801 :
人間七七四年:
まさか徳川必死の抵抗で織田の主力を取り逃がしたなんてことは言わないよな?
802 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 08:01:20.57 ID:7o88Eybg
悲しい戦果だな
803 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 21:42:36.84 ID:NuG/mb2X
だがの言ってることを纏めると
浅井朝倉本願寺六角残党その他諸々にフルボッコにされ荒木等に裏切られたチンカス織田を
滅ぼせず遥か格下の徳川に手こずってる間に死んだ信玄はマヌケってことか
804 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 21:55:54.32 ID:ABSiJ44J
浅井朝倉本願寺など諸勢に押されまくり滅亡寸前に追い込まれたのは対武田戦に全力を
投入してたからとみるのが妥当だろ
現に佐久間平手滝川水野と大身連中をぶつけて大敗してるしそのせいで畿内で押されまくったんだろ
805 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 22:16:06.02 ID:r7xkVOe0
まだ三方原で徳川よりはるかに多かったはずの織田の武将があんまり戦死してない理由を答えてもらってないんだけど
806 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 22:39:44.78 ID:4tOH/UvS
佐久間みたいに逃亡したからだろ。
807 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 23:15:34.88 ID:r7xkVOe0
だが理論じゃ織田は武田より大軍で自信満々で鶴翼の陣敷いてボロ負けって話のはずなのに
なんで一当てもせずに逃亡したって話になるんだよw
808 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 23:22:14.72 ID:Bg8WMMps
つか佐久間の与力とか平手とか前田の兄とか普通に戦死してるじゃん
809 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 23:26:09.64 ID:uwrxtQYi
確か天正8年佐久間信盛譴責状で、三方が原の合戦でろくに戦わずに逃亡したのが咎められてたんだっけ?
810 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 23:27:27.85 ID:r7xkVOe0
それ以外は?
総勢2万7000で織田のほうが多かったはずなのに被害が徳川に偏りすぎなのはどうなのって話よ?
織田側の主な戦死者としてずっとそれ挙げてるけど全軍壊滅させられたはずなのに
織田だけ最小限の被害で随分綺麗に撤退されちゃったんだね〜
811 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 23:41:21.99 ID:r7xkVOe0
>>798で自分から挙げてくれた通り大量の徳川家臣と最後の行に申し訳程度に書かれてる織田の家臣が
現場にいた兵の比率を物語ってるんじゃないのかね
812 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 07:23:07.39 ID:dF5EfnK0
まーただがが論破されて信玄がうんこ漏らしながら死んだのか
813 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 10:09:12.28 ID:7j2Hhmpt
手取川でも織田は敵前逃亡してたしな。
814 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 18:18:18.79 ID:XvJfRcGw
織田厨「織田軍が敵前逃亡した結果、有名武将が死んでない場合は不戦勝で織田の勝利になります!」
815 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 21:34:14.76 ID:dD8pHQBJ
おいおい、
>>792で「三方原は武田と織田の一大決戦!織田は惨敗!」って自分で
ぶちあげたのに敵前逃亡って話になったのかよw
話がブレブレじゃねーか
816 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 08:43:58.52 ID:7/5Cthcr
佐久間が敵前逃亡で、平手が討ち死にだろ。
817 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 12:19:37.31 ID:he8AGbFi
まぁ勝てない相手を前にしたら損害をできるだけ少なくするために逃亡するのは名将の条件だろ。
そういう意味では佐久間や手取川の秀吉はやっぱり嗅覚がすごい知将。
逆に逃げるタイミングを逸して尻を噛まれた手取川の柴田は戦下手だわ。
なんせ景勝と景虎の内乱+新発田の乱+勝頼の上杉支援を甲江同盟詐欺で中止させる
ここまでやってやっと越中まで進出してるくらい無能。
818 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 12:31:24.89 ID:u6cn4nEj
むしろ戦下手だからこそ逃亡するんだろ
秀吉も謙信どころか雑魚毛利勢相手に上月城防衛戦でガチンコ大敗して上月から大逃亡したからなぁ
819 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 12:40:40.85 ID:lAoVHZ0+
逃亡って勝てないと認めたようなもんだからなぁ
兵数が圧倒的に劣ってるならまぁ妥当な判断だと思うが
そうでないのに逃亡する雑魚は超絶戦下手なんだと思っていい
逃亡したらそれまで苦労して切り広げてきた領地とか自分の領内の領民見捨てるようなもんだからね
820 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 12:42:39.08 ID:N3+IWKie
>>792からここまでの流れで分かるように自分の自説に責任持てない変節漢の考察(笑)なんて論外だよ論外
「果敢に総力戦を挑み敗れ去っていたという真実」とかドヤ顔で言ってたのに今や敵前逃亡したんだいの一点張り。
自分で書いた書き込みの内容ももう忘れちまったのか?そんなだからいつも誰にも賛同してもらえないんだよ。
821 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 12:47:07.11 ID:N3+IWKie
今ややってることと言えばお得意の長文も無しにID切り替えながらスレの流れを変えて誤魔化そうとすることだけ
822 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 13:19:13.42 ID:tKjqM/Ka
さあそろそろコピペ荒らしが始まりますよっと
823 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 15:16:31.13 ID:he8AGbFi
>>818 はいはいキチガイ在日君乙w
そんな事実はありません。
そもそも織田・秀吉・黒田の一次史料には毛利とその時に
戦っていることが書かれているものは皆無で
宇喜多と戦っていた証明しかありませんwwwww
この時期の黒田や秀吉の一次史料から毛利軍は備前からの陸路ではなく村上水軍を利用して海路を利用して
別所支援の行動に専心して播磨西部にいないのが明らかなんだからwwww
当然、毛利方の一次史料である東大が編纂出版してる大日本古文書における
所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書にも存在せずwwwww
上月城で毛利が秀吉と戦って勝ったと書いてるのは
全部、毛利側が編纂した萩藩閥閲録などに出てくる偽書状だけwwww
んなもん証拠になるかよwwww
824 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 16:00:49.56 ID:Dr+rj1Ce
>>823 お前は毎回反論されて史料提示されてるのに無視して妄言コピペ垂れ流してる馬鹿だな
死ね基地外野郎
史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記 浦上宇喜多両家記陰徳太平記 御答書 總見記 柏崎物語
【管理番号】020100216456 【編/冊/頁】10編911冊179頁 【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、
鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
825 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 16:14:18.69 ID:Dr+rj1Ce
史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記 浦上宇喜多両家記陰徳太平記 御答書 總見記 柏崎物語
【管理番号】020100216456 【編/冊/頁】10編911冊179頁 【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、
鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
826 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 16:17:27.28 ID:Dr+rj1Ce
>>はいはい偽書状乙w5月の秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
>>秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて
お前天正8年にやっと但馬が平定した事もしらんのか。天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書で)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
>>あっ?そもそも日記形式じゃねぇんだから大久保の記憶違いだろ。庚午の年の出来事って記憶してるだけでもすげぇだろ
そんな3ヶ月も重要合戦の日付を間違えるような糞記憶力じゃ話にならん。完全に記憶違いで合戦の存在自体噂で聞いたか後であやふやな記憶をデタラメに思い出したか知らんし
>>つかそもそも東海方面は三嶋暦を使ってるんだからズレるのはおかしくないだろ。
何がおかしくないのか不明。そんな3ヶ月も重要合戦の日付がずれる糞史料を直接的ソースとして用いるとか話にならん。
>>それに越前出兵への依頼を家康に申し出たのが2月とも解釈できるしな。
なぜそう解釈できるんだ?
>>それにの一色藤長の5/4付け書状の内容には金崎城に秀吉・光秀・池田勝正らが残されたのは
>>北郡の儀 相下され 重ねて越国乱入有るべき候などと再度の越前侵攻のためとの言い訳を丹羽から聞かされているのがわかる。
再度の越前侵攻のため残されたなら金ヶ崎の退却のため残されたという論拠には全くならない。他の目的に備えられたと考えるのが普通
三河物語にも信長が撤退したときに家康へは何も連絡なく捨ておかれたが秀吉の案内で家康は撤退できたと書いた後に
>> あくまで信長は越前への再度の侵攻を考えていたが、越前衆が機先を制して3万で出陣してきたと書いていて
んで、実際に金ヶ崎で残留部隊と朝倉が衝突したというソースは?
>>月のズレなんてよくあることだし、むしろ丹羽から聞いた内容と同じ内容を大久保も書いてる正確さの方がすげえわ
そんなデッチ上げの全く記憶違いの嘘文書が直接ソースになると思ってるお前の脳味噌の方が凄いよ
827 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 16:55:27.42 ID:u6cn4nEj
ソースとしてあげられた文書は山口県史資料編と島根県史資料編からの抜粋
山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
ソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのは馬鹿のお前だけ
828 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:20:12.31 ID:he8AGbFi
じゃあ一次史料はどうかと言えば、6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる。実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
毛利の捏造でっあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。
なんせ、この時期の毛利軍は備前からの陸路ではなく村上水軍を利用して海路を利用して
別所支援の行動に専心して播磨西部にいないのが明らかなんだから。
たとえば天正6年4/2の秀吉→黒田で
雑賀衆と芸州衆が船手にて別府表に上陸したが数多討ち取りを信長公に報告する
4/4のの信長→秀吉において
昨日注進が届いた別府孫右衛門(織田方の別府重宗)の阿閉要害に雑賀衆と芸州衆が相働くが官兵衛を派遣して数十人討ち取り
>>秀吉の金崎の退口なんて捏造だし
えっ捏造だとする根拠は?wこれだって信長公記だけに書いてあるわけじゃねーぞ。
そもそも金崎の退口という言葉自体が三河物語の記述からだし。そこでも秀吉が重要な撤退指揮したと書いてる。
しかも波多野秀信宛に書かれた義昭奉行衆の一色藤長の5/4付け書状の内容でも(信長は4/30帰京)
金崎城に秀吉・光秀・池田勝正が残されたと書いてあり秀吉はきっちり残留組だ。
そればかりでなく、上洛成功し信長が美濃へ帰国する際10/26の5000を指揮して京防衛守備武将として残された中にも秀吉はいる。
他は文官ではなく武将で言えば佐久間と丹羽だな。でもその中でさらに文官としての仕事も兼任してるのは
秀吉だけ(12/16付の松永宛で今井宗久と武野の訴訟など)そして正月の三好らによる本國寺の義昭襲撃を排除してる。
それを受けて信長も上洛してきて4/21にまた美濃へ帰国する際、また武将を残して京防衛を任せるが、
閏5/25付けの東寺の寺領安堵や10/9阿弥陀寺への兵士寄宿免除などから武将としては秀吉だけを残しているのが判明してる。
秀吉はもっとも困難な軍事的困難なことを常に任されてきてんだよアホ
つか秀吉が京に滞在していた時は幕府と織田の間は非常にうまく言ってる。
しかし秀吉が浅井戦線最前線に転出し敵中孤立して張り付くとさっそく幕府との関係を瓦解し始める。
お前は秀吉を叩くためには根拠なく否定連呼だな。さすが在日織田チョンwww
>>上月城
上月城・上月城とうるさく連呼してるようだから言っておくが
そもそも当時は上月城なんて呼称で呼ばれていない。完全に江戸期になって毛利側が作った造語。
じゃあなんて呼ばれていたかといえば、七条城って呼んでた。だから当時の書状で上月城と書いてるのは偽書状。
12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状で(下村文書)
七条と申す城候、翌日、廿八日、押し寄せ取り巻き、水の手取り候処、後巻として此の方陣取る山の上へ、
宇喜多罷り出で候条、城には手当て置き、切懸け合戦に及び、散々切り崩し、備前境迄三里計の間、追い討ち
首級六百十九、其の外雑兵切捨て候〜などと書きこの時の大勝利で明石三郎左衛門・・真名子喜左衛門・宗野の原の三人が
西国にての才覚、先懸け、第一の者を討ち取った大勝利を報じてる。
ちなみにこの時期の秀吉書状は他に12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状で
二人の子達の縁談を纏めた話を書いてる書状が残ってる(黒田家文書)
829 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:21:40.69 ID:he8AGbFi
>>天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙した際の書状にもハッキリ上月城と書かれてる(阿波国古文書)
はいはい偽書状乙w5月の秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
秀吉→山名宛書状
条々
一此方別而御入魂之上者御身 上之儀於我等聊不可存疎意候事
一御居城不可有別儀之事
一出石郡之儀進之置候条無異儀可被仰付事
右旨八幡大菩薩愛宕山相違有 間敷侯依而如件
天正六 羽柴筑前守
五月十六日 秀吉
山名殿
余人々御中
上記のように年号まで入ってるのは非常に珍しく、おまけに神仏にまで誓っているのは
この書状が約束を違えない重要な書状であることを示していて、
先にレスした12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状(黒田家文書)でも両家の婚姻についてなので
同様に年号と神仏への誓いが記している非常にレアな秀吉書状として有名。
830 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:23:10.85 ID:he8AGbFi
ちなみにお前が偽書状だと連呼してる12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状(下村文書・三鬼清一郎氏の認定)も
上記文書とリンクしていて、この書状の冒頭は
一但州悉以如存分隙明候条 去廿七日至作州境目〜と書いていて
秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて、その後、美作へ進出している。
そして戦後統治政策の一環として山名へ上記安堵状が発給されてる。
この書状はおもしろく秀吉は信長を無視して安堵状が発給できる実力者になっていることの現われで
この調子で調子に乗って宇喜多も安堵したところ、秀吉が連戦連勝して圧倒していたこともあり、
信長は宇喜多みたいなザコは滅ぼすつもりだった為、勝手に許したと激怒することになる。
しかしのちに本願寺顕如が美濃の坊主や門徒衆へ宛てた書状で、
宇喜多の寝返りで毛利が岩屋・兵庫・尼崎から引退し帰国したことを挙げていて
秀吉の宇喜多調略が決定的な戦略的効果を与えていたのがわかる。
>>三河物語の記述が元亀元年庚午二月日と月単位で大きくずれ過ぎているので全くソースにならない
あっ?そもそも日記形式じゃねぇんだから大久保の記憶違いだろ。庚午の年の出来事って記憶してるだけでもすげぇだろ。
つかそもそも東海方面は三嶋暦を使ってるんだからズレるのはおかしくないだろ。
それに越前出兵への依頼を家康に申し出たのが2月とも解釈できるしな。
それにの一色藤長の5/4付け書状の内容には金崎城に秀吉・光秀・池田勝正らが残されたのは
北郡の儀 相下され 重ねて越国乱入有るべき候などと再度の越前侵攻のためとの言い訳を丹羽から聞かされているのがわかる。
三河物語にも信長が撤退したときに家康へは何も連絡なく捨ておかれたが秀吉の案内で家康は撤退できたと書いた後に
然ば、信長、北之郡え御ハタラキ被レ成候ハント思召処に、越前衆ハ出と書いていて
あくまで信長は越前への再度の侵攻を考えていたが、越前衆が機先を制して3万で出陣してきたと書いていて
共通した内容が書かれている。月のズレなんてよくあることだし、むしろ丹羽から聞いた内容と同じ内容を大久保も書いてる正確さの方がすげえわ。
>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww
つか他人のレスを俺のレスの同一視すんなやwww俺は別に金ヶ崎はなかったなどとと主張したことねぇよカス織田チョンよ。
俺は浅井がこの時期、京へ向けて進撃していたから朝倉との挟撃は無かったと主張していただけだ。
しかし浅井が朝倉側となって京が落ちたら、信長は琵琶湖東岸ルートだけでなく、西岸ルートも封鎖されるから
朝倉軍がくる前に速攻で敵前逃亡したわけだ、それで家康が置き去りにされてたところで、秀吉の活躍で命拾いしたわけだ。
しかし秀吉は常にひどい目にあってるよな。信忠の具足初めの儀で信長が出陣した時には
あいかわらず軍事的才覚ゼロの信長の思いつきで山本山城攻めを孤軍でやらされる無茶振りとかな。
>> 三鬼の妄想なんぞ知らん。
ププププwwwwww
秀吉文書研究でこの人ほどの人物はいねぇぞwwwwwwww豊臣秀吉文書目録を出してるんだからなwwww
お前は完全に素人だなwwwww偽書状とか頻繁に持ち出してキチガイ発言してるからどうもおかしいと思ったわwwww
831 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:23:43.18 ID:he8AGbFi
毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
ソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
これ毛利家臣の山縣平八が萩藩に提出した先祖の凄さと自家の格式向上のための捏造で、
明らかに甲陽軍鑑を熟読して、それに沿った内容を書いて提出してるwww
こんなもんに書いてある内容なんて、まったく史料として扱われてないわ。
まぁ毛利の場合、毛利家文書・吉川文書などに収録されてるのが
一次史料であってそれ以外は誰も引用しない偽文書だらけだからな。
でもその一次史料ですら、これらの文書の原本は吉川家だけにしかなくて黒田家には伝来せず、
毛利宗家が編纂した『毛利三代実録考証』や『大日本古文書』にも収録されていない。
そのため、これらの手紙は吉川家が偽造した偽文書・・・こんな酷い状況だからな。
そんな毛利家臣団の先祖マンセーで偽造大会やって提出した
原本無しの写しを、マトモに信じてたら淡河合戦とかも史実になっちまうしwww
しかも毛利側の淡河氏が羽柴秀長に勝っちゃうのになぜか淡河の地を手放して撤退する謎行動www
さらに鳥取城が落ちた後にかけつけた元春が背水の陣で秀吉を威圧してビビらせたから秀吉は逃げたとか
尼子残党の山中鹿介の上月城を救援に来た羽柴秀吉を追撃して勝った話だけでは
飽き足らず、毛利軍は全勝不敗の神の軍になっちまうわけだがwww毛利の史料は捏造だらけ。
せいぜいマトモなソースを出して語りたいなら最低でも
家わけ文書の毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書に載ってるもんを出せよアホ。
アホみたいに豊富に作られた毛利家臣たちの偽文書を盲信した結果が
元春・隆景の全勝無敗の完全無欠天才マンセーだからなw
そんならなんで秀吉1人にどんどん追い詰められていくのよとw
全勝無敗の圧倒的な知略と武力を持ちながら本願寺も荒木も別所も波多野も赤井もみんな滅亡。
大友にすらボロ負けしてるのが現実なのに完全隠蔽してるしw
宇喜多や南条や三村や村上水軍に離反されるとか説明不能すぎるだろwww
しまいには関が原の戦いの責任を三成に押し付けてる始末www
ついでに吉川広家が一次史料で偽文書を作成して自己擁護www
832 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:24:41.07 ID:he8AGbFi
学者も論文での一次史料ソースとして利用している東大が編纂出版してる大日本古文書における
所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書の
中からはやく毛利が秀吉に勝った書状を出せよ。
寵命録(児玉家文書)
著作者
幕末〜明治の児玉益右衛門定正(1820-1863)と児玉元之助定勝(1851-1936)
の長州藩すら知らなかった・・・つか誰も知らない幕末初登場の謎の捏造文書集。
偽文書率No.1の毛利の腐るほど存在する捏造資料ではなく
論文でもきっちり援用される東大が編纂した家わけ文書の
毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書・熊谷家文書・三浦家文書・平賀家文書・益田家文書だけが一次史料。
こっから出せと言ってるだろカスチョン
歴代古案はちゃんと論文で引用されてきているものであり
長州藩士の先祖の偽文書製作ブームで功績を捏造して
それに藩も水をさし疑問を差し挟むことを許さないまま
編集されたもんと違うわwww
ロクな数ない???えっ?いくらなんでも余りに無知すぎるぞ。
各家わけ文書の中でダントツにもっともボリュームがあるのが
吉川家文書・小早川家文書・熊谷家文書・三浦家文書・平賀家文書・益田家文書等が
大量に編纂収録されている毛利なんだが(次点が伊達家)
しかも書状案という後で藩や支藩が公式に捏造した文書まで
収録してあると言う捏造の温床ぶりだけど。
他の大名家は毛利よりはるかに少ない一次史料で戦国板で論争してるわけだがwww
キチガイ織田チョンがやたら毛利家日記を
日記だから一次史料とか無知を晒して連呼しててワロタw
それ長州藩が藩史を編纂する時に藩士に
提出させた原本存在しない写しを日記形式でまとめただけなのにw
軍記を手本に先祖の功績をデッチあげた捏造文書を
わざわざ東大が家わけ文書に関係文書として
未来永劫、編入するわけないだろ面白すぎwwwwwwww
リアルタイムに日記を当時を生きた人間が書いていたと
大きな誤解をしてる時点で
毛利家日記を読んだことないのバレバレw
833 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:25:41.77 ID:he8AGbFi
見てきたが どこにも書いてない。
つかお前の言う山口県史資料編自体が考古編と民俗編しか存在してない以上は架空本をデッチあげてるだけじゃんw
史料編中世1〜4で該当巻のページ数を質問しても逃亡を繰り返して話題を逸らそうと必死すぎてキモイわー。
おい、デタラメ書いて逃走かw
こっちは返答をずぅっと待ってるんだがwww
お前の主張する山口県史資料編にまったく書いてないしwww
そもそも山口県史は大別すると
通史編・史料編・資料編があり
資料編は考古と民俗しか出てないから
戦国〜江戸初期を担当する巻なんて資料編にはない。
さらにその時代区分でお前が嘘を書いてるのを無視して
史料編で探すと該当するのは
史料編中世1〜もしくは近世1〜であり
なぜ時代区分も明示せず曖昧にしてレスしてんだお前。
ひたすら曖昧に書いてこんな重要な情報は一切書かずに
山口県史30巻を全部読めとか言うのかw
それとな、お前がここに転載してる書状が
山口県史のどこにあるのかも書かないと意味ないだろが。
ことごとく誤魔化しまくりだなおい。
先日、時間が少しだけ余ったから前回のように多くの巻を見る時間は無かったが
山口県史・史料編・中世1巻の凡例だけ覗いて帰ったが、
改めて見てみても2ページ以降にそんなもん一切書いてないわ。
えっ?ここにお前が挙げた書状が山口県史に載ってるのを証明できないのに
山口県史に書いてあると自称する
>>351の内容を適用させる気なの?
アホ過ぎワロタwこれではまったく話にならない。
とにかく
>>281>>299>>302>>303>>308は
下記の巻の何ページに載ってるんだ?
史料編 中世1
日記・記録・紀行・伝記・家譜・実録・雑史・軍記物語・説話・往来物・対外関係・国外史料
史料編 中世2
大島地区・玖珂地区・熊毛地区・都濃地区・佐波地区・吉敷地区
史料編 中世3
山口県文書館・厚狭地区・美祢地区・大津地区・阿武地区
史料編 中世4
豊浦地区・県外所在・賛・五山文学・和歌・連歌
834 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:26:10.42 ID:he8AGbFi
萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
晋曾寺文書だって原本書状がない信用性ゼロの後世作成文書だろううが。
萩藩は資料収集の際に偽書状であろうが、真偽の認定を避けて、つか藩士の先祖を疑えない空気で口出しできなかったから
アホみたいにたくさんの軍記を元ネタにしたような軍功感状が湧き出てきて収録されてる。肝心の毛利本家に書状案などの形として
領地宛がいの根拠となる記録の書留めの記録すらない完全に根拠ゼロのな。
どこの大名家でも家臣が所持していた感状なんて稀で貴重なものなのに、萩藩はとにかくアホみたいにある。
上杉氏の文書写ですら藩士の所持していた感状なんてほとんどない。
どの大名家でもせいぜい口述筆記による記録や覚書や家系譜などに記されているレベルで信憑性に疑問がつくのがほとんど。
これは武田の武名から江戸期に武田家からの感状がアホみたいに偽造されて、
現代では武田氏研究会や山梨県史編纂の過程でほとんど偽書状認定されて取捨選択されたのと萩は対照的だ。
特に北条や上杉の書状と照らし合わされて研究される武田書状と違い、毛利は敵対勢力の生存がほぼなく(大友・大内・尼子・宇喜多など)
他大名との接点から遠かったため他有力藩からクレームもなく捏造しまくりの先祖武功大会状態。
>>戦国板 山口県史資料編3目次解説凡例
>>山口県史資料編凡例2ページ目
はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。なんで山口県史史料編の注釈を持ち出して
萩藩閥閲録収録の輝元御印と書いてるだけの写しを偽書状写しじゃないと証明しようとしてるわけ?まったく関係ないだろwwwwwwww
だいたい萩藩閥閲録からの転記の
>>天正6年8/10毛利輝元→児玉
>>去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
敵数多討捕なんて書いてないからw書いてあるのは及鑓合被疵左足併郎従1人令討死だし
>>天正6年6/26輝元→児玉
>>態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
小次郎事と無比類の間には、被疵之由候、無心元候と書いてあるのに、なんで削除してんだよw
なんでお前は必死になってそこまで捏造歪曲しまくってんだよwww
つかさ、萩藩閥閲録収録の巻115の湯原文左衛門186通の中からお前は抜粋してるようだが、
山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
しかも湯原分で調べると児玉文書第3(天正8年12/28)・4号文書(天正9年1/21)だけじゃんwww
こんなもん信用できるわきゃねーだろwww
835 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:26:43.12 ID:he8AGbFi
>>熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死
もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、ずっと篭城を続けた
山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
先祖代々の恨みのあまり秀吉・石田憎しで捏造歪曲ばっか吐いてんじゃねーよ在日織田厨くんよぉwww
史実の虎倉合戦
宇喜多の攻勢により備中・美作で敗勢著しい毛利軍が巻き返しを図るために
輝元・隆景・元春まで出張ってきての虎倉城攻略作戦で(虎倉合戦)
10万石前後の小勢であった伊賀久隆にまんまと毛利軍が大敗し
粟屋元信など大物が討ち取られる。
伊賀家久の帰属に関わる萩藩士の先祖の由来があるため無かったことにできない戦ですら
捏造王の萩藩閥閲録・毛利家日記は負け戦を負けと認めず捏造歪曲する糞資料。
あれは合戦では無かったので毛利の敗北とするのは間違えなので
デッチアゲ虎倉合戦では無く正式名称は加茂崩れと呼称する始末。
毛利軍は有漢から福山への陣替のために
近習が夜に先発し移動開始したけど
現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
これによって伊賀家久が我が長州藩の家臣となった。
学者が論文で一切、シカトしてる原本不明の藩士の自己申告写し書状なんて持ち出してバカなの?
一次史料である家わけ文書からソースを出せよキチガイ。なんつーか毛利の場合は捏造文書三昧だからな。
つか荻藩閥閲禄や毛利家日記なんて原本書状のない捏造文書集じゃんよ。
しかも覚書や家譜や由緒書とか藩士が先祖の功績を捏造して提出しまくりで史料価値ゼロ。
836 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:27:47.48 ID:he8AGbFi
お前、それ家わけ文書に載ってると誤解してんの?w
家わけ文書すら理解できてない無知ぶりを晒しまくってワロタwww
そんなクソ内容は家わけ文書には無いわwwwアホ乙www
>>4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
>>5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
>>5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
>>5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
>>5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
>>5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
>>仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
>>5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
>>6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
>>6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
>>7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
>>7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
>>又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
上記の文はネットで東京大学の大日本史料データベースで年代検索かけて
綱文だけ拾ってきてコピぺ転記羅列してるだけじゃねぇかアホ屑チョン
綱文内容が一次史料を元に書いてるわけねーだろ無知すぎてワロタw
だから下記みたいなカス資料の無意味な羅列しかお前はできないんだw
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
837 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:30:50.21 ID:Dr+rj1Ce
>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくる
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
838 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:31:24.77 ID:Dr+rj1Ce
>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
839 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:32:29.89 ID:Dr+rj1Ce
>>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない
>>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから
根拠は?
>>退却はそれ以後の話なわけだ
そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。
>>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない
なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
顕如書状でも
>>419の文書でも6/21になってる
>>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない
>>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
>>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城
>>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ
>>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある
>>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明
>>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
>>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ
>>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ
全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ
以下が正しい日付年表ね
4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
840 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:34:03.83 ID:Dr+rj1Ce
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
こんな記述どこにもねぇわカスw
841 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:37:31.84 ID:Dr+rj1Ce
>>えっ捏造だとする根拠は?wこれだって信長公記だけに書いてあるわけじゃねーぞ。
>>そもそも金崎の退口という言葉自体が三河物語の記述からだし。そこでも秀吉が重要な撤退指揮したと書いてる。
それは今では定説になってる。三河物語の記述が元亀元年庚午二月日と月単位で大きくずれ過ぎているので全くソースにならない。そもそも三河物語の浅井朝倉との攻防全般の記述が
デタラメばかりなので(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている)
>>しかも波多野秀信宛に書かれた義昭奉行衆の一色藤長の5/4付け書状の内容でも(信長は4/30帰京)
秀吉の活躍で退却できたとは書いてない。そもそも朝倉軍が積極的に追撃してきたのか戦いがあったかすらわからない。現に信長公記には木下を残したとは書いてるが
朝倉が追撃してきて激しい戦になったとは全く書かれていない。朽木の奔走で朽木超えに成功したとあるだけ。
>> 金崎城に秀吉・光秀・池田勝正が残されたと書いてあり秀吉はきっちり残留組だ。
池田の軍が3000もいて、軍の主力をなしていたとするのが現在の定説で、これに木下明智に徳川が加わればかなりの軍勢になるので、防衛・撤退くらい余裕
朝倉の追撃がどの程度あり、どのような合戦があったかわかる史料が講談くらいしかないので論外
>>そればかりでなく、上洛成功し信長が美濃へ帰国する際10/26の5000を指揮して京防衛守備武将として残された中にも秀吉はいる。
それが何がすごいんだ?あと、一応史料提示もよろしく
>>そして正月の三好らによる本國寺の義昭襲撃を排除してる。
三好の軍勢数は?5000の軍勢で排除できないほどの大軍なのか?
>> 閏5/25付けの東寺の寺領安堵や10/9阿弥陀寺への兵士寄宿免除などから武将としては秀吉だけを残しているのが判明してる。
そりゃ他の方面の敵が心配だったってだけだろ。どこが困難な仕事なのか不明
>> 秀吉はもっとも困難な軍事的困難なことを常に任されてきてんだよアホ
いや最も楽な仕事しかしてない。箕浦合戦では敵軍が結束力のない一揆勢だから勝てたと勝利の理由を信長公記でもちゃんと書いてるし
>>しかし秀吉が浅井戦線最前線に転出し敵中孤立して張り付くとさっそく幕府との関係を瓦解し始める。
そりゃ単に織田軍の兵力と敵軍の兵力比の比が大きく変わったので戦況が大きく変化しただけ。むしろ金ヶ崎といい熊見川といい三木合戦の醜態といい秀吉が出てくと
必ず負け戦か大苦戦にしかならないのでそれだけ雑魚だった証拠
つうかお前他スレで金ヶ崎はなかったなどと書いてるのに平気で矛盾した事書くんだなw
71 :人間七七四年 :2013/06/12(水) 11:22:30.76 ID:/rnb16KK
織田厨はバカ無知だから相手すんなw どうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が 天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった
北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。 仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には 義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。
信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。 信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて
六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし 信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して
義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により
浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし
二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う
浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣
842 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:38:26.36 ID:he8AGbFi
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
843 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:38:41.97 ID:Dr+rj1Ce
>> そもそも当時は上月城なんて呼称で呼ばれていない完全に江戸期になって毛利側が作った造語。
デタラメ書くなよ。信長公記にも上月城とはっきり書かれてるし天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状にも上月城とハッキリ書かれてるわ
また天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙した際の書状にもハッキリ上月城と書かれてる(阿波国古文書)
>>じゃあなんて呼ばれていたかといえば、七条城って呼んでた。だから当時の書状で上月城と書いてるのは偽書状。
いやむしろ七条城と読んでるのが偽文書。同年の多聞院日記4/29条にも上月城を助けるため滝川明智などを送ってるのがわかるし
熊見川の戦いをはじめ、上月城攻防関連の毛利の史料は山口県氏史資料編により、原本によって花押の確認が取れた書状ばかりなので全て本物。むしろ
七条城などとデタラメ呼称で読んでるのは全て秀吉や織田方が後年になって偽作した偽書状
>>12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状で(下村文書)
宇喜多はこの時期出陣などしておらず、国内での政務におわれてるのが一次資料で確認できるため、明らかに偽書状
>>つか他人のレスを俺のレスの同一視すんなやwww俺は別に金ヶ崎はなかったなどとと主張したことねぇよカス織田チョンよ。
71 :人間七七四年 :2013/06/12(水) 11:22:30.76 ID:/rnb16KK
織田厨はバカ無知だから相手すんなw どうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が 天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった
北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。 仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には 義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。
信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。 信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて
六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし 信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して
義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により
浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし
二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う
浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣
どうみてもお前のレスです。本当にありがとうございました。
>>俺は浅井がこの時期、京へ向けて進撃していたから朝倉との挟撃は無かったと主張していただけだ。
挟撃されないなら普通に窮地での撤退戦などありえないし容易に逃げ出せるし最低でも5000そこそこが残ってる金ヶ崎を朝倉が単独でせめても
大して織田方も脅威にならないしそもそも実際に攻めて撃退したという史料がない。
>>家康が置き去りにされてたところで、秀吉の活躍で命拾いしたわけだ。
家康・秀吉・光秀・池田なら一万は超えそうだしそんなんで朝倉単体で攻めてきて金ヶ崎を守りとおしても特別凄いと思わん
まして実際に朝倉が攻めて来たという一次資料もない。信長公記にも木下を残したとは書いてるが
朝倉が追撃してきて激しい戦になったとは全く書かれていない。朽木の奔走で朽木超えに成功したとあるだけ。
844 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:40:12.87 ID:he8AGbFi
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
845 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:41:45.75 ID:Dr+rj1Ce
>>はいはい偽書状乙w5月の秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
>>秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて
お前天正8年にやっと但馬が平定した事もしらんのか。天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書で)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
>>あっ?そもそも日記形式じゃねぇんだから大久保の記憶違いだろ。庚午の年の出来事って記憶してるだけでもすげぇだろ
そんな3ヶ月も重要合戦の日付を間違えるような糞記憶力じゃ話にならん。完全に記憶違いで合戦の存在自体噂で聞いたか後であやふやな記憶をデタラメに思い出したか知らんし
>>つかそもそも東海方面は三嶋暦を使ってるんだからズレるのはおかしくないだろ。
何がおかしくないのか不明。そんな3ヶ月も重要合戦の日付がずれる糞史料を直接的ソースとして用いるとか話にならん。
>>それに越前出兵への依頼を家康に申し出たのが2月とも解釈できるしな。
なぜそう解釈できるんだ?
>>それにの一色藤長の5/4付け書状の内容には金崎城に秀吉・光秀・池田勝正らが残されたのは
>>北郡の儀 相下され 重ねて越国乱入有るべき候などと再度の越前侵攻のためとの言い訳を丹羽から聞かされているのがわかる。
再度の越前侵攻のため残されたなら金ヶ崎の退却のため残されたという論拠には全くならない。他の目的に備えられたと考えるのが普通
三河物語にも信長が撤退したときに家康へは何も連絡なく捨ておかれたが秀吉の案内で家康は撤退できたと書いた後に
>> あくまで信長は越前への再度の侵攻を考えていたが、越前衆が機先を制して3万で出陣してきたと書いていて
んで、実際に金ヶ崎で残留部隊と朝倉が衝突したというソースは?
>>月のズレなんてよくあることだし、むしろ丹羽から聞いた内容と同じ内容を大久保も書いてる正確さの方がすげえわ
そんなデッチ上げの全く記憶違いの嘘文書が直接ソースになると思ってるお前の脳味噌の方が凄いよ
846 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:43:41.03 ID:he8AGbFi
じゃあ一次史料はどうかと言えば、6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる。実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
毛利の捏造でっあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。
なんせ、この時期の毛利軍は備前からの陸路ではなく村上水軍を利用して海路を利用して
別所支援の行動に専心して播磨西部にいないのが明らかなんだから。
たとえば天正6年4/2の秀吉→黒田で
雑賀衆と芸州衆が船手にて別府表に上陸したが数多討ち取りを信長公に報告する
4/4のの信長→秀吉において
昨日注進が届いた別府孫右衛門(織田方の別府重宗)の阿閉要害に雑賀衆と芸州衆が相働くが官兵衛を派遣して数十人討ち取り
>>上月城
上月城・上月城とうるさく連呼してるようだから言っておくが
そもそも当時は上月城なんて呼称で呼ばれていない。完全に江戸期になって毛利側が作った造語。
じゃあなんて呼ばれていたかといえば、七条城って呼んでた。だから当時の書状で上月城と書いてるのは偽書状。
12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状で(下村文書)
七条と申す城候、翌日、廿八日、押し寄せ取り巻き、水の手取り候処、後巻として此の方陣取る山の上へ、
宇喜多罷り出で候条、城には手当て置き、切懸け合戦に及び、散々切り崩し、備前境迄三里計の間、追い討ち
首級六百十九、其の外雑兵切捨て候〜などと書きこの時の大勝利で明石三郎左衛門・・真名子喜左衛門・宗野の原の三人が
西国にての才覚、先懸け、第一の者を討ち取った大勝利を報じてる。
ちなみにこの時期の秀吉書状は他に12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状で
二人の子達の縁談を纏めた話を書いてる書状が残ってる(黒田家文書)
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
847 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:45:59.81 ID:tKjqM/Ka
そうらはじまったー
コピペ=困ってるって言ってるようなもんだけどなw
848 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:47:35.87 ID:he8AGbFi
そもそも織田・秀吉・黒田の一次史料には毛利とその時に
戦っていることが書かれているものは皆無で
宇喜多と戦っていた証明しかありませんwwwww
この時期の黒田や秀吉の一次史料から毛利軍は備前からの陸路ではなく村上水軍を利用して海路を利用して
別所支援の行動に専心して播磨西部にいないのが明らかなんだからwwww
当然、毛利方の一次史料である東大が編纂出版してる大日本古文書における
所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書にも存在せずwwwww
上月城で毛利が秀吉と戦って勝ったと書いてるのは
全部、毛利側が編纂した萩藩閥閲録などに出てくる偽書状だけwwww
んなもん証拠になるかよwwww
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
849 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:48:26.80 ID:Dr+rj1Ce
>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
850 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:49:13.61 ID:Dr+rj1Ce
>>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない
>>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから
根拠は?
>>退却はそれ以後の話なわけだ
そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。
>>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない
なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
顕如書状でも
>>419の文書でも6/21になってる
>>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない
>>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
>>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城
>>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ
>>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある
>>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明
>>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
>>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ
>>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ
全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ
以下が正しい日付年表ね
4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
851 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:50:10.55 ID:Dr+rj1Ce
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
こんな記述どこにもねぇわカスw
852 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:52:16.57 ID:Dr+rj1Ce
>>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
853 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 18:55:09.25 ID:he8AGbFi
>>841 普段は武田厨を装い、他人の昔の古いレスを集めたものを
キチガイコピペ爆撃して、その後に追撃だが認定のコンボレスして
織田厨であることを隠す隠蔽工作している在日君w
しかしこと秀吉についての話になると逆上して下記のような普段主張してることと真逆なガチレスする在日織田チョンぶりを露見させ普段の工作が水の泡wwww
>>それは今では定説になってる。三河物語の記述が元亀元年庚午二月日と月単位で大きくずれ過ぎているので全くソースにならない。そもそも三河物語の浅井朝倉との攻防全般の記述が
>>デタラメばかりなので(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている)
854 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 19:01:49.84 ID:he8AGbFi
秀吉研究の音頭を取っていた三鬼をまったく知らなかった時点でダ・ウ・トwww
秀吉文書研究でこの人ほどの人物はいねぇぞwwwwwwww豊臣秀吉文書目録を出してるんだからなwwww
お前は完全に素人だなwwwww偽書状とか頻繁に持ち出してキチガイ発言してるからどうもおかしいと思ったわwwww
855 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 19:10:45.19 ID:Dr+rj1Ce
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
856 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 19:12:54.80 ID:N3+IWKie
コピペ貼る為の煽りまで自作自演っすか
857 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 19:32:12.17 ID:i/wF6pky
ここは信玄上洛スレなので別スレでやれや
858 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 07:46:30.19 ID:seV6hxrB
論破されただがの特徴:ひたすらコピペを張り付け涙目逃走
859 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 08:33:15.87 ID:HlF9Iybk
天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状
天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書)
上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、
書状内容の転記と共に書いてください。
860 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:03:33.22 ID:EoqzpDR/
つかお前下記でいろいろと逃亡してるのをみんなに指摘されてるぞwはよ答えてあげろよwいつまで待たせるんだw
8 :人間七七四年:2013/02/18(月) 03:54:17.37 ID:hEnpT6NC
>>6 あれ年代で分類されてるってことぐらい知ってていってるよね?
知った上で、無関係な北条編とか加えて三十巻とか言ってるわけ?
何が目的なの?
10 :人間七七四年:2013/02/20(水) 06:58:49.07 ID:ZVTlg31h
>>8-9 好き勝手言うな
書状をこちらで読めない状態ではコメントできん
週末のいくつかを費やして探し出すからしばらく待ってろ
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ
861 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:20:25.38 ID:EoqzpDR/
つか秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねーだろw農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になるだろアホw
早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が
4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
しかも北条に対して秀吉軍が兵糧不足で敗北寸前だったとかお前は書いてるが、
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状については、
そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない)
つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
>>豊臣方は6月時点で兵糧不足
そんなわけなかろう。6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
6/14には奥羽征伐のための偵察先遣部隊の蒲生氏郷が早くも陸奥国二本松に到着の書状(政宗はいまだ長井郡〜大崎葛西あたりにいた)
これを受けて6/15には浅野長政が八戸らへ家康・秀次の先陣による7月上旬の奥羽平定出馬宣言。
6/20には部隊編成計画を秀吉が発表(奥州奧郡為仕置被指遣御人衆道行次第)
7/4あっけなく小田原降伏。
7/7奥州出羽仕置の方針について政宗の意見を参考にしたいと秀吉から御内意があったと
旧葛西家臣富沢直綱に正宗がウソを吐く(自筆書状なので用心のためすぐに火の中へ入れて燃やせと書く)
77/11氏政・氏照らが切腹。7/13秀吉が小田原城検分と家康の関東転封命令。
7/17秀吉も小田原を発し奥州に向かう。7/26秀吉が宇都宮に到着。
>>豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
>>豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000
あぁ!?ここでは29万と下方修正して主張しとんのかこの在日アホ織田チョンw根拠がないから都合で兵力をかえてるだけだなw
そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w
さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換されるアホ脳。さすがキチガイですねwww
862 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:21:13.00 ID:EoqzpDR/
>>山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
>>でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
>>正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
>>近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。
なんで山口県史史料編の注釈を持ち出して
萩藩閥閲録収録の輝元御印と書いてるだけの写しを
偽書状写しじゃないと証明しようとしてるわけ?まったく関係ないだろwwwwwwww
だいたい萩藩閥閲録からの転記の
>>天正6年8/10毛利輝元→児玉
>>去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
敵数多討捕なんて書いてないからw書いてあるのは及鑓合被疵左足併郎従1人令討死だし
>>天正6年6/26輝元→児玉
>>態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
小次郎事と無比類の間には、被疵之由候、無心元候と書いてあるのに、なんで削除してんだよw
なんでお前は必死になってそこまで捏造歪曲しまくってんだよwww あまりにも捏造がひど過ぎるだろW
つかさ、萩藩閥閲録収録の巻115の湯原文左衛門186通の中からお前は抜粋してるようだが、
山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
しかも湯原分で調べると児玉文書第3(天正8年12/28)・4号文書(天正9年1/21)だけじゃんwww
こんなもん信用できるわきゃねーだろwww
(上月城の戦いがあったとする天正6年の湯原分ですら偽書状扱いして山口県史もガン無視www)
863 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:38:39.00 ID:EoqzpDR/
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
864 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:39:06.74 ID:mwHIVugu
>秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねー
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある
>小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙
>>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ
天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし
>城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる
そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。
>早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
何が問題なんだ?
>下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
>ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ? 北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから
一点に集められる兵力は減るのは当たり前
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww
後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね
>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる
。 >2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
根拠なし
>3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか
相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬殺するのがうまい城攻め)
>松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな
>6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
後から届けさせるか現地調達のつもりだったんじゃね
865 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:41:53.53 ID:EoqzpDR/
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ
866 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:42:57.18 ID:EoqzpDR/
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ
867 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:43:55.81 ID:EoqzpDR/
171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ
868 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:45:28.26 ID:EoqzpDR/
>>山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
>>でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
>>正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
>>近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。
なんで山口県史史料編の注釈を持ち出して
萩藩閥閲録収録の輝元御印と書いてるだけの写しを
偽書状写しじゃないと証明しようとしてるわけ?まったく関係ないだろwwwwwwww
だいたい萩藩閥閲録からの転記の
>>天正6年8/10毛利輝元→児玉
>>去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
敵数多討捕なんて書いてないからw書いてあるのは及鑓合被疵左足併郎従1人令討死だし
>>天正6年6/26輝元→児玉
>>態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
小次郎事と無比類の間には、被疵之由候、無心元候と書いてあるのに、なんで削除してんだよw
なんでお前は必死になってそこまで捏造歪曲しまくってんだよwww あまりにも捏造がひど過ぎるだろW
つかさ、萩藩閥閲録収録の巻115の湯原文左衛門186通の中からお前は抜粋してるようだが、
山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
しかも湯原分で調べると児玉文書第3(天正8年12/28)・4号文書(天正9年1/21)だけじゃんwww
こんなもん信用できるわきゃねーだろwww
(上月城の戦いがあったとする天正6年の湯原分ですら偽書状扱いして山口県史もガン無視www)
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
869 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:45:54.06 ID:mwHIVugu
>そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
根拠なし。朝鮮というはるか彼方にすら30万以上の兵力をかなりの長期に渡って派兵し続けたし関が原の戦いでは畿内方面だけで西軍は18万もいたんだし(三成人数書立・慶長見聞集)
北条領国200万石に対し豊臣方は日本全土味方なんだしそれくらい余裕で可能
>>どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
お前は馬鹿だな。豊臣方作成の陣立書で215000を動員してるのが確認できるしこれに佐竹結城宇都宮那須里見など関東の反北条勢2万+奥州の諸侯で最低でも25万は超える
享禄以来年代記によると29万動員してるとあるし那須記や榊原康政書状だと50万騎。しかも兵糧を20万石以上用意しながらわずか3ヶ月程度でなくなりかけてたんなら普通に単純計算で12ヶ月÷3=4
四×20万で80万くらいいた事になるなw
>>北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
はぁ?いつの間にかも糞も最初からそう言ってるだろ。天正壬午の時の若御子の対陣の兵力が2万だった事や(家康書状)北条は村落の欠落が目立ってた事。関東は実は貧困だった事や
北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書からその数字が妥当
>農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
農民町人なんていても作業普請くらいしか戦力にならないししかも北条領国では防衛体制構築のため天正14年か15年頃からその動員がなされており
この頃になるとかなり領国が疲弊して村落の欠落が目立って来ている
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w
秀吉本隊も駿河伊豆国境地帯の戦闘である程度打撃を受けたみたいで北条方から何枚も感状が出てる
しかも山中城忍城韮山城小田原城など豊臣方兵力と比べたらハナクソみたいな兵力しか篭もってないのに
そんな所を瞬殺できないどころか城攻めで重臣を戦死させたり大量の時間と費用費やす水攻め兵糧攻めなどに頼りまくりなんだから
いかに秀吉の指揮采配能力が糞かわかるな
>>さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換
当たり前だろアホw30万も兵力いてわずか1000だの500だのの雑魚城で討死とか情けないにも程がある
その証拠に小田原本城1000にも手も足も出てないしな
870 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 14:52:38.98 ID:mwHIVugu
>>862>>868 >>はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。
はぁ?全部山口県史資料編と兵庫県史資料編と島根県史資料編から抜粋しただけだが?
>>山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
どこにそんな内容が記述されてるのか書いてみろよクズw
山口県史資料編表題部には花押の書かれてるものしか乗ってないしその花押確認を写しに頼ったものには印影と
記載されてて偽者認定されてる書状なんてほとんどねーだろカス
>>(上月城の戦いがあったとする天正6年の湯原分ですら偽書状扱いして山口県史もガン無視www)
どこで偽書状認定してるんだよアホ
>>つべこべ言わずに研究者も出典として使う一次史料認定されている 毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書 三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書
それ以外偽だと決め付けて一切排除してるの三鬼とか馬鹿な歴史家だけだよ
山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
でソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
871 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 15:07:45.76 ID:ro2CmwGW
ここは信玄上洛スレなので別スレでやれや
早く架空歴史作れ
872 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 17:21:04.06 ID:mwHIVugu
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
873 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 20:40:17.53 ID:I1/BNO12
結局スレを荒らすことしか出来ない能なしだよお前はな
874 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 11:09:44.68 ID:Ctti6iUD
天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状
天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書)
上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、
書状内容の転記と共に書いてください。
これまだぁ???
875 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 09:48:12.00 ID:HOlAKFDY
織田方は宇喜多と戦って勝った一次史料しかないのか。
毛利はデッチ上げ宣伝で戦時情報工作してたんだろ。
876 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 10:10:01.10 ID:G0JmLchP
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
877 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 12:32:26.96 ID:bKZMUs0F
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ
878 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 14:09:20.70 ID:wEe3yzj1
実際、秀吉軍と毛利軍が戦い、毛利軍が勝ったことを証明する一次史料は存在しないよね。
だから信長について書かれた本にも一切載ってないのが現実。
879 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 14:10:26.47 ID:G0JmLchP
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
880 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 16:37:28.30 ID:j2u2V+/2
ここは信玄上洛スレなので別スレでやれや
早く架空歴史作れ
881 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 18:47:13.32 ID:bKZMUs0F
本願寺や一向宗研究の第一人者であり
富山県史や福井県史の編纂に関わった金龍静氏の総チェック史料参照したところ
東大史料編纂編纂所架蔵影写本・写真帳
龍谷大学大宮図書館・本願寺史料研究所架蔵写真帳
国立公文書館内閣文庫の顕如書状や光佐書状や教如書状や
何人もいる下間書状や平井重敦書状や小笠原種盛書状や中島弘藤・若林宗成書状や
法敬坊玄、常楽寺証賢、益田照従、教行寺証智、横田芳堅・重恒、勧修寺晴豊
等々の書状を総攬しても「上月」なんて言葉は残念ながらまったく登場せず。
882 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 18:58:26.18 ID:G0JmLchP
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
883 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:00:39.47 ID:G0JmLchP
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
884 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:06:27.38 ID:rI7EtCix
確か上月というのは顕如日記にもしっかり書かれていたはず。
顕如条文案にもしっかり存在するし逆に七条というデッチ上げ地名城名は秀吉の捏造文書くらいしか登場しない。
あと萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは秀吉厨のアホ学者くらいだろ。
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。
逆に無視してるのは
>>882-883のようにこれだけしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらいだろ。
885 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:23:41.87 ID:bKZMUs0F
それどころか
>>881で調べてたら
天正6年正月15日付け宇喜多直家→下刑法参 人々御中御報の内容では
芸州へ重ねて仰せ談ずるとのことは最も肝要ななことです。
近日ことごとく出張を催す件ですが、緩んでしまうのはあるまじきことです。
播磨表での働き不可存由断候などと直家は毛利が播磨への出撃を緩めてしまうことに怒り
重ねて本願寺に説得するように述べてる。
毛利は播磨表に出てくる気がなかったのがここで判明する。結果、下記のようになるわけだ。
6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる。実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
毛利の捏造でっちあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。
886 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:26:23.42 ID:bKZMUs0F
はいはい条文案なんて捏造の宝庫じゃんw
887 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:29:04.82 ID:G0JmLchP
>>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
888 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:31:10.55 ID:rI7EtCix
>>885 お前はなんで人の調べた史料を無視か全て捏造扱いで
織田方史料羽柴方史料は全て正しい前提ですべて自分の都合のいいように歴史を塗り替えるんだ?
死ねよ基地外秀吉盲信野郎
889 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:35:04.86 ID:8v+GyCJi
秀吉が毛利を攻め切れないで信長を援軍請うたとか
馬野山の対陣で吉川6000にビビッて退却したとかいかにも陰徳太平記の捏造っぽいと思ってたんだが
ちゃんと学者も史実扱いしてるんだよな
「織田・毛利戦争の地域的天下と政治動向」とか兵庫県史通史編とかでちゃんと引用されてるし
萩藩伐越録もしっかり直接のソース元として利用されてる
890 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:38:50.98 ID:bKZMUs0F
だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
戦ったのは宇喜多とだけ。
偽書状を使ってデタラメ吐くなカス。
891 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:41:14.13 ID:bKZMUs0F
>>889 偽書状の宝庫w萩藩閥越録wwwz自演乙w
892 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:42:48.35 ID:bKZMUs0F
東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
893 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:42:48.26 ID:G0JmLchP
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
894 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:49:08.90 ID:bKZMUs0F
エア毛利軍襲来www信長華麗に黙殺スルーして宇喜多軍を撃破www
エア毛利が勝利宣言wwww
895 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:49:57.58 ID:G0JmLchP
>>天正6年正月15日付け宇喜多直家→下刑法参 人々御中御報の内容では芸州へ重ねて仰せ談ずるとのことは最も肝要ななことです。
なんで上月合戦の半年前もの史料がソース元としてあがるんだよアホ
>>毛利は播磨表に出てくる気がなかったのがここで判明する。結果、下記のようになるわけだ。
宇喜多が毛利の出兵計画を誤認してただけだろアホ
>>6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
>>などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
なんで宇喜多が八幡山まで進軍してきたと書いたら毛利が来てないことになるだタコw
信長が誤認してたか宇喜多と別の所に毛利が陣取っただけだろアホ
>>6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
秀吉から歪曲された戦果の情報が信長にもたらされてただけじゃね
>>などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
ならなんで上月落とされて尼子勢全滅・西播磨から撤退の大敗戦になるんだよタコ
>>9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
>>などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる
西播磨を攻略もしてねーのに備前までいけるわけねーだろクズw
>>実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
根拠なし。秀吉側近黒田に秀吉派遣して備前に攻め込むといったらなんで秀吉がいなかったことになるんだアホ
>>早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
播磨西部で負けたから上月初め西播磨の拠点悉く失って尼子衆や山中見殺しにしたんだろうがボォケwwww
>>結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
そんな事実ない
>>毛利の捏造でっちあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。
秀吉が毛利にガチンコ大敗して西播磨からたたき出されたのを、毛利→宇喜多に摩り替えて
宇喜多を調略で味方に引き入れたのを武力で勝ったように捏造してるだけ。
896 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:52:58.67 ID:G0JmLchP
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
897 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 19:54:59.40 ID:G0JmLchP
天正5年10月23日 秀吉、信長の命令で中国を平定に着手、是日、京都を発す
播磨小寺孝隆の姫路城に入りて、同国諸士の質を徴し、更に但馬に赴きて、岩洲城を攻略する
12月3日秀吉、竹中重治、小寺孝隆をして、備前宇喜多直家の属城播磨福原城を攻略せしめ、自ら同国七條城(上月城)を囲み、之を赴援する直家と戦ひて、之を破り、是日、七條城を陥る、尋で、秀吉、尼子勝久、山中幸盛を播磨三木城より同城に移らしむ
12月5日羽柴秀吉、播磨龍野に入る、尋で、上京す
天正6年2月23日秀吉、再び播磨に入り、書写山に陣す、尋で、同国三木城別所長治、毛利氏等に通じ、兵を挙ぐ、
3月15日秀吉、播磨中島隆重等に基本領を安堵せしむ、
3月29日羽柴秀吉、別所長治を播磨三木城に攻む、
4月3日羽柴秀吉、播磨三木の属城同国野口を攻め、是日、城將長井四郎左衛門を降す、
4月4日織田信忠、摂津石山城を攻む、尋で、軍を班す、
4月18日吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲む、
4月29日信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援させる
5月1日 信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む、
5月4日 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5月6日信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5月16日羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5月21日羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、
是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5月24日羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報じる
6月16日羽柴秀吉、入京して信長に謁す、信長、秀吉をして、播磨高倉山の営を徹し、神吉、志方の両城を攻めしむ、
6月21日毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
6月26日羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す、明日、織田信忠等と共に、別所長治の属城神吉を攻めて克たず
6月29日信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7月5日播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、
尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
7月7日織田氏の兵、毛利氏の兵を摂津木津の砦に攻む、
7月20日 織田信忠、羽柴秀吉等、播磨神吉城を攻めて、之を陥れ、秀吉、同城を守る
8月10日織田氏の軍、播磨志方城を攻略す、尋で、同国三木城を囲む
8月17日織田信忠、播磨より岐阜に帰る、
10月9日信長、摂津に出陣し、諸將を遣して、荒木村重を打たしむ、尋で、耶蘇会宣教師を遣し、同国高槻城高山友祥を誘降せしむ、
10月17日 荒木村重、新五郎父子、義昭、毛利氏及び本願寺光佐(顕如)と通じて、信長に背く、是日、光佐、村重と盟約す、
10月22日羽柴秀吉の兵、別所長治等と播磨三木城下に戦ひて、其弟治定を斬る、
11月14日織田氏の諸將、荒木村重を摂津在岡城に攻め、之を破る、
11月24日信長、摂津刀根山の塁に陣し、茨木城中川清秀を誘降す、尋で、瀧川一益等を遣し、同国兵庫等に放火せしむ、
12月11日信長、陣を摂津古池田に移し、將士をして、諸塁を守らしめ、羽柴秀吉等を播磨に、惟任光秀を丹波に遣す、尋で、安土に帰城す、
12月23日毛利輝元、荒木村重に援兵を遣す、是日、之を湯浅將宗に報ず、
898 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 20:20:35.44 ID:MV/s++0J
なるほど、今まで毛利がなぜ勢いに任せて姫路を落として、
別所を救援しなかったのか?って戦国の摩訶不思議な謎の一つだったが、
そもそも毛利が播磨西部に来てなかったのなら辻褄が合うね。
宇喜多は滅亡してるから死人に口なしで宇喜多軍が毛利軍にすり替えられたんだろうね。
実際、宇喜多が毛利を見限り織田に付く動機もイマイチ不明だったけど、
天正6年時点ですでに直家が毛利に対して不信を抱くような状況にいたとなれば
この謎にも答えが出る。
所詮、公記は太田がメモったことの他に、
天正中期以降の事柄についてはさらに他家へ取材したりした後に編集してるから毛利への取材を太田は取り入れてんだな。
899 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 20:44:12.40 ID:8v+GyCJi
なるほど、今まで毛利がなぜ勢いに任せて姫路を落として別所を救援しなかったのか?
って疑問は、毛利がアホだったからというだけだろう。天正4年頃からの勝頼との対織田戦での盟約も毛利は破りまくってたし
秀吉がなぜ上月城をガチンコで毛利方に陥落させられ、西播磨が毛利一色に塗り変わるのも、毛利に大敗した証拠といえる
実際荒木らが織田を見限り毛利方につく動機もイマイチ不明だったけど
天正6年時点ですでに長治が織田に対して不信感を抱くような状況にいたとすれば
このなぞにも答えが出る
秀吉が南条・宇喜多・草刈・瀬戸内水軍衆らの大援助がありながら、単体で毛利を攻められず
信長の御動座を請いまくったのも、毛利相手に負けまくってたからに他ならないだろう
(実際高松城攻防の前哨戦の鴨城で敗北したり、備中岩屋城、美作寺畑で蹴散らされたり、備前児島でも逃げ回ったり醜態晒しまくってたのがアホ秀吉。
しまいには三万以上もの大軍がありながら6000の吉川勢にビビッてヘタレ逃亡w)
900 :
人間七七四年:2013/07/24(水) 21:22:30.74 ID:2JBlPKan
>>897 うっわ〜ガチンコで負けてるじゃん秀吉w
南条宇喜多草刈らが寝返ってこなかったら確実に死んでたなw
そういえば信忠の大軍やら光秀の援軍にも助けられまくってるんだよなw