1 :
無名武将@お腹せっぷく:
三国志の人物の中で、軍事的能力の高い人物について考察するスレです。
・スレタイには「最も」とありますが、無理にランク付けに拘らなくても良いです。
・基本的には正史準拠です。演義、無双はお呼びじゃないです。
・根拠も無く名前を挙げるのはやめましょう
乙です
それなりに乙です
>>4 呉スレってまだあったのか。
しばらくぶりに目にしますた
とりあえず候補
曹操、劉備(+法正?)、孫策、麹義、賈ク、トウ艾(+鐘会?)
陸遜、陸抗、呂蒙、司馬懿、孔明、周喩
まあ順位はつけるのはかなりアフォらしいが
つけると議論が白熱するのでまあなんとなく考えればいいんではないかと。
つまりカクや法正も入る余地が出たということか
ねぇねぇ。
ここで訊くのはスレ違いかもしれんが、
「三国志の戦 Top3&十選」ってスレ立ててもいいかな?
というより、それなり議論かわされるかな?
12 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/25 23:15
前スレの名言
920 名前:無名武将@お腹せっぷく 本日のレス 投稿日:04/07/25 14:52
曹真(かったりーな・・・)
曹爽(早く帰って春画見たい・・・)
鐘会(今夜の飯何だろう・・・)
戦についての考察もそれなりに面白いんでは?
俺的には
○界橋
○官渡
○劉備の漢中戦
かな
夷陵という、山地と平野の境界を強固に固めて、敵に対し平野に出て決戦する事を許さず、
更に持久戦に持ち込むこ事で長江沿岸に長く陣を布かせ、そこを突いて分断する。
やはり劉備を貶めるのではなく、ここまで出来た陸遜を誉めるべきだな。
長く陣を敷いたのは劉備のミスだな。
っていうかこんな間抜けな陣を敷いた奴は歴史上でも他にいるのか?
各個撃破してください的陣ではある
>11>13
ありがとー。
少し様子見てみる。
>>15 地図を見れば分かるが、夷陵を固められたらあの様な布陣しかできない。
南北を山に挟まれた狭い地形だから、大軍を広く展開する事はできない。
つまり、持久戦になった時点で劉備の負けは決まったようなもんだった。
勝てるか勝てないかを即座に見極める事ができ、撤退の判断が異常に早い劉備が、
何故あの時点で撤退しなかったのかは俺にも分からないが。
>>18 それは判っているが、あの陣はそれでも避けるべきなんだ
それほどの愚
まあ関羽の仇が取りたかったんだろうな。
つまり、劉備が攻められるべき所は、勝てないのに撤退をせず、
それによって大敗を喫してしまった事だな。
ボケちゃったのか
驕りが出たんだよ、きっと
ボケちゃったのさ
うんうん
もう年だろ。
兄弟の仇が目の前にいたら
注意力なんかあるわけ無いだろう
夷陵だけで劉備を評価するのはおかしい
それをいったら曹操の漢中戦もそうだな
ただ曹操は見切りをつけてさっさと撤退
冷静だ。。
情が薄いのかな
>26
確かに、夷陵"だけ"で評価するのはおかしいよ。
でも、
戦に情を入れること自体、愚の骨頂なんじゃないの?
>>27 たった二ヶ月しか対陣してないしな。
魏 漢中→鶏肋
蜀 荊州→重要拠点
の違いかな。
>>28の言う通り。
>>26 戦で私情を出す馬鹿がいるか。
それも何年戦やってんだって言う人間がだぜ?
>>29 鶏肋とはよくいったもんだ
魏にとっての漢中はその言葉であらわせるね
楊修は洞察力あるよ
味はいいけど実はない。
まあ重要拠点であることには間違いないとは思うんだけどね
でも曹操はそれなりの被害だしてるけどねイリョウほどじゃないが。
実際に殺された肉親のいない奴に意見を言われたくない!!
荊州は、今後魏と対峙していく上で絶対に必要な土地だし、劉備は荊州出身者を多数抱えていた。
関羽どうこうを別にしても、後に引けないってのは分かる様な気はする。
>>31 漢中での曹操VS劉備の詳細を教えてくれ。
どんな将が参加してどんな風に戦ったのか知りたい。
>>33 いや、それにしても時期がまずいだろ。
それに、漢中だって益州攻略・侵攻の防御においては重用拠点だぞ。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 00:03
219年3月
秦嶺山脈の春を待って、ようやく長安から陽平関に到着
補給線が細いので食料が尽きる前に漢中に入らなければならないが、
劉備は敵の兵糧切れを待ち守備を固める
曹操は力攻めするが悉く負け、5月撤退
これだけだろ
37 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 00:04
えええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ
その反応にワロタ
張コウとか張飛とか呉蘭とか曹洪とか出てくるのは
その前の夏侯淵戦の時?
40 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 00:07
劉備『今まで長い間借りててごめんね。」
孫権「うん。こっちもいきなり攻めてごめんね」
劉備「いいよ。でも関羽殺しちゃったんだからかわりに北上してね?」
孫権「もちろんいいよ。」
これで蜀が統一できたはず。
夷陵後に和解し、呉が魏に侵攻された時、
陸遜は、蜀に「蜀は今、敗戦後です。今は休息し蓄えておきなさい」みたいなこといったんだっけ?
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 00:18
そんなこと言われたら劉備も死ぬしかない。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 00:28
地味だけど陳登って凄くないか
45 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 00:36
陳登か たしかに呂布は奴がなければ倒せなかったな
46 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 00:36
軍事的能力って範囲広すぎないか?
軍事関連の事柄全て優秀な人物なんて滅多にいないだろ
軍を統括する司令官
戦略、戦術を立てる軍師
軍師の案を実行する武将
補給線を確保する部将
後方で兵糧の確保、戦略的外交を展開する文官
と、前スレからコピペ。ここではこの文で言う軍師と司令官ばかりに
注目がいってるが地味〜な縁の下の力持ちも評価してやってください。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 00:38
郭嘉がやっぱり軍師ではさいこうでしょ
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 00:39
陳登か たしかに呂布は奴がなければ倒せなかったな
スルーのしどころって微妙だ
何かageッ子多いっすね!!
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/26 02:31
質問なんですが、皆さんの軍事的能力に優れた人物の基準は何なのでしょうか?
たとえば100戦して99勝するが致命的な負けをする人と100戦して
50敗するが要所では勝ち、負けても損害がほとんど無い人
どっちが優れていると思いますか?
私には後者のほうが優れていると思うのですが皆さんはどうでしょう?
>>52 その表現の仕方じゃよく分からんが、戦争の継続性という観点から見れば、
いくら負けない戦いができようと、決定的な勝利を収める事ができない将を、
決定的な勝利を収める事ができる将の上に置く事はできないと思う。
>>52どちらかといえば後者でしょうか。
徐こうなどは万が一の敗戦のために、退却場所や物資の補給できるところを準備してたとか。
皆様忘れてますが、張郃の名が出てこないじゃないですか!!
韓信の再来とまで言われ、劉備を恐れさせたあの名将の名が。
最後にいたっては司馬懿の謀略で殺されたのではとすら思える。
(深追い反対したのに司馬懿の命令で追撃→死亡)
まぁ、その時点で地位が上だった司馬懿が謀略で殺したって動機として薄いですが。
>>19 しかし、他にどうすればいいんだ。俺には思いつかん。
強いて言えば、あくまで水路の警戒に全力を尽すべきだったことくらいか。
でもそれって呉を相手にする上では極めて困難だぞ。
>>52 前者が天才型
後者が秀才型
諸葛亮は後者っぽいのに、一度大ポカしてるんだよなぁ・・・
>>57 だから人を見る目がないんだって。
つーか実戦経験のほんとどない人間に現場指揮の能力を見極められるはずもない。
>>54 演義ではね
正史では張合βが深追いに反対するも命令に従いやむなく追撃→蜀軍得意の待ち伏せにかかり戦死だから
60 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 19:52
正史に書いてなくて演技にだけ書いてあることでもすべて嘘とは限りませんよ、と
演技は正史に書かれてない事実の補足、噂の補足、作者の誇大、作者の脚色が混ざってる
だから真実はどこかいまだに解明されてないとこも多く、それもいまだに盛り上がるネタでもあるんだけどね
なんせ今いる人で誰一人もこれは嘘と断定できる人なんているわけないんだから
演技の方が正しいこともあるのもありえるわけです
まぁ正史の方が断然正しいだろうけどね
演技の作者もどれが脚色でどれが噂でどれが正史に記されてない真実か
なにかに書いておけば良かったのに
脚色と真実とかを混ぜると真実も噂っぽくなっちゃうよ
それを言うなら演義じゃなくて野史だろ
演義はあくまで小説
演義にも正史に記載されなかった真実の野史を
反映してる可能性もあるように思う。
典型的な詭弁だな。
「演義」を「無双」に変えてみればいかに中身のない文かよく分かる。
---------------------------------------------------------------------
正史に書いてなくて無双にだけ描いてあることでもすべて嘘とは限りませんよ、と
(無双には該当しない部分なので中略)
なんせ今いる人で誰一人もこれは嘘と断定できる人なんているわけないんだから
無双の方が正しいこともあるのもありえるわけです
まぁ正史の方が断然正しいだろうけどね
無双の作者もどれが脚色でどれが噂でどれが正史に記されてない真実か
なにかに書いておけば良かったのに
脚色と真実とかを混ぜると真実も噂っぽくなっちゃうよ
>>62 だったら元ネタである野史を追求するべきだろう。
わざわざ野史ではなく演義にこだわる理由はなんだ?
>>63こそ典型的な詭弁だろう
演義が記載された年代は無双よりは断然三國志時代に近く、
まだ失われてない伝承や資料が多く存在したと考えられるので
それらを元に書かれた小説である三国志演義には正史にはない真実が
書かれてる可能性もあるのではないかという話。
>>63 全く違う演義と無双を意識的に同じレヴェルに持ってくことで
一瞬納得させる詐欺のテクニック
>>65-66 君たちは何を言っているのだい?
>>60をよく読みたまえ。
>なんせ今いる人で誰一人もこれは嘘と断定できる人なんているわけないんだから
>演技の方が正しいこともあるのもありえるわけです
これが
>>60が演義を擁護するたった1つの根拠だ。
今の人間には嘘だと断言できないという理由で演義が正しいと言えるのだとしたら、
まったく同じ理屈で無双を擁護することもできてしまう。
>>65が指摘されているような主張が>60でされていれば
私は>60に対して
>>63のような皮肉は書かないし、
>>66は演義と無双のレベルに注目しているが>60はそんな高尚な主張はしていない。
>>65-66は>63を見て短絡的に判断するのではなく、>60もよく読んだうえでレスしてほしかったな。
>>67 それはわかったがこの板にいがちな「正史だけが真実」という意見に
反対する風な
>>60の意見だったので同調してみました。
それに演義には正史にない真実があるのでは?という意見は
>>65の根拠を
持って賛成です。
>>65 羅貫中は14世紀、元〜明代の作家。
正史に注を付けた裴松之ですら宋代の人だから、
圧倒的に後代の人間による作品と言わざるを得ない。
だから
>>まだ失われてない伝承や資料が多く存在したと考えられるので
この辺もまったく根拠のない君の想像。
>>三国志演義には正史にはない真実が
>>書かれてる可能性もあるのではないかという
こういう考えを持ってしまう人はよく現れるので、もうある程度は
仕方がないことだと納得してるけど、こういう人に正論を言っても
説得は難しいから、夏だねぇ、としか言い様がない。
1 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:04/07/25 22:30
三国志の人物の中で、軍事的能力の高い人物について考察するスレです。
・スレタイには「最も」とありますが、無理にランク付けに拘らなくても良いです。
・基本的には正史準拠です。演義、無双はお呼びじゃないです。←ココ
・根拠も無く名前を挙げるのはやめましょう
>>68よ、待ちたまえ。
私は
>>63では、演義に史料的な価値があるかどうか触れていない。
>>60の主張が無茶苦茶なことと、演義に資料的な価値があるかどうかは
まったく別の問題だからだ。
>>60の稚拙な論破されたからといって、演義に史料的な価値がないとはいえない。
君はこの板にありがちな「正史だけが真実」に不満を持つあまり、
そのような主張をしていない者まで色眼鏡で見てしまってはいないか?
あと
>>65。一行目は
>>63に「典型的な詭弁」とレッテルを貼ってるのに、
そのレッテルの根拠を説明することなく、以降の行で別の話に移っているのは
どうかと思うぞ。
>>69 しかし明から700年もの時間が経過してる現代とはまた違った資料の環境や
伝承の存在があったことは想像に難くないだろう。
そのへんの可能性を全否定するのであればこれは
夏だねぇとしかいいようがない。
なるほど、説得は難しいな
まあ正史至上主義者ほどの分からず屋はいないからな。
まさに入門者の典型
頼むから別スレでやってくれ
1:事実に対して仮定を持ち出す
「演義は虚構の多い物語であるが、その中に歴史の真実があったとしたらどうか?」
2:ごくまれな反例をとりあげる
「だが、時として正史は正しい歴史を歪曲して書かれるものだ」
3:自分に有利な将来像を予想する
「何年か後、演義のなかから歴史的事実が見つからないとも限らない」
4:主観で決め付ける
「あの時代を生きた彼らが正史だけで評価されることを望むはずがない」
5:資料を示さず自論が支持されていると思わせる
「研究家達の間では、演義は十分歴史的な資料となるという見解が一般的だ」
6:一見関係ありそうで関係ない話を始める
「ところで、古い民間伝承ではケ艾がヒーローだというのは知っているか?」
7:陰謀であると力説する
「それは演義を虚構とすると都合のいい権力者達の陰謀だ」
8:知能障害を起こす
「演義ごときに何ムキになってんの、バーカバーカ」
9:自分の見解を述べずに人格批判をする
「演義が虚構だなんて言うのは初心者の証拠 現実を見てみろよ」
10:ありえない解決策を図る
「結局、演義に書かれていることが全部正しいって証明すれば良いんだよね?」
11:レッテル貼りをする
「ひたすら正史に固執して他を認めない正史厨はイタイね」
12:決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「ところで、演義の中には民間伝承が含まれるという件はどうなった?」
13:勝利宣言をする
「正史が正しくないなんてことは何年も前から分かりきったことなのだが」
14:細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「演義って言っても三国志演義から平話まである。もっと勉強しろよ」
15:新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
「演義こそが正しいのだと認識しない限り、歴史学に未来は無い」
だから他スレでやれと。これ以上は禁止。
きりないから正史演義論争は76でやろう。
この話題に興味ある奴は厨スレで寂と握手!
…じゃ、そゆことで、みんな、このスレのほうよろしくなー。
正史以外で史料を持ち出すなら華陽国志や蜀記などだろう
演義しか知識が無いのを誤魔化すための夏厨はこれだから
83 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 21:21
前スレ
>>1が犯人
無双はともかく民時代の書物なら
語り継がれた裏話とかがあるかもしれないのに・・・
本当に最も軍事的能力の高い人物を探そうとしてるとは思えない
>>78>>79 ウハハハハ。どこでそんないじめを受けたのかわからないがその列挙されたことに関しては
同情します。
ただし君も正史のみが真実であるという認識がいかに入門者的であるかということを
認識してもいいと思います。
>>84 だからこのスレは正史準拠なんだよ
演義が正しかろうが正史が正しかろうが関係ない
なんだったらあんたが演義、正史両方を基準にした考察スレを立てればいい
マジで演義基準のスレ立てて棲み分けを薦める
演義派と正史派両方にとってそれが一番良いのではなかろうか
>>84 せっかく81が相手してくれるみたいなんだからさっさと76いってこい。
>>86 演義でやっても議論の余地ないぞ
>>85>>86 前スレではあらゆる資料から真実を考察するとか何とか言ってなかったか?
同じ題名なのでそれは継承されてるだろうよ
すくなくとも途中から変えるなら題名まったく変えるべき。
前スレでも基本的には正史準拠だったし、その流れが正しいなのはわかるけどね。
真実を考察するための資料が正史だけというのはナンセンスでは?
演義みたいな小説を信じるのはなんとも
正史だけで不十分だと思うなら、せめて野史を持ってくるべき
正史の注釈に使われてる奴とか
まあ俺も基本的に正史がおおよその基準になるとは思うんだが
野史や伝承、演義にも正史にはない真実はあるという意見なわけで、
演義至上主義で
>>78>>79 みたいなことをしたこともないし
しようとも思わんよ
しかし
>>78>>79にはワロタw
ちなみに前スレの資料基準
5 :1 :04/06/16 10:19
もちろん正史準拠。
ただし晋書、後漢書、華陽から民族伝承にいたるまで
事実を推測しうるすべての資料から考察すべし。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 21:59
まあ、あえて除外したこともあるだろうし、それの影響ってのは大きいかもしれないし、
光栄のゲームで呉が不当な評価をうけていたのもチンのせいかもしれんし。
あえて除外したなかには民間に潜っていった話もあるし、それが代々語り継がれてきただろうし、
それが回りまわって演技に生かされてることもあるだろうし、でもそれが当時のまま姿を変えずにいた
証拠はないし、そういうことならルールに従うべきだし、正史準拠ならそれでいいし、
95 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 21:59
なら演義もやっぱりいいんじゃない?
97 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 22:00
>>95 わ 黙 漢 許 そ
け っ 朝 せ ん
に て の ん な
は 見 臣 こ
い て と と
か る し は
ぬ て
中国の劇でやる三国志もいいの?
あれも民間伝承っぽい
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ \
/ ヽ
l:::::::::. | どの資料使ってもいいから
|:::::::::: (●) (●) | 僕をトップにしてよ
|::::::::::::::::: \___/ |
ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
>>1です
勝手に正史準拠とさせて貰いました。
そのほうが議論が揉めることがないと思ったからです。
正史が全て正しいとは限りませんが、議論をするからには
なんらかのルールが必要だと思います。
よって、このスレでは「正史準拠」で議論していただきたいと思います。
と、言っても正史の記述をそのまま鵜呑みにするわけでもなく、
ここらへんは意図的に歪曲されてるのではないか?と思われる部分は当然考慮して考えます。
ただ、その考慮の根拠としては、正史以外の資料は用いない方針でお願いします。
>>1 揉めることがないから正史のみにするってのは真実を考察しようという
態度にあまりにも消極的だなあ。
前スレを後継してる以上その勝手は許され無くないかね。
俺は前スレの基準やらに面白みを感じたわけだしね。
前スレと基準変えたいというのなら正史のみの新スレたてるべきじゃないか?
>>1です
・基本的には正史準拠です。演義、無双はお呼びじゃないです
と書いたのは
コーエーのゲームだけやった奴や横山三国志だけ師かしらない奴が
議論に参加するのを阻止めるために書きました
正史と演義を見比べて演義の正しい部分を見出せる人は
別に演義で発言されても結構ですよ
とにかく
『有能な人物は誰か』という点から反れずに
これからも議論を進めていきましょう
横山三国志だけ師かしらない奴が→横山三国志だけしか知らない奴が
俺的には
>>104を信じたい
そりゃ演義しか知らないのとか単なる無双ゲーマーとかは困るよw
>>102 大 い 常 ね 臨 今
事 て 道 ば 機 の
を は に な 応 乱
誤 い こ り 変 世
り ず だ ま に に
ま れ わ せ 動
す っ ぬ か
>>108 単に議論をややこしくしないため、そうしたまでです。
結局こうなってしまいましたが・・・。
演義も有りにしたいのなら
>>92のスレで話し合ってきてください
110 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 22:40
ご 用 次 あ
>>1 ざ の の な
い な 時 た
ま い 代 も
す お に
な 方 は
で
話を元に戻そうか
司馬懿って実際どの程度凄いんだ?
確かに諸葛亮の北伐は見事に防いだし、
燕討伐でも見事な手腕を見せた。
とはいえ三国中最強といえる魏に所属しているならば、
それくらいたいしたことではない気がする。
というか司馬懿は政治的な舞台で出世していった気がするんだが・・・。
お 言 言 戦 怒 わ
>>110 き わ っ う ら ざ は
な せ て た せ と
さ て る め て
>>1 れ こ に 殿
と を
今までのやり方でたまに正史以外の論拠が出てきても普通に納得されて
話進んでたから今まで通りで問題ないのでは?
完全演義基準とかはスルーで皆一致してるし(笑)
114 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/27 22:50
演義基準とかじゃなくて、スルーすべきはスルーするだけ。
うん、いちいち前置きなんか置くと不必要に荒れるし
わかってる人は確かに見事なスルーっぷりだった
>111
北方(公孫氏)、西方(蜀)、南方(呉)、って言う、気候・風土の全く違う場所で手腕を発揮してるってのは、相当だと思うよ。
攻守共にこなしてるわけだし。
司馬氏の祖って部分を除いても曹操の次くらいの手腕でないかな、将領として。
蛇足だが、政治的には虚無的と言うか、底が知れない。曹操は長所にして短所である、ロマンチズムを人間として感じるんだが、司馬懿にはそれが無い。
曹操を見てきて、反面教師にして自らを創り上げた、って感じだ。
司馬イは曹操の最もできのいい子供だ
>>111 自分の意見も交えていて恐縮なんだが、他スレと前スレで書かせて貰ったものを。
考察スレなんで、多少ながいのはお許し願いたい。
・荊州刺史・胡修を粗暴、南郷太守・傳方を驕奢であるとして曹操に献言する
ものの、曹操は容れず、後に関羽が北上した際に投降し、襄・樊を孤立せしむ。
・文帝即位の後、孫権が西方に侵入する気配をみせ、(おそらくは関羽との戦役
で消耗した)襄・樊の糧食の乏しい事を理由に呉軍を防ぎ難いととして、同地に
駐屯する曹仁に両城を破却させ、宛まで後退させようという朝議で、司馬懿は
呉は関羽を殺した以上は蜀と険悪で、更に魏と戦端をひらこうという事はなく、
襄陽は水陸の要衝で防禦の要害であり破棄すべきではないと献言するが、
容れられず、両城は破却される。
結果として孫権の侵攻はなく、曹丕は悔やむ。
・明帝即位に際し、孫権が江夏を攻囲し、諸葛瑾・張覇が襄陽を攻撃すると、
司馬懿は孫権を撃退し、諸葛瑾・張覇を撃破して張覇以下、斬首一千。
戦功で驃騎将軍。
・呉蜀いずれを先に伐つか、という明帝の諮問に対し、呉は魏が水上戦の練度の
低い事で東関に散居しているが、夏口と東関は呉の心臓と喉首である。
よって魏の陸軍を皖城へ向かわせて孫権を東方で拘引し、虚に乗じて水軍で
夏口を攻略すべき、と返答。
明帝これを容れ、司馬懿を宛に駐屯させる。
>>118のつづき
・241年夏、呉軍が来寇し、全jが芍陂へ、朱然・孫倫が樊を攻囲、諸葛瑾・歩隲が
柤中へ達すると、魏の朝廷では堅城を恃んで持久戦に決しかけると、司馬懿は
積極戦を主張して樊・襄方面へ出征。
南方の暑さに持久戦は不利として、軽騎兵で挑発するものの朱然が乗らないと
みると、精鋭を抽出して先鋒を募り、号令を発して攻撃の勢いをみせる。
呉軍、夜間に遁走し、三州口まで追撃して捕斬万余(戦果は誇張とみるのが妥当)。
・翌々年、呉の諸葛恪が皖に進駐して国境を荒らすと、司馬懿は舒へ進出。
諸葛恪、皖を放棄して撤退。
・「済河論」に拠り、淮陽・百尺の二渠を設けて穎水南北の堤防を修築し、一万余頃
の農地を開き、淮北の穀倉を充実し、寿陽・洛陽間は農官と屯兵が連なる様に。
・246年、呉軍が柤中に来寇すると、万余の人民が[ミ丐]水を越えて北方に避難
すると、司馬懿がこれを留めるとし、曹爽は反対する。
結果、曹爽によって人民が南方に送還され、呉軍の侵攻で万余の人的損害に。
>>119のつづき
794 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 04/07/21 20:57
唐突ですが、諸葛亮とくれば司馬懿も考察したいので、
・司馬懿
軍司令官としての働きは、大別して対蜀戦線・対呉戦線・遼東遠征のみっつ。
明帝即位時の呉の江夏・襄陽侵攻では、孫権・諸葛瑾・張覇を撃破し、曹真に
かわって対蜀戦線にいたるまでの間は、司馬懿は宛に駐屯。
この時期までの司馬懿は、主要敵対国を呉と想定していたむきが強い。
孟達討伐では、戦力差で四倍しながらも所要する食料の不足で対陣期間が
一ヶ月(孟達側は一年の篭城が可能だった)とみて電撃戦を敢行。
諸葛亮の北伐戦では、不用意な兵力分散を避け、蜀軍の挑発・陽動を看破し、
さらに先手を打って要地を扼し、国家方針である持久戦を徹底することで主力
決戦を回避。
ただし、麾下の属将の主戦論に引きづられて祁山では敗北し、五丈原では
敢えて上表して決戦の許可をもとめるなど、将領の統制に腐心していたむきも。
張コウを追撃に用いて戦死させた件は、祁山敗戦の挽回を狙ってか。
また、祁山での戦いから五丈原にいたるまでの三年間に、蜀の侵攻路を斜谷路
と看破し、冀県の住民を上ケイに移し、糧食の確保や生産力の向上をはかるなど、
戦略眼も一級とみるべき。
>>120のつづき
795 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 04/07/21 20:58
続いて遼東遠征
戦力差で劣勢ながら、公孫淵の防衛方針を見通し、堅固な敵の防衛陣地との
対陣のなかで別隊を派遣して迂回機動を活用し、一挙に本拠地を衝くことで
前線の停滞を打開。
悪天候を顧慮せず、篭城軍の食料の不足を看破して持久戦を辞さず、時期を
見極めるや攻囲の一角を解いて場外に誘致せしめ、一挙に殲滅。
再び対呉戦線
芍陂の戦いでは、樊・襄方面に進出した朱然を速戦即決を試みて撃退。
諸葛恪の皖城進駐も巧みに撤退させる。
司馬懿は、基本的に彼我の戦力差よりも多方面に波及する政治・軍事的影響を
視野に入れた作戦を用いる事で、時に電撃的ともいえる強行軍や本拠地への
直接攻撃を敢行して、一挙に優劣の逆転や全線の勝利を得る戦いをしばしば用いる。
持久戦においては、北伐や襄平での対陣にみられるように徹底することで、敵に
効果的な消耗を強いる一方で、事前に糧食の完備をはかるなど、戦略レベルでの
用意周到さももつ(が、これは司馬懿の地位に拠る部分も大きいのだが)
ああ、なるほど
確かに司馬懿はそれなりに恵まれた状況にはあっても、
その状況を100%生かしているということかね?
遼東討伐と孟達処断は見事と言うしかないけど
なるほど
司馬懿はかなり慎重な人物だったのかね
多方面から作戦を展開するなんて凄いな。
マジで司馬懿って凄いな…
この流れに乗って、陸遜も検証してみようか
司馬懿は孔明の北進において自軍の国力における優位と守備側である優位を徹底的に利用して
最終的な勝利者になったと思う。
しかしいざ用兵してみると祁山で破れたり、
張コウ戦死させたり、孔明にしてやられる場面も目立つ。
もちろん孟達、公孫淵戦にみられる、勝機を逃がさず、
その勝機を得るためにはどんな事でもする実行力と用兵ぶりは認められるのだが、
不利な状況で戦にのぞんでいた孔明に用兵においての
裏の取り合いの勝負では負けてたような気がする。
国家戦略の見識や身の処し方などにおいて超一級としても
こと戦争の巧さとなるとうーん優れてはいるけど・・・という感じがします。
司馬懿は対孔明戦以外では凄まじい活躍をしているんでしょ?
だったら司馬懿が見劣りするんじゃなくて、上には上がいたということにならない?
・・・多分、諸葛亮に対しても笑ってたと思うよ
純粋な戦術手腕では司馬懿<孔明?
>>130 いや、司馬懿>孔明だと思う。
少なくとも孔明には意外性が無い。
>>131 >いや、司馬懿>孔明だと思う。
>少なくとも孔明には意外性が無い。
無茶苦茶な根拠だなw
>>132 じゃあこう言い換えようか
孔明は正攻法しか取れない。
>>130 諸葛亮が司馬懿に勝ったのは、撤退戦がメインじゃなかったっけ?
俺もそういう風に思う面もあるが
>>133さんはどこらへんを根拠として
そう思うのかな?
>>135 陳寿の評が全てを表してる気もするが・・・。
>>135 俺が諸葛亮<司馬懿としたには、まあそこまで明確な根拠があるわけではないけど・・。
少なくとも司馬懿<諸葛亮ではないだろう、と。
諸葛亮と司馬懿が直接戦ったとき、諸葛亮側の勝利ってのは
せいぜい撤退する自軍を追撃した敵を殲滅、しかないわけで。
正攻法では結局魏軍をどうこうすることはできないし、それに代わる方策を打った様子も無い。
まあ魏軍に篭られたら勝てるわけ無いだろ、ってのも分かるけど、
そこで篭るという選択肢ができた司馬懿を褒めるべきだろうし。
もう少し大きい観点ならともかく、現場指揮で司馬懿が孔明に劣るとは思えない。
というのは具体的じゃないなあ
陳寿が言うことは全て正しくて考察の余地無しということに・・
まあ正攻法が主体なのは同意する部分もあるのだが
正攻法が主体だと奇策をとる将より劣るということの根拠を述べて欲しいなあ
>>138 孔明→正攻法のみ
司馬懿→正攻法も奇策も取れる
で、結局孔明は司馬懿に勝てず。(もともと不利な状況ではあるけれど)
これで孔明>司馬懿ってのはどうかと思うが。
強い蜀軍は孔明が作ったものだろうけど、それは現場指揮とは違うだろうし。
横レスになるけど俺の孔明評。
孔明は奇策が苦手で攻めが単調になるきらいがありトータルでは司馬懿に及ばない。
しかし部分部分(例えば撤退戦等)では司馬懿を上回る部分もあり、司馬懿たちにとっても
決して油断できる相手ではなかった。
どうかな?
>>137 そういう根拠ならわからんでもないが
ひたすら籠もって勝利できるのは国力の差と守備側の有利さを理由としていて
いざ挑発やらにのって出てくとさんざんな目に遭わされてるのは
用兵やら戦術的な作戦において劣ることの証明にはならないかな?
>>141 俺としては篭る、という選択肢が出来た時点で十分だと思うが・・・。
しかし他であれだけの戦果を残してる司馬懿が、
孔明相手には精細を欠くのは何故だろうな。
と、言って孔明がそこまで戦上手にも思えんし。
>>142 籠もる理由が問題だな
○国の方針
○まともにやったら勝てないという司馬懿の計算
どっちなんだろう?それとも他の理由?
個人的には孔明が戦上手いんじゃなくて、
蜀軍が強かったんじゃないか、とか思ってたりするわけだけど・・・。
まあその蜀軍の体制を作ったのは孔明だけどさ。
>>144 なんだ全く同意見ではないか!
そうつまり孔明は軍容強化で正面衝突に強い軍を作ってたから
司馬懿はまともにやったら勝てんと思って籠もったんだと思うわけさ
孔明は保険をかけながら堅実に攻めていくから撤退戦がうまくいったんじゃなかろうか。
司馬イもうまく攻めてはいるが孔明の保険が上回ってた、って所じゃないか。
まあ、堅実すぎるゆえに読まれやすく迅速さにかけるということで。
まあただそれだけを持ってして軍事能力全体の評価で
孔明>司馬懿というつもりはないんだがね
孔明は実戦経験が少ないがためのミスが多いように思うし。
第四次北伐のような野戦で勝ってもまだまだ予備兵力豊富な魏を相手にする場合、博打はうてんだろなぁ
うまくいってもまだ相手には後があり、かといって堅実にやればジリ貧…並みの人間が孔明の立場ならたまらんだろう
蜀の兵の方が魏の兵より強かったというのには同意。
兵士数は少ないが、兵の練度が高かったように思える。
諸葛亮の軍政の賜物だと思う。ここからは想像だけど、
装備とかも蜀の方が充実してたんではないかな。
魏も雍州の兵ではない中央軍の方は強かったのかな?
曹丕の遠征とか、諸葛誕討伐で20万以上の兵を出したときなんかは
中央の軍隊が総出で戦ってたとは思うけど、よくわからんね。
少なくとも「魏武の強」の要である青州兵はもういないだろうから
初期の頃に比べると軍自体の強さは下がっているかもしれない。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:04/07/28 22:40
篭ってりゃ、勝手に撤退してくんだから、無理に戦う必要ないだろ。
そういった分別があったってこと。
何を今更
答 曹 残
え 操 念
よ と な
う し が
が か ら
あ
り
ま
せ
ん
な
>>150 それで名将と言えるのかなあ。
蜀の方が圧倒的な大国ならわかるけど、
魏の国力は蜀の数倍あるわけで、呉の押さえを考慮しても、倍くらいは軽く動員できるよね。
なのに、蜀が攻めてきたらこもってばっかり、戦略レベルで言えば、勝利だろうが、
戦術レベルでいえば、負けが込んでいるし。張コウをしなせるなど、ミスも多く、あまり誉められたもんじゃないと思うんだけど。
気のせいかも知れませんが、段々スレタイから話がずれてきてませんかね
対呉は見事なのに
対蜀は冴えない。
この理由は?
って話
そこで孔明−司馬懿の八百長説ですよ
>153
戦略Lvで勝利できりゃ、戦術Lvなんてどうでもよろしい。個人的な満足感は別かもしれんが。
不必要の戦い仕掛けてるなんざ、国にも将兵にも迷惑千番。
そういった分別がなきゃ、名将とは言えんわな。
張コウの場合、私見だが、ああ言う結果はある程度見えてたかと。
年齢は上で、閲歴も自分より長い、部下で小うるさい宿将を名誉の戦死と言うカタチで、始末したと。
知識の基礎を演義に置いている奴が多くない?
>159
夏だからね。
>>158 まあとりあえず戦術、戦略両方においての考察を加えてきたスレ的に
戦術レベルはどうでもいいという言はどうかと。
それと名将を討議するスレでなく純粋な戦争の巧さや強さを見るスレで
その動機や善悪は考慮してないということもお忘れ無く。
それと張コウ謀殺ってのはやはり そうかー とはうなずけないなあ
蜀の武器の金属は従来よりも良いのを使ってるんじゃなかったっけ?
幼稚な煽りが多いね
>>158 引篭ればいいだけなら、犬でも出来るよ。
名将なら、有利な条件なんだから勝とうよ。
別に篭ってれば、その内兵糧尽きて帰っていくんだから、
放っておくのがベターとの判断だろ。
無駄な力は使わない。
何故優劣を着けようとする
俺は孔明と司馬懿は互角だと思ってるぞ
皆はどう?
戦歴・戦績では司馬懿が凌駕してるが、両者の対決では局地戦だけど諸葛亮に
軍配が上がる。結果的に北伐がその目的を達することはなかったから、
諸葛亮が勝ったとは言えないけどね。
俺もほぼ互角と言う意見だなあ
ただなぜに実戦経験が少ない孔明が局地戦において司馬懿と互角以上
に戦えたのかは非常に謎。
やっぱ兵装の優位かな?
でも追撃してきた張コウを討ち取るとか兵装の優位だけでは説明できないし。
浮 な 騒 み く
か ん ぐ ん そ
ば の だ な っ
ぬ 知 け ガ
恵 で タ
も ガ
タ
>>170 戦闘教義がなんだかわからん
なんすかそれ?
>>169 司馬懿もそんなに戦争経験無かったような気もするが。
諸葛亮も全く戦争経験が無いわけではなく、入蜀時には兵を率いてるし、
南蛮平定時もちょこっとなんかしてなかったっけ?
まあぶっちゃけ才能ある奴は、別に経験なくても上手く事を運ぶし、
才能無い奴はいくら経験を積んでも駄目という悲しい現実が待ってるorz
>>173 わかるよ
クラスに居たよね、ちょっとしか勉強してないのに
高得点叩き出す天才型って
何かと費イと比べられた董允なんかは、まさにそんな気分だよな。
彼の人生、費イへのコンプレックスだらけ。
>>172 これは本の受け売りなんだけど、戦闘教義って言うのは、軍が戦闘に臨む際の、
広く応用性がある合理的な一つの戦い方の事を指すらしい。
具体的には、マケドニアのファランクスや、ローマのレギオン、スペイン方陣などがそれに当たる。
軍っていうのは常日頃から訓練するものだけど、それは戦闘教義に適応する為に行われる。
例えば、騎兵主体のモンゴル軍の兵に、馬を降りて歩兵として戦えって言っても無理であって、
歩兵として戦うには歩兵としての訓練を日頃から積ませなきゃならない。
つまり、平時において、戦闘の際にはどの様に戦うべきかを考えておき、
それに沿って兵を訓練し軍を作り上げていく必要があるわけだ。
そしていざ戦闘となった時には、機動や撹乱などの駆け引きを経て、
自軍の戦闘教義に有利になるような状況を作り出して、その戦闘教義で敵を撃破する。
というのが軍隊の戦い方らしい。
>>173 司馬懿はやたら実戦経験積んでただろう 北伐までに・・
まあそれはおいといて
つまり戦闘教義とやらに優れてたのと兵装を強化してることで局地戦において
相手の裏をとることと正面衝突の両面に強かったということか。
ただし俺が思うのは孔明の弱点として生粋の軍人でないことから
軍人を見る目に欠けており(敵は読める、でも味方が読めない)
それを起因として軍務全般においてところどころミスが目立つ
ようにおもう。
李厳や馬謖の件は彼等に非があるようにとらえられがちだがここらは
チンジュマジックの罠だと思う。
そもそも敗北や撤退の理由は孔明以外の司令官においてもどこかの部署のどこかの責任者
のミスや伝達不足によると思うのでそれらを管理できなかった、あるいはそれらの人材を
読み切れなかった司令官である孔明に責任のほとんどがある。
孔明以外の司令官の敗北の原因は孔明ほど有名でないので単に取り上げられてないだけ。
つまり孔明が有名でなかったら正史における記述は李厳の件については
○孔明は補給がうまくいかず行軍半ばにして撤退した
馬謖の件については
○孔明はさんざんに打ち破られて敗走した
とシンプルに終わるように思うわけです
でこれがもっともわかりやすい真実といえるのではないだろうか。
でまとめると
孔明は兵法知識と軍に対する新しい着眼点(兵装)から局地戦ではなぜだか強い。
しかし生粋の軍人でないので軍人を見る目と軍務そのものに対する意識において劣る面がある。
諸葛亮は、民衆だけでなく兵士にも慕われてたみたいだよね。
戦闘の強さに関しては、その辺も関係してたんじゃないかな。
>>168 確かに局地戦では諸葛亮に軍配が上がるが、
それは諸葛亮の戦術手腕によるものではなくて、
蜀軍自身の強さだと俺は思う。
なにしろ正面からぶつかるか、追撃してくる敵を撃退するかの二択なんだもの、あの人
>>179 てか、その強い蜀軍を作ったのは諸葛亮なんじゃないの?
あといくら軍隊が強くても、指揮する将軍がダメポじゃ本来の能力を発揮できないのでは?
>>179 例えば、諸葛亮の代わりに劉禅とか曹爽あたりが蜀軍率いてたとする。
彼らが総指揮とっても「蜀軍は強いから」、司馬懿相手に局地戦で勝てたんだろうか・・・・?
>>180-181 蜀軍が強い+諸葛亮がそこそこの指揮をするから勝てる、と思うんだが。
誰も諸葛亮が戦下手とは言ってない。
ただ、現場指揮では司馬懿のほうが上なんじゃないか、と思うだけだ。
>>168>>179 局地戦というけど、祁山では、諸葛亮も司馬懿もそれぞれ本隊を率いて戦っている
わけで、双方の戦果・損害を検証しても大規模な野戦だったと思うよ。
魏延や高翔・呉班といった将領の参戦が確認できるから、戦術レベルでの各部隊の
運用もそつがなかったともみれる。
撤退戦で王双や張コウを仕留めているのは、初めから兵站の維持に腐心している以上、
後背地との連絡線もその土台がしっかりしていた事も大きいんだろう。
逆に局地戦で勝利しているのは司馬懿の方。
極々小規模な戦闘や陣地戦では勝利している。
特に五丈原での小競り合いでは最終的に諸葛亮は手詰まりに陥ってる。
これも蜀軍の侵攻口を斜谷路と看破し、序盤で渭水北岸を扼して諸葛亮の作戦機動に
制限をかけたため。
司馬懿との戦いを見る限り、諸葛亮は、局地戦で強い、というよりは正面決戦でこそ
戦果を挙げていて、むしろ局地戦では司馬懿にあしらわれてる。
ただし、軍の統制という面では、祁山では会戦を望んだ将領に引きづられ、五丈原でも
中央へ上表することで決戦回避を演出するなど、司馬懿に黒星がつくようにも。
これは立場の差が大きいといえばそれまでだけど……
>>137 シバイの奇策は諸葛亮相手に決まったことがあるの?
おまえら蜀漢の名将の話になると素直に能力認めたくないようですね・・
微妙にレスがかみ合ってない気がする・・・。
蜀軍が強いって話を聞くとなんか意外だな。
ケイシュウ時代からの兵はともかく
エキシュウ時代からの兵は練度も必死さも足りない気がするんだが…。
それに蜀は人材不足だったって話もよく聞くし。
職軍が魏に比べて強かったのは個々の人間が強いんじゃなくて
レンド等を用いた飛び道具中心の新しい戦術が強かったって可能性はないの?
とりあえず、孔明持ち上げたい奴は孔明スレいっぱいあるんだから
そっち行ったほうが無難かと思うぞ。
ここは、一応正史準拠っぽくなってるらしいから(?)
演義系のヨイショすると叩かれること必至かと思います・・・。
>>187 >職軍が魏に比べて強かったのは個々の人間が強いんじゃなくて
>レンド等を用いた飛び道具中心の新しい戦術が強かったって可能性はないの?
その二行の方が可能性は高い。
兵の練度や士気に拘る人間は、某小説や漫画に毒され過ぎな感があるな。
>>188 普通に孔明の欠点と優れた点を正史を基本に考察してると思うが?
>演義系のヨイショすると叩かれること必至かと思います
>>191 その手の煽りや冷やかしこそ単なる孔明アンチの言にしかみえないな
少なくともここであげられてる候補の孔明について語ることには
なんの問題もないと思うしシバイとの対比で分析してる。
演義準拠な発言があったら教えてくださいよ
単に水を差してるだけでは?
むしろ、孔明を蔑みたいだけの貴方がどっか行ってくれたほうがいいですよ。
いや俺も兵の練度より連ドなどの新兵装などが強さの秘密だと思うよ
>>183あと局地戦の定義にずれがあると思う。
俺がつかってた局地戦という言葉は戦術級の戦という意味で
ものすごい局地的な戦のことを指してなかった。
どちらかというとこちらの言葉の定義が間違ってたぽい。
個々の兵の勇猛さや練度では魏軍のほうが俄然上回ってるような気がする
とくに益州の兵
イメージだがなんか弱そう
兵装によるところが大きいのでは?
>>143 シバイにとって、外敵が必要であったというセンはないかなぁ?
>>194 >俺がつかってた局地戦という言葉は戦術級の戦という意味で
>ものすごい局地的な戦のことを指してなかった。
>どちらかというとこちらの言葉の定義が間違ってたぽい。
それなら納得。
イメージで語るスレですか?
>>196 魏の敵は蜀だけじゃない。もともと司馬イは対呉戦線にいたわけだし、
よほどの根拠がないとその考えは無理だと思う。
諸葛亮は戦略家
一度たりとも軍事上でも戦略的敗北を受けていない。
最悪でも引き分けに持ち込んでいる。
奇策と呼べるものは余裕のある時しか行わない
一敗が即ち国の命脈を背負う立場だから当然である。
将軍として城攻め等には経験上の不向きがあり不得手ではある。
前線指揮官としての用兵には応変の無さが指摘できるが
春秋の時代でも司令官にするなら臆病者と言われてる所からみても
総司令官としては逆に必要のない才能ではある。
元戎(げんじゅう)という連発式の弩を蜀軍は配備していたようだ
あとやはり信賞必罰が徹底した軍隊だから強いのかな?
信賞必罰は基本中の基本。信賞必罰が徹底されていない、と
わざわざ書かれている国以外は当然徹底されていると思うのだが。
>>202 諸葛亮伝などで、蜀軍の信賞必罰な面は特筆されていると思うが
まぁ、部曲(私兵)が軍の主力に近い呉などは将軍自体は平気で法を破ったりするがそれでも純軍事的にはそういう将軍ほど強かったりするし
>>202 信賞必罰がわざわざ書かれるのは
書かれていない国は徹底されていないから
口で理想を言うのは簡単だけど
実行するのは難しい
>>202 「信賞必罰の徹底」が当たり前なんてのは嘘もいいとこ。
もともと儒教主体の中国で、純然たる法治主義に則った軍功受爵なんて稀。
諸葛亮は法正との逸話で察しえると思うけど、徹底した法家。
曹操ですら、創業期には 戦果>軍令 を採って看過している。
その創業期に于禁の軍が特に強かったのは、軍令と信賞必罰を徹底していた
からなんだが、残念なことに兵士からの評判は悪かったみたいだね。
>>207 こんなとこにいたのかよ。
とっとと魏スレに帰って于禁を持ち上げようぜ!
蜀漢の大将軍(軍最高位)についたことがあるのは
ショウエン・ヒイ・姜維・閻宇の四名(姜維・閻宇の代は左右に大将軍位が分割されてるが)
これだけなんだよねぇ
誤爆しますた
ちなみに孔明の軍令は魏、晋に伝わり軍の改革に活かされてますよ
>212
最終的には唐くらいまで伝承されてんな。
でも、どこまで実際の孔明の軍令が残ってたかは不明だが。
変化はするもんだろうが、晋で取り入られたことには違いない
馬隆が八陣に従って鮮卑を討伐したとかもある
>>207 于禁を名乗りながらそれを知らないってどうよ。
>>200 >諸葛亮は戦略家
一度たりとも軍事上でも戦略的敗北を受けていない。
最悪でも引き分けに持ち込んでいる。
北伐の戦略的目的って何なんだろうか?
目的が出兵なのか、関中攻略なのか?
前者の場合、確かに負けてはいないだろうが
それほど評価する必要があるのだろうか?・
しかし、何で北伐なんかしたんだろ。
まだ劉備を慕う奴がいてて孔明が抑えきれないかも、ていう理由なんかな。
>>217 後者にしても、致命的敗北の前に
被害が少なく付け入る隙の無い撤退は
軍事的に考えれば引き分け
>>218 漢蜀のアイデンティティの為。
討魏が無ければ、漢蜀は必要無いから。
>漢蜀のアイデンティティの為。
>討魏が無ければ、漢蜀は必要無いから。
それって答えになってないよ。
孔明には討魏に向けて今は内政に
力を注ぐって選択肢もあったわけじゃん。
>>220 建国から30年は最悪でも攻める姿勢が無くなれば
蜀漢としての声望と求心性を無くす。
特に蜀漢は寄り合い所帯の性質が強く
拠り所(大義)が薄れると内部崩壊を起こす可能性が高い。
今ひとつには、北方の馬超の遺産(異民族との繋がり)を薄れさせない為。
出来れば彼等と繋がりが出来る戦略状況を作り出さなければ成らない。
拠点制圧(長安)よりも重要事項だろう。
外部への攻めの姿勢というアピールが無くなると魏に懐柔される可能性もあり、
大義を全面に出しながら北伐は必要になる
弱小国だからこそ、大国に飲み込まれないように
自己主張は絶えずしなければ成らないのだ。
>>217 それが、なぜ最低でも戦略的引き分けになるかが疑問なんだ
引き分けと言うからには出兵に対して、同程度の見返りが必要なのではないのか?
>>223 引き分けたのは諸葛亮自身の責任以外に君主の責任が大きいのでは?
バカ君主を抱えている状況で
普通は無惨に退却するところを
華麗に退却したのはすごいかなと
だから引き分けでいいじゃない
>>223 何も得なかったは収支±0
つまり引き分け。
諸葛亮の戦略は最悪でも引き分けを意識したものだった。
鮮やかな撤退は仕切直しが出来る引き分けに過ぎない。
孔明と仲達比べるならば
兵制やらの新しい観点と戦闘教義において孔明が上回り
現場指揮や実戦経験から来る軍務(人選等も含む)の抜け目なさにおいて仲達が上回る
というところか
戦略眼については比べようがない気がする
>>225 出兵に関するコストって無視されるものなの?
>>224 劉禅が馬鹿になったのは孔明の死後で
孔明生前は国を困らすほどではなかったんじゃ?
つーか阿斗さまにはこれといった問題点はなかった
劉禅は部下に任せるタイプ。
劉禅が馬鹿になったのでなく、臣下が馬鹿になった。
劉禅は別に家臣や領民を面白半分で殺したとか、享楽のために重税をかけたとかのいわゆる暴君的行動をやったことはないようで
まだ呉の末帝のほうがひどい
孫晧は阿斗タンとは比較にならない。
三国志後半のハイライトと言ってもいいくらいハデな暴君。
呉と比べる方がいて呉ファンとしては悲しい…
孫晧タンは三国のなかでは貴重な暴君なのですよ
生き延びるとこがまたイイ
>>227 コストは孔明自身が支えてんだし±0でいんじゃね?って考えなのでは。
民としては迷惑だけど。
>>227 コストは内政破綻を起こしていなければ回復させられるもの。
取り返しの付かないものじゃない。
国政も安定していて、その枠組みで戦略を立てている。
これが戦略たる戦略と言える。
投機的な一時しのぎの奇策とは訳が違う
>>236-237 そうか?
北伐の回数を減らして、その代わりに1つ1つの北伐に注ぐエネルギーを増やしたほうが、
成功率が上がるような気がするんだけど。
>>238 国力差が拮抗ないし相手よりも有利なら、それでもいい。
たとえば、231年の第四次北伐から最後の北伐までの3年の間、蜀は軍事行動を
控えた。
斜谷道の入り口に邸閣を設けて十分な糧秣を集積させて、更に輸送に際しては
流馬を導入するなど、それまでよりも明らかに長期の遠征を企図した準備が
図られてる。
だけど、魏でも諸葛亮の北伐に備えて、要衝である上ケイに多くの住民を移したほか、
生産力の向上を図るなど、明らかに次の侵攻に対する準備が整ってる。
魏の国力が蜀を大きく上回る以上、相対的に相手の力の方が大きくなっていくのは
わかりきってると思うけど?
>>238 少数が多数に勝つ為の戦略は大きく分けて二つ
自分が多数になるか、相手が少数になるか。
諸葛亮が北伐をやっているのはいずれも魏に何かしらの異変があるとき。
攻める時期を蜀の都合で選べるほど国力は豊じゃないという現実。
どんなにコスト貯めようが桟道という制限がある限り無駄でしょ
大きいプールと小さいプールがあるとして、そこに送る水道管の太さが同じなんだから
北伐は食料が無いのではなく、輸送量が小さいのが問題なんだろうし
もう孔明はいいよ
十分考察したじゃん
そろそろ周瑜、曹仁の江陵攻防戦における両者の軍事能力の比較でもしてみるか。
曹仁は候補に入ってないけどもここで周瑜を出し抜く場面も見られるな。
曹仁が戦上手なのか、周瑜が意外と戦術において優れてないのか、
どっちなんだろう。まあ最終的には周瑜が江陵手に入れてるんだけどな。
江陵攻防戦といい関羽の北上のときといい
曹仁は本当に囲まれるのが好きだよな
>>244 粘りは凄いんだが打開は出来ないんだよな。曹仁は。
粘りはマジ凄い
ただ夷陵をわざととらせて包囲して優位に立つ戦術などには
おっと思わせる部分も目立つ。
>>245 そもそも打開できるような状況じゃない時に投入されがち
攻める側からすると
お、いま曹仁単独だ、ナイスチャンス!
って攻めてみるのだが意外と手強いという場面が目立つ
わりと曹仁過小評価してるっぽい。
周瑜もわりと嘗めてかかってたのではないかな。
魏が出来てから、晋が崩壊するまでに
敗北させたのは関羽と劉備のみ
もうちこっと関羽を見直してやってくれ
いや、関羽は勝ってないだろ。包囲しただけで。
あれはほとんど勝ってる。
つーか関羽は普通に凄いって。
>>251の言う”普通”がどの程度を指してるのか不明だけど、関羽の場合は
純軍事的手腕とはとてもいえないな。
そもそも陥落できないうえに解囲軍に撃破され、作戦(自体があったのかも不明だが)
そのものを破綻させてる。
まあ関羽の場合囲んでから背後とられるまでそんな時間たってないからなあ。
ただ曹仁は対周瑜にしても一年も粘ったほどの固い将だからね
城に籠もると手強いように思う。
曹仁以外にも江陵には良い将がいたっしょ?
江陵は最前線だからね。信頼に値する人間しか配置できない
甘寧が曹仁の罠にはまって勢いよく夷陵とったときも
囲まれた甘寧を見捨てて江陵とった方が周瑜としては全体の戦略的には
上手く事が運んだと思う。
甘寧を見捨てなかったあたりに周瑜の苦戦の原因があるかも。
むしろ周瑜は戦略のために甘寧見捨てる気マンマンだったと思う
程晋や呂蒙なんかが止めたんだと思う
ていうか周瑜は甘寧を囮にして江陵とるぐらいの計画だったかも
それぐらいの冷徹な計算するよ周瑜は
関羽が徐晃に負けたのは純粋な指揮能力の差?
それとも後方を呉に扼されたせい?
>>258 微妙だがあの場面では指揮能力だと思う。
>>259 うーんただ荊州陥落の情報が菫昭の策で関羽陣営に伝わってるので
四方を囲まれた状態の関羽陣営としては士気ががた落ちだったという点があると思う
局時的な徐晃の勝利は徐晃の采配の見事さが伺えるも
これが関羽軍瓦解の直接の原因ではないと思うなあ。
なんで夷陵を取らせたのが罠ってことになってるんだ?
曹仁伝にいっさい記載されていないことからも、これは曹仁のミスだと思うが。
甘寧は救援到着まで僅かな兵力で守りきっているから、まずその点でわざと取らせた意味がない。
また、曹仁は救援の周瑜本隊に対して曹操軍に有利な騎馬戦を挑んだであろうに何ら戦果をあげていない。
5,6000の中隊しか送らなかったせいで周瑜率いる本隊にまるで歯が立たなかった。本隊を回した周瑜の勝ち。
そもそも拠点をあえて取らせるというのは兵法では愚の愚。
おまけに本隊が江陵に残ったリョウ統を粉砕するでもなく、夷陵に向かった部隊もむなしく退却。
ここでは、夷陵を見捨てずにそこそこの兵力を送ったということから曹仁の戦略眼が伺えるが、
逆に先んじて夷陵を落とした甘寧、大兵力で守りきった周瑜(呂蒙の進言)の方が上とも言える。
甘寧見捨てて江陵に専念しても容易には落ちなかっただろうから、周瑜の判断は正しい。
(どうにかすれば江陵が一瞬で落ちる、という考え方こそが戦略・戦術双方で最悪の結果を生む)
>>260 曹操が関羽に意図的に流布した情報って、荊州陥落というよりも、それを孫権が
企図している、ってものじゃなかった?
それでも関羽にとっては心理的打撃をうけたかもしれないけど。
兵力では徐晃側が不利だったと匂わせる記述もあるし、両者の戦歴をみても
この時の用兵をみても徐晃が数段うえじゃないかな。
挟み撃ちされている時なんだから、普通に考えれば、総崩れ状態の1歩手前だろう。
あれで勝てたら、本当の天才。
むしろ軍を纏めている関羽の手腕を誉めるべきでは?
少なくともこの状況で闘って勝っても、徐晃が上とはいえないよ。
呉をけしかけて、戦略上の優位を勝ち取ったのが徐晃なら兎も角ね。
たしかにあの死地で戦争できるだけ軍を纏めきるというのは非凡だよな
よっぽど兵に慕われていたんだろう
兵にはな
かなり状況は違うが包囲された上で、曹仁は兵の指揮を保つことをしている。
やっぱり、この辺りも関羽は見劣りがする気がするんだが
曹仁の場合、補佐の武将にも恵まれてたからな。そしてそういった連中の言葉もよく聞いたようだ
この辺将軍の将としての力があったんじゃないかな
>>266 援軍が来るのを待っている軍と
双撃されて瓦解寸前の軍とは前提条件が随分違うだろうな。
曹仁を貶めるつもりは更々ないが、
当時の威圧感や貫禄は関羽の方が圧倒していてるとは思う
そもそも徐晃が関羽に勝ったといってももし関羽が背後をとられていない
状況であれば緒戦において勝ったにすぎない。
本来ならば徐晃が一歩リードというぐらいなところ。
しかしそれすらも周り囲まれての状況での徐晃の勝利なので、なんともいえないです。
あくまで関羽が瓦解した原因は魏と呉に囲まれたのが原因。
魏と呉に囲まれる原因を作ったのは関羽なわけだが・・・とループ
確かにあの状況での関羽は結構凄いが、
その状況を作り出したのは関羽なわけで
そこまで評価するものでもないのではないか?と思う。
>>261 戦というのは臨機応変なもので状況に応じて妙手になったり罠になったり
というのはあると思う。
甘寧が寡兵で夷陵とった時点で囲まれる危険性そのものが罠であるし、
その夷陵を取り戻すために兵を割くことが曹仁にとっての罠になりうる。
そこらへんが戦術としての駆け引きであって、それらのハメ合いは
流動的な状況のなかで繰り広げられるだろう。
甘寧を陽動として捉えると陽動にどれだけの兵力が引きつけられるかが一つの駆け引きになり、
曹仁は本隊ならずとも一定規模の軍を対甘寧に回している。
周瑜がこれをみて、む、これは江陵をおとすチャンス、と見たとしてもおかしくはない。
歴史のIFになるので夷陵見捨てて江陵に集中したらどうなっていたか?
という仮想に対する答えは出ないが、自分の予想だと、
江陵を早めにおとす一つのチャンスであったと見ている。
で周瑜はそれを選択したかったが甘寧と親しい呂蒙あたりが止めたのでは?という妄想。
魏と呉に囲まれる原因が関羽だけってのは暴論では?
呉はずっと隙を狙っていたわけだし、関羽を怖れなければ
こんなだまし討ちみたいな作戦にはせんだろう。
つか、軍事能力に外交能力も入れるの?
関羽の場合、防衛用の軍を削って出撃してるのが問題なわけで
孫権「益州取ったんだろ?そろそろケイシュウ返してくれよ〜」
劉備「ヨウ州取ったらね〜」
蜀の外交レベルって…
>>274 いやいや蜀は外交うまいんだよ
のらりくらりで荊州はぐらかす外交手腕は北朝鮮並みw
>>273 対魏の全面攻勢で防御用兵力を残せるほど
劉備軍に余裕は無いと思われ
>>274 他にどーしろと?
幼稚だろうとなんだろうと
返せないわけなんだし
>>276 はぐらかすにしろ、喧嘩売るような言辞を外交で選ぶのはどうかと
>>276 その状況で攻勢にでたのがマズイんじゃないかと・・・。
まあこれは関羽の北上が、関羽の判断によるものだったとした場合だkど。
防衛用の軍を削った云々に関しては
荊州帰属問題の取り決めが決まった状況の中で考慮しうるだけの兵力は
残してると見ていいと思うがね。
むしろ荊州帰属の取り決めを呉がすぐに破ってくると予想してなかった
外交視点の甘さのみが関羽の問題だな。
関羽瓦解の戦功は
呂蒙等呉陣営の策 6
関羽自身の落ち度 3
徐晃 0.5
その他の状況 0.5
ぐらいだと思うよ
曹仁が結構上手く粘ったってのもあるな
>>277 関羽は外交下手
劉備は外交のらりくらりで上手いってこと。
曹仁は城が水浸しになっても満チョーに励まされて士気を
一新することに成功してる
曹仁は江陵でも見せているが守ると異様にしぶとい(1年持ちこたえた)
まあハン城では数ヶ月だけどね。
>>271 罠というか読み合いって意味ね。
ただ、最後の一行には納得できない。
当時の呂蒙に「止める」ほどの立場があるわけはないんだよね。
周瑜自身がが良計と判断したからこそ夷陵に兵力を向けたはず。
妄想だったら、程普とその支持者が江陵急襲を主張していて、
周瑜としては色んな意味で夷陵救援作戦を強行せにゃならんかった、とか。
夷陵救援の際に後に残したのがなぜ程普ではなくリョウ統なのかが謎。
>>281 荊州はどうしようもないだろ。
関羽一人でうまく乗り切れるような単純な外交問題じゃない。
呉では魯粛ほどの超重鎮がかかりっきりで処理してたんだぞ。
武人をポンと置いて何とかなると思ってた劉備こそ外交下手。
純粋に関羽の軍事能力だけを見てみると
これが記述が少ないので良くわからない部分があるが・・・
1包囲してる顔良を外から破り顔良を討ち取った。
2北上の際、廖化を陽動として曹仁の先鋒 □元・夏侯存を引き込んで討ち取る
3同時に別働隊を襄陽に派遣し緒戦のさなかにこれを陥落。結果曹仁は樊城に追い込まれた。
4関羽渡河の際に待ち伏せした呂常は関羽本隊が真っ先に渡河してきたのを予想せず撃破される。
結果曹仁は樊城に追い込まれた。
5援軍の于禁は水没のために捕捉される(ただし関羽の水計の説もあり)
6曹仁の別働隊(樊城とは別の場所に陣を築いていた)のホウトクも撃破され討ち取られた。
7急遽、魏の援軍徐晃と呉に背後をとられることで魏と呉に囲まれ行き場を失い
麦城に逃げ込み軍は瓦解した。
細かく見ていくとわかるんだが魏と呉に囲まれるまでは、曹仁とその援軍を連戦連勝
で打ち破っているので軍としての攻撃力はかなり高かったと思われます。
加えて于禁の水没に関しては関羽の計であれば、地の利を活かした妙計であるし
天然の災害であれば同条件で水害に対応した地勢を見る確かな目が関羽に確認できます。
しかしながら関羽がこのスレの候補に挙がるように戦略、戦術両面に優れていたとは思えません。
戦術面ではかなりの攻撃力があるものの戦略眼では北上の時期を見誤ったり大局感に欠けるからです。
>>286 GJ
まさしく最後の二行が関羽を見事に評している気がする。
確かに掛け値無しの勇将だわな。
ただ、関羽にあれだけややこしい荊州を任せるのは酷だったな。
>>286 そんなに度を超えてないと俺も思う。
ただ、魏が呉の離反を仄めかしたときに潔く退かなかったのは問題かもな。
呂蒙の策を考えれば急いで戻っても間に合わなかった可能性も高いが、
それでも長駆してきた徐晃に惨敗を喫するという事態には陥らなかったはず。
それと、ここでの徐晃の戦術レベルにおける優秀さは特筆に価すると思う。
呂蒙等呉陣営の策 6
曹仁徐晃+許都の読み 2
関羽自身の落ち度 2
>>289 それは度を越えてると思う。
戦略的なものまで含めれば関羽の落ち度はもっと大きい。
>>284 程普は呂蒙と共に俺の妄想の中に入ってます
まあ周瑜止められるのは程普ぐらいしかいないであろうし
周瑜も甘寧見捨てることに魅力はあるも
自身の判断として甘寧救援を決めたのかもしれないし
まあ寡兵で持ちこたえてしまった甘寧の強さを計算に入れるともっといい妙計が
あったのかもしれないがこれは多分周瑜にしても曹仁にしても計算外だったとは思う
ただ一つ言えるのは曹仁が戦の駆け引きにおいて周瑜と五分に渡り合った点で
俺は演義から正史読みに移ったときにまずここに一番驚いたんですよ
藻前ら興味深い話で面白いんだが
話題ひとつにしぼったらどうだ?
あ曹仁を軸として関羽と周瑜がつながってるのか.....
うむ。偉いぞ曹仁。
>>290 でも、あと一歩じゃん。
ほんっとにあと一歩で曹仁撤退だったんだぜ。
関羽嫌いで呂蒙好きの俺でも、「惜しい!」とか思ってしまう。
もし成功していたら、本当の軍神になれたのになぁ。
いやーどうだろう
仮に曹仁が撤退したとしても孤立した状況はかわらん。
樊城に籠城するも士気は落ち、魏と呉に挟み撃ちにされた状況の中
軍は瓦解するだろうよ。
樊城は麦城よりは規模が大きく堅固な城だが状況が悪すぎるよ。
でもここで樊城包囲をめぐって魏と呉がいざこざおこしはじめたら面白いかもな。
関羽はおれの獲物だ的に争う んなわけないか・・
呂蒙の計が採決されたのは
関羽が予想以上に鮮やかに勝利しすぎたからだと思う。
あれだけ破竹の勢いをされると呉もビビルって
しかし、劉備は何してたんだ?
関羽が樊城攻めてる間に長安急襲するとか、
西から援軍派遣するとか、いくらでも対処できたろうに。
この前後の問題点はいかにも言い訳じみてて納得いかん。
>>297 劉備とは距離が離れすぎてるから北上の合意はあったものの
綿密な打ち合わせは不可能だったんじゃないかな。
近くの援軍がこなかったのは関羽と士太夫の不仲が原因なわけで、
このへんは関羽の身から出た錆。
関羽北上は謎に満ちている・・・。
>>286 2,3,4の記述は何処に見られるの?関羽伝ではないよね
>>298 でも上庸は?
地図をどうひねくりまわしても、樊城の関羽を救援するためにあるとしか思えん土地だw
劉封・孟達も関羽と確執があったんだっけ?
>>301 孟達が一度関羽を援護したら、余計なことはするなって怒られたんじゃなかったっけ?
記憶が曖昧だから演義の話だったかもしれないけど
上庸は占領したばかりで兵を動かしたらどうなるかわからん状態だったはず
>>300 夏侯存は(たぶん)演義の創作。
呂常は襄陽の守将。(確か徐晃伝)
>>286は演義が混ざってるな。
俺は詳しくないんだけど、関羽北上時の襄陽はどうなってたんだ?
>>303 そうすると、上庸の安定を待てなかった関羽にやはり問題ありか。
襄陽はたしか陥落してはないのではなかろうか?
たしか樊城と共に包囲された状態。
正史でのみ見ると(趙儼伝)
関羽が瓦解した後、
樊城開放 襄陽はまだ包囲中
趙儼があえて生き残らせるべきと進言して関羽が麦城に逃げ込むのを黙認
その後包囲された襄陽の呂常を救出という流れだな。
暴れまわる関羽をサポートする動きが劉備たちの側にまったくなかったことが
あの北上が関羽の独断によるものだという間接的な証拠にならんか?
加えて戦争続きで、蜀は消耗していたとみるべき。
漢中争奪戦で益州に総動員かけてるので、荊州にまわす余裕ない
つか、時期的にも関羽の北上は悪くはない
悪くはないが、勝ちすぎてしまった
漢中の側面援護が、荊州制圧になってしまったので、戦略の齟齬が起きてる
>>308 218年には漢中における侯音や弘農の孫狼など関羽関連の内乱を誘発させてるので
漢中と北上は連動してると見るべき。
>>310の意見にはほぼ同意
相手を揺さぶりつつの北上で一つの機ではあったと思う。
丞相掾 魏諷の謀叛とかがもし関羽と通じての話だったら
一気にどこまでいくつもりだったのかわからんが。
ともかく魏と呉にあまりにも警戒心を煽る勝ちっぷりだったのが
逆にあだになった。
趙儼伝とは裏をかかれたぜ
漢中が主で、荊州は従
だから荊州にサポートも何もない
関羽がサポートする側なんだから
まあしかし劉備も漢中とってすぐに長安にちょっかいは出せないだろうな。
>>313 関羽の北上は従だが、荊州は従といえる場所じゃないだろう。
呉に対する警戒の弱さが関羽ひとりに帰せられがちだが、これに関しては蜀全体が鈍い。
劉備は関羽を異常に信頼していたのか、それともどうでもよかったのか。あるいは孫権をナメきっていたのか。
相手は曹仁、篭城戦、そして主君からのサポートはまったくなし。
周瑜の江陵攻略戦との共通点が多いかも。
そう考えると、守備軍を割いてまで攻める必要は無かったよな。
せいぜい揺さぶりをかける程度で。
>>311 揺さぶるのが目的なのに相手を本気にさせてしまうって、
かなりの致命的ミスじゃないか?
まさに「勝ちすぎた」ってわけだ
>>316 いやでもそれは結果論で曹仁にしても
退却してもおかしくはない状況にあった
で樊城と襄陽落とせる状況にあるとなると
とっちゃっても全然問題ない。
呉に背後つかれなければ例えサポートとしての北進だったとしても
実はうまくいってた戦いのように思う。
まあ呉が背後を突かなければねえ・・・。
まあ関羽にしても于禁降兵に対する食糧確保のために呉から略奪したという
呉を刺激する要素もあったんだが・・
関羽はちょっと借りますーってのりかもしれないが
呉にしてみれば荊州帰属の取り決めを破るいい口実にはなった。
もともと荊州全部とるつもりなのは蜀も呉も同じだからね。
蜀としては魏が勢力を保っている以上、呉は自分たちと組んで対抗する姿勢をみせるしかない、と思い込んでたんじゃないかな
確かに魏を徹底撃破するには蜀呉の連携が最低条件だけど
呉は別に魏に取って代わる以外にも割拠という選択肢があったわけだからね
そもそも樊と襄陽には10以上の城があるんだがこのへん記述がないんだよね
関羽はいわゆる正史に記載されてる二つの城(樊城と襄陽城)以外は全部落としちゃってるのかな?
曹仁と呂常の孤立ぶりを見ると全部落としちゃって残り2城のような気がするんだが...
ていうか俺は周瑜と曹仁についての能力考察がしたくて話ふったんだが
いつのまにか関羽話に乗っ取られてた...
曹仁ていうだけで関羽の話につながるんだから関羽ってファンとアンチがおおいよなーw
じゃあそれに話を戻そうか
周瑜の江陵攻めのときって
孫権の本隊ってなにしてたんだろうか?
やっぱり合肥攻め?
>>327 いや今日はそろそろおいとまですので他の方その話乗れればドゾです。
>>327 まず合肥攻め。
そのあと張昭のじいに兵を委ねて徐州攻め。
正直、わけわかめ。
孫権は今ひとつ戦じゃ冴えがないよな・・・
まるで性格は違うがある意味曹ヒに似ている
赤壁前に守備に付けていた軍をそのまま北上させたんじゃなかった?
わざわざ攻めるくらいなら、
守備の軍を貼り付けたまま少しは周瑜を助けてやればいいものを
孫権の戦線の状況把握の甘さが垣間見れるなあ。
赤壁で魏軍たいしたことないと甘く見ていたのかも。
>>331 呉主伝の書き方が「戦果がいまいち」って感じだから、それなりの規模で攻めたかと思われる。
ホント孫権の軍事能力っていったい、って感じだな。
お前本当に孫堅・孫策と家族なのか?
孫権は孫策に「戦争はオレにはかなわねぇが、内政とか人使いはうまい」って言われてたまんまだったな
荊州で一番上手く立ち回ったのは劉備だよな。
この頃の孫権は劉備を甘く見てたね。
荊州攻略に兵を集中させてれば劉備軍は周瑜に吸収されてたかも。
>>337 当時の孫権は劉備の子供くらいの年齢じゃなかったか?
劉備を甘く見てたというよりは、当人がまだまだ甘かったんだろう。
いつもズレんだな。>周瑜の話題
孫権からしてみれば、勝ちに乗じて荊州・徐州・予州を奪い取るつもりだったんだろうね。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/04 00:53
関羽はあまりに秀でていたために秀でていない人の機微を軽視したこと、
310の言うとおり、あまりに成功したために軍・将に驕りからくる油断が生じたこと、
すなわち勝利にあって規律を守らせること以上に難しい、「おこたらない」ことを、やや守れなかったこと
などに批判の余地があれど、失敗を回避するために予知能力を要求するような好事家の酷評を除けば、
関羽はほとんど完璧だった、と評価できる。
呉の行為こそ、戦略的見地から見て愚鈍だったと思う。
事実、関羽を破ったのち、呉は蜀にあわや刑州を割譲せんまでに蜀を恐れている。
>>341 良スレで釣りはやめれ
それと、文章上手いつもりだろうけど下手っぴいだよ
周瑜は孫権に援軍を要請したりはしなかったのかな。
徐州とかに手を出すより、まず荊州を固めるべきだと思うけど。
荊州は徐州と違って、まだ曹操の支配が浸透していた訳じゃないし。
合肥を包囲した孫権本隊が、もともとは周瑜の後詰めだったはず。
つまり孫権が暴走した時点で援軍の望みは断たれたのではないかと。
孫権が合肥で蒋済のなんたらかんたらの計であしらわれたのって演義だけだっけ?
たしか正史でも合肥の参謀だったような気がするが・・
>>345 正史でもあった。
でもちっとばかしうそ臭い記述ではある。
>>342 釣りっつーかスレの雰囲気を壊すのが目的なんだろう、
良くも悪くも夏になると関羽派(アンチ含)の行動が活発になる。
まあでも蒋済のなんらかの良計で孫権が退却したというのはありそう。
いずれにしても孫権マジ戦争下手。
それに引き替え周瑜は執念で江陵とったよなー
補給線とかは問題なさそうだが、増援はほぼ無かったから苦しい戦いではあった。
曹仁も曹操と共に戦ってる中だんだん知恵つけてたところあって粘りますた。
両者の兵力はそれぞれどれくらいだったんだろうな。
江陵攻めの苦戦は、周瑜側の兵力が少なかった、というのと
相手が曹仁だった、というこの二つが原因かね?
単に周瑜が城攻め苦手だったとしてもいいけど。
>>349 兵力分断の愚は、一番大きな理由と考えて良いと思う。
もちろん、曹仁の粘り強さは後々も証明されているので理由になるだろう。
周瑜の戦術に関しては、どの程度のものなのか判断しにくいな
江陵攻めも鮮やかに勝ってればなぁ・・・。
最優秀武将の候補として申し分なかったのに。
周瑜の取った戦術そのものは鮮やかなんだけどね。
これといったミスがないぶん、時間がかかった印象が強い。
記述からいちばん分かりにくい部分で手こずってたっぽいな。
呂蒙伝に見える程普との確執がこの江陵攻めに響いていたのかも。
赤壁での守戦直後の江陵攻囲だから、攻勢ことに攻城戦に際しての用意が十全じゃ
なかったって見方もできるんじゃない?
赤壁で使った兵をそのまんま江陵に持っていったんだっけ?
ところで、関羽の北伐というのは結局のところ
独断なの、それとも孔明なり劉備なりの指示だったの?演義だと
孔明が漢中征伐の側面支援をさせたはずだけど。
200が孔明は戦略的敗北をしたことが無いなんて書いてるけど
この関羽の敗北とイリョウでの敗北による荊州そ喪失というのは
取り返しのつかない戦略的敗北だからな。
演義の超人孔明もこのあたりではほとんど何もできてない。
この時、曹操に呉との提携を持ち出して関羽の打倒に一役買った
のが仲達だった。つまり、この孔明対仲達の戦いは事実上勝負がついてた。
一度戦略的敗北をするとあと戦術的にいくらがんばっても
取り返せないもんだからな。
ところで、孫権の北伐というのは結局のところ
独断なの、それとも周瑜なり魯粛なりの作戦だったの?
>>355 諸葛亮は劉備が死ぬまで軍権を持っていません。
あと、この時期の漢蜀は領土の急激な膨張により
絶対的な人材不足であります。
物資・人材の豊富な国の参謀が
国も安定していない参謀を出し抜いたとしても
それが即座に参謀の個人の能力差とするには
いささか難があるように思います。
ていうか張昭と一緒に徐州攻めってのがよくわからんなあ
どういう戦いでそんとき徐州は誰が守ってたんだろうな?
徐州はあの陳登が守ってた。張昭が勝てる相手じゃない。
え孫権が徐州攻めたときも陳登だっけ?
ん?孫権が攻めたのは合肥だよ。
で、徐州に張昭。
>>361 あーいやその張昭が徐州攻めたときの徐州には誰が居たんだろうなあとおもいまして。
鄧艾
張昭VS陳登 笑
徐州の名士対決
まあ孫権にしてみれば純軍事的な攻略より張昭の地盤的に人の攻略
に期待しての張昭徐州攻め配置だったんだろうなあ
合肥 孫権3万 満寵 蒋済 2万援軍あり
徐州 張昭2万 陳登 1万
江陵 周瑜3万援軍なし 曹仁 2万援軍無し
山越 潘濬 呂岱2万-3万
かなり適当だが当時の呉の兵力配分を妄想してみました。
>>367 実数はわからんが兵力差の比率はそんなもんだろうな。
ただし合肥の魏軍はもっと少なかった可能性大。
おっと このころはまだ山越討伐はそんなに具体的にはなかったぽいw
それと合肥に満寵はいなかったかもw
合肥 孫権3万 ?蒋済 2万援軍あり(張喜)
徐州 張昭2万 陳登 1万
江陵 周瑜3万援軍なし 曹仁 2万援軍無し
山越 1万ぐらいか?
このころの呉の総兵力と動員可能兵数はどのくらいなのかわからん。
合肥の魏軍は1万ぐらいというところか・・
>>369 もうちょい曹仁の守兵多いんじゃないかな?魏の残した最前線の要だからな
で周瑜の兵はその曹仁の兵力を少し上回る程度
それと孫権ももう少し兵力多いような気がする
対山越にどれだけ当ててたかはわかりにくいが常に警戒を必要としてたと思うので
最低1万ぐらいは当ててたのかもしれない
徐州の陳登は1万てことはない
2万ぐらいはいたと思うね 大軍ではないが徐州を保てるだけの兵力
そうすると張昭は最低それ以上ってことになるんじゃないかな
呉は蜀にくらべれば総兵力は倍とはいわないが上回ってると思う
総兵力15万そのうち動員可能なのは10万ぐらいと見た
呉が動員できる兵数は少ないよ
対曹操戦で、呉が動員できたのは周ユ軍3万・孫権本軍5万程度じゃなかったかな?
だからその後も動員かけつづけたとしても10万を越えることはないと思うが
それに水軍を陸戦にどれだけ転用できるか、また転用してどの程度戦闘力を発揮できるかなどの問題もありそう
攻城兵器ってのは現地で組み立てるらしいな。
土を盛って高台を築いて城の周りを囲み射撃台にしたり
場内偵察兼射撃台の櫓を築いたり
城の周りに堤防を築き雨が降るのを待って堤防内に水がたまるようにして
城内水浸しにさせる方法とかもあるみたいだな。
これは近くに川とかなくても出来るぽい
これらの準備は3ヶ月から大規模な城の包囲(易城など)だと半年かかるみたいだ。
周瑜の場合1年がかりだが結局相手の退却による城陥落なので何とも言えないが
水軍の転用ということで攻城物資の不足から攻城準備からして苦戦した部分もあるだろうね
しかし単純に考えて孫権は合肥攻めで退却した後その兵力を周瑜にまわすということを
なぜしなかったんだろう・・
376 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/06 11:57
>>347 そもそも『関羽派』ってなんなんだ?
俺には
>>341はあくまで冷静に関羽を分析しているだけに見えるのだが?
関羽嫌いの藻前様方が勝手に作り出したものじゃないのか『関羽派』っての
は?
ちなみに俺もあんたらが言う関羽派に当たる者だな…。
関羽の話題は専用スレでやってくれないか
>>377 ここでは関羽の軍事的能力を考察することは許されていないのか?
許されてるよ。
だけど関羽の話題が出たらそれだけでスレが埋まっちゃうんだよ・・・。
せっかく専用スレもあるんだったらそっちでやって欲しいってことで。
>>378 許されてるけど、どう考察しても、このスレでいうところの
>最も軍事能力の高い人物
の候補には該当しないと思うよ。
382 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/06 14:53
>>381 そうかな?
やっぱり軍事能力の高い人物といえば曹仁か?
関羽もなかなかやる男だからなぁ、ベスト10くらいには入るだろうけど。
『最も』だからやっぱり最終的には一人に絞るんだろ?
じゃあ俺は曹仁を推すよ。
>>382 そう思うんだったら理由も付けて推挙しな。
曹仁は確かに凄いが曹操、司馬懿、ケ艾、孫策、陸遜etc...を
超える能力があるとは思えん。
さらに言えば関羽もベスト10には入らんと思う。
>>383 まあ、理由というか正史を読んだ感じがそうだったというだけだが曹仁の活躍
はケ艾、孫策、陸遜よりも上だと思ったのは俺だけか?
>>384 じゃあちょうどいいから
いま周瑜と曹仁が戦った江陵の攻防戦について考察中なので
過去ログ読んだ上で曹仁の戦いぶりについて論陣はってみては?
曹仁というと、張繍の追撃を受けた際に味方を鼓舞したり、攻めあぐねた壺関を落す献策をしたり、別軍の騎兵を率いて敵別働隊を撃破したりと、けっこうな戦歴があるね
ケイ州で呉軍に牛金が囲まれた際には「僅かな味方のために将軍が危険を晒すことはない」という制止を振り切って救援に飛び出して、「将軍は真に天人なり」と将兵から賞賛された。この辺は公孫サンと逆
まぁ負け戦もけっこうあるんだけど…最後の呉戦は大敗しちゃったし
曹仁は攻略するのが下手なところある。
ただし対周瑜の江陵戦みてもわかるように守るとねばり強く
そういう面で曹操信頼は厚かったと思う
ねばり強い理由としては兵卒の士気をあげるのがうまく、
例えば大軍に囲まれて籠城する場合、
並の将なら相手が着々と攻城の準備を整えてく段階で
兵卒の士気が下がったり寝返る兵卒が出たりってのを抑えきれない場合あるが
曹仁の場合はよく兵卒を勇気づけ士気を維持するのがうまい。
もっとも逆に周りに励まされることもしばしばではあるが。
>>386 牛金の件にしても部下や兵卒を大切にするところが
ついてく人間にしてみればやる気マンマンになるんだろうね
そこそこの軍を率いて戦う分には攻めも結構強そうなんだけどね
官渡で別働隊率いてたりしたあたりを見ると・・・。
後半の曹仁が守勢ばかりなのは、重要拠点を任されてたからだけど。
同じでいいと思う
関羽・・・正面切ってぶつかりたくない将軍
このスレの候補・・・どこから来ても座りしょんべんもんの将軍
陸遜は向こうから来てもあんまし怖くない
ニコニコ笑いながら待ってたらマジ怖い
風邪気味だから帰りますとか言っていなくなった呂蒙も怖いぞ。
曹操もチビだから威圧感はないけど、
目の前で待ってたらさすがに怖いぞ
ところで、この軍事能力って通算?
それとも最大瞬間的?
>>395 そんなのは結果で分かることだから、話しあう事もないだろ
孫策は無敗だけど周瑜はどうだっけ?
美周朗は苦戦はしても敗戦はなかったはず…
孫呉は、皓が呉主として15年居座ったあげく、なお剣を抜く者21万を擁しながら破竹の軍のまえに潰えさった。
東晋と呼ばれる江南の6万の軍が河北の大軍を破った際との、あまりの鮮やかな対照は、「軍事的能力」
について考慮するときに重要となる要素を、いろいろと示唆しているように思う。
403 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/07 18:05
>>401 軍の強さが何に起因するかの考察と考えてよろしいのでしょうか?
うん。また兵制の母体、江南は地縁と大地主の結合に依存したことや、
桟道を常に工作する必要自体は、蜀軍を鍛えあげるという強みももっただろうとか、
斉、冀州兵の強盛さの伝統とか、
とにかく将の資質を発揮しやすい軍であるかどうかを左右するような資質の、可能なかぎりな考察、
加えて時代の風潮、明るい希望の有無、若々しい国と老いた国、新しい制度を実行する余力、
道徳的な社会であるかないか、、
正史は結構こういう点をも考えて記されてるのではないかな。
>341=401
ヒ水の役と呉の滅亡の際の戦役は比べられんよ。
ヒ水の際、北軍は江南攻略の定石である長江上流域を確保していない。
その上、90万からなる大軍をほぼ一地域に集結させてる。これは兵站の確保を困難にするし、軍の多寡はあるにせよ、侵攻ルートが想定できる点、守る側は守りやすいな。
しかも、北軍は多民族軍で統制も難しい。隙あらば、独立しようって民族の集まりだ。
それに対して東晋は中華帝国の本流、中華文明の存亡を賭けて戦った訳だ。
西晋は蜀漢を滅ぼし、長江上流を確保してる。さらに多方面から侵攻してるから守備側は対応に苦慮するだろう。
まぁ、最大の失策は孫皓が10年以上にわたって呉の国力・民心を下げ続けた事だろう。
同じ、漢民族同士の戦い、温厚な君主の方になびくだろうな、特に呉みたいな豪族連合みたいな国は。
孫皓はなにげに中央集権化に尽力した名君だがな
豪族の力が強まるのを抑えきれなかったと見ることも出来る。
>>406 名君ではないだろう。
そりゃあ正史まんまの暴君ってこともないだろうが。
普通に暴君だろ
つか自らあれこれ手を出す君主は徳のない人だと思われないのか?
暴君なのによく16年も続いたよね
家臣が頑張ってたからな
まあ名君とは思わないが中央に権力を集中させた行為としての暴虐という気はするね。豪族の力が強いことは国としてのまとまりを欠くから国家の体制を立て直す為にがんばったと捉えると暴虐なのか政治行動なのか微妙。
まあもともと儒教思想では悪役にされやすい行為ではあるね。始皇帝の中央集権化のための粛正は極悪人扱いだからね。
「将がみな小粒になってしまった」という横山三国志での孔明の台詞は、史実における時代の雰囲気とかなり合致し
ているような気がするな。
関羽や呂布のような存在は、ごく早い時期に伝説になったようだし。
歴史には「黄金時代」とそれに続く寂寥がしばしば見られるもの。
きらぼしのような人々 って言うしね。
というわけで呂布最強と。師団レベルでの会戦で戦闘力を引き出す能力では。
>>412 暴虐以外のなにものでもないだろう。
政治行動だとしたら、最低最悪のクソ行動だな。
国境周辺の将軍たちがゾロゾロ晋に投降している時点で、中央集権化もなにもない。
他にやるべきことが山ほどあったはず。
>>413 戦争を経験していない将兵が増えたとも言えるかも
大戦を司令官として経験していない人は増えたよね
単に三国後期には、大勢を動かすような大戦が
あまり起きてないから軍人の活躍が地味ってだけだと思うが・・・。
とりあえず初期の人材>後期の人材みたいな先入観は捨てよう。
>>416 しかし司令官としても部隊指揮官にしても実践経験を積める機会があるかないかは
大きな違いと思うけど。後期にも戦線はあったのでそこで実戦経験つめてれば問題ないが・・
>>413 呂布は曹操に使ってもらえれば最強の将軍になれたかもな。
曹操なら董卓や丁原みたいに隙を見せずに上手い事使いこなせたと思うんだが。
大耳野郎め、余計な事を言いやがって。
三国末期、蜀・呉は人材難だけど魏は後継武将が出現してるし、国力も隔絶している
だから面白みがないっちゃーない…
俺は諸葛亮の死後から呉滅亡までの期間がいちばん好き。
動乱期の目まぐるしい展開も面白いけど、三国時代後半を丹念に見ていくと、
西晋以降の時代も面白い事に気づける感じ。
後継は呉蜀にもでてるじゃーん
>>418 むりぽ。そもそも曹操は文官はともかく、武官は信頼の置けるものしか重用してない。
呂布の活躍の場は無かったと思われ。
実力に信頼が置ければ使うだろ。曹操様だぞ。
呂布より高順を助けたほうが…
陳宮もまとめて使ってホスィかった
>>423は物語の見すぎ。
曹操の一族の用いかたを見てみ。
>>426 投降してきた人材をバンバン活用してるけどな。
一族だって優秀じゃなければ使わない。
ただし、呂布は使うまい。
なぜなら、もっと使い勝手の良い張遼を得たから。
そういえば別スレで呂布の騎馬軍を張遼が後継して魏でそれが重宝されたという流れを
書いてないから認めないという人がいたのには笑えた。
呂布を使うと言うが、劉備と同じだろ
群雄はどこまでいっても飼い慣らせないと思うね
>>428 あ〜魏スレの論争でボコられた間抜けがこんなところで意趣返しか
あー余談だが関羽の配下で呂布ってのもいるんだよね
ハン城で攻略でその名がみえますよ
>>430 ん?あの話ではギャラリーその1なんだが...
君は当人?
>>432 他スレの話をわざわざ持ち出してくるあたり馬脚が見えてるなぁ
あっちのスレで言いたいことはあっちで言えや
>>433 ちょっとまて
何を誤解してるのかわからないがこのスレ以外では世界史板でぐらいしか発言してないぞ
まああのスレに疑問もったことは確かだが..
ところで君は当人?
おまえら何を言ってるのか良くわからんが
張遼が呂布の軍うけついでるのは
経緯的に見て議論することじゃなくて前提だろ
くだらない話をここにもちこまないでくれ
>>413 それより呂布みたいなのを軍事能力において優れてるっていうのはどうだろうな。
戦略眼まるでなし
>>435 戦略を超越した戦術家ってとこなんじゃない?
実際は戦略の不利を戦術で覆せるのは、ほぼ不可能なんだろうが。
>>436 張燕戦とか見ると戦術に優れてる部分はあるだろうね
ただ寡兵で統制のあまりとれてなさそうな賊軍というか烏合の衆
を打ち破るって話はなにも呂布に限らずいろいろある
ただ大きな兵力を操る機会がなく群雄の間をうろうろしてたのは惜しいね
機会がなかっただけで意外と戦略眼もあったりして。
>>437 張燕は南キョウドです
烏合の衆とはほど遠い戦闘慣れした騎馬民族ですよ
呂布配下の候成がなんかの折に酒宴を催したことがあって
その時禁酒令をだしていた呂布は怒りまくった話があるんだが
禁酒令を出して軍規をきちんと整えてるあたりただのアフォでないことはわかる。
当時酒を醸造するのに必要な米の量は醸造技術的に現代の10倍以上だったから
兵糧の確保を考えても禁酒令はとても合理的。
呂布ってのはまったくのアフォと捉えられがちだけど
意外とまともに軍を運営してたように思える。
曹操自らが率いた青州兵と戦い、正面から打ち勝ったのは呂布だけだ。
戦争自体は呂布の敗北だけど、局地戦で曹操を負かしたわけだから
こいつは戦はうまいよ、多分。
足りないのは戦略眼か?
>>440 濮陽の戦いは引き分けながらも局地戦で曹操を追い込んではいる。
でもその後の
定陶の戦い
金巨 野の戦いで
対騎馬戦術を研究した(麹義の戦法を真似した)曹操にあしらわれている。
下ヒでの戦いでは策に破れてるし、
騎馬戦術には優れてるものの臨機応変に戦い方を変化させることが出来ない
よって騎馬戦術のみに優れた将といえるとおもうね。
戦略眼についてはわからん。でもなんとなくなさそうね戦略眼。
ただ軍の運営に関しては
>>439のいうようにまともにやってたと思う。
>>427 なにか変な勘違いをしてないか?
曹操が降将を積極的に活用するのは、このスレにいる奴なら当然の常識だろ。
ただ、曹操は実力主義を採用しているけど、その一方で重要拠点には必ず一族を
置くなど、万が一に備えた対策を徹底している。奔放さと慎重さを兼ね備えた人物だ。
とてもじゃないが
>>423みたいな展開は考えられんよ。
>>442 横レスですまんが、曹操が呂布を使うというケースだって考えられるよ。
というか呂布がどうこうというより騎馬隊をどうするかという話に過ぎない。
呂布の武勇や性質にばかり目を向けるのはちと程度が低いぞ。
>>443 なに言いたいのか分からん。
・曹操が呂布の軍勢を吸収すること
・曹操が呂布を部下にすること
この2つはイコールではないんだぞ。
いや、ほとんどイコールだろ
だから「張遼がいるから呂布は要らなかった」と言っているんだろう
俺442(=444)は「呂布は強さ云々以前に危なっかしくて部下として置いておけない」と
書いているんだけど、443や445は呂布軍の強さだけを語っているような…?
>>447 呂布は一城を任せるには余りにも危なっかしいけど、人材としての旨味は有能な騎馬隊長であるという点。
それを考えれば、呂布軍をむざむざと解体させるよりは、呂布を一介の将として用いたかもしれないということ。
たぶん
>>444は呂布の地位の高さまで加味して処遇が難しいと言っているんだろう。
確かに呂布ほどの立場ともなれば、張繍には遠く及ばなくともそれなりの待遇が必要になる。
そうすると呂布の危険性が浮き彫りになって、とても使えたもんじゃないという話になる。
ただし張遼と同じような使い方をするのであれば、そう危険な存在でもない。
そんな使われ方で呂布が納得するか、という問題もあるけどな・・・。
当時の世論(?)としては呂布についての評価はどうだったんだろう?
相手が董卓とはいえ義父殺しは許されない、と見られていたんだろうか?
董卓は呂布の使い方が上手かったっぽいな。基本的には。
>>448 最も大事な点を忘れている。
それは呂布軍が忠誠を誓っているのは曹操ではなく呂布だということだ。
曹操が本当の意味で呂布軍を手に入れたければ、
何らかの方法で呂布と呂布軍を切り離さないといけないんだよ。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/09 17:07
そこで張遼ですよ
張遼便利すぎだな。
若いし。
張遼なら呂布の精鋭も納得と。
でもお二方
論法は違うが言ってることは同じきがするよ
>>450 最悪だと思われる
けじめとして呂布は殺さなきゃならんかっただろう。
というよりも呂布の名声は勝ち続ける所にあり
負けた呂布にはなんら魅力は無いと思われ。
張遼が転んだのも、理由はそこらへんにありそう
張遼は『忠義』の欠片も無い屑
>>456 というよりも呂布の名声は勝ち続ける所にあり
負けた呂布にはなんら魅力は無いと思われ。
そりゃ物語っぽすぎ
>>458 そうかい?
曹性等も呂布が強い(勝ち続ける)から集まった。
んで、負けたから求心性を失い曹操軍に吸収された。
現実的だと思うけどもな。
その理屈だと都を追われた時点で呂布は…。
>>460 なんぞ軍事的な敗北したっけか?
呂布軍の強さは呂布の強さへの憧憬が爆発的な志気になっていたので
軍事的敗北は呂布軍の瓦解を意味する。
特に呂布は道徳よりも強さで売っていたから。
つまり負けた呂布は登用に値しない。
ちょっとだいぶ荒唐無稽。
まあそういう側面もあるとは思うけど。
三重にも四重にも歪んでるから、どこからツッコミいれていいのかわからねーよ。
夏って想像を絶するよな...
>>461 勝ち続けた軍勢に求心力があって、勝てない軍勢が求心力を失っていくのは、
呂布に限らず全ての勢力に当てはまること。また、呂布軍は急速に膨張したため
いったん崩れたら建て直しが殆ど効かないというのも事実だろう。
しかし、それらは全て“呂布軍”の話であって、呂布個人の話ではない。
なぜ「負けた呂布は登用に値しない」などという結論になってしまうんだ?
途中までは呂布軍の話なのに、結論で呂布個人の話にすり替わっている。
>>461 北方準拠、蒼天準拠は頼むからやめようよ.....
袁紹の呂布に対する扱いや、呂布の行動を見るに、
他の群雄からしたら負けなくてもいらないような…。
いろいろと考えなくてはならないトップになったのが呂布の運の尽き。
董卓配下の時には黙々と与えられた任務をこなしていい働きをしている。
仮に曹操が呂布を得ていたとしたら、袁紹との緒戦で顔良に押しまくられる
事は無かったかもしれない。真正面からのぶつかり合いに関しては神懸り的に強いからな。
妄想する分には楽しいワァ
>>469 袁紹との諸戦は3重に構えた大量のド兵に曹操方の騎兵が突っ込んでって
集中砲火されて撃破され本陣まで撤退という流れ。
例え呂布でも正面衝突する限り結果は同じだな。
>>466 現代の資本主義にも当てはめられる
不偏の真理だと思うのだが
物語帰順と言い切る根拠はなんぞや?
裏切られはしたが死を共にする者もいた。
武人としては畏敬の念もあったのかもしれない。
でも陳宮が一緒に死んだのはやや謎
一度裏切りが露見してるのにね...
陳宮はあそこで死ぬしかない。
となれば、いかに鮮やかに死ぬかを考えにゃならん。
>>472 ええー?
人情とか、関係ないとか言ってる
やり手のワンマンカリスマ社長が
一度の失敗で求心力を失い部下離散、会社も失う話しって
そこら辺にゴロゴロしてると思うんだがな
>>476 当然の話だ。
呂布以外の全ての群雄にも当てはまる。
わざわざ「負けたから呂布には価値無し」なんて言う必要も無い。
>>477 だから、道徳を無視し、
力を正義とした呂布は
強いけれど負けたら終わりだと。
曹操とかの軍とは根本からして違うと。
他の軍が規範や法、大義を重要視するのは
そこらへんでしょうに。
>>278 その考えが演義、物語準拠すぎるってんだろ
>>478 あらかじめ呂布のイメージを誇大化して決めつけた前提で
話してるところが物語っぽいんだと思いますよ
負けたら終わりとかなんぞ軍事的な敗北したっけか?とかの言から
実際には下ヒでの戦い以前に何度か敗北してるのにそれを無視して
無敵呂布のイメージ先行で話してるように思えます。
>>478 呂布が禁酒令を出したエピソードを無視して、
他の軍は規範や法を重要視しているなんて言い出してもな…。
>>461 軍事的敗北以外は士気の低下に繋がらないなんて、そんなバカな話あるか。
普通に考えれば、トウタク殺したのに都を奪えなかった時点で士気はガタガタだよ。
敗北は局地戦だし、つか、あれは敗北なの?
無敵呂布のイメージは
当時の人たちが抱いていたものだと思うのだが。
その証拠にイメージで小軍閥が呂布軍に集まって来たわけだし
演義、物語基準と言われてもなぁ
言い方を変えると
強いという出来上がったイメージで実際以上の力を持った呂布軍が
敗北によって瓦解したのがそんなに物語的ですか?
>>484 ほとんどすべて妄想やんけ!
自分の意見と史料を照らし合わせる作業をしろ!
>>強いという出来上がったイメージで実際以上の力を持った呂布軍
この部分が物語的
>敗北は局地戦
>あれは敗北なの?
>無敵呂布のイメージは当時の人たちが抱いていたもの
>イメージで小軍閥が呂布軍に集まって来た
全部物語的、というか脳内妄想。
>>482 呂布が無視したのは道徳ね
>>483 はぁそーですか。
で、実際下がったように見えないのは
なんでですかね?
呂布にとってトウタクを殺すと都を奪うがイコールでは
無いんじゃないんですかね。
軍人としての彼の名声とはまた別物かと。
>>486-487 全部物語的と言われても
あの月旦とかが盛んなのも物語ですかい?
呂布に強いという名声がなかったという
理由はどこから現れるんすかね?
曹性等の軍はなんで呂布についたんですか?
道徳とか言い出したら、三国の建国者は全員アウトだぞ。
>無敵呂布のイメージは
>当時の人たちが抱いていたものだと思うのだが。
>その証拠にイメージで小軍閥が呂布軍に集まって来たわけだし
この文章、変だよ。証拠になってない。
>>490 親殺しや主君殺しなどは流石にタブーじゃなかろうかと。
>>491 小軍閥が曹操やエンショウではなく呂布の元に集まった理由の一つに
呂布の強さへの名声だと思うのですが、違いますかね?
それとも陳宮の手腕?
軍師の手腕だけというのも物語的過ぎると思うのですが
>>489 大体、曹性の軍ってのはなんだ?
曹性はカク萌の将だし、カク萌裏切ってるし。
それと、禁酒令だけで軍の規範や法とか言えちゃうのもすげぇ。
「呂布の強さ」を強調しすぎなんだよ。
そんな「強さ」は他の群雄だって持ってるんだ。
だいたい結局は何を言いたいんだ?
呂布の軍事的な能力となんか関係あるのか?
>はぁそーですか。
そういう態度が釣りに見えるんだよ。
>で、実際下がったように見えないのは
>なんでですかね?
>呂布にとってトウタクを殺すと都を奪うがイコールでは
>無いんじゃないんですかね。
どちらも根拠が示されていない。
議論として成立していない。
呂布の勢力が呂布軍の強さによって成り立っていた、というのはまあ間違いではない。
だけど他の勢力も強さで成り立ってたんだよ。呂布だけが特別じゃない。
そして負けたから呂布は終わりってのも極論すぎる。
あの劉備を見ろ。まるで強くないがしぶとく逃げおおせ、火事場泥棒的に領土を手に入れ、
士人とのつながりを獲得して益州を手に入れた。
>>492 劉備は同族から国を奪っている。
曹操は自分の主人である皇帝の妻を殺している。
こういった行為だってタブーだろ?
つーか、蒼天の呂布像を鵜呑みにしてるだけだと思われ。
呂布伝には「勇猛ではあったが(中略)戦争のたびに敗北することが多かった」とある。
現代の我々のイメージからすれば、本来、無敵だの無敗だのと言えるわけがない。
まずその時点で思い込みが強すぎる。
その思い込みをもって当時の人々のイメージを語ろうだなんて言語道断だな。
来年、中国で「三国志」の映画が作られるかもしれないって。中国最大の巨編映画
高倉健さんの名前も挙がってるが、70超えた爺さんに何ができる?
監督は呉宇森(ジョン・ウー)でケテーイ ・・・ってどうよ?
ともかく突っ込みどころありすぎで
どこから突っ込んでいいのかわからないというのが
多分みなさん共通の意見とおもいます
そもそも軍師などと言っている時点で……
鳩が飛んでしまうんだろうか・・・w
>>493 曹性は河内の小軍閥の代表として有名どころをあげた
えっと、禁酒令なんか言ってないし
>>494 呂布の強さというよりも名声としての強さを強調するのは
その名声の軌跡が、強さを媒介としたものが多い。
他の軍閥は軍人である名声よりも政治家としての名声が強い
ちと、違うと言いたいから。
呂布の敗北(捕縛)は呂布の名声の終わりで
その後に今までの強さは発揮できないと言っていいたい
つまり、指揮や勇猛さと共に名声による強さというのもあると
言いたいのです。
>>495 はぁ、そーですか。
君の根拠も述べて居ないので
議論になりませんね。
>>496 う〜ん、軍閥の成り立ちが違うのではないかと。
他の人は太守や領土経営者としての軍閥の長であり
軍人のままに軍閥の長になっている呂布とは一線を画するのでは無いかなと
>>503 すまん、無知な俺に曹性の詳細なプロフィールを教えてくれ。
>>497 それらは策謀と許容されるけど
親族の上を殺すのとは少し違うと思うよ。
>>498 蒼天航路は読んでるし好きだよ
でも私の思っている呂布像とは随分違うな。
無敵の呂布というイメージは当時にもあったと思うよ。
敗北だけど、一度も捕縛されていないので撤退と見れるかなと。
ここらへんは劉備も同じかな。
>>501 軍師がダメなら知恵袋でいいよ
当時も君主の意思を左右できるひとは軍師と
呼称されてても不思議じゃないと思うんだがね
>>503 ちょっと意見をまとめてくれないか?
小軍閥が呂布のもとに集まったのを根拠として呂布に最強のイメージがある
といいたいの?
あほが二匹いるわけか?
つっこみどころが多すぎてどうにもならねーや。
>>506 最強の名声が呂布の軍をその力以上の力を発揮していた。
だから曹操に捕縛された呂布は、それまでの力を発揮するのは不可能だ。
んで、
最強のイメージが当時にあるかどうかと聞かれたので
小軍閥が呂布の元に集まるのが証拠となるだろうって事で。
>>503 すまんけども自分で探してくれ
ネットは広いのでどっかにあると思うので
>>最強の名声が呂布の軍をその力以上の力を発揮していた。
この点がみんなに突っ込まれてるんだろ?
>>508 多分最初から多少なりとも呂布が最強であるというイメージを持ってることに
根拠を交えて話せばすこしは説得力あったとは思う。
そちらの最初の意見
>>461には呂布をたたえる気持ちが先行しすぎて論拠が何もない
ので誤解を招くと思うよ。
ただ小軍閥が集まった=最強のイメージを持ってたからというのはいささか飛躍しすぎだとおもう。
「呂布が最強だから」じゃなくて
「呂布が強かったから」にすればよかったな。
俺の中では、袁紹や袁術、曹操などに帰属できなかった(必要とされなかった?)
連中の多くが呂布の陣営に加わっていた、という印象がある。
>最強の名声が呂布の軍をその力以上の力を発揮していた。
根拠なし。
>だから曹操に捕縛された呂布は、それまでの力を発揮するのは不可能だ。
呂布伝およびその注を見る限り、呂布が戦うたびに負けたのは自身が君主であったから。
理屈で言えば、曹操に使われる方が活躍できるのは間違いない。(上のほうでもそういう論議がなされてる)
>最強のイメージが当時にあるかどうかと聞かれたので
>小軍閥が呂布の元に集まるのが証拠となるだろうって事で。
曹性を河内の軍閥の代表などと言っている時点で事情に詳しいとは思えない。
せめて「小軍閥が呂布の元に集まる」ということについてきちんと説明してほしい。
>>514 呂布はまったくのアフォではない、には大いに賛成。
しかしそれによって、曹操軍あたりと比較になるとはとても言えないと思う。
>>511 なるほど、確かにそうですな。
ただ、その時点での書き込みはこんなに
長引くとは思ってなかったので。
>小軍閥が集まった=最強のイメージ
これは根拠の一つにはなるかなと。
あとは、他の伝で呂布の強さへの喧伝が多いぐらいかなぁ
>>512 一度も呂布が最強だからとは言ってないんだけどね
雰囲気的にそう見えたかもとは読み返して思う。
>>513 んー、どうかな。
私は日本の小豪族とかをイメージしてるのだけど。
>>503 >はぁ、そーですか。
>君の根拠も述べて居ないので
>議論になりませんね。
議論というのは言いだしっぺがまず根拠を示して、それをみんなで検討していくものだ。
言いだしっぺが根拠を示してくれなかったら、まわりは動きようがないじゃないか。
呂布最強説は君が言い出したことなんだから、それだけの責任はもってもらわないと。
提案者が聞き手と同じ立場に立ってどうするんだよ。
>>515 根拠無いですか。そーですか。
でも現実にもチョクチョクとお目に掛かると思うのだがな。
断言する根拠はなんだろう?
有名人が其処にいるだけで志気が上がるってのは良くある話だと思うが。
生粋の軍人であったから、君主業は負担であったというのは
私も思っているけどね
>曹性
河内の軍閥の代表じゃなくて
有名どころで代表として出した。
河内の軍閥の中じゃ一番有名でしょ?って事。
>一度も呂布が最強だからとは言ってないんだけどね
>雰囲気的にそう見えたかもとは読み返して思う。
さんざん無敵、無敵って言ってたのに…。
ここにきて、無敵は最強という意味じゃない、とのたまうとは思わんかった。
>>517 呂布最強説なんぞ唱えた覚えはないのですが
他の方はそれぞれにツッコミどころを指摘していますが
君には議論には足りませんか?
そーですか。
こいつの悪い癖が端的に現れているのは505かな。
>当時も君主の意思を左右できるひとは軍師と
>呼称されてても不思議じゃないと思うんだがね
軍師の定義を自分の頭の中で勝手に決めてしまっている。
>>518 「よくある話」が根拠になると?
大学の演習発表でも学会でも社会に出てからのプレゼンでもいいが、
「チョクチョクお目にかかります。よくある話です」とか言ってみろ、笑われるぞ。
それに曹性はカク萌の部将であり、河内の軍閥ということならカク萌を挙げるべき。
でもカク萌は裏切ってるから、河内の軍閥を「最強のイメージ」と結びつけるのは変。
おまいさんが曹性を挙げるのは、曹性が河内の軍閥を代表する有名人物だからじゃなくて、
曹性が呂布に「最強のイメージ」を抱いていたというはっきりした記述があるからだろう。
これは本来なら、呂布の配下には呂布の強さに心酔している人物も多かった、という程度の話。
私の結論
今議論してる呂布ファンの方は最初に
>>461の意見を述べたので
突っ込みどころ満載だった。
誤解なきよう意見を言うときは多少根拠交えて話しましょう。
そうしないと思いこみが先行してると思われちゃいますよ。
ただ話してるうちに同意出来る部分はあった。
あと、呂布が大好きなのはわかったw
買い物行ってこよっとw
呂布軍の強さが、呂布の名声に拠るところが大きいというのは間違いではないだろう。
ただ、呂布軍は最後は総大将が生け捕られて処刑されて終わっているので、
あの敗北によって呂布の名声は完全に崩壊してしまったのか、
それとも、呂布さえ生き伸びればまた復活することができたのか、判断がつかない。
にも関わらず、呂布は曹操に敗れてしまった時点で名声を完全に失ってしまったと
「断言」してしまうところにすごい違和感を感じるな。
>>519 「無敵のイメージ」と「無敵」には随分な差があると思うよ
>>521 辞書にあるやつので。
あいつは専務の軍師だとか使われたりしませんか?
しませんか、そーですか。
>>522 ここは2chで大学の演習発表ではないと思うよ
プレゼンや企画書がココに描ききれるわけがないと思うよ
でも、名のある人が指揮は執らないけど戦場に居るだけでも
志気は上がったりしませんかね?
君の場合でも、実力のハッキリしない無名の人が指示するのと
手腕として名声のある人が指示するのとどっちを一生懸命やりますか?
あと、カク萌は有名じゃないから判りづらいかなと、思ったんだけども
どーですか?そんなのは知ってて当然だから考慮する必要は無かったですか?
>>523 まぁ今一番、君が冷静でしょうな(笑
>>524 イメージしたのはナポレオンかな。
断言が悪ければ「可能性が高かった」と言い換えるよ
しみじみと夏だなぁ
うん、夏だ。
まあ、いいじゃない。
いろいろな意見を持った人が議論しあって結論に近いものが導き出せれば。
まあ、誰も見たことがないから結論は難しいけども。
呂布軍に河内の連中が集まっているのは、
河内が何処の勢力からもあぶれてしまったからだろう?
あるいは呂布の親友で河内太守の張楊つながりで。
>>530 同意。河内に於ける張楊一派の立ち回りは重要。
でも、俺はこの事に付いて深くは考察してない。
あと、呂布が殺されたのって、
単に反儒的行動の度が“あまりにも”過ぎていたから…だけかな?
この時期は思想の割拠期(儒教に疑問符時代というか)でもあるけど、
曹操は呂布を殺す事で、その辺のバランス感覚をアピールする部分が大いにあったと思う。
呂布自体が相当に反儒的色彩を帯びていたのは、確かな様だし。
ある種呂布個人をスケープゴートにし(呂布派閥が貧弱だから出来た?)、
使えそうな部分は当然用いた…
…というのが俺のとっさの思いつき。
陳宮にそそのかされた張兄弟は
呂布の勝ち目はどれほどと思ってたのかな。
張超はあほだった
張バクは乱世に疲れてた
勝ち目なんかどーでもいいと二人は思っていた
534 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/10 21:42
呂布か曹操かなんて狭い視野で見てるから分からないんだよ。
バックには袁術と袁紹がそれぞれ控えていた事を考慮しろ。
乱世に疲れている人間が叛乱を起こすのか?
>>535 でも張バク付伝からはそんな印象を受ける。
>>534の言うようなバックに控える勢力を過剰に意識しながら、
うまく立ち回ることに疲れ果てて陳宮に乗せられてしまった、というような。
まーほとんど思い込みなんだけどさー
弟(だっけ?)が先走ったからとかじゃなくて?
呂布絡みだとスレの伸びが跳ね上がるな。
当時の呂布の強さや名声は一部の野心家にとっては魅力的だったんだろうが、
現在の三国志好きな奴らにとっては、呂布の存在自体が大分魅力的らしい。
早逝した割に印象に残りまくり。
良くも悪くも奴は目立つ。
北方、蒼天の影響もあるかもね。
どっちも呂布がかっこよすぎる。
原典の呂布はあんまりかっこよくないよな。
強いのは強いけど圧倒的って感じじゃないし、優柔不断だし。
>>531 反儒的行動どころかただの“やりたい放題”だと思う、
自分に目をかけてくれた丁原・董卓を裏切り、
流浪してるところをひろってくれた劉備も裏切る。
こんな呂布を従えるなんて考える奴はいないだろう。
事の大小の差はあれ、裏切りの全く無い人生を送ったのは関張ぐらい
張コウだって呂布と同じくらい主変えてるしね。
一概に呂布をやりたい放題とはいえないよ。
自分の手で殺してるのが大きいと思われ
しかも、主君であり、親だし
ちょっとここで呂布配下の将について一考(個人的考察)
魏越ーーー呂布の直属の決戦部隊長として張燕戦で大活躍!相当な強さと見た!
呂布と命運共にしてるあたり潔さと忠誠心がみえてカッコイイ!!
成廉ーーー魏越と同じく直属の猛将!同じく張燕戦では縦横無尽の活躍と
思われます!こいつも呂布と命運共にしてる。
結構一緒に死んで降伏を拒んだ将も多く、呂布にもなんらかの
惹きつける要素はあったんだと思うぞ!
高順ーーー陥陣営というあだ名からは着実に任務をこなす知勇兼備の将という
イメージがわきます。呂布の別働隊を率いてたようですね
呂布をたしなめるような役回りから、
呂布に疎まれたりもしてたみたいですが、
なんの不満も漏らさぬあたり渋いです!最後も呂布と死を共にし、
まことにあっぱれな将ですよ!
陳宮 曹操をうらぎり、呂布を裏切ろうとしてたその行動を見ると
一番の野心家はこいつだなとよくおもいます。それでも潔く
散り際を飾るあたりは、豪傑のような心意気も感じちゃいました!
乱世の奸雄って言葉はこいつにも似合うかも。
魏続、宋憲、侯成
うーんあんま好きになれないが強いことは強かったと思う。
遊軍としての活躍は結構めざましかったぽい。
まあ最後に呂布を裏切ったのも乱世に生きる知恵と言うべきか。
その後の彼等は、魏続、侯成は呂布の軍を再編成した張遼のもとで戦ってた
ようだし、宋憲はなぜか呉将としてイリョウとかでその名が見えるとの噂。
どういう経緯で呉にいったのかさっぱりわからんですよ!
545続き
張遼 こいつも呂布と命運共にしなかったくちだがまあ最後まで戦ったので
よしとしよう。曹操の下での活躍の方が目覚ましいので、
呂布ファンとしては微妙。
赤β萌 袁術と結んで陳宮と共謀して呂布に反逆して曹性とタイマンはって
高順に処断された人。事績としてはかなり面白いかな。当時の呂布の勢力の背景
もつかめるし。
曹性 赤β萌の配下ながらも裏切りを許さず主とタイマンはるあたり
かなり熱い男だなと思うZE!!呂布死後はよくわからんが多分
赤β萌の件での忠誠心を見ると呂布と共に死んだんじゃないだろうか・・
劉何 呂布の別働隊の一角だったが曹操との何度かの戦いで
曹仁に討ち取られてしまった・・なかなかやるな曹仁!
薛蘭、李封
涼州出身で二人とも育ちがよさげ。はかりごとに長けエンの奪取
に一役買うも鉅野で曹操に捕まり処断されちゃった・・
李封は李典の親戚なのにね 哀れ。
許シ、王楷
エンの役人かなんかかな?呂布配下となってからは結構、呂布陣営の
頭脳となって活躍したようだが、袁術と再度結んで曹操を討つという
戦略も中途半端な出来映えとなってしまった、、こういった戦略がカチン
とはまれば呂布と曹操逆転してたんでは?
とおもうのは呂布厨の俺だけだろうね。。
ちなみに許シはその後劉表の配下に加わる世渡りの巧さ。
546続き
まあこうしてみると呂布配下も武に知に人材は充実してたように思う。
エンを奪う所なんかはなかなかどうして機に乗じてるじゃん!ておもうが
その後袁術との連携がうまくいかなかったのが呂布の敗因だな。
上手く立ち回ったと思うよ呂布は。世渡り上手っていってもいいくらい。劉備並み。
ただ情勢のツキが悪かっただけっておもって納得しましょう呂布好きのみなさん!
それと呂布配下の武将はその多くが匈奴となじみの深い并州出身。
出身が明記されてない宋憲、侯成、魏越、成廉あたりも同じ出身なんじゃないか?
と思う。ただし高順は呂布の親戚である魏続と大夫違う扱いうけたらしいので
何となく同郷ではないのではないか?と推測してます。
いろんな軍閥が呂布の求心力で集まったというよりも同郷同士が団結して出来た勢力って
いえるんじゃないかな。
同じ呂布信者でも昨日の人とちがって読んでて清々しいね
どこが違うんだろ?
>>540 原典って演義?
正史なら凄くカッコイイと思ったが
そして間抜けではあるが馬鹿では無いという印象を持った
>>542 関の方は裏切ってるだろ、後から戻っただけで
>>551 後から戻るって逆に凄いぜ。
許した曹操も凄いけど。
それと呉の人物はあんま裏切らないな。
末期は裏切りまくりだけどな
>>549 >原典って演義?
うん、演義。
虎牢関のときは「強い!」って思うんだが、
その後はあんまりパッっとしないんだよなぁ・・・。
吉川の呂布はかっこええぞ
>>545>>546の奴等の中でいない奴は作成して、肥三国志9やったな。
味方は増やさず減らさず捕まえた敵は全て斬首。
つらかったが、面白かった。統一時には、魏続だけが裏切ってた。当然数年で国滅亡。
>>541 反社会的とか反士太夫的と言うよりも、
反儒教的と言った方が明らかに焦点があってると思うんで。
どの群雄もこれとの兼ね合いに苦労したから(士太夫も含む)。
それに、儒教は革命を肯定してるところがあるのでね。
>>545 なぜ臧覇の記述が無い?
最重要の一人だと思ってる。
>>558 臧覇は厳密には呂布の配下とは言えない。
独立の勢力で呂布を助けただけ。
561 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/12 11:13
>>560 青州の傭兵みたいなもんかね?
曹操とも個人の契約風な記載見られるし・・
曹操が死ぬと陣太鼓とともに去っていく云々・・
>>560 それは知ってるよ。
でもくっきりとした境界線ではないと思うな。
臧覇は陶謙の配下として、陶謙の黄巾征伐に参加し、
そのまま開陽(徐州の北のほう)に駐屯して、陶謙死後も
そこで独立勢力として存在し続けた。
その後、呂布が劉備を追い出して徐州を占領し曹操がそれを
征伐に来たときには、自分の権益を守るために呂布に協力。
呂布が捕らえられ殺されると身を隠すが、後に呼び出されて
曹操と会ってみると気が合ったのでそのまま曹操配下に、という流れか。
他の多くの呂布配下と違い、呂布の人生の最後の方で呂布に協力した
勢力というだけで、呂布自身との結びつきもそれほど強いとも思えず、
最重要とまでは言えないと思う。魏越とかの方が一蓮托生。
陶謙の死後、劉備に組せず独立を保ったという点で
いわくありげだな。
陶謙の死後、劉備につかず、劉ヨウに流れた連中も居るし。
臧覇と青州兵の関わりについて考察しよーよ
つまり、結論として
臧覇が最も軍事的能力が高いので考察するの?
567 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 18:09
>>566 なんでそうなるの!
別に順番決めるのがメインではないから。
一人の将として面白いでしょ臧覇
曹操との個人的契約とか青州兵との関わりとか・・
568 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/13 20:42
>>545 名士番付山陽郡高平県版八俊に、薛蘭の名があるみたい。
569 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/14 00:14
>>568 李一族はかなり有力な豪族らしいね
李乾がその頭領で李整がその息子か。李乾が薛蘭達に殺されて
李整が薛蘭、李封攻めに参加したみたいだな・・
李典はいとこなわけね。
しかし薛蘭は謎だな・・薛房となんか関係あるのかも・・
関羽が素晴らしいと思う
>>570 どこが素晴らしいか詳しく述べてください
ヒゲ
マリオより凄いヒゲ
574 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/17 22:20
>573
同感。私も関羽>マリオだと思います。
徐晃の才はクッパに10倍します。
徐晃=関羽>呂蒙(←卑怯だから嫌い)
ところでルイージってヒゲありましたっけ?
ははは、あの時代に卑怯もクソもあるかボケ
三国志上最も高いと銘うってるからには
たとえば中国各代名将大会を開いたときに三国志代表となって文句ない人物
つまりは郭子儀や徐達、王守仁なんかと並べて遜色ない人物ってことでいいのか?
やっぱ曹操しかいないのね
司馬懿すらも落ちるかなぁ
孫策や陸抗は?
まあ孫策は規模が小さい戦争ばかりで
陸抗は戦績が少なすぎるだろうけど
>>578>>577 過去ログ読め
候補
曹操、劉備(+法正?)、孫策、麹義、賈ク、トウ艾(+鐘会?)
陸遜、陸抗、呂蒙、司馬懿、孔明、周喩
しかしこうしてみると陸抗の戦績の少なさは目立つよな....
陸抗の功績ってキョウイとそんなに変わらない気がしてきた
キョウイだって蜀陥落戦争での粘りは見事だしな。
やっぱ曹操が1歩抜き出てる感じ。
本命 曹操
対抗 劉備 孫策
大穴 司馬懿 孔明 周瑜
って感じが俺にはする。
曹操>岳飛は確定だと思うけど
軍事のみで曹操が岳飛に優る理由が思いつかないけど?
自力であの勢力を築いた、という意味では曹操>岳飛
>>584 なんで?岳飛は後世の宣伝創作で贔屓されてて曹操は逆に貶められてるから?
曹操は数千単位の小軍勢から10万ぐらいまでの大軍を生涯でコントロールして、正史に記される戦歴では戦いの七割から八割に勝利
圧倒的兵力で叩き潰したことだけじゃなく官渡等の奇襲・対馬超戦での謀略・有能なスタッフを配置して力を発揮させる手腕など、一軍閥で終わった岳飛とは比べ物にならないと思うけど
>>581 そうでもないと思うが。
一発屋に近いところは似ているが、後ろが落ちたのに粘ったところはすごいが、
陸抗の場合は叛乱+大国の援軍+内部離反、もはや神懸かり的だろ、
あの戦いだけだったら他の時代の武将に引けを取らないと思うんだが。
もちろん、他は見劣りしてるが・・・
>>587 同意。
俺も他のスレで主張してるけど、それでも陸抗ってあまり詳細にみてる人がいないね。
>叛乱+大国の援軍+内部離反
それプラス「劣勢な戦力」も入ると思う。
それに防衛線が長大とくれば普通は攻勢側に主導権を握られるものだけど、陸抗の
場合はそれにも対処してる。
総合的にみれば上位は難しいかもしれないけど、兵書にいうところの「己を知り」って
部分に関しては完璧といってもいいかも。
陸抗を貶める気は全然無いけど
姜維もなかなかのもんだと思うよ
軍人としては。
攻めた時でも姜維自身の名声は上がってるという事は
局地戦には勝利してるわけだし。
>叛乱+内部離反
これは統率力に問題が出てくるんじゃないかな?
一応姜維も滅ぼされる寸前まで戦ってたわけだし
それによって叛乱は起きてないわけで。
>大国の援軍+劣勢な戦力
これは同じ事じゃないかな?
姜維も同じ条件じゃないかな?
>>589 う〜ん、なんていうか、是非を論じる人間にありがちな、批判や否定・対抗する存在に
ついての検証が等閑になってる感じ。
姜維については多くを詳細に知ってても、陸抗については曖昧だったりしてない?
あと陸抗って羅憲攻めたとき退却してるんだよな
城攻めいまいちなのかも。
土木関係が弱いのかな・・
後長期戦の時の体力なさそ
曹操、孫策、陸抗あたりだと思うけどね。俺は
羅憲にたいする敗北(撤退)も、陸抗が弱いんじゃなくて、羅憲が凄かったと。
負けなしの武将なんてそうそういないだろうし、
誰にでも得手不得手がある。
陸抗の防衛戦は神がかってるし、姜維の機動力は驚異的。
岳飛だって、長江の線を使った水軍が最も得意だったろうし。
海でも陸でも活躍できる戚継光のような奴の方が稀だろう
>>589 確かに姜維の粘りは凄かったんだけど、あくまで防衛戦で粘ってるんだよね。
陸抗は難攻不落の拠点に対して包囲しながら、大国の援軍によって攻撃されている。
要は防衛戦だったわけではなくて野戦で挟撃されている状態に近い。
そして離反は出ているが異民の軍は離れていないところを見ると
統率の問題ではないように思える。
594 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/18 19:36
最近は姜維も見直されてるんだね。
姜維なんかどうでもいいよ
まあ能力だけ見ればそれなりではある
ここでの候補は難しいが。
598 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 18:08
素直に考えるのなら、曹操か司馬懿じゃないかな。
個人的には趙雲や呂蒙が好きなんだけど、呂蒙はともかく、趙雲にずば抜けた軍略があったとは思えないですね。
陸抗や姜維も素晴らしい軍人だとは思うけど、「最も」というのはちょっと判官びいきが入っている気がする。
599 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 18:15
>598
うざいよ、お前。
お前の根拠のない理屈は誰も納得しねえよ、馬鹿。
荒らすぞ、糞の代名詞が。
猛暑が続いて脳が沸いたか?
曹操や司馬懿なんて諸葛亮に負けているじゃねえか。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 18:23
600ゲット!
ということでこれから餃子ご飯を食べに出掛けて来ます。
ライスは大です。
腹が減っては戦はできぬ。
20:00過ぎにまた2ちゃんねるに戻って来ますね。
>>599 それ、俺じゃねーから
誰彼かまわず噛みつくのはやめとけ
ageっ子発生中
603 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/19 21:02
愛と勇気の安東愛季「みなさん、こんばんわ。遊びに来ました。それでは徳島へ帰ります。ごきげんよう。」
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
/::::__,::ィ_,-ァ__,, ,,、, 、,,__ァ=彡ヘ::::::ヽ
'::::「 ´ {ハi′ }:::::::l
i::::::l l::::::::',
. |:::::::〉 l::::::::::l
. |::::::l ∠二_'ー 、_` ",..-_'二二ゝ.ヽ:::::::|
,r 、:::! ___```'. ''"´__ !::;:- 、
|.ヽi::l `ー`ー` .: '‐`ー'´ l::l r, l
. l !:l .::: l::l │
', ';:l .::; 、 l::!ノ/
ヽ_l::! 、.__ __.. ,',' /
ヾ! ` ´ ,','´
/ .', ___-_ー__ /.ヽ
/ ハ `' 、.......... -'´ /l .λ
/ !.l ヽ / l .〈, |
\ l l \ / ,l 〉、
_,. -`' 、 !ヽ `ー----- '´ / ! / `'ー
>>598 大量に煽られているけど自業自得だよ。
誰も陸抗が最もとか言ってないよ。
姜維との瞬間最大風速の差を比較していただけ。荒れる原因になるんでよく読んでからレスしてね。
西陵攻防戦でも考察してみようか
とりあえず歩闡の投降で西陵を攻めに行くのと
襄陽から攻めてくる晋軍から江陵守るのと同時にしなければ
ならないという大ピンチから始まる攻防戦だよな
>>604 候補に入ってるってるので
発言したんじゃなかろーか?
>>605 晋と呉の兵力差はどんなもんなんだろうね
江陵自体はかなり守りに堅い城ではあると思う
>>607 具体的な兵数はわからないが比率でいうと
陸抗3対歩闡1対晋5
くらいじゃないかな。
攻め手が江陵みたいなガッツリした城攻めるのに
上回る兵力で攻めないのは考えにくいし
晋には大軍を動員できる背景があるとおもうので。
それと西陵は重要拠点なので呉はある程度の兵を常駐させてたと思う。
609 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 01:27
>>599 演義馬鹿のお前の方が帰ったほうがいいよ。
孔明と曹操が戦ったなんて事実すらない。
司馬仲達と孔明の戦いは仲達の完勝と言うべき。
孔明が張コウを戦死させたことなんて大局になんの影響も与えていない。
北伐は孔明(蜀)の完敗だって演義だけでも読み取れるだろ。
>>609 「完勝」っていうと、イリョウの呉みたいな勝ち方を指すのでは?
軍事に関しては俺も 司馬懿>>諸葛亮 くらいだと思うけどな。
でも北伐で魏も結構損害だしてるでしょ。
完勝とは程遠いと思うよ。
611 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/20 04:01
じゃあ
陸遜>司馬懿は確定ですね
>>610 少なくとも戦場では諸葛亮>司馬懿だよ。
あとは国力の差だろ。
まあだからといって単純に諸葛亮>司馬懿という気はないがな。
試合に勝って勝負に負けたのが諸葛亮で
試合に負けて勝負に勝ったのが司馬懿だろ
>>612 小牧長久手のときの秀吉が司馬懿で、家康が諸葛亮 って感じに捉えてるよ。
戦場だけなら間違いなく諸葛亮だろうね。
戦略的な面も含んだ「軍事」に関していうと、
司馬懿、陸遜>諸葛亮
で、諸葛亮は司馬懿らよりもちょっと落ちる気がする。
戦争の勝ち、負けは戦争を始めた目的「戦略目標」を
達成できたのがどちらか?
で判断されるべき。
孔明の目的は「魏を倒して漢を復興すること」
仲達の目的は「魏の領土を防衛すること」
どちらが勝ったかは明白だと思うが。孔明なんて目標達成率が
0といってもいいぞ。
「戦闘」はあくまでも「戦略目標」を達成する上での手段でしかない。
>>616 孔明が打倒魏を目標に掲げてたのは事実だけど
本気でそこまで狙ってたわけじゃないと思う・・・・
存在を忘れられないようにするための示威行動というのが本当の
ところじゃないか?それで、領土もいくらか取れたらそれで良し
みたいなもんだったと思う。その意味だと多少は目的を達成できたんじゃないかな。
とても大局を変える物ではなかったけど。
シバイの方は孔明を追い返せればそれでよし。
まあ、引き分けぐらいの言い方にならんかな?
孔明と司馬イについては昔
その戦術の特徴から軍容の形態まで昔あれほど
語り尽くしたじゃないの・・・・
>>609以降の議論はすべてガイシュツ・・しかも突き詰めて考察する最初の段階
でのガイシュツ
どうどうめぐりで1からってのはスレ的に推奨できないなあ
>>618 未だに599みたいな孔明が曹操に勝ったみたいな
こと言ってるやついるからなあ。
>>613 北信濃の上杉武田ってイメージのがあるがなぁ
戦術的には決戦した時などは諸葛亮は司馬イを撃破している
しかし、蜀軍なら壊滅していてもおかしくないぐらい大敗しても、張コウという歴戦の名将を失っても魏は揺るがない
この辺、バックボーンの大きさで「次」がある司馬イがどう考えても勝つことになり、事実そうだった
まぁ競技じゃないんだから元々五分五分で、なんてありえんしな
>621
つまり諸葛亮>司馬懿も諸葛亮<司馬懿も間違いですね。
さらに対戦していない曹操とは比較ができないので
諸葛亮>曹操も諸葛亮<曹操も間違いになるわけですね。
まぁ戦略的な有利不利があるし相性なんかも無いとは言えないだろうから
不等号なんか使えないだろうけど、
正攻法を持ってして守りきるだけでなく相手に大打撃を与えている陸遜なんかは
大打撃を与える必要(戦略的不利)があり、戦略レベルにまで影響を及ぼす勝ちがあったくらいだから
評価できると思うんだけどどうよ?
>>617 >存在を忘れられないようにするための示威行動というのが本当の ところじゃないか?
むしろ忘れてもらったほうが良かったんだよな。孔明はともかく、劉禅ちゃんにとっては。皮肉なもんだ。
ただ魏から忘れられると、益州の豪族からも忘れ去られそうだがな・・・
ただし陸遜は勝つべくして勝ったというのは否定できないところ
そもそも攻める側の劉備のほうが兵力少ないし加えて陸遜は防御側だし。
劉備はどういう勝算があったかすら微妙。
まあガイシュツなんだが・・
劉備は寡兵時代の戦いかたが抜けなかったのかもなー
628 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 13:50
>>621 >蜀軍なら壊滅してもおかしくない大敗。
たしか、祁山の戦いでの魏軍の損害は3千ぐらいだったはず。
蜀軍だって5.6万はいた筈なのに言い過ぎだろ。
どちらにしても魏にとってはたいした打撃じゃないんだろうが。
629 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 14:01
孔明と韓信はどっちが強いの?
頼むからそんなアホな質問しないでくれ..........
でもどっちが強いんだろう.....
孔明の強さは一言で言うと「重装歩兵で正面衝突に強い」ってことだとおもうんだが
反面、機動力のなさから奇策がとりにくい。敵の奇策も戦闘教義で封じるが
やや軍人出身でないための軍のほころびが目立つ。
韓信は戦うために生まれてきてるからなあ。
孔明の配した軍のほころびも経験の豊富さで見抜く場面もあると思う。
補給断つのも上手だし。
ただし韓信軍は時代的に孔明の新機軸ド兵部隊の攻撃力には面食らうだろうな..
>>629 結論 一応考えてみましたがわかりません。
>>631 実際、時代が違うんで新兵器の問題はあるだろうけど、
蕭何・張良が後ろについている韓信が戦略面で優位に立てる可能性は低くないし、
あり得ない条件を付けて戦術面だけで勝負させるとしても戦術でも結果を残している韓信が負けるとは考えにくいけど
>632
兵器だけでなく組織も違うと思う。
組織化に関しては孔明の方が意識していると思う。
組織化されている方が戦闘力は高いだろう。
>628
ちなみにその時の蜀軍の損失は魏の発表では1万。
しかし、魏は戦果を十倍に水増しする事が認められていたので実際は1000人程度と思われ。
>>632 蕭何・張良が後ろについている
ここからしてすでに反則
しかたないので孔明には馬岱でもつけるか・・
637 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/21 21:05
>>631 韓信は中国史においても有数の名将。
世界史を俯瞰してみれば、長い分裂期に当たる中世中国世界初期の、
地方独立政権の宰相にすぎない諸葛亮を引き合いに出せるような将軍ではない。
その功績を見ても、階級こそ高けれ、その精兵は尽く劉邦に召し上げられ、
投降兵と現地からの徴集兵のみで華北を併呑し、項羽を滅ぼした韓信と、
蜀漢という確固たる基盤を持ち、自身は丞相として独裁体制を敷きながら、
敵国にたいしたダメージも与えられなかった諸葛亮では比べ物にならない。
その結果も、大統一国家・西漢の建国と、没後一世紀も持たずに滅亡した李漢の維持となると、なおさら。
こうして書くと、私が余りに諸葛亮をけなしているかのように思われるかもしれないが、
これは韓信と比べてしまったがためでありもちろん一大叙事詩「三國志」における諸葛亮の才腕と高潔さは、
こんな陳腐な比較ではなんら穢されるところの無いものであることを最後に記しておく。
>>637 まあまあ
言ってることは
「韓信は成し遂げたことのスケールがちがうから孔明とは比べものにならん」
としか理解できないぞ
ここは能力分析するスレだということを忘れてないかね?
能力だけ、例えば軍の組織の仕方とか用兵とか戦術とか兵の士気を高める統率力だとか
補給の的確さだとか補給を絶つ戦略とか諸々見ながら分析しないで
成し遂げた事の大きさだけで断じても仕方がない。
韓信が偉大なのはみんなわかってることだからな。
まあもともと無茶な比較だが細かく分析しても面白そう(w
>>638 細かく分析したらもっとコテンパンにできそうだが、この板は三国志しか知らんやつが多そうなのでやめとく。
>>639 ほほー
そんな中国史すべてに精通してる貴方の高尚な意見を是非とも
お聞かせ願いたいところです。
あの時代は攻めた者勝ちだし。
兵站さえ続くなら。
韓信はとにもかくにも情報収集能力がとてつもないだろう
孔明側の弱点をすぐに見つけ出し(補給ラインや弱将の統括する部隊)
そこを容赦なくついてくると思われ
ガイテイなんかは張コウと同じように馬謖を見抜き撃破した上で
退路に伏兵とか置いてとどめさし
にせ伝令かなんかで孔明釘付け→包囲殲滅とか軽くやりかねないね。
あと地勢の利用がやたら上手い。川をせき止めて渡れない川を渡って急襲したり
相手がわたってきたらせきを切って水攻めとかまあ臨機応変に効果的な戦術駆使するだろう。
対する孔明の強みはやはり軍の組織や兵装の優位だろうね
なんとしてもその優位をいかして正面決戦に持ち込むのが勝機だが
まず韓信は乗ってこないだろうね。
どうせ言っても分からんだろ。もちろん全員がそうだとは言わない。
ただし、どうしても深く考察できる時代が三国志に限られてしまうのは事実だろう。
三国時代の武将を低評価されれば、噛み付いてくるヤツがいるに決まってる。
じゃぁなんだ、貴様ら「中国史上最も軍事能力の高い人物」でも、複数人でいいから挙げてみな。できるもんなら理由付けでな。
諸葛亮とか答えんじゃねーぞ。
>>645 噛み付かないから怖がらずに韓信と孔明について述べてごらん
まずは高尚な貴方の意見を聞くのが筋ってもんです
ただ細かく分析してみましょうっていってるだけですよー
項羽と劉邦の鵜呑みじゃないすごい見解はやく聞きたいですよー
いいから早く言えよ
>>639 どうせ文句しか言われないだろうから出し渋ってるんだろうけど、
文句が出にくいように蕭何・張良抜きの韓信の強さについて語ってくれよ。
姜維がなんでこんなに過小評価されてるんだろうか。
軍事に関しては腐っても一国、一時代の人材なのに。
何が駄目なんだろう。
勝てなかった所とか言い始めたら
国が三国に安定してから誰一人大勝してない所から見ても
国力差は個人の才能では如何ともしがたいと思うのだが。
つーかそんな頑張らなくても普通に語れば
韓信て凄まじい戦上手だから孔明に優位な所は挙げられるんだけどな・・
ただ偉大だから強いってんじゃなくてその偉大さを分析しようって話で・・
ただ無条件に孔明が劣るってのはどうもね
時代的な戦の進化の背景とかもあるし・・
またせたな、よし、じゃあ韓信のすごいところを語ってやるぜ。何も知らない三国志オタども、よく奇異テロよ
まずはだな、お前ら、「背水の陣」て言葉知ってるだろ?
あれはな、この韓信って将軍が実行した故事から着てるんだぜ?知らなかっただろ?
まぁこの背水の陣を使うに至った経緯を簡単に説明しておくとだな、
韓信って将軍が敵の大群に攻められたんだよ。その時、この韓信は、なんと河を背に陣取ったんだ。
河を背後にしたら、後退すると溺れ死ぬだけだろ?こいつバカだなーって誰もが思ったわけよ。
でも、実際戦って見たら、韓信の軍が駆っちまったんだよ。なぜか?
それはな、あえて後退できないような場所に陣取ることによって兵士たちが死に物狂いで戦うという現象が起きたからなんだよ。
これだけみてもめっちゃ名将だと思わないか?
まぁ、孔明も結構すごいと思うけどね。
孟獲を信服させた七回捕まえて七回解放したアレあるじゃん?
アレなんてマジヤベーと思うけどね!
ある意味突っ込み不可能.....参りました。
オリンピックに集中することにします..
本当の639か・・・?だったらヤバイ。
取り敢えず中国史名将三傑は
韓信
岳飛
朱元璋
かな?
いや、孟[王共]とか、陳慶之とか、宗沢とか、徐勣とか、李克ヨウとか、
色々入れたいのは山々だが、結局は有名どころで落ち着くと思うんだよねー
こと軍事に関してのみなら白起もすごい
しかし思うに紀元前とかで凄くても例えば三国時代やその後の時代で
戦い方が通用したかはわからないな
より複雑な戦いになってるような気もする。
例えば攻城兵器一つとってもその技術はかなり変わってるし...
あと成吉思汗のように恐怖をばらまいて圧倒するという楽毅あたりとは真逆の
心を攻める戦い方みたいな
儒教的観念を超越した強さもあるし・・
戦う前にすでに相手は戦闘意欲失うよ・・
>>655 ふざけるな
馬援
李靖
袁世凱
に決まってんだろ
>>655 岳飛も「救国の英雄」という補修がかかっているから、少々過大評価なのでは。
韓世忠や張俊ら名将が同じ組織にいたというのも勝因に絡んでくる。
また、このスレでは功績面はあまり重視されないようだが、韓信・朱元璋と比べると、歴史に与えた影響が限りなく小さい。
大体、斜陽の帝国に付け入らんとする侵入者をしばし撃退した将軍というのは結構多い。孟[王共]なんかもそれ。
それで完全に敵を駆逐し、尚且つ帝国再興を果たしたというのならば文句のつけようが無いの名将なのだが。
まだ上がっていないところで
戚継光・李成民を挙げておく。(なんとなく思いついたんで)
君主というのは、配下に優秀な武将がいると「名将」と呼ぶのが憚られる感があるが
(李成民の場合、中華帝国史上最高級の人材が募っていたから尚更なのだが)李成民レベルなら文句もないだろう。
>>658 唐の太宗のコトなら李世民だろ、3回打ち込む間に気付けよ。
戚継光は上に書いたから、それを見たと思われるのもなんだったんで外した
国を支えた名将なら、陶侃、郭子儀、左宗棠、辺りもお薦めしたいが
あとは外征の名将
衛青や永楽帝とか
李世民は高句麗責め三回失敗してる
岳飛と違って、自分で自分に補正かけてる男だから
配下の功績横取りしてる可能性大だし
一流の名将とは言い難いだろう
少なくとも、唐代代表になれそうもない(まあ、徐勣、李靖の双璧がいるからな)
だがそれらを束にしても、トゥハチェフスキーにはかなわなかったりしてね。
>>652 偽物でしょ?本物なら
>>639はただの馬鹿だということになっちまう
当該戦場における「背水の陣」の狙いはなんだったのか、ぐらいいわないと
>>639えらそうな事言ってた割には大した事書いてね−な
そうやって人物ぽんぽん挙げるんだったら漏れにも出来るんだよ。
芝居や孔明の時みたいな細かい戦歴と考察が出されると期待してたんだが・・・
誰か細かく書いてー
ハンニバル、カエサル、グスタフ、ナポレオン
665 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 17:28
鉄木真もなかなかやるようだ…?
チンギスハーンがでないなんて心外ですね
667 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 17:39
668 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 17:47
>667
えっ、どこでつか?
670 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 17:55
>>668 鉄木真(テムジソ)=チソギスハソ
でつよ?
若い頃の名前ですよ?
ナーディルシャーは?
スズキ マコト 19才浪人生 のことじゃないですよ?
674 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 18:05
ヤター、人形キター
675 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/22 18:06
>>671 若い頃の名前でもテムヅソはチソギス=ハソでつよ?
若い頃は本名で鉄木真と呼ばれることが多く
王になってからは王としての名前、成吉思汗を名乗るが
本名は鉄木真てことか
姓名字で呼ぶのはおかしいとかと同Lvだな
意味が通ってればなんでもいいだろ
若い頃の名前は牛若丸だろ?
うろおぼえだが、滅ぼされて
本名を隠さなきゃなかったんだとかじゃなかったっけ?
本名は源義経とか言ってみる
韓信の場合というか古代の中国史は細かい戦歴の考察はともかく
戦術の考察は難しいと思う、グスタフ、ナポレオンこのあたりの時代だと資料も多くていいが
チンギスハーンも考察は無理だし。
韓信の場合史記で考察するの?
テムジンは元朝秘史で考察とか
元朝秘史がOKなら三国志演義で孔明を考察することもありなのでは?
ちくしょーさっきから被ってばっかりだ
でもテムジンは戦術と言うより恐怖で圧倒だから主な戦い
がわかれば問題なし。基本は速攻アンド兵力の集中アンド
逆らったら体中の穴から銀を流し込み生首でサッカー、
服従したらそれなりの地位を約束する
の2択攻撃だろ
何かで読んだが、チンギス・ハーンは、全ての部隊を騎馬にし、
3つの縦隊を、相互に支援できる範囲内でできる限り広く展開して前進させ、
敵に遭遇すると機動状態からの無停止攻撃で、包囲か一点集中による突破に移行したらしい。
戦力の4割は衝撃行動を目的とした重騎兵、残りが偵察や射撃支援を目的とした軽騎兵だったとの事。
アレクサンダー大王はどうよ
>>688 アレクサンダーは、正面の歩兵陣の左半分に防御を目的とした重装甲歩兵を、
右半分に攻撃を目的とした軽装甲歩兵を置き、その両翼には衝撃行動用の重騎兵を配置した。
更に歩兵陣の前方には装甲を着用せず弓を装備した軽歩兵、その両翼には軽騎兵を配置、
そして後方には予備として槍を主兵装とした歩兵を配置した。
左半分の重装甲歩兵の踏ん張りを基盤として、右半分が攻撃を行う。
そして、勝機を見極めたら重騎兵を投入して打撃し、敵を崩壊させるってものだったかと。
エパミノンダス→フィポリス→アレクサンドロスという継承がされてんのがいいやね
三國志しか知らない俺は、ついていけないっす…
中国史ならともかくアフガン史とか出されると無理
受験のときの世界史レベルしかわからん(w
実際、モンゴル軍と戦いたくはないよな。
機動から即攻撃に入るもんだから、こっちに布陣の暇も与えてくれない。
運良く布陣できても、密集して騎兵の突撃に備えれば軽騎兵の射撃の餌食だし、
分散すれば重騎兵の突撃に耐えられない。
予備の騎馬も大量に連れてたから、その機動力もそうは衰えないし。
並の軍隊じゃ主導権を握られっぱなしで終るだろう。
おまえらいい感じに釣られたな
あ、賛美してるんで、一応。
陸じゃ勝てないから、水戦に持ち込んだんだろ〉南宋
まぁ、戦略の話になるが
元朝秘史は劣悪だよなー
モンゴルは、10を基本単位とした編成だったって事も強かった一因かもな。
近代でも歩兵分隊は9〜10人を統制できたらしいし、現代の師団の戦闘部隊数は実質9〜10個らしい。
1人の指揮官が指揮できる部隊数が多ければ多いほど戦術の柔軟性が上がる。
10ってのは、戦術の柔軟性と統制の容易性の均衡点であるのかもしれない。
どこの地域時代でも隊伍はあったから、蒙古が特別というわけでもないと思うぞ
次スレは世界史上最も軍事(ry
>>689 要するに敵主戦力を補助戦力で拘束して無力化させ、その間に自軍の主戦力で敵の
最も脆弱な戦陣を突き崩す。
併せて両翼の騎兵にも同様の戦術を展開させて、最後には(二重)包囲で殲滅、って
いうのを
>>690にハンニバルを加えて時代を経るごとに体系化されていったっんだと
思うけど?
>>699 15,6世紀くらいまでの限定にしとかないと大変なことに…
まあやっぱ基本は三国志だろ
たまーにイレギュラーで韓信との比較とかがある程度
それぐらいにしとかないと収集つかなくなるな。
だな、世界史になった途端この過疎っぷり
集団戦なのに個人の資質を考察するのは不可能に近い
せめて、軍団単位でやればよかろうに
705 :
無名武将@お腹せっぷく:04/08/24 14:52
作戦、戦術の実行能力ともに優れた将は考察可能だよ
作戦、戦術の実行能力とはなんぞや
例えば、漢中戦における劉備と法正、黄忠の場合で考察してみれくれ
>>706 ガイシュツではありますが...
法正-作戦
劉備-作戦採用 決断
黄忠-実行
劉備と法正で漢中をせめるという戦略自体を練り(荊州と連動していたかは謎)
同じく劉備と法正で漢中を攻める戦術も練り、
劉備と黄忠がそれを実行
もし黄忠が劉備に従軍してではなく単独であったなら戦術を考えるのは黄忠だろうが
この時は劉備に従軍しての場合なので戦略、戦術ともに劉備、法正によると考えますが。
偉そうな物言いかもしれないけど、こういった戦術や作戦、用兵の概念を
理解していない人ほど、黄忠が夏侯淵を討った一事を大袈裟に評価する
傾向にあるように思う。特に蜀将スレの初期なんか。
黄忠に関しては戦闘以外には関わっていないだろうし、張コウを先に攻撃する
作戦を立案した法正や劉備には目を向けてないんだよな……
だよなー
>>707-709 で、どうやって優れた将を考察するの?
集団で行動した結果であると思うのだが
この場合黄忠で無くとも作戦は成功した可能性があるので
劉備と法正が凄いとするのか?
>>710 法正は作戦に関与
黄忠は実行者
劉備は全てに関与
なので戦術、戦略に優れていると言える
法正の作戦立案能力は高いし
黄忠の実行能力も高い
国が違うが黄忠がカコウボーだったらさすがに失敗した・・とおもうw
>>711 いや、それは判る
勝ったんんだから能力は高いだろうな。
で、
どのように凄いの?
他の人と比べる場合はどうやるの?
個人の感想?
>>713 兵力差とか作戦の難易度とかを分析して比べてきたわけだが?
どの将がどういうときに成功したり失敗したりして
それらを総合的に考察。
無論そんなもの正確に出せるわけはないのだが
優劣を論ずる中でそれぞれ考察できて楽しいじゃないかという趣旨
>>714 なるほど、理解した。
漢中の難易度はいかほどとなってるの?
法正の立案能力に関して言えば裴松之は否定気味だが
>>715を読む限り理解したとは思えんのだがな・・・。
>漢中の難易度はいかほどとなってるの?
なんでお前さんはそう挑戦的なんだ。
親切に相手しすぎ。
>>716 むっ挑戦的か?
過去ログを読んでみたがとくに難易度などは
されていなくてないので聞いてみた。
戦場の難易度を考察するのも面白そうだと思った。
一番難易度の高い戦場は何処だろうか。
逆に言えば難易度さえ判れば
高い能力値の持ち主の有力な候補ができる。
いや、言ってることは分かるんだけど、
まずは自分の考えを述べてみたらどうよ、って話で。
>>719 さぁ?
今まで集団戦を個人能力を考えた事無いので。
強いて言えばカントは絶望的だと思うから難易度は高そうだ。
自分の考えがないんなら議論のしようもない
ここはさっさとスルーが良策
難易度でいうなら西陵の戦いだろ
>>720 議論してきたのは集団戦の中で個人の能力を考察できるか?
であって戦場の難易度が何かでは無いぞ?
理解してくれてるか?
>>722 西陵も高そうだが、その「地」を熟知している場合は
難易度少し下がりそう。
この場合は立案決定実行は全部、陸抗個人でやったのかな?
規模が小さいのか、名前が埋もれて見えないのか。
>>723 戦争は一人でやるもんじゃないんだから、歴史に名の残らなかった人間も活躍した可能性は当然ある。
でも、それは陸抗に限らず、全ての指揮官に当てはまることだから、陸抗だけその点をマイナス要因に
挙げるのはフェアじゃない。
そう見たか。
嫌に攻撃的に取られるのだなぁ。疑問や整理をしたいだけなのだが
この時代は役割分担は明確じゃなかったから
立案決定実行は陸抗個人である可能性もあるかなと思っただけ
特に、この時期は個人の誠意で防衛頑張ってるって感じだし。
>>725 逆の場合はどうだろうか?
劉備、法正、黄忠は名前が列挙されているから
マイナス点のように扱われはしないかと危惧する。
集団戦は軍団として能力を見るべきとしたのはそのせいだが
ココは個人を考察するのだから、どう考えるべきかな?
>>726 つーかさ君の疑問の整理になんで付き合わなくちゃならんのだ
まあなんかしらんが付き合ってみるとしたら
劉備に関しては(劉備+法正)と二人一組で考えられてる部分もあるようだな
実行するだけが役割の将はとりあえず候補からはずされ(別に無能という意味ではない)
作戦と実行両方に関わり両方に高い能力発揮してる将(なおかつ戦略眼もあれば尚良し)
が上位としてピックアップされてる。
実行のみの将とかいれるときりがない。
作戦と実行の二つの要素を用件としてるのは
ある程度話題を絞って深く考察するのが目的でしょう
>>727 その点は上の方で理解している(つもり)なのだが
作戦に複数名が列挙している場合は、
個人名しか描かれていない人材より劣ると評価されないかと
危惧を持っていると。
考察する事に関してはとくに喧嘩売るつもりは無いから
どうぞお続けになって戴きたい。
できれば分かり易く戦場の難易度から丁寧に考察して欲しいとは思うが
>>728 だからてめえの見解をまず述べろ。
話はそれからだ。
>>729 え?
>>728の見解は
>>728の1〜5行目だろ?
>>728 なにか当たり前のことを難しく考えすぎてないか?
A)豊富な人材の揃った軍団が漢中を奪った
B)ろくな人材のいない軍団が漢中を奪った
ならば、AよりBのほうが評価されるのは当たり前だろう。
同じ功績ならば自軍の人材が薄いほど高評価になるもんだ。
>>730 >>725の人が言っている事が私もひっかかってるという事かな。
とりあえずは考察の仕方が判ったのでどうぞ進めてください。
今までは考察ではなく感想の押し売りに見えていたので。
荒らしの一種と理解
まぁ、もういいや
好きにやってください。
>>734 しつこい
>>608 ところで話があまり盛り上がらない西陵の戦いなんだが兵力比はまあそんなもんとして
状況的に西陵の包囲と南下してくる晋軍に対して無理な2方面作戦を成功させた
のは素直に凄いと思う。西陵の歩闡が包囲を破れなかったのも陸抗の手腕だし
しかしさらに凄いのは晋軍は長江を渡ってしまってるというところだな。
徐胤が蜀からも長江くだって進軍してきていて2方面作戦というより
3方面作戦になっているw 守り切れたのは奇跡的w
ところで晋からみたらこの蜀からの長江下っての軍がいちばん効果的に思う。
もっとこちらに重点置いてれば或いは陸抗を破れたかもしれないなあ。
長江、その他支流の正面からの渡河をかけての攻防は他の戦いでも
攻める側はほとんど成功してないから。
呉が滅びたときも成都から長江をくだった王濬の部隊が最も効果的であったわけだし。
何言っても怒られる
>>541と
いちいちスルーできない
>>542のやりとりに
ワロタ
良いコンビだな
>>735 そもそも西陵の戦いというのは保身を計った歩闡に呼応して晋が軍を派遣する
という戦いだからな
晋も準備万端というわけではない
蜀から長江くだるにしても船の数とかの問題もあったんではないか
まあ晋にしてみれば一つの好機ではあっただろうがね 歩闡の投降は
その意味では孟達の場合と似ているね
孟達の場合と状況は似てるけどなあ
背景は正反対
攻め手の晋のほうが陸抗よりも兵力的に優位
蜀方面、襄陽からの南下、西陵の堅牢さと、
とれる戦略の幅でも攻め手が有利だ
晋としてみりゃ、成功したらもうけもの、くらいな感覚かね。
降って来た者を救援しないのは外交的にまずいからな。
当事の晋中枢は外征には慎重な意見の方が多かったみたいだし。
歩闡は棚ぼた。
しかし晋が棚ぼた感覚で攻めても国力が大幅に劣る呉にしてみれば
脅威の進軍です
上流からは船団が下ってくるわ
対岸からは本隊がうようよあらわれるは
西陵は占拠されてるわ
離反者はでるわ
しかも楊肇は西陵まで突破してきてる。
このとき陸抗は西陵城と楊肇に挟み撃ちされてる状況
追い返したのは不思議。
>>730 軍事的難易度は功績の要因にすぎないだと思うがどうか?
人材の多寡は軍事的難易度の要因にすぎないと思うがどうか?
>>742 もういいよ
建設的な意見を吐けないなら帰れ
>>735 じゃあ、詳細に検証しますか。
晋軍本隊‐車騎将軍・羊祜以下5万、江陵へ。
西陵解囲軍‐荊州刺史・楊肇以下3万、西陵へ。
晋水軍‐巴東監軍・徐胤以下(実数は不明だが1,2万程度?)、建平(巫)へ。
西陵篭城軍‐西陵督・歩闡以下(実数は不明だが、陥落時の記述から推量
すれば1万以上は確実か?)
呉軍本隊‐鎮軍大将軍・陸抗以下3万、楽郷より西陵へ。
建平防衛軍‐水軍督・留慮、鎮西将軍・朱琬以下3千(5千とも)、建平(巫)へ。
江陵守備軍‐江陵督・張咸以下(実数は不明だが5千程度?)
陸抗麾下の陣容
将軍・吾彦、左奕、蔡貢‐西陵攻囲軍として先発。
宜都太守・雷譚‐封鎖陣地完成前に西陵攻撃を主張。
公安督・孫遵‐江水南岸を哨戒し、羊祜を牽制。
将軍・朱喬、営都督・兪賛‐楊肇率いる西陵解囲軍が来援するや投降。
主な呉軍防衛拠点‐江陵、公安、楽郷、夷道(宜都)、信陵、秭帰、巫(建平)。
防衛線は東西で凡そ300km、各邑の守備戦力は数千ほどか?
晋呉双方の兵力と陣容はこんなところ。
典拠は「呉書」と『晋書』。
陸抗は西陵はたしかにすばらしいんだが
永安攻めはかんばしくない
このとき蜀の滅亡にじょうじて蜀の領土をうまいこと手に入れてれば
呉の運命も少し変わったような気もする
まあこの責任を陸抗の永安攻めの失敗に被せるのはおかしな話ではあるのだが
>>745 乙
>公安督・孫遵‐江水南岸を哨戒し、羊コを牽制
実はこれも大きな功績と思う
陸抗はおかげで楊肇と西陵に集中すればいい環境を作り上げることが出来た
まあ孫遵に晋本隊の渡河を防がせた采配そのものが陸抗ではるが。
徐胤は建平を落とせてはいない
羊コは河を渡れない
西陵は包囲を破れない
楊肇は包囲網を崩せない
晋からすればどれかがうまくいけば陸抗を崩すことが出来たように思う
徐胤の船団の規模だな・・準備不足がここにでた。
>>742 名もない人材の実力がわからない以上、結局は編成された軍団としての難易度しかわからない罠。
小野が参加したオリンピック代表が負けたから小野の実力が無いとはならないから。
>>749 わかりきってることをいい加減しつこい
>>746 羅憲との戦いの時ってのはまだ陸抗がそれほど経験積んでない時期だな
下手すりゃ初陣とかじゃないのか?
永安の城の規模なりなんなりがわからんとこの戦いは何とも言えないなあ
よくいわれるのは3倍の兵力がないと城は落とせないって一つの基準だが
陸抗は少なくとも3倍以上ではあった。
永安の羅憲の守った城ってのはどんな城なんだ?
>>750 呉書に257年、寿春にて魏の牙門将・偏将軍を破り征北将軍に昇進した、とあるから初陣ではないみたい
遅れたけど、
>>745の続きで個人的な意見。
この戦役における防衛側の困難さと陸抗の手段の絶妙であるかを理解するには、
地図を見てもらえるとよく分かると思う。
戦力で劣勢なうえ防衛線が東西に長大である事は防衛側にとって相当な負担で
ありながら、この状況下で陸抗は適切に対処している。
まず各拠点の重要性の程度を見極めて不用意な戦力分散を避け、晋軍の本隊が
江陵を攻撃しながらも誘致されることなく全線にわたって固守を徹底。
更に封鎖陣地を二重に構築する事で解囲軍の拘束と無力化を成功させ、戦略上の
要点を西陵と見極めて主戦力を集中させ、自軍の将領の投降や江陵での晋の作戦も
逆手にとる事で戦況の悪化を阻止し、攻勢限界に達した解囲軍を撃破。
建平へ攻め寄せた晋の水軍への対処や麾下の将領の統制、更に孫遵を派遣して
晋軍の長江渡渉を阻止するという用意周到さも評価できる。
最も評価すべき点は、様々な不利な要因を抱えながらも陸抗が終始にわたって
主導権を失わなかったという事。
強いてもうひとつ挙げれば、当時の呉には有能な将軍が圧倒的に不足しており、
作戦の立案から手配、晋軍の作戦への対応など、殆どが陸抗一人の裁量に拠るもの
だという点(この中では、せいぜい呉滅亡時に巫で吾彦が健闘したくらい)。
280年の晋の侵攻では、長江上流からの侵攻に対し呉軍は有機的な防衛作戦を展開
する間もなく各拠点が陥落し、更に連繋するかたちで北方からの晋軍の攻勢に遭って
江陵が孤立してる。
多分に歩闡の叛乱時の戦略的誤謬を検証し(兵力で圧倒したとはいえ)有効な侵攻
計画を立案したのだと思う。 長くなってごめん。
陸抗の西陵が不利な状況でのほぼ完璧な勝利なのはわかるんだが
永安だよな・・
陸抗が晋の侵攻を防いだのと
羅憲が呉の侵攻防いだのではどのような差があるのだろう?
どちらも守備側が攻撃側より兵力で劣るとおもうんだが・・
まあ陸抗の場合は西陵の包囲と侵攻への防御を
同時にやってるという点はあるな
羅憲は籠城のみ。
陸親子は国の危機ともいうべき時にすさまじいまでの防戦をやってのけたが、攻勢に出たときはさほどでもないね。
陸抗が巴東を攻略できなかった事を悪く言う人が多いけど、別に当初から陸抗が
全権を掌握していたわけじゃないんだけど。
初めは歩協が攻撃して、それが撃退された後に陸抗らの参戦という運び。
歩協が撫軍将軍、陸抗が鎮軍将軍、留平が征西将軍という点から考えれば
陸抗が総司令官たりえる位階とは思えないし、指揮系統が一元化されていなかった
可能性もないわけじゃないし……。
それに同盟国の滅亡に乗じて領土を掠め獲るってあまりに大義に反していて、呉将
の中でどこまで積極的であったか疑問。
これは陸抗を貶めるよりは素直に羅憲を評価する方が自然に思える。
西陵の戦いで江陵の保持と西陵の陥落を果たし得たのには、陸抗が完全な総司令官
として万機を握っていた事も重要だと思うよ。
古今を問わず、優勢でありながら指揮系統の分裂で敗れた事例は数多くあるんだし。
歩協は先鋒的な役割で陸抗が指揮官じゃないのかな?
>>758 史書では鎮軍将軍陸抗、撫軍将軍歩協、征西将軍留平の順に記述されてるね。
霍峻伝の注によると歩協が負けたから、怒った孫休は陸抗を派遣したらしい。
最初の総司令官は歩協で、途中から陸抗に交代したらしい。
でも、撫軍将軍と鎮軍将軍はほぼ同格なんだよね…。
ま た 孫 家 お 得 意 の ダ ブ ル 司 令 塔 か
陸抗が指揮して永安おとせなかったのは一つの事実と思う
完全な全権持ってたかという話になるとそれは他の将皆に当てはまる話で。
陸抗は羅憲と戦ったときはそれほど手練れというわけでもなかった
ただその後対魏で江陵に陣取って魏の襄陽と相対したのが約10年
多分その間、史書に記載されてないような小競り合いや小規模の軍事行動は
日常的に行われてたんだと思う
そういう中で実践経験を昇華させるなり魏が攻めてきたときの仮想戦略をじっくり練り
防御に有利な地形を把握するなり力をつけた結果が西陵なんじゃないかね。
今までの陸抗についての論をみてると羅憲との差がよくわからないな。
羅憲も細かく記されてないだけで陸抗のような見事な戦術で寡兵で呉を撃退したんじゃないだろうか?
>>762 さすがにただの憶測っぽいなぁ。そこまでいったら。
呉は豪族の集合体であるため大規模な戦では不利 みたいな文を見たな。どこかで。
>>765 というよりも、呉では大軍をひとりに集中させなかったみたい。
>>765 そりゃあ完全な憶測なんだがでも史書に記されない戦についてはみなさんはどうお考え?
俺は代表的なものしか記るされてないと言う考えなんだが
つまり史書の記載事項は事実の本の一部
>>767 そこまでいくと完全な推測の世界に入る
贔屓も、逆に貶めもやり放題になるから根拠がないところまで手を伸ばさないほうがいいと思うな
>>767 俺は記載されてない事例もたくさんあったと思うが論拠にはならないと思う。
でもそういう推測なしに話を進めるのは単なる正史読解とおもう。
歴史を考えるのは推測なしには無理だから。
俺としては別に順番決めるのがメインと思わないからそういう推測は大歓迎。
というより永安おとしてなんのメリットがあるの?
それじゃなくても兵が少なくてひぃひぃ言ってるのに。
>>770 俺もそれは考えてた。
狭隘な夷陵を跨いで巴東を得ても、ひとたび魏(晋)の侵攻に遭えば長江上流で
ある以上、早急で有機的な支援も救援も難しいだろうし、兵站にも難を生じる様に
思えてならない。
史料には記されていないけど、歩協ら呉の将領が戦略的価値に疑問を抱いて
攻撃を手控えたと考えられなくもない。
仮定だけれど、それなら陸抗を擁した十数倍の呉軍が落とせなかったのも頷け
ないこともないんだよね……。
火事場泥棒的に益州侵攻したものの、
魏軍は意外としっかりしていた上に永安で思わぬ抵抗にあったから
「あ、これじゃあ駄目だ」ってところもあったのかね。
1.劉禅降伏→呉西上→羅憲が防衛の意を表したため取りやめ。
2.鐘会の反乱失敗→蜀併合をもくろみ歩協を派遣→長江での戦闘では羅憲の防御を突破→永安城の攻防に舞台が移ると今度は城外に打って出た羅憲に撃ち破られる。
3.歩協が撃ち破られたため孫休は陸抗を派遣→3万の兵で永安城を包囲→6ヵ月後、ようやく魏の援軍が到着。陸坑撤退。
以上のように呉の西上はおおよそ3段階に分けられる。
ちなみに羅憲が魏に正式に臣従したのは2と3の間。
呉がもくろんだのは巴東の奪取ではなく蜀の併合。意識してるかどうかは分からないが言ってみれば周瑜の天下二分の計の実現を目指したもの。
それが羅憲の抵抗にあいその入り口で挫折しただけ。
陸坑の段階まできたらあるいは772のいうように無理をしない・様子見という意向もあったかもしれないが、歩協の段階で前線の判断で攻撃を手控えたというのはちょっとありえない。
どうやら、建業の孫休と前線の陸抗あたりとは、巴東への(あるいは巴蜀全土)軍事行動に対する意見の相違を感じる。
孫休は、軍事行動とその結果に対して、考えが甘いような気がする。
>>774 この件に関しては陸遜伝でも空白になってるので陸坑がどう考えてかはわからん。
ただこの頃は呉の朝廷が色々とごたごたしてた時期なのでその可能性はあるかもしれない。
>775
呉が自国存続の為に、長江上流を確保するか、友好国であるのが望ましいのは安全保障上、当たり前で蜀漢滅亡に際し、孫休が急遽軍事行動を起こしたのも理解は出来る。
でも、現場を預かる陸抗らの立場からすると、そう言った孫休の要求を現実的な課題として処理するのは難しいわけで。巴蜀に兵を進める作戦計画や準備を長年行ってたわけでもないし。
その辺の見解の相違はあったかな、と。
2千程度(しかも疫病発生等で弱った兵)しか持たない羅憲を六ヶ月かかって落せなかった
これは陸抗ファンとしては痛いよな。他に原因を求めるのもわかる
というよりどんな魯鈍な将でも落とせる可能性の方が高い気がする。
別に陸抗云々は抜きにしても、何かしらの原因があったとみるほうが自然。
でも徳川秀忠みたいな例もあるからなあ…
永安城は守りが堅い城だからでは?時代は変わるがモンゴルもこの城落とすのには
ずいぶん苦労していたと思う。
また旧蜀も対呉戦線の最重要地点である永安を固めていたはず。
更に下流から攻めるという困難さ、下流からだと策源地を西陵や南郡にしないと
ならないという補給の不利。
戦術的には下流から攻めるのは困難。
ただ陸抗の場合攻め落としたところで、その維持は難しいと思う、あっさり巴東や他の郡が
呉になびかなかった時点で撤退は決定だと思う。
単にやる気がなかったんじゃないの?
弁亡論では蜀の地なんか併呑しても、ほとんど意味は無い、という意味のことが書いてある。
陸機本人の見解かもしれんが、父親からその辺のコトは影響受けてるんじゃなかろうか?
蜀、丸ごと取れないなら
ちょっこっと取っても意味はないだろうね
だからそもそもは蜀の地を併合するのが目的だったわけでしょ?
巴蜀の混乱に乗じるつもりが、
予想外の抵抗を受けたからやめたんじゃないの?
>>781 > 弁亡論では蜀の地なんか併呑しても、ほとんど意味は無い、
暴論の気がするな。結局、呉の国力では魏(晋)には敵わないといってるに過ぎないんじゃない?
後の南北朝の経過を見れば、南朝(江南)政権に取って、巴蜀の確保は必須だな。
長江の防衛線をうまく使うためにだねー
>>785 蜀の価値って要するに天然要塞って部分だから。
蜀に本拠地を移転するつもりなら蜀を奪うのもいいけど、
そのつもりがないなら、蜀を無理に奪う必要性は薄いな。
789 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/01 04:57
いやいや蜀の地は呉としては侵攻を防ぐ意味で重要だよ
長江を越えての侵攻は防げる、でも蜀からの侵攻は防ぎにくい
陸抗もそれに気がついていて西稜をガッツリ整備していたわけで。
ところで羅憲の守っていた城は永安の白帝城だね。
劉備の死んだ城のことかな?多分そうだと思う。
ここは天然要塞的な城なのかな?
まあ重装であったようだから軍事物資は豊富で、攻城兵器に対する準備はできてるとはは思う。
陸抗はここを包囲したが胡烈が西陵に侵入したためこれを討つべく
西陵に向かいそれで白帝の包囲は解かれたようだ・・
秦の滅周論と討蜀論を思い出した。
昔の中国もお妾さんは当たり前だけど
恐妻家は山のように居た。
正妻にはばかるのは別段おかしくはなし
周を滅ぼすか巴蜀を取るかってやつか。
結局討蜀論が採用され、巴蜀は秦のものに。
後々の対楚戦略で大きなアドバンテージとなった。
やっぱ南朝的には蜀は必須なのかね。
攻めはともかく守りにはかなり価値があるよね>蜀
結論としては
晋の鮮やかな蜀取りに負けましたって所でしょうな。
盗みたいところだが争ってまで蜀を確保するほど呉の体力はないと
孫休だっけ?2万や3万じゃなくてもうちっと大規模に蜀攻撃部隊編成するべきだったと思う
胡烈がちょっと陽動しただけで包囲解くようなあれじゃなく胡烈も追いつつ包囲も維持できるような
規模と戦略で攻めるべきだった。このへん決めてるのは孫休か陸抗か・・
呉は兵士不足という現実を忘れてませんか?
やっとこさ均衡を保っている本陣が空っぽになっちゃうよ。
長江はさんでの対魏やら山越に常に兵をあてておかなけりゃならないのはわかるが
晋は蜀にかかりっきりなわけだしもうちっと大規模には攻められなかったもんかね?
無理すれば動員できたと思うけどなあ永安攻め・・
呉は指揮系統が一元化されづらいんじゃないの?
長大な戦線の各拠点に督や監が駐屯してるから、これをひとりの統制下に
いれた大規模な動員が難しいはず。
もともと呉の歴代皇帝は、荊州の軍事指導者ひとりに大軍を掌握させるのを
嫌がってた感じがするし。
晋は二方面作戦を採っても充分な余裕があると思うよ
>>786 ちょっと遅レスだけど華北が疲弊し江南が発達した南北朝以降なら可能でも三国時代はまだ江南もそれほど発達してないので長大な国境線を維持するのは難しかったんじゃないかな?
>>798 >晋は蜀にかかりっきりなわけだし
いや、呉が隙を見せれば一気に襲い掛かるだけの余力は十分にあった。
>801
三国時代も後期のこの時期は江南も結構開発されてた様だよ。
それがそのまま、防衛力につながったかどうかは微妙だけど。
それでも江南の防衛に関して言うと、下流域は長江の雄大さから、比較的容易だったんじゃないかな。
その替わり、中流域の荊州の防衛に力を入れてた訳だし。
江南政権としては最上流域を押さえられる、ってのは安全保障上致命的。
呉も豪族の呪縛から解放されればね・・
豪族の抱え込む私兵とかを全部呉軍として編成できれば
いい線いってたような。その点考えると孫コウの方向性って正しいような。
司馬懿・諸葛亮・陸遜。
檀石槐忘れてないか?
領土だけなら中国全土と同じぐらいまで拡大してるぞ
漢との戦いにも全て勝利
少なくとも考察の余地アリと見た
檀石槐って死んだのが184年だから三国史の時代と言えるか微妙。
それに匈奴系の遊牧民を次々と傘下に入れることによって拡大した領土
なので軍の指揮能力というより強力な統率力に優れてた部分が大きいと思う。
まあ戦下手でないのはたしかだと思うけどね。
魚釣るのは下手っぽ。
結局、
優秀な首長の下で急速成長→首長が死んで勢力崩壊
という遊牧民のジレンマから抜け出せてないからなぁ。
いや、軍事能力とは直接関係無いんだけどね。
三国志で戦上手の名声がずば抜けて居た人
前期
曹操
呂布
馬超
中期
劉備、関羽(強大な魏に一矢報いたのはこの二人のみ
曹操(魏陣営の功績を何となく全部ゲット
周喩(腐っても江陵ゲット
後期
諸葛亮
陸遜
司馬懿
末期
陸抗
姜維
鐘会・羊コ
前期に馬超が居るのは何故ですか
末期にガイが居ないのは何故ですか
馬超前期
前期が淋しかったから
トウガイは
評判としては真面目な面白みのない軍人なので
鐘会
というか呂布というのもおかしい
>>809 元気でがんばれよ
絵はがきは送らなくていいからなw
>>815 名声はあるんだが、いまいち実績が伴ってないな。
歴史書に載らない細かい戦いで勝ちまくったのかも知れんが…。
でないとあの戦績であの評価はありえん。
民衆的に悪の親玉の董卓殺したのがでかいだろ
それだけかもw
当時の武名として呂布はかなりのものを持っていそうだ。
少なくとも自分以外の伝で勇猛やらの評価がチラホラ見える。
まあ、ネームバリューは相当なものだっただろうな。
陳宮が呂布という駒を手に入れてなければ、エン州を瞬く間に手に入れるどころか、
反乱の目処も付けられなかっただろうし。
自称が多かった時期に、正式に奮威将軍・仮節・温侯ってのは相当なネームバリューかと。
呂布をたたえるスレ・・
>>821 呂布と諸葛亮貶なさなきゃ正史を読んだことになりませんよね
諸葛亮は正史でもマンセーだよ
まあ名声ってのはたしかに現実に作用する力として大きいと思うけど
自分の名声の使い方心得てないと
たんに有名な人で終わってしまうような。
呂布ー心得ていない
劉備ー上手いこと自分の名声を利用している
流浪の根無し草状態から2度も州を掠め取った呂布はスゲーよ。
ルパンもびっくりだよ。
褒めてみました。
三国志上最も軍事的能力が高いのは呂布という事に決定しました。
勝手に決めるなよぉ。呂布より上など幾らでも…
最後の勝負は軍事的よりも政治的勝利として
曹操と勝ったり負けたりなので、曹操=呂布
生き残ったものが強い理論→曹操最強→呂布最強
曹操は別に生き残ってないけど
生き残ったもの最強理論で行くと孫権>曹操
>>829 その理屈から言えば、漏れは今生きているので
孫権より上だな
831 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/09 23:05
>>830 それは生き残っているとは言わない。
それ以後に生まれたというべき。
とマジレスしてみる・・・
>>816 曹操自慢の青州兵とかあっさり破ってなかった?
>>831 孫権と曹操の年齢差も親子程あると思うがとマジレス
呂布が強いというより、彼の率いる騎馬軍団が強かったかと。
うん、もう、それこそ圧倒的に・・・。
さ、ネタはこのへんにしとこ
>>834 呂布の率いる騎馬軍団は圧倒的に強かったと。結局褒めてるのかよ。
軍事的能力は董卓がトップにきまってんべや!!
変なのがまた沸いてきたようですね
>>837 同年代でも年齢がひとまわり上なら先に死ぬと言いたいのだが
曹操は寿命で死んだんだから、最後まで生き残ってると言えるだろうに
何が不満なんだ?
>>829は滅亡順が魏→呉だったから孫権>曹操だと思ったが。
寿命なんて関係なく。
つまり晋を作った司馬一族が最強でFA
ミレニアム国家、大和の国が最強
一気に低レヴェル化
董卓でも考察してみるか
董卓は対黄巾戦では負けが目立つけどあれは無駄な兵力の消耗をさけた結果と見るべきかな?
あと涼州における求心力は凄いものがあるとは思う
しかし戦の巧さや強さとなるとこれが意外と負けてるんだよなあ
低レベルになったんじゃなくて
ネタが無いからネタスレになっただけ
>>844 勝ち負けで判断するから能力とか個人が見えなくなる
負けても仕方がない状況下どうかと、戦場の考察無くして
勝率で実力をはかれるわけねー
俺の覚えている限りだと周瑜があまり語られていないような…。
いや、語られていたけど中途半端で終わったような・・・。
周瑜
○君主から特別扱い
○孫策が存命中は後方支援
○孫策没後は軍権を収める
○防衛戦で活躍(勝因は疫病
○江稜を1年かけて落とす
○戦場で病死
諸葛亮
○君主から特別扱い
○劉備が存命中は後方支援
○劉備没後は軍権を収める
○防衛戦で活躍(勝因は天候
○異民族相手に活躍
○戦場で病死
少なくとも諸葛亮と周瑜は似ている
おまけ
陸遜
○異民族相手に活躍
○防衛戦で活躍(勝因は敵軍の無謀な陣と曹丕が指摘
>諸葛亮
>○異民族相手に活躍
これはどうかと思うが・・・
異民族相手には軍事面に限っても碌な成果を上げていないはず、勝ってはいるけど
また南方の統治面に関しては失点のほうが多いと思う
外交で孫権に南方から手を引かせたの評価できるけど(でもこの場合は使者を評価すべき?)
呉(陸遜)も、異民族政策は似たような成果しかとれてないし
そんなものじゃないかな?
周瑜
○ついに念願の蜀制圧は果たせませんでした
諸葛亮
○ついに念願の北伐は果たせませんでした
まあ防衛戦というのは大抵有利なものではあるが・・
陸孫ーー間違えなければ勝てる、勝つべくして勝った 兵力の優位、土地の優位、精神状態の優位
曹休だっけ?あれは結構お上手な気も・・
周瑜ーー江稜はがむばった、赤壁は??戦略は(天下二部)間違ってないような気も・・
孔明ーー兵制の改革に優れていた、北伐は目的は果たせず、(戦い自体は勝ったり負けたり)
土地の不利、兵力の圧倒的不利、軍務のほころび目立つ
やはり他国の攻略にばしばし成功してる将と比べると結果が寂しい気はする。
陸抗のような不利な防衛戦ならともかく
赤壁は疫病で曹操軍撤退。
追撃戦で火を使ったニュアンスに思う。
諸葛亮の軍務のほころびは何かな?李厳の件?
諸葛亮、周瑜、陸遜とも、不利な防衛戦だよ。
三国成立以降、軍事的な勝利に手が掛かりそうだったのは関羽ぐらいだったね。
もしもあのまま北上があれば、魏は華北のみの国だったかも。
しかし呉が裏切るまでは諸葛亮の天下三分の計は完璧に作動していた。
たいしたものだ。
ヒゲの外交能力と内部統率力がウンコだったのが悔やまれる。
髭に内部統率力があっても、結局徐晃の方が上?
それとも兵士や訓練の質?
>>852 ヒゲは後方支援を確立せずに北上し長期包囲戦を行ったのだから、
軍事的勝利が得られるわけがない。
その根拠に、ヒゲは于禁の敗残兵を抱えただけで、呉から兵糧を略奪せねばならないくらいであり、
(荊州の余剰兵糧が、かなり少なかったと推測できる)
劉封らの支援だけでなく、漢中や成都からも支援があったと推測できる記事も皆無。
このような状況で長期戦に勝利するのは至難である。(つーか、まず無理)
ましてや魏を華北に追い込むなんて夢の又夢。
ヒゲは兵站を理解していない人物で、このスレには相応しくないと思う。
というか赤壁自体の経緯がはっきりしてないからなんともいえんな。
同じ馬鹿でも、名前一つでビビらせて戦わずに敵を降伏させまくる呂布の方が
まだ使える馬鹿だ。
>>852 >諸葛亮、周瑜、陸遜とも、不利な防衛戦だよ。
諸葛亮は防衛戦ではないし(不利だとは思う、と言うか思いっきり不利というか無理w)
赤壁は不利とは言えまい、(その後長江こえての侵攻がほぼ全て成功してない点からみて)
陸孫に関しては兵力で上回り地の利で上回り、劉備は関羽死んで前後不覚。
陸孫に有利な条件が全てそろってるよ。不利とは言えない。
陸遜は身内の問題では不利だったかもしれんがなw
不利ではないと見抜くのも結構大変だと思うよ。
合戦に踏み込ませたのは魯粛の功績も多いけと思うけど、
魯粛の説得は降伏後の事を語って孫権をビビらせているだけのに対して、
周瑜は具体的に軍事面での有利な点を挙げている。
曹操軍の数やら勢いやらに惑わされずに上手く分析・説明し、孫権に抗戦の決意させたのは大したもんじゃないのかな?
というか江陵を曹操に取られている時点で不利だと思うよ。
>>858 >赤壁は不利とは言えまい、(その後長江こえての侵攻がほぼ全て成功してない点からみて)
赤壁の時は荊州を取られた状態での戦争だから圧倒的に不利だろ、
その後の魏の侵攻時には魏は南郡を押さえてない状況だから赤壁と同一視するのはかなり無理がある。
>>850 諸葛亮の異民族対策に疑問点が付くのは劉備時代諸葛亮時代諸葛亮死後の時代の中で
諸葛亮時代がもっとも南方を統治できなかったからでは?
まあもっともこれは軍事能力よりは統治能力の問題で諸葛亮の軍事能力を批判するものではないが。
つーかよ、周ユの江陵攻略に一年ってのはマイナス点じゃないだろ
プラスでもないけど
>>860 基本的に戦力的な不利のみ
陸抗がどれほど不利か知らないけど
>>861 劉備時代は南方まで手が回っていなかった
諸葛亮時代は国力の絶対的な不利を南方で補う事とした
諸葛亮以後は南方経営が安定したという順番だと思うが
赤壁が実際に大会戦としてあったと仮定して
兵力比ってどんなもんなんだろうね
6:1ぐらい?
30万対5万くらい?
30万もほんとにいってんのかね?
荊州兵の7万を加れて22、3万程度じゃなかったっけ。
そんで周瑜が任されたのは3万。
全戦線あわせれば10万↑いただろうけど、赤壁だけだと10万もいないんじゃない?
10万人も輸送する船があったんかいなとなるし
たぶん魏は船団だけで5-6万ぐらいだと思う
全戦線合わせれば(荊州も含む)13万くらいと見た!
周喩の見立てでは、北から連れてきた兵力が15万弱、荊州の降兵が7万前後だっけか?
周瑜は相手の事よく調べてるよな
標準以上の軍人司令官なら当たり前じゃん
その当たり前ができるってことが凄いんだよ
問題なのは、それを最大とみるか最低でもとみるか、だよ。
周瑜の分析はプラス点だと思うけどなぁ
疫病とかは分析通りに発生してるしね。
まぁ既に疫病が発生してるのを知ってて言ったのかもしれないけど、
それはそれで凄いような気もする
的確な分析力による勝利の予測と、
口だけでなく自ら軍を率いて勝利してしまう実行力。
片方だけを可能とする人間は少なからずいるが、
この両方を実際に行なえる人間は少ない。
たとえ赤壁が言うほどの規模の戦いでなかったとしても、
兵力差に屈せずに強敵を撤退に追い込んだその実力は
十分に評価できる。
ここまで含めての「軍事的能力」だろう。
ましてやヒゲなどは論外。
ヒゲだって大雨に備えてたり無能ではないYO
>>大雨に備えてたり
それだけかyo!!
ヒゲは頭じゃなく心意気で勝負だ!!
天候の機微が分からずに自滅してる奴よりはいいんじゃないかなぁ
髭は論外とはいわないがちょっと欠点が目立ち過ぎだな
しかしながら、魏国に危機感を持たせたのは周瑜よりも関羽
魏にとってもとんだ虚仮脅しだった訳だ。見事な道化と見るべきか。
たしかに、このスレで語るなら関羽は論外だね
大好きだけどね
大嫌い
もう関羽はいいって。見苦しい。
そうだな
ここはひとつ趙雲ってことで
ログを見る限り、
関羽の外交能力がダメだと言うのはわかるが
軍事能力の無さってのは何処を指しているのか?
人望の無さ?
>>893みたいな理由だけけど、これを言い出すと変な反論をする人間が増えるからな・・・
やっぱり普通に戦功のなさでいいんじゃない?
彼自ら軍を率いた戦いで、序盤は快進撃を見せるも(天候補正付)
呂蒙の計略、曹仁の粘りの前に敗れ去る。
これ以外に考慮できる戦いが無い以上、評価しようがないと思うのだが。
蜀勢のなかでは貴重な候補なんだけどね。
たしか前も江陵戦→曹仁→関羽の北上と話が飛んで周瑜の話は消えてしまった。
関羽の話は置いといて周瑜に戻そうぜ
髭は周の天敵だな
周瑜の戦績じたいは地味だから
>>899 すまん、どこらへんが判らないのか判らないが?
赤壁以外派手な戦果があったか?
派手じゃなきゃ駄目なのか…?
それを言うなら関羽の戦績の何処が(ry
派手地味云々じゃなくて
何故だか周瑜の話をしていたら関羽の話題になるってことだろ。
関羽の話題は関羽討伐スレとか蜀スレで飽きるほどやられたから
いささか食傷気味なところはある。
関羽の北上は破竹の勢いで結末も派手だったから派手。
だから話題が派手な関羽の方に話題がいきやすい。
周瑜の戦績は思ったより派手じゃないので話題が霞むし議論が続かない
だから関連上の話題に行きやすい。
やるなら近場に派手な戦争のない赤壁以前の話をしてみた方が長持ちすると思う。
>>903 だから何故に周瑜→関羽の話題になるんだ、と。
前の江陵のときは分かるよ。相手が同じ曹仁ってことでさ。
今回は
>>879が突然脈絡も無く
>ましてやヒゲなどは論外
と、言ったのが原因なわけで。
そこいら辺は孫策メインな感じで周瑜が目立たないんだよね
>>904 曹仁まで判っているのであれば関羽に移行したのは
分かり易いと思うのだが。
>>905 正史を読んでいて凄いってのはわかるんだが
よく分からない赤壁を抜かすと、何やら地味になる。
どうしよう。
周瑜、語らないと怒られるし、何か話題無いですか?
なんで軍事の基本的な概念や知識に欠ける人間は、派手か否かで判断する
傾向にあるんだろうな。
徐晃なんかも「華が無いから云々」などと言い出す奴がいるし、どうなってんだか。
寧ろ地味な奴ほど実は優秀だったりする。
軍事の基本的な概念や知識に欠ける人間が派手か否かで判断するのは
当たり前のことだと思います
周瑜が地味だとかどうでもいいんだが
なんでお前らはそんなに関羽を語りたがるんだ。
関羽ネタなんてもうだいたい出尽くしてるのに。
あのう
名著誉れ高い宮崎市定“大唐帝国”に
「唐卓の死後、呂布の配下はチベット系と匈奴系に分かれて内部分裂したが…」
とサラリと書いてあったんですけど、初めて聞く内容でした。
解る人いますか?
トウタクの部下が一時呂布の部下として吸収され、後に反乱
カクなどの長安残り組(チベット系)と呂布脱出組(匈奴系)とに別れた
という事だと思う。
涼州組ってチベット系なの?
ヘイ州組が匈奴系ってのは分かるけど。
涼州はチベット系の異民族が多い、たしか。
手元に資料が無いので、詳しい人の光臨を待とう。
>>907 周瑜の能力を測る為に曹仁が出され
曹仁の能力を測る為に関羽が出る。
地味な周瑜の話より派手な関羽の話で盛り上がる。
地味だから能力が無いなんてヒトコトも言ってないんだが
むしろ、正史厨は地味じゃないと評価してくれないから
地味=能力高いでいいんじゃないかとすら思う。
地味なほうを持ち上げたほうが知識があるように見えて格好いいじゃないですか?
地味というか、勝つべくして勝つだと思う。
派手は、一か八かで勝てばいいけど負ければぼろぼろ。
>>919 普通に関羽の情報分析力を否定しているつもりなのでは?
結局のところ、敵兵力、兵糧、後背の守備などほとんどすべての面で
分析できていないとしか思えない行動だったからね
>>913 なにげにスゲー電波だな・・・
呂布の配下に涼州組は居ないハズだが。
反乱を起こしたのはエン州組(陳宮)と河内組(カク萌)だし。
>>920 そこで髭を評価しようとするのが意味不明なんだよ
わざわざ文末に煽りっぽく入れてさ
髭の話がしたいなら専用スレ行けよ
>>921 トウタク旧部下は一時的に呂布麾下になっている
その後の王允殺害の反乱の事を言っているのだと思うが?
>>923 なるほど。
でもそれだと内部分裂というにはこじ付け臭い・・・
925 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 21:19:21
>>913 「董卓の死後、董卓の配下は涼州系とヘイ州系に分かれて内部分裂したが…」
が正解だな。
>>914 ヘイ州に匈奴が多く住んでたことは確かだが、
だからと言ってヘイ州人を匈奴系とするのはいかがなものか。
漢人だって多く住んでるわけだが…。
>>915 涼州にチベット系と推測される羌がたくさん住んでいたのは確か。
数万規模の反乱を頻繁に起こせるぐらいたくさん住んでた。
だから董卓の軍の涼州系将兵に羌やその混血がたくさんいてもおかしくないが、
涼州には漢人もたくさん住んでるので、涼州系=チベット系とするのは短絡過ぎ。
羌の本貫は青海地方で、そこから甘粛やチベット地方に流れていった。
ちなみに文化圏としてのチベットという概念が成立したのは唐の時代。
その頃にチベット化した羌の一部が今のチベット人だから、
チベット人が羌系であって、羌をチベット系と呼ぶのは正しくないかもしれない。
>>925 漢人=漢民族ではないぞ。
現在の中国みれば判るだろ?東と西、北と南では全然民族が違う。
異民族出身でも王化に服すれば漢人になるんだよ。
だから大雑把にみればヘイ州人=匈奴系でも間違いはないぞ。
個人的には
>>913の一文がどういう文脈で用いられたかが気になる
928 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 21:40:23
周瑜はハッタリ(後世の人が誇張した)が多い気も
929 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 21:46:23
それこそ髯多すぎ
931 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 21:56:58
俺が当時の人間で
赤壁で15万VS3万の兵力を見て
「必ず勝てます」
て言う奴が目の前に居たら
何言ってるんだこいつはと思うに違いない
932 :
925:04/09/16 22:03:31
>>926 漢人というのは人種じゃなくて、中華の文化に馴染んで数世代を経た連中のことだ。
王化に服しても、文化風俗を中華風に改めて数世代経たなければ蛮夷扱いは変わらん。
漢化して数世代たった匈奴(京兆金氏)などはもはや誰も匈奴とは呼ばん。
仮に先祖が匈奴の人はみんな匈奴系と呼びましょうということになっても、
ヘイ州には漢化した匈奴の子孫だけじゃなくて、
辺境防備のために内地から植民してきた連中の子孫もいっぱいいる。
また、ヘイ州南部は春秋戦国の時代から中華の文化圏内の土地。
匈奴がモンゴル高原から出てきてオルドス(ヘイ州北部)を支配するずっと以前から、
中華の文化に先祖代々馴染んできた連中が住んでいる。
ヘイ州人=匈奴系と言うのはあまりに暴論過ぎる。
933 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/16 22:07:13
人類皆兄弟ということですね
>>931 何も持ってないおっさんに
天下三分すれば天下取れますと言う奴が居たら
電波?と思うに違いない。
>>932 兵にして連れてきたのがそうだという可能性は?
系統が違うと指揮がしにくい気がするし。
ヘイ州で集めた匈奴系の軍事力を従えていたと考えると
それほど不自然ではないように思う。
もう話題が周瑜なのか関羽なのか呂布なのか諸葛亮なのかワケ分からん
>>935 普通にヘイ州で漢人も異民族も徴兵したんじゃねえか?
異民族部隊(義従胡とか胡騎とか呼ばれてる)と
漢人の部隊が一緒に戦ってるなんて、後漢じゃ良くある光景だぜ?
ていうか、三国志も後漢書もさんざん読んだが、
呂布の兵(というより丁原の兵)が匈奴系だなんて初耳だ。
外人部隊みたいな扱いで参加してた異民族の連中もいただろうが、
一軍まるまるそうだったとは思えん。
ごめんごめん
呂布の部下は董卓の部下の誤読だったw
チベット系/匈奴系って単語がここで出るのはどうかと思ったんで、
ここなら聞いても答えれそうな人が多いかも…との判断す。
なんか色々と思い出させていただき、
ウチに何か資料があった気がしないでも無いんで
ちょっとチェックしてみる。
へー州は北半分は完全に遊牧地だし南きょーどもいるし
きょーどがやたらおおい土地じゃないかね?
とーたくは涼州だからやはり姜人(チベット系)も多いんじゃないの?
でとーたくの死後 りかくかくし(涼州チベット軍団)
呂布 (へー州きょーど軍団)
にわかれたということではないのかね
姜人や匈奴は部族同士の小競り合いやら普段から乗馬になれてることもあって
いわゆる漢人より戦いになれてるので漢人、異民族の混合軍のなかで主力になっていたと思う
そういう意味でのチベット系と匈奴系にわかれたということではないだろか。
べつに軍の構成がほとんどそれぞれ姜人、匈奴で占められていたということではなく。
全く読まずに書き込みするけど、普通に曹操でイイんじゃねぇの?
もしくは陸遜。。
↑消えろ
942 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 04/09/17 17:49:44
↑消えろ
なんで、こいつはいきりたってるの?
>>943 いつもの正史厨の癇癪くんです
なま暖かく見守ってあげてください
>>941 武勇最強スレ系とかでも、「普通に呂布」ではつまらんからなあ。
そういう事なんじゃないの? と、俺もまったく上を読まずに書き込んでみる。
( ´∀`)σ)Д`)
947 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 20:35:22
「軍事能力が高い」の定義自体がさっぱりです
流れ的には戦争で勝率の高い人を挙げてるみたいですが
戦争で大事なのは物量なので治世が上手な人=軍事能力が高い
はおかしいでしょうか?
948 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/17 20:37:33
>>947 治世が上手な人→治世が上手で戦争の指揮も執ってた人
に変換お願いします
戦争に勝つためのものを用意するのが政治力(語弊があるけど)
用意されたもので勝つのが軍事力
くらいに思っておけばいいんじゃないの?
>>947 戦場に難易度を付けて、難易度において評価するという風に説明を受けたが
一度もその流れになっていないが。
また変なのが沸いてきてるナア・・・
1000!!
1000!!
1000!!
1000!!
1000!!
961 :
無名武将@お腹せっぷく:04/09/19 23:07:49
961
1000ゲットで大喬タンのスカートの中がみたい
1000ゲットで典ゐのパンツの中がみたい
うおーーーバイオハザードアウトブレイク2難しーーー
ゾンビ象強杉
曹操ってなんで中華統一できなかったんだろうな
中原制覇したのに
アメリカが圧力をかけてきたから
>>965 黄巾の乱以降、凄まじく国土が荒れたからさ。
魏軍100万、呉、蜀20万づつなら統一できても
魏軍30万、呉、蜀5万づつだと無理だっぺ?
時間が経てば無理なく併呑できるから
戦争してまで取る必要なしと思ったんじゃないかな?
曹操は曹操あっての軍しか作れなかった。完全な独裁者であり
軍権を分散しなかった。
これが強みだったのは中原制覇までで
つまり曹操の戦術と軍政だけで中原を制覇したといえる
中華全部を征服する戦略眼は意外にも曹操にはなく、
それが曹操の限界だとおもう。
しかし軍事や政治以外の才能とのバランスが曹操を曹操たらしめ
希代の英傑と呼ぶにふさわしい人物と思う