1 :
無名武将@お腹せっぷく:
曹操? 呂布? 諸葛亮?
んなもん、裕福な豪族連中が私利私欲で争っただけの話じゃん。
物語だけでなく時代そのものにもスポットライトを当てようぜ。
ということで、後はよろしく。
私利私欲?
3 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/23 22:24
たて逃げかよ、
>>1 !?
じゃ、三国時代の奴隷の実態についてなんか教えて下さい。
秦や漢の頃と一緒なのかな?
4 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/23 22:26
日照りが続いたりいなごにおそわれたり台風が来り
>>4
光栄のゲームかよ!
戸籍にのってる人少ないよね。
たぶん豪族などの地方勢力に人をとられてるんだろうね。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 09:33
大昔(?)、三国時代が古代か中世かで論争があったよね。
今は、こんな論争は無意味なものとして流行らないのかな?
まあ当時も、宋代を巡っての議論と比較して地味だったのかも
しれないけど。
8 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/25 10:15
時代区分論は後世の都合でできたうさんくさいものだから、
どっちだとしてもかまわないと感ずる。中国は特に。
呂布が裕福な豪族だなんてはじめて知ったよ(w
まあ晩年の呂布は富裕な豪族にふくめてもよいと思うが。
スレ違いなので下げ
>>6 戦乱や重税を避けて、山の中とかに逃げてる人もいたのかな?
奴隷といえば、
後年の北魏をはじめとした北方諸王朝で、
重装騎兵が発達したのは、
別段、彼らが騎馬民族による王朝だったからではなく、
一部の貴族が、おおくの農奴を保有し、民衆を私有化するするという、
その社会構造に原因が、あったのではなかろうか。
そもそも重装騎兵を維持するにはコストがかかる。
ゆえに、これに耐えられるのは、それなりの土地と私民を有する貴族階級である。
そして重装騎兵が国軍の主力部隊となり得るためには、
国家に、ある一定数の貴族階級が存在しなければならない。
そして、この重装騎兵を主力とする北方の軍事様式は、
おなじく貴族階級によって構成された
戦車部隊を中核とする古代社会の軍事様式と、
おなじような側面が、あるのではなかろうか。
# などと、なんの根拠もなく無責任に書き逃げしてみる。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/07 17:14
北魏って土地を、民衆に均等に分配したりなどの、
平等政策をとったのではなかったでしたっけ?
北魏の均田制は耕作地を人々に公平に給付するという制度ですが、
実際には、一個人の所有する奴婢や牛にまで耕作地が給付される制度でした。
ゆえに、おおくの奴婢や耕作牛を所有する豪族たちは、
普通の庶民よりも、おおくの耕作地を給付されました。
またそもそも、この制度が制定された理由は、
当時の豪族たちが、おおくの土地と民衆を実際に私有化していたことにあります。
しかし均田制は上述のような運用のされかたをしたために、
その施行後も貴族階級が消えさることは、ありませんでした。
「時人困飢流散,豪右多有占奪, 安世乃上疏陳均量之制 ,
孝文深納之. 後均田之制」北史/列傳/卷三十三 列傳第二十一/李孝伯兄祥
土地所有をめぐる王権と貴族の確執については下のページがいいかも。
ttp://www.dokidoki.ne.jp/home2/akira16/index5-6.html
16 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/11 14:43
ryousurenoyokann
ごはんちゃんと食べれない人達もいた?
あたしも頑張って駄スレを盛り上げる
うん
こんじょだ!こんじょお!!
時代は違いますが塩鉄論などが参考になるのでは?
19 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 05:00
何か役に立つかもしれない?
20 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/25 01:00
昔のパンツってどんなの?ふんどし?
不勉強&スレ違いでスマヌが、三国時代の兵制はどうなってたの?
豪族の私兵を国家がまとめて軍を形成していたのか?
それとも国家が徴兵した兵を各指揮官に振り分けていたのか?
各武将謀叛の際に多くの兵が叛乱武将に付き従ったり
曹操の屯田制が特殊な例として史書に記載されているのを考えると、
前者が圧倒的だったのかな?
22 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/31 11:37
誰か21に教えてあげて。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/09 00:01
当時の中国各地の特産物の情報もプリーズ。
>>21 後漢の曹操も豪族の一人として私兵を率いていた訳だから、
後漢から禅譲を受けた魏も、豪族が私兵を持つことを、
ある程度は容認していたのではなかろうか。
レスTHX(涙
ってことはゲームの三国志は明らかに間違いってことね。
スレ脱線だが。
>>24 私兵の要素のあるゲーム、面白そうかも…
「こいつボンクラ武将だけど、兵力あるから配下に欲しいなぁ」とか。
>>25 たしかにいいね。
というより実際には権門の実態なんか、そんな場合が多い。
春秋時代の貴族など、分かりやすい例だと思う。
だいいちゲームにおける降伏・投降間もない人材に、いきなり大軍預けるなんぞ、
かなり興ざめするし。
こちらもスレ脱線にて、すまない。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/19 23:40
age
28 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/19 23:49
結婚前のセックスとかどうなんだろうか
何歳くらいで成人?
>>26 結局、コーエーゲーの武将の数=兵の不文律は間違ってないってことか。
よく批判の対象になるけど
>>29 たしかに、「乱世記」ではそのあたりを考えたんだろう。
結局は、練り込みが足りなさ過ぎているようだが…。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/23 04:38
まあ無名の武将はくさるほどいたんだろけど
>>13 で紹介されてたkayさんの書評の中にもあるけど、
五井直弘『漢代の豪族社会と国家』を読んでみるといいんでない?
遺稿集だから本全体の統一感ないけど、興味深いコトいろいろと書いてあるよ。
とくに、序章にある後漢代の集落跡の話なんて、このスレにピッタリじゃない。
豪族は出土品でよく見かけるような楼閣に住んでたけど、農民はせま〜い竪穴住居だって。
ここ最近の発掘調査ってスゴイ気がするから、もしかすると陳腐化してるかもしれないけどね。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/03 23:31
パンツはどうなってたんだよー!
34 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/03 23:39
35 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/08 23:42
あげ
36 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/22 02:34
メッキ技術はあったの?
世界史板みたい。
非常に勉強になります。
よってsage
38 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/29 06:09
パンツ問題解決に向けてあげ
39 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/10 03:35
散髪とかどうしていたんだろう?
髪は伸ばし放題だったのかな?
よく戦国時代の兵士は伸びた髪を
いろいろな編み方で編んでいる図絵を
見たことあるけど
基本的にみなロン毛だったということで…
>36
秦始皇帝陵から出土した剣があまりによい状態だったので調べてみたら、
表面に異なる金属が塗布=メッキ加工?
という話を聞いたことがあるが……
42 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 06:16
便所はあったのか?
>>42 無論。
「韓馥、便所で自殺」「黄蓋、便所で瀕死」は
俺的に三国志屈指の名シーン
44 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 09:47
春秋期に、便所の落ちて死んだ君主がいるらしい…。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 10:15
ハンショの便所で簀巻き
46 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 10:27
>>38 パンツについて。
あり。とく鼻褌幅、24.5センチ×長さ70センチの布で構成。
>>41 クロムめっきのさび止め加工
>>42 屋外に2階屋になった落とし便所(下にブタを飼う)
屋内ではおまる使用(夜)
>>43 曹嵩と妾。トイレで死亡。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 18:53
三国時代の貨幣って、どんなんだったん??
48 :
こんなスレがあったのか:02/06/20 19:39
>>46 >ぱんつについて。
北方のトランクス形式の騎馬褌も忘れないでほすぃ。
>>47 後漢末には後漢五銖や剪輪銭という貨幣も流通していたが、
董卓が質の悪い貨幣を鋳造し、貨幣の価値が地に落ちたことは史書にも名高い。
しかも三国時代も押し迫ってくるといよいよ金属が足らなくなり、
棺桶の釘を狙って葬列を襲撃する強盗事件さえもが発生した。
どちらかというと、布地や塩などが代替通貨として利用されることが多かった。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 23:55
>>48 騎馬褌てのは、知らなかったけど、騎馬用の褌ってことですよね〜。
褌は、長さ的にひざぐらいまで、&おなかで紐で止めるってスタイルだから
、とく鼻褌のほうが、パンツ一丁!て感じが、かなり。
>棺桶の釘を狙って葬列を襲撃する強盗事件
これって、陳寿の三国志の中の記事だったよね〜。
どこの載ってたっけ?
ただ、前に読んだ印象じゃ、葬式の行列を襲撃して、中のものを盗むのに、
まず釘を取るのが普通だろ・・・て、思ったんだけどな。
それに、そんだけ貴重なものなら、平民ごときの棺おけに使用不可
とは思ったんだが。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 23:57
51 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/21 01:08
>>50 普通に小銭とか、董卓小銭じゃなかったっけ?
52 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/22 22:22
53 :
こんなスレがあったのか:02/06/23 10:39
布製の下着で馬に乗ると、慣れないうちはちんこが擦れてしまって気持ち良k……もとい、痛くなるので、
皮製の短パンのような形の下着も、(基本的には軍装として)
騎馬兵の組織的な導入と共に使用されるようになったようだと
被服関係の資料で読んだことがありました。
とく鼻褌は、考証のしっかりした中国製ビデオや連環画で見かけますよね。
>陳寿の三国志の中の記事だったよね〜。
晋書じゃなかったっけ?
う?…忘れました。 どこでしたっけ?(俺はバカか?)
54 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/23 12:03
55 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/23 20:17
>39,40
儒教社会において体の一部を損なうと言うのは不孝。
(刺青なんかももともとはそういう刑罰、晒し者の要素もあるが)
また、古代中国では頭は力の源とし、頭頂を人前に晒すことを恥とした。
下手に髪の毛なんか切ったらコン刑(頭を剃り、晒し者にする刑罰)
にされたと思われる。
と言うことで散髪は無し。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 23:23
>>53 そんな状況になられたら、やばい(笑)。
布パンっていうか越中褌系より、そりゃ皮パンのほうか、
保護力がつよいですね。
でも、皮パン一枚者気持ち悪いよ〜。とく鼻褌も一緒にはかせておくれ。
棺おけ話。私も見つからん、どこだ?日本語で読んだから、
陳寿のだったと思うけど。
>>40 始皇帝の兵馬俑は、凄い髪型にしてるよね。
あみこみとか、三つ編みとか。たしかに、そういった系のほうが、
髪が乱れにくいのは確か。
ただ、三国志の時代にそれをしていたかどうかは、
私はちょっとわからんです。なんか俑とかの資料に載ってないかな。
後漢の後期では、徐州より南の地方で、髪を結わずに、
たらしていたりするのが普通という記述があるから、某ゲーの周瑜の髪型も
あながち嘘ではない。
「忘憂清楽集」と言う書物に、
孫策と呂範が打ったとされる囲碁の記録があると耳にしたんですけど、
それって偽書でしょうか?真偽はどうあれ一遍みてみたい...。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/29 10:40
忘憂清楽集は宋代に書かれた本で
中国で一番古い棋書って言われてますね。
ただ、孫策と呂範の棋譜はつくりものらしいですけど。
大学図書館とかにはあるけど、少ないです。
みるなら買うしかないらしい。2万超えてますが。
>>58 情報ありがとうございます。
やっぱりつくりものなんですねぇ。
見てみたいけど、2万はちょっと高いなぁ...。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/30 01:25
良スレage
61 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/30 11:28
>>61 ありがとうございます!
言葉では言い表せないほどの感謝の気持ちでいっぱいです!
63 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/08 00:07
良スレage
ところで、後漢あたりの食事事情ってどんなものだったんでしょうか?
ああいうものは、やっぱり副葬品やなにかから
推察するしかないのでしょうか?
64 :
武田騎馬軍団:02/07/08 01:45
>>63 今ほどのレパートリーはない。
味付けの方法も少ない。
(液状の調味料はなかったんじゃないかな。
あってもせいぜい野菜と塩で作ったスープとか)
中原では麦が主食。これをパンみたいな餅にしたりしていた。
江南では稲作があった。
肉はよく食べられていた。江南では魚も食べられていた。
あと意外なことに野菜はあまり食べられていなかったらしい。
ほうれん草とか色々種類はあったけれどね。
にんにくはまだ食べられていなかったと思う。
当時、ニラ食べていたのは日本ぐらい。
熊は贅沢品。
以上、何かの本で読んだのをうろ覚えで書いたんで、
間違いがあれば許してね。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/08 23:49
>>63 漢代の馬王たいのお墓に出土品にいろいろありますよ。
このお墓は、前漢初期の湖南地方のもの。
野菜なら、芋、しょうが、たけのこ、レンコン、菱の実、
くわい、からし菜とか。
調味料も種類は、以外とあったようです。
塩、しょうゆ、みそ、佐藤、はちみつ、酒こうじ、酢
などを使用していた模様です。
あと、つけたしで、漢代宮廷料理で、沛公狗肉というものが。
狗とすっぽんを一緒に煮込んだもので、漢代の宮廷料理で
かならず出された一品とか。日経にのってたです。
中国書店から、馬王たい漢墓のすべて、という本が
でてます。これに詳しいです。
おお!お早い回答かたじけない。ありがとうございます!
なるほどー。意外とけっこう色々なものを食べて居ったようなのですね。
さすがは食の国。
>中原では麦が主食。
もしかしたら、酒も麦酒みたいなものでしょうかね?
だとすると、ちょっとカコイイ!
肉は焼くだけで味が出ますから
古今東西、基本の料理なのでしょうね。
それに各種調味料まであったのならば
士大夫階級は、けっこう贅沢なものを食べてたんでしょうね。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/09 22:46
肉食に関しては、庶民はあまり食べられなかったようです。
ぜいたく品という認識です。
郭林宗が、ニワトリ料理を食べさせてもらえるのかと、ぬか喜びした
ことが有ったように、お肉料理というのは特別な日のお料理・・・
という傾向が強かった模様です。
馬王たい墓から大量に見つかった副葬品の食料も
領民を搾取しての結果ですもん。それにしても、食料を墓に詰め込みすぎ!
鳥肉では、すずめや七面鳥、おしどり、鶴、梟、・・・。食いすぎです。
お酒でも、出土品は、白酒、米酒、温酒(かもし酒)、ろ過済みの清酒
が、出土してます。
でもほとんどが漢全盛期の話ですよね。
後漢末、つまり乱世の民百姓はかなり貧しい食生活だったんでは?
少なくとも戦中の日本よりはひどかったんじゃないかと妄想。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 23:30
>>69 馬王たいの時代のは、前漢盛期ですし、もちろん彼らは、激リッチ。
よって、庶民とはまったくかけ離れた生活ですよね〜。董卓とかなら
生活が変わらなかったかもしれない(笑)
後漢末期の庶民の生活は、それはそれは、語るも哀れ・・・・。
だから程cが人肉混ぜ込めしたとか言われるんですね。
三国時代のsexはどうだったの?
72 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 00:00
>>71 こういうのって資料に残りづらいからなあ。
簡雍が「あのものは淫行の道具を持ってるからタイーホ」とか言ってるから
おそらく屋外でのsexとかは規制されてたんじゃないかな
今思いついたんで根拠0だが。
こんなことで、マジレスをしていいものかどうか……
『礼記』には、「健康(体内の陰陽の気)を正常に保つために、
夫は妻が50歳になるまでは、5日に1度のペースでセクースしなさい。」と書いてあるので、
たぶん、そんなペースでみなさんガンガってたんでしょう。 はりきれ。
ちなみに、後漢を代表する詩人の一人である張衡の祝婚歌「同声歌」という詩の中にあるように、
また、後漢書『邉讓伝』の中にあるように、前後漢代には花嫁道具の一つとして、
挿絵入りのSEX教本が入っているのが普通のことだった。
この教本は、素女、玄女、采女の三人の女性が黄帝と問答するという形を取っていて、
花嫁花婿に、性交時の体位や突き方、回数など事細かにレクチャーしている場合が多かったそうだ。
現存は……するのかな?
確か、断片的には明代に復刻されたヤツがあったはず。
邦訳されているかどうかは分からない。
後漢の道教の師の一人であり、黄巾党の聖人の一人でもある張道陵が、
「合気釈罪」という、「セクースによって解脱しようYO!」という教えを説き、
それを拡大解釈した黄巾党の一派が、『黄書』を元にカルト化して、
乱交もアリアリの先鋭的なSEX教団となったことは、後の唐の仏僧・道宣が編纂した
『広弘明集』にある通り。
宗教がたきの仏教徒のいうことなので、話半分とするとしても、
黄巾党の母体である道教は、元々性的神秘主義性格が強いので、
後漢の王充などは著作の『論衡』の中で、邪教扱いにしちゃってるね。
黄巾党はセクースに関して非常にオープンだったようです。
ついでに、同性愛に関してだが、
これはまぁ、皇帝すらも寵童を囲うような時代であるのだから〜……、
……三国志の人々も、お好きな向きは大いに楽しんでいたと思われ……。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 17:11
神キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!
同性愛については、お気にな恋人を持つのがステータスとして、流行っていたらしいです。
漢代あたりから。
妻は、そのことについては文句言う権利なかったらしい。
宮廷の女官たちを ハダカで木に登らせて遊んだとか言うばか帝もいたぐらいだから、
お金持ちは、やり放題だったのではないかと思われ。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/13 11:12
>>77 そんなものが流行っていたのですか・・・・。
ソースを教えてくだされ〜。
「古代中国の性生活」R・H・ファン・フーリック著 せりか書房
「性愛の中国史」劉達臨著 徳間書店
「肉麻図譜」中野美代子
「宦官」三田村泰助著 中公新書
同性愛がらみの記述があるものは、私が読んだのはこんな所です。
他にも、いくつかあるらしいですが。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/14 01:43
>>79 サンクスです。
でも、濃いですな〜(笑)
確かなんかの本では、ホモはタブーでもなんでもなくOKらしい。
基本的に、陽気の男子が陰気の女子とエッチしたら、
陽気を損なって、健康によろしくないから、気をつけましょう。
というとこから、房中術の必要性が。
ホモなら、陽気×陽気で、プラマイ0ゆえ、OK〜という考えが
あったというのは聞いたことがある。
でも、三国志でそれには触れたくね〜。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/14 04:24
801のヤシらが喜びそうだな
まだまだ性の対象が未区分な時代なんだろうね。
いっそ江森タンスレの住人を呼んで来たい。
さらっと読みで読んだことがあるが、あの小説は割と考証がしっかりしているし。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 00:39
>>82 確かにあの本は、数ある三国志本の中でも
一番読み応えがある(←ああゆうとこは除いてくれ)
っていうか、一番よくかけている。
でも、あれは・・・・考えたくね〜。
ということで、すまんがこのスレでこれ以上
その話題はしたくないのだが。
よって、別話題希望。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 01:00
色、については、どうなんでしょうか。
現代日本だと、喪服は黒で婚礼衣装は白ってのが通例ですよね。
三国時代の中国ではどうだったんでしょうか?
中原と江東じゃ、違っていたりとかもあったりしますか?
禁色は、この時代にすでに存在していたのでしょうか?
85 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 01:18
三国時代の喪服って白じゃなかった?
「報仇雪恨」と書かれた白旗と白装束で全軍を統一し
曹操は徐州を攻めた…。ってあるし。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 02:12
三国時代に限らず、
中国・朝鮮・日本の伝統的な葬祭の色は白色です。
>現代日本だと、喪服は黒で婚礼衣装は白ってのが通例ですよね。
日本でもごくごく近年までは喪服(葬祭の色)は白ですよ。
喪服が黒になったのは、ほとんど明治にかかってからだったはず。
ちなみに婚礼衣装が白色というのは、根本的に間違ったイメージかもです。
なぜなら花嫁衣裳である白無垢は、喪服の色だからこそ白なんですよ。
つまり、鈴木家(仮名)の「お嬢さん」が喪服である白装束をまとうことによって死に、
加藤家(仮名)の「嫁」として生まれ変わるという、呪術的な意味があるのです。
現在でも、古い城下町の格式ある家の結婚式などでは、花嫁には2回のお色直しがあって、
白無垢→赤い着物→金襴緞子と衣装替えをします。
これは、
白:葬式(鈴木家のお嬢さん死亡)
→赤:誕生(産褥の血塗れとなって、加藤家の「嫁」が誕生)
→派手な衣装:(加藤家の財布で買った着物を着ることによって生まれ変わる)
という、「おんな」の儀式というわけです。。。
(※西洋のウエディングドレスについての意味は存ぜぬ。中途半端にバカでスマン。)
88 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 09:14
春秋期に、晋文公の死の直後、西隣の秦が軍事行動の一環で無断で晋領内を
通過しようとした際、後嗣である晋襄公は、秦をたたくため、喪中ながらも
白の喪服を真っ黒に染め抜いて出師し、以後の晋では黒が喪服の色となった
…とかいうのを聞いたことがあるけど…。
古代中国の喪服が白いのは、“染めていない”ものだからだったような。
つまり、喪中はいっさいの装飾と贅沢を排除して、喪に服すると言うことらしい。
日本の嫁入り道具の中に、白い喪服が入れられていたのは“ニ夫にまみえず”を
表現したものだとか(ようは、いったんこの人の嫁になったからは、たとえこの男が
死んでも他の男と再婚はせず、一緒に死ぬ覚悟ができていると言うことを表現したもの
らしいです)
90 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/17 17:04
誰かが死んだ時に破れた衣を着たり泥を顔に塗ったりするのは、古代儒教だっけ?
91 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/17 23:53
>>90 古代儒教というのかどうかは知らないけど、
古くから葬式の際には身内は麻の服着て・・・といのが
普通だった。
斬衰ってのはよく言われるけど、麻で作った袖とかを
断ちっぱなしにしたものだったはず。
ちなみに、他の弔問客とかは、平服+白地の冠とか
喪章みたいな衰といわれるものを平服の上からつけたりとか。
顔に泥を塗るの? ちょっとわからんっす。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/18 07:56
泥を塗る、というのは知らないなあ。
儀式としての化粧や仮面とは違うんだよね?
いろいろ面白い話があるなあ、ここ。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/21 22:25
小説で、三国時代婚礼の時は青だって表記があった気がする。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/23 14:08
結婚衣裳の色問題解決に向けてage
えと…中国のドラマの三国演義の関連書籍では、
結婚式は赤って決まってたとか書いてあって、劉備と尚香の結婚式は
赤づくめになってて壮観でした。
あのドラマは考証はかなり詳しいとも書いてあったのでアテに
なると思います…。
で、皇帝のカラーって、「朱」ってどこかで聞いたことがあります。
京劇の本では、紫→青→黒→白で、紫が一番家臣ではランク高いとか
書いて有りました。
でも図書館でちらと見た本なので、うろおぼえです。
間違いだったらごめんなさい。
>93さま
それは、もしかして、麋竺が若い女性の幽霊を蒼い衣を着せて弔ってあげた
とかいう話のことですか?違ってたらすみません。
>>95 ん?中国の皇帝色って黄色じゃなかったか?
それにしても2ちゃんで敬称をつけるとは珍しいw
>96
帝は、季節によって服の色を変えるらしい。
春から順に青→赤→黄→白→黒、だって。靴は赤。
資料?…ゴメソ、爆笑三国志です。
皇帝の色って基本は朱かな〜っておもうんですよ〜。
というのも、「礼記」では、
「朱の車にのって、赤い馬に引かせて、赤い旗をたて、朱の衣をまとい、
赤い玉を帯びると・・・・」
でも、綬の色は、後漢の皇帝は、黄赤だったらしひ・・黄赤って
オレンジ?
花嫁衣装〜。
身分によって使用可能な色がきまっていた模様です。
EX,600石以上・・・朱と、紫と紺つかっちゃだめ。
300石以上・・5色使用OK。青、黄、紅、緑、絳。
こんな感じらしい?です。
おお、みなさまよくご存知ですね、鎧はともかく、
衣装の習慣の資料本が少なくて困っているところです。ヤレヤレ。
>86さま
えと話ズレますが、ウエディングドレスって『緑』は演義が、じゃない
縁起が悪いそうです。子供のとき読んだ怪しげな本の記述ですが。
なぜかは書いていませんでした。
>98さま
黄赤、ですか…黄色&赤色という意味にはならないでしょうかね。
そういえば、12章とかってゆー文様も文様図鑑に載ってますよね。
12こ全部使ってよいのが皇帝でしたっけ?
毎度うろおぼえでごめんなさいです。…ところでこの場で敬称って
珍しいのですか…知らなかった。戦国三国板しか来たことが無いもので。では
100 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/27 00:43
>>99 黄赤ですね。後漢書の輿服志の黄赤綬の項にかいてありますので。
ちなみに、この黄赤をベースにして、黄赤紺ひょう(薄青)の四色で
文様を入れたものが、天子の綬として用いられていた。
天子は章を備えるですから、12章の使用が許されています。
以下、位によって、9章なり7章なりと、変化がつけられているようです。
敬称は確かに、2ちゃんでつけるのは珍しい
みんな名無しなんで、気にしないんでしょう。
コテハンであれば、つけるかもしれないですが。
でも、まあマターリするので良いかと。
>95 孫乾の従者殿
うろ覚えなのですが、玄徳と尚香の婚礼の描写で出て来ていたと思います。
実際の季節は別として、婚礼は「春」の行事であり、
春の色は五行で青だから…が根拠だったと記憶しています。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:34
読売新聞夕刊を見た方はいますか?
中国で、また漢代の女性遺体が発見されましたね。
保存状態はかなり良いみたいです。
片目が半開きなのがちょっと怖かった。
名前は「凌恵平」だそうです。
相当高い身分の婦人だそうですが、一体誰の関係者でしょう?
今後の調査結果に期待したいですね。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:37
>>102 ミイラ化してるのに半開き?
どういう意味?
104 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:43
>>102 読売取ってないです。詳細キボン!
>>103 儒教の教え上、古代中国では、
死者の体は全力を持って、
生きている状態のままを保つことを主眼に置いて埋葬されるから、
生乾き状態が比較的長く続くんだよ。
だから、半目のままでミイラ化ということもありえる。
105 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:49
眼球は無くなっても瞼は残るのか、知らなかった
106 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:49
107 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 01:55
>>106サンクス
皮膚には弾力って・・まさか肉まで残ってたのか!?
>>106 ありがd
江蘇省・連雲港!
徐州、キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!
これは、遺体本体もそうだが
副葬品に期待が持てるね。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 02:50
ああ、キモいよ…… 泣
111 :
無名武将@お腹せっぷく:02/07/30 02:54
>110
新聞にのってた写真はまっぱな上に間近で撮った写真だからもっとキモかった
113 :
無名武将@お腹せっぷく:02/08/03 00:16
114 :
無名武将@お腹せっぷく:02/08/03 19:16
秦代に分刻みで時間記録 大量発見の竹簡から判明
【長沙(中国南部)3日共同】中国湖南省文物考古研究所は3日までに、
同省西部の竜山県で今年6月に大量発掘された秦代(紀元前221年−同206年)
を中心とする竹簡について、分刻みとみられる細かい時間を記した公文書が含まれ、
秦代の社会を知る上で貴重な発見であることを明らかにした。
同研究所によると、これまで解読した秦代の数百枚は、
少なくとも秦による中国統一の前年の始皇帝25年(紀元前222年)から2世元年までの
13年間にわたる地方の役所の報告書や通達などで、
年月日の後に「水下五刻刻下三」など細かい時間が記されたものがあったという。
同研究所では「刻下三」は分刻みの単位を示すもので、
前漢時代の出土品で存在が確認されている「漏壺(ろうこ)」と呼ばれる水時計が
既に秦代に使われ、地方役所に備えられた可能性が強いとしている。
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=DLT&PG=STORY&NGID=AMAN&NWID=A0030300 例の焚書坑儒を免れた二万枚の竹簡の続報です。
これから更に色々な事が分かっていくんでしょうね。
研究者の方々の努力には頭が下がる思いがします。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:02/08/03 19:49
>>114 す……素晴らしい。
中国、もっと発掘に力を入れてくれ。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:02/08/04 01:05
>>114 発掘はどんどん新しいのが出てきて、資料の整理が
追いついてないところがあるのが、痛いけど
出来るだけ頑張って調べて欲しいよね。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:02/08/13 00:04
好きなスレなのでホッシュ
118 :
無名武将@お腹せっぷく:02/08/13 10:49
後漢末〜晋までの官制とか役職ってどうなってたんすか?おりゃあ丞相>三公(大司馬・司徒・司空)しか知らないもんで。教えていただけませんか?
119 :
無名武将@お腹せっぷく:02/08/15 10:18
>>118 それではあまりに範囲が広すぎでございます〜。
もちょっと絞ったほうが、みんな答えてくれると
思うよ。
120 :
コギャルとHな出会い:02/08/15 10:19
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121 :
無名武将@お腹せっぷく:02/08/15 18:24
>>118 少しは自分で調べろ
その上で分からんことを聞け
123 :
無名武将@お腹せっぷく:02/08/16 22:01
>後漢末〜晋までの官制とか役職ってどうなってたんすか?
後漢は後漢で官位は乱発するし、
群雄割拠時代〜三国は、各勢力で勝手に名乗りあうし、
晋代は晋代で、安定する前に国の基盤が乱れたから、
正直、そのへんの役職名の力関係や推移はわけわからん。
最初三国志読んだとき、
県?郡?州?
県よか郡のほうがでかいのかよ!
って思った・・・
官位は難しいね。もっとも、中央の官位よりか
地方の官職の方が興味があるYo
>>32 おどるたい焼きたんの紹介してた
五井直弘たんの『漢代の豪族社会と国家』図書館で読んできたよ。
巻末の「第七章 曹操政権の性格について」が、
後漢時代、曹操をふくむ各豪族たちが、
漢王朝の官職の仕組みを利用して、
配下をふやし勢力を形成していくさまを
解き明かしていて、おもしろかった。
で、それとは関係ないけれど、おなじくこの本の第七章から、
魏王朝で大きな位置をしめていた官職「祭酒」と
青州兵についての話も、おもしろかったからここにコピペ。
「豪族軍に敵対していた黒山の賊などが、簡単に曹操軍の中に編入
されてしまったのは、両者の編成形態や結合形態が相似たものであっ
たことを示すものとして大いに注意しなければならない。」
「たとえば五斗米道の教団組織の中で大きな位置を占めていた祭酒
は、後漢時代の官制ではあまり重要ではなかった。ところが曹魏の
時代になると、たとえば丞相の属官に軍師祭酒、主簿祭酒、参軍祭
酒があり、司空にも祭酒があるというように、かなり重要な官位を
占めるようになってくる。これは五斗米の組織と曹魏政権の組織と
が、ある意味では共通の性格と組織とをもっていたために他ならな
いともいってよい。」
(五井直弘『漢代の豪族社会と国家』
「第七章 曹操政権の性格について」)
127 :
こおろぎ│・ω・ ) ◆8T0pwV36 :02/08/21 00:57
ホッシュ( ・ω・)ホッシュ
| ̄ ̄ ̄ ̄
| 保守…
|_ __
∨
∫ _____
∧_∧ riii= |┌──┐| ̄|-、
( ´_ゝ 「 ノ || || | ]
/ ⌒\/ /───┐ |└──┘| 」 /
/ ∧ \ / ̄ ̄ ̄ ̄`・、[ ̄ ̄ ̄ ̄] ̄ ̄|
( 二\ `'| X| | O O|
〜〜ー⌒ ̄~〜〜--〜〜-〜"~
ホシュ♪
______
\| (___
♪ |\ `ヽ、
| \ ChopinConcerto \
∧_∧| \ 〉
( ´∀`.| ♪ \ /
‖( つ|STEINWAY ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ノ
‖( 匚______ζ--ー―ーrー´
〓〓) ) ‖ || .||
‖ (__)‖) ◎ .||
. ◎ .◎
130 :
こおろぎ│・ω・) ◆8T0pwV36 :02/08/29 02:12
ホッシュのため、遅レス。
>>28 男子は20歳、女子は15歳で成人だったはず。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:02/09/01 23:16
良スレアゲ
132 :
無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 12:49
当時の官職の実際の仕事については、石井仁の「曹操 魏の武帝」に結構分か
り易く載ってたです。
ところで質問なんですけど、数年前に蒼天航路が流行ったとき、漢代の侠につ
いて書かれた本が出ていた覚えがあるんですけど、どなたか御存じないでしょ
うか。陳舜臣さんのではなかったように思います。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:02/09/06 22:52
>>130 『礼記』でしたっけ。男子は20歳で加冠、女子15歳でケイ礼(漢字分からず)
とありますね。
>>132 幇ではなくて?
ちょっと分からないので、人材募集age
>133
いや、確か侠です。神保町の書泉で見たんですけど、金なかったんで買わなかったんですよ。
こないだ東方書店とかでも聞いたんですが、わからないとの事でした。
下げでも保守できますかな…?
多忙なためレス・ネタ振りできなくて御免なさい。
人形劇とか見ていると、ベッドとか椅子とか出て来ますが、
大きさはどれくらいなんでしょう?
また、庶民も使っていたりなど、
中国では一般的なものだったりしたのでしょうか?
前漢ごろまでは、地面の上に直接、むしろ等をひいて座るなり
なんなりしていたようが、後漢時代以降、台を用いるようになって来ました。
釋名によると、座ったり寝たりするところを牀と読んでいました。
以下、単位はメートルです。
大きくて高いのが牀(望都二号漢墓出土品。長さ1.59 幅1 高さ0.18
細くて長い榻(河南省出土品。長さ0.875 幅0.72 高さ0.19
一人用の小さいものが独坐
足がついてない板状の台が?。
の分類です。
(以上、漢代の文物より)
庶民に関してはわからないけど、こういう台をつくったりするのにも
マネーがかかるわけだから、地べたに直むしろっぽい気が・・。
椅子はこの頃まだ、メジャーではなかった模様。
霊帝は、折りたたみ系の椅子を愛好者だったらしいですけど。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 23:27
良スレあげ
139 :
無名武将@お腹せっぷく:02/09/24 03:41
ちょと危険ぽ…? ageまする。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:02/09/28 07:55
単発質問防止上げ
141 :
無名武将@お腹せっぷく:02/09/29 05:23
良スレあげ
142 :
無名武将@お腹せっぷく:02/10/02 10:54
|∧∧
|・ω・) ダレモイナイ...
|⊂ バルタン スルナラ イマノウチ...
|
(V)∧_∧(V)
ヽ(・ω・)ノ フォッフォッフォッ
/ /
ノ ̄ゝ
(V)∧_∧(V)
ヽ( )ノ フォッフォッフォッフォッ
/ /
.......... ノ ̄ゝ
143 :
こおろぎ│・ω・) ◆QQQQqqq. :02/10/02 17:50
ふと思い出せなかったので、ここで聞いてみます。
三国時代(東漢〜魏晋)にかけて使われていた
ブラジャー(というか、乳押さえ)の名称、あれはなんと言いましたっけ?
抱腹か心衣でいいかな?
ブラっていうか、きんたろーハラマキみたいだけど。
>>144-145 おお、確かそんな名前でした。
どうもありがとうございます。
きんたろーハラマキみたいな形状になってしまうのは、
たしか宋代以降のものだったと思います。
漢〜晋あたりのものは、ストラップが背中でクロスしていたり、
ショルダーの無いビスチェ状だったり、サイドをリボンで留めるようになっていたり…と、
なかなかおしゃれな形状だったと記憶しています。
がばろん氏が下で挙げて下さった服飾資料の中の
『中国五千年女性装飾史』が良書で、
その本で図版入りのブラジャー変遷の解説図を見たことはあるのですが、
絶版&出版社倒産の上、地元の図書館に聞くと蔵書してないと言われて
どうしようかと思っていたところでした。
抱腹と心衣は「中国五千年女性服飾史」に
載っていたやつだよ。絶版だったのか・・
全頁コピっておいて良かった。
きんたろーハラマキは、たしかに清のがそれっぽいかも(肚兜)
宋代の抹肚は、すげーかわいいです。
>>145 なんか面白そうなサイトありがとう〜。
少々怖い(笑)系の某項目が気になりますが(←変態)。
>全頁コピっておいて良かった。
いいな〜…
京都書院の書籍はカラー図版が豊富だったので、
今にして思えば、多少無理をしてでも買っておくべきでした…… (´・ω・‘) ショボーン
あらためて台湾ヤフオクで肚兜を眺めてみると、
これは何年か前に日本でも流行した、ホルダーネックキャミソールという服にそっくりですね。
こんなところでも、歴史は繰り返されていく。。。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:02/10/05 22:09
151 :
無名武将@お腹せっぷく:02/10/06 13:33
ブラジャーヽ(`Д´)ノage!
152 :
無名武将@お腹せっぷく:02/10/11 22:46
ブラジャーヽ(`Д´)ノage!
ブラジャーヽ(`Д´)ノsage!
しんどい
なんか疲れがたまって体調おかしいです。
一日中寝込んでいる感じ。
夜中目がさめて、もう薬飲んで死ぬんだって。
あー死にたい死にたいよー
月曜には学校がはじまる。
こんなたいちょうじゃながく続かないよ。
なみだがとまらない、
死にたい死にたい死にたい死にたい
なんでこんなに辛いの、
いったいなにをわるいことしたんだろう、
もういきてたくない、
もういきてるのもそうながくはないかもしれない、、
死にたい死にたい死にたい本当に死にたい
死にたい死にたい死にたい死にたい
良スレ保守
保守
保守
158 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/16 00:52
良スレage
159 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/16 01:06
民衆の生活に焦点が当てられてくるのは宋以降
それ以前はあまり記録がない。
世説新語や捜神記などがいい史料かもね。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/16 01:12
後漢末は生産力を人口過剰が上回り都市には農村から飯と仕事を求めて貧民が
集まった。彼らの間に生まれた共同体こそが太平道や五斗米道などの道教秘密
結社だといわれている。やがて飯を食って行けなくなった都市流出貧民たちは
黄巾の乱という形で暴発する。食いっぱぐれて村を捨て、都市に行っても上手
く行かなくなった彼らが生きてゆくには略奪しかなかったのであろう。
黄巾の乱が収まった後も混乱は収まらず、三国時代に入った頃には三国の把握
する人口の総計が500万を切り、漢代の十分の一以下に激減していた。
ゲームじゃ年を追うごとに都市が発展していくが現実はすさまじい消耗戦の嵐
と疫病や自然災害により、ひたすら衰退していたようだ。
と、いうわけで一般民衆は生き残れる奴の方が少ないほどに殺し殺されていった。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/16 01:28
寒冷期で気候変動が問題だという話しもあるな。
長江も凍っていたらしいしな。
ただの自然増なら、社会を崩壊させるほど急には進まないだろう。
162 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/18 03:22
>>160 別に戦争だけで死んだわけではないよ。自然災害多発や
>>161が挙げている寒冷期であったことも原因。
>三国時代に入った頃
この時点の統計は残っていないはずだよ。陳群が大まかに「今の中国の
全人口は、漢代の大きな郡一つと変わらない」といっている程度。
統計として出てくるのは、いずれも三国志末期の数字で、蜀滅亡時、
呉滅亡時など。
あと中国の人口統計は記録されない人口
(現代中国でもかなりいるらしく問題になっている)
がいることは押さえて於いた方が良い。三国志末期の統計でも、
魏の屯田制の人口200万人強が抜けていたり、豪族の持っていた
民衆に関しては記載がないことは既に指摘されている。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/25 05:45
ブ、ブ、ブ、ブラジャーヽ(`Д´)ノage!
164 :
無名武将@お腹せっぷく:02/11/25 05:51
>>漢代の十分の一以下に激減していた。
人口が1/10になったと単純に考えたらアウト。
あぼーん
途中まで良スレのため保守カキコ。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/14 21:07
フォッシュ
一銭の価値ってどのくらいだろう。。。?
169 :
無名武将@お腹せっぷく:02/12/16 02:47
>168
なにかもっと具体的におながいしまつ・・・
あるネット関連会社の社長は、「いずれにしても2ちゃんねるは
資金が底をつけば終わり。あまり知られていないことだが、
2ちゃんねる内部関係者によると今、大手通信会社系が調査費名目で資金提供している。
だが、それが止まれば続けてはいけないだろう」と証言する。
2ちゃんねるが判決によって力を失った場合、資金提供の打ち切りも予想される。
http://ascii24.com/news/reading/causebooks/2002/07/01/636911-000.html 以下、別の記事のキャッシュ
http://memo2ch.tripod.co.jp/article.html 2ちゃんねるに近いあるインターネット関連会社の社長は、2ちゃんねるの幹部から得
た話として証言する。「2ちゃんねるは、運営者や幹部などがそれぞれ別々に会社を
作りカネの流れを見え難くしているが、実際の資金源は複数の大手通信会社系からの
調査費名目のカネ。月額で計約700万円と言い、年間にすれば1億円近く。額はともあ
れ、これは通信会社系的には、ぼう大なトラフィックを調査すると言う表向きの理由
が一応は立つ。自社系に都合の悪い書き込みがされた時に優先的に削除してもらうこ
とも期待している」と前置きし「通信会社系の削除の期待も含めて、2ちゃんねるは
総会屋と同じになっている」と言うのだ。
その具体的な理由として社長は、こう話す。「2ちゃんねるはボランティアの削除人
が書き込みをチェックして、好ましくない書き込みを一所懸命削除している、という
ことになっているが、あれはウソ。削除人には給料が支払われ、その給料の原資と
なっているのが、まずいことを書き込まれた企業が削除要求とともに渡す裏金。これ
はまさに、総会屋の構図そのものだ。これまで裁判になっているのは金額で折り合え
なかったり、裏金を出さない強い態度の企業とだけだ」
170は何で総会屋が違反かを知らないヴァカ。
(^^)
174 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/14 16:01
民衆はいつも大変だよ
175 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/17 00:59
異民族の地に亡命・・・とか
177 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/17 02:49
三国志の時代はマニアが思っているほどけんらんなものではなかった。
人口は激減、人心は疲弊していた。
明代に成立した講談話演義の世界は白髪三千の表現で戦史を描いているが、
実際の規模は十分の一程度のものだった。
>>177 あのぉ・・・その程度の話はもう出尽くしてるんですけど・・・・(汗
>>176 いや〜あ……(汗)
細かく答えてしまうと、後漢五銖銭だけなら話は簡単なんですよ。
しかし、三国時代に流通していた雑多な貨幣……
(後漢)五銖銭、[糸延]環銭、剪輪銭、董卓小銭、
太平百銭、定平一百、直百五銖銭、大泉五百銭、大泉当千銭などなど……
それらのどれがどれだけの価値をもっていた(交換レート)かが、
俺には解らないんですよ。
たぶん(たぶんね)、後漢五銖銭を1とした時に、
1(後漢)五銖銭
=2[糸延]環銭
=2剪輪銭
=100董卓小銭
=1太平百銭
=1定平一百銭
=1直百五銖銭
=1大泉五百銭
=1/10大泉当千銭
くらいの交換レートかな〜? としか。
180 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/18 08:42
三国時代ってそんなに貨幣経済だったの?
181 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/18 19:45
>>180 あんまりよくわからん。
しかし、董卓が銭を改鋳して質の悪いものに作り変えたら
すごいインフレになって銭が流通しなくなったっていうから、
貨幣経済は衰えていたんだと思う。
曹操の場合、税金を銭じゃなくて米と布で納めさせているし。
ただ、張魯が漢中で「太平百銭」を鋳造したように、
地域によっては貨幣経済が通用するところもあった。
182 :
こおろぎ│・ω・) ◆9FQQQQqqq. :03/01/18 21:44
周以来の伝統として、一定の規格に基づいて織られた布帛は「貨幣」なので、
魏や晋が布帛で税を徴収したのは、
領内に銅山が少なかったって理由も大きかったでしょうね。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/20 11:12
貨幣経済って、余剰物資が増えれば増える程、活発になるよね。
だから、天災人災で人口激減してた三国時代は、平和な時代に比べると
貨幣経済は衰えていた。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/20 11:17
新の王莽は頻繁に改鋳をおこなって、経済を混乱させたようだね。
185 :
こおろぎ│・ω・) ◆9FQQQQqqq. :03/01/21 01:36
王莽の復古趣味は、あれはパラノの一種だから(笑)
お金(コイン)に興味がある人は、山田勝芳氏の
『貨幣の中国古代史』がいいんじゃないでしょうか。
一般書にしては図版も豊富ですし、価格も安いし(1,400円)、
史書のみならず、発掘史料からの考察も多いので、
読み物としても楽しいですよ。
(^^;
187 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/23 15:42
あっと言う間にほろんだよなぁ 新
(^^)
やったぜ王さん新記録
これって上手いよな。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/24 02:21
191 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/25 14:07
なんのこっちゃ
192 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/26 00:34
193 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/27 02:43
貨幣や人口の話等、色々勉強になります。
引用はガイシュツかもしれませんが、『曹操』
(堀敏一著・刀水書房)なんか官制や社会等
勉強になると思われます。中国古代史専攻の
先生ですんで、間違いは無いと思います。
人口1/10説は噴飯。ペストが流行ったヨーロッパでも25〜33%減っただけ。
また、当時の武器で大量虐殺は不可能。刀槍にそれほどの殺傷力があるなら、後の鉄砲の
登場は無いだろう。人口が激減したら、土地余りで、土地の取り合いを目的とした戦争が
生じない。戦わなくても豊かになれる。さらに、労働力不足が農民の地位の大幅向上を
もたらす。農民は自作農化する。しかし、当時の中国でそんな事は起こっていない。
また、寒冷化が大幅人口減をもたらすとは限らない。日本では最も寒冷化した17世紀に
人口が大増加している。
1/10になったのは、公民の数だけ。残りの9/10は、荘園の隷属民になったのである。
荘園領主達は、私兵(隷属民の一部)を率いて戦場に駆けつける。しかし、私兵は荘園領主の
私有財産なので、なるべく損耗は避ける。だから、たまに、本気で戦う指揮官がいたら、ものすごく
目立つ。それが、関羽や呂布。しかし、こんな危ない奴にいつまでも人々はついていけない。
特に大きな荘園領主は、中小の荘園領主を配下に収めようとする。それが、人材募集。
わざわざ、船頭を増やしたがる者はいない。人材募集と言っても本当に欲しいのは、
人材よりも、人材配下の私兵なのである。
195 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/27 21:21
許楮なんか、その「人材」の典型ですね。
面白い御説です。出来れば典拠を御教授下さい。
〜三戦板の頻出ループ〜
誰かが三国時代は後漢より人口が激減してるから演義のような大軍は
ありえないとか言い出して
国家の把握してる人口と統計外の人口の話が出てくる・・・
だいたいこれに似た展開が1クールごとに繰り返されてるような。
>194
土地の奪い合いなのか?
食料の奪い合いと考えれば、
戦は必然になると思うが。
日本との比較は地形が違うから無意味だと思うな。
日本なら山に入れば結構餓死者を抑えれるんじゃないか?
まぁ、『演義』の兵力数も、
輜重や従僕も込み込みでなら、一部分なら再現もできるかと。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:03/01/29 09:36
北朝鮮を見てたら、1割2割が餓死するなんて簡単なことなんだなぁ
って思ったんだけど。
(^^)
>>196 演義なんだからそんなこだわる必要無いんだけどねえ。
大体中国の史書がまず数字にアバウトだし。
>>202 そうだね。噴飯ってことばからしてヤツの小説三国演義のコピペだね。
安能って大層な物言いなんだけど、本当に漢の豪族社会から唐の貴族
社会の変異を勉強していくと、そんな大したこと言ってるわけじゃない
ヤツだというのが分かる。
204 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/02 19:18
民衆の生活水準ってどうだったんだろ。
205 :
こおろぎ│・ω・) ◆9FQQQQqqq. :03/02/03 22:46
>>204 一口に一般民衆とは言っても、
とてつもなく地域偏差が激しいんだろうなぁ、と思ったり。
犁による牛耕が導入されたのが、漢の武帝時代。
水力を使っての灌漑施設や、風力で籾殻を除く“とうみ”が実用化されたのも漢代。
直刀型ではなく、現代では一般的な三日月型の鎌が開発されたのが三国時代後期。
先が割れた鋤が考案されたのも、だいたいそれと同じ頃。
漢〜六朝にかけては農業・手工業機械の新考案と発達が著しく
飛躍的に生産力が伸びた時代だとは言われるけれど、
同時に戦乱期であった事も考え合わせると、
あまり手放しに幸せな時代だったとは思えないでつ。
そういやあの龍骨車が開発されたのも後漢でしたね。
生産力が伸びたのは確かですなあ。
裕福なものはその新発明を使える。貧乏な者は使えない。だからますます貧富の差が広がった。
ってのは考えすぎかな。
207 :
こおろぎ│・ω・) ◆9FQQQQqqq. :03/02/04 23:54
晋〜六朝にかけては、
“贅沢”の概念が量から質へと、本質的に転換した時期だといいますしね。
富む者は、それこそ、人の乳で育てた豚の肉を食い、
高価な蝋燭の炎で炊いた御飯(でしたっけ?)を食べるという世界ですから。。。
一般的には、生産力の向上による余剰生産物があってはじめて、富の集中が起こり、
その後の段階として、富の質は洗練されていくものなので、
生産力の向上でまかないきれなかった部分のしわ寄せは、
やっぱり民衆に向いてしまったのかな。
王朝みたいな集権的支配が流動的な分、土着の豪族が各個に
財を蓄えていたのかも。
209 :
こおろぎ│・ω・) ◆9FQQQQqqq. :03/02/05 23:01
六国の後裔や高資地主が、地方の有力者として発達したのは西漢期だといいますけれど、
三国志にも糜竺や魯粛のような豪族が出てくるところを見ると、
豪族たちも封建貴族の中に混じって、既得権を守り抜いて、ほのぼのと成長して行ったんでしょうね。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/05 23:03
ほのぼのどころか、かなり成長してるよ〜な・・・
211 :
こおろぎ│・ω・) ◆9FQQQQqqq. :03/02/05 23:16
すくすくと成長していた土着の豪族が勝手に人口を囲い込むわ、
亡命続出で、普通に編戸からはこぼれ落ちるわ、
戦乱期だったから新規の功勲貴族はどんどん発生してくるわ……
戸籍上の人口の大減少は、そんなんが主でしょうね。
餓死、戦死ってのも結構あったと思うけどなぁ
あの当時の民間における医療ってどの程度発達・普及してたんだろう?
現代でも極貧層を見てると、病気にかかる=死と感じちゃうし。
太平道は医療行為で信者集めたみたいだけど…。厳密な治療とは違うしねえ。
西洋の魔女の原型のような、薬草とか使って治療をするような人はいたかも。
医療施設は無いと思う。
糜竺の触角三千本!
西晋では『傷寒論』が書かれたけれど、
そういう先端医学の恩恵は、上の方だけだっただろうし。
民間療法と心理療法が民間における主な疫病対策だったとするなら
やっぱり病気で死んでいった民衆って相当数になるっぽいね。
疫病という「恐怖」から逃げるために宗教へはしり
それが大乱を招けるほどの規模に膨れ上がったという事実も
当時の民衆がどれ程それで苦しんでいたか、ということの証明になるのでは?
このあたり全然詳しくないから、ほとんど妄想になってしまってるけど。
218 :
こおろぎ│・ω・) ◆9FQQQQqqq. :03/02/07 22:39
なんだか、医療の話をしている人と、人口の話をしている人とがいて
今ひとつ話が噛合ってない? (気のせいかな……)
太平道の医療行為は、従来の神頼みに近かった病気平癒の祈祷とは違い、
患者に自己批判を行わせるという告悔に重きを置いたものなので、
むしろ宗教に近かったと思う。
ただ、民間レベルがどの程度の医療水準にあったのか? ということであれば、
陳登ほどの有力豪族ですら寄生虫で死んでいることが、一つの目安になるのかも。
寄生虫は今でもしぬ人いるがな。
なぜに陳登を引き合いに出す?
第一次世界大戦時でさえ、信じられないくらい
大勢がインフルエンザで死んでいるんだから、
当時の医学に期待しても、意味無いんじゃないかな?
>>211への反論として疫病を持ち出したんじゃないの?
なんかここらへんの話題って世界史板での議論と重複してるんだよなぁ
金魚氏も向こうと同じ説を出してるしw
>なぜに陳登を引き合いに出す?
陳登の場合は、病気の原因は生魚を食べたことであるとして、
非加熱食品と病気との因果関係に触れてある部分なので、
三国時代の病気発生のメカニズムの捉えかたが見られる部分の例として持ち出しました。
>>220 >211への反論として疫病を持ち出したんじゃないの?
あ、そうだったんですか。
俺はまた、病気の話に移行したものだとばっかり……(恥)。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 00:17
当時は戸籍に入ってない人もあわせると、人口はどれくらいいだったんだろう。
224 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/08 02:26
官僚さんの出処進退が大変だったみたい。「仕隠」とか。
酒と薬が流行し始めたのもこの頃じゃなかったっけ?
>>222 三国志の時代も大きな問題のひとつだったと言うべきじゃないか?
その時代に考えられる原因を検証していく過程で、
普遍的な要素を挙げることは基本じゃないだろうか。
また人口ネタか・・・
少なくとも呉が人口不足で悩んでたのだけははっきりしてるけど。
だれか、野鳥の会連れて数えに行って来い!
荘園に入っていたのならそれはそれで
改革派な文官とかが、人数を調べたりしてないのだろうか?
って思うのだが、記録は皆無?
230 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 08:32
まだ紅白って野鳥の会使ってたっけ
231 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/10 09:15
232 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/12 14:55
で
その人さらいも帰って来なかったんだっけ
233 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/15 19:37
遼東援軍のなけなしの1万も殺されちゃったね。
234 :
こおろぎ│・ω・) ◆9FQQQQqqq. :03/02/21 22:57
かと思えば、国境を越えた西域に、
朝廷も知らなかったような、「漢の子孫」を名乗る集団が居たりするし。
益州の南半分(寧州)は、晋代になってすら
中華なのか異民族国家なのか、
今ひとつ判然としなかったし。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/23 10:04
なけなしの1万殺されたの?
奴隷にすればよかったのに
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、硬直的でデリカシーがない)
●妙にプライドが高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。包容力がなく冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
237 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/25 12:55
。。
。 。 + ヽヽ
゜ 。・ 。 +゜ 。・゚ (;゚´дフ。
ノ( /
/ >
238 :
無名武将@お腹せっぷく:03/02/27 13:33
民衆は大変だった
民衆のささやかな楽しみ、趣味趣向について聞きたい。
食べ物とか、そういうのは記録が残ってるんだっけ?
日本の古代食の復元、とかは見たことあるんだけど。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/03 21:55
年に一度のお祭りとか、夜這いとか・・・
食べ物は残ってるよ、資料。
243 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 09:56
三国時代の食いもの食べたいよな。
244 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 10:03
めちゃめちゃうまかったりして
多分、日本人の俺らが食ったら食中毒を起こすと桃割れ
246 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 10:53
どうせ米ばっかだろ。おかずは何だ
247 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 10:57
やはり魚とブタと羊だろう。
248 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 11:17
三国時代の飲み物は何ぞ!
249 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 11:24
酒はどんなんだろうな。項羽と劉邦で出てきていた乳白色って書いてある
酒なんだろうか?
250 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 11:37
その辺は分かりませんな〜うーむスマソ。
251 :
なっちの戯曲 ◆Qx/7DEzf5E :03/03/04 11:40
ひこもってるこはいたのだろうか?
252 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 11:50
戦乱の世だからな、あまりそんな事無いのでわ。それに引きこもりは現代だけだろ
253 :
なっちの戯曲 ◆Qx/7DEzf5E :03/03/04 11:54
>>252 なるほど。
では芸能界はあったのでしょうか?
254 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 12:30
ない…だろ。
芸能界はないだろうけど、豪族や居酒屋に雇われる歌妓とかはいたんじゃないか?
256 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/04 16:51
やっぱ、セックスやるよな?どんなプレイなんだ?気になる
>>256 イチモツを膣にぶち込むかor差し込むかの違いだけ。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/07 08:47
たいへんですた
260 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/07 12:36
三国時代の服来てみたいな。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/07 16:12
つーかどんな言葉喋ってたのかに?いまの中国語とかわらんか。
262 :
島田新六 ◆89LYwifxfU :03/03/08 00:23
>どうせ米ばっかだろ。おかずは何だ
米は南方(淮河以南)だけで、北方では余り食べられません。
後世、大運河が建設されたりして米が北方でも食えるようになると、
人々は「こんな旨いモノがあったのか」というわけで、争って米を食べた
そうです。北方は麦だの雑穀だのではないでしょうか。
>酒
薄いどぶろくのようなものだったようです。だから大量に呑まないと酔わず、
必然的に大酒のみが増えます。
>引きこもり
前漢の董子みたいに三年庭も見ずに勉学に励むとか、
そういう真面目な目的で外出しない学者はいたみたいですけど。
今の引きこもりのように遊んでいるのとは次元が違うと思われ。
>芸能界
歌妓女楽の類は居ますが、卑賤なモノとされていたと思われます。
外交交渉の席で歌妓などを臨席させたりすると、
相手に斬り殺されたり叱りつけられたりすることもありました。
>つーかどんな言葉喋ってたのかに?いまの中国語とかわらんか。
史料が少ないので学界でも推定の段階なのですが、
現代の中国語とは発音からして異なっており、このため
「三国時代の人々と現代中国人とは人種が異なる」とさえ主張する説があります。
(主張しているのは東京外語大の岡田英弘氏)
岡田説は極端な説でしょうが・・・
263 :
島田新六 ◆89LYwifxfU :03/03/08 00:34
>256
せっくるの話はこのスレを頭から読むと出てきますよ。
補足すると、女性と性交することによって気を体内に取り込み
健康になることを目指す房中術という方術が当時流行し、
左慈などはその道のエキスパートだったとか。
『素女経』という当時の文献には「出し入れしてどうのこうのすると
女は声をあげどうの」などと具体的にやり方が書いてあり、
読んでいて赤面すること請け合いです。
>263
正しいかはともかくとして、
そこら辺は後宮小説が詳しい・・・
って、ファンタジーだし違うな。
喪に服すってのも、引き籠もりかな?
赤面するんだ、新六タン、カワイイ…
266 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/10 09:50
三国時代民衆 > 北朝鮮民衆
267 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/13 09:07
戦争行かないといけないから、三国時代も大変だよ
(^^)
271 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/16 08:24
大変です
272 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/16 10:26
>>262 >「三国時代の人々と現代中国人とは人種が異なる」とさえ主張する説があります。
(主張しているのは東京外語大の岡田英弘氏)
つまり五胡の侵入で人種が変わったと?
∩
∧_∧ | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д`)// < 先生!こんなのを発見シマスタ!
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http://saitama.gasuki.com/hiroyuki/ __| | .| | \
\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_____________
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274 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/16 16:51
三国時代の戦争はどうなんだよ。そもそも武将も人間だし、あんま大した事ないよな?。
276 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/21 17:37
太原の王氏
河内の司馬氏
琅邪の王氏
頴川の荀氏
三国時代の軍隊の統率や基本的な兵科、戦術、兵站とかはどーなってたの?
って聞くスレが無かったのでここで聞く。
278 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/24 22:22
三国時代の民衆の生活とか書かれてあるページのうpきぼんぬ。
279 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/25 12:24
負けた国の土地は兵士にことごとく略奪されたのだろうか。
280 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/25 12:25
負けた国の土地は兵士にことごとく略奪されたのだろうか。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:03/03/25 19:52
age
こんな質問で申し訳無いのですが、魏、呉、蜀はゲームとかだと
色が青、赤、緑で種別されておりますが実際どうだったのでしょうか?
格勢力で使用された色の由来とか詳細キボン。
魏と呉は黄色、蜀は赤。と思われ
由来:五行思想
285 :
無名武将@お腹せっぷく:03/04/12 07:06
土徳
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
288 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/03 06:12
そのとおりです
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
290 :
無名武将@お腹せっぷく:03/05/23 13:37
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉