■■■五代群雄伝■■■

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485名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 22:15:46.92 ID:rUiHTY3h0
そういえば、呉だけでなく蜀や南漢も917年前後に政権の自立性を強めていて、
これは唐の建国からちょうど三百年が過ぎたことで
天命の移行が明確になったと見なされたためという説があるらしい。
486名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 22:32:58.02 ID:DjbZr4Y00
>>三国魏の司馬氏みたいだ。

まったくw
でも、呉書高祖本紀で楊隆演が死に際、大丞相徐温と交わした言葉は。
楊隆演「昔に聞く。蜀先主が武侯(諸葛亮)に言ったそうだ。『嗣子不才ならば君が取って代われ』と」
徐温「とんでもないこと。(中略)もし楊氏に男児なくば女子をもってたて、妄言をなす者は斬って捨てます」
はぁそうですかとしか。

徐温あるいは養子徐知誥は禁軍を握っていたことで、中原の郭威、柴栄の先を取っていて、開国したのちの
政権存立基盤はきわめて強固な君主権が確立しており、権勢家であった宋斉丘などでも、固有の権力基盤
たとえば武力とかはなく、あくまで皇帝の寵によっての権勢だった。
徐知誥=李昪はともかく、李m、李Uがあれだから南唐は軟弱な印象だけど。
487名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 22:41:27.59 ID:DjbZr4Y00
>>485
たしかに、蜀の改元、永平(915年)→通正(916年)→天漢(917年)は変えすぎな気もするね。
そういう象徴にあわせたならわかる気もする。918年には王建が死んで代替わりしている徹底ぶり・・・
は関係ないか。
ついでにいえば、契丹が916年に建国している。
488名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 22:59:08.52 ID:lmwGJY/D0
>>487
あんまり、よその国の事は……
489名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 23:07:25.90 ID:M4oxwgJXO
>>484
なんと…
ヤタガラスの親戚みたいですね。
地名由来でない国名はこの時代は珍しい気がします。
490名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 23:14:12.53 ID:xZrEP5+p0
いやーでも、外国とはいえ契丹は五代十国と絡みまくってるし。
ついでにいえば雲南の長和も、朝鮮の後三国も、桃井至朗先生曰く「五代十一国」の一角を為す安南も絡みまくるけどw

あまり話題が転々とするとあれだけど、契丹も歴史的な節目ははっきり意識していたと思う。
第一次建国が唐滅亡と同年、第二次建国が唐成立からほぼ三百年経過時点ってのは偶然にしてはタイミング良すぎる。
491名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 23:19:00.86 ID:xZrEP5+p0
>>489
時代と場所が近い例だと雲南の大長和国、大天興国、大義寧国……

中華圏外になるけど。
地理的に中華圏内とはいえ羅平だのビンだの南漢だのもエキゾチックな国ではあるし、
どうも中華の輪郭がどこにあるのか、よくわからなくなる時代ですな。
492名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 23:41:02.22 ID:M4oxwgJXO
>>490
それを言うなら、
平将門や藤原純友もそういうことは意識してたと思います
493名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 23:50:03.75 ID:2btLgfvX0
真面目な話、唐の崩壊、南詔の崩壊、新羅の崩壊、日本の律令国家体制解体は全部連動してるんよね。
大唐世界帝国の覇権が消滅した後に日本や朝鮮やベトナムが自立した地域国家として確立していくのと、
華南に地域単位の国家群が成立するのも、多分同質の事象。
後者は再び統一王朝に回収されてしまったけど、
十国の領域が現在の省の範囲の原型になっている部分もあったり。
将門や純友もまさに五代十国の群雄と同じ時代の空気を吸っている人間だと思う。

さすがにスレチなので、これはここまでにしとこうw
494名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 23:53:00.98 ID:DjbZr4Y00
契丹は「外国」というより北朝という印象かな。
一応、中国では戎だの虜だのと区別したがっているけど。
契丹の中国への絡み方は、間違いなく争覇勢力の一角でしょ。

地域由来でない国名はたしかに珍しい。
国内ではやはり以前にあった国号が用いられることがスタンダードなのかな。
たいていは存立地域とか王号によるけど、閩の富沙王・延政の「殷」呼号はなにゆえだろうか。
それと先祖に遡っているが、郭威の「周」は地域や王号に由来などしていない。
もともと王冊封はなく、郭威の職掌は、枢密使、侍中、天雄軍節度使でのち監国。
後漢側の記録では郭威の軍は「魏軍」と書かれているんだが。
資治通鑑をつらっと見るに、周王になっているのは後漢隠帝の劉承祐だけ?
元周王を打倒して周を建国かぁ。
495名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 00:00:59.88 ID:MnQHGUiB0
>>493
いや、杉山正明先生も指摘しているとおり、東アジアにおける連鎖崩壊はこの時期の特徴。
これははっきりいってスレチでもなんでもなく、この時代をみるには必要な背景だと思う。
その国の内情とかにまで話が及ぶと、さすがに手は届きませんが。

>>十国の領域が現在の省の範囲の原型
そうか。
これは節度領域によると思っていたけど、もともと十国の存立基盤が○○節度だから当たり前か。
496名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 08:12:37.01 ID:q62BOR300
>>493
とくに藤原純友なんか、呉越あたりと何らかの繋がりがあっても何も不思議じゃないな。
後百済がポシャったのを見て、海上覇権確立ための次のターゲットとして裏から介入してたかも。
明示的な史料はまず出てくるまいけど。

>>494
たしかに王延政の殷はどこから出てきたのやら完全に不明だ。
そもそも歴史上、殷という国号を採用した政権自体がレアだし。どういう意図なんだろうな。
497名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 08:57:00.85 ID:MnQHGUiB0
>>496
「殷」をそのまま国号にしてないけど、宋の内容は殷に順じているね。
こちらは、宋州が殷の故地だったことと、周より古いから正統、みたいな
こじつけでの命名。
ついでに親父の名が弘殷だから、殷を諱にして商としたというけど、諱があって
国号を殷にできなかったから宋にしたんだろうか。
498名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 09:31:10.19 ID:SZo12tD6O
将門は反乱を正当化するために、
渤海が契丹に滅ぼされた例を挙げてましたね。
499名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 18:38:54.55 ID:SZo12tD6O
>>494
確かに春秋時代の国号を引き継いでいるとはいえ、
意味はかなり違うかなと。
同じ「呉」「晋」「燕」でも、春秋時代には完全には特定の地名にはなりきっておらず
政治集団名の色彩が強いのでは。
500名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 19:55:05.54 ID:03HZBa/P0
>>494
山崎覚士先生は「五代十国史と契丹」という最近の論文で、「短期間とはいえ契丹は中原王朝として成立し、国際的承認を受けたのだから
五代十国はむしろ六代数国史と称するべき」と書かれていますね。
なお「数国」になるのは、南方諸政権のどこまでを独立国家と認められるかに客観的な基準を設定し得ないため。

ちなみに栗原益男先生は後唐も荘宗以前と明宗以後で別国家と見なし、「七代十国」と言われたそうです。
501名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 20:07:09.23 ID:MnQHGUiB0
>>500
五代十六国とか冗談で言ったことはありますが、七代ですかw
荘宗と明宗の断絶を言うなら、末帝もそうじゃないかと思うんで八代ですね。

周辺政権は岐や燕はもちろん、北平と趙、湖南軍閥、殷と清源軍、霊武に夏州となれば結構点在していくわけですね。
その中で霊武と夏州あたりは、世襲的軍閥政権なので、本当に数えてもいいんでないかと思うんですよね。
502名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 20:25:01.40 ID:OP5hb2TR0
その伝でいけば、朱温も認めた静海軍節度使こと安南の曲承美(きょくしょうび、ではなく、あえてベトナム語のクック・トゥア・ミィw)なんぞも、
間違いなく諸国の一角w
503名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 20:38:37.77 ID:I1YpFPwf0
なぜベトナムは中国の一部にならなかったのか?
「大越国ができるまではベトナムは中国色は薄かった」とも聞くが、
上流階級はともかく庶民は中国本土でもい民族色が強かったと思うんです。
504名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 20:57:42.62 ID:M2GU7+kJ0
たまたまそうなった





の一言がすべてなのかも。
実際、宋は北漢平定の翌年にベトナム(と後に呼ばれる地域)に遠征軍を送ってる。
そして大敗して結局断念した。

この時期のベトナムは燕雲や西夏と並ぶ「未回収の中華」なんだとおもう。

百年後には「南国には南国の天帝がいる」と叫ぶぐらい民族意識が固まっているんだけど。
505名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:09:36.96 ID:I1YpFPwf0
逆にいえば、ビンや南漢も中華外の国家になる可能性はあったということになりますね。
王は中華から来た人間ですが、
それは大越の李氏や陳氏も同じですし。
506名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:13:05.12 ID:DCe6knzz0
もうちょっと詰めて考えると、ひとつには南漢と安南が別の政権だったことかなあ。
過去の諸王朝が統一戦争のなかで嶺南に兵を進める場合、基本的には広州を落とせばハノイも勝手に降伏するわけで。
今回は広州を落とした後にさらにハノイまで再度遠征……となるとコストに見あわないと判断したんじゃないかな。

もうひとつは、この頃海南島の東から直接南海に乗り出す航路が開発されて、
あえてトンキン湾に避難港を確保する必要性が低下したらしい。
開放的な南詔が鎖国的な大理に代わったことで雲南からハノイに出てくる交易ルートの収益も落ちただろうし。
507名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:18:27.87 ID:MnQHGUiB0
周辺国が中華に並ぶほどの地力を持ち出したということかな。
中華最大の経済発展は、実は東アジアでの覇権の落日だった。
508名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:21:23.18 ID:jGoPOsWl0
>>505
南漢の宮廷にはペルシア人の王妃までいたらしいし、そうなったら面白いね。
とはいえ統一戦争に乗り出した北の政権はなんとしても南シナ海を目指すだろうけど。
509名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:23:12.27 ID:MnQHGUiB0
結局実現はしなかったけど、閩は海岸線を淮南以外に持たない南唐にとっては
咽喉から手が出るほど欲しいところなので、これはそのまま中華の外のままにはならなかったでしょう。
江南開発とともに福州泉州の発展は切り離せないだろうからなんだけど、結局南宋の発展が
そこを基軸にしているので、そう思うだけかも。
510名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:32:19.79 ID:I1YpFPwf0
当時のビンや南漢の庶民の言葉が
ベトナム語のように、中国語と全く違う言語だったとしても
私は別に驚かない。
511名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:33:10.33 ID:MnQHGUiB0
>>508
南漢書に「波斯女」とあるそれね。
名前がわからなく、「性善淫」とあって賜った名前が「媚豬」。音読みすると卑猥・・・
512名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:33:11.86 ID:1J7yeCYq0
>>509
淮南の海岸は遠浅で港を作れないし…

ビンは場所の割に政権の視野が内向きなのが惜しい。
福州はともかく、泉州が交易都市として発展し始めるのは留従効の統治期からじゃないかな。
513名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:35:15.93 ID:1J7yeCYq0
>>510
つ 福建語

つ 広東語


現代ですら普通話よりベトナム語のほうがなんぼか近縁かもw
514名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:43:58.55 ID:I1YpFPwf0
そういえば、ビンや南越の地に漢民族が大量に流入したのは
この時代でしたね。
515名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:46:49.61 ID:D6/iXn8I0
客家の家伝の系譜を調べると、王潮・王審知兄弟と一緒に来た設定がけっこう多いらしいね。
516名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 23:31:22.75 ID:MnQHGUiB0
そういえば、?の臣に陳霸先なる人物がいますな。
先鋒武将で戦えば勝つような人で忠義勇敢と称されるものの、賊を追って馬が倒れた拍子に死んでしまったとか。
517名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/08(金) 18:07:10.13 ID:W6SR9+eQ0
>>497
高校の世界史で「五代は新しくなるほど名前が古くなる」と習いましたけど、
その流れは実は宋まで続いていたんですね。

>>516
なんとも聞き覚えのある名前ですねww
何を思ってこの名前にしたんでしょうかね。
518名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/09(土) 01:13:43.72 ID:57OJpygZ0
>>517
へぇ、今や高校でそれを教えてもらえるのか。
自分は小島毅著書の中国思想と宗教の奔流で知ったクチなんだけど。
519名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/09(土) 18:23:11.55 ID:5qJONsK40
>>511
南漢王朝がムスリムだったって可能性はないのかな
520名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/09(土) 20:27:23.14 ID:ygFp0jMT0
>>495
10世紀初頭の日本の動きはむしろ律令制の日本化の一環で、唐崩壊の変革が及んだのは200年後と言う説もある。
521名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/14(木) 23:55:06.68 ID:8lX3iHQYO
この時代を横山三国志
みたいなノリで楽しめる
漫画は無いのかな?
522名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/16(土) 03:12:42.67 ID:GhaXgiPZO
>>520
将門が契丹を意識したのが唯一の影響ってことか
523名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/16(土) 06:34:31.20 ID:U2OMgqJz0
いや、その後の武家政権って実は唐崩壊のいわゆる門閥、官僚貴族制崩壊から替わって軍閥資本家の台頭
尚武の社会、武人政治のあたりが濃く影響として波及したんじゃないだろうか。
ただ中国では形勢戸、官僚資本家が進出して、武人社会は独裁君主制の確立とともに終わったけど、日本は
国の特色のように続いていったという感じで。
524名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/16(土) 11:21:29.31 ID:GhaXgiPZO
>>523
すると、
・何故鎌倉幕府は武人色が強いままだったのか?
・何故京都朝廷は科挙を取り入れて、新しい人材を入れず、
影響力を失ったのか?
525名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/16(土) 21:10:57.47 ID:U2OMgqJz0
日本史はこれ以上知らんw
526名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/18(月) 10:37:09.01 ID:QiXWp7KPO
河北、山西もソグドやらトルコやら
相当に異民族色強いよね。
527名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/18(月) 19:39:49.89 ID:LF1EvjZ00
実は第二の五胡十六国時代だけど、唐宋変革が目立ちすぎてあまり話題にされないという
528名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/18(月) 20:08:40.11 ID:QiXWp7KPO
>>527
そういえば漢民族の南下も共通してますね
529名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/15(金) 01:55:24.43 ID:yq7IRSNFO
>>507
大理とか
530名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/26(火) 22:55:56.14 ID:icHBG1hJ0
>>516
陳霸先ってwかなりの中国史ヲタでももう一人いるとはw

>>527
節度使が独立王国化したとばっかとらえてたけど、よく考えてみれば李克用とか
石敬瑭とか劉知遠とかあと契丹が攻め込んでくるとかって考えると五胡十六国時代
似ているという指摘があながち外れていないことに改めて驚かされた...なるほど...
531名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/29(金) 11:09:04.46 ID:yUsWlUE60
>>530
契丹の開封政権が長期化していれば、第二の北魏なんだけど、そこまではね。
しかしその一連の、遊牧民族系が中原を目指す流れが、征服王朝時代なんだけど
考えてみれば、魏晋以降、征服されっぱなしなんだなー。
532名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/30(土) 09:50:48.05 ID:kpEx40xKO
>>531
エジプトよりましじゃね
533名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/30(土) 18:59:36.66 ID:b9qb2+MA0
エジプトの話は知らんししとらんw
534名無しさん@お腹いっぱい。
呉の劉信って面白いな
自分を韓信に例えて荘宗に弓比べを挑むとか