韓国側竹島領有根拠の東国文献備考は彊界考を底本とし、輿地志に依拠したもの。
しかし輿地志は鬱陵島=于山であり、松島(元竹島)には言及なし。文献は後年に潤色されたもの。
『承政院日記』<「(申)景濬草創して、(洪)啓禧 潤色す」>
「松島」名は、「輿地志」(1656)成立後の安龍福事件(1693)<安龍福証言「松島即ち于山島」>で、
日本側から伝え聞いたのが初めて韓国側の知るところとなったものと思われる。(『粛宗実録』に初めて登場)
元来、韓国では于山=鬱陵島で、現・竹島の存在は認知していなかった。
安龍福事件で初めて「松島」(=現・竹島)呼称を知り、それを古くからある鬱陵島の別名「于山」に結び付けて、
古文書を曲解したものと見られる。
その後、「松島」名は韓国の地名・文献に紛れこんだが、もともと韓国では現・竹島が物理的には把握して
いない想像上の島でしかないため失念されてゆき、最後は鬱陵島付属の「竹嶼」名に吸収されて、
「松竹島」なる珍名が生まれたものと思われる。「竹嶼」の名称は、同島に竹が産出されることが起源だが、
同名称も日本由来の可能性がある。もしそうなら「松竹島」は、安龍福事件で日本の「竹島」「松島」名が
韓国に入ってきたが、現竹島の存在を把握認識できてないために自然と鬱陵島嶼群に取り込まれ、
古来より「芋山島」名称が存在してる故に、やむなく同島付属「竹嶼」の呼称に便宜的にあてがわれ、
遂には勅令41号(1900)で「松竹島」が「竹嶼」で落ち着いたのだろう。
なお、同勅令によるところの「石島」については、
>>293-295 >>358-359
472 :
名無しさん@3周年:2005/04/04(月) 20:12:53 ID:9TWtIXQ0
竹島は日本領である。一度たりとも韓国領、朝鮮領になったことはない。
国際司法裁判所でどちらの国の領土か決着を付けようと韓国に日本は提案したが、
韓国はそれを拒否した。
国際司法裁判所で裁判すると、竹島は日本領であると採決されるからだ。
それで韓国は裁判を拒否した。
473 :
471:2005/04/04(月) 20:12:58 ID:Kf0PAxn8
・『輿地志』(1656)
<一説に于山、鬱陵本一島>
・『旅菴全書』「彊界考」
<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を考えるに、二島なり。
一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>
・『東国文献備考』(1770) 「輿地考」
<輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり>
東国文献備考が改竄されて成り立つまで 1770年
http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/kaizan.html 鬱陵島検察使・李奎遠の報告と鬱陵島外図
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/utsugaizu.html 鬱陵島検察使・李奎遠の報告 (1882年)
副護軍・李奎遠は欝陵島検察使に任命されて、1882年4月10日欝陵島に向かった。
その時のことは、彼の書いた『鬱陵島検察使日記』、『鬱陵島内図』、『鬱陵島外図』が残っていて、当時のことが解る。
ここで、高宗は李奎遠に欝陵とともに于山島も調査をするように指示をした
高宗は、李奎遠に下問している。
「松竹島、芋山島は欝陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。また何れの物有りや否や」承政院日記
李奎遠は、この質問に
「芋山島は即ち鬱陵島にして、芋山は古の国都の名なり」
「松竹島は即ち一小島にして鬱陵島と相距たること三数十里となす。
その産するところは即ち檀香と簡竹(大竹)」と答えている。
ここで解ることは、鬱陵島から松竹島までの距離は三数十里(1.2km〜4km)であると言うこと。
李奎遠のいう小島には、檀香と簡竹(大竹)が生えている。つまり、現在の「竹嶼」のことである。