1 :
人間七七四年:
イージーモードなら俺でも楽に地方平定できるわ。
2 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 12:07:06.81 ID:+8cKJQt0
3 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 13:29:38.90 ID:FeblkH5k
織田信長
毛利元就
北条氏康
伊達政宗
この4人は講談軍記の捏造を排除したら
むちゃくちゃ超有利スタートだろ。
4 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 13:57:22.04 ID:ID0wdtAM
毛利はちゃうやろ
5 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 14:01:55.62 ID:8CfdI64S
豊臣秀頼
6 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 14:23:02.03 ID:FeblkH5k
7 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 14:25:23.65 ID:prfNBKu6
>>5 秀頼は秀吉が彼の成人まで生きていれば超イージーだったろうけど、
あの状況だとある意味イージーではなくハードかもしれん
8 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 17:06:48.17 ID:nDJBZXDK
尾張の1/4しか把握できてなかった信長のどこが有利なの
9 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 17:14:33.01 ID:eYlI9vJL
10 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 18:37:18.73 ID:YTe+jzfM
最初は5万石以下の地方城主だったからな、元就
左に大内義興、右に尼子経久と、強敵に囲まれてるし
11 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 18:56:42.71 ID:Om7Cnacg
今川や大内じゃないのチート設定は
12 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 19:20:20.92 ID:FeblkH5k
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240453594/367 安芸での主導権を握りたい大内や武田が使えないと悟った尼子らは
安芸一揆の盟主の家柄であった元就に非常に優しかったわけだが。
まあ求人がたくさんあり売り手市場で強気の労働者が毛利で、
青田買いしたい大内・尼子の立場の方がはっきり言って低かった。
中国地方の寄親寄子制度の温るま湯世界では、自陣営に付くように威圧はしても
滅亡させるような行動はほとんど採らなかったなぁなぁの戦いばっかだったし。
そもそも元就の父の弘元は天皇家領の多治比を横領した大罪人とされているし
渡邊世祐氏によれば1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上るとしていた。
つまり毛利の3000貫しかなかったってのはそもそも大ウソなんだよw
また池享氏も井上氏により元就の多治比300貫が横領され乞食若殿と
呼ばれていたとする話も実に怪しいいい加減な話と一刀両断にしてるわけだがw
つまり毛利が貧弱な小豪族設定は完全なデタラメなのは明白なんだよ。
13 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 19:23:09.53 ID:neJ/qVPU
はいはい全部捏造捏造
14 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 19:31:03.44 ID:eYlI9vJL
信長・元就・政宗らのスタートが弱体設定の妄想を書いて回って
必死に捏造垂れ流して初心者を洗脳してるキチガイは
チョン思考そっくりでむちゃくちゃ気持ち悪いわー。
15 :
人間七七四年:2011/08/05(金) 20:15:42.02 ID:8CfdI64S
織田信忠。
本能寺の変さえ、乗り越えられれば…。
16 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 00:52:42.39 ID:yx7lBEYz
ダントツで秀忠だろ。
17 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 00:58:27.97 ID:O4Co4OEx
>>3 氏康の川越野戦も講談軍記のみの捏造だしな。
18 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 04:01:09.17 ID:CeUrOntY
つまりチート設定は今川と大内で決まりってことですね
19 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 08:07:43.15 ID:HEr5BAT/
今川と大内 チート状態にまで持っていくにはご先祖さんが苦労して…
20 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 11:17:38.73 ID:qgUkbBY7
正直捏造どうたらで騒がれてる奴等はそこまでチートじゃないような
せいぜい一国程度だろ?
氏真や勝頼、政宗あたりじゃないかね
21 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 11:28:27.39 ID:JzPmSMGV
今川なんて駿河と遠江を合わせた石高ですら尾張に及ばないのにどこがチートだよ…
22 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 11:44:42.28 ID:DxOoXYwW
足利
ある意味はじめから天下人
23 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 12:11:18.46 ID:ArTqqpcD
ということで結論が出ますた
24 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 12:50:09.06 ID:TA0BS+g1
北条氏直
25 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 12:59:33.30 ID:qgUkbBY7
>>21 え?尾張のどこにそんなに米取れるの?
田んぼと港しかなかったの?
26 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 13:00:10.16 ID:s4L93fAX
チートとか意味わからん
今で言うと海老増とか2世タレントとか議員はチートなのか?
27 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 14:52:12.53 ID:mW5r8/lQ
人と水がたくさん無いと米は取れないからな。
28 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 18:19:10.45 ID:hBHyl4Hn
>>25 え?駿河と遠江のどこにそんなに米取れるの?
田んぼと港しかなかったの?
29 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 18:37:16.51 ID:X6wWrb34
>>26 家督就任1ヶ月目で姉小路や里見を滅ぼすくらいの勢力を持つ人のこと
30 :
人間七七四年:2011/08/06(土) 18:40:10.63 ID:6Dgv8Jyi
なんで姉小路と里見が並べられてるんだ?
31 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 06:07:20.41 ID:6qDIYWP7
濃尾平野と関東平野はスーパーチートモード
32 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 06:33:40.65 ID:x0Py968o
ゲームで申し訳ないが美濃尾張は肥沃でも敵にかこまれていて攻めにくく守りにくい
実際の信長も三河の家康という盟友の存在がなければ伸び悩んでいたな
33 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 11:48:47.96 ID:4CIKaGq7
豊かな尾張や越後を持ってた信雄景勝はチート
秀信だって一時期信長の領土全て持ってたチート
秀頼は天下統一した状態でry
34 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 12:17:07.44 ID:y6LNXs5q
要はチートという言葉を使いたかっただけなのね
35 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 15:23:26.88 ID:aPqCz0Lr
チート(cheat)とは、直訳すれば「ズル」あるいは「騙す」という意味の英単語
だって、
出自を偽る人のことかな?でも偉くなったらどいつもこいつも
源氏の子孫だとか平氏だとか藤原氏とかいうじゃない
36 :
人間七七四年:2011/08/07(日) 17:40:22.43 ID:ZQbG9UIz
駿河15万石
遠江25万石
尾張57万石
37 :
人間七七四年:2011/08/11(木) 15:06:08.17 ID:zK4EmHe8
伊勢湾商業圏を含む強固な経済力を持つ尾張との国力差を埋めるために義元が焦って下手を打った。
38 :
人間七七四年:2011/08/12(金) 12:30:36.51 ID:yeEsc1uA
めんどくさいから秀吉以外はみんなチートでいいよ
39 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 09:39:44.27 ID:p9qSTrsV
>>32 どの国も敵に囲まれてるし
国内には身内を含めて対抗勢力がいる。
現実はゲームみたいに兄弟や親戚や国人が絶対に裏切らず
敵の侵攻ルートが限られているわけではない。
40 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 12:17:29.33 ID:1fGHnDqK
現実っていうけど
>>1を見る限りゲームのスレみたいだぞ
イージーモードとか言ってるし
41 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 12:55:04.63 ID:yjsBa3lZ
42 :
人間七七四年:2011/08/15(月) 16:34:37.48 ID:StfJCKNd
どう考えたら織田厨という結論に行き着くのかが分からない
43 :
人間七七四年:2011/08/16(火) 09:37:26.81 ID:ig1ZGtWk
織田厨って言ってみたいだけじゃね?
44 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 11:43:59.95 ID:I1yJ6XjD
織田厨ってどっからでてきたんだ?イミフ
45 :
人間七七四年:2011/08/17(水) 13:44:24.66 ID:1Yt09h4a
織田厨必死な自演ワロタw
46 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 01:46:44.39 ID:/uIY8Rlu
ゲームってことなら島津か
どの作品でも当主及び配下武将の能力は優秀
鉄砲も多く、スタートが九州最南端で戦力を集中し易い
台風(水害)確率が高め以外は文句なしだ
47 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 03:17:00.02 ID:ThZOPFGh
>>21 つまりチート設定は大内一択で決まりってことですね
48 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 03:47:58.54 ID:0R8q54gQ
織田厨必死過ぎw
49 :
人間七七四年:2011/08/19(金) 18:30:27.37 ID:/bmDniaZ
>>47 大内がチートなら尼子晴久もチートだと思うけどな もちろん毛利輝元も
ただ大内と尼子は対抗してたし、輝元のころには織田も伸びてきてるし
大勢力継いでも相手あってのことだからな
50 :
人間七七四年:2011/08/24(水) 22:09:50.81 ID:h84WsV+5
晴久はぜんぜんチートじゃねぇだろ。
祖父が生存してる末期から叔父の謀反とかが始まってて
尼子領国が一歩間違えば瓦解してただろ。
51 :
人間七七四年:2011/08/31(水) 10:50:13.67 ID:EiLyd+Xp
設定がチートってあれだろつまり
後世の捏造が酷いやつ
52 :
人間七七四年:2011/08/31(水) 17:10:27.23 ID:5vD4h95o
浅井長政とか武田信玄とか真田信繁とか徳川信康ですね解ります
53 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 10:04:52.14 ID:pOWxq3Mh
俺清和源氏の末裔だから
54 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 14:07:11.47 ID:YDkSPVnw
せいわげんじ(85)さんのお孫さんですか
55 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 15:19:04.98 ID:69FwU91B
俺なんか かんむへいし(72)の末裔だぞ
56 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 18:40:25.70 ID:mmqHEBPP
武田信玄やろ
30万石近い甲斐を丸ごと継承し背後も同盟で固めていた
しかも世界有数の金山を持ち敵国の信濃は弱小大名ばかり
逆に言えばこれだけ有利なのに100万石で終わったのは問題
57 :
人間七七四年:2011/09/01(木) 22:50:27.75 ID:8zeg1834
細川藤孝
58 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 02:54:11.78 ID:yLPFUHkr
>>20 勝頼はチートじゃない。
むしろスタートしたときからほぼ詰んでる。
59 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 03:32:55.64 ID:fq4lTngh
家光が断トツかと
60 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 12:29:46.59 ID:4lnYOi9/
61 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 14:54:05.31 ID:2DdMWx3F
吉弘統虎
親父も養父もチートで自分も西国チート
62 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 18:50:25.60 ID:wu93zpEB
京極高次とかは
本人はやらかしたりしてるのに周りの女関係がチート
63 :
人間七七四年:2011/09/02(金) 20:39:10.28 ID:pCKZY21H
一色だな
逆チート
64 :
人間七七四年:2011/09/29(木) 09:41:09.16 ID:snTVMqYA
>>31 関東平野は北の方から台風が来るから、意外と難しい
65 :
人間七七四年:2011/12/09(金) 10:48:19.16 ID:IP4dQZ5g
昔やったゲームだと
徳川(家康)、北条(氏政)、伊達(輝宗)、織田(信長)あたりが強かった。
悲しくなるくらい扱いが悪いのが
武田(信玄)、上杉(謙信)、毛利(元就)、今川(義元)
このあたりは、年は史実通りなのに20代の家康の三河より弱い設定だった
66 :
人間七七四年:2011/12/11(日) 22:11:47.90 ID:R+PwrGGA
日本一豊かだった尾張の信長
67 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 04:06:48.93 ID:rJXeTAj2
なんか織田信長に粘着してる変なおっさんが半分位のレスつけてる腐ったスレだなw
信長に先祖でも殺されたか?w
何百年も前の人間にネットで粘着し続ける人生ってお前どんだけ惨めなんだよwww
68 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 12:03:33.01 ID:eCuCrXXC
69 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 13:57:09.79 ID:5XBFntWL
お前の中ではそうなんだろう。
70 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 20:01:01.93 ID:y7+6eZwj
織田信秀の内裏修理が四十万疋(四千貫)
松本茶碗が五千貫
三日月茶壷が三千貫〜一万貫
多いのか少ないのかわからんな
71 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 20:37:10.83 ID:GfaRNwQb
4000貫で600人を1年間雇える人件費と考えてみればハッキリするだろ。
72 :
人間七七四年:2011/12/12(月) 20:49:42.40 ID:y7+6eZwj
雇えるというのは軍役とは違うのでは?
後北条氏の場合は軍役のことだよね
そうすると矢銭に近いのかな?
石山本願寺は矢銭に五千貫出したよね
73 :
人間七七四年:2011/12/13(火) 21:05:51.44 ID:z9lMDx+l
GDP比の軍事費だろ >軍役
人件費というかいわゆる金銭とは物差しが違う
この位の経済力があればこのくらいの軍事負担は平気だよね、って話だからね
74 :
人間七七四年:2011/12/15(木) 13:43:07.72 ID:YdxEiRVO
>>71 3ヶ月間の籠城の募兵なら2500人も雇えるのか。
こんだけ集めればまず落城しないな。
アホ指揮官じゃない限り。
75 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 20:41:53.00 ID:cxMp+acJ
_
|O\
| \ キリキリ
∧|∧ \ キリキリ
ググゥ>(;⌒ヽ \
∪ | (~)
∪∪ γ´⌒`ヽ
) ) {i:i:i:i:i:i:i:i:}
( ( ( ´・ω・)、
(O ⌒ )O
⊂_)∪
76 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 09:35:15.23 ID:p/RfROcb
信長のことだな
77 :
人間七七四年:2013/03/12(火) 20:34:23.11 ID:bMBrhstH
朝倉義景がなぜない
雪と一揆くらいしかマイナスポイントがないぞ
78 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 17:53:40.98 ID:f9obk2qJ
>>77 本拠が館なのは武田と同じくマイナスポイントじゃねえの?
逆にチートなのは北条の小田原城
79 :
人間七七四年:2013/03/13(水) 19:56:51.57 ID:PCFFGhOw
小田原城は営々と増築し続けて、謙信・信玄・秀吉という戦国を代表するような武将と渡り合ってこそのチート認定
時間と金と労力を全振りしてこその、小田原総構だから
80 :
人間七七四年:2013/03/15(金) 00:53:26.29 ID:ZKsXqXnL
>>10 本家は三千貫でせいぜい四,五万石の小領主
しかも元就は次男で所領は当初七十五貫という説もある。
つまり千石もなかったわけだ。>甥の幸松丸を毒、もとい甥が病死するまでは
81 :
人間七七四年:2013/03/15(金) 12:02:43.44 ID:Ow35/U21
財力だけなら豊臣秀頼?
82 :
人間七七四年:2013/03/15(金) 12:59:08.59 ID:TVpGtn5X
渡邊世祐氏によれば1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上るとしていた。
毛利家文書151・252号によれば1475年備後国伊多岐・重永・山中など世羅台地にも毛利は3000貫を獲得し備後国にも発言力を持っている。
つまり毛利の3000貫しかなかったってのはそもそも大ウソなんだよw
そんで大内と尼子の間をくるくると渡り歩いているのは
安芸可部七百貫・温科三百貫・深川上下三百貫・玖村七十貫等の地を
大内から加増してもらった大恩を忘れ大内を裏切り元就が晴久と義兄弟にまでなっている事実・・・
1541年大内から佐東や安南に合計1000貫の所領をもらい
翌年には武田の一族判氏の遺領である判の地も貰い武田の佐東川川口の川内衆水軍をもらう。
(大内は備後北半七郡直接支配は元就に委ねている)
陶の謀反に同調した元就は陶が厳島接取した同日8/20金山城(武田の主城である佐東銀山城)を手に入れ、
陶から己斐河以東の左東郡を与える約束をしてもらっている。
また9月には義隆側の孤立無援の西条槌山城も手に入れる。
(大内が安芸東部支配の牙城にしていた西条鏡山城を廃して新たに築城した)
周防16・長門13
備後18・安芸19
だもんな。しかも陶は周防からしか動員できないし。
そもそも中国地方なんて石高の低いしょぼい戦しかないだろ。
鴨川氏も港湾収入なんて、それまでの徴収者が据え置かれてるから
港湾地域を支配に加えても毛利の収入はそれほど増えなかったとしてるし、
瀬戸内海での港湾からの上がりも期待できなかっただろうし。
83 :
人間七七四年:2013/04/16(火) 11:47:17.41 ID:Ig6eLZVu
甲斐一国ある武田信玄はチート
84 :
人間七七四年:2013/04/16(火) 17:37:21.52 ID:l4NMHSta
>>83 それを言うなら普通に家督を継げた奴はチート
信玄・義元・信長・元就・謙信あたりはセーフか
政宗もそうだけど、有名どころの戦国武将は結構弟や父と問題起こしてるな
85 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 01:17:41.56 ID:a7EdjZ9x
武田信玄は
30万石近い甲斐を丸ごと継承し背後も同盟で固めていた
しかも世界有数の金山を持ち敵国の信濃は弱小大名ばかり
逆に言えばこれだけ有利なのに100万石で終わったのは問題
86 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 10:29:32.87 ID:J4TqneES
国情無視のキチガイ織田チョンw
87 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 11:57:44.36 ID:GMvSuXQb
小山田とかの国人層を完全に家臣化出来てるワケじゃないから甲斐一国って言ってもね
88 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 14:34:24.09 ID:QmNEcyP0
>>87 戦国時代と後世呼ばれる混乱の時代に甲斐の武田を残せただけでも(少なくとも次の勝頼までは)凄いとするなら、
武田信玄は大したもんなんだろうw
国勢って世迷い言で、
田舎の地主の子(信玄)と都会の上級サラリーマンの子(信長)の比較で、
一概にサラリーマンの子が有利って思えるのは基地外だけ
89 :
人間七七四年:2013/04/18(木) 16:38:46.86 ID:14i8Xxxq
90 :
人間七七四年:2013/04/19(金) 01:57:00.85 ID:wpniQLvw
お前には負けるがな
91 :
人間七七四年:2013/04/20(土) 08:12:26.35 ID:RFfQBFW6
なんら根拠を示さず曖昧に地主とサラリーマンで単純比較の自慰とか頭悪いにも程がある。
92 :
人間七七四年:2013/05/25(土) 14:44:40.33 ID:m3uhVWRo
毛利輝元だろ。地域最大の勢力に一族の年長者はみんな優秀。
本人が残念な感じでも家を残せたんだから。
93 :
人間七七四年:2013/05/25(土) 15:42:44.31 ID:BYbiGZo7
毛利輝元は確かにチートスタート。周辺地域雑魚しかいないし強敵大友は海隔ててる上に九州内部の問題に追われてたし
両川と輝元が武将としての力量が糞すぎたせいで対織田戦の大チャンス逃したけどそうでなきゃ普通に天下取れてもおかしくなかったし何回もそのチャンスはあった。
94 :
人間七七四年:2013/06/12(水) 21:11:52.72 ID:/rnb16KK
輝元時代は借金だらけですでに加増する領地もなかったし、
叔父達が自立志向で仲が悪いなど内情はひどかった。
やっぱりチートスタートは圧倒的に信長だな。
95 :
人間七七四年:2013/06/13(木) 18:58:08.05 ID:tmyEXBd6
今川がへましなければ桶狭間で終わってるのにチートとか
美濃攻めも義龍が早死にしなければ史実より難しいし
96 :
人間七七四年:2013/06/18(火) 01:50:40.89 ID:Gse6yBIq
織田と今川はそれほど差はなかっただろう
97 :
人間七七四年:2013/06/18(火) 19:55:05.59 ID:REZvZLsr
織田は道三ぶっ殺されて敵になった斎藤
信秀時代から争って三河の優位権を奪取してきた今川
その他北畠などなどが敵で尾張の支配権も薄い
戦う前から織田が負けると考えた人間も多い
滅亡寸前だった武田の時のようにな
98 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 08:16:55.29 ID:MoFhIJM9
初期設定がチートな武将ってあまりいないんじゃないかなぁ。
織田は金はあるがその後の終わり統一を鑑みれば地盤が固まっているとは
言いにくい状況だし、信玄も親を追い出すくらいで必ずしも恵まれていた
とは言いにくい。
今川も兄弟と争わなければならなかった状態でチートとは言えないと思う。
大内義隆はどうかな?
99 :
人間七七四年:2013/06/19(水) 17:44:06.60 ID:e3iYGZ/3
>>97 武田滅亡時は当の信長すらあっけなさに驚いたくらい(信濃で決戦するつもりだった)だから、また違うと思う
100 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 00:19:08.85 ID:y9pekW5k
織田も武田も家督相続時に全国で上位2桁には入る有力大名だっただろう。
トップ10は難しいと思うが
101 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 01:40:52.25 ID:hhxwEWR2
まーたゲーム厨は意味不明なランキングを
102 :
人間七七四年:2013/06/20(木) 16:15:37.06 ID:y9pekW5k
馬鹿
ゲームで武将の質も入れたらトップクラス
103 :
人間七七四年:2013/06/21(金) 19:16:28.60 ID:rHf8X/L4
>>100 全国99位以内でいいなら弱小大名でも入るのでは
必ずしも国一番でなくても入る計算だし
104 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 17:54:10.32 ID:NYajIOSF
貫高か土豪・国人勢力もありますので適当に(単位は万石)
織田信長14
南尾張は海運商業都市
武田信玄16
躑躅ヶ崎館を中心に
上杉謙信20
兄との内乱の国人の領地をどう捉えるか
北条氏康40
相模を中心に南関東
毛利元就3
吉田郡山の一国人として
長宗我部元親5
切り取り前
島津義久28
火山泥土の大隅薩摩でこれくらい
伊達政宗40
江戸時代の上杉領米沢15+刈田・伊達・信夫ほか
今川義元24
駿・遠で最低これくらいは
朝倉義景20
一乗谷は中堅商業都市
浅井長政14
やや過剰か
105 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 17:55:06.07 ID:NYajIOSF
106 :
人間七七四年:2013/06/22(土) 18:15:52.62 ID:si4IB3w/
>>104 相続時の内乱を考慮に入れるなら義元だってそうだろう
土佐は太閤検地を信用するなら元親はもっと低いかも
107 :
人間七七四年:2013/06/23(日) 16:13:50.91 ID:T+maVm8h
>>104 朝倉が低すぎ(一応、越前の覇者だろ)と浅井が高すぎ(近江の支配者の本家は南にいたんだし)の気がする。
まあ、信長でチートなら甲斐の正統な支配者として生まれた武田信玄なんて超チートだろうけど、
それでも朝倉、大内、後北条、落ちて尼子は別格じゃね
108 :
人間七七四年:2013/06/23(日) 21:13:40.92 ID:ot0+yHN+
>>105 佐竹は父義昭の代で常陸の大部分を制圧してたのだから、30万石はあるのじゃないの?
109 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 17:37:41.31 ID:vw3WTzMi
>>104 信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
しかしアホ無能だった信長を支えてきた後見役の平手や林が呆れ果ててしまうほどで
せっかく信秀が信長に残したものがどんどん失われていく。
特に後見役道三が信長保護に全力を尽くしたために義龍に打倒されるや
尾張は崩壊を見せ、義龍は信長の弟へ取次役を通さず直接書状を出すなど
離反策を推し進め、義龍が当主だった実質4年の間に信長は義龍によって
尾張の半分を奪われてしまう。しかし義龍が急死し無能幼君の竜興が斉藤を継いだために信長は滅亡せずに済んだ。
織田厨の無知さは義龍によって尾張半国が奪われたことを
知らずに信秀が失っていたと思い込んでいて
しかも指摘されても認めず、信秀は無能ニダ!信長天才ニダとキモイ発言を繰り返していること。
伊達厨が父を不当に貶していたり、毛利厨が無知すぎて毛利は小国人だったのに元就天才とか言ってるのと同じアホ
110 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 17:41:13.75 ID:vw3WTzMi
渡邊世祐氏によれば1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上るとしていた。
毛利家文書151・252号によれば1475年備後国伊多岐・重永・山中など世羅台地にも毛利は3000貫を獲得し備後国にも発言力を持っている。
つまり毛利の3000貫しかなかったってのはそもそも大ウソなんだよw
そんで大内と尼子の間をくるくると渡り歩いているのは
安芸可部七百貫・温科三百貫・深川上下三百貫・玖村七十貫等の地を
大内から加増してもらった大恩を忘れ大内を裏切り元就が晴久と義兄弟にまでなっている事実・・・
1541年大内から佐東や安南に合計1000貫の所領をもらい
翌年には武田の一族判氏の遺領である判の地も貰い武田の佐東川川口の川内衆水軍をもらう。
(大内は備後北半七郡直接支配は元就に委ねている)
陶の謀反に同調した元就は陶が厳島接取した同日8/20金山城(武田の主城である佐東銀山城)を手に入れ、
陶から己斐河以東の左東郡を与える約束をしてもらっている。
また9月には義隆側の孤立無援の西条槌山城も手に入れる。
(大内が安芸東部支配の牙城にしていた西条鏡山城を廃して新たに築城した)
周防16・長門13
備後18・安芸19
だもんな。しかも陶は周防からしか動員できないし。
そもそも中国地方なんて石高の低いしょぼい戦しかないだろ。
鴨川氏も港湾収入なんて、それまでの徴収者が据え置かれてるから
港湾地域を支配に加えても毛利の収入はそれほど増えなかったとしてるし、
瀬戸内海での港湾からの上がりも期待できなかっただろうし。
111 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 17:41:14.72 ID:xaoZ/YT4
>>109 鳴海城を今川にとられてるのに75万石もないわな
そんなにあるなら桶狭間で1万は動員してる
防衛戦で動員が5000足らずってことは実効支配できてるのは20万石にも満たないでしょ
112 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 17:44:41.25 ID:xaoZ/YT4
>>110 江戸初期の長州藩の実高は隣の福島家の表高を超えてたって話もあるからなあ
113 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 17:46:39.80 ID:vw3WTzMi
看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて
種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)
尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし
尾張三河は
頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。
地力がある土地なんだよな。
源義朝って熱田神宮の宮司の娘を正妻にしてたんだね
頼朝にとっては母親方の実家が愛知ってことか
岡崎城に隣接してる資料館では
三河武士が鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府も作ったと書いてるよ。
114 :
人間七七四年:2013/06/24(月) 20:02:50.05 ID:amNVv0li
>>111 桶狭間合戦時における尾張の下半分はほぼ今川に分捕られていたと見ていい。
大高城も鳴海城も今川軍の手に落ちているし、知多半島の水野氏は織田の敗北だと考えたのか
桶狭間の合戦にほとんど参戦せず、逆に水野大膳が今川方として参戦している有様
かつての後ろ盾であった斎藤道三は既に死んでるし、しかも後を継いだのはその道三を継いだ義龍。
つまり斎藤家の後援なんて織田家にまず起こらないし、犬山城の織田信清も全く信長に従わず事実2年後に反乱起こしてる
まあなんにせ織田信秀の死に方が悪すぎるわな
後継者すら明示せずに死ぬとか乱世では自殺行為。
そう考えると後任の新当主に一致団結させた武田信虎や浅井久政は名君だよ。
新当主である武田信玄や浅井長政のもとで家臣が従う名分を自分で作ってあげた
115 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 08:20:45.27 ID:lyRkat0C
そりゃ信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、
ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。
だいたい有力重臣国人たちにより父が失脚してる大名に信長の父は該当しないし…
父が殺された大友宗麟
父が追放された武田信玄
父が強制隠居に追込まれた上杉謙信
父を打倒せざるを得なかった斉藤義龍
父を竹生島に幽閉したがのち融和した浅井長政←失敗例
116 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 11:09:46.76 ID:ydVyG4of
などと訳のわからないことを言っており…2chに妄想を書き綴る日々を送っております
117 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 12:28:52.73 ID:jWf4+/oE
>>114 >>桶狭間合戦時における尾張の下半分はほぼ今川に分捕られていたと見ていい。
はいはいデタラメの連呼乙
鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、
今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点ではちゃんと引き継いでいるし。
>>織田信秀の死に方が悪すぎるわな 後継者すら明示せずに死ぬとか乱世では自殺行為。
天文18年11/5付け織田与十郎書状には備後守病中故と書かれており
神宮文庫の日記断片にも天文17〜18年頃に信秀を入道と呼び、信長を若殿と書いており
信秀が当主を退いて後見役になっていたとされる。
同じ時期に信長と濃姫の婚儀もあり
それと同時に天文18年11月に藤原信長として熱田村に書状を出していて
これは信長の初見文書であり、明らかに信秀は病を機に出家し後見役となり
信長を後継当主として擁立した流れとされている。
さらに天文21年10/21日には桃岩(信秀の法名)の判形の旨に任せて安堵という書状を
信長は大叔父の玄蕃允秀敏へ知行宛して当主権を行使している。
天文22年閏正月13日に信秀が外交を委任していた平手政秀が信長に悲観して自殺するや
道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
そして同じく後見役とされていた林も信長を見放す。
しかし道三は娘を人質にされてるためか、信長を見放さず、
水野の小川城に対抗して岡崎衆が村木に砦を築くや天文23年正月に安藤伊賀守の軍勢を派遣し
小川城で水野信元と会談後に砦を落として帰っている。
明らかに信長がどうしようもない馬鹿で尾張が分裂していっただけで、
信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。義龍によって尾張反語句を奪われたのは信長の糞アスペ人格が原因。
だいたい信長伝説(笑)が一人歩きしててどうしようもない。
たとえば岐阜の命名にまで天下統一の野心が伺えるとか
平気で書いちゃうのがエセ歴史家だからね。
そもそも快川やその師の仁岫らが岐阜を仏教の力で守護するという意味で
護阜という名称をずっと使ってたのも知らんで
信長が名称を改めたって主張する信長公記のデタラメを妄信してんだから。
はっきり言ってこれ美濃で力があった臨済宗への信長の媚び諂いでしょ。
義元は4/12付け書状の中で自分の出陣を夏と書いていて
自分の出陣までに尾張との境に砦を作るように命じていて
実は桶狭間の戦いがあったとされる5/19にはまだ義元は出陣してないんだよね。
だから義元は桶狭間で死んだなんて妄想は成立しない。
んで、6/8付けで氏真が岡部元信へ水野信元の刈谷城(天文19年12月に信秀が義元から取り戻していた)
を攻撃し城主の水野信近を討ち取ったことに対して感状を出しているので
この期間に義元は病死なり暗殺なりで死んでると見るのが妥当。
118 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 14:06:29.53 ID:0DBVga1L
戦国時代は基本的に貫高制だしな。そもそも枡の大きさすらされてない。太閤検地の数字から適当に類推してるだけでしょ。
しかも例えば22万石として、毎年その決まった収穫があるわけない。不作豊作があるから。
更に戦国時代の戦はほとんどが略奪目的ですから、相対的に係争地は収穫が激減するんだよ。
太閤検地の数字で戦国を見ると誤解を生じやすいのはそこなんだよね。
信玄の代になって比較的情勢が安定してた甲斐と、係争地として略奪の的になった信濃や関東諸国を後年の太閤検地の数字で見て、国力が上だ下だ論じるのは全くナンセンスなんだよ。
この時代、国の豊かさというのは多分に軍事力によって保護保全されて、やっと可能だったものだったし、もちろんその軍事力を支えるのは国の豊かさであってね。それは不可分なものなんですよ。
だから貧しいけれど兵が強かった…というのは、指導層の能力とか地政学的優位というプラスの条件はあるにせよ、基本的にはありえないことなんだよね。
それから、潅漑整備がなされない平野なんてただの荒野です。
戦国が終って豊臣政権に入って、余剰になった労働力がやっとそこに従事できたわけ。で、関ヶ原の二年前まで掛かってやっと出た数字が太閤検地だから。
戦国時代の稲作というのは基本的に河川の沿岸流域や、山間の麓で急流を利用してやってたんです。平野に水田が広がる今の風景とは違う。
以上の理由で地形、河川の分布、国内での戦の頻度からを判断して、この時代の甲斐は相対的に強国だったと俺は思ってる。
119 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 14:26:35.84 ID:PjTj6ghX
太閤検地は史料として旧国別の石高と大名家別の石高があるけれど後者の方がまだ正確
なぜなら支配の実態として旧国より大名領国が優先されているから
旧国別の石高は大名家別の検地結果を強引に旧国に振替してるので瑕疵がかなり多い
国別の史料を参考にするより大名家別のを参考にした方が良いよ
と言っているだけなので、別に太閤検地は否定していない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98 例えばwikipediaの石高のページを見れば
国別の石高が5年であり得ない増減をしているのは見たらすぐ分かると思う
120 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 14:50:45.49 ID:jWf4+/oE
>>118 そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
121 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 15:46:53.14 ID:nUoVjRMt
>>117 >これは信長の初見文書であり、明らかに信秀は病を機に出家し後見役となり信長を後継当主として擁立した流れとされている。
「備後守病中故」とされる織田与十郎寛近書状写は年次の否定が不確定だし、
この史料の日付は十月廿三日とあるが同年十一月廿八日には祖父江五郎右衛門尉に尾張の代官を
備後守信秀が直々に命令している(氷室和子氏所蔵文書)
信秀存命期の信長の書状が天文十八年、十一月の熱田神宮に対する制札くらいしかないなど
明らかに信秀が病で危ないから、とりあえず信長を表に立てただけで「万全体制」と揶揄するのはおかしい
信秀が奥に引っ込むどころか、体裁を取り繕うために元気な信長を傀儡当主するくらいの実権行使っぷりで
「只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候(中略)去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候」と
飯豊と密書を送って密議を重ねるなど病身で引いた後任当主とは思えない行動力
当の信長も、後見の信秀を押しのけるどころか、天文十九年十二月廿三日の尾張国密蔵院に対して
笠寺別当職を先代である織田信秀判形の通りにと、むしろ信秀に遠慮しまくっている事実
>信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。
これも異なる。
天文十八年の十一月には織田領であるはずの安詳城が今川に普通に攻め落とされているし
翌年の天文十九年に至っては
『定光寺年代記』「尾州錯乱、八月義元八万騎にて智多郡へ出陣、同雪月(12月)期皈(帰)陣」同年八月
『豊明市史/今川義元判物・手鑑』
「沓掛・高大根・部田村之事。右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、
前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、
自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、
領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件。天文十九十二月朔日。治部大輔(花押)丹羽隼人佐殿」同年十二月
織田信秀が逝去する天文廿年より前の段階にも拘らず、とっくに尾張国境が今川軍に蹂躙されまくっている
122 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 16:19:21.53 ID:uAmDcEeI
>>備後守信秀が直々に命令している
別に問題ないじゃん。病だろうと右筆が書くんだから。
>>を送って密議を重ね
なに言ってんのお前。傀儡政権にするとか妄想すげーな。
>>信秀に遠慮しまくっている事実
遠慮も何もその形式って当たり前じゃん。
むしろ信秀が今川の背後の北条と連絡を取るようになったから安祥城までしか動けない限定的行動に制限され、
翌年には信秀へ刈谷城を返却するはめになってるやん。
>>尾州錯乱、八月義元八万騎
これ史学では全く証拠がないとして否定されているんだが。
これ史実認定してる学者なんて皆無だろ。
>>沓掛・高大根・部田村
地域の拠点たる城を奪われたりしたわけじゃないのに、これで信秀が不利なら何で同時期に織田との和睦結びたいあまりに、
信秀が和睦の条件に要求した刈谷城を織田に返却してんだよ。
123 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 18:12:13.52 ID:ZkHJmFM9
そういや商業と言えば大内や尼子は強かっただろうけど
毛利って強かったん?
124 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 22:59:07.28 ID:xfNwslLt
初期条件って別に自国の国力だけの事じゃなく自国の周辺国の内訌・分裂・弱体化とか
自国に比べて雑魚国力とかも入るでしょ
その点毛利は大内尼子内紛分裂
織田は斉藤幼君で混乱・分裂・抗戦意欲なしで自落ばかり北畠は内訌で崩壊
六角は対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化三好は統制が取れずバラバラ
東では松平独立、上洛時においては次々織田方に畿内で味方が勝手に増えて集まってくるし
守護の赤松・山名・松永・荒木・毛利残党の山中らも味方と恵まれまくってるな
斉藤攻略でも浅井や和田ら甲賀衆や江州様が味方で大いに活躍しまくって棚ボタ的に斉藤攻略→上洛で
チート国力を得たわけだし
125 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 23:35:59.25 ID:eiK7DSNP
圧倒的に毛利・島津・織田だな
毛利は周辺国が内紛分裂で勝手に自爆
島津は最南端で背後の心配なし・鉄砲の伝来が最も早く大陸からの文化情報で非常に有利・周辺は弱小の雑魚ばかり
織田はいうに及ばず
126 :
人間七七四年:2013/06/25(火) 23:43:06.24 ID:m3o/Wcal
島津は一族が分裂し抗争してるから結構大変だろ
127 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 00:08:32.95 ID:7AhUXAo8
最初の頃の信長なんて今川と斎藤と北畠に囲まれて滅亡間近と言われる時期だからな
いくら国力があるからといって負けがわかってる戦に参加する奴はいない
1582年に滅ぼされた武田家もまともに味方が集まってくれず悲惨なことになってるし
当時の信長はそれと同等レベルの危険状態
128 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 00:41:58.88 ID:mJ1BK725
武田は当初今川と和睦、山之内上杉と昵懇、甲斐国内統一で楽々ルートだったのに
約40年後には織田徳川北条に周り全部包囲されてまともな抵抗すらできずにアボン
時の流れとは残酷なものよの
129 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 01:02:43.72 ID:mJ1BK725
>>122 刈谷城は刈谷水野氏の居城で織田の城じゃないでしょ?
もっと言うと刈谷城=織田方の根拠は何?岡部元信が刈谷城の水野信近を攻めたからか?
「織備懇望ノ仔細候之間、苅谷ノ赦免ヲ令す」っていう文章からは、刈谷城が織田に帰ったとは
一言も書かれていないわけだけども。
もっと言うと豊明市史「今川氏真判物写」(土佐国蠧簡集残編三)で
今川氏真が重臣であった松井宗信の功績を羅列した際に
「苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦」の記述があって
明らかに松井宗信が刈谷城に接触して入っていたことがわかるんだけど。
岡部が刈谷城攻めたのは義元が死んでからでしょ?主君が死んだのに何もしない水野信近を裏切り者だとでも思ったんじゃね?
130 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 01:03:24.06 ID:bXco4zQL
包囲網の危機から脱した織田はかなり強力な力持っていただろ
たしか北条は滅亡寸前の武田に上州で負けていたと思う
131 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 01:46:58.30 ID:Mg7okv9Q
上州で武田と北条がやりあってた時期武田は滅亡寸前とは程遠い状況なんだが…
132 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 02:06:27.88 ID:bXco4zQL
1580か1581年に戦っているけど
133 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 02:33:41.32 ID:Mg7okv9Q
上野では1581年に攻防はないし木曽や穴山らが離反する直前期まで武田は滅亡寸前などという状況とは程遠く
書状を見ても景気の良い話しか書かれておらず甲江和与が成立しつつあるような状況だったんだが。
134 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 02:38:02.45 ID:bXco4zQL
広義で考えれば長篠以降は滅亡寸前じゃん
北条と手を切れて以降なんて
135 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 02:47:25.33 ID:Mg7okv9Q
岩村一城に半年かかって騙まし討ちかけてやっと落としただけなのに滅亡寸前とか相当馬鹿だな
信長は謙信にあてて信濃に討ち入る事肝要とか散々要請して自分とで挟撃して潰そうともくろんでたが
それが叶わず甲江和与をちらつかせて織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った
天正10年1月6日付けの勝頼書状には 軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから 3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。 そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけ。
136 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 02:50:27.07 ID:ARF23aiS
広義で考えれば滅亡寸前とか意味がわからん
具体的にどこがどう滅亡寸前なんだ?
137 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 03:04:44.05 ID:bXco4zQL
徳川ごときも追っ払えんようでは滅亡寸前だろ
138 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 08:30:10.91 ID:B3SHoCMo
まあ、「冬休みしてました!」みたいな言い訳してるくらいだからなぁ。
奇襲って・・・数万人動員しているのに気が付かない時点でダメだろ。
139 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 11:18:39.95 ID:Mg7okv9Q
織田が甲江同盟詐欺してたから武田は軍備解除してたんだろ。そこに織田が騙まし討ち的に奇襲かけて徳川北条の大軍が
一挙になだれ込んできて武田は防備体制もなく、離反の連鎖になった滅んだだけで実力で落としたといえるの高遠だけ(この戦闘ですら苦戦)
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
140 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 11:44:20.73 ID:0uEWuECY
ぶっちゃけ織田が武田を滅亡させる事ができたのはほとんど北条と徳川のおかげ。
武田は長篠以降も謙信の関東出兵に対して北条と結託して上野方面に外征したり遠州で徳川方を撃退したりと
全くといっていいほど衰退していないし勝頼は、翌年に武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので
まだまだ自力は大きく残ってたんだろう。北条との同盟決裂後も関東において北条を押しまくっていたが
天正8年・9年の甲斐の都留軍への侵攻をゆるした(撃退してるが)ため、新府城の築城を北条対策として行ったが
これが多いに失策だったため、武田領国の国人は大いに不満が高まり後の離反フラグになったんだろう。
徳川も田中城や高天神城に手も足も出てなかったし武田が謙信に対応した天正3・4年の関東派兵や対北条戦のため関東に出兵したのと
甲江和与の影響で武田が軍備解除してた隙をついて居留守泥棒的に二俣城や高天神城を奪回するがその周辺の拠点や
田中城には手も足も出ず、北条が駿河伊豆国境地帯の長窪城や天神ヶ尾城を落とし、武田がその方面に出兵した隙をついて開城勧告で
なんとか開城させたにすぎない。
よって「北条が滅亡寸前の武田に上野で負けた」ではなく「武田は北条戦で大いに出費面や戦力集中の観点から犠牲を払い
その隙をついて甲江和与詐欺を生かして武田領国を無防備にさせた所に織田・徳川で奇襲をかけたら離反の連鎖になって運よく滅んだ」が正しい
141 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 11:48:18.49 ID:jhtfv336
岩村城って小牧長久手の時にほとんど孤立してたのに
徳川軍が落とせなかった城だよな
徳川軍てザコなのか
142 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 12:08:43.18 ID:0uEWuECY
岩村城なんて信忠も半年かけて自力では落せず騙まし討ちかけて落としただけじゃん
しかも天正12年の時遠山一族は豊臣派と徳川派で二分してた上に恵那地域以外はほとんど秀吉方だったじゃん
木曽谷の木曽はさっさと秀吉に鞍替え。美濃南部の高木氏以外の連中は皆秀吉方。
143 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 12:27:43.50 ID:B3SHoCMo
騙して落としただけって・・・。
戦国じゃ効率良いやり方だね。
いい加減、戦国期に現在の道徳を混ぜるのはやめたら?
144 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 12:28:44.57 ID:jhtfv336
それ以前に兵糧攻めかけられて
勝頼がビビって見捨てていた
145 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 12:47:36.95 ID:7AhUXAo8
ビビッて見捨てたんではなく駿河の小山城などを救援するためそっちに出兵してただけでしょ
あと戦国期でも騙まし討ちとかは基本的には好まれずむしろ卑怯なやり方として忌み嫌われているんだけど
普通の戦国武将はあんまりやってないし
146 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 12:55:50.97 ID:jhtfv336
半年も放置しといて他の城の救援がとかね
その程度の重要性の城だとして
本拠地から近いその周辺一帯を支配されてしまう徳川軍とかもね
147 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 13:11:41.46 ID:7AhUXAo8
そもそも徳川軍がその周辺一帯を支配されてしまうっていつの事だ?
天正12年春には遠山が明智付近で敵方と交戦してるのが確認できるが、徳川方は遥か遠くの
小牧山周辺にいて動いても援軍派遣もしてないし10/15頃に木曽谷を放火し美濃高山を攻撃した際も
石川を派遣しただけで、榊原も酒井も家康も信雄も水野も小牧山や清洲や長島から全く動いていないし
一体何の史料読んでるのかいつのこといってるのかさっぱりわからん
148 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 13:38:17.55 ID:jhtfv336
結局徳川軍は羽柴軍に対して
領国周辺しか確保できなかった弱小軍でしたって事でいいのか?
149 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 13:44:50.53 ID:7AhUXAo8
領国周辺しか確保ってそもそも南伊勢も美濃も尾張の一部、木曽谷まで会戦そうそう織田方から羽柴方に寝返ってるってて
残りの地域でしか戦闘は行われてないじゃん
領国から遥かに離れた戸木城も秀吉方は敗北
秀吉方本陣から近距離の松ノ木城でも秀吉方は敗北(4月〜6月頃は戦闘が確認でき、信雄方から何回も戦功を賞されてる)
二重掘合戦では信雄方に奇襲くらって楽田から敗走(4月下旬→5月上旬にかけて)
おまけに前田・下市場・浜田・蟹江・長久保あたりは秀吉方本陣の大垣・伊勢浜田などから近距離にある拠点なのに信雄方に奪回されてる
150 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 13:57:28.56 ID:jhtfv336
なのに結局羽柴軍に降伏した織田徳川連合軍?
信ぴょう性あるのかその感状や記録?
それとも最初だけ頑張ってスタミナ切れ?
151 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 14:04:23.74 ID:7AhUXAo8
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が和議に応じたと書いてる。
完全に秀吉の苅田の応酬や放火やら秀吉の示威行動と、10月に秀吉が本願寺顕如に必至に頼んでた信雄への取り成しがなんとか成功して信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ。
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である。11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている。また浜田・桑名・長島・東駒野など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない。実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態。さらに信雄方は敗戦直前期に長久保城も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力。秀吉方はどうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう。
伊勢でも神戸・関・信包・小島・榊原・岡本・八重羽・富田など地元諸将がこぞって羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで楽に侵攻できただけ
152 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 14:14:51.61 ID:7AhUXAo8
信雄や家康は降伏なんてしてない
一時講和停戦しただけ。翌年も家康なんか浜松会議で抗戦する気まんまんなくらいに軍議開いたり
北条との同盟強化や諸城普請、人質収集など会戦に備え、秀吉方も秋には着々と出兵計画進めていたが
直前の天正14年春になったら秀吉がビビッて織田信雄に取り成し仲介を必至に依頼して、おまけに母と妹を人質に出して
「ワシに従ってくれ〜」とばかり土下座してきたので余りにかわいそうになった家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と離反の連鎖で領国軍事機密露見&天正11年からの徳政連発で極度に疲弊してたのに
ビビリまくってたのが実態
153 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 14:15:57.17 ID:jhtfv336
やるべきことに人的ソース割いていた羽柴軍に
織田徳川連合軍が局地戦で勝利していただけのような
とすると羽柴軍は総合力で優秀と
154 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 14:23:47.19 ID:7AhUXAo8
正しくはわずか16000〜7000の寡兵で小牧長久手の主力決戦をはじめ、
前田・下市場・浜田・蟹江・長久保・蟹江・戸木・松ノ木・東駒野と秀吉方の大軍135000に勝ちまくっていたが、
秀吉が必死に放火・苅田の応酬で示威活動しまくり顕如に取り成し依頼してたのが何とか実って
大阪に納馬予定だったのが、たまたま運よく信雄がヘタレ和睦に乗ってくれたおかげでなんとか和議までこぎつけた、が正しいな
155 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 15:21:29.94 ID:ARF23aiS
圧倒的に織田と毛利だな
織田は自国の国力が異常すぎるし周辺国も悉く弱体化しきってるか弱小ばかり
毛利も周辺大名が勝手に内訌してくれたのがかなり好条件
156 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 16:27:38.80 ID:jhtfv336
強国に小判鮫していたらいつの間にか大国になっていて
最後に戦下手の光成に勝っただけで天下人になった家康はどう評価すべきか
最後は平和主義者を装いながらこっそり大砲集めていて
それでも寄せ集めの豊臣軍に勝てないから策略で堀を埋めてのだまし討ちで
それでも本陣を散々に崩されて切腹すると大騒ぎしていたら
味方が挽回してくれていたら奇珍
157 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 16:44:11.46 ID:Mg7okv9Q
>>強国に小判鮫していたらいつの間にか大国になっていて
大国今川相手に西三河数万石そこそこの所から吉良・今川の大軍相手に勝ちまくり三河一向一揆でも大勝。
その後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝したのが最強家康
>>義元死後の今川 信長死後の織田 秀吉死後の豊臣 彼らの生前は臣従せざるを得ないくせに、
今川は元々松平が小国であり織田は独立後大敵今川武田と争ってる間に弱体化・分裂・内訌の雑魚国力の斉藤・北畠六角三好など雑魚を混乱に付け込んで
火事場泥棒して焼け太りになった織田家と国力差が開き過ぎてただけだしそもそも臣従なんてしてない
豊臣に関しては織田領を光秀が信長を殺したすきをついて棚ボタ的に火事場ドロした秀吉と、秀吉の敵対勢力の敵勢力十河河野上杉佐竹宇都宮勇気葦名大友龍造寺木曽
小笠原真田石川水野毛利宇喜多信雄など大勢がたまたま味方したから規格外の国力差がついたのに、それでも秀吉135000との対決で1万人殺す大勝利収めたが、
秀吉の本願寺顕如や織田信雄使った必至の懇願と母と妹を差し出して「ワシに従ってくれ〜」というありえない土下座醜態に哀れんで仕方なく頭下げてやっただけ。
>>死んだ途端に昨日までの味方に牙を剥くあざとさ。やり口が汚いわ。
生きてる間からキバむきまくってるだろアホwむしろ豊臣も織田も今川も小国松平使って必死に利用して戦有利に進めようとしてたし家康のおかげでかなり助けられてる
(尾張侵攻戦、志賀の陣、姉川の戦い、長篠、北条征伐など)
>>運の良さと、自分を実力以上に見せるペテンの才能は認めるよw
小国の中の数郡の領主のどこが運いいんだアホ
>>乗っ取り詐欺で成り上がった徳川のメッキが剥がれたのが幕末でしょ。
意味不明。なんで300年も続いたのにめっきなんだよタコ
>>関が原直後だって、島津と毛利の本拠に徳川が攻めたら勝てたかね?俺はそう思わない。
島津なんて6000もいる軍が本多や井伊数百に散々蹴散らされて数十期まで減らされて副将や重臣ことごとく戦死してるし
それでもって関が原の島津は寡兵だったなどとデタラメをデッチ上げてるし毛利もあれだけ規格外の兵力がありながら
結局兵力分散させまくり何もできないどころか家康に大敗して大厳封くらってんじゃん
>>島津は全く減封できずに手討ち
厳封する意思がなかっただけだろ。九州勢の黒田や加藤らが島津領めがけて南下していくところを家康が止めてくれたおかげで助かっただけだし
>>毛利は嘘八百並べて大阪城から退去させた後で減封 さすが狸。
根拠は?そもそも毛利なんて大敗したから後は関係ない。毛利が退去しなかったら関が原の戦いに勝利後膨れ上がった東軍勢で大包囲しいて大勝利になるだけ。
毛利軍なんてあれだけの規格外の兵力がありながら伊勢湾、伊勢、四国などどうでもいい方面に兵分散させまくりしかも四国での火事場泥棒にも失敗して敗戦してるほど雑魚でしかない
>> それでも寄せ集めの豊臣軍に勝てないから策略で堀を埋めてのだまし討ち
家康はそもそも和平の際約定守ろうとかなり献身的だったのだが秀忠らが強行的に無理矢理堀をうめるなどしただけ。
158 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 17:03:56.87 ID:0uEWuECY
1556年 長良川の戦いで道三討ち死に、織田家と斉藤家が敵対関係に
1559年 信長が尾張を統一
1560年 (桶狭間の戦い)
1561年 義龍病死
159 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 17:32:36.69 ID:7AhUXAo8
信長はいう程チートじゃないだろ
今川斉藤北畠と強豪に囲まれてて、桶狭間の戦いではわずか3000程しか集まらなかったし
160 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 18:56:06.48 ID:jhtfv336
武田勝頼こそ初期設定がチートな大名だよな
その勝頼と一揆勢に勝ったのとセコくゲリラってた小牧だけで過大評価される小判鮫家康
161 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 19:10:58.76 ID:Mg7okv9Q
家康の戦歴…大国今川相手に西三河数万石そこそこの所から吉良・今川の大軍相手に勝ちまくり三河一向一揆でも大勝。
その後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝
信長の戦歴…チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死亡
どうみても家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
162 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 19:13:45.66 ID:ARF23aiS
こうしてみると信玄はやっぱりすごいよなあ。その最強家康をガチンコで破り一緒に織田の援軍佐久間平手滝川水野らが率いる2万も大破してるし
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
163 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 19:17:50.05 ID:Mg7okv9Q
○織田対上杉 謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝
謙信死後… 御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田
武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく
秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
164 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 19:22:19.79 ID:Mg7okv9Q
豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る
武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む
上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る
秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する
北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す
史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城
(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた
小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。
勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ)
北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる
北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣
165 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 19:27:06.68 ID:Mg7okv9Q
なんで比べる基準が「最初〜最後までの結果」あるいは「最初から最後まで経過や状況考慮した個々の戦闘や外交や内政などの考察」
ではなく「最初から最後までのある特定時点での比較(経過・状況等も無論無視)」なのか意味不明
そんなんがありなら本能寺時点で広範な領土があった織田家は信長が殺され結果的に大きく版図が減少したから
一代で失った石高ランキングでダントツトップだからダントツ最下位クラスだなw
まあ最大石高なんてある一時点での考察にすぎないし結果だけでみるなら光秀に殺されて死に織田家を木っ端微塵にされた信長は能力0だしな
領土の広さってそれ程関係ないんだよ
カナダやカザフスタンは日本より広いけどどっちも大したことない
戦国時代も同じで例えば毛利輝元や大友宗麟や大内義隆や豊臣秀吉や織田信長や北条氏康は広かったけど弱かった
相馬なんか伊達の5分の1程度の領土で半世紀も互角に戦ったし
田村清顕なんて周辺諸大名がこぞって敵対する状況ですら敢闘して撃退してる。
織田や北条や豊臣や毛利は領土広くても将が無能だから里見や信雄や宇喜多や浅井朝倉武田などに翻弄されたし
信長なんか北畠に大河内城で撃退されたり一揆勢相手に餓死寸前のところを数万の大軍で騙まし討ちにして一門10人以上殺されたりしたわけ。
織田みたいな光秀ごときに滅ぼされた雑魚大名と自国の2倍もある信濃を切り取ったり
大国北条今川連合に打ち勝って駿河とったり織田徳川連合に打ち勝って東美濃三河遠州を多く奪った
徳川時代軍学でも最強とされた大名を比較する事自体が間違い。
織田と比べるなら大友宗麟・伊達政宗・北条氏康・長宗我部元親あたりがちょうどいい。
それでも戦闘でいえばダントツで信長が最下位だろうけど
光秀に殺されて死んだ信長w
最貧国甲斐から上杉北条織田徳川など国力に勝る相手に領土切り取りまくり150万石まで広げた信玄w
結果でいえば信長は能力0だからなぁ
経過をちゃんと考慮して石高なんぞで比べず状況や運やら地理条件考慮するってのならわかるが
尾張は全国トップクラスの好立地&チート国力
斉藤は幼君で極度に弱体化
義元は運よく突発事故で戦死
六角も観音寺騒動で弱体化
三好は統率が取れずバラバラ
北畠は内紛で分裂
上杉は内紛で極度に弱体化
武田は勝頼が発狂失政自爆&徳川北条戦で疲弊しきり抗戦したのは仁科だけ
浅井はわずか10万石そこそこで織田領国の20分の1か30分の1くらいの国力
朝倉・毛利は大チャンスでも本国にヘタレ退却するアホが当主
こんな弱体化した雑魚相手の火事場泥棒戦争ばっかやってるのに負けまくり蹴散らされまくる信長の無能さは異常レベル。
ある意味戦国最強クラス
166 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 19:35:02.16 ID:Mg7okv9Q
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していて東アジア最高の土地になってしまいとてつもないものだったろう。
父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
金ヶ崎の時は敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから織田の奇襲が成功しただけだし、
えっ?天下の儀を朝倉が行うように信長が言った後、
信長は京からも撤退して明け渡してんじゃんw
元亀2年に天下の儀の主権者となった朝倉が六角に入京した時に放火とかしないようにって命令してるし。
信長が再度、入京するのはその後に荘園返却すると破産する信長が勅命を破って比叡山焼き討ちした後だろうがw
しかも信長は京洛内外で強制没収した兵糧を高利で貸すトイチ金融まで京で始めてるし…
167 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 19:40:55.10 ID:ryND/NSu
>>121 >>「備後守病中故」とされる織田与十郎寛近書状写は年次の否定が不確定
へっ?いったいなんて学者が違う年だと主張してるん?初耳なんだけど。
信長公記でも信秀が晩年疫癘に御悩みなされ、ご祈祷や治療をさまざま試したが御平癒なくついに亡くなったと書いてるし
>>飯豊と密書を送って密議を重ねるなど
へっ?その信秀が今川との和睦をぶち壊そうとして駿河や遠江の国人との内応話の密書が
鵜殿へ回覧されたが、鵜殿は内応に同意せず、あくまで和睦するべしと主張し
逆にこれ以上あちこちへ信秀の書状が渡らないよう飯尾豊前守へ渡さず
鵜殿が止めて安心なる人物へ、この密書をまわすことを批判してるやつのことか?
信秀の申し出を読んだら朝比奈や庵原をはじめとした駿河・遠江の国人が同意し喜んで戦い始めることを予測し
安心も同意するなよと説得してる書状写こそ年がまったく確定できない書状じゃん。
>>織田信秀判形の通りにと
まだ信秀は死んでないんだから当たり前でしょ。
判形の書式はそういう書き方するだろ。上位権力や先祖や父を念頭に
それらが決めたことを私も違えず保証するっていう言い回しのどこに「遠慮」を表明してる点があるんだよ。
>>122 おおむね同意。
その義元8万騎は完全に捏造歪曲だね。
実際に書いているのは5万騎。そしてこれはどの学者もありえないとしていて
百歩譲っても、当時流れていた風聞をそのまま書いただけだろうとしている。
さらにこれが信長公記を記述する際に桶狭間の戦いの元ネタに盗用されたといわれてる。
>>129 完全に屁理屈だね。言葉遊びをするのは止めたら。
そもそもその永禄3年の氏真書状に出てくる苅屋入城之砌、尾州衆出張もいつの話かぜんぜんわからない。
それにあなたのように捻くれた見方するのを許してもらえるなら
苅屋へ松井が援軍へ向かったが織田軍に行く手を阻まれ奮戦したが部下や親類を失ったって書いてあるのだから
苅屋城救援は失敗したとしか読み取れない。これによって織田は苅屋城を手に入れたと読むことも可能だし。
168 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 22:01:50.72 ID:7wnlAJOY
戦国時代にはまだまだ潅漑が進んでなくて、耕作面積がずっと小さかった。稲作は川の周辺地域や山岳の麓の高低差の水利を利用した場合で行われていた。
そう考えると広大な武蔵野が穀倉地帯になったのは後北条氏の治世が安定したもう少し後のことなんだよね。
なぜ謙信と信玄はあれほど川中島で鎬を削り合う必要があったか?その視点で地形を見ると答えは明らかなんだよ。
戦国の戦とは平野をめぐる争いというより河川をめぐる争いだったということが。
太閤検地や徳川時代の数値をちょっと一律割引で戦国時代の石高を考えると結構間違うよ。
潅漑の整わない時代には平野部の多くは荒野だった。人々は稲作のしやすい河川の沿岸や、高低差の水流を利用しやすい谷合に水田を作り集落を築いた。
戦国大名の経済力を計る最も有効な方法は平野面積より領有河川の多さだと最近思ってる。
警戒されまくった島津は太閤検地でも江戸時代の検地でも
石高ではなく籾高で実態の倍で計上されて参勤交代などの費用負担が通常の倍だったとか。
逆に毛利は実高が意外の多いことが発覚しても広島藩を超えるのは問題があるということで
石高は実態よりも低く決定されて参勤交代の負担が軽く金を貯める余裕ができた。
これにより蓄えた金が倒幕運動で利用されたとか。 土佐なんて太閤検地では10万石弱だったのに江戸初期には20万石に。
2,30年で全国で300万石ぐらい増えとるのう。
太閤検地が唯一の基準であることは間違いない。ただ多くの抜け穴目こぼしがあったし、単純に盲信することはおかしいと思うわけ。
土佐のような例は潅漑整備の遅れた奥羽では地域丸ごとで発生してるし、甲州枡なんて特殊な話もある。
そもそも戦国終盤のクライマックスである1560〜70年代と、80年代からちまちま始まって関ヶ原の二年前、1598年にやっとこ終了した太閤検地の結果をまんま同等に見ること自体が無茶苦茶。
桃山時代から江戸時代初期というのは太平の恩恵で急成長した時代ということを念頭に入れるべきだ。
武田と信濃諸氏との抗争での動員記録、信濃支配をほぼ確立した後の武田の動員力を見るに、言われるほどの貧国とは俺は思わないね。
何を基準に貧国というかは主観だから議論するつもりはないが。
むしろ平野部の耕作面積が広がった江戸期に入ると、伸びしろの少ない信濃は相対的に貧国化したと見るのがごく自然です。
169 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 22:17:24.64 ID:n85QlNob
>>168 お前さ、すっゲー思いつきのデタラメ書いてるだろ…
謙信と信玄は川中島で争ったのは善光寺の門前町と言う中山道最大の一大商業地域の利権があったからだアホ。
もうその先を読む価値すらない…
170 :
人間七七四年:2013/06/26(水) 22:19:50.82 ID:7wnlAJOY
具体的にどの辺りがデタラメでしょうか?
171 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 03:38:31.44 ID:coVRR7vZ
ただの武田徳川マンセーだな
一揆と義景と氏真と勝頼と氏政という壮絶な雑魚相手と、
結局は土下座した小牧しか誇るところが無い
氏政相手にしても昌幸との連携があったからにも関わらず
恩知らずにも昌幸にまで攻めこんで返り討ちにあうという雑魚っぷりなんで
徳川ageは無理やり過ぎになっている
そして武田ageも徳川をsageられたら難しいらしい
172 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 11:57:36.92 ID:AqD0ez8G
家康の戦歴…大国今川相手に西三河数万石そこそこの所から吉良・今川の大軍相手に勝ちまくり三河一向一揆でも大勝。
その後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条氏直の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝
信長の戦歴…チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死亡
秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
結局実力では全く歯がたたず信雄・家康に顕如使って土下座してなんとか和議までこぎつける
北条氏直…神流川で織田家トップクラスの滝川の18000を24000そこそこで10倍の被害差で大破
朝倉義景…信長を滅亡寸前に追い込む。姉川の合戦では浅井軍は織田を押しまくり当時の織田四天王の一人の坂井の息子を討ち取る
勝頼…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死と織田徳川を寡兵で圧倒しまくる
一揆勢…信長の数万の大軍を餓死寸前のところで騙まし討ちかけられた状態でわずか数百の寡兵で織田一門10人以上討ち取る
以上をまとめると勝頼>>>>家康>>>氏直>>>>>滝川>>>>>一揆勢・朝倉>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
173 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 12:06:58.64 ID:tbwh/gca
まぁ北条にしても徳川にしても信玄や勝頼に比べたら雑魚というだけで信長なんかよりは遥かに強いだろうね
姉川や神流川なんかみてたらわかる
174 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 12:22:55.07 ID:uuovEJbl
初期条件って、領国の国力・生産力もあるけど、それ以上に周辺の領域がいかに自国に比べて弱小だったり
弱体化してたり内訌してたりというのが大きいでしょ。
そういう観点からみると氏康なんかは今川や武田や古河公方や関東諸侯の包囲網からスタートしてるしかなりキツイ初期条件だと思う。
175 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 13:01:59.92 ID:pmVJsRAu
山岳地域ゆえ日照時間が少ないどころか雹が降るほどの冷夏が頻繁だったり、
治水技術が無いと、上流ゆえに河川が狭く流れが早いために河川大洪水の勢いが激しく育てたもんや家財がぜんぶ流されたり、
しかも流路が変わってしまい、
その都度、土地所有権で争い戦乱。
そもそも水路水源は争奪対象で争いの主因で地域戦乱と密接で、
要害堅固の地も多く国人の活況と国内不安定の元。
良い面ばかりでない。
しかも平地と違い斜面での農業は日照方角が限定的で水を持ち込むことに難儀するし、
この時代は崖崩れ対策の補強等の技術なく台風や地震などの被害に無力。
基本的に自然災害が頻繁してるのは甲斐や信濃や越後。
872 人間七七四年 2013/06/26(水) 09:49:31.41 ID:0CjpnzDI
むしろ平地部は現在と違い沢や沼や池や丘陵地が多く、
関東ですら大湿原地帯も多くあり下総など場所によっては小舟で移動する地域すらあった為に、
水不足自体が存在しない地域もあり、
水源争いの一揆的結合国人や惣村による割拠が発生しなかったために地域混乱要因は少なかった。
平野部ゆえの安定日照時間と山岳地域とは違う比較的安定的環境が維持された。
洪水対策にしても、実は北条氏は全くやっておらず、
この時期の関東などは水害がそれほど深刻でなかったことが証明されている。
また固い土壌の山岳地域と違い、
平野部では比較的保水力のある土壌のため極度の干ばつが起きない限り農作物の収穫が保障されていたために二毛作や季節ごとに麦を植えたりのローテーションをやる必要性もなかった。
実際、甲斐のように干ばつ被害が多発する地域では麦なども植える餓死対策は必須だった。
176 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 13:19:51.62 ID:uuovEJbl
織田信長のスタートラインも厳しかったな。
同族争い勃発、織田家当主が勤めるはずの熱田への書状発給を弟に奪われるほど。
自分自身が陣頭に立ち、槍振るって戦う雑兵働きまでしてのしあがるところから。
177 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 14:37:38.49 ID:IJHq4PeZ
>>167 >>へっ?いったいなんて学者が違う年だと主張してるん?初耳なんだけど。
>>信長公記でも信秀が晩年疫癘に御悩みなされ、ご祈祷や治療をさまざま試したが御平癒なくついに亡くなったと書いてるし
その「晩年」が不明確なんじゃんよ
>>117では、備後守病中故と書かれた織田与十郎書状を「天文18年」としているが
これは「天文19年」でも辻褄があっちゃうんだよ。どっちにせよ信秀は「天文20年」の3月には死んでるから
万全体制なんてとてもじゃないが言えないほど、急造体制だったことがわかるんだけどな
>>判形の書式はそういう書き方するだろ。上位権力や先祖や父を念頭に
>>それらが決めたことを私も違えず保証するっていう言い回しのどこに「遠慮」を表明してる点があるんだよ。
遠慮でしょ、別にそうしなきゃならないという定型はないし
信長がこれ以降本格的に政務をとっている形跡もない
>>そもそもその永禄3年の氏真書状に出てくる苅屋入城之砌、尾州衆出張もいつの話かぜんぜんわからない。
刈谷市史では「天文19年」で確定されているけどな。理由は簡単で、この翌年の天文20年には
織田信長が擁する丹羽氏秀と、今川義元が擁する丹羽氏勝が岩崎城を巡って横山山麓で戦っている。
また『豊明市史/今川義元判物・手鑑』でも
「沓掛・高大根・部田村之事。右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、
前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、
自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、
領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件。天文十九十二月朔日。治部大輔(花押)丹羽隼人佐殿」同年十二月
とある通り、この頃の尾張国境を巡る戦いは今川義元が断然有利で織田信秀は防戦一方
178 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 14:51:36.12 ID:IJHq4PeZ
ちなみに、今川氏真が提示したした松井宗信についての判物は続きがあって
「右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋」という記述が出てくる。
桶狭間の戦いで死んだはずの松井宗信が、刈谷城に在城していたわけだ。
また今川方の「刈谷赦免」について、劣勢になった今川義元が
和睦のために泣く泣く刈谷城を織田方に返した、なんて言っている奴がいるようだが
「大高町誌」「三河海東記」によれば、天文19年の末に織田方の佐久間甚四郎によって大高城が奪回されており、
刈谷赦免はあくまで大高城の交換条件であったとしているな。これは豊明市史に伝えられている
「今ノ度、山口左馬助、別シテ馳走ス可キノ之由祝着ニ候。
然リト雖モ、織備懇望子細候之間、苅谷ヲ赦免セシメ候。
此ノ上ハ、味方筋之無事、異儀ノ無ク、山左ガ申シ調ヘ候様、両人異見セシム可ク候。」十二月五日 義元(花押)
という12月の今川義元による書状を見てもわかるとおり、あくまで刈谷城の赦免は織備(織田備後守信秀)のたっての願いであるとしている。
どこをどう考えても今川義元が泣きついた結果とは思えないな。
179 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 14:53:01.50 ID:pmVJsRAu
>>176 天文20年の信秀生前から備後守並びに三郎(信長)の先判の旨に任せて
などと信勝(信行)は明らかに序列によるケジメを付けられ
熱田神宮寺座主に安堵してるし、
その時期に西加藤家の次男へ信勝が信長への取次してる。
お前の言う熱田〜ってのは西加藤家の分家の東加藤家へ出した22年10月の
信秀の先判の旨に任せってやつのことだろw
すでに信秀生前から本家の西加藤は信長。
分家の東加藤は信勝と分掌されていたとされる証明書状の一部を抜き出して
歪曲捏造するとは相変わらず織田厨は気持ち悪いな・・・
そもそも西加藤家は非常に重要視され
天文18年11月には信長が国内政務に初めて関与した機会として
西加藤家に対して藤原信長の名で熱田村八ヶ村宛てで制札が下され
熱田社造営の課役免除などが示され、信秀の後継地位を表している。
>>177 熱田への先判もみんな「遠慮」を示しているのかwめちゃくちゃだな。
その書式は一般的な書式でなにも変わったところなんてないのに
>>丹羽氏勝が岩崎城を巡って横山山麓で戦っている
それこそまったく証明になってないだろ・・・
>>防戦一方
はいはいまた願望妄想。
城も奪われてないのに沓掛・高大根・部田村について触れた内容をもってきて
織田が劣勢とか頭が融けてるんじゃないか。
しかも売地だった土地を買い戻してやっただけじゃん。
そもそもこの手の城も奪わずに土地だけ安堵とかしてる書状なんて
実際にその土地が敵方陣営にいる親族が所持していたらカラ安堵を普通にするもんだし。
丹羽氏同士の本家争いで持ってない土地を今川が自陣営にいる方に安堵を出してる可能性も高いわ。
180 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 15:05:08.58 ID:pmVJsRAu
>>178 いままでの武功を箇条書きにして並べた後に
苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋と書いているのは
苅屋在城していた時に2万疋、最近は1万疋というように
苅屋在城していた時、失った後で時期を区分している。
つまり自分の城が織田に攻められた時に駆けつけたが
織田軍に封鎖され城を失ったってことだろ。
その後に続く文章で判明するが、城からの収入じゃなくて
今川家の蔵から吐き出してるじゃんよ。
181 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 15:20:33.16 ID:pmVJsRAu
>>刈谷赦免はあくまで大高城の交換条件
まったく根拠なし。願望妄想そのもの
>>あくまで刈谷城の赦免は織備(織田備後守信秀)のたっての願いであるとしている
そりゃあ城を返却してまで和睦したがってんだもん。面子もあって懇望してきたとかいいわけするだろ。
なにせ天皇が女房奉書で和睦して修理代を出すように言ってきた時ですら
意地になって和睦はできないとメンツを気にしてたじゃん。
結局、信長公記でいうところの備後守殿に御目に懸けられ候と書かれて
信秀お気に入りの山口ルートを使って城を返却するから和睦してってすがってんじゃん。
最初から朝廷ルートで和睦を受け入れてたらメンツを気にすることなかったのにw
182 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 15:23:00.53 ID:IJHq4PeZ
>>179 >>熱田社造営の課役免除などが示され、信秀の後継地位を表している。
その固めるのが遅すぎるって話だろうがw
天文18年の11月なんて信秀が死ぬ1年ちょっと前だし
そもそも生前の織田信秀と土田御前は織田信勝をかなり優遇していて、このせいで信長は
「柴田権六・佐久間次右衛門、此の外、歴々相添へ」と末森城にいる信秀家臣を大量に信行につけてるし
織田信勝自身もそれをわかっているのか、「備後守三郎任先判之旨、不可有相違者也、仍状如件」と天文20年には独自に判物を出して影響力を高めようとしている。
信長に優位権があったとしても、結局それは信秀が死ぬ間際にやったなけなしの援助で、
しかも弟である信勝にも似たようなことをやらせるという、弟が権力増大して家督争いに参入しろと言わんばかりだ
>>それこそまったく証明になってないだろ・・・
丹羽氏勝の岩崎城は刈谷城よりさらに尾張側だろ
刈谷城が織田の勢力圏に完全に落ちていたらそんなところで戦闘は起きない
丹羽氏勝が今川の援助を受けられずに自落して終わりだし、そもそも丹羽氏勝が戦闘に勝っているのはありえない。
>>城も奪われてないのに沓掛・高大根・部田村について触れた内容をもってきて 織田が劣勢とか頭が融けてるんじゃないか。
空手形かどうかもわからんし、それだけ影響力があったのは事実だろうよw
そもそも今川義元は同年の4月に水野十郎左衛門に対して
「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言。四月十二日、義元 。水野十郎左衛門尉」
と尾張に勢力圏を伸ばすことを明言しているし、豊明市史「今川氏真判物写」でもやっぱり松井宗信が刈谷城に在陣していたことが明確に書かれている。
実際問題として信秀存命期から尾張に今川義元の影響力があったのは明白なわけだ。
元々今川義元が尾張に領地をもっていたわけでもないし、織田信秀は領地をどうあがいてもプラスにできてないんだから
「防戦一方」と言って差し支えないだろ。佐久間甚四郎による大高城の奪還も、奪われた土地を奪い返しただけだし。
183 :
人間七七四年:2013/06/27(木) 15:35:53.92 ID:IJHq4PeZ
>>180 >>苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋と書いているのは
>>つまり自分の城が織田に攻められた時に駆けつけたが織田軍に封鎖され城を失ったってことだろ
そもそも刈谷城が織田方に奪われたなんて一言も書いてないだろうがw
曲解もここまでくると芸術だなw
>>城からの収入じゃなくて今川家の蔵から吐き出してるじゃんよ。
城から収入が出ないのは当たり前だw そこは刈谷水野氏が城主であって
松井宗信が実際に支配して領地を統括していたわけじゃない
今川軍の重臣である松井宗信が刈谷城に在陣していたことが重要なんだろ
刈谷城が織田方ならこんなこと起こらねーよw
>>まったく根拠なし。願望妄想そのもの
根拠大ありだよw三河海東記では
「松平同年八月十六日註 御父弘忠公御病死。 (中略)去程に信長家臣佐久間甚四郎と云者、
尾州大高の城に押シ寄セ攻メ取ルに、兵甲斐無き者共にて、逆茂木一重破リ捨テ、城中ニ切リ入リ、
究竟の兵共廿五人討取リしかば、士卒は残ラズ駿河にぞ引キ退ける。 」とある。
大高城に詰めかけている兵が、なぜ遠い遠い駿河に撤退するんだ? 今川軍の兵でなければこんなことはありえない。
つまり大高城は国境争いの前から今川軍の領土であり、ここをいったん奪回されたから刈谷赦免で戻ってきた。
ちなみに刈谷赦免後の大高城であるが、三河海東記では
「去程に永禄元年四月下旬に尾州知多郡大高の城に、信長家人佐久間甚四郎七十騎にて押寄、鬨を上げ矢叫声、山河崩るゝ計也。城には驚き追手に切て出、散々に戦ひけり。
敵も切入突伏、半時計ぞ戦ひける。されども城には小勢なり。寄手は大勢、此ノ如ク真先に進む大久保五郎左衛門、渡辺忠左衛門、
土居新左衛門、平岩七之助、天野清介、小栗又一、榊原小平太、本田吉衛門、柴田七九郎なんぞ命を捨て突入れける故、城方大半討すて、佐久間甚四郎は清須に引退ける故、」とあり
刈谷赦免以降桶狭間の戦いが発生するまでずっと今川軍が大高城に詰めかけていることがわかる。
大高城が佐久間甚四郎の手に奪われた後、なぜか桶狭間の戦いでは今川の味方をした松平勢が詰めかけている。
他に大高城を争った形跡はない。刈谷赦免の際に大高城を交換条件とするしか今川軍が大高城を手に入れる術がないわけだ
184 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 15:08:23.03 ID:GcKSuPQS
結局信秀は義元に侵略されて信長のスタート時尾張半国しかなかったの?
185 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 16:50:45.83 ID:qOIcwj0i
>>184 そもそも織田信秀時代から大した領土持ってない
所詮敵の混乱に乗じて城を取っただけであって維持できる地盤もないからな
安祥城も大垣城も最終的に奪われてるし、尾張も岩倉織田家とか水野とか織田本家とか
地方領主が山ほどいる。こいつらは別に信秀の家臣でもないから、信長の地盤になりようがない。
186 :
人間七七四年:2013/07/03(水) 17:22:38.75 ID:KS2htism
>>185 はいはいウソばかり連呼乙w
そこまで言うなら大垣城が奪われたことを証明する一次史料を早く出してね。
187 :
人間七七四年:2013/07/04(木) 07:24:29.69 ID:/DpsACy1
だがチョン乙w
188 :
人間七七四年:2013/07/06(土) 11:26:25.51 ID:7uTDwwWp
189 :
人間七七四年:2013/07/08(月) 23:48:56.03 ID:9yfIddAX
信長は尾張半国から750万石まで大拡張した日本最高の英雄
謙信信玄とはレベルが違い過ぎる
190 :
122:2013/07/09(火) 13:10:53.74 ID:wf8/iJe2
>>188 論破とかアホじゃね。屁理屈ばっか書いて執拗にストーカーし続け
相手がうんざりして嫌気が指すまで粘り、最後にレスした者が勝利とか
思い込んでるあたりキチガイ丸出しだなw
>>182 >>その固めるのが遅すぎるって話だろうがw
どういう基準の上で遅いと判断しているかまったく説明なく
恣意的にお前の願望基準で書いてるだけ。
実際には信長と濃姫の婚姻が天文18年11月よりも早いとされ
信秀が信任し織田外交を任せていた平手の交渉による
斉藤との同盟が結ばれた天文17年中と考えられていて
それを以って後継者確定としている(信勝の妻との差は歴然)
そして信長に平手が後見人と付けられたのも
信秀の対外外交方針の変更が信長の代になっても変化ないことの宣言でもある。
しかし平手が自害することから信長は父の外交を引き継がず無謀な行動に出たので
尾張国が混乱し、離反が相次ぎ結果、今川・斉藤へ頼るものが出てきた。
完全に信長の失敗から尾張が崩壊しただけ。
そして信秀の死は天文21年3月であり、2年以上の時間をかけて信秀が信長の後ろ盾になってる。
>>弟が権力増大して家督争いに参入しろと言わんばかりだ
お前が曲解を続けているだけ。いかに信秀を貶めようと悪意を以って必死に悪口書いてるようにしか見えない。
もし弟を家督争いに参入させようと謀略を練るのなら、そもそも弟の婚姻相手を
道三に対抗できるだけの権力を持つ者の娘を選ぶだろうが。
>>丹羽氏勝が今川の援助を受けられずに
丹羽氏勝と丹羽氏秀の争いは天白川の水利権を巡る同族内争いであり
そもそも今川はまったく関係ない。お前は丹羽隼人佐なる謎人物が義元から書状をもらったことを
無理やりこの争いの関係者に位置づけるトリックを用いて今川が関わってるように捏造してるだけ。
丹羽宗家の岩崎城側が藤島側へ圧力をかけたので、藤島側が双方の上位権力の信長に仲介を求めたから
トラブッた話だろうが。それで言うことを聞かない岩崎を信長が攻めた挙句に大敗し
このことで藤島方は今川方へ逃亡するしかなくなった(名古屋/岩崎/天白川/藤島という位置により名古屋へ逃げれない)
その後、天文22年中に岩崎側も今川を頼り、鳴海城主の山口左馬助父子も織田を見限ってる。
>>それだけ影響力があったのは事実だろうよ
当時の国人は国の堺とか関係なしに先祖代々の飛び地を持ってる(越後国人が武蔵や伊豆に土地を持ってたり)
またその地が戦乱で維持できなくなっても安堵状だけはもらって土地所有権を主張しようとしていた。
実際に土地が伴った安堵ではないことは城を落とした結果という過程を経てないことからもわかる。
>>刈谷城が織田方に奪われたなんて
状況からそう解釈jしてもなりたつ。よほどあなたの曲解連発よりマシだろう。
>>城から収入が出ないのは当たり前だ
文脈的には城を失ったから代わりに蔵から手当てが出るように変化したとも解釈できる。
>>根拠大ありだよw三河海東記
えっ?三河海東記wソースにならないだろそれ。
191 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 14:29:13.00 ID:8yGmgvAt
9 :人間七七四年:2013/02/18(月) 09:57:34.76 ID:EOY3ATIq
この史料は捏造
記述は俺が知らないから捏造
やっぱり織田厨は捏造だらけ
アスペルガーだがお得意の言い訳
192 :
122:2013/07/09(火) 14:54:17.14 ID:wf8/iJe2
>>そもそも今川義元は同年の4月に水野十郎左衛門に対して
「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀
お前それ永禄3年の書状なのも知らんのかw
ぜんぜん関係ない書状をさも関係があるように捏造するのがお前好きだなw
>>元々今川義元が尾張に領地をもっていたわけでもないし
お前さ、名古屋城ってもともと誰のものか知らんのかよ。義元の弟の城だぞw
当時の名古屋城には竹王丸と呼ばれていた氏豊がいて信秀と蹴鞠とかしてるのも言継日記に登場する。
193 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 15:32:07.24 ID:YpgopsHI
>>190 >どういう基準の上で遅いと判断しているかまったく説明なく恣意的にお前の願望基準で書いてるだけ。
いやそこは普通に考えてくれよ。他の大名と比べてに決まってるじゃないか。
北条氏康は北条氏政の後見を5年ほど見ているし、形だけの隠居を取って長年後見に回った当主も多い
>それを以って後継者確定としている(信勝の妻との差は歴然)
外交関係を考慮した婚姻関係と当主権力の拡大は全然別問題でしょ
武田義信のように今川の娘を娶っても家督を継げない例だってあるし、
今川義元は逆に大した正室を得ずに当主権力を得ている。
そもそも織田信勝にしかるべき正室を意図的に娶らせなかったとする根拠は?
信長の方が兄貴だから先に回ってきただけ、後々しかるべき正室を娶らせる予定だったとも言えるが。
>もし弟を家督争いに参入させようと謀略を練るのなら、そもそも弟の婚姻相手を道三に対抗できるだけの権力を持つ者の娘を選ぶだろうが。
家督を継ぐことと正室の実家の権力は一切関係ない。そんなもん当主就任の後からいくらでも選べる。
正室の実家の力が頼り、というならそんな正室のいない今川義元は敗死してるし、
斎藤をアテにできなくなった後に家督争いした織田信長も敗死してる。あくまで外交関係が要。
>お前は丹羽隼人佐なる謎人物が義元から書状をもらったことを
丹羽隼人佐は謎人物でもなんでもない。れっきとした丹羽家の姻戚にある名家。
豊明市史の今川義元判物では「右、去六月福外在城以来、別令馳走之間」という記述があり、
丹羽隼人佐が福谷城に在城していたことがわかるのだが、この三河福谷城は
件の丹羽氏勝が在城している尾張岩崎城、丹羽氏秀の尾張藤島城と目と鼻の先にある。
そこまで岩崎まで接近するくらいの城に今川義元の影響力があった、とするなら岩崎城付近まで今川義元の影響力があっても不思議ではない。
実際岩崎方も今川に接近しているしな。
>またその地が戦乱で維持できなくなっても安堵状だけはもらって土地所有権を主張しようとしていた。
安堵状を頼りにするなら、猶更その安堵状を出した主に尽くさないとダメでしょ
縁もゆかりもない人間が適当に出した安堵状を見せつけて、なんの効果があるのよ
当然、安堵状通りに事が進まなかった時に、その安堵状を出した人の軍事力をアテにするくらいはするでしょ
>状況からそう解釈jしてもなりたつ。
織田方に城を奪取されたのに功績に入るの?そもそも今川氏真判物には「苅屋在城以後弐万疋」の文字があるんだけど
あと気になってたけど
>>180の「苅屋在城していた時に2万疋、最近は1万疋というように」というのは完璧な誤訳で
その後の「彼三万疋、以蔵入雖出置之」が示す通り、実際には1万疋が追加されている形になる
城を奪われたのに俸禄が上がるのか?
>文脈的には城を失ったから代わりに蔵から手当てが出るように変化したとも
城が奪われたのに俸禄が増える形になってますけど・・・
194 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 15:50:17.84 ID:YpgopsHI
>お前それ永禄3年の書状なのも知らんのかw
水野十郎左衛門と今川義元の書状は年次不定だよ?
豊明市史や愛知県史では永禄三年だとしているけど、岡崎市史では永禄二年以前のこととして
そして両方とも、具体的な年次の比定は避けている。最も、年次などより
今川義元が尾張に攻め入る気が合ったか、という問題だけどね。
>>お前さ、名古屋城ってもともと誰のものか知らんのかよ。義元の弟の城だぞ
その義元の弟である今川氏豊も奪ってるんだけどね。
もともと、今川氏豊が勝手に城主になったわけではなく、那古野家の養子になっただけで。
そしてその那古野家は、後に織田信秀と織田信長が取り立てている。
先代にポッと取ってすぐ奪われた土地を、今川代々の土地と言うのはなあ。
まあ、那古野家も遠い遠い先祖でなら今川と血縁があるから、言えなくもないけど。
195 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 15:56:42.49 ID:8yGmgvAt
そもそも今川氏豊って義元の弟なのか?駿河今川家の人間なら駿河に逃げるのが筋じゃね?なんで京都に逃げたんだ?
196 :
122:2013/07/09(火) 17:47:34.97 ID:wf8/iJe2
>>氏康が5年も後見
そんな期間はない。弘治元年閏10月に初見文書が発給されてるから4年だ。
つかそもそも状況がまるで違う。
氏政はそもそも北条家当主として育てられていないので
それ用の家臣団も育成されてなく後見期間が長くなるのは仕方がない。
氏政は18歳(顕如上人貝塚御座所日記の記録から逆算)
の時にきっちり家督を譲られている。
そもそも兄の新九郎が亡くなったことを受けて、氏政が新九郎の名を継ぎ
信玄の娘をもらい後継者となったのであり(同時期に将軍相判衆へ申請してる)
それ以前には氏政は当主になる予定もなかったのだから。
>>武田義信のように今川の娘を娶っても家督を継げない例
意味不明。謀反をたくらんでおいて家督継げるわけねぇだろ。トンデモ話か何かか?
そもそも家督争いすんなら武力闘争で優位に進むように正妻の実家は重視される。
逆に最初から家督後継者の対抗馬にならないようにそれ以外の息子の正妻はランクを下げるのは当たり前。
>>今川義元は逆に大した正室を得ずに当主権力を得ている
これも兄の死という特別な事情からだろ。そもそも当時の義元は出家してて妻がいないだろが。
結局、家督争いで武田の力を借りたこともあり、信虎の娘を娶ってるし。
しかもライバルだった玄広恵探も出家してて妻帯してねーし。
>>丹羽隼人佐は謎人物でもなんでもない。れっきとした丹羽家の姻戚にある名家
はいはいデタラメ乙w
>>尾張岩崎城、丹羽氏秀の尾張藤島城と目と鼻の先にある
はいはいものは言いようだなw
尾張の日進市と三河のみよし市でほんの一部だけ隣り合ってるから(間に東郷町がある)
目と鼻の先ともいえないこともないが、
実際は、天白川は日進市のほぼ中央を流れてるし
いまは埋め立ててあるから要害には見えんけど当時は三河と尾張の国境は湿原地帯だ、
その名残りが日進市とみよし市の間にある東郷ダムだ。
実際にはみよし市にあった福谷城との距離は目と鼻の先じゃねぇよ。
勝手に関連性をもたす妄想すんなよw
>>苅屋在城以後弐万疋
苅屋在城以後弐万疋 近年万疋 以蔵入雖出置之
上の人も指摘してるが、在城時と近年で時代区分を分けている。
これは失われたことを意味していて、それでも(雖も)忠節してきたから
そのままさし置いておくこととし代わりに蔵から支給してるってことだ。
1万疋追加は依今度忠節を評価して蔵より為彼三万疋之改替に替え改めやってんじゃん。
>>俸禄が増える形になってますけど
そりゃあ松井の功績は七か条に及んで書かれて大きく評価されてるじゃん。
氏真の松井への評価はもともと非常に高い。
>>具体的な年次の比定は避けている
いやいやそんなことはない。特に愛知県史は平成15年発表にむけて
大幅に年次確定作業を完成させてる。
>>那古野家の養子になっただけで
新修名古屋市史でも今川那古野家と書いているので、今川とまったくかかわりがない家ではありませんが。
197 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 20:16:22.97 ID:MyN73Qju
家康って桶狭間で義元が勝手に殺されてくれて
すごいイージーモードだよな
198 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 22:32:06.71 ID:12gGg8EU
むしろかなり厳しいスタートだろ
家康が独立した当時三河でも西部の2郡を少し持ってただけだし
今川氏真の発給文書からしても遠州騒乱まで全く弱体化してないし
その後三河一向一揆で譜代家臣が真っ二つになる窮地に追い込まれてるし
信長のしょうもない戦に散々付き合わされるし姉川でも朝倉の大軍相手任されてるし
199 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 22:38:27.89 ID:Jk/HrIxp
信長が一番チートスタートだろ
尾張一国+交易収入+水野20万石+大垣城+斉藤との同盟+朝廷への献金額ダントツトップの朝廷との親密さ
実質200万石くらいあるんじゃね
200 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 22:42:36.34 ID:2T+LWy2K
信秀の稲葉山攻略では25000も動員されてるしね
桶狭間もおそらく2万くらい信長は動員してたんじゃないか
201 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 23:35:41.06 ID:E7CrrJbm
>>200 状況がまったく違うのに、同程度の動員が可能って考えが凄いね。
202 :
人間七七四年:2013/07/09(火) 23:44:31.56 ID:Jk/HrIxp
状況ってどこがどう違うの?
203 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 00:05:45.76 ID:63opjzS8
個々の事例はソースだ醤油だ煩いから、一般論として。
攻め側と守る側ってだけでも全然意味が違うぞ。
攻め側は便乗が参加するから軍勢が増える。
守る側は逆に日和見する奴が出てくるから、軍勢が少なくなる。
204 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 00:24:55.66 ID:tGxd94/p
状況で言えば斉藤が南下する意思なしで浅井などと西で戦ってた、対今川戦に全力投入できる桶狭間の時の方が
今川の侵攻に見舞われ、東方面に兵残す必要のある信秀の稲葉山攻略の時より大軍動員できるんじゃないか?
205 :
122:2013/07/10(水) 10:29:42.94 ID:lvEiqlDW
本拠地の駿河からの兵站はきつく
信長は防衛戦なので兵力はかなり動員できるはず。
もしそれが無理なら信長の指導力や指揮力や人望に致命的欠陥があったと疑うべき。
しかしそもそも桶狭間の戦いなどなく、義元が不慮によって突然死んだとすれば
いろいろと納得できる。
だいたい尾張の石高と経済力は協力で、駿河・遠江を支配した義元は
北条と連絡を取りはじめた信秀を恐れていた。
そして尾張からの脅威に対して、是が非でも三河を領国化させないと
滅ぼされる恐怖から義元は氏真に家督を譲ってまで三河の安定支配に乗り出す矢先の急逝だし。
206 :
122:2013/07/10(水) 10:33:26.55 ID:lvEiqlDW
北条は遠江の国人と連絡を取り今川をいつでも騒乱にすることができていて、
いまだ遠江ですら安定支配できてなかったことからも義元の焦りは相当な危機感からだろう。
そもそも信長が家督を継いでまもなく三河で反今川大規模決起まで起きてるし
今川の支配はかなり空気。
207 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 13:29:20.32 ID:4A7GTZEy
信秀も朝比奈や庵原をはじめとした駿河・遠江の国人とも通牒してるしなー。
208 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 13:59:34.33 ID:dOWgBkG8
>>196 >そもそも兄の新九郎が亡くなったことを受けて、氏政が新九郎の名を継ぎ
信長にも兄貴がいるんですけどね。そもそも新九郎が死んで急きょ跡継ぎ指名された北条氏政より
最初から後継者にされていた織田信長の方が後見期間が短いとかどうなんでしょうね?
それ盤石な体制って言えるんですかね?
>意味不明。謀反をたくらんでおいて家督継げるわけねぇだろ。トンデモ話か何かか?
つまりそれだけ正室の実家の権力なんてアテにならないって事でしょ。
あくまで当主権力を決めるのは武田義信の場合、武田信玄の差配であって今川氏真じゃなかった
それはつまり斎藤道三の娘を娶る織田信長と、一応姻戚関係は結ばなかった織田信勝の差もさしてないことになる。
武田信玄が義信を幽閉させて勝頼に織田の養女を迎えたように、織田信勝も家督継いでからどこぞの有力な娘を室に入れればいい
>これも兄の死という特別な事情からだろ。
騒乱の時には正室の権力なぞ不要と言う事例なのだけどね
>はいはいデタラメ乙w
逆に丹羽隼人は誰だと思ったの?
君は年次不定の書状を、他の史料ではこう比定して書いてあるから、としているけど
それなら丹羽隼人佐は、岩崎丹羽氏の1人として比定されている史料が多いのだけど
>実際にはみよし市にあった福谷城との距離は目と鼻の先じゃねぇよ。
最短距離で川の西側にある岩崎城と福谷城は約6qしかないよ?言うまでもなく川の東側にある藤島城にはもっと近いよね?
あくまで距離の話だから要害かどうかなんて関係ないよ。日本で川が流れているところに城を建てるのは常道だし。
>上の人も指摘してるが
上の人って誰?
>>190は名前欄から見てもあなただよね?
>上の人も指摘してるが、在城時と近年で時代区分を分けている。
刈谷城の城主は刈谷水野氏だから、いつまでも松井が在城できないのは当然だよ?
>そりゃあ松井の功績は七か条に及んで書かれて大きく評価されてるじゃん。
だからといって城を奪われたのに増やすんですか?そもそも今川義元が死にかけの織田信秀に
城をタダで返すほど、この時の今川軍って危ない状況でしたっけ?
>大幅に年次確定作業を完成させてる。
現実問題としてそもそも豊明市史と岡崎市史だけでも年次が異なってるし
(前者は永禄三年、後者は永禄二年以前)両方具体的な名言は避けてるんだけどね。
>新修名古屋市史でも今川那古野家と書いているので、今川とまったくかかわりがない家ではありませんが。
今川家との血縁といっても、室町時代初期の名越高範の母親が今川氏の人間だったことや
今川氏に庇護されて育てられたという縁があるだけで、代を下ったそれ以降ほぼ無縁のはずなんですけどね。
209 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 14:05:53.97 ID:dOWgBkG8
>>199 水野氏の本拠は尾張知多郡なので、尾張一国の中に水野氏の勢力も入ってますよ
もちろん三河にも水野氏の勢力はありますが。
そもそも織田信友や織田信清を差し置いて尾張一国全部支配できてたんですかね?
>>204 斎藤家のお家方針を、どうやって信長が知りえたんですかね?
信長の野望でもやってるんですか?戦国時代にそんなことわかりませんよ
210 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 15:58:11.10 ID:6M7Yluxp
天白川みたいな水路はむしろ争奪戦の的だな
川や海峡が国境線なんてのは現代都会人の発想であって
明治頃までは水運や水利権は重要な国の財源
211 :
人間七七四年:2013/07/10(水) 21:10:33.93 ID:+4KTj9CG
豊明市史や岡崎市史ってもう古すぎだろう。
212 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 12:15:21.99 ID:ZqfXm4rV
だが論破age
213 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 18:45:11.14 ID:NTrm0N0g
>>208 嫡男と新九郎と庶長子の信広を同列に考えてるなら大間違いでしょ
信秀(41歳?)と氏康(56歳)の死亡年齢の差もあるし
親父が死んだ時、氏政33歳・信長17歳
214 :
人間七七四年:2013/07/11(木) 23:22:46.20 ID:L5bgEPaO
17歳なら猶更後見しなきゃいけないだろw
33歳のおっさんの補佐より17歳の子供の補佐の期間の方が短いとか
端から見ても異常だからなw
215 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 11:17:19.55 ID:wB+eFv1o
>>214 氏政の場合は18歳の時に家督を譲られたけど
その後、すぐ謙信の小田原進攻という異常事態では氏政ではどうしようもないということで
氏康が国の危機なので後見やめて全面復帰しちまったからな。
この悪弊は氏直を形だけの当主にしての氏政の実質当主の様式美を生み出し
北条滅亡フラグとなった。
まぁ次期当主とされて重臣団も形成されてた兄が死んでしまっては
北条内部もかなり地殻変動が起きてるだろうから氏康復帰もやむをえない。
>>210 水運?天白川では利根川や木曽川のようにあちこちから船着場跡や蔵やそれに付随する商は確認されてないから
単に不便なだけの河ではなく川と湿原にすぎないでしょ。
216 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 14:55:51.08 ID:JS+A6BK2
>>215 それは悪弊と言うよりは、北条にかぎらず普通のこと
当主の元気なうちに家督を譲って、後見して経験を積ませつつ、
自分が死んだ後も政権がスムーズに運営されるって形
ちなみに氏康が隠居した理由は飢饉だからって説がある
いわゆる天道思想って奴ね
だもんで投げ出したんじゃなくて、
新体制の元この問題に頑張って取り組むからよろしくね!って対内的なアピール
もともと権力を移譲するつもりはないので引き続き政務を仕切ってる
徐々に権力を移譲していって、死ぬ直前辺りに病気でどうしょうもなくなって政務をしなくなっていったわけ
217 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 15:53:19.38 ID:5Y81lJHa
>>216 違う。家督はちゃんと譲ってるし、氏康は後見もしてない。
と言うのも氏康は失脚したから。
しかし謙信が来襲する時に
「再度国家の意見」と表明して復権してる。
そんで天候による飢饉とか天道思想ってのは超北条厨の黒田や藤木と言ったコリエイトなデタラメ。
実際は氏康が過度に蔵本(高利貸し)を保護し過ぎて武士や民の生活が破綻したから。
>>211 昭和だったような。
218 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 17:19:32.44 ID:MBoTquC7
元服後の名前も伝わらない新九郎って何歳で死んだの?
219 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 17:22:41.82 ID:MBoTquC7
>>214 補佐どころか信長が家督を継いだのは信秀死後では?
死ぬまで現役当主って例は別に珍しくも無い
220 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 17:46:08.54 ID:wB+eFv1o
稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでるとのこと。
221 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 19:31:10.38 ID:K6TrfmCm
>>219 17歳でロクな後見を貰えずに家督を継いだ信長を
「信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。」と
>>117が言ってるからじゃね?
>>220 つっても信秀は天文20年の3月にはもう亡くなってるからな。
この時信長は17歳だから、後見を受けたと言っても15歳〜17歳の間ということになる。
斎藤龍興に負けず劣らずの若君だなこれは
222 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 19:44:38.59 ID:wB+eFv1o
信秀の死は天文21年3月だから信長18歳だろ。
なんなのこいつ・・・
223 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 19:48:20.82 ID:wB+eFv1o
>>209 >>織田信友や織田信清
かれらの支配実態の一次史料をくだだい。
224 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 19:50:06.33 ID:K6TrfmCm
>>222 通説となる死亡年は天文20年3月だよ(「桃岩寺位牌」「張州雑誌」等)
もっとも、信秀の死没年は天文18年〜天文21年説まであるけどな
225 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 23:31:41.64 ID:DnRy48/G
>>223 清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
>>224 万松寺過去帳や定光寺年代記から天文21年3月死去と確定。
天文20年説なんて持ち出すとか昭和に生きてるのか。
天文19年説に至っては甫庵信長記や寛政重修諸家譜がソースなのでそもそも最初から論外。
226 :
人間七七四年:2013/07/12(金) 23:49:11.40 ID:DnRy48/G
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。
227 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 03:55:23.67 ID:5kcMdXfU
>>225 おまえ確定するの好きだなw
確定ついでに1つだけ上げておこう
織田信秀死没年が天文21年だとする際の根拠によくつかわれる「万松寺過去帳」
ところが、万松寺位牌では織田信秀の死没年を「天文20年」と記されているんだよな。
同じく「桃岩寺位牌」でも織田信秀の死没年を天文20年としている。
おまけに一次史料と言われる「石山本願寺日記」でも同年五月二日に「今日頭人尾州国中十六日講衆は、錯乱に依り」と
織田信秀が死んだ後の混乱が生じたかのように書かれている。天文21年の記録は、「織田信秀の葬儀の記録」だろう。
228 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 04:01:37.79 ID:5kcMdXfU
付け加えておくと丹羽家譜天文廿年によれば尾張藤島と尾張岩崎の
丹羽氏秀と丹羽氏職が抗争を繰り広げているが、この時の記述では
「尾張藤島城将丹羽氏秀、織田信長ノ援ニ依リ、其カ宗家、同国岩崎城将丹羽氏職ヲ攻メテ敗績ス」とあるんだよな。
織田信秀が生きていれば「織田信秀ノ」でいいものを
229 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 08:11:49.19 ID:5AkZdG/t
>>227 定光寺年代記の死亡記録の信憑性の高さが決め手で確定してるでしょ。
万松寺過去帳はあくまで定光寺年代記の記録の正しさの補強として。
定光寺年代記の殺害記録によって織田信光という人間がいたことが判明したわけだし。
現在の問題は信長公記に書かれる3/3死去と定光寺年代記3/9で6日のズレがあるので
死去日が確定できないって問題だけ。
石山本願寺日記で書かれてる記述は尾張で洪水などの天災があったようだとされてるだけで
信秀の死による混乱なんて無理やりな解釈はできない。というのも
河野門徒が飢餓だけど400疋を献上すると天文21年10/2の記録に書いてあり錯乱の原因が判明するから。
(天文21年5/2に去年は講衆する信者が少志を寄付したと書いていて20年のことと関連してるのがわかる)
>>228 それだからすでに信秀が病で信長が家督を継いでいる証拠だとされてるんだけど・・・・
神宮文庫蔵の日記断片簡で万度 長鮑千本を出家した信秀が寄付し尾張若殿と明確に分けていることからも
すでに家督を信長が継承してる証左としてるし。
あと、信勝が信秀の父が支配下に置いていた織田家発展の原動力になった
大商業地の津島経済圏への影響力がまったくないことからも、
信長が津島衆を配下にしているのを織田家を継承していた証左とされてるね。
230 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 09:02:18.98 ID:b0p215Og
河野門徒と言えば蓮如が河野惣道場を復興させて以来、
尾張葉栗郡〜美濃国羽栗郡・厚見両郡にいたから木曽川中流の両岸が洪水起こしたんだろうねぇ。
本願寺は経済的に痛手を受けたのなら信長にとっちゃおいしいな。
中流ならむしろ岩倉城の織田伊勢守家と美濃国主がダメージを受けたってことだし。
231 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 09:30:13.10 ID:b0p215Og
信長の安堵状等の発給文書が天文21年秋以降に増えることから信秀の死は天文21年3月〜
信長は元服以前から嫡男として遇されており、
父信秀が熱田の北に古渡城を築いて移った際に、信秀のいた那古野城を譲られ、宿老筆頭のいちおとな林秀貞をはじめ〜
と池上氏が去年末に出した本には書いてるね。
当主が自分の後継者に自分の城を譲って移転するってのは三好長慶が嫡男に芥川城を譲ったり、
伊達輝宗が政宗に米沢城を譲り隠居城を作りはじめたり、
信長が岐阜城を信忠に譲り安土城に移ったりと例がみれるね。
232 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 13:09:07.23 ID:5kcMdXfU
>>229 「壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、」の記述だけなのに随分強気だね
そもそも天文20年説の根拠は実際に信秀の死を見とって葬儀の交渉に携わった
萬松寺と桃岩寺の位牌が大根拠で、信長公記は全く関係がない。
あと、史料を抜粋するのならちゃんとやれ
天文21年10月2日の石山本願寺日記には「飢餓『乱世』に依り、唯今四百4疋これを上す」だ。
ちゃんと『乱世』も原因であることがきっちり明記されている。戦闘が行われているということは
すなわち「信秀が死んだため」ともとれ、この混乱が同年5月2日に
「頭人尾州国中講衆、使者を以って申す事には、去年迄は少志これを上すと雖も、今歳の儀は、いよいよ各正体無く罷成るの間、其儀通無く申し上げ候」
とあることから、天文20年から「飢餓『乱世』」による混乱が続いているというわけ。
逆に信秀死没天文20年説の根拠になりうるわけだ。いくら信長が家督を継いだばかりとはいえ、信秀が生存しているのにこの混乱はありえないからなw
「大商業地の津島経済圏への影響力がまったくないことからも」というが
信長公記では「柴田権六、佐久間次右衛門、此の外、歴々相添へ」とある
そもそも信秀死没の地は、勘十郎がいた末森城でのことだしな。
233 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 13:50:07.33 ID:F4RVPBJC
>>229 『定光寺年代記』「尾州錯乱、八月義元八万騎にて智多郡へ出陣、同雪月(12月)期皈(帰)陣」同年八月
お前これを嘘とか根拠なしにほざいてたくせに都合いいときだけ引用して確定するとか相当馬鹿だなw
234 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 13:57:56.32 ID:q5aZ3XXR
近くの図書館で新修名古屋市史を読んできた。
天文21年の可能性が強いと書いてるね。
飢餓による乱世と書いてるんだから本願寺の講衆の田畠が氾濫で流されて生活が苦しくなったから、
以前のように寄付がたくさん出来なくなったって話としか思えないけど。
戦乱乱世とか信秀死去による乱世なんて曲解にも程があるよ。
そもそも一次史料にその時期に戦乱を思わせるようなものは無いし。
235 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 14:02:39.51 ID:q5aZ3XXR
>>233 新修名古屋市史も
定光寺年代記』「尾州錯乱、八月義元に関して、
義元が知多郡に侵攻した事実は見出せないと否定してたよ。
236 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 14:06:31.34 ID:q5aZ3XXR
新修名古屋市史は信秀の死去についても定光寺年代記を支持してるから、
新修名古屋市史を否定しまくらないと
>>233の意見は成立しない。
237 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 19:39:07.50 ID:jDFbevkU
末森城って天文17年築城だから時期的にいって単なる隠居城でしょ。
しかも織田当主信長の名古屋城の東側を守る前衛だし。
柴田権六、佐久間次右衛門なんてしょーじき当時は一次史料にも出てこない程度の存在だし、
織田外交を一手に行ってたのが一次史料ではっきりわかる平手とは天地の差でしょ。
柴田と佐久間って当時はどんな地位で、なんの職だったん?それすらぶっちゃけわからんでしょ?
そもそも信勝に信長と争わせようとする信秀の意図なんて、どの一次史料に出てくんの?
完全に妄想レベルだよね。
だいたい発給文書数自体でいっても信勝はほとんど無いのに、
信長に比する地位にいたなんて解釈は文書数からいってもあり得ない。
238 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 23:27:58.94 ID:5kcMdXfU
>>234 天文21年説の可能性については否定しないよ
実際学者の中にも天文21年説を支持している人間はいるし、
名古屋市史でも天文21年説を採用しているよね。
ただこれらの「天文21年死没説」は、実際に信秀の菩提を弔う
萬松寺や桃岩寺で位牌に定める「織田信秀」の「天文20年死没」という事項を
何一つ否定できていないんだよな。ちなみに俺は件の石山本願寺日記を
織田信秀の天文20年死没説の根拠として出しているが、
実はこの史料ももともと「織田信秀の天文21年死没説」の根拠として出されていたもので、
天文21年説では天文20年の混乱を「織田信秀が病に倒れたため」とし、天文21年の混乱を「織田信秀が死んだため」としている。
つまり天文20年説も天文21年説も両方確定的だと言える事項はないんだよね。
だから
>>225や
>>229のような「確定」と否定する根拠もたくさん存在している。それが
「織田信秀の死没は天文21年」と確定事項で伝えられていない根拠。
239 :
人間七七四年:2013/07/13(土) 23:47:12.84 ID:5kcMdXfU
>>237 「信勝に信長と争わせようとする信秀の意図なんて、どの一次史料に出てくんの」
いや、誰もそんなことは言ってない。
俺が言っているのは、織田勘十郎の在城した末森城で織田信秀が死去したこと、
そしてその立場を利用して織田勘十郎は織田信長に対する力を手に入れたこと。
そして、それがなされるほどに織田信長の当主権力はアンバランスなものであったということの3点。
織田信秀が実際に織田勘十郎を優遇していたかどうかは、まずわからないと言っていい。
信長公記では「柴田権六、佐久間次右衛門、此の外、歴々相添へ」と言う待遇を受け
また勘十郎自身も織田信秀の名乗りである「弾正忠」を自称するなど、徐々に不穏な対応を取っていくようにになる。
父親の城を継いだことからによるものか、はたまた信長に対抗するためにそうせざるを得なかったかはわからないが、
最低でも、織田信長と織田勘十郎の歴然たる差、当主として織田信長が織田家を滞りなく運営できる立場を
織田信秀は用意していたわけじゃなかったと言えることは確かだけどね
伊達稙宗と伊達晴宗に近いかな、織田勘十郎はさしずめ、相馬顕胤だろうか
240 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 11:45:30.31 ID:gXlePDoL
>>239 >>弟が権力増大して家督争いに参入しろと言わんばかりだ
お前さんが上記で信秀の意図をはっきり書いてる発言を無かったことにするのか・・・驚いたわ。
そもそもたかが末森城ひとつで何ができんの?たった1城持ってただけで当主顔できんの?
末森城なんて守山城とともに名古屋城を守るためにあるようなもんでしょ。
>>238 鳥居和之氏や下村信博氏や池上裕子氏といった織田研究の第一人者の方々が天文21年を支持してんだが。
>>石山本願寺日記を織田信秀の天文20年死没説の根拠
根拠にならない。お前が勝手に
下記のことをすごい妄想に置き換えているだけ。
尾張葉栗郡〜美濃国羽栗郡・厚見両郡に住む本願寺の講衆の田畠が氾濫で流されて
飢餓による乱世状態になったので寄付がたくさんできないと申し出てきた史料
この事実がお前の脳内フィルターを通すと織田信秀が病に倒れた&織田信秀が死んだために起きた戦乱を証明する史料に豹変。
信秀の体調によって河川氾濫は起きないし、そもそも戦乱があったとする一次史料による裏づけが皆無。
すごすぎるよお前って。
241 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 12:00:39.50 ID:gXlePDoL
尾張の混乱は平手が失望のあまり自害し、それを見て林が見放したほどの信長の大うつけが原因であり
しかもこの信長の織田家内での不評っぷりは隣国まで伝わり
道三も信長の大叔父玄蕃允秀敏(信長が秀敏へ天文21年10/21に中村方三郷を安堵しているが、これが信長初の知行宛行文書)
にそれを心配して問い合わせてるほど
それを信秀の体調のせいだと曲解してんのがお前。
信長も信秀と同じ三郎を名乗っており、後見する宿老おとなが4人も4信長には付けられ
明らかに織田後継と位置づけられてる。信勝にはおとなは一切付けられてない。
242 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 19:43:25.19 ID:dlas0FzT
>>239 ???いやまあ別にかまわんが。
当主が既に存在するのに、先代がデカい顔していれば当主が傀儡同然の扱いになりかねないのは
平安時代の上皇政治から何1つ変わってない。それを踏まえればそう思われても仕方ないんじゃないか?
末森城1つで何ができるって?織田信秀が隠居するために1人寂しく支城にいると思ってんのか?
当然先代を補佐する家臣もいるし、事実勘十郎は信秀と一緒にいたではないか。
そしてそれは勘十郎に柴田権六、佐久間次右衛門を後からつけられていたことからもわかる。
妄想に置き換えられているも何も、
>>238で俺が言った通り、石山本願寺日記はもともと天文21年死没説の根拠として語られている。
つまり「石山本願寺日記にある混乱は、『織田信秀の死期に関するものによる』」と言い出したのは「天文21年死没説」提唱側であり、
俺はこれを「いや天文20年死没説の根拠だ」と反論する意見を集約しただけ。これが妄想だと言うなら
天文21年死没説の根拠がまず崩れる。なぜなら天文20年説の根拠は萬松寺と桃岩寺の位牌が根拠だから。天文20年死没説を否定したいなら、まずこれを突き崩さないと。
まあできてないから天文20年説がまだ語られているんだけどなw
243 :
人間七七四年:2013/07/14(日) 19:52:51.90 ID:fQ1pYdG3
244 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 06:09:58.31 ID:xUDuu3qB
まーただがチョンが自分の妄想を学説認定してきてるのかwwww
245 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 12:26:23.30 ID:V2wdro4O
そもそも天文20年死没を積極的に支持しえる材料が皆無。
その根拠が脳内妄想ストーリーに依拠してる時点で陳腐な作家レベル
信長初の知行宛行文書の日付でみても21年死亡は確実的。
信勝は信長の対抗馬のように信秀に育てられていなかったのは間違いない。
そもそも信秀と末森城で生活していたなんてデタラメだし、
単に信秀の葬儀の後の遺産分けで末森が信勝に与えられたに過ぎん。
信秀死後に信長が戦をする時はたびたび信勝も家臣の柴田を派兵しているように
織田家総領の信長というスタンスは証明される。
第一、信長につけられた織田家いちのおとなの林は寄親として荒子城・米野城・大脇城を指揮してるが
柴田や佐久間大学や林の弟なんて地位も職もまったくないただの信勝の家臣風情じゃないか。
さらに信勝はずっと信長配下として動いていて、そこに序列を巡る争いの種は一切見つからない。
そうして平穏に時が過ごしていたら1544年に道三が隠居に追込まれ
さらに事態は悪化し1555年に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵し、信長と義龍が敵対状態になった。
時を同じくして1555年6月に信長と信行の弟の喜六秀孝が守山城主織田信次に謝って殺される事件が発生。
恐怖した信次は守山へ戻らず逃亡。
これの対応を巡って信勝が信長へ相談なく勝手に守山へ攻めこみ
遠乗り中にそれを聞いた信長が「俺の弟ともあろう者がたった1騎で下郎のように歩いていたとは!
生きていたとしても許せない」と激怒。
結局、信次の家臣が篭城していたので信長軍に柴田を援軍で派兵し佐久間信盛の説得で開城し
守山城は信長の弟の秀俊が治めることで和睦。
このころから林と柴田が内通し信長へ謀反を企ててる風聞が流れ
そして1556年4月20日 斎藤道三討ち死にし義龍が完全に美濃を制圧。
1556年5月26日信長と秀俊が林邸に出向いて様子を伺う事件が発生。
翌日林が信長に謀反+守山城で秀俊が角田新五に暗殺されるという事態に発展。
信長は先に逃げていた前守山城主信次を呼び戻し守山城主に復帰させる。
8月22日に信勝から離反して信長についた佐久間大学が前線に砦を築いたことから
24日に合戦に発展。
明らかに美濃の情勢と信勝の挙兵はリンクしていて、
しかも守山城主の織田信次を明らかに信長は厚遇している。
さらに角田新五を不問にしてるため、そもそも織田秀俊暗殺も信長の謀略との疑いがある。
この後まもなく信長の庶兄の信広も斉藤家と内通して清洲城乗っ取りを狙うも失敗するなど
信長による兄弟粛清の荒らしの謀略に追い詰められ義龍に内応する織田一族の構図が見える。
これを見ても信秀が信勝を信長お対抗馬にしようなんて考えはない。
246 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 18:03:09.61 ID:xUDuu3qB
だがチョン必死に議論誘導wwww
正当な論者
>>242「位牌が根拠」
妄想捏造だがチョン「脳内妄想ストーリー」←WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW????????????wwwwwwwwwWWWWWWWWWWWWWWW
日本語も理解できてないアスペwwwwww
247 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 20:02:58.59 ID:Xzx+lMiM
うわぁ また連呼リアン織田厨が壮絶に虐殺されてるぅwww
248 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 20:10:38.74 ID:NCIJxEka
とは言っても織田信長文書の研究で有名な奥平高広や
信長公記研究で有名な岩沢愿彦など、
ことごとく天文21年死去を主張してるからなあ。
249 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 20:27:41.47 ID:xUDuu3qB
ID変えてアスペ必死wwwww
>>248 奥平高広って誰だよ奥野高広だろwwwww
250 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 20:37:18.61 ID:NCIJxEka
故奧野高廣氏でしたね。失礼しました。
251 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 21:31:35.82 ID:Hgj0WoEu
「そもそも天文20年死没を積極的に支持しえる材料が皆無。」
→織田信秀の菩提を弔う萬松寺と桃岩寺の位牌が「天文20年死没」
これは「天文21年死没」を唱えるどの提唱者も否定できていない。
「単に信秀の葬儀の後の遺産分けで末森が信勝に与えられたに過ぎん。」
→そもそも信長が絶対的な当主権力を与えられていたのなら、末森を勘十郎に与える必要はない。
当然柴田や佐久間も自分の家臣として使い、勘十郎につけさせる理由もない。
「柴田や佐久間大学や林の弟なんて地位も職もまったくないただの信勝の家臣風情じゃないか。」
→柴田や佐久間次右衛門もちゃんと城や地盤を持ってるんだけどな。もっと言うと林は勘十郎についてるし
「さらに信勝はずっと信長配下として動いていて、そこに序列を巡る争いの種は一切見つからない。 」
→天文23年には「右遣候免許之旨、相違有間敷上者、於向後、(中略)令免許候、然上者免許令破棄共、不混自余、於末代不可有相違候也、仍状如件 達成」と
東の加藤家に対して信長と対抗するために守護代の織田達勝と結びつく姿勢を表明しているし、
それ以前にも父親の名乗りである「弾正忠」を称している。 勘十郎が守護代家と結びついたのは信長への争いのために他ならない
また筆頭家老の林は天文23年の村木合戦に参加しておらず信長を距離を取り、最終的に勘十郎の味方に付くが、
これも結局信秀同様の拡大政策を取る信長への反発であり、その根幹は大垣安祥などを失った信秀の拡大政策頓挫から始まっている
「明らかに美濃の情勢と信勝の挙兵はリンクしていて、 」
→リンクはしているがリンクの方向が逆。斎藤義龍が織田家の反発を利用しているのではなく、
織田家で反発している連中が斎藤義龍の権力を利用している。天文23年の勘十郎の書状もそうであるが、
信長よりも上位に当たる連中の権力を盾にすることで、情勢を有利にしようとしているのであり、
言い方を変えれば斎藤義龍しかり織田守護代家しかり、両方とも勘十郎や信広らに「利用されている」であり、巻き込まれている。
「信長による兄弟粛清の荒らしの謀略」
→信長が殺害したのは勘十郎ただ1人であり他の兄弟の死や去就に信長は関係ない
これを見ても反発の芽を抱いているのは信長の兄弟達自身であり、誰かにけしかけられているわけではない。
特に斎藤義龍は数年前に親の道三を排した直後であり、尾張の情勢に構っている暇はない。
252 :
人間七七四年:2013/07/15(月) 21:34:26.87 ID:Hgj0WoEu
253 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 08:35:23.33 ID:TjDaS3IA
織田信秀の菩提を弔う萬松寺と桃岩寺の位牌は当時作られたものがそのまま残っているのか?
それとも戦乱や寺社移転や、織田家の尾張喪失や、
天童藩などの各地の織田本家争いと位牌の正統性について調べた本を紹介して欲しい。
254 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 12:39:21.11 ID:eqDXP0d8
初期設定がチトーな大名で
255 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 12:57:58.67 ID:VaneZFqP
>>251 >>提唱者も否定できていない。
いや誰も提唱してるやつがいないのだから事実上20年のは否定されてる。
そもそも各家の累代の記録がその都度、書き加えられ寺社が日付けごとに誰を追善供養するかのチェックにも使われ続けてきた過去帳>>>位牌が常識なんだから。
>>勘十郎につけさせる理由もない
どの大名家でもやってる普通の遺産分配だろ。そこら辺を調べても特に変わった動きはない。そこにお前の妄想を加えるな。
唯一、おかしいことは信長が位牌に無礼を働いて大たわけぶりを晒して評判を落としたくらいなもんだ。
それが原因で信長が人心を失った結果、遺産分配で不利になった可能性はあるかもな。
でもそれは信秀のせいじゃない、信長の行動結果だ。
>>柴田や佐久間次右衛門もちゃんと城や地盤を持ってるんだけどな
そんな一次史料ないし。勝手に妄想を広げるな。
>>東の加藤家に対して信長と対抗するために
だから本家の熱田八カ村の管理もしてる西加藤家へは信長、
分家の東加藤は信勝によって分掌されていただけのことだ。
東加藤なんてなんも力がないじゃないか。
さらに天正20年9/20熱田神宮座主に対して備後守並びに三郎の先判の旨に任せ〜
と信勝が出してる書状あるように、まだ信秀が生きているし、
信秀の名乗りであった三郎を継いだ信長より下位にいるのは明白で序列がはっきりしてる。
弾正忠を名乗るくらいなら備後守を名乗るだろwそもそも信長は上総介を名乗ってるし。
>>勘十郎が守護代家と結びついたのは
はいはい妄想乙w達の字に改名したことからの連想ゲームですねw
じゃあ信長に左遷され竜泉寺城主織田武蔵守信成に成り果てた信勝の「成」は誰からもらったのw
弾正忠も軽く捨てて武蔵守を名乗ってますけど、弾正忠にどれほどの価値があったんすかねぇw
なんかその後もテキトーな妄想を書いてるようだけど、結局、信秀が信勝を信長の対抗馬にしようとは
思ってないし、信勝も信長配下として働いている。その良好な関係が崩壊したのが道三の強制隠居劇と義龍の政策にリンクしてるだけ。
誰に利用されてるとか利用してるとかどうでもいいよ。信秀がそう仕組んでいたのではなく、信長が大うつけで尾張の結束を崩壊させ
道三の後見が失われた時に、ついに信長の味方だった信勝もついに信長を見捨てざるを得なくなったことが理解してもらえたら。
>>斎藤義龍は数年前に親の道三を排した直後であり、尾張の情勢に構っている暇はない
弘治3年4/19には当時は高政と名乗っていた義龍が尾張武蔵守宛てに書状を出してるのが残ってるのも知らんようだな。
様子を伺いたい。こちらから派遣した使者に伝えたいことはすべて申し伝えているので、直接聞いてください。
これからも重ねて連絡するので書面には詳しく書くのを避けます。
あきらかに怪しい文面だよな〜義龍は尾張情勢に干渉してんだよ。当たり前だよな、失脚させた父が後見していた信長を放置できるわけがない。
>>根幹は大垣安祥などを失った
でさ、大垣城を失ったとする一次史料はまだなの?まさかまた妄想を重ねてるの?
256 :
人間七七四年:2013/07/16(火) 20:57:21.26 ID:oUue/oRa
>>253 まず基本的なことから述べると、位牌は当人の臨終後(つまり死亡後)すぐに作られる内位牌と
四十九日後の法要までに作られる本位牌があり、位牌は基本的に死んだ人の依り代として作られるなら
これだけ重要な代物だから、位牌は基本複数作るのが基本であり(最低でも寺側、遺族側)、位牌が消失して情報が錯そうしたというのはまずありえない。
当人の死後すぐにその死を看取った人間が作る位牌を「根拠なし」と断ずるのは流石にな
>>255 「いや誰も提唱してるやつがいないのだから事実上20年のは否定されてる。」
→天文21年説も否定されてるんだから両方土俵に立ってない。天文21年説では天文21年10月の信長判物と
天文20年の信勝判物の表記の差を1つの根拠に論じているが、これでは天文22年の勘十郎判物がなぜか天文21年の信長判物と
表記が異なることを全く証明できていない。事実上天文21年説も否定されている。
「そもそも各家の累代の記録がその都度、書き加えられ寺社が日付けごとに誰を追善供養するかのチェックにも使われ続けてきた」
→その「追善供養」である「〇回忌」は萬松寺や桃岩寺によると著名なものでも1751年、1801年、1951年とされて
どう見ても天文20年死没を根拠に織田信秀の追善供養が行われているんですが・・・
「唯一、おかしいことは信長が位牌に無礼を働いて大たわけぶりを晒して評判を落としたくらいなもんだ。」
→一次史料大好きなわりに都合がよければそういう講談に片足突っ込んだ情報は好きなんだなw
信長が無礼を働いたのはそもそも葬儀ではなく「銭施行」であり、しかも
「銭施行をひかせられ、国中の僧衆集まりて、生便敷御弔いなり。」とあるように、信秀家臣ではなく僧侶中心の行事。
しかも勘十郎もご丁寧に佐久間大学などを連れ立っているが、この佐久間大学は跡目争いでも信長に味方してるし
「例の大うつけよ」なんて言ったのは数多集まった坊主共だろう
「そんな一次史料ないし。勝手に妄想を広げるな。」
→そもそも地盤がなければ戦いにも出れん。柴田がその辺の足軽と一緒に1人で供回りもつけず戦うのか?
もっと言えばたくさんの地盤を持った林が勘十郎の味方についてるだろう。
「と信勝が出してる書状あるように、まだ信秀が生きているし、」
→天文22年にも加藤図書助に対して「信秀任先判之旨免許舟之事」と出しているのだが
君の理屈で言えば天文22年にも織田信秀はまだ生存していたんだね?
「弾正忠も軽く捨てて武蔵守を名乗ってますけど」
→信長が上総介を名乗り続けているからそれに対する対抗策でしょ
しかも武蔵守を名乗りだした確たる時期って晩年の死ぬ間際だし
軽く捨てたと言う割には約2年近く名乗り続けていたわけだけど
「信勝も信長配下として働いている。」
→いや逆に勘十郎信勝はどこで信長に協力したっけ?
信長の軍事行動でまともに勘十郎本人が協力したなんて記録出てきたことないけど
これは語るまでもなく守山城の事件での対応の違いもあるように、基本は柴田が出てるだけだし。
赤塚や村木に至ってはそれすらない体たらく。
「あきらかに怪しい文面だよな〜」
→本当に適当な日本語訳するの好きだなw
原文では「近日者不令申候、所存外候、其表相替子細無之候哉、時宜承度候、召遣候者、委曲申含進之候、
直可被聞召候、猶重而可申入之間、閣筆候、恐々謹言、」で、この記述中に斎藤義龍は
「近頃は連絡もよこさず申し訳ない、所存の外のことです(近日者不令申候、所存外候)」と書き、
尾張情勢に疎いことを自ら武蔵守信成に吐露しているんだよなあw で、これが「義龍は尾張情勢に干渉」していた根拠か?w
「でさ、大垣城を失ったとする一次史料はまだなの?」
→一次史料を要求するも何も、この時点で大垣城が織田斎藤どちらかであったの一次史料がないでしょ
最も信用に足る根拠が「織田播磨守を大垣に入れた」とある、江戸時代作の信長公記首巻の時点で。
で、それを含む二次史料を含めると、竹腰や氏家に奪われているからそう発言しただけ。
最も、重要なのは「織田信秀による拡大事業の頓挫」だから、これは加納口しかり対今川しかり言う必要すらないか。
「織田信秀による拡大事業の頓挫」があり、「織田信秀が病に倒れ」、わずか約2年ほどで「織田信秀が死んだ」という、激変を理解してもらえたら。
257 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 11:01:21.37 ID:Aub0Nc5D
>>位牌を「根拠なし」と断ずるのは流石にな
位牌は天文20年3/3説の根拠ではあるが、
天文20年9月20日付けの織田信勝判物で備後守と書かれて信秀がまだ生存してるのがわかるので
位牌の日付けが信長公記(3/3死没と書く)を読んでだいたいの年号を想像して作ったに過ぎない。
そもそもあなたが主張する20年説は鳥居和之氏や下村信博氏や池上裕子氏や岩沢愿彦氏や奧野高廣氏らが
天文20年説にはこういうのがあるよって紹介した内容で、結局、彼らは結論として天文21年を支持してる。
>>天文22年の勘十郎判物
信秀任先判之旨免許舟之事
信秀生前は備後守と書いていた信勝だったが、亡くなったので官名で書かず信秀と書いているだけのこと。
明らかに信秀がすでに死んでいることの証明じゃないか。なんでこれをもって天文21年死没を否定できるのか意味不明
生前から信秀が信勝を優遇してるとしたらかなり無礼な書き方だよな。
やはり信秀は信勝を優遇なんてしてないわな。
>>がよければそういう講談に片足突っ込んだ
だから「そこら辺を調べても特に変わった動きはない。
と最初に書いたんじゃないか。それでも不審な点をあえて書けばってことだろ。
その証拠に「可能性はあるかもな」とあくまで可能性と書いて断定しとらんし。
>>信秀家臣ではなく僧侶中心の行事。
信長公記には信長側近の後に家老の衆も出席したと書いてるじゃないか。曲解もいい加減にしろ。
>>地盤がなければ戦いにも出れん。柴田がその辺の足軽と一緒に1人で供回りもつけず戦うのか?
遺産相続で末森城をもらったんだから柴田だって兵力を率いることができるようになるだろ。
林は平手の自害を見てあきれ果てて信長から離反したんだし、
佐久間大学は正当な主君が信長だと知ってるから信勝の謀反に組しなかったんだろ。
>>でまともに勘十郎本人が協力したなんて記録
信勝の末森城の兵力を柴田が率いて信長の戦闘を支援してんじゃねぇかよ。
屁理屈をたれんな。
>>義龍は尾張情勢に干渉」していた根拠か
おいおい書状の冒頭の挨拶部分だけ訳して、その結果を書くかw
委曲申含進之候なんて思いきっり怪しいだろ。
じゃあこの書状の評論した横山住雄氏のコメントも紹介しておこう
「文面に詳しいことはまったく書かれておらず、密書的色彩の濃い書状になっている」
一般常識ある人間ならそう解釈するわなw曲解するアホには単なる挨拶に見えるんだなw
>>織田斎藤どちらかであったの一次史料がないでしょ
またまた曲解でましたw織田が失った記録がないのに、そう言い換えて誤魔化すんだw
道三の大垣城攻撃から信秀が守りきった→信長と濃姫の婚姻→道三の信長後見
この流れでいつ大垣城が道三に襲われて奪い取られるんだよ。妄想もいい加減にしとけ。
信秀は天文18年春あたりから体調を崩してから(美濃国諸旧記)
信長への権力移譲を少しずつ開始していて後見役として、自分が死んだ後も信長が安心して統治ができるよう
親心として内外の問題を解決する方針に変更していた。
美濃では婚姻同盟を結び、北条とも通信し、
美濃と尾張の協調を背景に三河戦線では今川に同盟したいなら刈谷城を水野に返すように迫り
朝廷が和睦するように申し出ても拒否していた今川だったが、信秀の恫喝の前には城を差し出す
これで岡崎が動揺して東条松平家の甚二郎が織田方になっちまって、あわてた岡崎城代たちは甚二郎の弟を引き上げて兄跡職を給与してる。
美濃では大垣を確保し稲葉山城を牽制する状況で道三を折れさせて濃姫を人質に同盟
三河では水野氏を以って三河西部に足がかりを残し、信長は万全の体制のまま引き継いでる。
(今川は北条が駿河や遠江の国人と内通していたりと地盤が弱い)
258 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 13:08:35.38 ID:7o88Eybg
>>257 「位牌の日付けが信長公記(3/3死没と書く)を読んでだいたいの年号を想像して」
→何を言ってるんだね君はw位牌は基本どの寺でも当人の死後四十九日までには完成させておくべき物で
信長が若年の当時に信長公記なんてあるわけないじゃないかw当人の霊魂の依り代とされる位牌を、
それもそこらの浮浪者ならいざ知らず権力者の織田信秀のものを、死没してから放置して後から適当に作ったとか
随分ザルな論拠ですなw
「信秀生前は備後守と書いていた信勝だったが、亡くなったので官名で書かず信秀と書いているだけのこと。」
→官位なんて辞任したとかいくらでも言い訳つけられるんだが・・・別に官名で書かなきゃいけない決まりは全くないし。
「生前から信秀が信勝を優遇してるとしたらかなり無礼な書き方だよな。 」
→おや?密蔵院文書によれば天文19年に織田信長が「織田信秀判形」と熱田神宮へ命令していますけど
当人が生きている(多分)にも関わらず随分無礼な書き方ですね。信秀は信長を優遇していなかったんでしょうねあなたの理屈では。
「遺産相続で末森城をもらったんだから柴田だって兵力を率いることができるようになるだろ。」
→柴田が勝手にあれこれできるわけないじゃないですかw
仮に柴田は勘十郎の代行だったとすると、佐久間次右衛門や他の家臣は?と言う話ですし
そもそも原文の信長公記では「末森」を勘十郎に譲った上で、新たに「柴田権六・佐久間次右衛門、此の外、歴々相添へ」となっているわけだけど
柴田や佐久間が自分の城も持てないような歯抜けならこんなこと書く必要皆無でしょ。末森の中に家臣もいるのだから。
「信勝の末森城の兵力を柴田が率いて信長の戦闘を支援してんじゃねぇかよ。 」
→逆にこれを証明する一次史料は何?もっとも赤塚や村木は柴田も参戦していないので
どっちにせよ怠慢、反抗的のどちらかには当てはまりますが。
「おいおい書状の冒頭の挨拶部分だけ訳して、その結果を書くかw」
→と言ってもその次の「其表相替子細無之候哉、時宜承度候」を訳したところで、何の変化もないからなあ
ただ単に出方を伺っただけで、これを指して「斎藤義龍は尾張情勢に積極的だった」なんて妄想も甚だしい
>>255 しかも、わざと冒頭部分を抜き出さず、斎藤義龍が尾張情勢を尋ねた部分を削除して訳す(
>>255 )などかなり悪質な抜き方
そして極めつけは
「文面に詳しいことはまったく書かれておらず、密書的色彩の濃い書状になっている」と
→妄想の箔塗のために「書状になくても そういう意思があったに違いない!」と曲解
>>257 どっちにせよ情報が不明確な史料を持ち出して、しかもそれを一部隠蔽して公表し、
それを指して勝手な見解を持ち出したのは変わらないね
>>255 厳密な精査をしても、結局
斎藤義龍が、ここから尾張に対してどう動こうか考えていたかは、まずわからないわけだ。
「道三の大垣城攻撃から信秀が守りきった→信長と濃姫の婚姻→道三の信長後見 」
→まずこの「道三の大垣城攻撃から信秀が守りきった」と言うのが江戸作の信長公記首巻くらいにしかない。
全くアテにできないと断言するつもりはないが、大垣占拠の際に入れた織田播磨守なる人物を特定できておらず、
また、後世作・二次史料の「信長公記首巻」を使用すると言うことは、他の二次史料も俎上に上がると言うことであり、
他の二次史料、「徳川諸家系譜」や「新撰美濃志」も引用できることになり、この史料では斎藤道三が奪い竹腰、氏家両氏らの支配があったとされる。
一次史料のみに限定するなら、そもそも織田方が大垣城を奪ったことすら不明確であり、どちらにせよ断定できる要素がない。
つまり妄想と言えるのは君の方だね
「刈谷城を水野に返すように迫り」
→これも同じ。そもそも水野氏は織田と敵対した安祥松平と縁戚関係で
当然その場その場でつく方を変える連中。そもそも刈谷赦免は信秀が今川に
たっての願いとして送られているのが現状で、恫喝なんてもっての外。
恫喝してすんなり返す馬鹿はいないし、そんな高圧的態度を取れる余裕があるなら自力で奪い返している。
結局一度は今川那古野氏から奪い、その一族を囲って味方に付けた那古野周辺も、今川義元の力と影響力で徐々に萎んだ上での死去
安祥城近辺に至ってはとっくに勢力圏外になってるし。
259 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 13:20:25.04 ID:7o88Eybg
まああと、恐らく知らないようだから付け加えておくけど
萬松寺は織田信秀が建立して、開山に織田信秀の叔父(弟という話もあるが・・・)である
大雲永瑞和尚を迎えて行われている。そんな織田一族が核を成す萬松寺が
親族かつ権力者の織田信秀をむげに扱う理由もないし、一般常識として霊魂の依り代である位牌を
適当に後から作る寺院など聞いたことがない。遺族に激怒されて縁切りされるのがオチ
260 :
人間七七四年:2013/07/17(水) 15:42:34.46 ID:/F4ai36i
>>258 あなたは何でそんなに信秀を恨んでんの?
もう無理やり歪曲解釈も破綻してきてるぞ?
261 :
人間七七四年:2013/07/18(木) 00:26:12.46 ID:NVzyYHj3
>>260 別に恨んではおらんでそ
加納口の戦いや安祥城の戦いは有名すぎるくらい有名だし
信長公記首巻にある大垣救援の時も清洲勢に居城を包囲されて絶体絶命でそ
こっちは信秀の生涯をきっちりと考察してるのに
若干10代の信長を捕まえてアスペだのなんだの言ってる方がよほど恨みが濃い話
まあ本人乙だろうけど
262 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 11:30:39.94 ID:3G8iBWPg
論破されてだが逃亡wwwwww
263 :
人間七七四年:2013/07/19(金) 23:08:55.05 ID:dD8pHQBJ
ID変えて単発擁護する暇あったら自慢の資料集で言い返しなさい、だがさんよ
264 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 01:00:07.73 ID:yIvLPIfm
そもそも初期の信長は大名じゃない件
265 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 05:51:50.07 ID:xeHs5YyO
それを言ってしまうと、
かなりの連中が大名ではないスタートになってしまう
大名の定義にもよるけれど
266 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 07:17:49.84 ID:ON1LNrMN
元々このスレってだがの結論ありきスレだからなw
267 :
人間七七四年:2013/07/20(土) 07:28:42.08 ID:1n0+nuCc
そもそも初期条件って自国のことだけじゃないでしょ
その点毛利は大内尼子内紛分裂
信長は斉藤幼君で混乱・分裂・抗戦意欲なしで自落ばかり北畠は内訌で崩壊
六角は対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化三好は統制が取れずバラバラ
東では松平独立、上洛時においては次々織田方に畿内で味方が勝手に増えて集まってくるし
守護の赤松・山名・松永・荒木・毛利残党の山中らも味方と恵まれまくってるな
斉藤攻略でも浅井や和田ら甲賀衆や江州様が味方で大いに活躍しまくって棚ボタ的に斉藤攻略→上洛で
チート国力を得たわけだし
268 :
人間七七四年:2013/07/21(日) 23:44:45.57 ID:dNo24Lvh
結局信秀は義元に侵略されて信長のスタート時尾張半国しかなかったの?
信長の初期設定はチートどころかかなり厳しいって事?
269 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 07:58:57.44 ID:zvcQCaN1
>>268 北畠、今川、斎藤が敵、弟も敵で結構苦しいっちゃ苦しい
チートってのは豊富な石高に加え周囲に敵らしい敵がいない事じゃねえかな
そういう意味じゃ政宗とかそうかもな
270 :
人間七七四年:2013/07/22(月) 19:58:04.05 ID:QnwRHCde
上総介信長、尾張国半国は御進退なすべき事に侯へども、河内一郡は、二
の江の坊主服部左京進押領して、御手に属せず。智多郡は駿河より乱入し、残つ
て二郡の内も、乱世の事に侯間、慥に御手に随はず、此の式に侯間、万御不如意
千万なり
271 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 08:39:50.18 ID:7PqaBvkt
なり
272 :
人間七七四年:2013/07/23(火) 12:30:07.67 ID:hOWs6Agc
結局
>>258でだがが大論破されて逃走しててワロタw
273 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 12:06:39.26 ID:8OSGuhG8
謙信
274 :
人間七七四年:2013/07/25(木) 13:04:30.84 ID:ZzVeqHkD
>>270 それ太田が書いてない特に信憑性が低いとされる公記の巻首の記述じゃんかw
誰が巻首を後から付け加えたか全く不明なだけにデタラメっぷりもパネぇし。
275 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 00:35:25.69 ID:PLSaPMri
結局尾張半国からわずか20年で750万石まで急スピードで大拡張した信長は日本最高の名将だったって事だな
甲斐一国継ぎながら120万石どまりの信玄や
越後の富裕地元手にしても130万石止まりの謙信とは比較にすらならん
276 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 01:36:08.16 ID:io3JcIdu
結論
信長の家臣になれた秀吉がチートだよ。
277 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 02:08:15.76 ID:wbtA7CfJ
秀吉は元々織田の家臣じゃん。天正12年の毛利宛書状で子供の頃から仕えてたことが書かれてるし
278 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 02:10:35.89 ID:io3JcIdu
それがチート。
他の大名家なら出世してないかも。
279 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 02:18:40.85 ID:wbtA7CfJ
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
280 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 02:39:02.73 ID:MAPiXPLi
信玄や謙信が尾張に生まれてたら今川の大軍のあっさり殺されるか、
下手したら国内での弟達との戦いに負けて殺されてただろうな
そういう意味じゃ平和な甲斐や越後に生まれた信玄謙信はチートスタート
281 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 02:39:35.85 ID:io3JcIdu
だから出発時点が十分チートだよね。
織田家じゃなかったら
あんな乗っ取り劇は成功してない訳だしね。
本来なら直江兼次みたいに
後継者を支えなけりゃいけないのに。
282 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 02:44:58.85 ID:PLSaPMri
家康もチートじゃね
信長なんてむしろチートどころか不利な方
283 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 02:49:30.45 ID:io3JcIdu
うん、家康は周りがチートにさせてくれたよね。
284 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 10:20:15.51 ID:wbtA7CfJ
北条氏康・氏政はチート。元々強豪なのに周囲は雑魚ばかり。
毛利元就はかなりキツイスタート。
285 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 10:53:09.16 ID:bdf5HbAF
>>275 はいはいwあなたは鳥居和之氏や下村信博氏や池上裕子氏や岩沢愿彦氏や奧野高廣氏らの意見を全否定してまで曲解しててものすごく気持ち悪いです。
286 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 12:35:37.59 ID:ePuuAJx3
>>280 信玄と謙信はだいぶ異なるよ
武田信玄
・平和な甲斐に生まれる(父親、武田信虎の功績により甲斐の国主=武田の状態が確立)
・家督争いの引き金になる弟が、信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
・偉大な権力を持っていた父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
・重臣の中で権力を持っていた板垣と甘利が勝手に自爆→信玄にやりたいように政治ができる
上杉謙信
・激動の越後に生まれる(父親の葬儀でも鎧をつけて参加する逸話あり)
・兄貴を押しのける形で家督を継承
・国内にひしめく他の長尾家との抗争、越後を統一するまでひと手間
・石高では自家を上回る武田・北条と戦う状況に
武田信玄は戦国時代の中でも屈指のチートスタートだね
これを上回る人物は北条氏康や島津義久くらいしか当てはまらないと思う。
家督争いしてないってだけで、かなり恵まれたスタートだな。今川義元や毛利元就ですらひと悶着。
287 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 13:33:45.49 ID:bdf5HbAF
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。4
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
288 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 13:42:05.30 ID:bdf5HbAF
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定されたおとと同様である。
289 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 22:53:10.83 ID:ESa0+xsB
>>286 良く出来た弟がもっと長生きしてたらどうなったんだろな
特に義信関連と信玄死後のあたり
290 :
人間七七四年:2013/07/26(金) 23:57:08.15 ID:C2xcTUuC
>>287 信玄は国の経営をやったが、信長は単なるチンピラだよな。
そりゃ信長は部下に殺される末路しかないわ。
291 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 01:31:45.60 ID:fR2stfOO
山賊の首領から抜け出せない信玄と天下人扱いされる信長の違いがどうかした?
292 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 12:26:21.57 ID:1dmCtmCl
>>286 >>平和な甲斐に生まれる
どこが平和だよw甲斐国は実質、武田、穴山。、小山田の三国の合同政権で
しかも武田の支配していた地域は専横家臣だらけ。
結局、その専横家臣団によって武田の集権化を進め統合しようとした信虎はくにを追放され
専横家臣団に都合が良い傀儡として信玄が擁立されただけ。
>>信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
そうではなく、専横家臣団の意向で信玄が当主に祭り上げられてたくらい武田当主なんて誰もやりたがらない傀儡守護職。
それは戦国時代に大半の守護が家臣による下克上で滅んでいることでもわかる。
>>信玄にやりたいように政治ができる
>>287のように信玄の国の整備と経営の努力によって指導力を発揮していったことを周りが認めていった結果だ。
国人たちによる合議政権だから信玄の意見だけで勝手なことができるわけねーだろ。
>>父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
そんなことどこにも書いてない。お前の妄想。
293 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 17:40:21.04 ID:Im82KnJG
>>277 1584年の書状なんていくらでも経歴詐称してそうだが
今川の松下家に仕えてて、旧恩に報いるために大名にしたって話はウソか?
294 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 17:46:59.91 ID:1dmCtmCl
>>293 秀吉に乞食経験があるのは書状でわかる。
また宣教師も一時、信長に仕えるのが嫌になって織田家から逃げたことがあると記しており
この織田家から逃げた後に乞食をしていたのではないかと思われる。
そしてこの乞食経験が下々の人々の人情の機微を学ぶ良い機会になった。
信長はアスペだが、秀吉は乞食経験を通じて広い視野をもった。
295 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 17:51:48.82 ID:HGkPXWIX
やっぱ秀吉がチートか。
296 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 18:21:01.70 ID:D1UcXPf/
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
297 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 20:10:55.28 ID:D1UcXPf/
大体甲信越なんて環境ヌルヌルじゃんw
諏訪村上小笠原とまともな勢力が跋扈しない信濃に
越後に目を向ければつい2年ほど前にようやく越後統一した謙信こと長尾景虎
上野に目を向ければ北条に河越でボコボコにされて這う這うの体になった上杉憲政
こんなぬるま湯環境で10年も信濃で戦った挙句(謙信の川中島を含めれば20年近)、
ポッと出の信長に勢力を追い越されるんだから信玄はバカ
信濃は中小豪族の集まりだからな
諏訪(高遠)小笠原村上木曽が
信濃40万石を分割統治してる
神保とか姉小路クラス
298 :
人間七七四年:2013/07/27(土) 23:40:09.42 ID:vtHWIq+x
信長は尾張の1/4程度を継いだにすぎんからな
そもそも最初は津島湊しか味方じゃなくて、そこと商売する熱田湊と伊勢湊には距離置かれてたし、結構絶望的だぞ?
津島湊は長島相手に結構借金して火の車だったし
しかも序盤斎藤は仲間と言ってもすぐに敵に回るし、絶望的な状況だったわけだが
逆に信玄は甲斐は一国丸ごと穏便にゲット、優秀な金山もあれば三国同盟があって後方は大丈夫と言う恵まれた状態だったわけだけど
どっちが恵まれてるかってのは一目瞭然だわな
299 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 03:29:48.33 ID:bRvMPU+H
氏康ってチートか?
周辺を強国ばかりに囲まれてるし特にスタート時でいえば大包囲網張られてる所から
始まってるしいう程チートじゃないような。
300 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 13:33:06.90 ID:6SOkJLLD
>>298 はいはいデタラメ乙
>>尾張の1/4程度を継いだにすぎんからな
これは織田信定から信秀が継いだ領地だ。
>>最初は津島湊しか味方じゃなくて
これも信定から信秀が継いだもんで、信秀は熱田の領有を成し遂げ
信長は尾張の両経済圏を継いで経済的チートになってる。
>>津島湊は長島相手に結構借金して火の車だったし
はいはい一時史料のソースを出してねw
ついに信秀完全否定の妄言を吐き始めたキチガイwww
だいたい信濃と違って甲斐なんて冷夏・旱魃・水害などでボロボロの経済破綻国だったのにヌルヌルなわけねーだろw
それに武田は金山の直接経営などしてないし、灰吹法が普及して金の採掘効率が上がったのは天正期で信玄死去後だし。
301 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 14:25:52.19 ID:sSbNCsqq
チートなのに失敗した大名を教えて。
あと、信長チート言いたいなら、どこまで勢力拡大できたはずなのか説明してくれよ。
302 :
人間七七四年:2013/07/28(日) 14:32:56.08 ID:6SOkJLLD
303 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 04:39:49.13 ID:DoJbcXyB
武田がそんなに凄かったならどうして甲信駿程度にしか勢力を拡大できなかったのかね
信長ですら尾張の小身からスタートして畿内を包括する国内最大勢力を築いているのに
信玄は甲斐一国の国主からスタートして信濃の制圧すらやっとこさで今川の自滅に乗じて駿河を掠めただけ
勝頼はそれを継承しておきながら維持もできず滅亡したと
304 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 11:15:35.63 ID:oQaorLut
>>303 >>信長ですら尾張の小身からスタートして
はいはいすでにここからしてデタラメ捏造。
それに大仏を燃やした三好らに危機感を持ったため
畿内では義昭将軍擁立にむけてお膳立てしてもらったのが信長じゃん。
義昭を蔑ろにした途端、信玄に追い詰められてたった兵1万しか動員できないまで無力化され
自暴自棄で京で乱逆無道の賊行為を働いたのが信長。
そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
305 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 11:33:19.07 ID:oQaorLut
私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである。
306 :
人間七七四年:2013/07/29(月) 12:56:03.32 ID:6BTnTI4/
信長の周辺は弱い大名ばかりだが
信玄の周辺には実力が同等国か同盟国ばかりだった。
仕方ないから謙信方面に行くしか道がなかったよね。
307 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 06:49:06.42 ID:qpLSA4GL
武田信重(1386〜1450)なんて応仁の乱前の武田家当主でしょ
随分歴史の深い大名家なんだねー織田も北条も長尾も毛利も存在しないよ
しかも武田守護家復帰を後押ししたというのは、室町幕府の意向というじゃないか
いやー幕府に後押しされるほど手厚い保護を受けて甲斐復帰、名家中の名家ですなあ
308 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 08:29:06.13 ID:4fT4XtOA
名家とか旧幕府系勢力とか守護大名家が次々新興勢力に滅ぼされたり領土広げられてる時代に
歴史が深いとか名家とか何のアドバンテージにもならんだろ
309 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 11:19:12.41 ID:hLk578s2
甲斐は鎌倉公方や古河公方などの関東勢と将軍との権力争いの修羅場だったからな。
双方ともどもの後ろ盾を得て代理戦争してたから守護代や国人どもが暴れまわり混乱に拍車がかかった。
この管轄外へも影響力を及ぼそうとするやり方には関東管領とそれに協力する将軍側の駿河今川氏も困惑していた。
>>308 信重の跡を継いだ武田信守は5年で死亡し、(上杉禅秀の乱での武田の失敗を機会に立場を逆転した跡部氏)
実権を持つ守護代跡部駿河守明海・上野介景家親子に暗殺されたと言われている。
さらに飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生が多くなる時代へ突入した武田信昌が継ぐと穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏ら
国人層もどんどん力をつけてきて完全な甲斐戦国時代へ突入。
家督を信縄に譲った後に信昌は次男の油川信恵への家督相続を考え始めて、それぞれの国人が彼らを擁立し内乱発生し
混乱に乗じて北条早雲んぽ甲斐進攻まで招く。
東郡の栗原氏、西郡の大井氏はもはや武田氏の統制から離脱し穴山氏と離合集散を繰り返し
おまけに明応の大地震まで勃発し一揆は頻発し甲斐乱国とまで王代記に書かれる。
こんなむちゃくちゃな甲斐国を継いだのが信虎。もう国内政治内政を無視したとんでもない人だったから
甲斐国史上最大の暴君とされ、武田氏は怨嗟の泥まみれだった。だから甲斐国主の座を追放されてしまった。
310 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 11:48:19.93 ID:hLk578s2
信虎平生悪逆無道ナリ。国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ
塩山向嶽禅庵小年代記
信長文書研究で有名だった奥野高広氏の信虎評
「奉公衆が他国に逃げるような事態をひきおこすようでは、守護の地位を保つことはできないだろう」
武田研究で有名な上野晴朗氏
「天文5年以来の家臣団の離反が根にあり、義元と同盟したことで、北条氏をより強く敵に回したことで、
北条と今川の友好関係が破れた。
このような関係は武田家臣団の喜ばぬところであり、
対隣国関係の政策上で信虎と家臣団は二つに意見が割れた」
信虎のワンマン独断専行的態度に対する家臣団の不満と過酷な収奪による農民の疲弊。
これは道三や信長とも共通した性格であろう。
一方、信秀は類い稀なる器用の人と賞賛され、その才覚で人心を得た。
311 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 11:49:32.83 ID:hLk578s2
信虎は在京守護として、
ほとんど京にいて公家たちと交際したり旅行行ったりで甲斐の財を湯水のように使うわ、
甲斐にたまにしか帰らないから、甲斐国人は統制されず、やりたい放題。
越後では守護の上杉房定が在京守護を止めて越後支配に乗り出し、検地をやって守護代や国人の横領を取り締まったりしているが、
信虎にはそんな意識もなく、たまに甲斐に帰国するや戦マニアの顔を出して戦乱三昧にして甲斐を荒廃させた。
権臣重臣たちによる晴信を御輿に担いでの悪人信虎の追放(妙法寺記)
此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。余リニ悪行ヲ成サレ候間、
カヨウニメサレ候。サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。
勝山記を読めばいかに甲斐が貧しく連年の災害に苦しんでいたかわかるんだが。
それを信玄が領内開発と法治による信賞必罰で
見違えるような国にしたんだよな。
織田厨の捏造歪曲の実例
信玄の外征で破綻したので「世の中一向悪くなる」と書いてあるよなw
はい、これ自然災害が多発していた晴信初期の国情を書いている部分であり
完全に織田厨の歪曲で、その後の晴信の内政治水の努力により、毎年災害多発の甲斐から
災害記録がなくなってしまうのが史実です。
そして甲斐では妙法寺記に「世間が富貴になった、先代にはなかったことだ」と賞賛され
数百年にわたって神として尊崇された 長野在住の学者も身近で信玄を悪く言う人がいないことに驚いているくらい
本当にまあ、そうやって織田の所業を武田におしつけて印象操作すれば騙せると思う、
姑息なゴミニートの印象操作はいい加減にしとけやゴミ
武田には徳役という税制があった。
これは有徳銭とも呼ばれ、富裕層にだけ税を追加で取るもの。
これを当時は悪政と言っていたが、
これらが河川改修などの災害防止にあてられていた。
逆に北条などは富裕層である高利貸しを優遇して
借金苦で家族を質に入れて流されてるケースが多発してる。
312 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 12:37:25.22 ID:eJjwHoui
秀吉と信長はチート。
とにかく立地が良すぎ。
313 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 19:36:02.66 ID:01UGwgTN
アスペルガーだがとは?
だがの信条
嘘も言い続ければ本当になる
生息地
HOST:ntaich063200.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
愛知県安城市
これによりSubと同一人物であることが判明
レスの特徴
@織田信長や織田家を蔑むレス
A武田信玄や武田家を讃えるレス
B協調性の無い自己顕示の強いレス
Cスレを荒らすための煽り挑発が著しいレス
D「織田厨」という言葉を連呼するレス
E自作自演一人芝居しているレス
F嘘と偽りによる妄想レスでソースは一切無し
レスの戦術
かまってちゃんのため相手をしてくれる人をコピペ爆撃で燻り出し発見次第にスレ荒らしを展開
戦国板三大事件
上洛スレ64の自演自爆事件
64検証スレの歴史改変事件
歴ゲー板の創造・天道の屈辱
信野暮の武将FILEから戦国時代の知識を獲得
だがの主観により事実を捻じ曲げて覚えたため日本の教科書を排撃
平日休日関係なく24時間2chに常駐して見えない敵と永遠に戦い続ける
今日のアスペルガーだが
自演ID爆撃活動記録一覧
ID:Obs9ybc0
0時〜1時と13時〜18時
ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20130730/T2JzOXliYzA.html ID:hLk578s2
11時〜12時
http://hissi.org/read.php/sengoku/20130730/aExrNTc4czI.html
314 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:08:36.91 ID:8tPDq0Qn
>>信長ですら尾張の小身からスタートして
>はいはいすでにここからしてデタラメ捏造。
というわりに反論が美濃から始まってるのは何故なんだろう
是非尾張でのチートっぷりを解説して欲しいな
>井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定
まあツッコミ所は色々あるんだけど骨折り損になるだろうから
二回も書いてて誤字とも思えない「井の口居」城の場所だけ教えてくれると助かります
>面積
信長が戦ったのは美濃だけじゃないし信玄が戦ったのも信濃だけじゃないのに
美濃と信濃の面積を比べて論じる意味がさっぱり分からないけど深奥な意義があるのだろうな
ただ岐阜県から飛騨の分を引かないのは気になるんだけどね
>武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった
信重?百年も前の?
先代の信虎の事績をまずは検討するべきだと思うんだけど常人には理解しえぬ真理なのだろう
>ころされて死んだだけの信長
一応は子や孫が大名として存続した信長より
父祖以来の分国を全て失い子弟も流寓するしかなくなった勝頼の方が
優れていると信じるのもまあ好き好きでしょう
いろいろと斬新な知見が多くて大変勉強になります
315 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 03:18:50.16 ID:kKgg8iqz
上杉、武田が強いのって、
「あんな土地、誰も攻めない」のが理由だよな
侵攻して領土にできたとしても利益が少ない
島津にも同じことが言える
この三大名のゲームのステータスが高すぎるのは
完全にゲーム上のバランスのためであって、
史実上の能力が高いかというと全く違う
316 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 10:48:11.99 ID:VcP381dB
道三が信秀の攻勢の前に井の口居城に撤退って、
まんま信長公記に書いてるじゃん。
井の口と申すのを今度改めて岐阜と名付けとも書いてるし。
信長の嫡孫は野垂れ死んだじゃん。
嫡子系以外を持ち出したら後北条は氏規の孫の氏盛が、
後北条本家とは縁もゆかりもない河内国で狭山陣屋1万石で継続したから、
後北条は滅亡してないと見苦しく強弁することと変わらん。
なぜ織田好きは織田だけは特別扱いの例外と妄想するんだ?気持ち悪い。
317 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 11:17:30.67 ID:FFWZMqHW
そもそも岐阜城は竹中重治や斎藤利堯や織田信雄や福島正則などに
簡単に落とされているアホ城だしな。
無能だから優れた者によって下克上され殺されてしまうのは歴史的事実だが、
それによって一挙に家まで乗っ取られて滅亡させられる愚主はさらに少ない。
318 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 12:26:11.33 ID:YgHuxo+D
信長厨って信長みたいに自分が世間からどれだけ嫌われて味方と思ってる人にさえ白い目で見られてるって自覚もないんだろうね
319 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 14:05:29.52 ID:n4ljUdBH
池上裕子氏
丹波柏原2万石
上野小幡2万石
出羽天童2万石
320 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 14:48:49.93 ID:kKgg8iqz
そもそも太閤検地の石高ってあてにならんだろ
天文時代とかじゃ全然時代がずれ過ぎてるし
尾張がチートとか甲斐や信濃が貧国とか天文時代じゃどうだったかわからんだろ
信濃なんて太閤検地から慶長で大分石高増えてるし
321 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 15:52:34.97 ID:FFWZMqHW
天候不順の甲斐はもっと石高低いし、
流路まで変化したほどの洪水が起きて田畑が流された天正13年以前の尾張・美濃の石高はもっと上だったはず。
322 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 18:55:56.64 ID:ZV9KmB4v
そもそも織田秀信って嫡孫か?嫡孫と言うからには織田信忠から家督継承権を譲ってもらわないといかんのだが
織田秀信ってそんなことしてもらってるっけ?「当主になったから正統な後継者だ」と言うのなら
織田信雄も当主になってるから正統な後継者じゃね?その織田信雄を中心に家を繁栄させたのは至極普通の事だと思うけど
323 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 19:52:49.73 ID:FFWZMqHW
えっ、あいつは北畠信雄じゃんw
秀信は織田家臣団の合意を受けて当主になったんだし、
信雄はどっちかと言うと秀信から家督を簒奪した伊勢の奸臣だろ。
324 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 20:30:58.56 ID:QIZUedxZ
えっ、合意受けてるでしょ。十一月十一日付、石川伯耆守宛て秀吉書状では
「此上者惟五郎左衛門尉・池田勝三郎・我等申談、三介殿を御代に相立て」としているし
家康は同年の十二月二十二日付の書状でそれを了承している。秀吉、丹羽、池田、家康の四者が中心となって
合意を見た上での織田信雄の当主就任が行われているし、織田家臣の佐々成政も新発田重家に対して
1583年の六月十七日書状で「伊勢之国司に御すわりは、御息様(織田信雄)、上様御時不相替天下被成御存知候、」とまで書かれている。
ていうか、織田信雄が当主に就任していたからこそ、自らの都合でまた織田秀信を持ち上げようとした羽柴秀吉に
徳川家康も佐々成政も激怒して羽柴秀吉との戦争に踏み込んだわけで、それだと家康や成政がなんのために戦ったのかわからんだろ。
325 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 00:44:14.32 ID:yUZHWFaI
ぶっちゃっけ信玄の代で災害が減ったんじゃなくて、
災害記録をこと細かく付けていた勝山記の記録が信玄の代後半で終わっているため
それ以降が減ったように見えるというだけで
勝山記以外の史料による災害記録で見ていくと信玄の代の前後で増えても減ってもいないというのが事実。
326 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 00:58:12.85 ID:yUZHWFaI
>>321 >流路まで変化したほどの洪水が起きて田畑が流された
濃尾に限らず平野部はそんなのしょっちゅうだぞ。
だからこそ平野部の治水は上流よりも流量が大きいため高度な技術と財源を必要とし、
影響範囲が広いため、水に関する各豪族の利害関係を調整出来る強力な権力も必要とする、
そのため戦国時代末期から江戸時代に入るまで平野部の治水は困難だったと言われている。
327 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 09:26:54.45 ID:aopSPRHm
>>326 超デタラメw超ワロタw
誰がそんなこと言ってんだよwww
328 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 13:39:06.92 ID:4HHSArgA
329 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 22:32:50.88 ID:t31V9dTo
信長は家督継承時鳴海城を今川にとられてるのに75万石もないわな
そんなにあるなら桶狭間で1万は動員してる
防衛戦で動員が5000足らずってことは実効支配できてるのは20万石にも満たないでしょ
桶狭間合戦時における尾張の下半分はほぼ今川に分捕られていたと見ていい。
大高城も鳴海城も今川軍の手に落ちているし、知多半島の水野氏は織田の敗北だと考えたのか
桶狭間の合戦にほとんど参戦せず、逆に水野大膳が今川方として参戦している有様
かつての後ろ盾であった斎藤道三は既に死んでるし、しかも後を継いだのはその道三を継いだ義龍。
つまり斎藤家の後援なんて織田家にまず起こらないし、犬山城の織田信清も全く信長に従わず事実2年後に反乱起こしてる
まあなんにせ織田信秀の死に方が悪すぎるわな
後継者すら明示せずに死ぬとか乱世では自殺行為。
そう考えると後任の新当主に一致団結させた武田信虎や浅井久政は名君だよ。
新当主である武田信玄や浅井長政のもとで家臣が従う名分を自分で作ってあげた
330 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 15:27:54.96 ID:yVSc22/N
>>325 >>勝山記以外の史料による災害記録で見ていくと信玄の代の前後で増えても減ってもいないというのが事実。
あーぁ。。またそんな大嘘を吐いちゃってw
んじゃまぁ、勝山記以外の史料とやらをここに挙げて見ろよwwwwwww
331 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 11:13:58.28 ID:cE3iY8A5
>>324 秀信にはなんら落ち度もないのに、清洲会議の合意をガン無視して
みだりに徒党を組んで秀信の首を挿げ替え廃してるのは簒奪だろが。
しかも北畠信雄と違って織田姓に復した信孝まで殺すとなると
完全に伊勢国司北畠氏による織田家打倒の意思すら隠してない。
家康が了承wいや違う。信雄が三河の織田領を家康にプレゼントして買収しただけだ。
家康も光秀打倒の尾張へ入る時に秀信を後継にすることを宣言して尾張の人心を得ようとしてる。
佐々も同意wそれもおかしい。そもそも佐々は柴田陣営にいたので信雄支持ではない。
柴田が滅ぼされた後に、秀吉に従うのを良しとしない佐々が、
メンツにこだわり、秀吉ではなく信雄に降伏した形を取っているだけのこと。
>>自らの都合でまた織田秀信を持ち上げようとした羽柴秀吉
はっ?秀信を持ち上げようとしてねーし。
秀信を持ち上げようとしたから家康と佐々と信雄が激怒したとする動機を示す一時史料くれよ。
織田家を簒奪した伊勢国司北畠家の権威なんか秀吉にはいらねーんだよ。
332 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 11:23:20.13 ID:cE3iY8A5
家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち
三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である。
家康が信雄支持の代償として信雄が織田三河領を家康へ譲渡したのであろう。
佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。
信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで
織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
木造氏の傀儡政権信雄を持ち出す秀吉の鬼才ぶりには驚くばかり。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取って光秀の旧居城坂本城へ幽閉。
三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。
はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。
丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。
333 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 11:28:08.07 ID:cE3iY8A5
そもそも宣教師の記録によれば、織田政権の象徴である安土城と城下町を燃やして
織田の滅亡を内外に示したのは北畠信雄だからな。
どう考えても織田を滅亡させたのは北畠信雄。
334 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 11:33:50.05 ID:cE3iY8A5
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。
次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
信雄は天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し
信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。
そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。
その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄はなぜか大和衆を率いる塙を部下としているように見え
滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。
伊勢衆は信雄の統制下にはまったく置かれてない独自行動してるのがわかる。
335 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 13:19:37.06 ID:ML5Pudg0
>>331 秀信の首を挿げ替えただの言われてもその根拠となる史料を出してくれないことにはなあ
嫡系ならまだしも側室腹の息子が史料に載らないまま元服迎えるなんてザラにあることだし
そんなこと言い出したら諏訪勝頼だって本当に信玄の子かわからんもんなあ。
信玄に謀殺された諏訪寅王丸とも年が近いから入れ替えられた、なんていくらでも言える。ましてや母親が協力者になりうるし
そうかー信玄の跡を継いだのは諏訪虎王丸だったのかー道理で武田家滅亡なのに仇敵の諏訪家が協力するわけだw
336 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 13:45:44.18 ID:ML5Pudg0
>>332 非常に言いづらいのだが「引立」の「引き立てる」は意味が違うのでござる。
基本的には「力添えする」「励ます」という意味が通例で、その場合では「力添えする」と言う意味にしかなりませんわ。
それが証拠にその後に「御申候事」とある。「引立ててやる」なんて不遜な言い方をするなら、こんな丁寧に言う必要などないんですけどね
また織田領三河が家康支持の代償として渡されたというが、これも無理矢理な解釈と言わざるを得ない。
織田信雄を当主とする動きは1582年の11月から始まり、家康は最低でも11月17日付の秀吉書状で初めて知りえたわけで
1582年の10月5日に領地をやるなんて順序が逆にもほどがある。1582年の10月と言えば、ちょうど家康が北条氏政と
織田旧領である信濃甲斐を防衛すると言う大義名分で兵を出している頃合いであり、順序を考えてもこちらに対する褒賞であろう。
最も、原文が出ていない以上その史料の有無を語るのはまず1次史料の確たる証拠を出すことが先決だけどな。
木造氏の傀儡政権なんて、さらに根拠が欲しいところであるなあ。もともと木造具政は北畠家出身で
その気になれば自分が信雄ともども殺害して、北畠家当主になる資格を有しているんだがなぁ。
よそもんであるはずの織田信雄に、何を遠慮していたんだろうなあ・・・
337 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 20:58:02.59 ID:UQE0+P8N
相変わらず織田厨は嘘つきだなあ
338 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 21:55:50.91 ID:IQAK0elq
安土城を燃やした人物は
色んな諸説があるよね。
339 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 23:16:43.58 ID:/9TDMlFH!
またアスペルガーチョンことだがが嘘ついて織田秀信を勝手に殺したのかw
340 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 23:55:04.53 ID:fnCND9O3
連呼リアン織田厨また負けたのかw
341 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 07:50:21.78 ID:LMYyPTug
まあ北畠信雄は織田家臣団から三介殿のなさることだからwって馬鹿にされ、
南蛮寺が出来た時は信雄、信忠、信孝の順番で訪問するほど、
信雄が宣教師を厚遇してたのに
宣教師からは知恵が足らないと酷評され、
伊賀攻めでは信長から親子の縁を切ると言われた程の暗愚だから傀儡にするのは簡単だろうな。
信雄はどんだけ賤しくぶざまでも死にたくないって言う情けなさで戦国時代を生き残った名誉も持たない男だから。
一方、信孝は南蛮寺に行くのが最も遅い男だったが、耶蘇会から思慮あり諸人に対して礼儀礼節あり偉大な勇士だって激賞され、
天正記でも知勇は人を超えていたとまで評価されていたので、
秀吉に操られた信雄は嫉妬しまくり信孝を殺した。
信雄は暗愚だから織田家を滅ぼした後の自分は用済みになるとは夢にも考えて無かったんだろうな。
まさか強制出家させられ小姓1人だけを連れて秋田へ流罪にされるなんて。
342 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 10:45:17.57 ID:IOG3fi6T
正親町天皇
343 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 10:47:20.05 ID:/gYBOaTt
織田信雄がいなければ織田の直系が大名藩主として生き残ることもなかったしなあ
どこぞの大名の滅亡っぷりをありありと見た信雄にとっては、プライドを捨ててでも家を遺す必要があった
潔くはないけど十分な資質と人脈がなきゃできない話だろうなあ
双方なかったどこぞの家は家康に取り立てられるどころか島流しにあっちゃうし・・・
344 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 10:53:15.47 ID:IOG3fi6T
今川君もプライドを捨ててでも家を遺したのかな
345 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 11:06:29.31 ID:7DzBcqOS
織田家を残す必要があるなら、嫡流の秀信を救うか、
北畠氏による簒奪をせずに織田家に復姓していた信孝の死を免じてやればよかっただけ。
伊勢国司北畠信雄は彼らを死ぬように追い詰めただけ。
結果、秀吉によって北畠姓まで剥奪されて秋田へ流刑。
織田を滅ぼした命乞いの土下座王信雄。
大坂陣の時もひそかに逃亡するヘタレ
346 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 11:12:16.10 ID:7DzBcqOS
>>344 別に氏真は見苦しい真似はしてないし、
長篠の戦いにも後詰めで駆けつけ、牧野城主になるなど
今川家復興を志していた。
347 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 11:22:18.97 ID:7DzBcqOS
しかも羽柴信良の母は木造具政の娘で
信雄は北畠の正妻と離縁させられて、木造の娘との婚姻を強制されてんだな。
完全な傀儡。
348 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 11:40:50.88 ID:IOG3fi6T
氏真って長篠の戦いにも後詰めで駆けつけたの?
小田原包囲された北条の要請で後詰め出して謙信撤退させたり氏真すげえな。
(かなり過大解釈だがw)
349 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 11:52:47.13 ID:95VRHYF4
信長に切腹しろよ お前w ってディスられてたよな
350 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 11:56:23.78 ID:fF7QwZP8
非常に言いにくいのだが、当時の織田信雄の名乗りは「平信雄(公卿補任)」、「尾州内府」、「信雄」の名乗りで
少なくとも北畠信雄なんて名乗りはほとんど使用していないんだけどね。
そもそも、織田信雄が継いだ北畠氏は村上源氏の血を引く名門で、源氏の血を引く北畠家を継いだ人間が
「平信雄」なんて名乗りを朝廷で使うのは明らかにおかしい話。一方で、公卿補任にもあるとおり、実父の信長は「平信長」の名乗りを使っており、
朝廷や公式の場でも「信雄は誰の子供として動いていたか」と考えるのは公卿補任の記録を見れば容易にわかる話だろう。
ちなみに北畠氏正室についてであるが、これは離縁ではなく死没、あるいは信雄による北畠乗っ取りを悲観した自害であると史料には残っているね
羽柴信良(織田信良)を例に出してるけど、秀吉政権下で目下嫡男とされたのは領土まで貰っていた羽柴秀雄(織田秀雄)で
彼の母親は北畠氏なんだけども。まあ、当然知っているとは思うけどw
351 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 12:13:24.66 ID:N+gi/AGA
>>349 親子の縁を切るとは言われたが、切腹しろとは書いてないんだけどね
ちなみに信長折檻状(信長公記)の中には「第一、天下の為め。父への奉公、兄城介大切、
且つは其の方の為め、彼れ是れ、現在未来の働きたるべし。」という下りがあり
明らかに父親である自分と兄貴である信忠に忠節を尽くすために行動しろ、という文言が見て取れる
どうやら戦果の如何よりも、父親や兄貴に無断で軍を動かしたことに大層お怒りのようだ。
まあ、信長は弟を調子づかせた結果、勘十郎信勝に痛い目を見ているので、それを含んでの折檻だろう。
352 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 14:37:09.21 ID:3yV3kRzU
>>350 平信雄で公卿補任を受けているのは、
平羽柴秀吉が四国征伐に行く前に正二位内大臣を受けた時で、
その時は信雄家臣の滝川雄利が羽柴三郎兵衞と名乗っていたりと、
完全に平姓羽柴氏の一族として信雄は生きながらえてるに過ぎないよ。
信雄が平姓を名乗っていたのは信長とは全く関係ない。
平姓秀吉の意向によるもので、
この時に秀吉は信雄よりも官位が高いことを内外に示すため序列として信雄に官位を与えるように斡旋した。
まあ秀吉の慈悲だわな。
353 :
人間七七四年:2013/08/04(日) 22:36:33.18 ID:7adaJtgk
>>352 いや、それは順序が逆だ
もともと織田信長が「平信長」と名乗っていたことを受けて、羽柴秀吉は「平秀吉」と名乗っていたにすぎない
その証拠に天正13年の段階で既に秀吉は「藤原秀吉」の名乗りを使っている
織田信雄が秀吉の慈悲で官位昇進を受けたのはその通りであるが、
この当時既に秀吉は「平信長」−「平信雄」の系統を越える権力体系の維持に奔走しており
既に信長存命期を越えた人間としての行動を確かなものにしようとしている。
だから抜け殻と化した「平信長」の跡継ぎとして、秀吉は信雄にそのポジションを与えた。
自分はもうそれよりさらに上の権力体系に進んでいるからね。
354 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 00:12:07.59 ID:zLqTs6RF
>>353 お前すっげー嘘つきだな。
まず平信長と名乗ってたから平秀吉と名乗ったとか全くデタラメで意味不明。
その証拠にって何の証拠だよ?意味不明。
秀吉は天正13年3月に正2位内大臣になったがここまでが人臣としてもう限界で、
しかも公式政権を樹立しようと平姓を名乗ってみたところ結局幕府が開けなかった。
その不可能を可能に出来るのが藤原氏の養子になり関白職を手に入れ公式政権を開くことで、
これにより7月に従1位関白を手に入れた。
しかし信雄は当然、藤原姓にはできないから、
平姓羽柴と同じ同族姓の平信雄のままになってるだけ。
平信長→平信雄なんてそんな流れは全く無い。
欠員が出たらすぐ補充するというなら、天正10年の段階で後継として平信雄になってないと辻褄が合わないし、
そもそも信長本人が生前に平信雄なんて一度足りとも認めてない。
天正13年に秀吉の自慰で平信雄がぽっと湧いて出てきただけ。
355 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 00:31:24.43 ID:utLtj/8T
>>353 うーん、一つ一つ言っておくと、まず『秀吉は平姓を名乗ったけど、幕府を開けなかった」と言うのが
完全な事実誤認で、天正12年10月16日の『多聞院日記』によると「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、
兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」という下りがあり、既に朝廷は羽柴筑前に対して
四位大将の位と征夷大将軍の任官と言う破格の条件を既に提示しているのよね。ところが秀吉本人がそれを固辞し
あくまで五位少将に留まった昇進を受けるという事態が発生している。つまり秀吉は、なろうと思えば征夷大将軍になれたわけね。
この秀吉による「征夷大将軍に対する固辞」と言った態度は、いわゆる武家体制は通過点にすぎず朝廷を背景に統治するのが目的だったわけで
それは秀吉があっさり捨てた「平秀吉」から「藤原秀吉」と言う名乗りに変えたことからも明白なんだよね。
別に欠員が出たからすぐに補充するなんてことはなくて、ただ単に秀吉が求めるものにとって「平信長」すら通過点にすぎなかっただけ。
ちなみに信長存命期に平信雄の名乗りを使わないのは当然でそ、平信忠こと織田信忠が存命でそ。
356 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 01:01:32.76 ID:BTWVLMYU
秀吉は
清盛みたいになろうとしていたのかな。
357 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 08:41:05.23 ID:T9bEJVTq
>>355 都合が悪いからってその後の文章を隠蔽すんなよ。
その後に主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了トってあるだろ。
秀吉は朝廷に金品攻勢をかけて将軍になろうとしたが、
義昭が将軍なので結局、無理って話になり、
4位どころか5位にしかなれなかった。
義昭の養子になることを秀吉は拒否られているのでこの時点で秀吉は手詰まりになってる。
お前は主を無理やり秀吉と解釈する力技で文意を捻じ曲げることが不可能だと分かってたから、
該当文章を削除してレスしたのバレバレ。
多聞院日記の執筆していた人物と主人は秀吉じゃねぇよ。
358 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 12:44:49.73 ID:+JW1NWGB
まぁ将軍義昭がいる限り無理だよなぁ。義昭が将軍を辞任するのは天正16年だし。
将軍職返上を受けて、秀吉による北条討伐の風聞が流され、北条も篭城体制を構築していて
天正16年3/13の政宗書状で「関白と小田原が御弓 無事成就候」となり6月に北条氏規の上洛が約束されてる。
このように征夷大将軍になるには東夷を平定する必要があるけど
後北条がまだ統制下に入ってないから条件的にも無理。
そもそも義昭は島津や毛利と秀吉の和睦斡旋の交渉窓口をもっていたけど
北条との交渉窓口がすでになくて、東夷政策で将軍はまったく影響力を行使できなかったことが災いしての将軍辞任だしな。
359 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 13:46:18.21 ID:Rp4CfzjJ
>>357 ????????????????????
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB 主 【ヌシ】す 【主/子】しゅ 【主】おも 【主/重】あるじ 【▽主】
一家の長。主人。「旧家の―」二人称の人代名詞「あなた」 動作・行為の主体。また、ある事柄の主人公。「声の―」「うわさの―」
「主」は一人称の人代名詞を表す言葉じゃないよ?
まあ仮にあなたの言うとおり「主」が多聞院日記の作者だとしよう
「主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」=「多聞院日記の作者の望みにて五位の少将に任じられた」 意味が分からなくないか?
秀吉と朝廷の官職の話に、多聞院日記の作者が唐突に出てくるのか?
これは「主」を朝廷としても同じこと。「兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定」とあるように
「朝廷が自ら勅定で任命した将軍の官職」を「朝廷が自らの望みで五位の少将に任じられた」となる。やはり意味が分からない。
つまりここの「主」が指す人物は秀吉以外ありえない。つかこの記述滅茶苦茶有名だから知ってると思った
360 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 14:08:23.97 ID:FxUElWiQ
>>356 それはなんとも言えんなあ。
当時の足利将軍がいずれも非業な運命になったことを肌で体感してたとか
将軍になるのは織田家を越える権力になるからこの段階では避けたとか
いろいろ言われてるけどどれも決定打にはならない。つまりわからない。
>>358 征夷大将軍と東夷の平定との関係なんてほとんど関係性が見れないからなあ
逆にその相関関係を表す史料を提示してくれないかなあ?
俺の記憶ではまず初代の坂上田村麻呂すら東夷平定前に任命されていたはずだがなあ
361 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 14:38:51.04 ID:FxUElWiQ
最後に言っておくと、俺はちゃんと
>>355で
「既に朝廷は羽柴筑前に対して四位大将の位と征夷大将軍の任官と言う破格の条件を既に提示しているのよね。
ところが秀吉本人がそれを固辞し、あくまで五位少将に留まった昇進を受けるという事態が発生している。」と言ってるんだけどね
これが「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、
兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」の訳文として明示しているだけで
隠蔽したわけでも捏造したわけでもない。ちゃんと他人のレスは読んでくれよな
362 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 17:27:03.16 ID:+JW1NWGB
有名もなにもシリーズものの「天下統一から鎖国」へって言う
広範囲の歴史を大雑把に書いた
中高生向けの本の人がそう書いてるだけでしょ。
この場合、多聞院の作者にとっての主の意見を朝廷が容れたということで、
朝廷が最初から将軍職を与えるともりがなかったのを表してるだけ。
そもそもそんなに速く高い位階と官職が与えられることはありえず、
待ちが必要なのは秀吉も知っているので、秀吉も了解してるわけで、だからまったく問題にならなかった。
頼朝も家康も実質、日本の最大権力者になっていても将軍職になるまで時間がかかり、それを待つ形になってる。
たとえば頼朝は7年、家康は関が原より3年。
そうそう簡単に将軍職にはなれない。ましてや将軍義昭がいる以上、無理。
朝廷が秀吉に将軍職を与えるつもりが本心からあるなら
足利尊氏の将軍職を無効にした時と同様に義昭から将軍職を取り上げているはずで
その様式を踏まずにやると将軍が二人並び立つ異常事態になるのもわからんのか?
363 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 17:47:35.67 ID:4DWMNPW8
朝廷が征夷大将軍を秀吉に任官して秀吉が固辞したとか堀の本に書かれてるが明らかにおかしい解釈
まずそんな大事件を、秀吉自身の喧伝とか、あるいは他の史料(言継卿記、兼見卿記、宇野主水日記、顕如日記、御湯殿之上日記、天正記
フロイスの日本史など)で取り上げられないはずはないし、主=秀吉とすると、征夷大将軍になれたはずの秀吉が、
正親町親王の即位問題による偶然の関白即位が当時全く予測できない状態で、朝廷への献品やら御所の増設など朝廷へ接近しまくってた秀吉が
かなりの見返りとして狙っていた官位や公職を断るとかわけのわからん事になるし、
大体堀とか一部の学者を除いて池上裕子も小和田も立花京子もこの多聞院のこの記事に関して
主=秀吉で、秀吉が任官を断ったなどというトンデモ解釈は全くしてない
364 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 19:00:36.18 ID:Jya3FkO4
>>362 頼朝や家康とは時代背景が全く違うからなあ
末期の足利将軍家なんて将軍の足利義材がいるにもかかわらず足利義澄が将軍になって
その足利義澄をまた足利義稙(義材)が追い散らして将軍職に就任するなど滅茶苦茶
足利義輝を殺害した三好氏らの擁する足利義栄も、あわや将軍職というところまでいったし
当時の朝廷にしてみれば将軍が2人いるなんてこと大した苦でもないだろう。後々義昭の将軍職を無効にしてもいいし。
朝廷が秀吉に将軍職を与えるつもりが本心からなかったなら、わざわざ条件に提示する必要がないわけで、
本気で秀吉が将軍職を欲していた時のことも当然考えている。あと「多聞院の作者にとっての主の意見を朝廷が容れたということで、」と
独特の解釈をしているようだが是非聞きたい。「多聞院の作者にとっての主」って誰?朝廷の官位交渉にケチをつけるんだから、さぞや名のある人物なんだよね?
365 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 19:09:17.02 ID:VB84fIkU
多聞院日記の著者(英俊)の主は将軍か朝廷か
朝廷だと意味が通らないのは既述
つまり将軍のことをさしてるとでもいうのか?
具体的に誰のことだと思うんだ?
わかってるならはっきりいえばよかろうもん
366 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 19:12:00.25 ID:3dMQPjmg
>>363 秀吉にとっては大した事件じゃなかったんでしょ。別に将軍じゃなくても統治することくらいできるし。
関白即位は完全なる偶然だったと思うけど、これまた別に関白じゃなくても統治することはできる。
後年秀吉は太政大臣に任命されてるけど、それこそ秀吉が目指してたものじゃないかね。
関白任官記にも「古姓を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし」「われ天下を保ち末代に名あり。ただ新たに別姓を定め濫觴たるべし」
と自信満々に自分の価値を売り込むことにかけている記述が見れるし。
367 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 19:26:56.29 ID:npv5/W6X
多聞院よりも朝廷内の出来事を事細かく書いてると思われる御湯殿之上日記をはじめ
他の公家日記にも全くそんな記事は見られないし
フロイスの日本史とか天正日記とか他の史料にも全く見られないし
多聞院のその記事は信憑性として大いに疑問符がつくと思うがな
秀吉にとって大した事件じゃないわけないし、それより何より朝廷とか公家からしたら一大ニュースのはずなのに全くといって
触れてる様子もないし
368 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:05:10.01 ID:VB84fIkU
朝廷内の動きだけなら、任官の舞台裏までかいてなくてもそりゃそうだろ
フロイスは知る立場にねえ
天正日記に至っては・・・名前だけで出してきただろwwww
取り敢えず英俊の主とやらをはっきりさせろや
今更逃げるなよ
369 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:13:58.25 ID:i4wSW/8o
朝廷内の動きというのは公家にとっては大事。まして征夷大将軍を秀吉に勧めたとあったら
そんな一大事書かれないわけがない。
フロイスの日本史は秀吉に有利な記事なら例え捏造でも乗ってるような代物。小牧長久手関連の記事とか見ればわかる。
何よりこれを史実として扱ってるのはまだ堀とか一部の学者だけで池上も立花も小和田も全く相手にしてない。
370 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:30:33.34 ID:RqZ9qQFI
学者の名前を出すのはいいんだけど、小和田はともかくとして池上と立花ってロクな著書ないからなあ
特に立花京子は本能寺の変をイエズス会の陰謀だとして学者から否定意見を噴出させた過去があるし
あと「多聞院の作者にとっての主」って結局誰なの?
>>367 秀吉が朝廷の勅定を一部を固辞し、その望みを受けて五位の少将に昇進したというのが本文だからなあ。
秀吉が将軍職を蹴ったというだけならまだしも、他の官位に任じられただけでしかないし、そちらの方が注目度高いのは当然だわな。
「五位少将の位に任じられた」ことすら書いてない、というのならまた話が違うだろうが、はてそんな史料はあったかな・・・
371 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:41:12.26 ID:o1PYaySD
小和田よりも立花や池上のがロクな著書ないとか相当頭イってるな
将軍職を朝廷が勧めた事、またそれを秀吉が蹴った事、いずれも大事件だし
他の史料に記載がされないわけないでしょ。でも言継卿記も兼見卿記も御湯殿之上日記にも
他の公家日記にも全くそんな記事は見られないしフロイスの日本史とか天正日記とか他の史料にも全く見られないし
秀吉自身もそんな事全く言ってない。多聞院だけじゃ全く信用できん。京の公家日記は長篠の記事とか、天正5年に河内に信長が15万兵をかき集めたとか
他の史料との符号が見られず誤った情報が伝わったりしてるし、それだけ一大事件を他の史料に書いてないわけがないんだから。
372 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:43:17.18 ID:4DWMNPW8
別に立花や小和田や池上だけに限らん。他の歴史学者も史料も全く多聞院のその記事なんてまるきり相手にしてないじゃん
373 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:47:37.42 ID:xUV3tRY0
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも多聞院のその記事なんて全く相手にしてない。
堀以外でその記事を史実のように書いてたり
多聞院以外で征夷大将軍の進めの記事を書いてる資料があるなら出して欲しいもんだな
374 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:49:32.36 ID:npv5/W6X
ろくな著書がなくほとんど妄想と主観で書き連ねているのは堀の方なのに
池上や立花をアホ学者扱いとか相当馬鹿だな
堀の糞史観に毒され過ぎだろ
375 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:50:58.98 ID:duBD7i75!
9 :人間七七四年:2013/02/18(月) 09:57:34.76 ID:EOY3ATIq
この史料は捏造
記述は俺が知らないから捏造
やっぱり織田厨は捏造だらけ
アスペルガーだがのパターン入りましたーwwwwww
376 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:55:29.82 ID:i4wSW/8o
まずその記事の主が秀吉であるという根拠
その日の征夷大将軍推認を書いてある他の史料
多聞院日記のその記事を史実と解釈している堀以外の学者とその論拠
これらを示さないと話にならない
377 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 20:59:56.13 ID:znUpVYfy
学者を批判したのは謝るが、しかし非常に残念だね
史料から歴史を解読するのが好きなのか、それとも学者の意見に寄り添うのが好きなのか
堀新一がよほど好きなようだけど、あいにく、その人の著書?から得たわけではないから、
その人を否定したところで何も帰ってこないんだけどなあ・・・まあ多聞院日記の1584年10月16日付にある
「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」の記述は
嘘偽りなく、ちゃんと記述があるから、最低でも「秀吉は将軍職になれなかった」というのは否定されうる事実だねぇ。
もともと、林羅山の与太話しか確たる証拠がなかったもんなあ・・・
378 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 21:00:00.98 ID:o1PYaySD
多聞院にだけある記事を史実扱いするなら長篠の武田軍の被害は1000で確定しちゃうからなぁ
379 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 21:04:48.10 ID:4DWMNPW8
信長も多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかる。しかし兼見卿記には10万余とか書いていてかなりいい加減。
京の公家日記はデタラメ大半とは言わんが、征夷大将軍推認のような大きな出来事が、
他の史料の記事に全くないというのはまずありえないよ
380 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 21:09:38.69 ID:hsyPHBAM!
アスペルガーだが敗北の軌跡
だが(
>>304 )「織田信長は親の功績を台無しにしたクズwwwwww」→
>>314であっさり反論される
だが(
>>317 )「織田家はあっさり滅亡した、信長は愚主」→
>>324であっさり反論される
だが(
>>332 )「北畠信雄は誰からも認定されず織田となんの関係もないww織田を滅ぼした奸臣」→
>>336であっさり反論される
だが(
>>334 )「北畠信雄は木造の傀儡wこんな奴に乗っ取られた北畠に織田は滅ぼされたw」→
>>350であっさり反論される
だが(
>>352 )「北畠信雄は羽柴秀吉の自慰行為で恩恵を受けただけw織田とは関係ないwww」→
>>353であっさり反論される
だが(
>>354 )「秀吉は幕府を開けないwww義昭に養子にしてもらえなかったカスwww」→
>>355であっさり反論される
だが(
>>367 )「多聞院日記の記述は俺が知らないから捏造wwwwそんな捏造擁護する学者もカスwww」New!
381 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 21:19:47.62 ID:i4wSW/8o
382 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 21:20:24.44 ID:VB84fIkU
そして376で悪魔の証明
自前の主張の補足ができないどころか、詭弁強弁で逃げる
控えめに言ってクズだね
383 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 21:21:41.44 ID:VB84fIkU
しれで論破ねえw
それはいいから多聞院日記の著者の主がだれなのかいい加減はっきりいえよ
384 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 21:28:13.47 ID:YKOMdhV3
>>376 多少荒れ模様のようだけど、1つ1つ説明していく
・その記事の主が秀吉であるという根拠
これは基本的に主=秀吉しかないと思われる。「主」には行動主体を表す意味があるし、
そもそもこの文脈には秀吉以外の登場人物が登場していない(四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、と言う形で朝廷は出ているが)
よって秀吉以外の人物が出てくるなら名前を出す。日本語の問題。書き手の「英俊」に主君はいない。
・その日の征夷大将軍推認を書いてある他の史料
これは逆説的に証明した。そもそもこの議題の焦点は
>>354の「秀吉は幕府を開けない」という根拠に対する反証として述べている。
秀吉が幕府を開けない要因として、将軍義昭の存在を
>>357でも出ているが、こちらは足利義材、足利義澄の例を出し、
将軍が2人いても当時としては問題のない状態であったことを述べた。そして皮肉にも
>>362にもあるように
護良親王や足利尊氏など、将軍職を解任された人物の事例もあって、逆に「足利義昭の将軍職解任」という道を示している。つまり「秀吉は幕府を開ける」となる
・多聞院日記のその記事を史実と解釈している堀以外の学者とその論拠
あまり学者の名前には興味がないので、残念ながら堀新一くらいの名前しか知らない。というか堀も今知った。
385 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 22:08:19.33 ID:4DWMNPW8
>>これは基本的に主=秀吉しかないと思われる。「主」には行動主体を表す意味があるし
主にはいくつか意味があるが、人や物の所有者、または領有・支配する者という意味がある
この場合、官位の所有者である足利義昭か、あるいは朝廷内で官位を任官したりできる立場にある別の人物と解釈できるな。
何にせ秀吉という確たる論拠がないため、確定できない
>>これは逆説的に証明した、「秀吉は幕府を開けない」という根拠に対する反証
その前提となる論拠(朝廷からの秀吉への将軍職推認)が多聞院以外に書いてないから反証にならないって言ってるんだが。
将軍職を朝廷が勧めた事、またそれを秀吉が蹴った事、いずれも大事件だし他の史料に記載がされないわけないでしょ。でも言継卿記も兼見卿記も御湯殿之上日記にも
他の公家日記にも全くそんな記事は見られないしフロイスの日本史とか天正日記とか他の史料にも全く見られないし
秀吉自身もそんな事全く言ってない。多聞院だけじゃ全く信用できん。京の公家日記は長篠の記事とか、天正5年2/13に河内に信長が15万兵をかき集めたとか(兼見卿記には10万余とか書いてる)
他の史料との符号が見られず誤った情報が伝わったりしてるし、多聞院にだけある記事を史実扱いするなら長篠の武田軍の被害は1000で確定しちゃうからなぁ それだけ一大事件を他の史料に書いてないわけがないんだから。
>>あまり学者の名前には興味がないので、残念ながら堀新一くらいの名前しか知らない。というか堀も今知った
あんたのするレスの内容が、堀の「消された秀吉の真実」や「偽りの秀吉像を覆す」の記述と余りにも酷似してるどころか、丸写ししているような文章だったので。
386 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 22:09:26.64 ID:2Ys5rxNt
執筆している多聞院にとって主君ではなく、主なのだから、
師匠みたいな存在だから僧籍の政治顧問でしょ。
多聞院が明言してないから誰かまで確定できないが、そうとしか解釈できんでしょ。
おそらく醍醐寺の義演あたりのことだと思うが。
387 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 23:30:03.74 ID:XCIuE/kF
・この場合、官位の所有者である足利義昭か、あるいは朝廷内で官位を任官したりできる立場にある別の人物と解釈できるな。
もう一度本文を読み返してほしい「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」
ここで気になるのが「被成之旨雖有勅定」にある『勅定』の文字。勅定は説明すると天皇・天子による自ら定めた命令であるということだ。
その「勅定」を変更させた「主」と言う人物の望みによって、「五位ノ少将」に任じた、というのが本文である。よって朝廷の任官者ではない。朝廷の「主」は天皇である。
また、そもそも官位の保有者は「天皇」であって、任命されているだけにすぎない(その証拠に解任事例もある)。よって足利義昭が「征夷大将軍の保有者」であると言うのも適確ではない。
ならば官位の主、朝廷の主である「天皇」が出てきそうだが、「勅定」の文字もあり天皇も否定される。そのため主は代名詞で「秀吉」を指す意味しかいないというわけである。
・その前提となる論拠(朝廷からの秀吉への将軍職推認)が多聞院以外に書いてないから反証にならないって言ってるんだが。
それは逆に言えば前提がそもそも異なる。簡単に言うと多聞院日記の例の記述は「秀吉が将軍職要請を受けたかどうか?」が議題であって、
>>354の議題である「秀吉が将軍職に就任できるかどうか?」の一部分、一例でしかない。つまり、仮にもし多聞院日記の
「今度於京都(中略)少将ニ任了ト」が万が一真っ赤なウソだったとしても、それはあくまで「秀吉が将軍職要請を受けたかどうか?」が否定されるだけに過ぎない。
(尤も、この下りを根拠もなしに嘘だと断定する気は全くないけどね)。足利義材と足利義澄の例や、護良親王や足利尊氏の例から、将軍複数や将軍解任がありうるわけで、
その時点で「秀吉の将軍職就任、幕府開府」は「ありうる」となる。というか、ずっと言ってるけど「秀吉が幕府開けない」って林羅山の与太話が元だよね?信頼できる史料とかにある?
388 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 23:33:51.36 ID:XCIuE/kF
つまるところ、「秀吉が幕府を開けない」と明示するためには
・征夷大将軍に秀吉が就任できないという論拠と史料
・征夷大将軍であると思われる、足利義昭を解任できないという論拠と史料
・上述2点の征夷大将軍についてを、きちっと明記している学者とその記述
が欲しいね
389 :
人間七七四年:2013/08/05(月) 23:36:06.28 ID:BTWVLMYU
秀吉がチートなんだろ。
390 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 00:23:41.40 ID:WvUcqZ2Z
朝廷の任官者が天皇といってもそれは任命が天皇の名においてなされるというだけであって、
実際に口ききを行ったり、朝廷への働きかけを行ったりする人物は公家衆とか公方とか
他にいるんでしょ。その証拠に、朝廷への働きかけは直接的に天皇に対して行われず公家衆に対して信長も秀吉も行ってるし
それにその官位についている間は、その人物がその官位の保有者であるといえるだろ(勿論朝廷から官位を剥奪されたりする事もあるだろうが)
何にせ、その主という言葉は、人や物の所有者、または領有・支配する者という意味があるが、官位を任じられている足利義昭を指すか、
秀吉を指すか、朝廷内での官位の任官に絶大な権力を持つ人物
(任命を行う天皇ではなくて、天皇の意思決定に絶大な影響を及ぼす実質的な朝廷内の実力者)とみるか、明瞭ではない。
391 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 00:36:51.16 ID:urp249DK
>>390 いや、朝廷の公家とかに斡旋を働きかけることはあっても、その公家が勝手に官位を
任命することはできないので、あくまで全ての決定権は天皇にある。だから
「天皇の意思決定に重大な影響力を及ぼす公家」などは、いてもせいぜい上皇や摂政くらい。
この時代、上皇はいないし摂政に任命された人物もいないのでやっぱり当てはまる公家はいない。
官位の保有者については、もっとありえないことで、仮に官位に任命された者が「その官位を保有している」となれば、
官位に任命された人間が好き勝手に扱えることになる。保有、所有とは「自分のものとしている」と言う意味だからね。
だから誰に許可を得るでもなく征夷大将軍の官位を適当に譲ったり、あるいは何かの官位を死後まで持っていくとかできてしまう。
そんな事例は流石に日本では存在しない。
392 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 00:37:17.85 ID:urp249DK
上皇は公家ではないね、皇族や公家に訂正で
393 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 02:04:56.23 ID:Rsnult1z
>>386 義演は義昭の猶子になってるし、
当然、将軍義昭擁護だし、
大僧正にして准三后だから天皇に対しても発言力を有してるからありえる話だね!
394 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 06:44:41.40 ID:7QCGEFVL
義演と足利義昭ってそんな深い関係あったかね?
猶子になったのは確かだけど足利義昭が京から追い払われた時にいけしゃあしゃあと京に留まって
醍醐寺の座主に居座ってたような・・・あと准三后になったのは1年後だからこの時点ではなってないよ。
どっちにせよ認定皇族が天皇の権力に口出しできるほど当時の朝廷は杜撰な機構じゃないけどね。
395 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 09:16:45.49 ID:PLSNl9hO
>>391 秀吉は甥の秀次を関白にしたりしてるじゃん
天皇の意思決定といっても天皇からいったら誰が関白になろうが将軍になろうがどうでもいいわけで、
その意思決定は内裏にいる人物とか、別の人間の働きかけで成り立ってるんだろ。
大名衆が直接天皇に会ってああだこうだいえるわけないんだし、大名→内裏のほかの人間→天皇と
間に挟んで天皇の意思決定(誰をどの官位につかせるか)をやってるだけでしょ。だったら官位の保有者とは足利義昭とも解釈できるし、
あるいは実質的に官位を動かしたりできる内裏の者とも解釈できるな
396 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 10:07:36.62 ID:eTk9SWps
多聞院の主人が秀吉とかありえねぇよw
397 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 11:38:34.02 ID:Tzjzqmpf
> 「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」
この文章からだけだと「主」は秀吉の「主」と解釈するのが普通じゃない?
秀吉が多聞院の主だったら秀吉のこと「羽柴筑前」なんて書かないと思う。
この記事の信憑性はともかく多聞院の認識では、
天皇は秀吉に四位大将兼将軍に任じようと勅を出したが、(秀吉の)主の思惑で五位少将に任じられるに留まった
ってところなんじゃないの?
398 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 12:50:01.98 ID:zJMtxEKk
主って主流って意味だろ。
朝廷を主導した意見って意味の衆望が、
この場合の主ノ望で、
要は公家や寺僧らの衆意であり、
秀吉の望みなんておかしな解釈はあり得ない。
そもそも秀吉は早く官位を欲しかったわけで遠慮するわけが無い。
399 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 16:08:02.31 ID:POzSKnfy
将軍の取り消しと任命は朝廷で判断することで
天皇は異論があっても抗議することしかできない。
義材を廃する明応の政変
自分が任命した将軍の廃立に怒った後土御門天皇は一時は抗議のため退位を表明し、
その後も政変を承認しなかった。このため『公卿補任』では、
義材から義澄への将軍交代は後土御門天皇の死後に行われたことになっている。
つまり主というのは朝廷のこと。主ノ望とは公家衆の意見。
400 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:20:03.44 ID:3q6vbD6+
>>395 いや、その理屈は全く当てはまらない。これは将軍職にも言えることだが形式上は代々踏襲の形を取っていても、
実際には全て朝廷や天皇の認証ありきで成り立っているので、やはり官位の所有者は天皇と言える。
それが顕著にわかる例を出そう。豊臣秀吉の後で豊臣秀次が関白に就任したが、秀次は秀吉の手で自害させられたよね?
ところがこの関白秀次の死後、関白は秀吉の手に渡らず空位のまま秀吉の死後まで過ごしている。もし「関白職が秀吉の所有」で
文字通り「秀吉が好き勝手できる」としたら、関白職は秀吉自身が再び継承するか、あるいは息子の秀頼に即継がせているよね?
秀吉が死んだ後は、九条兼孝が関白職に復帰し、その後は近衛信尹が関白職に任命され、ついに秀頼の死後まで秀頼が関白になることはなかった。
あくまで関白職が「秀吉」のものではなく「天皇」のものであるという顕著な例だと思われるけどね。だから「秀吉の主」とはせいぜい天皇、上皇、摂政くらいしか
存在せず、天皇は「勅定」で否定され、上皇も摂政も当時にはいないので不適となる。よってこれは秀吉のこととなる。
公家衆や僧衆と言う場合はまず名前を出すようにね。「主」に複数集団の意味はない。TOPだけだから。
401 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:27:07.49 ID:POzSKnfy
バッカw関白職は原則、藤原姓の所有だw
402 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:36:42.56 ID:3q6vbD6+
>>399 でも残念だけど今回は「勅定」の文字が使われているので
「公家衆が承認していない」というのはありえないんだ。勅定の発布には公家衆も絡むからね。
ちなみに細川政元の政権奪還を朝廷が容認した理由は細川氏の資金力をアテにしたもので
莫大な資金力を持つ羽柴秀吉と所詮他大名頼りの資金力しかない足利義昭ではむしろ秀吉優位になってしまいそうなもの。
資金力や支配力の強い人物を、しかるべき地位に認証したいという朝廷の思惑があるという根拠になってしまい、
必然秀吉に対する将軍職要請もありうるものとなってしまうのだけれど・・・
403 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:42:26.11 ID:3q6vbD6+
>>401 いやそれも天皇が決めてるだけで藤原氏の所有物というわけじゃないよ
だったら関白職の「空位」はどう説明するんだね?誰かの所有物なら、必ず誰かが就任しているよ?
「空位」の状態が発生すること自体、個人の所有だとするとありえないわけで、
それがありえるのは、決める「天皇」の所有物ということだけで
404 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:49:25.68 ID:sRrbOC7D
大名はチートじゃなくて
帝がチートなんかな。
405 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 17:57:25.41 ID:POzSKnfy
安土桃山時代に関白空位の時期なんてねぇよアホw
そもそも後花園天皇時代には関白いなくても、その代わり摂政がいたしな。
406 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 18:15:43.33 ID:UWAXVq66
>>405 安土桃山時代でも豊臣秀次が死んでから九条兼孝が関白に復帰するまで普通に空位ですけど・・・
407 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 18:18:15.29 ID:POzSKnfy
>>朝廷が容認した理由は細川氏の資金力をアテにしたもので
はいはいデタラメばっかだなお前。
後土御門天皇は抗議の意味で退位する時に
譲位費用を細川から借りるということがメンツの問題として生じたからだ。
408 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 18:32:27.38 ID:POzSKnfy
>>406 はっ?後陽成天皇が親政してただけだがw
親政してたら関白いらねーんだけどw
それを指して空位?必要性ないのに?
実際、藤氏長者から豊氏長者えの流れの中で
秀頼の成長を待っていただけだけどな。
409 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 19:09:54.61 ID:1IGU4nVI
>>407 えっ、それって「譲位にかかる費用を、他の連中が出せなかった」ってことでしょ?
じゃあやっぱり細川の資金力の問題じゃん。他の連中がさっさと金出せば譲位したんだから。
あとどうでもいいけどそれWikiの丸写しだよね?
>>408 だから天皇の意思で「自ら親政するぞ」となったら関白は不要ってことだよね?
それって天皇如何で関白の有無を決められるんだからやっぱり天皇が所有してんじゃん・・・
410 :
人間七七四年:2013/08/06(火) 23:59:00.00 ID:oAhjxrny
んで、多聞院日記に著者の主って主張はもうないのね?
案だけ自信満々で言ってたのに
主が天皇では可笑しいってことはほぼいろんないみたいだけど
秀吉か将軍か名前も出てこない公家かってところか
まあ将軍もねえわな、任命権者がその職につく?ってきいてるんだから
名前も出てこない、出せない公家か秀吉か
411 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 00:25:51.09 ID:LOlt9NiD
普通に足利義昭はありうるだろ
将軍職を保有している立場なんだから、それを譲るのを嫌がっててもおかしくないだろ
412 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 06:56:21.90 ID:KDyoU9iW
>>411 なぜ、「主」と記したの?
日記中、他の箇所で義昭を「主」として記してる?
文脈から「主」は「秀吉の主、主筋」ととるのが一番自然。
じゃあ、その「主」の具体名は誰か?ってことになるんだが、信雄辺りになるんじゃないかと思う。
ただし、この時期、秀吉は信雄・家康連合軍と争ってるんで、何らかの思惑があってこのような自体になった可能性も無いわけはないがちょっと考えづらい。
結論としてはこの記事は、信憑性の薄い伝聞をものしたものに過ぎない可能性が高いと愚考する。
413 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 06:57:42.28 ID:KDyoU9iW
あ、義昭は多聞院の「主」ではなく秀吉の「主」という意味で使われてる可能性もなくはないか。
414 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 08:11:22.94 ID:nhOAVnpP
> 「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、
兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」
「秀吉に四位の大将と将軍職を兼ねよとの勅を下されたが、
下された主体(=秀吉本人)が望んで五位の少将を受けた」
天皇以外が勅定を破棄できる事は無いので
これが自然かな
415 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 10:29:46.87 ID:c4lDYbeo
416 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 10:36:09.10 ID:QOI18/NT
斬新も糞もその官位に任じられているんだからその間は任じられてる義昭が保有者でいいだろ
417 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 12:33:40.10 ID:WVNwzxQ4
418 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 13:28:35.66 ID:VQybgFiM
対家康政策も視野に入れての朝廷序列官位だから、
欲しくて仕方がない秀吉が遠慮するわけないわ。
419 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 13:55:11.61 ID:wpN7M4vA
将軍職を朝廷が勧めた事、またそれを秀吉が蹴った事、いずれも大事件だし他の史料に記載がされないわけないでしょ。でも言継卿記も兼見卿記も御湯殿之上日記にも
他の公家日記にも全くそんな記事は見られないしフロイスの日本史とか天正日記とか他の史料にも全く見られないし
秀吉自身もそんな事全く言ってない。多聞院だけじゃ全く信用できん。京の公家日記は長篠の記事とか、天正5年2/13に河内に信長が15万兵をかき集めたとか(兼見卿記には10万余とか書いてる)
他の史料との符号が見られず誤った情報が伝わったりしてるし、多聞院にだけある記事を史実扱いするなら長篠の武田軍の被害は1000で確定しちゃうからなぁ それだけ一大事件を他の史料に書いてないわけがないんだから。
420 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 19:43:07.89 ID:LcsbPe2A
足利義昭 →将軍職は任命された人のものではない、天皇の官位交渉にケチつける立場にない
朝廷有力者→天皇に勝る影響力を持つのは上皇、摂政のみ。両方とも当時は不在
公家衆僧衆→「主」はあくまで頂点を指す言葉であり複数集団の意味はない
醍醐寺義演→大僧正では天皇に対してあまりに格不足。准三后になるのはこの翌年。当時20代の若造
天皇本人 →「勅定」を出しているのは天皇本人、よって「主」≠天皇。天皇の自作自演になる
この史料は嘘→
>>388を証明する題材がないので、
>>354は完全なる誤り
もう諦めロン
421 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 19:58:25.63 ID:fIrL5oOv
まず主(あるじ、主流、所有者)に秀吉を指す語句的意味がないし
秀吉とか珍解釈してるのはアホ堀くらいで他の学者も全く見向きもしてないし
他の公家日記とか史料類にも全く出てこない
よって主は秀吉以外の誰かで確定
422 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 19:58:26.06 ID:3a+d9Wvb
主ノ望ってことは主流の望みだから、
公家衆大半の人達の意見ってことだろ。
423 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 20:01:52.58 ID:QOI18/NT
主なって意味の主でいいだろ
これなら主な望み、ようは多くの人の意見や考えでって事で問題ない。
天皇からすりゃ誰が将軍になろうがどうでもいいし天皇にああだこうだいって謁見できる立場の
実質的な朝廷内の官位を動かせる公家や他の朝廷有力者って事だろ
424 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 20:09:55.82 ID:rgBXe1wj
秀吉がチートで決まりました。
425 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 20:24:17.82 ID:LcsbPe2A
>>421 http://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB 主[名]
1 その社会・集団などを支配・統率する人。あるじ。「一国の―」「世帯―」
2 所有者。持ち主。「地―」
3 動作・行為の主体。また、ある事柄の主人公。「声の―」「うわさの―」
3 動作・行為の主体。また、ある事柄の主人公。「声の―」「うわさの―」
3 動作・行為の主体。また、ある事柄の主人公。「声の―」「うわさの―」
426 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 20:37:34.94 ID:wpN7M4vA
で、秀吉は1〜3どれにもあてはまらないから明らかに主の人物は別人を指すと。
427 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 20:50:01.25 ID:ZxZQ+Bk/
>>426 「正しい日本語講座」じゃないんだよw
「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」
「羽柴筑前ハ」が主語、よって行動主体は「羽柴筑前」こと秀吉。
この説明に「従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、」という記述が入る。
だから行動主体としては秀吉以外の人物がいない。悪あがきしているようだからはっきり言うけど
ここで「秀吉じゃない」と言うのは外国人くらいだよ?w何人とはあえて言わないけどww
428 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 21:04:03.27 ID:KDyoU9iW
>>427 いや、行動主体は秀吉なのは間違いないよ。
ただ、勅を断ってそれより下位の位階を受けたのは秀吉が「主」の望みを受けたから。
秀吉が天皇以外の「主」に遠慮したか、不快の念を抱かれたかは不明だけど。
そういう文章になっている。
429 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 23:53:42.38 ID:2vbNXlKn
秀吉の主なら筑前ガ主
将軍義昭を指すなら大樹、武家
天皇ならやんごとなきかただっけか
いずれにしても、主と不遜極まりない書き方はしない
実際天皇の考えをえいりょと表現してる
だから見られることはないから自由に書いたといういいわけはつうじない
公家なら中納言とか官位で呼ぶ
いずれもしていないということは、勅を受けた主、つまり秀吉のこと
430 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 00:26:16.69 ID:BrVIRXXn
もし秀吉の事を指してるなら羽築とか秀吉とか他の書き方で書かれてる
主を秀吉の代名詞として使ってる他の文章はない
あと主が不遜きわまりない言い方なんてルールはない
むしろ主人とか所有者の事なら尊敬語に当たる
431 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 00:50:06.60 ID:BrVIRXXn
>>427 常識的に考えて動作の主体が秀吉なわけないじゃん
この文章は秀吉はただ単に叡慮に従い四位の大将に任じられただけで動作の客体、目的語にすぎない
ハというのは目的格の意味でも使うからね
秀吉はただ任じられるだけ。任じる主体は何かといったら朝廷であり天皇。勅定と書かれているので、天皇が主語であり
主体。だから主は主体を現す人物では意味的におかしいので他の人間(朝廷のほかの人間や公家衆)などを現しているだけ。
任了とか任とか書かれてるのに秀吉が主格とかアホかと。秀吉が自分自身を官位に任じるってか? w
こんな当たり前の事もわからんで曲解する馬鹿はお前くらいだよ。
432 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 01:35:23.74 ID:BrVIRXXn
>>400 >>いや、その理屈は全く当てはまらない。これは将軍職にも言えることだが形式上は代々踏襲の形を取っていても、
>>実際には全て朝廷や天皇の認証ありきで成り立っているので、やはり官位の所有者は天皇と言える。
認証する事と、その官位を実質的に動かしている事とは全く違う
認証しようが、しまいが、天皇からしたら直接大名とコンタクト取るわけでもないし
誰が将軍になろうが、自分からすりゃわかったもんじゃないわけ。間にいる人物が実質的に官位を動かしているといえる。
>>それが顕著にわかる例を出そう。豊臣秀吉の後で豊臣秀次が関白に就任したが、秀次は秀吉の手で自害させられたよね?
>>ところがこの関白秀次の死後、関白は秀吉の手に渡らず空位のまま秀吉の死後まで過ごしている。もし「関白職が秀吉の所有」で
>>文字通り「秀吉が好き勝手できる」としたら、関白職は秀吉自身が再び継承するか、あるいは息子の秀頼に即継がせているよね?
当たり前だろアホw
官位を執行してるのは朝廷であり、朝廷が秀吉の意向を受けて秀次を関白にし、その間は秀次が関白で、その官位の所有者。
死んだら官位を執行してる元である朝廷とか藤原?とかに戻るだけ。
それのどこが所有者がその官位についてる間も、その人間ではなく朝廷である事の証明になるんだ?
秀吉から秀次に渡った後は秀吉の手から関白が離れてるんだから秀吉の思惑通りなるわけないだろアホw
>>秀吉が死んだ後は、九条兼孝が関白職に復帰し、その後は近衛信尹が関白職に任命され、ついに秀頼の死後まで秀頼が関白になることはなかった。
>>あくまで関白職が「秀吉」のものではなく「天皇」のものであるという顕著な例だと思われるけどね。
ぶっちゃけそれも幼い秀頼をいきなり関白にしても意味がないと秀吉が考えた可能性も否めないね。
まあ何にせ、秀吉の手から離れた官位を、秀吉の思惑通り動かせない事をもってしても、その官位の所有者が朝廷だと証明する事には全くならないわけで。
>>「秀吉の主」とはせいぜい天皇、上皇、摂政くらいしか
秀吉の主とは限らないだろ。秀吉ではなく他の人間の主とか主流とかいくらでも考えられるし所有者とか保管者の意味もあるし
>>公家衆や僧衆と言う場合はまず名前を出すようにね
史料中に名前が出てきてないからといってその人間がいない事にはならない。誰だか不明な、不特定の人物を主としてるだけとも考えられる
朝廷には大勢人間がいるだろうし、考えられる人間はいくらでもいる
>>「主」に複数集団の意味はない。TOPだけだから。
根拠よろ。
433 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 01:41:25.19 ID:BrVIRXXn
>>402 >>「公家衆が承認していない」というのはありえないんだ。勅定の発布には公家衆も絡むからね。
別に全員が賛同してなくても勅定出せるのでは?
公家衆の中の秀吉から献品とか恩恵受けまくってた何人かが天皇に秀吉を将軍にしようって持ちかけて、
何もわからん天皇が承諾して勅定くだそうとしたら、朝廷内の有力人物や他の公家衆など主(主流)の望みは、
それとは全く違って、結局五位に収まったと。
434 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 06:10:58.78 ID:ucb8UqQu
>>431 受け身(受動態)も知らないの?本当に外国の方?いや英語でも受動態あると思うけど。まあいいや。
説明不足のようだったから、ちゃんと解説するね。「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」
「秀吉は 官位に 任じられた」が本文。本来なら「天皇が 官位に 秀吉を 任じた」となるんだけど、
ここでは秀吉を主語に取り「秀吉は 官位に 任じ『られ』た」(受身)となる。なぜこうなるか、本来主語になる「天皇」の文字がどこにもないから。
君は「勅定」=「天皇」だと考えているけど、勅定はあくまで「天皇の出した文書」だから。動作の主体にならない。文書が勝手に誰彼に官位を与えるなんて、ホラーな世界だからねw
「勅定」はあくまで「何によって」の方法を表しているだけ。君の理屈で言えば「勅定が 秀吉を 官位に 任じた」となる。「勅定」ではなく「勅定を出した『天皇』が任じた」んでしょ?
でも天皇の文字はどこにもない。日本語で最初に「〜ハ」となるのは目的語ではなく主語。英語と違い最初に目的語は来ないので注意してほしい。
「動作の客体だから目的語」と言う場合は、まず受動態であるかどうかを確認しよう
435 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 06:11:31.06 ID:ucb8UqQu
→誰が将軍になろうが、自分からすりゃわかったもんじゃないわけ。間にいる人物が実質的に官位を動かしているといえる。
実質的にどうかは、何の意味もない。官位の所有権は天皇にある。というか、官位の所有者が「任命された人間」にあるなら、
征夷大将軍は初代の坂上田村麻呂で終わりなのだが・・・坂上が死んだ後も坂上が征夷大将軍で、頼朝も尊氏も家康も征夷大将軍に就任できない。
→死んだら官位を執行してる元である朝廷とか藤原?とかに戻るだけ。
もしかして「所有」の意味わかってない?所有は「半永久的に自分のものとする」ことが原義で、(
http://kotobank.jp/word/%E6%89%80%E6%9C%89 )
例え死んだ後でも朝廷や国と言った関係のない第三者が勝手に返還させるとか、取り上げるなんてことはできないわけ。
先祖代々の土地とか城を見ればわかるでしょ?大名が死んだら、その土地を足利や朝廷に返すなんてことあったか?
大名が死んだら、その子供や弟など親族が遺産として引き継いで、そのまま「所有」しているだろ?それが「所有」。
つまり豊臣秀次が死んで、朝廷の下に「関白職」が返還された時点で、「関白職」の所有権は天皇にある。秀頼が幼かったとか全く関係がない。
そんなに心配なら、秀吉が関白を再任すればいいだけ。九条兼孝のように、関白に2回就任した人物もいる
→根拠よろ。朝廷には大勢人間がいるだろうし、考えられる人間はいくらでもいる
根拠も何も「主」の国語辞典を見ればわかる
http://www.weblio.jp/content/%E4%B8%BB 主は「中心、TOP」を指す意味なので複数を指さないのは当たり前。「主流」で誤魔化しているようだが
「主流」の「流」が複数を指す意味で無理やり複数に適用しているだけで「主」と「主流」は全然違う言葉
ちなみに天皇の出す「勅定」は正規の手続きを踏む必要があり、この際にほとんどの公家がそれを確認する。
『天皇の勅定を知らなかった』なんて公家はホンモノの下位貴族くらいなので「主流」とは程遠い
436 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 06:36:28.51 ID:BrVIRXXn
>>434 >>受け身(受動態)も知らないの?本当に外国の方?いや英語でも受動態あると思うけど。まあいいや。
受動態なんて物は外国で多様される文章で、日本語の場合、受動態が使われた時、文章の主体は「〜される」側の人間なんてルールはない
私が人に殴られる、という文章なら主体は殴った人で、私は単に客体であり目的語であって主語でもないし、ましてや「動作の主体」なんてありえない
動作は「殴る」事なので、主体はあくまで殴った人。
>>秀吉を主語に取り「秀吉は 官位に 任じ『られ』た」(受身)となる。なぜこうなるか、本来主語になる「天皇」の文字がどこにもない
>>君は「勅定」=「天皇」だと考えているけど、勅定はあくまで「天皇の出した文書」だから。動作の主体にならない。文書が勝手に誰彼に官位を与えるなんて
そんな屁理屈が通用するなら、そもそも最初の文章で「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ」は、文法的に直訳すれば
秀吉は今度京都で誰かを四位の大将に任じて、その誰かが、将軍職を兼ねることになったというような訳が可能。
勅定を出す人間は天皇とか散々主張しておきながら都合悪くなると文面の主語を屁理屈つけて捻じ曲げてんじゃねぇよアホ
勅定が出されてるんだから天皇が動作の主体に決まってんだろボケw
動作の主体と文章の文法的意味の主語を一緒くたにしてグダグダ屁理屈つけてんじゃねぇよw
>>「勅定」はあくまで「何によって」の方法を表しているだけ
何がいいたいのかわからん。方法ってなんだ?天皇が勅定出したんだから動作の主語は天皇となるだけ。
>>君の理屈で言えば「勅定が 秀吉を 官位に 任じた」となる。
なんでそうなるのか不明。「動作の主体」と「文法的意味での文章の主語」をごちゃまぜにしたアホ乙
>>「勅定」ではなく「勅定を出した『天皇』が任じた」んでしょ?
はぁ????? お前は何をいいたいんだ???????
>>でも天皇の文字はどこにもない。日本語で最初に「〜ハ」となるのは目的語ではなく主語。英語と違い最初に目的語は来ないので注意してほしい。
そんなルールない。主語が省略される文章なら、例えば(彼が)←省略 私を 誘った。
のように目的語が来るか、もしくは主語省略で、目的語だけが文中に来る。
>>「動作の客体だから目的語」と言う場合は、まず受動態であるかどうかを確認しよう
何がいいたいのかわからん。英語と違って昔の文章の記録なんてしょっちゅう語句の省略とかあるし
「目的語として使われる場合は受身形」なんてお決まりのルールがあるわけねーだろアホ
437 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 06:55:00.82 ID:BrVIRXXn
>>435 >>実質的にどうかは、何の意味もない。官位の所有権は天皇にある。
問題は多聞院の著者が主を仮に所有者の意味で使ったとして、その意味を厳密な意味での所有者か、実質的な意味での所有者か、
あるいは主流的な意味で使ったのかって話だろ。で、そんな事は史料見る限りわかるわけないんだから、どれも矛盾するので、主=秀吉などという決め付けはおかしいといってるわけ。
>>官位の所有者が「任命された人間」にあるなら征夷大将軍は初代の坂上田村麻呂で終わりなのだが・・・坂上が死んだ後も坂上が征夷大将軍で、頼朝も尊氏も家康も征夷大将軍に就任できない。
なんでそうなるのか不明。任命されてる間はその官位持ってるけど、死ねば当然それがなくなるから官位の執行元の朝廷に帰するだけ。
>>もしかして「所有」の意味わかってない?所有は「半永久的に自分のものとする」ことが原義で、( (p)
http://kotobank.jp/word/%E6%89%80%E6%9C%89 )
>>例え死んだ後でも朝廷や国と言った関係のない第三者が勝手に返還させるとか、取り上げるなんてことはできないわけ。
そんな法律の原義的意味合いの「所有」なんて誰も一般の書物でも使ってない。お前辞書の意味だけにとらわれて本とかまともに読んだ事のない
学の無い人間だろ。持ってれば所有、持ってなければ所有してない、それだけ。主の所有がそんな厳密な原義的意味での所有だなんてルールないし多聞院の著者が
そうやって使ってる根拠もない。普通金を所有してても、死んでしまえばその所有はどうなるかわからん。それでも所有は所有。
死んだ後も自分の物じゃないと所有じゃない、とかアホな原義的解釈なんぞ知らん。
>>先祖代々の土地とか城を見ればわかるでしょ?大名が死んだら、その土地を足利や朝廷に返すなんてことあったか?
それがどう関係あるんだよアホ。所有している「物の性質」の問題であってどちらも所有に違いないだろタコw
>>大名が死んだら、その子供や弟など親族が遺産として引き継いで、そのまま「所有」しているだろ?それが「所有」。
お前の言う所有は法律的意味での所有権とか土地の遺産相続の話で、そんな厳密じゃなくてもその家を所有してるとか(厳密には意味的におかしいのか知らんが)
普通に言っても問題ない。所有家屋とか普通に使うだろ
>>つまり豊臣秀次が死んで、朝廷の下に「関白職」が返還された時点で、「関白職」の所有権は天皇にある。秀頼が幼かったとか全く関係がない。
>>そんなに心配なら、秀吉が関白を再任すればいいだけ。九条兼孝のように、関白に2回就任した人物もいる
秀次が生きてる間は秀次がその官位の所有者。秀次が死んだからそれが元の執行元の朝廷に戻っただけ。
>>根拠も何も「主」の国語辞典を見ればわかる (p)
http://www.weblio.jp/content/%E4%B8%BB どこにも複数を指すことはないなんて書いてない
>>主は「中心、TOP」を指す意味なので複数を指さないのは当たり前
中心やトップが複数いれば当然その主は複数でも指すことになる
>>ちなみに天皇の出す「勅定」は正規の手続きを踏む必要があり、この際にほとんどの公家がそれを確認する。
例外もあるんじゃないの?それに出した後で他の公家とか朝廷有力者が反対したってのも考えられるし
>>『天皇の勅定を知らなかった』なんて公家はホンモノの下位貴族くらいなので「主流」とは程遠い
いや、出した後ではさすがに知るだろうけど、出すその丁度のタイミングで皆が知るわけじゃないんじゃ?
438 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 08:08:24.55 ID:ucb8UqQu
→受動態なんて物は外国で多様される文章で、日本語の場合、受動態が使われた時、文章の主体は「〜される」側の人間なんてルールはない
本当に受動態が何かわかってなかったのかwww (
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E5%8B%95%E6%85%8B )
ちなみにな、受動態(受身)の場合、外国では直接受身だけを使われるのだが、日本語では「間接受身」、「迷惑受身」など
物が主語になるという、外国語では滅多に見られないくらい受動態の宝庫でな、そんなこと言ってると本当に日本人じゃないと思われるぞw
→私が人に殴られる、という文章なら主体は殴った人で、私は単に客体であり目的語であって主語でもないし、ましてや「動作の主体」なんてありえない
(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E5%8B%95%E6%85%8B )100回くらいWiki見直した方がええでw
君の例だと「殴る」は能動態の行動主体。そして『殴られる』が受動態の主体。Wikiにもちゃんと「見る」「見られる」の例がある
今回も一緒。「官位を任じた」が能動態の行動主体。そして『官位に任じられた』が受動態の行動主体。どうでもいいがこれ小学生で習う法則だぞ。
→そんな屁理屈が通用するなら、そもそも最初の文章で「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ」は、文法的に直訳すれば
いや、なんでそこだけ切る?そもそも後半の「兼将軍ノ官ヲ可被成」は「雖有勅定」にかかっているから
「秀吉は今度京都で誰かを四位の大将に任じて、その誰かが、将軍職を兼ねることになったというような訳」にはならんw
これだと秀吉が勝手に勅定を操っていることになるし、そもそも秀吉は官位を与えたりする立場にないw
歴史的事実を考慮すれば「秀吉」が受動態の主語になる。わかりやすいように、カギかっこつけておく
「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮『四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨』(説明→)雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」
→勅定を出す人間は天皇とか散々主張しておきながら都合悪くなると文面の主語を屁理屈つけて捻じ曲げてんじゃねぇよアホ
完全なるブーメラン
→以下日本語講座 (
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E5%8B%95%E6%85%8B )
→なんでそうなるのか不明。任命されてる間はその官位持ってるけど、死ねば当然それがなくなるから官位の執行元の朝廷に帰するだけ。
それは日本語で「所有」と言わない。死んだからもとへ返せ、となるなら財産も土地も日本人は全て国や政府や朝廷に返さなくてはならない。
相続した人間が死んだ状態で幕府や朝廷に城や領土を返した人間はいない。そんなことやるなら大名が死ぬごとに足利幕府へ領土が返却される。
→持ってれば所有、持ってなければ所有してない 普通金を所有してても、死んでしまえばその所有はどうなるかわからん。
基本的に国語辞典では過去から現在に至るまでの通常「使われた意味」を纏めて載せているものだけど、その辞書を否定すると言うことは君は国語博士か何か?
ちなみに普通では金を「所有」していた場合遺産として「所有していた人」が指した「人物」によって相続されます。それが「所有」です。
→秀次が生きてる間は秀次がその官位の所有者。秀次が死んだからそれが元の執行元の朝廷に戻っただけ。
つまり関白職を所有しているのは「天皇」ですね?w「天皇」が所有していたから、秀次死後に関白職が天皇の執政期間である朝廷に戻ったと
→中心やトップが複数いれば当然その主は複数でも指すことになる
いる場合は複数形がつけられますね。「主流」とか「主たち」となります。「主」では1人ですね。
439 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 08:54:31.79 ID:BrVIRXXn
>>本当に受動態が何かわかってなかったのかwww (
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E5%8B%95%E6%85%8B )
wikiの妄想なんぞ知らん。受動態だろうが能動態だろうが、動作の主体は何も変わらん。
>>ちなみにな、受動態(受身)の場合、外国では直接受身だけを使われるのだが、日本語では「間接受身」、「迷惑受身」など
>>物が主語になるという、外国語では滅多に見られないくらい受動態の宝庫
どんな形態に変わろうが文章中で動作の主体が受動態になると変わるなんてルールはないです。
>>(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E5%8B%95%E6%85%8B )100回くらいWiki見直した方がええでw
wikiの妄想なんぞ知らん。ちゃんとした文法書を持ってきてくれ。
>>君の例だと「殴る」は能動態の行動主体。そして『殴られる』が受動態の主体。Wikiにもちゃんと「見る」「見られる」の例がある
受動態に動作の主体なんてないです。ただ単に殴ってる側が動作の主体なだけ。
>>今回も一緒。「官位を任じた」が能動態の行動主体。そして『官位に任じられた』が受動態の行動主体。どうでもいいがこれ小学生で習う法則だぞ。
「任じられる」なんて動作はないし、任じるが受動態に変わって、動作の主体は天皇や朝廷でこれは能動態だろうが
受動態だろうが変わらないというだけ。
>>いや、なんでそこだけ切る?そもそも後半の「兼将軍ノ官ヲ可被成」は「雖有勅定」にかかっているから
>>434みたいな珍解釈よりは遥かにまともだろ。
>>「秀吉は今度京都で誰かを四位の大将に任じて、その誰かが、将軍職を兼ねることになったというような訳」にはならん
「兼ねる」と書いてるので、四位の大将に任じられた人物が将軍職を兼職したとわかるため、秀吉がその人物を四位の大将に任じ、
将軍職もその人間が兼ねたと解釈可能
>>これだと秀吉が勝手に勅定を操っていることになるし、そもそも秀吉は官位を与えたりする立場にないw
それなら秀吉が四位の大将に誰かを任じ、朝廷から勅定が出てその人物を将軍職兼任させた、でいいな。秀吉は秀次に官位やったりしてるし
大名ともなれば朝廷工作しまくって官位取得可能。信長も贈り物攻撃やりまくって官位得たりしてるから秀吉が朝廷工作して官位を得るという形で
誰かに官位やってると考えれば何も問題なく上記の解釈で意味が通るなw
440 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 08:55:36.46 ID:BrVIRXXn
>>歴史的事実を考慮すれば「秀吉」が受動態の主語になる。わかりやすいように、カギかっこつけておく
>>「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮『四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨』(説明→)雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」
お前の勝手な解釈なんぞ知らん。鍵確固なんて原文中についてない物を勝手に書かれても困る。
>>→以下日本語講座 (
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E5%8B%95%E6%85%8B )
wikiソースとか相当アホだな。書店でも言って一から文法勉強しなおせアホ
>>それは日本語で「所有」と言わない。死んだからもとへ返せ、となるなら財産も土地も日本人は全て国や政府や朝廷に返さなくてはならない。
>>相続した人間が死んだ状態で幕府や朝廷に城や領土を返した人間はいない。そんなことやるなら大名が死ぬごとに足利幕府へ領土が返却される。
それは厳密な法律的意味での所有。生きてる間持ってれば所有は所有。死んだら死んだ後のことなんて関係ない。家や土地を所有してようが
その人が死ねばその人の物じゃなくなる。それが所有。
>>基本的に国語辞典では過去から現在に至るまでの通常「使われた意味」を纏めて載せているものだけど、その辞書を否定すると言うことは君は国語博士か何か?
通常使われた意味なんだから特殊な場合は除外して考えてる。所有がそんな辞書的厳密な意味じゃないと使っちゃいけないなんてルールはない。
生きてる間持ってたら所有は所有
>>ちなみに普通では金を「所有」していた場合遺産として「所有していた人」が指した「人物」によって相続されます。それが「所有」です。
秀次が死んでも秀吉や秀頼に渡らなかったのは、秀次が自分の死後指した人物がいなかったから、で通るな。つうか
死後の遺産とか土地とか所有物によって相続のルールも全く違うし、官位の場合は土地や金とか他の物と相続のルールが違って
他の物と同じような、帰属に当てはまらなかっただけだろアホ
>>つまり関白職を所有しているのは「天皇」ですね?w「天皇」が所有していたから、秀次死後に関白職が天皇の執政期間である朝廷に戻ったと
馬鹿かお前。天皇が勅定出して秀次に官位授けてるんだから秀次の物に決まってんだろボケw
>>いる場合は複数形がつけられますね。「主流」とか「主たち」となります。「主」では1人ですね。
根拠なし。英語でもyouは単数複数両方指すし、日本語でも「政治家が」とか「兵が」といった場合単数の場合も複数の場合も両方考えられる
信長の兵が〜を攻めた、って書いてるフロイスの日本史とか、まさか兵が一人で攻めたとか思ってるわけ?w
441 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 10:17:28.20 ID:tb42nuWP
すごいな
徳川幕府でも朝廷の官職任免権を奪えなかったのに
関白ですらない秀吉が任命したのか
歴史覆るんじゃね?w
442 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 10:45:38.97 ID:m6nGFi2o
> 今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
→こたび、京都において羽柴筑前は叡慮により四位の大将に任じて将軍の官を兼ねられるべし旨の勅諚有りといえども、主の望みにて五位の少将に任了、と。
> お前の勝手な解釈なんぞ知らん。鍵確固なんて原文中についてない物を勝手に書かれても困る。
わかりやすくしてくれたんだろ?
「旨」の字はその直後の「勅諚」の中身を説明してる文章だよ。
叡慮は普通、「天子の考え」
天皇のお考えにより勅諚をもって秀吉を四位大将兼将軍に任じようとした、というのが前段。
しかし、秀吉は「主」の望みでそれを固辞し五位少将に任じられるに留まったというのが後段。
で、まず天皇は四位大将兼将軍に任じようとしたんだから、後段の「主」が天皇というのはあり得ない。
一方、秀吉が天皇以外の公家の顔色をうかがう必要性はあまりない。
必要性があるのだとしたら、「なぜ、四位大将兼将軍ならダメで五位少将ならいいのか?」の理由が知りたい。
また、前段で羽柴筑前と記しておいて後段でわざわざ「主」と秀吉のことを表記するのは変。
じゃあ「主」は誰なのか?ということになると、天皇・公家・秀吉以外の人物とならざるをえない。
そうすると武家の「主」ということで将軍義昭、旧主筋ということで織田家の某と考えるのが妥当。
ただし、これはあくまで多聞院の認識でしかなく、事実そうだったのかはまた別の問題。
443 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 11:33:54.07 ID:pXcWFV+m
→それは厳密な法律的意味での所有。生きてる間持ってれば所有は所有。 所有がそんな辞書的厳密な意味じゃないと使っちゃいけないなんてルールはない
残念ながら官位や領土、城など高価な財産的価値のあるものは今も昔も「自分が好き勝手にできる」という、君いわく「厳密な意味でつかわれる所有」なのだけども。
君が言っている「持っているだけでOK」というのは、せいぜい当時で言えば武器や着物くらいのもんだ
ましてや官位なんて当時の日本で超がつく貴重なものを一個人が所有できるとか聞いたことないwそんな適当なもんじゃねーw
→死後の遺産とか土地とか所有物によって相続のルールも全く違うし、官位の場合は土地や金とか他の物と相続のルールが違って
残念ながらこれまた完全に同じであるw「所有」している人物が死んだ場合、「所有しているモノ」の行く末は、所有していた死んだ人間が
全て決めるのが通例であり、これは古今東西何も変わらないし、その「所有物」が遺産だろうが領地だろうが金だろうが武器だろうが何も変わらない
→日本語でも「政治家が」とか「兵が」といった場合
「政治家」「兵」は本来階級だから数えられるものではないので単一なのは当たり前です
その階級につく「政治家」、「兵」を個人で指す場合は「政治家」「政治家達」と書くのが通例
まあ2chでアホボケとか書く不作法な人には理解できないのかもしれませんが、書き手は多聞院で修練を積んでる
非常に徳の高いお坊さんですので、そんな杜撰な日本語を使う人ではないでしょw
444 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 11:43:41.00 ID:pXcWFV+m
>>442 →「なぜ、四位大将兼将軍ならダメで五位少将ならいいのか?」
これの大きな理由として語られているのが、織田信雄が当時五位中将の官位であり、
その織田信雄と戦争中であったから、という意見が主流として述べられているな。
織田信雄はその後信長→秀吉と継いできた内大臣の位を秀吉の斡旋もあって受けているし
秀吉としては「官位は必要であったが、信雄を越える官位の必要性はなかった」というのが本音であろうと。
これを証明する資料として、小牧長久手の際の秀吉書状は「家康」を首謀と睨んだものが多く、(丹羽長秀に対する書状など)
家康陣営で織田信雄が長宗我部元親などに書状を送りつけているのと明らかに事態の認識の齟齬がある。
あと、足利義昭や織田信雄(織田家の某)などが、当時の秀吉の官位にケチをつけられるほどの勢力であったか、というのが
単純に疑問。秀吉の主君と言えば当時はまあ、織田秀信か織田信雄であろうが、織田秀信はこの時まだ子供で織田信雄や足利は勢力距離共に影響力が低い。
となると、朝廷関係者や公家衆の誰かと言いたいが天皇に口出せるのはせいぜい上皇や摂政。両方当時は不在。
天皇が言うのはギャグなので、結局消去法で秀吉しかない。
445 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 12:03:52.11 ID:m6nGFi2o
>>444 > これの大きな理由として語られているのが、織田信雄が当時五位中将の官位であり、
> その織田信雄と戦争中であったから、という意見が主流として述べられているな。
いや、必要性云々の話は「主」が「朝廷の、天皇以外の主流」だった場合の話ね。
「主」が信雄や義昭の場合は、別に問題ない。
> 朝廷関係者や公家衆の誰かと言いたいが天皇に口出せるのはせいぜい上皇や摂政。両方当時は不在。
天皇に口出ししたのではなく、秀吉に口出ししたんだよ。
だから秀吉は勅を受けたものの固辞し、それより低い位階に甘んじた。
「主」が秀吉自身を指すという解釈は無理スジというもの。
秀吉の代名詞として多聞院が「主」を使用した例でもあれば別だが。
446 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 12:43:15.98 ID:tb42nuWP
動作の主体って上に辞書ででてんじゃん
途中でえいりょとかの説明文で間が空いたから再度主と明記
そもそも、主とだけ書いて誰かわからないような文章あり得ない
所有者だの坊主どもだの公家だの、登場人物じゃないんだから、唐突に出るのがおかしい
447 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 12:48:02.65 ID:Rt5Poy5R
→必要性云々の話は「主」が「朝廷の、天皇以外の主流」だった場合の話ね。
→天皇に口出ししたのではなく、秀吉に口出ししたんだよ。
うーん、ここで気になるのは「天皇以外の主流」や「織田家の某」などが、「秀吉に口を出せる人物」なのだろうか?という点なんだよな・・・
前述してあるんだけど、勅定を正規手続を経て出す場合、主要な公家は全てそこで確認するわけで、勅を出した後から官位を変更させると言うのは二度手間としか言えず、
勅定を閲覧できない下位公家が、天皇に意見出せるとも思えない。
何より、小牧長久手の戦いが終わった同年11月、秀吉は四位を越える従三位の位を貰っているんだよね。
「秀吉に高い官職をあげたくなかった」と言うのなら、こんな顛末になるのはいささか杜撰なように思う。
どのパターンにも言えるんだけど「秀吉に口出しした」と言う場合は、「秀吉は望んでいたけど、口を出した「主」のせいで高い官位貰えなかった」
ということになり、果たして当時の人間で秀吉の官位にケチをつけられる有力者がいたのかという問題が付き纏う。
そこが解消できれば「主は秀吉じゃない」と言われても、わかるんだけどね・・・
448 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 13:01:30.60 ID:m6nGFi2o
>>446 文章の構造、分かってる?
いつ?→今度
どこで?→京都
誰が?→秀吉
何を?→五位少将の官位を
どうした?→受けた
こういうお話。
「主の望みで」は四位大将兼将軍任命の勅を固辞した理由。
> そもそも、主とだけ書いて誰かわからないような文章あり得ない
個人の日記で、そうでなくても自明のことならわざわざ書く必要がない。
普通のこと。
他の箇所で秀吉の事を「主」と記したり、動作の主体者を「主」と多聞院が書いた例はあるの?
ここが例えば「主」でなく「彼」だったのならまだわからなくもないが。
>>447 > うーん、ここで気になるのは「天皇以外の主流」や「織田家の某」などが、「秀吉に口を出せる人物」なのだろうか?という点なんだよな・・・
> 何より、小牧長久手の戦いが終わった同年11月、秀吉は四位を越える従三位の位を貰っているんだよね。
この時点では信雄・家康連合軍と争ってる最中だからね。なんらかの政治的配慮、取引があった可能性はあるかな?と推測出来る余地はある。
> 果たして当時の人間で秀吉の官位にケチをつけられる有力者がいたのかという問題が付き纏う。
ただ、この記事自体の信憑性がどうなのか?ってのがあるからね。
文の解釈と実際どうだったかは別の問題。
449 :
人間七七四年:2013/08/08(木) 23:56:24.31 ID:B9FrQic/
望んで少将になったのであって、辞退した理由ではない
すくなくとも文章に忠実に当たるならな
自明ならさんざっぱらこんな議論してないから
国語辞典に用法として主体の代替えがあるんだから
逆に主で将軍天皇をさしてる箇所はあるんかいな
450 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 07:11:39.95 ID:d868I7gx
>>449 何言ってんだ?
四位大将兼将軍を辞退してるじゃないか?
なぜ?四位大将兼将軍を辞退し五位少将を受けたのか?
「主」がそう望んだから。
じゃあその「主」は誰か?って話。
> 国語辞典に用法として主体の代替えがあるんだから
> 逆に主で将軍天皇をさしてる箇所はあるんかいな
> 1 その社会・集団などを支配・統率する人。あるじ。「一国の―」「世帯―」
> 2 所有者。持ち主。「地―」
あなたが上げてるじゃん。
しかもあなたが固執してる使い方より一般的。
っていうかあなたが意図する用法は当該の文章のようには使われない。
451 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 10:06:14.51 ID:PySEijvg
辞退したって明示してないだろ?
だから文章に忠実にと言ってる
一般的な用法があろうが、意味が通らなければ使いません
1なら何の主?どうやって特定のものに限定できる?
2なら所有物ってなに?官職は任命権者のもので被任命者のものじゃないよ
任命権者なら天皇で文章がおかしくなる
なら3だ
あと語尾のトね
引用のト
で、主でで天皇将軍をさしてる箇所は見つかったかい?
452 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 10:17:45.14 ID:mXlb6OFS
衆望の当て字じゃないかね?
453 :
人間七七四年:2013/08/09(金) 11:22:17.51 ID:d868I7gx
>>451 > 辞退したって明示してないだろ?
じゃあ勅諚はどうなったのよ?w
> 一般的な用法があろうが、意味が通らなければ使いません
あなたの解釈は日本語の文法を無視しています。
> で、主でで天皇将軍をさしてる箇所は見つかったかい?
「主」は秀吉の「主」に当たる(と多聞院が認識してる)人。
あくまで「秀吉の」と限定されるので別に多聞院が天皇あるいは将軍の代名詞として「主」を使用してるわけではないのであなたの求めは意味が無いです。
454 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 02:45:05.22 ID:/g9I1wOH
望んで少将になったのであって、望んで断ったわけじゃないと言ってるのよ
修飾する部分が違う
辞退したのは結果
で、その主は誰なの?
勅に反するだけの影響力を持ってる人で秀吉の上司に当たる人は相当限定されそうだけど?
455 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 07:16:03.19 ID:okz0r0Ix
>>454 > 望んで少将になったのであって、望んで断ったわけじゃないと言ってるのよ
> 修飾する部分が違う
> 辞退したのは結果
何が言いたいのかさっぱりわからん。
そもそも望みは秀吉の望みじゃないし。
「任」には「引き受けた」という用法もあるわけで、当該の文は「羽柴筑前は五位少将の官位を任了した」が幹。
で、より上位の官位を授ける勅があったにもかかわらず「五位少将」を引き受けた。
それは何故か?それを説明するのが「主の望みで」
この一文において主体は変わらない。
望みが秀吉自身から発生したのならここは「主」なんて使わず「彼」なり「自ら」なりを使うのが普通。
また天皇は「叡慮」「勅」という形で現れてるし、もし天皇という意味で使うなら「主上」だろうし、そもそも天皇の望みは四位大将兼将軍なので理論的にあり得ない。
>>で、その主は誰なの?
秀吉の旧主筋というこてで織田家の誰それ、信雄か秀信。もしくは武家の棟梁ということで義昭。
この辺り。
ただし気をつけなければならないのは、この記事は最後に「ト」とあるように多聞院の伝聞。
歴史的事実かどうかは不明。
456 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 10:51:12.67 ID:Yi2SvT1w
→望みが秀吉自身から発生したのならここは「主」なんて使わず「彼」なり「自ら」なりを使うのが普通。
一応言っておくと、ここはちょっと誤っている部分で、「主」の意味に行動主体、つまり「自ら」や「当人」を指す意味はちゃんとある
http://kobun.weblio.jp/content/%E4%B8%BB F番目参照
つまりこの「主」を「秀吉本人」とすること自体に、文法上の誤りは全くないんだよね。
問題は「主」の他の意味、つまり「主人」「棟梁」と言う意味がここで使われる可能性があるかどうか。
「秀吉の主君」とするなら信雄、秀信。「武家の棟梁」とするなら将軍義昭。
仮にここでこの3人の「誰かの望み」とすると、政治的配慮や工作によって秀吉の官位が「望みより下の官位を授けられた」と言うことになる。
当時この3人にそれだけの影響力があったのか?という点が1つ。もう1つは多聞院日記の作者、つまり英俊が
「主」と1文字で人物を曖昧に短縮する必要があったのか?と言う点。織田信雄、織田秀信、足利義昭はいずれも文脈に登場せず、
史料内でも足利将軍は「公方」「上意」「将軍」と書かれ、織田家の人間についても信長が「織尾」と書かれるなど
「主」という曖昧な言葉で濁した使われ方をしていない。それがこの場に限って「主」と、パッと見誰かわからないような人間を指す文にする必要があったのか?と言う点が1つ。
この辺が「主」=「主君」「棟梁」という意味で使った時の不透明な点。
457 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 11:46:09.12 ID:zwjbjFAZ
授けられたのが秀吉。授けたのが朝廷。なので行動主体はあくまで朝廷。
受身系になろうが、「主語」が文法的に変化するだけで「行動主体」は授ける側の朝廷のまま。
458 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 12:18:27.53 ID:vGlLhTWo
秀吉と最初に書いておきながら
今度は秀吉を主と書き換える意味が不明。
主は秀吉以外の誰かだろ。
459 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 13:57:00.85 ID:rWIoZG7T
>>457 受身の主語が「絶対に行動主体にならない」と言えるのは英語だけ。
日本語では受身の主語が「行動主体」になるのは普通にありうること。
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E4%BD%93 1 自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。「動作の―」⇔客体。
http://kotobank.jp/word/%E5%AE%A2%E4%BD%93?dic=daijisen 1 主体の認識・行為などの対象となるもの。かくたい
行動主体は行動を起こす側、行動客体は行動を起こされる側。 「太郎は 先生に 殴られた」 では 太郎は自分の意思に関係なく「殴られた」ことになるので行為客体、先生が行為主体。
ただし件の本文では「秀吉は 官位に 任じられた」となっている。「官位の任命」は「官位を授ける天皇」と「それを了承する秀吉」の
行動が必要不可欠であり、両方が行為主体となりうる。天皇や朝廷を省略して「秀吉」のみに行為主体を絞って記述されているのが前述の文。
「秀吉が行動主体ではない」となると、秀吉は意思に関係なく朝廷に強制的に官位を任命されたことになる。朝廷にそこまでの権利はない。
460 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 14:40:13.92 ID:acxgt36+
>>日本語では受身の主語が「行動主体」になるのは普通にありうること。
>>
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E4%BD%93 1 自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。「動作の―」⇔客体。
>>
http://kotobank.jp/word/%E5%AE%A2%E4%BD%93?dic=daijisen 1 主体の認識・行為などの対象となるもの。かくたい
お前の上げたソースに日本語では受身の主語が「行動主体」になるのは普通にありうることなんてどこにも書かれてないんだが文盲か?
>>ただし件の本文では「秀吉は 官位に 任じられた」となっている。「官位の任命」は「官位を授ける天皇」と「それを了承する秀吉」の
>>行動が必要不可欠
屁理屈乙。文章上では秀吉の了承なんてどこにも書いてないし、お前が無理矢理継ぎ足して秀吉を無理矢理主格だと曲解してるだけ。
>>両方が行為主体となりうる。天皇や朝廷を省略して「秀吉」のみに行為主体を絞って記述されているのが前述の文。
官位に任じられたと書いてあるだけで秀吉がどうこうは書いておらずお前が継ぎ足しただけの曲解乙
授けられたのが秀吉。授けたのが朝廷。なので行動主体はあくまで朝廷。
受身系になろうが、「主語」が文法的に変化するだけで「行動主体」は授ける側の朝廷のまま。
>>「秀吉が行動主体ではない」となると、秀吉は意思に関係なく朝廷に強制的に官位を任命されたことになる。朝廷にそこまでの権利はない。
そんな事関係ない。あくまでこの文中での行為主体と客体の話なので、秀吉が文中に書かれてなくても了承したから客体になりうる、とかお前の妄想は知らん。
この文章では単に秀吉が官位に任じられたと書いてあるだけなので行為主体はあくまで天皇や朝廷。客体が秀吉。秀吉が了承した、などという文に書いてないお前の妄想なんぞ知らん
461 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 14:41:56.89 ID:HoOoH1RN
>>459 そんな屁理屈が通用するなら、そもそも最初の文章で「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ」は、文法的に直訳すれば
秀吉は今度京都で誰かを四位の大将に任じて、その誰かが、将軍職を兼ねることになったというような訳が可能。
勅定を出す人間は天皇とか散々主張しておきながら都合悪くなると文面の主語を屁理屈つけて捻じ曲げてんじゃねぇよアホ
勅定が出されてるんだから天皇が動作の主体に決まってんだろボケw
動作の主体と文章の文法的意味の主語を一緒くたにしてグダグダ屁理屈つけてんじゃねぇよw
462 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 18:53:13.72 ID:Bqqo3c4Y
>>460 えっ、ちゃんと出してるじゃん
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E4%BD%93 1 自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。「動作の―」⇔客体
http://kotobank.jp/word/%E5%AE%A2%E4%BD%93?dic=daijisen 1 主体の認識・行為などの対象となるもの。かくたい
「客体」は行動や意思を受ける側、「主体」は「意思を持って」「動作を積極的に行う」という行動をする側。
秀吉は官位に任じられた、で秀吉は「官位を」「積極的に受け入れた」となるので行為の主体。
→屁理屈乙。文章上では秀吉の了承なんてどこにも書いてないし
それは省略されているだけ。「勅定」の書き手である天皇や朝廷が省かれているように普通は知ってて当然だから書かれていないだけ。
そもそも官位の任命は「天皇」「朝廷」ら「出す側」と、「秀吉」や「貴族」ら「受ける側」の意思があって初めて行われる。(その証拠に官位の受け取り拒否や辞退の事例もある)
よって本来は「天皇が官位を授け」「秀吉がそれを了承し」「改めて天皇が秀吉に了承した官位を任命した」という文章を
どう見てもまどろっこしいから誰もそう書いてないだけ。そもそも「官位を受ける側」の「了承」がないのなら、朝廷が強制的に官位をあれこれ授けられる。
→この文章では単に秀吉が官位に任じられたと書いてあるだけなので行為主体はあくまで天皇や朝廷。客体が秀吉。
「秀吉」が「意思を持って官位を任じられた」ので「行動主体」。わからないのは日本語もまともに知らない人だけですね。
463 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 19:06:32.90 ID:acxgt36+
>>462 全くお前は文法を理解してないなこの文盲野郎
任じられたと書いてるが受け入れたとは書いてないし任じるが動作であって任じられるはただその動作を受身に変更しただけ。
「任じられる」なんて動詞や動作は存在しないし、朝廷が秀吉を任じたという文章が変形されて
受身系の秀吉が任じられた、と変わっただけで、動作はあくまで任じる、なので動作の主体は朝廷であり天皇
つうかこんな当たり前のことも理解できん馬鹿は書き込むな
>>それは省略されているだけ。「勅定」の書き手である天皇や朝廷が省かれているように普通は知ってて当然だから書かれていないだけ
お前の妄想&屁理屈乙
文中には全くそんな事書いてないし、仮に省略されてたとしてもこの文章はあくまで「秀吉が官位に任じられた」と書かれてるだけだから
動作の主体は朝廷。何が省略されてようが実際に書かれていないのだから動作の主体は朝廷で変わらん。
>>よって本来は「天皇が官位を授け」「秀吉がそれを了承し」「改めて天皇が秀吉に了承した官位を任命した」という文章を
>>どう見てもまどろっこしいから誰もそう書いてないだけ
お前の勝手な妄想乙
文章中には秀吉がどうこうはかかれてないし省略されてたとしても「秀吉が官位に任じられた」という文章中においての主体客体は全く変化なし。
省略されてるからどうこうとかお前の勝手な妄想なんぞ知らん。
>>そもそも「官位を受ける側」の「了承」がないのなら、朝廷が強制的に官位をあれこれ授けられる
論点のすり替え乙。
>>「秀吉」が「意思を持って官位を任じられた」ので「行動主体」。わからないのは日本語もまともに知らない人だけですね
屁理屈&文章中に書いてない事の捏造曲解乙
ちゃんと日本語くらい読めるようになってから来い馬鹿
464 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 19:08:46.23 ID:L4AiVwgR
日本語に「主体側の動作を省略してよい」なんてルールはないです。
主体側の動作は文章の中で最も重要部分なのでこれを省略したら、その文が何を書いているのかわからなくなる
465 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 19:17:39.56 ID:zwjbjFAZ
主体の動作という文章の中核部分が文法的に見て省略可能なら
兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
の部分の前半部分を、秀吉が将軍の官を兼ねて勅定を下される事を望んだが
天皇の望みで五位の少将にまかせ終わる事になったとか
珍解釈がいくらでも可能だなw
466 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 19:23:05.02 ID:okz0r0Ix
「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之」
で勅諚の中身を説明した一塊の文なんだから変なとこで区切って解釈すんなよ…
467 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 19:48:33.27 ID:acxgt36+
そんなもん一つ目の文の主体の動作と主語が省略されてると考えれば全く問題なく繋がるだろ
468 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 19:55:33.03 ID:zwjbjFAZ
今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
これが原文。よってどうみても動作の主体は任命する天皇や朝廷側
「〜が省略されてる」なんて曲解とか妄想何ぞ知らん。日本語で主体の動作を省略可能なんてルールはないし
あくまでこの文中では任じる、任了す、勅定と天皇サイドから書いてるので、動作の主体は任じている朝廷側。
469 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 19:56:30.72 ID:pOCA/+G9
470 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 20:12:00.80 ID:okz0r0Ix
471 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 20:27:43.48 ID:HoOoH1RN
>>465でいいだろ。ようは主体の動作も主体も全て省略可能なんだから、
兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定の前半部分の主体は秀吉で、
動作が将軍の官を兼ねて成られるべくの旨、勅定を下される事を望んだ
というように動作が省略されてるだけ。
472 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 20:29:05.91 ID:L4AiVwgR
473 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 01:39:36.56 ID:Is7M7rGd
>>455 外国語は難しいかな?
主の望みの内容は少将就任にあり、詔の辞退は少将就任の結果
文章の順番組み替えてまで自説を推したいのか
A, because B と because B, A は意味が違うんだぞ
そう、お前が言ってるように伝聞なんだよ、ここまで誰も書いてなかったけど
「此度、京都に於いて[羽柴筑前は叡慮に従って四位の大将に任じて、将軍の官を兼ねてならるべし]の旨の勅命があったといえども、しかし、
お前の望みで五位の少将に任じおわんぬ」、と聞いた
間接話法とすると主が定まらないから直接話法
直接話法だとすると、「主」は秀吉と対面していた勅使が秀吉に対して「おぬし」と言ったと
474 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 01:40:24.28 ID:Is7M7rGd
>>471 四位と将軍を望んだのになんで五位の少将になったんだよ
475 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 02:05:13.48 ID:KlJPyybs
>>473 > 主の望みの内容は少将就任にあり、詔の辞退は少将就任の結果
何を言ってるんだか…
まず「勅諚」の件という前提があって、それから「任了」の件という結果があるんだから。
ところでなんで「becouse」なんだ?
> 直接話法だとすると、「主」は秀吉と対面していた勅使が秀吉に対して「おぬし」と言ったと
直接話法だったのなら、「主」は多聞院だよ。
情報提供者が多聞院に話してるんだから。
あなたにとって日本語は難しいのかな?
476 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 02:46:27.21 ID:SIsRS0dk
>>474 そりゃ簡単。
>>462によると、日本語の文章の中核部分である主体とその動作を同時に省略可能というトンデモ理論を持ち出してきたので、
兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了トの部分の前半部分を、秀吉が将軍の官を兼ねて勅定を下される事を望んだが
天皇の望みで五位の少将にまかせ終わる事になったと解釈がいくらでも可能だなw
477 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 02:47:39.74 ID:b6ja+tMB
>>476 同意。
それなら主=動作の主体である秀吉でも意味が通るな。
478 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 02:50:18.55 ID:b6ja+tMB
おっと。任了となってるので、後半部分の主体は天皇だったか。どっちにしろそれで意味通るなw
479 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 08:08:26.35 ID:nGCbiAAs
→任じられたと書いてるが受け入れたとは書いてないし任じるが動作であって任じられるはただその動作を受身に変更しただけ。
wwwwwwwwwwwwwどこに目をつけているんだ、ああそれとももしかして盛大に誤解しちゃってる?
俺が言っている「任じられた」の部分は「四位ノ大将ニ任ジテ」の部分じゃねーよw
「五位ノ少将ニ任了ト」の部分だw「了」の意味くらい、流石にわかって言ってると思ってたけど
どうやらわかってないみたいだからつけておくよ
http://kotobank.jp/word/%E4%BA%86%E3%81%99%E3%82%8B 2 悟る。了解する。「真意を―・する」
散々上でも言われているけど いつ→「今度」 どこで?→「京」 誰が?→「羽柴筑前」 何を?→「五位少将」 どうした?→「任了」 が原文だ
「今度京都で羽柴筑前は五位の少将に任じられた」が核となる文章で「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之」は勅定の中身の説明。
勅定は言うまでもないが天皇にしか出せないのでこの動作主体は天皇。全文を訳すと
「今度京都で羽柴秀吉は『(天皇が)四位の少将に任じて、将軍の官を兼ねよ』という旨の勅定があったが、(秀吉)主の望みにて、五位の少将に任じられることを了解した」
480 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 08:09:10.19 ID:nGCbiAAs
>>464 →主体側の動作は文章の中で最も重要部分なのでこれを省略したら、その文が何を書いているのかわからなくなる
それは主体が1人しかいない場合だね 「太郎は 水を 撒いた」 とかだと行動主体を消すと何が何かわからなくなる
でも今回のように行動主体が2人以上いる場合は全く問題がない 「花子は 太郎から 謝罪を受けて許した」 → 行動主体の花子を消す → 「太郎は 謝罪をして 許してもらった」
ちゃんと意味が通る
481 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 12:36:59.09 ID:SIsRS0dk
>>「五位ノ少将ニ任了ト」の部分だw「了」の意味くらい、流石にわかって言ってると思ってたけど
>>どうやらわかってないみたいだからつけておくよ
http://kotobank.jp/word/%E4%BA%86%E3%81%99%E3%82%8B 2 悟る。了解する。「真意を―・する
主の望みにて任じ了解する、では主語がいきなり任ずる朝廷から秀吉に変わる事になるし
任了を任じ終わるではなく任じ了解するなんて馬鹿な訳をするのはお前くらいしかいない。前の文に勅定を書いてるし動作の主体はあくまで朝廷側。
動作の主体がいきなり変わっていい理論なら
>>465の解釈で妥当
つうかぐだぐだ屁理屈こねていちゃもんつけてんじゃねぇよボケ
>>散々上でも言われているけど いつ→「今度」 どこで?→「京」 誰が?→「羽柴筑前」 何を?→「五位少将」 どうした?→「任了」 が原文だ
>>「今度京都で羽柴筑前は五位の少将に任じられた」が核となる文章で「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之」は勅定の中身の説明。
今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
これが原文。よってどうみても動作の主体は任命する天皇や朝廷側
最初の文で任じてと書かれてるし次の文で勅定と、天皇の動作を表す言葉が使われてるし主=動作の主体なら天皇や朝廷を表す言葉であって秀吉ではない
だから最後の文の主=秀吉以外の誰かで、任了と、は、まかせ終わるで妥当
>>「今度京都で羽柴秀吉は『(天皇が)四位の少将に任じて、将軍の官を兼ねよ』という旨の勅定があったが、(秀吉)主の望みにて、五位の少将に任じられることを了解した」
いや違う。主は動作主体を現す言葉で、その直前までずっと天皇サイドの動作が続いていて、最後の文でいきなり動作主体が秀吉に変わるわけがない。
よって任了はまかせ終わるであって任じられる事を了解なんて歪曲してんじゃねぇよボケ
482 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 12:41:30.32 ID:SIsRS0dk
>>480 主体ではなく
>>462の馬鹿理論は主体側の動作と主体同時消去。その例でいうと
花子と許す両方消すか、太郎と謝罪両方消すかどっちかすると全く意味が変わり文章の核が抜けることになる
こんなアホみたいな事一々説明させてんじゃねぇよボケw
483 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 12:47:48.69 ID:7+7DveWG
>>465でいいだろ。ようは主体の動作も主体も全て省略可能なんだから、
兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定の前半部分の主体は秀吉で、
動作が将軍の官を兼ねて成られるべくの旨、勅定を下される事を望んだ
というように動作が省略されてるだけ。
484 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 12:55:40.32 ID:SIsRS0dk
了を了解の意味で使うときは、この文字の直前に漢字をつけて使わない。
普通に〜する事を了すると書かれるだけ。
多聞院日記天正10年9/1条順慶社参了
8/24条で八万四千本の木のはんき一甚六開ノスリ立了
8/27条長堅房被書了、などと
了という言葉は頻繁に使われているが、了解の意味ではなく〜し終わったという意味で朝廷側の視点で書かれてる
485 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 16:01:03.80 ID:jghFoGik
いい加減言葉遊びの悪あがきはよしてくんねえかなあwまああっちの人はこういうんもんだけど
さて君の意見だと「主=天皇」で、「ずっと天皇の行動が続いている」って言うんだよね?じゃあこれをそのまま訳すよ
「今度京において羽柴筑前秀吉は、(天皇が)四位の大将に任じて、将軍の位を兼ねよと言う勅定があったが、天皇の望みで五位の少将に任せ終わった」
wwwwwwwなにこれwwwww前部の「羽柴秀吉は」の動作はどこへ言ったのwwww
君は大真面目な意見でこの訳文が正しい、とそういうわけ?w屁理屈とか文盲とか言う割に、随分杜撰な日本語じゃねこれってw
参考までに
俺訳「今度京都で羽柴秀吉は『(天皇が)四位の少将に任じて、将軍の官を兼ねよ』という旨の勅定があったが、(秀吉)主の望みにて、五位の少将に任じられることを了解した」
君訳「今度京都で羽柴秀吉は『(天皇が)四位の少将に任じて、将軍の官を兼ねよ』という旨の勅定があったが、(天皇)主の望みにて、五位の少将に任せ終わった」
大きな口の割に杜撰な訳ですなあw
486 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 16:04:06.31 ID:jghFoGik
487 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 16:14:11.67 ID:SIsRS0dk
>>486 >>いや使い方自体はどちらも同じ どちらかの意味はこの文脈では使われないよ、と言うのは一切ない。
お前の出したソース元に了を文字の直前に漢字(動詞)をつけて使い、「〜する事を了解する」 なんて使い方は全く載ってないし
普通に〜する事を了すると書かれるだけ。 これは多聞院日記の他日付の条を読めばわかる。何かが
例
多聞院日記天正10年9/1条順慶社参了 8/24条で八万四千本の木のはんき一甚六開ノスリ立了 8/27条長堅房被書了、などと
了という言葉は頻繁に使われているが、了解の意味ではなく〜し終わったという意味で朝廷側の視点で書かれてる
>>そもそも俺が「了解した」と訳しているのは、既に「任ずる」にその意味が内包されているから。
任ずるにその意味が内包されてるとかお前の妄想だししかも内包されてたとしてもここでは実際に記述していないんだから関係ない。
任じられたと書いてるが受け入れたとは書いてないし任じるが動作であって任じられるはただその動作を受身に変更しただけ。
「任じられる」なんて動詞や動作は存在しないし、朝廷が秀吉を任じたという文章が変形されて
受身系の秀吉が任じられた、と変わっただけで、動作はあくまで任じる、なので動作の主体は朝廷であり天皇
文中には全くそんな事書いてないし、仮に省略されてたとしてもこの文章はあくまで「秀吉が官位に任じられた」と書かれてるだけだから
動作の主体は朝廷。何が省略されてようが実際に書かれていないのだから動作の主体は朝廷で変わらん。
省略されてようが省略されてなかろうが文章の主体は任じている天皇とか朝廷側。つうかこの史料自体朝廷とか天皇側の視点でこうしたああしたと書いてるので
全体として主体は天皇や朝廷側で、これが覆る時はわかるように主語がちゃんと文章ごとに明記されてる
488 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 16:17:58.35 ID:OL0ZmPqV
大義である。
489 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 16:19:00.15 ID:l1K+SMzp
>>485 いや、前半の部分の主体と主体の動作が省略されてるだけ。
>>462によると主体側とその動作は同時に省略可能らしいので、
兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
の部分の前半部分は、秀吉が将軍の官を兼ねて勅定を下される事を望んだがというように秀吉が望んだことの内容が
省略して書かれてるだけであり、天皇の望みで五位の少将にまかせ終わる事になったと解釈すれば矛盾なくしっくりいくな
490 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 16:21:15.79 ID:lYT6wHaq
>>485 だから主=動作の主体以外の意味ではなく他の意味で使用って話になるんだろ。
何いってんだお前。主に動作の主体以外の意味がないとか思ってんの?w
491 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 16:24:46.90 ID:7+7DveWG
>>485 そりゃ簡単。最初の勅定には、公家衆や朝廷有力者の一部しか決定に関与せず
天皇の軽はずみなノリで勅定をだそうと思ったが、よくよく考えたら、やっぱり秀吉に将軍職やすやすと
だすなんておかしいし、朝廷の他の人間とか公家衆の意見などもあって、天皇は深く考え直し、
五位少将の職に任ずる事を望んだ、というように天皇やら朝廷側が任官の件を考え直したのだと解釈すれば
矛盾なくすっきりいくな。
間の経緯が省略されてるだけでしょ。
492 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 16:30:09.23 ID:l1K+SMzp
>>486 >>官位は了承がなければ任命できないし
なんで将軍の官と四位大将の勅定に対して了承した秀吉が、その次の文章でいきなり断って
五位少将になる事を望んだんだよアホ
屁理屈こねてねーでもっとまともな文章書けよボケw
493 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 17:15:16.09 ID:uPwzBiWl
単発IDで自演しているのはわかっているから、わざわざ5つもやらなくていいよw
→了という言葉は頻繁に使われているが、了解の意味ではなく〜し終わったという意味で朝廷側の視点で書かれてる
まず前提がおかしいね。「了する」と言う言葉は文字通り動詞だから、君の理屈で言う絶対に「〜し終わった」という意味になるという断定は一切できない。
なぜなら「〜し終わった」という意味も、「〜と了解した」という意味も同じ文章構造で使われるから。一方だけ特別な使われ方をすると言うのは一切ない。
「了」という単語だけだったとしてもこれは全く同じこと。「了は完了の意味しか使わない」なんて体のいい妄想工作だな
→任ずるにその意味が内包されてるとかお前の妄想だししかも内包されてたとしてもここでは実際に記述していないんだから関係ない。
妄想も何も実際に官位を拒否辞退している奴なんて山ほどいるし、官位の受け取り手が了承しないと実際に任命できないのは当たり前
記述してないも何も当然誰でも知っていることを書かないのと同じ。「勅定」と使われているのに天皇が省略されているのと同じこと。
>>489 残念ながら省略できるのは「当然誰もが知っている当たり前のこと」と後は「文中から推測できるだろ」と言う部分だけ。
「秀吉が四位の大将を任じて、将軍の位を兼ねる勅定を出して貰うように望んだ」と言うのは省略すると意味が分からなくなる。
もう1つ、勅定は天皇が主要な公家と厳選に厳選を重ねて出すので、後で軽はずみだとか実は変更したかったとかは全く当てはまらない。
その段階に行くまでに公家がストップをかける。もちろん秀吉が望んで、はいどうぞなんてのもできない。
494 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 17:15:51.67 ID:uPwzBiWl
よって
・天皇や主要貴族と厳選して発令される勅定を、後からおいそれと訂正することはできない事実
・官位は任命する天皇朝廷と受け取る貴族武士側の了承があって初めて「任命される」という事実
・官位を受け取る側が拒否辞退できる事実
・了は「〜し終わった」の意味の他に「〜を了解する」という意味があると言う事実
・受身の文章でも主語である人物が意思を持った行動主体になりうるという事実
以上を鑑みて
>>485に行きつく。結局誰もこれを否定できていない事実。だから悪あがきだと言ってるんだけどねwww
495 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 17:34:43.02 ID:SIsRS0dk
>>493 >>まず前提がおかしいね。「了する」と言う言葉は文字通り動詞だから、君の理屈で言う絶対に「〜し終わった」という意味になるという断定は一切できない
〜する事を了解したと〜し終わったというのは文章構造として全然違う。後者は助動詞的な意味で使われ、〜できるとか、と同じような言葉の用法だから
任了と、任と了の間に何も書かなくても意味は通るが、前者は前の動詞を〜する事をと名詞化して使われているので、この場合任ずる旨了するとか
任ずる之段了するとか間に「任ずる」を名詞化する言葉が中に補われないと文法的におかしい。書状とか読んでみろよ。〜する事を〜するという文の構造なら前者の後に旨とか
段とか事とか名詞化がわかる言葉が補足されてできてるから。
>>妄想も何も実際に官位を拒否辞退している奴なんて山ほどいるし
具体的に誰が辞退してるんだ?後なぜ「任ずる」(同時に秀吉が了承)→やっぱり断って五位少将に断ったとか二回繰り返してかかれるんだよアホ
「任ずる」の次の文で「秀吉了し」とか書けばいいだけだろアホ
>>官位の受け取り手が了承しないと実際に任命できないのは当たり前
任命の話ではなく「羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定」だから勅定が出されただけだから
了承なんていらねーだろアホ
>> 記述してないも何も当然誰でも知っていることを書かないのと同じ。「勅定」と使われているのに天皇が省略されているのと同じこと。
任ずるにその意味が内包されてるとかお前の妄想だししかも内包されてたとしてもここでは実際に記述していないんだから関係ない。
任じられたと書いてるが受け入れたとは書いてないし任じるが動作であって任じられるはただその動作を受身に変更しただけ。
「任じられる」なんて動詞や動作は存在しないし、朝廷が秀吉を任じたという文章が変形されて
受身系の秀吉が任じられた、と変わっただけで、動作はあくまで任じる、なので動作の主体は朝廷であり天皇
文中には全くそんな事書いてないし、仮に省略されてたとしてもこの文章はあくまで「秀吉が官位に任じられた」と書かれてるだけだから
動作の主体は朝廷。何が省略されてようが実際に書かれていないのだから動作の主体は朝廷で変わらん。
省略されてようが省略されてなかろうが文章の主体は任じている天皇とか朝廷側。つうかこの史料自体朝廷とか天皇側の視点でこうしたああしたと書いてるので
全体として主体は天皇や朝廷側で、これが覆る時はわかるように主語がちゃんと文章ごとに明記されてる
>>残念ながら省略できるのは「当然誰もが知っている当たり前のこと」と後は「文中から推測できるだろ」と言う部分だけ
お前の勝手な妄想ルールなんぞ知らん。
>>462によると主体側とその動作は同時に省略可能らしいので、
兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了トの部分の前半部分は、秀吉が将軍の官を兼ねて勅定を下される事を望んだがというように秀吉が望んだことの内容が
省略して書かれてるだけであり、天皇の望みで五位の少将にまかせ終わる事になったと解釈すれば矛盾なくしっくりいくな
秀吉が天皇から高官位を望んでいたのは「当然誰もが知っている当たり前の事」だし文中から秀吉が天皇から将軍の官を兼ねるようにと望んでいた事も推測できる。
>>勅定は天皇が主要な公家と厳選に厳選を重ねて出す
ソースは?そんな厳選を重ねて出した勅定を秀吉は一度は了承しておきながら後から辞退するとかアホみたいな妄言を主張してるのわかってんのかお前
>>その段階に行くまでに公家がストップをかける。もちろん秀吉が望んで、はいどうぞなんてのもできない
ソースなし。望むだけなら、誰でもできるし(「自分は天下人になろうと望んだ」とか)単に秀吉が天皇から四位大将と将軍職の勅定を下されるように望んで
朝廷工作しまくってたが、それは叶わず主(動作の主体である天皇や朝廷)の望みで五位少将に収まった。で簡単に意味が通るな
496 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 17:40:55.13 ID:SIsRS0dk
>>・天皇や主要貴族と厳選して発令される勅定を、後からおいそれと訂正することはできない事実
根拠なし。
>>・官位は任命する天皇朝廷と受け取る貴族武士側の了承があって初めて「任命される」という事実
同時に生ずる秀吉が厳選して行われた勅定を了承したがすぐに自分から断って低い官位を望んだ矛盾w
>>・官位を受け取る側が拒否辞退できる事実
根拠なし。官位を受け取るのを拒否するくらいなら最初から朝廷へ接触なんかしない。
>>・了は「〜し終わった」の意味の他に「〜を了解する」という意味があると言う事実
前者は助動詞的意味用法なので二つ動詞を続けて繋げて書いても意味通るが後者は前者の動詞を〜する事と名詞化しているため
必ず〜の段とか〜のこととか〜の旨とか名詞化して使用される事実
>>・受身の文章でも主語である人物が意思を持った行動主体になりうるという事実
妄想乙。受身の文章は元の文章を変形して作られてるだけなので、元の文章の動作の主体が
動作の主体であることにかわりない。
「AはBに殴られた」なら動作は殴ったであり殴られたではないから動作主体はあくまでB
497 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 17:42:24.90 ID:78AJK9Lo
天皇を諌めたってことだろ。
498 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 19:33:10.03 ID:uVDvEjaW
→〜する事を了解したと〜し終わったというのは文章構造として全然違う。後者は助動詞的な意味で使われ、〜できるとか、と同じような言葉の用法だから
使われる文脈、は全く同じだね。両方とも同じ言葉から派生しているから当たり前だけど。ちなみに「了」に助動詞としての意味はない。助動詞の完了の意味で使いたいなら
それこそ「たり」とか「けり」でいいと思うけどな。
→具体的に誰が辞退してるんだ?後なぜ「任ずる」(同時に秀吉が了承)→やっぱり断って五位少将に断ったとか二回繰り返してかかれるんだよアホ
わざわざ挙げる必要あるのか?例えば秀吉の主君だった信長の三職推任拒否とかもあるし、豊臣秀頼も右大臣の位を1607年に辞任している。家康だってそうだわな。
やっぱり断ってってなんだ?原文の核となる部分は「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮、五位ノ少将ニ任了ト」で、「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨」は
「勅定」の説明。それを「主ノ望ニテ」で覆り、核の文章に繋がるのが原文。
→ソースは?そんな厳選を重ねて出した勅定を秀吉は一度は了承しておきながら後から辞退するとかアホみたいな
いや辞退事例なら信長家康秀頼その他大勢と山ほどいるし、秀吉の望みは「四位の大将(兼将軍)は荷が重いから、さらに下の官位授けて」だから朝廷に不都合なんて一切ないし。
499 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 19:34:02.30 ID:uVDvEjaW
→ソースなし 根拠なし
いやそもそも勅定が天皇の意思に関係なく勝手に否定されたり、まるでそれがなかったかのようになったことが一切ないからな。
出した勅定を否定するなら、それを否定する旨の勅定を出すから結局勅定の存在は残る。
ちなみに幕末のご時世に、孝明天皇の勅定を勝手に取り下げようとした公家の三条実美が天皇に激怒され、
「毎々朕が申出候議を、押返候義(中略)関白並其方共も、辞職辞表致候覚可有之候、其段承知歎、左有ば此度申旨に可任候」と七年史に書かれるくらいボロクソに言われている。
天皇の意思を確認して、新たに勅定が出されることで解決したが、それだけ群臣が勝手に天皇の勅定を変更削除するなんてことはご法度だった。
つか本当に勅定を変更していたのなら、「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮、五位ノ少将任了ト。」でいいだろwわざわざ四位大将の位を授けたなんて前の勅定の内容を書く必要がないw
→同時に生ずる秀吉が厳選して行われた勅定を了承したがすぐに自分から断って低い官位を望んだ矛盾
この段階では分不相応だと思ったんだろうよ。「官位は欲しいけど、高すぎる官位はイラネ」って思ってたんだろ。朝廷もこの態度に気をよくしたのか
同年の11月から秀吉に官位を与えまくってトントン拍子に官位出世しているし。
→前者は助動詞的意味用法なので二つ動詞を続けて繋げて書いても意味通るが
「了」に助動詞的意味用法はないw「完了」の助動詞を使いたいならき・けり・つ・ぬ・たりとかだ、それこそ「任じたり」でいい
→動作主体はあくまでB
動作主体は「自分の意思を持ち」「自分で行動し」「影響を与えている」人物を指す言葉だから受身でも行為主体になる場合がある(少なくとも日本語では)
AはBと会話した なら 受身にすると「Bは Aに 会話された」となるが、この場合BもAも行為主体。
「受身は絶対に行為主体にならない」とするのは英語など外国の言葉だけ。だから「日本人か?w」って言ってるんだけど
500 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 19:46:31.66 ID:KlJPyybs
そろそろ本題に戻ったら?
501 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 21:42:26.79 ID:SIsRS0dk
>>使われる文脈、は全く同じだね
全く同じじゃない。片方は「〜し終わる」と動詞に続けて使われる用法
もう片方は「〜する事を了解する」という前にある動詞を名詞化してそれを了解するという意味が全く異なる用法
つうかお前多聞院の他の文読んでないだろ
お前の出したソース元に了を文字の直前に漢字(動詞)をつけて使い、「〜する事を了解する」 なんて使い方は全く載ってないし
普通に〜する事を了すると書かれるだけ。 これは多聞院日記の他日付の条を読めばわかる。何かが
例 多聞院日記天正10年9/1条順慶社参了 8/24条で八万四千本の木のはんき一甚六開ノスリ立了 8/27条長堅房被書了、などと
了という言葉は頻繁に使われているが、了解の意味ではなく〜し終わったという意味で朝廷側の視点で書かれてる
>>両方とも同じ言葉から派生しているから当たり前だけど。ちなみに「了」に助動詞としての意味はない。助動詞の完了の意味で使いたいなら
>>それこそ「たり」とか「けり」でいいと思うけどな。
>>「了」に助動詞的意味用法はないw「完了」の助動詞を使いたいならき・けり・つ・ぬ・たりとかだ、それこそ「任じたり」でいい
けりやたりなんて多聞院じゃ使われてない。
〜する事を了解したと〜し終わったというのは文章構造として全然違う。後者は助動詞的な意味で使われ、〜できるとか、と同じような言葉の用法だから
任了と、任と了の間に何も書かなくても意味は通るが、前者は前の動詞を〜する事をと名詞化して使われているので、この場合任ずる旨了するとか
任ずる之段了するとか間に「任ずる」を名詞化する言葉が中に補われないと文法的におかしい。書状とか読んでみろよ。〜する事を〜するという文の構造なら前者の後に旨とか
段とか事とか名詞化がわかる言葉が補足されてできてるから。
502 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 21:43:34.35 ID:SIsRS0dk
>>やっぱり断ってってなんだ?
今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
の最初の一文の任ずるの部分で任ずるの中に秀吉の了承が入ってたら最後の文章の主が秀吉なら任官を了承した秀吉がすぐに断って五位少将に任じられ了解したっていうアホな文章になるだろボケ
>>原文の核となる部分は「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮、五位ノ少将ニ任了ト」で、「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨」は
叡慮の次に読点なんてねーよアホ。捏造なんてやってねーで多聞院の原文読み返せアホ
今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト だろボケ
>>いや辞退事例なら信長家康秀頼その他大勢と山ほどいる
山ほどはいない。
>>秀吉の望みは「四位の大将(兼将軍)は荷が重いから、さらに下の官位授けて」だから朝廷に不都合なんて一切ないし
お前の主張だと最初の四位の大将に任じには秀吉の了承が入ってるにもかかわらず、秀吉の望みで五位少将に収まるという矛盾w
これなら勅定出した天皇が勅定だした後で考え直して取りやめた、でも容易に意味が通りそうな無理矢理な主張だなw
宇多天皇は阿衡事件において勅書の撤回を迫られて実際に撤回してるな。今回も天皇は最初軽はずみによく考えず勅定出したが後から考え直すか
公家衆や朝廷の意見をきいて考えを改めただけだろ
>>つか本当に勅定を変更していたのなら、「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮、五位ノ少将任了ト。」でいいだろwわざわざ四位大将の位を授けたなんて前の勅定の内容を書く必要がないw
なんでそうなるのか不明。一度は四位大将・将軍の官を任ずる勅定出したが、その後考え直して撤回したという経緯が細かく書かれてるだけ。
>>この段階では分不相応だと思ったんだろうよ。
官位を得るのに分相応も不相応もない。足利義昭が将軍職得てる時点でわかるし公家が持ってる官位なんてそれこそ「分」になんて合ってない。
>>「官位は欲しいけど、高すぎる官位はイラネ」って思ってたんだろ。朝廷もこの態度に気をよくしたのか
秀吉はその前から御所造営とか金品献上とか饗応への参加とか頻繁に朝廷工作をしだし明らかに官位を速くほしがってるので
高過ぎる官位ならさっさともらうほうが吉。
>>同年の11月から秀吉に官位を与えまくってトントン拍子に官位出世しているし
そりゃ秀吉が引き続き朝廷工作しまくってただけ。御湯殿之上日記とか読めばわかる。
つうかお前の主張が正しけりゃ最初から了承なんてしてないし、最初の「任じる」の時点でありえない(お前の主張任じるに秀吉の了解が含まれているというなら)
秀吉が考え直したとか妄想がありなら、それこそ勅定出した天皇が考え直して取りやめた、とかも当然あり。
>>動作主体は「自分の意思を持ち」「自分で行動し」「影響を与えている」人物を指す言葉だから受身でも行為主体になる場合がある(少なくとも日本語では)
受身系で自分の意思で自分で行動し相手や周囲に影響を与える動作をしているのは相手側で自分はその動作を受けているだけ。
俺は人に物を渡されるという文なら渡された側の人間は自分の意思で行動し相手に影響を与えているわけではなく相手の意思による行動から影響を受けているだけなので
行為主体動作主体ではない
>>AはBと会話した なら 受身にすると「Bは Aに 会話された」となるが、この場合BもAも行為主体。
会話したは他動詞ではないのでこの場合は「話しかけた」が正しい。(会話された、なんて受身の日本語はない)
AはBに話しかけたならAが行為主体
AがBに話しかけられたならBが行為主体
503 :
人間七七四年:2013/08/11(日) 23:54:24.94 ID:AEqxLSmS
「主」が「義昭、信雄、秀信、多聞院英俊自身、醍醐寺の義演」のいずれかに違いない」や
「主=主流や衆望って意味だろ」はもう消えたようですね。
結局「主=天皇」(
>>387、
>>390)に回帰し、「天皇の意思を無視した勅定が下され、
天皇が望んで勅定と異なる任命をした。」という解釈が成立するかどうかという事ですか。
504 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 00:02:55.58 ID:KZxL+G7i
1 その社会・集団などを支配・統率する人。あるじ。「一国の―」「世帯―」
2 所有者。持ち主。「地―」
3 動作・行為の主体。また、ある事柄の主人公。「声の―」「うわさの―」
で、秀吉は1〜3どれにもあてはまらないから明らかに主の人物は別人を指すと。
505 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 08:22:46.89 ID:c1CGTrdu
>>451 文節を分けて少将以下にかけてる、そして倒置法も見られない
なんで前の文を修飾するんだ?
Becauseとはいったがbecouseとは言ってないぞ、パッと思いついただけだ
で、その違いはわかるよな?
直接話法の意味わかってないな
調べてからもう一度おいで
直接と間接という言葉に引っ張られすぎてる
高校の英語の素養と、あと好きで古文書むなら理解できそうなもんだが
506 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 08:33:36.94 ID:c1CGTrdu
あと了は完了系な
今の日本語に完了系は無いから過去形で訳すしかない
英語の過去分詞とかでやらなかったか?
あと主
十年以上まえの古語辞典、主の項の7「(軽い敬意を込め)あなた、君」と書いてるから
直接話法と合わせれば、秀吉に向かって「あなたを少将に任じました」だ
違うというなら語尾のトを含めて訳してくれ
任命し終わったなんて珍妙な日本語要らないぞ
507 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 08:34:39.86 ID:rQZeyEyo
→片方は「〜し終わる」と動詞に続けて使われる用法
だから、何を言ってるんだ?新しい日本語でも作ってるのか?「〜し終わる」は 動 詞 だぞ?
助動詞なら「き・けり・つ・ぬ・たり」でしか使えないから、「〜し終わる」の意味でも前の動詞を名詞化して使ってるんだよ
君が出してる「例 多聞院日記天正10年9/1条順慶社参了 8/24条で八万四千本の木のはんき一甚六開ノスリ立了 8/27条長堅房被書了、などと 」も
「参ることを終わった」「立てることを終わった」「書くことを終わった」で全部前の動詞が名詞化されて使われてる。
君は自分の例で自分の主張を否定していることになるぞ?動詞2つ並べるなんて日本語にないからな。「話した走った」とかになるから意味わからんし。
→けりやたりなんて多聞院じゃ使われてない。 後者は助動詞的な意味で使われ、〜できるとか、と同じような言葉の用法だから
だから多聞院は「了」を助動詞として使ってないって事だろ。そもそも「了」に助動詞の用法なんてないからなw
わかりやすい言葉として「了んぬ(おはんぬ)」と言う完了を表す言葉があるが、これは「了ん(おはん)」の動詞に
「ぬ」の助動詞がついて「〜し終わった」の意味を表している。ここから見ても「了」が助動詞でないのは一目瞭然。
→の最初の一文の任ずるの部分で任ずるの中に秀吉の了承が入ってたら最後の文章の主が秀吉なら
ああそういうことね。わかったわかった。でもそれは全く問題がないんだよ
「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨」は天皇による勅定の説明だから、天皇が頭の中で考えている事なんだよ。
つまりわかりやすく言うと、天皇が「四位の大将兼将軍の位を任命し、秀吉はそれを了承して受け取ってくれるだろう」と考えて勅定を出したのだが、
秀吉はなんらかの望みがあってこれを拒否し、代わりに出された五位少将の位を秀吉は了承した、という意味でつながる。
→叡慮の次に読点なんてねーよアホ。捏造なんてやってねーで多聞院の原文読み返せアホ
「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮<四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨>→『雖有勅定』、(主ノ望ニテ)→五位ノ少将ニ任了ト 」
→「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮、五位ノ少将ニ任了ト 」←<>『』()の説明部分を外す わかった?
→山ほどはいない。
辞退しないと後任の人が官職につけんのですが・・・関白だけでも何人の人が歴任していると思って?
→お前の主張だと最初の四位の大将に任じには秀吉の了承が入ってるにもかかわらず、秀吉の望みで五位少将に収まるという矛盾w
「四位の大将に任じに入る秀吉の了承」は天皇朝廷の脳内仮想シュミレーションで実際に起こっていることじゃない。
天皇は「秀吉は了承するだろう」と考えて勅定を出したが、予想に反して秀吉(主)は「望み」によって五位の少将の位を了承してきたと言う話。
→その後考え直して撤回したという経緯が細かく書かれてるだけ。その後考え直して撤回したという経緯が細かく書かれてるだけ。
勅定の撤回は不可能だから、天皇が撤回するにはもう1回そういう旨の勅定を出さないとな。「前勅押返、五位ノ少将ニ任成之旨有勅定」みたいな文章が入ってくる
→宇多天皇は阿衡事件において勅書の撤回を迫られて実際に撤回してるな
阿衡事件は「勅書の撤回」ではなく「勅書の謝罪訂正」なので全然違う。問題の勅書が出した後でそれを誤解だと謝罪する旨の勅書が出ている。
ちなみにこの事件は藤原基経の言い分である「勅書を推敲した橘広相の処罰」が成されていないので、結果的に天皇側の勅書が有効になった形。
だから勅書の効力は一応有効なので、「勅書の撤回」ではない。撤回は無効にすることだからね。
→官位を得るのに分相応も不相応もない。
当時まだ小牧で戦争中ですし
508 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 08:34:55.23 ID:rQZeyEyo
→高過ぎる官位ならさっさともらうほうが吉
分不相応の官位を得たところで他の連中の反発とか買うだけだし何の意味もないわな、秀吉がその官位を欲しくないなら猶更
→そりゃ秀吉が引き続き朝廷工作しまくってただけ。御湯殿之上日記とか読めばわかる。
権力地盤をつけてさらに上の官位を狙っても誰も文句つけられない、と考えたからだろ。小牧で勝ったし自然な流れだわな。
→受身系で自分の意思で自分で行動し相手や周囲に影響を与える動作をしているのは相手側で自分はその動作を受けているだけ。
それは要の動詞によって変わる。例えば「見る」とか「殴る」とかだったら
相手が死人だろうがモノだろうが「可能な動作」になるので、この場合受身は行為主体にならない。
ところが君が例示している「人に渡す」なんかだと、渡される側が「受け取」らないと、そもそも「渡す」と言う行為自体が成立しない。
場合によっては「突っ返される」し、また「受け取ってくれる」時もある。こういう結果を明記する場合もあるが、
明記しない場合は「渡す」の中に前述の「受け取る」が内包されるので、受身が行為主体になることもある。
→会話したは他動詞ではないのでこの場合は「話しかけた」が正しい。(会話された、なんて受身の日本語はない)
日本語では目的語を取るか取らないかで自動詞か他動詞かが変わるので一応「会話した」は他動詞になる。
英語では自動詞だけど「With」とか「To」で目的となる対象を取るからね。英語でも実質他動詞扱いされている。
まあ「話しかけた」という言い方の方がメジャーではあるし、「会話された」なんてもう滅多に使わねーけど、日本語上、一応意味は通る
よって受身でも行為主体を取れる。
509 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 09:45:02.62 ID:02WU1xyZ
>>506 なんで多聞院の著者にとっての二人称が秀吉なんだよアホw秀吉と多聞院が会話してたってかww
>>507 正確には複合動詞とか補助動詞というものだったな
>>「参ることを終わった」「立てることを終わった」「書くことを終わった」で全部前の動詞が名詞化されて使われてる。
そんな使われ方してない。単に二つの動詞が続く複合動詞、補助動詞の形でしようされてるだけ。書くことを終わった参る事を終わったなんて日本語では一々書かない。
つうか日本語(殊に古語の文章)の場合、動詞が名詞化して使用する時は〜するの段、とか〜するの旨とか、〜すること、とかちゃんと名詞化して使われる。
つうか多聞院の当該当部分にもちゃんと出てきてんのに無視してんじゃねぇよアホ
>>動詞2つ並べるなんて日本語にないからな。「話した走った」とかになるから意味わからん
それをいうなら動詞に当たる漢字を二つ続けるような言葉で前者を名詞化、体言化して使用していいなんてルールねぇわアホw
走ったとか補助動詞でも複合動詞でもないから全く例として不適だわアホw光り輝く,投げ入れる,書き上げるとかと同じような用法だろ普通に考えて
>>わかりやすい言葉として「了んぬ(おはんぬ)」と言う完了を表す言葉があるが、これは「了ん(おはん)」の動詞に
>>「ぬ」の助動詞がついて「〜し終わった」の意味を表している。ここから見ても「了」が助動詞でないのは一目瞭然。
助動詞といったのは英語の感覚にとらわれて間違っていたが、何にせよ〜し終わったという意味で他の文節で問題なく使われてるわけで。
毎回毎回多聞院が日記つけるたびに〜する事を了解するとかわけわからんだろアホw
日記だから過去(完了)の形で書かれてるの了で表現してるだけだわアホ
>>「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨」は天皇による勅定の説明だから、天皇が頭の中で考えている
妄想曲解乙
原文は今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト だから
天皇の頭の中で秀吉が了解すると考えているだけなら、後ろの文の主=動作の主体は秀吉とはならないだろアホ
なんで天皇の頭の中で考えた秀吉の動作が、後ろの天皇が出した勅定を主の望みで五位少将の官に任じたという文で
動作主体が秀吉になるんだタコw
510 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 09:46:04.47 ID:02WU1xyZ
>> 「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮<四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨>→『雖有勅定』、(主ノ望ニテ)→五位ノ少将ニ任了ト 」
>>→「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮、五位ノ少将ニ任了ト 」←<>『』()の説明部分を外す わかった?
お前の妄想曲解なんぞ知らん。原文では今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト だから
秀吉が四位の少将に任じ将軍の官を兼ねる旨の勅定が出されたが主(動作主体である天皇か朝廷)の望みで五位少将の官に任じ終わったとなるだけ。
>>辞退しないと後任の人が官職につけんのですが・・・関白だけでも何人の人が歴任していると思って?
任じた人間から朝廷が奪回したor自然になくなった(死亡などで)だけだろwお前官位は朝廷の物で自分の所有物じゃないから自分の好き勝手できないとか散々ほざいときながら
都合悪くなると平気で矛盾した事いうんだなw
>>「四位の大将に任じに入る秀吉の了承」は天皇朝廷の脳内仮想シュミレーションで実際に起こっていることじゃない。
天皇朝廷の脳内仮想シュミレーションとかお前の脳内妄想乙
原文は今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト だから
天皇の頭の中で秀吉が了解すると考えているだけなら、後ろの文の主=動作の主体は秀吉とはならないだろアホ
なんで天皇の頭の中で考えた秀吉の動作が、後ろの天皇が出した勅定を主の望みで五位少将の官に任じたという文で
動作主体が秀吉になるんだタコw
>>天皇は「秀吉は了承するだろう」と考えて勅定を出したが、予想に反して秀吉(主)は「望み」によって五位の少将の位を了承してきたと言う話。
そんなら動作主体は秀吉ではなく天皇。天皇の脳内設定にあがっただけの「秀吉の了解」をもって文章の動作主体が秀吉に摩り替わるとか頭大丈夫か。
>>勅定の撤回は不可能だから、天皇が撤回するにはもう1回そういう旨の勅定を出さないとな。「前勅押返、五位ノ少将ニ任成之旨有勅定」みたいな文章が入ってくる
勅定が正式に出されたものじゃなく、天皇が「こうしようかな」と勅定を出そうかと脳内シュミレーションしてるだけなら全く問題ないな
天皇がこうしようかな、と頭の中で考えた事が前半に書かれてるだけで、後半部分は実際にやった事が書かれてるだけ。
511 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 10:15:19.77 ID:02WU1xyZ
>>阿衡事件は「勅書の撤回」ではなく「勅書の謝罪訂正」なので全然違う
http://www.himeji-du.ac.jp/nyushi/ipan_B2/ipan_B2_niho.pdf#search='%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E5%8B%85%E6%9B%B8+%E6%92%A4%E5%9B%9E'
のように撤回されてる
>>だから勅書の効力は一応有効なので、「勅書の撤回」ではない。撤回は無効にすることだからね
一旦は撤回されてる事には変わりない。一回も撤回が不可能みたいなお前の主張が崩れるんだから、この時期の天皇の勅書もあまり考えず
軽はずみに出した勅書が後から考え直したか公家衆や朝廷衆の反対にあって撤回されただけ。
>>当時まだ小牧で戦争中ですし
なら余計官位の利用価値があるだけ。官位なんて味方増やしたり地盤固めるためにもらうようなもんだからな
>>分不相応の官位を得たところで他の連中の反発とか買うだけだし何の意味もないわな
なら最初から朝廷に接触なんてしてないし他の官位も貰おうとしてない。
>>秀吉がその官位を欲しくないなら猶更
高い官位をほしくない理由がない。その証拠に天正12年頃から秀吉は朝廷工作しまくってるし次々高い官位をほいほいもらって
正親町親王の即位問題につけこんで関白まで棚ボタで貰ってる。
>>権力地盤をつけてさらに上の官位を狙っても誰も文句つけられない、と考えたからだろ
だから
>>499の主張朝廷がこの態度に気がよくしたとかお前のアホな妄想だろって話なんだが。
>>小牧で勝ったし自然な流れだわな
全く勝ってないわけだが…おそらく秀康を人質などと曲解してそれをもって勝利などとする堀の馬鹿妄言に囚われてるんだろうが秀康はあくまで養子だし(養子と人質は違う)
翌年家康が全然従属してこずに秀吉家康双方決戦の準備進めまくってるのが史料でわかるし、直前になったら秀吉がビビリまくって信雄に仲介頼んで母と妹を差し出して「ワシに従ってくれ〜」
とばかりに土下座したら、やれやれと思った家康は仕方ねぇなwと応じてやっただけ。秀吉は天正13年夏〜天正14年初頭まで徳川征伐の意思と計画を上杉とか佐竹とか配下の一柳にあてて
準備も進めまくってたが直前になったら信雄に仲介頼んだり母と妹差し出すビビリっぷりだからなw
>>それは要の動詞によって変わる
妄想乙。他動詞なら動作主体は受身系ではない通常の文の時の主語の人間。
>>「人に渡す」なんかだと、渡される側が「受け取」らないと、そもそも「渡す」と言う行為自体が成立しない
人が受け取ろうが受け取るまいが、渡すは渡す。
受け取らなかったなら、「渡したが、受け取らなかった」と書かれるだけ。
512 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 10:53:35.27 ID:4AZutu8/
>>場合によっては「突っ返される」し、また「受け取ってくれる」時もある。こういう結果を明記する場合もあるが、
場合によってはではなく突っ返された場合は必ず明記され、渡した、だけで終わる事はない
AはBに花を渡した
BはAから花を渡された
両方の文でも突っ返されたんなら渡しただけで終わるわけがないし、渡したことにならない。
>>明記しない場合は「渡す」の中に前述の「受け取る」が内包されるので、受身が行為主体になることもある。
意味的には確かに内包される事になるが、行為の主体動作の中心は実際に書かれている「渡す」事なので
動作主体は渡した側で変更はない。「主体」だから渡す行為を取る方が主体
>>日本語では目的語を取るか取らないかで自動詞か他動詞かが変わるので一応「会話した」は他動詞になる。
〜と会話したの〜とに当たる部分は目的語ではなく客体なだけ。
>>まあ「話しかけた」という言い方の方がメジャーではあるし、「会話された」なんてもう滅多に使わねーけど、日本語上、一応意味は通る
そんな日本語ない。誰も使ってないし会話する、と話しかけるでは動詞の種類が違う。
前者では受身系にしたら意味が全く通じないし、例として不適。受身系としてそんな日本語使ってる例があるなら
あげてみな。そんなもんお前が勝手に作った造語だから
513 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 13:27:53.37 ID:lAAzhsVa
→正確には複合動詞とか補助動詞というものだったな 走ったとか補助動詞でも複合動詞でもないから全く例として不適だわアホw
複合動詞とか補助動詞を本当にわかって言ってるのか?w言い逃れで適当こいているんじゃねーよな?
複合動詞は「動詞+動詞」の組み合わせだから、どの動詞であろうが組み合わせることができるぞ?
君が否定している「走る」も「走りきった」で複合動詞になれるからな?wつまりそれでは
「任じられ了解した」という意味でも通ることになり、「絶対に『任じ終わった』だ」とする君の主張は無に帰するねw
→毎回毎回多聞院が日記つけるたびに〜する事を了解するとかわけわからんだろアホw
別に俺は多聞院の記事を例示してはいないし、そこに関してはまだ何も主張していない。
でも君の出す「例 多聞院日記天正10年9/1条順慶社参了 8/24条で八万四千本の木のはんき一甚六開ノスリ立了 8/27条長堅房被書了、などと 」の例示が
「参ることを終わった」「立てることを終わった」「書くことを終わった」と言えるということは、
「任了」を「任じられることを了解した」で全くおかしくない文章になるわけだ。意味の通る2つの動詞を使って、
ちゃんと意味が通じるようになればいいんだから何の問題もない。
514 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 13:28:09.92 ID:lAAzhsVa
→天皇の頭の中で秀吉が了解すると考えているだけなら、後ろの文の主=動作の主体は秀吉とはならないだろアホ
「天皇が頭の中で『秀吉が了解するだろう』と考えて書いた」勅定を 秀吉が 受け取った だからね?
原文でも(今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮)「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定」だから、全く問題はない。都合が悪くなったからって曲解はよそうなw
→秀吉が四位の少将に任じ将軍の官を兼ねる旨の勅定が出されたが主(動作主体である天皇か朝廷)の望みで五位少将の官に任じ終わったとなるだけ。
最初の「四位の少将に任じ将軍の官を兼ねる旨の勅定」はどこへ行ったの?勅定を覆すには、それを否定する勅定を出さなければいけないので、
「前回の勅定は取消、五位の少将に任じる」という勅定を出さなきゃいけないのだがそんなもん原文には一切書いてないよね?
多聞院の坊主が取り消されたはずの前の勅定のみを記した理由は何?
→任じた人間から朝廷が奪回したor自然になくなった(死亡などで)だけだろwお前官位は朝廷の物で自分の所有物じゃないから自分の好き勝手できないとか散々ほざいときながら
いっこも矛盾してないんだけど苦しくなりすぎて理解力大丈夫?
・官位の所有者は天皇(朝廷)
・官位は一時的に貴族や武士に任命と言う形で職務を任せることができる
・任せられるのが面倒だったり、職務を全うできないと考えた貴族や武士はそれを拒否することもできる
たったこんだけのことしか言ってないんだけど、それすら理解できなくなった?
→天皇の頭の中で秀吉が了解すると考えているだけなら、後ろの文の主
天皇の頭の中の話は「旨雖有勅定」でおしまい。というか「旨」がある時点で、「勅定」の説明だってわかりそうなもんだけど大丈夫?
→勅定が正式に出されたものじゃなく、天皇が「こうしようかな」と勅定を出そうかと脳内シュミレーションしてるだけなら全く問題ないな
「雖有勅定」だからもう勅定出された後ですねw「有」と言うことは、既に物体として勅定が存在しているということですからw
515 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 13:28:25.86 ID:lAAzhsVa
→のように撤回されてる
いきなり入学試験問題なんて出し始めてどうしたんだ?
私立大学の入試問題なら全く根拠になりえないし、公立国立でも国が試験問題作るわけではないのだが
何より俺が言っているのは「勅定を否定できるのは勅定だけ」「撤回でなかったことにできない」と言うのが意味であり
これだけでは「2つめの訂正勅定が出されたことを省略しているだけ」とも言える。
→一旦は撤回されてる事には変わりない。一回も撤回が不可能みたいなお前の主張が崩れるんだから、
一回も撤回されてないなんて一言も言ってないのだが。俺が言っているのは「勅定が天皇の意思に関係なく勝手に否定されたり、まるでそれがなかったかのようになったことが一切ない」
と言っているだけで、勅定を使っての勅定の否定訂正は普通にある。つまり「勅定を否定できるのは天皇だけ」であって、
君の意見のような「軽はずみに出した勅書が後から考え直したか公家衆や朝廷衆の反対にあって撤回された」事例は一切ない。
最終決定権は天皇にあるのであって、天皇が賛成して初めて勅定の否定などが行える。
で、件の文章「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト」なわけだが、
この文中には「『四位の大将に任じて、将軍の位を兼ねよ』という勅定を否定し、『五位の少将に任じる』という勅定」が出されたことが全く書かれていない。
朝廷内部の政治体制で天皇の勅定を否定、訂正できるのは天皇の勅定だけなのに、これでは勅定の否定もなく勝手に「五位の少将」に任じられてしまっている。
それどころか「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨」の勅定が否定されていないことになり、秀吉は将軍を兼ねる四位の大将と、五位の少将両方に任命されたことになってしまう。
よってこの「主」は天皇ではない。天皇なら「主の勅定にて」と言い切られる。
→なら余計官位の利用価値があるだけ。なら最初から朝廷に接触なんてしてないし他の官位も貰おうとしてない。
だから官位の利用価値を見て五位少将の官職を貰ってるんだが
何事にも優先順位はあるし、別に今もらえなくてもいずれ貰うことだってできる。秀吉に征夷大将軍への興味がなかっただけ。
516 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 13:28:41.43 ID:lAAzhsVa
→高い官位をほしくない理由がない。
高い官位を「今欲しい」と「いずれ欲しい」は別。別に今貰わなくてもいずれ貰えるし急ぐ必要はゼロ
→だから
>>499の主張朝廷がこの態度に気がよくしたとかお前のアホな妄想だろって話なんだが。
実際に官位をバンバン出して秀吉とも昵懇になっているわけだから「気をよくした」とも言えるわな。後の結果を考えれば何も問題ない。
→全く勝ってないわけだが…
流石にどちらが勝利かと言われれば普通に秀吉なわけだが。年老いてすぐ死にそうになっている母親と
将来の多い大名当主の長子では同じ交換でも格が違うわな。いくら秀吉の方が犠牲多かろうが軍の数が圧倒的に違いすぎるし
信雄や家康は秀吉から掠め取った領土など寸土もないわけだが・・・逆に池田や木曽に寝返られてるし。
→受け取らなかったなら、「渡したが、受け取らなかった」と書かれるだけ。 意味的には確かに内包される事になるが、行為の主体動作の中心は実際に書かれている「渡す」事なので
意味が内包されているのに行為主体は内包されないとか文が破綻してしまうのだが。そもそも行為主体は「意思を持った」「積極的な行動をする」人物だから、
別に主語だけが行為主体になるという決まり事は一切ない。条件に当てはまれば行為主体。当てはまらなければ行為主体じゃない。それだけ。
→例として不適。受身系としてそんな日本語使ってる例があるならあげてみな。そんなもんお前が勝手に作った造語だから
愛し合う→愛され合う 結ぶ→結ばれる 巡り合う→巡り合われる 手を組む→手を組まれる とか
517 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 19:12:40.64 ID:KZxL+G7i
>>513 複合動詞にはルールがいくつかあってどの動詞でも自由に組み合わせられるわけではない
http://www.mdu.edu.tw/~daj/mdujapkyoiku/Microsoft%20Word%20-%201.pdf#search='%E8%A4%87%E5%90%88%E5%8B%95%E8%A9%9E'
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~kokugo/nonami/semi/zanjituroku2.html http://www.lingq.com/forum/10/6039/ http://www.jasso.go.jp/tokyo/documents/nihongogaku.pdf#search='%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8B+%E8%A4%87%E5%90%88%E5%8B%95%E8%A9%9E'
>>「任じられ了解した」という意味でも通る
複合動詞の成立条件の一つに主体の一致原則があるし、どの用例文をみても前部分の漢字の名詞化・体言化(〜する事を)という用法は全くない。つうかこれは複合動詞とは言わん。
>> 多聞院日記天正10年9/1条順慶社参了 8/24条で八万四千本の木のはんき一甚六開ノスリ立了 8/27条長堅房被書了、などと 」の例示が
>>「参ることを終わった」「立てることを終わった」「書くことを終わった」と言えるということは
参る事を終わった、立てる事を終わった、などと動詞に当たる語を二つ続けて使用する時前の語の名詞化・体言化が自然になされることはない。
これは多聞院日記の該当箇所に〜の旨と出てたり書状とか史料みると〜の段とか〜のこととか〜の由とかちゃんとわかるように名詞化して書かれてる
>>「任了」を「任じられることを了解した」で全くおかしくない文章になるわけだ。意味の通る2つの動詞を使って、
動詞を二つ続けて使用する場合主体の一致原則があるからこれはまず当てはまらないし前半部分を〜することと体言化・名詞化して使用するならちゃんとそうわかるように
書かれてる(現にすぐそばの箇所でも〜の旨と書いてる)
>>「天皇が頭の中で『秀吉が了解するだろう』と考えて書いた」勅定を 秀吉が 受け取った
>>507で「四位の大将に任じに入る秀吉の了承」は天皇朝廷の脳内仮想シュミレーションで実際に起こっていることじゃないと書きながら簡単に論を覆したダブスタ乙
それなら俺の反論どおり
>>502今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
の最初の一文の任ずるの部分で任ずるの中に秀吉の了承が入ってたら最後の文章の主が秀吉なら任官を了承した秀吉がすぐに断って五位少将に任じられ了解したっていうアホな文章になるだけ。
>>最初の「四位の少将に任じ将軍の官を兼ねる旨の勅定」はどこへ行ったの?勅定を覆すには、それを否定する勅定を出さなければいけない
天皇がそもそもお前が
>>507で主張した通り「脳内シュミレーション」で考えてただけじゃね
だからそれを覆す勅定なんていらなかったと。
>>「前回の勅定は取消、五位の少将に任じる」と勅定を出さなきゃいけないだがそんなもん一切書いてない
そんなもんはお前の主張
>>462が主体側の動作と主体同時消去可能なので、省略されてるだけだろ。
>>多聞院の坊主が取り消されたはずの前の勅定のみを記した理由は何?
お前が
>>462で書いてるように「それは省略されているだけ。「勅定」の書き手である天皇や朝廷が省かれているように
普通に考えりゃ当初とは別の内容の勅定が出されてると書かれてたら勅定は取消されてて当然だから書かれていない」だけ
>>官位の所有者は天皇(朝廷)一時的に貴族や武士に任命と言う形で職務を任せることができる
>>任せられるのが面倒だったり職務を全うできないと考えた貴族や武士はそれを拒否することもできる
お前が
>>435で>先祖代々の土地とか城を見ればわかるでしょ?大名が死んだら、その土地を足利や朝廷に返すなんてことあったか?
> 大名が死んだら、その子供や弟など親族が遺産として引き継いで、そのまま「所有」しているだろ?それが「所有」。
と書いてるからようはそういう解釈なんだろ。
なんで後任の人が官職につくことが官位を辞任してる事になるんだよアホ
関白職やら官位を最初から朝廷や天皇が所有してるんだから後任の人が官職につく事=前任の人が辞任なんてならねーよアホ
518 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 19:32:11.61 ID:KZxL+G7i
>>天皇の頭の中の話は「旨雖有勅定」でおしまい。「旨」がある時点で、「勅定」の説明だってわかりそう
原文は今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト だから
前二文が天皇の頭の中の話なら後ろの文の主体は天皇or朝廷となるだけ。つうか頭の中で考えてただけとか妄想乙だな
そんなら前二文は「秀吉が望んだ事」を書いてるだけで、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
の部分の前半部分は、秀吉が将軍の官を兼ねて勅定を下される事を望んだがというように秀吉が望んだことの内容が
省略して書かれてるだけであり、天皇の望みで五位の少将にまかせ終わる事になったと解釈すれば矛盾なくしっくりいくな
>>「雖有勅定」だからもう勅定出された後ですねw「有」と言うことは、既に物体として勅定が存在しているということですからw
すぐ上に書かれた>天皇の頭の中の話は「旨雖有勅定」でおしまいと矛盾した妄想曲解乙
>>「勅定を否定できるのは勅定だけ」「撤回でなかったことにできない」
いや撤回されてる。どのサイトとか本で見てもちゃんとそれは載ってる。勅定を否定する勅書がかかれてないのは単に省略されてるだけ
>>462 「当然誰もが知っている当たり前のこと」と「文中から推測できるだろ」と言う部分は省略可能
>>493 勅書を取り消すには勅書が必要というのは常識で誰もが知ってる当たり前の事だし文中から推測も可能なので省略されてるだけ。
>>これだけでは「2つめの訂正勅定が出されたことを省略しているだけ」とも言える。
そもそも訂正ではなく撤回されてるし訂正されただけなんてどのサイトとか本みても出てこない。
>>勅定が天皇の意思に関係なく勝手に否定されたり、それがなかったかのようになったこと一切ない
別に俺の言ってる、この秀吉任官の撤回が天皇の意思に関係なく行われたとは一言もいってない。天皇からすりゃ俗世で誰が将軍になろうがちゃんと朝廷に貢献してくれる
人間なら誰でもいいわけだからな。単に天皇が軽はずみor深く考えず出したor出そうと考えていた勅定が、よくよく深く考えてみるand公家衆や朝廷の他の人間の意見を聞いてみると
やっぱりおかしいかなと考え直して別の内容に訂正or撤回しただけ。
>>つまり「勅定を否定できるのは天皇だけ」
最終決定権が天皇にあるだけで、天皇の意思決定の重要な要素になってるのは天皇と直接接触する公家衆とか朝廷の他の人間の見解とか衆議とかだろ
>>君の意見のような「軽はずみに出した勅書が後から考え直したか公家衆や朝廷衆の反対にあって撤回された」事例は一切ない。
宇多天皇の例でしっかりあがってる
>>最終決定権は天皇にあって、天皇が賛成して初めて勅定の否定などが行える。
だから、天皇が軽はずみor深く考えずorごく一部の人間の意見だけ参考にして、出したor出そうと考えていた勅定が、
よくよく深く考えてみるand公家衆や朝廷の他の人間の意見を聞いてみるとやっぱりおかしいかなと考え直して別の内容に訂正or撤回しただけ
これで何も問題なく意味が通るな。天皇が最終的に賛成するか否かは公家衆の見解とか朝廷の人間の意見衆議などが重要な要素だろうし
天皇からすりゃ誰がなろうが朝廷に貢献してくれるなら誰でもいいからな
>>文中に「『四位の大将に任じて、将軍の位を兼ねよ』という勅定を否定し、『五位の少将に任じる』という勅定」が出されたことが全く書かれてない
それは単に省略されてるだけ。
>>493「当然誰もが知っている当たり前のこと」とか「文中から推測できる」事は省略可能なので、
勅書の撤回には勅書が必要と言う事は朝廷や公家や京に近い人間なら誰でも知ってる当たり前のことだし、後文で、前文と違う内容の勅書が出たと書かれてるので
勅書が撤回されたんだと「文中から推測可能」なので省略されてるだけ
519 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 19:55:56.65 ID:KZxL+G7i
>>朝廷内部の政治体制で天皇の勅定を否定、訂正できるのは天皇の勅定だけなのに、勅定の否定もなく勝手に「五位の少将」に任じられてる。
「朝廷内部の政治体制で天皇の勅定を否定、訂正できるのは天皇の勅定だけ」は
>>493「当然誰もが知っている当たり前のこと」だし
後ろの文で前の文と違う内容の任官が出たと書かれてるので勅書が撤回されたんだと「文中から推測可能」なので省略されてるだけ
>>「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨」の勅定が否定されていないことになり、秀吉は将軍を兼ねる四位の大将と、五位の少将両方に任命されたことにな
だからそうやって書かれてたら違う内容の任命結果になってるから勅書が撤回されたんだと「文中から推測可能」なので省略されてるだけ
>>よってこの「主」は天皇ではない。天皇なら「主の勅定にて」と言い切られる。
勅定なんて書かなくても、任官とかには当然天皇の意思決定が必要な事は「当然誰もが知っている当たり前のこと」だし
勅書が取り消された事も「文中から推測できる」事なので、省略してるだけ。
>>高い官位を「今欲しい」と「いずれ欲しい」は別。別に今貰わなくてもいずれ貰えるし急ぐ必要はゼロ
さっさと天下平定を進めるor自国の地盤を磐石な物にする目的で朝廷への接近や朝廷貢献してるだけだし
急がなくていいなら最初から朝廷に接触なんてしてないし他の官位も貰おうとしてない(時間かけりゃ官位なんてなくても同盟勢力&敵対勢力の敵を
利用した漁夫の利戦法でいずれは天下平定なんて余裕な国力だろうし)
>>実際に官位をバンバン出して秀吉とも昵懇になっているわけだから「気をよくした」とも言える
>>499お前「官位は欲しいけど、高すぎる官位はイラネ」って思ってたんだろ。朝廷もこの態度に気をよくしたのか
同年の11月から秀吉に官位を与えまくってトントン拍子に官位出世している」
>>502俺「官位を貰いまくってるのは秀吉が引き続き朝廷工作しまくってただけ。御湯殿之上日記とか読めばわかる」
>>508お前「朝廷工作は権力地盤をつけてさらに上の官位を狙っても誰も文句つけられない、と考えたからだろ」
>>511俺 だから
>>499の主張 官位をバンバン朝廷が出したのは朝廷がこの態度(秀吉が厳選して行われた勅定を了承したが
すぐに自分から断って低い官位を望んだという態度)に気がよくしたとかお前のアホな妄想だろって話なんだが
秀吉が自分から断って官位を望んだかどうかを論じているのに、それを初めから正しい前提で、だから朝廷を気をよくしたとか話にもならない妄想
書くとか相当頭が悪いな
520 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 20:51:32.25 ID:FV/6CHyD
→複合動詞の成立条件の一つに主体の一致原則があるし、どの用例文をみても前部分の漢字の名詞化・体言化(〜する事を)という用法は全くない。つうかこれは複合動詞とは言わん。
秀吉が「任じられ」秀吉が「了解した」 両方秀吉が主体で何の問題もない。
→参る事を終わった、立てる事を終わった、などと動詞に当たる語を二つ続けて使用する時前の語の名詞化・体言化が自然になされることはない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E7%94%A8%E5%BD%A2 動詞の連用形はそのままでも名詞になれる。名詞化した言葉に動詞がついているだけ。何の問題もない。
→動詞を二つ続けて使用する場合主体の一致原則があるからこれはまず当てはまらないし
「任じられた」の主体が秀吉で「了解した」の主体も秀吉。意志を持って積極的に行動しているので主体は秀吉。主体一致で問題なし。
→
>>507で「四位の大将に任じに入る秀吉の了承」は天皇朝廷の脳内仮想シュミレーションで実際に起こっていることじゃないと書きながら簡単に論を覆したダブスタ乙
自分の理解力のなさを俺のせいにされてもな。もしかして「雖も(いえども)」が否定の意味だってわかってない?
天皇は「秀吉が四位の大将に任じ、秀吉が了承するだろう」と考えて 秀吉に 勅定を送った しかし 秀吉の望みで 五位の少将を任じられ (秀吉が) 了解した
何1つ問題のない文を理解力のなさを露呈させてまで恥を深める必要はないと思うんだがなあw
521 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 20:51:47.60 ID:FV/6CHyD
→だからそれを覆す勅定なんていらなかったと。
「雖有勅定」だから既に存在しています。
→そんなもんはお前の主張
>>462が主体側の動作と主体同時消去可能なので、省略されてるだけだろ。
省略されるどころか「主の望みにて」なんて文がついているわけだが。ちゃんと書かれるなら
「前勅否定、五位の少将旨勅定有」とか書く必要があるし、君の言うとおり「完全に省略された」となるなら「主の望みにて」何ぞ必要ない文章
結局「主の望みにて」なんて文章があるおかげで天皇が主語と言う可能性も、勅定の省略の可能性も一切否定されてる。
→関白職やら官位を最初から朝廷や天皇が所有してるんだから後任の人が官職につく事=前任の人が辞任なんてならねーよアホ
天皇や朝廷が「この官職は定員何人まで」とか決めちゃってるからね。天皇や朝廷が所有しているからこそ後任の人のために空ける必要がある
任命された側がずっと所有できるなら関白20人とか余裕で可能。任命されてずっと辞任しなければ死んでもそいつのままだし。
→前二文が天皇の頭の中の話なら後ろの文の主体は天皇or朝廷となるだけ。つうか頭の中で考えてただけとか妄想乙だな そんなら前二文は「秀吉が望んだ事」を書いてるだけで、
前の文章は「旨雖有勅定」でしめられているから誰でも勅定のことだってわかるし、前の文は残念ながら「従叡慮」と天皇に従い、を指す文があるのでどちらも当てはまらない。
文句言うなら自分の妄想通りに資料を書いてくれなかった多聞院の英俊に言ってね
→すぐ上に書かれた>天皇の頭の中の話は「旨雖有勅定」でおしまいと矛盾した妄想曲解乙
流石に「旨雖有勅定」を説明の締めくくりだと思わないのは日本語センス疑われるぞ
522 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 20:52:03.24 ID:FV/6CHyD
→いや撤回されてる。どのサイトとか本で見てもちゃんとそれは載ってる。勅定を否定する勅書がかかれてないのは単に省略されてるだけ
まあ阿衡の紛議に関してはそうだろうね。2番目の否定する勅書が載っていないことも、そもそも事件の顛末すらないこともある。俺の持っている教科書では対立したとしか書いてないし。
→勅書を取り消すには勅書が必要というのは常識で誰もが知ってる当たり前の事だし文中から推測も可能なので省略されてるだけ。
うん、で「省略されている」ってことは、「記述を構成するための文だけど、当然誰もが知っていることだから省略した」だから、
逆算すれば「文中で丁寧に解説しても全く違和感ない」のが前提だよな?誰もがわかることを省略しているんだから、それで文中の意味が通らないなんてことはないよなあ?
今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
はい、これが原文だけど、これに「前勅を否定し、五位の少将に任じる之旨有勅定」とかいう意味の文をぶちこんで。「当たり前のことを省略」だから当然戻せるよね?ほらやってみ?
「主の望みにて」がわけわからん文脈になるんだけど、でも君は「省略されてるだけ」と言ったからできるよね?
→そもそも訂正ではなく撤回されてるし訂正されただけなんてどのサイトとか本みても出てこない。
朕の本意は、万政を関白してその輔導を頼まんと欲すとしてなも、前の詔は下せる。しかるに旨を奉りて勅答を作るの人広相が阿衡の引けるは、已に朕の本意に乖きたるなり。(政事要略 阿衡事)
http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/handle/123456789/1848 http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tokusyu00002/toku00002-5.htm#a 思いっきり「訂正」と書かれているのもありますけど・・・そもそも藤原基経は「勅の撤回」なんぞ求めておらず、日本三大実録によると当の基経自身が
884年の光孝天皇とのやりとりで「如何、責阿衡、(以下略)」と「阿衡」の文字を使っている。基経の主張は一貫して「勅を起草した橘広相の罷免」であって「勅の撤回」ではないのだから、
勅が撤回されず訂正で終わるのは必然の流れだわな。
523 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 20:52:19.39 ID:FV/6CHyD
→やっぱりおかしいかなと考え直して別の内容に訂正or撤回しただけ。
のわりには省略を戻しても意味が通じない文章になるわ、「主の望みにて」なんて文章があるわ、滅茶苦茶ですね。
→宇多天皇の例でしっかりあがってる
全然挙がってない。宇多天皇が勅を取り下げたのは最終的には「阿衡」の文字を使っていらん波風を立てた「橘広相」が悪い。
だから橘広相に書かせた勅を訂正する旨の勅(朕の本意は、万政を関白してその輔導を頼まんと欲すとしてなも、前の詔は下せる。
しかるに旨を奉りて勅答を作るの人広相が阿衡の引けるは、已に朕の本意に乖きたるなり。『政事要略』)を出していることが判明している。
最終的にこの事件は菅原道真が両方をあいもって仲裁するのだが、その時の道真も別に橘広相を擁護してはいない。結局「勅定に不備を作った橘広相が悪い」となったのがこの事件で、
この事件のようなことが本文で発生していれば当然否定する勅定が出るに決まってる。にも拘らずそんなこと書いてないし、「主の望みにて」のせいで勅定が省略されていると考えても意味が通らない状況。
→それは単に省略されてるだけ。
>>493「当然誰もが知っている当たり前のこと」とか「文中から推測できる」事は省略可能なので、 天皇が軽はずみor深く考えずorごく一部の人間の意見だけ参考にして
「省略」→戻すことが可能、戻しても文が通じる
「今回の事例」→「前勅否定、五位の少将に任じる之旨有勅定」とか言う文を「省略の法則」に従い本文に戻す→「主の望みにて」が邪魔、意味が通らない→本文に戻せない→「文中から推測」「当然知っている」に当てはまらない→省略ではない
→秀吉が自分から断って官位を望んだかどうかを論じているのに、それを初めから正しい前提で、だから朝廷を気をよくしたとか話にもならない妄想
物事全てに正の面と負の面があるんだから、低い官位を望むことで得る正の面もあるのは当然でしょw全て正しい全て間違いなんて存在しないよw
524 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 21:47:10.92 ID:KZxL+G7i
>>秀吉が「任じられ」秀吉が「了解した」 両方秀吉が主体で何の問題もない
「任じる」は他動詞なので、任じられる秀吉は動作の客体。任じる側の朝廷天皇が主体。了解はお前の解釈だと秀吉が動作の主体
なので主体の一致原則から反する
>>動詞の連用形はそのままでも名詞になれる。名詞化した言葉に動詞がついているだけ
連用系にするには語形変化が必要。でもその語形変化は全くされてないから名詞化されてない。任じるを了す
とかかかれないと意味が通らないからな
>>「任じられた」の主体が秀吉で「了解した」の主体も秀吉。意志を持って積極的に行動しているので主体は秀吉。
主体は任じる側の天皇であり朝廷。「任じられる」なんて動詞や動作は存在しないし主体は天皇。何回も同じ事かかせてんじゃねぇよクズ
>>天皇は「秀吉が四位の大将に任じ、秀吉が了承するだろう」と考えて 秀吉に 勅定を送った しかし 秀吉の望みで 五位の少将を任じられ (秀吉が) 了解した
まず前提がお前の妄想だし任じられる側の秀吉はあくまで動作の客体なので主=動作の主体ならあてはまらない
ついでに原文は 今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト だから
あくまで天皇目線で書かれてるし動作の主体は全て天皇。任じてとか任了とか勅定とか書かれてるからわかる。つうか多聞院日記全体でも主体は天皇とか朝廷側としてかかれてて
他の人物が主体とか主語になるときはわかるように主体の人物の名前をキッチリわかるように明記してる。
>>何1つ問題のない文を理解力のなさを露呈させてまで恥を深める必要はないと思うんだがなあw
まずお前の妄想解釈(天皇が〜と頭の中で考えていたとかかかれてない内容)だしそんな糞妄想設定を根拠なく垂れ流して主体の不一致というアホみたいな帰結を無理矢理任じられる側が主体だとか馬鹿みたいな
理屈で無理矢理補おうとしてるお前のアホ理論なわけで。
>>「雖有勅定」だから既に存在しています
勅定も天皇が頭の中で考えてただけじゃね天皇がそもそもお前が
>>507で主張した通り「脳内シュミレーション」で考えてただけじゃね
>>省略されるどころか「主の望みにて」なんて文がついているわけだが。ちゃんと書かれるなら
主はお前の主張だと秀吉なんだろ。だから天皇が勅定取り消したとか関係ない。
>>「前勅否定、五位の少将旨勅定有」とか書く必要があるし、君の言うとおり「完全に省略された」となるなら「主の望みにて」何ぞ必要ない文章
だったら主体だけ省略せずに書いて動作だけ省略しただけだろ
525 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 21:58:11.33 ID:KZxL+G7i
>>結局「主の望みにて」なんて文章があるおかげで天皇が主語と言う可能性も、勅定の省略の可能性も一切否定されてる。
意味がわからん。主=天皇か朝廷だったってだけだろ。
>>前回の勅定は取消、五位の少将に任じる」と勅定を出さなきゃいけないだがそんなもん一切書いてない
そんなもんはお前の主張
>>462が主体側の動作と主体同時消去可能なので、省略されてるだけだろ
>>天皇や朝廷が「この官職は定員何人まで」とか決めちゃってるからね。天皇や朝廷が所有しているからこそ後任の人のために空ける必要がある
根拠なし&論点ずらし乙
>>任命された側がずっと所有できるなら関白20人とか余裕で可能。任命されてずっと辞任しなければ死んでもそいつのままだし
お前が
>>435で>先祖代々の土地とか城を見ればわかるでしょ?大名が死んだら、その土地を足利や朝廷に返すなんてことあったか?
> 大名が死んだら、その子供や弟など親族が遺産として引き継いで、そのまま「所有」しているだろ?それが「所有」。
と書いてるからようは初めから朝廷や天皇が自然に所有してるから自然にそこに戻っただけ。
なんで後任の人が官職につくことが官位を辞任してる事になるんだよアホ
関白職やら官位を最初から朝廷や天皇が所有してるんだから後任の人が官職につく事=前任の人が辞任なんてならねーよアホ
前任の人の意思に関係なく朝廷や天皇が勝手に剥奪したり他の物に任官したりできるだけだろ最初から自分の物なんだからな
>>前の文章は「旨雖有勅定」でしめられているから誰でも勅定のことだってわかるし、前の文は残念ながら「従叡慮」と天皇に従い、を指す文がある
だから秀吉が叡慮に従い勅定が有る事を望んだが、主(天皇)の望みで他の官位になったで問題なく意味が通るなw
>>流石に「旨雖有勅定」を説明の締めくくりだと思わない
勅定が正式に出されたものじゃなく、天皇が「こうしようかな」と勅定を出そうかと脳内シュミレーションしてるだけなら全く問題ないなといわれると
>>514で「雖有勅定」だからもう勅定出された後ですねw「有」と言うことは、既に物体として勅定が存在していると書いておきながら
一方で>天皇の頭の中の話は「旨雖有勅定」でおしまいと矛盾した主張する糞馬鹿乙
>>うん、で「省略されている」ってことは、「記述を構成するための文だけど、当然誰もが知っていることだから省略した」だから、
>>逆算すれば「文中で丁寧に解説しても全く違和感ない」のが前提だよな?誰もがわかることを省略しているんだから、それで文中の意味が通らないなんてことはないよなあ?
何がいいたいのかわからん。日本語でよろ。
526 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 21:59:41.96 ID:KZxL+G7i
>>これに「前勅を否定し、五位の少将に任じる之旨有勅定」とかいう意味の文をぶちこんで。「当たり前のことを省略」だから当然戻せるよね?
>>「主の望みにて」がわけわからん文脈になるんだけど、でも君は「省略されてるだけ」と言ったからできるよね?
何がいいたいのかわからん。勅定の取りけしと次の勅定が省略されただけだろ。で、次の勅定の内容が省略されずに書かれてるだけ(これを省略してしまうと
最終的な結果までわからなくなり、文章の内容そのものが消える。)
>>
http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/handle/123456789/1848 http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tokusyu00002/toku00002-5.htm#a 二番目のサイトはともかく最初のサイトには訂正なんて書いてないんだが。つうか訂正も撤回も一緒だろ。最初に出した勅書の内容を変えて出すわけだから
実質的に変わりないだろ
>> のわりには省略を戻しても意味が通じない文章になるわ、「主の望みにて」なんて文章があるわ、滅茶苦茶ですね。
何がめちゃくちゃなのか不明。主(天皇か朝廷)の望みで、勅定が変更or撤回されて出されただけ。
>>「省略」→戻すことが可能、戻しても文が通じる
今回の場合も戻しても文が通じる
>>「今回の事例」→「前勅否定、五位の少将に任じる之旨有勅定」とか言う文を「省略の法則」に従い本文に戻す→
>>「主の望みにて」が邪魔、意味が通らない
なんで戻せないのか不明。前の勅定取り消し&新しい勅定ありを主ノ望ニテの次に補えばいいだけ。
>>「文中から推測」「当然知っている」に当てはまらない
勅書の撤回には勅書が必要と言う事は朝廷や公家や京に近い人間なら誰でも知ってる当たり前のことだし、後文で、前文と違う内容の勅書が出たと書かれてるので
勅書が撤回されたんだと「文中から推測可能」なので省略されてるだけ
>>物事全てに正の面と負の面があるんだから、低い官位を望むことで得る正の面もあるのは当然でしょw全て正しい全て間違いなんて存在しないよ
お前の元の主張に対する反論からズレた論点乙
>>516 >>意味が内包されているのに行為主体は内包されないとか文が破綻してしまう
根拠なし。意味的には内包されててもあくまで行為の主体は任じる側で変更なし。
>>行為主体は「意思を持った」「積極的な行動をする」人物、 別に主語だけが行為主体になるという決まり事は一切ない
能動文の主語な。受動文の主語は主体ではない(話しかけられたとか任じられたとか任じる側が行為・動作主体で行為・動作は任じるとか話しかける
であって任じられるではない)
>>条件に当てはまれば行為主体。当てはまらなければ行為主体じゃない。
能動文の主語や主体が行為主体。なぜなら受動文は能動文が変形されて動詞が変化してできてるだけだから
受動文の〜されたというのは文法的に動詞に〜されるがついてるだけで動作や行為を表す動詞でもなんでもない
>>愛し合う→愛され合う
そんな言葉ない。
>>結ぶ→結ばれる
結ぶ人間が行為主体。結ばれる方は行為客体。「恋人同士が結ばれた」のような例では「結ばれる」は行為や動作ではないし
最初から受動態の文でもない。
>>巡り合う→巡り合われる
そんな言葉ない。尊敬語とか受身以外なら別だが。
>>手を組む→手を組まれる
そんな言葉ない。尊敬語とか受身以外のときだけ。
527 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 22:06:48.30 ID:Q+VGfmsW
>>514 確かに、将軍と兼ねた従四位が勅定で、最終的に秀吉に下された従五位が勅定と書いてない以上、
「主=天皇」よりは、「主=秀吉」の解釈の方が正しいか。
>>518が言ってるような、秀吉が将軍と従四位を望んだとかも読むのは無理だし、他のサイトがどう書いてるとかも関係ない。
528 :
人間七七四年:2013/08/12(月) 22:18:44.32 ID:EbJWSQCn
主=動作の主体の意味なら
今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
で前段では秀吉を四位の大将に任じ将軍の官を持つよう勅定があったが、と天皇や朝廷が動作の主体
後段でも五位の少将に任了とと明らかに任じている側の天皇や朝廷が動作の主体なので、意味は通らない。
任じるの中に書かれてもいない秀吉の了承が含まれているというトンデモ理論に従うと
一旦任じられ了承した秀吉が、なぜか直後で五位の少将を望むという矛盾した行動を行ってる事になるため、意味がやはり通じない
(秀吉が考え直したとかいう糞妄想がありながら、主=天皇であり、天皇がやはり考え直したという妄想も通用する事になる)
また、天皇が頭の中で考えてたとか、希望的推測の内容が前段に書かれてるなんて妄想がありなら
前半部分は秀吉が望んだ内容が書かれてるという推測も可能になる
よって主=動作の主体の意味ではない事が証明されるわけ。
529 :
忍法帖【Lv=3,xxxP】(1+0:8) :2013/08/13(火) 22:16:01.71 ID:EpPQpyvT
集合知的には問題ないけどそれで関係ない企業から金をもらうのは無粋
530 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 01:23:37.04 ID:tXbIV7Us
→「任じる」は他動詞なので、任じられる秀吉は動作の客体。任じる側の朝廷天皇が主体。
動作の主体は「意思を持ち」「積極的に行動する」人物を指すので秀吉は行為主体。両方主体が秀吉で何も問題なし
→連用系にするには語形変化が必要。でもその語形変化は全くされてないから名詞化されてない。
それ「任じ終わった」にも全く同じことが言えるので無意味な指摘。原文はあくまで「任了」だからな。
複合動詞だから語形変化なしでもOKなんて日本語はない。再度付け加えると「了」は動詞
→。「任じられる」なんて動詞や動作は存在しないし主体は天皇。何回も同じ事かかせてんじゃねぇよクズ
何回言っても理解できない人に教えるのは大変なんだ。感謝してほしいね。「任じられる」が存在しないなんて日本語を新しく作っているしなw
「任じられる」
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E4%BB%BB%E3%81%98%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B ちなみに類語の「引き受ける」を見てもわかるように、ちゃんと「意思を持ち」「積極的に行動する」人物である主体を取る動詞
よって主体は秀吉となり、了解したの主体も秀吉となる。何も問題はない。
→まず前提がお前の妄想だし任じられる側の秀吉はあくまで動作の客体なので主=動作の主体ならあてはまらない
「主体の認識・行為などの対象となり、意識から独立した外界の物」が客体の意味。
秀吉は「物」ではなく「意志を持ち」「積極的に行動する」人間なので、残念ながら秀吉は動作の主体。
「主語以外は主体じゃない」と言うのは完全な妄想。そんなルールどこにも存在していない。
531 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 01:23:52.32 ID:tXbIV7Us
→あくまで天皇目線で書かれてるし動作の主体は全て天皇。他の人物が主体とか主語になるときはわかるように
頭っから「今度京於羽柴筑前ハ」と書いているのも読めんのかwわざわざ他の人物が主語になるようわかりやすく書いてるだろ
→理屈で無理矢理補おうとしてるお前のアホ理論なわけで。
それを言うなら頭から「羽柴筑前ハ」とあるのに「これは天皇目線の文章だ」と主語を勝手に入れ替え
あまつさえ動詞の主体を俺ルールで「主体は1人」と謎理論をおっしゃるあなたにこそ合いそうな文言ですなw
君の理屈なら「愛し合われる」や「結ばれる」の動作の主体は1人なんだねw1人で行動してるんだw
→勅定も天皇が頭の中で考えてただけじゃね天皇がそもそもお前が
>>507で主張した通り「脳内シュミレーション」で考えてただけじゃね
天皇が頭で考えてたのをなぜ多聞院の坊主が知ってるんだwサイコメトラーでもやってんのかw
→主はお前の主張だと秀吉なんだろ。だから天皇が勅定取り消したとか関係ない。
君の理屈だと「主」=天皇なんだよね?主の望みなんて勅定以外で取消ちゃってるけど意味あるの?
それと、「主」=秀吉と考えた場合でも、「主の望みにて」五位少将の位を貰っているんだから勅定で否定していると言う事実がない。
→だったら主体だけ省略せずに書いて動作だけ省略しただけだろ 意味がわからん。主=天皇か朝廷だったってだけだろ。
主=天皇・朝廷なら「望みにて」なんて書き方はしない。勅定で否定され五位少将を任じました、とちゃんと書く。
大体「主」自身に天皇や朝廷を指す意味はないのに、天皇を消し、そしてまた天皇を主と表すとか意味不明レベル
文中に存在しないものを勝手に代名詞にして他人にわかりうるはずがないし、文頭の「羽柴筑前ハ」が全く意味を成さなくなる。
532 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 01:24:07.75 ID:tXbIV7Us
→そんなもんはお前の主張
>>462が主体側の動作と主体同時消去可能なので、省略されてるだけだろ
「省略される場合は元に戻してちゃんと文が繋がるようにする」と鉄壁の約束があるので、戻す必要があるが戻せない。
「前勅否定、五位の少将任じる之旨有勅定」なんて入れても、「主の望みにて」が意味不明になるし、どこにも戻す隙はない。
戻せないものを「省略した」とは言わん。「太郎は 殴られた 」に 「太郎は 殴られた 走らされた」とやると意味が通じないのと同じ。
→根拠なし&論点ずらし乙
大宝律令にきっちり明記されてございますが、小学生レベルの日本史もご存じないのですか?
→前任の人の意思に関係なく朝廷や天皇が勝手に剥奪したり他の物に任官したりできるだけだろ最初から自分の物なんだからな
大宝律令で「この官位は何名まで」と定員が決まっておりますので、その定員に従って辞任なりしているだけですが。
所有権の問題ではなく法律上の問題。朝廷や天皇が自分で決めているんだからしゃーないですね。ちなみに官位の剥奪は
一応やろうと思えばやれます。まあ滅多にいませんが、有名どころだと藤原仲麻呂あたりは官位剥奪(罷免)されてますね。
→だから秀吉が叡慮に従い勅定が有る事を望んだが、主(天皇)の望みで他の官位になったで問題なく意味が通るなw
叡慮って天皇の意味ですけど、秀吉が天皇の意志に従い勅定があることを望んだが、天皇の望みで他の官位になった
?????天皇の意志はどっちなんですかね?wそれとも両方とも天皇の意志で両方の官位を授けられた、と?
→一方で>天皇の頭の中の話は「旨雖有勅定」でおしまいと矛盾した主張する糞馬鹿乙
真剣に何を言ってるのかわからない?大丈夫?「天皇の頭の中で考えた話」を書いた勅定があった、
秀吉はそれを受けた、しかし〜と続くって言っているんだけど。「とりあえず適当なところで揚げ足取っちゃえ」ならまだいいけど、
それが本当にわからないのであれば、本心から心配するよ。
533 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 01:24:23.68 ID:tXbIV7Us
→何がいいたいのかわからん。日本語でよろ。
省略の意味もわからんのか。「当然誰もが知っていることを省略する」のなら、それを埋めても文章として通るのは当然。
文章として通らないので省略ではない、わからないのなら本当にヤバいから教科書引っ張ってこい。よい子の国語あたりがいいぞ
→何がいいたいのかわからん。 最終的な結果までわからなくなり、文章の内容そのものが消える。)
だからその省略された「勅定の取りけしと次の勅定」を文に戻しても、「主の望みにて」が宙ぶらりんになり意味わからんと言ってるんだが
「勅定を取り消されて新しい勅定」によって官位貰ったのか、「主の望みにて」官位を貰ったのか意味わからん
→なんで戻せないのか不明。前の勅定取り消し&新しい勅定ありを主ノ望ニテの次に補えばいいだけ。
で文頭の「羽柴筑前ハ」はどこへいったんですか?文の主語に対する動詞が何もなくなってしまいますけどw
文頭の主語を無視して、文中に記されていない「天皇」を勝手に主語にするって随分杜撰な日本語ですね
まあ2chで汚い言葉を使う不作法な人にはそれでいいのかもしれませんけど、生憎多聞院の英俊は教養の深い人ですからw
→根拠なし。意味的には内包されててもあくまで行為の主体は任じる側で変更なし。
行為主体は「意思を持ち」「積極的に行動する」人物なので、条件に当てはまるのに行為主体になれないとなると前提が崩れますね
→そんな言葉はない
全てネットで検索して簡単にヒットするような言葉ですが、どういうPCを使ってるんですか?中国産?
→「結ばれる」は行為や動作ではない
http://www.weblio.jp/content/%E7%B5%90%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B (動ラ下一) 人と人とが親しい関係になる。特に、男女が結婚する。 (動ラ下一) (動 ラ 下 一) 動 おわかり?
534 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 05:36:36.66 ID:Ujo6Fs9a
>動作の主体は「意思を持ち」「積極的に行動する」人物を指すので秀吉は行為主体。両方主体が秀吉
そんなルールない。そもそも任じるが動作であって任じられるは動作じゃなくそれが変形されてできただけ
任じられる側の秀吉は、それだけでは意思はあっても積極的に行動してる事にはならず相手の行動を受けてるだけ。
>「任じ終わった」にも全く同じことが言えるので無意味な指摘。原文はあくまで「任了」
文中でちゃんと〜たる〜とか、〜の旨わかるように名詞化されて使われてる。
ソース元が必要なら条日付も書いておくが?
>複合動詞だから語形変化なしでもOKなんて日本語はない
複合動詞→それ二つで一つの意味をなす動詞。文中でも語形変化や送り仮名なしで書いても意味的にわかる
前の言葉を名詞化→主体一致の原則から外れるため、必ず〜の旨〜の段〜のこと、〜たるという様に名詞化して用いられる
(そうじゃないと何が書いてるか文脈的にさっぱりわからなくなる。多聞院の他の条文よみゃわかる)
http://www.weblio.jp/content/%E4%BB%BB%E3%81%98%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B このように任じるが受身系に変形されてできてるだけ。お前の出してるのは類語辞書であって、正式な動詞じゃなく
類語を説明してるだけだから変形されてる語句も、正式な動詞扱いされてるだけだろ。
その証拠に広辞案とかちゃんとした辞書引いても任じられるなんて動詞でてこないし、任ずるが変形されてできてるだけ。
>「意思を持ち」「積極的に行動する」人物である主体を取る動詞
任じられてるだけでは積極的に行動してる事にはならん。積極とは対象に対して進んで働きかけることであって
能動的な行動をさすもので、受動態の文章の受動側の行動は相手の行動を受けてるだけであって、この積極性のニュアンスと背反するものだから
全く意味的に間逆。
>「主体の認識・行為などの対象となり、意識から独立した外界の物」が客体の意味。
>秀吉は「物」ではなく「意志を持ち」「積極的に行動する」人間なので秀吉は
広辞苑によれば主観の作用とは独立に存在すると考えられたものが客体
もの(物)には形ある物体以外にも、対象を特定の言葉で指し示さず漠然ととらえて表現するのにも使われると辞書にあるので
別に人間を指してはいけないなんてルールはない。つかこんな事も一々説明しなきゃ理解できないほど常識ないんだなお前
>「主語以外は主体じゃない」と言うのは完全な妄想
主体→積極的に行動している事がないとダメ。受動態の〜される側の人物はニュアンス的に間逆で「
積極とは対象に対して進んで働きかけることであって能動的な行動をさすもので、
受動態の文章の受動側の行動は相手の行動を受けてるだけであって、この積極性のニュアンスと背反するものだから論外
>頭っから「今度京於羽柴筑前ハ」と書い
はには主語を現す以外にも〜をという意味があるし「任じ」と明らかに受動態ではなく天皇が主体・主語の能動態の文が書いてるし
任じられなんてかかれてないしそもそも多聞院自体が天皇や朝廷側の目線で、天皇や朝廷が主体的に書かれてる作品だし
>>それを言うなら頭から「羽柴筑前ハ」とあるのに「これは天皇目線の文章だ」と主語を勝手に入れ替え
そりゃハは主語以外にも〜をという意味を持つんだから当たり前だろ。任じと能動態の文で書かれてるしそもそも天皇朝廷が任じて秀吉が受けるという流れには
何も変わらないわけで。
>>動詞の主体を俺ルールで「主体は1人」と謎理論をおっしゃるあなたにこそ合いそうな文言ですなw
そりゃ天皇・朝廷 対 秀吉の行動が書かれてて、天皇→秀吉で官位に任じるとかかれてたら主体は普通に一人と読むだろ普通に考えて。
つうかさ、主(動作主体)は一人だとお前散々いってたよな?主が複数でいいならいくらでも他に主の該当人物に可能性があがる人物がいる事になるし
天皇・朝廷→秀吉でなされた行動・動作なのに、秀吉が行為・動作の主体とかないわ。
積極とは対象に対して進んで働きかけることであって能動的な行動をさすもので、
受動態の文章の受動側の行動は相手の行動を受けてるだけであって、この積極性のニュアンスと背反するものだから論外
>>君の理屈なら「愛し合われる」や「結ばれる」の動作の主体は1人
愛し合われるなんて受動系の言葉ないし、結ばれる、も人が〜を結ぶを受動系にしたのはあっても、恋人同士が結ばれるとかは全く動詞の性質が違うし
「結ぶ人物」不在だから受動態ともいいずらいし
535 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 05:40:51.09 ID:Ujo6Fs9a
>天皇が頭で考えてたのをなぜ多聞院の坊主が知ってるんだ
つまり
>>507のお前の「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨」は天皇による勅定の説明だから、天皇が頭の中で考えている事なんだよ。
つまりわかりやすく言うと、天皇が「四位の大将兼将軍の位を任命し、秀吉はそれを了承して受け取ってくれるだろう」と考えて勅定を出したのだが、
秀吉はなんらかの望みがあってこれを拒否し、代わりに出された五位少将の位を秀吉は了承した、という意味でつながる。
という主張は崩れるわけだな。
536 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 06:24:14.64 ID:Ujo6Fs9a
>>君の理屈だと「主」=天皇なんだよね?主の望みなんて勅定以外で取消ちゃってるけど意味あるの
取り消し勅定が省略されてるだけか、その五位少将任命の中に取り消しの意味も含まれてるから書かなかっただけじゃね。
五位少将任命って書いてたら四位大将と将軍職任命は取り消されたんだと普通に推測がつくだろうし
>>「主」=秀吉と考えた場合でも、「主の望みにて」五位少将の位を貰っているんだから勅定で否定していると言う事実がない。
何がいいたいのかよくわからん。主=秀吉はお前の主張だし、勅定で前勅を否定しなきゃ撤回できないどうこうはお前が言い出した事だし
一体どの部分に対する反論なんだ?
>>主=天皇・朝廷なら「望みにて」なんて書き方はしない。勅定で否定され五位少将を任じました、と書く
根拠なし。天皇や朝廷だって望みはあるだろうし、
それをいうなら主=秀吉なら、わざわざ主と置き換えて書いたりしない。前でも後ろでも秀吉羽柴筑前などと書いてて
この日記自体天皇や朝廷が主体目線で書かれてるから、それら以外の人物はちゃんと明記するのが普通
四位大将&将軍職につくはずだったのが、五位少将に任じたとかかれてたら撤回されたんだなと容易に推測がつくから省略されただけだろ
>>大体「主」自身に天皇や朝廷を指す意味はないのに
主=動作行為の主体と考えるならその意味があてはまるのは天皇や朝廷であって秀吉ではない
主では漠然とかかれててよくわからないから、この日記の中で常に主語、主体的な人物として書かれてる天皇や朝廷以外にはありえない。
天皇や朝廷以外が主語主体の場合ちゃんと明記されなきゃわからないからな。実際明記されてるし。
>>天皇を消し、そしてまた天皇を主と表すとか意味不明レベル
秀吉が主の場合の方がよほど意味不明。前でも後ろでもわかるように秀吉とか羽柴筑前とか書かれてるしわざわざ消して書き直すとか意味不明レベル
>>文中に存在しないものを勝手に代名詞にして他人にわかりうるはずがない
この日記自体主語や主体が書かれてない場合、天皇や朝廷の行動や出来事が、天皇や朝廷目線で書かれてて、主体も天皇や朝廷の場合がほとんど。
なので代名詞とか誰かわからないような言葉が主体主語として書かれてる場合天皇や朝廷を指してるとみて間違いない
>>文頭の「羽柴筑前ハ」が全く意味を成さなくなる。
これも「任じ」と書かれてるから天皇や朝廷側の主体の行動だろ。ハは〜をの意味も持ってるし
>>「省略される場合は元に戻してちゃんと文が繋がるようにする」と鉄壁の約束があるので、戻す必要があるが戻せない
なぜ戻せないのか不明。戻して文が繋がる形にするように戻せばいいだけ。主の望みにてが文中があるならそこだけ省いて戻せばいいだけ。
>>「前勅否定、五位の少将任じる之旨有勅定」なんて入れても、「主の望みにて」が意味不明になる
別に意味不明にはならない。二回ダメ押しで主=天皇が繰り返し書かれたんだと考えればいいだけだし、そもそもそれなら
主の望みにての後に補足すればいいだけ。
>>戻せないものを「省略した」とは言わん。
戻せるから省略だな
>>「太郎は 殴られた 」に 「太郎は 殴られた 走らされた」とやると意味が通じない
走られた、はその文内で省略されてない言葉だから意味が通じないだけだろ。主の望みにての前後に
前勅否定、五位の少将任じる之旨有勅定を挿入しても意味は通じるし、わかりやすいように
勅書を撤回した天皇が、5位の少将に任じたと勅定だしたと考えればいいだけだし、そもそも
五位の少将任じる之旨有勅定なんて当たり前すぎて、こんな事わざわざ書かなくても問題ないだろ。
元の文なら勅書が撤回されたという節だけ補えば意味が通るし主の望みにての後に、これを挿入すればいいだけ。
537 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 08:03:20.30 ID:Ujo6Fs9a
>>大宝律令で「この官位は何名まで」と定員が決まっておりますので、その定員に従って辞任なりしているだけですが。
辞任してるなんて根拠も史料もないしお前によれば官位は元々朝廷の物なので
お前が
>>435で先祖代々の土地とか城を見ればわかるでしょ?大名が死んだら、その土地を足利や朝廷に返すなんてことあったか?
大名が死んだら、その子供や弟など親族が遺産として引き継いで、そのまま「所有」しているだろ?それが「所有」。
と書いてるからようは初めから朝廷や天皇が自然に所有してるから自然にそこに戻っただけ。
なんで後任の人が官職につくことが官位を辞任してる事になるんだよ
関白職やら官位を最初から朝廷や天皇が所有してるんだから後任の人が官職につく事=前任の人が辞任なんてならねーよ
前任の人の意思に関係なく朝廷や天皇が勝手に剥奪したり他の物に任官したりできるだけだろ最初から自分の物なんだからな
>>所有権の問題ではなく法律上の問題。朝廷や天皇が自分で決めているんだからしゃーない
法律だろうが所有権だろうがお前の節によれば最初から官位は朝廷の物なんだから、後任の物が複数存在する事をもって前任の物が辞任してる根拠にはならん。
ただ自然に前任の官位が元々の所有者である朝廷や天皇の元に戻ってるだけ。それか自分の好きなようにできる自分の所有物である官位を朝廷が
他人に任じる事で自然に前任の元から離れてるだけ。それか剥奪されてるだけ。
>>ちなみに官位の剥奪は滅多にいませんが、有名どころだと藤原仲麻呂あたりは官位剥奪(罷免)されてますね。
官位の辞任の方が滅多にいないだろwあったとしてもちゃんと辞任したって何かに書かれる。次の物がつくたびに前任の物が一々辞任なんてするわけねーだろ
>>大宝律令
法律なんて表面だけに決まってるだろw現代でも民法でなんだかんだかかれてても、実際には企業が特約とか会社ごとの契約約款とか
法律を覆せるような内容盛り込んで契約者がこれにサインしたら、厳密にはともかく企業側の利益が通る事になるし
しかも700も800年も昔の法律がそんな実際的に機能してるわけねぇだろw
朝廷が特約でも設ければ勝手に改変可能。法律なんてしょっちゅうかわってるからなw
>>叡慮って天皇の意味ですけど、秀吉が天皇の意志に従い勅定があることを望んだが、天皇の望みで他の官位になった
だから「天皇の意思に従い、勅定がある事」を望んだって事だろ。天皇の意思で、勅定が出されるようにと望んだが、天皇の望みで他の官位になっただけ。
>>天皇の意志はどっちなんです?両方とも天皇の意志で両方の官位を授けられた
だから天皇の意思でって節も秀吉の思い描いてる願望だろ。前段の四位大将とか将軍は単なる秀吉の願望と希望を書いてるだけ。
>>天皇の頭の中で考えた話」を書いた勅定があった、秀吉はそれを受けた、しかし〜と続くって言っ
おれが勅定が正式に出されたものじゃなく、天皇が「こうしようかな」と勅定を出そうかと脳内シュミレーションしてるだけなら全く問題ないなといわれると
>>514で「雖有勅定」だからもう勅定出された後ですねw「有」と言うことは、既に物体として勅定が存在していると書いておきながら
一方で>天皇の頭の中の話は「旨雖有勅定」でおしまいと矛盾した主張する糞馬鹿乙
「旨雖有勅定」で天皇の頭の中の話がおしまいなら勅定も実際出されておらず、否定する必要もなし。
そもそもお前の主張全般には全く論拠がかかれてない妄想駄文。どこからどこまでが頭の中とかちゃんと論拠を出せ
>>507で「四位の大将に任じに入る秀吉の了承」は天皇朝廷の脳内仮想シュミレーションで実際に起こっていることじゃないと書きながら簡単に論を覆したダブスタ乙
それなら俺の反論どおり
>>502今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
の最初の一文の任ずるの部分で任ずるの中に秀吉の了承が入ってたら最後の文章の主が秀吉なら任官を了承した秀吉がすぐに断って五位少将に任じられ了解したっていうアホな文章になるだけ。
>>「当然誰もが知っていることを省略する」のなら、それを埋めても文章として通る
なら通るように省略を補えばいいだけ。何々を省略されてるとかどこに省略されてるとか勝手にお前が設定して決め付けてるから通らないようになってるだけ。
>>文章として通らないので省略ではない
お前が通らないように省略内容を勝手に決め付けてるから通らないだけ。
538 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 08:27:26.96 ID:Ujo6Fs9a
>>その省略された「勅定の取りけしと次の勅定」を文に戻しても、「主の望みにて」が宙ぶらりんになり意味わからん
>>「勅定を取り消されて新しい勅定」によって官位貰ったのか、「主の望みにて」官位を貰ったのか意味わからん
なんでわからないんだ?勅定の取り消しによって前の官位が取り消されて、主である天皇の望みで新しい勅定が出されて官位貰っただけ。
>>文頭の「羽柴筑前ハ」はどこへいったんですか?文の主語に対する動詞が何もなくなって
文頭に羽柴筑前ってちゃんとかいてるじゃん。ついでに主語というのは前に一回出てきて次の文なら省略されても全く問題ない。この文の前に
秀吉任官のくだりがあるから、別に主語省略されても秀吉を指してるとわかるから書かなかっただけ。
つうかそれがないと困るなら省略されてると考えて補えばいいだけだろ。
>>文頭の主語を無視して
そもそも主語は秀吉じゃなく天皇だろ。任じるとか書いてるしハは主語以外に〜をの意味もあるし
多聞院日記全体が朝廷とか公家とか天皇の出来事を公家朝廷天皇目線で書いてて他の条文みても一々細かく主語を書いてないし
逆に天皇や朝廷関係以外の人の話になるとちゃんとわかるように人名明記されてるし
>>文中に記されていない「天皇」を勝手に主語にするって随分杜撰な日本語
多聞院自体が朝廷や天皇周りのことを、彼らの視点で中心に書かれてるし他の条でも天皇や朝廷は省略されまくってる。
任官とか頴慮とか勅定とか書いてたらわざわざ主語を出す必要もないし
>>行為主体は「意思を持ち」「積極的に行動する」人物なので条件に当てはまるのに行為主体になれないとなる
行為主体は積極的に行動する事が条件。積極的というのは能動的な意味なので受動側の人物(任じられる秀吉)
は条件から思いっきり外れる。了承の意味が含まれてるとかただのお前の妄想だし含まれててもそれは受動的に相手の行動(任官)
に対して了承しただけだから積極的とはいわん。
>>全てネットで検索して簡単にヒットするような言葉
辞書とかひいても出てこないしネットでデタラメ語が普及してるだけじゃね
>>
http://www.weblio.jp/content/%E7%B5%90%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B >>(動ラ下一) 人と人とが親しい関係になる。特に、男女が結婚する。 (動ラ下一) (動 ラ 下 一) 動
この場合の結ばれるは、結ぶが受身になったというより、これが元々の語として考えるほうが妥当だろ。
受動態として使われるならAはBに結ばれるの受動文を
BがAを結ぶ、というように結ぶ人と結ばれる人がちゃんといて、結ぶ側が結ばれる側の人を結ぶというような
文構造になるが、この場合の結ばれるは、人が誰かに結ばれるという意味から外れ、受身ではない。
受身とか受動態は、他から作用を受ける、動詞の表す動作を受けるという意味があるが、この文章は他から〜された、ではなく
自然に結ばれるという文章の意味構造なので、受身系とは言わん。
539 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 08:32:55.87 ID:RI7fEp23
>>509 ほら直接話法理解してない
ひとをあほあほいう前に少し学習したらどうだあほのたこくん
投げ入れるは投げていれるの変化
投げるの連用形投げ、そこに「て」でこれは助詞
なので動詞を二つつなげてるわけではないので例として不適切
540 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 08:57:38.57 ID:Ujo6Fs9a
>>539 だから〜し終わるも同じ事だろ。動詞が二つ繋がってるだけ。他の節でも遣了とか
上了とか越了とかいたる所に書かれまくってるけど了解毎回するなんてアホな解釈するのお前くらいなもんだよ。
毎日毎日、多聞院が誰かがこうしたああした内容を逐一了解したってかw
541 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 09:14:57.98 ID:4DbQvwSV
天皇のものであろうと、脳内や評定でのシミュレーションを、勅定とは言わない。
542 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 09:18:43.75 ID:Ujo6Fs9a
だから勅定までが頭の中だってお前がかいたんじゃん
おれが勅定が正式に出されたものじゃなく、天皇が「こうしようかな」と勅定を出そうかと脳内シュミレーションしてるだけなら全く問題ないなといわれると
>>514で「雖有勅定」だからもう勅定出された後ですねw「有」と言うことは、既に物体として勅定が存在していると書いておきながら
一方で>天皇の頭の中の話は「旨雖有勅定」でおしまいと矛盾した主張する糞馬鹿乙
「旨雖有勅定」で天皇の頭の中の話がおしまいなら勅定も実際出されておらず、否定する必要もなし。
そもそもお前の主張全般には全く論拠がかかれてない妄想駄文。どこからどこまでが頭の中とかちゃんと論拠を出せ
>>507で「四位の大将に任じに入る秀吉の了承」は天皇朝廷の脳内仮想シュミレーションで実際に起こっていることじゃないと書きながら簡単に論を覆したダブスタ乙
それなら俺の反論どおり
>>502今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
の最初の一文の任ずるの部分で任ずるの中に秀吉の了承が入ってたら最後の文章の主が秀吉なら任官を了承した秀吉がすぐに断って五位少将に任じられ了解したっていうアホな文章になるだけ。
543 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 09:25:10.01 ID:Ujo6Fs9a
勅定が実際に出されたなら秀吉の了承があったとみるべき
(お前の理論任官には相手方の了承の意味も含まれてる)
なので一回了承した秀吉がなぜかすぐに断って別の官位望んでる事に変わりは無い
お前
>>462 それは省略されているだけ。「勅定」の書き手である天皇や朝廷が省かれているように普通は知ってて当然だから書かれていないだけ。
そもそも官位の任命は「天皇」「朝廷」ら「出す側」と、「秀吉」や「貴族」ら「受ける側」の意思があって初めて行われる。(その証拠に官位の受け取り拒否や辞退の事例もある)
よって本来は「天皇が官位を授け」「秀吉がそれを了承し」「改めて天皇が秀吉に了承した官位を任命した」という文章を
どう見てもまどろっこしいから誰もそう書いてないだけ。そもそも「官位を受ける側」の「了承」がないのなら、朝廷が強制的に官位をあれこれ授けられる。
544 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 16:47:15.36 ID:RXpXM/Sc
秀吉がチートでした。
545 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 19:36:18.93 ID:5aMviwjl
>>534-
>>535 →そんなルールない。
ルールはないも何も主体の意味としてちゃんと明記されてますがw
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E4%BD%93 →文中でちゃんと〜たる〜とか、〜の旨わかるように名詞化されて使われてる
それこそ省略されても意味は通じるじゃん。原文は「任」しかないから動詞かどうかすらわからんし
→複合動詞→それ二つで一つの意味をなす動詞。文中でも語形変化なし
語形変化の意味わかってるか?wまさかと思うが「末尾の文字が同じなら、語形変化はしていない」とか言わないよな?w単語の活用で末尾が同じなのに違う形を取る単語なんて山ほどあるぞ?w
→このように任じるが受身系に変形されてできてるだけ。
意味を明記するために出したのであって、活用形を出してどうする?w
→任じられてるだけでは積極的に行動してる事にはならん。 行為主体は積極的に行動する事が条件。積極的というのは能動的な意味なので受動側の人物(任じられる秀吉)(
>>538 )
そりゃあ強制的に任命されたとかなら積極的な行動も意思もないから主体にはならんわな。だが今回は秀吉の意向で五位の少将へと任官されたわけだから、秀吉は「意思」もあるし「積極的な行動」もしている。「意思」と「行動」がある以上主体になる
→別に人間を指してはいけないなんてルールはない。
俺が強調しているのは「」つきで書いた「意志を持ち」「積極的に行動する」の部分なのだけど人間でも死んでいたり物言わぬ状態であれば物体と同義にされるわな。
でも物には意志もないし行動もしない、でも今回の秀吉は両方行っているので物ではないということなんだが
→受動態の文章の受動側の行動は相手の行動を受けてるだけであって
受動態を取っている目的側が意思を持つことなんていくらでもあるわな。
そんなこと言ったら「手を組まれる」等の単語は意味不明になるし、
今回のケースでは秀吉はちゃんと意思を持って行動して、その結果五位の少将に任官されているのだから
どこをどう考えても「主体」だわな。
→「任じ」と明らかに受動態ではなく天皇が主体・主語の能動態の文が書いてる
それは勅定の説明で「雖有勅定」でその文は終わり。いたって普通の文章にやけに噛みついてるがそうされると都合が悪いのか?w
→そりゃハは主語以外にも〜をという意味を持つんだから当たり前だろ。
それ文の改変ですやんw
→つうかさ、主(動作主体)は一人だとお前散々いってたよな?主が複数でいいならいくらでも他に主の該当人物に可能性があがる人物がいる事になるし
動作主体は1人って、そらこの文章では当たり前のことですわ。この文章には秀吉しか出てきてませんもん。「天皇が」は
勅定の説明を訳する時にわかりやすく追加されてるだけで、原文における登場人物自体秀吉しか出てきていないのに何を今更。
あと「主」は人称代名詞で「文に出てくる人物を言い換えている」だけなので、そもそも文に出てこない人間が当てはまる余地はない。
一応「主君」「棟梁」と言う意味が使えなくもないが、文内において初見の登場で候補が複数出てくる人間を「主」なんて曖昧な濁し方は普通しない。
そんなことをすると本当に誰だかわからなくなってしまうからな。
→>>君の理屈なら「愛し合われる」や「結ばれる」の動作の主体は1人 「結ぶ人物」不在だから受動態ともいいずらいし
1人しか文章に出てこないならそうなるね。でも「結ばれる」なんて言うからには当然対象を取る。
「AはBに結ばれる」は「BはAに結ばれる」とも言えるから、お互いが主体になって話されやすいだけで。
546 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 19:36:49.68 ID:5aMviwjl
→という主張は崩れるわけだな。一方で>天皇の頭の中の話は「旨雖有勅定」でおしまいと矛盾した主張する糞馬鹿乙(
>>537 )
「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨」という、天皇の頭の中で考えられた内容が
「勅定」となって「有」となった。「雖も」という文章だから中身は具現化されてるわなw
最初っからそういってるのにどうも君って相手を不利にしたいがための妄想解釈が好きだねwww
>>536-
>>537 →取り消し勅定が省略されてるだけか、その五位少将任命の中に取り消しの意味も含まれてるから書かなかっただけじゃね。
拒否しないと双方を任官されてしまうのだが、1度に2つも官位を与えているのか?まあ現実的に言えば
五位の少将を与えて、即四位の大将(兼将軍)を与えることになるから、結局四位の大将になるね
→勅定で前勅を否定しなきゃ撤回できないどうこうはお前が言い出した事だし
撤回はできないけど「勅定の辞退」はできるからねw「(秀吉)主の望みで」とあるから、四位の大将を辞退したんだろうよ。
→根拠なし。天皇や朝廷だって望みはあるだろうし、
望みがあるなら勅定で示さないと秀吉にはわからないよ
→天皇や朝廷が主体目線で書かれてるから
天皇や朝廷を指す人物は文章のどこにもないよ?「勅定は天皇が出す」という意味ならわかるが、既に「羽柴筑前ハ」と出ているのに「主」なんて略し方で天皇や朝廷がわかるわけないんだがw
→主=動作行為の主体と考えるならその意味があてはまるのは天皇や朝廷であって秀吉ではない
「(動作をする)本人。当人」と「動作主体」は全然違うわwww文中の動作は「任じられた」だからどう考えても秀吉以外はありえないw
http://kobun.weblio.jp/content/%E4%B8%BB 訳文見れば実際にわかる話だが
この「「(動作をする)本人。当人」は主語のことで、受動態の主語なんだから当然秀吉になる。天皇や朝廷と言うなら「天皇や朝廷が任じられた」ことになるが・・・w
→秀吉が主の場合の方がよほど意味不明。前でも後ろでもわかるように秀吉とか羽柴筑前とか書かれてるしわざわざ消して書き直すとか意味不明レベル
「羽柴筑前」なんて面倒だから「主」で略しているだけ。「名無しのゴンベエさんは〜村を出ました」と言うのを、「彼は村を出ました」と言うのと同じ。
つうか天皇や朝廷を「主」なんて略すとか不遜極まりない事だろ。それには「聖上」とか「主上」とかちゃんとした言葉がある
→主語や主体が書かれてない場合
主語は「羽柴筑前は」だから秀吉だw
→ハは〜をの意味も持ってるし 任じるとか書いてるしハは主語以外に〜をの意味もあるし (
>>538 )
目的を示す「〜を」と「は」は全然違うぞwww日本語で主語になるのは「が」「は」「も」くらいで
たまに「まで」とか使うくらいで「を」を主語には使えんぞw本当に小学生レベルの知識だぞこれw
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/17166/m0u/ が は も
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/17104/m0u/ を が に
→主の望みにてが文中があるならそこだけ省いて戻せばいいだけ。
意味もないのに勝手に省くのは文の改変
→二回ダメ押しで主=天皇が繰り返し書かれたんだと考えればいいだけだし
→なんでわからないんだ?勅定の取り消しによって前の官位が取り消されて、(
>>538 )
天皇の場合は「聖上」「主上」と略されるから「主」なんて略し方はせんし、
そもそも文中に「天皇が」なんて記述は一切ない。省略された単語を代名詞で表すとかそんなに「天皇」と書きたくないのかと疑うレベル
547 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 19:37:07.02 ID:5aMviwjl
→当たり前すぎて、こんな事わざわざ書かなくても問題ないだろ。
否定しないと2つの官位を一気に任命されたことになるから当然ではないな
→辞任してるなんて根拠も史料もないし
当の秀吉がのちに関白を辞任して太閤なんて名乗ってますし
秀次も関白辞めて「豊禅閤」なんて呼ばれてたそうな
→初めから朝廷や天皇が自然に所有してるから自然にそこに戻っただけ。
もちろんそういうケースもある
→法律なんて表面だけに決まってるだろ
それこそソースも根拠もないじゃんよwそれとも法律破りの常習犯なんか?w
→「天皇の意思に従い、勅定がある事」を望んだって事だろ
「雖も」という否定を表す言葉がありますし、仮にそれが「秀吉の望み」だとして
どうして多聞院の坊主はそれを知ったんですかね?具現化されたわけでもないのに
→ これが元々の語として考えるほうが妥当だろ。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/215383/m0u/%E7%B5%90%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B/ 元々「結んだ状態にされる」と言う文が、お互いに「結ばれる」ことで意味が転じただけで
元々の用法で「結ばれる」は「結ぶ」「結ばる」の受動態
548 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 20:37:08.49 ID:QabfTTFf
今続いてる話と関係ないけど
371、374とか評価しているみたいだけど、池上裕子氏とそんなにいいの?
自分だってすべてに目を通したわけじゃないけど370の意見に近く、
ロクな著書が無いんじゃないかと思っているんだが。
私自身は黒田氏の飢饉対策説派であるため信長の貨幣経済政策の是非はあまり興味ないが、
373で挙げられている「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」とか
信長の貨幣政策のとことか余りな内容に絶句した覚えがある。
良書としてはどんなのがあります?
549 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 21:03:43.56 ID:qGqP9rm7
>>ルールはないも何も主体の意味としてちゃんと明記されて
お前の出したサイトにそんな事書いてない。そもそも任じるが動作であって任じられるは動作じゃなくそれが変形されてできただけ
任じられる側の秀吉は、それだけでは意思はあっても積極的に行動してる事にはならず相手の行動を受けてるだけ
>>それこそ省略されても意味は通じるじゃん。「任」しかないから動詞かどうかすらわからん
この作品の中で一貫して了は動詞の前に使われてる(例天正11年 12/2条遣了 12/3来了 12/4参了 12/5上了 12/7出了など)し
動詞を名詞化する場合、ちゃんと事とか〜したるとかちゃんと語形変化がなされてる(永禄12年5/12地西ト申事5/13入シタル文殊
5/9可納之通5/24コマカナル舎利天正5年2/13)あと了は毎日のように動詞の後に使われていて明らかに了承とか了解の意味ではなく終了とか完了の意味で使われてる
なんにせ任じてる側が主体なので、動作主体が秀吉にはどう転んでもならないわけ。
>>語形変化の意味わかってるか?wまさかと思うが「末尾の文字が同じなら、語形変化はしていない」とか言わないよ
複合動詞→それ二つで一つの意味をなす動詞。文中でも語形変化や送り仮名なしで書いても意味的にわかる
前の言葉を名詞化→主体一致の原則から外れるため、必ず〜の旨〜の段〜のこと、〜たるという様に名詞化して用いられる
(そうじゃないと何が書いてるか文脈的にさっぱりわからなくなる。多聞院の他の条文よみゃわかる)
http://www.weblio.jp/content/%E4%BB%BB%E3%81%98%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B このように任じるが受身系に変形されてできてるだけ。お前の出してるのは類語辞書であって、正式な動詞じゃなく
類語を説明してるだけだから変形されてる語句も、正式な動詞扱いされてるだけだろ。
その証拠に広辞案とかちゃんとした辞書引いても任じられるなんて動詞でてこないし、任ずるが変形されてできてるだけ
>>意味を明記するために出したのであって、活用形を出して
だから任じるが変形されただけだから任じられるなんて言葉正式には造語にすぎないし、現に広辞苑にも乗ってない、所詮任じるが変形された受身系の言葉だから
任じる側が主体なだけ。
550 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 21:04:55.46 ID:qGqP9rm7
>>秀吉の意向で五位の少将へと任官されたわけだから、秀吉は「意思」もあるし「積極的な行動」もしている。「意思」と「行動」がある以上主体
秀吉は積極的な行動なんてしてないし、相手の勅定を受け入れただけなら、受動的に受けただけだから能動性の意味合いがある積極的な行動とは言わん。
後任官は秀吉の意向じゃなく天皇が勅定出したんだろ、お前の理論なら。お前の主張だと秀吉は結局それを断ったんだから積極的とは言わない。
>>「意志を持ち」「積極的に行動する」の部分なのだけど人間でも死んでいたり物言わぬ状態であれば物体と同義にされる
>>でも物には意志もないし行動もしない、でも今回の秀吉は両方行っているので物ではない
広辞苑によれば主観の作用とは独立に存在すると考えられたものが客体
もの(物)には形ある物体以外にも、対象を特定の言葉で指し示さず漠然ととらえて表現するのにも使われると辞書にあるので
別に人間を指してはいけないなんてルールはない。つかこんな事も一々説明しなきゃ理解できないほど常識ないんだなお前
>>受動態を取っている目的側が意思を持つ
でも積極的な行動とはいえない。積極的の意味には能動性が含まれるので、受動的とは間逆
>>秀吉はちゃんと意思を持って行動して、その結果五位の少将に任官されている
行動はしてない。この「任じられた。or天皇が任じた」の節において、秀吉は相手の任官を受動的に受け取っただけだから
積極的とは言わん。
>>どこをどう考えても「主体」だわな。
積極性がないから受動態の主語は主体とはいわない。つかお前の主張によると主は一人なんだから天皇と秀吉両方さすとか絶対ない
>>それは勅定の説明で「雖有勅定」でその文は終わり
そりゃ勝手にお前が妄想で決め付けた解釈にすぎないし次の文にも任了と書いてるんだから最後まで天皇や朝廷が主語主体の文でいいだろ
了なんて毎日毎日上がるとか下がるとか参るとかの後にくっついて出てくる単語でグダグダ動詞じゃないだの了解だの能動文じゃないだの屁理屈つけて
曲解しようとする馬鹿は話にならんわw
>>それ文の改変ですやんw
なんで改変なのか不明。ハは〜をとか目的語を取る用法も含まれるだし「任じ」と明らかに天皇主体の能動系の文が天皇が秀吉を任官したという意味で書かれてるし
ハを〜をの意味で解釈さればいいだけ。
>>この文章には秀吉しか出てきてません「天皇が」は勅定の説明を訳する時にわかりやすく追加されてる
任官や勅定の話なんだから主体は天皇で客体は秀吉が基本。わかりやすく追加されてるとか妄想何ぞ知らん。
だから秀吉が主体になると主が二人いることになりお前の主張が崩壊するだけ。
>>原文における登場人物自体秀吉しか出てきていないのに何を今更。
馬鹿かお前。任官も勅定も天皇がやるって散々書いてるのに天皇が登場してないわけねーだろアホ
つかこの日記自体天皇とか朝廷の行動とか出来事を天皇朝廷目線で書かれてるから一々〜がとかかかれないだけだわw
>>「主」は人称代名詞で「文に出てくる人物を言い換えている」だけなので、そもそも文に出てこない人間が当てはまる余地はない。
お前の追加した勝手な自己ルール乙。文に出てきてる人物を一々言い換える必要なんてないし、文中にはっきり誰々と書かれないが実際に登場してる人間をそれとなく指してるだけ。
キリスト教の本で、崇める対象をはっきり書かず、主よ、とか書くのと一緒
>>一応「主君」「棟梁」と言う意味が使えなくもないが、文内において初見の登場で候補が複数出てくる人間を「主」なんて曖昧な濁し方は普通しない。
根拠なし。
>>そんなことをすると本当に誰だかわからなくなってしまう
この日記自体天皇や朝廷の出来事や行動を、天皇や朝廷目線で書いてるだけだから勅定や任じ、などが出てきてるので
動作主体はあくまで天皇。
>>1人しか文章に出てこないならそうなるね。でも「結ばれる」なんて言うからには当然対象を取る。
お前の出してる例AがBに結ばれるの場合は、BはAを結ぶと変形されるだけだし、逆に恋人同士が結ばれる、の意味の場合
誰かが、ある対象(恋人同士)に作用して結んでるわけではないので、受動態とはいわない。受動態とは能動態を変形しただけだから
結ぶ人間と結ばれる人間がいないといけないわけだが、後者の例ではそんな者はおらず、ただ自然と二者が結ばれてるだけ。
>>「AはBに結ばれる」は「BはAに結ばれる」とも言える
いえない。AはBに結ばれる、ならBはAを結ぶ、が日本語の意味(最初の場合が受動態の文の時は)正しいわけで。
551 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 21:33:34.20 ID:qGqP9rm7
>「四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨」という、天皇の頭の中で考えられた内容が
>「勅定」となって「有」となった。「雖も」という文章だから中身は具現化
勅定が実際に出されたなら天皇の頭の中で考えていた内容ではなく、実際に出された勅定の内容だから実現化されてるし
秀吉の了承があったとみるべき。(お前の理論任官には相手方の了承の意味も含まれてる)
なので一回了承した秀吉がなぜかすぐに断って別の官位望んでる事に変わりは無い。
これなら勅定出した天皇が勅定だした後で考え直して取りやめた、でも容易に意味が通りそうな無理矢理な主張だなw
宇多天皇は阿衡事件において勅書の撤回を迫られて実際に撤回してるな。今回も天皇は最初軽はずみによく考えず勅定出したが後から考え直すか
公家衆や朝廷の意見をきいて考えを改めただけだろ
つうかその区切り(〜旨までが頭の中で考えられたなんて解釈)お前が無理矢理句読点も付けられてない部分を区切って曲解してるだけだし
天皇が頭の中で考えた内容が実際出されたというなら、
>>462でお前が主張してる秀吉の了承が出された事になり、それを直後で断ったと言う事になり文の意味が崩壊するだけ。
>>拒否しないと双方を任官されてしまうのだが、1度に2つも官位を与えているのか?
だから二度任じるという言葉が付けられてて、一回にまとめて書いてない上に、間に雖もという、前文を否定する意味の言葉が入ってりゃ誰でも
五位少将が結果なんだとわかるから書かなかっただけだろ。雖もときて、主の望みにて五位の少将に任了(任じ終わった)と結果は
五位少将だと書かれてるからそりゃ省略しても四位大将とか将軍勅定は取り消しになったんだとわかるわなw
つかお前の解釈(秀吉の望みで五位少将になった)場合でも、前勅取り消しのくだりは省略されてる事になるだろ。
お前の指摘点はお前側の主張でも省略されてはいけない事になるから無意味なんだよ。主の望みで前勅が取り消されないといけないからなw
>>五位の少将を与えて、即四位の大将(兼将軍)を与えることになるから、結局四位の大将になるね
雖も主の望みにて「別の低い官位に」任じ了った、とかかれてたら誰でも前勅は取り消しになったんだとわかるから書かなかっただけ。
秀吉の希望で断った場合でも前勅取り消しがなくていいなんてルールないからなw
>>撤回はできないけど「勅定の辞退」はできるからねw「(秀吉)主の望みで」とあるから、四位の大将を辞退
辞退したなんて一言もかかれてないし、任じ了ったと書かれてるだけ。しかも勅定の取り消しはできないけど辞退はできるとか自己中ルールもいい所だな
お前の主張だと辞退なんて省略しなかったら両方の官位に任じられてる事になるだろアホw
お前は自分の指摘してるポイントが自分の考える解釈の場合でも見事に、矛盾点として指摘される点である事考えろよアホw
>>望みがあるなら勅定で示さないと秀吉にはわからない
だから望みの内容の勅定が省略されてるだけだろ。なんで望みにてがあることによって省略すると矛盾する文になるなんてアホな主張になるんだよ
しかも望みの内容の中心(五位の少将に任了)はちゃんと書いてるし、どうでもいい間の部分を省略しただけ。
わざわざ〜の官位に任じられ、と雖も、主の望みにて〜に任了と書かれてたら、後の内容が結果なんだと誰でもわかるし、二回にわざわざわけて書いたり
任了と結果を表す言葉が書いてたり雖もと前文を否定する言葉が入ってるんだから、それ以上書かなくてもわかるわw
552 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 22:13:22.30 ID:qGqP9rm7
>>天皇や朝廷を指す人物は文章のどこにもないよ?「勅定は天皇が出す」という意味ならわかるが、既に「羽柴筑前ハ」と出ているのに「主」なんて略し方で天皇や朝廷がわかるわけない
叡慮、任じ、勅定、任了としっかり出てきてるだろ。多聞院自体天皇目線で起こったことは一部除いて細かく主語までかかれないしこの作品自体
朝廷や天皇周りの出来事を、朝廷天皇主体的目線で書いてるだけ。それ以外の人物が出てきたときにはちゃんと実名が書かれてる。
>>「(動作をする)本人。当人」と「動作主体」は全然違う
この場合動作主体は任じる天皇や朝廷だし、動作する本人も同じ
>>文中の動作は「任じられた」だからどう考えても秀吉以外はありえない
任じられたなんてどこにもかかれてない。任じ、任了と書かれてるだけ。
>>
http://kobun.weblio.jp/content/%E4%B8%BB >>この「「(動作をする)本人。当人」は主語のことで、受動態の主語なんだから当然秀吉になる。
「いったん勝つ時は、人も思ひ上げ、ぬしも上手と思ひ染むるなり」
[訳] 一度勝ったりすると、他人も実際より高く評価し、本人も(自分は)上手なのだと思い込んでしまうのだ。
でこの文のどこが受動態だ?上手だと思う、で何も受身系にもなってないし、受動態から能動態への変形をしようとしても無理
そりゃそうだ。思ひそむるなりなんて受身の語じゃなくて思ってるという普通の言葉だし
>>天皇や朝廷と言うなら「天皇や朝廷が任じられた」ことになる
なぜそうなるのか不明。天皇や朝廷が任じたとなるだけ。
>>「羽柴筑前」なんて面倒だから「主」で略しているだけ。「名無しのゴンベエさんは〜村を出ました」と言うのを、「彼は村を出ました」と言うのと同じ。
任官された人物を名無しのゴンベと一緒に扱うのは間違い。前者は特定の人物だが、後者は不特定で、誰を指してもかまわない(誰とでも入れ替われる)
天皇や朝廷以外の人物がああしたこうしたは一々名前が書かれる(天皇や朝廷がそもそもこの作品で中心的人物だから当たり前だが)
>>つうか天皇や朝廷を「主」なんて略すとか不遜極まりない事だろ。それには「聖上」とか「主上」とか
なんで不遜なのか不明。お前の出したサイトでBお人。お方。…様。▽その人を軽い敬意や親しみをこめていう語。だから多聞院の著者が敬意を持ってよんでるだけ
>>主語は「羽柴筑前は」だから秀吉だw
任じとなってるし後ろの文でも任了と書いてるから天皇か朝廷だろ。
>>目的を示す「〜を」と「は」は全然違う日本語で主語になるのは「が」「は」「も」くらいで
>>たまに「まで」とか使うくらいで「を」を主語には使え
いやだから天皇or朝廷が秀吉を任じ、と天皇や朝廷が主語の文だといってるんだが
>>意味もないのに勝手に省くのは文の改変
いやだから改変も糞も主の望みにてが入ってても意味がつながるように省略された文を補足すりゃいいだけだろ。なんで補足文の内容をこうじゃない
といけない前提で決め付けるんだ?
>>天皇の場合は「聖上」「主上」と略されるから「主」なんて
そもそも聖上も主上も日記見ても出てこず、天皇自体が省略されてるんだが。天皇や朝廷が漠然とした物語の主体側として書いてて
それをこの場面で主と漠然とした言葉で代名詞として使っただけだろ
>>文中に「天皇が」なんて記述は一切ない。省略された単語を代名詞で表すとかそんなに「天皇」と書きたくないのか
天皇なんて他の節でも省略されまくってるし勅定だの官位に任じるだの任了だの書かれてたら天皇や朝廷の動作だと誰でもわかるから
省略しただけだろ。官位は朝廷や天皇が出すものだからな(お前の主張)
553 :
人間七七四年:2013/08/14(水) 22:26:00.03 ID:qGqP9rm7
>>否定しないと2つの官位を一気に任命されたことになるから当然ではないな
お前の主張だと辞退なんて省略しなかったら両方の官位に任じられてる事になるだろアホw
お前は自分の指摘してるポイントが自分の考える解釈の場合でも見事に、矛盾点として指摘される点である事考えろよアホ
二度任じるという言葉が付けられてて、一回にまとめて書いてない上に、間に雖もという、前文を否定する意味の言葉が入ってりゃ誰でも
五位少将が結果なんだとわかるから書かなかっただけだろ。雖もときて、主の望みにて五位の少将に任了(任じ終わった)と結果は
五位少将だと書かれてるからそりゃ省略しても四位大将とか将軍勅定は取り消しになったんだとわかるわなw
つかお前の解釈(秀吉の望みで五位少将になった)場合でも、前勅取り消しのくだりは省略されてる事になるだろ。
お前の指摘点はお前側の主張でも省略されてはいけない事になるから無意味なんだよ。主の望みで前勅が取り消されないといけないからなw
雖も主の望みにて「別の低い官位に」任じ了った、とかかれてたら誰でも前勅は取り消しになったんだとわかるから書かなかっただけ。
秀吉の希望で断った場合でも前勅取り消しがなくていいなんてルールないからなw
>>当の秀吉がのちに関白を辞任して太閤なんて名乗ってます秀次も関白辞めて「豊禅閤」なんて呼ばれ
でもこの場合にはちゃんとそれはっきり書かないとわからないし(四位大将と将軍辞任)
主の望みにて別の官位もらっただけじゃ、両方任じられた事になるだろお前の主張だと。
>>もちろんそういうケースもある
なら後任の人が一杯いる事をもって辞任してる人なんて山ほどいる根拠にはならないわけで。
初めから朝廷や天皇が自然に所有してるから自然にそこに戻っただけ。
>>それこそソースも根拠もないじゃん
現代社会でも民法とか労働法でこうこう定められてても、実際の企業約款とか契約時の約款とかでそれに背反する内容が一見かかれてても
普通にそれが通ったりするんだが。労働基準法違反のブラック企業とか、不動産取引法に反するような契約約款盛り込んだ不動産会社とか
普通に特約扱いで摘発されなかったりするし
554 :
人間七七四年:2013/08/15(木) 08:43:53.38 ID:BogKzqkJ
>>540 あ、連用形で動詞接続だ
任命し終わるなんて珍妙な日本語はないけどな
で、直接話法はわかったかな?
555 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 12:55:15.38 ID:RE5/rULc
→任じられる側の秀吉は、それだけでは意思はあっても積極的に行動してる事にはならず相手の行動を受けてるだけ
→このように任じるが受身系に変形されてできてるだけ。 任じる側が主体なだけ。
秀吉(主)の望みにて「五位少将」に任じられるのだから「意思を持ち」「積極的に行動している」ので主体は秀吉。
結局両方とも主体が秀吉で一貫しているので問題なし。
→この作品の中で一貫して了は動詞の前に使われてる 終了とか完了の意味
その「了」は前の動詞を強調する「了」で「完了」の了ではない。完了の意味を表すなら「了んぬ」だ。
あともう1つ、君が例示した例天正11年 12/2条遣了 12/3来了 12/4参了 12/5上了 12/7出了など)だが
「来終わった」「出終わった」は明らかに不自然な日本語になる。この場合、「了」自体に意味的要素は全くなく、
全て「条遣す」「来る」「参る」「上げる」「出る」などと訳した方が自然。つまり今回の用法とは異なる。
→秀吉は積極的な行動なんてしてないし、後任官は秀吉の意向じゃなく天皇が勅定出したんだろ、お前の理論なら。
秀吉が四位の大将を拒否って、五位の少将ならうけますよと「望み」を提示したので、天皇がそれに任命した。
秀吉の「望み」そのままに天皇が任官した、というのがこの原文。
→別に人間を指してはいけないなんてルールはない。
俺が強調しているのは「」つきで書いた「意志を持ち」「積極的に行動する」の部分なのだけど人間でも死んでいたり物言わぬ状態であれば物体と同義にされるわな。
でも物には意志もないし行動もしない、でも今回の秀吉は両方行っているので物ではないということなんだが
→積極的とは言わん。
秀吉が「望み」を出して、それをそのまま天皇が任命しただけだから秀吉は積極的行動をしている。
秀吉が積極的でなければ五位の少将に任官されない。
→上がるとか下がるとか参るとかの後にくっついて出てくる単語
それは文を強調するための接尾語で完了ではない。完了なら「了んぬ」と「ぬ」が絶対につくし、
前述の通り完了では不自然な日本語になる用法まで例示していりゃ話にならんね。
→だから秀吉が主体になると主が二人いることになりお前の主張が崩壊するだけ。
1人しか文章に出てこないならそうなるね。でも「結ばれる」等お互いが主体になっている文も当然存在する。
→なんで改変なのか不明。ハは〜をとか目的語を取る用法も含まれるだし
残念ながら「は」は目的語の意味を取りませんw
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/17166/m0u/ が は も(主語)
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/17104/m0u/ を が に(目的語)
→任官も勅定も天皇がやるって散々書いてるのに天皇が登場してないわけねーだろアホ 主よ、とか書くのと一緒
「天皇が」という主語はどこにも存在しないから登場してない。省略するということは登場する必要がないと思われているということだからな。
ちなみに「天皇」は略す場合「主上」「聖上」のどちらかで「主」なんて不遜極まる略し方はしませんw
→根拠なし。
代名詞は前述の名詞を略して言う言葉なので登場すらしない人物を言うときには使いませんw小学校からやり直しましょうw
556 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 12:55:47.72 ID:RE5/rULc
→BはAを結ぶと変形されるだけだし ならBはAを結ぶ、が日本語の意味
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/215383/m0u/%E7%B5%90%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B/ 元々「結んだ状態にされる」と言う文が、両方が意志を持ち積極的に行動して主体になっているので、
それが転じて「結婚する」などの意味になっただけで元々の原義は受動態。「主体が主語になるのは必ず能動態」というのは外国語だけw
→秀吉の了承があったとみるべき 一回了承した秀吉がなぜかすぐに
そもそもそれ自体別に不自然じゃなくね?「ありがたい話で引き受けたいのですが、辞退させていただきます」とかなら了承も拒否も一気に入るし、
もしかすると本気で将軍の話を引き受けようとしたけど、よくよく考えてみたらいらないな、と秀吉が改心した結果とも言える。
→五位少将が結果なんだとわかるから書かなかっただけだろ。
「秀吉の望み」なら秀吉が辞退したんだなと思惑がわかるが、「天皇の望み」なら自分の勅定を自分で否定してその経緯もなしだから全くの意味不明になる。
→秀吉の希望で断った場合でも前勅取り消しがなくていい 辞退したなんて一言もかかれてないし 勅定の取り消しはできないけど辞退はできるとか
「辞退したい」と言ってる人間を無理やり官職につけても仕事しなけりゃ話にならんし、老齢や病で本当にどうしようもない事情もあるからな。
もちろん勅定を「辞退する」というのも、相当避けるべき事実なのには変わらんが、別に天皇の意思を否定しているわけじゃないからね。
→どうでもいい間の部分を省略しただけ
どうでもいいどころか一番重要な部分だが。「自分で出した勅定を自分で否定して〜」ってどういう望みかもわからんし勅定も全然出されていない。
「秀吉が辞退したから」で済む「主=秀吉」と違って、「主=天皇」は説明すべきことが山ほどあるのに何の説明もなしで意味不明。
→叡慮、任じ、勅定、任了としっかり出てきてるだろ
羽柴筑前ハ、と別の人物が主語になってきているのに、「天皇が主体」で「天皇が」とは書かないのは意味不明。
→任了 任了と書いてるから天皇か朝廷だろ
「任を了解した」となるなら結局秀吉が主体じゃね?「任を終わった」って余計意味が分からんだろ
→でこの文のどこが受動態だ?
いや、そういう意味じゃなくて「主=主語の代用」という意味だと言うことなのだが。
例文が受動態か能動態とかどうでもいい。というか「思ひ染むる」じゃなくて前の方が肝要だし
そもそも「受動態では使えませんよ」と言う説明がない時点で受動態でも使える。
「彼は付け回されている。ぬし(本人)もそのことに気づいている」とすればわかりやすいか?
→一々名前が書かれる
「天皇が」とか「朝廷が」と言うのは原文にないが・・・天皇は略しても「主上」「聖上」だし
→天皇や朝廷が主語の文
「省略されてる→(天皇が)羽柴筑前は御叡慮に従い」と言う文になるが、意味不明じゃね?天皇が主語なら
「天皇が羽柴筑前を御叡慮に従わせ、〜という勅定を下す」とかだろ?前述の通り「は」は目的語になれないので論外
→それをこの場面で主と漠然とした言葉で代名詞として使っただけだろ
そんな使い方日本語ではしませんw 「彼は寝ていました」という文で、「この『彼』はアメリカ大統領のことを指します」と言われてわかる奴はいない。
557 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 12:56:03.69 ID:RE5/rULc
→つかお前の解釈(秀吉の望みで五位少将になった)場合でも、前勅取り消しのくだりは省略されてる事になるだろ。
「秀吉の望みにて」なら秀吉の望みがあり→それを受けた勅定が出されて(省略中)→秀吉が任官されたとできるが
「天皇の望みにて」なら天皇の望みがあり→それを受けた勅定が出されて(省略中)→秀吉が任官されたとなり、
省略文を戻した場合「天皇の望みにて」のケースは書きすぎで文がおかしくなるという話だが・・・主=天皇なら、天皇が勅定を改めて、とか一語で済むだろう
→両方任じられた事になるだろお前の主張だと。
秀吉の「望みにて」なら秀吉が辞退したとわかるが、天皇の「望みにて」なら天皇が2つ官位を挙げたいのか五位少将だけあげたいのかわからんだろ
秀吉は官位をあれこれ任命できる立場にないから出せる「望み」なんて限定される。天皇はあれこれ渡せる立場だから限定できない。その差。
→山ほどいる根拠にはならないわけで
いや両方たくさんいるという話になるだけでしょ
→普通にそれが通ったりするんだが。
天皇に主権がない現代の政治の話をされましても。事業者と政治家を兼ねてる人物もいるし
558 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 19:39:34.09 ID:J7f0eHYi
>>秀吉(主)の望みにて「五位少将」に任じられるのだから「意思を持ち」「積極的に行動している」ので主体は秀吉。
>>両方とも主体が秀吉
秀吉は積極的な行動なんてしてないし、相手の勅定を受け入れただけなら、受動的に受けただけだから能動性の意味合いがある積極的な行動とは言わん。
後任官は秀吉の意向じゃなく天皇が勅定出したんだろ、お前の理論なら。お前の主張だと秀吉は結局それを断ったんだから積極的とは言わない。
行動はしてない。この「任じられた。or天皇が任じた」の節において、秀吉は相手の任官を受動的に受け取っただけだから
積極的とは言わん。積極性がないから受動態の主語は主体とはいわない。つかお前の主張によると主は一人なんだから天皇と秀吉両方さすとか絶対ない
>>その「了」は前の動詞を強調する「了」で「完了」の了ではない。完了の意味を表すなら「了んぬ」だ。
どちらにしろ了承の意味で了が使われてる文節などこの作品の中で皆無なわけで。
>>「来終わった」「出終わった」は明らかに不自然な日本語になる
どのあたりが?
>>「条遣す」「来る」「参る」「上げる」「出る」などと訳した方が自然
どちらにせよ毎回毎回お決まりのように使用される了に了承の意味で使われてる文などない
>>秀吉が四位の大将を拒否って、五位の少将ならうけますよと「望み」を提示したので、天皇がそれに任命した。
>>秀吉の「望み」そのままに天皇が任官した、というのがこの原文。
希望は秀吉の行動ではないし承諾した事をこの場合でいう「秀吉の行為」とするなら相手の勅定を断ってる時点で積極的な行動でもないし
その解釈なら天皇は一回出した勅定を撤回した部分を書かないといけないことになるし相手の希望断って天皇が任命しただけでは
秀吉の積極的な行動とはいわん。積極的というのは能動的に自分から相手に働きかける意味合いが強いから受動態の主語とは意味的に間逆
勅定が実際に出されたなら天皇の頭の中で考えていた内容ではなく、実際に出された勅定の内容だから実現化されてるし
秀吉の了承があったとみるべき。(お前の理論任官には相手方の了承の意味も含まれてる)
なので一回了承した秀吉がなぜかすぐに断って別の官位望んでる事に変わりは無い。
これなら勅定出した天皇が勅定だした後で考え直して取りやめた、でも容易に意味が通りそうな無理矢理な主張だなw
宇多天皇は阿衡事件において勅書の撤回を迫られて実際に撤回してるな。今回も天皇は最初軽はずみによく考えず勅定出したが後から考え直すか
公家衆や朝廷の意見をきいて考えを改めただけだろ
>>「意志を持ち」「積極的に行動する」の部分なのだけど人間でも死んでいたり物言わぬ状態であれば物体と同義にされるわな。
>>物には意志もないし行動もしない、でも今回の秀吉は両方行っているので物ではないということなんだが
広辞苑によれば主観の作用とは独立に存在すると考えられたものが客体
もの(物)には形ある物体以外にも、対象を特定の言葉で指し示さず漠然ととらえて表現するのにも使われると辞書にあるので
別に人間を指してはいけないなんてルールはない。
>>「望み」を出して、それをそのまま天皇が任命しただけだから秀吉は積極的行動をしている。
>>秀吉が積極的でなければ五位の少将に任官されない。
「望み」は動作じゃないし行為でもない。任了が行為。秀吉は相手の勅定を断って他の官位を受け入れてるだけだから積極的行動とはいわん。
>>それは文を強調するための接尾語で完了ではない。完了なら「了んぬ」と「ぬ」が絶対につくし、
どちらにせよ了承の意味でなんか使われてないわけで。一度天皇の勅定を断ってる時点で積極とはいえないしそのくだりも書いてない(勅定撤回)
559 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 19:41:16.83 ID:J7f0eHYi
>>1人しか文章に出てこないならそうなるね。でも「結ばれる」等お互いが主体になっている文も当然存在する。
お前の出してる例AがBに結ばれるの場合は、BはAを結ぶと変形されるだけだし、逆に恋人同士が結ばれる、の意味の場合
誰かが、ある対象(恋人同士)に作用して結んでるわけではないので、受動態とはいわない。受動態とは能動態を変形しただけだから
結ぶ人間と結ばれる人間がいないといけないわけだが、後者の例ではそんな者はおらず、ただ自然と二者が結ばれてるだけ。
>>「は」は目的語の意味を取りませ
広辞苑によると「は」は主格以外にも目的格・補格など種種の格の部分でも使われるとある。
http://kotobank.jp/word/%E3%81%AFによると、格助詞「へ」に同じ。 「我が背なを筑紫−遣りて/万葉集 4428」であり
への用法を見ると 2 動作・作用の行われる場所・帰着点を表す。…に。「庭―物を捨てるな」「父も母も留守のところ―訪ねてきた」「十月十四日、関東―下着(げちゃく)」〈平家・八〉
3 動作・作用の向けられる相手・対象を表す。…に対して。…に。「父―送った手紙」「お母さん―よろしくお伝えください」「われらが主の太政入道殿―、いかで参らであるべき」〈平家・二〉
とこの場合にふさわしい用法がちゃんと載ってる
>>「天皇が」という主語はどこにも存在しない
任官も勅定も天皇がやるって散々書いてるのに天皇が登場してないわけねーだろアホ
つかこの日記自体天皇とか朝廷の行動とか出来事を天皇朝廷目線で書かれてるから一々〜がとかかかれないだけ
この日記自体天皇や朝廷の出来事や行動を、天皇や朝廷目線で書いてるだけだから勅定や任じ、などが出てきてるので動作主体はあくまで天皇。
>>省略するということは登場する必要がない
書くまでもないと思われてるだけ。勅定とか任官とか頴慮とか書いてたら天皇の話だとアホでもわかる
>>「天皇」は略す場合「主上」「聖上」のどちらかで「主」なんて不遜極まる略し方
そもそも聖上も主上も日記見ても出てこず、天皇自体が省略されてるんだが。天皇や朝廷が漠然とした物語の主体側として書いてて
それをこの場面で主と漠然とした言葉で代名詞として使っただけ
天皇なんて他の節でも省略されまくってるし勅定だの官位に任じるだの任了だの書かれてたら天皇や朝廷の動作だと誰でもわかるから
省略しただけだろ。官位は朝廷や天皇が出すものだからな(お前の主張)
>>代名詞は前述の名詞を略して言う言葉なので登場すらしない人物を言うときには使いません
天皇はかかれてないだけで明らかに登場してるし(任官や勅定は天皇とか朝廷じゃなきゃありえないし)書かなくてもわかる主語を単に省略してるだけ。
実際に誰だかはっきりかかれてなくても「主よ」とかキリスト教の教本とかで書くのと一緒の事だろ
ちなみに「王は」とか「主君は」といった場合も、ある特定の人物を代名詞的に言い換えたものだが、この場合もはっきり名前まで出して特定しなくても普通に使う。
フロイスの日本史でも読めよ
>>元々「結んだ状態にされる」と言う文が、両方が意志を持ち積極的に行動して主体に
お前が出した用例は単に紐で人が物を縛るとかいうモロにAがBを縛る→BはAに縛られるの用例じゃねぇかw
紐が人縛ろうと積極的に行動するのかw
>>それが転じて「結婚する」などの意味になっただけで元々の原義は受動態
結婚するとか恋人が結ばれるという場合結ぶ人間自体存在せず、結ばれる対象が二人なので用例としては不適。
しかも広辞苑によると結ばれるは自動詞なので、そもそも根本的に受動態の動詞ではない。
>>「主体が主語になるのは必ず能動態」というのは外国語だけ
外国語も日本語も一緒。能動態の能動は相手に対して自己の作用を及ぼす事なので、「他からの働きを受ける」受動とは間逆なので
「相手に積極的に働きかける」動作の主体は能動態の主語であって受動態の主語ではない。
560 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 20:21:58.84 ID:J7f0eHYi
>>ありがたい話で引き受けたいのですが、辞退させていただきます」とかなら了承も拒否も一気に入るし、
引き受けたいといってても実際引き受けていないのだから了承とは言わん。あと動作主体に必要な要素の積極性が全くなく断ってるだけ。
>>本気で将軍の話を引き受けようとしたけど、よくよく考えてみたらいらないな、と秀吉が改心した結果とも
そんなんでいいなら天皇が勅定出そうと思ったけど、よくよく考えてみたらおかしいと思って別の内容として出したとか
よく考えずに軽はずみにだした勅定を、よくよく他の人間の意見とか自分の考え直しとかもあって、内容変えたとかなんとでもいえるわけで。
>>「秀吉の望み」なら秀吉が辞退したんだなと思惑がわかる 「天皇の望み」なら自分の勅定を自分で否定してその経緯もなしだから全くの意味不明になる
天皇の望みの場合でも天皇が一度出した勅定を取り消したか実際出してなくて内容変えてだしたんだなとわかるだけ。
秀吉の望みで断った場合でもその経緯とか、一度承諾したはずの勅定を断ったとか秀吉が辞退した後の勅定取り消しの経緯とかも書かれておらず意味不明になるから何もかわらん。
>>「辞退したい」と言ってる人間を無理やり官職につけても仕事しなけりゃ
意味も根拠も主張内容も不明。「何を根拠に?」「だから何?」としか。
>>老齢や病で本当にどうしようもない事情
そんな事情書かれてないし一体誰が病気や老齢だったんだよ。後だから何がいいたいんだ?
>>勅定を「辞退する」というのも、相当避けるべき事実なのには変わらんが、別に天皇の意思を否定しているわけじゃない
お前の主張だと辞退なんて省略しなかったら両方の官位に任じられてる事になるし秀吉の意志で天皇の意思を否定して五位少将についてることになるので
その経緯も勅定取り消しも天皇が新たな勅定を出して秀吉が了承した経緯も全く出てきてないので、お前の理論(前勅取り消し省略)に従うなら不自然
>>どうでもいいどころか一番重要な部分。「自分で出した勅定を自分で否定して〜」ってどういう望みかもわからんし勅定も出されてない
そんなもん普通に天皇が考え直したか、勅定が実際出てなかったかどっちかだろ。
それは秀吉が天皇の勅定を断って、天皇が勅定取り消して別の勅定だした場合にも言えることだから何の根拠にもならない。
>>「秀吉が辞退したから」で済む「主=秀吉」と違って、「主=天皇」は説明すべきことが山ほどあるのに何の説明もなし
「天皇が考え直して勅定の内容を変えた」「周囲の意見を聞いたりしてよく考えずに出した勅定を取り消したから」で済む「主=天皇」と違って
「主=秀吉」は説明すべき事が山ほどあるのに説明が全くできてない
>>羽柴筑前ハ、と別の人物が主語
ハは主語以外にも目的語など別の意味がある。上記の通り。
>>559 >>「天皇が主体」で「天皇が」とは書かない
任了とか勅定とか頴慮とか任じとか書いてたら天皇が動作の主体だと普通にみりゃわかるし
何にせ「任じる」側は天皇や朝廷で「任じられる」のが秀吉だから動作の主体は天皇や朝廷で客体が秀吉な事に違いないわけで。(動作の主体≠文の主語)
>>「任を了解した」となるなら結局秀吉が主体
だから毎回毎回言ってるけど了は了解なんて意味で使われてないって
>>549 複合動詞の成立条件の一つに主体の一致原則があるし、どの用例文をみても前部分の漢字の名詞化・体言化(〜する事を)という用法は全くない。
参る事を終わった、立てる事を終わった、などと動詞に当たる語を二つ続けて使用する時前の語の名詞化・体言化が自然になされることはない。
これは多聞院日記の該当箇所に〜の旨と出てたり書状とか史料みると〜の段とか〜のこととか〜の由とかちゃんとわかるように名詞化して書かれてる
動詞を二つ続けて使用する場合主体の一致原則があるからこれはまず当てはまらないし前半部分を〜することと体言化・名詞化して使用するならちゃんとそうわかるように
書かれてる(現にすぐそばの箇所でも〜の旨と書いてる)
「任じる」は他動詞なので、任じられる秀吉は動作の客体。任じる側の朝廷天皇が主体。了解はお前の解釈だと秀吉が動作の主体 なので主体の一致原則から反する
>>「主=主語の代用」
お前は主を動作の主体と主張して散々反論してきたんじゃないのか?それこそ主語の代用でいいならいくらでも人物はあげられるだろ。
>>「思ひ染むる」じゃなくて前の方が肝要
前の文も受動態じゃないし、前の方が肝要だから何なんだ?
561 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 20:33:53.28 ID:J7f0eHYi
>>「受動態では使えませんよ」と言う説明がない時点で受動態でも使える
動作の主体という意味では使えない。なぜなら動作の主体は相手に作用を能動的に及ぼす物だから
相手の作用を受ける受動態の主語とは対極にあるから。
>>「彼は付け回されている。ぬし(本人)もそのことに気づいている」とすれば
気付く、は受動態じゃないし、この主がある文は能動文だろ。主にもいろいろな意味があるが、少なくとも動作主体としてなら使えない。
動作というのは相手に能動的・積極的に影響を与える意味が含まれてるので、受動的にそれを受ける受動態の主語とは間逆だからな
>>「天皇が」とか「朝廷が」と言うのは原文にない 天皇は略しても「主上」「聖上」
そもそも聖上も主上も日記見ても出てこず、天皇自体が省略されてる。天皇や朝廷が漠然とした物語の主体側として書いてて
それをこの場面で主と漠然とした言葉で代名詞として使っただけだろ
>>「省略されてる→(天皇が)羽柴筑前は御叡慮に従い」と言う文になる意味不明
だから叡慮って書けば天皇が出てきてるとわかるから、主語が省略できるんだろ。わざわざ二回くどくど主体を書く必要がないから一方を省いて叡慮としただけ。
>>天皇が主語なら 「天皇が羽柴筑前を御叡慮に従わせ、〜という勅定を下す」
従う、には、人が誰かのいいなりになるとか従事するとか以外に、「ならう、よる」といった意味があるので、天皇の意思によってという意味で、主語が秀吉じゃなくても通る
というか、主語は秀吉であれ天皇であれ、動作主体は任じている側の天皇や朝廷に変わらないので問題にならない。そもそも従うも送り仮名が省略されてる時点で
従いなのか従わせなのかよくわからんし。
>>前述の通り「は」は目的語になれないので論外
上記
>>558のように目的語になれる
>>そんな使い方日本語ではしません「彼は寝ていました」という文で、「この『彼』はアメリカ大統領のことを指します」と言われてわかる奴はいない
それは作品を読んでて文章的に誰だか特定できない人物の時な。この場合叡慮だの任じるだの勅定だのかかれてたら動作主体は天皇が出てきてると嫌でもわかるし
キリスト教の教本とかで「主よ」とか特定の人物を不特定の呼び方で代名詞として現すのと同じ事じゃね
562 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 21:01:07.92 ID:J7f0eHYi
>>「秀吉の望みにて」なら秀吉の望みがあり→それを受けた勅定が出されて(省略中)→秀吉が任官されたとできる
>>「天皇の望みにて」なら天皇の望みがあり→それを受けた勅定が出されて(省略中)→秀吉が任官されたとな
>>省略文を戻した場合「天皇の望みにて」のケースは書きすぎで文がおかし
主の望みにてが入ってても意味がつながるように省略された文を補足すりゃいいだけだろ。なんで補足文の内容をこうじゃない
といけない前提で決め付けるんだ? 天皇の望みにて勅定が出されて秀吉が任官されたでも意味は通るし問題ないと思うが。
勅定はこの文中に省略されてるからこそ、主=天皇でも問題ないわけだしな。勅定が新たに出されてとかかかれてたら天皇の動作だとわかるのに
主(=天皇)の望みで勅定が新たに出されて秀吉を五位少将に任了とと何回もくどくど天皇の動作だと説明する事になるし
>>主=天皇なら、天皇が勅定を改めて、とか一語で済むだろう
そもそもその勅定の改変や撤回のくだりが省略されてるから、主=秀吉の場合でも同じ事。
それに主の望みにて五位少将に任官といってる時点で前勅取り消しと新たな勅定が出された事は書かれてるのも
同じなので、同じ事を二回書かなかっただけじゃないか?「雖も」とあるので、矛盾するような内容の文章が二つ繋がっててもおかしくないし
>>秀吉の「望みにて」なら秀吉が辞退したとわかる
いやわからない。二つとも官位をもらったのかもしれない。断ったなんて書かれてないからな
>>天皇の「望みにて」なら天皇が2つ官位を挙げたいのか五位少将だけあげたいのかわからんだろ
二度任じるという言葉が付けられてて、一回にまとめて書いてない上に、間に雖もという、前文を否定する意味の言葉が入ってりゃ誰でも
五位少将が結果なんだとわかるから書かなかっただけだろ。雖もときて、主の望みにて五位の少将に任了(任じ終わった)と結果は
五位少将だと書かれてるからそりゃ省略しても四位大将とか将軍勅定は取り消しになったんだとわかるし
つかお前の解釈(秀吉の望みで五位少将になった)場合でも、前勅取り消しのくだりは省略されてる事になるだろ。
お前の指摘点はお前側の主張でも省略されてはいけない事になるから無意味なんだよ。主の望みで前勅が取り消されないといけないからな
雖も主の望みにて「別の低い官位に」任じ了った、とかかれてたら誰でも前勅は取り消しになったんだとわかるから書かなかっただけ。
秀吉の希望で断った場合でも前勅取り消しがなくていいなんてルールないからな
>>秀吉は官位をあれこれ任命できる立場にないから出せる「望み」なんて限定される。
>>天皇はあれこれ渡せる立場だから限定できない
官位を二つとも受け取ったか断って一つしか受け取らなかったかの話なので、全く二者とも違いがない。
前勅取り消しとか新たな勅定の経緯が書かれてない以上、主=秀吉の場合でもそれは指摘できるポイントなので、
反論としては無意味
>>いや両方たくさんいるという話になる
お前の節によれば最初から官位は朝廷の物なんだから、後任の物が複数存在する事をもって前任の物が辞任してる根拠にはならん。
ただ自然に前任の官位が元々の所有者である朝廷や天皇の元に戻ってるだけ。それか自分の好きなようにできる自分の所有物である官位を朝廷が
他人に任じる事で自然に前任の元から離れてるだけ。それか剥奪されてるだけ。
後任の人が一杯いる事をもって辞任してる人なんて山ほどいる根拠にはならないわけで。
>>天皇に主権がない現代の政治の話をされましても
法律とかが実際に社会で機能してるかということに対する反証例なので、天皇主権どうこうは関係ないだろ。
563 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 21:24:38.04 ID:FSdTobwC
やはり秀吉公はすげー
564 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 22:02:47.15 ID:emdlaASf
持論をゴネ続けた方が勝ちみたいになってるぞ
全く節操がない議論だな、やめたまえ浅ましい。
誰かの頭の中をかち割って見ているわけでもねーのによ
>>563 教科書で天下人と取り上げられているんだから当然だ
565 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 22:12:16.85 ID:lBc0JS+X
無駄な愚行を避け、ある一定の時点で、自分の主張を書き終え、後は読む人の判断に委ねて途中で見切りつけて撤退するのが常識人
ひたすら屁理屈を繰り返し最後にレスした者が勝利者と思い込んで執拗に粘着を続けて論破宣言しようとするのがキチガイ荒らし
この場合、織田厨とアンチ秀吉在日織田厨の両人が両方とも荒らしキチガイなので双方とも無職なのでいくらでも粘着するのだった。
566 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 22:15:04.44 ID:FSdTobwC
秀吉公の種なし説は本当なんかな?
567 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 22:50:01.07 ID:nYBQfydT
>>563 上記の議論を読んで具体的にどんな点が凄いの?
>>564 秀吉が天下取れたの単に棚ボタでしょ。凄くもなんともない。むしろマンセーされ方の方が圧倒的に凄い。
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
568 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 22:53:16.79 ID:QYyP3Yc2
千利休の娘の話なんて完全に妄想話じゃん。
古田織部の息子九郎八から長宗我部の旧臣だった十市縫殿助が聞いた話を纏めて
1653年に十市縫殿助物語という物語を作ったとか信憑性ないだろw
秀吉が鷹狩りで山を歩いていたら偶然に30歳ババア利休の娘を見かけるとかありえなぇだろw
秀吉を悪人として描いていて明らかに中立性を欠いた妄想話。
好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
569 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 22:53:45.15 ID:h3S8MCxW
570 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 22:56:11.85 ID:nYBQfydT
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
571 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 22:57:23.60 ID:nYBQfydT
秀吉は最初からかなり高い身分だっただけだろ
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
572 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 22:59:07.66 ID:nYBQfydT
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである
>>564,569
あと大規模規制を理由にシベリアやクラウン、外部掲示板の代行使って
単発IDによる多数派工作するのもやめたほうがいいよ
574 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:00:24.42 ID:nYBQfydT
6才で死んだ実子の羽柴秀勝 (石松丸)もいるから種無しってことはないし
豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。
好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
575 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:01:05.44 ID:mGnZo+95
576 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:01:59.01 ID:nYBQfydT
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり 秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
577 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:04:58.20 ID:lBc0JS+X
>>573 やっぱり多数派工作やってるヤツってリアルにいるんだな。。。
まぁ戦国板が単発IDだらけなのは今に始まったことじゃないしな。
579 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:21:40.35 ID:lBc0JS+X
>>578 わざわざご丁寧にありがとうございます。
レッテル貼ったり、多数派を装って相手を排除するやり方で
多くの戦国板住民がいなくなっていったんだろうな。
前はもっと一次史料を出して語れる住人がいたもんな。
580 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:34:44.60 ID:p18CZDon
なんだか気づかないうちに変な流れになってないか?まあいいや、堂々巡りになりそうだし嫌気指してる人もいるようだし俺はこれで最後にする
・秀吉は積極性を持っているか否か?→「主=秀吉」と解釈すると、秀吉の意向で五位少将に任官されている。よって意思も行動もある。
・阿衡の紛議は宇多天皇が勅書を撤回→誤り。事件の顛末は「橘広相が処罰された」(山川出版社教科書)、「対立した」(浜島書店教科書)、「勅を訂正した」(政事要略・阿衡事)で「撤回した」はどれ1つない
・結ばれる云々→結ばれるは原義が受動態、それを転じた意味となっているだけでやっぱり受動態のまま
・「は」の意味、「了」の意味→「は」に目的語の意味はない、「をがに」が目的語 「は」は主語と説明を表す文のみ。「了」は接尾語で完了の「了んぬ」とは別義。
・「主」の意味→「主」は文の主語を表し、能動受動の制限はない。天皇を略す場合は「主上」「聖上」、どのみち「天皇」の主語は文中に明示されていない。
・「勅定」→勅定は天皇の意思であり朝廷側が勝手に無下にできない(七年史・孝明天皇の勅定)。勅定の辞退は可能だがこれも制限あり、ただできないわけではない。
・「官位の所有権」→官位の所有者は「天皇・朝廷」。ただし官位の任命人数については「大宝律令」で明示あり。現代の民衆政治と異なり、好き勝手に「都合のいい法律」は作れない。
582 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:44:22.05 ID:3DP15BLl
アスペルガーだがという自作自演を得意技とする嘘吐き荒らしが一次史料を出した人たちを追い出しまくったからな
アスペルガーだが「ソースは?」
↓
史料を提示する人「ソース提示して丁寧に説明」
↓
アスペルガーだが「そのソースは捏造 説明も無視」
↓
史料を提示する人「ソース提示しても馬鹿らしいので相手にしないで去る」
↓
アスペルガーだが「次の獲物を求めかまってチャン行動の繰り返し」
毎回この流れ
「悪貨が良貨を駆逐する」その典型だな
良貨:史料を提示する人
悪貨:アスペルガーだが
583 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:48:08.76 ID:3DP15BLl
584 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:51:15.21 ID:p18CZDon
585 :
人間七七四年:2013/08/16(金) 23:58:56.40 ID:3DP15BLl
586 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 00:07:48.40 ID:SX8z/+0d
>>585 アンカは
>>581のミスなんだごめんね。いや、いつも通り盆休みもないまま家帰ってきて、
いざと思ったら流れ変わっててさ。他の人を顧みず長々とやって本当に申し訳ない。嫌な思いさせてすいませんでした。
587 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 01:08:25.73 ID:lsP3cQhf
>>581 なるほど複数の書き込み代行を利用して単発ID自演をしていたのは間違いないね。
いやはやあきれるばかりだ。なんどそんなに相手排除に多数派工作してまで必死なんだか。
掲示板で労働しても対価なんてないだろうに。
588 :
人間七七四年:2013/08/17(土) 01:48:54.02 ID:T48EkjUJ
経緯はおおよそわかったけど、しかしIPもIDも出てないのに随分強気な発言だね・・・
まあこっちも証明しようがないから、「そうかもしれないね」としか言えないんだけど。
589 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 06:59:39.34 ID:2+WUOd9p
>>567からの流れを見る限りまた秀吉嫌いで結論有りきのだが氏が論破されたのか?
まあ文献かじった人間が解釈を一般人に押し付けて好みの歴史観を創ろうとするなんて良くあることだけど
他所でも秀吉は政治力で天下を獲った戦下手って事にしたいようだから
政治力頼みを否定する将軍位辞退なんてのは都合悪かったのかな?
流石に主上が勅定を頭のなかでやり直したの多聞院英俊が知っていたとか無理だったようだけど
590 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 09:40:28.01 ID:LUDO/p5e
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
秀吉⇒和仁親王 銀20枚
7月 秀吉⇒天皇 白鳥三 蝶子三十
⇒誠仁親王 白鳥ニ 綿百吊
⇒和仁親王 太刀
⇒若御方 料紙
と献品しまくり
また寺社衆への所領安堵もしまくっている
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
そもそも秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
591 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 09:43:18.78 ID:Vu3KxfzR
>>流石に主上が勅定を頭のなかでやり直したの多聞院英俊が知っていたとか無理だった
お前は相当馬鹿だな
秀吉が断って低い官位望んだ場合でも天皇が勅定取り消し・新たな勅定をださなきゃいけない事を考えろよ雑魚
592 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 09:47:16.14 ID:50SFmRgL
>>589 解釈論を無理矢理押し付けてんのお前の方
主に秀吉を指す意味なんてないのに馬鹿な堀新に洗脳されて
無理矢理秀吉が自分から断ったと解釈論を押し付けてるだけ。
現に他の史料にはそんな話全く出てこないし他の学者とかも全く相手にしてない。
一部の秀吉マンセーアホ学者が主→秀吉と無理矢理曲解した上に確定して秀吉が自分から断ったとかデッチあげてるだけ。
秀吉は早くから官位ほしがってて朝廷工作やりまくってるのに断るわけねーだろクズw
593 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 09:51:20.19 ID:LUDO/p5e
普通に読めば主=天皇か朝廷で
朝廷が一旦出したか出そうと思ってた勅定を考え直して低い方に取り替えたってだけの話だろ
その証拠に「天皇とか主上」は作中で一切具体的に語られないし
その間の天皇の取り消し行動とか考え直した行動が省略されてるだけ。
594 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 09:57:03.90 ID:woCrd/wp
秀吉が任官断ったなんて途中経過の話だったら多聞院がしってるわけねーじゃん
他の公家達も皆知らなかったんだし
595 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 09:58:34.10 ID:woCrd/wp
授けられたのが秀吉。授けたのが朝廷。なので行動主体はあくまで朝廷。
受身系になろうが、「主語」が文法的に変化するだけで「行動主体」は授ける側の朝廷のまま。
596 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 10:00:10.40 ID:Vu3KxfzR
最初の文章で「今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ」は、文法的に直訳すれば
秀吉は今度京都で誰かを四位の大将に任じて、その誰かが、将軍職を兼ねることになったというような訳が可能
文法的に直訳すれば秀吉が誰かを四位大将に任じてその者が将軍職を兼ねるように勅定が出されただけ
597 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 10:06:54.19 ID:Vu3KxfzR
今度於京都羽柴筑前ハ従叡慮四位ノ大将ニ任ジテ、兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定、主ノ望ニテ五位ノ少将ニ任了ト
これが原文。よってどうみても動作の主体は任命する天皇や朝廷側
「〜が省略されてる」なんて曲解とか妄想何ぞ知らん。日本語で主体の動作を省略可能なんてルールはないし
あくまでこの文中では任じる、任了す、勅定と天皇サイドから書いてるので、動作の主体は任じている朝廷側。
598 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 10:07:57.24 ID:pq9hhSj3
>>465でいいだろ。ようは主体の動作も主体も全て省略可能なんだから、
兼将軍ノ官ヲ可被成之旨雖有勅定の前半部分の主体は秀吉で、
動作が将軍の官を兼ねて成られるべくの旨、勅定を下される事を望んだ
というように動作が省略されてるだけ。
599 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 10:21:53.04 ID:bNfroID8
堀の中高生向きのアンチ徳川本に洗脳されてる馬鹿が大暴れしててワロタw
600 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 10:33:47.94 ID:sc1z51OA
601 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 15:00:28.24 ID:/J2hMS6v
602 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 15:17:56.01 ID:axtuQzDw
暦ゲー板で武田厨を装う織田厨がコピペ荒らし爆撃してから、わざわざ戦国板にタイムリーに報告してるだけだろw
その証拠に暦ゲー板のだがスレには武田厨がまったく登場せず、
明らかにアンチ織田住人は暦ゲー板にはいないことが判明する。
だから暦ゲー板ではここと違いいくらでも織田厨が好き放題に捏造歪曲工作しまくってるじゃんw
ついでにアンチ秀吉爆撃コピペにも一切、抗議しないという戦国板と同じ性格が現れてるしw
もうバレバレじゃんwww織田厨が自演してたのもバレちゃったしwww
603 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 15:18:51.31 ID:axtuQzDw
よく見たら暦になってたんごw
歴ゲーだったw
604 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 16:51:00.30 ID:/J2hMS6v
605 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 17:04:47.63 ID:axtuQzDw
他人に責任を押付けるのに必死だなアホ乙w
606 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 19:13:39.30 ID:0NrjNKxN
607 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 20:14:20.57 ID:axtuQzDw
あい変らず必死チェッカー大好きの粘着ストーカー気質丸出し偏執狂だなオエッw
チェッカー使って履歴追い回すキチガイはそうそういるもんじゃない。
全部、お前のレスだろw自演もバレてるしな。
608 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 20:45:37.90 ID:0NrjNKxN
609 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 21:50:12.31 ID:dJtbTgLj
織田厨は心の病にかかってるな。
自演を指摘されてムキになりすぎw
610 :
人間七七四年:2013/08/18(日) 23:02:45.70 ID:+ODddzzq
>>548 池上裕子の日本の歴史15織豊政権と江戸幕府で
信長の貨幣政策について書かれていて絶句する部分っていうと
確か1565年からの畿内近江での米価上昇、貨幣の混乱は
上洛後の信長の貨幣政策・撰銭令が悪かったから
信長の貨幣政策経済市場政策は間違っていた信長は日本を混乱させただけ
みたいなこと書かれている部分か?
611 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 08:42:24.49 ID:1o/q3aVm
確かに自演を非難してる書き込み代行の方と会話してる
577:人間七七四年 08/16(金) 23:04 lBc0JS+X [sage]
この人はだがだから、
荒らし工作してる基地外は間違いなく織田チョンじゃん。
犯罪者は自分の罪を隠蔽するために雄弁に語って潔白を主張するため嘘を嘘で重ねると言う言葉通りだな笑えるw
612 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 11:31:31.53 ID:7Z3dqSlN
話の流からしてれ、だがと敵対してる側が自演工作してるのを告発されてるのは間違いないのに
歴史板でも必死にキチガイ工作をしててクソ笑えるw
あっちは織田厨に敵対してる人を全部、だがとレッテル貼って手当たりしだいに排除してあるから
織田厨の天国だから遣りたい放題毒電波を発信できてよかったなw
まぁ歴史ゲーム板で史実を持ち込むアホ荒らし織田朝鮮人に介入して、
荒らしに荒らしで対抗する気は俺にもはないけどw
613 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 17:25:20.75 ID:r77/r5+O
>>610 意味わからん
信長の上洛は1568年だろ
何でそれ以前の1565年からの貨幣の混乱が信長のせいになるんだ?
614 :
人間七七四年:2013/08/19(月) 17:38:47.65 ID:7Z3dqSlN
揚げ足乙w
615 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 05:10:50.36 ID:cujIPu8F
616 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 09:18:45.09 ID:ryFWTtQd
>>615 そんなのわざわざ作るほど執拗に粘着する偏執狂の織田チョンは気持ち悪いストーカーそのものだね。
そんなにガキみたいに相手にレッテル貼り、
自分が正しいと必死に捏造発信して回らないとならないほど切迫している時点で論破されまくってる証拠じゃん。
工作に次ぐ工作を繰り返し、議論からはコピペの相手はしないと去勢張って逃げまくり情けないね。
そもそもコピペじゃなくて、テンプレだしw
もともと論破されても、壊れたカセットテープみたいに信玄への中傷悪口、
しかも同じ内容の蒸し返しのループをしてた愚昧織田チョンのオナニ猿に対しての反論の繰り返しで、
完成されていったテンプレだしw
617 :
人間七七四年:2013/08/20(火) 12:27:46.96 ID:nnDE2tnv
大河板・三戦板・歴史難民板・日本史板・歴史ゲーム板など、
ありとあらゆる信長が関係してる板で工作しまくり、
自分の正しさを発信しまくり、論破されていることがバレないよう予防線をはりまくる
馬鹿チョンの織田厨のやり方は、従軍慰安婦のでっあげを必死に世界に発信する朝鮮人の思考そのもの。
自作自演と武田厨なりすましなど気持ち悪い手法で必死に隠蔽。
論破されたテンプレはコピペの相手はしないと言い換えてレッテル貼りの人格攻撃
やってることがもう半島人そのもの。
618 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 04:09:57.19 ID:I8Z+ZDGh
確かに織田厨のやり方は特定アジアの工作手法だな。
619 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 11:22:17.34 ID:CMESRUXs
>>612 織田厨は自演工作を告発されるとは思っても見なかったんだろうねw
歴史ゲーム板でも、バレたことを必死に歪曲して予防線を張ってて
クズ丸出しで哀れだわw
わざわざ歴史ゲーム板まで出張するほどのキチガイ工作脳は織田チョンだけだわな。
見えない敵の告発を恐れて自作自演で予防線とか
同じ戦国好きとしても哀しいわ。織田北チョンには信長主体思想を止めて、オナニ荒らし行為を反省してくださいと言いたい。
620 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 15:45:47.25 ID:nBfA9QF3
おぇっ…信長厨の不快かつ卑劣な手口の数々を読んだら気持ち悪すぎて吐き気が出てきたわ!
621 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 21:44:40.29 ID:FivPE6lF
>>613 だから絶句するんだよ、話の前提がおかしいだろと。
でこの著者は一体・・・ってなる。
622 :
人間七七四年:2013/08/21(水) 22:52:18.04 ID:Wf8b83Id
ただの勘違いによる錯誤じゃねーか。
その程度は読者が脳内補完すりゃいいレベルだろ。
そのチェック漏れ1点だけで、氏の著作全ての全否定とかアホだろ。
623 :
人間七七四年:2013/08/22(木) 04:40:07.60 ID:2UBfxvow
織田厨得意の、
自分の意に反する論文は
人格攻撃レッテルを貼りで氏の意見も排除しようとして大失敗w
まさに天安門事件の時の共産党並みに低脳w
624 :
人間七七四年:2013/08/22(木) 12:27:04.56 ID:7F/lknXW
いまだに自作自演で騙しとおせると盲信してるのは
多くの価値観を共有できない池沼織田鮮人くらいなものだろ。
625 :
人間七七四年:2013/08/22(木) 16:41:21.87 ID:t4/kYI/R
>>622 ちゃんとその本読んで調べればわかるけど勘違いとかチェック漏れってレベルじゃないだろ。
脳内補完って氏の経済関係の解説は全部オミットしろってことか?
626 :
人間七七四年:2013/08/22(木) 16:44:56.07 ID:Pf3XgzpH
627 :
人間七七四年:2013/08/22(木) 17:47:05.28 ID:t4/kYI/R
信長の撰銭令が正しいか間違っているかは置いておくとして。
簡単に書くと
1560年からの米の価格推移の表を見ると、1566年から畿内近江で米の価格が上がっているのがわかる、
で氏は1569年の信長の撰銭令と翌年の米の通貨としての使用禁止、
こういったことが米の価格高騰貨幣経済の崩壊を招いたとし、
そこから信長の経済政策市場介入政策について論じている。
例えばたまにあるような年数を書き間違えたとかなら、
その部分の年数を自分で修正すればちゃんと意味が通る文章になるんだけど、
この場合はどこを脳内補完すればって感じになる。
だからチェック漏れとか錯誤とかじゃなく、もうその話の部分すべて信用できないって感じになる。
628 :
人間七七四年:2013/08/23(金) 13:12:07.07 ID:5DmPPs7N
信長が米価の高値是正する目的でやった政策のせいでかえって悪化し、
飢餓と一揆を誘発し貨幣経済が崩壊したってことだろ。
信長政権政策による貨幣価値の信用保証に全く裏付けが無いことにみんな気づいていたってことだろ。
結局、信長政権の民衆による否定が一揆頻発という結果になり、
大坂経済圏にある石山本願寺の政策の支持という点において畿内の民意により共同戦線が樹立されたということだろ。
629 :
人間七七四年:2013/08/23(金) 14:50:47.51 ID:KoNkC84j
信長は朝倉との戦いに不利になると、京での人心を買うために徳政令をだすが
さらに不利になると兵糧を出せや!と朝令暮改をするから、織田政権そのものの信用が失われたんだろうね。
9/20信長が摂津から志賀に到着。
☆☆☆10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継 因幡美作の国人の草刈家文書
(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが新たに帰属した武田高信を厚遇したことに
反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)によると信長の朝倉討伐の時に
※※※離反した浅井は京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
☆☆☆11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
630 :
人間七七四年:2013/08/24(土) 12:00:35.92 ID:LAT4J9qL
>>629 朝倉軍は織田軍に連戦連勝で無敗だったからね。
将軍が降伏して、将軍の領地だった若狭国が動揺したので、
本国への退路が断たれる前に急遽、動揺する朝倉軍将兵を
越前へ退却させようと、織田軍に背後を見せたために
追撃されて軍が崩壊しただけ。
631 :
人間七七四年:2013/08/26(月) 18:59:53.92 ID:1UZsp1tQ
へえ
632 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 00:30:08.05 ID:Qca9aT++
>>628 そ、だから池上の言ってることは信用できない。
633 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 08:13:45.71 ID:3mYqfNIT
>>632 えっ?お前が頭が悪くて理解力がないだけじゃん笑
634 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 09:28:07.35 ID:MLOzhSQv
>>631 よく勘違いされるのは朝倉義景は浅井を見捨てるのは忍びないという
気持ちから専守防衛協力をしていただけで
失われた浅井領を奪回してやるほど
超お人よしの好戦武闘派じゃなかったってこと。
朝倉軍は常に織田軍より兵力も多く、本気で潰すつもり美濃侵略をやり始めたら
織田は滅亡していた。
635 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 09:51:17.47 ID:03Q8EYiF
>>634 一度くらい本気の朝倉さんを見てみたかったわ。
まあ、武田も本気じゃなかったしな。
対信長包囲網に加わったのだて義昭がしつこいからだし。
信長が空気読んで恐れ入ればそれで許してやるつもりでゆるゆると圧力をかけたんだけど、これが大誤算。
残念なことに寿命が尽きてしまった。
義昭と浅井以外誰も本気じゃなかったのに、全ては空気を読めない信長が悪いね。
636 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 10:09:28.45 ID:qnGvOEg3
本気じゃなかったのに死後一族皆殺まで追い込まれた朝倉と武田・・・
本気じゃなかったのなら有利な状況で和議を結べばいいのにバカスwww
>>628 池上も大概だが、だがチョンに比べればマシだなw
だがチョンは池上の著書を妄想に補てんしたいだけだからなw
池上が自著で否定しているのは「信長の政策」であって
(最も、他の研究者に自分の評価を否定されまくっていることを池上自身が吐露しているが。
http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11581693059.html )
信長の軍事行動や都市制圧の面は全く否定していない。
結局「信長は余りある力に任せて敵をぶっ潰しまくったから勢力拡大できた、でもその後のことは何も考えてなかった)というのが
池上の主張で、軍事功績すらなかったことにする「だが」とは雲泥の差。
池上もまさか自分の著書がこんな奴にマンセーされるとは思わなかっただろうよ。
637 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 10:21:32.14 ID:03Q8EYiF
>>636 実際、信長は新しいシステマチックな統治機構を構築しようとはあまり考えてなかった節はあるね。
基本、既存のシステムに則り、自分の思い通りにならないところだけ自分の意が通るように変えればいいやくらいにしか考えてない感じ。
統治は丸投げ。自分の意の通りにならないと別の人間に丸投げ。
信長は中世の、というよりむしろ古代の英雄といった方がいいと思う。
時に見せる合理性も、近代的な感覚の発露ではなく、野生の直截さの発露というべき。
638 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 11:28:15.30 ID:MLOzhSQv
また無知の捏造大好きアホ織田チョンが暴れてんのか・・・
そもそも義昭が永禄10年11/21に一乗谷へ来る前から加越和睦が提案されていて
義昭が一乗谷へやってきて再度の義景への提案を受け入れ
12/12に加賀から杉浦氏の子息が人質としてやってきて
一乗谷の安浪賀に幽閉されてるし
和議成立の証として加賀一向宗方は柏野と松山の城が、
越前方では加賀での最前線だった黒谷・檜の屋・大聖寺の城が
取り壊されて緩衝地帯化されてんのも知らんとかw
これを受けて12/25に義昭は義景の館へ訪問してる。
実際、この後に越甲相の同盟成立寸前までいっていたが
本庄の乱で謙信は出羽方面になってしまう下越の阿賀北まで出兵することになり
加賀経由で越前へ行くことを断念することになったから
義昭は再度、信長を頼ることになっただけの話。
ちなみに都から遠くなると嫌がっていた義昭が
やむなく越前まで逃亡して義景を頼らざる負えなくなったのは信長のせい
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると臆した信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
9/13の義昭は謙信へ向けて「京表儀 織田尾張守出勢相違故
江州矢島儀 弥三好・松永計策共候間 難成安座候之条 若州へ相越
去八日至越州敦賀退座候 義景馳走候」
などと信長を名指しで非難している。
639 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 11:29:48.12 ID:MLOzhSQv
また無知の捏造大好きアホ織田チョンが暴れてんのか・・・
そもそも義昭が永禄10年11/21に一乗谷へ来る前から加越和睦が提案されていて
義昭が一乗谷へやってきて再度の義景への提案を受け入れ
12/12に加賀から杉浦氏の子息が人質としてやってきて一乗谷の安浪賀に幽閉されてるし
和議成立の証として加賀一向宗方は柏野と松山の城が、
越前方では加賀での最前線だった黒谷・檜の屋・大聖寺の城が
取り壊されて緩衝地帯化されてんのも知らんとかw
これを受けて12/25に義昭は義景の館へ訪問してる。
実際、この後に越甲相の同盟成立寸前までいっていたが
本庄の乱で謙信は出羽方面になってしまう下越の阿賀北まで出兵することになり
加賀経由で越前へ行くことを断念することになったから
義昭は再度、信長を頼ることになっただけの話。
ちなみに都から遠くなると嫌がっていた義昭が
やむなく越前まで逃亡して義景を頼らざる負えなくなったのは信長のせい
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると臆した信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り若狭武田の下へ義昭は逃走した。
9/13の義昭は謙信へ向けて「京表儀 織田尾張守出勢相違故
江州矢島儀 弥三好・松永計策共候間 難成安座候之条 若州へ相越
去八日至越州敦賀退座候 義景馳走候」 などと信長を名指しで非難している。
織田厨は無知すぎ。 其の頃の三好は分裂していて 義継+久秀+雑賀衆+紀伊畠山
と三好三人衆が争って畿内は内乱により足利義栄も摂津で足止め。
しかも臆した信長が斉藤を騙し討ち奇襲ののちに大敗するまでは
大和の国衆も六角も能登畠山も義昭擁護側にいたので上洛は比較的簡単な情勢だった。
信長が臆したことで義昭の上洛が不可能と断じられてしまい
義栄の将軍職認可につながってしまった。 観音寺騒動以降、二派に分かれた六角氏だったが
信長が臆した挙句に逆切れして斉藤攻めして敗北したことで
六角で主導権を握っていた義昭擁立派は劣勢に立たされ
六角義治が三好軍を呼び込み 義昭が若狭を経て朝倉を頼るほかなくなった。
640 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 11:32:26.76 ID:MLOzhSQv
キチガイ秀吉アンチのアホは松下文書どころか志賀の陣の翌年の元亀2年5/11付けの
徳山宛の秀吉書状すら知らずにデタラメ書いてる愚か者。
5/6に堀秀村の箕浦城を長政が派遣した5000で攻撃されるのを察知した秀吉が
横山城を出陣して箕浦城に入った後、下長沢→八幡(長浜)で戦いが続き
秀吉軍が浅井井規と湖北十ヶ寺一揆連合軍を打ち破ったのも知らん無知ぶりを晒し
箕浦合戦は捏造とか連呼する救いようの無いバカ池沼。
総見記には元亀3年に浅井井規・赤尾清冬らがまた横山城を
攻撃してきたが、横山城から竹中重虎が、
背後から秀吉が攻め懸かり挟撃される恐れから浅井軍が撤退したとも書いてる。
以前として秀吉も苦労していたようで、宮部継潤らを調略して自軍強化してる。
信忠の初陣では、無謀な山本城攻めを秀吉はさせられるなど信長がやってくると散々。
この時期、松永久秀も近江に7/7までに来ないと許さんと
追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。
宮部継潤らが味方になったことから信長は横山城との連結が可能となった虎御前山に7/27に築城開始。
8/28暴風雨を利用して朝倉景盛が柴田の城郭を放火したら
どんどん延焼して織田軍は大混乱になるなど苦戦続きの織田(9/5長政書状)
これにこりた信長は宮部城を修復し佐久間隊を入れ、
虎御前山と宮部城に土塀と堀で囲った軍道を作ることになる。
9月に入り、ついに信玄西上開始。
朝倉始末記には元亀2年10月中旬に朝倉出雲守騎下が虎御前山城に放火したところ
風雨のため陣屋700余りが燃亡したとしている。
この時に浅井・朝倉軍が全力で討ってでたなら虎御前山城も落せたと皆々が申していた。
そのため皆々が過分な褒美がもらえるものと思っていたが、
しかし義景から褒美がまったくなかった。始末記は朝倉滅亡の原因として、
これに前後して有能な大将が病死したり、卒去したり酒死したりと若輩ばかりになっていた点と
信長と違い、功ある者に賞を与えなかったことを挙げている。
信長はこの時の敗戦が原因で虎御前山から宮部まで堀と高塀を築いて、
10/16その高堀の陰に隠れながら美濃へ逃げ帰ったので朝倉軍は気づかなかったとしている。
そこで朝倉軍は大嶽の城丁野の城に番兵を配置してから11/3に帰陣した。
公記が隠蔽して一切書かない山陰戦線
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕が無かったから勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが
反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。 これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、信長は余裕が生まれてしまい、
8月越前一向衆を壊滅させてから、光秀に丹波侵攻を開始させてる。
波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には 芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが、
出雲や伯耆の安定の為に、尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから露骨に毛利に開戦したく無かった。
信長は毛利に対して内心激怒してただろう。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
勝頼が長篠で大敗したのはガチでバカ過ぎ。
641 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 11:33:08.65 ID:MLOzhSQv
9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
642 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 11:37:16.49 ID:MLOzhSQv
銀山収益を持つ山名氏の信長への取次役だった坂井政尚が討ち取られたことが
山名氏の織田からの離反と 丹波の赤井らとの呼応による
吉川軍の但馬侵攻フラグだから朝倉軍は最大の効果を挙げているんだよね。
坂井政尚は柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成と並ぶ大将であり
そのうち2人まで討ち取る大勝ぶりだもんなぁ。
えっ?天下の儀を朝倉が行うように信長が言った後、
信長は京からも撤退して明け渡してんじゃんw
元亀2年に朝倉が六角に入京した時に放火とかしないようにって命令してるし。
信長が再度、入京するのはその後に比叡山焼き討ちした後だろうがw
しかも信長は京洛内外で強制没収した兵糧を高利で貸すトイチ金融まで京で始めてるし…
※天下の儀とは?下記実例
天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、
上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事
(天下の政治は何事につけてもこの信長に任せ、誰にも限らず、
将軍の上意も得ずに信長の分別により成敗を加えることができること)。
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。
643 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 11:52:35.39 ID:qnGvOEg3
まーた無駄にだがチョンがコピペに走ってるのか
>>633の威勢はどこへ行ったのかねぇw
「池上の主張を理解できない奴はアホ」なんだろ?www
その池上は信長について「抵抗する人間を軒並み叩き潰し、戦争に明け暮れた群雄」だと評し、
それこそが信長が天下統一に至らなかった原因だと自著で語っている。
実際秀吉が天下統一した理由も「信長のマネをしていたけど、これじゃダメだと方針転換したから天下が取れた」と語っている
毛利島津大友など、信長にはなかった柔軟性こそが秀吉の天下統一の要だと池上は自著で記述しているわけで
言い換えれば信長は「剛」しかなかった人物だと言っているのだが、おまえは池上の主張を理解しているんじゃなかったのか?ww
644 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 13:35:17.48 ID:3mYqfNIT
池上はまだマシだから評価してるだけだろ。
池上もやっぱり既得権益ある旧態然な老害には遠慮があるんだわ。
だから軍記の信長公記をやたら持ち出す。
あれは原点対象だわな。
いま学会の長老どもは、
若い研究者は一次史料ばかり引用するからけしからん!
などと言われるように軍記講談ガン無視の姿勢に苛立ちを持ってるからな。
645 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 14:12:59.41 ID:LHGGyUFn
池上は割と一次史料を無視して信長擁護もしてるんだよな。
俺は池上が織田厨に近い思考だと思うね。
646 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 14:31:39.98 ID:iJVjampB
学者を老害呼ばわり出来るお前はなんぼのもんよ?www
647 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 16:08:59.38 ID:MLOzhSQv
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
648 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 16:10:35.24 ID:MLOzhSQv
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦してるじゃんw
坂本の明智軍はすでに崩壊してるし。
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。
そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。
天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww天下布武で家臣へ土下座書状wwww
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
2/26の長政書状には津保や加治田の話が出てるついでに
朝倉軍ももうじき出撃するとも書かれている。
西近江高島郡の多胡宗右衛門も3/18に朝倉義景から
近江十条坊城の支援頼むわ〜うちもお前に援軍必ず出すからと言われてるし
事実、4/7には近江で普請してるからそっちへの援軍遅れるわ〜って
朝倉義景が多胡宗右衛門に書状を出してるから、
すでに朝倉先陣は4月には近江に来てるのが分かるんだな。
多胡宗右衛門は8月に義景が織田に大敗して敗走したのを見て
織田に降伏して領地を安堵されてるから、信玄西上中での織田への裏切りは
あまりに多くて信長も不問にせざる負えなかったんだろうな。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
649 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 16:13:18.76 ID:MLOzhSQv
3/19の謙信→織田家臣の長景連への書状でも
3/11には一乗谷から出陣した義景が越前府中まで到着してるのに触れている。
その文の中で謙信は信州と濃州の境を用心をして油断するなと信長へ強く警告している。
信玄が三河から美濃へ転進する情報を謙信は得ていたのだろう。
其の日は続けて2通出していたようで、別文書では3つの条文をかかげており
1.この書状は焼き捨てること。
2.比叡山再興の説得に信長は納得したので信玄が比叡山復興を掲げているのも失手となるだろう。
3.浅井の身の上も朝倉が主張することは尤もなので、その通りにすることで
信長と家康の分国は静かとなるので、
これをもって私と信長と家康で申し合わせれば〜と書かれており
信長が全面降伏モードで比叡山・朝倉・浅井を許すから謙信様助けてくださいと言っているのがわかる。
まぁ義景自らが指揮した刀根坂で追撃されて大敗した唯一の敗戦以外では
朝倉軍は常に織田軍を圧倒していたからね。
天正2年正月の公記 朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は? 義昭→六角義賢書状 信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、勝頼に明智城を奪われ 織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では信楽表で大勝利し感状まで出してる。続いて高天神城も勝頼に落とされるなど織田は連戦連敗・・・
>>加賀での最前線だった黒谷・檜の屋・大聖寺の城が 取り壊されて緩衝地帯化
こういうの見ると朝倉の駆け引き交渉下手っぷりがわかるよね。
宗滴が必死に攻め取って確保した地域だしね。
まぁこれがあったからのち本願寺教如と義景の娘が婚姻するまでに発展できた端緒と言えるのかも知れんけど。
そういや大聖寺城は裏切り者の大野郡司朝倉景鏡と朝倉景隆の両大将が指揮して加賀侵攻したときに
景鏡によって宗滴の養子の敦賀郡司朝倉景紀の息子景?が自害に追い詰められ朝倉軍が内部対立で崩壊し
やむなく素人の義景が出陣してきて(朝倉当主自らの出陣は1495年以来の70年ぶりの珍事)指揮を執って
湊川まで進撃して大聖寺城に兵を置いて帰った地だよね。
もともと朝倉家当主争いの後も席次で争っていたけど この事件によって問題が具現化してしまい
信長の越前侵攻では敦賀軍司へ援軍を出さない大野郡司と言う構図に発展するんだよな。
敦賀軍司家を守って維持してれば大野郡司の専横の末の裏切りで朝倉軍が滅亡することもなかっただろうにね。
朝倉内でナンバー2だった景鏡を排除していれば内部対立と朝倉簒奪のために信長に義景を売ることもおきなかっただろうに。
宗滴家を潰すなど、まさにこいつは奸臣だよな。
650 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 16:14:10.52 ID:MLOzhSQv
朝倉滅亡の原因は嫡子に恵まれなかったことがよく指摘される。
義昭が非公式・公式で義景の邸を訪問した際にも義景の後継や子の後見の立場が関わるため
席次を争う敦賀郡司の朝倉景紀・景恒親子と大野郡司の朝倉景鏡は険悪で
宴が何日も続いたが決して同席しなかった。ちょうど其の頃に一子阿君も毒殺されたとも言う。
信長を討つ最大のチャンスであった金ヶ崎の時も最初期の信長の侵攻の時に景恒が守備していたが
府中まで出陣していた景鏡は彼を助けるそぶりをまったく見せず織田追撃にも参加しないありさま。
ここで景鏡が大軍で織田を襲っていたら信長は死んでたろうが景鏡は敦賀郡司の滅亡こそ望んでいた。
結局、景恒が金ヶ崎城で織田に開城した事実をネタに不甲斐無しと糾弾し引退に追い込まれて
その年のうちに失意の死に景紀も敦賀郡司職も廃止で失意のうちに死去。
(兄の景?も景鏡と大将の座を巡り口論の末に自決してる)
志賀の陣の時に朝廷が和睦斡旋に来た際に双方が人質交換をしたのだが
そもそも和睦など考えもしてなかった義景には出すべき人質がいなかった。
それでも朝廷に強く言われ家臣の子を出すしかなかった。
そのため織田方も家臣の質を出すと言うことで決着した。
そこで朝倉奉公人の魚住氏や府中奉行の青木氏などの子を出した。
さて信玄死後のこと、浅井を救う為に近江出陣の軍役を課したところ
子を人質に出していた魚住と強欲景鏡が疲弊を理由に出兵拒否。
それどころか朝倉軍が敗北したと知ると越前侵攻の道案内を勤めたのが逆臣魚住景固であり
景鏡は頼ってきた義景を討った逆臣となった。
そして景鏡は信長から一字を貰い受け土橋信鏡と改名。
実質的に朝倉軍の総大将であった景鏡の大逆無道ぶりと朝倉家横領を夢見たがゆえに朝倉滅亡を呼び込んだといえる。
このように戦国最強の信玄という武威が消えた時、内紛を抱えつつも巨星来るを支えとして
ごまかしごまかし戦っていた朝倉は その内部矛盾を抑えることが不可能となり見事に瓦解した。
まさに蘆名家の末路のように自壊したと言えよう。
651 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 20:38:58.11 ID:qnGvOEg3
池上の主張を理解できない奴はバカと
>>633で
大言壮語を吐いたにもかかわらず
気に入らない部分は池上に依拠せず妄想で補うことで
「ぼくのかんがえたおだのぶなが」を流行らせようとする
だがチョン・・・
652 :
人間七七四年:2013/08/27(火) 22:26:56.83 ID:iJVjampB
まーたコピペで荒らしてる
あ、バカの織田中のコピペだから読む価値無いですよねwww
653 :
人間七七四年:
バカの織田中の仕業とされるコピペ
信長が臆した挙句に逆切れして斉藤攻めして敗北したことで
>>639 追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。
>>640 天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長
>>648 信長が全面降伏モードで比叡山・朝倉・浅井を許すから謙信様助けてくださいと
>>649 ここで景鏡が大軍で織田を襲っていたら信長は死んでたろうが景鏡は敦賀郡司の滅亡こそ望んでいた
>>650 信長を否定しまくり信玄をマンセーする織田厨・・・・ねwwwww