1 :
Reverie ◆MUxLMQ9bWk :
03/09/21 20:22 ということでたてますた 前スレ 529氏のテンプレに感謝 精神医学と臨床心理学の専門家、学生諸氏に ■ 精神分析的心理療法 ■ ・臨床家と学生が、専門的な議論をするためのスレッドです。 興味のある方なら、どなたでも書き込んで下さってけっこうです。 ・臨床素材を提供して下さる方は、一般化してお書きください。くれ ぐれも、クライエントが特定されるような情報は避けてください。 ・クライエントや家族の方などの、個人的なご相談はお受けしません。
2 :
没個性化されたレス↓ :03/09/21 20:31
>>1 Reverie ◆MUxLMQ9bWkさん、スレ立てお疲れ様でした。 529さん、新スレの提案とテンプレ作成、有難うございました。 ロムさせていただきます。
3 :
Reverie ◆MUxLMQ9bWk :03/09/21 20:32
5 :
Reverie ◆MUxLMQ9bWk :03/09/21 20:34
7 :
Reverie ◆MUxLMQ9bWk :03/09/21 21:04
>>6 ネタ、有難う。
ちなみに
>>1 に追加
『「精神分析的心理療法」とありますが、狭義の精神分析療法(自由連想法)、精神分析的心理療法、精神力動的心理療法
個人心理療法から力動的集団精神療法、精神療法指向性薬物療法まで学術的な理論とその応用としての臨床を語らいましょう。
治療構造論、A-T Split(Management)はては、Tの愚痴やAのボヤキまで(笑)、自由に空想・連想してみましょう』
8 :
没個性化されたレス↓ :03/09/21 21:34
精神分析的、という以上、一定の訓練を受けていないと、 実感的に話にならないことばかりだと思う。 だいたいこういうところで議論など成立しない。 どこの誰かわからないで、何の議論か。 何の責任もないではないか。 そういうものを議論、とは呼ばない。 単なる垂れ流しに過ぎない。 2チャンネルを買いかぶらないように。 ここはくだらないおしゃべりの場であり、 議論の場ではない。
9 :
没個性化されたレス↓ :03/09/21 21:36
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | 次でボケて! | |_________| ∧∧ || ( ゚д゚) || / づΦ
>>8 匿名のあなたの意見も、所詮は垂れ流し。バイバイ。
では、臨床素材から > 「私が恋人役をやります」 う〜ん、漏れは訓練分析受けてないけどw、流石にこれは拙いような気が。というか、ここが誤解を呼ぶような気が。 恐らく、転移を「判り易く」説明しようとしたんだろうけど、「恋人役をすでにやらされている」のか「恋人役をやろうとしている」のか はっきりしないな。で、後者なら、精神分析的心理療法であるならば、中立性が原則じゃないかな? 恐らく、Cl.自身の転移のあり方として恋愛性転移がそしてその情緒に影響を受けやすいTh.の「恋人役」と いう言葉を誘発したような気がする(と、受け売りの間主体的な言いかたをしてみるw)。 ただし、個人精神療法の治療構造としては個室でやらざるおえないだろうし、転移解釈をするなら なおのこと、2者関係が促される設定が必要になるとは思うが(これは一般論)。これが「密室」である事の 不透明性が治療以外の所で悲しい問題を起こしてしまうな。 例えば「精神病水準の不安と庇護」でウィニコットはHoldingの一環としてCl.の手を握っているが 今後、こういうアプローチは難しくなるだろう(まあ、ウイニコットなら恋愛性転移を示すCl.の手を 握ったりしないかw)。
>>8 正論だと思います。全くその通りです。
私はつい出来心?で書き込んでしまってから、なかなか抜け出せないでおりました。
新しいスレが立ってけじめもついたし、クセになって本業を圧迫していたので、そ
ろそろ止めようかと思っていました。
しかし物好きな人、退屈した人が遊ぶ場所があっても、良いのではないでしょうか?
身近に同業者がいなくて、このような話ができない人も沢山いることですし。
>>12 >クセになって本業を圧迫していたので、そろそろ止めようかと思っていました。
それは確かにありがちな罠です。
私も一度去って、また戻りました。
戻るには、戻るだけのメリットがあったので。
要は、2chも使い方次第だと思います。 (依存的になるとまずいですけど)
14 :
没個性化されたレス↓ :03/09/21 22:20
>>12 遊ぶのはいいが、議論なんて、まじめそうなことを言わないように。
2ちゃんねるは無責任な遊びです。
完全な匿名ではないけどなー
まあ、出していただいた素材で自由に「遊び」「連想」「空想」「もの想い」するのも大事かと。 理論が連想されるもよし、経験した事が思い浮かぶも良し、情緒が喚起されるも良し、名案が浮かぶも良し、 早期母子関係が(あ、これは・・・w)。 まあ、議論も「遊びに熱中する」と言う事でw。
2chは危険な場所だよ それだけは忘れちゃいけない
19 :
没個性化されたレス↓ :03/09/21 23:14
転移と逆転移、理想化と掌を返したようなこき下ろし、「良い役者」と「悪い役者」への 脳内配役、2chではこれが日常茶飯事のようですからね。
ただの、テキストサイトにすぎんよ。
失礼、あげてしまいました。 しかし、そういう自由参加でなんでもありの2chですので、たまには こちらのように、「真面目に遊ぶスレ」、というのも、あってもよいかと。
勘違いすんな。 2chはそんなに甘かねぇよ。
>>22 結構、誹謗中傷にとられると、どえらい目に・・・。
特に無意識をあきらかにする事やリビドー論など専門家以外の目にはなかなかスリリングなw、話題ではあるな。
まあ、それなりに遊ぶのが吉かと。「ワインをやりながら、チーズを片手に」でしたっけ?
Boston学派の論文って(このあたりうろ覚え)
まだ本格的な「遊び時間」にはなっていないようなので、2ch的な質問を(笑) ロボさんは、ところによって「良い役者」であったり「悪い役者」であったりする ようですが、本当のところ、同時に同スレ内でその両方をなさった経験が おありでしょうか?
まあ、
>>24 は、不躾な質問でしたが、
2chにおける激烈な煽り合い、叩きあい、結果として起こる「被害者意識」
(の表出と思われるレス)の増大は、その真偽の割合(自作自演で釣りを
していたものが、「ミイラ取りがミイラになる」などの場合もあるようですし)
が判明しないので何ですが、
>>11 でReverieさんのおっしゃっている
>ただし、個人精神療法の治療構造としては個室でやらざるをえないだろうし、転移解釈をするなら
>なおのこと、2者関係が促される設定が必要になるとは思うが(これは一般論)。これが「密室」である事の
>不透明性が治療以外の所で悲しい問題を起こしてしまうな。
における「密室性」にも通じるものが、こうした自由参加の掲示板にもあるのかどうか、
非常に興味深いところです。
>>18 てか、ロボたん、気遣いありがd。
色々調べて、
>>18 の2行の文章の意図が分かったよ。ちと、反省(´・ω・`)ショボーン。
エリクソンは、精神分析の基本となる臨床態度とは、多様な相対性に基づく 経験であると考えたようですが、できれば、この点と、前スレでのロボさんの 「臨床家に必要なのはソーシャルスキル」というご発言との関連性について、 何かご教示いただけませんか?
別にエリクソンの言うことなんて俺には関係ないんだが
というかその 精神分析の基本となる臨床態度とは、多様な相対性に基づく経験である というのはエリクソンが述べたことそのままなのかい。 だとしたら、エリクソンか、訳した奴か、どっちかの頭がおかしいんだな。
いろんな人生経験を積んで相対的な価値観を身につけるべきだ、 ぐらいのことは何もエリクソンでなくてもいろんな人が言ってそうだけど 俺が言うソーシャルスキル云々は、もっと根本的な、基礎的な次元の話。 ソーシャルスキルだって人生経験を積んで磨かれるものではあるが。
小此木先生が亡くなってショックを受けていますので、うまく書けないかも知れません。 こちらに来る時先生から大きな「宿題」を与えられましたが、どうやら永久に果たせ なくなってしまったようです。 前スレ520番に対するレスです。 >「精神分析家は、自分について分析できた地点までしか、他人(クライアント)に ついて分析することができない」 >治療者自身の分析にこだわりすぎると、クライエント理解をその枠に押し込める 危険もあるのではないでしょうか。 私は単純に、精神分析の世界で一般に言われていることを書いたに過ぎませんが、 この法則が言及しているのは、あくまでも「精神分析」に関してのみだと思います。 そして「地点」と言うのは具体的には例えば、「分析者の休みを前にすると、患者は 不安に思ったり非常に悲しく感じたりする」などのことです。 このようなことを自分で「実感」したことのない治療者による、「あなたは私の休みを 前にして、悲しいと感じているのだと思います」などのコメントは、「知的な理解に 基づいて」行われざるをえませんし、結果として患者さんの「知的な洞察」につながり やすいと思います。そして「精神分析」は、「実感」「心で理解すること」を目指します ので、「知的な洞察」は望ましくない、ということだと思います。 したがって「分析以外の精神力動的精神療法」に関して言えば、「知的洞察」が良くない ということはないと思いますので、「自分について分析できた地点までしか、他人 (クライアント)について分析することができない」ということは、必ずしも当て はまらない、と私は思います。
掲示板について私は、対人関係とは考えず、自分が書きたい時に書きたいことを書く 場所に過ぎない、と考えています。もちろん、自分の文章を読まれる方に対して できるだけ失礼にならないように、気をつけることはしますが。 したがって時間がなくなれば書かなくなりますし、面倒になれば書くのをやめて しまいます。「掲示板」と「私自身の現実の対人関係や患者さんとの関係」とでは、 その重要さにおいて比べ物にならないと思いますので。 そして私は、多くの参加者の方も同様に考えておられるのではないかと思っている、 というか願っていますが。。。
>>33 >浦島
>掲示板について私は、対人関係とは考えず、自分が書きたい時に書きたいことを書く
>場所に過ぎない、と考えています
私も最初は、そう思っていたのですが、時々追い出されてお休みしましたが、
一年半もこの心理学板に常駐していると、私にとっては完璧な対人関係になって
しまっている。これ、おかしいんでしょうか。
リアルな対人関係は、私のように開業していると、拘束時間が長いので
いつも会う人は同じだし、飼い主とは超えられない壁があって、友達として
付き合うことはできません。
この板に来ると日常では、絶対に会うことのできない人たち、世の中、こんな人が
いたのかと初めて知った人たちに会えます。私にとっては新鮮な驚きです。
後、この心理学板のコテとして、たった一人しかいない獣医師として、どんなに
煽られてもROMしている人の事を考えると無責任な事は書けぬと、責任感
のような物を感じております。したがって、少々、仕事に差し支えるような
ことがあっても、レスを書き込んでしまう時もあります。
また、ここのコテたちは、それぞれが、相当な個性と専門性を持っています。それで
成り立っている板ですので。自分の我が儘で破壊するような事があっては
ならぬと肝に銘じております。
浦島先生のような専門性をお持ちの方も、日常の世界で私が会えるような
人ではありません。従って、たいていのレスはROMしております。
これからも、よろしくお願いします。
>>33 浦島さん
掲示板との関係に関しては、確かに漏れもこのスタンスがいいなぁと。
基本的には「責任が無い」というのがいいところかな。
かといって、あんまり「無責任」なことは書きたくないし、個人的な
印象はなるべく付記しようと思います。
あとは「理論的な技術を如何に現場のテクニックにかえるか」というところで
四苦八苦してますので、多分漏れの書き込みはそちらのほうが多くなるかと。
>>28 ロボ氏の「ソーシャルスキル」は対人関係の基本的な技術で、特に心理職
と他業種との関係・ネゴシエーション・根回しwなどなどの事じゃないかな?
心理学の専門家としての意見は大事だし尊重されるべきだが、時々その意見
が全て(万能的?)としてしまう罠がある罠w
>>32 いい忘れましたが、小此木先生が亡くなられたのは漏れもびっくりしました。
今年の4月に某セミナーで「精神分析の歴史」を快活に口演されていて、
漏れ自身随分流れが理解できた気になったのですが・・・。
ご冥福をお祈りいたします。
しばらく冬眠しようと思っていたのですが、小此木先生の訃報に接して目が覚めました。 私にとっての小此木先生は、穏やかで気さくな方でした。もっと長生きしていただきたか ったのに、残念です。ご冥福をお祈りします。
>>35 まあ、そういうあたりのことも重要だね
ただ、俺のいうソーシャルスキルは、
必ずしも対人関係の技法のみを指しているわけでもない
さて、ちとネタ振り。 精神力動的心理療法と認知療法の相違など。 漏れの臨床を考えてみると、精神分析的心理療法が解釈と直面化を中心にするのに対し、 無意識や象徴・転移(まあ広義のですが)をそれなりには考えていますが、どうしても「この点に 関してはどう感じる?」「(行動化の前に)どんなことを考えたり感じたりしてた?」というような 表出的精神療法に(それなりに)なってます。 後者に関しては漏れ自身は空想(Phantasy)に焦点をあてているつもりなんですけど(汗、 認知療法をみてみると自動思考に分類されることかと思います。 逆に力動的といってもあんまり転移解釈はしない(できないw)ですね(一度、失敗した経験がありまして(汗))。 このあたり皆さんはどういうスタンスでされているのでしょうか? 勿論、厳密な意味での精神分析的精神療法ですと、沈黙と解釈と直面化以外は無しということなんですかね? #漏れ自身は認知療法は門外漢なもので(汗)
>>34 >完璧な対人関係になってしまっている。
例えば私は、「マリリン」「reverie」「かわず」「ロボ」などのハンドルネームを
使っておられる方々や、「没個性化されたレス」と言う形になっておられる方々が
どのような人であるかを、ほとんど知りません。なぜならば、直接お会いしてお話
したりしたことがないからです。
このような関係を、私は「対人関係」と考えてはいませんので、「掲示板には対人
関係は存在しない」と考えています。(他の方々がどのように考えておられるか、
については私は知りませんし、私の関与できることでもないと思います。)
しかし、これらの方々が書かれる文章は興味深く拝見しています。これは、本や
論文を読んだりする感覚に近いと思います。
>>39 >精神力動的心理療法と認知療法の相違など。
reverieさんの意図とは少しずれるかもしれませんが、この両者の違いについて、
私の個人的な感覚に基いて書き込ませていただきます。したがって、論理的な話では
ないことをお断りしておきます。
以前、認知行動療法のセミナーに参加したことがあります。そこで約10名ほどの、
認知行動療法を専門とする精神療法家の方々にお会いすることができましたが、
その先生方には共通する特徴があるように私は思いました。それは、実年齢に関係
なく「若くて明るい」という印象でした。もう少し詳しく言うと、「人と話すこと好きで、
比較的単純思考で、未来は明るいと思っている人たち」という感じです。
それに比べると精神分析的精神療法を専門とする人たちは、やはり実年齢に関係なく
「年取っていて暗い」という傾向があるように思います。もう少し詳しく言うと、
「物事を深く考えすぎて、比較的悲観的で、慎重な人たち」という感じです。
このあたりの違いが、例えば「陰性転移」と呼ばれる現象に対処する方法の違いと
なって表れているようにも思えます。精神分析的精神療法の場合、「あなたは私に
対して怒っているのだと思います」などの形で直接取り扱おうとするのに対して、
認知行動療法の場合、うまくそこを避けて治療者−患者関係を維持していく、という
印象を私は持っています。
だからこそ精神分析的精神療法に対しては、「患者さんがそれほど重症でない場合
においても話を複雑にしてしまい、治療に時間がかかる傾向にある」と批判することが
できるし、認知行動療法に対しては、「陰性転移」が大きな問題になりやすい重症の
患者さんにはあまり役に立たない傾向がある」と批判できるのではないでしょうか?
精神分析的精神療法の治療者になるか、認知行動療法の治療者になるか、という
ことは、その人の人生観の違いによっても決まるように私には思えます。
>>41 笑った。
それ、すごく分かる。Reverieさんとkenboyさんの違いだわ。
現在の日本の精神分析の主流は何になるでしょうか? 学会などの症例発表では、ウィニコットやビオンなどの用語を用いた発表がを 耳にする機会が多いような印象を受けますが。
>>43 自称コフート派を名乗るヤシは少なくないけれど、ホントにコフートを理解してるか
どうかはあやしい。共感などを安易に考えてるようだし。
>>32 例えばクライエントが、父親が出稼ぎに行ってしまって、しばらく会えない淋しさを
語ったとします。
「実感」と「知的理解」の違いは、「あなたにとっては、とても淋しいことなのね」
と言う治療者の返し方に現れるのでしょうか。同じことを言っても、感情のこもり方
に差が出るものなのでしょうか。
それとも、実感できている治療者は「そう言えば、来週から私の夏休みですね」と言
えるけれども、できていない治療者はそこまでは言えない、と言うことがあり得るの
でしょうか。
答えていただくための質問ではなくて、ここら辺をすこしふくらませて書いていただ
けると、嬉しいです。
>>45 いや、面白い展開になりそうな予感っすね。
>「実感」と「知的理解」の違いは、「あなたにとっては、とても淋しいことなのね」
>と言う治療者の返し方に現れるのでしょうか。同じことを言っても、感情のこもり方
>に差が出るものなのでしょうか。
これは某スレ(100超えたので倉庫逝き)の共感的理解に近い所ではないっすか?
文献でよくみるTh.の休暇前のCl.の状態は確かに自分で経験したほうが客観的現実
→心的現実→情緒的な反応という一連の過程は判りやすいかもしれませんね。
そして「辛さ」を含めた情緒体験が、疑似体験でなく「(教育分析を受けていた)過去の
体験」としてTh.に沸き起こった場合、この共感はやはり違うでしょうね。
セッションの場面では、Th.の声のトーンや抑揚、表情や姿勢(これは自由連想だと分かりませんがw)
などなど様々な前言語的な交流で異なってくると思います。
それと、もう一つ素晴らしいのは、Th.の方に「モデル」が増える事かな?すなわち、「Th.の休暇前には
情緒的な反応が起りやすい」と言う「モデル」が現在のCl.に当てはまるかどうかの思索が可能に
なると思います。
#泣き叫ぶ赤ちゃんに対するほどよい母親の「もの想い」中に「おっぱいが欲しい」「うんちが出た」以外に
#「眠いのかな」という思索が加わるような感じ、かな?
>>43 >現在の日本の精神分析の主流は何になるでしょうか?
実は私も知りたいです。どなたかご教示ください。
もしウィニコット(英国独立学派)とビオン(もともと英国のクライン派)がよく
引用されるとすると、「英国学派が多い」ということになると思いますが、、、
実際のところはどうなんでしょう?
>>45 一般的な形で書くのが非常に難しい領域だと思いますので、あくまでも私の個人的な
体験として書かせて頂きます。
>例えばクライエントが、父親が出稼ぎに行ってしまって、しばらく会えない淋しさを
語ったとします。
現在の私ならば例えば、「私が休みのためにいなくなってしまうので、あなたは
淋しいと感じておられるのだと思います」などとコメントすると思います。
しかし分析を受ける前には、こうは言えなかったと思います。多分その頃の私は、
「患者さんは、治療者の休みに反応して淋しいと感じるものだ」と、「理屈では」分かって
いたのだと思います。でも正直に言って、「それ程強くは感じていないかもしれない」
「転移解釈という単なる技法に過ぎないのかもしれない」などと感じていた部分も
私の中にあったと思います。したがってそのときの私のコメントは、もう少し
あいまいで、例えば「私の休みとあなたの寂しさは、関係があるかもしれませんね」
くらいだったと思います。
しかし、分析を受けて初めて分かったのですが、「本当に感じる」のですよ。。。
ものすごく不安になったり、それをごまかすために怒ってみたり、絶望的に
なったり。。。変な書き方ですが、「全く嘘ではない」ですし「感じているふりを
している」訳でもありません。「感じてしまう」のです。そしてこのような「実体験」が
あると、「自分の解釈の正しさについての自信」のようなものが、生じるのかも
しれません。(もちろん、治療者の「解釈」が常に正しい、という意味ではありませんが)
念のために繰り返しますが、これはあくまでも「精神分析」「精神分析的精神療法」
の話です。それ以外の「精神力動的精神療法」であれば、私自身、知的洞察にも頼って
行うと思いますので。
>>47 今手元に資料が無いので断言できませんが・・・。
精神分析研究ではやはり対象関係論で有名な先生が沢山投稿されていますね。
自我心理学だと丸田先生が「間主観的感性」でスターンやストロローの
概念を評価されているようです。
あとは、個人的興味でしか読んでないのでよくわかりません。
自宅の精神分析研究を見てカキコします。
>>48 教育分析の効果、すごくリアルに感じられました。有難うございます。
>>48 ごていねいなレスありがとうございました。
傾倒、理想化、取り入れ‥‥が実感される、と言うことでしょうか。
「分析を受ける者の気持が、わかるようになる」のでしょうね。
ところで、訓練分析には「主訴」や「治療目標」みたいなものがあるのですか?
被分析者はただ分析家になるためのトレーニングを受けるのではなく、自らの神経症的な
傾向を直したいとか、このままでは治療者としてやっていけないから‥‥とか、分析家と
話し合ってから始めるものなのでしょうか。
>>49 たしかに、対象関係論の流れをくんでいる論文が多い(ほとんど?)ように思います。
漠然とした印象ですが、日本の臨床心理士の間では、ウィニコットは人気ですよね。
私も好きですが、何かって言うと「ホールディング」を連発されるのも辟易しますが。
丸田先生は、自我心理学ではなくて、自己心理学ではないかと思うのですが‥‥。
>>50 アクセス規制に引っかかってカキコ遅れました(漏れが悪さを
したわけではないですよ(笑))
ご指摘の通り自「己」心理学ですね。すみませんでした。
Holdingは、よく聞かれますね。でも難しいです。。。
73 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:03/09/24 23:52 71はまちがい。 多くの組織は非医師を受け入れてきた。 英国協会、ヨーロッパ、南米など、 ほとんどのところは、非医師を排除したことはない。 北米だけが80年代まで排除してきた。 フロイトがアメリカのその動きに反発したまま 死んだのは周知の事実。 71はもうすこし事実をふまえてほしい。 クラインもアンナフロイトもハイマンも、 リビエールもアイザックスもストレーチーも、 医者ではない。
74 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:03/09/25 01:00
61もかんちがい。
医学部で精神分析はおしえないだろう。
精神分析は大学では教えられない。
たんなる講義だけならべつだけど。
全世界的にphDかMDもった人間がインスティチュートで
精神分析を学ぶというのが常識。
75 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:03/09/25 01:04
>>73 そういう事実を踏まえたレスは素敵です。半可通検索くんをもっと叩きのめしてくらはい
76 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:03/09/25 04:38
>>73-74 何か物凄く高尚というか敷居の高い学問なんだね。
扱う対象の割には市井の営みから離れすぎてやいないか?
>>49 >>50 ありがとうございました。
「対象関係論」と言うのは、クライン派を含むのでしょうか?
日本に帰った後自分が少数派になるのかそうでないのかは、一応気になりますので
お聞きしました。
私自身については「クライン派」と呼ばざるを得ないようですが、実はそう呼ぶことに
対して、アンビバレントな部分も未だに持っています。まあこれは「クライン派」
だけでなく「精神分析」そのものに対しても持ち続けてはいますが。。。
>>54 少し訂正です。「アンビバレント」と言うより、「自分自身であり続けたい、
『クライン派』『精神分析』というものの一部という意味しか持てない存在には
なりたくない」と書いた方が、より正確だったかもしれません。
>>50 >訓練分析には「主訴」や「治療目標」みたいなものがあるのですか?
訓練分析の内容についてのご質問にお答えするのは、少し難しいです。なぜならば、
分析はごくごく個人的な経験ですので、その内容について他の人と話しあう機会は
ほとんどなく、ご質問にお答えするためには、自分の経験について書くしかないから
です。そして分析は前述の通りごく個人的な経験ですので、私はそれはあまりしたく
ありません。実際のところ私が他の人の分析の内容を聞いたことのあるのは、自分の
分析家に対して不満を持っている人から相談を受けた時くらいだと思います。
以上の理由のため、少しあいまいに書かせていただきます。
まず「治療目標」についてですが、私の知っている「精神分析」「精神分析的精神療法」
においては、「治療目標」を設定することはありません。したがって「訓練分析」
でもそれは同じです。
次に「主訴」ですが。。。私の場合、今から考えると「その当時の自分の無意識が
知っていたようです」という感じです。
>>52 >>53 ここで引用されていることを書かれた方は、いろいろとよくご存知だな、と思いました。
しかしこのような「事実」そのものが、「精神分析」という営みそのものと強い
関係があるとは、少なくとも私には思えません。
もちろんこのような「知識」を得ることがお好きな方もおられるでしょうから、
その方にとっては有意義な活動なのだろうな、と思います。
少し時間ができたので、ちょっと皆様の意見をいただきたいことが一つ (流れを無視してしまって申し訳ありません)。 こちらのスレにいらっしゃる臨床家の方々の中には 精神科医も少なくないと思うのですが 「薬物療法と精神分析的精神療法(心理療法)の関連」および 「医師とサイコロジストの連携」についてはどのようにお考えでしょうか? 私自身は薬物が奏功するのであれば、それに超したことはないと思いますし サイコロジストが心理療法を行う上で投薬が可能な医師との連携は必須でしょう。 ただ、精神分析的心理療法の中で薬物が持つ意味というのは 特に小此木らが議論した治療構造論的了解という観点から 考えなければならない事柄であると思うのです。
・・・などと私が声高に叫ぶはるか以前に議論されつくしていることのような気もしますが そうであればそれに関する諸家の意見というのもお教えいただきたいです。 北山先生が最近出された教科書(?)では 主治医(Doctor)−心理療法家(Psychotherapist)−患者(Patient) は以下のように描きだされ 連携 主治医 −−−−− 心理療法家 マネージメント \ / 心理療法 患者 DPPの三者のそれぞれが、競争や嫉妬という心理に巻き込まれながら 三角関係を形成することがまれではない、と述べられています。
以前、この板でやはり力動的(精神分析的)心理療法に関する議論をしていた際 恐らく精神科医と思われる方に職業的な位置づけを尋ねた時に 「そうしたことは本質的な問題ではない」と返されてしまいましたが 果たしてそうなのでしょうか? 「薬物の処方ができること」や「それができないこと」というのは 実は治療構造の中では大きな違いになるのではないかと思います。 薬が処方できることについての利点だけではなく 逆にそれで精神分析的精神療法(あえて精神療法としました)が やりにくくなる可能性もあるのではないかと思うのですがいかがでしょうか?
>>49-50 日本の臨床家の中でウィニコット(というかホールディング)が人気なのは
やはり日本人の心性に合っているからなのではないでしょうか?
日本人(のサイコセラピスト)の多くは意識せずとも
ホールディングをしているのかもしれません。それが適切な形かどうかはともかく。
というか、先日の心理臨床学会で某先生がそんなお話をされていました。
逆に日本人は「ホールディングしすぎている」のではないかと。
「しすぎない」ためにも概念の正確な理論的・実践的理解が必要なのだと思いますが
かわず氏が辟易されるのはそうした日本人の心性及び日本の状況が
関連しているのではないでしょうか。
>>45-46 掲示板での議論における難しさの一つとして
「(Reverie氏のおっしゃるような)前言語的な要素を伝えるのが困難」というのは
非常に大きいのではないでしょうか。
(私自身某スレでの議論・・・というか水掛け論でそれを痛感しました)。
特に臨床実践に関わる議論をする際には、そうした要素が伝わらないのは致命的であり
故に「ネット上のやりとりでの臨床実践はまず不可能」なのだと思います
(最近はメールカウンセリングなんてのもありますが)。
>>54 浦島さん
精神分析研究を眺めてみると基本的に、対象関係論のコンテクストで
書かれていることが多いですね。それと重症例に関してはポスト・クライニアン
の理論を活用されている論文が多いみたいです(Bionなど)。
ですので、浦島さんは本流に近いところかにいらっしゃるかと。
「浦島太郎」さんにはならないですよ(笑)。
たまたま見た号ではG.O.Gabbard氏(ご存知ない方の為に、付記すると
アメリカ精神医学会の精神力動的なアプローチを統括されています)
の総説が載ってました。力動的精神療法のBPDに対する実証的な結果
を出されていました。ただ考え方としてはKernbergのスタイルかな?
(お国柄でしょうか)
ぽつぽつと間主観性の総説が出ていますね。
>>58-60 このテーマに関しては、つたないながらもいろいろ思うことがあるので、それを
カキコします。定説ではないっすよ(笑。
AT(Administor-Therapist) Splitの方が通りがいいので以下
管理医(A)と心理療法士(T)とします。で、この時の心理療法士は
非医師の場合で書いてみます。ちなみに患者さんはP(atient)としますね。
1)A側の心理療法のスタンスについては私見ですが「両極端」かと。
漏れの周りでは、滅茶苦茶親和性があるか、ぜんぜん興味が無いかどちらかでした。
2)興味の無い場合はほんとにSplitされてしまい、全くばらばらに進んでしまいます。
いわゆるTにお任せ状態となり、殆どAの機能が果たせなくなります。ただし
T側が主導的な志向性があると、これはこれでやりやすいようです。ただ、
行動化のリスクがあると後手に回りやすいし、ときどきAの役目をされている
Tという場合が見受けられます。
3)で、親和性がある場合、問題なのはA-T間でA側のトレーニングや勉強が不十分
な場合(昔の漏れですw)、Tに対して羨望がわくことがあるようです。また、Tに
よっては薬物療法(象徴的には贈り物、かな?)に対して羨望がでる方がいるよう
ですね。前者は、A側の診察で濃厚な精神療法をやってしまい、Pが混乱して退行
する形になる事があるかと。特に医療機関ではこのような場合、薬物を受け取ることが
できることもあり、A側のみの継続を希望し、T側のセッションを中断することが。
逆に、T側の羨望が強いと面接の中で薬物の副作用に関して、まさに無意識に
同調・強化してしまうことがあるようです。あと、TがベテランでAが経験が
浅いとついつい起こりやすくなるようなw。
ですので、境界例などのまさに境界がはっきり区別できないPには面接内での テーマもその都度仕分けすることが(いまさらながら)大事かと。 後、A側は「この構造を維持する」ことの重要性とT側での治療の理解が 重要かと。薬物療法は激しい情動や妄想的な空想を緩和し、T側の心理療法が スムーズに進む為と理解し、現象学的な症状を叩く役割が大事かと。 感覚的には「重要な脇役」だと思います。
>>59 北山先生の図をよくみるとまさに、エディップス状況を示唆する図式ですね。
クライン派のブリトン氏の「三角空間」の概念を当てはめてみると、
両親の結合(この図の「連携」)に耐えられると、「第3の立場」が
出現し、「自分のことでありながら自分のことを観察できうる」状況に
なるのかなと。そういう意味では構造化されたA-T Splitは二者関係の
セッションだけよりもいいのかな、と空想してみたりします。
ありゃ。“A-T Split”という語は自分でも書いたつもりだったんですが
完全に抜けておりますね。
とりあえず簡単にレス。
>>66 北山先生の場合は「開業精神療法」を実践する中で
心理畑の人たちと組んで仕事をしなければならなかったし
その中で、心理職の人たちを他と対等に視野に入れた医療モデルというのを
提示する必要があったということで、このDPP三角を無視できなくなってきたとのことです。
この中での医師の仕事は、心理療法への直接参加を行うものではなく
心の内側のことはセラピスト(P; Psychotherapist)にまかせた上での
心の外からのマネージメント(管理・取り扱い)であり
身体管理、投薬、生活指導、入退院調整などを含む
と述べられておりました。
その際、Doctor-Psychotherapist-Patientのそれぞれが
対等に位置づけられた「正三角形」を形成することなど
思いもよらない医療関係者もいる、とのこと。
と、ここまで書いたんですが・・・まだまとまっていないので 続きは後ほど。
北山先生の教科書は知らんけど 精神医学ハンドブックにほぼそのままのことが書いてあるような
>>60 薬物療法に関しては、実は社会的な責任の部分があると思われ。
すなわち「抑うつがこんなにひどいのに何故抗うつ薬を処方しなかったのか」
と問われる羽目に。「『しないこと』を決定する」責任が生じるため、かな?
まあ医師-患者の関係性からも、勿論処方をしたくない場合がありますね。
どーも、「贈り物」が万能的なニュアンスがある場合とか、嗜癖傾向の
ある場合など。
構造を維持する薬物療法はA-T Splitの方が「精神療法をどんどん
面接の中で展開させなくていい」分、楽です。
境界例に薬物療法を行うのは、有効で必要だからじゃないですか。 「社会的責任」「贈り物」「精神分析的精神療法」と関係ないし、 医者ならば、しない事こそ無責任になるのではないでしょうか
>>71 どう「関係ない」かわかりませんがw、
貴方の言う薬物療法の有効性はどのように判断されてますか?
>>69 まあ“A-T split”は小此木先生の治療構造論の中で出てきた話だし
精神医学ハンドブックの「治療関係論」の項は
正にその事について書いているわけですから。
>>64 何となく個人的事情も書かれているようなので
(それを明らかにしないとなかなかこの話は進まないんですよね)
こちらもそれに合わせて少々自己開示をば・・・
1)に関してはかなり同意できます。
ただ、運良く職場に恵まれたせいか、親和性があるAが多いようです。
しかし、中にはそれほど興味のないAもいたりします。
2)の状態というのは、心理療法の枠(治療構造)を作るのは楽だと思うんですが
逆にPとTの距離が近づきすぎ、AとP、AとTの距離が離れ過ぎることで
三角形が歪むということもあるかと。いつの間にか成立していたそんな治療構造に
Tが気づかない場合は、いたずらに面接が滞る可能性もあるかと思われ。
>>64 で、3)に関してなんですが、今現在、未熟なTである漏れwは
確かに薬物療法に対しての羨望はあります。そりゃあ、なんと言っても
それなりの効果はあるわけですからね。
少なくとも未熟なTである漏れの技術よりは、よほど効果があるのは確実でしょう。
ただ、それって「贈り物」としての薬物に対する羨望なのでしょうか・・・?
むしろ精神分析的精神療法を行っている医師が
同時に薬物療法も行っていたとしたら
まず治療構造を作るのが困難になって大変なんじゃないかなぁ?という気もします
(ま、それが漏れの合理化の可能性はなきにしもあらずですが)。
>>65 では境界例を例に取り上げていますが
それこそ内的対象が不安定な人にとって薬物というのは
実は治療者の代替物になる可能性もあるのではないでしょうか。
それが「移行対象」として機能するのであれば治療的ですが
「薬物=治療者」ということで構造が固定され
治療が進展しなくなるということはないのでしょうか?
投薬が転移などの精神療法の過程に与える影響も無視できないでしょうし
(この場合は陰性・陽性ともにですが)。
こうした理由もあってか、単純な羨望にはならないようです。自分の場合。
確かに「重要な脇役」なんですが、脇役のもつ意味の重要性を侮っていては
逆に主役が喰われる(=治療が上手くいかない)場合もあるかと。
って、よく読んだら
>>70 で既に書かれていますね。
>まあ医師-患者の関係性からも、勿論処方をしたくない場合がありますね。
>どーも、「贈り物」が万能的なニュアンスがある場合とか、嗜癖傾向の
>ある場合など。
心理療法の効果には一定の限界がある。 それは、それぞれの体質的、生物学的な要因が神経症を含めて いろいろな治療対象に病理をつくり出している部分があるためだ。 このことは、精神病領域に心理療法的なかかわりを試みる場合には、 特にそうである。むしろこの領域については特定の物質、脳内の ホルモンなどの特定の物質の作用がもっと明らかになって 薬物療法を梃子にしてはじめて、この領域の心理療法の道が もっと豊かに開かれることになるのではないか。 S・フロイト 『続精神分析学入門』 1932年 どうしてフロイトという人は あんな電波理論を吐き散らしながら同時にこんな正論が言えるのか。。。
フロイトが「電波理論を吐き散らした」とは、私は思いませんが……。 ご存知かもしれませんが…… 抗精神病薬のさきがけとなったクロルプロマジンは、1952年にフランスで開発が 進められました。たしか、人工冬眠のための開発だったと記憶しています。フロ イトがこの論文を書いた時点では、精神病治療に有効な薬など、とても考えられ なかったのではないでしょうか。 現在は「正論」でも、当時は「何を言ってるんだか」と片づけられていたかもし れません。
1932年だと、クロルプロマジン(1952〜)はおろか 電気ショック療法(1938〜)もロボトミー手術(1935〜)も インシュリン・ショック(1933〜)もまだ実用化されてないな…… 当時、分裂病の治療なんてどうしてたんだ? ゾムニフェンによる持続睡眠療法なんてのは1922年からあったらしいが
>>74 途中で、ロテさん自身が気付かれているようですので、蛇足ですが「贈り物」なのはPの内的現実です。
恐らくT側では「贈り物」としての感覚は無いでしょう。
ただ、以前親しくさせていただいた男性のTの方はやはりPに対して薬物療法を試みたい誘惑があるようでした。
漏れ自身振りかえってみて薬物療法家としての治療者としての「わかりやすさ」は
短期間で症状レベルの反応(改善・悪化・不変)が判断できること、言いかえれば「目の前にある困った症状を
即座的に解消できる」と言う事かな。これは、ある種、Pの症状をコントロール(軽快させるという意味でね)できる
能動感がありますね。ただし、人格障害圏は思ったほど症状のコントロールはできず、無力感の方が多いですが(笑)。
漏れの考えでは、この形の薬物療法は基本的に対処療法だと思っています。細菌性気管支炎の時の解熱剤のようなものかな。
本当に必要なのは人格の構造に変化を与える心理療法という「抗生物質」ではないかと。
それが有効に働くまでの「ほんとに大事な」サポートが薬物療法かと思いますです。
モデルが操作的に過ぎるな。 まあ、精神力動学派は今でもそんなものなのかもしれんが
>78 地球は動いているもそうでしたね
フロイトは薬物療法に関する言明においては ガリレオやアリスタルコスほど斬新なことを言ってはいないと思われ
>>74 >むしろ精神分析的精神療法を行っている医師が
>同時に薬物療法も行っていたとしたら
>まず治療構造を作るのが困難になって大変なんじゃないかなぁ?という気もします
これは実際その通りですね。日本の医療現場では「自分の生き方・考え方を変える」
というより「このしんどい症状を何とかしてもらう」というニュアンスが強いですから(P全員がとは言いませんよ)。
ですので、薬物療法家を兼ねていると漏れなんかは、Pの内的探索をするというよりついつい症状レベルの
やり取りに傾いてしまいがちかな。
それと薬物を服用すると言う事が目標になり、内的な探索をする能動性がそがれる可能性もありますね。
そういう意味では「薬物療法をやってはいけない」Tの立場の方が構造や役割分担として
心理療法に徹しやすいかなと思います。
>>75 問題なのはこの薬物が「即座に症状を除いてくれる(感じさせなくしてくれる)万能的な対象」に位置付けられ
「脱錯覚化」(でしたっけ?(汗))されない事かなと思います。人格障害の薬物療法は
やはり限界があるので、その部分をいかに整理するかが問題かも。
現実に、統合失調症の治療に薬物療法は必須。 心理療法はあくまで補助的
>>81 操作的なのは漏れだけですのでw
誤解が無いように
統合失調症の心理療法に関しては、家庭に帰ってからの再発率が 病院に入院し続けている場合よりも高い、なんてことが言われていたので 再発を予防するための家族療法、なんてこともやられているそうな
>>87 いわゆるHigh EEの家族ですね。
この場合の心理療法は薬物療法の「維持療法」に近いかも。
また、うつ病の認知療法も「再発率の抑制」に有効でしたのでこれも、そちらに近いかな?
まあ適材適所と適切な時期に必要ということで
よく読んでみると、う、スマソ
>>64 >また、Tによっては薬物療法(象徴的には贈り物、かな?)に対して羨望がでる方がいるよう
>ですね。
これは誤解を招く文章でした。( )内は無視してくだちい。これだと「贈り物」に対する羨望に読める故。
>>58 >>60 >薬が処方できることについて
>逆にそれで精神分析的精神療法(あえて精神療法としました)が
やりにくくなる可能性もあるのではないか
自分で投薬しながら「精神分析」「精神分析的精神療法」を行うことは、例外的な場合を
除いてほとんど不可能だと私は思いますので、投薬が必要であればAを依頼せざるを
得ないと思います。なぜならば、「薬を処方したり、それを変更したりすること」は、
「精神分析的精神療法」などで、無意識の微妙な変化を追っかけている時には、その
変化に対して与える影響が大きすぎるように思うからです。
ここで「例外的」と書いたのは、例えば長期にわたって投薬を続けており、患者さんが
薬について、自分でかなり合理的な判断ができると考えられる場合などを想定して
います。
但し、それ程厳密ではない「精神力動的精神療法」の場合には、投薬しながらでも十分
可能だと思います。投薬の持つ意味を、その都度扱っていけばよいわけですから。
>>62 >「ネット上のやりとりでの臨床実践はまず不可能」なのだと思います
(最近はメールカウンセリングなんてのもありますが)。
全くその通りだと思います。「メールカウンセリング」と書いてあるのを見ると私は、
「いいかげんなところ」と反射的に思ってしまいます。実際はどうか知りませんが。。。
>>58 >>59 >>64 >>65 >>66 >>67 >>73 >>74 この引用の仕方で、私が強迫的な性格だと明らかにしているようなものですが(笑)。
A、T、Pの関係について、少し考えてみました。A・Tがすでに、それぞれ一人前に
機能できる能力を持っている、という前提で書きます。
reverieさんが引用されたブリトンによると、「(早期)エディプスコンプレックス」は、
「父と母が、自分の加わることのできない創造的関係を持つことが出来る」という
「つらい現実」を受け入れるところから始まります。そして、この「事実」を受け入れる
ことができるかどうかが発達上大きな意味を持ちますが、これはA・Tにも同じことが
言えるように思います。
Aの場合、「TとPが、自分の加わることのできない創造的関係(=心理療法)を持つ
ことができる」という「つらい現実」を受け入れることができるかというのが、Aとして
きちんと機能できるかどうかという分かれ目になるように思います。これができないと、
「心理療法の内容について必要以上に聞き出して、その関係に自分も加わろうと」
したり「その関係よりもすばらしいもの(=薬)を自分が与えられると信じることに
よって、創造的関係を攻撃」したりすることになると思います。
続きます。
どうでもいいですがATスプリットでスーパーバイズをしたら AT&T ですか?
>>93 続きです。
Tの場合、「Aと『外的世界(=病院システム、保険システムなど)』が、自分の
加わることのできない創造的関係(=投薬、心理療法の指示、標準型精神分析療法を
取ること、など)を持つことができる」という「つらい現実」を受け入れられるか
どうか、ということになると思います。これが出来ないと、「自分がAであるかの
ように振舞って、『外的構造を守る』というA(=父)の能力を奪って」しまったり、
「その関係の欠点(=薬の副作用)を暴き立てることによって、その関係を攻撃」
したりすることになると思います。
そして、これらの「つらい現実」を受け入れられないAやTを「攻撃」に駆り立てるのが
「羨望」だと思います。
>>94 そです、あと研修場所はベル研究所ということでw。
同時通訳はC言語(って今一だなぁwww
つまりCPはP医にペニス羨望を抱く存在であると
>>93 >>95 強迫的(笑)に引用して頂いて恐縮です。
いや、これは目から鱗でした。A-TとPだけの関係で早期エディップス状況しか見ていなかったのですが、
A-PとT、T-PとAの早期エディップス関係は思いつきませんでした。
#う〜ん、スタッフも患者も物凄い心的成長を強いられますねぇ
お邪魔するつもりはありませんが、質問してもよろしいでしょうか? 「力動的」な心理療法家、特にウィニコッティアンたちですが、原理的な ものとして患者−治療者関係を、早期の母子関係に近づけているように思われます。 (それとも技法改良の結果として、たまたま似姿になったものでしょうか?) 早期の母子関係を参照した治療構造というものについて、どう考えておられますか?
ひさびさに100げとー
>>99 ちなみに事実確認からw。
ウィニコットの学派は「ウィニコッティアン」といわないような(てか、
昔、漏れもそう思ってましたが)。英国独立学派と呼ばれていますね。
>早期の母子関係を参照した治療構造というものについて、どう考えておられますか?
また大きなテーマですねw。結局、精神分析(的)療法でおこる
さまざまなイベントが、早期母子関係に酷似していたということでは?
この為に治療の設定をこの関係性を参考にして作られたのではないですかね。
メラニー・クラインが「全ての(母親とさえも)関係が心的活動の表れ
(転移だったかな?)である」という理論に対し、ウィニコットは「子供の
心的活動には環境因子(特に母子関係)が大きな役割をきたす」(あんまり
きちんと読んでいないので(汗、アバウトですが)、だったと思います。
でもクラインも実際のセラピーでは環境因子を重要視していたそうですが。
漏れ自身の感触では、Th.をなじり大声をあげ机を叩いているクライエントを
みて、母親に抱っこされながらじたばたしていた自分の子供のことを連想して
みたりします。どちらも言葉にならない「何か」を伝えようと四苦八苦している
感じ、ですかね。
いま ここ
初心的な質問で失礼します。 クライン派のアイディアに、人の心的態勢(ポジション)は、一生の間を通じて、 妄想-分裂ポジションと抑うつポジションの間を行きつ戻りつしながら、心の深みが 増していく…、といった捉え方があるようです。あるいは、オグデンなどは、これらに 自閉-接触ポジションを加えた3つの心的態勢の間の揺れ動きに注目していると聞きました。 これらの推移の捉え方は感覚的に把握するものなのかな、と思うのですがどんなもので しょうか? 心理療法のプロセスでの、Co−Clの間の関係の中で、Cl側に生じる様々な 言動や空想などをCoが感覚的な観点も加味して吟味することによって、理解をしていく ものと言えるのでしょうか。 また、上スレでも出ているように、教育分析などの経験がないCoの場合、その把握において どうしても知的な理解をすることが多く、その場合支障などは生じないものなのでしょうか? ご意見なりご感想なり、いただけたら幸いです。
>>99 私の乱暴な考えなので、他の人の意見も聞いてみたいのですが……
私の持っていたウォークマンで、軽く触れるだけで動作するスイッチのものがありました。
誤動作を防ぐために、holding と言うスイッチがあって、これをON にしておくと、どのス
イッチに触れても作用しません。holding には「そのままにしておく」とか「一時保留」の
意味があるようです。
幼児期の破壊的な衝動を解釈してゆくのが、古典的なクライニアンであるのに対して、ウィニコット
は holding で解釈を「一時保留」にしていたのではないでしょうか。それは「抱っこ」−−赤ちゃん
がお母さんを良いお母さんだと思い、お母さんが赤ちゃんをかわいい子だと思うような関係−−を作
っておいて、クライエントの成長を待って解釈すると言うことです。
言い換えれば、クライエントの自己愛を全面的に受け容れるということでもあるでしょう。
治療者にとっては、負担のかかることです。どこかで読んだのですが、holdingするのは
一人だけ、とウィニコットは決めていたようで、holdingの順番を待っているクライエント
がいつも何人かいたとのことでした。
ウィニコットは解釈技法としてholdingをしていたのであって、治療関係を早期の母子関係
に近づけようとしていたのではないように思います。
>>102 >初心的な質問
とは思えないんですけどw。
>妄想-分裂ポジションと抑うつポジションの間を行きつ戻りつしながら、心の深みが
増していく
過去 現在 未来
→PS(n-1)→D(n-1)→PS(n)→D(n)→PS(n+1)→D(n+1)→...
の図式ですよね?
漏れ自身が力動的な考え方で表出的精神療法でアプローチした場合に関しては、
PS(n)でものすごい投影性同一視による吐き出しがあり、それに持ちこたえた場合に
D(n)に変わられた感じがありました。現象学的にも抑うつ症状(抑うつ気分、
不眠、食欲低下など)が出現していましたね。
で、経過中、その抑うつに耐えられなくて、再度原始防衛を使った「吐き出し」を
経験していますが、期間的には短かったような(P(n)とP(n+1)の内容の違いは、
う〜ん、正直わかりません(汗))。
>教育分析などの経験がないCoの場合、その把握においてどうしても知的な理解
>をすることが多く、その場合支障などは生じないものなのでしょうか?
これは漏れの限界でもありますので、コメントを待ちましょうw。
>>Reverie さん(100げとオメデトん!) >ウィニコットの学派は「ウィニコッティアン」といわないような ウィニコットが自身の学派を形成しなかったことは承知しておりますが、い わゆる信奉者やウィニコット好きをウィニコッティアンと呼ぶことはあるよ うで、最近も「現代のエスプリ別冊『ウィニコットの世界』(03.7)」中で 北山 修がそのような意味合いで用いておりました。 >メラニー・クラインが「全ての(母親とさえも)関係が心的活動の表れ >(転移だったかな?)である」という理論に対し、ウィニコットは「子供の >心的活動には環境因子(特に母子関係)が大きな役割をきたす」 そうですね。クラインが「対象としての母親」、ウィニコットが「環境としての 母親」、そしてウィニコットの「客観的存在としての母親」に対して、ビオンの 「心的存在としての母親」、これが転移−逆転移関係のアナロジーであることから ビオンは極北と言われるのですよね。 >>かわず さん >ウィニコットは解釈技法としてholdingをしていたのであって、 >治療関係を早期の母子関係に近づけようとしていたのではないように思います。 興味深いのは、お二方とも原理的なものとして母子関係を参照することには否定的 ないし、すくなくとも積極的ではないということでしょうか。にもかかわらず、外 観だけは早期の母子相互関係とうりふたつの臨床実践があるわけです。 早期の母子関係をひとつの理想形と見なすことについては、どのような不都合が考え られるでしょうか?
>>105 面白い質問ですね。
「モデル」としての早期母子関係はあっても、その「再来」が
精神療法の場面で起こると、いろんな意味で「大変」だからです。
現実的に早期母子関係が活発になると2者関係を中心とする「退行」
を引き起こし、激しい情動(怒り)や迫害感とその吐き出しで
面接「内」も大変ですし、これを面接の「外」に持ち出すこともあり
(このあたりは漏れの技量不足なのですが(汗・・)、対人関係や
社会適応などが困難になることがあります。ですので可能な限り
二者関係になることを避けて、三者関係に持ち込みたいのです。
二者関係になることは、経過で仕方ない場合がありますが、できれば
三者関係を維持したまま(すなわち早期母子関係まで退行しない状況で)
クライエントの内面が整理できればなぁといつも虫のいいことを考えています。
#おだやかに合目的に進めばそれが一番かとw
>>105 あ、ウィニコティアンの説明有難うございます。そっかー、最近は
そういうのですね。
>>99 >>105 >原理的なものとして患者−治療者関係を、早期の母子関係に近づけているように
思われます。
>早期の母子関係をひとつの理想形と見なすことについては、どのような不都合が
考えられるでしょうか?
非常に難しい問題だと思います。正直に言ってかなり(笑)考えました。
精神分析や精神分析的精神療法には、ある「基本的な考え方」が存在しているように
思います。それは、「患者さんと治療者の間で何が起きているか」「患者さんが
治療者に対して何をしているか」などについての「治療者の判断」を、できるだけ
率直に患者さんに伝えて、一緒に考えていくこと自体に治療効果がある、という
ものです。そして極言すると、治療者はセッションの中でこのことを目指している
だけ、とも言えるでしょう。もちろん、患者さんが利用できると思われる範囲まで、
適当と思われる言葉を選んで伝える、という前提はあると思いますが。
そして「早期の母子関係」などのモデルは、「実際にセッションの中で起きた事」を
後からまとめて説明しようとする時のみ有効であるように私は思います。したがって、
「早期の母子関係」などのモデルは、患者−治療者関係をそこに近づけようとする
という性質のものではない、と思います。但し、後からあるセッションを評価する
場合の一つの尺度、という意味での「理想形」にはなる可能性があると思いますが。
>>102 >>104 「初心者的な質問とは思えない」に私も同意します。
まず「妄想分裂ポジション」「抑うつポジション」とは、別に特別なものではなく、
ごく普通に起きることだと思います。そしてこの2つは、ごく短時間で入れ替わったり
する、という類のものです。
具体例をあげます。例えば何かの試験に落ちた時、「親が協力してくれなかった
せいで勉強できなかったと親に腹を立てる時」は、「妄想分裂ポジション」でしょうし、
「自分の勉強が足りなかったからだと落ち込む時」は、「抑うつポジション」と言える
でしょう。そして後者の場合、「自分の能力不足という現実」を認めることになります
からつらいですが、「もっと勉強しよう」などと考え「将来につながる可能性」が出て
きます。
このような、「他人を責める」と「自分の至らなさを噛み締める」の両方を揺れ動くのが、
「普通の人」だと思います。したがって、このことが理解できる「普通の人」であれば、
患者さんが「他人を責めている」(妄想分裂ポジション)のか、「自分の至らなさを
噛み締めている」(抑うつポジション)のかは、治療者として理解できるはずだと、
論理的にはなるはずです。
ただ問題は、このような「普通のこと」が、「普通の人」にとっては、「普通でなく
難しい」(笑)ということだと思います。
「教育分析」も、「特別なことをする訳ではない」とも言うこともできると思います。
なぜならば、「人間として当たり前のこと」を、「当たり前のこととしてにできる
ように」するに過ぎないわけですから。
>>109 浦島さん
えー、実は「教育分析」に関してお聞かせ願いたいのですが、
さすがに、内容が内容だけに適度に曖昧な表現で結構なのです。
ご自身が「教育分析」を受けられて、どの程度の段階まで無意識の整理を
されました?それと「教育分析」の期間中、ご自身の研修や職業上の
問題などはございませんでしたか?勿論、自我機能が強いとお見受けしますので
大きな問題はないかと思うのですが、「教育分析の途中と後」の感想等々さわりだけ
でも結構ですのでご教示いただければ幸いです(すいません、紹介状みたいな文章
になってしまいました(汗))。
>>107 訂正です。m(__)m
×「現代のエスプリ別冊『ウィニコットの世界』(03.7)」中で北山 修が
○「現代のエスプリ別冊『精神分析の現在』(95.6)」中で小此木啓吾が
でした。
>>浦島さん
私の聞き方が中途半端だったせいで、ご負担をお掛けしたようです。m(__)m
ここの方たちは対象関係論にお詳しそうだったので甘えていたのですが、
もう少し議論の基盤を作っておくべきでしたね。
どうやら皆さんはウィニコットといえばholdingと思っていらっしゃ
るようですが、playingについてはどう考えていらっしゃるのでしょう?
制御された退行であるplayingは一技法であると同時に、原理的なものと
して治療関係を早期の母子関係に近づけているのだと私は思いますが。
>>104 >>109 レスをどうもありがとうございました。まだほんの初心の者です。
浦島先生が書いておられるように、「…ただ問題は、このような「普通のこと」が、
『普通の人』にとっては、『普通でなく難しい』(笑)ということだと思います。」
というくだりも、なんとなくですが実感できるものがありました。
そんな難しさも含めて思いを巡らすことが、抑うつポジションでのこころの吟味を
重ねることになるのかも…などと思いを巡らせたりしています。
すみません、うっかりして上げてしましました。(汗 今後もsage進行で行きますので、よろしくお願いします。
114 :
没個性化されたレス↓ :03/09/28 23:39
このスレッドはほんとうに半可通ばかりでいらいらする。 まったくわけがわかってないならまだいいが、 わかっているようでいてまったくわかってないから。 ほかのスレッドは笑って見られるが。 「無意識の整理」だと? 馬鹿をいうな。四の五の言うまえに、 とりあえず資格のある分析家に手紙でも出して、 きちんと相談しろ。 もう書くことはないだろうが一度だけいうけど、 こういうところにくだくだ書くこと自体が、 もっとも分析的でないことだと思う。
>>114 君は通らしいから、アニマについて、通らしく説明してくれるかい?
もちろん教科書丸写しじゃだめだよ。そんなのは通といわないからね。
まぁ、無理だろうけどね(藁
半可通なんて、ちょっとむずかしい言葉、使ってみたかっただけだろ(藁
DQNの悲しい性だな(藁藁
>>115 そりゃ君よりは通だよ。
小川捷之の仕事を手伝ったこともあるからな。
だがアニマなどという学問的に通用しない概念(というより妄想)を語る気はない。
オースティンやライルのことなら語ってもいいが。
静かにROM中の者です。 ノイズ入ってますが(私のレスもですな汗)、 またーり宜しくです。
P-Sにポジショニングしている嵐氏は、もちろんスルーの方針で。
〃∩ ∧_∧ マターリ ⊂⌒(´・ω・`) `ヽ_っ⌒/⌒c 旦~ ⌒ ⌒
114は酔ってるだけのヤシでしょうな。 酔ってるならば、他人をダシに使わず、酔っ払い先生のような地に足の 着いたことの1つでも言えればいいのに。 さて、みなさまごゆっくりとレスとROMを続けましょう。
121 :
没個性化されたレス↓ :03/09/29 02:02
精神分析的心理療法ねえ感心しないな 自己弁護と失敗に対して古典的な分析用語で誤魔化す一派 と臨床能力無き空理空論を振りかざす一派の塊 もっとも役立たずな連中の衒学趣味の集まり 療法なんだから改善することを目指せよ 理屈だけで何とかなるって考えるなよ と 絡んでみる
123 :
没個性化されたレス↓ :03/09/29 04:07
history ... 形成の前段階である短期記憶は,特異的なRNAの増加として確認できると いう説.)を. 研究したいと思っていました.クラス担任だった小川捷 之先生に連れられて,東京教育大. の藤田統先生の研究室を訪問しまし た ... www.ia.inf.shizuoka.ac.jp/isarida/ personal/history.html - 21k -
>>110 「教育分析」について書くことが難しいのは、精神分析が個人的体験であるためあまり
公にはしたくないという気持ちが働くからであるのはもちろんです。しかしそれだけ
ではなく、精神分析が文章のみで伝えるのが難しい種類の体験である、ということも
関係しているように思います。したがって、あいまいな書き方になると思いますが
お許しください。
現時点の私の考えですが、少なくともそれを専門とするものにとって「精神分析」
とは、自分の受けている分析が終わった後も自分の中で一生続けていく、という
性質のものだと思います。その意味では、「ある種の生き方の選択」のようなものかも
しれません。
そして、自分の問題をいくら理解したつもりでも、気がつくと自分が全く同じことを
繰り返してしまう点は、分析を受けてもあまり変わらないように思います。但し
分析のおかげで、そこから抜け出すのは少しうまくなるように思います。
そして私に関して言えば、自分の子供の笑顔など、以前はあまり強く感じることが
できなかった自分の人生におけるいわば「小さな幸福」が、たくさん実感できるように
なったと思います。
分析のために落ち込み、治療者として患者さんに会う自信がなくなってしまう、
ということはありました。しかし幸い私の場合、表面的には何とか取り繕うことが
できたと思います。主観的には大変でしたが。
>>111 正直に言うと私は、現在自分の臨床を語る際に、「holding」「playing」「治療者が
生き残る」などの概念を使っておりません。特に最後の概念については、以前は好きで
よく使っていたものですが。。。
したがって今の私は、ウイニコットについて地に足がついた議論をする自信が
ありません。すみません。
>>浦島さん どうかお気になさらないで下さい。love affair に theory は ないというのも、真実と思います。 >特に最後の概念については、以前は好きでよく使っていたものですが。。。 なにやら鬱になりそうな(w いや攻撃はしてませんけど!!
128 :
近寄ると吐き気をもよおします :03/09/29 08:44
吐き気がするほど男性が嫌いです。理由が分からない何故かどなたか教えてください。このままじゃあ結婚なんてできない。
>>128 >>1 をお読みください。
個人的な相談はメンヘル板か人生相談板へGO!
>>103 かわずさん
すいません、正直言ってウィニコットに関しては勉強不足でして、あまり
多くのことを話せないのですが、せっかくふっていただいたので、ちと
思うことを書いてみます。
「精神病水準の不安と庇護」でのセッションの記録もあんまり言語的な
やりとりはかかれていなかったような気がします。漏れが印象に残っているのは
Cl(マーガレット・リトル)が面接室の中で大暴れwしたときに、Th(ウィニコット)
はさっさと退室し「セッションの終わりの時間」に表れていること、そして、
後片付けをしているClに「これができるとは思って無かったよ」(だったかな?)
と話し掛けるくだりですね。セッションのおわりの時間に表れる治療構造としての
提示や後片付け(「償い」かな)を肯定的に評価することにより抑うつ態勢への
促進かなと思ったりします。あと、次回のセッションの時に大暴れして
壊れた花瓶や花と「同じもの」が「同じ場所」に飾られていたことかな。
まさにClの羨望(Goodなものに対する攻撃性)から「生き残る」事、
そして攻撃性に破壊されない「容器(コンテナー)」としての
「(Good Enoughな)抱きかかえる環境」(この場合はTh.であったり
セッションの空間であったりします)が、Clの中に表れた瞬間かなと思いました。
そういう意味では漏れはHolding Enviromentを「抱きかかえる」と「環境」にわけると
ついつい後者に目が行きますね。
>>130 Reverieさん
ありがとうございます。リトルの本は読もうと思った時に手に入らなくて、まだ
読んでいません。再版されたようなので、今度読んでみようかと思います。
しかし、面接室で大暴れしている人を放っておくのは、なかなかできない芸当で
すね。私など、一生かかっても到達できない境地のように思います。クライエン
トを信頼していることが、言外に伝わっていたのでしょうね。
抑うつポジションは、ある一点で見るよりも線(ある程度の時間経過)で見ていく ことが大切ということなのでしょうか。 Reverie先生が取りあげているリトルの面接室内での行動化においても、その時間内に リトルがアクトしながらも、同時に抑うつ的な側面が入ってきている面もあるのかなと いう感じも受けます。 それが生じるためには、それまでのウィニコットとの面接経過や行動化が生じた後の 確認の作業などを通して、抱える環境が造られていくというところでしょうかね。 アルコール依存のClが配偶者を心身ともに攻撃するような行動化をした後で、一転 して「もう二度とこのようなことはしない…」などと殊勝に語るとき、はたして 彼らは抑うつポジションにいるということができるか? 家族はCoではないし、抱える環境として機能することはやはりむずかしいのだろうか… などと勝手に空想しています。
病院は、臨床心理士にとってHolding Enviromentなんですかね。
>>132 >ある一点で見るよりも線(ある程度の時間経過)で見ていくことが大切ということなのでしょうか。
確かにそうでつ。まあ、漏れがわかったのはこれくらいだったということでw
>アルコール依存のClが配偶者を心身ともに攻撃するような行動化をした後で、一転
>して「もう二度とこのようなことはしない…」などと殊勝に語るとき、はたして
>彼らは抑うつポジションにいるということができるか?
漏れの経験上、これは抑うつ態勢というより薬理学的な(早期離脱症状の)抑うつ状態という気がします。
現に迎い酒をするとたちどころにこの抑うつは霧散してしまいますしね。
又、断酒に導入できてもこの抑うつはそれほどの期間続かないです。
アルコール依存の対象関係論的記述は一時斎藤先生が書かれていましたが、あんまり無いですね。
漏れ自身はアルコール摂取は「躁的防衛」と「抑圧(分裂機制?)」の延長で捕らえてますが・・・。
>家族はCoではないし、抱える環境として機能することはやはりむずかしいのだろうか…
いや、可能だと思います。家族がストレス下で退行した場合、Ptとの関係が前言語的になる事が
多く、まずはこれの改善から。実はシラフのアルコール依存症も前言語的交流が活発で、
これにアルコールが加わると薬理学的な抑うつ状態が加わり、家族からの迫害的な幻想が
惹起されさらにアルコールに逃避するというのが漏れの空想です。「とりあえず家族だけでも自助グループへ」
というのが前言語的交流→言語的交流の第一歩かと。
>>133 他業種との関係によりますよw。ただ病理が重症な患者さんをみる場合は、Holding Enviromentなはず、でつ。
>>134 アルコール依存症の個人精神療法は、ほとんど報告がないように思われます。
試みる治療者はいるのかもしれませんが、うまくいかないのでしょうね。
と言うか、断酒会なり、AAなりに依存対象を変えることで、生活が成り立って
いくのですから、まずその方が手間がかからないというのが実際でしょうか
>>133 失って 初めてわかる ありがた味 お粗末でした
>>126 >なにやら鬱になりそうな(w いや攻撃はしてませんけど!!
念のために書いておきます。
私が125番に書いたことは、純粋に「私自身の変化」についてです。他意はありません。
いろいろな理論に対する私自身の親和性は、簡単に言うと今まで「コフート→
ウィニコット→クラインとビオン」のように変化してきたようです。
そしてこれが、コフートに向かっていくか、ウィニコットに向かっていくかなどの
ことは、治療者それぞれの個性というか違いによって決まってくると思います。
>>111 >>125 >>130 実はQQさんの111番の書き込みを読んだ後、私も「精神病水準の不安と庇護」を出して
きて拾い読みしました。しかも、reverieさんと同じ箇所を(笑)です。独立学派と
クライン派の技法の違いについて書けたらいいな、と思っていたのですが、何も
アイディアを思いつくことができなかったので、125番の書き込みになりました。
しかし130番の書き込みを読んで思いついたことがありますので、書き込ませて頂き
ます。
reverieさんは、「Clが面接室の中で大暴れ」した原因を「Clの羨望(Goodなものに
対する攻撃性)」であると考えておられるようですが、これは非常にクライン派的な
考え方だと思います。reverieというハンドルネームにふさわしいですね(笑)。
そして「Clの大暴れ」をこのように理解した場合、Thの介入は例えば、「その場に
とどまって、Clの行動がGoodなものに対する攻撃であることを指摘する(もちろん
実際の伝え方をどうするか、という問題がありますが)」のようになると思います。
なぜならば、「Goodなものを攻撃すること」は、「Clの成長にとって良くないこと」
で「おかしなこと」ですから、それに対して見て見ぬふりをして指摘せず、そのまま
放置することは、Thとして不誠実であり治療的ではないからです。
続きます。
>>137 続きです。
これに対してここに書かれているウィニコットの対応は、彼の「古い抱っこ」「新しい
抱っこ」の話を思い出させます。以下に、私の記憶でその話を書いてみます。
−−−−
赤ん坊が成長すると、今までされて満足していたはずの「母親の抱っこ」を、窮屈で
居心地悪く感じるようになる。したがって、赤ん坊は暴れる。母親はこれに気付いて
少し驚き、今までの「古い抱っこ」をやめ、「成長した赤ん坊」にふさわしい「新しい
抱っこ」をし始め、赤ん坊はこれに満足する。これを「赤ん坊」の視点から見ると、
「『古い抱っこをする母親』を攻撃して破壊したら、そこから『新しい抱っこをする
母親』が出てきた」(母親が赤ん坊の攻撃を生き延びた)となる訳です。
−−−−
ここで「破壊」「攻撃」は、クライン派と違って「良くないこと」「おかしなこと」
という意味付けはなされていません。だからこそウィニコットは、クライン派とは
違って、「Clの行動が、Goodなものに対する攻撃である」と理解して解釈すること
なく、黙って退室したのでしょう。そして次のセッションの時、同じものを同じ場所に
用意したのでしょう。
つまり、「古い抱っこをしていた母親」(=Thと面接室内の花や花瓶)が、
「赤ん坊(=Cl)によって破壊」されて、「新しい抱っこをする母親」(=Clが
暴れた、という事実を知っていて、それによって傷ついてはいるが同じように機能
しているThと、前と同じ花や花瓶)になった、ということだと思います。
>>138 念のための書き込みです。
クライン派が「良くないこと」「おかしなこと」を考えるのは、「破壊」「攻撃」
そのものではなく、「良い物に対する破壊」「良い物にたいする攻撃」だと思います。
誤解を与えそうな表現をしてすみません。
>>132 >抑うつポジションは、ある一点で見るよりも線(ある程度の時間経過)で見ていく
ことが大切ということなのでしょうか。
「妄想分裂ポジション」と「抑うつポジション」は、数分単位でも入れ替わるものだ
と思います。そして同時に、あるセッション全体が抑うつ(ポジション)的である
とか、最近のセッションはずっと抑うつ(ポジション)的であるとか言うことは
可能だと思います。
したがって、ある一点と線の両方が大切、ということだと私は思います。
>>139 ミスが多くてすみません。
「良くないこと」「おかしなこと」を考える
→「良くないこと」「おかしなこと」と考える
>>137 浦島さん
いや、リトルの本の同じ部分に目がいき、光栄です。
この本は、淡々とかかれていて、その時々のTh.(ウィニコット)のねらいや
理論は注記(笑)が無いので分かりにくいですね。そういう意味では
漏れの考えを書くことはちょっとドキドキしたのですが、レスいただけて
うれしいっす。
この中で「退室すること」の意味合いが、本を読んだだけでは漏れには
分かりませんでした。ある種のプレイの場所として吐き出せる場所
そして、「身体的なリスクなく」吐き出すことができるというCl.に
対する信頼感かなと思っていたのですが、「古い抱っこ」と「新しい
抱っこ」の概念は目からうろこでした。
Th.のすごいところは「退室すること」が「コンテインしないこと」に
ならないことかなと思いました。これで「コンテインしないこと」と
Cl.の目に映るとBionの「名付しがたい恐怖(Nameless Fear)」として
分析家がいなくなると「分析家が存在しない事が物質化してCl.を脅かす」
となるのかなと空想したりします。
そういう意味では「分析時間の終了時間に」「再度登場する」という
「いないいない、ばあ」が効果的なんでしょうね。
#しかし日本でいうとこのあたり「配慮」ということになってしまうんですよね。
#これを治療的に用いるというのが、改めてすごいなぁと思いました。まだまだ理解が足りませんけど(汗
>>140 なるほど、あまり各態勢においてその持続時間は傍証にならないですね。
やはりコンテキストで考えないといけないですね。
>>142 >Th.のすごいところは「退室すること」が「コンテインしないこと」にならないこと
かなと思いました。
>「コンテインしないこと」とCl.の目に映るとBionの「名付しがたい恐怖
(Nameless Fear)」として
reverieさんが「空想」されている通り、「退室すること」は、「コンテインしないこと」
になるんじゃないか、と私も思います。少なくとも、「Clの中に生じていたであろう
『大暴れ』を引き起こすことになった感情(のようなもの)」が「コンテイン」されずに、
「nameless dread」になってしまう危険性があったのではないかと思うんですが。。。
リトルの記述を読む限り、そうなってはいないようです。(きちんと読み返したわけ
ではないので、断言はできませんが)
ただ「あのウィニコットがそうした」以上、私としては、「多分その対応は妥当だったの
でしょうね」としか言えませんが(笑)。
>>144 浦島さん
コメント有難うございます。
>ただ「あのウィニコットがそうした」以上
天才のやることはわかりませんねぇ(笑。
上スレで出てきた抑うつポジションに関連して、ほのかな疑問を抱えています。 人が喪失した対象に喪の仕事(モーニング・ワーク)を行うとき、彼の心的な態勢は ベースとしては抑うつポジションにあるということでしょうか。 ただ、人によってその様相は様々で、失ったものを否認している側面も少なくない場合 もあるだろうし、対象を奪ったと彼が空想する他者を外的・内的に攻撃しつづけるという プロセスもあると思います。 喪失に折り合いをつける様相には種々の色合いがあると思うのですが、その肯定的な意味を 喪失した人、あるいは喪失した人に関わる人が、どのように見出していくかに関心があります。 なんだか、疑問のような感想のような、まとまりのないレスで失礼しました。
私も、空想を1つ。 もし、人が抑うつポジションに留まり続けるとしたら、どんな状態になるのでせうか? そもそも、うつ病のうつ状態と、抑うつポジションの心的様相は、質的に異なるもの なのかな…と、疑問というか空想しています。 房な書き込み、失礼しました。
>>146 うーん、難しいですね。フロイトの対象関係論的読み直しというか(汗
喪の仕事をするのには対象喪失にともなう情動に耐えうる自我機能があり
エディップス葛藤においても母親を妻にすることを諦めるというところがあり、
喪の仕事に耐えられるにはエディップス水準にあるのではないかと考えてみたいと思います。
喪の仕事がエディップス水準で行われるのであれば、ブリトンが「エディップス
葛藤は抑うつ態勢で行われる」と書いていたような。漏れの考える「喪の仕事」
は、ある種の関係を諦め、それが自分の心のある部分にそれなりに整理され、
自由に思い出せ、失った情動に圧倒されない事かなと思います。なくした対象
への慈しみと考えると「抑うつ態勢」であると思います。
ただし、対象が剥奪された感じや対象喪失した原因を他に求め、対象喪失した
情動を自分(主体かな?)が感じることを拒むとき、「妄想-分裂態勢」に
移行してしまうでしょう。そして、これをシフトを繰り返して喪の仕事が
達成される、と思います。
>>147 「抑うつ態勢」ということばはうつ病を連想させますが、この場合の「抑うつ」
というのはあくまで「記号」として用いているのではないかと(汗。
分裂妄想態勢からシフトした直後は一時的な「抑うつ症状」としてでるかも
知れませんが、本当のうつ病ではないので気分失調症みたいなものではないと
思います予、多分(笑。
抑うつ態勢に留まることは結局対象のさまざまな点(良い面と悪い面)が
自由に見ることができる状態ではないでしょうか?
#精神療法でアンビバレント(両価性)の重要性がいわれるのはこれではないかと
うつ病の原因は、セロトニン云々はさておき(おいおい)、超自我からの
攻撃と考えると、この抑うつはかなり「無理強いされた」「容赦の無い」
「倫理観」なんでしょうね。そういう意味ではこの抑うつは「(少し距離を置いて)
感じることができない」抑うつではないかと思います。抑うつ態勢に
表れる情動はもっと穏やかかな?「無茶苦茶言って、わりーことしたな」とか(笑
味わえる感じ、かな?
まあ
>>148 >>149 は漏れの妄言なので間に受けないでくだちい。
>>148 誠実にお応えいただき、ありがとうございました。
Reverie先生の喪の仕事についてのお考えは、とても参考になります。
喪の仕事の意味を分析的に捉えようとすると、やはりフロイトが出発点になるので
しょうかね。
現在の対象関係論独自のモーニングワークの捉え方というのは、ないということです
かね。
レスをどうもありがとうございました。
>>146 >人が喪失した対象に喪の仕事(モーニング・ワーク)を行うとき、彼の心的な態勢は
ベースとしては抑うつポジションにあるということでしょうか。
「悲哀とメランコリー」でフロイトは、「悲哀反応(喪の仕事)」と「メランコリー
(うつ病)」を区別しています。ごく簡単に言うと、前者は健全な過程、後者は病的な
過程、ということになると思います。(多分簡単にしすぎていると思いますので(笑)、
できれば原文を参照して下さい)
そして、「失ったものを否認している側面も少なくない場合」や「対象を奪ったと
彼が空想する他者を外的・内的に攻撃しつづけるというプロセス」は、フロイトは
「メランコリー(うつ病)」により多く見られる現象だと述べていると思います。
「喪の仕事」「うつ病」という二つの過程を、クライン及びビオンの言葉で描写
すると、「『分裂妄想ポジション』と『抑うつポジション』の間を揺れ動きながら、
最終的に『抑うつポジション』の方向へ向かっていく」のが「喪の仕事」で、
「同じように揺れ動きながらも、最終的に『妄想分裂ポジション』の方向へ向かって
いく」のが「メランコリー(うつ病)」である、と言えると思います。
>>147 >もし、人が抑うつポジションに留まり続けるとしたら、どんな状態になるのでせうか?
>うつ病のうつ状態と、抑うつポジションの心的様相は、質的に異なるものなのかな…
「抑うつポジション」は、「うつ病」よりも「悟り」「受容」「人生の悲哀を知る」
などにより近い、と考えていただいた方が良いように思います。
したがって、人が「抑うつポジション」にとどまり続けることは、ほとんど不可能
だと私は思います。悟りを開いた高僧などは、これが可能なのかもしれませんが。。。
>>150 >喪の仕事の意味を分析的に捉えようとすると、やはりフロイトが出発点になるので
しょうかね。
>現在の対象関係論独自のモーニングワークの捉え方というのは、ないということです
かね。
というよりも、「喪の仕事」をどう考えるか、というのが、対象関係論の理論的基盤に
なっています。
フロイトは「メランコリー(うつ病)」について、「失われた対象が自我に取り入れ
られている」ということを見出しました。それに対してアブラハムは、「メランコリー
(うつ病)」だけでなく、「悲哀反応(喪の仕事」」においても「失われた対象は
取り入れられている」と理解し、両者の違いは、「失われた対象に対する
アンビバレンスの強さによる」と考えました。
このような「対象との関係を重視する」アブラハムの考え方が、対象関係論の理論的
基盤になりました。
>>浦島先生 ご教示ありがとうございました。 対象喪失について、ほんの少しですが整理できる方向を見出せそうな予感を持ちました。 それにしても、本人が自覚できるかどうかは別として、対象喪失のプロセスは、奥の深い ものを感じます。 誰しも向き合うことに気の重さが伴う「喪の仕事」を、ベースとしてその土台に据えている 対象関係論的思考は、奥深いものだと思いました。 その気の重さをどう持ちこたえるのかで、その人の喪に含まれる色合いや、心的様相なども 異なってくるのかもしれません。 このあたりをフォローするのは、Co−Clの関係性も大切ということでしょうかね。 また、その他として、「社会・文化的な装置」も、モーニングワークを支えるもの として重要に機能してきたところもあるのかもしれないと空想しています。 例えば、儀式や祭りなどの行事として。 ただ、現代はそれらの支えになってきた行事を、各自が自ら見出していかねばなら ないところもあやもしれず、それが今の「喪の仕事」の難しさの1つになっているの かもしれない…などと思ったりしています。
なぜco-cl? カウンセリングをしているの? セラピーでなく。
今も医療系での分析系の主峰といえば、東は慶応、東海、西は福大でつか? 関西となると、どこになるのだろう。
上の書き込みで対象喪失の話題が出てましたが、対象喪失や喪の仕事について 書かれた書籍や論文で、なにかお勧めのものはありますか?
>>156 最近では、分析系の先生方は心理系の学科に転出する方も結構いるみたいですね。
最近では、精神分析において「支持療法」を提唱する声が聞かれます。 これは、性急な解釈や直面化を差し控えて、相手をhoidingすることを当面の 治療目標とすることなのでしょうか? このスレ上では、クライン派にオリエンテーションを持つ臨床家の先生方が少なく ない印象を持ちます。クライン派では、支持的な態度について、どのようなスタンス や捉え方をされているのでしょうか。
>>159 私はクライン派を学んでいませんが、「支持療法」の「支持」が何を指しているのかに、
興味があります。「性急な解釈や直面化を差し控える」のは、すでに探索的な治療の技法
論に含まれているように思います。
心理(精神)療法においての「支持」には、
1.治療者が「私に任せておけば大丈夫ですよ」という態度をとる
2.助言や指示を与える
3.転移を受け容れる(母親転移を向けられていれば、母親のように振るまって、面接で
の適応を良くする)
4.治療者がクライエントの取り入れの対象になる
5.クライエントの自己理解を支持する
6.クライエントにとって、「私を理解してくれる治療者」がいること
があるのではないかと、思います。
クライニアンには、かなり積極的に解釈していくような印象を持っていますが、彼らにとっ
ての支持は、上記の5と6ではないでしょうか。解釈によってこそ、クライエントを支持で
きると考えているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
>>151-153 浦島さん
歴史的な経過を含めて、解説有難うございました。
>>155 まあ、心理カウンセリングということでw。臨床心理士のかたは
Coと略される方も多いですね。
>>156 後、九大も、でしょう。関西では、大阪の先生方が結構活発に勉強会
をされているようですね。医局は、知りませんがw。
>>159 精神分析における支持的な態度に関しては、確か松木先生がかかれていたような。
解釈自体も支持的であることをかかれていたような。
クライン派ではないですがw、丸田先生は「傾聴」それ自身が支持的であることを
話されていましたね。おそらく前言語的なやりとりも含めて、のことなんでしょう
けど。
後、神田橋先生は、「前言語的に支持し、言葉で揺り動かす」ことを書かれていま
すね。これは直面化で有名なマスターソンも同じで事をいっていたような。
>>160 かわずさん
具体的なノウハウ有難うございます。1-6に関して、漏れは
「支持的かつ指示的」な精神療法を思い浮かべました。
生活臨床の受動型統合失調症の患者さんの精神療法がこのスタイルですね。
漏れの(ある程度w)力動的な面接では、「(苦痛な空想をなんとか)できない
と思える事が問題で、本当はできる力があるようにみえるな。それに今気づか
ないだけじゃないのかな」とできの悪い認知療法もどきな事を言ってみたりw、
内的な体験を探索しようとする態度が出てきた場合、「随分自分の中で起こっ
ていることを理解しようとするようになったね」と伝えることがあります。
まあ、強化かな?
164 :
没個性化されたレス↓ :03/10/05 01:05
神田橋は、もうあっちの人。
165 :
没個性化されたレス↓ :03/10/05 01:18
>もうあっち ってどういう意味? もはや非精神分析と?
>>157 >対象喪失や喪の仕事について書かれた書籍や論文で、なにかお勧めのものは
ありますか?
「お勧め」といえる本は思いつきませんでしたが。。。「対象喪失」「喪の仕事」という
キーワードから私が思いついたのは、小此木先生の本でした。一応書いておきます。
「対象喪失」小此木啓吾、中公新書
絶版になっていたらすみません。多分小此木先生は、このテーマについて他にも
いろいろ書いておられると思います。
>>159 >最近では、精神分析において「支持療法」を提唱する声が聞かれます。
>これは、・・・・ことなのでしょうか?
このような状況があるということ自体を、私は良く知りません。したがって
ここで言う「支持療法」が、何を指すのかというご質問にお答えすることは
私にはできません。すみません。
>クライン派では、支持的な態度について、どのようなスタンスや捉え方を
されているのでしょうか。
160番でかわずさんが書き込んでおられますが、「解釈を通して治療者が理解し、
患者さんが理解されたと感じること」が、一番患者さんを「支持する」ことに
なる、とクライン派の治療者は考える傾向があると思います。(あいまいな
書き方をしたのは、「クライン派」というのは、決して一枚岩ではないからです。)
「患者さんを支持するもの」として他に思いつくのは、「患者さんを何とか
助けてあげたい、何とか理解してあげたいという態度」や「患者さんに自分の
解釈を理解してもらうために、一番ふさわしい言葉を一生懸命探そうとする
態度」などでしょうか。
>>162 >>167 今気付きましたが、私が167番の最後に書いたことは、162番でreverieさんが
すでに書かれていたこととほとんど同じでした。
>>160 >解釈によってこそ、クライエントを支持できると考えているのではないかと
思うのですが、いかがでしょうか?
その通りだと思います。
実は私もかわずさんに倣って、「精神(心理)療法における支持」について
考えてみましたが、どんどん複雑になって泥沼に入り込んでしまったため
やめました。どうやら、大きすぎるトピックだったようです。
>>162 たしかマスターソンは「直面化の方が解釈よりも侵入的にならない」と考えて、
境界例には解釈よりも直面化を推奨していたように思います。たとえば、
「ここ何回か面接の時間に遅れていますが、それについてどう思いますか?」<直面化>
「ここ何回か遅れているのは、お話しするのが辛くなってきたからでしょうか?」<解釈>
があるとします。いずれも疑問文にしましたが、肯定文もあり得るでしょう。
たしかに、解釈の方が侵入的かもしれません。直面化の場合は遅刻についての
仮説がなくても発することができる(実際はそんなことはない)のに対して、
解釈は治療者が確実にクライエントの内面を探って仮説を立てているからです。
しかし直面化はクライエントに仕事をしてもらうので、支持という点から見ると、
クライエントを突き放しているような印象を与えかねません。これは丸抱えをよ
しとする、日本人特有の感性かもしれません。本来クライエントがする仕事を、
治療者が先回りして手を差し伸べるのはスポイルしているとか、あるいはもっと
言えば侮辱的な行為であるとか、そう受け取られる文化もあるのでしょうね。
マスターソンが入院中心から外来中心にしたとき、limit settingができなくなり、 支持的療法をするようになったとききましたが。 最初は支持とholdingで、衝動性が落ち着いて解釈(直面化?)の時期があると。 元来マスターソンは、受容的な人だということですが。
>>170 かわずさん
>しかし直面化はクライエントに仕事をしてもらうので、支持という点から見ると、
>クライエントを突き放しているような印象を与えかねません。
いや、実はこのコメント読ませて頂いて思わずにやりとしてしまいした。
実は、セミナーで直面化が話題になり、結構かわずさんと同じ意見が沢山出てました。
直面化のフォーマットである「どーして〜なのですか?」という聴きかたは、実は、叱責の
時によく使われますね。「○○ちゃん!!どーしてそんなことをするの!!!」とか
「Reverie!!どーして家庭サービスしないで2Chばっかりやっているの!!!」とかw
「なぜ〜するのですか?」と聞く場合、往々にして「〜しないのが当然でしょう」
「〜してはいけません」というニュアンスが入りこみ、それがThからClに対して
懲罰的なメッセージに伝わる可能性がありますね。
但し、前言語的に抱えるという事であれば、Th.の「あなたの事をもっとよく分かりたい」という
スタンスがあれば意外と懲罰的にならないような気がします。
#ちょっとした工夫としてTh.が自問しているように尋ねてみると侵襲的にならないかも
>172 非言語的な部分が重要という事ですね。
>>173 そうそう、「本当に不思議に思う」というスタンスが大事かも
>>174 「不思議に思う」というセラピストのつぶやきや内言は、たしか成田先生も繰り返し
強調されてるものですね。
この言葉がCo、Cl双方にとって意味を持つためには、やはりベースとなる「土壌」が
必要になるということなのかもしれない…、と思いました。
「直面化」や「対決」などができない治療者が、支持的な技法のみを使うとどうなるのか? それらの有効性をわかっている治療者が支持的方法も行うことは、意味があると思います。 しかし、支持的な方法しか知らない治療者やカウンセラーがそれを行う場合は、 なにかしら危うささえ感じるですが…。 もっとも、この場合の「支持」とは、本当の支持ではなくて、「支持もどき」ものと 言えるのかもしれません。
>>176 たしかにそう思う。
かつてのカウンセリングでも、ロジャース的な方法をうのみにしたカウンセラーが
本だけの知識に頼って、受容・共感につとめた結果、却ってこじらせたケースが少
なくなかったという状況もあったかと思う。
本当の「支持」とは何か、というのはロジャースやらコフートを優等生的に鵜呑みに
することではないと思う。
支持を行うときにも、解釈や直面化を行うときと同等、あるいはそれ以上の「もの
想い」がセラピスト側にも求められると想うのだけど、どうでしょ?
分析学会の教育研修セミナー、どこにいきます?
>>172 直面化は必ずしも「どうして〜」、「なぜ〜」の形をとらないとは思います。
しかし質問であっても、「どうして〜」と「なぜ〜」は使わない方が得策だと
思います。その理由はReverieさんがおっしゃるように叱責のニュアンスがある
ことと、単純にWhy?の質問には答えにくいからです。
「なぜあなたは、精神分析を好きになったのですか?」
……。答えにくいですよね。
しかし私達が情報として欲しいのは、往々にしてWhy?の答えです。なるべくWhy?を
使わずに聞いていって、Why?の答えを頭の中で組み立ててみるのが良いようです。
「精神分析を知ったのは、いつ頃ですか?」
「その時の感想を教えてもらえますか?」
「精神分析を知ってから、物の見方が変わりましたか?」
こっちの方が、答えやすいですよね。
>>176 >>177 そうですね。177に「支持を行う」とありますが、そのように意識されることは、
あまりないのかもしれません。支持はdoingよりは、beingに属することが多く、
治療者は意識しないことが多いのではないでしょうか。だかろ「支持」を言語化
するのは難しいのでしょう。
河合先生がスイスのユング研究所から、当時ロジャース派のカウンセリングが盛
んだったアメリカに渡る時、「ロジャースに反対することは、何一つない。しか
し彼のやり方だけでは、不足なんだ」と送り出されたそうです。この言葉は、す
ごく説得力があるし、精神分析的な治療を行っている人にも受け容れられるので
はないでしょうか。
>>179 かわずさん
ん〜、直面化に関するフォーマットに関しては難しいですね。
ちと辞書で調べてみると、「(行動化のような)ある種の矛盾点に関する説明の必要性を示唆する」(Kernberg)
とあり、必ずしも「何故」では無いようですね。
かわずさんがされているアプローチは漏れ的には表出的精神療法におけるオープン・クエスチョンに感じ
ました。フォーマットとしては5W1HのWhyを抜いた形かと。ただ通常のやり取りと異なるのは、「質問者の中に修正可能な
ある種のモデルがある」ということ、ですかね。
>>167 :浦島先生
ユング派などは、セラピスト・治療者一人ひとりで違っているということは、何度か
聞いたことがありますが、クライン派は一枚岩ではないという記述に、意外な感じを
持ちました。
クライン派のアイディアは、他の学派よりもクリアな印象を持っていたものだったので。
一枚岩ではないということについて、もう少しご教示いただけたら幸いです。
ちなみに、私はクライン派のアイディアには関心があります。
勝手な推測をすると、ビオンはウィニコットと共有される部分が少なくなく、
ローゼン・フェルトやスタイナーには、似たような考えの所があるのかも。
クライニアンに入るかどうかは、よくわかりませんが、タスティンなどは
ウィニコット、ビオンの中間ぐらいなのかな。。
などと、厨房の空想をしてみました。
今度、対人関係学派のパイン博士が来日されるそうですけど、講演会などに 行かれる人いますか? パイン氏はどんな実践や臨床をされてきた方でしょうか。 統合的な方向を目指していると聞いたけど、対象関係論にも親和性があるのだろうか。 マーラーとも一緒にやられたそうだから、発達や自我心理学の方向に関心がある方なの だろうか。
クライン派の入門的な書籍をあげるとすると、どれになりますか? できれば、シーガルの「メラニー・クライン入門」以外で。
>>170 >>172 >>174 >>179 >>181 170番、172番、179番で書かれていることと重なる部分があると思いますが、
「直面化」によって、治療者が中立的でない印象を与えてしまう危険性は常にあると
思います。
例えば170番の例「ここ何回か面接の時間に遅れていますが、それについてどう思い
ますか?」は、治療者が「『面接の時間に遅れてはいけない』という価値観を押し付け
ている」という印象を与える危険性があるように思います。
この危険性は、例えば次のようにコメントすることで減らせるように思います。
「ここで、何か不思議なことが起きているように思います。というのは、ここ何回か
あなたは面接の時間に遅れて来ていて、その結果、私に話をして私に助けてもらう
ことのできる時間が、減ってしまっているからです」
長いですが。。。(笑)
ちなみに、「不思議なこと(strange)」の代わりに「変なこと(weird)」という
言葉を使ったところ、「『変』ということは、私が異常だという意味ですか?」と
患者さんに言われてしまったことを思い出しました。
介入の仕方に正解はない、より良い介入を目指して常に努力していくだけである、
ということでしょうね。
>>182 >クライン派は一枚岩ではないという記述
文章にするのが少し難しい部分だと思いますが、努力してみます。
「クライン派」と呼ばれる人であれば、多分クラインの考え方に対して、大きく
反対はしないと思います。また「死の本能」を、何らかの形で認めているでしょう。
しかしこのような「理論上の共通点」は、あまり本質的ではないように私は思います。
クライン派が特に強調しているようですが、精神分析には、次のような考え方が
あると思います。それは「理屈で分かろうとするのは正しいことではなく、自分自身の
心で考えて理解することが重要である」ということです。そして、個人の考え方は
それぞれ違いますから、100人のクライン派の分析家がいれば、100通りの考え方、
理解の仕方があるというわけです。でないと、自己矛盾になりますから。
例えば、ビオン・シーガル・ローゼンフェルトはクラインの直系と呼ばれ、
シュタイナーはローゼンフェルトの影響が強いと言えます。しかし「ビオン」
「シーガル」「ローゼンフェルト」「クライン」「シュタイナー」は、「それぞれ
独自の考えを持った別の個人」であり、それを強調するのがクライニアン(多分
精神分析一般)だと思います。ここには、「西欧個人主義」の影響も強くあると
思いますが。。。
伝わりましたでしょうか?
>>184 >クライン派の入門的な書籍をあげるとすると、どれになりますか?
松木先生の「対象関係論を学ぶ」(岩崎学術出版社)はどうですか?
「クラインとビオンの臨床講義」(R・アンダーソン)(岩崎学術出版社)も良い本
だと思います。後者は、翻訳が分かりにくい部分があるかもしれませんが。
>>186 :浦島先生
お手数をおかけしました。言葉にしづらいところを、丁寧に説明していただき
ありがとうございます。
「理屈で分かろうとするのは正しいことではなく、自分自身の
心で考えて理解することが重要である」とすることなど、なんとなくですが、
わかるような気がします。
それでも、つい、私のような厨房は、理論でわかろうとしすぎてしまうこともあり、
「またやってしまった…」と後から冷や汗をかくということもあります(苦笑)。
西欧文化で生まれ育ってきた分析のアイディアが、日本人が自分のものとしようと
するとき、西欧個人主義の土壌がないこの国で、どのように変容しているのだろうか…
などと想いをめぐらせたりしています。
>>185 浦島先生
遅刻の直面化はクライエントにとっても不自然なことを、立ち止まって考えて
もらうためにすることで、治療者の価値観を押し付けるものではないと思うの
ですが……。
治療者は「面接の時間に遅れてはいけない」という価値観を押し付けているのでは
なくて、「自分のやっていることを、ちゃんと見てごらん」とクライエントの目の
前に差し出しているだけです。
あるいは「ちゃんと見るのが良い」と言う価値観を押し付けているのかもしれませ
んが、それは治療者の個人的な価値観と言うよりも、精神分析の基本原則のような
ものではないでしょうか。「治療構造を守るのはクライエントの役割であり、役割
から逸脱していたら直面化するのは治療者の役割である」では杓子定規ですか?
>>189 横レスですがw
えと、
>>170 のアプローチでは相手の病態水準(迫害感が強い状態など)によっては、Th.の意図と反する
捕らえ方をされる可能性がある、ということではないでしょうか?
「技法としての直面化」は叱責では無いが、「何故」と聞くとそのニュアンスがでるように、「遅れている」ことと
「どう思う」という流れを組み合わせると、本人の連想として「反省汁」というニュアンスが出る場合があるのではない
かという恐れでしょう。
実はこれ、一言で聞こうとすると難しいので漏れ自身は段階を追ってやっている気がしますね。
漏れ:「ん〜、最近遅刻が多くなったきがするんだけど」
Cl.:「すいません」or「そーですか?」or「そーいわれれば」or「そういうあなただってこの間風邪で休んだんじゃないですか!!」
漏れ:「いやいや、別に責めているつもりはないんだけど、はじめの約束の時に「時間を守る」事を伝えたよね。
それが守れていない今の状況は、多分あなたの心の中でなにかあったからかなと僕にはに思えるんだけど。
何があったんだろうね。何か思いあたる事は無いかな?」
・・・滅茶苦茶くどいんですがw・・・。
ただ始めの一言で迫害的にならずに持ち答える前提でなんですけどね。
漏れ自身はこの手の介入は「どーせ、責めてるようにとられる」というあきらめがありますw。
ただ、迫害感が出た場合に、情動に左右されずいかに内的探求に視点をむけるかが面接の流れを維持する事になるのでは無いかと。
あと、この時出現した迫害感を取り上げるというのもいいですね。P-S Positionのアプローチとしては。
>>190 なるほど、ですね。
「滅茶苦茶くどい」とおっしゃいますが、このやりとりはほのぼのしてて、良い感じし
ました。
>>189 >>190 >>170 のアプローチでは相手の病態水準(迫害感が強い状態など)によっては、Th.の
意図と反する捕らえ方をされる可能性がある、ということではないでしょうか?
185番の私の意図は、基本的にはその通りです。
もう少し正確に言うと、「(クライアントに立ち止まって考えてもらうためではなく)
面接の時間に遅れてはいけない、という価値観を押し付けるために、治療者が介入
しているという『印象』を(治療者の意図にはかかわらず)与えてしまう可能性が
ある」という「『直面化という介入』そのものが一般的に持っている危険性」を指摘
しようとしたものです。(くどくてすみません。。。)
したがって、「(そのような印象を全く与えないような)正解はない、より良い介入を
目指して常に努力していくだけである」とまとめたつもりだったのですが。。。
正直に言って、185番の私の書き込みより、190番のreverieさんの書き込みの方が、
より分かりやすいように思いました。
>>189 え−、実は・・・「先生」より「さん」付けの方がうれしかったりするんですが。。。
「先生」と言われると、「・・・の指示下さい」とか「・・・の処方お願いします」
などの言葉が(時には厳しい声で)後に続くような気がしますので。。。
トラウマでしょうか?(笑)
>>193 >「先生」と言われると、「・・・の指示下さい」とか「・・・の処方お願いします」
>などの言葉が(時には厳しい声で)後に続くような気がしますので。。。
>トラウマでしょうか?(笑)
あはははは。この部分、いつも看護婦さんに叱られている身のマリリンとしては
本当に良く分かる。看護婦さん厳しいですよね。(激笑
>>193 了解しました。「さん」づけで行きましょう。
ドクターは若いうちから「先生」づけですが、若い心理士は「さん」づけで呼ば
れることが多いですね。年を取ってくると、「先生」づけで呼ばれることが多く
なります。
「さん」か「先生」かで、相手が自分をどう見ているかが推測されます。私は
「さん」の方が心地良いですが…。「先生」が便利なのは研修会とかで、相手の
お名前を失念してしまった時ですね。どうでも良いような話でした。
最近では、精神分析もそれぞれの学派の考え方が検討されて、統合されてきている 機運にあるのでせうか? サリヴァンの対人関係学派も対象関係論との共通性が指摘されていると聞きますが。 分析各派内での統合の動きは、お互いにコミュニケーションをとりやすくするという メリットなどがあるから、そうなるのかな。。 まあ、疑問というかつぶやきでした。
>>196 漏れも聞きかじりだがw、
確かサリヴァンの学派は英国対象関係学派に親和性があり、アメリカで
対象関係論を紹介した功績は対人関係学派じゃなかったかな?
で、カーンバーグが、統合しようとして「対象関係論の味付け」
をしていたような。
各分析学派で同音異義語、異音同類語wはなかなか統合されないようでつね。
そういえば、マスターソンも統合的といえば言えなくもない。 厳密な人からすれば、「統合、意味なしっ!」てなことになるのだろか。
>サリヴァンの対人関係学派も対象関係論との共通性が指摘されている 両者のどこに共通性があるのかと小1時間、、、説明貴ボンヌ ∵岡野先生の『新しい精神分析理論』には、「この2つは対人関係に注目するという共通の点はあるものの、かなり異なる立場をあらわしている」と書かれている。
>>196 >>197 >>199 対人関係学派のことはほとんど知らないので、私の知っていることだけ書きます。
フェレンツィはクララ・トンプソンを分析し、クララ・トンプソンはサリバンを
分析しています。また、フェレンツィの直系と言えるバリントは、英国独立学派に
強い影響を与えています。(というか、彼はその一人です)
したがってサリバンと英国独立学派は、どちらもフェレンツィの影響を受けている、
という共通点があるわけです。
しかし、実際のところ英国独立学派と対人関係学派のどこが似ていて、どこが違うか
という点については、私にはわかりません。どなたか詳しい方がおられましたら、
解説をお願いします。
もうすぐ分析学会ですね。。。北海道行きたかったなー、と思っていたら、猛然と おいしいラーメンが食べたくなりました。 みんなおいしい思いをしているんだろうなー、おいしいラーメンもおいしい寿司も、 最近は食べたことがないしなー。。。 以上、参加できない愚痴でした。。。 来年は参加するぞ。。。
>>201 どなたか、浦島せんせいに通販で札幌ラーメンを送って上げてくださいw。
>>202 浦島せんせいじゃないんだってば、浦島さんになったんだよ。
ドナ先生もドナさんか なんかへん
Dr.で、精神分析を志す人って、今はどれぐらいいるの? 医学部生の頃からP科入局を考えていて、卒後も分析系の研修ができる所を求めて ロンダリングする相当強い意志が必要なのだろうか。 ここにカキコしてるプシコのDr.さんたちは、どのようにして分析系を志したので しょうか? 差し障りのないところで、プリーズ。
浦島さんも、少し日本へのホームシック気味かな。。。 それはともかく、「浦島」のHNで連想するのは、浦島太郎の物語。 母と子の一体感、永遠の少年、時間感覚etc... 分析的にいろいろと、おいしそうな素材がありまつ。
206 :
Reverie ◆MUxLMQ9bWk :03/10/09 10:20
>>201 浦島さん
帰国お待ちしております。
漏れは職場も変わり今年は北海道は厳しい、かな?
>>204 う〜ん、漏れは分析プロパーの道を歩んでないから今の状況が
いいのか悪いのか分かりませんがw、以前から漏れ聞くところによると
研修当初は標準的な薬物療法および身体疾患に伴う精神症状の鑑別が
しっかりできることが大事かと。これだけは非医師の心理療法士に
任せられないゆえ。
その後、分析的な医局に変更することやセミナー・SVなどなど
時間と意欲があれば可能かと。謙虚に一生懸命やって症例をまとめて
発表していれば自ずといい指導者に出会えるというのが漏れの信念ですw。
>分析系を志したのでしょうか?
思春期の時のバイブルが「精神分析入門」だったからwww
それと、この業界に入って定型的な薬物療法+
「支持的かつ指示的な」精神療法では人格障害圏には難しいと思ったから、かな?
スマソ。あげてしまった・・・・・
なんだか、201の浦島さんのつぶやきを読んでみると、いつもの感じと違って 微笑ましいですね。
今の日本で、精神分析的心理療法(精神療法)を行うとしたら、時間的には 50分-1時間を取れる施設は、あるのだろうか? CPの面接なら取れるかもしれないけど、Dr.の場合は、一般の外来では時間的には 難しいのではないだろうか。
>>204 >どのようにして分析系を志したのでしょうか?
多分私は、少し変わっていると思います。何といっても、私がフロイトを初めて
読んだのは、精神科医になって2年以上してからだと思いますので。
もともと医者になりたくてなったのですが、自分が興味を持った分野を追いかけて
いたら自然と精神科医になり、気が付いたら「分析プロパー」を言わざるをえない
現在の状況にまでなってしまいました。今考えると、正直に言って不思議です。私の
医局には、精神分析に近い人はいましたが、「分析プロパー」と言える人はいません
でしたから、分析の勉強はセミナーに参加したりして自分が勝手にしていた、という
感じでした。勝手にさせてもらえる医局だった、というのも良かったと思います。
しかし現在でも、私の最も基本的なアイデンティテーは「医者」であると考えていますし、
「精神科医」はその一部で、そのまた一部が「精神療法家」という感じです。
>>209 >Dr.の場合は、一般の外来では時間的には難しいのではないだろうか。
その通りだと思います。経済的にある程度成り立つうまい方法がないかと、いろいろ
考えてはいるのですが。。。
医師が分析家の時と、非医師(CP等)が分析家の場合とでは、対応の違いは あるのでしょうか? 両者の分析的な力量は、同じ程度と仮定して。
>>212 一般的には医師の方が料金が高いかもしれませんが、本質的な違いはないと思います。
精神分析や心理療法は、パーソナルな営みです。治療者の人となり、よって立つ理論、
訓練、臨床経験、治療者を抱える環境などによって、一人一人のスタイルができていく
と言えるでしょう。医師か非医師かはその一つの要因かもしれませんが、その他にも
色々な要因がある、と言えるでしょう。
>>212 >医師が分析家の時と、非医師(CP等)が分析家の場合とでは、対応の違い
精神分析療法の場合はこういうような違いが無くなるのではないですか?
たしかケースメントの「患者から学ぶ」にありましたね。治療者が退行するともともとやっていた
職業的なスタンスに戻ると。ケースメントはPSW(CWだったかな?)をもともとやっていてこのスタンスに
戻る場合がある旨書いてたような。同じく医師の場合だと治療が錯綜した場合、医師の姿に戻るような
可能性はありますな。
漏れの想像ですが、精神分析療法間の差より、心理カウンセリング・認知療法・家族療法・自律訓練法
精神療法指向性薬物療法の差のほうが大きいかと。精神分析療法はきちんとトレーニングを受けた方は
技法的に厳密みたいですしね。
>>214 まったくの横道ですが、
>ケースメントの「患者から学ぶ」
いま読んでいるところです。松木先生の日本語の論文は明確な文章なのに、訳文となると、
もろ直訳で分かりづらいのが不思議な感じもします。原文が頭に入ってしまうと、訳文が
こなれていなくてもスルーしてしまうことはあるのでしょうね。あるいは原文に感銘を受け
ると、崩すのが心苦しくなって直訳になるのかもしれません。
じゃあお前が訳してみろと言われても困るのですが、お金を払ったユーザーとしてちょっと
文句を言っても許されるかな?
>>212 >医師が分析家の時と、非医師(CP等)が分析家の場合
かわずさん、reverieさんと同様、対応の違いはほとんどないと私も思います。
但し、患者さんが重症の場合(精神病水準など)は、医師が担当した方がいろいろな
意味で安全であるとは思います。
>>215 私も少し横道へ(笑)・・・
精神分析関係で「良い翻訳」というのは、なかなかお目にかかれないように思います。
私論ですが、翻訳にはいろいろな段階があると思います。
<1>「英語」で書き表されている「英語概念」を、そのまま日本語に変換する。
(いわゆる「直訳」)
<2>「英語」で書き表されている「英語概念」を、意味の通る日本語に変換する。
<3>「英語」で書き表されている「英語概念」を読んだ結果の「自分の理解」(訳者が
日本人である以上、これは「日本語概念」になります)を、日本語で記述する。
<4>「英語」で書き表されている「英語概念」と、ほぼ等価と思われる「日本語概念」を
独自に見つけて、それを日本語で記述する。
<4>が分かりにくいかもしれません。原著が、英語を母国語とする人に対して
与えることのできる感動と同等以上の感動を、日本語を母国語とする人に対して
与えることのできるような独自の世界と価値を持っている「翻訳」を、ここでは
イメージしています。(実際に可能かどうかは別にして)学術よりも文学の世界に
なってしまうかもしれませんが。
そして<1>に近いほど「原文」(あくまでも「内容」ではなく「文章」です、念のため)
に忠実となり、<4>に近いほど「優れた日本語作品」になると思います。
私の意見では、少なくとも精神分析関係の翻訳は<3>くらいを目指すべきだと
思いますが、<1>から<4>に近づけば近づくほど、自分が正確に翻訳していない
のではないか、という訳者の不安は大きくなるように思います。そして、著者が
有名人であればあるほどこの不安は大きくなり、ついつい<1>や<2>が多く
なってしまうのではないか、と私は思います。
臨床系の専門書の訳本というのは、難しいですね。翻訳する人が、本を書いた 人と同等の経験がないと、<3>の翻訳はできないでしょう。 そして、その経験を持った人が日本人では少ない。獣医学の場合も、英語と 日本語両方操れて、それでもって、ベテラン獣医師という人が少なかった時代は 下手な訳本を、日本語しかできない、ベテラン獣医が下手な訳本なんだと 言うことを織り込んだ上、勝手に解釈し直して読んだようです。 現在は獣医学の翻訳本はだいぶましです。翻訳本が一杯出ている上に 高価で、日本人獣医の方に、下手な翻訳本かどうか見抜く目があるため 下手な翻訳をしていては本が売れないためです。
>>217 「翻訳の段階」は面白いですね。
だいぶ前になりますが、カントのドイツ語は小学生でも理解できる言葉で書いて
あるそうです。ところが岩波文庫の訳本を手に取れば、造語の羅列です。おそら
くは意味を重ねて長くなった名詞を訳すのに造語をしたのと、そして著者がほと
んど神格化されているためにああなったのでしょうね。
そんなことから連想されるのは、治療者が高名であったりカリスマであったりす
ると、治療者の言葉がそのままの形でクライエントに取り込まれてしまうのでは
ないか、と言うことです。
↑ だいぶ前になりますが、カントのドイツ語は小学生でも理解できる言葉で書いて あるそうです。 <訂正> だいぶ前になりますが、カントの著作はドイツの小学生でも理解できる言葉で書 いてあると、新聞に出ていました。
>>215 >>217 それと謎のボールド体と斜体、原語の併記など(笑)
著作関係はどうしても新しい概念をだされていますので、こなれた訳まだがなかったり、
日常語に新しい意味をもたせたりで苦しいものがありますね。
ただ、あんまり連想を引き起こさない言葉も困りますよね。ビオンのα機能とかβ要素とかw。
まあ「分かっていない事を分かっていない」と自分で理解するには、こういう連想を拒否する
単語は意味があるなぁ。
222 :
没個性化されたレス↓ :03/10/11 23:31
>219 >治療者の言葉がそのままの形でクライエントに取り込まれてしまう クライエントが治療者の言葉を自己吟味せずに、鵜呑みにしてしまうということ? 治療者の権威についての問題提起なのかな。 それとも、いかにそのままの形で取り込まれないような関係性を築くかという問題意識?
>>219 >>222 「権威」という事じゃないですかね。
まあ、治療では「権威がある」Th.の方が万能的な存在になりやすいでしょうし、
翻訳もオーソリティが訳した単語がそのまま一般的なタームとして使われることもある
しこれは「権威」が影響しているのではないかとという話じゃないですか?
「権威」で思い出したのですが、Nsからくる「先生の方から注意(生活指導)して下さい!!!」という
依頼(命令?w)。主治医から伝えると困った事にw、その場が丸く収まったりしますが、
なんだか悲しくなりますね。「ある種の権威ばかりを乱用すると主治医の言う事しか
聞かない患者を作ってしまうよ。これは医原(威厳?)病だ」と常々いっているんですけどね〜。
>>222 言葉足らずのところを補っていただきました。
>クライエントが治療者の言葉を自己吟味せずに、鵜呑みにしてしまうということ?
ということです。それは面接の場面よりは、面接から面接の間にクライエントが交わさ
れた言葉を反すうする時の方が、強く出るかもしれません。
>いかにそのままの形で取り込まれないような関係性を築くかという問題意識?
でもあります。クライエントと対等の関係を築くことで、クライエントの役に
立てるのだと思います。
そして「クライエントと対等の関係を築く」ことは、治療者の権威とは矛盾しな
いと考えます。私がここで言う「権威」とは、社会的にオーソライズされている
とか、あるいは威張るとかいうことではなくて、「この場は治療者によって管理
されているので、ひどい目には遭わない」ということです。
言ってみれば治療者は「お釈迦様の手のひら」を作り出す一方で、その手のひら
に乗っかってクライエントと交流すると言うか、やり合うと言うか、遊ぶわけで、
そこではクライエントと対等になれるのが良いと思います。
>>223 成田先生が「Borderline Personality Organization は境界人格構成なんだけど、
偉い先生が境界人格構造と訳したのでそうなってしまった」と苦笑いしていたの
を、想い出しました。
「主治医の注意」は、「メンドリ突っついて、オンドリ時をつくる」とか言うやつ
ですね。人がゆっくり眠れるように時を上げたくない(患者とフランクな関係を作
りたい)オンドリとしては、メンドリに突かれて時を上げるのはどうも面白くない。
そうかと言って断ればオンドリの存在価値はなくなるし、それよりもメンドリが怖
い(笑)。
まあでも、「ナースとトラブって主治医に収めてもらうような患者さんの方が、退院
が早いだろう」とでも考えて、あきらめるのが現実的かと(笑)。
日本精神分析学会へは、心理の入会率はどれぐらいですか? 入会者の半分以上は、医師なのだろうか。
ここにカキコされてる方々は、精神分析の文献などは、どんなものをお読みでしょうか? フロイト全集などを座右の書にしているツワモノもいるのだろうか。。。 臨床やりながら紐解いた書籍や文献などで、お勧めなどがあれば、また教えてください。
>224 サリヴァンの観察と関与を流用すれば、 観察する治療者が「お釈迦様の手のひら」を作り出し、 関与する治療者はその手のひらの上でクライエントと交流するというイメージでいいのかな。
>>226 心理が増えて、医師が減る傾向が続いているようです。おそらく入会者の半分は心理に
なっていると思います。
>>227 私はまったく分析プロパーではないです。フロイトはあんまり読んでいません。
最初に惚れ込んだテキストは、フリーダ・フロム=ライヒマンの「積極的心理療法」
(誠信書房)でした。古い本ですが、最近また復刊されているようです。
成田善弘、神田橋條治、土居健郎、中井久夫……、とまず出てくる名前は日本の
精神科医ですね。成田先生の「精神療法の第一歩」(診療新社)は、どなたにでも
お勧めできるテキストです。
>>228 関与する治療者は、手のひらを作りつつ、クライエントと交流する。そしてそのあり
さまを、宙に浮いた観察する治療者がながめている、という具合です。こう書きなが
らも、そううまくいくもんかいなと思います。まあ、そこを目指していければ、とい
うことで……。
かわずさん、どうも。 >229 たしかに、作るんだから関与ですね。 ちょっとからんでいいですか?(w >「この場は治療者によって管理されているので、ひどい目には遭わない」 私が引っ掛かっているのは、 >治療者によって管理されているので、 の部分です。 「この場は治療者によって管理されているので、ひどい目には遭わない」という期待を 保証するような権威って持ちうるんでしょうかね。 むしろ、こういう期待を抱かせるような治療者のあり方は、クライエントの失望を招くと思うのですが。 「治療者から意図的に傷つけられることはない」とか、「この治療者は、安心できる/信頼できる」なら、分かるんです、権威とは呼ばないですけど。
>>230 横レスなのですが 222 さんは
>>治療者によって管理されているので
>に引っ掛かった
というより、 『管理』という言葉自体に引っ掛かったのでは?
言葉遊びのようですが、この場合の『管理』は「支配」という意味ではなく
Administrateすなわち「運営」するというニュアンスでは?
A-T SplitのAdministratorも「管理医」と訳されますがこれは別に患者をコントロールするのではなく
治療の「運営」を維持する立場かと。
ですので精神分析的又は力動的な精神療法では治療構造の維持にあたるのではないですか?
そういうコンテクストだと「精神分析(的)・精神力動的精神療法の治療の場を保証する」という事ですから
これは権威とは、ちと離れた所にある気がしますね。
ですので、「この時間のあの場所にいけば、Th.にあえる」という保証は、C.l.の対象恒常性を促進する方向に
推し進めると思いますよ。
あと、「ひどい目には遭わない」というのはべつにセッションでTH.が暴言を吐くということではなく(んなこと、
書いてませんなw)、「合意なく一方的に治療を中断したり、Th.の終結の準備がCl.にできてないのに
突然終結させたりというような事がない」ということではないですかね。
ロボは精神分析学入門すら読んでません ユング心理学入門は途中で投げ出しました
>>232 そんな貴兄に
「図説 臨床精神分析学」 (前田重治)がよろし。
ユングはよんでまてん(汗)。
>>230 たしかにReverieさんが231で書いておられるような、「運営」の方が「管理」よりもぴっ
たりくるようですね。そして治療構造を維持する、と言うことはど素人の発想にはないわ
けで、そこからクライエントが「ど素人にはない何か」を感じ取るのであれば、それは
専門家としての権威ということになりはしないか、と……。
心理療法は非日常的な空間であって、それは初めからクライエントには伝わっていくでし
ょう。部屋のしつらえ方や、応対の仕方などからも、感じることと思います。いずれにして
もクライエントが安心して内側を探り、言葉にしていけることが大事なわけで、その責任
は治療者にあるわけです。
「管理」は支配ではなくて、クライエントがクライエントの役割を取れるようにしてゆく、
という意味で使いました。
>>232 フロイトの「精神分析学入門」は、フロイト理論の俯瞰図を手に入れてからでないと、
読みづらい本だと思います。と言うか、実は入門書ではないようです。
小此木先生が中山書店の「精神医学大系」(高価な本ですが、精神病院にはカッコつけ
にセットが飾られていたりするので、コピーさせてもらいましょう)にお書きになった
総説や、岩崎の「精神分析セミナー」などで下ごしらえしてからの方がよろしいかと。
>234 クライエントが安心して内側を探り、言葉にしていける構造を作る役割ってことですね。それを作る力が治療者の専門性のひとつであり、その力に権威が付与されると。それなら、納得がいくかな。考えてみます。 からみそこなったかも(w
237 :
222@考え途中 :03/10/13 13:31
ロボさん、 構造と機能の違いを教えてください。
なぜ俺。 しかもスレチガイ風味。
かわずさんのはじめの書き込みは、 >219 >治療者が高名であったりカリスマであったりすると、 でしたね。この出発点が自分の中で薄れていたことに気がつきました。 そういった治療者の場合は、 治療者が言うんだからそうなんだろうとか正しいんだろうなどと思って、 クライエントが治療者の言葉を自己吟味せずに、鵜呑みにしてしまったり、 治療者が言うことの真意を確かめずに、クライエントが誤解したまま、 面接から面接の間に交わされた言葉を反すうするなどといったことが、 起きやすくなるだろうという連想ですね。 この場合、クライエントがクライエントの役割を取れるような 構造を作るよう機能するためには、 治療者が高名であったりカリスマであったりするが故の「権威」が 邪魔になるだろうし、同様に「クライエントと対等の関係を築く」よう 機能するにあたっても邪魔になるということ。
私は、 >231 >『管理』という言葉自体に引っ掛かった のではなく、 >224 >「この場は治療者によって管理されているので、ひどい目には遭わない」 を、「この場は治療者によって管理されている」イコール「ひどい目には遭わない」と 受け取り、クライエントの過度の依存、治療者に対する理想化を感じてしまったのでした。 治療者に管理されているからといって、クライエントがひどい目に遭ったと思うことが ぜったいに起こらない保証はない。 私のもつ、 >「お釈迦様の手のひら」>224 のイメージは、安心してクライエントが今自分のもっている主体性を発揮できる空間 のようです。 構造は機能することで維持される。機能するのは治療者に限らずクライエントも。 治療者は、治療のために、クライエントになにかしら機能することを期待している。 私は、クライエントに過度の主体性を期待しがちなようです。 簡単にいえば、依存的なクライエントが苦手ということで(w、長々失礼いたしました。
sage忘れました。すみません。
今年の札幌の分析学会に行かれた方はいますか? 学会見聞記、ご感想など、差し障りのないところで、カキコミ・プリーズ。
>>232 >ロボは精神分析学入門すら読んでません
>ユング心理学入門は途中で投げ出しました 。
臨床系の本は、症例を現実に診察や治療しながら読まないと、
とても難しくて読めたものじゃないよ。
ごちゃごちゃ難しいこと書いてあるけど、一回そういう症例に出くわすと
二度と忘れない。症例報告なんか聞いてても、一度そういう症例見てると
あの時の症例がこれだったんだって、がんがん頭に入っていくもの。
経験のない学部生の人たちは、そういうわけにいかず、なかなか理解するのが
大変なようです。
亀レス失礼致しました。
245 :
没個性化されたレス↓ :03/10/15 15:09
そうやってがんがん「猫はヒトの心が読めるのね」と頭に入れているのか。 経験の積み方が基本的に間違っているぞ。
獣医としての経験か? それとも心理学者としてか?
>>244 > ごちゃごちゃ難しいこと書いてあるけど、一回そういう症例に出くわすと
> 二度と忘れない。症例報告なんか聞いてても、一度そういう症例見てると
> あの時の症例がこれだったんだって、がんがん頭に入っていくもの。
心理学徒はそれが確証バイアスによるものである可能性を含めて読めるけど、
マリリンにはそれがない。
経験がときとしてマイナスに作用することをいい加減に知ってくれ。
>>243 このぶんだと、分析学会に行った人はいないようですね。
来年はどこでやるのでしょうかね?
>>240 >>241 「権威」に関してはいろんな考え方がありますね。
境界例などでは権威が「万能的な」Th.像にうつったり、こき下ろしの対象である
「権威をかさにきて攻撃する」Th.など対象の恒常性が不安定な状態かと。
そして終結間際に「実はあんなになじったり大声をだしたりしていたけど
Th.は面接室でいつもの様に待っていてくれた」という気づきが
ひょっとすると「お釈迦様の手のひらにいた」という構造に対する気づきになるのかもしれません。
Th.の面接内の「機能」として、表面的な言葉としては罵詈雑言の嵐の中で
「Cl.は象徴的に何を伝えようとしているのか」という事をもの思いすること、
そして適切な時期にそれを伝える事、なのかなと空想してみました。
>>248 残念ながら今年は行くのが無理でした(´・ω・`)ショボーン
心理系の大学で、精神分析がある程度重視されている所は、どこになるのだろう? 少し前までは、広大かな。 今は九大・教育、京都文教、東はどこになるだろう。
ICU>小谷先生、東京国際>狩野先生 分析家の教員がいるところとして、上智>藤山先生 分析家の資格をもっているか知らないが、今回の分析学会でも座長などなさっていたのが生地先生>日本女子
分析系の先生は、1つの大学に固まるよりも、各大学に散らばってるようですね。
岩崎から出ている「精神分析事典」を使っている方、いますか? 買うかどうか思案中なのですが、使い勝手・内容など、どんな感じでしょうか。
>>254 折れも買いたいけど、2万円だから私費で購入するとなると、今後の小遣いが
減りそうで...(´・ω・`)ショボーン。
福島先生が訳した精神分析事典(新曜社?)がイイと聞いたけど、どうでつか?
風邪をひいたりして、ここしばらく書き込むことができませんでした。ほとんどの 場合患者さんには私の体調が悪いと気付かれてしまいますが、今回は珍しく気付かれ なかったようです。あくまでも、私の気付いた範囲では、という但し書きがつきますが。 以前風邪をひいて、我慢できずにセッションの間に2−3回、合計10回ほど咳をして しまったことがあります。後で話し合って分かった事ですが、患者さんは私の咳を 「あなたは意味のない話をしている」「そんなくだらない話は聞きたくない」という メッセージとして受け取ったそうです。「単に私が風邪をひいていた、という可能性は 全くないようですね」と伝えたりしても、患者さんの考えに全く変化はなく、訂正 不能のようでした。ちなみに、この患者さんは少なくとも精神病レベルの方では ありません。 「転移」(及びそれを引き起こす「無意識」)の力の強さを、思い知らされる経験でした。 本当に風邪をひいてただけなんですよ・・・
>>252 専修の乾先生、横国の井上先生、東京国際は中村先生もいる。
あと、白百合の木部先生。
>>257 風邪の中、お疲れ様です。いややり取り面白く読ませていただきました。
>患者さんは私の咳を「あなたは意味のない話をしている」「そんなくだらない話は聞きたくない」
患者さんの言葉としては精神分析的精神療法ならではですよね〜。Th.の行為に関する象徴的な
患者側から解釈(?)というか、やはりセッションの中心が解釈だと象徴的な(無意識的な)ものが
セッションの中で当たり前に話題になる所がすごく興味深かったです。
>患者さんの考えに全く変化はなく、訂正不能のようでした。
このあたりが転移のすごさなんですかね〜。患者さんも浦島さんも一生懸命なだけに、
迫害的にとられるのは、なんだか切ないですね。
岩崎学術出版社から出ている「精神分析セミナー」は、どうですか? 分析についてセミナー調で説明されていて、なかなか評判のよいシリーズみたい なので、揃えるかどうか思案中です。 この本は、出版年は80年代と少し古いですけど、今も精神分析セミナーなどの テキストで使われているのでしょうか?
>>260 持ってますが、いい本だと思いますよ。
確か、医局によっては研修医の必読書に指定していたはなしを聞いた事があるような。
藤山先生の「精神分析という営み」を読みました。 既成の分析概念にとらわれずに、自らの経験から臨床事象の意味を捉えようとしている ところに感銘を受けました。 分析の臨床を始めて最初の10年間は、臨床に関する文章は書けなかったとのことです。 時が熟すということも、必要なのでしょうかね。 ともかく、お勧めの本です。
藤山氏が、たしか2000年ごろNHKラジオで「こころの痛み」のテーマで、 一般向けに分析系の話をしてたね。なかなかイイ内容だったと思います。 テキストも上・下とあり、手元には下巻しかない。上巻も手に入れたくて、ネットの 古本関係を探してるけど、なかなか見つからない(´・ω・`)ショボーン。 やはり、欲しい本はすぐに手に入れておかなくては…というお話ですた。
非精神病性のひきこもりについて、精神分析の観点からは、現在のところは どのような対応がなされているでしょうか? クライン派のある論文では、硬直化したひきこもり心性については、「病理的組織化」 や「心的退避」の概念で捉えようとしていたように記憶してますが…。 日々の臨床実践などから何かアイデアがありましたら、またご教示をお願いします。
>>264 対象関係論的な見解に関しては不勉強で分かりませんが、
個人的な考えから述べさせていただきます。
基本的に引きこもりは「症状」の一つでこれの原因は
滅茶苦茶あるかと。ただ、恐らく共通しているのは
引きこもることで自己評価を維持していることかなと思います。
Badな部分対象から、迫害的な攻撃や自己評価を揺るがすような
不安とその攻撃に耐えられない自己対象の傷つきやすさが基礎にあるかと。
漏れ自身は「人は対象関係希求的である」と考えてますので、それと
トレードオフとしてえられることはある種の自己評価の調整(維持)かと。
万能的な自己像の維持や迫害的な対象からの攻撃から自己対象を
維持するために「引きこもる」のではないかと考えております。
このような危機的な状況は実は精神病性の場合でも非精神病性の
場合でも同じだというのが漏れの暴論です。
現実の手がかりとしては、引きこもってぼんやりしているときに
どんな空想・白昼夢が浮かんでくるかということをセッションの中で言語化してもらうのが
いいかも。最もそれが難しいことが多いのですが。
>>264 ちなみに自己対象が傷つく原因としての疾患は様々だと思いますよ。
社会恐怖、全般性不安障害、ある種の発達障害、統合失調症など
様々かと。
神田橋先生は、たしか「自閉の利用」の考えを提唱してたでしょうか。。 この考え方をベースとして、社会的ひきこもりなどの非精神病性の状態についても、 自閉(ひきこもること)によって、「豊かなひきこもり状態」をキープすることが、 回復への道へとつながると言われてたような。。。 この辺りは、神田橋先生の著書を詳しく読んでいないので、自信の無いところですが。 ウィニコットも、「ひきこもり」と「孤立」を対比させて、「ひきこもり」はネガティヴ なものと捉える一方で、「孤立」は幼児(or成人)が生きていく上ではむしろ不可欠な 状態であると考えていたと思います。 ひきこもりの状態像は多様であると私も思います。しかし、上記の考え方は、その心性の ベースとなる部分でメンタルには肯定的な意味合いがあることを示唆している言説で あり、興味深いです。
>>264 以下に書くことが(「家族と同居している引きこもり」などの特殊事情のある)日本の
「引きこもり」に当てはまるかどうか、私には良く分からないということを、最初に
お断りしておきます。
「引きこもり」に対して「精神分析」のできることは、あまり多くないように思います。
なぜならば「精神分析」とは、患者さん自身が「自分のことを理解したい」などの形で
ある程度「やる気」になってもらわないと行うことができないからです。したがって
精神分析によって利益を得ることのできる患者さんは、少なくとも週に1回くらいは
受診することができて、なおかつある程度の「やる気」のある「引きこもり」の人に
限られると思います。
その範囲で書くと、それらの人たちに「引きこもり」行動をもたらすのは、「ナルシズムの
問題」及び「精神病性の迫害不安」が多いように思います。前者は、265番でreverieさんが
記述されているような方々で、後者はいわゆる「引きこもっていないと精神病を発症
してしまう人たち」です。ちなみに「病理的組織化」「心的退避」とは、いわば「クライニアンの
ナルシズム論」です。
しかし「引きこもり」に対しては、「精神分析」よりも、「地域精神医療サービス」を
充実させる方が役に立つのではないか、と私は思います。「地域精神医療サービス」と
いう日本語の用語があるかどうか知らないのですが、これは「地域の中で患者さんを
みていくための、地域に根ざした精神科チームによる継続的な援助のことで、精神科医
による往診、看護士による訪問看護、ソーシャルワーカーによる訪問サービスなどを
含むもの」を意図しています。
>>268 「地域精神医療サービス」について書くときに、「臨床心理士による面接」を入れなかった
のは、単なる書き忘れです。すみません。
自分の無意識までは責任が持てませんが。。。(笑)
>>268 確かに、「精神分析療法」としてはあまり有効でないかも知れませんねぇ。
ただ、精神分析的なモデルは浦島さんが指摘されたように有用かと思います。
治療のラインに乗せるのに保健所を中心とした介入が必要で、面接室で待っているわけには
行きませんものね〜(笑)。ただ、初期介入の段階である種のモデル(理論ではなく)を担当者が持っているのは
より効果的な介入になる可能性があるかと。そしてこのモデルの妥当性をセッションで検討する事が
有効な介入になるような気がします。
>>269 う〜ん、こういう介入の好みはCPのキャラによりそうですね(笑
どなたか、話題提供はないですかぁ? と言っておきながら、1つ厨房並の質問を。 アクティング・インというのは、面接室内でのセラピストに対する言語・非言語による 行動化ということでしょうか? 具体的には、アクティング・インが生じた場合のメリット、あるいはデメリットなどには どんなものがあるのでしょうか?
熱心にセラピーに通うCl、Pt.にも、アクティング・インの色合いがある場合も ある…かもしれない。
>>271 >アクティング・インというのは、面接室内でのセラピストに対する言語・非言語に
よる行動化ということでしょうか?
えー、お恥ずかしい話ですが、私も良く知りません。そこで、私が唯一持っている
辞典(ラプラシュ・ポンタリス)で調べてみました。
それによると「アクト・イン」とは、「アクト・アウト」の「アウト」を、「自己の外部」
ではなく「分析のための面接の外」であると誤解したために生じた用語、と書いて
ありました。したがって、「アクト・イン」ではなく、「分析場面の内側における
アクティング・アウト」および「分析場面の外側におけるアクティング・アウト」
とすべきである、だそうです。
他の考え方があるのかなどの点について、他の精神分析辞典を持っておられる方、
又は「アクト・イン」のことに詳しい方などがおられましたら、ご教示ください。
>>273 漏れはセッションの最中にでんぐり返りすることかと思ってました(笑
>>273 ということは、従来からアクティング・アウト呼ばれてきたものの中には、
結構アクト・インと呼んだ方がいいものがあるということですかね。
なんだか錯綜してますねえ。
岩崎の分析事典には、アクティング・インについて松木先生だったか、書いていた ような。 手元に岩崎の事典がないので、ここに書けません(´・ω・`)ショボーン。 どなたか、情報プリーズ。
聞きかじりなので、本当のところはどうなんだかわからないのですが。 アクティング・アウトが「クライエントの無意識が、面接の中で言語化されない現象」 であるとすれば、その逆の作業がアクティング・インではなかったでしょうか。 アクティング・アウトの意味をクライエントとともにさぐり、言語化してゆく(そうそう うまくはいかないでしょうが……)のがアクティング・インだと思っていたのですが、どう でしょうかね?
>>275 273番の書き方が分かりにくくてすみません。
ラプラシュ・ポンタリスによれば、「アクティング・イン」は、使用すべきでない
間違った用語で、「分析場面の内側におけるアクティング・アウト(acting out
inside of psychoanalysis)」とすべきである、ということだそうです。
>>276 >岩崎の分析事典には、アクティング・インについて松木先生だったか、書いていた
ような。
もしそうであれば、私もすごく知りたいです。どなたか教えてください。
>アクティング・アウトの意味をクライエントとともにさぐり、言語化してゆくのが
アクティング・イン
もしこれが正しいとすると、「アクト(act)」という言葉を使用する意味がなくなって
しまうようにも思うのですが、いかがでしょうか?
そういえば、「クライアントの無意識(的空想)が、面接の中で言語化されず、面接の
中での行動となって表れる」ことに対して、「再演(enactment)」という用語が
使用されていることを思い出しました。
>>273 ついでながら、ラプラシュ・ポンタリスによる「アクティング・アウト」の定義を
書いておきます。
「多くの場合衝動的で、主体の通常の動機づけの体系とは比較的つながりがなく、
主体の活動の傾向とも比較的隔たりがあり、しばしば自己ないしは他者に対する
攻撃性を帯びる諸行動を示すために、精神分析において用いられる用語。
アクティング・アウトの出現を、分析家は抑圧されたものの浮上の印とみなしている。
分析期間中(面接中であるか否を問わず)に生起する場合には、アクティング・
アウトは転移との関係において、またしばしば転移を全面的に否認しようとする試み
として理解されねばならない。」
そして「フロイトは、『転移における反復の現象』と『アクティングアウトの現象』
とをはっきりと区別してもいなければ、明確に(概念として)つないでもいない」の
だそうです。そして「転移とアクティング・アウトとの区別を、単なる技法上の基準
にでもなく、単なる空間上の基準(分析家の面接室で起こるか、それともその外で
起こるか)にでもなく、それ以外の基準に基かせること、それは精神分析の一つの
課題である」とのことです。
久しぶりに日本語版の「ナルシシズム入門」を読む機会がありましたが、意味がよく 分からなくて、英語版を参照しなければならない所がすごくたくさんありました。 (ドイツ語から)翻訳した方は、本当に意味が分かって訳したのでしょうか??? タイトルにしても、「ナルシシズムについて−序論」などの方が、より正確だと思う のですが。。。ドイツ語版がどうなっているかは知りませんが。。。 フロイトの著作を読んだ結果「フロイト嫌い(精神分析嫌い)」になった人がいると すれば、その理由の一つは適切でない翻訳の仕方であったかもしれない、と思いました。 文脈と全く関係のない書き込みですみません。
>>279 言語化に押し込んで行く「アクト」、とは考えられないでしょうか?
何だか分からないことを書いてますね〜。
>>282 >言語化に押し込んで行く「アクト」、とは考えられないでしょうか?
ここからの勝手な連想なのですが、アクティング・インには一見洞察めいたことを
表明するCl、Ptなどの状態を表しているかもしれない・・・などと推測したり
してるのですが、どんなものでしょうか。
合理化などの防衛が働いているとも思ったり。。
>>271 他の辞典を調べてみたら、載っていました。次の本です。
A dictionary of Kleinian thought, by Hinshelwood
これはクライン派の勉強をしている者であれば、持っていなければならない本のはず
ですが。。。私は持っていませんでした(笑)。。。明日買いに行ってきます。。。
それによると「アクティング・イン」は、次のように定義されています。
原始的な衝動、対象関係、防衛などは、分析者と患者との関係という形で再演され、
分析という仕事に対する抵抗になるかもしれない。(以上はフロイトの引用だそう
です)このような転移という形の再演(enactment)を、「アクティング・イン」と
呼んでいる。
つまり、私が279番に書いた「再演」と、ほぼ同じ意味のようです。
すると271版に対するお答えは、「分析場面において、アクティング・インは必ず
起こるものである。そしてそれを解釈という形で言語化することによって一緒に
考えていくことが、分析という作業である」になると思います。
>>284 変換ミスです。すみません。
271版→271番
>>みなさま いろいろ教えていただき、どうもありがとうございました。 アクティング・インという言葉ひとつをとってみても、立場によっていろいろ 意味合いが違ってくるもんなんですね。 浦島さんが284で書かれているように、「再演」という観点から見ていくのが 実践的かな・・・と思います。 この「再演」という現象は、たしか土居先生が「実演」という表現で用いていた ものと同様でしょうかね。面接のプロセスをドラマと見立てて、ストーリーを 読み解いていく・・・ということが、「面接の方法」だったでしょうか、詳しく 述べられていたように思います。
訂正です。
>>286 「面接の方法」(誤)→「方法としての面接」(正)です。
失礼しますた。。
クライン派の解釈についての素朴な質問をお1つ。 クライン派の方が解釈を行う時期は、割とセッションの早い時期から積極的に行う、 という話を聞いたことがあるけど、実践上はどんな様相でしょうか? また、幼児のプレイ・セラピーなどでも、相当言語化した形の解釈を行っている症例 報告を読んだ記憶もあります。 外国と日本では、言語習慣や内容にもかなり違いがあると思いますが、それを超えた ところにおいても、他の学派との解釈の時期や質に違いがあるのでしょうか。 差し障りのないところで、教えていただけたらと思います。
>>288 私にはご質問に答える力はありませんが、クライン派に詳しい治療者でも、非常に答え
にくい質問ではないかと思います。
なぜなら「クライン派」と言っても、人それぞれということがあります。そして患者さ
んも色んな人がいるでしょうし、治療関係がどう展開するかもケースごとに違うでしょう。
そのような個別性を超えた所で一般的に言えることは、もうあなたがお書きになっている
ことで的を得ているのではないかと思います。さらに「実践上の様相」を示すには、「こ
の患者さんにはこのように解釈しました」とのケース報告しかあり得ないように思います。
そうなると、この掲示板では限界があるように思います。
もしあなたが治療ケースをお持ちで、「クライン派の治療者だったらどのように解釈するのだ
ろう」などと興味があるなら、差し障りのない形(スレッド冒頭のルールをお読みください)
で臨床素材を提示してみてはいかがでしょうか。
さて、どなたか話題プレゼンはないですか?
>>290 プレゼンスじゃないのですが、このスレのレベルはどのくらいのものでせうか?
私は、相当なレベルだと思うのですが。。
などと、感想めいたことで失礼、スマソ。
やっと少し暇になったので、久しぶりに書き込ませていただきます。
>>288 ,
>>289 >クライン派の方が解釈を行う時期は、割とセッションの早い時期から積極的に行う、
という話を聞いたことがあるけど、実践上はどんな様相でしょうか?
まず第一に、かわずさんが書かれている通り、人それぞれという問題があると思い
ます。例えば私自身はクライン派と分類して良いでしょうが、解釈する時期は、多分
他のクライン派と呼ばれる人達に比べて遅い方ではないかと思っています。私は
どちらかというと完全主義者で、かなりきちんと理解したと思えるようになって初めて
解釈する傾向があるように思いますので。小心者とも言えるかもしれませんが。。。(笑)
私の場合、具体的には、一回のセッションで解釈は2回ー8回位だと思います。しかし、
治療者に対する怒りや治療に対する不安などは、できるだけ早く気付いて解釈して
あげるように心がけてはいます。さもないと、患者さんが大変ですから。
第二に、クライン派以外の人が、どの程度のタイミングで解釈するのかを私が知らない
ため、比較することができないという問題もあると思います。例えば、実際にフロイトの
分析を受けた人の経験を読んだ事がありますが、それによるとフロイトは自由連想を
黙って聞いていることが多く、ほとんど解釈をしなかったようです。現在の視点で
見ると、明らかに解釈すべき連想であってもです。多分フロイトは、無意識の流れに
ついて、それ程詳しくは知らなかったのだと思います。(精神分析の創始者、という
ことは、精神分析の初心者、とも言えるわけです。歴史による経験の積み重ねが
できない、ということですから)したがってフロイト本人に比べれば、クライン派の
解釈の時期が早い、とは言えると思います。しかし例えば、現在のフロイト派は
どうなのか、私は良く知らないので、比較のしようがない、というのが正直なところです。
>>292 ちなみにクラインは、セッションの始めに解釈を話し出して、最後まで話し続けると
いうことがあったそうです。もちろんいつもではないでしょうが。多分、理解力が
ありすぎたんでしょうね。つまり、患者さんの自由連想から理解したことが多すぎて、
しかもそれを全部伝えようとしたため、結果的にものすごく長い解釈になってしまった、
ということだと思います。
また現在のクライニアンは、解釈をする時に「乳房」「ペニス」などの用語は使いません。
普通の人が普通にわかる言葉を使います・・・普通の人を治療する以上、ある意味当然だと
思いますが。ただ精神病の人を分析する場合には、普通の人にはわからない言葉を
使うのはもちろんです。(普通でない思考を持った人を相手にするわけですから。)
児童の場合は、無意識的空想が意識に近いため、少し事情が変わってくると思いますが、
私は詳しくは知りません。
294 :
没個性化されたレス↓ :03/11/16 20:56
>>浦島さん 説明ありがとうございます。
すみませぬ。うっかりあげてしまいました。。 これからもsage進行で行きます。
精神分析家が自らの理論を構築していく際に、その人の持ち味、パーソナリティなどが 大きく影響してるものなのでしょうかね。 クラインは、家族の不幸や子どもの喪失などを経験するなかで、抑うつポジションの 考え方を提唱したと聞くし。 ビオンにしても、Dr.になる前の教員時代のゴタゴタ(?)なども、コンテインなどの 概念を創り上げる上での、ベースとなっているのでしょうか。。 ある種のネガティブな心性を抱えつつ、それを持ちこたえて独自の思考へと発展させて いったのは、何によるのだろうか…などと思いをめぐらせてはみたものの、凡人の私には なかなかよい「空想」が思い浮かびません。
>>296 >精神分析家が自らの理論を構築していく際に、その人の持ち味、パーソナリティ
などが大きく影響してるものなのでしょうかね。
もちろんそうだと思います。しかし一番影響を与えるのは、「教育分析」とその後
一生続くであろう「自己分析」の経験ではないかと、私は思います。
ただし「精神分析理論」について考える場合には、一般にいうところの「理論」とは
異なった、「精神分析理論の特殊性」を考えに入れる必要があるのではないか、と
私は思います。
ビオンは、「精神分析のセッションにおいては、(ビオン自身の作り出したものも含め)
すべての精神分析理論を忘れて臨まなければならない」という意味のことを書いていたと
思いますが、全くその通りだと思います。別の書き方をすると、精神分析又は精神
分析的精神療法において、解釈として伝えられた時患者さんにとって役に立つ「理解」
とは、「治療者自身の心を用いて得られた理解」だけで、「その他の理解」は役に
立たない、ということだと思います。そして、ここで言う「その他の理解」とは、
「スーパーバイザーによる理解」「理論による理解」「治療者による知的理解」
などを含んでいます。
そして「理論を学ぶこと」「スーパービジョンを受けること」「分析を受けること」は、
「患者さんを理解する時に使うことの出来る、自分の心の能力を高める努力をすること」
と言えるのではないか、と私は思います。
ちなみに「(ビオンの)Drになる前の教員時代のゴタゴタ」とは何のことか、私は
知りません。よろしければ教えてください。(ビオンの人生そのものについては、
インドで生まれたこととか、戦争に行ったこととか、年取ってから分析家になった
ことなどしか知りませんので。)
298 :
没個性化されたレス↓ :03/11/23 20:17
浦島さんって かっこいいなぁ〜
300 :
没個性化されたレス↓ :03/11/23 22:51
エヘヘ〜 300ゲトー
>浦島様 296です。 いろいろと教えていただいて、ありがとうございました。 さて、分析家になる前のビオンのことですが、私も詳しくはよくわからないです。 ある書籍で、医学部に入る前に高校の教員をしていて、そのとき生徒の保護者との 折り合いがよくなかった…云々ということが書かれてような記憶もあります。 本の名前もわからず、うる覚えの知識で失礼しました。 私の手持ちの本では、現代のエスプリ別冊「ウィニコットの世界」(2003)の中に、 松木先生によるビオンの経歴紹介があります(133〜134頁)。 それによると、オックスフォード大学にて近代史、哲学を学び、卒業後は母校の教師と なったが、男子生徒を誘惑したと疑われ1年程で退職した、とありました。 ビオンもいろいろと苦労して分析家になったのだろうか…と思ったりしました。
302 :
アンケート :03/11/27 04:11
>>303 十川さんのことは、まだ知りませんでした。
ラカン派の先生でしょうか?
どなたか、303さんが紹介している本を読んだ方は、おられますか?
浦島さんは、どうでしょうか。
>>303 ,
>>304 十川幸司先生のお名前は、私は全く知りませんでした。したがって、ここに紹介
されている本を読んだことはありません。私が調べた限りでは、どうやらラカン派の
先生のようですね。
実は私は、ラカン派の先生に関しては、あまり良いイメージを持っていません。
私の知っていたラカン派の先生方は、「病棟に頻繁に顔を出したり、患者さんの話を
じっくりと聞いたりはせず、いつも医局で何か難しいことを仲間内で議論しあって
いる」という方々でした。もちろん私が知っていたのは数人だけですし、一生懸命
働いておられるラカン派の先生方もおられるのでしょうが。。。
特に最近私は、以前は(上に書いた悪い印象のために)拒否反応を示していたラカンの
考え方に対して、興味深いと感じる部分が増えてきているのですが、それでも以前の
「ラカン派の先生」のイメージを捨て去ることができずにいます。
一生懸命、泥臭く臨床をされているラカン派の先生を私は一人だけ知っていますが、
そういうラカン派の先生は多くおられるのでしょうか?
私は、ラカンはほとんどどころか、何も知らないのですが、以前に、この板の実験系の
コテがラカン派など相手にしたくないと言うようなレスを書いていたのを、読んだことが
あります。
その時の印象から、ラカン派というのは体を使って技術を習得するよりは、頭で
こねくり回す事を得意とする人たちなんだろうなと思っていました。
私たち獣医からすると、技術の習得なんか体を使わないで、どうやって覚えるの
と言う感覚なのですが、心理療法の世界はそうでもないようです。
まだ、本を読んでないので、詳しくは書けないのですが、日本の臨床心理士さんの
上の方でも、ユングを支持する人が多いようで、どうも頭の中だけで心理療法を
考えている人たちが多いような印象を受けます。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1021004393/
浦島さんはまだしも、 「何も知らない」っつってイメージで文句いわれてもな >306 俺も読んでないから意見は書けないけど本人が臨床経験から 理論を練り上げることを重視してると言ってるように思うのだが (上のURLの著者からのメッセージ、でも)
>305 そういうとこ、マスマス浦島さん いいなぁ〜
>>305 お久しぶりです。
ラカン派については、国内で有名な教授の所の出身生が同じ職場なのでいろいろ話す事がありまして、
それで一言。まあ、それほどラカン色に染まってない先生方なので分析プロパーということでは無いのですが。
ラカンの理論は漏れも難しくて(オグデンの「あいだの空間」でちょっとみた程度(汗))、理解していないのですが
いわゆるメタ心理学の部分が多いかなと。で、このメタ心理学の部分が事象の説明としてはスマートな理論なのですが
「メタ」な部分がなかなか臨床に応用しずらいかなという印象です。
ビオンもメタ心理学(と漏れがおもっている)部分は結構多いのですが、基本的に、精神病理と治療機序をまさに
「リンク」させているように見受けられますが、ラカン派は「う〜ん、なるほど、でどうつかったらいいの?」という
ところでつまってしまいます(漏れだけかもしれませんが(汗))。
ただ、その理論はスマートで「俗な」使い方をするのがはばかられる感じがありますね。
結構その理論構築と理解で満足されている方が多いような印象を持っていて、
「患者が『こういう状況』のときには『こういうアプローチ』を」というような治療論というのが
あんまり話題にならない、という印象を持っています。あくまでサンプル数(笑)が少ないので
漏れの印象どまりなのですが。
日本のラカン派の方は、Dr.が多いような気がするのですが、どうでしょうか? Reverie さんが言われているように、メタ心理学の色合いが強いから、臨床心理の 研究者、実践家の方が多くてもよさそうな気もするけど、心理にはラカン派は少ない 印象を受けます。 オグデンは、クライン、ウィニコットだけではなく、ラカンにも精通してるのでしょうか。 オグデンは開業している分析家だから、理論が実践にも結びついているというところでしょうかね。 い
ラカンといえば、少し前の名古屋系の先生たちが、研究されてたのかな? 精神病理学系のグループの人とかね。 今も、G大の医学部では、研究会などもあるとHPに載ってたような記憶もある。 ラカンを好きなDr.の中にも、臨床も地道にやってる先生もいるんじゃないかなあ。。。
皆さんの書き込みを読ませて頂いて、思い出したことがあります。 以前、ある有名なラカン派の先生(A先生とします)の面接記録を読む機会に恵まれた ことがあります。そしてその記録からは、一生懸命患者さんのことを理解しようと しているA先生の姿勢がひしひしと伝わってきて、私は深い感銘を受けました。 (ちなみに私は、A先生と直接知り合いではありません) この経験を、先輩のある先生(ラカン派ではないが、いわばその近くにいる精神科医) にお話したところ、その先生は次のような意味のことを言われました。 「A先生はご自分の臨床の中で、特に統合失調症の患者さんを理解しようと一生懸命 努力された結果つかんだ『何か』を持っておられた。そしてその『何か』を説明する ために、ラカンの理論を借りてきて使われているに過ぎない。したがってA先生は、 優秀な精神科医だと思う。しかしラカン派の中には逆に『ラカンの理論』を患者さんに 当てはめて、理解したつもりになっている人もいる。そういう人は、優秀でもなんでも ない。(実際には、この先生は確か『そいつらはバカだ』と言われたような気が しますが。。。)」 私はこの時言われたことをすっかり忘れており、ついさっき思い出しました。 今考えてみると、この先生の言われたことが真実に近いかもしれない、と思います。
>>305 、
>>313 305番で書いた「泥臭く臨床をされている、尊敬できるラカン派の先生」が書かれた
論文に、その先生がされていた「精神分析」のセッションの内容が書いてありました。
そしてそれは、私の考える「精神分析」とは、全く異質のものであるように思いました。
(さすがにご本人に対して、そうは言えませんでしたが。。。)今でも、私の意見は
ほとんど変わっていません。
313番で書いたA先生にしても、面接の中では私の知っている「精神分析」とは違う
ことをされていたように思います。
したがって少なくとも、「ラカン派の先生方の言われる精神分析」と「私の考える
精神分析」とは異なったものである、というのは確かなのではないか、と私は思います。
ただしこれはあくまでも、「私の思う精神分析とは違う」というだけのことで、
その先生が「立派な臨床家」であるかどうかというのは、全く別の問題であるように
思います。
アッ、浦島さんだ☆ おはようございます。
(厨房のひとりごと) 折れも、泥臭い臨床をやっている。 まれに、そんな臨床実践を文章化しようとすると、くだんの誘惑がわき起こる。 ついつい、分析的な用語を使ってしまおうとする誘惑が。 抱えること、遊び、生きのびること…etc... 「専門用語」を使わずに、泥臭い経験をどう表現したらよいのだろう。
理論か実践(臨床)か、については、従来からいろいろと議論されてきたわけでつ。 出発点において、分析系をはじめとして臨床をやろうとする者は、どうしても 「頭」だけで考えようとする傾向があるのは否めない。 医学部や臨床心理系の院を出るには、知的な方向での達成も必要でつからね。 実際、臨床に入ってから、どういうふうに実践(臨床)にまみれていくかによって その後のスタンスが大きく変わっていくものなのでせうか。
>>316 書き込みの趣旨からはずれるのですが、「抱えること」も「遊び」も「生きのびること」
も、もともとウィニコットは日常語を用いているはずなのですが、それが「専門用語」にい
つどこで化けてしまうのか、面白く思いました。
私自身は、自分の言葉で話していくしかないと考えています。専門用語にしても、日常語
にしても、深く理解しているかどうかが常に問われるのが心理療法の怖いところだと思いま
す。
全然、専門が違うんで、おかしなこと言ったら、ごめんなさい。私の場合、専門用語を 理解する自分と専門用語を使わずに、臨床をやってる自分は、バイリンガルのような 感覚です。 日常ではほとんど専門用語は使ってないので、全部専門用語で話すのは、今の私には もうできないのかも知れないけれど確実に言えることは、専門用語で話してくる人には、 そのように対応ができるし、専門用語で書いてある文献を確実に理解することもできる。 一方、私は専門用語をまるで理解することができない飼い主に、専門用語を使わずに 話す事もできる。その時の私は、あたかも違う言語を使っている気分になる。 そういう使い分けは、心理臨床の人はしないのですか?
まったくの素人ですがお訊きしていいでしょうか? 「抱えること」と「生きのびること」はなんとなく意味が想像できますが、 「遊び」とはどういうことをいうのですか?
自分の言葉で考えるのは、難しい。 でも、臨床やるのだったら、それしかないのかもね。
>319 いや、クライアントに対する時に専門用語使うひとは そんなにいないんじゃ? ふつうに日常の言葉に変換して使うデしょ。 専門用語を出すのは悪影響しか与えないように思います。 面倒なのは患者の方がやけに詳しくなっていて自分から そう言った定義に自らを当てはめて症状を主張してくる・笑 あえて使ってないのによー、と 「先生に対する私自身の転移はいわゆる過去の誰それに対する感情の再演 としての・・・」 多いですね。ほんと。
日本語臨床の先生たちがやろうとしているのは、自らの表現で臨床経験を 表現しようとしていることでしょうか?
>>322 >面倒なのは患者の方がやけに詳しくなっていて自分から
>そう言った定義に自らを当てはめて症状を主張してくる
これは、私には新鮮な驚きです。獣医の臨床現場で病名以外の、専門用語
なんか使って来る人はまずいない。相手が医療関係者でも鬱血、チアノーゼ
等のような簡単な専門用語しか使って来ない。
これは、飼い主の場合だからで患畜が口がきけたらメチャメチャ奥の深い、
専門用語を使って来るのだろうか。こんな事されたら怖いね。専門用語を使って
対応せねば治療者の方が馬鹿にされてしまう。
治療者とともに治療される側も、日常語を使って、自分の症状や立場、気持ち等
簡単に単純に整理して話す訓練をしなきゃいけないね。(笑
>>316 臨床の実践を文章化するときに専門用語になるのは、しかたないのではないですか?
臨床でのアプローチ(これはまさにTh.に伝わる言葉ですが)が、後から考えて
理論の中でどういう位置付けになるのかを検討することは「自分にとって」
いい勉強かなと言う気がしますが。後、文献で言われている概念と自分の
考えている「臨床から得られた感覚の違い」を検討することも、少なくとも
漏れにとっては大事です。
#論文あんまり書いてないからえらそうなこといえませんがw
>324 いやいや、だからそう言う言葉を使ってクライアント自身が理解を してしまったと勘違いされないように、御自身をその専門用語に当てはめる のはまた違うことですよ、と説得いう説明も必要になります。 専門用語対決はしませんよ(笑) それは分析の場での言葉の豊かさを剥ぎ取ることにしかならないですから。 症状の治癒、という段階のみであればそれも有効な場合もあるかも知れませんが それは果たして精神分析という実践なんだろうかと考えますが。
>>326 説明ありがとうございました。
そうか、私たちでも良くいるネット使って、ヘンな病名覚えてきて、うちの子は
絶対これですとか、だから、もう死ぬんですとか言って診察もする前から
診察室で泣く人ね。これに似たようなモノかな。
私は心理士さんのクライアントは頭いいから、自分で専門書を何冊も読んで勉強して
来るのかと思った。失礼しました。
328 :
没個性化されたレス↓ :03/12/02 21:03
泥臭く実践中です。 今日は本当に泥をかけられてしまいました。 ところで専門用語の件ですが、受験勉強や文献を読んでシッタカになっていたつもりの 用語が、実践の中で、「おお!こういうことを言っていたのかあ!」って場面はありますよね。 シッタカの用語に充満する、シッタカの用語に体験がくるまれるみたいな場面って。
なにやら、書き込みが増えましたね。 理論と実践との間で、みなさん苦労しているということでつかね。 「理論と実践とは、互いに弁証法的に打ち消しあい、新たなテンションを造りだして いる…」なんて、オグデン風のまとめ方をしてしまった。
てか、クライエントが専門用語で自己理解をしたかのように振る舞うのって 「知性化」という防衛でしかない可能性は高いです。
>>320 できれば他の人にレスお願いしたいのですが、私の理解で良ければ。
「遊び」は、英国の精神分析家のウィニコットが言ったことです。「遊び」は現実と空想
の間に生じるものです。現実でもあり、空想でもあり、あるいはそのどちらでもありません。
そこでは子どもの空想が現実に投影されたり、あるいは現実が空想に取り入れられることも
あるでしょう。空想と現実をごっちゃにしたり、あるいは分けてみたりもするでしょう。
ウィニコットは、「遊び」が子どもの精神発達を促すと考えました。彼によれば、心理療法も
「遊び」です。もし患者さんに遊ぶ力がなければ、まず彼が遊べるようになるために、何かが
なされなくてはならないと考えました。
> 318 日常的な言葉を精神分析に用いることに関しては、土居健郎センセが「甘え」で 有名ですな。学問的なjargonを使うんでのうて、「甘え」みたいな日常語を精神 分析のキー・コンセプトに持ってきたら、新しい展開が開けると、土居センセは 言うてはりました。以前読んだ土居センセの本に書いてましたわ(本の題名は 忘れてしもた(汗))。 せやけど、日常的な言葉を精神分析に使うたんは、土居センセやウィニコット だけやのうて、そもそもフロイトがそうやったて、B.ベッテルハイムが言うて はりました。「フロイトと人間の魂」ていう本ですわ。ベッテルハイムの言う ことにゃ、フロイトは自我(ego)はドイツ語でIch(英語の「I」)、イド(id)は ドイツ語でes(英語の「it」)ていう具合に、精神分析のキー・コンセプトは日常 会話で使われるような言葉を当ててはったそうですわ。 このフロイトの論文をドイツ語から英訳する時に、日常で用いられるような ドイツ語をわざわざ抹香臭いラテン語にすり替えてしまわはったというのが、 ベッテルハイムの主張ですわ。 せやさかい、まあ、考えようによったら、ほとんどいわゆる精神分析の専門 用語使わんでも、精神分析的な実践はできるんかもしれまへんな。 いかがでっしゃろ?
>>331 それに加えて、カウンセラーもしくは治療者側にも、「遊ぶ」ことが必要になるので
しょうかね。
「遊ぶこと」もたくさんの人が引用、使用してるから、各人によって意味するところが
微妙に、あるいは大きく違ったものになってきてるのかもしれない。。
「遊び方」という内容よりも、遊びを容れておくもの、遊べる時間、などのイメージが
今はしっくり来るような感じもします。
>>332 あっ、ヨッパライ先生、発見w。
フロイトは、初めの頃は一般大衆に語りかけるようなスタンスで、精神分析を講じていた、
などということを聞いたことあるのですが、ホントでしょうか??
>>333 横レスになりますがw、
フロイトの「精神分析入門」も一般の聴衆を相手にした講義録ですよ。
>>332 土居先生が「甘え」を用いたら、とたんに「土居先生の『甘え』とは何か」という
話になって、土居先生の思惑をこえて専門用語化してしまったような気もするので
すが……。土居先生は「羊」のつもりだったのに、「あの人が言うからには羊の皮
をかぶった狼に違いない」と周りが騒いでしまう、とでも言いましょうか。
>>333 補足をしていただき、ありがとうございます。治療者の「遊び心」は大切ですね。
>>333 「ヨッバライ先生は、『遊びの空間』の中で、発見され、かつ創造される」と
ウィニ・コットンが言ってたような…w。
さすが、師走ですね。センセ方もこのスレ上で走り回ってます(藁
マリリンはなにがいいたいのか。 つか、知性化のレベルで言えば本当色々いるから 専門書読んでくるのもいれば「海辺のカフカ」読んでくるのもいれば(w
分析のM先生の著書にも、相当な陰性転移を起こした患者さんで中断した方が、 何年かたって、今度は援助専門家として目前に現れたケースが書かれてました。 もちろん、知性化によってお化粧(防衛)されてはいたものの、かなりの 危うさを抱えた人として。 知性化の抱えるネガティブなエピソードとして、印象に残っています。
>>332 >ほとんどいわゆる精神分析の専門用語使わんでも、精神分析的な実践はできるんかも
しれまへんな。
yopparaiさんの意図とは少し違ってくるかもしれませんが。。。ビオンは、実際の
精神分析のセッション中に、治療者が精神分析の理論を使って考えること(精神分析の
専門用語を使って考えること)を厳に戒めています。望ましい治療者の態度として
彼は「記憶、欲望、理解を持たないこと」と述べています。(この順番があっているか
どうか、自信がありませんが。。。)
>>333 >「遊ぶこと」もたくさんの人が引用、使用してるから、各人によって意味するところが
微妙に、あるいは大きく違ったものになってきてるのかもしれない。。
ちなみにクライン派の治療者は、多分「遊ぶこと」という用語をあまり使わない
のではないか、と私は思います。そして、ウィニコットの言う「移行空間」
という現象に対して、「心的退避」という言葉を当てると思います。つまり、
ウィニコットと違って、そのような現象に対して、あまり良い意味合いを
与えない、ということです。
知性化の話が出ていますが、私も「転移」などの用語をセッションの中で 使いたがる患者さんを経験したことがあります。「大学で精神療法を勉強した」 「興味を持って成人学級で勉強した」などの方々でした。 「専門用語を使う」という行動の背後に隠れていた感情は様々でした。 「『治療者が黙っている』『治療者がどんな人かわからない』という状況に 対する不安」とか、「治療者がその人を『精神療法』という一定の型に はめようとしている、という怒り」とか。。。 私自身は経験したことがありませんが、「『精神療法の専門家』に対する 精神療法」ほど厄介なものはないでしょうね。。。訓練分析家と呼ばれる 人達(精神分析の専門家に対する、訓練のための分析をする分析家です)の 苦労がしのばれます。。。
320です。 335さま、ありがとうございました。みなさまありがとうございました。 私は「遊ぶ」の好きです。だからこういうことに興味があるのかなぁ〜 わーい、浦島さん おはようございます。
アク禁に遭って書き込みもできませんでしたがスレが 活性化してよかった・・・けど、どなたも読まれた方いないのですね(涙 というかラカン派て臨床では嫌われているのですか・・・ 調べてみたら岩崎の「精神分析事典」の訳やってる人でした。 パリ第八大学へ留学されてるからミレール先生のとこかしら、正統的 ラカニアン、などと想像したのでしが、後期のラカンについては徹底的に 批判してるようです。 新刊は、書店行けずいるので注文だしてみました。 専門用語を使う、知性化による防衛を行うクライアントさんには 転移に対する抵抗として(と、自ら言ってたり・w)用語を 使われる方がいました。 自身としては慎重にそういった専門的な意味合いをもつ言葉を できるだけ排除して彼なり彼女の言葉を探るつもりなのですが 「それは嫌だと言いながらも同じ行為をしてらっしゃいますよね」 「(キラーン☆)反復強迫と言うことですか!」 といった調子で(笑)。 浦島さんが言う、治療者や治療自体への怒りや不安というのは納得行きます。
主観、直観、知性…。 精神分析が扱うことで、実りのあるものはどれなのだろう。。。
問い合わせの電話でしたが、宗旨替え?を迫られたことがあります。 その人はアリス・ミラーの本を全部読んでから、自分の治療をしてもらえないか、と言い ました。私は彼女の「魂の殺人」は、ななめ読みしたことがありましたが、全著作を読ん でいたわけではありませんでした。 「やはり先生も、フロイト流の治療をされるんですか?」 「もしあなたがアリス・ミラーのような治療者になりたいのであれば、彼女の考え を継いでいる人に訓練を受けるのが筋でしょうが、困ったことを抱えておられて、 それを解決なさりたいのであれば、私でもお役に立てそうかどうか、まず一度おいで になってみてはどうですか?」 ちょうど疲れてウトウトしていた時の電話だったので、頭も回っていなかったのですが、 こんなやりとりをしたように思います。後で頭がはっきりしてきて、「そうか……私は 本当にひどい目に遭って来たから、その外傷を認めて欲しいということなんだ。フロイト の心的現実説で解釈されるのはかなわん、ということか」と思い至りましたが、後の祭り でした。
少し前の「ACブーム」の頃、似たような問い合わせが相次いだ憶えがあります。 正直言って、その時はウンザリしました…。
>>343 >(キラーン☆)反復強迫と言うことですか!
>>345 アリス・ミラーの本を全部読んでから、自分の治療をしてもらえないか
ここで描写されている方々は、一体誰に会いに来ている、または会いに来られる
つもりなのだろうか、という素朴な疑問が頭に浮かびました。
現実にはその相手は、「自分の抱えている問題に対処するための、援助をすることが
出来る技術を持った専門家(つまり、303さんやかわずさん)」のはずですが。。。
実は彼らは、「抵抗、反復強迫などの専門用語を使った治療(らしきもの?)をする
人」や「アリス・ミラーという人の複製」に会いに来ているのかもしれない、と思い
ました。
これは単なる思いつきで、だからどうだ、という結論のある話ではないのですが。。。(笑)
>>347 Cl.のイメージとして面白そうなので漏れも考えてみました。
基本的には自分(の一部)がある種の「知的」概念に吸収され、割り当てられるのを
好む心性があるように思いました。逆に、それが解釈され意識化されたときの
情緒的な混乱に対する不安とその抵抗かなとも。
自分のセッションでこういうやり取りが出たら、
「う〜ん、難しい言葉でまとめたね。でも、今、どうしてこういう言葉を
使いたくなったんだろう?」と返す、かな???
今考えるとどうやら私は、347番では少し遠慮していたようです。348番のreverieさんの
書き込みに勇気付けられて(?)少し考えてみました。
>>343 >「それは嫌だと言いながらも同じ行為をしてらっしゃいますよね」
>「(キラーン☆)反復強迫と言うことですか!」
少なくとも確かなことは、この患者さんが「治療者の(生きた)解釈に対して、
(いわば死んだ)ある専門用語を当てはめる行為をしている」のみで、「治療者の
解釈を手がかりにして考える、という行為」(つまり精神療法)をしていない、
ということだと思います。
この行為の背景にある空想は、何でしょうか?「専門用語を使うことで、自分も
(何も悩むことのない)治療者のような専門家になれる」「治療者の能力を、自分は
だめにすることができる」などと考えてみましたが、結局良く分かりませんでした。
>>345 >その人はアリス・ミラーの本を全部読んでから、自分の治療をしてもらえないか、
と言いました。
この場面には、「ある対象(かわずさん)」に対して、無理やり何か(アリス・
ミラーの本)を押し込んで、もともとの性質とは異なった特性を与えようとする
「対象(『その人』)」が存在しているように思います。つまりこれらの対象が、
再演されている「その人」の内的対象ではないか、ということです。
こう考えると
>「やはり先生も、フロイト流の治療をされるんですか?」
と話している時の「その人」の不安は、「自分に対して、無理やり何か(フロイト流の
治療)を押し込んで、もともとの性質とは異なった特性を、対象(かわずさん)が
与えようとしているかもしれない」ということではなかったか、と思います。そして、
「無理やり押し込む」という対象間の関係から、もしかしたらこの方は、性的虐待を
受けられた人かもしれないな、と空想しました。
もちろん、単なる問い合わせの電話に対して何か解釈を伝えることは、現実的では
ない(というか、基本的にすべきではない)と思いますが。
>>350 電話をしてきた人に対して共感的になろうとすると、345で書いたようになるのでしょうね。
しかし治療者のスタンスを訊ねた現実を超えて、「操作」や「先制攻撃」の後味が残ったこ
とも確かでした。
そして浦島さんの言われる「無理やり押し込む」感じは、私が電話を受けた時の感覚を正確に
表しています。「無理やり押し込まれる」ような感覚がありました。
今さらながら、解釈を「無理やり押し込む」のは、良くないですよね。「患者が否定するのは、
的を得ている証拠だ」なんて言ってる人は、今でもいるのでしょうかね。
>>351 >「患者が否定するのは、的を得ている証拠だ」なんて言ってる人は、今でもいるの
でしょうかね。
少し意味合いが違うかもしれませんが、「解釈はTh.の限界を伝える側面がある」
と述べたのは、たしかウィニコットでした。
これには、なるほどと得心します。
>>351 >解釈を「無理やり押し込む」のは、良くないですよね。
日本にいた時私は、クライン派が嫌いでした。(松木先生や衣笠先生などは別ですが)
なぜならば彼らは、自分一人の「一方的な理解」を、「解釈」という形で正当化して、
患者さんに対して「無理やり押し付けている」に過ぎない、としばしば感じたからです。
しかしこれは実は、「クライン派」の問題ではなく、「クライン派のことをきちんと
理解せずに、表面的な真似をしているだけの治療者の問題(クライン的な視点で早い
時期に解釈しさえすれば、それがクライン派のやり方になると勘違いしている治療者
の問題)」であったと、今では思います。
但し、「自分の考えでは正しいと思われることを、正直に患者さんに伝え続けようと
する姿勢」そのものについては、治療者として非常に重要な態度だと思います。
もちろん、「患者さんに最もよく伝わる、と思われる形で伝えること」とか「自分が
正しいと思うことを患者さんに伝え続けることは、患者さんにどのような印象を与え
るか、そしてその結果、治療場面でどの様な対象関係が再演されることになるかに
注意を払うこと」なども、同様に重要だと思います。
治療の進んだ(ここでは、治療関係において波乱万丈を乗り越えてきた、という
意味です。。。)ある患者さんが、次のような治療者のイメージを語ってくれた
ことがあります。「先生は、自分にとって受け入れにくいことをいつも言うけれども、
自分のことを真剣に考えて率直に言ってくれていると感じるため、信頼することが
できます」このイメージは、精神分析的精神療法の治療者が目指すべき方向を指し
示してくれているように、私は思います。
>>353 浦島さんがここでおっしゃっていることは最もだと思います。こういう態度以外、
精神分析をおこなう治療者としては最終的に選択肢はないように思います。
ただ、クライアントの立場の私としては、いくつかの疑問が残ります。それは、精神
分析自体と心理士の力量に対する信頼仕切れない不安みたいなものだと思う。
クライアントの無意識を分析し解釈し整理し伝えるのが精神分析だと私は考えて
いるわけですが、無意識なんて言うのはクライアントも自分が何を考えているか分から
ないわけですから、心理士の力量も相まって心理士に勝手な解釈されて、本当は自分で
考えてもいないことを伝え続けられることによって、誘導される危険性ってないのかな
というものです。
その辺の疑問については治療者としてどう対処されるのでしょう。
Context!Context!Context!
and fallibility
クライン派の解釈と、もの想い(Reverie )とは、どのような関連があるのでしょうか?
>>354 マスターソンの本に、「馬車で言えば患者は馬であり、治療者は御者であって、決して逆にはなら
ない」という一節がありました。治療者は後ろの方で進む方向をコントロールすることはあっても、
前から馬を引っ張っていくものではない、ということですね。
たとえば患者さんが親子関係に踏み込んでいきたいなら、母親や父親への転移が生じてくるでしょ
うし、それを治療の中で扱っていくことになるでしょう。しかしそのように転移を扱わない治療も
あり得ますし、自問自答のような形で進んで行く治療もあります。そこら辺は、患者さんのニーズ
によっているし、無意識的な過程で生じているのではないかと思います。
治療者としては、患者さんの意識的、無意識的なニーズを汲み取っていくことで、「その辺の疑問」
が減っていくのを期待するわけです。
続きです。 354でおっしゃっていることは、抵抗として扱うこともあり得るでしょう。セッションを 続けて休んだり、黙して語らずが続けば、ですが。 あるいは「身をゆだねることへの不安」とか、「人を信じられない」ことかもしれません。 私にそう理解できる時がきたら、そして自分自身の「ゆだねられない」部分で共感できれば、 「人に身をゆだねる、っていうのは、なかなかできないことですね」 と伝えるかもしれません。
>>354 ごめんなさい。横レスになっていました。
>>358 >かわずさん
説明ありがとうございました。
それでも心理療法とは心理士の力量によっては
患者を心理士の思う方向へ誘導するという危険性を孕んでいる
治療法のような...気が....
>361 マリリンはん、そもそも心理療法に限らず、治療というもの自体が治療者の (よかれと)思う方向に患者さんを誘導するものではありまへんか(あくまで 患者さんのコンセンサスを得た上ででっせ)。治療の方向性を全くの患者 まかせにしたり、成り行きまかせにするようでは、誠実な治療者とは言え へんのとちゃいまっか。
そうそう。「自己治療」なんて道も、あり得るわけですが。 マリリンさん、あなたが「人の手を借りる」ことを、どう思っているのかによるん じゃないかな。
>>357 え〜、馴染み深いタームなのでw、一応説明しますと、
もの想いは、赤ちゃんが泣いたりむずかったりするのを母親が受け入れ、
「この子はなんで泣いているのだろう?」と心をおもいめぐらせるものですよね?
で、精神分析においてCl.から発せられたメッセージ、分析の空間、Cl.とTh.の交流を
含めて(多くはCl.の言語的・非言語的メッセージをコンテイメントしたうえで)、
「何を表しているのだろう?」とTh.が想いを巡らせる事が、分析セッションのReverieかと。
そこで初めてCl.に返されるメッセージが「解釈」だと理解しています。
>>361 荒れそうな話題なので一言だけ。この内容は「間主観性」の問題で数多く討議されています。
ここでは書ききれませんので「間主観的感性―現代精神分析の最先端」
岩崎学術出版社 (丸田 俊彦先生)を参照の事。
>>354 >心理士に勝手な解釈されて、本当は自分で考えてもいないことを伝え続けられる
ことによって、誘導される危険性ってないのかな
以下はあくまでも、自由連想法を使った精神分析又は精神分析的精神療法を行って
いる、という前提で書きます。
(無意識においても)考えていないことを伝え続けられた場合、患者さんは普通、
「この人はわかってくれない」と思ったり、「何だこいつ」と怒ってしまったりして、
その治療を続けようとはしないと私は思います。例えば、「他の治療をしてください」
と言ったり、基本的にその治療者のところには通わなくなったりするでしょう。
したがって精神分析又は精神分析的精神療法においては、「治療者によって誘導される」
ということは、基本的には起こらないのではないか、と私は思います。
但し、「患者さんの無意識」と「治療者の無意識」が共謀してしまった場合は、
問題が起きると思います。例えば「厳しく言われたいと無意識に思っている患者さん」
と「厳しく解釈したいと無意識に思っている治療者」が出会ってしまった場合、
そこには「治療者が厳しく解釈し、患者さんがそれを喜んで受け入れる」という
「病的な関係」が成立してしまう訳です。
しかしこれは「治療者にとっても無意識」ですから、「治療者が誘導している」
訳ではありません。精神分析の治療者になるための訓練を通して、自分の無意識を
出来る限り知る必要があるのは、例えばこのようなことを防ぐためだと思います。
>>361 ,
>>364 「患者さんを治療者の思う方向へ誘導しているのか」「患者さんが行きたいと思う
方向を理解して伝えようとしているのか」というのは、実際のところ専門家の間でも
大きな問題になっていると思います。
例えば、最新の「精神分析研究」(精神分析学会の学会誌です)で岡野憲一郎先生は、
間主観性理論の立場から、「クライン派は、患者さんを治療者の思う方向へ誘導して
いるのではないか」と批判されているようです。(「そのような懸念を持つ」という
間接的な書き方をされていますが)つまり、マリリンさんと同じような批判を、
クライン派に対して向けておられる、ということです。
ここでは詳細は省きますが、クライン派の一人としては、「あの岡野先生ですら、
実際のクライン派の臨床はご存じないんだな」と少し驚いているところです。
その意味では、マリリンさんの書き込まれたことは、非常にタイムリーな話題だと
思いました。
皆さん忙しい中、説明して下さってありがとうございました。 私は、今、必要に迫られて河合隼雄の「ユング心理学入門」を読んでいるのですが タイプのところで、外向的、内向的、思考、感情、感覚、直感というカテゴリーで 人のタイプを分けるという考え方が書かれています。これを自分に当てはめて 考えるとどれも、しっくり来ないんです。私こんな単純じゃないわと思いました。 エニアグラムを読んだ時の方がまだ納得できたような。 それでも、このユングの考え方は臨床心理士の上層部が支持している考え方なんですよね。 そうすると、心理士の中には少なからずこのような分類を、当てはめて来る人たちが いるわけだ。多分、私はどうやって言われてもこのような考えは受け入れられない ので、浦島さんがおっしゃるように、この場合は私は治療中断の道を選ぶのでしょう。 治療を拒否できる選択肢があると言うことで私は安心しました。 ただ、特殊な例ですが厚生労働省が作ろうとしている触法精神障害者施設や措置入院の 人たちには拒否できる選択肢はあるんだろうかとも思いました。
>但し、「患者さんの無意識」と「治療者の無意識」が共謀してしまった場合は、 >問題が起きると思います。 これは、難しい問題ですね。要は患者さんが本当はそうではないんだけど、自分は こういう風になりたいと無意識的に考えている場合と治療者が考える患者 さんの抱える問題が同じようなモノだった時ですよね。この場合はとんとん拍子で 事実とは違う解釈が患者さんに受け入れら、誤った方向に治療が進んでいく可能性が あることですね。 これには、心理士側がそういう事実があると言うことを認めた上で、それを防ぐ技術力や 理論面での向上を図るしか対処方法がないように思います。 私が言うまでもなく、ここにいらっしゃる皆様は当然、色々策を講じていらっしゃる 事でしょう。
>>367 河合先生は、日本人で初めてユング派の分析家の資格を与えられた方です。
ユングの存在もほとんど知られていなかった時代に、ユングの業績を紹介したのが、
マリリンさんが読んでいる本だと思います。そう考えてお読みになったら、いかがですか?
ちなみに私は臨床心理士ですが、「ユング心理学入門」は読んでいません。他の著書は
何冊か読んでますけどね。
確かに河合先生は臨床心理士会の会長を永らく務められていますが、臨床心理士だからと
言ってユングを勉強しなければならないなんてことは、一つもありません。精神分析、
ロジャーズ、ゲシュタルト、行動療法、システムズ・アプローチ……、とよって立つ
ところは色々です。日本生まれの内観療法や動作療法、森田療法をやっている人もい
ます。まさに百花繚乱ですが、お互いの立場を尊重しています。
河合先生が講師の事例検討は何回か出たことがありますが、ユングの話や専門用語は
ほとんど出てきません。ごく普通の日本語で話しておられます。
分析家の解釈が、クライエントもしくは患者にとって誘導的である云々…という 議論は、たしか60年代にロジャースによって指摘され、分析へのアンチ・テーゼと して、来談者中心療法(PCA)などが生まれたという経緯もあったかと思います。 しかし、分析だけではなく、カウンセリングなどの方法をとるにしても、カウンセラー の構えによって、誘導的にはいくらでもなると思います。 学派の違いによる部分も少なくないかもしれないけれど、カウンセラー、治療者の心的 態度も大きく影響するような気もしました。 だから、少し前にも議論されてたような、教育分析や構造化されたSVが必要になるので しょうかね。
>>369 かわずさんやそれ以外のみなさんへ 荒れネタだと思わず書き込んで
しまいました。
現在いる臨床心理士がユング派だけではなく、色々な立場から仕事をしていることは
私も重々承知しているつもりです。
ただ、どうも納得できないことを言う人たちも、この板には大勢いらっしゃるわけで
私も他のスレで書き込めば良いことを、このスレに書き込んでしまいました。
m(._.)m ゴメンナサイでございます。
age
>>366 岡野先生の論文に目を通してみました。いつもの岡野節とは違って、はっきり主張を打ち
出している印象を持ちました。「いつもの岡野節」は生まじめな人柄そのままに仔細に検
討していって、読み手としてはそれぞれうなづけるのだけれども、「これ」という目玉が
ないような文章になるのです。結論も岡野先生の手で相対化されてしまうこともあるし。
物足りないって言う人もいるけど、私は決して嫌いじゃないんです。悩みながら進んでい
って良いんだな、という感じが自分の中に生まれるのかもしれませんね。
岡野先生はしばしば教条主義に反発しておられるのですが、ご指摘の一節はクライニアン
が教条主義に陥っているように見えているのでしょうか。それとも松木先生へのあてつけ
に書いてる……なんてことは、あり得ないでしょうかね。
白熱したやり取りを、小此木先生が天上からニコニコしてご覧になっているような感じが
します。
>>373 かわずさんの書き込みに触発されて、私が366番で言いたかったことをもう少し
書いてみます。
岡野先生の論文でドクターAは、次のようにコメントされていると思います。
「治療者が自己開示すること−謝る事ーによって、患者さんが自己開示するー治療者に
対する怒りを表現するー機会を奪ってしまった」これを岡野先生は、次のように
理解されているようです。「治療者が古典的な意味での中立性から逸脱したこと−
謝った事−が、治療者によるアクティング・アウトであるとして注意された」
そしてこの岡野先生の理解は正しくない、と私は思います。理由は以下の通りです。
治療場面においては、「できるだけ多く患者さんが自己開示できること」が重要で
ある、と私は思います。しかし岡野先生の介入によって患者さんは、逆に自己開示
できなくなっています。したがって、岡野先生の介入は良くない介入であった、と
私は思います。そして結果的にこの介入は「古典的な意味での中立性から逸脱」して
いますが、「逸脱したこと」そのものが大きな問題なのではなく、「この介入に
よって患者さんが自己開示できなくなったこと」が重要な点である、と私は思います。
表現を変えると、「古典的な意味での中立性」は、岡野先生が考えておられるような
「守らなければならない、権威を伴った規則」や「教条主義の表れ」ではなく、
「単に治療をうまく行うための経験則」や「定石」に過ぎないのではないか、
ということです。
実際のところ私自身も、以前「古典的な意味での中立性」を意図的に逸脱した経験が
ありますが、結局うまくいかずにやめました。もちろん、「意図的でない逸脱」が
「起きてしまう」のは良くあることですが、できるだけ起こさないように注意して
います。
他にクライン派の理論の理解の仕方について、反論したい部分がいろいろありますが、
細かくなるのでここでは書きません。
>>374 もし私が岡野先生の立場だったら、少年に謝っていると思います。治療者個人の責任でないにしろ、
治療サイドの都合で面接を終了するのですから、謝るのが筋ではないかと思うのです。「別れ際」で
あって、治療者と患者の関係がそこで終わるのですから。
「今日で終わりだよ」とだけ告げれば、少年はそこで怒りを表出できたかもしれませんが、見捨てら
れた思いが残っていくのではないでしょうか。7歳の少年にとって、どちらがその後の人生を生きや
すいと思うのか、それは治療者の価値観でしょうね。
私が興味があるのは、なぜ岡野先生が「岡野先生の立場」を作られたのか、ということです。初めから
終了の日が明確だったのに、岡野先生は治療を延長できるようにかけあっています。やはりダメだった
としても、最終回の前のセッションで「次でおしまいだよ」くらいのことは言えたのではないでしょう
か。岡野先生は罪責感を防衛するために、面接の中で分離を扱うことを意図的に避けてこられたのでは
ないかと思うのです。
このエピソードは「自然流 精神療法のすすめ」(星和書店)の10ページに載っているので、興味のある
方で、精神分析研究が手に入りにくい方はご参照ください。
376 :
没個性化されたレス↓ :03/12/14 00:44
itidoagesasetekudasai
>>375 私が読んだ限り明記はされていないようですが、この「謝ったセッション」は
多分、終結から最低でも2−3ヶ月以上前のことではないか、と私は思います。
なぜならば、「終結」の意味を一緒に考え、それを患者さんにとって有意義な
ものにするためには、最低でもそれくらいの時間が必要であり、岡野先生
(又はその時のスーパーバイザー)がそのことを御存じなかったとは考えにくい
からです。
もし万が一、終結2−3ヶ月前より後に終結を伝えざるを得ない状況になって
しまったら、私もかわずさん同様、謝ると思います。但し、「謝ってすむ問題
ではない」と思いますし、自分の命にかかわるほどの事態でなければ、その
ような状況はできるだけ避けるようにすると思います。
したがって岡野先生が、もし終結時又はその直前くらいのセッションで「終結
のことを始めて話された」とするならば、「謝ったこと」よりも「そんな時
まで終結のことを話さなかった」ことの方がずっと大きな問題になると思い
ます。そして基本的に、「古典的な意味での中立性からの逸脱」などという
議論をされる資格はない、と私は思います。でも多分、岡野先生はそのような
方ではない、と私は思いますが。。。
実は私は昔、岡野先生の書かれた論文で、「自己愛」についていろいろと勉強
させていただいたので。。。
>>377 おっしゃる通りですね。私は「謝ったセッション」が最終回だと思い込んで読んで
いました。岡野先生がレジデントの頃の話とは言え、スーパーバイザーがついている
のに、「今日で終わりだよ」は考えにくいですね。
星和書店の「自然流 精神療法のすすめ」の方が若干詳しい記述になっています。
≪私は例外的に長期の治療が許されることもあると聞いていたので、いろいろレジデント
のプログラムの担当者に掛け合ってみましたが、無駄でした。私は何か自分のトレーニ
ングの都合だけで少年と一年だけ会って、それで去ってしまうことに後ろめたさを感じ
ました。
そこで私は彼と別れる時に、「非常に残念だけれど、都合でもう治療を終了しなくては
ならなくなったんだよ」と言いました。≫
このくだりを読むと、最終回に少年に謝ったようにとらえた方が自然ではないかとも思い
ます。
ちなみに同書は読みやすく、精神療法の実践の中で治療者が疑問に感じる点が取り上げられ
ています。
「精神分析研究」最新号に興味深い部分がありましたので、遊べそうな「おもちゃ」 として書き込ませていただきます。祖父江先生の論文です。<47(4): 486-494,2003> 患者さんは40代の女性で、前治療者との約8年に及ぶ心理療法が中断となった後、 紹介にて来院されました。どうやら貪欲な母親転移のため、前治療者が機能できなく なってしまったのが中断の原因であったようです。 現治療者との治療2年目。治療者は「面接場面が息苦しくなるほど、治療者の原初的な 愛情を求める患者さんの思い」で充満し、「自分が追い詰められている」「まるで 患者さんが自分の体内に強引にもぐりこんでくるような強烈な圧迫感がある」と 感じていました。その時点で治療者は、次のような解釈をしました。 「まるであなたは、理想の場所が私の体内や子宮の中にあるような気持ちにとらわれて、 私の中に侵入し、寄生し、安住したがっているようですね。そうなれば私との分離の ない理想世界が手に入ると思っているのではないでしょうか」 さて、この解釈をどう考えますか、というのがお題です。「精神分析研究」をお持ちの 方は、筆者他2名の先生による、この解釈についての意見も載っていますので、それも 御参考になさって下さい。
>>379 浦島さん、話題提供有難うございます。
オリジナルの論文もざーっとですがw、目を通しました。
セッションの前後を見るとこのセッションから三者関係に移行しているという論調ですね。
それと「寄生」という言葉に情緒的に反応したクライエントとその言葉を巡ってのコメントですね。
漏れ自身、祖父江先生がここで伝えた「寄生」ということばは、論文中でも何故か触れられていないのですが
Bionの「寄生的」(Parasitic)な関係かと。Cl.がTh.にむけて羨望を送り続けていたため、このような「息苦しいセッション」
が続いたのではないかと連想してみました。Cl.は妊娠の経験があり、実は妊娠中にこの「寄生」されているという感覚が
あり、この言葉がピンとくるのかなとも思いました。(このあたりは述べられていないですけどね)
漏れ自身の空想では、「寄生」という言葉は相手の持っているものを奪い食い尽くす状態です。
この脈絡からだと、奪おうとする「攻撃性」が「寄生」という言葉から想起され、コンテナーであるTh.を
攻撃している自分の心的状態に気づいたような気がします。この為、対象が統合化され抑うつポジションに
シフトしたのでは無いかと。と、同時に3者関係へもシフトしたのかなと思いました。
祖父江先生が「無意識的に」選んだ「寄生」という言葉が、実はセッションの関係が羨望で満ち溢れている
という風に読めたというのが私の感想です。
>>379 >「まるであなたは、理想の場所が私の体内や子宮の中にあるような気持ちにとらわれて、
私の中に侵入し、寄生し、安住したがっているようですね。そうなれば私との分離の
ない理想世界が手に入ると思っているのではないでしょうか」
Pt.がP−Sポジションにあるとき、あるいはその態勢でいることが優勢なとき、この
解釈を行うと、却ってPt.の行動化や混乱が生じないものでしょうか。。。
そうかといって、この場合、どんな対応がいいのか・・・
また、思いついたらレスします。
>>379 解釈の言葉は、まるで患者さんが「精子」であるかのようにも聞こえますね。
セクシュアリティーが逆転し、治療者の胎内に患者が侵入してくるかのようで、
そうとう治療者が被害的(P-S)になっている感じを受けます。
論文にあった古賀先生のコメントである「怒りのベクトル」は、私にはすんなり
入って来ます。もし私が治療者だったら、もとよりこんな高級な?言葉は思いつ
かないので、もっとストレートな表現をしていたでしょう。
「私が母親になろうとしないので、あなたは腹を立てているのですね。あなたが
私に母親を求めれば求めるほど、私には無理難題になってしまい、腹が立ってき
て困ってしまいます」
とでも、言うでしょうか。
>>379 論文にざっと目を通して感じた、素朴な疑問です。
この患者さんの生活歴と症状、現実適応からすると、なぜ前治療者に8年間、祖父江先生
に5年間(それも治療者の退職による終結)もの治療を受けなくてはいけなかったのか、と。
治療者のご苦労は大変なものだったと思いますが、もしかして分析治療の中で病理が拡大さ
れていった可能性はないのでしょうか。
もう一点、素朴な感想として、祖父江先生の治療にしても論考にしても、先達の理論にとら
われ過ぎている印象を受けました。理論を患者にあてはめていくような治療では、そもそも
お互いに窮屈だったのではないかな?と。込み入った論考についていけない私に、「羨望」
が生じて「価値下げ」をしているのかも知れませんが。
「 そうですねー。 あなたが私を子宮の代わりにして、母体の中で安堵したいと思ったとしても、 そうなれば、あなたは、また生まれてこなければなりませんね。 これはひょっとしたら、あなたは生まれ変わってやり直したい、という 気持ちが出てきたのかも知れませんね。 こころが生まれ変わるための痛みは、人間が一番最初に生まれてくる 時と同じほどに辛いかも知れませんが、、、 そのことについて、いまのあなたに一番気にかかることは何ですか?」
「生まれ変わる・・・? そんなことは、死なないとできないじゃないんですか、先生」 「死なないとできない。そうかな。」 「・・・だって全部一からやり直すにはそれしかないじゃないですか」 「一からやり直したい。・・・それは、こころもからだも全部、ですか」 「そうです。・・・全部。」 「それは、そのからだのままで、こころで生まれ直すのでは、十分 ではない、と感じるのかな」 「・・・はい・・・」 「うーん。それはどうしてでしょうね」 「私は・・・ぜんぜん別の人間になりたいんです。まっさらなとこから やり直して・・・」 「つまり・・・新しい人生が欲しい、ということかな・・・?」 「そう、そうなんだと思います。でもできない・・・」 となったとしたら、先生方ならどうお話を進められますでしょうか。 (そもそもそんな流れにいくことはない、というのは別にして)
この流れでいくと、自分の母体にしようとしている相手に精神的に堕胎される という恐怖や敵意から、 「私が生まれ変わりたがってるといったのは先生じゃないですか。 私が死ねばいいと思っているんだ」 など言い出し自殺をほのめかす等の問題行動も出てきそうだし、 こちらの道にいってみる方はおられないでしょうが、 もしよろしかったらご意見お聞かせ下さい。 (もちろん、寄り道になるのでスルー、としていただいても結構です。)
>>379 今から考えると、私が369番の「お題」を出した理由の一つは、祖父江先生の解釈の
中にある「子宮」「侵入」「寄生」などの言葉に対する「違和感」だったようです。
皆さんの書き込みを読ませていただいた結果、この「違和感」を少し明確にできた
ように思います。
>>380 この患者さんに関して言えば、「対象が良いものを持っているがゆえに攻撃する」
という「羨望」よりも、「対象の持っている良いものがとにかく欲しい、その結果が
どうなろうと」という「貪欲さ(greed)」が、より大きな問題になっているのでは
ないか、と私は思います。そしてreverieさんが指摘されている通り、「寄生」という
言葉には、「治療者の持っているものを奪い食い尽くす」という(いわば積極的な)
「攻撃性」を含んでいるように思います。
つまり患者さんとしては、「治療者を攻撃するつもりなどなく、とにかく治療所の
持っている良いものが欲しい」(治療者の原初的な愛情が欲しい、治療者との一体化
した関係が欲しい)と感じているのに対して、治療者は「あなたは私を積極的に攻撃
している」という解釈をしてしまっているのではないか、と私は思います。
>>381 >Pt.がP−Sポジションにあるとき、あるいはその態勢でいることが優勢なとき、
この解釈を行うと、却ってPt.の行動化や混乱が生じないものでしょうか
例えば患者さんが「治療者の体内に強引にもぐりこむ」などの「行動」をしている時
(つまりPSポジションにある時)には、そのことを「患者さんに伝わる形で」
「できるだけ批判していると思われないような形で」伝えてあげないと、患者さんは
その「行動」を止められず、より混乱してしまうと私は思います。
かわずさんが指摘されていますが、この治療者が「寄生」という言葉を使った時、
治療者は「自分が食い尽くされてしまう」というPSポジションになっていたのでは
ないか、と私も思います。但し解釈全体のトーンは、「患者さんが治療者と分離する
ことのつらさ」を理解しようとしており、Depポジションであるといえる、と私は
思います。(このような用語の使い方をしていいのかは良く分かりませんが。。。)
>>382 >「私が母親になろうとしないので、あなたは腹を立てているのですね。あなたが
私に母親を求めれば求めるほど、私には無理難題になってしまい、腹が立ってき
て困ってしまいます」
前半については、あまり正確ではないように私は思います。というのは、この解釈を
する前には、多分患者さんは怒っていなかった、と思うからです。
患者さんがこの解釈によって怒った理由は、二つあると私は思います。一つめは、
「寄生」という言葉によって、治療者に「あなたは私を攻撃している」といわれたと
感じたからだと思います。二つ目は、「治療者が(正しい理解に近い)解釈をする」
という行為自体を、「治療者との一体化を拒否された」と感じたからだと思います。
ここで後者は、治療経過上不可避の「怒り」だと思います。但し前者は、「この
治療における、技法上の問題点であった」といえるのではないか、と私は思います。
かわずさんの解釈の後半部分については、再び成田先生のやり方を思い出しました。
「無理難題」という言葉、「腹が立つ」という「治療者の自己開示」によって、
患者さんがしている「強引な行為」について、患者さんが批判されていると感じ
させず気付かせようとしている、うまい解釈だと思いました。
但し私は、こういう解釈はしないだろう、と思います。というのは「治療者が腹を
立てている」ということを「開示」して「事実」として伝えることは、治療経過に
与える影響が大きすぎて、患者さんがそれによってどのように感じたかという気持ちを
きちんと理解して伝えていく自信がもてないからです。
>>383 >祖父江先生の治療にしても論考にしても、先達の理論にとらわれ過ぎている印象を
受けました。
私は、似てはいますが少し違った印象を持ちました。それは、「子宮」「侵入」
「寄生」などの、「専門家同士で議論する時に用いる用語」を、祖父江先生が
患者さんに対して使ってしまっているのではないか、ということです。
ついでに、私ならどう伝えるか考えてみました。多分できるだけ「患者さんを批判
している」という印象を与えないで、患者さんが治療場面でしたいることを客観的に
描写しようと努力すると思います。たとえば、「あなたは、私の中に入り込んで
一体になるしか方法がない、と感じておられるのだと私は思います」とか。
そしてできれば、その背後にあると思われる不安を伝えようとすると思います。
「そしてそれは、私があなたよりも大切な何かを持っていて、そのためあなたのことを
忘れてしまう、という不安を感じておられるからだと思います。」
但しこの後半部分は、祖父江先生が後から書かれている情報を利用していますので、
いわば「後出しじゃんけん」ですが(笑)。実際の治療場面では、多分いろいろ
仮説を立てて患者さんに伝えてみて、その真偽を一緒に考えていく、ということに
なると思います。
>>383 >この患者さんの生活歴と症状、現実適応からすると、なぜ前治療者に8年間、祖父江先生
に5年間(それも治療者の退職による終結)もの治療を受けなくてはいけなかったのか、と。
この患者さんにとっては、「対象(夫、治療者など)との一体化した関係を維持する」
というシステムが、「現実と本当に接触することに伴う苦痛(=抑うつ不安)」を
回避するために働いていたように思います。つまりこのシステムは、患者さんに対して
「心的退避」を提供するために機能していたということです。
このようなシステムが大きな役割を占めている患者さんの場合、週一回五年間という
期間は、短いとはいえないにしても、決して長過ぎることはない、と私は思います。
この意見に、私が個人的に祖父江先生を尊敬している、というバイアスがかかって
いるであろうことは否定しませんが。。。(笑)
>>384 −386
掲示板上では、あまり責任のあることは書けないので、感じたことをそのまま書かせて
いただきます。あまり深く考えずに、軽い気持ちで読んで下さい。
このやりとりを読む限り、この患者さんが何を感じ、考えているのか、少なくとも
私には良く分かりませんでした。この治療者が考えていることは、なんとなく分かる
ような気がしますが。。。
精神分析的精神療法の基本は、まず患者さんが何を感じ、考えているかということを、
できるだけそのまま理解しようとする、そしてわからない部分や不思議に思う部分は
患者さんに直接聞いてみる、ということだと思います。
>>390 ,391 浦島さん、レスありがとうございました。
>この解釈をする前には、多分患者さんは怒っていなかった、と思うからです。
は、なるほどその通りだと思いました。
ところで祖父江先生の解釈の言葉は、患者さんに言ったことそのままなのでしょうか。
ロールプレイのように読んでみると、15秒から20秒ですが、内容はさておき、まず長い
と感じました。実際の治療では、何度かに分けて話していたのではないかと思いますし、
もし一度にこう伝えていたならば患者さんに入らないのではないかと思います。
治療では平易な言葉で語りかけていたけれども、論文にまとめる時にこのような形に
なった、と思いたいですね。
>>384-
>>386 で質問したものですが、浦島先生、ご説明非常に判りやすく
助かりました。特に
>>392 の
>つまりこのシステムは、患者さんに対して 「心的退避」を提供するため
>に機能していた
の部分には、なるほど、と納得させられる部分があります。
参考になる貴重なお話を拝見できて有難く思います。
ご無礼いたしました。
>>388 浦島さん、コメント有難うございます。
ふと思いついたのですが、祖父江先生のこの解釈はセッションの中で
ご自身が非常に苦しい状況でされたのではないかと。貪欲さと
恐らくCl.の投影性同一視のコントロール(この場合は支配かな?)により
一体感のある万能的な母親役を強いられたのではないかと。
で、恐らく祖父江先生ならいつも使わないようなテクニカルタームが
解釈の中でモロに表れてのではないかと空想してみます。
ただ、使われたタームが「ペニス羨望」や「口唇期固着」のようなw
記号としての専門用語ではなく「妊娠」にまつわる一見「テクニカル
タームに見えない専門用語」の為、クライエントにしっくりくる感じで
取り入れられたのかなとも思いました。そういう意味では「名は体
を表す」用語なんでしょうねw。
ただ、クライエントの「妊娠と寄生」の結びつきやすさから、このクライエントの
妊娠に対する空想はまさしく「寄生」、すなわち母親(クライエント)のものを
全て奪い取る対象としての胎児という割と精神病的な空想を体験していたのでは
ないかと思った次第です。
貪欲さを攻撃性として解釈する場合は一般的な経過はよく知らないのですが
この症例では良い対象を奪うことで実は破壊しようとしていたという
気づきが、Th.をコントロールすることから、痛み・後悔を感じる
抑うつ態勢へ促したように漏れには見えますた。
>>387 387番に書きましたが、私は皆さんの書き込みの結果、自分の感じていた「違和感」
について明確にすることができました。したがって、感謝すべきなのは私のはずですが。。。
今読み返してみて、かわずさん、395さん、reverieさんが、逆に私に対して感謝
している、という不思議な状況が起きているのに気付きました。単に、私が礼儀知らず
なだけかもしれませんが(笑)。。。笑っていていいのだろうか、とも思いますが。。。
というわけで、遅まきながら皆さん、どうもありがとうございました。
>>394 >祖父江先生の解釈の言葉は、患者さんに言ったことそのままなのでしょうか。
確かに「論文を書く時点で、格好をつけてしまった」ということが起きていたかも
しれない、と思いました。
現在のクライニアンは、患者さんに対しては、例外的な状況を除いて、基本的には
「子宮」「ペニス」「乳房」などのいわゆる「解剖学的用語」を使わないと私は思い
ます。これらの言葉が、患者さんに変なイメージを与えてしまう傾向があることは
否定できませんから。
>>396 >恐らく祖父江先生ならいつも使わないようなテクニカルタームが解釈の中でモロに
表れたのではないかと
実は私は、そのように考えたいようです。「尊敬する祖父江先生が、患者さんに
対して『解剖学的用語』を使うような不注意なことをされるはずがない」というわけ
です。本当のところはわかりませんが。
>良い対象を奪うことで実は破壊しようとしていたという気づきが、Th.をコントロール
することから、痛み・後悔を感じる抑うつ態勢へ促したように漏れには見えますた。
患者さんが治療者に対して「何か」をしている場合(例えば「良い対象を奪うことで
実は破壊しようとしていた」)、「治療者が患者さんを批判している」 と理解される
ことなく、その「していること」を患者さんに「中立的に」伝えることは、 非常に
難しいことだと思います。
患者さんの「していること」を伝えなければ、患者さんはいつまでもDep Position
になれませんし、 たとえ伝えることが出来ても、自分が批判されていると感じれば、
患者さんは PS Posittionになってしまうでしょうし。。。
祖父江先生の解釈に対する私の批判は、この問題に関係していると思います。
浦島さんへ お題の状況は、患者さんの「していること」で治療者が追い詰められていくと、 「していること」の裏に張り付いている、患者さんの不安や哀しみが見えなく なってしまう、と言っても良いのでしょうか。 私はそんな時は、まずはそうしなければ生きていけない患者さんの運命、みた いことに思いをはせることが多いような気がします。そうすると、少し距離を 置けると言うか、「それぞれの運命を背負って生きている者どうし」の感じが 出てくるようです。
祖父江先生の症例の解釈を巡っていろいろ興味深い意見が出てますね。
>>401 失礼、途中で書き込んでしまいました(汗)。
唯、この解釈によりCl.が迫害的にならずに抑うつポジションに移行した(と思うのですが)のは、
それまでの治療における関係性の脈絡が有ったのではないかと。
まさに「侵入的」にならないTh.がした解釈だからこそ、Cl.が内的探求をしたようにも見えます。
職人芸みたいですねw
深い解釈や気配りのない直面化がCl.の迫害感を増強させる場合が有る、というのは
難しい問題ですし、それを上手くやってのけるTh.は、
結局の所、前言語的なメッセージで(例えば声のトーンや言い回しなどで)
いかに抱えているかというところなんでしょうねぇ。
少なくともCl.が投げ入れたものに対して、Th.の「もの想い」が働かず、怒りや困惑の為
投げ返すような解釈や直面化は、Cl.の内的な探求に役立ちませんよねぇ。
自戒の意味も含めて(汗)
>>400 >お題の状況は、患者さんの「していること」で治療者が追い詰められていくと、
「していること」の裏に張り付いている、患者さんの不安や哀しみが見えなく
なってしまう、と言っても良いのでしょうか。
はい、そう思います。もちろん祖父江先生に関して言えば、その後すぐに気付いて
おられますから、一時的なものであったと思いますが。
>まずはそうしなければ生きていけない患者さんの運命、みたいことに思いをはせる
ことが多いような気がします。
自分を振り返ってみると、患者さんと一緒にいる時自然に「思いをはせる」ことが
できるようになった時、治療者として進歩できたと感じたように思います。それ以前は、
患者さんに対してうまくコメントできるかどうか心配で、いろいろな解釈を前もって
考えておいて、練習(?)することがよくありました。
患者さんの連想に耳を傾けているうちに、自然に解釈が浮かんでくるようになること
(つまり、患者さんの連想を聞きながら「考える」ことができるようになること)
また、自分にはそれができるという確固たる自信が持てるようになることは、治療者
としての進歩の一つの段階として重要である、と私は思います。
>>402 >この解釈によりCl.が迫害的にならずに抑うつポジションに移行した(と思うのですが)
のは、それまでの治療における関係性の脈絡が有ったのではないかと。
その通りだと思います。但しこの「解釈」については、390番に書きましたが、
「患者さんを不必要に怒らせている」のではないか、そしてよりよい解釈の仕方が
あったのではないか、というのが私の意見です。
他の人や自分が実際にした「解釈」について、後からより良い「解釈」の仕方を
考える、という作業を続けていくことによって、実際の治療場面で自分が少しでも
良い「解釈」ができるようになっていくのではないか、と私は考えています。
(ここで言う「良い解釈」とは例えば、患者さんの迫害感を増強させずに、患者さんに
内的探求をしてもらえるようになるような解釈のことです)
もちろん「理想の解釈」などというものは存在せず、少しでもそれに近づこうと
努力し続けるしかない、と思いますが。
そして「前言語的メッセージ」については、「(いくら隠そうとしても)伝わって
しまうもの」であるとは思いますが、それを積極的に治療手段として利用することは、
私は反対です。これは多分、「本当は私が、その患者さんのことを正確には理解して
いない」という事態をごまかすために「前言語的メッセージにより抱える」という
説明が使われてしまうことを、私自身が恐れているためだと思います。
>>404 浦島さん
>「前言語的メッセージ」については、「(いくら隠そうとしても)伝わって
>しまうもの」であるとは思いますが、それを積極的に治療手段として利用することは、
>私は反対です。
これは激しく同意します。Th.に伝える事・尋ねる事・沈黙する事がすべからくCl.を理解しようとする所から
現れるTh.の声の調子であったり何気ない仕草であったり言い回しであったりがある種のメッセージであるのかなと思います。
そういう意味ではTh,がCl.を理解しようとする心のあり方に引き続く「言葉以外の何か」なのかもしれませんね。
大体、前言語的なメッセージを表に出すと大げさだったりわざとらしかったり水商売ぽかったりしますしねw。
>>405 S.タラチョウの「精神療法入門」という本に、「治療的驚き」というのがあったの
を思い出しました。たとえば患者さんがとんでもなくお馬鹿なことをしているとして、
治療者がちと大げさに驚いてみせる、ということだと記憶しています。
患者さんを非難することなく、「馬鹿さかげん」を伝える技法なのでしょうが、自分
では使ってみようとは思いませんでした。役者をするのは苦手です。
このスレには、いつもROMったり、たまに書き込んだりして、いろいろ教えてもらい ました。 来年も、よろしくお願いします。
>>406 かわずさん、どうも。
>患者さんがとんでもなくお馬鹿なことをしているとして、
>治療者がちと大げさに驚いてみせる
うーん、これ、統合失調症の患者さんの面接の時に多いですw>自分。
成田先生の本だったかな〜、「感情表現は大きく、でもわざとらしくならないように」という項目がありましたね。
力動的なアプローチだとしないですねぇ、直面化の時に「自問自答で独り言をいう」のを心がけるくらいかな?
>>407 こちらこそ。乱文・中途半端な理論の振りまわし陳謝です(汗
遅ればせながら、今年もよろしくお願いします。 と、書いてみたのですが、今日は話題がないので、ご挨拶まで。
私も遅ればせながら(サーバがアク禁でずっと書き込めませんでした) 今年もよろしくお願いします。 ロムだけじゃなく話題に参加できるようにがんばります。
最近、浦島さんや、Reverie さん、かわずさんたちは、おかわりないでしょうか。 なんだか、良スレがストップしてしまって、チトさびしいですね。 何か質問でもと思ったのですが、ほどよく適当なものが見当りません。 どなたか、お願いしまーす。
姫はじめ 今年はいつに なるのやら なんてね。失礼しました。
>>412 ワラタ
さて、レスがつくかどうか微妙なネタを振ってみます。
Cl.の治療中断例について。
2度とこないCl.は流石に理由は闇の中ですがw、
一度中断して再度受診した症例についての精神病理やその取り扱いについて
皆さんはどうされてますか?
ネタ振り、ありがとうございます。 定石としてはまずは再来を歓迎し、中断の意味を同定・共有し、治療目標を確認するという 作業になるでしょうし、中断に至ったメカニズムはそれなりに推測はされるでしょうが、そ んな教科書的なことを書いてもReverieさんの振りに応えていないような気がします。 連想されたのが、何年か前に会っていた「つかず離れず」の人でした。話が深まってい くと、何かしらの理由でキャンセルの電話が入る。2、3ヶ月してから、また来る。何 セッションかして、またキャンセル……と、同じことの繰り返しでした。 私はこの人には、「つかず離れず」であることを、直面化していませんでした。キャン セルや「具合が悪かった」話を、そのまま聴いて受け容れていました。あまりうるさい ことを言うと、怖がって来なくなるだろうと思っていました。 おそらく彼女は身を委ねることへの不安が強かったのだと思いますが、ほとんど解釈さ れないまま、私が退職することになって他の治療者を紹介しました。次の治療者に対し ても、「つかず離れず」だったようです。 ところで「二度と来ないクライエントの理由」は、放置しないでよくよく考えてみるの のが良いと、私は思います。来なくなるのには向こうの事情もあり、そしてこちらの事 情もあるからです。そういうケースこそ「傍目八目」がよく効くので、スーパービジョン を受けるなり、症例検討に出してみるなりすると勉強になります。
>>414 ども、即レス有難うございます。
あ、漏れの場合、書いてなかったですね。
「ん〜、しばらくぶりだね。ここしばらくはどうしていたの?」
と聞くかな?イヤミにならないように注意を払って聞くようにしてますが(汗)。
BPD+アルコール乱用のPtが中断した時は、漏れに対する父親転移(情緒としては「怖い」
というもの)を解釈した(させられた?)時かな。父親のひどい仕打ちを語りながら
「あ、先生と話しているとものすごく怖くなってきた」という状態だったので、
「お父さんと二重写しになったのかな?」と尋ねた時でした。
#後になって、迂闊な解釈を反省しました(泣)
ただ、しばらく、してから本当に何もなかったかのようにして現れました。
この中断に対するスプリットもなかなかでしたね。
>>412 かわずさん、お久しぶりです。
実は私、現在真剣に「子作り」に励んでいます。現在何人であるかは伏せますが、
是非とももう一人欲しいので。。。正直なところもう二人でもいいです。。。
ある程度年をとってからの子供は一層かわいい、とも言いますし。。。
というわけで(意味が通じませんが)今年もよろしくお願いします。
>>413 Reverieさん、お題をありがとうございます。
しかし残念ながら私自身は、きちんと精神療法をしていた人で、中断した後再度
受診した、という症例を経験したことがありません。
中断したままという方は、残念ながら少なくとも数例思い出せますが。。。中断の
ショックからある程度立ち直り、落ち着いて考えてみたところでは、「治療者として、
患者さんをきちんと理解できていなかった」「患者さんの病理が、予想したよりも
重かった」などの理由があったように思います。
>>414 かわずさんの書き込みを読ませて頂いて、以前読んだある症例のことを思い出しました。
その症例に対して分析家(パトリック・ケースメント)は、普段なら決してしない
ような「失敗」を繰り返すことになってしまいます。そしてそれらの「失敗」が、
実は患者さんの「無意識的な空想」を意図せずに再現してしまっていた、ということを、
彼は描き出しています。「精神分析のセッション」という場面において、「患者さんの
無意識」が、どれだけ正確に「再演」されることになってしまうか、ということを
示すためにです。
この症例は、4年半の時点で一度(中断ではなくて)終結していますが、その後
患者さんの希望で再開しています。そしてこの「終結」そのものが、患者さんにとって
外傷的な体験であった「弟の誕生」によってもたらされた、「母との良い関係の終了」
の「再演」になっていた、ということが、次第に明らかになります。つまりこの
「終結」そのものにも、「無意識的な意味」があった、ということです。
多分、すべての「中断」「終結」は、「患者さんの無意識」を何らかの形で「再演」
しているのでしょうね。但し、私たちが実際に気付くことができるのは、そのごく
一部にしか過ぎないのではないか、と思います。
参考のために出典を書いておきます。但し、遅くとも今年中には、翻訳が出ると思います。
Casement, P.: Learning from our mistakes. Brunner-Routledge,2002.
>>416 浦島さん、こちらこそどうぞよろしくお願いします。
私も諸事情が許せば、あと二人くらい居ても良いのですが……。
二人までは「子ども」、三人からは「子どもたち」と、妻が言っていたものでした。
でも今になって「あと一人、お願いします」と言ったら、「勘弁してえ」と言われる
でしょうね。
>>414 こういう発想はご趣味ではないかもしれませんが、治療者への同性愛願望を防衛
するために、「怖いお父さん」が出てきた、という読み方もできないでしょう
アルコールとBPDとの書き込みから、勝手に男の患者さんと思い込んでいるの
ですが……。
皆様、お久しぶりです。今年もよろしくお願いします。
>>419 かわずさんって、男の人だったんですね。私はずっと、とても素敵なおばさまかと
思っていました。ごめんなさい。
思考がだいたい単純にできているので、こんなに優しくお話できるのは、女性だわ
と思っていたのです。
XYZ様も少しは、見習えば良いんだわ。まったく、本当に。
Reverieさん、訂正ばかりですみません。420は「読み方もできないでしょうか?」です。
>>422 「おばさんかと思った」とのご指摘は、これまで周囲のひとたちから受けてきた評価から
外れていないようです。むかし病院で働いていた時には「そばに○○ちゃんがいても、何
も気にならないね〜」なんて、更衣室の看護婦さんたちにからかわれました。亭主持ちの
女友だちには、気安く泊めてもらえるし。
私の父親が生きていれば嘆くでしょうが、まあ別にいいか、と。
>>423 マリリン笑った。(^∇^) アハハ!
間違えて、本当にごめんなさい。
>>417 どもです。
いやぁ、予想通りというか、このネタはちと書きにくいネタですね(笑)。
構造化したセッションで無く、一般外来やA-T splitのAの立場を勤めていると、
出くわす事が多いのでちと書いてみました。
以前に、漏れがAの立場の症例が治療中断し、その後「何ごともなかったかのように」受診した
場合の公開SVで、Tのセッションではや過ぎた治療終結の話題が出た為、分離不安が操作できずに
自ら中断したのではないかというコメントを聞かせてもらった事があります。
実はこの症例でTが別の個人SVを受けていたのですが、「このケースは中断しても、
必ず元に戻ってくる」というコメント(神託?(笑))をうけており、その通りになったので
印象深い思いがあります。非常にPsychoticな退行をした症例なんですけどね。
漏れ自身は舞い戻ったのを聞いて、非常に両価的な思いでしたw。
自分自身がこのネタを選んだのはなんでかなぁと思っていたら、 今日、中断していた患者さんが再度受診して「あ〜なるほど」 と思いました。 多分、Th.として漏れ自身が過剰な心配していた(させられていた?)か、 セッション自身の行く末を見てみたい気があったのでしょう。 そういう意味では、ちと、治療者として気をつけないといけない立場なのかもしれません。 #ケースメントの本は楽しみですね。
>>420 残念でした(笑)。くだんの症例は実は女性です。
BPDの行動化としてのアルコールとして取り扱っていました。
流石に、こういう症例は抗酒薬+断酒会のゴールデンコンビに導入するのが
なかなか難しくて苦労したのを憶えています。
僕自身はあんまりPTSDの概念は好きでは無いのですが、この症例だけは
それを考えておかないといけないかなぁと当時思っていました。
今から考えると、その話題に焦点がいくのが辛かったための中断だったのかも知れません。
ただ、面接の場で、Psychotic Anxiety様の不安があったので、この症例に関しては
何故か「また再受診するだろう」と予測していました。
#精神病性の退行を示す症例は、中断しても再度立てなおしのチャンスがあるのかな?
>>415 実は今気付いたのですが。。。
この中断の結果治療者は、「迂闊な解釈を反省」しており、それに対して患者さんは
「何事もなかったかのように現れて」います。つまり、治療者が「ひどい仕打ちを
する父親役」になっている(させられている?)だけではなく、患者さんが治療者に
対してこっそりと、「ひどい仕打ちをする父親役」を取っている、とも言えるように
思います。
但しこの解釈が正しいかどうかは、正直に言って自信がありません。というのは
ちょうど今日、「(治療の終結という)私が患者さんに対してしているひどいこと」
によって生じた不安に対処するために、「患者さんも私に対して、こっそりとひどい
ことをしている」ということに気付いた、という経験を私自身がしているからです。
つまり私は、reverieさんの患者さんの中に、自分自身の患者さんを見ている可能性も
あると思います。
>>428 どもです。
>患者さんが治療者に
>対してこっそりと、「ひどい仕打ちをする父親役」を取っている、とも言えるように
>思います。
頂いたコメントが多分、Cl.の内的現実に最も近いのではないかと思います。
実は、再度来られた時に風俗関係に入ってしまっていて、漏れ自身落胆させられた感じがありましたから。
そういう意味では、治療の中断を、過去の対象関係の再演と考えるとすんなり理解できますね。
唐突ですが……。 催眠と自由連想は全くの別物、あるいは相容れない技法として考えられているよう ですが、本当にそうなのでしょうか? 私は対面での面接しかしていませんが、患者さんが「自由」に「連想」のおもむく ままに話している時は、意識が変容しており、軽いトランス状態に入っているので はないかと思うのです。 だからと言ってどうだ、と言うこともないのですが……。どうお考えですか?
>>430 >患者さんが「自由」に「連想」のおもむくままに話している時は、意識が変容して
おり、軽いトランス状態に入っているのではないか
フロイトが行っていた頃の精神分析は、「患者さんの連想する言葉そのもの」に重点が
置かれていたと私は思います。それに対して現在では、「患者さんの連想する形式」に、
より重点がおかれるようになっていると思います。具体的には患者さんが、「どんな
調子で語るか」「どんな態度で語るか」「どんな様式で語るか」などです。
したがって、例えばある患者さんが「『自由』に『連想』のおもむくままに」
「立て板に水を流すように」話しているとすれば、実はその背後には「何らかの気持ち」
が存在している、と考える分析家が、現代では多いのではないかと思います。例えば
それは、何らかの不安(分析家に怒られる、分析家に軽蔑される、など)から、目を
そむけたいという気持ちかもしれません。
なぜ「背後に何らかの気持ちが存在している」と考えるかというと、「『自由』に
『連想』のおもむくままに」話している、ということは、(例え直接目には見え
なくても)自分の背後に確実に存在しているとわかっている「人間としての分析家」
に対して、「直接話しかけていない(おそらく、不安のために話しかけることが
できない)」「自分で自分に話しかけている」とも言えるからです。
>>431 431番を書いて思い出したことがありますので、書き込ませて頂きます。あるベテランの
精神分析家の言葉です。この方はかなりお年のおばあちゃんですが、とても
エネルギッシュで魅力的な方です。
精神分析の面白いところは、「何か新しい発見」があると、ドラマチックに流れが
変わり、極端にその方向に走ってしまうことである。これは例えば、「内因欲動説」
「死の本能論」などによって起きた。そして「クライン理論」も、そのような「新しい
発見」の一つであり、その後しばらくは極端にその方向に走ってしまった。しかし
また面白いのは、これらの「新しい発見」からしばらくたつと揺り戻しが起こり、
「新しい発見」も考えに入れた「ほどほどの場所」に全体が落ち着いてくることだ、
だそうです。
ちなみにこの分析家は、フロイディアンです。
>>431 浦島さん、興味深いレスをありがとうございました。
「自由」に「連想」のおもむくままに」話している状態について、むしろ私は
ポジティブなイメージを持っていました。浦島さんのレスにあった捉え方は、
「精神分析は自由連想によっておこなわれるが、自由連想はなかなかできるも
のではない」というパラドックスを踏まえたものではないかと思います。
私の言った「軽いトランス状態」は、クリスの言う「自我による自我のための
退行」(regression in the service of the ego)と言っても良いかもしれま
せん。何をどのように語ったとしても受け容れられる確信を持てるからこそ、
背後に存在する分析家に語りかけることができるのだと思います。
>>433 正直に言って、かなり(笑)考えました。実は私も日本にいた時、患者さんが
「『自由』に『連想』のおもむくままに」話している状態について、どちらかというと
ポジティブなイメージを持っていたように思います。ところが現在の私は、そのような
ポジティブなイメージを全く持っていません。
そこで、なぜこのような変化が私自身におきたのか考えてみました。もちろん、
こちらでの経験が関係していることは疑いありません。(私が実際に経験したり
聞いたりした限り、「『自由』に『連想』のおもむくままに」話している患者さんは
ほとんどいませんでしたし、いたとしてもそれは「病的」な状態であり、何らかの
「解釈」が必要でした。)しかしこれはもしかしたら、「精神分析の本質とは何か?」
という問いに対する、私自身の考え方の変化が関係しているかもしれない、と思い至りました。
現在の私は、「精神分析の本質」を次のように考えています。「意見の異なった二人の
人物が、一人は問題を抱えて援助を求める患者、一人は援助をする能力のある分析家
という役割を持って出会うことにより、『第三の新しい意見』が生み出されていく、
という創造的な過程」それに対して日本にいた時の私は、次のように考えていたように
思います。「何らかの問題を抱えた人が患者として、発達を助けるという役割と能力を
持った分析家と出会うことにより、次第に発達していく過程」
そして、患者さんが分析家に対して「何をどのように語ったとしても受け容れられる
確信」を持って話すことは、前者の考え方によれば「どちらかと言えば異常に近い
態度」であり、後者の考え方によれば「どちらかと言えば正常に近い態度」に
なるのではないか、と思います。そしてこれは、似たような現象に対して、
シュタイナーのように「心的退避」といういわば「悪い」レッテルを貼るか、
ウイニコットのように「移行空間」といういわば「良い」レッテルを貼るか、という
違いにもつながるのかもしれません。
かわずさん、「創造的な過程」につながるような書き込みをして頂き、どうもありがとうございました。
>>434 ストンと腑に落ちるレスをいただき、ありがとうございます。納得でした。
我ながらしつこい(笑)ですが、もう少しおつき合い願えると嬉しいです。
>「何らかの問題を抱えた人が患者として、発達を助けるという役割と能力を
持った分析家と出会うことにより、次第に発達していく過程」
たしかに、私はこう考えています。でもそれは精神分析的な治療のみならず、
箱庭や描画などを用いた治療や、グループワークなどに関してもなので、「精神
分析的な治療の特異性」は含まれていないようです。「発達を助ける」なら、な
にも精神分析などしなくても良いではないか、と言えるのでしょうか。
そして「第三の新しい意見」は、次の何かにつながるのでしょうか。あるいは創
造的過程そのものに価値があるのでしょうか。
>>435 434番にも書きましたが、かわずさんが問題にされているのは多分、「精神分析の
本質とは何か?」という大きな問いに関わることだと思います。したがって、現在の
私の力でどこまで書けるかわかりませんが、できるだけ努力してみます。
>「第三の新しい意見」は、次の何かにつながるのでしょうか。あるいは創造的過程
そのものに価値があるのでしょうか。
これは両方正しいと思います。「次に『第三の新しい意見』が、再び『別の意見』と
出会うことによって、『第四の新しい意見』が生じる」という「創造的な過程」の
繰り返しそのものが、「精神分析という営み」である、と私は考えます。この過程に
おいて、自分の意見のみに固執したり、相手の意見に飲み込まれてしまったり、羨望の
ために相手の意見を攻撃したりすることなく、「考える」ことができるためには、
「心の柔軟さと強さ」が必要だと思います。これが、「精神分析という営み」を通して、
患者さんと分析家の両方が「一種の理想として目指していく態度」ではないか、と
私は考えます。
象徴的にはこの「態度」は、「父」「母」という「異なったもの」が出会って「結合」し、
「子供」という「創造的なもの」が生み出されるという過程を、受け入れることが
できるようになること、と言えるかも知れません。この「結合するもの」は、時には
「分析家」と「患者」でしょうし、時には「分析家」と「分析家の思考」でもあるでしょう。
続きます。
>>436 >「発達を助ける」なら、なにも精神分析などしなくても良いではないか、
と言えるのでしょうか。
「精神分析」は「発達理論」を持っていますが、これは前述した「第三の考え」と
同じようなものだと私は考えます。つまり「新しい発見」と出会えば、別の新しい
考えに置き換えられていく可能性のあるものに過ぎない、と思います。そして
「精神分析」とは、「精神分析の発達理論に基いた『正しい』発達の方向を教える」
ものではなく、いわば「上述した『強さと柔軟さ』を身に付けてもらうことによって、
その人なりの『正しい』発達の方向を見つけてもらう」ものだと、私は考えます。
但し人によっては、「『正しい』発達方向」を指示してもらい、それに従うことを
好むかもしれません。そしてそのような方は、そうすることによって例えば
「社会適応が良くなる」などの良い結果を得られるかもしれません。したがって
このような方は、無理して「精神分析」を受ける必要はないでしょうし、例えば
「認知行動療法」などの方をよりよく利用できるかもしれません。そして
「自分なりの『正しい』発達の方向を見つけたい」と考える傾向のある人の方が、
精神分析という営みに向いている、と言えるかも知れません。
ちょっと横スレごめんね。ちょっとだけ荒らさせてね。 心理学厨が何をするか知ってもらいたくてね。 何もおこらなかったら、このスレはスルーてお話続けてといてね。 サー、自治厨の皆さんテンプレ貼ったら。
>>436 >>437 浦島さん、深まったレスをありがとうございます。もう少し整理したいので、
よろしかったらおつき合いください。
>「強さと柔軟さ」を身に付けてもらうことによって、その人なりの
「正しい」発達の方向を見つけてもらう
に、たとえば「抑うつポジションの増大」(「エディプス・コンプレックスの
克服」でも、「投影による防衛から抑圧による防衛へ」でも、「自己愛対象の
成熟」でも良いのでしょうが)は、どうからむのでしょうか。あるいはからん
でいないのでしょうか。
フロイトの「無意識の意識化によって、エディプス・コンプレックスの克服を
目指す」精神分析は、「強さと柔軟さ」を身につけるものと言うよりは、「正
しい発達の方向」に進んでいくものだったと思うのです。もちろんフロイトの
考えた精神分析と、浦島さんの考える精神分析が違っていたとしても、それは
それで良いのでしょうが。
>>439 ちと、横レスなのですがエディプスの克服と抑うつポジションのワークスルーはブリトンの信念と想像に詳しく書いていた気が。
父と母の(セクシャルな)関係を「知らない」ということで維持できることが抑うつポジションを促していたような(このあたりは
うろ覚えです)
>>434 浦島さん
>「『自由』に『連想』のおもむくままに」話している状態について、どちらかというと
>ポジティブなイメージを持っていたように思います。ところが現在の私は、そのような
>ポジティブなイメージを全く持っていません。
この言葉、自由連想法を実際使っていない僕にもなんとなく考える事がありました。
自由連想が提唱された背景に、基本的には神経症の防衛機制が前提にあり、抑圧
が中心であったと思います。フロイトが考えた自由な連想というのは恐らく神経症水準の
防衛機制が極力入らない無意識に手が届きやすい状態ではなかったかと(当たり前ですが)。
ただ、連想が本当に自由な意味で行われると、ひょっとするとこの状態は
Bionの「連結への攻撃」が行われた場合では無いかと。結局のところ、様々な概念が
パラパラに象徴化されずに(β要素として)出てきてしまう場合かなと空想してみました。
こうなると精神病性人格が出現し、Cl.は非常に苦しい状態になりそうですね。
自由連想法の「自由」は何に対して自由なのか?という問題になるのでしょうか・・・。
>>439 >たとえば「抑うつポジションの増大」は、どうからむのでしょうか。
私の書いた「強さと柔軟さ」は、「抑うつポジション」と呼ばれる心的態度に
含まれるものだと思います。また「投影を引き上げることができる」ためには、
心的な「強さ」が必要だと思います。そして436番に書いた通り、この過程は
象徴的には「エディプスコンプレックスの克服」そのものです。
但しここで書いておきたいのは、精神分析における(「抑うつポジッション」などの)
「理論」は、一般に言うところの「理論」とは異なっている、という点です。
「精神分析理論」は、特に経験が少ないうちは、治療をする上で「指針のようなもの」
になり得ると思いますが、「精神分析における本当の交流」をするためには妨げに
しかならない、と思います。例えば私自身、セッションの間に患者さんが涙ぐんだり
すると、「やった、この人もやっと抑うつポジッションに入った」などと喜んで
しまうことがありました。もちろんこれは「異常な逆転移」であり、「精神分析」に
おける治療者と患者さんの間の「本当の交流」を妨げるものでしかない、と思います。
このように、「精神分析理論」は、セッションにおける「本当の交流」を妨げるもの
でしかない、と私は考えます。
このことは以前、「臨床精神医学を語る」トビに書いたことがあります。よろしければ、
御参照ください。(376番、400番、411番)
>>439 >フロイトの「無意識の意識化によって、エディプス・コンプレックスの克服を
目指す」精神分析は、「強さと柔軟さ」を身につけるものと言うよりは、「正
しい発達の方向」に進んでいくものだったと思うのです。
その通りだと思います。例えば彼の教育分析は、「エディプスコンプレックス」と
「両性性」を理解できれば、それで終わりだったそうです。今では考えられない
ことですが。。。
現代において実際に精神分析を行っている人たちの中では、おそらくフロイトよりも、
私と同じように考える人の方が多いのではないか、と私は思います。少なくとも私の
周りでは(フロイディアンを含め)フロイトのように考えている人を知りませんし、
国際精神分析学会誌でそのような趣旨の論文を読んだこともありません。
>>441 >連想が本当に自由な意味で行われると、ひょっとするとこの状態はBionの
「連結への攻撃」が行われた場合では無いかと。
もちろんこれも含まれると思います。しかしそこまで重症の方でなくても、例えば
次のような場合もあると思います。
その患者さんはセッションに遅刻してきたため、治療者に怒られるのではないか、
と無意識に心配している。その結果、本人も理由がわからないまま「現在の政治は
どうなるべきか」という、自分だけに興味のある複雑で込み入った話を、延々と
続けている。
つまりこの患者さんは、いわば「人間としての治療者と、直接話をすることを避ける」
ために(本当に話をすると、怒られてしまうかもしれないからです)いわば、
「話しているふり」をしているわけです。そしてこれは表面的には、「自由に連想の
おもむくままに話している」ということになる訳です。
ちなみに「連結への攻撃」の場合、治療者の逆転移は「意味が分からない」「考え
られない」「無理やり何かを押し込まれている」など、私のあげた例では「退屈」
「面白くない」などになりやすいのではないか、と思います。
>>443 >国際精神分析学会誌でそのような趣旨の論文を読んだこともありません。
少し断定的に書きすぎたかもしれません。「少なくとも最近は」とすべきだったと思います。
素人ですが、437で「正しい発達の方向」といった言葉に違和感を感じました。 その人なりの「正しい」発達という意味とのことですが、発達に「正しい」とか 「間違った」とかあるのでしょうか? ユング心理学の入門書を読んだことあるのですが、ユングのいう「個性化」という 言葉のほうがしっくりくるのですが、正しい発達は精神分析で一般的に 使われているのでしょうか?
>>442 >>443 ごていねいなレスをいただき、ありがとうございました。
治療者の手を借りずとも「第三の新しい意見」を自分で育てられるようになること
が精神分析の目標であり、その培地を作る営みが自由連想と解釈だとすれば、自己
完結した語りは自由連想とは言えない、と言うことですね。
>>446 >「正しい発達の方向」といった言葉に違和感を感じました。
>発達に「正しい」とか「間違った」とかあるのでしょうか?
御指摘の通り、発達において、絶対的に「正しい」「間違っている」方向というものは、
現実的には存在しないと思います。437番で私が『正しい』と『』を使っているのは、
それを表すためです。(つまり「いわゆる、カッコつきの『正しい』」という意味です)
但し、精神分析には100年以上の歴史があります。そして、その間臨床経験が集積
された結果、現在では「この方向に進んでいるのであれば、まあまあ、より発達・成熟
していると言っても良いのではないか」という、大まかな合意のようなものが存在
します。それが、かわずさんが439番に書き込んでおられる「抑うつポジションの増大」
「エディプス・コンプレックスの克服」「投影による防衛から抑圧による防衛へ」
などの言葉であらわされる方向です。
私とかわずさんの議論は、上記の理解をお互いに共有している専門家同士である、
という前提のもとに行われているものです。したがって、ここに書いたことと矛盾
しているように感じられる部分があるかもしれませんが、ご了承ください。
>>447 >治療者の手を借りずとも「第三の新しい意見」を自分で育てられるようになること
が精神分析の目標であり、その培地を作る営みが自由連想と解釈だとすれば、自己
完結した語りは自由連想とは言えない、と言うことですね。
はい、その通りだと思います。
但し441番でreverieさんも書いておられますが、「自由連想とは何か」という問題が
残るように思います。しかしこんな大きな問題には深入りしたくないので(笑)。。。
少しだけ自分の経験を書き込ませて頂きます。
自分自身の受けた分析を振り返ってみて、「自由に連想のおもむくままに話し続けた」
ことは、一度もありませんでした。私自身が止まってしまうか、分析家が解釈して
止めるかのどちらかでした。そして、「連想がうまくいっている」と最も感じることが
できたのは、「分析家が何か解釈して、それに対していろいろな考えが浮かび、
それを基に再び分析家と話しあい、一層理解を進めることができた時」でした。
「患者が話すことをただただ黙って聞いており、数週間して初めて、分析家が挨拶
以外のこと(解釈)を話した」と揶揄されるような、フロイトの時代(及び、古典的な
フロイディアンの時代)の「自由連想」と現代のそれとは、全く違うものである、
ということなんでしょうね。
「自由に連想のおもむくままに話す」という言葉から、私は過去と現在の間、空想と現実 の間、自己理解と解釈の間、親子関係と転移感情の間などを、往来して話していくことを 想像していたようです。 それに対して浦島さんは、言葉をコミュニケーションの道具ではなく、コミュニケイトし ないための道具として使うような話し方を想像されていたようですね。 長らく精神病院に入院していた、男性患者を思い出しました。彼は精神病ではなく、表面 的な現実適応はとても良い人でしたが、性倒錯であることが推測されました。病棟では誰 に対しても人なつっこく話しかけて、とりとめのない話が延々と続くので、さすがの患者 さんたちもへきえきして、近寄らないようになっていました。 彼は「自分は話をするのが大好きなんだけど、相手が疲れるまで話してしまって、だれも 相手をしてくれなくなる」と私に言いました。一見、嘆いているような感じではありまし たが、深刻味はありませんでした。私が 「それは、うまくいってるんじゃない?」 と言うと、彼は「え……」と呆然としました。「バレるなんて、思ってもみなか った」という感じでしょうか。その後で、コミュニケイトするためではなく、コ ミュニケイトしないために言葉の絨毯爆撃をしかけてきたことが、扱われました。 浦島さんと、かけ離れたことを考えていたわけではなさそうです。 そして「自由連想とは何か」と言う振り出しに戻る、のですが。
>448 解説ありがとうございます。446です。 ついでに、もう1つ。エディプスコンプレックスは、現代の日本での 神経症の核心部分を構成しているケースってかなり多いのでしょうか? なんとなく、現代の日本人ではエディプスコンプレックスってそれほど 問題ではないような気がするんですが、、、
>>450 かわずさん
>彼は「自分は話をするのが大好きなんだけど、相手が疲れるまで話してしまって、だれも
>相手をしてくれなくなる」と私に言いました。
これですよ、これw。いや、最近「ビオンへの道標」読んでいるんですけど、精神病性人格で
「行動様式としての言語」というのがあって、ふとこういうのかなと思いつきました。
話すこと自体が行動になっていて、思考やコミュニケーションになっていない言語というのが
これにあたるのかなと思いました。力動的な精神療法ではきちんと取り上げないといけ無い事なんでしょうね。
>>450 >浦島さんと、かけ離れたことを考えていたわけではなさそうです。
この書き込みを読ませて頂いて、非常に心強く感じました。というのは、日本では
「『自由連想法』及び『それを用いた精神分析的精神療法』」と「それ以外の力動的
精神療法」の「相違点」が強調されすぎる傾向もあるではないか、と私は感じている
からです。
例えば成田先生は、以下のように話しておられました。「自由連想法は、治療者の
沈黙によって無理やり患者さんの不安を高める、非常に人工的で不自然な方法である」
一面正しいとは思いますが、このような考え方は、「自由連想法の特殊性」を強調
しすぎているのではないか、と私は思います。精神分析に対してアンビバレントな
成田先生らしい、といえばその通りなのですが。
もちろん「患者さんの不安を早めに解釈してあげずに治療者が沈黙していると、
どんどん不安が高まって、患者さんがつらくなってしまう」など、「自由連想法の
特殊性」があるのは事実ですが、「それ以外の力動的精神療法」との共通点も、
非常に多くあると私は思っています。
>>451 >エディプスコンプレックスは、現代の日本での神経症の核心部分を構成している
ケースってかなり多いのでしょうか?
「エディプスコンプレックス」の定義はいろいろありますが、ここではフロイトの
言う「陽性エディプスコンプレックス」として書きます。つまり「子供が、異性の
親に対して愛着し、同姓の親に対して対抗心を向けること」という意味です。
結論からいえば、この「エディプスコンプレックス」は、現代人においても大きな
問題になっていると私は思います。ただ、フロイトの時代に比べ現代の精神分析では、
「エディプスコンプレックス」の象徴的な面により重点が置かれていると思います。
具体例をあげます。ある男性が、警察などの権力に対しては強烈に反抗し、社会的
弱者に対しては異常に好意を持ってしまう傾向があり、その結果日常生活に支障を
きたしていたとします。そして彼が精神分析を受けたところ、「警察などの権力」は
彼にとって「強くて厳しかった父親」を、「社会的弱者」は「父に虐げられていた
やさしい母親」を象徴していることがわかったとします。するとこの男性の行為は
「母に対して愛着し、父に対して対抗心を向ける」という「エディプスコンプレックス」を
「象徴」しており、彼はそのために悩んでいた、と言える訳です。
現代の精神分析では、「ある人が実際に子供の頃、父親に対して反抗し、母親に
対して愛着していたか」と言う点よりも、それを「象徴」する行為を現在行っている、
という面により重点が置かれるようになっています。これを専門用語では、「過去の
再構成」よりも、「今ここで(here and now)」を重視するようになっている、
と言います。
>>452 Reverieさん
レスありがとうございます。
>話すこと自体が行動になっていて、思考やコミュニケーションになっていない言語
は、精神病的な不安につき動かされているような印象を受けます。彼の場合は、むし
ろ防衛的と言うか、先制攻撃を加えていた感じでしょうか。そして「本当の話をしな
いために、話す」「話したいのに、相手にされなくなる」という倒錯が起きていまし
た。ついでに言えば病気でもないのに?、精神病棟を気に入ってしまうのも倒錯的で
すね。もっとも性倒錯にしても、背後には精神病的な不安があることには、変わりな
いのでしょうね。
H.S.サリバンの本に「精神病質的流暢性」という言葉があったのを、思い出しました。
>>454 浦島さん
エディプス・コンプレックスを対象関係論で語ると、そういうことになるのでしょ
うね。でも欲動論で語ると、「性的衝動にかき立てられるが、その一方では処罰さ
れる不安があって、間に挟まれたまま身動きできなくなる」ということになりはし
ないでしょうか。
どうも私には、こちらの方がリアルに感じられるというか、「人を狂わせる力」を
持っているように感じられるのですが。
>>456 私の子供の友達の父親というすごく限られたサンプルなのですが(笑)、
最近雷オヤジというのをみないですねぇ。倫理観や懲罰的な道徳性というより
「母親よりやさしい」「子供をしかった事が無い」という父親が多いみたいです(あくまで印象ですが)。
あと、妻や(その態度を撮り入れした)子供から馬鹿にされている父親など、少数ですが認めています(悲)。
父親が持つ、ある種の父性が原家族の中で消失しつつある印象を持っています。
その分「ファリック・マザー」が中心になってる気がしますが。
こういう状況で、古典的なエディプス葛藤はどのように変化していくのでしょうね。
案外不変的な無意識で変わらないのかもしれませんが・・・・。
>>453 浦島さん
>日本では
>「『自由連想法』及び『それを用いた精神分析的精神療法』」と「それ以外の力動的
>精神療法」の「相違点」が強調されすぎる傾向もあるではないか
これはどうでしょうねぇ。少なくとも関東のK大の先生方は、今日のセミナーの印象からだと
明確に区別されているようですが、APAのギャバードの著書では「精神分析的=力動的」としていますしね。
このあたり、細分化を嫌うような政治的な背景があるのかもしれませんが。厳密には区分されてない気がします。
ただ、自由連想法は構造が激しく決まっているので別格みたいですね。保健点数も違うし(笑)
>453 >「それ以外の力動的精神療法」 の場合、浦島さんが「臨床精神医学を語る」スレの376番で、 >実際のセッション中に理論を用いるようでは、精神分析又は精神分析的精神療法を >しているとはいえないと思います。 と書かれた、実際のセッション中に理論を用いているもののように理解していました が、この理解は、間違いでしょうか?もし、間違いでないならば、大きな違いだと思います。 どのように強調されすぎていると思われるのか、もう少し教えていただけませんか?
>>456 かわずさん
「性的衝動にかき立てられるが、その一方では処罰される不安があって、間に挟まれた
まま身動きできなくなる」と聞くと、私の場合反射的に、「その対象は何か」と考えて
しまうようです。「性的衝動」であれば「それを向ける対象」は何か、「処罰される
不安」であれば「処罰してくる対象は何か?」という感じです。
もうこれは、自然な感覚のようになっているようです。
>>457 >倫理観や懲罰的な道徳性というより「母親よりやさしい」「子供をしかった事が
無い」という父親が多いみたいです。
我が家の場合どうやら、「(いくら普段はやさしくても)厳しく禁止する父親
イメージ」は、まだ守られているようです。妻も、このイメージを守ることに努め、
それをうまく利用しているようです。妻が「パパに言いつけてもいいの?」と言うと、
どうやら子供達は震え上がるようですから。しかしこれも、いつまで続くのやら。。。
そういえば、10代後半位の子供を持つある分析家(男性)が、「この時代の父親の
役割は、子供に自分が殺されることを許して、なおかつそれを生き延びることだと
わかってきた」と言っていたのを思い出しました。彼も、子育てには苦労している
ようです。
>>458 >>459 reverieさん 459番さん
>自由連想法は構造が激しく決まっているので別格みたいですね。
>もし、間違いでないならば、大きな違いだと思います。
453番で「相違点が強調されすぎる傾向も」と「も」を入れておいて、本当に
良かったと思いました(笑)。「相違点が強調されすぎる傾向だけがある」と
言った訳ではないことになるからです。
458番、459番ともに、御指摘の通りだと思います。そこで私が453番を書いた背景に
ついて、書き込ませて頂きます。 日本にいた時私は、「自由連想法」を行っておられる
先生方から、「『自分は他の人 とは違う、何か特別なことをしているんだ』という
態度」を、何となく感じていました。 (全員に対してではありません、年の為)
そして同時に、(成田先生など)自由連想法を 行っておられない先生方からは、
「『自由連想法』は、ごく限られた患者さんに対して だけ行うことのできる特殊な
もので、普遍性のない技法である」という態度もなんとなく 感じていました。
こう感じていたのは、私だけかもしれませんが。。。
そして、私の感じていたことがもし実際にも存在していたとすれば、これらの態度は
どちらもあまり健康的ではない、と私は思います。なぜならば「自分だけが、特別な
良いもの(=自由連想法)を持っている」「あいつの持っているもの(=自由連想法)は
良く見えるが、実は格好だけで価値などない」と言い合っているに等しいと思うからです。
「自由連想法」が、特殊な方法であることは事実だと思います。しかし「自由連想法を
用いた精神分析的精神療法」が、「それを用いない力動的精神療法」よりも優れて
いるという訳ではない、と私は思います。そして同時に、「自由連想法を用いた
精神分析的精神療法」が、ごく限られた人に対してしか使えない特殊な方法でもない、
と私は思います。ただ、治療のやり方が違い、したがって対象にする患者さんの種類も
(多分)違う、ということだと思います。 つまり、「精神分析的精神療法」と
「力動的精神療法」の間に「相違点がある」 のは事実ですが、「その相違点が強調
されすぎる」のは不健全である、というのが 私の意見です。
>>459 なんとなく459番の書き方は、見覚えがあるような気がするのですが。。。
単に私の気のせいかもしれません。単なる独り言ですので、気にされないで下さい。。。
>462 ご回答、ありがとうございます。 お互いの相違点が優劣であるかのように強調されるのは、 不健全だということですね。 >463 以前にもご質問いたしました。 ◆...器◆の頃から、おっかけています。 浦島様、Reverie様、かわず様はじめ、 皆様に、勉強させていただいております。
申し訳ありません。
>>462 私が思うに、成田先生のお考えは、
「自由連想法は、治療者の沈黙によって無理やり患者さんの不安を高める、非常に
人工的で不自然な方法である」ことを念頭に置いて、自由連想法に近づいていくよう
に治療者も患者も努力してゆくのが精神分析的な治療である
と言う感じではないかと思います。
患者さんへのオリエンテーションは、「私は必要に応じて質問をしたり意見を言った
りはしますが、あなたがお話しになりたいことを話してください」という感じで行っ
ておられたようですし、面接は「では、始めましょう」で始めておられたようです。
自由連想を勧めることと、自由連想を強いることは当然のことながら違いますし、
自由連想を強いることで不安や緊張を高めるのは好ましくない、と言うことではない
でしょうか。
467 :
没個性化されたレス↓ :04/02/15 23:38
このスレは、いつも関心を持って拝見してます。良スレですね。 横レスですが、ここで議論されている分析的な内容は、平均的な診療をしている 医師や、相談・査定業務を行なっているCPなどは、どの程度理解できるものなので しょうか? 相当ハイレベルの内容だと思うのですが、専門家ではこのスレの内容の レベルが平均的なものなのでしょうか。 単なる好奇心から、お尋ねしてみました。 横レス、スマソです。
すみません。あげてしまいました。 以下、sage進行で行きます。
>>467 さん
>ここで議論されている分析的な内容は、平均的な診療をしている
>医師や、相談・査定業務を行なっているCPなどは、どの程度理解できるものなので
>しょうか?
あんまり周りの人が2chしないのでw、内容の難易度はよく分かりません。嫁(心理士ですが)
見せても、「いいかげんにしなさい」と怒るだけで読んでくれないし(爆)。
新しい概念などは、さりげなくふると浦島さんから過不足ないレスが返ってきて嬉しくなってしまいますが(笑)。
ちなみに臨床経験が5年前後の精神科医との勉強会では精神分析理論や対象関係論は
目新しい内容みたいですよ。ただ、その中の一人で集団精神療法に興味を持っている
先生はBionに強く感心をもたれていて自分で勉強されているみたいです。
あと児童をされている先生は一通りは目を通しているみたいですね。
たしかに、若いドクターは分析的なオリエンテーションは、独学するしかない ようですね。医学部の教育課程では、分析のことはおろか、精神療法についても ほとんど触れる時間がないらしい。 その点では、心理の人であると、まだ分析的な「知識」は知ってる人が多いみたい。 しかし、その「知識」が実践に使えるかどうかは、その後の臨床経験次第かも。。
>467 かなりレベル高いんではありまへんか。最近は私もついてけへんさかい、 ROMってますねん。もっとも私は精神分析ではのうて、カビのはえた精神 病理学ですけどなァ。私の周囲には心理も含めて、精神分析にくわしい 人はいてはりまへんけどなァ。
>>469 :Reverie さん
>>471 :yopparai さん
レスどうもです。臨床経験の長い方でも、ハイレベルと思われるほどの内容なんですね。
なんだか、一安心しましたw。
>>471 yopparaiさん、「臨床精神医学」スレの講義は、興味深く読ませていただきました。
勉強になりました。またの書き込み、お待ちしております。
>>472 467さん 私は精神分析は面白いと思っていますが、理論にはうといですし、分析プロ
パーでもありません。間違って?分析学会に出てしまうと、コムズカシイ用語ばかりが
飛び交うディスカッションもあって、勘弁してもらいたくなる時もあります。このスレ
はわざわざ難しく書く人がいないので、助かります。
臨床は「アルファ(出発点)でもあり、オメガ(到達点)でもある」ことが多いですし、
案外「ハイレベル」も「ローレベル」もないと思います。素朴な疑問や感想を、書き込
んでくださいな。
>>466 >「自由連想法は、治療者の沈黙によって無理やり患者さんの不安を高める、非常に
人工的で不自然な方法である」ことを念頭に置いて、自由連想法に近づいていくよう
に治療者も患者も努力してゆくのが精神分析的な治療である(が成田先生のお考えである)
これそのものについては、そうだろうと私も思います。
でも多分、成田先生は単純に、「精神分析(プロパーという意味です)」が個人的に
あまりお好きではない、ということが強く関係しているのではないか、と思います。
最近はどうか知りませんが、以前はセミナーなどではっきりとそう言われてましたから。。。
>>471 yopparaiさん
そんなこと言われずに、是非とも書き込んでください。精神病理の視点からのご意見
など、非常に興味深いと思います。
実は私には、精神病理学は難しすぎると感じて、その方向へは進むことをやめた、
という暗い(笑)過去があります。最初に読んだシュナイダーの「精神病理学」
(でしたっけ?)で、すでにめげてしまいましたので。単科病院に勤めていたことが
ありますので、必要に迫られて勉強はしましたが、やはり一種の「苦手意識」は
今でも払拭できないようです。外傷でしょうか?(笑)
>>471 あ、ヨパライさんだ(ぴーす)。
またカキコしてくださいよ〜。博識を隠すのは反則でつよ(笑)
話の流れと違う質問かもしれませんが、お許しを。 相談室の構造では、どんなものがCl、thにとっていいものなのでしょうか? たとえば、待合室などがない相談室の場合、セッションが修了したClと、次の方が 鉢合わせしないためには、何かよい工夫はないものか。 分析セラピーでは、そのあたりは相当配慮されてるように思い、質問してみました。
>>477 私は自宅にカウンセリングルームを増築しました。自分でしつらえてみると、医療機関
で働いていた時には考えもしなかったことまで、気を遣いました。建物のつくり、内装、
家具……、はては待合に置く絵本や雑誌の類まで、すべてクライエントへのメッセージ
として伝わっていくように感じます。
例えばドア一つとっても、その重さや、内開きか外開きかで、クライエントが受ける感
じは違ってくるでしょう。掃除は行き届いているか、絵や花が飾ってあるか……、理想
を追えばきりがありませんが、できる範囲で調えています。
待合はあるのですが、そこでクライエントが鉢合わせになってしまうのは仕方がないこ
とだと思っています。それを避けるには、凝った造りにする必要があるでしょう。ソフ
ト的に対応するなら、面接の間隔を空けて予約を取るようにすれば良いのでしょうが、
1回数千円でやるにはそれも難しいと思います。
最悪の事態でクライエントの具合が悪くなって動けなくなったら、隣の廊下で休んで勝
手口から帰れるようにはしてあります。
続きです。 「クライエントが安心感を持てるように」はよく言われることですが、実は治療者が安 心感を持てることが大切だと思います。万一クライエントが暴れたりしたら、逃げ道は あるのか。それに家族の会話が漏れて聴こえてくるようでは、とても落ち着いて話など 聴いていられません。なので自宅との通路には、普通のドアと防音ドアを2枚使って音 漏れを防いでいます。 カウンセリングルームと言うと、ソファーセットを想像されることが多いと思いますが、 私は腰が沈むソファーに一日中座るのはとてもがまんできませんし、記録を書きながら 面接をしているので、ダイニング用のセットを使っています。椅子を肘掛つきのものに したのは、クライエントに守られている感じを少しは与えられるのではないかと思って 決めました。 まあ理想と現実(お金)の妥協の産物ですが、自分としては気に入って使っています。 この理想を描くのにも、自分の臨床経験が生きていると感じます。でも医療機関で働い ている時には、「あるものでやる」と言う感じでした。
>>477 精神分析又は精神分析的精神療法が実際に行われている部屋について、私の見た範囲で
書き込ませて頂きます。
まず待合室のない相談室は、私は直接見たことがありません。聞いた話では、待合室が
ない場合、時間を空けて予約を入れるようです。相談室の中には、治療者が勉強したり
するための机、椅子、本棚などがあります。私は気にするほうですので、面接の前には
机の上を(病的な位に?)きれいに片付けておきますが、散らかったままで面接する
治療者もいます。
部屋の中には、椅子が2−3個置いてあります。治療者の趣味によっていろいろな
種類の椅子が使われるようです。また、カウチもありますが、クライン派の場合
これはベッド(日本の診察室にあるような固いベッド)であることが多いです。
但し日本と違い、枕は大きいものを使います。患者さんは靴のままでのることが
多いので、汚れを防ぐためにベッドの足の部分にはカバーが掛けてあります。他に、
小さな机があることが多く、その上にはティッシュが一箱載っていて、患者さんが
自由に使えるようになっています。
壁には絵が2−5枚程度かけてあり、室内には植物が飾ってあることも多いです。
そして、ドアは防音のために2重になっていることもあります。
他にあるものとしては、時計(私の場合、安っぽい小さな置時計ですが)、ゴミ箱、
書類を入れるキャビネット、必要に応じてヒーター、扇風機というところでしょうか。
さて、唐突にですが、平行してネタ振り等(笑) 人格障害圏のインテーク面接や診断面接について(このネタはやってないように思うのですが(汗))。 一番妥当なのはロ・テストを含む人格検査をやればいいのですが、インテーク時の人格障害(BPDや Schizotypal P.D.など)、病態水準、主訴などいわゆる「あたりをつける」コツをみなさんでどぞー。あと、心理療法のみ でするか、他の治療を併用するかの判断など、結構、語る事が多そうなネタだと思うのですが。 では、私から(なんかごーいんな展開ですが(笑)) プライマリケアでも大事だと思うんですが、 まずはBPDを疑う事かな(なんやそれといわないで下さい(汗))。 あと具体的には、 パニックやら強迫やら過換気やら多彩な神経症症状が主訴(これは汎神経症かな?) 若年で抑うつを主訴とする場合。 あと、なんだかよく分からない主訴。 特に自分でPTSDとかACの診断をつけて訪れる場合とか。この時点でカウンターが入ったりしますが(笑)。 こういう場合、BPDの可能性を考えながら聞いていく事にしてますが皆さんいかがでしょう?
私は以前にCl.として精神分析的精神療法を受けた事をきっかけに 精神分析の勉強を始めたもので、Cl.の時の経験なので参考にならない かもしれませんが。>477 当時、私の通っていた分析室は待合い室がありませんで、予約の時刻 ちょうどに来るしかありませんでした。 それもあまり間隔をあけず予約が入っていた様子で、最初の頃は何度か ドアの前で他のクライエントとはち合わせた事もありました。 しかし、しばらくして分析室の窓が前のクライエントが帰ると換気のためか 開けられる事に気づき、外から見てそれを目安に訪れるようになりました。 ただ、これが換気のためでもなく一つの形式のようなものであること (訪れるとドアを開け、招き入れてからカウチにつくまでの間に 大きな動作で窓を閉めるそれ自体が儀式的な様子ですらある)に気付き、 それからは、窓が開いているのをみると「どうぞ」と言われているような 安堵感で分析室に向かった事を思い出します。 まだ閉まっている時は、向いの本屋を冷やかしたりして調整してましたね。 長く通ったわりに室内の事はあまり覚えていないのですが、 落ち着いた室内にカウチと、先生の座る肘付きの木製の椅子、 小さな机、対面の時に使う低めの椅子が二脚、絵は飾っておらず シンプルな花瓶に花に限らない植物が活けてある事を覚えています。 夜遅い時間が多く、明度の低い照明が気分を落ち着けてくれました。
>>481 Reverieさん
「まずはBPDを疑う」は診断的なあたりをつけると言うよりは、後悔しないですむ
ようにと言う、「転ばぬ先の杖」ですね。でしたら「何やそれ」ではなくて、臨
床の知恵ではないでしょうか。
まず「診断面接」をするかどうか、という問題がありますが、これは意見が分か
れるのではないでしょうか。たとえば自我心理学の皆川先生は、確か何回かの診
断面接で定式化をして、その上で治療を引き受けるかどうか伝える、と言うやり
方だったように思います。
そういうやり方に対して、神田橋先生は「診断面接をして、それで引き受けませ
んって言われたら、いったいボクはどうしたらいいんでしょうか、なんて気持に
させるのは良くないヨ」と言われていました。
診断面接と治療面接を分けるのかどうか。分けるとしたら、どんなメリットがあ
るのか。まずは、ここいらへんからどうでしょうか。
>>483 かわずさん
>後悔しないですむようにと言う、「転ばぬ先の杖」ですね。
突然の衝動行為で愕然としないですむ、というようなセラピー進行の予測という意味でも
重要ですね。その他に、過換気発作や抑うつ症状という症候に対する薬物療法を併用する場合
薬物の反応性に関してもどの程度まで期待するかが変わってくるように思います。
例をあげると抑うつに対する薬物療法では内因性のうつ病の方が改善しますが、
人格障害圏の抑うつはきれいに反応しないことが多いのでその見極めも大事かなと。
ただ、診断面接をすることに私自身が慣れていることと、診断面接によりある程度
病態水準に焦点を当てることによってセラピストの治療セッティングに適合するかどうかの
判断は必要でないかと思います。
例をあげると、1)強い限界設定(入院など)が必要な場合の他機関・他業種への連携のスムーズさ、
2)身体的療法が必要になる場合の連携のスムーズさ、3)セラピーの最中に出現した衝動行為を
抑制するためのマンパワーの問題などなどセラピストが設定する治療構造の面でも診断面接は
必要かなと思います。勿論、診断面接をすればこれらが全て解決するとは思ってませんよ(笑)。
あくまで目安として、なんですけどね。
>>484 何が診断面接よ。あんたのカウンセリング受けるか受けないかの決定権は
クライアントにもあることをお忘れなく。
486 :
没個性化されたレス↓ :04/02/23 00:37
横入りで申し訳ないのですが、お教えください。 国分康孝著『カウンセリングの理論』に、反動形成の例として、 弱い人ほどよく怒鳴るというのが、書かれています。 これは、例として適切なのでしょうか? また、置き換えの例として、理科教師のことを好きな生徒が、 理科を好きになるとあります。 これについては、どうでしょう?
マターリと、sageで、よろしく。
>>481 >インテーク時の人格障害(BPDやSchizotypal P.D.など)、病態水準、主訴など
いわゆる「あたりをつける」コツ
reverieさんが、481番に書かれていることに同意します。
他に付け加えるとすると「患者さんの話が、妙にドラマチックな場合」(BPDの方の
場合、対象が理想化されたり価値切り下げされたりと忙しいので)「話をしていて、
妙に自分が振り回される感じがする場合」「患者さんの語る自分(治療者)のイメージが、
実像に比べて良すぎたり悪すぎたりする場合」(これも、治療者に対する理想化と
価値切り下げの結果でしょうね)などでしょうか。
>>481 >>483 >>484 >人格障害圏のインテーク面接や診断面接について
基本的な質問ですみません。reverieさんやかわずさんの書いておられる「診断面接」の
定義は、どのようなものでしょうか?
実は私にとって「診断面接」とは、「力動的精神療法(特に、精神分析的精神療法)を
行うことができる患者さんかどうかを判断する」ためのみに行うものです。したがって、
こちらからの質問は最低限にして、できるだけ患者さんに自由に話して頂きます。
そしてためしに解釈してみたり、病態などについての理解を伝えてみたりして、
それに対する患者さんの反応を見ながら、適応を考えていきます。
そのため、普通に外来をしている精神科医としての私は、私の考える「診断面接」は
行いません。「内省を中心とする力動的精神療法」の適応になる可能性のありそうな
患者さんに対してのみ、合意の上で行う特殊なものです。もちろん「普通の精神科医」
として、治療構造を明確にしたり、限界を設定したりはしますが。。。
>>486 自我心理学はあまり得意ではないので、ラプラシュ・ポンタリス精神分析用語辞典を
参考にしました。
「反動形成」の定義は、「抑圧された欲望に対する反動として形成された、それとは
逆の心理的態度又は習性(例えば露出症的傾向を抑える羞恥心)」となっています。
すると「弱い人ほどよく怒鳴る」の「弱い人」の「欲望」が何であるか、私には良く
分かりません。(少なくとも、いろいろな可能性があると思います)「他人から
攻撃されたい、という欲望を持った人」が、それを隠すために「他人を攻撃する」と
いうのであればわかりますが。。。
「置き換え」の定義は、「ある表象のアクセントや関心や強度が、その表象を離れ、
別の表象へ移ることができるという事実を指す。その場合、この第二の表象は、
もともとはあまり強いものではなく、第一の表象とは連想のつながりで結びついて
いる。」とあります。したがって、「理科教師と理科の例」は、この定義に
当てはまるのではないか、と私は思います。
ものものしいのが好きなんだね
>>489 私の考える「診断面接」は、「診断を目的とした面接」です(あまりにも当たり前
ですね)。この場合の「診断」は精神医学的な病名をつける場合もあるでしょうし、
職場復帰しても大丈夫かを診断する場合もあるでしょうし、多数の項目について行
う場合もあるでしょう。
これが広義の診断面接になると思います。つまり面接を、診断面接と治療面接に分
けて考えています。ただし実際の臨床では、診断面接といえども治療的な要素を含
んでいるでしょうし、治療面接にしても診断的な要素を含んでいます。
これに対して診断の目的にそって構造化された面接は、狭義の診断面接と言えるで
しょう。たとえば発達障害を診断するために、あらかじめ用意された質問を読み上
げて答えてもらうものがあるかもしれません。あるいは浦島さんが書かれている診
断面接も、面接者の役割が規定されているので、構造化された狭義の診断面接と言
えるでしょう。
あくまで自分の考えですが、こんなところでしょうか。
自宅で開業していたりすると、パーソナリティ障害かどうか「あたりをつける」 のは、とても大事なことになってきます。行動化の激しい人は、とても引き受け ることができません。場合によっては、私だけではなく家族の安全も脅かされる 事態も起こり得るでしょうし。 やはりBPDかどうかが、一番の問題です。症状から探るとReverieさんが481で書い ていらっしゃること、プラス行動化でしょうね。また精神病圏との鑑別が問題に なる人は、ストレスがかかると妄想や幻聴が出て来ますが、統合失調症のように は構造化されないようです。 まず話をしていて、「からみつかれる」感じがしてくる人は要注意でしょうか。 また発症のきっかけが恋人や家族との別離であったり、言語化する力に長けて いること、初回から子ども時代の外傷的な体験をいっぱい話そうとする人。家族 が「腫れ物に触る」ような感じで、付き添ってくる人。 余談ですが、自分で「ボーダーラインだと思うんですが……」と言って来る人は、 だいたい間違いがないような気がするんですが、いかがでしょうか。 ま、ともかく、私は面接をする以前に、問い合わせの電話からが勝負です。電話 で「自信がないので」とお断りする場合もありますが、医師と違って断る権利が あるのは、ありがたいことです。むろん治療を断る権利は向こうにもあるし、 「診断面接」では治療者として適当かどうか、クライエントが診断しているとい う側面もあります。
>490 反動形成には、もう一つ例がありました。「劣等感のある人ほど威張る。」 劣等感がある人の欲望を、人より優れたいとと考えると、 その欲望を隠すために、「威張る」というのは、例として相応しくないように思いました。 むしろ、その劣等感そのものを隠すために「威張る」というのなら、分かりますが、それでは、反動形成の定義にあてはまりませんね。 「理科教師と理科の例」は、取り入れのようでもあり、同一化のようでもあると思いましたが、こちらは、自分で精神分析用語辞典を見て、考えてみます。 回答、ありがとうございました。
他責的な抑うつ者=BPD
>>494 >むしろ、その劣等感そのものを隠すために「威張る」というのなら、分かりますが、
これはちょっと分からない。私も劣等感は持っているけれど、それを隠すたため
だけだったら、威張らない、ただ劣等感を持っていることを相手に悟られないように
すれば良いと思う。
私の場合「威張る」行為までしてしまったら、劣等感を隠す以上の感情が動いている
ように思う。
他の人には劣等感そのものを隠すために「威張る」という人がいるのかも知れない
けれどそれは良く分からない。
>>489 どんどん根源的な問題になっていきますね(笑)
私のいう「診断面接」が、症状学的な疾病の診断と精神療法への適応との二つがごちゃごちゃしたところで
書いていたような気がします。
ただ、人格障害圏の診断については病態水準や対象関係の状態は評価し、
あと症候学的に薬物療法が必要かどうか、構造化したセッションを行ったほうが良いのかどうか
を判断しているところがあります。
勿論、力動的なセッションの場合は本人のカウンセリングマインドなどいろいろなファクターが
入ってくるところなんですが。
力動的な精神療法をこなすことができるクライエントの特徴や避けたほうが良い(禁忌、とは言いませんが)
など、ちょっとしたポイントなどがあればなぁと思ったのでネタ振りしてみました。
>>493 >まず話をしていて、「からみつかれる」感じがしてくる人は要注意でしょうか。
>また発症のきっかけが恋人や家族との別離であったり、言語化する力に長けて
>いること、初回から子ども時代の外傷的な体験をいっぱい話そうとする人。家族
>が「腫れ物に触る」ような感じで、付き添ってくる人。
これは私の経験からも合致するところがあります。あと、難渋するのが時間軸が狂う話し方をする人とか。
こうなると、ちとPsychoticな感じですけどね。
>>494 よくあるのが実はひそかに憎んでいるんだけど逆に猫かわいがりするというパターンが反動形成の例と
して紹介されていたことがあったような、無かったような。
小此木先生と馬場禮子先生の「精神力動論」をひもといてみました。 「反動形成とは、それを意識すると不安、罪悪感、恐怖、不快がおこるような 無意識的な欲動や感情の意識化を防ぐために、それと反対の態度や衝動を無意 識的に強調する心的機制である」 上記のReverieさんの例で言えば、「ひそかに憎んでいる」ことを意識化するの を防ぐために、「猫かわいがり」するのでしょうね。しかしご本人はまったく気 づいていなくても、周りの人にはあまりにも不自然に見えることが多いとされて います。全く逆のことをするので、そうなんでしょうね。 「猫かわいがり」が慇懃無礼になったり、度を越してしまうと、相手を怒らせる ことになります。つまりご本人がもともと持っていた攻撃衝動が、反動形成を通 して表現されることになります。神経症症状と同じように、願望充足としても働 くのが反動形成の特徴でしょう。
>498, >499 ありがとうございます。 ラプラシュ・ポンタリスと小此木・馬場禮子では、感情の意識化を防ぐ ことを含めるかどうかで、違いがあるのですね。 #これは、国内外で、定義の見解に相違があるということなのかな。 後者なら、「弱い人ほどよく怒鳴る」「劣等感のある人ほど威張る」も、 反動形成の例と言えるのですね。
>>500 細かい事になりますが、「弱い人程よく怒鳴る」という言い方ですと、
一般化されている印象を受けますので、
反動形成の一例とは言えない気がします。
>>492 かわずさん、「診断面接」の定義、ありがとうございました。かわずさんの定義に
沿って、考えてみました。
少なくとも精神科医の場合、「広義の診断面接」を純粋な形で行うことは、実際の
ところほとんどないのではないか、と思いました。つまり、面接の中に「治療的な
要素」のみならず「治療そのもの」が混入せざるを得ない、ということです。
こうなってしまう理由は、精神科医の場合、「来院された患者さんに対しては、
基本的に治療を引き受けなければいけない」という事情が関係しているように思います。
そして「広義の診断面接」を行う例外的な状況として、私が考え付いたのは、
「鑑定」(したことはありませんが)「紹介された患者さんの治療を、自分が引き
受けない場合」「病院の構造上、治療を引き受けることができない患者さんの場合」
などでした。
>>497 >力動的な精神療法をこなすことができるクライエントの特徴や避けたほうが良い
(禁忌、とは言いませんが)など、ちょっとしたポイントなどがあればなぁ
少し考えてみたのですが、あまりにも複雑になりそうだったのでやめました。(笑)
精神分析的精神療法の場合は、比較的明快だと思います。(狭義の)診断面接の中で
ためしに解釈してみて、それを患者さんがどの程度利用できるかを評価すればよい
わけですから。
問題は、それ以外の力動的精神療法だと思います。これを考えるためには、どのような
種類の力動的精神療法を行うか(例えば、どのような形で転移を扱うか、など)が
関係してくると思います。しかし、これを正確に分類して考えようとすると、問題が
複雑になりすぎて、正直に言って私の手には負えないと思いました。すみません。
かわずさん、いかがですか?(と、無責任に振ってみたりしますが。。。笑)
最近忙しくて、書き込むことができませんでした。その理由の一つは、宴会が立て 込んでいた、ということだったりするのですが。。。(笑)酒の席での、無責任な 話題を一つ、書かせて頂きます。 この国のある精神科医およびある臨床心理士と話していて、「ロールシャッハテストは 必要か?」という話になりました。彼らは、ロ・テストのことを知ってはいましたが、 現在は使っていない、それは時代遅れである、という認識でした。私自身は、「患者さんに よっては行わない方が良いことがあるが、基本的には有用なテストである」と考えて います。したがって、私が、ロ・テストを擁護する立場、彼らが否定する立場で 以下のような議論になりました。 私の論点「ロ・テストは、人格水準を診断するのに有用である」 彼らの反論「人格障害を診断する最も良い方法は、実際に会ってみる事である」 私の反論「力動的精神医学の専門家であればその通り。但し、そうでない精神科医 などの場合は、やはりテストの結果は有用である」 これで、彼らはやっと納得してくれました。(すごく簡略化してあります、念の為) 実は、後からいろいろと考えたのですが、これ以上書くのはやめて「ネタ」にさせて 頂きたいと思います。つまり「お題」は、「ロールシャッハ・テストの必要性を 感じていない臨床家に対して、その必要性を感じてもらうためにはどう議論したら よいか?」です。 なお、力動的精神医学に興味のある日本の臨床家であれば、多分ロ・テストの有用性を 否定はしないだろう、という前提で書いています。しかし、きちんとした臨床経験に 基いた「ロ・テスト不要論・有害論」を持っておられる方がいらっしゃれば、それを 書き込んで頂いても面白いのではないか、と思います。
>>503 ご指名、ありがとうございます(笑)。でも「力動的精神療法」を、どう考えるかで
ひっかかってしまいました。「面接で患者が表す感情を扱い、患者と治療者の関係性
を治療機序に用いる精神療法。この過程を進めるのが、患者と治療者双方の役割であ
る」と定義してみましょうか。
この定義の前半だけであれば、たとえば「非力動的」に見える森田療法であっても、
治療者が患者との関係性に注目したり、患者が治療者を取り入れて行ったりすれば、
力動的精神療法ということになります。
あるいはミルトン・エリクソンは患者の感情も治療関係も最大限に用いて、催眠にか
けているように見えます。ただしそれはエリクソンが一方的に用いていて、患者には
には意識されていなかったでしょう。そんな風に考えていくと、定義の前半だけであ
れば、どんな精神療法であっても多かれ少なかれ「力動的」ということになります。
ただし定義の後半を満たす精神療法ということになると、どうでしょうか。ゲシュタ
ルト療法は、満たしていると思います。プレイ・セラピーに来ている子どもには、力
動的な過程は意識されていないでしょうが、結果的には役割を取れば定義の後半は満
たすことになります。
……、などと頭の中がグルグルしてきます。続きます。
複雑に考えるとキリがないので思い切り単純化すると、感情を表現する経路が 開かれているかどうか、そして治療関係を扱う「生臭さ」に耐えられるかどう か、がポイントのような気がします。 「生臭い」と言うのは、とても学術的ではないけれども、他にどう表現してよ いのか思い浮かびません。 と、ここまで書いて眠くなってきました。ロールシャッハのネタは面白そうで すね。また明日です。
>>504 浦島さん ネタ振り有難うございます。
>ロールシャッハテストは 必要か?
僕は必要派です。で、この立場からの意見になるのですが。
確かにロ・テストで人格障害を診断するというのは危険だと思いますが、診断の補助として有効ではないかと。
今更ながらの意見なんですが、ね。
確かに実際の診断は本人と会い、内的・外的な対象関係や症候の有無等を総合して人格障害を診断していきますし、
定型的な場合はそれほど必要性を感じないのですが、特に内因性の精神障害か人格障害かで悩むような場合は、
随分助けられるかなと思います。こういう場合はロ・テストでも鑑別が難しい場合が多く、「またですか〜」と
心理の先生に苦笑いされましたが(笑)。一応、バッテリーは組んでるんですけどやはりそれでも判断が難しいみたいです。
後、スコアリングされるので大きな見落としがないなどのメリットがありますね。
特に触法関係の症例ではロ・テストで随分助けられた事があります。このような事例では病的体験を内緒にされてしまう事が
多く、事故の状況と本人の前言語的なコミュニケーション、面接時に沸き起こってくるこちらの感情などで診断および治療方針を
立てないといけないので、ある程度の協力(といっても随分疲れた様ですが)さえあれば、必要条件が揃うメリットがあります。
ですので、治療の早期に早急に診立てが必要な場合および内的体験に口は閉ざすがテストに対してはある程度
協力が得られる場合(特殊ですが)は有効ではないかと思います。
逆に、治療の進行である時期、ある状況で語られることに意味がありその状況まで時間的余裕がある場合、
ロ・テストはあえて必要ないかなとも思います。
デメリットとしては、どうしても負荷検査になるので患者さんの負担が大きい事かな?
>>504 そもそもロールシャッハ・テストは、スイスの精神科医によって開発されて、もっぱら
米国で発展しています。特にラパポートやシェイファーなど、精神分析学派からの貢献
も多大なものがありました。日本でも盛んに行われており、研究の蓄積もあるのですが、
それ以外の「この国」や「あの国」では、おそらくはそう用いられてはいないのではな
いかと思います。知能検査もほとんど用いられない国(「この国」も?)もあるようで
すから、そうした土壌の違いは大きいと思います。
ロ・テストの「有効性」を感じさせるのは、そう難しくはないでしょう。もうこれは論
より証拠で、熟練したテスターに患者さんなり、訓練生なり、ご本人なりのテストをし
てもらって、レポートを読んでもらえばそれで良いでしょう。余談ですが精神分析批判
で有名なアイゼンク先生が科学性の粋をこらした「モーズレイ人格目録」は、日本語に
翻訳されていますが、精神科ではまず出番がありません。ロールシャッハの方は、心理
職を雇っている精神科の、ほぼ100%で行われてきたと言えるでしょう。
ところが「有効性」ではなく「必要性」なのが、お題のやっかいなところです。
「有効ではあるが、必要ではない」という話になる可能性は十分にありますし、
私自身もこのように考えてロ・テストを施行しないケースが、ほとんどを占めて
いるからです。続きます。
「有効ではあるが、必要ではない」とは、自分が心理療法を行う患者さんであれば、 話を聴いていって、治療関係の中で理解を深めて行った方が良いということが、ま ずあります。そう言えば成田先生は、「ロールシャッハをサイコロジストに依頼し てレポートを読むと、『不労所得』をした気分になる」と書いておられました。 またバウム・テストや風景構成法などの描画を用いた方が、患者さんも私も、お互 いに負担が少なくて済むということもあります。もちろんロールシャッハの替わり にはなり得ませんが、こちらの方は「必要性」を感じて施行しています。治療関係 を結ぶかどうかについて、ある程度客観的な資料が欲しくなりますし、場合によっ ては治療が進んでから変化を見ることもできます。 「有効であり、かつ必要な場合」は、医師が鑑別診断を行う際の参考資料ではない でしょうか。また内界探索的な心理療法を行って悪化しないかどうかを見たい時で しょうか。そういった理由で、私は今でも年に2〜3件ほどロ・テストを行ってい ます。続きます。
何だか話の持って行き方が、核心部分に触れずに周りをぐるぐるしている感じで すが、もう少し周りの話をさせて下さい。それは「臨床心理士にとって、ロ・テ ストは必要か?」と言うことです。 ロ・テストを施行、解釈できることは、臨床心理士の職能という点ではとても大 きな意味を持ってきました。今でも医大の精神科で働いている心理士は、もっぱ らテストに明け暮れていますし、そのバッテリーの中心になるのはロ・テストで す。言ってみればロ・テストは、精神科医にもソーシャルワーカーにもできない、 心理職のお家芸であったわけです。 またロ・テストは、インクブロットを用いる診断面接とも言えます。その中でテス ターとしての役割を忠実に果たし、客観的な指標や主観的な解釈を交えてレポート を書くことは、とても良いトレーニングになるのです。思考をシャープにして、言 語表現力を養ってくれます。心理士の間では「ロ・テストがきちんとできるように なれば、何をやらせても大丈夫」という見方が、新人にされてきました。もっとも、 「ロール10年」とか「千人斬り」などとも言われて、その道のりも長いのですが。 ただ、このような事情も変わってきたように思います。昔は「統合失調症かどうか」 は、診断がついた時点で患者さんの一生が決まってしまうような重みがありましたが、 今はそれほどの重みがなくなってきました。鑑別診断の需要が少なくなっているよう にも思います。またシステムズ・アプローチや認知行動療法、ブリーフ・サイコセラ ピーなど、精神内界を探っていかない介入が増えてきたことも、需要の低下につなが るかもしれません。 伝統工芸の後継者難と同じ構造で、ロ・テストのエキスパートと呼ばれるような人は 高齢化の一途をたどり、熟練したテスターも減っていくような気がしてなりません。 ちと疲れてきたので、今回はこれにて。
「ロールシャッハ・テスト職人」としての私のアイデンティティにも関わる問題ですので ちょっとしゃしゃり出てみます。 これは私の個人的意見ですが、ロールシャッハを施行して得られるような情報は 熟練した精神科医あるいは心理療法家が、ある程度時間をかけて丁寧に聴いていけば 得られる情報なのではないかと思います。 ただ、主観性はともかくとして、ロールシャッハと同等の客観性を 診断面接に持たせるというのは非常に難しいのではないでしょうか? ということで、Reverie ◆MUxLMQ9bWk氏がおっしゃるところの >治療の早期に早急に診立てが必要な場合および内的体験に口は閉ざすがテストに対してはある程度 >協力が得られる場合(特殊ですが)は有効ではないかと思います。 >逆に、治療の進行である時期、ある状況で語られることに意味がありその状況まで時間的余裕がある場合、 >ロ・テストはあえて必要ないかなとも思います。 には全面的に同意したいと思います。
>>511 でかわず氏がおっしゃっているようなロールシャッハをとりまく現状の問題としては
「包括システム」の台頭があるのではないかと思います。
>その中でテスターとしての役割を忠実に果たし、
>客観的な指標や主観的な解釈を交えてレポートを書くことは、
>とても良いトレーニングになるのです。
>思考をシャープにして、言語表現力を養ってくれます。
というのも実際その通りだと思うのですが
(余談ですが、私は心理学的な「研究」も同じようなトレーニングになると思っています)
包括システムをそのまま用いることによって
そうしたトレーニングとしての側面が非常に薄れてしまうのではないでしょうか?
この辺はシステムズ・アプローチ、認知行動療法、ブリーフ・セラピーの台頭とも
流れは似ているように思われます。
ただ、ロ・テストのエキスパートが減ってきているというのは
必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか。
ここでは「包括システム」が耳新しい人もいると思うので、門外漢ながら少しく解説して おきますと、エクスナーによって開発されたスコアリングと解釈の体系です。ロールシャ ッハの原法、ベック、ラパポート、クロッパーなど研究者によってスコアリングが異なっ ており、厳密に見ればテスター個々がスコアリングのシステムを勝手に作っているのを何 とかしようとしたのが、出発点だったようです。 でもこの時代なので、スコアリング・システムにはコンピューターによる統計的な処理が 寄与していますし、解釈もコンピューターで行えないか、という発想は当然出てきます。 514でのロテ職人さんの発言は、そうした事情によるものでしょう。 確かに日本で広く使われている片口法は、スコアリングに「?」な点もあるし、実際に迷 ってしまうこともあります。ただ私自身はスコアリングを完璧につけようとするよりは、 自分の癖を認識して解釈につなげる方が大事だと考えていますので、エクスナーにさほど 惹かれはしませんでした。欠点はあっても、使い慣れた道具はありがたいものです。
>>514 ロテ職人さん
ちと本題からは外れますが……。
トレーニングとしての側面は、「ロ・テストが医師やクライエントのニーズに応えて施行
されるのであれば」許されるのでしょうね。当たり前のことでしょうが。
>ただ、ロ・テストのエキスパートが減ってきているというのは
必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか。
であれば、心強いですね。院卒の若い人たちには、ロ・テストは敬遠されつつあるように
見えていたので。ブリーフの台頭も、良いんだか悪いんだか……。
合法な ブリーフいっちょは 恥ずかしい
失礼しました。
私自身は片口法を使っているのですが、エクスナーも一通り勉強はしました。 で、思ったことは、結局やっていることは一緒なんですよね。 今まで片口とかでは「名人芸的に」判断していたところを システマティックに解釈することが出来るってのが包括システムの売りであり そんなに目新しいことはない、と。 そんなわけで非常に便利な道具ではあるのですが どうしても融通が利かなくなってしまうという弊害があるのではないかと思います。 なにせ考えなくとも解釈できてしまうわけですから。 そんなんじゃ、臨床のトレーニングにはなりませんよねぇ。
>>516 >トレーニングとしての側面は、「ロ・テストが医師やクライエントのニーズに応えて施行
>されるのであれば」許されるのでしょうね。当たり前のことでしょうが。
それは当然ですね。
そして、それは通常の心理療法・精神療法にも言えるのではないでしょうか?
SVがついている限り、そのpsychotherapyにはトレーニングという側面が常につきまといます。
そうした側面はどうしても必要なものですし(あえて「必要悪」とは言いません)
そういう体制でないとやっていけないからこそ、SVはしっかりとなされる必要があります。
ということで、ロ・テストの場合も初めの数10ケースくらいは
実施から解釈まで丁寧にSVを受けなければならないと私は考えています。
現在も本人が望むのならば、そうした機会というのはないわけではありません。
そういう意味ではエキスパートの育成もなされていないとは言えないでしょう。
ただ
>院卒の若い人たちには、ロ・テストは敬遠されつつあるように
>見えていたので。ブリーフの台頭も、良いんだか悪いんだか……。
とあるように、包括システム流行りの昨今では、確かにロ・テストの本質は
見失われて来ているような気もしないわけではありません。
>>504 >ロールシャッハ・テストの必要性を感じていない臨床家に対して、その必要性を感
じてもらうためにはどう議論したらよいか?
に戻ります。やっと一つ、見えて来ました。
「ロールシャッハ・テストは、クライエントが内界探索的な作業に耐えられるか
どうかについて、精神療法を導入する前に有用な資料を与えてくれる」
ではどうでしょうか。クライエントに会って行って、「あなたは向いていないよ
うですから、違う治療法が良いでしょう」とか、あるいは探索的な関わりから支
持的な関わりに切り替えるのも、クライエントを傷つけるかもしれないので。ど
うでしょうか。
reverieさん、かわずさん、ロテ職人さん、とても刺激的で勉強になる書き込みを して頂き、ありがとうございました。皆さんの書き込みの結果、私自身の視野を 大いに広げることができたようで、単純にとてもうれしく感じています。 皆さんの書き込みを読ませて頂いて、なぜ自分が「ロールシャッハの必要性」に ついてのお題を出したか、ということに気付きました。どうやら私自身の中に、 二人の自分がいたようです。一人は「日本で臨床をしていた時の自分」で、「日本での 臨床経験から、ロ・テストは必要である」と感じており、もう一人は「この国で臨床を している自分」で、この国の状況の影響の結果、「ロ・テストがなぜ必要であるか わからない」と感じていたようです。 そしてお気づきの通り、後者の私自身がスプリットされて、「この国の、ある精神科医 ・臨床心理士」に投影同一化されていた、というわけです。 しかし、皆さんの書き込みを読ませていただいた結果、この「二人の自分」が、 少し統合できるようになったように思います。 続きます。
>>520 「二人の自分の統合」とは、具体的には次のようなことです。
504番で私が「患者さんによっては行わない方が良い」と書いた時、そこには「精神
分析的精神療法を行う患者さんの多く」を含めていました。その理由は少なくとも
意識的には、「精神分析的精神療法による関係をもつ場合、ロ・テストは影響が
強すぎるため、その関係に対する夾雑物になるかもしれない」というものでした。
しかし考えてみると、「診断面接中にロ・テストを依頼して行ってもらうという状況」は、
「ロ・テストを行うCPさんと患者さん」「診断面接を行う私と患者さん」という
「エディプス関係」を生じることになります。つまり、「そのCPさんが、患者さんに
対して持つ意見」「私が、患者さんに対して持つ意見」という、二つの異なった意見が
並存するという状況(二人の違った人が存在する以上、意見の食い違いは必ず生じる
でしょうから)は、「新しい何か」を生み出す「創造的な関係」になる可能性を
持っているということです。それにもかかわらず、「ロ・テストを行うこと」を
「夾雑物」として排除しようとするのは、治療者としての自分の不安の表れでしか
ない、と言えるのではないかと思います。
この点に気付くことができた時、私の中で、前述した「二人の自分の統合」が少し
出来たようです。
>>506 >>519 >感情を表現する経路が開かれているかどうか、そして治療関係を扱う「生臭さ」に
耐えられるかどうか
「力動的精神療法が、ある患者さんに対して適応になるかどうか」を考える場合に、
これは良い基準になるのではないか、と私も思います。そして私自身が「患者さんが
解釈をどの程度利用できるか」を評価する場合、これらの「基準」もどうやら考えに
入れているようです。
そこで思いついたのですが、「『精神分析的精神療法を含む力動的精神療法一般』に
おいて、実際に行おうとする『精神療法』を、『診断面接』の中で少し試しにやって
みて、それを患者さんがうまく利用できるかどうかを、その精神療法が適応になるか
どうかの判断基準にする」という考え方はどうでしょうか?
結局は、「分析の適応になる人かどうかを判断するためには、まず試しに分析をやって
みる」というフロイトの考え方に戻ることになりますが。。。
そしてロ・テストは、「(投影された)自分自身の持っている不安に直面する」と
いう状況になるわけですから、「内的探索的な作業を行った場合生じるであろう状況」を
「実際に少し経験してもらう」という意味もあることになります。
その意味でも、かわずさんが519番で書かれている通り、ロ・テストは診断面接の
一部として有用である、ということになると思います。私が521番に書いたことに
基けば、「診断面接者とは異なった人が行った場合には、より有用である」という
ことになると思います。
>>504 最後に少し言い訳を。。。
504番の私の書き込みで「有用」「必要」の使い方が混乱していますが、実は
書き込んだ直後にそのことに気付いていました。でも子供を迎えに行かないといけない
時間だったため、訂正せずにそのままにしてしまいました。すみません。
しかしかわずさんは509番で、私の混乱をうまく処理していただいたようです。
どうもありがとうございました。
>>523 どういたしまして。
521番での「エディプス関係」は、興味深く読ませていただきました。
精神科医が力動的な精神療法を行う場合、心理士が行うロールシャッハは「夾雑物」
であるかどうかは別として、「異物」には違いないと思います。テスターとクライエ
ントが、精神療法とは明らかに異なった手続きを踏んでプロトコルが作成され、さら
にテスターが解釈してレポートを書きます。この過程についての知識がある精神科医
はごくまれです。
エディプス関係になぞらえれば、父親にはうかがいしれない秘め事が母親との間でな
され、母親がその秘密を握ることになります(精神科医に男性が、心理士に女性が多
いので、こう表現しました)。両親の関係性によっては、父親のお手並み拝見とばか
りに、母親が高みの見物を決め込む構図になるかもしれません。
私がロールシャッハのスーパーバイズを受けていた時には、レポートの内容そのもの
よりも、レポートの書き方を仕込まれました。文章一つ一つについて、「そう言える
根拠は何か」を明確にするように、求められました。当たり前のことなのですが、こ
の当たり前が初学者のうちは難しいものです。良いレポートとは、読み手に根拠がし
っかり伝わるような、「秘め事」にならないレポートだと、あらためて思いました。
>>524 >良いレポートとは、読み手に根拠がしっかり伝わるような、「秘め事」にならない
レポートだと、あらためて思いました。
え−、実は私は、レポートを重視したことはほとんどありません。。。というより、
レポートを読む時点では、ほとんど結果を知っていました。。。
他の先生方はどうか知りませんが、私は多くの場合(ほとんどの場合?)、心理の
先生に、直接のフィードバックを御願いしていました。私の目の前にロールシャッハの
図版を広げて、実際の生データを教えていただいた上で、説明して頂きました。
心理の先生にいろいろと教えてもらったり、こちらから突っ込んだり、面接で気付いた
ことを付け加えたりして議論するのは、とても楽しかった記憶があります。また、
お一人だけ「??」の先生(少なくともテスターとしてはあまり信頼できない方ー
まあ、臨床家としてもですが。。。笑)がおられましたので、直接生データを教えて
頂くのは役に立ちました。その先生の書かれた、意味がよくわからないレポートを
読む、という苦行からも解放されますし。。。その先生に検査を依頼しないのが一番
良いのですが、どうしても避けられない場合もありますし。。。
ちなみにこの先生は、ユンギアンでした。ユンギアンに対する私の不信感の原因の
一つは、この先生の存在です。
>>525 >私は多くの場合(ほとんどの場合?)、心理の先生に、直接のフィードバックを
御願いしていました。
ここまでされる精神科医は、珍しいのではないでしょうか。少なくとも私は初め
てです。ロールシャッハの用語を用いないで、普通の言葉で精神科医に説明するの
は、テスターにとっても、良いテストになると思います。
ところで浦島さんは米国以外の某国にお住まいかと推察いたしますが、そちらで
はDID(解離性同一性障害)の増加は話題になっているでしょうか。日本では
「ごくまれ」であるとも言われていますが、私はたまたま当たり番だったのか、こ
こ数年で3人の患者さんに出会っています。精神科医とは異なり、一年間に出会う
人はせいぜい数十人から百人前後なので、私に限って言えば「ごくまれ」とも言え
ません。
>>526 >そちらではDID(解離性同一性障害)の増加は話題になっているでしょうか。
えー、今さらという感じなのですが。。。これに何らかの形で反応すると、自分の
匿名性が保てなくなる可能性がより上がるように思いますので、書き込みは控えさせて
いただきます。すみません。
まー、ある種の方々にはすでにある程度ばれている部分があるとは思うのですが。。。
ただ、多少ばれても特定まではされないだろうと思っていますが。。。
また、ここに書き込んでいるということは、少なくともあまり名誉なことではない
でしょうし。。。
>>527 私には「多少ばれても特定まではされていない」ようです(笑)。
えっと、それでは、このスレをご覧になっている方々、いかがでしょうか。体験的な
日本のDIDの発症率、と言うとちょっと大げさですが。
「ここ5年間に出会ったDIDの患者さんは、何人か?」
教えていただけますか?
精神分析的な治療を行っている人は、DIDに出会う可能性が高いのではないかと
思うのです。一般的には「薬物療法よりも心理療法が第一選択になる疾患」と捉
えられているようなので、DIDの診断がついて患者さんを紹介される率が高いとい
うことがまずあります。またBPDやパニック障害、うつ病などの診断がついた患者
さんでも、ゆっくり時間をとって話を聴いているうちに人格が交代する可能性が
あるからです。
ちょっと、前に放映されたTV番組で、アメリカでは多重人格の症状出す人が 多すぎる心理療法やカウンセリングにより誘導されて、自分がそうでないのに 多重人格だと思いこんでしまった人も多いのではないかという内容の番組を やっていました。 ちょっと思い出したので書いてみました。 私たちも、すごい希な症例が、来る時は立て続けに来る時があって、驚かされる 時があります。あれは何なんでしょうね。
このマリリンという人はなかなか獣医分野以外の考えを受け入れません。
ですから,彼女の常識に合わぬ話をすると全く理解しようとせず徒労になります。
また,御自分で「荒らし」を自認される戦う方だそうです。
色々仰りたい方もいると思いますが,スレが荒れますので放置をお願いします。
詳しくはこちら↓をご覧ください。
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>530 このスレでは、あなたが煽りです。 マリリンは歓迎されています。
マリリンの書きこみは いつでも基本的には 私 は 幻 滅 し た と抗議しているだけ 精神療法が緩やかな幻滅をもたらす過程であることを理解し、そして 生 暖 か く 見 守 れ
>>529 その番組は、私も見ました。多重人格がブームになって、安易に催眠を導入してその気に
してしまった症例も、あったのではないかと思います。ただし「疾患が本当にある」と、
「催眠で作られた病気だ」の議論は、米国では前者の結論になっているようです。
関係ない話ですが、多重人格の理解と治療について体系的な本を書かれたパットナム先生
がインタビューされていました。著書から想像された「腹のすわった人」というイメージ
ではなくて、かん高い声でちょっと女性的な印象を受けました。ご本人をナマで見るのが
一番良いのですが、著者を知っておくと本を読む時に良いですね。
>私たちも、すごい希な症例が、来る時は立て続けに来る時があって、驚かされる
時があります。あれは何なんでしょうね。
ある時期、特定の看護婦さんが当直の時に亡くなる人が多い(筋弛緩剤とかじゃ
なくてね)とか、その手の現象はあるのかもしれませんね。あるいは自分が一生
懸命に勉強していると、みんなその病気に見えてくるとか。
>>533 >その手の現象はあるのかもしれませんね。あるいは自分が一生
>懸命に勉強していると、みんなその病気に見えてくるとか。
笑いました。事の真相は良く分かりませんが、とにかく私たちの間では、一つ希な症例が来ると
その希な症例が続くことがある。と言う現象は良く聞きます。
>「疾患が本当にある」と、「催眠で作られた病気だ」の議論は、米国では前者の結論に
>なっているようです。
私も、誘導だけで作られた病気で、そのような疾患が全くないとは思いませんが、浦島さんが
以前に「クライアントガ無意識の中でそう(今回の場合は多重人格)だと思いたい場合と
心理士の診断が共鳴した時に誘導は起こりえる」とおっしゃっていましたが、米国での多くの
症例の中にはそのような可能性が全くないとも私は思えません。
私がコテを使って書き込むとスレが荒れるので申し訳ありません。
自分の職業が心理士ではなく、獣医師だと言うことを理解して欲しい時は、コテハンを
使うのが一番てっとり早いのです。荒らしてごめんなさい。
>>528 かわずさん
ここ5年では、疑いがあるケースは1件だけでした。ただ、意識の変容のような状態はありましたが、
記憶の連続性は保たれており確定診断にはいたりませんでしたね。
解離症状を示すケースは、リストカットなどで沢山お目にかかるのですが、時間的な同一性は保たれていますねぇ。
>>535 Reverieさん ありがとうございます。私はやはり当たり番だったので
しょうか。母集団が2では、何とも言えないんですが(笑)。
浦島さ〜〜〜ん お元気ですか? 2ちゃんから離れられなくなるのはどうしてですか? シロートですが、チョット困ってます。。。
年度のかわりめ、当スレ上のみなさまは、「師走」状態でおいそがしでせうか? また、どなたかいつものネタフリをよろしく、ドゾー。
ネタになるか分からないのですが(w、 インフォームド・コンセントやアカウンタビリティと、セラピスト/分析家に求められる中立的態度の問題です。 臨床経験や学歴などをクライエント/患者から尋ねられた場合、みなさん、どう対処なさっておられますか?
>>539 >臨床経験や学歴などをクライエント/患者から尋ねられた場合
典型的な対応だと「どうしてそのことが今気になるのかな?」でしょうね。
こちらの心的な余裕があるときは
「そうだよね。自分と自分の心の問題を考える相手がどういう人か、信頼に値する人か
聞かないと心配になるよね。確かにそうなんだけど、それが今聞きたくなってる事っていうのは
貴方の気持ちと少し関係があるようにみえるんだけど、そのあたりはどうかな?」
と聞くようにしてます。ちなみにこれは神田橋先生の言い回しを参考にしています(が似て非なるものかも(汗))。
前半で聞きたい気持ちを肯定的に伝えて、そのあとこの「知りたい欲望」を自分の内的世界に向けるように
狙った言い回しです(うまくいっているかどうかは別にして)。Th.に一度肯定されアクセプトされた感覚が存在し、
その感覚が保持されたまま内的世界に焦点が当てられると、Cl.の内的視野が広がることにブレーキをかけられ
にくくなると思うのですが。ちと私が操作的かな?(笑
臨床経験や学歴の他、結婚しているかどうか、子どもがいるかどうかなど、あまりにも 個人的な質問(奥さんを愛してますか、年収はいくらですかetc.)でなければ、私はま ず率直に答えるようにしています。その後で「そう聞いてみたくなったのは、どういっ たことで?」とわけを聞くようにしています。
Reverieさん、かわずさん、お応えありがとうございます。 クライエント/患者の問いの背後にある気持ちに焦点を当てるのは、定石ですよね。 ただ、それだけだと、インフォームド・コンセントやアカウンタビリティの側面からは、 足りないと思ったのです。 他方、臨床経験や学歴を答えると、その分だけ少し凸凹の増した鏡になってしまうとも思うです。 そのあたりを、どう整理すればよいのか分からなくて、質問しました。 かわずさんのように、先に率直に答えてから、気持ちに焦点を当てればそれでいいのかなあ。 こういった問いに答えることが、セラピスト/分析家の中立的態度を損なうものであるとは、 一般に考えられていないと思ってよいのでしょうか? おそらくこの問いが、面接/治療契約を結ぶ前に(インテイク/受理面接段階で)に発せられたのか、 心理療法をスタートした後なのかによっても、対応の仕方は異なるでしょうし、 究極的には個別の事例によるとは、思っております。
>>539 >>542 >臨床経験や学歴などをクライエント/患者から尋ねられた場合
この問題について考える場合、「自由連想法を用いた精神分析・精神分析的精神療法」と
「それ以外の力動的精神療法」に区別して考えると、少し整理しやすくなるのでは
ないか、と思います。
後者の場合、私もreverieさんやかわずさんのように反応すると思います。そして、
かわずさんほどではありませんが、多分ある程度「自己開示」すると思います。
前者の場合、多分私は答えないと思います。なぜならば、「自己開示」することに
よって、患者さんが私について自由に空想する余地を奪ってしまう、すなわち転移が
自由に発展することを阻害してしまうと思うからです。
但し、どちらの治療を行っている場合においても、最も重要な点は「そのような
質問を受けた時に、治療者が自分の中に生じた不安に圧倒されてしまうことなく、
患者さんを援助することのできる治療者として、現在治療場面で何が起こっているか
について考え続けていくことができるか?」ということだと思います。「治療者として
実際にどのように対応するか?」ももちろん重要ですが、それとは比べ物にならない
ほどに重要な点だと私は思います。
>>542 >インフォームド・コンセントやアカウンタビリティの側面
>この問いが、面接/治療契約を結ぶ前に(インテイク/受理面接段階で)に発せられたのか、
心理療法をスタートした後なのか
精神分析・精神分析的精神療法におけるインフォームド・コンセントのやり方は、
一般的なやり方と少し異なっているのではないか、と私は思います。つまり「それが
どのようなものであるかをきちんと説明して、それを行うことに同意してもらう」
というよりも、「それがどのようなものであるか診断面接の中で実際に体験してもらい、
それを行うことに同意してもらう」というほうがより近いように思います。
そして、実際の治療が始まった後に面接の中で「インフォームド・コンセント」が
問題になっているように思われる時、ほとんどの場合(すべての場合?)は、実は
その背後に何らかの強い不安−治療者の休みを控えた不安、自分の弱い部分に直面
する不安などーが存在しているように私は思います。
学歴や臨床経験に関する質問は、インフォームド・コンセントやアカウンタビリティ
に属することと言うよりは、セッションの中で扱いきれていない何かがしみ出てくる
のだと思います。それも煎じ詰めれば、浦島さんの
>>544 の書き込みのように、クラ
イエントの不安ということになっていくのでしょう。
私が「まず率直に答える」のは、答えないでいると「答えてもらえない不安」が前面
に出てしまって、「そもそもの不安」がカバーされてしまうのではないか、と言うこ
とがまず一つの理由です。もう一つは私の環境によるもので、実際に「かくれ身」を
保つの非常に難しいのが、もう一つの理由です。隠しておけないようなことを、隠そ
うとするのは、非現実的な不安に動かされているような気もします。
>>543 の浦島さん >最も重要な点は……考え続けて行くことができるか?
には、全面的に賛成です。と言うか、私の言葉になっていない部分を整理していただい
たような気がします。上記の私の対応は「私の定石」ですが、定石があることによって
現実への対応に費やすエネルギーを減らして、考え続けやすくなるのだと思います。も
っとも、あまりにも定石に固執しているような状態も、問題でしょうが。
浦島さん、お応えありがとうございます。 かわずさん、書き込み拝読いたしました。 「それ以外の力動的精神療法」で、面接/治療契約を結ぶ前に(イ ンテイク/診断面接段階で)このような問いかけが投げかけられた 場合を、想定したいと思います。 それに対する答え(だけではありませんが)により、クライエント/ 患者は、このセラピストと契約するかどうか考えるでしょう。クラ イエント/患者は、その答えにある種のイメージを持ちますよね。 そして、そのイメージについてセラピストが話し合おうとしても、 クライエント/患者は、なにも応えないかもしれない、はぐらかすか もしれない、偽りを言うかもしれない。 それにどう対処してよいのか、私は分からないのかもしれません。 また、その答えによるもの以上に現前のセラピストに、クライエント /患者は沢山の想像をするでしょうから、このこだわりは、「私のこ だわり」なのかもしれません。あまりにも定石に固執しているのかも。 [つづきます]
浦島さん、お応えありがとうございます。 かわずさん、書き込み拝読いたしました。 「それ以外の力動的精神療法」で、面接/治療契約を結ぶ前に(イ ンテイク/診断面接段階で)このような問いかけが投げかけられた 場合を、想定したいと思います。 それに対する答え(だけではありませんが)により、クライエント/ 患者は、このセラピストと契約するかどうか考えるでしょう。クラ イエント/患者は、その答えにある種のイメージを持ちますよね。 そして、そのイメージについてセラピストが話し合おうとしても、 クライエント/患者は、なにも応えないかもしれない、はぐらかすか もしれない、偽りを言うかもしれない。 それにどう対処してよいのか、私は分からないのかもしれません。 また、その答えによるもの以上に現前のセラピストに、クライエント /患者は沢山の想像をするでしょうから、このこだわりは、「私のこ だわり」なのかもしれません。あまりにも定石に固執しているのかも。 [つづきます]
[つづきです] >そのような質問を受けた時に、治療者が自分の中に生じた不安に圧 >倒されてしまうことなく、 患者さんを援助することのできる治療者 >として、現在治療場面で何が起こっているかについて考え続けてい >くことができる 今の私には、自分の不安を感じながら、その不安となんとか距離を置き、 時には、不安を感じていることをクライエント/患者に対して認めつつ、 問いの背後にある気持ちに焦点を当てていくということが、精一杯かと 思います。 持たなくてよい「答えてもらえない不安」を持たせないために、さらっ と答え、固執することなく、時には引くこともして、気持ちについて話 し合えるようになれたらよいのかなと思いました。
書き込みがダブッて、ごめんなさい。
少しく補足しておきます。 >答えてもらえない不安」を持たせないために答える のは、フロイトの理論で言えば 転移の充足ということになって、治療者の態度としてはいただけないと言うことになる のです。 >臨床経験や学歴を答えると、その分だけ少し凸凹の増した鏡になってしまう のは、フロイト的な治療者の態度としてはとても正しいし、私自身も臨床を始めた頃は このような葛藤を抱えて、面接ではなるべく答えないようにしていました。浦島さんの 分類で言えば、私は精神分析をしているのではなく、力動的な精神療法をしているので、 答えるようになってきたのかもしれません。 小此木先生が治療者の態度として、「フロイト的」と「フェレンツィ的」を比較して、 初心の治療者はまずフロイト的な態度を身につけるべきではないか、と書かれていまし た。多少こっけいだろうがなんだろうが、まずはフロイト的な鉄仮面をかぶるべきでは ないか、と。「定石」や「型」にこだわって、身につけようとするのは、健康的なトレ ーニングのあり方だと思います。
技術の取得の段階は本当にこういう地道なやり方をするしか方法がないと私も思います。 最初は教科書通り、先生や先輩に教えられた通りやってみて、だんだんコツを飲み込んでくると 省略して良い方法とか、自分のやり方とかができるようになってくるんです。 ただし、私はそうなるまでに、ずいぶん時間がかかりましたけどね。(笑
>>547 >「それ以外の力動的精神療法」で、面接/治療契約を結ぶ前に(インテイク/診断面接段階で)
このような(臨床経験や学歴に関する)問いかけが投げかけられた場合
このような状況で、私ならどう反応するか考えてみました。例えば、次のように
言うかもしれません。
「お教えしてもかまいませんが。。。でもどうして、そんなに気になるのでしょうね?」
そして、患者さんの状態を見つつ、場合によっては教えたり、教えなかったりする、
という感じでしょうか。
reverieさん、かわずさんのやり方と、それほど違いはないようです。
>>550 >初心の治療者はまずフロイト的な態度を身につけるべきではないか
>「定石」や「型」にこだわって、身につけようとするのは、健康的なトレーニングの
あり方だと思います。
かわずさんが書かれている通り、まずは「定石」「型」にこだわって身につけようとし、
最終的にはそれを超えようとすることが、精神(心理)療法家として目指すべき方向だと
私も思います。ビオンが次のように書いています。
フロイトなど精神分析理論の論文は、読んだ後忘れなければならない。
「良い分析家であろうとする欲求」は、「良い分析家であること」そのものを妨げる。
精神分析家は、患者さんや先輩の分析家の言ったことそのものではなく、その
「含み」を知る能力が必要である。
ここでビオンは、私が書いたことと同じようなことを言おうとしているのではないか、
と私は思います。
554 :
没個性化されたレス↓ :04/04/03 23:28
質問スレからこちらへ誘導されたのでここで 質問させてください。 以下はそのコピペになってしまいますがよろしくおねがいします。 反復強迫についていろいろ興味があり素人ながら本を読んでいるのですが、 ある本(岸田 秀著書)に、以下のケースが書いてありました。で、質問したいのですが、 例えば、まじめな親に非行少年の息子がいたとします。 叱られる行動を子どもが繰り返してしまう場合、 親は口では「まじめに!」「立派に!」と言ってても、息子が世間に迷惑かけるような事を、仕出かすたびに 「それ見たことか!」と言わんばかりに無意識的な、ふとした瞬間の喜びの表情を 子どもは見逃さず、非行を重ねているうちは親の愛情を失うことがないと思っているからだ。 とありました。 本人は、そんな親に対して卑屈になって、意識的に嫌がらせで、反抗する目的で、 非行を繰り返すならわかるのですが、自分を叱るとき、親の表情から親の生き甲斐を感じとった事が なぜ、自ら悪いと思っている(であろう)非行を繰り返してしまう原因になっていまうのか、イメージがわきません。 ショックを受け、復讐やら、いやがらせで続けるならわかるのですが、叱る行為に親の喜びを自覚的に感じた場合、 再び愛情を得たいがために非行をくりかえすものだろうか? 小学生のような自我がまだハッキリない場合なら盲目的に走るならわかりますが、 「非行」という言葉から、思春期の中学生あたりを想像すると、実感がわきません。 例えば、親の虐待の後遺症として、愛情確認として自らそういう暴力男を選んでしまうというケースのように、 無意識に、愛情を感じたいがために無自覚のまま非行を続けているなら、いざしらず この場合どうもしっくりこないんです。 こういう心理はどう解釈したらいいんでしょうか?
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以下、sage進行でヨロシコ。
558 :
没個性化されたレス↓ :04/04/04 01:23
うりゃ
559 :
没個性化されたレス↓ :04/04/04 09:58
>>554 こういう親だとすでに善悪の基準が壊れてると
うまくやれば悪もよろしいと思ってる親
善なる行動は、いうならタテマエ
だけど岸田秀なんかあんまり深入りせんほうが
「まじめな親」は「不まじめな欲求」(たとえば、攻撃衝動の発散)を抑圧して 無意識下に置いているとも言えるでしょう。子どもが「悪いこと」をしたら、代 償的な満足(子どもがかわりにやってくれている)を得るとともに、厳しく叱り つけたり叩いたりして、自らの「不まじめな欲求」を満足させることもできます。 変な関係ではあるのですが、子どもが幼なければ、「親はちゃんと自分のことを見 てくれている」と受け取めるかもしれません。そして良いことをしてもほめてくれ ない親であればなおのこと、「悪いことをして叱られる」関係に執着して、反復す るようになるでしょう。不快な体験かもしれませんが、子どもは対象関係での手ご たえを得ることができます。 まあこんな風に考えてみたのですが、これは対象関係での反復ではあっても、フロ イトが言った反復強迫ではないでしょうね。私の理解では、反復強迫はもっと本能 的な衝動発散を指しています。
>>560 :かわずさん
私も、そう思います。
>変な関係ではあるのですが、子どもが幼なければ、「親はちゃんと自分のことを見
てくれている」と受け取めるかもしれません。そして良いことをしてもほめてくれ
ない親であればなおのこと、「悪いことをして叱られる」関係に執着して、反復す
るようになるでしょう。不快な体験かもしれませんが、子どもは対象関係での手ご
たえを得ることができます。
この親子関係が、子どもからみると、親を嫌ったり憎んでいても、離れられない状態や、
いわゆる「共依存関係」をつくることにもつながるのでしょうかね。
562 :
没個性化されたレス↓ :04/04/04 19:43
age
浦島さん、かわずさん、ありがとうございました。 すっかりではありませんが、だいぶすっきりしました。 含みですか。 そのビオンの言葉の含みは、なにかなあ。 ひとまずこれにて、ごめんください。
>>554 その本において、「『この子供が非行を繰り返すこと』そのものが『反復強迫』
である」と書いてあるとするならば、少なくとも私にはよく理解できません。そこで
この例を使って、「反復強迫」の実例を考えてみました。
ここに描かれている「まじめな親」は、子供に対して「何かをしなさい(「まじめに
なりなさい」「立派になりなさい」)」と命令していますが、実は子供が失敗する
ことを期待し、それを楽しみにすらしています。(「それみたことか」)つまり
ここに描写されている「親イメージ」は、子供に対して「愛情」は全く向けておらず、
単に「残酷」でしかない、という性質のものです。
この「子供」が自分で「まじめになりたい」と思って、患者さんとして精神療法を
受け始めたとします。そしてあるセッションで、この患者さんは治療者に対して
「てめえ、そんなことしても無駄だぞ。俺はお前の思う通りになんかならんぞ!」と
叫びました。後からわかったことですが、この患者さんは「先生は俺を、無理やり
まじめにならせようとしている。そして心の底では、俺が失敗するのを待って
あざ笑おうとしている。」と感じていたのでした。
続きます。
>>564 「反復強迫」の定義は、ラプラシュ・ポンタリスの精神分析用語辞典では、以下の
ようになっています。
具体的な精神病理学の領域では、非合理的で、無意識に起因する過程を言う。主体は
その原型を想起することなく、昔の経験を反復することによって、進んで能動的に
苦しい状況に身を置く。そのさい、主体は逆にそれが現実的なものに動機付けられて
いるという強い感じを持つ。
この「定義」に従って、この「実例」について検討してみます。
まず第一に、この「行為」は「非合理的」です。つまり、もともと治療が始まった
のは「治療者が患者さんを無理やりまじめにならせようとした」のではなく、「患者さん
自身がまじめになりたかった」ためであり、また治療者は「あざ笑おうと」していた
のではなく「患者さんを助けようと」していたというのが「現実」であるからです。
第二に、この「行為」は「無意識的な過程」です。この患者さんは、「残酷は親
(イメージ)」に対して自分が過去にしていたのと同じ「行為」を、治療者に対して
「反復」しているのにもかかわらず、本人はそれに全く気付いてはいません。
したがって、この患者さんの「行為」は、「反復強迫」と呼んで良いのではないか、
と私は思います。
566 :
没個性化されたレス↓ :04/04/07 01:55
藤沢病院のナガミって不倫しているよ
567 :
ゆうどうされて参った :04/04/08 12:33
>>567 話の流れは統合失調症に精神分析は禁忌なのか、精神分析家は日本では
ごくわずかである、精神分析と精神分析的心理療法はどう違うのか、精神分析な
ど相手にするもんじゃない……と、まあこんな感じでしょうか。
384 :卵の名無しさん :04/04/02 00:21 ID:aviuH2aG
>378
日本には精神分析をきちんと訓練された専門家はきわめてすくない。
せいぜい30人くらい。
精神分析の訓練は臨床を5年くらいしないと始められず、
10年近くかかる。
週4―5回の分析を何年も自分で受けないといけない。
金も時間もかかる。
皆さんの身近には精神分析家はまずいないと思う。
統合失調症は精神分析の禁忌ではない。
実際に多くの分析家が70年代以前はトライしていた。
いまは薬のほうが安上がりだし、早いからやらないだけ。
は、おおむねその通りだと思います。「精神分析をきちんと訓練された」は、
「精神分析協会なる職能ギルドによって権威づけられた」と言い換えても良い
のでしょう。ただ「精神分析」を、あまりにも狭い枠に閉じ込めてしまってい
るとは思います。精神分析的な心理療法、あるいは力動精神医学の中に、精神
分析の考え方が広く浸透しているからです。
精神分析の考えによった病院を長年運営してきたカール・メニンガーは講演で、
「統合失調症が生物学的な基礎を持つ疾患であるのは、確かなことだろう。だ
からと言って精神分析が何もできない、というわけではない」(ちょっとうろ
憶えですが)とおっしゃっていました。
569 :
没個性化されたレス↓ :04/04/13 21:31
かわずさん 親切で 驚いたです。
驚かんで良いからスレ上げるな!
571 :
没個性化されたレス↓ :04/04/14 08:18
かわずさん HNの由来聞いてもいい?
>>571 なるべくサゲ進行でお願いします。
投稿する時に「E-mail」欄に「sage」と書いておけば、スレッドが掲示板の
てっぺんに上がりません。このスレッドに関しては、目立たない方が良いか
なと。ご存知かもしれませんが、念のため。
HNは「井の中の蛙」からいただきました。
>>572 いいHNですね。
うるおぼえですが、「井の中の蛙」は、大海を知らないけれど、井戸を通して
見上げている空の高さや深さを知っているという話を聞いたことがあります。
深さは心理療法に限らずに必要だと思うという意味でも、いいネーミングですね。
>>573 ×うるおぼえ
○うろおぼえ
漢字で書くと「疎覚え」だな。
心理板には動物のコテの人がいるのはなぜ?
さて、みなさん、何かお題はありませんか?
>792 名前:没個性化されたレス↓ 投稿日:04/03/26 16:17 >双数関係と三者関係に話が及んでいるようなので、ネタを振りますが、 >阿闍世コンプレックスなんかはどうなんでしょう。 >古沢平作氏が提唱した概念なのですが、フロイトが常に父親との間での >葛藤を第三者的な観点として扱っていた(ラカンも同じ)のに対し、 >阿闍世コンプレックスは、母子関係の癒着を扱っているようでした。 >日本人特有の概念だと思います。 >何となく私は阿闍世コンプレックスの方がしっくりと来る。 >日本人の男性というのは、ほぼ全員がマザコンみたいなもので、結婚すると >妻が、「うちの母ちゃん」になってしまって、セックスすらしなくなってしまう。 >キリスト教のカソリック文化圏では子作りのためのセックスは奨励されていない >し、女性がセックスに快楽を持つことも認められていませんので、西欧文化も禁欲 >的と言えばそうなのですが、日本文化の持つ特異性ということから境界例を理解した >いとも考えています。 ボーダースレからのコピペです。レスが余りつかなかったので、もう一度ねたふりです。 私は上記のレスを書いた人間ではありません。 何で、日本の男に「マザコン」が多いのでしょう。前々から疑問でした。 日本の社会の病理のような気がします。「マザコン」問題は日本男児に回答させようと 考えること自体間違っているのかも知れません。だから、レスがのびなかったのかも 知れません。 >西欧文化も禁欲的と言えばそうなのですが これは、意外でした西欧ではのびのびとSexしているのかと考えておりました。
フロイトが文化や宗教にも言及していったこともあって、精神分析は思想として の一面もあります。たしかに当時の人々にとっては、ダーウィンの進化論と同じ くらいのインパクトがあったと思われます。 しかし臨床の現場にいる者にとっては、個々の患者さんに対応するための理論は 大切ですが、たとえば比較文化的な考察はどうでも良いことに属するのではない かと思います。少なくとも、私はそうです。と言うことで、スルーの言い訳を書 いてしまいました。
わかんないならわかんないと言うのが賢明な態度というものだ
>>577 日本と外国の両方で臨床を行ってきているせいか、私自身は「比較文化論」「日本人論」
に興味があります。したがって自分なりの「日本人論」を持ってはいますが、これは
日本に帰ってから自分の臨床の中で考え続けていきたいと思っていますので、ここでは
書きません。したがってここでは、少し問題を整理しておきたいと思います。
>日本人の男性というのは、ほぼ全員がマザコンみたいなもので
>何で、日本の男に「マザコン」が多いのでしょう。
ここで言う「マザコン」が、「自分の妻の考えよりも、自分の母の考えを重視する」
という意味であれば、これは日本だけに特有な現象ではないと思います。欧米でも、
このような男性は少なくないと思います。
>結婚すると妻が、「うちの母ちゃん」になってしまって、セックスすらしなくなってしまう
日本では、結婚することによって、(性的関係を持つパートナーとしての)「夫」
「妻」という役割よりも、(性的関係は重視せずに、何かの仕事ー子育てなどーを
協力して行うパートナーとしての)「父」「母」の役割を重視するようになってしまう、
という方がより正確ではないかと思います。よく言われることですが、欧米の夫婦は、
日本の夫婦に比べると、「性的関係を持っている」という匂いがぷんぷんします。
したがってこの点は「日本文化の特殊性」であるとは思いますが、「日本社会の病理」
であるとは必ずしも思いません。「日本に特有の長所」「日本に特有の病理」のどちら
にもなる可能性があることは確かでしょうが。
>日本文化の持つ特異性ということから境界例を理解したいとも考えています。
日本文化においても西洋文化においても、似たような「境界例」の方がおられますので、
「日本文化の特殊性」に重点を置きすぎるのは、あまり本質的ではないように私は
思います。例えば、日本では「母親に密着」、欧米では「女友達に密着」などの差異が
あっても、「誰かに密着して振り回す」という本質は、共通していくわけですから。
>>580 すみません。タイプミスです。
共通していくわけですから→共通しているわけですから
>>580 結婚して妻との事を平気で「身内などとセックスできないと」公言する男を知っています。
あいた口がふさがりません。
妻も妻でしっかりもので家庭を誠実に運営しますが夫の前で女であろうとはしません。
これが何故、日本の病理ではなく長所になりうるのでしょう。
私には日本の夫婦は人間的に無理をしているような気がします。
ボインは〜お父ちゃんのためにあるんやないんやで〜
>>583 ロボは日本の男児、だからお母さん大好き。ちょっとマザコン気味、小さい時お父様と
お母さんのおっぱいの取り合いしたんだね。良くあるパターン。
>>582 >妻との事を平気で「身内などとセックスできないと」公言する男
これは「日本文化の特殊性」というよりも、単純にその男性が、一人の人間としての
妻とちゃんとした関係がもてない、つまり彼が人間として未成熟であるに過ぎない、
と私は思います。
>これが何故、日本の病理ではなく長所になりうるのでしょう。
「『夫』「妻』という役割よりも、『父』『母』という役割を重視すること」が
「日本文化の特殊性」であるとすれば、これは子供にとって長所になりうると思い
ます。というのは、「自分の父と母は、性的関係を持っている」(つまり、父と母は
自分には持つことのできない何か良いものを持っている)という「外傷的になりうる
状況」に、子供が直面せずにすむからです。精神分析の用語を使って書くと、「父母が
自分には持つことのできない何か良いものを持っている、という『(早期)エディプス状況』
によって生じる『羨望』に、子供が直面せずにすむ」となると思います。
但しこれは、欠点とも結びついていると思います。すなわち、「羨望に直面して
それを乗り越えることなく成長した子供たち」によって構成された「日本社会」に
おいては、「『自分以外の誰かが、自分には持つことのできない何か良いものを
持つこと』が我慢できない」という傾向をもたらしてしまう可能性があるからです。
具体的には、「著しく才能のある人」が「おかしな人」として集団から攻撃・排除
されたり、「(政治家、官僚などの)権力をもつ人」が、明らかな根拠もなしに
「きっと蔭で何か悪いことをしている」という印象を持たれてしまう、などの現象です。
「日本文化が西欧文化と比べて特異である」という考えに、私は賛成します。
しかし、「日本文化が西欧文化よりも優れている」「日本文化が西欧文化よりも
劣っている」という考えは、どちらも正しくない、と私は思います。
俺の知っている英国人の社会学者は 「西洋文化」なんぞというものは存在しないと吼えていたが
心理士ですが、エディパルな関係についての浦島先生の論述を興味深く読ませて いただきました。 私は精神分析には半可通なので、この1年は読書療法をしようかとw。 文化と言うよりも、その家族に特有の文化として、西欧ではどうかわかりませんが、 日本では、「お風呂」があるでしょう。 お母さんと思春期を過ぎても普通にお風呂に入って、背中の流しっ子をしている 母と息子がいると、ガールフレンドからは「キモイ」と言われてしまうでしょうし、 私は専門外ですが、斉藤学医師からは「風呂覗き親父」という人がいるとも言われて います。 フィンランドなんかは、一家でサウナに入るのが文化になっているので、家族で裸で いることが必ずしもインセスト・タブーにはつながらない。 父母がセックスをしたい時間に「一家川の字」に寝るように強要せずにはいられない 子どもは、そこで、父母の間でのセックスを禁止しているとも取れますね。 これも日本では、住居状況が狭隘なので、「お父さんとお母さんがセックスしているの が、たまらなく何故だか悲しくなった」と言語化できる年になっても原光景が続いてい る人もいるわけですよね。
>>585 >これは「日本文化の特殊性」というよりも、単純にその男性が、一人の人間としての
>妻とちゃんとした関係がもてない、つまり彼が人間として未成熟であるに過ぎない、
>と私は思います。
しかしながら、こういう男は日本には多すぎます。(日本しか知りませんが)
例え冗談でも「身内とセックスできないと」公言できる環境が日本にはあると思います。
>小さい時お父様とお母さんのおっぱいの取り合いしたんだね。
外国だと父親とおっぱいの取り合いしても、子供は勝てないけれど日本では、子供が
勝ってしまうような気がします。
ちょっと精神分析から外れますが、同一の女性と一緒に暮らしているとテスト ステロンの放出量が減るそうですね。 ただ、それは、日本人特有ということでは、説明がつきませんね。 590さんが言うような、日本文化の独自性があるのではないでしょうか。
「夫婦とは空気の如き存在であり 必要不可欠であるがその存在を意識しない」 というのを異文化圏の人間に言うと エイリアンを見るような目で見られるというが
>>589 Sunshineさん、はじめまして。
>父母がセックスをしたい時間に「一家川の字」に寝るように強要せずにはいられない
子どもは、そこで、父母の間でのセックスを禁止しているとも取れますね。
はい、その通りだと思います。私が今住んでいる国は明らかにしていないことに
なっていますので、あいまいに書きますが。。。この国では、子供にとって「両親の
寝室」は、「立ち入りを固く禁止されている聖域」です。「両親がそこで何か秘密の
ことをしている場所」というイメージがあり、「両親の寝室の外でこっそり、何が
起きているか知るために聞き耳を立てた」という思い出を語る患者さんは少なくありません。
あとこの国には、確かに「お風呂の文化」は存在しないですね。
>>590 >こういう男は日本には多すぎます。(日本しか知りませんが)例え冗談でも
「身内とセックスできないと」公言できる環境が日本にはあると思います。
ちなみにこの国でも、未熟な男性は多すぎるほどたくさんいます。但し、日本とは
未熟さの表れ方が異なっているように思います。よく聞くのは、何かが起きるたびに、
妻よりも実母に相談して、母の意見に従ってしまう、という例です。あと「デートの
時はすごく親切な紳士だったのに、結婚したら全く変わってしまった」という話も
よく聞きます。でも後者は未熟というよりも、国が変わっても男は似たようなものだ、
という話に過ぎないかもしれないですね。。。(女性の反感が恐ろしいですが。。。笑)
しかし、「妻は身内だからセックスできない」と公言することは、この国では
ありえないと思います。そんなことをしようものなら、即座に離婚されますので。
>外国だと父親とおっぱいの取り合いしても、子供は勝てないけれど日本では、子供が
勝ってしまうような気がします。
これは、御指摘の通りだと思います。
>>594 >浦島
お答えありがとうございました。
>国が変わっても男は似たようなものだ、という話に過ぎないかもしれないですね
そうですか。笑ってしまいました。これ以上何ともお返事のしようがございません。(笑
嫉妬は日本語では「嫉妬」ですが、英語だとジェラシーとエンビーがあるわけ でしょう。 日本に限らずですが、芸能ネタを追いかけて、ダイアナ妃がパパラッチから逃れ ようとして死んでしまったのは、エンビー的な嫉妬のような気がします。 芸能人が結婚しても「おめでとう」とはならず、「いつあの幸せそうなカップルが 破綻するのか」という他人の不幸を願う嫉妬はエンビーに近いでしょう。 会社や学校で、「あいつには負けないために頑張る」というのはジェラシーという 訳語に近いような気がします。 英語に詳しい方がいらっしゃれば、回答よろしくお願いします。 日本は不景気が続いていて、構造的に日本社会がうつ的だという評論家もいますが、 私は常に大衆はBPD的な側面があって、何か芸能人に身上変化があると、自分と 関係はないのに、掌を返してこきおろしたりするという文化があると思います。 昨今では、雅子様の不調が女性週刊誌ではいつも取り上げられていますが。
私はエンヴィは「羨望」で二者関係で生じるものに対して、ジェラシーは「嫉妬」 で三者関係の中で生じるものと理解しています。
スコットランドヤードがよりによって皇太子の尋問を本気で検討してるところを見ると 陰謀説はどうやら冗談ごとではなくなってきているようだけど
あんなにイギリス王室に都合良く交通事故がおこるとは考えがたい 何せ、ダイアナはイスラムの子を妊娠中。 疑う人が出てきて当たり前。
600
601 :
没個性化されたレス↓ :04/05/12 23:55
医師板から紹介されて質問にやってきました。よろしくおねがいします。 296 :卵の名無しさん :04/05/11 20:16 ID:w+W9mEv8 精神分析の先生に質問です。 転移しやすい患者の傾向というのはありますか。 例・愛着の対象がいままでなかったorいままでしっかり愛着の対象があった 特に陰性転移について、いままで”愛着対象をもったことがない”という 患者さんは多かったりしますか。
>>601 ようこそ。「精神分析の先生」と言えるほどの者ではありませんが、ネタが
途絶えていたので、サル箱行きにするのはもったいないです。
私は転移にいて、たとえば精神分析を受けて初めて起きるような特殊な現象ではなく、
ごくありふれた現象と考えています。たとえばスピード違反をした時に警察官に嫌な
目に遭わされた人は、他の警察官に呼び止められた時に、その時の嫌な感情がよみが
えってくるかもしれません。自分でも不思議なほど、反抗的な口調になるかもしれま
せん。
転移そのものはありふれた現象であっても、転移が発展しやすいような治療構造を設
定し、発展した転移を手がかりに患者さんの心を理解しようとするのが、精神分析の
考え方だと言えるのではないでしょうか。
治療を進めるには、まず患者さんが穏やかな陽性転移を発展させられるかどうか、言い
換えれば人を信じる力があるかどうかは、一つのポイントでしょう。でも陽性転移と陰
性転移はコインの裏表のようなものですし、陽性転移を扱う方が厄介とも言えます。陽
性転移の解釈は、患者さんにとっては剥奪体験になるからです。
「今まで愛着対象をもったことがない」人は、どこをどう探しても、おそらくいないの
ではないでしょうか。それでは、生きていけないと思いませんか?
アーびっくりした。「サル箱」行きですよね「サル小屋」ではありませんよね。良かった。 かわずさんに「サル小屋」云々されてはマリリンは立ち直れない所でした。(笑 このスレ、医師板で紹介されているのですね。たいしたものです。それこそ心理臨床の専門性と 言えるのでしょうね。
マリリンさん、お久しぶり。ミスタイプの訂正です。
>>603 ×私は転移にいて
○私は転移について
少しつけ足します。
ご存知かと思いますが、フロイトの古典的な学説では、転移は特殊な現象であり、
精神分析を通して生まれてくるものです。そして今で言う統合失調症などで転移を
形成できない(ように見えた)人を「自己愛神経症」と呼んで、精神分析の対象か
らは外しています。
ヒステリーの患者さんに向けられる恋愛性の転移感情を、額面通りに「この人は自
分を愛している」と受け取らないで、「この私を愛するとは、どういうことだろう」
と不思議がり、患者さんを理解する手立てに用いていったところにフロイトの天才
があるように思います。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 電波警報発令! | 電波マリリンを確認!
\ 電波警報発令! \素人のみなさんは騙されないで!
\ \
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
M ┌――z
゚γノノ''ノハヽ ノノ''ノハヽ.
ノリ´ヮ`)ゝ ( ゝ・D・)ゝ
と>卯< つ ⊂>.Y.<つ
∠;;;;;;;;;ゝ [:::: ::::]
レハJ .U.^.U
2ちゃんねる心理学板電波警報
http://www.geocities.jp/sarupppsaru/index.html
>>606 馬鹿者。(`m´#)ムカッ
本当に困ったもんだわ。荒らして良いスレといかんスレの区別ぐらいつけなさい。
maeda君でもそのくらい分かっていたよ。
>>605 フロイトについてはこの板に来るまで、名前と精神科の医者で患者さんを
実験材料にして研究した人程度の認識しかありませんでした。
この板に来てからほんの少し勉強して、偉大な人だったと思うようになりましたが
ほとんど、彼についての知識はありません。
ですから、かわずさんが教えて下さるフロイトの知識は私には新鮮な驚きです。
ありがとうございました。
陰性転移の方はどのように捉えられているのでしょうか?
>>604 >このスレ、医師板で紹介されているのですね。
それ、漏れ(医者)が貼ったの。
漏れが回答してもよかったんだけど、
>>601 さんが分析の専門家にこだわってるようだから。
マリリンさんは、「サル箱」行きではなく、「サル小屋」へ行って下さい。
ワロタ
>>607 陽性にしても陰性にしても、転移を治療の中で扱うのは、患者さんの親子関係に踏み
込んでいくことになります。治療者への陰性転移があらわになってきて、治療者が解
釈したとします。たとえば、
「いつでも自分のことを、見ていて欲しいのですね。そうしてくれないなら、いっそ
のこと、居ないほうが良いとさえ感じるのですか?」
が、患者さんの過去(親子関係)、症状(対人関係)、転移(治療関係)の三角形の
中心をついている(それぞれにあてはまる)のなら、患者さんに届く解釈になり得る
でしょう。それが剥奪である(私はあなたのお母さんではないのに……という前提)
には変わりはないのですが、治療者への陰性感情が自己理解につながったり、陰性感
情を抱いても報復されない体験が、剥奪を和らげると考えます。
他の人の意見も聞いてみたいのですが、いかがでしょうか?
ということで、本物のかわずさん、トリップつけましょうよ。
>>601 転移のしやすさに関しては、松木先生の監訳の「クライニアン・クラシックス」でアイザックのPhantasyの論文が役に立つかも知れない。
転移のしやすさは基本的に無意識的空想が活発になればなるほど生じやすくなる事が書かれていたような。
記憶にのぼらない(意識化されない)母子関係が活発に起っていると陽性・陰性転移が起りやすくなるような事が書いてあったとおもう
(が、うろ覚え(汗))。
ただ、メンヘル板で簡単に「転移」と言う言葉が使われているけど、元来の転移とその性質が違うように思うな。
漏れは自由連想法における転移を体験していないので、この意見自身も想像にすぎないんだけど、
1)「なんとなく」(無意識的に)
2)「ある程度繰り返して」(反復強迫?)
3)「自分で容易に気付いたり指摘されても認められない」(転移のまま無意識にとどまろうという抵抗が存在して)
強烈な情緒かと思うな(てか、失敗した経験からなのですが(笑))
「え、先生の事が好きなこの気持ちって陽性転移?(はーと)」というのは、あまりにも簡単に意識化されすぎのような気がします。
陰性転移が強いクライエントの環境因は不勉強で分かりませんが、少なくとも「愛着対象を持った事がない」ということは
ないでしょう。「トイレの乳房」という言葉があるぐらいですから。
>607
>>606 >>馬鹿者。(`m´#)ムカッ
>>本当に困ったもんだわ。荒らして良いスレといかんスレの区別ぐらいつけなさい。
マリリンは、荒らしてよいスレを荒らしているという理解でよろしいか?
たまにスレが上がってると、カキコが増えますね。 閑話休題 それにしても、浦島さんはおかわりないのでせうか? 最近、スレ上で見かけないものだから、(´・ω・`)ショボーン。
精神分析の諸先生がた、レスありがとうございます。 最近患者として、周りを見渡してみて、不思議なほど自己が しっかりしていて、親に愛されている子が陽性転移をおこさず 淡々と主治医を賞賛している(だけ)なのがすごいなと思ったのです。 私は自己が確立しておらず、両親は私の愛着対象ではなかったので、 たった数日優しくしてくれた方をすぐに好きになってしまいます。 ところでトイレの乳房というのが気になります。 私の愛着対象はペットでしたが、それらを何度も親によって殺されたり 取り上げられたり空に放たれたりしてきて、一番許せない体験となって います。 特に母は、わたしの重要なものを取り上げる鬼親として憎しみの対象に なっています。
>>617 >私の愛着対象はペットでしたが、それらを何度も親によって殺されたり
>取り上げられたり空に放たれたりしてきて、一番許せない体験となっています。
お話を聞いているだけで辛いですね。殺された子達の無念さを思うと涙がこぼれます。
貴方の親御さんは何故そのような事をしたのでしょう。差し支えなければ教えて下さい。
601さんが間違えるといけないので、書いておきますが、私は精神分析の先生では
なく獣医師です。
>>617 陽性にしろ陰性にしろ転移は関係性の問題+本人の心的現実の問題の両者を考えないといけないよ。
「犯人探し」は治療的ではないと思うな。
620 :
没個性化されたレス↓ :04/05/14 20:25
>619 犯人探しはしてません。精神病は遺伝器質的な要素も大きいという きもするし、なにしろ、私はもう親を越えられましたから。 私が知りたいのは、『かわいがられて育った自尊心のある子はほれっぽくない』 のかな?というシンプルなものです。 なにしろ、わたしは『かわいがられて育っていない自己評価の低い人間』なので ちょっと優しい人にはすぐホロリです。 自分を安売りしたくないのにこのザマですから、退陣関係の基本である親子関係 に重大な問題があったとすれば、親にあくまでも”冷静に”賠償請求するつもり です。w まりりりんさん、獣医は私のなりたかった職業です。私が捨て猫を率先して 世話していたため、地域の猫が仔を生むたびに、両親が処理センターへ箱詰め して送っていました。相当なトラウマです。なにしろ、私の猫ではなく、野良 猫なんですから。 私が親だったら、里親探しをするポーズだけでも子供にとってみるし、最悪 センター送りでも、そのことは子供に隠したいと思います。社会の暗部ですから 知るのは大人になってからで十分です。
>>620 そうですね。子供に対するホンのちょっとの配慮必要ですよね。うちの病院でも年にかなりの数の
避妊手術をしますが、子供に内緒にしてくれと依頼する親御さんも最近では多いですよ。
子供どころか旦那に内緒で去勢手術してくれと言ってくる奥さんもいますしね。
貴方の親御さんは犬猫に対して昔風の考えの持ち主なのかもしれませんね。昔は
犬や猫が避妊手術をされることもなく、生まれた子犬は川に流された時代もあったみたいですよ。
野良犬を捕まえて食べていた時代もあったぐらいですからね。そういう時代の考えを引きづって
いる人に貴方のように現代人のペットに対する考え方を理解しよと言うのもなかなか難しいのかも
しれません。
>『かわいがられて育った自尊心のある子はほれっぽくない』
>のかな?というシンプルなものです。
これですが、あくまでも私の考えですか、かわいがられて育ってなくても自尊心を持つことに
成功した人はいると思うし、貴方だってこれか自分の中に自尊心を育てることは可能だと思いますよ。
ほれっぽいのも、自尊心とは関係ないと思います。人に対してほれっぽいのは、ある意味
貴方の長所かもしれませんから、大切になさればいいのではないですか。
>>620 >>621 >>1 >精神医学と臨床心理学の専門家、学生諸氏に
>・クライエントや家族の方などの、個人的なご相談はお受けしません。
>>603 >>612 >>614 お久しぶりです。かわずさんによる603番の「転移」「精神分析の考え方」の記載に
ついては、その通りだと思います。あえて言い直すとすれば、「実際の現象としての
転移」に対して、「転移を起こしやすい」「転移を起こしにくい」という分類をする
こと自体があまり適切ではなく、「ある患者さんが、どのような種類の転移を起こすか」
という形の分類しかできないと思います。そして、このような混乱が生じてしまった
背景には、614番でreverieさんが指摘しておられる通り、「転移」という用語の
不正確な使用の仕方にあると思います。(専門家でない方が「『転移』という
『専門用語』を正確に使っていない、と責めている訳ではありませんので念の為。)
但し603番の「患者さんが穏やかな陽性転移を発展させられるかどうか」という記載には、
少し異論があります。お分かりだと思いますが、実はこれは「フロイトの意見に
異論がある」と書いているのに等しいのですが(笑)。。。
患者さんが治療場面で、治療者に対して抱いている「感情」を、治療者が正確に
理解して伝えることができた時、患者さんの中に生じる「ある種の感覚」−「理解
してもらえたという安堵感」「この人には生の感情をぶつけても大丈夫だという
安心感」「どこか緊張がとけたような感じ」などーを患者さんが「経験」していくことが、
治療者と治療そのものに対する「信頼感」につながっていくと私は考えます。そして、
この場合の「患者さんの抱いている感情」とは、「陽性感情」「陰性感情」どちらでも
同じ(つまり「陽性転移」「陰性転移」どちらでも同じ)だと思います。
「治療関係の基礎」になるのは(フロイトが記載したような)「穏やかな陽性転移」
ではなく、上述したような「経験」によって生じる「治療者と治療に対する信頼感」
である、というのが私の意見です。
>>612 >「いつでも自分のことを、見ていて欲しいのですね。そうしてくれないなら、
いっそのこと、居ないほうが良いとさえ感じるのですか?」
実はこの解釈のしかたそのものは、私はあまり好きではありません。その理由は、
「(治療者が)いない方が良い」と感じているであろう患者さんに対して、微妙に
ですが、「そう感じることを治療者が非難している」というニュアンスを与えてしまう
可能性があるように思うからです。
私自身は、「いっそのこと、いない方が良いとさえ感じてしまうんだと思います」
という伝え方の方が個人的には好きです。
>>620 >『かわいがられて育った自尊心のある子はほれっぽくない』のかな?
619番ですでにreverieさんが書き込んでおられますが、「本人の素質(持って生まれた
性格傾向など)」と「環境」の両者を考える必要があるように思います。
分かりやすくするために、わざと「非科学的」で「乱暴」な書き方をしてみます。
「自尊心」が育つためには、「親からどの程度かわいがられたか」と「自尊心が育つ
ような素質を本人がどの程度持っていたか」の両方が関係してくると思います。
(前述の通り、これは正しいとは言えない記述ですが、分かりやすくするために
書いています)そして現在、ある人の「自己評価が低い」場合、その人の過去に
おいてこの両者がどの程度関与したかを判定することは、タイムマシンがない以上
実質上不可能だと思います。
したがって、「かわいがって育った子には自尊心が育つのか?」という質問に対する
答えは「何ともいえません」となりますし、「かわいがって育った自尊心のある子は、
ほれっぽくないか?」という質問に対する答えも同様に、「何ともいえません」に
なると私は思います。
>>620 「親を越えられ」たのならば、「賠償請求」なんぞする必要はないよ
627 :
没個性化されたレス↓ :04/05/15 10:03
>626 現在、体調を崩しているので、賠償請求では言葉がわるいですが、 医療費の負担をそれとなく要求しています。 >625 なんとなくわかりました。 つまり、単に自己が確立していて毎日両親にお見舞いにきてもらって なおかつ主治医に転移しない彼女がうらやましかっただけなのでしょう。 そのうらやまさから発生する苦しみを頭で理解できれば楽かなと 分析医の先生に質問させていただきました。 現段階で自己評価の低い私はこれからもたくさんの人に惚れて 暇をもてあますことなく波瀾万丈の一生を送るでしょう。それはそれで 人からうらやましがられることかもしれないという考えに至りました。 それにしても精神分析っていうのは高くつきますね。親の援助が どうしても必要です。
これは「水を飲みたくなったのは、喉が乾いたせいだ」というのと同じ理屈ですが、 論理的には、性愛的な転移をするのは、甘えたいという願望が抑圧されているから です。 (可能性としてなら他にも、治療同盟を破壊するためとか、理由は考えられますが。)
630 :
没個性化されたレス↓ :04/05/15 20:01
>629 治療同盟を破壊する目的とは、一体どういうシチュエーションで 発生するのでしょうか。 たとえば、精神症状をおさえるとなにもできなくなる芸術家や、 メンヘルっぷりを愛されている奥様とか? 疾病利得というやつでしょうか。 そのほかに、治療者に高いお金を払ってまで、戦いを挑んで治療を 破壊しようとする屈折したクライアントもいるとか?
治療同盟を破壊するのには、治療者と性愛的な関係に陥ることが簡単な方法 だと思います。 これは、異性の治療者間でもよく起きますが、同性の治療者間でも、ゲイの 気持ちが普段全くないクライエントさんが、治療者に対して同性愛的な感情を 示すということもよくあることでしょう。 お金と転移の関係はこれはこれで面白いので、これだけで1スレ立てられそうです。 お金をなかなか払いたがらず、つけにしたがるクライエントさん、過剰にお金を払い たがるクライエントさん、どの関係も転移という感情から分析すると面白い視点になる でしょうね。
632 :
没個性化されたレス↓ :04/05/15 22:04
はぁー 精神分析って深いなぁ〜藁 転移し易い私は直しやすい素直な患者かもしれません。もちろん付けではなく 現金で払いますし。
>>625 浦島さん、お久しぶりです。
いや、面白いですね。
かわずさんの
>いっそのこと、居ないほうが良いとさえ感じるのですか?
と、浦島さんの
>いっそのこと、いない方が良いとさえ感じてしまうんだと思います
は、こうやって並べてみると異なる文字は少ないのですが(笑)
かわずさんの場合は、直面化のニュアンスを、浦島さんの伝え方は解釈のニュアンスを感じとりました。
かわずさんの伝え方は疑問形で、「感じる」理由を考えてみようという誘い、
浦島さんの「感じてしまう」という点に関しては、「無意識」(何故か知らないけど感じてしまう)の解釈を伝えようとする思いを
感じました。
なるほど、なるほど。
>>624 浦島さん、お久しぶりです。
「いっそのこと、居ないほうが良いとさえ感じるのですか?」は英語にすれば、
「Do you feel〜」の文になり、「いっそのこと、いない方が良いとさえ感じて
しまうんだと思います」は「I think〜」になるのでしょうね。
私は患者さんにコミットするかどうかの、距離の違いを感じます。問いかけるか、
それとも自分の考えを述べるかですね。おっしゃる通り「いっそのこと、いない
方が良いとさえ感じてしまうんだと思います」は、非難するニュアンスはないの
ですが、他人事のような冷たい感じを与えてしまうような感じがして、転移解釈
にはなじまないような気もしています。
636 :
没個性化されたレス↓ :04/05/16 02:29
>>635 サンクス!素人にも読みやすかった。(意味はすべて理解できません
でしたが・)
>>633 >疑問形で、「感じる」理由を考えてみようという誘い
>「無意識」(何故か知らないけど感じてしまう)の解釈を伝えようとする思い
患者さんと一緒に、少し第三者的な視点から「患者さんがそう感じる」理由を考えて
みようとする場合には、例えば以下のような解釈の方がより良いように私は思います。
「いっそのこと、いないほうが良いと感じてしまっている、という可能性はありますか?」
この表現は、クライン派に多い傾向のある「断定的な解釈の仕方」(例えば私が書いた
ような。。。笑)に批判的なある分析家が、別の解釈の仕方の例として出してくれた
表現です。英語では「Could it be possible that you feel...?」です。
>>634 >患者さんにコミットするかどうかの、距離の違いを感じます
>他人事のような冷たい感じを与えてしまうような感じがして
かわずさんの書かれていることは、「日本文化と精神分析の関係」という、とても
大きな問題に関係していると思います。
「いっそのこと、いないほうがよいとさえ感じてしまうんだと思います」という解釈に
対して、「他人事のような冷たい感じを与えてしまうような感じ」を持つということは、
とても「日本人的な感覚」だと私は思います。(私も日本人ですから。。。笑)
つまり日本文化の文脈では、「(『あなた』と『私』は別の意見を持っている、
ということを前提とした)私はこう考える」という形で、「私」と「あなた」の境界を
はっきりさせすぎてしまうと、「他人事のような感じ」「水臭い感じ」を与えてしまう、
ということです。日本語において、「私」「あなた」という言葉を使いすぎると、
「こなれていない不自然な印象」を与えてしまうのも、「『私』と『あなた』の境界を
はっきりさせすぎると不自然になる」という、日本文化の特徴を反映していると私は
考えます。
しかし、「『私』と『あなた』は(おそらく別の意見を持った)別の人間であり、
その間には明確な境界がある」ということそのものは、(特に日本人にとって)
いくら受け入れがたくても、「厳然たる事実」であることは確かだと私は考えます。
そして、「現実・事実を変質させることなく、ありのままにとらえようとすること」は、
「精神分析」において本質的な点の一つだと思います。したがって、「自他の境界を
はっきりさせすぎると不自然になる」日本文化の文脈において「精神分析」を行う
場合においても、「自他の境界をはっきりさせていくこと」は、避けることのできない
方向ではないか、というのが私の意見です。
>>638 とても興味深いレスを、ありがとうございました。
浦島さんのおっしゃる、「自他の境界をはっきりさせていくこと」には、私も賛成で
す。浦島さんは必ずしも趣味ではないかもしれませんが、「治療者が共感を示すこと」
にしても、「自他の境界」があればこそだと思います。
適切な表現ではないかもしれませんが、「私は私、あなたはあなた」がきっぱりと分
かれていれば、転移も友情も愛情も生じないわけで、転移している時には「私」と
「あなた」が微妙に重なっているわけです。転移解釈はその重なりを、引き離す動き
ということになります。となると、例の「他人事のような感じ」がなるべく少ない方
が良いのではないかと思い、「転移解釈にはなじまない」につながるのです。
これは私の分離不安に由来する、逆転移かもしれません。
場合によっては「いっそのこと、いない方がいいくらいだ」と、「患者さんが独白す
るような感じ」+「私が患者さんの気持をなぞるような感じ」で、ぼそっと言葉にす
ることもあります。
>>639 実は訳あってすごく忙しく、あまりきちんと考える暇がありません。したがって、
思いつきで少し書かせて頂きます。
>浦島さんは必ずしも趣味ではないかもしれませんが、「治療者が共感を示すこと」
えーと、、、実は臨床家としての私の欠点の一つは、時に共感を示しすぎてしまう、
ということだったりするのですが。。。患者さんの話を聞いているうちに、自分でも
知らず知らずのうちに涙が出てしまうことが時にあります。(年のせい、という話も
ありますが。。笑)ただ、私が先に涙ぐんでしまったため、患者さんがその感情を
十分に持つことができなかった、と感じることが時々ありました。
関係ありませんが、私は日常会話の中で「共感」という言葉を聞くのは嫌いです。
ほとんどの場合、使用法が間違っているようですから。。。専門用語ではありませんが、
「卑下」「悩ましい」という言葉の使い方も、気になります。。。
>「私は私、あなたはあなた」がきっぱりと分かれていれば、転移も友情も愛情も
生じないわけで
この場合「自他の境界がはっきりしていること」と「他人との関係を持とうとしない
こと」を区別すべきだと私は思います。後者の場合、確かに友情や愛情は生じないと思います。しかし前者の場合、「自分とは
全く違う他人」(自分の一部をほとんど全く投影していない他人、という意味です)が、
自分に対して何らかの暖かい感情を向けてくれるからこそ、それがこの上なくありがたく、
うれしく感じるのだと思います。つまり前者の場合、友情も愛情も一層深くなる、
と私は考えます。
>「患者さんが独白するような感じ」+「私が患者さんの気持をなぞるような感じ」で、
ぼそっと言葉にする
これは、やはり成田先生のやり方を思い出しました。
>>640 自分の書いた文章を、今読み返してみましたが、やはり頭が回らず、きちんとした
判断ができません。変なことを書いていたらすみません。
>浦島さん 以前に、診察室の机の上は、病的に掃除をして診察にあたると言うレスを読んで、きゃー 何と恐ろしい。こんな人には私は友達にはしてもらえないなと思ったことがあるんです。 というのは、動物は汚すものですから、それを受け入れる事ができる人でないと獣医なんて 勤まらないんです。 今日のレスを読んで、浦島さんの人間臭さと優しさが伝わって来て、厳しいだけの人で ないことを理解しました。ちょっと、安心しました。嬉しいです。
>>640 >「自他の境界がはっきりしていること」と「他人との関係を持とうとしない
こと」を区別すべきだと私は思います。
これはなるほど、でした。これからゆっくり考えてみたいことの、一つです。
>臨床家としての私の欠点の一つは、時に共感を示しすぎてしまう、ということ
浦島さんが「欠点」とまで感じているとは思いませんでしたが、ほぼ私の予想通り
でした。2ちゃんねるでも、私はむかっ腹を立てて非難の書き込みをすることもあり
ましたが、浦島さんはまずそんなことはしそうもないですから。「共感を示しすぎて
しまう」からこそ、「共感を示す技法は趣味ではないのだろうな」と思っていました。
やはり技法は、個性を補うものですね。
私の方は、共感を示す技法を身に着ける必要がありました。成田先生から学んだこ
とが沁みこんでいて、成田先生の考えなのか自分の考えなのか判然としないようです。
成田先生の世界にどっぷり浸ってから、全く違うタイプのスーパーバイザーについた
のですが、彼にとってはやりにくいバイジーだったかもしれません。
>>642 マリリンさん
私の当て推量ですが、浦島さんはご自分の趣味?で「病的に掃除をする」のでしょうね。
「我ながら、ご苦労なこった」などと苦笑いしながら。そして、きれい好きを他人に強
要しないと思います。もし汚されたら「いえ、私が気になるもんですから」とときれい
にするか、患者さんが帰ってから掃除をするんじゃないかな。
>>644 (*^-^)ニコ 了解しました。
私の机の上は、猫と犬がちょっと油断すると上ってきます。それでもって、買ったばっかりのパソコンで
爪磨かれたり、飲みかけのコーヒーに足を突っ込んだりします。そんなとき、ちょっとは怒るのですが
最後は、いつも置いておいた私が悪かったと諦めます。
共感かどうかは分かりませんが動物と話ができるかどうかは、やはり技法もあるでしょうが
その人の個性が出ますね。
>2ちゃんねるでも、私はむかっ腹を立てて非難の書き込みをすることもありました
えー、かわずさんでもそんなことあるんですね。マリリンなんか、リアルではやったことのないような
喧嘩を2chでは、なんか毎日やってるような気がするんです。リアルで人相まで悪くなりそうだわ。(笑
646 :
没個性化されたレス↓ :04/05/20 18:27
精神分析の先生方へ 受診を希望しているのですが、米国では精神分析に保険を適応 しない保険会社が増えているというのは本当ですか。 あるいは、ごく一部でしょうか。それとも、多くの保険会社が 精神疾患の治療方法として認めていないのですか? また、日本での精神療法の点数と、精神分析の点数をおしえてください。 自由診療で多額の現金をつぎこもうと思っておりましたが、薬理畑の 精神科医に期待しすぎないようにと注意されています。
米国の事情には詳しくありませんが、お書きになったような噂は聞いたことがあり ます。ご存知の通り、さまざまな心理療法が百花繚乱の呈を示しているわけですが、 精神分析的なアプローチが、他のやり方に比べてコストが高いとは言えるでしょう。 終結まで数ヶ月、ないし数年かかるとなれば、例えば5回程度の終結を売り物にし ている、「解決志向アプローチ」にしてもらいたと考えるのは、保険会社としては 当然かもしれません。 精神分析が精神疾患の治療法として認められなくなったのではなく、言ってみれば 「一人勝ち」の状態から、one of them になったと言うことであり、今のところは 営利追求の論理で切り捨てられつつある、と言うことです。いや、心理療法全体が、 薬物療法オンリーの治療法に取って代わられつつあると言っても良いかもしれませ ん。 精神分析は「贅沢」なことであり、そのコストを見込んだ高額の保険料を払いたく ない、というユーザーもいるでしょう。いざ自分が受ける必要が出てくれば自腹を 切れば良いのだし、保険料はなるべく安い方が良いと考えても不思議はありません。 続きます。
上記のことは、クライエントがどのような治療法を求めているかとか、本当に効果 のある治療法なのか、という話とは全く別の次元で起きていることです。 日本での精神療法の点数は、「通院精神療法」が300点(3000円)くらいだったと思 います。実際は、数分の診察でも請求されているでしょう。ところが「標準型精神 分析療法」は390点。1時間かけて3900円より、1時間に何人も「通院精神療法」を した方が良いに決まっています。どだい精神分析の訓練を受けた医師が、1時間の 面接で3900円ということ自体、社会通念から逸脱しています(ちなみに私は臨床心 理士で、医師ではありません)。 精神分析的な治療は、治療者にとっても負担のかかる行為です。保険診療の枠内で やっていくには、無理があると言えるでしょう。興味がおありなら、自由診療で開 業している治療者を訪れて、何回か面接を受けてみられるのが良いでしょう。「役 に立ちそうかどうか、何回か受けてみて決めたい」とおっしゃっても、気を悪くす る人はいない(もしそういう人だったら、やめた方が良い)でしょう。 かりに1回1万円としても、週に1回、1年通って52万円。2年で104万円。歯列の 矯正は軽く100万はかかりますが、「高い」と言う話はあまり聞かないのが不思議で す。子どもを矯正歯科に通わせている私に言わせれば、精神分析にくらべてかなり おいしい料金設定だと思います。余計なことまで、書いてしまいました。
>>642 >診察室の机の上は、病的に掃除をして診察にあたると言うレス
自分が実際に書いた文章を見つけられなかったので断言はできませんが、おそらく
以下のようなことだったのではないかと思います。
患者さんを迎える時自分の机の上を片付けるかどうかは、治療者によってやり方が
違うと思います。書類・本などを開いたままにしておく人から、きちんと片付けて
おく人まで。私の場合後者で、患者さんが来る時私の机の上は、その人のカルテ、
プロセスノート(後で経過を書くためのノート)、自分のスケジュール帳のみという
状態になっています。書類・本などを出したままにしておく治療者もいる、という
現実を考えると、机の上を私がそのようにきちんとしておくということは、いささか
極端な行動であるとも思いますので、その「極端さ」を表すために「病的にきれいに
しておく」くらいの表現はしたかもしれません。でもさすがに「患者さんが来る前に
掃除をする」ほど、私は極端な(笑)人間ではありません。
>>643 >「共感を示す技法は趣味ではないのだろうな」
かわずさんの書き込みを読ませて頂いて気がついたのですが、どうやら私は「治療者が
(特に意図的に)共感を示す技法」が、単純に嫌いなのだと思います。そしてそれは
どうやら、昔の自分に対する感情と関係しているようです。
日本にいた頃の私は、「共感を示す技法」を多用していたと思います。こちらで分析を
受けた結果、日本では自分が「患者さんを理解していた」のではなく、「患者さんを
理解するふりをしていた」に過ぎなかったことに気付いてしまい、その結果昔の自分の
ことを恥じるようになりました。つまり、「治療者が(特に意図的に)共感を示す
技法」を私が嫌いなのは、昔の自分のしていたことを思い出して嫌な気持ちになるからだと
思います。
分析を受けた後は、「患者さんを理解する」ということができている、と感じられる
ようになりました。それだけではなく「時に自然に涙が出てしまう」ようになった
のは前に書いた通りです。ただ「涙を流す」という私の「行為」(「アクト」と書くと、
今年の分析学会のシンポジウムみたいですが。。。笑)が、患者さんがある種の感情を
持つ経験を妨げることがあると気付きましたので、現在はできるだけ抑えるように
しています。
>>646 >>647 >>648 かわずさんが書かれていることは、おおむねその通りだと思います。少しだけ付け加え
させていただきます。
精神分析が精神医学と強く結びついてしまった(アメリカでは、医師のみが精神分析家に
なれるという状況が長く続きました)、それどころか精神医学の中で精神分析が強い
発言力をもってしまったという、1960年代までのアメリカの状況の方が異常だった、
と私は思います。
あと、精神分析(又はそれに近い治療)を受けられたいということでしたら、
「日本精神分析協会」(これは「日本精神分析学会」とは別組織です)の会員では
ないにもかかわらず、「精神分析家」を名乗られている方による「治療」は、多分
受けられない方が良いと私は思います。「日本精神分析学会」の認定を受けていない
にもかかわらず「精神療法医」「心理療法士」「サイコセラピスト」などを名乗って
おられる方も、同様に避けた方が良いと私は思います。
但し、日本における「ユング派」の資格制度について私は良く知らないので、
「ユング派の治療者」の選び方について助言することはできません。すみません。
ご存知の方がおられましたら、教えてください。
652 :
没個性化されたレス↓ :04/05/21 07:12
精神分析の先生方、ご助言ありがとうございました。 カウンセラーはついているので、そちらは支持的にやってもらって 分析家にはばりばり、値段どおりのことをしてもらおうかという 気になってきました。 一応きちんとした所をさがしてありますので、はずれはないと 思います。 腰痛治療にコルセットやシップ、鎮痛剤を使用してきたのに、 外科的手術で背骨に人工関節を埋めるくらいの覚悟をしている のですが、その過程で症状が悪化することはどのくらいの 頻度でありますか。 結構おびえています。
653 :
没個性化されたレス↓ :04/05/21 08:58
先生方お教え下さい。 陰で人の悪口(sage)ばかり言う人がいます。 周りはそのために疑心暗鬼になり大変迷惑しています。対処法及びどの様な精神状態かお教え下さい。 因みにその方はオールドミスです。更年期障害者なのでしょうか。 宜しくお願い致します
心理学板は、個人的な悩みの相談をする板ではありません。 精神疾患に関するご相談は → メンタルヘルス板、各種医療機関へ 人生の悩みを語りたい方は → 人生相談板、各種専門機関へ
>>652 >カウンセラーはついているので、そちらは支持的にやってもらって
分析家にはばりばり、値段どおりのことをしてもらおう
こういう形態での治療は、避けた方が賢明かと思います。カウンセリングでやって
いくなら、それを続る。精神分析的な治療を受けるのであれば、カウンセラーに理
由を伝えて終結にするのが良いでしょう。
まず精神分析的な治療を受けようとあなたが考えていらっしゃることを、カウンセ
ラーとの間で話し合い、その意味を同定する作業が大切かと思います。
657 :
没個性化されたレス↓ :04/05/22 09:21
600age
>>653 ローカルルールをお読みになり、
しかるのちにこの板を退出していただけたら幸いです
659 :
没個性化されたレス↓ :04/05/22 14:32
>656 主治医にもカウンセラにも内緒で受けようとおもっておりました。 目からうろこです。いまどき精神分析なんて・・・・と一笑にふされるかなと。 後半部分の、精神分析による状態の悪化やともなわれると思われる危険性に ついてどなたか教えていただけないでしょうか。
>>659 ローカルルールから外れてかけている内容ですので、私がレスをつけるのはお終い
にします。一般論として、状態の悪化や危険性は論じようとすれば論じられるかも
しれませんが、あなたが悪化するかどうか、危険性を伴うかどうかは、ここでは何
とも言えません。あなたがかかる治療者が判断をするでしょうし、その判断をあな
たに伝えたり、悪化や危険性を食い止めるのも治療者の仕事だと思います。
>>660 かわずさんの答えは、ローカルルールから外れておりません。
外れているのは>653の質問です。
662 :
没個性化されたレス↓ :04/05/22 22:24
>>661 ということでびびりまくりの未経験者にさわりだけでも
教えてくださいまし。
過去にたった一人会った精神分析医に、開口一番性的な
質問をされたため、トラウマになってます。
>>662 何で、そんなことでトラウマになる?それおかしくないかい?
何で、精神分析医が開口一番に性的な質問なんかする?それもおかしくないかい?
664 :
没個性化されたレス↓ :04/05/22 22:51
665 :
没個性化されたレス↓ :04/05/22 23:30
>663 小規模な病院でクサッテいるような崩れ医師だったんですが、 当時陽性転移中の主治医の件で相談したいと相談したら、 「そいつとセックスしたいんだ。あはは」 といわれたんです。精神分析系とはいえ、真の精神分析医の先生 ではなかったとおもわれ。
むむ…、ダブル・ドクターか??
人に援助を求めるのに、いちいち相手を貶めたり、被害を訴える必要はないと思うな。 「OK」でない相手から援助を引き出し続けるのはつらいよ。
668 :
没個性化されたレス↓ :04/05/23 10:01
>667 苦手の克服を病気の人間があえてするというのは 体力・精神力ともに使いますので わたしに分析は向かないでしょうか。 たとえば、そのような発言があったら傷つきます。
傷付かないで治ろうってのが甘い。 分析は手術みたいなもん。
さて、本題にもどって、精神分析的心理療法について語りましょう。
それでは、668さんと669さんの書き込みを本題としましょうか。 669さんは、 >傷付かないで治ろうってのが甘い。分析は手術みたいなもん。 をふくらませてネタふりお願いします。 寝たふりはしないようにね。おやじギャグ、失礼しました。
>>671 かわずさん
最後の1行、不覚にも笑ってしまいました。
ま、
>>665 さんと主治医の関係が陽性転移だったのかどうかはともかくとして、
セカンド・オピニオンを得る為の相談が、いわゆる「乱暴な解釈」にあたるようですね。
たしか、フロイト全集 精神分析療法 の技法論に、創始者(笑)がこの事を触れてましたね。
>傷付かないで治ろうってのが甘い。分析は手術みたいなもん。
これ、賛否は別にして、よく聞くフレーズですね。
基本的に、投影性同一視による投げ入れやある種の転移状況はクライエント自身が
意識化しておくのがつらい何かを無意識に閉じ込め、とりあえずその辛い状況を
回避しているような気がします。ですので、それを再度掘り起こす事はやはり苦痛を
伴う事ではないかと思います。
>668 どうも文脈がつながっとらんような… >「OK」でない相手から援助を引き出し続けるのはつらいよ。 ↓ 「おまえはOKじゃない」 と貶めた相手から援助を引き出し続けるのはつらいよ 治療「OK」でない相手から援助を引き出し続けるのはつらいよ じゃないぜ。 「愛すること」は危険なこと(だから抑圧された) ↓ 抑圧されたものが湧き上がってくるのは恐ろしい ↓ 憎み続ければ安全だ (なんてな。ワイルドすぎるか…)
意図的に傷つけるのではなく、臨床のやりとりの中で不可避的に傷つくのは、 やはり無理もないことだと折れも思います。 ところで、分析系のオリエンテーションでは、このところ支持的なアプローチ(支持 療法?)がとられることが少なくないと聞きました。 この対応などは、不可避的にも相手を傷つけることを回避する方法なのでせうか?
675 :
没個性化されたレス↓ :04/05/23 15:13
>673 バカですみません。その医師とはもう会うこともないでしょう。 それにしても、後半部分の脈絡がいかにも精神分析で強烈ですね。 もうかなり怯えモードなので、分析は私には治療どころか自傷行為 にあたるかもしれません。(だから自傷がなおるのか?)
>>672 >意識化しておくのがつらい何かを無意識に閉じ込め、
>とりあえずその辛い状況を回避しているような気がします。
Q1 「何か」の具体例を教えて下さい。
Q2 患者を辛い状況に直面させるための技法を教えて下さい。
>>676 横レスですが
「何か」は「気持ち」に書き換えても、良かろうかと思います。
それは「近親相姦願望」かもしれず、「破壊的な攻撃衝動」かもしれず、「エディプ
ス葛藤」かもしれず、ずらずらと出てきます。「何か」には、それこそ色々あるので、
もれなく書こうとすれば677さんのおっしゃるように、「ここで話せるような内容で
はない」ことになるかもしれません。それにしても専門用語で書くと、何やらおどろ
おどろしいですね。
「辛い状況に直面させる」ことの是非はさておいて、もしそうするなら技法としては
解釈や直面化ということになるでしょう。改めて強調しますが「辛い状況に直面させ
る」ことは、「傷つかせる」ことでもあり、今の話題に関連する大きな問題です。
>>672 Reverieさん
「不覚にも」笑っていただき、光栄です。
>傷付かないで治ろうってのが甘い。分析は手術みたいなもん。
これ、賛否は別にして、よく聞くフレーズですね。
さて、ここなんですね。「賛否」については、どうお考えですか?
今日はりす祭りで忙しい。 ゴメソ。
>>679 いわゆる無意識を意識化する場合にやはり傷つく事は有ると思います。
かわずさんのかかれた不快なものは、まさに僕の考えていたものなんです。
ですので、この痛みに耐えながら、意識化していく事が大事なんだろうなと思います。
「必要悪」というか「生みの苦しみ」というか。勿論、そこには「抱える環境」がないと
解釈や直面化が外傷的に働いたり、より防衛を強化する様に思えます。
岩崎学術の精神分析セミナーにも「はや過ぎる解釈は抵抗を呼ぶ」と書かれていますしね。
ただ、その苦しみに最終的に耐えるのはクライエント自身ですから、それをこえて自己理解を
していこうとするクライエントの心性が恐らく精神力動論を基礎におく心理療法を有効に活用できる
資質かなとも思います。
基本的に表面にでる症状や不適応は、もともとクライエントが「何とかしよう」としていつもなじんで来た
対処的なパターンだと思います。その裏には「(上手くいかないながらも)何とかせざるおえない不快な
心の有り方」が横たわっていると思います。その不快なものを明らかにする事が現在の症状や不適応を
消失させたり、なんとかやり過ごせたりする方法かなという気がします。
このあたりは精神力動的アプローチの治療モデルにかかわる所なんでしょうね
>>678 かわず先生、丁寧なレスありがとうございます。676の独学徒です。
「何か」の例を教えて頂いて、感謝感激しております。
理論書にはあまりはっきりと書かれていない部分なので、
いまいち確信がもてずにいた部分がよく分かりとてもうれしく思います。
これからもご教授頂けたらと思います。
>>681 Reverie 先生初めまして。
小此木先生の著作や訳書を中心として精神分析を学んでいる、独学徒です。
最近ようやく対象関係論の広大な地平の入り口に立つことができた初学者ですが・・。
直面化の問題は治療期間の短縮ということを越えた問題であることが分かりました。
分析は手術という時、CLの現象学について書かれているものは殆ど見かけないので、
先生のお話は大変参考になりました。
このスレを全て読んで、また諸先生方に質問をさせて頂きたいと思います。
Reverieさんの
>>681 は模範解答と言うべきか、分析的なアプローチを取る治療者
のスタンダードとして、永らく守られてきた伝統的な考え方だと思います。私自
身も、そう考えて来ました。そこにあえてつけ加えるとすれば、どのような心的
な事象であっても、人間に起こり得ることとして市民権が与えられる形で理解さ
れる必要があるのでしょう。
……でも、なんですね。心理療法諸派の中で精神分析の占める地位が下がってき
たり、あるいはコフートの自己心理学が盛んになってきたことに、「意識化の痛
みに耐えるのも、抵抗を克服するのも、患者さんの責任である」という、考え方
が影響しているようにも思うのです。苦しいことは、誰だって避けて通りたいも
のではないでしょうか。
ひるがえって「意識化の痛みに耐えるのも、抵抗を克服するのも、アナライザン
ドの責任である」であっても、教育分析を受ける人にとってはさしたる重荷には
ならないのでは? と思います。教育分析は症状の苦しみのない所からスタート
して、専門職を得るゴールが見えています。
浦島さん、いかがですか?
>675 もうかなり怯えモードなので、分析は私には治療どころか自傷行為 にあたるかもしれません それが陰性転移というものですよ。とだけ指摘しておきましょ。
>>675 >もうかなり怯えモードなので、分析は私には治療どころか自傷行為
>にあたるかもしれません。(だから自傷がなおるのか?)
いやだ、いやだって、出口目指して一直線に逃げようとしている患畜さんのようだね。
私たちだと、飼い主さんと獣医で引っ張ってきて、ちょっと説得して診察や処置してしまうけど
クライアントさんの場合は、そうも行かない所が獣医の仕事とちがう所だと改めて思う。
686 :
没個性化されたレス↓ :04/05/24 13:18
堂々と逃げればいいの。健全な反応だからw ここは逃げ道の沢山ある、ある意味、安全性が担保された空間なんだと思いますね。 そこが実際の治療とちがうところでしょ。 私としては遊戯性のある「解釈」よりも、通常のコミュニケーションの方が何倍も容易に、 ストレートに患者さんを傷つける危険を孕んでいるのではないかと… (いろいろ自戒を込めて)
あげちまいました。失礼。以後sage進行でよろしく。
688 :
没個性化されたレス↓ :04/05/24 14:12
>>やだ、いやだって、出口目指して一直線に逃げようとしている患畜さんのようだね。 >>私たちだと、飼い主さんと獣医で引っ張ってきて、ちょっと説得して診察や処置してしまうけど >>クライアントさんの場合は、そうも行かない所が獣医の仕事とちがう所だと改めて思う。 次元の低いところで一人なっとくしてるが、そんなの中学生でもわかること。 マリリソのあほさを改めて思う。
>>689 >中学生でもわかること。
そのアホな事に貴方は気がついた?なかなか当事者じゃないとそんな簡単な事でも気つかないよ。
貴方達には当たり前の事でも、私には不思議なんだ。
私たちの場合、患畜が言葉を話すことがない。だから、患畜をなるべく手荒には扱わないよう
心がけてはいるけれど、私がしていることが患畜の気持ちにとって正しいことをしているかどうかなんて
最後まで分からずじまい。これは飼い主にだって同じ事なんだよ。
その点、クライアントさんの場合、自分の気持ちをちゃんと話してくれるじゃない。>675さんとや
二番目の全角さんのレスは、私には聞こうとしても聞くことができなかった患畜の言い分に思えるんだ。
ある意味、治療者として恐ろしい事だとも思う。
691 :
没個性化されたレス↓ :04/05/24 16:48
あのぉ、お金もかかるし、怖いし、血しぶきとぶような 手荒い分析うけるのは、そりゃ脱兎のごとくにげたいんですよ。 ただ、直してくれるんだったら、理性で恐怖をのりこえられる んです。 エステの契約とおなじ。かかる前に、「治癒する可能性の明示」 をしていただけるとかなりありがたいですね。おまけに返金制度 まであったら完璧。
693 :
没個性化されたレス↓ :04/05/24 18:07
>692 おまえこそあまったれるな。やっぱりあやしい仕事なのか? 精神分析は。 こっちは命がけなんだよ。それとも何だ、命にかかわりのない 精神障害のないかたオンリー引き受けますってか? あまえてるのはどっちだよ。精神病をなおしてみてから もう一度いってみろ。このアホが。
>>692 同意。
同意でき兼ねる方はお引取り下さい。
つまり、他を当たれってこった。
>690 マリリンさん、このスレを荒らしたくないのなら、あおりに反応しないでください。
696 :
没個性化されたレス↓ :04/05/24 18:42
精神疾患をなおせないという結論でよろしいんですね。 他をあたります。
>>695 ごめんなさい。(_ _,)/~~白旗〜 もうしません。
患畜は噛みついたり引っ掻いたりしてくるだけだけど、人間の患者さんは、
暴言を吐いてくるからな、怖いよ。
>>691 精神分析的な治療は、切り刻むような、血しぶきがあがるようなものではありま
せん。そんな怖いこと、治療者の方だってやりたくないに決まってるでしょ?
自分の話したいペースで話せば良いし、治療者は話してもらったことしか、理解
できません。命がけの覚悟は、要りません。フロイトの治療を受けたアンナ.Oは、
精神分析を「お話し療法」と呼んだそうです。専門家が自分の話を傾聴してくれる、
ぜいたくで安心できる時間だと思ってください。
699 :
没個性化されたレス↓ :04/05/24 20:20
>698 かわずさんの努力空しく、精神分析にはやはり怪すぃーかんじが いたします。 あまえんじゃねーよで済むんだったら、わざわざ精神分析なんかに かかったりしませんよね。通常。
700 :
ニック大分 :04/05/24 20:25
.┌"" ̄〔二二二〕 ̄""┐ ┌'"" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄""┐ |゙ .(○○). ゙| | (1|7|M) l l [マヌケ] | |..____________ | | | | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | | | | | | <・> <・> | | | みんなで広げようクソ田舎の輪 | | |____|____|____| | | | ────────────..| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | ⊂ニニ⊃ .JR | < よゆうで700ゲット クソ田舎 マジック! | _ | ∩ | ._ | \_________ |_o____.⊂ニ⊃_宙____o_| l」''豆||豆''H l×ロl H jj''||豆''l」 ┌─┘_'__三三三三三'___└─┐ \______________/ ノ ̄ ̄`ゞ ノ二ニ.'ー、`ゞ ズビーシ Y´⌒` r‐-‐-‐/`ヽ、≡=─ |; ⌒ :; |_,|_,|_,hに丿ヽ ≡=─ .|: ; : : : .| `~`".`´ ´“⌒⌒)≡= - . |; ; ; ; 人 入_ノ´~ ̄ ≡= - l ; ;/ // /'' ≡=─
701 :
没個性化されたレス↓ :04/05/24 22:26
>700 ワロタ。 よゆうでゲットってとこが笑える。w
荒れが落ち着くまで、少しスルーすることにしますか。
>>679 >>681 >>683 「精神分析」と「傷つくこと」との関係は、精神分析の本質に関わる問題だと思います。
したがって、治療者によって意見が違うと思いますので、以下に書くことはあくまでも
私の考えです。
「精神分析」において、「傷つくこと」は不可避だと私は思います。理由は以下の
通りです。「精神分析」の過程で患者さんが「気付く」ことには、例えば次のような
ものがあると思います。「自分の幼児的な近親相姦願望を、自分の親でもない他人に
向けてしまっていた」「自分の破壊的な攻撃衝動を、自分とは別の一つの人格を持った
存在である他人に向けてしまっていた」
そして、このようなことに「気づいて」しまった場合、患者さんの側に例えば次のような
「反応」が生じると思います。「自分のしてきたことの罪深さを思い知る(これは
「責められる」ではなく、「思い知る」であることが重要な点だと思います)」
「自分は、他の誰とも『一体化』していない一人の人間である、という寂しさを
かみしめる」(「反応」としては、「自分の罪深さを受け入れる苦痛に耐えられずに
他人を逆恨みする」もありますが、ここでは複雑になるので省きます)
この「気付く」過程は「苦痛」を伴いますので、「傷つくこと」と表現しても良い
ように思います。しかしこの「傷つくこと(=気付くこと)」によって患者さんは、
「自分に今まで与えられてきた愛情に気付き、それに対して感謝する」「他人から
自分に向けられてきた好意に気付き、感謝する」ことができるようになると思います。
そして、限界のある「人間」である以上、「完全な幸せ」を得ることはできないものの、
「自分の人生をより自分らしく生きて、それを楽しめる」ようになると私は考えます。
このような「自分の人生に対しては、とことん自分自身で責任を持つ」という考え方は、
どこか「仏教」とも似ているように思いますが、これがいわば「精神分析の目指す
理想的な生き方」ではないか、と私は思います。
続きます。
>>704 続きです。
但しこれは、「生き方の理想」として唯一の答えではない、と私は思います。
「ある特定の論理的な考え方や、困難に対する対処の仕方を学び、それを利用して
生きることが幸せ」と考える人もいれば、「(自分がすべての責任を持つ、ではなく)
ある程度は他の人からほめられたりしながら生きることが幸せ」と考える人もいる
でしょう。前者は「認知行動療法」に、後者は「自己心理学に基いた精神分析」が
向いているかもしれません。
あと「親からは虐待されただけで、何の愛情も受けてはいない」という、実体験に
基いた反論が予想されますので、少し付け加えておきます。
最終的には実際に分析を受けて頂かないと何とも言えないことですが、「自分以外の
誰からも全く好意・愛情を受けずに、一人の人間が現在実際に生きている」という
ことは、多分かなり難しいのではないか、と私は考えます。もちろんこれはあくまでも、
一般論にすぎませんが。
>>683 >「教育分析」について
もしも「専門職を得た」ことが、「自分の精神分析分析のゴールであった」と考える
「分析家」がいたとすれば、その人はもう「分析家」ではない、と私は考えます。
「精神分析」とは、「教育分析」が終わって自分の分析家に定期的に会わなくなった
としても、「自分に対する分析」そのものは一生続けていく、という性質のものだと
思います。そして「分析家になる」ということは、一生「自分の無意識を意識化する」
という「痛み」に耐え続ける、という「生き方」を選択することだと私は考えています。
但し、経験を積むに従って、だんだん「痛み」に慣れていくのは多分確かだと思います。
しかしそれでもやはり、「痛い」のは同じだと思います。
素人ですが、お訊きしていいでしょうか。 痛みにはどのように耐えていらっしゃいますか? 自分は、つらいとか苦しいということに耐え難くて、 悲しむということがよくわからないのです。
708 :
没個性化されたレス↓ :04/05/25 16:07
>但し、経験を積むに従って、だんだん「痛み」に慣れていくのは多分確かだと思います。 >しかしそれでもやはり、「痛い」のは同じだと思います。 とても勇気のでる言葉ですね。 傷つくことに強くなるのが生きていくってことなのでしょうか。 精神分析的精神療法を10年ほど受け続けた身としては、このスレッドを読んでいると 治療の空間を思い出していろいろ思いをめぐらせてしまいます。 ユーザーの立場での発言があまり多くなってしまうのは好ましくないとは思いつつ、 ついアップしてしまいました。
709 :
グレーテル :04/05/25 18:36
外科手術は麻酔がきいてるから手術中は痛くないけど、 分析の手術は覚醒していきつつも、徐々に麻酔がきいてくような感じがする。 麻酔が最もきいた最終局面が最も痛いというなら、ちょっと恐い・・。 いいかげんな厨房意見を言ってゴメンなさい。 ちなみに自分が経験した外科手術は顎関節症の切開手術です。
>>706 自分の痛み、相手に与えた痛み、そして相手に償い慈愛が出現する
抑うつ態勢の目指す所は、WHOが推奨していた「健康」の定義のSpiritualな部分なのかなと連想してみました。
711 :
グレーテル :04/05/26 18:13
分析家は殺されねばならないというけれど、 患者がその凄惨な殺人現場から目を逸らすのは何故だろう。 二つのポジション間を揺れ動きながら、徐々に抑うつポジションへ 移行する時間をただ待つだけでよいのだろうか。 昨日の深夜、「名付しがたい恐怖(Nameless Fear)」を感じた・・。
単なる感想ですが、 最近の効果研究では、クライエント/患者と治療法のマッチングがテーマになっていますよね、 >704,705 は、それに対する示唆を含んでいるように思われました。 感心しましたです。
手術に例えられていますが、治療者やクライエントにより様々な関係が成立するだろうと思います。 私は人生から逃げ回る神経症者のイメージから鬼ごっこのような関係を想起します。彼らは捕まえて欲しくて治療者のもとにやってくるのですが。他にも色々な関係があるでしょう、精神分析の手法も様々です。 また、痛み自体はそれほど恐れるものでは無いとも思います。 治療者を信頼する関係を築ければ、その痛みはあなたの息の根を止めにやってくるものでは無いということが理解できる。そうすればその痛みを慈しむこともできるようになるかもしれない(決して自傷的な意味合いじゃ無く)。 私自身の経験ですが、自分の中の恐怖の源を知ることとそこから逃げないこと(他人を信頼し、言葉にできなかった言葉をその口からその他人に伝える経験など)は、そののちの人生の経験の回路を変えた大いなる体験でした。 治療関係は終結しても自身の人生はその経験をたずさえて続いて行くものと思います。
長々とすみません、その経験をきっかけに精神分析に興味を持ってその後も独学の範囲で新たなる理論や治療法に注目して居続けております。先生がたの議論やご活躍を見守らせてもらっております。
715 :
没個性化されたレス↓ :04/05/27 01:17
分からない・・。どうしてそんなにやさしくするのか分からない・・。 自分はどんな身近なひとにもそんな風にしてもらったことはなかった・・。 お互い顔も声も知らないというのに・・。 僕より何倍も苦しんで生きてきて、あんなにボロクソに言われたのに・・。 どうしてそんなにやさしくしてくれるのか分からない・・。涙が止まらない・・。
>>706 浦島さん、こんばんは。706でおっしゃっていることは、おそらくは多くの精神分析家
に共有されている考え方だろうと思います。私はそれに対して敬服もしますが、自分
自身のこととなると、そうはできないと思うのです。
うまく表現できませんが、「私を生きる」のではなくて、「精神分析を生きる」のは
どうかなと。「精神分析を生きる」ことがすなわち「私を生きる」とは、私にはどう
しても思えません。「わかってないな」と苦笑いされそうですね。
>>706 浦島さん、こんばんは。706でおっしゃっていることは、おそらくは多くの精神分析家
に共有されている考え方だろうと思います。私はそれに対して敬服もしますが、自分
自身のこととなると、そうはできないと思うのです。
うまく表現できませんが、「私を生きる」のではなくて、「精神分析を生きる」のは
どうかなと。「精神分析を生きる」ことがすなわち「私を生きる」とは、私にはどう
しても思えません。「わかってないな」と苦笑いされそうですね。
>>707 >痛みに耐えること
「痛み」に関しては、713番さんが書かれていることに、おおむね同意します。
つまり私の場合も、自分の分析家(治療者)との体験が、「痛みに耐える」支えに
なっていると思います。
>>710 >WHOが推奨していた「健康」の定義のSpiritualな部分
reverieさん、すみません、医者としてはとても恥ずかしい質問だと思うのですが。。。
「WHOが推奨していた「健康」の定義のSpiritualな部分」とは何か、教えてください。
>>718 >「精神分析を生きる」ことがすなわち「私を生きる」とは、私にはどうしても
思えません
かわずさん。
以前書いたことがありますが、ある治療法を専門とする治療者には、共通する性格の
ようなものがあるように私は思います。例えば「認知行動療法」の治療者であれば
「若く、明るく、未来を信じる性格」、「精神分析」の治療者であれば「年寄りくさくて
暗く、考えすぎる性格」という感じです。「システム療法」については数人の治療者
しか知りませんが、そのすべての人に対して「学校の先生みたいだな」(笑)という
印象を持ちました。
このような「共通する性格」の存在から考えると、「何かの治療法の専門家になる
ということ」は、「一人の人間としてそのような生き方を選択すること」でもある
のではないか、と思えてきます。(もちろんこれは、はっきりとした根拠のある話
ではなく、単なる思い付きです)例えばBeckは、「暗くなりきることのできない、
明るい未来を信じたい性格の人」なのかもしれません。(実際のところは知りません)
(御存知の通りBeckは認知療法の創始者ですが、最初に分析家としての訓練を受け
ています)
そして私は、「精神分析的精神療法の専門家」という「生き方」を、自分に合った
ものとして選んだわけですし、かわずさんは(おそらく成田先生流の)「精神力動的
心理療法の専門家」という御自分に合った「生き方」を選ばれたのではないか、と
思います。
性格の異なった治療者が、それぞれ自分の性格に合った治療法を自分の専門として
選んでいく。そしてもちろん、その治療法の専門家になることによってもともとの
性格傾向が増強されることもあるでしょう。選ばれる治療法は、「精神分析」
「精神分析的精神療法」であったり、「精神力動的心理療法」「認知行動療法」
「システム療法」であったりする。ただそれだけのことではないか、と私は思います。
707です 浦島さん、713番さんありがとうございました。 信頼関係を築ける治療者と出会えなければ難しいのですね。 わーい 浦島さんにレスしてもらっちゃった(*‥*)
>>720 浦島さん
WHOの「健康」の定義が
「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない」
"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."
なんですが、これの改正案として
"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."
というのが話題になった時期があります。結局通らなかったらしいんですけどね(笑)。
詳しくはこちらです。
http://www.med.hokudai.ac.jp/~senior-w/Others/whohealth.html ただ、アルコール依存関連の学会では結構話題になっていて、「霊的」という言葉が注目されていた時期が有ります。
自助グループのAA(Alcoholic Anonymous)もキリスト教的な宗教観(といっても僕自身の感じなのですが)
に支えられている所がありますし。ですので、この改定案があったことは一般的でないみたいですよ。
自助グループでの口演だと「断酒の次に目指すもの」としてSpiritualityというのは、話し易いネタ(笑)なんです。
724 :
没個性化されたレス↓ :04/05/30 13:11
興味深く読ませていただいています。「痛み」についてですが、確かに分析の営みの中で被分析者は痛みを 感じますよね。それはそこから逃げ出したいような、自覚したくないようなものだから当然ですよね。私の 臨床経験ではそれが本当に真実感のあるものであるときには、「痛嬉しい」というか辛いんだけどそれは確 かに自分だという感覚が起こってくるように思います。ビオンのいう「真実感」というのはこのような話な のでしょうか。浦島さんが気づきと痛みについてついて触れていますがその経験は被分析者のこころの空間 が拡がる、豊かなそして少しせつない体験のように感じられます。 この感覚を楽しめる、遊べるようになるのが分析の目標なのでしょうね。確かにそこにその人個人の「生き方」 もからんでくるように感じますが。生きることにともなう各個人の異なる「痛み」を抱えていくという人間観が 私個人にはフィットする感じがします。私の読み方ではビオンは人間は真実希求的であるというように主張して いるように感じますが。 失礼いたしました。今後も読ませていただきます。
>>723 reverieさん、とても勉強になりました。ありがとうございました。
私自身も考えてみたのですが、spiritualという言葉の挿入には反対だ、と思いました。
というのは、どうしても「宗教的ニュアンス」(例えばキリスト教、イスラム教などの
一つの価値基準)を感じてしまい、「ある種の価値基準を押し付けてしまうことに
ならないか?」という危惧を持つからです。
これが「WHOの定義」でなければ、別に反対はしないのではないかとも思うのですが。。。(笑)
>>724 とても実感のこもった、面白い書き込みをありがとうございました。同意しつつ
読ませて頂きました。
一つ教えてください。ビオンの「真実味」とは、どこに出てくる概念でしょうか?
勉強したいのでよろしければ出典を御教示ください。
>ビオンは人間は真実希求的であるというように主張しているように感じますが。
その通りだと思います。そしてこれはもともと、知識を得たいという子供の「欲望」を
強調したクラインに由来していると思います。クライン派は「生の本能」「死の本能」の
他に、「知識(真実)を求める本能」という「第3の本能」を加えた、という言い方を
時に耳にします。
>>726 クライン派のように「真実を尊重する立場」をとる場合、「真実とは何か?」という
点を明確にしておかないと、場合によっては「真実は分析家だけが知っている」と
いう「教条的な態度」に陥ってしまう危険性があるように思います。
以下のような逸話を聞いたことがあります。ある国際学会で、あの(笑)カーンバーグが、
発表の中で次のような発言をしました。「ある患者さんが、『先生は私のことを嫌って
軽蔑している』と言いました。実際には私は、そのようなことは全く思っていないにも
関わらずです。」
それに対して、あの(笑)ジョン・シュタイナーが発言しました。「『自分が患者さんの
ことを嫌って軽蔑している』とは全く思っていない、と確信できたことは、私は
今まで一度もありません。」
ここで描写されているシュタイナーの態度は、「真実とは、決してたどり着くことの
できない、常に追い求め続けなければならないものである」という考え方を示して
おり、とても「クライン派的」だと私は思います。しかし不思議なことに日本では、
カーンバーグのような態度が「クライン派的」と考えられてしまっているように思います。
>>726 すみません。間違えました。
ビオンの「真実味」→ビオンの「真実感」
>>727 >>649 浦島さん
プロセスノートに触れておいでですが、これは一人につき一冊ずつのノートで
しょうか。パソコンを使う治療者もいるのでしょうか。どのくらいの時間をか
けて記録をまとめておいでですか? セッションによっても異なるでしょうが、
どのくらいの分量になりますか? 記録のつけ方に興味があります。
私は決してほめられたものではないのでしょうが、セッションの後で記録をつ
ける余裕がないので、書きながら面接をしています。ケースを持ち始めた頃は
セッションが終わってから書いているゆとりもありましたが、忙しくなってか
らは、ずっとこのスタイルです。
セッションの終わりには、一応記録らしきものが出来上がることは出来上がり
ますが、あまり意味がないようにも思います。そうかと言って、後で記録をつ
けるのでは、細かく書く時間はありません。それがジレンマです。この頃は書
きながら面接をするくらいなら、数行であっても後で振り返って書いた方が良
いのかな、とも思い始めています。
しろーとですが、 精神分析的な心理療法では、「書きながら面接をする」ことで、セラピストの集中力が散漫になったりはしないのでしょうか? クライエントがしらけることはないでしょうか?
>>726 レスありがとうございます。すいません、言ったわりにはしっかり読みこなせて
いないのですが・・(ビオンはやっぱり難しいですね。そこが魅力ですが)
はじめに真実感という言葉を見たのはA theory of thinkingの後半にa sense of truth
という言葉ででていたと思います。感覚データが連結され調和すると真実感が経験される
という文脈でした。
おそらく、この発想がその後のOの概念=自己の真実、ビカミングOという概念につながっ
ていくアイデアなのでしょうね。私はまだ完全に理解できていませんが。
確かにどのような明快な解釈や洞察も被分析者にとっての情動的な実感がなければ治癒的な
いみをもたないように感じます。フロイトも知的洞察の限界について述べていますが・・・。
知識欲に関してはK(Knowledge)とか−Kとか特に松木先生が紹介していますね。精神分析を
(そして人間を)自らを知っていく事を求める主体として描き出しています。
浦島さんのいうように、真実は究極的に知り得ない、近づいていくことしかできないものと
定義付けていますよね。カーンバーグとシュタイナーの話はなるほどと感じました。
クライン派の特徴がよくでていますねえ。
>>730 いい質問だ。
サリバンの「精神医学的面接」を読みなさい。
1つの考え方がそこに書いてある。
Clがしらけるかどうかは、わからんなぁ…
さらに続けるとビオンの主張では、真実への飢餓という考え方も面白いと感じます。 身体的な栄養の飢餓と同じように、真実不足は心の飢餓をもたらし、衰弱していく と考えているようです。 精神分析がいろいろと批判も受ける昨今ですが、たとえ痛みを伴う過程であっても それを求める人がいる(もちろん全ての人ではないですが・・・でもビオンに言わせれば それも−Kの行動化なのかな)という臨床的事実に合致するような気もします。 無意識でも、偽りの自己でもいいですが、人間は自分の自己疎外された部分を取り戻そうと 漸進的に進んでいく方向をもっているとのことなのでしょう。 フロイトの「自らの不幸をそのまま不幸として感じていく営み」みたいな表現にも つながるのかなと思っています。
>>730 私自身の感じでは、集中力が散漫になる感じはあまりないです。ただ、ここぞ
と言う勝負どころでは記録の手が止まります。そして文字はかなり汚いというか、
私しか読めません。自動的に暗号化されているようなものです。
730です。私が、「書きながら面接をする」ということに若干違和感を感じたのは、 心理臨床は対象との濃密な関係を持つということがベースになっているのに たいし、書くことは対象を客観的に切り離して観察することがベースになっているように 思うからです。これらを同時に行うことは難しいのではないかと感じたまで です。
CLとの関係が密接すぎると色々と治療上の問題が生じます。 メモをとる事で一定の距離をキープする事も重要なのでは。
>>735 私も書きながら臨床をしています。これで、90度法自然になるんですよね。診察室の構造にもよりますが。
恐らく対面法で、生々しい転移を扱うような精神分析的精神療法などには「書きながら」というのはそぐわない気が
しますが、やはり天才はいますから(笑)。
力動的で認知療法のニュアンスが強い場合だと、患者とのコミュニケーションが活字になることで
生の情緒が簡単に漏れ出てこないことや書くことで傾聴しているというプレバーバルな
メッセージが(わかりやすい感じで)伝えられると思います。
意外と視線を合わせず書きながら聞いていると、結構こちらの連想も活発に働くんですよね〜。
>>729 かわずさん
プロセスノートは、一人に一冊ずつ使っています。私の場合日本語で書く訳には
いかないので一時間ぐらいかかりますが、日本語であれば30分くらいで書けると
思います。直後に書けない場合は5−10分かけてメモをとっておき、仕事が終わった後
メモを見ながら書きます。分量は、A4のノート3−6枚程度です。パソコンを使う人も
いますが、私は古い人間で手で書かないと頭が働かないのでそれはできません。
実はここに書くときも、最初は手で書きそれを入力しています(笑)。実際の記録の
付け方は、二人の言ったことをそのまま書く形と、ナレーションのように書く形とが
混ざっています。重要な部分ほどそのまま書く、という傾向があるようです。
自由連想法による精神分析的精神療法の時は、セッション中に記録を書かないのは
もちろん、メモも一切とりません。精神力動的精神療法の場合は、書きながらでも
可能だと思いますが、精神分析的精神療法の場合は、おそらく不可能だと思います。
>>731 >>733 ホットさん、改めましてはじめまして。よろしく御願いします。
A theory of thinkingをざっと見直してみました。丁寧に読む時間はなかったので
見落としているかもしれませんが、最後のページでa sense of truthという表現を
見つけました。この論文は何度も読んだはずですが、ホットさんの書かれたことは
全く記憶にありませんでしたので、多分その部分は理解できなかったのだと思います。
書き込みを読ませて頂いて、一つ分かる部分が増えました。どうもありがとうございました。
御礼に、といっては何ですが、ある先生が教えてくれた「ビオンを読むコツ」を
書いておきます。
「一生懸命読むことはもちろん必要である。しかし、一つずつの文章をきちんと
理解しようとしてはいけない。読んでいるうちに、自分の中に『何か』が浮かんで
きたら、それをしっかり捕まえて、決して離さないようにすることが秘訣である」
だそうです。何らかのお役に立てば幸いです。
このためかどうか分かりませんが、私の持っているBionの本は「自分の思い付き」が
たくさん書き込んであるため、とても汚くなってしまいました。。。(笑)
>>739 浦島さん、こちらこそよろしくお願いします。
なるほどー。記憶無く、欲望無く、理解無く読めばいいんですね。(笑)
確かに一生懸命読んでいると逆にわからなくなってくるんですよね。
すごい!浦島さんの思いつきつきのビオン本が欲しいです!
私も書き込んで自分のビオン本を作ってみようと思いました。
ありがとうございます。
741 :
没個性化されたレス↓ :04/06/02 11:04
ここで訓練中の人があれこれ書く、という、 そういう行動があまり建設的でない行動化なんだろうな。 たいがいにしたほうがいいよ。
それで患者が毎日半日で50人くる外来で、精神分析的(力動的)精神療法とやらはどのように役立つのですか?
>>742 別に無理に役立てなくてもいいんじゃないですか?治療者のセッティングにもよるし、力動的な精神療法以外
の方法でされればいいんじゃないですか?
オールアバウトクラインはどう読まれましたか? 浦島さんも書いていますね。。。
>>742 >それで患者が毎日半日で50人くる外来で、精神分析的(力動的)精神療法とやらはどのように
>役立つのですか?
半日に50人もくる患者さんが、全員投薬だけで快方に向かうわけではないでしょうし、半日に50人の
患者さんを診察しなければいけない精神科医には、心理療法(精神療法)の実施は不可能でしょう。
そこに、新しい分野として心理療法専門の職業集団が必要となる可能性が出てきているわけだと
思います。
医者はどのように治療に役立つかと考えるかもしれませんが、患者はどうしたら自分の症状が
治癒に向かうのか考えます。その場合、外の49人の患者さんに役にたたなくても、
例え自費であったとしても自分の症状が治癒してくれれば良いのです。
一日50人診察する精神科医に価値のない治療法でも、そのように考える患者に取っては
価値ある治療法になりえると思います。
半日で50人も診察したら、そのうち何人かは、薬物療法だけでは手に負えない患者さんもいるでしょう。
そのうちの何%でも救ってあげられる可能性があるのなら、日本で精神分析的(力動的)精神療法等
の心理療法が根付いて行くのを見守るべきだと私は思います。
>>742 私が見聞した範囲ですが、精神分析的(力動的)精神療法に習熟した医師は、
一般の診療をしていても、患者さんへの応対がていねいです。患者さんの話
を尊重する姿勢があり、気持を理解できて、自身の逆転移を認識できること
が診察にも活きてくるのだと思います。
精神分析は精神分析家にまかしておけばいいだろう。 精神分析はやりたいやつがちゃんと訓練してやればいい。 あまりもうかりはしないけどな。 好きなやつにはやりがいのある仕事なんだろうし。 精神科医は必要な患者を精神分析家に紹介する仕事をやればいいのだ。 精神科医の仕事はいまの日本では短時間でできるだけ患者の役に立つことだ。
>>747 あなた様の仕事が現在の日本を代表する精神科医療のあるべき姿・理想とする姿であるという主張はよく理解できました。
ただ、ここに書き込まれるより病院・医者板のほうがふさわしい気がしますが。
>>748 現在「力動的精神療法」と呼ばれているものが、支持的なものを含むあらゆる
「精神療法」の基礎になっていること、したがって「力動的精神療法」を完全に
無視してしまったら、精神科医として基本的な「精神療法」をきちんとすることすら
できない、ということは、精神科医としては常識的な知識ではないかと私は思います。
したがって、このことを御存じなさそうである742番を書かれた方は、多分精神科医
ではないだろうと私は判断しました。
それとも最近は、「精神科医として最低限必要な精神療法のやり方」すら指導されずに、
一人で外来を行うという医局が存在するのでしょうか?少なくともうちの医局では
考えにくいですが。。。
どうも少し熱くなってしまったようです。以前、ある研修医の先生に点滴の組み方や
指示の出し方を教えていた時、「頭が飽和してきました。後は明日にしてください。」
と「学生みたいな」「ふざけた」ことを言ったので、「医者の指示には、患者さんの
命がかかっているんですよ。先生がいいかげんにすると、人が死にますよ。」と
怒鳴ったことを何故か思い出しました。幸いその先生は、その後一生懸命勉強されて
立派な臨床医になられましたが。(最近の研修医の先生には、こんな指導の仕方を
してはいけないんでしょうね。。。多分。。。ま、私も年をとって丸くなりましたが。。。)
>>749 少し落ち着いて考えた結果、自分の書き込みに対して突っ込んでおきます。
>現在「力動的精神療法」と呼ばれているものが、支持的なものを含むあらゆる
「精神療法」の基礎になっていること
現在「力動的精神療法」と呼ばれているものが、いわゆる「精神療法」の始まりであった、
というのは正しいと思いますが、それが「支持的なものを含む、あらゆる精神療法の
基礎になっている」というのは言い過ぎであるように思います。
いくつかの医局(最低でも5つ以上は挙げられますが)においては伝統的に、「現在
『力動的精神療法』と呼ばれているもの」の専門家、あるいはそれに強い関心を持つ
医師が、新入局員に対して「精神科医として知っておくべきべき精神療法の基礎を
教える」という役割を果たしてきた、というほうが正確だと思います。
どうやら私は、「一生懸命に仕事をしていない医者」というものの存在がどうしても
許せなくて、その可能性を感じるとついつい冷静さを失ってしまうようです。。。。
精神分析は精神分析家に任せる、というのは実に正しいよ。 訓練してないやつが心理療法やるとややこしくなるだけだ。 いっぱい被害者をみたからね。 医者は心理療法へのレスペクトをもっておいてくれればいいよ。 必要な人に必要なときに、いい専門家に紹介できる能力とネットワークが大事だよ。 あと、あんまり一生懸命な医者もたいてい患者を壊すね。
>>749 浦島さん
>いくつかの医局(最低でも5つ以上は挙げられますが)においては伝統的に、「現在
>『力動的精神療法』と呼ばれているもの」の専門家、あるいはそれに強い関心を持つ
>医師が、新入局員に対して「精神科医として知っておくべきべき精神療法の基礎を
>教える」という役割を果たしてきた、というほうが正確だと思います。
長い引用をしてしまいましたが(笑)、まさにそうなんですね。いわゆるBiological Psychiatryで
凝り固まった医局で教育を受けると、
>>742 のような発想はさもありなん、というかんじなんです。
結局、そういう医師は自分の病理でこなすか、症候をなぞる程度にしか患者理解ができないんですよ。
いわゆる「心のない精神科医」ができるパターンというのが日本ではやはりあります。
あのBiological Psychiatryが大勢力であるAmerican Psychiatric Association(DSMといったほうがいいですかね?)でさえも
Pharmacotherapyに関連するPsychodynamicsを重要視しているのに、その部分が欠落しているんですよね。
>「医者の指示には、患者さんの命がかかっているんですよ。先生がいいかげんにすると、人が死にますよ。」
浦島さんも、熱いですね。僕の指導医もそうでしたよ。研究サボっても臨床はサボるなと。
ま、こういう指導についてくる研修医は現在は少数派になってますね。
>>751 >精神分析は精神分析家に任せる、というのは実に正しいよ。
この点は、同意。
ただし、A-T Split(management)をやる上でも、心理療法に対する知識は必須だが。
Administratorの役目の妥当性を認識するだけでも随分違うと思う。
>浦島さん あなたの職種は何?
>>752 reverieさん
以前、私自身が医局の中で受けてきた教育についての不満を書いたことがあると思い
ます。しかし742番、747番などの書き込みを読んだ後落ち着いて考えてみると、自分の
受けてきた教育がいかに恵まれたものであったか、ということに気付きました。偉大な
先輩方に感謝したい気持ちになりました。
reverieさんの書き込みを読ませて頂いて、少し落ち着いたようです。どうもありがとう
ございました。よく考えてみると、「患者さんを一人の人間としてみることのできない
精神科医」や「いろいろと理屈を言うが仕事をしない精神科医」などは、以前から
いたように思います。そういえば私の医局にも、少数ですがいました。実際に医局を
離れていると、あんなにうっとおしかったのに(笑)ついつい理想化してしまうようです。
>>754 >あなたの職種は何?
私はもともと精神科医ですが、現在は日本を離れています。
>>751 >あんまり一生懸命な医者もたいてい患者を壊すね。
これね。凄い失礼な言い方ではありませんか。仕事って、それぞれが一生懸命やっているでしょう。
その人の道徳観とか倫理観、人生観みたいなもので、仕事に対する考え方ややり方が変わってくる
だけではないですか。
後、技術力が未熟で臨床に対するコツを飲み込んでない人が一生懸命になると、空回りしてしまって
仕事がうまくいかないと言う場合はあると思うけど、技術力のあるベテランが一生懸命仕事した時は
良い仕事をすると思いますよ。
一生懸命仕事することと、患者を崩すとは別物で同列に考えるべきものではないと思いますね。
758 :
没個性化されたレス↓ :04/06/05 14:42
事実壊してるから仕方ない。 なんでも過度というのはまずいことがおおい。 獣医にはわからないと思う。
759 :
没個性化されたレス↓ :04/06/05 14:44
仕事を一生懸命やることがいいとはかぎらん。 あ、あげた。ごめんなさい。
たかが2チャンネルに何が論考だ。 論考したければ、論文を書くように。
>>751 >>758 >>759 >>759 >あんまり一生懸命な医者もたいてい患者を壊すね
>Psychodynamicsの観点からの論考
これは、面白いネタになるのではないでしょうか?というわけで、お題を振らせて
頂きます。「熱心すぎる治療者が、患者さんを悪化させてしまうのはどんな場合か?
そしてそこには、治療者のどのような心性が関与していると考えられるか?」です。
ここでいう「熱心すぎる治療者」は、「熱心な治療者」とは区別して考えています。
「熱心な治療者」とは、ここでは「患者さんを有効に治療するための技術をもった
上で、熱意を持って自分の仕事に取り組む治療者」と定義しておきます。
例です。「熱心すぎる治療者」が「スーパーバイザーを見つけることなしに、いきなり
自分一人で精神分析的精神療法や力動的精神療法を始めてしまう場合」この場合、
その治療者の「万能感」が関与しているように思います。つまり治療者の中に、
「自分の能力を客観的に評価することができずに、過大評価してしまう」という心性が
あるのではないでしょうか?
別の例です。「BPDの患者さんに対して、治療者としてすべきでないことまでして
しまい、その結果患者さんを悪化させてしまう場合」この場合は、「他人のために
何かをしてあげたい」と言う気持ちが、治療者自身にもコントロールできない形で
残ってしまっている可能性があるように思います。(用語を使って表現すると
「幼児的な救済願望が自分の無意識に存在しているということに気付いていないため、
治療者がそれを行動化してしまっている」という意味です。)
他の例です。「典型的な内因性のうつ病の患者さんがまだ回復していない時期に、
不用意に『深い』話をしてしまい、結果的に回復を遅らせてしまう場合」この場合は、
なんらかの心性が関係しているというよりも、単に治療者としての基礎知識が不足
しているだけのようにも思いますが。。。
さて、いかがでしょう。
明快な解説に納得しました。私なんか馬鹿だから
>>758 さんの「獣医には分からないと思う。」の
レスを読んで、心理療法の世界はどんなに技術力のあるベテランがやっても、一生懸命やりすぎると
患者さんには悪影響なことがあるのか、へー、獣医臨床とは違うわねぇと信じ込むところでした。
説明ありがとうございました。
獣医の場合、多分医者でもそうだと思うのですが、一人前に仕事ができるまでには、それ相当の
苦労がありますものね。私なんか、もう一度やれと言われてもあんな事は二度とできないです。
研修獣医の頃は、常にに体力の限界まで追いつめられて、それでも甘いと叱られたような
気がする。そういう真面目さと言うか一生懸命さがないと臨床家にはなれないと思っていました。
私は「精神分析」にはシンパシーをもっていますし、実際分析を受けたこともあります。その手の学会にも入ってます。 でも50人も患者さんがいらっしゃると、まず「力動的」な枠ぐみで考える余裕がなくなり、またこちらがどう理解したか だけではなく、医師患者間の相互関係が重要なわけですから、沈黙もふくめたある程度の時間がないと「力動的」な精神療 法は成立しないと思っています。 みなさまの論法によれば、私は「心のない精神科医」になるわけですね。 「50人も患者がくる(これは普通に「一生懸命」にやっているばありえる数字だと思いますよ)外来で力動的精神療法 はいかに成立しえるか」という議論を期待しました。あえて煽りっぽく書き込みましたけど、みなさまが「一生懸命」な のと他の専門領域の精神科医に残酷なのが分かりました。 751のおっしゃっていることは分かりますよ。 751は精神療法シンパな研修医なんかを念頭においているでしょう。 夜遅くまで話を聞いたりして振り回されて、行動化を引き起こさせた挙句に患者さんを強制退院とか。 フロイトは「私は熱心な治療者ではなかった」と書いているではありませんか。どのようにでも解釈できる 文言ですが、肝に銘じるべき言葉ですよね。 おっと皆様には釈迦に説法でしたね。
↑ なんか思路の混乱した文章ですね。 私自身、50人もくる外来で力動的な精神療法は難しいと思っていました。 しかし「患者数の問題でできない」というのは専門外の私の言い逃れかも しれないので、「専門家」のみなさんにお伺いをたてたというわけです。 皆様の貴重な議論を妨げるようなので、消えることにしましょう。
>mindless psychiatrist ネタが出されたわけですから。どうぞ議論に参加して下さい。
>>761 すいません。Bion「風」にいえば、あなたが書かれたβ要素をα要素に変換できなかった私の問題です。
>>764 このスレでは、「精神分析」(=自由連想法)と「精神分析的精神療法」と「力動的精神療法」をかなり厳密に
分けて議論しています。ですので前2者に関しては物理的な時間の問題も有り不可能でしょう。力動的精神療法も
厳密な限界設定があるような場合も不可能だと思います。
ただし精神力動的モデルを使う事は短時間でも可能だと思っています。このような利用は底が浅かったり、元来の
力動論の元来の使い方ではないのは重々知っています。ただ、患者の言葉を文字通り聞くだけでなく、その背景に
流れる意識・無意識を想像し、(ひょっとするとこれが一番大事なのかも知れませんが)患者の心の動きを理解しよ
うとするスタンスが治療的だと思っています。
「先生の事が嫌いだ」とか「先生のだされた薬は飲みたくありません」という事を言われ文字通りこれを受け取って逆切れしてしまえば
治療関係は破綻します。ただ、患者がその言葉を発する心的現実に幾つかのモデルがあり(転移であったり、自己評価の
問題であったり)を少し頭をかすめつつ(笑)、懲罰的にならないように「え?、どうしてそういうふうな感じがするの?」
と(投げ込まれた)怒りよりも患者の心的現実が客観的現実に沿わない事に疑問を抱き、探索的にきけるスタンスが維持できることが
力動的アプローチのメリットかと思います。
これは転移の解釈や認知的な是正ではなくスタンスとしてですから短時間で患者の異変を感じ取る嗅覚にもつながると思います。
もう一つ、心的現実と客観的現実のズレをいつも考える事は精神病水準の患者をいち早く救う事にもなると思います。
いわゆる触法精神障害の症例が病的体験を主治医に伝えず、不幸な転帰にいたっているが多いか、統計は取っていませんが
以外と共通する事項ではないかと考えています。
スレ違いすみません このスレにいる心理士や精神科医の方に質問したい事があります あるスレで神経症と精神病の境界状態という定義の境界例が 未だに診断に使われているというレスがあったんですが、本当でしょうか? 神経症と精神病の境界状態という定義は化石だと聞いた事あるので、 とても信じられないんですが
>>764 >「50人も患者がくる(これは普通に「一生懸命」にやっているばありえる数字だと
思いますよ)外来で力動的精神療法はいかに成立しえるか」という議論を期待しました。
もしここで書いておられる通りに書き込まれていたのであれば、多分事態は全く
異なっていたと思います。少なくとも私は、別の反応の仕方をしたと思います。
>あえて煽りっぽく書き込みましたけど、みなさまが「一生懸命」なのと他の専門領域の
精神科医に残酷なのが分かりました。
「あえて煽りっぽく」書き込まれれば、それにふさわしい「反応」が返ってくるのは
当然のことだと私は考えます。このような「反応」に対して皮肉っぽく批判されるのは、
「自分から攻撃しておいて、相手が反撃してきたことを批判する」ということになって
しまうのではないか、と私は思います。
>>765 >私自身、50人もくる外来で力動的な精神療法は難しいと思っていました。
しかし「患者数の問題でできない」というのは専門外の私の言い逃れかも
しれないので、「専門家」のみなさんにお伺いをたてたというわけです。
繰り返しますが、この文章がそのまま書かれていたのであれば、「煽りっぽく」
書かれたのとは全く違う「反応」が返ってきたのではないか、と私は思います。
御存知かもしれませんが、日本精神分析学会の会長を務めておられた成田善弘先生は、
ずっと総合病院に勤務しておられました。成田先生は有名な方ですから、それこそ
半日で50人以上の患者さんが来られる外来の中で、精神力動的精神療法を実践して
こられました。
私自身はreverieさんのような人格者ではありませんので、現時点においては765番さんの
提起された問題については、これ以上の書き込みを控えさせていただきます。
>>768 >神経症と精神病の境界状態という定義の境界例が未だに診断に使われている
少なくとも私自身は、「神経症と精神病の境界状態」という意味での「境界例」と
いう概念は、診断に使ったことはありません。ただ、特に現在の日本でどうであるか
などのことはよく分かりません。すみません。
774 :
没個性化されたレス↓ :04/06/07 00:59
700age
>>762 浦島さんのお題に、一つの切り口です
「熱心すぎる治療者」を、浦島さんの「熱心な治療者」の定義をかりて定義してみました。
「患者さんを有効に治療するための技術をもたない故に、熱意を頼りに自分の仕事に取り
組む治療者」でしょうか。ここで「技術をもたない」ことを、彼が自覚しているかどうか
が、問題になります。「自分には技術がないから、熱意でやっていくしかない」と自覚し
てへまをしでかすわけではないでしょう。自覚して無手勝流にはまっていくような人は、
ここでは論外とします。
そもそも「患者さんを有効に治療するための技術をもたない」ことを自覚するには、自覚
するに十分な知識や技術を身につけている必要があります。「実るほど頭の垂れる稲穂か
な」ではないですが、十分な技術を用いながら、人が為しうることの限界をわきまえた治
療者は、ある意味「患者さんを有効に治療するための技術をもたない」ことを自覚してい
るわけです。
「熱心すぎる治療者」は、「患者さんを有効に治療するための技術をもっておらず、熱意
を頼りに自分の仕事に取り組むことで、不安を防衛している治療者」ということになるの
でしょう。つまり患者は治療者の不安を防衛する道具に使われてしまうわけで、こう書い
てしまうと身もふたもない話になってしまうのですが、どの治療者にとっても他人事では
ないでしょう。初心の頃を振り返れば原罪のようなものでしょうし、経験を積んでからも
こういう事態にはまってしまう危険は常にあると言えるでしょう。
>>775 >治療者にとっても他人事ではないでしょう。初心の頃を振り返れば原罪のようなものでしょうし
>経験を積んでからもこういう事態にはまってしまう危険は常にあると言えるでしょう。
身につまされる思いで、かわずさんのレスを読みました。獣医臨床でも同じです。勉強しても
勉強しても至らない部分は出てくる。ついつい、いろんな事をやってしまってヘマをするんです。
過去に何度かおかした失敗のいくつかは、この種のものです。これからでも絶えず気おつけないと
失敗の原因になるんだと思うのです。今は私の場合は自分に手に負えないと思ったら抱かえ込ま
ないで早めに他の獣医に相談したり、他院を紹介したりして対処しています。
>>767 Reverieさん
ウィニコットが「私たちのできることには、限界がある。でもそれで意気消沈
してしまったら、私たちの存在する意味すらなくなってしまう」と、どこかで
書いていたのを思い出しました。
大変ですね。開業すれば好きなようにできる、とは言っても経済的なことを考
えれば、ますます患者さんの対応に追われるでしょうし。心理職はゆっくり時
間を取って面接しているし、急患に振り回されることも少ないし、その点では
医師からうらやましがられることもあります。しかしこの立場と薄給では、全
面的にうらやましがられることはないですが。
それから……読みやすい一行の限界もあるので、開業の前に改行よろしく。
>>マリリンさん 申し訳ありませんが、今は専門的な話となっておりますので 口を挟まないでもらえませんか?
通りすがりですが >それから……読みやすい一行の限界もあるので、開業の前に改行よろしく。 ブラウザによっては自動的に改行されるようなので、 ひとによってはその加減がわかりにくいように思います。 ご自身のブラウザ設定でも対処できるかも知れませんよ。 あと>778さん あまり気にしないのが一番だと思いますよ。 関係ない、と思われる書き込みを排除して行くと、本当に専門的な人しか 書き込めなくなってしまうと思いますので、ズレてるなーと思うことが あったとしても(悪意あるものじゃなければ)壁紙の模様だと思って スルーしたほうが。この書き込みも然り。
>>779 申し訳ありませんでした。
以後スルーします。
>>778 >>779 776は「獣医」を「心理」と読みかえれば、ズレてないでしょ?
お題に関心をお持ちなら、書き込んでいただけると嬉しいです。
さて浦島さんのお題に、もう一つの切り口です。
女性には大変失礼な表現ですが「悪女の深情け」を辞書でひくと、「醜い女性はかえっ
て情愛が深い。通常はありがた迷惑の意味で用いる」とありました。「かえって」には
「醜い女性は心も醜い」の偏見があって、これまた失礼ですね。
それはそれとして、「醜い女性」がなぜ「情愛が深い」のか。男性と恋仲になるチャン
スが少ないから、離そうとしないのか。「醜さ」を「情愛」でカバーしようとするのか
(
>>775 )。いや男性にとって一番恐ろしい?のは、「醜さ」ゆえにこうむった被害を、
「情愛」の形をかりて「ありがた迷惑」の復讐することではないでしょうか。
つまり患者に評価されない治療者が、「熱心」に治療に取り組み、「患者を壊す」こと
で攻撃衝動を満足させる、というパターンがあるかもしれません。ここで「醜い」が女
性の自己愛に連動する感覚であるように、「評価される」(自己愛を満足させられる)
かどうかも、治療者の自己愛のありように左右される体験なのだと思います。
>>777 かわずさん
まずは失礼。改行気をつけます。
>>762 浦島さん
>「熱心すぎる治療者」が「スーパーバイザーを見つけることなしに、いきなり
>自分一人で精神分析的精神療法や力動的精神療法を始めてしまう場合」この場合、
>その治療者の「万能感」が関与しているように思います。
なにやら昔の自分のようで耳が痛かったりします(笑)。
特にこの万能感は、Cl.に対する万能感、すなわちCl.を変えたり行動を制御したりする事ができる
というようなphantasyが影響しているように思います。もっと言えば「直すことができる」というような
医療者にありがちな万能感というか。
Cl.がas if selfなら尚のこと、面接室では一見洞察めいたことを聞き(Cl.が言わされ?)
面接が終わる直前につい聞き込みたくなるような内容で時間の設定を無視したり、Th.の行動化が
目立つ状態になると思います(全部自分がやって来た事では無いですよ(笑))。
で、面接室の外で相変わらず衝動行為が止まらず、無力感に浸るという悪循環
というのが過度に熱心な治療者に見られるかと思います。
このあたりは限界設定という治療技法に対する理解不足や、面接室のなかで起る治療者の
情緒的な変化などなど様々でしょうね。
「幼児的な救済願望」に関しては、結構同期の石が喫茶店でCl.とあったりしてましたね。 私の指導医はこの手の限界設定には非常に厳しくて、「面接室と病棟とレクレーション での集団外出以外の場所で合うのは厳禁」と誠に分かりやすい(笑)限界設定を教えてもらいました。 当時はこのような限界設定が何となく不全感があって、患者さんに十分なことがしてあげていないような 感じがしたものですが。私の同期は限界設定を「そんなことは権威的だ」といって聞く耳をもたなかったような 気がします。 「Cl.がもっている自助の力を治療者が奪ってはならない(肩代わりしてはならない)」という なにやら神田橋先生チックな(笑)感覚になれたのは随分あとになってからのように思います。 逆に衝動行為を目の当たりにしても「Cl.は自助の力をもっているはず。今はそれに気がつかないか もしくは上手に使えないだけだ」と願うような気持ちで信じることが少しはできるようになったかも。 ある種の熱心さは精神療法の技術とCl.の自助能力を高め、過度の熱心さは逆にそれを 弱めてしまうことになりそうです。やっぱりウィニコットのGood Enoughというのは的を 得てるな〜と肌で感じてしまいますね。
775-783番まで、ただただ感心して読ませて頂きました。皆さん、すごく良いことを 書かれているように思いました。 無責任な思い付きです。実は私には、「後輩の世話(指導を含めてですが)をしすぎて しまう」という病理(笑)があります。したがって、できるだけ自分で意識して抑える ようにしています。かわずさんの775番の書き込みを読ませていただいて、「治療者 としての自分の原罪」を償おうとしているのではないか、と思いましたが。。。そして もしかしたら皆さんも、私と同じような病理をお持ちで、だからこそこんなに実感に あふれたすばらしいことがかけるのではないか、と空想しました。 先に書いた通り、根拠もない無責任な思い付きです。違っていたらすみません。
>>781 かわずさん
775番の「不安を防衛している」というご指摘は、その通りだと思いました。しかし
「患者に評価されない治療者が、『熱心』に治療に取り組み、『患者を壊す』こと
で攻撃衝動を満足させる」というのは、少なくとも医者の場合はあまり多くないかも
しれません。というのは医者の場合、「攻撃衝動」を満足させるもっと容易なやり方が
あるように思うからです。
患者さんに評価されない場合、例えば生物学的精神医学などの「科学的な」方向に
進み、「精神療法」などという「非科学的なこと」をしている治療者を見下して
攻撃し、自分の「攻撃衝動」を満足させる、というのがそのやり方です。
誤解を防ぐための書き込みです。「生物学的精神医学」を専門にしている方が一般的に
「自分の攻撃衝動を満足させている」とは、私は全く考えておりませんので念の為。
>>783 Reverieさん
私の場合、入局した直後の勉強会で「夜遅くまで入院患者さんと(個人面接で)会って
いて、結果的に悪くしてしまった医者の話」などを聞かされました。何といっても
入局直後ですから、私の場合「権威的」とも感じず、単純にそういうものだ、とそのまま
受け入れてしまいました。あとから知ったことですが、私たちの入局直前に、BPDの
患者さんたち(この当時は複数です−しかも多数の−笑)のために病棟がすごく荒れて、
若手にこのような指導を徹底する必要性に迫られた、という背景があったようです。
>>784 浦島さん
私は原罪を意識するのは、中年になった証拠ではないかと思うのです。
「良いことをしている」と信じ込んで熱意にまかせた治療をして、結果が裏目に出
たら「一生懸命やったのだから、しょうがない」で済ませられるのは、若いからで
しょうね。若さの特権が、中年になると原罪になってのしかかってくるようです。
原罪についてもっと言えば、「人を変える」こと自体が、攻撃的な行動と言えるわ
けです。それは農民が植物を育てて収奪するのと同じように、治療者の原罪につな
がります。植物は農民を恨んだりはしないでしょうが、患者は「変わる」のと引き
換えに何かを失っているはずであって、治療者に「変えられた」部分が大きければ
大きいほど、恨みにつながるように思います。
治療者は「患者が変わるのを手伝う」のであって、「患者を変える」のではない
――と言う枠組みに収まりきっている治療者は、おそらくいないのではないでしょ
うか。回復して治療者に感謝している患者さんであっても、治療者に「変えられた」
恨みを、どこかに抱えていくのではないかと思います。
さてこの原罪を感じてしまった治療者は、どうなるのでしょうか。中年を通り過ぎ
て、老年の境地でしょうか(笑)。治療に対して、臆病になるかもしれません。でも
「何が何でも治療する」という、妙な強迫観念からは自由になれると思います。
>>784 浦島さん
>後輩の世話(指導を含めてですが)をしすぎてしまう」
ありますね〜、これは私も(笑)。指導医にうつされたような気がします。
何故か教えている最中に、研修医の頃、自分が困ったこと・患者さんが困ったこといろんなことが
浮かんできて、「あれもいわなきゃ。これもいわなきゃ」と熱弁をふるってしまうことが、あったりなかったり。
結局、同席面接してたりでなんだかな〜という状態になったことが多々あります>私。
このうちの「患者さんが困ったこと」が原罪に近そうですね。
>>787 かわずさん
>「人を変える」こと自体が、攻撃的な行動と言えるわけです。
この事は精神科医が研修医の時の「モデル」にも影響していると思います。
少なくとも、精神科の研修医は入局当初、基本的な薬物療法を学びます(の、はずです、多分(笑))。
この時の治療モデルは「医療モデル」すなわち「症状」を「消去する」ことを
目標とします。このモデルは古典分析などでも出てきますよね?
で、「症状」の同定と「療法」の基礎を学ぶわけですが、この時、症状を
コントロールできる(実際にはコントロール出来そうな症状を選んでいたりする
のですが)感覚が身につきます。ある種の精神状態をコントロールできる感覚ですね。
これは実は悪い部分ばかりでなく、精神科医療の治療的敗北感から初学者を守る
ことにも貢献していると思います。「どーせ、治らないならなにやっても一緒」という感覚に
ならずにすむ、といところでしょうか。
で、「精神症状をコントロールすること」=「患者さんが喜んでくれる」=「いい医者」(゚д゚)ウマー
という図式が出来やすくなります。すなわち「変える事」=「いいこと」だと。
ただ、その後色々な症例を経験すると実は変わらない事の方が多いことに気付きます(脱錯覚?)。
>>789 このモデルの万能感をもったまま精神療法をやろうとすると、恐らくとてつもない困難な状況がまっていそうです。
すなわち、「治す」感覚の万能感を(もっと言えば「万能の治療者」に再度治療者の同一性を維持しようとした場合)
過度に熱心な治療者ができあがるような気がします。
ですのでこの万能感に付随する攻撃性は「患者の症状が思うようにコントロールできない」為、意識的・無意識的な
治療の中止で現れるかなと思います。技法としての限界設定はこれをある程度知的にコントロールしてくれますけどね。
浦島さんが指摘されている
>例えば生物学的精神医学などの「科学的な」方向に進み、
>「精神療法」などという「非科学的なこと」をしている治療者を見下して
>攻撃し、自分の「攻撃衝動」を満足させる
は、多分、治療者の万能感を維持する為の防衛機制ではないかとふと思ってしまいます。
このあたりは「医療モデル」から「心理(成長)モデル」のパラダイムシフトがどうやら
必要な感じですね。
「あ〜、患者さんにしてあげられる事はすくないなぁ」としみじみ思いながら、それでも 患者さんの変化の可能性を信じて向かい合うことのできる治療者の心性と、 「たしかに今までと違って生きやすくなった。でもなんとなく物寂しい」という心性は 抑うつ態勢の一つかなと空想してみたりします。
>>791 Reverieさん
>「あ〜、患者さんにしてあげられる事はすくないなぁ」としみじみ思いながら、
それでも患者さんの変化の可能性を信じて向かい合うことのできる治療者の心性と、
「たしかに今までと違って生きやすくなった。でもなんとなく物寂しい」という心性は
重なっているんですよね。しみじみとした調和で、良い感じですね。
Reverieさんが789番と790番で言われていることは、その通りなのでしょうね。それに薬物療法
で患者さんを治療できるようになって、「一人前の精神科医」というアイデンティティが確立
されてしまえば、あえてうだつの上がらない精神療法を一から始めようと言うのは、大変なこと
です。薬物療法ではすぐに論文が書けても、精神療法で論文が書けるようになるには年月がかか
りますしね。
フロム=ライヒマンのテキストは、初心者の頃に感銘を受けて何度も読んだ思い出があります。
おそらく彼女もそうだろうと思うのですが、薬のない時代に精神療法を実践して精神療法家と
してのアイデンティティを確立していた人たちは、薬物療法をどんな目で眺めていたのでしょ
うね。ATスプリットは、もしかしたら精神療法家としてのアイデンティティを、薬物療法
から守る意味があったのかもしれない、とも考えます。
>>792 かわずさん
>ATスプリットは、もしかしたら精神療法家としてのアイデンティティを、薬物療法
>から守る意味があったのかもしれない、とも考えます。
既に、ATスプリットをせざるおえない状況自身が患者さんが投げ入れてきた病理なのかもしれませんね。
ただ、ATスプリットができるスタッフが揃っている治療セッティングはやはり恵まれていて、往々にして
一人二役をせざる負えない苦しさもあります。ある種の役割分担はその役割の同一性を獲得していないと
苦しいものがありますね。
実は最近グループ間でもこの役割分担のあいましさと行動化が目立ち、辟易しています(笑)。
治療設定がなくて職場で生身で解釈・直面化をやるとよからぬ事が起りそうなので控えてますが(爆)。
基底欠損を起こしているカンファレンスが多くてうんざりぎみです。
>>787 かわずさん
>「人を変える」こと自体が、攻撃的な行動
>治療者の原罪につながります
このような形の「治療者の原罪」の話は、どなたかは思い出せませんが誰か偉い(?)
先生も書いておられたように思います。したがって、このことに反論することは、
その偉い先生に反論するような気がしてプレッシャーではありますが。。。(笑)
(私の思い違いかもしれないのですが。。。)
患者さんが「治療者によって変えられた」と感じたり、それを恨んだりすることは、
とてもPS的な心性であるように思います。したがって、このように感じておられる
患者さんの場合は多分、自分の状態を治療−特に精神分析的精神療法−の中できちんと
理解された時には、おそらくもっと治療を受けたい、という気持ちが生じてくるのでは
ないか、と私は思います。
しかし現実問題として、治療者側又は患者側の要因のために、そこまで長く治療を
続けられる人はそれほど多くないでしょうから、その結果「自分に与えられたものが、
自分の欲しいものより少ないこと」に対する「恨み」が生じることが考えやすいように
思います。そして、かわずさんの指摘された「変えられたことによる恨み」は、多分
認知行動療法などの方が生じやすいのではないか、と思いました。
>>788 Reverieさん
>結局、同席面接してたりでなんだかな〜という状態になったことが多々あります>私。
ちなみに私は、同席面接までしたことはありません。ということは、Reverieさんの
方が、私よりも重症(?)のようですね(笑)。
>>789 >>790 >>791 Reverieさんの書き込まれていることは、全くその通りだと思いました。そして、
臨床家としての自分がしていることに本当の意味で自信がもてず、不安になってしまう
からこそ、ついつい万能感を持つことでそれに対処しようとしてしまうのではないか、
と思います。
「人間のできることには限界がある。でも、確実に何かはしてあげることができる。
そして、やってみると意外に患者さんは成長していってくれるものである」などの
形で臨床家としての自信がついてくると、万能感を持つ必要性が次第に薄れてくる
のではないか、と私は思います。
精神分析的療法と力動精神療法の違いをおしえてください
798 :
没個性化されたレス↓ :04/06/17 22:08
700age
>>797 ども、病理の深い(爆)Reverieです。
この違いは浦島さんが最も厳密にされていますので回答を待ちましょう(とふってみたりします)。
力動的精神療法に関しては「精神力動論を基礎におく精神療法全般」と理解しています。
現実的には認知療法的な側面があったリするようです。
ちなみにGabbard(APAでの力動精神医学の取りまとめ役)の力動精神医学では、このあたり厳密に
していないみたいですね。
私信:浦島さんへ
某学会の認定医制度がそろそろ動き出しそうです。ご存じかな?
精神力動論を一言でいうと、どうなるのでしょう? それと精神分析との関係はどのようなものなのですか?
>>800 一言で表せば、精神力動論とは「心の仕組みを理解しようとすること」ではないかと思い
ます。
「やたらに怒る人」がいるとします。「些細な刺激で怒る」とか、「誰に対しても怒る」
などの、「特性」を調べることはできるでしょう。怒っている様子を、「記述」すること
もできます。彼の怒りを、現象学的に解釈することもできるでしょう。これに対して精神
力動論は、精神内界に何らかの「仕組み」があることを想定し、その仕組みによる動きを
理解しようとする、と言えるでしょう。
精神力動論で一般にイメージされるのは精神分析ですが、アドラーの個人心理学やユング
の分析心理学も、精神力動論でしょう。ただし精神分析は治療者と患者の間に生まれる力
動(転移・逆転移)を積極的に扱おうとするだけ、他の学派よりも力動論的と言えるかも
しれません。
>>797 >>799 >精神分析的精神(心理)療法と力動的精神(心理)療法の違い
せっかくReverieさんに御指名を頂いたのに、手抜きの回答で申し訳ありませんが。。。
以下の書き込みを御参照ください。まだ「浦島」のハンドルネームを使っていませんが、
すべて私の書いたものです。
「日本の精神分析学の運命」 213番、334番
「カウンセラーと人間としての器」 319番、328番、330番、336番、337番、351番
リンクしていないのは、単純に私はやり方を知らないからです(笑)。
>>797 Reverieさん
某学会というのは、精神科医であれば多分入っているであろうあの学会のことでしょうか?
実は私、若い頃に「その学会に参加するなら会場を選ばないと、嫌な目に会うかも
しれない」(どんな「嫌な目」かは省略しますが。。。)と脅されて以来、一度も
その学会に行ったことがありません。今でも学会員で、学会誌の面白そうな論文は
一応目を通していますが。。。
今学会誌をよく見てみたら、会告に「専門医制度規則と過渡的措置について」と
ありました。Reverieさん、もし何か御存じでしたら、ここに書いてもよさそうな
範囲で教えてください。
「過渡的措置の範囲を広くしすぎるのは良くない」という議論を、どこかで読んだ
記憶はあるのですが。。。
>>803 浦島さん
>某学会
あたりです(笑)。で、例の会告に関してなのですが、未確認情報でよければお力になれる事が
あるかと思いますので、捨てメールアドレス教えてください。裏がとれてるネタでもないしちとスレ
違い気味なので(汗)、ご希望でしたらメールで連絡差し上げます。hotmailでもinfoseekでも
なんでも(笑)結構です。あ、トリップも宜しくお願いしますね。
#「なんだかなぁ〜」という感じでしたら(笑)、このレス、スルーして頂いて結構ですので。
該当スレ読みに行ってきました。207、282,277,は浦島さんだっただ。 ずいぶん昔から、2chにいらっしゃったんですね。私は該当スレは難しくて良く分からなくて ロテのバカーと思う程度でスルーしておりました。 数字コテとコテハンの発言に重みが自分の中で全然違うのは不思議でした。 周りの煽りレスも数字コテの浦島さんには容赦なく、低レベルなレスを返しているのは面白かったです。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 電波警報発令! | マリリンを確認!
\ 電波警報発令! \素人のみなさんは騙されないで!
\ \
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
M ┌――z
゚γノノ''ノハヽ ノノ''ノハヽ.
ノリ´ヮ`)ゝ ( ゝ・D・)ゝ
と>卯< つ ⊂>.Y.<つ
∠;;;;;;;;;ゝ [:::: ::::]
レハJ .U.^.U
2ちゃんねる心理学板電波警報
http://www.geocities.jp/sarupppsaru/index.html
マリリソが、「容赦なく、低レベルなレスを返している」のも面白いです。
浦島さんにお聞きしたいことがあるのですが、現代の精神分析理論、特にクライン派は 「前意識」をどのように扱っているのでしょうか。局所論なので「前意識」なる言葉そ のものも、全くお呼びではないのでしょうか。
810 :
没個性化されたレス↓ :04/06/22 22:17
800age
811 :
没個性化されたレス↓ :04/06/24 22:21
800age
>>804 >例の会告に関してなのですが、未確認情報でよければお力になれる事が
あるかと思いますので
Reverieさん、親切にありがとうございます。でも、メールでのやりとりは
やめておきます。というのは、「掲示板においては、誰かが書いたものを読んで、
それに対して思いついたことを書き込む」以上の関係を持たないほうが良い、
又はそのような関係を持つことが可能だと考えない方が良い、という意見を
私は持っているからです。多分、「自分が望めば、掲示板を通していつでも
誰とでも知り合いになれる」という「一種の万能感」を、自分が持ってしまう
危険を冒したくないからだと思います。
幸い私の医局とのつながりは続いていますので、少し尋ねてみます。でもReverieさんの
ご親切には感謝します。
>>809 >現代の精神分析理論、特にクライン派は 「前意識」をどのように扱って
いるのでしょうか。
クライン派の中で「前意識」に関する議論を聞いたことは、少なくとも私は
あまりありません。ただし特にフロイト派の論文などでは、現在でもしばしば
目にするように思います。
なぜクライン派の中であまり聞かないか、という理由については、よく分かり
ません。無責任な想像ですが、クライン派の場合「前意識」「無意識」を厳密に
区別するよりも、とにかく「解釈した時に伝わるであろう(=患者さんにとって
何らかの形で役立つであろう)ことを解釈する」と、いわば「実際的、実利的に」
考えるからかもしれません。
最近、とても忙しくなっています。そしてこの先それが一層ひどくなり、その 状態がずっと続きそうです。そこでとても残念ですが、「掲示板で議論する」 という「遊び」をやめようと思います。私が「浦島」というハンドルネームを 使い始めたのはもともと「議論を不必要に混乱させないため」でしたので、 「浦島」というハンドルネームで書き込むことは、多分今後二度とないと 思います。名無しで書き込むことも、多分ないと思いますが。 ここに書き込むようになってから、もう1年半以上たったようです。今まで 本当にありがとうございました。特にReverieさん、かわずさん、いろいろと 議論できて楽しかったです。 それではさようなら。皆さん、お元気で。
>>814 他にもいろいろな方の名前を思い出しました。ヨッパライさん、マリリンさん、
ロテ職人さん、その他の方々もいろいろとありがとうございました。
またすばらしいコテハンが引退してしまう。 もう心理学板で学問的議論をすることはないのか。 この板はもう終わりだ。
817 :
没個性化されたレス↓ :04/06/25 11:20
浦島さま もうお名前を見ることも、書き込みを見ることもないのだと思うと、とても残念です。 たくさん勉強させていただきました。 浦島さんの書き込みから、わたくしの、精神分析もしくは精神分析的精神療法に対する先入見が変わりました。力動的精神療法との違いもはっきりしました。 これが一番勉強になったことです。 いつか浦島さんのお書きになったものとは知らずに、浦島さんの文章を読むことを楽しみしたいと思います。 #もしかしたら、既に知らずに拝読しているかもしれませんが(^^;。 どうぞお元気で。 一初学者
>>816 浦島氏のことはともかく、コテハンが全員すばらしい訳ではないよね。
一部の板住人の、コテハンに過剰な期待をかける傾向が
コテハンをつけて書き込む人に負担になることもあると思う。
古くは、伍長氏がその一例。
名無しでも良質の書き込みはありますよ。
もし板を憂いでいらっしゃるのならば、あなたも良質の書き込みを
続ければ良いのですよ。
>浦島先生
お疲れ様でした。
こちらの話には参加はしませんでしたが、ずっとロムさせて頂いておりました。
ありがとうございました。
何から書こうか考えたのですが。まずは
>>813 のお返事レスから、私が「無意識」の
概念を知ったのは、ユングの本を読んでからかな。それまでは言葉は知ってたけど、
「無意識」なんて考えた事もなかった。また、それについては聞くのも恥ずかしくて
今まで書けなかったのですが、浦島さんの
>>813 を読んで整理が付いたように思う。
というのは、私のように人間が単純にできていると、自分が無意識の何かに
よって動いているなんてことは実感できないんです。無意識だと思われる事でも、冷静に
なって、良く良く考えると誰に教えてもらわなくても意識化できるんです。
だけど、ここの人たちが人間には無意識の部分が存在すると言うのでそうなんだろうな
思ってきました。
でも、「前意識」と言われると、自分にはとっても納得できるんです。無意識ではな
いけれど、自分としては考えることから除外していた。あるいは今おこっている事情とは
関係あると思っていなかった事柄なんて、いっぱいありますものね。
ですから、マリリンとしては「無意識」と言われるより「前意識」と言われた方が素直に受け入れ
られます。ただし、私に「無意識」が全く存在しないかどうか自分では良く分からないです。
ですから、
>>813 の下記の部分で、今まで分からなかった疑問が綺麗さっぱり解決しました。ありがとうございました。
>「前意識」「無意識」を厳密に区別するよりも、とにかく「解釈した時に伝わるで
>あろう(=患者さんにとって何らかの形で役立つであろう)ことを解釈する」と、
>いわば「実際的、実利的に」 考えるからかもしれません。