1 :
無名武将@お腹せっぷく:
チ
ン
ポ
当時の戦国武将、みな上洛する気はなかったで
上洛とか天下統一は
今の感覚で信長を評価するアホな歴史家のたわごと
チ
ン
ポ
うぜえ消えろカス
と武田厨を装ってみる
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/ 信玄死去時点での各勢力の状況
武田家:約32500
甲斐、信濃、西上野(45/100)、駿河、飛騨(50/100)、越中新川郡境(5/100)
遠江(40/100)、侵攻3ヶ月で南部五郡の一部以外はほぼ占拠
三河(15/100)、設楽他、加茂八名額田の一部
美濃(5/100)、岩村開城で恵那、土岐の大半を支配、と記すのは我等が軍鑑(実際は岩村、明知)
織田家:約43000
尾張、美濃(95/100)、北伊勢(60/100)、近江湖南平野部、志賀郡、朽木(45/100)
朝倉家:約16000
越前、加賀(25/100)江沼、能美西部
若狭?朝倉方国人衆も多かったが信長が侵攻したこともあり不明
徳川家:約9500、戦前は11000
遠江(50/100)、三河(80/100)、家康は三河入り
浅井家:約3500
伊香郡、浅井郡3/4、虎御前山以南を除く
高島郡4/5、朽木領、郡境打下を除く
六角:一揆レベル
甲賀郡、愛知、神崎郡の半ば、蒲生、栗田郡の切れ端
長島一向一揆:20000人、大阪本願寺:門徒が沢山、将軍の威光はプライスレス
あと、三好とか北畠とか松永とかが何かやってる
36スレ まとめ
>1-15テンプレ
>19-50吉田城の軟弱さ 東三河情勢
>32-101武田の軍事行動の期間 >52-53武田家の主力の主な出陣期間
>92-141武田の財政逼迫が捏造とバレる
>125-146石見銀山
>136-145今回の遠征の武田の目標
>148-465雑談
>466−528武田信虎の軍事行動 >527年表
>530-538信秀信虎比較 >543信忠の内政的な実績
>554-566武田信虎と北条の関係
>581-590三国同盟のときの石高
>591-990恒例、週末に合わせてのスレ建て準備
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:08:29
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:09:08
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:09:48
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(22?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:10:28
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山池田荒木和田など、淡路の安宅
などが味方勢力として存在。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:11:09
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:12:01
その他の勢力 畿内
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜13%(1850〜2550)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。
総計1850〜2550
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●織田
・尾張…100%(14250)
・美濃…95%(12000)
*美濃 21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見
津保、加治田、鉈尾は怪しい動き。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…40%(8000)
*浅井・六角は追い詰め中。他には鯰江、甲賀、蒲生郡の土豪と野洲郡等一揆衆。いまだ不安定
・伊勢65%(9500)
*桑名・三重郡の一揆衆。乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
総計44200
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:12:43
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
●武田
甲斐…100%(5700)
・異論はないでしょう。
信濃…100%(12000)
・寺社領で苦情殺到か。
西上野…45%(5500)
・利根川西岸。
駿河…100%(3750)
飛騨…60%(1000)
・64年5〜6月に三木、江馬氏を降す、72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。
越中…?%(1000)
・68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている、越中衆はこの程度か?
遠江…20%(1500)
・こんなものか?武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半以降(正式な復活は71年12月)。
三河…10%(750)
・やはりこんなものか。足助城などを落としているが、北部の山間部だからなあ。
美濃…5%?(750)
・秋山信友が岩村城を落すのが72年11月、可児、土岐、岩村は73年3月時では武田方。
鉱山収入w
総計32700
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:13:31
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:14:11
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
朝倉
越前68万石 17000
浅井
伊香郡:3.3万
高島郡:5.8万(離反者を除く)
浅井郡:5.0万(虎御前山の位置からして、こんなものか)
江北にはそもそも小谷、山本山城くらいしか城は無い
14万石 3500、思ったより少ないか
徳川
・三河…80〜90%
・遠江…40〜60%
*両国とも、武田に侵略されまくり。領地は戦前のもの
計約8000
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:14:55
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
日付が変わって、織田厨は活動再開できたみたいだなw
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:15:35
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下他合計九千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに明智他九千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は一万八六千ほどを対武田に向けられると思われ
武田は
北信および上野へ対上杉に四千
北条の援軍が二千〜三千
計二万五千〜二万八千ほど?
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 00:20:21
ちなみに、
六角氏は元亀元年の野洲川合戦で大敗していらいロクな戦力なし。合戦は全て敗戦。
松永氏は元亀二年の辰市の戦いで大敗していらい筒井に押されっぱなし。
こういうのを見ると、右だか左だかしらんが武田厨はどうしようもねえなあっておもうな。
否定されまくった捏造テンプレを邪魔してはってたのしいか?
ああ、ごまかされないようにいっておくと、ここで言っているのはsageてはっているやつね。
徳川氏は、開戦以降大敗しっぱなしだけどな
>>26 知識が無くても、好き勝手な空想で話せる石高話を頑張ってくれ
では石高話で、前スレで少し出ていた北条領の数値でも出してみるか?
はいはいチチ
ンン
ポポ
あらあらこめったこめった
36スレ まとめ
>1-15テンプレ
>19-50吉田城を落とせるか落とすべきか 東三河情勢
>32-101武田の軍事行動の期間 >52-53武田家の主力の主な出陣期間
>92-141武田の財政は逼迫していたか 大名の財政事情と軍役
>125-146石見銀山
>136-145今回の遠征の武田の目標
>148-224信玄存命時のIF 武田の軍事行動の限界
>189-203三河遠江と川中島の距離と策源地の違い
>211-220 1574年の対徳川戦線 >220 1574年武田織田の行動
>225-245別働隊で徳川主力を拘束すれば
>246-339織田を滅ぼせたらどうなるかとか武田に天下が取れるかとか雑談
>340-380武田の家臣は優秀か
>381-406信玄が死ななかったらIF年表
>392-414武田の支配権の不徹底さ >392領内で発給された書類に占める命令系書類の割合
>416-465雑談真田とか勝頼
>466−528武田信虎の軍事行動 >527年表
>530-538信秀信虎比較 >543信忠の内政的な実績
>554-566武田信虎と北条の関係
>581-590三国同盟のときの石高
>591-618権力基盤の確立
>619-775信玄堤とか運とか雑談
>776-786武田義信
>787-799駿河侵攻の是非 駿河をとった後織田と戦わないIF
>800-833北条の国力 何故北条は武田と敵対したか >800関東諸国の石高
>834-992雑談妄想話
>850-851穴山
>933徳川武田領地図
>946新府城安土城再現グラフィック
ほんとにスレの7割が週末に建ってるしw
この思いっきり妄想石高を張っている奴って
以前にろくに説明もせずテンプレが間違っている騒いで
説明しないと誰も納得知るわけないだろと突っ込まれるとやっと説明しだしたが、
結局否定されて反論できなかった奴だよね。
本当に言っていることがあっているならちゃんと説明して納得させられるはず。
わけのわからん自論を無理やり通そうとするのはただの基地。
>>34 それが信玄厨右派クオリティ
時論は「織田厨」レッテル付けで通す
みんなが討論したテンプレと、論破されたオレ理論テンプレが混在すると見難い
もちろん後者が排除されるべきだ
みんなで討論=織田厨
だからさー、厨呼ばわりはやめとけよ。
前スレもそれで荒れぎみになったし。
みたかんじ、大抵「〜は織田厨」よばわりからはじまっているが。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 05:14:37
だまれ織田厨。
チ
ン
ポ
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 05:49:57
だまれチンポ厨。
氏ねよ武田厨。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 09:36:08
なあに、かえって免疫力がつく
兵備の質に圧倒的差が無い限り戦場を支配するのは数の論理
織田軍の予備兵力が2万5千以上だった場合、武田軍は停滞するしかない
上洛は無理
そもそも徳川屈服が上洛の前提条件だろう
織田軍の予備兵力は二万ですが何か?
徳川屈服は間近と思われますが何か?
>>45 足利将軍反乱の際、先鋒の四将だけで二万を数えた織田の予備が二万ですかそうですか
織田の兵は兵忠誠度も訓練度も低いですが何か?
感情的な話がおおいなあ・・・
論議はもう終わってるからね
というか、困った話題が出ると
過去スレ読め、テンプレ見ろで逃げるからな
しかも、それが通用していると思い込んでるからラチ明かない。
つか同じ話題がループしすぎなんだよ、特に兵数や徳川屈服論は食傷も良いところ。
だから過去スレよめ、テンプレ見ろ、問題あるならソース付きでで反論よろって事なんだろ。
まあ、忠誠度とか訓練度とか言い始めてる時点で相手にしちゃだめだけどな。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 19:23:48
忠誠度とか訓練度とかはただのゲーム厨だろう
最低限どうやれば信玄は上洛できたか?
を考えてみないか。
ageとsageを切り替えるだけで一人二役を演じられていると思っている奴はさぶ過ぎるw
>>53 信長に首取られて京に晒されれば晴れて上洛ですよ
1,寿命が最低10年は延びる
2,北条の援軍
3,徳川早期降伏
これでもムリでしょうか?
謙信や永禄の頃の信長のように旅人として上京、幕府と朝廷に挨拶。
無理
では・・・
1、信玄の寿命が最低10年延長
2、北条の援軍
3、徳川早期降伏
4、水野降伏
5、朝倉浅井は滅亡していない
この条件では?
武田勝頼が長篠の戦いで
連合3万5千(鉄砲数千)相手に
1万5千で戦うような無謀な事せず
普通に引いてたらどうなっていたかの方が興味ある。
信濃まで追撃するだろうか。
北条が助けに来るだろうけど。
どの時点で引き上げを決断するかで、だいぶ変わるな。
鳶の巣を落とされて後背を取られたあとだと、
撤退も困難を極めるだろうし。
それ以前での決断が、必要になりそうに思う。
信長が出てきてからだと追撃なしで撤退できても、
信用が低下してジリ貧では?
信濃まで来るかは分からないが駿河には侵入しそう。
北条の援軍は来ないと考えてもよいかと。
また戦わずに撤退した場合兵も何よりも将も戦死せずに済むから
面白い展開になっていたかも知れない。
>>64さすがに長篠城で勝ってなかったら織田軍はこないんじゃない??
徳川はくるかも知れないけど。
引いてもジリ貧だと思うけどなあ。
上杉、織田、徳川で連携されたら上洛どころか滅亡の危機
信玄は良い時に死んだよな
>>63 背約しまくりの信玄に今更信用もなにも・・・
>>61 長篠の戦いの時は織田が兵力が3万だと武田に覚られないように隠した
という話もあるけどね。
勝頼は織田の援軍は1万程度だと思っていて戦ったとか。
相手が隠したからといってそのまま信じるのもどうかと思うが。
長篠で戦わなくてもちょっと寿命が延びる程度だろ。
武田の寿命が明智が毛利に援軍に行く命令を受けた時まで伸びていれば、
美濃・尾張にある程度兵力が残っている状態になるので本能寺の変が起こらず
織田の天下統一がなったとかにはなるかもしれないが。
>>69 対外的な信用よりは、対内的な信用の話だろう。
ま、もともと勝頼は古参の受けが悪いけどな。
信長にとって対武田は我慢の連続
徳川を後詰したくても無理をしなければ駄目な情勢だったり
美濃でのぶつかり合いでも大兵力を生かせる戦場に恵まれず苦戦したり
ようやく巡ってきたチャンスだから、徹底追撃で戦果を狙うだろうな
ただ、包囲殲滅に比べればリスクが大きいから鳶ノ巣山奇襲のような一手は不可欠だろう
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/29(火) 12:01:14
長篠だと武田が負けたのは包囲されたから仕方無いとしても、損害が名のある武士(領主クラス)に集中したのが痛かったよな
今で言う高級士官や、軍の根幹となる下士官って軍事教育が制度化されてなかった時代じゃ補充は難しいだろうし
家督相続とかの処理が終わるまで、軍役を課すのも難しくなるだろうし…
長篠の戦いは織田もかなりの損害を被ったが指揮官クラスが死亡してない
よな?
ふうむ
織田は雑兵ばかりだからな
撤退戦や引き際が上手いとされてた高坂が長篠きてたら上手く撤退してたかな?
>>75 「長篠日記」に拠れば織田徳川にもかなりの損害が出たが、有力部将の討ち死にはないね
長篠の遺構が発掘されたが、三段の堀らしきものが確認されているから、陣地をかなり固めて戦った成果だろう
>>77 上手く撤退してたかは分からないが、ただ損害は低くなったであろうとは予測できる。
武田の指揮官クラスは戦下手の雑魚しかいなかったんだよ
酒井隊が後方に回った後なら誰が指揮をとろうが一緒だろう
前方には数で上回る織田徳川主力がいる
これを撃破ないし一時的に無力化しないと撤退は難しいから強攻しかないが、陣城に拠る相手を攻めきれる可能性は低い
劣勢の酒井隊を攻撃しようとすれば、敵主力に後背を晒すことになる
兵数全体で負けている以上、二分して…という手はリスクありすぎるし
鳥居強右衛門を殺した時点でさっさと退却してればよかったのに。
ならまだまにあっただろう。
それをしなかったってことは、勝頼あるいは武田軍首脳陣には織田軍主力も
撃破できると考えていたってことになるが、どんな根拠があったのやら。
例え、長篠が無くても信玄の宿老どもは勝頼の方針に従わないだろうから、内部崩壊するんじゃね?
もっとも、若い真田、曽根らを勝頼が上手く起用出来て、一門も一条や弟の仁科に集結出来れば違った
歴史が見れたかもしれん。
まじレスすると、徳川軍が強すぎなんだよ。配下は若くて優秀な武将がきら星の如くいやがる。
家康に対しての忠誠心も犬並みだし。勝頼が、徳川にてこずったのも分かるな。
いや、徳川は織田の援軍なしじゃ押され気味だったじゃん。
どう見てもネタレス。
>>85 徳川に織田が援軍を送ったのは、三方ヶ原の戦い、高天神城落城(間に合わず)、長篠の戦い、この3つだぞ?
後は、小競り合いだが勝頼と対等に戦ってた。本多忠勝とか凄いべ。ネタレスとは言い切れないべ?
押されるのは動員兵力の差だけで徳川が武田と同じ動員兵力なら徳川のが強い。
分かってるから。。。
いべ とか無理やり変な語尾にしなくていいから。。。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/30(水) 08:29:14
浜松城通過した武田にまんまとおびき出され,即陣形をたてなおされボコボコにされうんこ漏らして逃げた家康率いる徳川家が武田よか強いとは全くおもえん。軍団の大小の問題だけじゃないきが
勝頼駄目じゃん。( ´,_ゝ`) プッ
>>88 三方ヶ原の戦いでは、武田は徳川の2倍以上の兵力を擁してたし、何よりも信玄(52歳)は軍才がマックスの時やろが!
対する家康(30歳)は、姉川の戦いなどで既に勇名は聞こえていたが、信玄の軍才の前ではまだまだだっただけ。
この時の戦いで、徳川方で有名な指揮官は誰も戦死してない。最後まで奮戦した本多忠勝も無傷。ぼこぼこの敗戦と
までは言い切れない。ぼこぼこの敗戦=長篠の戦いみたいのを言う。信玄がいたら、家康は勝てないが、勝頼なら勝てる。
つまり、信玄亡き後は武田はもう滅亡の道しか無かった。武田家の人材も長篠が無くてもみんな、じじいだから病死するだろね。
残った戦経験の無い2代目と軍師真田でどこまで粘れるかな?もっとも、真田を勝頼が掌握出来たらの話だがな。上杉景勝が
直江を、伊達政宗が片倉の様な関係。跡部、長坂ら佞臣が側近って時点で終わってる。
信玄=家康(関が原時) 勝頼=結城秀康 徳川四天王=武田四名臣 戦だけ強くても駄目なのだよ。政治が出来ないと。
>>90 けちょんけちょんと決着後にボコボコは違うぞ
まあ、三方ヶ原の戦いを
>この時の戦いで、徳川方で有名な指揮官は誰も戦死してない。
>最後まで奮戦した本多忠勝も無傷。ぼこぼこの敗戦とまでは言い切れない。
と、無理矢理な否定をする辺り、例の煽りや臭いね
それと、三河物語か何かに戦死した指揮官がずら〜っと列挙されてるしw
>>90 三方ヶ原で指揮官クラスは誰も戦死してないだとか跡部・長坂を佞臣だとか、
講談の知識でまあ頑張って。
三方ヶ原では討ち死にした徳川の将兵は全てうつぶせで死んでいた
これに武田軍は感嘆した
三河武士の精強さと忠誠心は既に広く知られていたが、ここまでとは思わなかったのだろう…
西・東三河武士の実質的統率者である酒井や石川といったクラスが討ち死にしなかったのは幸運だったかな
酒井隊は組織的に離脱できていて、その後時間をおかずやらなければならなかった占領地奪回の主力として運用されてるし
信長自体は鉄砲なければ斎藤義龍以下な件について
「ぼこぼこの敗戦=長篠の戦い」は結局織田の物量に負けただけなんだが。
まあ勝頼が負け方をこじらせた側面は否定しないが。
>>97 物量を揃えるのも実力のうちじゃん
兵を集め、武装を調え食わせて指揮統制するのは並大抵のことじゃない
まして、戦術の上でも酒井隊の後方奇襲や陣城構築など、工夫でも武田は負けている
勝頼はもとより、信玄の代から戦歴を重ねたはずの武将達すらいいようにやられたんだから弁解にもならん
武田厨を装った自演乙
信者様用の偽36スレにお帰りください
いつ織田厨が占拠したんだ?
少し前は「武田信者同士で争ってるなw」とか言ってたのにw
信者=信仰的評価=極右武田厨
武田好き=客観的評価=極右からは織田厨扱い
正室の息子、義信が謀反の兆しなんて起こさず
普通に家督継いでたら諏訪の勝頼よか幾らかマシな武田家になっていたのなかな?
遠江を押さえるため(上洛?)の三方ヶ原の戦いも
この時の信玄は52歳で病気に侵されてたから、義信健在だったら総大将は彼だっただろうし。
長篠の戦い
織田・徳川連合軍3万8千(鉄砲3000丁【最近の新説では1500丁】)VS武田軍一万五千(鉄砲500丁)
兵力の差と鉄砲の数を知った時点で、武田に勝利は無かった。そもそも、騎馬隊なんぞ存在しない。
奥平信昌、長篠城を500で死守 結果:まんまと連合軍が布陣。
鳶ヶ巣砦の襲撃=酒井忠次の案で決行 結果:鳶ヶ巣砦陥落。武田信実(信玄弟)、三枝守友戦死。
山県隊、決死の突撃 結果:大久保忠世隊に押し返され、本多忠勝に討ち取られる。山県昌景戦死。
内藤隊、決死の突撃 結果:榊原康政の弓鉄隊により射かけられた矢により落馬して討ち取られる。内藤昌豊戦死。
馬場隊、決死の殿 結果:弱冠17歳の徳川信康の追撃に耐え切れなく、敗死。馬場信春戦死。
山本隊、決死の突撃 結果:渡辺守綱との戦いに敗れ、戦死。 山本信供戦死。
以下略
http://www.geocities.jp/honokuni/nagashino/takeda.htm これでも、徳川軍が弱いですか?武田は信玄公以来の宿老や武田四名臣中3名を戦死させられてますが。
>>104 徳川が弱いなんて一言も言ってないがw 長篠の戦いは勝頼が駄目だったんだろう。配下はただ死ぬしかなかった。。。かわいそす(´・ω・`)
>>103 同じだろ。武田は滅びる運命だったんだよ!いい加減、目を覚ませ!
勝頼はどうでもいい。信玄が上洛出来るか否かの話をしれ!!
>>104 弱いとは言わないが、それが織田軍なしに出来たかどうか?
長篠合戦は、勝頼が望みに望んだ乾坤一擲の決戦ですよ?
国力差は開く一方、織田の敵は減る一方、それで一発勝負に賭けてたのに
今まで何度も徳川領に侵攻しては挑発してきたのに、織田・徳川は決戦避けてきた
その結果、信玄時代から無理しっぱなしの武田国内は国人から軍役拒否まで出る始末
兵力差を埋める為、軍役課ける庄屋増やす一方で、武田の実収入は減る
長篠で勝負しなければ、ジリ貧確定
>>110 今、その時歴史が動いたを見てたが、山本五十六が真珠湾に乾坤一擲の決戦を挑んで勝利したが。
結局、大国アメリカにやられてる。。長篠で勝っても、信長、家康の首を取らないと将来は無いのでは?
いかにして、長篠で信長の首を挙げるかどうかだ。誰か、シナリオを作ってくれ!
真珠湾は乾坤一擲の奇襲という博打であって決戦ではない
長篠では武田に勝ち目はない
>>112 では、長篠は武田の滅亡の玄関だったんだね。。。。どのみち、駄目じゃんw
>>116 高天神城の恨みは長篠で発揮したんだろなw 家康も相当、根に持つタイプっぽいしね。
話変わるけどさ、KOEIの信長の野望シリーズっていつも勝頼の知力が低いのが気に入らん!義信もしかり!そんな、知力20〜30なんてありえん!武力も中途半端な70〜80だし。。
いのしし武者じゃん。これじゃ。。信玄死んだ後、きついっす。KOEIに苦情してくる!ヽ(`Д´)ノ
梅雨を選んだし前日まで雨が降ってたし勝頼も鉄砲には注意を払っていた
と思うし知力はもっとあっても良いかも。
鉄砲が主因じゃないだろー
ノブヤボの勝頼はあれ位の能力値の方が燃えるだろ。信玄の能力も下げて配下を引き立てて欲しい位。
信玄公の威光に畏れをなし、とうとう勝頼時代へ逃走ですかw
勝頼イノシシ武者だろ。無謀にも織田の3千丁の鉄砲隊に突進して犬死させた
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/01(木) 11:30:45
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/01(木) 12:22:57
長篠の戦いでは霧で視界悪く前方の武田部隊が鉄砲でがんがんやられてるのが見えなかっただけ
>>126 川中島と混同してないか?m9(^Д^)プギャーーーーーーッ
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/01(木) 14:05:57
長篠でも霧でてたよ
ほー。霧ねー。初耳だったわ。ソースキボン!
毎度おなじみちり紙交換。だな
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/01(木) 15:00:21
戦国時代の鉄砲普及後の装備率はだいたい十パーセント前後だったらしい
そうなると織田徳川軍の鉄砲が3,000丁だったとしても別に多いわけじゃなかったことになる
むしろ臨時の鉄砲奉行を置いたり、酒井隊に信長直轄の鉄砲組を集中配備したりした、火力運用によるものだろうな>長篠の要因が鉄砲だった場合
織田徳川軍の鉄砲が3,000丁
「馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる」
「身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ候」
(信長公記より抜粋)
騎馬隊があったかはともかく、騎馬武者による突撃突破は試みられていたらしい
が、これを身がくし(遮蔽物に隠れながら)しつつ銃撃して阻止しつづけ、討ち死にが続出
仮に鉄砲が500丁程度だったとしても、防御施設を利用しながら一方的に撃ちこまれつづけたらたまらんな
信長記では三千丁だな。
あてにはならんが、1千〜3千ところだろう
装備率十パーセント説と、兵力3万説を素直に信じるのなら、3千でもおかしくない
が、「三」の部分が後世加筆の可能性が高いようなので、1千丁程度と見るのが妥当か
これだ織田軍は実際は1万程度説と合致する
そして、鳶の巣山奇襲部隊に500丁持たせたことははっきりしているから、正面火力は500か
信長記では三千だよ。
だよだろうか
>>136 つまり武田は自軍よりも少ない敵軍に完敗したわけですね。
ついでに鉄砲の数もほとんど差はなくて。
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/01(木) 18:14:08
まあ武田軍は1部隊ずつ突撃していたからな。
長篠の時には既に穴山あたりが寝返るつもりでいて
嘘の情報でも勝頼に言ったんじゃない?
織田徳川が1万なんて説どっからだしてきたんだ?
徳川が信玄に押されてると「物量で押されただけだ。徳川は弱くない」と言い、
長篠で武田が物量の前に敗れると「物量も実力のうち。武田は弱い」と言う。
どちらも嘘は言ってないが、それぞれ「強い」「弱い」の意味が違う。
これを、意図的か無意識かは知らないが混同するところに徳川厨の思考の杜撰さが出ている。
…なんてね。
実際は複数の人が前に書き込んだのレスをあまり踏まえずに書き込んでるだけなんだろうけど。
今度は徳川厨ですか
都合悪いとなんでも厨にするんですね
それが厨クオリティ
>>104とか見るといかにも「徳川厨」って感じがしない?
主力は織田軍だったのに、「徳川の兵が強かったから勝った」ことにしたげな。
そんな事どうでもいい。
こんな事にこだわるお前のほうがキショイ。
>>147 俺は、何厨でもないが、事実
>>104を見ると徳川軍のが強かったろ。それを
>>147が認めたくないだけ。
敵将の討ち取り数は徳川が断然多かったのだが。あと、周りに同意求めないように。( ´,_ゝ`) プッ
>>150 空白あけるとこ間違えたorz
20と21の間を空欄にするはずだったのに
>>152 また間違えた正確には20と22の間だ、少し落ち着け俺
GOODJOB!テンプレ追加だな
ところで20以前は?それに関連スレも討ち取りとか騎馬隊スレとか
>>154 20より前は途中で面倒臭くなった
関連スレはどこまで含めるべきか分からんし、変なとこにリンク貼って荒れたら嫌だし
>>149 信長が圧倒的に有利な戦略的状況を作ってくれたおかげだろ。
徳川軍は全力で武田軍の一部分を叩いたに過ぎない。
これで過去スレ見ろと言われて見れないとか答えるアホもいなくなるだろう
もっとも多くて見るきしないとか言ってくるようなきがするが
>>156 一部隊にしては有名どこの武田武将が尽く討ち取られてるがなw おまえ、過去スレ全部読めw
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 00:16:24
まぁまぁ、みなさん熱くなりなさんな。徳川軍が武田の宿老を討ち取ったの事実だが、武田厨の俺としても認めたくない。が、これが歴史ってもんだなと。
姉川の戦いでの徳川の活躍もすこぶる良かったし。徳川が武田と同じ国力なら武田やばかったんじゃないかと。事実、徳川は劣勢でもあの太閤秀吉に
小牧・長久手の戦いで局地戦だが勝利してるし。強さは認めなきゃいけないだろうね。一応、家康が戦国を平定したんだし。勝頼は気の毒だ。orz
鉄砲で弱った敵を討ち果たしただけだから兵の強さ関係なくない?
単なる作戦勝ちでしょ。信長の。
まあ陣城に篭って火力で相手を弱らせて&武田退却時の追撃戦
直接的に兵の強さを立証できる状況ではないかもしれん
ただ徳川、酒井隊に3000〜4000さいているから、
武田本隊と対峙したのは5000程度だろうけど、兵数のわりに戦果が多いな。
実際に強いのかも試練
もっとも武田が比較的弱そうに思える(地形的兵数的精神的に)徳川隊を狙ったからか
織田が徳川を危険な部署に配置したか、地形的に追撃しやすい位置に布陣していたからかは
分からないが
というか、
>>104は根拠なしのお話を書き連ねただけのものだが。
武田は長篠に限らず妙に戦死武将が多い大名だよな
>>104 内藤昌豊を討ち取ったのは本多忠勝では?
山県昌景戦死状況↓
5月21日午後1時
武田軍が危うしという場面を見ていた山県三郎兵衛昌景は小山田、甘利らの生き残りの諸隊を立て直し、柴田、丹羽、羽柴勢の横合いから、まっしぐらに突いてかかったので、
柴田、丹羽、羽柴の軍は総崩れとなって背走した。勢いづいた山県昌景率いる一隊は追撃するかと思われたが、方向を転じて再び徳川の本陣を目指して突進していった。無論
その行手には徳川の鉄砲隊が待ち受けている。鉄砲が一斉に火を放った。柵前で相次いで倒されたが、白糸威の具足に金の大鍬形の兜をかぶった騎馬武者が、銃弾の雨の中を
ものともせずに突進していった。その時、本多忠勝が「あれこそ、山県昌景なり」と叫んだ。銃口を騎馬武者に向け撃つかけさせた。持っていた采配を口にくわえて、両手で鞍の前輪を
掴んでいたが、馬から真っ逆さまに落ちた。土屋昌次、山県昌景らを始めとする武田の兵士達の相次ぐ無惨な戦死を目前に見て、勝頼は半狂乱の状態となっていただあろう。「改正三河後風土記」
http://www.shinshiro.or.jp/battle/keika.htm 武田の宿老は自殺しに長篠に来たのとしか思えん('A`)
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 02:21:34
てか、104氏はほぼ根拠あるじゃんかww 色々資料読み漁ったらそうだったぞw 何故、長篠の敗戦を皆認めない?
特に勝頼厨。キモス。
>>167 俺は認めてるぞ。敗戦を。あれはあかるざまに勝頼の判断ミス。長篠は武田の分岐点だったんだよ。
天(運)が織田、徳川に味方した。それだけ。もう、武田の実力で天下なんかは取れなかったんだよ。
だから、長篠の話はやめてくれ。徳川厨だの勝頼厨だのうざい。
俺は、2万5000千で上洛出来たか出来ない話をしたい。のでここからは、その方向でよろ。
確かに、武田スレには違いないが長篠の話は脱線だわな。
過去スレクオリティー高いな
20スレの決戦動機論とかは面白いね
織田徳川が実数1万・武田軍も実数は8千程度だったっていうのは当時の人口から逆算した研究論の一つ
所謂「号する」という兵数水増しして記録に残していたんじゃないかって疑いに立ったものだろう
実際に長篠の地勢を見ると、本当に5万の実戦部隊がぶつかりあえた程の広さかは疑問
織田軍3万とかは、雑役に使った非武装の人間も含めて、とか
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 08:25:19
宿老自殺説っていうのがちと理解できんな
信虎の時みたいに気に食わない君主なら追放したほどの武田家臣団が、本気で勝頼に反対していたのならそもそも下知通り動くとは思えん
それこそ勝頼を追放して初期の信玄みたいな重臣に良くしてくれる、悪く言えば迎合型の君主を迎えるだろう
穴山みたいな無断退却しても、戦国武士の気風からすれば別段奇異じゃない
>>168 俺も上洛の話をしたいのは山々なのだが、どう考えても上洛できない。
上洛できる案を提示してみてくれ。
俺的には
1・兵力で織田を上回らない時に戦っても絶対に勝つとはいえないので
他人を納得させられない。
※勝つかも知れないでは自分だけでそう思っておけ、にしかならない。
2・1度勝っただけで信長の首を取れるようなことは考えられないので、
継続して勝てる方策を説明しないと他人を納得させられない。
3・徳川がやばそうなら織田が援軍に来ることを前提にしないと
他人を納得させられない。
4・この城を落としたら徳川についている豪族が武田に寝返るなどという
希望的観測では他人を納得させられない。
※織田領の豪族たちが寝返るのも一緒。
最低でもこの条件をクリアーしないと所詮他人を納得させられず、
他人を納得させられない意見なんだったらチラシの裏にでも書いていろと思うが。
運という要素はあらゆる場面でついてまわるが
長篠は運だけじゃなくて地力から戦術まで織田が上回っていた結果だろう
だいたい鳶の巣山からわざわざ出てきた挙句後方奇襲を許すってアホですか?
その後も宿老自殺説はともかく、陣城を敷いた相手に突撃って頭が悪すぎる
勝頼だけに責任を押し付ける姿勢って…
勝頼だけに長篠のミスを押し付けるのっておかしいだろう
当時留守を守っていた武将を居たことにして君側の奸に描く軍鑑みたいなのは昔からあるけど
あれは信玄が育てた家臣まで馬鹿だったってことにすると、めぐりめぐって神君に重大な教訓を与えた(はずの)信玄まで傷つくって江戸時代的な発想じゃない?
家臣が同意しなきゃ鳶の巣山から出てくることもできなかっただろうし、酒井隊に後ろに回られた後はもう織田徳川本隊を一時的にでも抑えないと離脱できないのはまともな将ならわかったはず
運なんてわけのわからないもの持ち出すってw
長篠日記だとかなりの激戦として描かれていて、雑兵ばかりとはいえ織田軍も6千近い損害が出てることになるけどな
武田軍の戦法も単純な突撃じゃなくて、柵破壊や側面迂回を試みている
ただ、史料自体の信憑性が当時の一級史料である信長公記や信長の書簡に劣るからな…
武田側の良質な史料が残っていればよかったんだけど
甲陽軍鑑
>>179 露骨な嘘が書いてあるじゃねーか>長篠の箇所
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 11:19:02
つか武田側の鉄砲隊は何やってたんだ?
正面の織田徳川軍の鉄砲が500程度だったという説が正確なら、数量じゃさほど不利はなかったろうに
信長公記でも長篠日記でもロクに稼動した形跡が無い
武田の鉄砲隊は弾と火薬が無くて石を投げてたんだよ
>>181 どちらの鉄砲隊もそれなりに活躍したってとこだろ
勝頼が決定的な打撃を喰らったのは、鉄砲射撃でなく追撃戦だし。
織田鉄砲隊の活動は、信長公記でも長篠日記でもかなり活発にみられる
柵などに身を隠しての射撃で、これに武田軍の攻撃は阻止されていた
ただ当時の鉄砲の性能からして連射は無理だから(長篠日記に拠るのなら)射撃と射撃の間では壮烈な白兵戦があって織田方雑兵(槍足軽か?)にもすくなからぬ犠牲がでたんだろう
武田にも鉄砲隊があったんですかw
>>173 >1・兵力で織田を上回らない時に戦っても絶対に勝つとはいえないので
信長方は約2万、徳川へ押さえを置くとして両者ほぼ同数
しかも信玄延命の場合、決戦しなければいけないのは
家康が死に掛けてる信長の方で、主導権は武田に有る。
>2・1度勝っただけで信長の首を取れるようなことは考えられないので
ただでさえ当時の信長は苦境に居た、1度勝てば2戦目以降は信長に勝ち目無し
>3・徳川がやばそうなら織田が援軍に来ることを前提にしないと
信長が援軍に駆けつける場合、近江、畿内の情勢は不利になる
率いる兵数が少な過ぎれば家康を救援できないし、多過ぎれば近江、畿内が破綻する
>4・この城を落としたら徳川についている豪族が武田に寝返るなどという
>希望的観測では他人を納得させられない。
などという、織田厨的な希望的観測では他人は誤魔化せないw
織田軍は長篠において、本人が既に少なからぬ手勢を連れているはずの子飼いの前田利家らを臨時の鉄砲奉行にしている
これが、織田軍が鉄砲足軽を家単位の編制から改めた証拠の一つとされてるね
常設ではないが、鉄砲を集中配備したんだろう
常設であった信長の馬廻りの鉄砲組は酒井隊に付けられた
武田軍は家単位の編制のままで鉄砲は分散配置だったんじゃ?
今度間近く寄り合わせ候事、天の与ふる所に候間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損せず候様に、御賢意を加へらる。
坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列れ、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり并びに信長の御馬廻鉄炮五百挺、
金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて…
(信長公記より抜粋)
とりあえず酒井隊に500丁追加したのは事実らしいな
信長は、家康陣所に高松山とて小高き山御座候に取り上られ、敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨、
兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、
佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近々と足軽を懸けられ、御覧じ候…
(同抜粋)
で、問題となる部分。臨時の鉄砲奉行云々はまぁいいとして、「鉄炮千挺」の部分に「三」と加筆された形跡があるから昔から論争になっている
一番、山県三郎兵衛、推し太鼓を打ちて、懸かり来たり候。鉄炮を以て、散々に打ち立てられ、引き退く。二番に、正用軒入れ替へ、かかればのき、退けば引き付け、
御下知の如く、鉄炮にて過半人数打たれ候へば、其の時、引き入るなり。三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、
推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ候。身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ候へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。
四番に、典厩一党、黒武者にて懸かり来たる。かくの如く、御敵入れ替へ候へども、御人数一首も御出だしなく、
鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るなり。五番に、馬場美濃守推し太鼓にて、かかり来たり、人数を備へ、右同断に勢衆うたれ、引き退く…
(やはり信長公記より抜粋)
鉄砲を主体に、武田軍の攻撃を防いでいる描写がされている
当時の鉄砲の威力でことごとく討ち取ることは難しかったかもしれないが、障害物の後ろから一方的に撃たれまくったら武田もたまらんかったろうな…
飛び道具で敵の攻撃を防ぎ、それを突破してきた相手を足軽(槍)で防いで、敵が崩れたら追撃白兵戦で戦果を拡大する
鉄砲を集中して使った点を除けば別に奇異な戦術を信長が取ったわけじゃなく、いたって基本に忠実だよな
鉄砲を集中して使った点も特異では無いし。
数倍の相手と戦うハメに陥り、しかも壊走状態で追撃を被るまで戦った勝頼は
偉大なる信玄公とは比較にならん愚将。
上田原の信玄だってそんなもんだったろ
>>192 そうか?
包囲状態に陥ったのは痛恨のミスだが、それを脱するために敵正面を突破するしかない、と判断したのは妥当
まさか挟み撃ちや、敵主力放置なんていう手はとれんし
上田ヶ原みたいに露骨な伏兵にひっかかった挙句、本陣を河に突っ込ませて危うく討ち死にしかけた信玄より馬鹿とは思えんが
勝頼と同年代だった時期の信玄の戦ぶりと比べてみればいい
信玄にあって勝頼になかったのは敗北を教訓にする余力という一点
信玄が偉大になったのは負け戦や失敗から学んだからだろう
もし戸石崩れあたりで討ち死にしてたら、それこそ勝頼どころか一発屋の無能大名として知られるだけだったろうな
信長にもいえることだが…
信長、信玄も若い頃手酷く負けてるが
長篠の損害には遠く及ばない罠。無茶のしすぎ
>>196 相手が村上や斎藤じゃなかったのが不運だってことだな
地力で勝り、信長包囲網等の苦境を打破した信長が万全の体勢で望んだ戦いの相手になるにはあまりに色々なものが不足していた
甲陽軍鑑にある「強すぎる大将」が勝頼
信玄の配下の後継者でもない時代から、勇敢で戦果も挙げていた猛将だったが、それだけに柔軟性が失われていったんだろう
信長公記でも「鳶の巣山に篭ったままならどうにも手がでなかっただろうに…」みたいな意味のことを太田が述べている
それまで後詰しないか、小競り合いで負け続けの織田軍ぐらい野戦になれば一蹴できると判断したんじゃなかろうか。勿論信玄以来の重臣も同意してたんだろう
>信長公記でも「鳶の巣山に篭ったままならどうにも手がでなかっただろうに…」
>みたいな意味のことを太田が述べている
どの辺り?三州長篠御合戦之事読み返したが、該当箇所見当たらず・・・。
勝頼みたいなのを猪武者という
猪のように三段構えの鉄砲に突っ込んで犬死にする無謀な戦術。信玄公ならこんな無謀な戦いはしなかったろうに…
武田四郎鳶の巣山に取り上り 居陣候はば 何れともなすべからず候ひしを・・・ここだっけ?
そうだな。信玄は孫子の兵法書を読んで戦術には優れてたからな。勝頼は兵法をしらないな
>>161 酒井単独の兵はもっと少ないんじゃ
>>165 >>166 江戸中期以降の作品ぐらいだろ武田の将を徳川の将が討ち取っているのは
また実際に本多や榊原がそこまで活躍してるなら感状の一つでもでていいがそんなのないし
当時に近い記録にもそんな事実は無い
>>171 信長信忠信雄に佐久間羽柴滝川丹羽、参加してる織田の武将を見ればそんな少ないとは思えない
天王寺の時みたいに兵がまるで集まっていなくて与力や雑兵をまるで含まないのであれば『信長公記』
にその旨が記載されているだろうに。
通常動員なら羽柴滝川丹羽の三将だけで1万近くいくはず、
もっとも羽柴は越前への備えがあるから実際にはもっと少ないかな?
>>196 信玄が負けた相手は自分より弱い相手だけだけど勝頼の場合は自分より強い相手だからな
だいたい武田軍は信玄が跡継いでから長篠まで自分より兵数が多い相手とまともに戦ったことないし
まあだから信玄は負けてもそれが政略的な敗北につながらなかったのだろうが
ちなみに信長は自分より強い相手や弱い相手同じぐらいの相手といろんな相手に負けてるな
勝ってもいるけど
上田原後に佐久攻め取られて、諏訪も奪われかけたのは政略的な敗北じゃないの?
寒狭川大野川そして二つが合流して豊川それらを前にして、鳶ノ巣山に布陣して
防御に徹していればかなり守りは固い上に退路も二つあって撤退時も安全
実際には織田の羽柴滝川丹羽の三将と徳川勢に釣り出されて、
一部で長篠城を囲んで本隊は川を越えて織田の先手を追撃?
連子川を挟んで対陣となる
>>206 よく言われるが信長が桶狭間だけじゃないだろ、国力で負けてる相手は今川ぐらいだろうけど
兵数で劣ってる状態で戦い勝ったのはいくつかあるぞ稲生とか天王寺とか
よーく見てると信長もなかなかな男だなw あの時代に、英雄が多すぎた。本当に、天下取れた家康は奇跡。
寿命とかも大切だしな〜。長生きが最終的にはって感じだな。
>>209 稲生はどうだろ、信長公記信憑性に欠けるし
>>211 当時の信長の状況なら700だか800はともかく、柴田林に劣る兵数なのは可能性が高いと思うが
>>211 >稲生はどうだろ、信長公記信憑性に欠けるし
それいいだしたら軍艦なんて信憑性どころじゃないぞ
信長は対清洲岩倉斉藤でも兵数的に厳しい状況があったみたいだし・・・
>>208 十分取り戻せたとは?
諏訪は地下人が敵将に怪我を負わすことが出来た運あって、
支配権を奪われずに済んだ。
お陰で軍再編する時間が出来て、その後の塩尻峠での勝利に結びついている。
佐久にいたっては砥石崩れの際、村上方についてた佐久衆にボコにされる始末
真田がいたから運良く取れたものを、なにを持って十分取り戻せたと言うのか。
いい加減話すことが無くなったな
過去スレのまとめ見ればたいていのことは分かるし
>>215 だな、伊那衆の一部や西諏訪衆も離反しかけてるし
ただ致命傷ではなかっただろうな小笠原と武田とではかなり国力差あるし
塩尻の段階で小笠原に協力する勢力はあっさり小笠原から離反してる。
また佐久衆も南は落ちてないし。
>>217 小笠原は守護といってもなあ・・・
伊那の弟さえ長時に従っていないんじゃないか?
といっても、斯波よりははるかに強力だけど
>>219 斯波はなあ・・・
あれどれくらいの兵が動員できるんだ?旗本クラスさえ皆無に近い気が
信虎があとを継いだ時よりも更に厳しい、お隣の土岐はそれないろの兵力があって
斉藤氏とそこそこ争えたけど。
小笠原ってかっこいいよな
小笠原って没落した後、小笠原秀政が徳川信康の娘を嫁にとって親藩になって、子供は小倉藩15万石で明治まで行ったよね。
運がいいね。
>>225 >>203の
>江戸中期以降の作品ぐらいだろ武田の将を徳川の将が討ち取っているのは
>また実際に本多や榊原がそこまで活躍してるなら感状の一つでもでていいがそんなのないし
>当時に近い記録にもそんな事実は無い
これがすべてなんじゃ
>>225 >>165のが信憑性あるね。確かに、武田軍を追撃した先方隊は徳川軍だし。誰が討ち取ったかは後世の徳川四天王への美化かもね。名も無い徳川の雑兵に討ち取られてる方が
かわいそうな気がするが。。。
228 :
227:2005/12/02(金) 20:44:11
すまない。間違えた。
>>166だったよ。<(_ _)>
改正三河後風土記ってもろに後世のものだよね。
230 :
227:2005/12/02(金) 20:53:16
>>229 そうですね。徳川の時代の物語なので徳川びいきで書かれてますよね。ただ、武田の名将が雑兵に討ち取られたなんてのはかわいそうですね。せめて、名のある大将に討ち取られたと
配慮したのかもしれませんね。事実、徳川家康は武田マニアだし。多くの武田家臣を配下にしてますしね。赤備え隊や、土浦藩の土屋氏とか。石川数正が、豊臣に寝返った際には軍法を
武田流にしてますしね。武田信玄時代に徳川も傘下に入っておけば織田の天下は無かったでしょうね。
>>228 166もあきらかに信憑性低くないか本文は改正三河後風土記だし
リンク先も柴田が参加したりしてる
>>229 江戸後期、幕末に近いかも天保だったような
>>230 誤解がある。
この時代の武将の戦死は三国志や源平の頃のように一騎打ちで名のあるもの同士の
戦いの末にではない。普通に集団戦で行われ、功績は集団(その頭領の)のものと
なる。
この例で言えば、山県昌景を直接討ち取ったのが本田忠勝だろうと、本田隊の誰か
であろうと功績は「本田が山県を討ち取った」となる。もちろん討ち取った本人に
はそれなりの褒章が与えられるが。
それから
>武田信玄時代に徳川も傘下に入っておけば織田の天下は無かったでしょうね。
徳川が武田に徹底抗戦したのは、信玄に約束を破られた結果信用できなくなった
から。
どうして家康は武田に降らなかったのか?信長を同盟者として選択して変更しな
かったのか?
こういった点を押えない限り、妄想の類にしかならない。
. ━━━━O∧_∧━━━━ロニニ>
∧,,∧(・∀・`) 御旗楯無、ご照覧あれ!
/ο ・ )Oニ)<;;>
/ ノ lミliii|(ヾゝ
(o_o,イ__ヽ´|(__) ノ~⌒)彡 ┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨
ノllllllllヽ| | ̄ノl ノ
/ /~ヽ ノ'''''''~ヽヽ\ヽ_
ヽニフ|_| (_/ ヽノ
(_ヽ
武田関連のスレって一杯あるんだな、わかってはいたが
>>237 乙 かなぁ・・・関連スレはあんまし役に立たないような
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/03(土) 08:24:14
長篠の戦いのあと
講和の話しが織田からあったんだよね?
それを何故つっぱねたの勝頼さんは。
>>245 信玄が上田ヶ原敗戦後、母親の手紙まで持ち出されるまでなおも戦陣を引き続けたのと一緒だろう
敗戦の時こそ尚闘志と力が残っていることを見せないと瓦解しかねない
選択肢として即講和は無理だったんじゃないの?それこそ屈服覚悟でもない限り
素直に屈服…
できない罠。相手は魔王信長
以前は寛容な一面もあったが、延暦寺焼き討ち辺りから本気で容赦がなくなってくるからな〜
>>247 でも松永や三好康長は許されたし大坂本願寺も許された
信長にとっての許す許さないの境目ってなんだろ。
松永なんかは明らかに殺しておけよって時に助命しているし。
美濃三人衆は使う一方で小山田信茂はぬっ殺してるから思い通りに使える人間を生かすのかな?武田遺臣についての家康への発言からただの武田嫌いの気もするが。
三人衆より木曾の方が名を挙げるには適当だったかな。
木曾も穴山も侵攻開始前にすでに寝返り交渉を進めて地位身分の保証を得ている。
対して小山田にはそれがない。
真田は?
真田には、勝頼滅亡以前から信長と交渉をもっている書状があるそうです。
もちろん偽書説もあるけど。
具体的には知らない。
真田は北条とも通じていたからな
その辺りの政治関係を考えて、じゃない?
あるいは武田遺臣虐殺自体が政治的見せしめを目的としていて、最初から手心を加える層を決めてたとか
信玄は上田ヶ原等で板垣などを失い重臣合議体制が混乱したのを、自身の指導権を確立するチャンスとした
しかし長篠後の勝頼にはそれを成す時間もなかったし打撃も手痛すぎた
武田滅亡間近の時、真田昌幸が【殿!我が岩櫃城へ!】って勝頼に言ってるシーンあるけど。
あれ、本当なの?信長に引き渡すつもりじゃなかったのかな?昌幸ってそんな忠臣?
小山田は実際そうだった訳で。。。。
小山田と真田って巨人と広島にいるよな。真田には是非竹だけの恨みを晴らしてもらいたいものだ
勝頼が長篠攻め込まずひたすら内政してたらどうなったかな??「」
>>259 東方の脅威が薄れるので信長の勢力拡大が史実より早まる可能性がある。
さらに徳川だって黙っていないだろうし。
そういった状況も無視して内政に励んでいたら、部下たちが新当主をどうみなすか?
「あれは親父がやったこと」とあの世に責任押し付けて、織田家最有力同盟者にちゃっかり返り咲く腹芸ができたら面白かったのに
許すわけ無いじゃん
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/05(月) 12:04:27
>>262 信玄死亡直後でやれば、諸手を挙げて歓迎されると思うが
264 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/05(月) 12:13:55
>>263 西国を押さえた後で討たれそう。
家康みたいに臣従すれば別だろうけど。
>>263 信玄と勝頼じゃ、武田家の力が違いすぎるし無理じゃないか?
この時代は、まだ当主の力量の影響が無茶苦茶大きいから
>>265 関係ないんじゃない?
この場合、東の敵対勢力が同盟相手に戻るメリットは大きいし
「代替わりで方針が変わったか、体制固めの時間が欲しいんだな」という武田側のメリットを信長も容易く推察できるから、疑心暗鬼を受ける可能性もすくないだろう
問題は、責任を親父におっかぶせて「信玄恩顧」の老臣連中がだまっていられるか、
勝頼が黙らせることができるかだな。
家康は面白くないだろうけど、信長にとっては大した問題はないように思う。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/06(火) 09:51:27
信長はどんな手段で天下を統一するつもりだったんだろ?
徳川のような例外的な同盟者を除いて全部武力で従えた?
秀吉は織田家内後継者戦争に勝った後「惣無事令」という命令を朝廷権威の下出して、基本的に従わない相手だけを選んで攻撃するに留めた
徳川は関ヶ原大勝の勢いにのり、反徳川勢力を改易したりしたが、島津をそのまま残すなど武断に徹しきらず無理はしなかった
どんな未来図を描いていたか、によるかもね>武田家との再講和の行方
>>269 信長だって従う相手をわざわざ攻撃したりはしてないと思うが
>>270 越中・能登の豪族たちの粛清なんてやったりもしている。
もっともこいつらは長年一向宗や上杉について敵対してきたものたちであり、
一度は降伏していながら寝返って富山城を落した小島氏などもいる。
三好あたりは降伏許されてるものもいるな
三木や別所とかはずたぼろにされたね。ま、抵抗したからだろうが。荒木村重に関しては謀反をでっちあげられて
許しを請う(疑いを晴らす)為、安土へ来いってのも行かなかったからよほど信長が怖かったんだろね。ま、晩年は
狂気じみてたからな。信長。
波多野や一色も一度は織田に付いてるけどその後離反したため滅亡、
安宅や別所松永三好義継なんかもそんな感じだ
>>273 荒木の謀反については、今では自身の意思ではっきりと毛利についたことが書状で
確認されている。
許されるかどうかの点は「一度信長についた後で離反したかどうか」かな。
つまり最初から敵対していたものが降伏してきたら許すけど、その後で裏切ったら
滅ぼす。まあ中には松永みたいな特例もあるが
三好でいうと、裏切った義継は殺したが、逆に上洛時から敵対していた三好笑岩は
一度降伏してからは結構大事にされている。
そんなルールを決めていたとも思えん。
単に、殺すのと利用するのとでどっちがメリットがありそうか天秤にかけた結果だろ。
277 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 08:52:46
武田遺臣は徳川のつかいっぱしりにされたのが末路だったからな
甲斐同心なんていっても所詮端役
中途組でも実力あれば出世できる織田家の下についたほうが良かったかも
苛烈な競争に耐えられれば、だが…
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 11:38:37
真田は違うがな
真田昌幸を武田家養嗣子に迎えておけばよかったんだよ
>>279 長篠があれば、結局昌幸は武田を離れて真田に戻るのでは?
信玄が昌幸を生んでいたらよかった
>>281 勿論、正室の子でね。凄い安泰だなw 武田家w 子供には信幸と信繁(幸村)。。。。。。最強だ。
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 12:59:42
武田勝頼は北条氏政,上杉景勝と新たな三国同盟締結
↓
三国相手に攻めあぐねていた信長は寿命で死亡。信忠が織田家を継ぐ
↓
信玄の遺言により元服した武田信勝が武田家を継ぐ
まだ若い信勝を勝頼や盛信勝がささえ真田,穴山,小山田,木曾は以前忠臣として健在
これなら勝てた??
>>283 信忠は軍事面でも政治面でもそれなりの実績上げてるし
1582年の段階で権限の委譲もかなり進んでる、また信長は信忠を後継ぎとして明確にしているし
他の兄弟と完全に区別してる、信長が死んでも織田の強大さはさほど変わらない
まず武田に勝ち目は無い。
信忠といえば、今日のモーニングの「へうげもの」にでてたな。
ちょうど今武田攻め。仁科盛信かっけええ。
素直に降伏…しても殺されるだけだから逃亡しておけばよかったものを…
>>283 そうなったら、勝頼系を排除しようと甲斐の豪族たちが信勝を擁してクーデターでも
おこすかもな。
>>287 そんなことになったらますます武田は弱体化するだろうな
もっとも信勝なら信長も降伏を許すかも
長篠の時点で織田徳川勢に勝てる勢力は皆無
手取川は織田の内紛と情報不足による不運だしな
武田が関が原まで生き延びてたら面白かったのにな
291 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 09:04:29
実力で長篠に勝てばいいんだろ
鳶の巣山に篭ってみせればいいじゃん
あるいは逆に織田軍後方を奇襲して包囲とか
>>291 長篠で大逆転しても織田の優位は変わらないだろうな
信長を討ち取るぐらいすれば武田にも勝ち目は出てくるが
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 12:37:36
織田
浅井&朝倉に4000
京・南近江に4000(京よりと浅井よりで2000づつ配置。臨機応変に)
長島に10000
とすると
織田25000
徳川9500
三好は内乱、松永は筒井と争う、朝倉は積極的な軍事行動を織田がしなければ
動かない・・・んじゃね?そもそも退却して震源に怒られてるし
長島も防衛線になるから半数いれば数ヶ月は持つんじゃね?
武田
対謙信に4000
武田28500
・・・北条の援軍?2000~3000か
互いに後ろに脅威あるから長期戦は望まないだろうし
長期戦になったらなったで、武田のほうが領土そのものが少ないから辛いか。戦キチガイ相手だし
とすると
織田25000+徳川9500VS武田28500+北条援軍3000
若干織田有利?
信玄に甘く、織田に辛いテンプレで妄想してみた
長篠の話は関係ないだろ
>>293 浅井&朝倉に4000
京・南近江に4000(京よりと浅井よりで2000づつ配置。臨機応変に)
はやや手薄だと思う
長島に10000
は過大な気もするけど
長島に10000は多過ぎだね、2000も備えれば問題無いよ
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 15:37:02
浅井&朝倉チームはにらみ合ってれば、浅井が朝倉に援軍要請しないだろから
4000VS4000でいいんじゃないのか?
朝倉は要請なければ動かないと踏んだんだが。
京都方面は手薄かな・・・京都方面で織田に攻めてきそうな勢力あったのか?
長島は相手が2万だからな。それでも防衛だし8000ぐらいか
で、その浮いた2000を近江南部に充てれば・・・・完璧?
ゲームみたいに語ってるのね
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 16:07:30
ならよりよいシュミレートしてくれ
うだうだすれ違いの長篠話でああだこうだいってるよりマシダロ
趣味レートはむりだお
シミュレートなら出来るかも知れんけどw
ならしてみてくれ
つかシュミレートでも通じるだろうに
それとも人のミスを指摘するのが生き甲斐なのか?
通じません
と言ってもなー
>>21ででてるし例え
>>24の数値でも武田織田は互角程度になる
となると信玄が決戦を挑むはずが無い、上洛は少なくともこの時は無理
結局時間切れで武田が退いたら即座に織田徳川は反撃に出るだろうし
寿命が延びたところである程度織田の勢力拡張を遅らせる程度の働きしかできないだろ
本願寺が本気で参戦すれば別なんだが・・・
本気って何のこと?
織田領を積極的に侵略していくってことだろ
また、釣り織田厨ですねw
趣味レートと称しても、浅井&朝倉に4000京・南近江に4000徳川9500
信玄に甘く、織田に辛いテンプレで妄想してみた。
な〜んて、煽り臭すぎだ罠
さいきん、罵りあいばっかりで、
建設的な話が進んでいるところを見たことが無いな〜
どっちかが滅びたら自分の命が無い。
ぐらいの勢いで噛み付きあってるよね
>>296 >京都方面は手薄かな・・・京都方面で織田に攻めてきそうな勢力あったのか?
三好も松永も動けないだろうし、本願寺も動かないだろうが一応義昭がいる。
義昭単独の軍事力はたいしたことないだろうけどそれでも幕府奉公衆や畿内の
豪族がある程度義昭に味方すればそれなりの勢力になるかもしれない。
烏合の衆だから織田の本軍と戦えばあっさり四散するとしても。
>>306 話し合うことがもう無いからじゃないか?
確かにこのスレと前スレは酷いものだが
>>307 義昭が7月に挙兵した時どれだけ集まった?
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 19:32:19
普通、軍勢の数ってのは過大に見積もる。
かつ完全に武田よりの記録ですら北条からの援軍含んで二万五千とあるのに、
どうやったら武田が三万もの数を動かせると思えるんだよ。妄想も大概しとけ。
このスレってさ、真面目に考察というよりゲーム感覚で話してるんだな
…地形とか天候等によるシュミレーションなしで、兵の数だけで話進んでるし
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 21:11:57
>>313 そこらは大将(信長&信玄)の戦術面での才覚と
どっちがより正確な地図なりの情報を持ってるか次第じゃないのか?
>>313 動員兵力を算定する前に地形だの天候だの考えるのはただのアホ。
まず兵力の概数が出なければ、それをどのように運用するかなぞ考えようもない。
彼我の兵力が優れているのか劣っているのか同等なのか、
それによって守りに入るべきか攻めるべきか或いは退くべきか全て決まってくるのであって、
現実的に考えようとすれば、まず兵力の話から入るのは当然。
そこを飛ばして能力云々の話になる方がはるかに非現実的。
ゲームレベルにすら達していないのに、
自分が物がわかっているかのように勘違いしている者は、
見ていてなんとも痛い。
どの道武田が不利ってことか。
上落選でなくて徳川潰しの遠征だったならまだ未来に希望がもてるんかな。
・・・年が年だしな。
>>313 >…地形とか天候等によるシュミレーションなしで
なんか凄いゲームっぽく聞こえるんだけど
いや、ゲーム以下だよ、
実際にはゲームすらしたことがなく、
戦場マップを眺めているだけ程度のレベル。
マジな話シミュレーションゲームですら、
普通は相手とこちらの兵力を考慮した上で戦略を練るものだろう。
兵力というデータなしで戦略を考えるなんて完全にナンセンス。
全兵力43000、浅井朝倉に8000、近江畿内に8000、伊勢に5000、美濃に2000
と少なめに見積もっても23000は必要だなぁ‥
稼動兵力20000と徳川の6500じゃ
織田厨のワシとしても、吉田を後詰する必要のある織田徳川の不利は否定できん
>>321 例えそれでも武田とほぼ五分の兵力、
信玄が勝てるとは思えない
>>323 総兵力だと武田浅井朝倉本願寺将軍長島一向一揆六角三好北畠北条連合軍が相当優位だから
織田徳川は急がないといけない、信長が勝てる可能性はほとんど無いと思う。
>>321 >徳川6500
ナニコレ?信玄厨お得意の捏造?武田有利のテンプレで
「戦後」9500だぞ?
>>324 浅井は虫の息
朝倉は撤退して信玄から大目玉食らう
本願寺は積極的に織田領侵犯してない
将軍はあつまって5〜6000
長島も積極的に動いてない
六角はたかだか数百
三好は同属の内乱
北畠も織田信雄がいてすぐには動けない
北条援軍は2〜3000しかもこれは信玄軍と一緒に来てる
一方信玄は北の戦キチガイが後背にいる
人間五十年のこの時代に信玄が未来に夢見られるような年じゃない
信玄も急ぐ必要がある。信長も然り。
>>323 確かに信玄じゃ奇跡的な勝利とか望めない
総兵力というなら織田に味方する勢力の兵も加えて考えろといいたい
言っても無駄だろうが
織田に味方する勢力・・・デカイ所だと謙信ぐらいか
どこからどこまでを織田の味方とするか
敵の敵は味方と言う言葉もあるが
北条や三好を武田に加えるなら里見や佐竹、更には毛利まで織田の味方と言うことに
かなり壮大な織田包囲網包囲網だな
>>329 六角や浅井レベルで良いなら筒井細川逸見粟屋安宅畠山池田和田荒木といったところか
>>330 それいうなら、宇都宮足利結城などもw
更には上杉の敵ということで武田側に芦名、そして以下ループ
結局包囲網の連中に関してはどれだけ対織田戦線に回せるかで考えたほうがいいと思う
武田みたいに
この時代なら長宗我部も織田の味方でしょ。反三好なだけだが。
>>333 この時期はギリギリ反三好じゃないんじゃない
単に戦線を開いてないだけかもしれないけど
>>332 >結局包囲網の連中に関してはどれだけ対織田戦線に回せるかで考えたほうがいいと思う
それだと三好松永本願寺あたりは0になりかねない
というかテンプレ
>>21見れば理解できることじゃないの?それって
テンプレだと各勢力が拘束できる織田軍の兵力みたいな形だけど
>>335 >>21は織田に甘いテンプレだろ?
信玄に甘いテンプレだともうちょい兵数が織田にきつい
で、武田テンプレじゃないと信玄派がまた
「武田最強騎馬軍団は織田兵の5倍の強さだ!」
みたいに言い出すぞ
で、おやすみおまいら。愛してる。
>>335 何度説明されても理解を示さない それが信者という者
>>336 それって意訳すると
武田厨は自分の思い通りにならないと荒らすという意味?
>>336 >>21の織田の各地の押さえの兵力は甘いといえるほどの兵力じゃないと思うが
もう少し少なくても守れる可能性はあると思う
六角や近江の一揆将軍から守るのに8000もいるか?
浅井朝倉相手に守るのに7000も必要か?
って具合に
もっともそれより更に兵を減らせば不測の事態が起きた時、悲惨なことになるだろうが
>>336 織田に甘いというより普通に史実にあわせて試算した結果の兵数だろ
一部の厨が作ったテンプレはそもそも何の根拠も無いから甘いとかいう以前の問題で却下されてるだけじゃ
「〜に甘い」とか言ってる時点でダメなんだよ。
どうして否定されるのか認識しろ。
日本史板どころかゲーム板でさえ信玄が過大評価と言われてるんだな
ちょっとびっくり
駿河が100%になった経緯や織田家の畿内の直轄領が含まれない事考えれば
「織田に甘い」テンプレは武田贔屓されてるじゃん
>>21は織田テンプレを元にしてるやつだろ?
織田テンプレ使えば信玄に可能性殆どなかろう。
そして、理屈が通じる武田派なら「武田兵は強兵〜」とか
「信玄大学〜」とか「最強騎馬軍団〜」とか言い出さないだろ。
武田派というか武田厨か。
そんな武田派の出した兵力思案で「上洛無理」ってなれば
タケダ派はぐうの音もでないだろ。
で、そうなればこのスレも終了でめでたしめでたし。
武田氏直轄の蔵入地の少なさや、金山等の経済重要施設を間接支配しかできていない構造的弱さもスルーされてるしな
やっぱ信玄は上洛より徳川潰しだった
ってのが一番現実的かな?
二万五千という兵数からすると徳川領を掠め取るというよりは
あわよくば滅亡、目的は壊滅的なダメージを与える為の遠征ってとこか。
仮に壊滅的なダメージ与えたとして、また甲斐に戻ると近畿戦線が
織田有利に運ぶし、そうなると信玄上洛はまた遠のくか。
・・・結局上洛無理?
あわよくば滅亡といっても、徳川が滅びそうになれば流石に織田も
出てこざるを得ないだろうし。
そうなると
>>21の兵力配分でいけば・・・信玄が戦うかどうか。
戦は数なんだよ、兄貴ィ!!
当時の本人達はおおよその見当や伝聞でしか相手の情報をつかめないから、兵力がいくらいくらなんて簡単に断定できない
だから織田の実力はどうなのか、武田の力はどうなのか、は不確実な予測に頼るしかなかった
見込みがある、と思い込めば(後年からすれば非現実的でも)強引にいった可能性はあるな
350 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 10:01:46
勝頼ノコトカー
過去スレ見れば、「オレは武田派」「オレは織田(ry」なんていう低能がまともな史料や推計を出した事は無い
そんな姑息なネタまで使って相手を貶めたいだけの煽りは切腹でもして永眠してろ
>>352 郡別石高求めた香具師は武田派みたいだったよ、ID無いから正確にはわからないけどさ
取りあえずお前が過去スレにちゃんと目を通していない
『姑息なネタまで使って相手を貶めたいだけの煽り』というのは分かった。
まあ37スレもあるから見落としと言うこともあるが
史料推計とは関係無いがスレのまとめ人も武田派らしい
自己申告だからあてにはならんが
時々武田派〜とかやたら粘着する奴が定期的に沸いてくるが
結局何がいいたいのかわかんない
(オレもざっと見た限りじゃ特定派を気取る人間は客観性が?だし)
武田派>織田派と印象操作したいの?
それとも武田派の理屈から行くと武田不利だから、逆説的に説得力があるといいたいの?
どちらにしてもくだらないな
趣味板なのだから各人の好みが前面に出るのは当然だし、
そうなのだから、自身のスタンスを明らかにしておくのは、
それなりに有意義だと思うけど?
それとレスの内容はまた別のことだろう。
>>354 >武田派>織田派と印象操作したいの?
これが正解だろう
たまに武田派穏健派(武田贔屓だが史実をまげてまで…とは思わない)と武田派急進派(武田マンセー主義)の内ゲバという可能性もあるが
いちいち「それは武田派の…」とかつけるなんてどのみちロクな奴じゃないよ
>>345 武田厨の出した兵力思案っていっても厨がだすのは本当に根拠も無く数値だけだしてくるから
話し合いにすらならないんだよ
一応前々スレぐらいに軍艦を根拠に武田の支配率を変更しろといった人もいたけれど
>>354 >>336 「武田派が(根拠無いとの指摘もあるが一応)出した兵力でも
信玄上洛きついんじゃね?」ってことになれば上洛無理ってなるだろ、ってことを言いたかった。
武田>織田 と、不等号で単純に片付けようなんて低脳っぽいことは考えとらん。
このすれ大好きでにくちゃんで読めるところはあらかた読んでた。
武田テンプレが無理やりねじ込まれたところも見てきた。ごり押しでな。
そんな無茶なテンプレでも、信玄上洛は無理ってことが言えたらまた武田派が元気になるんじゃないか。
ナガシノの話してるよりいいだろ。
それと自己申告の武田厨織田厨に何の意味があるんだ?
>>358 一応郡別石高の人は本当に武田派みたいだったけどね、たしか
誰かが上野は軍の数からもっと武田低いよ→そんなことない信玄の支配した郡はどれも石高大きい
→A本当か郡別石高教えてくれ→公文書館→A調べて郡別石高貼る→別の人それに基づいて試算
→結果更に低くなった→A Σ(゚д゚lll)ガーン
というそこそこ笑える流れだったような
>「武田派が(根拠無いとの指摘もあるが一応)出した兵力でも
>信玄上洛きついんじゃね?」ってことになれば上洛無理ってなるだろ、ってことを言いたかった。
これだとそもそも歴史と異なっているんだから話し合おうにも話し合うことなんてできないだろ
それと元気になるのは一部の武田派だけであまり建設的な話しはできないかと
ほとんどの武田派はやめてくれ〜とか思うんじゃないか
ただ自分も近江伊勢はもう少し改善の余地あってもいいんじゃないかと思う
今の反織田勢力以外みな織田というのはちょっと・・・
美濃みたいに中立があってもいいと思う
>>325 三方ヶ原後の兵力で
1万1千(総兵)−3千(織田勢)−1千(戦死)=7千
この7千から負傷者、敗戦による農民兵の四散をいれると
さらに数字は下がるだろうな。
>>360 少なくとも直近で蜂起される志賀郡や、不穏な動きがあるため証文まで取った野洲郡・栗太郡
は織田換算されないと思う。
テンプレではどうもこれら全てを織田換算してるらしいけど。
>>362 証文まで取ったって事実がそんなそこまで深刻なことか?
>>363 わりと深刻なことだが織田換算されないというほどのことでもないと思う
新たに得た領地からは普通証文とるみたいだし越前とか大和伊勢とか
他は知らないけど
蜂起したはともかく、
証文を取ったことが支配していなかった根拠になるなら、
武田領が大変なことになってしまうような?
>>362 志賀郡・野洲郡・栗太郡のどの程度が不服従なんだ
それらの郡でも織田に協力してる勢力は多いぞ
証文出した村の数とか調べれば割合ぐらいはわかるかな?
織田の戦国遺文とかあればなー
>>365 上杉だってかなり悲惨なことに
もっとも上杉は実際に蜂起してるかw
>>362 志賀郡は2砦と木戸だか田中城ぐらい
野洲郡・栗太郡が蜂起してたのは70年か71年、昔の話しを持ち出してどうする
志賀郡は天正元年に石山、今堅田で兵を挙げてる
野洲郡・栗太郡が蜂起した時期はそうだけどもその後も不穏な動きが続き
元亀3年に証文の提出を各村々に求めてるから、そんなところから例えば軍役を
課すことができたかを考えた場合それは難しいと考えるのが一般的では?
ちなみにこの証文は史料として結構残っているらしい。
朝倉の寺社領とか北畠と信雄とかはどうなったの?
>>369 いやそれはみな知ってると思うぞ
でそれで実際村の数とかはになっているのだが
それに証文を提出したから軍役を課すことができるという考え方もあるんだし
>>370 そこらへんはまだ微妙だな
朝倉は寺社にある程度税をかけることはできたが軍役は無理っぽい
北畠は弟や鳥屋尾などは完全に織田として動いてるみたい
信雄はまだ当主じゃないが検地などは行っているため、北畠領はかなりの部分が実質織田領だが
教具の大湊への要請のように旧北畠の権限もそれなりにある。
ただまともな史料でこの時期北畠が武田と連絡とって織田に反抗的だったという史料はまだ見つかってない
また北伊勢3郡はまだ反乱おこしていないみたいとはいえ73年に離反してるんだから織田とするべきじゃない
ってことだったと思う。
朝倉は援兵以外に出陣なしってなってるし、浅井も多くて2500。
三好は内乱、松永は筒井と抗争。これで、
>近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
>江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
〆て一万五千もいるかね?
朝倉なんか自分の国で手一杯って感じだし、逆に援兵送らないように
少数で浅井と拮抗させる方がいいんじゃ。(この考え方がゲームチック?)
江南の押さえも、六角と将軍様ぐらいしか積極的に織田を襲うのいないし
八千もいるのかね。
>総計25035〜26635
ってなってるのに
>北信および上野へ対上杉に五千ほど、
>美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
>北条の援軍が二千〜三千で、
>合計ニ万〜二万五千ほど?
って最大でも二万一千じゃないの?
越前の寺社領云々は石盛りの改定でFAじゃなかったっけ?
寺社が含まれていないのではないか?と言ったほうのソースは無かったし
石盛り改定派のソースは福井県史だったと思う
>>372 そういやそうだな、武田は多少きつめの動員を行って二万五千集めたとテンプレに加えるべきか
250人役なら2万以下+北条の援軍なんだから
>>373 福井県史
ソースとしてはなかなかよさげだな
>>374 そこは二百五十人役で統一しとくべきじゃないのか?
別枠で「二万五千あつめるなら武田はちょっとつらい」
ってかいておかないと、誤解したい人は誤解するだろ
同じ面積辺りの石高は1.1〜1.2倍で処理されてるね、後の越前検地
ただし、加賀領が意図的に除かれてたり、若狭がまったく考慮されてないとか
他の問題があるけど。
それに、織田の近江領は何度否定されても一向に直さないんだよねw
武田領も信濃が95%とかアリエナイ数値になってるシナw
しかも、三陣した飛騨衆、越中衆は恣意的に外してるし
上野、三河、遠江も密かに削ってるという。
若狭については内部抗争中って書いてあるぞ。
むしろ若さも朝倉領に加えると、その騒動抑えるために朝倉は兵をおかにゃならんから
より苦境にならんか?
そもそも
>遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
>出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
>が必要。
ってあるように援軍としてしか70年以降は織田と朝倉は戦ってない。
しかも、いつのスレだったか忘れたが、朝倉から織田に離反するやつもいるとかいわれてたしな。
で、加賀は「加賀国」でググッったら加賀一向一揆なんて凄い所が引っかかった。
そこの年表を読んだ感じでは、加賀は本願寺配下
で、本願寺に関してはこれまたテンプレにあるように積極的に動いてないと。
そもそも加賀から織田領まで遠くないか?謙信に備える必要もあるだろうし。
>>379 確か、慶長三年の検地帳とかいうのがあって
以前の越前検地と比較して斗代が1.1〜1.2倍になってるらしい。
加賀領の領有のことなら色々な軍記物に乗ってる。始末記とか七国志とか
それよりも、何度も言われているが織田伊勢近江領のソースを出してくれ
信長公記だと、西は志賀郡、南は街道沿いと瀬田付近の領有に思える
それ以外の六角領に攻め込んだ気配が無いから。
伊勢も、好き勝手に割譲した以外の北畠領を支配しているし、やり過ぎw
>>381 >加賀領の領有のことなら色々な軍記物に乗ってる。始末記とか七国志とか
載ってないぞ、一体どのあたりだ?
>>382 >載ってないぞ、一体どのあたりだ?
載ってる
それよりも、何度も言われているが織田伊勢近江領のソースを出してくれ
385 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 17:21:00
石高の話になるといつもこうやって過去の話を蒸し返すのが出てくるよな
>>372 当初の見込みではそんな感じだったのだけど、
その後上のテンプレは見直された。
しかし、その結果を反映して下の方のテンプレを直す作業を怠ってしまったいたのだよ。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 18:34:06
>>378 >しかも、三陣した飛騨衆、越中衆は恣意的に外してるし
参陣したのと支配下(武田氏の意のままに動く)であるかは別じゃないのか。
織田も
>この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
>若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山池田荒木和田など、淡路の安宅
>などが味方勢力として存在。
と、計算に入ってない勢力も存在する。
信玄の不利な点だけあげつらうのはイカがなものか
>>381 近江においては、西は高島郡に磯野が配置され信長から一職支配を任され、
現地の豪族たちに本領安堵の書状を出していることが確認されている。
南においては、逆に六角の支配が甲賀郡くらいで、他の近江の豪族たちは
佐久間や柴田らの配下に組み入れられている。このことは、信長公記の元亀
の記述に信長軍への従軍者として旧六角家来の豪族達が参加していること
でわかりますが。具体的な名前を挙げると堅田衆に山岡・林・永岡・進藤・後藤・
青地・池田・蒲生・永田・建部・多賀・高宮などなど。
彼らは六角氏式目の制定時に署名したほどの重臣たちですが。
過去ログあさってみた(にくちゃんねる)
21スレで近江の試算がされてたみたい
が、にくちゃんには21スレがない
陰謀ニダ
それと過去ログ見てて面白レスがあった。宝の宝庫だな。
69 名前: 無名武将@お腹せっぷく 04/12/09 19:22:33
信玄と信長では政略レベルで信長が上をいくから
石高を絶対視出来ないのは当然として
信玄は一応、200万石相当の力はあったと考えていいんじゃない?
単に信長が畿内を制する事でそれをはるかに上回る力を手にしてただけで。
カサマツ 1MBに上げた、正し984レスしか取れてない
>>390 ありがとう、愛してる。
>.・近江…65〜80%(12594〜15500)
>六角氏が甲賀を味方に鯰江城篭城。
>浅井氏は高島郡の半分と伊香郡。それと浅井郡の小谷城、山本山城のみ。
>問題は一向一揆の勢力。彼らは元亀元年から三年にかけて毎年金森、石山、三宅あたりで蜂起しては短期間で織田に鎮圧されるのを繰り返している
>(信長はその度に許しているが、翌年にはまた蜂起している)。
>もともと湖南平野は岐阜と京を結ぶルートであり、信長にとっては最優先で抑えておかねばならない重要地なのだからあたりまえなのだが。
>一時とはいえ毎年反旗を翻しているので織田領国とも位置付け難いが、その範囲は野州郡一帯と非常に限られており大勢力とも見なし難い。
>この一揆勢力をどうみるかでパーセンテージは多少の変動を起こすだろう。
126まで読んでみたなかで↑が根拠になってくるのか。
逆算でパーセンテージだしてるからなぁ・・・22スレでは既に70%でテンプレ化されてるから、21スレでなんか出てくると思う
そして、おやすみおまいら
>>391 一向一揆の勢力は
元亀元年から二年のはずじゃ
>>384 載ってるってどこだよ、全然返答になってない
>>388 > 現地の豪族たちに本領安堵の書状を出していることが確認されている。
ならばそれを出せばいい
それに、高島郡のうち織田の影響下にあるのは朽木と打下城近辺だけだからなぁ‥
磯野が高島郡を任されたからといって
それを以って高島郡を支配していた事とするのは、ちと笑える。
>南においては、逆に六角の支配が甲賀郡くらいで、他の近江の豪族たちは
>佐久間や柴田らの配下に組み入れられている。このことは、信長公記の元亀
>の記述に信長軍への従軍者として旧六角家来の豪族達が参加していることでわかりますが。
彼らの所領はほぼ全員が蒲生郡なので
六角の支配が甲賀郡だけではないことがわかりますが。
>>387 椎名は別として、江馬は人質を送っているし飛騨には武田の代官が居たようで
参陣したことと臣従下(ある程度武田氏の意のままに動く)にあることは同じでしょ。
>>392 >載ってるってどこだよ、全然返答になってない
七国志の巻1、始末記の中頃
それよりも、何度も言われているが織田伊勢近江領のソースを出してくれ
381は現地の豪族たちに本領安堵の書状を出している等と言いつつ
具体的な領主名や場所が書かれていない、ただの思いつきみたいだから
織田厨がいつも口を酸っぱくして言う、ソースとやらが出てないんだよねw
>>393 林氏・山岡氏(一部)は志賀郡
永原氏・進藤氏・青地氏・山岡氏(一部)は栗太郡
蒲生氏・永田氏は蒲生郡と神埼郡
建部氏・多賀氏・高宮氏は犬上郡
彼らの所領が蒲生郡だけ?どこの地図だそれは。
それから高島郡はテンプレでも半分とあって、全部なんてどこにもないが?
そして高島郡から朽木氏・島氏・新庄氏・多胡氏(彼が信長についたのは天正元年だが)
などが配下にいる。
>>393 高島郡に関しては同意、前スレか前々スレでも織田はおそらく半分以下となったし
>彼らの所領はほぼ全員が蒲生郡なので
これは大嘘だろう
ぱっと思い出せるのは
堅田衆・志賀郡
山岡・志賀郡栗太郡
林・高島郡の林?
永岡・
進藤・栗太郡
後藤・栗太郡
青地・栗太郡
池田・蒲生郡
蒲生・蒲生郡
永田・蒲生郡
建部・
多賀・犬上郡
高宮・犬上郡
だったと思う
397 :
396:2005/12/11(日) 04:29:47
堅田衆、山岡は違うけど
少なくとも、家中で大身の進藤家後藤家の主要部分は蒲生郡のはず。
>>395 高島郡は半分どころか1/4程度だろう?ってこと
島氏・新庄氏はよく分からんけど‥誰?
>>394 武田の小山田か誰か忘れたが、北条にもよしみを通じていたとか出てなかった?
と、なるとその領主の分は公平に見ると中立区分になって武田所領は一気に減るんじゃない?
減らないにしても、そこも武田量に加えるなら底の防衛にさらに兵を割かねばならんじゃないか。
謙信は徳川&織田の同盟者で、何回も武田と戦ってるし、武田がでかくなるのは謙信も危惧するだろう。
だから武田にちょっかい出すのは妥当だろ。
あと
>*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
>この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
>・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
これだと江間氏は謙信配下で計算してもよかないか?
武田軍が織田・徳川連合軍という大敵を打ち破って上洛するよりも、上杉軍がこの時期に信長と同盟してなく、上洛軍を起こしてたら
こっちのが成功の可能性が高い気がする。勿論、北条との交戦は停戦が条件だが。越中、加賀、能登までは上杉軍なら1577年の様に
いけたのでは?本願寺とは1576年に史実では講和してるが、謙信自身が反信長とすればもっと早い時期に講和が出来るはず。
後は、越前の朝倉などを吸収して近江に雪崩れ込んだら恐ろしいもんがあったな。もっとも、信玄としては、謙信が先に上洛するのは
嫌なので、ちょっかいをかけてくるだろうが。もっとも、上杉と武田双方が川中島ごときの狭い局地で20年もの無駄な時間を過ごした事で
終わってる。もっと、早く、武田と上杉が同盟をしてたなら、信玄は上洛。上杉は関東進出という形が出来て良かったのにね。もっとも、北条
なんて役立たずなのでいらない。氏康ならまだしも氏政はいらなすぎ。
ふと思った。
なら
>>394は具体的に(近江・伊勢の)パーセンテージはどれぐらいが妥当だと思うの?
そういうの出していった方がより建設的になると思うが。
語尾に「w」をつけるようなのが、まともに議論しに着てるとは思えないけど。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/kassen/onk00016.htm 上杉軍37000人!? 過大評価だなw こりゃw ま、資料が上杉方だからしょうがないけど。
けど、1577年当時では、1573年の武田よりでかいよな。だけど、信玄も謙信もいい感じなとこで
死ぬよな。天はもう信長のものだったんだろ。けど、信玄、謙信が信長と同じ世代で、>>401みた
いに川中島の戦いを早く切り終わらせ同盟をして反信長勢力として戦ったら信長はいなかったろーな。
歴史にIFは無いが考えるだけでも楽しいもんだね。
>>402氏
俺は、>>394じゃないけど、語尾に「w」をつけてるからってまともじゃないとは言い切れませんぜ。
ただ、真面目にレスしてる人から見るとふざけてると思われがちなのは確かな気がするけど。
楽しくやりましょーや。議論するのも何々厨とかって勝手に決め付けずいろいろな意見も尊重しようぜ。
-----------------ここから過去ログーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
武家名目抄・集古文書・信長公記・信長発行文書でも、元亀元年以降から小谷周辺の砦設置や
南近江の主要城の付城(砦と言うべきか)の解体、朽木や磯野に対しても軍役負担させてるのが見て取れる。
南伊勢は木造氏などが、積極的に動いていたようだが、多聞院日記の元亀2年の五月には、
伊勢の国人衆が近江での軍事行動に参加して「手負」になり、大和経由で帰国した事が書かれてる。
長野・藤方なども織田の軍事行動に名前が見れる。
波瀬・岩内・長野氏は田丸城に入れられてる、各々居城を持ちならにも関わらず。
その後、独自の活動記録無し。信雄の田丸での殺害までね。これを軟禁と言わず、何と呼ぶの?
それに最初に
>>287で何ら根拠を提示せず
>南勢はまだ統治していないし、北近江も掌握しているとも思えない
と書いてくるから、全貌はわからないにしろ、断片的にでも織田の南伊勢での権限を書いたし、
多聞院日記にも近江への伊勢国人衆の派遣の話も書いた。
だが、それすら何も根拠出さず否定してる君は一体何の根拠があるんだ?
想像するにも想像できる基があるだろうに、それは何なの?
ーーーーーーーーーーーーここまで過去ログーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
伊勢近江に関しては反論側が資料示せてなかった。
で、70主張側は「武家名目抄・集古文書・信長公記・信長発行文書」が、資料?くわしくないからわからん
ので、70でいこうって流れになった
根拠になる史料がある発言者への反論に史料提示のないやつもいるんだな
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/11(日) 11:51:56
>>406 伊勢に関してはもう確定でもいいんじゃないか。
近江に関しては上でまだ争ってるが。
>>399 >島氏・新庄氏はよく分からんけど‥誰?
35か34スレにあったはず
>>399 35スレだった
以下コピペ
島氏は
『近江坂田郡志』(中巻)によると、島若狭守は田那部氏とともに
京極氏の譜代家臣・今井氏の麾下にあってこれを支えてきたが、
姉川の戦いの際に田那部氏が寝返って信長方に付いた。
となってるがこれだと本領は坂田かどこかでもともと高島郡の勢
力だったわけじゃないな。
磯野に付けられて高島のどこかを支配していたのだろうか?
新庄氏は
近江高嶋郡伊黒城主新庄俊長 比叡山衆徒で僧兵
73年に織田に降伏したが浅井長政に攻められて死亡
正確な時期は見つけられなかった
ただ他に新庄城の新庄氏もある
>>392 いや三年の1月に柴田佐久間が攻撃していたと思う、でそれが最後
>載ってるってどこだよ、全然返答になってない
朝倉始末記はあてにならないだろうけど
>>383のいうようにw『本願寺文書』にも加賀の
半分ほどが朝倉に奪われたことが載ってる
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/11(日) 14:57:10
>>393>>396>>399 島氏は
『近江坂田郡志』(中巻)によると、島若狭守は田那部氏とともに
京極氏の譜代家臣・今井氏の麾下にあってこれを支えてきたが、
姉川の戦いの際に田那部氏が寝返って信長方に付いた。
となってるがこれだと本領は坂田かどこかでもともと高島郡の勢
力だったわけじゃないな。
磯野に付けられて高島のどこかを支配していたのだろうか?
新庄氏は
近江高嶋郡伊黒城主新庄俊長 比叡山衆徒で僧兵
73年に織田に降伏したが浅井長政に攻められて死亡
正確な時期は見つけられなかった
ただ他に新庄城の新庄氏もある
林氏
林与次左衛門 打下城
これは公記に載ってる
75年に滋賀の陣の時のことを信長に責められて殺される
これも公記
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上過去ログ
前々スレでは高島郡は半分ぐらいでないか?ってかんじでまとめられてると思う。
にしてもろくな根拠も示さずに四分の一でもいいってなぁ・・・
で、
高島郡 7.4万石 6.7万石 by過去ログ
動いて1万石〜二万石ぐらいか。え〜と250~500人か。たいしたこと無いような気が(ry
まぁそういった1万石ちょい程度の豪族たちの帰趨が最終的な物量を決めるわけだし
あまり馬鹿にできたもんではないぜ
と、朽木元綱厨な俺が擁護してみる
>>410 >>411 飛騨や恵那郡の支配率でさえ揉めたこともあったが、動いても100人程度というレベルなのに
今の争点は加賀国の帰属と近江領のパーセントか。
近江領について批判的な人はどこが中立で、六角で、浅井で、織田かを出すべきだろ。
>>413 加賀が朝倉に属するなんて言ってるの七国志始末記をあげてる一人だけじゃないか
それ以外はみな属さないって意見みたいだけど・・・
>近江領について批判的な人はどこが中立
中立いれると難しいな
資料的なことはわからん。
そもそも朝倉は若狭あたりの鎮圧と姉川合戦だっけ?でかなり疲弊してるし、
裏切りも出てきてるって過去ログにもあったし、それほど兵数が増減してもなぁとは思うから
あんまり考慮しなくても大勢に影響ないと思うけどな。
近江の場合、浅井や六角以外に「近江の三分の一を支配した」といわれる比叡山がある。
信長は元亀の叡山焼き討ちの後に近江の山門領をことごとく没収して領国に組み込んでいる。
これに六角や浅井が奪った領土を合わせれば7割くらい行くんじゃないの?
結局テンプレ批判してた人の対案でてこないのな。
ならテンプレのままでいいんじゃないのか、近江に関しては。
加賀に関しては'80まで「百姓ノモチタルクニ」としてる所がおおいな、グーグル先生によれば
「本願寺文書」にどうかかれてるのか書き出してくれればありがたいんだが。
これきまると後は各勢力がどう動くかの話になってくるのかな。
>>417 「本願寺文書」
どうせ引用の引用だろ、一般人には簡単に見れないし
朝倉始末記は市販されてるから簡単に見れて抜粋も簡単だろうが
加賀もテンプレ通りだろ、若狭はまだしも加賀はいくらネットで調べても見つけられないし
と、なると後は各勢力の動向か。
結局「w」をつけて話するのは相手にしないべきか
>>378 >三陣した飛騨衆、越中衆
って誰が参陣してる?軍艦はともかく
武田家の飛騨越中木曽宛の文書では越中を牽制してくれと書いていなかったか?
>>394 >椎名は別として、江馬は人質を送っているし飛騨には武田の代官が居たようで
それ言い出すと
>>387の言うように織田は武田が増える以上に増えるんだが
>>419 多分あなた
>>409のレス勘違いしてない
>>383>>409>>381 いずれも根拠が違うだけで、「加賀領も朝倉領じゃね?」って主張だろ?
>『本願寺文書』にも加賀の半分ほどが朝倉に奪われたことが載ってる
朝倉に奪われた。つまり朝倉領ってことじゃないのか?だから書き出すなりしてほしいなと
テンプレを批判した奴はろくに根拠を出さない。
テンプレを否定できる根拠が出ないまま議論すれば、
テンプレが決まったときも散々議論して今のテンプレになったんだから、
もう一度議論しても結局同じ結果になる。
本当に時間の無駄だな。
テンプレを批判する時にまともな根拠出さない奴はその時点で無視でいいんじゃないか?
一歩進んで二歩下がる、見たいな感じでいいじゃないか
トータルで一歩下がってるじゃないか
過去に一時的に占領、というのならわかるけどね。
天正元年に信長が朝倉を滅ぼして越前の仕置をおこなったときも、加賀には全く
関わっていないし。
天正三年に越前一向一揆を滅ぼしたときにそのまま逃亡した一揆指導者を追って
加賀に攻め込んで南部二郡を占領。もしこの地が朝倉領だったのなら、元年の時点
でなんらかの処置をしているはず。
>加賀に攻め込んで南部二郡を占領
これ、わざわざ一向門徒と事を構えるのを避けたとも採れるから
その先が一揆の支配する国、という証明にもならないか?
>>420 江馬なんとか盛と椎名某が参陣してる。しかし、何故軍艦は全否定なのか?
>それ言い出すと
>>387の言うように織田は武田が増える以上に増えるんだが
参陣すらしてない味方と混ぜこぜにするのはどうだろう。
まあ、越中衆は微妙だと思うけど
>>422 まあ簡単に言うなら
1564年永禄七年
朝倉が西から上杉が東から加賀に攻めこもうとする
で朝倉は西から侵入し江沼能美の2郡を占拠し手取り川を越えそうな勢い
本願寺は全国の門徒に支援を呼びかける&信玄に謙信の牽制を要請
上杉は1564年は川中島でそれどころじゃない、翌年からも飛騨越中上野と武田北条の牽制にあい出兵できず
朝倉家に出兵できなくてごめん信玄が悪いんだとかいう手紙を送っている
で一揆の反撃、戦線硬直、義昭朝倉家に支援求めるが朝倉は応えられるような状態じゃない
またこの間若狭にも何度か攻め入っているが栗屋を倒せずじまい
そして1567年越前北辺の堀江が一揆側に寝返り戦線崩壊、朝倉は慌てて堀江を攻めるが落とせず
一揆勢の一部は越前坂井郡まで侵入、朝倉家永正の一向一揆に次ぐ危機
ここで高田派寺院の仲介で停戦、
その後も小規模な戦いが起こったらしいが上洛したい義昭が1568年和議をまとめる
で最終的に1569年最終的に和議締結〔顕如上人文案〕.
1571年本願寺教如と朝倉義景娘との婚姻の約束
という流れだと思う
>>404 北伊勢の国衆に疑問を持っている人間は居ないと思うぞ。
>長野・藤方なども織田の軍事行動に名前が見れる。
国司の南伊勢支配とは直接関係無いと思うが
>波瀬・岩内・長野氏は田丸城に入れられてる、各々居城を持ちならにも関わらず。
>その後、独自の活動記録無し。信雄の田丸での殺害までね。これを軟禁と言わず、何と呼ぶの?
これ、信玄が死去後大分経ってからの話じゃん
>全貌はわからないにしろ、断片的にでも織田の南伊勢での権限を書いたし
断片的にでいいのなら、具教も知行安堵や商いの触れを行ってる
>>429 戦国遺文や他の文書で否定されてるからだろ
それと
>>387の連中は参陣している連中多いぞ
>>430 堀江(名前忘れた)は寝返りではないし、討たれて落ち延びている
>>432 自分の利害が関係する戦に顔を出すことと参陣は違うでしょ
>>431 コピペにレスしてもコピペ元の人間は答えてくれないと思うが
>これ、信玄が死去後大分経ってからの話じゃん
それは違うぞ北畠攻めのちょい後だかだったぞ
というか過去ログ読めよ
>断片的にでいいのなら、具教も知行安堵や商いの触れを行ってる
それらにも言及されてたぞ
それにそれだったらテンプレ通りでいいじゃん、テンプレの北畠はかなり武田に有利になっていると思うが
>>433 討たれた?聞いたこと無い
停戦時の条件で堀江景忠の能登退去はあるから落ち延びたと言うのはそれほど間違ってないと思うけれど
>>430のはネットだとだいたいそんな感じみたいだな
>>437 椎名は違う可能性もあるけど、江馬は上洛戦に参陣してるから
相手するだけ無駄じゃないか
前にも軍艦絶対視する人がいて色々説明しても納得しなかったし
・江馬時盛が当時の当主で親武田派
・その嫡男輝盛が上杉派で父時盛と対立、天正元年(六年説もある)七月に時盛殺害して家を乗っ取る
・三男信盛は武田に養子として送られて旗本になってる
養子にだされた信盛は上洛戦に参加している可能性は高いけど、
家中がゴタゴタの最中上杉が国境付近に軍出してるのに、
上洛戦に参加したとは考えにくいね
越中から加賀能登、越前が既定路線なのに
武田と衝突してまで、わざわざ飛騨に手を出す心配は無いような
三木姉小路氏と江馬氏による飛騨を二分した争いってのは
織田と武田の代理戦争でもあったからな
姉小路氏は1570年と1575年には信長に応じて上洛などもしている
1564年に山県や木曽の武田軍と江馬氏の軍が合同して姉小路を攻めたとき
親上杉派だった輝盛まで一時的に武田派に鞍替えしたトコを見ると
武田本隊が美濃辺りまで出てくれば上洛には参加したと思う
後、444が上杉について話してるけど
姉小路氏江馬氏そろって上杉の前に降伏したのは1576年
だから上洛戦参戦を阻むのは姉小路だけだじゃないかな
姉小路氏は、上杉織田の二足の草鞋は履いていても、反武田は明確にしてるから
必死で江馬氏の参戦を阻もうとすると思うけどね
三木は一時期武田に降ってたけど、この頃はどうだったんだろう?
江馬氏が信玄上洛隊に参加してたって言うけども、
それだと信玄隊は飛騨にも守りの兵をさかねばならんし、さらに兵力へるんじゃないのか?
越中あたりの、信玄上洛隊についてもおんなじこと言えるんじゃない?
しかも、越中まで遠いぞ。
それよりは江馬氏に「上洛するけど、自分の領土ぐらい自分で守ってね」
っていっといて放置したほうがいいんじゃないの?
結局朝倉が領有したのは江沼能美の2郡で、
信玄上洛ちょっと前にその元の領主、本願寺と和睦したってことは、
この二群は本願寺に変換したのかね
>>448 江馬氏に「上洛するけど、自分の領土ぐらい自分で守ってね
んで、人手が要るから500人送ってね。」でええやん
飛騨は太閤検地で三万八千石
>>446の
>三木姉小路氏と江馬氏による飛騨を二分した争いってのは
を借りれば半々で一万九千石
二百五十人役で五百人にも満たないぞ。
領土がそこ以外にあるなら話は別だが、かなりひどいこといっとるぞ、信玄
>>449 いやだから江沼能美の2郡まで攻め入ったのは1564年年で
その後は逆に攻められて越前の坂井郡金津まで攻めこまれてる
でその後本願寺が越前を返却した
だと思う
>>448 一応木曽等、飛騨との関係が深い者達に飛騨を支援してね
越中の謙信牽制してね
という命令は出している
んじゃ、結局朝倉テンプレも変更なしか。
>>453 木曽氏は武田配下じゃないの?
拠点?も南信濃でないの?
>>454 だから木曽に飛騨の支援を命じてるって意味だろ
それと北信濃と飛騨は遠いし地理的に隔絶してる
木曽は飛騨に近いし
てことは信玄隊はさらに削られるってことじゃないか。
テンプレの原則に従えば二万五千からそこの防衛用の兵もださねば。
といっても数百の話かな。
>>456 >武田は
>北信および上野へ対上杉に五千ほど、
>美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
この辺に含めていいと思う、どうせ数百レベルだし
つまり
武田二万一千(防衛隊配備済み)VS織田五万一千+徳川九千(共に防衛隊未配備)
か。
次は、織田の防衛隊配備か
京都抑えに四千
六角&京都方面どちらにも向けられるような配備で四千
浅井&朝倉に四千
浅井&朝倉、美濃に回せるように五千
美濃に四千
基本尾張に美濃、長島睨みに四千
長島に五千
これで三万
武田二万一千二VS織田二万一千+徳川九千
織田有利かね
>浅井&朝倉、美濃に回せるように五千
コレっているのか?
>六角&京都方面どちらにも向けられるような配備で四千
コレもよく分からんが
>>460 浅井&朝倉備えを朝倉が無視して(無いと思うが)織田領を犯したときの対応
>>461 京都方面が(これまた無いと思うが)三好がきた時に対応させる備え
余裕があるときならまだしもこの状況では、
無いと思われることに対しての対応は不要だろう。
そういや朝倉って美濃に直接侵攻したことってないよな。
越前から美濃はきついぞ。
>>463 これだけ配備すれば後方不安はほとんどなくなるだろ。過剰なのかもしれんが。
と、なると信玄との決戦時に
「後ろはアレだけ配備したし、じっくり長期戦でもいけるぜ」って戦術的有利がひきだせないかなと思いました。
>>459 武田は上洛の時は北条の援軍込みで2万5千と色々な史料にあるんだから、
2万5千でいいんじゃないか?
実際2万5千を率いていたのに計算が合わないからといって
減らすわけにも行かないだろう。
その代わりに、無理をして2万5千を動員したと注釈を付けるか
1万石あたり250人の計算をやめて
武田の2万5千と石高との比率に合わせて他の勢力の人数を増やすかすれば。
スレタイには沿うが、武田はよりきびしくなるぞ
それに当時の資料で軍勢の誇張は日常茶判事だろ?
だとするなら石高を元に計算した二万一千のほうが正確じゃないか
武田が厳しくなるんだから2万1千でいいって言っているのか?
もしそうだったら話がおかしいだろう。
兵力の換算は公平にしよう。
俺はその上で上洛は無理だと思うが。
結局スレタイどおりで、
武田2万5千対織田2万8・9千(+徳川残存兵力)
じゃないか?
469 :
468:2005/12/12(月) 21:24:07
>>467 ごめん。読み間違えた。
2万5千にして他の勢力も同比率で兵力を増やすと
もっと武田が厳しくなると言うことか。
>美濃岩村の秋山隊が三千ほど
でもこれも1万石あたり250人の計算じゃないだろ
伊那郡全部と岩村周辺でも12万石いかないプラス木曽で届くかどうか?だろ
美濃岩村に秋山に三千の兵を率いさせて陽動なりするってことだろ
この三千はテンプレの
25000〜26600からきてる
>>470 簡単に言うとこういうことか、数値は適当だが
総計25035〜26635
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
合計実数二万五千ほど
石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
>>472 意外と最終的な兵数が二万五千になってるな
>>472 秋山及びその指揮下&岩村等で6万石程度はいいとして
北信および上野が10万石は少ないような気がする
安曇水内高井だけでもそこそこいくのにそれに加えて上野も加えるなら10万石分超えちゃうんじゃないか
>>475 越えていいのでは。
五千の兵を配備するには二十万石必要なのだから。
鈴木○哉
自衛隊OB、趣味の歴史家
武田の騎馬軍団は無かった、鉄砲三段射ちは無かったと提唱。
○○は無かった、無かったと大衆受け狙いのネタ師。
史家の執筆した真面目な書籍は遠ざけられ、ネタ師のヲタ説が横行する傾向が強い。
2ちゃんねらーに熱心な信奉者は多いが、まともな研究家からは疑問視されている。
世界史板でも鈴木説を脊髄反射的に答える信者が根強く毎回水掛け論が続いている。
最近の議論をまとめると
武田勢は全軍が大体32500で、上洛軍は25000ってことか。
織田徳川の推定は出てないけど
史料からいくと、徳川が味方が原戦前の8000−打撃−離反で最高に見積もって6500。
織田が分からないが全軍は約42500、光秀と秀吉が、預かった手勢として
最低6000、5000づつだけども信長の支援が期待できない分多めに配置したから9000、7500
伊勢押さえは謙信ほど強力じゃないが交戦しているから4000〜
京にも多少置くとすれば、美濃で待機中の軍勢が20000というのは最大限集めたっぽいね。
やっと決戦の話ができそうな雰囲気になってきた。
>>425 引っ掻き回すな
>>472-478 武田総兵力
26000(最大の概算)−北信濃上杉対策5000ー秋山部隊3000+北条援軍3000(最大)
=21000だろ
>>481 ??
甲斐、信濃、西上野、駿河、飛騨、三河、遠江、美濃
徳川領を侵略しぬいて、武田へ降る地侍も続出最低でも120万石はあるからなぁ
26000(最大の概算)なんてトチ狂ったこと言われても困る‥
>>482 120×250=30000
実際に完全領国化したのは甲斐信濃駿河で他は一部分。
テンプレに意見があるのなら根拠をもってしろと何度いったらわかる。
120万石以上、3万以上の兵があったというのならその根拠を挙げろ。
ソースなくそんなトチ狂ったことを言われても困る。
そもそもコンスタントに3万も動員できるのなら、わざわざ同盟相手だった織田徳川攻めんでも上杉・北条相手にもう少し有利に戦えてる罠
北条はともかく北の戦キチガイはなぁ・・・ちょっとかわいそうだと思うが
>>483 はいはいw
何度テンプレの間違いを暴露されても
そのうちシラ〜っとテンプレを貼り付けるのが、某織田厨のお約束ですからw
実際に完全領国化したのは甲斐信濃駿河で他は一部分。
西上野は完全領国化(意味不明な語句だけど)
三遠も織田の近江地区と同じく動員は掛けれるワケでね、恣意的すぎるよ。
んじゃ、そのテンプレが間違いだったって指摘してるのが何番目のスレか指摘してくれ
あったらみてくるから。手間掛けるけどすまん。
あと織田厨とかいうとつまらない言い合いになるから控えてくれ。
個人的には「w」も控えてほしいが
それと近江伊勢にかんしてはすくなくともそっちから先に
反論となる根拠提示してちょ
それと大体何パーセントになるかの試案もできればつけておくれ
少なくとも近江伊勢にはってのもおかしいな。
テンプレを批判するなら根拠の明示をしてくれってのが正しいな。
産連投スマソ
話し戻すけど
朝倉始末記に1573年の3月あたりに湖西の守りが堅いので
若狭を攻めたことが載っていたような
勝てなかったけど
結局テンプレはおかしいというだけで何も論拠論証できない信玄厨極右でした
>>488 388,393,396,398辺りかな
>>489 武田派が始末記や越州軍記で加賀征伐の話をしても
>>452などと思い込みで批判するからねぇ
織田厨の思い込みは根拠の明示になるのかな?w
伊勢は431かな、435みたいに年代を都合よく勘違いしているのも居るね
>>493 加賀征伐後、本願寺が盛り返して越前まで進行、
和睦後、越前領を朝倉に変換でなにか問題が?
それが思い込みだと明示すれば早いじゃないか。
朝倉がその二郡を73年まで領有してたことを示す箇所書き出して。
それから
>んじゃ、そのテンプレが間違いだったって指摘してるのが何番目のスレか指摘してくれ
これにたいする返答まだ?
あと、何回厨房厨房いうなと言えばわかる?
それともそうやって引っ掻き回すのが目的?
>495
厨房発見
>>496 過去ログ見るとわかるけど、厨房の言い合いで荒れていってる。
>>493 >>431-435 波瀬・岩内・長野は、69年の伊勢攻めで田丸城に拘禁されてる。
なるとこの三人の領地は事実上の織田配下じゃないか?少なくとも実権は無い。
我等が信玄は73年にお亡くなりになられてる。
伊勢攻めってこれ以降あるか?73年六月には信雄に北畠の家督譲られて、
その直後、信雄は色々活動してるし。
武田厨を騙るのが流行ってるのか?
>>497 >波瀬・岩内・長野は、69年の伊勢攻めで田丸城に拘禁されてる。
そんな新事実が発見されたのなら、それこそソース出してくれw
まあ、何かを勘違いしたんだろうけど
田丸城の件は三瀬の変じゃないか?
実際、伊勢に対しては信長は対長島以外に軍を動かしていないんだよね。
織田が2万とかいっている奴ってまだ居たんだ。
>>495 反論されると分かっててわざと挑発するような書き方して、
誰かからのレスが来るのを待っているさびしん坊だろう。
>>466 を試してみた
4000の兵を作り出すには、290人役。
これで武田は上洛に二万五千捻出できる
浅井と朝倉はあわせて一万六千
織田は単独で五万九千
徳川一万三千
上杉一万五千(全て概算)
6000ほどの兵を生み出すために一万ちょい、敵が増えることになる。辛いな。
もともと250人役が、戦国時代としては低い動員率だから、武田が290人役で
二万五千だってできただろうけどね。それをいったら他の諸勢力だって同じ
なわけで。
例えば資料の記録だけでいいのなら織田には元亀の時点で五万とか七万とか
の兵を動員したというものもある。信憑性は疑問だが、可能不可能なら可能
な数字ではあるんだよな。
動員のタイミングっていうのもあったかもね
数年単位で連れまわせば国人層の不満が溜まるし農地も荒廃する恐れがあるから、期限を切ったり一端帰郷させたりする必要性があって
動員力はあっても動員できないって状況に陥ることは考えられる
とりあえず高島郡について、前々スれより
377 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2005/10/24(月) 13:47:14
結局、信長公記にある郡境の打下城と朽木が信長に降っただけで
残りの高島郡を光秀(磯野)が支配していたという根拠は無しか。
378 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2005/10/24(月) 15:50:04
>>377 確かなソース付きはその2者ぐらいだろうね、あと磯野の直轄領ぐらいで
とはいえ浅井についていた勢力も確かなソースだと田中氏ぐらいになるが
多胡氏はもともと浅井郡か坂田郡の勢力だし
不確かなソース含めれば最大勢力の越中氏を降してるから織田の勢力は
それなりにあったとも考えられるが永田氏も越中氏も安曇川周辺だから
北高島郡には織田の勢力は及んでいなかったと考えられる。面積で言うなら
北半分は確実に織田ではない。でも高島郡の中心は南部だから経済力を
加味すればまた違うだろうが。それでも南部には田中氏や新庄俊長もいたこと
から、テンプレの時期には高島郡は浅井が優勢だったの
以上
だからテンプレ修正する必要があるな。といっても高島郡について、浅井が75%の織田が25%?
細かい計算マンドクセ('A`)
>>507 それに補完的に働くのが織田の貿易権益とか、われらが信玄公の金山じゃないか?
それで不満を抑える
農地の荒廃については農村に女子供が残ってるだろ
男だって大半を連れ出してるわけでなし
510 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 11:07:53
状況によって動員できる兵数かわるということなら、
たしかに今川は1560年はフルパワー動員できるな。
東の北条は上杉に追い込まれてたから警戒しなくてもいいし、
北の武田は強大化した謙信に備えるのが精一杯。
あとは全力で西に向かうだけ。
七十数万石でも、2万5千は余裕で出せるわけだ。
この状況なら、一説にある4万5千だってムリすればいけるんじゃね?
さすがにムリ?
武田が四万五千?
大体500人役か?
同じ率で織田も行けば10万出てくるぞ
どっちも命かかってるからな
>>501 記録は有るよ
波瀬・岩内・長野は、天正4年の三瀬の変で殺害されてる。
ようするに‥w
>>512 殺された記録?
それともなんかの活動を示す文書?
後者ならこれまたなんの文書か明確にしないとな
>殺された記録?
>それともなんかの活動を示す文書?
>後者ならこれまたなんの文書か明確にしないとな
最近騒がしいと思ってたら、こういう事かw
なんか変な事いったか?
残念ながらこっちは過去ログあさるぐらいしかできないからな。
>>508 新庄俊長は73年には織田に寝返るから、微妙
というか一部抜粋のコピペじゃないか前々スレの
>>378の結論は
浅井の高島郡は
高島郡:3.4万(6.7万の半分)
高島郡:4.5万
あたりが妥当と結論づけているのに
>>513 殺された記録だろ、元亀以降の活動記録が無くそれ以後名前が出るのは殺された時だけ
>>518 いや違うこれも前々スレだが
以下
浅井
伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城
伊香郡:3.3万
高島郡:3.4万(6.7万の半分)
浅井郡:3.5万(一応半分で算出)
計10.2万石 13%
よって、兵力は2550。
伊香郡:3.3万
高島郡:3.4万(6.7万の半分)
浅井郡:0.7万(10%案)
計7.4万石 9.5%
兵力は1850
がでたが高島郡は織田が73年に攻めた城、浅井滅亡後服属した国人などから
前スレ27?で高島郡:4.5万(離反者を除く)
が有力視されている
以上となっており
最大の組み合わせの
伊香郡:3.3万
高島郡:4.5万
浅井郡:3.5万(一応半分で算出)
計11.3万 14.5%
兵力は2825
となりこの場合の組み合わせはテンプレに反映されてない
>>519 サンクス。
どの道増えても二百数十人か。猫の額ほどだな。
ということはテンプレを
●浅井
・近江…9.5〜14%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり、これも考慮に入れた。
総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
に帰るって事か。数百人のために長くかかったな
最大で約三千…小谷城に最後に篭った兵も講談になるがそれくらいと言うし、
いいんじゃないかな?
次は六角か
六角は・・・
>愛智郡鯰江城で逼塞状態。
これって結局ほとんど影響力残ってないって事じゃないのか?
六角氏式目に署名してる偉い人も信長の軍に従ってるみたいだし
ほとんど影響が出ないから信長が放置したのか、手が出せなかったのか
結局本願寺文書も朝倉始末記も書き出してくれないんだよな、テンプレ批判する人。
面倒なのか、おちょくってるのか。
伊勢に関しても何もいわないしな。
テンプレのままか、結局。
元亀二年以降に六角の行動ってなにがある?
石高だけではなくて金の産出量とか入れようぜ。
信玄と言えば金山!
甲斐と言えば甲州金だろうが
>>526 我等が信玄公には金山があるが、
織田のうつけものには貿易っていう強みがあるからな
とりあえず石高もまともに出てないのに金山を考慮する余地なし
織田の貿易>信玄の金山
なのか?
ようするに田舎に生まれた時点で信玄の負けってことだな。
運が無かったな、信玄よ。
>>528 どちらもそれらに関する網羅的な記録が残ってるわけじゃないからなー
ただ献金や外交での贈り物考えると織田のほうが金持っていそうではあるが
どのみち金山は枯渇したからな信玄の場合。
信秀が朝廷に献上したのが四千貫だったっけ。いくらくらいなんだ?
信長の貿易が代官による直轄支配だったのに対して
信玄の金山の場合は穴山等を介した間接支配だったからなぁ…
それに貿易が秀吉の代で奴隷貿易絡みの問題が起こるまでおおむね右肩上がりだったのに対し、金山は黒川金山などいくつかが掘り尽くされることになるし…
*伊香郡、高島郡の3/4、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない
(というかそもそも城が無い)西浅井郡は残っているから3/4。
正しくはこうだな
>>517 元亀以降の活動記録といえば
唯一一益が検地している事くらいか、ただし南部5郡と長島一帯はしていないね
>>535 過去ログ読むとしているみたいだが旧北畠領は
旧北畠領は北畠具豊名義の検地だったらあったみたいだが
まあ引用の引用文でしか知らないが
>>534 >>538 それは違うな、まず西浅井郡と東浅井郡は同等じゃない
そして浅井郡の月ヶ瀬城が落ちるのは73年8月、また浅見の寝返りも阿閉の寝返り後(ソースは信長公記など)だから
尾上城もテンプレ時は浅井の城である可能性が高い
>>534 >(というかそもそも城が無い)
浅井郡には
小谷城 山本山城 尾上城 月ヶ瀬城 八相山城 宮部城 国友城 三田村城
虎御前山砦 大嶽砦 丁野砦 雲雀山砦
今西館 八木館 安養寺館 佐野館 大野木館 弓削館 伊部館 海北館
とあったと思うが・・・
多いな
でそのうちどの程度が織田でどの程度が浅井だったんだ
小谷城以外はあらかた織田。
で、結局どの程度が浅井方の手にあったんだ?
>>542 >>545 小谷城 山本山城 尾上城 月ヶ瀬城 浅井
八相山城 宮部城 国友城 三田村城 織田
虎御前山砦 織田
大嶽砦 丁野砦 浅井
雲雀山砦 知らない
今西館 八木館 安養寺館 佐野館 大野木館 弓削館 知らない
伊部館 海北館 多分浅井
とこんな感じ
浅井はこんな状況でよく持ちこたえたな。
小谷が堅城だったことと、朝倉の救援、それから信長がこの時期に多方面に敵を
抱えていたからでしょう。
>>546 >伊部館 海北館 多分浅井
そりゃ小谷から1キロないからな
>>547 ちなみに72年には浅井はほぼ全領土を焼かれている
高島郡北部、東浅井郡の北部だけでなく
西浅井郡、伊香郡の越前との境近くまで焼き討ちしてる
東浅井郡で焼き討ちしたのは山本山周辺のみだから、浅井郡のそれ以外の地域は織田軍は
焼き討ちできなかったかする必要が無い状態だったのだろう
たしか信長が五万(記録上)で攻め寄せて、だけど浅井も朝倉も陣に篭って出てこないので
その間に焼きまくったんだよな。それでも浅井朝倉は出陣しなかった。これじゃ造反者も出る
だろうさ。武田の出陣がなければこの時点で浅井も朝倉も滅んでたな。
小谷城 山本山城 尾上城は伊香郡との境付近で
月ヶ瀬城は浅井郡の真中あたりかそれよりやや北?
国友城 三田村城は坂田郡との境付近
八相山城は浅井郡の真中あたりかそれよりやや北
宮部城は浅井郡のやや南といったところか
大嶽砦 丁野砦は伊香郡との境小谷周辺
雲雀山砦は小谷周辺
虎御前山砦は浅井郡のやや北
地理的にはこんな感じか
>>546 雲雀山砦72年7月に雲雀山を攻め取っている
>>551 焼きまくったのは72年の3月と7月で朝倉の来る前
今までのレスを見て思ったことだが
結局浅井郡の浅井領は多くても半分というのは納得できたが
>>519の
浅井郡:0.7万(10%案)
はちょっと、というかかなり無理があるような・・・
信玄公の兵は織田兵の五倍の強さ!!!!!!!!
よって25000×5の兵力を用意できない限り信玄公が勝つ!!!!!!
よって上洛は可能!!!!!!!!!!!!!!
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/16(金) 10:18:09
うわーー
すごいおもしろい。
どうしたらこんなにおもしろいことをおもいつくんだろう。
信長様の兵は武田兵の五倍の強さ!!!!!!!!
よって45000×5の兵力を用意できない限り信長様が勝つ!!!!!!
よって上洛は不可能!!!!!!!!!!!!!!
兵士個人の強さで戦争が決まるのなら、ケルト人やゲルマン人はローマ人に勝てたことになるぞ
無理な自演は怪我の元w
北畠は北伊勢のついでにちょっと攻めただけな感じで(違うか‥)基本放置プレイだし
信雄、一益が要求したのが雲出川以北の承認だから、これと長島一円を除いて
伊勢の領有具合は50%〜60%じゃない?
浅井領、高嶋3/4、伊香、浅井郡がわからないけど
小谷山系に結構村があって東が半々、西は小規模なんで6割前後かなと推測。
養子に迎えることを約束させたんだし、無理に攻めることは無いだろ。
それに数ヵ月後に家督譲られた信雄はバリバリ動いてるぞ
かなり織田勢力の浸透はあったんじゃないのか?
無い
ならなんですぐに信雄は動けたんだ?
実質領国化するんだから、無いってことはありえんだろ
信雄が動いたってのは、いつの話?
織田と北畠は和睦していて敵ではないから、動くのは何とでも
と思うんだけど。
>>563 吉川興経の時は、すぐ暗殺出来たし反抗も無かったのに
北畠のケースは実行が信雄元服以後で反乱も起きているから
テンプレ当時はほとんど無いだろ。
家督譲られてから、だから推測の域出てないけどな
七月から徳政令とかアンド上とかだしてるみたい
信玄死後2年以上経ってるから参考にはならん気がするけど‥
>>559 >北畠は北伊勢のついでにちょっと攻めただけな感じで(違うか‥)基本放置プレイだし
全然違うだろ、69年の北畠攻めは織田の主力に織田の与党含めてかなり動員してる。
>信雄、一益が要求したのが雲出川以北の承認だから
聞いたこと無い。
>小谷山系に結構村があって東が半々、西は小規模なんで6割前後かなと推測。
そんなに村無いぞ、ほとんどの村が平野部だ
まあ『結構』『そんなに』は主観的な表現だから何とも胃炎がな。
>>567 >そんなに村無いぞ、ほとんどの村が平野部だ
>まあ『結構』『そんなに』は主観的な表現だから何とも胃炎がな。
そう?小谷、山本山と虎御前山の間へ線引いても
丘陵地帯と平野部で発達具合は似たような感じじゃん。
>聞いたこと無い。
あー‥信雄方が要求したのが雲出川以南ね
この頃、北勢の連中は駆り出されているけど
南勢の侍は出陣している話題が無いから、まだ支配してないと思うけどどうだろ。
信雄は元服72年・初陣74年・家督相続75年
でOK?
>>570 国立公文書館のデジタルアーカイブ見て偉ぶってるだけだからw
伊勢は津田や滝川が元亀の段階で城の破却、関所の撤廃、検地といろいろやっているが
>>575 城の破却は上手く進んでないんじゃ、検地は北だけだし
>>575 城の破却、関所の撤廃は元亀ではなく永禄の話しでは
と無用な突っ込みをいれてみる
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/16(金) 15:15:33
なぁなぁ、よく甲州の武田兵は強くて尾張武士は弱いとか、
三河武士は強いとか聞くけど、これっておかしくない?
ローマ人とゲルマン人とかなら体格に差が出てるから強いとか弱いとかいえるけど、
三河と尾張で比較なんてできないだろ。
>>578 勢州軍記に 一益検地北方諸侍 領地なんとかかんとか(単語の並びは違うかも)
って一文(漢文でも候文でもないし何これ?)があるし、一益の任地って北じゃん?
本気でいってるやつはいない
>>580 いや滝川は安濃津・渋見・木造も任されてる、位置的には中部伊勢?かもしれないが
信長公記だと
>>580 過去スレだと北畠領の検地は当代記に載ってるらしいが、漏れは読んだことないからなー
だから安濃津まで任されてて、南部5郡は違うでしょ
>>580 勢州軍記をソースとして用いていいなら北畠は兵3000用意して
更に岡崎に来る信玄に船を派遣する予定なんじゃ
織田が北部領有してる資料はチラホラでてるけども
北畠が南部を支配してることを示す資料ってでたことある?
>>583で挙がっている当代記には
それぞれ信雄10万石、信包5万石、信孝5万石と書かれてるみたいね。
>>584 木造は一志郡だろ
ただ元亀年間、織田勢として自由に動員できそうなのはこの辺までかもね
そこから南部はまだ要請して出兵するという段階かもね
>>588 木造城は雲出川の北にあるし一志郡なのか?
それに南勢から出兵したことは無いと思うけど。
こういうのはバカらしくて嫌いだけど
北部7郡へ一志郡の1/5を加えて桑名を半分に見ると
おおよそ全体の55%みたいね。
伊勢
度会 5.5万石 4.3万石
多気 4.8万石 3.7万石
飯野 2.7万石 2.1万石
飯高 6.1万石 4.8万石
一志 10.9万石 8.5万石
安濃 6.2万石 4.8万石
庵芸 4.8万石 3.7万石
河曲 3.4万石 2.7万石
鈴鹿 6.7万石 5.2万石
三重 6.7万石 5.2万石
朝明 3.3万石 2.6万石
員弁 5.0万石 3.9万石
桑名 6.6万石 5.1万石
計 72.7万石 56.7万石 0.78
北部7郡へ一志郡の1/5を加えて桑名を半分
約32.7万石で約57%
何で一志郡の1/5なのかは謎だが
とりあえず好き勝手に訂正
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…95%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺? 軍鑑だと結構広範囲を制圧
郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。調略が進行しており東美濃は不安定
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…?%(???)
*浅井と交戦・六角を退治中。他にはいつ蜂起するか判らない一向一揆。
浅井は浅井郡6割強、伊香郡、高島郡8割弱か
・伊勢55%(8000)
*桑名・三重郡の一揆衆。南部5郡の北畠氏を除く。
>>593 テンプレの時期には、桑名三重郡は蜂起していない。あと南部五郡のうち、もと
北畠家臣で永禄の遠征時に信長に寝返った連中がいる。彼らは当然もう織田領に
なるだろう。
>テンプレの時期には、桑名三重郡は蜂起していない。
そういえばそうだ、長島周辺の一向一揆と関係ある地侍に変更?
>あと南部五郡のうち、もと北畠家臣で永禄の遠征時に信長に寝返った連中がいる。
>彼らは当然もう織田領になるだろう。
例えば誰だろう‥
>>595 >長島周辺の一向一揆と関係ある地侍
もともとこういうヤツらはとっくに長島にはいって抵抗している。
というか、長島一向一揆というのは、長島周辺の地縁血縁で結ばれていた地侍の
集団のことなのだから。
テンプレの時期、信雄は家督をついではいなかったが大河内城にはいっている。
一方当主である北畠具教は城を出て多芸郡へ。
なんか詭弁臭いな‥
>テンプレの時期、信雄は家督をついではいなかったが大河内城にはいっている。
のは事実だけど、具教隠居はテンプレの2年後だろ。
しかし本拠を明渡したのも事実
はあ?本人が本拠に居るのに何言ってんだ?
>>600 いない。
永禄の和睦で具教は信雄を養子にすると同時に大河内城を明け渡す。その後一旦は城に
戻ったが、元亀の頃には具教親子は再び大河内城を出て多芸館にはいる。
以後、北畠具教が領国で政務と執り行った形跡はみられない。
>>601 >その後一旦は城に戻ったが
こんなんあったか?
そもそも大河内城は対信長の為に入っただけだろ
>>601 >以後、北畠具教が領国で政務と執り行った形跡はみられない。
以後家督を継ぐ前後まで、信雄が領国で政務と執り行った形跡はみられないのに対して
具教は知行安堵や商いの触れを出してるけどな。
>>602 無いでしょ、具教が大河内城から移ったのは天正3年なんだし
若干すれ違いかもしれんが、
当時の地図って不正確だよな?
だとするとやっぱり当時の地図に沿って話してるの?
いや、ほら、たとえば
「美濃から信濃に侵入するのは辛い」
ってのはそのあたりが狭いから大軍送り込むには不適合だからって事だろ?
でも、そのあたりが狭いってのは現在の正確な地図だからこそ把握できるわけで、
当時の人からしてみたら「狭いけど二万五千ぐらいの兵士なら問題ないだろ」みたいな認識であって、
信濃から美濃に侵入する可能性が低くなるわけでもないし、
わかる?
当時の人は地図だけで判断したりせずに、
実際に現地を知っている者意見を聞くだろうから、
我々が勝手に地図見ただけで思っているよりも、
はるかに現実的に判断したと思うよ。
侵入は可能だが撤退する際に酷い事になりそう、ゆえに信濃→美濃への大軍侵入を
避けたんではないか?
軍鑑だと出陣前に地図広げて軍議してるよね
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/18(日) 01:59:08
地図の制度が違うwwwwwwwwwwww
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/18(日) 12:18:35
地図の精度が同じと思って言っているんじゃないと思う。
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…95%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺? 軍鑑だと結構広範囲を制圧
郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。調略が進行しており東美濃は不安定
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・伊勢55%(8000)
*長島一円の一向一揆と地侍衆。南部5郡の北畠氏を除く。
・近江…?%(???)
*浅井と交戦・六角を退治中。他にはいつ蜂起するか判らない一向一揆。
浅井は浅井郡6割強、伊香郡、高島郡8割弱か
あとは近江か
604 :無名武将@お腹せっぷく :2005/12/17(土) 02:54:41
>>601 >以後、北畠具教が領国で政務と執り行った形跡はみられない。
以後家督を継ぐ前後まで、信雄が領国で政務と執り行った形跡はみられないのに対して
具教は知行安堵や商いの触れを出してるけどな。
↑これって当然じゃないのか?
信雄はまだ家督譲られてないし、名目上、権力者は北畠だろ。
んが、織田氏から信雄の目付けが送られてるし、彼らの名前では命令文書出せないだろ。北畠が建前として存在してるし。
ちょうど徳川幕府の秀忠と家康に当たるんじゃないのか?
当たらないだろw
家督強奪する少し前から、命令文書(?)出してるから。
信雄が家督を継いだ頃から、南部5郡の国衆が参陣し始めたし。
いや、だからよ。
よその子供を用紙に入れられるのを共用されるぐらいに北畠は織田に弱腰だったわけだろ。
で、織田の大寒は行ってきてるんだから、織田の意向無視して動けないだろ
北畠領の検地って信雄の名前で行われていたような。
実施は織田から信雄つきで送り込まれてきたものたちだろうけど。
>>618 いや、だからよ、じゃあなく。名目上攻めあぐねての和睦だから。
無視されるような織田の意向は無かったってことだろ、
それに織田の意向でも城の破却はしてない。
伊勢北部の検地は行われてるけど
テンプレの時期じゃ北畠領の検地はやってないでしょ。
>>620 その辺よくわからないんだよね。攻めあぐねてやむを得ず和睦というのは史書にも
あるけど、その結果は城を引き渡すだとか敵の息子を後継者として迎え入れるとか、
どう見ても敗戦国に対する条件。
ちなみに織田軍が軍事的にはけちょんけちょんにいいところなしで負け続けて謀略
の和睦を結ぶというのは信憑性皆無の北畠マンセー『勢州軍記』の記述。
ただし『細川両家記』にも戦闘で国司方つまり北畠が勝利をしたという記述はある。
勢州軍記って1640年代ごろに作られたんだな
100年近くあと
あてになるのやら
大河内上を北畠は退去してるのに飯野郡が織田領に入ってないのはなぜ?
593with592
左
6.6/2+5.0+3.3+6.7+6.7+3.4+4.8+6.2+10.9/5=41.2 約一万
右
5.1/2+3.9+2.6+5.2+5.2+2.7+3.7+4.8+8.5/5=31.6 約7500
計算合わなかったんだが。
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 00:55:04
628 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 00:58:43
>>628 ガタイはたしか義龍のほうが上だったと思うが、
信長は若いころから、身体を鍛え武芸に熱心だったから良い勝負かもしれない
信玄は病弱だったらしいが
でも剣の達人と言われてる氏真のほうが強いかもな
上にでてた江間のことだが
江間にたいして信玄は今は雪が酷くて出兵できない
来春雪が溶けたら出兵して三木を倒して江間の望みを適えて上げるから
それまで頑張れ
みたいな手紙をテンプレの時期送っている
つまり、江間は地元で三木氏と対峙中ってことか。
武田領(あるいは属国)かもしれないが、でも戦力には入れられないよな。
>>631 それより
来春雪が溶けたら出兵して
のほうが問題じゃないか?
空手形をいちいち気にしてたら戦国武将なんてやってらんないよ
朝廷の仲介や神仏にかけた誓紙ですらあっさり破るなんて日常なんだから
>>621 >ちなみに織田軍が軍事的にはけちょんけちょんにいいところなしで負け続けて謀略
>の和睦を結ぶというのは信憑性皆無の北畠マンセー『勢州軍記』の記述。
勢州軍記でも勝ったり負けたりだけど‥読んでないでしょ?
635 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 09:54:32
なら信玄の「上洛するから朝倉がんばれ」も空手形になるな。
つまり、上洛の意思はないと
またまた織田厨新理論登場w
だいだい、三木と江馬が敵対しているとしてもこの時期交戦してないだろ?
飛騨先方衆と越中先方衆は軍鑑に載ってるのだから
両国の一部は武田に従属してるってことでしょ。
>>636 山城にも大和にも摂津にも河内にも和泉にも一部は織田に従属している。これは
信憑性の少ない軍記ものではなく、当時の一次史料からも確かめられる。彼らは
織田の遠征に従軍もしている。
でも織田領には組み込まれていないね。
当時の一次史料
して その史料名は?
>>638 織田勢的従属=なんとはなしに織田側
武田勢的従属=臣従
ってことじゃないかな。
信長公記の義昭攻めの部分には従軍した諸将の名がずらずら並んでるけど
これのこと?
いくらなんでも、そんな勘違いはしないだろw
越中加えるとそこの防衛にさらに信玄は兵を割かないとダメだから不利になるんじゃないか?
そもそも敵対関係にあるのに交戦してないから大丈夫って、
上洛軍に兵を割けば当然攻め込まれるようになるだろうに
よくわからんが
北陸平定中の上杉が武田に喧嘩売る意図が解らない
織田or徳川からの要請
それが無くても、かつて敵対関係にあって、
同盟も結んでない勢力が上京して大勢力になったときのこと考えたらけん制しておくのが普通
越中に関しては長延寺に
富山之地無油断普請
とか手紙送っている
>>644 織田or徳川からの要請は、全て完全に無視されてるワケだがw
北陸平定を放置して、わざわざ越中の国境へ攻め込むのは異常。
>>646 状況が違うだろ?徳川は存亡の危機。織田は別としても。かつてそういう状況があって援軍拒否されたことがあるなら教えてくれ。
大将がいない、上洛に大群を割いてがらがらの国だぞ?
織田徳川に恩を売れるシナ
>>647 織田徳川に恩を売れるw<<<<<<<<<北陸平定
北信には4千前後残しているから一瞬で占拠できるわけじゃない
そうなれば、織田徳川の為に武田を引き受け自分はオイシイ北陸を放棄
そりゃ織田徳川に恩を売れるだろうよw
>>648 北進でなくても越中なら手薄だぞ?
それから防衛するための兵力がいるんじゃないのか?ってのがもともとの話だろ。
>織田徳川に恩を売れるw<<<<<<<<<北陸平定
これ説明してくれ。
片田舎の領土と、既に広大な領土を持つ同盟者の恩
後者のほうが利益があるだろ
>>649 例の弁論部員か、あほくさ‥
>後者のほうが利益があるだろ と断定するなら
武田を引き受け自分はオイシイ北陸を放棄<
<全く信用ならない潜在敵国の広大な領土を持つ同盟者の恩
だという事を解り易く説明してもらえる?
勝手に決め付けられてモナ。
武田が織田と戦ってる隙に奪えば良いだけだろうに。それでけん制になる。
信玄が引き返してきたら撤退すればいい。
まったく信用ならなくても同盟者だ。
かつて刃を交えた人間よりは信用できる。
忘れてた。
後なんで織田が信用できないんだ?
武田を引き受け自分はオイシイ北陸を放棄する見返りが
>まったく信用ならなくても同盟者だ。かつて刃を交えた人間よりは信用できる。
とは流石弁論部員
>>651 北信濃を取れるのか?
それに越中では一揆が蜂起中
今現在敵対し戦っている一揆よりもかつて激戦を繰り返したが現在は小康状態の武田と敵対するのも
おかしい話しだ。
無理。
川中島を囲む山々にどれだけ武田の城砦群があることか
>>654 誰が取るといった?「けん制」といってるんだが。
それともお前の定義でけん制は領土取らないと権勢にならないのか?
その小康状態が信玄が上洛して力つけたらくずれるぞ?
少なくとも信玄は勝てないと判断して南進に切り替えたわけだからな。
で、なければ息子斬ってまで今川攻めないからな。
あとな、お前に質問してるんだから少しは答えろよ。
>後なんで織田が信用できないんだ?
>>655 越中に向いてもいいしな
結局最低でも越中の制圧が終了する73年秋までは武田と敵対する可能性はないな
>>656 現在攻撃してきてる相手を無視して信濃に攻め入るといわれても
弁論部員のわりには文の構築がこれっぽっちも出来てない
メシ食って頭冷やしてきた。
信濃と越中なら越中のほうがリスク少ないな。
>上洛軍に兵を割けば当然攻め込まれるようになるだろうに
これがいかんかったな。
攻め込まれる可能性も出てくる、だな。
結論は
>>657だな。
で、結局越中の信玄領土保護に兵を割かねばならんのではないか?
>>660 彼がそう呼んだから謹んで襲名しただけのこと。
越中に信玄の領土と呼べるほどのものがあったかどうか
自分たちの都合で武田に付いたり上杉に付いたりするような勢力だけだろ
煽りに乗らないでマジメにレス付けてる部分には正直感心した。
弁論部員がんばれ
>>662 そう、そして飛騨も同様
江間は姉小路との抗争のため上杉に味方したり武田に味方したりしてる。
大勢力の狭間で代理戦争なんて普通にあることだけど、これを完全に所領・家臣
とみなすのは乱暴でしょう。
>593 が正式テンプレになったわけでもないのだから、あれは無視でいいんじゃないの
そもそも謙信の越中侵攻って、武田に味方する一向宗の討伐であり、対武田戦略の一環でもあるのだがな。
主敵を織田に押し付けて、敵対するうちの比較的弱体な勢力を撃破する
さすが謙信公ですね
中小領主にはけっこう義理堅いけど、大国相手だとなぜかそうじゃないのが毘沙門天の化身
信玄が織田を浅井&朝倉に押し付けて徳川を攻めたのと一緒だね。
謙信の越中侵攻は先代からの継続事業だろ?
>>667 右が太閤検地の数値で左が何だっけ‥
飛騨越中は加えられんな
根拠と史料も無しに、いきなり希望を言われても困るなあw
越中飛騨が参陣したときの、その領土防衛したら我等が信玄公が不利になるぞ
織田厨が「我等が信玄公」ってw
参陣した残りで防衛したら、参陣した分軍勢が増えるよ
はっといてなんだが、ひどいな‥
ちょっと同情するし、こっちに着たくなる気もわかる
>>678 三木は500人にも満たない雑魚ってことか
あとでいくらでも報復できるから、全軍出動で問題ないな
>>679 ここ武田スレ
狂信する信長がifで討たれるからって、わざわざ荒らしに来なくてもいいよ
ifスレ住人は巣に帰れよ…
>>681 武田にしてみれば雑魚かもしれんが、江馬氏にとっては根拠地を脅かされるわけだが。
ふ〜ん
信長も湖西、湖北、畿内、北勢、東濃と根拠地を脅かされてるから
軍勢が7万くらいないと身動き一つ取れないね
でも信長の場合畿内諸勢力を加えると7万ぐらいいきかねない
残念w
上洛戦には676だけど
畿内諸勢力の参陣は637の脳内当時の一次史料からしか確かめられないw
>>688 676 :無名武将@お腹せっぷく :2005/12/20(火) 11:26:45
越中飛騨が参陣したときの、その領土防衛したら我等が信玄公が不利になるぞ
676とどう関係が?
レスアンカーぐらいマトモにうて
>>689 うむすまなかった
畿内諸勢力の参陣は
>>637の脳内当時の一次史料からしか確かめられないw
越中、飛騨を「自分で守ってね」っていえばよかろうもん。
そもそも武田臣下でないんだから、自分で責任持てで問題ない。
越中飛騨の親武田勢力は謙信との対抗上信玄の力を借りようってぐらいだろ。
それに飛騨、越中はそこ取られたらどうやって江馬らは再起かけるんだ?
六角は付け城で押さえられてる、浅井は虫の息、朝倉は援軍以外で出陣なし、
しかも裏切りが出る始末で若狭にも対応せねばいかん、機内は義昭ぐらいしか織田に積極的にかかってくるのはいない、
北伊勢長島はそれなりの備えが必要だとは思うが、東美濃は僅々3000.それも陽動が目的。
飛騨越中のそれとは状況が違いすぎる。かたや存亡の危機だぞ。
二百万石(テンプレでの現状)近い大名と数万石の大名を同じ扱いですか?
煽り口調の奴なんてしょせん
かまって君なんだからほって置けばいいだろう。
相手にする方が馬鹿だよ。
一ヶ月くらい保守だけして放置しておけば居なくなるだろう。
かまって君みたいに2ちゃんで煽る事しか
やる事がないわけじゃないだろ。
といっても大概の兵力試算終わってるからなぁ・・・
で、結局信玄上洛不利ってなるからな
正直、信玄が本気で上洛を目指していたのか?という点からして諸説あるからな。
無難にいくと徳川征伐だよな
信長が岐阜まで戻ってきた時点で信玄には誤算だったかも
少なくとも信長直率軍は畿内に拘束されなかったわけで、徳川への援軍がどれくらいになるか一気にわからなくなる
志賀の陣みたいに他に火がついても動けない信長、みたいなのを想定してなければ織田の援軍を責める書状なんて出さずのらりくらりとかわしててもおかしくないし
>>691 >越中飛騨の親武田勢力は謙信との対抗上信玄の力を借りようってぐらいだろ。
謙信との対抗上ってw 武田と上杉に挟まれて武田へ付いたんだろうに。
>それに飛騨、越中はそこ取られたらどうやって江馬らは再起かけるんだ?
椎名はともかく、飛騨がゲームみたくぼかーんと取られるってかw
>六角は付け城で押さえられてる
付け城って、確かイージスシステムの要塞か何かだっけ?
>浅井は虫の息
浅井は虫の息と書かれている史料でも見つかったらしい
>朝倉は援軍以外で出陣なし、若狭にも対応せねばいかん
ぐるっと付け城で囲んでるから大した軍勢置いてない、しかも若狭で農作物を収穫してるw
>義昭ぐらいしか織田に積極的にかかってくるのはいない
湖南は一向一揆が活発に動いていたの知らない?大阪も法敵扱い
>飛騨越中のそれとは状況が違いすぎる。かたや存亡の危機だぞ。
存亡の危機に陥ってたとは初めて知った。まさに驚き、その妄想力には驚嘆するしかないです。
>二百万石(テンプレでの現状)近い大名
伊勢での織田厨の石高計算書偽造がバレたから無効
>>615に訂正した。
>>697 何をどう計算したら55%になるんだ?
何処の郡は何処所属でとかしっかり示してくれ。
俺も計算したが合わなかったぞ
>>624
法敵に贈り物する本願寺
信玄上洛を心待ちにしているはずなのに、越中に兵を出してとおねだりして負担を増やす本願寺
所詮、宗教団体じゃなくて世俗組織だよなー
殲滅されるまで戦った長嶋一揆あたりはいい面の皮…
若狭は付け城築いているから少数で、というのなら小谷にだって岩村にだって付け城
築いているわな
付け城よりもむしろ政治工作のほうが足止めになった気がする
浅井は磯貝クラスが、朝倉は前波などが城や手勢付で寝返りを打ってる
安堵状が飛びまくってたんだろうな
いま計算中なんだろうか
前波は手勢付じゃないけどね
>>700 粟屋ちゃんは付け城で囲まれてる
>>699 >法敵に贈り物する本願寺
否定されたのにまだ言ってるのかw
>>698 どう計算してどう合わなかった
何処の郡は何処所属でとかしっかり示してくれ
624は多分右が太閤検地だろうけど
>>704 ↓これを使いました。
北部7郡へ一志郡の1/5を加えて桑名を半分
約32.7万石で約57%
何で一志郡の1/5なのかは謎だが
>>704 72年三月に贈り物 「万里江山の一軸」と「白天目」を贈呈される。
八月に和睦斡旋要請
ググッったらでてきますた
>>706 それは義昭が信玄に斡旋依頼したやつ?
その後断交してるんだけどw
>>705 どう計算してどう合わなかったとかしっかり示してくれ
>>706 なんだ、やっぱり贈り物してたんじゃん。本願寺の坊主ども…
>>707 704 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2005/12/21(水) 12:58:17
>>699 >法敵に贈り物する本願寺
否定されたのにまだ言ってるのかw
これに対する反論です。信玄厨の捏造ですね。
舌のはおまけです。是非は関知しません。
>>708 左
6.6/2+5.0+3.3+6.7+6.7+3.4+4.8+6.2+10.9/5=41.2 約一万
右
5.1/2+3.9+2.6+5.2+5.2+2.7+3.7+4.8+8.5/5=31.6 約7500
桑名二分の一 員弁 朝明 三重 鈴鹿 河曲 庵芸 安濃 一志五分の一 の順です。
それぞれの石高も書いてるんですからそれぐらい自分で考えてくださいよ。
漢字が読めない人でしたか?
露骨な嘘つく低レベル武田厨はイフスレにお帰りください
>>710 織田厨が捏造した、信玄の上洛開始後に法敵に贈り物して和睦した本願寺
これに対する反論ですw
>是非は関知しません。
「信玄の上洛開始後に法敵に贈り物して和睦した本願寺」
以前の捏造を再開するんでなければいいよ
左右
わざわざ説明したのにヤケに喧嘩腰だな‥
>>712 ならそう書かねばならないですね。
誤解を招くような書き方しておいてその言い草はなんですか?
伊勢石高に関しては説明の記述がないようですが?
貴方の脳内で説明していただいたんですか?
残念ですがそれでは私には理解できません。
説明していただいたことには感謝しますよ。
貴方の語尾を少々真似しただけですよ。
>伊勢石高に関しては説明の記述がないようですが?
何が解らないのかが解らん‥
理解できていないの1人だけだしw
>>714 一人だと判断したのは貴方がエスパーだからでつか?
凄腕ハッカーでつか?
ところで一揆軍に統治能力合ったんだろうか。
そういえば、寺内町の発展は凄かったらしいな
北畠って信長と戦って和議結んだ後城でたの?
720 :
718:2005/12/21(水) 15:16:59
>>718も納得したところで
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…95%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺? 軍鑑だと結構広範囲を制圧
郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。調略が進行しており東美濃は不安定
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・伊勢55%(8000)
*長島一円の一向一揆と地侍衆。南部5郡の北畠氏を除く。
・未定
次期テンプレからはコレに改定、と。
囲碁板の一歩と弁論部員は似ている。
いや、納得はしてないぞ
ググッてもでてこないからな
「自分で調べろよ」って意見に対して「ろくに調べずに聞いて
>>720」
むちゃくちゃ
>>721が気持ち悪い。
キモイじゃなくて、あえて気持ちが悪いと言う表現を使いたくなるくらい気持ちが悪い。
なにこの粘着あらしは?
だいたい美濃ですら5%もないと言われているのに
むかしっからいるんだよ、粘着君が。
まぁ2ちゃんなんてそんな所だから、無視するなりするのがいいよ。
>>725
>>725 よくあること、あまり気にするな
過去には自作テンプレで新スレまで立ち上げる香具師がたこと思えばまだましなほう
>>725-728ぐらい
伊勢テンプレに関してはどうお考えですか?70パーセントは行き過ぎのような気がしますが。
北畠領の現状がわかればいいのだけれどね。
ただ、南五郡がまるまる残っているとは思えないけど。
あと北部でも反抗しているのは長島だけだから、そんなに支配領域が下がる
ことは無いと思う。
>>729 伊勢のテンプレがどうということより自説を通そうとするやり方が、
無理やりっぽく いかれているぽくって 気持ちが悪い。
北畠ががっしりと南五郡を押さえてるってソースでた?
>自説を通そうとするやり方が、無理やりっぽく いかれているぽくって 気持ちが悪い。
弁論部員殿、自己紹介乙w
>>732 織田領でなければ、織田の軍役は負担させられないんじゃ?
>>733 養子が入ってるからな。
まったく影響力がないとは考えにくい。
あと自分以外はみんな敵という被害妄想は武田厨標準装備ですか?
確実な動員という点では無理だろうな
近隣最大勢力の織田家からの要請を断われるか、とか考えると微妙だが
織田にしても領国に組み込みきれてない連中を刺激したくはないだろうし
>>734 ほんの少しだけは影響力があるだろうね
国衆も動員できない、検地も触れもできない程度だろうけど。
養子を入れたのは国司を継がせて影響力を増す為でしょう
>>733 従属大名に従軍させるという手段は普通にある。
信長が畿内で転戦したときは、明らかに織田の支配下ではない連中が従軍している。
伊勢の場合、まず永禄十二年の戦役で木造が離反、さらに阿坂城が占領されている
ことは確認できる。
それから九月の和睦後、十月には北畠親子が大河内を退去、その跡に信雄と補佐と
して滝川一益、津田一安をいれて伊勢国内の主要な城の破却令、関所の撤廃が行わ
れている。
あとさ、信長って山城とか河内の城攻めておとしてるよな?
それは勘定にはいらないのか?
>>739 それは名目上は義昭が攻め落としたものであり織田領とは言えないが
テンプレでは一応畿内諸勢力として織田に味方したり織田に敵対したりとなってる
>>738 破却命令でたけども、曽原城なんかは抵抗してない?
その城はその後織田と北畠軍に下ったみたいだけど。
結局は降伏してるから成功したともいえるけど
>>737 いつの戦で例えば誰?
義昭を討った時は、明らかに織田の支配下の連中しか名前が見えないけど。
>>738 木造は元々織田方として数えられてるし
信長公記を信じるなら阿坂城は破却して占領はしてない。
主要な城の破却令は出たけども、阿坂以外実際に破却されたとは書かれてない
勢州軍記では結局破却されなかったとあるし。
北畠親子が大河内を退去したのは、信長公記以外の軍記物だと大分後の事
(どれが正しいか分からない)信長公記は当然織田寄りに書かれているだろうから。
>>742 >いつの戦で例えば誰?
徳川なんかほぼ従属と捉えてもいいだろ。
要請に従いまくってるし。姉川とか。
徳川家臣に信長が指示したこともあったな。
>義昭を討った時は、明らかに織田の支配下の連中しか名前が見えないけど
なぜわざわざ義昭征伐の時に限定しますか?
>北畠親子が大河内を退去したのは、信長公記以外の軍記物だと大分後の事
>(どれが正しいか分からない)信長公記は当然織田寄りに書かれているだろうから
なんて軍記物にどのように書かれてるの?
>>744 家康がほぼ従属なら北畠は違うな
兵を出す様になったのは信雄が家督を継ぐ前後だから。
しかし‥徳川領を織田に組み込むのか?w
>なぜわざわざ義昭征伐の時に限定しますか?
では、いつの戦で例えば誰?
>なんて軍記物にどのように書かれてるの?
色々w 一番遅いのは家督を譲るときに三瀬へ引退。
>>745 織田と一緒に反乱軍の鎮圧に言ってるぞ、北畠。
資料?色々w
>>なぜわざわざ義昭征伐の時に限定しますか?
>では、いつの戦で例えば誰?
色々w
>>なんて軍記物にどのように書かれてるの?
>色々w 一番遅いのは家督を譲るときに三瀬へ引退。
そんな資料無いしw
気に入った?
わざわざより信頼性の低い軍記物をソースにしても意味無いだろ
例えば
信長公記以外の軍記物だと桶狭間は奇襲戦
姉川では徳川大活躍
長篠では3000の鉄砲で武田騎馬軍団を殲滅
そもそもその軍記物も提示できないみたいだし
信雄考慮で一志全郡と大河内の北畠退去で飯野郡は織田?
>>747 何この知ったかぶり
信長公記ホントに読んだ事あるのか?
>>750 むしろこの場合は信長公記以外読んだことあるの?じゃね
本願寺文書も加賀ナントカもでてきてないんだよな〜。
ね、武田厨の人w
>>752 今手元に戦国遺文あるから江間や越中関係の書状ならいくつか書き上げられるけど
江馬が参陣したことを示す書状あったらお願いします。
戦国遺文は信憑性の低い文書・書状と信憑性の高い文書・書状の両方載っているから、
結局あてにならんと思うが。
一九六ニ 武田信玄・勝頼連署状写
国立国会図書館所蔵「武家事紀」
江馬中務少輔・三村右兵衛門尉所来翰、具披閲、抑自綱対当方、
年来辜負無念千万之条、無二及行可決是非之旨、令覚悟候半、
以御媒介一往和平ニ被取成候処ニ、無機ほ程変化、遺恨不浅候、
因茲当来月中、向其国動干戈可退治自綱之旨、雖議定候、
漸及寒天、就中其表深雪之時分候之条、先延引、来春者雪も消馬足も融候者、
必令出馬可散鬱憤候、然則貴辺御本意不可有程候、誠自綱如此被変色之上、
始中終不相替御入魂祝著候、自今以後者、弥異于他申合、浮沈共不可有心疎候、
委曲江馬中務少輔・三村右兵衛門尉可申候、恐々謹言、
九月廿九日
信玄(花押)
勝頼(花押)
豊後守殿
写すのに30分はかかったw
>>755 江馬に関してはこの年元亀三年はこれしか見つけられなかった
ところで話は変わるが信玄側に根来・雑賀・湯川衆はいれないの?
>>758 雑賀も根来も全てが本願寺についたわけではない。
むしろ両方とも織田方と本願寺方に分裂している。
来春出馬するようなこと言ってるが飛騨にも出兵するのか・・・
上杉とも敵対することになるな
口約束か、手すきならねって程度のことなのが露骨にわかるw
ところで信長公記のような一級史料を織田寄りだろう、の予断一言で否定したらそもそも史料からの推測なんてなりたたんくなるんだが
やっぱ軍k(ry
>>756 なにも提示されないよりは良い議論になるんじゃない?
>>757 ありがとうございました。
>>758 武田厨が必死に話をそらそうとしてますねw
結局江馬は加えられないな。
あの必死な人カワイソス
伊勢は一志と飯高くわえれば大体7割になるんだな。結局変更なしか。
伊勢は75%でもいいぐらいだ
>>756 >>763 >なにも提示されないよりは良い議論になるんじゃない?
戦国遺文は信頼性や疑いある文書に関してはちゃんと注意書きがあったと思う
例として1572年4月の川中島の対陣とか
もう石高で話すこともないな。
あとは金山とか?商業のアガリとか?
でもこれはかなり難しそうな‥‥
768 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/23(金) 21:04:40
>>767 そういった方面の研究ってあまり聞かないな。やっぱ史料自体が少ないのか?
>>769 はっきりした数字がだせないのも問題なような気がす。
ところで金山が枯渇したのはいつだい?
>>770 謎
そもそも本当に枯渇してたのか?
ソースは何だ?
>>771 いや、こちらが聴きたいんだが・・・
枯渇してないのかい?
勝頼の代では財政が厳しいようだったという話しをよく聞くんだが。
>>772 財政が厳しいのも年貢税が厳しいのも軍役が厳しいのも信虎時代からだと思う
>>749 飯野郡は論外。
反乱が起きた船江、曽原が雲出川の近くだから一志郡1/5くらいか
その後、信長直々の破却命令も無視されているしね。
勢州軍記だと一益、信兼の任地は検地しているのに、全く実施してないし
当代記にも、一族3人の中で信雄だけ検地せずとあるよ。
775 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 07:29:02
金山ってすげえよ
正直津より金山の方が上
>>774 飯野は北畠がでて信雄が入ってるのになぜ論外?
信雄は当主じゃないから名前はなくても不思議じゃない。
当代記は‥‥いいのか?
具教らが誅された後、譜代の旧臣達が決起したのは、
霧山くらいだから破劫はされててんじゃないの?
まあ、館として、使える程度には、残してたんだろうけど。
破却命令に対する氾濫に対して、北畠と織田が共同で当たった。
織田が圧力をかけたから北畠も出陣した。
圧力をかければ織田と共に行動する。
信玄上洛の時も圧力かければ一緒に動く?
まあ、仮の信玄があのまま進んでいざ尾張なり三河なりで決戦となったら、
信長も北畠に出兵要請(という名の命令)を出すでしょうね。
その状況では、圧力をかける余裕はないのでは?
岐阜に帰ってきたのは武田に備えるためじゃない?
で、信玄が尾張まで来る前に軍勢送ってるんじゃないか。
でないと徳川が滅んでる状態になるぞ。
滅ぼさないと後背に脅威を抱えたまま敵地進入になるし。
兵数はどっこいどっこいな状況で信玄が決戦するとは思えんが・・・
どっこいどっこいじゃないだろ。
信玄は少ない兵力で打ち破らないとどうするんだ?
謙信が越中をじきに納めるし、後方が脅かされるぞ。
と、なると上洛の機会はなくなる。ただでさえ病弱で、実際には4〜5月に死んでるんだから。
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 09:19:07
>>謙信が越中をじきに納めるし、後方が脅かされるぞ。
織田厨オツ
785 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 09:22:57
ソースの提示もできない武田厨乙
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 09:24:55
むしろじきに越中を治めるというソースを出すべきだろう
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 09:38:57
>>786 加賀の領有について
それに伴う本願寺文書について
>>>北畠親子が大河内を退去したのは、信長公記以外の軍記物だと大分後の事
>>>(どれが正しいか分からない)信長公記は当然織田寄りに書かれているだろうから
>>なんて軍記物にどのように書かれてるの?
>色々w 一番遅いのは家督を譲るときに三瀬へ引退。
お仲間にはファンタスティックなのが大量にいるな、武田厨
>>787 こいつ何調子こいてんの?
リアルじゃ根暗なんだろうなwww
ピザでも喰らってろデブ
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 09:55:08
武田厨を装った織田厨オツ
後背に敵を受けないって条件を考えるなら
上杉がいる以上時間制限があるし
徳川も完全に屈服させてその旧領を領国化しなきゃならないから
上洛戦っつーより上洛の準備戦だろ、信玄の西進は
謙信が椎名康胤、神保長職を撃破して越中を実質支配下に置いたのは7月
その後、そのまま能登、加賀を覗って朝日山城の一揆衆と交戦している
793 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 12:08:44
今回の信玄厨はあっさりしてたな
クリスマスだしな…出かけたんだろうよ
正直クリスマスなのにここで必死に書き込みしてるオレは
切支丹禁令
冬厨がこないと寂しいな。
きたらきたでうっとうしいが
冬といえば、昔の人たちはこんな寒さのなかよくまあロクな防寒具もなく
遠征なんてできたもんだと日本海側の大寒波大豪雪のニュースを見ながら
歓心することしきり。
肉布団とかつかったんじゃないか。
煉炭とか
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/26(月) 02:57:49
(=^u^=)
裸で抱き合ってたらしいな
>>776 長島の討伐に南勢勢の名前が見え始めるのが信玄の死後の
天正2年か3年から、この時点だと養子の名目で大河内へ入ってはいても
統治してるとは言えないかと。
>>777 阿坂城しか破劫の記述が無い。
>>778 鎮圧に出向いてるのは織田家の武将だけで、北畠家臣の名前は見えない。
まあ、具房はしっかり担ぎ出されてるけど
>>792 甲陽軍鑑も家臣団表や陣触れに関しては信憑性高いとされてるらしいから
少なくとも、荒法師とかいう御仁の珍説よりは信用できるよ。
>>801 信雄君が単身潜入したわけであるまいに
元服もしてるし十分だろ
そもそも日本でも有数の大大名のご子息だぞ
具房がきてれば十分と判断したんだろ
僅々数百程度の氾濫だろ?
「お前らの主人と慕ってたのもこっち側にいるぞ」って示せば収束すると考えたんだろ
具房しか出てきてないことをもって北畠領が思い通りにならないとはいえない
軍艦はそれだけをもとに江馬が参戦した!って言い張ってたお仲間がいるぞ
結局書状で否定されたけどな
>>802 >僅々数百程度の氾濫だろ?
違う、調べてから書け。
>具房しか出てきてないことをもって北畠領が思い通りにならないとはいえない
長島征伐も南勢衆が加わるのは後年から。
>軍艦はそれだけをもとに江馬が参戦した!って言い張ってたお仲間がいるぞ
>結局書状で否定されたけどな
いつ否定された?飛騨国治乱記(内容がかなり怪しいけど)では参戦してるが
>>803 >違う、調べてから書け。
なら数千か?違うというなら根拠鳴り何なり示して正しい数字を示せば。
>いつ否定された?飛騨国治乱記(内容がかなり怪しいけど)では参戦してるが
内容がかなり怪しいのに参戦した!と言い張るおつもりですか?
>>757の書状はどう判断されたのですか?
『勢州軍記』の記述はかなり地元マンセーでそのまま信じられるものでは到底ない
のだが、他にこの時代を記述した史料がロクにないのでどうしても参考に使わざる
をえないというジレンマ。
いっそ信玄が現代まで生きてたらハッキリしたのにな
何の本だったか忘れたけど
信玄が織田領に攻め込んだ場合
信長は自分の息子を謙信に人質として送り信玄と戦ってもらう予定だったとか
あくまでも外交で乗り切ろうとした信長
>>807 そりゃ戦争は外交の1手段に過ぎないからな
最初から軍事力に頼るような馬鹿じゃあそこまで勢力広げられないだろ
だから信長は信玄にびびってたっていいたいんじゃね
警戒すべき相手を恐れるのは当然で、
それに対処出来るかどうかが問題。
恐れさせただけで、結局負けて滅ぼされるのでは
何の意味も無いと思うんだが
あの信長も恐れた戦国最強武将〜singen〜とかいいたいんだろ
ハクだよ、ハク
>>804 ごめ〜ん
昨日軍鑑読み返したら、甲斐発向の時も野田落城の時も
馬場組は完全お留守番で、出馬してるのはIF戦記その2の東濃制圧時だけだった
馬場組が完全留守番
でも軍艦だと替わりというわけではないが高坂昌信が出陣してたりする
いや、馬場も高坂も出陣してるだろ
馬場の寄子と高坂の寄子の一部が北信に残っているだけであって。
〜僕たちは無職だった〜
無職… 無職… 無職… 無職… 無職… 無職… Ah〜
闇に埋もれた 記憶の彼方 そうさ僕達は 無職だった
暗い自室でMY子種を 撒き散らして 無駄に多い性欲消したかった ねえ 黒い練炭 見つめていると
死ぬ気が湧かないか…今でも! 無職(無職!) かつての(NEET!)若さ失くしたけれど まだ 貴重な童貞 残ってる(ワンダーパワー)
無職(無職!) 七輪(NEET!)焚いて 夢を見ようよ ほら 君の瞳に 靄が架かる
ゲスく汚れたと 人は言うけど 今も透き通る 俺の頭皮
今日も朝までネトゲーして 受験すべり ネカマキャラで 厨を恋に落とした そう描くVision 現実にする
魔法があったんだ… エロゲさ! 無職(無職!) VAIOの(NEET!)電源入れさえすれば
この汚部屋も楽園に変わる(ワンダーパワー)
無職(無職!) 童貞(NEET!)部屋に篭ってゆこう
今 わいせつ事件の容疑が かかる
僕の作った替え歌どうですか?
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 17:46:22
信玄も留守番だったらよかったのに。
なんで信玄厨は自分が資料の提示を要求されるときえるの?
数百の反乱抑えるために北畠具房しか出てきてないから織田の影響下にないってなぁ‥‥
1月8日にテロ朝で風林火山やるらしいな
NHKと被ってるな
>>821 どうした?
インターネッツで新しい情報を手に入れたなら
ごちゃごちゃ言わずそのまま書いたらどうかね?
信玄上洛かぁ。未だにこんな迷信が。
最短経路でも、岡崎、清洲、大垣の3つの堅城を抜かなきゃならん。
二俣で1ヶ月以上足止めされ、浜松攻略を断念した武田に、そんな
力があるわけねぇ。
加えて、岐阜は無視できんだろ。関ヶ原の東軍も、大垣の前に岐阜を
攻略しているしな。小田原を落とせなかった武田に岐阜が落とせるかな。
加えて、3万以上の織田本体との決戦。主力野戦軍が2万未満の上杉に
すら決定的な勝利を武田が、速戦で織田に勝つのは無理。仮に信玄が
病死しなくても、武田と織田の戦いは長期間続く。
だいたい武田って、案外、大規模な野戦に強くないよ。
勝率5割ってとこだろ。
上杉との戦いでも、山岳戦での小競り合いと謀略で、少しづつ
領域を拡大していき、主力軍同士の決戦は極力避ける戦略を
とっている。一回の出兵で5ヶ国を打通するなんて、武田の
ドクトリンに反する。
そう言われればそうだな。信玄は慎重だしな。(晩年)
二俣城にあれほどてこずった武田軍の上洛は無理かもな。
一方、上杉は野戦凄いしてるな。当時は上杉軍が一番野戦
強くないか?
織田って、何で、兵の質で過小評価されてんのかね。
まぁ、規模が大きいから玉石混交だけど、信長の馬廻りは
有名な兵農分離政策もあり、桁違いに強いよ。
桶狭間で2倍以上の今川義元本体を撃破して主将の首をとったし、
越前攻略や天王寺でも数的劣勢を跳ね返して勝利を収めている。
ちなみに、武田は義元存命中は、駿河には手出しできなかった。
山岳戦では、明智城、岩村城攻略の実績もあり、武田に一日の長が
あると思われるが、平野部での会戦では、到底、単独で織田本隊と
戦うのは無理。
>信長の馬廻り
ありゃ化け物軍団だからなぁ。信長自身鍛錬が好きで練兵を怠らないし。
姉川の合戦だって、カンネの戦いで大勝したハンニバル指揮のカルタゴ軍と
そっくりな布陣だったりするし。
どちらも本隊が異常に強くないと仕掛けにくい布陣。
本隊正面の弱兵部隊がそもそも罠だったりする訳だから、厄介な事この上ない。
信長の馬廻り衆
堀 秀政、福富秀勝、長谷川秀一、矢部家定、 菅屋長瀬、生駒親正、境川高盛、兼松正吉、牧村利貞、市橋九郎衛門、猪子次左衛門、青木玄蕃充、 丸岡民部少輔、富田一白ほか
自演するなら文体くらい変えろってw
姉川の13段の陣が破られたって話、怪しいからな
横槍入れて勝敗を決定付けたのも稲葉以下の美濃衆じゃなくて、何時の間にか徳川勢の誰かに摩り替わってるものあるし…
そもそも13段も陣があったら、その段階でカンネーなんかとは似ても似つかない。
というか、馬鹿なことを言って織田方を不利にするような書き込みが、
ちょくちょく出るのは何かの仕様ですか?
カンネーのハンニバルの陣形は中央歩兵を弓形に配置してローマのレギオンの突破力を受け止め、その隙に両翼の敵騎兵を撃破・その後包囲殲滅するというもの
単純に縦隊戦陣を組んだだけではない
信長の兵農分離ってもう定説になってるけど否定も恒常的に行われてるよね
いったいどっちが本当なのやら
>>835 兵農分離の意味がそれぞれで違っている。
「武士階級を在地から切り離す」という意味での兵農分離なら行われている。
信長公記にも自身の馬廻り、側近を城の周りに集住させて直属とさせた事が
記されている。これ自体は他の大名家でも規模はどうあれ行われていること。
それが成功しているかどうかは別だが。
付け加えるなら、
農業従事者と武士を明確に分けて身分制度を確立するって意味の兵農分離なら、
信長もその先鞭をつけている。
これについても、他の大名も試みてはいるようだけど、
これを行うと実戦力が低下してしまうので、圧倒的な大勢力にならないと実行は難しく、
信長のそれですらも限定的なもの。
で、とりあえず、兵農分離の結果織田家だけが農繁期でも戦が出来るようになった、
というのは明らかな誤り。他の大名も普通に行っている。
つまり結局のところ、後の兵農分離につながる政策を信長が取ったというのは概ね事実といえるが、
それによって織田家が軍事的に優位にたったとするのは間違い。
むしろ、軍事的に優位に立ったからこそ余裕が出来て、
兵農分離を行えるようになったというべきところ。
>農業従事者と武士を明確に分けて身分制度を確立するって意味の兵農分離なら、
>信長もその先鞭をつけている。
具体的な例は?
越前で刀狩をしているでしょう。
それがどの程度効果を挙げたか、
そもそも身分制度の確立という意思自体あったかどうかは疑問だが、
それが秀吉政権下で身分制度の確立にと働いた刀狩の先例であろうということは、
まず間違いではあるまい。
それを称して先鞭をつけたと言っただけ。
まあ、意思と効果が確認できなければそうは言えない、
という考え方もあるかもしれないけど。
>>823 個人的な憶測だからんなもんない。
それより数百じゃないっていう根拠は提示しないの?
越前の場合、国を上げて蜂起したという
痛い記憶があるからな。
それだけ必要に迫られていたという想像も出来るな。
確か兵農分離の問題も5スレ位前(?)にやってたな。
結局>836>837の結論だったと思うが…
>>840 逆におまいさんが数百との根拠なり史料なり出して武田派の間違い(?)を
正してみたら?
信長直属軍の特徴は、中間のような他家では非戦闘員とみなされ
ていたような階層でも武功をあげている。軍の規模が小さくとも
戦闘員/非戦闘員の比率が、ほぼ100/0に近く、機動力と
急襲に優れている。
弟・信行との家督争いでも、柴田勝家と林美作の、ほぼ2倍の軍を
確固撃破している。
これをもって兵農分離と見なすなら、フルシーズンの軍役はともかく
極めて質の高い中核戦力を持っていたのは確か。
弱兵伝説が蔓延るのは、「徳川史観」のせいだな。
>弟・信行との家督争いでも、柴田勝家と林美作の、ほぼ2倍の軍を
確固撃破している
でも、それって信長が不利になって本陣近くまで攻められた時
信長が大声だしたら敵が敗走したっていう話だったよなw
まあ、普通戦闘を行わないような小者まで戦闘に参加していたなら、
それはむしろ兵農未分離の傾向が極めて高いってことなんだが。
そういう小者は戦闘に全く参加させないようにするのが兵農分離なわけだから。
一般的にも秀吉が行った検地・刀狩・人掃令などの政策によって
兵農分離が完成されたといわれてるしね。
>>844 それってたしか信長公記にあったけど、正直そっちの方が信じられないというか
うそ臭く感じる。
敵大将の本陣にまでたどり着いた数の上でも優勢な勝ちに乗った軍勢が、一人の
人間の一喝でびびって逃げ出すってどんな講談か演義なんだよ。
>>845 信長公記に掲載されるくらいの武功をあげた小者が数人いる
ということは、その数百倍の戦闘訓練された名も無き小者が
いるってこと。
完全武装の甲冑武者の首をとるのは、相当訓練されてないと無理。
>>844 苦戦は事実としても、2倍の敵を時間差で各個撃破した事実は
ゆるがないよ。最終的には主将の首をとっているからな。
>>826 漏れも、信長の天下布武への最大障害は、信玄より謙信だと思うね。
関東を1万未満の野戦軍で暴れ回った上杉軍の野戦能力は侮れない。
何よりも主将の謙信の政治力が侮れない。
上杉(長尾)軍の実態は、掠奪、強姦、人さらい、何でもありの戦国最凶
の死の軍隊だけど、それを「関東管領」だの「義戦」だのの美名で偽装
するあたり、凄まじいプロパガンダの才能だと思う。
400年後の歴史小説家もコロッと騙されているくらいだからな。
少なくとも、後輩の田中角栄の「日本列島改造論」よりは上。
852 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 23:48:03
謙信は織田軍を余裕で蹴散らしてるからね
織田軍弱すぎっつって呆れてたらしいね
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 00:00:02
あけおめ
おめでとさん
中間は戦闘員。非戦闘員はまた別にいる
>>848 小者に戦闘訓練しているってことは、兵農未分離ってことなんだけど。
というか、別に特別な訓練なんて必要ないと思うがね。
なんというか、甲冑武者に夢見すぎ。
つーか、中間と小者を同じように言っているのがおかしいわな。
中間は元々戦闘要員、小者は非戦闘員。
>>842 その数百じゃないという主張も根拠がないけどな
北畠の家臣は織田から見れば只の陪臣だから、
誰が来ようが信長公記に名を載せる必要ないんじゃないの?
ただ北畠に動員かけるなら、兵を何人用意しろって
話なわけだし、名が出るようになったのは、信雄が家督を
を継いで直臣に成ったのもいるからでは?
長篠の合戦とかを見ると馬廻りだけで鉄砲500・兵員1500ほどを酒井隊に合流させている
織田が大大名になったため自然増加したのかもしれんが、一部でこれだけだと直轄軍(大名自身の蔵入地の収入で養われる兵員)の規模はかなり大きいか?
当時の織田家の石高は200万石を越えていただろうから、
到底大きいとはいえないだろうね。
>>859 名が出るようになったといっても何々衆単位だね、直臣にはなってない。
それに元年の長島でも出馬しているなら、当然信長公記に名が載るべき。
>>861 一部を割いて、1500だ。
仮に万石250人計算なら6万石相当。200万石のうちの6万石、3%。
十分に大きいと想像できるが。
>>863 蔵入地なんて豊臣政権で全体の1割ほど、
江戸幕府にいたっては全体の四分の一にもおよぶ。
まあ、江戸幕府は桁違いに大きすぎだとしても、
3%で大きいとは言えないでしょう。
実際には多分織田家の場合ももっとあったと思うけど。
結局その一部が全体の三分の一くらいだったとしても、
まあ標準的なところってものでは?
>>864 何か勘違いしてない?3%は直轄地の一部であって全体ではないだろこの場合。
だから、それが仮に三分の一くらいだったとしても標準的なところでしょう、
ってこと。
仮に三分の一だとすると4500で、18万石相当。秀吉が公称長浜12万石でそれは
ないんじゃない?
まあ直轄の全てを率いていったとも思わないけど、いくらなんでも三分の一は
割きすぎではあると思うが。
逆に全体から信長の馬周り以外を引いていったら
武田家の旗本が馬上200騎、足軽900名で
馬周りに雑兵は入ってないだろうから、1500〜多くて2000前後じゃない?
>>868 当時秀吉の領地が織田家中で最大だったわけでもないしね。
普通に考えて当主の直轄領が有力家臣とどっこいどっこいとは思えない。
まあ、当たり前のようにもっとあったと考えるべきでしょうね。
石田ミツナリwith島勝興みたいなのもあるじゃないか
>>871 当時の秀吉領は秀吉直轄領より樋口のほうが領土でかくて秀吉を困らせてるが
家臣の領土が自身の直轄領よりもでかくては困る。
だからこそ、そんな困ることをわざわざ自分からしないでしょう、普通は。
元々の勢力の強い者をそのまま降らせたとか、
三成と左近のような特赦な例を除いては。
>>873 厳密に言えば、堀・樋口は信長の臣であって秀吉の臣ではない。部下とは言える
かもしれんが。身分としては両者とも信長直臣であり同僚。ただし立場としては
秀吉が上になるが。
寄騎の力が大きすぎる例だな
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 16:11:47
上杉が、
人さらい、強奪、とかやってたって聞くけど
どういう資料に載ってるの?
>>868 馬廻りは旗本みたいなものだろ?
当然雑兵は含まれないから、100石当たり0.8人くらいかと。
879 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 20:23:51
上杉が一万で関東で暴れまわって何を得たのかと・・・。
880 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 03:26:31
その理屈はわかるんだけど
さらった人の目録とか残ってるのかな、と思って。
もう処分して手元に無いけど
「雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志,朝日新聞社)
”朝日新聞社”というのが少し気になるが、この本自体は一次資料を
ソースとしていて面白い。著者が新潟出身のせいか、上杉軍の実態
については詳しい。<人さらい
武田の「人さらい」も紹介されている。
織田軍の下層要員の軍事専業性については、初期の「稲生の戦い」で
「下人」の武功が記録されている。
尾張統一期の戦いで、700前後の軍隊しか動かせない信長が、
勝ち抜けたのは津島から得た租税で、軍事専業の強力な親衛隊を
編成できたことが大きい。
(「織田信長合戦全録」(谷口克広,中公新書))
そろそろまとめないと・・・
そもそも、信玄には上洛を正当化するだけの政治力が無い。
家督相続以降、侵略を正当化できたのは、諏訪だけ。
あとは、ゴリ押しの力押しで、ことごとく地元勢力やら背後の
周辺勢力との永続的な紛争に発展し、完全な平定に失敗している。
「瀬田に旗をを立てよ」は有名だけど、織田に勝っても、京に
翻るのは将軍家の旗。朝廷工作で主導権を握るだけの甲斐性は
無い。
テンプレは改変の必要がありそうだ
>>497-803の言い合いからして、伊勢は訂正確定ぽいね。
あとは近江や飛騨、越中、加賀の扱いをどうするか、持ち越しかな?
大河内とか北畠にはいりこんでる織田家臣とかむしですかそうですか
飛騨越中加賀なんかまともなソ−スないのに持越しとは
>大河内とか北畠にはいりこんでる織田家臣とか
ほ〜 例えば誰で、その織田家臣は北畠一族や土豪を使役できたのかな?
将来の影響力拡充を目的とした処置=直接支配とはねぇ
織田厨はムシがいい頭脳の持ち主ですねw
>>886 朝倉家は代々、加賀国内において一揆と戦っているし
大聖寺城が朝倉の拠点になっているよ。
飛騨は馬場組の管轄で、江間150騎500人は越中、北西信の対謙信戦に参陣すると決められてる
人質を送っていたり、飛騨在番の武田武将の名前も見えるし。
>>888 で、ソースは?
ソースがないと言うことに対しての反論でなぜソースを示さず話す?
>>887 信雄は単身伊勢に乗り込んだのか?
具房も織田の反乱討伐軍に加わってるな
一切の影響力がないと考えるほうが無茶だぞ
>>888 外国で戦ってたら領土があることの証左ですか?
なら山城河内和泉丹波などなど織田領も続々と加えられるぞ
上のほうに書状あったけど見た?
そしてソースの提示を求められると消える武田厨
あーそうだw
自分は思いつきを事実として書き込み
武田厨には一件ごとにソースを求めるのが彼の信長厨のデフォだったなw
>>888 朝倉記と軍鑑の信憑性のかなり高いとされている部分。
>>890 大聖寺城や名前は忘れたが加賀国内の城で準備してるからなぁ‥
畿内と同じ扱いするのは、位置的にも史料の記述的にも誤魔化しだね
>>892 >朝倉記と軍鑑の信憑性のかなり高いとされている部分。
上で否定されてたのにまたループ?
>>894 ソースが何も無いねw 自分の書き込み>武田派の出したソースなのかな?
しかも堀江、加賀南部の織田厨説は上で否定されてたのにまたループ‥
大聖寺城、三谷城を一向一揆が落としたというソースでもあればいいのにね
思いつきの書き込みでなく、自分もソース持ってこないと信用されないよ
>>895 堀江は停戦時の約束で退去した でおさまってるみたいだけども?
違うというなら貴方がソースつきで示せば?
ついでに書き抜きしてくれればもう言うことないね
君の越中衆も思い込みだったねw
>>896 そうだね、寝返ったワケではないけども謀反の嫌疑を掛けられて
結局自らの所領から退去したってことだろう。
越中衆に椎名の名前がはっきり見えるんだが‥どうした?
それに対して
>>894の書き方は、意図的なものか都合よく解釈したのかは解らないが
堀江が寝返り、支配地そのままで一向宗側へ付いた様に誤誘導しようとしているね。
>>893 >>896 朝倉始末記だと1564年に加賀に攻めこんだとも書かれているが
その後1568年に越前金津に侵攻した杉浦・堀江勢を朝倉景恒が
打ち破るとこも載っている
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 17:05:58
881氏ありがとう。
探してみます。
朝日か・・・・・。
連れ去られた人の数は100分の1くらいに割り引いて読まないとな。ww
>>898 >そうだね、寝返ったワケではないけども謀反の嫌疑を掛けられて
>結局自らの所領から退去したってことだろう。
それって何がソース?
>>898 越中じゃなくて飛騨の江馬だった
その椎名も謙信につっつかれて援軍どころじゃないぞ
ぐぐると堀江が一揆に通じているという噂が流れたため一揆方に通じて挙兵というのはあるが
でその後堀江は停戦時の約束で退去した
もっともそれまでに一揆勢は加越国境を突破してるみたいだが
>>898 謀反の嫌疑を掛けられて堀江が寝返り、支配地そのままかは分からないが
結果として一向宗側へ付いたことは事実だろ
どんなにがんばっても織田軍より劣るか
どっこいどっこいの兵しか集められない武田軍が上洛するとは考えられず
また信玄本人にその意思もないって事でいいんじゃね?
直接対決すれば勝てたかもしんないし負けたかも知らんが
そんな危ない橋を信玄が渡るかな?
兵力が劣ってるからこそ包囲網で兵を分散させようとしてたわけだからな
順当に行くなら徳川攻めが一番ありそうな目標だったんじゃね
>>902 まあ確かに、信濃北西部と越中防備の為に馬場の寄子を送っている罠
とはいえ、その分は謙信への備えにもなるワケで戦力には違いないんじゃないか