関が原の合戦、西軍100パーセント必勝法2

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1人間七七四年
前スレ
関が原の合戦、西軍100パーセント必勝法
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1224680714/
2人間七七四年:2013/07/21(日) 07:35:41.59 ID:V4TgQAXB
3人間七七四年:2013/07/21(日) 13:06:15.52 ID:IzJJ9xTU
しかし前スレで秀頼と千姫の婚姻は豊臣徳川融合とかおいおいって感じだな
普通に両家の絆を深めるよくある政略結婚だろう 「種は男 女は畑にすぎない」これが当時の価値観なのだが
4人間七七四年:2013/07/21(日) 19:31:36.08 ID:+L8yxo4w
婚姻は当然無意味じゃないけど、それだけをもって「融合」と言い張るのは凄いわなw
5人間七七四年:2013/07/22(月) 13:13:59.79 ID:A1btikI7
最大へいりょくを持つ家康内通させる
6人間七七四年:2013/07/23(火) 09:27:55.02 ID:5w/dgHhd
>>4
家康は融合どころか吸収合併したくて婚姻を実行したわけだしな
淀や秀頼が馬鹿だから理解できなかったのは誤算だったが
7人間七七四年:2013/07/24(水) 14:47:18.49 ID:Xcpwllfj
最初に東軍を上杉と挟み撃ちにする作戦だったのに
東軍と上杉軍が交戦状態になるのを待ってから挙兵できなかったのかな
挟み撃ちにする作戦なら東軍が上杉軍を放置して東海道を進んでくる事も考えるべきだったのでは
8人間七七四年:2013/07/24(水) 14:48:11.02 ID:Xcpwllfj
あと、東軍が大垣城を無視して大阪城の方に進軍するのなら
させればよかったのにな
大阪城には毛利の総大将が2万の軍勢を率いているんだから
そう簡単には落ちはしないし、なによりも東軍の半分近くは秀吉子飼いの武将だから
秀頼がいるところには攻め込めないだろうし、再度の裏切りもでるんじゃない?

東軍に大阪城を攻めさせて交戦状態になってから進軍して東軍の後ろを突いて挟み撃ちにするとか
総人数的に大阪城の2万も加わって西軍圧倒的有利になるのでは?
目の前に毛利の総大将がいるし、吉川&小早川も裏切りにくいだろうしさ

戦の初期と決戦時に二回も東軍を挟み撃ちにするチャンスがあったのに
なぜ、単独の決戦にこだわったのかな 確実に勝たなきゃ意味が無いのに
9人間七七四年:2013/07/24(水) 14:52:46.64 ID:bKZMUs0F
それは前田家が確実に西軍に味方する前提ならな。
近江を取られたら北陸道全域が東軍化するどころか
丹後も危なくなる。
そうなると真田や上杉とも連絡取れなくなるしな。
10人間七七四年:2013/07/24(水) 16:18:07.13 ID:p+4tQ7yU
>>7
「上杉との挟み撃ち」は後世の創作らしいぞ
11人間七七四年:2013/07/24(水) 22:11:16.24 ID:p/XpU9qR
上杉との開戦なんて待ってたら史実より遥かに貧相な陣容にしからならんぞ西軍
12人間七七四年:2013/07/24(水) 23:47:10.01 ID:L3hHDyGf
たしかにw
西軍の多数は家康に合流しちゃうよね。
あと二、三日待てばってなら話しも違うかもしれんが、それでも東北〜大坂間の距離あるし非常に微妙なタイミングだよね。今みたく電話とかあるわけじゃねえから三成の挙兵タイミングでもかなり絶妙とは言えるンジャマイカ。
13人間七七四年:2013/07/25(木) 19:02:06.07 ID:V6uyexMO
>>8 それに関しては前スレ>>731~にレスあるね 三成が佐和山城襲撃を恐れたのと
小早川が関ヶ原で準備して有利な布陣で戦が出来るから
14人間七七四年:2013/07/25(木) 20:50:35.99 ID:gi1IdSjZ
開戦待ちとか挟み撃ちは無理でも東軍が帰って来れないとは考えていたと思う
15人間七七四年:2013/07/26(金) 08:58:27.45 ID:HnB96tgm
いやだから、総出で岐阜に進出してから
岐阜で攻防を繰り返す策で行けばいいんだよ。
輝元も岐阜にいれば、東軍は大阪を目指す事も無い。
岐阜で時間を稼いで上杉が北国の敵を駆逐するの待てばいい。
しかも西国に領地を持つ黒田らは兵糧すら切れる。
16人間七七四年:2013/07/26(金) 10:47:05.33 ID:bdf5HbAF
やっぱり積極策で三成が大垣で包囲される前に(包囲報告を得て家康が急いで江戸から出撃)
毛利全軍を挙げて出撃し武断派を美濃〜尾張で撃破すりゃあ良かった。
これで東海道や中仙道の大名はことごとく西軍に従属するだろ。

もしくは神速策で毛利全軍でできる限り速く尾張へ突入し占拠し武断派主力の福島を根無し草にする。
その後、岡崎を策源地に額田郡〜蒲郡市で家康を待ちつつ陣地構築し決戦準備する一方で
信濃へ援軍を派兵し真田・上杉との連結を図り、下野国での挟撃決戦に持ち込む。
17人間七七四年:2013/07/26(金) 13:17:03.27 ID:i66360Y/
家康が濃尾にのこのこと出張ってきた隙に必殺の無敵水軍で江戸を強襲すればよかった
18人間七七四年:2013/07/26(金) 22:25:13.71 ID:HnB96tgm
敵の本拠地をいきなり突くって作戦は
史上殆ど成功した試しが無い。
19人間七七四年:2013/07/27(土) 00:42:47.57 ID:nJftcWdH
>>15
その策なら輝元は秀頼抱えて大坂に残る方がいいと思う
岐阜で膠着するなら、大坂で逆クーデターが起これば西軍には致命的だから
20人間七七四年:2013/07/27(土) 23:01:13.16 ID:375fn8uM
誰がクーデター起こすの?ほぼ全員出撃するって話しなんだが・・・
増田なんか6000の兵があるんだし、置いてける訳ないじゃん。
前田玄以や長束は残っててもいいケド。
21人間七七四年:2013/07/27(土) 23:42:01.63 ID:PtMC+HBd
えっ?総出って大坂城を本当に空っぽにするってこと?
22人間七七四年:2013/07/28(日) 01:52:55.80 ID:WG+dWOJb
空っぽっつーか、諸大名が出て行っても
別に豊臣の兵まで0になる訳でもないし。
23人間七七四年:2013/07/28(日) 02:10:24.81 ID:8T4pa3zH
当時の淀殿はむしろ親徳川だという現実
24人間七七四年:2013/07/28(日) 07:02:39.92 ID:WG+dWOJb
そんな史料あるか?
25人間七七四年:2013/07/28(日) 08:39:29.72 ID:iVuHxk0i
淀に近い大野は東軍に居るし関ヶ原の時
26人間七七四年:2013/07/28(日) 10:54:30.26 ID:WG+dWOJb
それは淀の命令や意思じゃないだろう。
暗殺疑惑で流罪になってて、更に家康の方が断然有利だから
家康に付いただけだろ。
27人間七七四年:2013/07/28(日) 10:59:15.28 ID:WG+dWOJb
そもそも、淀が徳川に近い立場にいるなら
淀に近い大野が暗殺疑惑で遠ざけられるって矛盾しすぎだろw
28人間七七四年:2013/07/28(日) 13:01:18.23 ID:6SOkJLLD
西の丸には北政所の住居もあるから政治的に無縁ではないよ。
そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。

もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
29人間七七四年:2013/07/28(日) 13:02:35.90 ID:6SOkJLLD
内府たがい条にも北政所が住んでたのを追放して家康が住んだと糾弾されてるように
北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。

しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
母を江戸に人質に取られていた前田利長はやや家康寄りの態度を示すが
前田兄弟は東西分離策をもって秀頼親衛隊たる立場だった利政は西軍側で挙兵。
30人間七七四年:2013/07/30(火) 13:39:44.47 ID:RccDlXHO
>>12
>西軍の多数は家康に合流しちゃうよね。


させないようにどんどん既成事実つくっていけばいいじゃない?
裏切りそうな武将に東海道を進撃させて東軍側城を攻めさせていけばいいし

家康がやった東軍の先鋒をしばらく放置して様子見てたみたいに
戦場でいきなり裏切られるより確実に腹の内が読めるよ
31人間七七四年:2013/07/30(火) 13:40:51.90 ID:RccDlXHO
>>11
どうして?時間が経過すれば大阪城の毛利の軍勢が出陣してくる可能性が高まるし
各地に分散した西軍の軍勢が集結してくるのに
32人間七七四年:2013/07/30(火) 13:42:37.28 ID:RccDlXHO
>>16
そう、家康が到着する前になぜ島津の言うように夜襲でもかけなかったのかな
兵力分断で各個撃破する戦術に出ればよかったのに・・・
33人間七七四年:2013/07/30(火) 13:44:35.52 ID:RccDlXHO
>>19
クーデター起こせないように戦力残していけばいいよ
34人間七七四年:2013/07/31(水) 00:24:09.82 ID:VphB11eu
>>30
裏切りそうな武将を東海道に行かせたらそのまま東軍に合流するだけだ
そもそも西軍の大半は江戸に向かっていたのを関所止めして無理矢理編入したのだから解き放ったら元々の家康側に付いてしまうんだよ
腹の内を読む前に雪崩のように転向して戦どころじゃなくなる
35人間七七四年:2013/07/31(水) 00:30:09.33 ID:SlHSvsbh
いっそ上杉が壊滅してから挙兵したらどうだろうか
東軍連中は気が緩んでいるだろうし、戦後処理で家康の足止めができるかもしれない
一発勝負なら勝ち目が出てくるかも
36人間七七四年:2013/07/31(水) 01:26:32.60 ID:3UmEspFj
戦後処置は凱旋してからになるで
37人間七七四年:2013/07/31(水) 01:43:25.72 ID:1ttsQa76
>>34
なんでそのまま合流するの?
ゲームじゃないんだからそう簡単に脱走兵みたいにいかないよ
下にも兵がついてるのに
38人間七七四年:2013/07/31(水) 01:44:43.89 ID:1ttsQa76
>>34
あと、誰が「元々」家康側なの?
家康と仲がいい大名なんかいないだろ?
39人間七七四年:2013/07/31(水) 08:41:49.55 ID:+e8oAJ+h
島津、小早川、長曽我部、大谷等の上杉征伐参加予定組は行っちまうに決まってんだろ?家康と仲が良いとか関係無く元々その為に兵を出してんだから
下手すりゃ大谷が気をきかせて石田の息子と石田軍の一部も連れてくかもなあ
何せ公儀(豊臣政権)による上杉征伐だからな
40人間七七四年:2013/07/31(水) 09:11:06.99 ID:gTYU6YMc
>>39
その豊臣家が家康討伐を指令してるのにさ
大坂城に毛利輝元引き入れて

もう上杉討伐じゃないよ、徳川家康を討伐だし
41人間七七四年:2013/07/31(水) 09:12:53.68 ID:gTYU6YMc
秀頼名義で徳川家康を討伐せよって豊臣恩顧の武将に手紙送れば良かったのにな
そうすれば逆らえば逆賊だしさ
42人間七七四年:2013/07/31(水) 09:46:09.33 ID:TUUBX2MB
>>41
どうやって会津まで届けるんだよw
43人間七七四年:2013/07/31(水) 09:51:47.72 ID:3UmEspFj
秀頼名義の通行許可証持った飛脚が届ける
44人間七七四年:2013/07/31(水) 11:29:47.43 ID:FFWZMqHW
首謀者の輝元が三成を捕縛して武断派に引き渡してから、
忘恩の奸臣家康の討伐を宣言して
武断派を西軍側に引き込めが勝てた。
大津城を落とし瀬田大橋を確保し、佐和山城まで交通路を確保した際に
輝元が家康側にいた三成をむりやり西軍に引き込んでだから負けた。
45人間七七四年:2013/07/31(水) 12:16:05.89 ID:TUUBX2MB
家康に味方した連中は、単に家康の実力が怖かっただけで
本気で三成が憎いからって家康に味方した訳じゃないんだがw
46人間七七四年:2013/07/31(水) 13:29:56.98 ID:FFWZMqHW
>>45
家康は会津征伐に行くにあたり、蜂須賀や生駒など必ずしも家康のやり口に賛同しなかった諸将の幼い嫡子を
戦習いと称して半ば拉致って連れていくことで嫡子を人質にしたりして無理やり引き連れていったんだから
人質の身を案じて家康に味方したんであって、家康の実力に恐れてではないわ。
47人間七七四年:2013/07/31(水) 13:30:46.38 ID:FFWZMqHW
会津征伐が内府たがいの条により消滅すると
安東氏なども家康に許可されていた蔵入地からの流用を止めて領国に引きこもり
奥羽の豊臣公儀となった上杉を家康のために攻めなくなり
最上も伊達も上杉との和睦交渉へシフトしている。
家康に従ってるのは森忠政や忠興のように家康から新知拝領してるような者か遺令に背いての婚姻関係。
そして一番の目的は朝鮮以来の三成憎しなのは明白で
内府たがいの条以来、家康が江戸で味方まで裏切るのではないかと疑心暗鬼になってる中で
西軍の主力が北伊勢に迫る中で三成憎しで、理解不能にも伊勢救援への援軍すら出さずに
三成のいる美濃大垣を目指して北上する福島ら武断派の行動を見ればわかる。
家康が江戸から動かないと断定した広家は楽観論の元に黒田の書状をシカトしまくり
ついには家康は駿河まで来てると大ウソまで付いてるが広家はそれも無視して返事も書かない。
家康の書状には自分への忠誠を喜び私的な徒党作り書状ばかりであり、武断派の思惑とかけ離れているのがわかる。
8/24の福島→秀忠と中山道を進む浅野長政宛でも福島は美濃攻略の報告で秀頼様に良きようにと言ってるし
正則は関が原前には織田秀信の助命を、後には家康に伊奈昭綱の切腹を要求するなど必ずしも家康に従ってないし
10/2の清正→浅野幸長書状でも関が原で悪逆人を討ったのはお手柄と言ってるなどすべて三成が悪いで決着しようとしている。

三成は敗れたものの結果的に大老奉行制形骸化による事実上の家康指導体制の打破に成功した。
それは三成を討った武断派は豊臣家を滅ぼすことを望んでないからだ。
そして勝てば官軍で三成が全て悪いで解決を図ることで家康に隙を与えず牽制し
関が原後の没収高の80%は豊臣系大名に配分されたと笠谷和比古が言っているように
家康には豊臣系大名と敵対することの不利を悟っていたので二重公儀制と言う方向で妥協する。
武断派は豊臣公儀を擁護し守り立てていく方向を示した。それは秀頼への参賀でも証明される。
そして老人家康の死を待ち秀忠の娘千姫を人質として大坂に入れさせるなどしたが
武断派の方が次々に死去し軍事バランスが大きく変化してしまった。
48人間七七四年:2013/07/31(水) 13:31:33.11 ID:FFWZMqHW
そもそも数千人討ち取られ大垣城に逃げ込んだ三成・小西・秀家・義弘を包囲して
道も完全封鎖したって報告で騙された家康が俺がいないところで三成に勝って勝負終わっちまうヤベエ!って話で
家康が大垣は水攻めするからお前ら行動停止。俺ら父子を待ってから動けよ!って急いで西上しただけの話で、
関が原でも武断派が先鋒やって、そのまま長政の調略もあり大勝利しただけの話で
実質的に家康はほとんど何もやってないに等しい以上は戦後状況で武断派が重きをなし発言力が高まるのは必定。
9/16に如水が藤堂高虎へ宛てた書状には
5日に会った使者が今こちらに着いたわ。その後のこっちの状況だけど
豊後で大友義統を破ったわ。それで論功行賞の話なんだけどさぁー
小倉表に出馬し隙が出来しだい清正と相談し関門海峡を越えて広島を取ろうと思ってて
井伊が言っていたように長政には秀家の領地をもらえるように取り成ししてくれ。
清正と私の所領については切り取った領地分を家康の取り成しで
秀頼様から拝領して貰えるように井伊に言うのが肝要に存じてる。
とにかく息子長政は上方で知行を貰い、私とは別家扱いにしてもらうように頼む。

領地の過大要求しまくりで、のちに輝元降伏を受けて島津攻めまでやろうとするのが如水と清正。
あくまで秀頼様を全面に掲げての独自行動に脅威を抱いた家康が島津攻めストップをかけるわけだ。
秀頼ではなく家康への忠義による徒党化こそ家康は欲しいのであるが公然とそれを否定し
明らかに勝利後において徒党化解消と秀頼公儀の秩序の中に家康を押さえ込もうとする意図がすでに書状に現れてる。
これが二重公儀の成立への背景であり、奉行への反発が原動力であり家康への盲目的忠誠心など武断派にはない。
遺令破りの七将クーデターでは三成を含め奉行衆全員の追放を願ったし、これは利害が一致し家康との徒党化があった。
(三成の次に憎まれていたのは増田だが毛利・上杉の抵抗もあり三成だけの責として妥協した家康にも彼らは不満だった)
彼らは三成を討ち日ごろの不満を解消し大坂西の丸へ入ることで
豊臣恩顧譜代としての立場も用いて名誉回復し秀頼公儀を推戴していこうとの意思があるだけ。

清正は関ヶ原の結果を知った後に書いた10/2の浅野書状で始めて行動がハッキリするんだよなー。
宇土城の二の丸まで取り詰めたから程なく落城するだろうから
そしたら大坂から妻子を盗み出した宗茂が柳川城にいるからこれを討つって。
だから如水と談じているのは事実だけど
関ヶ原前には東西どっちに着いたのかハッキリさせてない。
宇土城も関ヶ原後に攻めてるとしか思えない。
内府たがいの条によって会津征伐が違法化されて家康が江戸に帰るに及んで
以降の九州や奥羽や北陸の在地滞在中の諸大名って
もはや家康の為に動いていなくて
現地での独自判断に終始して清正は如水と並んで武断派ですら無いんだよなー。

清正は9/22から宇土城攻めをやってるのが9/23付け如水書状でわかるよ。
指摘の通り、すでに柳川表に宗茂が戻ってきているようで如水と一緒に攻めるようで
鍋島が加勢してこようが働くのは苦しからず覚悟だと言ってる。
また清正は東よりの御左右はこれ無く候哉、承度候。
と書いており家康の指図によらずに行動してるのがわかる。
続く9/24の清正→鍋島書状で輝元が大坂下城するわけだがと言って鍋島へ降伏勧告と柳川攻めを要求してる。
だから鍋島直茂が家康の勝利を予言して西軍として伊勢へ進出していた勝茂を関が原前に離脱させた話も怪しい。
49人間七七四年:2013/07/31(水) 17:14:33.34 ID:DwPE5LWo
>>42
東海道 中山道 北陸道 海路
どんどん送ればいいよ
50人間七七四年:2013/07/31(水) 17:14:54.46 ID:3UmEspFj
家康が怖くないなら人質なんか出さなきゃいいのに
51人間七七四年:2013/07/31(水) 19:58:55.62 ID:FFWZMqHW
婚姻や大名の子の小姓勤めも人質と同種だから、ふつうに人脈作りの一環で一般的な慣習みたいなもんだから。
52人間七七四年:2013/08/01(木) 00:57:48.30 ID:TvvfTaJA
>>40
39は西軍の決起が遅れたら家康討伐なんて発令されないんだから、みんな会津に行ってしまうってことだろ
53人間七七四年:2013/08/01(木) 02:45:26.81 ID:wwVN78NN
>>52
なんで「みんな」なの?
もうすでに討伐隊は全部出陣してるのに
追加で誰か行けと命令されてるのか?
54人間七七四年:2013/08/01(木) 08:38:09.69 ID:4EjHOmAT
だから岐阜に全軍で出撃して、一戦してみて不利なら篭城して
東軍を釘付けにしてればいいよ。それで大勢は変わるって。
元々、西軍所属のが多いんだから。
55人間七七四年:2013/08/01(木) 10:59:40.86 ID:bkO32hYi
>>53
追加も何も会津征伐は全国の大名に出された指令だから
宇喜多も小早川も島津も全て会津征伐に向かう途中だった
君は会津征伐が東国の大名にだけ出されて西軍大名は三成が蜂起してから大坂に向かって集まったと考えているのだろうが
それは間違いであり西軍の本質を見誤る重大な勘違いだよ
56人間七七四年:2013/08/01(木) 12:53:40.43 ID:Z1V5kDSL
景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
57人間七七四年:2013/08/01(木) 16:13:05.59 ID:Z1V5kDSL
首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために
大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。
これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後の
ソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。
第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
58人間七七四年:2013/08/01(木) 16:13:48.33 ID:Z1V5kDSL
白峰旬「関が原の戦いに関する再検討」
加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり
首謀者であったとみなされていた事を示している

毛利家内への介入と分断を図る家康が目指す覇権へ抵抗するために
会津征伐をチャンスに毛利は反家康行動に踏み切った。
家康は上杉が気になり当分上洛ができないと判断し、
その隙に自力でも家康に対抗できるよう自己のために領土拡大を謀った。
光成氏は毛利の領土拡大と西軍の反家康行動は両立しないなどとは、まったく書いておらず完全に歪曲。
〜光成氏の主張〜
家康と組んだ秀元の別家創設で輝元から毛利領の1/4獲得を狙っていた(出雲や石見なので吉川は長門へ飛ばされる)
その後の交渉で出雲から長門や周防や父の遺領に変更になりながら、やむなく妥結した。
輝元は遺領問題で天下の人々はどうおもうだろうか?と毛利の外聞を非常に気にしてる。
家康や秀元によって恥をかかされたと認識してるから輝元も上杉征伐を最後のチャンスと思ったんだろうね。
さて輝元が在国してて、家康が会津へ出発すると大坂は大老不在になってしまうことから
秀家は会津へ行かずに在京。秀家の代わりに会津へ行ったのは詮家。
ちなみに毛利は吉川と安国寺が会津へ従軍予定。
7/5の豊国神社参拝での武運長久を秀家が行ったことに関しても
肝心の詮家が出発した後にそれをやるのはおかしいとされ、
しかも家康が介入した宇喜多騒動の主役の1人の詮家を会津へ派兵したのは
西軍挙兵において家中で邪魔になるであろう詮家の弊害を恐れ
事実上、秀家による家康の下への放逐行為であると考えられる。
そして秀家は大谷と親しいので、大谷の決起も秀家の士気の高さに引っ張られたとされてる。
6/16の家康出立直前の6/8〜10頃に輝元は領国へ向け出立
6/17日夜に広島に着いているわけだが、7/2に家康が江戸城着を経て
7/12付け三奉行の輝元への上坂要請文が7/15に輝元の元に到着した可能性が高く、
待ち構えていたように即日のうちに輝元は家中を率いて広島から船を出したと考えられ
7/17夜には秀元が大坂西の丸を占拠してしまうなど迅速に家康のいた場所が制圧されてる。
明らかに出兵の準備のために帰国してたとしか思われないわけで
輝元は6月の時点で家康を油断させるために領国へ帰ってるとされる。
そして七将襲撃の時に輝元ー三成ラインが敗北した原因である
家康側による大坂占領と伏見城の治部少丸包囲と真逆の行動を開始するなど戦訓を生かしている。
ちなみに7/19秀忠が江戸より会津へ出陣。7/21家康が江戸から会津へ出陣。
よって光成氏は下記のように書いているわけだ。
「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
しかも慶長5年6月・7月の挙兵への道程における三成の関与について光成氏はまったく書いていない。
これでも光成氏が輝元首謀を主張してないと歪曲して強弁するならお前は完全に文盲かキチガイw
59人間七七四年:2013/08/01(木) 16:14:24.82 ID:Z1V5kDSL
美濃は最初から西軍だし尾張侵攻も毛利主力の伊勢攻略軍による北上。
しかも伊勢を毛利が占領する意思を輝元は表しており、
増田が何を言おうが関係ないとまで言って野心を露わにしてる。
首謀者輝元は幼君秀頼を利用して軍事も主導して専制独裁をしていて
前線指揮官の1人でしかない三成はそれを黙認する機関でしかないのが実態で奉行に復帰してるかどうかすら疑問。
しかも輝元へ三成は直接意見を言えずに、増田を経由している始末。
秀頼に会ってないどころか大坂城にも一度も行ってない三成が首謀者だっていう一次史料が無いどころか
首謀者と思われるような傍証も感情の吐露も三成にはまったくない。
しかも蟄居ではなく、隠居で減封も改易もなく、家督譲渡された息子は秀頼に仕えることが許され、
秀次事件に連座した前野長康や浅野長政(幸長は能登国津向配流)
前田と家康暗殺を企てたとして甲斐の領地と家督を息子に譲り
武蔵府中に出て監視され謹慎させられた浅野長政よりも
三成はかなり罪が軽かった。別段、政治に執着してるわけでもなく、不満を抱いてるわけでもない。
前野長康や浅野長政の失脚を見てれば いつ政争の舞台から失脚しようが浮沈の覚悟もあって当然だろうね。
そして一年以上に渡り、三成はおとなしく生活していて事を起こすような証拠はまったくない。
嫡男の石田重家(三成が実父正継のために建立した寺である寿聖院の三代目を継ぎ生存)
次男の石田重成は津軽重臣として生存。
津軽2代藩主正室の辰姫として生存(子が津軽3代藩主信義)
三成首謀説は大老にもなった若狭酒井忠勝が主導して造られた東国太平記が
三成と兼続の陰謀話の証拠として登場させたのが発端だからw
それには現在では偽書状認定されている原書が存在しない書状が記載されてる。
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続書状がそれ。
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付いたもの。
三成と直江がすべて悪いと汚名を着せられたことと、
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
三成と直江首謀→三成首謀→三成と輝元首謀→輝元首謀と
だんだんと三成の関ヶ原での権力が疑問視されてきてるのが流れだ。
また毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
60人間七七四年:2013/08/01(木) 16:14:55.15 ID:Z1V5kDSL
それさ、謀議に関わってない蜂須賀が裏に輝元がいることに早くも感づいてる証拠だよ。
だってまだ輝元は15日に広島を出発したばかりなのに蜂須賀は嗅ぎつけてる。
また、細川らが家康へ憎い三成が蜂起するとさかんに嘘を吹聴してまわってる。
(西軍本隊は毛利を主軸にした伊勢方面軍であったが、
武断派が三成憎しで大垣へ北進)
あとね内府たがい条に署名してる三奉行に三成は入ってない。
光成氏は奉行の書状が15日に輝元に届くや
待ちかねていたように急ぎ即日出発。
明らかに出発準備が完了していた。
淀、利長、三奉行は
三成と大谷が蜂起と家康にフェイクする陰で
輝元を大坂に招き入れて 家康が蜂起を過小評価させることに成功。
そもそも三成は直接、輝元へ意見が言えず増田経由であるのに
三成首謀者なわけもない。だいたい三成は家康派になっており、
三成の兄の屋敷を家康へ提供するなど、家康へ恭順しているため
なんとしても武断派は三成を敵にしたてる必要性があった。
一方の輝元は毛利分封問題などで家康への敵愾心と悔しさをあらわしている。
また北政所なども西軍派で、それを動かせるのは地位的にも輝元であっても
三成じゃないだろう。
7/12に三奉行が輝元の大坂入りを要請
決起を打ち明けられ同意を求められた家政が
16日に輝元へ書状を出しただけだろ。
淀や利長や三奉行は三成と大谷の挙兵と言うフェイクで
家康を騙して時間稼ぎをしているうちに大津城を手に入れ
瀬田の大橋を確保し、伏見城を落城させて
やっと佐和山の三成との連絡線を確保できたんだし。
三成の挙兵ですぐ輝元が大兵を率いて大坂入城できるのかね?
しかも大兵の船舶まで準備せずにいきなり
物凄い速さで大坂についてるのは光成氏も指摘してる。
輝元が三成に指示も何も三成からして
三成→増田へ書状→増田から輝元へとやり取りしていて
輝元に直接書状を出せない立場なのが三成だから
そんなもん元からあるわけないだろ。
61人間七七四年:2013/08/01(木) 16:15:31.17 ID:Z1V5kDSL
蜂須賀の書状って、
最も伝えたい、訴えたいことを書くことが多い追って書きに、
なおなお両人(三成と大谷)御同意の儀、初者雑説と存、
などと書いていて、
石田と大谷の逆意をただの雑な噂に思っていたら、
安国寺から聞いた旨によると、
東国へ向かう兵達を指し留めていると聞いて驚いたと書いていて、
三成らの挙兵は根拠ない噂だと楽観してたらが、
毛利から安国寺がやってきて、
毛利が会津征伐に行く諸将の軍を差し止めてると聞いて驚いた。
などと書いていて、
実は蜂須賀が聞いていた三成らの挙兵は噂レベルであって、
実際は輝元が会津へ行く諸大名の軍隊を通行止めにしてる首謀者っぷりの事実に、
蜂須賀が驚いて急ぎ書状を出し、
自分は昵懇してる間柄だと強調して輝元に考え直せと再考を促してるだけだよ。
三成らが悪いだけで
輝元は悪くないから、
考え直せば許されるよって、
蜂須賀が輝元の面子を潰さない話術でうまい言い訳を提案してるに過ぎないのは、
追って書きを読めば明らか。
軍記に書かれる三成が会津へ行く諸大名の軍隊を差し止めてる話も、
実は当初は毛利が差し止めてるのが史実だったとわかる書状。

関が原から半年前の慶長4年末の三成→相良宛書状は
退隠してた三成が漆の桶を貰ったことへの感謝の書状だが
そこには京洛の静謐を喜び、九州での庄内の乱も平定されたことに
安堵している三成の姿があり、家康の統治を評価しているのがわかる。
三成が首謀者というのはまったく考えられない。
事実、細川の記録にある細川ガラシャが自決した際のガラシャの側女の報告でも、
三成らが捕らえにくる風聞が原因なんだよね。
だから大坂城から実際に誰の命でとらえにきたか不明で、
あくまで風聞レベルであり、 三成が挙兵した証拠は一切出てこない。
水野伍貴も三成は家康派だったとしている。
なんでいきなり三成が反家康の首謀者になって準備してたなんてでっち上げが信じられるんだ。
そもそも家康は武断派からの暗殺から縁戚の三成を守るために、
結城秀康まで護衛につけてあげてるし、三成は大坂の三成屋敷や三成の兄の屋敷まで提供して、
前田利長らの暗殺から家康を守っている。
そもそも看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したが
三成がそれを家康に通報して、家康襲撃を阻止したと書いている。
その後、家康が忠興に金を貸したり、豊後杵築6万石加増したりして味方化してるな。
そして七将による三成襲撃では、七将が家康に三成を死刑もしくは引き渡し要求する中で
家康が三成をかばって、結城秀康に警護させて佐和山までの道中で、七将に襲撃されないようにしてる。
三成がそのまま大坂に残っていたら、また七将に襲われる大事件が勃発する恐れが高い以上は仕方がない手打ち。
看羊録によれば、佐和山への移動には目的がちゃんとあり
これは家康が対前田のために、三成に北陸防衛を任せたと書いている。
62人間七七四年:2013/08/01(木) 16:16:29.11 ID:Z1V5kDSL
それなら家康が三成の嫡男を秀頼奉公として許している理由もわかる。
実際、家康が抗争していた相手は毛利・上杉であり、三成にはそれほど他意がなかったし
三成にも家康への敵対心はなく、七将と対立しているに過ぎない。
つまり挙兵ってのも上杉が滅亡したら、次ぎは自分の番だと自覚した輝元が
七将を手なずけて会津攻めを開始した家康への敵対を表明したのであり、
三成自身の意思はまったく関係なく、毛利が家康を油断させるために
三成の挙兵だと宣伝して、家康が叛乱を過小評価する誤算を呼び込んで
その隙に伏見城を奪い、勢多の大橋の無傷奪取に成功し大津城も影響下に置くことに成功した。
三成はどちらかと言うと、泥縄的に巻き込まれたと言っていい。
だから三成にはまったくと言って動きを顕わす一次史料が存在しない。
そして反応の鈍い家康と違い反感を持つ七将は三成の挙兵と聞いて反応して上洛していった。
朝鮮出兵は、叛意ゆたかな諸将を疲弊させる目的もあって、行われたもので
秀吉存命時には、朝鮮出兵反対だったが、秀吉死後に国内で支配を確立させたら
毛利や秀家らを朝鮮に派遣して疲弊させるつもりだった。
秀吉は朝鮮に中国・九州のものどもを転封させ、関東のものを西国へ転封させるつもりだった。
朝鮮人を日本で労働させ、日本人は兵隊として朝鮮へ行かせる計画だった。
秀家の先祖は百済人。配下が秀家に謀反したのを責めない家康を小人だと世間が言っていた。
庄内の乱で義弘の兵が疲弊したのを家康は喜んでいた。
輝元の性格は朝鮮人に似ている。朝鮮人の大内の下僕の家柄。
毛利の外交を一手に担う安国寺の周囲は朝鮮人ばかりが囲んでいる。
彼らが内乱を起こせば、朝鮮への再出兵は無くなる。
こんな内容が書かれていて、三成と家康は協調していて、小西と三成が憎い清正が内乱を欲している。
毛利や秀家は家康に屈したら、朝鮮出兵へ行かされる末路なので反抗するしか道はない。
看羊録は一次史料だし、清正との対立から三成は家康の為に働いてたと書いてるし、
家康に命令されての弱体化政策の朝鮮出兵を毛利が回避する為に
家康を排除するしか無いって話でしょ。しかも中立的視点で、
関が原後の国内における変な捏造史観に影響を受けていない点で優れているでしょ。

白川亨氏は家康が秀吉の遺令に背いた時に糾弾のために使者を差し向けた大老や奉行に、
当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた三成は含まれないどころか三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の 五郎八姫を容認するかのように政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたがその兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を 増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた 浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、浅野より姻戚関係にある三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が甥を茶阿に送り届け 息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に風聞を流されて、何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。

極刑の輝元の罪を問わない&家督強制譲渡すれば改易免れる条件が、
島津征伐で輝元が先陣をやるってことだったからな。
しかも毛利の山陽道側の城は後陣の徳川諸将が接収予定だった。
清正や官兵衛が独力で島津を圧倒したから
島津が家康に泣き入れた結果、
輝元は先陣やらずにすんだけどな。
63人間七七四年:2013/08/01(木) 18:01:36.49 ID:4pQIvrrR
>>55
>会津征伐に向かう途中


なんで全軍集結してから出陣しないの?
積み残してさっさと討伐に向こうなんかありえないでしょ
64人間七七四年:2013/08/01(木) 18:05:16.41 ID:4pQIvrrR
>>57
毛利が首謀者ならなんで肝心の総大将が大坂城に籠もりっきりで
前線に出てこないのか
関ヶ原に毛利輝元が出陣してきたら小早川と吉川の裏切りもなかったのにな
65人間七七四年:2013/08/01(木) 19:15:22.45 ID:Z1V5kDSL
首謀総大将はもっとも情報が集まる大坂城で、伊予や丹後や豊後での戦線も統御指揮するからだろ。
66人間七七四年:2013/08/01(木) 19:28:07.43 ID:UwJ8O1WZ
>>63
道が混むから
67人間七七四年:2013/08/01(木) 21:04:43.04 ID:zmVlCuhR
>>64
単純に毛利が馬鹿だからでしょ

○毛利輝元が家康打倒を考えておらず自領域の拡大のみを見据えていたというのは根拠がない
輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
つうか仮にお前のいうように自領域拡大が目的なら
関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事

○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する
68人間七七四年:2013/08/01(木) 21:26:10.60 ID:ShIik5ri
>>63
軍隊が敵地の手前の程よい地点で集結なんてごく普通のことだよ
69人間七七四年:2013/08/01(木) 21:49:59.17 ID:zzhegyGm
wikiだけの知識で必死に対抗しようとするバカ毛利厨乙w
伊予を毛利が平定するチャンスがあったとかバカも休み休み言えよwww
ぜんぜん知識もないアホ丸出しで毛利史観を盲信してんじゃねーよ。
阿波や讃岐が毛利の管理下に置かれてるから毛利の功績?もうデタラメすぎて腹が痛いよwww

伊予国松前城主加藤氏の場合
毛利軍の侵攻に対して弟や正木城を預かる佃らは
宇和島城主藤堂氏の援軍の申し出を「独力で守るわ!」と断り
5/18に決戦し村上・能島・曽根の三将を打ち取るも加藤側の被害はわずか味方手勢十余人の戦死。
これにより正木付近で毛利軍は壊滅させ敗走、さらに追撃し毛利と戦闘を重ね、
毛利軍は久米郡如来寺に籠城し一揆軍の決起を促す。
19日加藤軍の先頭の黒田九郎兵衛は山門を打ち破り寺内に乱入し
毛利兵を討ちまくるうちに鉄砲に当り討ち死。
あとに続いた飛松兵介も討死するも佃は兵を二手に分け前後より攻めて毛利軍を打ち破る。
この戦いで荏原村一揆と毛利を打ち破り、さらに和気郡山越村でも一揆と毛利軍撃破
毛利軍の最後は還熊八幡社を本陣にしたところ
佃は八幡山を襲撃し毛利の防衛線は破られ風早浦から逃げ帰った。
浮穴郡荏原城、和気郡山越付近と佃率いる加藤軍は連戦連勝し
一方、藤堂領宇和郡松葉村でも力石良連らに三瀬六兵衛が打ち取られ伊予の毛利壊滅。

阿波国徳島城蜂須賀氏の場合
家康が上杉征伐の際に御陣場御見習いと称して
小笠原秀政の娘と婚姻してるこの時わずか15歳の至鎮を強引に連れ出して人質となして出征。
やむなく至鎮を守るために益田一正ら18騎も随行。
三成挙兵→至鎮の婚約者の小笠原秀政の娘を救うべく高木法斎が徳島にいた家政の許可なく
北陸軍として加賀大聖寺城に入ったために三成による弾圧を免れることに成功。
大坂方から木俣半之丞が徳島にきたが人質を取られた家政は家康追討の名分がないと反対。
これを受けて大坂から家政に親しい前田玄以が徳島へ出仕要求にきた。
家政は仕方がなく大坂へ出てきて「患いの最中でなおかつ年寄りでもあるから従軍は勘弁して欲しい。
その代わりに国兵を差し出すから自由に使って差し支えない」
と大阪に味方すると約して、諸将の了解を得て下城しのちに高野山へ行く。
そこで大坂方から小川越前&小早川豊前が徳島へ来て家政の意として大谷・木下勝俊に属して北陸へ向かうように指令。
9/12に1万で兵庫上陸するや蜂須賀隊を率いる稲田示植が病として進軍を3日の間ストップをかけ
15日枚方で関ヶ原の東軍勝報を聞き近江草津で至鎮に合流。

生駒一正は未だに部屋住みなりしも20騎を率いて家康に従う←ここら辺は至鎮と同じパターンだろ。
生駒親正は西軍として丹波田辺城を攻め向かうも関ヶ原を聞き家康を恐れて高野山へ行く←家政と違い大坂でうまく言い訳ができんかったw

西軍化した生駒も蜂須賀もまったく士気がなくやる気ゼロの軍
どこに毛利の功績があって、毛利が四国の大半を支配下に置けそうだったんだ?
毛利はいつもどうりに激弱かったので、西軍の足を引っ張って大坂方が苦労してただけだぜ。
70人間七七四年:2013/08/02(金) 05:23:10.72 ID:4QIgeGCD
アンタいつも長文杉
71人間七七四年:2013/08/02(金) 07:44:28.21 ID:f5beC8sn
だがきもちわるい
72人間七七四年:2013/08/02(金) 13:08:12.88 ID:ECDTirZu
福島君が裏切ればお仕舞いかと。
73人間七七四年:2013/08/02(金) 13:20:10.85 ID:WwHs0/Yo
三成は戦力不足の美濃方面指揮官の閑職だしな。
あんまり三成、小西、義弘らは西軍全体から歓迎されてないよな。
まあ小西と義弘は朝鮮出兵の同僚で、
朝鮮出兵では武断派軍団や毛利小早川軍団とも仲があまり良くないから、
朝鮮からの撤兵では置き去りにされそうになったりしてるし、
小西と親しかった三成は意に反して後から巻き込まれただけにすぎんだろうね。
74人間七七四年:2013/08/02(金) 16:49:46.73 ID:2lIiJKBF
じゃ反省会はここまでとしてマジで勝てる方法考えようぜ
75人間七七四年:2013/08/02(金) 17:25:32.93 ID:yVSc22/N
小西と清正の対立が発火点
そこに家康による毛利弱体化政策による輝元の家康への憎悪
家康による小西への臣従要求に対して、小西が秀頼様へ忠義を尽くすという返答で拒否。
だから利害の関係で
輝元と小西が対家康で共同戦線するのは自然。
しかし、家康への臣従を受け入れた三成には動機がないんだよな。
76人間七七四年:2013/08/02(金) 18:05:44.53 ID:jafsr5GH
どうして西軍無視して大坂城の方に東軍が行こうとしたのを慌てて止めようとしたの?
そのまま大坂の方に行かせればいいじゃない?
そっちいけば豊臣恩顧の武将が大坂城を攻めることになって機能しなくなるのに

後ろから東軍突けばいいじゃない?大坂城に攻めかからせて動けなくしてからさ
77人間七七四年:2013/08/02(金) 18:15:21.25 ID:yVSc22/N
佐和山を抜かれたら
琵琶湖の湖上交通路や北陸戦線や山陰戦線に影響がでるからだろ。
78人間七七四年:2013/08/02(金) 18:50:56.57 ID:jafsr5GH
>>77
一時的に与えてもその後に勝てばいいよ
東軍が佐和山のあたりでずっといるわけじゃないし

西軍は自分たちのテリトリーなんだから
勝負を長引かせれば有利、向こうは兵糧補給が困難になるから
79人間七七四年:2013/08/02(金) 18:52:27.80 ID:jafsr5GH
自分が三成なら大坂城の毛利本隊をどうやって出陣させるか考えるけどね
出てこないなら東軍と挟み撃ちの状態にしてしまえばいいよ
80人間七七四年:2013/08/02(金) 20:40:14.88 ID:N985KiIl
岐阜落とされたばかりなのに、佐和山まで落とされたら西軍に動揺がはいって内部統制が効かなくなる恐れがある。分かりやすくいえば裏切り続出。
俺は関ヶ原自体が西軍から見て決戦を挑めるぎりぎりの状況だったと思っている。実際はすでに手遅れだったのだが
81人間七七四年:2013/08/02(金) 21:42:45.05 ID:kAJFYQmU
「佐和山を落とされるんじゃなく、佐和山城を攻められるだけでも三成の政治的地位は消失する」って主張してる人もいたな
82人間七七四年:2013/08/02(金) 23:06:55.32 ID:jafsr5GH
>>80
佐和山なんか小さい城だし、くれてやればいいじゃない?
そんなもんにこだわって肝心の決戦に負けたら全部失うんだから
俺が三成なら家族とか逃がして空き城にするけどな、出陣前に
で、場内の食料は当然運び出して自分たちで使うよw
83人間七七四年:2013/08/02(金) 23:09:42.20 ID:jafsr5GH
>>81
政治的地位って何?
西軍の総大将は毛利輝元だろ

会議の時に自分が三成なら途中の城はすべて放棄して
東軍を大坂城を攻めさせて後ろから挟み撃ちにするって提案するけどね

目の前に秀頼と毛利家の当主がいるのに
裏切りできるのか?
84人間七七四年:2013/08/02(金) 23:19:59.26 ID:qmqi1UWe
>>83
名目的には西軍総大将として毛利元就が上がってるだけで、
実際は石田三成が首謀者だって話なんじゃね?
大阪に徳川の軍勢が表れたら、朝敵に認定された上に、秀頼から輝元に石田三成追討の依頼が出ると思ったんじゃないの
85人間七七四年:2013/08/02(金) 23:59:30.72 ID:N985KiIl
>>82
そもそも決戦できなくなる可能性が出てくるといっているんだか
佐和山城の規模はどうあれ西軍の有力大名の本拠地で、それが落とされるのを傍観すれば他の大名が西軍について来なくなる
例えば大谷の敦賀とか長束の水口とかは直接の脅威にさらされるので、東軍に鞍替えしてもおかしくはない
86人間七七四年:2013/08/03(土) 00:54:24.82 ID:Ups2E42b
>>85
>それが落とされるのを傍観すれば他の大名が西軍について来なくなる

傍観?守る必要も無いし
作戦上、さっさと空けて大坂に行かせればいいだけ
87人間七七四年:2013/08/03(土) 00:55:57.81 ID:Ups2E42b
>>85
あと、大谷や長束が裏切るわけ無いでしょ?

むしろ大坂攻めになったら豊臣恩顧の武将が次々に無力化するだけ
三成憎しだけで動いてるんだから
88人間七七四年:2013/08/03(土) 01:01:18.21 ID:Ups2E42b
東軍の利点ばかりで西軍のそれ以上の利点についてはなんで目をつむるのか不思議
東軍は豊臣恩顧の武将が半分以上を占めてて大坂城に向かえば半分以上の戦力が事実上無力化してしまうのに

西軍はじぶんたちのテリトリーなんだから時間を稼げば東軍の士気や兵糧も尽きて有利になるのに
89人間七七四年:2013/08/03(土) 02:23:40.57 ID:6GwfO12v
大坂なんか攻める必要ないからな
90人間七七四年:2013/08/03(土) 03:07:28.03 ID:8XOVvdEC
>>89
そのまま大垣城から西軍がでてこなかったらどうしてるんだろうね
戻って来て攻城戦かな
91人間七七四年:2013/08/03(土) 09:19:34.02 ID:QSuifxkL
大坂を戦場にってのは流石に豊臣家が認めないんじゃないか?
この時期って徳川との完全な対決を望んでいた様でも無いし
92人間七七四年:2013/08/03(土) 09:29:56.13 ID:ojB938Aq
>>91
そもそも、この時期は
豊臣家康だな。羽柴姓を賜ったかは知らんが。
93人間七七四年:2013/08/03(土) 09:31:00.81 ID:8XOVvdEC
>>91
許可得る必要ないよ、西軍本隊が大垣城に籠城し続ければ
城攻めするか、あきらめて大坂の方に向かうか
東軍本隊にはどちらかしか選択肢ないし

三成もむかついてるのでは?豊臣家の為に戦ってるのに
秀頼はでてこないわ、総大将は2万も兵力あるのに援軍もよこさないし

自分が三成ならそうやって強制的に参加させるけどなw
94人間七七四年:2013/08/03(土) 09:36:34.35 ID:sq5e4+Yg
一戦もやらずに大坂包囲されたらヘタレて講話交渉が始まり、
攻め登られた西軍の実質上の負けでしょ。
そもそも家康が京に入り朝廷を押さえた時点でルール変更すら可能になるし。
関ヶ原で一戦して破れてから、大坂籠城なら腰を座り講話交渉が難航するから話が変わってくるが。
95人間七七四年:2013/08/03(土) 09:55:55.24 ID:8XOVvdEC
>>94
破れたらそこで終了でしょ
朝廷はそのころは何の権限も無いし
幕末の頃と全然違うよ
まさにお飾り
96人間七七四年:2013/08/03(土) 10:22:36.45 ID:cE3iY8A5
敗れても良いから一度は出陣して戦えと信長は言ってるし
三方が原の家康も国人の離反を避けるために
出陣して大敗後に篭城してるしな。
求心力って配下を不安にさせないに足る闘争心が重要なんだと思う。
97人間七七四年:2013/08/03(土) 10:29:19.20 ID:6GwfO12v
権限はないが権威はあるかなら、家康が裏書した朝廷の手形は
結構な威力あるで
98人間七七四年:2013/08/03(土) 10:38:59.03 ID:eztP91s4
まず大垣で篭城続行する。立花・鍋島らと合流。
秀忠の3万8000を待って、徳川の後詰を断つ。
ほら、勝てそうじゃないかw
99人間七七四年:2013/08/03(土) 10:54:47.38 ID:H4Y+/PZo
関ヶ原より西を完全に西軍の支配下だと思っているようだけど、
実際は家康と豊臣政権の主力部隊が不在の間に畿内を制圧しただけで、
東軍が戻ってきたら情勢変わると思うけどな
100人間七七四年:2013/08/03(土) 11:07:44.83 ID:qJA7V6Jm
タイムトラベルして家康の首を叩き斬りたいw
101人間七七四年:2013/08/03(土) 12:18:30.42 ID:QSuifxkL
>>93
曲がりなりにも主家の本拠だぞ?同意は得なきゃならんだろ
同意も得ずに主家の城に上がり込んで勝手に合戦とか謀反以外の何物でもない
最悪、御輿である筈の豊臣家自体が徳川と内通とか厄介な展開を招きかねんぞ
102人間七七四年:2013/08/03(土) 18:13:27.69 ID:WnPss7FL
>>101
頭悪そうだな、出陣もしてこないぐらいのへたれなのに
同意するわけ無いだろw
103人間七七四年:2013/08/04(日) 09:23:00.72 ID:xLigTHnP
小早川が寝返らなけりゃ、勝算はあったのに。
104人間七七四年:2013/08/04(日) 17:00:02.30 ID:tSjw5Mvz
>>95
摂関家である豊臣家にとって帝と都は超重要だよ
豊臣家が他の大名家の格上に立てるの朝廷のバックボーンがあるからこそ
帝と都を押さえ込まれたら豊臣家は五大老と同格のただの大大名に転落する
105人間七七四年:2013/08/04(日) 17:11:55.52 ID:N9G35XWf
>>104
馬鹿?
106人間七七四年:2013/08/04(日) 17:13:10.57 ID:tSjw5Mvz
>>105
何故?
107人間七七四年:2013/08/04(日) 18:23:08.83 ID:4DDWUlIW
>>102
年齢一桁のガキを出陣させろと?それこそ頭の悪い話だな
同意を得られそうも無いのに大坂籠城なんて考える方が頭悪い
108人間七七四年:2013/08/04(日) 19:43:49.06 ID:QI6dF4qS
>>107
何が同意だよ、頭おかしいのかw
109人間七七四年:2013/08/05(月) 14:30:38.45 ID:AIV9rh1v
おまいら落ち着けw
関ヶ原敗退後に、島津や立花は大阪篭城を主張した。
それを毛利は家康の虚言に騙されて大阪から出て領土を大量に失った。
篭城するとなれば、別に秀頼や淀の許可は要らんだろう。
それは何とでもなる。
110人間七七四年:2013/08/05(月) 17:29:55.69 ID:+JW1NWGB
関が原後なら三成が武断派に捕らえられてるから
武断派は大坂方に変心。
家康が大坂に対して孤立するだけ。
111人間七七四年:2013/08/05(月) 17:38:33.01 ID:yplJ7qz4
つまり毛利らが福島らに三成討伐の恩賞与えるわけ?
112人間七七四年:2013/08/05(月) 20:01:18.72 ID:zn+MlzMZ
三成も決戦を急がずに粘れよ
野戦上手の家康と野戦で決着つけようとしたのが間違い
113人間七七四年:2013/08/05(月) 20:03:24.50 ID:zn+MlzMZ
三成も秀頼に福島や加藤に対して家康討伐の命令ださせればよかったのにな
114人間七七四年:2013/08/05(月) 20:08:39.63 ID:i1Wq3qDC
正則「まだ7歳の秀頼君が家康討伐令出すとかwwwww」
清正「ねーよwwwwwうはwwwwwww三成が裏にいるって馬鹿でもわかるわwwwwwww」

って感じになる予感しかしない
115人間七七四年:2013/08/06(火) 01:51:20.79 ID:4qPoVoeV
東軍に参加している時点で
116人間七七四年:2013/08/06(火) 07:51:03.50 ID:JykCX523
>>114-115

俺も以前は無駄無駄無駄ァあああああああああ
って思ってたケド、実は福島家を始め東軍に参加した連中の家臣達の多くは
秀頼のために働くべきだ!と思ってた連中が多い。

だから、東軍諸将家臣団の戦意を更に下げさせるために
やる価値はあると思う。

、実数3万程度の西軍に倍以上の東軍が押されたのも
士気の低さからだからな。
117人間七七四年:2013/08/06(火) 10:31:47.57 ID:MnQd8ZUR
城を賊臣に占拠され監禁された幼君を救い出す

萌えるで
118人間七七四年:2013/08/06(火) 18:36:39.50 ID:POzSKnfy
家康の将軍任官と同じ慶長8年(1603年)、池田輝政が右近衛権少将に任じられているが、
これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。
また同年山内一豊が従四位下に叙せられ土佐守に任官しているが、
これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。
また、これも慶長8年(1603年)のこと、加藤清正主計頭から肥後守に転任しているが、
同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」である。
武断派が徳川将軍に対して対決姿勢を示しているのである。
しかし、その後、有力親豊臣大名は次々と死去していくのである。
119人間七七四年:2013/08/06(火) 20:53:26.82 ID:9LaTb3bb
>>114
実際に上杉討伐に関してはその7歳の秀頼が家康に対して上杉討伐の許可を出してるんだけど。
そこはスルーですかね?

>>114の言葉を借りれば
景勝まだ7歳の秀頼君が上杉討伐令出すとかwwwww」
兼続「ねーよwwwwwうはwwwwwww家康が裏にいるって馬鹿でもわかるわwwwwwww」

ってことなんですがね。
120人間七七四年:2013/08/06(火) 22:43:07.33 ID:XFfhqqf/
>>119

だから秀頼の名前の命令に従うかどうかは、実質的に命令出した奴に従う気があるか次第ってことだろ?
121人間七七四年:2013/08/07(水) 10:21:16.94 ID:Y8Yf5avC
>>118
その三人に限らず秀吉時代から尾張系や近江系の恩顧には豊臣姓を認めてこなかった
加藤がつい勢いで名乗った時も厳しく監視して処罰を下したこともある
そうすることで豊臣姓を授与することは普通の恩顧とは違うというブランド価値を保とうとしていた
だが関ヶ原後にそんな余裕があるわけもなく豊臣に与えられるものは豊臣姓しかなくなってしまった
だからこれまで豊臣姓を頑として認めなかった連中にもバーゲンセールをして繋ぎ止めを図るという恥も外分もない行為に走った
全滅した近江系はともかく生き残った尾張系は処罰をしてでも認めなかった豊臣姓を一度くらいは名乗りたいという願望はあっただろう
都合が悪くなったら名乗りを戻せばいいだけだから軽い気持ちで受けたに過ぎない
それでも秀吉時代の方針を覆して尾張系に豊臣姓を認めなければいけない程に豊臣は追い詰められていた
122人間七七四年:2013/08/07(水) 12:55:03.55 ID:WVNwzxQ4
>>121
違う、九条兼孝の意向
1603年には秀頼が関白に就任するという話が浮上したりと
朝廷は秀頼の関白就任を常に画策してる。
これには豊臣家も困ってしまい1607年1月11日には昇進が近い秀頼が正二位右大臣を辞任して(家康が前右大臣だったことから遠慮した)
朝廷を守るために徳川と対立する構図を避けるようにしてる。
123人間七七四年:2013/08/07(水) 23:50:27.78 ID:t/km2Dbh
家康も朝廷の豊臣擁護にはまだ逆らえず、
慶長8年には孫娘の千姫を秀頼に嫁がせたりとやむなく豊臣との共存を図る融和策を取り続けるが、
家康は水面下で朝廷へ圧力を加え続け、慶長16年に豊臣贔屓の後陽成天皇をついに譲位させた翌日には、
秀頼を二条城に呼びつけて会見するなど敵対していくことになる。
その後、清正など次々の死ぬんだが、あれは家康による暗殺だな。
124人間七七四年:2013/08/09(金) 11:39:10.34 ID:mXlb6OFS
白川氏は北政所の養女だった三成次女を
直江の会津帰国に伴ってもらったということから
三成と直江による同盟を主張してる人でしょ。
でも三成と家康の親戚関係も同時に主張してて
家康が一番、三成の苦渋を理解していたとも書いてる人。
だから三成の長男重家(104歳まで生きたw)や
重成(津軽家重臣になった)や娘達を死刑にしなかった。
豊臣家への忠義忠節など曖昧なもんを動機にしてて一次史料に欠く。
>667
>>上杉景勝・前田利長・加藤清正等であった」とか言わんの?
だから三成→直江書状が本物なら三成首謀説支持に転向すると表明してるんじゃないの?
すでに三成と家康によって前田を煽って、家康を滅ぼし関東の領地を武断派で山分けする
清正の野望が潰えてしまったので(利長が母のまつを家康へ人質として送った)
それが成立しなくなったと言うことでしょう。
清正と前田が関が原で曖昧な態度に終始したのもうなずける。
清正にしたら、家康も三成も輝元もムカツクから、
お前ら争いあって壊滅し合えって感じで傍観してたのかも。
(憎き小西に対してでさえ、清正は関が原後の9月21日に宇土城攻めをするほど反応が鈍い)
景勝は野望の無い人物で、家康に攻めかかって、上杉が天下を盗もうとしてると
世間から猜疑されるのを嫌がる潔癖さがあったから、家康の追撃もやらなかったし、
そこが看羊録で、チャンスに動かない鈍・懦と手厳しく書かれたんじゃないかな。
天が与うるものを受けざれば、すなわち罰を受けるの通りに上杉は30万石に減封された。
>673
光成氏は奉行は対家康目的の元に秀吉の遺令を無視して
秀元分封問題で輝元有利にしようとしていたが
家康が秀元と内通して遺令の言質の実行を迫り
輝元も「これでは外聞も悪いし、毛利は立ち行かない」と嘆いていたとしてる。
あなたの言ってることは完全に歪曲。
家康は宇喜多家中の内乱に介入したりと
他の大老の弱体化を積極的に施行していたし
毛利が分封問題を破棄するには、家康へ挙兵するしか道が残されて無い。
125人間七七四年:2013/08/09(金) 11:42:24.49 ID:mXlb6OFS
水野伍貴氏の論文は看羊録や島津義弘や毛利輝元の書状を
論拠に三成が家康寄りの態度であったことを論じ
その三成がなぜ?家康と対決する末路になったのかの部分を
毛利輝元と宇喜多秀家による働きかけによるものと論じてるね。
>678
家康によって輝元も秀家も家中対立を煽られているんだよね。
それで弱体化させられたのちに、朝鮮出兵に行かされたら絶望的になるから
上杉を最後の砦にして輝元は決起するしかなかったんだろう。
ちなみに大老の署名順はこのちょっと前まで、
家康・秀家・景勝・輝元・利長だから、上杉はナンバー3に位置してる。
秀家は秀頼の後見役を頼まれてるから地位が高いんだろうから、
実質、上杉はナンバー2となる。そのため家康による会津征伐の成功は
家康の独裁確立を意味する以上は、輝元は三成をどうやっても
巻き込んで決起しなければならないまでに追い詰められている。

白川亨氏は家康が秀吉の遺令に背いた時に
糾弾のために使者を差し向けた大老や奉行に、
当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた
三成は含まれないどころか、
三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の
五郎八姫を容認するかのように、
政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、
徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたが、
その兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、
家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を
増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、
そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた
浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、
浅野より姻戚関係にある
三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が
甥を茶阿に送り届け、
息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に
風聞を流されて、
何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。
126人間七七四年:2013/08/09(金) 11:46:35.14 ID:mXlb6OFS
三成の兄が自邸を譲って堺に移ったのは関が原前年の9月だったよね。
そこから家康が留守番の前田家臣を恫喝して、
大坂城内の前田の天守を解体させたと書いてる。
最初は利長の命が無いと拒絶したが
秀家が責任は私がとってやるからと取り成した。
ちなみに秀家が家臣にクーデターされた時は、
秀家は慌て騒ぐだけの無策ぶりで、
大谷が舟を出して秀家を救ったとも書いてるよね。
ただタイミングさえ弁えてたら毛利が勝てる時、
景勝が前田と挙兵したら勝てたタイミングがあったことも指摘してるのが面白い。
というのも、秀吉はすぐ恨みを忘れて厚遇するが、
家康は一度味わった恨みを決して忘れず報復するため、
諸将は心服してないと書いていたり、
清正が武装して伏見で家康を待っていたら、
家康が病と偽り来ないのを、
皆が臆病者と噂したとか書いてる。

そもそも看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したが
三成がそれを家康に通報して、家康襲撃を阻止したと書いている。

その後、家康が忠興に金を貸したり、豊後杵築6万石加増したりして味方化してるな。
そして七将による三成襲撃では、七将が家康に三成を死刑もしくは引き渡し要求する中で
家康が三成をかばって、結城秀康に警護させて佐和山までの道中で、七将に襲撃されないようにしてる。
三成がそのまま大坂に残っていたら、また七将に襲われる大事件が勃発する恐れが高い以上は仕方がない手打ち。
127人間七七四年:2013/08/09(金) 16:37:29.89 ID:KZpc8lQ2
言いたいことは短く的確に
128人間七七四年:2013/08/10(土) 00:29:43.82 ID:dJyl7//V
看羊録を引用するとか、コイツ本当恥さらしだなw
129人間七七四年:2013/08/11(日) 14:50:40.08 ID:AntkQQ0H
そもそもが、関ケ原で小早川が寝返らなかったら西軍は勝てた。
130人間七七四年:2013/08/11(日) 15:43:28.19 ID:78AJK9Lo
>>128
水野伍貴氏のどこら辺が恥さらしなのか箇条書きで教えてください。
131人間七七四年:2013/08/11(日) 17:12:34.38 ID:L4AQMJ2X
なぁ、上杉征伐の挨拶で大阪城登城した際に上意討ちでどうだろ。
132人間七七四年:2013/08/13(火) 11:40:10.41 ID:BPM24iU1
看羊録は『日本に抑留されていた姜の伝聞記録』でしかない。
慰安婦に係る韓国人の主張を鵜呑みにするのと同じレベル。
133人間七七四年:2013/08/13(火) 11:45:02.43 ID:cBsTiumP
134人間七七四年:2013/08/13(火) 11:56:18.96 ID:BPM24iU1
>>133
>>128(笑
135人間七七四年:2013/08/14(水) 10:18:34.40 ID:GY03XMFq
秀頼側近だったためか三成の息子や小西に息子は罪に問わない態度だったでしょ家康は。
もっとも小西の息子は西軍首謀者にして暗君の毛利の元に行ったら捕縛され虐殺されたけど。
ここで推論。小西の息子から輝元が首謀者だとバラされたらと恐怖した輝が危険視して殺した。
小西が首謀者で、輝元は口下三寸でうまく乗せられ騙されて総大将になっただけで、首謀者は小西だから騙されたと怒って殺した。

津軽に嫁いだ三成の娘である辰姫が高台院(北政所)の養女となっていたことも踏まえて、
高台院は関ヶ原の戦いでは徳川家康やいわゆる武断派諸将の東軍を
支援していたという従来の説とは逆の、
実際には三成らと親しく西軍寄りの姿勢であったという説が持ち上がっている
136人間七七四年:2013/08/14(水) 10:27:53.04 ID:GY03XMFq
>>132
敵情報告のつもりで朝鮮国王に提出されたものだから
非常に精度が高く、日本の国々の国情・歴史、日本人の思考など
かなり広範囲にわたり調べていて、
しかも一次史料だからねこれ。宣教師のは後年、思い出しながら書いてるものもあるけど
こちらはリアルタイムに報告するために書かれていて
しかも関が原以降の歴史を知らないうちに書いているので、勝者側によるおかしなフィルターを通していない。
さらに、これ朝鮮が再度、日本に狙われるか?日本軍に勝つにはどうすればよいか?などが
書かれているだけに精度が高い。一部、勘違いしている部分や
日本で出版するにあたり訳が間違えているのではないかと思われる部分があるが
総じて信頼できる内容になっているよ。
水野伍貴氏が恥さらしということはまったくない。
137人間七七四年:2013/08/14(水) 11:34:03.37 ID:wqI+riny
>>136
@日本に抑留されていた ⇒捕虜。有力大名との面談などはない。
A朝鮮人による     ⇒日本語の堪能度、文化・風習の理解度
B伝聞記        ⇒噂話

一次史料は、同時代史料というだけど、史実との整合性・正確性
によって『一次』となるものではない。

水野某を恥さらしと誰がどのスレで言ったの?(笑
138人間七七四年:2013/08/14(水) 11:48:35.85 ID:GY03XMFq
>>137
お前の盲信してることに反した内容・・・
お前にとって都合が悪い内容があるから
そうやって史料を貶しているんだろw
正直に白状しろよw
水野伍貴氏が看羊録を引用してることを>>128で書いてるだろw
139人間七七四年:2013/08/14(水) 12:04:30.32 ID:wqI+riny
>>138
都合が悪いって何?(笑
>>128のどこに書いてあるの?
これは、キミを指してるんじゃないの?(笑

繰り返すね。
@日本に抑留されていた ⇒捕虜。有力大名との面談などは当然ない。
A朝鮮人による      ⇒日本語の堪能度、文化・風習の理解度の問題。
               (日本滞在期間は2年程度)
B伝聞記          ⇒噂話

これに史実性と普遍性を持たせようとするキミの主張がオカシイ。
一次史料とは同時代史料というだけで、史実との整合性・正確性
によって『一次』となるものではない。
史実と異なる、内容が記載された個人的な手紙だって、
当時のものなら一次史料になる。
140人間七七四年:2013/08/14(水) 12:08:27.33 ID:GY03XMFq
>>139
へっ?お前は中傷的で意味のない内容を列挙して
何が言いたいの?
具体的に水野伍貴氏の論文や看羊録のどこがおかしいのか
実例を列挙して反論してみろよ。
水野伍貴氏の論文はけっこう長いし
看羊録も細かい字でかなりのページ数だから
ちゃんと何ページか書けよ。
141人間七七四年:2013/08/14(水) 12:13:47.98 ID:wqI+riny
>>140
なんでそんな事に付き合わなきゃならんの?(笑
水野伍貴氏とやらの話を突然振りだしたのはキミでは?(>>130
こちらは、一言も氏については触れていないけど。確認してみてよ。

看羊録については>>139ね。何か間違えてる?
142人間七七四年:2013/08/14(水) 12:33:32.66 ID:GY03XMFq
なんだよwお前読んだこともないのに
文句言ってたのかよwww
やっぱり>>138のとおりだろwww
143人間七七四年:2013/08/14(水) 12:37:25.01 ID:wqI+riny
>>142
水野某氏の文句なんて言ってないけど?
レス教えてもらえる?あるわけないけど(笑

要はあれでしょ。
『看羊録』について議論出来るだけの根拠がキミにないから、
水野氏とやらの論文に威を借りて、議論で困ったら論点をそっちに逸らそう、
ってことでしょ?(笑
144人間七七四年:2013/08/14(水) 12:52:43.41 ID:GY03XMFq
>>143
看羊録のどこがおかしいのか
実例を列挙して反論してみろよ。
看羊録も細かい字でかなりのページ数だから
ちゃんと何ページか書けよ。
145人間七七四年:2013/08/14(水) 12:57:07.39 ID:wqI+riny
>>144
>>143は『認めた』ということでいいのかな?
キミは同じことを何度も繰り返す人だから、ここをハッキリしてもらわないと。
146人間七七四年:2013/08/14(水) 13:00:37.50 ID:GY03XMFq
>>144
看羊録のどこがおかしいのか
実例を列挙して反論してみろよ。
看羊録も細かい字でかなりのページ数だから
ちゃんと何ページか書けよ。
147人間七七四年:2013/08/14(水) 13:06:14.69 ID:wqI+riny
>>144>>146
認めたくない気持ちがよくわかるレスだ(笑
148人間七七四年:2013/08/14(水) 17:19:10.86 ID:VaTCwHOV
こういう風にして、東西に別れて戦うことになるんだな。
いいもん見せてもらったわ。
149人間七七四年:2013/08/14(水) 22:16:33.61 ID:CM8Sy1dM
こういう関ヶ原関係の映画とかドラマとか見てると
西軍応援したくなってくるよね

三成=実直な青年将校みたいな描かかれかた
家康=秀吉との約束を違えて天下取ろうとし性格悪いじいさん

仕方ないかな・・・w
150人間七七四年:2013/08/14(水) 22:19:20.28 ID:CM8Sy1dM
お盆だから言うんじゃないけど、今頃天国の三成も本望じゃないかな
あれから400年以上たったけど三成のやったことは義挙だと後の世の人たちが認めてくれてるから
あのまま黙って家康に屈服してれば配下の小大名として人生全うできたかもしれないけど
誰もよく知らないような地方の小大名で終わってた可能性高いし
151人間七七四年:2013/08/14(水) 23:01:09.51 ID:bOITbBkb
別に家康が朝鮮出兵しろとか関白を粛清しろとか言ったわけではないだろ
秀吉と三成ら奉行による政権運営が大失敗に終わったから家康が尻拭いをしただけだ
ただ秀吉も三成もやりたい放題やっているだけなのに恩とか義とかを巧みに駆使して誤魔化すパフォーマンスは見事だろう
家康や武断派にはそこが真似できないのが可哀想だった
四百年たっても単なる政権復帰を目論んだ権力闘争を義挙と勘違いする奴が未だにいるくらいだし
152人間七七四年:2013/08/15(木) 01:25:08.74 ID:2suvWw/h
>>151
頭悪そうw
153人間七七四年:2013/08/15(木) 01:47:27.51 ID:adpcjF7+
三成が自身の野心のために挙兵したのなら評価出来るんだが、
義によって挙兵したのなら、本当に馬鹿な人物で終わる。
豊臣家にとっては、害悪・迷惑でしかない挙兵。
実際、豊臣家は中立で謀反扱いされてるし、全く救いがない。
義挙にされてしまった三成が本当に気の毒。
154人間七七四年:2013/08/15(木) 02:21:48.03 ID:2suvWw/h
三成は義の人ですね
155人間七七四年:2013/08/15(木) 02:57:05.86 ID:adpcjF7+
では馬鹿な人物で確定ということで。
156人間七七四年:2013/08/15(木) 03:27:06.96 ID:3ARHS649
>>155
お前が馬鹿なんだよw
157人間七七四年:2013/08/15(木) 10:17:31.92 ID:6u3i1u/2
秀吉の遺言通りにしていたら、5年も持たずに戦国時代に逆戻りだな
158人間七七四年:2013/08/15(木) 11:48:37.53 ID:qRLsuVSl
ソース皆無の話題になると家康擁護の自演馬鹿が元気になるなw
159人間七七四年:2013/08/15(木) 11:56:43.70 ID:6u3i1u/2
三成正義よりはマシ
160人間七七四年:2013/08/15(木) 11:58:41.59 ID:qRLsuVSl
ほんとは在日だからだろwww
161人間七七四年:2013/08/15(木) 12:31:58.95 ID:6u3i1u/2
カラダバランス飲料
162人間七七四年:2013/08/15(木) 13:39:35.85 ID:HkL0b5UK
そもそも秀吉と三成がきちんとした政をしていれば家康を筆頭大老に招聘する必要はなかった
三成は関ヶ原前から豊臣をボロボロにした失政の共犯だった
そんな奴が義の人を気取りだせは豊臣家も無関係を主張するし
諸大名も大半が日和見や内通をして三成と一緒に戦うのを拒否するのも当たり前
西軍の敗因は三成を前面に押し出したことだ
163人間七七四年:2013/08/15(木) 16:16:23.13 ID:HTcBSRNm
>>162
ソースも根拠も書かずに悪口中傷を連呼するの楽しい?
とてもそんな低い知性では同じ日本人には思えないな。
164人間七七四年:2013/08/15(木) 17:59:55.31 ID:6u3i1u/2
秀吉が家康と利家に後見を頼んで後者がくたばれば、
そりゃ家康に権力が集中するわな
165人間七七四年:2013/08/15(木) 19:41:11.16 ID:5VqYJ9E1
秀吉が家康の力を削ぐことを全くしておらず、
逆に強化している以上、歴史の流れは必然でしょ。

三成は秀吉の意思に対して不忠極まりない。
豊臣家を滅ぼした張本人としか言えない。
166人間七七四年:2013/08/15(木) 20:53:35.34 ID:lxiFYw0v
>>165

     ノ´⌒`\           ∩___∩    ━┓     /  
  γ⌒´     \          | ノ\     ヽ.   ┏┛   /
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    \     _ノ  /      |   'ー=‐' i  ・      \ \_   ⊂ヽ∩\
    /´     `\/        >     く          \  /´    (,_ \.\
     |      /      _/ ,/⌒)、,ヽ_         \ |  /     \_ノ
     |     /         ヽ、_/~ヽ、__)  \        \
167人間七七四年:2013/08/15(木) 21:02:04.76 ID:qRLsuVSl
>>164
秀頼の後見役は前田家であって家康は頼まれてない。
家康が後見役の前田に謀反の疑いをかけてる時点で完全な謀反。
家康が秀頼の後見うんぬん言うのは単に自称してるだけ。
そもそも家康は大坂城ではなく伏見城常駐してないといけないのに
大坂へ入城する時点で大逆。
>>165
徳川だけを見ればでかい勢力ではあるが、
毛利も上杉も宇喜多も前田もいたから実際には抑止力は十分に機能していた。
お前は単に関が原の戦いで馬鹿輝元のヘタレの結果の勝敗を見て判断してるだけ。
西軍が勝てる可能性は非常に高かった。

>>三成は秀吉の意思に対して不忠極まりない。 豊臣家を滅ぼした張本人としか言えない。
理由を一切書いておらず内容皆無、お前の文章からは在日特有の憎しみと恨みしか読み取れない。
168人間七七四年:2013/08/15(木) 21:14:36.31 ID:6u3i1u/2
>>167
七月一日付石田三成宛伊達政宗書状に
「御諚ニハ、 秀頼様いまた御幻(幼)少之義ニ御さ候間、 太閤様以来者、内府・大納言あつけ御申候間、
御うしろ見なされ、如何様にもとりたて御申あるへき由、被 仰出候、」
とあるので、家康にも後見は求められている
169人間七七四年:2013/08/15(木) 21:58:50.11 ID:45SgV7Zp
秀吉に命じられ利家は御もりの起請文出しているし、
家康や奉行がいる前で秀頼御もりを秀吉から利家は直接言われてもいる。
そして大坂城で秀頼を守る役割を担っていた。
逆に家康は大坂城ではなく伏見城入りとなっていて警戒されているし、
家康が秀吉から秀頼の御もりを頼んでいるようなことも無いんだよな。
170人間七七四年:2013/08/15(木) 22:09:31.60 ID:LtgQ0gz0
伏見城詰めがけい・・・かい・・・?
171人間七七四年:2013/08/15(木) 22:36:39.04 ID:6u3i1u/2
>>169
家康には孫婿、つまり外戚としての地位を与えている
172人間七七四年:2013/08/15(木) 22:47:17.72 ID:45SgV7Zp
千姫と秀頼の結婚は秀吉死後5年も経ってからだぞ?
関ヶ原から3年も経てる。
173人間七七四年:2013/08/15(木) 22:56:06.72 ID:6u3i1u/2
>>172
遺言で明言されたからには、その地位も既に保証されている
前借りみたいなもん
174人間七七四年:2013/08/16(金) 00:20:08.10 ID:57Zow2oB
>>165
なんで小牧長久手の戦いの時に家康を滅ぼしておかなっかったんだろうね、秀吉
175人間七七四年:2013/08/16(金) 00:26:39.65 ID:J7f0eHYi
そりゃ直接対決でガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
176人間七七四年:2013/08/16(金) 00:29:55.63 ID:57Zow2oB
1万人?

何かの妄想ですか?
177人間七七四年:2013/08/16(金) 00:31:11.62 ID:foCS4tLp
>>176
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
178人間七七四年:2013/08/16(金) 00:32:50.59 ID:nYBQfydT
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
179人間七七四年:2013/08/16(金) 00:34:04.13 ID:foCS4tLp
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
180人間七七四年:2013/08/16(金) 00:35:38.73 ID:foCS4tLp
>>177
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
181人間七七四年:2013/08/16(金) 00:36:39.07 ID:foCS4tLp
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
182人間七七四年:2013/08/16(金) 00:41:11.74 ID:lBc0JS+X
>>堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…
>>というのが顕如日記にあると書いているが嘘そんな記述はどこを探しても見つからない
堀をアンチ呼ばわりとか都合がいい頭してんなw無知なくせに「どこを探しても見つからない」などとほざくアホぶりを晒してまでw
つか出典元すら明示してあるのに、こいつ最強のアホちゃう?アンチ秀吉過ぎてマトモな思考すらしてないな。
「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
キッチリ書いてあるんだがw噂レベルの話の場合は顕如日記には必ず雑説と書くが、この文にはそんなことは一切書いてない。


それ全部、家康方の吹聴してた捏造戦果。
小早川隆景も情報元を尾張の犬山の高尾又兵衛尉なる者が昨日やってきた時に聞いた「世上如風聞」と書いてるし
むしろ顕如はのち落ち着いた後に情報収集の結果として正確な数字を書きいれてる。
実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。 いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
必死な政略的宣伝工作かがわかる。しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
それどころか4/9の池田・森の失策の報復として、早くも4/17には家康本拠地三河国の渥美まで
秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
無防備ガラ空きの背後を見事に襲われたのが渥美郡にある常光寺の日記でバレてしまった家康www
1万討ち死と書く小早川隆景も情報元を尾張の犬山の高尾又兵衛尉なる者が
昨日やってきた時に聞いた 「世上如風聞」と書いてるし、明らかに家康・信雄が吹聴してたネタを聞いただけ。
むしろ顕如はのち落ち着いた後に情報収集の結果として 正確な数字を書きいれてる。
実際、一万討死なんて非現実的過ぎる数字だわなw 関が原の戦いより死んでるとかありえんんわw
この戦役後に家康は敗戦処理として秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで
戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
信雄は秀吉の先鋒として家康の味方である紀州雑賀攻めの先鋒までやってる。
家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで
秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」
「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
情けないことになっちゃったんだがw
183人間七七四年:2013/08/16(金) 00:41:31.29 ID:lBc0JS+X
1万討ち取りなんて誇張に決まってんだろバーカ。
柴田を滅ぼすに至った賤ヶ岳の戦いですら、5/15付け秀吉→小早川書状で討ち取り5000って書いてんだぞ。
万の討ち取りなんて現実的に考えて非現実だわ
戦果の大法螺宣伝なんてふつうに当たり前にやってることだ。
信長の叡山焼討ちでも言継卿記が3000〜4000人は殺されたと書いてるが、
冷めた目でみてる年代記抄節はおよそ1600余人くらいと誇張に惑わされずに冷静に書いてるしw
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて
5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw
実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。
184人間七七四年:2013/08/16(金) 00:41:50.13 ID:lBc0JS+X
1万討死は確かに現実的な数字じゃないよね。
当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
20万人が戦った関が原の戦いですら
旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を8000人としているわけだし。
一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
三河渥美郡にある常光寺の日記
4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき
空手形の発行をする始末だからねぇ。
誰がみても秀吉の優勢は明らかで、秀吉にビビッて家康は友軍を見捨てていくから
家康をどんどん見限って秀吉に付いていく状況だからね。
どう考えても家康の方が秀吉より優勢なんておかしな解釈はできない。
185人間七七四年:2013/08/16(金) 00:42:28.56 ID:foCS4tLp
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
186人間七七四年:2013/08/16(金) 00:43:26.63 ID:foCS4tLp
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
>>しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
>>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
187人間七七四年:2013/08/16(金) 00:44:16.48 ID:foCS4tLp
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
188人間七七四年:2013/08/16(金) 00:46:05.67 ID:nYBQfydT
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
189人間七七四年:2013/08/16(金) 00:47:23.35 ID:nYBQfydT
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
190人間七七四年:2013/08/16(金) 00:49:52.29 ID:lBc0JS+X
そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
(つか関が原の戦いで両軍併せて17万〜20万が投入された際の戦死者ですら6000〜8000なのに非現実的すぎるわwww)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)

天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)
孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を
池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白で、
池田家中を納得させるためには敗戦を呼び込んだ秀次に対するケジメが必要だった。
191人間七七四年:2013/08/16(金) 00:50:02.91 ID:J7f0eHYi
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
192人間七七四年:2013/08/16(金) 00:51:22.73 ID:J7f0eHYi
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき
>>空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
>>在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を
>>8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明
ただ逃散兵が多かっただけだろ
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか? むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして 圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから 異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな 長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない。アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと。顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
193人間七七四年:2013/08/16(金) 00:52:13.21 ID:J7f0eHYi
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
194人間七七四年:2013/08/16(金) 00:53:02.54 ID:J7f0eHYi
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉

>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
195人間七七四年:2013/08/16(金) 00:54:29.99 ID:nYBQfydT
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとかアホ。3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦やってる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。
196人間七七四年:2013/08/16(金) 00:54:32.55 ID:lBc0JS+X
5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
酒井忠次に至っては2万討ち取りなどと吹聴している始末で、超誇張戦果吹聴で騙して味方を増やそうと必死な情報操作w
5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦局を逆転するには長宗我部が毛利・宇喜多らに襲われるのを無視して
秀吉の背後を襲ってくれることしか道が見えないことが判明する。
5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して
北条から援軍が来たら秀吉を敗北させるからなどと家康はついに白昼夢の夢物語を語り始める始末。。。
6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
6/3には竹鼻城は降伏していいと言って完全に打つ手なし。この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。

お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞw
いかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかをよく知らしめることしか書いてないw
家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
しかし毛利と宇喜多が背後から攻撃してくるのを無視して長宗我部がやってくるわけもない。
しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
北条を牽制する佐竹には秀吉からの書状で状況を理解してるしwww
上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、
信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
結果、尾張では丹羽郡〜葉栗郡東部・春日井郡北部の尾張北西部を秀吉に削り取られ
替地を用意できない信雄は三ケ一引などと旧知行高の三分の一を一律に減らさざる負えなくなる始末じゃんよw
197人間七七四年:2013/08/16(金) 00:57:06.88 ID:6i8kN3Tq
おまえ等、小牧スレでも立ててやれや。関ヶ原は秀吉死後の話だし、第一、勝とうが負けようが家康や最終的に臣従したのは事実だ。
すれ違いウザイ。
198人間七七四年:2013/08/16(金) 00:57:58.14 ID:nYBQfydT
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない。11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの
報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった
犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
199人間七七四年:2013/08/16(金) 00:58:47.44 ID:nYBQfydT
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
200人間七七四年:2013/08/16(金) 01:00:15.64 ID:t/YlwsHb
>>196
何回も繰り返し反論されて全て反論レスがついてるの無視して妄想垂れながしてんじゃねぇよボケ
201人間七七四年:2013/08/16(金) 01:01:18.44 ID:foCS4tLp
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で
抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく11/13秀吉→伊木、
池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている。そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっているこの時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
202人間七七四年:2013/08/16(金) 01:02:30.20 ID:foCS4tLp
>>天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
>>孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
>>などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀次は縄目の恥なんて書いてねーよボケ
203人間七七四年:2013/08/16(金) 01:03:29.14 ID:foCS4tLp
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ

愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。
204人間七七四年:2013/08/16(金) 01:05:18.61 ID:r4uYy0kU
まーた在日織田チョンのアンチ秀吉火病発症かよ…まじキモいわこいつ。
205人間七七四年:2013/08/16(金) 01:07:55.33 ID:foCS4tLp
>>204
お前繰り返し繰り返しどのスレでもけちょんけちょんに論破されたレスを何回も繰り返したれながしてんじゃねぇよボケ
206人間七七四年:2013/08/16(金) 01:10:29.03 ID:foCS4tLp
207人間七七四年:2013/08/16(金) 01:12:25.06 ID:foCS4tLp
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀  池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
208人間七七四年:2013/08/16(金) 01:13:11.67 ID:foCS4tLp
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。
209人間七七四年:2013/08/16(金) 01:14:17.97 ID:foCS4tLp
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
210人間七七四年:2013/08/16(金) 01:16:24.37 ID:J7f0eHYi
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
211人間七七四年:2013/08/16(金) 01:52:57.45 ID:05KEDG2k
>>177
当時の人口から考えても1万っていうのは考えられないけどね
そこまでいくと大量虐殺だよ?爆弾とか近代兵器使った
話半分以下だと思う
212人間七七四年:2013/08/16(金) 06:34:59.88 ID:J7f0eHYi
だから考えられないような大敗を喫したからこそ必死にたいした事ないだの隠蔽しあれだけの規格外の物量と兵力がありながら
全くといっていいほど切りとれなかったんだろ。蟹江合戦の時といい、普通なら瞬殺できるような兵力にもかかわらず膠着が続いてるんだから
そのくらいのバランスじゃないとおかしい。
この戦いは135000と16000〜17000が衝突した決戦だしな(実際に衝突したのはその中の一部だが、
それは関が原も一緒だし)
213人間七七四年:2013/08/16(金) 06:41:35.58 ID:tuyRyJz8
>>211

>>178-181、>>185->>189、>>191->>193あたりをよめば史実だとわかる。
214人間七七四年:2013/08/16(金) 06:49:11.98 ID:tuyRyJz8
秀吉が家康を滅ぼす気がなかったという妄想は>>195その他で大嘘だとわかるし
他にも史料がある
215人間七七四年:2013/08/16(金) 06:53:12.70 ID:foCS4tLp
まず3000人と書いてるのは顕如日記のいかにも加筆で捏造くさい
本文横に小さく書かれた部分(これも愛知県史にはのってるが長久手町史にはのってない)だけなので
こちらを本当とする解釈の方が妄想としかいいようがないわけで。
216人間七七四年:2013/08/16(金) 06:55:33.16 ID:+b3CijaR
>>213
史実?又聞きや伝聞情報だけでしょ?当時は
ちゃんと現地調査したのかな?

ちょうど数が1万とか適当だし
217人間七七四年:2013/08/16(金) 06:57:54.53 ID:foCS4tLp
>>216
そんなもんこの合戦の戦果に限らず全ての合戦の戦果にえるわけで。
まず3000人側の情報元が顕如日記の加筆部分だけだし
>>178-181、>>185->>189、>>191->>193あたりをよめばわかる。
218人間七七四年:2013/08/16(金) 06:59:43.57 ID:QYyP3Yc2
>>216
どこどこの合戦で勝ってどこどこを占領したとかそういうのもほとんど伝聞情報。
二次大戦の時の日本の軍部の喧伝とかみりゃわかる。
219人間七七四年:2013/08/16(金) 07:01:58.81 ID:foCS4tLp
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
220人間七七四年:2013/08/16(金) 07:03:04.98 ID:foCS4tLp
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
>>しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
>>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
221人間七七四年:2013/08/16(金) 07:04:08.52 ID:foCS4tLp
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
222人間七七四年:2013/08/16(金) 07:05:43.29 ID:J7f0eHYi
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
223人間七七四年:2013/08/16(金) 07:09:19.24 ID:nYBQfydT
毎回散々論破されても同じ妄想垂れ流す秀吉厨の頭の悪さは異常
224人間七七四年:2013/08/16(金) 07:13:51.38 ID:tuyRyJz8
まあ熊見川でも3000人も雑魚の毛利軍に殺されてるしそのくらい死んだと考えたほうが自然だわな
225人間七七四年:2013/08/16(金) 07:26:52.27 ID:nYBQfydT
一応首実検とか行われるし恩賞渡す人数とかちゃんと把握してないといけないし
ちゃんと調査されて書かれた人数じゃないの。
秀吉側に歪曲された偽情報が飛び交う京やその以西にその徳川方の大戦果を打ち消せず伝わってる時点で
徳川方の主張は正しいと裏打ちされてるようなもの。
226人間七七四年:2013/08/16(金) 07:35:49.32 ID:J7f0eHYi
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
227人間七七四年:2013/08/16(金) 07:37:10.36 ID:nYBQfydT
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
228人間七七四年:2013/08/16(金) 07:43:34.42 ID:QYyP3Yc2
実際戦局にももろに影響がでてるし>>180-181家康側の主張が正しいとするのが妥当
229人間七七四年:2013/08/16(金) 07:57:09.64 ID:t/YlwsHb
小牧長久手後も秀吉周辺のとりでをガチガチに固めて家康が後詰にこれない木曽川筋まで敗走して
デルタ地帯の寡兵で後詰が不可能な拠点を家康や信雄から逃げるように攻めて必死につり出そうとしてたし
蟹江合戦の時とか家康と信雄を分断できる大チャンスを滝川が作ったにもかかわらず
四半日くらいで到着可能であろう蟹江をビビッて見捨てたし
夏の対陣の時には16万の大軍(北国勢などが新たに加わってる、享禄以来年代記にもしっかりその数がのってる)
がありながらわずか8000そこそこの信雄・家康を全く攻めきれないどころかやはり敗走してるし
おまけに天正14年には石川木曽水野小笠原真田と離反続きで崩壊し、領国の軍事機密まで露見するに至った国力差も10倍くらい
開きがある家康に対し、直前まで討伐を表明してたにもかかわらず信雄に必死に仲介してもらって母と妹を人質に出して土下座したんだし
そのくらいの大敗があったとみるのが妥当
230人間七七四年:2013/08/16(金) 08:16:43.37 ID:J7f0eHYi
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
231人間七七四年:2013/08/16(金) 08:27:58.31 ID:D0K0UUrg
>>219
グダグダと長文書きまくるな、クズ
言いたいことは的確に書け
232人間七七四年:2013/08/16(金) 08:29:50.04 ID:J7f0eHYi
>>231
毎回垂れ流される秀吉厨のアホ妄想を的確に反論してまとめてあるだけだろ
233人間七七四年:2013/08/16(金) 09:36:24.61 ID:Qn51iJt2
連投してる時点で的確でもなければ簡潔でもない
後、いい加減にスレ違いだから巣に帰れ
234人間七七四年:2013/08/16(金) 10:00:08.89 ID:foCS4tLp
はぁ?なんで連投してる事=的確じゃないとなるんだよ

死ねよボケ
235人間七七四年:2013/08/16(金) 10:07:04.30 ID:tuyRyJz8
>>233
簡潔にするなら>>175>>177で終り
236人間七七四年:2013/08/16(金) 10:09:02.66 ID:foCS4tLp
なんど反論されても無視して妄想垂れ流す馬鹿が相手だから連投する流れになるわけで。
237人間七七四年:2013/08/16(金) 10:15:56.37 ID:QYyP3Yc2
まあ熊見川でも3000人も雑魚の毛利軍に殺されてるしそのくらい死んだと考えたほうが自然だわな
238人間七七四年:2013/08/16(金) 10:30:20.49 ID:6i8kN3Tq
西軍で一番戦功挙げたのは誰だろうな、そういや。
逆に、こいつが足引っ張ったってのも気になる。寝返りとか、本戦以外は除いて。
239人間七七四年:2013/08/16(金) 11:00:22.13 ID:lBc0JS+X
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンか・・・
いくら秀吉を貶し落としても
それで自動的に信長の評価があがるわけじゃねーんだぞ!
240人間七七四年:2013/08/16(金) 11:22:00.15 ID:7Iz1/w3K
慶長四年の家康大坂入城もかなりヤバイネタがあるのだが、学会誌に発表するレベルなのでここでは言わない
少なくとも家康は確固たる目的と意思を以って大坂に下向している
241人間七七四年:2013/08/16(金) 12:02:01.42 ID:JGe+xDVH
>>238
戦果挙げてたのは島左近だろ。次点で明石全登じゃない?
足引っ張ったのは織田信雄、西軍から白金2000枚パクったw
242人間七七四年:2013/08/16(金) 12:08:07.23 ID:lBc0JS+X
さすが最強のクズ貧困信雄
243人間七七四年:2013/08/16(金) 12:21:20.41 ID:7Iz1/w3K
織田秀信は頑張ったと思う
244人間七七四年:2013/08/16(金) 12:32:24.37 ID:JGe+xDVH
最後に感状書くって発想は凄いよな。
普通は自分が死ぬであろう直前に家来の事を気にしない。
名将ではないが、名君だったのかもしれん。
245人間七七四年:2013/08/16(金) 12:37:50.70 ID:6074APY1
ホントだがって気持ち悪いな
246人間七七四年:2013/08/16(金) 12:38:33.78 ID:lBc0JS+X
慶長17年正月に池田照政が倒れて病臥していたが、
病が回復し8月には家康へ挨拶に行くほど回復。
しかし翌年1月に死亡。
これは家康により9月に松平姓を有無を言わせず与えられたストレスからか。
その後、輝政が信任し藩政を任せていた中村、若原らが、
幕府からの監視らに糾問され仲原は憤死、中村は改易にされ
家臣分けなど、池田家政を家康が壟断し、池田家は徳川の傀儡に成り下がった。
247人間七七四年:2013/08/17(土) 17:20:23.12 ID:5uCWvjXD
秀吉はすごいやっちゃwww
248人間七七四年:2013/08/17(土) 23:04:25.54 ID:LwdbhYoX
>>241
いやどう見ても宇喜多だろ
249人間七七四年:2013/08/18(日) 07:10:57.86 ID:qudiWC1T
>>248
宇喜田勢は福島正則6000を相手にしていた。
石田勢は黒田・細川8000を相手にしていた。
250人間七七四年:2013/08/18(日) 10:06:09.65 ID:UFUReBdi
>>249
宇喜多は福島以外にも井伊先手とかいたし
石田は黒田・細川等の兵数は信用出来ない
251人間七七四年:2013/08/18(日) 11:50:27.92 ID:I2RYWGBd
黒田・細川の兵数は信用出来ないご都合主義
252人間七七四年:2013/08/18(日) 13:12:57.34 ID:UFUReBdi
>>251
安心しなさい、ちゃんと岐阜城の戦い時に福島正則が作成した兵数覚がある
誰も発表していないので、ここで史料を開陳するのは控えるが
253人間七七四年:2013/08/18(日) 13:26:47.35 ID:bNfroID8
>>252
誰も発表してないならお前が知る手段はないはず。
何の本に書いてるの?
254人間七七四年:2013/08/18(日) 13:29:26.98 ID:UFUReBdi
>>253
史料集の類
255人間七七四年:2013/08/18(日) 13:50:18.30 ID:bNfroID8
>>254
資料集に載ってるなら誰かが発表してるはずだし
なんというタイトルのいつの日付の史料?
256人間七七四年:2013/08/18(日) 17:00:36.77 ID:UFUReBdi
>>255
意外と取り上げていないもんよ
「岡文書」、八月二十一日付
257人間七七四年:2013/08/18(日) 17:40:28.28 ID:ttCJqtYw
>>256
なんという本に載ってるの?
それが書籍にのってる時点で発表されてるといっていいと思うが
258人間七七四年:2013/08/18(日) 17:53:56.93 ID:UFUReBdi
>>257
それはどこかで発表するつもりなので伏せさせてもらう
だから信じるも信じないもあなた次第

ただ、『大日本戦史』ですら「仮に定めた」としている三人役を、
当てはめるのは危険なのは間違いない
259人間七七四年:2013/08/18(日) 17:55:06.34 ID:UFUReBdi
>>258
ああ、「大」はいらなかった『日本戦史』ね
260人間七七四年:2013/08/18(日) 18:29:23.19 ID:ttCJqtYw
>>258
いや別に本の名前くらいいいじゃん。タイトルだけ教えてもらえば細かいページとかはいらんから。
261人間七七四年:2013/08/18(日) 18:46:37.16 ID:UFUReBdi
>>200
悪い、モノが編年体なのでタイトル教えただけで特定されてしまうんで
262人間七七四年:2013/08/18(日) 19:01:10.68 ID:Y5/BU0q0
>>257
そんなもんない。
263人間七七四年:2013/08/18(日) 20:44:07.29 ID:gstA6YjG
特定されて困るなら、最初からレスするなよ。
真偽不明のソースで話されても迷惑なだけ。
264人間七七四年:2013/08/18(日) 21:41:56.71 ID:LUDO/p5e
出展は知らないんだけど石田隊って確か黒田・細川・田中の三隊を相手にして五分くらいの戦いしてなかったっけ。
265人間七七四年:2013/08/18(日) 21:55:18.95 ID:UFUReBdi
石田隊には豊臣旗本衆もいた
266人間七七四年:2013/08/19(月) 12:18:37.93 ID:4QnMLZe+
>>265
豊臣の兵1000だっけ?アイツら何処で戦ってたんだ?って思ってたら
石田隊に居たの?
267人間七七四年:2013/08/19(月) 12:29:47.83 ID:7Z3dqSlN
上洛して熊本に帰らないうちに挙兵したために
2900と兵力不足だった小西も大坂城の兵4000を与力として借りて兵力不足を補ってるお。
>>138
看羊録は島津亮二氏とかも採用して書いてるね。
もう関が原らモノを研究するのに不可欠になってきてる。
268人間七七四年:2013/08/19(月) 13:09:13.29 ID:uY9Xyu9Y
>>266
千人は少なすぎると思う
場所は石田と島津の間
269人間七七四年:2013/08/20(火) 11:59:43.23 ID:2BHwYrlS
>>268
俺も少なすぎると思ったケド、なんかの史料に載ってるんだよね。
なんだったか忘れたケドw
270人間七七四年:2013/08/20(火) 15:24:36.99 ID:eB1puVxV
>>269
日本戦史にはそうあるね
271人間七七四年:2013/08/20(火) 22:25:47.40 ID:2BHwYrlS
豊臣の兵ってすっごく弱そうに感じるのは俺だけか?
272人間七七四年:2013/08/20(火) 22:30:21.59 ID:UlatjnC7
宇喜多隊15000にも一杯豊臣?だったかの兵が加わってたんだろ
273人間七七四年:2013/08/21(水) 00:02:03.12 ID:DgCKt3f1
>>272
宇喜多は浪人を徴募したと明石全登が言っているね
274人間七七四年:2013/08/22(木) 09:24:25.59 ID:CMTQV2g0
そもそも「勝てる!」と踏んだから石田西軍は関が原でヌボーと布陣してたんだろう

まぁ3万超の秀忠隊が到着する前にやっちゃいたいと思ってはいただろうけど
275人間七七四年:2013/08/22(木) 12:03:24.55 ID:up4QXaHB
実際馬鹿毛利一族のせいで負けただけで、本来なら負けるはずがない戦だしな
276人間七七四年:2013/08/22(木) 15:53:18.43 ID:Zig+VUcq
徳川家の主力は秀忠隊というのは間違えなのだが
277人間七七四年:2013/08/22(木) 19:40:15.96 ID:8GxTjKTM
>>275
なんで西軍の大将が大坂城に籠もってでてこないんだよ
もし関ヶ原まで来てたら他の毛利勢は裏切らなかったのに
裏切れば毛利内で殺し合いになるから
278人間七七四年:2013/08/22(木) 19:47:19.41 ID:Zig+VUcq
家康が上洛してから輝元が出陣するというのが三成との約束
で、三成は家康が赤坂に到着するまで気付かなかった
279人間七七四年:2013/08/22(木) 21:55:50.35 ID:RwaSoB/h
>家康が上洛してから輝元が出陣するというのが三成との約束

いやそんな事実ない。8/10三成→佐竹義宣、真田昌幸書状などから三成は毛利勢を加えた軍勢で三河や遠江方面の侵攻を考えていた事がわかるし
輝元ら毛利軍が三河遠江に働く事肝要とか言ってる
だが実際には毛利勢の馬鹿な行動によりなされることなく終り逆に美濃口を攻め取られる結果に終わっている
後徳川軍の尾張方面への出兵は西軍方も情報を得ている(8/18戸川→明石、8/19明石→戸川、8/19島津義弘→忠恒、8/20島津義弘→本田正親、8/22有馬則頼→秋田実季
8/22佐々正孝→秋田実季)9/12吉川→祖式でも家康の尾張犬山からの進軍を把握しているのがわかるし9/12三成→増田書状でもわかる
から毛利は動きを把握できなかったのではなく把握した上で関係ない方向に軍進めまくって本戦に大敗している
それに対応した三成は伊勢方面から尾張に転進している(8/27時慶記など)がこのときも毛利勢は相変わらず軍を出さず
的外れな方向にばかり戦力を分散させ、西軍大敗の主要因を作っている
280人間七七四年:2013/08/22(木) 21:57:37.48 ID:QWCFZjJR
三成ら西軍諸侯は輝元に援軍要請している(8/29保科正光→黒河内長三、9/12石田三成→増田)
が輝元は無視して伊勢湾やら四国やらに軍向けるばかり
また、美濃攻防時三成は織田秀信救援軍として美濃河渡において東軍と戦っているが数が足りず、敗れている
このときも毛利の大軍の後詰が素直に行われていれば簡単に撃退できたはずだが輝元は大阪から足を動かさず
伊勢湾に軍船送って荒らしまわるだけ。
はっきりいって奉行衆がどんな名将でも総大将がここまでのクズだとどんな軍でも勝ちようがない
西軍の中核は毛利軍や小早川軍など毛利一族の軍であり
こいつらが全く使い物にならない以上、西軍に勝つ事なんて無理で三成の能力どうこうの問題ではない
281人間七七四年:2013/08/22(木) 22:45:39.23 ID:Zig+VUcq
>>279
八月三日付真田昌幸宛石田三成書状には家康が浜松まで上洛したら輝元とが出陣するとある
また九月十二日付増田長盛宛三成書状にも家康が上洛したら輝元が出陣すべきとしている

後、戸川と明石、島津等の書状は岐阜城の戦い以前の話なので、事実とは異なる
増田宛三成書状にもそんな記述はない
広家書状は他言を禁じていることから、輝元にも秘匿された可能性が高い
282人間七七四年:2013/08/22(木) 22:47:27.15 ID:Zig+VUcq
>>280
時を同じくして大津城で京極高次が挙兵したので、毛利勢はそちらに回されました
283人間七七四年:2013/08/22(木) 23:15:15.87 ID:8GxTjKTM
>>278
そんな事やってるから負けるんだよ


どんどん敵が集結する間に各個撃破していけばいいのに
戦力集中してさ
284人間七七四年:2013/08/22(木) 23:17:42.91 ID:Zig+VUcq
>>283
だって西軍、特に三成は最初は東軍先鋒の上方大名は、西軍に加わるために上洛していると考えていたもん
285人間七七四年:2013/08/22(木) 23:28:45.41 ID:wvHtqANx
>>281
7/26前田・増田・長束→中川秀成(中川家文書)で7/26時点で西軍は家康主導軍は
東国から西上することを想定していた事が読み取れ、それを近江国内の瀬田・守山の間に展開する毛利輝元の軍20000で
迎撃する構想たててた事がわかる。また宇喜多・小早川も山城国内の醍醐・山科、近江国内の大津に引き続き陣取りしている
状況を報じているので、毛利・宇喜多・小早川の軍事力が家康主導軍を迎撃する主力戦力であったことがわかる。
さらに8/6時点でも尾張・三河の間で家康主導軍を討ち取る想定を石田三成は記しているので(8/6三成→真田)この段階でも西上する家康主導軍を迎撃する構想は
変わっていなかったことがわかる。
286人間七七四年:2013/08/22(木) 23:33:52.75 ID:gSkTJ0vT
>>284
ソースは?
287人間七七四年:2013/08/22(木) 23:48:41.08 ID:gSkTJ0vT
8/5三成→真田 三成は秀信と相談してまず尾張方面に兵を出し福島を説得すると報じている
福島説得成功した場合、三河方面に進出する予定であり、説得に失敗した場合は清洲・伊勢方面を一所にして軍事行動をおこなう予定である
事を報じている
288人間七七四年:2013/08/22(木) 23:59:48.04 ID:Zig+VUcq
>>285
その大前提は家康が上洛した場合なので、東軍先鋒は含まれない
289人間七七四年:2013/08/23(金) 00:38:32.36 ID:2o8KtHCl
>>287
説得じゃなくて、秀頼からの直筆の命令書作ってもらって送ればいいのに
家康を討伐するための西軍に加われと
290人間七七四年:2013/08/23(金) 01:01:51.15 ID:xQYd0ZJw
無理やり書かされてかわいそうす、逆賊を討ち果たしなんとしてもお助けせなば
291人間七七四年:2013/08/23(金) 10:05:55.79 ID:KoNkC84j
輝元が毛利軍首脳陣に戦略目標の統一と外交の一元化と指揮権の序列化をまったくやってなかったために
戦う前からそでに毛利軍が瓦解していた。
そのために各自が総合情報からの活動指針が立てられず
視野が極端にせまくバラバラに思惑の赴くままに行動し、
そして案の定、西軍が大敗したと言う
もっともクソな総司令官が輝元。
292人間七七四年:2013/08/23(金) 15:06:41.33 ID:6eJmL8Hh
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
293人間七七四年:2013/08/23(金) 16:21:54.21 ID:xQYd0ZJw
戦略言うなら補給ルートとして重要な伊勢は外せないじゃん
294人間七七四年:2013/08/23(金) 16:39:52.72 ID:5rkgFQMs
長島城をまともに攻められもしないのに伊勢侵攻軍おくとか中途半端に戦力分散させるだけの糞戦略だろ。
最初から総力あげて美濃→尾張と戦力集中させて攻め込んでりゃよかったってわけで。
295人間七七四年:2013/08/23(金) 16:46:55.56 ID:qnU50m3B
伊勢湾での活動にしろ伊勢陸上侵攻軍にしろ貴重な戦力割いて分散させてまで
攻め取る事もできないのに兵割くとか馬鹿でしかないだろ
296人間七七四年:2013/08/23(金) 18:12:40.35 ID:+sRWOr6s
>>293
東軍壊滅させれば補給ルートいらないだろ、大坂城の備蓄米もあるんだし
297人間七七四年:2013/08/23(金) 18:13:52.22 ID:+sRWOr6s
>>292
毛利は地の利がまったくないからね
家が始まってからそんな場所で戦ったこともないし
298人間七七四年:2013/08/23(金) 18:14:52.80 ID:+sRWOr6s
>>295
先に東海道を制圧するほうがよかったよね
尾張あたりまで戦力集中して突き進む
299人間七七四年:2013/08/23(金) 18:55:17.59 ID:xQYd0ZJw
東海道って伊勢長島の鼻先通るんですけど
300人間七七四年:2013/08/23(金) 19:07:07.30 ID:fjxoBSaX
伊勢長島を通らないで美濃方面から尾張→三河と侵攻する石田のルートの方が合理的だわな
伊勢はどうせ切り取れないんだし長島は地勢的に攻めづらいんだからそんなとこ無視すりゃいいだけで
中途半端に兵分散させる意味はない
301人間七七四年:2013/08/23(金) 19:29:14.88 ID:KoNkC84j
まぁ尾張をさっさと叩いて武断派筆頭とも言うべき福島を家なき子にしてしまえば
後は、小身の田中や池田や山内や中村だからザコだろ。
一気にドミノだろうし、
そうなりゃ中仙道でも石川や仙石らもオセロ状態だろ。
家康に対して優位に立つためにも尾張攻略を優先だろ。
302人間七七四年:2013/08/23(金) 19:41:51.17 ID:M0Wfl6Xm
ああ、全速力で清洲落とすのはアリだな。
そんで清洲城で軽く篭城して野戦に持ち込む。
まさか清洲無視して西進は無いからなw
303人間七七四年:2013/08/23(金) 21:57:12.73 ID:7MZwPg8G
>>300
そう、難攻不落の場所なら攻めないで放置するのが最大の対策

追い打ちをかけてこられないように最低限の軍勢を置いて
本隊はさっさと進撃するべき
304人間七七四年:2013/08/23(金) 22:00:54.42 ID:7MZwPg8G
>>302
秀吉の中国大返しを見てもスピードこそが戦の本道

あと、なんで江戸に草の者を送り込んで火付けとかさせて後方かく乱させなかったのかな
島津が提案した夜襲もやらなかったし

もし三成が手段を問わず家康を倒すことが最大の目的と割り切りがあれば西軍が勝ってたと思う
305人間七七四年:2013/08/23(金) 22:04:43.21 ID:OGl0AMoe
三成は三河方面への出兵と迎撃を考えていたが当のアホ毛利が使い物にならなかったからな
306人間七七四年:2013/08/23(金) 23:11:09.14 ID:HayttXji
島津が夜戦を提案したって史実なのか?
307人間七七四年:2013/08/24(土) 00:16:44.55 ID:gUNoClJ1
じゃないだろうな、土地勘のない連中で夜襲は危険過ぎるで
308人間七七四年:2013/08/24(土) 01:08:09.85 ID:ZgjlyjJR
東軍へダメージや、選局の主導権を握るためにも、清洲落とすのはマストかもね
自分らの勢力圏でダラダラやってるうちに、岐阜落とされたり、切り崩しされたりしてるわけで
309人間七七四年:2013/08/24(土) 07:46:03.75 ID:TWmK/c5F
age
310人間七七四年:2013/08/24(土) 09:46:41.05 ID:LAT4J9qL
まぁ尾張攻撃が無理だとしても、せめて美濃は死守するために
毛利は援軍を出すべきだよね。
あの岐阜城落城の衝撃で美濃国人のほとんどが西軍から離反したからな。
美濃から上田〜沼田の真田と会津の上杉との連結をはかるxっつえのも面白いかもしれない。
石川と仙石と蒲生が邪魔くらいか?
311人間七七四年:2013/08/24(土) 12:48:05.46 ID:gUNoClJ1
美濃土人には陥落する前から離反されてたがな、
岐阜城守りきれればまたどうなるかはわからんけど

大連結しようにも間の小物連中に確実に味方といえる
やつがほとんどおらんのがきっついな
312人間七七四年:2013/08/24(土) 13:21:44.84 ID:R3PGCwu1
そりゃ西軍から後詰防衛に向かった兵力が奉行衆だけだったから
美濃の諸侯は東軍有利と見て寝返っただけじゃね
毛利らが大軍勢で後詰なしてたらこんな事態にはならないだろ
こちらから尾張や三河に侵攻すれば不安定な緩衝地帯ではさらに味方は増えるだろうし
313人間七七四年:2013/08/24(土) 13:25:12.86 ID:+pX8ngvT
>>311
寝返りというより降伏自落に近いような。これなら大部隊で後詰すれば防げた可能性大じゃないか?
314人間七七四年:2013/08/27(火) 23:45:01.71 ID:JGJN0yRD
寝返ったんじゃなくて、最初からどっち付かずの日和見だろ。
美濃全土で、大体2万近い兵が動員出来るはずだが、動いたの秀信だけで
後は小大名の集まりが岐阜だからな。

そして先に到着したのは東軍先鋒部隊だったから
秀信に呼応出来なかったんだろう。
315人間七七四年:2013/08/28(水) 06:38:04.72 ID:aPCA1zbq
100%勝利方法なら細菌兵器を使えばいい
欧州から投石器とペストで死んだ死体を大量に輸入して投げつければ
東軍壊滅するよ
天然痘の患者兵士を東軍に投降させて家康に息を吹きかえればいい

モンゴル軍がペストで死んだ死体を投石器で投げてたわけだから
決してありえない話ではない
316人間七七四年:2013/08/28(水) 07:40:52.91 ID:rQOzCm3I
大量に輸入せんでも自分とこでいくらでも増産できるで
317人間七七四年:2013/08/28(水) 08:31:00.83 ID:f5Onxabx
やっぱり緩衝地帯の尾張・美濃ライン最重視で動くのが定石だろ。
東軍が戻る前に早めに尾張を分捕れば味方も増えるだろうし
318人間七七四年:2013/08/28(水) 10:31:45.46 ID:uPFFBEhh
考えてみれば、予想外に時間を取った伏見城を
手早く落とすだけで、かなり勝率上がるような・・・
319人間七七四年:2013/08/28(水) 12:36:04.65 ID:jJFQF4bO
家康は元から全滅覚悟で、伏見城に兵を置いているからね
320人間七七四年:2013/08/28(水) 12:42:43.96 ID:Ir9PPTfG
東軍が上杉軍と交戦状態になってから挙兵するべきだったね
そうすれば簡単には尾張ぐらいまで戻ってこれないから
尾張まで制圧できたんじゃない?西軍
東軍も疲労困憊状態だろうし、急いで戻って来ても
321人間七七四年:2013/08/28(水) 14:32:03.48 ID:f5Onxabx
伊達・最上・堀・秀康・秀忠・家康と周囲から一気に攻め込まれて上杉死亡
その後巨大になった東軍が西上してきてどの道死ぬだけ。
挙兵したタイミングは悪くなかったが伊勢湾・伊勢・四国など毛利が明後日の方向に兵進めまくった
糞戦略が悪かった。毛利が総大将じゃなきゃもっとまともに戦えただろうがな
322人間七七四年:2013/08/28(水) 14:55:43.85 ID:uPFFBEhh
それ以前に上杉と徳川の交戦まで待ってたら
西軍に居た連中の大半が会津で東軍に加わっちゃってるんですが・・・w
323人間七七四年:2013/08/28(水) 16:47:59.01 ID:DcspzTgi
>>321
そんな簡単にいくかよ
地元の利を生かして相当ゲリラ戦で苦しめるだろ

周囲の大名も地元に守備兵残して置かなきゃいけないから全軍では無理だし
324人間七七四年:2013/08/28(水) 16:51:09.94 ID:DcspzTgi
>>322
大坂城通過して東軍になんか加われるかよ
秀頼に謁見する段階で内々に西軍挙兵の打診受けて大坂に軍勢待機させていくだけ
家康が何か言ってきたら今集まってる兵は西国警備のために留め置いてるって言えばいいし
家康も今いる軍勢だけで十分上杉討伐は可能だから絶対追加の兵を送れとかメンツにかけても言わないよ
325人間七七四年:2013/08/28(水) 17:05:22.46 ID:qpUNR0L+
会津戦線の戦端が開いてしまうと、家康はさすがに白河陣から動けず
西軍はやりたい放題できる利点がある。
しかも家康の会津征伐行為そのものの正当性も内府たがい条で消滅し、軍内は疑心暗鬼。
上杉も最上攻めで北上することなく、ガチ家康戦突入。
アホ毛利でもさすがに火事場泥棒で尾張くらいは屠ることも可能だろう。
326人間七七四年:2013/08/28(水) 18:08:20.41 ID:uPFFBEhh
>>324
元々、西軍の連中の殆どは会津討伐に合流する途中で
西軍が挙兵したため、仕方なく西軍に属したんだぞ?島津や長宗我部なんかが
いい例だよ。
327人間七七四年:2013/08/28(水) 18:17:20.40 ID:qpUNR0L+
仕方なくってのは完全に江戸幕府への言い訳だからなー。
先陣がもう下野まで来てるつーのにヤル気ゼロで厭々な空気出しまくってんじゃん。
結局、家康と武断派がおっぱじめただけだからな。
328人間七七四年:2013/08/28(水) 19:02:20.17 ID:rQOzCm3I
家康の命令で仕方がなく会津征伐に参加するつもりだったが
三成挙兵で超仕方なく西軍に参加した
329人間七七四年:2013/08/28(水) 19:12:27.91 ID:jJFQF4bO
>>323
転封して二年で地の利もないかと
330人間七七四年:2013/08/28(水) 21:36:25.18 ID:XFdx2kQO
そもそも会津が攻めるに強く守るに難い地形だし
ゲリラ戦とか、いう程簡単じゃないし成功した例は天正壬午の若御子の陣とか、兵站の線が
自国から天嶮を超えた孤立した地域にあるときとかじゃないと成功しない。
つか防衛側がゲリラ戦で苦しめた例自体あんまりないだろ。成功する前提で語るほうが無茶。

堀は微妙だが伊達も最上も家康も秀康も秀忠も兵なんてろくに残す必要ないし12万くらいで上杉が瞬殺された後に
大軍で戻ってきた東軍諸侯に西軍が叩きのめされるだけ。そういう意味で石田の挙兵のタイミングは絶妙だったといえる。
331人間七七四年:2013/08/28(水) 21:42:45.69 ID:f5Onxabx
会津征伐が始まったら西軍(殊上杉)が絶対絶命の窮地におかれるだけで利点なんて全くない。
東北の大名は上杉以外ほぼ東軍方だから下手すりゃ津軽とか南部とか最上以北の大名まで
上杉征伐で動き出す可能性すらあるし、日和見的な伊達も、東軍の威信と、徳川本軍の大軍に威圧されれば
東軍方で動き出す可能性も高い。伊達・堀・徳川(結城・家康・秀忠)・最上など周辺大名に一斉に攻め込まれて上杉瞬殺だろうな。
普通に考えて。
あとは後顧の憂いをなくし、前より遥かに巨大になった東軍が東上してきて西軍はアボーンだな
332人間七七四年:2013/08/28(水) 21:47:04.98 ID:b3glMRNo
家康なんて元々大儀名分なんて0だから今更内府たがい条の効果とかないだろ。
無理矢理私婚を推し進めまくったり島津の領土問題に介入して豊臣蔵入り地を削ったり
奉行衆らの糾弾に対して軍事力で跳ね除けたりもうめちゃくちゃやってるからな。
家康が「天下殿」の風聞を得た後でさえ西軍に大量に兵が集まったのは、ひとえに
この勝手な振る舞いをけしからんと思った大名が多かったからだろうし
333人間七七四年:2013/08/28(水) 21:50:59.62 ID:TalNwXh6
ようは前田や浅野にやったいちゃもんけしかけ→威圧屈服って事を上杉にもやろうとしたら
上杉はまともにやり返してきたんだろ。
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
334人間七七四年:2013/08/28(水) 21:53:46.84 ID:JSx0u6Qw
三成がいなかったらもっと家康の暴走が酷くなるだけなんだが。
家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
335人間七七四年:2013/08/29(木) 00:38:29.77 ID:sjqdKW53
つまり家康以外の奴らが能無しだったと君わ言いたいわけか
336人間七七四年:2013/08/29(木) 06:52:33.54 ID:ODIjv2N9
脳なしも糞も家康が好き勝手できるような地位と政権基盤と軍事力と千姫秀頼との婚姻という愚策講じた秀吉がアホだったというだけで。
337人間七七四年:2013/08/29(木) 07:43:37.38 ID:fYfKLrLI
能無しなのは西軍総大将であり西軍の中核をなす大軍を持ちながら何もできず
兵力分散させまくり大阪に引きこもって大敗した輝元と
家康の威圧にビビッて即効で戦わず降伏した前田・浅野。
他の連中はそこそこやる事はやって努力したといえる。結果には繋がらなかったが。
338人間七七四年:2013/08/29(木) 08:48:39.27 ID:GIUTEohj
戦わずに屈伏するのも当然と言えば当然じゃね?豊臣家にしろ恩顧連中にしろみんなして徳川側にたって庇おうともしてくれねかったじゃんよって感じだったろ前田
339人間七七四年:2013/08/29(木) 08:50:01.38 ID:/er+1p6d
内府たがい条が原因で最上に集結していた東軍が瓦解したどころか、
小野寺が最上を攻めだし、
南部や安東や戸沢に最上が救援を頼んでもガン無視されたのも知らんとは。
伊達にしても和賀の乱を引き起こし、上杉どころか南部攻めで北上するし。
三成にしても家康と伊達の婚姻に賛意を示して、家康支持してるしな。
>>334は俺の昔のレスのコピペだろ。
330からお前の単発ID自演なのも明らかだな。
前田と毛利がヘタレ過ぎたな。
上杉並みのプライドを両者が持っていたら家康なんてフルボッコだったのにな。
340人間七七四年:2013/08/29(木) 11:33:31.11 ID:uVMYXPds
実際、三成は家康派だったからな。
どうせ家康はもうすぐ死ぬくらいに思ってたんだろうし。
家康に政権を盗られると朝鮮出兵に行かされる恐怖に追い詰められた毛利が首謀者だったのは明らか。
三成の力で会津へ向かおうとした諸大名を引き止めて
西軍に参加したなんて大ウソ。
341人間七七四年:2013/08/29(木) 12:52:46.72 ID:wsqoZPQu
>>340
関が原前哨戦で、三成が全軍に先立って兵を出してるのは
どう思うんだ?中村隊相手に見事に快勝したが。
342人間七七四年:2013/08/29(木) 15:26:03.12 ID:sjqdKW53
朝鮮送りになるわ小早川は乗っ取られるわ
毛利が豊臣に味方する理由は薄いと思うの
343人間七七四年:2013/08/29(木) 15:45:49.58 ID:ODIjv2N9
味方も糞も毛利が首謀者・総大将として関が原合戦引き起こしたのに何今更言ってんだか。
344人間七七四年:2013/08/29(木) 15:49:20.37 ID:Qn5ErlIR
景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。

首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために
大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。
これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後の
ソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。
第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
345人間七七四年:2013/08/29(木) 15:55:05.84 ID:sjqdKW53
うん、だからもし西軍が勝ったとしても豊臣が安泰とは限らないのよ
346人間七七四年:2013/08/29(木) 16:01:07.13 ID:uVMYXPds
>>345
それはまた別の話だろうが。
その話をしたければ別スレを作れやカス
347人間七七四年:2013/08/29(木) 17:53:59.17 ID:sjqdKW53
西軍の動きをかんがるうえで首謀者の思惑ってだいじだと思うのよ
348人間七七四年:2013/08/29(木) 19:17:49.70 ID:p58hqwT6
>>332
西軍の表向きの兵力が集まったのは家康の振る舞いがけしからんと思われたわけではなく
三成が西軍の諸大名が大坂に預けた人質を使って脅して無理矢理組み込んだからだよ
当時の大名には秀次事件の記憶も新しいので妻子に危害を加えるという脅しがハッタリと思われることはない
だから表面上は従っているけど士気が極端に低くなってしまった
妻子を救う最も簡単な方法は戦で三成が討たれることだからね
土壇場で内通や不戦を使って三成を負けさせればいいわけ
349人間七七四年:2013/08/29(木) 19:36:19.68 ID:uVMYXPds
>>348
>>69のように家康も上杉征伐の際に御陣場御見習いと称して大名嫡子を人質として拉致っている。
他にも前田利長の母なども江戸に人質として預かっている。
350人間七七四年:2013/08/30(金) 11:54:11.21 ID:zSE9PRwc
三成は家康派として、
憎き前田家潰しで越前まで進軍してるつーのに、
いまだ三成首謀者とかアホな主張してるアンチ豊臣の基地外www
だいたい真田昌幸が7月末に三成に対して、
何で蜂起のことを教えてくれなかったんだ!って詰問してるが、
そもそも打倒家康蜂起は毛利の策なんだから、
三成が知ってるわけ無いから、
真田昌幸に教えようが無い。
三成は織田秀信や真田や上杉と個人的に親しく、
秀信が病気で湯治したいって相談した時には、
真田家の領地にある草津温泉を紹介し、
真田に手紙で、あなたのトコの留守居役に案内をしてもらえないでしょうか?って丁寧にお願いしてるほど。
アホ毛利のクソ戦略に呆れた三成は、
自分が懇意にしていた美濃織田、信濃真田、会津上杉、常陸佐竹を同士として、
対家康大同盟包囲を立ち上げた。
アホ戦略しかない首謀者毛利は、
首謀者の座を奪われかねない大略に嫉妬して、三成の策が成功しないことを望んだ結果が、
あの超絶馬鹿な関ヶ原の戦いを呼んだ。
毛利はアホすぎ
351人間七七四年:2013/08/30(金) 13:02:26.42 ID:3SN9s/SU
>>349
家康なら人質も駆け引きの範囲内と認識してもらえる
秀次を妻子ごと殺戮した一件に関わった文治派から脅されたら
もはや駆け引きやハッタリではなくガチの殺戮宣言と認識されてしまう
東軍大名もそう認識したためこれに怒って三成討伐に同意したわけ
352人間七七四年:2013/08/30(金) 18:00:23.83 ID:Hrgn5XJl
>>351
>>秀次を妻子ごと殺戮した一件に関わった文治派
ここ一次史料のソースくれ。

んでな、美濃諸将は岐阜陥落後に次々離反したのは
大坂での人質の扱いが甘かったからだと増田に文句を言ってるのが三成であり、
人質の管理は三成はやってないからな。細川ガラシャの捕縛の件も三成の手勢が捕らえにくるという「風聞」からの反応で
実際に三成はこの時に大坂にはいない。「風聞」を流した者がいたか、
もしくは、戦後の口述でこのことを話したガラシャ付きの女は戦後にすべて三成が悪いと言う洗脳を間に受けて
三成が捕縛にくる風聞をでっち上げたか、
そもそも細川家の意向として三成の仕業でガラシャが死ぬハメになったストーリーを捏造したかどちらか。
そもそも忠興は家康相手に三成が謀反するに違いないと吹聴しまくっていた張本人。
三成に対して忠興には個人的恨みがあったようにしか見えない。
353人間七七四年:2013/08/30(金) 19:49:27.95 ID:BHkDf434
つまり来るって風聞でああなっちゃうくらいみっちゃんの評判悪かったんか?
354人間七七四年:2013/08/31(土) 03:09:14.99 ID:CWWdQkmi
美濃の諸侯が次々離反したのは毛利があまりにも馬鹿すぎて皆こりゃダメだわ…と思い出したのも大きいだろうな
355人間七七四年:2013/08/31(土) 10:14:41.61 ID:JAEHwkib
毛利の主目的は、自領拡大と瀬戸内海易の独占。
家康との一大決戦で天下を取る、なんて小説的な発想はナンセンスw
毛利を西軍首謀者だの馬鹿だのというのは無知をさらしてるだけw
356人間七七四年:2013/08/31(土) 11:36:34.41 ID:/nKxqSOu
景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。


首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために
大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。
これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後の
ソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。
第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
357人間七七四年:2013/08/31(土) 11:38:17.58 ID:/nKxqSOu
白峰旬「関が原の戦いに関する再検討」
加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり
首謀者であったとみなされていた事を示している

毛利家内への介入と分断を図る家康が目指す覇権へ抵抗するために
会津征伐をチャンスに毛利は反家康行動に踏み切った。
家康は上杉が気になり当分上洛ができないと判断し、
その隙に自力でも家康に対抗できるよう自己のために領土拡大を謀った。
光成氏は毛利の領土拡大と西軍の反家康行動は両立しないなどとは、まったく書いておらず完全に歪曲。
〜光成氏の主張〜
家康と組んだ秀元の別家創設で輝元から毛利領の1/4獲得を狙っていた(出雲や石見なので吉川は長門へ飛ばされる)
その後の交渉で出雲から長門や周防や父の遺領に変更になりながら、やむなく妥結した。
輝元は遺領問題で天下の人々はどうおもうだろうか?と毛利の外聞を非常に気にしてる。
家康や秀元によって恥をかかされたと認識してるから輝元も上杉征伐を最後のチャンスと思ったんだろうね。
さて輝元が在国してて、家康が会津へ出発すると大坂は大老不在になってしまうことから
秀家は会津へ行かずに在京。秀家の代わりに会津へ行ったのは詮家。
ちなみに毛利は吉川と安国寺が会津へ従軍予定。
7/5の豊国神社参拝での武運長久を秀家が行ったことに関しても
肝心の詮家が出発した後にそれをやるのはおかしいとされ、
しかも家康が介入した宇喜多騒動の主役の1人の詮家を会津へ派兵したのは
西軍挙兵において家中で邪魔になるであろう詮家の弊害を恐れ
事実上、秀家による家康の下への放逐行為であると考えられる。
そして秀家は大谷と親しいので、大谷の決起も秀家の士気の高さに引っ張られたとされてる。
6/16の家康出立直前の6/8〜10頃に輝元は領国へ向け出立
6/17日夜に広島に着いているわけだが、7/2に家康が江戸城着を経て
7/12付け三奉行の輝元への上坂要請文が7/15に輝元の元に到着した可能性が高く、
待ち構えていたように即日のうちに輝元は家中を率いて広島から船を出したと考えられ
7/17夜には秀元が大坂西の丸を占拠してしまうなど迅速に家康のいた場所が制圧されてる。
明らかに出兵の準備のために帰国してたとしか思われないわけで
輝元は6月の時点で家康を油断させるために領国へ帰ってるとされる。
そして七将襲撃の時に輝元ー三成ラインが敗北した原因である
家康側による大坂占領と伏見城の治部少丸包囲と真逆の行動を開始するなど戦訓を生かしている。
ちなみに7/19秀忠が江戸より会津へ出陣。7/21家康が江戸から会津へ出陣。
よって光成氏は下記のように書いているわけだ。
「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
しかも慶長5年6月・7月の挙兵への道程における三成の関与について光成氏はまったく書いていない。
これでも光成氏が輝元首謀を主張してないと歪曲して強弁するならお前は完全に文盲かキチガイw
358人間七七四年:2013/08/31(土) 11:40:30.76 ID:/nKxqSOu
それさ、謀議に関わってない蜂須賀が裏に輝元がいることに早くも感づいてる証拠だよ。
だってまだ輝元は15日に広島を出発したばかりなのに蜂須賀は嗅ぎつけてる。
また、細川らが家康へ憎い三成が蜂起するとさかんに嘘を吹聴してまわってる。
(西軍本隊は毛利を主軸にした伊勢方面軍であったが、 武断派が三成憎しで大垣へ北進) あとね内府たがい条に署名してる三奉行に三成は入ってない。
光成氏は奉行の書状が15日に輝元に届くや 待ちかねていたように急ぎ即日出発。 明らかに出発準備が完了していた。
淀、利長、三奉行は 三成と大谷が蜂起と家康にフェイクする陰で 輝元を大坂に招き入れて 家康が蜂起を過小評価させることに成功。 そもそも三成は直接、
輝元へ意見が言えず増田経由であるのに 三成首謀者なわけもない。だいたい三成は家康派になっており、三成の兄の屋敷を家康へ提供するなど、家康へ恭順しているため
なんとしても武断派は三成を敵にしたてる必要性があった。一方の輝元は毛利分封問題などで家康への敵愾心と悔しさをあらわしている。
また北政所なども西軍派で、それを動かせるのは地位的にも輝元であっても 三成じゃないだろう。
7/12に三奉行が輝元の大坂入りを要請 決起を打ち明けられ同意を求められた家政が 16日に輝元へ書状を出しただけだろ。
淀や利長や三奉行は三成と大谷の挙兵と言うフェイクで 家康を騙して時間稼ぎをしているうちに大津城を手に入れ 瀬田の大橋を確保し、伏見城を落城させて
やっと佐和山の三成との連絡線を確保できたんだし。 三成の挙兵ですぐ輝元が大兵を率いて大坂入城できるのかね?
しかも大兵の船舶まで準備せずにいきなり 物凄い速さで大坂についてるのは光成氏も指摘してる。
輝元が三成に指示も何も三成からして 三成→増田へ書状→増田から輝元へとやり取りしていて 輝元に直接書状を出せない立場なのが三成だから
そんなもん元からあるわけないだろ。

蜂須賀の書状って、 最も伝えたい、訴えたいことを書くことが多い追って書きに、なおなお両人(三成と大谷)御同意の儀、初者雑説と存、
などと書いていて、石田と大谷の逆意をただの雑な噂に思っていたら安国寺から聞いた旨によると、
東国へ向かう兵達を指し留めていると聞いて驚いたと書いていて三成らの挙兵は根拠ない噂だと楽観してたらが、
毛利から安国寺がやってきて毛利が会津征伐に行く諸将の軍を差し止めてると聞いて驚いた。などと書いていて、
実は蜂須賀が聞いていた三成らの挙兵は噂レベルであって、実際は輝元が会津へ行く諸大名の軍隊を通行止めにしてる首謀者っぷりの事実に蜂須賀が驚いて急ぎ書状を出し、
自分は昵懇してる間柄だと強調して輝元に考え直せと再考を促してるだけだよ。 三成らが悪いだけで輝元は悪くないから、
考え直せば許されるよって、蜂須賀が輝元の面子を潰さない話術でうまい言い訳を提案してるに過ぎないのは追って書きを読めば明らか。
軍記に書かれる三成が会津へ行く諸大名の軍隊を差し止めてる話も実は当初は毛利が差し止めてるのが史実だったとわかる書状。
359人間七七四年:2013/08/31(土) 11:42:34.09 ID:/nKxqSOu
関が原から半年前の慶長4年末の三成→相良宛書状は退隠してた三成が漆の桶を貰ったことへの感謝の書状だが
そこには京洛の静謐を喜び、九州での庄内の乱も平定されたことに安堵している三成の姿があり、家康の統治を評価しているのがわかる。
三成が首謀者というのはまったく考えられない。事実、細川の記録にある細川ガラシャが自決した際のガラシャの側女の報告でも、
三成らが捕らえにくる風聞が原因なんだよね。だから大坂城から実際に誰の命でとらえにきたか不明で、あくまで風聞レベルであり、 三成が挙兵した証拠は一切出てこない。
水野伍貴も三成は家康派だったとしている。なんでいきなり三成が反家康の首謀者になって準備してたなんてでっち上げが信じられるんだ。
そもそも家康は武断派からの暗殺から縁戚の三成を守るために、結城秀康まで護衛につけてあげてるし、三成は大坂の三成屋敷や三成の兄の屋敷まで提供して前田利長らの暗殺から家康を守っている。
そもそも看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したが三成がそれを家康に通報して、家康襲撃を阻止したと書いている。
その後、家康が忠興に金を貸したり、豊後杵築6万石加増したりして味方化してる。そして七将による三成襲撃では、七将が家康に三成を死刑もしくは引き渡し要求する中で
家康が三成をかばって、結城秀康に警護させて佐和山までの道中で、七将に襲撃されないようにしてる。三成がそのまま大坂に残っていたら、また七将に襲われる大事件が勃発する恐れが
高い以上は仕方がない手打ち。看羊録によれば、佐和山への移動には目的がちゃんとありこれは家康が対前田のために、三成に北陸防衛を任せたと書いている。

それなら家康が三成の嫡男を秀頼奉公として許している理由もわかる。実際、家康が抗争していた相手は毛利・上杉であり、三成にはそれほど他意がなかったし
三成にも家康への敵対心はなく、七将と対立しているに過ぎない。つまり挙兵ってのも上杉が滅亡したら、次ぎは自分の番だと自覚した輝元が
七将を手なずけて会津攻めを開始した家康への敵対を表明したのであり、三成自身の意思はまったく関係なく、毛利が家康を油断させるために
三成の挙兵だと宣伝して、家康が叛乱を過小評価する誤算を呼び込んで
その隙に伏見城を奪い、勢多の大橋の無傷奪取に成功し大津城も影響下に置くことに成功した。
三成はどちらかと言うと、泥縄的に巻き込まれたと言っていい。だから三成にはまったくと言って動きを顕わす一次史料が存在しない。
そして反応の鈍い家康と違い反感を持つ七将は三成の挙兵と聞いて反応して上洛していった。
朝鮮出兵は、叛意ゆたかな諸将を疲弊させる目的もあって、行われたもので
秀吉存命時には、朝鮮出兵反対だったが、秀吉死後に国内で支配を確立させたら
毛利や秀家らを朝鮮に派遣して疲弊させるつもりだった。秀吉は朝鮮に中国・九州のものどもを転封させ、関東のものを西国へ転封させるつもりだった。
朝鮮人を日本で労働させ、日本人は兵隊として朝鮮へ行かせる計画だった。秀家の先祖は百済人。配下が秀家に謀反したのを責めない家康を小人だと世間が言っていた。
庄内の乱で義弘の兵が疲弊したのを家康は喜んでいた。輝元の性格は朝鮮人に似ている。朝鮮人の大内の下僕の家柄。
毛利の外交を一手に担う安国寺の周囲は朝鮮人ばかりが囲んでいる。彼らが内乱を起こせば、朝鮮への再出兵は無くなる。
こんな内容が書かれていて、三成と家康は協調していて、小西と三成が憎い清正が内乱を欲している。
毛利や秀家は家康に屈したら、朝鮮出兵へ行かされる末路なので反抗するしか道はない。看羊録は一次史料だし、清正との対立から三成は家康の為に働いてたと書いてるし、
家康に命令されての弱体化政策の朝鮮出兵を毛利が回避する為に家康を排除するしか無いって話でしょ。しかも中立的視点で、
関が原後の国内における変な捏造史観に影響を受けていない点で優れているでしょ。
360人間七七四年:2013/08/31(土) 11:44:15.34 ID:/nKxqSOu
白川亨氏は家康が秀吉の遺令に背いた時に糾弾のために使者を差し向けた大老や奉行に、
当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた三成は含まれないどころか三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の 五郎八姫を容認するかのように政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたがその兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を 増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた 浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、浅野より姻戚関係にある三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が甥を茶阿に送り届け 息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に風聞を流されて、何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。

極刑の輝元の罪を問わない&家督強制譲渡すれば改易免れる条件が、
島津征伐で輝元が先陣をやるってことだったからな。
しかも毛利の山陽道側の城は後陣の徳川諸将が接収予定だった。
清正や官兵衛が独力で島津を圧倒したから
島津が家康に泣き入れた結果、
輝元は先陣やらずにすんだけどな。
361人間七七四年:2013/08/31(土) 12:25:07.30 ID:KY/2I9Zf
>>267
看羊録は中井俊一郎氏なども取り入れとる。
つかもう看羊録は関が原の戦いを議論する人間には必要不可欠の根本基本史料。
そして、看羊録の記述を利用しての再構築で大きく見方がかわった。

今は、利家死後も秀吉が決めた徳川・前田の両頭体制の護持を主張する前田派
それに対して器量の劣る利長を馬鹿にして約束を守るつもりがない家康の対立。
それに対して三成は家康を支持して前田派を追い落とした。
(利家死後直後に前田派の武断派による三成襲撃事件を中立な立場で家康が仲裁
この時の毛利は、三成の支援と称して前田派の武断派だけでなく、
家康も一挙に屠る野心があったが大谷に妨害された)
そして家康の前田討伐はあくまで家康暗殺クーでデターに対する報復という家康の私兵による私戦であった。
しかし上杉討伐は豊臣公儀を騙りつつ家康は私戦をやろうとした。
そこで輝元にやっとチャンスがまわってきたわけだ。
つまり輝元は三成を利用して家康の追い落としを謀って失敗するなどチャンスを待ち続けていた。
三成は無能輝元を切り、家康と協調して豊臣政権を守ろうとした(三成同様に浅野も家康との協調路線に変化した)
家康は前田を封じ込んでから公儀を標榜しつつ私戦をする奸臣の姿をもはや隠そうともしなかった。
豊臣公儀の名を騙り独裁する家康に対して増田・前田玄以・長束らは怒り、輝元の蜂起を歓迎したこと)
362人間七七四年:2013/08/31(土) 12:37:27.39 ID:gUDcuukw
看羊録って、他史料の裏付けに使うのはともかく独立した史料としても信用されてるの?
看羊録だけにある記述も最近では信用される感じ?
363人間七七四年:2013/08/31(土) 12:57:48.18 ID:KY/2I9Zf
ふつうに信用されてる。
一部の外国人ゆえの誤解があるのは仕方がなく、
それを言ったら宣教師もだいぶ誤解してたりしてるし。
その誤解だけをピックアップして、信用できないなどと主張し始めるのはキチガイだけ。
364人間七七四年:2013/08/31(土) 13:07:06.77 ID:isXQZ9oY
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
365人間七七四年:2013/08/31(土) 14:38:00.15 ID:zC+hdGWe
看羊録はもう関ヶ原の戦いの研究に必須なんだが。
自分に都合が悪いからって理由だけで、
どうしても認めようとしない基地外が一匹いるな。
レス内容から秀吉をどうしても悪いやつに仕立て上げたい
被害者の輝元は悪くない。全て首謀者三成が悪い
こんな人物像が現れてるな。
2011年頃のsubレスを盗用してコピペ爆撃することで
武田厨のフリをして陥れようと工作して見事にバレた
基地外織田厨と同一人物なのは間違いないわ。
366人間七七四年:2013/08/31(土) 14:56:12.50 ID:v+1kU/ob
俺は看羊録なんて信じられない。
日本国の大名や兵ですら無い者が書いた風聞を信じられらるか?
日本人だって当時よく解らない情報を外人が知る訳が無いだろ。
367人間七七四年:2013/08/31(土) 16:43:45.90 ID:EDOFe4nL
アスペルガーだがの自演荒らしに翻弄されているよ

ID:KY/2I9Zf
ID:zC+hdGWe
368人間七七四年:2013/08/31(土) 16:54:45.49 ID:IKO2/cY3
だがの池上マンセー妄想史観がもろに打ち砕かれるw

http://ja.yourpedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%8F%A2%E6%9B%B8_%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
369人間七七四年:2013/08/31(土) 17:04:33.60 ID:gUDcuukw
>>366
看羊録の著者の姜は当時捕虜状態だったはずだが、
果たして捕虜に満足な情報収集環境があったのかどうか疑問だ
370人間七七四年:2013/08/31(土) 17:10:13.00 ID:KY/2I9Zf
さぁ単発ID自演で多数派を装う織田厨の自演大会が始まりましたよwww
371人間七七四年:2013/08/31(土) 20:09:40.69 ID:zC+hdGWe
外国人による一次史料の史料否定するなら、
否定出来る根拠となる一次史料を持ってこい。
基本が出来てない小学生のワガママかよ。
はい最初からやり直し。
372人間七七四年:2013/08/31(土) 20:31:27.93 ID:xCujCZwH
いや。看羊録は伝聞記。
著者・姜は、誰から・どこで話を聞いたの?って話だよw
列伝よろしく倭の大名を描いているけど、直接会った大名はいない。
つまり、主観ですらないレベルの話。
人づてに聞いた噂話をまとめただけの伝聞記。

同時代史料であれば、一次史料に該当。
史実との整合性は問われない。
誤った内容の手紙でも、家康直筆であれば一次史料に該当する。
373人間七七四年:2013/08/31(土) 22:28:37.98 ID:2rxYs1fp
翻訳
否定出切る根拠となる一次史料はありません

まで読んだ。
374人間七七四年:2013/08/31(土) 22:57:06.81 ID:7upgT10H
ようは覚書と同レベルくらいって事か?
覚書の方が実体験とかに基づいてるから信憑性ありそうだが
375人間七七四年:2013/08/31(土) 23:56:20.17 ID:xCujCZwH
翻訳
伝聞記は史実にはなりません

まで読んだ。
376人間七七四年:2013/09/01(日) 00:26:16.99 ID:W+EGXTYy
信長公記が信用できなくて看羊録が信用できるってのがわからんのだが。
377人間七七四年:2013/09/01(日) 06:04:04.71 ID:PJAV1uJY
看羊録自体が、真偽定かでなく根拠が全く示されていない伝聞記録だからね。
毛利が西軍首謀者だの、三成が家康派だのトンデモ主張するにはもってこいの
材料なんだろ。
378人間七七四年:2013/09/01(日) 09:33:28.22 ID:tR1cMrg2
いまの関ヶ原の戦い論は、
反徳川勢力を前田&三成ら奉行衆って言う2勢力抗争から、
看羊録を元にして、
反家康陣営でも、前田派と三成ら奉行衆派は対立していたとする3派閥論に進化してるんだな。
相変わらず戦国スレはアホが自演して大昔から進化しないな。
379人間七七四年:2013/09/01(日) 10:29:27.50 ID:USNsKLH/
>>365
完全に同一人物の織田厨による自演だね。
日本史板でも秀吉や三成や豊臣政権の悪口中傷三昧で荒らしているし。
得意のレッテル貼りも同時にやってるから間違いない。
380人間七七四年:2013/09/01(日) 11:58:20.47 ID:Lh3jERoq
関が原スレで看羊録の史料としての真偽を
延々と語ったってしょうがないだろw

俺は偽書の類だと思ってるケド
信じてる奴は勝手に信じろよ。めんどくさいw

>>176
信長公記は書いてる年代とかに間違いが所々あるからなぁ。
勿論、ちゃんと書いてる部分は沢山ある。
今と違って、調べなおしてる時間や史料が足りなかっただろうし
それでも大田牛一の功績は大きいだろうね。
381人間七七四年:2013/09/01(日) 12:33:51.06 ID:USNsKLH/
2010年以後は看羊録を基本史料にするのは当たり前になってる。
ここのレスで書かれている人名などを参考に見るに
水野伍貴氏
島津亮二氏
中井俊一郎氏などがそう。

逆に聞くが2010年以後で看羊録を否定している論者は誰がいるんだ?
382人間七七四年:2013/09/01(日) 19:41:29.54 ID:UGW7qUGt
看羊録は多聞院日記と同レベル
ネタとしては面白いが、事実として取り上げるには他の史料の裏付けを要する
383人間七七四年:2013/09/01(日) 21:07:20.83 ID:UE8uPRMM
>>381
看羊録を否定してる学者はいないなぁ。
384人間七七四年:2013/09/02(月) 00:21:06.99 ID:mkKRmzPf
看羊録の、『伝聞記』としての史料価値は誰も否定してないでしょ。
伝聞を否定するも何もない。
例えば、わざわざ小説を否定する学者などいないのと同じ。
385人間七七四年:2013/09/02(月) 01:30:36.54 ID:RrcLp/I4
殺るか殺られるかの時代の奴らの心情なんか温室育ちのお前らごときには理解できんよ
386人間七七四年:2013/09/02(月) 02:37:10.06 ID:+2TozMym
軍記でも引用はされるわけで、それが単独で直接なソースとして使えるかどうかは全く別
387人間七七四年:2013/09/02(月) 08:35:07.74 ID:+jaQu60/
当時の朝鮮王朝へのリアルタイム日本情勢報告書という超一次史料スパイ情報を、
無理やり軍記と同一視しようとする曲解ぶりがもうクソ過ぎ。
388人間七七四年:2013/09/02(月) 09:48:21.65 ID:EK/qxdVr
史料的価値を否定する気はないけど書かれてる内容の正確性については疑問符がつくなあ
外国人捕虜が伝聞で書いた物なんだし
こういう情報があったこういう風に見られていたって使い方は出来てもこうだったって断言するには看羊録だけじゃ弱い
学者先生たちだって他の史料と併用したりしてるんでないの?
389人間七七四年:2013/09/02(月) 10:51:46.60 ID:LxtnxIWZ
>>388
中井俊一郎氏「家康の加賀攻めの際、三成は家康に従い越前に出陣している。
これは「看羊録」だけではなく、前田家の史料にも見られるので史実と思われる。
また大谷吉継は前田派の加藤清正の上坂に備えて淡路に出陣したという。
これも島津義弘の書状にあるので史実であろう。この当時、三成らは家康に従う姿勢を示していたのである」

看羊録はメイン史料になってんだよ。いい加減、諦めろ。
390人間七七四年:2013/09/02(月) 11:15:48.76 ID:4p9jagc3
その程度の引用のされ方なら軍記でもされるんだが…
平山とか千野原とか谷口とか小和田とかやってるし
391人間七七四年:2013/09/02(月) 12:17:36.41 ID:LxtnxIWZ
>>390
例えば?箇条書きで書いてくれ。
392人間七七四年:2013/09/02(月) 12:52:20.33 ID:U8x+PsRz
>>389
それ、書状をメインとするべき
393人間七七四年:2013/09/02(月) 14:36:16.84 ID:IuNirTfM
アンチ秀吉のキチガイ織田厨が看羊録を自演粘着否定してて、
最新の関ヶ原論の議論が全く語れねー!!まじ糞だわ。
394人間七七四年:2013/09/02(月) 14:44:40.69 ID:4+hWJSpi
>>391
平山の天正壬午の乱とか千野原の関東戦国史とか小和田の著書とか河原ノ者・非人・秀吉とか
読めば軍記でも>>389みたいに引用されまくってるんだが
395人間七七四年:2013/09/02(月) 15:23:48.86 ID:jfw3MBUG
>>393
火病起こすなよ
396人間七七四年:2013/09/02(月) 16:11:33.41 ID:IuNirTfM
>>394
前田家の史料や島津の史料により裏付けが取れたという事例くらいの引用程度ならって話だろ。
だからまず君が言うそれの軍記記述をどう裏付けて引用としているのか証明するためにここに転記してくれ。
397人間七七四年:2013/09/02(月) 21:48:24.75 ID:0Q96dM0a
そもそも、伝聞記録を史実認定していいのか?

>>389の中井俊一郎氏の例示だって、
まず前田家や島津家の史料ありきの話では?
中井俊一郎氏とやらは、看羊録に記載されているから
史実だとハッキリ言ってるのか?
看羊録にしか載っていない話であれば、史実認定なんて絶対無理だろ。
398人間七七四年:2013/09/02(月) 22:32:17.87 ID:U0ruPnB4
その看羊録ってのが信用出来ないならそれ以上の資料を示せばいいだろ
明確な資料も示さず自己主張や批判は詭弁だ
399人間七七四年:2013/09/02(月) 22:41:26.10 ID:U0ruPnB4
史実なんて実際見てきたわけじゃないのだから絶対なんてないだろ
お前らだって史料を元に専門家が記載してあるのを知識としてるだけ
その専門家先生達が史料として看羊録からだしてるのだから
400人間七七四年:2013/09/02(月) 22:55:37.65 ID:x7Ph+MIW
フロイスの日本史もそうだが
外人の書いた史料は誇張や誤記が極端に多いし
一つ一つの細かい事例に関していえば合ってる記述の方が少ないくらいのデタラメっぷりの章まである
そのまま史実扱いするのは無理がありすぎる
401人間七七四年:2013/09/02(月) 23:24:59.37 ID:0Q96dM0a
>>398
信用出来ないも何も、看羊録は伝聞記だろ?
伝聞なんだよ、伝聞。
402人間七七四年:2013/09/02(月) 23:29:19.78 ID:U2bICpXq
宣教師の記述や看羊録どころか中井氏らの著作ですら、
全く内容に言及したことがないところから判断するに、
それらを全く読まずに否定を繰り返す馬鹿自演キチガイが荒らしてるだけだな。
403人間七七四年:2013/09/02(月) 23:36:18.70 ID:0Q96dM0a
伝聞記としての看羊録を否定してないっての。

伝聞記である以上、前田家や島津家の文書と照らし合わせなきゃ
史実認定出来ないでしょ?w
404人間七七四年:2013/09/03(火) 00:44:33.18 ID:Z6mupxZa
その文書と看羊録とが一致してるならそれで問題ないだろ
405人間七七四年:2013/09/03(火) 05:20:33.80 ID:J1MUN4iG
それは即ち看羊録の信用力を表さない。
406人間七七四年:2013/09/03(火) 09:33:42.82 ID:eTkxmlBO
407人間七七四年:2013/09/03(火) 11:28:52.80 ID:TQQyUHFr
看羊録における家康と三成が共闘して前田に対抗したって話は、
いろいろと裏取りができてきたからここ2年くらいでずいぶん研究が進展したね。
前田派と奉行派の対立をうまく使い家康は自分の野望を実現していったよな。
看羊録の話における対立関係をいろいろと調べてみるに、
やはり鍵になるのは清正や大谷や小西だね。

文禄元年9月に清正は小西の平安道統治はぜんぜんダメ
秀吉の明への移動は俺以外が軍議して無理と報告したみたいだが
俺なら可能。小西じゃ無理だから俺を平安道の担当に変えろ!などと小西批判していたが、
実は清正も咸鏡道での統治が崩壊していたのがわかる。
文禄元年末に奉行に対して明に敗北していた事実を隠していたっぽいんだよね。
それでその背信に怒った奉行(大谷と増田)が激怒して
鍋島へ清正の求めに応じるなって命令を出した。
これで清正と小西・大谷・増田と思いっきり亀裂が入る。
その後、慶弔3年に蜂須賀・黒田長政が蔚山救援で合戦しないことを臆病だと秀吉の怒りを買ったが、
この報告をしたとされる福原・熊谷・垣見ら目付けが豊後に領地を褒美にもらっている。

関が原の戦いも三成・家康派に負けた前田派であった武断派の家康への擦り寄りが会津征伐。
その心底には小西・大谷・増田が憎い者と
福原・熊谷・垣見ら豊後に領地ある目付けが憎い者らが合同謀議を巡らし報復しようとしていた。
会津征伐成功を元手に家康の力で彼らの排除が狙いだったのだろう。
408人間七七四年:2013/09/03(火) 12:03:13.26 ID:wf6BDo4r
もう別スレ立ててやれよ・・・迷惑なのわかんないの?
409人間七七四年:2013/09/03(火) 13:54:16.79 ID:gBmgysVd
>>408
全く議論の参考になるような材料の提供による会話が出来ず、
ひたすら自分の願望自慰レスしか出来ないアンチ秀吉キチガイ織田朝鮮人のてめえが一番迷惑。
秀吉や三成を叩く目的だけで、
輝元や家康を無理やり被害者だと擁護する立ち位置からの都合上だけを判断基準に、
信用出来ないと執拗に粘着否定連呼自演をしているだけだろアホが。
410人間七七四年:2013/09/03(火) 15:14:27.82 ID:0UXFW8OC
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
411人間七七四年:2013/09/03(火) 17:41:16.10 ID:TQQyUHFr
>>410
やっぱり狂人の半島人だったようだね。
レス内容が頭がおかしいとしか思えない内容だわ。
412人間七七四年:2013/09/03(火) 18:20:47.42 ID:rUic17vj
アスペルガーだがに居座られ好き放題に荒らされスレ住人が可哀想
413人間七七四年:2013/09/03(火) 18:52:11.40 ID:TQQyUHFr
>>412
やっぱり汚物織田厨はアンチ秀吉の立場だったのなwww
414人間七七四年:2013/09/03(火) 19:28:36.69 ID:BAsgV9p8
西軍が勝つ方法のスレだが
頭おかしい人がなんで暴れてるの?
415人間七七四年:2013/09/03(火) 22:22:47.97 ID:qKwVx6Pw
アンチ秀吉の反日フィルターの色眼鏡を通して曲解する自演洗脳思想戦をやる馬鹿がいるからです。
416人間七七四年:2013/09/04(水) 00:10:14.02 ID:6f8nkVaT
日本人じゃないやつが日本史板や大河板や三戦板など
あちこちの板で反日コリエイトしてるからなー。
豊臣政権を全面否定し尽くさないと極右軍国主義になっちゃうから日本人を助ける為に善意でやってるらしいw
417人間七七四年:2013/09/04(水) 00:37:11.02 ID:iGWx/i0S
看羊録みたいなチョンの書いた捏造史料信じないとチョン扱いとかアホにも程があるわw
418人間七七四年:2013/09/04(水) 00:41:54.75 ID:j4FE07HF
419人間七七四年:2013/09/04(水) 08:39:11.27 ID:EsXhaH8A
ひたすら看羊録や宣教師は信じられないと連呼していたアホが、
見事にアンチ豊臣政権のキチガイ本人のレスだったのを自己紹介してしまった織田朝鮮人。
宣教師は信長より秀吉の方がなにをやっても優れていると褒め讃えているからなwww
420人間七七四年:2013/09/04(水) 12:01:09.77 ID:ZhgWShrq
宣教師の史料は秀吉が垂れ流した歪曲情報とか捏造情報とかがそのまま事実として書かれてるからな。
小牧長久手関連の記事とか読めばわかる。一次資料と照らすとあってる記事の方が少ないくらいのデタラメっぷりだし。
421人間七七四年:2013/09/04(水) 12:54:01.52 ID:FDmJH7w1
>>420
プププwww
単にお前にとって都合が悪いから信用できないと連呼してるだけじゃねぇかw
そうだよなぁ〜宣教師は1年近くに及ぶ小牧長久手戦役の結果を、
秀吉が家康に勝ったとはっきり書いてるからねwwww
そりゃあ朝鮮人のお前には絶対に認められないニダ!だよなw
422人間七七四年:2013/09/04(水) 13:12:09.74 ID:4QNd6em2
>>421
お前宣教師の史料読んだ事ないだろ。実際あってる記事のが少ないくらいの捏造っぷりで、明らかに秀吉や豊臣方の垂れ流した捏造歪曲情報のフィルターで
史料が書かれてるのが明白なんだがw

>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
423人間七七四年:2013/09/04(水) 13:13:24.41 ID:4QNd6em2
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
424人間七七四年:2013/09/04(水) 13:37:47.00 ID:XIqvIe+v
秀吉や三成を敵視する織田厨による反日単発ID自演爆撃荒らし開始か…
425人間七七四年:2013/09/04(水) 14:06:36.70 ID:RvZf3Ce7
秀吉や三成を敵視するのは朝鮮人の徳川好きだろ。
なんで織田好きが秀吉嫌うんだよw
426人間七七四年:2013/09/04(水) 14:19:57.36 ID:xRhuwYCp
でもさ、看よう禄を引用しようとしまいと、輝元が関が原合戦の首謀者なのは間違いないだろ
427人間七七四年:2013/09/04(水) 14:22:40.38 ID:Eimr8ue0
景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。


首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識 毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的.
毛利の無能さは神 輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために 大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後のソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
428人間七七四年:2013/09/04(水) 19:31:05.30 ID:fr7NR5LN
だがさん自演しすぎだよ
429人間七七四年:2013/09/05(木) 09:25:56.40 ID:/8ZyOquf
会津征伐ごろからの毛利輝元の行動を見ると、周辺領国の侵略に積極的。
中国だけでなく四国にも軍勢を派兵していた。
その姿を見れば、臆病で恵瓊に乗せられた「ダメ輝元」は、後々の保身のための演技であることがわかる。
彼はいまだ戦国期のように、自国を拡大すれば天下は狙えると錯覚していたような節がある。
大阪から動かなかったのも、臆病が理由ではなく、兵力温存→領国拡大を狙っていた。
「中央抗争の雌雄で物事が決まる」というパラダイムシフトに失敗した。
その判断の稚拙さは別にして、彼が西軍で最も積極的であり反徳川であったことは明白。

負けたため、三成と恵瓊を首謀者にして、保身に走り「ダメ輝元」を演じ始めた。
430人間七七四年:2013/09/05(木) 10:23:39.23 ID:x55HzlNg
by光成準治
431人間七七四年:2013/09/05(木) 10:25:39.96 ID:OmnDKydm
輝元も序盤の戦略は見事だった
義兄弟の契りで家康を油断させてその隙に大坂城を奪取して
家康が上杉と西軍に挟まれて動けない期間を使って畿内や西国の支配基盤を固めて防御を鉄壁にする
家康が西進すれば三成を大垣城に篭城させて時間稼ぎをさせながら
大津方面軍などを毛利本隊に合流させ輝元自らが出陣して最終決戦をするという完璧な戦略だった

輝元にとって唯一にして最大の誤算は三成の野心の強さだろう
政権に返り咲き権力を握ろうとした三成は美濃方面軍を乗っ取り自らが大将であるかのような振る舞いを始めた
輝元ではなく三成が大将であるという宣言を受ければ西軍の諸大名は混乱し士気が大幅に低下するのは当然だ
しかも三成は他方面にいる軍との連携をまるで無視し独断専行を繰り返した
任務として与えられた大垣城の守備を毛利に相談することもなく放棄して勝手に関ヶ原決戦を決めて
あろうことか輝元に対して自分の決めた関ヶ原戦略が絶対であり自分の命令に従って出陣しろと要求までした
これでは出陣すれば輝元が三成に臣従したことになってしまうため輝元は出陣するが不可能になってしまった
三成の独裁に嫌気がさした諸大名も内通や不戦に走り圧倒的有利だった西軍は三成によって壊滅させられた
三成さえいなければ輝元は間違いなく勝てただろう
432人間七七四年:2013/09/05(木) 10:56:28.02 ID:0owPLiFG
>>431
馬鹿か。西軍本隊は伊勢へ進撃してたじゃねぇか。
三成は一度も自らを大将であるかの振る舞いなんてしてねーよ。
そもそも三成は増田の取次ぎがなければ、輝元とも連絡できない立場だったろうが。
曲解も甚だしい。
433人間七七四年:2013/09/05(木) 21:32:49.91 ID:Y/bRtum8
>>431
>家康が西進すれば三成を大垣城に篭城させて時間稼ぎをさせながら
>大津方面軍などを毛利本隊に合流させ輝元自らが出陣して最終決戦
>をするという完璧な戦略だった

ソースは?
毛利に家康と決戦する意思があったとは到底思えないし、現にしていない。
434人間七七四年:2013/09/06(金) 06:50:51.54 ID:X6Hjk65A
>>431
毛利輝元って、変人だってことだね
で、今でいうゲーヲタ
あるいは劣化織田信長。
戦略全てが行き当たりばったり。
そんな、ノリと勢いだけじゃ石田三成でついて行けない。
435人間七七四年:2013/09/06(金) 11:13:12.68 ID:/+A2aFfD
序盤の輝元主導による大坂奪取と西軍結成があまりに鮮やかだっただけに
三成の暴走による西軍の崩壊が余りに惜しい
三成を制御できなかったのが輝元の致命的な失敗だった
436人間七七四年:2013/09/06(金) 11:58:01.71 ID:0I0DS03P
制御できなかったのなら輝元の無能そのものじゃないか。
だいたい大和路から伊勢への侵攻に毛利軍主力を派遣してて
左遷されて大垣に駐屯するはめになっていた三成・小西・島津らは
やっかいもののように毛利が増援ひとつ派兵しなかったのは
輝元が大坂を支配したい野望の為だろうが。
しかも大津城で謀反を起きる失策まで毛利はやらかして、戦力分散の足のひっぱりぶりw
しかも関が原後でもまだ十分に東軍と戦える戦力がありながら、徳川に媚びを売った
毛利に対して卑怯!卑怯!と京では非難続出。
そして輝元は何もしらなかったなどと言い訳を開始し、大坂城の西軍派を説得し始め開城させるヘタレぶり。
437人間七七四年:2013/09/06(金) 12:05:27.07 ID:raQ6Dbly
>毛利に対して卑怯!卑怯!と京では非難続出
ソース
438人間七七四年:2013/09/06(金) 16:02:43.27 ID:0I0DS03P
>>437
北政所と親しい醍醐寺の座主義演がそう書き残している。
439人間七七四年:2013/09/06(金) 17:09:09.25 ID:raQ6Dbly
>>438
わかった。義演准后日記でいいよね?
440人間七七四年:2013/09/06(金) 20:04:34.16 ID:bkxeOX7U
毛利には毛利の利益がある。
徳川と戦う事に利益はないと判断しただけ。
上杉も同じ。
441人間七七四年:2013/09/06(金) 22:15:35.88 ID:eLZgMx6i
遺領問題で毛利秀元と共謀したナイフ家康によって毛利領の切り分け介入が強制された輝元は怒り心頭だったから、
ちゃぶ台ひっくり返したい輝元には家康と戦う動機はあるだろ。
442人間七七四年:2013/09/06(金) 22:45:11.14 ID:bkxeOX7U
そんな子供じみた感情が動機になるのは小説の世界だけ。
中小企業の社長でもそんな感情には左右されない。
443人間七七四年:2013/09/06(金) 23:28:26.29 ID:pFN25Qpi
家康による内政介入は輝元の権力低下につながるから、それを覆すことを求めるのは
感情論でもなんでもないのだが
444人間七七四年:2013/09/07(土) 00:37:45.07 ID:MPUvp9ZB
>>443
>輝元は怒り心頭だったから、ちゃぶ台ひっくり返したい
>輝元には家康と戦う動機はあるだろ(>>441

毛利秀元の給地配分介入のこと?
関ヶ原で秀元が東軍についたのならその理屈はわかる。
そうでない以上、家康に戦争を仕掛ける理由にはならない。
445人間七七四年:2013/09/07(土) 10:21:28.76 ID:ewtC7nLJ
>>444
実は、南宮山に登った以降の秀元の行動を記す一次史料は存在しない
基本的には吉川広家等が行い、秀元は蚊帳の外が通説だけど

しかし、恵瓊以外は親家康派の者を中心とした部隊を輝元が伊勢国に
派遣しているのは、どういう底意なのだろうか
446人間七七四年:2013/09/07(土) 11:15:33.44 ID:0Bd7kCkk
>>436
西軍としては反三成に燃えている東軍諸将をクールダウンさせようとするのは当然だろ
三成に下手に増援を送って肩を持っていると思われたら相手の士気を増大させるだけだ
三成なんていつ死んでも構わない小物に過ぎないわけ
ところが三成は戦下手だから戦略というものがまったく理解できない
美濃方面軍で威張り散らしたり関ヶ原に布陣して正面から待ち構えたり
挑発的なパフォーマンスを繰り返し東軍の士気を増大させるばかりか西軍の士気をボロボロにしていった
三成の間抜け振りには毛利でなくても辟易するよ
せっかく輝元が大坂城を奪取し西軍を大軍として結成するという歴史的な成果をあげたというのに
三成が政権に返り咲き天下を奪おうと暴走を始めたために全てが無に帰した
三成のような無能がいなければ豊臣は関ヶ原だけでなく朝鮮出兵も成功できたというのに
447人間七七四年:2013/09/07(土) 11:36:53.62 ID:u8keKONs
伏見城攻撃に参加せず、瀬田普請に注力していた毛利主力を
伊勢に転戦させた事に違和感はないけど?

総大将である毛利家の主力が親家康派と言うのなら、
毛利家にとって家康との衝突には、利も理もない証左。
448人間七七四年:2013/09/07(土) 13:24:36.22 ID:ewtC7nLJ
>>447
あれは家康が上洛すると判断しての行動
まぁ、毛利家の目的は家康より優位に立つことだろうけど
449人間七七四年:2013/09/07(土) 13:51:27.43 ID:u8keKONs

伊勢に転戦したのは、8/1〜4頃。
8/4、家康はまだ小山を発ったばかり。
450人間七七四年:2013/09/07(土) 16:19:31.26 ID:ewtC7nLJ
>>449
当時の畿内にはそういう情報が流れていた
451人間七七四年:2013/09/07(土) 19:09:55.88 ID:u8keKONs
>家康が上洛すると判断しての行動
東軍側である松井康之がそう思っただけ。

伏見城攻略が長引き、京極高次の去就に疑いがあれば、
東軍西上の防衛拠点として瀬田を強化する事に違和感はない。
452人間七七四年:2013/09/07(土) 20:17:10.16 ID:xfuTt6gT
家康が西上が完全に終わった9/12時点でも伊勢湾での活動をやめようとせず
関が原に出兵する気配も見せなかった輝元はガチで無能どうこうといったレベルじゃなく
身障レベルだろ
453人間七七四年:2013/09/07(土) 21:19:08.09 ID:ewtC7nLJ
>>451
輝元書状や広家書状や義演の日記等にもあるよ
454人間七七四年:2013/09/07(土) 21:20:12.54 ID:ewtC7nLJ
>>452
だから輝元はおろか三成も家康が赤坂に到着するまで気付いていない
455人間七七四年:2013/09/07(土) 21:53:08.36 ID:1FtL2CK+
>>452
そもそもさ、気付いてないとかお前の単なる妄想だろ。
気付いてたから迎撃に出たんじゃねぇかw
456人間七七四年:2013/09/07(土) 22:00:58.07 ID:qBQycuWp
>>453
451だけど。
瀬田普請の前に、輝元が家康西上を判断したことが記載されてるんだね?
どのように記載されているのか教えてもらえるか?
457人間七七四年:2013/09/07(土) 22:23:55.63 ID:Yx0uAAZl
輝元や三成が家康の西上に気付いてないわけねーだろアホ
気付いたから迎撃体制を早めに整える事ができたんだし
アホ元が奉行衆らの要請無視して大阪に引きこもってただけだわw
458人間七七四年:2013/09/07(土) 22:34:29.02 ID:qBQycuWp
輝元にすれば、三成等が矢面に立って家康と構えてくれた方が有難い。
輝元の本命は、中国四国地方の侵食。
459人間七七四年:2013/09/07(土) 22:39:08.50 ID:u7euDIoq
それなのに積極的に西軍決起を行い、総大将にまでなるとかガチで馬鹿だな。
西軍総大将として東軍との戦いに臨み敗れればどうなるかなんて想像するまでもないんだが
460人間七七四年:2013/09/07(土) 22:54:33.30 ID:qBQycuWp
それは子供のゲーム的な発想。
勝った負けた、東西二極化の発想しかないお子様論理。

普通に考えれば、戦乱長期化に乗じて領土拡大、頃合見て講和。
獲得した領土や交易ルートは既得権化。これで十分。
461人間七七四年:2013/09/07(土) 23:49:36.36 ID:92TYC1lc
まーた基地外反日織田厨による輝元無理やり擁護か…キモッ
462人間七七四年:2013/09/07(土) 23:56:41.26 ID:Sli8K5d+
だがチョンの自演が始まったらしいwww
やはり信長と秀吉を持ち上げまくってコピペするのはチョンの血が嫌うらしいwwwww


http://www26.atwiki.jp/dagamatome/
463人間七七四年:2013/09/08(日) 00:29:58.55 ID:vPgrVpTc
大体自分が総大将にもかかわらず東軍との本決戦に敗れれば自国の領域拡大も瀬戸内海の利権も糞もないわけで。
あと関が原直後には毛利の厳封が決まってるのに厳封確定になった時点で厳封する事が決まった領域を一時的に持ってた事をもって「領土は最大」などとはいわん
あと8/10石田←佐竹書状で「輝元は家康が到着したら三万を召し連れて出陣する」と書いており西軍方は家康との本決戦にあたって総大将であり最も巨大な軍団を持ってた輝元を
主力として東軍を迎撃しようと考えていたが当の輝元が再三に渡る石田ら西軍の援軍要請を無視しまくって本決戦で敗れる理由となったわけ。
尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし

家康との直接対決で西軍方の一部隊が敗れたらもう手遅れで降伏するしかなくなるのが毛利
事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ

西軍総大将で最も規格外の大軍持ってるにもかかわらず目的が火事場泥棒で
軍分散させまくったあげく東軍の尾張口の進軍にも対応せず石田らからの要請無視して
大敗し大厳封くらうんだから相当馬鹿だな
伊達最上堀らに囲まれてた上杉と違って毛利は兵力的にも状況的にも十分すぎるほど東軍ぶち破るチャンスがあったのに
むざむざ無駄にして何もしないまま大厳封
西軍総大将として存在しながら本決戦に負けたら勢力拡大も火事場泥棒も糞もないのにクズすぎる
464人間七七四年:2013/09/08(日) 00:31:30.07 ID:7hrwQOEa
石田贔屓の人って、どうしても毛利を家康と決戦させたがるよねぇ。
で、決戦しなかった毛利をボロクソに言う。
残念だけど、毛利は西軍の目的である家康追討よりも、
自家の繁栄の方が大事なわけ。
中国四国地方の侵食と瀬戸内海の交易ルート確保の方が大事。
これは妄想ではなく、光成準治なんかも普通に主張してる話。

当たり前の話がなぜ理解出来ないww
465人間七七四年:2013/09/08(日) 00:31:45.00 ID:vPgrVpTc
家康との直接対決で西軍方の一部隊が敗れたらもう手遅れで降伏するしかなくなるのが毛利
事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ

西軍総大将で最も規格外の大軍持ってるにもかかわらず目的が火事場泥棒で
軍分散させまくったあげく東軍の尾張口の進軍にも対応せず石田らからの要請無視して
大敗し大厳封くらうんだから相当馬鹿だな
伊達最上堀らに囲まれてた上杉と違って毛利は兵力的にも状況的にも十分すぎるほど東軍ぶち破るチャンスがあったのに
むざむざ無駄にして何もしないまま大厳封
西軍総大将として存在しながら本決戦に負けたら勢力拡大も火事場泥棒も糞もないのにクズすぎる

一日で敗れるような会戦状況作ったのは他でもない輝元。
尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし 。
家康との直接対決で西軍方の一部隊が敗れたらもう手遅れで降伏するしかなくなるのが毛利
事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ


関が原本戦に負ければ自領の拡大も瀬戸内の権益も糞もないし
逆に勝てば総大将として領土も権益も最大限に拡張するのに
そんな事もわからないとか相当の馬鹿だな
四国方面への拡張とか言ってるけど中途半端に伊勢湾荒らし回ったり伊勢侵攻軍派遣したり
関が原本戦でも一応は軍派遣してるから(全く使い物にならなかったが)
別に戦略というほどの物が輝元にあったか非常に怪しいがな

尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし

総大将にもかかわらず軍分散してどうでもいい所攻めて本決戦で軍ろくに動かさず敗北する毛利が糞すぎるといってるわけで。
大体自分が総大将にもかかわらず東軍との本決戦に敗れれば自国の領域拡大も瀬戸内海の利権も糞もないわけで。
あと関が原直後には毛利の厳封が決まってるのに厳封確定になった時点で厳封する事が決まった領域を一時的に持ってた事をもって「領土は最大」などとはいわん
あと8/10石田←佐竹書状で「輝元は家康が到着したら三万を召し連れて出陣する」と書いており西軍方は家康との本決戦にあたって総大将であり最も巨大な軍団を持ってた輝元を
主力として東軍を迎撃しようと考えていたが当の輝元が再三に渡る石田ら西軍の援軍要請を無視しまくって本決戦で敗れる理由となったわけ。
尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし
466人間七七四年:2013/09/08(日) 00:33:05.33 ID:4F2P7BYE
東から西に向かってくる東軍といつかは衝突するのは当然なわけで。
それは早ければ早いほど、味方は有利に多くの味方をもって戦えるし
逆に美濃戦線みればわかるが放置したり中途半端な兵力で迎え撃っても次々侵食されて
味方は寝返りや降伏などで次々減ってくのは目に見えてる。
大体美濃の秀信らを見捨てて奉行衆らの援軍要請も無視し、伊勢湾での活動を家康が西上してきた9/12時点ですらやめていないのは
馬鹿としかいいようがないし石田らの作戦通りさっさと東上して三河や遠江に早い段階で侵攻してたら史実より遥かに味方は多く有利に戦えてたのは目に見えてわけで。
逆に輝元のアホ戦略につきあってたら、次々に畿内を侵食されてもう取り返しの付かない兵力と状況にまで追い込まれてたのは間違いない。
まともな知能の人間なら、美濃で西軍に勝利した先鋒勢にさらに家康が加われば
自分らが総軍あげてかからないと到底兵力比からいっても立ち向かえないなんてわかるわけで。

毛利の戦略どおり大阪で引きこもり美濃口の防衛無視、おまけに美濃・近江ラインの防衛も考えず
伊勢湾だの四国だの的外れな方向ばかりに戦力分散させまくってたら美濃でおきまくった離反の連鎖や味方の降伏にみられるように
次々に味方が減り、とりかえしのつかない所まで追い込まれて史実より酷い敗戦になるだけだろ
西軍の中核をなす最も巨大な軍隊かかえる毛利勢がちゃんと戦わないと、しょぼい軍勢しかない奉行らだけで勝てるわけないんだし
実際美濃の防衛も単独で行って失敗してる。
毛利輝元がちゃんと動いて戦場に赴き総大将として行動したなら、西軍の諸勢が毛利輝元の元で動かないといけないというのならわかるが肝心の輝元が大阪に引きこもり
馬鹿な方向にばかり兵を分散させる行動取ってるんだから後は奉行らでなんとかするしかない。
それでなんとかしようとしたのだが、いかんせん兵力に恵まれない奉行らは負けを余技なくされただけ

美濃口では諸将らは篭城して、奉行衆もこれを援護する形で後詰援軍を出したが、結局離反・降伏などがあいつぎ、
また数も足りず見事に敗北して切り取られている
篭城なんてしてたら安定的とはいい難い味方陣営が次々離反したり降伏したり東軍に寝返りだしたりで味方が削られてくだけ。
西軍が畿内で味方を大きく増やせたのは、家康不在で畿内がからっぽ状態だった恩恵が大きく当然徳川方が戻ってきて戦線膠着になれば
東軍につく諸勢は増えてくるわけで。大阪に到着するまでで規格外の兵力差が生じてしまったら、いかに堅城といえど全く機能しないし、
降伏は目に見えてる(実際史実ではあっさり降伏した)関が原は迎撃・布陣とも圧倒的に西軍有利の態勢で、小早川の寝返りと毛利のヘタレ日和見
さえなければ100%勝てる状況での会戦。防衛ラインとしては、ここほど優れた所はない。勿論尾濃国境地帯で防衛ができれば
それが理想的だったが、毛利が馬鹿すぎて、援軍を全く出さないどころか伊勢湾や四国などどうでもいい所での行動を続けていたため、あっさり崩壊した。
467人間七七四年:2013/09/08(日) 00:34:26.60 ID:xWRtx7Y+
美濃口では諸将らは篭城して、奉行衆もこれを援護する形で後詰援軍を出したが、結局離反・降伏などがあいつぎ、
また数も足りず見事に敗北して切り取られている
篭城なんてしてたら安定的とはいい難い味方陣営が次々離反したり降伏したり東軍に寝返りだしたりで味方が削られてくだけ。
西軍が畿内で味方を大きく増やせたのは、家康不在で畿内がからっぽ状態だった恩恵が大きく当然徳川方が戻ってきて戦線膠着になれば
東軍につく諸勢は増えてくるわけで。大阪に到着するまでで規格外の兵力差が生じてしまったら、いかに堅城といえど全く機能しないし、
降伏は目に見えてる(実際史実ではあっさり降伏した)関が原は迎撃・布陣とも圧倒的に西軍有利の態勢で、小早川の寝返りと毛利のヘタレ日和見
さえなければ100%勝てる状況での会戦。防衛ラインとしては、ここほど優れた所はない。勿論尾濃国境地帯で防衛ができれば
それが理想的だったが、毛利が馬鹿すぎて、援軍を全く出さないどころか伊勢湾や四国などどうでもいい所での行動を続けていたため、あっさり崩壊した。

なんにせ西軍が徳川方といずれ衝突するんだから、その時期は早ければ早いほど味方が多く有利な状況で戦えるわけで。
石田の構想通り先手を討って三河遠州方面に総兵力で侵攻して決戦に及ぶか、それができなくても迎撃に適した尾濃ラインで兵力を集中させて決戦
すれば史実よりも遥かに優位な状況で戦えたのが西軍
史実では毛利が美濃口の防衛を無視しまくって伊勢湾・四国などどうでもいい方面に兵力分散させまくったせいで
次々に美濃の諸将は降伏・寝返りで味方が減り、関が原本戦でも毛利がクズすぎたせいで大敗しただけ。
基本的に政情が不安定な時は、先手を討って相手方領地に踏み込んで侵攻すれば、次々に降伏や寝返りで味方が増え、
逆に侵攻された側は放置すればするほど味方は次々潰され減ってくだけだから、決戦するなら早ければ早いほど西軍にとって有利。
現に家康不在の畿内方面では味方が大きく集まり18万にも膨れ上がったが、家康が戻ってきたり、美濃口が激しく攻め立てられると
寝返り・降伏があいついだしな
468人間七七四年:2013/09/08(日) 00:35:32.13 ID:KCmxtblc
○毛利輝元が火事場泥棒を中心に見据えていたというのは根拠がない
輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
つうか仮にお前のいうように自領域拡大が目的なら
関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事

○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する

こんな馬鹿が西軍総大将なのが三成の運のつき
関が原の輝元の目標が自領域拡大であった場合→西軍総大将で本戦に負ければ自領域拡大も糞もなく逆に本戦に勝てば最大限に自領域は拡大
するのにそんな事もわからず援軍要請無視、大阪篭城、伊勢湾やら四国やらに兵分散させまくり18万もいる西軍を見事崩壊させた馬鹿
輝元の目標が西軍の大勝・家康妥当であった場合(関が原に大軍送ったり自分も総大将になった事からこちらの可能性のが高い)
→伊勢湾や四国に兵分散させまくり伊勢方面軍を編成しながら実際には伊勢には中途半端な兵を残したのみで攻められないなど無意味な戦略行動をし
美濃口が攻められた時も三成らからの援軍要請を無視しまくって美濃を突破され
関が原本戦だというのに総大将の自分はなぜか大阪に居座り秀元らに命令出せず見事毛利軍は役に立たず大敗

どちらにしても毛利がクズなのは間違いないな
469人間七七四年:2013/09/08(日) 00:35:46.85 ID:7hrwQOEa
石田贔屓の人って、どうしても毛利を家康と決戦させたがるよねぇ。
で、決戦しなかった毛利をボロクソに言う。
残念だけど、毛利は西軍の目的である家康追討よりも、
自家の繁栄の方が大事なわけ。
中国四国地方の侵食と瀬戸内海の交易ルート確保の方が大事。
これは妄想ではなく、光成準治なんかも普通に主張してる話。

当たり前の話がなぜ理解出来ないww
470人間七七四年:2013/09/08(日) 00:36:58.93 ID:KCmxtblc
関が原本戦に負ければ自領の拡大も瀬戸内の権益も糞もないし
逆に勝てば総大将として領土も権益も最大限に拡張するのに
そんな事もわからないとか相当の馬鹿だな
四国方面への拡張とか言ってるけど中途半端に伊勢湾荒らし回ったり伊勢侵攻軍派遣したり
関が原本戦でも一応は軍派遣してるから(全く使い物にならなかったが)
別に戦略というほどの物が輝元にあったか非常に怪しいがな

尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし

>>毛利が家康との直接対決で全力出す必要は全くない。
家康との直接対決で西軍方の一部隊が敗れたらもう手遅れで降伏するしかなくなるのが毛利
事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ

西軍総大将で最も規格外の大軍持ってるにもかかわらず目的が火事場泥棒で
軍分散させまくったあげく東軍の尾張口の進軍にも対応せず石田らからの要請無視して
大敗し大厳封くらうんだから相当馬鹿だな
伊達最上堀らに囲まれてた上杉と違って毛利は兵力的にも状況的にも十分すぎるほど東軍ぶち破るチャンスがあったのに
むざむざ無駄にして何もしないまま大厳封
西軍総大将として存在しながら本決戦に負けたら勢力拡大も火事場泥棒も糞もないのにクズすぎる
471人間七七四年:2013/09/08(日) 00:37:07.07 ID:7hrwQOEa
石田贔屓の人って、どうしても毛利を家康と決戦させたがるよねぇ。
で、決戦しなかった毛利をボロクソに言う。
残念だけど、毛利は西軍の目的である家康追討よりも、
自家の繁栄の方が大事なわけ。
中国四国地方の侵食と瀬戸内海の交易ルート確保の方が大事。
これは妄想ではなく、光成準治なんかも普通に主張してる話。

当たり前の話がなぜ理解出来ないww
472人間七七四年:2013/09/08(日) 00:38:24.81 ID:KCmxtblc
毛利なんて吉川が土下座して身代わり改易されて助かっただけだし勝てば負けた方はいくらでも好きにできるけど
負ければどんな扱いされてもおかしくないし、実際西軍で家康に厳封・改易された諸大名は総石高で数百万石に及ぶ
逆に徳川に勝てば自国の領域は最大限に広がるし毛利は特に総大将なので、勝ったときアドバンテージと負けた時の家の存亡の危険の天秤くらいは
普通の頭ならわかる。
毛利が馬鹿なのは以下のように実績があるので、単に馬鹿だから四国だの伊勢湾だの兵分散させまくって美濃口の防衛も無視して大阪に引きこもりだっただけ。

・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する

正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
473人間七七四年:2013/09/08(日) 00:38:30.81 ID:7hrwQOEa
石田贔屓の人って、どうしても毛利を家康と決戦させたがるよねぇ。
で、決戦しなかった毛利をボロクソに言う。
残念だけど、毛利は西軍の目的である家康追討よりも、
自家の繁栄の方が大事なわけ。
中国四国地方の侵食と瀬戸内海の交易ルート確保の方が大事。
これは妄想ではなく、光成準治なんかも普通に主張してる話。

当たり前の話がなぜ理解出来ないww
474人間七七四年:2013/09/08(日) 01:45:48.30 ID:eyrPHt3H
結局のところいくら輝元が義の心で大坂を奪取し10数万の大軍を結成しようとも
三成が権力への野心を剥き出しにして私戦に貶めてしまうのが問題なんだよな
三成のせいで輝元が掲げた西軍の大義名分が失われてしまう以上はどうしようもない
家康は奸臣討伐という完璧な大義名分を掲げて進軍すればいいだけになってしまう
475人間七七四年:2013/09/08(日) 08:50:33.77 ID:4F2P7BYE
何それ?いつもの妄想?
476人間七七四年:2013/09/08(日) 08:51:27.67 ID:ur3Hncu+
>三成が権力への野心を剥き出しにして私戦に貶めてしまうのが問題なんだよな
>三成のせいで輝元が掲げた西軍の大義名分が失われてしまう以上はどうしようもない
>家康は奸臣討伐という完璧な大義名分を掲げて進軍すればいいだけになってしまう

出展の史料か論文求む
477人間七七四年:2013/09/08(日) 09:20:06.32 ID:BuSxyEOO
都合上よく光成準治を持ち出して自領拡大だけを強調するが、
ただ単に西国の東軍勢力を叩いていただけだし、
光成準治は輝元が西軍総大将に任命される、
待ち構えていたように速攻で大坂に入るなど、
事前に兵と船舶の準備をしていなければ無理なほど手際良く大坂入城したと輝元首謀者説を補強してる事実は無視かw
478人間七七四年:2013/09/08(日) 09:46:24.25 ID:7hrwQOEa
『関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?』過去スレより転載。
オマエさん、このスレでフルボッコだったじゃんww
光成準治は著書でハッキリと明記している。
輝元首謀者など、1ミリも書いていないww

@転載
「七将の襲撃を逃れた三成は、伏見城を拠点に徳川派の打倒に向けてさまざまな
 権謀術数をめぐらしており、大規模な軍事衝突が起こる可能性もあったことが
 明らかになった。また、この闘争計画の中心的役割を果たしたのが、一年後に
 関ヶ原合戦を主導する石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊の三名であった点も注目
 される。」

A転載 
「輝元は豊臣奉行衆と同盟して表面的には豊臣政権を支える姿勢を見せながら、
 その真意は独立的な領国を形成することにあり、実際には豊臣政権の根幹的な
 政策である惣無事令や海賊停止令をも否定しようとしていたのである。」
479人間七七四年:2013/09/08(日) 09:58:53.18 ID:BuSxyEOO
>>478
やっぱりアンチ秀吉の反日織田朝鮮人がまたまた自演してたのかwww
つかな、お前にとって光成氏の本における都合のよい部分だけの抜粋なんて意味ねーんだよ基地外。
480人間七七四年:2013/09/08(日) 10:02:04.81 ID:7hrwQOEa
>>477
>待ち構えていたように速攻で大坂に入るなど、
>事前に兵と船舶の準備をしていなければ無理なほど手際良く大坂入城した

についての光成の指摘は、次のとおり。

『輝元はあらかじめ奉行衆や恵瓊と決起のタイミングについて打ち合わせ、
諸準備を整えたうえで、上坂要請という大義名分を受け、迅速に行動したもの
と推測されるのである。』

このとおり光成準治は、輝元首謀者説の補強など一切していないww
しかも光成は推測しているだけwwww

つか、輝元首謀者説なんて、世の中の誰が主張してるんだよ。
著書を教えてくれよ、読むからさwww
481人間七七四年:2013/09/08(日) 10:11:59.25 ID:7hrwQOEa
>>479
オマエさんに都合の良い部分を抜粋してもいいぞ。
全部否定出来る自信があるわww
なぜなら、光成準治は輝元首謀者説など主張していないからww
482人間七七四年:2013/09/08(日) 10:12:56.58 ID:BuSxyEOO
光成氏が蓋然性が高いと書いてるのは黙殺かw
都合のよい部分しか書かない自由www
483人間七七四年:2013/09/08(日) 10:15:16.89 ID:7hrwQOEa
『この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い(のではなかろうか)』

のではなかろうか、が抜けてますがwww
抜粋するなら正確にしろよ、卑怯者がwww
484人間七七四年:2013/09/08(日) 10:17:58.74 ID:7hrwQOEa
>>482
何の蓋然性が高い、と言ってるんだよ??
該当箇所を教えてくれるか??www
485人間七七四年:2013/09/08(日) 10:21:48.25 ID:BuSxyEOO
どうせお前は相手が嫌気をさすまで、24時間体制で執拗に粘着し続けて、
最後にお前がレスするまでやめない基地外だろうが。
それをお前が言う論破なんだろアホ基地外が。
結局、以前のレスの蒸し返しのループ仕様になるだけなんだから意味ねーんだよ。
論破したかどうかは読み手の判断であって、
相手がネット以外にしなくちゃならない要件をし始めるまで粘り続けて最後までレスしたら論破じゃねぇよ基地外反日アンチ秀吉くんw
486人間七七四年:2013/09/08(日) 10:24:15.58 ID:7hrwQOEa
>>485
繰り返すな。
何の蓋然性が高い、と言ってるんだよ??
該当箇所を教えてくれるか?
輝元が首謀者の蓋然性が高い、と言ってるのか??

答えなかったら、逃げたとみなすぞwwwww
いつぞやみたいな敗北宣言なら受け入れてやるがwww
487人間七七四年:2013/09/08(日) 10:39:55.74 ID:KCmxtblc
加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり
首謀者であったとみなされていた事を示している

毛利家内への介入と分断を図る家康が目指す覇権へ抵抗するために
会津征伐をチャンスに毛利は反家康行動に踏み切った。
家康は上杉が気になり当分上洛ができないと判断し、
その隙に自力でも家康に対抗できるよう自己のために領土拡大を謀った。
光成氏は毛利の領土拡大と西軍の反家康行動は両立しないなどとは、まったく書いておらず完全に歪曲。
〜光成氏の主張〜
家康と組んだ秀元の別家創設で輝元から毛利領の1/4獲得を狙っていた(出雲や石見なので吉川は長門へ飛ばされる)
その後の交渉で出雲から長門や周防や父の遺領に変更になりながら、やむなく妥結した。
輝元は遺領問題で天下の人々はどうおもうだろうか?と毛利の外聞を非常に気にしてる。
家康や秀元によって恥をかかされたと認識してるから輝元も上杉征伐を最後のチャンスと思ったんだろうね。
さて輝元が在国してて、家康が会津へ出発すると大坂は大老不在になってしまうことから
秀家は会津へ行かずに在京。秀家の代わりに会津へ行ったのは詮家。
ちなみに毛利は吉川と安国寺が会津へ従軍予定。
7/5の豊国神社参拝での武運長久を秀家が行ったことに関しても
肝心の詮家が出発した後にそれをやるのはおかしいとされ、
しかも家康が介入した宇喜多騒動の主役の1人の詮家を会津へ派兵したのは
西軍挙兵において家中で邪魔になるであろう詮家の弊害を恐れ
事実上、秀家による家康の下への放逐行為であると考えられる。
そして秀家は大谷と親しいので、大谷の決起も秀家の士気の高さに引っ張られたとされてる。
6/16の家康出立直前の6/8〜10頃に輝元は領国へ向け出立
6/17日夜に広島に着いているわけだが、7/2に家康が江戸城着を経て
7/12付け三奉行の輝元への上坂要請文が7/15に輝元の元に到着した可能性が高く、
待ち構えていたように即日のうちに輝元は家中を率いて広島から船を出したと考えられ
7/17夜には秀元が大坂西の丸を占拠してしまうなど迅速に家康のいた場所が制圧されてる。
明らかに出兵の準備のために帰国してたとしか思われないわけで
輝元は6月の時点で家康を油断させるために領国へ帰ってるとされる。
そして七将襲撃の時に輝元ー三成ラインが敗北した原因である
家康側による大坂占領と伏見城の治部少丸包囲と真逆の行動を開始するなど戦訓を生かしている。
ちなみに7/19秀忠が江戸より会津へ出陣。7/21家康が江戸から会津へ出陣。
よって光成氏は下記のように書いているわけだ。
「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
しかも慶長5年6月・7月の挙兵への道程における三成の関与について光成氏はまったく書いていない。
これでも光成氏が輝元首謀を主張してないと歪曲して強弁するならお前は完全に文盲かキチガイw
488人間七七四年:2013/09/08(日) 10:41:03.27 ID:KCmxtblc
美濃は最初から西軍だし尾張侵攻も毛利主力の伊勢攻略軍による北上。
しかも伊勢を毛利が占領する意思を輝元は表しており、
増田が何を言おうが関係ないとまで言って野心を露わにしてる。
首謀者輝元は幼君秀頼を利用して軍事も主導して専制独裁をしていて
前線指揮官の1人でしかない三成はそれを黙認する機関でしかないのが実態で奉行に復帰してるかどうかすら疑問。
しかも輝元へ三成は直接意見を言えずに、増田を経由している始末。
秀頼に会ってないどころか大坂城にも一度も行ってない三成が首謀者だっていう一次史料が無いどころか
首謀者と思われるような傍証も感情の吐露も三成にはまったくない。
しかも蟄居ではなく、隠居で減封も改易もなく、家督譲渡された息子は秀頼に仕えることが許され、
秀次事件に連座した前野長康や浅野長政(幸長は能登国津向配流)
前田と家康暗殺を企てたとして甲斐の領地と家督を息子に譲り
武蔵府中に出て監視され謹慎させられた浅野長政よりも
三成はかなり罪が軽かった。別段、政治に執着してるわけでもなく、不満を抱いてるわけでもない。
前野長康や浅野長政の失脚を見てれば いつ政争の舞台から失脚しようが浮沈の覚悟もあって当然だろうね。
そして一年以上に渡り、三成はおとなしく生活していて事を起こすような証拠はまったくない。
嫡男の石田重家(三成が実父正継のために建立した寺である寿聖院の三代目を継ぎ生存)
次男の石田重成は津軽重臣として生存。
津軽2代藩主正室の辰姫として生存(子が津軽3代藩主信義)
三成首謀説は大老にもなった若狭酒井忠勝が主導して造られた東国太平記が
三成と兼続の陰謀話の証拠として登場させたのが発端だからw
それには現在では偽書状認定されている原書が存在しない書状が記載されてる。
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続書状がそれ。
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付いたもの。
三成と直江がすべて悪いと汚名を着せられたことと、
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
三成と直江首謀→三成首謀→三成と輝元首謀→輝元首謀と
だんだんと三成の関ヶ原での権力が疑問視されてきてるのが流れだ。
また毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
489人間七七四年:2013/09/08(日) 10:41:34.61 ID:0ofzdWQP
それさ、謀議に関わってない蜂須賀が裏に輝元がいることに早くも感づいてる証拠だよ。
だってまだ輝元は15日に広島を出発したばかりなのに蜂須賀は嗅ぎつけてる。
また、細川らが家康へ憎い三成が蜂起するとさかんに嘘を吹聴してまわってる。
(西軍本隊は毛利を主軸にした伊勢方面軍であったが、
武断派が三成憎しで大垣へ北進)
あとね内府たがい条に署名してる三奉行に三成は入ってない。
光成氏は奉行の書状が15日に輝元に届くや
待ちかねていたように急ぎ即日出発。
明らかに出発準備が完了していた。
淀、利長、三奉行は
三成と大谷が蜂起と家康にフェイクする陰で
輝元を大坂に招き入れて 家康が蜂起を過小評価させることに成功。
そもそも三成は直接、輝元へ意見が言えず増田経由であるのに
三成首謀者なわけもない。だいたい三成は家康派になっており、
三成の兄の屋敷を家康へ提供するなど、家康へ恭順しているため
なんとしても武断派は三成を敵にしたてる必要性があった。
一方の輝元は毛利分封問題などで家康への敵愾心と悔しさをあらわしている。
また北政所なども西軍派で、それを動かせるのは地位的にも輝元であっても
三成じゃないだろう。
7/12に三奉行が輝元の大坂入りを要請
決起を打ち明けられ同意を求められた家政が
16日に輝元へ書状を出しただけだろ。
淀や利長や三奉行は三成と大谷の挙兵と言うフェイクで
家康を騙して時間稼ぎをしているうちに大津城を手に入れ
瀬田の大橋を確保し、伏見城を落城させて
やっと佐和山の三成との連絡線を確保できたんだし。
三成の挙兵ですぐ輝元が大兵を率いて大坂入城できるのかね?
しかも大兵の船舶まで準備せずにいきなり
物凄い速さで大坂についてるのは光成氏も指摘してる。
輝元が三成に指示も何も三成からして
三成→増田へ書状→増田から輝元へとやり取りしていて
輝元に直接書状を出せない立場なのが三成だから
そんなもん元からあるわけないだろ。
490人間七七四年:2013/09/08(日) 10:42:37.24 ID:0ofzdWQP
それなら家康が三成の嫡男を秀頼奉公として許している理由もわかる。
実際、家康が抗争していた相手は毛利・上杉であり、三成にはそれほど他意がなかったし
三成にも家康への敵対心はなく、七将と対立しているに過ぎない。
つまり挙兵ってのも上杉が滅亡したら、次ぎは自分の番だと自覚した輝元が
七将を手なずけて会津攻めを開始した家康への敵対を表明したのであり、
三成自身の意思はまったく関係なく、毛利が家康を油断させるために
三成の挙兵だと宣伝して、家康が叛乱を過小評価する誤算を呼び込んで
その隙に伏見城を奪い、勢多の大橋の無傷奪取に成功し大津城も影響下に置くことに成功した。
三成はどちらかと言うと、泥縄的に巻き込まれたと言っていい。
だから三成にはまったくと言って動きを顕わす一次史料が存在しない。
そして反応の鈍い家康と違い反感を持つ七将は三成の挙兵と聞いて反応して上洛していった。
朝鮮出兵は、叛意ゆたかな諸将を疲弊させる目的もあって、行われたもので
秀吉存命時には、朝鮮出兵反対だったが、秀吉死後に国内で支配を確立させたら
毛利や秀家らを朝鮮に派遣して疲弊させるつもりだった。
秀吉は朝鮮に中国・九州のものどもを転封させ、関東のものを西国へ転封させるつもりだった。
朝鮮人を日本で労働させ、日本人は兵隊として朝鮮へ行かせる計画だった。
秀家の先祖は百済人。配下が秀家に謀反したのを責めない家康を小人だと世間が言っていた。
庄内の乱で義弘の兵が疲弊したのを家康は喜んでいた。
輝元の性格は朝鮮人に似ている。朝鮮人の大内の下僕の家柄。
毛利の外交を一手に担う安国寺の周囲は朝鮮人ばかりが囲んでいる。
彼らが内乱を起こせば、朝鮮への再出兵は無くなる。
こんな内容が書かれていて、三成と家康は協調していて、小西と三成が憎い清正が内乱を欲している。
毛利や秀家は家康に屈したら、朝鮮出兵へ行かされる末路なので反抗するしか道はない。
看羊録は一次史料だし、清正との対立から三成は家康の為に働いてたと書いてるし、
家康に命令されての弱体化政策の朝鮮出兵を毛利が回避する為に
家康を排除するしか無いって話でしょ。しかも中立的視点で、
関が原後の国内における変な捏造史観に影響を受けていない点で優れているでしょ。

白川亨氏は家康が秀吉の遺令に背いた時に糾弾のために使者を差し向けた大老や奉行に、
当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた三成は含まれないどころか三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の 五郎八姫を容認するかのように政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたがその兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を 増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた 浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、浅野より姻戚関係にある三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が甥を茶阿に送り届け 息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に風聞を流されて、何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。

極刑の輝元の罪を問わない&家督強制譲渡すれば改易免れる条件が、
島津征伐で輝元が先陣をやるってことだったからな。
しかも毛利の山陽道側の城は後陣の徳川諸将が接収予定だった。
清正や官兵衛が独力で島津を圧倒したから
島津が家康に泣き入れた結果、
輝元は先陣やらずにすんだけどな。
491人間七七四年:2013/09/08(日) 10:42:47.90 ID:7hrwQOEa
>>487
ID変えて逃げんなよww
光成ネタに触れてる時点で、自演バレバレだっての。

で、質問に答えろよ(>>487
何の蓋然性が高い、と言ってるんだよ??
該当箇所を教えてくれるか?
輝元が首謀者の蓋然性が高い、と言ってるのか??

答えられません、という事でいいのか??ww
492人間七七四年:2013/09/08(日) 10:46:26.55 ID:XUjDB0sm
>>491
輝元の首謀説どうこうの話なのに
論点のすり替え乙
493人間七七四年:2013/09/08(日) 10:49:38.30 ID:7hrwQOEa
>>492
は?
スタートは、オマエさんの>>477ですけど。

オマエさんこそ話そらしてもダメ。
いいから質問に答えろよ。
この辺のやりとりは、いずれまた逃亡ネタとして使わせてもらうからww
494人間七七四年:2013/09/08(日) 10:54:58.74 ID:XUjDB0sm
そもそもお前は自分が大幅に不利になる、その該当2行を丸々抜いて
転記したほどの大規模文章改竄をやってのけてたのを忘れたのかw
つうか「輝元は豊臣奉行衆〜否定しようとしていたのである」の部分を
ムリヤリ強調して問題化しないとお前は困るようだなw
該当文章は三章の最後に書いてあるが、
そもそも1章から2章で秀吉の死から関が原終了まで書いており
今議論している西軍挙兵までの推移とはまったく関係がないのが3章。
お前の論理は、ハル・ノートを突きつけられて
対米開戦を決意し交渉打ち切りするまでの内容が自分に都合が悪いから
完全無視して開戦後のインパール作戦などを持ち出して
東南アジア支配を目指しただけで反アメリカじゃないとアホみたいな曲学をしてるだけ。

3章は西国の統括者毛利輝元のタイトルで
豊臣政権西国取次役の輝元の命に従わない西国大名へ懲罰権を行使したと書き
毛利軍による阿波・伊予・豊後・豊前での動きを書いており
その侵攻理由として家康が策謀した財政負担増になる旧隆景家臣団帰属問題と絡めた
秀元の別家創設問題による給地の減少と毛利家内の分断の打破を列挙し、
毛利家臣団の給地の総入れ替えも可能になる領土拡大も視野に入れてのことと書き
その目的のために惣無事令や海賊停止令をも否定する行動をしたと書いている。

これは上杉が出羽や陸奥を屈服させてから関東侵攻を考えていたのと同じで
(お前の理論からすれば堀の讒言や家康の糾弾の使者や直江状は完全に黙殺して
奥羽を敵にしてるのであって反家康ではないと主張するんだろうがw)
脅威になる家康との戦いへの準備であり、
結局は家康を打破しないと毛利の領土拡大が水泡に帰すことには変わらない。
しかもその最後の締めとして光成氏は輝元の失敗を
1大坂城を出て戦わない最終局面での決断力の欠如。
2佐野道可事件のようなことをする人望の無さが失敗につながったとしている。
また「安国寺恵瓊の策謀だったのか」についても
福原や堅田は輝元から決起計画について事前に知らされており、
恵瓊の行動も織り込み済みだったのではなかろうか。としている。
つまりお前の主張は捏造と歪曲を重ねただけのこと。
毛利の自国領土拡大と独立性の強化は反家康行為ではないなどと実に馬鹿馬鹿しい。
495人間七七四年:2013/09/08(日) 10:56:08.82 ID:4F2P7BYE
つか、今調べてみたけど
9/15付けの家康から政宗への関が原勝利レターも
濃州山中及一戦、備中中納言、島津、小西、石治部人衆悉討補候
などと書いてあって一番最後に名前があがるのが三成。
優先順位で考えても明らかに重要視されてない。
秀家が一番重要視されてるでしょこれ。
496人間七七四年:2013/09/08(日) 10:57:36.67 ID:7hrwQOEa
>>494
長文コピペで誤魔化すなってww

質問(>>484)に答えろよ。
光成準治は、何の蓋然性が高い、と言ってるんだよ??
該当箇所を教えてくれるか?
輝元首謀者の蓋然性が高い、と言ってるのか??

答えられない理由はなんなんだよ??
まさか、書いてないとか?wwww
497人間七七四年:2013/09/08(日) 10:59:09.36 ID:BaBbYE/V
伏見城を包囲した有力武将7人は奉行全員の罷免を要求してたみたいだよ。
彼らには毛利と上杉がいたから地位を保てただけ。
毛利としては家康が後援する秀元の分家によって
毛利領が大きく奪われるのを阻止するために
三成ら奉行と利害一致してたから
三成後援してたに過ぎ無いし。
だから三成自体には影響力は無いよ。
大谷も毛利に三成の後援しても仕方が無いとアドバイスしてるくらいだし。
影響力あれば7将にも対抗できたはずだが片桐などが家康派になり大坂城を家康側に取られてしまい
佐和山隠居になったからね。
輝元が首謀して片桐ら家康派を抑えこんで大坂城を占拠し挙兵したとしか考えられない。
498人間七七四年:2013/09/08(日) 11:00:08.39 ID:7hrwQOEa
>>497
質問(>>484)に答えろよ。
光成準治は、何の蓋然性が高い、と言ってるんだよ??
該当箇所を教えてくれるか?
輝元首謀者の蓋然性が高い、と言ってるのか??

答えられない理由はなんなんだよ??
まさか、書いてないとか?wwww
499人間七七四年:2013/09/08(日) 11:02:17.87 ID:BaBbYE/V
>>「一年後に関ヶ原合戦を主導する石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊の三名であった点も注目される。」
はいはい、それは関が原の地における合戦のことであり、挙兵計画に三成が参加してた証明にならんよ。
いい加減に屁理屈は止めろよ。なにが「ニュアンス」「エッセンス」だアホかw
転記がめんどくさいからパパッと打ち込んだから語尾まで確認してなかっただけだし、このスレに貼った時はただのコピペ。
それならその2行をワザと抜いて転記したお前の方が悪質だろうが。
>>輝元と三奉行の関係
そもそも三奉行に三成は入っていないのだから元々、話自体が筋違いで、
しかも挙兵後の軍の動きであり挙兵前から三成が首謀者かどうかとなんら関わりがない。
>>人物像に触れているだけ
違う。三章の総括として一番最後に書いてる。大坂の陣で締めてもいない。
佐野道可事件はただ人望の無さの実例として挙げただけの話で大坂の陣についての論評ではないから完全な歪曲捏造。
実際は佐野道可事件と共に大坂陣よりずっと昔の事件である
輝元が家臣の妻を略奪した話も出しているので大坂陣の云々はまったく関係ない。
つうかさ。あれ?前スレで佐野道可事件の話が出た時に
君は「家臣の妻を奪い、自らの側室にして家臣を殺害」なんて作り話の捏造って断言したよね?
光成氏がそれを書いてると俺が書いたのに信じられない話だと喚いて粘着を繰り返すから後に下記のように俺が論破してやったよね?
788 :人間七七四年:2011/10/23(日) 17:48:01.32 ID:uY12O8IV
>>786
バッカwww
またwikiの丸パクリwww
wikiの生没年なんてコーエー武将ファイルの丸パクばっかなのにwww
そんなの信じてまたデタラメwww
あのねぇ周防東部に位置する玖珂郡に所領を持っていた
山代本郷成君寺山城主の杉長相って人物と都濃郡の杉元宣を
同じ小次郎名だからwikiは混同してんだよアホが。
杉長相は厳島の戦いの後も陶軍にいて高森城に集結した毛利軍を相手に
成君寺山に籠城して抵抗してる。
一説には落城後に都濃郡須々万の沼城で再度抵抗したとされ、
そのために都濃郡に所領を持つ杉元宣と混同してると思うがなw
山代一揆エリアはその後も大内再興軍に呼応したりと反毛利側で挙兵したりしているわけで杉元宣とは行動的にもぜんぜん合致しない。

お前さ、よく自分の捏造主張を押し通す時に、どうせわからんと思ってたびたび大ウソを吐くよな。
そうやって捏造しまくりの一例だが下記の件も忘れてないよな?
>>武田山から15キロは離れているはるか下流の広島城
おれのグーグル先生は道を歩く徒歩計測で6キロ前後で広島城から
武田山の裾野の麓にある広島経済大図書館なんだが・・・お前かなり遠回りしてて超アホだろw

あとさ、俺は屁理屈を繰り返して粘着する君に対して下記の返答もずっと待ってんだけど、ずっと逃げ続けるの?
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1208970502/826-828
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172121280/650-651
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240453594/367
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1295864542/10-11
いい加減に隆景の凄さのソースを出してくれよw
500人間七七四年:2013/09/08(日) 11:03:35.44 ID:KCmxtblc
毛利くん
笠谷の二重公儀を完全否定(白峰も支持)
光成氏の書を歪曲しまくり
さらに白峰が内府たがい条が出された家康は上杉討伐と言う公戦を指揮する大将の立場から
政治的正統性の喪失した立場に落ち
単なる家康シンパを引き連れているだけの存在になり
江戸城に一ヶ月もひきこもらざるを得なかった。
清正も杵築城の件で秀杵築城は大友方へ従えと
秀頼様が遣わした由とも書かれてる。
それでもなお
屁理屈を弄んで歪曲してんだから話にならない。
三奉行が輝元を呼んだので仕置きをするために輝元がきたのであり、謀反ですらない。
如水も天下の儀てるもと様御異見被成候と奉行衆が申したので
大坂城御うつりなされたこと目出度い。
そうであれば秀頼様へ別心が私にあるわけが無く
定めて目出度いと申しますと8/1に広家に出してたり
三奉行や淀や利長も輝元の存在を隠したウソを家康に言ってるにすぎ無いし。
そろそろ三成について詳しく語って貰いたいんだが?
三成について何一つ書かずに
自分が「思う妄想」を書いてるだけでしょ。
501人間七七四年:2013/09/08(日) 11:05:16.36 ID:7hrwQOEa
>>499
質問(>>484)に答えろよ。
光成準治は、何の蓋然性が高い、と言ってるんだよ??
該当箇所を教えてくれるか?
輝元首謀者の蓋然性が高い、と言ってるのか??

答えられない理由はなんなんだよ??
まさか、書いてないとか?wwww

そこで隆景VS兼続スレを出す??
恥をかくのはオマエさんなのにwww
ウソを白状し、敗北宣言をした貴重なレス。

909 :人間七七四年:2010/06/12(土) 16:19:37 ID:H+CAAXJN
じゃあめんどくさいから傍証はぜんぶウソということでいいよ。
俺の負けを認めるよ。
502人間七七四年:2013/09/08(日) 11:14:37.61 ID:7hrwQOEa
それでは、いつもの通り逃亡ということでww
ID変更の長文コピペは、許してくださいの合図だったの忘れてたよww

この辺で許してあげるから、
もう光成準治が輝元首謀者を主張したとかウソついたらダメだぞ〜。
503人間七七四年:2013/09/08(日) 11:21:33.09 ID:5UZetZD6
504人間七七四年:2013/09/08(日) 11:32:22.88 ID:7hrwQOEa
>>503
こちらの質問(>>484)には回答出来ないという事で了解した。
505人間七七四年:2013/09/08(日) 11:51:37.34 ID:QrcZu6Bs
歴史ゲーム板
毛利を語ろう
秀吉擁護 ID:OLS/uK1H
アンチ秀吉 ID:7zgWFRNP
506人間七七四年:2013/09/08(日) 11:52:19.01 ID:QrcZu6Bs
ここに例のアンチ秀吉の反日キチガイがいたのか。
レスするところを間違えちゃったなぁ。
歴史ゲーム板の毛利を語ろうスレをログ速で読んで
秀吉擁護 ID:OLS/uK1Hとお前であるアンチ秀吉 ID:7zgWFRNPを読ませてもらったよ。
相変わらずキチガイだねぇ。下記のレスをしたからよろしく。

そのスレをログ速で読んでみたが、反日の何でもかんでも
悉く秀吉を徹底的に無能だと捏造歪曲しまくる鬼気迫る狂いっぷりは怖いな。。。
反日勢力の工作による歴史コリエイトはいろんな板に飛び火してるし、
やつらはそれが職業だからどんなに長い時間でも書き込みし続けるよな。
とりあえず、秀吉擁護派に援軍レスを書いておくか。

などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を
池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。

これにもアンチ秀吉のヤツがケチをつけているようだから下記の文章をテンプレに入れて欲しいところだな。
東京史料編纂所の所属だった染谷氏の訳は「兄弟からその失態によって縄で縛られることでしょう」と訳している。


つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊

これにもアンチ秀吉のヤツがケチをつけているようだから下記の文章をテンプレに入れて欲しいところだな。
4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状(形式的なもので実際はおね宛)でも
「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
507人間七七四年:2013/09/08(日) 13:25:42.47 ID:BuSxyEOO
基地外アンチ秀吉の狂人は憤死www
508人間七七四年:2013/09/08(日) 13:29:14.06 ID:BuSxyEOO
織田朝鮮人じゃないんだから、
お前みたいにID変更とかするわけねーだろwww
509人間七七四年:2013/09/08(日) 13:38:30.02 ID:93zesUkR
>>天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
>>孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
>>などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀次は縄目の恥なんて書いてねーよボケ
510人間七七四年:2013/09/08(日) 13:39:53.23 ID:93zesUkR
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
511人間七七四年:2013/09/08(日) 13:53:35.07 ID:93zesUkR
>>秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀吉が自分の戦術ミスで徳川方に大敗したのを池田家からの非難を恐れて無理矢理秀次に押し付けてるだけじゃねぇかアホ
秀吉が池田隊や秀次隊に無謀な行軍中入りを命じたのは>>509のように明らかだろうがタコ
秀吉が自分の作戦失敗を部下になすりつけるのは滝川の蟹江合戦の時とかいつもの事だしな(蟹江から眼前の大垣にいながら滝川を見捨てた)
>>ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
>>この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。
秀次は実際には縄かかりにはなってないし陣立書や書状から、美濃大垣に入り8/19に犬山8/27に楽田とちゃんと後詰部隊として動いてる
>>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇ
小田原で現地調達するつもりか、後からさらに届けさせようとしたんじゃね
>>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
>>2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな

>>4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状(形式的なもので実際はおね宛)でも「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ
>>小田原へ来るように申し触れた。このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
>>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
>>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
>>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
512人間七七四年:2013/09/08(日) 14:00:09.34 ID:93zesUkR
>>4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状
>>「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
>>このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
むしろ長陣覚悟で、長期戦を想定してたんだからいかに小田原征伐が苦戦だったかがわかるだろ。実際忍城1000小田原1000
韮山500などに手も足も出てないし一柳・前田重臣・堀尾嫡男・平岩弟・依田が戦死し氏家も負傷。
小牧長久手の時の茶会とかと同じで秀吉は苦戦しまくってもパフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
513人間七七四年:2013/09/08(日) 14:11:09.62 ID:93zesUkR
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
>>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
>>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
集まってねーよアホ。豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる

>>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
514人間七七四年:2013/09/08(日) 14:36:46.66 ID:cx1X/nJE
515人間七七四年:2013/09/08(日) 16:21:53.01 ID:FrsDikPq
長文コピペはもう止めてくれよ
516人間七七四年:2013/09/08(日) 17:50:57.36 ID:suggxEFP
そもそもスレチな話題ふる馬鹿が悪いわけで。
517人間七七四年:2013/09/09(月) 03:54:07.09 ID:2jEfmzeu
単純に西軍全員がちゃんと東軍と戦ってれば勝てたんじゃないのかなぁ・・・とアホなこと言ってみる
518人間七七四年:2013/09/09(月) 05:24:51.79 ID:RyZg5up3
その通りなんだが、問題はどうやって全員戦わせるかだ。
特に毛利な。
519人間七七四年:2013/09/09(月) 09:09:10.03 ID:Me1oaqYT
昔から関ケ原スレや三成スレで、
秀吉がバカなシステムを遺し、さらに三成が無能で輝元は一方的に被害者とか基地外主張を続けるアンチ秀吉の織田厨がいる限り、
永遠とこのループが続くだけだな。
520人間七七四年:2013/09/09(月) 09:37:22.32 ID:yw5sFUD7
兵数の把握については陣立書を作成する豊臣政権の方が後世としては有難い
521人間七七四年:2013/09/09(月) 13:05:18.03 ID:ZeJXE0cq
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。

実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん

秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
522人間七七四年:2013/09/09(月) 13:09:41.48 ID:ZeJXE0cq
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
523人間七七四年:2013/09/09(月) 13:14:32.37 ID:QaPK4+QS
またアンチ秀吉で無理くり徳川を持ち上げる
徳川厨を装う狂人織田厨登場w
実は徳川のことは、アンチ秀吉に関わる部分以外はほとんど知らないからモロバレwww
524人間七七四年:2013/09/09(月) 23:24:16.95 ID:dvmHpjCN
そもそもさ毛利は江戸期に関ヶ原の失敗のおかげで改革に着手し始めただけで
この時期の毛利って所詮中国地方の中小豪族の集合体の頭に毛利一族が
乗っかってるだけに過ぎないんだよね。
だからあの大元就でさえ九州進出には全く大友に歯が立ってないし
両川でさえ備中以東だと全く精彩を欠く。
一つ一つの局地戦は勝っても全く戦略的な動きが出来ていなかった。
これは毛利の構造上の問題でまして大阪以東の関ヶ原で毛利軍がまともに
機能するわけないって言うのが家康の思惑でしょ。
まあ計算通りと言うか。テルや広家が馬鹿だったとかそういう問題ではなくて
あんなん元就本人ですらどうしようもなかったと思うんだけど。
525人間七七四年:2013/09/10(火) 14:17:43.18 ID:SZcTTMmB
ZeJXE0cqってバカ過ぎだろ。
>>522で家康が豊臣政権に違背しまくってる点をあげて、全部秀吉が悪いと正当化。
その一方で>>521では家康は豊臣を蔑ろにしてないと矛盾真逆なことを主張して、完全に破綻したことを主張してる。
この基地外ぶりがアンチ秀吉だけを目的に偏執的なまでに歪で狭い視野でレスした結果か…キモすぎるな。
526人間七七四年:2013/09/10(火) 14:55:43.23 ID:vxfJzo51
>>525
そいつ何でもかんでも秀吉無能に話を持っていきたいから
我田引水で曲解しまくりの狂人だからレス内容が幼稚で長駄文は読む気しない。
527人間七七四年:2013/09/10(火) 15:49:43.80 ID:QwZOlZbj
至極真っ当な意見だと思うが
528人間七七四年:2013/09/10(火) 17:53:20.96 ID:mN0p2L8F
>>522はアホにも程があるが>>521に関してはそう否定しなくてもいい意見だとは思う
529人間七七四年:2013/09/10(火) 21:26:38.15 ID:q9Gcez87
>>522も真っ当な意見じゃね?
530人間七七四年:2013/09/10(火) 21:46:36.35 ID:NvexBOM0
反日アンチ秀吉の自演ハジマタw
531人間七七四年:2013/09/10(火) 21:50:01.62 ID:qi46KPaC
>>521>>522は、他人の複数のレスを合成したコピペだな。
何の目的かは知らんが、内容はまぁマトモ。
532人間七七四年:2013/09/10(火) 22:08:32.80 ID:GejM5S0X
同意
533人間七七四年:2013/09/10(火) 23:41:20.89 ID:mN0p2L8F
そもそも秀吉って「諸事は大老奉行で合議して決めなさい」なんて言ってないよな
534人間七七四年:2013/09/11(水) 08:29:30.32 ID:vnMZP2tB
朝鮮人が得意の単発ID自演
相変わらず気持ち悪い。
535人間七七四年:2013/09/11(水) 14:22:33.30 ID:HDPt9YGB
利家生存時は御掟を破っての婚姻政策を糾弾されて和解するハメになる家康だが、
その裏で大老と奉行間でしか誓紙してはならないのに
諸将と家康は誓紙・起請文を取り交わし続け徳川派徒党を築き始める。
しかも自分が信頼するに足ると確信した諸将の家族を勝手に国許への帰国を許す
知行取次をしないと誓いながら家康は勝手に恣意的な論功褒章を開始。
本来、五大老連署でなければならないのに家康は一人で署名して発給開始。
伏見城に秀吉が配置した兵をすべて追い出して徳川家が占拠してしまうわ、
利家が死ぬや五奉行の三成を排除し、前田家による家康暗殺計画という噂を元に
五奉行の一人浅野長政を排除し、秀頼公家臣の土方雄久&大野治長も排除。
前田討伐という家康の報復心からの私戦を開始して、
奉行に諮らず勝手にまつを大坂ではなく、江戸へ人質として取る始末。
さらに伏見在城義務を無視した家康は北政所を排除して
西の丸に兵力を入れ、さらに本丸同様の規模の大天守を築き秀頼と並び立つ存在を誇示。
しかも前田討伐において家康個人の依頼でも諸将を
引きつれていけることができる程の威信にまで専横が進んだことが分かった家康は、
前田と企んだと細川を糾弾し土下座させるや、増長して次に他の奉行大老の反対意見を無視して
上杉討伐を開始。しかも前田討伐よりさらに専横を極め
今度は家康の私戦を大坂城からの軍資金下賜による公儀を騙っての私戦の開始により
家康への信用が完全に崩壊。五大老五奉行制を家康は破壊形骸化しており誰も家康の暴挙は止められず
完全に家康が独裁できるようにしてしまった。
そこで残された大老奉行は違背を責めて内府たがい条で弾劾。
しかし家康はそれに対して、己の大義名分が成立しないことを知っているので、反論すらできなかった。
536人間七七四年:2013/09/11(水) 15:02:29.61 ID:qNU47uZ4
>>521
いくら家康を善人みたいに捏造しようが、
秀頼の子の国松を殺し、大坂の女子供区別なく民20万人虐殺し、
大坂城を完膚無く破壊し尽くして新しく新大坂城を作り、
秀吉の墓を暴き、神号を剥奪し、
自分は東照大権現の神になる蛮行をみれば、
家康が善人を装ってただけだったのは明らかだな。
>>522
また輝元擁護論法開始かw
いいか?前田が切り崩されて無力化してしまったにも関わらず、
西軍は輝元がヘタレてなければ東軍に勝てていたわけで、
秀吉が遺した政権の家康封じ込めは有効に機能していた。
結局、制度的欠陥ではなく、予言出来ない要素である人的要因によるもんでしかない。
そして大坂の陣までかかると言う長命の家康のギリギリをかけてやっと潰せた。
537人間七七四年:2013/09/11(水) 15:35:22.63 ID:qNU47uZ4
中井氏
一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、
十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる。
538人間七七四年:2013/09/11(水) 17:45:43.04 ID:iSKTKlAp
豊臣秀吉遺言覚書見てみたけどなんて書いてあるかわからんかった
539人間七七四年:2013/09/11(水) 20:15:30.17 ID:yT4xWTiv
秀吉が家康をどう封じ込めてたんだろうねぇ。
超優遇してたとしか思えんが。

散々既出だけど、輝元は総大将という立場を利用して
自国の利益を追求したとしか思えないんだけど。
家康と対決しなきゃ許さない的な論法は、もうどうかと思う。
540人間七七四年:2013/09/11(水) 20:30:11.68 ID:pPQCn9o4
>>539
戦争基地外しかいない坂東を押し付けたw
肥後で自滅した佐々のようになる予定だったんじゃね?
541人間七七四年:2013/09/11(水) 20:38:17.56 ID:iSKTKlAp
>>540
じゃあ誰に関東統治やらせるの?
542人間七七四年:2013/09/11(水) 21:08:20.88 ID:pPQCn9o4
>>541
(?_?)
徳川家康を潰したくて押し付けたんだから、他にいないだろ?
当時の豊臣にもっと力があったら、
徳川を東北に、毛利島津を坂東に
伊達他を九州に押し込めれば良かったんだろうけど
543人間七七四年:2013/09/11(水) 21:09:14.16 ID:yT4xWTiv
>>540
というか、関東に転封したことだけ?
それだけで家康を封じ込めてたことになるの?
544人間七七四年:2013/09/11(水) 21:12:25.47 ID:iSKTKlAp
>>542
肥後はいざしらず、関東みたいな巨大な範囲で
統治失敗による混乱が起こったら秀吉の威信すら失墜しかねないってわかる?
545人間七七四年:2013/09/11(水) 21:14:46.60 ID:sJhqkK6/
単純に考えて関東移封は失策としかいいようがないだろ。
このおかげで徳川は230万石くらいの大版図と中央集権化の成功で
関ヶ原に勝ち抜く大躍進となったわけだし
546人間七七四年:2013/09/11(水) 21:27:30.13 ID:iSKTKlAp
じゃあ子飼いの有力な奴ら数名に分割統治させる辺りが妥当だろうか
547人間七七四年:2013/09/11(水) 21:29:28.96 ID:FWTfqOoX
家康が死んだら相続争いさせて分割解体していく、の予定だった
548人間七七四年:2013/09/11(水) 21:32:26.79 ID:yT4xWTiv
相続争いが起きなかったら?
秀吉がそこまでバカとは思えんが。
549人間七七四年:2013/09/11(水) 21:34:39.93 ID:iSKTKlAp
秀吉の方が先に死ぬ可能性高くね?
550人間七七四年:2013/09/11(水) 21:41:20.30 ID:FWTfqOoX
とっと死ぬとは思ってなかったから朝鮮出兵なんか始めちゃうんでしょ
551人間七七四年:2013/09/11(水) 22:08:16.34 ID:ng3AhVAr
唐入りが成功したら朝鮮どころか明の領地も手に入る予定(妄想)だったから
家康に関東250万石を与えても惜しくはなかったのだろう
むしろ唐入りを邪魔させない代金として家康に250万石を与えておくだけで
何千万石も手に入る予定(妄想)だったからあまりのボロ儲けで当初の秀吉は笑いが止まらなかったのさ
552人間七七四年:2013/09/11(水) 22:17:57.66 ID:iSKTKlAp
唐入りのためには国内の安定が必須だから、やはり家康の関東移封は秀吉の信頼と言った方がいいのではないか
553人間七七四年:2013/09/11(水) 23:17:48.11 ID:KN/Ka1R1
それは言えるね。
唐入りを考えて、島津や長曾我部なども赦免して博多復興やら名護屋開発させてるし、
それゆえに真田との調停に無駄に時間使わせた挙句にグダグダ言う北条を許さなかったわけだし、
東海甲信を取り上げて、
さらに遠い関東へ左遷させて、
(滝川も田舎関東より茶器が欲しいと言ってたし)
そこを唐攻めの邪魔されないよう安定経営を求めたんだろ。
(佐々が肥後経営に失敗し一揆鎮圧で兵を送るハメになり激怒したのと同じ)
とにかく早く唐攻めやりたいから、
きっちり早く敵地だったトコを安定させ、
敵地だったトコを早く唐攻め動員体制に移行させろって目的だろ。
そもそも朝鮮制圧後は徳川を先鋒に唐入りするとか言ってたくらいだし。
それに渡海した大名の領地は豊臣による検地介入出来たからな。
554人間七七四年:2013/09/12(木) 00:12:51.40 ID:46sXafDR
こうしてみると、秀吉は家康を全く敵性大名とみなしてないわけで。
皮肉にも、三成の挙兵は秀吉の方向性とは真逆。
555人間七七四年:2013/09/12(木) 01:00:18.64 ID:IQ0O6U2x
家康自身も関ヶ原に勝つまでは豊臣家を主君として
執権北条氏のようになる権力体制を目指していたようだからな
なまじ関ヶ原が起こったせいで豊臣家の権威が失墜、勝利した家康の権威が上昇して
独立政権立てられるようになったものだからホント三成の行動は皮肉

前に「秀長、浅野長政、大谷吉継と、秀吉に近しい人が家康と親しかった以上、
秀吉自身の対家康感情も悪くなかっただろう」と言っていた人がいたな
556人間七七四年:2013/09/12(木) 01:16:43.08 ID:FgYrz0eT
>>554
秀吉生存中と死去後じゃ家康の態度が全くの別人レベルだろーが。
特に利家死去したら幼君であることをいいことに専制したクズ老侫臣だろが。

>>555
はいはい基地外乙
>>535でも散々、家康の簒奪野心が書かれてるだろうが。
557人間七七四年:2013/09/12(木) 05:42:25.38 ID:l+pxmdyx
>>556
人間の裏が察せられない馬鹿が秀吉だと思ってるわけか?

まあ、徳川家康どころか織田信長と比しても裏切りを受けた経験は少なそうだから
ちょっとした演技に引っかかるかもしれんけど
558人間七七四年:2013/09/12(木) 06:40:11.52 ID:/FyEm1Ad
だってまわりが能無しばっかだっただもん
559人間七七四年:2013/09/12(木) 08:50:28.50 ID:MBp+YLqr
能無しは糞戦略で大敗した毛利と家康の威圧にビビッてヘタレ降伏した前田と浅野だけだろ。
三成や奉行衆なんかはむしろ石田三成襲撃事件などで失脚した立場にありながらよく頑張った方
560人間七七四年:2013/09/12(木) 08:59:36.24 ID:60V5v2W7
人の心が見抜けるわけねーだろアホかお前。
どうやって読み取るんだよwww
また得意の厨二病能力ですか?
ほんと反日アンチ秀吉の織田厨の思考はゲーム脳だな。
ずっと信長の野望漬けだから知識が昭和のままで楽しいだろ?
561人間七七四年:2013/09/12(木) 12:23:26.17 ID:rE7IfGhM
いやね、織田厨のゲーム脳だと忠誠や野望が数値で現れたりするんですよ。
だから裏切られるのを承知で信長は本能寺で光秀に謀反されて殺されたんだなw
562人間七七四年:2013/09/12(木) 14:36:46.39 ID:IQ0O6U2x
>>556
>>535に家康が秀頼を排除するような要素はないな。いいとこ西の丸天守建造ぐらいか
563人間七七四年:2013/09/12(木) 15:05:43.23 ID:rE7IfGhM
いやいや排除どころか万死に値するレベルだわ。
五大老五奉行制を守り抜こうとしてる人たちが不憫でならない。
専横佞姦老人家康は国内がせっかく安定したのに
己が野心のために平時に乱を前田討伐や上杉討伐と
次々に起こす君側の老害奸臣そのものじゃねぇか。
564人間七七四年:2013/09/12(木) 15:11:17.41 ID:IQ0O6U2x
>>563
無断帰国&暗殺計画とその平時に武装強化した上で上洛拒否やらかす奴をほっとけと
それとも何?全部家康が仕組んだことでーすwwwとか言うの?
565人間七七四年:2013/09/12(木) 15:27:42.03 ID:rE7IfGhM
事の事実の成否を見極めるべく双方の意見を聞くこともなく
片方の意見だけを信じて討伐開始する家康の恣意的判断が悪いんじゃねーか。
上洛したら中立性を欠いた家康に捕縛されるだけだろが。
だいたい前田家は秀頼後見役なんだぞ。それを一方的に排除とかありえんし
内府たがい条にも前田から人質を取ったのは、何の落ち度もない上杉を討伐するためと非難されてるじゃねーか。
566人間七七四年:2013/09/12(木) 16:06:41.06 ID:rE7IfGhM
関ヶ原の時の三成は全財産突っ込んでる。
関ヶ原寸前の時に三成は増田宛書状で、
金銀米を送ってください。私の手の内にあるものは全て出してしまったのでもはや逼迫しています。
などと書いてるくらいだ。
32 人間七七四年 sage 2013/09/12(木) 02:53:02.98 ID:FgYrz0eT
>>31
こんなに金や米に困窮する三成が首謀者なわけねーよなあ。
567人間七七四年:2013/09/12(木) 16:26:06.42 ID:IQ0O6U2x
>>565
秀頼後見役の利長を排除するのがありえないなら政務代行役の家康を暗殺する計画立てるのはもっとありえないんじゃね?
上杉に至ってはただでさえ当主の秀頼が幼少で政情が不安定な時期なのに築城するわ武器買い集めるわ戦闘力高い牢人雇うわで
そら周りが謀反だと思うのも家康が上洛して他の奴ら安心させろって言うのも当然だわ
568人間七七四年:2013/09/12(木) 16:54:08.01 ID:rE7IfGhM
>>家康を暗殺する計画立てるのはもっとありえないんじゃね
事実かどうかの究明を一切せずに
五奉行の一人浅野長政を排除し、秀頼公家臣の土方雄久&大野治長も排除
そして前田を威圧するなど滅茶苦茶やってんだろが。
上杉征伐だって、他の奉行大老が究明する時間をとって調べるべきだと止めているのに強行。
完全に合議の原則を破壊して独裁してるのが家康。
そして内府たがいの条への反論すらできないほどの反逆ぶり。
569人間七七四年:2013/09/12(木) 19:33:26.57 ID:8Xt1jnk2
別に家康が合議の原則を無視しようが究極的には他の9人以外は関係ないことだしな
家康と話し合いができない他の大老・奉行が無能でしたとしか言いようがない
だいたい三成達だって恩顧みんなで話し合いましょうだなんて主張しているわけではなく
家康を排除して自分達だけで専横して全てを決めると主張しているだけだ
それなら関ヶ原は三成とそのお友達だけで頑張ってくださいとなるのは人間心理として当然だろ
何故に無関係な大名達がいちいち尻拭いせねばならないのか
どうも9人の大老・奉行には自分達の専横のために周囲が無償奉仕して当たり前という驕りがある様に感じられる
570人間七七四年:2013/09/12(木) 20:39:43.77 ID:tfHilYJ/
というか本来は家康が独裁権もつはずだったのに
奉行連中の遺言無視で合議制にされたんだからそらぶち壊そうとするわな
571人間七七四年:2013/09/12(木) 23:13:50.77 ID:yBAbYkO3
>>568
そもそも、家康の不当(?)を合議制の切り口で貶す事がナンセンス。
現代の道徳観で情緒たっぷりに語っているのもどうかと思うが、
当時の政治体制は、法治国家でもなければ、民主国家でもない。
五大老五奉行も、秀吉の専制政治体制下での人選。
合議、合議と民主的な事言われても、違和感しか感じませんが。
この10人に平等な発言権があると思う事自体、既にずれてるよ。

要は、実力至上の時代に弱者が淘汰されただけの話。
三成は蟷螂の鎌でしかない。
572人間七七四年:2013/09/12(木) 23:15:17.34 ID:uUW7MfkA
一次史料無視で完全にキチガイ理論を語り出す反日アンチ秀吉の織田チョンにワロタw
もはや議論になってない。まともじゃねぇわ。意味不明でもうめちゃくちゃじゃん。
573人間七七四年:2013/09/13(金) 00:29:47.15 ID:7JBCnJz9
普通にわかりやすいけど
574人間七七四年:2013/09/13(金) 01:13:02.79 ID:1chgQROq
>>571にクソワロタw
575人間七七四年:2013/09/13(金) 08:51:08.66 ID:cNGfsGAd
>>566
>こんなに金や米に困窮する三成が首謀者なわけねーよなあ。

金に困っていたからといって首謀者ではないとは言えない
576人間七七四年:2013/09/13(金) 12:20:38.01 ID:bRxnFUBq
もう家康擁護が完全に開き直り同然になってしまって議論の体をなしてないなw
もう内府たがいの条への反論を諦めて逆ギレして無理くり屁理屈で抗弁してる朝鮮人ようにしか見えないw
577人間七七四年:2013/09/13(金) 12:29:45.17 ID:t+UMBaP6
>>576
反論出来なくて誤魔化してるようにしか見えんよ。
578人間七七四年:2013/09/13(金) 14:41:46.93 ID:7LoaY9Ea
だがって罵倒の言葉は朝鮮人しかないの?
579人間七七四年:2013/09/13(金) 15:03:15.00 ID:nOi8SMyD
家康の独裁が正しいのに、
他の大老奉行が合議して運営しようとするのは専横だから悪い

そもそもこんなアホ話を書いて反論が成立してると思い込んでる時点で頭がおかしい朝鮮ファビョ脳。
580人間七七四年:2013/09/13(金) 16:24:38.99 ID:hdPVnBcB
ここは西軍を勝利させる軍略を語る場所なので
スレチは止めてください。
581人間七七四年:2013/09/13(金) 16:47:18.54 ID:t+UMBaP6
>>579
わかりやすい自演だな
家康を評価する人間はそんなことを言わない。
582人間七七四年:2013/09/13(金) 17:03:14.37 ID:bRxnFUBq
>>581
えっ????
>>569>>570>>571
なんてまさに、それをまんま主張してるじゃんwww

そんなの>>537>>536>>535
をワザと黙殺してるとしか思えん。
583人間七七四年:2013/09/13(金) 17:08:14.47 ID:7LoaY9Ea
とりあえず>>537のいう中井氏の秀吉遺言に関する論文を探してるのだが見つからない件
584人間七七四年:2013/09/13(金) 21:04:48.70 ID:Z7LiDOQg
反日織田厨相変わらず自演キチガイだな。
585人間七七四年:2013/09/13(金) 21:39:12.00 ID:vN2PDvDL
>>576
家康自身が内府ちかひの条々への反論のため関ヶ原に行っただろ
それに対して署名した連中の大半がビビって戦意喪失していたわけ
結局こいつらは紙の上で威張ってただけのヘタレだったのが証明されたんだよ
これによって西軍の正当性が完全になくなったのは誰の目にも明らかだろ

可哀想なのは内府ちかひの条々に騙されて西軍に付いた大名達だよ
こんな強気の文章に署名した大老・奉行なのだからさぞ立派な志で戦うに違いないと思ったら
ジョーク以下の駄文だったことが土壇場で分かってしまったのだから
586人間七七四年:2013/09/14(土) 05:33:05.85 ID:GSrr3Hba
はっ?意味わかりません。
内府ちかひの条々への反論のため関ヶ原に

ここは己の悪逆無道を列挙されるも反論不可能で逆切れし、
武力に訴えて力づくで排除しにきたDQNの御礼参りとしか解釈できませんが。
587人間七七四年:2013/09/14(土) 08:01:42.96 ID:V81ezUjj
どんなに悪逆無道だのDQNだの言い立てたところで負けちまったら意味がない
結局、豊臣家と政権を弱体化させ家康に力を与えちまった秀吉が悪いわな豊臣滅亡
588人間七七四年:2013/09/14(土) 08:40:35.50 ID:cj6T1ocl
>>586
アホか?現代のような裁判をやっていると勘違いしているのか?
無礼な文書を見せ付けられたらその反論は戦しかないに決まっているだろ
だいたい西軍の方がこの文書を使って家康に宣戦布告してきたのだから
自分達の主張の正当性を証明する唯一の方法は署名した連中が関ヶ原で家康と戦うことしかないんだよ
なのに紙の上で勇ましいことを書いておきながらほとんどがヘタレて戦を回避したのだから
西軍の主張はデタラメであり家康の主張が正しかったとしか解釈しようがない
それが嫌なら輝元たちは武力に訴えた力づくの排除を企てなければよかっただけだ
589人間七七四年:2013/09/14(土) 09:07:36.06 ID:GSrr3Hba
いくら豊臣家を守るために大老として家康が関ヶ原で戦う羽目になったと曲解しても無駄だわ。
せめて国松だけでも生かしておいたら後世において 
言い訳ができたけど、やったことは女子供関係なく大坂20万人を虐殺して 
大坂城をいったん平地化しつくして完全破壊してからの新大坂城建設と、 
秀吉の墓を暴いて神号剥奪。自分は東照大権現として神になる暴挙だもんな。 
偽新田源氏を標榜したところでクズの本性は直らなかったな。 
織田家は秀信が家康に改易され野垂れ死に追いやられた後になってさえ、
信雄親子も有楽斎親子も大坂城にいて、みんな反家康の豊臣擁護側のリーダーとされていたし。 
豊臣と共に滅亡にならないギリギリまで織田家は大坂城で家康に抵抗していた。 
どんだけ織田家は家康が嫌いなんだよレベル。
さすがは看羊録に以下のように書かれる反社会的糞人格だけあるな。
家康は恩怨を心ひそかに含み、一度でも反目することがあれば、必ず相手を死地に追いやってしまって満足した。それ故、諸大名は、家康の力を畏れて表面上は服従するが、一人として心服する者はいなかった。
自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり、
秀吉死んだら本性を露わにしたものの勝てるかわからん利家には和睦し、
彼らが死ぬまで待ってただけで、
ひたすら信長や秀吉や利家に屈辱の人生に、
やっと日の出をみる機会がきたから、
豹変して織田秀信や豊臣国松を死に追いやっただけだろ。
英雄群雄と競って実力で手に入れた天下ではなく、
幼君を傀儡に平時に乱を起こし簒奪して、
実力で負けたくせに逆恨みで報復しただけ。
信長に助けられて遠江や駿河を貰ったにも関わらず、
織田から甲斐信濃を盗み、
秀吉から東国取次ぎに抜擢されて関八州をプレゼントされた恩も、
すべて逆恨みとなしただけのキチガイ。
590人間七七四年:2013/09/14(土) 09:35:42.85 ID:ShXem9/O
看羊録支持者は一人しかいないから、
アホがすぐ特定出来るな(笑
591人間七七四年:2013/09/14(土) 09:46:55.77 ID:4B8rPiZs
相変わらず24時間監視体制の反日くんw
つか看羊録や宣教師の記述を認めようとしないのはお前だけだから、
アホがすぐ特定出来るわけだが。
592人間七七四年:2013/09/14(土) 13:16:39.58 ID:dY7a1XFO
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
593人間七七四年:2013/09/14(土) 13:17:27.95 ID:dY7a1XFO
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)
三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。

10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。

秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。
594人間七七四年:2013/09/14(土) 13:18:06.02 ID:dY7a1XFO
10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。

家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である

佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。

信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。

丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。


616 :日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:10:16.09
1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。

信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。
595人間七七四年:2013/09/14(土) 13:18:53.72 ID:dY7a1XFO
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

信雄追放について
イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。

日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。

家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で
信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き
準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。
秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。
逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。
その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと
秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。
信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。
596人間七七四年:2013/09/14(土) 13:19:52.28 ID:dY7a1XFO
秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。

光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえに利用しただけ
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
597人間七七四年:2013/09/14(土) 13:24:28.51 ID:IPWUMQ2D
>>592-596
秀吉が織田家にした事を思えば家康のなんてあまっちょろいもんだよな
>>589
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
598人間七七四年:2013/09/14(土) 13:25:02.46 ID:PnH/ANDM
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。
当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。


看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
599人間七七四年:2013/09/14(土) 13:26:24.73 ID:gvQwuUu0
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
600人間七七四年:2013/09/14(土) 13:27:41.47 ID:gvQwuUu0
秀康は史実で家康に嫌われまくってたから(秀康年譜)豊臣家から戻ってきた後も徳川家なんて継がなかったし
秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか>>130のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる

北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
601人間七七四年:2013/09/14(土) 13:28:44.80 ID:8rvxoBSC
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
602人間七七四年:2013/09/14(土) 13:29:41.35 ID:8rvxoBSC
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
603人間七七四年:2013/09/14(土) 13:48:22.47 ID:lLoUne6O
家康は信長から恩なんて欠片も受けてない。大国武田に一人でガチンコで立ち向かってるのに
援軍なかなかよこさないどころか姉川金ヶ崎上洛志賀の陣など畿内平定戦には次々狩り出され、
武田に勝てたのは長年武田を抑えてくれた徳川の働きによる所が大きいのに
駿河しかよこさない身勝手ぶり。
秀吉に関しては秀吉がビビリまくって家康に気を使って顕如や信雄に取り成しやってもらったり自国の15分の1程度の国力の相手にもかかわらず
肉親を差し出したり中央から遥か離れた辺境の関東に移封し、240万石の大国の国力と、中央集権化と、五大老や千姫との婚姻という
豊臣継承の大きな大義名分を与えた秀吉が馬鹿なだけで、取り立てて恩を感じる事もなかっただろ。
織田に関してはむしろ酷使されてたにもかかわらず、それまで良好だった秀吉との友好捨てて
信雄を助けてるし、信雄が秀吉に追放された後徳川がやはり救って領土与えるし秀信も正面から歯向かったのに
殺さずに改易で済ませてるし、むしろ温情あふれる処置といっていい。
604人間七七四年:2013/09/14(土) 13:50:52.07 ID:PnH/ANDM
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
605人間七七四年:2013/09/14(土) 13:51:51.03 ID:7JUzm3o8
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。

実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん

秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
606人間七七四年:2013/09/14(土) 13:56:15.08 ID:XRbjvbm5
恩を受けまくった信長を暗殺し、織田家を権謀術策で崩壊させた秀吉の所業は
武士としてあるまじき行為だな。
607人間七七四年:2013/09/15(日) 13:19:35.47 ID:dNHvxPNN
秀吉と三成の組み合わせが悪かったな
暴君と奸臣が組み合わされることで豊臣がブレーキの効かない暴走車になってしまった
608人間七七四年:2013/09/15(日) 15:14:09.99 ID:lXYdEhLC
>>566
たしかに三成が福島を西軍側に寝返らせようとしてたって事実は、
福島が嫌いな三成が首謀者だったら成立しないんだよな。
輝元が首謀者でなければ成立しなロジック。
また浅野と三成はすでに家康に屈服して家康派になっていたから、
西軍挙兵の大事を打ち明けるなんてリスクが高過ぎることはやらんだろう。
あくまで大坂城内での安国寺らの密議であったはず。
だから真田から挙兵のことをどうして打ち明けてくれなかったんだよ?と三成は言われたように
実は挙兵の話はまったく知らなかったとしか思えないんだよな。
だって三成が西軍側にひきいれた大名って、
開戦後に真田に声をかけて上杉と連絡を開始した以外にいないだろ。
せいぜい元々、三成と親しかった織田秀信なんかは情において味方したんかも知れんけど。
どう考えても三成が首謀者で挙兵工作してるような証拠はないね。なんせ大坂にいなかったんだし。
609人間七七四年:2013/09/15(日) 16:36:48.87 ID:d9ka2Pi6
要衝尾張の大名は、普通誰でも寝返らせに行くだろ。
好き嫌いでロジックとやらを作ってる時点で失笑。
610人間七七四年:2013/09/15(日) 22:44:16.64 ID:n/cpGf0N
アンチ秀吉の反日キチガイ織田厨が完全論破され尽くされて、
逆上火病爆撃コピペ荒らしでファビョってたのかワロタw
611人間七七四年:2013/09/16(月) 00:56:39.22 ID:jfmzEbb5
>>608
三成は秀吉が生きていた頃は讒言などで悪事を働いたけど
秀吉が死んでしまえばただの小ざかしい官僚に過ぎなくなるからね
三成が天下分け目の大戦の首謀者というのはどうみても説得力に欠ける
やはり輝元が首謀者として大坂を奪取して十数万の大軍を結成したと考えるべきだろう
612人間七七四年:2013/09/16(月) 08:18:11.00 ID:Z1yZPlmi
もう別スレ立てれば?
輝元首謀者説は、三成信者、アンチにも賛同者はいない。
キミ一人が主張してても淋しいだろ?自演も痛々しいよ。
613人間七七四年:2013/09/16(月) 13:47:38.59 ID:nDEKV7Al
うんこ
614人間七七四年:2013/09/16(月) 16:19:45.25 ID:D3zOFgHd
>>611
>>三成は秀吉が生きていた頃は讒言などで悪事を働いたけど
>>秀吉が死んでしまえばただの小ざかしい官僚に過ぎなくなるからね
ここデタラメだな。上記の根拠となる一次史料を提出してください。

>>三成が天下分け目の大戦の首謀者というのはどうみても説得力に欠ける
>>やはり輝元が首謀者として大坂を奪取して十数万の大軍を結成したと考えるべきだろう
ここは同意。
615人間七七四年:2013/09/16(月) 19:06:01.97 ID:Z1yZPlmi
あまりにも見え見えな第三者の登場が本当に痛々しいなww
自演お疲れ様でした。
616人間七七四年:2013/09/16(月) 21:54:26.21 ID:iLFWtdwt
輝元が首謀者って、輝元は西軍結成後に参加してるじゃんか。
伏見攻略にすら参加してない。
617人間七七四年:2013/09/17(火) 11:50:57.03 ID:2YaGq73q
増田が家康に送った手紙には三成が蜂起しましたと書いてあるが
輝元が蜂起しましたとは書いていないからな
618人間七七四年:2013/09/17(火) 18:01:30.95 ID:FgDdJzGm
どう考えても発起人、首謀者は三成。
619人間七七四年:2013/09/18(水) 09:29:02.55 ID:GIfQTOBL
>>617
増田の書状は西軍蜂起を過少に見せるための謀略
620人間七七四年:2013/09/18(水) 11:43:45.82 ID:gdQXZAmZ
妄想乙
621人間七七四年:2013/09/18(水) 13:03:26.65 ID:GIfQTOBL
>>620
同日に増田・長束・前田の連名で輝元に上洛を求める書状が出されているのに?
622人間七七四年:2013/09/18(水) 13:19:40.44 ID:ra7g4hyb
当時の三成は伏見城と勢田の唐橋を隔てて、
大坂と一切連絡が取れない孤立状態。
そこで西軍首脳は、伏見城攻略と毛利軍による勢田の唐橋の占領が同時に行われ、
やっと三成との連絡線がひかれた。
623人間七七四年:2013/09/18(水) 13:50:32.35 ID:GIfQTOBL
電話線じゃないんだからw
624人間七七四年:2013/09/18(水) 14:30:31.33 ID:pTWSFLWe
>>621
東西両張りしただけ。
何も変わったことじゃない。
625人間七七四年:2013/09/18(水) 16:10:35.45 ID:JEF2OFD6
過少に見せる意味が分からないんだけど。
過大に見せて家康の動きを鈍らせるならわかるけど、
一体なんの効果があるの?
626人間七七四年:2013/09/18(水) 16:30:24.47 ID:GIfQTOBL
>>624
増田の書状には輝元について触れていないのに?
>>625
過少のほうが会津征伐を進めるか上洛するか迷うと考えた
627人間七七四年:2013/09/18(水) 16:42:04.54 ID:qmo4+Xrb
実際に、家康は上方の反乱をたかが三成と大谷ごときなら大したことねーやと
誤判断をして会津攻めを優先し上方を放置したので、伏見城落城の時間稼ぎが十分にとれた。
628人間七七四年:2013/09/18(水) 18:19:13.63 ID:pTWSFLWe
>>626
輝元に触れてなかったら何なの??(笑
629人間七七四年:2013/09/18(水) 18:27:50.09 ID:GIfQTOBL
>>628
三成と吉継が不審な行動をしているを伝え
自分達が輝元を大坂に招聘したことを伝えなかった
作為があったと言うこと
630人間七七四年:2013/09/18(水) 21:28:04.89 ID:pTWSFLWe
>>629
だから、それが両張りなんだろ。
家康にいい顔しつつも、西軍に軸足を置くなら、
すべてを伝える必要はない。
初期段階で決断出来ない増田に、なんの違和感もないけど?
妄想もほどほどにね。
631人間七七四年:2013/09/18(水) 21:47:36.58 ID:PfyOmFN8
どう考えても両天秤は成立しないな。
なんせ輝元が兵を船に載せてすぐ大坂へ入る準備を万端整え終わって招聘を待って待機していたんだから。
あきらかに反家康で動いている。
だから輝元は西軍敗北後に言い訳したが見事に拒否されたんだからな。
632人間七七四年:2013/09/18(水) 22:13:59.72 ID:GIfQTOBL
>>630
なら、翌日か翌々日に家康へ書状を送った長束や前田も両張りになりますな
633人間七七四年:2013/09/18(水) 23:06:20.17 ID:pTWSFLWe
いや、意味わかんないし。
輝元が準備万端なことと、増田が西軍を過少に見せる謀略
がどう繋がるの?

>>632
なぜ?(笑
634人間七七四年:2013/09/19(木) 08:14:55.28 ID:TNQDueqc
>>633
お前がだがスレに同内容の誤爆をしてる時点で、
反日織田チョンなのがバレバレ。
つまりアンチ豊臣政権の為に、
輝元と家康を擁護して、
三成や秀吉を貶す立ち位置。
だから議論ではなく、お前が反日キチガイ半島イデオロギーから絶対に認めようとしてないだけ。
635人間七七四年:2013/09/19(木) 09:47:02.56 ID:jKURFHkm
いや、 誤爆はしたが別人だけど(笑

いやいや、反日とか半島とか関係ないでしょ。
キミの妄想に説明を求めてるだけ。
636人間七七四年:2013/09/19(木) 09:58:19.14 ID:2IQEjiMX
>>635
別人じゃなくていつもの自演だろwww
朝鮮からわざわざレスしなくて良いぞw
637人間七七四年:2013/09/19(木) 10:12:12.75 ID:EVGm8PBV
>>633
まぁ、納得出来ないのならそれでいいよ
638人間七七四年:2013/09/19(木) 10:57:56.45 ID:jKURFHkm
>>637
まぁ、妄想だったのならそれでいいよ
639人間七七四年:2013/09/19(木) 11:29:28.92 ID:WNkbzU9u
なに自演してんだw
輝元と家康を無理クリ全力擁護の反日織田厨の捻くれた理解力の問題じゃねぇかw
640人間七七四年:2013/09/19(木) 12:04:57.23 ID:jKURFHkm
は?(笑
自演をしなければいけない理由が全くないんですけど。
>>633の回答を待ってるだけ。
全然不自然な質問ではないと思うが(笑
641人間七七四年:2013/09/19(木) 14:19:36.21 ID:IjJ2BKEw
まーた万年野党の織田チョンが何でも反対ってケチをつけてるだけだろ。
このアンチ秀吉のキチガイ荒らし消えてくれねーかな。
642人間七七四年:2013/09/19(木) 14:39:20.04 ID:TePnDmv8
まーただがチョンが捏造開始してるのか
643人間七七四年:2013/09/19(木) 15:19:53.72 ID:jKURFHkm
>>641
何でも反対じゃないよ。
キミの妄想(>>619)に説明を求めただけ。
結果、キミが勝手に半狂乱(笑
644人間七七四年:2013/09/19(木) 15:42:38.91 ID:WNkbzU9u
>>643
偏執狂のお前が見えない敵を私怨で粘着ストーカーして
誰彼関係なく、だが認定しては見境無く追い回して
根拠ゼロで反対意見を連呼自演してるキチガイ織田厨なのはバレてるからw
ただ反対したいだけが動機だろwwww
645人間七七四年:2013/09/19(木) 15:48:44.78 ID:TePnDmv8
ソースは?
646人間七七四年:2013/09/19(木) 15:50:15.33 ID:EVGm8PBV
>>641>>619は別人だから
647人間七七四年:2013/09/20(金) 13:04:30.97 ID:h8vYThF7
輝元上洛依頼が、家康宛書状よりも先に出されたものなら
増田の謀略は確かに成立するけどね。

増田が当初より三成等の企みに全く絡んでなかった場合、
家康への報告は組織上当然だし、書状内容にも違和感はない。

つまり、増田が家康宛書状を出す前から、三成等の謀議に加わって
いた事が証明出来なければ、増田謀略説は成立しない。
648人間七七四年:2013/09/20(金) 14:04:15.09 ID:PNWQqgk4
そもそも家康派の三成が西軍決起に参加した一次史料が存在感しない完全なでっち上げだから、
増田らが家康を騙す目的で嘘を書いてるのがわかる。
649人間七七四年:2013/09/20(金) 15:15:48.10 ID:h8vYThF7
三成が家康派???
それは一体どこの誰の珍説だい??
650人間七七四年:2013/09/20(金) 15:24:10.41 ID:xYeGFlCV
白川亨氏は家康が秀吉の遺令に背いた時に糾弾のために使者を差し向けた大老や奉行に、
当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた三成は含まれないどころか三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の 五郎八姫を容認するかのように政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたがその兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を 増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた 浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、浅野より姻戚関係にある三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が甥を茶阿に送り届け 息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に風聞を流されて、何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。

水野伍貴も三成は家康派だったとしている。
なんでいきなり三成が反家康の首謀者になって準備してたなんてでっち上げが信じられるんだ。
そもそも家康は武断派からの暗殺から縁戚の三成を守るために、
結城秀康まで護衛につけてあげてるし、三成は大坂の三成屋敷や三成の兄の屋敷まで提供して、
前田利長らの暗殺から家康を守っている。
そもそも看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したが
三成がそれを家康に通報して、家康襲撃を阻止したと書いている。
その後、家康が忠興に金を貸したり、豊後杵築6万石加増したりして味方化してるな。
そして七将による三成襲撃では、七将が家康に三成を死刑もしくは引き渡し要求する中で
家康が三成をかばって、結城秀康に警護させて佐和山までの道中で、七将に襲撃されないようにしてる。
三成がそのまま大坂に残っていたら、また七将に襲われる大事件が勃発する恐れが高い以上は仕方がない手打ち。
看羊録によれば、佐和山への移動には目的がちゃんとあり
これは家康が対前田のために、三成に北陸防衛を任せたと書いている。

中井俊一郎氏「家康の加賀攻めの際、三成は家康に従い越前に出陣している。
これは「看羊録」だけではなく、前田家の史料にも見られるので史実と思われる。
また大谷吉継は前田派の加藤清正の上坂に備えて淡路に出陣したという。
これも島津義弘の書状にあるので史実であろう。この当時、三成らは家康に従う姿勢を示していたのである」
651人間七七四年:2013/09/20(金) 16:30:10.00 ID:h8vYThF7
>>648
>>650が代わりに回答してくれたみたいだけど、
白川亨、水野伍貴、中井俊一郎が、
「三成は家康派で、西軍決起には参加していない」
と主張しているということでいいのか?
それぞれ、その主張が記載されている著書を教えてもらえるか?

白川亨って、そんな主張してたかなぁ。。
652人間七七四年:2013/09/20(金) 22:09:33.30 ID:SdeUWaeo
白川あたりに言い分はしらないけど、輝元家臣や広家の書状には三成と吉継が
西軍決起の為の密議を行ったという類の記述はないよ。
首謀者は誰かって話はともかく三成と吉継が西軍結成のスタート地点っていう話は
一次史料からは確証が取れない。

横槍御免
653人間七七四年:2013/09/20(金) 22:54:57.66 ID:9jdDIraa
7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
7月16日付 堅田元慶宛蜂須賀蜂須賀家政書状
7月21日付 細川忠興書状
7月27日付 秋田実季宛榊原康政書状

一次史料=史実でいいんだよね?(笑
というか、三成の決起を西軍の入口としない識者っているの?(笑
654人間七七四年:2013/09/21(土) 11:21:01.68 ID:Sg0pBci2
7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状→光成氏が吉川広家が言い訳するために作った
のちになって作られた偽書状群の一枚と主張。
この書状が徳川家に残されていないので、徳川方へ発送されていないのは確実。

7月16日付 堅田元慶宛蜂須賀蜂須賀家政書状
それさ、謀議に関わってない蜂須賀が裏に輝元がいることに早くも感づいてる証拠だよ。
だってまだ輝元は15日に広島を出発したばかりなのに蜂須賀は嗅ぎつけてる。
また、細川らが家康へ憎い三成が蜂起するとさかんに嘘を吹聴してまわってる。
(西軍本隊は毛利を主軸にした伊勢方面軍であったが、 武断派が三成憎しで大垣へ北進) あとね内府たがい条に署名してる三奉行に三成は入ってない。
光成氏は奉行の書状が15日に輝元に届くや 待ちかねていたように急ぎ即日出発。 明らかに出発準備が完了していた。
淀、利長、三奉行は 三成と大谷が蜂起と家康にフェイクする陰で 輝元を大坂に招き入れて 家康が蜂起を過小評価させることに成功。 そもそも三成は直接、
輝元へ意見が言えず増田経由であるのに 三成首謀者なわけもない。だいたい三成は家康派になっており、三成の兄の屋敷を家康へ提供するなど、家康へ恭順しているため
なんとしても武断派は三成を敵にしたてる必要性があった。一方の輝元は毛利分封問題などで家康への敵愾心と悔しさをあらわしている。
また北政所なども西軍派で、それを動かせるのは地位的にも輝元であっても 三成じゃないだろう。
7/12に三奉行が輝元の大坂入りを要請 決起を打ち明けられ同意を求められた家政が 16日に輝元へ書状を出しただけだろ。
淀や利長や三奉行は三成と大谷の挙兵と言うフェイクで 家康を騙して時間稼ぎをしているうちに大津城を手に入れ 瀬田の大橋を確保し、伏見城を落城させて
やっと佐和山の三成との連絡線を確保できたんだし。 三成の挙兵ですぐ輝元が大兵を率いて大坂入城できるのかね?
しかも大兵の船舶まで準備せずにいきなり 物凄い速さで大坂についてるのは光成氏も指摘してる。
輝元が三成に指示も何も三成からして 三成→増田へ書状→増田から輝元へとやり取りしていて 輝元に直接書状を出せない立場なのが三成だから
そんなもん元からあるわけないだろ。

蜂須賀の書状って、 最も伝えたい、訴えたいことを書くことが多い追って書きに、なおなお両人(三成と大谷)御同意の儀、初者雑説と存、
などと書いていて、石田と大谷の逆意をただの雑な噂に思っていたら安国寺から聞いた旨によると、
東国へ向かう兵達を指し留めていると聞いて驚いたと書いていて三成らの挙兵は根拠ない噂だと楽観してたらが、
毛利から安国寺がやってきて毛利が会津征伐に行く諸将の軍を差し止めてると聞いて驚いた。などと書いていて、
実は蜂須賀が聞いていた三成らの挙兵は噂レベルであって、実際は輝元が会津へ行く諸大名の軍隊を通行止めにしてる首謀者っぷりの事実に蜂須賀が驚いて急ぎ書状を出し、
自分は昵懇してる間柄だと強調して輝元に考え直せと再考を促してるだけだよ。 三成らが悪いだけで輝元は悪くないから、
考え直せば許されるよって、蜂須賀が輝元の面子を潰さない話術でうまい言い訳を提案してるに過ぎないのは追って書きを読めば明らか。
軍記に書かれる三成が会津へ行く諸大名の軍隊を差し止めてる話も実は当初は毛利が差し止めてるのが史実だったとわかる書状。

7/17 内府たがい条がだされる。

7月21日付 四郎右・市正宛て 細川忠興書状 いつもの怪しげな細川家記シリーズ
三成憎しの忠興がかねてから三成のことを家康に中傷してきていたのがわかる書状
細川ガラシャ殺害を、大坂にいない三成がやったと捏造する細川家は、
戦後になると黒田長政ともケンカして嫌がらせをする性悪大名。
ちなみに細川家記には7/17に内府たがい条とともに細川家名指しで「太閤様が取り立てた福原長堯の領地を、
何の功も立てていないのに家康の扶助で手に入れたので、何も罪ない上杉への討伐で
細川家は一族残らず出陣した」として秀頼から討伐令が出たなどと偽書状をデッチあげて、
徳川への忠節を宣伝しまくってるアホ。

7月27日付 秋田実季宛榊原康政書状
秋田宛て榊原書状において下記の人たちが家康にガセ情報を流していたのがわかるね。
大坂より御袋様(淀)並びに三奉行(内府たがい条に署名してる面々)・北国羽肥州(利長)
前田利長まで巻き込んでこれだけおおがかりな詐欺まがいの政治外交を
指示できるのは西国取次ぎ役の大老輝元しか無理と言える。
655人間七七四年:2013/09/21(土) 11:40:22.70 ID:Sg0pBci2
細川家記とは現在では綿考輯録と呼ばれていて
明智軍記からの引用もあって見事に怪しさ倍増になっている。
(本能寺の変から120年後に書かれた明智軍記から40年後に細川家記が書かれている)
656人間七七四年:2013/09/21(土) 12:00:04.87 ID:5qjHK7eO
秋田実季宛榊原康政書状は家康サイドの偽情報とも思うが
書状程、ウソを付くものはない
657人間七七四年:2013/09/21(土) 12:31:04.54 ID:Sg0pBci2
>>656
内府たがい条に対する御袋様・三奉行(内府たがい条に署名してる面々)・北国羽肥州(利長)
前田利長らの挙兵を誤魔化す言い訳を家康が信じていたんじゃないかね。

それに三成謀反をチラつかせれば、武断派だけでも上杉征伐から抜けるので、上杉援護にもなる。
伏見城落城の報が宇都宮に届き家康が毛利が首謀者と確信することで、事の重大さを認識して会津から江戸へ戻ったのも8月に入ってからだし
658人間七七四年:2013/09/21(土) 15:44:11.16 ID:5qjHK7eO
>>657
家康が即座の上洛を延期したのは、伊達等の懸念が伝えられたというのが通説かと
659人間七七四年:2013/09/22(日) 10:01:34.90 ID:SbxJHWxn
>>654
朝鮮人捕虜の伝聞記録である看羊録を、一次史料というだけで史実認定している
キミらしくないなぁ(笑
都合のいい時だけ使い分けるのは良くないぞ(笑

これらの書状が一次史料であり、いずれも三成の決起に触れている事実は覆せない。
というか、三成決起が西軍の入口でないなら、三成決起以前に具体的に何が
あるんだよ?
660人間七七四年:2013/09/22(日) 10:02:06.49 ID:SbxJHWxn
>>654
光成の著書を読んでいるのなら話は早い。
というか嘘を書くな。未読者をミスリードする悪意が明らか。

7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
・偽書状群の一枚などとの主張は全くしていない。
『関ヶ原合戦後に広家らが自己の立場を有利にするため偽造したか、作成されたが、
その直後に恵瓊から輝元も了解している証拠を提示されたため発送されなかった
という二つの可能性可能性が考えられる。』程度の推測しかしていない。
・未送付によって起こる議論は、輝元の西軍参加時期であり、三成決起には何ら影響
を及ぼさない。

7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
・キミの推測は不要だし、口語訳は正確に行うべき。
『猶々、両人御同意の儀、初めは雑説と存じ、・・・』
× 三成らの挙兵は根拠ない噂と楽観していたら
◯ 三成らの挙兵に輝元様が同意したとの事、初めは噂に過ぎないと
・この書状で、輝元が差し止めたのは、諸将の軍を指してはおらず、輝元自身の部隊
だけ。

7月21日付細川忠興書書状
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
・キミの推測はいらないし、光成はこれらの書状を自身の論拠史料として活用している。
661人間七七四年:2013/09/22(日) 10:12:59.37 ID:z+10w9ZX
まーたアンチ秀吉の反日織田厨がファビョってんのかwww
どの書状も三成が参加してる証拠は一切ないじゃんよwww
三成挙兵はすべて誰かが意図的に流言飛語した噂の独り歩きにすぎない。
そして三成挙兵の噂を流すだけで、
三成なんて敵にすらなはないと誤認する家康は上杉を攻撃しようとするが、
その家康をシカトして武断派は大喜びして三成討伐に東海道を進むんだから、
戦力分断による各個撃破が可能になるし、
伏見城の鳥居は家康からの援軍を受けられないし無傷のまま瀬田大橋を手に入れられるし、
西軍にとって良いことづくめじゃん。
662人間七七四年:2013/09/22(日) 10:16:02.93 ID:SbxJHWxn
三成挙兵が噂だというのは、史料すらない。
キミの都合の良い妄想。
663人間七七四年:2013/09/22(日) 12:29:48.23 ID:88K8nGjn
細川家に残る霜女覚書(細川玉子(ガラシャ)侍女の霜の口述記録)
三成が捕らえに来るという「風聞」が7/12の時点ですでに流れていたのがわかる。
もちろん三成は大坂にはいないから大ウソ。
この7/12は三奉行と安国寺が輝元へ大坂へ来るように依頼した書状を出した日である。

7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
安国寺江州において石田と大谷と決起の密談をしたと書いてあり
これが後に広家らが自己の立場を有利にするため偽造されたものであるので、
大谷と三成の決起の計画自体が大ウソになる。

7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
両人御同意の儀、初めは雑説と存
などと三成と大谷の決起を噂と思っていたら、輝元が決起したと驚いている。
664人間七七四年:2013/09/22(日) 12:42:17.42 ID:SbxJHWxn
>>663
7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
・偽書状群の一枚などとの主張は全くしていない。
『関ヶ原合戦後に広家らが自己の立場を有利にするため偽造したか、作成されたが、
その直後に恵瓊から輝元も了解している証拠を提示されたため発送されなかった
という二つの可能性可能性が考えられる。』程度の推測しかしていない。
・未送付によって起こる議論は、輝元の西軍参加時期であり、三成決起には何ら影響
を及ぼさない。

7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
・キミの推測は不要だし、口語訳は正確に行うべき。
『猶々、両人御同意の儀、初めは雑説と存じ、・・・』
× 三成らの挙兵は根拠ない噂と楽観していたら
◯ 三成らの挙兵に輝元様が同意したとの事、初めは噂に過ぎないと
・この書状で、輝元が差し止めたのは、諸将の軍を指してはおらず、輝元自身の部隊
だけ。

7月21日付細川忠興書書状
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
・キミの推測はいらないし、光成はこれらの書状を自身の論拠史料として活用している。
665人間七七四年:2013/09/22(日) 12:49:35.76 ID:h1pLRcwx
誤りの指摘にきちんと反論しないということは、嘘を認めたということだよな
666人間七七四年:2013/09/22(日) 13:01:32.37 ID:3kILI5c1
三成と吉継について最初に報じたのは輝元家臣達から家康家臣達に宛てられた
7/13付書状だがそこには三成と吉継に関して恵瓊が近江に赴いた時
「手前如何見及被候哉」としか記述がない。文意が曖昧で訳に困る一文だが
少なくとも三者の具体的行動について詳細は不明。
7/14の榊原康政宛吉川広家書状でも「手前子細見及候哉」と書いてあるのみ。

輝元家臣や広家ですら両者の動向を正確に把握できていないので当然の事ながら
7/23付最上義光宛家康書状では両者が「触状」を回しているという情報は「雑説」
つまりは噂話レベルでしか関東へ伝わっていない。
そしてこれが7月末から8月初頭あたりになると「三奉行」「大坂奉行衆」の
「別心」という情報へ変化する。
おそらく「内府ちがひの条々」に三成も吉継もその名がなかったからだと思われる。
667人間七七四年:2013/09/22(日) 13:05:55.28 ID:3kILI5c1
まぁ、三成が「西軍の入り口」だったと断ずるなら
それを裏付ける一次史料と具体的記述を明示すればよろしいかと。
流石に三成家康派説には首肯できないが、かといって三成にのみ
主体性を求めるには史料が足りなすぎる。

そもそも史料中では「三成と吉継」がペアで登場するので
「三成が」という話の進め方はおかしいのだけれども。
668人間七七四年:2013/09/22(日) 13:28:45.52 ID:SbxJHWxn
>>666
7/14の榊原康政宛吉川広家書状
『・・、然れば右御両所御企て承り、驚入り存じ候、・・・』

>>667
>>653
十分明記しているが。これに対するコメント(>>654)は、
改竄・誤訳・捏造に満ちていたが(笑
私見で『断じている』わけではない。普遍的な史実、常識を言ってるだけ。
『三成が入口でない』と、トンデモ論を主張するなら、そちらが史料を提示すべきだろ?
三成でないなら、誰なんですか?一次史料と具体的な明示でおねがいします。
669人間七七四年:2013/09/22(日) 13:59:15.34 ID:z+10w9ZX
>>666
光成氏は、7/13付益田、熊谷、宍戸書状も
広家書状同様に徳川方に送ってないと、
広家覚書に書いてあると指摘してる。
なんとしても三成と大谷を首謀者に仕立て上げたい作為が細川氏同様窺われるんだよな。。
670人間七七四年:2013/09/22(日) 14:33:47.38 ID:h1pLRcwx
俺には何としても三成を首謀者にしたくないアホが一名いるようにしか見えん
671人間七七四年:2013/09/22(日) 14:55:16.62 ID:RM3A6/Qr
三成挙兵は風聞と雑説にしか存在しない。
その噂が流れ始めた裏で三奉行と安国寺が、
大兵と船の準備を終えた輝元に大坂へ入るようにとの書状を密かに出している。
明らかにフェイク情報を流して事実誤認させようとしてるな。
672人間七七四年:2013/09/22(日) 15:25:32.54 ID:3kILI5c1
7/14に広家が書状を書いたのは播磨の明石で情報を得たのが7/13。
ソースが輝元家臣らか、あるいは別のルートなのかは判然としないが
両者書状は内容が似通っており何らかの形で情報を共有していると思われる。
いずれにしても彼らは近江で何が行われたの詳細はしらないばかりか
この時点で輝元が計画に咬んでいることすら知らない。
一方東へ向かうはずだった毛利勢は7/12夜から7/15にかけて大坂に帰陣。
後に判明するがこれは輝元の命によるだった。
しかし7/14の時点で広家は主君の意に反した恵瓊の暗躍だと疑っていたようだ。
つまり彼のしたためた書状は不確定情報と錯誤で構成されている事がわかる。
そうなると「御両所御企」の一文をそのまま鵜呑みにするのは難しいのではないかと考える。

三成の動向が確認出来る最初の西軍側一次史料は7/15付上杉景勝宛島津義弘書状で
この時点で三成が西軍に参加している事がわかる。
日付から考えて7/13あたりに三成と吉継が何らかの動きをしていたのなら
一応辻褄は合うわけで、それを広家らが曖昧な情報ながら察知していたという可能性はある。
ただしその動きが「西軍の入り口」としてのもかどうかは先述したように判然としない。
673人間七七四年:2013/09/22(日) 15:30:40.04 ID:3kILI5c1
三成を首謀者とする類の説は概ね恵瓊を通じて三奉行や輝元を決起に
駆り立てたとするものだけど、その一連の動きを直接証明する一次史料は
無いわけであるから、三成にのみ主体性を求めるには史料不足であろうというだけの話。
逆の見方をすれば三成首謀の可能性を完全に排除するものではない。
輝元主導かもしれないし三奉行主導かもしれないし一揆的な繋がりを結んで
兼ねてより用意していた計画を実行したのかもしれない。
5/7に三奉行(と三中老)は家康に会津攻め中止を進言したものの家康はこれを却下。
家康と三奉行の関係は相当に悪化していたものと思われる。
さらに輝元の異常な上坂スピード。大坂への帰陣命令も上坂要請とほぼ同時であるから
予め輝元から恵瓊に指示が与えられていた可能性がある。
吉継が西軍に参加した経緯は二次史料にしか記述が無く実際のところは不明である。
最初から三成ありきではなく話の組み立て方は色々あるのではという事。
674人間七七四年:2013/09/22(日) 16:04:45.07 ID:3kILI5c1
あ、今日付けでの自分のレス番は>>666>>672>>673だかんね。
誤解ないようにねん。
675人間七七四年:2013/09/22(日) 16:37:40.72 ID:SbxJHWxn
>>672
あれれ?
>7/14の榊原康政宛吉川広家書状でも「手前子細見及候哉」と書いてあるのみ
ではなかったっけ?(>>666)
まずは自分の発言に責任持とうよ。間違えていました、ってね(笑

>>674
大丈夫、大丈夫。
こちらの質問に対して、都合が悪いと黙秘し、時間が経ってから何事もなかったように
同じ主張を繰り返す人物は一人しかいないから。
加えて、光成の著書の都合のいいところだけつまみ食いして、持論の整合性を
整えるのも一人しかいないから。自演、お疲れ様〜(笑
676人間七七四年:2013/09/22(日) 18:41:38.55 ID:88K8nGjn
7/15付 上杉宛島津義弘書状
輝元・秀家を始め、大坂御老衆小西・大刑少・石治部少被仰談〜
拙者も其通りに候、委細石治より可被申候

薩藩旧記雑録収録書状。藩ではなく個人によって編集される。
明治13年に一応の完成を見るが、
増補訂正が明治30年まで続けられる。真偽問わず収録。

三成の名前は一番最後に書いているのはなぜか?三成は大坂にいないし大坂御老衆でもない。
兵を集め始める島津義弘もこの時期、まだ大坂にいない。
上杉に宛てて三成は本当に委細を述べる書状を出しているのか?
島津義弘が西軍参加をしたのは朝鮮出兵で一軍を形成していた小西との友情から。
家わけ島津家文書の中には朝鮮出兵中の小西→義弘親子への書状はやたら多い。
1/11に小西は島津義久宛てに正月の挨拶とともに肥後から上洛へ出発している。

では義弘の言う三成→上杉の連絡の話は成立しているのか?

7/17付け真田宛長束・増田・前田書状に続く
7/20付け真田宛大谷吉継書状(大谷と三成のことが始めてはっきりわかる書状)
伏見へは島津・輝元・宇喜多・小西が攻め寄せてると書いてあり、
また左衛方(信繁)へは東海道宇都宮へ出合候様に、佐和山より両使下し申候
とも書かれ、伏見攻撃が開始されたことで初めて佐和山との連絡が可能になったのがわかる。

7/29付け真田宛長束・増田・前田書状
其上景勝申談候者と、ここで初めて上杉に言及するようになり、最後に
猶石治少より可被申入候と長束・増田・前田らの命で三成が真田との取次をやるような内容である。
真田宛7/29付宇喜多書状と真田宛7/29付毛利書状も景勝申談候者と書いていて西軍と上杉の連携が開始される。

真田は7/21に真偽を確かめるべく懇意にしていた三成に書状を出し、7/27にやっと佐和山へ到着
このことから家康側は使者の佐和山への連絡を厳しく監視統制していたのが見える。
そして三成が7月末日に真田へ返信した内容に会津への使者と書状を届けて欲しいとお願いしている。
この7/末になって初めて、三成は植えすぎとの連絡を取り始めており、
大坂で指揮をとってる三奉行や毛利・宇喜多も7/29に初めて上杉に言及している。
とても義弘が7/15に書いた内容が事実を表しているようには見えない。
むしろ大谷と三成の名前を最後に書いているのは噂レベルの話だからか、
もしくは小西が噂を吹聴している張本人と思われる。
677人間七七四年:2013/09/22(日) 22:20:16.78 ID:d02JPPS2
義弘書状の石治部少って変じゃね?
普通に短縮したら石治少って書くだろ…
678人間七七四年:2013/09/22(日) 22:25:43.08 ID:Nyrji2Xj
>>677
旧記雑録には「治部少」「石治」とあるよ
679人間七七四年:2013/09/22(日) 22:33:47.67 ID:3kILI5c1
結局三成決起が西軍の入口であることを明確に立証する一次史料は無いのですかね。

関が原戦後の10/2に書かれた広家宛黒田長政書状で長政は輝元が「奉行共」に味方し自らの印判を押した
「廻状」を「諸方」に送ったとしている。関連史料上で三成は主に「石治少」吉継は「大刑少」
といった表記がされ大坂の三奉行は「三奉行」「奉行衆」「御奉行中」といった表記であるので
長政のいう「奉行共」に三成と吉継は含まれない(そもそも当時三成は現役の奉行ではないし
吉継もいわゆる五奉行の正式メンバーではない)。
つまり7/23付最上義光宛家康書状における三成と吉継が「触状」を回しているという情報は
実際には輝元と三奉行の仕業であって7/14時点での広家の認知はかなり不正確であったと思われる。
一方長政書状を受けて出された翌10/3福島正則・黒田長政宛広家起請文において広家はこれらの反家康行為は
「安国寺調儀」によるもので輝元本人に責は無いとして処分の軽減を求めている。
長政・広家いずれもここでは三成と吉継の名前を出していない。
戦後まのなくの筆と推定される広家の自筆覚書では再び恵瓊・三成・吉継の名前を持ちだしているが
肝心の三奉行による上坂要請等の話は出てこない。広家としては意地でも輝元挙兵が
三人の策動であるとしたかったようだがその理由はよく分からない。
680人間七七四年:2013/09/22(日) 22:35:53.51 ID:Nyrji2Xj
広家は埒外に置かれていて、西軍蜂起の状況を把握していなかったかと
681人間七七四年:2013/09/22(日) 22:57:05.90 ID:3kILI5c1
>>680
輝元におる事前説明の不足が広家の錯誤の原因でしょう。
輝元としては親家康派の広家を通じて計画が敵側に漏れる事を警戒したのかもしれません。
毛利一門内部の静かな対立が後に致命傷となったという事でしょうか。
682人間七七四年:2013/09/23(月) 01:50:57.35 ID:uhzU03Bo
>>679
7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
7月16日付 堅田元慶宛蜂須賀家政書状
7月21日付 細川忠興書状
7月27日付 秋田実季宛榊原康政書状

複数の大名クラスの書状(一次史料)において、三成挙兵に触れられており、
光成は各種根拠の史料として十分活用している。
そして、三成挙兵に疑義を持つ識者ゼロ。議論の余地さえなし。
683人間七七四年:2013/09/23(月) 10:18:11.20 ID:vkF1qmF4
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が吉川家の意向を受けて、
関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして
毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
このことを山本洋氏が解説し、
これを土台にして光成氏が書状研究した結果だね。

若狭小浜藩の大老酒井忠勝は直江と三成を首謀者にする
会津陣物語を作り上げ東国太平記でさらに昇華させ
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続偽書状を製造し
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付かせるのに成功。
これで徳川史観として三成と直江がすべて悪いと汚名を着せた。

直江状に本来なかった追而書を付け足す暴挙をやってのけて加筆したり
関が原前日の内通を約束する秀秋家臣稲葉(春日局のダンナ)宛て9/14付け井伊&本多ガセ書状を
捏造したりと怪しげなネタ満載の「関ケ原軍記大成」(著者は若狭小浜藩出身の宮川忍斎1655?1716没)
若狭小浜藩の歴史捏造事業(実態は低俗な軍記)は神レベルだと言えよう。

さらに毛利側も陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして三成と安国寺に騙されただけと
毛利も被害者ぶった史観を作りあげた。
684人間七七四年:2013/09/23(月) 10:44:13.33 ID:vkF1qmF4
佐竹も懇意にしていた三成へ挙兵について問い合わせているらしく
7/23・7/26と重ねて三成宛に書状を出している。
返答は8/7になってからで、
23日のものは大阪に着いたようです。26日付のものは佐和山で読みました。
この飛脚は大坂へ向かってからそちらへ帰ります。
などと書いており、三成は佐和山城にいるのがわかる。
そしてやはり三成の西軍参加への疑念から
真田同様に佐竹も必死に三成本人の意思を確認しようとしており
はっきりした三成本人の参加意思表明の確認ができるのは
真田へ宛てた7月末の書状が一番最初か?
685人間七七四年:2013/09/23(月) 10:53:34.26 ID:uhzU03Bo
7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
7月16日付 堅田元慶宛蜂須賀家政書状
7月21日付 細川忠興書状
7月27日付 秋田実季宛榊原康政書状

複数の大名クラスの書状(一次史料)において、三成挙兵に触れられており、
光成は各種根拠の史料として十分活用している。
当然、光成は三成挙兵に疑義を挟む論調など皆無。
その光成の著書から引用する愚かさには閉口(笑
686人間七七四年:2013/09/23(月) 11:37:23.20 ID:NWupp0UY
とりあえず、自分の論に自信があるなら論文か文書にして投稿・持ち込みして下さい
ここでは精々がお山の大将
687人間七七四年:2013/09/23(月) 12:27:42.30 ID:uhzU03Bo
三成挙兵については、論も何もこれら一次史料の書状に記載されてるし。
世の識者で、これに異論を挟む人いる?(笑
自信があるも何も常識の有無が問われるレベルだ(笑

7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
7月16日付 堅田元慶宛蜂須賀家政書状
7月21日付 細川忠興書状
7月27日付 秋田実季宛榊原康政書状
688人間七七四年:2013/09/23(月) 16:44:53.70 ID:NWupp0UY
ここで延々とやっているよりは、百倍マシしでしょう
兎に角、通説と異なる考えが浮かんだら投稿しなされ
689人間七七四年:2013/09/23(月) 20:00:35.99 ID:3DfCwTUb
輝元は裏で首謀しながら直接自分が兵を率いて戦う気はない
それに家康が大坂に到達したら退去することに抵抗する気もない
これは例えるなら信長包囲網を敷いた義昭みたいな感覚なのだろう
義昭は追放されても将軍のままでいられたのでリスクを嫌う輝元が参考にしても不思議はない
とはいえ義昭と違い自前の軍隊を持っているのに表立って戦う気概を見せなかったら
すぐに士気低下を招き家康包囲網が崩壊して取り返しがつかなくなることに気がつかなかった
690人間七七四年:2013/09/23(月) 21:05:17.78 ID:GaWljAT8
三成を西軍に参加させる為に大谷が必死に説得した結果、
伏見城落城の目処がたってきた7月末にやっと三成も西軍参加を了承したと解釈できるね。
たしかに西軍参加を拒んでいたら、伏見城落城後に、瀬田大橋に駐留していた毛利軍に佐和山城は攻撃を受けるもんな…
691人間七七四年:2013/09/24(火) 11:26:30.22 ID:bLsugsLw
692人間七七四年:2013/09/24(火) 23:28:46.61 ID:KbInblWu
>>690
そんなに嫌々西軍に参加させられたなら内通や日和見すればいいじゃんw
関ヶ原では松尾山側も南宮山側もやる気なしだったのだから
これで三成が戦わなければ誰も死ぬことなく平和的な解決が出来たのに
693人間七七四年:2013/09/25(水) 10:14:42.43 ID:g3wmxI+P
無茶苦茶に仲がよかった豊臣秀信が救援依頼してきたから
三成は美濃へ援軍を出してしまっているから
今さら内通とか日和見もできんだろ。

それに毛利軍に佐和山を襲われたらひとたまりも無い。
三成にしたら、大津の京極氏が西軍に着くことになった時点で
東軍に組するチャンスは消えた。
694人間七七四年:2013/09/25(水) 16:01:22.97 ID:j28HP+62
いくらなんでもネタだよね?
695人間七七四年:2013/09/26(木) 11:19:21.92 ID:SjDSLV0I
>>694
三成を首謀者に仕立て上げるには
6/20三成→兼続偽書状
7/14三成→兼続偽書状
上記を偽ではなく、本物と解釈しないと成り立たないんだよ。
そうすると三成と兼続共謀説が史実化する。
696人間七七四年:2013/09/26(木) 11:32:49.98 ID:tiERnFb4
>>695
三成が首謀者である事と、三成・兼続が共謀である事は、
別の議論では?
697人間七七四年:2013/09/26(木) 11:40:59.89 ID:E0/cpkJ9
ささ、論文を投稿しなされ
698人間七七四年:2013/09/26(木) 11:43:59.03 ID:SjDSLV0I
三成が挙兵に関係してることを表す書状は>>695に挙げた書状しかない。
あとは風聞・雑説の中で三成の名が出てくるだけ。
そもそも三成は家康派として前田家の失脚に協力している。
三成の西軍参加の噂が事実かどうかの真偽を確かめるために
真田や佐竹が書状を出しているが、返信の書状が出されたのは7月末日になってから。
そしてこの日付けが三成が西軍参加意志を表明した初めての書状でもある。
なので、内府たがい条にはとうぜん三成の署名がない。
699人間七七四年:2013/09/26(木) 16:29:40.20 ID:cdvQ4z6n
俺を参謀にする
過去の戦なら、ネットで調べて無双確定
700人間七七四年:2013/09/26(木) 20:49:43.92 ID:KnQ3aNf8
>>693
それなら秀信が捕まって家康が岐阜まで出陣してきた時点で三成に戦う理由がないわな
東軍に降伏の書状を送って佐和山に篭城すればいい
毛利だって家康が目の前に迫ってきているのに佐和山を攻めることは出来ないし
そもそも毛利に限らず美濃方面軍がやる気ゼロなのは誰の目にも明らかだしな
三成がわざわざ関ヶ原で大半がやる気ゼロの中で必死に戦う動機が何もない
701人間七七四年:2013/09/27(金) 00:34:46.53 ID:OIxsuGeJ
>>698
>三成が挙兵に関係してることを表す書状は>>695に挙げた書状しかない。
>あとは風聞・雑説の中で三成の名が出てくるだけ。

もういい加減すぐバレる嘘をつくなよw
7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
7月16日付 堅田元慶宛蜂須賀家政書状
7月21日付 細川忠興書状
7月27日付 秋田実季宛榊原康政書状

三成の企て・挙兵を、風聞雑説ではなく、事実として記載してますけど。
702人間七七四年:2013/09/27(金) 06:55:05.50 ID:FBfs1zUq
>>700
武断派が奉行派が蜂起した噂を聞いて大喜びで東海道を降って伊勢の毛利軍をガン無視して美濃を落として、
小西、島津、三成らの大垣城を包囲してしまったのに、
三成が島津や小西らを売って、
いやそっちへ降伏するから!とか今更通用しないし、
島津や小西や宇喜多らはそんなにマヌケじゃない。
武断派は何であれ朝鮮出兵の時に対立した小西や大谷らを殺したい願望を前から持っていたんだから。
戦後解決の仕方からして三成や小西はスケープゴートにされてるのは歴然。
噂や風聞を流したのは三成を家康に讒言してた細川あたりかも知れない。
武断派にとって我々は謀反したわけではなく、豊臣を守るためだというロジックを作り正当化する為には三成を奸臣に仕立てる必要があった。
しかし家康は三成に同情したので三成の血は津軽などで生き延びた。
703人間七七四年:2013/09/27(金) 07:17:58.57 ID:a9JYm4Ro
いくらなんでもネタだよね?
704人間七七四年:2013/10/05(土) 11:13:54.26 ID:B1BEBckT
菅沼遼太は檻付きの病院でお薬貰ってこい
705人間七七四年:2013/10/16(水) 01:52:36.02 ID:c4Mae1cQ
伏見に秀吉が貯めこんでた金銀ってどうなったんだ?
家康が伏見に移動した時にパクったのかね?
706人間七七四年:2013/10/18(金) 12:07:55.78 ID:S7OV0F3K
豊臣政権レベルの財政能力ある者も家内改革も出来てない
旧体制のままの毛利は効率が悪く秀次や如水から朝鮮出兵費用の大借金をしてる。
政宗や忠興も秀次や如水から大借金してるな。
細川も借金があると言われてるが、秀次からの借金は家康が肩代わりして払ったから
秀次事件に巻き添えにならずに済んだし、七将クーデターの後に忠興に
家康は太閤蔵入地の代官早川長政の管理下の杵築6万石を勝手に忠興に加増して財政を助けてる。
関が原後に豊前と豊後中津などを加増されて来た忠興は再検地をしない緩やかな統治をしていたら
九州で飢饉が起こったりで忠興は借金したり茶器を売ったりして農民救済に宛てた。
そのために検地の鬼だった筑前福岡の黒田家から細川家へ農民の逃亡が相次い仲違いすることになる。後藤又兵衛の件もあるが・・・
(長政が中津城から兵糧を全部もって福岡へ移った為に、忠興が空の倉庫を見て激怒し
博多へ行く船を襲撃準備を開始したって言うから、上杉と堀の言い分もそもそもはっきりした
決まりがないんだろうな。蒲生も上杉と同じことをやったらしいし)
707人間七七四年:2013/10/18(金) 20:55:13.63 ID:qvAGBNhb
七将クーデター???(笑
708人間七七四年:2013/10/19(土) 07:49:46.15 ID:lpeOw1bn
襲撃後、三成が持っていた権力を七将が得たわけではないので
クーデターには該当しません。
709人間七七四年:2013/10/19(土) 09:00:27.62 ID:Hd5tK14q
知名度高い歴史用語にまで難癖つけるアホ自演w
710人間七七四年:2013/10/19(土) 11:40:37.81 ID:H/4Bm5me
なんにでもケチをつけてまわり荒らし行為を喜ぶ典型的バカ
711人間七七四年:2013/10/19(土) 14:19:43.16 ID:lpeOw1bn
七将クーデターとやらが、歴史用語?
造語の間違いでは?
まずは日本語の意味から勉強しよう。
712人間七七四年:2013/10/20(日) 11:25:18.86 ID:MxpHV3ZI
>>706
そもそも借金に旧体制やらは全く関係ないし

単に毛利が気に食わないからいちゃもんつけたいだけだな
713人間七七四年:2013/10/20(日) 19:12:57.68 ID:1/d55fDP
襲撃という言葉で誤解されがちだが
七将は単に汚職疑惑を抱えている官僚に対して抗議デモをしていたに過ぎない
だから死人も負傷者も誰もいなかったわけ
武系の七人が本気で殺す気だったら死傷者がゼロであるはずがない
この抗議デモを受けて家康が筆頭大老として豊臣の名の下に汚職疑惑を抱えた官僚を解任しただけ
取り立てて騒ぐほどのことでもないよ
714人間七七四年:2013/10/20(日) 19:47:34.37 ID:Qrnkk9ss
>>713
はいはいキチガイ妄想小説をここで書かないでね。
715人間七七四年:2013/10/20(日) 20:14:51.55 ID:BDuc0UMT
毛利が関ヶ原の首謀者とか、三成が徳川派とか、南宮山では凍死者が出たという
妄想小説の事ですね(笑
716人間七七四年:2013/10/22(火) 01:29:15.03 ID:UWj6tenC
大阪冬の陣で関東方に凍死者が出たって言い張ってた奴がいたな。
717人間七七四年:2013/10/22(火) 11:58:41.94 ID:oaiflYh/
>>715>>716
このスレのどこに凍死者の話が出てるのか教えてくれ。
俺が調べたところ一切、そんなレスは見当たらないが、
お前は自演キチガイのアンチ秀吉の織田チョンかい?
718人間七七四年:2013/10/23(水) 00:06:24.41 ID:XfvFNlqS
なかった事にしたい過去なんだね〜
そりゃそうだ(笑
719人間七七四年:2013/10/30(水) 06:42:39.18 ID:D3ytCecB
どう考えても三成が19万石じゃ難しいよな。
せめて35万石くらいあれば・・・金吾の所領没収の時に
貰っていれば勝機はあった。
720人間七七四年:2013/10/31(木) 12:16:08.60 ID:nVFlm2md
羽柴関白家ー武家清華家ー公家成国持大名ー諸大夫成豊臣・徳川大小名

天正14年は下記の通り。
関白・太政大臣(内大臣から昇任) 豊臣秀吉
権大納言 織田信雄(正三位→従二位)
     足利義昭(従三位)
権中納言 徳川家康(参議から昇任)
     豊臣秀長(  同   )
参議   豊臣秀次
武家公卿は以上。公卿補任を見れば分かるよ。



武家關白家
羽柴本家:關白秀吉、關白秀次、右大臣秀頼

武家清華
織田(羽柴大野)家:内大臣信雄、宰相秀雄
羽柴武藏(江戸)家:内大臣家康、中納言秀忠

羽柴大和家:大納言秀長、中納言秀保
羽柴加賀家:大納言利家、中納言利長

羽柴近江→尾張家:中納言秀次(→關白家へ)
羽柴備前家:中納言秀家
羽柴越後→會津家:中納言景勝
羽柴安藝家:中納言輝元、宰相秀元(→廢嫡)
羽柴筑前家:中納言隆景、中納言秀秋

武家清華の可能性あり 羽柴會津家:宰相氏郷
721人間七七四年:2013/11/01(金) 12:23:19.78 ID:c6dvUPOx
さらに慶長3年9月は下記の通り。

関白 空位

太政大臣 空位
左大臣 空位
右大臣 空位
内大臣 徳川家康

大納言 前田利家
中納言 徳川秀忠 小早川秀秋 宇喜多秀家 毛利輝元 上杉景勝 豊臣秀頼
722人間七七四年:2013/11/01(金) 22:25:04.85 ID:0mEAzJe1
皆さんはこれらの人が人殺しであることを忘れてますね。
723人間七七四年:2013/11/02(土) 11:20:19.20 ID:W0XbjRyj
だから?
罪もない平民ならいざ知らず、敵は殺してなんぼでしょ
懐柔できなきゃ自分が殺されるんだから
724人間七七四年:2013/11/08(金) 20:15:39.87 ID:+376ZtNr
ここでの西軍は「毛利輝元+宇喜多秀家の2大老に+αで石田三成(と上杉)」っていう認識で良いんだよね?
関ヶ原の戦いが「豊臣政権における内紛」って事であれば。
725人間七七四年:2013/11/09(土) 10:02:04.29 ID:NPD/gLnK
いや、スレタイでは合戦と言ってるので、本戦の勝利を指すと思われる。
726人間七七四年:2013/11/09(土) 12:32:49.59 ID:RStdaQYc
本戦というなら西軍は実質は宇喜多秀家しかいないことになるな
石田三成は奉行をクビにされており公式には復帰していない
後はせいぜい長束が奥深くで傍観していたくらいか
727人間七七四年:2013/11/09(土) 15:00:38.43 ID:8oMm/+MX
いや、関が原の合戦本戦で勝たせるのは無理っつーか不可能だろう?
どうやったら西軍が勝てたかって議論だろ?あるいは、どうやって関が原合戦まで
持っていけば勝てたかっていう仮定の状況を考察するスレ。
728人間七七四年:2013/11/09(土) 15:41:37.98 ID:fAu0i0cU
豊臣家のポジションは人によって別れているな
729人間七七四年:2013/11/09(土) 19:31:36.58 ID:RStdaQYc
>>727
家康側には西軍諸将に対する交渉チャンネルがあるが
三成側には東軍諸将に対する交渉チャンネルがないのが痛いな

交渉チャンネルがなければ敵軍の内部情報の得られにくいし
なにより敵全体と全面決戦する戦略しかなくなる
十万の大軍と全面決戦なんてゲームじゃあるまいし現実の諸大名が嫌がるのも当然だろう
家康は交渉チャンネルを駆使して戦う相手を1/3に抑えたからこそ短期で勝てたわけだし
東軍が一方的に西軍を調略し続ける以上は本戦とか関ヶ原に持ち込む過程とか以前の段階だと思うよ
730人間七七四年:2013/11/09(土) 19:40:58.40 ID:MhWMRcu7
人質とってるんだしそっからのルートがあるだろ
731人間七七四年:2013/11/09(土) 21:13:05.60 ID:RStdaQYc
確かにガラシャを自害させて東軍の士気を高めたり
山内の妻から家康に対して西軍の内情を知らせる手紙を出したり
人質ルートが大活躍しているよね
732人間七七四年:2013/11/10(日) 12:53:33.01 ID:8WN4k8Pb
人質の効果って、どれ位のもんだと思う?
俺は、家が立つか立たぬかの瀬戸際では、そんなに効果は無いと思うんだよね。
特に女房なんて、また貰えばいいじゃん?って考えの奴が多いよ。
秀吉に自分の女房まで差し出した小大名が沢山いたのを見てもそれがわかる。
733人間七七四年:2013/11/10(日) 21:54:07.37 ID:BETwu6Og
人質についてはむしろ逆効果だったと思うよ
内府ちかひの条々では家康が前田から人質を取ったことを非難しているけど
その自分達は豊臣の代表者だから大坂の人質は東西関係なく全部俺達の管理物にするとか言い出す
やってることが家康よりも悪質だってことに気付かない
家康だって大坂の人質に手を出すことはしていないのに
結局これで東軍大名の怒りを買う羽目になった
734人間七七四年:2013/11/11(月) 23:26:30.28 ID:JxpUsVj0
官僚に軍事は無理の見本だな三成は
735人間七七四年:2013/11/13(水) 10:30:00.01 ID:z3ZcsQTC
人質は重要だろ。
美濃の国衆が西軍から東軍へ離反したのは
人質に断固とした処置を取らないからだって
三成も増田に文句言ってるし。
細川は下手打ったが、黒田とか加藤とか、上杉征伐に出発前に
脱出策の手段を作っていてうまいとこ人質を大坂から脱出させてるし。
大坂方が失敗したのは人質を逃がしてしまったからじゃねーの?
前田家だって母が家康の人質になってるからって
旗色を鮮明にできないだけっていい訳できるネタになってしまったし。
736人間七七四年:2013/11/13(水) 21:18:35.61 ID:QkldkkI0
殺し合いを知的ゲームみたく思ってる感覚が気持ち悪いわ。
737人間七七四年:2013/11/14(木) 00:47:03.83 ID:i378d9M9
>>735
人質というと生殺与奪が自由自在というイメージを抱きがちだが
大名間の人質は生かしてもらえるという信頼があって始めて意味がある
ちょっと機嫌が悪くなったら殺しかねない奴では危険すぎて人質を預ける意味もなくなってしまう
西軍のやり方だと強盗や誘拐犯が人質を取るのと同レベルに落ちてしまう
三成は急ぎすぎて諸大名から生かしてもらえるという信頼を得る努力を怠ってしまったのが痛い
738人間七七四年:2013/11/14(木) 19:09:05.91 ID:1erHHMC1
>>737
お前の妄想は聞いてない。くだらねー作り話をここに書くな。
739人間七七四年:2013/11/14(木) 22:36:59.93 ID:i378d9M9
三成を貶されたのがそんなに悔しかったのか?
740人間七七四年:2013/11/15(金) 12:13:26.58 ID:4tpy/m2e
>>737>>739
で、あなたが主張していることの根拠となる一次史料のソースは?
そもそも、あなたが主張するように
大名間の人質は生かしてもらえるという信頼があるなら
武断派は西軍挙兵時に、人質を大坂から脱出させる行動を取る必要はないのでは?
なぜなら大坂から人質を逃がすのは明白な豊臣秀頼への反逆行為に他ならないのだから
殺されない信用があるなら、逃がす必要性が皆無でしょう。
741人間七七四年:2013/11/15(金) 13:03:44.48 ID:kPfsDPAL
>そもそも、あなたが主張するように
>大名間の人質は生かしてもらえるという信頼があるなら

だから三成にはそれがないと言っているんだろ
武断派からすれば三成は人質を生かしてもらえる信用がない危険人物
武断派の妻子など皆殺しにしようと言いかねないと見做されたから脱出させたんだろ
一次史料以前にガラシャの自害や加藤・黒田の脱出劇こそ最高のソースだろう
別に三成自身に殺戮する意思があるかではなくて武断派の人物評価の問題に過ぎない


>なぜなら大坂から人質を逃がすのは明白な豊臣秀頼への反逆行為に他ならないのだから

そもそも大坂の人質は秀頼への人質であって三成への人質じゃない
三成が豊臣の名を騙って秀頼の人質に手出しをしたことこそが秀頼への反逆行為に他ならない


>殺されない信用があるなら、逃がす必要性が皆無でしょう。

君の言うとおりで殺されない信用がないから三成から逃がす必要があったんだよ
現に家康が抱えている人質は決死の脱出なんて考えてもいない
例えば利政が西軍に付いたとまつが聞いたところで自害や脱出を考える必要はないわけ
家康がそんな短絡的な人間ではないという信用があったから慌てて危険を冒す必要性が皆無だった

俺が間違っているというなら武断派が三成を信用していたとかいう一次史料を教えてくれ
742人間七七四年:2013/11/15(金) 15:13:59.16 ID:4tpy/m2e
>>741
お前はも根拠のない妄想話しかできないのか?
そもそも三成は人質を捕らえようとしたことはないし
三成が人質を管理していたわけでもない。
それなのに、なんでも三成が悪いと言いたいために
悪意で話をでっち上げてるだけじゃないか。
反論あるなら一次史料の根拠を出せ。
信長だって松永久通の子などを殺してるし
黒田長政だって、秀吉に殺すように命じてる。
人質は生かしてもらえるという信頼があるなら、なんで信長は殺したんだ?
743人間七七四年:2013/11/23(土) 16:36:38.55 ID:Er10mWzL
漫画とかゲームとかから入って
パターン化したキャラでしか捉えられないなんちゃって歴史マニアにはままある分析だから気にするな
744人間七七四年:2013/11/24(日) 20:50:41.16 ID:dUpMo94t
グーグルマップで関が原を見ると三成の布陣がいかに完璧だったかがわかる
南宮山の毛利軍が中山道に突っ込めば、小早川の裏切りとか関係なく楽勝だったはず
よって西軍最大の戦犯は吉川広家。こいつを事前に暗殺しておけばよかった
745人間七七四年:2013/11/24(日) 21:24:01.24 ID:jrZbVcfx
上方大名の半分がいたから無理
746人間七七四年:2013/11/24(日) 23:26:09.72 ID:IVBGpUw9
吉川いないと毛利軍を統率する人がいなくなるんですが
もし暗殺するなら関ヶ原に布陣するずっと前にやって軍の態勢を再構築しないと
747人間七七四年:2013/11/26(火) 16:16:51.38 ID:jQ0hGp8e
毛利秀元・・・・
748人間七七四年:2013/11/29(金) 12:48:08.48 ID:kDEH8Sq8
地図を裏返して透視すれば西側のやつらが勝ったことになるんじゃないかな
749人間七七四年:2013/11/30(土) 11:29:20.82 ID:Tsn7lCNy
>>744
本当に南宮山の勢力がやる気満々だったら吉川一人ではどうこうできないよ
毛利軍を含めて南宮山の勢力の大半に戦う気がなかったのが事実だろう
戦後に言い訳のため吉川に罪を被せただけだ
750人間七七四年:2013/11/30(土) 14:51:07.24 ID:x6Jz0QuM
小早川秀秋がそもそも参陣しないか毛利輝元が間に合ったか

後者はやる気満々だったけど、日和見を続けるつもりなら最初から居ない方が良かったね
751人間七七四年:2013/12/01(日) 00:06:00.24 ID:mBpD79sv
戦術云々の前に秀頼を出陣させるだけで勝ちだろ
千成瓢箪の馬印を押し出せば恩顧連中は目が覚める
752人間七七四年:2013/12/01(日) 00:42:24.20 ID:LEYcDt8r
金すらくれない秀頼が出陣してくれるのかと(ry
753人間七七四年:2013/12/01(日) 01:03:09.98 ID:BCTWtbSZ
おのれ三成、秀頼様まで利用しおって!!(激怒)
754人間七七四年:2013/12/01(日) 09:49:01.39 ID:QeOekMcb
その場は何とかおさめられても後々、幼君を盾にしとるって敵味方に不満続出でフルボッコにされそうね下手うつと
755人間七七四年:2013/12/01(日) 10:06:10.30 ID:9yIX1sd1
秀頼が出陣したところで実際の使い道は三成の人質以外にはないわけで
秀頼を三成の人質に差し出すなんて誰の権限でも決定できないことだろ
というか決定できるならそもそも徳川と戦う意味がなくなる
秀頼を徳川に人質として差し出せばいいだけだから
目的と手段が入れかわっている本末転倒のいい見本だろう
756人間七七四年:2013/12/01(日) 23:56:32.52 ID:yZ28Mlu9
現場の大将の格が大きく見劣りするのに
拮抗した兵力で決戦したのが本質的な敗因なのだから
秀頼云々というIFが語られるのは自然の流れ
ただ、それに現実味がないと分かってたから
大谷吉継は三成を諌めたんだろうよ
757人間七七四年:2013/12/02(月) 04:25:50.98 ID:xux1rsM+
秀頼が出陣したらってifは小説の話しだろう?
現実にそんな話しがあったって史料あんの?
758人間七七四年:2013/12/02(月) 04:28:15.68 ID:xux1rsM+
ほんっと空想の話しだが、俺が戦国自衛隊のように戦国時代に流されて
秀吉に豊臣守ってくれって言われたら、100万石くらいくれないと無理だし
更に秀吉の死後、家康が天下取りに乗り出したら、豊臣の金銀を対徳川に好きに
使って良いって条件なら勝てるよ。
759人間七七四年:2013/12/02(月) 08:11:32.02 ID:pxPHA+7X
介入した時点そこから先は未知の世界

つまり100万石だろうと200万石だろうとここいらの輩じゃ無理
760人間七七四年:2013/12/08(日) 11:26:01.77 ID:/dFPKUmX
関が原うんぬんよりも、なんつーか誰かにとって都合よく人が死んだものだ、と思う
それが歴史の流れと言われればそれまでなんだけど

秀長死んで、鶴松死んで、秀勝死んで、秀保死んで、秀次死んで
秀長が死んでいなければ、大和豊臣家が健在で養嗣子に秀保がいて、婿に毛利秀元がいる
鶴松が死んでいなければ、秀吉死亡時には満年齢でほぼ10歳
秀勝が死んでいなければ、美濃一国は丸々豊臣家
秀保が死んでいなければ、大和豊臣家が健在で配下に藤堂高虎などがいる
秀頼が生まれていなければ、秀次は死んでいない
761人間七七四年:2013/12/08(日) 12:02:50.68 ID:DsJlEpTX
>>758
俺でもわかることは
>百万石くれたら
もらった百万石じゃ戦えない。
そういう発想しか出来ないんじゃ勝てない
>豊臣の金銀
関ヶ原の結果を知ってるから対徳川しか考えて無いんだろうけど、
秀吉存命中にそんな事を想定出来ない。
柴田を裏切って寝返った前田
裏切りが当たり前の直家の息子
何を考えてるのか分からん毛利
基地外伊達
何気に、一番実直なのが徳川だったんじゃないだろうか

知恵や金でなんとかなる問題の域は越えてる
762人間七七四年:2013/12/08(日) 12:38:33.00 ID:pQeoylOs
後世の視点だと豊臣の敵は徳川ただ一人という発想になりがちだが
秀吉からすれば徳川だけが豊臣の敵という状況ではなかった
前田はそもそも寝返り組であり
毛利・上杉は少し前まで敵だった
宇喜多は親父が乗っ取りの常習犯
石田についても奸臣であるという訴えが出ている
はっきり言って大老・奉行は全員潜在的な敵でもあるんだよね
763人間七七四年:2013/12/08(日) 13:11:19.85 ID:apIYdENd
>>762
むしろ半分身内みたいな徳川の方が信頼できたかも知れない
764人間七七四年:2013/12/08(日) 17:55:26.19 ID:dVoVpmBD
>>676
島津家は朝鮮出兵を通じて小西配下として戦っており
関が原でも小西とともに西軍に参加している。
そして関が原後になって、島津は言い訳を考える必要が生まれた。
そこで10/7には近衛家の斡旋を受け、家康への申し開きを実現させ、
10/16には義久と忠恒(義弘の息子で島津家次期当主)が連盟で、
関が原以前から小西の権力奪取のために家康が小西から奪って
新たな九州取次ぎにしていた寺沢正成へ申し開きの書状を出した。
そこには島津が西軍に参加したのは義弘個人の独断であって、
島津本家はまったく知らなかったと開き直っていた。
そのためにも、上杉宛島津義弘書状と言う偽書状を作っておく必要性が生まれたのだろう。
こうやって言い訳をして責任逃れの工作をしている最中に宇喜多秀家を島津は匿うのだから。
一方、義弘も保身のための工作を11/4には開始した。
黒田長政に対して、義弘は何もしらなかったが、秀頼様の為と言われて何も疑問に思わず従っただけだと。
この義弘の土下座を知った家康は官兵衛に11/12に島津征伐の中止を命じた。
この中止命令に怒ったのは清正である。
清正は11/25には本多宛に、義久と忠恒はウソを言ってると主張し、
清正が小西の宇土城を攻撃している背後で佐敷城を島津軍が攻めたことを証拠に挙げた。
しかし清正と官兵衛が九州全域平定することは家康にとって歓迎できない事態であった。
765人間七七四年:2013/12/08(日) 20:22:11.81 ID:4erKU5A7
毛利や上杉は織田と敵対してただけであって秀吉に対しては非常に友好的で
政権に大きく貢献したじゃん。
宇喜多に関しては直家死後八郎が秀吉の手の元にあり、本能寺の変前ですら羽柴領との一体化が進められていた程
豊臣に近く、小牧長久手の頃も実際に援軍を出している。
石田が奸臣?
いやいや豊臣家のために外様大名の蔵入り地削ったり家康の専横に対して大老衆や奉行衆で結託して内府たがい条書いたりして
政権の維持存続に最も貢献した忠心中の忠心じゃん。
766人間七七四年:2013/12/08(日) 20:31:53.12 ID:h0atuFTK
妹婿といっても家康は所詮は外様中の外様。
元々自分の部下でもなく関係性が非常に希薄な人間に妹やったり人質とったりしても急に関係が埋まるわけでもない
尾張一国時代の頃からのたくさんいる子飼い連中や長浜衆とか秀吉叩き上げ系か
秀次系列か秀長か秀勝系列の人間に大封やりゃよかっただけ
毛利は自分から進んで秀吉に従ったんだろ
本能寺の変の時とかみれば端から戦意なしだし小牧長久手では秀吉方で援軍まで送ってるし
家康に240万石やるくらいなら毛利とか宇喜多とかのがまだ信頼できそうだ。
執拗に取り成しを繰り返しても中々従わなかった家康と違って毛利なんて本能寺後早々から秀吉の犬になって
銀山の利権なり備中での領土折衝など譲歩しまくってる程だし
一応家康の暴挙に対して総大将として積極的に決起を行ってるし
767人間七七四年:2013/12/08(日) 20:44:41.17 ID:g82hMHPO
毛利や上杉や真田や宇喜多といった外様系連中は悉く親秀吉で家康と違い秀吉の天下取りに早くから大いに貢献した存在だが
その中で最も巨大な版図を有する毛利一族は
小早川が親秀吉で、完全に飼い犬状態だったのに対して毛利輝元は自分の意思をろくに決定もできないような馬鹿だったから
西軍につき総大将として決起を行った後もどうでもいい方向に戦力を分散させて攻めたり奉行衆らの要請も無視しまくって
家康の西上後も大阪から動かなかったりどうしようもないアホで、西軍はその中で中核の軍隊が使い物にならず
見事に大敗した。もう少しまともな指揮官が大将だったら西軍は間違いなく勝利しており、家康の天下はなかった。
768人間七七四年:2013/12/08(日) 20:47:06.55 ID:xhiT3hil
毛利や徳川に大版図やらずに最も頼りになる石田や小西や宇喜多あたりに大版図やればよかったのに。
そうすりゃ奸臣がいても、軍事力で無理矢理たたきだせるし、忠心の石田らがサポートして秀頼成人までなんとかなる
769人間七七四年:2013/12/08(日) 20:48:50.45 ID:Wlj++miK
三成は家康の旗・馬印が赤坂に昇るまで気付きませんでした
770人間七七四年:2013/12/08(日) 21:20:48.88 ID:PNL0vc90
マトモな戦功も無い三成や小西に何処かを削って大領を与えたりしたら不満が続出して最終的に袋叩きだろうな
大領得た事で三成らが勘違いして天下取りに動き出す可能性もあるし
771人間七七四年:2013/12/08(日) 21:51:00.66 ID:sAnvpNI4
外様が悉く親秀吉、って淀君並みのお花畑思考だな
772人間七七四年:2013/12/08(日) 21:52:58.09 ID:hczSfUJE
秀吉がもっと早く子作りをしていれば…
773人間七七四年:2013/12/08(日) 22:46:51.17 ID:pQeoylOs
>>768
石田や小西や宇喜多に大版図を与えるために始めたのが朝鮮出兵だろ
それに失敗したから戦略を転換して徳川を筆頭に既存の大大名を政権中枢に招聘する体制になった
失敗を犯した石田や小西や宇喜多が徳川を非難する権利なんかないんだよね
文句があるなら朝鮮出兵を成功させればよかっただけと言われれば反論のしようがない
774人間七七四年:2013/12/08(日) 23:23:51.95 ID:2MbhMXKX
三成や小西らがまともな功責ないとかアホですか。
豊臣の兵站管理や物資調達など一身に担ってた奉行そのものなのに
775人間七七四年:2013/12/08(日) 23:30:28.35 ID:lHB13XgG
>>771
お花畑なのはお前のウンコ脳。
毛利…織田に敵対してただけで秀吉は初期から非常に協力的で小牧長久手でも援軍送ってる
四国征伐九州征伐朝鮮出兵など豊臣の戦争で常に豊臣に貢献してる
宇喜多…本能寺以前ですら秀吉領との一体化が進められ、八郎を秀吉が直接握っているほど。
本能寺後は完全な属国。援軍(というより豊臣直轄軍)もだしまくってる
上杉…本能寺後早くから親秀吉で、信濃や越中など秀吉の要請に応えて出兵しまくってる。
秀吉の命令で敵にあたる新発田攻めやめたりもしてる。天正12年戦役や徳川の上田攻め、北条の沼田攻め、小田原合戦、伊達の会津侵攻など
豊臣の戦争で貢献しまくっている。
真田…本能寺後しばらくして秀吉に恭順。関ヶ原でも西軍について反徳川で戦争する。大阪の陣でも西軍。
776人間七七四年:2013/12/08(日) 23:33:29.28 ID:H48uwwvO
実際史実で家康に味方して豊臣崩壊を担ったのは三成にくしで凝り固まってた豊臣武功派とか
馬鹿な連中だけじゃん。
前田も浅野も家康の示威行動でビビリまくってヘタレ降伏したけど別に豊臣に牙は向いていないよ。
結局の所家康が専横しまくり私婚の連続だの豊臣政権崩壊を全力でやったから
空中分解しただけじゃん。
777人間七七四年:2013/12/08(日) 23:35:28.17 ID:PgEPxCqx
豊臣最大の忠臣であり、豊臣の戦争の兵站管理や物資調達、恩賞問題や外様の領土の過度の恩賞の抑えや
豊臣蔵入り地の増加など、政権を維持する事に全力で努めた三成が奸臣とか功責がないとか相当馬鹿だな。
778人間七七四年:2013/12/08(日) 23:38:35.06 ID:g82hMHPO
三成は明への侵攻について
「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
これが秀吉の信用を得ていった理由だろう。
また筑前筑後の小早川領をやると言われた時には三成は反対し、
それらの領地を豊臣政権の財政基盤のため蔵入地にしてしまうなど、
当時の豊臣恩顧大名の領土欲とは正反対の志向を持っていた。

秀吉にも怒りを買うのを恐れず意見し、領土欲もない。
これが秀吉には唯々諾々と従い、強欲に領地を欲した武断派と相容れないところだったんだろう。
779人間七七四年:2013/12/08(日) 23:39:37.78 ID:h0atuFTK
当時の日本軍の北上はうまく行き過ぎて楽観論で支配されていた。
蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。

そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。
780人間七七四年:2013/12/08(日) 23:40:44.63 ID:17q9hdfn
三成が統治していた地域にはかなり三成が発給した行政文書が残ってるんだよな。
よほど三成の統治は喜ばれていたからこそ大事に保管されてるんだろうな。
千石に1人の賦役とちゃんと決まってたし、それ以上が必要になった場合は飯米を給金して補償だし、
土地の耕作権は未来永劫、検地帳に書いた氏の者であり、奪われることがない保証もあるし、
百姓が迷惑することがあれば、取次は一切なく三成へ直接、訴訟できる目安による救済制度もある。
これほどよい領主はいないだろうね。
781人間七七四年:2013/12/08(日) 23:45:06.87 ID:qrXPsEmE
そもそも朝鮮出兵が三成ら奉行の領土を増やすためとか
朝鮮出兵の失敗が三成ら奉行衆のせいだとか根拠がわからん。
782人間七七四年:2013/12/08(日) 23:48:11.96 ID:aNQA9Xux
尾張系武功派連中は馬鹿すぎて話にならん。
近江系とか奉行系列やそれに近い連中に100万石クラスの土地を連発してやってたら
まずこんな悲惨な事態にはならなかった。
三成にくしで恩を受けた豊臣をあっさり見捨てて家康の犬に成り下がる奸臣連中は政権には初めから不要だろう。
783人間七七四年:2013/12/08(日) 23:52:17.76 ID:HLKLMQYI
三成アンチは相当馬鹿だから根拠も全くなく三成を奸臣だの無能だの
豊臣政権で果たした役割の多さも全く知らず、醜態さらしてる戦国スレの廃棄物だからね
784人間七七四年:2013/12/09(月) 07:36:50.89 ID:Ztvop/iJ
スゲェw
785人間七七四年:2013/12/09(月) 09:24:54.87 ID:Nxbyy9Ll
そもそも秀吉をサポートするはずの奉行衆があまりに無能であったために
関白は空位となり海外遠征も泥沼化して収拾不能になったから
助っ人として家康が筆頭大老として招聘されたわけだからな
奉行衆が有能な忠臣だったら家康が筆頭大老になること自体がなかったわけ
武断派からすれば奉行衆は無能なくせに地位にしがみつくことだけに異常な執念を燃やしている連中だから
奸臣として排斥せざるを得なかったという背景がある
ただ家康と戦ったから忠臣として称賛するというのは短絡的で意味のないことだよ
786人間七七四年:2013/12/09(月) 09:53:04.72 ID:3UN7rGsu
>そもそも秀吉をサポートするはずの奉行衆があまりに無能であったために
>関白は空位となり海外遠征も泥沼化して収拾不能になったから

何それ?いつものお前の妄想?
787人間七七四年:2013/12/09(月) 10:52:11.97 ID:uevqLUWi
五奉行の兵站能力は凄いという評価があるが、同レベルのことは
徳川家の数千石クラスの奉行がそつなくこなしていると思う
788人間七七四年:2013/12/09(月) 14:03:09.88 ID:uX719id7
>>764
鹿児島県民「島津は家康に強気に出て、
決戦するつもりで謝罪すらしなかったので、
家康も恐れて有耶無耶にして島津を許したんだ!
まぁ井伊直政に致命傷を与え、
敵中突破した島津に家康が恐怖した結果だよな」
789人間七七四年:2013/12/09(月) 14:15:57.23 ID:Nxbyy9Ll
>>786
現実に奉行衆は朝鮮での講和にも失敗し秀次と秀吉の取り成しにも失敗している
これでは現場で働く諸大名から無能な奸臣という烙印を押されても仕方がない
しかも無能なだけならまだしも態度は傲慢で度重なるトラブルを起こしても反省もしない
奉行衆は豊臣を蝕む癌細胞であり除去するのは避けられないことだった

それに家康が筆頭大老に任命されたのは奉行衆が役立たずで政権が立ち行かなくなったからであり
有能な忠臣だったら家康を筆頭大老に任命する必要もなく政権交代も発生しなかったわけだから
家康に立ち向かったことなんて評価の対象にもならない
しかも立ち向かっただけで半日で瞬殺されて家康に莫大な権力をプレゼントしたわけだから
むしろ豊臣に害悪をもたらした以外に何の結論も導けないだろ
790人間七七四年:2013/12/09(月) 15:10:48.04 ID:HonsSIHP
>>789
ぼくのかんがえた
ぐんき
しょうせつ乙w
791人間七七四年:2013/12/09(月) 15:55:49.57 ID:jyujQMRw
すげー過疎ってたスレに、突如湧き出した三成信者(笑
この違和感が笑える。
792人間七七四年:2013/12/09(月) 18:06:23.76 ID:Ztvop/iJ
>>788
嘘と言える程の確証は無い
基地外の有り難がる一次資料にしても島津対徳川がチキンレースをやったかどうかは闇だし

結果として、鎌倉以来の名門島津は生き残り明治維新に存在感を示した。
793人間七七四年:2013/12/09(月) 19:05:47.54 ID:Nxbyy9Ll
>>782
三成憎しという言葉で武断派の行動が過小評価されてしまっているのは問題だな
三成が現場をメチャメチャに混乱させる問題児だから現場から最低の評価を受けているのに
単に武断派が好き嫌いの感情で動いているかのように思われ問題の本質が覆い隠されてしまった
おかげで関ヶ原に三成を置くという武断派の意見を聞いていれば絶対に有り得ない失策を犯し
西軍のほとんどが戦闘を放棄するという前代未聞の内部崩壊で瞬殺される羽目になった
せめて武断派の意見を聞いて三成に西軍を指揮させなければ勝つチャンスは十分にあったのに
794人間七七四年:2013/12/09(月) 19:33:13.77 ID:J/m3uB8v
>>793
全く根拠ゼロの話を垂れ流すなよ。
私小説ならチラシ裏に書け。
795人間七七四年:2013/12/09(月) 21:01:52.13 ID:Nxbyy9Ll
三成が嫌われていたのも西軍の内部崩壊も全て否定しようがない事実なのに
三成信者は仮想戦記ばかり読みすぎて現実の歴史が分からなくなったのか
796人間七七四年:2013/12/09(月) 21:09:38.81 ID:Ztvop/iJ
>>793
物語的にはその方が面白いんだが
そこまで細川忠興や加藤清正が馬鹿とでも?

利権争いに決まってる。
平たくいえば公金横領。
そうでもなけりゃ、近江の半国しか持たない成り上がりが、主力ともいえる人数を引き連れて戦争出来る筈がない。

豊臣の公金に手を突っ込んだのが石田だけじゃなかったから、大方資料から抹殺したのを
石田三成フリークスが理解出来ないだけ
797人間七七四年:2013/12/09(月) 22:46:58.77 ID:3UN7rGsu
なんにしろ武断派が個人的感情で家康に利用されまくり主家を結果として崩壊させた豊臣随一の奸臣なのは間違いない。
豊臣武功派みたいな馬鹿を20万石だの厚遇するなら最も頼りになる石田や小西や大谷などに大領やればよかったのにな
798人間七七四年:2013/12/09(月) 23:17:25.79 ID:3UN7rGsu
>>三成が現場をメチャメチャに混乱させる問題児

何それ?具体的にどんな事をソースつきでよろしく。

>>現場から最低の評価を受けている

全く受けてないでしょ。

>>単に武断派が好き嫌いの感情で動いているかのように思われ

いやだって武断派が家康に味方するの三成にくしで凝り固まってたからじゃん。
石田三成襲撃事件でもそれはわかるし。

>>問題の本質が覆い隠されてしまった

問題の本質って?

>>関ヶ原に三成を置くという武断派の意見を聞いていれば絶対に有り得ない失策

何がいいたいのかわからん。武断派の意見って?
「三成を置く」って誰が置いたんだ?それでそれのどこが失策。

>>西軍のほとんどが戦闘を放棄するという前代未聞の内部崩壊

西軍のほとんども糞も主力を率いてた毛利一派は無能すぎて使い物にならなかっただけじゃん。

>>せめて武断派の意見を聞いて三成に西軍を指揮させなければ

いつ武断派がそんな事を?
そしてなぜ敵であるはずの西軍に対してそんな事を言ったの?

>>勝つチャンスは十分にあった

それは同意。毛利が馬鹿すぎなければ、普通に勝てた戦い。
799人間七七四年:2013/12/09(月) 23:20:13.53 ID:fXVKgosQ
>>789
全文に渡って具体的な事例や、三成らが無能という解説や、失態とやらの責任が三成の物であるという根拠や、
一つ一つの事例に関する史料や論文を用いた解説を求む。
800人間七七四年:2013/12/09(月) 23:25:44.13 ID:ZdDWT3fI
三成ファンが発狂していると聞いて
801人間七七四年:2013/12/09(月) 23:29:27.14 ID:jyujQMRw
自演バレバレですけど。
ツッコミどころ満載のレスを自ら仕立てて、『一次史料出せ』(笑
802人間七七四年:2013/12/10(火) 04:30:43.28 ID:HdMOPh66
目撃者が生存していないので断言できないですが
小早川が西軍からの寝返り軍だと思っている方は
関ヶ原素人だと思います、小早川が松尾山に着陣した時に
西軍を追っ払ったんですよね どけー どけーと松尾を占領したんです
私の予想では小早川は最初から東軍だったと思います
803人間七七四年:2013/12/10(火) 08:40:00.59 ID:yd7QScFW
味方同士で良い乳奪い合いの争いはよくあることだからなぁ
804人間七七四年:2013/12/10(火) 09:54:28.03 ID:Y/rJ2MNy
>>802
それ稲葉家譜に書いてる捏造話で、
大谷が秀秋を暗殺しようと何度も試みたりと
一次史料には全くない。
805人間七七四年:2013/12/10(火) 21:33:46.46 ID:jVKlQyRs
小早川は三成から関白にしてやるなどと言われたからな
こんな非現実的な恩賞を提示されたら不信感を募らせるのは当然だろう
だいたい関白にしてやるとか豊臣を乗っ取りますと公言しているも同然であり
これで小早川には三成を討つしか選択肢がなくなってしまった
小早川の行動は寝返りでもなんでもない
806人間七七四年:2013/12/10(火) 22:16:39.01 ID:26rZJ4n1
>>805
それは関ヶ原大成っていう軍記にしか出てこないネタだ。
好い加減、少しは調べてから書けよキチガイ在日。
807人間七七四年:2013/12/10(火) 22:23:49.97 ID:wP5fM+66
>>806
関白にするとかの話は、『関原始末記』等に記載された三成・秀家等の連署からだよ
現物ではないから疑問視はされているけど
808人間七七四年:2013/12/10(火) 23:04:15.24 ID:jVKlQyRs
三成に都合の悪いことは何でも捏造というのが三成信者の決まり文句だからなw
809人間七七四年:2013/12/10(火) 23:35:01.01 ID:tCtbIllv
関ヶ原軍記大成も関原始末記も、
幕府大老であった若狭小浜藩主酒井忠勝による
神君家康マンセー軍記編纂によって出来たもんだから、
出所元ネタは同じで偽文書なので信憑性は全くない。
直江と三成の共謀ネタもこれ。
810人間七七四年:2013/12/10(火) 23:44:25.21 ID:wP5fM+66
>>809
直江と三成の共謀は続武者物語だね
811人間七七四年:2013/12/11(水) 00:21:06.95 ID:V+ZD9TKl
アンチ秀吉の織田半島人くん良かったじゃないか。
利休にたずねよって映画が、
秀吉を貶しまくって、
朝鮮マンセーしてるって
見てきた人々が怒って騒いでるぞ。
812人間七七四年:2013/12/11(水) 01:33:18.50 ID:V9uFu6jQ
これか 
知人の両親が観にいったらしいけど
胸糞悪くなって途中で出てきたらしい
べつに保守でもウヨでもない普通のおじさんおばさん

684 名前:本当にあった怖い名無し [sage] :2013/12/09(月) 19:20:55.09 ID:KAaHFze60
利休の映画、ひどいな

118 名前:名無シネマ@上映中[] 投稿日:2013/12/09(月) 08:03:25.62 ID:fLuNskLT [1/5]
不愉快極まりない。まいったよ。
そもそも韓流のメロドラマなら最初からそう宣伝しろよ。
映画の内容を知らず、日本の美意識の一端を知ることができると期待したが、
これじゃ日本の美意識の起源は半島にありと日本人自らが言っているのと同じだよ。
利休が朝鮮のお姫様(しかも日本人により半島から拉致)と心中未遂したのは史実なのか?
外国にこんな与太映画だしやがって、韓国人を喜ばせてどうするよ。
ついでに、お姫様の口に合うように青年利休が唐辛子を沢山買い込むシーンがあるが、
朝鮮出兵の前のエピだから、お姫様、唐辛子喰ったことないぞ。

130 名前:名無シネマ@上映中[] 投稿日:2013/12/09(月) 11:33:23.27 ID:fLuNskLT [4/5]
名物はみな高麗製。それを秀吉が邪険に扱い、激高した弟子が手打ちにあう。
日本の職人が利休の目にかなうモノが焼けずにギブアップ。手本で見せられるのが高麗製の茶壺。
桜よりムクゲをヨイショ。
高麗のお姫様は日本人が拉致して日本に連行。
813人間七七四年:2013/12/11(水) 06:30:25.93 ID:PU2OVViy
>>809
出所以前に、直江と石田三成の共謀って時点で後世のでっち上げ臭が漂うんだが?
血統はグダグダにしても名家(もっと上?)上杉を生き残らせる為のスケープゴートだろ?
814人間七七四年:2013/12/13(金) 00:23:45.93 ID:8Uo+GETl
>>802
そもそも寝返りという表現自体がおかしいんだよな
まるで小早川が石田の下にいるかのような言い方だ
官位・石高・家格など全ての要素で小早川は石田よりも遥かに上であり
さらに北政所の甥として秀吉の養子になった小早川からすれば石田の方が家臣に等しい存在だ
そんな石田から偉そうに命令されて断れば裏切り扱いされる筋合いなど全くない
むしろ石田が秀吉に重用された時代をいつまでも引きずって増長をしていることが問題なわけ
815人間七七四年:2013/12/13(金) 01:21:57.81 ID:d42KT4Ek
そうだよなぁ。
総大将が毛利家であっても、小早川家としては言うこと聞く必要性なんか、全くないからな。
816人間七七四年:2013/12/13(金) 09:04:09.94 ID:4zWOuiHL
三成は秀秋にどうこう支持した事もないし、
小早川家は両川体制の一角なので養父の想いを尊重するのは道義的に正しい行動と思いますが。
だからこそ朝鮮出兵時から小早川の与力やってた筑後衆の立花や筑紫らも小早川に従って西軍に参加してるのだし、
特に黒田家に小早川所領は狙われて降伏した結果から見ても。
817人間七七四年:2013/12/13(金) 23:02:43.42 ID:gurKozqa
前田が無断で帰国したって一次史料はあるの? 
三壼記で家康に帰国を勧められたって書いてる以外に、 
帰国に関する話は知らなかったから教えて欲しい
そもそも加賀に帰国したことが批判されたのではなく、 
家康暗殺計画の首謀者が利長と言う理由で、 
なぜ領国にいて上坂しないのか? 
家康に計画がバレたから出て来れないんだろ? 
前田をかばった弁護した浅野長政はすでに逮捕したし、 
前田征伐決定だな! 
まずは越前に大谷養子と三成の軍勢を配置し前田の上洛を防げ。 
前田と協調して九州から攻めてくる清正を防ぐために淡路島にも兵力を置こう。 
はやく弁明のために前田は出頭しろや! 
こんな流れで完全に利長は上洛不可能に追い込まれているからな。 
前田側の弁明を聞く以前に前田征伐を発表して威圧してるし、 
上洛するにも三成1000を派遣し越前路を封鎖済。 
前田は家康の子を養子に金沢城と20万石を贈呈する約束までさせられて家康に土下座。 
家康は弁明を聞かずに恫喝し、 
土下座して屈服しないと申し開きを聞こうとしないし、 
上洛するのも暗殺を含めた命の危険が伴うものものしさ。

三成に続き浅野失脚により、 
人手が足らなくなり、 
家康により大谷が奉行に引き上げられたので、 
大谷が家康派なのは間違いない。 
島津と伊集院による庄内の乱や宇喜多家内の紛争解決などで大谷は調停したりしてるし。 
だから大谷と三成は反家康側では無いのよ。
818人間七七四年:2013/12/14(土) 08:35:13.68 ID:ULr0hlvo
本多隆成『徳川家康と関ヶ原の戦い』(吉川弘文館、2013年発行)

矢部健太郎『関ヶ原合戦と石田三成』(吉川弘文館、2013年発行)
819人間七七四年:2013/12/14(土) 09:22:07.76 ID:QwzqEJZ/
秀吉を祀る豊国神社を管理していて、
北政所とも親しかった吉田兼見の弟神龍院梵舜が関が原で討ち死にした西軍大谷吉継を同情的に描いている。
やはり豊臣家や朝廷や寺社は西軍寄りだったのは間違いない。
前田利家が秀吉の遺令を破ったと家康を糾弾して一触即発になった際に、
大谷は家康を守る為に馳せ参じているので、
大谷が家康派なのが明白だが、
なぜ大谷は西軍に参加する羽目になったのか超謎である。
820人間七七四年:2013/12/14(土) 10:11:43.25 ID:k+27TPTl
>>819
大谷吉継を同情的に書いたからって西軍よりなんて思ったんじゃ、国語のテスト0点だぞw
また、徳川襲撃が企画されたとしたら、確かに襲撃側は反徳川だが、防衛側だからって徳川派とは限らん
821人間七七四年:2013/12/14(土) 12:31:03.75 ID:5bZC70lb
西の丸には北政所の住居もあるから政治的に無縁ではないよ。
そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。

もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
822人間七七四年:2013/12/14(土) 12:36:13.19 ID:ctSD9UJx
>819 大谷にあっては
奉行VS武断派
近江VS尾張
みたいな対立構図に普通に巻き込まれているだけ。
他には家康VS他大老 諸々ある。
823人間七七四年:2013/12/14(土) 13:00:42.39 ID:5bZC70lb
白峰旬「関が原の戦いに関する再検討」 
加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので 
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり 
首謀者であったとみなされていた事を示している。
また景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても 
輝元が首謀者だったのは間違いない。 
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。 
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、 
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、 
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ 
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
824人間七七四年:2013/12/14(土) 13:25:25.14 ID:hirGqFNg
家康は超小身の三中老には逆切れしたが、
百万石にも満たなかった前田利家にはビビったヘタレ
825人間七七四年:2013/12/14(土) 13:34:51.73 ID:hirGqFNg
>>820>>822
おいアンチ秀吉の単発ID自演爆撃荒らしよ。
大谷が家康派じゃ無かったとする証拠を出せや!
826人間七七四年:2013/12/14(土) 13:54:06.80 ID:Wnh6w42N
>>823
輝元が総大将なんだから、輝元方と表記するのは当然でしょ。
首謀者かどうかとは関係ない。

白峰旬は、その著書においても、三成が首謀者だとしているよ。
嘘をつくのはやめよう。
827人間七七四年:2013/12/14(土) 14:01:42.30 ID:k+27TPTl
>>825
証拠も糞も不要だろ
徳川派も糞も、便宜的に西軍東軍と呼ばれる、陣営に別れて戦争したってだけのこと
徳川派だとか反徳川派とかメロドラマの見過ぎじゃねw
828人間七七四年:2013/12/14(土) 17:51:58.09 ID:ctSD9UJx
>>825
私は、べつに秀吉を嫌いじゃないよ
秀吉推しで短絡的な君には
「秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇」
を推薦したい。
829人間七七四年:2013/12/14(土) 21:49:52.81 ID:IFfjZoX8
三成は家康派として、
憎き前田家潰しで越前まで進軍してるつーのに、
いまだ三成首謀者とかアホな主張してるアンチ豊臣の基地外www
だいたい真田昌幸が7月末に三成に対して、
何で蜂起のことを教えてくれなかったんだ!って詰問してるが、
そもそも打倒家康蜂起は毛利の策なんだから、
三成が知ってるわけ無いから、
真田昌幸に教えようが無い。
三成は織田秀信や真田や上杉と個人的に親しく、
秀信が病気で湯治したいって相談した時には、
真田家の領地にある草津温泉を紹介し、
真田に手紙で、あなたのトコの留守居役に案内をしてもらえないでしょうか?って丁寧にお願いしてるほど。
アホ毛利のクソ戦略に呆れた三成は、
自分が懇意にしていた美濃織田、信濃真田、会津上杉、常陸佐竹を同士として、
対家康大同盟包囲を立ち上げた。
アホ戦略しかない首謀者毛利は、
首謀者の座を奪われかねない大略に嫉妬して、三成の策が成功しないことを望んだ結果が、
あの超絶馬鹿な関ヶ原の戦いを呼んだ。
毛利はアホすぎ
830人間七七四年:2013/12/14(土) 21:51:28.67 ID:MtGnW/PO
単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
831人間七七四年:2013/12/14(土) 22:42:53.52 ID:TLbU2dpd
秀吉が家康を関東に移封したのはチート国力やったどころか
室町後期の鎌倉府や戦国の後北条のように
徳川も関東座敷牢でそのままくたばってろっていう意味だと思うが
圧倒的に経済・文化の重心と人口密度が畿内とその隣国〜瀬戸内海に
偏重している西国優位の時代なんだから
832人間七七四年:2013/12/14(土) 22:52:47.92 ID:woYcZ08M
>>816
だから両川体制として吉川と小早川の両方が徳川と交渉して戦わないことを決めたんだから問題ないだろ
輝元だって出陣して家康とガチで戦う気なんか皆無なのだから君の言う養父の想いを十分に尊重している
関ヶ原なんて三成が勝手に大垣城を放棄して戦っているだけで毛利にも両川にも関係ない
三成の勝手な戦いに協力しないことで裏切りなどと言われる理由などまったくないんだよ
833人間七七四年:2013/12/15(日) 02:49:21.05 ID:lxx5PtYv
>>831
もっとエグいと思うけど?
異動前の勢力圏は三河遠江駿河甲斐だろ
そこから坂東ってw
翼と手足をもがれたようなもんじゃね?

まあ、>>830はアニメの徳川家康でも見て当時の三河を想像してるんだろうけどさw
834人間七七四年:2013/12/15(日) 07:45:28.59 ID:LjLG1duj
どこに移ろうが、250万石は250万石。大封には変わりない。
石高に変動のない移封なら、確かに不利益だけどね。

本当に翼と手足をもがれたような異動なら、そこから天下を獲り世界有数の都市を
築き上げる徳川家の行政手腕を褒め称えるしかなくなっちゃうよ。
835人間七七四年:2013/12/15(日) 07:49:21.89 ID:+L4c/D7s
そもそも転封になったおかげで巨大な国力手に入れた以外にも
強固な支配と中央集権化を手に入れたのだから家康としては相当な利益だったとしかいいようがない。
それまでの徳川の分国統治なんて頼子寄親での、国人の自立性に委ねた間接統治に頼ってる地域ばかりなんだし。
836人間七七四年:2013/12/15(日) 08:49:58.42 ID:lxx5PtYv
>>834
>250万石
豊臣が決めた石高だろうに
>国人
関東に行ったら徳川家康独裁とでも?
三河の国人(本多他)が、乗り込んでるじゃないか

普通に考えて、徳川家康が凄かったに尽きる話だろ
837人間七七四年:2013/12/15(日) 08:57:46.69 ID:9KqSZ4Xn
関東に行ったら徳川家康独裁とでも?
三河の国人(本多他)が、乗り込んでるじゃないか

  ↑
これは上杉もそうだが、これまでの国人自立性云々が、徳川家・上杉家から録を与えられるリーマンという形になる。

また、秀吉は身内ほど恩賞は少なく離れるほど恩賞を増やした。
これは人は利でついてくるという秀吉の哲学だろう。
秀吉自身よりも家康の石高を上げるというのは失敗だったと思う。
838人間七七四年:2013/12/15(日) 09:36:54.85 ID:YERUGWhN
>>831
清盛の時代からそうだが武士にとっては土地>金だから
金で浪人は雇えても大名は雇えない
あくまで恩賞の基本は土地による石高にある
だから畿内とその隣国〜瀬戸内海を牛耳って経済的利益を手中にしても
それだけでは武家政権として安泰とは限らないのは平家時代からのお約束だよ
839人間七七四年:2013/12/15(日) 12:48:50.48 ID:Dh2u1bBD
840人間七七四年:2013/12/15(日) 13:18:18.32 ID:lxx5PtYv
>>838
完全にサラリーマンの発想じゃん
>清盛
なるほど確かに頼朝は恩賞に土地を使ったらしいが、
しかし足利に足利荘を棄てさせて三河を与えたりはしていない。


三河遠江駿河甲斐に入れた豊臣子飼いがもう少し働いてたら、徳川も動けなかったろうに
そういや尾張の子飼いは東軍の主力だったな
841人間七七四年:2013/12/15(日) 13:55:20.34 ID:LjLG1duj
謀反軍のために働く必要は全くないな。
842人間七七四年:2013/12/15(日) 14:45:02.84 ID:aQJXs8bR
豊臣の正規軍は東軍だってことを忘れてる奴が多すぎる
843人間七七四年:2013/12/15(日) 14:50:19.17 ID:WlGhKTf2
家康の家臣団への領地分けをした上での250万石だからな。
豊臣家が家臣に分けた領地まで含んだ石高と比較しない曲解アンチ秀吉の織田チョン。
そもそも豊臣の蔵入地も明細不明でどんだけあったのかも全くわからない。
844人間七七四年:2013/12/15(日) 16:48:18.19 ID:9KqSZ4Xn
保護者の利家が死んだ翌日だか当日に三成殺しに走る豊臣恩顧じゃ家康から豊臣家は守れないだろう。
秀吉自身の失策で強い派閥抗争みたいなのが勃発+一族を殺し、味方も連座して殺す⇒秀頼の味方になるべき者達が消滅
→最後は外様の家康に頼るしかなくなり手を握って懇願・・

結局は、秀吉自身の失策で豊臣家は滅亡した。
845人間七七四年:2013/12/15(日) 17:44:06.33 ID:+L4c/D7s
豊臣の正規軍が東軍とか誰の妄想だよ。
家康は豊臣政権下禁止された私婚を連発したりそれに対する大老衆や奉行衆連署での弾劾状を
武力で踏み潰して強制的に政権から排除したり
前田や浅野にケチをつけて攻めるぞ!と圧迫したり細川を失脚させたり
やりたい放題やってんじゃん。
現に東軍についたのは徳川以外だと家康が私婚で取り込んだ伊達などと
三成憎しで豊臣政権への恩を忘れて凝り固まっていた馬鹿な武功派が主で
畿内の他の連中はほとんど西軍だよ。
846人間七七四年:2013/12/15(日) 18:40:24.16 ID:LjLG1duj
三成の挙兵は、惣無事令違反の謀反だし。豊臣家の支持もなし。
謀反軍の弾劾状に正当性などあるはずもなく。
家康の大老たる立場を中断する事象もなし。
まさしく正規軍だわ(笑

裏切りや日和見が発生したのも西軍だけどね(笑
847人間七七四年:2013/12/15(日) 21:16:56.47 ID:+L4c/D7s
惣無事例違反どうこういうなら家康の方が先にやってるじゃん。
理由もなく前田や浅野に喧嘩吹っかけて、攻め込むぞ!と脅したり
禁止された私婚を連発したり、豊臣蔵入地を削って外様大名に分け与えて恩を売ったり
それらの行為を、違反だと弾劾したたがい条に対して、謝罪を入れるどころか軍事力で無理矢理排除したり。
三成や西軍諸侯は、豊臣政権下で、政権簒奪行為を連発してた家康を弾劾するためにあれこれやってただけだから
全く謀反には当たらないどころか、政権存続に躍起になってただけ。
848人間七七四年:2013/12/15(日) 21:24:51.05 ID:aQJXs8bR
言っとくけど、クーデターって失敗したら謀反と同レベルだからな?
849人間七七四年:2013/12/15(日) 22:30:40.43 ID:+L4c/D7s
クーデターといっても豊臣政権の定められた決まりや秀吉の遺言を侵す奸臣に対して
しっかりとした豊臣政権の元での筋目に沿って、反逆罪を侵した家康を排除するために行われただけの物なので
これはクーデターとは言わないだろう。
むしろ家康の方が豊臣の公儀と遺言に背きまくって西軍諸侯にとっての格好の大儀名分を自ら献上している。
現に西軍は畿内方面だけで18万も集結してるが
東軍は家康が禁止された私婚で取り込んだ連中以外は、三成にくしでこり固まっていた馬鹿な武功派くらいしか味方についていないし
850人間七七四年:2013/12/15(日) 22:39:43.94 ID:aQJXs8bR
菅沼君、主君の許可も得られていないクーデターのどこが筋目に沿っているんだい?
851人間七七四年:2013/12/15(日) 23:04:19.63 ID:CG/E5goS
それどころか各大名の人質を勝手に監視下に置いたり
大坂城を勝手に占拠してるからな
「俺達を殺そうとすれば秀頼公の命はないぞ」と言わんばかり
こんなんでどうやって豊臣への忠義や筋目を貫こうとしていたのか理解不能レベル
852人間七七四年:2013/12/16(月) 00:05:46.84 ID:jZUhGwgl
そもそも豊臣政権内での決まり事や遺言を次々に破棄して
諸大名取り込みや各大名への威圧や、それに対する弾劾行動を軍事力で排除する奸臣を排除するための決起を
クーデターなどとは最初から呼ばん。ただ単に西軍の諸侯は豊臣政権下での決まりや遺言に沿って
政権がこれまでどおり維持されるように、それをぶち壊そうとする奸臣を、最終的手段として軍事力行使によって排除する方向に動いただけだ。
853人間七七四年:2013/12/16(月) 00:09:35.46 ID:TeqXE8SS
じゃあなんで秀頼のお墨付きが得られなかったんですかねえ……
854人間七七四年:2013/12/16(月) 00:13:18.64 ID:jZUhGwgl
そんな何も分別もつくかわからん幼君のお隅付きとか無理矢理根拠に持ってこられてもな。
道理的に言って、家康が豊臣政権崩壊や簒奪行為や、豊臣政権下で禁止された行為を次々に行って暴走しまくってるのは普通に馬鹿でもわかるんだが。
855人間七七四年:2013/12/16(月) 00:24:20.38 ID:TeqXE8SS
駄目だこいつ
856人間七七四年:2013/12/16(月) 00:35:23.13 ID:cz0r/CHr
>>852
キミの個人的な気持ちが許せないだけで、家康の行動は豊臣政権として正式に決着をみてる。
私婚については、前田と起請文の交換で着地している。
その他、キミが悪し様に上げ連ねている事も、豊臣政権として運営した事。
それが政治ね。
もちろん家康の圧倒的な実力を背景にしている事は当然だが、それが何かおかしい?
現代の道徳観で子供じみた講談まがいの評価を語る方がどうかしてる。
857人間七七四年:2013/12/16(月) 02:04:59.35 ID:7sHz4PPi
クーデターかどうかに目的は関係ないだろうに
858人間七七四年:2013/12/16(月) 09:17:45.38 ID:Rz2AdJqr
家康の前田征伐も私戦で、秀頼のお墨付きねーだろアホ
超小身の三中老には逆切れしたキチガイ家康だったが、
たった80万石の槍の又左利家に秀吉の遺令を破ったことを面と向かって追求されて、
正論に屈した家康は政庁である伏見城内から退城させられ城下町の向島に謹慎している時点で、
家康には全く大義名分も正義もない。
利家も家康は伏見にっていう秀吉の遺令があったから伏見からは追放しなかったが、
利家は槍で家康をぶっ殺しておけば良かった。
なんせ自分より弱いやつには威張り散らし、
強い者には卑屈になる醜いチョン家康の行動は醜悪過ぎる。
859人間七七四年:2013/12/16(月) 09:26:12.00 ID:jZUhGwgl
そもそもどちらが豊臣公儀の軍であり正規軍なのかを語るのに
何も分別もつくかわからん幼君のお隅付きとか無理矢理根拠に持ってくるとかアホかと。
豊臣政権内での決まり事や遺言を次々に破棄して
諸大名取り込みや各大名への威圧や、それに対する弾劾行動を軍事力で排除する奸臣を排除するための決起を
クーデターなどとは最初から呼ばん。ただ単に西軍の諸侯は豊臣政権下での決まりや遺言に沿って
政権がこれまでどおり維持されるように、それをぶち壊そうとする奸臣を、最終的手段として軍事力行使によって排除する方向に動いた家康率いる東軍が正規軍なわけがない。

現に東軍には三成にくしの馬鹿な武功派の他、家康が禁止された政略で取り込んだ連中くらいが主で、
大老も奉行衆も大体は西軍。
家康は豊臣政権下禁止された私婚を連発したりそれに対する大老衆や奉行衆連署での弾劾状を
武力で踏み潰して強制的に政権から排除したり
前田や浅野にケチをつけて攻めるぞ!と圧迫したり細川を失脚させたり
やりたい放題やってんじゃん。
現に東軍についたのは徳川以外だと家康が私婚で取り込んだ伊達などと
三成憎しで豊臣政権への恩を忘れて凝り固まっていた馬鹿な武功派が主で
畿内の他の連中はほとんど西軍だよ。
860人間七七四年:2013/12/16(月) 09:29:49.30 ID:YgMbMS3e
謀反軍は間違いなく家康であって
三成や輝元らは家康の豊臣家からの謀反に、弾劾状を掲げて、正規軍として討伐してただけ。
でもその中で最も中核の部隊を有する毛利アホ元が使い物にならず、西軍は大敗しただけ。
861人間七七四年:2013/12/16(月) 10:22:19.23 ID:eC5OtAW3
矢部健太郎もそうだけど、こういう名分論に拘る人は
現実の力関係にそんなものは塵芥に過ぎないことを
理解できないのだろうか
862人間七七四年:2013/12/16(月) 10:24:13.98 ID:jZUhGwgl
>>842>>846でアホが、三成が反乱軍で家康が正規軍だとか馬鹿な妄想垂れ流したから反論しただけじゃん
863人間七七四年:2013/12/16(月) 10:35:00.43 ID:eC5OtAW3
否定するだけなら兎も角、三成が正規軍だと言ってしまえば、同じ穴のムジナ
864人間七七四年:2013/12/16(月) 11:07:00.91 ID:Rz2AdJqr
>>861
論破されたから力関係にすり替え始めてやんのwww
力関係で言うなら五大老五奉行制で孤立した家康が一番最弱だろ。
7/26付け中川秀成宛の長束、増田、前田書状にも、
違背した家康に対して秀頼様のために、
輝元、秀家、義弘と年寄(長束、増田、前田)が挙兵したことを挙げている。
輝元軍は近江の瀬田、守山に2万を駐屯させ、
秀家と秀秋は山城の醍醐、山科、近江の大津に着陣などと書いていて、
織田秀信など美濃から人質を取ったことが述べられている。
三成はやはり人質管理に全く関わっていない。
豊臣政権首脳陣はすべて反家康派になり政治的孤立した家康。
この状況から7/30の真田宛書状で三成が西軍に参加を決断表明し、
ついに家康派だった三成と大谷まで家康を離反するに至る。
曰く、各御内儀かた(北政所や淀君)大刑少(大谷)馳走被申候条可御心安候
などと大坂内向きの権力も大谷の尽力で家康討伐に賛同しているし、
長岡越中儀については、
太閤様御逝去已後彼仁第一徒党之致大将、
国乱令雑意本人に候間、
即丹後国へ人数差遣などと書いており、
細川忠興こそが雑意をもって国を乱したと名指し批判している。
忠興は前田征伐が中止になった際にも、次は上杉征伐の準備だ!などとやたらと戦乱を望んでいる態度からも、
細川忠興が関が原の戦いへの火種を蒔いているのがわかる。
三成が家康ではなく、忠興を特に敵視しているのも、
雑説をばら撒いている忠興への怒りからだろう。
865人間七七四年:2013/12/16(月) 11:18:10.45 ID:eC5OtAW3
>>864
全然、別問題だし別人なんだが
とりあえず自信満々に御高説を開陳する暇があるなら、論文にして学会誌にでも投稿すれば
2chでいくら喚こうとも、所詮は井の中の蛙、お山の大将、裸の王様に過ぎないし
866人間七七四年:2013/12/16(月) 11:51:09.28 ID:wTLJJf33
正規軍になれば100%必勝なのですか
867人間七七四年:2013/12/16(月) 11:53:26.32 ID:dMheUYcg
>>859
家康の行動は讒言を繰り返し豊臣を混乱させてきた奸臣とその支援勢力を叩くためのものであり問題ない
現に西軍には三成以外にはお友達の小西・大谷・宇喜多くらいしか実質的には存在しておらず
他は人質を取っての脅迫や弾劾状と銘打った怪文書のばら撒きなどのトリックを駆使して
関ヶ原で戦う気もない見物人を集めて数を粉飾しただけのハリボテ軍隊だった
畿内の連中のほとんどが家康と戦うことを拒否して内通と日和見を選択した事実上の東軍だった事実を見れば
東軍が関ヶ原の結果前から大半の諸大名に認められた正規軍であることは明白な事実だろう
三成こそ豊臣を踏みにじりやりたい放題をやった奸臣であることは疑いようがない
868人間七七四年:2013/12/16(月) 14:42:40.63 ID:I+jklrG7
徳川家康:関東250万石の大名。五大老の1人。息子が秀吉の元猶子。息子の正室が秀吉の側室と姉妹関係

石田三成:近江佐和山18万石。元五奉行の1人。七将襲撃事件で失脚。

>>863
まさにその通りなんだよな。
この時点で正規軍と言えるのは豊臣秀頼の率いる軍隊だけ。
「正当性」では家康に分があるものの、両方とも「正規軍」ではない。
つまり正当性もなく力に劣る三成が家康に勝つ確率は万に一つもなかった。
そもそも組織から追い出された元中枢が、家康と同じく兵を掲げるとか自爆行為にも程がある。
本当に三成が豊臣に対して忠義心に溢れていたのなら、身命を賭して上杉征伐の中止や家康の裁可への不満を政道で示すべきだった。
この時点で家康を抑えることができるのは豊臣秀頼のみだったからな。
それをせずに、家康と同じく兵馬に頼って力押しした時点で三成は不忠不義の奸臣か、毛利の企みに乗せられた無能者という評価は免れない
869人間七七四年:2013/12/16(月) 17:23:06.12 ID:iI8RAqyq
>>866
その当時であれば詔勅でも奉じて討伐軍でも仕立て上げれば、勝利の可能性は一気にあがるかもしれん。
関ヶ原の時点でなら家康は征夷大将軍でも関白でも無い。

まあ、秀頼公の担ぎ出しが出来なかった時点で勝ち目は殆ど無い。
870人間七七四年:2013/12/16(月) 18:05:27.39 ID:pg1U9x77
>>46>>69
なるほど家康は蜂須賀や生駒などの嫡子を人質として強引に会津征伐に連れて行くほど、
支持が得られていない強硬な行動だったんだね。
そりゃ家の嫡子を拉致られたら従う他ないわな。
まあ官位官職で言えば出家した前内大臣織田信雄は家康より先に内大臣になっていたしこの時は西軍だった。
そして豊臣家は幼君ゆえ意思表示はしていないが大坂うち向きの権威たる北政所や淀らは実際、>>28>>29>>56>>819>>864で指摘されているように西軍を後援していた。
いまの大老はみんな高齢で、
次期豊臣政権は、織田秀雄、前田利長、結城秀康らによる政権が予定されていた。
事実、序列が家康、隆景、景勝、利家、輝元、秀雄、利長、秀康の順番だった(この時、秀家は欠席だった)
つまり家康の大老という地位そのものが秀吉の10人衆の合議という遺令を守ることで保証されていたが、
家康は10人衆の合議で地位を否定されて浪人となったのが内府たがい条の威力だった。
家康は会津征伐で拉致った家々の嫡子を人質に無理やり従わせていたが、
実際には家康自体が細川忠興の雑意に操られ、利用されていただけだったので、
会津征伐をやろうとしていた家康の意思は無視され、
武断派は三成を討ちにさっさと西上し、家康は置き去りにされ、
疑心暗鬼で江戸で逼塞してビビっていた家康は、
武断派の三成を包囲したという大ウソでまたしても利用された大バカだった。
871人間七七四年:2013/12/16(月) 20:03:39.10 ID:eC5OtAW3
>>870
秀忠が存在しない世界から来られたのですか?
872人間七七四年:2013/12/17(火) 09:24:46.62 ID:2OBn9H//
>>843
秀吉死後すぐに、
秀吉が生きていることにして朱印で、
福島正則に尾張の蔵入地から負担させようとする書状があったり、
安東が関ヶ原時期に蔵入地から戦費流用していたりしてるから、
ほぼ全国に豊臣家の蔵入地があったと言われているからな。
豊臣直轄蔵入地はかなり膨大だったはず。
俗に言われる250万石しかないわけがない。
旧大和大納言家だけでも相当あるんだし。
問題は小早川秀秋の越前転封が途中で家康らにより中止になっていて、
それがどこまで管理が移行していたのか線引きが不明瞭なんだよな。
反家康派と言われている小早川秀秋の指南をしていた山口宗永だけは先に越前大聖寺城への移転が完了していたが。
だから関ヶ原の戦いでの小早川秀秋の動員数が実はまったく不明なんだよな。
873人間七七四年:2013/12/17(火) 11:15:53.42 ID:l44S60In
蔵入地の正確な数はさておき、豊臣が支配している
畿内とその周辺の上方の経済力が圧倒的ってことは
農業以外に従事できる=動員可能な余剰の労働力が
その地域に常に存在してるってことで
兵農分離がまだまだ未完成な関ヶ原の頃なら、地域的な経済力は
持続的な動員兵力に直接関係する重要な要因だと思う

かつて畿内と伊勢湾・大阪湾一帯をおさえた信長が
東国に比べて古臭い軍制でも勝てたのは、つまるところ畿内とその隣国が
他の地域に比べて人口密度が高く、その余剰労働力を足軽として経済力で
合戦に継続して動員しつづけることが可能だったからじゃないの?
中長期的には畿内と隣国を支配すればパワーゲームで勝てる時代なので
自分なんかは秀吉が家康に関東で大領を与えたのはさほどおかしいとは
思わないんだよな
経済的に低開発で人口が稠密じゃない当時の関東では、多少石高が多くても
上方と同じ方法で持続的に動員兵力を確保できないわけで

逆に関ヶ原で短期決戦で決着がついたほうが、むしろ想定外だったっていうか
874人間七七四年:2013/12/17(火) 12:06:05.70 ID:f3sSj548
逆に関ヶ原が長期戦になった方がむしろ想定外だろ
だって三成たち文治派が勝手に息巻いているだけで大半の大名は家康に強い不満などない
むしろ一般大名にとって家康は朝鮮での処罰を取り消したり恩賞を斡旋してくれるありがたい人なのだから
そんなありがたい人とガチで戦って処罰を扇動した文治派に権力をプレゼントしようとする奇特な大名が大勢いたらおかしいよ
875人間七七四年:2013/12/17(火) 14:25:54.38 ID:mD8myy+9
ありがたい人だったら、
10人合議で孤立する程な不徳ぶりの証明が出来ないな。
看羊録によれば、
秀吉は敵だったものでも後腐れなく許して厚遇するが、
家康は一度、恨みに思えば、どんなに小さなことでも報復を必ずしたって書いていて、
諸将は家康を慕っていたのではなく、
恐れて追従していただけと書いているし、
宇喜多の家臣の謀反でも、家臣を処罰しようとしない家康を世間は小人と呼んでいたと書いているし、
家康は劣悪かつ醜悪な性格をしていたから、
皆々が報復を恐れて顔色を窺っていただけでしょ。
876人間七七四年:2013/12/17(火) 15:05:52.61 ID:IgbEkSWb
>>秀吉は敵だったものでも後腐れなく許して厚遇する

許して厚遇するのではなく彼らの力に頼りまくって、漁夫の利で得ただけの他力本願棚ボタ政権だから、許すしかなかっただけ。
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
877人間七七四年:2013/12/17(火) 15:07:27.27 ID:EhfGzx/9
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
878人間七七四年:2013/12/17(火) 15:08:21.52 ID:kFdGW8Kh
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
879人間七七四年
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐