■ 三国時代は残酷時代? ■

このエントリーをはてなブックマークに追加
1無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 11:51
民族の世界史5 山川出版  「漢民族と中国社会」より
北族の時代 中国史の第一後期 (著者 岡田英弘)

184年の黄巾の乱とともに、秦の始皇帝で始まった前期が終わって後期が始まる。
後期の特徴は、古い漢族の事実上の絶滅と、北アジアからの新しい血液の流入による、新しい漢族の成長である。
黄巾の乱後、中国の人口は極端に少なくなった。
ことに河北の平野部ははなはだしく、千里、人煙を絶つという有様であったという。
黄巾の乱から50年を経た230年代に、当時の魏の高官三人が明帝に提出した意見書から、当時の魏の人口が推計できる。
杜怨は、「今、大魏は十州の地を奄有しているが、喪乱の幣を承けて、その戸口を計れば、往昔の一州の民にも満たない。」といっている。
十州というのは、後漢の十三州から、呉が支配する、揚州、交州、蜀が支配する益州を除いた数である。
後漢の中国の総人口は、140年の統計では、4915万220人だった。これから揚州、交州、益州の人口を差し引くと、残りの十州は3635万5210人となる。魏の人口はその十分の一にも足りないというのだから、360万人よりも少なかったわけである。
また、陳羣は「今は葬乱の後で、人民は至って少なく、漢の文帝、景帝の時に比べれば、一大郡に過ぎない」といい
蒋済も、「今は十二州あるけれども、民の数に至っては、漢のときの一大郡に過ぎない」といっている。
十二州というのは、魏が雍州から涼州、秦州をわけたからであって、杜怨のいう「十州」と同じ地域を意味する。
2無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 11:52
とにかく前漢の最大の郡は、紀元二年の統計では、汝南郡の259万6148人、それに次ぐのは頴川郡の221万923人であり、後漢では最大が南陽郡の243万961人、その次が汝南郡の210万788人となっている。
要するに三国時代初期の魏の人口は、約250万人ということになる。
華北を支配した魏に対して、長江中流の武漢を中心とした地方と、下流の南京を中心とした地方だけを支配した呉の人口は、
魏よりずっと少なく、約150万人というところであろう。
皇甫謐(215ー282)のいうところでは、244年に将軍朱照日が、呉の領するところの兵戸は13万2千であると魏に報告している。
兵戸というのは軍人の戸籍に登録されている家族のことで、一戸から一人が兵士になるとして、これをそのまま軍隊の定員と考えれば、
後に呉が晋に併合された280年の数字では、呉の全人口の9%が兵士となっている。
この比率を適用すると、三国時代初期の呉の人口は、約150万人になるのである。
四川盆地を支配した蜀については、90万人とも、100万人ともいわれているから、三国の合計は500万人ということになる。
これを傍証するように、皇甫謐は140年の後漢の南陽郡、汝南郡の戸口統計を引用して、
「これを今に比べるに、三帝(魏・呉・蜀)が鼎石して、二群を超えない」といっている。
これは、450万人以下、ということである。つまり、184年の黄巾の乱から半世紀の後、中国の人口は十分の一以下に激減したわけで、これは、事実上、漢族の絶滅である。
3無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 11:52
これより先、220年、後漢の最後の皇帝から帝位を禅られた魏の曹丕(文帝)はその翌年の221年、西は宣陽(河北省宣陽県、洛陽の西南)、
北は太行山脈、東北は陽平(河北省大名県、洛陽の西南)、南は魯陽(伏牛山脈)、東はタン(山東省タン城県、江蘇省との境)までの範囲を限って
石碑を立て、その内側を「中都の地」、すなわち「中国」として指定し、生き残った中国人をその中に移住させた。
これはほぼ河南省の全部と、山東省の西南部に当たる。
この狭い範囲に中国人が立てこもることになり、その外側は、軍隊の駐屯以外にはほとんど住民がいなくなったのである。
こうして真空状態となった中国の周辺地帯には、北方から鮮卑、匈奴、羯、氐、羌などの、いわゆる「五胡」が移住してきて定着した。
やがて、魏は蜀を併合し、魏をのっとった晋が呉を併合して、280年には黄巾の乱以来ほとんど100年にして中国の再統一が成り、
人口は一時、順調に回復し始めたが、わずか20年にして皇族の将軍たちの権力争いから八王の乱と呼ばれる全面内戦となり、人口は再び減少した。
それに乗じて、匈奴など、内地に定着した諸部族の軍閥もおこり、305年に匈奴の劉淵が漢王と称して独立してから、いわゆる16国の乱となり、
これは439年に隋が陳を滅ぼして中国を統一するまで150年続くわけだから、結局中国の分裂は、たった20年間の晋の統一をはさんで、
黄巾の乱から400年以上も回復できなかったわけだが、その原因は人口の過少によって、農業生産の復興がままならず、食糧の余剰がなくて、統一のための戦争の余力に乏しかったためであろう。
この人口過少が中国史の第一期の後期である。
4無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 11:53
中国人と中国語の変質

黄巾の乱から400年間に目立った減少は、中国人と中国語の変質である。
既に述べたように、黄巾の乱に際して、中国の人口は十分の一以下に激減し、しかもその減少の大部分は、
それまで中国の都市文明の中心であった華北の平野部で起こった。そして、それに続いておこった五胡の移住と、
16国の乱、南北朝の時代を通じて、河北の支配者が多くアルタイ系の民族であったことから、
漢語を話す人々ももはや漢族ではなく、しかもその話す漢語も秦・漢時代の言語と同じではなくなった。
後期における漢語の発達史上、見逃す事の出来ない現象は、「反切」と「韻書」の出現である。
儒教が国教であり、その経典の知識に基づいて官吏が選ばれた後漢時代においては、漢字の読み方は公用のものが規定され、
洛陽の太学において伝授されていたはずである。ところが黄巾の乱後、洛陽が荒廃して無人の地となり、
しかも文人官僚の時代が去って軍閥の内戦時代となると、漢字とその読み方の知識は、危うく難を逃れて地方に亡命した、ごく少数の学者によって後世に伝えられなければならなかった。
そこでこれまで師から弟子へ口伝口授によって伝えられるだけであった漢字の伝統的な発音を記録し、知識の亡逸を防ぐ為に考案されたのが「反切」である。
これは例えば「東」の発音を「徳」と「紅」の組み合わせで示すやり方で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 11:55
以上、世界史板の下述スレからのコピペです。
本当だとしたら、結構怖い話です。

http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1043762877/l50
他所様のスレからコピペしてスレ立てなんて…
>>1
ちょうどオレもそのスレ読んできたところだったから
スレたっててビク-リしたよw

http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1043762877/67-70
8無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 11:59
ここの方が詳しい人が多いということは分かるけど
うむ。すでに語っているスレ(しかも世界史板)があるというのにこれじゃぁなぁ。。
雑談スレの内容だな。
世界史住人にまた嫌われるかも
11無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 12:08
誘導にはなるけどね。
12無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 12:09
誘導が目的か?
>>10
今回は、逆だ。
14無名武将@お腹せっぷく:03/02/03 12:16
この著者嫌われてるらしいね
なんと、するとこのスレは、世界史板から投棄されてきたのか。