1 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :
2 :
世界@名無史さん:01/12/19 01:27
馮道萌え。
3 :
世界@名無史さん:01/12/19 01:34
石敬塘はヘタレ
4 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :01/12/19 23:37
>>2 馮道は私も好きです。
後世では無節操だと叩かれてますが、
杜重威のような者とは違うわけで(w
同時代の人からは寛厚の長者と見られていましたし。
>>3 逆にいうと、勃興のただ中にあった契丹がそれだけ脅威だった
というわけですね。
もっとも、燕雲十六州割譲だの何だのは、やりすぎの感も
否めませんが。
5 :
世界@名無史さん:01/12/20 01:27
6 :
世界@名無史さん:01/12/20 23:34
五代はともかくとして十国の興亡についてわかりやすく教えて下さい。」
7 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :01/12/21 00:11
>>5 どもです。
金はともかくとして、遼は五代と切っても離せませんね。
>>6 一応、地理的な流れとしては以下のような感じです。
<江南>呉(902〜937)→南唐(937〜975)
徐知誥(呉の権臣徐温の仮子)が呉の皇帝から禅譲(形式的)を受ける。
<浙江>呉越(907〜978)
<湖南>楚(907〜951)
内紛の末、南唐に攻め滅ぼされる。
<福建>【門虫】(909〜945)
内紛の末、南唐に攻め滅ぼされる。
<湖北>南平(荊南。907〜963)
<四川>前蜀(907〜925)→後蜀(934〜965)
前蜀は後唐に滅ぼされる。その後、節度使の孟知祥が自立して後蜀を建てる。
<広東>南漢(909〜971)
<山西>北漢(951〜979)
要は、地方分権状態ですね。
8 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :01/12/21 00:12
>>7 訂正
誤:切っても離せませんね
正:切っても切り離せませんね
逝ってきます。
>>1 くだらない質問に答えていただきありがとうございます。
これからもちょくちょく質問させていただきますので
よろしくお願いします。
10 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :01/12/21 00:36
>>9=6
いえいえ、お役に立てれば幸いです。
またお立ち寄りくださいませ。
11 :
世界@名無史さん:01/12/21 05:54
後周の世宗って名君とされているけど
後に宋の太祖が回想して
「近臣のうちで『方面大耳』の者を殺したけど
自分は難を逃れた」とか言ってる。
人相だけで近臣を殺したのか?
12 :
世界@名無史さん:01/12/21 11:56
五代十国ってそれぞれ民族的には何に属しているのですか?
13 :
世界@名無史さん:01/12/21 12:10
>>1 ご専門は何ですか?まさか五代十国だけと言う事はないでしょう?
唐や宋との絡みですか?
14 :
世界@名無史さん:01/12/21 19:27
五代十国について書かれたよい入門書は何ですか?
15 :
世界@名無史さん:01/12/21 20:50
後唐の李克用、胡人の出で天を祭ったりした。優れた人だったというね。
>>15 郊天の儀は誰がやってもいいだろ。
天という概念自体、西戎出身の周が持っていたんだから。
秦も西戎、唐や隋は鮮卑系だし。
17 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :01/12/22 00:22
>>11 初耳です。その述懐は『宋史』jから引用したのでしょうか?
>>12 後唐、後晋、後漢、北漢は西突厥(沙陀)。
南漢はペルシアだか何かの系統(うろ覚えでスマソ)
あとは漢民族だったはずです。
>>13 唐絡みの五代十国です。
それゆえに、禁軍とかよりも藩鎮の方が馴染みはあります。
>>14 五代十国専門だと、数自体が正直少ないっす。
礪波護氏の『馮道』(中公文庫)は良いですが、入手困難。
そうでなければ、中国の歴史等の概説書ですかね。。。
18 :
世界@名無史さん:01/12/22 23:20
南漢劉氏がアラビア人だったという説は
後で反論が出て今の通説は否定的じゃない?
漢族かどうかは疑わしいというレベルだったと。
19 :
世界@名無史さん:01/12/22 23:25
この分野の研究者で第一人者て誰だろう
20 :
世界@名無史さん:01/12/22 23:48
>>20 どこも違うんじゃない?
波斯と呼ばれたペルシア系は
結構あちこちに住んでいたらしいが。
22 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :01/12/23 00:24
>>18 >>20 南漢(特に後主劉e)はペルシア系の宦官を重用したとは
いいますが。。。
う〜ん、結局のところどうなんでしょう。
>>19 とりあえず、五代十国における各国の興亡を
文章にまとめた最初の人は日野開三郎氏が
だったような。
23 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :01/12/23 00:26
>>22 訂正スマソ。
誤:日野開三郎氏がだったような。
正:日野開三郎氏だったような。
24 :
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1:01/12/24 00:31
25 :
世界@名無史さん:01/12/24 23:48
良スレ。よって上げておくね。
26 :
世界@名無史さん:01/12/25 23:48
後周の世宗によって、のちの宋の太祖が殿前都点検に任命
されていたと記憶しておりますが、「殿前」と「点検」は
意味が分かるのですが、ここでいう「都」とはどういう
でしょうか?
>>26 ここでいう「都」とはどういう意味
でしょうか? でした。スマソ。
28 :
潰瘍さんじゃないが:01/12/25 23:51
「都」は多分「都て=すべて」
総司令官の「総」くらいの意味じゃないかな。
29 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :01/12/26 00:58
>>24 そういえば、李克用も名前だけ挙がってましたね。
このスレにはまだ書き込みをしていませんが、
三戦板では別の名で出ていたりします、自分(^^;
>>25 ありがとうございます。
>>26-28 殿前都点検の下には、都指揮使がいます。
で、その下には指揮使がいます。
それを考えると、28さんがご指摘された
「総司令官の『総』」は鋭いところを衝いていると思います。
漢文調に読むとすれば、「指揮使を都(統)べる」といったところでしょうか。
30 :
世界@名無史さん:01/12/29 14:43
十国で一番有力だったのは何ですか?
南唐は唐の貴族文化を継承したことで有名ですが・・・
31 :
世界@名無史さん:01/12/29 17:13
茶の生産で儲けてた国は、どこだっけ?
32 :
世界@名無史さん:01/12/29 23:11
>>30 強いて言えば、30余州の版図を誇った南唐でしょうが、
中原に大きな出兵をしたことは一度もありません。
>>31 楚が有名ですね。
「方面大耳」の話は、清水書院の新書『45 独裁君主の登場 宋の太祖と太宗, 竺沙 雅章 著』
に出てきますが、原史料は不詳です。
おそらく『太祖実録』かと。
内容は『宋史』とかなり重なるのでしょうが。
34 :
世界@名無史さん:01/12/30 00:39
「守成は創業より難し」って教訓に満ちた時代。
27さん、五代潰瘍さん、遅ればせながらですが、
レス有り難うございます。
ところで五代とは必ずしも関係ないことで質問なんですが、
通常、唐より前の時代は皇帝はし号で呼んで唐以降は廟号
で呼びますが、これは何故なのでしょうか?
また、間違えてすみません。28さんでした。
37 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :01/12/31 16:52
>>33 ありがとうございます。
竺沙氏の著書で引用されていたわけですね。
こちらでも、原典等に当たることができれば、ちょっと確認して
みます。
>>34 特に、「五代」の方を見てみると顕著ですよね。
李嗣源とか柴栄あたりはそれなりにうまくやっていったのですが……。
>>35 何処かで聞いたような気がするのですが、
いまいち覚えがないので短絡的な推測にて。
漢代の謚は「孝文皇帝」(文帝。廟号は太宗)という類ですが、
唐代になると、「神堯大聖光孝皇帝」(高祖)というように大仰になります。
あまりにも長ったらしくなるので、廟号で呼ぶようにしたとか……。
もっとも、廟号がない、例えば唐の最後の皇帝(哀帝あるいは済陰王)
とかは謚号などになっていますが。
もっと別の事情がありそうですけどね(^−^;
ご存じの方、ご教示いただけると幸いです。
>>37 少なくとも確実に先帝に廟号(政変とかで贈らない場合は除く)
を贈るようになったのはやはり唐以降なんですよね?それも
理由のひとつなのかと思ったのですが?
39 :
世界@名無史さん:02/01/02 13:00
申し訳ありませんが十国の興亡について教えてくれませんか?
いつ、どこでどういう出自の誰が建国して
どういう経過を経て滅んだのか
わかる範囲でよいのでどうか宜しくお願いします。
40 :
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1:02/01/02 20:52
五代潰瘍さん
あけましておめでとうございます。
おかげさまでこっちのスレッドは150人も武将が集まりました。
(でも五代は馮道、朱全忠だけ(;;)
今後は「忠誠無比」の宦官、張承業や
文化や芸術を保護した前蜀の王建という人を取り上げてみようと思います。
ところで、面白い映画があったので
紹介させてもらおうと思ってお邪魔させていただきました(^^)。
『天下第一』(胡金銓(キン・フー)監督)
という台湾映画です。
http://plaza19.mbn.or.jp/~rencom/kinfoo/tenka.htm 時代は唐代ということなんだけど、ここで登場する皇帝って、
後周の世祖なんじゃないかしら?
皇帝が異民族の使者の無礼な振る舞いに激怒したりするんだけど
エンターテイナーとしても非常に面白い内容なので
もしよろしければ是非ご覧になってください(^^)
41 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/04 01:08
>>38 自分の拙い私見より、そちらのほうが説明としては妥当かも。
通鑑をざっと眺めてみると、廟号が確実に贈られているのは
唐や五代ですよね(唐哀帝や朱友珪らは除外するとして)。
>>39 結構長くなるので、後日(なるべく早く)細切れで説明します。
すみません(^^;
>>40 謹賀新年、今年もよろしくお願いします。
張承業は政治や魅力が高そうですね。王建はバランス型かな?
青年期の無頼漢を想定すると。
「天下第一』、二十年弱前にこういう映画があったのですね。
いわゆる喜劇ものは好きですし、面白そうです。
惜しむらくは、レンタルビデオとして存在してもビデオデッキが
我が家にないことですが(;;)
42 :
世界@名無史さん:02/01/04 17:13
五代十国スレッド復活嬉しいです。
個人的には、この時代は三国時代と同じ位好きな時代なので嬉しい。
唐末の”黄巣の乱”から群雄割拠→朱全忠の帝位簒奪何かの流れも似ているし、
その後の五代国の興亡何かは、三国鼎立後(孔明死後)の状況より面白いと思います。
孔明に変わる人物としては、馮道の様な魅力的人物も存在。
その後の統一期に入っての郭威・柴栄・趙匡胤等の英傑の登場は、司馬炎等とは
比べ物に成らない位の魅力が有ります。
時代期間的にも、黄巾の乱〜晋の天下統一 と、黄巣の乱〜宋の天下統一までの流れが、
同じ時間を要している事から、この時代の通史的小説を、有名処な先生に大作として
執筆して頂ければ面白いだろうな?と考えて居ます。
そう言う点でも、
>>39さんが仰る通り、中原の興亡に付いては文献が有るのに、
江南の十国についての文献が余り見られないのは残念ですね。
僕も、十国に関して(建国者のエピソード等)知識がお有りの方がいらっしゃれば
御教授頂けると嬉しいです。
43 :
世界@名無史さん:02/01/04 17:42
しかし、今ヴェトナムが存在出来ているのはこの時期の分裂のお蔭ってのはあるよな。
唐末の混乱期に土着の武将が政権を作ったが、政権基盤が脆弱で目まぐるしく政権が交代しているのに、結局、南漢はヴェトナムを征伐出来なかったものね。
南漢や栄が再度版図に治めていたら、現在のヴェトナムは、
北部ー中国の支配下(ヴェト人は中国南部の小数民族ということに)
中部ーチャム人の国
南部ーカンボジアの版図
だったかもね。
44 :
世界@名無史さん:02/01/04 23:49
はじめまして、「民国軍閥」スレの1です。
五代十国時代については、ほとんど知識がない(概説書レベル)のですが、
典型的な群雄割拠の時代なので、興味は持っています。
この時代も、南方の割拠の方が激しかったようですね?
ここに書き込めるほどの知識があるわけではありませんが、スレの展開を楽しみにしてます。
45 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/05 00:36
>>39 あくまでもざっとですが、書いてみます。
基本的に、十国政権の建国過程については、五代王朝から
王位を授けられて建国と認められる場合と、五代に従わず独立して
国を建てる場合とに分かれます。
>>7も併せてご覧ください。
呉:揚州にて、楊行密が建国。孤児の身から賊鎮圧の兵に志願し、
のち江淮の混乱を戦い抜いて唐の昭宗から呉王に任じられる。
行密の死後、部下の徐温が権力を握りだし、四代で徐温の仮子
徐知誥へ政権を明け渡すことになる。
呉越:杭州にて、銭鏐が建国。はじめ任侠道にあったが、地元の防衛軍
に所属し、頭角を現す。朱全忠が後梁を建国すると呉越王に封ぜられ、
五代王朝に従順たる基本政策を採った。五代目が北宋に対して無血降伏する。
46 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/05 00:37
続き。
南唐:金陵にて、徐知誥が建国。孤児であったが、戦乱で楊行密に
拾われ、徐温の仮子として育てられる。呉王から禅譲を受けてからは、
唐の皇族の末裔と自称し、李【日弁】(べん)と改名。十国中最大の
勢力であったが、後周および北宋の南征の前に屈した。全三代。
楚:潭州(長沙)にて、木工あがりの馬殷が建国。もとは秦宗権の反乱軍
に属していたが、これを糾合する。子沢山で親族の権勢が強く、内乱で
滅んだ。全五代。
【門虫】:福州にて、下吏の兄を継いで戦乱を鎮定した王審知が建国。
審知の死後は骨肉の争い激しく、六代で滅びる。
南平:江陵府にて、高季興が建国。彼はいわゆる奉公人として開封の
商人に隷属していたが、その商人が朱全忠の仮子となり、全忠との
縁が深くなる。領土は狭小だが、緩衝国として五十余年の命脈を保つ
(最後は北宋に降伏)。全五代。
47 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/05 00:37
その3。
前蜀:成都府にて、王建が建国。陳州の無頼漢(「王八」と呼ばれていた)
であったが、節度使麾下の将となり、僖宗の蒙塵に従う。朱全忠の
即位に反抗して蜀王となる。唐の亡命貴族を受け入れるが、
二代目が文弱にて後唐に滅ぼされる。
後蜀:後唐の節度使であった孟知祥が、成都府にて独立。前蜀とほぼ
同様。二代目が北宋に降伏。
南漢:南方の下吏の流れを汲む劉陟が、広州にて建国。歴代君主は
暴君が多く、宦官が重用された。四代目が北宋に降伏。
北漢:後漢の高祖劉知遠の従弟たる劉崇が、後周の郭威に反し
太原府にて建国。契丹の援助を以て後周、次いで北宋にあたるが、
国貧しく四代で滅亡。
48 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/05 00:49
>>42 >この時代は三国時代と同じ位好きな時代
同感なので、この時代のことを勉強していずれ小説でも
書いてみたいなあ、なんて思っています
(まだまだ修業が足りない身ですが^^;)。
中国では『残唐五代史演義』とかありますが、
ものによっては、三分の一を黄巣の乱に割いているのもありますね。
十国の史書では『十国春秋』なるものがありますが、
後世(清代)によるものなので注意が必要。
>>43 南漢は五代王朝を「洛州刺史」と呼んでいて鼻息が荒かったのに、
それを外征に生かさなかったのかしらん、と思うこともあります。
>>44 私は逆に民国軍閥には疎いのですが、
群雄割拠に興味があるという点では同じです。
南方では、領土を争い合うことこそ少なかったのですが、
いくつもの国が乱立していますね。
49 :
世界@名無史さん:02/01/05 06:36
そいや、昨年大陸で、『南唐国史』がでましたね。中身はみてないけど、平装本で150頁程度。中国語できる人は読んでみたらいかが。
50 :
世界@名無史さん:02/01/05 06:43
42です。
>五代潰瘍さん
十国の詳細解説有難う御座います。勉強に成りました(w
『残唐五代史演義』と言う書籍の、翻訳本等有ったら、是非読んでみたいですね。
ちなみにこの時代で、私の好きな人物も、やはりダントツで馮道なのですが、
意外と悪役に見られ勝ちな、朱全忠もプチ曹操みたいで好きです。
でも、唐室を絶やしてしまった。と言う点では心象は悪く成らざるを得ません。
その点、後周の元皇族を家訓にまでして保護した宋は、良いと思います。
(中国史の中でも、前王朝の皇族を保護したのは、三国魏と、宋だけですよね?)
この時代も、以前関連スレッドが話題に出ていましたが、某歴史ゲーム会社が
ゲームの題材にしてくれないかな?なんて思います。(三国志とは別に)
そうすれば一気にメジャーに成るでしょうね。
51 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/07 00:53
>>49 南京大学出版社の本ですか?
であれば、既に入手していたりします。じっくり読むには至ってませんが。
>>50 かつて、曹操再評価運動ってありましたよね。
朱全忠も再評価の動きはあったようですが、
「黄巣政権の裏切り者」ってことでお釈迦になったことが。。。
政権奪取のやり口jも陰惨でしたしね。
(それをいったら西晋の司馬氏も該当しそうだが)
宋の保護政策は好感が持てますね。
おかげで、(創作だけど)水滸伝にも宋王室の末裔が登場してます
(小旋風柴進)。
皇族保護政策、戦国時代とか五胡十六国あたりはどうでしょう?
全部は詳しくわからないので(^^;
52 :
世界@名無史さん:02/01/07 03:17
>>51 五胡十六国だと後燕が前秦の苻氏を、
北魏が南涼の禿髪氏を保護しましたね。
53 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/09 00:01
>>52 ありがとうございます。
少なくとも一例か二例くらいはありそうかな、と思っていましたし。
五代十国の例でいけば、南唐は一時期呉の楊氏を保護していました。
しかし、中主李景は、後周の世宗柴栄が南征の折に楊氏を撫安する
よう詔を下していることを聞いて、楊氏の郎党を根絶やしにしたようです。
54 :
世界@名無史さん:02/01/13 17:52
ネタ切れですか?
寂しいのでage話題を1つ・・・
南唐の中主元宗・李mは「ビン」・「楚」を併呑して、一時期(柴栄の南征前)
その勢力図を見ると、当時の五代、後周と同等、またはそれを凌ぐ版図を誇っている。
と言う事は、柴栄の南征は、後周・南唐両国に取って当時の中国では天下分け目の
戦いと言う様な認識だったと思うんですが、当時両国で大規模な会戦、有名な戦いは
有ったのでしょうか?
また、当時、特に南唐側に名が残る将軍・人物は居たのでしょうか?
一応自分でも調べて見ます。
55 :
世界@名無史さん:02/01/14 01:22
この時代を扱った小説とかって、「馮道」位しか無い気がするけど、
(しかも今は手に入れられないし・・・(泣))
此処来ている他の人達は、どんな本見て触発されたんでしょうか?
お勧めの小説、またはお勧めの情報源なサイトなんかあったら教えて下さい。
ちなみに俺がお勧めなサイトは・・・
ttp://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chuushi10.html これ!
小説は「十八史略」陳瞬臣 で興味持った。
そして意外と使えるのが家に有る「百科事典」
56 :
世界@名無史さん:02/01/14 01:47
南唐の楊氏といえば、李氏によって
宮殿に一族が長年幽閉されているうちに
「匹偶」?になる者が出てきたが
最後は火災によって全員が焼死してしまった。
之を時の人は哀れに思った。
というような話を読みました。
これは幽閉中に寂寥と逼迫感から
同姓の楊氏の男女で夫婦関係になる者がいた
ということでしょうか。
57 :
世界@名無史さん:02/01/14 02:32
>>55 田○芳○の短編がありますよ。
相当嘘が多いですけれど。
彼を叩くスレは別にあるので、
これ以上は止めましょう。
俺は高校の図書館にあった「アジア歴史事典」で興味を持ったな。
アジ歴って略しているところはうちの大学だけ?
>>57 伏字にすんな
芳りんだろ?
以後気をつけるように!(藁
59 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/16 01:02
ご無沙汰してます(汗。
>>54 後周・南唐の攻防は、955年(後周の顕徳二年、南唐の保大十三年)11月に
柴栄が南征したことが発端です。
このあたりの南唐において有名な武将というと劉仁贍ですね。
『新五代史』では、王彦章・裴約と並んで「死節伝」に伝が立っています。
南唐の諸将が柴栄に恐れをなす中で、ひとり奮闘している様が
描かれています。
例えば、緒戦の方で後周の李穀が北に兵を退いたとき、
南唐の将軍劉彦貞はこれを追撃しようとしました。
劉仁贍は李穀の行動を「偽りの退却」とみなし、深追いすることを
やめるよう諫言しましたが、劉彦貞に受け入れられずして
敗北を喫しました。
60 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/16 01:05
(
>>59の続き。)
ところで、後周と南唐の国境は淮水が担っていました。
南唐では、水位が低くなる冬にのみ、淮水に沿って
防備の兵を配置していました(これを「把浅」といいます)。
寿州の監軍であった呉廷紹は、国境が安泰であるゆえ軍費を
無駄にすべきでない、として「把浅」を廃止しようとします。
ここで、劉仁贍は上表して「把浅」の存続を求めるものの、
棄却されてしまいました。
これは、柴栄南征の遠因のひとつだと思います。
後周・南唐の全体的な流れについては、こちらでも調査中です。
61 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/16 01:11
>>55 私は高校の世界史資料集に掲載されていた
五代十国時代の勢力地図で触発されました。
で、大学に入って正史を購入(ただし、情けなきことに、
通読には至っていませんが)。
>>56 匹偶というと、つれあい・配偶を意味するので
>同姓の楊氏の男女で夫婦関係になる者がいた
というのは間違っていないと思います。
ここでいう火災とは、人災でしょうか。
李景の息がかかった南唐の将兵に放火されたとか。。。
>>57 アジ歴……もしかしたら私も大学生の頃は略していたかも。
62 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/16 01:12
>>55 私は高校の世界史資料集に掲載されていた
五代十国時代の勢力地図で触発されました。
で、大学に入って正史を購入(ただし、情けなきことに、
通読には至っていませんが)。
63 :
世界@名無史さん:02/01/16 01:13
>>61 アジ歴は私が卒業した大学でも修了した院でも使ってたよ
64 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/16 01:20
む、二重書き込みのごとくなってしまった。。。
かちゅ〜しゃで書き込みエラーが発生したので
再送信したら、
>>62をうぷしてしまったようで。
失礼しやした。
65 :
中華@名無史さん:02/01/17 03:48
54です。
>五代潰瘍さん
>>59 >>60 にわたっての丁寧なレス。サンクスです。
”劉仁贍”ですか、全く初めて聞く名前だ(汗)
自分でも調べるとか何とか言って、殆どの資料元は似たり寄ったりで全く進展が
有りませんでした。
そんな中、お調べに成って居て凄いですね。
”劉仁贍”面白い武将ですね。やはり文化国で武に劣る南唐でも、流石は当時五代
最大勢力南唐!やっぱり人材は居たんですね。
ちなみに、この南征を、あの馮道が柴栄に対して諫言していたんですよね。
まぁ馮道の懸念を他所に、戦争は大勝利に終りましたが・・・
66 :
中華@名無史さん:02/01/17 03:55
67 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/18 00:39
>>6554さん、劉仁贍についてもうちょっと掘り下げてみます、
956年正月、劉仁贍が治めている寿州に柴栄が攻め込んできましたが、
三ヶ月持ちこたえています(4月に長雨が十日以上も続いて淮水が
溢れたため、柴栄が撤退しました)。その後、李重進という者が招討使と
なって寿州を狙っていました。彼の軍中に不和が生じていることを探った
劉仁贍は、李重進を攻撃するよう進言しますが、斉王の李景達から
許可を得られませんでした。
957年正月、柴栄がふたたび南征してきました。南唐の諸将がつぎつぎと
降伏したり逃げたりする中で、劉仁贍はひとり城を堅守します。しかし、
病に倒れてしまい、子の劉崇諫が降伏を企みます。父はこれを知り子を
殺そうとしましたが、監軍の周廷構に泣きすがられて止めます。
同年3月、劉仁贍の病はいよいよ重くなります。ここで副使の呉羽が
書状を偽造し、寿州は柴栄の手に落ちました。劉仁贍はほどなく
死亡しました。
>馮道の諫言
馮道としては、柴栄の遠征が危ない(天下がますます乱れる)と思ったの
かもしれませんね。
68 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/18 00:40
>>66過去ログ情報ありがとうございます。
>此処も話題は唐末(黄巣の乱)とか
>北宋の趙匡義が天下統一する位まで話題にして良いんですかね?
良いと思います。
「三国志」が後漢末から語られているように。
69 :
中華@名無史さん:02/01/19 02:12
陳舜臣著「中国傑物伝」読んだけど、馮道仕官最初の王朝って、
一般的には後唐と言う事に成って居るけど、実はその前に
五代十国の中にも入らなかった小国、(格好良く言えば”幻の王朝”)
「大燕」と言う国が最初です。
でもこの「燕」実際は五代十国に数えられなかった位なので、とっても小さい国(勢力)だった。
と言う事で、ちょっとこの番外編王朝「燕」について書いてみます。
創設者は”劉守光”。その父親”劉仁恭”は、盧竜節度使の配下に有ったが、
その後、晋陽に割拠する独眼竜”李克用に援助を受けてその勢力を乗っ取った。
しかし、以前愛妾と通じてしまい追放した、実子”劉守光”に攻められて幽閉。
守光は兄”守文”をも殺し、その地位を奪った程の野心家だった。
そしてとうとう「大燕国皇帝」を名乗るのだが、彼が割拠する勢力は、
後梁の”朱全忠”・晋陽の”李克用”の二大勢力に挟まれた環境。
そこで彼らに抗する勢力に拡大させる為に、易定節度使の”王処直”勢力を
攻め取ろうと侵攻するも、”王処直”は晋陽の主、当時既に克用は世を去り、
息子の”存勗”に救援を求め、連合軍に滅ぼされてしまった。
ちなみに、当時の馮道は、例の得意技”諫言”を、主君にしていた為に投獄されて居たので、
難を逃れている。
70 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/20 00:41
>>69おお、河北(河朔)三鎮のひとつ、廬龍節度使の流れを汲んでいる
燕の登場ですね。
個人的には、三国時代の燕と似ているなんて思ったりもしています。
劉仁恭が公孫度・康・恭(二代で半独立を保ち、三代目で追放される)
で、守光が公孫淵というように。
公孫淵もまた、独立する際に諫言した者を殺していましたね。
71 :
中華@名無史さん:02/01/22 01:53
最近良いんじゃ無いかなぁ〜?と思うのが前蜀の王健。
若い頃は、悪だったけど、成人してその行動力から国情動乱期にその頭角を表し始め
次第に周囲に人望を集め、僖宗の成都避難時代には、それに従いその下で黄巣軍討伐にも
貢献し、僖宗が長安帰還後は、四川の節度使の地位を奪って蜀に割拠。
その上、王朝開闢後は中央の文化人を迎え入れたりして、なかなか骨の有る人物だったんですよね。
72 :
中華@名無史さん:02/01/22 02:04
それともう1つ最近興味が有るのが、黄巣の乱時代の唐王朝内勢力図。
これも三国時代前の後漢の様に、やはり五代十国体勢が整うまでは、
かなりの群雄割拠状態だったのでしょうか?
後の五代十国体勢に繋がる以外の節度使等で面白いエピソードを持った
人物とかは居るんでしょうか?
例えば、黄巣の乱自体が、足掛け10年も続いている(しかも黄巣は
一時期では有っても「斉」王朝を作っている位だし、それなりの
体制は出来ていたと思います。
と言う事で、黄巣配下でも朱温以外にも名の有る将軍等も居たのかな?
と思います。
特に王健と戦った黄巣配下の将軍とかは記録に残ってたりするんですか?
73 :
中華@名無史さん:02/01/22 02:13
と、何か最近の此処のスレの傾向として、漏れが質問みたいな書き込み
をして、それを五代潰瘍さんがお答え下さる。と言う展開ばかりで、
何か漏れがクレクレ君みたいで本当に五代潰瘍さんに対して心苦しいのですが・・・(苦笑
それに漏れの話題がマニアック過ぎて他の方が書き込みし辛いのでは無いかな?
と言う危惧も持って居たりします。
と言う事で、話題が広がる様なネタも振って見ようかな?と・・・
こちらを見ている皆さんは、この時代(唐末・北宋統一前含む)の
人物で、一番の豪傑と思われるのは誰がお勧めですか?
ちなみに漏れは”李克用”かな? 塞外民族の族長と言う事も有り、
多分当時の漢人より腕っ節は強かったんじゃないかな?と
74 :
中華@名無史さん:02/01/22 02:22
それと、この時代の”軍師”に当る人でお勧めな方は誰だと思います?
普通に考えると、直ぐに”馮道”と言う名前が出ると思うんですが、
でも、馮道と言うと、どちらかと言うと、やはり”政治家”だと思うんですよねぇ〜
漏れは
と言う事で、漏れはマニアな所(でも無いか?)で、朱全忠配下の策士
”李振”を推します。 こいつは何か全忠の悪どい計画の立案を
良くした。と言う印象が有り、三国志で例えると童卓派配下の李儒
みたいな印象です。
75 :
中華@名無史さん:02/01/22 02:38
>>72 で出した面白い節度使と言う話題でしけど、ちなみに漏れが
知っている面白い人物は、劉巨容、それと程宗楚・王処存、
前者は黄巣を早期に討伐出来る可能性が有ったが、黄巣を余り早く
倒してしまうと、仕事が無く成り、朝廷から恩賞が余り貰えないと
考えて手を抜いてしまった。
後者の二人は、一時期黄巣から長安城を奪い返す功を立てたが、その功に
奢り民衆の支持が得られず軍規も乱れて反撃されてしまった。
どちらも、余り褒められた人物達では無いが、それが当時の世相だったのかな?
と考えると、黄巣の乱が10年も長引いてしまったのも仕方が無いのかな?
と思います。
76 :
世界@名無史さん:02/01/22 02:58
そういえば「岐」っていう国もあったな。
なんかよくわかんない幕切れだったけど。
77 :
世界@名無史さん:02/01/22 20:03
78 :
中華@名無史さん:02/01/22 22:52
私も初めて聞きました。詳細お願いします。
79 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/23 01:07
まずは、
>>73さんにレスをば。
気にすることはありませんよ(^^
五代十国時代が好きだけどじゅうぶんな知識を持ち合わせていない、
であればスレを立てて質問に答えていきながら勉強していこう、
そんなことから現在に至っていますし。
もっとも、会社員の身ゆえに調査する時間がなかなかとれず、
お待たせしてしまっているところもありますが。
豪傑……まずは後梁の王彦章から挙げておきます。
裸足で棘の上を歩いた強者です。「城を三日で落とす」と公言して
実際にやってのけました。
80 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/23 01:23
>>71 王建は結構したたかな人物ですね。
即位のときは、劉備に倣って独立せよと、蜀人から要請があったようです。
文化人で有名どころというと、詩人でもある韋荘ですかね。
>>72 あくが強い人物ですが、まずは李罕之を推挙します。
無頼→托鉢僧→賊→黄巣軍→唐軍という経歴を持っています。
政治のいろはを知らず、食料に事欠いたときは人をさらってその
肉を食らったそうです。李克用をして「わしのもとに李罕之がいるのは、
董卓のもとに呂布がいるようなものだ」といわしめています。
実際、彼は後に朱全忠の陣営に寝返りましたが、その翌年に死亡しました。
81 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/23 01:37
>>74 李振は激情家ですね。科挙に及第しなかったので、
「普段から『清流』と気取っている彼奴らを黄河に投げ入れて
『濁流』にしてやりましょう」と朱全忠に進言して、
科挙あがりの高官を殺してますし。
その一方で、朱全忠は曹操のように私怨で忠賢の士を
殺したりはしない、と説いて青州の王師範を帰順させていますね。
続きはまた後ほどで失礼します。
82 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/24 00:31
>>74の続き
李振と同じ後梁の臣で、敬翔という人がいますね。
常に朱全忠の行軍に扈従し、帷幄に出入して朝から晩まで
働き詰め、馬上でのみ暫しの休息を得たといいます。
馮道は私も政治家だと思います。李存勗が帝位につくのを諫めた
張承業もまたしかり。
>>75 「一将、功成りて万骨枯る」で有名な詩もこの辺りで成立していた
ような。。。やはり世相でしょうね。。。
83 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/24 00:53
>>76-78 長安の西、鳳翔節度使の李茂貞による政権ですね。<岐
本名は宋文通といいますが、神策軍(近衛)の一兵卒から功績を
認められて李姓を賜り、鳳翔節度使、後に岐王となります。
唐の昭宗が宦官に擁せられて鳳翔へ逃げてきたときにはこれを
庇護するも、朱全忠と争って敗れます。後梁が建国されると、王建と
組んでこれと対抗しています。後梁滅亡後は、後唐に従います。
李茂貞の死後、その子が後を継ぎますが、任地を移転されたり戻され
たりでいまいち安定しません。彼の死後、岐王の位は定かでありません。
84 :
中華@名無史さん:02/01/25 20:30
岐って李茂貞閥の事だったんですね。
李茂貞は知っていましたが、彼が岐王と言う地位に成ったと言うのは初めて聞きました。
彼は、朱全忠の勢力が余り強く成り過ぎるのを警戒した唐朝廷が、近衛軍強化を打ち出した時、
朱全忠に”朝廷が軍備増強するのは李茂貞討伐の準備だ”と言う情報を流され、
それを真に受けて長安へ攻め込んでしまいましたね。
85 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/25 23:21
>>83 意味を取り違える懼れがあるので、ちょっと訂正。
誤)本名は宋文通といいますが、神策軍(近衛)の一兵卒から功績を認められて
正)本名を宋文通といい、神策軍(近衛)の一兵卒でしたが、皇帝僖宗から功績を認められて
失礼しました。
>>84 朱全忠はこの手の謀略を結構使ってきますね。
李克用もひっかかってますし。
李茂貞の勢力、唐末は盛んでしたが、後梁期に入って下火に
なってますね。王建と組んでもなお。
86 :
中華@名無史さん:02/01/26 04:21
ふと思ったんですが、この時代って分裂期なので、対外的には相当危なかった様な
気がするんですが、どうなのだろう?
確かに”遼”はこの時代に介入はして居るけど、本格的に華北地方に進出しようと言う
意思は感じられないし(後晋の時は占領しても馮道に説得されて素直に退却して居るし)
その他の周辺国では、大理国・吐番等は十国の国々よりも版図は大きかった。
それに東には高麗も居る(まぁ、遼に国境線塞がれては居るが)
と言う事で、周辺国が中華に進出するには絶好の機会だと思うのだけれども、
実際に進出しようと言う動きとかは有ったのかな?
87 :
世界@名無史さん:02/01/27 05:35
ここ気軽なカキコが少ないって感じるのは漏れだけ?
88 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/28 00:23
>>86 党項とか吐谷渾あたりは小競り合いがあったかもしれませんが、
他は通交の方が多いかと。
吐蕃はというと、五代では弱体化しているようですし。
>>87 うーん。。。
気軽に書き込めない土壌になってしまってますか?(汗
私としては、スレを立てた張本人として、こまめにレスしよう、と
考えていますが……それがいかんのかしらん。。。。
>87
五代十国ってミーハーなネタが少ないからねw
>88
いいんじゃないですか固定客もついてるし。
五代十国ってあんまり知識が無いので、
興味深くROMってますよ。
91 :
中華@名無史さん:02/01/28 01:34
>>88 ネタ 五代潰瘍さん
確かに他のスレって余り固定の方がレスくれる。って言う事は無いかも知れませんね?
その分皆好き勝手に書いている印象はある。
でも別に自分の所為かな?と気にしなくても良いと思います。
逆に此処は、変に知ったか振った事書いた人やちょっと間違った人に
”やれ厨房だ!”とか”ドキュソ!”とか言って叩かれる(叩く)
事も無いし・・・
92 :
中華@名無史さん:02/01/28 01:37
そう言う、マターリした雰囲気を作ってくれているのは五代潰瘍のお陰だと
思っていますよ(w
それに自分もちょくちょく書き込み過ぎて、そう言う疎外感醸し出しチャテルかな?
って思って居る口ですけどね?(汗
93 :
中華@名無史さん:02/01/28 01:41
まぁ
>>90さんみたいに、興味は有るけど知識が・・・
と言う感じでROM専の方も居られるみたいですし、
知っている人が面白そうな話題をageて、この時代を
知って行ってくれれば良いと思いますね?
94 :
中華@名無史さん:02/01/28 19:24
テスト
? 李?
スマソ!
国のビン と、南唐のリベンの漢字が出るかどうか試して見ました。
やはり駄目だった(汗
sage
96 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/29 00:24
>>89-93 みなさま、レスありがとうございます。
これからも、拙いですが史書を繙いたりしながら書き込みして
まいります。「それって事実と違うのでは?」とかの疑問等
ありましたらどうぞお寄せくださいませ。
もちろん、五代十国関連のネタ提供大歓迎です。
>>94-95 閩
李昪
>>94-95 閩←これを半角で打ち込むと「びん」が
昪←これを半角で打ち込むと「べん」が表示されます。
これって窓専用かな? 林檎ユーザーはその辺どうなんでしょう?
表示されなかったらスマソ
98 :
世界@名無史さん:02/01/29 01:34
2chってunicodeに対応してたんだ。知らなかった。
とすれば、IEであれば、マックも問題ないと思われ。
99 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/01/30 01:17
>>98 スレ立てた当初は私も知りませんでした。
(現に、
>>1では閩を【門虫】と書いているし)
策士といえば、徐温(李昪の義父)も該当する……かな?
楊行密の許に馳せ参じてから、呉の大丞相にまでのし上がっていく
あたりが。
モンチュー!!
>>100 【】囲みの漢字、偏と旁でなっていればまださまになるのですが、
門構えだとわかりにくいですよね。
>モンチュー
これを見て、封神演義を想起した私は逝ってよしですか?
五代とはあまり関係ないのでsage
102 :
中華@名無史さん:02/02/02 03:31
取り敢えずスレ100突破おめでとう御座います(若松監督風)
と言う事でネタ提供
この時代の、更に次代創始者、趙匡胤って、実際には
五代十国がメインな活動時期だったと言う事が改めて確認
調べて見ると色々出て来て面白いね?
生まれは後唐。と言う事でモロ五代十国!
若い頃は仕官の先を求めて陝西・甘粛等辺境地帯にまで
浪人として渡り歩いた。
そんな中、後の後周創始者で、当時後漢の軍事実力者
郭威が広く豪勇の者を募っているのを聴きつけ士官。
此れが彼の立身出世の出発点と成った。
103 :
中華@名無史さん:02/02/02 03:32
趙匡胤は、武人の家に生まれたが、小さい頃、儒者の辛文悦
に教育されたので、学問を収めるのに熱心な人物に成った。
成人して、後周世宗柴栄に従い淮南を攻めた時、
友軍の者に「趙匡胤は重い荷物を運びながら行軍している。」
と密告され、柴栄に略奪した物を私していると疑われるが、
その実荷物は全て書物だったと言う。
本人曰く、「学の足りない自分が陛下に失礼な事をしては成らないと
例え軍中で有ろうと、常に学を広める為に書を持参している」
と答えたエピソードが残っている。
104 :
中華@名無史さん:02/02/02 03:33
と、実は趙匡胤の父親も面白い人物だと思ったので書く。
名を趙弘殷。後唐・後漢・後周に仕えた。
後漢将軍時代、後蜀と陳倉の戦いで、流れ矢が左目に
当りながらも先陣を切って敵陣を突破、敵を大破した
猛者だった。
この時代の隻眼将軍と言うと李克用が有名だが(実際には隻眼では無いが)
趙弘殷も、この時代の代表的な隻眼将軍と言えると思います。
105 :
中華@名無史さん:02/02/02 03:36
と、ネタを出して置いて、逆に次は質問です。
最近、この時代で一時期一番盛況を誇った南唐に興味深々なのですが、
南唐が、閩・楚に攻め込んで併呑した時の様子に詳しい方が
居れば(多分五代潰瘍さんだと思いますが(笑))教えて欲しいです。
と言うか、この2国滅亡時を中心に、十国の国が滅ぼされた様子が
全般的に知りたいですね。
五代潰瘍さん以外でも御詳しい方居ましたら御教授下さい。
106 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/03 11:54
>>105 南唐の創業者たる李昪は外征を好みませんでした。
楊呉の時代からの宿敵であった呉越が大火に見舞われた頃、
これを機に攻め立てよという群臣の意見を退け、逆に弔問の使者を
遣わせて厚く援助を施しています。李景には、「隣国とは友好関係を
結び、よく社稷を保て」と遺言を残しています。
ところが、李景はというと、父が築いた富裕なる財産、(自称でありながらも)
唐の皇族の末裔という肩書きを背景に外征の野心を持ち出します。
そして、隣国の情勢不安を衝いていくわけです。
&38313;や楚の滅亡過程については後述します。
107 :
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1:02/02/03 22:42
五代潰瘍さんお久しぶりです
実は今、陳舜臣の『小説十八史略』を読んで知ったのですが
北周から宋への禅譲って「無血革命」で、これはすごいことだなあと、
イギリスの名誉革命に匹敵する、歴史的な快挙だと思ってたんですけど・・・
実は北周の臣の韓通という人一人だけが
「これは明らかな簒奪だ!」と言って兵を集めて趙匡胤を迎え討とうとしたので
急いでこれを斬って捨てたそうです。しかもその一家も皆殺しにしてるし・・・・
う〜ん、惜しいと言いますか何といいますか、
世の中、なかなか「完璧」って訳にはいかないんもんですね。
それでも「石刻遺訓」が南宋滅亡まで(ほぼ)守られ続けたのは感動的であります。
あああ
なんか独り言になっちゃいましたね
しかも五代というより宋の話題だし(−−;)スミマセン
あと、朱全忠の開封への遷都は「近世」への道を切り開いた快挙である
という内容の事が『大唐帝国』(宮崎市定著)の最後のほうで書かれてました
この本は、中世は(唐ですら)暗黒時代という主観に基づいて述べられてます
長安を軍事都市としての象徴だとすると
開封は経済都市としての象徴として、後の宋の時代の繁栄ぶりを見るに
なるほど、朱全忠の着眼点は鋭かったんだなあ、と思う今日この頃・・・
って、なんか殴り書きでスンマセンー(TT)
次回カキコするときはもうちょっとまとめてから来ます(><)
108 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/04 00:46
>>102-104 趙父子、調べ甲斐がありますね。
趙匡胤の仕官はいかにも五代風ですし。
(郭威自身もまたしかり。彼の場合、はじめの主君は李継韜でしたが)
李克用は右目が「すがめ」ゆえの「独眼竜」ですが、
趙弘殷はまさしく隻眼の将ですね。
閩はまた後ほど。すみませぬ。
>>107 お久しぶりです。
韓通は、柴栄時代に趙匡胤と肩を並べていた将軍ですね。
それだけに、許せないものがあったのかもしれません。
創業時の暗い話はなかなか避けられないものなのでしょうか。。。
でも、私も宋王朝は好感持てます。知識は浅いですが(w
朱全忠は、黄巣軍から官軍へ寝返った際に開封の節度使になった
というのも大きいです。
しかも、それをよく活用したというのは評価してしかるべきですね。
遅ればせながら、#&38313;について以下に記してみます。
#&38313;の創業者たる王審知の死後から、王一族による骨肉の争いが
頻発していました。李景が南唐の主となったときの#&38313;もご多分に
漏れず、五代目の王延羲が実弟の王延政(建州で自立し、国号を殷と
定めています)と諍いを起こしています。王延羲は驕慢淫虐の人で、
宗族や臣下を多く殺しています。中でも、陳光逸という者は王延羲の
五十余にわたる悪事を咎めたところ、王延羲に鞭打たれること百回、
それでも死ななかったので。。。
||
∧||∧
( ⌒ ヽ
∪ ノ 陳光逸
∪∪
↑されてしまいました。
#&38313;=閩の間違いです。
鬱氏。。。
111 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/04 23:01
さて、王延羲は閩の将軍たる朱文進と連重遇によって擁立されましたが、
死の道もまたこの2人によって導かれました。2人が主から粛正を受けることを恐れた
からといいます。
その後、朱文進が閩王となり、福州にいる王一族を皆殺しにします。これより
閩は分裂、李景は朱文進討伐を名目に南下します。緒戦で敗北するものの、
保大四年(946)、建州を占拠して王延政の一族を金陵に遷します。これで閩に
対して矛を収めますが、福州節度使に任じていた閩の旧臣・李仁達に背かれます。
南唐の臣・陳覚が兵を南に発しますが、呉越の援助を受けた李仁達軍に大敗します。
結局のところ、閩の旧領のうち、福州のみが呉越の領土となりました。
私事で恐縮ですが、今月は本業のほかに小説執筆なども進めていくので、
ただでさえ遅いレスがさらに遅くなるかもしれません。
112 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/08 01:23
楚は、三代目の馬希範が豪奢な宮殿等を立て続けてきたあたりから破綻が
生じてきます。そして、彼の死後に骨肉の争いが表面化し出します。
馬希範の後を継いだのは、同母弟の馬希広でした(947年)。その兄で
ある馬希萼はこれに不服を唱え、当時中原を支配していた後漢の隠帝
劉承祐に対して、楚王と同等の地位を自分に賜るよう請いました。
しかし、拒絶されます。そこで馬希萼は南唐に救援を求め、弟の楚王を
攻めます。緒戦こそ敗れるものの、その後巻き返して遂に馬希広を
捕らえ、縊死させます(ちなみに、馬希広は後漢に援軍を請いましたが、
ことは叶いませんでした)。かくて五代目の楚王となった馬希萼は、
政治や軍事などを弟の馬希崇にことごとく委ね、昼夜を問わず
酒浸りの日々を送ります。そのため、馬希崇に背かれ、衡山に
幽閉されます。そんなごたごたのうちに南唐が介入、潭州(長沙)へ
入城します。951年、楚の滅亡です。代わって湖南を統治するように
なったのは、南唐の将軍で「辺羅漢」或いは「辺菩薩」の名を持つ
仁慈なる仏教徒、辺鎬です。しかしながら彼は政治に疎く、湖南には
再び戦乱の嵐が吹き荒れます。それが、劉言・王進逵・周行逢といった
独立勢力の台頭です。
結局、南唐は楚の旧領をおさえることができず、南漢の進出も許して
しまいます。楚の旧領のうち南は南漢の、北は独立勢力の領土と
なった次第です。
113 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/08 01:30
とりあえず、『新五代史』や『資治通鑑』、『南唐国史』あたりの文献から
閩と楚の滅亡について探ってみました。
この一連の遠征で、南唐も疲弊したようです。
不足している部分もあるかと思いますが、補足あるいは指摘いただけると
ありがたいです。
114 :
中華@名無史さん:02/02/08 18:52
忙しいのにレス有難う御座います。
小説とはこの時代の小説ですか?
それならば是非お読みしたいです。
もし長く来れない様でしたら、ageも兼ねてネタ提供して置きます。
115 :
世界@名無史さん:02/02/09 00:25
>>112 劉言等の朗州(武陵)勢力の台頭は南唐の介入以前からですね。
『全唐文』に馬希広の上奏が載っていますが、
南唐・荊南・南漢が連携して馬希萼を支援していること
を後漢に訴えていて興味深いものがあります。
南唐は鄂州(武昌)の税収を荊南経由で朗州に支給していたそうです。
116 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/09 00:45
>>114さん
兄の朱友貞(後梁の末帝)に対して反乱を起こした
朱友孜について書いてみようと思っています。
朱全忠や馮道、李Uなど、史料に割合恵まれている人物については、
もっと史料を突き詰めてから書きたいというのがあるので、
とりあえず保留してます。
1週間空けるとか、そこまではいかないと思いますが、
ネタ提供できればありがたいです。
117 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/09 00:54
>>115さん
訂正ありがとうございます。
馬希広の代あたりから楚はがたがただったわけですね。
五代十国って、後梁Vs後唐(晋)、呉Vs呉越とかいうような
一対一の関係が多いように見受けられますが、こういう
連携は確かに興味深いです。
ほぼ創業以来の荊南の仲介策が、ここでも生かされていますね。
(もっとも、荊南が長らえるにはそういうことが欠かせなかったのですが)
118 :
中華@名無史さん:02/02/09 23:03
>五代潰瘍さん
レス有難う御座います。
>>115さん
フォローレス有難う御座います。
では、南唐と言うのは、別に版図的にも当代随一に成った。
と言う訳では無かったみたいですね?
今回の質問レスで、十国以外にも、まだまだ独立勢力が
存在していた事実が判り興味深いです。
その辺りももっと深く調査すると面白いかも知れませんね?
119 :
中華@名無史さん:02/02/09 23:05
それにしても、南唐初代皇帝が非戦派だと言うのは意外でした。
3代の中では一番(君主としての)才能は有ると思って居たので、
好戦的なのかな?と勝手に想像してました。(呉を簒奪する位だし・・(苦笑))
(まぁ才覚が有ったからこその”慎重派”だったのかも知れませんが)
ちなみに話は変わるんですが、僕も他のスレでの活動もしていますが、
以前(まだ有りますが)世界史板で「李世民スレ」が有って、そこで李世民一人では無く、
この時代周辺全般について語るスレの方が面白いのでは?と提案した所、
じゃあ立ててくれ!と言う住人の要望が有ったので、私が1に成って立ててしまいました(汗)
以前五代潰瘍さんも群雄割拠に萌える!と言われていたし、
唐がらみでのこの時代研究を始められた。と言う様な事も言ってましたし、
この隋末唐初の時代も、期間は短いですが、群雄割拠で色んな中国の時代の面白さが
凝縮した時期だと思うので好きです。
もし五代潰瘍さんも興味が有ったら遊びにいらして下さい。
□■隋〜唐初の動乱期を語ろう!!■□
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/whis/1012821411/ こちらをROMな方々も、群雄割拠に萌えな方が多いと思いますので、
遊びに来て下さい。 関係無いのでsage!
121 :
中華@名無史さん:02/02/11 21:44
五代の各王朝と言うのは、基本的には華北統一王朝だと思うのですが、(not後周)
後梁の時代は、五代の中でもそれに対抗し得る”李克用”の版図が有った為に、
華北統一王朝では無いと思うのですが、
自分が持って居る、世界歴史地図帳に拠ると、”李克用”の版図は、
後周時代の北漢とほぼ同じ様に書かれています。
確かに”李克用”の拠点は晋陽なので、場所的には近いと思うのですが、
その後、後唐として後梁を倒す勢力としては、少し小さいと思うのですが、
実際はどうだったのでしょうかねぇ〜?
122 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/12 23:21
史実では数行の記述しかない者を主人公にして、400字詰め原稿用紙
換算20枚程度の小説を書こうとするとは、我ながら自爆しているかも
しれない。。。しかし、今更変えるわけにもいかない。
あと二週間ちょっと、なんとかせねば。
>>118-120 南唐、十国内ではかなりの勢力だと思いますが、閩や楚の
旧領にいる者たちを懐柔できなかったのは痛手ですね。
李昪自身は唐の皇族の末裔と称していますが、
天下統一というよりもむしろ自分の支配基盤を固めるためのようです。
南唐以外も興味深いですが、その中で個人的に面白いと思うのは、
前蜀、呉越あたりです。
>>121 何年頃の勢力地図か、にもよりますね。
後梁開国当時(907年)であれば、121さんご指摘の通り北漢とほぼ同じ様ですが、
時代が降ってくるにつれて拡大してきます。
というのも、李克用の後を継いだ李存勗が、幽州の劉守光や鎮州の
王鎔(のち張文礼・処瑾父子)など、河北で半独立あるいは独立
していた勢力を討ってきているからです。
123 :
中華@名無史さん:02/02/17 15:01
学研のグランド現代百科事典と言う物が有り(と言っても30年前のですが(にがわら )
それで前蜀の”王建”についてちょっと調べて見ました。
彼は黄巣の乱後に永平節度使に任じられるんですね?
その後、西川節度使の”陳敬〔王宣〕”を破って成都入りしています。
その後彼は剣南西川節度使に成って居ます。
と、此処で疑問なのが、各節度使の位置です。
永平節度使と言うのは元々四川(蜀)に接した(又は近い場所)
に有ったのでしょうか?
また”陳敬〔王宣〕”の西川節度使と言うのは、成都が本拠だったのでしょうか?
(続く)
124 :
中華@名無史さん:02/02/17 15:01
節度使の名称と言うのはそもそも地名なのでしょうか?
と言う疑問が湧きました。
このスレの上の方でも時々これこれは有名な節度使ですね!
とか言うレスも有った気がしますが、節度使の名称は官職名だと
思いましたが、節度使名で地名を特定しているレスも有った気がするので、
どうなのかな?と思いました。
(王建も、(西川節度使と言うのが、成都防衛の節度使だと仮定して)
成都奪取後は、ちょっと違う名前の節度使名に成って居た。と言うのも有ります)
それと、単純に”陳敬〔王宣〕”と言う人物にも興味を持ちました。
彼と王建の戦闘はどの様なものだったのか?
何方か彼について、何か知っている方居たら教えて下さい。
125 :
久々の26:02/02/18 01:26
王建と言うと、五代時代の王建もそうですが、高麗の太祖
のほうを思い出しますね。こちらは後三国時代から台頭して
きたのですが。私事にて失礼。ついでですので揚げときます。
>久々の26さん
漏れも実はそれ書こうと思いました(w
でもスレ違いかな?と思ったのでやめて置きました。
百科事典でも丁度並びに載っていました。
そしてビックリなのが、ほぼ同時代を生きた人だったんですよね?
中国も動乱期だがお隣りも動乱期だったんですね?
朝鮮の動乱期の歴史にも興味が有るけど、やはり2chだと荒れますからね・・・(汗
>>126 私も荒れるかな?と思ったのですが言わずにはおれなかったので(藁
128 :
世界@名無史さん:02/02/20 00:38
>>124 何か誰もレスしないので。浅い知識でごめん。
軍額で呼ぶことが正式でしょうが、
軍額がころころ変わる藩鎮もあるので、
使府が置かれた州名で呼ばれることもあります。
永平節度使の場合、永平軍という軍額を持っているわけです。
雅州節度使と呼んでも良いわけですが、
メジャーな史料で検索したところ、用例は見つかりませんでした。
雅州は雲南地方にあります。歴史地図が手元にないので、
詳しくはわかりません。誰か、補遺・訂正して下さい。お願い。
『五代十国方鎮年表』を見ながら、これを書きましたが、
中華書局の書籍って独特の臭いがしません?
129 :
中華@名無史さん:02/02/20 22:47
>>128 いえいえとんでも御座いません。レスありがとうです!
五代潰瘍さん以外の方は此処レスくれないのかな?
と思い始めて居ただけに(大袈裟)レス嬉しいです(w
>26さんもありがとです。
漏れも近々ネタageようかと思います。
130 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/22 00:48
>>128 雅州は成都よりも西南およそ80キロメートルの位置にありますね。
#中華書局
確かに私もそう感じます。
だが、それが(・∀・)イイ!!ということで。
dat落ち阻止のため、ちょろっと書き込みいたしました。
立て込み状態が相続いているので、
陳敬瑄関連のレス等はまた後日にて失礼します。。。
131 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/25 00:42
皆様、ご無沙汰しております。
遅ればせながら、陳敬瑄関連のお話をいたします。
永平節度使になる前から、陳敬瑄は王建を煙たがっていたようです。
というのも、王建は壁州(成都の北東およそ160キロメートル)刺史だった
頃から、いわゆる蛮夷らを引き連れて周辺都市を陥落させていたからです。
その後、彼は旧知の間柄であった東川節度使の顧彦朗を頼り、成都へ
攻め上がります。そして成都にほど近い漢州を陥落、ついで陳敬瑄の
息がかかった眉州(成都の南西およそ40キロメートル)刺史山行章と
激戦を繰り広げます。この一連の戦いで、四十里にわたって屍が
横たわっていたとも形容されています。結局は泥沼のため、唐の皇帝
昭宗から停戦要求がかかります。西川節度使には宰相の韋昭度が
新たに任用され、王建は永平節度使となります。
面白くないのは西川節度使の位からはずれた陳敬瑄。皇帝の命を
受けず、そのために討伐を受けます。このとき、王建は山行章と再戦し、
これを撃破して眉州を得ます。それから北東の諸州を下し、成都城に
いた田令孜と語らい、入城します。
この後、陳敬瑄は雅州に遷されますが、任地へ赴く途中で王建が
放った者によって殺されました。
なお、陳敬瑄は『新五代史』によると、当時権勢を振るっていた宦官・
田令孜の同母弟のようです。で、王建は田令孜の仮子。何だかややこしいですね。
五代潰瘍さん、お久しぶりです。
(>44で書き込んだ当時はまだコテハンを名乗ってませんでしたが)
今回は、少し質問があります。
五代十国時代に、現在の雲南省地域では段思平が大理国を建国していますが、
この大理国は各国からはどのような扱い(見方)をされていたのでしょうか?
後に宋が建国されると冊封を受けていますが、
北方の王朝(あるいは南方の王朝)からやはり同じように冊封を受けていたのでしょうか?
唐突な質問で申し訳ありませんが、お答えいただければ幸いです。
133 :
中華@名無史さん:02/02/26 23:04
>五代潰瘍さん
何時も丁寧なレス有難う御座います。
別の人物についての質問だったのですが、改めて”王建”と言う人物も
面白そうです。
以前ネタ提供する。と書いておきながら、自分も身辺慌しいので、
ネタ提供はまた後程・・・(汗
今回は取り敢えずお礼だけでも、と思いましての登場でした。
134 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/02/28 00:01
>>132 お久しぶりです。
五代ではありませんが、北宋の初期にこんな話があります。
後蜀を攻め滅ぼした後、雲南も占拠しようと欲した将軍がいましたが、太祖趙匡胤は
「徳化が及べば、蛮夷は自ら服する。なぜ兵を用いようとするのか」といって
討伐案を斥けています(『雲南志略』)。
段思平が大理国を建てたのが937年、上記の話が963年ですが、その間に大理国がどう
あったかについては、今の私では何ともいえないところです。
旧新五代史には独立して伝が立てられていませんし、晋本紀や後蜀世家あたりにも
大理国に関する記述が見あたりません。
宋史や元史あたりには言及されているかもしれませんが、手元にないので確認できない状態です。
五代の頃は大理国の方でも、後晋以下三国および後蜀、南漢でも
相手に対して関心が向かなかったのでしょうか。
>>133 いえいえ、ご報告ありがとうございます。
マターリと進めてまいりませう。こちらも頻繁にネタ出しできない状況でスマソ。
後世(清代)に成立し、信憑性に乏しいといわれながらも、とりあえず
『十国春秋』が欲しいと思うこの頃。。。
>134
丁寧なレス、ありがとうございました。
そうですか。やはり混戦の中では、各国は大理国に目を向ける余裕も
無かったのでしょうか・・・?
中央公論社の『世界の歴史』シリーズの7巻(宋と中央ユーラシア)
の中にも、「雲南の変容」という一節が設けられていて、
大理国は看過できない富強な国である、というような感じで書かれていました。
寡聞にして、僕は大理国の研究については詳しく知らないのですが、
五代十国と同時期のこの王朝も、面白い存在だと考えているのですが?
136 :
世界@名無史さん:02/02/28 22:45
>>134 『十國春秋』ですか。
正史から野史まで玉石混淆何でも引用しているから矛盾だらけなところが難点です。
137 :
let me try:02/03/01 23:54
閩
138 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/03/02 01:06
>>135 周辺国について正史では、契丹絡みもあってか北や西は詳しく記述されて
いますね。その反面、東や南はざっと述べるに過ぎない感じになってます。
五代や十国との連関性が少なかったからでしょうかね。。。
大理石で有名な大理国、詳しいことまでは不明ですが、最盛期は北宋の
頃でしょうか。
>>136 取捨選択の能力が問われますね。
どの史書でもいえることだと思いますが、何でも鵜呑みにしてはいけない
という例ですね。
でも、十国関連史料が少ないのはつらい。。。
>>137 昪ですか?
初代の王審知が没してからは骨肉の争いが続きましたね。
血みどろの中で王位を奪い奪われていますし。
139 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/03/02 08:30
>>138 >>137へのレスは、
閩ですね。スマソ。
回線切って首吊ってきます。
∧||∧
( ⌒ ヽ
∪ ノ
∪∪
141 :
五代潰瘍 ◆6thCiL5U :02/03/10 00:38
朱友孜は、旧五代史では第八子とあります。
これは、仮子の朱友文を第三子としているがためです。
しかしながら、朱全忠には友文以外にも仮子がいます
(唐の昭宗を殺すよう、仮父から命じられながらも後に死を賜る
朱友恭や、開封の豪商で高季興の主人筋にあたる朱友譲など)。
友文が皇太子にいっとき立てられたとはいえ、
仮子を実子として取り上げるのは友文のみ、というもどうかと考えたので、
>>140では友孜を第七子としております。
つーかですね、『十國春秋』って様々な史料の寄せ集めなわけですよ。
だから、ほとんどの記事は出典を探す気になれば、探せるはずなのに、
平気で『十國春秋』から直接引用している論文を読むと、
それだけで嫌になってしまうわけですね。
143 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/03/12 00:06
>>142 要は、『十國春秋』という書物自体、記述が一貫していないわけですね。
確かに、『史学雑誌』だったか何かの論評で、「『十國春秋』を多用して
おり、信頼性に欠ける」だとかいうのがあったのはうろ覚えながら
ありますが。。。
余談ですが、トリップ変えてみました。
144 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/03/29 00:02
自己批判。
王に封じられたからといって、必ずしもその任地に行くわけでは
ないですよね??
己の勉強不足を露呈。。。
逝ってきます・・・
|| ⊂⊃
|| ∧ ∧
|| ( ⌒ ヽ
∧||∧ ∪ ノ
( ⌒ ヽ 彡 V
∪ ノ フワーリ
∪∪
145 :
世界@名無史さん:02/03/30 16:51
ちょっと質問です。
宋の趙匡胤の「石刻遺訓」ってほんとにあったんでしょうか?
ネットで調べても、ソースは陳舜臣のものだけです。
水滸伝には柴氏の末裔の豪傑がでてきますが、鉄牌が
どうとかって話がありますけど。
民間伝承とかじゃなくて、ちゃんと信頼のおける史書にも出てくるんでしょうか?
146 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/04/03 00:24
陳氏の著書には、靖康年間に金が開封を陥落したことではじめて
明るみに出た、というようなことが言及されていましたね。<石刻遺訓
これを真とすれば、新旧五代史には記述がない(後世の注ではあるかも
しれませんが)ことになります。
正史で確認できるとすれば宋史か金史ですが、欽宗紀(宋)や
太宗紀(金)にはそれらしき文面が見あたりません。。。
結局陳がふいてたで決定か。
148 :
世界@名無史さん:02/04/03 10:01
>>146 レスありがとうございます。
そうですかあ・・・正史にはそれらしい記述は見あたらないのですね。
宋初の場合、兄から弟という帝位継承でしたから、仮に兄が「石刻遺訓」
のようなものを残したとしても、弟がそれを守るとはかぎらないんじゃない
かなあ、などと想像もしていました。美談が真実であってほしいとは思いますが。
149 :
世界@名無史さん:02/04/03 11:31
まあまあ。
史書はたくさんあるんだし、想像でかけるわけはないから。
150 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/04/05 00:51
唐代における「文苑英華」のような漢籍から
探し出せれば良いのですけどね。。。<石刻遺訓
趙光義としても、柴氏の血を絶やさんとするのは反抗勢力を招く
結果となり、得策でないと考えたのかもしれません。
宋の漢籍はほとんど読んでいないので憶測どまりでスマソ
南唐に関しては、南宋の陸ユウが著した『陸氏南唐書』というものがあります。台湾の出版社だったかな…。
ただ、筆記体でしか出版されてないので、字の判読に手間取ります。
いや〜、「桑」の異体字でひっかかって先生と一緒に一時間弱考え込んだわ(懐
ほかにも『馬氏南唐書』というものもあります。
152 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/04/07 00:24
>>151 陸ユウというと、詩人としても有名なあの陸游のことですよね。
どんな文章を書くのか見てみたいものですが、
筆記体の解読が鍵ですね。
逸話ものなので信憑性に疑問がある箇所もあろうかと思いますが、
荊南の文官であった孫光憲の『北夢瑣言』を欲していたりする漏れ。。。
153 :
世界@名無史さん:02/04/07 02:20
>>151 あれ?陸書は活字のものを読んだことがあるような。
元々の版本が筆記体でしか出ていないという意味ですか?
>152
>詩人としても有名なあの陸游のことですよね。
そうです、その陸游です。文章の切れ目が段落しかなかったから、ぐうたら学部生の漏れにはキツかった…。
「星、何処其処に旁る。」って文が多かったです。
>153
ああ! そう言われれば活字の物も見た記憶があります。
155 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/04/10 00:00
>>153 それ、どこの出版社のでしたか?
見てみたい。。。ああ、堕落学部生だった折れに激しく後悔。
>>154 天文というか吉凶というか、その手のものは三国呉の記述を
思わせます。同じ江南だし(それはあまり関係ない……か)。
156 :
世界@名無史さん:02/04/10 00:47
>>155 多分、『文淵閣四庫全書』に収められていたものです。
私も卒業して随分経つので、うろ覚えですが。
『江南野史』って知っています?両『南唐書』のネタ元になった本で
つまりいい加減な(=おもしろい)故事がたくさん載っています。
157 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/04/12 00:21
>>156 なるほど。ありがとうございます。
今度、大学の図書館で調べてみようかな。。。
#江南野史
それははじめて聞きました。
そこから故事を調べて、他の史料で裏を取って深みに
はまってみたいです。
158 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/04/19 00:42
大学図書館の書庫で、『中国野史集成』を見つけました。
そこの4巻に、『江南野史』がありました。
他の調べものをしていた途中なので、ぱらぱらと読むに
とどめてしまいましたが。。。
159 :
shuon:02/04/21 00:45
『北夢瑣言』、すごく面白いのですが、なにしろアノ人、文章がヘタで、
ものすごく読みにくいです。ゼミか何かで本気で輪読しないとちょっと
キツイかも。
160 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/04/22 23:51
>>159 孫光憲、荊南では名の知れた文人なのに、
どうしたことなんでしょうね。。。<文章ヘタ
一度、ゼミにおける漢文選り抜きで『北夢瑣言』が
取り上げられました。李罕之の話でした。
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162 :
中華@名無史さん:02/05/06 23:00
大変御久し振りです(汗
前回登場したのは何時だったかな?
前回ネタをageる!等と言ったにも関わらず、全然登場せず済みません。
一応ネタは本当に用意しているのですが、最近offな方でテンテコマイな状況でして、
それにネタ書くのなら書くで、やっぱりそれなりに吟味したのを書きたいな?
と思ってしまうと軽く書けませんでした。
でもROMは定期的にしていますので宜しくです。
で、今回もネタはお預けなのですが(汗、漏れのお気に入りの場所の管理人さんが
”南漢”についてかなり詳しくお書きに成って居るのでお勧めです。
ttp://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/column08.html offが落ち着きましたら本当にネタageさせて頂きます!済みません。
163 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/05/08 23:47
>>162 こちらこそ、ご無沙汰していてすみません。
ネタがないわけではないのですが、offの活動を優先して
しまっていて。。。
今は、李克用と李存勗の二代に仕えた宦官・張承業のことを
調べて、まとめようと考えています。
リンク先、拝見しました。
南漢というのは不思議な国だと、かねてから思っておりました。
史書では暴君続きのように描かれているのに、なぜたやすく
滅びることなどなかったのだろう、とか。
(そういえば、殷の紂王で有名な酒池肉林も、あれは一種の儀式
のようなものだ、とかいう話も聞いたことがあります。このスレの
内容とはかけはなれてしまいますが)
また、よろしくお願いします。
五代のネタや疑問等、お待ちしております。
私事で恐縮ながら、スランプに陥っております。
スマソ
五代の話題と関係ないのでsage
え!!? 何か有ったんですか? ちょっと心配です。
色々有ると思いますが、ガムバッテ下さい。
>>166 かたじけのうございます。自己嫌悪などいろいろとありまして。
一応、なんとか合間を見ては五代関連を調べてはいますが。。。
張承業は、李存勗が帝位につくことを反対していますが、
その際、後梁を滅ぼしてから唐の皇族を立てよ、と献言して
おります。項羽の参謀・范増に何か似ているように思えます
(もっとも、こちらのほうは秦を滅ぼした後の話ですが)。
168 :
中華@名無史さん:02/05/24 20:52
暇を見つけてかいてます(にがわら
漏れの中華史(と言うか外国史)の興味を持つそもそもの切っ掛け
(リアル厨房時代)と言うのが、集英社刊の「学習漫画中国の歴史」の
三国志の英雄達。と言う奴なのですが、今までは、その刊とモンゴル帝国
の奴しか所持して居なかったのですが、最近初心に帰ろうと、
何故か今頃(いい大人が(苦笑))他の刊も読みたく成り買ってしまったのですが、
(大人買いです)漫画と言ってもなかなかどうして要点はしっかり抑えた物だったので)
読んで見たら予想以上に詳しいエピソード等乗っていました。
(幾つかはこちらにネタ提供した物も有りました(若い頃の宋太祖の話とか))
169 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/05/26 01:28
>>168 いつも書き込みありがとうございます。
折れはリアル消防の頃、図書室で読むものといえば
決まって歴史漫画でした(もっとも、歴史に対して
本格的にはまったのは中学生から高校生にかけての
時代でしたが)。
この手の書籍は、簡略ではありながらも要所要所を
ちゃんと押さえていて良いですよね。
児童書を書くのは、専門書よりも難しいと思います。
前者は「わかりやすさ」が必要ですし。
そういえば、財務省が発行している故事ことわざの
漫画本もなかなか興味深いものがあります。
政府刊行物センターで見かけました。
170 :
世界@名無史さん:02/06/08 22:13
ちょっとした疑問なのですが、柴栄は郭威の養子なのですから、生前は「郭栄」と
名乗っていた筈ですよね?(後唐は養子が継いでもずっと「李」姓で通してましたし)
恐らく恭帝・郭宗訓→柴宗訓が、宋に「禅譲」してから柴氏に復姓したのでしょうが
郭栄として死んだ柴栄を歴史的に「柴栄」と呼んでよいものでしょうか?
171 :
なな史住人:02/06/08 22:42
後周の世宗(柴栄)は太祖(郭威)の養子になった時点で皇太子と呼ばれた
はずですよ。
即位してからは、天子或いは皇帝ですよね、ですから「郭栄」と呼ばれた
事は無いでしょう、歴史的は「後周の世宗」です。
五代でもっとも優れた皇帝、若死にしなければ、彼の手で中国は統一され
ていただしょうね。
俺的に五代十国で好きなの皇帝は後唐の荘宗(武人として)
南唐の後主李イク(負け方が可愛い)です。
172 :
世界@名無史さん:02/06/11 23:51
>>171 後周国内ではそうでしょうが、十国の方では周主を「皇帝」と認められていない
勢力もいますよね? 北漢とか。それらの国では周帝を氏名で呼び捨てにしても
不思議はない筈。
また「歴史的に」も、中華人民共和国では帝王を基本的に本名で教えているようです。
それに、後周国内や後周に(形式的にせよ)臣従している国々にとっても
今の国姓は何と意識しているか、という問題がある訳で。果たして世宗・恭帝
治世の国姓は「郭」だったんでしょうか?「柴」だったんでしょうか?
また荘宗以後の後唐の場合は?
>荘宗以後の後唐の場合は?
国姓を以て、晋王→唐帝と、梁に滅ぼされた唐王朝の後継を称した建前上、誰が養子になろうと
国姓は李に変わらない。
十国南唐も、創業者の姓が同じ李である理由で国号を唐としてますし。
当時の李姓の持つ重みは、王蒙時代の劉姓と同じに考えても良いかと。
周においては・・・・どうなんでしょうね?
周から宋に禅譲が行われた時点で、郭姓→柴姓に戻した可能性もありえるし。
174 :
世界@名無史さん:02/07/06 02:25
500超えage!
最近1さんが来ないなぁ〜
175 :
世界@名無史さん:02/07/06 06:45
群雄割拠とか分裂期といった言葉がよく使われてますが
中国史専門の方にとってはやっぱりこの時代って「分裂期」で、
いずれは統一されるべき状態なのでしょうか?
このまま通貨流通、外交、10世紀にして近世化した状態に近付いていくか、
世界の中心としての帝国を選択するか
この時期の中国にひとつの運命の分かれ目があるような気がするのですが。
176 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/07/07 01:46
すみません、長らくご無沙汰しておりました。
7月7日は、李Uの命日ですね。
もっとも、上記日付は陰暦なので、今日は李U没後1024年経過、
と短絡的に定めることはできませんが。
>>175 「唐宋の変革」と呼ばれるくらいの激動期ですね。
しかし何故、学界では「五代十国の変革」といわないのでしょう。。。
疑問です。
177 :
中華@名無史さん:02/07/12 17:47
ふと思ったんですが、この時代の前の唐と、後の宋は、科挙を実施した王朝として有名ですが、
その間に有る、五代十国(特に五代)の諸王朝と言うのは科挙を実施して居たんですかねぇ?
余り聞きませんよねぇ?(多分”後唐”はやってそうだけど)
178 :
shuon:02/07/12 22:20
>177
もちろん実施されてました。『五代潰瘍(笑)』巻22「進士」の項には梁・開平三年
から周・顕徳五年に至る記事が載ってます。同巻には「制挙」「宏詞抜萃」の項も見
えますから、唐制にならった臨時特別科挙や吏部科目選まで行われていたようです。
179 :
中華@名無史さん:02/07/13 00:00
>178
早速のレスさんくすです。
いやぁ、何か戦乱の時代と言うと、庶民とかも受験勉強している暇が有ったのかな?
と思いました。
ついでにこのスレの1さんで在られる”五代潰瘍”さんの出典も判明してお得な質問
させて戴いちゃったなぁ(w
180 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/07/15 22:48
はい。私が「五代潰瘍」などと名乗っているのは、
178さんが引き合いに出された史籍『五代会要』を
捩ったことによります(^−^;
181 :
世界@名無史さん:02/07/29 14:44
良スレage
182 :
世界@名無史さん:02/07/29 15:46
五代十国=国民国家に近い説は?
当時の中国に、近代政治用語である国民の思想は無いからありえない。
あるのは同郷意識か同族意識ぐらいでしょうね。
こういう板があったんですね。五代十国ファンとしては今まで気づかなかったのが残念。で、初めまして。
私としては現在、燕(劉守光)や、岐(李茂貞)、さらにはちょっと前だけど羅平(董昌)にももっと注目してもいいのではないかと思っているのですが。
で、五代十国の時代区分ですが、
907年(唐から後梁へ禅譲)から960年(後周から宋へ禅譲)までというのが最も狭く考える見方でしょう。
広く考える場合はいつからいつまでになるんでしょうかね。
始まりが
859年 裘甫の乱
868年 龐の乱
876年 王仙之・黄巣の乱
880年 唐都長安落城 のどれか。
終わりが
978年 呉越降伏
979年 北漢陥落 の頃。
ここは潰瘍さんのお陰で、靡莫さん主持の「民国期の軍閥」のスレと共に、高レベルの
内容になってますね。
お初にレスします。
>>11 >>17 >>33 >>37 で話題になっていた「方面大耳」ですが、「宋史」巻三「太祖本紀」の末段の、加上
尊謚記事の次に下のように出ています。
帝性孝友節儉、質任自然不事矯飾、受禪之初頗好微行、或諫其輕出、曰「帝王之興自有
天命、周世宗見諸將方面大耳者皆殺之、我終日侍側不能害也」 既而微行愈數、有諫輒
語之曰「有天命者任自為之、不汝禁也」
余りに稗史風の話題なので、まさか本紀に明記してあるとは思わず、さすがの潰瘍さんも
見落とされたのでしょう。
太祖が微行を好んだという話は、いろんな筆記・小説・戯劇にも取り上げられていますね。
高季興が913年に渤海王と名乗っているのが不思議。
渤海から遠く離れた内陸だし、別地域に日本と親密だった渤海国が同時期に存在するのに。
189 :
世界@名無史さん:02/08/02 01:41
>>188 大氏が建てたのは、713年に唐朝から渤海郡王に封じられてたのでは?
高氏が称した時が唐朝の滅亡後というのも鍵かも。
そういや先に建った渤海国は五代途中の926年に滅ぶんだね。最後の王の時に遷都してるし。
もしかすると「渤海」とは「渤海湾」ではなく「洞庭湖」のことだろうか。
通常ですと「渤海」と言えば、靺鞨の粟末部が松花江以南に建てた国を思い浮かべること
でしょう。しかし唐五代の人は僻遠の夷邦のことではなく、河北の「渤海郡」を指すものと
認識していたと思われます。
渤海郡は漢代から置かれ北齊までは現在の河北省の東光縣に、隋からは山東省の陽信縣に
在りました。唐中期に行政区としての「郡」が廃されて「州」に切替えられてからは「棣州」と
なりました。しかしこの切替後も封爵のための地名としては、明代に至るまでヴァーチャルに
存在し続けました。古代に消滅した燕や楚などの国名が封地の名称として後代まで使用された
事情と同様です。
渤海郡に封ぜられた王侯の数は甚だ多くざっと50人余に上ります。あの漢の獻帝も一時
渤海王に封ぜられています。しかしこの中で最も多いのが「高」姓の人士なのです。
列挙してみますと
渤海郡王としては 高樹生・高歓・高澄(北朝の魏)・高固・高崇文・高駢(唐)・高萬興・高季興・
高從誨・高保融(五代)・高懷徳(宋)
渤海郡公としては 高ヨウ(風+昜)・高仲密(北朝の魏)・高賓・高頴(正しくは示を火に)・高
表仁(隋)・高力士・高少逸・高元裕(唐)
渤海郡侯としては 高適(唐)・高滅里干(元)
渤海郡伯としては 高武光(唐)
渤海郡子としては 高重(唐)
これだけ存在しています。これはどのような事情からでしょうか、実は高氏は既に久しく
渤海の郡望(郡の有力豪族)であったからです。「新唐書」の「宰相世系表」高氏の条には
後漢の渤海太守であった高洪が渤海郡のシュウ(艸の下に脩)縣に居を定めて以来と述べて
います。
因みに長崎に在住していた唐通詞の一族に深見家というのがありますが、その先祖は渤海の
高氏であったので、渤海>深海>深見と変換して日本風に創氏したのだそうです。
そこで粟末部の大氏を「渤海郡王」に封じた事情ということになりますが、恐らく大氏が
継承を主張していた高句麗が高姓であったことと関係がありそうです。「大」という姓も
「高」に代るものとして採用されたものではないかと想われます。
192 :
世界@名無史さん:02/08/03 03:06
唐末五代初の高季興は湖北省の江陵を根拠地にしてたんだよね。荊南節度使だっけ?
遠い山東省の渤海郡(棣州)王は、やはり名誉的な称号なのかな。
実と名が乖離してるのは中国でも有る事なんだね。
すみません。私の文章があいまいなのか、疑問点がなかなか伝わらないようで。
唐末の群雄の勢力争いの空白域に荊南節度使高季興がタナボタ的に自立したけど
小国の悲しさ、周辺諸国にご機嫌をとらなけりゃならなかった、というのはよく知っております。
「渤海」とは波打つ海という意味ですよね。漢字のふるさとの中国人は当然知っているはずです。
ならば実体のない地域にそのような名称を付けるはずは無いと思うのです。
それがずっと不思議に思っていたことなのです。
で、
>>188のあとで地図を見て
>>190に気づいたわけです。
大漢和辞典が行動範囲の中にありませんので、中小の漢和字典や地名事典を見る限りでは
「渤海」とは「渤海湾」のことしか書いてありません。
「洞庭湖」を「渤海」と言った事実はあるのでしょうか。
そうならば私の長年の疑問は氷解するのですが。
194 :
世界@名無史さん:02/08/04 12:48
>>193 >>191のあやめさんの回答で全てでしょう。
実際の任地と違う地名の爵位をもらうことも多いってことです。
地理上の水面の名称としての「渤海」について調べてみました。でも洞庭湖が渤海とか
よばれてた事実は見当たりません。いかに「江山」が「無限」でもね。
支那の文献には河川湖沼など内水面に関するものは、「禹貢」や「水經注」など夥しく
存在しますが、海についての纏まった資料は甚だ乏しいです。
と最初に泣きを入れといて........(笑)
渤海が最も早く載籍に顕れるのは「山海經」でしょうか。この書の成立時期には問題が
ありますが、差当り東周のある時期としておきましょう。「南山經」に「丹水は南流し
渤海に注ぐ」とあり、注に「渤海とは海岸の曲崎頭なり」とあり、単純に解すれば岬の
先端ということになりますが、海が陸に抉れこんでいる部分と読めなくもありません。
そうすると渤海湾の地形と合致します。いずれにせよ丹水は丹穴山に発源して南流して
渤海に注ぐわけで、しかも丹穴は「爾雅」の「釋地」篇によれば「齊州を距て以て南し、
日を戴くを丹穴と曰ふ」とあって、熱帯に在るような書きぶりですから、渤海の実地を
この記述に基づいて探求するのは余り意味がないようです。
次が「淮南子」で「天文訓」に「賁星墜ちて勃海決す」とあります。勃には偏の三水が
付いていません。そして注に「勃は大なり」とあり勃海は固有名詞とされてはいません。
巨大な天体が落ちてきて大海が決潰したというのです。
次が司馬相如の「子虚賦」で「史記」の「司馬相如傳」に引かれています。烏有先生が
齊の国土がいかに素晴らしいかを説く箇所に「東は巨海に渚し、南は琅邪有り、成山に
觀(きづ)き、之罘に射る、勃カイ(三水に解)に浮び、孟諸に游ぐ、邪(なな)めに肅愼と
隣を爲し、右に湯谷を以て界と爲す」とあり、山東半島沿海の地名を列挙していまして、
この「勃カイ」が渤海湾であることは確実でしょう。「勃カイ」について後漢の應劭は
「海の別枝なり」と注しており、「海の枝分かれ」というのは渤海湾が山東・遼東の両
半島によって、東支那海から隔てられている形状を表現したのでしょう。また司馬貞の
「史記索隠」に「齊都賦」を引いて「海旁を勃と曰ひ、斷水をカイと曰ふ」とあります。
古代には支那の海岸線には殆ど邑落がなく情報に乏しかったのですが、僅かにあるのが
渤海沿岸ということで海傍といえば想起される地帯であり、断水というのもまた主たる
海域から断絶された湾部であることを言ったものでしょう。
続きは明日.....かあさってかも。
196 :
mugen :02/08/06 21:56
198 :
世界@名無史さん:02/08/06 22:53
おまえら詳しいですね。オレは陳舜臣の「小説十八史略」しかよんでないからさっぱりだ。
199 :
shuon:02/08/06 23:35
あやめさんの191に尽きていると思うのですが、蛇足ながら…。
魏晋以来の貴族制の名残で、隋唐でも「郡望」(氏族の発祥地とでもいいますか)の
観念が根強く残っています。「趙郡」李氏とか「清河」崔氏とか「太原」王氏とかいう
ヤツです。唐室はどこの馬の骨だか分からない(趙郡李氏の没落分子?)のを、無理矢理
西涼王室に系図を繋げて「隴西」李氏を名乗りますね。
で、封爵が授けられる場合、「○○県開国男」とか「○○郡開国公」とか「○○郡王」とか
の○○には原則として郡望が入る訳です。「王」号も封爵の一つです。
で、有名氏族の「郡望」というのは天下周知な訳ですから、決まりきっている訳ですね。李
氏だったら「趙郡」にしようか「隴西」にしようか迷う余地もありますが(笑)、これが劉氏
だとまず「彭城」、高氏だったらまず「渤海」と決まっているようなもので。
で、どこの馬の骨だか分からない高季興、定石通り「渤海」高氏を詐称したものと思われます。
そして「王」号は、「帝」と称して天下を狙うなど滅相もございません、「王」ですから、どこ
ぞに有力な「帝」あらば、長いモノには巻かれろ、冊封をお受けする用意がありますよ、という
アピールだったと考えられます。
200 :
shuon:02/08/06 23:48
↑すいませんポカをやりました…。
高季興は乾化三年八月、梁から「渤海王」に封じられているんでした。自称ではない
訳ですが、梁が何故この封号を選んだかは、上の通りということです。
自称ではありません。でも荊南は一貫して称帝も立元もしていない、一番「控えめ」な
国であることは事実です(笑)。
もう一度史書を読みかえして気がついたこと。
「旧五代史」「新五代史」→「渤海王」(さんずい有り)
「資治通鑑」 →「勃海王」(さんずい無し)
(後梁)荊南王→渤海王→(後唐)南平王→(楊呉)秦王→(後唐)渤海王→南平王
通して読んでみると、王号はその時限りで、「荊南節度使」が他の記事で継続して使われている。
軽そうだ。やはり、すきま政権?
すきま政権は笑えるね。格好良く言えば、ニッチ政権か。
湖北省の一部しか支配できなかった政権だから、王号止まりは仕方ないかも。
代表的な主要産業はあまり無くて、他国との海運や流通を通した貿易立国だったね。
香港やシンガポールみたいな国かな。
でも、流通時の関税が歳入のほとんどだから微妙に違うかも。
>>202 やべー、間違いアリ。
海運じゃなくて水運だった。周囲に海が無いんだから当然。
交易立国と言うべきか?
204 :
世界@名無史さん:02/08/07 23:49
卒論で荊南にちょっとだけ触れたが、
貿易立国というイメージは強く、
また実際にそうだっただろうけれど、
意外に直接言及している史料は見つからなくて困った。
205 :
shuon:02/08/08 11:04
「貿易立国」ということならば、茶の楚、海上貿易の呉越などの方がメインでは?
荊南の「独立」は緩衝国としての意味合いが強かったのでは?(そういえば南北朝
末期にも「後梁」政権があった)。なにしろ迂闊に手を出すと列強間の全面戦争に
発展する可能性は高かったはずなので。
ただし荊南の交通線上の重要性は否定するものではない。日野開三郎さんが「広桂
荊襄線」と名付けてますね。
別の話です。
「楊行密yang-xiang-mi」は前名「楊行愍yang-xiang-min」だったのを
怪しげな占い師の入れ知恵で「高駢gao-pian」が改名させたとあります。
思うに、当時は「高駢」と「行愍」の発音が今よりは近く、部下の名前をいいにくいので
改名させたのかなという気もしてるんですが、どうなんでしょうか。
戦国時代には中原の人士にとって渤海は具体的なイメージの湧きにくい土地だったよう
です。「山海經」や「淮南子」の曖昧で神秘的な記述はそのような状況を反映したものか
と思われます。渤海に脚光が中てられるようになったのは秦の始皇帝の東遊からです。
渤海湾は陸地に抱かれた地勢で蜃気楼が発生しやすい気象状況にあり、蓬莱伝説なども
こうした特異な地域性に由来するものです。これが燕齊の方士といったカルト専門家が
渤海の周辺から出現した背景です。始皇は不老長生を願い仙人を求め名山を祀つるため
東遊します。「史記」の「封禪書」にはその際に始皇が齊の伝統的な神祠群=八神を巡る
事跡がに述べられています。そして八神を説明して「四には陰主と曰ひ、三山を祠り、
五には陽主と曰ひ、之罘の山を祠り、六には月主と曰ひ、之莱山を祠る、皆な齊の北に
在りて、勃海に並ぶ」とあり、また「威・宣・燕昭(齊の威王・宣王・燕の昭王) 人をして
海に入りて蓬莱・方丈・瀛洲を求めしむ、此の三神山なる者は其の傅は勃海の中に在り」
とあって、その下に蜃気楼の不思議な現象について述べています。
漢代になり高祖は「勃海郡」を設け治所を浮陽に置きました。現在の滄州市の東南方に
当ります。勃海郡の管内には26縣が所属し、現在の永定河口から徒駭河口にまで亘る
海浜が含まれ、正に渤海の郡と呼ぶべき地域です。なお当時は海岸線が内陸に20〜50km
程度も浸入していました。前漢代の渤海における事件は武帝の元封二年の朝鮮征討の際、
樓船將軍の楊僕が七千人を率いて渤海を渉ったことです。楊僕は遼東から進んだ別軍の
将と不和で殺されてしまいました。この時の渡海の航路は恐らく廟島の列島を辿って、
遼東半島に上陸したものかと想われます。
後漢には勃海郡の治所はやや内陸に入った南皮に移されました。現在の南皮縣の北方に
当ります。三國から西晉にかけて渤海郡は南部を樂陵、北部を章武の2郡に削取られ、
海浜との接点が著しく狭まり、更に北魏が浮陽郡を設けたため、渤海郡は完全に湾岸と
切離されてしまいました。隋になって渤海郡は再び捷地減河口から黄河口までの海浜に
臨むことになり、治所は陽信(現在の同名縣)に移されました。唐に入ると旧来の郡制は
廃され、渤海郡は滄・棣の2州に分割されました。そして棣州の管内に渤海縣が設けられ
ました。現在の濱州市に当り元代まで存置されていました。なお両「唐書」の「地理志」は
いずれも河北道における靺鞨を羈縻する機構として、渤海都督府を挙げていますが具体的
情報は全く記述されていません。
序でに言っておきますが大氏の渤海國の疆域には、渤海湾と接する部分は全く含まれて
おりません。
>>205 緩衝国家について。少なくとも楚は明らかに荊南をそう捉えていました。
楚は戦場でしばしば荊南を破りましたが、必ず請和に応じています。
荊南が滅んで中原と直に境界が接することを恐れたためのようです。
ただ、全面戦争に発展する恐れは少なかったと思いますね。
荊南にとって最大の危機は天成3年(928)の後唐による討伐です。
当然、呉に援軍を要請しましたが、呉は寡兵しか派遣せず、
援軍はあっさりと撃退されました。当時、呉は後唐に称藩していました。
断交してまで荊南を救うつもりはなかったわけですね。
ちなみに楚は後唐に対する立場から一応出兵だけして実際はサボタージュしています。
荊南のおもしろいところは呉が称帝し、荊南節度使を秦王に封じた途端、
今度は後唐に謝罪し、呉と断交しているところですね。
無節操外交、ここに極まれり。
>>206 単に字義を嫌ったものと思っていました。
「あわれむ」とか「うれえる」とか英雄っぽくないじゃないですか。
みなさま、自分で調べろといわれそうな私の枝葉の疑問に丁寧に答えていただき、ありがとうございます。
疑問をかかえたまま調べもせずに長年怠けていた自分を反省し、今日と明日、県立図書館に行って参ります。
>>206 >>208 ↑といいながらこればかりは・・・。唐の時代の発音が全く探し当たりません。
楊行愍が人を殺して高駢のもとに預けられたのが883年以前。
楊行密への改名が886年。
畢師鐸が高駢を謀殺し、楊行密が弔い合戦で畢師鐸を破ったのが887年。
自立しかけたところへ当時大勢力だった孫儒に揚州を奪われるのが同じ887年。
892年にいたってようやく孫儒を倒して揚州を取り戻し、淮南節度使となる。
孫儒の降兵を取り込んだことが後の強国化への足がかりとなる。
902年3月に、東面行営都統、中書令、呉王を賜って
このときが十国のメンバーとしての「楊呉」の成立。
892年から902年までが楊行密自身としては全盛期だったようで、
呉王となってから死ぬまで、斉王への禅譲まで呉国は下り坂のようである。
で、戻りますが改名した時点ではその後の活躍など想像できません。
だいたいが仕えている高駢はとても大物とは思えないし、それに従順な部下はまして・・・
占い師と書きましたが、方士の呂用之が「楊行愍」という名前をどう判断したのか
それこそ全く解りません。
私はその可能性として「高駢」と「行愍」の発音が似ているので、方士の呂用之を使って
「よくない名前だから変えなさい」と言わしめたのか、と想像しているのですが。
210 :
shuon:02/08/10 11:35
>208
なるほど。ただ、中原王朝もどこまで本気で荊南征服を考えていたんでしょうかね。
荊南最大の危機はむしろ天成2年の攻伐かと思いますが(枢密使の孔循まで出馬して
ますんで)、結局楚の糧餉をアテにしていたのが外れて、空しく帰還してます。中原
王朝のホンネとしては「大人しく称藩しておれ」ぐらいのものではなかったでしょうか。
まぁ、楚将王環の「江陵は中朝に在りて呉・蜀の間、四戦の地なり。宜しく之を存して
以て捍蔽と為すべし」のイメージが強かったかも知れません。
211 :
shuon:02/08/10 11:45
>209
やや、高駢を馬鹿にしてはいけません(笑)。確かにマヌケな最期をとげたので
軽んじられても仕方ないかも知れませんが、彼は黄巣の乱中・後の政局における
紛れもない大立者の一人ですよ。なにせ江淮重賦の地に鎮座している訳ですから
(蔡賊によって荒廃する前です)。唐朝廷がどんなに高駢に対して期待し、神経を
使ったか…。黄巣の乱もこの男次第でどう転んだか分からない、と言ってもいい
かと思いますよ。
212 :
無限江山 :02/08/10 12:24
>211
うーん、大唐の台所を支える江南地方の節度使ですから、それなりの人物ではあったかとは思いますが。
私の興味が楊行密中心でして、史書に書かれる高駢は、楊行密の登場以降彼の脇役的存在の印象ですので。
もうひとつ、呂用之の存在。
高駢はおかしくなったのは、方士・呂用之を抱えて以降とみていいんでしょうね。
呂用之に入れ込んでしまって、食い物にされ、専横を許し、宿将が次々去り、等々。
楊行密は高駢の生存中は呂用之との関係は他の宿将ほど悪くは無かったように見えますが、
高駢の死んだ直後、斬り殺しているのを見ると普段含むところはあったのでしょうね。
>>210 あ、すみません。荊南最大の危機は天成2年(927)ですね。マチガイでした。
後から派遣された孔循って高季興と幼なじみのはずです。
撤兵を考えた人事だったかもしれません。
高駢というと、晩唐の詩人にも列せられていますね。
「山亭夏日」などの詩を残しています。
緑樹、陰濃くして夏日長し
楼台、影を倒にして池塘に入る
水晶の簾動きて微風起こり
満架の薔薇、一院香ばし
>>213 高季興は幼くして開封の商人李七郎に仕え、孔循は孤児であった
ところを開封の富豪たる李譲に召し抱えられ、養子になっていますね。
李七郎は後に朱温の養子になり「朱友譲」を名乗るわけですが、
李譲もまた朱温の養子となっております。
「李七郎」=「李譲」は断言しかねるかとは思いますが、
仮に上の式を成り立たせるとすれば、高季興と孔循は幼い頃から
接触がありますね。
孔循といえば、明宗時代における権臣安重誨との諍いが思い起こされます。
明宗は、皇子(のちの閔帝)を安重誨の娘と娶せんと欲しておりました。
安重誨は孔循を信任していたので、この件について相談したところ、
「貴殿は重職についているのですから、よろしくないと思われます」と
言葉が返され、これをよしとします。
ところが、孔循はその後ひそかに人を遣わせて、己の娘と皇子との婚姻を
求め、成約させてしまいました。
安重誨はこれに怒り、孔循を左遷させます。
ときに江南椰子さん、『江南野史』を捩っておりますね。
>>214 ええ。
>>156は私が書き込みました。
『旧史』の董璋伝に3人(高・孔・董)が李譲の家僮だったと記事がありまして。
この董璋、高季興が後唐に反旗を翻した当時、東川節度使を務めていました。
東に軍を進めて荊南征伐に加わるように命じられましたが、
後に後蜀を興す孟知祥と戦っていて忙しかった彼はこれを無視しています。
友情を感じませんか?何となく。
五代潰瘍さーん、そろそろ夏休みも終っちゃうし、スレが下がりぱなしだよー
早くリターンしてきてー
ってことでage
>>216 私事で恐縮ながら。。。
終電近くまでの残業に休日出勤で、書き込みがなかなかできない
状態になっております。すみません。
時節柄とは言え大変ですね
でも三十?代潰瘍にならないよう体だけは労わってください
あやめも時々は何か書いて、長期低落を防ぎますわ
ということで少し書きましょう。 レス
>>107 >>145-148 関連です。
で宋の太祖の「石刻遺訓」なるものが話題になっていましたね。元ネタは陳舜臣の
「小説十八史略」だそうですが、あやめは陳氏の本を読んでいませんので内容が
よく判りませんけど、もしかしたら太祖の「誓碑」を指すものかも知れません。
南宋の葉夢得の「避暑漫抄」という書物に次のような記事が出ています。
「藝祖(宋の太祖)は受命の三年に密かに一碑を鐫り、太廟の寝殿の夾室に立て之を
誓碑と謂ふ、銷金(金箔摺り)の黄幔を用て之を蔽ひ、門鑰にて封閉すること甚だ
嚴なり、因りて有司に勅し、自後の時享(定期の宗廟祭祀)及び新天子の即位には、
謁廟の禮畢れば奏請して誓詞を恭讀せしむ、獨り小黄門(下級宦官)の字を識らざる
者のみ從がひ、餘は皆な遠立す、上は碑前に至り再拝し、跪き瞻て黙誦し訖り、
復た再拝して出づ、群臣近侍も皆な誓ふ所の何事なるかを知らず、自後の列聖も
相ひ承け皆な故事を踵ぐ、靖康の變に門は皆な洞開し、人は縱いままに觀ることを
得たり、碑は高さ七八尺、闊さ四尺餘、誓詞は三行にして、一に云ふ:柴氏の子孫に
罪有るも刑を加ふるを得ず、縱へ謀逆を犯すも獄内にて盡(自害)を賜ふに止め、
市曹(死刑は首都の盛り場で執行が普通)の刑戮を得ず、亦た支屬を連座することを
得ず、一に云ふ:士大夫及び上書して事を言ふ人を殺すを得ず、一に云ふ:子孫の
此の誓を渝(か)ふる者有らば、天よ必ず之をキョク(極の木偏を歹に入替)せよ、と、
後に建炎の間に曹は金より回る、太上(金に抑留されていた徽宗)の寄語あり、
祖宗の誓碑の太廟に在るを恐らく今天子は知るに及ばざらん、と云へり、」
これによると宋では宗廟の脇にある夾室に「誓碑」というものが立てられていて、
幔幕で覆った上に入り口に鍵が掛かっていて、天子が宗廟にお参りに来たときだけ
開け、天子が畏まって碑文を読む時には文字の読めない宦官一人の外は、誰も傍に
近づけないことになっていて、碑に書かれた内容は厳秘だったというわけです。
このミステリーが解明されたのが靖康の変で、ベン(三水に卞)京が金軍に囲まれた
末に、徽宗・欽宗を始め多くの宋の皇族が北方に連れ去られる大事件の混乱の際で、
寝殿の門が開けっ放しになって誰でも勝手に見られる状態になったためであると
いうわけです。そして碑文の主たる内容は柴氏の後裔と士大夫の保全を、後嗣の
皇帝に誓約させるものであることが判明したとされています。
このような事実が信用できるものか傍証を求めて「三朝北盟會編」の靖康元年末から
同二年の前半の記事をざっと検してみましたが、それらしい記述は発見できません
でした。しかし当時は帑蔵を尽くし民財を括して金の要求に応じ、宮禁も騒然たる
状態であったわけで、宗廟の縦観も有りえない事態ではないと想われます。しかし
その後この誓碑なるものがどうなったのか、開封の故宮に関する所伝に出てこない
ばかりでなく、その存在自体が他書には全く言及されておらず疑念を拭えません。
何より筆者の葉夢得が靖康の変に東都に居合わせなかったことから、彼が本当に
「誓碑」の文言を親しく実見しているのか怪しいと言う学者もいるのです。
明日に続きます (カキコの制限行数が大幅に減っちゃったのね)
たまたま百科事典を見ていたら、959年の五代十国の地図に南晋というのがあったのですが。今の北ベトナムですね。
呉権と丁部領の間の時代だと思うのですが、十二使君のうちの誰かが南漢あたりから南晋王として封じられたとかいう話なのでしょうかねぇ?
あ、もし、暇な方がいたら、岐や燕のことも教えて。
南晉は呉昌文が建てた国です。「大越史記外紀全書」の最後の箇所に「後呉王紀」と
いうのがあります。
「王は諱は昌文、前呉王の次子なり、辛亥元年(周太祖郭威の廣順元年)、王は既に
三哥(楊三哥)を黜ぞけ、王位に即き南晉と稱す、遣使して往きて其の兄の昌岌を迎へ、
京師に歸り、同じく國事を理さめ、昌岌は天策王と稱す、時に華閭洞の人なる丁部領は
山谿の險固を以て、臣職を修めず、二王は師を興し之を討たんと欲す、...年を踰えて
克たず、...而して師を班(かへ)す焉、時に天策は威柄を作し、王は復た政に預からず、
二王は是より隙あり、甲寅四年(周世宗の顯コ元年)天策王薨じ、王は位を復し、遣使し
命を南漢主劉eに請ふ、eは王を以て静海節度使兼都護と爲す、乙丑十五年(宋乾コ三年)
王は師を帥ゐ太平・唐阮の二村を攻め、纔かに境に入るや、船を止め上り戰ひ、伏弩の
中てる所と爲りて薨ず、...丙寅十六年(宋乾コ四年)南晉亡ぶ」
この後が「十二使君」に時期です。
「石刻遺訓」についての続きです。
「避暑漫抄」の「誓碑」の記事の末尾にある曹が伝えた徽宗の寄語についてですが、
「宋史」の「曹傳」には「靖康の初に閤門宣贊舍人・勾當龍コ宮と爲り、武義大夫に
除せらる、徽宗の北遷に從がひ河を過ぐること十餘日にして、(徽宗は)に謂ひて曰く
『知らず、中原の民は康王(高宗)を推戴せしや否やを』と、翌日には御衣を出だし
領(えり)の中に書して曰く『便(すな)はち即眞(帝位に即く)す可くんば來りて父母を
救へ』と、韋賢妃・ケイ(刑の立刀を大里に入替)夫人の信を持し、に命じ間行して王に
詣らしむ、又たに『康王に見えなば第(た)だ言へ、中原を清むるの策有らば悉く之を
舉行せよ、我を以て念と爲す毋(なか)れと』と諭し、又た言ふ『藝祖に誓約有りて之を
太廟に藏せり、大臣及び言事の官を殺さざれ、違ふ者に不祥あらん』と」とあります。
恐らくこの「誓約」が「誓碑」の存在に発展し、「大臣・言事官の保全」に「柴裔の保全」が
付加されてしまったものでしょう。
「石刻遺訓」の内容については太祖の仁慈を著わすもので、帝室の有難い思召しを
何も隠し立てしなければならない事情は無いのだし、寧ろ天下に公表すべき聖旨で
葉夢得の言うところは信じ難いという議論もあります。
それはともかく誓詞の趣旨は実際に遵守されたのかという問題もあります。大臣の
保全について先ず検証すると、少なくとも太祖の場合こんな奇麗事を言える資格は
なさそうです。ある学者が「宋史」と「續資治通鑑長編」を仔細に点検した結果、
太祖が殺した臣下は188人にも上るそうです。しかし創業の君主としては已むを
得ないとも言えましょう。その後の天子は確かに滅多に大臣を誅殺してはおらず、
そればかりか唐のように宰相にまで昇った人物を海南島の下役に左遷するような、
酷い人事を強行するようなことも例が少ないようです。
范仲淹も「祖宗以来、未だ嘗て輕がるしく一臣下をも殺さず、此れ盛コの事なり」
と言っており、蔡確・呂大防・曾布などの諸臣も同様に発言しているとのことです。
これは太祖が五代における武臣の跋扈を嫌って、士大夫を厚遇する方針を採用した
結果と言えます。
「宋史」の「日本傳」に日本僧の「太然が太宗に謁したとき、日本の國王が一姓を
傳繼し臣下も皆な世官であると聞いて嘆息し、「此れ島夷のみ、乃はち世祚は遐か
久く其の臣も亦た繼襲して絶えず、此れ蓋し古の道なり、中國は唐季の亂より宇縣
分裂し、梁周五代は享歴すること尤も促(みじか)し、大臣の世冑も能く嗣續するもの
鮮し、朕はコは往聖に慚づと雖も常に夙夜に寅畏し、治本を講求し敢て暇逸せず、
無窮の業を建て可久の範を垂れ、亦た以て子孫の計を爲し、大臣の後をして祿位を
世襲せしめん、此れ朕の心なり焉」と宰相に語ったと伝えられるのも、宋代天子の
本心を吐露したものでしょう。
前のレス中「「太然」とあるのは「「然」の誤入力です
226 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/09/08 12:55
あやめさん>
情報提供ありがとうございます。今日はなんとか休めましたが、
公務はまだ予断を許さない状況ではあります(−−;;
>>219にある「受命の三年」というのが気になりますね。
『宋史』の「周三臣伝」に列せられている韓通、李イン(たけかんむりに「均」)、
李重進の3人がそれ以前に誅されていることを考えると、国内における
主立った反対勢力を鎮めてから誓いを立てた、と取れなくもありません
(
>>224でいうところの「太祖が殺した臣下は188人」というのがこの3年間
でおこなわれたわけではないと思いますが)。
ただ、創業者としては、前朝の皇族高官に対して比較的寛容かと。
227 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/09/08 12:58
>>221 まずは燕について。
燕は、唐代の節度使の中でも最も朝廷に反抗的であったとされる盧龍軍
節度使の流れを汲んでいます。建国者は劉守光です。
後梁の開平元年(907)四月、彼は幽州に迫った後梁軍を撃退し、盧龍軍
節度使を自称します。次いで、本来の盧龍軍節度使であった父劉仁恭が
籠っている大安山の屋敷を攻め、これを幽閉します。嘗て、父の愛妾と
通じて笞を打たれ勘当されたことを根に持っていたのです。これに対して、
義昌軍節度使であった兄の劉守文に攻められますが、返り討ちにして
滄州の支配権も手にします。朱晃(朱全忠)から燕王に封じられるものの
これに飽きたらず、後梁の乾化元年(911)八月に大燕皇帝を僭称します。
このとき切諌した孫鶴という者は、口を塞がれた上で八つ裂きにされ、
醢とされました。
同年十二月、晋王李存勗は周徳威を遣わして幽州を攻めます。劉守光は
後梁ならびに契丹に救援を求めるも成らず、連戦連敗を重ねます。乾化
三年十一月に妻子を連れて幽州から逃亡しますが、遂には太原に連行され、
誅殺されました。
先代(しかも親族)を追放して権力を握り、皇帝となって反対派を処刑する
といったあたりが、三国時代に燕の皇帝を僭称した公孫淵を思わせます。
ま、これは私見ですが。。。
五代十国のスレがあったんだ……。不覚。
どうも初めまして。
スレ立て人の五代潰瘍さま、初書きこみさせていただきます。
いきなりの質問なんですが、馮道の実務能力はどの程度だったのでしょう?
後唐の明宗や後周の郭威に重んじられたのだから、高い部類に入るのだろう
と思うんですけど、新旧五代史の馮道伝を読んでもあまりピンとこないんです。
政治家としての面より人格面の方が強調されてるように思いました(そう
言えば、上の劉守光に諫言してるんですよね)。
中公文庫に再録された「馮道」はちょっと美化しすぎの印象を受けたので、
このスレにいらっしゃる方に質問すればわかるかと、不躾ながら質問させて
いただきました。
五代(十国は除く)の実務家というと、後晋の桑維幹と後周の王朴が双璧か
なあ、と個人的には思っています。
…アホっぽい質問ですいません。
230 :
世界@名無史さん:02/09/14 18:23
で、岐は?
231 :
中華@名無史さん:02/09/15 01:07
232 :
shuon:02/09/15 13:30
久しぶりに覗きに来ました。ところで「五代史の時代区分」というモノに興味があります。
一般には、@後唐の明宗で前後に区分:これは「統一中央集権国家への始動」という点に
力点を置いた区分ですね。
A契丹の侵攻で区分:これは宋代以降の「遊牧征服王朝vs.漢族王朝」という枠組
を念頭に置いた区分でしょうか。
の二つが有力なようですが、さて、ここに「沙陀政権」という枠組を加えられないかという
ことをうつらうつらと考えてます。「過渡的な(或は早産の)征服王朝」という観点で、近年
森安孝夫さんあたりが示唆してますね。宋代禁軍制度の淵源は後唐朝にあるという指摘もあり
ます。そこで、後梁/後唐、契丹の侵攻前/後、という二つの分界を入れてみたいと考えてい
るんですが、如何なものでしょう。この板には五代潰瘍さんやあやめさんや江南椰子さんなど
識者の方が多いようなので、ご意見(ご批判?)を聞いてみたいと思います。
233 :
世界@名無史さん:02/09/15 15:20
五大十国の専門研究者って、けっこういるんだな。
やぱーり日本の学界は広い!
234 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/09/16 23:30
>>83を見る限りでは、唐皇帝と李茂貞の間はあたかも常に良好、と
いう感じに取られかねないので、一応補足をば。
節度使の位を得て、李茂貞は詔に違って朝廷の政治に干渉したり、
都を攻めて火を放ったり(
>>84など)しております。
結局は、朱全忠らに後れをとってしまいましたが。
他のレスはまた後ほど。申し訳ありません。
235 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/09/16 23:30
それから。
>>231さん、フォローありがとうございました。
>>228 私も馮道伝を読んでみましたが、やっぱりピンときません。
在任中の政策立案にどれくらい関与していたかなどを他の史料で確認する
必要があると思いますが、ちょっと時間がありません。
>>232 「唐宋変革」という言葉がありますが、
どこまでがより「唐」的で、どこからがより「宋」的か、
その画期を考えることはそれなりに意味があるはずです。
森安氏の論考は読んだことがありませんが、
沙陀部が早くから内地に入って唐朝の傭兵と化していることを考えると、
いわゆる征服王朝と同じように考えることに違和感があり、
むしろ五胡北朝政権に近いモノを感じます。
余談ですが、最近はこれまで征服王朝説に対して無批判すぎたという意見もあるようです。
「唐」と「宋」を決定的に分かつものは"士大夫層"の政権参加にあるように感じます。
が、この問題、実はそんなに詳しくないので、勉強して機会があれば、また書きます。
237 :
世界@名無史さん:02/09/17 00:40
>>229 馬殷てお茶好きが高じて一国の皇帝にまでなったって
いうあれか。
238 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/09/23 21:49
ご無沙汰しております。
>>228 冊府元気さん
馮道の人物評価というものは、外面(実務)よりも内面(人間性)に
重きを置かれているように思えます。
私も人格に関する話ばかりが印象に残っています。どのような施策を
おこない、どう成果を上げたか史書を繙いてみたいところですが。。。
>>229 法主さん
私自身は歴史SLG好きですから興味はあるのですが、厳格な数値
設定ができず、傍観ばかりしておりました。
久しぶりに覗いてみたら、過去ログに落ちてしまったようですね。
お力になれずすみません。
>>232 shuonさん
>>236 江南椰子さん
浅学ゆえ、さしたる書き込みはできないかと思いますが。。。
貴族政治から節度使政治、皇帝独裁政治への過渡期として、
明宗李嗣源で一区切りはできるかと思います。ただ、これ以後も
節度使や枢密使が侮りがたい勢力を有していることを考えると、
明確な線引きとまではいかないかもしれません。
>>237 馬殷の知嚢ともいえる高郁が、茶の振興をおこなっておりましたね。
239 :
五代潰瘍 ◆WudaIjQs :02/10/02 00:29
高郁について補足します。
彼は馬殷の代には一線で活躍しておりましたが、
次の馬希声(馬殷の次子)の代で、荊南の高季興の流言に惑わされた
王によって誅殺されてしまいます。
なお、『新五代史』によると、馬希声は朱全忠が鶏を好んで食した
ことから、日に五十羽の鶏を煮て食膳に供したそうです。
240 :
中華@名無史さん:02/10/08 15:57
礪波護著の、「馮道」〜乱世の宰相〜 待望の購入記念age!
今までこの本はてっきり小説だと思って居ましたが、評伝だったんですね。
でも凄くこの時代の背景等も解り、為に成ります。
241 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :02/10/11 07:49
>>240 おめでとうございます!
題名から判断すると小説っぽい気がしますが、
実はさにあらず、ということで
塩商の話も出てきますし、時代背景などがわかりやすいと思います。
242 :
中華@名無史さん:02/10/12 03:52
>五代潰瘍さん
ありがとんございますた。
現在忙しいのでゴミレスみたいな物しか出来ませんが、
ネタは有るので、時間に余裕が出来ましたら色々書かせて頂きます。
とりあえず保守。。。
244 :
ななし突撃兵 ( サバゲー板代表 ) ◆fSwRhU0o32 :02/10/26 01:31
なみだがとまらない、
死にたい死にたい死にたい死にたい
なんでこんなに辛いの、
いったいなにをわるいことしたんだろう、
もういきてたくない、
もういきてるのもそうながくはないかもしれない、、
、
、
、
死にたい死にたい死にたい本当に死にたい
死にたい死にたい死にたい死にたい
もう死にたい、だれかいっしょに死にませんか?
薬を大量に飲もうか。。。
もういきていたくない。
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。
死にたい死にたい死にたい死にたい。
245 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :02/11/02 15:04
五代の演義が区の図書館にあったりするわけですが、
相当な分量でしかも中国語なので、二週間で訳して
読破するのはかなり無理があったりします。。。
246 :
世界@名無史さん:02/11/13 01:13
保守age。
……羅貫中の「残唐五代史演義伝」?
247 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :02/11/16 18:09
>>246 いえ、蔡東藩(1877-1945)の『五代史演義』です。
全六十回構成なのは羅貫中の『残唐五代史演義伝』と同じですが、
前者では第三回で朱全忠が後梁を建国する(すなわち唐の滅亡)に至るようです。
後者だと、第二十回まで黄巣の乱を引っ張っているようです(唐滅亡は第三十五回)。
以前買って読まないままだった人民出版社「五代史略」が出てきました。
この冒頭の地図を見て「?」と思ったことがあります。
「夏州」の「定難節度使」が政権部族界線で区切られて独立しているかの
ように書かれています。
この地図は公元943年(後晋天福8年)の時点です。
「五代十国方鎮年表」で確認すると、梁から「隴西郡王」、晋から「朔方王」、
周から「「隴西郡王」「西平王」に封じられています。
まだ他の本での確認はしていないのですが、独立政権であったというのが
書かれたものは今まで読んだ中に記憶にありません。
今は「五代史略」の本文も読んでいない段階ですので、読んでから自分で
結論を出すべきでしょうが、予備知識としてどんな状況だったかお願いします。
もちろん私が調べて解ったことはここに書きますが・・・
249 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :02/11/17 12:50
恥ずかしくも、くだんの『五代史略』の地図は拝見したことがないのですが、
おそらくは西夏の前身であるとして区切られたものと考えられます。
唐の僖宗の中和元年(八八一)、党項族の拓跋思恭が黄巣の乱鎮圧の
功により定難節度使に任じられ、李国姓を賜りました。以来、定難節度使は
彼の眷族によって継承され(中華書局『五代十国方鎮年表』において、
夏州の項に名がある李思諌、李彝昌、李仁福、李彝超、李彝殷も例に
漏れず)、北宋の仁宗の明道元年(一〇三二)、李元昊の大夏(西夏)
建国へと至ります。
250 :
無限江山 :02/11/17 14:59
なるほど。了解しました。
地図を確認しますと「定難」は黄河の支流・無定河〜紅柳河の流域を版図としていて、
西夏の領域よりは東に寄っていますので、これは多分宋の勢力に押されて
西へ移動したのでしょうね。
ん、「西夏」・・・・。この国号は「夏州」により名付けたんでしたね。
251 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :02/11/19 00:43
>>250 無限江山さん
申し訳ありません。
>>249で語弊を招く書き方をしてしまったかも
しれません。
北宋の太宗の太平興国七年(九八二)に、ときの定難節度使たる
李継捧が、夏州はじめ四州を以て北宋に降ります。
ところが、族弟の李継遷はそれに反発し、夏州よりも西に位置する銀川
(興慶府)に拠って叛きます。
そして、その孫の李元昊が立国するわけです。
五代の頃と西夏建国時で版図が異なるのは、そういった事情かと思われます。
252 :
世界@名無史さん:02/11/20 21:59
ちょっと詳細な歴史地図を見ると、
定難節度使は独立して表現されていることが多いですね。
実際、李仁福が卒したとき、後唐の明宗が子の彝超を延州に移そう
と試みましたが、抵抗されて諦めています。
253 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :02/11/23 13:50
>>252 李仁福自身も、夏州で内乱が起こったときに将吏から推されて
いますね。
彼の没時は、契丹が耶律徳光(遼の太宗)のもとで精強を
なしていました。後唐の朝廷ではそれとの連携を恐れたようですね。
独立して表現されているさまは、鳳翔(岐)や廬竜(燕)同様といった
ところでしょうか。
254 :
世界@名無史さん:02/12/06 19:54
age
255 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :02/12/08 00:21
社会思想社現代教養文庫の『中国の美術』(小杉一雄著、1974年)において、
以下のような記述がありました。
>五代は唐から宋への過渡時代で、後梁、後唐、後晋、後漢、後周の
>五王朝を指すが、一番長いもので後漢の六主三十三年、短いのでは
>後周の三主十年というありさまで、興亡まことにめまぐるしい時代だった。
「一番長いもので後漢の六主三十三年」というくだりは、
疑問を抱かざるを得ませんでした。本来五代で短いのは、
その後漢王朝の二主四年ではなかったのか、と。
どうやって六主三十三年というふうにはじきだしたのか……。
……ちょっと考えたところ、北漢の四主二十九年も加えている
ように感じましたが、後漢と北漢は同一視できるものか、
不思議に思えました。。。
もし、血統が同じだからというのであれば、
後唐は少なくとも明宗からを別の王朝としなければ・・
257 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :02/12/10 07:31
>>256 無限江山さん
家柄や伶人に重きを置く荘宗と将兵を厚く遇した明宗の統治方法も
異なりますしね。
もっとも、実際には明宗は別の国号を定めなかったわけですが。
あと、
>>255の論理でいくと、後漢は「正」だけど後周は「閏」ということにも。。。
258 :
世界@名無史さん:02/12/21 16:23
1年が過ぎた。 As Time Goes By ・・・・・
259 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :02/12/26 07:13
>>258 このスレ立ててからもう1年が経つのですね。
いつの間に、という感じでもありますが(苦笑
栗原益男氏の『五代宋初藩鎮年表』を借りてきました。
260 :
世界@名無史さん:02/12/27 00:31
> 五代宋初藩鎮年表
結局、続巻は出ないのだろうか…。
先週土曜日、1年半ぶりに東京へ行って来た。
「続資治通鑑」を買おうと勇んでいったら、「廃版です。」(泣)
「じゃ、長編は?」「廃版です。」(号泣)
262 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :02/12/29 08:05
>>260 > 五代宋初藩鎮年表
刊行から13年経っていますね。十国関係の藩鎮は調査中なのかしらん。。。
>>261 無限江山さん
無念でございますね。
『続資治通鑑』も『長編』も廃版というのは意外だと思いました。
263 :
■中国の歴史人物を登場させよう!その弐【改】■の1 :03/01/05 18:38
五代潰瘍さんお久しぶりです
現在『乱世の皇帝』(著;栗原益男 1979年発行 桃源社)
読書してる最中です。郭威、柴栄の時代を中心とした内容で300Pのボリューム
高平の勝利の後の兵站ミスによる大原包囲からの撤退の経緯が興味深々でした。
『資治通鑑』は近所の図書館で全巻が書庫に保存されてるんだけど
(カビの斑点だらけ。しかも原文、日本語訳無しなので1/10も解読できまシェんT△T)
『続資治通鑑』はあったような無かったような・・・
264 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/01/06 00:33
>>261 無限江山さん
昨日、都内某所の某書店に行ったところ、
『続資治通鑑』が陳列されていました。
>>263 ■中国の歴史人物を登場させよう!その弐【改】■の1さん
ご無沙汰しております。
以前、大学時代に図書館で閲読しましたが、
『乱世の皇帝』は名著だと思います。この時代を扱った書籍は
貴重ですよね。
『資治通鑑』の原文ということは、中華書局本ではないということでしょうか
(句読点も振っていない)。
265 :
世界@名無史さん:03/01/06 00:41
中華書局の『通鑑』が全巻近所の図書館にあるなんて羨ましいです。
卒論を書くときに大学図書館から唐末以降を何ヶ月も借り放しだったという美しい思い出。
今ネットで買えません?『続資治通鑑』。
268 :
世界@名無史さん:03/01/06 13:14
五代十国時代の末代君主は、亡国後、敵国で貴族として
優遇されていることがほとんどなのに、後唐皇帝荘宗は、なにゆえ
後蜀皇室を殲滅したのでしょうか?
>>268 それは粛清をせず優遇をした宋の太祖のほうが中国史上例外的存在。
>後蜀皇室を殲滅したのでしょうか?
「後蜀」ではなく「前蜀」ですね。
270 :
bloom:03/01/06 14:47
271 :
世界@名無史さん:03/01/09 13:29
269
前蜀を後蜀と間違えるという私の初歩的なミスをご指摘
くださり、どうもありがとうございます。
後唐の荘宗が中国史上では、そんなに残虐な皇帝ではない
にしても、後梁を滅ぼした後、俳優や道化師を寵愛して高官にした
ために、軍に反乱を起されみすみす天下統一を棒に振った彼は、北宋の
徽宗、南梁の元帝、陳の後主、南唐の後主と並ぶ、芸術家気取りの大馬鹿
皇帝だと私は思います。荘宗も軍閥の家に生まれずに役者の家に生まれて
いれば、関漢卿や馬致遠などと並び称される戯曲作家になったかもしれない
のにと思います。
(^^)
273 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/01/11 23:58
>>271 後唐の荘宗は、「李天下」という芸名で芸術活動していますね、確か。
ただ、彼は芸術に耽溺したといえども知勇を兼ねた将であります
(朱全忠をして、「李亜子(荘宗李存勗の幼名)のような子供が欲しい。
それに比べたらうちの息子どもは豚犬のごときだ」といわしめています)。
仮に役者の家に生まれていれば、政治史もかなり変わってくるかと思います。
274 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/01/14 05:17
さきほど、NHK教育TVの『漢詩紀行』で李Uの「浪淘沙令」と「虞美人」を
取り上げてましたね。
後者はやや駆け足気味の紹介でしたが。
李Uの詞は良いです。
中主李mの現存する詞がわずか4首。
もっと残せなかったもんですかねえ。
277 :
世界@名無史さん:03/01/15 16:51
呉越王室の銭氏は、呉越が宋に併合された後、一族から代々
科挙に合格する者が多数出て、南北両宋時代を通じて政府高官
を輩出する名門として知られているのに比べ、呉越以外の国の
王室は、宋に国を併合された後、子孫はぱっとしませんね。
278 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/01/15 23:49
>>275 中主李mは隠逸の気質があったとはいえ、[門虫]や楚への遠征などを
おこなっており、文弱に耽りきっていたようではないように見受けられます。
詩作の絶対数としても少ない方だったのでしょうか。
>>276 江南と中原の差異もあるのかな、と思いましたが、
>「長恨歌」は日本語の音読みでも北京官語でも実にリズミカル
となると、必ずしもそうではなさそうですね。
やはり、唐詩と曲子詞の楽曲の差異でしょうか。。。
>>277 呉越王室の後裔としては、銭惟演あたりが有名かと思います。
五代十国の他の王室の子孫については寡聞にして存じませぬが、
『水滸伝』では、小旋風こと柴進が後周王室の末裔ということになっていますね。
同じく『水滸伝』で、敵役として高毬なる人物が登場しますが、荊南王室の
末裔というのは……さすがになさそうですね。高毬はごろつきですし。
279 :
世界@名無史さん:03/01/16 10:46
>>277 以下、私見ですが
確か呉越は一番円満に併合されたんですよね。
ということは通商国家として溜め込んだ財産をあまり没収されずに済んだのではないでしょうか。
科挙に合格するには頭の出来は勿論ですが、受験勉強に専念し、参考書をかき集め、
家庭教師を多数つけるための財力が潤沢でなければなりません。
銭氏はそういう条件を満たしていたのではないでしょうか。
280 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/01/18 00:38
>>279 ええ。呉越は後蜀や南唐、北漢などとは異なり、平和裡に降伏しておりますね。
通商のみならず、重税をかけておりましたから、銭氏自身は富裕であったことが
窺えるかと思います。
あとは、五代ならびに宋に対して基本的に従順な態度をとっていますね。
ただ、銭鏐(中原では後唐)の頃に一時睨まれましたが。。。
281 :
世界@名無史さん:03/01/19 19:39
age
282 :
世界@名無史さん:03/01/19 23:10
宋王朝建国当時にあった独立国
「南唐、呉越、荊南、湖南、南漢、後蜀、ショウ泉、北漢」
ショウ泉ってなんですか?
283 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/01/20 07:01
>>282 [シ章]泉のことですか?
それであれば、留従効の政権のことを指すかと思われます。
留従効は、王氏の[門虫]が滅んだ後、南唐皇帝李mによって
泉州節度使に任じられております。が、南唐には服属せず、
後周ならびに宋と誼を通じています。
「杭州市」というと、南宋の都としての繁栄が有名ですが、
それに先だって通商国家・呉越の都でもあります。
スレッドの主題からははずれますが、中国史を読んで疑問に思うことの一つに
南宋はなぜ「南京」ではなく「杭州」を都にしたのかということ。
あまりにも南に寄りすぎてはいないか。
ですが、五代に興味を持つようになってやっと自分なりの結論を得ました。
「南京」は政治都市。対して、大運河によってより発展した「杭州」は経済都市。
その前、防衛には不利と思われる「開封」を経済の中心地であることをもって都にする宋ならば、
同じ発想で「杭州」を都にするのは自然な発想である、と。
「シ卞州(開封」を選ばずに、古くからの都の地であるという理由で「洛陽」に都を置いた
後唐の時代錯誤はどの五代史の本にも書かれていますが。
縁起の悪さもあるんじゃないの?
明太祖が出現するまで、南京に拠って北朝に勝った
政権って無いもんね。劉裕が河南を制圧したのが
限界じゃないかな。
それと、確かに要害ではあるがビザンツなんかと違って
ころころと陥落してるし。
286 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/01/27 23:42
>>284 後唐の荘宗ですが、はじめは確か長安遷都を考えていたと思われます。
もっとも、それでは遠すぎると反対されて、やむなく洛陽で妥協したようですが。
いずれにしても、堅固な要塞(南京における石頭城など)よりも交通の要衝が
この時代の潮流になった、という感じでしょうか。
>>285 コンスタンティノープルって、三方を海に、もう一方は山で塞がれた
要害でしたよね。
ところで、江南のほうでは食物が豊かで質がいいから、
つとめて中原に打って出ようという考えがあまり現れない、
などという話を聞いたことがあります。信憑性はさておき。。。
>>286 北方民族が何度も乱入してきてぐちゃぐちゃにしていった華北と比べて、
江南はそういうことがないから地場勢力が温存されやすい。
彼らは国家的な視点よりも自分の勢力の温存を図る傾向がある、と。
で、この辺に政権を樹立する場合元からの土地の勢力か、もしくは北方
からの亡命のため基盤が無くそんな勢力に頼らざるを得ない。
すると最初は北伐する気があっても徐々に引きずられて安住してしまう、とか。
288 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/02/01 08:57
六朝の頃からそういった傾向がありますね。
五代十国で、地元に政権をうち立てたというと呉越ですね。
あとは、呉もそうなるかな。楊行密は確か廬州の人だったはずですし。
蜀にもそういう安住する傾向がありませんか。
諸葛孔明死後の蜀漢や、王建の前蜀、孟知祥の後蜀など。
孟昶時代に、契丹の侵入で混乱したそのどさくさにちょこっと秦3州でしたか
奪ったけれど、その後の発展無し。後周の世宗に奪い返されてじり貧・・・
三国志の再現を望むのは私だけでしょうか。
290 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/02/02 20:46
蜀は「天府」と呼ばれていますね。
前蜀では、王衍の代に三峡を下って荊南の方に攻めよ、
と進言した者がいますが、王衍はこれを容れなかったようです。
後蜀は、初代(孟知祥)の在位が短く、二代目(孟昶)が文弱でありながら、
一時的に北伐をおこなったというあたりが、三国蜀と似通ったところが
あるように感じられます。
291 :
■中国の歴史人物を登場させよう!その弐【改】■の1:03/02/11 19:58
蜀・・・
前漢末に公孫述が蜀に割拠して国号を「成」とし、「白帝」を自称しましたが
その後は大きな動を見せず、マターリしてる間に
中原を制覇した光武帝に攻めこまれてあぼーん。
「井の中の蛙」という、ズバリ!なことわざを残しました
明末にも張献忠が蜀を占領して国号を「大西」とし「八大王」を自称しますが
中原で戦ってた李自成と積極的な連携を進めようとした形跡が乏しいです。
マターリしてる間に、李自成を破った清軍に降伏勧告され、ようやく親征を決意して
北上しますが伏兵に破れて呆気なくあぼーん。
どうも蜀という地は、癒し系なのかもしれません(w
蜀から再起して漢の高祖になってしまった劉邦という人は
やっぱりメガトン級の大物だったのでしょうか?
脱線スマソ
>291
…荒らし?
「井の中の蛙」は元は「荘子」にある言葉だと思いましたがねえ。
田中ナニガシの抜き書きばかりしてちゃイカンよ。
たしかこの時期の蜀は「農産も鉱産も豊かで塩井も存在する」地域ですよね。
貨幣に必要な銅があって、税源たりえる塩があって、民衆を養う穀物もある。
しかも、製紙・印刷技術の改良に国力を向ける余裕を持っていた──と見ると、
蜀一地域のみですべてが完結してしまい、周囲に勢力を扶植しようという
意欲が生まれにくかった…とは考えられないでしょうか?
…いや、浅薄な見方だと自覚してはいますが。
日本史板の番号で書いてしまった…スマソ
294 :
中華@名無史さん:03/02/12 02:22
口は禍の門
295 :
世界@名無史さん:03/02/12 05:59
>>292 この「井の中の蛙」の話は陳舜臣の十八史略にでてきたと
思うんだけど...違うの?
296 :
世界@名無史さん:03/02/12 10:05
漢高祖の成功は敵失と、敵失を産んだ時代背景が要因として
あるので、あまり蜀とは関係ないような。
スレ違いスマソ。
あと、劉邦の場合は南鄭、すなわち蜀の入り口あたりに拠った
(成都の方までいっていない)から、「蜀の影響力」は
薄いかもしれませんね。
後周の世宗ってこのスレでは人気無いね。
語り尽くされてるのかな?
とりあえず、300レスおめでトン!
>>299 後周の世宗か・・・ 書きたいことは山ほど。
もっと長く生きて欲しかった。唐の太宗ともなりえた人物だったのに。
宮崎市定氏は織田信長を比定しているが、私はローマ皇帝アウレリアヌスを比較してしまうなあ。
書かれた本では、桃源社「乱世の皇帝」栗原益男著が良書。(今、入手できるのかな)
302 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/03/02 10:05
>299
まだネタはあります。
が、私自身が無知ゆえ、なかなか提供できず。。。
>300
ありがとうございます。
>301
>桃源社「乱世の皇帝」栗原益男著
古書店で探してはいるのですが、まだ見つかっていません。
無限江山さんはお持ちですか?
桃源社「乱世の皇帝」栗原益男著は持っています。
定価1600円を古書店で2000円・・・・
「子陽井底蛙耳,而妄自尊大,不如專意東方」
305 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/03/04 07:34
>303
おお、左様ですか。35年前の書籍で、物価も異なりますので
2000円ならば良いかと思われます。
>304
>291 >295 で言及されている『十八史略』の公孫述に関するくだりですね。
すみません、お教え頂きたいのですが、
『十八史略』っていつ成立したものなのでしょうか?
故事成語ネタで書いて 〜 突っ込んで(ちょっと殺伐?)、の展開に、
漏れが
>>294で、この時代の故事成語を使って出して、マターリしよう!と言う意味と、
軽々しく下手な事書けない罠と言う意味を兼ねて書いたつもりだったんですが、
誰も触れてくれず、さみすぃ〜…
>>308 まあ、ここは世界史板で最も生真面目なスレッドですからねえ・・
十八史略の五代十国の巻を今改めて流し読みしてみた。
一つ発見したこと。
前後の大唐、宋の皇帝は即位の時に正式の帝号を書き、
他の箇所では「帝は云々」と書いている。
ところが五代十国期の皇帝、王の記事は明らかに差別待遇。
後周世宗の場合。
即位前:晋王
治世の最初:世宗皇帝
その後:周主
他の五代十国の皇帝、王も同様にことごとく「○主」。
巻頭の「漢土歴代帝王図」では五代各王朝は正統扱いなんですがね。
突厥出身が多いから差別されてるんじゃないの?
「少年叢書 漢文学講義 十八史略」
しかし、明治の少年はこういう漢文を読んだんだねえ。
五代史ファンとしては、全七巻中の第六巻の3分の1しか
五代十国の記事がないのが悲しい。
313 :
世界@名無史さん:03/03/11 22:44
夏王朝の前に王朝はないの?
(^^)
317 :
世界@名無史さん:03/03/15 01:22
ageます
318 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/03/16 09:13
移転に吃驚しました。
スレがなくなってしまったのか、などと思ってしまいました。
復旧して何よりです(^−^;
>310
>治世の最初:世宗皇帝
>その後:周主
というのが気になりますね。一貫して「皇帝」或いは「主」であればまだしも。
後周世宗の場合、南唐中宗のように「皇帝」から「主」に改めてはいないはず、ですよね。
もうちょっと十八史略から詳しく拾ってみるとある傾向が見えてきました。
秦 :「始皇」「二世」「三世」
漢 :「帝」(高祖の途中まで)、「上」(高祖の十二年・戚姫の記事以降)
新 :「王莽」「莽」と呼び捨て
三国・蜀漢:「帝」、魏・呉:「○主」
西晋〜東晋:「帝」
北朝 :「○主」
宋〜陳 :「○主」
隋 :「帝」
唐・高祖:「帝」、太宗以降:「上」
周・武則天:「后」
五代十国:「○主」
宋 :「上」(即位の初めから)
遼、金 :「○主」
320 :
169ではなく無限江山:03/03/17 23:09
名前を間違えました。
傾向としては、
正統政権が「帝」
正統政権の内、安定政権が「上(しょう)」
正統と認めないのが「○主」
五代は正統からおろされているのか・・・
>>320 分裂時代の王朝は曹魏以外はすべて「○主」になっていますね
東晋と南宋は統一していた時代があったので「帝」なのでしょう
五代潰瘍さん、お久しぶりです。
実は、呉越についてお伺いしたいことが2点あります。
(1) 呉越は南方諸国の中では最も長期間存続した国ですが、
それを可能にしたのは、銭氏一族が地元出身であったこと以外に、
呉越に何らかの特色ある政治構造が存在したためなのでしょうか?
有力な将軍が忠遜王(銭倧)を退位に追い込んでいるなど、
政権にとっては不安定要素もあったようですが。
(2) 一般に呉越は「重税」の国であったとされているようですが、
それは各国との比較など、何らかの形で立証されているのでしょうか?
また、呉越の「重税」に対し、呉越の民衆はそれを不満に感じたり、
反抗したりしていた形跡は見られたのでしょうか?
以上、粗雑な質問で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。
324 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/03/20 07:31
>>319,
>>323 三国では蜀が正統だというあたり、習鑿歯や朱熹の流れを汲んでいる
感があります。
>>322 お久しぶりです。以下に浅見を述べさせていただきます。
(1)呉越は、武粛王(銭鏐)の一時期を除き、中原王朝に対して
従属の姿勢をとっております。それゆえか、呉や南唐よりも
外圧は少なかったのではないでしょうか。
ただ、従属関係があるといっても、楚は分裂して滅んでいます。
このあたりを鑑みると、呉越が後継者争いで大もめにならなかったことは
大きいかと思います。
(2)『新五代史』に、卵やひな鳥にまで重税を課しているというような記述が
みられます。
他国との比較はありませんが、上記のような状態から、ただごとではない
ことがうかがえるかと思います。どれだけ「ただごとではない」かは
はっきりとはしませんが……。
反乱は寡聞にして存じませんが、民が苦しんだことは同史に言及されています。
>>324 丁寧な御回答、ありがとうございました。
中原王朝との抗争を免れ、後継者争いが発生しなかった点は、
確かに呉越にとって有利な環境と言えますね。
それにしても、隣国に呉、南唐という強国がありながら、
よく呉越はこれらの国に対抗できたものだな、と思えます。
日野開三郎の著書によれば、水軍の存在もその助けとなったとありましたが、
あるいは外交や軍備への投資も、重税の要因だったと言えるのでしょうか?
ご無沙汰しています。
>>322 今日、図書館で『呉越備史』を読んできました。
パラパラ斜め読みしただけですけれど。
荒野を開墾した場合、その土地に税は課さなかったため、
国内に荒れた土地はなかった、この制度をなくそうという
声が上がったが、王が一喝し、民が喜んだ。
というような記事がありました(ちょっとうろ覚え)。
まあ、この史料は呉越王室の関係者が先祖を讃えるために作ったという
説もあるので、自分に不利な話は載せないと思いますが、
『新五代史』の一節も慎重に扱わなくてはならないと思いますね。
327 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/03/24 23:59
>>325 中原王朝への貢納、もあるやもしれませんね。
>>326 こちらこそ、ご無沙汰です。
呉越の国王自体は、決して内政そっちのけ、というわけでは
ないですよね。武粛王の治水政策とか。
上記
>>324では言い切ってしまった感がありますね。
そもそも、欧陽脩は十国にあまり肯定的ではないわけで、
そのへん、史料の扱いに対して慎重になるべきところでした。
あくまでも一説、ということで。失礼しました。
328 :
世界@名無史さん:03/03/25 01:21
庇護された後周の子孫は宋滅亡時にどうなったのですか?
>>326-327 江南椰子さん、五代潰瘍さん、ありがとうございました。
呉越の国内振興策にも色々なものがあったようですね。
>>328 「乱世の皇帝」から丸写しします。
この間に(柴)宗訓は洛陽からさらに田舎の房州(湖南省房県)に移され、九百七十三年三月、
二十歳で世を去り、趙正胤の命令で柴栄の慶陵のかたわらに順陵がつくられ埋葬された。
諡号は恭皇帝という。その後一〇五九年に、宋朝四代目の皇帝、仁宗趙禎の詔で柴栄の子孫中の
年長者ひとりが墓守を命ぜられた。柴栄の子孫はふたたび歴史の表面に現れることなく、
歴史のなかに埋没してしまう。
柴栄の最後の皇后符氏も九九三年には死去し、柴栄が生まれたケイ州の柴家の別野もどうなったかわからない。
>>330 誤字がありました。(不明字も)
2行目 ×趙正胤 → ○趙匡胤
6行目 ×ケイ州 → ○邢州
6行目 ×別野 → ○別墅
333 :
世界@名無史さん:03/04/06 10:54
旧五代史巻134 僭偽列伝第一、楊溥伝の補文、
初、(田)頵之囲城也、嘗遣使候錢鏐起居、鏐厚待之。
将行、復與之小飲、時羅隠、皮日休在座、意以頵之師無能為也、且欲譏之。
於是日休為令、取一字、四面被囲而不失其本音、因曰:
「『其』字上加『草』為萁菜、下加『石』為碁子、左加『玉』為h玉、右加『月』為期會。」
羅隠取「于」字上加「雨」為舞雩、下加「皿」為盤盂、左加「玉」為玗玉、左加「邑」為邘地。
使者取「亡」字譏錢鏐必亡。
然「亡」上加「草」為芒、下加「心」為忘、右加「邑」為邙、左加「心」為忙、其令不通、
合座皆嘻笑之、使大慚而去。
歴史の本筋にはあまり関係のない言葉遊びですが、これははっきり言ってイジメですね。
この文章は初めは理解できず、何度も字典を引きながら書き写し、読み下し、
ようやくわかるようになった部分です。
この苦労を思い起こすと、私の能力は文中の使者よりも劣るのかな。
334 :
333=無限江山:03/04/06 10:55
名前が飛びました。
335 :
世界@名無史さん:03/04/12 08:19
「五代春秋」は確かに存在します。
「四庫全書總目提要」によると宋の尹洙の撰で2巻。
「邵氏聞見録」によると「新五代史」の編纂に当り歐陽修は尹洙と分担しての
著撰を約していたとのことであるので、この書はもしかしたらその際の
ものではないか、しかし編年体であって「新五代史」と体裁を殊にするので、
同撰を約して果たさず後に独自に述作したものかもしれないと「提要」は
言っています。岸田さんはこの見解に着目して両書の異同を考察したの
ではないでしょうか。
「五代春秋」は梁の開平元年から周の顯コ七年正月までを紀しているそうで、
「提要」は「筆削は頗る不苟と爲す、多く謹厳の遺意を得たり、其の春秋の
學の深きを知る矣」と評しています。
337 :
shuon:03/04/12 12:15
>333
令は「酒令」というヤツだと思うんですが、この場合、なぜ使者の令は「通ぜず」だった
んでしょうか? ご教示いただけると有り難いです。
338 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/04/16 07:45
>337
恥ずかしながら、私もその真意がまだつかみかねている状態です。
同じ、旧五代史巻一三四 楊溥伝の補文には
(楊)行密嘗命以大索為銭貫、号曰「穿銭眼」。鏐聞之、毎歳命以大斧
科柳、謂之「斫楊頭」。
などと、互いに相手の姓を以て罵りあっている様が描かれています。
(^^)
340 :
世界@名無史さん:03/04/17 18:16
>>333 これを読んでみると、皮日休と羅隠のあげた字は概ね難しい意味を持つ抽象的で
エレガントなものであるのに対し、
使者のあげたものは日常的な字で露骨で品がないようですけど、
それでいいんでしょうか、裏の意味があるんでしょうか。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
342 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/04/22 05:06
ついさきほど、NHK教育『漢詩紀行』で皮日休と羅隠が取り上げられて
いました。
ふたりして、牡丹の詩でした。
343 :
世界@名無史さん:03/04/29 09:58
「皮日休」って変な名前!
344 :
世界@名無史さん:03/05/01 23:53
詩人って変な名前の人が多いと思う
一番違和感があったのは魚玄機
345 :
世界@名無史さん:03/05/03 00:17
age
346 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/05/05 22:04
>>343 彼の字である「襲美」もまた変わっているなあ、と思ったりもします。
>>344 魚玄機は、森鴎外の同名小説で知りました。
そういえば、唐には魚朝恩という宦官もいますね。
347 :
世界@名無史さん:03/05/15 07:14
燕や岐が話題になっていましたが、僕も初期のマイナー政権に興味があります。
趙について知っている方、教えてください。
348 :
世界@名無史さん:03/05/15 09:02
昭義軍節度使について教えてください。
889年 孟方立→孟方遷
890年 李克ユウ→李克恭
この両者って別物なんでしょうか?
349 :
世界@名無史さん:03/05/15 16:00
350 :
世界@名無史さん:03/05/15 16:39
>>347 五代期に「趙」はあったかな?
唐の帝室の誰かならあるかもしれんが。
351 :
世界@名無史さん:03/05/15 17:13
中国歴史地図で見ると、定州の義武節度使が作った政権のようですが、
それ以上のことはわかりません。
352 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/05/16 00:23
>>348 別人ですね。
孟方立と孟遷は兄弟です。この甥に当たるのが、後蜀を建てた孟知祥です。
李克ユウは存じ上げませんが、李克恭の前任は李克修のようです。
いずれも李克恭の弟とされています。
もともと、朝廷から正式に節度使を授かったのは孟方立です。
彼は昭義節度使の治所を[シ路]州から己の故地たるケイ州へ
移そうとしたところ、[シ路]州の民から反発を受けます。
結果、[シ路]州は晋(李克用)の支配下に帰し、克修が
遣われてされてきた次第です。
要は、昭義節度使の分割ですね。
>>347,
>>350,
>>351 王鎔でしょうか?
それであれば、盧龍、魏博とともに河朔三鎮と称されていますね。
朱全忠の娘を息子と娶わせる一方で李存勗と盟約を結んだりして
いるようですが、燕の敗亡によって転がり込んできた客将張文礼に
殺されています。
353 :
世界@名無史さん:03/05/16 01:59
>352
カイヨウさん、ありがとうございます。
それにしても李克用が勝手に節度使を任命してたんですね。
僕が参照したのは新唐書ですが、何の注釈もなく昭義節度使李克恭
と書かれていました。正史が非公式な称号を認めてしまっていいのだろうか。
354 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/05/18 00:19
>352で言及した孟方立ですが、
>朝廷から正式に節度使を授かったのは
というのはちと語弊有りかもしれません。
この時代にありがちな内乱に乗じて、一守将である身の彼が
自ら留後を名乗り、その後で節度使を認めてもらっているからです。
>353
新唐書のどこの記述か、にもよりますね。
李克用関連の列伝ならばともかく、本紀だと首を傾げてしまうかも。
356 :
世界@名無史さん:03/05/20 20:45
礪波護の馮道をやっと手に入れました。
これから読みます。
357 :
世界@名無史さん:03/05/20 21:43
>>356 10年前、台湾に行った時買ったけど、今以て読んでいない・・・
つんどくの山で探しものをしていたら、
「中国歴代通俗演義 五代史演義」(蔡東藩著 上海文化出版社)が出てきました。
前の職場で「通俗演義は三国志しかない」と思いこんでいた同僚を
「全部の時代に通俗演義はあるんだよ」と説得するために東京へ出張したついでに
買い求めたという思い出の本です。
>>358 それ激しく読んでみたい。
せめて、日本語訳ないだろうか?
日本語訳があれば、五代史物の普及に役立つかと。
>>358 簡体字、横書き、しかも俗語で書かれているので、こういうものに慣れないと苦労するかもしれません。
しかし、慣れてくると簡体字の行列を追って行くと結構何が書かれてるかおおむねわかってくるのは
不思議なものです。
どうも、口調が三国志通俗演義(吉川英治ではなく岩波文庫)や水滸伝にそっくりな感じのは
伝奇本として共通する特徴なのか。
※じゃ、翻訳してくれと言われると、え、え、え、そこまでは・・・とても。
361 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/05/24 00:40
>360
章末の決まり文句などもありますね。
「且听下回分解」(あとは次回のお楽しみに)とか。
362 :
世界@名無史さん:03/05/27 10:31
唐末、昭宗時代について、旧唐書と新唐書の記述が全く合わないのですが、
これってどういうことなんでしょうか?
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
364 :
世界@名無史さん:03/05/29 16:40
>>359 神田の中国輸入書籍書店で購入できますよ。
ただし、簡体字ですが。
366 :
世界@名無史さん:03/06/02 17:20
>352
王鎔ですね。
あと定雄節度も独立政権を作っていたようですね。
>あと定雄節度も独立政権を
夏州の定難軍のことでしょうか、後世の西夏にまで及ぶ最も独立性の強い
地方政権でした。
似たような名の天雄軍は重鎮で、范延光や杜重威のように時として反乱を
起こすことはあっても中央から独立はしませんでした。
五代の節鎮について調べるのに便利な工具としては、
栗原益男編「五代宋初藩鎮年表」(東京堂出版刊)と朱玉龍編「五代十國方鎮年表」
(中華書局刊)の2書があって、萬斯同の「五代諸鎮年表」はもとより、呉廷燮の
「五季方鎮年表」も全く覆瓿ものになってしまいました。
朱氏の書は栗原さんの本よりずっと後に出たものですが、実際の成書はほぼ相
前後してるようです。うちには栗原さんの本はないので比較できないのが残念。
>>368 『五代十國方鎮年表』は『五代宋初藩鎮年表』にない
地方政権の藩鎮も扱っていて便利ですが、
栗原氏による詳細な注釈のメリットは計り知れず、
続編が待たれるところですが、無理でしょうか…。
>>362 こういう質問にはレスの返しようがありません。
「舊唐書」は宣宗以降の實録が得られなかったため無原則に史料を採りこんでしまい、
やたら分量の膨らんだ雑駁なものになってしまったと批判されています。「新唐書」は
これに対し「文は省き事は増す」という方針で編纂されました。
両書の記述が合わないと言っても家康が勝った戦を別の本に三成の勝ちとしてるとか、
丸きりパラレルワールドみたいに書いてあるわけではないでしょう。具体的にどこが
こんな具合に食い違ってるという指摘がないと雲を掴むような話になってしまいます。
「資治通鑑」に付されている「考異」には参照した史料の相違点を具体的に挙げて、その
中からどれを採用したか詳細に理由を説述しています。また錢大マの「二十二史考異」
王鳴盛の「十七史商榷」趙翼の「二十二史剳記」なども正史の記述の矛盾を考察しており、
両「唐書」に限って検討しているものは沈炳震の「唐書合鈔」があります。
371 :
世界@名無史さん:03/06/03 13:14
唐末五代の藩鎮制度について詳細に記された書籍教えて!
宮崎市定全集に収録されているものを除いて。(もう読んじゃったから)
372 :
世界@名無史さん:03/06/03 14:31
362>370
レスの返しようのない質問に的確にレスしていただき、ありがとうございます。
両者の記述内容に重複するものがあまりにも少ないので、
新唐書は旧唐書の補遺のようなものかと思った次第です。
それから具体例をあげて議論すべきという指摘はごもっともと思いますが、
そこまで真剣にやるなら2chはちょっと・・・。
>>371 個別研究は栗原益男さん始め論文がたくさん出てますが、全体を詳説したものは
日野開三郎さんの「支那中世の軍閥」くらいしか想い浮かびません。
これは単行本としては戦前に出版されたものですが古書店でたまに見かけることも
あります。戦後は「日野開三郎東洋史学論集」(三一書房刊)の第1巻に収録されて
います。これには「唐代藩鎮の跋扈と鎮将」を始め関連論文も併載されています。
「唐代の戦乱と山棚」なんか小説創作の興味を刺激する面白い一編です。
375 :
世界@名無史さん:03/06/16 16:52
>夏州の定難軍のことでしょうか、後世の西夏にまで及ぶ最も独立性の強い
地方政権でした。
定難軍は、結局王号を称さ無かったのでしょうか?
376 :
世界@名無史さん:03/06/16 16:56
>>375 中原王朝から王号を賜りこそしたものの、自称はなかったかと。
378 :
世界@名無史さん:03/06/26 00:04
秦宗権の蔡州の軍団って結局、呉・呉越・楚の中核になったわけだけど、
唐代の蔡州ってなんか特殊な地域だったでしょうか?
調べられる資料が手元になくて・・・
ウイグル人とかが移住させられた地域だったような記憶があるんですが
違いましたっけ?
379 :
中華@名無史さん:03/06/28 00:41
秦宗権と言う名前を聞いて思い出しましたけど、
彼って最終的に、皇帝を名乗ったんですよね?
だとしたら、彼が立てた王朝の、は何と号していたんでしょうか?
漏れの持って居る資料等には載って居ないので、知識が有りません。
どなたか御存知な方居られますか?
と、ネタを振りつつage
380 :
世界@名無史さん:03/06/28 10:15
資治通鑑によると、唐僖宗光啓元年(885)に「秦宗権称帝、置百官」とだけあります。
一応、皇帝と称したからには帝号、国号などいろいろ決めたと思います。
しかしその詳しい情報は秦宗権勢力の四散で後世に伝わらなかったのでしょう。
兵団の主力は孫儒を経て楊行密に合流しますが、その顛末を持つか、知る人物が
この中にいなかったのではないでしょうか。
もしいれば南唐の資料を通じて現代に伝えられていたと思うのですが。
381 :
380=無限江山:03/06/28 10:28
それから、秦宗権自身は文徳元年(888)12月に朱全忠にとらえられ、翌龍紀元年(889)2月に処刑されますが、
すでにこのころには、帝を名乗った事実は自分が忘れてしまったか、無視されたかでしょう。
(忘れると言うことはないか・・・)
※380よりこちらを先に書くべきでしたね。
秦宗権の称帝は朱全忠にたたかれた直後だから、苦し紛れだったのかも・・・
しかも、軍団は孫儒とかをはじめとして各地に散らばって、
独立傾向にあったわけだから、やはり落ち目の帝だったんでしょう。
秦宗権は黄巣よりある意味たちが悪かったから、記録的にも抹殺傾向にあるんでは?
確か、軍の行くところで食人を繰り返していたような気が・・・(出典忘れちゃいました)
個人的には蔡州軍団は・秦宗権→孫儒→馬殷 だと思ってるんですけどね・・・
馬殷たちは秦宗権の後継者だということは否定したかったでしょうから、
やつに関する記録はなるべく残さなかったのだと思います。
383 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/06/30 07:38
>>382 孫儒と馬殷の間に、劉建鋒が入ります。
劉建鋒は部下の妻に手を出して殺され、ごたごたの末に
頭領として据えられたのが馬殷だったはずです。
384 :
世界@名無史さん:03/06/30 13:38
馬殷は最終的に湖南地方の建国したけど、
孫儒の頃は、この集団は江東を目指していたようですね。
385 :
世界@名無史さん:03/06/30 15:30
前にしつこく伺いました高駢が殺されたあとを楊行密が継いだけれど、
そこへなだれ込んだ孫儒を支えきれずに明け渡した。
しかし孫儒は人心を得られず自壊し、
5年後に楊行密が江東を取り戻して降伏した兵を自軍に取り込んだ。
それによって楊呉→南唐が十国中の最強勢力となった。
以上、私の理解の概観。
386 :
385=無限江山:03/06/30 15:41
またも名前を忘れました。
しかし楊行密はあまり戦争の達人とは言えないのかなというのが私の印象。
政権が安定した後は、戦争のほうは任せっきりにしてたような気が。
もし本気で領土拡張をやっていれば、楚、呉越、閩などはこの頃に
併合していたのではないかと思う。(脱線、孫儒の話でしたね)
387 :
世界@名無史さん:03/06/30 19:14
孫儒、劉建鋒は、やっぱドキュンだったんですかね?
馬殷は、この集団の中ではまともな方だったのかな?
孫儒の軍団の大半は楊行密に吸収されてしまったみたいですね。
ちょっと、勘違いしていたようでした。
劉建鋒が率いていった敗残兵は7千でその後10万に膨れたようです。
しかし、幹部連中の大半は湖南へ行ったと思われます。
馬殷の部下連中はみんな蔡州(近辺)出身者
(唯一の例外といえるのはブレインの高郁。この人は楊州)
7千というのも精鋭部隊だったのでは?というのが私の見解。
だから、馬殷時代は楊行密とも互角に戦ってます。
ちなみに、楊行密のところの蔡州軍団(ちなみに黒雲都)を率いてたのが
馬殷の弟でした。
楊行密は自領の拡張よりも、政権固めが大変だったみたいです。
田【君頁】のような同僚クラスの部下の扱いに苦しんでたみたい。
その辺の対処としても、非地元人の強力な親衛隊が欲しかったんでしょう。
劉建鋒は孫儒軍幹部だったんで、その部隊をある程度引き継いでいったんでしょうが
人望は無かったんでしょう。それが例の事件に
その後は、張佶という人が後継ぎになりそうになったんですが、
ラッキーで馬殷が後継ぎに。
馬殷という人は、劉備的な人望のあった人のようです。
楊行密みたいな力持ちとかいうような記述も無いですし。
<ついつい馬殷擁護にまわってしまいました>
389 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/07/02 06:32
>>388 張佶は馬に蹴られて足を骨折してしまいましたね。
それで、彼は「勇にして謀あり、寛厚にして善を楽しむ」馬殷を推しました。
馬殷ははじめ、蔡州軍団を束ねる形で湖南に地盤を固めていきましたが、
朱全忠から楚王に封じられてから、親族を要職に就けることも増えたようです。
楚の場合は政権の要職を構成する面々が時期とともに極端に変化するんで
面白いですね。馬希範以降特に。
他の流寓政権と比べても・・・(三国蜀や東晋なんか)
個人的には馬殷の末ごろに謀臣高郁が息子に謀殺されちゃった事件が、
この政権の行く末を暗示してるような気がします。
彼は馬殷の知恵袋だった割には、それほど高い地位を与えられてなかった
(それでも文句言わなかったんだとしたら)
得難い人材をむざむざ殺しちゃうようでは・・・と
話変わりますが、李振について調べたいんですが、お勧めの本なんかありませんか?
図書館でおいてあるレベルなら嬉しいんですが
391 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/07/05 12:18
>>390 特に二代目(馬希声)が高郁を忌み嫌っていましたね。
高季興の流言も絡んでたようですし。
正史(『旧五代史』及び『新五代史』)にあたるのが一番手っ取り早い
かと思われます。
李振に限らず、「図書館でおいてあるレベル」(市区町村立、であると
仮定して)で五代十国の本は殆ど見かけないのが現状です。。。
貴族や宦官に関する文献であれば、「清流と自称する奴らを
黄河(濁流)に投げ捨てろ」とかいう彼のくだりはあるかもしれませんが。
>>391 五代十国関連書籍でで市区町村立図書館に置いてある可能性が最も高いのは
平凡社の「資治通鑑選」ではないでしょうか。
ただ、これは編年体であるうえ、抜粋ですので、知りたい情報を得るには
いらいらするかもしれません。
お二人ともどうもありがとうございます。
正史なんかはネット上でも見れるのを最近発見できたんで、
そちらのほうで我慢するとします。
漢文読む力も下がってるから、読むだけでたいへんです(笑)
中国のサイトでは、正史などの資料をネット上で見られるところが結構あるよね。
簡体字のサイトはほとんどだけど、繁体字のサイトも探せばあるし。
考えたら便利な世の中になったな。
395 :
世界@名無史さん:03/07/08 06:37
ひとつ疑問なんですが、李克用はせっかくロ竜軍を制圧したのに、
なぜこれを劉仁恭に与え、謀反されてしまったんでしょうか?
396 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/07/12 09:14
>393 >394
書籍として手元になくても、検索や確認ができますからね。
重宝しています。
>395
劉仁恭は嘗て盧龍節度使のもとにいました。
節度使交代の混乱に乗じて兵を起こしましたが、敗走して
李克用の庇護を受けます。
そこで、克用が可愛がっていた蓋寓という将に泣きついて、
幽州攻略について画策しました。仁恭は、克用から信任を得られます。
野心家たる仁恭からすれば、強盛な克用を利用できて
「してやったり」といったところでしょう。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
自力で見つけたのは中央研究院 漢籍電子文献というところですが、
ここ以外にもありますか?
この便利な環境が現役の時にあればなあ・・・などと
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
資料として一番便利なのは「通鑑記事本末」でしょうね。
平凡社あたりが丸ごと日本語訳してくれないかな。
みなさま有益な情報を謝謝
あとはどこかに頑張っていただいて「十国春秋」「九国志」あたりですかね
新・旧五代史じゃ十国関係の列伝ありませんしね・・・
あと「北夢瑣言」なんか誰かが訳してくれれば読みたいな(笑)
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
唐突な質問ですいません。
「続唐書」ってどのくらい信用できるんでしょうか。手元の「二十五別史」に
収録されてる後唐・南唐・各国世家の文章を読んでみて、新五代史を持ってれば
要らないかなあ、と思ったんですが…。
深く比較対照した感想ではないので、「読みが浅い!」と叱られそうですけど、
どなたか解説をお願いします。
>>407 私も斜め読みしたことはありますが、
新奇な記事はないと判断してちゃんと読んだことはありません。
清代にまとめられたものだったと記憶しています。
両五代史とか両南唐書とかの記事を転載しただけでないでしょうか。
409 :
世界@名無史さん:03/07/24 10:34
大周后・小周后姉妹、美人だったというが・・・
保守
413 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/08/02 13:08
「九国志」といえば、数年前に某書店にて取り寄せを依頼したものの
在庫無しで入手できず、ということがありました。
ネットを始める前の話ですが……。
>409
李Uの妃ですか?
真偽のほどはともかく、江南に佳人が多いということを
示す挿話ではありますね。
後漢末の大喬(孫策の妻)、小喬(周瑜の妻)しかり。
414 :
世界@名無史さん:03/08/25 12:22
潰瘍さ〜ん椰子さ〜ん、夏休みが終っちゃうよー
そろそろ出てきてー
415 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/08/28 00:32
ご無沙汰しております。
いつぞやか言及した残唐五代史演義をちまちまと訳しているものの、
忠実な翻訳ではなく、かなり意訳している部分も多いです。
己の語学力の欠如をまざまざと思い知らされております(汗。
私も宋王朝スレッドに書き込んだ「飛龍全傳」を翻訳しようと
涼しかった盆休みに作業を始めたけれど、2日目、
1ページ目を終えたところで疲労困ぱいしてしまった。
3日目以降は今まで録り溜めしてあったビデオをひたすら見てました。
私は全く何もしていません。よってsage。
旅先に『旧五代史』を持参したんですけれど。
一度『呉越備史』をちゃんと読んでみたいですね。
418 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/09/21 07:28
『乱世の皇帝』入手しました。
419 :
無限江山 :03/09/21 10:33
おめでとうございます。
420 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/10/04 01:29
>419 無限江山さん
遅ればせながら、ありがとうございます。
今度は、『五代群雄伝』が欲しいですね。
>417 江南椰子さん
大学の図書館で眠っている『呉越備史』は、中華書局本に慣れている
身だと読みづらいものでした。
素直に大学院へ行っておけば良かったかも。。。(今更ながら
>422
『呉越備史』は変わった構成になっていますし。
基本的に編年体です。
ただ、人物の小伝が活躍したとか死去したとかそんな記事
に挟まっていて時系列がわからなくなることがあります。
一度、どこに誰の小伝があるかなどを整理、
正史とか通鑑とかと比較してみたいんです。
『冊府元亀』も誰か年代順に整理してくれないかなあ…。
『五代群雄伝』
著者:村松暎、発行:中央公論社、昭和47年10月印刷発行
第1話 朱全忠
第2話 李存勗
第3話 後唐荘宗
第4話 後唐明宗
第5話 後唐末帝
第6話 後晋高祖
第7話 後漢高祖
第8話 後周太祖
第9話 後周世宗
レシートが昭和58年11月か・・・
思えば、たまたま図書館でこの本を見つけてつい読みふけってしまったのが
五代十国の車輪に巻き込まれるきっかけだったんだな。
書店に注文したら絶版だと言われてその時は諦めたけど、何年後かに
図書館で再び読みふけってやはり欲しくなった。
もうその時は知識量は豊富になってはいたけど、
やはり原点となった本を持つべきだと駄目を承知で注文したら、
なんと、忘れた頃に「注文の本です」と届けられた。
その手間、750円でいいのかと思った。
という思い出の本を昨日からずっと納戸部屋で探してやっと見つかった。
423の続き
「馮道−乱世の宰相」著者:礪波護
のように突然中公文庫で出てきたら、うれしいか、あるいは気が抜けるか・・・
朱全忠が自分の子供と李存勗とを比べて嘆くところ。
当時は、「李存勗は名君」の予感を持って読んだのだが、
今読み返すと、程度の問題でしょと突っ込みたくなる。
>422
『呉越備史』も『冊府元亀』もぜひとも整理したいところですね。
問題は、手元に原典がないことですが。。。
>423
入手できて良かったですね。
それにしても、もう20年も前になるのですね。。。
その頃は五代史どころか中国史自体を知らなかったあたり。
私としては復刊を望んでいます。
>朱全忠が自分の子供と李存勗とを比べて嘆くところ。
長子の友裕が亡くなった後のことだけに、
嘆きがいっそう強かったのかもしれません。
426 :
世界@名無史さん:03/10/20 20:18
ここのスレを見て『五代群雄伝』を手に入れてみました。
今日から読み始めます。
427 :
世界@名無史さん:03/10/31 23:51
age
428 :
世界@名無史さん:03/11/01 15:18
李存勗は武将としては天才だったのにな。
429 :
世界@名無史さん:03/11/01 16:07
俳優としてもまあまあ。で、政治家としては、失格。
430 :
世界@名無史さん:03/11/02 07:26
「岐」を建国した節度使の李茂貞はどうでしょうか?
五代十国時代初期を彩った忘れられない存在だと思うのですが。
431 :
世界@名無史さん:03/11/04 07:39
age
「五代群雄傳」なつかしー! たしか「中央公論」に連載されてましたね。
宮田雅之さんの切り絵がトップにあったと記憶。
中身は目まぐるしい変局をせかせか叙述してる感じでつまんなかったような。
李茂貞というと、初めは李姓を押し頂くなど元気が良かったのが
昭宗皇帝と対立して、一時都を占領して荒らした頃を境に勢いが下り坂となり、
梁の簒奪の時の皇帝僭称ブームに乗りそこなう。
で、晋の荘宗に引退を勧告され、やがて死去。
跡継ぎの従曮は文弱で、生涯を晋の一節度使となる。
でしたか・・・・
>>432 この切り絵は他の本の挿絵と照合すると、李存勗のようですね。
435 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/11/06 06:21
今年は神田神保町の古本まつりに行けませんでした。。。
>426
入手おめでとうございます。
>428-429
イギリスのリチャード1世を思い起こします。
彼も勇猛果敢の士で芸能も嗜むのですが、政治がからきし。
>430
>433
私自身は三国志ヲタなので、後漢末三国をたとえにすることがよくある
のですが(この時代の正史でも、しばしば引き合いに出されますが)、
李茂貞は袁紹のような存在ですね。
名門というわけではないにしろ、近衛あがりで天下に近いところまで
のぼりつめながら、最終的に没落するあたりが。
>432
五代群雄伝って、雑誌の連載だったのですね。
私が生まれる前の話なので、見ることが果たせなそうのが残念ですが。
>私自身は三国志ヲタなので、
そうだったんですか。
私は一応人並みに三国志通俗演義・小川環樹訳のおっそろしく難しい文章を中学生で読んで、
最後を飾る司馬炎が大英主、名君のように書かれているので感動していたら、
あとで真の姿を知り、いっぺんに三国志熱が冷めてしまいました。
乗れないでいるうちに20代半ばでローマ帝国衰亡史を購入してそっちに夢中になり、
30代で五代群雄傳を知って五代ファンとなった略歴です。
叔父が水戸徳川家の博物館館長をしていたときお邪魔して、書籍に五代関連がないか探したら
鎌倉時代の天皇の五代記が出てきて、苦笑いしたことがありました(余談)
(追記)
三国志に乗れなかった理由は436ばかりではなく、
小さい頃から魔法使い・妖怪ものが苦手だったところへ、諸葛孔明の妖術を駆使したり
予言者然とする場面、あれで孔明が一時嫌いになってしまったんですね。
実際はそれとはほど遠い法家系の実務型の政治家ということがわかって認識を改めましたけれどもね。
三国志は、始めに大物がぞろぞろ、それがだんだん小物ばかりになる、
それに対して五代は、大物小物が各時代に適当にばらまかれている感じがします。
最後を締めるのが間違いない大物政治家、趙匡胤・光義兄弟で、
脇役として江南後主・李Uという私としては好きな人物。
>>434 >李存勗のようですね。
高校生のころ父が「中央公論」の定期購読してて時折覗いてたんです。
「五代英雄傳」毎回の冒頭ページに切り絵が載ってて印象的でした。
単行本のトップには第2回の李存勗を持ってきてたんですね。
まあ朱全忠じゃチョット?ってとこだったんでしょうか。
このスレの御常連の好みからだったらヤッパ柴世宗の英姿萌え〜かしら。
うーん、その挿絵の全部を見たかったな。
後周世宗の伝えられている肖像画で少々感じている疑問がある。
後周世宗というと、織田信長に例えられるような沈着寡黙で激しい性格の印象がある。
しかし、肖像画は太って大顔で貫禄十分な絵に描かれている。
性格とは合わないような気がする。それに没年齢39歳・・・
世宗の性格ならば、体はもっと痩せていて顔は厳しく神経質そうな表情、
戦場では決してどっかと座っていたりはせず、軍配を持って(これは日本か・・・)立ったまま、
すべての軍の動きを漏らすまいと見ている、すぐに逃げ出すやつはあとでみっちり・・・
絵のとおり実際は太っていたかもしれないが、私は痩せていてほしいと思う。
440 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/11/07 00:36
>436-437
私が好きなのは呉、特に孫権だったりします。
蜀は概して美化強化されがちで、あまり得意ではありません。。。
五代だと、李Uや劉仁贍あたりが好みですね。
>438
朱全忠って嫌われ者に類してしまうんでしょうかね。。。
残唐五代史演義伝でも、風采の上がらない荒くれ者のように
描かれていますし。
>439
その肖像画は、何だか武田信玄っぽいですね。
朱元璋の肖像画が二種類あるように、柴栄も二種類……あるのかな?
もっとも、太っているからといって活動的でない、とは断定しかねるところ
ではありますが。
『五代群雄伝』に続いて『乱世の皇帝』を入手しました。
さらに面白い本があったら紹介してください。
442 :
世界@名無史さん:03/11/20 14:32
>>439>すぐに逃げ出すやつはあとでみっちり・・・
ハン愛能だっけか
馮道が再刊されましたね。しかし定価1095円です・・・
インフレですね。安かったときに買っとけばよかった・・・
ちなみに中公文庫BIBLIOからです
444 :
世界@名無史さん:03/11/28 08:29
age
>>433、
>>435 亀レスでスマソです。
レスありがとうございました。
李茂貞∽袁紹というのは、言いえて妙な面白い喩えですね。
同じような存在を、元末明初の混乱期で捜すと誰になるでしょうか。
446 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/12/11 00:34
毎度毎度の遅い書き込みですみません。
>>441 >>443にある『馮道』は如何でしょう?
五代という時代を遍歴した宰相の伝記であるとともに、
唐末五代の概説も兼ねています。
(中原王朝の人なので、いわゆる「十国」の記述はほとんどありませんが)
>>442 一度逃亡したものの、後周世宗の勝利を知って戻ってきましたね。
許されると思ったら大間違いなわけで。
>>443 中公文庫BIBLIOの相場って、漱石さん一枚分ちょっとですよね。
中公文庫版の頃のことを考えると複雑ですが、
復刊(?)記念として前向きにとらえておいたほうがいいかもしれませんね。
>>445 詳しくは存じておりませんが、張士誠あたりが該当するかもしれません。
スレ違いかもしれませんが、北方謙三氏の「楊家将」が発売されましたね。
内容は、個人的には「…」でしたが。
「残唐五代史演義伝」を種本にした小説も出ないかなあ、と当方は思っている
のですが、このスレにいらっしゃる皆さんはどうお考えでしょう?
もし出るとしたら、前半の李存孝の主役(?)ぶりとか、後半の端折りぶりとか、
この辺をどう構成するのか興味があったりします。
いきなりの話題振り、失礼しました。
以前、晋の出帝をシェイクスピアだったら面白い戯曲に書くのではないかと
思ったことがありましたが、どう思われますか。
どうも、447です
>448氏
後晋の出帝でシェイクスピアですか?
となると、大筋では「リチャード二世」に近い作品になるように思えます。
北方連行・寵姫略奪といった過酷な展開の結末をどうつけるかが難しそう
ですが。
シェイクスピア悲劇は、終幕における台詞回しがキモだと(個人的に)考えて
おりますので、出帝の台詞には「運命」とかその類の言葉を使ってほしくない
ですね。
…実際の観劇は「ハムレット」「リア王」しかなく、あとは全集を読んで
済ませている不届き者ですが、笑って許していただけると幸いです。
「楊家将」はいかがでしたのでしょう?
・・・だったところなど気になりますが・・・。
買おうか迷ってるもんで・・・。文庫まで待とうかな・・・と
451 :
426=441:03/12/26 21:38
>>446 レスありがとうございます。
『馮道』はその前に入手済みです。
もちろんこのスレを見てから入手しました。
馮道、乱世の皇帝、五代群雄伝以外はなかなかいい物はないですかね。
452 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :03/12/31 22:38
>>447 北方謙三氏の「楊家将」は確か単行本ですよね?
値段を考えると二の足を踏んでしまいます。。。
「残唐五代史演義伝」を種本にした小説は、書籍ではまだないですよね。
Web上ではあるのですが、未完で意訳もしているので。
>>448-449 シェークスピアの作品はあまり読んだことがないのでたいそうなことは
いえないかもしれませんが、「高慢には必ず墜落がある」というくだり
からして、確かに『リチャード二世』のような感じがしますね。
景延広の威勢は、結局のところ脆くも崩れ去りましたし。
>>450 文庫化待ちを考えているのは、ここにもいます。
>>451 本題は五代というよりも北宋ですが、
『宋の太祖と太宗』 (竺沙雅章著・清水書院)に、北宋の前提として
五代(主に後期)の概略が記されていますね。
これもなかなかの良書だと思っていますが、入手困難です。
古書店巡りは覚悟でしょうね。。。
453 :
426=441=451:04/01/16 08:33
>>452 五代潰瘍さん
『宋の太祖と太宗』入手致しました。
ありがとうございます。
ただ今熟読中です。
454 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :04/01/17 09:43
>>453 おめでとうございます。
私はまだ、五代群雄伝を探しています。
455 :
世界@名無史さん:04/01/17 19:21
>439を書いた後、行方不明になっていた「乱世の皇帝」が会社のプライベートロッカーから出てきた。
入れた記憶が無いので、どうしてここに?という心境。
ま、この本、何度も読み返しているし、かなり風邪引き気味なのでスキャナーで撮っておこう。
ところで、柴栄の死因は何なんだろう?
陣中で病に倒れ、帰京。それから2ヶ月苦しんで亡くなったのだけれど、病名や症状は書かれていない。
かなり怒りっぽい性格だったようだから、高血圧による脳卒中か?
くも膜下出血だったら、その後の行動は無理がありそうな気がする。
病床から死後に備えて人事をやってるということは、意識はしっかりしているようだが。
このとき39歳だもんなあ。
456 :
455=無限江山:04/01/17 19:26
名前を書き忘れるなあ。
後周の世宗皇帝には20年ほどはやって欲しかった。
457 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :04/01/18 16:57
昨日のセンター試験(世界史B)で、中国の王朝交代に関する一文が
ありました。その中で「五代十国」に下線部が引いてありましたが、
残念ながら五代十国そのものに関する出題ではなかったようです。
五代十国の頃のアジア情勢についてでした。
>>455 過労か、心臓を病んだのでしょうか。
五代十国関連の本で、歴史書ではありませんがこれはいかがでしょうか。
時代背景などもそこそこに書かれています。
岩波書店発行 「中国詩人選集第十六巻 李U」
※ハンドルネームに一句を拝借しました詞「浪淘沙令」はこの第1詞目にあります。
459 :
世界@名無史さん:04/02/06 13:17
浪淘沙令
簾外雨潺潺
春意欄珊
羅衾不耐五更寒
夢裏不知身是客
一餉貪歡
獨自莫憑欄
無限江山
別時容易見時難
流水落花春去也
天上人間
460 :
世界@名無史さん:04/02/22 22:56
age
461 :
世界@名無史さん:04/02/27 22:43
浪淘沙令 lang去 tao平 sha平 ling去
簾外雨潺潺 lian平 wai去 yu去 chan平 chan平
春意欄珊 chun平 yi去 lan平 shan平
羅衾不耐五更寒 luo平 qin平 bu入 nai去 wu上 geng去 han平
夢裏不知身是客 meng去 li上 bu入 zhi平 shen平 shi上 ke入
一餉貪歡 yi入 xiang去 tan平 huan平
獨自莫憑欄 du入 zi去 mo入 ping平 lan平
無限江山 wu平 xian上 jiang平 shan平
別時容易見時難 bie入 shi平 rong平 yi入 jian去 shi平 nan平
流水落花春去也 liu平 shui上 la入 hua平 chun平 qu去
天上人間 tian平 shang去 ren平 jian平
・・・・ああ、しんど。
間違ってるかもしれないが。
462 :
461=無限江山:04/02/27 22:52
漏れがありました。おしまいの2行を訂正。
流水落花春去也 liu平 shui上 la入 hua平 chun平 qu去 ye上
天上人間 tian平 shang去 ren平 jian平
463 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :04/03/03 22:56
もう一首の「浪淘沙」を書き込んでおきます。
往事只堪哀
對景難排
秋風庭院蘚侵階
一任珠簾閑不卷
終日誰來
金鎖已沈埋
壯氣蒿莱
晩涼天靜月華開
想得玉樓瑤殿影
空照秦淮
「虞美人」李U
風回小院庭蕪緑
柳眼春相続
憑欄半日独無言
依旧竹声新月 似当年
笙歌未散尊杓罍在
池面氷初解
燭明香暗畫堂深
満鬢清霜残雪 思難任
※早春の詞ですが、春らしいもっと前向きの明るい内容にはできなかったんですかね。
とは書きましたが、状況からすれば無理だったのでしょうね。
これは想像乃至邪推ですが、
李Uの作品現存39首というのはやはり少ない。ということは、
こんな軟弱なものばかりではなく、剛毅で前向きなものを含めたたくさんの作品があったけれど、
囚われの身になって自主的にか、死後に宋太宗が気に入らない作品を破棄滅却させたということは、
可能性としてはありそうに思う。
466 :
世界@名無史さん:04/03/29 21:36
保守
467 :
世界@名無史さん:04/04/21 00:16
五胡スレに比べて伸びないですね〜
468 :
世界@名無史さん:04/04/24 18:36
>>467 今、五胡スレと見間違えて始めてあけました。藁
469 :
世界@名無史さん:04/04/25 21:29
五胡時代に比べるとかなり短いからね
五胡十六国 前趙319〜北涼滅亡439 120年間
五代十国 楊呉902〜北漢滅亡979 78年間
かなり、というほどでは・・・・・
王仙之・黄巣の乱875から数えると105年、
裘甫の乱859からならば121年。
で、五胡十六国も拡張しないと不公平なので
漢:劉淵304から数えると136年間。
やっぱり五胡十六国のほうが長いか。
471 :
世界@名無史さん:04/04/26 09:19
あっちと比べて無責任な書き込みをする人がいないから?
うかつに書き込みできない雰囲気があるんじゃ?>五代スレ
薀蓄に深い人が常駐してるとそんな感じになるかと。
初心者が気軽に質問するスレにすれば結構伸びると思うよ。
五胡は三国志の延長で語れる部分もあるが、五代は意外とマイナーだし。
WEBで南唐書をうpしている所って無いのかな?
陸ユウでも馬令でもいいから
五代で卒論書いた人間でも迂闊に書き込めません。
永らくROM状態ですし・・・
漏れも迂闊に書き込めません。
つーかいっそのこと「迂闊に書き込めないスレ」というのを
このスレの謳い文句にしてはどうか?
そうのようなスレは困る
質問者歓迎スレにしてくれ・・・・
477 :
世界@名無史さん:04/04/28 07:42
馮道萌え。
みたいな発言が増えてもいいじゃん
個人的には郭威萌え
あやめ的には「劉鄩もえ〜」です。
莘縣に篭城して晋軍と対峙してるうち軍糧が乏しくなる状況で、我慢して持久していれば
勝機が訪れる成算があったのに、梁主から徒らに食いつぶしていないで速戦せよと催促され、
部下からも兵糧が尽きそうだから勝負に出ましょうと突き上げられ、「主は暗、臣は諛、將は
驕、卒は惰、吾は未だ死所を知らず矣」とこぼす。敵の君主からも「一歩百計」と歎称された
名将の絶望的な愚痴。中間管理職の苦悩は今と変わりませんね。できる男がふと洩らすぼやき。
こういう人って慰めてあげたくなっちゃう。彼はなかなかに味のある人物で王彦章のような
精忠一本槍の男性より好きです。
479 :
世界@名無史さん:04/05/03 18:57
後周最後の恭帝が退位後早くに亡くなったそうですが、子孫はいたのですか?
481 :
世界@名無史さん:04/05/06 21:44
おお、同志ですね。末帝に「決勝之策」を問われた劉鄩が
「臣に奇術無し。但(ただ)人ごとに糧十斛を給せしめば、尽くして即ち敵を破らん」
と答えるも逆に兵糧の横領を疑われてしまうというエピソードがありますが、
補給の重要性を的確に表現した名言であると思っています。
同志がいらしったんですね!うれしい♪
先日、ある設備工事会社へ行くと、浙江省湖州市出身という女子研修生がいた。
社長とひととおり仕事の話を終わって雑談を始めると、社長がその研修生を紹介した。
企業経理の研修に日本へ来たという。
見えてるのを全然気にしないミニスカートときつい香水のにおいに惑わされながら
日中間のいろいろな話をした。
で、中国史の話を始めると、「日本の人、ほんとに中国の歴史の話が好きですねー。」
彼女は日本に来るまで歴史には全く興味がなかったという。中国での周囲の人々もそうらしい。
歴史上のどういう人を知ってるか聞くと、隋〜武則天〜唐玄宗あたりをやや。
それと太平天国から現在までは学校で詳しくやるので知っているという。
五代は?と聞くと「それなんですか?」
概略を説明したら、江南後主は同郷の詩人として知っていた。
どういう人が歴史を勉強するのか聞くと、学校の先生や政治家・高級官僚を目指している人、と。
484 :
世界@名無史さん:04/05/13 14:49
>>483 それは西洋でも言えるんじゃないかな。西欧人の、エジプト、ペルシャ、
ギリシャへの思い入れを見ると、知識の乏しい現地人はビクーリ。
先進国民から見るとすばらしい歴史でも、現地の発展途上国民にとっては
「?」。観光で稼げるから万々歳だろうが・・・。
まあ日本でも同じだよな…
先日、電車の中で
「1000年前に生まれたかった」「戦国時代?」
とかいう会話を聞いて、吹きそうになった。
千年前というと、丁度藤原道長の時代が始まった頃か。
庶民の生活はどうだったんだろう?
・・・はスレ違いなので、
その頃の中国は五代十国の乱世から40年を経て宋太祖〜太宗によって安定し、
もの凄い勢いで文化事業を次々と企画実施していた頃か。
487 :
脇役大好き:04/05/13 19:18
永らくRom人間でしたが、質問okという事なので、質問させて下さい。
周徳威と張承業という人物について、どのような人物だったのか教えていただきたいのですが・・・
検索しても、件数が少ない上に、マニアックに突っ込んだ資料が無くて(´・ェ・`) な感じです。
周徳威は柳陂の戦いで戦死したそうですが、この相手は後梁でいいんですよね?
李存勗の小説を書こうと今日思いたったんですが、どうも脇役の資料が少なくて・・・
今まで三国志しか読んでなかったので、ズレてる質問していそうですが、よろしくお願いしますm(__)m
488 :
五代潰瘍 ◆PTWudaIjQs :04/05/15 01:10
>>487 どの程度の知識をお求めかはわかりかねますが、
ざっと書いてみます。乱筆乱文ご容赦あれ。
【周徳威】
正面きって敵軍とぶつかるよりは、鋭鋒を避けながら隙を衝く
ような戦術を得手とする。柳陂の戦い(ご指摘通り、対後梁戦)では、
速攻を唱える李存勗と意見が対立する。
身の丈は長く、面黒い。笑っても表情を改めないといわれている。
【張承業】
宦官で、もとは李克用の軍を監視する役。克用臨終の際、
息子の存勗を補佐するよう託される。
存勗が帝位につこうとするとしたときの切諫が有名かと思うが、
酒の勢いで主君一門を罵った盧質を殺すよう、偽りの建言を
おこなったこともある(その実は、盧質を庇った婉曲的な諫言ととれる)。
まぁ、大阪市大の院生の論文を読んでも思うけど、「史料たらね」の一言に尽きるなぁ、この時代。
>>490 大先生の論文を読んでも前後の唐宋の史料を使っておいて
五代もそうだったはずであるという論調が少なくないですね。
いや、実際、そうだろうけれど…と読んでいて思ってしまいます。
491 :
脇役大好き:04/05/29 20:18
ご教授ありがとうございました。
自分の分析(?)と随分違っていたので助かりました(^-^;
492 :
世界@名無史さん:04/06/11 23:22
福建のビンを治めた王審知はどんな人となりだったのでしょうか。
派手さはないものの堅実な治世だったと聞きますが。
493 :
世界@名無史さん:04/06/11 23:41
福建省って、中国ではいまだに「ビン」の通称で通ってるらしいな。
494 :
世界@名無史さん:04/06/11 23:52
中国の政治家の人となりは千篇一律。派手にやると蹴落とされるので。
閩の最後の王延政(殷王)と王曦(富沙王)、この二人の場違いな王号の根拠がわからない。
496 :
世界@名無史さん:04/06/12 08:32
そういえば、アメリカの中国系州知事の評判はどうよ?
497 :
世界@名無史さん:04/06/12 08:42
その陳さんが紹介してくれたのが、カリフォルニア大学バークレー校の
学長、田長霖さんだった。中国系住民として初めて米国の大学学長にな
った科学者である。田さんが「彼は期待できますよ」と言って紹介して
くれたのが、ゲーリー・ロック(駱家輝)さん。田さんの予言通り、そ
の年の秋、ロックさんはワシントン州知事選で当選した。中国系初の知
事誕生だった。田さんは昨年再選を果たし、先のブッシュ米大統領一般
教書演説に対して、野党民主党を代表してテレビを通じ反論演説をした
。今では民主党の実力者と言っていいだろう。
http://www.asahi.com/international/w-watch/TKY200302200285.html
その陳さんは、陳洪進の子孫なのか? でなければ退去勧告!
499 :
世界@名無史さん:04/06/12 14:41
>>493 自動車のナンバープレートも福建ナンバーは「ビン」
500 :
世界@名無史さん:04/06/13 11:40
朱全忠様が500ゲットあるよ
501 :
世界@名無史さん:04/06/22 22:25
李存勗様が501ゲット!!
石敬トウ様が502ゲット!!
劉知…
コホン、沙陀突厥がスレを荒らすので困っています。
荒らしは無視が基本ってホントでしょうか?
503ゲットです。
>>500-503 オメーらが脆弱な政権しか作れねーから
俺様が奔走しなきゃなんねえじゃねーか。
契丹族を菩薩呼ばわりして民草を安んじた俺様が504ゲット!!
505 :
世界@名無史さん:04/06/23 23:09
各位・・・
郭威?
505の洒落をわかってくれ、サムイのは承知
再映・・・
508 :
世界@名無史さん:04/06/26 09:05
柴栄暗殺説みたいなものは無かったのですか?
もし有るとすると、趙匡義とかがやってそうですね。
510 :
世界@名無史さん:04/07/02 10:57
五代版本能寺の変でつか?
511 :
世界@名無史さん:04/07/03 01:21
趙匡胤は、領地をさしだした諸国の王や禅譲した後周皇帝を優遇したと聞きますが
どの程度でしょうか?
明治政府は、徳川家達を貴族院議長 公爵にしていますが。
趙匡義は、匡胤の子孫を迫害したと聞きますが本当ですか?
512 :
世界@名無史さん:04/07/03 01:26
なんだか、宋の皇族に文才を妬まれて毒盛られて殺された五大十国の皇帝がいたそうだな。
513 :
世界@名無史さん:04/07/03 03:07
趙匡胤の息子で太子格だったのは殺された。
でも南宋の帝室は高宗から趙匡胤系に譲られたんじゃなかったか?
515 :
世界@名無史さん:04/07/03 15:32
ありがとうございます。
ただ南宋の帝室は、高宗以外金に連れ去られていなかったからでは、
逆に高祖系は、連行されないほど落魄していたのではと思っているのですが。
また、柴氏の先祖を祭らせたのは、中国文化から考えて、政治からは、はずしたが、
家系の維持では優遇されたと思ってよいのでしょうか
516 :
世界@名無史さん:04/07/03 17:08
どうでしょうか?
旧帝室を保全したのは、魏晋以後絶えてなかったことですから、
趙匡胤という人のキャラクターによるところが大きいのではと思いますが。
517 :
世界@名無史さん:04/07/03 23:23
宋の太祖 太宗は、秀吉,家康義兄弟より足利兄弟をスケールアップしたような感じを受けています。
すでに養子と姓について語られていますが、この時代の部族ごとの養子で制度が
よくわかりません。
日本の養子、猶子のように姓、相続をはっきり割り切れる区分だけでなく
むしろ軍閥などは、○○組何代目の子分のようにとらえたほうが、近いような
場合もあるように感じます。三国志演義では、呂布や関平 劉封などそんな感じですし
劉鄩
すごい遅レスですが、自分もこの人が好きであります。
きっかけは「五代群雄伝」で。「一歩百変」は、たしか「旧五代史」の
荘宗紀に書かれた李存勗の評でしたか。
それと、自分は李嗣紹も好きであります。夫人を含めてですが。
519 :
世界@名無史さん:04/07/04 12:30
足利兄弟って
尊氏ー直義?義輝ー義昭?
どっちもピンと来ないけど前者かな?
>>519 太祖→カリスマで人を引っ張る豪放なタイプ(尊氏)
太宗→実務家肌で縁の下の力持ち(直義)
というなぞらえ方だと思われ。
521 :
世界@名無史さん:04/07/06 17:36
太祖ってそんな人なの?
守屋洋あたりはそうは言ってないけど。
. .... ..: : :: :: /⌒ヽ :::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
⊂| ̄ ̄ ̄ヽ⊃ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::
/:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: ::::::::: 「主上は暗愚、臣は阿諛、将は驕慢、卒は怠惰」
/ :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . ::::::::::::::::::::::::::::
/ :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
劉鄩
523 :
世界@名無史さん:04/07/25 00:31
520は適切な対比だと思うぞ
524 :
世界@名無史さん:04/08/06 23:10
源氏はもともと北魏の姓だし、トルコ系の部族争いがタクバツとじゅうぜん
は、足利と新田にたとえているのを読んだことがある。
ところで中国は、長男の系統を滅ぼした王朝が秦以外は長つづきする気がする
526 :
世界@名無史さん:04/08/07 14:01
キーボードに不自由です。
>>520 太祖趙匡胤は、世間の評判を気にしたり、決断力がイマイチ弱いという面も感じられる。
>>太祖、尊氏
自分を慕って集まる者全員の顔を、なるべく立ててあげようとすると、優柔不断
にならざるを得ない。そしてそのことも魅力の一つになる、と。度量が広い人、
どんな奴も邪険にはしない優しい人だ、となるからね。ますます人望が集まる。
530 :
世界@名無史さん:04/08/21 00:26
太宗は、直義+師直 より狡猾
531 :
世界@名無史さん:04/08/31 23:27
高句麗が中国の地方政権らしいから西遼は、中国の地方政権の亡命政権だろうか
モンゴルの支配下だったキプチャックの北におこったロシアも中国の地方政権?
馮道は日本史では誰に比定すればいいだろうか。
藤堂高虎を宰相級にしたようなやつ。
534 :
世界@名無史さん:04/09/12 22:24:04
源満仲
ジョゼフ・フーシェ
えっ日本史じゃないって?
536 :
世界@名無史さん:04/09/19 13:27:04
最近また三国志がいろいろ漫画になっているが、
誰か柴栄を描いてくれよ
まず原作となる小説が必要。
しかし市中にある小説は玄宗皇帝+楊貴妃のあとは水滸伝になってしまう。
飛龍全伝を翻訳しようと企画しているけれど、
問題は日本で知名度が全くない。
会社の近くに「飛龍ラーメン店」がある。
店の親父に趙匡殷から取ったのかと聞いたら、「なにそれ?俺は本宮のマンガからなんだが」
期待してたんだけどな。
本宮の漫画に飛龍があるの?
本宮の弟子が描いたストライダー飛竜の漫画なら見たことあるけど。
俺も知らない。
本宮作品は893をテーマにするようになってから読まなくなった。
むしろ画的に映えるのは李克用あたりかな。元祖独眼竜とか銘打てばそこそこ
読者が付くかもね。
しばらく名無史での書き込みが続いた。(反省)
特に小説にしようと思っているこの時代のキャラクターは、
荘宗vs明宗、馮道、晋の出帝、宋の太祖、江南後主
あたりかな。
で、上に書いた飛龍全伝、この翻訳で何が困ると言って辞書に困る。
手に入る中国語辞典はことごとく発音順。私は中国語の発音を知らない。
わからない簡体字単語→簡化字総検字で繁体字へ→漢和辞典で発音を調べる→中国語辞典で意味を調べる。
なにをやってるんだろうと思う。
東京へ行くたび字画順の中国語辞典を探しているんだけどなかなか・・・
馮道は狂言回しというか物語の語り手がふさわしい
543 :
世界@名無史さん:04/10/17 11:35:23
age
講談社学術文庫から中国の歴史シリーズ全10巻のうちの「五代と宋の興亡」が単巻で再刊行されましたね。
全11章のうち、五代十国は第1章目だけ。
第2章から第6章が北宋、第7章から第10章が南宋、第11章が両宋を通した文化関連。
545 :
世界@名無史さん:04/11/10 12:03:06
546 :
世界@名無史さん:04/11/10 16:34:59
やっぱり鴉軍・李克用
548 :
世界@名無史さん:04/11/30 20:18:30
age
549 :
世界@名無史さん:04/12/21 14:39:41
3年目突入+2日
550 :
世界@名無史さん:04/12/21 14:43:56
じゃなかった。4年目突入+2日
新しい講談社の中国の歴史12巻シリーズがついに刊行しだしましたが、
既刊の分を読むとなかなか面白いつくりになってます。
これは五代にも期待。7巻の宋のところに入れられるのか?
五代十国時代のみの通史
ってないですよね…
553 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/01/01 23:59:39
明けましておめでとうございます。
五代潰瘍さん、江南椰子さん、皆さんお変わりないですか、オヒサでした。
叔父は昨年「五代史書彙編」(杭州出版社刊)10冊を買い込みました。
5萬円以上したらしく、年金生活者の叔父としては随分奮発したものです。
以下に内容を紹介します。
舊五代史考異(清-邵晉涵)/五代史記纂誤(宋-呉縝)/五代史志疑(清-楊陸榮)
/五代史記補考(清-徐炯)/五代史記纂誤補(清-呉蘭庭)/五代史記纂誤補續(清-周壽昌)
/五代史記纂誤續補(清-呉光耀)
以上 新舊五代史補訂
玉堂閑話(前蜀-王仁裕)/于闐國行程録(後晉-平居誨)/周世宗實録(宋-王溥)
/五代會要(宋-王溥)/五代登科記(宋-韓思)/洛陽搢紳舊聞記(宋-張齊賢)
/五代史闕文(宋-王禹偁)/五代史補(宋-陶岳)/五代春秋(宋-尹洙)
/五代名畫補遺(宋-劉道醇)/五代詩話(清-鄭方坤)/五代春秋志疑(清-華湛恩)/補五代史藝文志(清-顧懷三)/補五代史藝文志(清-宋祖駿)
以上 五代歴朝
554 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/01/02 00:03:08
「五代史書彙編」の続きです。
五國故事(宋-佚名)
以上 呉南唐、前後蜀、南漢、閩
九國志(宋-路振)
以上 呉南唐、呉越、前後蜀、東漢(北漢)、南漢、閩、楚、北楚(荊南)
十國春秋(清-呉任臣)
以上 呉、南唐、呉越、前後蜀、北漢、南漢、閩、楚、荊南
釣磯立談(宋-史温)/南唐近事(宋-鄭文寶)/江表志(宋-鄭文寶)
/江南餘載(宋-佚名)/江南別録(宋-陳彭年)/江南野史(宋-龍袞)
/南唐書(宋-馬令)/南唐書(宋-陸游)/南餘紀傳(明-陳霆)
/南唐拾遺記(清-毛先舒)/補南唐藝文志(清-王振民)
以上 呉、南唐
555 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/01/02 00:08:55
「五代史書彙編」の続きです。
王氏聞見録(前蜀-王仁裕)
以上 前蜀
鑑戒録(後蜀-何光遠)/幸蜀記(宋-居白)/野人間話(宋-耿煥)
/錦里耆舊傳(宋-句延慶)/蜀檮杌(宋-張唐英)/益州名畫録(宋-黄休復)
以上 前後蜀
呉越備史(宋-錢儼)/葆光録(宋-陳綦)
以上 呉越
三楚新録(宋-周羽翀)
以上 楚、周行逢、高季興
南漢書(清-梁廷枏)/南漢叢録(清-梁廷枏)/南漢記(清-呉蘭修)
/南漢地理志(清-呉蘭修)
以上 南漢
叔父は「十國春秋」が入手できず嘆いていたものですが、これで御満悦です。
明けましておめでとうございます。
私の最終書き込みから半年以上が経ってしまい、ROMばかりで
本当にご無沙汰状態。。。すみません。
>>553-555 あやめさん
お久しぶりです。
私も昨夏に「五代史書彙編」を買いました。
「十國春秋」をはじめ、十国関係の資料が充実しているので
重宝しています。
557 :
世界@名無史さん:05/01/02 01:59:15
558 :
世界@名無史さん:05/01/02 16:38:59
冬コミに五代概説本が出ていたので買ってきた。
>>558 そんなの出てたの!
場所が分かれば買いに行けばよかった・・・
二日目の西館む-14aだな。
>>558さん、お買いあげありがとうございました。実は件の本の作者です。
まさか冬コミの話題が出るとは思っていなかったのでびっくりしています。
>>559さん、今回限りではありませんので、よろしければ
またの機会にでもよろしくお願いします。
スレ汚し失礼しました。
ああ、わかりやすいオチがついたな。
563 :
無限江山:05/01/04 17:52:38
15年前台湾に行った時買った本が出現しました。
久大文化発行 ≪厤史≫爭議人物2 騎牆孔子−馮道
編者/林永欽 總校訂/王明蓀 $80.
「歴史」和「過去発生了的事的真相」二者之間不能驟然畫上等號。
即令是「第一手」的史料也只是一種用語言砌築起来的陳述(discource)
而已;如果我們一定要追索出歴史的真実性的話、至少得先承認一個
前提;這種真実性来自於対諸多不同陳述的争議。一切人、事、関係、
精神和理念都在成為歴史的同時有了争議。争議是歴史的本質!
(目録)
前言
上篇 馮道伝記
1,興廃風燈明滅裏
2,含光混世貴無名
3,未省乾坤陥吉人
4,且楽生前一杯酒
下篇 歴代争議
1,反面評価
2,正面評価
後記
564 :
無限江山:05/01/04 18:08:52
在儒家伝統「忠臣不事二君」的道徳史観、
下、歴事「四姓十三君」的馮道、被「春秋
之筆」鞭撻了一千余年之後、在這忠奸之
辨被重新詮釈的時代、是否能有翻身的機
会?馮道誠然不忠、但不忠於「一姓」、似
乎不足以使他永堕歴史的陰溝不得平反、
這位被目為「当代孔子」的騎牆派、也有著
寛恕済民的「仁徳」、並非全然「視道徳如草
芥」、在新時代包容性更大的歴史観点下、
「長楽老」是否該有一個新的定位?
#書名の次の一文は≪厤史≫爭議人物シリーズ全体の序文ですね。
565 :
世界@名無史さん:05/01/09 10:28:30
「冬コミ」とは「冬のコミック・マーケット」?
地方では入手ルートがない!
コミケってオタク・腐女子向けの漫画ばかりでもないのか
>>565 冬コミのカタログを持ってるならサークルカットにあるURLに行ってみよう
問い合わせれば通販してくれるらしいよ
>>566 むしろそれ以外が面白い。歴史研究本も多少ある。
でも、人が多すぎてうんざりなのでもう行ってないけどね。
569 :
世界@名無史さん:05/01/28 06:46:33 0
中華書局の十国春秋がバラバラになってしまった。
安いからしょうがないにしても装丁が悪すぎる!
570 :
世界@名無史さん:05/01/30 19:26:37 0
>>566 比率的にはそっちが多いけど、自分で作ったものならば何でもOKが原則。
571 :
世界@名無史さん:05/02/08 17:34:18 0
五代十国の期間中、周辺諸国はどの王朝に朝貢したのでしょうか。
あるいは朝貢をやめてしばらく興亡の様子を眺めてたのでしょうか・・・
572 :
世界@名無史さん:05/02/13 19:55:28 0
新五代史巻第七十三 四夷附録第二より
東丹王 後唐から永康王、後晋から燕王に封じられ、契丹が中原から撤退したときに皇帝を号す。
新五代史巻第七十四 四夷附録第三より
奚 燕王劉守光に賄いし、後唐〜後晋に朝貢し、契丹に割譲される。
吐渾 後唐に朝貢し、契丹に従い、後漢により滅亡。
達靼 後唐に役属。
党項 後唐に馬を献上、後周に朝貢。
突厥 五代各朝に朝貢。
吐蕃 五代時微弱、回鶻・党項に侵される。
回鶻 五代各朝に朝貢。
于闐 後晋と通使。
高麗 五代各朝に朝貢。
渤海 五代各朝に朝貢。
新羅 後晋と通使。
黒水靺鞨 後唐と通使。
南詔蛮 後唐と通使。
{牛羊}牱 後唐と通使。
占城 後周と通使。
占城などの東南アジアの国家は、南漢や呉越にも遣使してたんだろうか。
574 :
無限江山:05/02/28 20:40:01 0
占城、在西南海上。其地方千里、東至海。西至雲南、南鄰眞臘、北抵驩州。
其人、俗與大食同。其乗、象、馬、其食、稲米、水兕、山羊。
鳥獣之奇、犀、孔雀。自前世未嘗通中國。顕徳五年、其國王因徳漫遣使者莆訶散来、
貢猛火油八十四瓶、薔薇水十五瓶、其表以貝多葉書之、以香木為函。猛火油以{氵麗}物、
得水則出火。薔薇水、云得自西域。以{氵麗}衣、雖敞而香不滅。
読んでわかったのは、顕徳五年に初めて中国に使者が来たこと。
575 :
世界@名無史さん:2005/03/27(日) 18:34:30 0
江南の春age
576 :
世界@名無史さん:2005/03/28(月) 00:52:27 0
はじめまして。
皆様にお聞きしたいのですが、チョウ匡胤、匡義兄弟の字がいくら調べてもわかりませんorz
この時代って、字で呼びあうのが普通だと聞いているので、まさか字がないとは思えないのですが、どこを探しても出てきませんorz
どなたか教えてください。
577 :
中華@名無史さん ◆/RM8DSrZd6 :2005/03/28(月) 02:48:22 0
80 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:02/09/03 21:13
やっと出てきました。「飛龍全傳」
その第1回の2ページにあざながしっかりと書いてありました。
這人非別、就是那個開三百年基業的領袖、伝十八代子孫的班頭、姓趙名匡胤、表字元朗。
世本?郡人氏。父親趙弘殷、現為殿前都指揮之職。母親杜氏夫人。
原来趙弘殷所生三子一女、長匡胤、次匡義、三光美、四玉容小姐。
※本の簡体字をきちんとは置き換えたつもりですが、間違ってましたらゴメン。
579 :
無限江山:2005/03/28(月) 11:28:24 0
文字化けのところは「涿」です。
趙匡義(光義)のあざなは全伝のどこかにあると思いますが
まだ探し当てておりません。
なにしろjpegでPCに入れてあるので検索ができませんので、そのうち・・・
580 :
576:2005/03/28(月) 23:47:17 0
>577さま
リンク先見られませんでしたorz
1さんの文章からしてすごくすごくそそられるのに。。。
見たい見たい見たい〜〜。。。
最近html化遅いような気が(’A`)
あああ
>ご容赦ください
とんでもない。ここのアドをしおりに入れといて、数か月後に見てみます。その頃にはきっと読めることでしょう。
>578さま
すみません、同じ方でしょうか?
でも、名前が違いますね。すみません。
コピペして下さってありがとうございます!!
元朗ですね¢(..) あっ、妹の名前も出てますね。珍しい。。。飛龍伝読んでみたいけど、日本語訳がなさそうなので無理ぽorz
>579さま
ええと。。。流れからして同じ方?でしょうか?
文字化けはしてないです。
何か変なこと言っていたらすみません。
何故皇帝クラスで字が不明なんでしょうね。。。
劉邦みたいに昔の人ならまだしも、結構最近の人ですし。。。
二文字の名前の人ってまだ少ない時代に敢えて二文字の名前をつけたように、何か考えあって字をつけなかったのでは。。。とも思いましたが、そんなわけないですよね(^^;
ここ最初から読みましたがすごいですね。
「乱世の皇帝」なんか面白そうなので、探して読んでみたいと思います。
書き込みはちょっと難しそうなのでアレですが、ずっとROMしてたいと思います。
ありがとうございました。
趙匡胤のあざな聞いてる人ずいぶん前にもいたけど同一人物か?
582 :
世界@名無史さん:2005/03/29(火) 06:53:21 0
>何故皇帝クラスで字が不明なんでしょうね。。。
皇帝を字名で呼ぶとはなんと不遜な・・・
>580
千年以上前のことをけっこう最近というおまえに萌え
584 :
世界@名無史さん:2005/03/29(火) 14:37:09 0
「富士山の形成は、ほんの10万年前」というじゃな〜い
586 :
576:2005/03/31(木) 00:12:48 0
>581さん
違います。でも、同じことを考えた人がいるのですね。
>582さん
いえ、面と向かってはもちろん「陛下」でしょう。
ただ、記録が全くないのは変だなーと思いまして。
皇帝とか平民とか関係なく面と向かって「名」で呼べるのは親だけと聞いたのに、あるはずの字が伝わっていないのはどういう事情なのか激しく気になるんです。
>583さん
(*´ω`*)
>584さん
(´・ω・`)
>585さん
ありがとうございますありがとうございますありがとうございますっ!!!!
しおりに保存しました。本当にありがとうございます!
保存する時チラっと見たのですが、自分もかつてあちらの5さんと同じ勘違いをしてしまったorz紛らわしいですよあれは。
ともあれ、ありがとうございました。
明月 幾時有
把酒 問青天
不知 天上宮闕
今夕 是何年
588 :
世界@名無史さん:2005/04/19(火) 06:47:27 0
江南の春、昔も今も騒然
かの国は分裂時代のほうが生き生きとしてないか?
弱肉強食が伝統だからね。
堂々と戦争やれる時代のほうが燃えるんだろ。
591 :
世界@名無史さん:2005/05/06(金) 10:02:01 0
周囲の国もいらぬ干渉を受けないから分裂時代のほうがありがたい。
ただ火の粉が飛んでくることだけは願い下げだが。
592 :
世界@名無史さん:2005/05/21(土) 10:19:59 0
国家の分裂は価値観の多様化を許容する
>>591 端からみてると分裂時代はたのしいが
唐が滅亡すると周辺諸国も崩壊して行っているようでして
周辺諸国を巻き込んでどろどろですよね
中国の理想は宋、これでいいんじゃないか?
遼の存在がネックじゃね?
595 :
世界@名無史さん:2005/05/21(土) 21:53:59 0
>>593 >端からみてると分裂時代はたのしいが
禿堂です。それも南北朝とかじゃなくて細かく分かれてれば分かれてるほど楽しい。
五代十国や五胡十六国もいいが、個人的には隋末、元末、明末なんかの
マイナーな混乱期の群雄が好きだなー。
596 :
世界@名無史さん:2005/05/22(日) 08:52:46 0
五代十国時代の周辺の状況
日本 :醍醐・朱雀・村上・冷泉・円融天皇時代。この間、承平天慶の乱。
朝鮮半島:新羅が滅んで高麗の建国。渤海の滅亡。
南方 :南詔が滅んで大理の建国。安南に南晋の建国。
597 :
世界@名無史さん:2005/05/22(日) 09:35:45 0
一方イタリアではセルギウスV世のもと、ポルノクラシーがはじまる
分裂の時代は進取の気質を重んじ、常に新しい風を招き入れようとするが
統一の時代はそんな必要はない。
統治の安定のために伝統と秩序という「変化のなさ」が求められる。
599 :
世界@名無史さん:2005/06/11(土) 15:52:24 0
>分裂の時代は進取の気質を重んじ、常に新しい風を招き入れようとするが
それほど主体的な動機ではないと思うが。
600 :
世界@名無史さん:2005/06/11(土) 20:50:39 0
601 :
世界@名無史さん:2005/06/14(火) 00:27:06 0
>>600 分裂時代に大変な輩なんて、賦課を逃れたい地主と広地域を巡る流通業者しか思いつかない。
他にはどんなケースがあるのだろうか?
602 :
世界@名無史さん:2005/06/14(火) 06:44:11 0
官軍・賊軍・侵略軍・山賊を問わず村々を襲い、略奪、強姦、殺戮、放火
赴任してきた役人の苛斂誅求
↓
民衆は村を挙げて逃散、山に隠れる
↓
飢える
↓
自ら山賊になり、→1行目に戻る
603 :
世界@名無史さん:2005/07/05(火) 23:34:40 0
良スレ。保守
「精神一到何事か成らざらん」ですよ
今「万里の長城」を読んでいるのですが、五代の所で馮道と並び
鄭韜光という人物が紹介されていました。
これってどんな人物なんでしょう?。
唐末から後晋に至る十一君に仕えて高官に至り、
「官の謗なく私の過なし」と称揚されたそうなのですが。
605 :
世界@名無史さん:2005/07/11(月) 19:31:13 0
上げなければ見落とされます。
606 :
世界@名無史さん:2005/07/24(日) 20:37:50 0
┌┐ ___________
││ ┌──────┐ | |
┌─┘└─┐ └─┐┌──┐│ | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|. |
└─┐┌─┘ ││ ││ | | く ̄ヽ |. |
┌─┘└─┐ ││ ││ | | ヽ ヽ . |. |
└─┐┌─┘ ││ ││ | | ヽ_ゝ . |. |
┌─┘└─┐ ノ .ノ . ││ ___| |_______|. |___
└────┘ キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━イ!! |
┌┐  ̄  ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|. | ̄ ̄ ̄
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└────┐ ┌────┘ | | |. |
ノ ヽ | | |. |
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く___/ \____). く__ノ く_ノ
~
608 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 23:52:38 O
ほしゅ
609 :
世界@名無史さん:2005/08/14(日) 16:05:35 0
周辺の非漢人諸国も、どの王朝に朝貢するか見極めるのが大変だったでしょうね・・・
高麗なども何回か朝貢先を変えてきたようですしね。
610 :
世界@名無史さん:2005/08/14(日) 16:20:31 0
>609
詳しく
612 :
世界@名無史さん:2005/08/29(月) 22:20:41 0
[北京 22日 ロイター] 中国の中央部にある村で、50人を越える住民が、古代の皇帝が
祖先に与えた汚名から自由になるべく何百年もの歴史を持つ姓を変更した。
新華通信の英語版ウェブサイトによれば、村民たちは名字「苟(Gou)」を、皇帝に変えさせられる
前の名前「敬(Jing) 」に戻す法的な手続きを行った。「苟」は「謙虚」という意味だが、発音は
「狗(犬)」と同じになる。これは中国ではきつい侮辱語だ。一方、「敬」は「尊敬」を意味する。
「本当に恥ずかしいことでした。私の息子は名前のせいでガールフレンドをつくることすら
できなかったのです」河南省唐莊のゴウ・フェンさんは言う。
先の5月、一族は短命に終わった後晋王朝(936-947) の皇帝が彼らの祖先に姓の変更を
命じたとして、地元警察に名前の変更を嘆願した。
現代中国では、 名前の変更手続きははるかに面倒である。
地元警察署長は「そんな話は聞いたことがありません」と発言したそうだ。「先例がありませんよ。
当局では初めてのことです」
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081124824414.html
613 :
世界@名無史さん:2005/09/02(金) 21:23:15 0
すっかり閑散としていますね
614 :
世界@名無史さん:2005/09/04(日) 00:16:41 0
契丹の襲来があったからのぅ…
雨過天青
616 :
世界@名無史さん:2005/09/20(火) 22:11:00 0
延命あげ
617 :
世界@名無史さん:2005/09/28(水) 14:40:17 0
任圜って… かっこいいと思うのですが
618 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/28(水) 18:04:34 0
>>611-612 後晉の高祖は名が石敬瑭なので「敬」という姓の者を「苟」姓と「文」姓のどちらかに
改めさせたそうです。敬という字を分析すると苟+文になるからです。しかし苟は
狗と同じ音で意味も「いやしくも」とか「かりそめにも」などネガチヴなニュアンスで
用いられる字なので、こういう姓は嫌がられたのでしょう。敬姓が苟姓に更改された
話は宋の周密の「齊東野語」に出ています。なお「敬」は稀姓ですが後晉の前の後唐には
敬新磨という有名な俳優がいました。後唐の莊宗は自分でも俳優の真似をしていた
変わり者の天子で、身近に仕えていた俳優について「新五代史」に「伶官傳」が立てられ
行状が記述されています。俳優の芸名は駄洒落みたいなのが多く敬新磨の場合では
「敬」は「鏡」と同音なので「研ぎたての鏡」というニックネームなのです。ある時に彼が
御前から退出しようとすると宮中に飼われていた悪犬が噛み付いてきたので、慌てた
敬新磨は「陛下よ、子供を放って人を噛ませないでください」と言いました。北方の
民族は狗を卑しい動物としているので莊宗は馬鹿にされたと感じ、腹を立てて彼に
矢先を向けました。敬新磨は「世間では陛下を(年号から)同光帝と呼んでいます。もし
臣を殺すと銅(同)の光(つまり鏡)を失うことになりますよ」と言ったので、莊宗は彼を
赦してやったそうです。どうも敬姓と狗子は相性が悪いようです。
五代十国無双がしたい
李存孝、萌え〜 とかなったりする↑
実はじぶんはなりかけ…
馮道が目からビームを出します。
嫌だなぁ〜
李嗣昭は頭に矢が刺さっても、幕舎に戻るまで死ななかったそうだから
足に刺さったくらいでは眉もしかめなかったのもうなづける。
人間デツカ?
後梁の宰相にも敬姓がいますね。
敬翔。
敬新磨なぞとは違って、偉能の人ですよね。 じつは犬嫌いだったりして…
敬翔は後梁建国の功臣ですね。
同じような立場の李振とどっちが好きか、と比べると分がありそう。
李振は李存勗に降って殺され、敬翔は拒んで死んでますよね。
キャラとしては後者が好き。
末帝が用いていれば、あるいは趙巌あたりが邪魔しなければ
梁における諸葛孔明のような存在(?)
628 :
世界@名無史さん:2005/10/20(木) 23:27:23 0
あげ
629 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 08:22:15 0
ネタ切れ
630 :
世界@名無史さん :2005/10/30(日) 18:53:15 0
ネタはあるけど、誰も乗ってこない…
ミーハー根性はだめかの〜
五代ファンは杉山正明の新刊をどう思ってるの?
彼の専門はユーラシア北東部の遊牧民族史じゃないか?
五代史には疎いような…
とはいえ、李存勗VS耶律阿保機は熱い。
634 :
世界@名無史さん:2005/11/14(月) 13:47:42 0
635 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 09:48:09 0
間違いないでしょう
むしろ典韋じゃないの?弁慶のは。
頭に矢が刺さって、陣営帰るまで死ななかったから、弁慶じゃないな。
足に矢が刺さっても気にせず談笑したという話は、三国志演義の関羽みたい。
638 :
世界@名無史さん:2005/12/02(金) 09:00:15 0
あれ?
関羽の手術の話は右腕じゃなかった?
右腕だね、関羽は。
骨まで突き刺さった矢尻取る為
麻酔無しで骨ゴリゴリ削られても
微動だにしなかった、ての。
腕切開しながら空いた方の腕で焼肉食ってた
剛毅さのエピソードでは似てるって話。
李嗣昭って、どうもパッとしないイメージだけど、このエピソードと財テク奥様の話はイイ。
642 :
世界@名無史さん:2005/12/13(火) 13:21:33 0
age
643 :
世界@名無史さん:2005/12/28(水) 00:59:46 0
李嗣昭夫妻自体は良いのですが、できの悪い息子たちが汚点つけてしまいましたね
まったく。
でも、そのときの募兵に参加したから、郭威が中央軍に編入されるようなことにもなったわけで(逆説)。
李嗣昭って、五代前半ではかなりのキーパーソンですね。
お杉の最新刊はなかなか面白い読み物でした。
結局、五代も禄山チルドレンだったというところとか
高評価の梁の太祖。
書き足りないをおっしゃってるので、
ぜひ五代だけじゃなく十国も・・・
五代のところ読んだけど、天才と呼ばれてる李存勗でも、阿保機には勝てっこないぜ
というカンジ…
ま、たしかに器はだいぶんちがうんで、それは確かだろうとは思うけど、李存勗は南北に敵もってる状態で、契丹を上回る軍勢を配置したスピードがすごいと思ったりした。
647 :
世界@名無史さん:2005/12/31(土) 23:53:50 0
李存勗は敵対する梁が最悪の状態だったからそれよりちょっとだけましだったので勝てたようなもの。
648 :
世界@名無史さん:2006/01/01(日) 00:56:01 0
そういや杉様の言う沙陀騎馬軍=密集突撃、キタイ騎馬軍=射撃、ってのは史料上根拠あるの?
三国時代には鐙がなくて軽騎兵の弓射中心、
その後鐙が発明されて馬鎧をつけるなど重装化して突撃騎兵に、
南北朝〜隋代が重装のピークで、唐の太宗が再び軽騎兵を重用しだした
という流れを中国の軍装・歴史の入門本で読んだような。
地理的な面からいうと、中原に近くて装備が調達可能な沙陀が密集突撃(重装)、
長城外での遊牧生活から間が無いキタイが射撃中心(軽装)というのは納得出来る気がします。
つまり部族の伝統とかではなくて、外的な影響が軍制面に大きく影響しているのではないでしょうか。
650 :
世界@名無史さん:2006/01/02(月) 18:43:58 0
>>649 沙陀の騎兵が重装だとは特に言ってないようだけど。
「よりすぐりの騎馬の精鋭で密集陣もしくは密集隊(いわゆるファランクス)を
組み、くろぐろとしたひとつの固まりとなって敵軍に突攻・馳突する戦術は、
沙陀の最強の武器であった。同じ騎兵とはいっても、ひろく散開しつつ自在に
駆け回って弓射するのを得意とするキタイ軍とは、性格を異にした」(147頁)
十国関連で詳しい本って、ないですね。
>>650 騎兵が密集して突撃する=重装騎兵の戦術だと理解していたけど。
ファランクスとか言っているし、槍と強固な鎧を装備して突撃する、
正史じゃないけど水滸伝の連環馬みたいなビジュアルイメージ。
軽装騎兵が混乱した敵への最後の止めに突撃することはあるでしょうけど
その行動にファランクスという表現は使わないのでは?
653 :
世界@名無史さん:2006/01/04(水) 12:06:23 0
五代十国時代を引き継いだ宋王朝の趙氏は
漢族ではなく突厥系というのは本当ですか?
隋唐も鮮卑系という説があるけど。
異民族の中には漢族風の姓を名乗る人も居るからややこしいですね。
もし宋王朝が北方系の非漢族王朝なら
あれほど華夷思想が盛んになり、漢族の砦として臨んだものの、
契丹に脅かされ、女真に脅かされ、最後はモンゴルに滅ぼされて
後世の漢人の同情を買った趙氏は、
実は先祖をたどれば漢人よりも契丹や女真などにずっと近かったという
皮肉なことになりますね。
楊氏や李氏を輩出した鮮卑が漢化しつつあった頃、趙氏の先祖は塞外にあって
辮髪姿で胡馬にまたがり、後世の契丹や女真と同じく中原を窺って北方の辺境を盛んに脅かしてた事になる。
もはやこの時代、漢族かそうでないかというのは、無意味なことなんじゃないかな。
柴栄だって、一般には漢人で通ってるけど、鮮卑系って言われてもいるし。
中華思考を持って、中華皇帝として振る舞えば、それは血筋如何など関係なく中華皇帝だろう
656 :
世界@名無史さん:2006/01/21(土) 23:08:43 0
馮道の読み方。
ふうどう? それとも ひょうどう?
普通は「ふうどう」でそ
658 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 04:20:14 0
憑依という語からの連想が働くのだろうが、少なくとも人名に関しては
「馮」は「ふう」と読むし、そのほかでも「ひょう」と読む場面は皆無だと思う。
地名の馮翊郡だと「ひょう」だね。
>>659 辞典を典拠にするのは反則なのだが、大漢和だと「ヒョウヨク」と「フウヨク」両方が載っている。
熟語だと「フウ」と読むケースが圧倒的に多い。ただし、字音については「ヒョウ」の方が先に載っている。
もっと反則というか、あまり信用すべきものでもないかもしれんが、
IMEパッドだと「ヒョウ」「ビョウ」しか出てこない。
ちくまの漢書の訳だと、地理志では「左"憑"翊」になってる。
中央研究院漢籍電子文献だとちゃんと「左馮翊」なのに。誤植?
「憑翊」で検索かけたら何故か旧唐書の一箇所だけ引っかかった・・・
663 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 10:15:25 0
664 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 10:27:39 0
廣漢和辞典によると、
【馮】
[1]ヒョウ、ビョウ @馬が速く走る。Aしのぐ。おかす。等々
[2]ホウ、ハウ おおきい。むなしい。
[3]フウ、ブ @馬が速く走る。A姓。
[4]ヘイ、ビョウ よる。
[5]フン、ブン いかる。いきどおる。いきどおり。
ということで、「ふうどう」ですね。」
陳舜臣の「小説・十八史略」で初めて知ったから、「ひょうどう」がデフォルトになってるじぶん。
トナミ氏の読んでから「ふうどう」。
そのときどきに応じて変えてたりします。
666 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2006/01/28(土) 11:33:03 0
支那の辞書では「馮」には「蒸」韻と「東」韻の2系統の音があるとされています。
そして反切としては前者は「皮蝿」切で後者は「扶洪」切となっています。
つまり前者はヒ+ヨウの発音で後者はフ+ウの発音となります。そして姓の方は後者です。
馮という姓は馮城から採られたものだそうです。
五胡の馮跋も本によって〈ふうばつ〉だったり〈ひょうばつ〉だったり、
ルビがいろいろありますね。
出版するときに人名などのルビは誰が指定してるんでしょうか?
(ウィキペディアで馮跋をみたら〈ひょうこう〉となっていた。はじめて見た読み方だな・・・)
668 :
世界@名無史さん:2006/01/28(土) 20:10:45 0
もしかすると現代中国人からは、地名人名の場合は「ふう」と読むのだ、
という昔からの常識が欠落してしまったのではないかと思われる。
私がある事情でこだわっている「葉公好龍」という故事成語の場合も
「しょうこう・こうりゅう」のはずなのだが「ようこう・こうりゅう」
に対応する発音で今は使われているらしい。
葉剣英・元副主席も例外なく「よう・けんえい」と呼んでいる。
669 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2006/01/28(土) 23:56:18 0
「葉」の音は「逸捷」切と「式摺」切と2系統ありますがいずれも「葉」韻です。
後者が姓に用いられる音でシ+ヨウの発音となりますが、これは「攝」と同音です。
ある本に葉公子高の「葉」にセツと振りカナしてあるのを見かけましたが、恐らく
「音は攝」と注が付けられていたので攝の慣用音セツに引きずられたものでしょう。
ところで支那の辞書には「姓の意味に用いる場合は本来の音は攝であるが、今では
枝葉の葉のように読んでいる。音が変化したのだ」と説明しています。てことで
現代人の葉剣英は「ショウケンエイ」ではなく、日常語と同様に「ヨウケンエイ」と
振りカナして差し支えないようです。
馮さんをpingさんと呼んだら、人の場合はfengだとなおされた。
671 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2006/01/29(日) 19:09:56 0
馮や葉の例のように日常語の発音とは異なる姓に特化した読みとしては次のようなものもあります。
「沈」の普通の音は「侵」韻で「池淫」切ですが、姓の場合は「寝」韻で「始飲」切(シ+イン)で「瀋」と同音。
「繆」の普通の音は「尤」韻で「模侯」切または「基幽」切か、「宥」韻で「密宥」切または「里擾」切ですが、
姓の場合は「屋」韻で「莫禄」切(ボ+オク)で「穆」と同音。
「單」の普通の音は「寒」韻で「徳安」切ですが、姓の場合は「銑」韻で「市演」切(シ+エン)で「蝉」と類音。
「甄」の普通の音は「先」韻で「基焉」切ですが、姓の場合は「震」韻で「之刃」切(シ+イン)で「震」と同音。
「區」の普通の音は「虞」韻で「曲紆」切ですが、姓の場合は「尤」韻で「阿鉤」切(ア+オウ)で「歐」と同音。
二字姓では「万俟」は普通の讀音では「萬」+「士」と同音ですが、姓の場合は「墨」+「其」となります。
拓跋魏から分かれた氏で、秦檜に諂って岳飛を陥れたというので岳飛廟の前に秦檜夫婦とともに
縛られた立像を造られ、参詣者に絶え間なく痰や唾を吐きかけられている万俟セツ(卜の下に咼)が
唯一の知名人。
「尉遲」の「尉」は普通の讀音では「畏」と同音ですが、姓の場合は「鬱」となります。尉遲敬徳が有名。
アーリア系言語で勝利の意味の"vic"に由来するものだそうです。
672 :
世界@名無史さん:2006/02/19(日) 10:18:40 0
留従效→張漢思→陳洪進
誰ソレ
674 :
世界@名無史さん:2006/02/20(月) 05:55:16 0
楚が南唐に亡ぼされたあとの湖南地方でずっと抵抗運動を続けた楚の残党。
675 :
世界@名無史さん:2006/02/20(月) 06:56:15 0
違った。閩の残党だった。
楚の残党は劉言→王逵→周行逢→周保権。
だけど、十国に数える基準は何なんだろうね。
湖南や留→陳はやむをえないかなと思うけど、
一代限りとはいえ独立性の強かった岐、燕は数えるべきなんではないかな。
十国に数える基準… 語呂のよさ(嘘)
楚の残党は、独立・劉言→簒奪・王逵→譲渡・周行逢→世襲・周保權 だったかな。
ちょっと弱小すぎるのかな。
それも入るなら岐も南平も北平も趙も一国だろうね。
677 :
世界@名無史さん:2006/02/20(月) 10:24:20 0
岩波新書・中国の歴史では、
燕・岐は一代限りなので数えず、湖南は楚と同一なの数えない。
閩の残党、趙にはふれてもいない。
しかし、燕は事実上2代だし、岐は17年間も独立していたんだからなぁ。
これを含めて「五代十二国」・・・歴史の書き換えは拒否されるかな。
十二国史キター
679 :
世界@名無史さん:2006/02/20(月) 15:18:16 0
>>676 >語呂のよさ(嘘)
案外ほんとだと思う。
五代十国 wu上 dai去 shi入 quo入 ウーダイシクォ
五代十二国 wu上 dai去 shi入 er去 quo入 ウーダイシアルクォ
岐(李茂貞)、燕(劉守光)、北平(王処直)、趙(王鎔)を加えると、五代十四国。
さらに湖南(周行逢)、殷(王延政)を加えると、五代十六国。
あれ。 殷って知らなかった。 自作辞書ツールに名前入ってるから探してみると…
閩の残存勢力? 王審知の子ですね。
>五代十六国
ますます「五代十国は五胡十六国のパクリ」と言われそうな…
682 :
世界@名無史さん:2006/02/20(月) 19:11:12 0
せっかくですから、黄巣の斉、董昌の大越羅平国も入れて
五代十八国・・・
ところで、厨って言われそうだから今まで黙ってたけど、上から眺めてても皇帝とか王は、よく話題に上ってるけど、配下の節度使や文武官で、これはって人物があんまりあがってないよね。
そういう名将とか名臣みたいなの、上げてみるってのはどう?
いちおし 夏魯奇。 後唐の猛将で、燕の元行欽と単廷珪ふたりを相手取って、壮絶な一騎討ちを披露。周りにいた敵味方の将兵が思わず見とれた(圧倒された)という。
685 :
世界@名無史さん:2006/02/21(火) 06:24:49 0
大越羅平をベトナムと勘違いしていないか?
却下
686 :
世界@名無史さん:2006/02/21(火) 10:15:01 0
なんでだよ、呉権が王を名乗るのは939年なんだから、入れてもいいじゃん。
その前の曲氏もいるし。
687 :
世界@名無史さん:2006/02/21(火) 10:25:19 0
ベトナムは歴史的に中国の範囲外。
「十国」の範囲は「南漢」が南限。
と、今気がついたが、大理王国も五代十国の範囲外なんだね。
688 :
世界@名無史さん:2006/02/21(火) 13:27:04 0
>>687 そりゃ逆だろ。ベトナムの北部は歴史的には中国の一部だったのが、
独立した現在は中国に入れないで考えているだけなんだから。
中国の範囲をあまり広げないほうがいい。
せっかく中国自身が南漢までとしているのだから。
そうだね。
自分としては中原王朝にあんまり関わりがないという時点で、今のところ興味の対象外。
691 :
世界@名無史さん:2006/02/21(火) 17:12:06 0
裘甫の乱(859)と龐の乱 (868)に興味あり。
時代は全く唐の時代だけど、五代十国の乱世の始まりであるので。
龐勛の乱は興味あるね。
若き李克用が戦場を疾駆していたのかと思うと(うっう… 涙)
693 :
世界@名無史さん:2006/02/21(火) 21:08:33 0
李克用=元祖・独眼竜
この頃の沙陀軍閥の勇猛さというのは、日本にも聞こえていたのだろうか。
田中芳樹本では李克用が元祖ぢゃ〜、と息巻いてますが。
実際、似たような呼称などあるように思えますが…
李克用にちなんだ、とか、そういう片目で強い人物を形容する言葉として、それが伝わったのなら元祖だろうけど。
まさか趙弘殷ではないわな。
武皇一目微眇,故其時號為「獨眼龍」
だから、それが政宗の呼称との関係はあるのかな、と。
697 :
世界@名無史さん:2006/02/22(水) 00:47:19 0
>>692 父の李国昌が活躍したのは知っていますが、
李克用も活躍したのは知りませんでした。
それが書かれているのは何ですか?
15歳で従軍し飛虎子というあだ名までもらってます。 が…
自分で見たわけじゃないので、出典は ?です。 多分、ツガンだと思うのですが。すいません。
699 :
世界@名無史さん:2006/02/22(水) 20:59:23 0
簡単にいうけど資治通鑑から探すのは大変なんですよね。
で、旧五代史を引っ張り出せたので。
唐書一 武皇紀上
献祖之討龐也、武皇年十五、従征、摧鋒陥陣、出諸将之右、軍中目為「飛虎子」。
700 :
世界@名無史さん:2006/02/22(水) 21:01:22 0
書き忘れました。
献祖は、李國昌の廟号です。
701 :
世界@名無史さん:2006/02/22(水) 21:10:13 0
さらに。
朱耶赤心が「李國昌」という姓名を賜ったのも龐の討伐の功績により。
すみません、簡単に言ってしまいました。
旧史にあるんだったら自分でも発見できるのに… 怠惰。
703 :
世界@名無史さん:2006/02/23(木) 01:06:29 0
704 :
世界@名無史さん:2006/03/10(金) 04:05:12 0
>>681 「五」胡も「十六」国も数自体にはあまり意味がないようなので
「五」代「十」国も語呂がいいからってのもあるんじゃ?
龐てどこかの節度司の糧料官という比較的下級の衙前だったよね。
徐州。
まだやってたのかこんな時代
708 :
世界@名無史さん:2006/03/26(日) 00:25:04 0
唐明宗李嗣源が即位したとき、
霍彦威と孔循倡が国号を変えることを提案して却下されたけど、
もし受け入れられて変えることになったときはどういう国号になっていただろうか。
李嗣源の出身地が代北で、即位の前は鎮州節度使、その前は天平軍節度使だから、
えーと、どれがいいかな。
710 :
世界@名無史さん:2006/04/05(水) 20:14:37 0
age
711 :
世界@名無史さん:2006/04/08(土) 23:57:45 0
最近出版された、旧五代史新輯会証て、
どんなもんだろ?
大分増補されてるというが、買うべきか・・・。
買うんだろうな。
>>712 おそらくooinn氏の労作でしょうねぇ
嘘から出た真になって欲しいと思ったり……
714 :
世界@名無史さん:2006/04/24(月) 18:20:49 0
715 :
世界@名無史さん:2006/04/24(月) 18:31:24 0
復旦大學出版社
716 :
世界@名無史さん:2006/04/24(月) 18:48:20 0
全書375万字、志53篇、列傳60篇を摯竅A逸文数万字。
だそうだ。
これか
ttp://www.chugoku-shoten.com/mokuji/cmokuji/34158/34158.html >書籍番号 34158
>書名 旧五代史新輯会証(全12冊)
>編著者 陳尚君輯簒
>出版年 2006年2月
>出版者 復旦大学出版社
>価格(税込) 19,950円
>《旧五代史》は、二十四史の中で、唯一の輯逸書であり、
>現在の通行本は清代乾隆年間に《四庫全書》を編纂する際に、
>邵晋涵が《永楽大典》や《冊府元亀》などから取り出したもので、原書ではありません。
>この<輯本>も高い評価を得るものの当時の政治的情況により原文が改ざんされたり遺漏も多いため
>今回、最新輯本が刊行されることになりました。
>11年の歳月をかけて編纂された本書は、
>全12巻、約320万字にのぼる大書で、改めて紀、伝、志53篇を輯録するとともに新たに列伝60篇を追加、
>さらに逸文数万字を増やすなどのほか、1万近くの誤りや不足を訂正・補足・削除し、原書の編目も調整し、
>編集のもととなる五代実録の遺文100万字余りを付録として収録しています。
>本書は、五代実録を主とした大量の一次的文献を提供する《旧五代史》の最新輯本といえます。
二万もするのか。小遣い増やしてもらえないかな・・・・・
>>713 目下のところ株価急降下中の光栄は、本当ならこれくらいのサプライズを
打たなきゃダメなんだけどね……。五代は難しくとも、せめて十六国とか。
もっと株価が落ちるだろ
>713 労作? ただのパクリじゃん。
721 :
世界@名無史さん:2006/05/02(火) 23:56:46 O
中国の留学生に聞いたら
朱全忠より李克用の方が悪い奴だそうだ
なんとなく李克用はハメられた感じがして、朱全忠の方がよっぽど悪い奴のような感じがするが
やはり李克用は異民族だから悪いイメージを刷り込まれたようだ
722 :
世界@名無史さん:2006/05/03(水) 00:21:19 0
旧五代史新輯会証(全12冊)
で2万円じゃめちゃ安じゃん。
1冊2万じゃねーの?
>721 沙陀の連中は統治領域から収奪(略奪?)しかしない(と言っても良いくらい)だからなんじゃないか?
異民族で悪いというなら、後漢まで悪いイメージなんだろうか。
>>722 て前のようなやしは、貧乏人に蹴られて氏んでしまへ。
>>721 それって五族協和のスローガンに反してない?>異民族は悪
中共で蜂起農民の英雄扱いの黄巣のもと部下って事で、
比較的に優遇されてるのかねぇ>朱全忠
中共は民族問題には慎重で、教科書の方針で
岳飛や文天祥は民族的英雄では無い、なんてやらかしたぐらいだ。
しかし多くの中国人が漢民族である以上、そんな主張は反発しか招かない。
民衆は依然として漢民族の英雄を中国の英雄として扱う。
>>725 いや、異民族は庶民からしたら悪だろう。
当時の文化度の違いが大きいとは思うけど、
基本的に漢人は夷荻を見下し、同時に何もかも掠め取って行く異民族を
恐れていたはずだから。
朱温が李克用よりマシってのは納得いかんな。
黄巣について略奪の限りを尽くしてたのに、黄巣があかんとなると
すぐに官軍に寝返って「全忠」だもんな。
だけど、李克用もそのあとの河東軍閥も、略奪の嵐だしな。
人間としての倫理的に朱全忠は最悪だけど、領国統治ということなら李克用よりはるかにマシだと思われる。
729 :
世界@名無史さん:2006/05/13(土) 20:59:05 0
子供の落落を朱温に捕らえられて、李克用が泣いて返してくれと要求するシーン、
トニー谷の子供の誘拐事件を連想した。
李克用や李存勗は親類縁者への情はあふれているね。 ちょっと違うかもだけど項羽みたいな感じ。
731 :
世界@名無史さん:2006/05/14(日) 09:40:59 O
むしろ唐朝の再興を真剣に考えていたのは李克用かもしれないね
そりゃあ異民族だから、なおさら天朝の大義が欲しいでしょう
雇用主が滅んだら傭兵が塞外へ追い払われる懼れもあるし
>732 ムカつく朱晃への嫌味もあるし、てね。
734 :
世界@名無史さん :2006/05/31(水) 22:09:16 0
上げておこう
735 :
世界@名無史さん:2006/06/18(日) 17:06:26 0
朱耶赤心、佳い名前だ。
李國昌なんて歯が浮く名前よりずっと良い。
736 :
世界@名無史さん:2006/07/07(金) 19:41:10 0
128 名前: 名無しさん@初回限定 [sage] 投稿日: 2006/07/05(水) 09:24:53 ID:YNw7AdJ80
政権奪取のために外国の力を借りた奴の末路
後晋(こうしん 936年 - 946年)は、中国の王朝で、五代の一つである。国号は単に晋だが、
春秋の晋などと区別するため後晋と呼び習わす。
都は開封。前身の後唐と同様、突厥(テュルク)系沙陀族の王朝。
後唐の明宗李嗣源が死に、末帝李従珂が帝位に就くと、
明宗の女婿で李従珂とは不和であった実力者石敬トウ(トウは「王」偏に「唐」)は、
自身の駐屯する晋陽で後唐に対する反乱を起こした。
石敬トウは北の耶律阿保機率いる契丹(遼)に降って援軍を要請し、
936年、自ら帝位について後晋を建国、さらに同年、後晋は遼軍の力を借りて後唐を滅ぼした。
この時、石敬トウは援軍の見返りに遼に毎年絹三十万匹を歳幣として贈ることを約束し、
燕一帯の16州を割譲した。この土地は燕雲十六州と呼ばれ、
この土地の奪還は五代の諸王朝とそれを継いだ北宋の悲願となっていたが、
宋代には結局完全な奪還は果たされなかった。
942年に石敬トウが死んだ後、重臣の景延広が石敬トウの甥である石重貴を擁立し専横を行った。
この擁立劇は遼に無断で行われたため遼の怒りを買い、
946年、二代目皇帝耶律徳光は自ら軍を率い開封を陥落させ、後晋は滅亡する。
その後、後晋の節度使であった劉知遠は遼の引き上げた開封へ入り、後漢を立てた。
出帝の末路は、北宋の僖宗・欽宗の末路と酷似している。
どちらも軍部の強硬論が災いしている。
契丹南下に対しては、符彦卿や皇甫遇といった面々が局地で活躍するも、杜重威や張彦澤、李守貞、中央でのさばる馮玉、李彦韜などのアホどもが邪魔しまくった。
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
741 :
世界@名無史さん:2006/07/12(水) 01:11:16 0
742 :
世界@名無史さん:2006/08/06(日) 11:02:38 0
月例保守に上がりました。
743 :
世界@名無史さん:2006/08/06(日) 23:20:06 0
月例保守に上がりました
744 :
世界@名無史さん:2006/08/28(月) 14:11:16 0
>>737 契丹も開封攻略して華北占領した後、めちゃくちゃやったらしいからなあ
掠奪を刈り入れと呼んでたらしい
745 :
世界@名無史さん:2006/08/28(月) 14:14:10 0
打草穀か
相州というところでは、反契丹のレジスタンス・梁暉らが攻めたけど、要衝だったここはその後、徳光自らの討伐を受け、梁暉は殺されてしまう。
そのとき、城中にいた男は皆殺しにされ、女は拉致、赤子にいたっては空中に放り投げられ、落ちてきたところを剣で突き刺すという蛮行が行われたそうな。
相州は昭徳軍の使府にあたるけど、その後節度使が赴任してくると、城内には700人ほどしかいなかったという。
748 :
世界@名無史さん:2006/09/24(日) 07:04:56 0
!
749 :
世界@名無史さん:2006/10/04(水) 09:39:02 0
>赤子にいたっては空中に放り投げられ、落ちてきたところを剣で突き刺す
西欧でヴァイキングの侵攻でもそういう事が語られてたような・・・
よくある話なんですかね。
750 :
世界@名無史さん:2006/10/11(水) 00:09:34 0
>>749 よくある話と言うか、残虐さを表現するためのテンプレみたいなものでは?
欧陽脩&司馬光の巧妙な捏造契丹批判ってか?
まぁ、それに類した蛮行があったと考えたほうが自然なんだよな、ものすごいレジスタンス活動があったらしいから。
そういう最下層の抵抗が太原の劉知遠勢力に結びついて、後漢の成立になるわけ。
それだけじゃなかったかもだけど、大きな要因のひとつですわな。
>>753 まあ、
>>746 が事実なら、700人も生き残りがいるってのが不思議ですわな。
大体、昔から同じようなエピソードの羅列ってのはありますよね。
暴君=妊婦の腹を裂く とか。
755 :
世界@名無史さん:2006/11/02(木) 22:44:07 0
柴栄は母方の郭威の養子になって、「郭栄」とも呼ばれる。
このことで疑問。
中国では父方の養子になるのは普通にあるけど、母方の養子にはならないと聞いた。
そうするとこの養子縁組はどういう扱いになるのだろう?
何事にも例外はある
柴守礼が甲斐性なしで、柴栄が利発だったから… とか妄想してみる。
というか、柴氏は当時新興の地主層なうえ、もと後宮の人だったから、郭威が普通に頭あがらなかったのじゃないのだろうか…
そのくせ、郭家は貧乏で、少年柴栄も旅商人に連れられて行商に行ったとかいうから、本当のところはわからんけどね。
五代時代は、仮子とか一杯取ったりしているから、他姓の養子を取ることに対する抵抗感が低かったとか。
乱世だし、有能な人間を自分の勢力下におくことのほうが優先していたとか。
759 :
世界@名無史さん:2006/11/07(火) 19:06:28 0
李克用なんて何人抱え込んでいるのやら
761 :
世界@名無史さん:2006/11/27(月) 21:19:22 0
あげ
762 :
世界@名無史さん:2006/12/25(月) 21:49:07 0
小前飛竜は買ったけど、封印した。つまんないの、分かってるし。
764 :
世界@名無史さん:2007/01/17(水) 09:39:04 0
「飛竜」という呼称はどうして趙匡胤に固定されることになったんだろう?
郭威は雀だぜ?
766 :
世界@名無史さん:2007/02/26(月) 01:59:57 0
東南アジア方面への海上交易が活発化したのも五代ごろですかね。
華僑のはしりもこのころかな?
767 :
世界@名無史さん:2007/03/04(日) 00:34:43 0
陳尚君て人は色んな事やってるんだな。
確か全唐詩補編だかも陳さんだし
このまま分裂しとけばよかったのに
まあいずれ分裂するでしょう
770 :
世界@名無史さん:2007/03/30(金) 13:44:38 0
オリンピック後に、な
分裂してるのが本来の姿
772 :
世界@名無史さん:2007/04/29(日) 02:46:23 0
五胡(蒙蔵回満壮)十六省時代到来?
773 :
世界@名無史さん:2007/05/15(火) 06:45:47 0
776 :
世界@名無史さん:2007/05/25(金) 17:10:45 0
公式でのストーリーを読む限りでは、五代十国時代である必要が無い。
時代を借りただけの検証一切無しの武侠物かも。
777 :
775:2007/05/25(金) 17:58:22 0
そうなの。どこの国か特定できないんだもん
778 :
世界@名無史さん:2007/05/25(金) 18:17:44 0
779 :
世界@名無史さん:2007/05/25(金) 18:49:22 0
>>775 チャン・ツィイーとジョウ・シュンが好きだから俺は見に行くね。
780 :
世界@名無史さん:2007/07/02(月) 13:58:41 0
で、もう観たの?
女帝見に行った。期待してなかった分、思ったより楽しめた。
当然、架空の王朝なのだが、作中で分かったことは
1.幽州節度使が重要ポストらしい
2.契丹と人質交換をしました(強要されたかどうかは不明)
3.呉越の地に隠遁することができるそうです。
4.近衛軍の装束が真っ黒。しかも忠誠度が高い。
鴉軍か、黒雲都かって感じで個人的にはよかったですが、
鎧兜のデザインが何の史料に依拠したのか気になりました。
晋から呉に亡命した武将っていたよね。
李承嗣っていう、雁門の人で河東軍閥の驍将だったの…
呉越ってのは知らないなぁ…
まぁ、あんまり歴史と照合しないほうがいいのだがね。
783 :
世界@名無史さん:2007/07/03(火) 09:47:52 0
五代十国で史書に登場する女性というと、南唐の大周后・小周后くらいしか思いつかない。
この姉妹、とても女帝などとは言えない・・・
女帝つうわけじゃないけど、劉太妃(李克用の奥さん)はインパクトは女帝クラスではないかと…
785 :
世界@名無史さん:2007/07/05(木) 09:24:41 0
この時代に詳しい本を教えてください
それと詳しいサイトはありますか?
786 :
世界@名無史さん:2007/07/05(木) 10:08:25 0
礪波護「馮道〜乱世の宰相〜」中公文庫BIBLIO
栗原益男「乱世の皇帝」 桃源社
中国詩人選集16「李U」 岩波書店
村松暎『五代群雄伝』 中央公論社
竺沙雅章『宋の太祖と太宗』清水書院
講談社学術文庫「五代と宋の興亡」
小前 亮 「飛竜伝 宋の太祖趙匡胤」 講談社
あと漢文白文を読めるなら、東京神田の中国書籍専門店に行けば正史・通史・解説本・小説など
内容に比べて驚くほど安価に入手可。
「李煜」以外は持ってるなぁ。
「李煜」って内容はどんな感じですか?
788 :
世界@名無史さん:2007/07/05(木) 13:14:54 0
李U、李mなどの唐〜五代〜宋に流行した詞という形式の作品集。
時代背景、南唐二主の解説もある。
一番有名な作品が「浪淘沙令」
>>459-465
789 :
世界@名無史さん:2007/07/05(木) 13:21:20 0
まあとにかく日本語での本はあまり無くて結局は中国書籍を探し求めることになってしまうのですよ。
791 :
世界@名無史さん:2007/07/05(木) 20:37:48 0
この時代に詳しいのはやはり少なそうですね
>>788 どうもありがとう。
南唐中主の保大年間はいろいろ興味があるのですが、政治史的な要素ではないんですね? あくまで詞ということで。
793 :
世界@名無史さん:2007/07/07(土) 00:07:57 0
李Uの詞は日本ではあまり有名でないが、
中国文学史上比類ない大詞人として、その方面ではかなり著名だよ。
文学をやってる人の中で、李白・杜甫よりも李Uが好きって人を
実際に何人か知っている。
>>786の中国詩人選集「李U」は文学的にはとても良い本だし、
中国文学の専門家以外でも読める詞集ってことで意義は非常に大きいと思う。
794 :
世界@名無史さん:2007/07/07(土) 07:16:27 0
中国文学史上のフェルメールだな 李Uは。
795 :
世界@名無史さん:2007/07/07(土) 08:10:49 0
似てるところなんてないと思うが?
フェルメールは本当に寡作だったけど、李Uは現存している作品が少ないだけ。
フェルメールだって残っている作品が少ないだけでは?
仮にも職業画家として一生を過したわけだから、
レソブラソトほどではないにせよ、ある程度の数の作品を描いていたことは間違いない。
村松A氏の『五代群雄伝』って面白いの?
中公文庫で出てないのかな?
>>797 ツガンが楽に読めるなら、とくに必要ないだろうけど
日本語で読める五代関連の小説でまとまっているのはこれだけだから。
内容はツガンを簡略化した感じ。愛読書。
799 :
世界@名無史さん:2007/07/19(木) 11:53:27 0
五代十国の小説って穴場かな?
俺書いてみようかな。
しかし時代そのものの認知度が限りなく低いからなぁ・・・
800 :
世界@名無史さん:2007/07/19(木) 22:33:45 0
>>799 いや、狙いは良いと思うぞ。
楊家将だって日本じゃマイナーな時代だけどベストセラーになったじゃん。
ただ茶王一代記 (田中芳樹)と馮道(陳舜臣)は五代十国時代の小説だわな。
まだ読んでないけど。
>>馮道(陳舜臣)
そんなのあったっけ?
802 :
世界@名無史さん:2007/07/20(金) 09:22:41 0
>>802 それは小説ではないのでは…
でも情報ありがと。
>>800 書くとして、どのあたりの何を書きたいの?
自分も素人ながら、題材にすれば面白いだろうな人物は、ひとりキープしているのだ。
804 :
800:2007/07/20(金) 20:11:26 0
晋の出帝
805 :
800じゃなかった799:2007/07/20(金) 20:12:20 0
地味かな?
>>804 石重貴ですか。
今、そのへん調べてるな、自分w
気が合いますね。
>>805 確かにチョイスが渋いけど、一気に読みたくなってきた
完成したら晒して欲しい
808 :
799:2007/07/21(土) 15:49:07 0
もしシェイクスピアが晋の出帝の存在を知っていたなら題材にしたのではないかと思ってる。
>>807 停年まであと3年、退職後やりたいことに書き加えておこう。
呉越の銭氏の兄弟(皇帝とその兄弟)が主人公の小説を読んだことがある。
たしか、田中芳樹が書いたやつだった。
権力を握ろうとする親父以来仕えている重臣達や、侵攻してくる外国(南唐だったかな)に対抗するって話だった。
銭弘佐の伝はたしかに少ないが、南唐側の資料でいくらか裏が取れるんだよね。
南唐が閩を攻略したとき、南唐にくだった孟堅という男は勇猛で知略に優れている将で
福州の攻略に起用され、出撃するたび戦果をあげたが、福州の援軍にかけつけた銭弘佐に挟撃されて戦死するというそんな話もあることを知った。
811 :
世界@名無史さん:2007/07/23(月) 21:54:30 0
呉奇隆主演の『李後主与趙匡胤』見た人いますか。
李後主や南唐好きな方にはおすすめです。
少しだけど、後蜀の話も出てきます。
812 :
世界@名無史さん:2007/08/16(木) 13:29:40 0
五代軍談と宋史軍談なら読んだ
814 :
世界@名無史さん:2007/09/19(水) 07:00:27 0
↑ 五代十国
815 :
世界@名無史さん:2007/10/03(水) 07:17:19 0
>>804、806
後晋出帝と、彼と一緒に北遷した宗室の石延煦の墓誌銘に
考察を加えた論文が『文物』に載ってたな。
号数忘れたけど2004年くらいのだったと思う。
大学図書館とかで捜してみるのをお薦めする。
なんでも契丹に乗り換えた後晋の旧臣が銘文を書いたとかで、
読んでてちょっとセンチメンタルになった。
ちなみに出帝と石延煦の墓誌銘の釈文は『旧五代史 新集会証』にも載ってる。
あれはほんとに便利。
冊府元亀とか会要、全唐文の類から墓誌銘の釈文まで載ってるんで
五代の研究する学生やいろいろ知りたい向きにはお薦めです。
新輯會證の注釈は、すごいありがたいですよね。
学生でもなんでもなく、単に趣味で買っただけだが。
817 :
世界@名無史さん:2007/10/27(土) 19:18:20 0
あげ
そういえば、と
>>273の件について、かすかな記憶があったので
世界史板のスレを読んでみるとありました。
『五代十国時代を語ろう』
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1008691359/ ちなみにここの1さんは、過去に自分が間違われたことのある五代潰瘍さんなんですが
江南椰子さんといい、実は「五代會要」「江南野史」のパロと途中でネタバレしてます。
そうなれば、自分はさしずめ「清掃実六」とかのコテを名乗ろうか、とか
いやいや、そんなことはどうでもええねん。
上記スレの
>>191のレス。
さすがあやめ殿。
>渤海王に封ぜられています。しかしこの中で最も多いのが「高」姓の人士なのです。
>列挙してみますと
>渤海郡王としては 高樹生・高歓・高澄(北朝の魏)・高固・高崇文・高駢(唐)・高萬興・高季興・
>高從誨・高保融(五代)・高懷徳(宋)
(中略)
>実は高氏は既に久しく 渤海の郡望(郡の有力豪族)であったからです。
どうやら、「高」という姓がキーワードのようですね。
高季興と高懐徳は全然関係ないもんね。
うげ、誤爆った。 恥ずかし…
良スレ
822 :
世界@名無史さん:2007/12/19(水) 11:49:52 0
卒論どうしよっかなあ・・・・馮道にでも書くかなあ・・・・
↑馮道についてでした
史料あまりねえなあ・・・・この時代面白いんだがなあ・・・・
>>823 自分が今、興味持ってるネタ
後周の建国と、後漢の遺族蜂起。
劉知遠の従弟、劉崇と、同母弟、慕容彦超について。
卒論のネタにはならんか。
825 :
世界@名無史さん:2008/01/02(水) 21:28:28 0
後周の世宗の生涯を知ったとき、死ぬところで上杉謙信を連想した。
なぜに?
天下取れたのに急死。って事だと思う。
自然死か他殺かは別にして自分は信長の方連想してた
柴栄結構短気みたいだし(謙信も短気だが)
通俗二十一史(宋史軍談?)に楊家将の話が収められてるって聞いたんだが読んだ人いる?
830 :
世界@名無史さん:2008/01/22(火) 16:40:10 0
831 :
世界@名無史さん :2008/01/22(火) 16:57:57 0
>>830 あれ?
房州に遷されて、亡くなったのは20歳だよ。
生年は周広順3年(953)8月4日澶州の府邸にて(その頃柴栄は澶州節度使だったから)。
宋開宝6年(973)3月、房陵にて(北宋のとき、房州へと遷されていたから)。
その記事、単なるカン違いなんじゃないかな。
832 :
世界@名無史さん:2008/01/22(火) 17:29:51 0
そこから手繰っていった「顕徳」の年号も期間が「951〜953」と間違ってるね。
>>832 ウィキペディアでこの時代のこと見ないから知らんかったけど
それはひどすぐる…
単なるカン違いですまないレベルだね。
とりあえず史書読んでるような内容の記事だし
もしかして、単なる研究不足…
834 :
世界@名無史さん:2008/02/17(日) 15:26:51 0
|┃三 ガラッ! ┌───┐ミ
|┃ | あげ |
|┃ ≡ 〆⌒└─┬─┘ミ
____.|┃ ( ___)│ サッ
|┃= (_》 ^ω^)E)
|┃ ≡⊂ ノ
835 :
世界@名無史さん:2008/03/18(火) 00:56:47 0
このたびやっとDVDで「女帝」見て気になったこと。
劇終盤、仮面劇団の中に隠れていた甥っ子が、皇帝を害せんとする場面。
彼が「足袋」を履いていた。
日本と同じ、つま先が二つに分かれたもの。親指と、それ以外の指に分かれたもの。
朝鮮人が日本人を「チョッパリ」(豚足)とバカにするネタ元。
五代十国時代の大陸では、この形式の足袋が履かれていたの?
同時代の日本、平安貴族がはいていた靴下「しとうず」は、つま先が分かれない、現在の靴下と同じものなのに。
それとも、単なる演出家の間違い?
836 :
世界@名無史さん:2008/03/19(水) 11:53:19 0
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
837 :
世界@名無史さん:2008/03/19(水) 19:04:44 0
>>829 持ってるけどまだ読んでない(五代軍談は読み終えたが)
「趙匡胤の誕生から天下統一まで」なので楊家将の活躍はあまり無いかと
五代軍談ってのがあるんですね。はじめて知りました。
よって、早速手配します。
839 :
世界@名無史さん:2008/04/06(日) 00:27:13 0
>>665 古いレスに対してなんだがこれについて、QMAの学問・エフェクトで“五代十六国時代の政治家”で[ひょうどう]で答えたら×にされたので
Yahoo!事典(Wikiでは[ふうどう]しかなかった)を添付してKONAMIにメールで送ってやったことを思い出した。
840 :
世界@名無史さん:2008/04/10(木) 06:55:36 0
841 :
世界@名無史さん:2008/04/10(木) 06:57:00 0
それと唐代に「紫禁城」?
史実人物は登場しないはずなんで、あくまでもイメージレベルでの話
だけど「ストーリー」の記述の方が正確なはず。
皇帝は成り上がり者で旧皇帝の娘と結婚して皇位を継ぐ正当性を
はじめて手にしたという設定なので、朱全忠あたりの経歴を参考に
膨らましたのではないだろうか。
女帝もそんな感じだったね
何で五胡十六国では貴族は滅びなかったのに、五代十国では滅びたの?
>>844 節度使っていう唐代にあらたに設置された使職がおおきく作用しているんだ。
節度使は地方軍権のほか、観察使として民政と徴税の権限も委ねられ、なおかつ
「辟召」という、在野の人材を任意に登用できる権限を持っていた。
中央政界は科挙でなされるけど、実情は門閥の子弟などが「恩蔭」によって官界入りをする。
科挙を受けても、手心が加えられることが多かったが、地方節度使の場合、辟召された
軍吏や武将は、野に埋もれた逸材も多かった。
野にあったぶんだけ、知識に乏しく粗野ではあるけど、そういう人らの「武力」は
中央から任命される貴族節度使を排除するまでになる。
つまり、地元民出身の地方官が、地元の有力者や地元民とともに、
都からくるお貴族を門前払いするという図式となりうる。
それがひいては、河朔の乱であり、江南に続発した兵乱の基点となるところ。
そういう時期を経て、相対的に貴族の支配圏が矮小化、縮小化され、最終的に李振によって一掃される。
貴族排除と武人の台頭が、河朔はもとより江南からも起きていたことが、貴族支配の終焉を物語る。
河朔三鎮が精強だった頃、江南の諸鎮は「順地」といって、朝廷には表立って反抗することは
少なかった地だったのだから。
846 :
世界@名無史さん:2008/05/07(水) 06:35:28 0
家柄で登用された官僚は科挙官僚にたちうちできない。
官職を得てこその貴族は官職を得られなかったらそれでおしまい。
>>840 五代十国で分裂していた時代、だから「王」にしたんじゃないの?
皇妃だと世間一般では天皇家と間違えそうだし。
848 :
世界@名無史さん:2008/05/07(水) 11:12:35 0
849 :
M.Asamori:2008/05/29(木) 11:08:01 0
ここに書き込んでいいものかどうか迷いましたが、
一応、書き込ませていただきます。
もしお分かりの方がおられましたら、教えてください。
野内浮石という江戸時代中期の無名詩人が、次のような詩を作っています。
浮石歌
白石江頭白石浮
昔人已入白雲遊
由來此地求仙好
獨笑江頭漁父舟
この詩は、どういう伝説をふまえて作られたものか、知りたいのです。
できれば、この詩の作者が、何を読んでこの伝説を知ったのかの見当が
つけられるといいのですが。
調べて見ると、『仙仏奇踪』という本に、歸元子という人のことが出ていて、
この人が白石江の漁人とともに天に昇った(?)と書いてあるように読みました。
(『仙仏奇踪』の本文は、次のサイトで読めます。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k120/image/1/k120s0128.html)
また、『十國春秋』(巻47・傳)に歸元子(姓・爾朱)のことが出ているようなことも
目にしましたが、『十國春秋』は見ておりません。
よろしくお願いします。
>>849 短かったから書いてみた。
なんのことかわかったら教えてちょ。
爾朱先生
爾朱先生、成都人也。字通微、亦号帰元子。 唐僖宗時隠錬於金雞関下石室、
居久之、有異人与薬一丸、且戒曰・・「子見浮石而服之、仙道成矣。」
自是遇石必投之水間、視其浮沈、人皆笑以為狂。
一日遊峡上、有叟艤舟相待、叩其姓氏、対曰・・「涪州石姓也。」
遂豁然悟曰・・「異人浮石之言、斯其応乎?」因服薬軽挙而去。
時天復末年也。
先生有《還丹歌》伝於蜀中。
一云先生後自果州至合州、売丹於市、価十二万。刺史召問其直、更増十倍、
怒其反覆、以蔑籠沈之江、遇漁人白石者救之、授以丹、倶仙去。
朱全忠てけっこう評価分かれるよね?
個人的には乱世の英雄だと思うんだけど
>>849 >>851の最後の二行がいわゆる伝説なのでは?
っと、そういうことを聞きたかったわけではないのかな
854 :
M.Asamori:2008/07/13(日) 12:46:42 0
野内浮石の「浮石歌」について教えていただき、ありがとうございます。
浮石の詩に「白石江頭白石浮」とあるので、
「白石江のほとりで、白石が浮いているのを見て、天に昇った」
という文章が見つかれば一番よかったと思うのですが、どうやらそういう文章はなくて、
○爾朱洞が、ある時、仙人から丸薬をもらい、「今すぐこれを飲めばお前は死ぬが、
浮石を見てから飲めば、昇天できる」と言われた。
そして結局は、
(1)「石氏」という人が、「涪州」にいたので、「涪」は「浮」と音が同じところから、
「涪」(浮)+「石」でここが「浮石」だ、と悟った洞が、丸薬を飲み、昇天した。
(2)「涪陵」の上流で漁をしていた「白石江」出身の二人の漁師が、
洞を水中の竹籠から救い出した。洞は二人の漁師とともに丸薬を飲み、
三人一緒に昇天した。
ということになるのでしょうか。
(漢文の読み誤りがあれば、訂正をお願いします。)
一応、こういうことで、一旦、けりをつけておきたい、と思います。
もし、別の資料や情報があれば、また教えてください。
ありがとうございました。
855 :
世界@名無史さん:2008/07/13(日) 15:04:48 0
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
856 :
世界@名無史さん:2008/08/05(火) 21:51:46 0
へー
五代十国と縄文時代は同時代なのか
857 :
世界@名無史さん:2008/08/30(土) 05:10:14 0
誰か朱全忠と馬殷の対決について教えて
朱全忠と馬殷の直接対決なんてあったっけ?
馬殷は朱全忠の後梁に称臣していたぐらいだから、対決はしていないはず。
後梁に封じられた荊南の高季昌と、朗州の雷彦恭相手に共闘はしているな。
秦宗権の族弟の秦彦暉と、荊南の向うところ敵無しの倪可福で、雷彦恭を破ったやつ。
楚はほとんどが呉との戦いみたいなもんだと思うが。
861 :
世界@名無史さん:2008/10/10(金) 23:45:54 0
>>852 一代で滅んだ人間だから評価が低くても仕方ない
862 :
世界@名無史さん:2008/10/11(土) 00:29:25 0
朱全忠は実子がいながら、養子を後継者にしようとしたんだろ?
だから実子に殺された。
せめて娘の婿養子にしておけば・・・
863 :
世界@名無史さん:2008/10/11(土) 05:57:29 0
李存勗をうらやましがるくらいだがら、よほどひどい息子だったんだろうからな
>>863 しかし、三代目(実質は二代目か)の末帝は、五代朝中最長在位なんだけどな。
865 :
世界@名無史さん:2008/10/11(土) 13:06:51 0
出来が良かったとされる朱友裕は早死にしたしな
この時代を知るいい本はありますか?
五代史
868 :
世界@名無史さん:2008/10/13(月) 18:36:05 0
869 :
世界@名無史さん:2008/10/13(月) 18:41:49 0
あと、
>>423の『五代群雄伝』も古本で見つけたら即買
870 :
866:2008/10/14(火) 03:26:03 0
返事サンクス
871 :
世界@名無史さん:2008/10/17(金) 20:26:22 0
朱全忠の簒奪に兄の全cは大反対したんだよな。
朱全忠が殺された時どう思ったことやら。
うう
873 :
世界@名無史さん:2008/10/18(土) 07:25:35 0
874 :
世界@名無史さん:2008/12/09(火) 18:43:33 0
王莽の簒奪に反対した王太后と同じようなもんか
875 :
世界@名無史さん :2008/12/09(火) 19:35:01 0
五代後周時代の、左右廂は侍衛司、殿前司にそれぞれ隷属しているけど
宋代と同じで、やはり雑役と輸送のための集団だったのでしょうか?
876 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 17:04:17 0
最近、杉サマが書いた中国の歴史を読んだんだけど
あの人、中立的とか言ってるけどかなり契丹よりに書いてるよな
李存勗の事、嫌いなのかな?
877 :
世界@名無史さん :2008/12/25(木) 12:29:24 0
>>876 嫌いではないと思うよ。
ただ、耶律阿保機を称揚しまくりたいだけで…w
キタイに味方した盧文進などもえらく評価していたけど、この人も数奇な人で、
最後は南唐の名将として終わる。
この時代は中国でも人気ないんだよね
879 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 15:39:38 0
大物や悲劇の主人公がいないからなー
あ、悲劇の主人公はいるか、南唐後主が。
>>878 変化が激しいから、わかりにくくて敬遠しているんでしょう。
大物は多いのだけどね…
881 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 18:23:20 0
>>877 あの人の場合
李存勗が嫌いと言うより、阿保機の事が好きすぎるって感じはするよね。
882 :
世界@名無史さん:2008/12/27(土) 14:03:24 0
>>878 何より遊牧民にボコられっ放しだからねえ
>>882 五胡の時代と同じく、華北には遊牧民の流入があったのだけど
あまり話題にならない、というか重要視されてない気がする。
実際、遊牧民に反撃を開始する後周までは、カオスすぎてコアなファンくらいしか
喜ばないだろうな… 五胡と一緒で…w
後唐から後漢まではぶっちゃけ突厥系の王朝だしね。
結構個性的で興味深い政権もあるのだがね。
呉越とか南漢とか。
呉越はいいね。
建国当初が興味深いかもしれないが、かの田中芳樹氏の短編でもあった
銭弘佐の代は、いろいろお隣がすちゃらかで面白い。
目玉は、南唐の建州の役から、福州攻略作戦のところ。
閩の内乱から南唐が介入したとき、南唐に降らざるを得なかった、孟堅という武将が当時南唐の枢密使だった査文徽の麾下に組み入れられ、建州の平定に尽力し、「出撃すれば必ず功績あり」と言われ、このコンビで建州は崩れた。
そのまま福州まで切り取ろうと欲を出した南唐は、福州征伐に乗り出すものの、査文徽に功績が偏るのを恐れたのか、馮延魯という別の重臣が派遣された。
しかしこいつが、孟堅の進言をまったく聞かない。
福州の李仁達は呉越に助力を求め、英断した銭弘佐は、3万で福州の防備に向かわせたため、南唐軍はすぐに陥とすことができなかった。
数ヶ月攻めても無理なところ、呉越からさらに増援が派兵され、馮延魯は、敵の持久戦に飽きその援軍から叩こうとしたが、孟堅は反対した。
軍略的に言えば、河川から上陸しようとする敵を伐ち、城内の士気を衰えさせるというのは、常道のようだが、孟堅はそんなことは敵も重々承知で、なにか対策があるに違いない、としたのでした。
孟堅の慎重論に耳をかさず、馮延魯は一斉攻撃を命じたが、呉越の援将である余安は、城内に援軍が来たことを知らせる意味からも、大いに騒ぎたて上陸しながら、さらに騒々しく交戦した。
そのときの勢いは、孟堅が心配したごとく、退くことのできない背水の陣的な士気であって、すぐさま平地を確保し、しかも援軍が来たことを悟った呉越の先遣隊が、城中より撃って出、南唐軍を挟撃し大勝した。
そのとき、馮延魯は我一人で先に遁走し、孟堅は崩れる味方を最後まで支えて戦死した…
その後、敗戦の責任者である馮延魯は、諸大臣から死罪を要求されたが、馮延魯は、南唐最大の権臣である宋斉丘の一党なので、死罪にはならず地方刺史に降格されただけだった。
しかも年を越えるとすぐさま復帰したのだった。
南唐は宋斉丘の力が強く、それに群がるハイエナどもが、良臣を駆逐するさまを呈していた。それでも、その後平楚戦をやってのけたり、国力と人材はなかなかに豊富だったようだ。
887 :
世界@名無史さん:2009/01/02(金) 21:07:13 0
>>878 あと演義で面白いのが無いからだと思う。
>>886 十国にそれだけ詳しいとは中英板で布教活動してた御仁だろ?
正月休みは他にやることないからね。
後蜀にも手ぇ出したり、つまみ食いだわァ!
890 :
世界@名無史さん:2009/01/03(土) 00:08:32 O
この時代、KOEIのゲームで出来ないかな?
中国版信長の野望みたいになるか?
でも信長みたいなカリスマ性有る君主いないか…
最後の勝者、調教員だけか
柴栄を無視してくれるとは剛腹だな…
高恭の顔グラフィックは、腐臭たっぷり…
高恭って誰?
895 :
世界@名無史さん:2009/01/07(水) 23:53:33 0
>>890 つ李存勗
軍事的には超カリスマ
ただ政治が駄目だけど
李存勗は項羽級のインパクトがあるけど、やっぱり周徳威あってこそだしなぁ。
武田勝頼が山県昌景あたりを中心に展開させて、織田軍にことごとく勝利するような感じ。
柴栄は遅れてきた信長って感じだな。
897 :
世界@名無史さん:2009/01/08(木) 08:15:09 0
898 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 16:52:04 0
あげ
なにゆえ陳慶之がでてくるのか。
あるある。
と、思ったけど、陳慶之は南北朝時代よ〜
五胡十六国のほうが知名度は高い気がするけどね。
だいたいの中国史概説書で唐→宋と五代がスルーされてる事実。
記述はあるけど。
唐宋変革に主眼を置くからね。
その変革の過程で、いろいろ重要な事柄が五代時代には
おこっているんだが、だいたい結果として宋の概説にまわされる。
だもんで、唐に付随する五代時代と、宋に付随する五代時代
というふうに、分割されている場合が多い。
906 :
世界@名無史さん:2009/02/24(火) 20:09:30 0
大唐を頂点とする門閥貴族の王朝は南唐を以て終わり、
後周が手を付けた君主独裁+科挙官僚の王朝が宋で大展開する
でOK?
南唐も門閥で構成されていたわけではないよ。
呉以来の名家… いわゆる勲功ある家、という意味なら
多く引き継がれているけどね。
たとえば、劉彦貞、劉仁贍、柴克宏など。
また、呉の丞相だった徐温時代の僚佐とか、徐知誥時代の僚佐が
その後長く実権を得ていた。
ただし、北からの亡命者も結構重用しており、構成は結構まぜこぜ。
北からの亡命者で、南唐で武勲を挙げたのには、盧文進、李金全、
皇甫暉、朱元、李平など。
宰臣では、『夜宴』で有名な韓熙載、孫晟、魏岑など。
実際には、唐以来の貴族さまは、朱全忠によって刈り取られたとみていいんじゃないかな。
いくらか、残ってったのもいた記憶はあるけど、探す価値を今は見出せない。
君主独裁と科挙の拡大は、まぁそうだね。
908 :
世界@名無史さん:2009/03/27(金) 00:47:25 0
映画「王家の紋章」は、どこの国の話?
お妃は梁国の王家の娘、ということになっていたが。
909 :
世界@名無史さん:2009/03/28(土) 21:58:05 0
この時代がずーっ徒続いてれば間違いなく中国で産業革命が起こってただろうに。
趙匡胤が後周の西半分で独立して「趙」とでもしていればねえ・・・
李存勗と耶律阿保機がガチで戦ってたら・・
>>827 謙信(笑)ごときに天下取れるわけないじゃんw
912 :
世界@名無史さん:2009/03/29(日) 19:27:20 0
「趙」と後周どっちがつよいかな?
913 :
世界@名無史さん:2009/03/30(月) 10:00:12 0
ここって遼語るのもOK?
914 :
世界@名無史さん:2009/03/30(月) 10:05:05 0
OK。この時代の重要なメンバーです。
耶律阿保機は後梁とも誼を通じてたんだよな
同じ時代を耶律阿保機、李克用・存勗、朱全忠の英雄達が生きていたと思うと、
ドキドキするね。
>>912 その「趙」ってのが、いわゆる北宋軍団を中核としているなら
後周なんぞ、ただの残りかすじゃないか。
もっとも、世宗が生きていたら、趙匡胤にどれだけ従うかわからんけどね。
(そもそも趙匡胤に独立する理由がないだろうけど)
でもまぁ、世宗と趙匡胤の対立、となったら、その両方に誼を通じている
符彦卿の「魏」なんてのも、クローズアップされたりしてね。
>>908 おもうに、後唐明宗のときの話かと。
梁国の姫で、先代の王(この場合荘宗?)の妃、ってのはよーわからんが。
先代と今の王とで、継承性がないところをみると、明宗かなと。
末帝の可能性もあるけど、そうなると梁はだいぶ過去の話になるしね。
918 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 20:00:21 0
水滸伝の小旋風柴進は、後周の世宗・柴栄の末裔とされているけど、ホント?
>>918 wikipediaにはそう書いてあります。
920 :
世界@名無史さん:2009/04/25(土) 16:26:36 0
柴進の実在自体あやしいし、柴姓ということだけでのこじつけでは?
岳飛伝でも柴栄の子孫が出てきたな
922 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 12:58:45 0
李克用・存勗とその配下の猛将たち・・・。
今でも見たい気がするね。
李存審とか。
現代にいたら迷惑でしかないって
乱世にいるからこそ活躍できるのに
この時代だと李嗣源が好きだな。
名君&名将だし、ただ残念なことは息子の出来がよくないとこかな
>>918 柴進自体は架空の人物でしょ。
柴氏の末裔は、房州にて居を与えられ、貴族待遇の暮らしをし
たまに京師に入朝して挨拶するくらいだったみたい。
北宋では、そういう柴氏を保護したことが、やはり異例で
親しみがもてたんでしょうかね。
岳飛伝に出てくるのは、貴族のぼんぼんとしての柴氏の末裔でしたっけね。
927 :
世界@名無史さん:2009/07/09(木) 01:22:11 0
柴宗訓に息子っていたっけ?
どうなんだろ。柴宗訓は若死にしちゃったしね。
929 :
世界@名無史さん:2009/07/09(木) 08:32:31 0
柴栄の次男や三男がいたってことは?
柴栄の最初の奥さんである、劉氏は、たぶん20代なかばで死んでいる。
それは、後漢隠帝が郭威を恐れて、その家族(開封に在住)を皆殺しにした
巻き添え。当然、まだ赤子だった柴栄の子も。
次の符氏(符皇后・姉)も、26才で死去。こっちは病死。
子供は、一応、当時4歳の柴宗訓だけだったはず。
最後は符皇后・妹だけど、こっちは柴栄が死にかけたとき、皇后に迎えたから
たぶん子供はなかったと思う。
にしては、南宋理宗のあたりまで、房州柴氏の記録はあるんだが、ほんとは
いたのかもしれないな。
柴宗訓は20歳で死んだし…
柴栄の家族もやっぱり隠帝一派に殺されてたのか・・・。
旧五代史の恭帝本紀みたけど、子供のことは書いてないっぽい。
単に自分が見落としてるだけかもしれないけど。
>>931 宗室列伝でみると、実は柴宗訓に兄弟はいたみたいですね。
ほとんど記録ないですが。
曹王・柴宗譲、紀王・柴熙謹、蘄王・柴熙誨。
うち、紀王・柴熙謹だけは、乾徳二年(964)死去が記録されてます。
柴宗訓は開宝六年(973)。
誰の子か? やっぱり符皇后・姉かな
933 :
新五代史周世宗家人伝第八:2009/07/09(木) 21:27:27 0
世宗子七人・・・皆不知其母為誰氏。
煕譲(宗譲)、煕誨、不知其所終。
934 :
世界@名無史さん:2009/07/10(金) 09:46:15 0
この頃南北の皇帝2人が同じように姉妹を相次いで皇后にしてるのか
>>934 むむむ?
柴栄と趙匡義が、姉妹を嫁さんにはしているけど、南北皇帝とはなんのことだい?
936 :
世界@名無史さん:2009/07/29(水) 09:08:28 0
江南後主李Uの皇后、姉:大周后、妹:小周后 だな
>>936 ah.........
こういうのは?
前蜀高祖(王建)の妃で、徐氏姉妹。
妹徐氏は、小徐妃あるいは、花蘂夫人の名で知られている。
太后と太妃だから、王建生存中に皇后とされてないけど。
南漢後主の李氏姉妹もいるけど、こっちは貴妃と美人で、皇后でもなければ
太后にもされてないな。
これでは単なるハーレムか。
938 :
世界@名無史さん:2009/10/11(日) 20:02:52 0
939 :
世界@名無史さん:2009/10/11(日) 20:05:13 0
なお、938は先ほど買ったばかりでまだ読んでいない。
読後感想は2週間後。
期限きって大丈夫かね?w
941 :
世界@名無史さん:2009/10/11(日) 20:36:27 0
では訂正。
→早くて2週間後。
942 :
世界@名無史さん:2009/10/11(日) 20:42:17 0
おっ。出たのか。俺も注文するか
中英は落ちてしまうから、こっちで話題にしようぜ
943 :
世界@名無史さん:2009/10/11(日) 20:53:09 0
本書は二〇〇八年五月、学習研究社より刊行された『夕陽の梨−五代英雄伝』
を改題し、大幅に加筆・修正したものを二分冊にしたものです。
944 :
938−939,941:2009/10/22(木) 20:42:10 0
読み終えた。
@朱温は、もっとワルではないのか?
A簡単すぎる地図が巻頭に一応はある。しかし各エピソードに関わる地図が所々にあればな、と思う。
B年表も欲しい。おれは自製の年表を一緒に持ち歩いていたが。
C「廣明」年号にまつわる黄巣のエピソードが漏れている。
D朱温が皇帝に即位したそのあと、賭場を開いた話が漏れている。
※思うに、ここに至るまで朱温がばくちをやっているシーンが書き忘れたかなんかで全く無く
唐突にここに賭場のシーンを入れるわけにはいかなかったのだろう。
史書だったらここを読んだときそれ以前からばくち打ちだったと類推できるが、
小説ではそうはいかない。
E読んでいて登場人物の相関関係でしばしば混乱する。
登場期間の長い人物はあまり間違わないが、スポット的人物が特に。
久しぶりに登場する人物も同様。
・・・それにしても登場人物の人数も戦いの数もやったら多いなー
三国志演義とはそれが大違い
945 :
世界@名無史さん:2009/10/22(木) 22:37:51 0
稀代の烈女・李漸栄さまを永久に称えよう!
逆賊朱温逝ってよし!!!
>>944 早いっすね。
仁木氏は、シリーズ化するのだろうか。
947 :
世界@名無史さん:2009/10/26(月) 21:44:44 0
シリーズ化するとすれば、
李存勗・李嗣源
石敬瑭・石重貴
耶律徳光・兀欲・述律
柴栄
李昪・李景・李U
・・・世間の認知度がなー・・・
948 :
世界@名無史さん:2009/10/27(火) 02:40:23 O
KOEIでゲーム化をキボンヌ
この時代の知名度が致命的だけどなwww
節度使と禁軍システムを、どう表現するかにかかってるな。
あと、かなり深く読み込まないと、三国志シリーズ以上に
とんでもな能力値付けになってしまいそうで、こわい。
950 :
938-939, 941,944:2009/10/27(火) 08:35:07 0
あ、そうだ、944に追加
F 節度使とは何か、の説明無し
>>950 夕陽の梨パートで、さらっと説明してあるような気がする。
と、言っても節度使そのものというより、その実態みたいなもんだったかな。
我々にとっては、それだけで十分だけど、初見の人は気付きもしなさそうな感じだったw
誤字が多くて萎えた。
(誤)銭傅瓘(せんふかん)
(正)銭傳瓘(せんでんかん)
呉越ファンとしてはこれはないと思った。
呉越ファンとは。
銭弘佐をどう見ます?
954 :
942:2009/11/24(火) 20:56:40 0
1か月以上、経っているが俺も読み終えた
>>944Eに同意
良いところ
・この混沌とした人間も戦争もやたらと多い時代をよくまとめている
三国志よりはるかに戦争が多く、死人も多いため、人物も多い
・クローズアップする人物はクローズアップしている。おかげで、間違いにくい
・複雑な状況をよくここまでと、分かりやすく説明している
残念なところ
・期間的には30年ぐらいなのだろうが、書く分量に比べ、ページがこれでも足りない
もったいないが他の群雄は短く、さらに魅力的にみせる工夫の上で、朱温陣営に絞って欲しかった
・夕陽の梨の朱温とかなり違和感がある。李我と布袋のからみもあれだけ? って感じである
朱温の変化について、暗く救いのないものにせず、それなりの納得する帰結が欲しかった
現実と離れていても、魅力的にしないと感情移入しにくい
・文化的、商業的側面のとらえ方が弱い。経済観念の発達仕掛けた時代なので
そういった面を重視して欲しかった。これでは三国時代となにが変わるのか分からない
色々いったが、近年の中国歴史小説家では群を抜いている
ただ、調子のいい時の田中芳樹氏とどっちが上かは微妙
宮城谷氏には、まだ及ばないという感じ
もし、続編があるのなら、唐末反乱か、地方群雄で短編、中編を重ねるやり方を希望する
955 :
世界@名無史さん:2009/11/25(水) 06:50:51 0
以前「節度使って何?」と聞かれたとき、
「織田信長が各地に派遣した、羽柴、柴田、明智などの奉行のようなもの。
その土地の政治、軍事、税制の全権を行使できるけど、織田信長の思いつき一つで
すぐにほかの土地に異動させられる」
と答えたがこれでよかったのかな?
わかりやすい例としては、かなりいいと思う。
より正確に言えば、「節度使」という職掌の中に行政権が含まれるのではなく
同時に「観察使」を兼任されるのが常だから、徴税などができる。というあたり。
それぞれを分けて任命される例は知らないから、実質節度使の権限の中に
含まれると見ても、そう差し支えないが、制度としてはそう。
中央から派遣される監軍や兵馬都監によって、ある程度掣肘を受けるので
権限を無制限にふるうのは、時代を経るにつれて少なくなっている。
魏州藩鎮の解体からこっち、大鎮が縮小されてゆくのは、相対的な皇帝権力の回復
を目指してのことだから、節度使の権限は往時に比べ、小さくなる。
思いつきというよりも、異動させること自体を目的としている観があるかな……
封地に根が生え依拠してしまわないように、という具合に。
それも順地に限られるけどね。
夏州などは、移転を命じても受け付けない反地で、そこは節度職の世襲が追認させられていた。
(あれはほとんど独立国ですわな)
957 :
世界@名無史さん:2009/11/25(水) 09:50:23 0
江南など南方には観察使だけの任命があったような
958 :
世界@名無史さん:2009/12/08(火) 14:02:20 0
元同僚に「朱温」を薦めたら興味を持って買って読み、
日曜日にやってきて読後感想を語った。
その話を要約すると
「この時代の知識がまるでないので、土地勘はともかく、登場人物がさっぱり解らん。
3回目の読み返し途中であきらめた」
そりゃ読後感想とは言わんw
三国志だって、日本戦国時代オタに読ませると
人名が覚えられんと言ってたもんだ。
>>『朱温』
おもしろくて、俯瞰するにもいいんだが、急いで執筆したのか
校正が不十分なのか、誤字が多かった……
960 :
世界@名無史さん:2009/12/08(火) 19:28:46 0
三国志は中学生の時に岩波文庫を夢中になって読んだので
登場人物は身に染み込んでいる。
しかし五代十国はといえば最初に「五代群雄伝」を読んだのが35歳頃。
それから旧新五代史や通鑑やらを買い集めてちょこちょこと読み続けて
いるのだけど、三国志ほどには身に染みていかない・・・
961 :
世界@名無史さん:2009/12/08(火) 19:37:49 0
三国志読んだのは中学生のときだったが、
主要な人名はなんとか覚えられたが(いまはメジャーどころ以外は忘れた)、
土地勘がないから、どこをどう、どういうスケールで移動してるのか、
サッパリ理解できなかった。
三国志はゲームがあったから、どマイナーな人名まで覚えたけど
たしかに五代の場合、なかなか覚えられないでしょうね。
わたしの場合、せっせと辞書登録したから、結構記憶に残ってる。
>>960 >>35歳頃
いまそこに到達。
五代前期は未だ秘境。
963 :
960:2009/12/08(火) 20:04:49 0
まあ俺は地図と首っ引きで読んだので、土地については
それほどの違和感は感じなかった。
それよりも三国をまとめ上げた晋の武帝が中国史上最大の
英雄であるかのように書かれていてそれを信じていたら、
あとでわかった武帝の実像に大コケしたのが高校生の時。
そして五胡十六国、五代十国という乱世に次第に興味を
持ち始めたけど、その詳しい歴史本がなかなか手に入らなかった
のですな。
今は、五代関連も結構充実していて、随分よくなりましたね。
知名度はあいかわらずですが。
歴史地図と藩鎮年表は手放すことのできない工具書ですね。
965 :
世界@名無史さん:2009/12/09(水) 11:14:21 0
突厥最高
966 :
952:2009/12/12(土) 01:53:26 0
>>953 銭弘佐は在位中の福州獲得で高評価を得たのでしょうけれど、
陣頭に立ったわけではないですし、
弟の弘倧が重臣の粛清を試みて失敗しているところからして、
彼の在位中も重臣の発言力は高かったと思われ、
彼自身の真価はもうちょい存命してくれないとわからなかったのでは。
>>959 固有名詞は一般人の校正専門家の手に負えないわけで、
基本的には作者自身ががんばるしかなかったと思うんですよね。
>>963 昔は(今もそうだが)手に入りやすい「五代十国本」って
中公文庫の礪波護『馮道』しかないですしね(まだ在庫ある?)。
村松暎氏の『五代群雄伝』もとっとと文庫化して欲しいものです。
『朱温』って読んでないけどクライマックスはやっぱり
「此の輩、常に自ら清流と謂う、宜しく之を黄河に投じて濁流と為さしむべし」
の行になるんでしょうか。カワイソス(´・ω・)
>>966 つらつらと見てたら銭弘佐の代になって、丞相の位だった人ら
皮光業、曹仲達、林鼎などが相次いで死んでいますね。
古株の死がどのように影響したかは、まだ勉強中。
んで、それと代わって驕慢になった、禁衛軍のお歴々を誅している。
(禁軍の驕慢は五代ではお約束)
くわしくは不明ながら、その翌年には福州の乱があり、王としての発言力はわりと
ある(ほとんどが介入に反対。水丘昭券だけが賛成し決定)みたいなので
先の粛清で、若年ながら立場の強化には、ある程度成果をみたように思う。
この頃の南唐のクソさにも助けられ、福州を得た後は銭弘倧を丞相にするなど
その王権の強化には成功しつつあったようですが、やはり寿命の短さがあって
その後どうなったかは、わからんところではありますね。
ただその王権といっても、あくまで中原王朝の冊封国としての立場であって
後晋国なりの威名(後晋にあるんか?w)を最大限に利用してのことでしょうが。
969 :
世界@名無史さん:2009/12/15(火) 06:02:06 0
>>967 それほど盛り上がってはいない。淡々とほかと同じ調子で一つのエピソードとして書かれている感じ。
970 :
世界@名無史さん:2009/12/27(日) 00:54:00 0
李我と布袋は結局なんだったんだろう?
妻の張氏もあれだけ?
張存敬もよく分からない
小説面白いんだけど
詰め込みすぎ
できれば、もっと朱温にスポット絞ってほしかった。
しょうがないといえばしょうがないけど、途中から
李克用陣営に肩入れして読んでしまったw
朱温が主人公なんだけど
他の群雄にもスポットとあててるから
どうしても主役が薄くなったしまった気が
たしかに。
あの時期を軍記小説として、各陣営を書ききろうと思ったら
10巻くらいの長編でないとダメかもね。
974 :
世界@名無史さん:2010/01/02(土) 16:29:02 0
即位式典直後、賭場を開帳したエピソードが全く書かれなかった件についてはどう思う?
今回、そういうキャラではなかったから
というのでは?
突然、そこに脈絡なくエピソードを放り込めばいいってもんでもないし
全体の流れとか、空気とかそういうので省いたんじゃないかな
976 :
世界@名無史さん:2010/01/02(土) 21:56:58 0
942だが、残念ながら、万人に勧められる小説ではないな
2ちゃんでいう、史実重視派が小説の勉強をして、書いたという範囲を超えない(その範囲内で最大限に面白いが)
「夕陽の梨」で救いのない終わりを見せ、そのままいってしまったというのは小説としてどうか
若い頃の朱温を世話した李我と布袋があの状態の朱温に、なんの手も打たなかったのはあまり納得できない
張存敬のゾロアスター教徒設定も中途半端だったし
977 :
世界@名無史さん:2010/01/02(土) 22:33:18 0
>>974-975 944で書いてるように、単にそれ以前からばくちをやってるというのを
そこに至るまでのストーリーに入れ損なったんじゃないのか
978 :
世界@名無史さん:2010/01/06(水) 13:32:25 0
初心者でも楽しめる五代十国入門書があったら推薦してください
979 :
世界@名無史さん:2010/01/06(水) 19:50:49 0
中公文庫、世界の歴史第4巻「唐とインド」、第6巻「宋と元」
小説風に読みたいなら、「馮道 乱世の宰相」の一択でしょ。
981 :
世界@名無史さん:2010/01/16(土) 22:16:24 0
李克用のあだ名「独眼竜」は自称だったのかな?
基本的に他称だと思う。
《舊五代史》武皇紀上「武皇一目微眇,故其時號爲“獨眼龍”」
また、《五代史補》『太祖號獨眼龍』では、部族内で驍勇あり、騎射をよくし
向かう所敵なしなところから「時謂之『獨眼龍』」とある。
もしかしたら軽く自称してたのが、その風貌と勇猛にあいまって広まったの
かもしらんけど。