常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重

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462東義久ってどぉ?
【関東最強】臼井城について【謙信敗北】
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なぜ義重が北関東の旗頭(盟主)になったのか?
@越山できない謙信から一部の仕置を任された。
「…略…宇都宮と佐竹に佐野より東の一帯(の軍事指揮権)を明け渡し、いずれの仕置も任す。両家が(謙信に)同心すれば、北関東の東は自分(謙信)の思うがままになるだろう…以下略」
永禄十一年(1568)八月七日付 謙信→太田三楽斎あて書状写「謙信公御代御書集 十四」所収。

この頃謙信は…
・本庄繁長の叛乱(永禄11年3月11日〜永禄12年3月26日)
・信州飯山城救援(永禄11年7月17日、武田勢に攻略された) のため、越山を遅延せざるを得ず、佐竹・宇都宮に北関東の東部(常陸・下野)を任せたのである。

A反北条諸将の謙信離れ。
永禄12年閏5月3日、謙信は、反北条諸将の反対を押し切って越相同盟を結んだため、北条の脅威に直接さらされている太田父子・簗田・小山・宇都宮・佐竹などは、謙信から離れて自立化し、信玄と結ぶなど独自に行動していった。

これに対し謙信は… 「義重を始め、宇都宮・多賀谷など「東方之衆」(佐竹の軍事指揮下にある諸将を指す)が小田氏を攻めているので、「自分に味方する者が一人もいない」。
片野・小田の仕置に夢中になっている太田父子は、岩付・松山の本領回復の初心を忘れやがって…。
大石君は義重と太田父子を説得し、直ちに参陣させる事。…以下略」とグチっている。
永禄12年12月1日付 謙信→家臣大石芳綱あて書状写「歴代古案一」

この頃義重らは、手這坂合戦後の仕置の最中であり、 一方謙信は、越相同盟で岩付・松山の帰属などを北条と交渉中だった。

B小川台合戦…天正六年(1578)5月〜6月
これは北条が昨年夏、勝手に佐竹と通じた結城晴朝を懲罰するために、謙信死亡(同年3月13日)の隙を突いて、結城領に攻め入った事に起因する。
(だったら三郎景虎を救ってやればいいのにw。)
結城は直ちに義重らに救援を頼んだ。
義重は自ら出陣すると共に、大掾はじめ南部三十三館の諸領主・江戸・宍戸・
佐竹北義斯・佐竹東義久・石神小野崎・額田小野崎・小場・戸村・大山・石塚・月居・野口・小河・
武茂・松野・千本・茂木・宇都宮勢・塩谷・喜連川・真壁闇夜軒・太田三楽斎・梶原政景・多賀谷重経・平塚・水谷蟠竜斎兄弟・結城・那須・壬生徳雪斎周長らも義重の呼びかけに応じて結城救援に出陣し、
両者は鬼怒川を挟んで小川台(現、筑西市小川)の一体で対陣した。
(佐竹連合軍7000vs.北条軍は不明(20000か?))
※注 義斯から小河までは、義重の家臣とされているが、譜代の家臣ではなくて、起請文を交わし合う盟約的な関係に留まっていたようだ。

この合戦の最中に彼らは「北条を共通の敵とした三カ条の神名血判の誓約を交わし」(by小川岱状) 義重を旗頭に反北条同盟を結成した。
(この時点で義重が、正式に北関東の盟主になったわけ)
(このあと同盟の証として、宇都宮朝勝が結城家に養子に入った)
(後に佐野宗綱・皆川広照が加わるようになる)
しかし、北条の攻撃と調略で那須・皆川・佐野が脱落し、かつ宇都宮城が大打撃を被るなどしたため、北条優位の状況になっていく。
(ここで義重に代わって、秀吉が出てくるわけ)

参考文献
@『戦国期東国の権力構造』荒川善夫著
A『鹿沼市史』の「小川岱状」