26 :
名無しさん@3周年:2005/04/10(日) 02:20:12 ID:sJWIouEk
小泉は醜い売国奴レイプ野郎で、拉致被害者のことも他人事、竹島
を不法占拠されているのも、尖閣諸島沖のガス田を盗掘されているの
も他人事、北方四島を不法占拠されているのも他人事で、一度も返せ
と要求したこともなく、ニタニタしながら能天気に桜を見たり、歌舞
伎に行ったりしている軽薄な人気取りだけの無責任野郎。
奴の凄惨な死を心から願う。
27 :
名無しさん@3周年:2005/04/10(日) 02:26:44 ID:KHv5JuXp
すべて日本の経済、技術力のおかげで成長することが出来た
韓国だが、日本は何度戦争を謝罪しても
「過去の謝罪は白紙」
「戦後60年経っても、反日教育」
「何百人もの日本人の処女の少女は韓国人がレイプしている」
「日本のお金と技術はよこせ」
「竹島周辺の日本の魚業関係者44人を銃殺」
「日本の中学歴史教科書に、戦争時にあった娼婦やレイプの問題を
大々的に記載しろ」 など度が過ぎる
戦後60年で言えば、日本側が韓国へ謝罪と賠償を請求するべきだ
ゆるさん 朝鮮人
28 :
名無しさん@3周年:2005/04/10(日) 02:37:04 ID:Wttg5gxd
いわゆる歴史を知らない朝鮮人。
ジコ虫朝鮮。
馬鹿だよ朝鮮。
29 :
名無しさん@3周年:2005/04/10(日) 12:14:38 ID:tnarEaBi
30 :
名無しさん@3周年:2005/04/10(日) 12:21:16 ID:i4f+efPa
東海地区には、ホロンゴルフクラブがある。
31 :
名無しさん@3周年:2005/04/10(日) 12:21:33 ID:sRKmnuBv
感情表現が禿しすぎてとても隣の民族とは思えない。ニンニクキムチ焼肉食べ過ぎか!
アジアはひとつなんて内容の伴わないスローガンって分かったでしょう。日本は欧米とともに生きましょう。
鬱陵島は日本の地
鬱陵島は、「太宗実録」の太宗十六年(1416)年九月庚寅条に、「或る時、倭を仮りて、寇を為す」と記さ
れているように、鬱陵島民は、朝鮮人というよりは、倭人でした。
寛永二十(1642)年8月13日、朝鮮通信使(当時の朝鮮政府代表)として来日中の従事官、申雫濡(竹
堂)の求めに応じ、応接役(日本政府代表)の林鵞峰と林読耕斎が、「日本国記」を贈りました。
「日本国記」は、正徳年間に「本朝事跡考」として刊行されるが、その隠岐国条には「隠岐の上に鬱陵島あ
り」と記されており、「竹多く、鰒多くして味甚だ美味。怪獣をアシカという」として、鬱陵島の特産物が特筆
されています。
問題なのは、政府高官である申雫濡が、この「日本国記」を受け取っていながら、何ら正式の反駁をして
いない事です。
事実、鬱陵島で捕獲した鰒は、鳥取藩の献上品として「武鑑」に記されているだけでなく、「和漢三才図会」
の伯耆国条では、産物五品の一つに数えられています。また、「毛吹草」も隠岐国の名物として「串鰒」、
「葦鹿」を挙げています。
鬱陵島が、朝鮮の領土であれば、申雫濡を、はじめとする当時の朝鮮政府が何らかの対応を日本政府に
したはずです。
このように、昔から鬱陵島は、日本の固有の領土でした。
韓国人は、はやく鬱陵島を返還しなさい。
そして、永遠の謝罪と賠償を行いなさい。それが、人の道です。
1617 米子の回船問屋が鬱陵島を発見
1643 竹島を発見
>>15-16 訂正
1904[2/23] 日韓議定書
1904[7/05] 鬱陵島に望楼建設、同島と朝鮮・竹辺湾を軍用海底電信線で結ぶと決定。
望楼は8/3着工、9/2稼動。電線は9/8〜9/25。
1904[8] 第1次日韓協約(≠外交権剥奪。日本から財務・外務顧問派遣。1905[8]の第二次日英同盟
第三条に韓国外相が駐韓イギリス公使と日本公使に抗議した事実などもある。)
[9/25] 韓国で「独島」名の発生が確認される。軍艦・新高の日誌に「韓人これを独島と書き・・・」。
勅令(1900)で鬱陵島付属小島「石島(ソクト)」が訛りトクドとなり、地元で勝手に現・竹島名に
流用されたか。その後音韻が中央に回帰して当て字された「独島(トクド)」名が全国区へ。
http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1111774463/358-359 [9/29] 中井養三郎、内務・外務・農商務省に「りゃんこ島(竹島)領土編入並に貸下願」を提出。
1952[1/12] サンフランシスコ平和条約の発効3ヶ月前に韓国政府が突然李ラインを宣言、竹島をその中へ。
韓国政府、「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。
1953[2/14] 第一大邦丸の日本人漁労長が韓国艦の銃撃で射殺される。(第一大邦丸事件)
http://encyclopaedicnet.com/japan/c_/c_a___a_ae_c_.html 李承晩ライン廃止までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数 抑留者数:3929人
拿捕された船の数:328隻 死傷者数:44人。抑留被害者は、日韓漁業協定が成立する
1965年まで抑留され、韓国に人質として利用された。その年月、最大13年。
抑留者解放のため日本は在日朝鮮人犯罪者472人を仮釈放し、在留特別許可を与える。
1953[4] 韓国「独島義勇兵」が竹島に上陸。
1953[6] 島根県が県漁民に対し、竹島に関する漁業許可権を下す。
島根県、海上保安庁共同で竹島を調査、韓国人6名に対し退去命令、領土標識(木柱)を建てる。
>>34 1894[3/28] 朝鮮守旧派、金玉均を上海に誘い出し暗殺。
>>15 http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1111774463/293-295 ・韓国は1900年10月、勅令41号で鬱陵全島と竹島、石島(発音上、=独島)の3島の管轄指令。
↓[反論]
「石島」という呼称が忽然と出現したが、韓国が過去に竹島の呼称だと主張してる言葉と何の連続性もなく、
それが竹島であるとの証明が全くない。元々韓国には真の意味で竹島を呼称する言葉はなかった。
日本漁業関係者とのつながりで1849-1901年までリアンコ島と称し、1904年9月、独島呼称の発生が確認できる。
1900年の勅令発布に先立って同年4月、禹用鼎らを鬱陵島に派遣し現地調査させたが、同年6月の報告書には
調査対象は鬱陵島本島限定であり、現・竹島には触れず。勅令がこの報告書を元にしてることからして、
石島≠現・竹島なのは自明で、おそらく「石島」は鬱陵島付属島嶼の一つ。
勅令直前の1900年09/23日付「皇城新聞」が、鬱陵島に「付属する小六島の中で、最も顕著な島は、
于山島と竹島」と報じたが、于山島=鬱陵島、竹島=竹嶼の二島が言及されてるのみ。
時期的に見て、韓国における鬱陵島及びその付属に、現・竹島は意識されてないと見て当然。
鬱陵島の実際の付属島嶼は6つであり、うち真水が出るのは「于山島」と「竹島」の2島で、故に顕著なのだろう。
残りのうち、「孔岩」など“岩”名は除くと、“島”名なのは「観音島」。観音島=石島の可能性が高い。
39 :
38:2005/04/13(水) 01:23:20 ID:nGevomFl
>>16 http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1111774463/358-359 石島(ソクト:標準語)→独島(トクド:慶尚・全羅地方方言)で、
中央が決めた島名が地元方言の影響で変化し、
それがフィードバックされて中央でも独島(トクド)になったのなら、
「独島」呼称が誕生したのは地元民の間からではなく、中央政府の創作が起源だったということになる。
これは一体何を意味するのか?
分かりやすい例として、例えば北海道の地名を想像してもらいたい。稚内や帯広とかは全てアイヌ語が起源だ。
通常、地名というのは地元民の間の呼称がそのまま国の言葉として生き残るものだ。
竹島(元磯竹島)も、鬱陵島の「磯岳」に由来するところの地元漁民らが作った呼称だったはず。
それゆえ、韓国が竹島領有の根拠に挙げている勅令41号8(1900年)の示すところの「石島」は元来、
それにあてられた漢字が何かは別として、音韻的には最初から「トクド」でなければならないはずだ。
これは当たり前の話だろう。竹島(独島)が歴史的に韓国固有の領土だと言うのなら、
なぜ歴史的にも登場したことがなく、地元民すら知らない呼称として
島の名前が「ソクト」と、中央で勝手に確定されてしまわねばならないのか?
物事の順序として、実際に日常生活で関係してるべき地元民の間の呼称が聞き取られて
中央を通じて全国に拡散していくべきだから、韓国における竹島の呼称は
最初から音韻上、「トクド」になってるはずで、それに当て字されてたはずだ。
41 :
40:2005/04/13(水) 01:26:06 ID:nGevomFl
>>12 http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1111774463/471-473 韓国側竹島領有根拠の東国文献備考は彊界考を底本とし、輿地志に依拠したもの。
しかし輿地志は鬱陵島=于山であり、松島(元竹島)には言及なし。文献は後年に潤色されたもの。
『承政院日記』<「(申)景濬草創して、(洪)啓禧 潤色す」>
「松島」名は、「輿地志」(1656)成立後の安龍福事件(1693)<安龍福証言「松島即ち于山島」>で、
日本側から伝え聞いたのが初めて韓国側の知るところとなったものと思われる。(『粛宗実録』に初めて登場)
元来、韓国では于山=鬱陵島で、現・竹島の存在は認知していなかった。
安龍福事件で初めて「松島」(=現・竹島)呼称を知り、それを古くからある鬱陵島の別名「于山」に結び付けて、
古文書を曲解したものと見られる。
その後、「松島」名は韓国の地名・文献に紛れこんだが、もともと韓国では現・竹島が物理的には把握して
いない想像上の島でしかないため失念されてゆき、最後は鬱陵島付属の「竹嶼」名に吸収されて、
「松竹島」なる珍名が生まれたものと思われる。「竹嶼」の名称は、同島に竹が産出されることが起源だが、
同名称も日本由来の可能性がある。もしそうなら「松竹島」は、安龍福事件で日本の「竹島」「松島」名が
韓国に入ってきたが、現竹島の存在を把握認識できてないために自然と鬱陵島嶼群に取り込まれ、
古来より「芋山島」名称が存在してる故に、やむなく同島付属「竹嶼」の呼称に便宜的にあてがわれ、
遂には勅令41号(1900)で「松竹島」が「竹嶼」で落ち着いたのだろう。
なお、同勅令によるところの「石島」については、
>>293-295 >>358-359
43 :
42:2005/04/13(水) 01:28:07 ID:nGevomFl
・『輿地志』(1656)
<一説に于山、鬱陵本一島>
・『旅菴全書』「彊界考」
<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を考えるに、二島なり。
一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>
・『東国文献備考』(1770) 「輿地考」
<輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり>
東国文献備考が改竄されて成り立つまで 1770年
http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/kaizan.html 鬱陵島検察使・李奎遠の報告と鬱陵島外図
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/utsugaizu.html 鬱陵島検察使・李奎遠の報告 (1882年)
副護軍・李奎遠は欝陵島検察使に任命されて、1882年4月10日欝陵島に向かった。
その時のことは、彼の書いた『鬱陵島検察使日記』、『鬱陵島内図』、『鬱陵島外図』が残っていて、当時のことが解る。
ここで、高宗は李奎遠に欝陵とともに于山島も調査をするように指示をした
高宗は、李奎遠に下問している。
「松竹島、芋山島は欝陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。また何れの物有りや否や」承政院日記
李奎遠は、この質問に
「芋山島は即ち鬱陵島にして、芋山は古の国都の名なり」
「松竹島は即ち一小島にして鬱陵島と相距たること三数十里となす。
その産するところは即ち檀香と簡竹(大竹)」と答えている。
ここで解ることは、鬱陵島から松竹島までの距離は三数十里(1.2km〜4km)であると言うこと。
李奎遠のいう小島には、檀香と簡竹(大竹)が生えている。つまり、現在の「竹嶼」のことである。
>>35 日韓の植民政策研究は、政治やイデオロギーに振り回されてきた
◎クリシュティン・リー
アメリカ・ポートランド州立大学教授。1960年生まれ。梨花女子大卒業後アメリカに留学、
ラトガ−ス大学で博士号取得。教育学を専攻後、教育哲学に転向した。現代思想が専門。
ポスト モダ二ズムやジェンダー、日韓の女性法などについて多数の論文を書いている。
著書の「滅亡の 帝国−日本の朝鮮半島支配」は、欧米の研究書の間で話題を呼んだ。
「搾取と抑圧の下、ひたすら犠牲を強いられた暗黒の36年」という植民地史観が今なお
韓国では根強い。それどころか、決して疑義を差し挟んではならない絶対の真実にすら
なっている。だが、日本の植民地経営は、世界史的にみてどうだったのか。コロニアリズム
というキーワードをも とに理論的、実践的にこの問題に取り組んだのが、在米の韓国人
女性研究者、クリスティン・リー氏 である。リー氏はイデオロギーに振り回され学問的方法
論に依らないこれまでの研究を厳しく批判する。
47 :
46:2005/04/13(水) 15:10:10 ID:iry4jp1d
私は、アメリカの大学院で指導教授たちに言われた次の言葉を、今なお忘れる事ができ
ません。
「日本の植民地は、その後いずれも経済発展したではないか。そんな結論の出ている
問題を今更どうして研究するのか」
米国の名門ラトガース大学のローデン教授は、私が博士論文の主題について日本が
朝鮮半島を植民地支配した時代の教育と女性問題について研究したいとの計画を説明
すると、このように反問しました。
「文明のシステムを、日本の植民地主義は朝鮮半島に導入したのではないか。スペイン
やアメリカ、イギリスは日本のように、本国と同じような教育システムを植民地に導入しよう
とはしなかった。当時の朝鮮半島の人々は、文明のシステムを独自の力で導入するのに
失敗した。日本の植民地主義を経ずに、あれほど早く文明の世界システムに入れただろ
うか」
48 :
46:2005/04/13(水) 15:10:50 ID:iry4jp1d
私は、この発言に怒りが込み上げ懸命に反論しようとしたが、頭の中が真っ白になり感情
だけが高ぶったのを覚えています。そんな論文を書いたら韓国に戻れなくなる、との不安
が一瞬心をよぎりました。
論文の相談をした別の経済学専攻の教授は、「植民地化された国家の中で韓国と台湾
ほどに発展した国家はない。アメリカやイキリスの植民地で、台湾や韓国ほど発展した国
があるか」とまで言うのでした。
私の不満そうな表情を見たローデン教授は、次のようにも問いかけました。
「日本の植民地支配を非難する韓国人の留学生の一人が、自分の父親が東京帝国大学
出身であると自慢げに話した。これは、暗黙のうちに日本が導入した文明のシステムを
評価していることになる。本来なら、東京帝大を卒業した父親を非難すべきではないか」
こう言われてみると、確かに東京大学はもとより、京都大学、早稲田大学、慶応大学を
卒業した事を誇りにする韓国人は、少なくないのです。
当然韓国の側に立ってくれると思った第三者のアメリカ人学者の発言は、SHOCKでした。
49 :
46:2005/04/13(水) 15:12:34 ID:iry4jp1d
50 :
金完燮著書評:2005/04/13(水) 15:13:43 ID:iry4jp1d
本書の著者の一人、金完燮氏は前著『親日派のための弁明』(草思社)において、韓国側
には市民革命を起こして李王朝の封建体制を打ち倒す力がなく、日本による韓国併合は
市民革命の役割を果たしたもので韓国の近代化のために有用であったとの斬新な主張を
展開した。
このように書けば、金氏の論は韓国でも突飛なものと受け止められているように思われる
がそうではない。本書によれば、韓国では10年以上にわたって、経済学者を中心に「植民
地近代化論」なる学派が形成され、朝鮮総督府を日帝の弾圧機構ではなく、古い李氏朝鮮
を代替した近代的な国家だったとする論文が相次いでいるという。金氏は学者たちが保身
のために自分たちだけで通用する難しい学術用語を用いていたのを誰にもわかる言葉で
語ったというのだ。
51 :
50:2005/04/13(水) 15:14:39 ID:iry4jp1d
このような「植民地近代化論」が韓国で展開されるのは、李氏朝鮮が小中華主義から
本場の中国以上に固陋な儒教社会に陥り、近代社会への脱皮が自力では不可能だった
との認識が彼らにあるからである。
儒教は生活全般を統制する宗教で、李朝末期には国民の7割にも達した両班階層は
仕事もせず、税金も払わず、軍隊にも行かない。長男は12代前まで、ちょっと位の高い
家では20代前まで、先祖の命日に祭祀を行う。つまりしょっちゅう法事というわけで他に
何もできない。これに限らず韓国社会は儒教にがんじがらめにされていた。この儒教の
呪縛を破ったのが日韓併合であり、これが市民革命の役割を果たして近代化に寄与した
というのだ。
現代韓国人が知らない日本統治以前の奴隷社会
金完燮 SAPIO 03/02/26
死亡当時、すべての朝鮮人にとって呪いの対象だった閔妃が、今になって自主独立の
殉教者として華麗に復活した現象は、韓国人が直面しているアイデンティティーの混乱を
端的に示すものだ。
韓国人が朝鮮王朝を慕い、日本の統治を受けず朝鮮王朝が継続したならもっと今日良
くなっていると考えるのは、当時の朝鮮の実態についてきちんと分かっていないためだ。
特に子供と青少年は、きれいな道ときれいな家、整った身なり、上品な言葉遣いのテレビ
の歴史ドラマを観ながら、朝鮮もそれなりに立派な社会で、外勢の侵略がなかったならば
静かで平和な国家を保てたろうと錯覚する。
しかし日本が来る前の朝鮮は、あまりに未開で悲惨だったという事実を知らねばならない。
朝鮮は典型的な奴婢社会であった。全人口の30パーセント以上が奴婢であり、首都漢城
の場合は人口の70%以上にも及んだ。奴隷は物のように売買され、主人のために生涯
奉仕しなければならなかった。
53 :
52:2005/04/13(水) 15:18:11 ID:7kN2LUto
平民や中人階級は奴婢に比べて若干自由があったが、貴族や官吏たちに略奪される
立場にあるのは同じだった。両班とも呼ばれる貴族たちは無為徒食しながら、下の階級に
対し無慈悲に権力をふるった。
ある学者はこのような朝鮮を、20%のヒルが残りの80%の血を吸う社会構造だと喩えた。
朝鮮は当時、世界中で最も未開で残酷な社会であり、このような社会が自力で改革を行
って近代化するということは到底考えられなかった。
だから、日本が朝鮮に進出しなかったら、朝鮮は文明の恩恵を受けられないまま世界
で一番遅れた地域として残ったことだろう。
したがって、今日韓国がある程度、民主主義の実現と経済開発に成功し、他の開発途上
国から羨望される水準に発展したことは、全面的に、朝鮮のために働いた日本人のお陰で
ある。
54 :
52:2005/04/13(水) 15:19:03 ID:7kN2LUto
当時の朝鮮人はこのような事実を熟知していたために、独立以降も朝鮮王朝に対しては
何の郷愁も恋しさも持たなかった。だから今日朝鮮の王室を再建することによって自分たち
のアイデンティティーを獲得しようとする一部の韓国人の試みは、まったくもって間違ったこ
となのである。このような行動の背景には、韓国と日本を離間させることで利益を得ようとす
る集団の意図も存在しているのだろう。
韓国は日本が生み育てた息子のようなものである。韓国人は日本との同質性を回復し、
心のこもった友好関係を追及することに自らのアイデンティティーを求めなければならない。
56 :
55:2005/04/13(水) 15:35:05 ID:7kN2LUto
1905年以降、日本にとって朝鮮は植民地というより拡張された日本の領土という意味が
大きかったと思われる。当時日本人は朝鮮と台湾の統治にあたっておおむね本土の人間
と同じ待遇をし、特に朝鮮に対しては大陸に連結されているという地政学的な重要性の
ためにむしろ本土以上の投資と産業施設の誘致など有利な待遇をしたと考えられるので
ある。ヨーロッパ列強にとって「植民地」が遠くかけ離れた所に農場を所有するような
概念だったとするならば、日本において朝鮮と台湾は隣に店舗を買い入れ店を拡張する
ような行為だったと言えるのである。韓国人の反日感情はこの点に対する誤解から始ま
っているようだ。
ある人がソウルに住みながら遠く離れたオーストラリアやニュージーランドに農場を所
有したとしてみよう。その人は現地に一定の資金を投資して収益を発生させることにだ
け関心を持つだろう。しかし自分の住まいであり職場でもある商店を経営する貧しい商
人が、苦労して隣にある店を入手することになったなら、その人は一生懸命新しく手に
入った店を手入れし、既にある店と合わせて相乗効果を得るように努力するだろう。19
世紀末と20世紀初め、台湾と朝鮮を合併した日本の立場はまさに商店の主人のようなも
のだったと言えよう。
57 :
55:2005/04/13(水) 15:35:53 ID:7kN2LUto
だから日本が朝鮮を開発し発展させたことについて、豚を育てて食べるためだったとか
大陸侵略のための兵站基地とする目的だったとかいって自らその意味を貶める必要はな
いだろう。日本が朝鮮を開発することがたとえ長期的な収奪や兵站基地確保が目的だっ
たとしても、それが全てではなかったはずだ。朝鮮に来て苦労して農地を改良し、事業
を興した日本人の中には朝鮮に近代文明を伝搬し、朝鮮を迅速に開発して日本と同じ水
準に引き上げ同化しようとした良い意図を持った人も多かったはずだ。
したがって、過去日本が朝鮮におこなった善意をあるがままに受け取ったなら、韓国人
が日本に対して悪い感情を持つことはなくなるだろう。韓国人に存在する反日感情は韓
国政府の意図的な歴史歪曲から始まったものである。私は歴史を歪曲しているのは日本
ではなく韓国だと思う。これは国際社会の一般的な視覚でもある。
私たちは歪曲された教育によって、韓日保護協約(1905年)と日韓併合(1910年)が日
本の強圧によって締結されたものであると思っているが、事実は全く違う。日本と合併
することだけが朝鮮が文明開化と近代化を達成できる唯一最善の道であった点について
は当時朝鮮の心ある改革勢力の間に暗黙の合意があったと思われる。この大韓帝国内部
の強力な世論に従い、日本は合法的な手続きを経て統治権を接収したとみるのが妥当で
はないだろうか。
58 :
55:2005/04/13(水) 15:36:48 ID:7kN2LUto
その最も有力な証拠は1904年に結成された一進会である。この団体は東学と独立協会が
連合して朝鮮王朝と守旧反動勢力を倒し、日本と連帯して文明開化という朝鮮革命の時
代的課題を成し遂げるために結成された、我が国の歴史上最初の近代的な大衆政治組織
であった。しかしこのような事実は韓国社会で徹底して隠蔽され、韓国政府は一進会に
対して日本が少数親日派を糾合して結成した御用エセ団体と歪曲して教育している。
1904年初めに起きた日露戦争で、東学教徒は教主孫秉煕の指示により五万の兵力が参戦
し日本と共に戦った。東学教徒と行商人たちは進歩会を結成し、初年だけで全国で38万
の組織人員を数えるに至った。進歩会はその後名称を一進会と変え、独立協会系の開化
勢力と連合して日韓合併と開化啓蒙運動を展開した。一時期百万人を超える膨大な組織
を持った彼らは、自ら黒い服を着て髪を短く刈り、外見で簡単に区別がついたため、保
守反動勢力の集中攻撃の対象となったのである。一進会は結成以来日本との合併を推進
したが、それによって反革命勢力と内線で多くの会員が殺害され建物が破壊されるとい
う犠牲を払わなければならなかった。今日韓国で一進会を「親日団体」だと非難し、反
動暴徒を義兵と褒め称えることは歴史を逆に解釈する過ちといえる。
59 :
55:2005/04/13(水) 15:37:32 ID:7kN2LUto
自ら韓日保護協定締結を主導し朝鮮の初代統監となった伊藤博文は政治的、財政的に日
本に負担になる朝鮮合併を決して望まなかった。合併は一進会などの朝鮮の革命勢力が
請願したことであったが、安重根の伊藤暗殺により日本の世論は急速に合併に傾いた。
安重根は自分が望まない方向に愛国を実現したわけだ。
日本の統治により朝鮮は多くの発展を成し遂げた。30年余りの間に一千万人足らずの人
口が二千五百万人に増え、平均寿命は24歳から45歳に伸び、未開の農業社会だった朝鮮
は短期間に近代的な資本主義社会に変貌した。日本本土からは優秀な教師が赴任し朝鮮
人を教育し、年毎に日本政府からの莫大な規模の資金が流入し各種社会基盤施設が建設
されたのである。1920年代には日本へのコメ輸出で朝鮮には大金持ちが続出し、その基
礎の上に民族資本が現れるようになった。
1920年代の朝鮮の文芸復興は日本とちょうど同じ時期に始まったものであり、今日、李
光洙や崔南善から始まり金東仁、李孝石、金ヨンナン、尹東柱、洪蘭坡ら我々が記憶す
る数多くの作家と芸術家は大部分この時期に登場した人物である。
60 :
55:2005/04/13(水) 15:38:34 ID:7kN2LUto
韓国人は日本のこのような貢献を認めようとせず、認める人でもそれが日本という外勢
によって起きた他律的な成果だという理由でその意味を過小評価している。しかし振り
返ってみると朝鮮は人類の歴史上唯一無二の儒教原理主義社会であった。その儒教的戒
律の精巧さと厳格さは今日のイスラム原理主義など比較の対象にならないほどである。
従って今日イスラム原理主義がイスラム社会に与えている悪影響について少しでも認識
が及ぶ人であれば、朝鮮の儒教原理主義が外勢の影響が排除された状態で自発的に消滅
しただろうとは言えないはずだ。
20世紀初め、外勢による改革、それも日本統治による徹底した精算作業がなかったなら、
今日の朝鮮半島は世界中で最も未開な地域の一つに留まっていただろう。だから日本時
代は私たちにとって幸運であり祝福であったとすることはできても、覚えておきたくな
い、あるいは認めたくない不幸な過去だと言えるはずはないのである。
61 :
55:2005/04/13(水) 15:41:24 ID:fNzy/pbY
私たちは戦後、朝鮮半島が二つに分断されたが、日本は運良く分断を免れたと考えてき
た。統一を語るときにも南北朝鮮の統一だけを言うだけで、日本や台湾との統一を言う
人はいなかった。しかし敗戦後日本帝国が五つの地域に分割占領されたのであり、南北
朝鮮が分断されたのではない。戦勝国にとって朝鮮半島は日本の領土の一つに過ぎず、
彼らは日本帝国を韓国、北朝鮮、台湾、サハリン、日本の五つに分離し、それぞれ占領
したのである。この中でサハリンだけが未だにロシアの領土になっていて、残りの四つ
は独立国となった。日本帝国が明治維新以後獲得した領土を分離するということは戦勝
国の論理であり私たちが選択したのではない。勿論日本が望んだのでもないからこれは
明らかに強制的な分断と言えよう。
最近「パール・ハーバー」という映画を見ながら私は日本軍を応援している自分を発見
した。60年も前に大規模な空母船団を率いて地球の反対側まで出征し米国の太平洋艦隊
を叩き潰した日本という国の偉大さに私は感動と戦慄を覚えざるを得なかった。
そのときは朝鮮も日本の一部であったし、私たちの父祖も日本人として戦争に参加し応
援したことが明らかなのに、なぜ今日韓国人は日本と米国の戦争で米国を応援している
のだろう。このような現実は日本帝国の領土だった韓国と日本が今日まで米国に占領さ
れているため強要されたくびきに過ぎず、どう見ても好ましいとか当然だと思えたことではない。
62 :
55:2005/04/13(水) 15:42:17 ID:fNzy/pbY
私たちは韓国関係、特に私たちの日本に対する態度について全面的な反省にとりかかる
必要がある。そしてこの作業は過去の歴史に対する冷徹な評価なしには成功するのが困
難なのだ。本書で私は開港以降韓日合併までの時期を朝鮮のブルジョア革命期と設定し、
近代史に対する新しい解釈を試みた。開港以降朝鮮の当面の課題がブルジョア革命だっ
たとするなら、日本は概して革命の頼もしい支援軍であり、ときには主導的に介入し朝
鮮の改革を推進した友好的な外勢と判断したのである。
朝鮮のブルジョア革命は朝鮮に進出した日本人をひとつの軸とし、開化党と独立協会を
創設した知識人グループ、東学民衆勢力など三つの軸を中心に進行された。この三大勢
力は時代につれ対決したり連合しながら朝鮮革命を導いてきた。そして韓日合併はその
革命の好ましい帰結だったと考えられる。このような視角で開港期の朝鮮の歴史を眺め
れば朝鮮革命はたとえ多少歪曲された方式で進められたとしても決して無力に外勢によ
って振り回された侵略の歴史ではなく、朝鮮内部の革命勢力の自主的な意志で進行され
た主体的な変革の過程であったことが分かる。日本と朝鮮の革命家たちは朝鮮王室とそ
れに取り入る守旧外勢と対抗しながら30年の間粘り強くブルジョア革命を推進した。朝
鮮の文明開化は彼らの血と汗で得られた成果であるのだ。
63 :
55:2005/04/13(水) 15:43:04 ID:fNzy/pbY
今日の日本の問題は反省と謝罪がないということにあるのではなく、過去に対する清算
が余りに行き過ぎたことにある。日本は戦後独立し新しい国家を建設し経済大国になっ
たが、その精神においては依然米国の植民地の立場を抜け出られないでいる。私は少し
前に会ったしある日本人の友人から「強大国」の日本人が口癖のように「こんなに小さ
い国で…」と語るという話を聞いて本当にびっくりした。彼らの考えでは日本は米国や
中国、ロシアのような国に比べると国土も小さく人口も少なくいろいろな面でとても小
さな国であるかのように考えているのだ。謙遜と言うよりは自虐に近いこのような思考
方式は全て米国によって強要された植民史観と自己卑下作業の結果生じたものである。
日本が経済だけでなく政治、文化、軍事的にも堂々たる自主独立国家となるためには歴
史に対する自負心を回復することが何より急がれる課題である。
64 :
55:2005/04/13(水) 15:43:50 ID:fNzy/pbY
それゆえ最近進行している日本の「歴史立て直し」運動は間違ったことを正しい場所に
置き直そうというだけの動きで、韓国で言う右翼の蠢動とは全く別のものである。彼ら
は右翼でもなくただ日本を愛する愛国者であるだけだ。最近の教科書騒動で韓国政府は
この運動に言いがかりをつけ分別のない振る舞いをすることで国際的な恥さらしを自ら
招いた面があるのだ。これは政府当局者と韓国民の間にわき上がっている低劣な歴史認
識と利己的思考方式に由来するものだ。韓国は日本がこのような無礼な言動に正面から
対応しないといってこれを根拠に自らが正しいと信じる愚を犯してはならない。日本の
柔軟な対応は正面から相手と敵対できない日本的文化から出たものであり、長い年月凝
り固まった敗戦国としての自己卑下の習性の結果である。日本の意志表現方法がいっそ
西洋式だったなら少なくとも今頃韓国関係の葛藤はその実体が現れているだろう(中略)。
65 :
55:2005/04/13(水) 15:44:29 ID:fNzy/pbY
19世紀末のヨーロッパ人の植民地征服に正当性を求めるのは難しいが、日本のアジア進
出には明らかに世界精神の自己具現という側面が存在したといえよう。革命を通して非
ヨーロッパ地域で最初に近代的な社会制度を構築し自律的にブルジョア革命を完成した
日本の明治維新は世界の歴史上充分に奇跡と言えるものだ。そしてそれ以降、日本の東
アジア進出は西洋帝国主義の侵略戦争とは違って搾取と収奪が目的ではなく、革命と近
代精神を伝播しようという意図が前提とされている。このような点において充分な正当
性を持つことができる。日本帝国は朝鮮と台湾で民衆を抑圧する古い体制を清算し近代
的な法の統治を具現し、その結果日本統治地域の住民は文明の洗礼を受けより人間らし
く生を享受出来たのである。
ソウル大教授「日本による収奪論は作られた神話」
日本による植民地時代に韓国が土地と食糧を収奪されたという韓国史教科書の著述は歪曲されたものだという
主張が提起されている。
韓日問題を論じるシンポジウムでソウル大学の李栄薫(イ・ヨンフン)教授が発表した内容だが、李教授は過去の
「従軍慰安婦は売春業」発言に続き、再び論争を呼び起こしている。
「1910年に日本は大韓帝国を強制的に併合した」
「日本は韓国が植民地だった35年間に、韓国の土地の40%以上を収奪し、膨大な米を略奪していった」
これらが韓国が独立後、40年以上にわたり中学・高校の国史教科書に記載されている内容だ。
しかしソウル大学経済学科の李栄薫(イ・ヨンフン)教授はこうした収奪論が歪曲された神話だと主張した。
収奪という表現は太平洋戦争末期を除き、被害意識から出てきた言葉だと李教授は話している。
以下はYTNによるインタビュー。
李教授「日帝(日本帝国主義)が韓国の米を供出、強制徴収したとされているが、実際には両国の
米市場が統合されたことにより、経済的『輸出』の結果だった」
客観的数値で見ても、奪われた土地は10%に過ぎなかったと説明している。李教授は韓国の歪曲された
教科書で学んだせいか、反日感情の根がかなり深くなっていると話した。
李教授「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、
教育されたものだ」
(略
ttp://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/11/20/20041120000000.html http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11133761942731/