漢中に称す。(本紀一)
 延岑、更始の将李宝に敗れ、天水に走る。公孫述、侯丹を遣わせて南
鄭を得る。劉嘉は散兵を集め、李宝を相国と為し、侯丹を撃つも叶わず。
劉嘉、河池、下弁に軍し、延岑と再度しきりに戦う。(劉嘉伝)

 建武二年(26年)九月、延岑は赤眉を杜陵に破る。(本紀一)
 延岑、散関より出て杜陵に屯す。赤眉の将逢安、之を撃つ。光武の将
ケ禹、逢安の精鋭軍が出て脆弱な劉盆子本軍のみ城内に残れるを以って、
自ら之を攻む。偶々劉盆子の将謝禄、救援に間に合い、ケ禹は敗走す。
 延岑、更始の将李宝と合し、逢安と杜陵に戦うが敗れる。李宝は逢安
に降るが、延岑に策をもたらす。再度、延岑は逢安に挑み、逢安が陣営
を空にした後、李宝は赤眉の旗幟を己の旗幟に入れ替える。すなわち逢
安、帰陣するや既に陣を奪われしと思い、潰走し、一部のみ長安に戻る。
(劉盆子伝)
 ケ禹は兵を率いて延岑と藍田に戦うが勝たず。漢中王劉嘉、ケ禹に詣
って降る。劉嘉の相李宝、驕り無礼であるため、ケ禹は之を斬る。李宝
の弟は部隊を集めて、ケ禹を撃ち、将耿[言斤]を殺す。(ケ禹伝)
360煽り君:04/02/08 21:44
その2
 建武三年(27年)四月、光武の将馮異、延岑を上林に破る。(本紀一)
 赤眉が光武に降りし頃、延岑は藍田に拠っていた。延岑は関中を得ん
と、上林に屯せる馮異を張邯、任良を率いて攻めしが敗れる。敗走する
延岑は析を攻めるが、馮異はケ曄、于匡を遣り、迎撃させ、これを敗走
させん。延岑ついに南陽に逃れん。(馮異伝)

 建武三年(27年)六月、光武の将耿[合廾]、延岑を穣に破る。(本紀一)
 延岑、南陽を攻め数城を下す。穣の人杜弘、その衆を率いて延岑に従
う。耿[合廾]、延岑らと穣に戦い、之を破る。杜弘は耿[合廾]に降り、
延岑は東陽に逃れる。(耿[合廾])

 建武三年の末、光武の将朱祐、祭遵を率いて、延岑と東陽に戦い、そ
の将張成を斬る。(本紀一)
 延岑は穣に敗れて、秦豊の将張成と合す。朱祐、祭遵を率いて、延岑
と東陽に戦い、之を破り張成を斬る。延岑は逃れて秦豊に帰順す。
(朱祐伝)
 延岑と田戎は共に秦豊に合し、秦豊は共に娘を以って之に娶せる。
(公孫述伝)
361煽り君:04/02/08 21:45
その3
 建武四年(28年)二月、光武の将ケ禹、二将軍を率いて、延岑と武当に
戦い、之を破る。(本紀一)
 延岑が順陽を寇す故、ケ禹がケ曄、于匡を率いて遣わされ、之をケに
破り、追いて武当にまた破る。延岑は漢中に敗走す。(ケ禹伝)

 建武五年(29年)、秦豊が漢に敗れ、延岑と田戎は蜀に亡命す。公孫述
は延岑をして大司馬と為し、汝寧王に封じる。田戎を翼江王と為す。
(公孫述伝)

 建武六年(30年)夏、光武の将李通は侯進、王覇を率いて、漢中の賊(延
岑)を撃つ。公孫述は救援を出すが、李通は西城に戦い、之を破る。
(李通伝)
362煽り君:04/02/08 21:46
延岑 その後
 建武十二年九月、その公孫述も攻められ、追い詰められ延岑に問う「如
何にしたものだろう」。延岑答えて「男たるもの絶体絶命の窮地の中で活
路を見出すものです。座して窮するものではないでしょう。財宝は集めや
すいものです。これを惜しんではなりません」すなわち公孫述、金帛を散
じ決死の兵を募る。(公孫述伝)

 こうして最期まで光武に立てついた延岑は、公孫述が亡くなるとその兵
を引き継ぐが、遂に呉漢に下る。呉漢は、公孫述の一族、延岑並びにその
一族を皆殺しとする。(公孫述伝)

 延岑と云う一人物を追っていくと、負けても負けても怯まない。只ある
のは己の王国を立てんがこと。当に群雄割拠の群雄の生き様「男子たるも
の、生まれたからには天下を覇せん!」を体現したようです。凄まじいと
しか言いようがない。
363煽り君:04/02/11 09:42
夷陵の田戎

 西平の人田戎、同郡の陳義と共に夷陵に客たりて群盗となる。更始元年
(23年)、田戎と陳義は兵を率いて夷陵を落し、自ら陳義は黎丘大将軍と号
し、田戎は掃地大将軍と号す。(岑彭伝・註釈)

 建武三年(27年)、光武の将岑彭、秦豊を黎丘に囲む。田戎、之を聞きて、
大兵の来たらんことを恐れ、光武に降らんと欲す。田戎の妻の兄、辛臣は
地図を為して「光武は中央を押えただけで、周囲には群雄が列挙したまま
です。兵を集めて模様眺めを致さん」と諌めるが、田戎は「秦王(豊)の強
きを以っても猶囲まれん。況や吾をや」と投降の意を決っせり。
 建武四年(28年)春、田戎は辛臣を夷陵に留め、自ら江を遡って、黎丘に
留まり、期日を以って降らんとす。ところが、辛臣は田戎の珍宝を盗み、
間道を使って先んじて岑彭に降り、書で以って田戎を招く。田戎、之を辛
臣の己を売りしと疑い、遂に敢えて降らず、反って秦豊と合せり。(岑彭伝)
 延岑と田戎は共に秦豊に合し、秦豊は共に娘を以って之に娶せる。
(公孫述伝)
 建武五年(29年)三月、弱体化した秦豊の包囲を朱祐と代りし岑彭は、傅
俊他一将軍を率い、田戎を撃つ。田戎を津郷に伐ち、之を破る。田戎、蜀
に走る。(本紀一)(岑彭伝)
 建武五年(29年)、秦豊が漢に敗れ、延岑と田戎は蜀に亡命す。公孫述は
延岑をして大司馬と為し、汝寧王に封じる。田戎を翼江王と為す。
(公孫述伝)

 (略)

 建武十二年(36年)秋七月、光武の将馮駿、江州を下し、田戎を獲う。
364煽り君:04/02/13 22:06
 最近見つけた、同姓同名

 王遵
 1楽浪太守の王遵(光武配下)建武六年(30年)六月、命により王調を撃つ。
 2隗囂の将の王遵、光武の使者来歙を殺さんとする隗囂を諌め、後に来歙
の誘いによって、光武に帰順。時に建武七年(31年)。

 劉[音欠]
 1王莽の国師の劉[音欠]と
 2光武の将、二十八将の劉植の従兄弟

 同一人物?同姓同名?

 王豊
 1建武元年(25年)、深追いして逆襲された光武は高岸から飛び込んで逃げ
る。その光武に出会った突騎の王豊で、光武に自分の馬を差し出す。
 2顕宗(明帝)の初期、二十八将の馬武の副将として、西羌と戦った中郎将。
365世界@名無史さん:04/02/22 18:15
保守age
366煽り君:04/03/13 00:54
たまには何か書こう。ネタは光武帝の息子たち、十一人。

郭氏の五男
東海王劉彊…謙譲・謙虚な元皇太子
 どれほど控えめかというと、皇太子の座を降りるくらい。その上、自分
の息子は小人ですので、私が死んだら領地である東海郡を還しましょうと、
明帝(弟)に言っている(実現はしなかったが)。

沛献王劉輔…控えめで折り目正しき賢王
 中山王となり中山太后(母の郭氏)を託される。後に沛王と為る。慎み
深く、威厳があった。経書を好み、「易」「孝経」「論語」に註釈し、図
讖を説いて、「五経論」を作る。

済南安王劉康…偽予言書で悪名を馳せる
 予言書に基づいて謀反を働いていたと上書され、審議されるが、明帝が
追求させず、領地を削られるに止まる。帝が代り領地を戻されても奢侈癖
は直らず。

阜陵質王劉延…傲慢贅沢で臣下に対して激烈
 予言書に基づいて呪詛していたと上書され、審議されるが、明帝の恩情
で領地を削られるに止まる。帝が代っても息子らと逆謀すと告げられる。
章帝は命を奪わないために仔細を調べず、王を侯に落すに止める。

中山簡王劉焉…特に目だった逸話なし
 母の郭氏に偏愛されたこと、娘が過ちを犯したので縊り殺して、領地を
削られた程度。
367煽り君:04/03/13 00:57
陰氏五男
明帝劉陽…二代皇帝・顕宗、名君

東平憲王劉蒼…善を好む驃騎将軍
 皇族で王であるのに驃騎将軍に任じられ、位は三公の上という変わり種。
明帝が狩に出る時は留守居をし、皇太后(母の陰氏)の警護役となったと
ある。時には、明帝の狩について、農民の忙しい時期ですのでお止め下さ
いと諫言している。それに従う明帝は、名君ならでは。
 言わば宰相の地位にあるのに、都を出て地方に着いたのは処世術かもし
れない。この後、二代(明帝・章帝)に渡って、諫言・建策を上奏。

広陵思王劉荊…酷薄にして策謀を組む
 光武帝が亡くなった直後に、東海王劉彊に叔父からと偽の手紙を送り、
謀反をそそのかす。劉彊は慄いて、即座に明帝にこの手紙を届けた為に、
劉荊の策謀と露見する。明帝は肉親故、事を隠し領地に赴かせるが、領地
で、占星術師に謀反を起こすべきかどうかを占って貰おうとし、却って告
げられる。劉荊は自ら獄に繋がれるが、明帝は追求せず、ただ租を食む事
だけを許す。それでも巫を使って呪詛しようとし、役人に上奏させられ、
ついに自殺す。

臨淮懐公劉衡…夭逝故、特に逸話がない

琅邪孝王劉京…恭順孝行だが、贅沢好き
 明帝は皇太后の遺品をことごとく劉京に与える程、劉京に恩寵を加えて
いた。宮殿に意匠を凝らし金銀を掛けたとある。その一方で詩賦を奉りて
徳を寿ぎ、明帝は之を嘉しめでた。
368煽り君:04/03/13 01:00
郭氏(郭聖通)には前述の五人の息子がいた。
 息子だけで五人を産んでいるのだから、相当な恩寵と言える。それに長
男は太子だというのに、これで寵が薄れたと怨嗟の声上げると言うのは、
少し我侭のような。
陰氏(陰麗華)にも前述の五人の息子がいた。
 母親の影響で息子の性格がどうなったかを考えてみると、陰氏の息子に
もとんでもない人物がいるので、必ずしも母親の教育が良い悪いと言えな
いような気がします。
許美人には一人息子がいた。これで十一人の息子となる。
 その息子楚王劉永は偽予言書事件の首謀者で有名。
 母は帝の寵がなく、故に兄弟中最も領地が小さかった。王となった後に
予言書を捏造し、帝の様に勝手に官職を設ける。明帝は本来なら誅する所
を、王位を廃し領地を取り除くに止めるが、劉永は自殺する。

 親父の光武劉秀の教育には、間違っていたと思える一点がある。図讖に
凝っていたことである。よって図讖で身を滅ぼしたり、破滅しそうになっ
た息子たちが、劉永、劉康、劉延。劉荊もそれに近い。図讖通でありなが
ら評判の良かった劉輔という例外はある。
 逆に親父の光武劉秀の教育であり、他の王朝と異なる思えるのは、明帝
やその息子章帝が、皇族諸王の反逆に近いことを許して、命を奪っていな
いということ。自殺者がいるが、それを命ぜられた訳でもない。
369怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/16 00:33
図讖は当時の流行でしたから。
まるで信じないような人間の方が珍しかったです。
光武帝にしても、当時は普通の事だったんじゃないかと思うんですけどね。
370怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/16 00:39
東平憲王劉蒼の驃騎将軍ってのは、結構スゴイ事のような気がする。
前漢なら、まずありえない。
劉キンなんざ「宗室だから」という理由で河内太守から五原太守に遷されている・・・。
それくらい宗室関係には厳しかった。
あとは皇帝の甥っ子で丞相になった劉屈釐くらい?
371世界@名無史さん:04/03/16 22:31
>>369
というか光武帝はミーハーを地で行った男だったからな(w
372怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/16 22:55
そういやそッスね。

「ああ〜!陰麗華ああ!陰麗華あああ、執金吾かっこいいよーーー!かっこいい〜!」
373煽り君:04/03/18 22:47
>>369
 確かに、図讖というのはこの時代、大手を振っていましたね。劉秀対公
孫術の図讖対決とかあって、面白いです。
 というわけで公孫術伝から(面倒なので、現代口語風に)。

 公孫術も瑞兆のようなことを好んで、やたらと予言書を調べる。『禄運
法』に「昌帝を廃し、公孫を立つ」とあり、『括地象』に「帝の軒猿は命
を受け、公孫氏握る」とあり、「援神契」に「西の太守、卯金を乙す」と
あることから、西の太守の公孫術が劉(卯金刀)氏を乙[絶]し、皇帝にな
るのだ、と民草に吹聴する。
 光武帝はこれを憂いて、公孫術に書を送って言うに、「図讖で、公孫と
言うのは、武帝の曾孫の宣帝の事だよ(実際に帝に着かんとした昌邑王は
廃されて、宣帝が位に着いた)。漢に代らんものは当塗高と書いてある。
君は、高なのかい。(以降、ああだこうだの説教)」最後に、公孫皇帝(
劉氏の子孫である皇帝)と署名する。公孫術は返答せず。

 ちなみに後漢末、当塗高は自分のことだと皇帝を僭称したのは袁術公路。
当塗は当路、つまり公路だと袁術は言うのである。
 実際のところ、当塗高は魏のことであるというのは説三分通には有名な
ことで、塗(路=みち)に当りて高し、とは城門、つまり魏(曹操)のこ
とをいう、らしい。
374怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/23 23:10
>>373
図讖の類は、以前から流行の兆しはあったと見るべきでしょう。

例えば、公孫氏が宣帝だという解釈について。
これはここで初めて出てきた解釈ではないのです。
漢の昭帝の時代、皇帝の大庭園である上林苑で、
木の葉に「公孫病已立」と読める虫食い跡が発見されたのです。
これをスイ(目圭)弘なる春秋学者は、
「易姓革命の予兆だから公孫氏に禅譲すれ!」と大胆極まりない上書をし、処刑されます。
でもそれは劉病已、即ち宣帝の事だった、というのです。
375世界@名無史さん:04/03/25 01:16
なんで劉邦>朱元璋なのか?★
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1079201600/

からの光武帝難民の為に需要あげ げ
376世界@名無史さん:04/03/25 01:16
○公孫述
X公孫術
377煽り君:04/03/25 20:14
>>376
ありがとう。ここで注意されないと、延々と続くところでした。
(昔の「文淑」の誤字がまざまざとスレに残っているもんなあ)
378世界@名無史さん:04/03/25 20:17
>>377
そんなあなたにネットでも読める列伝をどうぞ。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/sangoku.htm
後漢書列伝訳
379煽り君:04/03/25 20:42
>>375
コウブテイはコウブテイでも洪武帝ですな。
方や、臣下を殺さなかった、柔の光武帝。
方や、臣下を粛清しまくった、剛の洪武帝。
臣下の身からすれば、どっちがありがたいかは言うまでもない。
380煽り君:04/03/25 20:46
>>378
小生が346で書いた、600円でダウンロードのサイトですね。
全部訳されていると、なおさらうれしいのですが(ちょっと我侭?)。
381煽り君:04/03/25 21:58
>>374
 『漢書』伝四十五。ちくまの文庫六巻397ページですね。以下現代風に、
他の方への情報提供。

 昭帝の元鳳三年正月、泰山県の莱蕪(らいぶ)山の南でギャアギャアと
喧しい数千人とおぼしき人声があったので、民草が行ってみると、横たわ
っていた大石が立ち上っていた。高さ一丈五尺、大きさ四十八囲(一丈2.25m
として3.375mの高さ、一囲10cm程度として、周囲4.8m)、地中に入って
いる深さ八尺(1.8m)、下のほうは石が分かれて三本足をなしていた。石が
立ち上がった後には白い鳥が数千羽降りてきて、石の近くに群がった。昌
邑でも枯れていた神木が生き返り、上林苑中で倒れ枯れていた大柳樹も立
ち上がり生き返り、その葉の虫食いの跡が文字をなし「公孫病已立」と読
めた。

 ちなみに、宣帝が立つ五年前の出来事と言う。[目圭]弘は大逆不道と判
断され誅されたが、宣帝が立って[目圭]弘の子を郎に取り立てたとある。
 「公孫病已立」の言葉だけなら、誰かのいたづらかとも思いますし、ギ
ャアギャア騒いでいたのは、渡り鳥として片付くと思いますが、他はトリ
ックにしても少々規模が大きいですね。それにそういうことをして、誰が
得をするかというと、誰も得はしません。宣帝が得をする? 五年も掛け
た仕掛けで? こういうのこそ歴史の真実が知りたいと思う。
 下手な小説家だと、大将軍霍光の陰謀で、昭帝を亡き者にして、傀儡帝
を立てるための前段階だったとか書きそうなんだけど。
 ちなみに、小生そういう小説は読んでいませんので、もしそういう小説
があったとしても偶然。逆にそういう小説家は想像力が月並ってことにな
る。
382怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/25 22:31
>>381
それぞれ怪異があったのが、封禅を行う泰山近くと、皇帝の庭園である上林苑である、
というのも示唆的。

では私もその件について小説家が書きそうな陰謀論を考えてみましょう。
当時、霍光にとって昭帝は既に傀儡なので(外孫が皇后になっていますし)、
代わりを立てる理由はありません。

で、後の宣帝こと劉病已クンは当時何をしていたかというと、
その頃「右将軍光禄勲」として殿中警護と屯兵の一部を握っていたと思われる実力者張安世の
兄で宦官の掖庭令張賀の保護下にありました。
張安世は当時霍光に次ぐナンバーツーであり、霍光にとっても部下ではなく同盟者的な存在です。
そんな張兄弟が宣帝を保護していたというのはなかなか刺激的な話で、
霍光が昭帝を独占していた体制にある種の揺さぶりをかけるために、
張兄弟の側が「公孫病已立」などの怪異を仕組んだ・・・。
という所でしょうか。

劉病已を立てた時にイイ目を見るのは、霍光よりはむしろ張安世、張賀の方ですから、
そこから考えると陰謀なら関与したのは彼らという事になるのではないでしょうか。
383怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/26 08:23
補足。
張安世、張賀については漢書59張安世伝を参照。
この張氏は安世のあと、延寿、勃、臨、放、純と続き、
列侯筆頭の地位を王莽簒奪後まで守りつづけました。
384 :04/03/26 09:50
ここらへんでおもしろい歴史小説はないの?
385怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/26 19:44
>>384
塚本青史って人が「霍光」「王莽」「光武帝」といったのを書いてます。
光武帝は未読だけど。
「おもしろい」に該当するかどうかはノーコメント。
そもそも選り好みできるほど作品が無いような気がするので、とりあえず紹介しました。

あとは中島敦「李陵」も前漢武帝以後には違いないね。

>>382
今さらだけど、霍光にとって昭帝を代える理由が全く無い訳でもないか。
もし昭帝が成長するに従って霍光に反抗的になっていたとしたら・・・。
でも、代えようにも自前の家臣団がいる昌邑王と広陵王はやりづらいし、
劉病已にしたら張安世らの発言力が強まりすぎるのではないかなあ。
386煽り君:04/03/26 21:16
>>382
張安世と張賀が容疑者なら、より疑わしきは張賀かな。以下、漢書
外戚伝第六十七上より。

 掖庭令張賀は、もと衛太子家の役人で、太子が敗れた時に連座し
て刑に下った(宮刑なんだろな)。旧恩があるため、手厚く劉病已
を養いみた。劉病已が年頃になったので、張賀は自分の孫娘を娶わ
せようと思った。
 この頃、昭帝は元服したばかりで、霍光将軍と共に右将軍張安世
が補佐していた。張安世は、兄の張賀が劉病已を誉めちぎり、孫娘
を娶わせたいと望んでいるのを聞いて、「劉病已は(廃された)衛
太子の後裔です。庶民として役人から衣食を得ているだけでもあり
がたいと思うべきです。孫娘を与えるなどと二度と言わないで下さ
い」と怒った。そこで張賀は思いとどまった。

 話はまだ続いて、それでも張賀は劉病已の嫁探しをしてやること
になる。その嫁さんが元帝の母になる許皇后である。
387怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/26 21:56
>>386
確かにご紹介のとおり張安世は大変な慎重居士っぷりですが、
小説なら、表では兄をたしなめておいて裏では兄と一緒に霍光追い落としの策を練っていた・・・
位の方がオモロイかと思いまして。


張安世の慎重さを表すエピソードは宣帝時代にも出てきます(漢書59)。
国政を決める場に参加しておいて公式には病気だったということにし、
自分も草案に関わった詔が出たと聞くや(演技して)驚き、
丞相府に部下をやって問い合わせさせた、とか。
官吏を推薦したらその者と私的に会うのをいやがったとか。
息子の張延寿をわざわざ中央から遠ざけて北地太守にさせとか。
宣帝は「君は謙譲が過ぎるぞ〜」と言っています。

これには理由があると思います。
彼の父、酷吏として有名な張湯は硬骨漢汲黯に
「こんな事してると子孫も絶えちまうぞ!」と言われているんですね(漢書50汲黯伝)。
そして、張湯自身は罪に落ち自殺、兄張賀は宮刑、
同じく兄張コウ(漢書29溝洫志)も多分早死に。
張安世は張氏の血を継ぐ唯一の存在として、誅滅されるわけにはいかなかったのでは。
そう考えると、彼が実子に「千秋」「延寿」「彭祖」と、
揃って長生きに関する名前を付けているのも意味深に思います。
388世界@名無史さん:04/03/27 05:10
>>384
意外な路線でジェッツコミックスの加藤四季「お嬢様と私」なんていかがでしょ?
389煽り君:04/03/27 08:50
>>387
 では小生は「公孫病已立」は張安世失脚謀略説で、小説の骨格をで
っちあげよう。

 その人物は右将軍張安世におもねろう、取り入ろうとしていた。と
ころが慎重居士張安世は、人を誹りもしなければ誉めもしない人物で
推薦なんかしない。そこで、これを恨みに思ったその人物は、張安世
を失脚させようと、弱みを探す。弱みは安世の兄張賀で劉病已に惚れ
こんでいる。そこで「公孫病已立」の怪異を企てる。昭帝や霍光がそ
の意味を知れば、張賀あるいはその弟張安世が為したものと考えるか
もしれない。そうすると張兄弟と劉病已は潰せる。
 ところが、この「公孫病已立」の意味を先に知ったある知恵者、こ
れは罠だと対策を考える。そこで身代わりになってしまったのが[目圭]
弘で『「公孫病已立」は公孫氏が劉氏に成り代わる』意味だと奏上す
る。霍光が怒り、[目圭]弘とその友人の奏上を担当した役人は誅され
る。

 この筋の変形として、張安世に恨みを持つ人物、或いは張安世を亡
き者にしたい人物に、霍光の息子霍禹を持ってこれる。また「公孫病
已立」を見破ったものに張安世、或いは劉病已自身を持ってこれる。
なぜ、そういう風にするかというと、劉病已が宣帝となった後、[目圭]
弘の子を郎にしているし、霍禹を右将軍にするが兵権をもいで、その
後、霍禹は謀反を起こすが敗れる、という背景があるから。
 ここで宣帝を持ち出すのが安っぽいという方もいらっしゃると思う。
小生もそう感じている。
390怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/03/29 00:03
>>389
なるほど。張安世を陥れようとしたと。それは面白い。
しかし、張安世もろともその真犯人も霍光に消される可能性が高いですね。
霍光に疑惑を持たれなくて、しかも張安世に恨みを持っている人物というところでしょうか。

ところで、この時代最大の疑惑は霍光自身ですね。
彼は武帝時代には奉車都尉、光禄大夫のままで20年。
武帝に信任されたとはいいますが、
その信任は本当に「コイツに末っ子を任せれば漢は安泰」という意味での信任だったのでしょうか?

会社に例えるなら、社長の運転手兼雑用係みたいなのがいたとして、
彼が良く気がつく優秀な運転手なので、並み居る営業や総務の専務を無視して次期社長を盛り立てる副社長に抜擢、
なんてのはあまりに荒唐無稽じゃないでしょうか。
しかし霍光を選んだ武帝は当時の官僚たちをそういった「マジで?」みたいな気持ちにさせたように思えてなりません。
一度たりとも一つの官庁の長官や将軍にもなったことがなく、
国政を取り仕切る手腕も全くの未知数じゃないかと思うのですが・・・。
(その意味では既に西域での武功や太僕としての官歴がある上官桀の方が評価のしようがある)

錯乱人事としか言いようがないと思うのですが、誰か止めなかったんでしょうかねぇ。
いくら皇帝のさじ加減で人事が動くとはいえ。
結果オーライではありますが、結果がわからない状態を想定すると、物凄くコワくないですか?
こんなこと思うのは私だけでしょうか。
391煽り君:04/03/31 22:49
>>390
>錯乱人事としか言いようがないと思うのですが、誰か止めなかったんでしょうかねぇ。
 天下の武帝ですから。何せ、衛夫人(後に皇后)の弟というので、衛青
を取り立てて、武功があったら、更に引き立てた。また衛皇后の甥という
ので、霍去病を取り立てて、武功があったら、更に引き立てた。その弟の
霍光も引き立てられたと。縁故主義か実力主義か分けられない無茶な人事
には違いないです。しかも、ばったばったと重臣を粛清していたとあって
は誰が逆らえましょうか。

 ちょっと、ややこしいので整理しますね。
 平陽侯曹寿の小間使い衛媼の子供(私生児)が君孺(女)、少児(女)、長
(男)、子夫(女・衛皇后)、歩広(男)、青(男)で、父親が鄭季という人物で
あるのが、長、子夫、青。少児が霍仲孺と出来て生まれた子供が霍去病、
後に霍仲孺は去り、少児は陳掌とできて、去った霍仲孺が正妻を娶り、出
来た子供が霍光。
 だから、衛青は衛皇后の弟、霍去病は衛皇后の甥、霍光は霍去病の弟と
いう関係になる(知っている人は知っているでしょうが、知らない人のた
めに書いておこう)。
 ちなみに衛皇后の子供が戻太子(衛太子)、つまり宣帝の祖父となる。
戻太子と衛皇后は巫蠱事件という災禍、仔細は省くが、要するに朝廷内権
力闘争の謀略で、戻太子らは反逆者扱いになって滅ぶ。
 このような状態で、しかも呪詛されていると疑心暗鬼にあった武帝が誰
を信じて誰を疑えば良いのかは、もはや判別がつくとは思えない。そんな
中で、身近で、なんら権力欲も見せず付き従う従者がいたら、身分に関係
なく、後を頼むことになるかも知れない。

 こういう背景があるなら霍光が宣帝を立てても、霍光自身には不都合は
無い。むしろ昭帝よりも宣帝は身近かもしれない。
392怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/05 22:41
>>391
宣帝と霍光は確かにつながりがあるのですが、戻(衛)太子の乱の際に全くカヤの外だった霍光は、
戻太子の血統にとってほとんど無関係な存在だったとも考えられます。
むしろ、母も無く、母の一族も微弱な昭帝と比べ、
(そして皇后上官氏は霍光の孫娘)
実祖母史氏が健在で、しかも将軍と宦官の大物兄弟張氏がバックにいる宣帝は、
霍光にとっては少々扱いづらい面もあったのではないかと思います。

ところで、私が武帝の霍光任用を錯乱人事と表現したのは、
「本当に武帝は霍光に昭帝を託したのか」と言う点について疑問があったからです。
何故なら、霍光登用が表に出るのは武帝崩御と同時であり、
しかもそれは武帝が離宮に居た時の話であるからです。

五ソ宮という離宮にいた武帝は、侍中などの資格を持つ近臣たちと宦官に囲まれ、
丞相以下の大臣たちとは離れていました。
即ち、本来ならば国の大事を話し合うべき大臣たちは武帝の近くにはいなかったのです。
393煽り君:04/04/07 20:52
>>391
 つまり、こういうこと?

 死がまじかいと悟った武帝、何人かの廷臣を呼び寄せるが、主立った大
臣は誰もおらず、仕方なく霍光を呼び寄せる。武帝の声は途切れ途切れで、
霍光は身を屈め、耳を武帝の口元に寄せる。
武帝「子孟、謀りおったな!」そして息絶える。
霍光は声を上げて言う「陛下が皇子の後見に、私を指名しましたぞ!」

 そこまで、寸劇みたいなことは無かったでしょうが、霍光らが、主だっ
た大臣を遠ざけて、わざと後事を霍光らに任せざるを得ない状況にしたと。
確かに、霍光には疑わしいエピソードがありますしね。
394煽り君:04/04/07 20:53
 というわけで、霍光謀略を裏付けるエピソード
 武帝の死後、遺詔が開かれ、金日[石單]は[禾宅]侯に、上官桀は安陽侯
に、霍光は博睦侯になったが、衛尉王莽(有名な王莽とは別人)の息子の
侍中王忽は「帝が病気に臥せられて以来、自分は帝の左右にいたから知っ
ているが、三人を封ずると遺詔されたことなどない。あれはやつらのお手
盛りに過ぎない」と言いふらした。霍光は痛切に王莽を問責し、ために王
莽は王忽を毒殺した。
 王忽の言が正しいとしたら、金日[石單]、上官桀、霍光の謀略が存在し
たことになる。
 もっとも、王忽がでたらめを言って叱責されただけとも考えられる。な
ぜなら王忽の言っていることが本当なら、霍光は王莽を問責せず、直接王
忽を暗殺するだろう。

 そうではなくて、霍光非謀略を裏付けるエピソード
 武帝は霍光に、絵を送る。その絵は周公が成王を背負い朝見する図であ
る。後年、病が重くなった武帝に(この時が離宮において臨終まじか)、
霍光は世継ぎを問う。武帝は「君はまだ例の絵の意味を悟らないか。末子
を立てて、君には周公の役目をつとめて欲しい」と答えた。
 その昔に、武帝が霍光に絵を送ったのが事実で、図案も周公が成王を背
負い朝見するのであるのが、周囲に知れ渡っているのであれば、武帝が最
初から、霍光を後見人として考えていたことになる。
 そうでなければ、絵のエピソード自体謀略の可能性がある。

 正直言って、どっちが本当なんだろう?
395煽り君:04/04/07 20:54
 訳の分からない文章書いていますが、これはわざと混ぜっ返して、意図
が分からないようにしているだけです。小説にすれば芥川龍之介の「藪の
中」みたいになるでしょうね。歴史小説ではありえない筋書きですが。
 ホントいうと、小生は霍光が謀略を行ったとは思ってはいないですが、
歴史の真実は小生の思いと同じとは限らないし、っとまた混ぜっ返す。
396怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/08 08:24
>>393-395
もうひとつ、少々あやしいエピソード。

史記三王世家(武帝の子、燕王旦らの世家)、チョ先生補(前漢後半に史記を補った)より。
昭帝が立てられたのを知った武帝の子、燕王旦は反乱計画を練り、こう言い放ったそうです。
「俺に生きている弟など(広陵王胥以外に)いるものか!
 今立てられているのは大将軍(霍光)の子だ!」と。
朝廷では、それに対して燕王をなだめることとし、諭旨と問責のための使者と、
昭帝が本当に武帝の子であることを説明するための要員として宗正を燕に派遣しました。

もちろん、武帝の子で生存する中では最年長の燕王が昭帝即位を不服とし、
昭帝派を動揺させるための策として「武帝の子ではない」などと言ったのでしょうが、
それにしても全くのいいがかり、根拠の無い話ならその効果も期待できません。
人々に、「もしかして新帝は本当は武帝の子ではないのでは?」と思わせるような何かが、当時あったのではないでしょうか。
万一昭帝即位の正当性自体があやしいとなれば、当然霍光ら輔政者もあやしいことになります。
397煽り君:04/04/13 23:30
>>396
 燕王旦が昭帝は武帝の子ではないと吹聴するのは『漢書』にもあって、
群臣と論議する最中に「わたしは父武帝の長子でありながら、かえって後
を嗣ぐことができず、上書して親の廟を立てることを請うたが、またゆる
されなかった。いま新たに天子に立った者は、どうも劉氏ではなさそうで
ある。」と言っている。
 尤も、企てていた謀反は露見し、昭帝の命令で燕王旦のみは見逃され
たが、懲りず、霍光と仲違いした上官桀らの謀略に一枚噛む。今度の謀
略も露見して、燕王旦は昭帝から勅書を賜る。
 勅書に曰く(現代風に)「<前略> 燕王は血を分けた兄弟であるのに、
他姓異族と謀って社稷を害しようとし、縁の薄い者と親しみ、親類縁者を
疎み、反逆の心あって、忠義がない。もしご先祖様が知りうるなら、何の
面子があって、御神酒を捧げ、高祖の廟に参られようか」
 これに対して燕王旦は印璽を侍医に託し、宰相二千石に謝し、「お仕え
して不謹慎であった、死のう」と言って、綬で首をくくって死んだ。

 この自死の状況を見ると、燕王旦が「昭帝が武帝の子ではない」と言っ
たのは、謀反のための言いがかりで、本当は「昭帝が武帝の子ではない」
とは思っていなかったと窺える。少なくとも、燕王旦は生きている間に昭
帝と会って、その器量を窺うくらいのことをすべきだったと思う。
 もし会って、これでは謀反は駄目だと諦めていたら、昭帝が亡くなって
帝位が降ってきたかもしれない。
(だから、燕王旦や他の武帝の子息がつまずくように「昭帝が武帝の子で
はない」と噂を流布する者がいた、っというのは深読みのしすぎだろうな)
398世界@名無史さん:04/04/19 23:18
王莽の治世の評価はやはり肯定的でないほうが多いんでしょうかね?
399中華@名無史さん:04/04/20 00:09
う〜ん、まぁそうでしょうねぇ。やはり1000年前の政治に戻す。
等と言われれば、普通世の中混乱するでしょうしね?
(日本で言えば、小泉が鎌倉幕府の制度を全面的に復活させる。みたいなもんだし)
でも、一説(て言うか主流な説?)には、王莽が実施した改革(と言うか復古)は
実際に周代の物では無くて、王莽の創作かも知れない。と言う話も有りますよね。

まぁ、彼が行なった事で、その後の歴史上評価出来るは、
禅譲の様式(作法?)を確立したって事じゃ無いですかねぇ〜
400waza_fire:04/04/20 09:19
400
401煽り君:04/04/20 22:12
地名や官職まで、昔に戻されたりすると何が何やら。
おまけに、貨幣体系まで変るに至れば、例え高邁な理想にしても、実
情からほど遠い。後世から見ると、後知恵だから良く分かるだけのこ
とだけど、そういう配慮の無さが王莽の王莽たる由縁。
402世界@名無史さん:04/04/21 00:13
王莽の前の禅譲って堯舜禹?
403世界@名無史さん:04/04/25 22:12
戦国時代に 燕噲→子之 というのがある
404世界@名無史さん:04/04/26 00:25
へえ〜滅多にないんだな。

ところで、どこかの本で新を「莽漢」と表記していたのを見かけたが
一般的な呼称なのでしょうか? 最近初めて目にしたもんで。
405あやめ:04/04/26 00:58
「莽漢」って「ばかな男」という意味の普通名詞として使ってるんじゃないんですか?
406世界@名無史さん:04/04/26 18:13
>399,411
後漢初期の礼制度は、その多くが「平帝元始中の故事」を
再現したもの、として記録されているが、
それは実際のところ平帝の丞相王莽によって定められた礼制であり、
遠回しに王莽の新の礼制をそのまま引き継いだと言っているのだ、
という説が集解に見えた、と思う(現物がいま手元に無い)。
 西嶋定生先生はこれを踏まえつつ、
唯一天子のみが天を祭る、といった儒教の礼制が後漢に始まり、
清朝に至るまでの諸王朝の礼制の礎となっていることから敷衍して
「中国の皇帝制は、王莽によって完成されたと言えなくもない」
といった趣旨の発言をされていたように思う。
 うろ覚えばかりで申し訳ないが、
お二人の王莽批判が通説の域を出ていないように見受けられたので
余計な口をはさませてもらった。平に御容赦の程。
407煽り君:04/04/29 10:21
>>406
 『漢書』(ちくま学芸)「王莽伝第六十九上」をかいつまむと、元始四年(4)
(平帝の四年)に、王莽は上奏して、大学・学舎を建て、各種学問の有識者を
徴用し、その数は千人に及び、誤りを正し、異説を統一したとあります(本文
はもっと仰々しいです)。
 『後漢書』(岩波)列伝二の侯覇の所でこう書かれています。
建武四年(28)、光武、侯覇を徴用し尚書令となす。時に、旧来の制度典範は無
く、朝廷には以前からの旧臣は少なかった。侯覇は故実に習熟してたので、残
された記録をまとめて、前世の善政法度のうち時世に合致したものを箇条書き
で上奏し、それらは全て施行された。
 ちなみ、侯覇というのはどういう人物かと言うと、成帝の時に太子舎人とな
り、『穀梁春秋』を師範代となるほど納める。王莽の治世、陳崇によって徳行
に上げられ、隋の宰に遷る。執法刺姦、臨[シ隹]太守となる。王莽が敗れても、
国を守り通す。更始が徴用しようすると、(その善政が失われることを怖れた)
民草によって使者の車は遮られたり、地に伏せられたりした。ここでこの使者、
侯覇を召すと却って臨[シ隹]が乱れんことを懼れ、璽書を授けず実情を報告し
た。
 ここで、建武における礼制を考えると、光武は後で公孫述の蜀から色々持ち
込んだように、実用主義だったと考えられます。つまり、必要ないなら省き、
あるものは使い、無ければそこで初めて作り出す。そういうことで、侯覇のよ
うにまとめた有職故実は、王莽が以前調べさせた礼制やその結果作られた礼制
がほとんどだと思いますが、王莽の礼制そのままではないでしょう。一つは散
逸したものがあり、一つは実情に合わせて、簡素にするか削除するかしたでし
ょうから。
 中国の礼制を考えるなら、一旦は王莽の礼制に辿りつかないといけない、無
視することは出来ないと言うのは確かなことですね。
408世界@名無史さん:04/05/10 18:21
良スレ保守sage
409世界@名無史さん:04/05/17 10:03
懲りずに保守
410世界@名無史さん:04/05/19 17:31
王莽の時に「東夷の王が海を渡って朝貢にきた」っていう話あるけど
本当なのかな?
これは東西南北の異民族が朝貢にきたことの一貫として出てるんだけど
西・南・北(匈奴)についてはその5年前以内に関係する事件がある
のに東夷については関係記事がないんだよね。
411世界@名無史さん:04/05/19 23:15
東夷ってのは、半島のことでしょ。
412世界@名無史さん:04/05/19 23:48
紀元ごろの半島の王ってだれよ
高句麗なら海渡る必要ないし。
413世界@名無史さん:04/05/20 19:14
山東半島にはもう非漢民族は
いなくなっていた時代かな。
414煽り君:04/05/21 23:09
>>410
 「漢書8」(ちくま学芸文庫)王莽伝第六十九上の315ページに「莽は国内を太平に
した後、北方に匈奴を教化し、東方に海外の民を招致し」とあり、同じページに「東夷
の王は大海を渡って国の国の珍宝をたてまつり」と王莽の奏上を上げています。元始五
年(西暦5年)のことのようです。
 「漢書3」(ちくま学芸文庫)地理志第八下の451ページには「楽浪(郡、朝鮮半島
あたり)の海のかなたに倭人がおり、百余ヵ国に分かれ、歳時ごとに来て物を献上し
まみえたという」とあります。同じく、460ページの最後には、「会稽郡の海の彼方に
東[魚是]の人がおり、二十余国に分かれ、歳時ごとに来て貢物を献じ謁見するという」
とあり、訳注によれば、東[魚是]とはいにしえ中国から日本を称していう。『後漢書』
『魏都賦』(左思)などにも見える、とあります。
 この漢書地理志の話は、大昔、小生、日本史の授業で習ったような(あくまで”よう
な”)記憶があります。”ラクロウカイチュウニワジンアリ”
 後漢書の記述と発見された金印から考えて、光武帝の最晩年西暦57年に日本からの使
者が後漢にやってきて「漢委奴国王」の金印を授けられたのは間違いないようです。そ
れを遡ること52年前頃(平帝の五年頃)に、日本からの使者が、前漢に来ていても、不
思議ではないですね。
 ちなみに、ここでの東夷は東方蛮族の総称、つまり朝鮮半島やその東の海の、漢に属
さない人たちのことのようです。
415煽り君:04/05/22 00:11
× 国の国の
○ 国の

ちなみに検索したら原文が見つかりました。

「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」
日本史で扱われる場合「夫楽浪海中有倭人」と文の切れ目を誤ったまま
扱われていることが多いそうな。
 また注意する必要があるのが「倭人」の意味で、必ずしも日本人を意
味せず、朝鮮半島の人も含まれている(というより主体はそちら)らし
いです。
416世界@名無史さん:04/05/22 10:28
文の切れ目を誤った?意味がわからんな?どこがどう誤ってるんだ?
417怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/22 11:03
>>416
たぶん、
「夫楽浪海中有倭人」の頭の「夫」は前の文に付き、「楽浪」から書き出すのが正しいということでしょう。
418世界@名無史さん:04/05/22 14:40
「夫(それ)」はただの文頭の言い起こしの語気詞だから
どっちでもたいしてかわらねーんじゃネーノ?
419煽り君:04/05/22 15:50
>>416-418
 説明不足ですみません。
 417さん、ありがとう。その通りです。
 ネタ元のサイトは、ここです。
 ttp://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/book/furuta/kanjo.htm

 とにかく、話始めの410さんの「東夷の王が海を渡って朝貢にきた」
は本当か? という問いには、おそらく本当で、東夷の王というのは
日本人だったと考えて良いと、私は答えたいと思います。理由は、414
や415に書いた裏付けがあるから。
420世界@名無史さん:04/05/23 00:46
そのサイトみたけど、「夫」の字に関しては
なにがいいたいのかよくわからんな。電波だろ?
421世界@名無史さん:04/06/12 15:49
三苗が山東半島にいたのはいつごろまで?
422煽り君:04/06/12 23:59
>>421
史記の尭舜の所に見える三苗でしょうか? 他は知らないので。
以下、そうだと考えての話です。
(違ったらごめんなさい。また、どのような文献に出ているか、指摘して下さい)

史記では
三苗在江淮、荊州數爲亂
 三苗、江・淮・荊州にあってしばしば乱を為す
遷三苗於三危、以變西戎
 (舜は)三苗を三危に遷(うつ)し、以って西戎と変えん

 もしこの三苗のことなら
疑問 1
 江・淮・荊州に山東半島は含まれるのでしょうか?
疑問 2
 西戎ということで、西へやられたのなら、この時点で三苗
は、江・淮・荊州から駆逐されたとは言えないでしょうか?

と思うのですが。
423世界@名無史さん:04/06/13 09:20
三苗は山東半島にはいないだろ
424世界@名無史さん:04/06/18 19:37
前漢の武帝の話が出てるようなんで、ここで聞いてみる。
武帝の少時からの学友で韓[女焉]なる人物がいた、ってのが十八史略に出てるんだが、
この人についてほかに詳しく書いてある文献て何かありますか?
425世界@名無史さん:04/06/18 20:39
>>424
漢書佞幸伝
426世界@名無史さん:04/07/20 21:47
保守sage
後漢書の訳高いねぇ…、読むなら大学図書館で借りるのが手っ取り早いかな?
427煽り君:04/07/28 22:02
>>426
高いよね。岩波の第七冊、一番面白そうでない(光武帝の頃のエピソードは
あんまりないし、三国志に絡む話でもないし)。かなり躊躇しましたが、結
局、注文しましたよ。半泣きみたいなもん。蔡[巛邑]くらいかな、楽しみな
のは。
428世界@名無史さん:04/08/03 19:55
光武帝の小説っていまいちだな
429世界@名無史さん:04/08/04 22:47
是の日、武帝起ちて衣を更う。
子夫、尚衣に侍し、軒中に幸せらるるを得たり。
上、座に還り、驩ぶこと甚だしく、平陽主に金千斤を賜う。

軒中(便所)でヤラれた衛子夫タンに萌えてみる。ハアハア
430世界@名無史さん:04/08/13 21:26
後漢書くらいしかないもんな
431世界@名無史さん:04/08/22 01:51
「(よみがえる)中国歴代王朝展」上野松坂屋本館6F、8月11日から24日までを見に行った。実は上野ではもう一つ中国物の展示会があった。
「(よみがえる)四川文明」東京都美術館、8月10日から9月26日まで。両方を見に行けるので、そうしました。

 前漢・後漢が含まれるのが「(よみがえる)中国歴代王朝展」で、王墓に納められた副葬品とかがありました。後漢でも青銅の剣を使っていたの
ですね。光武帝が作らせた「弩」の一部とかもありました。
 一番の違和感は、金縷玉衣、銀縷玉衣、で二千五百枚もの四角い玉、つまりタイルを、重量の合計1キログラムを越える金の糸(金縷)あるいは
銀の糸(銀縷)で繋ぎ合わせて、死者の衣とし、これを着せて埋葬したという。エジプトのミイラの埋葬みたいですが、劉邦や劉秀みたいな人物も
このような妙なものを着せられて埋葬されたのかと思うと、思っている古の中国と実際の古の中国がかなり違うのに、いまさらながら気付かせられ
た思いがします。

 デパートの展示会なので、グッズも売っていました。説三分好きには堪らない、実物大青龍刀(もちろん恰好だけ)に羽扇、三国志トランプに水
滸伝トランプ。各種中国書籍にエトセトラ。
 私は「一百帝皇図」の扇が欲しくなったので、これを入手。百人の皇帝の図と言っても、春秋戦国の恒公文公や魏の文侯の顔図まで含まれていま
す。古は、炎帝(神農)から、新しきは清の溥儀まで。前漢・後漢では、項羽(西楚覇王)、劉邦(漢高祖)、劉恒(漢文帝)、劉啓(漢景帝)、
劉徹(漢武帝)、劉欣(漢哀帝)、新(の)王莽、劉秀(漢光帝)、劉宏(漢霊帝)、曹操(魏文帝)、劉備(漢昭烈帝)、孫権(呉大帝)。
 王莽の顔はカッコウ良すぎ。
 光武帝の顔は悪くないが、もっと美男子にしないと。

 それはおいておいて、分かるセレクトと良く分からないセレクトがあります。大抵は国の創設者で、五胡十六国の五代十国の君主は入っています。
著名な名君に愚君は入っています。殷(商)湯王とか紂王なら分かります。しかし、前漢の宣帝に後漢の明帝や章帝は入っていなくて、哀帝や霊帝が
入っているのがなんとも。清の皇帝は十二代中十一人プラス西太后。
 そもそも、そういう話のネタを作るのが”奥義”なのかもしれない。
432世界@名無史さん:04/08/23 03:08
>>431
西太后が入ってる位なら則天武后は入ってるんだろうな
つーか俺が東京戻る頃には終わってる…OTL
433431:04/08/23 23:35
>>432
 則天武后は入っています。少しこわおもての美人風。目線が隣の太宗と
絡まっている(ようにも見える)。

ここ見ると分かると思いますが「中国歴代王朝展」は巡業しています。
http://campus.nikkei.co.jp/report/report33.html
静岡県立美術館で開催された後、前橋、東京と来て
8月27日〜9月20日 石川県立美術館
http://www.hokkoku.co.jp/_event/chugoku/
9月29日〜10月18日 宇都宮インターパーク
http://www.shimotsuke.co.jp/jigyo/culture/c_080.htm
10月23日〜11月23日 長野市立博物館
https://shop.shinmai.co.jp/event/2004jigyo.htm

 中国歴代王朝展で検索したら、物産展が面白かったというblogに当ったり
します。中国のあんちゃん・ねえちゃんの日本人のデパート店員にはない気
さくな雰囲気って、良いよなあ。

話が違うけど「四川文明」の女子十二楽坊のビデオでの案内も良かったと思う。

スレ違い、失礼しました。
434世界@名無史さん:04/08/24 01:23
上野の松坂屋のは今日で終わりなんであわてて見てきた。
おもしろかったよ!
435世界@名無史さん:04/08/24 01:32
光武帝と聞くだけで、荒らしたくなるぜ
436世界@名無史さん:04/09/12 13:14:24
西漢末〜東漢初期の小説書く作家いないかな
塚本某のはあれだし
437怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/09/28 00:13:17
久し振りに小ネタ。

劉子輿伝説と成帝

漢書王莽伝、後漢書王昌(王郎)伝を見ると、
王莽が簒奪した頃に成帝の子と自称する「劉子輿」なる人物がいた、とあります。
劉子輿は王莽に殺されたそうですが、王郎は自分こそ劉子輿だと称し、色々と経歴を述べ立てています。
ここで不思議なのは、よくこんな突拍子も無いような話がよく信じられたものだ、ということなんですが、
これにはそれなりに理由があります。

漢の成帝には男子がなく、やむなく甥を子として迎えて皇太子(=哀帝)に立てました。
しかし彼はいわゆる種無しではなく、男子が生まれていることが記録されているのです。
なのに後継ぎがいなかったのは、その生まれた男子が育たないか、殺されているためです。
成帝二人目の皇后、趙飛燕が妹とともに自分たち以外が生んだ男子を闇から闇に葬った、とされているのです。
(漢書外戚伝)
438怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/09/28 22:16:36
ちなみに成帝の子として記録されている子。

母:許皇后(皇太子妃→最初の皇后→廃位)
皇太子時代に男子1人、死亡。
即位後、女子1人、死亡。
聡明な人物で若き日の成帝はぞっこんだったらしく、成帝はいつも皇后の彼女を寵愛していたらしい。
そのため、この時点から本気で後継ぎ不足が心配され、周囲は「他の女性にも興味を持って」と言ったようです。
(他の女性にも興味を示してもらわないと子どもが少なくなるので。
また、元帝の外戚でもある実家許氏が強くなりすぎるのを王氏らが恐れたという側面も)
後には寵愛が移り、廃位され最後は自殺に追い込まれています。

母:班セツヨ(班固の一族)
男子1人、死亡。
許皇后廃位や趙飛燕の跋扈の中にあっても身を守り通しました。
班固は漢書のここを書くとき、「世が世なら俺たちは王莽になっていたのか」とか思っていたのでしょうか。

母:中宮史曹宮
男子1人、趙皇后・昭儀により殺害さる。本人も自殺。
趙皇后の家庭教師役なんですが、おそらくは気紛れに成帝が寵したようです。
漢書趙皇后伝にはその辺の事情が司隷解光の取調べによって明らかになっています。
(それもでっちあげの可能性もないでもないですが)

母:許美人
男子1人、趙皇后・昭儀により殺害さる。
彼女の子もまた曹宮の子と同じく、趙姉妹によって殺されたとされています。

また、この他にも妊娠した王美人なる女性も記録され(出産の結果は不明)ており、成帝は不運と趙姉妹の所業が重なって後継ぎが得られなかったのだとわかります。

なお、さらに余談ですが哀帝にも傅皇后との間に娘がいたらしく、哀帝もまた種無しその他ではなかったことがわかります。
(両刀ではあったでしょうが)
439世界@名無史さん:04/10/03 04:42:03
巍巍光武
440世界@名無史さん:04/10/03 19:38:52
岡田英弘氏の著作を読むと、目から鱗が落ちる思いだ。
例えば東アジアには、昔から朝貢册封体制が存在したというのが常識だが、
岡田氏はそんなものはないと断言している。
中国は昔から経済大国だから、中国と交易をすれば儲かる。
外国の権力者は、交易を認めてもらうために、中国の皇帝に挨拶にくるのである。
その時に友好の印として、手土産を持っていくのは当然だ。
何も臣従の印ではないのだ。
だが中国の歴史の記録係は、その時の朝廷や皇帝に対するおべっか、ごますりで記録する。
外国の使節が、皇帝の徳を慕って、家来になりたいと貢ぎ物を持ってやって来たと
書くのである。
もちろん嘘である。
軍事力で支配してもいないのに、家来になりたいと言ってくる訳はないのである。
そういう昔の文献を、現代人が読んで判断するのは危険な事だ。
中国人などは本気で信じて、異民族支配の正当化に使っているのは憂欝である。
441世界@名無史さん:04/10/03 19:56:16
界@名無史さん :04/10/03 19:46:45
なるほど、この面構え、中絶胎児でも何でも数分で平らげられそうだw
       _,,..----――----、、..._
     ,, ";;;;;;;;;;;;;;;;;::::::;;;;;;::::;;;;;:::::::::::::::`、
  ,イ';;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ、
 ./;;;;;;;;;;;:;:::;;;_,.. --――--- 、 ;;;;;;;;;;;;;;;;;;}
 {;;;;;;;;;;;,,/               \;;::;;;;;;;;}
 {;;;;;::::/                 ` 、:;;;;;;}
  {;;;::/::    ,,         _..、    ,i;;;;;} 
  |;;;|::   ''"""゙` ...   ''"""゙゙`     };;;} ニッコロどもが必死です。
  iヽ|::   イ〔o゚〕>:::   イ〔o゚〕>    i;/、 しばらく見てましょう。
  | i::      '  ::    `       |" |     
   i }::        ::j          i |
    i ,|::       ,( o _,o )、       | | 
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442煽り君:04/10/18 22:05:12
 本屋で見かけて手に取った、宮城谷昌光『三国志』。驚いた。なんと後漢の
衰亡が始まる辺りから、話が始まっている。外戚が横暴する和喜ケ皇后の辺り。
この時代を扱った小説ないから、この時代を知りたい人には良いかも。また、
曹操や袁紹の祖先を扱うため、漢楚戦の辺りや袁安の辺りまで話が及ぶという
底辺の広い話でもある。
443煽り君:04/10/18 23:21:37
× 和喜ケ皇后
○ 和熹ケ皇后
444世界@名無史さん:04/10/20 02:18:25
宮城谷昌光の小説はどれもワンパターンでつまらないから、
買うには勇気がいるなぁ…
445世界@名無しさん:04/10/21 01:31:22
>444
そんなこと書いちゃアカンよ。たしかに主人公(一巻は楊震・曹騰)が
聖人君子すぎるきらいはあるし、外戚の消長に見られる豪族の政治力学を
掘り下げてるわけでもない。
でも、従来の三国志ものと違って三国時代開始の淵源を探ろうとしている
姿勢は、個人的に好感が持てたよ。色々とミスもあるけどね。
たとえば、左思の「三都賦」が三国時代の作だ、とか。
(「三都賦」が世に出たのは、張華が司空をつとめた西晋・恵帝の元康年間…)

それはさておき、小説としては充分に面白く読めたよ。
傑作ではないけど秀作ではあると思った。個人的な感想だけどね。

長文乱文ゴメン。
気を悪くしたら勘弁。
446世界@名無史さん:04/10/23 20:09:48
こんだけ天災がつづくとは
漢の丞相なら市場で斬られてもフシギでないな
447世界@名無史さん:04/10/24 09:55:02
宮城谷三国志は、完結して文庫落ちしたら読もうと思ってるんだが
いつごろになるかなぁ
448煽り君:04/11/05 00:41:12
 宮城谷昌光の三国志の第二巻で「これまでの皇帝をならべてみ
る。父母がわかれば書きくわえておく」とあるが、光武帝の母親
の名前が記載されていない。

光武帝(父 劉欽  母 樊夫人)

 樊夫人は樊重の娘、字は嫺都。記載されているのは後漢書の北
海靖王興伝(光武帝本紀には記載無く、何故かこちらの伝に記載
されている)。
449世界@名無しさん:04/11/08 19:54:52
PHP文庫の「班超」を読んでみた。
カイゴウが時流の読めない凡愚あつかいでorz
光武帝に従わない奴はオール無能よばわりかよ。

個人的にカイゴウは田横と似たポジションだと思うんだが…。
ハンヨウが賛の部分で「王」と呼び、「史通」の劉知幾から批判された
こととか作者は知らなかったんだろうか。
450煽り君:04/11/15 00:31:54
 雲台二十八将は中国の星座十八宿に例えられる。神秘主義的であるが、亡くなった年
を見ていくと、面白いことが分かった。劉秀が亡くなったのが西暦57年二月であるが、
それまでに櫛の歯が抜けるように、僅かづつ逝き、二十二名が既に亡くなっている。と
ころが劉秀死去の西暦57年から西暦58年にかけて、ばたばたと亡くなっている。劉隆、
ケ禹、耿[合廾]、臧宮、この四名みな、若いということが分かったのである。
 ケ禹、耿[合廾]の享年は分かっていて、それぞれ五十七才と五十六才。劉隆は王莽の
時、劉宗の叛乱の連座で殺されそうになったが、七歳に満たなかったので助かったとあ
るが、劉宗の叛乱と鎮圧は、摂居元年(6)とはっきりしているら、生まれは(1-6)、これ
は、ケ禹、耿[合廾]と同世代か、少し若いかである。臧宮は若くして県の亭長となりと
あり、後々まで賊の討伐で戦っていながら、老いても矍鑠といった扱いを受けていない。
また、謚は愍侯と耿[合廾]と同じである。愍という謚は、いたましいとかいう意味であ
るが、若死に繋がる。何歳で従軍したかを考えると、五十代というところか。
 つまり、まだ元気な五十代半ばの四名が、劉秀を追うように亡くなっているのである。
こういうネタって歴史を伝奇物や講談物にするには格好の素材かも知れない。
451煽り君:04/11/15 08:32:00
× 雲台二十八将は中国の星座十八宿
○ 雲台二十八将は中国の星座二十八宿
452世界@名無史さん:04/12/03 07:41:28
ダレか小説をかくべし
453世界@名無史さん:04/12/03 17:59:03
『後漢書』の訳、岩波と汲古どっちがいいですか?
454世界@名無史さん:04/12/03 20:33:14
岩波は訳ではないだろ。
455世界@名無史さん:04/12/03 20:40:42
>>452
そのうち田中よしりんが書くよ
456世界@名無史さん:04/12/21 21:46:11
ttp://www.geocities.jp/kaysak864/s-china.htm
↑このサイトってここの住人にとってどうよ?
457煽り君:04/12/22 21:51:25
>>456
釣り?
忌憚無く言うと、参考になります。前から知っていたし。
しかし、細かい間違いも含まれているし、主観で終っている部分もある。
けれど、それでも参考になります。取り敢えず二十八宿全部埋めて欲し
いね。
458世界@名無史さん:04/12/23 07:12:25
>>457
ありがd
このサイトで興味わいたから
一度漢籍呼んでみようかと思うよ。
459煽り君:04/12/24 19:55:55
雲台二十八将 太傅高密侯、ケ禹、字は仲華(2-58)
 南陽新野の人。十三才にして詩経に通じ、長安で修学す。時は天鳳年間(14-19)。十
三から十八の年齢である。この時期、年齢は二十から二十五になる劉秀も長安に留学し
ていた。幼いと言えどもケ禹は劉秀を非常の人物と見抜き、終いには之に親しみ懐く。
 赤眉の乱が起き、漢兵が立ち、多くの豪傑がケ禹を更始帝に推挙しが、ケ禹は従わず。
ただ、劉秀が河北平定へ出陣すると聞くに及びて、馬の鞭を杖代わりにつきてこれを追
い、従軍す。劉秀の戯れに似た、官職任命権を持つ故に来しかとの問いに対して、君主
の威徳が世を覆い、その中で僅かばかりの功名を歴史に残さんが為と答う。時に更始元
年(23)、劉秀は二十九となり、ケ禹は二十二。
 陣営にあっては、劉秀の腹心の参謀でもあるが、ケ禹が最も信頼されたのは、人物の
鑑識眼である。呉漢、寇恂といった建国の逸材の抜擢は、彼等のその後の活躍を見れば、
実に的を射ている。また劉秀配下の一将として、ケ禹は武功も重ね、王郎との戦いや河
北平定の一翼を担っていた。赤眉軍が関中に侵入し更始軍と争うや、この機に乗ぜんと
す劉秀は、自らは山東に従事していたため、この大事をケ禹に託さんとす。すなわちケ
禹は前将軍として出陣す。
 建武元年(25)正月、更始軍と河東に戦い之を定めん。光武が即位するや、大司徒並び
に侯位を受く。当初、慎重な戦いを進め、負けることもあるが、順当に関中を攻略して
いった。ところが、[木旬]邑守備のため派遣した副将の二人馮[小音]と宗[音欠]が争い、
馮[小音]が宗[音欠]を殺して反乱することとなり、それを収めた後で、漢中王劉嘉はケ
禹に詣って降るが、劉嘉の相李宝が驕り無礼であるため、ケ禹は之を斬る。李宝の弟は
部隊を集めて、ケ禹を撃ち、将耿[言斤](耿純の従兄弟)を殺す。このように威を損ね
人に去られ、赤眉との戦いに負けも込み、焦りて、遂には馮異を巻き込んだ大敗に帰す。
僅かな手勢で帰還し、大司徒と梁侯の印綬を返還して詫びるが、梁侯の印綬は戻される。
後に右将軍として兵権も戻される。
 その後、延岑が順陽を寇した際、之をケに破り、追いて武当にまた破るという功を為
している。
460煽り君:04/12/24 19:56:50
 平時となり、右将軍は戦時職の将軍ゆえ、左将軍の賈復と共に辞して之を廃し、三公
下の特進として朝請を奉じる。司徒の馮勤が薨じた時には、司徒代行も行った。
 明帝が即位すると、太傅に任じられた。通常は臣は帝に対して北面して進見するが、
東向にて進見するほど尊重された。光武の死去一年後に五十七才で亡くなる。謚は元侯。

 雲台二十八将の筆頭。勝ち戦もあるが負け戦の印象が強い。本来は武官でなく文官と
考えるべきで、光武陣営では、人事采配が最大の功と言える。裏方で目だ立たないが、
他の群雄と比べて、光武陣営に秀でた武将が多いのはケ禹の存在によるところが大きい。
何より、光武帝その人を見出したこと、その光武帝が飛躍できる立場になって初めて従
ったことは、人聞き悪く言えば「勝ち馬に乗った」となるが、適材適所を分かっている
と言える。奇しくも、劉秀を河北追った際、君主の威徳が世を覆い、その中の僅かばか
りの功名を歴史に残さんと言った通りとなった。
461煽り君:04/12/24 19:59:13
雲台二十八将 大司馬広平侯、呉漢、字は子顔(?-44)
 南陽宛の出身であるが、賓客が法を犯したため戸籍を脱し、(王邑の軍にいて父が以
前漁陽太守であった)彭寵と共に漁陽に逃げ、馬を商うなどして転々と暮らし、各地の
豪傑と結びついていた。更始の使者によって、彭寵は漁陽太守、呉漢は安楽令となる。
王郎が起った時、漁陽も立場を決めねばならなかった。素から劉秀側と考えていた呉漢
は、劉秀の檄文を捏造し、王郎は偽者で劉秀が到る所は帰属していると、漁陽太守の彭
寵や官僚を信じさせ、上谷と共に漁陽を劉秀陣営に引き込む。
 朴訥な人柄で気の利いた言葉が出ないが、勇猛果敢で智謀があることを見抜いたケ禹
によって推挙され大将軍となり、幽州十郡の突騎兵を徴発するのに、更始の任命した幽
州牧の苗曾を斬ることで成功し(わざと少ない手勢で行ったのは、苗曾を誘き出す策で
あったのかも)、以降軍歴を重ねる。
 更始は尚書令謝躬の軍を王郎に対抗すべく送り込み、そのため劉秀は救われたること
多大。しかし謝躬軍は略奪を重ね副将は命令を聞かず、ために百姓(ひゃくせい)は苦
しむ所となる。故に劉秀はこの軍を奪取せんことを考える。謝躬が戦いに出た時を狙い、
恩を仇で返すような、この汚い策に任ぜられたのが岑彭と呉漢である。呉漢は城を弁士
によって口説き落し、何知らず帰ってきた謝躬を捕えた岑彭がどうしたものかと呉漢の
前に連れ出すと「なぜ幽霊と語る必要がある」と自ら之を殺す。
 以後、軍律が整い掠奪を行わないことを誇る劉秀の軍中で、素が胡族の荒くれ突騎兵
を率い、時には大幅な掠奪行為を行うので、あたかも光武軍の影の要素を全面に引き受
けていたのが呉漢である。
462煽り君:04/12/24 19:59:56
 河北を平定した光武が即位するや、大司馬と為り、侯位を受ける。主立った戦歴では、
河北における諸叛乱集団の鎮圧、南陽を下し、秦豊を破り、劉永を追い、董憲を斬り、
ついには公孫述を落すという華々しい武勲を持つ。しかし、常に勝っているわけではな
く、隗囂を攻め落とせず撤退したり、故郷を略奪されて叛乱したケ奉に敗れたり、公孫
述戦では危く命を落しかけたこともある。また蜀を落した際には、公孫述、延岑の一族
を皆殺しにし、掠奪を繰り広げ、宮室を焼き、光武が叱責している程、酷い行動もある。
事実、この禍根が後にこの地方の叛乱を招くことになった。
 一見剛の者のように見え、事実公孫述戦では強行策も取ったこともあるが、時には理
に適った手法で戦わずして勝つこともある智勇兼備の将である。
 平時に光武が様子を見させると武具の手入れをしていて、常に戦いに備え、即出陣で
きたという。朝廷では明察で謹厳質朴。呉漢が出征した時に妻子が田圃を買うと、帰っ
てきた呉漢は之を責めて「軍は外征し兵士には物が足らない、田圃なぞ買っておれるか」
と之を親類に分かち与えてしまう。呉漢は唯自宅を修繕し屋敷を作らず、夫人は先に亡
くなるが、小さな墳墓に埋葬すると、祠堂を作らなかった。病が篤くなり、死ぬ間際に
言い残すことは無いかと光武に訊かれ「むやみと大赦されないよう」と、柔の光武のた
めに、己が役目を剛とした漢らしい返答をしている。識者が選んだ謚は武侯であったが、
光武が自ら与えたのは忠侯であった。大司馬として十九年、誰がために務めたかは、光
武が一番良く知っていた。

 光武帝配下の三公職において、十年以上それを全うしたのは、呉漢のみ。当初、同時
に三公となった大司徒のケ禹は二年で敗戦責任を取って辞し、大司空の王梁は一年で命
令違反により免ぜられている。以降数人が大司徒、大司空となっては免じられたり、病
気で辞めたり、獄に下って死んだりしているが、その間(公孫述を滅ぼして後九年も)
職務を全うしているのである。
463煽り君:04/12/24 20:01:23
雲台二十八将 左将軍膠東侯、賈復、字は君文(?-55)
 南陽冠軍の人。若くして学を好み『尚書』を習う。その先生曰く「賈君は容貌士気は
見た通り、しかも学問にも励んでいる。将軍宰相の器なり」。赤眉以前にその剛胆は塩
の運送の逸話で知られていたが、赤眉の乱が起ると、衆人を集めて自らを将軍と号す。
更始が立つと、衆を率いて漢中王劉嘉に帰属し校尉と為る。更始の政は乱れ、諸将は放
縦なるを見て、劉嘉に説いて曰く「(前略)天下は未だ定まらずして、安じて保つ所を
守っていても、保てなくなりませんか」(まともな政体を作りましょうと、暗に独立す
ることを促す)。劉嘉答えて曰く「大きな事を言うが、我が任ではない。大司馬劉公(
劉秀)は河北にいる。きっと能く用いてくれよう。只我が手紙を持って往け」。賈復は
手紙を持って王郎が立った直後の河北に渡り、ケ禹によって劉秀に引き合わせられるこ
とになる。以降、猛将の働きを見せることになる。
 射犬の戦いでは、戦いが正午まで続き、劉秀が「兵士が飢えている。一旦朝飯にしよ
う」と伝えさせると、「まず先に之を破り、その後に食べましょう」と旗を背負って真
っ先に突撃し、敵を総崩れにして敗走させてしまう。五校の戦いでは、重傷を負い劉秀
に「賈復を別軍の将にしなかったのは、敵を侮るからだ。果たして、名将を失ってしま
った。賈復の妻が孕んでいると聞く、女なら我が子に娶らせん。男なら我が娘を嫁がせ
ん。それで妻子を憂えさせまい」と言わせる(故事成語、指腹之約)。その後、回復し
以前と変わらず猛将ぶりを発揮する。光武が即位した時には、執金吾となり侯位を受く。
464煽り君:04/12/24 20:02:06
 主立った武功は、更始の将朱鮪を洛陽に攻め、同じく陳僑を破り、更始の尹尊、暴[
己]を破り、赤眉を新城・ベン池の間で破りしこと。ただ、敵中深く入る癖のため、光
武は、遠征には赴かせず、呉漢が公孫述戦において賈復を要請した時も許していない。
逆にそれゆえ、諸将は論功において自らを誇るが、賈復は誇ったことが無い。光武は(
身近で見ているので)「賈君の功、我自ら之を知る」と言う。

 謚は剛侯、諡法では『善に努め、よく過ちを補うを剛という』という意味もあるが、
単純に『強く猛々しく勇敢』の意味の剛侯さもありなんと思うのが賈復。前漢末くらい
までの儒者は同時に武人でもあって(孔子の弟子の子路の如く)、光武帝の陣営では、
光武帝本人もそれに近いとすれば賈復、朱祐、祭遵が武人儒者と言え、全て前線で戦っ
ている。もっとも性格は様々で、賈復の場合は剛直。最初に劉秀の陣営に来た時、官属
である同輩の武将に席次が違うから同席出来ないと言われて、同じ劉秀配下ではないか
と言い返して座ってしまう。まだ根付いていない法令を遵守した寇恂が賈復の部下を殺
した場合は、恥をかかせたと寇恂を逆恨みしてしまう。戦いにおいては、怯むことなく、
負け知らず。負けることは死を意味したであろう。とまあ、剛直なのだが、平時には光
武の意を汲み、儒学の振興に努め、ケ禹と共に将軍職を辞めて三公下の特進として朝請
を奉じる。周囲から宰相へと推薦があるが、功臣は実務に就かせずの方針の光武によっ
て、そのまま。しかし先生の言っていた「将軍宰相の器なり」は当っていたようである。
465煽り君:04/12/24 20:03:51
雲台二十八将 建威大将軍好畤侯、耿[合廾]、字は伯昭(3-58)
 扶風茂陵の人。父は、王莽によって任じられた上谷の太守、耿況である。耿[合廾]は
若くして『詩』『礼』を学び父の業務を習う一方、兵事にも関心を持っていた。王莽が
敗れ更始が立つと、耿況は地方勢力が並び立つ中で、王莽によって任命されたため安心
できず、よって耿[合廾]は更始への使者として上谷より長安に出ず。その帰途に、王郎
が立つ。耿[合廾]の従官は王郎に奔るが、耿[合廾]は劉秀が盧奴に在ると聞いて、馳せ
て拝謁す。劉秀は耿[合廾]を門下の書記に任ず。耿[合廾]は護軍都尉の朱祐に説いて、
上谷に帰って兵を集めて、邯鄲を討たんことを求めん。劉秀曰く「小僧が大志を持って
る」。因ってしばしば召見す。時に耿[合廾]二十一才、陣中でも若いケ禹よりも更に一
つ若い。劉秀は二十九才。
 薊に至りし時、邯鄲の兵が来たらんとするを聞き、劉秀らが南に帰らんとすると、耿
[合廾]曰く「兵は南から来たのですから、南には帰るべきではありません。漁陽太守の
彭寵は公の同郷人であり、上谷太守は我が父なり、両郡の弓射騎一万を集めれば、邯鄲
は畏るるに足らず」。劉秀の腹心がなおも渋る中、劉秀曰く「こやつ我が北方の案内人
なり」。劉秀陣営が混乱する中、からくも薊を抜け出ることが出来た耿[合廾]は昌平に
走り、既に檄を受けて出陣していた耿況と合流す。耿[合廾]は耿況に説き、寇恂をして
彭寵に約させ、突騎と歩兵を発す。耿[合廾]は景丹、寇恂と共に漁陽軍と合し、南戦し、
王郎の諸軍を破り、二十二県を押えて、広阿の劉秀に追いつく。耿[合廾]はその軍を預
かり偏将軍となり従いて邯鄲を抜く。
466煽り君:04/12/24 20:04:41
 更始は、河北で勢力を伸ばす劉秀を危険視し始め、蕭王と為して位は上げるものの、
兵権を奪いて長安に帰らせんとす。耿[合廾]は人払いして、劉秀に、更始が政体を為し
ておらず、漢を復興できるのは劉姓以外は難であり、よって長安には帰るべきでないと
言い、兵士が減っていることより、耿[合廾]が幽州の兵を集め、大計を為さんと言う(
控えめながら、劉秀の自立を促している)。劉秀は幽州の兵を集めるために、耿[合廾]
に上谷に行かせ、呉漢にも発たせている。耿[合廾]は、更始の任じた上谷太守韋順、漁
陽太守蔡充を捕えて斬り、呉漢は更始の任じた幽州牧苗曾を斬り、幽州の兵を集めるの
に成功する。
 以降、劉秀の河北の叛乱集団の平定に他将と共に奔走し、光武が即位すると、建威大
将軍となり、侯位を受く。
 建武三年(27年)六月、耿[合廾]、延岑らと穣に戦い、之を破る。杜弘は耿[合廾]に降
り、延岑は東陽に逃れる。
 建武四年(28年)には、自ら望んで、斉の地を平らげんことを奉上す。耿[合廾]は智将
であるが、それと分かるのが、漁陽太守彭寵が独立したため、同じ功績を持つ父上谷太
守耿況を疑い、劉秀に耿況を召すように求めたことである。劉秀は素より耿[合廾]耿況
を疑わないが、案じた耿況は[合廾]の弟の国を側近として入朝させる。劉秀は耿況に対
して侯位で報いる。こうして、父耿況を含む諸将と共に、彭寵、富平と獲索の賊と幽州
を片付けて後顧の憂いを無くした後、斉の攻略に入る。
 耿[合廾]は、斉の張歩に対して、計略に次ぐ計略もって、まさに寡兵をして衆兵を破
る戦いを繰り広げる。耿[合廾]の救援へと赴いた光武が着いた時には、斉は大方片付い
ていた。光武帝曰く「古の韓信の功績に並ぶ。しかも、韓信は降伏した斉を攻めたが、
耿[合廾]はそうではない。この功は韓信よりも難。(中略)将軍は以前に斉を平らげん
と大策を建てたが、志有る者は遂に成し遂げる」
467煽り君:04/12/24 20:05:25
 斉の平定後は、隗囂戦役に就くが、目立った功績は立てず。建武十三年(37)には、大
将軍を辞めて、列侯をもって朝請を奉ず。天下の大事に議論が分かれた時には計略を尋
ねられる。光武の死去一年後に五十六才で亡くなる。謚は愍侯。

 後漢書には、耿[合廾]の平らげる所の軍は四十六、城を落すこと三百、未だかって挫
折なし、とある。常勝将軍である。その勝ち方は頗る計略による。敵を騙すにはまず味
方からと云うが、攻城の準備をさせて捕虜をわざと逃がし、来る敵の救援を待ち伏せで
攻める。二つの城の片方を攻めると宣言し、一方に注目させて、夜中にもう一方の城に
接近してこれを落し、驚いた敵に他方の城も放棄させる。かと思えば敵を怒らせて誘い
出し、思い切り攻めさせ、攻め切れず疲れて退却する所を伏兵で叩き潰す。まさに智将
である。斉の平定後の活躍が無いのは不思議で、後漢書も「それは大功を重ねようとは
思わなかったのか」と記載している。一つ思うに、韓信と比較された時に、この上、功
を重ねれば、有らぬ謀反の疑いを掛けられると思ったのかもしれない。それを考えると、
多くの武将が武人のまま終るのに対して、ケ禹や賈復の如くさっさと三十五才で引退し
てしまうのも保身術だったかも知れない。そうだとすればますます智将である。
 愍侯の愍というのは哀れむとか痛ましいという意味からも、若くして亡くなったこと
を言っているのだろう。
468煽り君:04/12/24 20:06:36
雲台二十八将 執金吾雍奴侯、寇恂、字は子翼(?-36)
 上谷昌平の代々の名家の出であり、郡の功曹となると、太守耿況に重んじられる。王
莽が敗れ更始が立つと、その使者が郡国を巡りて曰く「先んじて帰順するものには爵位
を戻さん」。耿況らが之に従い印綬を返すと、一晩経っても返されない。そこで、寇恂
は兵を整えて使者に会うと順々と理を説き、それでも肯んじないと、使者の命であると
耿況を呼び、使者から印綬を取り上げると耿況に授ける。寇恂は硬軟使い分ける、実務
家と言えよう。
 王郎が立つや、寇恂は将を遣りて上谷を押さえ、耿況を急き立てて兵を発せしむ。ま
た閔業と共に、劉秀に付かんことを説く。耿況が邯鄲は強く単独では無理だと言うと、
寇恂は請うて漁陽と約せんと答える。すなわち、耿況は寇恂を漁陽に遣り、彭寵に約せ
しめん。漁陽軍と共に昌平に戻ると、邯鄲の使者を殺してその軍を奪い、耿[合廾]景丹
と共に南戦し、王郎の諸軍を破り、二十二県を押えて、広阿の劉秀に追いつく。劉秀は
寇恂を偏将軍と為し、侯位を授ける。
 劉秀は河内を押えたものの、ヘイ州は安んぜず。因って河内を誰かに守らせてここを
兵站の拠点とし、河北を平定せねばならない。しかし、南は洛陽、更始の大司馬朱鮪の
拠点である。そこでケ禹に守備将として尋ねると、ケ禹は高祖の将蕭何を引き合いに出
して曰く「寇恂は文武足り、人を養い衆を御する才あり、寇恂に非ずば、誰も居らず」。
そこで、寇恂を河内太守とし、馮異を孟津の守将とすると、平定に出ず。寇恂は河内の
兵を整えると共に兵糧を輸送する。
469煽り君:04/12/24 20:07:42
 はたして朱鮪は、討難将軍蘇茂、副将賈彊を率いて、河内へ進軍し温を攻め、寇恂は
兵が集まらないうちに応戦す。馮異の救援が着き、諸県の兵が集まると、幟旗は野を蔽
う。そこで寇恂は兵に「劉公の兵到れり」と叫ばせる。これを聞いた蘇茂の陣は動き、
そこを撃って大いに破る。洛陽まで追い、賈彊を斬る。洛陽を一巡りした後、寇恂は馮
異と共に河を渡って帰る。劉秀は朱鮪が河内を破ったと伝聞するが、後で寇恂の檄を読
んで曰く「寇恂が如何に頼れるかを知れり」。更始軍と戦うことになった故、諸将は促
し、劉秀はついに即位す。
 河北の戦いは続き、寇恂は兵站を切らせることなく、采配を振るい、上書しものを獄
に繋いだと罪に問われて河内太守を免ぜられるが、すぐさま潁川太守に任じられ、郡中
を平定する。この時、賈復の配下を法によって晒し首にしたが、慣例的に放免すること
が多かったため、辱めを受けたと賈復に逆恨みされる。当初、藺相如と廉頗の故事に習
いて難を避けていたが、最後は光武に事情を申し開き、光武をして互いを和解せしめん。
 寇恂は汝南太守に任じられ、次に執金吾に任じられ、この時潁川に賊が発生したため、
国家の大事であるからと、格下の潁川太守に任じられるが、曰く「陛下が隴蜀に有事と
聞いて、誑かされて賊は出ず。陛下が潁川に御幸すれば収まらん。願わくば、精鋭を率
いて前駆せん」。故に、即日、光武南征したれば、盗賊悉く降れり。故に寇恂は潁川太
守に任じられず。しかるに百姓(ひゃくせい)から「また寇君を一年お貸し頂きたい」
と陳情を受く。
470煽り君:04/12/24 20:08:36
 隗囂の将高峻を征たんとする光武を潁川の例を引いて寇恂は諌めたが、その遠征に随
行し、はたして降らない高峻に遣う役目を受く。この時、高峻側から遣いに来た副将皇
甫文が礼儀をわきまえないので、怒って誅せんとし、諸将が止めるも聞かず斬って、高
峻に「軍師が無礼なので斬った。降りたくば急いで降れ、そうでなければ固く守れ」と
伝える。意外にも高峻が降って来たので諸将が理由を訊くと、応えて曰く「皇甫文は高
峻の智恵袋で、元より降る気はない。あのまま帰せば、皇甫文の思惑通りである。皇甫
文を斬ったことで、高峻は肝を潰したのである」。諸将皆曰く「及ぶ所に非ず」。
 建武十二年(36)卒す。謚は威侯。

 光武帝の蕭何と言われる、寇恂であるが、蕭何の場合は攻められることは無かったの
で、ひたすら兵站に腐心するだけで良かったが、武力も要求される寇恂というのは実に
稀有の才。文武両道の名将にして、民からも慕われる名太守で、身の安全を考えて、光
武の軍に随行を願ったり、それが許されないと近親を代わりに随行させる才覚がある。
宰相の器とも言われたが、惜しくもまだ公孫述と戦っている最後の時期に病没する。功
臣は実務に就かせずの方針の光武帝であるので、生きていれば特進となり朝請を奉じて
いたであろうが、大司徒となっても大禍無くこなしたかもしれない。
471煽り君:04/12/24 20:10:22
雲台二十八将 征南大将軍舞陽侯、岑彭、字は君然(?-35)
 南陽棘陽の人。王莽下の官吏であったため、漢兵が起ると戦わざるを得ず、甄阜の下
で戦い、甄阜が死ぬと、宛に帰って城守す。しかし、城中量尽きて人が相食むようにな
り、遂には降る。漢の諸将は誅すべしと言うが、大司徒劉[糸寅]曰く「官吏であれば、
堅守するは節と言うもの。今、大事を挙げんとす、まさに義士は顕かにすべし。之を封
じて、続くものを励ますに如かず」。更始は岑彭を帰徳侯と為し、劉[糸寅]に属せしむ。
 劉[糸寅]が害されてより、岑彭は大司馬朱鮪の校尉となり功を上げる。潁川太守とし
て任地に赴かんとせしが、劉秀の親族劉茂が厭新将軍として潁川、汝南を降す故、同郷
人の河内太守韓[音欠]に従う。劉秀が河内に到るに当って、岑彭は止めんが韓[音欠]は
城守せんとす。既に劉秀、懐に到れば、韓[音欠]は之を迎え降らん。劉秀、韓[音欠]の
謀を知って怒り、之を斬らんとす。岑彭は召見されるや自ら説きて曰く「(中略)吾は
大司徒劉[糸寅]公に命を助けてもらいしが、報いることなく、公は禍難を被り、吾之を
心残りに思う。またここで(劉秀と)遭遇すれば、願わくば一身をもって尽くさん」。
劉秀は岑彭を受け入れ、また岑彭は韓[音欠]は大豪族の出自故、用いるべきと言い、劉
秀は韓[音欠]を許し、ケ禹の軍師と為す(韓[音欠]は後に大司徒になる。ケ禹伝、侯覇
伝に記載がある)。また劉秀河内に到るや、劉茂は即ち降り、封ぜられて中山王となる。
 謝躬の軍を奪取した後、劉秀は岑彭を刺姦大将軍と為して兵を監督させ、節を授け、
すなわち岑彭、河北の平定に従わん。
472煽り君:04/12/24 20:11:44
 光武の即位後、諸将、洛陽を包囲せるも、数月して降せず。かって岑彭、朱鮪の校尉
たりしことより、光武、岑彭を以って朱鮪を説かしむ。岑彭城下から城上の朱鮪に説い
て曰く「(中略)赤眉は既に長安を得、更始は三王の反する所となる。光武帝は幽冀を
保ち、人心賢者が寄せ、大兵を以って洛陽を攻めん。公は城を固守すといえども、誰を
か待たん」。朱鮪答えて「吾は大司徒(劉[糸寅])の謀殺に預かり、又更始に蕭王(劉
秀)の北伐せしむること無かれと諌めん。自ら罪深きを知る」。岑彭帰りて、光武に具
言す。光武曰く「大事を立てる者は小さき怨みに拘らず。朱鮪、今降るなら官爵を保証
せん。ましてや註罰をや。黄河に誓って、言葉を違えまい」。岑彭また城に行き、朱鮪
に告ぐ。朱鮪、城上から縄を垂らして曰く「それ信ならば、之に乗って上がるべし」。
岑彭、縄に向かって上らんとす。朱鮪、その誠実な様を見、即ち降らんとせん。光武、
朱鮪を平荻将軍と為し、侯位を授く。
 建武二年(26)、岑彭、杏の許邯を降し征南大将軍となる。ケ奉、薫[言斤]を帝並びに
諸将と共に破る。光武は京に帰り、岑彭をして傅俊、臧宮、劉宏を率いさせ、黎丘の秦
豊を討たしめる。三年の戦いにより秦豊は弱化し、因って光武は朱祐を岑彭に替え、岑
彭は次に傅俊他一将軍を率い、田戎を津郷に伐ち、之を破る。田戎、蜀に走る。
 後に岑彭、隗囂と、その救援に来る公孫述の将と戦い、隗囂亡き後は、公孫述と戦い、
遂には江州から武陽まで到る。建武十一年(35)、公孫述の刺客のため倒れる。謚は壮侯。
473煽り君:04/12/24 20:12:27

 軍を率いて才を発揮する将である。秦豊戦では、戦線の硬直を光武帝に疑問視された
からとはいえ、耿[合廾]張りの計略で打開した。すなわち、西方を攻めると宣言して、
捕虜をわざと逃がし、夜中に河を渡って、捕虜の情報を信じて全軍を率いて出陣した秦
豊の抜け殻の陣を攻め、その東に陣営し、夜中に襲ってくることを予期して、これを返
り討ちとした。公孫述戦では、電撃戦を見せる。すなわち、平曲にいた岑彭は兵が多数
いるように見せかけて、配下の臧宮らに公孫述下の延岑に当らせた後、河を下って江州
に戻り、成都江を遡って公孫述の将の侯丹を破り、夜中に行程を倍にして武陽を降し、
精鋭の騎兵を広都に馳せさせる。岑彭が平曲にいると聞いて大兵を以って迎え撃たせた
公孫述は、延岑の背後に岑彭が現れたと聞いて「これは神業か」と驚愕した。
 また、軍を規律正しく統率し、僅かばかりも取らなかったと評されるように、岑彭軍
は掠奪を一切行わなかった。そのため、岑彭の行くところ、郡県は争って降ったのであ
る。しかるに公孫述及び蜀は岑彭を刺殺したがため、呉漢によって殺戮と大掠奪に合う。
テロリズムでは紛争は解決できないどころか悪化させる好例と言えるかもしれない。
474煽り君:04/12/24 20:13:56
雲台二十八将 征西大将軍陽夏侯、馮異、字は公孫(?-34)
 潁川父城の人で、読書を好み『春秋左伝』『孫子兵法』に通ず。王莽下の官吏であっ
たため、漢兵が起ると城を守るを得ず、劉秀が攻めた時も堅守するが、忍び出た所を漢
兵に捕まる。劉秀配下には馮異の従兄弟と同郷人がおり、馮異を推す故、劉秀に召見さ
れる。馮異、劉秀に常に在らざるものを感じ、すなわち城を以って投降せんと告げ、劉
秀に戻ることを許されて、父城の長である苗萌を説得する。苗萌は汝と生死を共にせん
と之に応じるが、劉秀、兄劉[糸寅]が害されたと伝え聞き、詫びるために南の宛に戻り
たれば、馮異、他の漢兵に投降せず、劉秀が偶々父城を通り掛かりし時に、門を開いて
之を迎えん。劉秀、馮異を主簿となし、苗萌を従事と為す。また馮異の推薦により、銚
期他の潁川の人物を幕僚とす。馮異、洛陽に随行す。
 洛陽において、劉秀の河北への転出が許可されない中、馮異は、左丞相曹境、尚書曹
[言羽]父子と結託することを勧め、これにより劉秀は河北へ渡ること出来た。
 王郎が立つと、馮異は銚期らと共に徴兵を行い、偏将軍に任命され、邯鄲を落した時
には侯位を受ける。劉秀に従い河北の平定に走る。
 寇恂が河内太守を拝命した際には、馮異は同時に孟津の守将となる。この時、手紙で
舞陰王李軼に光武への帰属を促し、李軼が応じて兵を出さずとなると、遂には更始の河
南太守武勃を攻めて斬る。馮異は、李軼の返事すなわち帰属の応諾を光武に伝えるが、
光武は李軼は策謀多くて信用できないと、手紙をおおやけにする。それを知った更始の
大司馬朱鮪は李軼を殺害する。また朱鮪は討難将軍蘇茂らを派遣して温を攻め、自らは
馮異を止めんとす。寇恂は之に応戦し、馮異もまた配下の武官に朱鮪に当らせ、寇恂の
救援に向い、ニ将して蘇茂の攻撃を撃退し、逆に河を渡って朱鮪を洛陽まで攻め返す。
475煽り君:04/12/24 20:14:41
 赤眉と更始の隙を狙いて大司徒ケ禹が放たれていたが、延岑と赤眉が三輔(長安とそ
の周囲)を掠め、地方豪族が兵を持つに到って、苦戦を強いられていた。そこで、光武
は洛陽を落した後、馮異をしてケ禹に替えんとす。順次、赤眉を平らげて行った馮異は
建武三年(27)、征西大将軍と為る。偶々、ケ禹が車騎将軍ケ弘と引きて帰るに出遭い、
ケ禹ケ弘は馮異に赤眉と戦わんことを求める。馮異は赤眉が依然強力であり、光武帝が
東にあり、西から攻める両面作戦を示すが、ケ禹ケ弘は聞かず。ケ弘は大いに赤眉と戦
いしが、計に嵌り壊滅す。馮異とケ禹は之をようやく救援せんが、今度はケ禹が復戦わ
んとし、大敗を喫す。馮異も手勢のみで逃れて、陣営を立て直し散兵を収拾し、兵を駆
り集めて、赤眉と期日を決めて会戦す。当初寡兵と見せかけて、誘い出し、日が暮れる
頃、赤眉兵と見せかけた伏兵を放ちて、潰走させる。
 建武三年(27年)四月、藍田に拠っていた延岑は、関中を得んと、上林に屯せる馮異を
張邯、任良を率いて攻めしが敗走する。延岑は析を攻めるが、馮異はケ曄、于匡を遣り、
迎撃させ、これを敗走させん。延岑ついに南陽に逃れん。この後、公孫述の介入を都度
都度打ち破り三輔を堅守する。
 隗囂との戦いでは、勝ちに乗った隗囂が、[木旬]邑を王元、行巡に襲わせるとなると、
要地であるのでと、諸将が止めるにも聞かず、秘密裏に[木旬]邑戻ると、城を閉ざし幟
を伏せさせる。行巡が兵がいると知らず入らんとすると、馮異軍は鼓を鳴らし幟を立て
出でて、その不意を突き、これを破る。祭遵も王元を破る。馮異は北地太守を兼ね、盧
芳の将及び匈奴を討ち、上郡、安定が全て降ると、安定太守も兼ねる。建武九年(33)、
祭遵が病没するとその軍も率いた。隗囂が亡くなるとその残党を追うが、隴の平定目前
の建武十年(34)、陣中に病没する。謚は節侯。
476煽り君:04/12/24 20:15:20

 孫子に通じているため、知略の逸話が多い馮異であるが、不思議と劉秀に近い話も多
い。まず、馮異だけが、劉秀が外には微塵にも感じさせないで、劉[糸寅]を悼んでいた
ことを知って、諫言している。王郎が立った時は、劉秀も河北を右往左往せざるを得な
くなるが、馮異がどこからか食べ物を調達して来て、飢えと寒さを凌ぐことが出来た。
また、更始と戦うことになった段で、順々に説いて、光武帝の即位を促している。隴西
を攻める時には、直接会う機会がないため讒言されて、釈明するが、光武帝は端から讒
言など信じてはいない、恩は父親の如し、と信を寄せていることを表明する。さながら
桓公と管仲の中である。
 また、馮異は他の将軍と道で遭うと必ず道を譲り、論功となるといつも席を退いて大
樹の根本で休むという謙虚な性格で、兵士に対して慰労や病気の見舞いをするなど大事
にするため、兵士には人気が高く、誰に就きたいかと聞かれて、大樹将軍と言われてい
る。光武帝も他将に、馮異のように功を誇らず、かつ兵士を慰労しろと言っている。光
武帝がケ禹と替えて赤眉に対抗させたのは、馮異が兵を良く統率し掠奪を行わないため
である。三輔は更始、赤眉、延岑と塗炭の苦しみを味わっており、ここで勇将と言えど
も掠奪が得意な突騎兵を率いる呉漢などを投入すると逆効果となるからである。
 孫子は将として必要な資質として、才知、威信、仁愛、勇気、威厳を上げている。馮
異は、他の将に欠けがちな仁愛をも持った良将と言えよう。
477煽り君:04/12/24 20:16:20
雲台二十八将 建義大将軍鬲侯、朱祐、字は仲先(?-48)
 南陽宛の人。幼くして父親を亡くし、母親の実家復陽の劉氏に帰す。舂陵に往き来し、
劉秀、劉[糸寅]は之を親愛す。
 漢の兵が立ち、劉[糸寅]が大司徒と為ると、朱祐を護軍都尉とする。劉秀が大司馬と
為り、河北へ渡ると、再び朱祐を護軍都尉とする。朱祐は河北平定に、時には傷を負い、
尽力し、偏将軍となり、侯位を受く。
 光武が即位すると、建義大将軍を拝す。叛乱を起こしたケ奉と戦うも敗れ捕われる。
最後に朱祐の口利きでケ奉が降り、光武は朱祐の位を復す。ケ奉は岑彭、耿[合廾]の諫
言により斬られる。
 建武三年の末、延岑は秦豊の将張成と合す。朱祐は征虜将軍祭遵を率いて、延岑と東
陽に戦い、将張成を斬る。延岑は逃れて秦豊に帰順す。
 建武四年(28)十一月、朱祐、岑彭に替りて、破姦将軍侯進、輔威将軍耿植(耿純の従
兄弟)を率いて秦豊を黎丘に囲む。
 建武五年(29)六月、朱祐、黎丘を落とし、秦豊を捕える。秦豊、洛陽に送られ、そこ
で斬らる。朱祐は戦場に戻ると、騎都尉臧宮と共に延岑の残党を平定する。
 建武九年(33)、南行唐に屯して匈奴を防ぐ。建武十五年(39)年、大将軍の印綬を返し、
朝請を奉じる。建武二十四年(48)、卒す。
478煽り君:04/12/24 20:17:14

 性格は質朴で正直。城攻めは平定が目的で首級は目的ではないと考える学者気質。ま
ず降伏させる。秦豊を捕えた際には都に送り、呉漢からは、殺せという命に違反したと
弾劾されるくらい。また兵士を禁制して掠奪を許させなかった。首級も得られず掠奪も
出来ずというので兵士からは恨まれたようである。また奏じて、昔は人臣が封を受ける
場合は王爵は加えなかったと、諸王を公にすべきであると述べ、大司徒などから、大の
字を外すべきと述べるなど、細かい。一方、大した功も為していないのにこんなに食邑
を頂くわけには行きませんと辞退したことがあったが、光武帝は許さず。
 朱祐が長安で学んでいた頃、劉秀が訪ねて行った所、労う言葉も掛けず学舎に出かけ
たとある。また、共に蜜を買い薬と合わせた話がある。河北での宴の際に、朱祐はさり
気なく「長安の政乱る。公には貴人の相がある。天命ですぞ」と言う。劉秀答えて「刺
姦(兵の監督官)を呼んで、護軍(朱祐)を捕えさせよ」。朱祐は復言わなかった。こ
のような遣り取りが出来るほど、劉秀にはかなり身近な存在である。
 ケ奉に斬られずに捕われる、またケ奉のために口を利くというのは、ケ奉が劉秀の姉
の婿であるケ晨の、その兄の子であり、やはり昔からの馴染みであったためであろう。
479煽り君:04/12/24 20:18:11
雲台二十八将 征虜将軍潁陽侯、祭遵、字は弟孫(?-33)
 潁川潁陽の人。若くして経書を好み、家は富裕といえど慎ましく粗末な衣服を着てい
た。母を亡くした時は土を担いで塚を作った。かって、地方の小役人に侵害されること
があったが、賓客と結託して之を殺す。最初、県中の者は祭遵は温和な人物だと思って
いたが、ついには誰もが憚った。
 劉秀が昆陽の戦いの後、潁陽を過ぎるにあたって、祭遵は県の官吏であるので、しば
しば進見し、劉秀は、容姿態度を気に入って、配下にした。河北に従い、軍市の令とな
った。劉秀の一族の子供が法令を犯したので、これを殴り殺し、劉秀は怒って祭遵を捕
えた。主簿の陳副が諌めて曰く「明公は常に整然たることを欲す。祭遵は法を奉じて避
けず。これは教令が行き届く所なり」。劉秀は祭遵を許すと刺姦将軍とした。劉秀は諸
将に言って曰く「祭遵に気をつけろ。吾の一族の子が法を犯しても、殺したのだから、
諸君を大目に見ることは無い」。次に祭遵は偏将軍となり、河北を制した後は侯位を受
く。
 建武二年(26)、祭遵、征虜将軍にして潁陽侯を拝命する。諸将と共に河南の平定に奔
走す。新城の属の張満を捕え斬る。逆将ケ奉の弟、ケ終を杜衍に破る。タク郡太守張豊
を朱祐、耿[合廾]、驍騎将軍劉喜と共に討ち、先んじて之を攻める。その後、一人彭寵
を防ぐために留まる。彭寵の将を討ち、防ぐこと歳余、彭寵死して、その地を収む。
480煽り君:04/12/24 20:19:30
 建武六年(30)、光武、祭遵、耿[合廾]、蓋延、漢忠将軍王常、馬武、驍騎将軍劉[音欠]、
武威将軍劉向らに天水より公孫述を討たしめる。光武も長安に到るが、隗囂は漢兵の隴
に上るを欲せず、何かと言い逃れをする。光武の諸将曰く「隗囂の出陣を待って、隗囂
の諸将を封じて疑念を晴らさん」。しかるに祭遵曰く「隗囂は謀ること久しければ、今
軍を留めて時を延ばせば、その謀を益々深め、蜀の警戒はいよいよ増さん。進むに如か
ず」。すなわち光武、その言に従い、祭遵を先攻させん。祭遵は隗囂の将王元を破って
新関に追う。諸将到るが隗囂に敗れ、隴を降る。勝ちに乗った隗囂が、[木旬]邑を王元、
行巡に襲わせるとなると、祭遵は王元をケンに破る。馮異も行巡を[木旬]邑に破る。祭
遵はケンに留まりて、隗囂を挫く。
 建武八年(32)秋、光武、再び隴に上り、祭遵軍を慰労す。既に祭遵、病あり。公孫述
来たりて隗囂を救いたれば、呉漢、耿[合廾]らは軍を引くも、祭遵は独り留まり退かず。
 建武九年(33)春、祭遵、軍に卒す。謚は成侯。
481煽り君:04/12/24 20:20:05

 礼、つまり形式を遵守することで道義を立てる儒者であると祭遵を考えると、その行
動が一貫している。滅私報国の徒で、清廉潔白で慎ましく、賞賜は兵士に分け与え、私
財は無い。革のズボンに木綿の上着(故事成語、祭遵布被)、夫人まで服装は質素であ
った。息子がいないので兄が妾を贈ったが拒絶したと、君子人である。その上、孔子の
子孫に爵位を与えるように建議し、五経大夫を置くように奏上し、軍旅にあっても、礼
の儀を忘れず。しかし外れた事には、暴虐なほど手厳しく、死を賭して道を良くせんと
す。すなわち戦いでも勇ましい。遵守の軍では儒者を兵士に採用し、統制が行き届き、
軍が駐屯しているとは分からぬほどであり、陣営では雅詩を歌い、投壷をもって興じる
という高尚なものであった。その一方で、隗囂との戦いでは最前線で踏み止まるという
堅牢さを見せる。その軍は、祭遵の病のため、一時は来歙の下に組み入れられるが、そ
の時も凄まじい働きを為した。勇将の下に弱卒無し、祭遵の下に乱兵無し。
 劉秀がその容姿態度を気に入って、配下にしたとあるが、質素な衣服で丁寧な物腰だ
ったからであろう(そもそも劉秀には、そっちの気が無い、他にそういう逸話がない)。
祭遵が亡くなると、光武は端から見ていても、その死を悔やむこと甚だしく、見るもの、
例えば銚期を嘆息させたという。
482煽り君:04/12/24 20:20:51
雲台二十八将 驃騎大将軍櫟陽侯、景丹、字は孫卿(?-26)
 馮翊櫟陽の人。若くして長安で学び、王莽の時に四科を上げるや、景丹は言語を以っ
て、固徳侯の相となり、辣腕の誉れあり。上谷太守耿況の次官と為る。
 更始が立つと、使者遣わし上谷を支配下に入れんとし、耿況と共に景丹も降り、再び
上谷の次官と為る。王郎立つや、景丹は耿況と共に謀りて、之を防ぐ。景丹は耿[合廾]
(耿況の長子)、寇恂と共に呉漢、蓋延、王梁の漁陽軍と合し、南戦し、王郎の諸軍を
破り、二十二県を押えて、広阿の劉秀に追いつく。
 劉秀の広阿に在るや、外に大兵来ると聞き、自ら城に登り兵を整えて、西門の楼に在
り。劉秀問う「何処の兵ぞ」。景丹ら答えて曰く「上谷、漁陽の兵なり」。劉秀問う「
誰の為に来る」。答えて曰く「劉公のために」。即ち景丹らを中に入れ、労い励まし恩
意甚だ備わる。劉秀笑いて曰く「邯鄲の将頻りと曰く、上谷、漁陽の兵を発せんと。吾
も応じて、そうとも上谷、漁陽の兵を発せんと言えり。本当にニ郡が我が為に来てくれ
るとは思わなかった。まさに功名を共にせん」
 劉秀、景丹を偏将軍とし侯を授けん。すなわち景丹、突騎を率いて王郎の将児宏らを
南[糸言糸]に撃つ。ついに従いて、河北を征す。
 光武即位すれば、景丹を驃騎大将軍と為す。厭新の賊を耿[合廾]、陳俊と共に敖倉に
攻めて之を下す。
483煽り君:04/12/24 20:21:24
 建武二年(26)、景丹を櫟陽侯と為す。光武曰く「櫟陽は富みたること、関東の他県に
勝る。富貴して帰らねば、綾絹を着て夜中に帰るも同じ。よって、卿を封じた」。秋、
呉漢、耿[合廾]、朱祐、馮異、陳俊、王常、臧宮らと従いて、五校を撃ちて、その衆五
万人を降す。
 陝の賊蘇況が弘農を攻めて破り、郡守を生け捕りにしたれば、景丹は病(マラリア)
にあるといえども、光武は郡守を兼務させようと夜中に召し入れて曰く「賊、洛陽に近
づく。但だ将軍の威重を得られれば、病臥のままでも之を鎮ずるに足りれり」。景丹敢
えて辞せず、病をおして拝命し、郡を率いて弘農に到るも十余日で亡くなる。

 光武帝が即位して、二年目で亡くなっている武将なので、逸話は少なく、人物像は明
確でない。行政手腕があるのは分かっている。次に光武帝が大司馬を予言書を使って選
んだ際には、その人物に皆が喜ばず、故に群臣に大司馬に相応しいものを推挙させた時
には、呉漢と景丹のみが上げられた。そこで、光武帝曰く「景将軍は河北を制圧した大
将であり、大司馬に相応しい。呉将軍は、漁陽の兵を発する大策の勲あり、苗幽州、謝
尚書を誅す功甚大。昔は、驃騎将軍と大司馬は兼ねていなかった(武帝の時に、同一と
なった)」。即ち、呉漢を大司馬、景丹を驃騎大将軍とした、とあり、少なくとも光武
帝の陣営では、かなり重く見られていたことは確かである。病没が早いため、影が薄い
が、後十年生きていたら、どのような活躍を見せたであろうか。
484煽り君:04/12/24 20:22:06
雲台二十八将 虎牙大将軍安平侯、蓋延、字は巨卿(?-37)
 漁陽要陽の人で、身長184センチ、66キロの強弓を引く。勇力を尊ぶ地方なので、侠
気(おとこぎ)で知られていた。郡の属官、州の従事と為る。彭寵が漁陽の太守となる
と、蓋延は営尉となり護軍都尉を兼ねる。王郎が立つに及んで、呉漢と共に謀って、劉
秀に帰順する。すなわち偏将軍となりて侯位を受け、従いて河北を平らぐ。光武が即位
するや蓋延を虎牙(大)将軍と為す。
 建武二年(26)四月、光武は蓋延に四将率いさせ、劉永を囲む。元更始の討難将軍蘇茂
は蓋延とそりが合わず、淮陽太守を斬りて、広楽に拠りて劉永につく。六月、蓋延は雎
陽を落とし、劉永は[言焦]へ奔る。十二月、蓋延、劉永を沛の西に破る。蘇茂、佼彊、
周建、軍を合わせて劉永を救うも、蓋延に破らるる所となり、蘇茂は広楽に走り、佼彊、
周建は劉永に従って、湖陵に砦す。
 建武三年(27)四月、光武は呉漢に七将率いさせ、蘇茂を広楽に囲む。周建、蘇茂を救
うも、共に敗れ、城を捨てて湖陵、劉永の元に戻る。雎陽は劉永を再び迎えん。呉漢、
蓋延と軍を合わせ、之を囲む。七月、城中の食尽きて、劉永、蘇茂、周建は逃れん。劉
永の将慶吾、劉永を斬りて降る。劉永の弟劉防、城を挙げて下れり。蘇茂、周建は劉永
の子、劉紆を立てて梁王とす。
 建武四年春、蓋延は、周建、蘇茂を攻め、董憲と留の下に戦ってこれらを破り、平狄
将軍[广龍]萌を率いて、西防を攻め落とす。再度、周建、蘇茂を彭城に破り、周建、蘇
茂は逃走す。
485煽り君:04/12/24 20:22:43
 建武四年(28)七月、 董憲の将賁休、蘭陵城を以って降るが、董憲、之を囲む。蓋延、
[广龍]萌を率いて、賁休を救うも(光武の指示に従わず、董憲の計略に嵌って)勝てず、
蘭陵は董憲に落ち、賁休は斬られん。
 建武五年(29)三月、[广龍]萌は董憲を撃つ詔書が蓋延独りに下り、自分に及ばなか
ったことを蓋延の誹りと思い、これを疑いて遂に反し、楚郡太守を殺し、董憲につく。
七月、光武自ら、呉漢、蓋延らを徴集し任城に会し、[广龍]萌を桃郷に討つ。昌虜を攻
め、董憲を破る。
 建武六年(30)春、光武は、蓋延を長安に駐屯せしむ。
 建武九年(33)、隗囂死すや蓋延は西方の諸勢力を討ち、平らげる。
 建武十一年(35)、中郎将来歙、蓋延、馬成と共に公孫述の将を河池、下弁に攻める
も、来歙刺されて勝たず、蓋延は病気故に引き返す。将軍職のまま左馮翊の長となり、
十五年(37)その職位のまま亡くなる。

 運が悪いのか、そういう性格であったのか、同僚の将軍と仲が良くなくて、背かれる
目に遭っている。一人目は、更始の大司馬朱鮪が洛陽で降りし時に同じく降った蘇茂に。
二人目は、更始の尚書令謝躬に属していたが、謝躬が誅されると、劉秀に帰順した[广
龍]萌に。
 敵を侮り深入りして、死にかけることが何度かあり、光武に何度も諌められいる。ま
た涙脆い性格であるようで、来歙が刺客にやられた際に呼び出されて、号泣し、来歙を
して「何故泣く、お前を斬らねばならないぞ」と叱咤されている。
 割りと単純で、同僚に裏切られるところから、三国志の張飛に似た性格の猪武者だっ
たのかも。
486煽り君:04/12/24 20:23:31
雲台二十八将 衛尉安成侯、銚期、字は次況(?-34)
 穎川[夾β]の人。身長190センチ、容貌は絶異で、慎み深くて威厳があった。父は桂
陽太守で、亡くなった時には三年の喪に服して、称される。劉秀が、穎川を略すや、馮
異の推薦により、従軍し河北に渡る。
 王郎の檄書到るや、薊中は王郎に呼応した兵が立つ。百姓(ひゃくせい)は集まり喧
騒し、道を塞ぎて劉秀は出ることも叶わず。銚期は騎馬にて戟を振い、大いに左右に叫
んで曰く「[走畢](おなりである)」、衆は道を開く。城門に到りて、既に閉じたるも、
之を攻めて出ることが出来た。劉秀、信都に至って、銚期を裨将と為し、傅寛、呂晏と
共に、ケ禹に属せしむ。銚期、近傍の県を調略し、房子の兵を徴発したれば、ケ禹、之
を能と為し、一人偏将軍を拝させる。河北の調略に功あり、王郎との戦いに功あり。王
郎滅びて、虎牙大将軍と為る。この時、機会を見つけて劉秀に曰く「河北の地は、辺境
に近く、人は戦いに慣れ、精鋭と号しています。今、更始は政を失い、天子の血筋は危
く、天下の民は頼る所無し。明公、堅固な山河を足がかりに、精鋭を率い、万人の漢を
慕う心に従うなら、天下に従わない者はおりませぬ」。光武笑いて曰く「卿は、以前に
言った[走畢](おなりである)を実現したいと言うのか」。
 また、銅馬、青犢、赤眉との戦いに功あり。光武即位するや、銚期を安成侯に封ず。
壇郷、五楼の徒を平らぐに功あり。
 建武十年(34)、まだ公孫述との戦いが続く中で卒す。謚は忠侯。
487煽り君:04/12/24 20:24:04

 矢で額に傷を受けても、頭巾を被りなおして尚更戦うという勇将であるが、同時に真
面目を絵に描いたような人物である。敵を降伏させるも略奪せず、朝廷にあっては国を
憂いて君を愛し、得心いかなければ、帝がいやな顔をしても、諌め続ける。帝が護衛兵
と共に忍んで出ようとすると、諌めて曰く「変事は不意に生じると申します故、陛下の
忍んで度々出られるのは願わず」。これには光武帝も車を回して引き返さざるを得ず。
 壇郷との戦いでは、官吏の李熊の弟李陸が壇郷を迎え入れるとの謀を聞くも最初は応
じず、数人が度重なるので、李熊を問い詰めると、李熊は白状し、老母と共に死に就か
んと願う。銚期曰く「もし官吏となるのが、賊となるのより楽しくないと言うのであれ
ば、帰って老母と共に李陸に就きなさい」と、李熊を送って城から出さん。李熊は李陸
を見つけ率いて戻る。李陸慙愧に駆られ、自殺して銚期に詫びる。銚期は嗟嘆すると、
懇ろに之を葬り、李熊を元の職に復す。之により郡中威信に服すと言うが、銚期が信義
の人であるというのが良く分かる逸話である。
488煽り君:04/12/24 20:24:54
雲台二十八将 東郡太守東光侯、耿純、字は伯山(?-37)
 鋸鹿宋子の人なり。父の耿艾、定陶国の尹と為り、耿純は長安に学び、除せられて尚
書となる。王莽が敗れて更始が立つや、耿艾も降り済南太守となる。耿純は舞陰王李軼
に諫言することあり、李軼は耿純が素晴らしい人物と思い、鋸鹿の豪族の出であるので
騎都尉と為し、以って趙、魏を帰順させんとす。劉秀が河北に渡り邯鄲に至るにあたり
耿純は謁見し、劉秀は丁重に扱った。他の更始の将と異なり、劉秀の兵士の規律が整い
たるを以って、耿純は劉秀と結びつかんとす。劉秀は耿純を邯鄲に残して中山に向うが、
この時、王郎が立ちて、劉秀は騒乱する薊を南下し、苦難の末、ようやく迎え受けてく
れる信都郡に入る。一方、耿純は従兄弟の耿[言斤]、耿宿、耿植らと共に一族郎党を率
いて、育県に劉秀を迎え奉ず。劉秀、耿純を前将軍と為し侯位を授け、耿[言斤]、耿宿、
耿植を偏将軍と為す。宋子を降し、従いて下曲陽及び中山を攻める。
 この時、邯鄲に降る郡県多し。耿純は一族の寝返りを恐れて、耿[言斤]、耿宿を戻ら
せ、その屋敷を焼かしむ。劉秀、耿純にその故を問う。耿純応えて曰く「密かに見ます
に、明公はたった一台の車で河北に臨み、蓄財もなく、重賞好餌で衆を集める人ではあ
りませぬ。只、恩徳を以って衆を懐けさせ、之ゆえに衆は就かんことを願う。邯鄲は自
立し、北部州は疑い惑う。吾は一族を挙げて帰順したといえども、郎党に心半ばとする
者有らん事を恐る。故に屋敷を焼いて、後ろ髪を引かれん思いを断つのみ」。劉秀は心
打たれて嘆息す。
 劉秀、[高β]に至るに及んで、豪族の蘇公、反して門を開き、王郎の将李[小軍]を入
れんとす。耿純之を察知するや、兵を率いて李[小軍]と戦い、之を破る。
489煽り君:04/12/24 20:25:44
 劉秀、王郎の将李育の砦す栢人を攻めるが降らず。栢人を攻めるより鋸鹿を攻めるべ
しの言に従いて、劉秀は鋸鹿を囲むが、太守王饒は固守し数十日しきりに攻めるも勝た
ず。耿純説きて曰く「いつまでも王饒の攻撃に固着するならば、兵士は疲弊してしまい
ます。そうではなく、大兵の精鋭たるを以って進んで邯鄲を攻めるべし。王郎誅すれば
王饒は戦わずして、自ずから投降致しましょう」。劉秀、この言や善しと、即ちケ満を
守将として残すと、邯鄲を攻め、ついにはこれを破り、王郎を斬る。
 耿純、劉秀に従いて銅馬を撃つ。射犬に赤眉、青犢、上江、大[丹彡]、鉄脛、五幡の
十余万在り。劉秀は之を討たんとす。耿純はその前衛に在れば、夜間に賊の攻められる
所となる。矢は雨の如く降り、士多く死傷する。耿純は部隊を統率し、堅守って動かず。
二千人の決死隊を選び、一緒に強弩を持ちてそれぞれ三矢をつがえ、枚をふくんで(兵
が喋ることないように)、こっそりと抜け道を抜けて、賊の後ろに出れば、声を上げさ
せ、強弩を発したれば、賊は驚き逃れ逃れん。之を追撃して遂に破る。
 更始軍と正面から戦うことになった故、諸将は劉秀に都度都度即位を促すが、劉秀は
肯んぜず。中山に至って、諸将再びこの議を上奏するが劉秀は受けず。諸将が退出しよ
うとしたところ、耿純進んで曰く「天下の兵士将軍たちが、親類縁者を棄て、生まれ育
った土地を棄て、大王に従軍するは、それ、龍鱗に攀じ登り、鳳凰の翼にすがりて、そ
の志を成し遂げようと望むからなり。今、大王の功業は定まり、天命も人望も応ずると
いうのに、大王はぐずぐずと衆人の意向に逆らって御即位なされぬ。耿純が恐れるのは、
兵士将軍たちはその望み潰えたれば、即ち、故郷に帰らんと思い、労苦を続けようとは
思わなくなることです。大兵一度散ずれば、また合わさること難し。ぐずぐずなさらず、
衆意には逆らうべからず」。耿純の意見が甚だ誠実なれば、劉秀は深く感じ、曰く「我
このことを考えん」。
 光武即位し、耿純は劉永を済陰に撃ち、定陶を降す。
490煽り君:04/12/24 20:26:22
 光武陣営である真定王劉揚は「火徳の九代目(すなわち光武)の後、首に瘤ある揚(
すなわち劉揚)、主公と為る」の予言の書を捏造し、衆を惑わせんと欲す。建武二年(
西暦26年)春、光武は騎都尉陳副と游撃将軍ケ隆を遣わして劉揚を召すが、応じず。そ
こで、光武は耿純に節を持たせて遣わし、各王侯を労いさせ、密かに「劉揚が謁見する
ようであれば、これを捕えよ」と命ず。耿純は役人百騎ほど連れて陳副とケ隆と共に真
定の伝舎に止まるが、劉揚は病と称して謁見せず。耿純は劉揚の甥であったので、使者
に書を託し、面会せんとすならば伝舎に出ずべしと伝える。
 ここに至って、劉揚は弟の臨邑侯劉譲と従兄劉細、各々兵数万人を擁して伝舎に赴く。
劉揚は多勢を頼むが、耿純は慌てず騒がず。劉揚はまず兄弟と軽兵を門外に置き、自分
は耿純に見える。耿純は敬礼を持って接する故、劉揚は安心し、兄弟を招き入れる。そ
の全員が入るや、耿純は内門を閉じ、全員を誅殺す。
 耿純は京師に帰ると、自分は将となり侯位を受たが、元々は官吏の出であり、天下は
粗方定まりたればと、自ら一郡を治めることを請う。光武、耿純を東郡太守と為す。東
郡今だ平がざるも、耿純就きて数月にして盗賊は静まりたり。更始の東平太守、太山、
済南、平原の賊を平らぐ。勤めたること四年、取調べたる者が奏が降りる前に自殺した
事を罪に問われ太守を免ぜられる。耿純、薫憲を撃つに従い、途中東郡を通りたれば、
百姓(ひゃくせい)の老若数千人、天子の車駕に随いて泣涕して曰く「願わくは、耿君
を復た太守に得んことを」。
 建武六年(30)、耿純、東光侯と為り国に就く。建武八年、東郡に盗賊が決起したれば、
光武、耿純を太中大夫と為し大兵と共に東郡に会せしむ。盗賊九千余人、耿純が来たと
聞くや、皆之に降る。大兵戦わずして帰る。光武、耿純をそのまま東郡太守と為したれ
ば吏民之に服す。建武十三年(37)、官のまま卒す。謚は成侯。
491煽り君:04/12/24 20:26:56

 文武両道、智勇兼備の将軍にして、名太守である。智勇兼備というのは劉揚を斬った
時、誘って怖気づくことなく計を成し遂げたことを見れば、自ずと分かる。名太守とい
うのは、百姓に慕われて、郡入だけで賊が投降したことからも分かる。光武帝の言に曰
く「耿純は年少にして甲冑をつけて兵士となっただけ。郡を治めて良く慕われることか
くの如きか」。この言により、耿純は結構若いと言える。ケ禹や耿[合廾]かそれよりや
や年長か。寇恂が河内太守に任じられた時は、耿純の行政能力は未知数であったが、長
じた後のこちらの「耿君」の行政手腕からすれば、戦時下の河内太守は果たせらるよう
な気がする。名を文武で高め、公孫述が滅んで後顧の憂いも無く、それゆえ、死ぬ時は
未練は無かったであろう。
492煽り君:04/12/24 20:27:51
雲台二十八将 城門校尉朗陵侯、臧宮、字は君翁(?-58)
 潁川[夾β]の人。若くして県の亭長となり、後に賓客を率いて下江の兵の中に入りて
校尉となる。下江の兵は劉[糸寅]の説得により漢兵と合す。よって臧宮は劉秀に従いて
征戦す。河北に至るに、偏将軍と為る。劉秀に従いて、郡賊を破り、しばしば敵陣を落
す功あり。光武、即位するや、臧宮を侍中、騎都尉と為す。建武二年(26)、侯位を受く。
 建武三年(27)、突騎を率いて祭遵と共に、更始の将左防、韋顔を涅陽、[麗β]に破る。
同年、岑彭に従いてケ奉を小長安に追う。光武、岑彭をして傅俊、臧宮、劉宏らを率い
させ秦豊を撃たせしむ。臧宮、兵を率いて江夏を攻略し、代郷、鍾武、竹里を撃って皆
下す。輔威将軍を拝す。
 建武七年(31)、臧宮、梁都、済陰を撃ち、之を平ぐ。
 建武十一年(35)春、臧宮は岑彭、呉漢、劉隆、劉[音欠]と共に兵を発し、輸送のため
の船頭を徴発し、荊門に集結す。荊門は征南大将軍岑彭に委ねられし故、臧宮も岑彭に
従う。荊門を破り、垂鵲山に至り、遂には江州に至る。岑彭は巴郡を下し、降兵五万を
臧宮に預け、平曲に上らせ、自らは電撃戦を敢行する。臧宮は平曲に当って之を守り、
遂には公孫述の将延岑を挫く。岑彭は公孫述の刺客に倒れ、全軍は大司馬呉漢に引き継
がれる。
 臧宮、平陽郷に至れば、公孫述の将王元降れり、進軍し、綿竹を落し、フ城を破り、
公孫述の弟公孫恢を斬り、更に攻めて繁、[卑β]を落す。遂には呉漢と共に公孫述を滅
ぼす。
 光武、蜀定まれば、臧宮をして広漢太守と為す。
493煽り君:04/12/24 20:28:26
 建武十五年(39)、召されて、京師に帰り、列侯を持って朝請を奉じ、定めて朗陵侯に
封ぜられる。建武十八年(42)、太中大夫を拝す。
 建武十九年(43)、妖巫の弟子たちが妖言を用いて集合し、原武城に入り、自ら将軍と
号す。光武、ここにおいて臧宮らを遣わしてこれを囲ましむ。攻めるも降らず。臧宮、
光武より東海王劉陽の策を受け、遂に賊を平らげる。
 光武の死去一年後に亡くなる。謚は愍侯。

 下江軍出身でいつのまにか陣営の古参である。勤勉で寡黙であるが、劉秀はそれを察
して、甚だ親しむとある。劉秀の好みはどうも質素・勤勉・寡黙と言える、呉漢や祭遵
しかり。追い詰められて智恵を見せるところが臧宮の特徴とも言える。寡兵で、越に至
りし時、周囲がまだなじまない時に、夜中に城門の敷居を斬らせて、夜中に何度も車を
通らせることで、あたかも大兵があるが如く聞こえさせ、越人を帰順させる。平曲の戦
いでは、岑彭の電撃戦の裏で、降卒五万と、衆は多く食は少なく、裏切りが生じかねず、
郡邑も動静を窺っている状況で、偶々光武が岑彭に送った馬七百匹があったので之を徴
発し、深夜に兵を進めて多く旗幟を上げ、山に登って太鼓を打ちと、逆に多勢に見せ掛
け、遂には、延岑の軍を浮き足立たせ、潰走させる。それでも本質は、やはり好戦的な
武将であり、匈奴が飢饉と疫病に襲われた時、光武帝に訊かれて、「兵を率いて功を為
さん」と答え、光武帝に「常勝将軍とは計略を共に出来ないな、我もそれを考えるが」
と言われている。また馬武と共に匈奴を撃つ建策を上書している。光武帝は国を傾ける
かもしれない行為であり、寧ろ民を回復させる方が大事だと、それを採用することは無
かった。
 臧宮の年齢は、王莽の頃の亭長に若くしてなっていること、また建武十九年にも派遣
されて戦っているので、他の将軍よりも若いと言える。愍というのは哀れむとか痛まし
いという意味からも、若くして亡くなったことを言っているのであろう。
494煽り君:04/12/24 20:29:20
雲台二十八将 捕虜将軍楊虚侯、馬武、字は子張(?-61)
 南陽湖陽の人。王莽の末に、竟陵と西陽で兵が起こった時に之に加わり、緑林の兵と
なり、漢兵と合す。更始が立つと、侍郎となる。劉秀と共に昆陽で戦い、振威将軍とな
る。尚書令謝躬に従いて、王郎を攻める。邯鄲が落ちた時、劉秀は宴を開き、謝躬を斬
ってその軍を収めんと謀るが果たせず、代わりに馬武を高台に招きて曰く「上谷と漁陽
の突騎を得んが、将軍に之を率いさしめん。如何」。馬武答えて曰く「のろまで臆病、
方策も持っていません」。劉秀曰く「将軍は熟達し、どうして我が属官と同じであろう
か」。馬武、之により心を寄せる。
 謝躬が誅されるより、馬武は射犬に馳せて帰順す。劉秀は之を喜び左右に置いた。河
北の賊と戦うに、攻める時は軍峰となり遮る者無く、破るる時はすなわち殿となり、却
って敵陣を陥れる。
 光武立つや、馬武を侍中、騎都尉と為し、侯位を授く。
 建武四年(28)には、蓋延と共に劉永を討つ。別に済陰を撃ち、成武、楚丘を下して、
捕虜将軍を拝す。建武五年(29)には、反した[广龍]萌を共に戦い破る。
 建武六年(30)夏、耿[合廾]と共に隗囂戦役に就くが、漢軍に利あらず、隴を退く。こ
の時、隗囂は追撃するが、馬武は殿となりこれを返り討ちとする。
495煽り君:04/12/24 20:30:02
 建武十三年(37)に、下曲陽に屯し匈奴に備える。軍吏を殺せしを問われ、国に就けと
詔を受けるが、馬武、洛陽に行きて将軍の印綬を返還す。戸五百を削り、楊虚侯と為り
洛陽に留まりて、朝請を奉ず。
 建武二十五年(49)、馬武は中郎将として、武陵の蛮夷を撃つ。明帝の時代にも、再び
捕虜将軍となり、西羌を撃ち破る功を為す。永平四年(61)卒す。

 光武帝配下の猛将であるが、光武帝配下で最も軽薄な感じがする人物・・・お調子者
である。宴席では、酌をしたり、忌憚無い意見を言ったりする、宴会将軍でもある。有
名な逸話では、もし天下が乱れる機会が無かったら、何になっていたかという話題で、
馬武は「武勇がありますので、太守か都尉になっていたでしょう」と答えて、光武帝の
笑いのツボを当て「それは無理だ、ひとまず盗賊にはなるなよ」と言われている。豪放
磊落な性格と云うか、宴席で酔っ払ってずばずばと他の将の短所を言うが、光武帝はそ
れを許している。少なくとも、馬武は光武帝という良い君主に巡り合ったからこそ栄達
できたと言える。
 それでも意外なのは、かなり謙虚でもある。それは我が任に有らずと、良い任務を辞
退したり、将軍の印綬を受けて征伐等の任を終えた後、その都度、印綬を返している。
 殿が得意な武将というのも変だが、二十八将の殿として、この世を去っている。
496煽り君:04/12/24 20:30:42
雲台二十八将 驃騎将軍慎侯、劉隆、字は元伯(?-57)
 南陽の人。王莽の居摂元年、劉隆の父劉礼は安衆侯劉崇と共に兵を起こすが、破れる。
劉隆は七歳に満たず死を免れる。長安で学んだ後、更始の時に騎都尉となる。暇を請い
て帰郷し、妻子を洛陽に置く。劉秀が河内にいると聞くや、之を射犬まで追う。劉秀に
よって、騎都尉となる。劉隆は馮異と共に更始の大司馬朱鮪、李軼を防ぐ。李軼は劉隆
の妻子を殺す。建武二年(26)に侯位を受け、四年(28)に誅虜将軍を拝し、馬成監督下で
李憲を討つ。
 建武十一年(35)、南郡太守となり将軍職を辞す。
 建武十六年(40)、光武は開墾地の面積が実際と異なることが多く、有力者が土地屋敷
を広く押えていたのを制し、為に劉隆も獄に下るが、功臣ゆえ庶民となることで免れる。
 建武十七年(41)、再び侯位を受け、中郎将と為り、伏波将軍馬援の副将として、交阯
の徴側らを討つ。この時、劉隆は徴弐を捕え、多くの首級と投降者を得た。帰還すると
大国に封じられる。大司馬呉漢が亡くなると、劉隆は驃騎将軍となり大司馬の業務を兼
ねる。八年勤め上げて、辞す。列侯を以って朝請を奉ず。中元二年(57)、(おそらく)
光武帝の亡くなった後に、卒す。謚は靖侯。
497煽り君:04/12/24 20:31:15

 『後漢書』では王莽の居摂中(6-8)に七歳に満たなかったので、殺されずに済んだと
ある。『漢書』では劉宗の叛乱と鎮圧は、居摂元年(6)とはっきりしているら、生まれ
は(1-6)、流石に赤子でなかったとすれば西暦1桁代前半、ケ禹、耿[合廾]と同じ若い世
代と考えられる。『後漢書』で、壮にして長安で学ぶとあり、註で壮が三十前後という
が、劉隆が三十歳になるのは、西暦30年代前半になり合わない。長安で学んだのは二十
歳代で、つまり西暦20年代前半なら、更始の治世時期と合う。
 幼い頃に危く死を免れたり、妻子を殺されたり、侯になったり庶民になったり、大司
馬代行になったり、浮き沈みの大きな人である。また劉秀の善政を目指し、功臣を粛清
しないという柔軟な政策の良い例でもある。
498煽り君:04/12/24 20:31:52
雲台二十八将 中山太守全椒侯、馬成、字は君遷(?-56)
 南陽棘陽の人。若くして県の吏と為る。劉秀が穎川を攻略すると、馬成を属官とし、
[夾β]の令を兼ねさせる。劉秀が河北を討つに及んで、馬成は官を棄て、荷物を背負っ
て歩き、蒲陽に追いつく。劉秀は馬成を警護兵と為す。
 光武即位するや、護軍都尉を受く。建武四年(28)、揚武将軍を拝し、劉隆、宋登、王
賞を監督して、李憲を討つ。舒に囲んで、溝を深めて塁を高くし、李憲が戦いを挑むも
堅く守りて出ず。一年余りの包囲で、舒の城中の糧食尽き、すなわちこれを攻めて落し、
李憲を斬り、長江淮水の地を平らぐ。
 建武七年(31)夏、侯位を受く。建武八年(32)従いて遠征し隗囂を破る。馬成は天水太
守となり将軍を兼ねる。冬に洛陽に呼び戻されるが、建武九年(33)、来歙の代わりに中
郎将を兼ね、武威将軍劉向らを率いて河地を破り、武都を平らぐ。建武十年(34)、大司
空李通が辞め、光武は馬成に大司空の業を行わせる。数月の後、再び、揚武将軍を拝す。
 建武十一年(35)、中郎将来歙、蓋延、馬成と共に公孫述の将を河池、下弁に攻める
も、来歙刺されて勝たず、蓋延は病気故に引き返す。
 建武十四年(38)、常山、中山に屯して匈奴に備える。朱祐が光武に召されると、そ
の軍営を引き継ぎ、杜茂が罪に問われて免官させられし時は、代わって砦を補修し、北
部の保塁、烽台を整備し、事に当ること五六年。光武、勤勉を以って馬成を洛陽に召す
も、辺境の上書して馬成を求める者多く、再び、馬成に屯さしむ。北方無事なれば中山
太守を拝し、将軍の印綬は返すものの屯兵を有するはそのまま。建武二十四年(48)、
南方は武谿の蛮賊を撃つも功無く、太守の印綬を返還する。
 建武二十七年(51)、全椒侯に封じられ国に就く。建武三十二年(56)、卒す。
499煽り君:04/12/24 20:32:28

 地味だが、粘り強く手堅い防戦を行う将である。来歙が刺された後の行動は不明だが、
岑彭が江州から武陽へ侵攻していたので、下弁辺りで一人陣を張って公孫述の侵攻を抑
えていたのかもしれない。対匈奴戦は陽が当らない裏方であるが、現地での評価は高い。
惜しむらくは、建武二十四年の遠征の失敗か。
500煽り君:04/12/24 20:33:11
雲台二十八将 河南尹阜成侯、王梁、字は君厳(?-38)
 漁陽要陽の人。郡の吏と為り、漁陽太守彭寵により孤奴令を代行す。呉漢、蓋延と共
に南戦し、王郎の諸軍を破り、二十二県を押えて、広阿の劉秀に追いつく。王梁は偏将
軍を拝し、邯鄲を抜くや爵関内侯を受く。劉秀に従いて河北を平らげ、野王令を拝す。
寇恂と共に南は洛陽を防ぎ、北は天井関を守る。光武即位するに及んで、大司空を選ば
んとするにあたり『赤伏符』により、王梁を選び、列侯と為す。
 建武二年(26)、大司馬呉漢と共に壇卿を撃つが、詔勅で軍事は呉漢に一任されしが、
王梁は野王の兵を濫用す。光武は王梁を県に留めしが、王梁は勝手に軍を進めるゆえ、
光武は命令違反に怒り、尚書の宗広に節を持たせて王梁を斬らしめんとすが、宗広は檻
車で王梁を京師に送る。光武、王梁至るや、之を許す。一月余りで中郎将と為し、執金
吾を兼ねさせる。箕関を守り、赤眉の別働部隊を破る。建武三年(27)春、五校を撃ち
之を下し、諸所の叛乱集団を平らげる。冬、王梁は前将軍を拝す。建武四年(28)春、
肥城、文陽を抜く。杜茂と共に進軍し、蘇茂、佼彊を楚と沛の間に撃ち、大梁、齧桑を
抜く。馬武、王覇も別働で進軍し、一年余りで之を平らげる。建武五年(29)、従いて
蘇茂と[广龍]萌に囲まれし桃城を救い、[广龍]萌等を破る。王梁力戦し、山陽太守を拝
し、兵はそのまま率いた。
501煽り君:04/12/24 20:33:42
 数月後、王梁、河南尹と為る。灌漑水路を洛陽に注がんとするが、工事の終了後、水
は流れず、弾劾される。王梁恥じて、上書し骸骨を乞うが、光武は詔に曰く「先に軍功
が有り、良かれと図った事業が無駄に終り、百姓(ひゃくせい)は怨み誹り、政論家は
騒ぐ。罪は許されたが、なお身を引かんとす。君子なら人の美事善行を助けるという。
そこで、(私は)王梁を済南太守にしよう」。建武十三年(37)、光武、王梁の封土を増
し、阜成侯に封じる。建武十四年(38)、在職のまま卒す。

 予言の書で大司空になってしまい、大司馬の選任時のように大きなブーイングは無か
ったようだが、勝手に兵を動かすというのは資質を疑われる。普通なら命令違反で斬首
だが、宗広の機転で命を救われ、以後は軍務を全うしたから、それなりに有能だったの
であろう。灌漑事業の失敗で、引責辞任になっているが、これは不運かも。結局、上司
が光武帝だからこそ、身が保て、しかも栄達の誉れも残せたという例、光武の引き立て
役みたいな感じがする人である。
502煽り君:04/12/24 20:34:24
雲台二十八将 琅邪太守祝阿侯、陳俊、字は子昭(?-47)
 南陽西鄂の人。若くして郡の吏と為る。更始立つや、劉嘉を太常将軍と為し、陳俊を
その長史と為す。劉秀が河北を攻略するに当って、劉嘉は書で以って陳俊を薦め、劉秀
は陳俊を徴兵の属官と為す。従いて、銅馬を清陽に撃ち、蒲陽に進み、強弩将軍を拝す。
五校と安次に戦う。この時、陳俊は馬を降りると短い刀剣で白兵戦を挑みて、向う所必
ず破り、逃げるを追うこと二十余里、頭目を斬りて帰る。劉秀、それに感じて曰く「戦
う将軍が、悉く陳俊のようであれば、何も憂いることはない」。五校は引いて、漁陽に
入り掠奪す。陳俊は劉秀に言いて曰く「軽騎で賊を牽制し、百姓(ひゃくせい)に堅く
守らせ、その食を断たしむべし。戦わず滅ぼすべきなり」。劉秀之を然りとし、陳俊を
遣りて軽騎を率いさせる。賊は得るところ無くついには散じる。光武立ちて、陳俊を列
侯と為す。
 建武二年(26)、陳俊は匡の賊を攻め、四県を降す。頓丘を撃ち、三城を降す。この秋、
大司馬呉漢、陳俊を強弩大将軍と為し、金門、白馬の賊を河内に撃って之を破る。
 建武四年(28)、陳俊は汝陽、項を攻略し、南武陽を抜く。太山の豪傑が張歩と結びた
れば、呉漢は光武に進言し、陳俊を太山太守に拝し、大将軍の職を兼ねさせる。張歩、
これを聞きて将を遣わせるも、陳俊之を破り、追いて攻め、諸県を下して、太山を定む。
 建武五年(29)、陳俊は耿[合廾]と共に張歩を破る。この時、琅邪はまだ定まらず、光
武は陳俊をして琅邪太守と為し、大将軍の職を兼ねさせる。斉の地、陳俊の名を知れば、
郡に入りし賊はすなわち散じる。陳俊は兵を率いて董憲を撃ち、賊の孫陽を破り、之を
平ぐ。十月に、張歩は蘇茂を斬って降る。光武、張歩を安丘侯と為し、家族と共に洛陽
に至らしむ。
503煽り君:04/12/24 20:34:56
 建武八年(32)夏、張歩は妻子を率いて逃れて、臨淮に走り、弟の張弘、張藍と共に、
その元の衆を集め、船に乗って海に入らんと欲す。陳俊追いて之を斬る。光武、陳俊の
功を善しとし、自由に青州、徐州を征させむ。陳俊は貧弱を労わり、義士を顕彰し、軍
吏が軍県の官吏に関与せざらしめた。百姓(ひゃくせい)は之を歌う。
 建武十三年(37)、陳俊の邑を増やして祝阿侯に封ず。建武十四年(38)、召されて朝請
を奉ず。建武二十三年(47)、卒す。

 智勇兼備の良将である。太守としてはその抜群の治安能力が買われているが、元々官
吏出身なので行政能力もある。軍関係者を行政に関与させないようにさせたのは、経験
の賜物かもしれない。後漢書では呉蓋陳臧列伝と括られているように、好戦的な将軍の
一人でもあり、琅邪太守の頃に隴や蜀の平定に従軍したいと都度都度上書している。陳
俊の元上司である耿[合廾]も隴や蜀の平定に従軍しているので、その影響もあったのか
も。しかし光武帝から、沿海の賊は国の憂いであるから、しばらく之を鎮撫せよと言わ
れている。
504煽り君:04/12/24 20:35:32
雲台二十八将 驃騎大将軍・参[サ遽]侯、杜茂、字は諸公(?-49)
 南陽冠軍の人。劉秀を河北へ追って陣営に加わり、中堅将軍と為り従いて征伐す。光
武立ちたれば、大将軍を拝し、列侯を受く。北は五校を真定に撃ち、進みて広平を降す。
建武二年(26)、王梁と共に五校を魏郡、清河、東郡に撃ち、陣営を悉く平らげ、その大
将三十余人を降す。建武三年(27)、驃騎大将軍を拝し、沛郡を撃ち、芒を抜く。西防は
反して佼彊を迎え入れたれば、建武五年(29)春、杜茂は馬武を率いて西防を撃ち、数ヶ
月にしてこれを落す。佼彊は董憲に走る。
 東方が平らぐや、建武七年(31)、光武は、杜茂に兵を引かせて、北の晋陽、広武に屯
田させ、北の胡族に備えさせる。以降、雁門太守郭涼と共に、群雄の盧芳と匈奴の連合
に長年対峙する。
 建武九年(33)、杜茂は郭涼と共に、盧芳の将尹由を攻めるも盧芳の将賈覧が胡騎一万
余りを率いて之を救い、杜茂は敗れ楼煩城に引く。
 建武十年(34)、杜茂は王覇と会して、尹由を攻めるも勝たず。
 建武十三年(37)、杜茂は増邑を受ける。王覇と共に飛狐道を治める。建武十五年(39)、
兵馬の糧食衣糧の上前をはね、軍吏に人を殺させた罪に問われて官を免ぜられ、戸邑を
減じられる。引継ぎは馬成となる。杜茂は参[サ遽]侯に封じられる。建武十九年(43)、
卒す。

 光武帝の軍事を見ると、決して匈奴に対して手を抜いていない。守るところは守り、
良将、良太守を配置し、内部が侵されることがないようにしている。そのため杜茂や郭
涼は目立たないが、隗囂や公孫述と戦えたのも、彼等の布陣があったればこそ。
505煽り君:04/12/24 20:36:10
雲台二十八将 積弩将軍昆陽侯、傅俊、字を子衛(?-31)
 潁川襄城の人。劉秀が襄城を押えるや、傅俊は県の亭長であったが軍を迎え、拝して
校尉と為る。襄城は傅俊の母弟の家族を捕えて滅ぼす。劉秀に従いて昆陽で戦い、偏将
軍と為る。別軍として、京、密を撃ちて之を破る。劉秀、傅俊を遣わし、頴川に帰り家
属を収め、葬らさせる。
 劉秀の河北を討つに及んで、傅俊は賓客十余人と共に北に追い、邯鄲にて上謁す。劉
秀、傅俊に頴川の兵を率いさしめ、傅俊は従いて、征伐す。光武即位したれば、傅俊を
侍中と為す。光武、傅俊を遣りて陰氏を迎えん。時に、陰氏は[シ育]陽のケ奉の軍に有
り、陰氏の兄陰識はケ奉の将たり。陰氏、光武の姉劉黄、妹劉伯姫他宮人と共に洛陽に
至り、貴人と為る。
 建武二年(26)、傅俊、昆陽侯を受く。建武三年(27)、積弩将軍を拝す。岑彭と共に撃
ちて秦豊を破り、共に田戎を津郷に伐ち、之を破る。兵を率いて江東を押さえ、揚州を
悉く定める。建武七年(31)、卒す。謚は威侯。

 傅俊が陰氏への使いとなるのは、光烈陰皇后伝の記載である。なぜ、傅俊がこの任に
当ったかを考えると、潁川の人で、早くから劉秀に従い、陰氏、陰識、ケ奉、劉黄、劉
伯姫にも面識があったと考えることが出来る。このような立場に有ったのは、他には朱
祐、王覇、臧宮、ケ晨がいるが、まだ侯位を受けていなかった傅俊と臧宮(侍中、騎都
尉)が適当。臧宮は言葉少ないので、使者には傅俊にとなったのかも。
506煽り君:04/12/24 20:36:45
雲台二十八将 左曹合肥侯、堅鐔、字は子[イ及](?-50)
 潁川襄城の人。郡県の吏と為る。劉秀が河北を討つ時に、堅鐔を薦める者があって、
召見され、吏能ありて主簿と為る。また偏将軍を拝し従いて河北を平らげ、別軍として
大槍を盧奴に破る。光武即位したれば、堅鐔を揚化将軍に為し、侯位を授く。諸将と共
に洛陽を攻む。更始の大司馬朱鮪の別将、反間を働き、堅鐔に約して朝に上東門を開か
んとす。堅鐔は朱祐と共に待ち構え、即ち朱鮪を大いに攻める。朱鮪これにより遂に降
ることとなる。また別に内黄を撃って、之を平ぐ。
 建武二年(26)、万修と共に南陽の諸県を調略したるに、堵郷の董[言斤]は宛城で反し、
南陽太守劉麟を捕える。堅鐔は兵を率いて宛に向い、決死の兵を募って、夜中に自ら城
に登り、守備の兵を斬って入る。董[言斤]、城を棄て堵郷に戻る。ケ奉、新野で反し、
呉漢を破り、方や万修病みて死す故、堅鐔は独り孤絶し、南はケ奉、北は董[言斤]に当
る。一年の間道路は塞がり、兵糧は至らず、堅鐔は野菜を食らい、士卒と労苦を共にす
る。変事ある毎に先んじて矢石に当り、身に三つの傷を受く。この為、良く衆を統率で
きた。光武、南陽を征し、董[言斤]、ケ奉を破るに及んで、堅鐔を左曹と為し、従いて
征伐す。建武六年(30)、合肥侯を受く。建武二十六年(50)、卒す。

 劉秀が河北を討つ時に、薦められて召見されてとあるが、洛陽を立つあたりか、それ
とも河北に渡ってからか不明である。また誰に薦められたのであろうか。潁川襄城の県
の亭長が傅俊であったので、傅俊が堅鐔の能を知って推挙したのだろうか? それなら
河北に渡ってからか。それとも誰か他の人物が推挙したか。
 堅鐔はそれほど目立たないが、史実を見る限り能吏であり良将であったようである。
507煽り君:04/12/24 20:38:25
雲台二十八将 上谷太守淮陵侯、王覇、字は元伯(?-59)
 潁川潁陽の人。世々代々法律を好み、祖父は獄の丞、父は郡の罪法の官吏である。王
覇も若くして、獄吏となるも之に満足せず、そこで王覇の父は長安に学ばせる。漢兵が
立ちて、劉秀が潁陽を過ぎるや、賓客を率いて上謁して曰く「将軍は義兵を起こされま
した。吾は自らの度量は知りませんが、将軍の御威徳を慕って参りました。なにとぞ陣
営にお加え頂きたい」劉秀答えて曰く「賢士を思い、共に功業を為さんとす。なんの異
存があろうか」。王覇、劉秀に従いて、王尋と王邑を昆陽に破り、帰って郷里に息う。
 劉秀が司隷校尉と為り潁陽を過ぐるに、王覇は父に従軍を請う。父曰く「吾は老い、
軍旅に堪えず。汝は行きて勉めよ」。王覇は劉秀に従い洛陽へ、更には大司馬劉秀の功
曹令史と為り、従いて河北に渡る。王覇の賓客は次第に減るが、王覇はそれでも劉秀に
従う。劉秀曰く「汝一人のみ留まる。努力せよ。風が吹いて、どれが強い草木か初めて
分かる」
 王郎の劉秀に賞金をかけた檄書到るや、薊中は王郎に呼応した兵が立つ。王覇は劉秀
のための兵を募るが叶わず。劉秀は南に逃げ、下曲陽に至る。辛うじて凍れる河を渡る。
劉秀、信都に至って兵を発して攻めて邯鄲を抜く。王覇は追いて王郎を斬り、その璽綬
を得、列侯に封じられる。
 劉秀に従いて河北を平らげ、常に臧宮と傅俊の潁川組で陣営を共にする。王覇のみ良
く兵士を労わり、死者には衣を脱いで納棺し、傷つく者には自ら面倒を見る。光武が即
位するや、王覇は軍事に長け兵士を愛し一任することが出来た故、偏将軍と為り、臧宮
と傅俊の兵も率い、臧宮と傅俊は騎都尉と為る。建武二年(26)、列侯を受ける。
508煽り君:04/12/24 20:39:07
 建武四年(28)、光武は[言焦]に行幸し、王覇と馬武に東の方、周建を垂恵に討たせる。
蘇茂は元五校の兵四千人を率いて周建を救い、精騎をもって馬武の兵量を攻める。馬武
は之を救うも、周建が城から出、挟撃す。馬武は王覇を頼みて力戦せず、破れる所とな
り、王覇に叫んで応援を請う。王覇、蘇茂と周建の兵が精鋭多勢であり、自陣の兵が怖
気づき、また馬武が死力を尽くさないので、陣営を閉ざし時を待つ。自陣にて決死の兵
が立ちて、初めて応ず。蘇茂と周建は背後から現れた王覇の軍に慌てふためき敗走す。
 その後も、蘇茂は戦いを挑み、矢を射掛けてくるが、王覇は出陣せず。軍吏のとがめ
しに答えて曰く「敵は遠路から来て、糧食少なし。戦いを挑み来るは、一時の勝利を得
んがため。いづれは退却をせざるを得ない。戦わずして勝つは、善の善なるものなり」
 蘇茂と周建はやむなく兵を引くが、その夜、周建の兄の子周誦が反し城を閉ざし、蘇
茂と周建は敗走す。周誦は城ごと光武に降る。
 建武四年(28)、王覇、討虜将軍を拝す。建武六年(30)、新安に屯田し、建武八年(33)、
函谷関に屯田す。ケイ陽、中牟の盗賊を撃ちて平らぐ。
 建武九年(33)、王覇は呉漢、王常、朱祐、侯進ら五万余人と共に、盧芳の将賈覧と閔
堪を高柳に撃つも、匈奴は盧芳を助け、漢軍は雨に遭い戦うも利有らず。呉漢は洛陽に
帰還し、王常はタク郡、朱祐は常山、侯進は漁陽にそれぞれ屯田し、王覇は屯田兵を率
いたまま上谷太守を拝し、上谷に限らず胡族撃つ権限を得る。
 建武十年(34)、王覇は呉漢ら四将六万人と共に高柳に出て、賈覧を撃つ。王覇は詔勅
により漁陽太守陳[言斤]と共に先鋒となる。匈奴が賈覧を救うも、王覇は平城の下に戦
ってこれを破り、塞を出て首を切ること数百級。王覇は杜茂と会して、盧芳の将尹由を
攻めるも勝たず。
 建武十三年(37)、王覇は増邑を受ける。杜茂と共に飛狐道を治める。王覇は北辺に通
じ、都度都度建策を行い、悉く施行される。建武三十年(54)、淮陵侯に封じられる。永
平二年(59)、病を以って免ぜられ、数月後卒す。
509煽り君:04/12/24 20:39:41

 王覇の逸話で一番有名なのは、王郎の兵が背後に来ているという時に、河が渡れるか
見て来いと言われて、河は完全に凍っておらず、それを報告すれば陣中が狂乱するので、
戻ってくる頃には渡れるだろうと判断して、渡れると報告し、実際に劉秀らが河に至れ
ば凍っていたため、九死に一生を得たというもの。事実は小説よりも奇なり。
 それよりも実際は後半生の匈奴との戦いが目を見張る。朱祐、杜茂、馬成、そして王
覇と、北辺に光武帝は良将を置き、王覇に至っては光武帝が生きている間には、召され
ることが遂に無かった。
510煽り君:04/12/24 20:40:52
雲台二十八将 信都太守阿陵侯、任光、字は伯卿(?-29)
 南陽宛の人。初め郷の嗇夫、郡県の官吏となる。漢兵至るやその衣服が鮮やかなるを以
って、殺され衣服を奪われそうになるが、偶々光禄勲劉賜至って、顔相が良いので救われ
る。任光は仲間を率いて劉賜に従い偏将軍となり、劉秀と共に、王尋と王邑を昆陽に破る。
 更始が洛陽に至れば、任光は信都太守に任じられる。王郎が立つや、郡国皆之に降るも
任光は肯ぜず、都尉の李忠、令の万修らと共に固守す。王郎の官吏至れば、之を斬って百
姓(ひゃくせい)を治め、精兵四千人を発し篭城す。
 更始二年(24)春、劉秀は薊を出て向う所を知らず。只、信都独り漢の為に王郎を防ぐと
聞き、之に馳せる。任光、李忠、万修らこぞって之を迎え入れる。劉秀、任光に問いて曰
く「今勢い弱ければ、地方勢力の城頭子路、チョウ子都に組込まれんと思うが如何」。任
光曰く「不可なり」。劉秀更に問いて「卿は兵少なし、如何せん」。任光曰く「兵を募り、
隣県を攻めます。もし降らざれば、掠奪を許します」。劉秀、之に従う。任光を左大将軍
並びに列侯と為し、南陽の宗広を留めて信都太守を代行させる。任光檄文を作りて曰く「
大司馬劉公、城頭子路、チョウ子都の兵百万を率いて東方より来りて、反虜を撃つ」。之
を広め、劉秀は任光等と暮に堂陽に入り騎馬に松明を持たせ湿地帯を埋め尽くさせ、之に
慄いて、城は降る。瞬く間に兵は盛んとなる。遂には邯鄲を抜く。劉秀は任光を元の信都
太守に帰す。
 建武二年、光武は任光を阿陵侯に封じ、食邑は万戸となる。建武五年(29)、召されて京
師に至り、朝請を奉ず。其の冬、卒す。

 任光の逸話は、任光らが居なければ、劉秀が地方勢力に組込まれてしまっていたかも知
れない可能性や、いざとなれば掠奪も辞さない、劉秀の柔軟性を見ることが出来るが、そ
れだけ、劉秀が追い詰められていたと云うことである。この時の地方勢力は、呉漢らが降
す後の壇卿である。
511煽り君:04/12/24 20:42:09
雲台二十八将 予章太守中水侯、李忠、字は仲都(?-43)
 東莢黄の人。父は高密の都尉と為る。李忠は元始中(1-5)に父の任を以って郎中と為り、
王莽の頃(漢の呼称に直せば)信都の都尉と為る。更始の使者によって再び、信都都尉に
任じられる。太守任光等と劉秀を迎え入れ、右大将軍並びに列侯を拝す。従いて攻めて属
県を下す。苦徑まで至りし時、劉秀は諸将の略奪せる物を問いしが、李忠のみ何も掠めず、
故に劉秀は自分の馬と繍の上着を李忠に与えて曰く「我は特に李忠に賜わんと欲す。諸卿、
怨みに思うまいな」。
 劉秀ら鋸鹿を囲むが未だ下らず。王郎は将を遣わせて信都を攻め、信都の豪族馬寵ら内
応し、太守代行の宗広及び李忠の母と妻を捕え、親族によって李忠を呼ばせる。時に馬寵
の弟は李忠に従いし校尉であったので、李忠は即座に召見し、責め咎めるに造反したれば、
之を殴り殺す。諸将驚いて曰く「家属は敵の掌中にあるに、其の弟を殺すとはなんと猛な
る」。李忠曰く「もし賊を許して誅せざれば、二心を持つことになる」。劉秀、之を美談
と思い曰く「今、我が兵は立った。将軍、帰りて老母と妻子を救うべし。吏民から義兵を
募れ、銭千万を賜わん。今渡そう」。李忠曰く「明公の大恩を蒙り、命以って捧げんと思
う。誠に敢えて一族を顧みず」。劉秀は任光に兵を率いさせ信都を救わせるも、兵はその
途中に王郎のために散じ、任光は功無く帰る。偶々、更始の将信都を攻め破り、李忠の家
属は全うできた。劉秀は李忠に信都の太守業を兼任させ、邯鄲につく豪族を誅殺させる。
任光が戻ると、李忠は都尉に復す。
 建武二年(26)、中水侯に封じられ、召されて五官中郎将を拝し、従いて、[广龍]萌、董
憲を撃つ。
512煽り君:04/12/24 20:42:46
 建武六年(30)、丹陽太守となる。この時、中央はほぼ治まったが、南方は兵を持って土
地に拠っていた。李忠は郡に至るや、之らを招き懐かせて下し、服さざる者は悉く誅して、
平らぐ。李忠、丹陽は越の俗に染まる故、学校を起こし、礼容を学ばせ、経に明るいもの
を官吏に選ぶ。之により郡中懐き従う。墾田は増え、三年の間に流民が定着すること五万
人余り。建武十四年(38)、治績が天下第一と為り、予章太守と為る。病みて官を去るが、
召されて京師に至る。建武十九年(43)、卒す。

 李忠は、後年の名太守ぶりが有名。なにせ全漢一位の成績である。しかも、農民を絞り
上げている訳で無く、中央の文化を根付かせ、流民を定着させているという誇れる理由が
ある。土着豪族の庇護下よりも、官の統制下が居心地良いなら、衆民はそちらに流れる。
513煽り君:04/12/24 20:43:17
雲台二十八将 右将軍槐里侯、万修、字は君游(?-26)
 扶風茂陵の人。更始の時、万修は信都の令となり、信都太守任光、都尉李忠と共に城を
守り、劉秀を迎える。偏将軍と為り侯位を受く。邯鄲を破る後に右将軍となり、劉秀に従
いて河北を平ぐ。建武二年(26)、改めて槐里侯を受く。揚化将軍堅鐔と共に南陽を撃つも、
陣中で病み、没す。

 雲台二十八将中、記載が一番少ない。陣没したため、右将軍の号はケ禹に行くことにな
り、一緒に南陽を攻めていた堅鐔は一人孤立した戦いを強いられるくらいしか書くことが
ない。
514煽り君:04/12/24 20:44:04
雲台二十八将 太常霊寿侯、[丕β][丹彡]、字は偉君(?-30)
 信都の人。父、[丕β]吉は遼西太守。[丕β][丹彡]は初め王莽の(漢の呼称に直せば)
和正太守となる。劉秀の河北調略において下曲陽に至れば、[丕β][丹彡]は城を上げて降
り、再度太守を拝す。劉秀は数日留まった後、薊に至り、この時、王郎の兵が立つ。至る
ところ王郎に靡く中、新都と和正は堅守して降らず。[丕β][丹彡]、劉秀が軍を失い、薊
から信都に向うと聞けば、郡の属官張万と尹綏に精騎二千余りを率いさせ、劉秀の道すが
らを出迎えさせる。[丕β][丹彡]は信都で劉秀を出迎える。
 劉秀はニ郡の助けを得たとはいえ、衆兵集まらず、陣営の中には、二郡の兵を借りて、
洛陽まで戻らんとす議あり。[丕β][丹彡]、劉秀の問いに答えて曰く「その議は誤りなり。吏民は漢を慕い、故に更始は尊号を上げて、天下は之に応じ、長安は之を迎える。上古よ
り、このような人を動かす者は有りませぬ。しかるに王郎は騙りであり烏合の衆を集め燕
趙の地を振わせておりますが、ならば明公がニ郡を揚げ、威を振いたればどうでしょうか。
以って攻めればいづれが勝たん。以って戦えばいづれが服さん。今、この状況を棄て帰れ
ば、河北を失うのみにあらず、長安をも驚動し、威厳を損ねます。また明公が征伐に出る
というのでなければ、信都の兵は動きません。明公が西に帰すれば邯鄲が為り、兵士は千
里の彼方、父母を捨て城主に背いて明公を送ること肯ぜず、散兵すること必定」。劉秀、
その言良しと、この議を止む。即日[丕β][丹彡]を後大将軍と為し、和正太守はそのまま、
兵を率いさせる。堂陽に及んで、堂陽は王郎に属すといえども、[丕β][丹彡]は張万と尹
綏に吏民を諭させ、夜半、劉秀至るや即ち門を開いて出迎える。[丕β][丹彡]は兵を率い
て、白奢の兵を中山に破る。之より劉秀に従いて戦い攻める。
515煽り君:04/12/24 20:44:54
 信都、反して王郎につき、王郎の置く信都王は、[丕β][丹彡]の父、弟、妻子を捕え、
手紙を書かせて曰く「降れば封爵せられん。降らざれば族滅せられん」。[丕β][丹彡]涕
ながら、劉秀に報じて曰く「君主に仕えることは、家を顧みることを得ず。我の親属の今
に至るまで信都に安んずることを得しは劉公の恩恵なり。明公、まさに国事を争う。我は
私事を思うこと得ざるなり」。偶々、更始の将信都を攻め破り、[丕β][丹彡]の家属は免
るることを得たり。
 邯鄲を落し、[丕β][丹彡]は列侯を拝し、建武二年(25)、霊寿侯を受け、大司空を兼務
す。光武、洛陽に入りたれば、[丕β][丹彡]は太常を拝し、一月余りで少府に転じ、この
年免じられて、左曹侍中と為り、従いて征伐す。建武六年(30)、霊寿国に就く。卒す。

 [丕β][丹彡]と李忠の逸話から、信都郡が反して王郎につき、おそらく馬寵が王郎から
信都王を拝し、信都を救いに行った任光も、その兵が信都出身であったため散じ、[丕β]
[丹彡]と李忠の家属は絶命の危機にあった。そこで、更始の将がそれを救いとあるが、こ
れは尚書令謝躬の軍であろう。劉秀らは、この恩ある謝躬を斬ることになる。信都・和正
の逸話からは、劉秀の戦歴は決して清いものばかり出なかったと、読み取れる。
516煽り君:04/12/24 20:45:32
雲台二十八将 驍騎将軍昌城侯、劉植、字は伯先(?-26)
 鉅鹿昌城の人。王郎立つや、劉植は弟劉喜、従兄弟劉[音欠]と共に一族郎党を率いて、
兵数千人を集めて昌城に拠る。劉秀が薊より戻りしと聞くや、昌城の門を開いて、之を
迎え入れん。劉秀、劉植を驍騎将軍、劉喜と劉[音欠]を偏将軍と為し、同時に列侯と為
す。この時、真定王劉揚は兵を発して王郎に附いて、その軍十余万なり。劉秀、劉植を
遣りて劉揚に説かしめて、すなわち劉揚は降らん。劉秀、真定に留まり、郭氏を納れん。
郭氏、劉揚の姪である由縁なり。
 劉植、劉秀の邯鄲を攻め、河北を平らぐに従う。
 建武二年(26)、光武、改めて劉植を昌城侯と為す。劉植、密県の賊を討つも、戦没す。
光武、劉喜をして劉植の軍を率いさしめ、また驍騎将軍と為し、観津侯と為す。劉喜、
卒するや、劉[音欠]をして驍騎将軍と為し、浮陽侯と為す。劉喜、劉[音欠]従いて、征
伐す。
517煽り君:04/12/24 20:46:06

 ひょっとすると、真定王劉揚が劉秀に降る時に、その条件として、郭聖通を劉秀が娶
るというのがあったかもしれない。その条件を出したのは誰か? 劉揚か、劉秀か。案
外、劉植が仲人であった可能性がある。以下、それのフィクション。
(1)劉秀が問うて曰く「真定王を如何に降さん」。劉植応えて曰く「我に策有り」。
劉秀曰く「如何ならん」。劉植曰く「真定王に姪有り、姓は郭、諱は聖通。明公、之を
納れん。さすれば真定王、降らん」。劉秀曰く「我、既に娶りたる者有り」。劉植「明
公、匹夫に有らざれば、また娶りたるも可なり。郭聖通は容色悪しき者に有らざるなり
」。劉秀曰く「諾。卿を遣りて説かしめるなり」。即ち、劉植は真定に赴かん。
(2)真定王劉揚、説客の劉植に問うて曰く「我に何用有り」。劉植応えて曰く「王は
聞くか、大司馬劉秀を」。劉揚曰く「大司徒の弟にして、昆陽の大軍を破りしを聞くな
り」。劉植曰く「大司馬は劉氏の血筋なり、故に、漢を救わんとする者なり、王は劉氏
の正嫡にして、何ぞ、出自明らかならざる王郎に附かん」。劉揚曰く「大司馬に附かん
と思えど、この身を保つ証しの有るや」。劉植曰く「王に姪有り。大司馬に娶らせば如
何。王、大司馬の勲を知るなら、良縁と思わざるか」。劉揚曰く「可なり。真にその通
りならば必ず降るべし」。
518世界@名無史さん:04/12/24 21:42:08
劉秀×ケ禹
519世界@名無史さん:05/01/04 15:43:29
煽りage
520煽り君:05/01/05 23:33:37
 今まで言及が無くて、この時代にそれなりに影響のあった人物と言えば、こん
なところが残っている。
 劉[糸寅]、劉玄(更始帝)、劉盆子。
 群雄の隗囂(一部は既出)、公孫述(一部は既出)、盧芳。
 身を誤った李軼(李通の従兄弟)。
 二十八将に後で加えられた四人のうち竇融を除いて、王常、李通、卓茂。卓茂
は省いて良いかも。
 光武陣営のケ晨、陰識・陰興兄弟、来歙、馬援。

 小生が注目したいのは朱浮(性格が悪いせいで、二十八将には決してなれなか
ったろうな。まず明帝が嫌っていたから)、破姦将軍侯進(何度も出て来て活躍
するが、列伝が無く、出身等不明)、伏湛・伏隆父子、祭[月彡](祭遵の従兄弟)
に、光武帝の親族、劉嘉。
 他に誰が抜けているだろう?
521永遠の青 ◆pkFA3D428. :05/01/06 02:00:39
>>520
更始帝の大司馬で、劉[糸寅]殺害に関与していながら、
光武帝の下で九卿まで至った朱鮪などはいかがでしょう?
522世界@名無史さん:05/01/13 04:12:12
hosyu
523世界@名無史さん:05/01/15 18:49:18
あげ
524世界@名無史さん:05/01/15 18:59:30
煽り君さん、スレが重いですよ。
525煽り君:05/01/15 20:56:47
 小生、煽り君と称していて、煽られ君ではないので、余人のご意見はご意見と
して尊重するものの、盲従するなんてことはないです、はい。また、煽る対象は
一応、塚本史です。二十八将について簡単にまとめちゃいましたが、こんなに
面白いのに、あんなにつまらなく書けるって、もはや才能です(と煽っておく)。

 それはともかく扶溝侯朱鮪について。岑彭の話の中で既に分かっている以外は、
長安で更始が主立った武将を王にしようとか言い出して、朱鮪は「高祖(劉邦)
は劉氏だけが王になると決めたのですから、止めましょう」と諫言し、それでも
更始は、各武将をどんどん王に任命し、朱鮪も王に任命されるが辞退するという、
筋が通った程度しか、逸話が無いのです。
 ちなみに、扶溝侯朱鮪の墓の拓本(?)があるそうです。
 ttp://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/g_menu.html

 ついでに、知っている方は知っているでしょうが、
 「熾天使書城----後漢演義」というサイトから朱鮪について。
 ttp://www.angelibrary.com/real/tai_tong_po/houhan/012.htm

 読めないって? いや漢字ですので、その気になれば分かります。
 『後漢書』を参考にすれば更なり。IEならそのまま読めますが、
ネスケではフォントを読まないと駄目のようで、DLしろとか言われ
ました。DLしてEXEを実行させるとすると、ちゃんと読めます。
[糸寅]がちゃんと1文字になってるって、なんかうれしい。
526世界@名無史さん:05/01/15 21:07:03
淫麗華はケ禹×劉秀に萌え狂っていたに違いない
527世界@名無史さん:05/01/18 00:28:52 0
なにげに和帝の時代が最盛期だよな。
528世界@名無史さん:05/01/31 20:00:52 O
ほしゅ
529世界@名無史さん:05/02/11 14:31:46 O
王モウ
530世界@名無史さん:05/02/21 18:04:24 0
劉氏万歳
531世界@名無史さん:05/02/22 19:24:06 0
ぬるぽ
532世界@名無史さん:05/03/11 00:26:35 0
あげ
533世界@名無史さん:2005/04/10(日) 20:41:11 0
>>531
ガッ去病
534煽り君:2005/04/16(土) 10:33:44 0
朱浮、字は叔元
 沛国蕭の人。劉秀の大司馬主簿と為り、偏将軍と為る。王郎との戦いで、
駐屯していた王郎の将李育に気付かず、柏人でケ禹と朱浮は破られ、劉秀
はその散兵を集め、李育を破る。劉秀に従いて朱浮は邯鄲を破る。
 呉漢が更始の幽州牧苗曾を打ちたれば、劉秀は朱浮をして大将軍、幽州
牧と為し、薊城を守らせる。建武二年(26)、舞陽侯に封ぜられる。
 朱浮は年若いが才能があり、気高い行いを奨励して人心を収めんと欲し、
幽州の名望家を招き集め、諸郡の倉から穀物を引き出して、その妻子に与
えた。漁陽太守彭寵は、天下はまだ定まらず、軍を起こしているので、兵
糧を損なうべきでないと思い、令に従わず。朱浮はすこぶる気位が高く、
不平を持ち、厳法を以って、彭寵を謗る。彭寵も性格が捻じ曲がって強情
であり、その功をたのんで憎悪を重ねる。朱浮は彭寵の誹謗中傷を密奏し、
既に怨み懲り固まった彭寵が之を聞きて大いに怒り、兵を起こして朱浮を
攻める。朱浮は彭寵の反逆をなじる書を送るものの、反って火に油を注ぐ
ことに帰す。また建武三年(27)、シ豕郡太守の張豊も兵を上げて反す。
 朱浮は光武が直接に平定に出ると思いしが、游撃将軍ケ隆が遣わされる
のみのため、上疏するが、叛乱が急であり兵糧がないであろうと退けられ
る。この時朱浮は諸郡の倉から穀物を引き出していたため、備えなく糧尽
き、人相食むこととなる。たまたま上谷太守耿況が之を救い、朱浮は脱出
することが出来たが、良郷で兵長が背き遮られる。朱浮は逃れられないこ
とを恐れ、妻を殺して単身逃亡す。薊城は彭寵に落ちる。尚書令侯覇は之
を朱浮のために彭寵は罪を犯し、自らは軍兵を徒に労した上、節を通そう
としなかったので誅すべきと奏上するが、光武は功臣ゆえ忍びず、朱浮を
賈復と替えて執金吾と為す。
535煽り君:2005/04/16(土) 10:37:06 0
 朱浮が能吏で知識人であることは、幾つもの奏上文章からも読み取れる
が、その才で直接人に当れば反感を買うのは必定。それなのに更に性格が
悪いと来ている。そのため大失敗し、普通なら侯覇が誅すべきと奏上した
時に死んでいる。光武帝ならなんとか扱えたが、その光武帝でも何時かは
殺す時が来るかもしれないと感じていたのだろう。
 ちなみに後歴、内輪もめの例として、和解した寇恂賈復と、最悪の事態
を迎えた朱浮彭寵が対比される。
536煽り君:2005/04/16(土) 14:14:22 0
破姦将軍侯進
「寇恂伝」より
建武二年(26)、寇恂、河内太守を免じられること数月にして、また潁川太
守を拝し、破姦將軍侯進と共に潁川の賊を撃つ。
「劉盆子伝」より
建武三年(27)、光武は破姦将軍侯進等を遣わせて新安に屯せしめ、建威大
将軍耿[合廾]等をして宣陽に屯せしめ、赤眉の帰路を遮らしむ。
「朱祐伝」より
建武四年(28)十一月、征南大将軍岑彭に替りて建義大将軍朱祐は、破姦将
軍侯進、輔威将軍耿植(耿純の従兄弟)を率いて秦豊を黎丘に囲む。
「李通伝」より
建武六年(30)夏、前将軍李通は破姦将軍侯進、討虜将軍王覇を率いて、漢
中の賊(延岑)を撃つ。公孫述は救援を出すが、李通は西城に戦い之を破る。
「王覇伝」より
建武九年(33)、討虜将軍王覇は大司馬呉漢、横野大将軍王常、建義大将軍
朱祐、破姦将軍侯進ら五万余人と共に、盧芳の将賈覧と閔堪を高柳に撃つ
も、匈奴は盧芳を助け、漢軍は雨に遭い戦うも利有らず。呉漢は洛陽に帰
還し、王常は[シ豕]郡、朱祐は常山、侯進は漁陽にそれぞれ屯田し、王覇
は屯田兵を率いたまま上谷太守を拝す。

 上述のように時々見かける人物なのだが、年齢・没年はおろか出身地・
光武帝に帰属する前の経歴・領地等の情報が不明。
537世界@名無史さん:2005/04/16(土) 17:36:53 0
上げないと落ちるよ。>煽り君
538世界@名無史さん:2005/04/17(日) 15:43:39 0
>>537
2ちゃんねる初心者か?
上げる下げるは落ちるこことは関係ない。
539あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/04/17(日) 19:42:30 0
煽り君さん、雲臺の功臣について詳細な説明お疲れ様です。
ところで趙翼の「陔餘叢考」で「雲臺に來歙無く、凌煙閣に郭子儀無し」と題して
「來君叔の權任及び光武の倚信は倶もに諸功臣の上に在り、而かも雲臺の圖像の
竟ひに之に及ばざるは、殊に闕事と爲す」と論じています。
あやめも予てからこの事情について不審に思っていましたが、>>317 で選定の
基準が光武即位以前の帰参か否かであろうと論じておられ、史書の読込の周到に
佩服した次第です。よってageときます。
540世界@名無史さん:2005/04/21(木) 18:20:00 0
光武帝はすごいよな 後漢書以外で光武帝の事跡を詳細に記している書物はないものだろうか
541世界@名無史さん:2005/04/21(木) 18:37:13 0
資治通鑑
542世界@名無史さん:2005/04/21(木) 18:40:30 0
後漢演義
543世界@名無史さん:2005/05/02(月) 17:12:46 0
前漢演義
544世界@名無史さん:2005/05/05(木) 20:32:14 0
捕手
545煽り君:2005/05/08(日) 14:33:09 0
中郎将征羌侯、来歙、字は君叔(?-35)
 南陽新野の人。六世の祖来漢は武帝の時に光禄大夫と為り楼船将軍楊僕の副将として
南越、朝鮮を破る。父の来仲は哀帝の時に諌大夫と為り、劉秀の伯母(祖姑)を娶って来
歙を生む。劉秀は来歙を親しみ敬い、しばしば共に長安に往来す。
 漢兵起つや、王莽は来歙が劉氏の姻戚であるので捕えて繋ぐも、賓客が奪い返して来
歙は助かる。更始立つや来歙はその官吏となり、従いて関中に入る。しばしば進言する
が用いられず、病気と称して去る。来歙の妹は漢中王劉嘉の妻であり、劉嘉は人を遣っ
て来歙を迎え漢中に行く。
 建武二年(26)、大司徒ケ禹が西征し時、雲陽にて劉嘉は相李宝らの言により防備を固
めて動静を窺しが、光武は劉嘉が敵対する訳が無いとケ禹に伝え、ケ禹はこれを公にす。
来歙は劉嘉に光武への帰順を勧め、劉嘉は来歙をつてにしてケ禹に詣って降る。
 建武三年(27)、劉嘉と来歙は洛陽に到る。劉嘉は光武に従軍し千乗太守となり、後に
は順陽侯となる。来歙は太中大夫となる。光武は独り来歙に隴の隗囂と蜀の公孫述への
方策を尋ね、来歙は、隗囂は漢の名で立った故、帝が明確な信義を示せば帰順するであ
ろうと答える。光武之を然りとし、来歙を隗囂に遣わせる。
 建武四年(28)冬、隗囂は先に公孫述に送った馬援を今度は光武に送る。
 建武五年(29)、光武、来歙に節を持たせ、隴へ馬援を送らせる。来歙、隗囂に璽書を
奉る。戻るや再び使いし隗囂に説く。隗囂遂に子の隗恂を遣わし、来歙に随させ質とす。
光武、来歙を中郎将と為す。
 建武六年(30)、光武帝は関東を平らげ、隴からは人質が出、蜀は遠いと当分様子見せ
んとしが、公孫述が蜀から南郡に寇すことより、之を撃たんとす。隗囂に天水から派兵
せんことを促すが、隗囂言い訳し拒む。光武、之を二股掛けし策と、来歙をして璽書を
奉って諭す。しかし、隗囂は既に配下の王元の言に乗り、西伯の如く覇せんことを望み
たれば、難題を並べて決せず。来歙遂に怒り立ち上がり、隗囂を刺すかの剣幕で臨みし
が、反って隗囂は兵を並べん。ここで隗囂の将王遵が、使いを殺すのは徒ともなっても
役には為りませんと述べ、信義の徒である来歙はその場を無事逃れることが出来た。
546煽り君:2005/05/08(日) 14:38:01 0
 建武七年(31)、公孫述から兵を預かって、隗囂は光武を攻める。征西大将軍馮異と征
虜将軍祭遵は之を防ぐ。光武は来歙をして王遵を招き、王遵遂に降る。
 建武八年(32)、来歙は祭遵と共に略陽を襲う。祭遵は途中で病に倒れ、精鋭を来歙に
分かち従わせる。来歙は山道より略陽に到り、守将金梁を斬って城に砦すが、隗囂と公
孫述の派兵に囲まれ、数月を死守する。光武が隴に親征することで囲みが解ける。
 建武九年(33)、来歙は光武帝に上書し、公孫述を倒すため、既に隗囂が憤死したとは
いえ、その宿将が末子隗純を担いだ隴西と天水を落す必要を説き、国には負担となると
も、兵糧を出し西州の破れた兵を集めることを述べる。光武之を然りと、兵糧を集め、
来歙に馮異、建威大将軍耿[合廾]、虎牙大将軍蓋延、揚武将軍馬成、武威将軍劉尚を率
い天水に入れさしむ。
 建武十年(34)、来歙らは落門を破り、之を以って天水属県全て下る。隗囂が亡くなり
し後、之に懐きし西羌はしばしば寇し、州郡は之を討つ事能わず。そこで来歙は兵装を
整え、蓋延、劉尚、太中大夫馬援を率いて西羌を金城に討ち破る。更に来歙は諸賊を破
り、飢えたる所に米倉を開き、隴西を安んじて涼州と流通せしむ。
 建武十一年(35)、来歙は蓋延、馬成と共に南下し、公孫術の将、王元(元は隗囂の将)
環安を河池、下弁に攻めて之を落す。しかし、蜀の刺客に刺される。来歙、息絶えぬ間
に、蓋延を呼び後の軍事を指図し、上表して光武に不始末を詫び後事を託す。筆を投げ、
刃を抜いて絶える。光武、その書を見て涕をおさめ、太中大夫をして来歙に中郎将、征
羌侯の印綬を贈らしめ、謚は節侯とし、謁者をして葬儀を執り行わせしむ。

 来歙の役割は平和的対隴戦略であり、関東を平らげるまで、隗囂を出陣させないだけ
でも意味があった。来歙は隗恂を人質に取る等、ある所までは成功していた。ちなみに
武力的対隴戦略には、征虜将軍祭遵と征西大将軍馮異が主に三輔の防衛として当ってい
る。政策転換の時には、来歙も先鋒に立ち、祭遵・馮異、関東を平定した諸将が加わっ
て、隴西が下される。
 ということで、征隴、征羌に功労のあった来歙の逸話です。この功績は雲台二十八将
になんら遜色ないです。
547煽り君:2005/05/14(土) 23:16:52 0
武威将軍 劉尚
 劉尚は調べると、劉向とも書かれていて、劉禹とも記載されているそう
な。主に活躍したのは隴・蜀の戦いである。
「祭遵伝」より
建武六年(30)春、光武は、征虜将軍祭遵、建威大将軍耿[合廾]、虎牙大将
軍蓋延、漢忠将軍王常、捕虜将軍馬武、驍騎将軍劉[音欠]、武威将軍劉向
らに天水より公孫述を討たしめる。
「来歙伝」より
建武九年(33)、光武は、中郎将来歙に征西大将軍馮異、建威大将軍耿[合廾]、
虎牙大将軍蓋延、揚武将軍馬成、武威将軍劉向を率いさせ、天水に入らしむ。
「馬成伝」より
建武九年(33)、馬成、来歙の代わりに中郎将を兼ね、武威将軍劉向らを率
いて河地を破り、武都を平らぐ。
「来歙伝」より
建武十年(34)、来歙らは落門を破り、之を以って天水属県全て下る。隗囂
が亡くなりし後、之に懐きし西羌はしばしば寇し、州郡は之を討つ事能わ
ず。そこで来歙は兵装を整え、蓋延、劉尚、太中大夫馬援を率いて西羌を
金城に討ち破る。
548煽り君:2005/05/14(土) 23:18:54 0
「呉漢伝」より
建武十二年(34)春、大司馬呉漢、兵の勢い鋭きに乗じて、遂に自ら歩騎二
万余人を率いて進んで成都に迫る。城を去ること十余里、江の北の険阻を
頼んで営と為し、浮橋を作り、副将の武威将軍劉尚をして万余人を率い江
の南に屯さしむ。光武、この配置を聞き驚き、敵に分断されんと呉漢を責
めしが、果たしてその通りとなり、呉漢の兵敗れ囲まるる。呉漢諸将を鼓
舞し、兵をもてなし馬に秣食わせ、営を閉じ三日出ず。そうして営に人影
あるを思わせて夜中に抜け出し劉尚の軍と合し、遂には公孫述の軍を破る。
「公孫述伝」より
建武十二年(36)九月、公孫述は亡くなり、後を託された延岑は呉漢に下る。
呉漢は公孫述の一族を滅ぼし、合わせて延岑を族滅し、兵を放って掠奪し、
公孫述の宮室を焼く。光武は怒り、呉漢を譴責する。また呉漢の副将劉尚
を責めて曰く「(前略)劉尚は宗室の子孫にしてかって吏職を経たるに、な
んぞ之を行いしや」
「呉漢伝」より
建武十八年(42)、蜀郡の守将史[音欠]成都に反したれば、光武、呉漢に劉
尚、太中大夫臧宮を率いさせ、万余人を率いて之を撃たしむ。
549煽り君:2005/05/14(土) 23:20:01 0
「光武帝紀下一」より
建武十九年(43)、西南夷、益州郡に寇す。光武、武威将軍劉尚を遣わせ之
を討たしむ。越スイ太守任貴反すが、劉尚之を誅す。
建武二十一年(45)、武威将軍劉尚、益州の夷を破り、之を平らぐ。
建武二十三年(47)春正月、南郡の蛮夷反し、光武、武威将軍劉尚を遣りて
之を破らしめ、その部族を江夏に移す。
建武二十三年(47)十二月、武陵蛮反し、光武、武威将軍劉尚を遣りて之を
討たしめるも、劉尚敗北す。
「馬援伝」より
建武二十四年(48)、武威将軍劉尚、武陵五渓の蛮夷を撃ち、深入りして軍
諸共没す。

 調べると、列伝が無いのが不思議なくらい良く活躍していると言える武
将です。ちなみに武陵五渓の為に劉尚は死んで(いると思える記述)、馬成
も戦うが破れ、最後にこれを平らげるのが馬援です。
550煽り君:2005/05/17(火) 23:16:05 0
>>485
追加

 蓋延は、左馮翊の長の時は非道な治め方をしたようで、配下であった第五倫が諌め
ているが、聞く耳を持っていない(「第五倫伝」より)。
551煽り君:2005/05/17(火) 23:21:23 0
>>498
修正追加
>建武九年(33)、来歙の代わりに中郎将を兼ね、武威将軍劉向らを率いて河地を破り、
>武都を平らぐ。建武十年(34)、大司空李通が辞め、光武は馬成に大司空の業を行わ
>せる。数月の後、再び、揚武将軍を拝す。
>建武十一年(35)、中郎将来歙、蓋延、馬成と共に公孫述の将を河池、下弁に攻め
>るも、来歙刺されて勝たず、蓋延は病気故に引き返す。

 『後漢書』の「馬成伝」の註釈を見落とした記述である。註釈では年代が他の伝紀
と異なることを指摘している。正しくは「光武帝紀一下」「来歙伝」「馬援伝」を総
合して、次の記述となる。

 建武九年(33)八月、来歙に馮異、建威大将軍耿[合廾]、虎牙大将軍蓋延、揚武将軍
馬成、武威将軍劉尚を率い天水に入れさしむ。来歙の副に太中大夫馬援が当った。
 建武十年(34)十月、来歙らは落門を破り、之を以って天水属県全て下る。
 建武十一年(35)夏、来歙の奏言により、光武、馬援を隴西太守と為す。馬援、先零
羌を撃破す。羌の諸部族が集結し掠奪を行うので、馬援は馬成と共に之を撃つ。
 建武十一年(35)六月、中郎将来歙、蓋延、馬成と共に公孫述の将を河池、下弁に破
るも来歙刺さるる。 蓋延は病気故に引き返す。
 同年十月、馬成武都を平らぐ。
 月年不明、馬援の策により、金城郡の破羌より西の旧邑に人を集め農耕牧畜を奨励
し、塞外の羌を懐かしめる。また武都のテイ人の公孫述に背くもの来たりて、印綬を
奉りたれば、馬成の軍を解散する。
 建武十二年(36)九月、大司空李通罷む。
 同年十二月、揚武将軍馬成、大司空を兼ねる。
 建武十三年(37)三月、行大司空馬成罷む。

 小生は、何故馬成が大司空を兼ねたのか不思議でしたが、大司空李通が辞めた時
に、偶々馬成が軍を解散して暇だったとすれば、納得できると思います。
552世界@名無史さん:2005/06/05(日) 05:03:27 0
>>551
あなたはどこでそんなに知識を得ているのですか
553世界@名無史さん:2005/06/05(日) 05:47:33 0
東漢って版図がカスピ海まで広がったんだよね。
唐に匹敵するくらい勢力があったんじゃない?
554世界@名無史さん:2005/06/05(日) 05:49:33 0
唐はアラル海までだった。
だから東漢は唐以上だったということか。
555世界@名無史さん:2005/06/05(日) 06:24:39 0
>>553
ええ 本当?初耳です ソースを教えてください
556世界@名無史さん:2005/06/05(日) 06:29:50 0
>>555
普通に世界史の教科書に載ってるよ。
HPでも検索したらあった。

>後漢の前半期は政治的に安定していました。
>この時代、とくに有名なのが班超です。
>彼は30年間も西域に滞在し、西域都護(長官)としてカスピ海以東の50余国を服属させ、
>漢の勢威をはるか西にまで及ぼしました。
557世界@名無史さん:2005/06/05(日) 06:40:25 0
ああ そうか 失敬 班超の存在を忘れてたw
558 :2005/06/05(日) 07:49:36 0
フホホト
559世界@名無史さん:2005/06/07(火) 00:24:15 0
服属といってもなぁ・・・w
560世界@名無史さん:2005/06/07(火) 03:13:18 0
班超個人の力で現地の国の兵を動かし、それらの国々と冊封関係になったってだけで、
唐の頃のように本国の軍勢が大量に入って長期間完全に支配下に置いたのとは大違いやん。
561世界@名無史さん:2005/06/18(土) 22:00:09 0
影響が及んだ、くらいの解釈がいいのかな
しかし班超はすごいな・・・
562世界@名無史さん:2005/06/22(水) 23:23:08 0
563世界@名無史さん:2005/06/23(木) 01:12:51 0
班家の漢王室に対する功績はすごいな
564世界@名無史さん:2005/07/06(水) 23:35:03 0
捕手
565煽り君:2005/07/08(金) 22:35:50 0
安定の盧芳
 盧芳、字は君期、安定三水の人。王莽が簒奪し時、漢の威光を慕う者多
く、盧芳は武帝の曾孫劉文伯と称す。曰く、曾祖母は匈奴の谷蠡渾邪王の
姉で、武帝の皇后となるが江充の乱に遭い、その末子は左谷に逃れ、その
孫であるのが文伯なり。
 王莽の末期、盧芳は三水属国の羌胡と共に兵を起こす。更始が長安に到
るや、盧芳を騎都尉と為し、安定以西を鎮撫せしむ。
 更始破るるや、豪族により盧芳は上将軍、西平王と立てられる。西羌並
びに匈奴と和親し、匈奴に入るや単于は盧芳を漢帝と為す。盧芳は胡騎を
率いて安定に帰るも、五原の李興、隋c、朔方の田颯、代郡の石鮪、閔堪、
将と称して並び立ちたれば、単于之を説得し、建武五年(29)、諸将は盧芳
を迎え入れ九原に都し、盧芳は自ら天子と称す。掠奪を行い、五原、朔方、
雲中、定襄、雁門の五郡を保ち、胡族と兵を通じて、北辺を侵し苦しまし
む。
 建武六年(30)、代郡太守劉興、盧芳の将賈覧を高柳に撃つも戦没す。
 建武七年(31)冬、盧芳、事あってその置きたる五原太守李興兄弟を殺し
たが故に、他の朔方太守田颯、雲中太守喬扈は懼れて盧芳に叛き、各々郡
を上げて光武に下り、光武はその職を安んず。
 建武九年(33)夏、大司馬呉漢、横野大将軍王常、建義大将軍朱祐、破姦
将軍侯進、討虜将軍王覇、兵五万余人で、盧芳の将賈覧と閔堪を高柳に撃
つも、匈奴は騎兵で救わしめ、また雨に遭いて克たず。
 同年秋八月、驃騎代将軍杜茂、雁門太守郭涼と共に、盧芳の将尹由を繁
畤に撃つも、賈覧は胡騎を率いて之を救い、杜茂応戦すも敗す。
566煽り君:2005/07/08(金) 22:37:00 0
 建武十年(34)正月、呉漢は王常、朱祐、侯進、王覇、兵六万余人を率い
て、盧芳の将賈覧を高柳に撃つ。匈奴は騎兵を持って賈覧を救わしむるも、
光武の諸将、之を退ける。諸将、雁門に入り杜茂と会して尹由を[山享]、
繁畤に撃つも克たず。
 建武十二年(36)、盧芳は賈覧と共に胡騎を率いて雲中を攻めるも、落せ
ず。その将隋cは動かず九原を守り、盧芳を脅して降らんと欲す。
 建武十三年(37)二月、盧芳、家臣らが離れ或いは叛くゆえ、遂には五原
より逃れて匈奴に入る。隋c、光武の使者に随行し闕に到れば、五原太守
を拝す。
 建武十四年(38)九月、盧芳の将尹由が守る平城にて、尹由に略取された
賈丹らは盧芳の敗れしを聞き、尹由を殺して雁門太守郭涼に到る。郭涼、
状を奉りたれば、賈丹ら、列侯を拝す。
 建武十六年(40)秋、盧芳は高柳に居りて、閔堪の兄、閔林と共に使いを
遣りて降らんことを乞い、十二月、光武は盧芳を代王、閔堪を代の相、閔
林を代の太傅と為す。明年に盧芳、入朝するも昌平に到って詔によって止
められ、再度明年朝せしむ。
 建武十八年(42)五月、盧芳、憂え恐れて背反し、閔堪、閔林と相戦うこ
と二月、匈奴、数百騎にて盧芳及びその妻子を迎えん。
 盧芳、匈奴の中にあって十余年、病により死す。

 劉性を騙ったが、一方、匈奴の血筋も騙ったがため、半分翻弄される人
生を送った群雄と言える。天子と自称した時は、既に建武五年、ほぼ光武
帝の体制が固まっている。しかも、匈奴の単于の後ろ盾があってようやく
立てたのであって、また力戦するも、それは配下の賈覧・尹由の手腕であ
って、と本人自体は地方群雄としては華々しくない。
567世界@名無史さん:2005/07/10(日) 22:15:13 0
煽り君はどんな本よんでますか
568世界@名無史さん:2005/07/10(日) 22:42:44 0
後漢書を読み下してるだけでは?
569煽り君:2005/07/11(月) 23:25:00 0
小生が読んでいるのは、過去ログ見れば分かるように岩波書店の『後漢書』。
他に眺めているのは、地図出版社『中国歴史地図集 秦・西漢・東漢時期』。
後者は人や軍の移動が分かって面白い。例えば、
(1)光武帝が薊から逃避行した時、本紀では南東へと書いてある。当初は
そうだったかもしれないが、実際はまっすぐに南下したとしか思えない。
(2)延岑の戦歴を見ると、まず漢中から天水方面に出て、長安の南部を回っ
て、宛の近くでまた漢中に入るというコースを取っていると分かる。つまり
延岑の軍は赤眉同様な掠奪集団か群盗に近くなっている。
(3)岑彭の電撃戦で、一旦下って黄石で敵を破るとある。当初、巴郡(江州)
の辺りか、そこから江水を上った所かと思ったのですが、巴郡よりも更に
下った所にあり、これが正しければ、岑彭の長距離移動は更に凄まじいこ
とになる(岑彭の話では書かなかったけど)。
570煽り君:2005/07/12(火) 06:43:26 0
>>569
訂正。
× 本紀では南東へと書いてある
○ 馮異伝では東南と書いてある
ちなみに本紀では、轅を南にと記されている。
571世界@名無史さん:2005/08/05(金) 04:09:11 0
王莽崛起!
572世界@名無史さん:2005/08/11(木) 18:02:52 0
捕手
573煽り君:2005/09/04(日) 22:55:33 0
横野大将軍山桑侯 王常、字は顔卿(?-36)
 潁川舞陽の人。王莽の世の末、弟の為に仇に報い、江夏に逃げる。この後、久しくし
て、王鳳、王匡らと共に、雲杜、緑林に挙兵して、副将と為る。成丹、張ギョウと共に
別軍として南郡の藍口に入り、下江の兵と号す。王莽は厳尤と陳茂を遣わして撃ちて之
を破らしむ。王常らは散兵を集めて、各所を攻略し宜秋に到る。この時、小長安に敗れ
た新市、平林の衆、漢兵は解散しかけていたが、劉[糸寅]は下江の兵が宜秋にあると聞
き、劉秀、李通と共にその保塁に到り「一賢将と大事を話したい」と交渉す。下江から
推されて出た王常は、劉[糸寅]に合従の利を説かれ之に賛同して帰り、反対する成丹、
張ギョウに漢名の元に戦う理を説いて、遂には新市、平林の兵と合し、甄阜、梁丘賜を
破り殺す。
 誰を旗頭として立てるかの段になって、下江の兵側では、王常のみが劉[糸寅]を薦め
るが聴かれず。更始が立つと王常は廷尉大将軍となり侯位を受ける。汝南沛を落し、戻
るや昆陽に入って劉秀と共に王尋、王邑を破る。更始が長安に入ると、王常は南陽太守
に任じられ、誅罰褒賞の全権を与えられ、更には王位と劉性を受ける。それでも奢らず
王常は、法を遵守した。
 建武二年(26)夏、更始が敗れ、王常は妻子を率いて洛陽の光武に帰順し、光武は王常
を左曹並びに山桑侯に封ず。後に漢忠将軍と為され、ケ奉、董[言斤]を撃ち、或いは北
の軍兵拠点を叩き、建武五年(29)秋には、光武に従い蘇茂、[广龍]萌を破る。
 建武七年(31)、王常は横野大将軍と為り、別格扱いとされる。隗囂戦、盧芳戦にも活
躍するが、建武十二年(36)、屯田を行っている故安で亡くなる。謚は節侯。
574煽り君:2005/09/04(日) 22:56:30 0
 王常が光武帝に帰順した時のやりとりが面白い。光武帝「何時も共に艱難を経たこと
を思い、これを忘れられようか。来るとも来ないともなく、やるせなかったぞ、常々、
言っていた(劉氏が真の主である。誠心を持って働き、大功を輔け為さん)ことを違え
るのか」王常は詫びて「(前略)陛下が河北に即位されるを聞きて、心は開き、今や見
ゆるを得て、死すとも遺恨はありません」光武帝笑いて「我は戯れただけだ。廷尉と会
えて、もはや南陽は憂えず」と、如何にも光武帝らしい。
 最初に何故、漢忠将軍の名を貰ったかは、王常が常日頃言っていた言葉によるのは自
明。にしても逆将のケ奉・蘇茂・[广龍]萌と戦うのが目立って面白い。
575世界@名無史さん:2005/09/08(木) 23:19:08 0
光武って度量あるよなあ
576世界@名無史さん:2005/09/09(金) 21:12:31 0
劉邦の漢と劉秀の漢って基本的に継続性無いじゃん。
たまたま新の後継王朝を建てたのが劉邦の子孫だったというだけで。
晋や宋とは違う。
577世界@名無史さん:2005/09/09(金) 21:26:06 0
太学ってどういうものなの?
どういう人がどういう目的で何を習いに通うの?
太学は前漢と後漢で何か変わったの?
578世界@名無史さん:2005/09/10(土) 01:37:27 0
>>576
たまたまと言うけど、劉邦の子孫だったからこそ旗頭となりえた。
緑林も赤眉も劉氏を旗頭にしたし、王朗もご落胤と称している。
この時代ではどっかの馬の骨は無理だっただろうよ
579世界@名無史さん:2005/09/28(水) 03:03:34 0
保守
580世界@名無史さん:2005/10/05(水) 22:46:59 0
581世界@名無史さん:2005/10/06(木) 15:10:07 0
光武帝の廟号も世祖なわけだし一応連続性があるって主張はしてるけどな
582世界@名無史さん:2005/10/07(金) 11:51:52 0
帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士_→ 士缺→士會→劉氏→劉明→劉遠→劉陽→(十世)→
魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)→劉邦(漢高祖)→劉恒(文帝)→劉啓(景帝)→劉発(長沙定王)→
劉買(春陵節侯)→劉外(鬱林太守)→劉回(鉅鹿都尉)→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝)
583世界@名無史さん:2005/10/07(金) 11:54:00 0
帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士_→ 士缺→士會→劉氏→劉明→
劉遠→劉陽→(十世)→ 魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)→劉邦(漢高祖→
劉恒(文帝)→劉啓(景帝)→劉発(長沙定王)→ 劉買(春陵節侯)→劉外(鬱林太守)→劉回(鉅鹿都尉)→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝
584世界@名無史さん:2005/10/07(金) 20:17:02 0
帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士_→ 士缺→士會→劉氏→劉明→
劉遠→劉陽→(十世)→ 魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)→劉邦(漢高祖)→
劉恒(文帝)→劉啓(景帝)→劉発(長沙定王)→ 劉買(春陵節侯)→劉外(鬱林太守)→劉回(鉅鹿都尉)
→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝)→劉荘(明帝)→劉タツ(章帝)
585世界@名無史さん:2005/10/07(金) 20:19:08 0
帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士_→ 士缺→士會→劉氏→
劉明→劉遠→劉陽→(十世)→ 魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)→劉邦(漢高祖)→
劉恒(文帝)→劉啓(景帝)→劉発(長沙定王)→ 劉買(春陵節侯)→劉外(鬱林太守)→劉回(鉅鹿都尉)
→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝)→劉荘(明帝)→劉タツ(章帝)
586煽り君:2005/10/11(火) 00:11:47 0
大司空・固始侯李通と五威将軍・舞陰王李軼
 李通(〜42)は字は次元、南陽宛の人。家は代々貨殖で栄えた豪族である。王莽時代に、
父の李守は最初劉[音欠]に使え、天文歴算に予言書を好みたるゆえに、王莽の宗卿師と
為る。李通も五威将軍の下役となり、巫という地の丞に補せられ、能名を馳せる。
 王莽の末、悪政蔓延りし時に、李通は李守が「劉氏また興り、李氏は輔と為らん」と
解いた讖言(予言書)を胸に秘め、官吏を続けるのが面白くなく、家が富む故に辞めて
帰る。
 李通は下江、新市に叛乱が起きるに及んで、策謀を好む従弟李軼と協議し、李軼は「
新は滅び、漢が復興すべきである。南陽の宗室では劉伯升兄弟のみが相応であり、之と
計らん」と言い、李通は「我が意である」と受ける。偶々劉秀は、官吏と問題を起こし
て、宛まで吏を避けていたので、李通は李軼を遣って之を迎えんとす。漸く劉秀、李通
に会えば何刻も話し合うことになる。李通は讖文をも話すが、劉秀意に介さず。逆に長
安にいる李通の父を案ずる。李通既にそれを慮っておれば、劉秀李通と約結し、日を決
め大衆に号令せんと欲す。

 李通、従弟の李季を李守に遣るも、李季は道中で病死す。しかし李守如何なる訳か、
李通の謀を知り長安を脱出せんとすも、九尺の身長に容貌絶異ゆえ無理と友人黄顕に言
われ、謀を上書し災禍を逃れんとすも返書が返らず、李通の謀が露見し、李通は逃れる
ものの李守は牢に繋がれ、黄顕の李守は生きたまま人質にの言に一旦は同意した王莽も、
李通が遂に叛乱軍を起こしたことを甄阜からの報で知り、李守を殺さんとし助命を請う
た黄顕諸共処刑し、李守の家の長安にある者を滅殺し、屍を宛の市で焼く。
587煽り君:2005/10/11(火) 00:12:42 0
 地皇三年(22)十月、劉秀は李軼と共に宛に起つ。十一月、劉秀は賓客を率いて、既に
兵を挙げていた劉[糸寅]のいる舂陵に帰る。劉[糸寅]は新市、平林の兵を招き入れ、漢
軍は進軍して棘陽まで陥れるものの、南陽太守の甄阜と梁丘賜とに小長安に敗れ、棘陽
に砦す。之に李通が合流する。

 小長安に敗れた新市、平林の衆、漢兵は解散しかけていたが、劉[糸寅]は下江の兵が
宜秋にあると聞き、劉秀、李通と共にその保塁に到り「一賢将と大事を話したい」と交
渉し、下江の代表王常が合従に同意し、結果成功す。その後、甄阜と梁丘賜を破る。

 更始元年(23)二月、既に劉[糸寅]は厳尤と陳茂を育陽に破り、宛を囲み、自ら柱天将
軍と号す。劉[糸寅]の威名轟きたれば、新市平林の兵はこのまま劉[糸寅]に帝位に昇ら
れれば、思うまま行かずと、操れる人物として劉玄を立てることを画策し手筈を整えて、
劉[糸寅]を招く。劉[糸寅]、帝を立てるのは早急で返って標的になると説得するも、終
に更始は立ち、劉[糸寅]を大司徒と為し、劉秀を太常、偏将軍と為す。
 三月、劉秀は昆陽、定陵、エンを下す。王莽は甄阜と梁丘賜が斬られ、漢帝が立つと
聞き恐れ、王尋、王邑に軍勢百万、戦闘兵四十二万を率いせしむ。
 五月、王尋、王邑は昆陽を囲み、劉[糸寅]は宛を落す。劉[糸寅]の情勢を知らぬまま
劉秀は、兵を集めるため、城を成国上公王鳳、廷尉大将軍王常に留守せしめ、夜自ら驃
騎大将軍宗佻、五威将軍李軼、偏将軍ケ晨ら総勢十三騎のみで城の南門から出づ。定陵、
エンにて漸く衆を説得し、六月、兵を集め取って返して、緒戦を破るや遂には決死兵三
千をして中堅を突き、王尋を殺す。王莽の陣は乱れ潰え逃れる者は先を争い、兵は瓦解
す。(後漢書にて昆陽の戦いに参加したと記載された他の将に馬武、傅俊、王覇、任光
がいるが、先の十三騎の中にいたかは不明。ちなみにこの時王莽側には竇融がいる)
588煽り君:2005/10/11(火) 00:13:49 0
 劉[糸寅]が宛を落し、劉秀が王尋、王邑を破りしことより劉兄弟の威名甚だしく、更
始の君臣安らんぜず、遂に劉[糸寅]を誅殺せんと鴻門の会の策を行う。この策は決行さ
れなかったが、李軼は諂って更始の大司馬朱鮪らに仕えていたため、劉秀は李軼を疑い、
常に「李軼は信用出来ません」と諌めるが劉[糸寅]は聞かず。遂には劉[糸寅]の同族の
宿将劉稷が更始からの将号を拝領拒否するに及んで誅されようとせん時に、劉[糸寅]は
之と争い、李軼と朱鮪は更始に勧め、諸共捕まえさせ、害す。
 この時、劉秀は劉[糸寅]の不始末を詫びるために父城より馳せ、その謙虚な態度に更
始は恥て、劉秀を破虜大将軍と為し武信侯に封ず。

 更始が立し時、李通は柱国大将軍となり侯位を受け、従いて長安に入ると、改めて大
将軍と為り、西平王に封じられる。李軼は舞陰王に、李通の従弟李松は丞相と為る。更
始は、李通に節を持たせ、荊州を鎮せしむ。李通、この機に劉秀の妹伯姫を娶る。

 光武の将馮異が孟津の守将となりし時、手紙を以って舞陰王李軼に光武への帰属を促
し、李軼が応じて兵を出さずとなると、遂には更始の河南太守武勃を攻めて斬る。馮異
は、李軼の返事すなわち帰属の応諾を光武に伝えるが、光武は李軼は策謀多くて信用で
きないと、返書をおおやけにする。それを知った更始の大司馬朱鮪は李軼を殺害す。

 光武立つや、李通を召して衛尉と為す。建武二年(26)、李通は固始侯に封じられ、大
司農を拝す。建武五年(29)春、王梁に代って前将軍となる。建武六年(30年)夏、李通は
侯進、王覇を率いて、漢中の賊(延岑)を撃つ。公孫述は救援を出すが、李通は西城に戦
い、之を破る。
 天下あらまし定まり、李通は病気を理由に官職を辞そうとするが、光武が公卿、群臣
に議せしむるところ、官職についたまま病気療養すべしと言われ、そのまま建武七年(3
1)五月には大司空と為る。持病の偏頭痛のため都度都度辞職を願い、二年の在職の後、
漸く認められて、特進を持って朝請を奏ず。建武十八年(42)、卒す。謚は恭侯。
589煽り君:2005/10/11(火) 00:15:00 0
 李通は王莽時代に官吏になっていたことより、光武帝よりも年長のような気がする。
二人の出会いが面白い。劉秀は、兄劉[糸寅](伯升)が李通の同母弟申徒臣が融通利か
ずに之を殺した故に、李通が恨んでいることを恐れ、相見を欲せず。しかし、李軼は幾
度も強く請い、劉秀、遂に承諾するも、不安なため脇差を買い之を懐中に入れる。李通
の舎に到れば、李通悦び、劉秀の手を取ると懐中の刀に気付き「何と勇ましい」と言え
ば、劉秀「物騒な時なので不意の出来事に備えるのみ」と答える。ちょっとした笑劇と
言える。
 李通でまだ分からないのは、棘陽で合流する前に何時何処で立ったかということ。そ
れから、下江兵との合従後の動きである。後で将号を拝領しているので、何かしら軍事
に拘わっていたことは察せられるが、実際何をやっていたのか明らかでない。
 光武帝の即位の時に李通召されたが、傅俊の逸話では「傅俊を遣りて陰氏を迎えん。
時に、陰氏は育陽のケ奉の軍に有り、陰氏の兄陰識はケ奉の将たり。陰氏、光武の姉劉
黄、妹劉伯姫他宮人と共に洛陽に至り、貴人と為る」とあるので、この時、陰識ケ奉ら
とも一緒に同道したのかもしれない。
 李通は漢兵を立てた際の首謀者であり、建国の功臣と言えよう。また、何度も辞職を
願うが聞き届けられずと、行政能力があることが分かる。実際、主立った事を協議する
のに、列侯は高密侯ケ禹、膠東侯賈復、固始侯李通の三侯のみ公卿と参議したと言う。
ひょっとすれば、李通は政治が面白くないので仮病を使っていたのかもしれない。
590煽り君:2005/10/11(火) 00:16:09 0
 一方、李軼である。光武帝は李軼と数ヶ月を共にしたため、李軼の性癖は良く知って
いるのは理解出来るが、李軼の動きでまだ分からないのは、宛で劉秀と共に立ち、昆陽
でも劉秀と共に大軍を前にしているのに、何故劉玄側に擦り寄ったかという点である。
この変節の間一月程度。
 下手な小説書きなら、李軼は宛を脱出するために「外に出て兵を集めましょう」と劉
秀に持ち掛け、結果逃げたが、劉秀は王鳳や王常を残した故に懸命に約を守らんと本当
に兵をまとめて戦った、とかシナリオを作りそうだ。そのシナリオなら劉秀と李軼には
埋めがたい溝が生じ、また、王常と劉秀には非常な親近感が生まれ、と筋は立つ。しか
し、月並みすぎる。本当の所はどうなのだろう?
591世界@名無史さん:2005/10/27(木) 14:40:39 0
hosyu
592世界@名無史さん:2005/10/27(木) 18:10:33 0
>>煽り君
お前は中国古代史教室でも作るつもりかな。
593名無し:2005/10/27(木) 20:07:32 0
質問なんですが、「社会史」って具体的にどういう歴史なんでしょうか??文字からしてなんとなくは分かるんですが…イマイチ分かりませんorz どなたか教えてください。
できれば、例を挙げて教えていただければ嬉しいです。
594世界@名無史さん:2005/10/27(木) 21:07:10 0
ここで聞くな厨房
595世界@名無史さん:2005/10/27(木) 21:12:15 0
>>593はマルチ
596世界@名無史さん:2005/11/06(日) 05:02:11 0
保守
597世界@名無史さん:2005/11/12(土) 11:40:10 0
下賎な倭人が古代中国史を語るなんてテラワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
598世界@名無史さん:2005/11/16(水) 20:39:42 0
うっせぞー下等チョン。
漢族は「倭」なんて使わないぞ普通。
599世界@名無史さん:2005/11/20(日) 22:10:01 0
漢帝国は存在したか否か
600世界@名無史さん:2005/11/21(月) 22:48:37 0
最近荒れてるな
601世界@名無史さん:2005/12/10(土) 10:46:13 0
>>1
そういえばその頃を題材にした小説や漫画ってすくないよな…
一番好きな時代なのに…orz
602世界@名無史さん:2005/12/17(土) 11:16:54 0
帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士_→ 士缺→士會→劉氏→
劉明→劉遠→劉陽→(十世)→ 魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)→劉邦(漢高祖)→
劉恒(文帝)→劉啓(景帝)→劉発(長沙定王)→ 劉買(春陵節侯)→劉外(鬱林太守)→劉回(鉅鹿都尉)
→劉欽(南頓令)→劉秀(光武帝)→劉荘(明帝)→劉タツ(章帝)
603世界@名無史さん:2005/12/17(土) 13:33:35 O
ただの後付けした嘘系図がどうした?
604世界@名無史さん:2005/12/23(金) 11:48:51 0
age
605世界@名無史さん:2005/12/23(金) 12:57:15 0
>>601
塚本青史の小説「王莽」とかあるね。既出だったかな?
http://www.bk1.co.jp/product/1779273
606世界@名無史さん:2005/12/23(金) 13:07:09 0
””史、な。

評価は別にしても、『光武帝』も書いてる。
607世界@名無史さん:2005/12/23(金) 13:10:31 0
>>603
嘘だという根拠は?
608煽り君:2006/01/06(金) 00:11:40 0
>>488
>雲台二十八将 東郡太守東光侯、耿純、字は伯山(?-37)
> 鋸鹿宋子の人なり。父の耿艾、定陶国の尹と為り、耿純は長安に学び、除せられて尚
>書となる。王莽が敗れて更始が立つや、耿艾も降り済南太守となる。耿純は舞陰王李軼
>に諫言することあり、李軼は耿純が素晴らしい人物と思い、鋸鹿の豪族の出であるので
>騎都尉と為し、以って趙、魏を帰順させんとす。劉秀が河北に渡り邯鄲に至るにあたり
>耿純は謁見し、劉秀は丁重に扱った。他の更始の将と異なり、劉秀の兵士の規律が整い
>たるを以って、耿純は劉秀と結びつかんとす。劉秀は耿純を邯鄲に残して中山に向うが、
>この時、王郎が立ちて、劉秀は騒乱する薊を南下し、苦難の末、ようやく迎え受けてく
>れる信都郡に入る。

 後漢書から抜き出したものですが、この後漢書の記述、実は変です。というのは、

>耿純は舞陰王李軼に諫言することあり
 更始が功臣を王に封じ始めたのは、関中に入ってからと、様々な列伝の記載で明らか。
更始が関中に入るのは更始二年二月(劉玄伝)で、漢書王莽伝下の記載も同じ時。
>この時、王郎が立ちて
 王郎が挙兵したのは更始元年十二月。光武本紀・王昌伝とも同じ時。

こう書け分かるように時系列が狂っています。では時系列が合うことを前提に、どうす
れば正しくなるかと考えれば、
(1)五威中郎将李軼がまだ舞陰王となっていない頃の話が、舞陰王として書かれている、と考える。
 しかし、これは逸話の中で、耿純が李軼を「大王」と呼んでいるので難しい。
(2)諫言したのは耿純の父の耿艾であるのが、それが耿純の逸話扱いになっている、と考える。
 しかし、それでは太守の耿艾が騎都尉に任じられるのが妙。
(3)王郎戦の中、耿純が洛陽の李軼に会っている逸話が、前に書かれている、と考える。
 邯鄲から北上した耿純が、更始に援軍を求めるため、南下して洛陽まで行くことになる。
それでは、劉秀に前将軍に任じられた後になるので、騎都尉では降格になる。
(4)耿純は舞陰王李軼に会ってはおらず、他の誰かと間違えられた。
 これが一番妥当と思う。
609世界@名無史さん:2006/01/14(土) 15:56:34 0
煽り君、あんた凄すぎ
誰かが光武帝を常識のある項羽、と評していたのですが、どう思われますか?
610世界@名無史さん:2006/01/14(土) 19:16:02 0
常識があったら項羽にはなれんな。
611世界@名無史さん:2006/01/14(土) 21:53:48 0
素朴な質問です。
王莽って正史に認められたちゃんとした皇帝なんですか?
一代限りだけど10年以上続いているし、禅定うけてるし。
でも新史ないよな。
612煽り君:2006/01/15(日) 19:36:12 0
>>609
 誰かがですか?「光武帝」「項羽」「常識」でググリました。すると
「曹操は1000年に一度の天才なのに」スレの620の人がそれらしく思えます。

 小生、劉秀は常識のある項羽かと問われれば、方や剛直・頑固・天然戦
術家の覇王項籍、方や、柔よく剛を制し、政治家・文官でもある光武帝劉
秀、政治家としての性格がまるで違うので、そうは思わないとしか答えら
れないですね。
613煽り君:2006/01/15(日) 22:34:17 0
>>611
 小生は、こう思っています。
 まず後に出来た王朝の時代に、前世代の歴史を編纂して、それが公に認めら
れれば、著名な史書となります。後漢の場合は、建前として漢は復興されたこ
とになるため、新・王莽は一時的な簒奪政権として描く必要があります。こう
いう時代を背景に『漢書』は、王莽の死までを扱う官撰による史書として、皇
帝らに認められて、成立しています。
 よって『漢書』では、王莽は本紀ではなく列伝に描かれ、帝と記述されるこ
となく、莽、莽、莽と記され、漢兵・漢軍と記述されていても新軍・新兵とは
記述されていません。このように一旦『漢書』によって新・王莽はその王朝を
継ぐ正統性を拒絶され、漢王朝の時代、漢王朝の人物と扱われています。
 次に歴代の王朝によって正当な歴史、つまり正史として扱われるようになる
と、『史記』『漢書』はその正史の代表作として扱われました。理由の一つは
『漢書』というのが、初めての一王朝史というスタイルを採用したためであり、
以後、王朝ごとの歴史は『漢書』を基本とすることになった訳です。
 そうすると、新・王莽の正統性は無いというのが『漢書』によって、以降
自明扱いになる訳です。その『漢書』に新の時代が描かれている以上『新書』
が存在しても、正史とは認められないでしょう。仮に『新書』を認めるという
学者がいたとして『漢書』に逆らうほどの意味があるのか。
 そういうことで王莽は実際には皇帝ですが、正史上では皇帝扱いされない。
 正史に載るから正しいとか判断するのではなく、正史が名目で書かれている
が、実質は異なっていると、見抜くことが大事だと思います。特に後の王朝で
は、自王朝の正当性を強調する余り、倒した王朝の短所・欠陥をあげつらう傾
向があります。漢書王莽伝の幾つか逸話は、誇張されたものかも知れません。
614世界@名無史さん:2006/01/16(月) 00:18:38 0
王莽は桓玄や侯景に近い扱い?
615世界@名無史さん:2006/01/16(月) 22:12:40 0
いや、彼は間違いなく中国全土の皇帝だった。
隋の文帝と煬帝を合わせたようなものじゃないか?むしろ。
616世界@名無史さん:2006/01/17(火) 19:11:50 0
王莽も煬帝も高句麗に関与してる
高句麗息長いよな
617世界@名無史さん:2006/01/28(土) 02:53:06 0
保守しときます。
618世界@名無史さん:2006/02/05(日) 00:49:08 0
あげ
619世界@名無史さん:2006/02/05(日) 01:01:07 0
後漢書の訳本は現在2種類刊行されてるみたいですけど
どちらが使いやすいでしょうか?
620世界@名無史さん:2006/02/07(火) 12:37:28 O
続漢書志も訳しているのが一番つかそれしか認められん
621世界@名無史さん:2006/02/16(木) 08:13:22 0
保守しときますよ〜
622世界@名無史さん:2006/03/12(日) 15:07:47 0
月例保守にあがりました。
623世界@名無史さん:2006/03/16(木) 12:46:16 0
>>10
馬援が公孫述を評して、井の中の蛙って表現したけど
元々は荘子の言葉でないの?
624世界@名無史さん :2006/03/16(木) 14:01:23 0
人は足ることを知らず…
も、劉秀が老子をアレンジしたんでしょ? 以前にそういう話を聞いたことがある。ヤフーの掲示板で。
625世界@名無史さん:2006/03/16(木) 17:59:17 0
人物評に使ったのが馬援でしょ。烏合の衆とかもそうだな。
矍鑠とした翁も光武帝が馬援に言った言葉だったりする。

>>624
三国志で曹操が言った、隴を得て蜀を望むの諺のことか?
626世界@名無史さん:2006/03/16(木) 20:56:18 0
曹操は劉秀を凄く尊敬していたからね。
627世界@名無史さん :2006/03/16(木) 22:48:13 0
論拠がないから、詳しく突っ込まれると弱いのだけど…
「望蜀」ではなくて、「人は足ることを…云々」 の部分。
「望蜀」は、その老子を引用して、愚痴りつつも蜀を取ろうとした劉秀のひととなりというか、葛藤というか、そういった人間くささが見て取れると、勝手に思ってます。
628世界@名無史さん:2006/03/17(金) 16:38:42 0
たまに遊びに来てください

漢帝国の復興を目指すスレ
http://live19.2ch.net/test/read.cgi/ogame/1142507956/l50
629煽り君:2006/03/18(土) 01:47:50 0
>>627
岑彭伝ですね。光武帝が岑彭に指図した手紙に「(隗囂の居る西城・公孫述の将李育の守る上?の)両城が降れば、
兵を率いて、南の虜(公孫述)を撃て。人は満足することを知らないから苦しむ。既に隴を平らげ、また蜀を望む。兵
を進軍させる度に、頭髪はそのために白くなる」とあって、光武帝が岑彭に、心情を吐露しています。すごく人間味溢
れている。私は特に白髪の部分にそれを感じます。時に劉秀38歳、この歳にしては白髪が気になる状況だったんで
しょうね。何で白髪が増えたんだ、きっと軍を進めることに悩んでいたからだとか、思っていたのでしょう。で、手紙に
もそれを書いたと。
 只、私は光武帝は闇雲に蜀を欲しがっていたわけではなく、蜀は西漢時代も漢の一部であったし、公孫述は皇帝を
僭称している以上、中国を統べる唯一の皇帝の立場としては、公孫述を倒さなければならないわけで、その自分を考
えて、足ることを知らないなと自嘲的に言っていると思います。それを部下への指図の中で、吐露気味に書く辺りが、
光武帝の光武帝らしいところ。
630世界@名無史さん :2006/03/18(土) 10:29:22 0
>629 そうですね。 で、その後の岑彭の戦いぶりがまた感動というか、かっこいいんですよね。
公孫述「神業としか思えん!」というやつ。
631煽り君:2006/03/18(土) 18:13:36 0
>>630
 誤解されそうな端折り方なので、もう少し補足しましょうよ。
 建武八年、岑彭は天水を破り、呉漢と共に隗囂のいる西城を囲み、耿[合廾]・
蓋延は公孫述の将李育のいる上[圭β]を囲み、光武帝は東に戻る。ここで光武帝は
「望蜀」の手紙を岑彭に送った。ところが、隗囂の将の行巡・周宗は蜀の兵を率い
て現れ、隗囂は西城を脱出。一方、光武帝軍の糧食が尽きたため、岑彭・呉漢は兵
を退き、耿[合廾]・蓋延も撤退する。隗囂はその退く兵を追撃するが、岑彭は殿
(しんがり)としてこれを防ぐ。
 建武九年、公孫述は長江(江水)を降って、荊州の夷陵・夷道を落とし、岑彭は、
この公孫述軍に対応するが、撃退できず。
 建武十一年春、岑彭は呉漢らと、荊州の兵士・船頭を集めて、反攻に出る。呉漢
は、船頭には糧食が掛かるから止めようとするが、岑彭は必要欠くべからずと、光
武帝に上書し、光武帝は「大司馬(呉漢)は歩兵騎兵には巧みだが、水兵に通暁し
ているわけではない。征南(大将軍岑彭)公を一番に重視しよう」と岑彭に任せる。
この時の戦いで、公孫述に「これ何ぞ神なるや」と言わせる。
632世界@名無史さん :2006/03/18(土) 21:15:08 0
根が演出家なもので… 補足&詳細、乙です。
633世界@名無史さん:2006/03/19(日) 15:53:03 0
伴野朗の短編「皇帝を作った男」って王莽の話らしいけど、
どこの図書館にもない。
どんな話なのかおしえてほしい。
634世界@名無史さん:2006/03/19(日) 19:59:52 0
>>633 ヒント
ttp://homepage3.nifty.com/~fwix7026/books/san/sinsoku.htm
つうか、わし、内容は知らないし、絶版(品切れ、再版予定無し)らしいので、
インターネット古書店で探せば、くらいしか助言できないわ。
635世界@名無史さん:2006/03/21(火) 06:36:24 0
読みたいだけなら国会図書館が早いでしょう
636634:2006/03/21(火) 17:56:18 0
良い天気なので遊びに出て、たまたま近くの図書館が開いていたので、
端末検索したら、貸し出せる状態だったので読んだ。
伴野朗「皇帝を作った男」(『なんぞそれ神速なる』講談社 収録)

確かに王莽の話で、儒学者・劉[音欠]が自分の儒家思想を実現
しようと、王莽の知恵袋となるのだけれど、王莽が暴走し、ついには…
という内容。
637633:2006/03/21(火) 21:37:58 0
ありがとうございます。
じつは自分先日まで「ばんのあきら」だと間違えて探していました。
近所の図書館にあったので借りてきました。
638世界@名無史さん:2006/03/25(土) 09:00:21 0
劉秀と愉快な仲間たちの活躍ぶりを一般人が楽しめる史書ってない?
牛に乗って登場とか大樹将軍とかいろんな伝説が紹介されてるのがいいんだけど
639世界@名無史さん :2006/03/25(土) 19:04:54 0
塚本「王莽」「光武帝」を借りてきた。
>638 そういうエピはなかったと思うけど、「十八史略」見てて、普通に笑ったところがあったのを覚えてる。
ほかの時代では、「かっこいいな〜」とか「ほぉお」なのに、そこだけはなぜか微笑んでしまうという…
640世界@名無史さん:2006/04/03(月) 21:58:18 0
保守あげ
641世界@名無史さん:2006/04/12(水) 20:29:27 0
あげ
642煽り君:2006/04/16(日) 11:15:20 0
>>507
王覇伝ですが、ここの記述は実は変。
> 王郎の劉秀に賞金をかけた檄書到るや、薊中は王郎に呼応した兵が立つ。王覇は劉秀
>のための兵を募るが叶わず。劉秀は南に逃げ、下曲陽に至る。辛うじて凍れる河を渡る。

何が変って、下曲陽という場所、凍てる河を渡る逸話の舞台・饒陽のかなり南西にあります。
一度、南に下って北上したのか? 更には>>514で出てきた[丕β][丹彡]の統治下です。

>>514では
>[丕β][丹彡]、劉秀が軍を失い、薊から信都に向うと聞けば、郡の属官張万と尹綏に精騎二
>千余りを率いさせ、劉秀の道すがらを出迎えさせる。[丕β][丹彡]は信都で劉秀を出迎える。

つまり、劉秀らが下曲陽に至っておれば、[丕β][丹彡]は直接出迎えており、信都で出迎える
ことはない。

よって、王覇伝の「下曲陽に至る」は間違いで、おそらく「饒陽に至る」が正しい。
643世界@名無史さん:2006/04/26(水) 19:58:26 0
>>463、賈復の話、一年以上、ダウトが掛からなかったのですが、多分、小生の誤謬です。
何かと言えばこれ。
>手紙を持って王郎が立った直後の河北に渡り、ケ禹によって劉秀に引き合わせられるこ
>とになる。以降、猛将の働きを見せることになる。

 後漢書の賈復伝によれば、賈復が劉秀陣営に加わったのは、柏人でのこと。小生は、柏
人にてケ禹・朱浮が王郎の将李育に惨敗するので、その時に賈復が劉秀陣営に加わった
と思い込んでました。
 ところで賈復伝には、賈復が劉秀陣営に加わった時の逸話として、賈復の馬がやつれた
れば劉秀が左の添え馬を賈復に賜うとあります。このことは、劉秀が車駕に乗っていたと
を意味します。それがどうしたとか言われそうですが、劉秀が王郎と戦っていた時なら、
劉秀は車駕に乗っていないと思われます。劉秀は銅馬帝と呼ばれた時には陣営を軽騎で回
ったとか書かれていますし、深追いしすぎて逃げるために高い岸から飛び込んだという記
述もあれば、戦時には馬に直接乗っていたと考えるのが自然です。では、王郎と戦う前に
劉秀が柏人に居たことがあるのかと言えば、あるのです。劉秀は邯鄲から真定へ行くと本
紀には書かれています。柏人は邯鄲と真定の丁度中間点に位置します。
 つまり、劉秀が邯鄲を出て真定に向けて車で進み、柏人にて、追いかけてきた賈復が
追いつく。賈復は陣営に加わり、更に劉秀は北上して、遂に王郎が邯鄲で兵を上げる、
と考えて良いと思います。
 もう一つ、傍証になりますが、もし劉秀が王郎と戦っている時に賈復が、劉秀陣営に加
わろうとすれば、賈復は邯鄲(王郎)の支配域を潜り抜けて、北へ出ねばなりません。普
通に考えれば、少兵で劉秀陣営に加わろうとは思わず、更始帝の増援である尚書令謝躬や
馬武の軍と行動を共にするでしょう。というわけで、引用部、正しくは、次の通り。

 手紙を持って王郎が立つ直前の河北に渡り、ケ禹によって劉秀に引き合わせられるこ
 とになる。以降、猛将の働きを見せることになる。
644世界@名無史さん:2006/05/03(水) 10:37:10 0
645世界@名無史さん:2006/05/03(水) 11:49:30 0
光武帝の小説読んで興味なくなってたけど、このスレ面白い
岩波からでてる後漢書高くて手が出ないから読んでても楽しい。
分かりやすい解説には感謝
646世界@名無史さん:2006/05/03(水) 12:14:33 0
1耿[合廾]  2[水育]陽 3[广龍]萌  4[炎β]  5[月句]   6[丕β][丹彡]、
7[業β]   8[夾β]    9子[イ及] 10[馬芻] 11[シ育]陽1 2[羽隹]義
13[音欠]  14耿[言斤]  15臨[シ隹 16[木旬]邑    17馮[小音]と宗[音欠]
18暴[己]  19韓[音欠]  20薫[言斤]  21[言羽]父子 22劉[音欠]、 23南[糸言糸]
24大[丹彡 ]25参[サ遽]侯 27董[言斤]2 8史[音欠]   29[山享]、

読み方が分からない(´・ω・`)
ご示唆ください
647世界@名無史さん:2006/05/03(水) 14:23:20 0
漢和辞典引け。
648世界@名無史さん:2006/05/03(水) 15:55:17 0
1 かん 3龐 4郯   6邳彤
7鄴

眠いから最初の行だけ漢字にするとこんな字だよ
649煽り君:2006/05/05(金) 01:28:18 0
>>646
筑摩の『漢書』岩波の『後漢書』の読みで、本によっては読みが異なる場合があります。
→はフォントが存在して使えるのが分かったので変換したものです。
私はIEを使わないと、うまく打ち込めません。
1耿[合廾]→耿弇(コウ・エン)2[水育]陽=11[シ育]陽→淯陽(イク・ヨウ)
3[广龍]萌→龐萌(ホウ・ボウ)4[炎β]→郯(タン)5[月句](ク)
6[丕β][丹彡]→邳彤(ヒ・トウ)7[業β]→鄴(ギョウ)8[夾β]→郟(キョウ)
9子[イ及]→子伋(シ・キュウ)10[馬芻](スウ)12[羽隹]義→翟義(テキ・ギ)
13[音欠]→歆(キン)14[言斤]→訢(キン)15臨[シ隹]→臨淮(リン・ワイ)
16[木旬]邑(ジュン・ユウ)
17馮[小音]と宗[音欠]→馮愔(フウ・イン)と宗歆(ソウ・キン)
18暴[シ巳]→暴(ボウ・シ) 19韓[音欠]→韓歆(カン・キン)
20=27董[言斤]→董訢(トウ・キン)21曹[言羽]→曹詡(ソウ・ク)
22劉[音欠]→劉歆(リュウ・キン)23南[糸言糸](ナン・レン)
24大[丹彡]→大彤(ダイ・トウ)25参[サ遽]侯→参蘧侯(サン・キョ・コウ)
28史[音欠]→(シ・キン)29[山享](カク)

21[言羽]父子という名前と誤解されていますね。曹竟・曹詡の父子の意味です。
以下、小生のミスです。
15淮ワイは問題なく使える漢字です。
18[シ己]でなく[シ巳]でした。
20と27、同一人物ですが、20が間違いでした。.
650世界@名無史さん:2006/05/08(月) 18:47:13 0
レス大変おそくなりました。
647がいう様に辞書で調べることなのに、わかりやすく教えてくれてありがとうございました。

651世界@名無史さん:2006/05/11(木) 00:43:40 0
保守
652世界@名無史さん:2006/05/18(木) 22:44:55 0
しかし、この時代の本ってぜんぜん発売されないな。
最近では水滸伝も結構色々本でてるのに。
いまだに小説で印象に残ってるのって陳小説18史略ぐらいしかない
ちくま文庫あたりでだしてほしいな。
653世界@名無史さん:2006/05/31(水) 17:52:35 0
654世界@名無史さん:2006/06/07(水) 23:02:57 0
たまには保守でも・・・・・
655世界@名無史さん:2006/06/10(土) 01:46:25 0
>>652
>>605なんかはどう?
656世界@名無史さん:2006/06/10(土) 20:30:53 0
個人的に塚本さんの本は霍去病や白起よんだんだけど、小説としては続きが見たいというきにならないんだよね。
文庫になったら読んでみようとおもうんだけど。
でも王莽なんか結構本でてるのに、なんでだろ。
徳川二十八神将とかも元は劉秀からきてるのに、もう少し本でてもいいと思うのになぁ。
657世界@名無史さん:2006/06/18(日) 12:13:00 0
雲南省に古城がみつかって調査開始したとか。
時代的にこの辺らしいね。
658世界@名無史さん:2006/06/19(月) 21:54:59 0
光武帝の敵はザコばっか。
故に小説にしても面白くない。
また光武帝自身は公務員タイプだし
あんまり面白みがない。
659世界@名無史さん:2006/06/20(火) 00:00:07 0
>>658
たしかにライバルがぱっとしないが(というか、光武帝が強すぎたのだが)
光武帝自身はテラ面白い。
隣の幼女に萌えていたり、突如牛に乗って表れたり、「元気なジジイだな」等名言も多い。
660世界@名無史さん:2006/06/20(火) 00:15:22 0
光武帝は強くないぞ。
優秀な参謀いないし。
武力で突出した武将もいない。
才能的には劉備とどっこいどっこいじゃないか?
661世界@名無史さん:2006/06/20(火) 02:50:07 0
>>660
二十八将軍や馬援も知らんヤシは消えたほうがいいと思うぞ。
662世界@名無史さん:2006/06/20(火) 03:13:01 0
塚本の光武帝、文庫版が出たね。
人物造形が相変わらずで微苦笑が抑えられない…。

氏の小説に出る人間って、青筋立てながらキンキン声でまくしたてる、
落ち着きのない奴ばかりなイメージがあるんだが。
語尾に「!」が大杉なせいなんだろうか。
663世界@名無史さん:2006/06/20(火) 05:10:45 0
>>660
光武帝は個人としての武芸の腕前は知らないけど、
戦術指揮官として前線で突っ込んでいくタイプだぞ。
戦功でのし上がって皇帝になったような人物。
確かに敵がショボかったってのはあるかもしれない。

ちなみに光武帝の参謀は
戦略:ケ禹
戦術:馮異
あたりかな?
664世界@名無史さん:2006/06/20(火) 06:43:52 0
つーか、二十八将って単なる戦上手なだけじゃねーか?
鬼神の如き働きとかしたヤツいたっけ?
665世界@名無史さん:2006/06/20(火) 07:11:15 0
>>664
が求めているのはスーパーサイヤ人
666世界@名無史さん :2006/06/20(火) 07:45:27 0
「朝飯前」の故事を知らんと言うのか、>>664 は。
賈復、呉漢はとくに有名だぞ
667世界@名無史さん:2006/06/20(火) 23:53:37 0
賈覆・呉漢は楚漢・三国の人物と比較するなら
誰の好敵手だ?
668世界@名無史さん:2006/06/21(水) 20:29:02 0
新のころに連弩ってあった?
669世界@名無史さん:2006/06/21(水) 21:06:08 0
>>668
連弩はあった。新兵器ということはない。戦国時代には既に存在した。
670世界@名無史さん :2006/06/21(水) 21:44:53 0
三国の人物って… 三国時代の人物のこと? 三国人のこと?
よくわからんが、賈覆なら関羽じゃまいかい
唯我独尊ぽいとこや威風あたりを払うところなど。
ただ、何が何でも前進し、いっとき重体にまでなったなど、後ろを顧みないところもあった。

呉漢は剛毅・冷徹で、騎兵を率いては戦場に恐怖をばら撒いていた… とかだから… 張遼かな?
張遼って略奪はしてない? 比較は難しい。
671世界@名無史さん:2006/06/21(水) 23:41:55 0
>>669
あったのか。知らなかった。
高城兵器は墨子で有名だから知ってたんだけど。
文庫になったから例の小説読んでるんだが、相変わらず読む気がうせるなー
なんでもかんでも説明口調なのがしんどい原因なのかなぁ〜。
672世界@名無史さん:2006/06/22(木) 22:56:20 0
関羽はエピソードに事欠かないし、神にまでなってるのだが、
賈復なんて東洋史専攻でもほとんど知らないだろう。
その差はどこに?
673世界@名無史さん:2006/06/22(木) 23:00:54 0
そりゃ演義小説のデキの差だろ。
674元帥:2006/06/22(木) 23:02:24 0
光武帝をYahoo!で検索していろんなサイトを見たら勉強になるよ
675元帥:2006/06/22(木) 23:08:04 0
光武帝→りゅうしゅう【劉秀】
中国の後漢の時代の初代皇帝で、在任は25年から57年間。

676世界@名無史さん:2006/06/23(金) 00:40:41 0
57年間って長いなオイ。
677世界@名無史さん :2006/06/23(金) 08:51:13 0
お〜い!! シムラー
678世界@名無史さん:2006/06/24(土) 00:13:37 0
劉秀って俺の憧れ。だって陰麗華なんてスッゲー美人のダンナになる
んだから。うらやましーよ。
679世界@名無史さん:2006/06/24(土) 00:28:36 0
今の美人の基準とは大分違うかも知れんぞ。
680世界@名無史さん:2006/06/24(土) 05:25:48 0
光武帝は幼女陰麗華にハァハァしてたロリコン男
681世界@名無史さん:2006/06/24(土) 11:37:24 0
全勢力と外交云々ではなく、力づくで叩きのめした素敵な光武帝に乾杯
682世界@名無史さん:2006/06/24(土) 16:58:24 0
>>675 >>676
釣りとは思うが、勉強しろよと、突っ込んでおく。
在位は建武元年(西暦25年)から建武中元二年(西暦57年)、
よって32年間在位していた。
683世界@名無史さん :2006/06/24(土) 17:26:32 0
>682 みんなわかってるでしょ。 それに>在任は25年から57年間。
は、別に間違ってはいない。「の」が入ればなお良いが。
>676はブラックにつっこんでるだけだと思う。
684世界@名無史さん:2006/06/25(日) 00:06:26 0
例の小説読み終わった。あまり期待してなかったけど、力子都とかの存在だけで後がいまいちわからん人物にスポット当てるより
他に何かあるだろ。28将馮異以外全然目立ってない。
後、[登β]禹たんなる嫉妬深い負けキャラというイメージしかないじゃん。もっとあるだろ。
河北の戦いで敗れて馮異が薪を集めケ禹がたき火をし豆粥や麦飯で寒さをしのいだりしたエピソードなんかも入れてもよかったと思う。
戦闘も連弩について描写が目立つし。
陰麗華についても違う書き方があたっと思う。
所で楊音って実際はどんな人物だったの?
後、兄劉エンとはそこまで対立してたの?部下を庇ってとか男気のある人だと思ってんたんだけど?
その辺について教えてほしい。
685世界@名無史さん:2006/06/25(日) 11:41:15 0
しょうがない、それが作者の持ち味だし>他に何かあるだろ。
例えば「王莽」での眼目は水蒸気爆発…。

作者は「後漢書」も「資治通鑑」も読んでないような気がする。
馮異と来れば「大樹将軍」だけど、その描写もないのは…。
新〜後漢初を描く場合、列伝六〜二九までは、目を通しておくべきかと
思うんだけど。
686煽り君:2006/06/25(日) 13:53:22 0
>>684
楊音は目だっていないが、長安を襲った時に劉秀の叔父劉良を大事に扱った
とか、同僚が無体なことをすると「子供並か」と怒ったことが記載されてい
る。樊崇が下った後に謀反を働いたため殺されたのとは異なって、楊音は
晩節を全うした。
劉縯は劉秀を大人しい農業が好きな奴、任侠に欠ける奴と見ていたが、劉秀
は劉縯を慕っていた。それが証拠は、外見は喪を取らないように見せて、一
人で食するときは酒肉を取らず、寝所では礼として涕涙していた。それを知
った主簿の馮異がこれを諫めている(馮異伝)。計として喪を取らないこと
を示すが、それを徹底できなかったのが、劉秀が劉縯を慕いたる所と思う。
687煽り君:2006/06/25(日) 13:57:22 0
>>685
そのデンで言えば、「光武帝」での眼目は鯉、蟹、蜻蛉・・・表紙そのままのいろものだ。

列伝一〜列伝五は当然として、と言う意味でしょうか。そう解釈させていただきます。
劉秀の即位までに限定しても、
列伝一の劉玄・劉盆子(赤眉)、列伝二の王郎・彭寵の記載は当然必要ですし、列伝三の
隗囂の場合もどう王莽と絡んだかという点や、王莽の政策批判の点で、王莽が何を間違
えたかというのが当時の人物の視点で見えるから必要でしょう。列伝四の劉縯は、高祖
劉邦のように劉縯が度量のある人物であるかを記述し、反乱軍の緒戦が記載されていて
必要ですね。同じく列伝四の劉興の所でここに母樊嫺都ほか劉秀の家族構成が記載され
ている。また劉賜・劉嘉の宗族がどう動いたかというのも反乱軍の戦略や時代背景とし
て重要だと思います。列伝五の李通・王常・ケ晨は反乱軍の緒戦が記載されていて必要
です。

・・・劉仲を劉伯升と共々殺害させるって、下調べもあったもんじゃない。情けないなあ
某小説。
688世界@名無史さん :2006/06/26(月) 22:08:09 0
う〜ん。 今読み始めたが…
下町剣客モノでも書いたほうがいいんじゃなかろうか、この作者。
初めて読むけど、読みにくいったらない。
689世界@名無史さん:2006/06/26(月) 23:27:04 0
劉秀以外の劉氏を全て無能という書き方が悪かったきがする。
確かに劉秀を侮ってるふうにとれるが、劉秀自体劉縯を慕ってるんだから、
こういう話こそ儒教の話に結び付けてるんだから兄弟の対立をする設定にしないほうがよかった。
劉秀は戦場では前線にでることもあったんだからそういう逸話もあってもよかった
大樹将軍というより、手柄を奢ってるとれる描写もおおかった。
690世界@名無史さん:2006/06/27(火) 23:08:32 0
そういや資治通鑑復刊サイトで100冊越えたみたいだが、復刊なるかな、
691世界@名無史さん:2006/07/07(金) 23:56:04 0
ちくまの漢書、一括購入以外は在庫ナシみたいですね。
「最近本屋から消えたな〜」とか思っていたら…。
692世界@名無史さん:2006/07/16(日) 01:54:11 0
>444
歴史作家は大抵ワンパターン
塚本史しかり北方謙三しかり
693世界@名無史さん:2006/07/16(日) 23:01:40 0
劉仲って誰?
劉邦のお兄さん?
694世界@名無史さん:2006/07/16(日) 23:39:07 0
>>693
劉仲
(1)劉邦(劉季)の次兄である劉喜、字は言うまでもないが仲。

(2)劉秀(劉文叔)の次兄で、仲は字。名は不明。
695世界@名無史さん:2006/07/17(月) 00:19:49 0
仲は字じゃないんじゃないの?
兄は伯升、弟は文叔だけど、一字の字って考えられないし。
伯升も字で呼ばれてるから字の可能性もあるけど・・・
696世界@名無史さん:2006/07/17(月) 01:00:29 0
いちおう字ちゅうことになってるな
劉仲で劉さんトコの二番目ってだけの意味だし
697世界@名無史さん:2006/07/17(月) 01:40:39 0
>いちおう字ちゅうことになってるな
どこで?
698世界@名無史さん:2006/07/17(月) 02:35:09 0
字ってのは表に出して使う名前
本名は死ぬまで伏せておくのが昔の流儀だから
「仲」が知られているということは字なんじゃなかろうかってなわけで
699世界@名無史さん:2006/07/17(月) 03:32:50 0
そんな事言ったら後漢書に出てくる95%の人物の名が記されている
事をどう説明するんだ?諸侯王だって皇子だって全部名を記されている。
逆に漢代の皇帝は字が分からない事が多い。
700世界@名無史さん:2006/07/17(月) 03:41:22 0
>一字の字って考えられない
項羽は一体どこへ行ったんだ?
701世界@名無史さん:2006/07/17(月) 04:00:22 O
皇帝には対等の立場の人間がいないから、対等な立場での付き合いで用いたらしい字を使う機会がないんだよ。
例外的に字が残る皇帝は、生まれながらに皇帝の地位が約束されていなかったか、特殊な由来がある奴ばかりだよ。
702世界@名無史さん :2006/07/17(月) 11:04:00 0
朱晃、朱友珪、朱友貞、李存勗、李嗣源、李従厚、李従珂、石敬瑭、石重貴、劉知遠、劉承祐、郭威、柴栄…
あざなが残ってるのは、郭威だけ。 柴栄でさえあざなが残っていない。
名よりも字のほうが残らない場合が多いと思うが。
ちなみに、上記の皇帝たちは、むろん皇帝の地位など約束されてなどいない。
703世界@名無史さん:2006/07/17(月) 12:28:32 0
>>700
時代性
前漢末〜後漢時代の人物で一字の字の人物はほとんどいない。
704世界@名無史さん:2006/07/17(月) 13:39:07 O
漢のスレだというのが見えない人がいるな
705世界@名無史さん :2006/07/17(月) 16:22:20 0
>>704 いや、例をだしただけです。
東漢は統一政権だから、そこだけで例を出そうとしたら、一応皇族として「皇帝の地位が約束され」た者が多いかと思ってね。
どちらにせよ、あざなは残ってる方が珍しいとさえ思えてくる。
706世界@名無史さん:2006/07/17(月) 23:09:20 0
文字と時代性について・・・
どういう意味??
誰か教えてください。
707世界@名無史さん:2006/07/17(月) 23:11:51 0
字=あざな
708世界@名無史さん:2006/07/19(水) 12:43:13 0
>>695
>一字の字って考えられない
陳勝、字は渉。
項籍、字は羽。
楚元王劉交、字は游。

>>703
>前漢末〜後漢時代の人物で一字の字の人物はほとんどいない。

長兄劉伯升、三弟劉文叔の間の次兄劉仲が一字の字ってのが考えにくいから、なんかの脱落があるって考えのほうが納得しやすいなあ。
709世界@名無史さん:2006/07/20(木) 22:19:15 0
>>708
そんな事しっとるわ。
710エルソード :2006/07/24(月) 09:53:47 0

http://www.lovejptt.com/lincs00/index.htm
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711世界@名無史さん:2006/07/24(月) 20:02:35 0
このスレの住人の皆様は小松謙氏の『中国歴史小説研究』という本をご存知でしょうか?
そのなかに「劉秀傳説考」という一章があって、民間伝承や演劇など歴史書とは異なる視点から
「光武帝=劉秀」という人物が中国人にどのように受け入れられてきたか、を考察されているのですが、
その中で取り上げられる京劇『打金磚』(別名を「二十八宿帰天」という作品が、もう物凄いのです。
あらすじをかいつまんで言うと、
「姚期の息子が郭妃の父親を殺してしまい、詫びに参内した姚期を劉秀が酔った勢いで殺し、
止めに入った二十八将もすべて誅殺される。酔いの覚めた劉秀は郭妃を殺すが、
自分も馬武の亡霊に追われて発狂死する」というもの。
ちなみにこの作品は「上演頻度の高い人気演目」であるそうです。
私達自身も含めて、人々の歴史上の人物に対する認識は、
「史実としてどうであったのか」よりも、「どういう人物だったとして語り継がれてきたか」という、
いわば虚像としての部分に大きく左右されるものではないかと思います。
こういう作品が現在まで語り継がれていることが、「光武帝」という人物が高祖劉邦や劉備・曹操、
あるいは唐の太宗や宋の太祖などといった「人気者」の仲間に入れない原因となっているのかもしれませんね。

以上は小松氏の意見を自分なりに解釈した上での、意見ともいえないような「雑感」ですが、
「光武帝不人気説」の一因として、とても興味深い説だったと思います。
(史実としての光武帝にはなんの責任もないわけですね)
この章に限らず、この本に載せられた小松氏の論考はとても面白いものばかりですので
中国史の「虚と実」というテーマに興味のある方はぜひご一読をオススメします。
712世界@名無史さん:2006/07/24(月) 20:56:49 0
JAP!正しい歴史を見ろ。靖国参拝はバカだ
713世界@名無史さん:2006/07/24(月) 23:50:03 0
>>711
しかし、光武帝にそんな話が作られたのはなぜだろう?
洪武帝や仕事熱心な雍正帝とかが嫌われていた理由はわかる。
(雍正帝は近年のテレビドラマで人気度上昇。)

・・・もしかして、優等生過ぎるからとかw
714世界@名無史さん:2006/07/25(火) 00:47:51 0
『唐説』という凄い話もあるようです。こっちも劉秀が二十八将を
殺してしまって、転生後、二十八将が恨みを晴らさんとするもの。
にしても、光武帝が転生して、太宗とはね。
http://www.sun-inet.or.jp/~satoshin/kakadan/kakacont/tensei.htm
715714:2006/07/25(火) 00:51:54 0
『説唐』でしたね。すみません。
716世界@名無史さん:2006/07/25(火) 02:33:22 0
光武帝は天下を争ったメンツがしょぼかったから人気がないだけ。
劉邦・劉備程強烈な個性も無いし、配下にも飛び抜けた人物は
いないし。
二十八将を殺したってのは全くのでっち上げだし、どこからそんな
話が生まれたのかも分からん・・・
717世界@名無史さん:2006/07/25(火) 03:51:56 0
>>716
逆に考えたほうがいいでそ。あまりに光武帝が突出していたんで、他の面子がしょぼく見えた。
718世界@名無史さん:2006/07/25(火) 05:21:03 0
いや、光武帝にそこまでの能力ないだろ。
719世界@名無史さん :2006/07/25(火) 08:41:12 0
ちょっと待て。 >>718根拠はなんだ。
劉秀個人だけでは昆陽の突撃ははずせないだろうし、陣営(勢力)で考えても
常に寡兵で大軍に勝ってるというのは、どう説明すんだ?
いかに相手がバカでも、評価すべきところと考えるがなぁ。

さらに劉秀には天然ボケという現代受けする個性があるじゃないか。これから人気でるかも…
720世界@名無史さん:2006/07/25(火) 11:28:14 0
さらにロリコンでパラノイアっぽ
721世界@名無史さん:2006/07/25(火) 11:38:52 0
劉秀が勝った相手ってほとんど寄せ集めの軍隊ばっかだし。
新軍だって戦争はほとんど経験してないからな。
黄巾の乱でも分かるように農民反乱軍なんか寡兵で
撃ち破るのは大して難しくもない。
まあ、弱くもないと思うけど、大して強いと思われる要素がない。
劉備・劉邦も戦は大して得意ではなかったが、相手が強敵ぞろい
だったのが大きなインパクトになってる。
722世界@名無史さん :2006/07/25(火) 12:24:33 0
むむぅ。 いささか強弁という気がしないでもないが…
そういう見方もあるのね。

だけど、後世の例で言うと、唐末に発生した黄巣の乱を寡兵でさんざん打ち破った鴉軍が、大したことはないとは思えないし、その黄巣軍にてこずった朱全忠はどうなんだ、といわざるを得ない。
農民反乱も一概に弱いとも言えないと思うけどなぁ…
723世界@名無史さん:2006/07/25(火) 12:41:23 0
>>717
唐の太宗主従は似たようなこと言っているね。
光武の配下が張良韓信に劣っているのではなく、光武があまりにも偉大なので配下が見劣りしてしまうのだと。
724世界@名無史さん:2006/07/25(火) 12:44:12 0
王蒙が簡単に光武帝に負けてしまったので、後世の人間は弱いように感じるが、じつはすごい強力だったのだ。
蒙が簡単に負けたから蒙は弱いと結論づけるのは間違いで、強力な蒙を簡単に打ち破った光武が凄いと結論づけるのが正しい。
と後世の人間がいっている
725世界@名無史さん:2006/07/25(火) 13:05:42 0
まぁ、魅力的なライバルがいないのが致命傷
726世界@名無史さん:2006/07/25(火) 13:08:18 0
王蒙も稀代の大悪党っていうより小狡さしか目立たないヤツだしな
727世界@名無史さん:2006/07/25(火) 15:23:04 0
ライバルはいなくても逸話がこれほど残る人達も結構めずらしくね?
728世界@名無史さん:2006/07/25(火) 16:06:04 0
そればっか並べても面白くも無い話になりそうなオカン
729世界@名無史さん:2006/07/25(火) 16:11:31 0
その逸話を全て無視すると塚本氏の光武帝のできあがり・・・
730世界@名無史さん:2006/07/25(火) 16:20:39 0
もともと軍記物小説の素材として向いてないんだろうな
マニア好きしかしないような
731世界@名無史さん:2006/07/25(火) 16:31:16 0
後漢書著者に才能がなかったのかもしれん
732世界@名無史さん:2006/07/25(火) 16:45:58 0
王莽の書物が多いのに劉秀の書物の少なさがいまいち納得できない
733世界@名無史さん:2006/07/25(火) 16:48:48 0
王蒙のほうが研究しがいのある素材だからじゃないか
734世界@名無史さん:2006/07/25(火) 17:24:42 0
>733
いい加減、誤字に気付こうね。
それだと五胡十六国だよ。
735世界@名無史さん:2006/07/25(火) 17:33:08 0
王莽を滅ぼしたのは更始帝軍な訳だが・・・
まあ、昆陽の戦は天下分け目になったけどね。
736世界@名無史さん:2006/07/25(火) 17:33:25 0
Oh!Mow
737世界@名無史さん:2006/07/25(火) 17:40:44 0
実質的な指導者は劉縯・秀兄弟じゃない?
738世界@名無史さん:2006/07/25(火) 18:30:36 0
>>734 暗くて誤字に気がつかなかったのだろう
739世界@名無史さん:2006/07/25(火) 18:59:46 0
ぶっちゃけ新滅亡時の状況は非常に悲惨。
煬帝もこんな感じだったかな。
740世界@名無史さん:2006/07/25(火) 19:31:42 0
王莽の最期が漢書であれだけ詳細に伝えられているのは
最後まで側に史官がいて、その言動を一々記録していたからだろうか。

「斜めに階段を降り」とか有名な「天、徳を予に生せり。漢兵それ予を如何せん」とか
よくぞ後世に残ったものだと思う。臨場感がある。
741世界@名無史さん :2006/07/25(火) 20:03:16 0
おお。 なんだか賑やかに。

>>「斜めに階段を降り」

実はこのあたりの史書は読んだことがないのだけど、そういえば「新五代史」(欧陽脩)のにも、儒者の服装や様子などが、場違いに説明されている箇所があったりしてワロス
中国の史官連中が物語りしているようなイメージだ。
742世界@名無史さん:2006/07/25(火) 20:56:48 0
>>738
旨いなw
>>739
新旧興亡はどれも悲惨だよな。すれ違いだが南宋滅亡の時は読んでても泣きそうになる
>>740
考えたらそれすごいよな。史官あたりは書物をもってすぐに降参しそうなイメージがあるんだが。
やっぱ王莽の台詞は周を意識した発言だったのかな。あまりにも綺麗だ
>>741
何か思いついたのように書いてるよなは確かにある。
743世界@名無史さん:2006/07/25(火) 21:44:12 0
まあ、欧陽脩のはなにしろ『嗚呼史』だから。
744世界@名無史さん:2006/07/26(水) 19:53:57 0
「光武帝」で上演していたけど、実は「洪武帝」の事だったりしてw
745世界@名無史さん:2006/07/26(水) 21:56:21 0
洪武帝が唐の太宗に転生できるわけないだろ…
746世界@名無史さん :2006/07/26(水) 23:25:31 0
>>743 至るところで欧陽脩サマのため息が…w
欧陽にしろ司馬にしろ、儒教色テカテカで戦乱を語るから、文章に面白みがなくなるんだよな。
司馬光は柴栄は評価するけど、劉秀のことは嫌いなのか、あんまり評価してないようですな。よーわからん。
747世界@名無史さん :2006/07/27(木) 12:51:44 0
>>746 ああ、ごめん。 司馬光じゃないわ。 誰と勘違いしたんだろう…
748世界@名無史さん:2006/08/04(金) 21:45:03 0
光武帝が董宣を杖で殴り殺そうとした話があるけど、
廷杖は光武帝が元祖?それともっと古くから有ったの?
いや、廷杖は明だけかと思ってたから意外で。
749世界@名無史さん:2006/08/05(土) 21:11:47 0
>>748
ふむ。それでは小生の手許にある『漢書』筑摩文庫の刑法志第三に書いてあることを転
記しよう。
 聖人は天の秩序によって五礼を制定し、天の討伐によって五刑を作った。大刑は軍兵
を用いる誅伐であり、その次は斧鉞を用いる斬刑であり、中刑は刀鋸を用いる割刑であ
り脚斬刑であり、その次は錐鑿を用いる膝頭割刑であり刺青刑であり、薄刑は鞭や杖を
用いる笞刑である。大刑には屍を野原に連ね、小刑には市場や朝廷に晒し、その由来す
る所は久しい。
 つまり、漢以前に笞刑は有ったということです。
750世界@名無史さん:2006/08/05(土) 21:14:33 0
中国人が如何に光武帝を思っているかの一例。今、東京江戸博物館で「驚異の地下帝国
 始皇帝と彩色兵馬俑展〜司馬遷『史記』の世界〜」というのをやっているので、一通
り見て、お土産コーナーで買ったトランプ。
 スペードのエースが劉秀、おおおお。ジャックがフビライ、クイーンが李世民、キン
グが趙匡胤。中国人ちゃんと分ってるよすげえと、思ったがその後が引けた。
 ハートのエースは司馬炎(えっ?)、ジャックが朱棣、クイーンが則天武后、キング
がチンギス・ハーン。まあ、そんなもんだろ。
 クローバーのエースは煬帝(えっ?)、ジャックが康熙帝、クイーンが玄宗、キング
が朱元璋。
 ダイヤのエースは李淵、ジャックが乾隆帝、クイーンが徽宗、キングがヌルハチ。
ちなみに2枚のジョーカーは始皇帝に劉邦。
 結局、秦1枚、漢2枚、普3枚、宋13枚、隋1枚、唐4枚、元6枚、明10枚、
清12枚。
 中国歴代有成就的皇帝名録ってカードが付いていたが、煬帝に徽宗や溥儀も入れるっ
て、どうよって気もする。

 一緒に買った『三国志演義』トランプには更に愕然としたが、スレが違うのでパス
しよう。 
751世界@名無史さん:2006/08/05(土) 21:18:14 0
三国志の話も聞きたいなあ。
ちなみにそれぞれいくら?
752世界@名無史さん:2006/08/05(土) 21:43:33 0
>>750
> 結局、秦1枚、漢2枚、普3枚、宋13枚、隋1枚、唐4枚、元6枚、明10枚、
>清12枚。
その順序で並べられると「劉宋が13枚もあるのか!」と思ってしまうではないかw
753世界@名無史さん:2006/08/05(土) 21:55:26 0
7・8年前に買ったトランプでは劉秀はハートの3だったんだが、出世したな
754世界@名無史さん:2006/08/05(土) 22:20:56 0
>>750
 一箇所訂正、明12枚
>>751
 う、早くて、まるで自演と思われそうなレスですね。
トランプは一律税込み630円です。歴代皇帝のトランプは新旧あって、2つ買ったら
殆ど同じだった orz。
 ご期待に応えて『三国志演義』トランプです。ジョーカーは諸葛亮に司馬懿、ふむ。
 スペード:蜀、エースは劉備。なぜかクイーンが貂蝉。
 ハート:魏、エースは曹操。孟達入れるか渋いなと思えば、廖化入れるかおいおい、
クイーンは糜夫人か絶句! キングは張飛・・・。
 クローバー:呉、エースは孫権、劉璋居るよおいおい、クイーンが孫夫人か渋いな。
 ダイヤ:その他、エースは董卓、袁紹、王允、張松って、張遼とは渋いな、夏侯淵
って違うよ、呂布、公孫瓉、于禁って違うよ、姜維って違う! ケ艾ってなあ、クイ
ーンが呉国太ってなあ、キングは曹仁・・・死んだ。
 ということで愕然としました。

 他にも2つトランプがあって兵馬俑のトランプに中国歴代名大臣トランプ。値段は
同じ。ちなみに中国歴代名大臣トランプ、三国志を含めない東漢では、班超のみエン
トリー。
755世界@名無史さん:2006/08/06(日) 07:26:21 0
 征夷大将軍の通称「大樹公」は馮異のエピソードが
元なんだと最近知りました。
 この時代のことを人に勧めたいのですが初心者むけの本ありますか?。
やっぱり陳舜臣の小説でしょうか。
756世界@名無史さん:2006/08/06(日) 11:46:31 0
>やっぱり陳舜臣の小説でしょうか。
まあ、そうだろうね。講談社文庫の小説十八史略だろうね。

他に塚本青史という人の光武帝という歴史小説がある。
読んだことが無いので内容は不明だが、過去に後漢関係のサイトで
逝ってよし的な評価をされていたんだよなあ。
757世界@名無史さん:2006/08/06(日) 21:03:37 0
>>754
それどこが作ってるの?w
絵柄が格好良かったら欲しいかも。
758754:2006/08/06(日) 21:49:18 0
>>758
三国志演義トランプ。探せばいくつかあるようですが、小生が購入したのは
こちらのサイトにあるもの。昔『画本三国志』に描かれた画調を思い出させます。
ttp://www.plastic-rouge.com/souten/good/gd_1002.htm
(歴代皇帝トランプや水滸伝トランプもある)
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/ganguho/item_newarr.htm
詳細はこちら。
ttp://thymecraft.hp.infoseek.co.jp/3k1/index.html

歴代皇帝トランプ。
(時系列で並んでいるから)劉秀がハートの3のもの。
ttp://thymecraft.hp.infoseek.co.jp/em/index.html
小生が買った1つ(旧版)
ttp://www.tokkai.com/annie/item/az082.html

なお、小生はgoogle検索結果をちょこっと紹介したわけで、これが全てではありません。
また、これらのサイトの商売について責任を持っているわけでないので、ご購入は
自らの責任において行ってください。
759世界@名無史さん:2006/08/08(火) 21:35:01 0
 光武帝を題材に小説を書きそうなのは、陳舜臣(年齢的に無理か?)・
田中芳樹(一番可能性があるが問題は内容)・宮城谷昌光(正直微妙)・
北方謙三(絶対無いか)・このスレの住人くらいのものか。
760世界@名無史さん:2006/08/08(火) 23:19:12 0
その作家人のなかから一人選んだのを読んでみたいというのなら
宮城谷かな。この人も確か三国志で中国物は終わりらしいけど。
他の人だともう光武帝の名前だけで他の話ができあがりそう。
761世界@名無史さん:2006/08/09(水) 00:01:44 0
宮城谷もう中国物かかないの?
762世界@名無史さん:2006/08/09(水) 00:04:27 0
秘本三国志レベルの切り口なら別物でも陳のを読みたいな
桃源郷レベルならいらない
763世界@名無史さん:2006/08/09(水) 00:26:10 0
>>761
なんか書かないとかいう話をどっかで読んだ。

個人的に陳の管仲と鮑叔について書いた話あったが、あれは斬新だた
764世界@名無史さん:2006/08/10(木) 21:04:25 0
陳の本なら続・中国任侠伝もオススメ。
初心者むけなら集英社の人物中国の歴史5も良いけど
両方とも絶版だっけか?。
765世界@名無史さん:2006/08/18(金) 19:08:25 0
塚本「光武帝」、読みますた。
「王莽」が意外に面白く読めたので、文庫になったのを機会に
手にとってみた。中国歴史物は、史記の時代か三国志の時代を
取り上げる作家がほとんどなので、その中間時代を描いている
塚本青史には、興味をもっていた。

まあ小説は・・W
歴史小説というよりは、和製武侠小説といいたくなるような
ものだ。しかも、明らかに塚本は後半になると集中力が落ちて
きている。小説の展開が粗雑になっている。
クライマックスのはずの劉秀の皇帝即位なんか、「そこで劉秀は
皇帝に即位した。」の一行で終わりW 速読してたので、読み
飛ばしてしまって、「あれ、いつの間に主人公皇帝になってたんだ
ろう」と驚いたもんだW
766765:2006/08/18(金) 19:11:54 0
塚本「光武帝」は、どれくらい史実に基づいているんだろう。

劉一族の内紛などは、史実のようだが、赤眉の乱の頭目などは
実在の人物なのかなぁ。
767世界@名無史さん :2006/08/18(金) 21:43:48 0
今現在読み進んでる。
樊崇は実際に赤眉を動かした人でしょ。
それはともかく、なんで劉秀と鄧禹の再会シーンがないの!?
768世界@名無史さん:2006/08/19(土) 20:24:17 0
塚本「光武帝」評判悪いね。
昔、目次だけ見て買うの止めたけど
かえって読みたくなった。
明日図書館で借りてみよう。
769世界@名無史さん:2006/08/22(火) 23:12:29 0
>>766
ほとんど史実に基づいていない。
いらないマイ設定を大量に投入し、
新末史の面白さを殺してしまった。
770世界@名無史さん:2006/08/22(火) 23:19:47 0
名前だけ史実に登場してあれこれ想像して書くのは作家としてはやりがいがあるかもしれないけど
あれほどの面白みのある逸話を全部といっていいほどスルーしたのが信じられない。
771765:2006/09/03(日) 18:53:43 0
塚本青史「王莽」は、なかなかいい小説だったんだよ。

主人公の王莽は、歴史上の偉人というよりむしろ、陰湿な人物として
描かれている。陰陽思想を奉ずる王莽は、自分の陰の部分を
背負った人物、つまり自分の不幸を背負った人物が現れてくれた
ことを、内心喜ぶ。こういう人間の陰湿さ、弱さみたいなものが
うまく描けている。
歴史小説は、登場人物への過剰な思い入れを、むしろ殺して
書くのがコツだと思っているが、「王莽」はそれに成功して
いる小説だと思う。
772世界@名無史さん:2006/09/03(日) 21:07:13 0
蔡倫読んだが意外にまともだった・・・
光武帝はそんなひどいんだ。
773世界@名無史さん :2006/09/03(日) 21:18:51 0
「光武帝」じゃなくて「赤眉」。
そんな内容でしたよ。
774世界@名無史さん:2006/09/03(日) 23:33:52 0
王莽は昔から煮ても焼いても食えない
小狡いだけの小悪党が定番
775世界@名無史さん:2006/09/04(月) 01:28:57 0
まあ、王莽が偉人な訳ないしな。
776世界@名無史さん:2006/09/04(月) 12:08:37 0
塚本史の本は「光武帝」以外は読んだけど、酷いものはやっぱり酷いね
「凱歌の後」と「呂后」、「蔡倫」に「王莽」あたりはそこそこ読めるけど、他はキツいや

基本的にこの人って、史料はプロットも組んでるんだけど、風俗や慣習、
当時の基本的な価値観や概念ってものはあまり重視してない感じ
もともと推理作家だっけ?
777世界@名無史さん :2006/09/04(月) 12:18:32 0
価値観や概念をあんまりつきつめすぎると、小説としては読む手が疲れると思う。
その辺はほどほどでいいと思った。

>もともと推理作家だっけ?

ああ、納得。
778世界@名無史さん:2006/09/04(月) 16:08:55 0
風俗考証はだめだめだと思うよ。そのくせ妙に俗っぽいところを書きたがるのがいかんと思う。
779世界@名無史さん:2006/09/04(月) 20:23:34 0
司馬遼太郎はその辺、中国史専門じゃないのに上手いよな〜。
780世界@名無史さん:2006/09/04(月) 21:19:13 0
佐藤賢一みたいな感じか?
よく調べてて面白いことは面白いけど、なに書いても同じ。
781世界@名無史さん :2006/09/04(月) 21:49:17 0
いや〜。 好みの問題だな。
自分はおもしろくないと思った。 あの会話主体の文章が、えらくじれったい。
782世界@名無史さん:2006/09/05(火) 10:08:06 0
無理やり豪傑風の会話させるから全部一緒になる

〜だわァ!とか
〜だのォ!とか
783世界@名無史さん :2006/09/05(火) 16:32:26 0
そうそう。
劉秀が「〜だわァ!」と言ったときは噴いた。
784世界@名無史さん:2006/09/05(火) 20:51:39 0
塚本王莽と東晋次氏の王莽ってどっちが先?
785世界@名無史さん:2006/09/05(火) 21:37:00 0
>>778
ああそれも同感
786世界@名無史さん:2006/09/05(火) 21:43:35 0
塚本って、やっぱり地雷だったのね・・・
最終巻の半分位まで赤眉と劉秀どっちが主人公かわからねえし
787世界@名無史さん:2006/09/06(水) 09:08:18 0
>>784
塚本王莽は2000年に単行本刊行、東晋次王莽は2003年刊行。
塚本にも氏ぐらいつけてやれ。
788世界@名無史さん :2006/09/06(水) 10:37:11 0
東晋次王ってなにかと思ったw
ヒガシ シンジね。
789世界@名無史さん:2006/09/06(水) 11:01:52 0
確かに分け方ちょっとかえると
東晋 次王 莽
司馬莽という東晋の王族でもいたかと見えるな
790世界@名無史さん:2006/09/06(水) 21:02:00 0
郭聖通って、わがままに育てられた所為で自己中で意地っ張りで何でも恩を着せて
他人の目を気にするくせに他人の心理に無頓着で、何かうまくいくと自分の手柄
みたいな顔して失敗すると他人に責任にして、説教すると逆ギレし自分の非を認めず
あげく人の短所ばかり見つけるのがうまくてトラブルが起きると関係ないのにヒステリー
起こす、若くて美人だったころは許されてもババアになった今ではぶん殴りたくなる
俺のオカンみたいな女だったんではとこのごろ思う。
791世界@名無史さん :2006/09/06(水) 21:39:26 0
一気にまくしたてたなw
同属嫌悪か?
792765:2006/09/07(木) 20:41:44 0
東晋次のやつは、小説じゃなくて歴史専門書かな。

「光武帝」「王莽」を読んでみても、なおわからないのは、
なぜ王莽はこうも簡単に帝位を簒奪できたのか。臣下なり
世間なりの反発は、それほど大きいものではなかったようだ。
当時はまだ、儒教的倫理がそれほど一般的ではなくて、
帝位の交代も、今で言うなら大統領が代わるくらいの
感覚だったのかもしれない。

・・と思ったりするのだが。
793世界@名無史さん:2006/09/07(木) 20:51:25 0
王莽って煬帝みたいに悪役にされてるっぽい
794世界@名無史さん:2006/09/07(木) 21:04:49 0
>>782に吹いた
795世界@名無史さん :2006/09/07(木) 21:05:41 0
問答無用の極悪人なら、間違っても皇帝にはならんと思う。外戚ではあったけど。
王莽は基本的に人格も素養も、まずは立派だったから、あと陰謀を練る頭もあったからね。
問題はそのあと。
煬帝の場合は、途中からの責任放棄が最大の悪と思う。
796世界@名無史さん:2006/09/08(金) 03:44:44 0
>>790
若い頃だと高嶺の花で通用するのかもしれないけど、老けたら疎まれるだろうなあ。
(例)田中真紀子、野村佐知代
797世界@名無史さん:2006/09/17(日) 11:37:09 0
郭皇后を廃したのには政治的な理由はなく、夫婦喧嘩後の別居みたいな感じがする。
もっとも陰麗華とその一族が劉秀と郭聖通の間を裂くよう謀った可能性はあるけど。
798世界@名無史さん:2006/10/07(土) 06:34:07 0
劉秀って初陣で牛に乗ってたらしいけど、
牛って馬より乗りにくいんじゃないの?。
鐙がない時代にどうやって牛に乗って戦えたのか不思議。
799世界@名無史さん:2006/10/07(土) 10:07:29 0
戦うときは牛から降りるだろさすがに。
800世界@名無史さん:2006/10/09(月) 18:07:32 0
800ゲット
801世界@名無史さん:2006/10/09(月) 18:25:01 0
光武帝は歴代支那皇帝で俺が唯一尊敬する皇帝。
粛清もせず、戦友を大事にし、皇帝になっても態度を変える事もなかった。
おまけに滅茶苦茶戦争が強いのに戦争嫌い。

まあ、その甘さ故に後漢は連合政権から完全に脱する事が出来なかったのだが、
それでも劉邦や朱元璋よりは偉大な皇帝だと思う。
802世界@名無史さん:2006/10/09(月) 21:55:47 0
劉邦と劉秀の比較は、劉邦には悪いが比較にならないよ。
朱元璋や李世民との比較なら、やりだしたら喧々囂々の
やりとりになって、それはそれで面白いだろうけど、こ
のスレが潰れてしまう〜。
803世界@名無史さん:2006/10/11(水) 12:10:59 0
中国の歴史に関する娯楽・文学は三戦板のご利用を

http://hobby8.2ch.net/warhis/
804世界@名無史さん:2006/10/11(水) 14:00:27 0
先祖たる劉邦がいたから劉秀が登場し得たのだ
805世界@名無史さん :2006/10/11(水) 21:49:42 0
劉氏復興の世論を軽視してはいかんわな。
時代の違う人を、個人として云々というのは、それぞれにおける政治的状況などが違うのだから、比較するのは不毛。
806世界@名無史さん:2006/10/15(日) 12:10:48 0
同時代の群雄と比較したら、
あるいは公孫述と王郎など劉秀の敵の比較とか。
807世界@名無史さん:2006/10/15(日) 13:49:29 0
公孫述といい蜀って引きこもり体質の国が多いよな。
積極的に外征をした国って劉邦の漢と、三国の蜀漢と、五代十国の後蜀くらいじゃないか?
808世界@名無史さん :2006/10/15(日) 19:37:53 0
劉邦は南鄭であって四川(蜀)ではないよね。
また後蜀孟氏は北に打って出たのはないと思う。 秦・鳳を手に入れたのは、あくまでそこの統治者が投降してきたから。
やはり基本的にヒッキーなんだよね、蜀って。
809世界@名無史さん:2006/10/15(日) 21:06:57 0
公孫述の目的は藩王になることじゃなかったのかな?。
漢の臣だけど中央から独立した勢力となりあわよくば漢に取って代わる。
豊臣政権下の家康みたいに天下人も憚る実力者となるつもりだったのかも。
810世界@名無史さん:2006/10/16(月) 20:50:34 0
公孫述はあれでも天下を取るつもりだったんだよ。
何せ、劉秀・劉盆子が更始三年(西暦25年)の六月に皇帝を号しているが、
公孫述は、同じ年の四月に天子と自称しているんだから。
811世界@名無史さん:2006/10/16(月) 23:14:08 0
だけど攻め込んで勝つ自信がないから、自分の勢力を残したまま漢の支配下
に入って最終的に乗っ取る計画だったんではと思うわけ。
蜀の地の利をいかせば漢軍と互角以上に戦えるし、最終的に皇帝やめて
漢に服属しても蜀を支配下におく自分をどうすることも出来ないし、
後はチャンスがあればよし、なくてもいずれ自分の子孫に託すとか計算していたんじゃ。
もっとも負けちゃったんで全部御破算になったけど。
812世界@名無史さん:2006/10/17(火) 02:12:05 O
そう考えると蜀漢は凄いな
幾度と無く北伐してるし
813世界@名無史さん:2006/10/18(水) 22:04:31 0
太平記に光武帝の言葉として「大敵を見ては侮り小敵を見ては恐れよ」
というのがあるけど、これ出典は資冶通鑑?。
814世界@名無史さん:2006/10/29(日) 00:31:37 0
 森村誠一の太平記しか読んだことないが、文帝とセットで光武帝の話が載ってたな。
五醍醐天皇に献上された千里の馬は吉か凶かって話で、文帝は献上された馬を
「行幸で三十里、戦争でも五十里しか進まないのにそんな速い馬に乗ったら家臣をおいてひとりで行くことになる。」
と言って輸送費だけ払って返してしまった。光武帝は千里の馬と宝剣をもらったけど家臣にやってしまったというお話。
 君主にとって千里の馬が必要なのは一人で逃げるときだから不吉だってこと。
815世界@名無史さん:2006/10/31(火) 21:44:42 0
初歩的なことかもしれないけど、
本によって厳尤・荘尤と同じ人物なのに姓が違うけど何故。
そしてどっちが正しいの。
816世界@名無史さん:2006/10/31(火) 22:23:22 0
>>815
初歩的なことは、過去ログを見ることです。
このスレの>>322に書いてあります。
817世界@名無史さん:2006/11/09(木) 01:48:39 0
ご案内

中国英雄
http://hobby8.2ch.net/chinahero/
818煽り君:2006/11/21(火) 00:09:10 0
河南太守丁綝
 出典は丁鴻伝と馮異伝(内は出典及び、本紀及び列伝の前後関係から補足)
丁綝、字は幼春、王莽の末に潁陽の尉を守す。(昆陽で王邑を破った後に、)劉秀が潁陽を
攻略する際に、城守する県令を丁綝は説いて共に降る。劉秀は喜びて、丁綝に篤く報償し、
偏将軍と為す(丁鴻伝)。劉秀が父城を攻めた時、馮異は堅守するが、忍び出た所を漢兵に捕
まる。劉秀配下には馮異の従兄弟馮孝と同郡の郷人丁綝・呂晏がおり、馮異を推す故、劉
秀に召見される。その結果馮異は劉秀幕下となる(馮異伝)。(劉秀が王郎を破り、銅馬軍
を追いて南下し、更始帝と対峙するとなれば、)丁綝は兵を率いて先んじて河を渡り、檄を
郡国に移し、陣地を攻略し、河南、陳留、潁川の二十一県を降す。建武二年河南太守を拝
す。功臣を封じるに及んで、劉秀はそれぞれに望みを言わせれば、諸将は豊邑・美県を望
むも、丁綝のみ故郷である郷を望む。或る者が問うに「人は皆県を欲するに、汝独り郷を
望むはなんぞや」。丁綝は、人の求めぬ土地は奪われないからと云う故事を引いて、「我は
能は薄く、功は微なり、郷でも厚し」と答える。劉秀は丁綝を定陵新安郷侯に封じる。食
邑は五千戸(丁鴻伝)。(ちなみに劉秀は、信都太守任光を改めて食邑万戸の阿陵侯に封じ、
信都都尉の李忠を改めて食邑三千戸の中水侯に封じたので、郷侯とは云え、丁綝の扱いは
決して小さくないと言える。)
819煽り君:2006/11/21(火) 00:10:58 0
式侯劉恭
 出典は(劉玄伝・劉盆子伝・劉輔伝)
劉恭、劉盆子の兄である。若くして『尚書』を習い、あらまし大義に通ず。赤眉が式県を
通る際、弟劉茂・劉盆子共々攫われる。赤眉の大将樊崇が更始帝に下りし時、劉恭も下り
て式侯に封じられ、侍中と為って長安へ随行する。樊崇は更始帝を見限り、再び赤眉を率
いて関中に進み、鄭にて、籤によって劉盆子を皇帝に立てる(劉盆子伝)。これを聞いた劉
恭は自ら獄に繋がれる。赤眉が長安を陥すや、劉恭は高陵に逃げた更始帝を徒歩で追い、
更始帝は劉恭を伝手に赤眉に降る。当初、更始帝劉玄は長沙王に封ぜられる筈が、赤眉は
約束を違えて、劉玄を殺そうとするので、劉恭は自刃しようとし、慌てて樊崇らは劉玄共々
救う。尚も劉恭は、強く請いて劉玄を長沙王に封じることを得る。しかし、更始帝の元配
下であった張卬は、劉玄が再び祀り上げられるを恐れ、赤眉の将謝禄を唆して、郊外にお
いて劉玄を縊って殺害させる。劉恭、夜中に劉玄の遺体を見つけ収める(劉玄伝)。
劉恭、赤眉が破れ、禍が自らに及ぶと察すれば、劉盆子に皇帝の座を辞去する言を与える。
建武二年(26)、正月、宴会の最中、劉恭は樊崇らを戒めれば、「式侯の知る所であるまい」
と返って恫喝される。劉恭は引き下がるが、劉盆子は、劉恭に教えられた辞去の言を述べ、
一時的に赤眉の将をひれ伏せさせる。
建武三年(27)、光武帝は東に逃げんとす赤眉を宣陽で遮り、赤眉はその大軍を見て、遂に降
らんとし、その使者に劉恭を遣る。
後に、劉恭は劉玄のため謝禄を殺し、自ら獄に繋がれるも、光武帝は許して誅せず(劉盆
子伝)。

寿光侯劉鯉は劉玄の子であるが、光武帝の子沛王劉輔に目を掛けられることとなった。劉
鯉は劉盆子のその父を殺害しを怨み、劉輔に目を掛けられることを幸いに、賓客を集め、
劉盆子の兄式侯劉恭を殺す。劉輔も連座して獄に繋がれるも三日にして出づることを得る。
(劉輔伝)
820世界@名無史さん:2006/11/26(日) 13:38:42 0
郭聖通は皇后を廃されても、そこそこ優遇されていた様に思う。
単純に陰麗華の方が一緒にいて、良かっただけの様な気がする。
821世界@名無史さん:2006/11/26(日) 19:04:26 0
建国の君が廃后の前例作っちゃいかんよな。
822世界@名無史さん:2006/12/14(木) 13:28:23 0
幻冬舎新書「金印偽造事件」http://www.gentosha.co.jp/search/book.php?ID=300276
823世界@名無史さん:2006/12/14(木) 14:08:38 0
けさの読売新聞にも
824煽り君:2006/12/16(土) 20:49:18 0
更始の将・柱功侯李宝
 李宝という人物が一人としてまとめると、次のような行動を取った人物である。

 更始帝が即位した時に、舞陰県の豪族が降らないので送られたのが、柱天将軍李宝で
ある。(この豪族、彼の者なら降ろうと言ったので、その趙憙が召されて功を得る)
 更始二年(24)秋、更始帝は柱功侯李宝・益州刺史張忠を遣わし、兵一万余りを率いて
蜀・漢を攻略させる。しかし公孫述は自立せんと思う故、弟公孫恢をして、李宝・張忠
を撃たしめ、大いに破らせる。
 建武二年(26)、延岑が漢中で反逆し、漢中王劉嘉を撃って、兵を進めるも、武都郡で
柱功侯李宝がこれを破る。劉嘉は李宝を相となし、延岑に奪われ、更に公孫述に奪われ
た南鄭を奪還しようとするが果たせず。
 その後も、延岑と劉嘉は争いを続け、延岑が三輔に入れば、劉嘉らも追いて三輔に入
る。
赤眉と延岑が戦うことになれば、李宝は延岑と合同する。赤眉の逄安に合同軍は破れ、
李宝は降る。しかし李宝は延岑に密使を送り、裏から手引きすることを伝える。延岑は
再び戦い、逄安は陣を空にして迎え撃つ。延岑は破れるも、逄安が陣に戻れば幟旗が全
て李宝のもの置き換えられているため、陣が奪われたものと思い込み、驚いて逃げ走る。
赤眉は大敗を喫する。
 劉嘉と李宝は雲陽まで至れば、ケ禹が西征するため、兵を擁して自ら守り、劉嘉には
成り行きを窺わせる。光武帝はこれを聞きて、「劉嘉はまじめで自分とは親密で、守り
を固めるというのは、軽薄なやつ(李宝)が誤らせたに違いない」と言い、ケ禹がこれ
を宣ぶるや、劉嘉は光武帝の大叔母の子来歙を使いとしてケ禹に降る。
 ケ禹、李宝が驕慢で無礼であるので、これを斬る。李宝の弟は李宝の部隊を集めて、
ケ禹を撃ち、将軍耿訢を殺す。
825世界@名無史さん:2006/12/20(水) 20:49:03 0
「紅姫」
ttp://sagaplanets.product.co.jp/works/kouki/kouki.htm

主人公が陰麗華のゲームがあったとはw
826世界@名無史さん:2006/12/22(金) 01:28:40 0
姓は登、字は禹とか言ってる時点でダメぽ。
827世界@名無史さん:2006/12/22(金) 20:19:50 0
ただ単に非JIS避けてるだけじゃん。いちいち目くじら立てる神経が分からん。
828世界@名無史さん:2006/12/22(金) 20:23:55 0
あー、禹が字だって言ってんのか。それはちとまずいね。
829世界@名無史さん:2006/12/23(土) 19:31:41 0
よくよく見たら、劉稷って人名があるよ、そこ・・・。
分かってない所もあるが、分かっている所もある。
少なくとも、服装は漢代のものじゃない。
陰麗華の年齢は劉秀の10歳下。劉秀の妹の劉伯姫は、劉秀は9歳で父を
失ったからとあるから、その時以前に生まれたことになる。よって劉伯姫
は陰麗華よりも年上に見えるようにしないとなあ。
830世界@名無史さん:2007/01/07(日) 01:15:05 0
>>825
いかにも現代的な、可愛らしい絵柄だね。
831世界@名無史さん:2007/01/24(水) 22:49:16 0
そろそろ前漢までの軍師ベスト3を決めようぜ
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161774160/
832煽り君:2007/02/18(日) 17:17:36 0
復漢将軍ケ曄、輔漢将軍于匡
(『漢書』王莽伝下)
 地皇四年(23)秋、析県のケ曄・于匡が南郷にて百人余りで挙兵した。ケ曄・于匡は武関
を守りたる析の県令に説きて曰く「劉氏の皇帝、既に立つ。それを知らぬではあるまい」。
県令、降伏すれば、ケ曄・于匡、その兵数千を得る。ケ曄は輔漢左将軍、于匡は右将軍と
自称し、析・丹水を落とし、武関を開け、ついには進んでは湖県を得る。
<中略>
于匡は弩兵数千で丘に登って上から攻撃し、ケ曄は二万を率いて、湖県の西の?郷から
南の棗街・作姑に出て、王莽の放ちたる九虎将軍の一部を破りて北上し、北を守る敵の後
方に出てこれを撃つ。六虎は敗走し、うち二虎は宮中前まで逃げたが責められ自殺し、四
虎は逃亡した。敗れざる三虎は散兵を集め、京師倉を守った。
(『後漢書』隗囂伝より)
赤眉が長安を目指しし時、諸将は更始帝を脅して、南陽に帰らんと欲し、隗囂も謀議に
関わる。謀は漏れ、更始帝は隗囂らを召す。隗囂、これを罠と見抜き、病と称して応じず、
賓客を集め兵を整え、自ら館を守る。更始帝は、執金吾ケ曄に隗囂の屋敷を囲ませる。隗
囂は屋敷を閉ざして戦い、黄昏に囲みが潰えれば、数十騎で走り逃れて天水に帰る。
(『後漢書』本紀一上)
建武二年(26年)正月、更始帝の復漢将軍ケ曄、輔漢将軍于匡降る。劉秀、ケ曄・于匡の
爵位を復す。
(『後漢書』本紀一上・馮異伝より)
 建武三年(27年)四月、藍田に拠っていた延岑は、関中を得んと、上林に屯せる征西大将
軍馮異を張邯、任良を率いて攻めしが敗走する。延岑は析を攻めるが、馮異は復漢将軍ケ
曄、輔漢将軍于匡を遣り、迎撃させ、これを敗走させん。延岑ついに武関より南陽に逃れ
ん。
(『後漢書』本紀一上・ケ禹伝より)
 建武四年(28年)二月、延岑が順陽辺りを寇せば、右将軍ケ禹は復漢将軍ケ曄、輔漢将
軍于匡を率い、延岑をケに破る。追いて武当に至って復これを破る。
833煽り君:2007/02/18(日) 17:18:28 0
 ケ曄・于匡はまず地元の析県に立って、王莽打倒、長安攻略で名を上げ、更始帝の下
でもケ曄は執金吾とそれなりの扱いを受けています。馮異伝で延岑を析県で破り、ケ禹
伝で(析県の南の)順陽を荒らす延岑を撃ちに行き、(順陽の南西の)武当でも破ります。
 馮異伝に描くところは、実は変です。析県と長安の間に武関があり(『漢書』王莽伝
下の言う様に)、析県・丹水を落とし、武関を開いて長安に攻めるなら、延岑は武関を
越えて後、析県でケ曄・于匡に撃たれたというのが正しいでしょう。
 また、馮異伝・ケ禹伝より光武帝はケ曄・于匡を地元析県に駐屯させていたと言え
ます。
834世界@名無史さん:2007/03/24(土) 10:09:54 0
新って外戚の立てた王朝だっけ
835世界@名無史さん:2007/03/26(月) 19:54:46 0
王孟
836世界@名無史さん:2007/03/30(金) 13:42:56 0
漢王朝は外戚が跋扈してたからな
837世界@名無史さん:2007/03/31(土) 14:48:43 0
妻をめとらば だっけ
838世界@名無史さん:2007/04/01(日) 02:08:02 0
保守
839世界@名無史さん:2007/04/10(火) 05:42:33 0
妻を娶らば呂娥?
840世界@名無史さん:2007/05/06(日) 01:54:50 0
妻をめとらば陰麗華
841世界@名無史さん:2007/06/25(月) 22:43:40 0
保守age
842世界@名無史さん:2007/07/15(日) 20:07:05 0
この時期、なにげにひっそり仏教が伝来してたりするわけで。
デビューはあんまり華々しくなかったのかね。
843世界@名無史さん:2007/08/11(土) 16:36:04 0
西域の人間の宗教として扱われたんだろう。
日本にもイスラム教徒がたくさん住んでいる町があるけど、
大多数の日本人はイスラム教に関心持たないだろ。
外来の宗教は権力者が信者となって布教につとめるか、
既成の宗教を超える魅力と流行するきっかけがないと広まらないさ。
844世界@名無史さん:2007/10/10(水) 20:43:40 0
保守
845世界@名無史さん:2007/10/10(水) 22:17:18 0
建武の親政をしいた後醍醐帝は
やっぱり光武帝を意識してたんだよね。
846世界@名無史さん:2007/11/22(木) 08:45:33 0
劉氏出自祁姓.帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名.能擾龍,事夏為御龍氏,
在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏.至宣王,滅其國.其子隰叔奔晉為士師,生士_.
_生成伯缺,缺生士會.會適秦,歸晉,有子留於秦,自為劉氏.生明,明生遠,遠生陽,十世孫,
戰國時獲於魏,遂為魏大夫.秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛.生仁,號豐公.生_,字執嘉.
生四子:伯、仲、邦、交.邦,漢高祖也 .

帝堯陶唐氏→劉累→御龍氏→豕韋氏→杜伯(亦稱唐杜氏)→杜隰叔→士?→ 士缺→士會→
劉氏→劉明→劉遠→劉陽→(十世)→魏大夫劉某→劉清→劉仁(豐公)→劉端(太上皇執嘉)
→劉邦(漢高祖)
847世界@名無史さん:2007/11/25(日) 05:21:01 0
たしか堯の不肖の息子が劉氏だったな
848世界@名無史さん:2007/12/03(月) 09:34:52 0
馬援への讒言を聞き入れて爵位を落としたり、
その娘を息子の嫁にしたり光武帝の馬氏への対応はよく分かりません。
誰かわかりやすく解説してください。
849世界@名無史さん:2008/01/16(水) 10:12:03 0
塚本「光武帝」読んだんですけど、
これはわざと?って作者に聞きたくなる作品ですね
850世界@名無史さん:2008/01/16(水) 10:22:52 0
わざとも何も、創作品はすべからく「わざと」です。
851世界@名無史さん:2008/01/16(水) 11:20:28 0
「すべからく(須く)」 ぜひとも
852世界@名無史さん:2008/01/16(水) 11:37:32 0
李白に、

行楽須及春 行楽須く春に及ぶべし

というのがあるな。
「須」は「須く〜べし」と二度読み。
853世界@名無史さん :2008/01/16(水) 11:53:14 0
わかった気になったおれやべー。
>>851さんよ、ありがとうだぜ。
854世界@名無史さん:2008/01/16(水) 23:16:56 0
てんなんつべしぬべしあべし
アリヲリハベリハリカルナッソス
855世界@名無史さん:2008/02/11(月) 17:02:07 0
    |┃三 ガラッ! ┌───┐ミ 
    |┃       | あげ  |  
    |┃ ≡ 〆⌒└─┬─┘ミ
____.|┃   ( ___)│    サッ 
    |┃=  (_》 ^ω^)E)   
    |┃ ≡⊂     ノ  
856世界@名無史さん:2008/03/19(水) 15:22:56 0
保守age
857世界@名無史さん:2008/03/19(水) 21:30:18 0
PHP文庫の「班超」を読んだんだけど、光武帝って生前から光武帝と名乗っていたの?
そんな記述があったんで、ちょっと気になって…。
858世界@名無史さん:2008/03/23(日) 16:31:04 0
皇帝は生きている間は、皇帝のみ、死後にその業績・行為によって名がおくら
れる。
日本の天皇も生きている間は、天皇と呼ばれる。せいぜい今の天皇って意味で
今上天皇とか言うけど。死んで初めて、明治天皇・大正天皇・昭和天皇となっ
た。中国の皇帝も同じこと。
859世界@名無史さん:2008/03/23(日) 21:46:48 0
生きている間は今上
死んでからおくりなが決まるまでは大行
おくりなが決まってからはそのおくりなで呼ぶ
860世界@名無史さん:2008/03/27(木) 01:26:16 0
「今上」それ自体が尊称だしな。
861世界@名無史さん:2008/05/03(土) 21:24:04 0
ケ奉の異常な強さについて
862世界@名無史さん:2008/05/10(土) 23:05:25 0
婁敬(劉敬)って、優れたグランドデザイナーだと言ったら過大評価?
「統一された天下」が常識として定着していない時代背景を踏まえての
関中奠都の進言とか、
Wikiでは詳細が書かれていない強本弱末の術の提案・実現とか、
漢王朝の支配が長く続く基本を作ったと思うんだけど…
某小説家のような、「叔孫通こそ漢の名臣」で婁敬はスルーというのが
当然の見解なのかな…
863世界@名無史さん:2008/05/11(日) 00:16:54 0
>>862
当然の見解じゃあないと思うよ
誰だか知らんが、叔孫通も重要人物だが、劉敬はそれと同様かそれ以上の重要人物
864世界@名無史さん:2008/05/11(日) 12:30:39 0
劉敬の伝は短いが、やったことは

・洛陽ではなく関中を都に定めさせる
・匈奴との戦いが危険であることの指摘
・強本弱末の考えによる有力者の強制移住

の、鋭い分析に基づいた献策だしな
「余人をもって替え難い」功績を建てたという点では、
叔孫通より上だろうな
865世界@名無史さん:2008/06/02(月) 01:59:20 0
>>861
討伐する側にイマイチ戦意が湧かなかったからじゃないかい。
反乱起こすに至った理由が呉漢の軍の略奪行為だからな。
866世界@名無史さん:2008/06/27(金) 22:04:42 0
保守
867世界@名無史さん:2008/07/01(火) 21:30:42 0
李軼はどうして光武帝から離れていったのだろうか?
光武帝の挙兵から昆陽の戦いまで共に戦った戦友なのに。
868世界@名無史さん:2008/08/22(金) 17:23:21 0
保守
869世界@名無史さん:2008/08/22(金) 17:35:07 0
>>867 本人に聞いてくれ
870世界@名無史さん:2008/08/22(金) 17:39:14 0
wikiで調べりゃでてくるでしょうが。
871世界@名無史さん:2008/09/14(日) 23:12:47 O
ほしゆ
872世界@名無史さん:2008/11/09(日) 14:15:34 0
やる夫が光武帝になるようです

ttp://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/part4vip/1226204254/

\(^o^)/ ハジマタ
873世界@名無史さん:2008/11/15(土) 02:50:21 0
案の定、このスレから行ったらしきやつらが半端なこと言ったりツッコミ入れたりして
歴史議論スレになりかけてるな

詳しくないやつやほとんど知らない人もかなりいるだろうから「ネタバレ」と議論はほどほどに
874世界@名無史さん:2008/12/22(月) 21:28:05 0
「中国皇帝歴代誌」P51には

>光武帝は生まれついての指導者だった。

とある。家柄と実績だけから考えりゃそうもなるか。
875世界@名無史さん:2008/12/31(水) 16:59:14 0
セラメトロポリスとは長安のギリシャ人やローマ人の呼び名である。
876世界@名無史さん:2009/01/01(木) 20:20:44 0
シナイメトロポリスとは洛陽のギリシャ人やローマ人の呼び名である。
877世界@名無史さん:2009/01/05(月) 23:30:01 0
やる夫スレで史書の話が出てるのを見て漢書の班彪・班固・班昭
を思い出した。班彪は陰麗華とほぼ同世代、班固は次世代で班昭
は光武帝死去時はまだロリだったんじゃよな。

班昭をイメージ検索すると…これは中国において萌えキャラ扱い
されてるのだろうか。
878世界@名無史さん:2009/01/05(月) 23:34:41 0
光武帝に興味出てきたんで彼についての本を読みたいと思うのですが、
全訳後漢書はおすすめでしょうか?
自分なりに調べた結果、光武帝に関する日本語の本はほとんどないようなので
もう後漢書を読むしかないかな、と…。
879世界@名無史さん:2009/01/06(火) 14:46:21 O
>>878
お薦めも何も正史から入るのが一番間違いないし、基本だろう。
880世界@名無史さん:2009/01/06(火) 23:54:38 0
>>879
初めて読む本としてどうなのかな、と思いまして。
実は他にもっといい訳の本があったりするなら紹介していただけないでしょうか。
881世界@名無史さん:2009/01/07(水) 00:04:41 0
>>880
光武帝に関する良質の資料、図書は日本ではほとんど無くてね。
最初から後漢書を読むのが良いと思う。
どうしても後漢書を最初に読むのが嫌なら、
このスレを一通り読んだ後、
WIKIで紹介された人物を片っ端から調べていくと幸せになれる。

光武帝の時代の人物に関するWIKIはなぜか異様に充実してて、
群雄の配下武将まで詳細な記述がしてあって、かなり参考になると思うよ。
後漢書では記述があちこちの伝記に分散して書いてあって、
どういう奴なのか良く分からない人物でも、
WIKI読めば楽に把握できます。
882世界@名無史さん:2009/01/07(水) 20:04:20 0
>>881
丁寧なレスありがとうございます。
私もwikiで光武帝に興味を持ちまして、そこでせっかくだしちゃんとした文献を
読んで知識を身につけようと思って相談させていただきました。

全訳後漢書は↓のものを買おうと思っています。
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/30926876

値段が少々はるので気後れしましたが、アドバイスどおりこれから読んでいくことにします!
今は手持ちがないので月末に買うことになりそうですけど…。
883香川のトリッピー:2009/01/11(日) 12:20:04 0
こんないいスレがあったとは...。
フリーゲームサイト soresuta.jpを作成している
ものですが、いま作っている戦略ゲームシステムの
殻をを利用して、将来光武帝のゲームも作ってみたいので
47〜59レスのように、当時の武将・勢力情報等があれば
貼り付けお願いいたします。
884世界@名無史さん:2009/01/12(月) 20:28:54 0
>>883
 47〜59くらいで音を上げなさんな。おそらくこのスレをじっくり読んでい
けば、殆どの情報は手に入ると思いますよ。その後で、この人物について知
りたいと思えば、wikipediaに当たると良いでしょう。
 お願いするのは、その後。こことwikiで違っていたりして、不明な点を教
えて下さいと聞けば、運が良ければ答えてくれる人がいるかもしれない。
 
885煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/01/31(土) 07:55:04 0
ご無沙汰。317の修正

 『河北参内組』
 河北へ渡った劉秀を追った者。更始を見限り劉秀を頼っている。
 王郎挙兵前…ケ禹、賈復(推薦付)…643の理由。
傅俊…劉秀が河北に討つと聞いて、邯鄲で合流ということは、王郎挙兵
前。
堅鐔(推薦付)…主簿になり後に偏将軍ということは、馮異と同じ。馮異
が偏将軍になったのは、劉秀が信都郡に入って兵を集め、その長とする
ためで、同時期に劉秀配下で任光や邳彤など将軍職が生じている。
陳俊(推薦付)…劉嘉の推薦で曲陽の県長から安集掾(徴兵役)に転身
ということは、赴任前で河北が動く前。赴任後、王郎挙兵後であれば、
他の例から偏将軍・騎都尉に任命され、治安維持のため県長兼務にな
った筈。
王郎平定後…劉隆…河内射犬に劉秀を訪ねることから、劉秀が肅王になった後
 ?杜茂…河北において光武に帰すでは、何時の時点か不明。
886世界@名無史さん:2009/02/09(月) 20:29:13 0
久しぶりに煽り君氏の書き込みを見たので記念age
887煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/02/10(火) 22:34:15 0
書き込みしなかった時、何していたかというと、やっぱりこの新末後漢初のことを
馬鹿みたいに考え込んでいたんですね。で、考えたら、疑問も氷解して、ああそうか、
と分かることも多かったんですよ。でも問われずに話そうとは思わない。只、自分
の思い違いがこのスレに残っているのが嫌でも目に付くので、それだけは正します。
何かと言えば、488で、耿純が舞陰王李軼に諫言するとあって、608で訂正していますが、
608>(4)耿純は舞陰王李軼に会ってはおらず、他の誰かと間違えられた。
608>これが一番妥当と思う。
これが誤りだと分かりました。
608>(1)五威中郎将李軼がまだ舞陰王となっていない頃の話が、舞陰王として書かれている、と考える。
608>しかし、これは逸話の中で、耿純が李軼を「大王」と呼んでいるので難しい。
この(1) が正しいのです。理由は賈復伝(このスレの463)で、賈復が漢中王劉嘉に
諫言しているのですが、劉嘉が漢中王になったのは、更始が長安に遷都した更始二年
二月以降、賈復が柏人で劉秀の配下となったのは、王郎の挙兵(更始元年十二月)前
です。つまり、賈復がまだ王と成っていない劉嘉に諫言した際、劉嘉を大王と呼んで
いるんですね。つまり漢書の編者・班固は、時制の統一で、まだ漢中王でない劉嘉を
漢中王として扱い、それがために賈復の言において、劉嘉を大王と呼ばせているんで
す。ならば、耿純がまだ舞陰王と成っていない李軼に対して大王と呼んでいても問題
は無い。寧ろ、このように同じ原則で列伝を書く方が自然です。

だから、それこそ馬鹿みたいに考え込んでいたってんですよ。
888煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/02/11(水) 07:40:39 0
>>887
呆けているなあ。朝目が覚めて気づいた。漢書も後漢書も一緒こたになっている。
漢書の編者・班固 じゃなくて 後漢書の編者・范曄 だ。

889世界@名無史さん:2009/02/15(日) 17:21:05 0
>煽り君氏
>ならば、耿純がまだ舞陰王と成っていない李軼に対して大王と呼んでいても問題は無い。
>寧ろ、このように同じ原則で列伝を書く方が自然です。


『後漢紀』で耿純が李軼に説いた内容

「將軍以龍虎之姿,風雲之時,奮迅而起,期月之間,兄弟富貴。コ信不聞於士民,功勞未施於百姓,
而寵祿暴興,此智者之所忌也。競競自危,猶懼不終,而況沛然自足,可以成功者乎?」

『後漢書』で耿純が李軼に説いた内容

「大王以龍虎之姿,遭風雲之時,奮迅拔起,期月之閨C兄弟稱王。而コ信不聞於士民,功勞未施於百姓,
寵祿暴興,此智者之所忌也。兢兢自危,猶懼不終,而況沛然自足,可以成功者乎?」

以上のように微妙に違う。
『後漢紀』の方が『後漢書』よりも成立が五十年ばかり早いので、
たぶん范曄が時制を統一して分かりやすくするために将軍を大王と書き換えたんだろ。
要らんことしぃの范蔚宗。
890煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/02/15(日) 20:16:55 0
>>889 ターチェ

納得です。ちなみに、出典がネット上にあれば、教えて頂けないでしょうか?
中央研究院で、二十五史は検索できるので『史記』『漢書』『後漢書』は見
れるのですが『後漢紀』は知らないので(明徳出版社の訳は、後漢末の部分
だけで、三国志関連ならおもしろいのですが)。
891世界@名無史さん:2009/02/15(日) 21:46:22 0
>煽り君氏
はい、中華文化網離線閲覧〜! by大山のぶ代

http://ms.chgsh.chc.edu.tw/~chi/chi_ebook/

唐代までの漢籍ならたいていが揃っている。
後漢なら『東観漢記』『後漢紀』『後漢書』『八家後漢書』が読める。
宝の山じゃ〜!
892煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/02/16(月) 22:30:02 0
>>891 多謝多謝ターチェ

大山のぶ代って『黄土の嵐』の青嵐おばさんか。また渋いところをとか言っ
たりして。

ホンとお宝ですね。『後漢紀』をちらっと見ただけで、面白いことが分かり
ますね。

えっ、馮異って昆陽戦の前の三月に降っていることになっているのか? 

劉秀が祭遵に「我に従わんと欲せざるや?」と訊いて、祭遵が「従うる
ことを願えり」と答えているとか。

いやー、眼福眼福。
ちなみに『東観漢記』は大枚はたいて古書店で買っているので、今更とい
うか、もっと早くネット上にあるのを知っていればと、涙目。
893世界@名無史さん:2009/03/22(日) 07:18:27 0
新末は三国時代よりレベルが低い

曹操>>>>>>>>>>>廃后、宦官重用で王朝滅亡の遠因を作った匹夫光武帝
荀ケ>>>>>>>>>>>常敗将軍ケ禹
張遼>>>>>>>>>>>>>>>>>>裏切り者ケ奉に殺されかける雑魚賈復
鍾会>>>>>>>>>>>延岑を勝手に処刑する野蛮人呉漢
張飛>>>>>>>>>>>>>>>>>>公孫述の刺客に暗殺される馬鹿岑彭

新末は三国時代よりレベルが低い
894煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/03/22(日) 22:41:01 0
『後漢紀』で劉秀が河北に旅立った時、以下のような劉嘉と朱祐の会話が記載
されている。

劉嘉が朱祐に訊く「君は何処に行く」
朱祐「長安へ」
劉嘉は素より劉秀を買っており、朱祐がその旧知であることを知っていた。
劉嘉「君は劉公と良い仲である。何故北に行かぬ? 我には有能な吏がある。
これを劉公に託さんと欲す」
朱祐「もし宜しければ、共と願わん」
則ち車馬を与え、賈復、陳俊と共に朱祐は北行し、柏人で劉秀に追いつく。

『後漢書』では3人が同道したとは書かれていないが実はそういうこと?
895煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/04/18(土) 21:59:09 0
『後漢紀』ネタ、まだまだ続きます(殆ど私の念仏と化しているが)。

更始帝の乱脈ぶりで、趙萌が専横する所、ここも『後漢書』と微妙に違う。

議郎に諫言する者有りて曰く「(趙)萌は放縱で、県官はただ趙氏家の語
を用いるのみ」、更始怒いて剣を抜きて議郎を斬った。時に御史大夫隗囂
傍らに在りて、起ちて左右に曰く「中事を漏らすこと無きよう」。(趙)
萌嘗ての私事を以て侍中を下して之を斬らんとし、侍中叫んで曰く「陛下
我を救われよ」更始曰く「大司馬之を哀れみよ」 (趙)萌曰く「臣、詔を
奉らず」と遂に之を斬る。

解釈の正確さは置いておいて、御史大夫隗囂がここにいるのが不思議。
『後漢紀』は編年体なので、この逸話は更始二年の二月から四月のことに
なる。隗囂が御史大夫に為るのは、この後の『後漢紀』にある通り、赤眉
が司隷に侵入した頃、叔父隗崔・兄隗義が背いて西帰ろうと欲し、災禍を
恐れた隗囂が更始帝に密告し、忠が認められたから。更始二年冬のこと。
896世界@名無史さん:2009/04/28(火) 21:42:18 0
age
897世界@名無史さん:2009/05/09(土) 14:09:43 0
>>895
順番を見ると、
二月,更始西至長安。
から始まり、
李松、趙萌說更始宜立諸功臣為王・・・(中略)・・・隗囂為御史大夫。
というのがあって、このあと、
初,隗囂被徵將行,方望止之曰
・・・(中略)・・・
囂詣長安,更始以囂為右將軍,季父崔為白虎將軍,義為左將軍。
既而崔、義謀叛西歸,囂懼并誅,即求見而告其謀,二人誅死。
更始以囂為忠,故以為御史大夫。
・・・(中略)・・・
夏四月,攻邯鄲。
まで文全体の時制がないから、多分二月から四月の間に異姓諸王の封国があり、
その時隗囂が御史大夫に封ぜられたが、それは何故かってのを
初,隗囂被徵將行,
以降が説明している形なんだと思う。
囂詣長安・・・(中略)・・・故以為御史大夫。
の中に『後漢書』にはあった「其冬」の字が、『後漢紀』にはないんだよね。
898煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/05/11(月) 21:55:56 0
>>897

それで理解できました。要するに趙萌の専横は更始2年の2月くらいに
始まって、冬に隗囂が御史大夫になった時もそのまま続いていた。但し、
『後漢紀』ではその専横振りを2月と4月間に、全部書いてしまったと。

そう考えると、赤眉が長安目指して進行しているのに、更始帝の朝は、
何というていたらくだったのか、ということになる。
899煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/05/14(木) 22:02:05 0
『後漢紀』の更始帝敗亡の所も『後漢書』と細かい所で違っていて面白い。
『後漢書』では更始帝は単騎で高陵に向かったとあるが、それが違う。


九月、赤眉は長安に入り、更始帝は渭浜(渭水の浜辺の意味か)に出る。式侯劉恭は
盆子が立てられた故、自から役人に縛られたが、赤眉が入って、吏民は奔り、三枷を
つけたまま獄中より出る。定陶王劉祉が見つけその枷を解いて言うに「帝は渭浜に在
り」。遂いに舟中にて更始帝に相随う。
弘農太守公乗歙は京兆尹解ツに謂って曰く「帝を弘農に送り入れたれば、我が自らこれ
を保たん」。解ツ曰く「長安は既に破れ、吏民は信ずべからず」。右輔都尉厳本、更始帝
を失い、その為に赤眉に誅される所となるを恐れ、即ち曰く「高陵には精兵有り、往く
べし」。
時に、虎牙将軍軍劉順、定陶王劉祉、尚書任延君、侍中劉恭步みて当に更始帝高陵に至
らん。 厳本当に軍兵城守せんと、外を宿衛するが如く、内実これを囲む。


単騎じゃなくて、何人かの部下を連れていたことが分かる。そしてこの後、更始帝は
赤眉に投降し、その後に殺される。一方、劉順・劉祉がどうなったかというと『後漢書』
の記述では間道を抜けて洛陽に落ち延びている。劉玄・劉恭と劉順・劉祉は離別すること
になったが、そこにどんな経緯があったか、実に知りたい所。
900煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/05/19(火) 21:15:53 0
>>899 に補足、公乗歙のこと

『後漢紀』では弘農太守公乘歙とあるが、
『後漢書』では更始中郎將左輔都尉公乘歙とある。

『後漢書』では『ケ禹伝』に顔を出し、左馮翊に入ったケ禹に敗れている。
これは、『後漢紀』か『後漢書』のどちらかが誤っているか、公乗歙が
(敗戦後だから考えにくいが)左輔都尉から弘農太守に遷ったの何れか
なんでしょうね。
901世界@名無史さん:2009/05/21(木) 23:19:40 0
万里を径り 砂漠を度って
君が将と為りて 匈奴に奮う
路窮まり絶えて 矢刃くだけ
士衆滅びて 名已に墜つ
老母已に死せり
恩に報ぜんと欲すと雖も 将た安くにか帰せん

  李陵「歌」
902世界@名無史さん:2009/05/29(金) 16:39:03 O
柴田錬三郎『英雄三国志』の一巻p.330(「業火」の一)に、
「更始・赤眉の二族が反逆して、焼きはらって以来」
という記述があるんだけど、
更始帝って逆賊なの?
岩波版原典の当該部分はどっちとも取れる書きようだった。
吉川三国志では更の字も出てこない。
この時代のこと全く知らないので解説頼んます。
903世界@名無史さん:2009/05/29(金) 20:20:40 0
王莽の新にとっては逆賊だったといえる
でも、傍流の傍流とはいえ前漢の皇室の流れの劉氏だから逆賊というのは違うような…
政治的駆け引きの結果とはいえ、一時はあの光武帝も更始「帝」に従ってたわけだし
904世界@名無史さん:2009/05/29(金) 21:43:43 0
鼎立してた相手を賊扱いするのは勝者の特権
905世界@名無史さん:2009/05/30(土) 09:19:29 O
更始帝は光武帝が王に封じてたから逆賊扱いはちょっと微妙なような。
906世界@名無史さん:2009/05/30(土) 11:00:12 0
>>902
そもそもそれ小説だろ
907902:2009/05/30(土) 11:13:22 O
d
後漢の重臣が更始帝を逆賊呼ばわりはおかしいってことでFAですな。

演義の
「さきには王モウの逆謀のため、更始帝と赤眉の賊のわざわいによって、長安は焼かれて、」
のところを誤読したんだろうな
908煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/06/13(土) 09:56:45 0
>>899 に補足

『八家後漢書』の『謝承後漢書卷二』に『後漢紀』の裏付けが書かれてある。

赤眉が長安に入った時、式侯(劉)恭、弟盆子が赤眉が尊きとする所の為、
自から繋がれる。赤眉が至って、更始が奔走し、式侯は獄中より出る。
三枷のまま街中に出ると、京兆尹解ツと逢い、呼んで曰く「解君、我を
載せろ。我、更始の忠臣なり。帝敗れ、我の弟、また赤眉の立てる所と
為る」 (解)ツは後車にこれを載せさせる。前行を見ると定陶王劉祉で
ある。(劉祉は)その枷を解いて言う「帝は渭(水)中の船上に有り」
遂いに相隨い更始に見える。

若干差異があるといえ、氾書『後漢書』だけでは、この辺り全く誤魔化
されますね。ちなみに劉恭は「更始」と呼ばずに皇帝、上、陛下と呼ん
でいたのでしょうが、史家が更始としている。
909世界@名無史さん:2009/06/27(土) 18:13:25 0
【宇宙】宇宙線起源は超新星爆発 中国の歴史書「後漢書」に目撃証言が残る西暦185年の超新星の残骸の観測で裏付け 国際チーム
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1246088324/
910煽り君 ◆ZF7JrzrqbA :2009/06/27(土) 19:59:25 0
『後漢書』/志/志第十二 天文下/靈二十の

中平二年十月癸亥,客星出南門中,大如半筵,五色喜怒稍小,至後年六月消.占曰:「為兵.」

かな? 霊帝の頃で黄巾賊が一応平らげられ、いよいよ三国志で活躍する人物たちが
ちらほらする頃ですね。
911煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/06/27(土) 20:02:57 0
いけねトリップ間違えた。
912煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/07/07(火) 23:22:22 0
馮異が李軼に宛てた手紙の微妙な差異について
『後漢書』
「愚聞明鏡所以照形,往事所以知今。昔微子去殷而入周,項伯畔楚而歸漢,周勃迎代王
而黜少帝,霍光尊孝宣而廢昌邑。彼皆畏天知命,存亡之符,
見廢興之事,故能成功於一時,垂業於萬世也。笱令長安尚可扶助,延期歲月,疏不關e,遠不踰近,季文豈能居一隅哉
今長安壞亂,赤眉臨郊,王侯搆難,大臣乖離,綱紀已絕,四方分崩,異姓並起,
是故蕭王跋涉霜雪,經營河北.方今英俊雲集,百姓風靡,雖邠岐慕周,不足以喻。
季文誠能覺悟成敗,亟定大計,論功古人,轉禍為福,在此時矣。如猛將長驅,嚴兵圍城,
雖有悔恨,亦無及已。」
『後漢紀』
「愚聞明鏡所以照形,往事所以知今也。昔微子去殷而入周,項伯叛楚而歸漢,周勃迎代王
而黜少帝,霍光尊孝宣而廢昌邑。彼皆畏天知命,重祖宗而憂萬民,睹存亡之符效,
見廢興之必然,故能成功於一時,垂業於萬世。
今長安壞亂,赤眉在郊,王侯構難,大臣分離,朝無紀綱,而四方分崩,異姓並起,此劉氏之憂也。
故蕭王跋涉霜雪,躬當矢石,經營河北。英俊雲集,百姓歸往,豳岐見慕,不足為喻。
今馬子張皆復親幸爵位如此,謝躬達戾伏辜如彼,又明效也。
季文誠能覺悟,亟斷大計,論功古人,轉禍為福,在此時矣。如猛將長驅,嚴兵圍城,
雖有悔恨,亦無及已矣。」

ぱっと見て大きな違いは『後漢紀』には

 今、馬武(字は子張)がこの様にまた爵位を幸いにし、謝躬達はかの如く罪に伏したのは明らかなり。

って一文があること。手紙すら正確に後世に伝わるわけではないことは注意すべきですね。
913煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/07/09(木) 20:32:22 0
光武帝と景丹の最後のやりとりの差異
『後漢書』
會陝賊蘇況攻破弘農,生獲郡守.丹時病,帝以其舊將,欲令強起領郡事,乃夜召入,謂曰
:「賊迫近京師,但得將軍威重,臥以鎮之足矣.」丹不敢辭,乃力疾拜命,將營到郡,十
餘日薨.
『後漢紀』
是月,陝人蘇況反,殺弘農太守。上夜召景丹,以檄示之曰:「弘農太守無任為賊所害,今聞
赤眉從西方來,恐蘇況舉郡以迎之。弘農迫近京師,今將軍雖疾病,但臥而鎮之耳。」即拜丹
為弘農太守,將其所領西至郡,十餘日丹薨。

疑問は、弘農太守は蘇況に生け捕られたか、殺されたか、どっちなんだい?
この弘農太守が誰というのも分からない。案外、公乘歙だったりして。
それから面白いのは、光武帝がこの時点で赤眉の東部戦線への移動を気付いて、
蘇況が赤眉と合するのを恐れて景丹を弘農郡へ送ったというのが、『後漢紀』で
初めて分かるということ。景丹も重大事故に無理したんだなと、『後漢紀』
記述によって分かる。

>>891さん、ありがとう。おかげさまで大いに楽しませて貰っています。
914煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/07/26(日) 12:39:46 0
しまった。
ずっと鋸鹿と書いていた。本当は鉅鹿。
915煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/08/29(土) 15:44:10 0
建武四年五月の記述比較
『後漢書』本紀
五月,進幸元氏.辛巳,進幸盧奴、遣征虜將軍祭遵率四將軍討張豐於涿郡,斬豐。
(進んで元氏に御幸し、進んで盧奴に御幸し、征虜将軍祭遵を遣わし四将軍を率い
張豊を涿郡に討たしめ、張豊を斬る)
六月辛亥,車駕還宮.(車駕、宮に還る)

『後漢紀』
五月,上幸盧奴。初,上征彭寵,過盧奴而還。諸將問吳漢曰:「敵未破而上還,何也?」
漢曰:「陛下曉兵,還必不虛。」上告諸將曰:「狡賊出魏郡,在人後,故還也。」
(上盧奴に御幸する。初め、上は彭寵を征しようとして、盧奴を過ぎて而して還る。
諸将軍呉漢に問いて曰く「敵今だ破れず而して上還る、何なり?」呉漢曰く「陛下
は兵に明るい、必ず不虚にせんと還る」上諸将軍に告げて曰く「狡猾な賊が魏郡に
出、人を後ろに残している故に還るなり」)

『後漢書』の伏湛伝を見ると、伏湛が彭寵親征を諫めている奏上が載っている。素直に
読むと、洛陽に置いて奏上を受け、親征をすれば、兵糧もままならぬ遠地で、都を留守
にしているため、賊が乗じて危険だとの諫言を受けて、光武帝は親征を止めた様に見え
る。しかし、実際は彭寵親征を行っている。
これは伏湛の奏上を彭寵親征中の盧奴で受け取ったとすれば、『後漢紀』の記述も併せ
て、全て辻褄が合う。
916世界@名無史さん:2009/09/10(木) 21:14:15 0
−なぜ新王朝は失敗したのか− 王莽
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1242094295/l50
917世界@名無史さん:2009/09/11(金) 01:59:46 0
光武帝の李軼に対する仕打ちは非情。
918世界@名無史さん:2009/09/11(金) 03:01:32 0
光武帝の後が光禿帝だったらなあ
919世界@名無史さん:2009/09/15(火) 15:23:56 0
気になったことなんですが、伏湛伝の建武五年の河南尹と司隷校尉の争論って、
河南尹は多分王梁でしょうけど、司隷校尉は誰か判る方居られますかね。
何か王梁弾劾の件にも一枚噛んでそうで面白そうなのですが。
920煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2009/09/15(火) 22:40:17 0
>>919
建武五年に河南太守は欧陽歙。『後漢書』列伝七儒林伝第六十九上の
欧陽歙伝に「建武五年、事に坐して官を免じられる」とある。
同じく王梁伝に「(前略)五年、山陽太守を拝す。(中略)数月して
徴されて入り、欧陽歙に代わりて河南尹となる」とある。
司隷校尉の名は不明。
921世界@名無史さん:2009/10/06(火) 21:40:38 0
>>918
洪武帝によって歴史から抹殺されてたなw
922世界@名無史さん:2009/12/11(金) 21:35:19 0
二十八将で最強って誰?
賈復?耿エン?
923世界@名無史さん:2009/12/11(金) 22:18:36 0
>>922
どういう意味で?
武勇なら馬武か賈復。
指揮能力なら馮異だろう。耿エンはやや馮異に劣るかな。
924世界@名無史さん:2009/12/11(金) 22:21:43 0
最強は最強だろ池沼
ヒョードルを一々パンチの強さとかで計るような真似してんじゃねえ
925世界@名無史さん:2009/12/11(金) 22:28:48 0
【話題】今年の漢字は「新」
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1260508389/

鳩山は王莽だったのか
926世界@名無史さん:2009/12/11(金) 22:45:46 0
王莽さん可哀想です
927世界@名無史さん:2009/12/13(日) 13:31:55 0
http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/
■ 京都・清水寺で毎年、発表される「今年の漢字」は、「新」となったようである。。
 しかし、「新」と聞いて、古代中国・・前漢の崩壊後に十数年だけ存在した王朝、
「新」のことを思い起こした人々は、どれだけいるであろうか。
 「新」とは、前漢の外戚であった王莽が樹立した。
 王莽は、日本では「姦臣」の代表のように語られた。
 『平家物語』の冒頭にも、次のように記される。

  祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
  奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ。
  遠く異朝を訪へば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の禄山、此れ等は皆、
  旧主先王の政にも随わず、楽を極め、諫をも思い入れず、天下の乱む事を悟らず、
  民間之愁る所を知ざりしかば、久しからず亡びし者どもなり。

 どこかの「剛腕・幹事長」を思い起こさせる記述である。
 / 旧主先王の政にも随わず   ― 皇室のルールを平気で曲げている。
 / 楽を極め、            ― 六百人も随行させて訪中とは御満悦であろう。
 / 諫をも思い入れず        ― 諫言らしきものをした同志は遠ざけられてきた。
 / 天下の乱む事を悟らず     ― 日米関係を平気で乱している。
 / 民間之愁る所を知ざりしかば ― 「鳩山不況」に責任は負わないのか。、

以下略
928世界@名無史さん:2009/12/13(日) 13:32:58 0
糞ブログの宣伝してんじゃねえよハゲ
929世界@名無史さん:2009/12/13(日) 15:48:45 0
四悪人の空気、またの名を蕭衍さんの提灯持ち事
周異(仮)さんは何時になったら名前が統一されるの?
930世界@名無史さん:2010/01/23(土) 12:35:45 0
ttp://info.yomiuri.co.jp/release/201001221249-1.htm
>中国で革命を起こして皇帝の位に即(つ)いた英雄に魅力のない人はいない。そのなかでも特に私が好きなのは後漢王朝を樹立した光武帝かもしれない。
931世界@名無史さん:2010/04/17(土) 23:34:21 0
今から考えると、劉邦ら漢首脳陣って現代日本でいう童話の連中だよな?
陳平は葬儀屋だし、樊會は肉屋だし、夏侯嬰は御者だし、碌な連中じゃないよな・・・。
932世界@名無史さん:2010/04/20(火) 12:56:56 0
保守
933世界@名無史さん:2010/04/20(火) 13:14:10 0
>>931
劉邦って豚殺しの親方じゃないの?
ますます童話じみて来た。
934世界@名無史さん:2010/04/20(火) 14:02:49 0
>>931
陳平は無職。葬儀屋は周勃

>>933
劉邦は亭長という末端の小役人。
935世界@名無史さん:2010/04/20(火) 22:28:22 0
古代中国社会が能力主義にシフトしていく流れはたぶん戦国あたりから始まってて
秦漢交代が中国史上最初でたぶん最大のピークだと思うし
そういう社会の仕組みとか身分制度が揺らいでる時代は
何かお話がかった事が多いんでないかい
鶏鳴狗盗なんてそれ自体童話っぽいけど
腕次第で成り上がれる時代になりつつあったことを象徴してる事件と言えそうだし
商人の呂不韋が秦の宰相になったのもその流れに入ってるかもしれない

田中角栄が高等小学校卒で首相になったとか今じゃまずあり得ないのと似たようなもんかな
936世界@名無史さん:2010/04/20(火) 23:26:58 0
>>935
強引に光武帝の時代の話題に戻すけど、
雲台二十八将にも家柄もコネも無く、
腕だけでのし上がった奴多いよね。
937世界@名無史さん:2010/04/21(水) 01:18:55 0
話の流れ上>>935では後漢の話を省いてたけど、むしろ両漢交代の頃になると
功臣も群雄もインテリ・豪族・高官っていう社会の上層の連中が多くて
それは漢初よりも社会階層が固まってきてたことの現れだと思うんだよね
もちろんこういうエリート層に属する連中でも無条件に勝ち残れた訳じゃなくて
競争を生き残ったんだから能力主義の時代には変わりないんだけどね
938世界@名無史さん:2010/04/21(水) 08:43:14 0
どっちかっていうと、雲台二十八将は特別じゃないかな。
彼らがそうやって特別視されるようになったのも、彼らが光武帝についた時期の大司馬劉秀の勢力が、
南陽の革命勢力から出た、それもメインストリームじゃない、比較的勝ち目の薄い方だったから。
帰属勢力を選ぶことの出来る立場である中央の高官クラスの子弟が希少なのも当然だし、
元が地方の属官出身の人が多いのは当然っちゃ当然。
一番メジャーではあるけど、光武帝の時代の家臣一般とはちょっと言い難い。

ちゅうか、戻すも何もここ両漢全般のスレであって別に光武帝個別のスレじゃない。
939世界@名無史さん:2010/04/21(水) 19:54:05 0
>1
940世界@名無史さん:2010/04/21(水) 20:59:59 0
>>938
光武帝の出身母体である更始軍は反新勢力の主流中の主流なんだけどな。
でも、その中心メンバーはほとんど南陽豪族か盗賊で、中央の高官クラスの子弟はほとんどいない。
光武帝の勢力はさらにその傍流。だから、最初は地方の下級官吏か無官の人間しか付いてこなかった。
まあ、河北で太守クラスの高級官吏の子弟や大豪族も付いてくるけど、
光武帝陣営ではそんなに身分の高い人間は少数派だね。
ほとんどが小豪族か地方の官吏か盗賊。
光武帝陣営に元の身分の高い人間が少ないのは、
母体の更始帝陣営にも大して身分の高い人間が多くなかったからだと思うよ。
941煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2010/04/23(金) 22:11:07 0
最近まで書き込こまれていないけど、この新末後漢初期で面白いなと
思ったのは太守たちなんです。
名太守として、名が上がりそうなのは(当たり前すぎて面白くないが)
寇恂、河内、潁川、汝南を歴任
耿純、前後十数年、東郡太守
ケ晨、常山、(九江)、中山、汝南を歴任
王覇、二十余年、上谷太守
陳俊、泰山太守として十年
李忠、行信都、丹陽、予章を歴任
銚期、魏郡太守を四年
祭肜(祭遵の従兄弟)、遼東太守を二十八年

他にも、大司徒に上った伏湛や侯覇という名太守がいるが、個人的に
凄いなと思って、知られていないのが惜しいと思うのが
942煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2010/04/23(金) 22:12:52 0
郭伋
哀帝の時に、漁陽都尉。王莽の時に上谷太守、并州牧。ついで更始帝
の時に左馮翊。光武帝の時に雍州牧、尚書令、中山太守。彭寵の後の
漁陽太守。冦賊が出た後の潁川太守。再び并州牧。大司空にという声
があったけれど、辺境を離れさせる訳にはいかないと鎮守に置かれた
名太守・州牧。誰の下にいても才を発揮した能吏。
943煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2010/04/23(金) 22:14:09 0
杜詩
王莽・更始帝の頃も役人をしていて、光武帝の時に侍御史となり、洛
陽の治安を守る役について、横暴な偏将軍を殴り殺して、光武帝から
節の代わりに戟を貰ったという武闘派。河東郡で逆賊を討伐し、河南
の県令、沛郡都尉、汝南都尉として治安に才を見せて、南陽郡太守と
なる。凄いのは農設備や工具を発明して農民にありがたがられるとい
う希有な存在で、何の功も立てていませんと謙虚で、伏湛を始めとし
て能ある人は推薦したという立派な人物。
944煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2010/04/23(金) 22:17:14 0
丁邯
范曄の『後漢書』の列伝に上がっていなくて、志、つまり司馬彪の『
続漢書』で補われた部分に名がある。なぜか列伝に名が挙げられてない。
この人、何が凄いって、バカ正直。孝廉で郎中になるけれど、病と称
して辞退する。光武帝が本当に病なのかそれとも恥じたのかと書で訊
いたら、恥じてですと答える。そこで光武帝は、衛兵に杖で笞打たせ
てやると怒るのだけど、その前に仔細を訊ねると、自分にはその能が
無いので、(吏を良く殺す皇帝に)殺されてしまいますと答えて、何
とか咎めを受けずに済む。
 後で、漢中太守になるのだけれど(実は光武帝が漢中郡を何時掌握
したかは不明)、妻の弟が公孫述の将軍になってしまって、その妻を
牢獄にやって、冠を脱いで徒で出頭(自首)する。まあ、光武帝です
ので、咎めることは無かったけど。そこまでやるかという人です。異、
つまり凡庸な人では無いと認められています。

945煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2010/04/24(土) 08:10:58 0
>941 訂正 王覇の上谷太守は三十七年でした。
946煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2010/04/24(土) 08:12:19 0
樊曄
光武帝がまだ微賤の頃、新野で捕まったことがある。その時、市の役
人であるのに、一笥餌を差し入れたのが樊曄である。即位した光武帝、
忘れずに召して、待御史と為し、更に河東郡都尉と為し、天子の食事
乗與服物を賜う。光武帝、劉秀は戯れて曰く「一笥餌にて都尉を得た
り。如何」と訊けば、樊曄、頓首して謝せり。
樊曄は揚州牧に遷り、ただ法に引っ掛って軹の長に左遷されたが、
光武帝は馬成の後の天水太守とした。
酷吏伝にある人で、刑罰が厳しく、獄に入ったら生きて出られない
と言われている。そのお陰で天水はすこぶる治まった。
947煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2010/04/24(土) 08:13:41 0
張堪
南陽の豪族の出で、早くに父を亡くすが、その父の余財を兄の子に与
える。十六才で学業を長安に受けて聖童と囃され、微賤の頃の光武帝
もその志操をよみし、中郎将来歙の推挙によって郎中と為り、三度遷
って謁者と為り、蜀への遣いの最中に蜀郡太守となる。
 呉漢が兵糧切れで撤退を考えていた時に、公孫述は必ず敗れますと
撤退すべきでないと進言し、呉漢は劣勢に見せかけ出てきた公孫述を
撃った。成都が落ちた時には真っ先に乗り込んで、蔵を検閲し、その
財宝を保全し、僅かも私物化せず、吏民を慰撫した。
後に騎都尉となり漁陽太守となって匈奴と戦う。この時に、蜀郡太
守時代の話、公孫述が山のように財宝を残したのに、張堪が郡を去る
時は轅の折れた車に布の袋だけだったと、光武帝の耳に入って、感心
される。
948煽り君 ◆ZCHj4hzGyA :2010/06/28(月) 21:57:29 0
訂正
>>945 何勘違いしてるんだか。前の二十余年が正しい。
>>947 『後漢紀』の記載で判明したが、光武帝でなく明帝が感心した。
   (『後漢書』では帝としか書かれていないから、てっきり光武帝
    のことだと思った)
949世界@名無史さん:2010/08/03(火) 00:05:06 0
光武帝は前漢の高祖に比べて、非常に人格者だと思います。なのにその開いた王朝は、
どこかが狂っているように見えます。外戚と宦官の間で常に争いがあり、
国が疲弊し、天変地異が続出しついに潰れてしまった。

後漢が下り坂になって行った理由は何でしょうか。光武帝の制度で何かマズイものが
あったのですか?
950世界@名無史さん:2010/08/03(火) 04:46:38 0
>>949
明帝死後、幼帝や暗君が続き、皇帝に近い外戚や宦官が権力を握ったから。
光武帝と明帝の築いた皇帝独裁体制は、名君ならうまく機能するが、
幼帝や暗君が玉座に就いたら、皇帝に近い人間が容易に権力を握れるようになってしまった。
951世界@名無史さん:2010/08/03(火) 20:37:25 0
某三国志研究サイトの分析で、范曄が後漢中期以降の政治に自分達南朝の人間の苦しみの原因を
求めたために記述がわかりにくくなった側面はあるんじゃないかみたいな話があったな。
後漢を実質的に滅ぼしたのは桓帝で、霊帝の施政は見方を変えると悪政ではないという話はちょっと考えさせられた。
中国古代の史書の結論を持って書き始める悪いところだな。

外戚宦官間の争いや後漢のgdgd要因については、三田村氏の有名な宦官研究の著書に書いてある通り、
また>>950氏の言うように幼帝続きだったことじゃないかな。
952世界@名無史さん:2010/08/29(日) 23:58:55 0
素人の今さらな疑問なんだが。

劉秀が親戚の租税のために厳尤に直訴に行く話があったけど、
光武帝紀の注では大司馬府に行くことになってる。
でもそういうのって大司馬の管轄なん?

地皇元年で厳尤がもう納言将軍だったら、納言=元の大司農だから
より辻褄あいそうだけど、どうなんでしょう。
職制とかわからん。だれかつっこみ頼む
953世界@名無史さん:2010/08/30(月) 01:01:22 0
実際、
954世界@名無史さん:2010/08/30(月) 02:30:19 0
注が引いた東観漢記のその箇所は、ある版本では「嘗為季父故舂陵侯訟逋租於大司馬嚴尤」になってて、
東観漢記の校注本は後漢書の李賢注を参照して「為季父故舂陵侯詣大司馬府」に書き換えてたけど
どれも地皇元年の事として書いてある。東観漢記校注本と後漢書注がループしてしまってるから真偽がわからない
本当に大司馬府に行ったんだとしたら、当時の税務訴訟は大司馬の管轄だったことを示す例とも言えそうだね
955世界@名無史さん:2010/09/03(金) 00:50:07 0
956世界@名無史さん:2010/09/03(金) 00:51:24 0
+ω+
957世界@名無史さん:2010/09/03(金) 00:53:50 0
(´・ω・`)
958世界@名無史さん:2010/09/03(金) 00:59:03 0
(*^□^*)
959世界@名無史さん:2010/09/03(金) 01:04:03 0
960世界@名無史さん:2010/09/03(金) 01:31:11 0
961世界@名無史さん:2010/09/03(金) 01:33:00 0
962世界@名無史さん:2010/09/03(金) 01:49:36 0
963世界@名無史さん:2010/09/03(金) 01:50:40 0
457 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 01:31:58 ID:we2mYGkJ0
ふと思ったんだが、弟の姉くらい髪長いとラーメンとかどうやって食うの?

普通の食事だったら茶碗や皿を手に持って自分の高さに合わせて食えばいいけど
ラーメンは片手で持つには地味に重いし底が熱いじゃん

どうやってくうんだろうな?
レンゲに麺を落として自分の口の高さまで持っていって食うのか
少なくとも顔をかがむことは出来ないはずだからなー髪が邪魔で

気を抜いたら自分の髪がスープに入るかも知れないl恐怖の中食べるラーメン
素晴らしいな
俺もロンゲにするかな
964世界@名無史さん:2010/09/03(金) 01:58:32 0
運毛
965世界@名無史さん:2010/09/03(金) 02:39:58 0
>>955-964
お前はこの世界から必要とされていない。自殺しろ。
966世界@名無史さん:2010/09/03(金) 21:22:56 0
消えろ
967世界@名無史さん:2010/09/03(金) 21:38:00 0
嫌です
968世界@名無史さん:2010/09/03(金) 23:26:51 0
消えろ
969世界@名無史さん:2010/09/04(土) 23:27:51 0
消えろ
970世界@名無史さん:2010/09/04(土) 23:28:47 0
971世界@名無史さん:2010/09/04(土) 23:30:37 0
くくく
972世界@名無史さん:2010/09/04(土) 23:33:53 0
光武帝最高
973世界@名無史さん:2010/09/05(日) 15:21:48 0
光武帝
974世界@名無史さん:2010/09/05(日) 15:26:08 0
光武帝
975世界@名無史さん:2010/09/05(日) 15:28:01 0
昆布帝
976世界@名無史さん:2010/09/05(日) 15:28:55 0
昆布マン
977世界@名無史さん:2010/09/05(日) 15:30:01 0
昆布だし
978世界@名無史さん:2010/09/05(日) 15:32:32 0
道南産昆布
979世界@名無史さん:2010/09/05(日) 15:37:50 0
日高
980世界@名無史さん:2010/09/05(日) 15:38:49 0
十勝
981世界@名無史さん:2010/09/05(日) 16:15:16 0
酢昆布帝
982世界@名無史さん:2010/09/05(日) 16:37:50 0
子持ち昆布
983世界@名無史さん:2010/09/05(日) 16:44:40 0
984世界@名無史さん:2010/09/05(日) 16:48:24 0
985世界@名無史さん:2010/09/05(日) 16:49:26 0
986世界@名無史さん:2010/09/05(日) 16:50:54 0
987世界@名無史さん:2010/09/05(日) 16:51:55 0
988世界@名無史さん:2010/09/05(日) 16:55:16 0
989世界@名無史さん:2010/09/05(日) 16:56:08 0
   /       \」   \
   /              ヽ
  /               ゞ
 │          __□□ |
 /_ ──  ̄ ̄ ノ───ノ ̄了
イ__─ ─  ̄ ̄_,,。--¨゚ ヽ ̄
__,,..。。-─¨゚゚´厂´  ヽ   ヽ
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|    /γのλ │ γ9勹 ヽ   │ 
│ │ `¨´ ││  ` ̄  ヾ  │
`│ ∧    ‖       ∧ │
  |  丶   凵@     / | |
   |  |ヽ    __    /  ‖
   | | ヽ \二/  / \   みんな〜
    ‖/ ヽ      /   \
     |  i  ゝ_ /    ヽ、_ヽ
    └二二⊃         l ∪
       |   ,、___,    ノ
       ヽ_二コ/   /
            /__/´
990世界@名無史さん:2010/09/05(日) 21:14:50 0

991世界@名無史さん:2010/09/05(日) 21:19:02 0
992世界@名無史さん:2010/09/05(日) 21:25:19 0
昆布巻き
993世界@名無史さん:2010/09/05(日) 21:26:34 0
コブ
994世界@名無史さん:2010/09/05(日) 21:30:44 0
995世界@名無史さん:2010/09/05(日) 21:32:23 0
桃巻
996世界@名無史さん:2010/09/05(日) 21:52:20 0
997世界@名無史さん:2010/09/05(日) 22:06:13 0
998世界@名無史さん:2010/09/05(日) 22:14:15 0
999世界@名無史さん:2010/09/05(日) 22:15:41 0
1000世界@名無史さん:2010/09/05(日) 22:17:01 0
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