【六朝】魏晋南北朝【五胡十六国】

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名無しさん@お腹いっぱい。
楊大眼とか
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:05:26 ID:uUg77X+p0
初2GET チン軽視 南梁だっけ?
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:06:13 ID:EA2GaG9NO
元凶劉劭だろ
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:09:23 ID:DC7KYpmR0
この時代の君主はドキュソだらけだね。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:17:29 ID:8s3jzaOwO
符堅から「我が孔明よ」と称された王猛についてでも語りましょうか
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 00:52:41 ID:lpiKgEbc0
じゃあ孫の王鎮悪でも語るか
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 01:08:14 ID:7+WmGzwkO
王鎮悪って劉裕に粛清されたの?
8名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 02:38:41 ID:x+cYMTmh0
石勒萌エス
9名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 08:07:42 ID:S8xzPmO6O
劉娥のエピソードが好き
10名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 08:51:35 ID:D86RmBWy0
簒奪だらけ
11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 09:16:15 ID:ldm+WpPM0
酒乱皇帝
12名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 10:03:26 ID:MlMU1vxQ0
宇宙大将軍
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:29:37 ID:TPoYUCry0
この時代のドキュソ順位をつけるのはどう

1位石虎
2位赫連勃勃

3位がむずいな・・・
冉閔
苻生
侯景
とか
14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:37:17 ID:2mLn6hUTO
元凶とかもかなりドキュソ
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:48:20 ID:9d5zg0uzO
DQNが多過ぎて迷ってしまうなw
個人的には石虎とかかなぁ
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 00:59:38 ID:C4QxV7qz0
>>13
その辺りは個別スレ立てても伸びそうだな
17無名武将@お腹せっぷく:2006/10/26(木) 07:03:38 ID:OwyiWh580
国を誤らせたDQNなら、俺は断然王衍を推す。
こいつの人生は、孔融とかデイコウに権力を持たせたらどうなるか、
という仮定に対する回答みたいなもんじゃないか?
しかし晋書の王衍伝、最後は石勒が王衍の威厳(笑)にビビッたかの
如く書いてるけど、絶対にありえんと思う…。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 12:04:05 ID:9d5zg0uzO
王衍はDQNとはちょっと違うような
正直生まれた時代が悪かった
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 16:37:33 ID:V3dQq19u0
乱世に老荘思想は不適格だと証明してくれただけでも功績と言っていいのでは?>王衍
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 20:28:14 ID:9zkI2xpN0
DQNなら、南斉の明帝はどうだろう。
いくら高帝・武帝系皇族の再簒奪を恐れたとはいえ、一族28名を
殺し尽くすのは…。
しかも殺害前に香を焚いて、殺害後に哭泣する態度、自分のような
凡人には、ちと理解できかねる。
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 21:03:03 ID:2mLn6hUTO
あいつも大変だったんだよ
22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 03:04:11 ID:GOhR1eMxO
劉宋の文帝は、前の皇帝である兄を廃して自分を皇帝に擁立してくれた
傅亮や徐羨之等を即位後に前帝を弑殺した謀反人として処刑している
名君とは言われているがなんかやる事が汚い
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 20:31:02 ID:U5/Kmpxz0
>>22
と言っても、傅亮・徐羨之は打算抜きで擁立してくれたわけじゃないぞ。
長男の少帝と次男の劉義真(後秦滅亡後、長安留守になったあの人物)を
同時に殺した上で、三男の文帝を迎え入れている。
帝位につけた理由は、十中八九「劉義隆は病弱で操りやすい」という点と
思われるが。正直、「喰わなければ喰われる」危機感を常に抱いていたんじゃ
ないか?

皇親にしても、武名の高かった劉道規は東晋時代に死去していて、劉裕の
弟たちには側近に睨みをきかせられる人材がいなかったし。文帝の弟たちも
まだ未成年ばかりで、頼れない状況だったことも考慮に入れるべきでは。

ちなみに、檀道済が殺された元嘉13年は、文帝の病が重篤になったため、
正月の宴が取りやめになっていたりする。檀道済を謝晦たちから遅れて
処刑したのは、個人的にはこれがきっかけだと思う。
兄二人を殺した過去を持つ、武力を持った将軍の存在に加えて、いつ死ぬかも
わからない不安が、今のうちに粛清してしまえ、という行為に走らせたのでは
ないかと。
勿論、文帝が荊州刺史時代から抱えたブレーンたち(王曇華ら)の意向・謀略も
考える必要はあるだろうけど。
個人的には、文帝を悪人と断罪するのは待った方がいい気がする。

少なくとも、田中●樹の説には賛同しがたい。「悲劇の名将」というものを
あまりに強調しすぎ。
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 20:36:47 ID:NbqxvkQw0
まぁ、説というか。
あれは物語ですから…
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:27:14 ID:RUo4VJ6YO
諒闇中に生まれたので誕生を隠された元凶劉劭
それがグレた原因か
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 14:31:50 ID:iPA4/w9T0
このスレカバーする範囲が広すぎゃしないかな
五胡十六国スレ立てようと思って検索したらここが出てきたんだけど
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 15:10:31 ID:Pki4I+tpO
細分化しすぎて過疎化するよりかはいいんじゃない?
あんまりこの時代に詳しい人多いとも思えないし。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 15:23:21 ID:iPA4/w9T0
そうかじゃとりあえず行こうか
ちなみに当方は晋も南北朝も知識ゼロだが

五胡では慕容氏の燕は好き、特に慕容垂
この人前燕の王族、亡命→前秦の将軍として活躍、自立後燕の皇帝に
→死の直前北魏の都平城を陥とす

波乱万丈、かつ比較的平穏な終末
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 20:52:37 ID:DnZX95si0
慕容垂は( ・∀・)イイ!!

苻堅が落魄れた後も義理を果たすし
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 09:22:53 ID:TK0bk0yB0
昔慕容評に追われたとき、符堅は自分を受け入れた
王猛が殺すようにとすすめたときも聞かず、国士として優遇してくれた

と符堅に兵を預け、自分は関東に去っちゃうんだよね
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 09:24:51 ID:TK0bk0yB0
念のため訂正 符→

>>29の苻堅が正解です
32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 14:30:41 ID:V8MlL4X+0
符堅の異民族優遇が最後に少し実ったな
33名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 11:29:42 ID:UIGVVcQy0
宇宙大将軍>>>>>>>>>>劉邦>>>劉秀≧石勒>慕容垂>曹操
34名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 20:57:46 ID:h5bW/J+GO
宇宙大将軍てかなり名前負けしてないか?
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 21:40:25 ID:HO93/cRe0
だがそれがいい
36名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 18:51:16 ID:nvCMyqh/0
この時代は、おれの脳内ではリアル北斗の拳のイメージ
モヒカンの異民族がひゃーほー言いながら襲ってくる
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 18:57:58 ID:xqfmvLdI0
ああ… つまり正義は漢民族にあり、と?
38名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 21:34:09 ID:2oZUK+PUO
むしろこの時代は異民族の方が名君は多いけどね。
逆に漢族の中にもとんでもないDQNが結構いるし。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 21:46:53 ID:lAfGE0Lr0
冉閔「それはもしかして俺のことを言っているのか?」
赫連勃勃「お前ほどひどいやつはそんなにいねーぞ」
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 23:08:12 ID:BcUz2vZIO
劉劭「とんでもないDQNて誰のことだ?」
海昏侯「さあねえ」
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 23:12:04 ID:f2vbax0V0
石虎「やっぱりさ、みんな仏教に帰依しないからDQNになるんだよな」
42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 23:57:24 ID:xTmDXjEy0
蕭衍「禿同」
43名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 00:02:58 ID:+vCx6OGNO
侯景「みんなスケールが小せえなあ」
44名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 00:32:20 ID:fmZBJKKP0
google earthで離石みたら、かなり狭いように見えるんだが、ここら辺で匈奴は遊牧してたの?
平陽って、本にある地図とかで見ると、太原と川でつながってて簡単に往来できるのかと思ったら、
けっこう難しいのか?
そんなこと思いながらwikipedia見てたら、劉淵が酷いことになってるorz
45名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 01:19:02 ID:PTbZbVdu0
高緯「斛律光も蘭陵王も粛清したし、これで俺様の帝位も安泰だなwww」
46名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 01:39:45 ID:/VVdyG/e0
北周が好き…
47名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 05:39:06 ID:aI9yu7ny0
>>45
宇文ヨウ「正直すまんかった」
48名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 18:45:14 ID:Qhlb+7Xr0
>>34

あれだけ好き勝手に暴れ回ったんだから名前負けはしてないでしょ。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 19:02:57 ID:kSs4jVBi0
>>48
じゃあ、暴れん坊将軍の方がよくね?
50名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 23:24:53 ID:LjfZyg790


東晋十六国と南北朝って、かなり雰囲気が違う気もするが
51名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 23:32:20 ID:rRQd8kp10
西秦萌え
52名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 20:19:50 ID:ruJodMrm0
柴栄萌え
53名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 20:20:29 ID:ruJodMrm0
ごめん。誤爆した
54名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 11:56:49 ID:OvO7Yigo0
慕容[皇光]の子は傑物ぞろいだね
儁は問題も多いけど後趙を滅ぼしているし
恪と垂は言うまでもないし
徳も戦は滅法強かった

評と[皇光]の孫たちが問題なんだよね
55名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 12:39:50 ID:ATRpdHDG0
表がほしい。
国を並べたやつ
各国の即位と官職のやつ
主要人物の子孫のやつ
56名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 22:26:47 ID:9KGgNSph0
>>55 

51 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/12 09:05:38
>>26
こんな家系図は見たことあるよ。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03009.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03008.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03010.htm
57名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 11:24:53 ID:Ki586nPRO
魏晋南北朝と六朝は同じ意味と考えていいの?
58名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 11:41:24 ID:0DIPoqbK0
宇宙大将軍のの宇宙って現在の宇宙とは別の意味があったんでない?
59名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 12:23:26 ID:/m0nm0ym0
六朝は呉をはじめに、東晋、劉宋、斉、梁、陳の建業を首都にした南朝の総意で使われることが多い
宇宙大将軍の宇宙は仏教用語(まあ、我らもスペースの意味で使ってる宇宙も、そこから来たんだが)
60名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 12:27:05 ID:0DIPoqbK0
じゃあ意味は一緒か。
何考えてこんなの名乗ったんだ候景ってやつは。
61名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 12:54:30 ID:VkspE8bv0
>>60
>>59を誤読してないか?
この場合、宇は空間の広がり、宙は時間の広がりをそれぞれ意味する。
つまり全ての場所全ての時間を通じての大将軍であるぞという、ある意味時間には区切られる皇帝よりも凄まじい主張をしてるんだ。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 12:57:08 ID:0DIPoqbK0
ゴメン勘違いしていた。
63名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 16:31:14 ID:/8noufaf0
コロコロ政権がかわってるけど国力そのものは三国や漢より
だいぶ落ちてるよね?
何か大事業やった政権ってあった?
64名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 16:33:20 ID:/m0nm0ym0
つ 梁

国力が落ちたのは北だけ(幾つも分裂してるし)。軍事力という面では上がってる
南は蝶裕福。文化も絢爛豪華。商人が台頭と
一世紀は先をいってた
65名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 19:41:55 ID:z0L9jrjW0
>>63

文化的事業だと、北魏とかは石窟をいっぱい作ってる(江南でもたくさん寺院建ててたな)
あと、国力に関しては確かに政府そのものの統制力の低下は見受けられるが
民間(と言うか荘園経済)の方は古代と比べ物にならないくらい向上している
江南の方ではクリークの発達が著しい(水稲の生産力向上はもう目前)

洛陽伽藍記とか見ると、華北も結構文化に爛熟しつつあったと思うけどね
そういう仏教文化興隆の嚆矢が石虎……だったような
66名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 21:34:18 ID:fuUi1iovO
東晋以降やたらに名前の最後に「之」がつく人物が増えるけど
これはなんか理由があるのかな?
67名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 21:39:53 ID:OLa9RSJx0
>>66
あくまで一説だけど、この時代の人の名前に「之」がついてるのは
五斗米道の信者だといわれてる。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 22:07:54 ID:fuUi1iovO
>>67
それが本当だとするとかなりの数の五斗米道信者がいたことになるね
69名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 22:37:36 ID:uT7wtS330
>>63
少なくとも三国よりは上じゃないの。
江南の開発も進んだし。
70名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 23:52:10 ID:IfP35ujK0
このころ本格的にインドへの海路が開かれてるよね
71名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 22:28:46 ID:aYuH8mUGO
仏教が本格的に広まり出したのもこの時代
仏教かぶれの皇帝も多数出現
72名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 23:00:10 ID:aa83NeyM0
買い戻された皇帝がいたね。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 03:11:07 ID:li9JnygbO
梁の武帝だったっけ?
74名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 14:30:24 ID:6RsJnbGi0
仏教伝来は漢代だけど盛んになるのは仏図澄の来朝
来た310年は劉淵、劉和、劉聡と洛陽の主が替わってるけど
仏図澄を重用したのは石勒だね
75名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 22:38:43 ID:QrKBCHViO
一兵卒から皇帝にまで上り詰めた劉宋の高祖武帝、劉裕、南斉の太祖高帝、蕭道成
両人とも共通点が多いな。国も同じ様な運命をたどったし・・・
76名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 00:32:56 ID:vLrTMpuKO
子孫達がDQN揃いってとこも似てるな
77名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 04:20:57 ID:s2VU9+rVO
梁とかも武帝蕭衍は正面な皇帝なのだが(後に仏教狂いになるが)子孫達がDQN揃いで結局同じ結末になっちゃうし・・・

>>72は蕭衍だよね?
78名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 19:24:13 ID:S7/lFRUs0
>子孫たちがDQN揃い
せめて正史の帝紀とか皇族の列伝を読んでから語ってくれ。
79名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 20:49:21 ID:s2VU9+rVO
>>77
すみません、史書は読んで書き込みしてますが
>子孫たちがDQN揃いについては 南斉と勘違いしてました。

梁は明君が多いですよね?
80名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 23:02:13 ID:Rc/klTjX0
劉邦>劉秀>劉裕>>>超えられる壁>>>劉淵>劉備
81名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 01:19:02 ID:GZ/7DQ7x0
>>78
親父が都で幽閉されてるのに、
その間ずーっと息子同士で縄張り争いだからなあ。
DQNの含有率が高いのは間違いないんじゃないかい?
まともそうなのは長男と三男くらい。
元帝もどうも名君とは呼びがたいし。
82名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 11:25:34 ID:CBFmcldw0
五胡十六国の幕を開けた意味では劉淵は存在感があると思うが
西晋を滅ぼしたのは劉聡だが
83名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 18:04:19 ID:i+IIY8eG0
紅い毛が3本の劉曜も忘れないで!
84名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 22:28:17 ID:96GHBd/U0
>>80
約裸一貫からの建国者
85名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 22:30:17 ID:8vdoQdhr0
>>84
劉淵はよくは知らんのでなんとも言えないが、劉秀以外みなほぼ裸一貫じゃね?
86名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 02:55:48 ID:ddgWX/w/0
>>85
劉淵の出自は匈奴の単于。かなり恵まれている環境だな。
87名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 07:36:52 ID:pY4Ltlll0
確かに劉淵は出自こそよかったが当時はその匈奴自体に往時の力はないよ
劉淵自体も魏によって五部に分割された匈奴の一部を率いてただけ
しかも晋に人質として送られ警戒されてた
その当時から武帝や王渾などに高く評価されていて
「劉淵を江東に派遣すれば呉を滅ぼすことは容易い」とまで言われていた
彼が大単于に推戴されたのは毛並みのよさもさることながら英主として部族から期待された為だろう
88名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 13:35:04 ID:qmT2Dms50
あの頃の匈奴とか鮮卑ってどんな人種だったんだろうね。
89名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 13:52:22 ID:NYIq79nX0
>>87
劉淵は子供の頃から、春秋左氏伝や孫子、史記などを諳んじた秀才
武芸にも相当秀でていたというから、只者ではない
南匈奴は相当漢化されてた証左だとも思う

王渾以外にも王済などにも呉の平定に推挙されたり、
匈奴である割には晋朝に重用されるものの、やっぱ匈奴の重用はまずいよの声で
帰郷して晋朝と対決するんですよね

成都王司馬穎へ義理立てしたりもしてる
90名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 16:22:59 ID:pY4Ltlll0
でも劉淵自体は大単于・漢王となって以後、ほとんど親征してないよな
もっぱら戦争で活躍したのは劉聡・石勅・王弥といった将軍連だな

劉聡も中国的教養を修め武勇にも優れた人物だな
後年は酒色に溺れて国政乱したのが惜しまれる
陳瞬臣だと思うけどこの頃の非漢民族の君主にこういう失敗が多いのは
酒色のほかに楽しみを知らない文化レベルによるってのを読んで妙に納得したもんだ
漢化すると逆に文弱な傾向に陥りやすいしな
91名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 22:36:50 ID:DjPTCiTM0
時代が違うけど宋代の金王朝とかそうだよね。
言い方は悪いけど、元々は超野蛮人だったのに漢化して
いきなり文弱になるし
92名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 23:00:44 ID:8szXYtSDO
>>87>>89
劉淵の従祖父、劉宣もなかなかの人物だね。
儒者に帥事し「毛詩」「左伝」を学び、晋の武王のとき右部都尉、匈奴の右賢王に任じられ
八王の乱が起こると劉淵を成都王から離石の右国城に召し帰して大単于に奉じ
劉淵が漢王になると丞相、都督中外諸軍事にとして
開国の元勲と特にして尊重されているし。
93名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 11:20:12 ID:yFErvW9y0
劉宣は劉淵が帝位についたのと同月の
永嘉二年(308年)十月に没してるんだね
この時までの劉淵の飛躍は、劉宣の知略に負うところが大きいと自分も思う
94名無しさん@お腹いっぱい :2006/12/01(金) 15:03:06 ID:meTXCuG+0
>>91
同じ女真族の清もそうでしたね。
康熙帝の頃は、ロシアとネルチンスク条約を結んだりと、割と国際的だったのに、
孫の乾隆帝の頃には、中華思想に汚染されて文弱になって、国際的視野が
狭まって、かのアヘン戦争の悲劇へとつながって行くのですから。
95名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 22:54:38 ID:stoH6xBQO
非漢民族が中原の国家に変貌するには漢族の力を借りるしかなかった。
漢化されれば民族の本質を失う、しかし中原国家として政権を維持するためには漢化せざるおえない。
まさにジレンマだな・・・
例えば北魏の太武帝は崔シ告に国記を編集させ石碑に刻みつけた。
それを読んだ鮮卑族拓跋部の人たち自分たちはこんなに野蛮ではないと怒ったし拓跋部の人たちも精神的に漢化していたんだね。

宣武帝は禍根を絶つために皇太子の生母を殺す北魏のしきたりを「忌まわしき風習である」として廃している。
北魏の王室は漢化きわめて進んでいたし、漢の文明に傾倒しただけでなく、王室の血統もほとんど漢化していたようだ。
96名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 06:40:04 ID:+vM3Nuvr0
生母殺しは外戚の力を削ぐ為?
97名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 10:33:40 ID:JH761cSLO
>>96
外戚の力を削ぐ為の先人の知恵だろうな。
鮮卑族は漢王朝が外戚に後漢王朝は外戚と宦官が政治に介入して衰退していったのは知っていたのかは不明たが。
98名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 11:15:14 ID:B7+dd5f2O
オスマン朝で兄弟殺してたようなものか
99名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 14:47:49 ID:JH761cSLO
生母殺しのしきたりは塞外民族に限ったことではなく
漢の武帝も皇太子を立てるとき、その生母鉤弋夫人を殺している。
100名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 18:00:17 ID:VhiZz1lJ0
でも武帝、めっちゃ後悔してたような
101名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 00:18:53 ID:j5wSdJ/3O
太皇太后の竇氏が漢の武帝が即位当初、実権を握っていたのを教訓にしたんだろ?
また魏は親族を疑いすぎ、晋は親族を重要視しすぎた。しかも両方とも裏目な結果に・・・
宋や斉の場合も代が進むと肉親同士骨肉の権力争いになるし
それに対し石勒は漢人士大夫を優遇し律令、官制を整えて一時的ながら華北に安定をもたらした。
しかし石勒の死後以降の後趙は・・・
102名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 03:11:49 ID:YMMrq7tC0
>>101
石勒は奴隷から後趙の王まで成り上がったスーパー逆境人間
103名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 05:06:28 ID:mzCE+CgC0
魏も遠縁の親族は結構重用されてるけどなぁ。
曹休とか曹真とか夏侯尚とか。
次の世代の曹爽がアレだったから、司馬懿にやられちゃったが。
104名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 06:18:02 ID:qU+MdgyJ0
>>103
まあ、皇族っても皇位継承権のない奴らオンリーだけどな
にしてもなんで任城王曹彰には一万戸なんて大封与えたのだろうか
105名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 11:48:56 ID:U8A2p6Bk0
まあ、袁紹・劉表と家督争いでライバル勢力が滅んでいったから
他山の石としたんでないかい
106名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 11:59:49 ID:j5wSdJ/3O
>>102
洛陽で品物を売っている石勒を見た王衍は
「あそこの胡人の子供は只者ではないやがて大成するだろう、放って置けば天下の災いとなる」と捕縛させようとしたがその時すでに姿はなかった。そんな逸話が残っているし、
自らは字が読めなかったが学官に古典や史書を読ませそれをじっくり吟味したり漢族学者と史上の人物を論評したりしてるしな。
また僧の仏図澄を崇拝し教えを聞いたり所謂、耳学問だな。
五代の後梁の太祖朱全忠も人の話を聞くのが好きで古今の歴史に通じていた。
この二人は結構共通点があるし。
石虎は仏教に寛容だっがかなりDQNだしw
107名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 13:22:29 ID:Bx1/rlYW0
劉淵⇒石勒は、信長⇒秀吉に似ている
108名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 14:07:22 ID:j5wSdJ/3O
劉宣は差し詰め秀長てところか?
109名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 19:22:10 ID:jZ7Fj9wq0
>>107
確かに、劉曜なんか柴田勝家まんまだと思う
張賓が竹中半兵衛で、徐光が黒田官兵衛あたりか
凄まじい調略の仕掛け方も、秀吉っぽいぞ>>石勒

殺戮に殺戮を重ねて新たな時代を築こうとしているようにしか見えない暴れっぷりに惚れる
110名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 20:15:53 ID:K3j/CdUKO
>>104
皇位継承に関わる皇族を冷遇・監視するのは漢からの伝統
111名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 23:30:32 ID:j5wSdJ/3O
>>110
それプラス曹丕が曹植たちと兄弟で後継者争いのとき側近による権力闘争があったのが更に皇族を冷遇するのに拍車をかけたのだろうな。
それによりが司馬一族による政権掌握へと繋がっていくことになる。
112名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 05:58:19 ID:8slVRdeh0
>>110
いや、だからそれらを踏まえてなんで曹彰のだけやたら大封与えられてるんだって質問なんだけど
113名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 08:26:13 ID:veQZNMPCO
>>112
1万戸はまだ魏に禅譲される前の侯の時の話だよな
だからそもそも別の話だ

王になってからの方が封邑が減ってるくさい
114名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 11:26:37 ID:8slVRdeh0
>>113
あ、マジで?
親切にありがとう
115名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 17:20:57 ID:v+RcVLt/O
>>112
曹彰は後継者争いには早々と不参加で軍部に人望があり、持って生まれた明るい雰囲気で兄弟間の潤滑剤になっていたみたいだよ。
だから優れた弟たちに後継者の地位を脅かされ心休まる日がない曹丕も曹彰と司馬懿にだけは心を許していたんだって
しかし曹操の死後、曹植と仲がよかったため疎まれたと言われているようだよ。
116名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 04:27:55 ID:pulKAC62O
>>83
劉淵は彼を「劉家の千里駒」と評し、劉聡は「劉邦や曹操に匹敵する」と評した。
長身の偉丈夫で性格は大らかで爽やか、読書好きで文才があり
書道が得意で草書、隷書が上手くあらゆる楽器をこなす風流心もあれば
武芸にも秀で厚さ一寸の鉄板をも貫通する強弓を使いこなし神射と呼ばれた。
318年皇帝に即位し国号を趙に改めて長安に都に置いた。
328年後趙の石勒に攻められた時も泥酔して戦場に立ち氷上に落馬して動けなくなったところを捕虜にされた。
劉煕に降伏勧告書を書くよう命じられた時、彼は「わしのことはかまわず、社稷を維持することにつとめよ」と言い放った。
晩年のマイナス要素はあるが最後の言動は高く評価するに値するだろう。


同じ劉姓でも宋の劉裕のこと熱く語ってくれる人いないですか?
117名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 09:12:48 ID:BLQKLJDX0
劉淵、劉聡、劉曜とこの家は秀才揃いだね
118名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 09:35:12 ID:1cUsr32r0
桓玄の楚は正規の王朝とは認められてないの?
119名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 23:03:19 ID:krCzE6ow0
劉曜は軍事的才能だけで評価すれば、東晋十六国通じて10本の指に入る戦巧者だろうね。
洛陽、長安を攻略して河南方面での漢の勢力拡張に貢献しているし、
石勒陣営の320年代2石虎、3石生を立て続けに撃破、その上冉閔の父親石瞻を討ち取るという
凄まじい寄せを洛陽争奪戦(328年)で見せている。
最終的には石勒との直接対決で敗れてしまうが、従容とした死に様はある種の美しさすら感じさせる。

しかし、娘は12歳で石虎に攫われたっつーのが……orz
120名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 06:35:47 ID:BGuhgo3hO
南朝は三国の呉、東晋、宋、斉、梁、陳
北朝は北魏、南魏、西魏、北斉、北周となってるし
桓温の建てた楚王朝は三ヶ月余りで終っているから
楚を正規の王朝とは認めてないんじゃない?
121名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 12:07:42 ID:EW81cNXQ0
正統の王朝と認められるには、『楚書』を書かないとな。そして正史に列せられなくては。
122名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 17:28:27 ID:l2Y3YhW+0
史記や五代史記みたいに、「世家」としてならあってもよさそうだが。
でもま、三ヶ月じゃあなぁ
123名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 02:13:59 ID:r1unI2VKO
桓玄、桓温親子二代の帝位簒奪に対する執念おそるべし
ちなみに『竹馬の友』とか『断腸』とかの言葉も桓玄と関係深いし。
それと『臭を万年に遺す』も有名だし。
124名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 06:24:44 ID:FEMw5NZl0
>>123
臭を万年に遺すは桓玄らしい台詞だよな
まさに野心家の面目躍如w
125名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 12:00:26 ID:KeJF1hq/0
>>119
酔って戦い石勒に敗れるあたりがまたいい
126名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 21:48:10 ID:r1unI2VKO
>>124
この台詞は野心を燃やして、夜、寝付かれぬまま呟いたんだと言われているんだって。
自分が見出だした謝安にその野心を阻止されたんだから皮肉なものだ。
同じような立場でも王導と王述の場合とは全く正反対だな。
127名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 09:59:35 ID:xEhenA/TO
>>123
桓玄、桓温親子の野望の強さのお陰で宋の劉裕は皇帝になれたようなものだろ?
宋王朝を建てる際、桓温の楚が80日余りでこけたのを劉裕は反面教師にしたりしてるし
ホント歴史っておもしろいな!!
128名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 22:42:40 ID:jAIpQJnD0
劉裕の前に符堅について語るべきだと思うが
129名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 00:15:55 ID:lj5Dgg0+O
>>128
ご指摘はありがとう、確かにそうかも・・・


チベット系テイ族の首長苻洪は後燕の石虎の下に雌伏していたが
息子の苻堅が後趙の滅亡に乗じて長安に拠って自立したのが前秦。
苻健の死後その子の苻生が天王となってたがかなりDQNだったので
従兄弟の苻堅がこれを倒して357年天王の位についた。
しかし、民族的寛容になりすぎ、しかも先を急ぎすぎたことにより苻堅の天下統一の理想は脆くも崩れ去ったんだよな。
130名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 00:49:34 ID:lj5Dgg0+O
>>129の訂正
息子の苻堅 ×
息子の苻健 〇
131名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 06:30:36 ID:lj5Dgg0+O
苻堅は暴君の苻生を倒したとき
異母兄の苻法が天王の座にに就くのを辞退したため即位したんだよな。
でも苻法は素質が苻堅以上で人望もあったから生母の荀氏に殺されてしまう。
尊敬する兄の非業な死に号泣して血の涙を流したというエピソードが。
132名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 10:52:42 ID:hWwcx1Tr0
苻堅といえば王猛
そして二人と慕容垂の係わりが面白い

>>131
慟哭して吐血では
133名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 17:06:49 ID:lj5Dgg0+O
>>132禿同
苻堅は王猛を劉備が孔明を得たのと同じように大切な存在と引き合いにだしてだしてるし、
苻堅がシ肥水で惨敗した時慕容宝が苻堅を殺して自立しようとすすめた際
慕容垂は苻堅には大恩があるからそんなことは出来ない自立、王朝復興は関東ですればいい、苻堅は関西へ帰してやろうと言ったんだよな。
この時代には珍しく仁義あるエピソードですな。

>>131
>慟哭して吐血では
昔、自分の見た書籍には(名前は忘れてしまったが)そう書いていたような記憶が・・・
それにこの手の話は誇張されるのは致し方ないのでは?
134名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 19:30:06 ID:cdbcxlf40
「六朝魏晋」ってことは三國志も含まれるんだな、といらぬ揚げ足を取ってみる。
135名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 22:30:12 ID:JVPcq1TR0
三国志・・・・・確かにそうだ

他でやっとくれ
136名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 00:11:00 ID:5S9FiXtbO
そんな事より苻堅の話題に戻すよ。

苻堅を初めて知ったのが孫子の注釈本。
その中の客、水を絶り来たらんとせば〜半ばシ斉らしめてこれを撃つが利なり。の解説で引用されてたのが
シ肥水の戦いで謝玄が「少し後退してわが軍を渡河させていただけまいか。そのうえで堂々の勝負をしたい。」申し入れたのを承諾。
苻堅は東晋軍が河を渡りかけたところを叩くつもりでいたが秦軍が後退する際、
朱序が「秦軍は負けたぞ」と嘘を叫んで回った為に秦軍は浮き足だってしまい逆に東晋軍に追撃される羽目に
それを読んだ時は87万も率いて8万の東晋軍になにやってんだってこいつというのが苻堅に対する俺の第一印象だった。
その後どんな人物か調べるうちに天下統一の為に結構大規模な構想で持っていたんだなって凄く見なおしたよ。
まあそんな苻堅もこれ以後悲惨な末路を辿るんだよな。王猛の忠告を聞かなかったばかりにorz
137名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 03:03:54 ID:VJpxI2Dj0
もし苻堅のようなお人よしが天下を取ることが出来たらその後の中国史は大きく変わっていたはず。
138名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 03:32:20 ID:aAcxjDs60
来るなら来いウヨども!! 論破してやる!!!

http://money4.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1164636445/l50


来るなら来いウヨども!! 論破してやる!!!

http://money4.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1164636445/l50

来るなら来いウヨども!! 論破してやる!!!

http://money4.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1164636445/l50
来るなら来いウヨども!! 論破してやる!!!

http://money4.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1164636445/l50

来るなら来いウヨども!! 論破してやる!!!

http://money4.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1164636445/l50

来るなら来いウヨども!! 論破してやる!!!

http://money4.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1164636445/l50
139名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 07:13:08 ID:5S9FiXtbO
>>137
王猛の逝去がもっと先で苻堅が民族融和をじっくりと時間を掛けて行って
東晋が楚か宋に簒奪されるまで待てば天下統一も夢ではなかったかも?
140名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 19:44:08 ID:965Y9fR30
符堅は三国志演義の劉備のモデル・・・・のような希ガス
141名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/11(月) 01:56:46 ID:9uj6hOLAO
>>136
苻堅がした行為は所謂、宋襄の仁ってやつだな・・・


それよりいい加減、三国志から離れろ!!
142名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 03:50:13 ID:Z5PAQv2SO
慕容垂って皇帝になった後も70過ぎまで馬上で活躍してたなんて凄杉。
それと死去した時の遺言ってなんか武田信玄みたいだ。
143名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/13(水) 06:47:56 ID:FO7oDoxnO
一兵卒から伸し上がり晋に劉裕ありと言われた宋の武帝は
武功の大きさで言えば中国史上でも相当上位に位置付けられるはずだ!!
144名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/14(木) 06:53:50 ID:uD6c81xyO
劉裕は宋を建てるも三年で死去、文帝は元嘉の治と呼ばれる良政を敷くが少帝とかDOQなのが多いし・・
145名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/14(木) 09:40:21 ID:zKmH8myo0
>>142
七十一歳かな
圧巻は参合陂で、慕容宝と慕容徳が北魏に大敗すると、
なら、と自ら軍を率いて、北魏の都平城を陥しちゃうところ
帰還途中に上谷で没したけどね

垂の人生はドラマになるよね
146名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 23:21:19 ID:XMCVuhiAO
慕容垂の死後、宝が即位するが国力の弱体化は明らかにやっぱり慕容垂がワンマン過ぎたせいかな?
北魏は後燕から広寧、上谷を獲得、山西省を領有、
東方でも常山を獲得するなど勢力を急激に拡大して
華北の勢力分布は大きく変わっていったんだよな。
147名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 10:23:37 ID:wMh1ctW90
参合陂の戦での被害も甚大だったんじゃないかな
垂が一矢報いたけど、大勢は北魏側に流れていたんでしょう
併せて宝と子の会の争いが更に拍車をかけた
148名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 12:57:44 ID:uh+hsJaj0
慕容垂は十六国後期最大の英雄だからなぁ。
あれだけの人間が死ねば、影響はでかすぎるだろうね
149名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 15:05:12 ID:0CAcgwK50
慕容垂没後は内紛で勢力が失なわれていったのに対し
逆に北魏は崔宏ら漢人官僚を重用して内政の充実を図っていたし。
拓跋珪も皇帝に即位してからは
酒に溺れ、不老飲用し家臣らを些細なことで殺害するように・・・
150名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 22:22:15 ID:EYrIUidcO
後燕と北魏は直接、利害関係が生じるまではお互い
連帯して匈奴勢力や西燕と対立していたり、
頻繁に使節の交換を行っていたのにね。
151名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 10:38:39 ID:ui3ADUf40
そこで慕容徳の評価はどうなんだろう?
なかなかの名将で、垂の片腕的な存在
内紛後南燕を建国するわけだけど
152名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 23:09:57 ID:28VXUgzOO
慕容徳は後燕建国後車騎大将軍、笵陽王に復し、侍中、尚書令、司徒を歴任、
慕容宝のもとでは都督六州諸軍事、冀州牧に任じられのちに丞相になるなどかなり有能みたいだし、
南燕、建国後は北魏と東晋に挟まれ苦境にあったが
人材の登用に努め、塩鉄の生産をすすめ戸籍を整え国力の充実を図り富国にするなど、
君主としても有能かと思うな。
惜しいのは二代12年で国が滅んだことかな・・・
153名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/19(火) 00:04:04 ID:vcwecInF0
何だかんだ言って、慕容部最高の傑物は慕容恪だろう
段遼、冉閔を撃破して、桓温、王猛をして前燕侵攻を挫折させる武威の持ち主
(イメージ的には智将の姿が流布しているが、実際は猛将タイプだよなあ)
内紛を回避するため、ひたすら低姿勢を貫き通す思慮深さ
長生きしていたら、王猛や桓温と激突したんだろうか?

石虎の存在ってこの時期の人物達にどれだけ影響与えたんだろ?
慕容儁の石虎に対する憎悪は病気染みているほどだったが
一人の人物の死が、歴史を一気に動かした点では、稀有な人間だよな >>石虎
154名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 06:28:56 ID:Z/8ZCBfJO
>>153
慕容恪は臨機応変な奇策を得意としたし、苻堅も彼をはばかって攻めてこれなかったんだろ。
王猛としてもかなり苦戦しそうだな。
桓温は慕容恪の見込んだ慕容垂に負けてるし結果は同じじゃないかな?


石虎は軍を率いるのに優れ後趙が華北を広く征覇出来たのは彼の力が大きいが傍若無人だしな。
その石虎も死後、自分の子孫38人を冉閔に殺され、
その冉閔も石虎を憎む慕容儁に殺されるとはなんとも皮肉な話じゃない?
155名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 09:22:58 ID:NQYObDJY0
どちらかというと、太子石邃の方が最初傍若無人なんだけどね
石虎はどちらかというと、止める立場だったが

それが石邃、石宣を殺して・・・
156名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 12:47:26 ID:0NOoHGRT0
昨日本屋に行って川勝義雄氏の魏晋南北朝買ったんだけどおもしろいね
諸兄の中で読まれた方この本はどうでした?
157名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 13:40:00 ID:Z/8ZCBfJO
>>155
別に石虎を誰かと比較したかった訳じゃないし…
〇〇と比べたらとか言うのなら、
南斉の六代目宝巻、東昏侯の方が目茶苦茶な人物だってなっちゃうし。
158名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 13:53:07 ID:NQYObDJY0
こちらも比較する気などさらさらないんですがね
ただ、石邃は酒色にふけり、臣下の妻妾を犯し、官女の首を切り・・・その他諸々
石虎の息子だからの部分もあるでしょうが

弟の石宣らが父に寵愛されることを恨み、挙句父をも恨み、
病気見舞いに来た父の使者である、女官を撃ち殺した

それでも親父の石虎は、石邃の側近を殺しただけで、息子を一度は許し、
なおも謝りもしなないので、仕方なく流刑後殺害

このあと石虎がおかしくなって行ったというのが、私の見解
159名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 20:14:39 ID:9v5IzMza0
>>156
ほとんど史料でしかみえない語句なんかを現代的に意訳されてるところが
妙に気になったというか嫌だった
内容自体は悪くないけど、同じとこからでてる古代中国や秦漢帝国の方が
読みやすいしよかったかも
160名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 20:26:53 ID:xuPb1F/a0
>>154
慕容恪→慕容垂の流れで順調に行けば良かったのにね
やはり慕容評が問題だ
こんな奸人を重用した日韋も問題だが
161名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/21(木) 06:52:28 ID:363rSQsaO
石勒が劉邦の幕下で(韓信たちと)功を争いたい
と言ってたのって本当?
まあ石勒は高祖本記とか読んで聞かせて貰ってたし。
162名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/21(木) 14:23:46 ID:tmjadiZl0
>>161
諸臣との雑談で「自分が漢の高祖に出会ったら恐れ入って臣従する」と
言った関連だと思う。
石勒自身は文盲だったけど史書を読んで聞くのが趣味なほどの歴史好き。
163名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/21(木) 22:40:16 ID:363rSQsaO
>>162
へぇ〜そうなんだ。
石勒が劉邦の事に凄く関心を持ってたのは知ってたけど。
勉強家と言えば魏の曹孟徳が有名。
孫子の注釈をしたり、陣中でどんなに忙しい時でも夜に必ず読書していたほどだし。
164名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 00:16:48 ID:YEdYqf4UO
その曹操を取るに足らないと評したのが石勒。
165名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 00:36:37 ID:SC0EkKwt0
魏晋南北朝の5覇を挙げるとしたら?
曹操
劉淵
石勒
符堅
劉裕 って感じ?
166名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 00:48:27 ID:1Jm1WEbW0
符堅
慕容垂
劉裕
蕭衍
宇文泰

実際に帝位についた初代という条件ならこの五名だと思う
つーか三国と十六国の前半・後半と南北朝で時代が隔絶してるだろ
167名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 01:00:22 ID:YEdYqf4UO
宇文泰は曹操と同じように、実質上の建国者ではあるけど帝位には就いてないけどね。
168名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 01:34:56 ID:1Jm1WEbW0
そうだった
先にめぼしいの上げたら多すぎたんで削ったら残ってしまった
高洋とか宇文ヨウとかも覇者といっても問題なさそうだけど
169名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 01:39:36 ID:RShMVg6LO
>>116
劉裕、蕭衍が入るなら蕭道成が入ってもいいのでは?初代で帝位に就いているし。
170名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 02:05:25 ID:1Jm1WEbW0
でも劉裕に比べて武功で劣るだろ>南斉太祖
梁武はその治世においては南朝最盛期な訳だし(最後グダグダだが
171名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 22:14:31 ID:5qIdXbRb0
魏晋南北朝の五覇ねえ

曹操(対抗:劉備、孫権)
石勒(対抗:劉曜)
苻堅(対抗:桓温、慕容垂)
劉裕(対抗:桓玄、赫連勃勃、拓跋珪)
拓跋珪(対抗:慕容垂、赫連勃勃)

個人的には、こうなるな
苻堅に関しては、同時代の桓温、慕容垂も覇者の資格を持ってるから、評価が難しい
宇文泰、高歓の両名は仲良く喧嘩しすぎだ、決定力不足と言うべきか
172名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 22:45:53 ID:WydQLi5f0
慕容垂より石勒の方が覇者と呼ぶにふさわしいと思うんだが。
結局のところ、慕容垂は後秦と華北を分けあって終わったわけで。
帝位につくまでの難易度も、徒手空拳の石勒と前燕の余録があった
慕容垂とでは、かなり違うんじゃないの?

宇文泰と高歓なら、前者の方が優秀だと思う。
東魏が北魏の豪族・官僚をゴッソリと継承したのに対し、西魏は十分の一か
そこらの人間しか集まらなかったし。
例1:禁軍15万の内、孝武帝の出関に付き合ったのは一部隊1万5千のみ。
例2:東魏(というか高歓)は、衆百万と号された葛栄の遺衆をそっくり吸収した。
例3:爾朱榮の旧部下、精兵の大半が高歓の配下になった。
例4:西魏の軍は賀抜岳の兵四、五万だけが元々の中核。人口不足は北周期にも
   改善されず、北斉侵攻時の総兵力も八万にすぎない。
…これだけ差があって互角に戦ってしまった高歓を、覇者として単純に認められるかと
いうと、個人的には疑問符が。
173名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 02:59:55 ID:JKGjSVg+0
>>171
その時代の唯一の統一者司馬炎がそいつらに劣る件w
174名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 05:07:51 ID:7b9vUZzqO
そんなに高歓は宇文泰より見劣りするの?
『財物、あに常には守るべけんや。』と言葉からして先見の明があり、
のちに北魏の実権を握り北斉の始祖となる訳だし
人物としてはなかなか思うのだが。

北斉の皇帝は後主と廃帝殷を除いて戦争には強いが酒乱で暴虐だよな。
高歓も酒癖悪いし遺伝のせいか?

司馬炎についてはまた後程述べさせてもらうよ。
175名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 08:06:46 ID:8k49TM0w0
>『財物、あに常には守るべけんや。』と言葉からして先見の明があり、
その言葉が先見の明に当たるだろうか?
この時代、
「義を重んじ財を軽んじ、施すを好み士を愛す」
という類似の表現を使われる人物が相当数出ているのだが…。

高歓のピークは爾朱一族を滅亡に追いこんだときじゃないか?
これにしても、賀抜岳が西部戦線を担当してくれなければ危なかった
(だから高歓は賀抜岳を警戒して暗殺させた)わけだが。
ただ、北魏の実権を握るに至った将帥・政略家としての手腕は高く
評価されるべきだと思う。
問題はそれ以後、六鎮の乱を起こした原因でもある貴族と下級士族の
対立状況を解消できなかった点か?
北斉の「権貴VSたたき上げの将帥」の構造にそっくり引き継がれて、
滅亡の一因になってしまったのは…。

西魏は西を吐谷渾、北を突厥、東を東魏、南を梁に包囲された状況で、
しかも梁にはドサクサで漢中まで奪われてる至弱の国家だったことを
加味すると、ここから天下統一の礎を築いていった宇文泰の能力は、
相当傑出してると思われるが。
176名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 10:04:47 ID:aMYtfZZl0
>>173
司馬炎は統一してるから覇者の範疇に入らないからな
177名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 22:59:57 ID:7b9vUZzqO
>>175
貴殿ほどの博学さならご存じかと思いますが?
高歓が件の言葉を吐いた経緯と以後の行動を。

北魏の辺境に土着していた高歓は伝書使となってたびたび都に上がっていたが、
あるとき、都で将軍が暴徒に殺されるのを目撃した。彼は帰宅すると、
財産を処分して徒党を集めはじめた時人に訳を聞かれて、
都の様子と、それに対し朝廷は対処できないと説明して件の言葉をいったんだよな。
もし高歓がこの時、家産を守ることに汲々としてたら
よくて地方の豪族で終っていたはず。
先見の明があるとはそう言う意味で言ったのだが・・・
178名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 05:54:54 ID:RnFVLzZc0
横槍申し訳ないが、ちょうど今話題にあがってる高歓及び北斉に興味があるんだけど
なにで知識得ればいいんだろう?
概説書はもってるんだけど人物に対しての記載が少なくて・・・
この時代でお勧めの本とかってあります?
179名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 07:04:33 ID:74mzZPwW0
180名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 08:26:31 ID:Ukac4nCM0
>>179
URLを直接入れても見れないよ。
181名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 14:26:38 ID:iFne1KEJO
>>173>>176
司馬炎は統一王朝の皇帝とは言っても
彼自身はただ祖父の司馬懿、父の昭、伯父の師がお膳立てしてくれたのを受け継いだだけだろ?
炎は奢侈で淫行、後宮には一万人以上の女性を入れていたぐらいだし。
所詮、呉の孫晧と変わり無いDQNだろ?

陳舜臣氏が小説十八史略の中で
司馬家には放蕩の血が流れているようで
不遇のときは英明だが権力を手にすると酒色にふけると述べているし。
182名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 16:46:17 ID:RJALO4bK0
>>181
司馬炎はただのスケベ親父ではないぞ。
安田二郎「西晋武帝好色攷」(『六朝政治史の研究』所収)を読むべし。
183名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 18:24:17 ID:dC9KgvnS0
司馬炎は、政策自体はそれほど悪いものではないのだが(むしろ政治的には名君の資質あり)
各局面における政治的判断がことごとく裏目に出ているのが、今の評価につながってると思う

まあ、東晋見ていても暗君が多いと思うよ
しかし、もし名君が輩出されていたら、東晋朝廷は比較的早い時期に瓦解していた線が濃厚
あの日本の天皇制のような、政治的最高権力者不在の状態が、東晋の魅力であり
強みであったからな
184名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 20:52:35 ID:RnFVLzZc0
>>179
ごめん、よくわからないんだが・・・
どういうページなんですか?
185名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 21:44:27 ID:b3rEGeoN0
北史を直接嫁と言いたいらしい
186名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/25(月) 21:57:54 ID:WWeFvGqaO
187名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 05:15:59 ID:LPzmSXRQO
司馬炎はただのスケベ親父ではなく水商売の世界に一石を投じたんだろ?

冗談はさておき、
司馬炎の政策って占田・課田制や九品官人法はともかく
魏の失敗を教訓にして皇族を優遇し、土地と軍権を与えたことは
逆に皇族間の争いを誘発する結果に、八王の乱の遠因にもなった訳だし。
高官に対して賄賂や、異民族に対し何も対策をしなかったこと、
挙げ句の果ては昏愚な司馬衷を皇太子とするなど
やってることに英明さがあるとはとても思えないが・・・

>あの日本の天皇制のような、政治的最高権力者不在の状態って、いつの時代?
仮に東晋を日本風に例えるなら鎌倉期の北条執権政治か
徳川幕府に置ける老中合議制に近い状態ではというなら話はわかるけど・・・
188名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 05:51:25 ID:8h8x2SRq0
>>186
すまん、一応検索とかはしてるからどっちも知ってるページだった
わざわざありがとな
この時代の逸話とか細かな人物関係知るにはやっぱ北史嫁ってことか・・・
中文は読めないんだよなorz
189名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 07:46:57 ID:LPzmSXRQO
>>188
余計なお世話かもしれませんが図書館とかに
二十二史全巻の注釈付き本とか置いて無いのかな?
自分の住んでるとこの図書館には置いてたよ。
190名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 11:07:55 ID:SCs89xhu0
司馬炎は魏の失敗を教訓にして、皇族に軍権を与えたわけではないですよ。
皇族たちは元々洛陽に住んでいたけれど、文欽とか諸葛誕とか辺境での
叛乱が多く続いたため、血縁のない有力武将に重要拠点を任せるのでなく、
皇族に任せることにしたという話で。
封地はあっても赴任していなかった皇族達は、すすり泣いて嫌がったと
いうことです。
この辺の事情については、誰かの列伝ではなく「晋書・職官志」に記されて
いるため、マイナーな情報なのかもしれません。

それと、異民族対策についてですが、これは「異民族排除・抑圧」という
考え自体が、当時すでにナンセンスなものと化していたのではないでしょうか。
晋書の匈奴伝では、太原の匈奴と漢人の生活上の混淆が進んでいたことが
記されています。
太原王氏の領袖である王渾が、呉征伐に劉淵を推したりしたのは、おそらく
そういう背景があったからでしょう。

司馬炎が無能というよりは、その施策を継承し修正してゆくはずの後継者達に、
政権担当者としての明確なビジョンが無かったこと、ビジョンのある者がいても
実権を持てなかったことが、八王の乱を引き起こす原因となったのでは
ないでしょうか。
191名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/27(水) 01:50:08 ID:fLs+pcZj0
>皇族たちは元々洛陽に住んでいたけれど、文欽とか諸葛誕とか辺境での
>叛乱が多く続いたため、血縁のない有力武将に重要拠点を任せるのでなく、
>皇族に任せることにしたという話で。

それは楊珧と荀勖による、斉王攸を朝廷から排除するための論理構成だね。
職官志のその段をよく読むと分かるよ。これを根拠に

>魏の失敗を教訓にして、皇族に軍権を与えたわけではないですよ

と言い切るのはいかがなものかな。


>「異民族排除・抑圧」という 考え自体が、当時すでにナンセンスなものと化していた

その根拠が異民族の漢化にあるというのであれば、全ての異民族が南匈奴なみに漢化
していたわけではないはずだけどねえ。
同じく匈奴伝の載せる郭欽の上疏や、江統伝の載せる『徙戎論』については?
192名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/27(水) 02:44:52 ID:1PRMy2t9O
>>190
なるほど、詳しい解説有難うごさいます。
確かに司馬炎はその政策を継承し修正してゆくはずの後継者選びに失敗した感じはしますね。
本当は弟の斉王司馬攸を皇太子弟として位を継がせようとしたのですが
孫の司馬イツが利口なので孫に望みを託して司馬衷を皇太子としたのが真相みたいですね。
ご指摘通り政権担当者としての明確なビジョンが無かったこと、ビジョンのある者がいても
実権を持てなかったことも、確かに事実ですし。

あと質門なのですが
即位後まもなく晋朝成立の歴史を左右から初めて聞き、
「そんな成り立ちの国が長く続くはずがない」と
涙を流した帝って誰ですか?
193犬童知遠 ◆tmc8JAPANo :2006/12/27(水) 04:26:41 ID:zZduttc70
>>192
東晋の明帝司馬紹。『世説新語』の尤悔篇にあるエピソード。

【原文】
王導、温嶠倶見明帝。帝問温前世所以得天下之由,温未答。
頃,王曰:「温嶠年少未諳,臣爲陛下陳之。」
王迺具敍宣王創業之始,誅夷名族,寵樹同己,及文王之末,高貴郷公事。
明帝聞之,覆面箸牀曰:「若如公言,祚安得長!」

【訳】
王導と温嶠が連れ立って明帝に謁見した時、帝は温嶠に
先祖が天下を取れた理由を尋ねたが、温嶠は答えられずにいた。

しばらくして王導が、「温嶠は若輩者ゆえ子細を存じ上げませぬ。
私めから陛下にお答え申し上げましょう」と言った。
そこで、宣王(司馬懿)が創業の初めに、名族を誅滅して己の与党を引き立てたこと、
さらに、文王(司馬昭)の末には高貴郷公を弑殺したことについて、詳細に述べ立てた。

明帝はこれを聞くと、顔を覆い、ソファーに身を突っ伏して言った。
「もし貴公の言うとおりならば、この王統もどうして長続きできようか!」
194名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/28(木) 23:13:03 ID:gHgeeWPxO
>>193
遅くなりましたが原文、和訳付の親切なレス感謝です。
王導といえば東晋の元帝、明帝、成帝と三代に仕えた宰相で
融和政策をとり、東晋の基礎を固めたといわれる人物。
彼は気取らず、また寛大な人物だった様で次のようなエピソードが
ある席で王導が何か言うたびにに
同座していた人々が褒めそやし、お追従のかぎりをつくすので
その席にいた王述が一同のお追従を聞いているうちに我慢できなくなり
人、堯舜にあらず、なんぞ毎事善を尽くすを得ん。
(堯・舜のような聖人ならともかくとして、
すべてのことについて完全な人間などいるはずはありません)
自分が登用し、目をかけてやった者にこれだけ水を差されたにもかかわらず、
王導はうなずいて、王述の苦言に感謝したのだった。
195名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/28(木) 23:45:52 ID:mlOO4O9J0
犬童コテが東洋英雄を語るのにはちょっと驚いたわ
196名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/30(土) 00:56:29 ID:i2+ksOwN0
>>187
司馬炎の時代九品官人法はもう形骸化が激しくて
有能だか出自が低い人物には足かせになってる
197名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/30(土) 03:23:06 ID:IAbxbp+4O
高歓みたいに情勢を察知して行動を起こし、
後に権力者になった人物って前涼の張軌もそうじゃない?
(張軌はやむえず独立したのだが)
散騎常侍としてエリートコースを進んでいたのに、八王の乱の激化を予見して、
わざわざ辺境の地の長官である、涼州刺史を志願したんだし。
198名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/31(日) 04:10:30 ID:acbD+iobO
前涼といえば5代目、張重華に仕えた謝艾ってなかなかの名将だよな。
謝艾は前涼の主簿であったが、大抜擢を受けて中塁将軍にのぼり
後趙の涼州侵攻を幾度と無く撃退しているし。
書生風の格好で戦場指揮を取っていたため、
敵将から過分に罵られることもあったみたいだけど、
石虎に「中原の総力を注いで、謝艾のいる一城を落とせないとはッ!」
と歎息させたほどの人物。
199名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 22:30:48 ID:AiH33f2vO
梁の武帝は優秀な能力と安定した人格で
梁朝の繁栄に大きな影響を与えたのは確かだが
在位が50年にも及んだ為、後半の治世は皇帝の老害によって
国政が乱れたのは否めない。
もし昭明太子が早死にしなければ、梁が華北を平定する可能性はあったのだろうか?
200名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 22:47:09 ID:hzmG0o490
>>199
昭明太子は治の人だから、仮に皇帝となったとしても、
梁の繁栄を長引かせることは出来ても、
華北を征服することは出来ないんじゃないかなあ。
201名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/04(木) 11:34:40 ID:+JuhCsd10
正直、華北の平定は無理だったと思う。南朝の全てに言えることだけど。
華北には鮮卑・匈奴・氐・漢人その他の間の「民族問題」というものが
あるわけで、それを巧くさばく政治制度や理念が南朝にあるかというと…。
たとえできたとしても、短期間で崩壊したんじゃないかなぁ。
後趙や前秦の統一が、石虎の死後や苻堅の晩年に瓦解したように。
202名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/04(木) 23:06:46 ID:E57e1IaHO
>>201
>後趙や前秦の統一が‥‥
構想が瓦解したのは石虎の場合は後継者問題が
苻堅は事を急ぎ過ぎたのと人が良すぎた、
王猛の死去などが原因じゃないかな?

東晋は亡命政権な上、土豪との軋轢を解消しきれてなかったり諸問題があるし、
その後の王朝も後継者争いが起るか、優れた君主が現れても早死、又は文化に傾倒するからなぁ。
(初代は比較的マシなのだか‥‥)
それと華南という豊かな土地柄のせいなのかそれに甘んじてしまい、
征服欲が薄いと思うが自分の見解。

宋の劉裕なら統一後を体制維持できそうだが、どうだろう?
203名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 00:03:34 ID:x4kaNcea0
宋だけifを持ち込んでもな…
204名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 02:12:50 ID:OT6ivLFP0
わたしは中国人で〜す。
日本語はまだまだで〜す。
よろしくおねがいしま〜す。
3〜Q〜す。
^^
205名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 23:29:46 ID:ne0XULCqO
質問だけど司馬炎って名宰相か?
206名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 21:16:23 ID:DPNbxxO50
宰相っていうか相国の地位にいたのは四ヶ月程度じゃないか?
207名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 22:33:06 ID:Q+HGjlJ8O
>>206 サンクス
司馬炎が禅譲の形式段階で相国になっただけだろとは思ってたけど、
他で司馬炎が名宰相みたいなこと言ってたから不思議に思った訳。
実際どうなんだろと疑問があったから意見を伺ってみたんだ。
208名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 22:53:57 ID:sl6cnp3K0
>>207
あのスレに書き込んだのは俺だが
司馬炎が相国(あるいは魏臣)時代に、目立つような政治的功績がなかったこと
帝位に就いた後に、様々な政策を次々に打ち出したことを比較して
「政治家として功績を残したのは皇帝になってから」という文脈で
司馬炎をあのスレで微妙な名相→皇帝の一例に挙げただけだ
確かに例に挙げるまでも無く、名臣じゃあないわけだが→司馬炎

両晋の名臣と言ったら、王導が筆頭に来るのかねえ
(個人的には杜預が一押しなんだが)
209名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 10:47:56 ID:wZbPE9qNO
杜預はどちらかと言えば名将、左伝の研究をした学者としてのイメージの方が強いな。
司馬炎の大将軍として呉を平定、三国時代を終結させた人物で、なんと言っても
破竹の勢いの故事が有名だしな。
210名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 08:31:59 ID:20UYazvH0
羊祜の下準備を忘れないでください・゚・(ノД`;)・゚・
この人の徳治なしに、呉征服は語れないと思うのですよ。
司馬炎も、涙を流して
「これ(呉征服)は羊太傅の功である」
と言ってくれたんだし…。
211名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 08:40:11 ID:x6hEmllE0
杜預って「親父が曹髦誅殺に関わってたから
左伝のなかでそれを弁護している」、なんてどこかの本で読んだがこれはトンデモなのだろうか。
212名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 11:27:19 ID:DXfOL84EO
杜預って確か自分の身体的特徴を馬鹿にされたのに腹を立てて住民虐殺を行ったことがあったよね?
213名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 12:26:25 ID:p/BiKUVF0
確か、杜預には首に瘤があったのを、どこかの城の住民が瘤のある木に
「杜預の首(瘤だっけ?)」と書いた札を下げたって奴でしょ?
で、それに腹を立てて城民虐殺。

正直、杜預ってあんまり上司にはしたくないタイプだと思った。
呉を征服するときの上表文も、わざわざ最初に
「羊コは時宜を得ることができませんでしたが云々」
ってところが、
「成功したら羊コの手柄なんか無いもんね!おれの手柄だもんね!」
みたいに読めて…。
蜀から帰還する衛カンに「彼の終わりはよくないだろう」と予言したけど、
杜預自身、そう言えるほど清廉ではないという印象が…。
214208:2007/01/08(月) 20:01:38 ID:lXHHBP+20
杜預は確かに自分の才覚を鼻にかけてるきらいはあるが、それを補って余りある実務能力を持っているから、
「何でもある」って言う意味で「武庫」って綽名されてたほどだし
官僚、政治家、軍人、文人として全ての面で成功を収めている、確かに厭味なヤツだ
(政治家としては、最後に政敵連中に敗北してるけど)

衛カンを悪く言うのは仕方がないっちゃあ仕方がないことだし
215名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 22:10:58 ID:/mQ1WrzGO
>>210
別に羊コを疎かにしてる訳ではw
病気で倒れた羊コが杜預を後任に推挙したり
病弱な陸抗に薬を送ったエピソードには彼の器の大きさを感じるね。
(陸抗も酒を送っているし、こいつもなかなか器がデカイ)

>>214
確かに呉平定の功労者は杜預なのに
政治権力闘争では賈充、馮タン、荀 の勝ちになっちゃってるなorz

司馬炎ってかなり乗せられ易い人なの?
216名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 22:53:42 ID:3V4tABZ70
乗せられ易いというが・・・・
司馬炎は典型的な暗君のような
217名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 05:52:58 ID:xTG4DJizO
>>216
司馬炎を暗君扱いするとそうじゃないってレスが返ってくるが・・・
前の方のレス読んだ?
218名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 17:41:28 ID:F3jU51Z20
両晋の名臣に張華を推しては駄目ですか?
張軌に劉弘に陶侃に陸機に陸雲に劉聡に慕容カイにその他諸々、民族関係なしに
見こんだ人物を推薦しまくった(しかもことごとく名をなした)辺り、人物鑑識の能力が
神の領域に入っているような…。
知識人としては子産にたとえられたこと、裴頠と一緒に元康年間の小康を支えたこと、
それも含めて凄い人だなぁ、と思うのです。
寒門でさえなければ、西晋のあり方がもうちょっと変わったかも…って、過大評価ですか?
219名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 23:16:04 ID:xTG4DJizO
>>218
その張華が推薦した東晋の陶侃の評価はどうなの?
五十年にわたって地方長官、軍司令官などを務め東晋の柱石であっただけでなく、
謹厳、実直な人物で知られている。
貧家の生まれで、たまたま同郷の人が官途につくため都に行く途中、
彼の家に泊まった時、母親が髪を切り酒食をととのえ遇したのが
きっかけで陶侃は世に出る糸口になったんだろ。
正にこの母にしてこの子ありって感じがするね。
いかにも彼らしいエピソードも多数有るし。
220名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 20:40:32 ID:7qiVKzfD0
何かの間違いで侯景の王朝ができていたら
宇宙大将軍の称号がメジャーになったりしたんだろうか?
221名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 21:28:30 ID:Sfgb2wqrO
それより侯景が帝位に就いたら今度は宇宙大皇帝と名乗りそうだが・・・
222名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 21:30:48 ID:lAekCSiF0
スペオペ大元帥とどっちが偉大?
223名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 21:40:55 ID:PbW9upDN0
宇宙大将軍と庶人天王は二大萌え称号
224名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 17:16:29 ID:I2f7DB9x0
庶人天王って誰?と思ったら、後燕の慕容盛かよ。
宇宙大将軍・都督六合諸軍事の侯景閣下におよびもつかない小者だな。
225名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 19:21:19 ID:Kb8yrJ6o0
そりゃもう!
226名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 21:53:15 ID:wBaZAhww0
>>224
丞相が抜けてる!

宇宙大将軍・都督六合諸軍事・丞相の侯景閣下だ!!
227名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 22:11:44 ID:HqgbfZLJO
肩書きだけは一人前ですな
228名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 23:32:26 ID:ErAzpK8oO
侯景は高歓の手駒だったしな。
梁の武帝に和睦されたのは超誤算・・・orz
229名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 00:45:44 ID:KM4omg4yO
東晋から南朝にかけて、やたら「〜之」とつく名前を見かけるけど
この「之」には何か意味があるんですかね?
230名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 01:03:14 ID:6W0hBuE60
仏教がどうとか聞いたことがある
231名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 01:06:10 ID:MnThEr620
>>229
>>66-67

一説に、だけどね。

232名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 23:09:02 ID:WLWOwUa90
>>221
デスラーが黙ってないな
233名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 00:19:49 ID:0JwtOrU7O
王猛って琅邪王氏と関係あるのかな?
234名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 00:42:41 ID:PrmAMK390
北海王氏
235名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 00:50:44 ID:Y7KujX7n0
北海王氏って、事実上王猛の代に始まったようなもんだよなぁ。
236名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 01:16:47 ID:0JwtOrU7O
琅邪王氏とは関係無いんだね。
琅邪王氏や太原王氏は有名だけど北海王氏って初めて聞いたな。
237真剣師:2007/01/27(土) 19:10:35 ID:H/EJXgqm0
後周の柴栄(世宗)なんてどうでしょうか。
彼がもう少し長生きしていたら、趙匡胤による宋は成立していたかどうか
わからないと思うんですが。いや、かなり微妙。
やっぱり功成り名を遂げるには、長生きが必要最低限の条件ですね。
238真剣師:2007/01/27(土) 19:12:05 ID:H/EJXgqm0
申し訳ない・・・この人は唐王朝崩壊後の時代でした。
239名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 20:55:08 ID:NYsTZw6M0
道武帝太武帝に対する挑戦か
240名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 20:03:54 ID:CdiSG8bq0
>>236
後漢から続く貴族じゃないですしね。
王猛自身、若い頃は行商もやってた苦労人…ていうか、たぶん
「書物を読める程度には金があった平民」
ってところじゃないですかね?
ただ、王猛のおかげで子孫はいい目を見たような気も。
孫の王憲は太武帝に「これは王猛の孫である」と取り立てられて、
金持ち土地持ちの生涯を終えることができたし。
もっとも、曾孫の王マは南朝の爛れた生活に憧れ実践して、高洋に
一罰百戒とばかりに斬殺されるわけですが…。

しかし珍法功とか卜起とかスレッドが立ってるけど、この時代には
陳珍(チンチン)さんが存在するんですよね…。
作り話とか嘘ではなく、晋書・張茂伝に載っている人です。

陳珍は前涼に仕えた人物で、劉曜侵攻により張茂が親征せざるを得ない
ピンチに陥ったとき、ひとつの献策をしました。
それは持久戦に持ちこむことだったのですが、その際の状況観察眼が
素晴らしいもので、張茂が
「劉曜は三秦の精鋭を掌握し、士卒は闘いに習熟している。もし南安を
 落としてこちらに長駆してきたなら、どのようなはかりごとを出せようか」
と心配すると、
「劉曜は石勒という内患を除いていないのですから、向こうの兵は実は
 烏合の衆と言えます」
「関東の雄(石勒)を放置したまま、劉曜が長期間涼州をかけて争うなど
 無理なのです」
と、涼州側からは内部分裂にしか見えない前趙と後趙の争いが、実は深刻な
争闘であることを看破して、騎兵1800を率いて劉曜に闘いを仕掛けます。
陳珍の読み通り、劉曜側は持久に耐えられる状態ではなく、無念の退却に
追いやられました。
結果、陳珍は参軍→平虜護軍→折衝将軍と出世することになります。
この人の出番はこれだけなので、名将とか智将とか判断することはできません。
ですが、劉曜の軍団に怖じ気づくことなく一泡吹かせ、国を救ったという点は
高く評価されて良いかと思われます。

しかし、この辺りの小説が書かれたら、
「おのれチンチン!貴様さえいなければ!!(劉曜)」
「でかしたぞチンチン!チンチンよ、お前は国の恩人だ!(張茂)」
「チンチン万歳!チンチン万歳!チンチン万歳!(部下たち)」

…すごくいかがわしい作品と誤解されそうですね…。
241名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 12:47:19 ID:c87tDxIqO
後漢末の王允は太原の王氏だったっけ?
242名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 09:38:49 ID:sSciSrgF0
夏侯瑛
243名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 23:39:54 ID:YE3VGJ3DO
石勒と楊大眼って文盲で人に書物とか読んで聞かせて貰ってたんだろ?
戦上手なところも似てる。
244名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 00:05:20 ID:mIw1uuaq0
載記の翻訳があればいいのに。
245名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 11:44:48 ID:jbzmoTGT0
博識には程遠い身なんだが、講談社学術文庫の魏晋南北朝を読んでる。

読むのは二度目なんだけど、実に面白い。
制度や社会背景、経済なんかが興味深いし、この本には登場しないまでも。
名のある人物も大勢いたんだろうな。
いま桓温が死んだあたりなんだけど、この人と王導という人物は特に気になる。
246名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 21:32:49 ID:ENIUvJYH0
夏侯淋
247名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 14:15:18 ID:UgpqSi2H0
誰それ(^ω^;)?
248名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 21:09:57 ID:/SoW6cjg0
夏侯惇の長男って誰?
249名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 14:42:40 ID:73btbkU+0
俺は知らない。
エロい人が教えてくれるよ
250名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 20:58:04 ID:ZVRz4kNV0
250get!
251名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 09:10:20 ID:ExyphwwnO
尉遅ケイについて誰か詳しく教えてくれませんか?
252名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 09:51:42 ID:/+2z3vM80

淳干緩?
253名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 12:48:17 ID:G+YRzvgO0

北斉の尉遅廻のこと?
254名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 14:58:46 ID:ExyphwwnO
>>253
そうです、北斉の尉遅廻のについて詳しく教えていただけませんか?
ググっても少ししか情報が無いし、漏れ、漢文が読めないんです (´・ω・`)
255名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 15:40:27 ID:JMQJnZqw0
256名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 16:03:08 ID:ExyphwwnO
>>255さん サンクス
これなら漢文が苦手な漏れも読めますねw
257名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 16:48:02 ID:G+YRzvgO0
>254

ごめん、北周だったね
258名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 19:50:12 ID:k2AKkErQ0

259名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 09:39:38 ID:GnW8DFP00
符堅って誰だっけ?
260名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 21:03:37 ID:z+MAo3Np0
司馬亨に負けた人
261名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 22:07:10 ID:wLmCMDLjO
↑誰?
262名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 01:58:39 ID:+KXdEZ/O0
前秦の苻堅なら知ってるけど符堅は知らないなぁ…誰だろねウヘヘヘ・・・・
263名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 03:42:42 ID:zYfnCVN20
苻堅を符堅って書きこんでる人って、たぶん同一人物だろうねぇ。
名将スレとかで何度も何度も「符堅」って書いてんのを見ると、
コピーしろよと思うんだよなぁw
264名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 10:22:46 ID:ivc6xGsp0
苻堅は孫堅の生まれ変わり
265名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 20:42:40 ID:7/0XDrjP0
最終的には平井堅
266名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 21:45:12 ID:ovG1GC7b0
267名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 22:14:29 ID:/dEFyWkl0

>>265

( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
268名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 03:22:06 ID:lcT4two50
>>265
 先祖は楊堅
269名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 14:21:57 ID:AzKDpbd50
孫乾―(80代略)―平井乾
270名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 00:02:23 ID:R1E1RPRk0

(^ิิ౪^ิ) ウシシシシシ
271名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/26(月) 09:24:28 ID:cZQP0SWO0
何このスレ?
272名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 06:01:51 ID:pAyLpTYCO
拓跋q→燾
273名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 20:28:34 ID:rwdSDTn+0
拓跋珪→拓跋L…→拓跋q→拓跋Z
274名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 09:37:27 ID:4DSUpOV5O
>>273
北魏が好きなの?
275名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 20:44:31 ID:4PzOFmBl0
>274
うん
276名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 22:58:41 ID:4DSUpOV5O
つーか俺も北魏が好きだな
拓跋珪や高歓が好きだし
277名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 23:09:55 ID:lNTIFngj0
北魏って何民族の王朝?
278名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 23:18:14 ID:4PzOFmBl0
鮮卑族 拓跋部

>276 ナカーマ
279名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 00:14:40 ID:wXoh3GKrO
>>278さんサンクス
拓跋珪、高歓って共に息子の人格に問題有りってとこも一緒だね
慕容恪、慕容垂も俺は大好き
280名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 01:55:16 ID:wIAkmz870
拓跋珪は本人にも大いに問題あり 
俺も好きだけど
281名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 05:33:17 ID:Zkd/bOVu0
拓跋珪の場合はへんな薬の所為じゃなかったか
282名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 09:24:30 ID:jP4ur4FN0
ヤク?きめてたのか
283名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 11:04:25 ID:wXoh3GKrO
>>282
拓跋珪は不老不死の薬を飲んでた
その副作用で心神耗弱状態に陥り、家臣を意味もなく殺したりした
まあヤク中に近いものはあるな
284名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 14:05:13 ID:amfeuEoU0
>>283
息子の明元帝拓跋嗣も同様だった形跡があるな。
ただ、こっちはイカレ切る前に事実上、譲位させられた。
285名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 14:56:59 ID:wXoh3GKrO
拓跋嗣は井戸に吊されお仕置きされてたりするし
でも息子の拓跋燾は出来がいいよな
おなじDNAが組み込まれてるとは思えない
高歓の息子の高洋もかなりキテるし
(こっちは酒の所為と言うか酒乱か)
286名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 16:47:50 ID:uGUg3weB0
寒食散
一日中独り言を言っていたこともあったみたい

>284
寒食散が宮中で流行っていたのかなと思った

>285
井戸に逆さ吊りのおしおきされたのは拓跋嗣の弟の拓跋紹
よく考えたらとんでもないおしおきだね
拓跋紹の生母・賀夫人はもともと拓跋珪の叔母にあたる人で人妻だったのを
拓跋珪が人に命じて彼女の旦那さんを殺させて自分の後宮に入れた
結局、拓跋紹が拓跋珪を殺した後、
拓跋紹と賀夫人は二人とも拓跋嗣の軍に囲まれて殺された

拓跋嗣は32歳で亡くなってるけど、
漢族側に寄りすぎて暗殺されたのではないのか疑ってしまう
287名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 17:04:40 ID:35uxFLAT0
たくばっけい
288名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 17:41:27 ID:wXoh3GKrO
>>286
拓跋嗣じゃなく拓跋紹だったか…スマン
酔って母親に暴言吐き酔いが覚めた後
自分自身にお仕置きする様に命令したを高洋もかなりのもんだな
確か高洋も親父である高歓に杖で叩きのめされてなかったっけ?
289名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 23:54:40 ID:iRdJLwgy0
拓跋とか愛新覚羅とかいう姓に生まれてたらテストのとき名前を書くのが大変だよな
290名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 17:49:45 ID:/HvVHDbv0
でもかっこいいかも
291名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 20:58:27 ID:W3343pF20
太武帝もお薬キメてラリッてたでしょ
292名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 00:24:14 ID:vgrD8tP80
そうだっけ?
293名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 00:25:28 ID:K1MTzoEcO
太武帝がキメてたおクスリって五石散?
294まゆみ:2007/03/05(月) 06:01:01 ID:8BAsXVUS0
http://island.geocities.jp/hihihugyygy/

絶対見ないで欲しいの。。。☆
295名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 09:49:16 ID:pNtijPn50
方位
296名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 20:53:23 ID:vgrD8tP80
kwsk
297名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 23:00:32 ID:SXgtijL60
また三戦板おぢてるな
298名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 00:11:51 ID:gS7WzwSL0
おーん 見つからない
もしかして韋文秀に作らせた丹のこと?
299名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 04:39:48 ID:HavSQKXZ0
>>289 「たくばつじゅうよくけん」とか先祖を恨んでグレるものと思われる。
300名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 09:56:19 ID:ifyj6cPf0
300get
301名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 01:14:54 ID:TQCKzcZs0
おまいら五胡最強のDQN・赫連勃勃たんについても語れや
302名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 03:24:05 ID:tVYskyAI0
>299
実際、「元」に変えたしな
303名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 18:23:03 ID:tCaA2t0l0
赫連勃勃  なんてよむの
304名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 18:36:12 ID:6+wSY7KoO
305名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 19:31:49 ID:Pxb44jAj0
>301
まずは言いだしっぺが語ってみよう

このスレの住民も五胡十六国なみに好き陣営がバラバラな悪寒
306名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 19:40:18 ID:ri5cxI5k0
>301
お父さんもお兄さんも殺されて
受け入れてくれた王様も殺されて
それでも涙をこらえて健気に頑張る
ショタっ子、勃勃。
307名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 21:21:11 ID:aqYhMRvc0
萌える
308名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 21:36:24 ID:IHD+F0Hl0
>>306 そこから屈折しまくって「壁に埋めろ」となるわけですね。
309名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 21:37:36 ID:6+wSY7KoO
萌えると言えば

北魏萌え
テュルク諸語萌え
鮮卑族拓跋部&慕容部萌え
310名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 22:04:02 ID:FHSlbMHy0
「たくばつじゅうよくけん」
え〜と、どなたでしたっけ
311名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 22:52:25 ID:qULHvPje0
拓抜珪のおじいさん
北史の記述から考えて、フタナリさんに違いないと睨んでいる
そして勝手に萌えている
312名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 23:14:19 ID:Pxb44jAj0
フタナリさんw

身長八尺  隆準龍顔 立髮委地 臥則乳垂至席


>309
近い

北魏萌え
拓跋部萌え
崔宏親子萌え
313名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 03:30:54 ID:frYMC2SIO
おいら武将が好きだが宰相・補佐系はもっとスキー
312さんは宰相好きなの?
314名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 09:22:57 ID:X2vWEIGn0
北魏の領域では、曹魏系の領主はもう居なかったの?
315名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 22:25:55 ID:SNLraHs10
>313
どうしても片方選ばなきゃならないなら宰相
もしかすると他スレでお会いしてるかも

>314
曹魏系の領主の意味に迷ったんですけど、
曹魏に仕えた士大夫の子孫ならいる
崔宏・崔浩は崔林の子孫、崔逞は崔エンの子孫
他にも清河崔氏いっぱい
韓延之は韓曁の子孫、張湛は張恭の子孫、鄭羲は鄭渾の子孫
司馬懿の子孫・傍系いっぱい
他にもたくさん、きりがない
違う意味の事だったらごめん
316名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 09:31:19 ID:+0qVcM+o0
でわ曹・夏侯一族はいたんですかね?
317名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 21:50:31 ID:uOZ+UkmT0
いたよ
曹世表は曹休の子孫
北魏末期、反乱鎮圧で活躍した人
曹休の死因は背中の腫物ですけど、
曹世表も反乱鎮圧中に背中に腫物が出来て輿に乗って指揮した逸話の持ち主
夏侯道遷(譙出身)も曹魏の夏侯一族の気がする

他にもいたら教えて
318名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 23:25:32 ID:D47oH57P0
夏侯氏って連綿とつづいているんだなぁ
319313:2007/03/10(土) 10:35:33 ID:HkXsm79OO
>>315
何とも気があいますなぁ〜
>もしかすると他スレでお会いしてるかも
そうかも知れませんねw

質問なんだけど西晋の馬隆ってかなり奇策を弄するのに長けてたの?
320名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 14:36:54 ID:SDbR6Xmt0
>>319
IDカコイイ
321名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 16:11:50 ID:JjYts7sn0
馬隆って馬超の子孫か?
322名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 16:44:40 ID:FLpVb4cw0
違うよ。馬隆は東平の人。なんでそういう話が出てきたん?
323名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 20:27:49 ID:0+78ltoQ0
晋書馬隆伝には戦術家として相当のやり手だったらしいような記述はあるな。
324名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 20:40:30 ID:MS/RS2Ai0
羌族との戦では
八陣図に則り偏箱車を作り、
道幅の広いところでは偏箱車にさかもぎを付けて鹿角車として戦い
狭いところでは偏箱車に屋根を付けて戦った
また、狭い道で磁石を積み上げて鉄鎧を着ている敵兵の前進を阻み
犀甲を纏う馬隆の兵は身軽に動けた為、敵兵は神業だと思った。
西平での成奚との戦では
兵に命じて農器を背負わせ農夫のふりをさせて
成奚を油断させた上で、無防備な所を撃破した。

訳しただけじゃんのつっこみはなしね

馬隆は兵書・握奇経(編 風后 解説 公孫宏)に賛辞を書いている
握奇経に八陣図のことが載ってる
325名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 21:33:04 ID:w6cUKxoVO
>>323-324 サンクス

>>322
孔明はお前らが思っているよりより軍事に明るい
(八陣図のサイトを見ろと誘導)

八陣図を根拠に軍事に明るいなんて演義ベースで語るのと同レベル
八陣図は孔明に仮託と反論

西晋の馬隆は諸葛兵法を学んで対鮮卑戦で戦功を挙げている

こんな流れだった
で一応詳しい人がいないか伺い立ててみた

おK
でもすでに324氏が親切に答えてくれてたな
326名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 09:36:01 ID:X1Rpkntx0
ここらへんの時代の中国の部署って
出自がよくわからん
327名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 22:32:34 ID:LAFdD6gNO
慕容部工作員の巣窟ってココですか?
328名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 09:34:58 ID:uISlXmcZ0
さうですうよ
329名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 02:42:08 ID:/9RtT4JI0
禿髪部って何か北斗の拳の頃されキャラみたいな香具師ばっかの部族?
330名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 09:37:02 ID:gpkbdOVP0
( ^ω^) wwww
331名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 23:52:35 ID:r1u2hUxR0
【これ何て】 蘇峻 【エロゲ?】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1173936959/
332名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 00:38:11 ID:fJh36Q880
禿髪って姓だけだったら、拓跋と同源の音訳って程度でネタ度は低いんだろうが
「禿髪樹機能」なんていうパンクな名前の反乱首謀者のせいでネタ度大幅アップだからな
胡烈は煽りを喰らって死んどるし
馬隆はこの鎮圧戦でも結構活躍してたな

>>331
蘇峻のユ皇后殺害は、どうみても集団レイプの結果だよなあ
いろんな意味で欲求不満の塊だわ、蘇峻
333名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 09:55:11 ID:H1MwX8Ha0
(  ;ハ;)イイハナシアルー
334名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 16:03:26 ID:hz9WjWo80
夏侯充って何したの?
335名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/19(月) 00:04:47 ID:E0x67UYZ0
三戦か夏侯惇スレの方がレスがつく確率が高い気がしなくもない
336名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 09:56:40 ID:oIJjDGYY0
夏侯充はトンの次男だお
337名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 22:02:13 ID:nM74PLRA0
うそん

長男っしょ
338名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/24(土) 12:03:06 ID:q3kmRYCT0
夏侯淵の肖像がとかって無いの?
太っているイメージがある
339名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 00:18:57 ID:Wx0S5N4k0
無双か
340名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 11:14:04 ID:IDqi/XDw0
n夏候いちぞくって 、重要なのに
生没年が不明な場合が多いのなぜ?
341名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 12:07:00 ID:9Ved9EQU0
そもそも生没年が正確にわかる人間なんて殆どいない
342名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 20:45:58 ID:eUDUc6ft0
時代が時代だからな
343名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 13:56:16 ID:BNSH0QCm0
夏侯氏に限らず生没年はそんなに歴史的に価値のある情報じゃないよ。
344名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 18:43:20 ID:hjIIWmZ20
歴史に残る大事件の中で死んだ(頃された)のなら没年は重要な情報でしょ。
345名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 19:45:23 ID:DZV1DDcp0
歴史オタには時として重要
346名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 21:25:51 ID:BNSH0QCm0
じゃ、夏侯一族は歴史に残る大事件の中で死ななかった、それだけ。
347名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 09:32:54 ID:CEdDAwni0
いや、没年は割りとハッキリしてるんだけどね
348名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 17:21:26 ID:uqsL7maX0
>>347
そうだね。
没年は記載例が多い。
ただ、生年や享年がないので、年齢がわからんのが多い。
349名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 09:44:45 ID:6z0zdvyJ0
年齢がわからないと親子関係の証明もできないよな
350名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 00:12:05 ID:dVGN0+Ta0
性別も判断できないしね(*´Д`)
351名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 09:41:00 ID:nHYDtFTb0
( ^ω^) おっおっおっ
352劉曜:2007/03/29(木) 20:26:01 ID:cBjYI1EG0
>350
だよねー
353名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 09:40:19 ID:7/7nQX8/0
>>352
(´・ω・`)
354名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 20:54:35 ID:RWXZ9YGh0
( ^ω^) おっおっおっ(^ω^ )
355名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 10:57:09 ID:boNeICeb0
魏延すれはここ?
356名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 21:20:50 ID:Jp5BNmmO0
ここだお
357名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 22:56:46 ID:iwnngaq7O
↑ ちげえよ
三戦板へ逝けよ( `Д´)
358名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 00:14:59 ID:Y+5z4H950
山戦にたってんのかよ
359名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 00:45:42 ID:j99ThN3i0
たってるよ
360名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 15:31:59 ID:eHtvJouI0
曹魏は民衆の忠誠を得られたのかね
361名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 16:21:07 ID:LvIeIc5a0
民は士大夫ではないので忠とは無縁です
362名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 16:36:13 ID:inohJBGt0
天子=神
士大夫=人間
民草=畜生 盗匪=野獣 侠客=珍獣

愛民の情、というのは飼い主がペットを大事にする感覚と大差なかろう。
363名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 20:55:19 ID:WRvABaBB0
珍獣ワロス
364名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 22:25:26 ID:hzu8kHQx0
獣=食事
365名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 09:17:37 ID:GFPAtuyz0
>>362
ひどいはなしじゃ
366名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 19:40:33 ID:n+0A6W+k0
夏侯徳は劉延の生まれ変わり
367名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 19:52:49 ID:wKJtNhKR0
まったく大事にされないでせいぜい票田としか思わない現代日本の政治よりはマシだろ
368名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 20:53:02 ID:ET/T9TzA0
それもそうだな。
腐った民主政治は何も生まない
369名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 22:58:39 ID:zTvg4SY00
NHKで雲崗石窟やってる
北魏!
370名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 23:00:31 ID:zTvg4SY00
終わっちゃった…
371名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 09:28:45 ID:mkDCKYi+0
\(^o^)/オワタ
372名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 15:41:28 ID:8ch11Iki0
魏晋南北朝期最高の皇帝は北魏の孝文帝だね
373名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 19:11:33 ID:1NSzB+jq0
南北朝時代の皇帝は名君と言われてる人でも一長一短ばかりと思うよ、俺は。

孝文帝の場合、治世の大半は馮皇太后によるものだし、
その後の皇帝権力の強化(別名、馮氏との政争)は、
後に高肇・于忠・元叉ら皇帝を担ぎ上げた権力者を産むことに繋がったと思う。
洛陽遷都は河南統治や江南・荊北・梁州侵攻を考えれば、
いずれ誰かがやっただろうし。
柔然衰退後、北鎮に派遣されている有力氏族に行き場を与えなかったことは
巨大なミステイクと思う。
特に北魏皇帝は全軍の指揮官であるという国是を崩してしまった影響とかも気になるな。
374名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 21:06:14 ID:Ai3/AHWx0
魏延
375名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 22:30:02 ID:2WoJEvgb0
>北鎮に派遣されている有力氏族に行き場を与えなかったこと
どうしたんだろうね
頭の良い人が肝心なことを忘れてるような印象
拓跋宏は好きだけど

李凭って人の「百年拓跋」「北魏平城時代」、読んだ人いる?
おもしろいのかな
376名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 11:06:23 ID:B+B+aB+P0
高尾に拓跋大学っていうのが在るね
377名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 00:10:38 ID:xivz94xA0
赫連大学っていうと何かDQNが集まってそうな感じだ。
378名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 13:37:03 ID:zxoijmKC0
>>377
暴走族多そうだなwww
379名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 22:20:49 ID:3WYOWWal0
禿髪学院の立場は?
380名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 20:16:54 ID:q4gm6j9S0
( ^ω^) シラネーヨ
381名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 21:23:11 ID:9k/vc8030
夏侯頸最強
382名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 09:18:35 ID:mZi3T9KH0
(´・ω・`)だれ?
383名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/15(日) 11:14:05 ID:u6nOquCr0
>>71
案外遅いんだな
384名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/15(日) 14:00:34 ID:PwMA1yz00
遅いかな?日本で言うと古墳時代、大和朝廷が勢力を確立した
継体天皇前後の時期だからはるか昔のはなしだよ。
385名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 09:52:52 ID:5oGc1+UI0
>>376
オモテでろ
386名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/18(水) 09:29:28 ID:nnMKJofi0
漢皇族の劉氏の扱いはどうなったのでしょう?
387名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 20:55:28 ID:EiUjzYXQ0
好きな中国の歴史人物すべて異民族
388名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 21:17:16 ID:AdBpVW8W0
ためしに言ってみ、全部でなくてもいいから
389名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 21:58:42 ID:+L1YwdZs0
わんやんあくだ
390名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 23:32:55 ID:YusRcCTb0
現代の?それとも900年前の?
391名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 09:33:14 ID:92ZAkrg80
ちょwww
392名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 14:06:03 ID:tWN2dcC/0
やっぱ符堅でしょ
393名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 19:26:22 ID:BxAoiEu/0
五胡十六国時代だけの小説ってあるか?
394名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 00:02:51 ID:nJBWx0hn0
うーむ マイナーだからなぁ
395名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 01:22:52 ID:rGDSszXIO
》386
確か山陽公の後継者は永嘉の乱に巻き込まれて殺害された気が…
396名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 01:28:16 ID:rGDSszXIO
》393
つ井上祐美子「柳絮」
主役は東晋に仕えている一族だからいわゆる五胡諸国はオマケ程度だけど…
397名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 21:13:37 ID:1HvPXo2X0
小説化されるとしても、主人公が絞りきれないんだろうね
一番絡むのが慕容垂になるのかな?
落ちが悲惨だが

ハッピーエンドが存在し得ない時代の小説なんて暗すぎるだけだ
晋書あたりでも読んで、際限のない惨劇をタップリと愉しんだほうがいい
398名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 21:27:02 ID:MVHFb3TP0
慕容垂は遠く望み見た敵陣の拓跋珪に旧主苻堅の姿を見るんだよ。
そんで自分らの世代の役割が終わったことを知り、
次はきっと成功するだろうという予感に包まれて死んでいくんだ。
一応、綺麗にまとめてみた。
399名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 21:27:10 ID:x497Mwal0
名無し一族の年代記
都合よく歴史の転換点になる事件や戦に立ち会ってる一族の物語
400名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 21:37:32 ID:1HvPXo2X0
>>398
拓跋珪の最期も、あんまり褒められたものでもないからなあ

苻堅の政治路線は、石虎の独裁政権の影響が結構影を落としていると思うんだが
口では上手くいえないが、石虎政権の盛衰無くして前秦、苻堅の政治思想は
生まれなかったと思う
後趙政権崩壊時の大虐殺→民族融和の理想国家への邁進ってな感じ
401名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 22:34:01 ID:q+fxLSCu0
>>395
(´・ω・`)かわいそうです、ゆりしー並に。
402名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 07:48:30 ID:XzRARkZO0
慕容垂には華があるね、垢抜けてる
好きなのは拓跋Zだけど
403名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 09:24:32 ID:K3fpI6sg0
二文字姓っていつから無くなったの?
404名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 11:01:16 ID:ujxS2+oP0
>>403
今もあるけど?
405名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 18:07:36 ID:4HlKZ9fS0
今も実在するかは分からないけど、手持ちの中日辞典には「禿髪」も載ってるにょ。
406名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 21:50:25 ID:/gUn7a3FO
仇池の楊氏あたりはこの時代を通じて絡んでいるかな…
407名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 09:29:24 ID:Z+HdjPBa0
中国で 金姓ってあるの?
408名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 10:52:10 ID:ZYx+J5s+0
三国志の金旋
409名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 11:14:16 ID:DXHPTQsB0
>>407
正確には台湾の方だけど、金美齢女史。
あと、清朝の皇族が漢族風に名乗る場合、金姓を使ってる。
410名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 18:08:45 ID:KDoJR19H0
六朝時代は支那歴代史のなかでも最も男色が盛行した時期だ
と云いますが、どんな人々や史話が名高いでしょうかのう?
411名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 09:22:35 ID:ag+Vf7uT0
:(;´゚ω ゚):. アッ――――――――――――――――!
412名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 15:10:28 ID:m8dpnNNT0
413名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 22:12:38 ID:Ua8Fts090
怖くてひらけん
414名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 22:15:47 ID:iXQYG3mX0
開いちゃった
「リコーマイクロエレクトロニクス」って文字の検索結果みたい
意味わからん
415名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/26(木) 09:16:37 ID:a19YSsjR0
カオスだな
416名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 09:21:20 ID:lhcUeKoX0
魏帝曹換の末裔はどうなたの?
417名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 21:47:18 ID:AaZ4+H710
爵位をもらったんじゃなかったっけ?
孫ぐらいまでは跡を継いでるからおえるけどそれ以降はよくわからん
418名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/28(土) 01:22:28 ID:UVT3hVNo0
意外とそれなりの扱いはされてたのか
419名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 04:28:56 ID:KEDiawjZ0
晋書がもう少し安ければここも盛り上がりそうなモンなんだが…。
420名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 08:19:45 ID:JDB4wvs40
中央研究院のじゃ駄目?
421名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 09:38:10 ID:KEDiawjZ0
中国語は結局ハードルが高いんだぜ。
日本と同じ漢字だったら、まだ何とかなっただろうけど。
422名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 10:30:09 ID:CP+2QFBfO
まずは資治通鑑で良いのでは?
423名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 21:11:52 ID:cCEH2knn0
とりあえず中央研究院にあるのは原文。
ユニコードに無い漢字は外字フォントを入れると表示される。

『資治通鑑』は、寒泉で一文字から検索できる。けど通しでは読めない。
簡体字でなら、中国のサイトに全文のっかってる。注は無いけど。
424名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 00:14:19 ID:qUppqtXV0
今の中国語って変な門司になりつつあるね
425名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 00:48:23 ID:RBWb5ebwO
中華書局のは読みやすいけど本そのものがヤワなのが難だね…
426名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/01(火) 09:26:24 ID:igYwXFn00
やぶれやすいん?
427名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/01(火) 12:11:32 ID:0C9OK2/a0
>>426
崩れやすい…orz
428名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/01(火) 14:37:40 ID:pIsPC6GL0
>>426
落丁率も高いね。自分で直せば何とかなるレベルだけど
429名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/01(火) 14:40:33 ID:pIsPC6GL0
落丁じゃなくて、製本ミスでした。
結構、くっついてたり、ごそっとずれてたりする
430名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/01(火) 17:47:43 ID:ywEw+OwH0
コピー薄めにしないと裏がうつる
431名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/01(火) 19:45:42 ID:JtXTr7VPO
紙が薄いのもあるけど…

資治通鑑を読んでいて落としたらまっ二つになっちゃったよ…
厚い割に背がチャチなんだな…
432名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 09:16:07 ID:ZL4pxrYP0
( ;∀;) イイハナシダナー
433名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 18:44:37 ID:AbM/SZHZ0
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
434名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 19:58:59 ID:cVwz+1tH0
さすがに真っ二つには、まだ、なってないけど
五代史書彙編はそのうちなるだろうなと、びんびんに感じます。
見開くだけで、背表紙がばりばり言ってるし…
435名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 23:29:57 ID:83jxIyAC0
中国書でもここ最近発刊されたやつは、安手の日本書ぐらいには丈夫になったよ。
物によっちゃ、日本の上製本とほとんど変わらん立派さ&丈夫さのもチラホラある。

だいたい今世紀に入ったあたりを境目に、中国の製本技術が格段に進化したと思う。
あとは二十四史シリーズみたいな旧版の定番所を、今の技術で再版して欲しいなぁ。
436名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 00:21:23 ID:aDmnw09SO
正史は紙質あげてほしいが、あのペラペラやめたら厚くなるかな…
パンフ程度のものは略字なので買うこともないけど、同じようなチャチな物なのかな?
437名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 00:23:47 ID:/7FGHJZh0
ん゛〜だうでしょう〜
438名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 02:10:33 ID:Deh0uIbg0
蜀漢討伐にでた魏の2将は
晋ではどうなったの?
439名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 02:17:30 ID:gEbsqImq0
>>438
トウ艾は銀英伝のロイエンタールのような末路を迎えたよ。
劉禅とかに高い爵位を独断で与えたり、専権ふるって蜀行政の合理化やってたりしたら、
ショウ会に嵌められて、失脚。護送車に乗せられて都に送られる途中で暗殺された。

鍾会は鍾会で、トウ艾居なくなった後に姜維に丸め込まれてまんまと謀反の策謀に乗せられ、
蜀に居た魏の武将達を纏めて監獄送りにしたまでは良いが、残った連中にクーデターされてアボーン。
しかも、都にはバレバレで、クーデター失敗してても、大軍に包囲される寸前だったりした。

つまり、二人とも晋の時代まで生きられなかった。
440名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 02:18:09 ID:9VCfmkDgO
衛カンは椅子フェチになり諸葛緒は孫が司馬炎の寵姫になったよ
441名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 03:27:11 ID:I5CwO0RnO
そして劉禅は天寿を全うした。
442名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 04:21:55 ID:ACl2IbNE0
劉禅が賢君だったら、諸葛亮が魏呉を討ち果してただろうになぁ。
そう考えると悔しい。
443名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 07:40:27 ID:4Bsowyfg0
国力的にムリじゃね?
444名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 08:04:20 ID:CqQeoB6n0
国力的に無理だと思うし、何より魏の中核をなす士大夫層、それも
漢代から根を張っていた貴族たちの支持を得られないだろうことが
痛すぎる。
もし蜀漢に負けると、蜀の有力者(幽州・荊州出身だが家格は微妙)とか
地元豪族連とかの下風に立つ、ないしは同格の人間として付き合わねば
ならないわけで。
もし諸葛亮が涼州・雍州を上手くゲットできてたとしても、心情的に
受け入れがたいものがあったんじゃなかろうか?
445名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 09:32:13 ID:8oygtHBG0
蜀はしょせんド田舎なんだよ。今も昔も。
引きこもるには適してるけどね。

蜀出身者なんて中原から見たら異民族に近い認識でしょ?当時。
446名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 09:49:11 ID:aDmnw09SO
確か王朗あたりが諸葛亮に「あなたが異民族の中に埋没してしまうのが心配だ…」と手紙を送ってたような気が…

まぁ五胡とは関係ないけどね…
447名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 11:15:12 ID:PEtkKWLF0
>>446
あれは王朗が許靖へ送った手紙ですね
448名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 11:16:44 ID:1eY13Fr40
異民族扱いかよ・・・・
449446:2007/05/03(木) 11:42:04 ID:aDmnw09SO
》447
そうでした…失礼
450名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 12:39:02 ID:C6UvS5oAO
実際次の時代じゃ真っ先に異民族国家が誕生した土地だしな
451名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 21:51:29 ID:VwtvLG9N0
創価総化
452名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 03:20:11 ID:G/li55wo0
重ねて問いまする。
六朝時代は支那歴代史のなかでも最も男色が盛行した時期だ
と云いますが、どんな人々や史話が名高いでしょうかのう?
453名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 07:09:52 ID:TXjJtrZW0
中国を支那っていう人きらい。
あと男色限定でしかしゃべらない人もきらい。
454名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 08:56:03 ID:31FqUj/NO
》452

苻堅と慕容沖がそうした関係だったような記述があったと思うけど…
名高い史話というのは知らないな…
455名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 13:34:56 ID:kL0mpqpq0
>>453
世界中の人がCHINA(シナ由来)と読んでいるよ
あなたは世界中のほとんどのひとを嫌いになったの?
456名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 15:12:01 ID:MqCOYZZMO
>>455
支那という呼び方を中国を蔑視してるようにとらえてるんじゃない?     
貴方が仰る通り支那=CHINAで秦が由来になってるのは事実なんだが。

つーか俺も男色には難色を示す方だ・・・
457名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 15:17:45 ID:pAgfIbVw0
それが苻堅や慕容部となんの係わりがあるんだい?
458名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 17:04:38 ID:A75fxqN+0
「日本人が中国を支那と呼ぶ」ことに特別な意味があると考える人は多いだろう
他国が中国をどう読んでいるかは全く無関係に。
459名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 17:24:16 ID:TXjJtrZW0
由来ではなく、意図の問題。
460名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 18:19:31 ID:n8vFkk1o0
学者きどりで支那と書くのもいるだろう。
なんとなく本格的っぽいから。
愛国者有志は貶める意味で書くだろう。
461名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 19:23:04 ID:uDbJovjX0
慕容[皇光]ちゃんの冒頭にある龍顔版歯の版歯ってどういう意味?
462ビリー・ザ・マッド:2007/05/04(金) 21:06:14 ID:TRjS1Lsq0
田中芳樹の『奔流』で一躍有名人になってしまった
陳慶之なんですけど、たった七千人の兵力で洛陽(敵国の首都!)
に攻めて行って四十七戦全勝って、話半分でも凄すぎです。
結局は反撃されて全滅して、自身は僧侶コスプレで逃げ帰るんだけど。


奇しくも同時代、というかほぼ同時期に活躍したのが
東ローマ帝国の名将ベリサリウスってのが
なんか歴史のいたずらを感じさせますw

この二人、悲しいくらいに類似点が多すぎw
463名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 23:21:17 ID:4Aako1uv0
日本の伝統的な呼び方を、差別的な呼び方だとして苦言を呈す。
「支那と呼ぶな」というのは、むしろ中国による日本への嫌がらせに他ならない
464名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 23:31:14 ID:A75fxqN+0
中国をシナと呼んでいたのはせいぜい数十年。
カラとかモロコシの方がよっぽど伝統的なんだからそう呼んだら?
465名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 00:05:42 ID:YpSi9cHoO
あんまり良く知らないがロシアあたりでは契丹絡みでキャセイと呼ばれてなかったかな?
466名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 00:31:37 ID:aIstgZzV0
ロシアが蒙古系の末裔だからでしょ。
契丹は蒙古系遊牧民族だから。
って、そんな呼ばれ方してるのは、実は知らんという知ったかでした。
467名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 00:32:27 ID:zVsCt74t0
うん。ロシアからすれば中国は「遼」のコト指してたから
ちょっと時代がずれるけど
468名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 00:40:22 ID:Dj5RJfz40
契丹=キタイ→キャセイ、ね。
今でも香港の飛行機会社はキャセイエアライン
469名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 00:41:16 ID:Dj5RJfz40
ごめん、キャセイパシフィックエアウェイズだったorz
470名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 10:06:24 ID:IFEMgbyA0
支那(シナ)は支那でしかない。
秦以来の伝統的・世界的な呼称だ。
よって日本人に対してのみ「シナ」と呼ぶな
などという中共の言い分は不当な差別である。
日本で「中國」と言えば、国内の中国地方を指す言葉だ。
混乱を避ける為にも、「支那」を用いる可きであり、共産政権の不当な
言い掛かりに屈する理由は片鱗だに無い。
471名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 10:11:25 ID:oacHeRvp0
>>462
一度はしてやられながらも、速攻で洛陽への包囲体制を立て直した
爾朱栄たんも何気に褒めてあげたい。

お互い有能だったが故に猜疑心を抱かれ続けてしまったベリサリウスと、
相手が精神的に彼岸の人になってしまったんで面倒押しつけられた陳慶之は
どっちがまだマシだったんだろう
472名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 10:11:35 ID:aIstgZzV0
>>470
間違いはない。
>>共産政権の不当な 言い掛かりに屈する理由は片鱗だに無い。
は、熱意と信念は理解できるが、自身の胸のうちにそっとしまって置いたほうがよい。
言葉にしてしまうと、ある種の扇動となってしまうから。
それに不当な言いがかりというのはもっともだけど
共産政権だから、というのは当たらない。
473名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 12:07:59 ID:ZK8nFK9n0
歴史用語で用いるならまだしも、わざわざシナという言葉に固執するほうが滑稽だと思うけどね。
474名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 12:20:16 ID:YpSi9cHoO
まぁ自分もそうだがわざわざここで語り続けることでもないしね…
475名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 13:18:17 ID:pkNeU9CK0
支那という呼び方をとくに日本人だけが蔑称として用いたんだから
そりゃ日本人だけが反発されて当然だわな。
伝統的な呼称を蔑称に貶めてしまったのが日本人なんだよ。
476名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 14:07:09 ID:IRlpW8270
いつまでつづけるつもりだぼけ
477名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 15:06:38 ID:xQuNlRPm0
>>466
>ロシアが蒙古系の末裔

おまえは何を言ってるんだ
478名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 18:30:58 ID:YJBYsr9a0
そうやって使える言葉が少なくなっていく
在日挑戦人→在日コリアンのように・・・
479名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 18:55:36 ID:F74NI3HH0
西晋〜東晋の流れを
各武将を挙げて
簡単に教えて下され
480名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 19:29:56 ID:YiA5Fb0p0
王導が頑張った
481名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 19:50:58 ID:EGVBXyBb0
【涼州】
張軌が「端っこから領土経営していけば、多正面作戦の危険性が減って、安全じゃねえ?」
と出世コース蹴って、涼州に赴任

【荊州】
劉弘が胃に穴あけながら八王の乱の調停に奔走したが、上が馬鹿ばっかりだったから和解案まとまらず
陶侃に後事を託して没する
王敦が紆余曲折を経て荊州に乗り込み、江南の諸豪族を平定する
まあ、現場で頑張ってたのは陶侃あたりなんだが

この二州は地方官が優秀だったおかげで、かなりマシな流れで変革期を乗り切った
三輔地域や司州は悲惨の一語に尽きる
482名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 20:45:53 ID:53N3p5mH0
劉弘【西暦236〜306】
字を和季。沛国相県出身。父は鎮北将軍劉靖。


483名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 21:02:36 ID:YpSi9cHoO
涼州から国都防衛に派遣された北宮純は気の毒だったな
484名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 23:37:48 ID:F74NI3HH0
>>481>>482 乙です
485名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 07:35:07 ID:1ZW3roe60
北宮純(きたみやじゅん)って実際にいそう
486名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 20:40:50 ID:my5T0D1v0
うむっwww
487名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 21:50:35 ID:FwAX4PEjO
石勒が漢の高祖に会えば家来になって奉仕する。
光武帝なら相手になって争う。
曹操や司馬懿は問題にならぬ。
劉邦と曹操、司馬懿を石勒がどう思ってたかは知ってるけど、
劉秀に対してのエピソードを誰か教えてくれませんか?
488名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 22:33:52 ID:17kid+kaO
》487

光武帝=劉秀だが
489名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 23:02:29 ID:FwAX4PEjO
>>488
光武帝=劉秀はわかってるって・・・
石勒がなぜ光武帝なら相手になって争うと言った切っ掛けを知りたいんだけど
史記を読んで聞かせてもらって劉邦のこと尊敬してたんだろ?・・・石勒
490名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 23:10:14 ID:17kid+kaO
》489

それは失礼

晋書あたりじゃ詳しく書いてなかった筈だな…
資治通鑑とか見たら何か出てるんじゃないかな
調べてごらん
491名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 23:38:44 ID:FwAX4PEjO
>>490 d
まあザクっとでいいんだけどね・・・エピソード。

でも資治通鑑を取り敢えず調べてみるよ。
492名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 23:57:05 ID:17kid+kaO
》491

気になったので晋書みてみたけどやっぱりほとんど載ってないよ

高句麗や宇文部の使者をもてなしていて徐光に自分を古代の君主に例えさせて劉邦や曹操以上と言われたのに対する言葉だけあった

もし自分が劉邦にあえば韓信や彭越と先を争う部将になり、劉秀にあえば中原を争ってどちらが勝つかわからない…というようなことだね
石勒の見方としては劉邦>自分>劉秀みたいだね
493名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 00:19:43 ID:JRszK/G20
劉邦>自分=劉秀>曹操=司馬懿
494名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 05:54:11 ID:YSbjSPe2O
>>492
晋書の石勒の二劉曹操司馬父子論 だね
劉秀は石勒ほどじないけど、自立するまでがやや遅いんで対等な関係にもちこめそうなので
自立して争うことができる。
だから劉秀(光武帝)となら相手になって争う。 と石勒は考えてたのかな?
495名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 05:55:19 ID:YSbjSPe2O
>>492
晋書に載ってる二劉曹操司馬父子論だね。
劉秀は石勒ほどじないけど、自立するまでがやや遅いんで対等な関係にもちこめそうなので
自立して争うことができる。
だから劉秀(光武帝)となら相手になって争う。 と石勒は考えてたのかな?
496名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 10:43:57 ID:X8hFvlAq0
石勒は自分は戦に関しては韓信や劉秀に比肩する力がある、と思ってたんじゃないか?

だから曹操や司馬懿は敵じゃないし劉秀相手なら天下を争える、と。
でも劉邦相手には戦では勝てても最終的に勝てる気がしなかった、とかかなと思う。
自分に項羽以上のことが出来ると思える奴はそうは居ないだろうし
497名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 12:21:09 ID:Mo84ohOt0
そうだね
ただ、後世の俺らからすれば曹操・司馬懿はともかく
劉秀には勝てないだろ……っていいたくなるがw
まあそういうとこ含めて石勒の愛嬌というか魅力だ
498名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 16:52:40 ID:8e3xp53J0
石勒も好きだけど慕容恪はもっと好き。
499名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 20:03:10 ID:CUtbS2d80
苻堅は人気ないのかな
あの人徳ぶりは大好きなんだが
もし仮に苻堅が中国を統一してたら漢民族も異民族も融和した帝国を4世紀の中国に誕生したかもと考えると興奮する
500名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 21:36:27 ID:GJx+g/cl0
理想は実現しないから理想なんだぜ
501名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 21:39:13 ID:zkebu+PJO
》498

慕容恪が前燕の帝位を嗣ぐ可能性があっただけに惜しまれるね
彼が嗣いでいれば慕容垂が亡命せずに済んだだろうからね
ただ彼が嗣いだとしても亡き後は結局慕容[日韋]が嗣ぐことになれば同じ流れになったかな…
502名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 21:45:26 ID:YSbjSPe2O
>>499
ヒ水で転けたのが痛いよね・・・苻堅
個人的には苻堅より王猛がスキー
>>501
慕容恪もスキーだがなんといっても慕容垂の男っぷりに惚れた。
503名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 21:48:29 ID:zkebu+PJO
》499

苻堅はこの時代ではやはり異質な存在ということになってしまうのだろうね
ただ慕容垂が苻堅とは戦えないというようなことを言っていたことや、彼の死後姚萇の将士が泣いたということからして人物的な魅力が大きかったことに異論はないね
504名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 21:53:15 ID:LhCKjMePO
>>503氏よ、全角一文字の「》」じゃなくて半角の「>」二つ重ねるんだ
505名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 22:22:08 ID:929ZSSmf0
>>502
王猛が生きていればヒ水も違った展開になっていたのだろうか。
…そもそも南征させないか。
506名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 22:46:15 ID:YSbjSPe2O
>>503氏よ>>をコピペして定型文に保存するんだ。

>>505
そうだね。王猛は東晋を討ってはダメだって言ってたもんね。
507名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 23:03:47 ID:3hcZoXfu0
姚萇って経歴みるとすごい面白いよな。才能は慕容垂には及ばないけど
凄い人間っぽいヤツだ。小説の主役向き
508名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 23:22:06 ID:jp2qZD3k0
王猛も燕征伐前は賛成してたんだけどな、東晋攻め
慕容垂の粛清にした以上は危険と判断したのか
509名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 23:29:16 ID:HACfNeB30
王猛が桓温についてたら、どうなってたんだろ。
510名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 13:23:51 ID:3H5SEvvAO
というか王猛ゲット以前に
苻堅の王猛や石勒の張賓的有能なブレーンはいないの?・・・桓温
彼の人材発掘能力は高いんだし。
511名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 16:26:14 ID:txH2Cky90
>>510
>桓温のブレーン
〔希卩慮〕がいる。北府軍創設者の〔希卩慮〕鑒の孫。
512名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 16:28:52 ID:txH2Cky90
間違い
〔希卩〕超がいる。北府軍創設者の〔希卩〕鑒の孫。
513名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 17:20:18 ID:3H5SEvvAO
>>511-512 d
その〔希卩〕超ってかなりの知恵者なの?

桓温自身結構マルチな人物って印象を俺は持ってる。

あと他に両晋・南北朝にはどんな名参謀・名軍師がいるのか誰か教えてくれませんか?
514名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 22:00:13 ID:HykB29B2O
>>504
>>506
ありがとう

>>507
姚萇はヒ水の敗北後に反乱軍の鎮圧に成功して、苻堅の子が敗死してから恐れて逃亡してるんだよね
慕容垂と比べるとやはり格下になるんだろうかな…
515名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 22:07:20 ID:EEhBsHIg0
姚萇の不幸は、親父や兄貴には及ばない器なのに、それでも強敵たちにぶつかっていかなければ
ならない境遇そのものにあると思うんだが
あれで、王猛や慕容兄弟、苻堅、桓温と比べられるのはかわいそうだよ
516名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 22:21:44 ID:pbojnKUC0
>>513
劉宋なら劉穆之とあと徐羨之てとこかな。

しかし劉裕も人気無いな・・・
517名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 22:26:37 ID:HykB29B2O
>>513
五胡しかわからないけど…
かなりマイナーどころもアリとすると
前趙の游子遠、後趙の張賓、前涼の謝艾、前燕の慕容恪、前秦の王猛、後秦の尹緯、姚紹、後燕の慕容隆、南燕の韓綽、夏の王買徳といった人々は参謀・軍師(・政治家)として功績を残したと思う
518名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 22:33:05 ID:4sPoLGpk0
>>513
北魏の華北統一に大きく貢献した崔浩とかどうでしょう
仏教弾圧や国史事件を起こすなど、トラブルメーカーでもありますけど…
519名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 23:01:52 ID:3H5SEvvAO
>>516ー518 d
謝艾、慕容恪、王猛は名将としても名高いよね。

崔浩って小便かけられた人?
520名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 23:33:34 ID:7gOVPdR70
崔浩=空気嫁
521名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/10(木) 22:33:57 ID:hRWttntpO
冉閔って強いのか?最終的には負けてるとは云えなんってたって
あの慕容恪を10回も撃破してるんだし。
まあ相性も関係あるんだろけどね。
522名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/10(木) 23:05:57 ID:YQLwmg+60
冉閔は、自ら苦境を作って壮絶に炎上する投手タイプ
延々と一人相撲をとっていたようなもんだからなぁ
もうちょっと、何とかならなかったものか……

慕容恪は弟の垂よりも戦上手だろうね
寡兵で大軍を迎え撃ち、奇襲し、撃滅するのがこいつほど似合う武将もほかにはおらんだろ
王猛とのガチ対決(最強の王佐の才決定戦)が見たかった
523名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/10(木) 23:29:09 ID:Eq74DrL20
>>522
要するにホセロか
524名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/10(木) 23:30:11 ID:T8qCu7cRO
>>521
冉閔は闘いには強かったと思うけど、将に将たる人物になれなかったという印象があるね…
525名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/11(金) 07:29:34 ID:sc3G09wy0
冉閔のAAは、沼者を流用すればいいのか
526名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 09:38:47 ID:vGb2jUpg0
( ^ω^) うむ
527こんな名無しでは、どうしようもないよ。:2007/05/12(土) 18:20:50 ID:pPuxrPeI0
晩年の劉裕の豹変ぶりは秀吉に共通するものがあるような気がするね。
528名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 20:37:50 ID:yRHJ8rz20
桓温、桓玄親子の失敗を見ているから、禅譲へもっていくまでに慎重に行動した結果だろ。
529名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 20:56:21 ID:eJyId9Gz0
同じ野心家でも桓温はなんか愛嬌があるけど、劉裕は親しみがわかないな
530名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 09:21:15 ID:TQzm8Brk0
うむっ
531名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 21:36:50 ID:OtWFfeJ+0
何か余り面白みのない用意周到な野心家って感じですよね。>劉裕

吉川忠夫氏の伝記(中公文庫?)しか読んだことないけど。

532名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 22:16:48 ID:/JXZk9+SO
一兵卒からはい上がってきて北府軍を解体された後に
劉穆之と反乱を起こす辺りまでは好きだけどな>劉裕
533名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 22:20:24 ID:T82BhV5CO
劉宋は元凶が面白い
534名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/15(火) 13:15:11 ID:2fqql4d00
劉裕は南朝の皇帝の中じゃ最も質素な皇帝だったと聞いたことがある
535名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/15(火) 22:16:22 ID:Ahw9Lf140
劉裕は字の逸話が好き
536名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 14:53:19 ID:8YkyqCp80
>>535
「大きく書けば上手に見えます」って言われて、でっかく書きすぎた話か
質素な皇帝の、ささやかな紙の浪費とも解釈して笑ったよ
537名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 23:23:14 ID:18j2zep+0
「寒門の成り上がり者」に対する「上品の勢族たち」のなま暖かい視線が
よく分かるエピですねw
538名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 09:22:02 ID:T3vbVbU90
劉裕萌え
539名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 19:06:22 ID:X0SZJbcE0
どんなとこに萌えるのか語ってみてよ

劉裕サイトの管理人さんだったりして
540名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 20:46:15 ID:qUVgycNZ0
宇文部サイトとか赫連勃勃サイトとかないのか
541名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 00:58:18 ID:GbnvE59p0
あるお
542名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 09:27:30 ID:M6B6NKpI0
日宋友好!
543名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 20:09:05 ID:pXFQgU2kO
劉裕は赫連勃勃が長安を攻めるとは全くの予想外だったのかな
544名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 22:44:01 ID:IFXE5nnmO
高を括ってた様な印象を受けるな俺は
545名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 23:37:21 ID:GvT5fMKQ0
劉裕に仕えた連中はロクな死に方をした奴がいないな
546名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 00:04:12 ID:TOKP18NVO
王鎮悪と沈…林子か田子かわからなくなったけどあそこまで険悪になるとは思わなかったんだろうかね
547名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 09:34:20 ID:KxC9N2PO0
劉宋なんてすぐ滅んだしね
548名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 10:50:03 ID:Lurxkn0p0
南斉なめんな
549名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 11:15:41 ID:v/3Vaq8e0
三国時代を含む魏晋南北朝期の王朝は東晋と北魏を除いては殆んど短命王朝だからね
550名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 15:38:13 ID:hzPasuv+0
劉裕に関するエピソードでは字をでかでかと書いたってやつも好きだけど、
傷に効くという琥珀の枕を献上されたときに、喜んで受け取ったかと思うと、
それを砕いて諸将に分け与えたっていうエピソードも好きだな。
551名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 21:28:57 ID:hXm3GAy40
おまいら西梁を舐めてると痛い目に遭うぜ!
552名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 22:03:42 ID:rwL1IMve0
>>551
まあ、なんつうか、皇族は比較的、大事にしてもらえたよね…
553名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 20:10:33 ID:vnJ6ybvR0
西涼なのか後梁なのかがわからない
554名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 21:40:00 ID:Ju8xC+luO
>>553
西遊記に出てくる西梁女人国のことじゃねーの?
555名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 23:31:44 ID:YAdrIZJT0
ぅうむっ。
556名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 19:10:37 ID:in+HSxMh0
叩き上げとボンボンを並べられると違和感がある
557名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 19:12:50 ID:in+HSxMh0
すまん誤爆
558名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 20:12:56 ID:hLQe4Q9T0
ここも見てるってことだね
559名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 22:01:54 ID:WinA/SEIO
ひょっとして痛い子がこの間から出没してるあのスレか?
ここでも同じ主張してみてほしいもんだ。
560名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 09:44:15 ID:XCvlMhTn0
魏は後漢を受け継ぎ、晋は魏を受け継いだ

なので

漢、魏、晋>>>>>>>>>>>>>>そのた魏晋南北朝王朝。
561名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 21:02:14 ID:PtCUMVN10
痛い子とかそういうまえに

漢、魏、晋>>>>>>>>>>>>>>そのた「魏晋」南北朝王朝。
                                 ↑
                              これなあに?
562名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 21:09:16 ID:qQwQhuiD0
魏晋南北朝時代の他国、って事だろ。揚げ足取りもダサいがそれに失敗するとはなおダサい。
563名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 21:49:15 ID:ymBQn7Hc0
宋は晋を受け継ぎ、斉は宋を受け継ぎ、梁は斉を受け継ぎ、陳は梁を受け継いだ

よって

漢、魏、晋、宋、斉、梁、陳>>>>>>>>>>>>>>その他魏晋南北朝王朝
564名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 22:18:52 ID:bl7Wq+1b0
しかしながら石勒の俺ルールによってこうなる

漢=後趙>超えられない壁>魏>晋>
565名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 02:05:31 ID:Aw26OPA20
蜀は漢を受け継ぎ、前趙は蜀を受け継ぎ、後趙は前趙を受け継ぎ……
566名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 00:23:54 ID:UrxdoX2vO
魏書とか見てると正史のない五胡諸国を知るには晋書の載記って貴重だな
567名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/01(金) 09:18:41 ID:mC9lu2IU0
( ^ω^) ふーむ・・・・
568名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/05(火) 09:19:07 ID:K1rSFOZ60
曹換は聡明だったけど
即位時の環境が悪すぎた
569名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/07(木) 03:55:14 ID:CjbR+nQV0
知識人階級から疎外されていく曹氏って感じだしな
個人能力で見ると、曹氏って名君予備軍が多すぎじゃないか?
570名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 00:03:12 ID:I2Rut/7P0
たしかに・・・・
571名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 00:26:28 ID:UHCTTUlJ0
何だよ、中野英雄板って・・・・
572名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 15:55:40 ID:qZ5g+RIB0
中野宗時?
573名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 00:19:05 ID:sInfBuFOO
コレコレ
574名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/14(木) 22:57:10 ID:cBvQOGXeO
北方系異民族がそれなりに力を持てたのに南方系がダメだったのは何故かな?

もともとあまり侵入意欲がなかったのかな?
575名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/14(木) 23:27:15 ID:bZRdNqg+0
>>574
要因を挙げるといろいろあるんだけど、そのうちの一部として
河南・徐州一帯、長江・淮水流域と四川盆地、
あとは一部の海岸地帯以外を除くと
点と線のような支配しかできていなかった。
安定さえすれば国力の回復できた北朝と比べて
そもそもの地力が低かった。

ただでさえ、そうなのに宋文帝期の敗北から梁の成立まで
国内は常に不安定で内戦・粛正が相継ぎ、北魏の侵攻に対処できず
生産性の高い漢中一帯や淮水以北を完全に失うことになった。

とか?
576名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/14(木) 23:27:49 ID:hNPBfVOy0
三国時代>>>>>>>>>>>>>>他の時代
577名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/14(木) 23:34:50 ID:bZRdNqg+0
>>侵入意欲
士気の問題で言うと、
無いと言うより、「できない」状態が長かった。
軍事力を統一指揮下に置いて、
なおかつ政治的な安定を確保できる政権が無かった。
宋文帝と梁武帝期には可能だったが、
宋文帝は不運にも北魏の軍事力絶頂の時代に直面し、
梁武帝期は結構締め上げたものの安定した国力のぶつかり合いになり
トータルで互角以上にはなれなかった上、
浮山堰の不首尾と蕭綜の反逆以後は武帝が軍事的な意欲を明らかに失った。
578名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/14(木) 23:57:48 ID:Pdy/V31I0
>>574
この場合、南方系異民族のことを指しているのか?
579名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 01:55:57 ID:Q5K633G60
よくいわれるのが南は温順な気候で作物もおいしいものがたくさん取れて北方は寒くて食料も少ないから南方から本気で北伐する奴がいないといわれるな
580名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 03:17:28 ID:bbNe+wHU0
ベトナム地方のこと言ってるんじゃないの?
581名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 03:29:29 ID:xH+YzyPS0
そういう意味だと、北も南も同レベルになると思うんだが。
南でも蛮人・リョウ人[僚の獣偏になった奴]・越人・テイ人なんかは
自分のテリトリーとその周辺で暴れまくってる。

匈奴・鮮卑・柔然・突厥は異民族というか、中原の帝国と対等の隣国って感じだし。
比較対象にするには何か違うような気もす。
比較対象なら羌人とか奚人とか南下した丁零人とか、そっちの方じゃね?
582574:2007/06/15(金) 22:09:00 ID:k7VxJFp0O
言葉足らずでしたm(_ _)m

南方系は南方系異民族を意図していたので578さんの言う通りで、
580さんの言う通りそれなりに体裁を整えていた林邑あたりを意図してました

581さんの挙げていた南方諸族はどちらかと言えばテイを除けば生活の為に衝突してしまったという印象があります
北方系では匈奴や鮮卑は中国本土に王朝を建てようという意欲が感じられます
583574:2007/06/15(金) 22:28:24 ID:k7VxJFp0O
南朝については577さんのお話に近い印象を持っていました
東晋時代の王敦以降から政治の中心と軍事の中心が別れてしまったように思います

575さんの点と線の支配というお話については逆に北において起こっていた現象かと思っていました

579さんのお話は食料事情ということですが、この頃にはもう開発がだいぶ進んだということなんですかね


長文になってしまった…

m(_ _)m
584名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/17(日) 21:11:50 ID:2WueXlhF0
>>577 結局北から亡命してきた皇族や成り上がり軍人を
在地の豪族がおしたてて作った連合政権なので
そんなに強力で安定した国は作れない、ってことでOK?
585名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 18:54:34 ID:tbVOZ6XX0
>>584
上ばっかり盛り上がってて、
実際に戦う人間がやる気がなかったらうまくいかないような

>>577
ところで、東晋末期も該当しない?
桓温の北伐とか、劉裕の南燕併合とかあったし
586名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 20:19:28 ID:R/hOl1kB0
一応陳も北伐してる
587名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/21(木) 09:24:05 ID:HyW9hfci0
北朝は難しいのう
588名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/25(月) 09:17:15 ID:BpYJfS3z0

北朝に異民族王朝が多いのは地勢から?
589名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/25(月) 20:51:02 ID:5CPAA38WO
>>588
寒くなってきたので異民族が暖かい方に移動して来た
曹操が安い労働力や軍事力になると思って拉致して来たら、何代か後にそいつらが蜂起した
590名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 21:44:19 ID:6j9Zt43F0
石氏って今で言う何人なん

現在の中東の方の人種だって説があるけど本当かな
591名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 21:57:37 ID:BkSNO45/0
民族が枝分かれしたり滅びたりしてるから、
今でいう何人かという考え方は難しいと思う
魏晋の漢民族と今の漢民族もほとんど別種の様な気がする
592名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 22:52:35 ID:6j9Zt43F0
なるほど今の漢民族も他の民族との混血って事か

匈奴と羯人の違いもよく分からんが、
羯人はペルシャ系の移民って説を聞いたことがある
実は絶滅してないってのも聞いたことがあるし

中国人=漢民族ってイメージがあるけど
五胡の時代は明らかに違う人種が存在してたのかな イメージが沸かんw

三国時代の劉備とか孔明とか五虎将や蜀・呉の人間はみんな漢民族だったのかな
馬超あたりは違う部族のような匂いがするんだけどどうなんだろ
593名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/01(日) 01:16:25 ID:OzqRj9+x0
石氏は今はほとんどいないけど、学会の流行で言えばゾグド人。
五胡〜北朝では、人口の半分近くが非漢族だったという説まである。
とりあえず「興亡の世界史」シリーズの森安氏の本を読むといろいろ印象変わるかもね
594名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/01(日) 11:42:51 ID:7qzD+JYbO
>>592
スレ違いになるからちょっとだけだが

蜀漢には爨習という人物がいるが、この人はおそらく南方の異民族じゃないかな
595名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 15:27:45 ID:RGeZGu460
>>593 漢人から
おまいの顔は彫りか深いので(眼病の治療に)尿を眼にガボガボ流し込んでも大丈夫。
って皮肉を言われた羯人が激怒して石虎(?)にチクって漢人皆殺し。
ってエピソードがあったな。

596592:2007/07/02(月) 18:42:47 ID:jGOdj6vb0
>>593-595
サンクス
勉強になります
597名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/05(木) 09:33:43 ID:TVNC4ra00
あげ
598名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/05(木) 21:47:50 ID:80aYMyltO
拓跋トウなんかは漢人と鮮卑の混血だろ?
鮮卑の血は64分の1ぐらいしか入ってないという話を読んだことがある。
599名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/05(木) 23:21:46 ID:pieeYVidO
沮渠氏の北涼は牧【牛建】で滅んで無諱と安周は高昌国として扱われるのは何故だろう?

牧【牛建】が囚われの身になって残党がこれを受け継いだのは夏の赫連昌から定のケースとあまり違わないように思うんだが…
600名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 00:41:28 ID:EyYPoWDP0
たくばつ何かは忘れたが北魏は代々漢族の后だったから徐々に血は漢族になってたとはきいたな
601名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 01:55:58 ID:IlwWrhL80
二代目明元帝の母親は匈奴劉氏
三代目太武帝の母は漢人杜氏
3.5代目恭宗の母は匈奴賀氏
四代目高宗の母は蠕蠕イクキュウロ氏
五代目顕祖の母は漢人李氏
六代目高祖の母は諸説あり

こう見たら漢人の后のほうがむしろ少ない
602名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 05:25:18 ID:W67ZLbWo0
>>599
無諱は一度、北魏に降伏してから再反逆してるから(北涼との非連続性)。
高昌を占拠してから、しばらくの間、高昌の主だったから(支配の実態)。
宋が安周の高昌王位(河西王位)を承認してるから(第三者からの承認)。
などなど。
特に一番上は赫連定との相違点。
でも、二人とも沮渠蒙遜伝に付随されてるから、実際は北涼残党として
見なされてたのは確かだと思いますよ
603名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 05:29:21 ID:W67ZLbWo0
訂正
三つ目はちょっと間違い。南朝にとって北涼=河西だった
604599:2007/07/07(土) 00:57:59 ID:y8uSBFDxO
>>602
ありがとうございました
宋書はほとんど手つかずなので高昌王承認は知りませんでした

何年か前に仏教美術展を見に行ったら涼王大沮渠安周という名が刻まれた像があったので、涼王を称していたのかと思ってましたよ
605602:2007/07/07(土) 02:28:08 ID:YCfY60CP0
>>599
あくまで南北正統王朝側の記録だけ抜き出したので、
自称や沮渠無諱・安周側の視点についてまでは何とも。
彼らが涼王を称していたか、現地では涼王と見なされていたとも思われます。

後、こちらの書き方が悪かったようで、
宋は河西王(従来の宋側から見た北涼沮渠一族に認めた王位)を承認しただけです。
ただし、拠点が姑臧から高昌に移っていることは把握・承認している
というところです。
中国側から見た高昌国王という名称は、その後の柔然を後ろ盾とした[門+敢]氏政権に
始まっていますので。
606604:2007/07/09(月) 23:21:43 ID:Q9xRBLjZO
>>605
重ねてありがとうございます

他国から称号を受けていた勢力は自称との違いがちょっと面倒ですね

南朝だけでなく北朝との両属状態だったりすると、双方で違った称号を受けたりして更に複雑になりそうですね
607名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 21:59:37 ID:N72L4Ri30
( ^ω^)こうそんさん
608名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 09:23:54 ID:vLoTLdHr0
三国志の人物の子孫があまり見えなくて残念
609名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 18:58:20 ID:5eC/r4Ap0
貴族になって腑抜けたんだろ
風が怖い奴がいるぐらいだしな
610名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 22:30:16 ID:m26V+ApgO
>>608
三国志が好きなら…

諸葛氏の一族は東晋にいるよ
諸葛誕の孫だったかな
611名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 22:10:47 ID:WLMVCEUD0
諸葛亮の孫は江州刺史まで昇ってる。
その後はどうかは自分は知らない。
612名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 22:46:49 ID:eSBuW71WO
>>611
>諸葛亮の孫は江州刺史まで昇ってる。
諸葛京だね。
俺もその後はどうかは知らない。
613名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/20(金) 13:18:04 ID:vezti0VA0
築2000年の城壁が倒壊―湖北省襄陽市【写真】
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g9711.html

2007年7月12日、湖北省襄陽市の城壁が倒壊した。

倒壊した城壁は襄陽公園に位置する。倒壊部分は長さ20m、高さ20mにわたる広大なもの。当日、現
地には大雨が降っており、城壁がゆるんだものとみられる。付近の娯楽施設が倒壊した城壁の下敷き
となった。周囲にいた市民の助けで、下敷きになった被害者はすぐに救出されたもよう。

襄陽市の城壁は漢代に築かれ、宋代に改築された長い歴史を誇る。「鉄作りの襄陽」と言われたほど
の強力な城壁として知られていた。しかし1993年以来、城壁は6度にわたり倒壊。2005年から補修工
事が始まっていた。(翻訳・編集/KT)


102 世界@名無史さん 2007/07/14(土) 22:51:48 0
>>101
崩れた城壁の写真では、中が版築土塁で表面が煉瓦で覆われた中国式城壁の構造がよく判る。

恐らく漢代では版築土塁のみで、煉瓦で覆われたのは宋代だと思う。


103 世界@名無史さん sage 2007/07/16(月) 01:28:45 0
>>101
城壁って土なんですか?


104 世界@名無史さん sage 2007/07/16(月) 02:51:09 0
>>103
城 = 土+成 = 土から成る


105 世界@名無史さん sage 2007/07/16(月) 03:48:10 0
>>104
イメージとして城壁は石だと思ってた
土の壁なのか
詳しいサイトありますか?



ひょっとして建物も土ですか?
614名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/20(金) 14:58:31 ID:4gQez1fg0
赫連勃勃が現場監督やればよかったのに
615名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/20(金) 16:32:28 ID:Bfrz7hbNO
そんなことさせたら土の中が人だらけになるぞ
616名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 02:27:38 ID:TBJtBNI00
カルシウム分多めで丈夫になるだろう
617名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 01:35:12 ID:VNDNwIzl0
この時代の小説ってないのかな?
比較的手に入りやすいもので
618名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 21:40:52 ID:hdodGZMh0
WEB小説で冉閔が主人公のがあったな
619名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/24(火) 03:20:22 ID:v7nSDDSS0
王導はやばいな
賢才すぎるだろ・・・
620名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 18:47:04 ID:SOULCa3G0
天才ですな
621名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 21:31:21 ID:GygWh/hS0
北魏最強!
622名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 22:31:58 ID:JQo9F7s70
最近吉川先生の『劉裕』と『侯景の乱始末記』を読んだけど結構面白かった
623名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 01:52:09 ID:kmh41xT30
『王義之』『劉裕』『侯景の乱始末記』の3冊を合本して、
『吉川忠夫六朝史論』とかのタイトルで、岩波現代文庫か
講談社学術文庫あたりから出してくれないかなぁ・・・。
624名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/04(土) 03:24:18 ID:AT8W6vp40
学術文庫か学芸文庫は可能性ありそうですね。

でも『劉裕』(中公文庫?)とか『王羲之』はもう入手不能なの?
625名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/06(月) 09:17:30 ID:YFp6fXpX0
書泉で売ってるお
626名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 22:20:14 ID:kxtEjlwP0
禿髪部ってどんな由来なんだろ。 おかっぱって意味なのか、それとも
リアルに禿家系だったんだろうか・・
627名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 22:38:15 ID:8Najbcul0
>>626
髪型説、布団・寝袋・夜着を鮮卑語で「禿髪」と言った説、「拓跋」の訛り説と
いろいろご用意できます。
628名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 06:16:57 ID:luW6sE340
>627 thanks 樹機能とか印象的な人間がいるから結構好きなんだけど
名前がなぁと・・・  いろいろあるんですねー 
629名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 23:32:37 ID:KHZ7ENjz0
禿髪って苗字だったら、小学生の時絶対いじめられる・・・。
630名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 00:45:54 ID:QnXwoDhSO
>>628
樹機能は100年ほど遅く産まれてたら、より印象的な活躍しただろうね
631名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 01:08:14 ID:yOMiE+dj0
>>630
なんで?三国志には出てこないの?
632名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 02:45:57 ID:4zEllKJBO
>>631
禿髪機樹能が活躍してた時代はいつかを考えれば
答えは自ずと出てくると思いますが…
633名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 06:09:02 ID:lVCX3phE0
だから三国志だろう?胡烈や牽弘を戦死させたし十分インパクトがある
634名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 09:02:00 ID:ylE4zs3T0
100年後って言ったら、だいたい淝水の戦いあたり、か
活躍できそうだけど、前秦に壊滅させられていないって前提が必要だな
635名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 16:02:38 ID:8g+IM0Kg0
歴史のIFはよそでやってくれ
636名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 17:27:19 ID:ylE4zs3T0
>>635
すみません
これからは自重します
637630:2007/08/10(金) 17:47:58 ID:QnXwoDhSO
>>635
おれが悪かったスマン
638名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 20:59:42 ID:jhSBZTbK0
「禿髪」も「拓跋」も、トゥバの当て字だろ。
禿髪氏は、北魏皇室拓跋氏と同源だから「源」姓を与えられた。
639名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 14:04:25 ID:xYI6hSXg0
この頃に生きてる奴は大変だろうな
640名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 09:18:31 ID:/YC4VzhE0
そりゃあ、食うか食われるかの殺伐とした時代だろ
641名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 09:23:51 ID:YSUZVY0Z0
殺伐とした時代に救世主が!
 .__
ヽ|・∀・|ノ ようかんマン
 |__|
  | |
642名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 09:24:56 ID:YSUZVY0Z0
ありがとう、ようかんマン!

 i〜'~~|
 |__|
  | |
643名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 23:58:09 ID:jk51vQ8aO
たまたま田中芳樹の本を読んでたら前秦の張【虫毛】が宦官だと書いてあったけど、正史のどっかにそんな記述あったかな?
644名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/20(月) 21:31:06 ID:XdiTGLk80
爾朱栄=信長、高歓=秀吉、宇文泰=家康だよね?
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1187604333/
645名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/20(月) 21:38:50 ID:uB/rmnhI0
その場合、「宇文泰=家康」にとっての「信長=賀抜岳」のポジショニングが
646名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 20:30:42 ID:gIIF/6vu0
タクバツ大学
647名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 09:28:41 ID:JTmWc2H60
ズズズ・・・・
648名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 09:27:59 ID:VVgDjiQN0
北朝って異民族ばっかなの?
649名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 19:30:45 ID:VEGv6HcI0
石趙のあとをついだ魏のゼンビンは漢人で異民族を殺戮しつくしたな
あとは前涼の張軌とか
650名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 10:13:55 ID:b7/IDkmu0
北斉の高氏は漢民族という記述が史書にはある

北魏政権では漢族士大夫層が政権に結構食い込んでいて
末期には漢族化もかなり進んでいた

北周じゃ逆に漢族の胡族化がおこったりしたらしいけど

つか、北朝だから北魏〜北周・北斉の範囲でいいよな>>648
651名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 12:02:45 ID:MPxQohUk0
高歓が渤海高氏出身だってのは系譜の捏造だってのはほぼ確定だけどね。
北魏後期以来の混乱は、半分漢化した中央貴族に対して、まだ胡風を濃厚に残した
北方(六鎮も含め)の集団が殴り込みをかけたってみるのがいいんじゃないかな?
652名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 09:22:58 ID:SyOeyEiq0
自称血統mなんて捏造だらけでしょ
653どおらふぇいもん:2007/09/08(土) 23:48:47 ID:si8G65RZ0
のべたkぅういm、それをいっちゃkぁおshじまえいだよ
654名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 00:53:22 ID:o2TYttuO0
史書に捏造って書かれてなければ、捏造じゃない
655名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 23:52:48 ID:GX4RADWA0
隋の楊氏の楊震末裔説も?
656名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 00:56:26 ID:+i1bI4Ev0
もしかしたら本当かもしれない
657名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 14:35:26 ID:ZiOYclOL0
◆司馬懿◆司馬家の人々◆だけじゃない◆
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1189574680/
658名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 22:35:35 ID:5hcSdcnQ0
六朝時代は支那史上でも最も男色が盛んだった
と言われますが、どんな人々の交情が有名ですか?
659名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 00:13:46 ID:Wr2+/rLsO
教えない
660名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 12:18:25 ID:7LzcQhVM0
801板の住人の方が詳しいんじゃないの?
661名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 03:50:29 ID:+UvLZgUN0
皇帝権力ガタ落ちの300年だったね。
662名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 17:43:12 ID:2QKXun9X0
東晋の皇帝はほとんど空気だよな
663名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 17:47:56 ID:A6OC4ylI0
(東西)晋と(南北)宋が武力で争ったらどちらが強いかな?
664名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 01:44:39 ID:BMlQIT6J0
>>663
人口・国力・軍事技術ともに両宋期のほうが上。
ただし戦場はナマモノだから、条件の設定しだいで戦術局面では晋が勝つこともありうる。
665名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 02:22:11 ID:UeSvAy7C0
兵器とかの問題があるんで、数百年の差はでかいんじゃない隗?
666名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 03:39:09 ID:9KeSMEk+0
>>664
まがりなりにも晋には相手のミスとはいえ符堅を敗走させた実績もあるしな
667名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 20:51:09 ID:aXxA91cY0
宋朝は、軍事面においてかなり構造的な欠陥があるし、
いざという時に大ポカをやらかしそうな気が・・・・・・
668名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 20:51:51 ID:aXxA91cY0
特に靖康の変の時なんて、信じられないくらいいい加減な対応で、
国を滅ぼしてしまったし……
669名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 21:14:00 ID:eFmr8k3y0
その宋ではないんじゃないの?
670名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 23:20:23 ID:YDJ5guHQ0
(南北)宋って言っているから、劉宋ではなく10〜13世紀の宋朝なのでは?
西晋→東晋への流れとよく似ているし。

>>666
南宋も、采石機の戦いで、金の皇帝が親征した大軍を撃退している。
671名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 23:31:19 ID:eFmr8k3y0
>>670
あ、そうかw
宋は皇帝が率先する気概をもっているときが一番精強。
そういう軍事態勢だから。
その反面、皇帝にやる気がないと、とたんに「弱卒」と化す。
672名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 23:41:00 ID:YDJ5guHQ0
皇帝自身の権力なら、南北朝期よりも宋朝の皇帝の方がずっと上だね。
皇帝独裁権力体制の確立が進んでいるから。
673名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 02:55:09 ID:XwLhoMpj0
>>671
澶淵の盟の時も、嫌がる真宗のケツを寇準が引っ叩いて無理矢理
現地に連れ出してっただけで、戦況が一気に宋有利になったもんなぁ。
674名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 09:19:11 ID:Bea+ya6o0
宋朝は皇帝の資質が、国の興亡に直結しやすい。
後の明朝では更にそういった面が強まるけど。
675名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 06:43:10 ID:Qgp8x9JT0
先頭きって突っ込んでったのは紫栄や明の洪武とかか
676名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 09:22:36 ID:+/6j+a5s0
独裁が強まるのは恐ろしいが、そのほうが責任は持てるんだよなぁ
677名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 16:51:33 ID:jBUoP0F20
反面そういう制度は肝心の君主が馬鹿だと国そのものまでこけるともいえる
678名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 09:47:15 ID:ZbC4bZMq0
君主がバカだと北朝鮮みたいな感じになるのね
679アサヒ記者:2007/10/09(火) 09:26:16 ID:mz0z+k/z0
>>678
ネトウヨ乙
680名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/11(木) 13:28:05 ID:4cgPX8bz0
五胡十六国について載せてる史料って何がある?
『晋書』『北・南史』『魏書』以外にある??
681名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 17:22:31 ID:LztD3xAMO
>>680
資治通鑑でもけっこう載ってるよ
682名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 18:40:53 ID:aDIuajPT0
>>680
輯本だけど、『十六国春秋』なんかがあるよ。
ただ、標点本は元より影印本すら入手しづらいのが難点だけど。
中華書局あたりで新たに標点本を出してくれるといいんだけどなぁ。
683名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/15(月) 22:42:14 ID:vw2WMyde0
ヒ水の戦いについて
684名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/15(月) 22:59:16 ID:zsDbOcc00
>>681
資治通鑑って負け惜しみの中華史観の権化みたいなもんだからなぁ
685名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 01:08:16 ID:+gdEq+Cl0
はあ?
686名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 03:31:12 ID:UJKvkeqo0
>>684はリア厨なのか?
687名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 07:22:26 ID:1rOkNgUH0
杉山ハンに毒されましたか?
688名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 21:12:51 ID:XK6OLlKe0
>>684
確かに…。
南朝の年号だけを標記したり、北朝の皇帝たちを「主」とか言ったりしてるもんなぁ。
陳の滅亡の年から、陳の皇帝を「主」と呼び、隋の文帝を「皇帝」とか呼び始めるところなんかも…。
このあたり、契丹に対して劣位にあった当時の宋の状況と、その士大夫の精神状態の反映だろうから、
資治通鑑は負け惜しみの中華史観、と考えても良いかもね。
燕雲十六州問題、ということもあるし…(北宋あぼ〜んの一要因)。
689名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 21:23:40 ID:1rOkNgUH0
>>688
あなたの言っていることは正しい。
司馬光は今の世でいう、勝ち組の論理で政治および歴史を語っている。
司馬光のその姿勢は、自分も(かなり)嫌いだ。
しかし、特に散逸された史書の多い中、資治通鑑は貴重な文物となる。
壮大な歴史小説である《史記》と、その辺は同類とみなすことができる。
>>681氏は、それがために読みたくないニュアンスだけど、内容はそう悪くない。

杉山ハンも欧陽脩と司馬光には痛烈な筆誅を食らわせていて面白い。
690名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 23:23:04 ID:nXRVWkwp0
赫連なら部族制と州県制の併用でうまくやれたかもな
拓跋と違って
拓跋は、八国制までは良いとしても、やりすぎちゃったな
691名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 09:55:27 ID:Dts8ORTx0
併用は和を持つが、時として話をこじれさせる
692名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 20:05:10 ID:qg6BJmuA0
老荘思想、道教、仏教が大いに奨励された
個人的に最も好ましい時代。
五斗米道から道教への進化も見ていて面白い。
693名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 09:25:54 ID:tJXTA5To0
曹仁はすばらしい
694名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 14:46:33 ID:c8GVd9VG0
>>693
なんで?
695名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 13:00:30 ID:ESjW7h080
>>608〜612
スレ違いだけど、大分前に肥の三国志X辞典?だったかな?
で誕の子孫が五代の頃、琅邪の名族として存続していたらしいよ
南北朝の頃だったよな気もせんでもないが、
何せ10年近く前の記憶なんで、間違えていたらスマソ
696名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 20:33:08 ID:HGYyoURj0
晋書に本伝がある諸葛恢が諸葛誕の孫だね。
実は東晋の元帝が諸葛誕の血を引いてたりする。
あと劉宋に諸葛長民ってのがいるけど、これは誰の子孫だろう。
697名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 23:14:35 ID:U4P+Z/LL0
アンタは劉だから俺が諸葛亮になろう

って劉裕に持ちかけるようなの、あんまりよい血筋にはみえんな
698名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 01:18:05 ID:CfoAHMvO0
君は劉備たれ我は諸葛亮たらん
699名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 10:43:53 ID:dqD+HdD/O
>>592
羯族がイラン系であることはほぼ確かかも知れないね
羯族が建国した後趙が瓦解し石氏の養子だった漢人の冉閔が羯族に対するジェノ
サイトを開始した時、羯族兵3000がゾロアスター寺院(胡天)で冉閔に対し籠城
したと『晋書』に書かれているらしい
3000人を収容できる大寺院となるとただ単に少数の交易に来たソグド商人のため
だけとはいえないと思われるからやはり羯族がイラン系であることは妥当では?
700名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 14:26:30 ID:5Dv3Btj20
アラル海あたりから来たのかな
701名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 15:20:24 ID:TP/w6QgY0
羯がイラン系?初耳。羯は羌やテイの一派で、本来なら数に入れず”四胡”になっていいのに、語呂が悪いから
羯を入れて”五胡”にしたという話を聞いたが、これは嘘か?
702名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 15:36:47 ID:QqGF/kzm0
ソグド人自体がイラン系だったような
羯は匈奴の別種と書いてある記事も見たことがある
他にも挙げようと思えばあったわけで、意図的には5に合わせたとは思う
春秋五覇とか四季+土用と同じで
703名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 16:58:22 ID:P9vnOvOKO
>>701
羯がイラン系という話はおれも聞いたことないが、羌やテイと同種ということも聞いたことないよ

数合わせは十六国の部分でもわかることだね
704名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 20:28:33 ID:dqD+HdD/O
北朝におけるイラン系ないしはソグド系重臣
・北魏―明元帝治下
安同(祖先は後漢桓帝時代に亡命?してきた安息〔パルチア〕国王子安世高の子
孫)、明元帝を擁立した一人
安原(安同子息)
・北斉
和士開、何海、何洪珍、曹僧奴、曹妙逹、安未弱、安馬駒、何朱弱、史醜多など
・北周
安伽、史君

冉閔は羯族をジェノサイトする時、四周の漢人農民も動員して虐殺した
その際に深目、多髭、多毛の人間を殺せと命じた
この特徴を持つのは漢人にも多少いたが、コーカソイドの血が多分にある羯族の
重要な身体的特徴と言えるのではないだろうか
冉閔と漢人達はは羯族20万人殺戮したといわれるが、生き残ったと思われる羯族
15万5000は後趙東方にあった前燕に亡命した
また『魏書』には後趙の太武伝内には胡人の容貌をした忠臣、孝子、烈士、貞女
を描いた壁画があったと書かれていると言われる
705名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 23:35:56 ID:MbaOYmVL0
古代に天山より西の方から移ってきた民族がいたのかな。
706名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 02:59:08 ID:sOA5kpJ8O
考えられるのはスキタイか
707名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 04:17:59 ID:zy5Ttneo0
>>704
契胡族が羯族の生き残りという説もあるが。

http://baike.baidu.com/view/675408.htm
708名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 04:16:28 ID:Q6N18WYOO
>>680
『資治通鑑』の他に
『北史』
史書ではないが『洛陽伽藍記』で当時の状況がわかると思うが
709名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/11(日) 22:30:27 ID:RQ//ePqU0
>>680 
当時のオカルトな感じは『捜神記』(平凡社ライブラリーか東洋文庫)で分かる。
「スキンヘッドが流行るのは北方民族襲来の前兆」とかデンパっぷりが面白杉。
710名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 23:01:45 ID:TUXvbd4D0
( ^ω^)( ^ω^)( ^ω^)
711名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/24(土) 12:56:56 ID:iFmCd835O
五胡で
羯→絶滅?
羌・テイ→チベット族

匈奴、鮮卑は五代十国時代にはもう史書には登場しなくなるけど
隋唐時代に漢化されたんですか?
それとも突厥、ウイグルに吸収された?
712名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/24(土) 13:40:59 ID:FihEKcMs0
「漢化」という言い方が適当かはわからんが、漢と融合した。
たとえば水滸伝に出てくる呼延灼は匈奴系の姓だし、
金随一の詩人元好問は拓跋氏の子孫。
713名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/24(土) 21:46:56 ID:dN1Obgpj0
>771
羌の一派・党項はその後も西夏として大繁栄してるけどね。
あと、羌族残党は今も四川省の大渡河流域にいる。

それから羌族は唐代に大移動があって、南下した連中が
南方系の民族と混血して雲南省の納西族や彝族などなど
たくさんいるチベット・ビルマ系民族になった。

氐は平原に下りた連中が多かったから、大半は漢族に
なっちゃったけど、四川・甘粛境界あたりにいる白馬蔵族が
氐の子孫といわれている。
714名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/24(土) 21:50:20 ID:dN1Obgpj0
羌がいるのは大渡河じゃねえか、岷江だな。
大渡河にいるは嘉絨蔵族だが、これも羌の子孫ではある。
715名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/29(木) 09:35:15 ID:FL/bCldQ0
そうか、嘉絨蔵族の文化度ってどうなの
716名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 09:26:58 ID:PZBQb+7U0
ひくいお
( ^ω^)漢民族が最高だお
717名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/06(木) 20:26:46 ID:x94wFUW+0
ざっとこの時代の書籍を読んだけど、梁と陳が脆すぎる

他の江南王朝もそうだけど、なんでここまで不安定なうえに、
ろくでもない皇帝が続くんだろう
個人の資質だけじゃどうにもならん社会背景がある感じだけど…
718名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 00:04:48 ID:rCdX9/+20
>>717
宮崎市定氏の『隋の煬帝』がオススメ
719名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 12:24:17 ID:64VTbxZg0
あと同じ宮崎先生の大唐帝国もいいぞ
どっちも表題以外の広い範囲を網羅してる
720名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 17:03:16 ID:K7OJe36P0
>>718
それは既に読んだけどね

この時代についてもっと知りたくなってきて、つい書き込んでしまったんよ
721名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 19:21:04 ID:BSmvYfdD0
>>717
後半の梁は貴族制にガタが来すぎ。『顔氏家訓』なんかを読んでみると、
末期南朝貴族制の制度疲労っぷりが痛感できるはず。
陳は単純に国力不足だと思う。やっぱ淮南が無きゃ北には伍せないでしょ。
722名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 22:32:53 ID:DnxDVBZE0
家柄をハナにかけてろくに勉強しなかった連中が
あっと言う間に没落していった、ってくだりを読んだことある>顔氏家訓

平凡社ライブラリーでいいからPB化しないもんかな。
単なる読み物としても結構面白いのに。
723名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 23:33:29 ID:rCdX9/+20
>>721
淮南だけでなく、蜀の地にさらに長江中流域もうしなっているからね。
正直、どうにもならんでしょこれは。三国末期の晋に対する呉よりも
ひどい。
724名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 21:15:19 ID:qjTHVJQ80
兵糧が無い!
725名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 18:16:50 ID:fBBY7rrj0
>>717
梁は何より武帝が長く統治しすぎた事が問題と思う。
前半の治世は良かったけど、後半は仏教に狂って捨て身をしたり鉄銭が密造
されて通貨が暴落しても無いも手が打てなかったし。
その上、侯景の乱で先進地域はズタズタになり、重石がなくなった皇族は帝位
を争ったわけだからどうしようもない。
偉大な皇帝が手の付けれない悪害に変わって、悪害が消えたら重石もなくなっ
て皇族内で統制も利かずにばらばらになって首占めた感じがする。

陳は2代目の皇帝の時期になってやっと全土を統一したはずだし、何より国土が
小さくなっててどうしようもなかったんじゃないかな。

でも、前漢の武帝といい西晋の武帝といい梁の武帝といい、武帝ってのは基本
形として後半は駄目になるのだろうか・・・
726名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 18:34:53 ID:hmrANYXv0
>>725
軍事の功績が大きいからこその武帝で、意地悪な見方をすれば、
軍事以外の功績が大きいとは言えないってことにもなるんだろうかね

皇帝として本格的に内政に取り掛かる前に死んだ、
もしくは軍事面の必要性が大きいままに死んだ宋武帝、陳武帝、北周武帝は
これまた意地悪く言えば、ボロが出る可能性に触れる前に死んだとも言える

南朝の斉武帝は個人的には武帝っぽくない感じもするな
727名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 19:16:19 ID:fBBY7rrj0
>>726
なるほど、そういえば生前の業績が反映するんでしたね。
そう考えれば、確かに軍事的な采配が得意で内政はそこまでって事も無いの
も納得です。

南斉は初代は即位までの過程がありますが、皇帝になってからは初代も二代
目も正直さほど印象がありません・・・
個人的には明帝(とその前の2人の皇帝)あたりからぼんやりと印象があります。
私は詳しく知らないのでわかりませんが、業績を見ますと斉の武帝は武人と言
うよりは、むしろ文人的な皇帝みたいですね
728名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/16(日) 10:03:16 ID:vca6kuF50
軍事が終わったら飽きる皇帝ってやっぱりいるんだなぁ
729名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/22(土) 00:22:33 ID:hBdtp+YJ0
( ´A`)ぅうむっ。
730名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/23(日) 19:16:27 ID:3JZOmYuq0
宇宙大将軍が最高。
731名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/28(金) 09:29:39 ID:PrZNv4zx0
何このスレ?
732名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 23:09:17 ID:XKzPTdGS0
>>731
空気嫁
733名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 09:18:18 ID:lEMnxptK0
わはは、こやつらw
734名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 23:31:01 ID:OQNtREvXO
《北魏武将録》(太武帝没まで)☆→貢献度
【道元帝(拓跋珪)】☆☆☆:395対北燕戦(参合陂の戦いで大勝)/396、397対北燕
戦(義台の戦いで大勝)/402対後秦・柔然戦
【長孫嵩】☆:391対柔然戦(平望川の戦いで人尾撃を斬る)
【長孫肥】☆☆☆:391対柔然戦(温乞提、社崙捕縛)/394対柔然戦(葛多汗を斬
る)/396、397対北燕戦(燕将慕容麟の軍を撃破)
【奚収】☆☆:396対北燕戦(汾川攻略、慕容買徳、高秀和捕縛)/410対柔然戦/42
2、423対宋戦/425対柔然戦/426対夏戦/428対夏戦(夏軍に大敗捕縛さる)
【長孫祟】☆:398対北燕戦(燕将尹国を斬る)〔後に崔浩の讒言により謀殺〕
【長孫道生】☆☆☆:418対北燕戦(燕将皇甫軌を斬る)/425対柔然戦/430、431
対宋戦
【太武帝(拓跋とう)】☆☆☆☆☆:424対柔然戦/425対柔然戦/427対夏戦(夏軍
を撃破し首都統万攻略、張淵、徐弁、夏王母后捕縛)/429対柔然戦/439対西涼戦/
440対柔然戦/450、(汝陽の戦いで大勝、宋将劉泰之殺害、程天祚捕縛)/451対宋
戦(滑台に侵攻してきた宋将王玄謨撃破、鄒山の戦いで宋軍撃破し魯郡太守崔邪
利捕縛)/451対柔然戦
735名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 00:23:11 ID:WGY4IctRO
>>734の続き
【長孫かん(長孫肥子息)】☆☆:424、425対柔然戦/427対夏戦/429対柔然戦(可汗
の弟、匹黎先の軍を撃破)
【尉眷】☆☆:424対柔然戦/428対夏戦(安定の戦いで安頡とともに夏王赫連昌
を撃破捕縛)/440対西涼戦(追撃戦で大勝)
【安頡】☆☆☆☆:428対夏戦(安定の戦いで尉眷とともに夏王赫連昌を撃破捕
縛)/430対宋戦(宋の右将軍到彦之の軍撃破、金庸攻略宋兵5000以上戦死、洛陽攻
略)/431対宋戦(滑台攻略)
【丘眷】☆:429対夏戦(夏軍に大勝、夏兵数万戦死)
【叔孫建】☆☆:423対宋戦/430対宋戦(宋将竺霊秀の軍撃破、須昌奪回)/431
対宋戦
【永昌王・健】☆☆:432〜434対北燕戦/440対西涼戦(涼将保周の軍撃破)
【永昌王・仁】☆☆:450対宋戦(宋将劉康祖の軍を全滅させる、尉武攻略し宋
将王羅漢捕縛
736名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 07:12:20 ID:9ce2Jklj0
すげー。
で、その数字は何?
737名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 07:33:56 ID:WGY4IctRO
>>736
すまん西暦、年は省略した
738734:2008/01/08(火) 20:37:02 ID:WGY4IctRO
訂正
【道元帝(拓跋珪)】→
【道武帝(拓跋珪)】
739名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 09:24:11 ID:2M5GR5c90
>>734-735
よくまとめたな。
740名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 22:20:22 ID:z+SqzGqa0
太武帝が凄まじすぎる。
741名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 13:50:01 ID:Y+W0/JNA0
>734
GJ

やっぱり北魏は良いなあ
システマティックな所とか皇帝がヒッキーじゃなくて国防の責任者な所とか
742名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 21:59:24 ID:hryfNm8sO
>>741
北魏の歴代皇帝のもう一つ凄いところは12〜15歳で子作りして外力以外で断絶さ
せなかったとこ?
743名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 12:56:03 ID:fpkDNK2N0
遊牧系の民族ってやっぱり精力絶倫な感じのが多かったんだろうか。
744名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 13:30:58 ID:WwJ0mPjb0
どうなのかねぇ。
銭大キンだか趙翼には「北魏皇帝は子供の頃からニャンニャンしすぎだから早死にするんだYO!」って突っ込まれてるしねw
確かに歴代皇帝は軒並み3〜40代で死亡してる
745名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 13:38:22 ID:LPwMs+su0
子供の数からすると、あんま、他の王朝と変わらんけどね。
早熟な傾向にはあったと思う。皇族や有力氏族の人が子供のうちから
形式的とはいえ大任を与えられて前線やら地方やらに派遣されるケース多いし。
746名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 19:30:56 ID:HFHmoalcO
若いうちに子供を作ったから早死にするというのは科学的根拠がないし、北魏以
外の地域でも早期に子供を作っても早死にするという直接因果関係は認められな
い、北魏皇帝で自然死したのは病死である
というか北魏皇帝は暗殺、処刑されたものが多い
病死したのは明元帝、文成帝、孝文帝、宣武帝だけ、しかし文成帝は毒殺の疑い
がある
道武帝、太武帝、(拓跋晃)、献文帝、(元恂)、孝明帝、孝荘帝、後廃帝、節
閔帝、孝武帝は暗殺か処刑()内は皇太子
北魏最後の皇帝孝武帝に至っては実妹と近親相姦の関係で高歓にその関係を咎め
られ、宇文泰のもとへ実妹と逃亡したが、汚らわしい関係を知った宇文泰が妹を
処刑、恨みに思った孝武帝が宇文泰殺害を画策したが、返討ちにあった
747名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 19:45:06 ID:HFHmoalcO
早くに子供作ったから早死にするというのは科学的根拠はないし、自然死した皇
帝もそれが原因であるとの確証はない
というか北魏皇帝で自然死したのは明元帝、文成帝、孝文帝、宣武帝のみ
文成帝は毒殺の可能性がある
他の皇帝8人は全て暗殺か処刑(皇太子拓跋晃、元恂も)
最後の皇帝孝武帝に至っては実妹と近親相姦の関係があり、それを高歓に咎めら
れ、宇文泰のもとへ実妹と逃亡したが、宇文泰もその汚らわしい関係を知り、妹
を殺害、それを恨んだ孝武帝が宇文泰殺害を画策したが、返り討ちにあった
748名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 19:48:05 ID:HFHmoalcO
すまん重複した
749734-735:2008/01/14(月) 00:43:30 ID:zcT1iLtbO
・訂正
西涼→北涼

・業績追加
【太武帝(拓跋とう)】432対北燕戦(北燕軍撃破し北燕尚書高紹を斬る)

・将帥追加訂正
【娥清】☆425対柔然戦/427、428対夏戦(奚斤とともに夏軍に大敗、捕縛さる→後
に救出される)/435対北燕戦(古弼とともに北燕滅亡させるが、燕王馮弘の高句
麗逃亡を目前で逃し兵卒降格)
【古弼】☆429対夏戦(夏軍に退却と見せかけ逆襲大勝)/435対北燕戦(娥清ととも
に北燕を滅亡させるが、燕王馮弘の高句麗逃亡を目前で逃し兵卒降格)
【和突】☆402対後秦・柔然戦(逃亡し復権した柔然の社崙を撃破)
【常山王・遵】☆402対柔然戦(豆代河汗の軍を撃破)
【王嗣】☆☆410対柔然戦(牛川で包囲された長孫嵩を救出、乞升蓋河汗の軍を撃
破)
750名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 17:54:33 ID:UJ8p0NYr0
昔、この時代をゲームにしたら面白いだろうけど難しいだろうなという話をどこかの
スレでした覚えがあるが。
「ローマ・トータル・ウォー バーバリアン・インベンション」をプレイしたらこれでいける
と思った。つか、マジで作ってくれんものかなー。
751名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 06:39:05 ID:fhH8Bh6cO
>>734
太武帝後の武将録は
752名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/20(日) 10:48:42 ID:NjixKe1F0
734じゃないけど自分にとっては太武帝までが花
753名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 16:29:28 ID:Qvu4wo7MO
>>752
だったら南朝はどうする
いつも初代のみじゃねぇ?
例外的に宋の文帝は執拗に北伐していたが、いつも返り討ちにあってたけど
754名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 20:20:26 ID:GSz1jcqX0
>>753
つ南斉の武帝
つ陳の宣帝

しかし南朝って北魏に較べて内ゲバが多すぎるな。なんでだろ?
755名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 21:50:59 ID:h8+e97DW0
内ゲバゼロとまでは言わんけど、拓跋と宇文は一族仲良好だよな
この両家は皇族が国家の運営権をガッツリ握ってたのに対して
南朝とか北斉高氏は周りにいる奴らが本当の実力者になってったから
とか言ってみる
756名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 21:55:27 ID:KOuIjKNe0
>>755
しかし皇族が国家を運営するってのは一般には評判悪い西晋の方式だったりするわけで
面白いものですな
757名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 23:18:15 ID:0JbvziJ20
あと、北朝は柔然・突厥の圧力があったのもでかいかも。
六鎮の乱以降の内乱は、柔然〜突厥の入れ替わる端境期だし。
南北でサンドイッチされてる分、内ゲバは恐くてできなかったとか。
個人的には、もし前秦の北に柔然級の遊牧国家があったら、無謀な
南征はやらなかったんじゃ…とか思ってたりして。
いやまあ、「それだと華北統一できなくね?」ってツッコミは無しねw
758名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/22(火) 04:25:35 ID:hpCqJRxQ0
>>754 脳内筋肉の軍人皇帝なんて所詮は貴族連中の御神輿だから。
759名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/22(火) 07:16:33 ID:FYlqRqtPO
>>757
太武帝治世時の対柔然戦は常に北魏側がイニシアティブを掌握していると思いま
すが
760名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/22(火) 12:54:00 ID:9QRtZXrJ0
といって巨大勢力であることには変わりないからね。
太武帝当時、南朝の外交政策によって高句麗から柔然、
吐谷渾から蓋呉にいたるまで北魏包囲網が形成されていたから
仲間割れなんてしてる場合じゃなかったってのはあると思う。
761名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/22(火) 19:44:17 ID:FYlqRqtPO
高句麗と北魏は友好関係を維持して一度も戦乱がなかったはずだよ
むしろ北魏は高句麗を南朝と席次を同格にしたことがあり、南朝が抗議したぐら
いだよ
762名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 11:26:49 ID:ZUnvGISA0
そりゃ講義するわな
763名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 12:09:32 ID:/TXjxiN+0
北魏にしてみれば、どっちも同じだもんな。
抗議するあたりがバロス。
北魏の中での席次が気になるんかよ。だいたい自分らは北魏の上という認識だろうが。
764名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/06(水) 09:39:44 ID:uGdexKea0
(´;ω;`) (´;ω;`)
765名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 10:10:13 ID:VWFAGgNg0
>>763
たしかに、相手側の格付けでイチイチ文句言ったって
しょうがないな
766名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 11:35:14 ID:KOd7okEOO
外交の話だろ?
対等の立場として話し合うのと、下の立場として話し合うのでは、結果が違ってくる。
常に自国に有利な状況にするのが、外交のセオリー

あえて下手に出て、油断を誘うのならアリだが、普通はナシだろ。

公的な場でそんなの許してたら、それを見た他国は、
「ヤツらはオレらと同じか、それ以下。ならウチもそんな扱いで良くね?
コレ飲まなきゃ親分に泣きつきゃ良いし。しょせんヤツらは親分に頭あがらんしw」
なんて思われるのがオチ。
767名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 14:34:14 ID:42el36QG0
南朝が北朝内部の席次を争った時点で北朝の下風に付いてるって話してるのに…。
南北朝を知らないなら南北朝スレで南北朝を語るなよ。
768名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 17:27:03 ID:lnEmSFTCO
山東教育出版社の北朝五史辞典に周の宣帝が載っていないのですが
何の嫌がらせでしょうか。泣きそうです。
769名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 09:19:15 ID:SmboWx830
嫌がらせです。
770名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 00:44:59 ID:2cKbijU2O
いいえ、ケフィアです。







…正直、すまんかった。
771名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 20:39:51 ID:JqgqqMbt0
周の宣帝の親父が死んだ時に言った「死ぬのが遅いんだよ!」は名言
772名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 21:50:22 ID:3aGb2pu50
テレ東は晋の恵帝に謝罪汁
773名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 13:15:42 ID:YuGklmeZ0
>>772
なんだ?「米がないならケフィアを食べればいいじゃない」がパクられたか?
774名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 14:30:58 ID:2ouCDSkb0
塩の逸話が始皇帝のものにされた
775名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 15:08:10 ID:YuGklmeZ0
>>774
おまいが晋の武帝に謝罪汁
776名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 09:47:49 ID:4jnL2tAf0
>>775
( ^ω^)わかったお
777名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 12:58:26 ID:AaHA+7OW0
大秦天王苻堅大帝
778黨國精英西門慶:2008/02/28(木) 16:19:58 ID:mk5i5YEM0
遊牧民族,縱然其作亂達成了一定的戰略突然性,並基于西晉的混亂體製,縱中原。然其失敗,還是源自遊牧民族低下的生産力,是必然的

生産力先進者得天下
文化先進者得天下
代錶人民者得天下
779名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/04(火) 09:22:02 ID:LaCVQqBB0
>>778
日本語でおk
780名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/09(日) 21:50:36 ID:hD+xFDKp0
( ^ω^)
( ^ω^)
( ^ω^)
( ^ω^)( ^ω^)
781名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/11(火) 01:50:20 ID:Vso5AHrLO
おそろしくスレ違いかもしれないけど、教えて欲しいことが


おそらく北朝で出来た上柱国とかいう職はどんな職?
782名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/11(火) 14:16:48 ID:chZW+6TQ0
>>781
上柱国は戦国時代には既に存在し、楚の独特の官職。
官位のうえでは宰相と同義の令尹に次ぐ。
ただ権限や職掌は詳らかではなくどちらかというと功績の大なる功臣に
与えられる名誉職に近い。
蛇足の故事でも登場する。

秦末の時代にも登場し、楚の項梁や陳嬰、陳の蔡賜など、王朝の大物が
任命されている。
漢初の淮南王・英布の国にも存在している。
783名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/11(火) 17:39:29 ID:h0PDjSLB0
なんとなく補足として
唐代などの律令制下での上柱国は、散官、職事官、封爵、勲官に分けられた中の
勲官にあって、正二品にあたる。
勲官とは軍事的功績のあるものを表彰するために贈られる官命。
正二品は、文散官では特進、武散官では輔国大将軍。爵位は開国郡公、職事官では尚書令となる。
ちなみに、勲官の下位は、護軍や騎都尉といった、なんか聞き覚えのあるようなのがある。
出典は「中国の歴史06」ね。
784名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 18:41:42 ID:HpDpub5m0
東晋の防衛力>>>西晋の防衛力
785名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/23(日) 21:36:36 ID:EwYAhHj00
えええええ
786名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/24(月) 12:32:37 ID:MpsOQx8yO
西晋は呉を滅ぼした後、多くの兵を帰農させたからな
787名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 21:02:09 ID:NooXi3F60
たるんどる!
788名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/05(土) 19:21:18 ID:VuUD/nvV0
あの広い国土を守る正規兵が1万数千しかいなかったんだっけか
どこで見たか忘れたけど
当然王族とか痴呆知事とかは私兵を抱えてただろうけど
789名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/07(月) 21:25:26 ID:OTJPQA960
首都にたった一万しか呼べないわけか
790名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/14(月) 21:21:35 ID:wzGTuZam0
\(^o^)/オワタ    でもその当時の人口は
すくなかった?
791名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 14:04:07 ID:xRHIH8re0
カエサル以前のローマではルビコン川から先は軍隊は入ってはいけない決まりがあったな
792名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 10:36:59 ID:zwIWmhDb0
きっちり属州に総督と軍団配備した上でのことだから意味あい全然違うけどな
793名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/17(木) 00:12:15 ID:lqNg3Ulf0
あれは軍団を解散してカエサル本人単独でローマ本国に戻って来い、という元老院の命令に反する
ことになるという意味だと思うが。

ぶっちゃけルビコン以内への軍の進駐なんて、それ以前からマリウスもスッラもポンペイウスも
いくらもやっているし。別に非常事態かどうかに限らず。
794名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/21(月) 21:22:06 ID:D/yQBudY0
なんのスレだっけ?
795名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/26(土) 12:03:57 ID:Zl+iqJ1M0
楊大眼とか、だろ。
時に気になったんだが、晋書や十六国春秋を読む限り、後秦の姚襄の生年は331年、
姚萇の生年は330年で長幼が逆転しているよね。前者の頃は記録も曖昧であろうことや
親父さんの年齢などを考えれば、前者の間違いと思えるが、これについて論じたものや
別の数字を示すものなどはないのだろうか?
796名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 11:34:57 ID:JrdOCegtO
貴重な羌族が・・・(´;ω;`)ウッ
797名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/21(水) 21:14:47 ID:L25qqljU0
貴重な巴族が…貴重なテイ族が…
798名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/21(水) 22:46:04 ID:mnt7jzqP0
石虎の傍若無人な生き方に憧れる
あんな風に何も考えずに生きてみたい
799名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 23:57:00 ID:l3NJfaKA0
天王陛下?
800名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 11:49:15 ID:G/vTp9VN0
800get!
801名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 03:22:34 ID:yFcZLMdt0
そこで赫連勃勃たんですよ。
802名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 12:49:03 ID:0Mq3M6LTO
>>801
何故?
803名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 14:25:53 ID:dg1JKw0B0
五代十国の後晋時代、とある節度使である安従進が、夏州で朝廷に逆らう
李彝超を鎮定に向ったけど、李彝超の拠る夏州城が陥とせない。
その夏州城こそ、赫連勃勃の故城であり、土を蒸して築かれているので
穴を掘って城下に攻めようにも、鉄石のごとくで貫くことができなかったという。
このように、赫連勃勃タンの遺産は夏州節度使に多大な貢献をしている。
知っているとは思うけど、この夏州の李氏が、後の西夏李氏である。

なんつってな。安従進ごときにはどだい無理なことだったのさw
804名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/27(金) 13:16:16 ID:gFH/pt/e0
劉曜って殺されたのか・・・羊献容はどうなったの?
805名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/27(金) 19:20:34 ID:lK8Mguxq0
>>804
病死
嫡子は劉曜ともども石勒に処刑され、娘(安定公主)は石虎に無理やり
略奪された(12歳ぐらい)
後に、石虎との間に授かった子を皇太子に立て、政権を壟断しようと図ったが
クーデターに遭い、あえない最期を遂げた

劉曜は不幸すぎるなぁ
勝利者たる石勒も幸せとは言えんが
806名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/28(土) 00:05:23 ID:9gIFUKUm0
>>803 やはり城壁に人を埋めただけのことはあるな。
807名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/04(金) 13:33:06 ID:7E2xbjUq0
ttp://jinshu.fc2web.com/
ここの拙訳→列女読むと、
羊献容なんだかなぁって思ったw

劉曜が人妻を部下に与えたのは自分も同じ事言われたもんだから
他人の手で殺させようとしたんじゃないかと

808名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/04(金) 19:38:29 ID:gO6VHkYs0
>>807
羊献容ほど、道具扱いされた皇后も珍しくないか?
恵帝との結婚生活なんて、あってなかったようなもんだし。
少なくとも、晋朝にいる限り、権力の道具という周囲の扱いは変わらなかっただろう。

劉曜は五胡君主の中では、デキた方の部類に入ると思うけどな。
809名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 00:08:31 ID:DKEygy7H0
a
810名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 08:00:15 ID:mCu7PpmO0
石虎のやった悪事のようなことをすることこそが人生の楽しみなのでしょうか。
811名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 17:53:07 ID:dxvEvRbY0
習鑿歯の蜀漢正当論って、
どういう理屈で蜀漢→晋へと正当性を繋いでるの?
成り立ちからしてどうやっても繋ぎようが無いと思うんだけど。
812名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 21:19:21 ID:rMf3VMt80
正当と正統の区別はつけような
813名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 21:22:28 ID:IVW2YJN80
>>811
そんなことないだろ
後漢(中漢)→蜀(季漢)→司馬氏による征伐→晋
魏を全く無視しても成り立つよ
ちょうど征伐の翌年に晋成立だし
814名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 22:03:06 ID:dxvEvRbY0
>>812
む、すまん。

>>813
形としては魏から禅譲受けてるのに
蜀→晋と繋げるためにどんなロジック使ってるのかなあと興味を持った。
正統である蜀が魏に滅ぼされてしまったから晋がその跡を継ぐって形なのか?
815名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 22:07:47 ID:IVW2YJN80
>>814
どうなんだろうね
263(264)年以降265年までの一瞬だけ、魏は正統王朝だったのかもね、その説でも
816名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 22:17:47 ID:pBP66kXy0
秦が滅びてから漢が興るまでもタイムラグはあったわけだし、
その間はノーカウントなんじゃないだろうか
817名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/26(土) 20:54:53 ID:kR3AOkuu0
つーか、

漢(統一王朝)→晋(統一王朝)

この間の三国時代は天祚がどこにもくだっていない状態で、
正統王朝というものは無い、敢えて言うなら漢の跡を継いだ
蜀漢がそれにあたるというのが、習鑿歯の理論の肝じゃないの?
晋書の伝に記載された論を読む限り、蜀漢正統論というよりは
晋朝正統論と言った方がいいかもしれない

で、この論は
晋朝(統一王朝)→隋(統一王朝)→唐(統一王朝)
の流れにも援用できるんだよね
「晋書」の巻82、陳寿ら史官たちの列伝の中で、習鑿歯の伝だけが
そういう歴史理論を記載されているところに、北朝系の唐が持つ
コンプレックスみたいなものを感じるんだけど…
818名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/27(日) 09:15:01 ID:iY2wRYSv0
大体秦が周を滅ぼした時点で、いやもっといえば周が殷を滅ぼした時点で
正統論も糞も無いと思うんだけどねw

>そういう歴史理論を記載されているところに、北朝系の唐が持つ
>コンプレックスみたいなものを感じるんだけど…
ま、そういうのも唐だけがしていた訳じゃない。
低レベルな文明が、高度な文明に触れたときにはよくすることさ。
秦も周も自分達の正当性を高める為に腐心していたしw
819名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/04(月) 15:14:39 ID:Js/dRzVQ0
周が殷を秦が周を滅ぼしたおかげで、正統論が出来たんじゃないか
820名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/11(土) 13:17:40 ID:1QIv8rQb0
南北朝時代は正統王朝がないってことか
821名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/22(水) 03:48:23 ID:GneeEIVrO
三度の飯より好きな前秦苻堅の小説が出ると聞き、この高揚を伝えたく
二三ヶ月ぶりにこの板に登場。でも相変わらず誰もいないのね(・ω・`)
822名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/22(水) 16:18:33 ID:qYf1jp8/0
マジで?どこから出るの?
823名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/22(水) 17:34:34 ID:GneeEIVrO
王道の樹/小前亮/祥伝社(10/23)だそうな。
てかこの人の宋太祖の小説、読もう読もうと思いながらすっかり忘れてた。
824名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/22(水) 18:28:19 ID:qYf1jp8/0
トンクス
苻堅は好きだけどハッピーエンドにはならないんだろうなあ…

小説もいいけど、三国志みたいにIFで楽しめるゲームが欲しい
今の所知ってるのは戦国史っていうゲームの東晋十六国シナリオぐらい
苻氏でプレイしていれば苻堅や王猛も出てくる
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/asaka/
ttp://matsuyama.cool.ne.jp/nagaichi/scenario.html
825名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/22(水) 20:09:33 ID:GneeEIVrO
有名サイト(多分)だから存在は知ってたが、やったことはないなあ。
まあ描写が巧ければ相当の悲劇になろうねえ。堕ち方が単なる盛者必衰じゃないもの。
前と後では別人みたい。
826名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/22(水) 23:00:16 ID:D6r4OILw0
>>824
というか前秦の君主で天寿を全う出来たのって苻健だけじゃん。
苻洪、苻生、苻堅、苻丕、苻登、苻崇と苻健以外は全て非業の死を遂げている。
827名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/22(水) 23:10:32 ID:qYf1jp8/0
非業の死だけならいいんだけど、>>825の言うように後半生が…
「燕の皇族姉弟を無理矢理お友達に(性的な意味で)」
「長安城内の鮮卑人皆殺し」
あたりを書くと、どうにも救いのない話になってしまう

そういうのを削れば、民には慕われてたし、慕容垂の話も書き様はあると思うけど
828名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/23(木) 00:10:54 ID:gT3OZGaNO
あたかも英雄タイタスや名将マクベスが狂気を発していくかのよう。
暗黒面を削ったら削ったでそういう古典にも似た一級の悲劇性がスポイルされそうだが、
描いたら描いたでそれこそ本当に救いがなくて退かれちゃいそう。
やはり普及させるならちょっとアホの子っぽいけど絵に描いたような仁君路線の方がいい、
慕容沖とのあらいいですねーな関係なんて以ての外、という気もする。難しい。
・・・などと自分が書くわけでもないのに考えてみたり。
829名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/25(土) 13:08:21 ID:AYo63JkkO
読んだ。やっぱ毒気や暗さがなかったねえ。ヒ水までだし(・ω・`)
いろいろ感想や不満はあるが、苻融を斬ったのは劉裕設定(多分)に「どこから
俺の妄想が洩れた!?」などとつい思ってしまったのが一番かもしれん。
830名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/31(金) 13:06:59 ID:8LEF/SsP0
現代の武士の子孫が中世の格式を振りかざしてもともとの家臣や一般人の力を使ってピンチを切り抜ける方法ってありますか?
831名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/31(金) 22:25:18 ID:AuFI6f0/0
戦国板で聞こうw
http://gimpo.2ch.net/sengoku/
832名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/06(木) 18:33:33 ID:5PyRJj6O0
次は拓跋珪一代記キボンヌ
833名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/26(水) 15:47:46 ID:r/JRjJo+O
>>824
へぇ〜戦国史にそんなシナリオ有ったんだ…知らんかった
昔試しで無料版やったら3〜4時間程度で積んだヘタレな俺には、ありゃちと難しスグルw
みんなどうやってクリアしてんのやら…ましてこの時代のシナリオなんて考えただけでガクブルだわww
834名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/10(水) 15:17:06 ID:XhBJDPlp0
殺人鬼だらけの時代だろw
835名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/16(火) 12:48:53 ID:7QnsOXVvO
だが、それがいい。
836名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 08:27:45 ID:E6n58vzF0
──-  、
       \
______ヽ
.  //⌒ ヽ|     「万年秦王に。」
 / /      |          「慕容垂さんといっしょに。」               「長安ゲット。」
  |      |       ___                       「涼州はもらったよ。」
__|    ((|     / www ヽヽ        「あたしは燕王よ。」           /´ ̄ ̄`\
## l      l      l 3 3   |_|                              (二二>─┬ l
#  \ ____ノつ__   / (二)    )           /⌒´ ̄ ̄\    , ──- 、   | v v   |_ |
/⌒\      ノ i         l          ( -( ( - 、ヽ ヽ  /_____ ヽ  / o     )
      ̄ ̄ ̄   l  (_      /l ______  l | v|  |v | |_ |   | (/) (ヽ) |__ l |          !
 ̄ ̄ )         ヽ、( ___//.> _____  | | ー、  ー    ) /  O     ) ヽ、 ─   ノ
ヽ、/    \)    //ヽ__/ / ̄|⌒ヽ⌒ヽ | | ヽ 、_  /ヽ l     (    ノ      T_ |_
   ̄ ̄ノ       / /       |.  | v|v  ノ |_ | (,ノ` ┬ イ ヽ.,ノ  ヽ、__⌒ヽ__ /、.   /´    ヽ
 ̄ ̄ ̄   ヽ)   i l        | /ーo ー ´   )   /´ ̄ ̄/ヽ    ///|_|\/ ヽ   |_|   |_|
\.          | |         |  ̄`>  ./lヽ  | |   l  l  / /        l   i  | | ̄ ̄|  |
T             | |          |   | ̄「/ヽ/ |  | j   |  |   l-l.       |-─|. | | ̄ ̄|  |
↑苻堅          ↑姚萇     ↑慕容暐    ↑慕容垂    ↑呂光       ↑慕容泓
837名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/10(火) 11:04:58 ID:9oIrPcJN0
王猛が生きていれば…
838名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/17(火) 07:35:53 ID:jFLzR1FAO
王猛は確かに退場するには早すぎた。確か50に為るか為らんかぐらいで亡くなったような・・・
839名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/19(木) 16:29:36 ID:iKvrjKoH0
南朝って、軍人皇帝時代のローマ帝国に似ているような
前線の軍団から皇帝が出たりとか、異民族が押しかけてきたりとか
840名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/15(水) 21:46:16 ID:UKbW4ro/0
たしか慕容紹宗だったと思うけど字といみなが同じ人がこの時代居ましたよね。
何でそうしたんでしょう?ひとから名前で呼んでほしかったのでしょうか……。
841名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/22(水) 02:08:40 ID:FguB1QXm0
字もスッゲー親しい人じゃないと呼べないし、問題なくね?
842名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/22(水) 07:32:29 ID:SkXmF4OV0
北朝の鮮卑系人物って、諱が漢名で、字が鮮卑名を示してることが多いから、
字の位置づけが他の時代の感覚とちょっと違うんだよね。
843名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/05(金) 02:56:04 ID:VgCEGxyo0
>>840
東晋の司馬氏でも同じように、諱と字が同じというケースがあったような。

漢→魏→晋と移り変わった時は、献帝や元帝は王や公に封じられて、それなりの
待遇が与えられるのに対して、南北朝期になると、禅譲させられた皇帝はすぐに
始末されてしまうようになり、血腥さが強くなっている印象があるんだけど、
なにか要因があるのかな?
844名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/14(金) 17:55:23 ID:Qhx4Os6R0
東晋の安帝司馬徳宗の諱と字が同じ
845名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/15(土) 11:16:01 ID:jtbTgDJc0
>>843

簒奪者に本当の実力に裏打ちされた自信が無くて
常に旧王朝の復辟に怯えていたからだと思う。

端緒は劉裕が晋の恭帝を殺害したことだろう。
その前にも安帝を殺しているが、安帝が桓玄が滅ぼされて
復位したことで危惧を抱いていたのも一因かと。

恭帝は生きるのに執着する余り
生まれたばかりの自分の皇子を殺して
皇位に執着は無いと劉裕に媚びていたらしいから
余り同情する気にもなれないけど。
846名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/15(土) 16:11:10 ID:XCqDIZ210
>>845
「実力」は有り余るくらいに持ち合わせていただろう。
「権威」の壁に桓温も、桓玄も、劉裕も、誰もかも歯が立たなかった。
六朝の貴族連中は、このたったひとつの「権威」という武器で、ひたすら
独裁者による権力の壟断を妨害し続けた、最高の寝業師たちだ。

劉裕は目の前で桓玄がどのように滅んだか知っている分だけ、徹底的に
処置を施したにすぎない、少なくとも寒門には「寛容」という選択肢は
存在しない。
もし、「寛容」を国是とするならば、既得権益の擁護者たる貴族階級は
根絶やしか徹底的に叩き潰さなければならない、そうしなければ、彼らは
権力の分散を図るべく対抗馬を擁立してくる。(戴淵、殷浩など列挙に
いとまない、劉裕に対しては劉毅が有名か。)

まあ、華北でも匈奴が(主に石勒がだが)、司馬氏・西晋貴族の大虐殺を
敢行せずに、政権へと吸収をしていた場合には、似たような状態に陥っていたかも
しれん。
847名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/10(木) 21:55:50 ID:RCdJDCRF0
仁木英之「千里伝」講談社10/15発売
「高駢」の幼い頃を舞台にした中華ファンタジー
848名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/10(木) 22:51:47 ID:J9GJqyRc0
>>847
残念だけど、スレ違いですよ。唐のスレにでも貼ってやってください。
849名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/20(火) 17:04:21 ID:BKhSlsN20
梁にだって名将はいっぱいいたんだがなぁ。
前期の韋叡・裴邃・陳慶之、後期の柳仲礼・王僧弁・杜龕・・・
中でもいちばん好きなのは王琳だな。とにかくかっこいい。
850名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/22(木) 15:05:43 ID:3HO2LZxe0
陳覇先って名前かっこいいよなあ。
851名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/14(土) 11:55:05 ID:gM/92crf0
仁木英之「朱温」を読むと、赫連〇とか慕容〇って人名が出てきた。
唐末辺りだとまだそういう姓を名乗る人がいたわけか。

852名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/20(金) 13:39:56 ID:TvY3X4H70
規制で書き込めないのでネカフェから

五胡十六国時代付近の人物伝を知りたいんだけど、
手ごろな本ありませんかね?
せきろく、せっこ、ふけん、ぼようすいあたりの話を知りたいけど、
春秋戦国の史記みたいな手ごろな本がなくて困っています……
853名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/20(金) 21:59:47 ID:QsWJ6AC+0
>>851
赫連〇って、赫連鐸でしょ。
吐谷渾の最後の生き残りを率いていたわけだけど、後晋期、最後の族長、白再栄を最後に
歴史の表舞台から退場したんだ。
退場させたのは、のちの後周太祖郭威。

慕容といえば吐谷渾だけど、太原にその姓の人もいるにはいた。
北宋太祖の兄貴分だった慕容延釗とか。
854名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/21(土) 02:45:10 ID:iaHYH8d10
>>852

人物伝と言うわけではないですが
この時代を概説した本で普通に手に入る本だと

「五胡十六国」著者:三ア良章(東方書店)

くらいしか無いと思います。お持ちなら御免なさい。
石勒・苻堅・慕容垂の様な主要人物については
勿論その事績が語られています。

855名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/25(水) 04:40:29 ID:8oP4V34S0
北魏の武川鎮がある所って後漢でいうと雲中郡武泉でおk?
なんか読み方似てるし
856名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/15(火) 01:21:23 ID:FQc/lUih0
>>854
ありがとう。
dion規制中で書き込めないんで、レス遅れました。

まだ読んでいませんが、図書館で借りてよんでみたいと思います。
私はこの時代についての本は「魏晋南北朝」(講談社学術文庫)しか読んでないので
、その本はどちらかというと南朝の貴族文化中心の記述で、五胡十六国の詳しい内幕がわからないので困っていました。
857854:2009/12/19(土) 23:54:14 ID:BpgQohgK0
>>856 どうもです

同じ東方書店から出てる「匈奴」著者:沢田勲も前史として併読お勧めです。
858名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/15(月) 23:00:01 ID:cuaxbRs50
保守・・・
859名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 16:20:17 ID:r9d/GIOa0
羊 献容たんの人生劇場

286年  生まれる
 ↓
300年  14歳で恵帝の皇后となる
 ↓
301年  司馬倫が皇帝位簒奪→皇后廃位 
 ↓
301年  司馬倫あぼーん→復位
 ↓
304年2月  廃位
 ↓
304年7月  復位 
 ↓
304年8月  廃位
 ↓
304年11月 復位
 ↓
305年4月  廃位
 ↓
305年11月 復位
 ↓
305年11月 廃位
 ↓
306年6月  復位
 ↓
306年11月 恵帝死去。皇后位を去る
 ↓
311年  洛陽が前趙の劉曜らの攻撃を受けて陥落 → 無理やり劉曜の嫁にされる。3人の子をもうける。
 ↓
316年  長安が陥落して西晋アボーン
 ↓
318年  劉曜が皇帝に即位。皇后に立てられる。
      劉曜「俺と恵帝と比べてどう?」
      羊「あなた最高よ。ワイルドな男って素敵!あなたに逢えて良かったわ。ああん、幸せ!」 
 ↓
322年  享年36。劉曜マジ泣き。立派な墓を建てる。
860名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/02(日) 06:18:50 ID:OH0tgZat0
劉曜「ところで俺の○○○を見てくれ こいつをどう思う?」
献容たん「すごく 男らしいです」

861名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/11(火) 02:53:32 ID:c2M/vMCm0
リアル世紀末だよな
ひゃっはあが幅を利かして
献容は早死に出来て幸せだったろう
これ以上醜いものを見なくてすんだんだから
862名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/05(土) 09:22:24 ID:pP+KyLt4O
成漢はまともだったな
863名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/05(土) 22:41:36 ID:JG+U1K5n0
武悼天王——冉闵,一道屠胡令挽江山于既倒,扶大厦于将倾。
他挽救的不是自己的国家,而是一个民族,
论后世影响功业之最,五胡十六国非天王莫属。
864& ◆YblxvAoX4w :2010/06/15(火) 10:59:37 ID:8iIxULys0
东汉桓帝到三国归晋时,中国人口减少了90%
西晋孝惠帝为了充实人口,收容塞外异族,最后导致了胡汉之争。
然而五胡时代的开启,结果不是胡人取代了汉人,而是胡人成为汉人。
胡人进入了中国,最后却在相互的撕杀战乱中接受了汉人文化。
到了今天,中国国内无论汉族还是少数民族,都认同了大家都是中华民族。
865& ◆YblxvAoX4w :2010/06/15(火) 11:00:40 ID:8iIxULys0
中国的国学也在历史不同时期兼容并蓄。
中国的国学,以商周易学为源头,先秦诸子百家为根本,涵盖了两汉经学,魏晋玄学,隋唐佛学,宋明理学。
集中体现出来的是以儒家,道家,释家的思想为本。
以名家,墨家,兵家,纵横家,阴阳家的理论为辅。
其中主要体现了“道コ为本,才智为辅”的文化特性。
而韩国所谓的儒学,不过是中国儒家学说的皮毛而已,而儒家学说,也是对中国最有影响的国学之一而已。
866& ◆YblxvAoX4w :2010/06/15(火) 11:03:00 ID:8iIxULys0
对了,还有法家,只是法家代表人物的名声和结局都不好。
秦朝重法家学说,韩非,商鞅,李斯无一有好的下场,而曹操也是法家人物,后来名声也不太好
867名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/26(土) 19:35:12 ID:ZPNz0Poz0
後趙分裂時(350年頃)の中華の州別人口比率ってどれぐらいだったんでしょうか?
もしそこまで詳しくなければ華北・華南の人口比率でも良いのでお願いします。
868名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 13:38:56 ID:UNoK3Olt0
>>861
蒼天の拳みたいにこの時代を舞台にした北斗の拳の過去話やったら面白いかもしれない
869名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 10:42:55 ID:AueVekvuO
講談社「東アジア世界の歴史」より抜粋

秦・ヨウから流出した者は約四、五万戸で当時の総人口の三分の一
ヘイ州から流出した者は約四万戸で当時の総人口の三分のニ
梁・益州より流出した者は約二十万戸で当時の総人口の十分の九
キ州より流出した者は約一万戸で当時の総人口の三十分の一
西晋全国の総戸数三百七十七万

王仲○なる学者の説であり、著者も数が正確か計りかねているようだが…
870名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 10:06:57 ID:20RK7Kk00
伏字にする意味あんの?馬鹿?
871名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 19:22:44 ID:76DQA5f80
個人名は出さない方がいい
872名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 19:32:35 ID:6VEzZWiQ0
>>871
ネタかマジかわからん
873名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 22:42:59 ID:bDLgRfXs0
本として出てるんだし、
そもそも学者なら名前オープンだろ
874名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/02(土) 16:25:36 ID:5i/tPh3nO
南北朝って何でこんなに人気無いんだろ…
歴史番組でも取り上げてるの見た事無いし、
中国の歴史ドラマでも全くやらないよね。
個人的には春秋の次くらいに面白いと思うんだが…
875名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/02(土) 19:31:56 ID:VU3LJKtr0
複雑だしドロドロしてるし
876名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/02(土) 20:18:38 ID:5i/tPh3nO
個人的にはあのドロドロがたまんないんだけどな…
人間の本当の姿を見てるようでテンション上がる
まあ記述自体は胡散臭いのも多いけどさ
877名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 22:07:09 ID:OV8vrG1h0
複雑、国の数多い&短期間に変わりすぎ、しかも凄惨となると、どうしてもマイナーになってしまうのか。

北斉を舞台にしたエロ小説でも出ないかな・・・。靖康の変でもいいけど。
878名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 02:20:41 ID:daJf27Qa0
>>874
北魏の馮太后のドラマがあったろ。
879名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/08(金) 09:56:06 ID:HukOR3bh0
南北朝は家臣が力をつけ、主君を蔑ろにして殺すブーム全盛期だわ
三国時代の群雄は名目上漢の臣だが、実質は独立勢力
880名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 18:16:30 ID:i8sWZhCN0
車馬のなんとかはなし。 と嘆く某詩人の曽祖父は、荊州軍閥の雄。
下去が怖い時代。上から下まで、生きるのも大変。

人民中国の初期もそうだったような気がする。
881名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 12:59:26 ID:TsZXLb+E0
3人の勇者に2つの桃を与えて争わせて3人とも没落させる宰相?の話があったと思うんだけど、誰の話だっけ?
882名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 13:30:24 ID:LeV1aAmG0
二桃殺三士
時代違う
883名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 13:43:27 ID:TsZXLb+E0
そうか。ありがとう
884名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 02:29:14.22 ID:BW83gvWwO
保守
885名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 15:21:45.92 ID:zne4y0cP0
五代十国と間違われるならまだしも、春秋戦国と間違われるとは・・・
886名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 00:10:10.09 ID:7J1youGP0
皇帝がほとんど禅譲させられて一族殺される時代なんて人気が出るわけない
二度と皇族に生まれたくないって泣きながら死んでいくんだぞ
887名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 23:19:46.54 ID:0qqmZ4KC0
どっかの誰かが言ってたが
政敵をどうやって排除するのかに頭を悩ませる展開が面白いのであって
邪魔だからヌッ殺すようなDQN時代は物語にしてもつまらんとか言ってたなー

華北政権の突然の勃興と崩壊は面白いけど
888名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 10:06:50.06 ID:bTwhI5ftO
そうかな?
単に異民族だから研究が進んでないだけじゃないの?
書いてる通り、華北なんか
劉聡、劉曜、石勒、王弥、コウ唏、段部辺りはキャラたっててるし
889名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 16:52:42.65 ID:2bq9p4vw0
>>888
ごめん、南朝の話をしていたつもりだったんだ
890名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 21:45:53.50 ID:bTwhI5ftO
こちらこそすいません
891名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/03(日) 02:30:08.72 ID:lOJl/CgK0
>>890
いや、それでも華北の面白さは俺も賛成するよ
異民族と漢民族の融和をどのように達成するかの葛藤はかなり面白い

石勒が打ち立てた胡漢融和政権を漢人ゼン魏が倒したり
漢民族以上に漢民族の理想を追い求めた前秦とか
何気に公孫氏政権の間接的後継者の燕諸国の勃興と衰退とか

まあ、華北と華南では展開がかなり違って
微妙に同列に論じにくいという問題があるけどね
892名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/03(日) 22:10:02.01 ID:wOytvBrb0
華北はそろそろ人気出てもいいはず
後趙←ゼン魏、前秦←淝水戦、北魏…
一進一退を繰り返しながら胡漢融合していく過程が見れて楽しいと思うんだけど
人間ドラマの要素もあるし

南朝は文学面で結構人気があるからね…
芸術面の研究は充実してる印象
南朝の政治は当時の人間が架空の世界に逃げ込むレベルかと
893名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/03(日) 23:32:42.02 ID:lOJl/CgK0
葛洪とかそういう人は結構いるね

江南では華北貴族層と江南人士層の対立があるんだけど
華北と違って、鋭い対立が起こらず貴族層がイデオロギーで押し切った面がある

華北の人気が出ない理由は、
三国や楚漢戦争みたいに、この一人を追いかければいい、というのが無いのが大きい
胡漢の対立として描こうとするとどうしても人物を3,4回変えないといけないからなー
894名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/04(月) 22:07:16.61 ID:MlPPvdzRO
石勒でいいじゃん
本当か分からないけど王衍との出会いからめて前半の敵は王衍
後半はもちろん劉曜
劉曜への宣言とかあるし、劉曜の後悔もあるしね
張賓、徐光、孔長、段末破、文オウ、コウ唏、王弥キャラたってる
895名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 00:51:56.29 ID:0PSDsIAc0
そして、中期に符堅、後期に拓跋珪→北朝成立か
間接的にも統一王朝の基盤とならないのも原因かもねー

ただ、そろそろ石勒は注目されてもいいとは俺も思う
奴隷からの逆転人生は魅力的だ
これであとは放浪する貴公子とライバル関係を築ければ……
896名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 10:20:14.46 ID:/onHPDvi0
その三人は人間として面白いよね
人物の魅力なら他の時代の皇帝にも引けを取らないはず
ただ深く調べ出すと遷都やら一回きりの地方部族やらで混乱しまくるからなー
石勒(祖逖、石虎、劉曜)
苻堅(謝安、慕容垂、姚萇)
拓跋桂(劉裕、姚興)
でセットな感じだろうか
そうすると石勒〜苻堅間の桓温、慕容格、ゼン閔辺りが影薄くなって…
三人覚えれば何とかなる三国志や二人で大丈夫な楚漢と比べるとかなりハードルが上がるし
仲間<<親戚兄弟を重視する時代だからキャラクター性が出なくて名前も覚えにくいのも原因かと
897名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 21:55:19.70 ID:UXEgGtlz0
たしかにそれ大きいね
項羽と劉邦スレで登場人物の知名度の話が出てたけど
項梁や張良の名前すら覚えられなかった人がいたし
898名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 22:33:23.93 ID:lO/MBgElO
それうちの嫁
899名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 00:09:46.43 ID:vgmFrpI/0
いやおれの嫁
900名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 00:52:31.87 ID:h9/ch1650
>>898-899
俺の姉、いつの間に2人も旦那ができたんだよ
901名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 14:07:06.00 ID:PraDfqpT0
石勒の小説は欲しいなあ。
田中芳樹あたり書いてくんないかね。
902名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 15:03:01.74 ID:i66a1b4R0
初期の主役候補
祖逖・・・二千の兵で敵をことごとく打ち破る。石勒も勝てなかった。強いけど地味。
劉淵・・・五胡のキッカケの人物。洛陽攻略直前で死ぬ。
劉聡・・・西晋を滅ぼすが、頭おかしい
劉曜・・・“神射”の皇帝、石勒に捕らわれた後つぶやいた言葉で格付け決定
石勒・・・名言がなければただの卑怯・虐殺者だが、自信満々に行うと納得?
慕容[皇光]・・・やってることはあるけど地味
慕容恪・・・生涯無敗。魅力あるけど短命
慕容垂・・・段氏の件といい。才能はあるが認められない。亡命後独立し後燕建国。斛律光にならなくて良かったね
拓跋珪・・・北魏の初代皇帝、頭おかしい
苻堅・・・理想主義の真面目な変態

こうやってみると
劉淵、石勒、慕容垂くらいかな?
劉曜、苻堅は完全に敵・脇確定
903名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 15:41:57.63 ID:h9/ch1650
劉淵でスタートするなら、三国志に絡めやすいな

劉淵は西晋の首脳部からものすごい高評価を受けてて
劉淵が指揮を取れば呉なんて簡単に滅ぼせるなんて言われてたからなー
異民族だからってことでそうはならなかったけど
904名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 17:47:00.51 ID:i66a1b4R0
中盤〜後半
劉裕・・・粛清大好き人間。前皇帝殺す慣例を作った人。
蕭道成・・・南斉つくる
蕭衍・・・南梁、皇帝菩薩、侯景に餓死させられる。
拓跋Z・・・北魏領土MAX男
宇文泰、高歓、陳霸先・・・前王朝の重臣で、権力持って禅譲
楊大眼・・・北魏の将。武勇は関張を超えるといわれた。重瞳の将軍
斛律光・・・北斉の軍人、北周の韋孝寛の離間の計によって謀殺される。北周の武帝は処刑を聞くと大赦と発し、滅ぼした時には彼が生きていたら滅ぼせなかったと語る。
韋孝寛・・・寡黙でイケメン、頭脳明晰、謀略、政治、攻撃、防戦全てこなす男。偽帝蕭宝寅を討ち。玉壁の戦いでは高歓をやり込め、死に追いやり。北斉の斛律光を謀殺した。

ほぼ領土が固まっているため、将軍の楊大眼、斛律光、韋孝寛くらいですかね
905名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 21:32:23.50 ID:c+DxUbpr0
慕容恪VS冉閔を軸にしても、338年〜352年までカバーできる、この後は桓温無双にシフトすれば
369年までは粗方抑えられる。

その脇で、天下統一に夢想する苻堅と王猛の二人三脚、慕容垂という英傑との絡みを織り交ぜていけば
五胡十六国時代中期はほぼ網羅

謝玄は、桓温の用兵の後継者的扱いにしていけば、肥水戦にクライマックスを持っていくこともできる。
906名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 12:06:38.65 ID:Sv3C7tq70
キャンペーンゲーム「東晋の存続」
期間は八王の乱から北魏の分裂まで
907名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 14:35:55.06 ID:BWYYMGalO
ネラーとしては歴代北斉皇帝のアレっぷりも詳細に書いて貰いたいな。
908名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/21(木) 23:30:54.11 ID:6OBxDqrZO
右を向いても左を向いてもどいつもこいつもキチガイばっかというアレですか
909名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 06:58:47.91 ID:kVzDKn3W0
苻生の猛将ぶりがマイナーすぎる件
910名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 12:08:44.17 ID:RVY4CP480
>>905のプロットで小説かゲーム作れそうだな
ゲームでなら戦略シミュというよりSRPGの方が良いかもしれんが
911名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 14:17:57.86 ID:EKg/3kpj0
劉聡が評価される理由がわからん
戦だって洛陽取れたのは石勒と王弥のおかげでしょ
この二人が東に行ってから独自で愍帝滅ぼすのに何年もかかってる
その間後宮に引きこもったり劉曜に泣きついたり、
その後有頂天になって兄弟や功臣殺したりのキチガイ三昧
なんでこいつが暗愚の烙印を受けないんだ?
912名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 15:38:29.68 ID:8hszlI/NO
蘭陵王勝利
913名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 13:31:40.66 ID:5RO3A2kd0
914名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 23:43:01.96 ID:CC1b2m2h0
>>911
まあ、匈奴漢の最大版図を切り取ったのが劉聡だから仕方無くね?
生前に権勢と国土を失陥したわけではないから、暗愚って評価はチト辛過ぎる。

劉曜が最後に酔っ払って負けたせいでイマイチな評価になっている方が我慢ならないけどね。
晋人が頑強に抵抗する洛陽と長安を力攻めで攻略した手腕はもっと評価されるべき。
915名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 00:44:36.88 ID:jGWBH/0Q0
 唐突ながら淝水の戦いの考察

 そもそも、前秦のスタンスとしては
@政治目標:東晋の併合
A戦略目標:東晋の軍事力(西府軍団・北府軍団)喪失又は首都建康の制圧
B戦術目標:淝水における北府軍8万の撃滅、上明の桓沖率いる西府軍団主力の撃滅
      あるいは、これらの継戦意思の破砕
 上記の作戦計画で、東晋併合戦を進める絵図を描いていたはずなんだけれども、
初っ端から軍上層部の不和……と言うか、「やれっこないっすヨ、陛下」と思いつつ
計画を立案させられているものだから、自然、負けないような作戦計画に帰結していく。
と言うわけで、何の捻りも無い・あからさまな・バレバレの東晋侵攻計画が
出来上がっちゃいました。攻勢に出るはずなのに、奇襲も糞もない平押しで威圧していく
悲壮感漂う計画、軍勢は多いが士気も練度も微妙、歴戦の勇士は居れど疲労困憊の極み。
いや、戦力基盤がグラついていたからこそ、みんなして戦争なんかしたくなかったわけで
当たり前っちゃー当たり前の話ではあったんですけどね。
 晋の平呉戦役と似たような感じで、蜀漢からも攻めるし、関中から南下もする、徐州正面
からも兵を進めるっつーオーソドックスな作戦計画、80万近い兵力を投入して行われる
一大イベント、苻堅の中では否が応でも期待が高まります。苻融の中では不安が増大
しまくったことでしょう。

 この苻融の後ろ向きな作戦計画、個人的には同情します。何せ襄陽一城を陥落させるのに
多大な犠牲を強いられた経緯があると言うのに、その上で東晋の併合を図るのです。
人口比で約2:1の国力差があったとしても、決して圧倒的優勢にあるとは言い難い状況に
直面していたわけです。だからこそ、この作戦に加えなければいけないアクセントとして
調略をもっての東晋政権内の不和・連携の不備を醸成していくことが必要だったと思います。
しかし、この時の東晋は信じられないくらいに堅固な団結を発揮したのでした。(続く)
916名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 01:25:58.00 ID:jGWBH/0Q0
 淝水の戦いの考察(第2回)

 続いて東晋のスタンス
@政治目標:晋王朝(漢民族政権)の存続
A戦略目標:前秦軍侵攻の「断固」阻止(和睦は存在しない)
B戦術目標:前進軍主力を撃破、あるいは、兵站・指揮中枢を破壊しての継戦能力の喪失

 戦略目標を達成するための裏づけとして戦術的勝利は必要不可欠です。
これが成り立たなかったら、そもそも戦争なんてできません。この場合、防勢作戦を採用
しつつ、一部で攻撃に打って出て局地的にでも戦勝を獲得しなければ、東晋はジリ貧です。
でも、もう無敵を誇った大司馬桓温はいないのです。決定的な戦果は期待できない状況で
当時の政権担当者である謝安は、博打に出ます。「大一番での勝負事に強い」のが謝安です。

 益・荊北・豫・徐の四正面からの侵攻を「真面目に」受けたならば、東晋側の兵力では
長期的に持久することができたとしても、最終的に待っているのは戦力の枯渇・決定的な
敗亡以外ありません。華北は統一されており、連携をとるべき勢力が存在しないのですから、
いくら持久しようとも、前秦の攻勢が繰り返される限りは、いずれ国力で優る前秦に趨勢が
傾くのは回避できない状態です。
 四経路からの分進合撃を破砕するためにはどうすれば良いか。
 最良の手段は敵の態勢完了の不備を突いての機動による各個撃破です。
次に戦力の集中を阻害して、敵に不利な態勢を強いた上での決戦です。受動に回って、単純に
敵の攻撃を待ち構えて撃退しようとするのは上記で述べたとおり下策です。

 東晋の動きは迅い。益・荊北正面において攻勢に出ます。(383年5月〜7月)
最終的に攻勢は頓挫して、桓沖率いる西府軍は撤退を余儀なくされます。10万を数える遠征軍は
西府軍団の外征能力の限界に迫る数字か、あるいは超えていたかもしれません。桓温時代ですら
ここまで動員した実績はなかったのですから。
 この西方における攻勢作戦が、前秦の作戦計画に微妙な狂いを生じさせます。(続く)
917名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 22:58:27.40 ID:jGWBH/0Q0
淝水の戦いの考察(第3回)

 東晋がなぜ、益・荊北正面で攻勢を仕掛ける必要があったのか。
戦力を温存して、堅固な地形で迎え撃つ方がはるかにローリスクで効果的な作戦に思えます。
下手すれば、益・荊北に深く切り込みすぎて、後方連絡線を遮断される危険性さえある作戦、
結局、戦果の方も芳しくありませんでした。司令官である桓沖は慕容垂の計略に恐れ戦き、
呆気なく撤退してしまいます。戦術的には前秦が「良くぞ凌いだ」、「やや優勢」、といった
ところでしょうか。(そして、やはり慕容垂の戦術勘は他の追随を許しません。)

 しかしながら、戦略的に見るのであればこの緒戦で東晋側が獲得した成果は、撤退の損耗を
補って余りあるものだったと言えるでしょう。簡単に整理すると、
@前秦の益・荊北方面からの侵攻を決定的に遅滞
 特に、前秦の各経路における作戦同士の連携を困難に陥れた。
A(@の結果を受けて)前秦の主作戦正面を豫・徐方面に限定させることに成功
の二点が挙げられます。「蜀漢の兵は長江に沿って下り」と晋書には記述されていますが、
前秦は長江上流を押さえつつ、(西府軍団を西方から圧迫しながら)荊州を北方から攻略する
という常套手段を結局実行することができませんでした。それだけ、この正面での進軍が
遅延したことの証左になります。慕容垂の軍が転用されていることを考えれば、本命は当初から
寿春正面を考えていたのかもしれません。あくまで、西方作戦は支作戦に過ぎないという
考え方です。前秦としては痛くも痒くも無い……わけないですね。侵攻の手の内が暴露された
ようなもので、完全に「してやられた」形です。なかなか主動性を奪回できません。

 この東晋の西方作戦は先制したことにより、上記の長江上流からと荊北からとの二正面作戦を
回避するとともに、前秦の主作戦正面がどこかを明らかにさせたと言う点で、絶対に成功させな
ければならない作戦だったと言えます。もし、益・荊北正面の前秦軍の勢力が厚く、続々と
東進してくるような兆候が見られた場合なら、間違いなく主作戦正面は西方だったでしょうし、
逆に、あんまり攻勢が激しくないようであれば、実は東方こそが主作戦正面と概定できるという
段取りです。相当博打です。しかしながら、謝安は桓沖の消極的な性格を酌んだ上でこの作戦を
任せたのではないかなあ、とも推察できます。好機であっても深追いはしないし、これ以上の
戦線の維持が困難と判断できれば即座に撤退する、一か八かの威力偵察には持って来いの人材と
言えましょう。でも、まあその性格をまんまと利用されたとなれば、桓沖にしてみれば好い面の皮
といったところ。(この部分はあくまで推察です。)

 383年8月、苻堅は東晋征討の詔勅を下します。東晋の北伐を撃破したことで調子に乗って口を
滑らせまくってたみたいです。本当に笑いたかったのは謝安の方だったんでしょうけどね。かつて
江南の天下人の野心を紙一重ながらも破砕した勝負師は、次なるターゲットを華北の覇者へと
狙い定めるのでした。
918名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 23:44:09.65 ID:/Zhmh4e40
期待!
919名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 00:03:15.49 ID:FKXUP/CB0
 淝水の戦いの考察(第4回)

 一気に、淝水直前まで飛びます。前秦軍の攻撃計画の概略は、潁水沿いに南下する前鋒(途中で
蜀漢方面から一部が合流)とそれに続く主力、徐州から南下する別軍とで建康を陥れるものでした。
9月の時点で項城まで進出し、10月には寿春を攻陥した前秦軍はここで大きな過ちを犯します。

 ひとつは、河川障害の過大評価。もうひとつは東晋軍の過小評価、このふたつです。洛澗に到達
して逸早く地域を確保した衛軍将軍の梁成は、柵を囲って築城し攻勢防御の態勢をとった。これに
東晋軍は攻めあぐね、悪戦苦闘を重ねる。右脇腹を梁成にさらけ出しながら、寿春の苻堅と対峙
することは不可能です。この不利な態勢を克服したのは、11月、劉牢之の精兵5千による強襲渡河
突撃(しかも夜襲)及び別働隊による徐州方面軍後背への放胆かつ迅速な機動による包囲攻撃に
よってでした。
 梁成側にも北府軍を退け続けたことから来る油断もあったと思いますが、明らかに梁成を破った
際の謝玄の采配は冴えまくっています。加えて、晋書に記述されている戦闘経過とその結果が微妙に
リンクしていません。(これは後述)

 梁成率いる徐州方面軍が壊滅したことにより、前秦は北府軍を拘束する助攻撃部隊を喪失して
しまいます。淝水をはさんで兵力で圧倒的に劣る東晋軍と決定打をことごとく失陥してしまった
前秦軍との先の見えない対峙が始まることになりました。
920名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 23:51:49.31 ID:FKXUP/CB0
 淝水の戦いの考察(第4回続き)

 「勝てる勝負しかしない」と評された東晋の大司馬桓温
 この梟雄の傍で軍歴を重ねた謝玄にしてみれば、叔父の大博打は到底理解し難いものだったに
違いありません。でも、東晋存亡の危機だし、作戦の基盤を整備する権限は与えてもらえたし、
西府・北府の対立構造も若干緩和されたし、謝安も考えなしに博打に出ているわけではなさそう
ってことぐらいは、謝玄にも察することはできたと思います。
 しかしながら、いざ戦場で敵軍と対峙してみれば、いつの間にか寿陽まで侵攻されちまってる上に
敵の一部が淮水沿いに野戦陣地なんぞを構築しやがっております。戦場となり得る地域は寿陽から
芍陂にかけての地域に特定できそうな感じですが……謝玄としては、ここで選択を迫られます。

 「寿陽の敵と洛澗の敵とでは、どちらが自分たちに当たって来るのか。」難しい選択です。
洛澗の敵は淮水を利用して東進、盱眙まで進出する可能性も孕んでいるところが不気味でしょうし、
彼らを何とかしないことには、奪取された寿陽を取り戻すことすらできません。寿陽は寿陽で、
陸路の交通の要衝、大部隊を展開して移動させるには、寿陽正面の方が適しています。どちらかを
攻めれば、その拘束を受けているうちにもう一方からの攻撃を受け、容易く撃破されてしまうことは
必至の態勢、いや、すでに敵勢力の大部分の集結が完了している場合には最早撃破は不可能……

 ゆえに、「洛澗から去ること二十五里、梁成を懼れて、敢えて進まなかった。」
となるわけです。同時並行的に苻融による寿陽の平定は進められ、寿陽の救援に向かっていた東晋
の龍驤将軍胡彬は包囲されてしまいます。苻融はこれを餌にして、北府軍の主力を誘き寄せようと
図るとともに、苻堅に速戦を具申します。苻堅は喜び勇んで精鋭騎兵を引き連れて、項城から寿陽
まで進出しました。また、これに先立って、降伏を東晋側に勧告しています。使者は、かつて
襄陽を死守し、後に降伏して前秦に仕えることになった元西府軍団の重鎮、尚書朱序

 「勝てる勝負しかしない」ということは、決戦を仕掛ける際には勝つ段取りは既に出来上がって
いると捉えることもできます。この降伏を勧める使者の口から出てきた「前秦軍の集結は未完」
という情報が、謝玄に戦局を判断させました。梁成を駆逐する段取りが出来上がっていたことは
その鮮やかな奇襲と機動から読み取ることができます。重要な要素は、寿陽の前秦主力の集結には
まだ時間的余裕が存在し得ること、即ち「打って出ない」公算が高かったという一点に尽きます。
徹底的に洛澗の敵を叩き潰さなければ、寿陽への進軍は大きく掣肘されたことでしょう。狙うは
殲滅、梃子摺っていた淮水の河川障害は夜間を利用しての強襲渡河で損害を最小限に押さえ込み
正面から拘束した上で主力により梁成の後方連絡線をぶった切る、包囲機動のお手本みたいな
戦い方です。

 決戦までの時間は限られています、最早一刻の猶予もありません。謝石・謝玄らは、時をおかず
水陸から進軍して、前秦軍とついに対峙することになったのです。
921名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/20(金) 00:46:48.97 ID:drIK7vWu0
 淝水の〜(第4回続きの続き)

 ……何と言うか、時系列的に苻堅の動きが慌しすぎて、どこの時点で寿陽まで進出してきたのか
すごく曖昧な部分があります。梁成が討ち取られた後、東晋軍がやっとこさ寿陽東方まで出てきた
時点で苻堅もドンピシャで出てきたと考えると、寿陽の前秦軍は全然兵力結集されていません。
(騎兵だけ先行的にやってきた感じ)さすがに、これで8万近い北府軍を撃破するのは無謀すぎます。
胡彬さんもいつの間にかいなくなっちゃってるし、寿陽正面で何があったのか、実はよく分かって
いません。
 朱序との接触によって、謝石は苻堅が寿陽まで来ていることを知り、甚だ懼れたという話になって
いますけど、それだと苻堅は約30kmほど先で、謝玄によって梁成が攻められているのに全く気づか
なかったボンクラになってしまいます。
(まあ、すでにボンクラ化の兆候が顕れ始めているようですが。)

 洛澗における前哨戦のキモは、梁成と苻融の連携が全く成り立っていなかったことに尽きます。
これが上手く連携して南進できていたならば、おそらく謝石・謝玄たちは戦力を分散してこれらに
当たらざるを得ず、前秦主力の集結完了前に決戦を仕掛けることはできなくなっていたと思います。
しかしながら、この連携の不備が明らかになった時点(朱序の降伏勧告後)で、謝玄は先手を打って
梁成を撃破しました。(これも見事な各個撃破)主動性は決して手放しません。前秦軍が戦力的には
有利な状況だったのを、あの手この手で揺さぶり、智略の限りを尽くし、寸毫の好機を最大限に活用
して、ついに淝水を挟んでの両軍対峙まで漕ぎ着けたのです。
922名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/20(金) 00:50:12.78 ID:drIK7vWu0
(対峙の場面を3回も繰り返して考察したのは、この場面に淝水の戦いの戦勝要因がちりばめられて
いるからです。くどいかも知れませんが、ご容赦ください。)
923名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 16:56:58.24 ID:woSYNYFx0
 淝水の戦いの考察(第5回)

 続々と前秦の主力が集結しつつある状況にあって、謝玄は決戦を求めます。
 前秦の首脳部も同様に決戦志向でした。下手に東晋側が守勢に入って、対峙が長期化すれば
前秦側も軍を保持しえなくなるおそれがあったからでしょう。何より、梁成の軍を壊滅させられ
形勢は東晋側に傾きつつあります。主導権を取り戻すためには、決戦で謝玄を屠り去り、前秦の
威容を天下に示すほかありません。
 秦将の中には、短期決戦に反対する意見もあったようです。私も、個人的な意見としては、
長期戦に切り替えて、再度、東晋を両翼から包囲するように軍を再編成する必要があったと思い
ます。(間接アプローチ戦略になりますが、京口正面及び江陵正面へ兵力を回して、圧迫を
加えることができれば、北府・西府両軍にかなりのプレッシャーを与えることができたはずです。
しかし、これをやるとなると後方連絡線・策源地域からもう一度設定しなおさなければならない
から相当骨が折れる話ではあります。)ここに来て、長江上流域から圧迫を与えることができない
と言う状況がじわりじわりと前秦の作戦を硬直化させていきます。

 苻堅は、東晋軍が想いの外精強だったことに弱気に陥ってます。ただし、ここで苻堅が心配した
のは、東晋軍が決戦を回避し、防勢転移して強力に前秦の侵攻を阻止する態勢になった場合を
想定してのことだと思います。(決戦自体はおそれていない。)「東晋軍の主力を逃したくなかっ
たからこそ寿陽まで急行したというのに……。主力が到着〜態勢完了してから攻撃に打って出る
か否か。東晋軍は見積もりよりも遥かに手強い、攻撃が成功する公算は高くない……。」

 東晋軍にしてみれば、後は頑強な防御戦闘によって前秦軍主力の侵攻を阻止さえできれば、
本戦役での判定勝ちは狙える態勢に持ち込んでいます。無理して冒険する必要性はあんまり
なかったりします。ただし、ここで前秦の外征能力を削れるだけ削っておかなければ、いずれ
前秦軍の戦力が快復されたとき、再度の侵攻が企図されることは免れ得ません。
 今次の戦役では、謝安の妙手により終始、主導権を握りつつ戦を運んでくることができ
ましたが、果たして次の戦役でも同じく駒を進めることができるかどうか。

 謝玄の脳内には、勝利への算段は既に組み立てられています。梁成を撃破した際に披露した
渡河状態からの突撃による集結未完の前秦軍に対する正面突破です。彭超・梁成たちを血祭り
に上げてきた水上機動による強襲、何度も何度も練成を重ねてきた東晋軍の卓越した技能です。
才知溢れる前秦の数多の将星たちにして、決して覆すことのできない東晋の軍事的優越、
これを最大限に発揮するため、謝玄は彼自身にとって似つかわしくない奇策を弄すのでした。
924名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 18:44:30.65 ID:woSYNYFx0
 淝水の戦いの考察(その6)

 「君遠涉吾境、而臨水為陣、是不欲速戦。諸君稍卻、令将士得周旋、僕與諸君緩轡而観之、
  不亦楽乎!」

 凄い喧嘩の売り方です。要訳すれば「さっさと決着を付けようか。」
 華北の覇者に対してここまで挑発的な申し出をする当たり、何だかんだ言ってやはり謝安
の甥と言わざるを得ません。この申し出には文面どおりの意味のほかに、もうひとつの意味
が備わっています。
 もし、前秦側がこの申し出を拒否した場合、東晋側によってその内容が(事の真偽にかか
わらず)世間に喧伝されてしまう可能性があったことです。武力によって覇業を推し進めて
きた苻堅にして見れば、そのような侮辱を甘んじて受け入れることは不可能と言ってよく、
諸将が挑発に乗らない(「渡河しなければ勝てます。」)ように意見具申してきたときも、
即座に退けています。東晋との決戦を回避するということは、すなわち東晋侵攻作戦そのもの
が、はじめから無理があったと自供するようなものでしたから。
 まあ、ここでの諸将の反応もいただけません。北府軍の疲弊を待つ算段かもしれませんが、
ここまで鍛え上げられた北府軍に対し、どうやって締め上げるつもりだったのでしょうか?
(精鋭を選りすぐった上に、士気・練度とも最高潮といって良いでしょう。)
明らかに長期戦になった場合、先に前秦軍の補給が音を上げるのは不可避、勝ちに行くので
あれば、ここは決戦以外に選択肢はありません。(勝たないで良いのであれば、決戦する必要
はどこにもなかったりしますけどね。一刻も早く撤退するか再編するべきだったと思います。)

 苻融は怪訝に思ったことでしょう、この状況(東晋優位の態勢)でなぜ決戦に拘るのか。
@謝玄は前秦に対して連戦連勝、勝ちに乗じて(調子に乗って)戦果を拡張しようと企てた。
 (謝玄=勇猛果敢な猪武者)
A決戦は擬態で、その実、梁成を破った際に見せたように、主力又は別働隊により前秦軍
 主力の後背を叩く作戦(謝玄=巧妙な策士)
Bこの申し出はただのブラフであり、前秦軍の足並みを混乱させようとする小手先の計略
 (謝玄=狡猾なペテン師)
 考え始めたらキリがありません。前秦は受けざるを得ない状態にありましたし、こんな約束
守る必要なんてどこにも無いのですから、後退した振りをして逆撃を食らわせてやれば
いいだけです。前鋒だけでも20万近く集結しているのですから、正面決戦で負ける要素なんて
皆無と言ってよいでしょう。そもそも東晋が淝水を渡らざることを憂えていたのに、向こうから
まんまと渡河したいなんて言って来ること自体奇跡のようなものです。正に渡りに船、鴨ネギ
といったところ。

 おそらく前秦首脳部の謝玄に対するイメージは、@だったと思います。「戦勝に浮かれて前秦
軍を舐めてかかっているのだろう。実力相応、無理からぬことだ」と。
 しかし、彼らは気づくことができなかった、自分たちが知らず知らずのうちにそのような
思考に誘導されていたことに。渡河(移動)状態から突撃に移行する際の最大の問題点は渡河の
出鼻を挫かれてしまうことです。ゆえに、ある時は夜陰を利用し、またある時は敵の予期しない
手段で(たとえば寡兵で、あるいは渡渉地点を巧妙に欺騙して)渡河を図るのです。
 前秦首脳部は目の前にぶら下げられた餌(喪失しかけていた勝機)に釣られて、東晋軍の真意
を読み取ることを放棄しました。
 渡河を阻むものは全て排除されました。もう謝玄に迷いはありません。この瞬間、東晋最強の
武名は桓温から謝玄へと名実ともに引き継がれることになったのです。
925名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 20:04:55.62 ID:woSYNYFx0
 淝水の戦いの考察(最終回)

 長々と駄文を綴って来ましたが、結論としては、東晋側が仕掛けた心理戦がとても巧妙だった
というところでしょうか。前秦軍は決して惰弱な軍ではありません、否、華北を席巻したその
軍事力は十六国随一と言って良く、東晋が敗亡する可能性は十分にありました。
 東晋の勝因は、「考え得るあらゆる手段を講じた」ことに尽きます。ひとつでも欠けていたら
おそらく戦勝を獲得することは叶わなかったでしょう。

 淝水の戦いを扱き下ろす人は多いのですが、彼らは前秦軍は負けるべくして負けたかのように
評すことが多いです。(特に李衛公問対の著者、オメーだよ。)大きな敗因は、渡河突撃の威力を
推し量りかねたところにあると思います。迅速さ・激烈さ、どれをとっても申し分ありません。
また、偽後退→逆撃のコンボは、熟練した技量、指揮官の卓越した統御が必要になります。寿陽
まで進出した前秦軍にこの複雑な戦術を末端の一兵卒まで浸透させるには時間が足りませんでした。
 軍主力の集結未完の状態で敗走に入ったことも、被害を大きくした要因のひとつです。第一線
部隊は下がらなければ東晋軍の突撃を抑えきれない状態なのに、後ろでは友軍が続々と集結中
だったのですから、身動きが取れなくなってしまったはずです。後ろは後ろで、何で決戦なのに
退却し始めているのか、第一線の状況がほとんど理解できなかったことでしょう。
 無為無策というよりも(作戦自体は妥当なものです、東晋の作戦が異常すぎるだけであって)、
作戦の徹底が不十分だったことに尽きると思います。苻堅らにしみてみれば、東晋が心変わり
する前に(おそらく主力が態勢完了してしまえば、東晋は申し出を反故にするかもしれない
という疑念が生じたか)、さっさと決着をつけようと気が逸りすぎた部分があったのではないの
でしょうか?

 勝利の分水嶺となったのは、「あくまで主動を確保し続けようという執念」だったと思います。
敵に合わせてどうするかではなく、敵をどのようにするか、すなわち「人を致して、人に致されず」
(孫子「虚実篇」)を貫いたか否かです。おそらく、これまでも、そしてこれからも、未来永劫
変わることなく多くの軍人がこの命題に悪戦苦闘し続けていくことでしょう。
926名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 15:20:30.51 ID:6zT9E3wkO
蘭陵王連勝
927名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 19:21:09.16 ID:og18IDELO
五胡十六国の基礎研究って本が出てるけど読んだ人いる?
928名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 02:22:25.43 ID:I0lQ6mZZ0
同じ著者の別の五胡十六国本なら図書館で読んだなー
929名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 06:15:33.43 ID:zWTksT2qO
>>927
馬鹿高かったけど持ってるが何か?
930名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 14:59:43.30 ID:jy2X5ea6O
取り寄せしないと無いから内容知りたい
931名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 17:32:53.95 ID:zWTksT2qO
>>930
Amazonに書いてあるかも知れないが

目次は
◎序論・日本における「五胡十六国」研究と本書の目的
◎第一部・「五胡十六国」の意味と五胡十六国時代の民族
・第一章・「五胡」と「十六国」
・第二章・前秦における民族状況の一面
◎第二部・五燕の官僚機構と民族性
・第三章・前燕の官僚機構
・第四章・後燕・南燕の官僚機構
・第五章・五胡十六国時代における遼東・遼西地方の民族構成の変化
・第六章・北燕の「鮮卑化」
(続く)
932名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 17:47:13.01 ID:zWTksT2qO
(931からの続き)
◎第三部・夏の年号と国家観
・第七章・夏の年号
・第八章・「大夏紀年墓誌」に見える夏の建国意識
◎第四部・異民族統御官
・第九章・後漢の破鮮卑中郎将
・第十章・東夷校尉
◎第五部・「十六国」諸国の国家観と民族意識
・第十一章・「十六国」諸国の異民族統御官と東晋
・第十二章・異民族統御官にあらわれた「十六国」諸国の民族意識
◎結論
933名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 17:53:41.41 ID:zWTksT2qO
北魏の官制を知りたいのなら(とはいっても一部だが)
「魏晋南北朝官僚制研究」窪添慶文著
出版元は「五胡十六国の基礎的研究」と同じところ
定価(税別)はもっと高く14000円です
934名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 02:01:36.74 ID:NhxmfI7qO
「基礎的研究」は、他の研究者が本気で相手にしたくなるようなすんごい内容ではないと思うね。

935名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 08:12:25.59 ID:7g0wJLyTO
ありがとう
ボーナス出たら買おう
936 忍法帖【Lv=6,xxxP】 :2011/06/20(月) 15:11:34.22 ID:J8mlcIN40
そもそも五胡十六国の研究者って日本に何人いるんだろ
937名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 20:09:56.32 ID:BsLexG9PO
専門は三人くらいだと

ところでこの時代の一番の名将は誰?
劉淵?石勒?慕容恪?垂?祖逖?符堅?太武帝?劉裕?簫成道?韋孝寛?斛律光?それともアレ?
938名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 23:25:39.31 ID:MIn5a6KL0
>>937
作戦・戦術レベルは相当激戦区だろうけど
戦略レベルの名将(名政治家)が不作だからな〜
個人的には、バランス考えて韋孝寛を推す

あらゆる意味で異色なのは石勒だけど、凄さを表現できる手段・尺度がないのが辛い
「運」だけでは片付けられない何かがある
939名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 10:15:57.66 ID:jgGYf0X30
王猛
940名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 11:07:37.61 ID:vtRcnL/BO
>>937
太武帝じゃない?


理由は
>>734
>>749
941名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 05:50:35.54 ID:IHp5vJ1T0
慕容拓跋は棚ぼたで勢力伸ばしてるから自分的に評価は低い
桓温や王猛にも瀬戸際まで追い詰められてるし守勢も弱い
942名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 20:57:44.37 ID:o3RwiHrj0
>>941
でも慕容氏の河北での勢力扶植具合は、なかなかどうして良いお手並みだったぞ。
唐代の山東貴族も、結局その源流は慕容氏の下に参画した漢人豪族たちだし。
あと、華北を普通に統一した拓跋はちゃんと評価してやれよ!w
943名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 21:28:05.56 ID:tDycGPHD0
たくばつとうは過小評価。
曹操をも上回る英傑だろう。
944名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 18:59:30.84 ID:slVUfjkI0
>>938
俺も韋孝寛かな
全て上位のオールマイティ

石勒は異色だよな、運が凄い
王弥が信じて宴会行ったり、劉曜の馬がいきなりダウンとか
あと徐々に徳のある行動し始めるのも面白い


945名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 19:11:13.26 ID:wLWT8u2G0
斛律光に戦場では敵わなかった点で、最高の名将には推し難い。
946名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 19:54:20.29 ID:NmJYS3MG0
>>945
不敗だけど戦略上の勝利を逃し続けた慕容垂みたいなのもいる。
勝ったり負けたりを繰り返していたのに、華北を制圧した石勒みたいなのもいる。
勝ち数・負け数は名将の条件ではないよ。
947名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 17:21:09.43 ID:mtImWIRK0
>>946
不敗は兄貴のほうじゃなかったっけ?
948名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 17:21:45.08 ID:mtImWIRK0
さげ
949名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 22:43:09.81 ID:a7bAiZly0
桓温はどうだろうか
やはり劉裕と比べると見劣りするかな
950名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 10:26:11.86 ID:3pg+fI/i0
桓温はさすがに駄目だろう
951名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 14:31:09.81 ID:nZ8UfABF0
>>949
劉裕は、黄河のラインが防衛ラインに適さないことを理解できていなかった時点で
凄く格が落ちるんだけど。
オルドスを併合するか、牽制・抑留できない限り、黄河以南の地域は常続的に北方
遊牧世界からの掣肘を受け続ける羽目になるんだから、無理してでも夏に対する
策を講じておくべきだったと思う。(逆に言えば、オルドスを牽制できない態勢に
甘んじるようであれば、いっそ江南まで防衛ラインを下げたほうがはるかに効率的)
桓温は黄河のラインでは守りきれないと言う戦略的判断が働いたために、洛陽の守備
部隊をギリギリまで削減している。本気で抑えるつもりはサラサラないということだ。

コスト的には、圧倒的に桓温の方が安上がり。
そもそも、簒奪を目的とする両名において、軍事遠征の成功の可否において論ずる
ならば、劉裕はリスクが大きい作戦を採用しすぎている。それだけ権力基盤が脆弱
だったことの裏返しなんだろうけどね。
952名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 22:08:51.47 ID:UD2XzWy20
953名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 17:00:25.09 ID:pDVFL+AKO
全体的に強すぎ
954名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 21:10:28.62 ID:7NvYP5+O0
test
955名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 19:37:33.29 ID:ZPcbn7b2O
韋孝寛がイケメンって何に書いてあるっけ
956名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/11(火) 15:04:13.43 ID:GvJgqiRi0
北周書にあると思う
聡明で整った顔立ちって
957名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 00:05:30.59 ID:bEkie+wJ0
梁の元帝は、侯景の乱を曲がりなりにも鎮圧したので何となく評価が高かったが
よくよく読んでみると、身内殺ししまくって結構えげつない輩だった
時代的に身内殺しデフォだけど、騙し討ちにするわ敵対勢力呼び込んでまで抹殺するわ
そこまでするかとちょっと引いた
958名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/17(土) 17:35:38.45 ID:WftAMXD70
便宜的に東晋も含む南朝のうち、北伐が成功する可能性があった時期は何時なんだろう?
東晋・・・祖逖または桓温がいた時代
劉宋・・・文帝時代
南斉・・・武帝時代
梁・・・・武帝時代
陳・・・・宣帝時代
ざっと挙げてみたが、南斉と陳はまず可能性なしだろう
南斉の武帝時代は北魏の孝文帝時代と重なり、国力的に難しいし
そもそも治世が10年にも満たない
陳に関しても、宣帝時代に北斉には勝てても北周には勝てないだろう
959名無しさん@お腹いっぱい:2011/12/22(木) 02:04:51.44 ID:dDMl2Tv20
そもそも南朝は実効支配領域が狭いし、動員力の問題からして
江北・淮北を永続的に再支配することが超ハードモードなんだよね。
最大の好機は北魏が黄河南岸を要塞化する以前の
劉宋武帝〜文帝初期、北魏道武帝〜明元帝交代期じゃないだろかと思う。
結果としては、その時期でさえ出来なかったわけだけど。
後、太武帝死後〜孝文帝中後期までは北魏の上層部は一触即発の
爆弾抱えてたし、
南斉武帝期の北方戦線は結構、押してたと思われるので、結果を無視すれば
意外と明るい未来が見えてたような気がしないでもない。
960名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/23(金) 01:03:34.60 ID:CIgXEhGs0
劉宋の初期と梁武帝の中期くらいじゃないか。南朝による再統一の可能性があったのは。ほかの時期は無理だろ。
961名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/23(金) 18:49:13.51 ID:H6LUtyQr0
>>960
劉宋の時期に限らずとも
東晋の劉裕率いる北伐軍でも十分可能だったと思うんだよね。

実際この当時の北朝勢力の東秦は淝水の戦いで敗れた後は瓦解して小国に分裂したし
宋も山東半島を含む黄河以南まで勢力を広げている訳で
962名無しさん@お腹いっぱい:2011/12/23(金) 19:01:51.06 ID:nfQIMZn00
梁武帝の時代はなんか微妙な感じもあるんだよね。
確かに鍾離や胊(く:化け対策)山での大勝利はあるけど、
梁州・荊州・襄州方面や淮水下流域では完全に押されてるんだよね。
というか領土を減らしてるし。
大成果といえば元法僧の反乱に乗じた侵攻だけど、
司令官の蕭綜が「あいつ狙ってる、ヤバい!」ってのは
魏書や梁書の記述からすると周知っぽかったところもあるしね。
そもそも六鎮の乱でくちゃくちゃになってる北魏に叩き帰されてるのは
結構、目も当てられない感じ。
963名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/23(金) 23:17:41.20 ID:H6LUtyQr0
そういえばミクシィの某住人が
自分は自分は在日コリアンで国籍は韓国だけど
親と祖父が日本人と通婚繰り返したから
韓国の血は4分の1しか流れてないって説明していた人が居たけど

北朝の鮮卑系の貴族の間でもこれと似たような事例あったのかな?

漢族と通婚繰り返したけど自分は鮮卑の家系として誇り持っているとか

北魏の皇帝なんか漢族貴族と通婚繰り返したっていうけど
そこらへん如何なんだろ?
(漢族との通婚が漢化政策への反発を少なくしたのかな?)
964名無しさん@お腹いっぱい:2011/12/24(土) 11:47:32.00 ID:Et2uoPES0
>>963
明元(母親は匈奴)、太武(母親は胡族)、景穆(母親は匈奴(多分))
文成(母親は柔然)、顕文(母親は漢族)、孝文(母親は漢族(母方祖母は拓跋))
宣武(母親は東夷高句麗系)、孝明(母親は胡族(勅勒系かな?))
なので鮮卑には拘ってないと思う。
むしろその辺考えるのに胡族と漢族、または鮮卑人と漢人っていう
一枚岩同士が対立してたように考えるのはどうかなー?というのが個人的意見。
胡族を見るだけでも羌人や氐人は多くの場合、一ランク下に置かれているし、
皇室、皇室支族、門閥胡族、寒門胡族、内朝系、外朝系、非部族首長出身者、
拓跋集団、非拓跋集団、その他いろんなもんが派閥を組み替えつつ
時々に応じて合従連衡していたのが拓跋時代の胡族の歴史だと思います。
北朝所属の漢族系も似たようなもので。
965名無しさん@お腹いっぱい:2011/12/24(土) 11:59:15.20 ID:Et2uoPES0
後、いわゆる漢化政策は
「今日から漢人になろうぜ!」ってんじゃなくて、
「お前ら、拓跋氏の家臣だからな、独立国家じゃねーぞ、いいな?」っていう
政策のプロトコルとして漢族儀礼への画一化を目指してるので、
血統への誇りよりも「何で拓跋家がそんなに偉そうなのか」という反発にこそ
気を遣ってる感じがしないでもない。
文化的側面でいうなら国政・国策に携わるような層はすでにバイリンガル化、
漢族儀礼の受容なり理解なりを済ましていると思います。
(というか、その前提が無いとこんな政策実行不可能)
966名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 17:10:40.65 ID:/08DK0Zg0
というか孝文帝自ら五胡と見下してるし
五胡は明らかに1ランク下だろう(拓跋氏はそもそも胡族と違う)
967名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 17:11:30.17 ID:/08DK0Zg0
というか孝文帝自ら五胡と見下してるし
五胡は明らかに1ランク下だろう
(拓跋氏はそもそも胡族と違うという考え)

途中送信した・・・
968名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 22:49:42.30 ID:BpKR0Ku9O
祖逖の頃は石勒とか劉曜とかいるし無理だろ。特に石勒はなんだかんだいって最後に勝ってしまう粘り強さがあるし
桓温は慕容垂にボコボコにされてるし
書いてないけど東晋時代の劉裕は意外といい線行くかもしれないけど、野心有りすぎで統一どころか独立しそう
969名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/26(月) 17:27:22.29 ID:/y+UxE620
独立しそうってしてるだろ
970名無しさん@お腹いっぱい:2011/12/26(月) 21:19:50.69 ID:XOLJKRmr0
統一劉宋帝国ができたところで
「やっぱ国号は漢にするべきじゃね?」派と
「もう決まったんだから宋でいいんだよ」派と
「楚王の子孫なんだから楚だべ?」派と
「劉家的に楚帝はまじーだろ?」派で内戦開始
971名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 10:36:00.82 ID:aRNaC+V6O
劉裕はそんな対立あったら皆殺しにしそうだな
972名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 10:50:31.65 ID:Z0Kz566T0
項羽というより桓玄の楚のほうが記憶に生々しかったろうから、楚はねえべな。
彭城派の宋と関中派の漢が争ったりしてな。
973名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 06:39:27.80 ID:ZSoW4TpJO
もともとは項姓って話もあるくらいだから楚だったら生々しかったかも
ところで統一前後国号変えるって清以外ある?
974名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 10:57:26.81 ID:kA4MZGz00
>>973
モンゴル
975六朝書生:2011/12/30(金) 23:15:46.19 ID:LAIQJpqv0
司馬氏無コ,以致蠻夷凌夏,神州陸沉,期間劉裕雖雄起於當時,揮兵北伐,
恢復關洛故地,無奈天不亡胡,功敗垂成,中原復入索虜之手!嗚呼 天哉!
976名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/03(火) 09:42:34.12 ID:kmdJ4Gq1O
>>971
その頃まで劉裕の寿命が持たない
977名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/04(水) 16:45:43.40 ID:Q0UWnCPW0
檀道済は?
978名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/05(木) 16:33:15.06 ID:+MRl+/eh0
檀道済は?ってどういう意味?
979名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/05(木) 23:01:33.50 ID:6sFUS/eO0
名将
980名無しさん@お腹いっぱい:2012/01/06(金) 00:15:04.35 ID:pqj6CGSe0
長城
981名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/06(金) 18:21:01.35 ID:z1or/pHdO
劉裕が統一できたとしても統一を維持する基盤を築くのは難しそうだ
982名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 09:26:24.23 ID:Tk5m6Ws70
>>981
それは寿命的な意味で?
対外政策なら
北朝と違い、高句麗とかとは関係良好というか高句麗は冊封受けてるし
南部は問題ないし
対北西が問題程度だと思うけど
983名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 20:14:52.37 ID:Bhq1lOrG0
tes
984名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/08(日) 18:19:16.48 ID:GkFHvCLzO
>>982
皇帝になった時点で60近いのにそこから統一となると相当な年齢になるし
後継者も文帝以外はろくでもない連中ばっかりだから厳しい。
985名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 17:31:05.09 ID:OS0c0b6c0
そもそも劉裕に統一しようとする意思はあったのか?
986名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 23:21:47.37 ID:NtZNlr700
質問させて下さい
中国の南北・東西間(沿海部と内陸部)においての違いって具体的にどんなことかわかりますか?
自分のなんとなく漠然としたイメージでは食文化(麦作・稲作)、身体的特徴の差異くらいです
またそのような違いがあるとすればそれはいつの時代から何が原因で起きたことでしょうか
987名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 23:24:08.48 ID:NtZNlr700
↑誤爆です失礼しました。
988名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/10(火) 18:39:36.36 ID:EmOTWC3W0
989名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 11:48:58.75 ID:iKCD9W9W0
990名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 09:54:06.60 ID:F0WA5QIi0
保守
991名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 20:17:58.54 ID:Aup9lJ+t0
誰か次スレお願いします
992名無しさん@お腹いっぱい。
>>991
とりあえず立ててみた

【六朝】魏晋南北朝2【五胡十六国】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1326368108/