【関東最強】臼井城について【謙信敗北】

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1人間七七四年
戦国時代最強クラスの城
謙信は愚かにも攻め込んで普通に撃退される。
本佐倉城と並ぶ千葉を代表する城。
しかしあまりにもでかすぎるため徳川幕府にぶっ壊される。
この偉大な城について語りましょう!
2宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2007/07/20(金) 02:44:37 ID:jTnCHejG
しかし正木信茂に落城させられてる。
3人間七七四年:2007/07/20(金) 07:30:44 ID:HdakBLz+
じゃ、終わり
4人間七七四年:2007/07/20(金) 11:32:08 ID:3I2TX3m2
一回落城してたのか
地元でもそんな話聞かなかったから・・
5人間七七四年:2007/07/20(金) 15:23:38 ID:kmjsc7Je
「薄いハゲ男」と田中眞紀子に笑われた、
臼井日出男・元法相(元防衛庁長官)と、
そのハンサムな息子の臼井正一・千葉市議をよろしく
6人間七七四年:2007/07/20(金) 15:58:58 ID:FF5yVQV8
実際、臼井城は謙信にも落とされかけてるしな

絶対有利なはずの守城戦で壁一枚にまでされちゃぁ

普通、落城と言うでしょう
7項龍 ◆Sw15bzOP8. :2007/07/20(金) 16:08:56 ID:/Mkmg+jI
しかし例の軍師がいたから何とか謙信を撤退させることができたんだけどな
8人間七七四年:2007/07/20(金) 17:18:12 ID:9Og0Vpyb
ここの城跡ってあんまり知られてないせいか昔の遺構がよく残ってて
あるいてて楽しいよ
道がすごく細くて攻城戦してる気になる
9人間七七四年:2007/07/20(金) 18:20:24 ID:3dNf3QMG
謙信の臼井攻めの流れを謙信撤退まで詳しく教えてくだされ
10仙台藩百姓:2007/07/20(金) 18:58:11 ID:fCYMVqXE
謙信が落とせなかった城なんていっぱいあるんじゃないお?
11人間七七四年:2007/07/20(金) 19:28:21 ID:FF5yVQV8
だな。そもそも城攻め自体、それが常識
野戦では楽勝な相手でも城に籠られると
攻め手は大変な被害を被るので無理に圧したりしないんだよね
だから適当なところで引き上げるのが普通
しかし、実際は臼井城攻防に到っては




12人間七七四年:2007/07/20(金) 19:30:33 ID:FF5yVQV8
永禄九(1566)年三月、上杉謙信と里見義堯らが臼井城を攻める
臼井城には千葉胤富らの援軍が立て籠もり、
三月二十日には「実城堀一重」の落城寸前まで追い込まれる
城方は、単独では持ち堪えられずに皆、死を覚悟するが
加勢である松田孫太郎らの後方攪乱により間一髪で落城を免れる

このように結局は、間一髪落城を免れただけというのが実情らしいんだが
ただ謙信が相手だったからということが誇らしいのか
ここのスレ主のように自慢にしたい人もいるんだろうね
実際、謙信と言えども、そう簡単に城は攻略出来てないんだけどね

13人間七七四年:2007/07/20(金) 22:23:49 ID:HdakBLz+
謙信は城攻めあんまり巧くないんじゃない?
14人間七七四年:2007/07/20(金) 23:22:53 ID:kTj8bCUf
間一髪免れただけじゃないでしょ。

確実に敗北してるわな。
その後の謙信の勢力の後退ぶりから言って。
15人間七七四年:2007/07/21(土) 03:39:30 ID:oq8aNmsE
臼井城攻防と、上杉の関東支配は何も関係ないしな

戦という点だけで見れば、上杉方は臼井城を完膚なきまでに攻略してるし
北条家に野戦で1度足りとも敗れた事がなかったのに
関東から勢力を撤退させてる理由とは
結局、謙信の信濃関東両面作戦による兵の疲労と
謙信の領土欲のなさに尽きる

実際、上杉には敵わないと一番知ってたのが北条氏康、本人だもんな
関東豪族相手とは正反対に篭城で逃げ続けた以上
北条が上杉に勝ったとはお世辞にも言えない



16人間七七四年:2007/07/21(土) 04:11:21 ID:hCriLsDA
脳筋(いや実際は違うけど例えとして)と頭脳派の違いってことだろ。
17人間七七四年:2007/07/21(土) 07:21:33 ID:jG1J/cm3
>>15
野戦っていつのことだ?
18人間七七四年:2007/07/21(土) 19:10:50 ID:q21nx5sQ
>>15
無茶苦茶書いてるなw
臼井城攻めと、謙信の関東支配が関係ないわけないだろ。

謙信は一旦小田原まで攻め入ったは良かったが、その後
信玄とがっちりタッグを組んだ氏康・氏政の反撃の前に
手も足も出てない。(と言っていいと思う)

速攻で三田や大石といった武蔵国内の謙信派がシメられた後、
松山城が奪還されると、もう武蔵を南下できてない。(北武蔵止まり)
さらに生野山で敗北した疑惑がある。
そのせいか、越山しても上野東部から下総北部の北条本領周辺
をうろうろしてるだけ。佐野や館林、小田なんかの謙信が活躍した地域はここら。
19人間七七四年:2007/07/21(土) 19:12:20 ID:q21nx5sQ
さて臼井城攻略は、下総南部の北条与党である千葉・原を叩いて、
謙信派の里見勢を引き込むことで、北条領の包囲・牽制を狙った、
重要な戦いだったと思われる。

小田原以来、初めて関東南部に進軍したのに、ここで敗北したせいで
立場がヤバくなった梁田や相馬、成田など多くの謙信側与党が北条に寝返ってしまう。
あろうことか、厩橋城を預かっていた重臣北条高広まで寝返ってる。
さらに西上野では信玄の侵攻を抑えてきた長野氏が滅亡。

謙信は、越相同盟が転がりこんできたことでこの窮状を救われた形となった。
20人間七七四年:2007/07/21(土) 19:17:04 ID:q21nx5sQ
北条相手の野戦なら、里見氏のほうがずっと活躍している。
さながら臼井城攻略は、北条にとっての三船台みたいなものか。

まあ謙信は敵地での客戦だから、不利は当然なんだけども。
21人間七七四年:2007/07/21(土) 20:49:24 ID:WsmB4Ltq
実際は上杉軍はあまり戦ってない
いつも矢面に立ってたのは関東衆
謙信はあくまで諸将の旗印
関東管領として指示をとばすのが役目
だから状況によっては
「よそ者のくせに…」と反発されて結束が弛む事が多々あった
22仙台藩百姓:2007/07/21(土) 21:10:11 ID:UoCD5RtE
所詮、形骸化した組織の上に集まった軍団だからね
利がなくなれば簡単に崩壊するお( ^ω^)
謙信の一声で全員死を賭して突撃とはいかないおね
23人間七七四年:2007/07/21(土) 22:06:56 ID:7vUPOvgA
あれここって太田道灌の弟が激しい抵抗に合い戦死したところだっけ?その後に落城したんじゃなかった?すぐ奪還されたけど。
たしか越後から連れてきた取り巻き達が関東管領を唆して白井長尾氏の勢力剥奪の為に執事職を長尾景春から取り上げた為に叛旗を翻した長尾景春を攻めた道灌の背後を脅かす古河公方側千葉軍を討伐しに道灌の弟が行ったところだったような。
たしか関東管領上杉氏と講和した足利成氏とワザとケンカしたフリして景春支援を続けさせたやつ。
臼井城に太田側の千葉氏の擁立に失敗したから太田氏が下総への勢力圏拡大に失敗したんだよね。
この太田の勢力拡大が主人の扇谷上杉としては恐いから暗殺されたと。
24人間七七四年:2007/07/21(土) 22:47:29 ID:oRbi6slq
なんで徳川は城ぶっこわしたんだろーな(´Д`)
もったいない
25人間七七四年:2007/07/23(月) 10:40:32 ID:E8Vq9q5N
謙信一夜城跡もあるよ。
一度行ってみるといいと思う。
26人間七七四年:2007/07/23(月) 11:19:08 ID:86gDi875
>>23
道灌の弟とも甥とも言われてる。
だが背後の危険を取り除き自勢力を植え付ける重要な戦局なので未熟な甥よりも信じられる弟だろうね。
27人間七七四年:2007/07/23(月) 16:26:20 ID:uL8XIekC
臼井城なんか、
川中島の戦い後で疲弊した上杉軍にすら
落城寸前にまでされてるような城だろ?
わざわざスレ立てるほどの城とも思えないな

徳川に攻められ撃退した真田のようなら分るけど
上杉軍が攻略寸前で撤退したのも、城外の援軍があったからだけだし
なんか盛り上がれないよな
28人間七七四年:2007/07/23(月) 18:10:16 ID:orqofJ7d
家康公不参加
29人間七七四年:2007/07/26(木) 22:12:59 ID:unRCwMHz
里見氏の正木大膳時茂を有名にした城
だが房総なら土岐氏の万喜城の方が堅城だろう。本多忠勝に落されたが。
30項龍 ◆Sw15bzOP8. :2007/07/28(土) 17:40:31 ID:O5Cd1TZ1
有名な臼井入道がたまたま臼井城に滞在してたから撃退できたんだろ。

城主の原胤貞は臼井入道に戦の全権を委任するぐらいだし。

指揮権を負かされた入道が将兵を集めてこう言った

「この度、大敵、発向すと言えども、さらに恐れるべからず。
 敵陣の上に立つ気は、いずれも殺気にして囚老に消える。
 味方の陣中に立つ軍気は、皆律儀にして王相に消える間、敵は敗軍疑いなし」
【北条記】
31人間七七四年:2007/07/28(土) 18:17:30 ID:7RotNspT
関東一の田舎者千葉県民が妄想を書き散らすスレはここですか?
32仙台藩百姓:2007/07/28(土) 19:12:42 ID:w9CEht8w
死傷者5000は少し大袈裟な気もしないではないが
関東衆が約2500騎
それに上杉本隊が加わればかなりの大軍だお
あながち有り得なくもないかお?
33名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 08:31:33 ID:pDcPPGp/
34人間七七四年:2007/07/31(火) 22:52:26 ID:1YNJNSFu
>>31
謙信厨が「謙信は負けてないやい!」って妄想を
書き散らすスレですよ??
35人間七七四年:2007/08/01(水) 01:39:35 ID:48px9ixA
>>30
北条記w
36人間七七四年:2007/08/01(水) 02:19:31 ID:DMISzZyU
ホンとだw信憑性の欠片も感じねえw
当時は、さしづめノブヤボ扱いだったんだろうなw
37人間七七四年:2007/08/05(日) 18:54:41 ID:ifd7NeEh
謙信は関東では勝ててないみたいだね
もともと領土目的でないのならなんで千葉まで
攻めてきたのか。義理だけでそこまでできるんだろうか。
どう見ても領土目的で千葉を掠め取ってやろうと思ってtに決まってる
38人間七七四年:2007/08/07(火) 00:07:49 ID:wxGStUvS
まあぶっちゃけ、
謙信は越山で良いところ無いだろ。

氏康はともかく、氏政にも良いようにあしらわれる様は正直哀れ。
39人間七七四年:2007/08/09(木) 03:43:19 ID:jl22Izkr
>>37
ニワカが憶測だけで意見すんなよ
領土目的なのは関東豪族だろうが
それを助けたのが謙信。
だから一度も北条に負けなかったんだろうが
氏政はもとより氏康も敵前逃亡→籠城させたのは謙信と信玄しかいない
40上杉贔屓:2007/08/09(木) 04:52:06 ID:Da1CDETs
俺も謙信は領土が目的で関東に兵を入れた訳じゃないと思う。
かと言って義にかられて…てのも違うと思う。
越後にまで侵入してきた北条氏の脅威に対抗するためだと思う。
反北条氏の関東諸候はその謙信を利用しただけ。
41人間七七四年:2007/08/09(木) 08:09:49 ID:sOE0cHDl
上杉謙信は関東地方に略奪が目的でやって来る、義で行動しているわけではない。

藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)を要約すると、

上杉謙信は関東に12回出兵していて、その内の10回は、
晩秋に出かけて年を超し、春か夏に帰る冬春型(長期越冬型)が多い。

明らかに戦いには季節性がある。

冬場の働き口などどこにもなく、まして飢饉・凶作の続いた戦国の村々に
とって、農閑期・端境期の戦場はたった一つの「口減らし」の場。

農閑期になると、謙信は戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を
超えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても
何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。
42人間七七四年:2007/08/09(木) 09:53:02 ID:oO17KlcT
>>41
それ論破されてんだろ。なんども執拗にコピペしまくってキモイしウゼーヨ朝日新聞工作員め!
43人間七七四年:2007/08/10(金) 03:21:58 ID:3ixCJYu8
関東諸侯は北条に対抗できる武力が欲しかった、
謙信は管領家の上杉を立てて、関東に介入して影響力を示す事で、
先代為景がぶっ壊した体勢を立て直すと共に、分裂した自身の家の安定につなげようとした。

まぁ単純な利害関係だわな、
だから領土が大きくなり、越後もある程度安定感を見せてきて以降は
北条と同盟結んだり北陸の方に攻めていったり普通に戦国大名として利益で動いてる。
44上杉贔屓:2007/08/10(金) 05:41:14 ID:hcrqDbWD
>>43
領土(?)は大きくなってなくない?
小金・臼井両城の攻略失敗で関東の国衆が相次いで北条氏に従属、北条高広の寝返り、佐竹氏も北条・武田両氏と和睦等々…と、むしろ謙信の政治勢力は壊滅的な状況だったんじゃないかね。
越後国内も本庄繁長の件とかあって安定してたとは言えないと思うけど。
45人間七七四年:2007/08/10(金) 15:05:29 ID:CU+2C/iM
関東最強はどう考えても忍城だろ。
万喜城もけっこう堅城らしいが…
46人間七七四年:2007/08/10(金) 21:40:46 ID:WeHsFIo4
館林城も伝説的な堅城らしいが、三成の軍勢に降伏しちゃったな。
47上杉贔屓:2007/08/10(金) 22:23:03 ID:hcrqDbWD
>>45
万喜城てそんな堅城だったの?俺の部屋の窓から見えるくらいの近さだけど知らなかった…。
48人間七七四年:2007/08/10(金) 23:08:59 ID:vwZkNBkI
49人間七七四年:2007/08/10(金) 23:11:40 ID:oItOAJ8T
>>45
忍城は1574年の謙信の攻撃を守りきったけど、それより前に一度謙信に落とされたよ
50人間七七四年:2007/08/19(日) 01:42:08 ID:sNglZ93d
あげ
51人間七七四年:2007/08/19(日) 03:55:58 ID:PYFbOD7p
結局、北条方で謙信に攻められて負けなかった城って小田原城だけじゃね?
それも攻められたというか無視されただけだし・・
52人間七七四年:2007/08/19(日) 03:58:54 ID:n3tq55NV
玉縄城
53人間七七四年:2007/08/19(日) 03:59:26 ID:n3tq55NV
あと、無視されたどころか普通に撃退されてる。
54人間七七四年:2007/08/19(日) 04:41:09 ID:PYFbOD7p
野戦じゃ敵わず逃げといて、籠城で撃退したとか言い訳苦しすぎwww
55人間七七四年:2007/08/19(日) 05:47:23 ID:n3tq55NV
スポーツじゃあるまいし勢力を失った方の負けとしか言いようが無い。

まして関東の兵力をあれだけ動員しておいて北条家の直轄城一つ落せないようでは言い訳にもならない。
56人間七七四年:2007/08/19(日) 06:44:08 ID:1IQBexKM
「直轄城」つう単語の意味がわからんが謙信が落とした厩橋城や平井城は後北条の領土じゃなかったのかな
57人間七七四年:2007/08/19(日) 06:58:38 ID:n3tq55NV
その後謙信がいなくなってまた攻め落としたのを
「北条が上杉の城を落とした」って呼んで納得できる?
58人間七七四年:2007/08/19(日) 07:30:20 ID:A+oR9MS8
平井城は謙信が北条幻庵を追い払った後廃城、
厩橋城は一時後北条の調略で謙信から離反したもののほぼ一貫して謙信の北関東支配の拠点
上の二城を何時北条が攻め落としたんですかあ?
59人間七七四年:2007/08/19(日) 08:34:07 ID:n3tq55NV
調略で離反されてるのは攻め落とされてるうちに入らない・・・か
つくづく都合の良い解釈だな。つーか厩橋だけの事を言ってる訳じゃないわけだが。
60人間七七四年:2007/08/19(日) 11:35:44 ID:J4msbqbr
謙信は小田原遠征の時に筋目を守り非分を致さぬ。領国・領地を奪うこともしないと諸将に宣言してる。
61人間七七四年:2007/08/19(日) 12:43:05 ID:k4wAPW9r
調略で落とした、は攻め落とした、にはならんだろうな。
まあ確かに。
62人間七七四年:2007/08/19(日) 19:13:40 ID:y2bouTVO
>>55
武蔵松山城
>>58
沼田城は北条が落としたよ。沼田顕泰は引き続き城主として認められたが、北条軍が進駐した。
1560年に謙信が名胡桃城を落とし、長井坂に布陣すると北条軍は退却した。そして沼田は謙信に降伏した。
63人間七七四年:2007/08/20(月) 01:21:29 ID:O43Zn8Vc
まぁ北条氏康と上杉謙信の争いはいかにも戦国らしくて面白い。
どちらもかなりの策士であり猛将だよ。

どっちかに偏らそうとしている奴の釣りにかからないで欲しいもんだ。
64人間七七四年:2007/08/20(月) 09:40:57 ID:WpNgLfuG
沼田氏の一族で津軽の軍師になったやつ誰だっけ
65上杉贔屓:2007/08/20(月) 14:25:53 ID:p/9Togkv
沼田祐光
まぁいろいろとハッキリしてないみたいだけど
66人間七七四年:2007/08/20(月) 15:05:13 ID:8VJ77Otf
上杉と北条は直接の決戦が無いからつまらん
67人間七七四年:2007/08/21(火) 06:25:58 ID:GbV9JtYP
とりあえず「北条方で謙信に攻められて負けなかった城って小田原城だけ」とか
「関東の兵力をあれだけ動員しておいて北条家の直轄城一つ落せない」
とか逝ってる奴はパッパラパーだということはわかる
68人間七七四年:2007/08/22(水) 19:56:58 ID:qPrvDZaR
上杉謙信の尻つぼみ加減も呆れるばかりだ

しかし越山直前までは、越後まで攻め入っていた位なのに
越山すれば一気に武蔵中部まで押し戻される北条の体たらくぶりも同じくらい情けない
69人間七七四年:2007/08/22(水) 21:14:37 ID:F+1QH8Rb
群馬は沼田の入口直前にあたる白井城までは平地だから守るに厳しそうだよね。
沼田への入口から利根川は急流になり断崖は迫り道幅狭く、伏兵でもいたら潰滅しかねない要害だね。
あれは関東では珍しい風景だよね。
70人間七七四年:2007/08/24(金) 01:11:29 ID:dC9+TmoZ
あのあたりはなんつっても利根川がきついな、平野までは動きやすいのに
あれがあるおかげで一時的な動きが多少あれど時間をおけばどうしてもあそこで境界線が出来てしまう。
状勢的に余程有利にでもなら無い限りあれを無理に越えれば、多少は削れても、維持は出来ない。
その辺は北条も上杉もわかっていたんだろう。状勢を良く見てるあたりはさすがと言える。

ここで無理をした場合どうなるかと言えば、
本能寺で主が死んだ途端にテンパって川越えてきて袋叩きにあった良い模範例がいるから
彼を見ればどうなるかは一目瞭然。
71人間七七四年:2007/08/25(土) 17:26:25 ID:77Sp7xOo
沼田〜吾妻〜上田における真田伝説はそういった天下の要害の地を占めていたから自立もでき徳川も撃退できた。
72人間七七四年:2007/08/26(日) 09:44:18 ID:7s8eaMS5
臼井城で上杉軍数千を討ち取ったという北条側の言い分は誇張されていると
思うが、あれ以後上杉勢力が大きく後退したのは事実で、永禄9年末には
厩橋の北条高広まで離反している。
厩橋の離反は信玄による箕輪落城(永禄9年9月)も関係しているかもしれないが
関東で風向きが変わるような敗北を臼井で謙信が喫したことは事実かと。
この後、上杉が盛り返すのは信玄の駿河浸入に伴う越相同盟の成立までない。

史料としては『戦国遺文 後北条氏編』939・948号にあるというが、いま手元に
ないため未確認。
『上越市史 別編1 上杉氏文書集』では直接臼井に触れた史料は少ないが、
永禄9年の項の解説でそのへんの情勢を説明している。
73人間七七四年:2007/08/26(日) 10:46:07 ID:nVZz+DLz
>>71
地勢の有利・不利は本当に大きな要因だよね。

ただその土地の人ないと実感できないから、小田原城のように
有名な要害でないと、論評の外に置かれてしまいがち。
74人間七七四年:2007/08/27(月) 07:11:53 ID:KPFUdZlo
やたら篭城と野戦を区別して考えるくせに、そういう要素は度外視する。
まさにゲーム脳ってやつだな。
75人間七七四年:2007/08/28(火) 07:00:19 ID:7nebiS27
北条高広に付けられていた厩橋長野家臣団はそもそも謙信に不条理な理由で主を殺されているので
同族の箕輪長野が、半ば謙信に放置された上に滅亡した以上、厩橋家臣団はもう謙信に従う気になんかなれなかっただろう。
それで北条高広寝返りの理由は十分だ。
76人間七七四年:2007/08/28(火) 09:01:09 ID:pyaCv5cI
いや単に大江氏という名家である北条はプライドがあったんだろ。長尾に仕えるのは本音ではもともと気がすすまない。
同じ大江氏の毛利家は中国地方の覇者だしな。
77人間七七四年:2007/08/28(火) 14:16:15 ID:+7VEwSix
>>75
>北条高広に付けられていた厩橋長野家臣団はそもそも謙信に不条理な理由で主を殺されているので

「主」て誰?
78人間七七四年:2007/08/28(火) 18:06:07 ID:3A/ojkbV
>>75
主って長尾謙忠の事か?
あれは松山城にも援軍を出さなかったようだし
謀反を起こしたとする説の方が有力

長野業正の死がまずあって、
その後若い業盛が継いだ事で武田の調略攻勢を受けていた
これで箕輪衆が切り崩されている現状を目の当たりにし、
東上野も動揺した
79仙台藩百姓:2007/08/28(火) 19:37:13 ID:PplrZAcZ
>>76
特に長尾氏が大江氏に劣ると言う事はないお( ^ω^)
と言うか元々越後北条氏は越後長尾氏の家来筋だお
80人間七七四年:2007/08/28(火) 19:47:36 ID:7nebiS27
>>78
長尾謙忠ってのは甲陽軍鑑に載ってるやつだね。
長尾側の史料『関東幕注文』にあるように厩橋城の主は『長野』。
長野業正の叔父で厩橋城の築城者の『長野方業』と謙信に殺された『厩橋賢忠』を別人としているものもあるが、
賢忠というのは長野方業の号であって両者は同一人物。
厩橋賢忠は北条の前に降伏して逃走するが、謙信の出兵で城を取り返し、そのまま謙信に従った。
厩橋賢忠の子、或いは孫の彦九郎、大学兄弟が上杉謙信の軍に従うが、陣中で馬が暴れた為に謀反を疑われ殺害される。
厩橋賢忠は篭城するが病死、厩橋氏は滅亡、城は開城し、城、家臣団共に北条高広に預けられた。

厩橋賢忠は長野憲業、業正らとともに惣社長尾顕忠、白井長尾氏、長尾為景らと戦って
惣社長尾顕忠を越後に敗走させたこともあった。
謙信を擁護していうなら、こんなこともあったので、元々長野一族と長尾一族の仲は微妙だったようだ。
81人間七七四年:2007/08/28(火) 20:23:04 ID:7nebiS27
>>80
惣社長尾は顕忠ではなく顕景でした。
82人間七七四年:2007/08/28(火) 20:53:48 ID:3A/ojkbV
>>80
元々厩橋の城主は長尾謙忠じゃないの?
賢忠というのは謙忠の法名だと
あるサイトにも書いてあるが・・・

厩橋城に置いた長尾謙忠が
あまりにも非協力的で謀反の動きまである為、
「四か条の罪」を挙げて罰した〜しかしその妻と子は許したと
全て作り話だったのかな

長野賢忠なのか長尾謙忠=賢忠なのか
ややこしい





83人間七七四年:2007/08/28(火) 20:59:12 ID:3A/ojkbV
>>82
「元々」じゃなく謙信が最初に配した城主が
長尾謙忠
84人間七七四年:2007/08/28(火) 21:32:22 ID:7nebiS27
>>82
ttp://www.ne.jp/asahi/yanai/roots/text/text04.html
関東幕注文では永禄3年(1560)の時点で厩橋衆筆頭は長野藤九郎で、家紋も箕輪の長野と同じ『ひ扇』。
厩橋衆に長尾というのも存在しない。
それらのエピソードは名将言行録に載ってるやつでしょ。
名将言行録は江戸時代の二次創作アンソロジーみたいなものだから、
甲陽軍鑑の記述をもとにして作られたんだろう。
長野方業(厩橋賢忠)はそれ以前の長尾氏との戦いや金山城攻めなど他のエピソードも残っていて、
長野氏の系図にも登場するから実在性は十分。(その箕輪との血縁関係については諸説あるが)

長尾謙忠はおそらく長野賢忠の名が誤って伝わった、あるいは作者の書き間違えで
甲陽軍鑑に載っただけでそういう人は実在はしないだろう。
85人間七七四年:2007/08/28(火) 22:04:28 ID:3A/ojkbV
>>84
勉強になりました
有り難うございます
しかし三長尾と長野が対立していたとは

謙信の関東出馬は
足利・総社・白井これら三長尾氏の働きが大であったそうですし

彼等(特に顕景)が長野に含む所があると
謙信も又、難しい立場だったのかもしれませんね
86人間七七四年:2007/08/29(水) 20:34:40 ID:HWwjvAlc
謙信は長尾内部の争いにもエネルギーをそがれてるな。

武田・北条に加え,北陸,畿内,長尾内部といった力学関係から
謙信を記述できる者はおらんかのぉ。
まるで,市民国家成立前の西洋史のようじゃ。

87人間七七四年:2007/09/02(日) 19:59:50 ID:91ZwLepn
age
88人間七七四年:2007/09/05(水) 11:19:13 ID:NlBAF5Py
まあ千葉県民の間では謙信は里見以下の愚将
という認識かな
謙信一夜城の場所も悪すぎだろ。
89人間七七四年:2007/09/05(水) 11:23:25 ID:tRWsTvYa
でも千葉県民以外の日本国民の間では氏康は里見以下の愚将という認識かな
90人間七七四年:2007/09/05(水) 18:34:58 ID:FDQuy3AN
個人名がでてくるだけ北条のがマシだなw

里見の知名度が高いのは南総里見八犬伝のおかげ。
91人間七七四年:2007/09/06(木) 21:43:15 ID:ZAzGX/TL
千葉県民って哀れだなw
有名な武将もいなければ有名な合戦も無しww
92人間七七四年:2007/09/06(木) 22:47:20 ID:FlLnCmLS
俺千葉県民だけど普通に里見≦上杉謙信だと思ってる
93人間七七四年:2007/09/06(木) 22:48:14 ID:YSZnfj2y
上杉謙信は千葉出身だからな
94人間七七四年:2007/09/06(木) 23:47:20 ID:3sx9uyyj
そうだね
95人間七七四年:2007/09/06(木) 23:56:31 ID:N90Yme9f
謙信一夜城跡は今公園になっています。
無駄な戦ご苦労様でした。
96人間七七四年:2007/09/11(火) 13:14:29 ID:Sn+2X2Ij
あげ
97人間七七四年:2007/09/11(火) 20:50:44 ID:F5FbUEHP
玉縄城も強いぞ。
謙信が小田原城攻めを引き上げ、鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を挙げるべく鎌倉へ向かう途上
景気付けに11万の軍勢で攻め掛けたが撃退された。
98人間七七四年:2007/09/11(火) 23:43:42 ID:1sZJFONE
まともに相手されなかった。
ってのが真相だろ

やめろよ
北条がだんだん卑屈に思えて来るから
99人間七七四年:2007/09/12(水) 00:25:02 ID:Wr+ztgLJ
無理矢理攻めてきたは良いけど城を攻めるどころか維持もできなかったんだろ・・・。
100人間七七四年:2007/09/12(水) 00:48:22 ID:z73A5/mH
維持以前に
自分の配下でも何でもない勢力を11万も集めた謙信はある意味、最強

如何に北条の戦略が無理矢理だったっかが分る。
そりゃ、争うのを逃げ続けるのも分るわ
101人間七七四年:2007/09/12(水) 00:49:47 ID:wuqkN2nZ
まだ君達は真意を理解できてないようだね。
武田にしろ上杉にしろ小田原や玉縄なんて強襲すれば落城させることも可能だった。
だが将たるもの過度な人的被害は避けねばならない。もし落城させても兵站面で維持することは不可能。
要は、落城させる戦略的価値がなかったんだよ。
君達はアホだから力攻めで小田原や玉縄を一時的に落城させるだろうねw
まぁ君達が喜んで利根川以北に帰ったら見事に北条が奪い返していて権威失墜だろうね。
そして被害甚大だったのでみんなから非難されるね。
102人間七七四年:2007/09/12(水) 01:45:26 ID:z73A5/mH

俺、上杉擁護派だけど
コイツが軍師にだったら即刻、首切ってると思う

てか、小牧長久手の池田恒興か、大坂の陣の大野治長、片桐勝元クラスの能無し配下かな

人の話を理解して流れに沿った提案をする能力に欠如してんだろうね

103人間七七四年:2007/09/12(水) 11:31:49 ID:1filAd6q
↑君はクビだな
104仙台藩百姓:2007/09/12(水) 12:07:55 ID:5/ZjvQ3Y
11万5千はネタでしょ( ^ω^)
105人間七七四年:2007/09/12(水) 19:00:53 ID:mgXXIc8z
師戸城もよろしくな
106人間七七四年:2007/09/12(水) 20:57:21 ID:3MIMozBH
>>101
いや、小田原落とされたら北条は終わりだろ。
謙信の失敗と言えば、調子ぶっこいて相模まで進出してしまったことだな。
兵站軽視&後方攪乱にあい撤退って、お粗末にも程がある。
何のための大軍だと思ってるんだか。
107人間七七四年:2007/09/12(水) 23:09:40 ID:1filAd6q
小田原城を落城させる事が目的ではなくて鎌倉の鶴岡八幡で関東管領に就任する事が目的。オマケとばかりについでに小田原城を威圧して帰っただけ。北条はビビりこもるだけで関東管領就任の邪魔すらできず。
例え落城させても伊豆や三浦に北条が逃げたら長期滞在できないんだからすぐ取り戻されるのは目に見えてる。
よって最初から落城させようとは思ってないのは謙信も信玄も同じ。
領土を浸食していくならともかく、敵地奥深く進入し陸の孤島や飛び地みたいに点の支配をしても維持できない。
108人間七七四年:2007/09/12(水) 23:15:12 ID:UbCm4PQc
謙信が臼井を攻めたとき
陣を構えた場所の山が崩れ落ち、
多くの兵が生き埋めになったらしい
109人間七七四年:2007/09/12(水) 23:23:07 ID:z73A5/mH
それが常識的な考えなんだが
北条好きの方にはどうしても、そんな当たり前の事が理解出来ないらしい

大軍を集めたのは謙信の関東管領就任に際して
その武威を示す為のパフォーマンスの一環だというのに
小田原城を落す為と本気で勘違いしてる人たちだから
何を言っても仕方ないけどね
110人間七七四年:2007/09/13(木) 01:09:01 ID:3bRgC0Vt
>>109>>107へのレス
111人間七七四年:2007/09/14(金) 22:27:48 ID:Bt0qRd17
小田原城が落ちたら氏康は逃げられずに切腹した可能性が高いので、そうできれば
意味があったと思う。
ただこのときは関東管領就任が主目的で、小田原攻めに時間を費やしたくなかったのは
事実だろうね。

成田長泰の頭を打ったため軍勢がバラバラになったというのは甲陽軍鑑の記述なので
かなり疑問。
112人間七七四年:2007/09/15(土) 01:20:54 ID:akJPEW76
もともとの拠点が伊豆なんだし、最悪の場合は今川へ逃げる手もある。
謙信の父である為景も関東管領軍に撃破され一時的に越後から落ちていった事がある。
113人間七七四年:2007/09/15(土) 13:59:59 ID:HDzLXLkV
今川にしたって謙信が越後国や上野国だけでなく、武蔵国や下総国どころか相模国や伊豆国までも支配する名実ともに関東管領になってしまい巨大勢力になるのは脅威になるので歓迎しないはず。
よって小田原城落城は伊豆に撤退した北条に対する今川や武田による北条救援を誘発するのは間違ない。無論、今川も武田も漁夫の利も視野にいれた領土的野心を隠しての支援だがな。
よって敵地奥深く進入しての小田原城落城は維持できず得策ではない。下手すると上杉が苦労して落城させた小田原城さえ気付いたら今川領になってる事すらありうる。
114人間七七四年:2007/09/15(土) 14:23:40 ID:/ZAG2gLU
>>111
時間をかけたくないもなにもとりあえず兵力がまだ多くて勢いのある3月のうちに就任式済ませておきながら
その後集めた膨大な兵力をタテに3ヶ月もウロウロしてたんですが。その間に城門に攻めて撃退されてるし、
氏康のつぎ込むゲリラ戦にだんだん消耗させられてるうちに(大藤式部など)
兵站を甘く見て、持久戦に敗北しただけ。

これだけの時間と兵を費やして目的が最初の鶴岡八幡宮って、そりゃ関東勢も見放すわ。
115人間七七四年:2007/09/15(土) 15:58:24 ID:HDzLXLkV
鎌倉に来たついでに何もしないで帰る方が変だろ。包囲くらいするだろ普通。
正当性ある管領に就任。それを見せつけに伊勢氏に威力偵察したら偽証北条が手も足もでないもんだから卑怯者めワッハッハとバカにして酒盛りして帰っただけ。
116人間七七四年:2007/09/15(土) 16:27:53 ID:/ZAG2gLU
>>115
包囲はできてないよ、陣を張ってた位置が、もっとずっと遠く。
二の丸も出来て無い頃の小田原城を包囲するなら、もっと近く無いと不自然。
117人間七七四年:2007/09/15(土) 16:28:10 ID:fbHAG6so
目と鼻の先の鎌倉で就任式ってどんだけ北条を馬鹿にしてんだよw 思うに北条を誘いだして決戦するつもりだったんじゃないの?
118人間七七四年:2007/09/15(土) 16:43:43 ID:QjZc2qlz
>>114
永禄四年二月に鎌倉へ入って
三月十三日から小田原攻撃
しかし三月十六日には鎌倉へ戻り、就任式をしたと
学研の本には書いてあるけど
就任式の後は早々に近衛前久、上杉憲政を連れて厩橋へ戻った
厩橋では北条高広を城主に据えるなど配置を決め、
六月に越後へ帰国
九月には第四次川中島が出来る程だから
関東では兵を損耗してなかったんだろう
119人間七七四年:2007/09/15(土) 17:10:05 ID:/ZAG2gLU
>>118
基本的にそれで合ってるよ
ただなんで鎌倉で就任式やったぐらいで、小田原包囲が終わった事になってるの?
謙信が陣を張っていたのは現在の大磯付近、小田原より微妙に鎌倉の方が近いぐらいのとこだよ。

上野の厩橋や鉢形の4月下旬文書で、そろそろ謙信の小田原攻めが終わろうとしている事を伝えるものが残ってる
逆に言えばその間ずっと対陣してた事になる。越後に戻ったのも6月だし特に矛盾は無い。
衝突は小競り合いが多いし前線に立っていたのは関東の兵力が多いので、
謙信自身の兵力の損失は少なかったろうけど、その兵をこれだけの期間養う兵糧を
越後から持ってきたとは考えにくいので関東大名らの負担は想像を絶するものだったのではないか。

謙信が撤退した後の北条方へのなびき方、今まで割と均衡してたのに直後の国府台合戦で
氏康に一気に追い詰められる関東大名らの状況を見る限り、経済的な圧迫は半端ではなかったのではないかと。
120人間七七四年:2007/09/15(土) 17:41:30 ID:QjZc2qlz
>>119
三月十六日に就任式、その際 成田打擲事件(眉唾物だが)が起こったとされ
この就任式終了後は成田を皮切りに、続々と関東諸侯が帰国していった
謙信も先立って厩橋へ帰ったのとどっちが早かったのかって位
よって護衛が帰国して輜重隊のみ取り残され、氏康に攻められたらしい
まとめると
二月に鎌倉着陣〜藤沢〜平塚〜大磯〜小田原へと進み
三月十三日、小田原総攻撃〜三月十六日には鎌倉へ戻って就任式
就任式が終了すると謙信始め、関東諸侯は帰国したと

関東諸侯が崩れだすのは小田原包囲というより二次国府台〜
そこで敗北した三楽斎が岩槻城から息子に追い出された事件
あと永禄9年の箕輪陥落だろうね(武田の大軍が関東に侵入)
それまでは小田原包囲の流れをきっかけに三楽斎と簗田晴助らが上杉方に転身、
活躍したり
由良成繁も箕輪が落ちるまでは謙信側だった
121人間七七四年:2007/09/16(日) 01:49:40 ID:vqGHlR88
>>120
謙信が3月に厩橋に帰ったとする記録は何から推察してるの?
122人間七七四年:2007/09/17(月) 17:20:03 ID:F2D5Dm/o
>>121
(三月十六日直後に帰国した)長泰に倣って他の諸将も領国へ帰った。
池沼・北条氏康はこの機を見逃さなかった。
全兵力を挙げ反撃に出るも、謙信は近衛前嗣、上杉憲政とともに素早く上州へ引き揚げていた。
と、上杉謙信の学研本に書かれてる

あと里見の名将、小田原包囲の立役者、正木時茂が四月六日に亡くなってる
里見は支配権的に謙信&関東諸侯が帰国した後も、北条とは最後まで対峙していた筈
その最中、軍司令官たる正木が亡くなってるにも関わらず
これと言った混乱が伝わってない
つい最近まで、正木時茂の没年は天正年間だと勘違いされたほど目立たない事件
上総に在る里見の菩提寺から時茂没年を記した史料が発見され、やっと訂正された
よって里見軍は四月六日より、かなり前に兵を収めていたのでは
123人間七七四年:2007/09/17(月) 18:45:22 ID:60hyUZeg
正木って原氏のこもる臼井城を陥落させたんだっけ?
第二次国府台合戦で戦死じゃなかったんだ?
124人間七七四年:2007/09/17(月) 23:58:55 ID:eo15+WUx
謙信が関東勢より早く尻をまくって逃げてたとすると、従来の説より遥かにマヌケだな
攻撃からたった数日で逃げ去っておいて野戦で戦えも無いもんだ。
結局関東の兵を盾に、鎌倉で自己満足して終了。
125人間七七四年:2007/09/18(火) 02:04:19 ID:nUo5H54J
成田ら関東勢も引き揚げ、謙信本隊も引き揚げ、里見軍も引き揚げ
もちろん言い出しっぺの佐竹ら常陸勢も引き揚げてただろう
氏康の手が届く範囲だったのはノロノロ北上する輜重隊程度
つまり包囲軍は誰一人討ち取られても無いし、被害も微少
これで武蔵〜下総まで主戦場を押し戻す事が出来た
凶作の年に行った遠征にしちゃ上出来
126人間七七四年:2007/09/18(火) 09:55:20 ID:HyAyYhuN
短期的に見れば、確かにその通りだけど
中・長期的に見れば関東諸将をあれだけ動員したにも関わらず、
北条の支城網も主力もそのまま残された事は明らかに失敗じゃね?
確かに戦線は大きく北条側に戻ったけど、
支城網と主力を駆使した北条の内戦防御の前にじり貧になったのは上杉方なのは事実だし。
あの手の連合は、信長包囲網もそうだが、
一戦でケリをつかないと地理的に連絡・連携を取るのが困難になるばかりか、
空中崩壊しかねない危うさも秘めているから、短期である程度の具体的な戦果は必要。
127人間七七四年:2007/09/18(火) 17:49:11 ID:nui+fkE4
信玄でさえ迂回した玉縄なんて、そう簡単には落とせないよ
ここは信玄、謙信のみならず早雲も家康も力攻めは無理だと判断してる
あと滝山も信玄が落とせなかった堅城
ここで兵糧不足の中、力攻めで死傷者多数→城も落とせず、だったら
その時点で関東連合瓦解プラス、越後勢も川中島への移動不可能

問題なのは小田原包囲以降かと
国府台で里見と太田が酒宴さえしてなければ、江戸城は上杉方に寝返っていた
その頃は成田・忍、小田・騎西、広田・羽生、太田・岩槻ら、反北条ラインが機能してた時期
国府台の大失態さえ無ければ、岩槻から資正が実子に追い出される事件も起きなかったし、
江戸城まで着実に勢力を拡大出来ていた
謙信は後詰めが出来る位置に居たにも関わらず、
彼に急報を知らせず、油断した太田資正・・・まさに一生の不覚
128人間七七四年:2007/09/19(水) 11:28:05 ID:O8bVrgFw
玉縄は早雲が築城したわけじゃないの?
129人間七七四年:2007/09/19(水) 15:50:24 ID:8F3mPA49
>国府台で里見と太田が酒宴さえしてなければ、江戸城は上杉方に寝返っていた
なにこれ?
130人間七七四年:2007/09/19(水) 17:57:32 ID:V/voPWee
第二次国府台合戦までの流れ
>>129
『長尾景虎が関東管領に就任すると反北条の気運が高まります。
江戸周辺にも反北条方の岩槻太田氏の勢力が伸び、北条方の葛西城も落城、
江戸川沿いの地は岩槻太田氏に制圧されます。
こうした中で家督を継いでいた太田康資は、永禄6年(1563)冬に北条氏離反を決意し、
(かねてより北条氏の支配に対して不満を持っていたものか?)
永禄7年(1564)正月の第二次国府台合戦で里見・岩槻太田氏と連合し北条方と合戦に及びます。』

太田康資の寝返り画策は上記の1563年説以外にも、1564年とする説もあるようで
『永禄7年(1564)、江戸城にあった太田康資は、資正と内応し、
謀反を企てたが、露見して岩付城へ逃げた。
氏康は里見義弘と資正の連合軍を国府台合戦で破る。』
と、紹介している所も在る

第二次国府台合戦では太田康資以外の江戸城守将、北条方の遠山と富永が戦死
初戦において里見・太田軍は大勝
が、それに油断した里見・太田軍は正月気分という事もあり、酒宴を催した
それぞれの大将が各部署を労い、居場所が分からなくなるほど、陣は乱れきったと言われる
それを知った北条氏康が奇襲、敵前で酒宴を開いた里見・太田軍は壊滅した
131人間七七四年:2007/09/20(木) 09:19:28 ID:IJ0YalAV
その時謙信は臼井城攻めてたんだっけ?あれ小田氏の城を攻める予定だったんだっけ?
132仙台藩百姓:2007/09/20(木) 11:17:03 ID:YU0woI+2
小田城を攻めていたお( ^ω^)
永禄6年12月、里見義弘は太田康資らと呼応して国府台に出陣
同6年12月、上杉輝虎は上野和田城を攻略して東進
永禄7正月、北条氏政・北条氏照が里見義弘・太田康資らの篭る国府台城を包囲
同7年正月、上杉輝虎・佐竹義昭・宇都宮広綱ら小田城を攻略。上杉輝虎、上野厩橋城に帰陣
永禄7年2月、国府台城落城し里見義弘ら敗走
同7年2月、上杉輝虎ら下野佐野城攻略。上杉輝虎帰国

翌、永禄8年2月に北条氏政は前年の戦いで里見側に通じた土気城の酒井氏を攻めた
酒井氏は上杉輝虎に援軍を要請
これを受けた輝虎は越山し臼井城攻めが発生するわけだお(^ ω^)
133人間七七四年:2007/09/20(木) 18:15:53 ID:ozOfyemU
>>131
小田城から国府台は来援できない距離じゃないしね
里見・太田も初戦の大勝で油断せず、防御陣形を緩めず、謙信を呼んでいたらなぁ
地形的にも非常に優位だった里見・太田軍
まさか謙信もその八千の軍勢が五千以上もの死傷者を出し、壊走
上総が制圧され〜久留里まで落城するとは思わなかったろう

北条氏康は三日分の食料しか持たなかった(持てなかった)とも言われてるし
謙信が南下してきた場合、里見・太田との挟撃を恐れ、小田原へ引き揚げるしかない
城主が討ち取られ、後詰めが帰国してしまった江戸城は降参するしかない

小田原包囲から国府台までの数年間は
成田一族も味方につけ、武蔵でも勢力圏を広げ、上杉&関東連合は優勢だった

そもそも里見の本拠、久留里城が北条の大軍に囲まれ、
正木時茂から救援依頼を受けた謙信
・・・北関東を切り従え、それが1561年の小田原包囲にまで繋がったのに
1552年・関東初出兵〜1564年・江戸城牽制までの12年に及ぶ快進撃が水泡に帰した
正月ドンチャン騒ぎによって
134人間七七四年:2007/09/20(木) 21:06:49 ID:IJ0YalAV
久留里城は落城してないのでは?
135人間七七四年:2007/09/20(木) 21:35:23 ID:o41XFXsE
めっちゃ地元だけど臼井に城があったなんてこのスレで初めて知ったw
>>1の本佐倉城の「本」が意味分からなかったけど本佐倉城と佐倉城があるんだ
佐倉城は国立歴史民族博物館になってるし小学校の遠足でも行くから地元民はみんな知ってるけど
本佐倉城と臼井城は地元民に存在すら知られてないと思います
臼井はどっち行ってもデカイ急坂があって日常生活も車が無いと大変だけど城があった関係なのかね
でも佐倉城の方は平らなんだよなぁ
まあ佐倉城を本城として見た場合に敵が攻めてくるとしたら臼井側からだから
臼井地区を防衛に使ったんだろうけど今は関係無いから平らにしてくれ
136仙台藩百姓:2007/09/21(金) 00:48:42 ID:SxiH6EdB
上杉勢は八千だったの?
どのみち上杉本隊の数だおね
臼井城方は二万やそこら居たのに八千で本丸まで迫ったなら化け物だお(;^ω^)
137人間七七四年:2007/09/21(金) 06:25:33 ID:a49iY5Cj
臼井城に二万も収容できるか?
138仙台藩百姓:2007/09/21(金) 14:38:46 ID:SxiH6EdB
篭城戦はみんなで城に引きこもるのではなく
城の周囲に出城や陣地を構築し内外で敵を迎え撃つものだお
臼井城自体も東西1.1km南北1.7kmの巨大城郭だし余裕で収容できるお
ちなみに城方の勢力は
臼井城主原胤貞  5千騎
小金城主高城胤辰 1千騎
手賀城主原筑前  3百騎
本佐倉援軍    5百騎?
陣代松田憲秀   5千人
139人間七七四年:2007/09/21(金) 16:20:51 ID:D6wSrHXM
籠城方の方が兵数多いのに、謙信追い詰めたの?
神じゃん・・

てか、北条方情けねーw
140人間七七四年:2007/09/21(金) 21:12:57 ID:9hUdL6Dx
それって城に篭った人数ちゃうやろw

松田憲秀なんて現場に来てないし。
141人間七七四年:2007/09/22(土) 01:15:27 ID:CP5IMgMB
>>134
同じ年の十月に一時陥落している
二年後に里見氏が奪還
142人間七七四年:2007/09/22(土) 02:24:40 ID:g02fly0x
相変わらず上杉の事になるとかばい始める百姓には、政宗ヲタを騙らないで欲しい。
正直に上杉ヲタらしいHN名乗れば良いのに、ウザ過ぎ。
143人間七七四年:2007/09/22(土) 02:49:02 ID:d8JxdQQm
こいつは関宿合戦に絡んだ越相同盟の話題じゃ
謙信を批難してたが
144人間七七四年:2007/09/22(土) 04:13:56 ID:XXQbWci3
>>142

ヒント:上杉オタ関係なしに北条が負けたという事実をみんな常識として語ってる
145人間七七四年:2007/09/22(土) 04:22:12 ID:Ftx9ItvP
その通り。史書に記され、人々の記憶に残るものが歴史上の事実。後はガラクタ。
146人間七七四年:2007/09/22(土) 16:04:49 ID:xR5ejphC
じゃあやっぱり謙信の負けじゃん。
147人間七七四年:2007/09/22(土) 16:32:51 ID:kNHNr6jD
上杉>佐竹>里見>北条>宇都宮
148仙台藩百姓:2007/09/22(土) 17:10:06 ID:MWlBeHx6
あれだけ北条が躍起になって攻めても最後まで宇都宮は落ちませんでしたお( ^ω^)
149人間七七四年:2007/09/23(日) 23:05:51 ID:D8hyeBX0
恣意的だな
まるで宇都宮氏が宇都宮で徹底防戦して、守りきったような言いぐさだ
逃げ出した癖に
150人間七七四年:2007/09/24(月) 13:52:14 ID:kmPoAKjy
北条が戦国大名でもかなり弱いってのを早く認めろよ。
武田・上杉の大軍がきたら殻に閉じこもるだけでなく佐竹に破れ、挙句の果てには本能寺の変後の織田領切り取り合戦でも
徳川軍の方が圧倒的に兵数が少なかったにも関わらず家康の強気の交渉にビビリまくり信濃・甲斐をプレゼントしたろwww
もしあそこで家康を敗死に追い込めば・・・つか兵力が北条5万に対して徳川8000だぜwww
家康が死んだら、信濃・甲斐・駿河を奪いとって遠江・三河を圧迫し柴田・羽柴の天下レースに参加できたのにwwwww
答え・・・相当にアホでヘタレだった北条。
151人間七七四年:2007/09/26(水) 00:29:36 ID:dqvLVfiC

メガ豚
152人間七七四年:2007/09/29(土) 01:09:13 ID:GNjyGYEj
>>150
キモイからw

北条がヘボいからと言って、オマエが偉いわけじゃねえんだよ。

このチンカスがw
153人間七七四年:2007/09/29(土) 03:02:00 ID:ZalCQC0N
でも北条のおかげで
上杉謙信を臼井から撃退できたんじゃないの?
154人間七七四年:2007/09/29(土) 03:39:40 ID:0d1RN7fs
ただ単に謙信が無理押しして自爆しただけ
155人間七七四年:2007/09/29(土) 04:11:06 ID:Wg4oBYj6
千葉県はもっとこの城をアピールすべきだな。
まずは地元民にアピール開始しろ
156人間七七四年:2007/09/29(土) 06:02:17 ID:kOHy7dwT
せめて謙信配下の有名武将を一人でも討ち取ってないとな
砥石崩れの横田備中みたいな感じで
北条軍は上杉の武将を討ち取るどころか
逆に殿の北条高広、新発田治長の猛攻を受けたって噂も聞く

金山城〜厩橋城の裏切りも臼井城云々より
箕輪落城が原因だと思う

あと国府台で大敗してる里見って
この臼井城攻めじゃ援軍は500人しか送れなかったと
仮に臼井城が落ちた所で保持するのは困難だったのでは
三船山合戦と臼井攻めが逆だったら分かるけど
157いすみん市民:2007/09/29(土) 06:03:51 ID:C58X6xZs
万喜城もヨロシク!
158人間七七四年:2007/09/29(土) 08:25:37 ID:PMaf4glm
厩橋以外の由良氏等の集団裏切りは箕輪城落城以前。
ただ集団裏切りについては箕輪城が窮地に陥っていたのに利根川以西の遠征なんかやっていた謙信の戦略ミスが原因だろう。
謙信は永禄九年に臼井城の後にも二回越山しているから臼井城でそこまで大打撃を受けたとは思えない。

けど城が落城寸前になったときにそこで城外の軍勢が攻城側を攻撃して敗走させると言うのは真田の第一次上田攻めと同じだ。
狙ったものかわからないけど十分な勝ちではあると思う。
でも和田城の方が凄いよ。(近世成立の史料性に欠ける軍記では二度謙信を撃退したことになったいるが、実際には三度)
159人間七七四年:2007/09/29(土) 13:56:50 ID:FVCU+90x
>>158
箕輪はその支城群がほぼ切り崩され、その落城は防ぎようが無い
と、由良(金山城)の目に映ったのでは
謙信も大規模な西上野奪回計画を企図、
宇都宮などの兵を集めるも
氾濫した利根川に阻まれてしまった事もあったらしい
あと里見が滅亡の危機に晒されていたので、そっちも救援したかった
神の目で見ると、里見はほぼ自力で復活するって分かるけど
あの時点で里見の消滅に危機感を抱いても仕方がないような
160人間七七四年:2007/10/03(水) 12:52:48 ID:5M9niKm7
あげ
161人間七七四年:2007/10/08(月) 07:43:25 ID:m+wFFfo2
謙信亡きのちに北条打倒に燃えて立ち上がり、秀吉の元で謀を巡らし千里の外で勝利を決する稀代の策謀家。
家康と北条が最も恐れた天才軍師渡瀬繁詮は秀吉の関東政策の頭脳として仕えて
その智略で危機に陥った自分の兄弟たちを救援すべく佐野・宇都宮・佐竹・上杉を動かし北条包囲を形成し北条始まって以来の最大の危機に叩き落とし小牧長久手の戦いに北条が援軍を送れないようにした鬼才の持ち主。
162人間七七四年:2007/10/08(月) 18:22:35 ID:eEcyytoG
謙信は臼井城での失敗で関東諸将に見限られてしまった。
この後の謙信の勢力は沼田領まで後退して、反北条の勢力は佐竹義重を
中心に戦う事になる。
163人間七七四年:2007/10/09(火) 07:08:57 ID:xfkakNxS
えっと…
164人間七七四年:2007/10/09(火) 13:09:04 ID:dKpJUBYy
最強は太田金山城が一番だろ。臼井城は忍城よりレベル落ちるだろ。
165人間七七四年:2007/10/09(火) 13:42:19 ID:dKpJUBYy
和田城ってなぜ落城しなかったんだろう…支城網がしっかりしてたんかな?
厩橋城から利根川を渡るにあたり渡河ポイントはどこだったんだ…
166人間七七四年:2007/10/10(水) 07:51:20 ID:ZR2aw1Yu
謙信は北条との同盟に踏み切り、武蔵羽生領まで回復するが、
佐竹義重から不信感をかってしまう。
その後、北条氏政と同盟が破棄され、関東で再び対立する事になる。
関宿城救援の為、謙信は佐竹義重に協力を要請したが、謙信に不信感を
持つ佐竹家の重臣達は、白河領確保を優先して北条との単独和議を結び、
兵を退いてしまった。
謙信は佐竹の背信行為に怒り、羽生城を破却し武蔵領から完全撤退して、
厩橋領までの維持で関東支配を終える。
167人間七七四年:2007/10/10(水) 10:55:36 ID:ZnhLB68z
ここまで読んで知らない件も多くためになったが、つくづく謙信ってのは戦は得意だが
何も考えてない天然君だったんだなーと思った。あと里見、太田は馬鹿過ぎだなw
しかし、こんな里見相手に二度も大敗してる北条も、強いんだか弱いんだかよく分からないね。
168人間七七四年:2007/10/10(水) 12:01:28 ID:RsAz88+/
>>166
それ以前の1567年に佐野氏が謀反したので上杉・小山・太田・佐竹で攻撃する予定が佐竹の背信行為で謙信が怒ってる。
佐竹の為にわざわざ前年に常陸国まで出向き小田城攻めをしてあげたのにこたびの佐竹は北上し白河結城攻めを始めた。
しかも前年に佐野氏を討伐した際の助命嘆願したのは佐竹・宇都宮なのに見事に再度謀反してる不始末なのに出兵してこない。
俺でも佐竹の態度に怒るわ。
169人間七七四年:2007/10/10(水) 12:44:13 ID:jmoEY5Zu
>>168
その離反の原因は、謙信自身が「北条高広のせいである」としているが
つまり身内の不始末から離反されたんでしょ
何一方的背信に仕立ててるのさw
170人間七七四年:2007/10/10(水) 13:10:19 ID:6uUFXOTZ
つか佐竹が宇都宮と組んで北上したのが2月くらいだろ。
4月に北条が謙信に謀反してんだからクダラン謀略に乗せられて恩を仇で返した佐竹が悪いだろ。
北方での権益拡大をはかって佐竹の利益を優先したのが原因なのは明白。おかげで北関東同盟は破綻し、のちのち佐竹は後北条氏と伊達政宗の南下の圧迫に崩壊寸前まで追いつめられたんだからアホすぎ。

171人間七七四年:2007/10/10(水) 13:50:52 ID:RsAz88+/
穿った見方をすると最初から佐野・宇都宮・佐竹・北条は裏でつるんで謙信を欺いていた可能性すらある。
172人間七七四年:2007/10/10(水) 21:43:18 ID:ZR2aw1Yu
佐竹義重は実力のある武将だけど、保身的なとろこが多々あり、
最後まで謙信のよき協力者にはなれなかった。名家の誇りがそうさせたのか、
関東管領風を吹かせる謙信にアゴで使われるのを嫌がっていたのだろう。
景勝と良好な関係になったのは、景勝が義重に対し、低姿勢だったのでは?。
173人間七七四年:2007/10/10(水) 22:12:13 ID:ZnhLB68z
>>171
謙信=日本
佐野・宇都宮・佐竹=韓国、北朝鮮、中国
北条=ロシア

今で言えば、こんなとこか。
174人間七七四年:2007/10/10(水) 23:02:29 ID:BPj+jBtX
結局何の成果も信頼も得られず敵にも味方にも欺かれた謙信が一番アホって事じゃんw
だいたい長尾自体が旧体制の破壊者なのに今更北条糾弾しても白々しいだけだわな
アホで力持ってるから周囲から見ればいいカモ
敵にまでいいように利用されてるのだからとんだ道化だw
175人間七七四年:2007/10/10(水) 23:19:40 ID:USeyr1vq
>>173
正義厨・謙信は、世界の警察・米国以外無いなw
手前勝手な正義を振りかざして武力で何とかしようとしている辺り特に。
176人間七七四年:2007/10/10(水) 23:55:05 ID:RsAz88+/
論破されて必死に謙信の足を引っ張って引きずり降ろそうと必死でつw
醜い姿をさらしてるのが織田厨w
177人間七七四年:2007/10/11(木) 14:06:28 ID:K4n85mDz
関東情勢は複雑奇怪
上杉と佐竹の関係もそうだけど
一旦手切れした連中がまた都合であっさり手を結んだりその逆だったり
北条氏綱の「義を守って滅びるのと、義を捨てて栄華を極めるのは全く違う」という遺言は、実は約束なんてあってなきが如しの関東武士に対する痛烈な皮肉だったりして
178仙台藩百姓:2007/10/11(木) 15:11:48 ID:8zIfyEaJ
謙信など一国治めるのも上手くいかない程度の能力であり
一地方を治めるような人物ではあるまいお
そんなのに頼らなければならない時点で終わってるお┐ (´ω`) ┌
179人間七七四年:2007/10/11(木) 15:43:55 ID:N/1xmGhh
足長信玄が火をつけてまわってる
11月になると雪で活動が阻害されるのをいい事に北条が火事場泥棒する。
こんな状況じゃ普通の主では速攻で死ぬと思うよ。
180人間七七四年:2007/10/11(木) 18:39:08 ID:IbrfXsCK
>>172
越相同盟以前から、佐竹は謙信から参陣を求められるが拒否している。
謙信が「やめろ」と言っているのに、白河と戦ったり・・。
もともと仲が悪いんじゃないか?
佐竹は関東管領家の血筋を引いているから、謙信の関東管領就任を嫌がっていたともいう。
181人間七七四年:2007/10/11(木) 18:48:38 ID:N/1xmGhh
父の佐竹義昭が上杉憲政から関東管領職を譲るって打診してきた時に断ってる。
子の義重は「本来なら佐竹が関東管領だったのに!なんで長尾風情の下風に立つハメになるんだよ…しかも佐竹は源氏の家柄なのに血は関東管領上杉だし」みたいに思ってたって言うしね。
182人間七七四年:2007/10/11(木) 19:36:45 ID:+/0VQfjx
そんなくだらない対立を続けているから北条の拡大を許す結果になるんだよ。
まったく東のアホ大名どもは救い様が無いね。
183人間七七四年:2007/10/12(金) 09:22:56 ID:0GZmuSDS
みな、自分の利益のために動いてるだけだからな
そうなって当然
信長包囲網とかもそうだけど、野合集団が大勢力を打倒できた例はほとんどないから
184人間七七四年:2007/10/12(金) 21:09:05 ID:5xm8RSQD
戦国の関東の諸勢力の研究をもっと強めるべきだと思う。
だた単に、上杉謙信対北条氏だけではなく。
185人間七七四年:2007/10/12(金) 21:23:08 ID:ajWNfy9c
資料があまりなくわからない事が多いから状況証拠の積み重ねで証明していくしかないのよ。
せめて関東の諸将の婚姻の相手とその時期がわかると解けそうな問題も多いが…なんでだよ?ってのが多すぎ。
北条五代や上杉謙信がメインで大河化しないのもそういう側面が多いのでは?
186人間七七四年:2007/10/12(金) 21:25:31 ID:H0EPQKjm
中国のように捏造しちゃえばいいじゃん。
187人間七七四年:2007/10/12(金) 21:27:25 ID:5QCYMV7K
>>184
唐沢山城の佐野家を調べると、そう思うねw
「一度も謙信に落とされなかった!」から「謙信に降伏と反乱を繰り返したので、色部父子が駐屯した」まである。
どうやら後者が正しいようだが。
188人間七七四年:2007/10/12(金) 21:43:04 ID:8Q2wKrb2
『長野記』、『和田記』、『佐野記』、『成田記』…

ここら辺の関東諸勢力に関する軍記モノはたいていは先行の軍記物からの地元マンセー創作だろう。
ただ、『和田記』のように、ここでは謙信を二度撃退したとなっているものが、
他の信頼できる史料で検証してみると四度だったという例もある。
189人間七七四年:2007/10/12(金) 22:02:54 ID:5xm8RSQD
ここのレスの書き手さんは、有能な方ばかり。
勉強になります。
190人間七七四年:2007/10/13(土) 06:14:05 ID:5H6zXTuX
謙信の臼井城失敗と敗戦は、謙信の関東統治失墜の一番の原因なので、
くわしく知りたい。その後の謙信が関東の勢力範囲を取り戻すのは北条氏
との同盟によってもたらされたのであって、実力では回復は出来なかったのだ。
北条高広が謀反を起こしたのは、北条氏との同盟交渉を失敗したのを謙信に詰られた
からだ、という説もあるけど他にも原因があるような気がしてならない。

191人間七七四年:2007/10/13(土) 08:39:10 ID:q3dTJ1I6
臼井城での敗北は、上杉側の公式な資料にでてこないらしいからね。

謙信の関東統治のターニングポイントなのに、あまり注目されなかった
のは、この点が影響してるんじゃない?

上杉家としては隠したいもんな。
192仙台藩百姓:2007/10/13(土) 09:07:24 ID:POMyhXmr
武力じゃ上野一国切り取れない謙信としては
上野と武蔵北部の割譲は魅力的な提案だったのではないかお
関東管領も容認されるから一応の体面も保たれるし越後の防衛上も安心だお
それに謙信は一度関東政策を棚上げしたかったのだと思うお
足利義昭が上杉と北条の和睦を催促していたからだお
臼井城攻撃中も義昭から帰国を促されており
いつまでも無視する事も出来ず無理押しして敗退した背景がある
だが、足利家と確執があり戦略上も優位に立ってる北条に和睦する理由はない
その後、三国同盟が破綻し武田に苦戦する北条が上杉との和睦を謀るという事態が発生する
謙信にしてみれば将軍の意向に沿いながら領地もゲットできる提案は悪くない
まさに渡りに舟であったわけだお( ^ω^)
193人間七七四年:2007/10/13(土) 10:31:52 ID:rEtBobdE
あのね、謙信にしてみたら下総の関宿や臼井なんてどーでもよいわけ。常陸の小田もねみーんな佐竹や里見のお手伝いなわけ。
関東管領上杉の領地は上野武蔵相模なわけ。
謙信は足元を固めたいのよ本心はね。松山→川越と進軍して敵の本拠地小田原をつきたい。佐竹や里見の手伝いはウンザリなのだよ。
特に白河結城を勝手に攻めるアホ佐竹と姻戚関係の宇都宮。もうね佐竹は勝手にやれと。
春日山から敵地深く乗り込み常陸や下総だよ。遠いんだっつーの!小田原狙わなきゃシーソーゲームなんだっちゅうのアホ佐竹&里見めらが!
正月早々に戦陣で酒盛りして勝手に負ける太田・里見のせいで武蔵権益が大きく後退するわ足ひっばるんじゃねーつの!
苛々するわな。足利将軍さまの働きかけもあるし北条が敵だらけで低姿勢だし和睦して上洛戦やるからアホ佐竹は勝手にやれと!まっそんなこっちゃ。
194人間七七四年:2007/10/13(土) 10:49:23 ID:RhYoJAqJ
>>192
箕輪城の陥落で、足利長尾と由良と北条高広が寝返った
それがショックで、関東鎮撫をあきらめ始めた気がするw
「せっかく秩序を取り戻そうとしているのに、誰もわかってくれん・・」とか思ってさ。
越相同盟で謙信は勢力を戻した。だけど同盟破棄された後も活発に動いていない。越中・能登・飛騨の北陸のほうに興味をそそられたみたいw
越相同盟破棄後の謙信の関東戦歴
・厩橋城対岸の上野石倉城制圧
・上野膳城・白井城の奪還
・由良氏の本拠地・上野金山城攻撃(落とせず)
・利根川対岸で、武田信玄・北条氏政と睨み合い
・武蔵各地の城下を乱取り程度。
最後に北条軍に囲まれた関宿城を助けようとしたが、佐竹との仲が本格的にこじれて失敗。
ついに謙信は「勝手にしろ」とホン投げて、以後越山せず。
195人間七七四年:2007/10/13(土) 11:01:07 ID:rEtBobdE
倉賀野城も落城し箕輪城孤立により由良金山城が寝返った→箕輪城落城が歴史の流れです。
まぁ謙信にしたら箕輪城は不落の城だから大丈夫だと過信したんではないでしょうか?
196仙台藩百姓:2007/10/13(土) 11:21:53 ID:/qOTzoFm
>>194
まあね
元々謙信の狙いは上洛と自領の保全にあるわけだし
出来れば関東の支配権を確立して関東衆を率いて上洛したかったのだろうけど
さすがに一朝一夕に北条を潰す事は無理だと諦めて
越後の周囲を固めて北陸支配に乗り出す政策に移行していったわけだお
それが顕著に現れたのが越相同盟
結果、関東衆とは決定的な不和が生じたが
北条を滅ぼす気がなくなれば謙信にとっては大した障害にはならないお
197人間七七四年:2007/10/13(土) 13:30:37 ID:CMLLJRA1
ttp://www.library.city.sakura.lg.jp/event/kouenkai.html

里見氏と千葉氏についての講演があるので、臼井城の話題が出るかも?
198人間七七四年:2007/10/13(土) 15:10:58 ID:RhYoJAqJ
>>196
うん。
謙信没時の勢力圏をみれば、増水多い天険・利根川の東側は抑えている。この辺りが越後防衛の要。
1574年に武蔵羽生城を自ら破却し、本格的に利根川東岸に「引きこもった」
利根川を越えて武田勝頼・北条氏政が大軍で攻めるのは困難だから、ある意味安心したのかもしれん。

1578年に予定された関東出陣だけど多分、北条に敗れた小山秀綱の祇園城を奪還するぐらいだと思う。

199人間七七四年:2007/10/14(日) 02:04:24 ID:1yt/Z9rP
>>196
お前はいつも大した事を書けないんだから正直コテ名乗るの辞めて欲しいな。
ああ、NG登録して欲しかったんだな。悪い悪い。
200人間七七四年:2007/10/17(水) 07:28:11 ID:feQ/f2V/
>>199
同感
仙台藩百姓は
よく分かってない話を勢いで書き込んでる

相越講和に関宿城を救う意味は含まれてない、とか嘘言ったり
永禄十二年の勢力図で
上杉謙信は早く関宿に到達できる!なんて力説したり

無茶苦茶
201人間七七四年:2007/10/21(日) 19:59:46 ID:NUmzFSMm
>>191
この臼井陣の前から足利将軍家から何度となく和睦の使者がやってきてマジでヤバイから一刻も早く上洛しろと和睦斡旋してきてた。
その為に臼井から去ったのであって臼井城で白井入道が先負の日だから戦わずにいるように言ったのに謙信が気にせずにいたら崖が崩れて越後勢が下敷きになったとか白井入道が謙信を破ったとかあれ全部ことごとく架空話だから。
リアルに白井入道なんていないからw
202人間七七四年:2007/10/21(日) 22:24:09 ID:tLmB/xao
足利家の使者と合戦の結果は無関係やろがw

使者の事実だけみて敗戦は無視?都合のいい処理してんなや。
203仙台藩百姓:2007/10/21(日) 23:06:08 ID:tvyEyYVL
五千余手負死人令出来
話し半分としても上杉軍の大敗北には違いないお( ^ω^)
この敗走で上杉の関東支配は頓挫したも同然
将軍は北条との争いを望まず大義は薄れ
関東諸氏の謙信を見る目は冷たくなる一方
謙信の戦略はお粗末な限りだお┐ (´ω`) ┌
結局保身が精一杯ってとこだったお
204人間七七四年:2007/10/22(月) 06:57:50 ID:hg0uqvMU
>>203
白井入道なんて英雄は存在しない、なんて断言されたり
上杉軍の規模からして有り得ない死傷者数を吹聴したり
越後の武将が一人も死んでなかったり
かなりガセ臭いな

まず五千人っつー数字を提示し、
そこから「話半分としても〜」って主張する方法ってさ
「南京では30万人大虐殺された!」って騒いでる輩と同じくね?w
>>200
これが本当だとしたら恥を晒してるとしか
205仙台藩百姓:2007/10/22(月) 09:09:31 ID:ks+kgA4j
上杉軍の規模とか言ってるけど、どのくらいか知ってるのかお?( ^ω^)
206人間七七四年:2007/10/22(月) 09:25:50 ID:ydQ/U5Pk
軍配の名人白井入道は戦勝をデッチあげた北条の得意技。
北条は川越夜戦などデッチあげ勝利ばかりじゃんwww
なんだよたまたま白井入道が臼井城に修行の為にやってきてたってw
とって付けたような捏造をするなよw
松山城救援と翌年の国府台の戦いをごちゃまぜにしてた時もあり、
最近じゃ臼井城攻略してたと思われた槍の正木大膳の生没年が変って息子の功績になったし、
太田や里見が正月から酒宴してたら負けたとかガセっぽい。
数少ない北条の大勝の一つ国府台合戦もそのうち化けの皮が剥れるよwww
207人間七七四年:2007/10/22(月) 09:43:28 ID:ydQ/U5Pk
北条厨は大規模決戦の川越夜戦の感状が一枚も発見されてない事実を隠匿してますね。
208仙台藩百姓:2007/10/22(月) 10:07:23 ID:ks+kgA4j
関宿救う為に同盟結んだわけではなく同盟結んだから関宿攻めが中断されたわけだお
越相同盟結めば上杉方と北条方の戦闘は当然全て中断される
関宿もその一つと言うだけだお
越相同盟自体は関宿攻めが始まる2年前から上杉側では求めていたお
だが臼井での敗走後、北条優勢な戦況でまとまるはずもなかったが
三国同盟破綻で武田北条の戦いが勃発し苦戦する北条側からも上杉と同盟を望む声が出た
これ幸いと謙信も飛び付いたと言うわけだお
だいたい国単位で譲渡する状況で北条が関宿なんか構っていられないお┐ (´ω`) ┌
越相同盟成立で関東での憂いがなくなっても結局武田に敗北したし
でも敗北したと言え北条の外交は上手くいったおね( ^ω^)
駿河に釘付けになってる間に本命の関東荒らし回られたらたまんないお┐ (´ω`) ┌
209人間七七四年 :2007/10/22(月) 10:32:51 ID:r9hM2rgq
>>208
北条氏康は、関宿城を一国相当とみていたよw
210仙台藩百姓:2007/10/22(月) 10:53:09 ID:ks+kgA4j
>>209
だったら尚更だお( ^ω^)
北条は2ヶ国丸投げにしなくてはならない程追い詰められていたのに
謙信は餌に釣られて北条を助けるような真似をして
関宿攻められてる当事者の簗田にまで「裏切り者」と非難されてるんだから世話ないお(≧ω≦)アホヤ
同盟成立しても煮え切らず直ぐに破綻したし
結局敵にも味方にも恨まれただけ
世界史に残る下手糞外交だお┐ (´ω`) ┌
211人間七七四年:2007/10/22(月) 10:54:46 ID:VkUPGCIn
関宿の戦略的重要性は軽視できるもんじゃない。
小田原遠征の第一目標が鎌倉での管領就任なら
第二目標は関宿の公方重臣中の重臣で関宿海上交通の要たる水利権を保持する簗田氏を味方に組み込み、ひいては佐竹・里見との連絡線を保持すること。
関宿を失う事は同盟国の佐竹や里見を失う事に等しい。そして水運を手放し補給すらままならなくなる。さらに無力化してた古河城との連絡まで完成し現在の渡良瀬遊水地のあたりの大湿原地帯を迂回が可能になり小山や宇都宮まで危機に陥る。
忍城や騎西城や深谷城、唐沢山城、金山城とはワケが違う。
ここを保持するために和睦したと言ってもよい重要性がある地帯だ。
212人間七七四年 :2007/10/22(月) 11:08:02 ID:r9hM2rgq
世界史に残る下手糞外交は伊達政宗だろwwww 
秀吉相手には派手な振る舞いして目を引いた割には、所領を半分以上没収。米沢も没収。
家康相手には100万石もらえるはずが、自分の欲深さがあだとなって2万石程度の加増のみ
奥州王と自称して欧米へ使節を出すも、空振り
213人間七七四年:2007/10/22(月) 11:13:20 ID:VkUPGCIn
謙信側も関宿救援にあたり佐竹のヘタレぶりにウンザリしてたし将軍を助ける上洛戦をやりたかった。
とにかく佐竹の援軍がなければ関宿が北条の手に落ちる確実な情勢だったから話を早くまとめた。
佐竹や里見や簗田との話し合いの妥協点を見いだす時間が少なかったのはやむを得ない。
第三次関宿合戦で関宿が落城した後に佐竹や宇都宮や下総結城が危機的な状況になったのは自業自得で、佐竹義重の妹が宇都宮で生んだ子を養子にもらった結城氏が必死になって謙信に救援要請したのはアホとしか言いようがない。
謙信はというと加賀で織田軍を撃破して加賀・能登・越中を支配し越前でも謙信側に寝返る者がいた。
それでも再三にわたる悲痛な越山要請にいままでの越後だけでなく越中にも大動員をかけて関東へ雪解けとともに向かう予定で一説にはびびった北条は氏照に1万を付けて上洛の援軍にしたいと言ってきたとか。
まぁ素直に佐竹と宇都宮が謙信に頭を下げればいいのに面子にこだわる情けない連中www
214仙台藩百姓:2007/10/22(月) 11:25:44 ID:ks+kgA4j
謙信は佐竹、宇都宮、結城、里見辺りが協力してくれないと何も出来ないものね
彼らに臍曲げられると細々と近辺荒らすのが精一杯
武田や北条と違って自力で戦う力がない
結局謙信は息巻いてるだけで役立たずだったおね┐ (´ω`) ┌
215人間七七四年:2007/10/22(月) 11:28:59 ID:jLZCYQUQ
 こんなところでしか憂さ晴らしできないお前ほどでもあるまい。
216人間七七四年:2007/10/22(月) 12:21:29 ID:YPCtgJbQ
仙台藩百姓って謙信のこと嫌いだろ?
217人間七七四年:2007/10/22(月) 12:59:19 ID:ydQ/U5Pk
つうか越後から遠く常陸や下総まで助太刀に行ってるんだから佐竹や里見の協力なきゃムリだろアホか。
むしろそこまで蹂躙されて不敵にも領内深々と侵攻される北条がヘタレ。
謙信の場合は奇襲され一戦負ければ渡河ポイントが限られる大河利根川に叩き落され1人も上野国に帰れない死地にいるのにね。
218仙台藩百姓:2007/10/22(月) 12:59:53 ID:ks+kgA4j
他スレじゃ上杉厨扱いされてますお┐ (´ω`) ┌
好き嫌いでしか物事を考えられんやつが多くて困るお
219人間七七四年:2007/10/22(月) 13:25:45 ID:jLZCYQUQ
あんたは周囲を煽って、人より一等上になった気分を楽しんでいるだけだな。
人に誤解させる言動を自ら行って、誤解されたらそれを嘲る。幼稚なやり方だよ。
目障りだが、若いんならそれぐらい元気があっても仕方ないか。
でも、たまには一ヶ月ぐらい書き込みを控えていろいろ見つめ直してみたらどうかね。
少しひねているが、いい素質があるんだから、きっと自分のためになるよ。
220人間七七四年:2007/10/22(月) 18:38:38 ID:+r9C7NK4
>>208
『永禄十二(1569)年五月七日、北条氏照は柿崎和泉守景家宛の書状で、
山王山砦の破却と「山王山人衆」を引き退かせることを了承したと報じ、
翌閏五月七日には破却が行われた旨を上杉謙信に書き送っている』

関宿救援は越相同盟の一要素だったというわけ
同盟締結前の五月七日に「撤退を了承した」と柿崎に報告しているなら、
翌閏五月三日の同盟締結から遥か以前に、謙信が提示していた条件だわな
よって「同盟結んだから関宿攻めが中断された」というのは間違い
「相越講和に関宿城を救う意味は含まれてない」というのは認識不足
必死になって顔文字を連発するより、まずその発言を否定するなり、取り繕わないと×
>他スレじゃ上杉厨扱いされてますお┐ (´ω`) ┌
確か兵八千で臼井を追い詰めたから謙信は凄いって内容だったな
謙信の兵が八千と思うなら、
臼井城で死者五千云々〜白井入道なんて講談を信じてしまうのは尚更不様
ただ都合良く、話をゴチャマゼに繋げてるだけ(認識不足な妄想も混入してるし)
221人間七七四年:2007/10/22(月) 20:54:08 ID:iGTDV+HV
なに必死で関係ない話してるの??
222人間七七四年:2007/10/22(月) 21:10:11 ID:uCmZ+jK6
つーか、上杉軍って最大で5000なんだけど。大体は3000程度だったのに、
臼井城で死者五千って凄いね。

そんな状況でも一人もしななかった上杉の武将達ってリアル戦国無双だったんだね!
223人間七七四年:2007/10/22(月) 21:58:34 ID:KvYrOrJn
>>222
里見は国府台で大敗した直後だけに数百の援軍しか送れなかったとか
それでも八千くらいは居たと思うな
ぶっちゃけ白髪三千丈な話より顔文字の自爆を見てる方が面白いw
224人間七七四年:2007/10/22(月) 22:45:39 ID:S2BzLshJ
>>222
死者5千人じゃないよ?死傷者ですよ??

関東の諸軍勢も加わっておりますよ?
225人間七七四年:2007/10/23(火) 02:34:39 ID:SiTCwSeE
>>208
北条が国単位で謙信に譲渡したとは言うものの。実質厩橋と館林くらいじゃない?
由良はあくまで北条「方」であって独立に近い大名。だから成繁の次男は謙信の死後、
北条の足を大きく引っ張るわ。金山城で北条の死体を積み上げるわ。由良だけでなく
佐野も北条「方」とはいえ思うがままにならない存在。同時に謙信が置いた城代を追放したり。
この上野〜下野(要するに佐野)北条にとっても支配が浸透してないから、「譲渡」って言葉ほど
実が伴ってないんだよな。北武蔵も岩槻に太田三楽は戻ってこない。北条は認めてるのに
資正が拒否ったんだろうか?
226人間七七四年:2007/10/23(火) 02:41:32 ID:H0rZtkPT
息子の梶原だったか?を北条に人質を出せば岩槻城を返すと言われ拒否した。
227有楽斎 ◆URAKUMSP2U :2007/10/23(火) 05:44:28 ID:Sl9hUzSX
資正は謙信が小田原に侵攻してからは徹底して反北条の姿勢を貫いてますね。
228人間七七四年:2007/10/23(火) 08:41:24 ID:lHT7w5nx
第二次関宿合戦は、武田信玄の三国同盟破りの侵攻で破綻しかけてたわけで
はっきりいえば越相同盟のネタにするような話じゃない
だからダシにされた、と当事者の簗田氏らが謙信に不信を抱いて離反した
謙信にとっては北条高広ら、厩橋賢忠を親族の失態に託けて殺してまで配置した子飼い武将の離反を戻すために北条との講和を必要としたが
ぶっちゃけ関東諸勢にメリットは殆どなかった
229仙台藩百姓:2007/10/23(火) 08:48:28 ID:UJCO8AO+
8千人とか言ってるのは上杉厨だお( ^ω^)
漏れは上杉軍が8千人ばかりで攻めてたとしたら人間離れしていると言ったのだお
だいたい関東軍だけで2510騎いたのに、それに上杉本隊足して8千人のわけないお
上杉厨は足し算できないのかお┐ (´ω`) ┌ヤレヤレ
230人間七七四年:2007/10/23(火) 09:06:37 ID:H0rZtkPT
ダシも何もない。関宿は陥落寸前で簗田も何度となく謙信に使いを出して悲鳴をあげてる。
すでに関宿城の周囲は複数の砦を作られ北条は持久戦のかまえだ。
簗田が人望薄い為に佐竹・宇都宮が援軍を出さず、謙信も怒ってたくらい。
関宿が落ちて一番困るのは謙信じゃない。佐竹や宇都宮・下総結城が一番困るはずなのに一番苦悩してたのが謙信だ。
そもそも関東諸将があいついで越山要請しまくるから管領としてやってきてるのであって領土を奪う為じゃない。
厩橋の場合は松山城救援を拒否し進軍中にも不穏な動きをして謀反したから。
この時は関東管領上杉憲政もいたわけだから謀反した部下という関係だ。
231人間七七四年:2007/10/23(火) 09:22:36 ID:lN+CwPW8
北条を潰さなくては関東争乱は永遠に終わらない、北条の危機に謙信が手助けするとは奇天烈怪奇 北条討伐をうたって度々協力を求めてきたのに180度態度を変えた 謙信の二枚舌に関東中の武将が怒り軽蔑したのは当然の事だろう
232人間七七四年:2007/10/23(火) 10:05:45 ID:jDsZqn6t
その関宿を救ったのは信玄の進撃
越相同盟が結ばれたのはその後だからな
関東諸侯が信玄に靡くのは当然
別に謙信が同盟者じゃなきゃいけない理由は無いしな
まして敵手の北条と手を結んだ日には信頼なくして当然
謙信の人望と実力不足が招いた当然の結果
233人間七七四年:2007/10/23(火) 12:01:29 ID:E5U6rKt7
えっ?信玄が関宿を救う意志あったのw
信玄は利用しまくった後にみごとに里見や簗田、太田、佐竹を見捨てて甲相同盟を結びましたが何か?
しかも謙信が苦心して里見や太田などの利益を考えて交渉して越相同盟を結んだのに、それを蹴ってまで武田と組んだくせに越山要請するDQNぶりが笑える。
里見とかの融通性のない「何が何でも反北条」とかもう盲執すぎて異常すぎ。
234人間七七四年:2007/10/23(火) 12:31:58 ID:zv03uZWp
まあ謙信は武力じゃ結果残せてないし同盟して良かったじゃん
武田に感謝しなよ
235仙台藩百姓:2007/10/23(火) 12:40:55 ID:UJCO8AO+
反北条じゃなかったら謙信なんか相手にされないじゃんお┐ (´ω`) ┌
北条を毛嫌いしていた連中がいたから謙信もお山の大将気取っていられたわけで
北条と結ぶのに抵抗なかったら謙信なんぞ必要ないお( ^ω^)
236人間七七四年:2007/10/23(火) 14:09:56 ID:zv03uZWp
謙信最強スレでは列強がビビって謙信との合戦を避けたから最強だと
主張してるが仙台藩百姓のこれについてどう考える?

237人間七七四年:2007/10/23(火) 14:49:52 ID:H0rZtkPT
越山は謙信の為じゃなく、みんなが再三にわたり望んだから仕方なく奉仕の為に出陣したんだがな。
238人間七七四年:2007/10/23(火) 14:55:38 ID:qgBQ7jcm
百姓の戯言なんてどうでもいいな
史実を捻じ曲げ煽ってばかりいるゴミだし
関宿合戦中止と越相同盟の流れを捏造
その挙句、越後と関宿間には障害が無いような自論も吐く
これにも間髪置かれず、否定レスがついた

指摘されると余裕を装いたいのか
顔文字が極端に増え出すザマは失笑物
239仙台藩百姓:2007/10/23(火) 15:25:25 ID:UJCO8AO+
>>236
強さの定義が明確でないと水掛け論になるだけだお( ^ω^)
ハッキリ言ってしまえば、実際に戦わなければ勝敗なんて分かるわけないけど
240仙台藩百姓:2007/10/23(火) 15:39:10 ID:UJCO8AO+
>>238
何度同じ事言わせるんだお(´ω`)
関宿攻めが始まる前から謙信は越相同盟の道を探っていた
関宿救出はそれに後から付随したものであると言っているのだお
例え北条が関宿を攻めていなかったとしても謙信は同盟を結ぶつもりだったのだお
241人間七七四年:2007/10/23(火) 16:05:59 ID:Z05DFinl
>>225
厩橋は独立した領主として行動しようとしていたことが明らかな越後北条であり
館林も足利長尾であることを考えれば上野下野については
これらの勢力が北条と上杉の講和を望み、どちらかと言えば上杉側に復帰しようとしたいうだけで譲渡とは言えないよね。
>>230
>厩橋の場合は松山城救援を拒否し進軍中にも不穏な動きをして謀反したから。
もう既出だがこれは厩橋長野賢忠の名が誤って伝わった長尾謙忠におそらくあとから付け加えられた話で
実際には最初の越山の際、厩橋城開城後に伊勢崎に進軍した時に厩橋長野軍の馬が暴れたので謀反の嫌疑をかけられ同族化していた大胡氏ごと滅ぼされ。
補足すれば厩橋長野は鷹留長野とは違い箕輪長野から独立した勢力であり、上杉憲政が落ち延びた後は北条に味方して
沼田氏の内紛に乗じて沼田城を攻め落として北条に差し出すなどしていたが、謙信の越山では城下に兵が集まったのを見て敵わないと思って開城した。
そんなわけで謀反の嫌疑をかけられるいわれは十分あったが、それにしても降伏した相手をいきなり滅ぼして自分の家臣に城をあげたわけで、
和田城の離反には大きな影響があっただろうな。
なお越後北条の家臣団には同じ大江氏でありやはり謙信に滅ぼされた那波氏も加わっていた。
242人間七七四年:2007/10/23(火) 18:20:37 ID:y0HxnbMD
>>229
天正三年に謙信が纏めた軍役が5509名だから
ここには手明(荷駄隊)も含まれている
そこに2〜3000の兵を足した数字が越後の総軍だろうと、検証本に書かれている
北陸、川中島、国内にも配置するだろうから>>220が言う通り、
5000というのが正しいと思う
謙信自ら纏めた軍役(5509名)がそのまま、遠征軍の実態に近い
そこに関東軍(臼井攻めは上杉・里見連合だったと聞くが)を加えた所で
せいぜい八千前後だろう
243人間七七四年:2007/10/23(火) 18:44:07 ID:EgjXSoka
しかし里見ってのはホントDQNだなw
大事な所で勝手に大敗したり、邪魔したり、かと思えば二度も北条に大勝するし・・・変な大名だ。
244人間七七四年:2007/10/23(火) 18:51:27 ID:+VgFXQvY
臼井攻めで謙信が課した軍役は
里見氏が五百騎、土気酒井氏が百騎(浅間文書)だね。
245仙台藩百姓:2007/10/23(火) 19:15:52 ID:UJCO8AO+
>>242
この時、下総攻略に謙信が関東衆に課した兵役は
里見500騎、横瀬300騎、結城200騎、佐竹200騎、宇都宮200騎、佐野200騎、成田200騎、簗田100騎、
小山100騎、酒井100騎、長尾100騎、太田100騎、野田50騎、木戸50騎、広田50騎、榎本30騎、富岡30騎
さっきも書いた様に総勢2510騎
上杉厨の言う通り上杉が5000人とすると
8000-(5000+2510)=490
関東衆は騎馬武者5人に対して徒武者1人なのかお(;^ω^)
どこでも騎馬武者なんて1割前後なのに関東はモンゴル軍団かお
246仙台藩百姓:2007/10/23(火) 19:45:18 ID:UJCO8AO+
>>244
こらこら
浅間文書には17将2510騎書いてあるじゃんお
なに捏造しようとしてるのだお(#^ω^)
一体上杉厨はなんなのだお(;´ω`)
247人間七七四年:2007/10/23(火) 20:10:19 ID:gIdRsv5m
仙台藩は、伊達政宗でも語っとれ!!。
248人間七七四年 :2007/10/23(火) 21:01:23 ID:4aX5Jw1H
>>238
謙信は越相同盟を求めたけど、断られたじゃん。
そこで交渉は終わっている。
しばらく時を置いて、今度は北条が越相同盟を求めてきた。
249人間七七四年:2007/10/23(火) 22:31:54 ID:H0rZtkPT
謙信は前々からしつこく上洛して将軍を助けるように言われてたからね。
250人間七七四年:2007/10/23(火) 23:30:15 ID:ttM71PP6
謙信の何が凄いって、現代においてこれだけ狂信的な
厨房を生み出したことが一番凄いわw
251人間七七四年:2007/10/23(火) 23:37:12 ID:Q58x0ooH
>>248
そこで交渉が終わってるのなら
しばらくして始まった交渉は、付随する条件も又違ってくるって話だろ
情勢は目まぐるしく変化してる
同盟の持つ意味合いが情勢に従って変化するのは当然

「氏照は関宿城の近くにある栗橋城(野田弘朝の居城)を接収し、
ここを足がかりに関宿を攻めようとしたが、
翌年、上杉謙信との「越相同盟」に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止され」

越相同盟に停戦要求が含まれていたのは間違いない
252人間七七四年:2007/10/24(水) 03:24:24 ID:NkLiYfqh
つーか里見って臼井攻めには大して派兵出来なかったんだろ?
里見が軍役を果たせなかったので落城まで到らなかったって読んだ事あるぞ
義重も臼井攻めでは何をやってたのか分からんし
253人間七七四年:2007/10/24(水) 06:26:12 ID:gG4u/idO
>>225
>>241
幾つか突っ込まれてる以外にも、まだ変な解釈があるのか(呆
彼に触発されたのか『第二次関宿合戦は、(中略)越相同盟のネタにするような話じゃない』
なんて書き込まれてるようだけど

関宿合戦を綴ったサイトを色々調べてみると
ほとんどが『越相同盟によって城が救われた』とする文で締められてるよ
文章や単語が多少違う【越相同盟→越相一和など】とはいえ
254人間七七四年:2007/10/24(水) 07:45:24 ID:U3rserps
上杉厨涙目で屁理屈乙WWWWW
255人間七七四年:2007/10/24(水) 08:24:30 ID:Wr+cWvWk
謙信は傲慢だったからね
勝手に京都からつれてきた近衛を関東公方に押し付けようとしたり
敵手と手を結んだことの再発を心配する佐竹家臣団の当然の心配を解こうともせず「天魔」呼ばわりしたり
明らかに関東諸侯を見下していた
ただでさえ成り上がりってことで反感買いやすいのにこれじゃどうしようもない
256人間七七四年:2007/10/24(水) 08:27:03 ID:ZwDzRJKb
>>253
Webサイトで量が多いものが正しいってどんだけwww
257人間七七四年:2007/10/24(水) 08:53:13 ID:3zeIJVuo
>>251
これから平和交渉するってのに戦い続けながらするわけなかろう
258人間七七四年:2007/10/24(水) 09:01:55 ID:s0jI0Og/
>>255
おまえアホだろ。
259人間七七四年:2007/10/24(水) 09:27:42 ID:aWYNZkV3
>255
とりあえず近衛に謝れw
260人間七七四年:2007/10/24(水) 10:24:57 ID:j8zP/grR
謙信て関わったほとんどの大名の悪口言ってるよねw
少し思い通りにいかないとすぐに陰口叩く
やたら感情的なところを見ると謙信女性説てのもなんとなく納得いくな
261人間七七四年:2007/10/24(水) 10:40:01 ID:JcXzOQSR
夢見る乙女だったのかもな
262人間七七四年:2007/10/24(水) 10:52:43 ID:VoyTTCJa
いや、女性は粘り強いから
国主の責任を放り出して遁走したり、あちこちに喧嘩売ってすぐ飽きて別方面にかかったりしているんで
典型的なチャラ男だったんだろう
263人間七七四年:2007/10/24(水) 11:05:16 ID:rAgMRN8k
謙信のことチャラ男なんていうやつ始めて見た
264人間七七四年:2007/10/24(水) 11:12:09 ID:j8zP/grR
チャラ男w
でもほんと謙信って飽きっぽいよね
あれだけ滅茶苦茶やっても御家保てたのだから
ちゃんと政策練って計画的に動けば上杉も繁栄できたろうに
265人間七七四年:2007/10/24(水) 12:37:51 ID:6cITm9Xs
もうね謙信を貶めようとやたら必死なのがワラタwww
キモイくらい執拗に何が何でも引きずり落とそうとして何かメリットあんの?もしかしてツンデレ?
前世に謙信に嫉妬でもしてたのか?
266人間七七四年:2007/10/24(水) 13:11:16 ID:E5PitezL
>>255
ttp://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835208&tid=ipedbfae8bca4hbeebfy8acbfae&sid=1835208&action=m&mid=26

「これについては、まともな根拠が無く、ただの俗説でしょう。
永禄4年(1561)に謙信と関東諸将の合意によって、足利藤氏が関東公方として古河城に入ると、
近衛前嗣は違約(?)を責めるどころか、謙信宛の書簡で
「とくに藤氏のこと(古河入城)は私も大慶に思っております」と述べており、
関東公方の地位を狙っていたとは到底考え難いです。
謙信は、関東足利氏以外の人間を公方に擁立したことは、ただの一度もありません。」

佐竹の家臣達の心配は状況から考えて異常
謙信は義重が求めるままに誓紙を書いて誓ったというし、
その後、武蔵にある北条方の城下を幾つも焼き払うなどして、関宿城救援へ向かっている
267人間七七四年:2007/10/24(水) 13:16:44 ID:E5PitezL
>>252
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/c_hara_k.html
「謙信勢に対する援軍を後北条勢に阻まれて里見氏が送れなかったこと、
また、後北条氏が後詰めにおり、長陣を嫌った謙信は包囲を解いて越後に引き揚げたことで
臼井城の危機は去った。」

謙信から求められた兵を里見が出せなかった〜というのは本当かもしれない
これは里見だけに限らないだろうし
268人間七七四年:2007/10/24(水) 14:39:15 ID:/ayLGqq3
>>257
この停戦要求は平和交渉する前に出された物じゃないだろ
北条による関宿城包囲は破綻するどころか、山王山砦に兵を詰めたままの状態
同盟成立の約一月前5・7に氏照が砦の破却と兵の撤退を了承してる
この時期から考えて
4・27上野新田で行われた同盟条件の討議中に、停戦要求も出されたと考えられる
そもそも前年の12・9に北条から打診してきた同盟交渉(春日文書)なんだし
交渉が始まる直前&4〜5ヶ月にも及ぶ交渉の間、関宿城攻撃が中断してるのは当たり前
269人間七七四年:2007/10/24(水) 18:27:19 ID:6Dpvu6g9
>>253
この際( ^ω^)ブーン使うより( `ハ´)シナー使った方が良いな
語尾も「〜お」から「〜アル」に変えて欲しい
「臼井城戦勝記念館!!5000人討ち取ったアル!( `ハ´)」
「玄関に5000の数字を掲げるアル!(# `ハ´)」
「白井入道の銅像を建てるアル!(; `ハ´)」
千葉県民は相手にしないだろうけどw
270人間七七四年:2007/10/24(水) 21:21:27 ID:3zeIJVuo
>>268
結局同じ事言ってるだけじゃないのか?
和睦交渉相手に、和睦持ちかけた側から積極的に攻撃するなんて考えにくい。
結局そういうことだろ?
271人間七七四年:2007/10/24(水) 21:45:28 ID:flerfAXB
>>214
流れぶった切って悪いが
越後と上野って近辺なのかな?
1000m以上の三國峠が横たわって
酷い時は3ヶ月以上も往来できない。
そりゃノブヤボとか電車、車の感覚だったら近辺なんだろうけど。
ノブヤボも数ヶ月雪で閉ざされるイベントが起こるものの
CPUがアホだから大して痛くない。
個人的な体験で悪いけど、
震災の年、三宮から元町へ向かう緩い坂で行き倒れになりかけた。
通行人にお握りをもらって湊川まで歩いたけど。
坂って予想以上に体力を奪うから恐ろしく思った。
湊川で一年間手伝った後、電車で帰る途上涙がチョチョ切れた。
「電車って便利だ」って。
だから峠を越えた越後兵だけでなく
謙信にとっても関東平野は近くて遠かったのでは。
救援を待つ関東大名にとっても。
272人間七七四年:2007/10/24(水) 22:13:46 ID:LJfF+IdL
>>271
永禄6年11月の関東出兵なんて地獄だわ
越後国内ですら、豪雪に阻まれて進めず
冬の三国峠で何人死んだやら…
273人間七七四年:2007/10/24(水) 23:15:13 ID:h9qNs3u3
何を今さら。。おまえら戦国なめとんのか。
274人間七七四年:2007/10/24(水) 23:16:07 ID:s0jI0Og/
悔しかったら謙信を破った天才軍師の白井入道の存在を明かす北条からの感状を提示しろよwww
275人間七七四年:2007/10/24(水) 23:36:04 ID:h9qNs3u3
悔しかったらって、どのレス対していうとんねん。

この合戦では北条に2通、上杉に1通の感状が残ってるらしい。
276人間七七四年:2007/10/24(水) 23:42:52 ID:s0jI0Og/
だからよ。白井入道だよ。白井入道が謙信に勝ったんだろ。勝った張本人への感状を出せよ。
277人間七七四年:2007/10/24(水) 23:51:35 ID:h9qNs3u3
白井入道っていうのは、今さらだが千葉氏の一族の白井胤治のことやな。

彼への感状は残ってない。あったかも分からない。
278人間七七四年:2007/10/25(木) 00:20:21 ID:m7QM/JNG
まず白井胤治は関東では有名な今公明と言われたとか言われる典型的講談キャラでそのくせ他家ではまったく登場しない。
しかもたまたま臼井城にきてたとか都合がよく、この件以外では登場しない架空人物。
臼井城攻めはそもそも謙信は出馬してないと言われ代わりに顕長が本来の臼井城正統城主千葉久胤が佞臣の原氏に城を乗っとられて結城氏の元に逃げていた事を憐れみ謙信に頼んだ事から城攻めが行われた。
臼井城は薄壁一枚と言われるまでに攻めたてられ落城寸前で足利将軍の矢継ぎ早の和平斡旋で撤退しただけ。
無論、とっくの昔に北条の後詰めは来ていたが手をこまねいていた。
うがった見方をすればむしろ困ってたのは北条で将軍に和平工作を北条が働きかけたんじゃないのかと。
ひいては越相同盟に至る叩き台の役割になったともとれる。
279人間七七四年:2007/10/25(木) 00:32:20 ID:n5fyKj/z
>>278
けつろんがでちゃった
280人間七七四年:2007/10/25(木) 00:41:26 ID:vHDk+ymZ
北条家が将軍を頼る訳ねーだろ。

朝廷ならわかるが。
281人間七七四年:2007/10/25(木) 01:02:53 ID:WUkpWbw6
>>280
北条早雲は将軍足利義澄の命令で母弟の仇である堀越公方を襲い伊豆一国を得た。

長尾顕長の軍を謙信が派遣したって言われてるね。北条の後詰は里見の軍勢の牽制で精一杯で
小田城で残務処理してる謙信・佐竹の本軍が後詰で来援したら崩壊確定だったから必死だったと言われてる。
白井入道は凶日だから兵を戦いの出さないようにと言ったが謙信が凶日とか気にせず攻め立てた愚か者だから崖が崩れて
越後勢が数千人生き埋めになって敗北したとかもう講談話の極地で笑うw


282人間七七四年:2007/10/25(木) 01:42:13 ID:vHDk+ymZ
>>281
早雲と氏綱は全く違う。もっと言うと伊勢家と北条家は違う。

本拠を小田原に移したのも、姓を北条に変えたのも、それによって
将軍家に関係する今川らと対立を始めたのも、上杉や鎌倉公方らとも対立が始まったのも
朝廷から左京大夫を貰ってるのも全部氏綱の代になってから。
そしてその後の北条家の指針を示したのも氏綱。
283人間七七四年:2007/10/25(木) 01:58:48 ID:ESaiCX5O
>>278

胤治は講談的なキャラかも知れんが架空ではない。
千葉一族白井氏の歴とした11代目だ。故に臼井城には
千葉胤富からの援軍として入城していたと見るべきで、
たまたま滞在していた軍配の名人など正しく講談だわな。

千葉(臼井)久胤に関しては諸説あり。
父が亡くなった時、幼少だったため原胤貞が招かれ、善政を敷いたため
久胤は居場所がなくなり結城氏を頼った、とか正木信茂によって臼井城から
追い落とされたのを、原胤貞が回復したとか。

どっちにしろ謙信が、ゆかりもない久胤のために合戦などするものか。

佞臣の原氏とか、謙信が哀れんだとか、こっちのがよっぽど謙信マンセー史観
の講談らしいわ。しかも落とせなかったもんだから謙信は居なかったことに
しちゃってるしw

北条が将軍に和平工作に至っては、ご自分でも穿った見方と分かってらっしゃるようでw
284人間七七四年:2007/10/25(木) 02:18:25 ID:WUkpWbw6
>>282
自分史観乙
>>283
wikiの丸パクリ文章乙
285人間七七四年:2007/10/25(木) 06:13:28 ID:NJMJJG0e
>>270
和平交渉中の停戦は北条が同盟締結を願い、自発的に行った行動
ビデオで例えるなら、北条が自ら一時停止ボタンを押しただけに過ぎない
もう一度(交渉が決裂などして)一時停止ボタンを押せば、総攻撃が開始される
>>251の停戦要求とは、越相同盟の一環として謙信が求めた条件
これをビデオに例えるなら
一時停止から改めて、停止ボタンを押して(関宿攻撃の見直し)
テープを巻き戻して
(上野〜下野〜北武蔵の帰趨を其々交渉を持ちながら定める)
→越後毛利は帰ってきたが、由良は北条寄りとして留まった、館林城を接収
羽生は当然上杉方だが、岩槻は戻ってこなかった等
テープをデッキから取り出して(北条が山王山、不動山に配備した兵の撤退)
ビデオのコンセントを外し、箱に片付ける(山王山砦の破却)
286人間七七四年:2007/10/25(木) 06:45:35 ID:B5mMfhDr
>>285
その書き込みだと北条の掌の上で全てが踊っていたように思える。
例え話しっていくらでも自分の都合のいい様に捻じ曲げれるから、やめとけ。
厨認定されて罵倒されかねないぞ。
287人間七七四年:2007/10/25(木) 07:47:44 ID:szymMgAZ
>>285
だから、越相同盟で梁田の進退保障が話し合われたのは知ってる。
越相同盟締結の条件にその時点でなってたのは確かだ。
んが、北条が和睦を持ちかけた段階で関宿への攻撃を手控えたのは、あくまでこれから交渉するからであって、上杉からの要請によるものじゃないって事。
考えてみ?
お前が喧嘩して、相手から仲直りしようぜっていって右手を差し出してきてるのに、左手にナイフもってたら真意を疑うだろ?
288人間七七四年:2007/10/25(木) 08:49:08 ID:m7QM/JNG
>>287
くだらねぇ屁理屈でムリヤリ自説を押しつけんなアホか。お前の言ってる事は単なるこじつけ屁理屈。
289人間七七四年:2007/10/25(木) 08:53:53 ID:RUUldrtC
どうせ結ぶのなら、信玄と長年の敵対関係を解消するウルトラCをやるべきだったな
これなら関宿城を間接的に救われたことで信玄に好意を持ち接近した簗田氏らに嫌われることもない
ま、北条氏のように当主の健康不安等がないから相手が受けてくれるかどうかは難しいか
290人間七七四年:2007/10/25(木) 08:55:40 ID:szymMgAZ
>>288
人の事言う前に自分のケツ拭いたらどうだ?
>>283
291人間七七四年:2007/10/25(木) 08:58:00 ID:m7QM/JNG
ついでに言っとくが個々のケンカと戦略を一緒にするのは厨らしくてワラタよwww
お前な戦略における外交ってのはより有利に交渉できるように立場を強化しようとするから軍事的ポイントをあげて圧力をかけるんだよ。
ナイフを下に置くのは降伏同然だ。
そして謙信は関宿を支援しつつ交渉を長引かせ時間稼ぎをして佐竹の来援を待っていた。
そして関宿はなかなか落城しないから北条は困っていた。
292人間七七四年:2007/10/25(木) 09:01:47 ID:szymMgAZ
>>291
満足な受け答えもできないやつとまともに話すつもりはない。
またIdでも変えてからこい。
293人間七七四年:2007/10/25(木) 09:26:02 ID:m7QM/JNG
ワラタwww
294人間七七四年:2007/10/25(木) 09:28:46 ID:gxFgWLeR
謙信だって当たり前の武将
裏切り上等・二枚舌当然
なのに謙信は講談でいわれるような真面目な人じゃないとどうしても駄目らしい
295人間七七四年:2007/10/25(木) 09:49:45 ID:z7nUKjpB
そりゃ謙信から「義の人」という虚像をとったら何も残らんものw
296人間七七四年:2007/10/25(木) 10:07:37 ID:YGvHGR5w
さて論破されて負け惜しみの悪態の時間がやってきましたw
むしろ異常なまでに謙信を貶め引きずり落とそうとしないとならない君の精神の歪みの方に興味があるよ。
小さい時に出家して良い師に恵まれたら謙信みたいな厳しい道を自ら選択する修行に似た生き方をしても不思議な事じゃない。
信玄や信長みたいな強欲な生き方ばかりが人間じゃない。
297人間七七四年:2007/10/25(木) 10:21:40 ID:5eFwJtEg
論破という手垢のつきまくった勝利宣言、久しぶりに見たwwwwwww
298人間七七四年:2007/10/25(木) 10:27:01 ID:v+6OXWlz
>>297
まともな発言をしてください。ここは悔し紛れのレスをするゴミ箱ではありません。
ちゃんとした発言を心がけましょう。恥ずかしい人ですね。
299人間七七四年:2007/10/25(木) 12:39:39 ID:jAgzIWoS
謙信って甲越与和と越相同盟で武田北条の二股かけてるしな
関東諸豪族を含めればさらに二枚舌を重ねている
今更謙信が義の人なんていわれてもね……
むしろ義の人で実際になかったからこそ一度は謙信を信じて同盟した勢力が悉く信頼しなくなるという結果になったのではないか
300人間七七四年:2007/10/25(木) 12:43:26 ID:of4kYN/C
>>281
>越後勢が数千人生き埋めになって敗北したとかもう講談話の極地で笑うw

数千人なんて書いてあったか?
なに微妙な捏造してんだよw
301人間七七四年:2007/10/25(木) 12:46:08 ID:ryxzlfSb
元々利害で結びついていただけだし
お互いの事情が変わって決裂しただけ
元から信頼関係など全くない
302人間七七四年:2007/10/25(木) 13:18:57 ID:Gma8XLmd
>>287
だからそう書いてあるじゃんよ
*1『北条が和睦を持ちかけた段階で関宿への攻撃を手控えたのは
上杉からの要請によるものじゃないって事』はそのまんま
>>285の『和平交渉中の停戦は北条が同盟締結を願い、自発的に行った行動』

ただ越相同盟で取り決められた、幾つかの条件
越後から関宿までの道筋確保(厩橋、唐沢山などの帰服)
付け砦からの兵撤退〜その各砦の破却などの条件は*1と別物だろ
その内容から実行される過程まで*1とは全く違う

これらを北条へ飲ませる代わりに、謙信も甲斐方面の出兵を承諾した
303人間七七四年:2007/10/25(木) 13:36:54 ID:szymMgAZ
>>302
始まりは>>257な。
で、>>268とレスされる。
俺が言いたいのは、越相同盟の交渉の過程で「関宿攻撃停止しろ(より正確には梁田を攻撃しないでねって要求)」って上杉方からの要請にしたがって北条が停戦したわけじゃなくて、
北条から和睦を持ちかけた段階で、交渉の為にすでに攻撃を手控えてるって事。
上杉が関宿城が落城しそうだから、その為に越相同盟結んだなんてとんでもない話に疑問を呈してるわけ。
304人間七七四年:2007/10/25(木) 13:55:06 ID:Gma8XLmd
>>303
その元は>>251
「上杉謙信との「越相同盟」に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止され」
って引用文だろ
この停戦要求の意味は「和平交渉中に行われている停戦とは別物」と訂正された訳だ
そしたら>>270
「和睦交渉相手に、和睦持ちかけた側から積極的に攻撃するなんて考えにくい。」
ここでもまだ越相同盟で取り決められた攻撃中止諸条件と
和平交渉時の停戦を混同してる
しかも謙信は和平交渉に入る時点で既に、関宿攻撃中止を目論んでいた〜
ような事まで書き込んでるだろ
305人間七七四年:2007/10/25(木) 17:38:40 ID:szymMgAZ
>>304
どこで訂正があったんだ?
それに>>270でも「交渉」相手と表現して、さらに「持ちかけた側」としてるんだから区別してるだろ。
>しかも謙信は和平交渉に入る時点で既に、関宿攻撃中止を目論んでいた
これを言ってるのは上杉が関宿の為に越相同盟に踏み切ったといってるやつぐらいだろ?
306人間七七四年:2007/10/25(木) 18:29:44 ID:EDGGQ7Cf
>>303
「交渉の為にすでに攻撃を手控えてるって事。」

「越相同盟に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止され」
「関宿城はまさに落城寸前の危機にあった。この危機を救ったのは相越同盟の成立だった。」
との違いを考えたらどう?
北条が攻撃を手控えていても、それはあくまでも仮の状態で、依然城を攻略軍が取り囲んでいる。
そんな状態では謙信や関宿城にとって何の解決にもなってない。
同盟を成立させなければ、関宿に張り付いた北条の砦をひっぺがす事が出来ないのだから。
謙信が同盟を結ぶ動機の一つに充分成り得る。
北条が攻撃を手控えてるだけでは、城が危機的状況を脱した〜なんて、とてもじゃないが言えない。
だから謙信は相越同盟の条件に関宿城救援に関する項目を幾つも提示したんでしょ。
307人間七七四年:2007/10/25(木) 21:34:04 ID:szymMgAZ
>>306
>「交渉の為にすでに攻撃を手控えてるって事。」

>「越相同盟に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止され」
は相反するし、そんな要求存在するのか?
いや、要求は存在するが、そもそもそれ以前の段階で攻撃自体は停止してるだろ?
>「関宿城はまさに落城寸前の危機にあった。この危機を救ったのは相越同盟の成立だった。」
これはものすごい結果論で、上杉が意図していたというのはあまりにも乱暴。
北条が最初から越相同盟結ぶことで上杉の支配、影響力が弱体化すると見越して上野、武蔵一部割譲なんて大幅譲歩までしてこれを成立させたなんていってるのと同じだ。
そもそも「交渉の為にすでに攻撃を手控えてるって事。」との関係がまったく見出せない。
ところで、その城を攻囲している北条から、その攻囲されてる側の総大将?的な存在である上杉に対して和睦を持ちかけてるわけだ。
少なくとも交渉してる間は安全だよな?
あるいはそうやって引き伸ばしてる間に戦力を整えて自ら救援に向かうか。
それをしようともせずに、関宿が重要だから、越相同盟はこれの為に結んだというのはな?
ところで関宿の安全だったか、梁田の安全だったかの保障要求は見たことあるが、救援に関する項目をいくつも提示ってのは三点何で確認できる?
できりゃ番号も含めて教えてほしい。

308人間七七四年:2007/10/26(金) 01:00:58 ID:OBlwFRm8
>>307
>そもそもそれ以前の段階で攻撃自体は停止してるだろ?
それはあくまでも仮の状態で、城が危機的状況を脱した〜なんて、とてもじゃないが言えない。
よって謙信や関宿城にとって何の解決にもなってない。
同盟を成立させなければ、関宿に張り付いた北条の砦をひっぺがす事が出来ないのだから。

>これはものすごい結果論で、上杉が意図していたというのはあまりにも乱暴。
謙信は相越同盟の条件に関宿城救援に関する項目を幾つも提示したんでしょ。
>>268「同盟成立の約一月前5・7に氏照が砦の破却と兵の撤退を『了承』してる」

>あるいはそうやって引き伸ばしてる間に戦力を整えて自ら救援に向かうか。
この時点だと由良北条高広らが後北条についているため謙信は関東に出ることは困難、
それを踏まえた上で上杉が関東を救おうと思えば、越相同盟ぐらいしかない
これによって関宿も解囲されるし、上野などで交渉→帰服が起こり得る為に謙信が関東に出兵することも
現実的となる、将来北条が武田と再同盟しても、
上野を押えていれば関東諸勢力の救援は可能(これが第三次関宿合戦)

>>「交渉の為にすでに攻撃を手控えてるって事。」
>と
>>「越相同盟に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止され」
>は相反するし
北条が攻撃を手控えていても、それはあくまでも仮の状態で、依然城を攻略軍が取り囲んでいる。
攻撃を手控えてるだけでは、城が危機的状況を脱した〜なんて、とてもじゃないが言えない。
309人間七七四年:2007/10/26(金) 07:02:48 ID:Wy7QYuNp
>>307
「交渉の為にすでに攻撃を手控えてるって事。」

「越相同盟に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止され」
は別に相反してないし、出来事の流れになってるだろう
ビデオの例えは我ながら上手いと思ったが・・・
それなら関宿「城」を関宿「姫」に置き換え、
「人質になった関宿姫!救出なるか?!」なんて物語にすると、さらに分かり易い

氏照「ゲヘヘ!!関宿姫を追い詰めたぜぇ〜!!!! 親父ィ!!早速モノにしちまいやしょう!!!!ハァハァ」
氏康「フヒ!!フヒヒヒ〜!!!! まぁ待て!! この姫を人質に、謙信を俺達の仲間に引き込むんだ!!」
「今は大事な駿河姫がエロ坊主信玄に狙われてる!!! 俺は謙信と協力して駿河姫を守りたい!!」
「関宿姫も欲しいが、上手く行けば駿河姫まで・・・フヒ!!フヒヒヒヒィ〜!!!!」
氏政「ヒャハ〜!!さすが親父だぜぇ!!! !エロ坊主信玄が俺達のアジトを襲ってくるかもしれネェからなぁ」
氏康「関宿姫は大事な人質だぁ!!!! 手ぇ出すんじゃねぇゾ!!?? 可愛い息子ども!!!!」
氏照・氏政「ヘェ〜イ」「ヘェ〜イ」
関宿姫「イヤー!!助けてぇ!謙信様〜!!!!」
氏政「ヒャ〜ハハハ!!!! 馬鹿な女だぜぇ!!?? 奴がノコノコ奪い返しに来るようだったら即、可愛がってやるぜ!!!!」

以上、ここまでが「交渉の為にすでに攻撃を手控えてるって事。」 に相当する
310人間七七四年:2007/10/26(金) 07:06:12 ID:Wy7QYuNp
つづき
謙信「おのれぇ〜!!卑怯な北条親子めが!!!!」
直江「殿・・・我々が関宿姫の元へと辿り着くまでには、裏切り者達を迂回するか・・・」
謙信「ム、ム・・・ある程度、アジトを潰して進むかしかない・・・しかしそれでは間に合わぬかもしれぬぞ!?」
直江「・・・ここは北条親子の話を一応聞いてやり、代わりに関宿姫の解放を求める道こそ、最も確実でしょうな」
謙信「ムゥ仕方あるまい・・・北条如き盗人と組むのは不本意なれど、大切な関宿姫をこれ以上危険に晒す訳にはいかん」
〜同盟交渉〜
氏康「フ〜ヒヒヒィ!!!!謙信の奴、色々ゴネおったが・・・我らに協力する、と返事してきおったわ!!!! フ〜ヒッヒッ!!」
氏照「ゲヘェ・・・惜しいが、関宿姫は暫く諦めるとするか・・・ 野郎どもぉ! 姫を解放してやれぃ!!!!」
かくして関宿姫は危機一髪の所で北条親子の魔の手から救出されたのでありました

この後半部分が「越相同盟に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止され」に相当
311人間七七四年:2007/10/26(金) 08:46:50 ID:qrsNLjTn
関宿攻撃は既に信玄の攻撃で頓挫してたんだよ
だから当事者達がこぞって信玄に靡いた
後付けで関宿、とか持ち出されても謙信の本音が上野の自勢力圏引き戻しにあったのは明白
ま、上野も安定せしめられないのにそれ以上の進出なんてどうせもう無理という判断もあったんだろうが
だいたい謙信は同盟を完遂した例が一個も無い
312人間七七四年:2007/10/26(金) 08:57:58 ID:qrsNLjTn
仮にやむをえない一時凌ぎだとしても、それを相手方に説明して合意をとっておかないとその後齟齬が出るのは当然
このとき謙信が古河公方として義氏を認めちゃったのが信頼という意味では致命的であったのかな、と個人的には思うよ
藤氏こそ正統な公方ということで戦ってきたのに、その弟の藤政を見捨てる形でそれだから
完全に謙信は北条に寝返ったと思われない方がどうかしている
313人間七七四年:2007/10/26(金) 09:35:05 ID:1rAJ/wkz
藤氏は足利家の長男で将軍から認可されただけでなく関白近衛も正統な古河公方として認めた存在だから正統を重んじる謙信は擁立した。
だが謙信が越後に帰ると簗田らはあっけなく古河を落城させてしまう腑甲斐なさ。
翌年には藤氏は北条に捕まるマヌケぶり。
これみんな謙信が関東にいない時期の話で佐竹や太田・里見・結城・梶原・真壁・簗田などがあまりにもクソ。
序列では次は義氏になるんだから藤政などは最もありえない選択肢だろうが。しかも関宿落城寸前の危機。
アホ簗田が越相同盟により落城の危機を免れたくせに己の外祖父の地位にこだわって大局を見ずに藤政を擁立しただけ。そのくせ自衛できず謙信に越山要請を繰り返すも近隣の佐竹もロクに助けてくれない存在で案の定落城。
もうね、謙信に生意気な発言や態度を取るくせに結局最後はみんな謙信を頼ってくるわけ。朝倉や毛利や本願寺までもね。
頭の良い人ならなぜだかわかるよね。
314人間七七四年:2007/10/26(金) 09:44:35 ID:9oxMlB3h
利用されてただけじゃん
315人間七七四年:2007/10/26(金) 09:51:34 ID:oed4e5zd
まぁ、謙信側からの不実や背信の数々を完全スルーして相手方の非だけまくしたてればそう強弁できなくもないが……w
死期直前に組んだ本願寺や毛利を例外として、これだけの相手と関係をまっとうできた例が一つもないってのは凄いよな
ところで筋目が義氏になるのなら当然ってことで謙信を正当化した場合。その後越相同盟破綻して再び敵対したのとどう整合性つけるんだ?w
316人間七七四年:2007/10/26(金) 10:07:31 ID:LYyleywo
謙信は何故大事な旗頭(藤氏)を前線に放り出して置いたのか理解できん。自分で安全な後方にいて要人を敵の前に置くなんて謎過ぎる
317人間七七四年:2007/10/26(金) 10:09:49 ID:ji3MkLxJ
>>311
それでも山王山砦&不動山砦が完成してから同盟締結までの約半年以上もの間
北条は関宿を総攻撃出来る体勢を維持し続けていた
謙信が同盟を結ばずとも、北条(及びその同盟軍)は自ら兵を退いただろうなんて
それこそ後付け臭い (いや、後付けにすらなってない想像か)

(繁長などをアッサリ見捨ててきた)信玄がいつ関東へやってくるかも分からない
同盟締結によって救われた後、信玄へと靡いたのは反北条という志向だから
しかし当然の如く信玄に捨てられ、最後はやはり謙信を頼る

謙信の本音に関宿城の保持が含まれていたのは疑いようが無い
でなければ第三次関宿合戦の折、あそこまで危険な後詰はしない
この時謙信が見せた関宿城(簗田晴助)への執着は本物だろう
318人間七七四年:2007/10/26(金) 10:13:27 ID:7UQhsgk6
関宿については知らないが

面従腹背同盟しないでそのまま攻めたら今川見捨ててますます関東に専念されちゃうかもしれないぜ北条には。
そんな氏真が可愛いそうなこと謙信にはできないなまして相手が信玄なら。

319人間七七四年:2007/10/26(金) 10:18:30 ID:pwEuO+SL
ところで臼井城の話はどうなった?
320人間七七四年:2007/10/26(金) 10:24:49 ID:pwEuO+SL
連続で失礼するが謙信の背信云々はこちらのスレで語ったらどうだね

越相同盟について
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192090470/1-100
321人間七七四年:2007/10/26(金) 10:28:15 ID:zi7VU/ta
>>316
お前は古河公方がなんで古河にいるんだって言ってるぞワロタw
>>315
破綻後も古河城を謙信は攻めたりしてないがな。だいたい関宿城を救う道が他にあったとでも?
それに越相同盟は氏政が一方的に破棄し人質の弟を見殺しにしようとしたが
謙信は自分の景虎の名を与え厚遇してた。これのどこが不実背信なんだろうな。


322人間七七四年:2007/10/26(金) 10:32:58 ID:oed4e5zd
>>321
古河までいけなかったの間違いじゃ?w
直接本拠まで乗り込まないと敵対じゃないのなら、武田と上杉は徹頭徹尾敵対してませってことになるぞw
323人間七七四年:2007/10/26(金) 10:37:49 ID:pCGSa0gp
贔屓の武将を擁護したいのはわかるがなぁ……
共通の敵と勝手に同盟したり
ケチった上に実はこっそり共通の敵と通じてましたとか
謙信の酷さまで全く認めず無謬にしようってのは苦しすぎる。
324人間七七四年:2007/10/26(金) 10:49:05 ID:92NJ6lCd
「甲越与和」ってのは謙信は渋々結ばされていた物で
信玄は願ったり叶ったりの「与和」だろうけど謙信が望んでいた物ではないって偉い先生が解説してるな

越相同盟は仕方ない
結ばなければ関宿城という重要な拠点を失うんだから
325人間七七四年:2007/10/26(金) 10:53:25 ID:LYyleywo
同盟結んでも失ったじゃんw
326人間七七四年:2007/10/26(金) 11:37:41 ID:E77wpAPa
草加信者が必死すぎてワロタwww
もうムリヤリ歪曲してまで謙信を貶めてるよwww
327人間七七四年:2007/10/26(金) 12:19:58 ID:aX66Bwb4
草加信者とか言ってる時点でオマエの方が必死。
328人間七七四年:2007/10/26(金) 12:20:55 ID:yBI/dvLD
同盟を結んで関宿も信頼も一斉に失った
そしてその同盟も手抜きしたために破綻
いやいや結ばされた講和なんてありえないだろ
実際に謙信は将軍家からの和睦要請をそれまで何度も蹴ってるわけで
謙信・謙信信者嫌いを増加させるためにわざとアンチ謙信が自演してんのか?
既に嫌われ者だというのにw
329人間七七四年:2007/10/26(金) 13:09:33 ID:1rAJ/wkz
>>319
臼井城の話をそらしてスレとは関係ないところでひたすら謙信中傷しまくる
>>322
お前古河と関宿の位置さえわからないのかw
>>323
ケチって例えばどんなトコだよ?なら氏政みたいに一方的に越相同盟破棄したり信玄みたいに里見などを利用するだけ利用してさっさと甲相同盟して里見らをポイ棄てしたヤツらの方が立派だとでも?
勝手も何も誰も関宿の危急を救う手立ても策もなかろうが。
>>325
同盟結ぶ苦肉の策で関宿が救われたんだアホ。その後に氏政が人質の弟を見殺しにして一方的に破棄して利根川が増水して謙信が救えない状況の中で関宿攻めを再開したんだろうが。
佐竹のアホも関宿が落ちたら古河との連絡ラインが完成し圧力が強大化して困難になるはずなのに積極的救援をしなかったしな。
関宿落城して困るのは援助の為に遠征してきた謙信じゃない。佐竹と妹婿の宇都宮とその間に生れて下総結城の養子になった外戚関係ラインが危機に落ちるだけなのにアホすぎ。
330人間七七四年:2007/10/26(金) 14:54:54 ID:tekFjMUz
>>328
『どうも、「甲越和与」をより切実に欲していたのは信玄であり、
「公儀」の調停を断り切れない謙信が渋々従ったというのが実情かも知れない。 』

丸島和洋という研究家が書いた論文にそう書いてあるのか
この論文を読んだ歴史作家・桐野作人の感想か
イマイチ分からんけど

同盟結んでも関宿を失ったというのは結果論に過ぎない
あの情勢下では最善の選択をした訳だし
関宿に絡む厩橋〜館林そして唐沢山との関係改善や、
その後の由良領の奪取を鑑みると、良い同盟だった事は間違いない
331人間七七四年:2007/10/26(金) 17:13:03 ID:/LaNYTUK
>>308
うん、謙信が求めるまでもなく、攻撃が中止してる、少なくとも北条方からの攻撃はとまってるってのは共通理解だな?
で、この攻撃が停止されてる状況下でも、上杉からみて、関宿の危機は去ってないと、お前は考えていると。
これもお前の言うとおりだろうと思う。
そこでひとつ聞きたいんだが、お前も越相同盟が梁田の、関宿の為に結んだと考えてるのか?
レス読んだ感じでは、そう考えてると捕らえられるが。
で、上杉が越相同盟で関宿に関する項目をいくつも提示ってのは聞いたことないんだ。
だから教えてほしいと、おそらくは戦国遺文に載ってるんだろうから、番号もできれば教えてほしいと。
自ら救援に向かうってのはひとつの手として考えたまで。
そんなにも関宿を重要とするならば、あらゆる手を尽くしてその維持に努めると思うんだがどうか?
それをしてないって事はそこまで重視してたわけじゃないと考えるのが普通じゃないか?

>>309
>>286
たとえるならたとえるで手短にしてくれないか?
物語調にされたところで読む気しないから。
332人間七七四年:2007/10/26(金) 17:49:16 ID:/LaNYTUK
>>317
三方敵に回した北条が戦線維持し続けられると考えるのはちと無理じゃないか?
謙信自身は自身の書状で、越相同盟よりも里美、佐竹らとの手切れのほうが痛いなあと述べてるが、果たして関宿にそこまで執着していたのかどうか。
333人間七七四年:2007/10/26(金) 18:35:03 ID:dh8jzJX3
>>332
交渉決裂した場合、相手の判断に委ねる部分が大きい
北条の判断(ここまで追い込んだのだから、関宿は取り合えず落としておこう)、
信玄の判断(謙信が北条退治に出てきたなら、俺は行かなくて良いや)
謙信は間に合わず、信玄は出馬せず→関宿落城なんて最悪のケースも充分起こり得る

リスクが高い割に非常に危険な博打、これは関宿の重要性を考えると全く釣り合わない

謙信が同盟を結ばずとも、北条は(破綻していたので)自ら兵を退いただろう〜
関宿をあの状態で長期間放置しかねなくとも心配御無用!
なんてのは無責任極まる推測であり、暴論
334人間七七四年:2007/10/26(金) 19:56:11 ID:SXwC8+gN
>>331
わざと分からない振りしてんだろ?
>謙信が求めるまでもなく、攻撃が中止してる、少なくとも北条方からの攻撃はとまってるってのは共通理解だな?
こんなもん>>285でとっくに書き込まれ、否定レスも付かず>>302では>285の主張を確認してる。
しかもだ・・・>>308>>306の文章を並べ替えただけじゃんか。
+αとして「この時点だと由良北条高広らが〜」以下の説明文があるものの、
この程度は二次関宿合戦を語るなら、説明されるまでも無く背景として理解できてないとおかしい。

>上杉が越相同盟で関宿に関する項目をいくつも提示ってのは聞いたことないんだ。
「埋もれた古城」関宿合戦に書かれてある。
『永禄十二(1569)年五月七日、北条氏照は柿崎和泉守景家宛の書状で、
山王山砦の破却と「山王山人衆」を引き退かせることを了承したと報じ、』
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Satellite/Sekiyado/index.htm
越相同盟を結んだのは永禄十二年閏五月三日。
その締結前の五月七日に氏照が『了承した』と柿崎に返事を送っているのだから、
さらにそれより前の月日に上杉(柿崎か)から氏照へと提示された条件だ、と考えるのが普通。
同盟締結直後の閏五月七日には砦の破却報告まで届いてる。
>あらゆる手を尽くしてその維持に努めると思うんだがどうか?
それが越相同盟。 上杉が提示した付け砦からの撤退、及び、砦の破却といった条件だろ。
下手に越後で兵馬なんか整え、三國峠越えのような軍事行動を起こした場合、
それを北条は交渉破棄と受け取り、山王山砦&不動山砦から関宿城へ総攻撃を加えてしまうわな。
335人間七七四年:2007/10/26(金) 19:56:47 ID:LYyleywo
同盟以外に救う手がなかったと言うのも何の根拠もない暴論だけどな
336人間七七四年:2007/10/26(金) 20:37:30 ID:ba2gFSqn
まあまあ臼井城で負けたっていいじゃん。
337人間七七四年:2007/10/26(金) 21:27:19 ID:/LaNYTUK
>>333
交渉は北条方がだいぶ譲歩しての申し込みで、いわば弱みを見せてる状況。
少なくとも北条方としては三方同時に相手というのは困難だという認識で交渉してるんだろう。
でなきゃ上野から武蔵一部まで譲らないし、関東管領なんてのも譲らない。
もうすでに駿河には氏政隊が乗り込んで武田と敵対してるし、確か越相同盟の一ヶ月か二ヶ月後に甲越和与が成ってる。
上杉ー北条間が決裂した場合、どっちが不利だ?
北条が仮に関宿落としたところで、武田の圧力を防ぎきれなければ北条家そのものの存在が危うくなるぞ?

>>334
ひねくれてるなあ・・・
こっちは確認してるだけなんだから素直に答えればいいのに。
ほかに反応してないところは全部こっちの言うとおりって事?
338人間七七四年:2007/10/26(金) 22:04:26 ID:2bhMiAOc
謙信厨は、困るとすぐ人を創価信者扱いするんだよなwww
ほんとクソ
339人間七七四年:2007/10/26(金) 22:40:14 ID:sIXxoY37
謙信厨はほんとアホだな
謙信は上方や関東北陸の状況
将軍家や武田北条との関係など様々な条件を考慮して宿敵との同盟に踏み切ったのに
謙信厨の言ってる事じゃ関宿城守る為に慌ててその場凌ぎの同盟結んだ事になる
裏切りだとか言われてムキになり屁理屈付けて自分で謙信を貶てる事に気付かないのか
340人間七七四年:2007/10/27(土) 00:54:35 ID:5FxecpHl
良スレアゲ

上杉関連はいざ合戦になると実証的裏付けあるのが素晴らしい
341人間七七四年:2007/10/27(土) 01:04:32 ID:51UpGicD
良スレか?
糞スレの間違えだろ
342人間七七四年:2007/10/27(土) 02:01:02 ID:UisrvyEM
>>337
全部こっちの言うとおりって・・・アホか
>あるいはそうやって引き伸ばしてる間に戦力を整えて自ら救援に向かうか。
>>308>>334で否定

>上杉が越相同盟で関宿に関する項目をいくつも提示ってのは聞いたことないんだ。
>>268で既に説明 さらに>>334も殆ど同じ内容で説明、リンクまで貼って貰う

ttp://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/s-souma1.htm
このサイト内に書かれた「越相同盟に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止され〜」
の「停戦要求」とは、>>268前半&>>334後半部の内容を指しているのであり、
そもそも>>303で主張する「交渉の為にすでに攻撃を手控えてる」状態を言っているのではない
「交渉の為にすでに攻撃を手控えてる」

「越相同盟に基づく上杉氏からの停戦要求で関宿攻撃は中止され」
は相反してないし、>>309が例えているように
「犯人が攫った人質を大事にしている行為」と「交渉によって人質が解放された」くらい意味が違う
要するにお前の主張は殆ど否定されるし、訂正されてる
同じ内容のレスを何度もされながら・・・
343人間七七四年:2007/10/27(土) 08:03:28 ID:2zBN6AY0
>>339
関宿の保持は重要だよ
謙信にとって関東への出馬は障害が多い
峠を雪で閉ざされ、利根川の増水で南下を阻まれるなど非常に不利
となれば関東に蟠踞する反北条勢力を維持しなければならない
つまり里見や佐竹、宇都宮らの事だが、彼らの勢力は関宿によって守られている
関宿が落ちた場合、ここを拠点に房総〜北関東へと本格的な侵攻が始まってしまう
それは関宿が落ちた後から始まった里見領の著しい後退、
北関東へ強まった北条の圧力を見ても明らか
謙信が二次合戦でも三次合戦でも遮二無二関宿を保持しようとしたのは、その為
関宿城とはまさに氏康が評した通り、「一国に値する」城

相越同盟においても、関東方面軍の氏照が撤退したのは同盟締結の数日後
相と越が様々な条件を互いに取り交わし、難航していた最中、
氏照は同盟締結までの推移を見守りながら、最後の最後まで山王山に取り付いていた
この一事をもってしても、関宿城の存在がいかに大きかったかが分かりそうなものだ
344仙台藩百姓:2007/10/27(土) 08:25:07 ID:fXnQgzwm
謙信がそれほど重要視してたとは思えないお( ^ω^)
関宿攻めから同盟締結による北条撤退まで何ヶ月かかったと思っているのだお?
兵も出さないで万が一同盟が不調に終わったらそれこそ落城の危機だお
345人間七七四年 :2007/10/27(土) 09:00:20 ID:ZiuFJTyp
百姓も稲刈りが終わって復活したみたいだな。
346仙台藩百姓:2007/10/27(土) 09:26:34 ID:fXnQgzwm
稲刈りは早々と終わったお( ^ω^)
山にキノコ狩りに行ってたのだお
現代は上杉軍に田畠荒らされたりしないからいいおね( ^ω^)
でも最近、猪やハクビシンが人里に増えて現代の上杉軍と化して困るお┐ (´ω`) ┌
347人間七七四年:2007/10/27(土) 09:33:35 ID:2zBN6AY0
>>344
それは交渉相手に切り札のカードを真っ先に捨てろ、
と主張するくらい現実味の無い話
さらに言うと、兵を出した方が同盟は不調に終わるだろう
348仙台藩百姓:2007/10/27(土) 09:45:56 ID:fXnQgzwm
>>347
何を言っているのだお(;^ω^)
交戦してない状況で上杉から戦仕掛けるなら問題だが
自分の拠点が攻められているのに後詰めをしてはいけない道理があるまいお
敵は侵略してもいいけど自分は手をだしてはいけないなんて
現代日本のマゾ外交より酷いおw
349人間七七四年:2007/10/27(土) 09:52:32 ID:x7RBlUa7
>>342
だから「確認」といってるわけだが・・・?
例えもほぼ斜め読みしてるしな。
それから少しは簡潔に言ってくれないか?
350人間七七四年:2007/10/27(土) 09:58:58 ID:2zBN6AY0
>>348
北条による栗橋城の接収〜山王山砦&不動山砦が完成した1568年は
謙信にとって効果的な関宿後詰めが不可能な年
繁長叛乱、信玄飯山城〜関山城攻撃、あと畠山義綱能登奪回計画もこの年
この情勢で厩橋も使えない
関宿を救うには同盟締結しか無い中、同盟交渉相手に兵は出せない
351人間七七四年:2007/10/27(土) 10:11:19 ID:tXSjEq1E
救援が頓挫した原因は、子飼いの北条高広ら現地豪族殺してまで配置した連中を統制できなかったことだからな
佐竹との中が悪くなったのも謙信自身が「高広の策動のせいで……」と愚痴るほど
結局、謙信が撒いた種
それを敵手との同盟という最悪の手段で凌ごうとしたら、そりゃ血戦してる側からすればたまったもんじゃない
352人間七七四年:2007/10/27(土) 10:28:56 ID:2zBN6AY0
>>351
謙信は一代で混乱越後を纏めた歪みが大きいし
この点で武田、北条との差は埋めようがない
せめて為景が女の子を沢山もうけてくれていたり、
越中遠征などで豪族達から総スカンを喰わず、政権安定&商売繁盛に努めてくれていたら
家臣との関係は全然違っていただろうね
そうなると虎千代が世に出る事も無かったかもしれないけど
353人間七七四年:2007/10/27(土) 10:42:11 ID:0I+MVtMx
高広も何も佐竹は白河結城や須賀川二階堂や棚倉での権益擁護という己の欲望を優先して謙信を裏切ったんじゃねーかアホか。
関宿救援してやってんのは誰の為だ?佐竹や宇都宮、下総結城のためだろうが。
354人間七七四年:2007/10/27(土) 10:46:27 ID:Xs70DYnp
今でもこんなにもめるんだから、当時の佐竹や上杉も相当行き違いがあったでしょう
355人間七七四年:2007/10/27(土) 10:51:44 ID:Z+9ixSJL
>>354
道理だなw
356人間七七四年:2007/10/27(土) 10:55:31 ID:tXSjEq1E
行き違いっつーか所詮、北条の伸張に反発した野合集団だから
それぞれの利害がズレればあっさり瓦解
この手の反○○連合っていうのは戦国期に幾つも成立したが、成功した例はほとんど無い
357人間七七四年:2007/10/27(土) 12:01:49 ID:eBRLP6Y1
>>353
何血迷った事いってるんだよw
白河や岩城に自領を攻められているのに放っておけるわけがないだろ
多賀や依上まで進入を許したら太田は目と鼻の先
本拠地が脅かされているのに放っておいて遠征してこいなんて言う方が正気じゃない
そもそも白河や岩城とは100年以上に渡る戦いが続いている
事の発端は上杉禅秀の乱辺りからであり
幕府、関東公方、関東管領の争いの中で佐竹への義人入嗣問題が重なり
宗家と山入との対立を中心に佐竹家中も一族被官それぞれ分かれて争うことになる
佐竹の家督争いも幕府と鎮守府との争いの一環でありそれぞれが支援し合う形で
関東東北諸将も討伐や援軍の為に佐竹領内に出兵した
その争いの中で宗家は本拠を失うほど逼迫し、結果的に山入を討伐して内訌を収める事には成功したが
宗家が疲弊した隙をついて江戸氏や小野崎氏など被官が宗家の領地を横領して台頭し
宇都宮、那須、白河、岩城などの周辺諸国も佐竹領の侵略を行い本拠の奥七郡の支配もままならない状態に陥っていた
それを義舜、義篤、義昭とかけて旧領の奪還を行っていった
旧領の北端である赤館付近を手中に収め奥七郡の安全と支配権を確立するのは佐竹の悲願であり急務であった
しかし白河も領地の半数近くを占めるこの地方を易々と返還するわけにもいかず
死守する構えの白河と奪還を試みる佐竹、さらに白河も奪還された土地を奪い返そうとし
白河を支援しようと葦名、二階堂、那須などが動き、岩城も佐竹の隙をついては常陸進攻を伺い
南奥州を巻き込んで長年に渡る合戦が続いていた
天正年間に入ると更に複雑化していくわけだが・・・
佐竹の北部だけでも非常に込み入った事情があり
佐竹に限らずどこも似たように複雑な事情を抱えている
何も知らない謙信が、管領の言う事聞けと言って簡単に動けるほど単純ではない
本来このような争いを正して治めるのが公方や管領の努めなわけだが
既にそのような力はなく、謙信も込み入った事情など知る気がなかった
謙信が関東で全く信頼されなかったのはこういった配慮のなさが原因
358人間七七四年:2007/10/27(土) 12:20:33 ID:0I+MVtMx
何言ってんだ。そもそも小田城の件も関宿城の件もみんな佐竹のためだ。
どちらが重要性高いと思ってんだ。
関宿落ちて宇都宮や下総結城と佐竹が危機的状況になったらまた越山要請かw?
そんなくだらん真似してるから北条と伊達に挟まれて泣きが入ったんだろが。
359人間七七四年:2007/10/27(土) 12:23:35 ID:tXSjEq1E
みんな佐竹のためなら、上野を北条に要求したりしないだろ
関宿こそ関東諸侯へのポーズ(しかし見捨てられて失敗)
謙信の本音は離反で失陥しかけた近場確保だよ
360人間七七四年:2007/10/27(土) 12:27:36 ID:0I+MVtMx
違う。謙信は白河結城と佐竹の和議斡旋も考えていた。
佐竹が常陸統一すらまったくできなかった理由を考えろ。
361人間七七四年:2007/10/27(土) 12:29:01 ID:tXSjEq1E
>>360
違わないのなら、上野寄越せと言った理由は何?
よく考えろといわれても、お前の思う事なんてこっちにはわからんからはっきり書いてくれ
答えが無いけど言ってみた、だけなら別にいいけどw
362人間七七四年:2007/10/27(土) 12:33:45 ID:0I+MVtMx
上野を要求すんのは当たり前じゃないか。ついでに武蔵も要求してるしな。
おまえなに言ってんだ頭大丈夫か?
363人間七七四年:2007/10/27(土) 12:42:09 ID:NF8GXpt1
>>361
関東管領を父佐竹義昭が断ってる手前、義重は本当はオレが管領だったのにと根にもって非協力的だったんだろ。
関宿陥落したら佐竹傘下の太田や梶原や真壁などみんな困るのに北上とはバァカだね。
364人間七七四年:2007/10/27(土) 14:04:19 ID:k/CcL24p
>>361
上野を欲しがったのは国防が第一だろうけど
理由が一つとは限らないしな
敵勢力に囲まれた中、一時的に簗田が助かってもあまり意味がないというか
それは>>308
「この時点だと由良北条高広らが後北条についているため謙信は関東に出ることは困難、
それを踏まえた上で上杉が関東を救おうと思えば、越相同盟ぐらいしかない
これによって関宿も解囲されるし、上野などで交渉→帰服が起こり得る為に謙信が関東に出兵することも
現実的となる、将来北条が武田と再同盟しても、
上野を押えていれば関東諸勢力の救援は可能(これが第三次関宿合戦)」
これが正しいと思う
あと北条にとって主従関係が薄く、自立性が強い厩橋、金山、館林なら
北条も妥協しやすいだろう、などといった足許を見た交渉なのかもしれない
365人間七七四年:2007/10/27(土) 14:34:08 ID:38fyu+aR
>>358
そりゃ遥かに白河、岩城対策の方が重要に決まってる
本拠地奪われてしまったら終わりだろw

>>360
実際には当時、謙信は白河と佐竹との仲裁できなかった
むしろ白河は北条と組んで南下してくる有様

>>363
お前ほんと馬鹿だな
佐竹の奥州外交担当してたの太田や梶原だぞw
366人間七七四年:2007/10/27(土) 15:12:22 ID:NF8GXpt1
常陸太田周辺が奪われる?バァカ言うなよ。んなわけねーじゃん。
当時はそこまでひっ迫感してないし。
関宿落ちたらその梶原や太田が困るんだろ。
だいたい彼らは歴史的に奥州に未練もなければ何もないんだから陸奥方面よか北条から岩槻城奪回したいはずだよ。
367人間七七四年:2007/10/27(土) 15:13:56 ID:jl6/TOgp
>>

368人間七七四年:2007/10/27(土) 15:14:55 ID:jl6/TOgp
>>365
むしろ佐竹は北条に内通してただろ。
369人間七七四年:2007/10/27(土) 15:34:10 ID:ukTgEuIX
まあ、立場の違いだろうね。
謙信にしてみたら、自分は関東管領なんだから
北条と和議を結んで関東が纏まればそれでいいが、
佐竹らにしてみたら、北条は他国の凶徒以外の何物でもないからな。
370人間七七四年:2007/10/27(土) 16:41:07 ID:yL4OBQ+S
でも謙信って死の直前、越後&越中勢を挙げて結城の救援依頼に応えようとしてたんじゃなかったっけ?
小山祇園を落として、下手したら里見まで救援しかねないと思う
謙信の事だから
371人間七七四年:2007/10/27(土) 17:00:36 ID:38fyu+aR
>>366
いい加減な事いってんなよw
南郷と佐竹の本拠である久慈郡は隣接してるのを知らんのか
南郷一帯を失えば直接久慈郡への攻撃を許す事になるのだよ
更に当時岩城は龍子山を落として大塚隆成を従属させ多賀まで勢力を伸ばした
多賀から太田城までは10kmもない

>>365
佐竹で内通してるというなら謙信は更に内通している事になるだろ
まあ、内通というかもう表立って通じてたけどw
372人間七七四年:2007/10/27(土) 18:03:59 ID:0I+MVtMx
>>371
キロ表示して必死だなwその程度のことは佐竹氏にとってはしょっちゅうあったから別に危機的じゃねーよw

そもそも岩城重隆が死去して北からの圧力が低下してたからw
373人間七七四年:2007/10/27(土) 18:52:09 ID:0I+MVtMx
常陸統一に全力をあげればよいものをバァカだね。
だいたい白河結城なんて南郷を奪われてるくらい劣勢で防備には赤館もあるし易々と本拠地に敵はやって来れない。
例え来襲されても太田城は関東七名城の一つだから易々と落城しないから。
374人間七七四年:2007/10/27(土) 22:58:42 ID:PjgZ5mL0
なんたる無知w太田城は居住地としての役割が強く要害でもなんでもない。過去4度攻められて4度易々と落城している。
375人間七七四年:2007/10/28(日) 01:02:00 ID:lLRfqu2g
>>374
なんたるアホ。それはずっと昔の話だ。
義重時代の話をしろ何十年経ってると思ってんだw
そもそも佐竹は傘下の太田を通じて武田とも内通してただろ。
376人間七七四年:2007/10/28(日) 09:38:32 ID:Ae0/5Hje
>>375 口からでまかせもいい加減にしろよw昔と義重の時代とどこが変わったって言うんだよw
377人間七七四年:2007/10/28(日) 09:42:44 ID:Ae0/5Hje
つうか佐竹は謙信の家臣でもなんでもないのに内通も糞もあるかよ馬鹿かw
378仙台藩百姓:2007/10/28(日) 10:20:50 ID:7o8s0M/z
味方同士で責任のなすり合いとは情けない連中だお(≧ω≦)プッ
無能な負け組は必ずこう言う事になるんだおね( ^ω^)
379人間七七四年:2007/10/28(日) 10:53:50 ID:psXkeeqQ
隰吩ソ。蜴ィ縺ッ縲√←縺薙〒繧ょォ後o繧後※繧九↑?シ?
菴千ォケ縺ョ蜍昴■縺�繧搾シ?
380人間七七四年:2007/10/28(日) 11:02:58 ID:LBkk9vl2
関東管領なら越後に引き篭もって、山賊働きしたい時だけでてくるような真似せずに
関東に引っ越せばよいのに
謙信は好きなときに出たり篭ったりできるけど
関東諸侯の謙信協力派は常に矢おもてなんだぜ
381人間七七四年:2007/10/28(日) 11:22:56 ID:aB5C/iDE
それは無理でしょ。
382人間七七四年:2007/10/28(日) 11:49:41 ID:psXkeeqQ
信長クラスの強さがない謙信では、関東を治める力量はないだろ!
佐竹にも勝てないよー
383人間七七四年:2007/10/28(日) 11:58:12 ID:Y8ko/Fr9
せめて先代(と、風林火山で長野が言ってたが)為景が
氏綱まではいかなくても、せめて信虎くらいは纏めてくれていたらね
連戦連勝しても晩年は殆ど孤立してアボン
継がされた晴景は、一説によると上田親子の傀儡だったんじゃないかとか
七歳の子供が甲冑着て葬儀に参列なんてのも異常過ぎ
384人間七七四年:2007/10/28(日) 12:06:58 ID:YXc7njL+
一度は潰した守護を再び担ぎ出さなきゃならないほどだったからな……
下克上失敗のツケは次代にまでってか
385人間七七四年:2007/10/28(日) 12:10:48 ID:Y8ko/Fr9
32歳で峠を初めて越えてから45歳までの13年間まで
実に12回〜14回も関東諸侯を救援

そこでなぜ小田攻めなんだ?なんて思ってた
しかしこれまでを読んでみると、佐竹自体が結構辛い状況だったんだね
小田は佐竹に任せとけば?っつーのは無理だったんだな

だから謙信は何度も佐竹のお手伝い戦をするしかなかったと
386人間七七四年:2007/10/28(日) 12:16:27 ID:psXkeeqQ
そうそう!
謙信は馬鹿だから、佐竹の脚を引っ張りまくっていたんだよ!
387人間七七四:2007/10/28(日) 12:18:03 ID:1Unhv4PW
>>386
「佐竹は馬鹿だから、謙信の脚を引っ張りまくっていたんだよ!」だろ
388人間七七四年:2007/10/28(日) 12:32:24 ID:+Iaul+Xb
小田天庵が暴れてたので常陸の豪族達が謙信に救援依頼をした
なんて聞いた事が有るけど
この「常陸の豪族達」の中に佐竹は入ってるんだろうか
389人間七七四年:2007/10/28(日) 12:51:26 ID:I4oqbNRD
佐竹が潰れたら一番困るのは謙信だからね
実際の旗頭は佐竹だから佐竹が潰れてしまったら
一気に北条方に勢力図が塗り変わってしまう
そしてら関東出兵どころか逆に越後が攻められるハメになる
390人間七七四年:2007/10/28(日) 13:55:27 ID:uNp+cM7a
>>371
佐竹の北の守りは
対白河結城には棚倉寺山城の船尾と鮫川赤坂城の赤坂がガッチリ守ってるし
対岩城にはいわき市上遠野城やそのさらに後ろには北茨城市車城がある
(ちなみに岩城親隆とは姉が嫁いで姻戚だから攻めてくる可能性は低いしさらに石川郡の三蘆城石川に妹で固めてある)
どちらの戦線も全体的に佐竹が優勢なまま小競り合いはあるものの平穏だぞ。
なぜかと言えば芦名氏と白河結城の関係も微妙な関係で、その背後には相馬や伊達があるから。
そんな中で謙信が下野に出陣してきても佐竹は「いや〜北が危ないんで、小田も狙ってるから」
一方で北条と話をして「佐竹がもし北条に付くなら北条側の小田や那須をバッチリ討っちゃってイイヨ♪」
佐竹がおぉ〜北条いいね!と思って小田城を落城させても謙信に「いや〜小田が不安定だからなー」と言い訳。
すると裏で北条が芦名と白河結城の和睦斡旋して佐竹に圧力かけてやるウッシッシ♪しかも小田の背後にいるのはワシだしウヒw
「うぇ〜北条ふざけんな!よしやはり武田じゃ武田じゃ」
そして信玄からのレターは日付よりも佐竹の名前が下に書かれていて無礼。
「信玄エラそうにムカツクやつ!」
すると北条から「こないだは謙信と合流するかと思ったら下妻で止まったろ?なんだあれ北条に味方して謙信を牽制してくれてたんだありがとう」
そして越相同盟を結ぶ事になったら謙信助けて〜佐竹よりwww
391人間七七四年:2007/10/28(日) 14:08:59 ID:6B2O6TKO
>>389
>そしてら関東出兵どころか逆に越後が攻められるハメになる

>そしてら関東出兵どころか逆に越後が攻められるハメになる

>そしてら関東出兵どころか逆に越後が攻められるハメになる

>そしてら関東出兵どころか逆に越後が攻められるハメになる


北条が越後を攻めるwww
まだ島津が越後に攻め込んでくるって言う方が可能性高そうだな
392人間七七四:2007/10/28(日) 14:10:36 ID:1Unhv4PW
>>391
「北条は越後を絶対に攻めない」という書状でもあるのか?
確か氏康の時に越後を攻めて、感状が出されていたはずだ。
393人間七七四年:2007/10/28(日) 15:02:56 ID:lLRfqu2g
三国峠は10〜4月に雪が降り出すと2mを越える積雪になり、
あまりの寒さに謙信は手が震えて手紙も満足に書けなかったという。
北条の活動は11月あたりから上杉勢力圏への活動が始まる。
下野・常陸・下総での謙信の救援活動をしてると
8月くらいになると武田が北条救援のために上杉領にやってきて背後を突く。
その際に信玄は越中の一向宗にも手を回して越後撤退まで利根川や川中島を挟んで滞陣する。

北条と武田の二大勢力に上野国を狙われながらも滅亡しないんだからすげぇ。
しかも天正3年に揚北衆を政権に完全に取り込み越後統一(名を景勝と改めさせ弾正少弼の官途を譲った)させた
最強の布陣になったとたんに越中・能登・加賀を奪いとり、
越前まで柴田・佐久間・滝川・佐々・前田と信長の後詰と言う織田最強布陣を追い払っちゃうんだからな。

394人間七七四年:2007/10/28(日) 15:06:02 ID:6B2O6TKO
>確か氏康の時に越後を攻めて、感状が出されていたはずだ。

>確か氏康の時に越後を攻めて、感状が出されていたはずだ。

>確か氏康の時に越後を攻めて、感状が出されていたはずだ。

>確か氏康の時に越後を攻めて、感状が出されていたはずだ。


何も正しく知りもしないで誇大喧伝乙
臼井城攻防然り、北条厨の捏造はひどすぎる

その北条方の越後領内侵入の経緯を正しく勉強しな
そしたら「攻めた」なんて表現、恥ずかしくて使えないから

395人間七七四年:2007/10/28(日) 15:26:11 ID:y/q0gOcn
レスの仕方がネチネチしてて陰湿だよね
お前のレスは分かりやすくていいな
396人間七七四年:2007/10/28(日) 15:28:44 ID:psXkeeqQ
つまり、佐竹から見ると、関東管領とか言ってるわりに、謙信使えねぇし2度と付き合いたくねぇよ!って感じだろw
やっぱり無知な、にわか管領を担いでも意味ねぇよ!と思われたろうねw
397人間七七四年:2007/10/28(日) 17:40:09 ID:PlvIWBvW
>>393
手が震えるなら火鉢つかえばいいじゃない
398人間七七四:2007/10/28(日) 17:51:48 ID:1Unhv4PW
>>394
何調子に乗ってんだ?ww
おまえのほうが無駄に行間空けて恥ずかしいけど
氏政の書状に「思い出話」として書かれているんだよ
399仙台藩百姓:2007/10/28(日) 17:57:37 ID:7o8s0M/z
泣き言いうくらいなら義昭みたいに初めから断っていればよかったのだお( ^ω^)
関東管領なんて権威どころか身の安全も守れなくなった憲政が売り歩くぐらいだもの
負債背負い込む事になるのは初めから分かりきった事だお┐ (´ω`) ┌
400人間七七四年:2007/10/28(日) 18:30:24 ID:lLRfqu2g
>>390
関東管領職は長尾家の家格をあげるためにも重要。
これは越後守護職の上杉家の家格を上回り越後統一にむけて弾みがつくということ。
401人間七七四年:2007/10/28(日) 18:57:49 ID:psXkeeqQ
>>399 本当だねw
402人間七七四年:2007/10/28(日) 19:50:28 ID:lLRfqu2g
>>399
義昭ごときではたとえ管領職を受けても謙信と違い何もできないよ。
>>401
泣き言を言ってるのは謙信ではなくて佐竹・太田・梶原・里見・宇都宮・簗田・下総結城・朝倉・北畠・村上・管領上杉などなんだがな。
403人間七七四年:2007/10/28(日) 21:37:37 ID:6B2O6TKO
>>398
結局そんな程度の話しw

>氏政の書状に「思い出話」として書かれているんだよ

>氏政の書状に「思い出話」として書かれているんだよ

>氏政の書状に「思い出話」として書かれているんだよ

>氏政の書状に「思い出話」として書かれているんだよ


なに?思い出話ってwww
404人間七七四年:2007/10/28(日) 21:37:57 ID:PlJLCBQ0
>>396
謙信使えねえって・・・小田一つ抑え込めず助けて貰った癖に
アホかこいつ
405人間七七四年:2007/10/28(日) 22:00:42 ID:w/8JNn6p
>>344『謙信がそれほど重要視してたとは思えないお( ^ω^)』 08:25:07
    『兵も出さないで万が一同盟が不調に終わったらそれこそ落城の危機だお』 
一時間後
>>346『山にキノコ狩りに行ってたのだお』 09:26:34
二十分後
>>348『自分の拠点が攻められているのに後詰めをしてはいけない道理があるまいお』 09:45:56

十数分後、あまりの無知を見かねた>>350から突っ込まれた途端

仙台藩百姓 逃 亡w
406仙台藩百姓:2007/10/28(日) 22:54:49 ID:7o8s0M/z
>>405
もう関宿の話しは余りにアホらしいから触れないであげたのに┐ (´ω`) ┌ヤレヤレ

上杉厨の主張(過去レス参照)
・北条が関宿を一国の価値と見ていて是が非にでも欲しがっていた
・上杉は救援の兵を出せないほど不利な状況だった
・同盟結ばなくては関宿が攻め落とされる危機だった

では何故北条は関宿獲得を放棄した上に上野、武蔵の一部まで割譲をしなくてはならなかったのだお
これだけ追い詰めた状況ならそのまま攻め落とせばいいじゃんお
矛盾しまくりだお┐ (´ω`) ┌
407人間七七四年:2007/10/29(月) 00:02:33 ID:bcQ9cD5A
>>403
恥ずかしいwwwwww
408人間七七四年:2007/10/29(月) 00:04:40 ID:bcQ9cD5A
>>403はアホ丸出しだから引っ込んでろwwwwwwwww
409人間七七四年:2007/10/29(月) 00:18:38 ID:UgwvvqSh
スレタイから遠く離れていく感じがするのは俺だけか
410人間七七四年:2007/10/29(月) 00:33:35 ID:9Ldnh4UW
結局さ、北条擁護の奴が出すソースって一言突っ込まれただけで破綻してるね
411人間七七四年:2007/10/29(月) 00:58:45 ID:AW7l8FGe
>>406
白井長尾や由良、知ってる?
……なんて言っても埒が明かないか。

いちいち仙台藩百姓に当時の情勢を教えてあげるのも中々骨の折れることだろうから
この手の知識がなくてもよくわかるような固有名詞を最低限しか使わない説明をしてあげよう。
(以下、仙台藩百姓向けの説明です。当時の情勢にいくらかでも知識がある人からすればアサッテの方向のものですが、ご容赦を)
北条が追い詰められていたとすればそれは武田との同盟の破綻が最大の要因だが
別に武田も北条もお互いに本気で戦いあわないと家が傾くとかそんなことは全くないんだよね。
特に武田にとっては戦わずにすむならそれに越したことはない。
そこで謙信が関東諸侯を結集して北条攻めをやれば、それは武田と北条の再同盟をお膳立てしてやるようなものだ。
謙信はどこに出陣していたとしても一気に北上野までの撤退を余儀なくされる。(これくらいは大丈夫かな?)
結果として、そうなれば信玄だけが得をして、謙信は大損だ。
謙信にとってはせっかく北条と武田が仲たがいしてくれたので、この状況を壊さず、安定をもたらす方法をとるのが一番なんだよ。
412人間七七四年:2007/10/29(月) 01:07:43 ID:AW7l8FGe
>>409
そもそもこのスレは>>1からすれば歴然とした糞スレなんだよ。
そしてこういう程度の議論は糞スレでやるのが理にかなっている。
413人間七七四年:2007/10/29(月) 01:30:50 ID:ciId/G1Y
>>393
丹羽も参加してるぞ。さすがに羽柴は謙信に勝てないと踏んでさっさと逃走してるが…おかげに弱い敵が多い中国戦線に異動人事w
そもそも>>1が臼井城が太田道灌や正木氏に落城させられた史実を知らない方が大問題。
>>406
謙信擁護してる側は伊達スレや織田スレ・北条スレなど荒らして迷惑かけたりしてないが、
なぜ仙台百姓や織田厨=北条厨はやたらこのスレを荒らすんだ?
あんまりウザイと伊達正宗スレに介入するぞ。いや知名度が低過ぎてよく一般人に間違われるが政宗だったね。
414人間七七四年:2007/10/29(月) 01:55:07 ID:+PdPGKxL
この仙台百姓はファビョった北条厨による二代目
415人間七七四年:2007/10/29(月) 02:04:39 ID:VhqEkPb2
>>406
>では何故北条は関宿獲得を放棄した上に上野、武蔵の一部まで割譲をしなくてはならなかったのだお
謙信へ北条が求めた条件を見れば分かり易いのでは?
北条が切望したのは「謙信だから可能な川中島への出兵」
これで武田は駿河どころでなくなる
逆に北条が駿河を手に入れる公算は非常に高まると(氏真から正式な許可を得、協力まで得られるし)
関宿も大事だが、それ以上に駿河を欲っしただけのことだろう
しかし北条は何のかんの言って北武蔵を手放さなかった
これに謙信が大いに不満を持ち、北信濃への出兵なども行わなかった
と図書館で読んできたぞ
上杉氏年表 か上杉謙信―政虎一世中忘失すべからず候 か上杉謙信大事典
のどれかに書いてあった
北条と上野の関係に関しては今まで散々書き込まれてるようだが
416人間七七四年:2007/10/29(月) 02:07:19 ID:9Ldnh4UW
>>413
分るよ。
本当に、その気持ちに同意する。
上杉擁護派は、皆が一致して本当に粘り強い。ずっと我慢をしている。

先に結論ありきのゲーム厨、北条厨、三好厨と違って
史実を勉強し、真面目に戦国史について語ろうと必死になってる。
でも、何故なんだろうね

上杉謙信擁護以外の人間は皆、本当に戦国時代が好きじゃないのかも知れない
本当に知識も、発言に対する姿勢も稚拙だ。
なのに一向に謙虚でもない。全く聞く耳を持たず低脳な荒らしを繰りかえす

これはもしかして、謙信が戦国の世に味わった同じ苦悩なのかも知れないね。
低脳で弱い癖に、悪道を止めようとしない輩たち・・
これらを成敗し板のの正義を保つ為に謙信擁護派は存在するのかも知れない。
417人間七七四年:2007/10/29(月) 02:15:23 ID:HCmWtwz4
北条厨は草加だからね。
北条を滅ぼした秀吉を憎み織田をほめる為に謙信や信玄を貶す性癖がある。
またゲーム脳なヤツほど信長が革命的天才だと主張するが、単なる大量虐殺者で民衆を撫で斬りにする基地外で周囲の者を恐れさせただけ。
信長や政宗が「一時的に」成功したのは畿内や東北は弱小大名ばかりで大虐殺を開始したが要は生まれた場所が運が良かった。
織田や伊達はこの万人恐怖の足利義教方式のおかげで相次いで周囲が服属しただけで王道をいく謙信とはまるで違う。
418人間七七四年:2007/10/29(月) 02:49:43 ID:ciId/G1Y
越相同盟は困り果てた北条が口先三寸でごまかしまくって条件を詰めずに同盟を結んだもの。
北条は謙信に西上野出兵をしろって言うから謙信が「なら北条も一緒に」って話や氏政の息子を人質にしろよって話や鉢形城や松山城を返す話をある程度空返事して認めた。
律義にも謙信は真面目だから関東管領として北条と和し関東恒久平和を達成しようとした。
なのに越相同盟結んだら氏政は一緒に西上野行ったら関東管領の部下じゃねーかヤダな〜と。
なんつーか北条の腐れ具合は武田すら越えてる…こんないい加減で不誠実な同盟はあまり見た事がない。これは神前で誓いをしてないのか?信心深かった早雲も草場の陰で嘆いていたろうな。
419人間七七四年:2007/10/29(月) 02:50:10 ID:RS/jcMe4
>>406
アホらしいってお前・・・
『謙信が救援に来ればいいじゃん その方が圧倒的に早いし 』
『兵も出さないで万が一同盟が不調に終わったらそれこそ落城の危機だお』
なんて思いっきり無知晒したレスしといてw

『この時点だと由良北条高広らが後北条についているため謙信は関東に出ることは困難、
それを踏まえた上で上杉が関東を救おうと思えば、越相同盟ぐらいしかない
これによって関宿も解囲されるし、
上野などで交渉→帰服が起こり得る為に謙信が関東に出兵することも現実的となる
将来北条が武田と再同盟しても、 上野を押えていれば関東諸勢力の救援は可能』

なんて即突っ込まれ
さらに>>350からも 知らなかった背景を教えてもらった途端、

仙台藩百姓 遁 走 w ←知ったかぶりのゴミ
420人間七七四年:2007/10/29(月) 03:23:45 ID:Ll/1SjnF
このスレの結論として
正木大膳=大田道灌>>>>>>>上杉謙信でいいのかな。

謙信ってあまり強くないんじゃ・・・
421人間七七四年:2007/10/29(月) 05:56:23 ID:O0UmwgRt
>>411
まぁそうだろうね
しかしそれ以前にこのコテ=>>406の言い訳は変

>>343-350のやりとりは
主に謙信視点からみた越相同盟における関宿城の重要性、位置付けだよなぁ

まず「謙信は関宿の後詰をしてないから重要視してない」などと自信を持って反論
が、それは当然(゚Д゚)ハァ?って思われるわな
謙信を取り巻いていた情勢に疎いと、自ら吐露したようなもんだし

このやりとりを嘲笑されると
誤魔化そうとするあまり、>>406で北条視点へ摩り替えてしまう
要するに「何言ってんだコイツ?」ってこと
422人間七七四年:2007/10/29(月) 08:46:44 ID:ciId/G1Y
>>421
それに利根川の増水などの悪条件も重なってた。
423人間七七四年:2007/10/29(月) 09:20:38 ID:HCmWtwz4
>>420
お前アホだろ。知らないくせにレスしてんじゃねーよ。
臼井城攻略は道灌の弟を派遣してるがその弟が戦死するほどの激戦で落城した後にすぐに奪回され太田氏の下総への勢力拡大策は失敗に終わった。
当時の道灌は鉢形城にいた前面に長尾景春と背後に和睦したとは言え古河からの足利成氏の牽制があり(臼井城の千葉氏は古河公方配下)
太田氏は関東管領山内と扇谷上杉の全軍の指揮権(上野・武蔵・相模・下野一部)を持っていたにも関わらずな。
正木大膳の場合は里見氏の太田氏支援のための攻城で謙信本軍が関東蹂躙中の支作戦の一つだから。
424仙台藩百姓:2007/10/29(月) 09:49:22 ID:m6dS/Zzu
>>411
もまいが言ってる事がこの水掛け論の発端なわけなのだが(;^ω^)
そこで安定しちゃダメなのだお
上杉家の領地だけ取り戻して「はい、ここで打ち切りね。お前らもう争うなよ。」では
北条退治の為に連れ回されたり、北条に加担したと攻められた関東諸将が
「騙された」「裏切られた」と憤りを感じるのは道理であるお┐ (´ω`) ┌
425謙信厨卒業者:2007/10/29(月) 09:58:27 ID:OuV9e8eJ
どう見ても、仙台百姓が言ってる事のほうが、説得力あるなぁー(汗)
謙信は一番好きな武将である事には変わりないが、そろそろ謙信擁護やめよーっと!
426人間七七四年:2007/10/29(月) 10:03:11 ID:OO7iFQaK
なにこの自演ワロタw
仙台藩低脳すぎw
427仙台藩百姓:2007/10/29(月) 10:14:55 ID:m6dS/Zzu
>>419
何で直で関宿に行かなくてはならないのだおw
越山して上野でも武蔵でも攻めればいいのだお
あとは佐竹、宇都宮、里見やらの関東諸将も下総へ向けて進攻するわけだから
北条は主力が駿河方面で釘付けになっていて
氏照も手一杯になり関宿なんかに張り付いていられなくなるお
救援どころか攻める好機であるから一刻も早く出兵するようにと関東諸将も要請しているのだお
428人間七七四年:2007/10/29(月) 10:15:08 ID:OuV9e8eJ
>>426
自演じゃないよ!
俺は謙信ファン

お前等は謙信厨

それに、俺も謙信を擁護していたが、自演は多いし、言ってる事が無理やり謙信優位にしようとしていて、みっともないったらありゃしない!
┐('〜`;)┌
429仙台藩百姓:2007/10/29(月) 10:28:45 ID:m6dS/Zzu
そもそも北条と結ぶ選択肢は存在しないのだお
北条の支配を認めた時点で「切り取りの自由」「幕府体制・秩序の崩壊」を高らかに宣言した事になる
謙信は自ら関東管領の存在意義を無くし、室町幕府の一端を破壊したのだお┐ (´ω`) ┌
430人間七七四年:2007/10/29(月) 10:37:41 ID:OuV9e8eJ
謙信以外の大名は、カスだの、草加だの、チョンだのと馬鹿にする謙信厨が皆さんに迷惑をかけてます。
正しい謙信ファンではありませんので、皆さん誤解しないで下さい。

【謙信厨の特徴】
・自演が多い。
・中国地方は弱小ばかりだと決め付ける。
・関東の話で、論破されると、どんな人にも、北条厨、草加と罵る。
・基本がゲーム知識
・伊達政宗も弱い東北の弱い大名と決め付ける。
・織田信長は単なる殺略者にされる。
・しまいには、佐竹、里見、宇都宮ファンまで的にまわす。
・都合が悪いネタは他大名のせいにする
431人間七七四年:2007/10/29(月) 13:26:27 ID:ciId/G1Y
仙台のすごい必死な自演乙w
432人間七七四年:2007/10/29(月) 14:20:27 ID:OuV9e8eJ
↑まっこれが例の謙信厨です(汗)
433人間七七四年 :2007/10/29(月) 15:10:41 ID:qD4otcmq
この某謙信厨は伊達厨での仙台藩百姓、武田厨でのメガトン
みたいな存在と理解すればよろしいのでは。
434人間七七四年:2007/10/29(月) 18:44:05 ID:ud4Fe4yB
>>427
武田は3月に本庄繁長だけでなく、越中勝興寺、椎名、出羽武藤、葦名を誘った
信玄自身も7月国境を強引に突破して関山街道を窺う
対する謙信は春日山から揚北、飯山、越中など各方面を監視しなければならない
よって信玄が去った後、本庄城への総攻撃は11月までずれこんだ
この時点で関宿城の後詰はとてもじゃないが間に合わない
こんな状況で一体どうやって上野〜武蔵へと兵を出す?

揚北衆(下越国人衆)は全て本庄城を包囲中、信越国境には古志長尾と山本寺を派遣
本庄を放置して関東へ出れば?なんて夢想を力説するのはいいが
その峠越えする軍勢自体もかなり限られてる事くらい理解してるか?
435人間七七四年:2007/10/29(月) 19:11:15 ID:ud4Fe4yB
>>427
第三次関宿合戦での後詰が失敗した一因として、よく金山城の存在が挙げられるが
この第二次関宿合戦だと、さらに厩橋城を迂回するなり、兵を残すといった対策が求められる
普段より少ない軍勢で謙信が越山したところで、上野の対策に四苦八苦するだけ
その間に関宿は落ちてしまう
かなり非現実的

結局、里見&佐竹だけで関宿落城を防がねばならない訳だが
この落城寸前の危機を里見や佐竹だけで、挽回できるなら
第二次といい第三次といい、こうも簡単に関宿は落城危機を迎えないだろ
こんな状態になるまで大して抵抗できなかった里見&佐竹は当てにならない
436人間七七四年:2007/10/29(月) 19:47:50 ID:bcQ9cD5A
臼井城なんて、城壁が崩れて上杉連合軍が数千人死傷したというだけでしょ。
いわば事故。北条厨は輝かしい勝利にしたいらしいが、そんなラッキーを重宝するなんてどんだけ〜?
437人間七七四年:2007/10/29(月) 20:20:15 ID:XUHMYDkn
数千人の死傷者出しといて事故はないだろ
りっぱな敗退
438人間七七四年:2007/10/29(月) 20:35:04 ID:wOaxq7yg
「謙信は関宿城を重要視してなかったお」
>>343で否定済
「その証拠に後詰してないお」
>>350に無知を暴かれた事により、
「謙信は関宿城を重要視してなかったお」の屁理屈も破綻
「国単位で譲渡する状況だお」
>>225>>241などが実態を説明
>>364>>415もこの件について触れ、仙台藩百姓沈黙
「では何故北条は関宿獲得を放棄したお」
>>415が答えてるのにスルー
さらに>>421からは議論のすり替えまで指摘された仙台藩百姓
この突っ込みからも逃走

『山王山を押さえられた関宿城はまさに追い詰められ、落城寸前の危機にあった。
この危機を救ったのは「相越同盟」の成立だった。
永禄十二(1569)年五月七日、北条氏照は柿崎和泉守景家宛の書状で、
山王山砦の破却と「山王山人衆」を引き退かせることを了承したと報じ、
翌閏五月七日には破却が行われた旨を上杉謙信に書き送っている。』
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Satellite/Sekiyado/index.htm
この史実を知らない仙台藩百姓はこう述べてしまうw
「相越同盟が関宿救援目的なわけないじゃんお( ´ω`) 」
439人間七七四年:2007/10/29(月) 21:06:09 ID:AW7l8FGe
>>424
いやいや、だからさ、>>411は仙台藩百姓向けと書いているように
佐竹スレでの佐竹が北条を攻めようと持ちかけたという話を出していることと
>>406でのそのまま攻めればよかったじゃんという仙台藩百姓しか言わないような馬鹿げた主張に対する反論であって
それに対して別の問題を出すのは論点のすり替えなんだよね。
とりあえず、これに対して反論できていないので
>これだけ追い詰めた状況ならそのまま攻め落とせばいいじゃんお
って主張等が無理だってことはもう理解できたかな?

そこでやっと白井長尾や越後北条由良足利長尾を知っているかという本題に入ることができるわけだが、
どうやら
>上杉家の領地だけ取り戻して
って言ってるあたり、由良ばかりか太田のこともよく知らないようだ。
>>424を見ても太田のことを知らないのはよくわかる。こりゃやっぱり骨が折れるわ…。
440人間七七四年:2007/10/29(月) 21:10:56 ID:lPK7eqvL
越相同盟と言えば、市村高男氏が論文を書いていたような気がする。
441人間七七四年:2007/10/29(月) 22:15:11 ID:AW7l8FGe
仙台藩百姓は相手を上杉厨呼ばわりしているが、
反論している人は仙台藩百姓が考えているような、関宿後詰に行けただとか、北条を攻めればいいとか、
上野と北武蔵を謙信の領土として譲渡しただとか、そんな謙信に有利な情勢ではなかったことくらい承知しているわけで
これは上杉厨かどうかの問題ではなく単純に知識の多寡の問題だな。
442人間七七四年:2007/10/29(月) 22:51:58 ID:mky5zl+l
>>406
相越同盟の締結ギリギリまで氏照は関宿城攻撃に備えていたそうだし
北条が駿河と関宿とを天秤にかけていたとする
>>415
は納得できるんだけど

北条が駿河を得るには、謙信による川中島出兵は必須
もし仮に謙信との交渉が決裂した場合、氏照はすぐさま関宿を落としにかかり
氏政などの軍も駿河を諦め、関東に戻ってきたのでは

なるほど北条からすれば上野より駿河の方が断然治め易いだろうし
北武蔵も謙信にくれてやるつもりは無かった
(当初はあったかもしれないが、北条家中で賛否が分かれたので方針を変えたっぽ)

自立性の強い上野は譲渡でないよ、とかいう話と
北条が駿河を欲していたって話、それと同時に関宿攻撃の姿勢を崩さなかった氏照
レスはバラバラだけど互いにつながってると思う
443人間七七四年:2007/10/29(月) 23:02:08 ID:mky5zl+l
>>429
>北条の支配を認めた時点で「切り取りの自由」

相越同盟ってこんな性格持ってたっけ?
確か謙信が北条に「里見領を侵すな」みたいな釘を刺したとか
これも相越同盟に内包された要求だったのでは

「切り取りの自由」どころか
>>418
が言う「関東管領として北条と和し関東恒久平和を達成しようとした」
って意味と同じ文章を歴史研究家が書いてたような(書名は忘れた)
なんとなく惣無事令っぽい側面があったんじゃないの

北条にしてみれば息が詰まってしょうがない同盟だったと思う
444人間七七四年:2007/10/29(月) 23:04:06 ID:ciId/G1Y
>>442
君が誤解してんのは佐竹の支援は必要ではあるが関宿は明日落城ってわけではなく謙信は和睦を急ぐ必要はなかったが北条は焦って不誠実な返答をしてた恥知らずと言う事。
445人間七七四年:2007/10/29(月) 23:07:35 ID:MV31YMKx
>>442
主観の無いレスを久しぶりに見た気がする。
なるほど、わかりやすい。
446人間七七四年:2007/10/29(月) 23:21:26 ID:ciId/G1Y
>>445
ん?自演っぽいなw
お前なそもそも発音しやすい越相同盟ならわかるが相越同盟ってワザワザ書くのがそもそも主観なしじゃないだろがw
まずな川中島ではなくて西上野出兵を北条は要求してんだよバァカ。
そこでやるなら氏政も同陣するって約束だったのに合流すると関東管領の部下の立場になるから言い訳して行かなかった事が越相同盟の破綻の第一歩なんだよ。
なに都合よく歪曲してんだよ。
447人間七七四年:2007/10/29(月) 23:23:24 ID:mky5zl+l
>>445
そらそうだよ

主観持てるほど詳しくないから俺

>>443
これだってもしかしたら壷の情報だったかもしれないw
448人間七七四年:2007/10/29(月) 23:32:28 ID:mky5zl+l
>>446
川中島でなく西上野だっけ
西上野から武田を牽制しつつ、その地も奪うつもりだったのかな

でもその行為により駿河を欲した訳だよね
北条は
449人間七七四年:2007/10/29(月) 23:33:43 ID:vlmLRwpu
>>442
上野は上杉の実力しだいで北条としては支配権は表立っては放棄
んで、西上野攻めろって事じゃね
ただ対武田の援軍ってだけじゃ見返りないから、西上野攻めれば武田へのけん制にもなる、上杉の領地は増える、win-winの関係じゃまいか

>>443
上杉が関東管領として北条の上にたち、武蔵、相模、伊豆あたりは褒章だったか褒美として北条に与えるというこれまた建前で決着してる
その代わり公方は北条が抑えてるから、古来からの対立の図式は依然存在したままなわけで
完全に恒久平和を目指すというなら義氏の掌握、公方権威の掌握は必要だが、これはおそらく北条が折れないと思わないでもないが
しかし、すくなくとも越相同盟の間は公方の発給した文書は確認できないわけで、そのあたりは実際には公方権威がなくとも北条はやっていけたんじゃないかと
となれば、やはり公方を抑えられなかったのか、抑えなかったのかにもよるが、恒久平和という観点からは不完全な状況にとどめたわけで
そもそも恒久平和を希求したならばなぜに積極的に北条を助けなかったのかという疑問もあがってくるわけで

まとめて言うと、恒久平和を希求とかいうのは無いってことだ
450人間七七四年:2007/10/29(月) 23:42:26 ID:mky5zl+l
>>449
詳細にありがとうございます
そう
譲渡というより放棄って表現の方が合ってるかもしれない

ここらへんの関係は面白いですね
特に義氏が自分を認めてくれと謙信に頼んだとか
でも謙信は最後まで認めなかったとか

やはり恒久平和というより簗田や里見らの方向を向いてたんだろうな
451人間七七四年:2007/10/29(月) 23:44:42 ID:ciId/G1Y
それは違う。
そもそも関東管領は将軍が任命権を持っているが公方は独立世襲だから管領と言えども介入できないから謙信が義氏をどうこうする事はできない最初から対立する存在。
また義氏はのちに関宿の水上交通権の保証などで簗田に文書を発給してるから北条の監視はあっても文書発給くらいはできるはず。謙信からすれば北条から離脱し公方が自ら政治をしてもらいたかったに違いない。
謙信は恐らく恒久平和を達成して上洛戦を開始したかったのは間違ない。
452人間七七四年:2007/10/29(月) 23:54:27 ID:ciId/G1Y
>>450
お前知らないにもほどがあるぞ…誤認の連続すぎるぞ。
管領を認める代わりに公方を認める交換条約だぞ。義氏に発言権なぞない。
謙信は太田や里見に折れるように説得してるが何が何でも反北条で彼らが恒久平和をブチ壊した一因を作ったんだぞ。
453人間七七四年:2007/10/29(月) 23:55:06 ID:mky5zl+l
へぇ
なんだかよく分からんが凄いね
まだまだ勉強不足だ

特に公方について
454人間七七四年:2007/10/30(火) 00:01:12 ID:+uRtIPdY
>>452
それじゃ俺のレス
>>443
>確か謙信が北条に「里見領を侵すな」みたいな釘を刺したとか
>これも相越同盟に内包された要求だったのでは
これは本当かい?
教えて下さい
455人間七七四年:2007/10/30(火) 00:13:36 ID:5ouSUfqv
>>451
藤氏は?

>>454
北条側の記録に里見(房州)が交渉段階で出てくるから、同盟の条件のひとつにはなってるはず
456人間七七四年:2007/10/30(火) 00:13:50 ID:4VuefN0y
里見に関しては北条との和解案は下総での里見の優越を認める事。
ただ里見サイドでは家格が上の千葉氏が素直に応じるはずはないとして拒絶しちまった。
これは北武蔵での玉虫色の決着による妥協案の延長線なんだが白黒つけたがるワガママな里見が潰した恰好になった。
457人間七七四年:2007/10/30(火) 00:24:05 ID:+uRtIPdY
>>455
>>456
ありがとうございます
ここらへんの交渉は面白いですね

相越同盟について
>「切り取りの自由」どころか惣無事令っぽい側面があったんじゃないの
と思った俺の考察は正しい
でも里見は疑ってしまったんだね
458人間七七四年:2007/10/30(火) 00:29:12 ID:wKA/mYf2
>>456
そりゃ、直接は関係ない謙信はそれでいいだろうけど、
何十年と争い続けてきた隣国にとっては、そんな曖昧な外交を信用できないのも無理ないのでは・・・。
そんな一方通行な恒久平和なんてありえないだろう。

それをも許さないというのであれば、そもそも謙信は里見や佐竹をこそ先に潰すべきだったのでは?
彼らがそうそう納得できるとはとても思えない。
459人間七七四年:2007/10/30(火) 00:50:34 ID:4VuefN0y
里見の反北条ぶりは異常だからね。なぜあそこまで闘志が湧くのかいまの私にも理解できない。しかも里見義堯は北条氏綱の援護で家督を継いでるのにいきなり裏切るし…!?
佐竹は自分の首が締め上げられる結果になるにも関わらず関宿救援すら満足に手伝わないアホ。
460人間七七四年:2007/10/30(火) 01:29:25 ID:oJyRo7VO
たしかに里見の北条への対抗心は理解不能
461人間七七四年:2007/10/30(火) 02:21:35 ID:t9kKQqPa
>>459-460
反北条で頑張ってたのは義堯
義堯死去後、義弘・義頼の代になると厳しくなったのか和睦している

そもそも、安房を本拠地とする里見氏が勢力を伸ばすとなると
北の上総・下総しか選択肢が無いわけで





462人間七七四年:2007/10/30(火) 02:43:16 ID:gNSiDgQ7
>>459
佐竹佐竹って言うけど里見はどうなの?
関宿が落ちるまでは里見義弘の最大版図だったんだろ?
一番関宿を守るべきだった大名は里見!
次が佐竹>結城>小山>宇都宮>上杉って順だろ!
そもそも里見は関宿が落城危機になるまで一体何やってたんだ?
そして何故後詰めに顔すら出さない?

里見の動向が知りたい
463人間七七四年:2007/10/30(火) 07:13:28 ID:rSfuDJFN
佐竹義重は自衛に徹しいる。仙道方面を優先させる為、北条と
単独和議を結び、兵を退く行動は謙信には理解出来なかったであろう。
「臼井城の敗戦以降、関東諸将は謙信ではなく佐竹を旗頭に北条に対抗した。」
と最近の研究家の説が多いが、とても佐竹がそんな行動をしているとは思えない。
464人間七七四年:2007/10/30(火) 08:08:04 ID:5ouSUfqv
>>463
謙信が頼りないから代わりに佐竹を中心にすえただけだ
越相同盟で武田に、その武田がつかえなくなったので今度は佐竹に
逆に言えば上杉もその程度の存在だったって言うことだが
465人間七七四年:2007/10/30(火) 08:48:17 ID:XDYix+GH
関宿落とされた結果
里見は完全に他の反北条勢力と切り離されて
房総半島に少しずつ押し込められていったからねー

ただ里見は三船山で盛り返したものの、その直前には屈服寸前だったのだから
関宿を救うような能力はなかったと思う
466仙台藩百姓:2007/10/30(火) 08:54:09 ID:lGrtwvhy
>>434>>435
武田晴信駿州江被及手切
駿符相破小田原取乱
不及是非由申候
早々御越山此時候
少々無人衆候共一刻片時御急極候
現地の人間はそんな事当然承知で言っているのだお (´ω`)

>>438
一体それのどこを見たら関宿を救う為に同盟結んだなんて思えるのだお┐ (´ω`) ┌
467人間七七四年:2007/10/30(火) 09:00:00 ID:4VuefN0y
里見は牽制活動はしてるよ。ただ関宿は里見からは遠すぎる。むしろ佐竹勢力圏の方が近い。
一番危機的なのは下総結城。だから佐竹義重の妹と宇都宮との子を結城は養子にして保険かけてる。この関係を謙信が頼りないから佐竹が盟主とか言うのはおかしいw
なんせ佐竹は他人を利用する事はあっても謙信のように勇断をもって長駆救援に駆けつけるような英邁さはない。
名門佐竹は危険な橋は渡らない保身に走る性癖があり危ない橋は先に他人に渡らせる。
後年の人取橋の戦いや沼尻の戦いなど佐竹の保身的行動が伊達や北条の絶対的地位を与えるきっかけを自ら作りだしてしまうし。
だからいつまで経っても常陸一国すら統一できず半国守護とか馬鹿にされんだよ。
468人間七七四年:2007/10/30(火) 09:00:45 ID:XDYix+GH
まあ古河公方を認めたと言うことは関宿を北条のものと認めたに近いものがあるからなー
肝心の梁田が公方に対してあれなため、結局関宿は独立を守られたようになっているが
469人間七七四年:2007/10/30(火) 09:18:14 ID:4VuefN0y
関宿を北条に認めてないが何歪曲してんだ?
古河城はもともと北条が確保してんだから足利藤氏が亡くなってる以上は序列に従えば足利義氏が公方になるのは自然な事だ。
北条の傀儡公方から義氏が晴氏みたいに父祖の怨みに目覚めてくれたら一番理想的。
常に鎌倉公方を諫め関東を平和に保つ努力をする。そのための関東管領だ。
北条は関東管領を認めた時点で謙信より下の地位。だから同盟に従い上野国西部への同陣を嫌がった。
470人間七七四年:2007/10/30(火) 09:45:59 ID:2/9IV66j
越相同盟無かったら正直越後もやばかったでしょ
信玄が空気読めなくて助かったね
471仙台藩百姓:2007/10/30(火) 09:53:32 ID:lGrtwvhy
>>443
表向きはそうでも北条が幕府の意向を無視して切り取った土地を認めてしまっては
「取った者勝ち」になってしまい秩序は無いも等しいお
勝手に侵略しまくって、後は武力に訴えて認めさせる事が罷り通るようになる
北条に限らず他の関東諸将が2国3国切り取り始めても上杉の仕置きを跳ね退け続ければ
自領として認められることを意味する
一度認めてしまっては際限がなくなるお
472仙台藩百姓:2007/10/30(火) 09:58:45 ID:lGrtwvhy
>>469
藤氏が正式に嫡子と認められていたのなら
序列でいくと次は藤政になるはずだお( ^ω^)
473人間七七四年:2007/10/30(火) 10:08:05 ID:XSpcrmNU
藤政なんて架空人物だろ。なんの文献に出てくんだ?
474人間七七四年:2007/10/30(火) 10:21:00 ID:bFJ4Mexs
>>472
藤政の生没年とか教えて
475仙台藩百姓:2007/10/30(火) 10:33:31 ID:lGrtwvhy
>>473
藤政の書状があるお( ^ω^)

>>474
生没年不詳
476人間七七四年:2007/10/30(火) 10:45:37 ID:xKWaK5uo
>470
信玄は自分さえ良ければ後はどうでもいいからなw
477人間七七四年:2007/10/30(火) 10:54:01 ID:XSpcrmNU
マジで?それどんな文面なの?おれも読んでみたい。関宿城展示では義氏の書状くらいしか見あたらなかったんだよ。
478仙台藩百姓:2007/10/30(火) 11:50:57 ID:lGrtwvhy
>>477
例の三次関宿攻めで佐竹に救援を求めたものだお
秋田の佐竹家蔵文書に収録されてるお

あとは元亀三年に里見が鶴谷八幡宮を造営し
元亀三年十二月二十日付の棟札銘に
「源朝臣藤政 武運長久」
と残されているお
479人間七七四年:2007/10/30(火) 13:24:33 ID:XFzYcLBO
元は北条と関東衆はそれほど凝り固まった敵対関係ではなかったんだよ
それを憲政・輝虎の馬鹿親子が散々引っ掻き回して死んだから関東は滅茶苦茶
憲政は後継争いで景虎支援とかもうアホかと
だったら初めから北条に譲っておけよ
余計な争い起こすなよと
480人間七七四年:2007/10/30(火) 13:31:55 ID:DuFXR5BN
これはひどい
481人間七七四年:2007/10/30(火) 17:04:30 ID:5ouSUfqv
>>469
晴氏が義氏に家督譲って、それを関東諸侯は大概認めてるだろ?
序列も何も当主がちゃんと家督譲ったんだから義氏が正統な公方
たぶんに北条の圧力があったのは否定しないがな
それにそんなに関東の平和どうこうと上杉が考えていたなら、
義氏から正式に関東管領として認めさせて、そして関東管領側も義氏を公方として承認して、そして北条には武蔵以下の支配権認めて
で丸く収まるわけだが
山内上杉の家督ついだ謙信からすればおそらく上野の支配権は確保したいところだろうし、既述してるが、その上野の支配権を確立する過程で武田と衝突することになる
こうなれば当然北条が望んだ武田へのけん制の役割も十分に果たせる
こうなれば北条側から越相同盟を切る動機もなくなるし、すくなくともこの二大勢力(上杉・北条)によって関東は鎮圧されて平和がもたらされるんじゃないのか?
482人間七七四年:2007/10/30(火) 19:53:19 ID:ajO+pAxu
>>466
佐竹と謙信の認識に違いがあることを前提にしているのに今更何を言い出すの?
それは栗橋城の接収、山王山砦と不動山砦を築かれた後なので、
そんな状況でちょっとの兵を出しても関宿救援無理。それ以前にどう上野を突破するんだよ。
もう全部既に書いてあることだろうが。
それにそれは『関宿凶事眼前候』と越山を求めた後に「いや、ちょっとでいいから…」と食い下がってるだけなんだよね。

>一体それのどこを見たら関宿を救う為に同盟結んだなんて思えるのだお┐ (´ω`) ┌
百姓の論点のすり替えは慣れっこだが、これはすごい。何のために反論してたんだよ。
佐竹スレ>>113以降の否定論の論拠を全て放棄するわけだ。まぁ放棄して当然なんだけどね。
結局『関宿を救うのは越相同盟しかない論』に対する有効な反論はなかったということで決着。
483仙台藩百姓:2007/10/30(火) 20:21:24 ID:lGrtwvhy
それって謙信が無能であると認めろと言ってるのと同じだけど┐ (´ω`) ┌
戦略的に完敗してたって事じゃんw
484人間七七四年:2007/10/30(火) 20:38:06 ID:0bW9TtVt
>>483
いや
単にお前が理解力足りないバカっつー解説だろう
凄く分かりやすいと思うが
485人間七七四年:2007/10/30(火) 21:25:29 ID:4VuefN0y
まず北条は氏政の息子を人質に出す約束を破り違約し、さらに西上野への北条の同陣すらも行なわない。
こんな不誠実な北条に対して謙信は憤ってたから西上野出兵をしなかっただけ。
また関東管領職は将軍に任命権がありワザワザ義氏などに認めてもらう必要性はさらさらない。
また足利義教が鎌倉公方足利持氏を滅ぼして鎌倉府を廃止し上杉に関東支配を一任してる。
足利成氏は将軍義政即位した機会に特別に復興を認めてやっただけのもの。
鎌倉公方の成氏を廃し代わりに義政の弟を派遣し上杉の領国伊豆を割いて堀越公方を正統にした事もある。
足利藤氏はその将軍が古河公方として認めた存在。
北条が擁立した義氏はただの自称。
ただその藤氏がもはや存在してない事と実質的に古河城を支配して正室の子なので北条が関東管領として謙信を認めた以上は繰り上がった義氏をこの機会に序列に従い認めただけ。
この政治決着の関東新秩序を打ちたてる事は利根川流域の関東諸将は毎回どっちに付くか悩んで面従腹背してただけに歓迎した。
さらにこれで関宿が救われるんだから安いもの。
486人間七七四年:2007/10/30(火) 22:00:29 ID:v9CXZCmi
>>485
上杉謙信大事典に
北条が謙信に信濃方面への出兵を要請したが
越相同盟で約束された武蔵六城の割譲を北条が阻止していたこともあって
謙信はこれに応じず、北条氏の期待ははずれた
と、山田邦明という人が書いてる

まぁこれは越相同盟の条件ではなく、同盟後の要請みたいだ
その同盟に含まれた条件(武蔵諸城の委譲)を北条が破った為
謙信も北条に協力しなかったという事か
487人間七七四年:2007/10/30(火) 22:17:47 ID:5ouSUfqv
>>485
まあ流れ的に俺へのレスだろうが、レスアンカぐらいつけるようにしような!
むしろ松山領の返還が行われなかったのが先だが、これは上杉方の違約
それに北条から再三要請されてようやく上野に出兵してるから、憤るだのなんだのというのは無い
そもそも恒久平和なんてご大層な理想掲げといて、武田と駿河でやりあってる北条に上野にも出兵しろというのはイヤガラセ以外に考えられんが?
管領(関東ぬかせてもらうぞ)は公方(関東ぬかせry)の承認ないとなれないぞ、原則を求めればな
承認というか、選出といったほうが的確だが
そんでもって晴氏は御判御教書形式の文書で関東公方の家督を梅千代王丸に譲ってるからな
世襲の関東公方で、関東公方家当主が承認しての家督譲渡だから正統も正統、誰が文句言えるんだ?
まあ文句言いたいならどうぞ展開してくれてかまわんが
あと手元に読んだやつが無いからアヤシイが、当初謙信は藤氏を擁立しようとがんばってたはずだが、もちろん越相同盟の段階で
これは詳細聞かれても一切答え「られない」からまあ適当に読み飛ばしといてくれ
それ以前に義氏が正統だから関係ないっちゃ関係ないが
利根川流域で関東諸侯とはえらく狭い範囲で全体を語ってるが、里見、梁田、佐竹らは少なくとも反発してるな
488人間七七四年:2007/10/31(水) 00:14:27 ID:wc1P+T7j
>>487
北条が最初は松山城も謙信に返すと言いながら
松山城には北条方の上田朝直が長く領地としていて返還がむずかしいと約束を反故にする姦計を用いてたんじゃなかったか?

嫌がらせも何も早期に同盟結ぼうとして最初は軽返事して同意してたろう。
よくよく考えたら謙信の部下にされるから氏政は言を左右にしてたんだろ。

将軍に任命権があるからこそ歴代関東管領は鎌倉公方の監視役として機能し
公方を毎回のごとく諫めて対立してたんだが。
上杉憲実が管領を辞任した時に留任に努めたのが他ならぬ公方足利持氏なんだが。

状況を考えれば晴氏は北条に強制されて義氏に家督を譲ったとしか思えないがな。
当然のように北条派の人々からの支持しか得られてない僭称というやつだ。

将軍から関東補佐を一任されている関東管領と東遷した古河公方(鎌倉公方ではないので関東一円の決定権は有してない。古河や関宿を線に利根川以東に対する発言権があるくらい)との
関東政治での決着に文句いうヤツらは凶徒なんだがな。
489人間七七四年:2007/10/31(水) 01:48:53 ID:zCV0RIab
初期古河公方の勢力圏は下野・常陸・下総・上総の豪族の支持しか受けてないからね。
幕府との都鄙合体の時になっても堀越公方の地位が安定してるからやはり往事の鎌倉公方のような管轄権はまったくないもんな。
そして古河公方義氏が佐竹や簗田や里見らの主なんだからちゃんと抑えないといけないんだから越相同盟に従わないのは本来謙信のせいじゃねーし。
490人間七七四年:2007/10/31(水) 01:58:35 ID:zCV0RIab
ついでに言うと扇谷上杉氏が松山城。扇谷重臣太田氏が岩槻城である。
山内上杉を継いだ謙信からすれば上野国と武蔵の深谷上杉あたりが奪回できれば満足だったと思うよ。
あとは平和維持軍として常陸や下総などに遠征して治安活動の援助をしてただけ。
491人間七七四年:2007/10/31(水) 04:17:08 ID:S5V4wPlN
>>466
>>438

仙台藩百姓は何も知らなかった

その醜態を前半の文章で詳らかにしてる
だからこそ(「埋もれた古城」関連の)後半も生きてくるんだろ
492人間七七四年:2007/10/31(水) 07:02:58 ID:3zXsfr/n
>>483
絶対そういう方向にそらすだろうと思って予め>>441を書いておいたわけだが
俺の勘も完全とはいかないが大体は当たっていたようだ。
無様だな。
493人間七七四年:2007/10/31(水) 07:17:27 ID:3zXsfr/n
>>468
簗田は既に永禄10年に北条氏政、足利義氏相手に和睦しているが
それでも関宿を明け渡したわけでないからこそこうなったわけで、
義氏を認めても関宿をやることにはならないよ。
494人間七七四年:2007/10/31(水) 08:39:00 ID:3bClZUMN
>>488
それで松山領は北条に返還するで合意してるだろ、上杉が
それができてないんだからな
それまでの経緯なんぞしったことか
姦計云々はお前の妄想でしかない
本当に恒久平和とやらを望んで越相同盟に望んだとするなら、相手の状況見て無理そうな要求通さないだろ
無理そうな要求を相手の足元みて通して、そしてそれが実行されないから、自分も実行しないで平和だけは望んだってどれだけお花畑なんだよ
任命権が将軍にあることは否定してないが?
よく読んでほしいもんだ
晴氏の家督譲渡については北条の圧力があったのだろうとは推測できる
なにせ当初は藤氏をしたかったみたいだからな
が、正式な手順で家督譲渡が行われてる以上、逆らえるものじゃないし、それを認めないなら、長尾の山内上杉継承、関東管領継承はどうなる
藤氏の藤ってだれからもらったもんだろうかね?

>>489
公方を補佐するのが管領の仕事だろ?
なに逃げてるんだか
しかも抑えるために北条と一体となって勢力を拡大してるところに長尾が管領を自称して乗り込んで乱したんだろ?
恒久平和望んでるはずなのに?
495仙台藩百姓:2007/10/31(水) 09:10:27 ID:KxMyDcNC
>>491
全くもって関宿救援の為の同盟だった事の説明にもなってないお┐ (´ω`) ┌

>>492
・上野の拠点が北条方に渡っていて通過するのは困難
・内乱が起きて兵力もなかった
繰り返し上杉厨はそう主張してるお( ^ω^)
上杉厨の主張は戦略的に完敗していて救援の兵すらだせなかった事に他ならないお
手立てのない謙信は敵と結ぶ事で凌ぐのがやっとであったが
内での崩壊を引き起こしただけで全て瓦解したと
ここでスレタイ通り臼井城での敗北に繋がるわけだおね( ^ω^)
臼井での敗走以後諸氏が離反し上記の結果に陥ったと
謙信いいとこなしだお┐ (´ω`) ┌
496人間七七四年:2007/10/31(水) 09:17:44 ID:zCV0RIab
>>464
理不尽な屁理屈言うなよみっともない。
497人間七七四年:2007/10/31(水) 09:59:50 ID:zCV0RIab
>>494アンカー間違えた。
改めて理不尽な屁理屈言うなよみっともない!
498仙台藩百姓:2007/10/31(水) 10:18:07 ID:KxMyDcNC
武田は北条主力に優勢だったのに
謙信は由良やキタジョウにびびってたら世話ないおね(≧ω≦)プッ
499人間七七四年:2007/10/31(水) 10:42:04 ID:zCV0RIab
謙信がビビってる?何それよくわからん。
まぁ信玄は村上にビビってたのは間違ないし弟が戦死した時は泣いて謙信と正面から戦った事を後悔したろうな。
弟が死んでなければ勝頼があんなブザマな滅亡はしなかったかもね。
もしかしたら羽柴秀長みたいな存在になってたかも知れないのに。
500仙台藩百姓:2007/10/31(水) 11:22:17 ID:KxMyDcNC
武田に対してその言い草はないんじゃないお?
上杉厨の主張によれば武田によって救われたのに┐ (´ω`) ┌
武力じゃ抗う術がなかった謙信は北条と手を結ぶ事で何とか防いだとの事だが
武田が北条と手切れして戦況を優位に運んでいたから北条も上杉との講和を望むようになったわけで
武田が駿河に攻め込まなかったり直ぐに鉾を収めてしまったりしたら
氏照だけでも救援に行けないと泣き言いってるのに氏政らの主力まで出て来たら手の施しようがないお┐ (´ω`) ┌
501人間七七四年:2007/10/31(水) 11:43:27 ID:XBpn0B4I
とっとと和睦せぇよ
成立しても破るから仕方ないか?
502人間七七四年:2007/10/31(水) 12:00:19 ID:zCV0RIab
>>500
治乱興亡の理を知らんのか?武田のおかげとかクダラネ。すべての出来事はみんな繋がってんだから状勢の変化が〜のおかげとか言い出したらきりがないだろが。
それなら今川が織田に負けたおかげで謙信が同盟できて簗田が救われた→織田が簗田を助けたになるのかアホw
503人間七七四年:2007/10/31(水) 12:11:33 ID:3bClZUMN
>>496
例の人か
相手するべきじゃなかったか
504人間七七四年:2007/10/31(水) 18:09:54 ID:tVkdXNF1
いい加減放置を覚えろと
百姓は伊達厨騙って伊達に反感持たせるのが目的なんだから
理屈なんて何でもいいんだよ
餌に食いつくから喜んでいつまでも絡んでくる
505人間七七四年:2007/11/01(木) 20:48:20 ID:uf6s/UEc
地元民だけど、今月の自治体発行広報誌に地元中世史特集
506人間七七四年:2007/11/01(木) 21:43:06 ID:Ykqnq3cb
「仙台藩百姓」って人は、何を言いたいの?
何でも、人の意見に絡んで、論旨を捻じ曲げているだけじゃね?
コテを止めるか、このまま消えて欲しいなぁ。

スレが、読みにくくて困っているんだ。
507人間七七四年:2007/11/01(木) 22:25:11 ID:swREtm5Z
>>506
そんな時のNG登録。アンカーで見えた時は『ゴキブリ元気だな〜』と思えばいい。
508仙台藩百姓:2007/11/04(日) 17:37:40 ID:3o3dIRh8
盛り上げてあげたのに(´・ω・`)
509人間七七四年:2007/11/04(日) 22:15:25 ID:5V7gXXkt
顔が違う、お前時々出没する偽者だろ。
本物は( ^ω^) だ
510人間七七四年:2007/11/05(月) 00:13:52 ID:H1qa+qoN
思うに大田道灌には攻め落とされてないのでは?
どうなんでしょうか。
511人間七七四年:2007/11/05(月) 07:04:26 ID:HX1eZjfg
仙台藩百姓
お前、邪魔だ。お前は伊達政宗派の輩だろ。だから、上杉に対し
不当な意見ばかり書きやがる。
大体、武田が北条より優勢だったか?。信玄は、小田原周辺に出没して
ただ放火してさっさと甲府に逃げてっただけじゃねえか。
512仙台藩百姓:2007/11/05(月) 08:32:11 ID:9OiV7oWy
駿河の大半を攻め取ったお( ^ω^)
上野にも食い込んだし
513人間七七四年:2007/11/05(月) 09:17:08 ID:34tIKNf8
地理的にみれば上野国はほぼ天下三分の計により鼎のような勢力均衡がとれている。やはり両者ほぼ互角だったとみるべきか。
では本当に互角なのか。
北条の場合は一時的に上野国を制圧していたが奪われた。また三国峠を越えてやってくるのと違い、北条は軍事的影響力を年中に渡り威圧という形で保持できる。しかも他家の内情をすぐに知り政変を起こさせる事も容易いし即応できる。しかも武田との協調作業である。
また上杉〜佐竹間との連絡線遮断を行なうもほぼ失敗していて謙信が自由に下野常陸に進出してる。
さて武田だが謙信との本格的抗争を始めたあとは北信濃防衛と西上野を奪うのに精一杯で労多くして益少なしである。ついには上野方面の勢力拡大を諦め駿河へ南進。
父から引き継いだ安定した地盤を背景とし経験抱負で老練な氏康と信玄の全力をあげた武田北条の二大勢力の上野北上政策は若き毘沙門天の怒りの矛先の前に徒労に終わり越後の安寧は達成できたと言える。
514人間七七四年:2007/11/05(月) 09:33:36 ID:xmuDuooS
謙信厨は、ぼろ負けでも都合よく解釈するなぁ〜
謙信が軍神などと言われるほどの人物ならば、当時の豪族達は我先に降伏し、裏切らないだろ!
実像は、ド田舎の武田や、大した資金力もない北条にヤリ込まれ、関東各地の豪族に馬鹿にされる凡将ってところだなw
515人間七七四年:2007/11/05(月) 09:45:12 ID:fuLvEYxK
北条は全国一の暴れ川である利根川で隔てられているのだよ
516人間七七四年:2007/11/05(月) 10:07:01 ID:xO2QW8Kr
北条は年中都合がよい時を選んで活動可能じゃねーか。
だいたい利根川の増水時をワザと選んだりして謙信の来援がこないようにしてるのはむしろ北条なんだがw
徹底的に謙信から逃れようと必死な北条。
まぁ信玄からも逃れようと籠城したもんな。
明らかに北条は一番劣化してるな。
517人間七七四年:2007/11/05(月) 10:09:30 ID:w4nY7bn1
出てきた敵は何が何でも殲滅しないとだめという謙信厨
戦国無双かノブヤボでもやってろ
518人間七七四年:2007/11/05(月) 10:16:23 ID:fuLvEYxK
最終的に勝利したのは北条ですからね^^
519人間七七四年:2007/11/05(月) 10:20:16 ID:34tIKNf8
>>517
ゲーム厨らしい発言乙
さすが北条厨らしい。
籠城中に家臣達は悪口言われまくりさぞ憤慨してるだろう。
北条の親方はチンポついてねぇ!家臣はヘタレのウンコ野郎!東国武士にあるまじき卑怯ってか伊勢の異国人に使える裏切者めワッハッハ!
520人間七七四年:2007/11/05(月) 10:22:26 ID:w4nY7bn1
>>519
戦国無双でそういう描写があるの?
コーエーはチャレンジャーだねえ
521人間七七四年:2007/11/05(月) 10:25:11 ID:xO2QW8Kr
籠城しまくり、敵から逃げまくり延命処置を続けた卑怯者の最後はタイムアップで秀吉に滅亡させられるヘタレ北条。
野心を捨てきれず欲望丸出しで織田に激突死の武田。
義を守り謙信公の遺徳を全うし三成にも義理を果たす律儀さの末に幕末まで米沢に命脈を保った上杉。
最後の勝利は謙信の勇気と高潔な行為による遺徳でした。
522人間七七四年:2007/11/05(月) 10:28:51 ID:xmuDuooS
北条って強いの?

まぁ謙信よりは戦上手だと、誰もが認めてるようだがw
523人間七七四年:2007/11/05(月) 10:30:49 ID:34tIKNf8
今なお米沢の学校では謙信の教えが教えられるほどだ。
上田では真田の教えが掲げられてるそうだ。
遺徳というのは良民に根付くね。
武田や北条はどうなん?
524人間七七四年:2007/11/05(月) 10:34:02 ID:xO2QW8Kr
>>522
単なる弱い者イジメの小山の大将山猿。
強い謙信や信玄がくると亀に変身し小田原甲羅にヒッキーする。
525人間七七四年:2007/11/05(月) 10:44:55 ID:34tIKNf8
本能寺後北条に家臣団が甲斐信濃は草狩り場だぜヤッホー♪
家康「信濃甲斐はワシが全部盗むぞゴラァ!北条来るなら決戦したるで!」
氏政「ヤベェ氏直から家康が一戦すると言ってきてるぞ!家康は信玄と三方ガ原で決戦してウンコ漏らした程の男だ。しかも兵力もこちらより全然少ないとか…やはり信濃甲斐から撤退して和睦だな」
北条家臣団「我々は決戦苦手だからな。勝った事ないから捏造勝利しかないし家康に謝罪しよう♪」
526仙台藩百姓:2007/11/05(月) 10:47:16 ID:9OiV7oWy
学校で教育するなんて気持ち悪いお┐ (;´ω`) ┌ムホヘー
というか何てスケールの小さい教育だお(≧ω≦)ピッ
おっと、思わず失笑が漏れてしまったお(;^ω^)ムクク
527人間七七四年:2007/11/05(月) 10:55:11 ID:34tIKNf8
まさか伊達も米沢か仙台で遺徳を教えられてないの?
本当は領民に憎まれてたんだね可哀相に…
528人間七七四年:2007/11/05(月) 11:01:24 ID:xmuDuooS
謙信の教えじゃなくて、上杉鷹山の教えだろ!
馬鹿かよw
529人間七七四年:2007/11/05(月) 11:04:50 ID:dYaHHyfq
氏康、信玄、謙信で一番経済力あったのって実は謙信?
関東は貫高制だったらしいから日本海貿易で越後が一番潤ってたんじゃないか
530人間七七四年:2007/11/05(月) 11:11:50 ID:7WI5MT5J
>>528
NHKで謙信の教えを学校で教えてたぞ。
あれは会津だったかな?
531仙台藩百姓:2007/11/05(月) 11:12:36 ID:9OiV7oWy
伊達家は過去のものではないですからね
そんなセコい洗脳教育しなくても現在進行形で慕われていますお( ^ω^)
だいたい人望は自然と集まるものです
子供から教育してすり込ませようなんて北朝鮮みたいな所だお┐ (´ω`) ┌
だから狂信的な厨が生まれるのだね
納得納得( ^ω^)
532人間七七四年:2007/11/05(月) 17:19:13 ID:GVygzZFd
>>531
知識が足りない話題に首を突っ込んだ挙句、訂正されまくったバカが何言ってるの
次から次へと無知が暴露された途端
論点摩り替えまくって己の低能を誤魔化そうと必死

インチキ自論を振り撒く仙台藩百姓=不法滞在中の北朝鮮人
533人間七七四年:2007/11/05(月) 17:31:50 ID:w4nY7bn1
なんで「北」朝鮮人としたのだろうか
別に朝鮮人でも問題ないよな、2ch的には
534仙台藩百姓:2007/11/05(月) 17:43:09 ID:9OiV7oWy
ようやく食いついてきたお(;^ω^)
謙信厨はマスゲームの訓練でもしてたのかお?
みんなでプラカード持って「謙信様最強」「毘」とかやるんでしょ?( ^ω^)プクク
謙信の誕生日には造花持って「全て軍神様のお陰です」て涙流しながら祝うんだおね(≧ω≦)ブピー
535人間七七四年:2007/11/05(月) 17:55:13 ID:34tIKNf8
>>534
ヒッキーだからヒマそうだな…宮城の失業率は高いらしいからな。
仙台駅前のタクシー数が異常に多いからびっくりしたよ…
536仙台藩百姓:2007/11/05(月) 17:59:22 ID:9OiV7oWy
残念ながら全国平均値を下回っておりますお(≧ω≦)プッ
537仙台藩百姓:2007/11/05(月) 18:03:51 ID:9OiV7oWy
>>535
ていうかタクシー?
確かに多い気はするお( ^ω^)?
538人間七七四年:2007/11/05(月) 19:00:01 ID:HX1eZjfg
北条は滅んだからな。氏政は氏康以上の領土を拡張してるが、
謙信の外圧がなくなって広げやすくなったからだ。
佐竹は、この時に己の無力さを実感しただろう。名家の誇りが謙信への協力
を邪魔させていたからな。
で、氏政も「羽柴に頭はさげねえ。」とつまらん意地を張った為、無意味な
篭城戦に徹し、滅んで愚将である事を世間さらしてしまったわけだ。
祖父氏綱の家訓を守らず、弟の三郎、妹勝頼室を見捨て、私利私欲で関東を
切り回した氏政の当然の末路だ。
539人間七七四年:2007/11/05(月) 21:39:33 ID:JDHDPfjo
>>538
氏政は謙信の越山も退けての、拡張です。
まあ反北条陣営のゴタゴタがあったのも事実だけど、
氏政らの力量も確かにあった。

あと上杉景虎はともかく、妹は手切れになったときに帰ってこなかったんだからそこは仕方ないだろ。
540人間七七四年:2007/11/06(火) 06:10:40 ID:qNETSKRm
>>535
宮城つったら中国産ソバ粉だな。

株式会社新糧が輸入した 799袋(19.8t)の中国産そばであり、
アフラトキシンB1が 11ppb検出された事が報告されている。
アフラトキシンB1は毒性がダイオキシンの10倍あり、地上最強の発ガン物質。

この新糧(株)からソバ粉を大量に仕入れてるのが宮城の製麺会社。
新糧でググると一番上に出てくる。
しかし「宮城県白石」と銘打って全国販売。  ここらへんは実に宮城県らしい。

三重県の「美し国」ってフレーズまでパクる宮城県は北朝鮮というより中国に似てる。
541人間七七四年:2007/11/06(火) 07:05:34 ID:h44J64fA
いずれにしても、氏政が上野まで占領できるのは、
謙信亡き後。謙信が亡くなり、武田が滅んだので、関東では氏政は一人勝ち。
佐竹がいたけど、もはや北条が関東統一は難しい事ではなかったのだ。
542仙台藩百姓:2007/11/06(火) 09:05:39 ID:UE3IDcgj
それも世継ぎを決めずに謙信が便所で気張り過ぎて頓死したからだお┐ (´ω`) ┌ヤレヤレ
お陰で上杉は瀕死に陥ってしまったお
北条も思わぬところで越相同盟の効果が現れたお( ^ω^)
543人間七七四年:2007/11/06(火) 10:42:13 ID:d58OHjIv
そりゃあ50歳にもならないうちに死ぬとは思わんだろう。
544人間七七四年:2007/11/06(火) 14:57:03 ID:vOTqVhaQ
謙信厨VS仙台百姓

百姓の勝ち!

※謙信厨って根暗だろw
545人間七七四年:2007/11/06(火) 14:58:02 ID:bzaF3ogt
謙信は細川政元と同様に飯綱の秘術を信じて女色を絶ってたとしたら
不死身だと思い込んでた節があるんじゃないか?
だから遺言など初めからする気などなかったとか。
その後養子同士が争うところなんてそっくりだし。
546人間七七四年:2007/11/06(火) 15:17:59 ID:Vx54Vf3s
>>542
実は越相同盟の効果って凄いよな。
上杉と関東諸将の仲を裂く・上杉内紛・武田滅亡、とw
547人間七七四年:2007/11/06(火) 15:32:52 ID:IfZU8w9i
むしろ人質風情をそこまで厚遇する度量の慈愛の心に感動する。
548人間七七四年:2007/11/06(火) 15:43:19 ID:d58OHjIv
おかげさまで佐竹や宇都宮や結城に太田に里見とみんな謙信さまの偉大さを再認識し上洛戦を行なう謙信さまに泣きついて越山を懇願する事になりました。
無償の支援を当たり前と慣れて自分勝手な行動を取る彼らには良い薬です。
549人間七七四年:2007/11/06(火) 16:52:56 ID:eKLGxCRd
>>547
三郎景虎を謙信の養子にして上杉一門として遇するのは
越相同盟で交わされた条件の一つだったと聞いたが。
550人間七七四年:2007/11/06(火) 17:57:11 ID:d6e5KQC6
>>548
お前は仙台藩百姓のあいてをしていろ┐ (´ω`) ┌
551人間七七四年:2007/11/06(火) 20:25:21 ID:h44J64fA
知識ある人々が書き込みをやめてしまった。
百姓と北条崇拝者の馬鹿タレのせいで。
552人間七七四年:2007/11/06(火) 20:33:55 ID:d58OHjIv
北条は約束守らねーけどな。
553人間七七四年:2007/11/06(火) 21:09:17 ID:ued0ryRe
>>551
君が書くんだよ!
554人間七七四年:2007/11/06(火) 21:12:18 ID:U3CuwHhu
知識ある人々がいなくなったのと同時に仙台藩百姓が悔しさのあまりに比較的知識のあるコテからただの糞コテに転落してしまった気がする。
悲しいことだね。別にこれ以前にはたいして注目していたわけでもなくて、どうだったかあんまり知らないけど。
このまま徒労に終わらせるのも残念なことなので越相同盟と関宿論争(?)についてまとめとこう。
元々の論は「関宿を救うには越相同盟しかない」そして「越相同盟には関宿を救う意図があった」。
・氏康は関宿に一国の価値があると見ていた。その為1558年には簗田に対し関宿城と古河城を交換させている。
謙信越山後に簗田は再び関宿を取り戻すが、簗田は由良らの離反以降、北条と和睦を結ぶ。
しかしおそらく北条は再び関宿を接収することを目指したために和睦は破綻。佐竹についても同様の経緯。
・佐竹が謙信に出兵を求めたのは関宿救援の為であり、関東諸侯は関宿救援という一連の流れで動いていた。
・越後においては本庄の謀反、越中で一向一揆の蜂起、武田の北信、越後侵攻、上野諸勢力の離反等、
謙信が関宿救援に赴くのはほぼ不可能だった。
・北条側は栗橋城接収、陣城の構築等で関宿に対して長期戦の構え。
・この間北条は上野に領地をほぼ持っておらず、由良、足利長尾、越後北条らにも大して影響力を行使できなかったと考えられる。
その為、上野割譲といっても北条が明け渡したというような性格のものではない。
・由良は北条下でも上杉下でも独立を保っていた。
・越相同盟後にも氏政は由良に対して謙信を疑っている、上野一国を進呈するとし、骨抜きを狙っている。
・同盟によって北条側の関宿攻め陣城は破却された。
・簗田がこの同盟には従わなかったにもかかわらず北条は陣城を破却して簗田攻めをやめた。
これは簗田との関係ではなく謙信との関係で行われたと考えるのが自然。
つまり越相同盟には関宿救援の条件があった。
555仙台藩百姓:2007/11/06(火) 22:10:44 ID:UE3IDcgj
さすがに関宿ネタは飽きたお(´ω`)
みなさんの指摘通り引っ張るのも無理が出てきたし┐ (´ω`) ┌
結論から言いますと
関宿を救う為に同盟を結んだわけではなく
同盟結んだ為に関宿攻めが中止された
と言う事ですお( ^ω^)
勿論、一要因ではあったろうけど主題ではないおね
556人間七七四年:2007/11/06(火) 22:40:23 ID:h44J64fA
554>
なるほど。大変、参考になる考察です。
555>
貴方はいい加減にしなさい。
557人間七七四年:2007/11/06(火) 22:58:42 ID:n7x622So
上野に北条が影響力を発揮できなかったとしたら
北条高広は何故寝返ったの?
558人間七七四年:2007/11/07(水) 00:55:30 ID:sbXbWPat
>>554
「謙信は後詰してないから関宿を重要視してない」という仙台藩百姓氏の発言から急に質が落ちたかな。
仙台藩百姓氏が最低限知っておくべき背景も知らず喚き立てていた事が発覚してしまった事実。
いい加減説明するのが面倒になったのではないかなぁ。
それまでも仙台藩百姓氏は何か一つ発言する度に修正されてもいた。
煽り相手に一つ一つ事象を噛み砕いて教える所から始めなければならないのは・・・ちょっとねぇ・・・。
無力感が伴う作業でしかない。
ただ面白かったのは、進退窮まった仙台藩百姓氏が教えてもらった内容を元に話を逸らし始めた言動w
これには彼を教育していた人達も苦笑しただろうし。
この馬鹿げた相手に見切りをつける良い切っ掛けになったのでは?
559人間七七四年:2007/11/07(水) 01:02:45 ID:pBvPHBp+
>>555
お前は米沢の家に帰れ。
この山形県民が。
560人間七七四年:2007/11/07(水) 06:26:50 ID:U3rMb8jF
>>557
北条はもともと守護代府内長尾家の家臣筋ではなく、越後守護上杉家臣であって対立した関係だから長尾とは感情的反発もあり一定の距離がある独立領主がやむを得ず従っていたに過ぎない。
また性格も越後一の粗忽者と言われた人物で過去に一度反旗を翻した事もあり許された前歴の持ち主。
謙信はこういうヤツらばかりがいがみ合うのに嫌気がさして当主の座を降りて高野山に出家すると言い出したりした。
また川中島の戦いの感状でも謙信から発給されず、上田長尾から家臣に宛て発給されているケースもあり、明らかに謙信とは別の勢力として独立領主化していたりする。
揚北衆に至っては謙信政権にすら参画しておらず天正3年にやっと発給文書に署名連名しており政権に取り込む事に成功し越後統一を完成させている。
つまるところ氏康や信玄は父から安定した国を譲られて、さらに三国同盟で背景を固めての北上政策で上野に狙いを定めて主戦場にしていたが
謙信は父や兄の失策のおかげで越後はまったく統一されていなかったのに両者と戦わなければならなかった。
また越後守護上杉家は以前から信濃北方に一定の発言力があったらしく内乱時に動員をかけた事もあり北信濃への武田の侵攻に対抗したのも村上氏だけの理由ではない。
561人間七七四年:2007/11/07(水) 07:27:54 ID:L2EgENzm
信濃は高梨政頼が謙信の叔父にあたるから救援したんでしょ
謙信擁立にも尽力したみたいだし政頼
562人間七七四年:2007/11/07(水) 07:57:23 ID:/Y8rIY5f
高梨氏は為景に加勢して、関東管領上杉顕定を討ち取った。
その後も長尾家を支え続けた。多くの北信濃豪族が>>560の言うように守護上杉家に味方しても、高梨家は長尾家を支えた。

川中島合戦は、高梨家救済の側面は大きい。
「信玄は越後を攻めない」と主張する人も、信濃高梨家を信玄は侵略しないという人はいないだろう。
563人間七七四年:2007/11/07(水) 09:03:56 ID:U3rMb8jF
私が言いたかったのは越後上杉陣営の意向も汲んでやらないと越後政策運営が難しかったって事。
なんせ上杉謙信政権の組織が立脚していたのが越後上杉政権組織なのであって越後上杉政権を打倒して新たなシステムを構築したわけではなかったのだから。
それは越後守護が為景を隠居に追い込み兄を傀儡として擁立し、さらに当主を兄弟の間でより幼い弟に据え代える時にみせた擁立にむけた影響力をみればわかる。
若き景虎は越後上杉派や上田長尾、揚北衆らに相当苦労させられただろう。
こんなしがらみだらけの条件下の大名なら裸一貫で成り上がる方が楽。
関東管領になったら小山と千葉が関東の主座の地位を争い、小田を土浦に追い出すと小山が小田の降伏斡旋し助命嘆願するから小田城を返してやったりと面倒くさい事ばかり。
関東政治を一歩間違えたら総スカンを喰ってみんな謙信を見限る事になるから慎重を要するし歴史的経緯や婚姻関係やら各家には嫡流以外が対立派閥化して敵に内通したりしてるし…複雑すぎるし相手を立てれば他が立たない。
これは鎌倉公方時代からの関東が戦乱続きで治まる事を知らなかった事でもわかる。
564仙台藩百姓:2007/11/07(水) 09:53:21 ID:l3Mz5wGi
妄想で勝手に盛り上がって自己完結しちゃうなんて上杉厨はもはや病気だお(;^ω^)
越相同盟の文書読んだ事ないのかお(上杉文書、伊佐早文書などに収録)
関宿なんて一言も書いてないお┐ (´ω`) ┌
いずれの文書でも当然第一項には公方の問題をあげているお
(当初謙信は藤氏の死を知らなかった。藤氏の死を知ってからは義氏を容認した)
次いで公方の所領の問題
後は領地の割譲問題だね
上野はともかく武蔵に関して氏康は難色を示している
そして養子の件や
上野、下野、武蔵、下総、上総など、上杉方と北条方の摩擦地帯の線引き
↑関宿など細かい諸事情はこれに含まれる
と言う事ですお( ^ω^)
565人間七七四年:2007/11/07(水) 09:58:06 ID:RkkuqN62
結局は、謙信の苦しい言い訳ばかりで、なんの説得力もないな!
くだらない擁護レスを見てると、謙信は潤沢な資金力や、天然の要害に守られながら、最後まで支配下の豪族を、まとめ上げられなかったボンクラ野郎だったって意味になるぞ!
実力もないのに勘違いして関東管領になり、北条の侵略にビビっていた関東の豪族達から期待されたが、大した事ないってのが北条にバレて、関東各地から総すかん食らう。
関東管領のくせに、北条と同盟するって事は『はい同格です』って認めた訳だから、関東管領は無理なので辞めますって言えよなぁw
小学生でも理解出来る流れな訳で、いい歳こいたオッサン達が必死に擁護してる姿が笑えるよw
566人間七七四年:2007/11/07(水) 10:13:32 ID:U3rMb8jF
>>565
各点で具体例をあげて反論しろ。お前の文章は馬鹿な小学生のレス以下。
567人間七七四年:2007/11/07(水) 10:40:35 ID:RkkuqN62
痛いとこ突かれて、オッサン必死に稚拙な抵抗w
568人間七七四年:2007/11/07(水) 10:54:27 ID:NYeF3zsO
>>567
まったく具体例が出せない池沼w
569人間七七四年:2007/11/07(水) 10:58:30 ID:sKJyEit3
それが北条厨w
570人間七七四年:2007/11/07(水) 12:46:39 ID:RkkuqN62
いままでの流れを見てりゃ、具体例もクソもねぇよ馬鹿がw
それから、お前の北条厨だの草加だのって、どっからそんな貧しい発想が出るんだよ?
イイ歳こいたオッサンが馬鹿丸出しだな!
社会から相手にしてもらえず、こんなとこで北条厨だの草加だのって…謙信を擁護する馬鹿なオッサンは、社会のクズ確定!
571人間七七四年:2007/11/07(水) 12:50:06 ID:U3rMb8jF
>>570
2時間も考えた末にその貧困な回答か?かなりウケルwww
572人間七七四年:2007/11/07(水) 13:14:44 ID:RkkuqN62
お前は、とことんキモいオッサンだなぁ!
俺は、これから大事な授業あるから、お前もPCに張り付いてないで、前向きにハローワークでも行けw
社会復帰できりゃ、謙信病も少しは改善すんだろ!
それから、謙信対政宗スレに、お前のような素晴らしい馬鹿がいるって書いといたから喜べ(^-^)v
573人間七七四年:2007/11/07(水) 14:20:00 ID:U3rMb8jF
>>571
具体的な根拠のない誹謗中傷のみの羅列で必死すぎだな。中身のない矮小なヤツだな〜。
574人間七七四年:2007/11/07(水) 14:57:11 ID:RkkuqN62
オッサ〜ンw
そうとう動揺したようだな!
ってか、矮小ってwお前は、人と話す時にも矮小なんて言葉を使うのか?
謙信ヲタの、講談漬けがバレバレだよーd(^O^)b
もうわかったから働けよw
575人間七七四年:2007/11/07(水) 15:48:40 ID:/Y8rIY5f
北条病うざいよ
河越夜戦や白井入道マンセーでもしとけよ
576人間七七四年:2007/11/07(水) 16:19:57 ID:NYeF3zsO
>>574
お前ほんとつまらないヤツだな。
577人間七七四年:2007/11/07(水) 16:26:52 ID:G0nUWb5C
>>574
ニート丸出しのバカッぷり
アホな書き込みしてないで
バイトでもして生活費の足しにしろ。
578人間七七四年:2007/11/07(水) 18:49:40 ID:vZFk5yJk
家から出ろよ北条厨
579人間七七四年:2007/11/07(水) 19:14:29 ID:L2EgENzm
ものすごい糞スレになったね
580人間七七四年:2007/11/07(水) 19:25:02 ID:3lluedvC
>>573 アンカー誤爆ぷっ
いや、どう見てもニートは謙信厨のほうだろw
二時間も返事待ってるて異常じゃね?
しかもガキ相手に完全に切れて自演の嵐とはなwww
>>574 GJ!
581人間七七四年:2007/11/07(水) 19:28:04 ID:vUtIs8fj
謙信と北条の同盟で、佐竹義重はガッカリして、武田信玄と
同盟の打診をはじめるが、信玄の高圧的な態度に腹を立てた。
同じ源氏の末裔なので、どちらが正統かで揉めたらしい。
信玄も謙信も受け付けず、北条と戦う佐竹義重は偉い。


582人間七七四年:2007/11/07(水) 19:29:26 ID:NlDUT4wg
それにつきあわされる部下はたまったもんじゃねぇw
583人間七七四年:2007/11/07(水) 19:36:10 ID:fv4ZmF9t
佐竹は手を尽くしてしっかり生き抜いたよ。家を滅ぼすような主君の元に生まれた者こそ不幸だ
584人間七七四年:2007/11/07(水) 20:24:48 ID:pfGXhwy3
「関宿を救うには越相同盟しかない」(http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/112
「越相同盟には関宿を救う意図があった」
まとめ改訂。
・氏康は関宿に一国の価値があると見ていた。その為1558年には簗田に対し関宿城と古河城を交換させている。
謙信越山後に簗田は再び関宿を取り戻すが、簗田は由良らの離反以降、北条と和睦を結ぶ。
しかしおそらく北条は再び関宿を接収することを目指したために和睦は破綻。佐竹についても同様の経緯。
・佐竹が謙信に出兵を求めたのは関宿救援の為であり、関東諸侯は関宿救援という一連の流れで動いていた。
・越後においては本庄の謀反、越中で一向一揆の蜂起、武田の北信、越後侵攻、上野諸勢力の離反等、
謙信が関宿救援に赴くのはほぼ不可能だった。
・北条側は栗橋城接収、陣城の構築等で関宿に対して長期戦の構え。
・この間北条は上野に領地をほぼ持っておらず、由良、足利長尾、越後北条らにも大して影響力を行使できなかったと考えられる。
その為、上野割譲といっても北条が明け渡したというような性格のものではない。
・越後北条は信玄にも入魂を求めている。北条についたというよりは武田、北条と組んで独立というところ。
このスレでは厩橋も通行不可能という人が多かったが、俺は越後北条はすぐ帰参した可能性もあるとおもう。それでも後詰は無理だけどね。
・由良は北条下でも上杉下でも独立を保っていた。
・越相同盟後にも氏政は由良に対して謙信を疑っている、上野一国を進呈するとし、骨抜きを狙っている。
・同盟によって北条側の関宿攻め陣城は破却された。
・簗田がこの同盟には従わなかったにもかかわらず北条は陣城を破却して簗田攻めをやめた。
これは簗田との関係ではなく謙信との関係で行われたと考えるのが自然。
(同盟を結んだから陣城を破却したのだとすれば、理屈上簗田も同盟に応じていないといけない)
つまり越相同盟には関宿救援の条件があった。
・上杉文書中の北条側の誓詞・条目中に「簗田ノ事」とある。
585人間七七四年:2007/11/07(水) 21:01:31 ID:HG6nou66
>>583
佐竹が生き残ったのは、盾となった奴らのおかげ。
葦名、由良・長尾兄弟、佐野、小山らは滅亡や凋落を免れず、
宇都宮・結城は風前の灯火。
それらの奥地に領地があり、時間切れによってなんとか救われた感じ。

もちろん時間切れまで逃げ切った義重は評価されるべきだが、
人柱になった奴らのことを棚に上げて誇るべきものではない。
586人間七七四年:2007/11/07(水) 21:20:49 ID:vUtIs8fj
うーむ。そういう見方も確かにある。
587人間七七四年:2007/11/07(水) 21:36:10 ID:mC8Pn1bT
ROMっていたのだが、本当に興味深いスレだな。
参加者乙。
588人間七七四年:2007/11/07(水) 21:53:57 ID:L2EgENzm
関東情勢って調べがいもあるし楽しいよね
589人間七七四年:2007/11/07(水) 22:10:02 ID:fv4ZmF9t
むしろその盾作りの外交手腕がもっとも評価できる点なわけだが
590人間七七四年:2007/11/07(水) 22:13:57 ID:L2EgENzm
越相同盟の内容は圧倒的謙信優位だが
氏康はなぜそこまでして折れたのだろう?
信玄を余程警戒してたのかな?
591人間七七四年:2007/11/07(水) 22:21:41 ID:f7506GQS
>>584
それだけ色々書けるほど詳しいなら
>>564でせっかく百姓が、越相同盟の文書について語ってきてるんだから
それについて具体的に答えてあげるべきでは?

肝心の越相同盟の文書に記載されて無いというのがはっきりしてるのであれば、
その時点でそれが目的だったという理屈は完全に通らなくなるし、
ここは絶対否定しとかないと周囲の状況をアレコレ並べた所で説得力皆無だと思うよ。

越相同盟が主題のまとめに越相同盟の具体的な内容のことが書かれて無いんじゃ
やっぱまとめにならんでしょ。
592人間七七四年:2007/11/07(水) 22:32:58 ID:RkkuqN62
>>590
結局、こいつみたいな馬鹿な謙信厨のオッサンが、スレの良さを台無しにする仕様なんだってw
いままでの流れから、謙信有利なんて言ってる事自体、頭が腐ってるとしか思えんぞ!
593人間七七四年:2007/11/07(水) 23:21:18 ID:U3rMb8jF
佐竹はな、人取橋で退却し芦名滅亡を呼び沼尻の戦いで北条に負けるなど完全に滅亡コースをたどっていたがな。
謙信の軍事的支援なければどうにもならんくせに自分勝手だった佐竹のせいで謙信は怒って関東から撤退したんだよ。
594人間七七四年:2007/11/08(木) 00:24:18 ID:TJVOYVPi
>>591
文書については『・上杉文書中の北条側の誓詞・条目中に「簗田之事」とある。 』の通り。
>>564でも百姓は関宿救援の条件が含まれたことを認めていると思うんだけどね。
ただ百姓は『「越相同盟は関宿が最大の問題だった」という上杉厨はアホ』という風に話をすり替えて議論を続けているだけで。
実際には「関宿を救うには越相同盟しかない」 「越相同盟には関宿を救う意図があった」
でそのことを確認するために>>584で佐竹スレへのリンクを貼った。
誓詞・条目は非常に簡潔で具体的な話が無いからおそらくこれらの『之事』について案件があったと見るべきで
これをただの線引きと解釈すると『房州之事』では北条への上総の割譲を認めたことになってしまう。
595人間七七四年:2007/11/08(木) 01:05:23 ID:G1bl71IX
>>585
越相同盟で五年も関宿城が反北条方で居られたのが大きい
あそこで謙信が同盟を結ばなかった場合、北条の戦略は駿河から関宿〜北関東侵攻へと切り替わっていた
その五年分、佐竹らは危険に晒されていたという訳
そうなれば小田原攻めを待たず佐竹らは滅亡していた可能性が高い

あと厩橋が謙信に帰服せず、北条方の城で有り続けた場合
武田→滝川一益なんて邪魔者も入ってこなかった
北条は越相同盟を結んだ所で、駿河を得られず、さらに厩橋&関宿攻略も延期
これにより関東制圧が大幅に遅れた為に伊達政宗と協調出来ず、秀吉によって滅ぼされた
越相同盟は北条にとって大失敗だった
596人間七七四年:2007/11/08(木) 01:24:20 ID:65nL3Y+n
>>591
もう既に何度も書かれてる話
>>220>>268>>334等々・・・
「山王山」とか絞り込み検索をかけると幾つか出てくるし

要するに関宿からの撤退と砦の破却は同盟が成立する一月以上も前から
謙信が北条に求めていた条件だったという内容
597人間七七四年:2007/11/08(木) 01:42:48 ID:P/EYg/rw
百章はあほ
598人間七七四年:2007/11/08(木) 02:05:32 ID:vzZGy+iP
>>595
厩橋城は謙信没の直後に、北条方になっている。(御舘の乱で北条高広は景虎方)
それなのにあっさりと武田に獲られた。
北条氏は上野国において、直臣がいないんだよな。
武田は内藤と真田を、上杉は河田と北条父子を置いているけど、北条にそれがない。
謙信が病死し、武田が滅び、信長が横死するや、北条は由良と足利長尾を呼びつけて小田原城内に幽閉した。
599人間七七四年:2007/11/08(木) 03:29:05 ID:PeGaXfIH
>>585
そういう意味で、佐竹は里見と似た感じだな。
600人間七七四年:2007/11/08(木) 06:42:37 ID:SEIo6j2G
>>561
「北条は二ヶ国丸投げだお」「譲渡だお」
突っ込み1>>225 
突っ込み2>>241
突っ込み3>>441・・・etc 
=『仙台藩百姓は実態が分かってなかった』

「越後から早く救援に駆けつられるお」
否定レス1>>364 
否定レス2>>411
否定レス3>>435
否定レス4>>482・・・etc
=『仙台藩百姓は情勢を把握できていなかった』

「謙信は後詰めに来てないから関宿を重要視してないお」
ここに到って無知発覚>>343-350
急に仙台藩百姓は押し黙り、書き込みが停止
=『仙台藩百姓は二次関宿合戦の背景を知らなかった』

これだけデタラメを吹聴してきた百姓は話にならない
仙台藩百姓の妄想は酷過ぎて相手をしてられない
奴自身もそれが分かっているから、沈黙したり論点のすり替えを繰り返してきた
その醜態を>>421らが揶揄している
今更この百姓が何を書き込んだ所で説得力は皆無
601人間七七四年:2007/11/08(木) 20:18:30 ID:PgV/50Qo
百姓、最近おとなしいじゃん。
602人間七七四年:2007/11/08(木) 20:36:50 ID:Pla+bfBz
>>601
北条織田厨の自演がないから今日はまったりだなw
603仙台藩百姓:2007/11/08(木) 23:16:39 ID:ZN1Ld70M
その上杉文書とやらを書き出して欲しいお( ^ω^)
少なくとも漏れの読んだ越相同盟の條目には「関宿ノ事」「簗田之事」なるものは全て無かったお
文書の内容と年月を照らし合わせていけば流れが分かる筈だお
漏れの読んだ文書も時間があったら明日あたりに全て書き出すお
皆様やたら気になってるようだから
ここは一つ空想ではなく資料を纏めて真面目に検証していく方が面白いと思うお( ^ω^)
604人間七七四年:2007/11/08(木) 23:25:08 ID:Pla+bfBz
百姓は荒らしだからイラネ
605人間七七四年:2007/11/09(金) 00:50:41 ID:XNToRBjk
>>604
同意
606奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6 :2007/11/09(金) 00:58:51 ID:5uIZo+/H
史料の突き合せなら妙なチャチャを入れてはいけない。
607人間七七四年:2007/11/09(金) 02:36:43 ID:Oxe9bXcm
>>603
内容はともかく年月の照らし合わせなら
>>596
内で挙げられたアンカー先に書かれてるな

あと散々空想を書き込んできたのは仙台藩百姓なんだし
色々教えてくれた相手に「ここは一つ空想ではなく」なんて言うのはお門違い
まず自分の日記帳にでも書いたら?
608人間七七四年:2007/11/09(金) 07:08:12 ID:XVSu5nOO
最初は、臼井城について興味深い書き込み色々あったのに・・・。
百姓叩きスレに成り果ててしまった。
609人間七七四年:2007/11/09(金) 09:53:48 ID:Sj3e07ct
>>606
そうそう、ところでトリップが以前と変わったけど本物かね。
610仙台藩百姓:2007/11/09(金) 10:48:19 ID:EQJjMC4v
ここはレベル低いからもう他に行くお( ^ω^)
611人間七七四年:2007/11/09(金) 11:22:28 ID:GEnINLno
結局謙信厨の捏造かw最低だな
612仙台藩百姓:2007/11/09(金) 11:29:21 ID:EQJjMC4v
>>611
謙信厨は悪くないお
捏造と真実の区別もつかなくて哀れなだけだお
謙信本人が捏造大好きだから信者もそれに従うだけで悪気はないんだお
きっと上杉家の家風なんだお( ^ω^)
613人間七七四年:2007/11/09(金) 11:29:25 ID:G6KiZN5s
相変わらずの百姓自演www
614人間七七四年:2007/11/09(金) 11:47:52 ID:TQQntSyq
自演は、毎日PCに張り付いてる謙信ヲタニート工作員の御家芸だろw
仙台百姓は、堂々と名乗ってるから、謙信ヲタニートのオッサンより数段格が上だな!
俺の事も、仙台百姓とかほざくんのかw
615人間七七四年:2007/11/09(金) 11:51:36 ID:TQQntSyq
先日、47歳のタクシー運転手が同居している母親を庭に追い出して殺した事件があっただろ!
あの犯人は、大の謙信厨らしいぞw
謙信厨って社会のクズばかりだねw
616人間七七四年:2007/11/09(金) 11:53:00 ID:EQJjMC4v
謙信ヲタニート涙目w
画面の向こうで本気で泣いてるのが見えるwwwwww
617人間七七四年:2007/11/09(金) 12:29:07 ID:70+FR42A
>>616
おい百姓、コテはどうした?
618人間七七四年:2007/11/09(金) 12:45:46 ID:bVLcpkep
ぷ。自演ばれてやんの
619人間七七四年:2007/11/09(金) 13:12:27 ID:GEnINLno
謙信厨が話しそらそうと必死だなw偽百姓も謙信厨の自演だろ
620人間七七四年:2007/11/09(金) 15:01:46 ID:NdC3M5Gq
なんだ昨日は百姓がいなかったから落ち着いていたのに百姓が登場すると、まるで自演のようにレスが集中するなw
621人間七七四年:2007/11/09(金) 15:19:05 ID:GEnINLno
御託はいいからソースだせよ謙信厨
622人間七七四年:2007/11/09(金) 17:39:55 ID:XUyeiy1s
政宗厨は悪くないお
捏造と真実の区別もつかなくて哀れなだけだお
政宗本人が屁理屈大好きだから信者もそれに従うだけで悪気はないんだお
きっと伊達家の家風なんだお( ^ω^)
623人間七七四年:2007/11/09(金) 18:17:34 ID:kcnJ3LIS
母親殺し謙信厨のタクシー運転手

同僚の話によると、遅刻、当日休みが多かった。体調不良と言い訳していたが、仲の良い同僚には信長の野望のやり過ぎで寝不足だと話していた。
自宅では、一日中『信長の野望』をやっているらしく、必ず上杉謙信でプレイしてるよが口癖だった。
一度上司から「家康のほうが強いだろ」と言われ、目を充血させながら怒ったのは未だに笑い話。
624人間七七四年:2007/11/09(金) 18:43:33 ID:XUyeiy1s
>>623
お題目を唱える時間だぞ
なむ〜〜〜みょう〜〜〜ほ〜〜〜れん〜〜〜げ〜〜〜〜〜きょう〜〜

625人間七七四年:2007/11/09(金) 19:02:58 ID:TQQntSyq
謙信厨三人衆のオッサンって創価学会員だったのか?
迷惑だから、こんなとこで勧誘するんじゃねぇよw
626人間七七四年:2007/11/09(金) 20:05:09 ID:XVSu5nOO
おいおい、ヤバイ方に話が行っちゃってるよ。
イッテル奴らに占領されちゃったな。このスレは。
627中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62 :2007/11/09(金) 20:16:55 ID:MaYW/CSs
百姓ちゃんが絡むとすごいね・・・
一応はっておきますね
荒さないようにね
【輝宗】伊達氏を語ろう 2【稙宗】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153287076/
628人間七七四年:2007/11/09(金) 21:57:00 ID:XVSu5nOO
皆さん、臼井城で論議しましょう。
なぜ、謙信は失敗したのか。
佐竹義重は何をやっていたのかを・・・。
629人間七七四年:2007/11/09(金) 22:19:13 ID:TQQntSyq
身の程知らずだからさw
630人間七七四年:2007/11/09(金) 22:23:27 ID:XVSu5nOO
お前は黙っていろ!!。
631人間七七四年:2007/11/10(土) 00:38:01 ID:kHJm3ECe
>>623
かなり頭に血が上っているようですが、ここは2chですので
熱くなったら負けですよ。
632人間七七四年:2007/11/10(土) 01:28:25 ID:XWNpOb8w
謙信アンチの下劣さはスレの品位を下げまくるな・・・
633仙台藩百姓 ◆SenDAI3Pcs :2007/11/10(土) 18:00:35 ID:Abm9CpX+
こりゃまた酷い有様だお┐ (´ω`) ┌ヤレヤレ
萎えたけど一応約束だから書いとくお
634人間七七四年:2007/11/10(土) 18:06:36 ID:GI+wQgWP
アイアンバタフライ!!
ありゃ、ヘヴィで最高だぜ!!。
635仙台藩百姓 ◆SenDAI3Pcs :2007/11/10(土) 18:07:29 ID:Abm9CpX+
(上杉家文書)
太田道譽條書 寫

一、御座所古河然事、
一、公方様之事、
一、武・上・常・野州之事、付兩條之事
一、西方河内守方可被引立事、付例式表裏仁之事
一、一儀二付而以誓詞申達候事、
以上       
       三樂齋道譽
卯月廿一日
       河田豐前守殿
       山吉孫次郎殿
636仙台藩百姓 ◆SenDAI3Pcs :2007/11/10(土) 18:08:54 ID:Abm9CpX+
(歴代古案所収文書)
北條氏政條書
一、御行之事、付條々手日記、
一、関東公方様御名代之事、
一、氏康計儀之事、
一、愚息壹人可進之事、
一、書禮之事、
一、晴信計儀之事、
一、小田・佐竹御調之事、
一、八正院殿御連枝御前之事、
一、下總國之事、
一、太田美濃守可被、付扇谷之儀、
以上
637仙台藩百姓 ◆SenDAI3Pcs :2007/11/10(土) 18:11:06 ID:Abm9CpX+
(伊佐早文書)
北條氏康條書
條目
遠路口上難屆存二付而、捨思慮、以糊付申入候、御存分、糊付之御返答、可爲本望事、
一、先年亡父氏綱應上意令進發、於總州國府臺、遂一戰、
  稀世御父子三人討捕申候、依勲功官領職被仰付、
  御内書兩通頂戴候、此筋目雖可申被所存候、既氏政實子御名跡可被定置由候、
一、於河内、年来随氏政下知無二走廻輩、數ヶ所候、
  只今可離氏政手前事、外聞令折角候、彼所々此方へ於被付者、
  忝可爲芳志候、但御納得有之間敷付而者、不及是非歟、
  就中今度松石對遠山左衛門・併和六ヶ所被書立、
  先年申歳越府御陣下へ馳参由候、只今越相和融一味之間、
  申歳之是非不入歟、既忝皆任御作意上者、
  不限代以戦功相拘候條、被聞召分可爲本望事、
一、公方様御座移之儀二付而、藤氏様御進退之儀、
  松石被申候、遠國無其聞歟、去寅歳御他界二候、
  義氏様へ自晴氏様御續、無其隠候、既越相御和融之上者、
  義氏様御筋目無紛候條、可然歟、不可過御鹽味事、
右、條々申合上者、一日も急速、至信州御出張、氏政自身甲州へ可亂入候、
此度信玄敗北之砌、不被醍鉾、信甲御退治念願之外、無他候、若々此上御遲々付者、
638仙台藩百姓 ◆SenDAI3Pcs :2007/11/10(土) 18:16:17 ID:Abm9CpX+
(歴代古案所収文書)
三樂齋道譽・梶原景政連署條書 寫

一、御越山ニ相極候事、付、口上
一、南方御無爲、都鄙覺茂可然御様躰之事、付、國分之事
一、先段如申、義重へ御懇切、於某父子茂可畏入事、付、御刷之事
一、武・上・常・野州、全御刷之事
一、関宿様之事
一、父子進退之事、付、近年騎衆、以注文申達候事
一、御無爲御落著上の事
以上
卯月廿一日
          政景
          道譽

河田豐前守殿
639仙台藩百姓 ◆SenDAI3Pcs :2007/11/10(土) 18:17:45 ID:Abm9CpX+
翌年のものだけど一応

(上杉家文書)
北條氏康・氏政連署起請文
敬白起請文
一、今度以條窪冶部、自山吉方條々承、重而進藤・須田方来著、因玆愚意無僞所、
  翻寶印以誓詞申候、有御分別、彌御入魂可爲本望事
一、岩付之儀、於佐陣可渡進由候、去秋以来如申定、信州歟、
  至于西上州一途御調儀上與申候得共、強而御陣中ニ而與承候者、
  可任其儀候、仍御行不可有相違旨、如案書御誓詞可給事付、
  太美事、如度々申入、當敵之様ニ有之而、敵方之儀取持所、
  淵底御存知之前候時者、岩城渡置可申上、氏政與太美疑心晴候様之御扱専一候、
  同者梶原源太方、當地ニ暫被指置専耍ニ存候、抑越・相一和之上者、兩國吉凶同前ニ候哉、
  御啐啄可爲喜悦事
一、御養子之事承候、自最前如申候、柿崎方、不然者、彼息左衛門尉方可被指越候、
  至于其儀者、御養子於西上州渡可申候事
以上
右條々若於僞者、日本國中大小神祇、殊伊豆箱根兩所權現・三嶋大明神、
別而八幡大菩薩※・摩利支尊天御罰可罷蒙者也、仍如件
庚午 二月十八日
            氏政(花押)
            氏康(花押)
山内殿
640仙台藩百姓 ◆SenDAI3Pcs :2007/11/10(土) 18:25:03 ID:Abm9CpX+
旧字体がでないものは新字体に変換してあるお

>>639 ※原文で「菩薩」部分は略字
641人間七七四年:2007/11/10(土) 18:35:00 ID:Y10IxLB6
その調子で上杉家文書の東大史料編纂所整理番号五五四と五五九も書き出すんだ
642仙台藩百姓 ◆SenDAI3Pcs :2007/11/10(土) 18:47:46 ID:o7lBXUvt
補完よろしくだお( ^ω^)
643人間七七四年:2007/11/10(土) 19:30:58 ID:Y10IxLB6
五五四が『簗田方之事』ので
五五九が氏照からの山王山砦破却の報告だよ。
644中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62 :2007/11/10(土) 19:35:19 ID:4JjY601q
流れを切りますが
>>627で紹介してる伊達氏のスレですが
URL間違えてますね。すいません
正しくはこっちです
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194605218/l50
スレ汚しごめん
645人間七七四年:2007/11/10(土) 19:41:18 ID:lOgPbY4Q
五五四 北条氏康同氏政連署条書案
覚 寫
一 利根川内者不及申、西上州同前之事
一 藤田之事
一 秩父之事
一 成田之事
一 岩付之事
一 松山之事
一 深谷之事
一 埴生之事
一 梁田方之事
一 房州之事
右、条々申定上者、一点違變有間敷候、於其者、向後可御心安候、以上、
          氏政
          氏康
646人間七七四年:2007/11/10(土) 19:48:07 ID:lOgPbY4Q
五五九 北条氏照書状
就越相御一和、沼田衆任内儀、山王山可令破却之段、氏康父子存分申達處、
御喜ス之由、預御状候、本望満足候、於向後、彌緒篇不可存無沙汰候、此旨
可得御意候、恐々謹言、
     潤五月七日     氏照(花押)
    越府
647人間七七四年:2007/11/10(土) 19:49:38 ID:lOgPbY4Q
>>645訂正
梁田方→簗田方
648人間七七四年:2007/11/10(土) 19:57:04 ID:G+pzhk22
アサーリ補完されててワロタwwwww
649人間七七四年:2007/11/10(土) 20:06:17 ID:Y10IxLB6
>>645-646
乙。
よくすぐに書き出せるね。
650人間七七四年:2007/11/10(土) 20:34:14 ID:4lKLCoHY
こんな流れになってもらいたいよな。
罵倒しあうのが好きな人は隔離スレの【謙信最強】スレへどうぞ
651人間七七四年:2007/11/10(土) 21:28:46 ID:GI+wQgWP
アイアンバタフライ!!
ありゃ、ヘヴィで最高だぜ!!。
652仙台藩百姓:2007/11/10(土) 21:57:34 ID:o7lBXUvt
>>645の文書は初めて見たお( ^ω^)
東大史料は米沢市所蔵文書の写しだっけかお?
全文書見れるお?
>>646の文書も歴代古案所蔵文書に恐らく同様と思われるものがあるけど結構違いがあるお
全く同一資料と言うわけじゃないのだろうか
米沢市が所蔵していない文書についても調べたいお
一緒に永録12〜13年間の全文書洗ってみないかお?( ^ω^)
それと北条側の文書ばかりだけど上杉側が送った文書はないのだろうか
神奈川及び大阪の方、情報提供求むお( ^ω^)
653人間七七四年:2007/11/10(土) 22:30:23 ID:lOgPbY4Q
歴代古案は写本だから上杉文書の方が原本じゃね?
654仙台藩百姓 ◆SenDAI3Pcs :2007/11/10(土) 23:11:07 ID:o7lBXUvt
うーん、どうだろうね(;^ω^)
歴代古案は上杉家文書以外の書状も含まれているのではないかお?
深く考えてなかったけど読み比べてみる必要があるね
とりあえず両方洗ってみるお(;^ω^)
655人間七七四年:2007/11/11(日) 00:36:31 ID:fg7EazcL
歴代古案の翻刻本には正文があるものには注釈がついてるよ
656人間七七四年:2007/11/11(日) 00:51:36 ID:NW6P/xpS
東大史料編纂所っていうんだから『大日本古文書家わけ上杉家文書』でしょ。
三万もあれば上杉家文書全部揃うだろうし大きな図書館には大抵置いてあるんじゃないのかな。
あとは新潟県史資料編にも大体この大日本古文書のままで収録されていたはず。
あと俺が持ってる本に引用してあるのでは山形県上杉家文書として
『簗田方之事』ではなく『簗田之事』で違變の違が異体字だった。
上杉家文書には越相同盟を仲介した上野新田(群馬県太田市)の由良成繁宛ての氏康の書状もある。
謙信の信用を得るために由良はこれをも上杉方に送付したものと考えられるが、
これによれば誓詞・条目等の委細は使僧天用院に申し含めてあるということで
結局口で言った部分もあるから文書にだけ頼るのは無理だ。言うまでも無いことだろうけどね。
とりあえず、まずは関東戦国史の俯瞰できるような本から読んで見るといいんじゃないかな。
千野原靖方『関東戦国史』はこの関宿攻防戦と越相同盟を絡めて書いている。
俺は読んだことは無いけど同著者の『房総戦国史』にはもっと詳しく載っているのではないかな。
謙信の越山が困難だったことについても文書がある。永禄10年4月7日の発智長芳宛ての書状だ。(発智氏文書)
「岩下・白井・厩橋口之御手ふさがり与申、根利通者東方往復之為、殊由前々之御刷之妨二候間」
(グーグルアースでも見ながらどうぞ。)岩下口とは新潟県と群馬県の三国峠を越えて吾妻の岩下城に出て、
そこから今の安中市の飽間に入って和田(今の高崎市)に出るルートで、吾妻が武田方の真田氏に押さえられたので通行困難。
白井口とは三国峠を越えて白井を経由に入りそのまま南下し、和田に出るルートで(近世の三国街道)、総社も箕輪も武田方となっては通行困難。
厩橋口とは清水往還(今の清水トンネルのそば)から沼田に入り、赤城山の東麓を通って厩橋(今の前橋)に出るルート(沼田往還)。厩橋が寝返ったので通行困難。
しかも新田(今の群馬県太田市)の由良がいる。
他には赤城東麓の桐生市から栃木県佐野市に出るルートもあることにはあったが、やはり使いづらいだろうね。
657人間七七四年:2007/11/11(日) 12:07:27 ID:2Bb3sdNC
関東戦国史に興味ありますので、大変、勉強になります。
で、質問ですが、高志書院の「定本北条氏康」という書籍がありますが、
内容はどうなんでしょうか。関東戦国史において役立つ内容が書かれていますかね。
658仙台藩百姓 ◆SenDAI3Pcs :2007/11/11(日) 14:01:31 ID:/8jMBBcc
色々取り寄せてみたから後で纏めてうpするお
結構骨が折れそうだお(;^ω^)
659人間七七四年:2007/11/11(日) 15:42:00 ID:m/0L7+0M
仙台藩百姓さん、期待してますよ!
660人間七七四年:2007/11/11(日) 16:06:54 ID:AWMCp0Zf
書状の簡単な解説をしてくれるとありがたい。
661584=641=656etc.:2007/11/11(日) 19:28:43 ID:NW6P/xpS
双方の使者の派遣については2月6日に由良宛に北条の使僧天用院を派遣したことを伝え(上杉家文書)たが、
越後への派遣はなかなか進まず、3月4日に北条氏照が大沢下総守(由良の家臣ね)宛てに
交渉が暗礁にのりあげたので打開するようにと伝えている(志賀槇太郎氏所蔵文書)。
3月26日の氏康の阿久沢氏宛て書状(阿久沢氏は由良に従っていた国人で、先述の沼田往還沿いの領主。)では
使者の送迎のことを伝えて『いよいよ走り廻り肝要』としているので、このころに多少進展があったようだ。
とはいえ簡単にはいかず、5月18日にやっと天用院は越後塩沢についたという。(伊佐早文書)
五五四の文書は大日本古文書上杉家文書では4月のものとしていて、この交渉中に新しく北条側から提出されたと考えられる。
5月中に天用院は謙信にあえたはずで、閏5月に山王山砦破却の報告があり、
6月には上杉側から山吉豊守が使者に立ち、6月15日に新田についたという(上杉家文書)。

謙信からの文書も北条文書として北条側にあるようだが、山王山砦破却以前のものは確認できず。
(北条/北條文書で探すとあれだらけだな…w)
662人間七七四年:2007/11/11(日) 21:16:26 ID:l0UhYJSW
>>657
『定本北条氏康』は読んでおいたほうが良いと思います。
663人間七七四年:2007/11/15(木) 08:15:41 ID:4P5PmGMC
史料でてきたら謙信厨だんまりだなw
664人間七七四年:2007/11/15(木) 19:02:42 ID:26uvdPGd
煽るしかできない人たちですから。
665人間七七四年:2007/11/16(金) 09:33:06 ID:lGJhFuwp
ただ単に後北条スレに活動の場が移ってるだけだろ。
666661:2007/11/17(土) 10:25:12 ID:SS/hKegN
それよりも仙台藩百姓以外の「越相同盟には関宿を救う意図があった」否定派はどこ行ったの?
史料が出た後の方が議論が盛り下がるとは。
まぁこんなこというのは俺が出遅れて悔しいだけなんだけどね。
667人間七七四年:2007/11/17(土) 15:52:18 ID:VI09xDwb
ぶっちゃけどうでもよくなったんじゃねw

越相同盟締結の主目的は公方に関することも含めた関東の利権そのものに関する事だし、
それに関宿が絡んでいようがいまいが、同盟結んで北条方が攻めることは出来ないのが明白な以上、
その後の流れに大差があるとは思えん。

そんな事でいつまでも意地になって議論するのもどうかと・・・。
668人間七七四年:2007/11/17(土) 17:11:20 ID:izWRk/ft
>>666
クソコテというものが気に入らんから議論やめた
669人間七七四年:2007/11/17(土) 17:34:38 ID:9t1X2Brs
今更ながら、この臼井城戦の正式な資料を知りたいのですが・・・。
670人間七七四年:2007/11/17(土) 17:43:53 ID:IVuf74gh
>>666
上杉側が史料を明示しつつ論破してるのは明白
これ以上煽り屋に付き合う必要も無いわな
最後まで粘っていた仙台藩百姓とやらも良い勉強になっただろうし

その無知だった仙台藩百姓も散々煽ってきたけど、
相手から誤った情報を幾つも修正&補完&さらに説明までしてもらって終了
671人間七七四年:2007/11/17(土) 19:51:05 ID:pfnq1qpb
つか、>>661までの流れをどう読んだら
>>663
のような発言が出てくるのか
それが不思議
672人間七七四年:2007/11/19(月) 20:27:14 ID:wdI4o/L1
あれ?。
議論、止まっちゃったの?。
673人間七七四年:2007/11/19(月) 20:37:44 ID:71Na0KfQ
仙台藩百姓が史料を提示したら止まっちゃった。
その史料を元に議論が交わされると思ったのに……
674人間七七四年:2007/11/19(月) 21:00:08 ID:o4sr1jYB
まずはお前が語れよアホ
675人間七七四年:2007/11/19(月) 21:52:52 ID:eE2slCiK
臼井城の戦いって城壁が倒れただけだろ
敗戦といってもアクシデントじゃん
前年の中風といい不運続きな謙信
676人間七七四年:2007/11/20(火) 00:24:50 ID:DlSrUGjo
>>673
仙台藩百姓が史料を提示したから止まったんじゃない
その提示された内容では全然話にならないから
>645-646や
>656
>661らが
挙げるべき史料を提示して反論
議論が終わった
677人間七七四年:2007/11/20(火) 00:47:48 ID:pAXXzA96
違うよ。もともと関宿について屁理屈粘着合戦してただけ。
だいたい関宿はスレ違いも甚だしかった。
678人間七七四年:2007/11/20(火) 07:01:12 ID:1cLhy+z1
そうだぜ。邪魔者が去ったから、ここは、
本題の臼井城失敗の原因を議論するべきだ。
679人間七七四年:2007/11/20(火) 07:32:29 ID:OdxjcV43
そもそも臼井敗退の記録は何に記述されてるの?
680人間七七四年:2007/11/20(火) 20:24:52 ID:1cLhy+z1
それを知りたい。
681人間七七四年:2007/11/20(火) 20:39:11 ID:K72tVtOh
とりあえずの関宿の件については
これ以上の反論があるなら
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192090470/l50
に書いておくれよ。

>>679
『諸州古文書信州十四』『豊前氏古文書抄』
死者五千人というのもこれのようだ。
和田城については謙信が失敗を認めた書状があるが
臼井城については上杉側で負けを認めたものはないようだ。
戦いがあったという事実に関しては北条上杉双方に感状が残っている。
682人間七七四年:2007/11/20(火) 20:55:12 ID:/mEonOm4
城攻めで損害が出たのか後詰めに損害出されたのか
683人間七七四年:2007/11/21(水) 00:25:43 ID:jhjWdj41
城攻めで損害がでたんだと思うよ。
壁だか廓が崩れて寄せ手が怯んださいに、城側の反撃が成功したって
感じっぽい。

普通に後詰されて損害だす謙信ではないでしょう。
684人間七七四年:2007/11/21(水) 06:52:49 ID:o/HVkN1Q
北条氏政が武田信玄に送った書状に
「長尾の敗北は必定であるから一日も早く出馬して頂きたい」
(諸州古文書)とある。
しかし、これだけでは詳細がわからない。
くわしい記述のある書籍があったら、教えて!!
685人間七七四年:2007/11/21(水) 07:15:42 ID:DMdUVKGc
それは実際敗北決定した氏政が信玄に助けを求めた書状として有名だよ
686人間七七四年:2007/11/21(水) 08:36:24 ID:lb6+ZlwF
いい加減な発言は控えて下さい。
687人間七七四年:2007/11/21(水) 08:57:05 ID:IGPHpCEe
つか臼井城には謙信自体は出向いてないし。薄壁一枚と言われたくらいまで追い詰められ落城寸前だったしね。
688人間七七四年:2007/11/21(水) 20:18:08 ID:o/HVkN1Q
もっと詳しく御教授願えませんか。
689人間七七四年:2007/11/21(水) 21:17:38 ID:DMdUVKGc
実際は>>687の言うような状況で城攻め自体は成功してたんだけど
城外に北条方の後方支援が駆けつけてきたので
その相手をする為に上杉方が攻城を解いた。っていうだけ

言っとくけど、これ適当な発言じゃないからね
臼井城攻防スレで騒いでる奴がいるからって何でもかんでも真に受けちゃダメだよ
ちゃんと戦国史を勉強すれば、みんな知ってることだから
690人間七七四年:2007/11/21(水) 21:44:07 ID:8sHfw7SD
臼井城を落としたら小田原へ向かう予定だったのかな?
もう一度鶴岡八幡宮に参拝するだけでも権威誇示になるけど。
691人間七七四年:2007/11/21(水) 21:45:32 ID:o/HVkN1Q
うーん。では、臼井城の上杉敗戦というのは
誇張されている、と思ってよろしいのですか?。
ただ単に、攻略を諦めて軍を退いた、と・・・。
692人間七七四年:2007/11/21(水) 21:47:01 ID:o/HVkN1Q
うーん。では、臼井城の上杉敗戦というのは
誇張されている、と思ってよろしいのですか?。
ただ単に、攻略を諦めて軍を退いた、と・・・。
693人間七七四年:2007/11/21(水) 22:02:55 ID:IGPHpCEe
謙信自体は小田城落城後に小山氏が小田の助命嘆願をしてきたので小山氏の顔を立てて土浦城に逃げた小田の降伏を許し小田城返却などで忙しかったはず。
臼井城への出張派遣は里見氏へのサービス。
北条の後詰めは背後の里見の牽制に引っ掛かってたはず。
694人間七七四年:2007/11/22(木) 07:00:08 ID:ce3NFdQs
この臼井城の敗戦が原因で関東諸将が謙信から離反した、
と「定本上杉謙信」「ミネルヴァ出版上杉謙信」等の新しめの文献で
鬼の首を獲ったように書き立てているけど、実際はそんな重要な戦では
なかった、と思ってよろしいのですか。
695人間七七四年:2007/11/22(木) 07:20:44 ID:ym63QSjM
そんなターニングポイントになるような戦いじゃないね。
越相同盟の方がよほど、謙信と諸将の不和を加速している。
696人間七七四年:2007/11/22(木) 09:29:36 ID:Fe118Nzz
しかも関宿を救う妙案がないままにとにかく反対する万年野党な無能な関東諸将…まぁ利根川以東の旧古河公方足利成氏圏の人達はアホだからね。
旧扇谷上杉の家臣の太田氏や息子の梶原の場合は何がなんでも岩槻城に帰りたいって気持ちがあるから反対。
関宿城が簗田の降伏で落城したら古河城との完全連結が達成され北条勢力が自領に肉薄しまくって危機感が100倍くらいになってザマみろ佐竹・宇都宮・結城・小山・太田・梶原みたいなwww
山内上杉を継いだ謙信が西上野最大の拠点たる平井城を自ら破棄してまで西上野方面を犠牲にしての東征救済支援大サービス遠征を有り難いと思わず非協力的な態度をしてたクセにみんなが謙信また越山してくださいと哀願涙目www
でも謙信は死んじゃったから、北条が拡大し佐竹が伊達と北条にフルボッコ寸前になるんだよなwww
697人間七七四年:2007/11/22(木) 11:08:58 ID:yq+5rTpV
だいいち戦国時代の利根川や渡良瀬川や江戸川や古河エリアなどの湿地帯の規模や渡河ポイントや大河の流れが明確にはわからないのが理解を難しくしてて致命的。
また臼井城で白井入道が謙信を破ったみたいな話が極めて講談話じみた内容なのが大嘘捏造話みたい過ぎて信憑性が余りに低すぎる。
698人間七七四年:2007/11/22(木) 11:50:31 ID:Pz1IOZkt
謙信が生きていたら、上杉家を滅亡に追込んでただろうね!
699人間七七四年:2007/11/22(木) 12:09:09 ID:Pz1IOZkt
リアル謙信は、タカ&トシのタカにそっくりだぞw
これじゃ、関東の大名ってか、越後の田舎豪族にさえもナメられるなw
700人間七七四年:2007/11/22(木) 12:15:49 ID:Fe118Nzz
>>698
謙信死亡時には佐竹らの為の支援ルートを確保し続けた挙げ句に越中・能登・加賀・出羽の一部・飛騨の一部に越前の一部豪族まで支配圏を拡大させたけどな。
701人間七七四年:2007/11/22(木) 15:24:30 ID:lx6idowN
ID:Pz1IOZkt、隔離スレから出てくるな
702人間七七四年:2007/11/22(木) 16:05:13 ID:ym63QSjM
>>700
概ね同意だけど、
関宿が陥落して「里見」への支援ルートは断たれちゃったよね。
里見が反北条方から脱落したのは致命的。
703人間七七四年:2007/11/22(木) 16:26:26 ID:Fe118Nzz
もともと里見支援ルートなんてないよ〜。
里見が国府台に進出して敗北したり正木が臼井城を陥落させたりした時なんかも上杉との合流はなかった。
どっちかっていうと孤高の存在が里見義尭親子と言える。
去年は久留里城を見れて感動したなー。
704人間七七四年:2007/11/22(木) 17:31:09 ID:UpxpfhbR
>>695
里見以外については越相同盟以前にもう相当不和になってたよ。
705人間七七四年:2007/11/22(木) 22:01:40 ID:ce3NFdQs
「臼井城失敗以降、関東諸将は上杉謙信から佐竹義重を中心に北条へ
対抗するようになった」と、研究家の連中は言っているが、果たして
そうなのだろうか。謙信の要請を断ったり、越山を要請したり、
仙道方面に執着があったのか行動がチグハク。結局は、謙信亡き後は北条に劣勢に立たされる。
羽柴の力により北条討伐の宿願は果たされるけど、どうも文献調べる度に佐竹義重の行動の真意が読めない。
706人間七七四年:2007/11/22(木) 22:12:14 ID:UpxpfhbR
>>705
謙信も三戸駿河守内室宛書状で佐竹は「手を返した」と言っているよ。
永禄10年3月に武田・北条と結んだから断交して佐竹に攻められた白河義親への援助を約束している。
翌月ころには簗田も北条、足利義氏と誓詞を交わして和睦している。
反北条勢力はもはや里見くらいしかいなくなったので、中心に抵抗するも何もない。
これらの勢力が関宿攻めでまた謙信を頼るようになったのももう書いたはず。
>>704を書き込んだ時点でそう思ってたんだけど、そのうち佐竹の行動をまとめてみよ。
707人間七七四年:2007/11/22(木) 23:57:26 ID:q/TuRkI2
どんなに頑張っても臼井で敗北、謙信劣勢は定説
708人間七七四年:2007/11/23(金) 01:04:20 ID:qPZZzXpz
>>706
でも三次関宿合戦以降、佐竹と上杉の関係は修復していくんですよね?
天正四年に謙信が由良を金山に追い詰めた最中、
義重と親しい書状のやり取りがあったとか

謙信の死ぬ直前に計画されていた結城氏救援が実施されていた場合
佐竹も協力を惜しまなかった筈・・・?
(ここでも?を使うくらい義重の思考は理解出来ないケースが多い)

謙信が死なず、計画通り北陸の大兵力が関東に討ち入った場合、
どれだけの諸侯が謙信側に付いたか知りたいものです
709人間七七四年:2007/11/23(金) 02:06:55 ID:KbyoQs3G
天正三年に揚北衆を完全に傘下におさめ越後統一を完了し北への不安を払拭。さらに武田勝頼とも和議を結び信濃方面への備えも必要なくなり、
天正四年に本願寺と和議を結び背後に憂いなく、
天正五年には能登・加賀を攻略し織田軍1000余人を討ち果たし北陸安定化に成功。
天正六年に加賀・能登を織田への抑えとして固めさせ越中・越後に大動員令をかけ大挙関東へ向けて越山寸前に死去。
だが死去してなければ…今回は死活問題にまで事態が逼迫した佐竹・宇都宮・結城・小山がマジで積極的に協力予定。
謙信は今までと違い各戦線がこれまでになく安定。
北条がフルボッコ間違いなしwww
710人間七七四年:2007/11/23(金) 02:21:41 ID:P/91ndAS
取らぬ狸のなんとやら
711人間七七四年:2007/11/23(金) 11:04:39 ID:HNuoEdO0
ぽっくり逝っちゃったもんは仕方ないな。
佐竹は義重本人と謙信はそれなりに仲良かったが
佐竹の重臣が謙信と折り合い悪かった説があったと思うが
それで佐竹の行動がちぐはぐになったのでは?
712人間七七四年:2007/11/23(金) 13:17:24 ID:E/s+8TfQ
個人的な関係はともかく、
勢力のトップ同士だと、自身が所属する勢力の利益のために動かなければならない。
その差が如実に現れたんだろうね、佐竹の重臣の所為じゃなくて。
713人間七七四年:2007/11/23(金) 15:28:48 ID:JF3PGH3C
納得。
714人間七七四年:2007/11/24(土) 02:49:17 ID:yH0viF7S
まぁ佐竹は身内同士でもちぐはぐだからしょうがない。
715人間七七四年:2007/11/24(土) 15:37:58 ID:xYpIrxnn
結局、臼井城の大敗が言われるのは、その後に関東諸侯が一斉に謙信から離反しているからだよね。
佐竹だけでなく、他の関東諸侯の動きも良くわからないので、『臼井城で大敗したので離反した』と書くと整理しやすいし、
講談においては成田が下馬しなかったから引きずり落としたというような話も必要になる。
関東諸侯の動きを見て謙信の関東経略のなかに位置づけることで臼井城攻めがどんなものだったかがわかるだろう。
>>708
小山氏の没落の後、里見が追い詰められると天正五年初頭に関東諸侯から一斉に使者が送られた。
(正木、里見、梶原、宇都宮、結城)
謙信は水谷、結城に返事を送って近いうちに越山することを告げるが、この越山は結局行われなかった。
結局里見はついに北条と和睦せざるをえなくなる。
このことで関東諸侯の謙信への信頼も少し揺らいだかも知れない。
翌年、北条は再び北関東に兵を進めるが、佐竹、結城、宇都宮、那須らの抵抗で膠着状態に。
佐竹が反北条の中心になったと言えるのは、この時だね。宇都宮が一時離脱するも義重はまた復帰させている。
その翌年に謙信が急死。
>>711
その説は知らないが謙信は永禄九年(1566年)九月に江戸重通、佐竹義久に対し、
佞人表裏(高広の裏切り)で音問が絶えたが、義昭のころのようにまた仲良くしたいと言っている。
翌年の三戸駿河守内室宛書状でも北条高広に任せたので、佐竹、横瀬(由良)らをはじめとした諸侯に手を返られたと言っている。
実際に高広が佐竹との仲介役だったようだが、それでも高広のせいで裏切られたというのは謙信が言ってるだけで検証できないけどね。
義昭のころのように…と言っているように、佐竹義昭の急死は佐竹にとっても謙信にとっても痛手だったろう。

佐竹と上杉の断交により、翌月、簗田、野田、相馬も北条と和睦せざるを得なくなる。
その後に北条は野田氏に圧力をかけその居城栗橋城を接収し、関宿城へも圧力をかけ、陣城を築いて包囲する。
そこであわてて佐竹らが上杉方に復帰し、越山要請。
なお、野田氏は越相同盟後に一時的に栗橋城に復帰するが、結局そのまま没落したようだ。
永禄十年の段階で謙信は佐竹に三国同盟の破綻の可能性を伝えているのに、武田・北条と手を組んでしまった。
永禄十年中に佐野の維持に協力していれば、赤城山麓から佐野に出るルートも確保できたのに。
716人間七七四年:2007/11/24(土) 18:00:57 ID:w7SMCFpr
>佐竹義昭の急死は佐竹にとっても謙信にとっても痛手だったろう。
それは言えるかもしれない。若年の義重を重臣達が、謙信との関係を
邪魔した感があるからね。
717人間七七四年:2007/11/24(土) 19:05:52 ID:Uh/Azdwm
やはり大雪のために謙信の救援が遅れに遅れ武田北条連合軍による松山城攻撃に里見太田の救援が失敗し正月酒盛りで国府台で勝手に大敗。
(このあたりで最前線の忍城の成田と弟の騎西城が北条へ。)
謙信に人質すら出さないために上杉軍自ら平井城を破却し西上野を一任することにした傲慢な長野氏の箕輪城が落城。
(太田金山城の由良氏と厩橋の北条が北条との和睦へ→越相同盟への複線)

重要な事件はこのあたりの推移であって臼井城の件は実際にはよくわからないことだらけだし大した事件はおきてないでしょ。

旧古河公方圏の下野・常陸・下総・上総あたりへの謙信の平和維持活動ボランティアがなければ戦線を維持できなかったのが佐竹ら。
そういう意味では由良・足利長尾兄弟や佐野・佐竹・宇都宮らが北条に挑んだ沼尻の戦いとその後の推移のようにミジメなものになる。
また忍城と騎西城の成田兄弟は小田原で拉致されるしなw
ほんと馬鹿な関東諸将だな。
718人間七七四年:2007/11/24(土) 19:19:15 ID:Fu25Fx4A
>>717
正月の酒盛りは北条の捏造で
実際は二年に跨った戦だったらしい
最初の激突で里見・太田連合が大勝
当時の氏康厨はこれを誤魔化す為、すぐ次の戦が始まったように捏造を始めた
要するに二回有った国府台合戦を、無理矢理繋げてしまったんだと
その繋げる要素として「酒盛り」なんて嘘をついた

まぁどっちにしろ決戦に持ち込まれてしまったのは、どうなんかなぁ?とは思うね
謙信が越山してる事を知っていながら・・・膠着状態に持ち込めなかったんだろうかと
「酒盛り」まではいかなくても、前年の大勝で奢っていたのかもしれない
719人間七七四年:2007/11/24(土) 19:37:01 ID:QRX4kOr/
>>717
佐竹は2月に佐野攻めを放棄し武田に内通し白河結城を攻める為に北上した。
これが4月に厩橋城の北条が謀反するスイッチになってしまってるから北関東同盟を崩壊させた佐竹の罪は重いね。
なんせ佐野攻撃は赤城山経由での小山と宇都宮への援助ルート確保が目的で、佐竹・宇都宮・結城婚姻養子同盟の支援の一環。
それなのに佐竹の裏切り。
720人間七七四年:2007/11/24(土) 20:05:35 ID:xYpIrxnn
>謙信に人質すら出さないために上杉軍自ら平井城を破却し西上野を一任することにした傲慢な長野氏の箕輪城が落城。
平井城破却でさえ怪しいんだが、それ以外のソースは?
謙信は倉賀野攻めや数度にわたって和田城攻めを行っており、西上野を一任してはいないよ。
和田城攻めの失敗については謙信自ら国府台で太田、里見が負けた時よりも『窮屈難儀』と言っているよ。
721人間七七四年:2007/11/24(土) 20:25:00 ID:w7SMCFpr
やっぱり、謙信は厩橋城には信頼出来る家臣を派遣するべきだったね。
関東諸将を統括できずにいたから、佐竹をはじめとする有力大名の独走を
許し、北条の侵食を進める事になった。
謙信の決定的な政策がないから、後年、口減らし出兵と疑われる所以になってしまう。
722人間七七四年:2007/11/24(土) 20:32:37 ID:xYpIrxnn
>>720倉賀野『救援』だった。スマソ。それで>>717宛てね。

>>721
色部の前に佐野に駐留させていた(誰だっけ…)のも勝手に帰ってきたようなものだし、
信頼できる手ごまが少なかったんだろうね。
723人間七七四年:2007/11/24(土) 20:35:47 ID:nvMPKO4O
>>720
平井城は謙信が廃城にしたんだろ
北条氏は平井城を北条幻庵に与えていた。越後軍が幻庵を1560年に敗走させて手中におさめて廃城にした
724人間七七四年:2007/11/24(土) 21:15:11 ID:6aPG0zKG
また謙信厨が入り込んできてるのかよ。
隔離スレに池や
725人間七七四年:2007/11/24(土) 21:41:50 ID:qkMtkYXH
お前はもういい
726人間七七四年:2007/11/24(土) 21:44:23 ID:w7SMCFpr
謙信厨ってどの方?。
727人間七七四年:2007/11/24(土) 21:59:52 ID:xYpIrxnn
>>723
平井城破却が怪しいと思う理由。
北条は浦野氏への書状で倉賀野城に人質を出すよう言っており、
この時点で既に平井城が北条側の拠点でなくなっていたようだ。
平井城はそもそも信濃からの鎌倉街道沿いにあった。
この為、信濃から内山峠、余地峠等の諸ルートを使って侵攻しようとする場合、平井城で迎撃、或いは行動を制限できる。
ところが、この平井城が破却されてしまっていたため、信玄は甘楽郡制圧後、
西上野は無論、東上野、北武蔵でも楽に北条と共同作戦を取ることができるようになってしまった。
和田城を離反させ、鉄砲を入れることができたのもこのルートがあればこそだろう。
これにより西上野は南から切りくずされた。
このように、平井城破却は結局信玄を喜ばせるだけだったが、謙信がわざわざそんなことをしただろうか。
もし仮に謙信が破却したのだとすれば生涯有数の失策だったと言っていい。
以上、謙信に破却する理由が無いことと北条が倉賀野を拠点としていたことにより俺は北条の侵攻によって破却されたと思う。
728人間七七四年:2007/11/25(日) 00:04:26 ID:uLy8Hx0G
平井城を落城させた時にあまりにひどい破損だったから西上野は長野に任せて上杉勢は修繕せずに破壊して去ったんだろう。
そして利根川を渡り厩橋に拠点を移しただけ。
平井城なんて目と鼻の先の鉢形城に藤田がいるし碓氷峠を通過してきた武田勢からも攻撃を受ける挟撃地帯で利根川上流に近い為に水量も勢いも激しく渡河ポイントも限られ上杉は背後を死地にして戦うハメになる。
松山城が武田北条にフルボッコされたのと同じになるだけ。こんなトコは箕輪城でも明け渡して拠点にでもさせてくれて和田城攻略でもしなけりゃ上杉で維持するのは難しい。
西上野は人質出さねぇからいつ裏切るかわかんねーけど、うるさく言わなけりゃ離反しなさそうな長野を尊重させて放任させてやり、謙信は利根川中流域を渡河し足利〜佐野から小山・宇都宮・佐竹連合との連絡線確保に力をいれた方がマシ。
729人間七七四年:2007/11/25(日) 00:56:56 ID:T+yCbFOZ
>>728
>平井城を落城させた時にあまりにひどい破損だったから
ソースは?
>そして利根川を渡り厩橋に拠点を移しただけ。
拠点移したからって破却しないでもいいだろうに。
>目と鼻の先の鉢形城に藤田がいるし
近くに敵の拠点があるからこそ重要な軍事拠点になりうるんじゃないか。
藤田が秩父の大半を奪還するのは永禄五年の話で、その時点でもまだ御嶽城は上杉方であり、
平井城周辺の足利長尾氏領土(代官平沢政実)も健在。
>碓氷峠を通過してきた武田勢
碓氷峠は安中氏がいるから通行不可能。
仮に突破しても結局甘楽郡に出て内山峠越えルートと合流しなければならないので挟撃はされない。
実際には先に甘楽郡を制圧してそこを足がかりに安中氏を下している。
>利根川上流に近い為に水量も勢いも激しく渡河ポイント
利根川はあさっての方向。関東の地理弱いでしょ。
>背後を死地にして戦うハメになる
倉賀野があれば問題ないが。
>松山城が武田北条にフルボッコされたのと同じになるだけ。
信玄によって上野西南部が抑えられ、藤田によって秩父が押さえられたからこそフルボッコになったわけで。
先述の通り、平井城の周囲はまだ上杉方だった。
しかも要衝ならば攻められやすいのは当然で、その要衝を固めて守るのが戦略と言うものであり、
要衝ゆえ攻められやすいから放棄なんてやってたらどんどん領土とられるよ。
>こんなトコは箕輪城でも明け渡して拠点にでもさせてくれて和田城攻略でもしなけりゃ上杉で維持するのは難しい。
理解不能
>西上野は人質出さねぇからいつ裏切るかわかんねーけど、
安中氏、諏訪氏、和田氏は出していたよ。(羽田文書)
>長野を尊重させて放任させてやり
放任したらそれこそ戦略ミスだ。任せたっていうソースは?
>謙信は利根川中流域を渡河し足利〜佐野
このルート確保のためには利根川中流域を渡河する必要はない。
730人間七七四年:2007/11/25(日) 01:28:18 ID:T+yCbFOZ
あと俺は謙信の関東経略の失敗は臼井城よりも西上野戦線の敗退だったと思うよ。
長野は当主が城を枕に討ち死にするまで、倉賀野、総社長尾は居城が落ち当主が落ち延びるまで戦うと言う
戦国の世に非常に珍しい義理立てっぷりなのに維持できなかった。
信玄は宇都宮にも西上野戦線での戦績を伝えており、佐竹に対してもその後の行動から言って信玄の宣伝は効いていたと思う。
731人間七七四年:2007/11/25(日) 09:55:19 ID:wgVJhcdW
ちゅーわけで北条・武田の二正面作戦をしていた謙信が悪い、と。
武田との同盟は無理だから北条と同盟するしかないがw
732人間七七四年:2007/11/25(日) 10:03:17 ID:KWBIHTKK
それを言ったら、身も蓋もない。
733人間七七四年:2007/11/25(日) 16:30:55 ID:xlgxcU7U
北条と同盟するのだって有り得ないと思うが
武田以上に有り得ない
里見、佐竹、簗田らが北条の軍門へと降っていくのを認めたら
それこそ国防どころじゃなくなる
734人間七七四年:2007/11/25(日) 17:00:09 ID:sRoNt2CQ
そもそも国防する必要自体がないからね。謙信は

関東の弱小を助ける為の関東出兵、管領就任なんだから

義に対して感謝せず、北条につく勢力なんか本当はクソ以下の存在
そんな奴等を目の当たりにして、北条と手を結んで何が悪いのか?と。。
何で謙信だけそこまで献身的な御人よしでいなければならないのか?と。。

そこに関東豪族や逃げるだけの北条の
謙信に対する甘えが感じられるよね
735人間七七四年:2007/11/25(日) 17:06:38 ID:xlgxcU7U
いや国防の必要はあるでしょ
上野から攻め入った関東管領上杉顕定に越後を蹂躙されたし
その為景時代の苦い思い出を持った家臣達も越後には多かったと思う
北条が常陸、上総を制圧し
上野〜下野を併呑するのは越後の国防上、看過出来ない
だから里見や佐竹らを懸命になって助けた
736人間七七四年:2007/11/25(日) 17:49:39 ID:2e3VXc6G
>>734
お前が頭悪いのは理解出来たw
737人間七七四年:2007/11/25(日) 18:11:54 ID:b5IU7ERV
関東諸将助ける為に就任したとか認識違いにも程があるわな
738人間七七四年:2007/11/25(日) 18:12:29 ID:sRoNt2CQ
それより早く質問に答えろよ能無し
739人間七七四年:2007/11/25(日) 18:23:42 ID:sRoNt2CQ
>>735
質問なんだけどさ
越後国防の観点からも関東出兵が必要なのは確かに分るけど

なら、なんで北条から奪い返した領土を豪族にわざわざ返す必要があるの?
奪っては返して、本国に帰還すればまた取られる。
そのいたちごっこを延々繰り返してる理由を挙げてよ
ワザワザ里見や佐竹にやらすより武蔵も下野も直轄管理した方が防衛しやすいでしょ
でもそれをしなかった理由を説明願いたいよ



740人間七七四年:2007/11/25(日) 19:00:45 ID:wgVJhcdW
>>733
ばっかだなお前。
武田は既に和睦を破ってる前科があるから同盟できないんだよ。
北条はまだ同盟破るかどうか分からないから
国境を脅かさない条件で同盟する可能性があるってだけ。
741人間七七四年:2007/11/25(日) 19:24:27 ID:86cqV0Kv
新潟の歴史自慢は謙信だけ
742人間七七四年:2007/11/25(日) 19:59:14 ID:T+yCbFOZ
永禄十一年正月、謙信は広田直繁に対して
直繁一人が利根川以南で上杉方として『忠信』に励んでいることに対して
『輝虎一世中不可忘之候』と感謝している。(歴代古案)
これを見ても謙信の感覚では関東諸侯を助けてやってるとなんていうものではないということはわかる。
謙信の出兵が関東諸侯を助けるという程度のものになってしまったのは
関東経略が失敗したからこそそうなったわけで、
成功していれば諸将を動員して戦っていた頃の勢いそのままに武田を挟撃、上洛することだってできただろう。
743人間七七四年:2007/11/25(日) 22:07:58 ID:s4PBqON0
>>739
当時は血族&古くから仕えてきた民が一致団結して戦っていた。
那波や小田、佐野・・・等々
そこへ言葉が違う越後の重臣を下手に城主なんかに据えても、警戒感を生むだけ。
これが甲斐〜信濃のような往来し易い地理なら
本国の威光や監視も届きやすいけど。
しかし越後と関東は三國峠や利根川で阻まれている。
よって無理は出来ない。
関東の城代を謙信から頼まれる越後豪族にとっても、不安と危険が伴う激務だった。

あと混乱していた越後が謙信の代で治まったばかりなので
信頼出来る家臣が少なかった、というのも有るだろう。
隔絶された土地を信頼して任せられる手駒が足りなかった。
五十公野も唐沢山から勝手に帰国してしまうし。
744人間七七四年:2007/11/25(日) 22:45:43 ID:8GE49TQk
厩橋においていた毛利北条も寝返っちゃうしな。
745人間七七四年:2007/11/25(日) 23:16:44 ID:T+yCbFOZ
そうだそうだ。五十公野だった。

返したとどころか那波領の一部を横瀬に、館林を足利長尾に充行ってるからね。
どっちも要地だから維持が必要だが手ごまが足りなかったんだろう。
北条だったら無理やり養子に入れたりするところだが。
746奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6 :2007/11/25(日) 23:35:23 ID:ZW+fR2pf
五十公野

いじみの、で一発変換できるね。
747人間七七四年:2007/11/26(月) 07:08:44 ID:jklNiQy3
謙信は北条と同盟に踏み切った時に、岩槻城を返還してもらう
のを取り付けた。岩槻城を太田に帰そうとしたが、太田は北条の
配下になる条件は飲めない、として拒否。
謙信を嘆かせたのだ。
748人間七七四年:2007/11/26(月) 11:40:16 ID:/zx1u//l
息子の梶原を小田原の人質に出せと言われたからね。北条の配下になれと言われたわけではないんじゃないの?
里見なんかも下総での優位を認めるって話だけど北条の配下になるわけじゃないし。
ただ千葉氏が里見を尊重するとは思えないから破棄してるけどね。
まぁ里見・太田組は北条に対して相当な憎しみがあったようだからね。
ただ旧関東管領山内上杉に近かった連中はみんな北条との和睦を願ってたからね。
旧関東管領とはもともと敵対関係だった旧古河公方勢力圏である利根川以東の下野・常陸・下総・上総方面とは利害は一致しないよ。
749人間七七四年:2007/11/27(火) 17:22:01 ID:QhRbfgXH
この城は関東7名城よりも堅固だから謙信が落とせなくてもしょうがないだろう。
小田原よりも強固なんじゃない?
750人間七七四年:2007/11/27(火) 23:39:56 ID:jtGirvR5
正木時茂は落としたけどね
751人間七七四年:2007/11/30(金) 22:31:41 ID:CuEI1pBF
でもその後すぐ奪い返されてるしな。
かなり不意打ちだったんじゃないかな。
そんなのは落としたとはいえないだろ。
その後家康は臼井に城は作らず佐倉に平坦な城を作ってることから
臼井城はかなりの堅城だっったといえる。
752人間七七四年:2007/11/30(金) 22:47:46 ID:gCmrNjUF
>>751
不意打ちでも落としたになるのでは?
藤原頼長じゃあるまいし奇襲は1つの戦法
753人間七七四年:2007/11/30(金) 22:47:58 ID:6nRzfUtJ
謙信もこんな僻地にわざわざ攻めにくるなんて、
何考えてたのかな。
臼井城なんて、これしかネタないだろう?。
その後に重要な出来事あったかね。謙信攻略失敗も重要な事じゃないんじゃないの。
歴史研究家が騒いでるだけで関東戦国史にさしたる影響のある事じゃないね。
754人間七七四年:2007/11/30(金) 23:34:47 ID:YzrKJm80
影響なんてほとんど無いね。
755人間七七四年:2007/12/01(土) 00:22:27 ID:Ed2DnnJ2
時茂が臼井を落とした際の背景はどうだったんだろう
「槍大膳」と囃された里見氏の軍奉行・正木時茂は小田原包囲の年・四月に亡くなってるようだけど
北関東に謙信が乱入、その為北条は臼井へ後詰を派遣する余裕が無い
そのおかげで時茂率いる里見軍単独でも臼井を落とせたのでは?
よく分からないけど
756人間七七四年:2007/12/01(土) 09:13:46 ID:en/ClBjr
臼井城はその昔、戦国期に入る前に鉢形城の長尾景春を討つべく侵攻した太田道灌が背後を安定させるべく弟を派遣し臼井城で激戦を展開し、落城したものの道灌の弟が戦死するハメになり、さらにすぐ奪い返されてしまい太田氏の下総国に対する野望が頓挫しました。
東京湾に注がれた利根川から東側の下総国は大湿原地で小舟を並べて侵攻するような難所だったので
東海道は相模から海路で安房→上総→下総→常陸となり相模→武蔵→下総ではなかったらしいです。
757人間七七四年:2007/12/01(土) 11:14:10 ID:WxF4OYij
御教授有難うございました!!
758人間七七四年:2007/12/02(日) 13:19:37 ID:7pdCiW6b
臼井城の戦いはもうひとつの川中島の戦いだな。
謙信は2つとも負け領土拡大に失敗した
謙信て重要な戦いにはぜんぜん勝てないんだながっかり
759人間七七四年:2007/12/02(日) 23:09:07 ID:a4yx7fTI
一人でがっかりしておきなさいw
760人間七七四年:2007/12/03(月) 02:25:04 ID:JpGXm0jp
歴史街道9月号に臼井城の戦いが特集されてるが
兵力1万5千対2千なんてほんとかな
関東では落ち目の謙信に関東の武将はそんなに兵を出したのだろうか
761人間七七四年:2007/12/03(月) 08:57:52 ID:f4/HsDyw
里見も来れなかったと聞くし、岩槻が落ちてるから成田も怪しい
そんなに集まらなかったのでは
762人間七七四年:2007/12/05(水) 03:33:52 ID:omV0PuBc
>>758
そもそも謙信は領土拡大を図ってませんが・・・
それに歴史読み物本は平気で講談話を史実のように書くのでアテになりません。
だいたい臼井城に謙信自ら出馬してないし里見の後詰めが北条を牽制してました。
そもそも攻城戦なんてのは失敗してもそれを負けとは言いません。撤退といいます。
臼井城は落城寸前で威嚇する目的は達成でき城下を燃やしてるのだから戦略的成功といえるでしょう。
763上杉三郎ってどお?:2007/12/05(水) 11:10:59 ID:E2N52N42
>>760
臼井城の前に攻略した小田城攻めに参加した上杉軍リストならあるよ!!
764人間七七四年:2007/12/05(水) 11:38:19 ID:Qk/Nwhil
おそらく小田城を破却してる最中に小山氏を通じて泣き付いたり小田氏の降伏交渉から小田城返還までの流れで謙信自体は忙しかったはずなので臼井城へはやはり足利長尾当主を派遣したってのが実相でしょう。
765人間七七四年:2007/12/05(水) 16:48:40 ID:HUh3nSj5
臼井攻めの時点でそんな落ち目だったのなら関東支配など夢物語だなw
結局威勢が良かったのは最初の小田原攻めの時だけか
とんだ一発野郎だw
花火管領上杉輝虎www
766人間七七四年:2007/12/05(水) 16:57:02 ID:omV0PuBc
そして越後統一・越中・能登・加賀をあっという間に平定。
謙信にあきれ見放された佐竹・宇都宮・結城らは謙信に関東来てくださいって哀願したんだぞw
そんであんまりにも頼るから仕方ないから越山するから待っててねって約束したあとに死んだんだが
越中・越後・上野に大動員かけてたから北条もビビって
「上洛して織田を討つなら北条もお手伝いに兵を派遣して協力します」って言ってきたくらいwww
767人間七七四年:2007/12/05(水) 17:10:57 ID:pplN8Fu4
社交辞令だろ
768人間七七四年:2007/12/05(水) 17:56:22 ID:omV0PuBc
矛先を変えるのに必死なのは明白w
769人間七七四年:2007/12/05(水) 18:07:09 ID:HUh3nSj5
10年以上かけても上野一国統一できなかったクズ虎がどうやったら織田なんて倒せるんだよwww
馬鹿も休み休み言えって奴だw
織田は北条よりなお強大だぞ
クズ虎は杉山元かwww
770人間七七四年:2007/12/05(水) 20:08:07 ID:pFdpDgLX
>>769
お前の理屈なら、上野を統一できなかった武田と北条もクズなんだろうなww
771人間七七四年:2007/12/05(水) 21:06:14 ID:aVNkL1UE
武田も信濃統一出来なかったよなあ。まあいいけど。
772人間七七四年:2007/12/05(水) 21:36:20 ID:DUOhbc9O
>>769
馬鹿だなぁ
マジレスすると信長とガチで戦うにしても石山本願寺や毛利家とも連携する。
773人間七七四年:2007/12/05(水) 23:33:59 ID:Qk/Nwhil
柴田・前田・佐々なんて敵じゃねぇよ。
次の一戦で越前と若狭と丹後までゴッソリいただいて毛利と合流目指すぞ!
吉川元春には船団で丹後勢牽制の為に但馬への奇襲上陸を命ずる。
日本海貿易の独占が目的だから近江に防衛線をはって完全に裏をかかれる信長w
774人間七七四年:2007/12/07(金) 23:49:37 ID:Oxhj9N5O
なにその厨臭いレスw
昭和の小学生かよww
775人間七七四年:2007/12/10(月) 20:48:42 ID:XFURaddd
昭和の小学生
776奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6 :2007/12/10(月) 23:29:16 ID:6e1rvnCC
昭和のうちに小学校を卒業していたらゆとり世代じゃないな。
777人間七七四年:2007/12/11(火) 17:24:27 ID:B5iCBNz0
>>774平成のゆとり晒しあげ
778人間七七四年:2007/12/18(火) 22:20:25 ID:Et9KFm+7
上杉謙信が参加してないだの
たいした戦いではないだのひどい捏造だな
新潟人が知らないのはしょうがないけど。
何とか軍記には記述されてない戦いらしいし。
779人間七七四年:2007/12/18(火) 23:01:19 ID:VbxIPt0T
>>760
>歴史街道9月号に臼井城の戦い
の執筆者はテレビ『世界一受けたい授業』に出ていた「河井敦」、
ソースは『北条記』
河井敦は江戸時代の日本には、鎖国制度なんて存在しなかったと
テレビでも言ってたし、本にも書いてるがそれでいいのかね。
780人間七七四年:2007/12/19(水) 01:13:48 ID:/x0+0Vs/
まっ実際に臼井城へ派遣されたのは金山城の由良国繁の弟である足利長尾顕長なんだがな。
781人間七七四年:2007/12/19(水) 05:28:51 ID:/x0+0Vs/
>>780
こいつらが攻略失敗したあげくに北条に降るんだよ。ほんと卑劣漢だわ。
結局はこの兄弟は小田原で北条に拉致られて
金山城や館林城を北条に譲るハメになるんだからバァカだよな。
沼尻の戦いなんか佐竹や宇都宮も参加して北条に最後の抵抗。
このメンバーは上杉謙信さまがいてくれたらって心から思ったろうな。まさに後悔先に立たずだよなw
782人間七七四年:2007/12/19(水) 06:34:05 ID:MtePCrJS
由良と佐野は成繁、昌綱の代から仲悪いんだろうか?
どうも謙信と由良の関係が良好な時に、唐沢山が離れ
謙信から由良が離れた頃、昌綱が「長尾の養子をくれ」と言ってきたり
謙信も唐沢山に色部を城代に置いてるような気がする

由良と佐野が土地問題でギクシャクしていたから
両家同時に謙信の傘下へ入るって事が出来なかったのかなぁ
783人間七七四年:2007/12/19(水) 14:46:13 ID:E0ZR31B/
関東情勢は在地小名たちの代理戦争の観があるからな。
お前がそっちつくなら俺は今日からこっち、みたいな事が往々にして見受けられる。
784人間七七四年:2007/12/19(水) 21:46:59 ID:xc14Slwo
>>780
ソース教えて下さい。
残ってる感状が顕長のものだってこと?
785人間七七四年:2007/12/20(木) 01:01:03 ID:XOP6wGch
新潟w
786人間七七四年:2007/12/20(木) 03:19:18 ID:41fF97fX
ここに似たようなことが書かれてるね。。
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/cib_usui.html
永禄九年(1566)、上杉謙信が長尾顕長を将とする軍勢を臼井城に向けたとき、
久胤も結城晴朝のもとで臼井城攻撃に加わった。
しかし、臼井城には原胤貞とともに名軍師・白井胤治が采配を振るっており、
落城寸前にまで追い詰められたが、よく上杉勢の攻撃を防いだ。久胤の臼井城奪還は夢と終わり
787人間七七四年:2007/12/20(木) 12:46:54 ID:ovHbqcyy
北条記は捏造の荒らし
788人間七七四年:2007/12/20(木) 22:17:10 ID:366TRm+y
>>786
そのリンク先の更に先にある、千葉氏のメチャ詳しいサイトには
上杉氏の臼井城攻めは2回あったって書いてあったような。。
789人間七七四年:2007/12/23(日) 01:13:49 ID:WXgQpgP3
おれの 精子臼井んだけど・・・
790人間七七四年:2007/12/24(月) 02:56:25 ID:dBa2b9eN
おれの 精子臼井んだけど・・・

誰jか濃くなるように混ぜて・・・
791人間七七四年:2007/12/25(火) 01:46:35 ID:0FbwB/6u
亜鉛でも摂取しておけ
792人間七七四年:2007/12/25(火) 21:07:04 ID:E/aTf8Sw
謙信が久留里城ならまだしも臼井城ごときを
落とせないわけはない
捏造確定だな
793人間七七四年:2007/12/25(火) 23:56:15 ID:IENzCA6R
いやー、
なんで○○はこんな小城を落とせなかったんだ?
って事例はゴロゴロしてますぜ。

農家に毛が生えたような城で信長の侵攻に耐えるとかな。
794人間七七四年:2007/12/26(水) 01:21:57 ID:PzEKQBuw
いくらなんでも臼井城は越後から遠過ぎる…例え落城させても維持が難しいのでは?
最初から城下を焼いて威圧して帰る予定だったのでは。
維持するったって佐竹や里見だって臼井城の後詰は難しいだろう。
795人間七七四年:2007/12/28(金) 17:58:33 ID:7S6Lpk0n
当時の人間にとっては眼と鼻の先だろ
796人間七七四年:2007/12/28(金) 23:32:56 ID:AQuJVO0E
>>795
アホでつか?

797人間七七四年:2007/12/30(日) 10:02:26 ID:rn8dDoxy
また謙信厨の捏造かw
ソースもないのに勝手に話つくっていくんだから凄いよなw
本気で狂ってるわ
798人間七七四年:2007/12/30(日) 11:59:01 ID:x3cF+YI4
ここも相変わらずだな・・・
799人間七七四年:2007/12/30(日) 13:55:14 ID:o2IbENz7
>>797
謙信厨(笑い)
800人間七七四年:2007/12/30(日) 15:43:00 ID:0eiT7vZ9
>謙信厨ってGacktか!
801人間七七四年:2007/12/30(日) 15:53:10 ID:/Ohvfa/l
伊達厨が必死に中傷してるw
伊達厨の特徴→具体的反論が欠如し
抽象的な中傷しかできない無能。
802人間七七四年:2008/01/03(木) 18:01:10 ID:xFH1atMG
ここも一時期有意義な議論が展開されてたのに・・・
荒れ放題じゃん。残念だよ。
軌道修正しなきゃだめだよ。
803人間七七四年:2008/01/03(木) 19:22:21 ID:xgGTGojG
役割を終えたということです
804臼井入道ってどぉ?:2008/01/08(火) 12:28:12 ID:ANqfguZv BE:296925252-2BP(0)
皆さん。明けまして御目出度う御座居ます。今年も宜敷お願いします。
>>669>>679-689>>693>>707>>760>>764>>778-780>>784>>786>>792&仙台藩百姓さんなどへ。
割り込み失礼つかまつるが…
現時点で、私の手元にある臼井城攻めに関する史料を列記してみたよ!!
それらから臼井城攻めに謙信は加わっていたか否か?も考えてみました。答えは、3つ。

@臼井城攻めは事実。
A謙信率いる上杉軍も加わっていた
B足利長尾顕長だけではなく、景長も従軍していた。

ロングヴァージョンは、↓アップローダにあげておいたよ!!
http://www-2ch.net:8080/up/にある
「臼井入道ってどぉ?」.txt
を見てください。

ショートヴァージョンは、コレ!!
(3).永禄九年三月二十日付 足利長尾景長(当長)→(足利市にある)鑁阿寺千手院あて書状「鑁阿寺文書」
「(この度の出陣の必勝祈願の巻物ならびに抹茶一器をいただき、誠に有り難い。)
しかるに臼井城を(攻めまくって)実城(本丸、二の丸、三の丸)の堀一重にまで致しました。
諸軍は夜が明けたら隙なく本丸を攻めて、落城させるでしょう。
味方も敵も多くの人が『謙信が勝つ』と噂しています。
(私、景長が)お屋形様(謙信)に付き従っていた所、(謙信から)『尋常じゃないくらい大変細かなところまで気を配っていただいた』と聞きました。…略…
 追伸、本陣(謙信)や河田長親の陣などにも、巻物と抹茶を届けたよ」

結論3
@臼井城攻めをしていた景長の近くに謙信と河田長親がいたことは確実であり、上杉正規軍が臼井城攻めに加わっていた事も、またしかり。
A3月20日の時点では、上杉軍が有利な状況にあった。
B『関八州古戦録』巻七では「長尾新五郎(顕長か?)」が出てくるが、先代の景長も従軍していたのは間違いない。
805臼井入道ってどぉ?:2008/01/08(火) 12:31:53 ID:ANqfguZv BE:593850454-2BP(0)
>>697さんへ
利根川の東遷物語のHP。まず、ココ↓を見て下さい。
http://ime.nu/www.geocities.co.jp/HeartLand-Yurinoki/1938/tonegawasi.html
簡単に言えば昔は…
(1).荒川→元荒川→隅田川→東京湾
(2).利根川→古利根川→隅田川→東京湾 (江戸時代まではこれが武蔵の国境線でもあった。)
(3).渡良瀬川→権現堂川→太井川→東京湾 (一部は、上野と下野の国境線。) の三本の大河が東京湾に流れていた、と言われる。

※1 太井川(太日川とも書く。「ふといがわ」「おおいがわ」と読む。現在、江戸川の西を流れる庄内古川の事である。
※2 もちろん関宿から常陸川(広川)という小河川が、つまり現在の利根川が銚子方面に流れていたらしい。
※3 特に館林・羽生から古河のあたりにかけて(2).+(3).が、時には合流し、時には分離するなど入り乱れていた。
※4 現在の埼玉県栗橋町付近で、(1).(2).(3).が入り乱れて流れていたらしい。
806臼井入道ってどぉ?:2008/01/08(火) 13:10:50 ID:ANqfguZv BE:890775465-2BP(0)
>>703>>794さんへ
里見氏については

うぬぬ…里見家は戦国最強
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1184866534/l50#tag805に書き込みました

>>705-706>>708>>715さんへ
なぜ義重が北関東の旗頭(盟主)になったのか?については
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/462に書き込んでおきました

以上、宜敷お願いします。恐々謹言、正月三日。
807臼井入道ってどぉ?:2008/01/08(火) 13:13:13 ID:ANqfguZv BE:1039237875-2BP(0)
808人間七七四年:2008/01/08(火) 13:28:34 ID:J8EJ+NxB
それだけで謙信が同陣した証拠にはならないと思うなぁ
オレは館林〜小田間で総指揮をしてたと思うな。

それに傀儡足利義氏に対してはかなりのウソの情報をしてたと思うんだよね。この件に限らず。

最大の疑問はどうやって5000人も死傷者がでてるのか明確にならないと即断できず曖昧さが抜けない。
北条記だと白井入道が呪術者っぽくて事に吉凶や敵軍の気を見たりして、凶日に攻める謙信をあざ笑ったりしてるが
そういう妄想軍談的な話で勝てるとは思えないし自ら城壁を崩して下敷きにしたとかでそんなに被害がでるだろうか?つか防御を自分から破壊?

809人間七七四年:2008/01/08(火) 14:17:58 ID:RYW8o5kJ
なぁ、別に負けたっていいんじゃない?

つうか、それでも落城寸前まで追い込んでるだよなぁ。すんげぇ〜

一回くらいいいじゃん。

それで他の負け数多い部将のヲタが満足するんなら・・・
810人間七七四年:2008/01/08(火) 14:39:38 ID:721GviVe
数千〜五千人死んだら名の有る武将も死んでる筈なんだけどね
この重要な点を上杉側、北条側双方ともに何一つ記してないのが不自然
つまり北条側の記録なんだけど
「数千人の死傷者を出した」確認を報告書で受け取った〜というのは・・・
直属の後詰部隊(この時は松田を派遣か)が襲撃した場合「討ち取った」という表現になると思う
よって「数千人の死傷者」発表は臼井城が発信してるっぽいよね
形はどうあれ、守りきった城側による誇張が大分有りそうな印象を受ける
811人間七七四年:2008/01/08(火) 14:41:22 ID:J8EJ+NxB
>>809
なんか誤解してる?
いやね攻城戦の失敗ってのは結構あるからどっちでもいいんだが・・・
812人間七七四年:2008/01/08(火) 15:13:50 ID:RYW8o5kJ
なぁ、別に勝ったっていいんじゃない?

つうか、それでも落城寸前まで追い込んでるだよなぁ。すんげぇ〜

一回くらいいいじゃん。

それで他の勝ち数多くて負け数も多い部将の負け数少なくなるわけじゃなし・・・
813人間七七四年:2008/01/08(火) 15:35:49 ID:tp+s8EKr
>>812
あなた知池?
謙信が館林で兵の集まりを待って後詰の準備してたと思うんだよね。
謙信が臼井城に重臣を連絡役に派遣してたんだと思う。

なんせ臼井入道がたまたま居合わせたとか偶然性を匂わせたり、軍配の天才みたいな前評判があるがすごい事蹟など皆無。
明らかに北条の捏造としか思えんからなぁ。

814人間七七四年:2008/01/08(火) 17:00:33 ID:QKT5UDvG
>>813
憶測ふたつ、事実ひとつはさんで、推測ひとつ
憶測ふたつはいらない
反論のはじめに憶測持ってくるあんたのほうがよっぽど池沼だよ
815人間七七四年:2008/01/08(火) 17:22:37 ID:tp+s8EKr
>>814
知池と書いてるんだ。
池沼とは書いてない。あんたはまず文章をよく読む力を学ぶ事だ。話はそれからだ。
816人間七七四年:2008/01/08(火) 17:45:25 ID:QKT5UDvG
>>815
屁理屈は結構
817人間七七四年:2008/01/08(火) 18:42:01 ID:J8EJ+NxB
ID:RYW8o5kJが2度も同じレスするから文句言ってるだけなんじゃないの?

ID:QKT5UDvGが執拗にからむ必然性がないように思えるけどもしかして自演厨?
818人間七七四年:2008/01/08(火) 18:48:34 ID:721GviVe
>>804
あとこれをお伺いしたいんだけど
>味方も敵も多くの人が『謙信が勝つ』と噂しています。
この頃は謙信じゃないですよね?
実際は何て書かれてるのでしょうか?『輝虎が勝つ』?
それとも『山内殿が勝つ』?かな
819人間七七四年:2008/01/08(火) 18:50:03 ID:QKT5UDvG
いいや
反論としておかしいと指摘してるだけだが

仮に文句だったとして、たったの2レス、それも中身のあるレスでもないのに目くじら立てて、必死になって文句言う気が知れないが
820人間七七四年:2008/01/09(水) 01:51:16 ID:kVpfGrBn
>>819
必死すぎw
821人間七七四年:2008/01/09(水) 09:22:47 ID:/oud4IdY
結局謙信厨はまともな反論はできませんでしたwwwwwwwww
822臼井入道ってどぉ? :2008/01/09(水) 14:43:47 ID:fg5cm56V BE:593850645-2BP(0)
>>808>>810>>818さんへ
今度は原文を載せるからね。
823人間七七四年:2008/01/16(水) 16:38:00 ID:EOFzRJjx
謙信は城攻めが苦手だったんだよ。
野戦の方が得意だった。ただそれだけのこと。
824人間七七四年:2008/01/16(水) 18:34:00 ID:sc166L+w
>>823
謙信に限らず誰であろうと堅城は攻めあぐねるぞ。
もちろん物理的な意味の堅城に限らず。
825人間七七四年:2008/01/16(水) 19:01:07 ID:7CMHRaqo
>>823
信玄は箕輪攻撃を何度か失敗してる
謙信は和田攻撃を何度か失敗してる
しかし箕輪は落ちて、和田は落ちなかった
この違いは何かというと補給路確保の差
あと敵勢力が派遣する後詰の規模、後詰自体の有無

謙信の場合は三國峠&利根川で阻まれてる分、補給路が困難
後詰も簡単には往来できない国へ帰らなければならない
季節も雪で峠が遮断される前に越山しても、兵糧が尽きたら帰らなければならない
信越国境や親不知峠(越中方面)も心配だし

これら諸条件が絡んで、攻城出来る期間がかなり限定されてしまうのが謙信

この悪条件で沼田、騎西、小田、唐沢山、松山(?)あたりを落としたのは大したもんだと思う
ほぼ同じ条件だったら越中神通川以西の城、七尾や末森などを落としてるし
826人間七七四年:2008/01/16(水) 21:20:13 ID:utbQPI3A
謙信はなんで不信感のある毛利北条高広を厩橋城に派遣して
上野領を任せたのだろう?
もっと信頼できる家臣を派遣できなかったのだろうか?
だから、関東の支配も不安定だったのだ
827人間七七四年:2008/01/16(水) 22:12:40 ID:gqUTRvNW
謙信は相当なお人よしだから、裏切った事のある人間ばかり重用するよなあ。政景とか本庄とか。
わざとそうやって「出直してやる機会やるから頑張れよ」とか言ってたんじゃないかと思ってしまうぐらいだw
828人間七七四年:2008/01/16(水) 22:44:39 ID:sc166L+w
謙信の攻勢が激しいからか北関東の金山城や唐沢山城は早期に石垣要塞化したらすぃ。
和田城も武田軍が相当数の鉄砲を持ち込んだとか。
もうね謙信にみんなビビっちゃって籠城力アップばっかりになっちゃうだよな専守防衛と調略ばっか。
829人間七七四年:2008/01/17(木) 00:14:26 ID:lGqTEKvG
それは正しい戦略なんだが。
830人間七七四年:2008/01/17(木) 00:39:47 ID:Djyb0Mh1
防衛力を上げ過ぎて
結局関東統一勢力が現われないうちに天下の軍に襲われますた。
北条5代の苦労を一気に手に入れた家康が関東に移封されてきた時には
さぞや野望が生まれたでしょう。
831臼井入道ってどぉ? :2008/01/26(土) 16:49:25 ID:7n3zFkmn BE:1870628279-2BP(1)
皆々様、様々な意見どうもありがとう。では原文を。
1,上杉側の資料
(1).は前回掲載のためカット。
(2).永禄九年二月二十一日付 小山秀綱→謙信あて書状「上杉家文書」
「貴札披閲、抑小田之事、被応御刷(※注…あつかい)候上、被任御兼諾、為総州口御出馬、至于当地館林御著(※注…着のこと)、然者味方中御触ニ附而、委砕蒙仰〓〓〓得其意候、諸毎追而可申達之段、不能〓〓〓謹言
   二月廿一日      良舜(花押)(※注…小山秀綱のこと)
    山内殿        御報」 (〓は「欠字」です)

私の意訳
「貴公からの(出陣命令の?)手紙を拝見しました。(私が降伏を仲介した)小田の事は任せてくれるのですね。
(山内殿は)総州口(下総)の出馬(準備)のため、(小田城から一旦)上州館林に戻り、味方中に(出馬の)陣触を発して将兵を集めているとのこと。(私も)了解し(早速、兵を出しましょう)…以下略」

832臼井入道ってどぉ? :2008/01/26(土) 16:58:07 ID:7n3zFkmn BE:118770522-2BP(1)
(3).永禄九年三月二十日付 足利長尾景長(当長)→(足利市にある)鑁阿寺千手院あて書状「鑁阿寺文書」
「就出陣衆中有御祈念、巻数・守越給候、千秋万歳目出度令存迄ニ候、
殊貴院別而有御精誠之段、是又祝着之至候、仍抹茶一器送給候、賞翫無極ニ候、
(↓ココに注目して下さい!!)
然ニ臼井之地実城堀一重ニ致之、諸軍取詰、夜白無隙被責之候間、落居不可有程候、
(↓ココに注目して下さい!!)
御人衆先年小田原陣ニも被勝候之由、各風聞ニ候、
隋而屋形(※注…謙信)不尋常御懇切ニ候、被聞召及、可為御大慶候、
彼是畢竟御祈念故二候、猶御精誠之儀頼人迄候、万賀帰陣之上可申達候条、不能詳候、恐々謹言
 追啓、旗本へ巻数・抹茶以書中進申候、万端御取籠候間、此程者御返無之候、重而相調、
自是可進之候、并河豊(※注…河田豊前守長親)へ巻数・抹茶、定隣軒(※注…信楽)・境大学助所へ之抹茶届申候
              但馬守
  三月廿日         景長(花押)
   千手院      御報」

私の意訳
「(この度の出陣の必勝祈願の巻物ならびに抹茶一器をいただき、誠に有り難い。)
しかるに臼井城を(攻めまくって)実城(本丸、二の丸、三の丸)の堀一重にまで致しました。
諸軍は夜が明けたら隙なく本丸を攻めて、落城させるでしょう。味方も敵も多くの人が『謙信が勝つ』と噂しています。(私、景長が)お屋形様(謙信)に付き従っていた所、(謙信から)『尋常じゃないくらい大変細かなところまで気を配っていただいた』と聞きました。…略…
 追伸、本陣(謙信)や河田長親の陣などにも、巻物と抹茶を届けたよ」

>>818さんへ、 原文はこう。
「御人衆、先年、小田原陣ニも被勝候之由、各風聞ニ候」
↓直訳
たくさんの人が『(あの)かつての、小田原包囲戦に勝るであろう』と、噂しています。
>>808さんへ 「たくさんの人があの小田原包囲戦に勝るであろうと噂している」から、やはり謙信は直率していたんじゃないかなぁ。
833臼井入道ってどぉ? :2008/01/26(土) 17:07:50 ID:7n3zFkmn BE:1068930566-2BP(1)
2,北条側の資料
>>681>>684さんへ。これが原文です。
(1).永禄九年三月二十五日付 氏政→信玄あて書状写「諸州古文書」
「急度申届候、仍一昨廿三攻臼井、敵数千人手負死人出来、注進状為御披見進之候、
如此者敗北必定候、一日も早々御陣寄専一候、従城中之使如口上者、手負死人故、房州衆酒井陣者、悉明、廿三之晩景越衆少々相移之由申候、以奚可有御校量(※注…考量か?)候、委細安伊(※注…北条の家臣で「安」の姓で「伊」の受領名って誰だろう?)可申候、恐々謹言
   三月廿五日       氏政(花押影)
   武田殿」

私の意訳
「…略…『おととい23日、臼井城を攻めた敵が数千人の死傷者を出した』という報告書が届きました。
(彼らの)敗北は必定です。一日も早く出陣して下さい。死傷者が続出したことで、房州衆(里見)と酒井(上総土気の胤治か?)の陣は(引き上げたため)空っぽになりました。これにより23日夕方の時点で、上杉軍の兵力は少数に転じたようです…以下略」
834臼井入道ってどぉ? :2008/01/26(土) 17:11:56 ID:7n3zFkmn BE:801697493-2BP(1)
(2).永禄九年三月二十八日付 足利義氏→(北条派の)家臣豊前山城守あて書状写「豊前氏古文書抄」
「就今般凶徒臼井令張陣、節々(※注…切々か?)様体(※注…様態)申上候、一入御感悦候、
抑去廿三致大責(※注…大攻か?)、五千余手負死人令出来、廿五敗北之段注進、孚以簡要(※注…肝要)御満足候、
今度氏康父子至于後詰一戦者、其地へ可被出御馬御逼塞候処、無相違令退散候、御無念候、巨砕(※注…巨細)両人被申遣候、謹言
   三月廿八日      (花押影)(※注…義氏の花押のみ)
    豊前山城守殿」

私の意訳
「今回は凶徒(謙信)の臼井城攻めについて、その様子を是非話したい。一層喜びを感じています。
(敵は)23日の総攻撃で5000人の死傷者を出し、25日には敗走したとの知らせをもらいました。大事な所で勝利し、とても満足しています。
氏康父子が後詰めに出陣したが、(敵は)姿をくらまして、退散したのは間違いありません。(これを取り逃がしたのは)すごく残念です。両人(氏康父子)から一部始終を聞いたよ。謹言」

>>810さんへ >>808さんも言っていたけど…。
氏康父子から足利義氏に、死傷者を水増しして報告していたんじゃないかと思います。

835臼井入道ってどぉ? :2008/01/26(土) 17:24:42 ID:7n3zFkmn BE:534466229-2BP(1)
>>826さんへ
当初は「河田長親」を厩橋城に入れていたが…
近隣の領主だった那波氏の代わりに「北条高広」に変えたらしい。
なぜなら、那波氏も高広も先祖は、鎌倉幕府政所初代別当の大江広元だから。
↓ココを見てください。
武家家伝_那波氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/naha_k.html

高広は裏切ったのではなく、領主化してしまったので、成田氏みたいに謙信と北条の間を行き来していたのだと思う。

どちらかというと謙信は、厩橋城よりも沼田城にいる三人衆を重んじていたのではないか?
836人間七七四年:2008/01/27(日) 14:06:40 ID:kIm5pUUW
【最強】千葉氏【関東の覇者】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1189090442
837人間七七四年:2008/01/28(月) 00:45:09 ID:voMtKPRv
あれこの時代の金山城主の由良氏の領土の西端は伊勢崎市あたりも領有してたんだっけ?
838人間七七四年:2008/01/28(月) 20:08:19 ID:y8TVEvWO
>>835
謙信も後で「佞人表裏」のせいで関東諸将との中が…といっており、北条高広が佐竹義昭からも土地を充行われたように
高広が関東諸将との交渉を仲介していたと考えられるので、離反前は謙信は関東経略の窓口として高広を重んじていたのではないですか。

結局、謙信の組織作りの拙さの問題では。
>>857
謙信の最初の越山のとき、由良成繁は大胡城とともに那波氏の赤石郷を与えられ、
これを喜んだ成繁が赤石郷の一部を伊勢神宮に寄進、伊勢宮を建てたので同地が「伊勢の前」と呼ばれるようになったそうです。
『武家家伝_那波氏』のとは異なりますが、天正二年頃に由良攻めを行った謙信は赤石城の向かいに今村城を建て、
ここに那波顕宗を入れた(取立)とか。
顕宗は『上杉家中名字尽』でも上杉方として書かれている。
839人間七七四年:2008/01/28(月) 23:24:50 ID:jzcRBpsf
『武家家伝_那波氏』は「天正六年(1578)三月、謙信が死去すると北条高広とともに小田原北条氏に従った。」とも書いてあるし文体として微妙だよな
俺は1577年12月に編纂された『上杉家中名字尽』に那波顕宗の名前があることを重視するけどさ
840臼井入道ってどぉ?:2008/02/08(金) 14:26:58 ID:8yZt0OBb BE:623542673-2BP(1)
>>838さんへ
伊勢崎の地名の由来、勉強になりました。

1.地形的に見て反論するね。
沼田を失うと、関東⇔越後の出入り口がなくなるわけだから…
地形的には厩橋よりも沼田の方が重要じゃないのかな?

2.厩橋は対北条・武田の前線基地に当たり、
謙信が「越山」出来ない時は、代わりに高広が軍勢を率いている。(永禄八年か九年)
だけど関東諸将と交わした書状の枚数を見ても、高広よりも沼田城将河田長親の方が多いのは気のせいかなぁ。

3.『武家家伝_那波氏』はちょっと違う。
そうですね>>839さんも言ってますね。
(1).天正二年から天正五年の『上杉家中名字尽』の間に上杉家に取り立てられたのではないか?

(2).「天正六年(1578)三月、謙信が死去すると北条高広とともに小田原北条氏に従った。」とあるが、
これは「小田原北条に従ったのち勝頼に従った」が欠けている。

参考文献
柴辻『武田信玄大事典』
黒田基樹『戦国大名と外様国衆』


841人間七七四年:2008/02/08(金) 16:47:04 ID:xGcx+cNF
長い
842人間七七四年:2008/02/10(日) 07:09:00 ID:0GIzxBrg
そんな事言わずに読んでやれ
843人間七七四年:2008/02/14(木) 18:40:57 ID:5udbEpmf
>>840
三国街道が沼田を外れているように、出入り口がなくなるわけではありません。
難しくなるのは確かでしょうがね。
三国街道ルート
三国峠→猿ヶ京→白井領→和田(高崎)
清水峠越往還、沼田往還ルート
清水峠→沼田→厩橋
白井長尾系図には沼田が落ちてからそれまで潜伏していた上杉憲政は越後に亡命したが、
白井長尾領は越後への出入りが自由であるのでその際に憲景が忠節を為したとあります。
この史料は他にも史実と異なると考えられる記述が多いのでこの話もやはり史実とは異なるのでしょうが
こういう話があってもおかしいわけではありません。
近衛前久の書状にあるように人質を集めておいたのも厩橋でしょう。
沼田には猿ヶ京周辺の小領主の人質は入っていたようですが、
他の地域の人質も集められるようになるのは北条離反以降ではないですか。
謙信も最初に関東に配置する時点で沼田まで後退することを予想してはいなかったのではないですか。
そしてそうであれば対北条の為の拠点はもっと南に置くでしょう。

永禄八年七月十七日に謙信は河田長親に至急沼田城に入るように指示しますが、
同十九日に中越の諸将に河田豊前守が遅れているので沼田に行くよう指示しています。
河田はずっと沼田の城将だったというわけではないのです。
永禄十一年に越中へ出陣しているので関東方面担当というわけでもない。魚津城を任せられてもいます。
河田豊前守宛書状は永禄九年の足利義昭からのものもあるように
交渉面でも関東方面担当ではなく広く謙信の交渉ごとを受け持っていたのではないでしょうか。
844人間七七四年:2008/02/14(木) 19:09:44 ID:J+Of9PKA
河田はもっとも信頼できる男ゆえ謙信が頼りに頼った感がある。
もともと近江の者だったから拾って抜擢してくれた謙信に恩を感じてたろうし河田は休むヒマなし過労過ぎる激務になった感じだよな〜。
北条は激務に嫌気がさしたって感じで謀反したから河田の仕事がやたら増えた。
そんな河田がすげぇ好きだな〜応援したくなる。
845人間七七四年:2008/02/15(金) 01:01:41 ID:5pyzGt71
>>840
臼井城の次には、生野山の戦いをやってもらいたいなあ
資料がないかなあ
846人間七七四年:2008/02/17(日) 12:04:44 ID:CL/AUJ0z
うぬぬ…里見家は戦国最強!
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156739699/

【最強】千葉氏【関東の覇者】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1189090442/

千葉氏の系図が理解できない
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1183502839/

【若狭】武田氏総合スレ【上総】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1182782929/
847臼井入道ってどぉ?:2008/02/17(日) 16:03:02 ID:6HtgqHJX BE:831390847-2BP(1)
>>843さんへ
1.そうだ、そうだ、猿ヶ京ルートを忘れていました!!
2.河田長親は永禄十一年まで、ずっと沼田にいたと思っていましたが…
そうじゃなかったんですね。新情報 thank you!!
長親は>>844さんの言う通り、謙信からとても信頼されており、何でもオールマイティに使われていた感がありますね。
「信長・秀吉」ペアみたいにね。
あとは、じっくり読んで見ますね。

>>841さんへ
長くてスマンね。私は回りくどいので…、今後も付き合うなら見逃してください。
あと、どこが、どう長いのか? どこを直せば良いのか? 是非、忌憚なきご意見が聞きたいです。

>>842さんへ
ナイス・フォロー

>>845さんへ
それに関して手持ちの資料がないし…正直、あまり乗り気ではない。
まずは「三増峠」だよ。

以上、恐々謹言。如月拾七日。
848人間七七四年:2008/03/05(水) 09:52:27 ID:Ltn5H8vb
なんで止まってるんだ
849人間七七四年:2008/03/06(木) 23:50:49 ID:AERjW36e
臼井城のネタはもうこれで出尽くしたんじゃないかな?
そしてそもそもこのスレは他のネタで伸びたんだし。
850人間七七四年:2008/03/07(金) 00:44:56 ID:rtuSuget
否定のしようが無い史料の提示なので、返答のしようが無いのかもw
851人間七七四年:2008/04/05(土) 20:50:18 ID:9kJTMkyL
age
852人間七七四年:2008/04/05(土) 21:22:38 ID:IpBzZQlP
謙信は臼井城を攻め落としたらどこへ攻めるつもりだったのか?
もう一度小田原を攻めるつもりだったのか古河城を奪還するつもりだったのか
853人間七七四年:2008/04/18(金) 01:09:33 ID:YroDjNnx
もう田植えの時期だから帰るつもりだったんだと思う
854人間七七四年:2008/04/18(金) 05:08:37 ID:v1tQ0FkT
氏政らの後詰めが来る前に優勢だった上杉軍が撤退した理由って何?
臼井城側が追い返した理由が実際にはわからないんだよね。
何かがあって上杉軍が帰っていった。
なぜ帰ってかを考えた方がいいんじゃない?
白井入道がマジに天才軍師で薄皮一枚の防御しかない城壁すら倒して丸裸にしながらも上杉軍を押しつぶし撃破した
崖崩れが起きてかなりの兵が下敷きになり被害がでた
和睦を偽り騙し討ち
降伏を偽り退却する上杉軍に追い討ちをかけた
神仏のたたりに怯えた
補給が続かなかった
厩橋など退路に問題が生じた
上杉&関東の領主に謀反があった
里見らが本国の危機に帰ったから
利根川や浅間山や台風など自然環境
上野・信濃・越中や越後での変事の風聞
武田・一向衆の謀略
湿原地帯での疫病の発生
将軍の和睦要請
855人間七七四年:2008/04/18(金) 05:11:27 ID:v1tQ0FkT
ただし上杉軍指揮官に死傷者なしなので下敷きになったや騙し討ちなどの可能性は低いと思われ。
856人間七七四年:2008/04/18(金) 06:22:19 ID:WJHy/EDG
謙信の急病かと
ほんと病弱だからなあ
857人間七七四年:2008/04/20(日) 13:26:08 ID:JPE4z6YZ
謙信は重い生理になるとよく撤退する時があったと言われてるしなw
858人間七七四年:2008/05/02(金) 02:35:23 ID:DDxsGuSk
助かるじゃん、関東の腰抜け連中は。
859人間七七四年:2008/05/04(日) 15:41:26 ID:OCQ1ag6X
 /:::::: ::. : :. .. . :.. ..::::::::::::: .:::ヽ
/::. :. :. .:::::...::::::.:::::.::::::::::::::::::::::::::::::::\   ,、_,ノー-、__,ハ.ィ
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:::::::::i|:| l:::|u ヽト、l /_,≧、ヽ. t::::,r-、}  ろ || ̄   l  杉
::::l!::|'l| l::| 、 ヽイ/〃'_ リ u ヽ`tフ   !!!! ヾ=  ゆ ヲ
:::ハ::「l_≧:いヽ^ヽ! ヾ=彳// 八 ∠、     ‖  う  タ
小 il{i´{{¨_/////////// ⌒ /i:|ヽ.     ‖   の は
l!|ハ ヽ ヾ=''///////,. -‐‐ 、 u l:レ }      ‖   見
/! ぃヾ/////////     ヽ /l:|/     っ   て
  tヘ////rー‐'         }/ ∠_     て
   ` ト、  ヽ         / /|!ハ    る
    l:| ` ー;'⌒ヽ _   ,∠.._ i: /: /:}   ん
     l!  ,⊥   Y二.「: : \ |/: :/: :|          /
     _,.」  ヽr‐}  ノ:ヽ: : : ヽ: :/: : :レ'⌒ヘ ,. 、   _z':
  r'フ入.  ヽ  ゙t '.∠ ---―――¬/;.イ∨l! ト、/ : : :
  }_,、_,ノヽ. 、 ヘ r‐{           |´l| ! li| | l: : : : :
 ̄     `ーヘ.フ.           | ll   | l |:/: : :::
  ,. '" _,,. -…;   ヽ             |タ    l l.|: : :::::::
  (i'"((´  __ 〈    }             |    |  j: :::/:
  |__ r=_ニニ`ヽfハ  } 腹ン中が   |     |  |: /: : :
  ヾ|!   ┴’  }|トi  } パンパンだぜ|   j | !: : :/
    |! ,,_      {'  }          |    l |:/ ::::
   「´r__ァ   ./ 彡ハ、         |    !| : : : : :
    ヽ ‐'  /   "'ヽ           |    |: : /::
     ヽ__,.. ' /     ヽ.        |    |/::::_;.
     /⌒`  ̄ `    ヽ\_      |   |:ー'´: :
    /           i ヽ \       |   |: : : : : :
860人間七七四年:2008/05/04(日) 17:56:31 ID:8gfY2BQu
>>854
推測される理由の一つが抜けてる

北条氏康が泣き喚いて謙信に憐れみを乞うた
861人間七七四年:2008/05/04(日) 18:19:51 ID:0LYTJHM/
常識的な考えなら北条の後詰がやってくると聞いて臼井城を奪っても維持が難しいし敵地深く入り込んでいるのでそろそろ引き時だったからだろう。
たぶん北条の後詰めが里見の退路を分断してくる可能性があり里見が本国へ帰るために臼井城維持が不可能だったんだろう。
佐竹が足並みを揃えてなかった可能性があり由良・足利兄弟も北条との決戦回避へ意見が傾いたんだろう。
862人間七七四年:2008/05/09(金) 17:02:03 ID:KljAyNxO
俺はね、羽生城や関宿城の補給救援が失敗した時も利根川の増水が原因だから、今回も利根川の増水が原因だと思うよ。
863人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/06(金) 17:19:52 ID:RBqU+/Vk
あげ
864人間七七四年:2008/06/10(火) 11:43:15 ID:eSCtX3LO
厩橋城に、二十数名で入城したというのは史実なのか
865人間七七四年:2008/06/10(火) 20:30:28 ID:DXWeX5N2
もしかして唐沢山の事かな?
あれは作り話だよ。核兵器でも使わないと無理だな。
866人間七七四年:2008/06/10(火) 20:37:42 ID:9JxWFx3Q
唐沢山は謙信に何度も陥落させられており、
10回の攻撃を跳ね返したという伝説は嘘っぱち
867人間七七四年:2008/06/10(火) 21:44:13 ID:DfKjNuUM
>>866
その10回伝説を信じている阿呆が多くて困る困る
ウィキペディアにもいたからな
868人間七七四年:2008/06/10(火) 21:58:41 ID:9JxWFx3Q
根拠が佐野家記だけなんだよね……w
869人間七七四年:2008/06/11(水) 20:46:07 ID:WAa0CKJM
佐野なんて心の腐った裏切り者に過ぎん。
あの立場で北条に寝返るなんて欲に目が眩んでるとしか思えない。
成田や由良などもそうだが、北条より性質が悪い。
870人間七七四年:2008/06/11(水) 20:54:17 ID:WAa0CKJM
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%98%8C%E7%B6%B1

wikiにすら情け無い所業が書かれている。
ここまで愚かな武将はいないだろう。
871人間七七四年:2008/06/11(水) 21:47:07 ID:Qd/pZ4nW
>>870
高く評価されるって
上杉の目付けを常駐させられたり人質出したりしてんのにw
佐野はどんだけ人質を犠牲にしたんかな?
872人間七七四年:2008/06/11(水) 21:56:58 ID:c1kc0Nas
あんたと同一人物かは知らないが、謙信関連スレで関東の諸将の
ネガティブキャンペーンを必死に行ってる輩がいるな。

873人間七七四年:2008/06/18(水) 00:32:33 ID:6DN8z8eg
だから味噌と豚骨だって言ってるんだよ。
とくに豚骨は絶対に外せない。
豚骨=ラーメンと言っても過言ではない。
874人間七七四年:2008/06/18(水) 20:53:38 ID:SbPiBVGy
なぜラーメンの話が出てくる
875人間七七四年:2008/06/18(水) 21:54:38 ID:6Kw3OuE+
誤爆なんじゃねーか?
876人間七七四年:2008/06/19(木) 17:46:50 ID:3gPMWcG9
佐野ラーメンの話なんだよきっと。
877人間七七四年:2008/07/02(水) 17:47:07 ID:u6t01X23
臼井城でも謙信が負けたって垂れ流してるよな。
実際は、長尾顕長を将とする軍勢を臼井城に向けたのは確実だが
謙信自身がいたかどうか不明。

しかも北条記で白井胤治が撃破したとの講談話があるが、
あれって確か臼井城攻撃の年がまるで違かったような。
そもそもこの周辺事件も、
最近じゃ国府台の戦いと太田三楽の戦いの混同や正木時茂の死亡日など、かなりの修正が加えられてきたるしね。
946:07/02(水) 16:57
原胤貞が城兵5000余騎で籠城
本佐倉城の椎津・椎名以下500
手賀城の原筑前守300余騎
小金城の高城氏1000余騎
小田原城より松田尾張守が臼井城後詰めで5000が船橋台に布陣。
これだけの軍勢が籠もってて実城堀一重まで追い詰めただけでも大したもの。
つかそもそも城攻めで被害が出て撤退しても負けとは言わないだろうな。
謙信くらいだよ城攻めが長期に渡り、撤退しただけで負けなんて言われるの。
アンチ謙信のヤツくらいだよ小田原城にしろ玉縄城・和田城・太田金山城・臼井城にしろ謙信が負けた負けたと騒ぐの。
878人間七七四年:2008/07/02(水) 19:34:24 ID:ByVBp97A
所詮北条記なんて江戸時代に入って百年以上たって作られたような軍記物ですから。
単体での信憑性なんてありません。
879人間七七四年:2008/07/02(水) 20:09:03 ID:wK7k2eJ9
一次史料を研究する学者はこういう江戸時代の史書をもっと疑うべきだよ。
880人間七七四年:2008/07/19(土) 01:36:12 ID:hw+jb+fJ
あげ
881臼井入道ってどぉ?:2008/07/30(水) 09:37:36 ID:YIlUBULl
久しぶりです。別テーマで資料探しをしていたら…
臼井城にまつわる書状3通見つけたので、追加します。
1,上杉側の資料2通。
(1).永禄九年二月付 上杉氏制札。
(東京大学史料編纂所所蔵影写本「千葉県 本土寺文書」)
「    制札
右、下総国平賀(現、松戸市平賀)にある法花寺(現、日蓮宗本土寺。通称あじさい寺。小金城の出城という説あり)において、関越の諸軍勢の濫妨狼藉を固く禁ずることを命じる。もし違反の輩がいるならば、誰彼構わず重刑に処せられるべきもの也。仍件如。
   永禄九年二月日      丹後守(花押)
                大和守(花押)
                豊前守(花押)」
※丹後守→北条高広。大和守→直江景綱。豊前守→河田長親。
結論1
@上杉軍は小金を通って臼井に向かったのは間違いない。
(一説には小金城を攻撃した後に臼井城に向かったという)
A「関越の諸軍勢」を統率できるのは、ただ一人。

(2).永禄九年3月3日付 (守谷城主)相馬治胤→(輝虎)旗本宛書状。「茨城県 江口氏所蔵北条文書」
「(今回の)越山で(関東諸将が)忠信を示す件(つまり、馳せ参じる事)につき、
(山内殿が)度々、北条高広・河田長親に内々に相談している事、(私の耳にも)聞き届いております。
就中、今度「小金」の近くに陣した上は、(私の)代理に手勢を付けて出陣させる旨、(私から進んで)両人に頼み込みました。
(中略)
   三月三日    治胤(花押)
  御旗本
    人々御中」
結論2
@宛先の「御旗本人々御中」は、輝虎だと恐れ多いので、わざと輝虎がいる場所を書いたのでしょう。(これを書札礼と言います。)
A相馬治胤も参陣したらしい。

1,北条側の資料1通。
(1).永禄九年4月12日付 氏政感状。「東京国立博物館所蔵文書」
「今度、長尾輝虎出張につき、臼井城に立て籠もり、粉骨を尽くし走り廻られ候、就中、去る23日の(上杉軍の)総攻撃の時には、(同城を)堅固に守り、敵5000余人の死傷者を出し、翌日、(敵は)敗北しました。(中略)
   卯月十二日   氏政(花押)
   (松田肥後守(康郷)とのへ)」←この部分、後筆か?
結論3
これは歴然ですよね?
以上、恐々謹言。
882人間七七四年:2008/07/30(水) 13:21:57 ID:vvgObaqW
輝虎は諸将を先行させて、自分は厩橋や沼田なんかにいることも多いからなぁ。
なんにしても上杉軍がどうやって5000人も死傷者が出るような負け方をしたのか、それが事実なら軍として崩壊してるのに、5ヶ月後には由良金山城を攻めたりしてるのが説明つかない。
883人間七七四年:2008/07/30(水) 14:02:32 ID:Q5988PPR
氏政は誇張して書いてる、でFAだろ。
実際は撤退はしたものの何千人も死んだりはしてない、としか
考えられん。
相手方の撤退や敗北を誇張して書くのは良くあることだし。
884人間七七四年:2008/07/30(水) 14:05:08 ID:cfUR4bJS
まあ五千は当然誇張だろ。
感状や手紙はプロパガンダにも使われる為、数字の誇張は頻繁に行われるから。
実際は多めに見積もっても半分以下だろうが、それでも激戦を制したのは事実かと。

あと死傷者は越後勢も含まれるだろうが、>>881のとおり在地諸侯も含まれる訳だ。
885人間七七四年:2008/07/30(水) 14:43:10 ID:vvgObaqW
上杉氏制札は、まだ到着してなくても先行して出してるケースもあるし、某北条研究の本では制札を出した場所はすべて北条侵攻地として書かれて唖然としたことあった。

関東諸将を率いて臼井城へ来てたのが由良氏の長尾顕長で上記の軍は後詰として上杉軍先遣隊の南下中の手紙じゃないかな。
由良氏って将軍義輝から次毛氈鞍覆・白傘袋免の使用を許され後に御供衆になってる家格だから事実上の上野守護と同格待遇だし。
それで単に臼井城から撤退しただけ。長攻囲を上杉軍って嫌うからね。威圧して帰るってよくあるから。
北条って5.6人討っただけで大勝とか喧伝するからモロ信用できない。
886人間七七四年:2008/07/30(水) 15:06:00 ID:cfUR4bJS
制札というものを勘違いしている。
あれは出すものではなくて、出してもらうもの。
つまり敵軍が自分の所を通過しそうだなと思ったら、村や寺などが敵軍へ貰いにいくので、
先行して出してもらうのは上杉に限った話ではない。
あと味方の村々に対しては守る義務こそありはすれ、略奪するのは禁制を出すまでも無くご法度。
ゆえに敵側の村や寺が貰いに行くのが当然で、味方に対して禁制を求めることは普通しない。

あと北条ばかり槍玉に挙げているけれど、喧伝しない大名がいればぜひ教えて欲しいんだが。
喧伝は当然のことだと思うが。
887人間七七四年:2008/07/30(水) 20:15:10 ID:FuO34N59
皆が言ってるのは北条の場合は喧伝の内容が余りにも酷すぎるってことだろ

5千とか討ち死にさせりゃ川中島の戦い以上の激戦というか戦果じゃん。半分でも然りだよ

そんな大戦果を一方的に挙げれば、当然、その後の勢力図が一方的に塗り変わるのは当然なのに
生野山合戦後に上杉北条両陣営に勢力図の変わった様子が一向にない
こんな状況で氏政の感状を信じて戦があったとしろなんて、正直
厨と言われてる人種の贔屓目としか言いようがない
888人間七七四年:2008/07/30(水) 22:47:04 ID:g7GNcgRx
>>887
武井文書だったかとおもうが、生野山合戦直後に謙信が周辺の戦況が悪化したため
関宿周辺は任せるという書状を梁田氏あてに出してるよ。

というか、生野山はそんな大勝なんて誰も言ってない。
北条氏の感状が残ってるというだけの話。
川中島直後なんで上杉が積極的に戦えずに撤退したってのが実情なんじゃないの?
889人間七七四年:2008/07/30(水) 22:53:31 ID:g7GNcgRx
追加
12月には近衛前嗣が由良成繁に古河城の苦境を伝えてる。(古簡雑纂)
周辺の勢力図は明らかに変わりつつあるよ。
890人間七七四年:2008/07/30(水) 23:57:05 ID:cfUR4bJS
>>887
おいおいよく読めよ。
「五千討ち取った」ではなく「五千の死傷者を出させた」ってのがミソだろ。

ま、戦死者はともかく敵の傷病者をハッキリと認識するすべは無いのだから、確認しようは無い。
たぶん攻め手の兵力が五千で、それを劣勢ながら追い返したお前スゲーよってニュアンスかと。

数字をはじめ内容を疑うのは当然。
ただ全否定となると、一次史料は全てあてになりませんといっているようなものだ。
それは暴論だよ。
891人間七七四年:2008/07/31(木) 00:02:01 ID:K0EJMyq+
一次資料でも信憑性なしなんてのは普通にあるが。
892人間七七四年:2008/07/31(木) 00:45:21 ID:NvXY76g8
内容から誇張を取り抜き、周囲の状況と照らし合わせれば、
輝虎の派遣した軍隊が臼井を攻めたが速戦で落とせないとわかると撤収。
これを北条側が追撃して少なくない戦果をあげたと見て間違いないだろう。
敵五千人の死傷者などと根拠もなしには誇張すら書けないからね。
但し輝虎自らが出陣していたかどうかは判然としない。
被害の割りに輝虎の軍事行動はその後も活発で越後も疲弊した形跡がない。
五千人も死傷者を出しながら討ち死にした武将も見られない。
越後ではなく関東の先方隊の可能性が高いと見ていい。
893人間七七四年:2008/07/31(木) 00:46:13 ID:Xy7ZEv4K
単独で信憑性無いのはどれも同じ。
でもこのスレを見返すだけで、有る程度の信憑性は確認できるだろ。

それも出来ないというのならば、もはや語る術を持たない。
894人間七七四年:2008/07/31(木) 01:23:34 ID:lCDYdrNv
5000人と常識はずれな誇張をしてるからこそまったく信憑性ゼロなんだよな。
895人間七七四年:2008/07/31(木) 03:00:38 ID:VCOCJY3v
>>888>>889
アホかw
どう戦況が変わったか具体的に言ってみろ
よく知りもしないのにデタラメな情報ばかり都合よく解釈すんな

>>890
5千の死傷者だして「本庄某」なんて名無しの足軽一人斬り付けた感状一枚の方が明らかに不自然
そんなアホらしい感状を一次史料とかって笑わせないでくれ


896人間七七四年:2008/07/31(木) 03:10:39 ID:VCOCJY3v
>>892
>内容から誇張を取り抜き、周囲の状況と照らし合わせれば

上杉方が威嚇して長期攻城になるのを見越して撤収
資料や当時の状況を見れば、こういう結論が普通だわな
関東勢も、その後、滅んだ勢力もなく史料もないことから
関東勢でもないと判断される

>>893
このスレを見返してみて、
いつも北条方の浅い史料を基にした説明がされ
それを普通に追求されて、その後、返答できないまま消えていく
この流れで信憑性を感じろとは無理な話です
そんなバレバレの展開でさえ語る術を持てないのなら
もし、オマエが営業職だったら一生契約取れませんw
897人間七七四年:2008/08/01(金) 21:07:35 ID:tVbZrSnG
臼井城の攻防は里見の存亡がかかってたといってもいい。
そんな中、長期の対陣を嫌っただけで撤収とかあり得ない。
当時の状況を見ればまずこうなるよね。
房総半島を制圧されれば一大事だよ。
滅んだ勢力がないから関東勢でもないって、あまりにも浅はか。
その後、和田城攻略失敗もあり関東の上杉勢力が一気に後退したのは知ってるだろうが。
898人間七七四年:2008/08/01(金) 21:37:12 ID:uaDV7+eW
その後、臼井城は
その里見によって落とされてるわけだが・・w

言ってることが無学すぎて議論にすらならない

899人間七七四年:2008/08/01(金) 21:48:40 ID:tVbZrSnG
>>898
どうしようもないアホだな、無学はおまえだよ。
里見が本格的に下総南部に進出できるようになるのは
謙信が関与していない三船山の後だ。
臼井城の件での影響はその三船山の状況を作ってしまったところと
上野での集団離反を招いたところだ。
まあ結局は里見が独力で盛り返すんだがな。
900人間七七四年:2008/08/01(金) 21:52:21 ID:comS17/q
その後の関東情勢が上杉にとって不利になるのは、
長期集中戦略の北条と短期分散戦略の上杉の差が出たわけで、
あまりこの合戦は関係ないと思うな。
足利義輝が殺害されて輝虎の求心力が失墜したのも無視できない。
901人間七七四年:2008/08/01(金) 22:03:06 ID:zyLXw/S2
臼井城攻め総指揮の足利長尾氏が兄の由良と厩橋の北条と謀反したのだから、
足利長尾氏が臼井城で失敗したのを謙信が怒ってるとか武田や佐竹に通じた厩橋の北条が讒言したんでないかな。
謙信も北条のせいで由良が〜みたいな事言ってなかった?しかも佐竹から北条は領地もらってたような。
臼井城での撤退はやる気がない怠慢な北条が由良・足利を引き込んだと思うな。
小田原城攻撃でも関東の諸将が長期滞陣を嫌がってたし。
彼らは軍役を嫌がるからねぇ。
小田原の後北条はあまり彼らに軍役を指示しないからね。
まぁその後、越相同盟で、謙信の関東管領を後北条が認めた事で謙信配下の後北条って形になって、彼らも謙信側に戻ってきて政略で謙信が勝利してしまうワケだが。
902人間七七四年:2008/08/01(金) 22:05:25 ID:tVbZrSnG
当然、戦略の差も大きいだろうね。
ただこの合戦がその後に影響を与えたものの一つであることは確か。
長年北条を牽制してきた房総半島の弱体化と孤立化を無視する大名や豪族などいないよ。
903人間七七四年:2008/08/01(金) 22:31:10 ID:uaDV7+eW
なんも話の流れや繋がりもなく、
ただ臼井城攻防があって北条方が一方的に勝ったと結論つけたいだけか・・
アホ臭w

誰のどの指摘にも1つもまともに答えられてないのに

臼井城攻防で北条勝った〜wって・・言ってることが無学すぎて議論にすらならない


904人間七七四年:2008/08/01(金) 22:50:19 ID:comS17/q
>>903
北条が何か勝利めいた状態であったのは簡単に否定できないと思う。

ただし輝虎自身の軍勢を撃ち破ったことと、
五千人の死傷者なる数には、
情報操作があるだろう。

もちろん大本営発表や昨今のアメリカを例に出すまでもなく、
北条が上杉の撤収を見てありもしない勝利を宣言した可能性もあるにはあるが。
905人間七七四年:2008/08/01(金) 23:47:00 ID:uaDV7+eW
むしろ
北条が何か勝利めいた状態であったことを簡単に肯定できることを
少しでもいいから説明して欲しいんだが・・
906人間七七四年:2008/08/02(土) 02:20:15 ID:y5iHPWYn
むしろ、里見氏が臼井城に合流することができなかった為に
奪っても維持が難しいので撤退だろ。上杉軍としては突出しすぎだし。
旧関東管領圏ではなく、旧古河公方圏での戦略はいろいろと難しそうだし。
そもそも一年の間にちょくちょく撤退・越山を繰り返すのは上杉軍ではよくあることだし。
907人間七七四年:2008/08/02(土) 10:09:06 ID:5I4cA6C9
>>905
>881の
>(1).永禄九年4月12日付 氏政感状。「東京国立博物館所蔵文書」
>「今度、長尾輝虎出張につき、臼井城に立て籠もり、粉骨を尽くし走り廻られ候、就中、去る23日の(上杉軍の)総攻撃の時には、(同城を)堅固に守り、敵5000余人の死傷者を出し、翌日、(敵は)敗北しました。(中略)
>   卯月十二日   氏政(花押)
>   (松田肥後守(康郷)とのへ)」←この部分、後筆か?
の五千人のくだり。加害事実がないのに五千人は書かないと思う。
せめて五十人ぐらいは損害を与えていないといくらなんでもここまで嘘はつけないだろう。
すぐばれる嘘を乱発するような低脳なら謙信相手に国取りゲームで生き残れない。
908人間七七四年:2008/08/02(土) 14:32:57 ID:y5iHPWYn
3.4人しか討ってなくても勝利宣言するのが北条クオリティなんだが・・・
909人間七七四年:2008/08/02(土) 17:42:48 ID:7tFXr9+x
>>908
>885
こっそり減らすな。
910人間七七四年:2008/08/02(土) 18:28:07 ID:5I4cA6C9
6人討ち取りした感状はあるけれど、別に勝利宣言はしてないんじゃないかな。
していたとしたら中国と同じだね。戦闘では一回も勝ってないけれど、
敵が撤退したので微々たる戦果をもって勝利だと吼えたというw
911人間七七四年:2008/08/03(日) 16:56:06 ID:SHgvavRI
確か六人討ち取り感状は、沼尻だっけ?

あれは長陣で、小競り合いが多かったというから
その日の戦い(数十人〜数百人規模)はお前のおかげで優勢で終りましたくらいの代物だと思うがなあ。

それを拡大解釈してわめいている方がよほどビックマウスじゃないか。
912人間七七四年:2008/08/24(日) 08:46:40 ID:MeYrCvlX
            ∩_
           〈〈〈 ヽ
          〈⊃  }
   ∩___∩  |   |
   | ノ      ヽ !   !
  /  ●   ● |  /
  |    ( _●_)  ミ/ <こいつ最高にアホ
 彡、   |∪|  /
/ __  ヽノ /
(___)   /
913人間七七四年:2008/08/25(月) 02:25:13 ID:UxuJvrfX
永禄七と永禄九年説があってよくわからない戦い。
関八州古戦録→原上野介胤繁
北条記→原式部大輔胤貞
易や呪術や気を見る怪力乱神な軍師の名も
臼井四郎左衛門入道浄三・白井入道・臼井長門守胤定と一致していない。
さらに謙信が陣を敷いたと言う場所も一夜城公園として存在するが
とても陣を敷くような地形じゃないのでウソくさい。
完全な作り話とする方が良いと思われ。
914人間七七四年:2008/08/25(月) 13:07:01 ID:WsBDAbPA
>>913
氏政の感状はどう解釈してる?
915人間七七四年:2008/09/13(土) 22:12:15 ID:9dkv6Nqh
ところで臼井城が落城したっていつのことなんでしょうか。
何かソースとかあるんでしょうか。
916人間七七四年:2008/09/16(火) 23:47:24 ID:c21+4pRX
結局のところ、謙信は無敵なので負けてないってことですね。
917人間七七四年:2008/10/10(金) 02:52:56 ID:RpOJkRb6
>>881を読み返して見たが、上杉方の敗退があったのは間違いないね。
しかし川中島ばりに被害を受けた割に越後の武将は失われた形跡がない。
上杉方が劣勢な状態で引き上げた事を勝者が巧みに誇大喧伝したと言う事だろうか。

情報把握の困難さは手取川合戦と類似するが、異なるのは被害の大きさ、
そして本人の体験による情報で書かれていない事。
輝虎本人の直属軍が大敗を喫したのがそのまま、純然たる事実とは思えない。
やはり先発隊が敗れたのだろうか。
918人間七七四年:2008/10/10(金) 05:40:47 ID:bqt3/VhU
里見・太田連合VS北条の
第二次国府台合戦でさえ、両軍の死亡武将は明らかなのにな
この臼井城の時だけ関東衆の被害が不明というは
やっぱ怪しいよね
919人間七七四年:2008/10/10(金) 08:56:04 ID:qXvIsZGK
籠城するぐらいだから、臼井城の兵は数千人もいなかったと思われる。
それがなぜ五千人もの大人数を一日で討ち取れたのかが解せない。

撤退する敵を追撃するにしてもまず数倍はある人数を勇んで追廻し、
これをたやすく大量虐殺できるもんだろうか。

伝聞であるだけに情報が錯綜している可能性は高い。
920臼井城ってどお?:2008/10/13(月) 15:27:47 ID:hEfmoIx9
>>882-892さん。>>897-913さん。>>917-919さんへ。返事遅れました。
楽しくかつ、時に考えさせられながらROMらせてもらい、
特に>>895-896さんの「制札について」は、為になりました。ありがとう。

>>906さんへ。里見も臼井城攻撃に加わっているみたいだよ。
>>833の「死傷者が続出したことで、房州衆(里見)と酒井(上総土気の胤治)の陣は、(引き上げたため)空っぽになりました。これにより23日夕方の時点で、上杉軍の兵力は少数に転じたようです」とありますよ。

皆さんへ。私のその疑問に同感です。
1.死傷者の数。
(1).北条は、23日朝と夕に上杉陣内を偵察して単純に計算した結果、死傷者5000人とはじき出したのか? (里見と酒井のように戦わずに撤退した兵も含めてね。)
(2).もしくは>>883さんの言う通り誇張なのか? わかませんねぇ。
(つまり>>833の「数千人」と>>834>>881の「5000人」という事。) 
(もう一度見てみたら、>>881だけは「手負い(負傷者)5000人」でした。スミマセン。)

2.なぜ撤退したのか? 特に>>882>>892さんへ。
謙信(越後勢)は(越相和与の)御内書が来たから、かつ里見(・酒井・簗田・相馬)のための手伝いなので、本気モードじゃなかったのかも。(その里見は真っ先に退却したしね。)それとも地理的に見て攻勢の限界点だったのか?
そして関東勢は(自軍の)損害が多く、里見や酒井のように嫌気が差して、(内輪で相談した結果、謙信に内緒で)撤退したのでしょうか?
それとも、後に小山で義重と言い争ったように、謙信と関東諸将が揉めたのか? 色々考えられますね。
実は、それ加えて武田軍が西上野に侵攻し、4/3に白井城を攻撃したらしい。

その後の展開を調べてみました。なぜ謙信が撤退したのか?推測してみて下さいね。
永禄九年(1566)
4月上旬 武田軍白井攻撃のため謙信は厩橋城に帰陣。5/9春日山城に帰城。
5月13日 小田氏治・結城晴朝・小山秀綱・宇都宮広綱、北条に人質を差し出す。
     (結城・小山・宇都宮は臼井城攻撃に参加し、小田は降伏したばかり。)
     北条軍上野方面へ出陣か?(勝浦正木時忠の長男時通は、これに加わっていたらしい。)
6月   謙信越中増山城に出陣し、神保氏張を攻める。
     相馬治胤、守谷城を公方義氏の後座所に進呈する。(北条に寝返る。)
7月24日 謙信は春日山を出陣し、閏8月19日沼田に着陣。(第7回関東遠征)
閏8月23日 (宇都宮・)由良成繁・成田氏長・下野皆川が、北条側につく。
閏8月29日 謙信、上州金山(由良)攻め。その後帰国?
9月29日 箕輪落城。
11月 謙信越山。8日大胡着陣。19日佐野着陣。
11月下旬 富岡重朝・北条高広。12月足利長尾景長が、北条側につく。
佐野で北条の攻撃を退けて、越年。
ソースもあるので、何かあれば遠慮なくレス下さい。

>>913さんへ。ザッと調べたので「あくまでも推測」です。
永禄七年説は『上杉家御年譜』『北条記』『豆相記』『小田原北条記』『関八州古戦録』などの編纂物で…、
永禄九年説は「上杉氏年表(戦国遺文)」「大日本史料」「大日本古文書」「小田原編年録」など、(恐らく「東大史料編纂所」の見解です。)
後者が定説ね。

>>843さんへ。「厩橋と沼田の件」「河田と高広の件」に関する資料が出てきました。中身を確認してみますね。恐々謹言。
921人間七七四年:2008/10/13(月) 16:08:26 ID:vMBOVL1w
いつもちゃんと考えて調べてありがたい
922臼井城ってどお?:2008/10/17(金) 16:12:17 ID:B7dPInIA
>>921さんへ。
こっちこそ長文で申し訳ないです。(これでも1/2は削っているのですが…)
読者や突っ込み、そして>>921さんのようにねぎらう人がいてこそ成り立つものです。
「タワゴト」を書かせてもらうだけでありがたい。

>>919さんへ。
臼井城は本城は小さいが、周囲の砦や小城からなる惣構えが特徴らしいよ。
以下のHPを見てね。
・臼井城(佐倉市臼井田字城内)⇒臼井城の歴史。
http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/1_3.htm
・臼井城の惣構(佐倉市臼井田ほか)⇒地図掲載。
http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/1_3_0.htm
・臼井城の周辺城砦群(洲崎砦、仲台砦、田久利砦、稲荷台砦、宿内砦、王子台砦)
http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/1_3_1.htm
恐々謹言。

923人間七七四年:2008/10/17(金) 20:51:52 ID:3NB2Fx5W
上杉軍は臼井城を板一枚だかまで追い詰めたんだっけ?
そんで、その板を倒して上杉軍5000を生き埋めにしたのが白井入道だっけ?
本丸剥き出しの臼井から大軍の上杉軍が逃げていったのを小勢の臼井将兵が追撃したと。
924人間七七四年:2008/11/23(日) 13:34:46 ID:eunutqvo
あげ
925人間七七四年:2009/01/02(金) 17:24:03 ID:9o5cL06o
あげ
926 株価【42】 :2009/01/03(土) 03:18:30 ID:XOVv+C5+
この戦いは上杉景勝の初陣だよな
景勝が配下の上田衆に感状出してる
景勝があまり自慢しないのをみると分が悪い戦なんだろうな

927人間七七四年:2009/01/03(土) 03:28:29 ID:Ib27/0TL
景勝当時いくつだと思ってんだよw
初陣で出たとしてもろくに指揮なんか取ってないだろ。
928人間七七四年:2009/01/03(土) 04:41:17 ID:21RdUF38
Wikipedia先生によれば景勝より1つしたの、長尾顕長も出陣してるお
929人間七七四年:2009/01/03(土) 19:43:17 ID:32AZaP5k
子供軍団を派遣ってw
かなりナメられてんなw
930人間七七四年:2009/01/03(土) 20:12:59 ID:XOVv+C5+
臼井城を落とした後はどこを攻めるつもりだったんだろう?もう1度小田原城?
931人間七七四年:2009/01/03(土) 21:39:53 ID:rs4A1q+f
顕景(12)「ぼくがわるい敵をやっつける!」
輝虎(37)「その意気も大事だけど、家臣への労りも忘れたらだめだよ」
顕景「はい!」
顕長「よーし、ぼくもはりきるぞ!」

わーわー

臼井城「…………帰れよ」
932人間七七四年:2009/02/01(日) 12:32:24 ID:AJJblr0A
age
933人間七七四年:2009/02/01(日) 13:21:54 ID:EBTj0Bod
つーかこれ伝説の話だろ
934人間七七四年:2009/02/01(日) 13:35:20 ID:PDwOkXOF
現場責任者の総大将は足利長尾に養子に入ったばかりの長尾(由良)顕長11歳
935人間七七四年:2009/02/02(月) 14:53:25 ID:oGIZ7CAf
つまり総大将顕長11歳、援軍顕景12歳による城攻めか。
936人間七七四年:2009/02/02(月) 22:22:53 ID:8nE9yoLR
>>933
川中島も鉄砲三段も手取り川も武田騎馬も、同じ伝説ではあるが一般的には定着してますよ
937人間七七四年:2009/02/02(月) 22:29:59 ID:VaGbpKVD
元服すらまだまだの小学生かよ…
938人間七七四年:2009/02/02(月) 23:12:45 ID:B9KL3mqv
武田騎馬軍団不在説は最近見事に反証なされていていた。
なかなかいい論文だったよ。
通説に対して極論による破壊がなされて、また反論があって、
その実相がより詳密に見えてきた。
939人間七七四年:2009/02/06(金) 01:37:34 ID:ULLxtMKw
臼井城跡近辺には大田姓が多い。
噂では大田道灌ゆかりの家らしく、かなりの土地持ちだね。
和菓子の大田堂も江戸から続く老舗だし、旧成田街道沿いで面白い場所。
長島さんの実家も近い。
940人間七七四年:2009/02/06(金) 09:03:55 ID:kJ27DJ0q
臼井城は下総攻略を目指した太田道灌の弟(一節に従兄弟)が討ち死にしたからかな?
941人間七七四年:2009/02/06(金) 15:18:56 ID:ixFky//V
臼井姓は多いのか?
942人間七七四年:2009/02/09(月) 13:39:00 ID:LvQel8AQ
2月14日にアド街ック天国で佐倉が報道されます。
長島の実家当たりを動いたらしいので、臼井城址も
少しはでるかなぁ?
943人間七七四年:2009/02/12(木) 21:43:26 ID:T3CAmZ03
>川中島も鉄砲三段も手取り川も武田騎馬も、同じ伝説ではあるが一般的には
>定着してますよ

結局「伝説」って、新たな伝説がドラマや映画の名場面になって、それまでの
常識を上から塗りつぶさない限りいつまでも消えないんだよ。
そういう点じゃ鈴木の言うように「学会の中でだけ説を唱えても、一般には
全く届かない」というのはある面の真理ではあるわな。

大河ドラマ「信長」で、「信長公記」に忠実すぎるくらい忠実な桶狭間を
みせてからも、まだ「間道を伝っての奇襲」という伝説はむしろ拡大再生産
されていたくらいだからね。歴史オタの考える以上に世間って奴はしぶといよ。
944人間七七四年:2009/02/15(日) 20:58:39 ID:b76EycD/
七尾城が大河に出て、何で臼井城は出ないんだろう。
不思議でしょうがない。
945人間七七四年:2009/02/15(日) 21:02:12 ID:QjNQbq5V
関東での戦いがひとつも書かれる必要の無いドラマの流れなんだから仕方ない。
946人間七七四年:2009/02/15(日) 21:33:00 ID:6v0opCXo
ドラマでは謙信は神でなくてはならない。
臼井城や関宿城の戦いはタブーに決まってる。
小田原の撤退がTV放映できるギリギリの線。

947人間七七四年:2009/02/15(日) 22:47:57 ID:QjNQbq5V
関宿については落ち度が謙信にあるどころか最善を尽くしている。
948人間七七四年:2009/02/16(月) 07:37:41 ID:RH9iJ8lv
臼井城は上杉ガキ軍団しかいないし。
そもそも実質、七尾攻め寸前からストーリー始まってるから
時代的にも関宿も臼井も出るわけがない。
だいたい劇中で七尾からして映像自体がまったくなかったわけだが。
949人間七七四年:2009/02/17(火) 11:34:41 ID:6aXEUasm
大河なあ・・・。
柿崎誅殺も北条の裏切りも無く、謙信が死んでしまうのはさすがに酷いと思うぜ。
二人ともテロップつきで出てきたのに。
950人間七七四年:2009/02/17(火) 13:04:58 ID:Zdly8AIo
柿崎の死は謙信の処罰かどうかわからないんだから省いても問題ないだろ。
951人間七七四年:2009/02/17(火) 14:26:09 ID:Lm/KmmOv
どうせ小田原攻めで瞬殺される北条なんて描く意味がない。
952人間七七四年:2009/02/17(火) 14:34:58 ID:6aXEUasm
「ほうじょう」じゃなくて「きたじょう」な。
言うまでも無いと思ってたけど。
953人間七七四年:2009/02/28(土) 23:04:04 ID:MGiQ3fBD
槙島昭武によって1726年に成立した関八州古戦録によると
館林の長尾顕長と小泉の富岡主税助重朝が先陣で、総州葛飾郡松戸の渡を越えて小金原に進出。
上杉軍が参加できず、国府台で敗れた太田や里見への償い、死んだ兵への手向けにしようと国府台近辺の敵城を攻め落とす為
永禄6年4/20曙前から臼井城攻め。
本庄繁長の活躍で上杉軍優勢だったが雨により引き上げ。
明け方に風雨が止んだので攻撃再開。
上杉軍優勢だったが、空堀の片崖の地盤が急に裂けて寄手の側に崩れかかり、雑兵8、90人がこれに打たれた。
そこで引き揚げさせたところ、臼井城から追っ手がやってきたので北条が踏みとどまって応戦。
さらに新発田700騎が追っ手に斜めに突っ切りながら大手に迫ったので、
追撃した原や松田は分断され100余人が討たれ城に戻った。
越兵も軍をまとめて上州に帰った。
ん?越軍が一応の戦果をあげたことに満足して帰っただけかな。
※三好長慶の許から天文による占いの名手の白井入道浄三が帰国して臼井城で卦を占ったりしてる間は鉄砲を撃たずに静かにしてたりしてるが戦況にあまり関係無さそう。
卦の力で地盤が裂けたなら孔明並みにすごいわけだがw
なんか北条記と内容がやたら似てるが、北条記の成立は何年なんだ?
954人間七七四年:2009/03/01(日) 23:17:50 ID:GscP3q3F
千葉氏系統の臼井勝又氏はどうなったのだろうか?
955人間七七四年:2009/03/11(水) 21:00:51 ID:wkGyoclc
これは謙信直属軍の合戦じゃないみたいだね。
市村高男氏の「東国の戦国合戦」では海上年代記に「房州人数三百人余打死」とあり、
人数も軍勢もこれが実情だろう。
956人間七七四年:2009/03/20(金) 00:57:27 ID:KpPA/0Uc
こんな重要な合戦に謙信が出てこないわけないじゃん。
957人間七七四年:2009/03/20(金) 18:54:31 ID:1vP4pVZE
言うほど重要でもない。

結果は重大だったが…
958人間七七四年:2009/03/24(火) 00:02:33 ID:aNQS6mJ+
そもそも955の本でも謙信は負けたことに
なってるのがウケルw
959人間七七四年:2009/03/26(木) 00:51:30 ID:loL1cj6Z
そもそも城攻めを切り上げて帰っただけだろ。
城攻め止めて帰った→上杉の負け
そういう認識なのか?
960人間七七四年:2009/03/26(木) 01:04:21 ID:hI7BcIaV
臼井で負傷した武将へ長尾顕景から感状が出ているから、
何らかの軍事的接触はあったんだろうね。
961人間七七四年:2009/03/26(木) 23:04:37 ID:ERrr5N/b
切り上げて帰っただけだったら
負けなんて書かねえだろ。

反撃食らって損害だして帰ったから
負けってかかれんだろ。
962人間七七四年:2009/03/28(土) 22:27:30 ID:/n0wbKyR
攻城側が撤退したのを負けとするなら
小田原籠城した北条は上杉にも武田にも勝ちまくり過ぎだろw
じゃあ成田氏の忍城に秀吉は負け、成田は秀吉に勝ったって言っても間違いないなw
謙信は小田原城で負け、臼井城で負け、忍城で負け、和田城で負け、関宿城で負け、金山城で負け、騎西城で負け、唐沢山城で負け、松山城で負けたって事になるなw
963人間七七四年:2009/03/29(日) 00:25:33 ID:m8hbSpWB
籠城最強伝説
964人間七七四年:2009/03/30(月) 00:10:30 ID:nBdu+7zF
>>962
おまえさあ、直前のレスぐらい読めや。
965人間七七四年:2009/03/30(月) 09:16:36 ID:yimXVsre
読んでから書いてるんじゃないの。
966人間七七四年:2009/04/01(水) 23:18:11 ID:FtwdPRQb
なら読んでも理解できてないんだな。
967人間七七四年:2009/04/07(火) 20:59:59 ID:NMGRFbUT
歴史とは関係ないけどあの辺ずいぶん変わったね。17号のバイパスが4車線になって渋滞もスルーできたな。昔は西側の鯉沢て信号を17号が通ってて渋滞が酷かった
968人間七七四年:2009/04/10(金) 00:01:48 ID:NkfV2TJu
この前NHK見てたら総攻撃かけて1000位死傷者出して撤退したって言ってた
ソースは氏政の手紙
969人間七七四年:2009/04/10(金) 09:04:28 ID:R/PCpIdt
そんなもんここで散々語られている
970人間七七四年:2009/04/11(土) 15:57:47 ID:gVlImte8
そりゃNHKのアホな制作者が2chとwikiを見て番組のネタ作ってるからな。
考証してるのは小和田のテっちゃんだし。
971人間七七四年:2009/04/11(土) 16:36:00 ID:BoYendF0
山田邦明氏も出ていたよ。2chとwikiを見ては言いすぎ。
しかし臼井城の敗戦の分析はほんと低レベルだったな。
972人間七七四年:2009/04/12(日) 19:17:01 ID:HnMokolO
>>878
> 所詮北条記なんて江戸時代に入って百年以上たって作られたような軍記物ですから。
> 単体での信憑性なんてありません。

米沢上杉謹製の歴代古案もナッー!
973人間七七四年:2009/04/12(日) 19:31:18 ID:GLAPMr7Z
北条記の責任編集したのは誰?
974人間七七四年:2009/04/12(日) 20:30:46 ID:n/DNa8Qo
>>973
新倉イワヲ
975人間七七四年:2009/04/12(日) 23:01:05 ID:20ajUePw
>>972
> 米沢上杉謹製の歴代古案もナッー!
歴代古案は軍記じゃなくて史料集だお。
掲載されている文書の多くは現存しているんだお。
976人間七七四年:2009/04/12(日) 23:07:39 ID:HnMokolO
>>975
×掲載されている文書の多くは現存しているんだお。
○掲載されている捏造書簡の多くは現存しているんだお。

韓国の起源は米沢上杉ニダ
977人間七七四年:2009/04/13(月) 10:24:58 ID:zb2wndQH
Subキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!
978人間七七四年:2009/04/13(月) 11:22:51 ID:QMhhWN3p
歴代古案は上杉関係文書の写しを集めたもの。
原文が失われ古案にしか残されてないものもあれば、
原文が『上杉家文書』として国宝指定されているものもある。
御年譜の編纂開始時期に編集されたものと言われているが、
年譜に載せられている文書とは微妙に違うものもあり、
誰が何の目的で編纂したのかは不明じゃなかったか?
979人間七七四年:2009/04/15(水) 17:46:29 ID:1hlQXDJ0
ついさっきNHKで謙信番組やってて臼井城が紹介されて興味が出て来ました
一ヶ月の攻城戦でも落ちない焦りから、細い土橋を綱渡り総攻撃かけて上杉惨敗・数千の死傷者が。。。
兵站が細くて「飢え杉」になってたとか

川中島の一騎打ちも、かなり後世の本まで出てこないところから「創作」というオチ
謙信のまともな武功を探すと末期の越中・能登侵略あたりだけだね
あとはことごとく無駄戦
軍事以外も目だった内政手腕や独創的な新しい何かをしたわけでもない
後世の脚本家の一騎打ち妄想話で有名になってるだけだね
980人間七七四年:2009/04/15(水) 17:57:10 ID:1hlQXDJ0
まあアル中殿様らしいご乱交が目立っただけ歴史に残ったってのが正確かな
アル中性脳溢血で終了 がっかり謙信
981人間七七四年:2009/04/16(木) 09:13:10 ID:3EkZ4DFn
>979
北条の文書では数千人だが、他の文書だとせいぜい数人。
これに限らず北条には誇張癖がある。
982人間七七四年:2009/04/16(木) 12:13:17 ID:oTsbJqyq
北条と伊達の誇張癖は病的。
983人間七七四年:2009/04/16(木) 12:37:28 ID:sGj+iCmJ
>>979
北条とか今川とか朝倉みたいな
本当に独創的な仕事した所は世間の扱い悪いなw
984人間七七四年:2009/04/16(木) 12:59:27 ID:7FUVZNmc
>>983
最後がヘタレだからだろw
985人間七七四年:2009/04/16(木) 22:13:34 ID:DOc+edY8
謙信はほとんど領土を拡大出来なかったからな
戦の数は多いのに、おかげで恩賞がままならず離反者が続出するヘタレさ
佐渡金山がなかったら崩壊してたな
986人間七七四年:2009/04/16(木) 22:20:34 ID:t8NZrCNr
今孔明、と呼ばれる謎の男が謙信を打ち破った、とかいってみる。
987人間七七四年:2009/04/16(木) 22:25:25 ID:DOc+edY8
訂正
佐渡金山は戦国時代は未開発
謙信の財源と無縁が濃厚
988人間七七四年:2009/04/17(金) 02:26:21 ID:KjnLljl0
領土拡大していないのに家臣は従属度を高め、
なぜか軍資金はうるおう謙信
989人間七七四年:2009/04/17(金) 03:07:34 ID:hZMvEwwR
領土拡大してるって。上野も自分の領土にして越後の子飼い豪族入れたし。まぁそれに裏切られたりするわけだがw
信濃、越中方面も領土切り取ってるしな。
990人間七七四年:2009/04/17(金) 09:05:44 ID:/H8b/2A8
一向宗を遠隔操作する信玄が死んだあとの謙信の勢力拡大は異常
結局、北条は役立たずだったな。
991仙台藩百姓:2009/04/17(金) 11:35:45 ID:RmBsWMbA
その割には北条の拡大を全く食い止められなかったおね( ^ω^)
信玄が暴れ回ったお陰で上野の辺りを棚ぼたでゲットできたぐらいで( ^ω^)プ
992人間七七四年:2009/04/17(金) 13:49:02 ID:/H8b/2A8
北条の拡大?
北条は上野国を一時的に支配したが、謙信の南下で大幅後退を余儀なくさせられ
由良足利領や北条厩橋の当初の北条直轄への野心をついに諦めて、せめて仲間になってもらっただけだろ。
これだって武田が西上野を攻略したおかげ。
993人間七七四年:2009/04/18(土) 14:45:24 ID:fb0UvZzA
北条は120年独立国家として続いたけど、上杉は謙信一代だけ
しかも越後一国さえも完全に掌握出来なかった
994人間七七四年:2009/04/18(土) 15:04:52 ID:xRECgX9A
>>992
上杉謙信を見限って北条氏康に帰属したことをお忘れなく!
995人間七七四年:2009/04/18(土) 15:08:52 ID:xRECgX9A
次スレもできたみたいだしとっとと埋めようぜw
996人間七七四年:2009/04/18(土) 15:13:44 ID:xRECgX9A
うめ
997人間七七四年:2009/04/18(土) 15:18:55 ID:xRECgX9A
うめ
998人間七七四年:2009/04/18(土) 15:27:04 ID:xRECgX9A
うめ
999人間七七四年:2009/04/18(土) 15:31:22 ID:xRECgX9A
うめ
1000仙台藩百姓:2009/04/18(土) 15:31:54 ID:Eg4YA7lg
謙信大敗走( ^ω^)
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
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