◆カウンセラーと、人間としての器◆

このエントリーをはてなブックマークに追加
336277
>>331
>この差異の定義そのものに ついては、 以前ロテ職人さん御自身が同意
されたように記憶していますが。。。
>今ひとつ納得できなかったので 「日本の精神分析学の運命」スレからは撤退し、
静観しておりますた。

今読み返したらその通りでした。そして私の意見は、「日本における精神分析の運命」
の334番に書いた通りです。

>その根拠となる理論を示した上で論理的に説明していただきたいのです。

これをきちんと書こうとすると、論文を書くようなかなりのエネルギーを要する
と思いますので、やめておきます。日本のように「精神分析的精神療法」
(「精神分析」ではありません、念のため)があまり存在していないという状況
においては、臨床素材を具体的に提示したりしない限り、その具体像を伝えるのは
難しいように思います。
337277:03/03/11 04:17
>>331

328番に私が挙げた論文も、「精神分析」(及び、それとほとんど同じ技法を
用いて週1回で行う「精神分析的精神療法」)の実際を知るために、非常に
有用だと思いますので、是非ともご覧になることをお勧めします。

その論文では例えば、「あなたは・・・することも出来たな、と感じてはいない
ようですが、それは興味深いことだと思います」という解釈について議論して
います。著者はこれを、「(精神分析として)建設的ではない『認知的』態度」を、
分析家が取ってしまった例としてあげています。「・・・すること」を、分析家が
間接的に勧めている、と患者さんが理解する可能性が高いからです。

逆に言えば、このような「解釈」は「分析的ではない」と著者は考えていることに
なります。しかしこの種の解釈は、日本における「精神力動的精神療法」においては、
普通に行われる介入だと私は思います。つまり、少なくともこの著者の言う
「精神分析」と、(少なくとも日本で言うところの)「精神力動的精神療法」は
全く違うものである、ということはいえると思います。