1 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
01/12/15 19:40 狭義の心理学ではないが、 メンヘルの専門的議論はこちらでどうぞ。
君と議論? 時間の無駄も甚だしい。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :01/12/16 06:08
age
>>2 最近、この手の書き込みをよく見かける。
2の発言は、文章の機能として全く意味がない。
何故、議論を潰そうとする?
こういう荒しを見ると、ほんとうに不快になる。
ちなみに、毎回、同じような時間帯に、同じような内容、
同じような文体、同じような論法で書き込まれているようだが...
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/02 23:21
age
オエップ……臨床精神医学と臨床心理はどう違うのか? 両方とも神経症を扱うことかな〜。 でも、精神科医はヒステリーや強迫神経症はあまり扱いたくないな〜。臨床心理の カンセラーの方々、早う相手のめんどうな神経症の患者さんを専門で相手してくだされい。 ウェ……。酔っぱらいの繰り言……でござる。
ウィ〜。精神医学は今や英米がメインの時代、DSMやICDがメインの時代になってしもうたわね。 せやけど、DSM-III以降は、シュナイダーなどのドイツの記述精神病理学を下敷きに してるんですわ。シュナイダーは精神疾患は身体の病気やて言い張ったお方でしたわ。 つまり、身体疾患の症状の一つとして、精神症状が出てくるちゅうわけですな。精神 分裂病も躁うつ病も身体の病気やと。ほんで、神経症と人格障害は病気ちゃうと。 病気ちゃうさかい、精神科治療の対象とちゃうと言いたかったんでしょうな。ヒィック〜。 そう言えば、ヤスパースは、神経症かてなんでそんなもんが出てくんのかわからへん さかい、神経症かてなんか器質的なプロツェスがあるんとちゃうかいなと思うてたそうでんな。 まあ、ある意味、それは当たってたと。PDなんかは生化学的なベースがあるみたいやし、 OCDなんぞもSSRIがけっこう特異的に効くみたいやしなァ。
ゲッ。大体、記述精神病理学と臨床心理とは基本的なスタンスがちゃいまんがな。 記述精神病理学は、「あんたの言うてることはわからん」と言うのが基本ですわ。 ヤスパースはそれを「了解不能」ちゅうたし、シュナイダーは「意味法則性の断絶」 とか「意味連続性の断絶」て言いましたわ。要するに「あんたの言うてることは わからん」。で、あんたは精神疾患や、身体の病気やと言うたわけですわ。ウープ…。 それに対して、ロジャースは共感でんな。何でもかんでもわかってまおうちゅうわけ ですわ。わからんとこというんと、わかってまおうというのと、この辺の対比が 精神医学と臨床心理の違いでっしゃろなァ。ウゥゥプ。今日はもうあきまへん…。
トイレでゲロしたら、ちょっと気分がマシになったわ。頭もちょっとスッキリしましたわ。 日本の精神医学はドイツの精神医学をベースにしていたさかいに、けっこうヤスパースや シュナイダーの影響は大きいと思いますわ。せやけど、二人とも「あんたの言うてることは わからへん」と言うひとですわ。なんか「わかってたまるか」言うてる気がせんでも しまへんな。そう言えば、ヤスパースはフロイトのことを「かのごとき了解als ob verstehen」 ちゅうて批判してますわ。うまいこと理屈つけて、わかったふりしとるだけや、ちゅうわけ ですな。せやけど、ヤスパースは、フロイトに弟子入り頼んで、断られたちゅう話 聞いたことがありますわ(ホンマかいな?)。それがホンマやったら、ムカッ腹立てて フロイトに八つ当たりしてたんかもしれまへんなァ。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/03 02:53
酔っ払いさん、ご苦労さんです(−_−)> ま、精神医学知らない心理臨床家が多いから、DQNて言われるんやろな。 薬物治療が第1選択肢でも、いつまでもカウンセリングなんてやって クライエントの鬱が分裂にまで発展してもーたというケースはよーきき ますわ。
久し振りのカキコデッス。ドイツの記述精神病理学は、ヤスパースとかシュナイダーとかが 代表的な論客ですわな。この、記述精神病理学ちゅうんは、心理学とはちゃいますねん。 まあ、言うてみれば、内科とかの診断学と同なしですわな。身体病の診断学では、例えば、 Blumberg徴候とかがあったら、虫垂炎で、炎症が腹膜に及んでいることがわかるわけですわ。 それと同んなしで、例えば、vitale Traurigkeitがあれば、内因性うつ病やし、 SchneiderのI級症状があれば分裂病ちゅうわけですな。この辺の、これがあれば、なんとやら ちゅうんが、診断学の核心でしょうな。実際には、そんなうまいこといきまへんけどな。 つまり、記述精神病理学ちゅうんは、診断学であるちゅうことですわ。心理テストの 人格診断とはちゃいまんやろ。 あ…アカン、気分悪なってきた。やっぱし、焼酎はあきまへんわ…。
この辺は、DSM-IVとかとちゃうとこでしょうな。で、この、記述精神病理学、 前にもカキコしましたが、病気か病気でないんかちゅうことに、えろう気つかいますねん。 いったい、どこで病気か病気でないんか決めるんか。これが繰り返し出てくるデーまですわ。 ヤスパースは、それを嫉妬妄想の分析(精神分析ちゃいまっせ)で、「発展(Entwicklung)か過程 (Prozess)か」ちゅう問題設定をしたわけですわ。発展ちゅうんは、環境から継続的な 影響があって、それが(反応性)妄想になっていくもんですわ。過程ちゅうんは、まあ、 単刀直入に言えば、病気でんな。ある時、風邪をひいたみたいに、突然、妄想が始まる ちゅうわけですわ。この過程の背後には身体の病気があるはずやと、ヤスパースは 言いたかったんでしょうな。せやけど、身体的な病気がはっきりと指摘でけへん。 で、ヤスパースは心的過程(psychischer Prozess)ちゅう名前をひねり出しましたわ。 身体はどこも悪そうに見えへんけど、やっぱし病気やちゅう苦しまぎれの強引な理屈ですわな。 これが、ドイツでは長いこと尾を引きましたわ。
わたしのオーベンの先生が言うてはったけど、日本酒とか葡萄酒とかの醸造酒より、 焼酎とかの蒸留酒のほうが悪酔いせえへんそうですわ。 ヤスパースはプロツェッスは「了解不能」、シュナイダーは意味法則性や意味連続性の断絶、 つまり「「お前の言うてることはわからへん」で決めつけようとしたんですけど、 中には、もっと器質的な理屈で精神病を考えようとした人がいてはりました。Wernicke、 Kleist、Leonhardtとかがいてはります。レオンハルトは、分裂病は系統的変性疾患であると 考えたわけですわ。例えば、POCA、パーキンソン病、ハンチントン舞踏病なんかとおんなし ようにですわ。この場合、変性疾患を分類するには、ある程度病気が進行して、病像が完成 して初めてきちんと病像がわかるっちゅうわけですわな。せやさかいに、クライストや レオンハルトはしきりに欠陥状態にある分裂病の患者さんを研究しやはったんですわ。 ちなみに、北欧のアストルップちゅうお医者さんは、分裂病の患者さんを20数年間追跡しや はったんですが、レオンハルトの分類が一番動かんかったと言うてはるんですわ(ホンマかいな)。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/08 01:53
通好みのスレですな。 マターリと続けて欲しいものです。
今日は日本酒飲みながらカキコしてますわ。ウィ〜。 大体ドイツ精神医学の「わからんやつは病気」派は、ハイデルベルグ学派ですな。これは ハイデルベルク大学を中心に流行したやつですわ。このハイデルベルグ学派の代表選手が シュナイダーですな。シュナイダーは、精神分裂病やら躁うつ病を、身体の病気やて断定 しゃはりましたわ。ほんで、その根拠を意味法則性や意味連続性の断絶と言わはったんですわ。 なんでそないなことになったんか、わからへんちゅうわけですわ。突然、理由もなくおかしゅう なったちゅうわけですな。これをLebensknick(生活の結節点)と言うてはりますわ。こっから 病気が始まったちゅうわけでんな。ほんで、病気は一旦始まったら、それ自体の経過を辿るや そうですわ。例えば、風邪ひいたら、クスリ飲んでも何しても結局1週間くらいせんと治らへんのと 同じちゅうことですわ。
例えば、風邪ひきますわな。風邪ひく前は、寒いとこにおって、寒い寒いて震えてますわ。 ほんで、暖かいとこへ入ってきたら、もう寒うありまへんわな。ところが、風邪ひいたら、 暖かいとこへ入ってきても、寒気(悪寒戦慄)がして寒い寒いちゅうわけですわ。ほんで、 今度は発熱した後、発汗したら、ちょっとくらい寒うても、熱い熱い言うて薄着になることも あるわけですわ。内因性うつ病なんかもそれとおんなしやちゅうわけですわな。例えば、 引っ越しうつ病なんかで、鬱が始まりますわ。ほなら、ほんまやったら楽しいことがあっても、 楽しうならんのですわ。よけ鬱陶しかったりします。反応性の鬱やったら、楽しいことがあったら 気が紛れて、ようなりますわな。内因性やったら、よけ鬱陶しかったりするわけですわ。 んで、結局、自然に軽快する時期にならんとようならんちゅうわけですな。大体3〜6ヶ月と言いますわ。 まあ、こんな具合に、分裂病やら、躁うつ病やら、精神遅滞なんかの当時は原因がよう わからんかった精神障害をだいたいは遺伝に関係づけて調査なんかしてはったわけですわ。この辺の 遺伝への根拠づけが、ナチスの精神障害者迫害の後押しになったちゅう批判もあるわけですわな。 この辺が、戦後のハイデルベルク人間学派の台頭につながっていくわけですわ。
臨床精神医学というより精神病理学史になってますが, 面白くってためになります。 酔っ払いさん,その調子で続けてくだされ。 倉庫逝きにならない程度にあげさせてもらいます。
アルコールが入っていて、気分のいい時に、時々、うだばなしでカキコして いきますわ。ツッコミ、テイセイ、ハンロン、カンゲイ。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/11 04:50
真夜中,というより, 明け方のコッソリあげ。
20 :
明け方のコッソリあげに乗じた者 :02/01/11 04:55
あー、そう言えばサ、心理学じゃないから他の所に書きにくいのだけど、 「臨床精神医学」みたいな感じの入門書、良いのないスか?
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/11 05:03
>>20 「この本だけは読んでおけ!」スレでも紹介したのだけど,
この本なんかどうですか。
>中井久夫・山口直彦 『看護のための精神医学』 医学書院 ★
>もともと系統看護学講座の1冊として書かれた教科書ですが,
>絶版後も名著の誉れ高く,筆を加えて再刊されました。
>心理学徒が読んでも面白くためになると思います。
>お勉強と気張らずに,寝転がって日向ぼっこしながら読むのもまた楽し。
もっと専門的なものをお探しなら,酔っ払いさんに訊いてみて下さい。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/11 05:12
は。必要に迫られておりまして。興味もあるし。 取り敢えず読んでみます。今メモ帳にコピペした所です。 専門的なものも、知ってる人がいたらプリーズ。 (ただし、分野ごとに特化したようなやつではなく、あくまで概論的な入門書を……)
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/11 10:16
>>22 西丸四方先生の本をよみなされ,オレは臨床心理プロパーだけれど
西丸先生の本を読んで視野が非常に広がった。
それと,みすず書房からK・シュナイダー(クルト・シュナイダー
であってカールではないことに注意)の本が再版されてる。
これも明確で,名無しさん@酔っぱらい センセのいうてることが
さらにわかるようになる。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/11 20:04
酔っぱらいさん面白い!そしてためになる。こういうのがあるから2ちゃんは良いね。 よっぱらいさんの気が向いた時にカキコするってのもイイ!!それはそうと、私もかつ て精神病理学に興味をもって学んでおりましたが、現在の医局では病理学より精神薬理 学や生化学が盛んなため(←悲しい事に最近の大学医局ではどこもそう)そっちに流さ れていました。 精神病理学についてここで語ってください。皆様。ハイデルベルク学派以外のチュービ ンゲン学派などその他について簡単な解説求む!
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/11 20:08
全体の解説書として、中井久夫・山口直彦 『看護のための精神医学』 医学書院はいいですよ。 他に、島悟訳の「精神医学入門」日本評論社や山下格「精神医学ハンドブック」日本評論社がおすすめ。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/12 12:45
精神病理学にも学派があったって知らなかった・・・。 めちゃ為になるわ、このスレ。 酔っ払いさん、もっと教えてちょ。
27 :
明け方のコッソリあげに乗じた者 :02/01/12 13:27
いや、書籍紹介してくれた親切な方々、どうもです! いっぱいコピペしました! 時間ができた時にでも書店に行ってみます。 他にもあったら書いてほしいなぁ。 特に必要上、幼児期〜青年期(広すぎるな……)について詳しく書いてあるもの希望。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/12 16:12
あー私も幼児期の精神病理に興味あるな。
いやー、勉強になる。 知的好奇心を満たしてくれるスレですね。 たぶんROM専の方もたくさんおられると思います。 酔っ払いさん、ほとんど素人なので、専門用語に解説付いていたりすると非常に嬉しいです。 例を挙げると、器質的なプロツェス、OCD、Blumberg徴候、POCAとか。 文を書き終わった後に「(注) Blumberg徴候とは〜〜〜」と言う形式にすれば、 詳しい方にとっても不快にならないんじゃないかと。 専門的な方の中には、「素人は入って来んなよ」と思う方もいるかもしれませんが、 知りたいんです。御勘弁を。
>臨床精神医学というより精神病理学史になってますが, 禿同 精神医学のトレンドを知らないド田舎看護学校のDQN講師みたい。 今時,中井久夫を真面目に読んでいる医者ってほとんどいないと思うなあ。
ちらっと見たけど、良スレですね。いい本がいっぱい出てきているし。 僕も参入していいかな? 僕自身も西丸四方さんの本は好きです。あと、日本評論社から出ている本には いい本が多いです。
>>30 今日は焼酎。「鳥飼」という焼酎。焼酎なのにフルーティな吟醸香がしますわ。雅子様ご愛飲の一品やそうですわ。
「中井久夫・山口直彦 『看護のための精神医学』 医学書院」は最高ですなァ。中井久夫先生の
書かはった本は強烈なんがいっぱいですわ。臨床やったら、「『精神科治療覚書』日本評論社」、
疾患論やったら「『分裂病と人類』東京大学出版会」、精神医学史やったら「『西洋精神医学背景史』みすず書房」
がお薦めですわ。どれもほんまに読んでると目が回るような感じがしまっせ(興奮)。
>>32 標準テキストとしては、最近はどこでもカプラン使いませんか?
個人的にDSMは好きじゃないですけど。
少なくとも、中井をスルーしても臨床現場では全く困らないと思いますが。
あと、あなたは哲学系の方じゃないですか?どうもそんな香りがします。
日本酒はなにがお勧めですか?
精神医学と精神病理学って、どう違うんですか? ついでに精神医学と精神病理学の意味をわかりやすく教えてください。 知識を正確なものにしたいので。
33さんの話も聞きたいです。 色んな情報があった方が良いですし。
だいぶアルコールが回ってきましたわ。ええ気分です。日本酒で香りを取るなら、 茨城県の須藤本家株式会社の「郷の誉」系がお薦めですわ。「黒吟」「山桜桃(ゆすら)」 「花あわせ」なんかが香り華やかで、美味しいですわ。 さて、ヤスパース、K.シュナイダーは「わからんから病気」派やったわけですわな。その 逆の「わかる」派もあるわけですわ。ヤスパース、K.シュナイダーとくれば、チュービンゲン 学派のクレッチュマー、シュルテちゅうわけですわな。せやけど、そのずっと前から 「わからんから病気」派と「わかる(わかりたい)(わかるはずや)」派とがあったんですわ。 これは、大精神病院派とクリニック派と言い換えてもええんとちゃいますか。 これは一人のお医者さんの中にも同居していたことがありますわ。ピネルやその弟子の エスキロールは、でっかい精神病院の管理をしてはったけど、同時に、自分のプライベートの 小ちゃい療養所を経営しとって、お金持ちの患者さんなんぞの治療をしてはったんですわな。 でっかい精神病院では、精神病院の分類研究を大々的にしてはったけど、小ちゃい療養所では 治療が中心やったわけですわな。ヤスパースに先立つクリニック派の大立て者がフロイトや ジャネやったんでしょうな。
フロイトやジャネは治療が中心でしたわ。せやけど、ヤスパース、K.シュナイダーは 精神鑑定が中心やったんですわ。精神鑑定を中心に理論をつくらはったわけですわ。 で、精神鑑定はもちろん診断中心やし、どっか病気なとこないかいなと捜すのが仕事ですわ。 細かいとこまで調べて、どや、やっぱしまともやない、病気やろと裁判で言わんと あかんわけですわな。 で、ヤスパースはallgemeine Psychopathologie(「精神病理学原論」みすず書房)」で 「わからんのは病気」派の大攻勢をかけたわけですわ。ここで、大学の「わかる」派から 逆襲が来るわけですわ。それが、クレッチュマーの「敏感関係妄想」ですな。 「お前は『わからん、わからんさかい病気や』て言うてるけど、どや、けっこうわかるやろ」 ちゅうわけですわな。ただ、実際には、妄想ちゅうんはやっぱし病人以外にはよう わかりませんわ。証拠も事実もあれへんのに、嫁はんが浮気しとるてきめつけるんやからね。 これをわかるためには、何か普段使わへん道具が必要ですわな。クレッチュマーの場合、 この道具は「性格」「環境」「事件」でやったわけですわ。一つ一つじゃ妄想は起こらへん けど、三つが重なった時、妄想が起きるちゅうわけですな。
すごい!知識が整理されていくよ!これは勉強になる!
アプローチがフーコーに触発されて趣味で精神医学関連の本を読んでいる 人文系のひとそのものだなあ。絶対に医者じゃないね。
>>40 もうちょっと根拠を語ってくれよ!
酔っ払いさんが医者じゃないって考える根拠を!
ウ〜〜〜。頭痛いわ。昨夜ッちゅうか、今朝はカキコしながらそのまま寝てしまいましたわ。 クレッチュマーの話でしたな。クレッチュマーは「多次元診断」が必要やて言いましたわ。 まあ、どんな性格(=体質)の人が、どんな環境で生きてて、どんな事件(体験)を契機に 病気になるんか、この三つはベッチャリくっついておって、うまいこと別々に分けられへん ちゅうことですわ。この辺の「どんな性格の人が」ちゅうとこは、それからのドイツの 病前性格の研究が次々と出てくるんやろうし、どんな事件がちゅうとこは、状況因 (Situatogenese)の研究に結びついていくんでしゃろな。うつ病の研究なんぞはもろに これにはまりましたな。テレンバッハの「メランコリー」や、A.クラウスの「躁うつ病者の 対人行動」なんぞは、基本的な考え方はクレッチュマーの「敏感関係妄想」とほとんど 変わりまへんわ。 DSMも、クレッチュマーの影響があるんとちゃいますか。DSMは多軸診断ですわな。 病気と、性格(やのうて性格障害やけど)と、あと、ライフイベントなんかも追加したり しますわな。病気の診断はK.シュナイダー、多軸診断はクレッチュマーと言うことになると、 スピッツァーちゅうお人は、かなりのドイツ精神医学かぶれやったんかもしれまへんな。
ちょっと、頭がクラクラしますわ。せやけど、お冷や(冷水)ようけ飲んだら、ちょっと 気分スッキリしてきましたな。ホンマはビール1本飲んだら、ちょっと楽になるんやけど。 まあ、止めときまひょか。 ところで、クレッチュマーちゅーんは、かなりわかりたがり屋の人やったんやおまへんか。 「あんた、それはちょっとわかりすぎやで」と思うことがようありますわ。例えば、 「体格と性格」ちゅう本がありますわ。これは、人間の体格を細長型、肥満型、闘士型の 三つに分けて、それぞれを性格類型に結びつけたものですわな。細長型は「分裂気質 ─分裂病質─分裂病」ちゅうスペクトル、「肥満型は循環気質─循環病質─躁うつ病」、 闘士型は「粘着気質─類てんかん病質─てんかん」ちゅうスペクトルを考えたがってはった みたいですな。まあ、闘士型に関しては、かなり苦しんではるという感じがしますわ。 けいれん準備状態ちゅうもんで、てんかんに結びつけようとしてはるけど、闘士型体格と 分裂気質との関係とか、形成不全型とけいれん準備性との関係とかに触れて、書いてる ことがちょっと右往左往してる感じですな。
今は、このクレッチュマーの「分裂気質─分裂病質─分裂病」「肥満型は循環気質 ─循環病質─躁うつ病」、闘士型は「粘着気質─類てんかん病質─てんかん」ちゅう スペクトルと体質の関係は、こりゃちゃうやろと言われてますわ。理由はいろいろ おますけど、一番は、体質と性格─病気との関係を認めたら、これは、混合精神病 ちゅうんを認めんとあかんわけですわな。例えば、細うもないし肥満でもないひとが 精神病になったら、こりゃ分裂病と躁うつ病が入り混じった分裂感情病にならんと あかんわけですわ。遺伝から言うても、太った人も生まれりゃ、痩せた人も生まれるのと おんなしで、おんなし家系の中に分裂病も躁うつ病も分裂感情病も全部出てこんと おかしいわけですわ。せやけど、こんなことはおまへん。やっぱしちゃうわちゅう わけですな。この辺は、わかってしまいすぎるクレッチュマーのわるいとこかもしれまへんな。 せやけど、クレッチュマーは患者さんをよう見てはったみたいでっせ。症例の記載は 見事なものでんな。大いに参考になりますわ。
>>40 ここに書いてんのは、大部分がオーベンの先生に教えてもろた耳学問でっせ。私の教授
(もうとっくに引退しはりましたが)は、ゾーマ(身体的な精神医学)の専門やったけど、
カントやらハイデガーやらサルトルのことも喋ってはりましたわ。ノイエヘレンの頃は
ドイツ語の読書会があって、ヤスパースやK.シュナイダーやレオンハルトなんぞを
読みましたけどな。その時、オーベンの先生がいろいろ講釈してくれはりましたわ。
せやけど、今はDSMばっかしで、ドイツ語の古典なんか読まへんのでっしゃろかァ。
ボ〜とした頭で、スレ読み返してみたら、けっこう、本の情報が行き交うてまんな。 K.シュナイダーは、「臨床精神病理学」文光堂と「精神病理学序説」みすず書房が ありますわ。ヤスパースは「精神病理学総論(第5版)」岩波書店と「精神病理学原論(第1版)」 みすず書房がありますわな。両方とも、みすず書房がお薦めですわ。古い方が言いたいこと ストレートに言うてはって、わかりやすいですわな。新しいやつになると、言いたいことは 同じやけど、ツッコミに対する言い訳とか迷いが出てきてますわ。結局、長うなったんは 言い訳が増えた分だけ長うなっただけとちゃいますか。 今日は、これから、眠剤飲んで、宿酔い醒ましに一眠りしますわ。
あっ 思い出した! 変な関西弁で書き込みしていた偽医者の二人組がいたわ。 保険点数とかは詳しく知っているんだけど,チーム医療実践病院名で 化けの皮が剥がれてた。臨床家にしてはインテリジェンスの方向性が かなり偏っているから,下手の横好きの元人文系の人かな?
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/14 02:46
今夜も真夜中のこっそりあげ。
チュービンゲン学派のことはあんまし知らへんので、ちょっと調べてみましたわ。 チュービンゲン大学のクレッチュマーの先代の主任教授は、ロバート・ガウプ(Robert Gaupp)て言うんやけど、ガウプは、クレッチュマーよりも先に「体質的気分変調と躁うつ病 ─体質と精神病との連関についての臨床的研究」(1910)というんを書いてはりましたわ。 これは、その後、クレッチュマーの「体格と性格」でいわばきちんとまとめられたて いうことでっしゃろな。 それから、ガウプは、1913年、妄想のために大量殺人を犯した教頭ワグナーについて 幾度か論文を書いてはりましたな。最後のほうは雑誌「精神医学」の古典紹介に翻訳 されたことがありましたわ。ガウプは、教頭ワグナーはパラノイアやて診断しはりました。 そして、不調和な人格構造をベースにして、感情的な体験に結びついて徐々に発展していく、 心因性の妄想やて考えはりました。これも、クレッチュマーの「敏感関係妄想」とおんなし 考え方ですわな。 結局、クレッチュマーがやった大きな仕事は、全部ガウプが先鞭をつけとったていう ことですいわ。クレッチュマーはガウプがやりかけた仕事をまとめ上げたて言うこと なんでっしゃろな。クレッチュマーていう人は、かなり研究偏重やったそうですわ。 せやさかい、当時のハイデルベルク対チュービンゲンで、いわば東西横綱みたいに 張り合いはったんやなァ。
大相撲ハイデルベルク対チュービンゲンの「妄想場所」は、「病的過程 vs.発展」 「内因性 vs.心因性」「疾患 vs.反応」「了解不能の事象 vs.了解可能な心的連関」 という対決でしたわ。 「病的過程」は「Prozess」の訳語ですわ。これは身体疾患、特に神経疾患の病理的な 変化が進行することをさしとるんですわ。例えば、パーキンソン病のニューロンの変性とか、 多発性硬化症の髄鞘の変性とかですわな。臨床症状は必ずしもこれには並行せえしまへん。 ヤスパースは非可逆的なもんやと考えてはりましたけど、実際はどうなんやろ。 「発展」は、環境から継続的な影響があって、それが健康な成長をねじ曲げていきよるんですわ。 で、例えば妄想が出てきたりしよるんですわ。「内因性 vs.心因性」「疾患 vs.反応」 「了解不能の事象 vs.了解可能な心的連関」についても、大体おんなしことですわな (だんだん、アルコールが回ってきて、面倒くさなってきてしもた)。
チュービンゲンのその後ですわ。 1960年に、シュルテ(Walter Schulte)が、クレッチュマーの跡を継いで、主任教授に ならはりました。シュルテは、クレッチュマーと一転して、ものごっつい臨床家やった みたいですなァ。シュルテが主任教授してた時代のチュービンゲン大学の精神科は、 西ドイツでもトップクラスやったみたいですわ。中井久夫先生がシュルテをものごっつぅ 高う評価してはったんで、ずっと気になってたんですわ。 シュルテの本は、なかなか手に入りにくいですなァ。「精神療法研究」W.シュルテが 以前医学書院から出版されてて、ずっと絶版になってたけど、数年前に、岩崎学術出版社から 再刊されましたわ。これは何とか手に入ると思います。 あと、「病院精神医学の臨床」文光堂というのがありますけど、これはずっと絶版やろな。 これは、シュルテが1954年〜1960年、ウェストファーレン州立ギュータースロー精神 病院の院長をしてはったんですが、その頃の経験をもとに書かはったもんです。この 精神病院は、Hermann Simonが作業療法の実践をしたことで有名な病院ですわ。これは ちょっと類のない本でっせ。
今度お勧めの日本酒のんでみます。 肝臓気をつけてくださいね。
>>52 「鷹勇」て日本酒がありますねん。これは、どっしりしたフルボディのお酒ですわ。
苦み、渋み、辛みのバランスが良うてなかなかですわ。
そろそろ、話のネタが苦しうなってきましたなァ。人間学派とか現象学派の話もおもろいけど
精神病理学会なんかに行ったら、お好きな人がけっこういてはって、きっついツッコミ
してはりましたわ。まあ、その手の話はあんまし知らへんけど、そのうち、ウダ話し
ますさかい。
ちょっと、話が元に戻りますけど、ヤスパースの「了解不能(Unverstaendlichkeit)」
「過程(Prozess)か発展(Entwicklung)か」、K.シュナイダーの「意味法則性
(Sinngesetztlichkeit)や意味連続性(Sinnkontinuitaet)の断絶」、クレッチュマーの
「敏感関係妄想(sensitiver Beziehungswahn)」。みんな妄想を扱うてはりますわ。
まあ、妄想ていうんは、何言うてんねんていう感じでわけのわからんとこがあるわけですけど、
おかしいなりに言うてる内容はある意味わかりやすいんでしょうな。いろいろ細かい
理屈をごねやすいわけですわ。妄想関係の研究はホンマに仰山ありますな。そう言えば、
精神分析のサールズとかローゼンなんかも大体妄想を扱こうてますな。確かに、破瓜型なんかで、
にやにや笑うてはって、何言うてるかわかれへんだら、取りあえず病気やていうことは
わかりますけど、患者さんの言うてること、どない考えてええんか、どないしてええんか
わかりにくいですわなァ。まあ、しばらく前に非妄想型分裂病の研究がえろう流行りましたわな。
で、ヤスパースにしろ、シュナイダーにしろ、一所懸命、妄想の分類をしてはるんですわ。 この辺の分類の細かさはほんまにお家芸というてええほどの細かさですわ。妄想ていうのは、 ちょっと診ではわかりにくいさかい、精神鑑定ではよけいに細かいとこにこだわって、 診断せんとあかんのかもしれまへん。 大体、ハイデルベルグ派の妄想の分類ていうんは、まず一次妄想(原発性妄想)と二次妄想 (続発性妄想)に分けるんですわ。一次妄想ていうんは、グルーレが動機なき関係づけ (Beziehungssetzung ohne Anlass)て言いましたけど、何の根拠も証拠もないのに、 自分に関係づけてしまわはることを言うんですわ。例えば、道ばたで知らへん人が話しとったら、 それは自分の悪口言うとるんですわ。通りすがりの人がハクションしよったら、それは 自分へのあてつけになるんですわ。まあ、一種の自意識超過剰ですわな。もっとも、 女の人が自分の方見とったら、ああ、彼女は俺に気があるんやと思いこむ人もいてはりますわな。 これも妄想と言えば、妄想かも。けど、俺は女に持てるんやていう自信ていうか、勘違いが あるさかい、そう思うんやろうから、これは二次性の妄想ていうことになりますかな。
ヤスパースは、一次妄想を、妄想着想(Wahneinfall)、妄想知覚(Wahnwahrnehmung)、 妄想気分(Wahnstimmung)の三つに分類しはりました。 妄想着想て言うんは、突然、妄想的なことを着想してしまうんですわ。例えば、わしは お釈迦さまの生まれ変わりやとか、突然、ひらめくわけですわ。まあ、啓示と言えば 啓示ですな。 妄想気分て言うんは、周りがおかしな感じがしよるんですわ。何かおかしいんやけど、 どこがおかしいて訊かれたら、ようわからへんのですわなァ。不気味な感じがする。 あるいは、ごっつうええ感じがする。不気味な感じのほうは、ひどうなったら、世界が 壊れてしまう、世界の終わりやちゅうことになって、いわゆる世界破滅体験 (Weltuntergangsgefuehl)になるわけですわな。
妄想着想て言うんは、正常な知覚に妄想的な意味づけをするんですわな。例えば 「彼女が俺のほう見て、ニッコリ笑うた。おおう、俺に気があるんかな」。これは、 彼女がニッコリ笑うたが知覚で、俺に気があるんかな意味づけですわ。これは、まあ、 そらちょっと自惚れやでて言うところもあるかもしれまへんが、まあ、正常ですわな。 せやけど、机の上に消しゴムがありますわな。そしたら、それは彼女が俺のこと好きやて 言うことになったりする。これはちょっとおかしいですわ。別に、消しゴムが彼女の もんやあれへんし、仮に彼女の消しゴムやとしても、自分のこと好きやとは限りませんやん。 これは、知覚は正常やけど、意味づけが妄想的なんですわな。シュナイダーは、これを 妄想知覚の二節性(Zweigliedrigkeit)て言いましたわ。ほんで、シュナイダーは妄想知覚を、 精神分裂病の一級症状に入れてはりますわ。
それに対して、二次妄想ていうんは、理由があって出てくる妄想ですわな。さっき言うた、 自分の方見る女の人は俺に気があるていうのは、わしは女にもてるねんていう勘違いに 基づく妄想ですわな。もっとも、自分が女にもてるていう確信が妄想かもしれまへん。 殺してやるていう声が聞こえてきて、俺は殺されるて妄想が出てくるのは、幻聴に基づく 妄想ですわ。 こういうのは、理由なしに出てくるんとちゃうんで、二次妄想(続発性妄想)と言いますねん。 これを妄想様観念(wahnaehnliche Idee)とも言うし、ヤスパースは妄想的観念 (wahnhafte Idee)と言うてましたな。この辺をちゃんと押さえとかんと、精神病理学の 本読んでても、ようわからんようになる時がありますネン。めんどくさい話ですわなァ。
心(精神)が病む(調子を崩す)とはどういったものであるかご存知でしょうか? そもそも、「精神医学」とは何でしょうか?Psyche(風→魂・精神)+iatros(癒す・治す・医学・看護)という意味だそうです。 辞書的意味は、人間の精神疾患の診断、治療、予防、およびその研究と理論の総体なのです。つまり、人間が人間と出会い、その精神面に焦点をすえて 了解、診断、治療するという臨床的作業の総体であります。 また、「臨床的作業」が基本にあります。Organicism(身体・器質論)とDynamism(力動論)という二つの視点が必要であり、常に「複眼視」が要 請されます。ここに哲学・医学上の大問題である、一元論(精神はすべて脳に帰する。精神現象はコンピューターでシュミレート可能)か二元論(全て の精神現象はコンピュータや脳では説明しきれない)かのAporiaが生ずるのです。 「臨床」ということの意味を知っていますか?「臨床」とはもともとは「臨終の床にある病者を、傍らで看取る」、「病の苦しみと死の恐怖におののく 人の不安や魂を安らげ、癒す」ことにありました。それがいつからか「現実の生活の中で、何らかの問題を抱えている人々に対して、専門的知識と技術 を用いて実践的に関わりをもっていくこと」となっていきました。
すんません。序論が結構好きなんですね。 そうそう、「精神医学」のよい概説書は、 入門には、「精神医学入門」中央法規がおすすめです。著者を忘れてしまいましたが。 これは、一応全体を分かりやすく簡単に説明していて読みやすいですが、入門のため かなり簡単に書いてあります。教育や心理や福祉を学んでいる学生にはよいと思います。 他には、上で私が挙げた、島悟訳の「図説精神医学入門 第二版」日本評論社がまとま っていておすすめです。 中井久夫せんせいの「看護のための〜」は見た目厚いですが、読みやすく面白いので、 気軽に読んでみてください。私も読んだのですが、やはり中井先生は素晴らしいと感動 しました。恥ずかしい…。ぽっ。
精神医学とは異なりますが、隠れた名著としてお勧めのものでは 辰野著「心理学」日本科学文化社 があります。この本は、私が非常勤講師をしている大学で使って いるものです。この本を3年前に見つけそれ以来気に入っており ます。簡単過ぎず、難しすぎずで重要なことはほとんど網羅され ています。心理学概論の教科書としては一番のお勧めです。
焼酎飲みはじめましたわ。「田の川」ていう焼酎ですわ。これ、最近製造元が変わりましてな、 不味うなりましたわ。前のやつは、吟醸酒の絞りかすを蒸留して、少しやけど吟醸香のする さっぱりした焼酎やったけど、今度のはアルコール辛いだけや。 二次妄想なんかで、時々出会うのは、アルコール依存症者の嫉妬妄想ですわな。嫉妬妄想て いうのは、嫁はんが浮気しとるていうヤツです。アルコール依存症の患者さんが「うちの 嫁さんが浮気しとる」て言いますわな。治療者が「うんうん、わかるわかる。うちの 嫁はんも浮気しとるかもしれんからなァ。あんたの言うこともようわかる」。これが 静的了解(statischer Verstehen)ていうヤツですわ。そのまま、よけいなことごちゃごちゃ 考えへんでも、ようわかるちゅうことですな。静的了解できるんやったら、こりゃ 妄想とは言えへんかもしれまへんな。
せやけど、話聞いてても「ちょっと、あんた、それは現実とちゃうで。それは妄想やで」 と言う時がありますわな。「うちの嫁はん、前は仕事がしんどい、しんどいて言うてたけど、 最近、仕事に行く時に変に機嫌がええ。職場で男が出来たんとちゃうか。昨夜、嫁はんに 電話が掛かってきた。仕事先やから言うてたけど、変にニコニコしとる。あれは浮気相手からや」。 はっきりした証拠はなんにもあれしまへんね。けど「いや、絶対間違いない」て断定 しはります。で、嫁はんを責めたり、手出したりしはりますねん。こりゃようわからん。 そのままやったら静的了解不能ですわな。
せやけど、アルコール依存症の患者さんて、だいたい家の事情がややこしいんですわ。 だいたい、仕事はもう辞めてもうて、家でゴロゴロしてはることが多いです。せいぜい 断酒会行ってはるくらいかな(勿論、ちゃんとした方もようけいてはりますけどな)。 奥さんは勤めに出てて、家計を支えてはるんですわ。で、けっこうしっかりした奥さんが 多いし、仕事もしっかりしはりますから、アフターファイブのつきあいもありますわな。 帰りもちょくちょく遅うなったりします。ところが、アルコールの影響で、性欲は亢進するけど、 イムプォですねん。もしくはその傾向がありますねん。これじゃ奥さんを満足させられへんと 不安なわけですわ。かと言うて、奥さんに出て行かれたら、生活できまへん。いつも 不安なんやけど、それを認めとうないわけです。その辺まで、事情がわかってくると、 「う〜ん、嫉妬妄想も無理ないか」ていうことになりますわ。いろんな事情や要素や 経験を放り込んだら、わからんこともないなァ。これが発生的了解(genetischer Verstehen)が 可能ていうことですな。
たまにえらいことになりまっせ。旦那さんが嫉妬妄想で、かなんさかい入院させてくれ ちゅうて、入院になることもあります。せやけど、たまに、実は奥さんがホンマに浮気 しとったていうことがありますんや。ヒョウタンから出たコマですわな。こんな時は、 妄想て言うてええんかどうか? どない思いますか? でも、やっぱし、妄想は妄想ですわ。 妄想て、感情的に強い確信があって、理屈が通じまへん。説得もでけへんし、納得も ありまへん。妄想て強迫思考とよう似てて、話がおんなじとこをグルグル回りよるんです。 同じアルコール依存症の嫉妬妄想でも「家におるかあちゃんは贋もんや。本もんそっくり やけど、別人なんや。俺にはわかるんや。本もんのかあちゃんは外へ遊びに行って、 浮気しとる」となると、こりゃ一次妄想でしょうな。
めんへる板でおんなしようなカキコしてはるお方もいてはんねんなァ。向こうは 素面さんみたいやけど…。 こういう話は医局の中のウダばなしとか、酒飲みに行ったとこで講釈するもん ですわなァ。お酒につきおうてくれはるお方だけ、つきおうたってくださいな。 最近、西ドイツのワインでフランケンが手にはいるようになりましたわな。フランケンの 白ワインは、ドイツワインに珍しう辛口やそうでっせ。うまいですわ。
そうそう、こっちはコソッとサゲ進行で行きますわな。酒飲みのホラ話はアゲたら あきまへんもんな〜。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/17 04:24
今夜もこのスレをあげて床につくとしよう。
酔っぱらいさんは精神分析・力動精神医学についてはどう思われますか。 治療法としては評判よくないようですが、 薬物療法とはまた違った、 人間についての本質的理解があるように思うのですが。
精神分析はなァ。心理版にはおくわしいお人が多いさかい、あんましお喋りしとうは ないんです。精神分析に関しては、素人やさかいなァ。下手なこというたら、噛みつかれ まっさかいなァ……。 ただ、今時の精神病理は、精神分析抜きではお話にならんというとこもありますわ。 最近では、やっぱしラカンの流行がありましたなァ。ラカンを現象学的な精神病理学に 読み直す作業が、一時流行りましたわ。この分野では、小出浩之センセのお仕事がようけ あります。これは「分裂病と構造」「続・分裂病と構造」金剛出版にまとめられてますわ。 小出センセは、笠原嘉センセのお弟子さんで、テキストの読解は小出センセがいっちゃん 深いと言うてはったんを聞いたことがありますわ。 あと、鈴木茂センセの「境界事象と精神医学」岩波書店の中に、ラカンの現象学的 精神病理への読み直しが載ってますな。 おもろかったんは、安永浩センセのラカン批判ですわ。これは「分裂病の精神病理」 東大出版の最後のほうに2回載ってましたなァ。 これからは、対象関係論、クラインやらビオンが注目されるんとちゃいますか。 ちょっと前の話で言うたら、分裂病の精神療法で、やっぱし精神分析の影響は大きいですわな。 フロイトのお弟子さんで言うたら、フェーデルンですな。かの伝説的な分裂病の治療の 達人ゲルトルード・シュヴィングは、確かフェーデルンの共同治療者やったんとちゃいますか。 あと、人間学的精神病理学の大立て者のK.P.キスカー。キスカーは、1960年代になって、 現象学的精神病理学から社会精神医学に乗り換えはったんやけど、自分の仕事を、領域は 社会精神医学、方法論は現象学的精神病理、実際の患者さんとの臨床のやり取りは精神分析て 言うてはったんをどっかで読んだことがありますわ。 まあ、そのうち、気が向いたら、カキコするかもしれまへん……。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/19 04:02
今夜もこっそりあげ。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/19 04:05
そろそろ,中安信夫の安永批判的検討まで言及期待age
クレペリンの方法 徹底した「観察」と「記述」 症状論よりも経過論を重視 「身体」と「心」の二重見当識(double orientation) 内因や外因や心因という言葉を初めて用いた 記憶が確かではありませんが、クレペリンについてのめぼしいことろです。 酔っ払いさん、「ここが違う」とかあったら、ご指摘&追加してください!
>>73 クレペリンなァ〜。クレペリンはあんましええ思い出がありまへんのや。クレペリンは
あんまし知りまへんのや。今は、西丸四方センセが中心になって、クレペリンの教科書を
翻訳しはったんで、日本語で読めますわな。みすず書房で出てますわ。
私がクレペリン初めて読もうとしたんは、それよかずっと前の話ですわ。オーベンの
センセが、ベシュライベン(Beschreiben)憶えるんやったら、なんちゅうてもクレペリンやて
教えてくれはったんです(註:Beschreibenとは患者さんの病状の記述のことですわ)。
で、センセが持ってはったクレペリンの教科書を読み始めたんですわ。けど、いっぺんに
挫折しましたわ。なんで、挫折したんか、「精神医学第8版 I 精神分裂病」みすず書房を
読んでみてくれはったらわかりますわ。幻聴の話です。「…耳の中でざわざわ、ぶんぶん、
ちんちんいうとか、鐘の音、戸を叩く音がするといい、机の動く音とか、鳥のさえずりとか…」
こんな調子の記述が延々と続いて、いちいち辞書引かんと単語がわからんのですわ。
その上、二つか三つくらいおんなし意味の単語が続いてる時もようありますねん。ちょっと
油断すると「ばかげた、ばかげた(不真面目な)、ばかげた(ふざけた)、……」みたいに
なりますねん。こりゃあかん。すぐに万歳して、止めてまいましたわ。
けど、西丸四方先生の翻訳は感動モノでっせ。そうか、こんなこと書いてあったんかて、
ようわかりますねん。なんと、原書の中に引用されてる患者さんの落書きまで翻訳
したるんですわ。開けて、読んで、びっくり仰天でしたわ。後書きが、また、涙、涙ですわ。
さて、クレペリンですわ。当時の精神医学は、症状群・症候群 vs.疾患単位という対立が あったわけですわ。その中で、クレペリンの一番の業績は、精神分裂病と躁うつ病と いう二大疾患単位をあぶりださはったことですな。 この疾患単位というのがくせ者ですな。疾患単位というのは、例えば、内科の教科書なんかに のってる病気は、ほとんどが疾患単位ですわ。疾患単位は、大体5つのものがワン・セットに なって、初めて疾患単位と呼べるんですわ。(1)原因、(2)症候、(3)経過、(4)転帰、 (5)病理解剖ですな。この5つが同一やったら、一つの疾患単位やて言えるわけですわな。 今の内科の教科書の病気の記載はどれも、だいたいこの図式に従って書いてありますわ。 ただし、(5)病理解剖は、細胞病理とか、病態生理に置き換えられたりしてますけどな。
当時、1880年代に、ニッスルが神経細胞の選択的染色法を発見して、脳病理学的な 研究が飛躍的に進みましたな(このへんコピペ)。その中で、疾患単位のモデル的な病気て 言うたら進行麻痺ですわ。進行麻痺も(5)病理解剖で、ニッスルとアルツハイマーの 染色法をやってみて、炎症と変性の両方が入り混じっとるとわかって、初めて疾患単位 として確立されたんですわな。野口英世が脳の中に梅毒スピロヘータを発見したことも 重要ですわ((1)原因:梅毒スピロヘータの感染ですな)。 続く、1900年代初めは病理形態学の全盛時代やったわけですわ。せやけど、当時の 精神医学は、状態像、症候記述、症候群の記述がけっこう流行っとったんです。その中で、 クレッペリン(やっぱしこう言わんと気分が出えへん)は、病理形態学の影響を受けて、 自分も進行麻痺とおんなしように内因性精神病の疾患単位を確立してやろうと思うたんで しょうな。ところで、疾患単位の確率には、(2)症候、(3)経過、(4)転帰が確立されて ないと、疾患単位と言われへんからですわな。これを確率するんやと、クレッペリンが、 記述と経過論を非常に重要視して研究、追跡、記載したのは当たり前ですわ。ただ、 これがなかなかうまいこと行かへんだみたいです。
クレッペリンの教科書では、第4版(1893)になって、早発性痴呆(Dementia praecox)が 初めて出てきたそうですわ。精神的変質過程(psychischer Entartungsprozess)の項目の 下に、緊張病(Katatonie)、妄想型痴呆(Demantia paranoides)、早発性痴呆と並んで いたそうですわ。 第5版(1896)では、「代謝疾患」の大項目の下に、粘液水腫、クレチン病、麻痺性痴呆 (進行麻痺)、痴成化過程(Verbloedunsprozess)という中項目があり、痴成化過程の 下位項目に、緊張病、妄想型痴呆、早発性痴呆が並んでいたそうですわ。 第6版(1899)、第7版(1904)で初めて、早発性痴呆は大項目となり、その下位分類として 破瓜型(hebephrenische Formen)、緊張型(katatonische Formen)、妄想型(paranoide Formen)という現在の分類法とおんなしようになったんですわな。この時に、初めて、 躁うつ病(manisch-depressives Irresein)が、疾患単位として早発性痴呆と 並べられたんですわ。 せやけど、クレッペリンの死後、ランゲが完成した第9版では、早発性痴呆は大項目で なくなり、内因性痴成化(endogene Verbloedungen)の下位項目に、パラフレニー (Paraphrenie)とともにおさめられているそうですわ。一方、躁うつ病は大項目のまま 残されたそうですわ。 こんなふうに、クレッペリンの疾患分類は最後まであっちゃへ行ったり、こっちゃへ 戻ったりしとったわけですわな。つまり、クレッペリンの中では早発性痴呆、躁うつ病と いう内因性精神病の二分法(Dichotomie)は完成しとらんかったということやろうね (木村敏:「分裂病の診断をめぐって」からの孫引きですわ、ネタ切れですな)。 その後、この疾患単位は、かなりの反撃にさらされるわけですな。症候群学説とかですな。 この反撃ののろしを追いかけていったら、それもまたオモロイもんですわ。
臨床精神医学の基礎知識スレから >>59 :優しい名無しさん :02/01/19 18:23 >あのおっさんは臨床心理学関係者や、ましてや医者でもないよ。 >みすず書房あたりから出ている邦語文献しか参照出来ないから >ただの人文系ヲタクだよ。”クレッチュマー”なんて言い回しワロタ >実はドイツ語も読めないとみた。 せやから、ドイツ語の読書会で読んだだけやて言うてるやおまへんか。ドイツ語 読めるんやったら、読書会なんか出まへんわ。もう、恥かかせんといてや(怒)。 クレッチュマーは、私のオーベンのクレッチュマーの好きやったセンセがクレッチュマーて 言うてはったから、クレッチュマーはクレッチュマーでないとあかんのですわ(怒)。 そういや、クレッチュマーがあんましお好きやなかったセンセは、クレッチメルて 言うてはったなァ。
臨床精神医学の基礎知識スレから >>57 :優しい名無しさん :02/01/19 17:43 >ちょっと内容が古くさいな。 >まあ精神科以外の >不勉強な医者の認識なんてこの程度だろうけど。 >精神科医でこのレベルから進歩していないなら問題だが。 古い奴だとお思いでしょうが、古い奴やから、仕方がおまへんやないか。受けた教育が こんなんやったて言うことですわ。 アタシが臨床でけるんかどうかは、患者さんに聞いてみんとわかりまへんな。けど、 まあ、たいした医者やおまへんわ。すんまへんな(患者さんにあやまっている)。けど、 酔っぱらってる人間にあやまってもろてもしゃあないかもなあ(鬱だ逝こう……)。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/20 18:31
ども 「没落感」の部分に非常に興味のあるものでございます。 じつは先日ペットが死にまして、で、その末期には自らが体温が下がっているときに より冷たい場所を求めてウロウロとしたのでございます なにか、「象の墓場」ではございませんが、修正の利かぬほど逸脱してしまった場合には 自滅するべくプログラムが我々動物には組み込まれているのかも などとふと思ってしまったもので、 なにやら「没落感」もそのあたりとかかわりがあるかないかなどと適当に思いまして、でございます。 もちろんこれは妄想的たわごとであるとは承知しておりますが、ここの皆様なれば いかがお考えやと思いましたもので、 出来ますれば「没落感」あたりの適当な書物などお教えいただければと 勝手に思うのでございます。
>>79 その書き込み,見覚えがあると思ったら,俺が書いたんだ...
メンヘル板で教科書丸写しにしてる奴への揶揄のつもりっだったのだけど,
言葉足らずで誤解を招いてしまったようです。陳謝。
俺は臨床なんかやらないけど,
酔っ払いさんが現役の精神科医だということを疑っちゃいませんよ。
これからもマターリと続けてください。
私の考える「臨床(医学、心理学、教育学、社会学、神学)」の基本とは、 ・目の前の相手に対して敬意を持ち続けること、経験に学ぶ姿勢を維持すること ・プライバシーの尊重、保証;秘密を守る(守秘義務)ということ ・禁欲原則について;バランスのよい距離感が必要、救済者幻想の危険 ・説明と同意の原則(Informed consent);精神科臨床の場合、独特の難しさがある ・受容(Acceptance)と許容(Permission)の違い ・感情移入、同情(Sympathy)と共感(Empathy)の違い ・因習的なものにとらわれない、自由なものの見方を要請される→「常識」を疑ってみる ・直感的全体把握の重要性;目の前の「ひと」との関わりが出発点 ・事例研究(Case Study)の重要性;Case report&Supervision ・ある種の「発酵・熟成」を待てる気長さ、「曖昧さ」への耐性 が必要であると考えている。 以上、マジレスでした。
日本酒「黒龍純米吟醸」が手に入りましたわ。フルーティな香りがして、スッキリした ええお酒ですけど、これ、なかなか手に入らへんのです。楽しみですわ。今は「近つ飛鳥 にごり酒白笹」を飲みながらカキコしてますわ。 ヤスパース、シュナイダー以後のドイツ精神医学は、なんだかんだ言いながら、結局、 このお二人にこだわってきてますなァ。当時の内因性精神病ていうんは、体質や素因的に 決められとると言うんです。要するに、遺伝的にもう最初から決まっとると。せやさかいに、 あらかじめ決められた人生のある時期に来ると、目覚まし時計が鳴り出すみたいに発病 するんやちゅうわけですわ。クレッペリンとか同時代の精神科のお医者さんたちも、 早発性痴呆は系統性変性疾患やて考えてはったからな、中枢性変性疾患とおんなしように、 ある年齢に達したら、自然と発病すると考えたわけですわ。
実際には、内因性精神病の発病に先立って、なんやら出来事があることがちょくちょく ありますわ。その事は、ヤスパースやシュナイダーも気がついてはったんでしょうな。 せやけど、これも、たまたまその出来事がきっかけ(Anlass)になってと言うてはりますわ。 原因(Ursach)とか動機(Motiv)という言葉は使わはらへんのです。まあ、使いとう なかったんでしょうな。 このへんのこだわりは、ずっとドイツ精神医学に影を落としてきましたなァ。 それでも、ある特定の出来事をキカーケに、内因性精神病が発病するという報告がどんどん 出てきよりました。実存うつ病(existentielle Dpression)(Haefner)、荷下ろし うつ病(Entlastungdpression)(Schulte)、引っ越しうつ病(Umzugsdepression)(Lange)て いう具合ですな。
中でもおもろいのは、シュナイダーの一番弟子のヴァイトブレヒト(H.J.Weitbrecht)の ですわ。ヴァイトブレヒトは、内因反応性気分失調(endoreaktive Dysthymie)というのを 報告しはりましたわ(1949)。これは、病像は内因やと。せやけど、身体の重い病気、 それから、長期的なたいへんな心の重荷が発病に関係しとると(例えば、戦争で故郷や 家族を失ったとかですな)。それも、単なる誘発以上の重要性を持っていると。要するに、 きつい出来事が内因性の抑うつを引き起こすと認めはったわけですわ。せやけど、内因性の 抑うついうても、躁うつ病とはちゃうんですて。せやけど、内因性うつ病でも不安と 心気傾向の強いものとは区別がむずかしいんですて(区別でけへんとは言わはらへんの ですわなァ)。せやから、これは躁うつ病ではのうて、それに近い非定型精神病やて。 せやけど、うつ病と区別でけへんて言うたら、うつ病やと認めたようなもんですわな。 ほんまは認めとうなかったんでしょうな。そのせいか、まず反応性の抑うつが起こって、 その次にそれが身体化されて内因性の抑うつになるんやて、なんやえらい回りくどい、 難しい言い訳をいろいろしてはりますな。
これが、おんなしハイデルベルクから出たパウライコフ(B.Pauleikhoff)は、内因性 うつ病が状況に誘発されるてはっきりと言いきりはりましたわ。せやけど、それでも 「反応性」やのうて、「状況因性」なんですわな。パウライコフは、転居、出産、離婚とかの 状況で内因性うつ病が起こりやすいて指摘しはりましたけど、外の状況が変化しても、 心の内側を切り替えて、順応していくことがでけへんから、発病するて説明してはり ますねん。これって、うつ病はショックで発病するんやのうて、頭が固うて、周りの 変化にあわせて切りかえられへんから発病するて言うことでしょ。これって、やっぱし 一種の反応性とちゃうんやろかと思いまへんか。それでも、「状況因性」て言わはるん ですわ。この辺は、ドイツ人て頑固ですなァ。
クレッチュマー(しつこい?(笑))は、敏感関係妄想を、性格、環境、体験の三つをセットに して考えはりましたわな。せやけど、この三つはもともとわけられへんていう指摘が あったんですわ。性格が環境を作りよるし、その環境が性格をエスカレートさせよる。 その性格と環境の絡み合いが、最終的には鍵体験へと発展しよるわけですわな。それやったら、 次には、性格、環境、体験三つをまとめて一つにくっつけてセットにしてしもたら ええやないかていう考え方が出てきますわ。それが、テレンバッハの「Typus melancholicus (メランコリー親和型)」ですわ。木村敏サンに従って「メランコリー親和型」て言うとき ますわな。 んで、テレンバッハは、ドイツではヤスパース以後、誰も言わんかったことを言い張ったんですわ。 それは、メランコリーの病因論ですわ。せやけど、ここでも、ちょっと言い訳が入ってますねん。 それは、躁うつ病やのうて、単極性うつ病、それも「メランコリー」の病因論ですねん。 ここでも、ヤスパースの影が落ちとるんですわなァ。 さて、テレンバッハのメランコリーですけど、これがようわからんのですわ。ちょっと 読み返してみますわ。日本語訳を(笑)何年かぶりに(汗)。 実は、昔、メランコリ原書の読書会しょうかて読み始めたことがあったんやけど、 むずかしうて、オーベンの先生もよう読まんかったんですわ。ほんまに文章どない なってるんかわかりまへん。うちの講師やったセンセがテレンバッハが日本に来はった時に、 会わはったことがあるんですけど、「テレンバッハは古典の教養もあるさかい、言うことが むずかしうてな。きざったらしい嫌なやつや」て言うてはりました。ひょっとしたら、 講師のセンセも原書よう読まんかったんかもしれまへん(笑)。
うーん、ためになるなあ…
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/25 02:25
コソーリあげてみる。
>87 講師ってだれや
>>90 ハンドル名ワロウタ
確かにその時代には最先端の知見だったかもしれない。
今日の「近つ飛鳥にごり酒白笹」を飲みながらカキコしてますわ。ちょっと甘めで、 舌を炭酸が刺激するんですわ。飲みやすいし、こりゃァほんまに怖いお酒ですわ。 ヤスパース〜シュナイダーの記述的現象学は、実は、診断学やったていうお話を しましたわなァ。けど、もちろん、それだけやないわけですわ。臨床精神医学に、 現象学という方法論を本格的に取り入れたというごっつい功績があるわけです。 ヨーロッパの精神医学的現象学ていう点からみれば、ヤスパース〜シュナイダーの 記述的現象学から、成因論的現象学へていう流れがあるわけですわなァ。
ただ、記述的現象学ていうんは、ヤスパース〜シュナイダーが、自分の仕事を記述的な 側面にわざと自分から制限したという面がありますな。つまり、なんでそないことに なったんか考えるのもおもろいけど、それを考え出したらきりがないし、わけが わからんようになる。せやさかい、今は、目の前にあることだけ記述しとこうていう わけですわな。ごっつうストイックな面があったんですわ。これには感覚心理学とかの 影響もあったんかもしれまへん。当時の心理学のことは誰かお詳しい人がおられたら、 教えてくだされ。 まあ、これがヤスパース〜シュナイダーの研究者としての良心と言えば良心やったん かもしれまへん。
こういう記述的現象学が出てきた背景には、当時の分裂病や躁うつ病の理解が、成因論に 偏っとったていうことがあるかもしれまへんなァ。ただ、成因論の重視ていうことは、 治療の重視ということかもしれまへん。実際、成因論を主張しはったお方は、だいたい 治療熱心でしたわな。フロイト、ブロイラー、ジャネのこと考えてもろたらわかると 思いますわ。現象(症状)の記述はもちろんあるわけですけど、それ以上になんでそない なったんか、どないしたらようなるんかに重点があったわけですわな。極端な言い方 したら、メカニズムの仮説が先にあって、そこから現象(症状)を説明していったて 言えるかもしれまへん。そう言えば、クレッチュマーも、「医学的心理学」ていう本を 書いてはりましたな。この本は、精神症状を疑似科学的(と言うたら怒られるかも しれまへんけど、許してな)に説明するには便利ええもんでっせ。ヤスパース〜 シュナイダーは、意識的に「今は治療は横に置いといて」ということやったんでしょうな。
こういうヤスパース〜シュナイダーの記述的現象学よりの、現象(症状)そのものから、 さらに成因論、つまりなんでこないことになったんかに踏み込んでいこうという考え方が 出てきますわな。これが、記述的現象学から成因論的現象学へという流れなわけですわ。 これは、あくまで患者さんの言うたことをベースにして、そっからなんでこんなことに なったんか(成因)へ踏み込んで行こうちゅうわけです。この流派の人たちの特徴は、 わかるための道具(方法論)として、いわゆる医学的心理学ではのうて、フッサールの 現象学、ハイデッガーの現存在分析論なんかの哲学的な考え方を利用しはったことで しょうな。この流派は、ミンコフスキー、ゲープザッテル、シュトラウス、ビンスワンガー、 ハイデルベルク人間学派なんかがそうですわな。
この現象学的・人間学的精神医学の人たちの特徴は、決まった治療技法がないていう ことですわ。これは、成因論的現象学が、治療技法ではのうて、わかるための手段やった からでしょうな。正面切って治療技法をあれこれ論じたんは、今はボスくらいしか思い 浮かびまへんなァ。前にもカキコしましたけど、キスカーが自分の仕事を「領域は社会 精神医学、方法論は現象学的精神病理、実際の患者さんとの臨床のやり取りは精神分析」 て言うてはったんが事情をよう示してると思いますわ。このサークルの人たちで、 キスカー、ヘフナー、ツット、クーレンカンプなんかが1960年代に社会精神医学へ 転向したんは、積極的に治療に踏み込もうとしたら、必然的に社会(つまり患者さんが 生活しとる生きた状況)に目を向けんとしゃあなかったからでしょうな。 さて、日本はどうでっしゃろ。日本は1980年代、ヨーロッパ、ひいては世界中で精神 病理がすたれてきとった中で、例外的に精神病理がおさかんやったくにでしたわ。今は だいぶと精神病理も勢いがのうなってきた感じですな。実際、一時、精神病理やって はったお方たちが、けっこう社会精神医学か精神分析へ移っていかはったて印象があり ますな。ただ、日本の場合は、精神分析のほうが多かったかもしれまへん。ラカンが チュートハンパに流行ったさかいなァ。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/29 04:46
早朝覚醒あげ。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/01/31 12:59
昼あげ
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/01 00:35
不眠揚げ
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/01 00:47
専門誌「臨床精神医学」を読んでるDr.は、どれ位いるのだろうか?
>>100 「精神医学」の方がメジャーらしい。
臨床精神医学はあまり話題にのぼらんな。
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/01 18:39
精神科のDr.がよく読む雑誌、研究書の中では、他にどんなものがあるんだろうか? とくに精神療法に熱心な人などは。
私は、国内の雑誌ならば、星和書店の「臨床精神薬理学」や「精神医学」や「精神科治療学」 とかかな?あと精神科のものより、他科のものも読むね。神経科のものが多いけれど。 最近の医学部は「精神病理」や「精神療法」などに熱心な先生は少なくなってきているよ。と いうか年配の方が少しいるくらい。精神薬理学などの分子生物学や生化学専門が多く、うちの 医局でも力を持っている。精神療法や精神病理の先生は、保健・看護系や私立の心理学系に移 っているのが現状。 私は、バランス良く両方の眼を養うことが理想。何と言っても、治療においてはやはり「精神 病理学」や「精神分析学」の知は役に立つものです。
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/01 19:17
ごめんなさい。精神分析学の文献読んでもさっぱり 意味わかりません。一応宮廷ですが俺才能ないの? 認知行動志向だけど。
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/01 20:22
!!!マイクロフト様が、降臨なさった!
久し振りのカキコですわ。 テレンバッハの「Melancholie」ですわなァ。この本は一種の病前性格論、病前状況論と して読まれたていうことがありましたわ。 状況とはなんでっしゃろ。状況は個人と環境(周囲)の絡み合いですわなァ。言い換えれば、 「自我」と「世界」の絡み合いですわ。つまり、これは「主観」と「客観」の絡み合い ですわな。 ヤスパースの状況にもこの二つの対立がありますわ。一つは、心的体験、個人によって 生み出された主観的な状況ですわ。これは体験された状況ていうやつですな。もう一つは、 個人とは無関係な、さまざまな客観的な条件の総和としての客観的状況ですわ。 ヤスパースはこれを「生きられた状況」て言うたんでしょうな。ヤスパースは、本来 この主客の二項対立を乗り越えるために、状況ていう考え方を持ってきはったんやろう けど、結局、この主客の二項対立は残ってしまいましてん。 せやけど、人格(主体)と環境(客体、状況)と体験は切り離すことが出来まへんな。 で、テレンバッハは、状況は人(私)と世界との原初的関係であるというたわけですわ。 つまり、「状況」は世界内存在の作用の一つやというわけですな(とうとうハイデッガが 出てきてしもたなァ(溜息))。
正直言うて、この辺からは言葉遊びですわ。現存在(Dasein=ここにあるということ)は、 同時に世界内存在(In-der-Welt-Sein=この世にあるということ)ですわなァ。んで、 「状況」が作用やていうんは、現存在(=世界内存在)は絶えず状況化(situasiert) されるていうか、自らを状況化(sich situasieren)するちゅうわけですわ。つまり、 状況内存在(In-die-Situation-Sein=状況にあるということ)は、人間存在(人間で あるということ)やし、存在(Existenz=外に立つ)ていうこととおんなしですわ。まあ、 言うてみたら、ひとが生きるていうことは状況の一種の連続体(これを歴史て言うても ええんやろか?)みたいなもんですわな。せやさかい、状況は意識的な(意識される) ものでも、無意識的な(意識されない)ものでもありまへん。生きられた(gelebt)もの なんですわなァ。ヤスパースはほんまは「生きられた状況(gelebte Situation)て いう言葉でこういう事を言いたかったんとちゃうかと思いますねん。けど、どうも うまいこといかへんだみたいですなァ。 こないな「状況内存在」が、その都度、性格として概念化されたり、状況(主観的or 客観的)として概念化されたり、体験として概念化されたりするていうわけですわ。 テレンバッハは、こないな現存在=世界内存在=状況内存在の有り様を「型Typus」 と呼ばはったんでしょうな。この前メランコリー的なやつを「Typus melancholicus」と 呼ばはったんですわ。 なんか、理屈っぽうて、嫌やなァ。悪酔いしそうですわ。吐き気してきた。オェ…。 わしは哲学は厨房やし、間違いいっぱいあるかもしれんし、他の話したほうがええかも しれへん。どないしょ。もう、やめまひょか?
しもた…。 ×In-die-Situation-Sein ○In-der-Situation-Sein 3格やさかいな…。鬱や。
>酔っぱらい様 看護婦さん(および学生さん)への講義の元ネタにしていいですか?
なつかし〜〜 半可通ゲシュタルト厨房みたいで素敵です! 今時の学生はミンコフスキーなんて読まないでしょ。
精神病理学と生物学的精神医学、脳科学との関連や融合する研究分野って アルのでしょうか?心理版で聞くネタでないでしょうけど。
>>109 酔っぱらいの聞きかじりのたわごとでっせ。恥かいてもええんやったら、どうぞ。
それに、これ、センパイから聞いた耳学問やさかい(せやからウソあるかもしれまへん)。
>>111 臺弘センセの論文やね。臺センセは生物学的精神医学のお偉いサンやけど、生活臨床を
始めはったんですわ。精神病理、精神療法畑の人が読んでも、ごっつうおもろいですわ。
>112酔っぱらい様 いえ、僭越ですがとてもわかりやすくまとまっていると思います。勉強させて 頂きました。ありがとうございます。今後も酔っぱらいながら続けてください。
今日は、これまでと全然関係ない話ですわ。無意識の話。精神分析の前奏曲でっしゃろか。 これは、全然、酔っぱらいのたわごとでっせ。ええ加減な話やさかい、細かいこと言わんと 聞いておくんなはれ。 中井センセの「西洋精神医学背景史」の最後にある追記で、キリスト教ちゅう一神教と 意識概念の関係を論じてはるんです。こっからは大体(実は完全に?、でも間違い(+)?) コピペでっせ。 フランス語では「意識」と「良心」の語は両方とも「conscience」なんやそうですわ。 英語でも17世紀までは「conscience」で「意識」と「良心」を両方とも表してきたん ですて。で「consciousness」ちゅう言葉は、英国経験論哲学とともに生まれてきた 言葉なんですて。ドイツ語ではこの二つはルター以後区別されるようになったそうですわ。 「意識」は「Bewusstsein(意識されてること)」で、「良心」は「Gewissenn(知っている ことの総体)」やそうですわ。要するに、宗教改革によって、意識と良心の二極分化が 進んで、イギリスの経験論哲学がこれを引き継いで、そっから心理学が出てきたと、 こう中井センセは考えてはるわけですわ。この辺は、ネタ話やさかい、あんまし詳しう 書きまへんけど、興味のある人は現物に当たってくだされ。
この辺の話から、精神分析が当時の西洋思想にガツンといきよったそのショックがどんだけ すごかったんか、わかるような気がしまへんか。キリスト教では、人間は最後の審判の 時に自分のしたことでもって、天国に行くんか、地獄に行くんか、最後の審判が下される わけですわな。んで、地獄に行ったら、もう救われようがないわけですわ。復活戦がない わけですわな。永遠に地獄にいてんとあかんというわけですわな。 それに対して、東洋の地獄に相当するものはみな復活戦がありますねん。インド系宗教 (仏教、ヒンズー教)では地獄に落ちたらメチャクチャ長い時間かかりますけど、復活戦 ありますわな。日本でも、黄泉の国から帰って来はった人がいてはるわけですわ。この辺は、 一神教と多神教の違いとちゃいますか(キリスト教にも煉獄ちゅうのがあって、これは、 仏教の地獄とよう似たもんで、復活戦がありますけどな)。
西洋人は、こんな恐ろしい最後の審判を受けんとあかんわけで、彼は神(キリスト)に対して 申し開きせんとあかんのですわ。つまり、「意識」の中にあるものは「キリスト教徒として 正しい行為(良心)」の証人でないとあかんのですわな。私は(意識の中では=良心において) まっとうなキリスト教徒やさかい、最後の審判において天国にいけることになると、 こういうわけですわな。 ところがですな、フロイトは、人の好意の背後には無意識的な(=意識されない、 気づかれないけれども、自己中心的な(=良心的でない))動機=理由が隠されていると 主張したわけですわ。こりゃ、とんでもないことでっせ。こんな事があったら、西洋人は みんな自分でも知らんうちに罪を犯して、全員が地獄に落ちんとあかんことになりますわ。 ある意味で、これぞ「原罪」て言うてもええんかもしれまへんな。 いずれにしても、この無意識的な悪は否認され、抑圧され、外部に投影されることに なりますわ。悪魔として、悪霊として。これは西洋人の「悪」を自分の外部に捜す傾向の いちばんの原因でっしゃろと中井センセが言うてはりますな。 もう、酔いつぶれそうやさかい、眠たいさかい、続きはまた次の機会にしまひょか。 もう、ベロンベロンやさかい、何書いてまうかわからへんさかい、今日はもう眠ますわ。
機会があったら、もうちょっと、無意識とキリスト教と心理学のいかがわしい関係に ついて考えてみたいと思いますねん。んたら、今日は、お休みなさい。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/08 02:22
ちょっと目を離した隙に順調に?下がってますな。 久しぶりにあげときます。
テレンバッハの「Melancholie」のもう一つの目玉が「Endon」ですわなァ。普通、 「内因性(endogen)」の対概念はもちろん「外因性(exogen)」ですわ。「exogen」は 外部に起因するて言うことですな。外部とは何でっしゃろ。臨床的には、「身体因性 (somatogen)」とほぼおんなし意味に使われてますわ。この場合の、「内(Endon)」と 「外(Exon)」は精神と身体ていう二項対立になっとるんでしょうな。 「endogen」にはもう一つ対概念がありますねん。「心因性(psychogen)」ですわな。 「心因」とは、ある精神症状がある出来事=体験の影響を受けて出てくるということですわ。 心因反応は異常体験反応(シュナイダー)とも言いますわな。おもろいのは「心因」はある 意味で身体より外にあるんですわ。この場合の「内(Endon)」と「心(Psyche)」は内なる 精神と外なる出来事ていう二項対立になるんでしょうな。
そう考えてみると、「内因」ていうのは、幾つかの意味がありますわ。まず最初に 「身体因」でもない、「心因」でもないていう消極的な意味になるんでしょうな。 これがクレッペリンの頃は、人生のある時期が来たら、目覚まし時計が鳴り出すように 発病するというふうに考えられましたわな。これは体質・素因(Konstitution)によるとか 遺伝によるんやと言われてましたわな。ま、そんなふうに理屈づけんとしゃあなかったで しょうな。 これがシュナイダーになると、ほんまは「身体因性」なんやけど、まだ原因がわからへん だけやということになるんですわ。今は、どこに落ち着くんか言うたら、シュナイダー流の 「今はようわからんけど、身体因」でっしゃろな。この辺のことをテレンバッハ 「Kryptogene」(秘因性)て言うてはりますわ。まあ、今は神経伝達物質の異常なんかも いろいろわかってきたさかい、だんだんそうなっていくんでっしゃろな。
テレンバッハは、この「内因」を積極的に定義しようとしはったんですわ。せやけど、 これが読めば読むほどようわからんようになっていくんですわなァ。テレンバッハは 「あらゆる生命的事態の中で基本的形態の統一として現れ出るものを、内因性のものと 考える。エンドンとは根源から発してこの内因的なるものを諸現象の中で自らを展開し、 しかもそれらの現象の中に留まっている自然である(木村敏訳)」と言うてはりますわ。 なんやようわかりまへんやろ(汗)。エンドンは、(1)生物学(=自然科学)の対象となる 無人格的なものや(2)実存とかいう意味での人格的なもの以前にあって、(1)や(2)を 可能にするんやそうですわ。同時に、エンドンは(1)や(2)の影響を受け、形作られるんや そうです。つまりでんな、エンドンから主体と客体が別れ出て、主体と客体の絡み合いの うちにエンドンが展開するていうわけでしょうな。もうおわかりでっしゃろ。主体や 客体が別れ出てくるいうたらこれは「現存在(=世界内存在)」ですわ。そう言うたほうが わかりやすいと思いますねん。テレンバッハは、この「現存在」を「エンドン」と言い 換えて、ほんでいろんな属性(リズム性、流動性、全面性など)くっつけて、古典のウンチク 傾けて語ってはるさかい、ようわからんようになりまんねん。ほんまにテレンバッハて きざなオッサンですわなァ。
>酔っぱらい様 レスが無くともきちんと読んで「臨床病理学講義」というタイトルで保存して います。いつもありがとうございます。がんばってください。
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/09 22:55
「酔っ払い先生」は、1日にどれ位アルコールを召し上がるのですか?
124 :
fluoxetine :02/02/10 11:27
age
>>123 まず、ビールかワイン、それから日本酒、それから焼酎、ブランデー、ジンなどの
スピリッツですわ。だんだんと濃うなっていきますねん。量はあんましようけ飲み
まへん(なるべくなァ)。
またまた、テレンバッハですわ。もう、テレンバッハのメランコリのことお話しするのは 嫌になってきましたわ。ウンザリしますわ。この辺は、もう酔うてんとやってられまへんわ。 細かいこというてたら、わけわからんようになりますさかいな。間違い、早合点、独断で 行きまっせ。 テレンバッハは、「現存在=世界内存在」≠「エンドン」て念を押してはるんですわ。 理由はいろいろ書いてはります。けど、これも私の頭悪いさかいようわかりまへん。 ただ、ハイデッガの「現存在=世界内存在」と「エンドン」は確かに違いますな。 例えば、前メランコリー者の「エンドン」は「Typus melancholicus」という特殊な 型(Typus)を取るわけですわ。それに対して、ハイデッガの「現存在」は特異的な型に なりまへんからな。せやけど、テレンバッハは「メランコリー型」が「封入性(Inkludenz)」と 「負目性(Remanenz)」という布置(これも状況Situationと違いますねん。現存在構造 あるいは現存在様式の特殊な局面というたらええんでしょうか)を経て、内因変動 (Endokinese)により、全面的変化を起こして、メランコリーに突入するプロセスを 描いてはりますわ。私には、そのメランコリー発病のプロセスが、なんやらビンスワンガーの 「精神分裂病」の発病プロセスの現存在分析に似てるように思えるんですわ。つまり、 「現存在=世界内存在」の変容を描いとるていうわけですわ。立派なメランコリーの 現存在分析になっとると思えるんですわな。
ここで、話はビンスワンガーの「現存在分析(Daseinsanalyse)」へ行きますねん。 「現存在分析」はハイデッガの「現存在分析論(Daseinsanalytik)」とは違いますねん。 この辺は、ボスが指摘してはりますわ。つまりでんな、ハイデッガの現存在分析論の 意味では、世界内存在の変容とか現存在様式の変化はあり得ないやそうですわ(ホンマに ハイデッガがそない言うてはるんかどうかは知りまへんで)。 私は、ボスのいう「現存在=そこにあること」の「現(Da)=そこ」は、サーチライト みたいなものやと思うんですわ。Daを明るみの領域と言うてはるから、あながち、この 喩えは外れてへんと思いますねん。このサーチライトに照らし出された領域(=Da)に 照らし出されてくるものの呼びかけ(Zuspruch)に向かって人間がどない呼応(entsprechen) するか、つまりサーチライトが何を照らし出し、それに対する態度を決める(もっと明るう 照らし出しよるんか、スポットを強調しよるんかとか)ていうことですな。ボスはスポット ライトそのものは変わらへんで、変わるのは、何が照らし出され、何を照らし出すか、 それだけやと言うてるわけですわ。 それに対して、ビンスワンガーは、世界内存在が変容し、現存在様式が変化するて言うて はるわけですわな。これは、テレンバッハが、メランコリーの発病では、エンドンが 全面的に変動するて言うてはるのとおんなしですわ。これは、内因性精神病では現存在の サーチライトそのものが変わってまうて言うてはるんですわ。まあ、例えば、サーチ ライトが青うなったらうつ病、赤こうなったら躁病かもしれまへん。精神分裂病は なんでっしゃろ。さしずめまんだらのチェック模様でッか。まあ、冗談はあっちへ 置いといて、サーチライトがどないなっとんのか、しらべんとあかんわけですわ。 ここで、ビンスワンガーがフッサールへの回帰をせんとあかんかった理由が出てくる わけですわな。 はあ〜〜しんど。ホンマに理屈っぽいわ。こんなんあんまし臨床と関係あれへんな〜。
悪酔いして頭痛うなってきたわ………………。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/11 01:58
>>128 ほどほどにせんと,中島らもになってまうで。
飲みすぎに注意しつつ、講義の方は楽しみにしてますよ。
>>129 宿酔いの時はさすがにもう飲む気になれまへんさかい、立派なアル中にはなれそうに
ありまへんなァ。それに、昼間は飲んではへんさかい。やっぱし、立派なアル中に
なるには、目醒めた時から、飲まんとあきまへん。
まあ、好きで飲んでるうちは、あんまし依存にはなれへんのとちゃいますか。これが
ストレス誤魔化すために飲むようになると、かなりヤバイでんな。嫌なことあったさかい
誤魔化すために飲むちゅうんは、依存への第一歩とちゃいまっか。
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/13 00:47
P科のDr.は、仕事でたまったストレスを、どのように解消しているのでしょうか? 適度なアルコールってのも、その一つかも。 家族や他人に毒を吐かずに、ストレス解消する方法があれば、御教示のほどを。
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/13 06:04
聴講age
>>132 気のあうええ同僚でっしゃろなァ。一緒に議論を交わして、愚痴をこぼして、一緒に
酒を飲んで、……ていうたことができるんがよろしいわ。相互援助ていうやつですな。
さてさて、ビンスワンガーですわ。ビンスワンガーの著書で有名なんは「精神分裂病」
ですわなァ。この「精神分裂病」は、もともとは症例研究として発表されたものを
集めて、いちばん前に序論をつけたもんです。この序論で、ビンスワンガーは、自分の
分裂病に対する基本的な考え方をわかりやすう書いてはるんですわなァ。
いちばん最初に、「経験の非一貫性(Inkonsequenz)」をあげてはります。分裂病の患者
さんの現存在経過(Dasainsverlaeufe)を理解しようていう時には、この「経験の非
一貫性」がないとあかんていうわけですな。んで、ビンスワンガーは「経験の非一貫性」
を説明するために、自然な「経験の一貫性」を説明してはります。ほんじゃ、自然な
「経験の一貫性」て何やねん。自然な経験の自明な問題連関から脱落せえへんことや
そうですわ。
もうおわかりでっしゃろ。「経験の非一貫性」は、ブランケンブルクの「自然な自明性の 喪失」と≒(事実上=)なんですわなァ。世界内存在(In-der-Welt-Sein)の「In-Sein」は、 空間的に中にあるという意味やあれへんのですわ。「In」は住む(wohnen)、住みつく (sich aufhalten)の意味やし、住慣れ親しんでいるという意味やそうですわ。この住慣れ 親しんでいるというところが「経験の一貫性」や「自然な自明性」のポイントですわなァ。 自然な自明性≒経験の自明な問題連関ていうのは、人間はあらかじめ何でもだいたい わかっとるていうことですわ。初めて経験する(経験的に未経験な)ことでも、それに 慣れる準備ができとる(先験的・超越論的に了解済み)さかい、多少手間がかかっても、 ちゃんとうまいこと出来るようになるていうことですわな。 ハイデッガは、この「In-Sein」が一つの実存疇(Extentialien)、つまり実存論的 (existential)な範疇やて言うてはります。ハイデッガは、自己に向かいあって存在 するような現存在のあり方を実存(Existenz)ていうてはります。これはサルトルの 「対自存在」を連想させますな。んで、実存に関することを実存的(existenziell)、 実存の存在論的構造に関することを実存論的(existential)と呼ばはりました。おんなし ように、存在者(Seiender)に関することを存在的(ontisch)、存在者のあり方に関する ことを存在論的(ontologisch)と言わはったんでしょうな。この「─的」と「─論的」の 差がポイントなんですわなァ。 ハイデッガは「現存在」の「現(Da)」の実存論的構成には「情態性(Befindlichkeit)」 と「会得(Verstehen)」の二つの契機があるて言うてはりますわ。この二つについて 話し始めたら、ややこしいし、場所取るんで、話は次の機会にまわしますわ(ホンマは ようわからんさかいやけど(汗))。ブランケンブルクについてごちゃごちゃいう時には きちんとわかるように(わかったつもりになるように(笑))しとかんとあきまへんな。
ここで、ビンスワンガーに話は戻りまっせ。「精神分裂病」にあげられた症例全部に 共通するんは、(1)さまざまな事物が自分に都合がよい状態にないという悩み、そして、 (2)それらがどうあるべきかという単なる命令、つまり理想を求める願望や追求やと 言うてはります。(1)は「情態性」の障害ですわなァ。(2)はそうスムーズに「会得 (Verstehen)」やて言われへんのですわ。この(2)がくせ者ですわ。つまり、(1)はさっきの 言葉で言うたら、実存論的、存在論的なことですわ。ところが、(2)は実存的、存在的な 事柄なんですわなァ。ビンスワンガーの場合、(1)の説明もまたビシッと決まらへんの ですわ。まあ、(1)については、ブランケンブルクの「自明性の喪失」を読まはったら ええと思いますわ。んで(1)がビシッと決まれへんさかい、ビンスワンガーの関心は 自己投企の経過(病歴)へ行ってしまいましてん。それも、自己投企の存在論的構造や のうて、自己投企の存在的な方策・戦略に行ってしもうたんですわなァ。このことを、 ブランケンブルクは、現存在分析的な研究が精神病理的な問題を実存的決断の場へ 投影しすぎたと言うてはりますわ。 なんか、ビンスワンガーの悪口ばっかし書いてしもうたなァ。けど、ビンスワンガーは 偉いお人ですわ。ビンスワンガーは、あんまし治療のことは書いてはらへんのですけど、 実際は治療の実践者やったんやと思いますわ。ビンスワンガーは、もともとフロイトの 高弟やったんやけど、30歳の時に、お父さんが急死しはったんで、大学を離れて、私立 精神病院の院長職を継がはったんですわ。そのうち、ビンスワンガーのこともうちょっと 触れてみたいと思いますわ。 せやけど、なんやら、何言うてんのか、わかりまへんな、自分で読み返してみても…… (溜息)。もう、現象学的精神医学のお話はやめたほうがええかいな……(溜息)。
精神病理学は半分くらいは趣味とお遊びの世界かもしれまへん。次は、ちょこっと 臨床に関係のある話でもしまひょうか。
sage進行でいきまひょか。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/22 05:51
いや,ageとく。
140 :
名無しさん@酒が足りん :02/02/22 21:48
age! かぁちゃん!ビール!
141 :
マイクロフト :02/02/23 00:26
記述精神病理学についてもうちょっとお話してもらえたらうれしいですね。私の専門は 精神生理なので。でもクレッチマーやヤスパースなどのドイツ精神医学には非常に興味が あるんです。臨床に役に立つので。今後の精神医学のことを考えたら、ポスト・ゲノムを 考えなきゃならないのでしょうが、臨床や治療の知には偉大な先人たちの考察が非常に役 に立つと考えます。
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/27 09:01
ごんぞうも読んでる隠れた名スレです。
今日は、ちょっと早い時間から飲みはじめましたわ。バス・ペール・エールていう イギリスのビールですわ。最近は外国のビール置いてるとこなら、どこでも手に入る ようになりましたわ。ちょっと香りにクセがあるけど、慣れたらおいしいでっせ。 さて、閑話休題ですわ。お仕事の話ですわ。仕事は英語ではworkですかな。作業、 労働という意味での仕事になりましたら、これはlaborですかな。職という意味での 仕事となりますと、employmentですか。occupationちゅうのもありますな。これは 何かやっとるという意味ですわ。作業療法occupational therapyですわな。 ドイツ語やったら、どないなりますやろか。作業療法はArbeitstherapieでんな。 Beschaeftigungstherapieとも言いますわ。まあ、英語のoccupationは ≒Beschaeftigungでしょうな。workは≒Arbeitでしょうかな。Leistungちゅうのも ありますわ。ドイツ語の精神病理では、このLeistungが広義の仕事の意味で使われて ますかなァ。語の意味でおかしなとこがあったら教えてくだされ。
まあ、この辺の分類は取りあえず置いといて、仕事の種類のことをかんがえてみまひょ。 前うつ病者は、主に家事とか、その他の狭義の労働作業を熱心にしはる傾向がありますわ。 これは、製品や作品を作り上げることで目標を達する、つまり終わるものではないんです わなァ。日常的で、果てしなく、循環的に反復するような労働ですわ。この辺は、 テレンバッハが「メランコリー」の中のメランコリー型で、見事に描写してはります。 それに対して、前分裂病者や神経症者は、何の成果も生み出さない日常的・循環的・ 反復的な労働を嫌がることが多いですわなァ。なんで嫌がるんかいなァ。この傾向は、 前うつ病者の日常的・循環的・反復的労働に対して、非日常的・創造的な労働と言え るんやろうか。 先に、精神分裂病のほうの話をしてしまいまひょか。精神科リハやったら、慢性の 分裂病のほうが問題になることが圧倒的におおいでっしゃろ。
ブランケンブルク(『慢性内因性精神病者の仕事構造について』)は、こんな前分裂病者や 神経症者が日常的・循環的・反復的な労働を嫌がる理由を二つあげてはりますわ。 (1)人間的存在の日常に根をおろすことがあんまし不十分やさかい、こうした日常的 労働にくつろぎを感じられへん。あるいは、そもそも日常的労働がでけへん。 (2)こんなふうな日常的労働では、特にこの世の事物が持つはかなさに痛切な形で直面 することになるそうですわ。それが怖いていうわけですわな。 ここでは、(1)は精神分裂病、(2)は神経症のことを言うてはるんでしょうな。両者とも、 労働が何か目に見えるもの、できれば揺るがないもの(Bestaendiges)を生み出して、 それが自分の内面に欠けている足場(Stand)や安定性(Staendigkeit)をもたらして くれればと、希望してはるていうんですわ。こういう労働に対する態度には、フッサールの 言う「生活世界」に対するかかわり方が、どうも根本的に違うていうことがわかるんや ないか。そういうことですわ。
(1)の人間的存在の日常に根をおろすことがあんましちょっとやさかい、こうした日常的 労働にくつろぎを感じられへん。これは『慢性内因性精神病者の仕事構造について』の 前年に書かれた『自明性の喪失』のテーマですわな。日常に根をおろすということは、 「世界内存在」における世界に住みついた、慣れ親しんだということとおんなしこと ですわな。これは、了解(Verstehen)というレベルでなされるんですわ。何を了解 するんか。これは世界の意味指示性(Bedeutsamkeit)ですわな。
意味指示性ていうんは、内世界的存在者(innerweltliches Seiende)の相互の意味関連を 指すんですわ。内世界的存在者とは、現存在以外の存在者、つまり、普通の建物とか、 テレビとか、金槌とかですな。で、それぞれの事物は道具(Zeug)的な意味連関で結び つけられとるていうわけですわ。金槌は釘を打つためのもの、釘は木を固定するための もの、木は家を建てるためのものていう具合ですわな。こういった結びつきを世界に 張り巡らされた付託連関(Vrtweisungszasammenhaenge)と言いますわ。 で、こないな道具的な存在は、最終的には人間(=世界内存在=現存在)が、金槌で釘を 打つ、家に住む、さらには利用したり、捨てたり、失ったり、調べたり、作り出したり という形で関わりを持っていくわけですわ。こないなかかわりを配慮(Besorgen)て 言いますねん。こないな道具的な存在が、現存在に収束していく関係を帰趨連関 (Bewandniszasammenhaenge)て言いますねん。つまり、世界内存在(=現存在)の世界性 (Weltlichheit)は、現存在を中心に拡がる帰趨連関と、現存在を円環状に取り巻く 付託連関が、配慮という編み目で結びつけられてるものてイメージしたらわかりやすい かもしれまへん。
ただ、この編み目は、サーチライトで照らし出されるものについとる編み目やのうて、 ライトの光の中に組み込まれた編み目なんですわなァ。まあ、ライトの明かりに最初から 網目模様がついとるわけですわ。せやさかいに、これは存在論的には投企、実存論的には 了解(Verstehen)という、ライト自体の性格になるわけですわな。これがぼやけてしまう、 つまり帰趨連関や付託連関が不確かなものになってしまうのが、自然な自明性の喪失の 側面の一つやていうわけですわ。まあ、言うてみたら、分裂病者は、ライトで照らし 出される編み目がぼやけとるさかい、いちいち自分の力で意識的に実際の地に編み目を 描きなおさんとあかんちゅうことでしょうか。これが超越論的自我を経験的自我が代行 しとるということでしょうな。この辺の理屈は、仕事活動自体の問題やのうて、その 基礎構造に関するものですわ。
>>141 ヤスパースのドイツ精神医学への影響を話し始めたらキリがありまへんわ。ちょく
ちょく、気が向いたらお喋りしていきますわ。というより、ドイツ精神医学の研究者に
ついて語ろうとすると、ヤスパースの影響抜きでは語られへんのですわなァ。
今日の打ち止めは、シャルドネのグラッパでしたわ。ストレートでチェイサーつきで、
ちびちびと……。うまかった……ヒィィック!。
>>酔っ払い先生侍史 先生の知見は30-40年ほど前でフリーズされておられますが、 相応のお歳と考えてよろしいですか?
相応の年齢と考えてもろてよろしいかと。まあ、あたしの精神病理も相当DQNですわ。 酔っぱらいのたわごとですわ。新しいことは、若い人たちがしてくれはったらええんと ちゃいますか。
>>150 最近の動向などお知りでしたら
「最近は・・・」ということを
書いていただけるととても参考になります。
>>@酔っぱらい先生
酔いどれ講義勉強になります。
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/03 03:05
久しぶりに真夜中のこっそりあげ。
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/03 21:33
おぉ なんと先生が >DQN などとわ
昨日は同僚と一緒に飲みに行ってきましたわ。今朝はちょっと宿酔い気味でしたわ。 今晩は、ドイツのシュナイダーのヴァイス・ビアを飲んだ後、黒龍ていう日本酒飲み ながらカキコしてますねん。 さて、ちょっと話は戻って、分裂病者の労働に対する態度ですわ。もうちょっと、 労働に対する態度を突っ込んだ後で、労働とその基礎構造(そない言うてええんか どうかわかりまへんが……)に戻ろうかと思うてますけどな。 労働が何か目に見えるもの、できれば揺るがないもの(Bestaendiges)を生み出して、 それが自分の内面に欠けている足場(Stand)や安定性(Staendigkeit)をもたらして くれればという期待があることについて書きましたわなァ。これについては、実は 中井久夫センセが『分裂病の発病過程とその転導』で詳しう書いてはりますねん。
中井センセは、前分裂病者が、思春期において「統合型自我同一性(syntagmatic identity)を獲得しようとする場合、三つの形態が考えられるていうてはりますわな。 (1)超絶型。数学とか論理学とか、知的な世界等価物みたいな現実に汚されへんものに 自分を賭けて、ついには自己と同一視することになってまう場合。 (2)能動型。キメラ的なつぎはぎ細工でもって、現実に「具体的・全体的なもの」に 到達したと錯覚してまうケースですわ。 (3)受動型。ほとんど具体的な内容を持たない大洋的(oceanic)な自我同一性でんな。 このうち、(1)と(2)が、前分裂病者の「できれば揺るがないもの(Bestaendiges)を 生み出して、それが自分の内面に欠けている足場(Stand)や安定性(Staendigkeit)を もたらしてくる」ことについてわかりやすく説明してくれてると思いますねん。
(1)超絶型は、科学や、詩といった芸術に自分を賭けるわけですわな。なんでこんな ものに熱中するんか? まあ言うてみたら、自分が学問や芸術そのものになってまう わけですわな。人間一人一人の個別的な自我同一性なんかどうでもかまへんて言える とこへ出ようというわけですわ。 ここでは、その人の築き上げた学問、思想が、そのままその人の自我同一性やし、 その人にとって基本的信頼感の代替え物なんですわな。かけがえのないものなわけ ですわ。せやけど、学問や芸術なんか、ええ加減なもんですわ。いつ、批判されて ひっくり返されるかわかりまへんわ。このひっくり返された時が怖いですわ。最悪の 場合、自我の崩壊、基本的信頼感の崩壊ですわな。
特に臨床でよく出会うし、目立つのは(2)能動型でしょうな。(2)能動型について、 中井センセはこう書いてはりますわ。「全体的なものは幻想的には(つまり錯覚では) 一挙に与えられることがあっても現実の中における具体的努力はたかだかその類似物、 近似的状況にしか至らない。……この系として世界のごく小部分たとえばある電気 装置の開発をいわば世界を映す鏡、世界の謎をとく鍵としてそれに賭ける場合、また もう一つの系として世界を多少とも幻想的・多少とも現実的に支配する何らかの指導者、 指揮者になろうとする場合、すなわち自分自身が鏡・鍵になろうとする場合がある」 んやそうですわ。(この辺、コピペばっかしやなァ…。まあ、中井センセは偉いおかた やからしゃあないわ)
この後、中井久夫センセは『分裂病の発病過程とその転導』で、それぞれの型の人が (1)余裕の時期、一念発起を経て、(2)無理の時期、(3)焦慮の時期から、発病へと進展 していくプロセスを細こう書いてはりますわ。今は、そのプロセスについてはあんまし 触れんときますわ。 中井久夫センセは、この「統合型自我同一性」を持ってはる人は、「自立しようとする 時に、『垂直上昇志向』ともいうべき即時的、全面的、超脱的な幻想的自立への幻想的 願望が奔出してくる」と書いてはりますわ。わしがオモロイと思うんは、この「統合 型の自我同一性」が極めてもろうて、それを支えてる基本的信頼感もまたもろいもん なんやけど、そのもろさは垂直上昇志向のためやないかていうことですわ。実は、 わしはこの「垂直上昇志向」がビンスワンガーの「思いあがり(Verstiegenheit)」と よう似てるやんかと思うてますねん。「思いあがり」は、実は「登り損ない」ていう 意味があるんですわな。登山で、登山家が崖を登ったはええけど、それ以上登りも でけへん。かというて、降りることもでけへん。こえをVerstiegていうそうですわ。 これは、まあ、言うたら、飛び立ったはええけど、着陸でけへんていうわけですわな。
ありゃ、こらアカン。 書いてるうちに、仕事の話と思い上がりの話がゴッチャになってきた。 もう酔うてんのやろか。 もうちょっと整理してから、また改めてカキコしますわ (ホンマにきちんと整理できるんやろか? 酔っぱろうた頭で……)。
ゴッチャになるんは、酔っぱろうてるからちゃうやろ。あんたの頭がわるい さかいやて言われるかもしれへんな(笑)。そうかもしれまへん(苦笑)。
スキゾのPtの描写で臨床の場をお持ちでないことが分かります(笑)
おお、批判が来ましたな。うれしいな。スキゾとおっしゃるからには、米国流の 勉強をしはった方やろか。わしらは、駆け出しの時にシゾて憶えてしもたんですが、 これは間違いで、シッツォていうんやとオーベンのセンセが教えてくれはりました。 シッツォもちょっとなまってんとちゃうかと思いますけどな。 スキゾの患者さんは、環境によって顔が変わりますわな。病棟での顔、レクでの顔、 OTセンターでの顔、散歩中の顔、みんなちゃいますわな。162さんのスキゾの患者 さんを診る臨床の場でどんなんですやろ。教えておくんなはれ。
あんまし酔うてカキコしたらあきまへんな。何書いてんのやら、わからへんですな。 反省…
今、興味があるのは精神分析、特に対象関係論、後はシステムズアプローチ、それと 精神医学的リハビリテーションですわ。 それから、今、ちょっと調べてみようかなと思てるのが、作業療法の主な理論の 幾つかですわ。せやけど、まだ、頭の中がグチャグチャですわ。読んでもよう わからへん。けど、もう勉強会が始まるさかい、そんなこと言うてられまへんね。 早いこと頭ン中、整理しとかんとなァ。
対象関係論で、おすすめの本などがあれば、教えて下さい。
そろそろ日本酒も新酒がでまわってきましたなァ。
最近はちょっと麦焼酎をいろいろ飲んでますねん。有名どころでは「百年の孤独」。
これはすっかり高うなってしまいましたなァ。ちょっと薄いけど「神の河」「中々」
といったとこが比較的手に入りやすうて、飲みやすうて、美味しいですわ。
掘り出し物が「夢想仙楽」。これは麦焼酎をシェリー樽に長期貯蔵したもので、香り、
舌ざわり、喉ごしがたまりまへんわ。まだ、あんまし注目されてへんので、そない高う
なってへんのとちゃいますか。お薦めですわ。
>>166 わしは精神分析のことはよう知りまへん。誰かセンセについて教えてもろたことも
あれへんし、スーパービジョンしてもろたこともありまへん。要するに、全くの独学
ですわ。せやさかいに、えらい勘違いがあるかもしれへんけど、まあ、何か気がついたら
教えたってほしいですわ。
そんなわけで、わしのお薦めは、まず松木邦裕「対象関係論を学ぶ」岩崎学術出版社と 「精神病というこころ」新曜社ですわ。だいたい、精神分析の本は、用語がむずかしうて、 表現が抽象的で、ちょっと読んだだけでは、何書いたるんかわかれへんのですわ。その 点、これは、内容が正統かどうかは知りまへんけど、ともかくわかりやすい本ですな。 明快で、臨床に応用がきく。これがいちばんですわ。対象関係論ていうんは、まず、 人の心の中に3次元的な内的世界があると仮定するんですわ。その内的世界の中で自己や 対象が交流してるんですわな。その内的世界の状況が、その個人の外界の対人関係を 左右しよるていうわけですわ。これ、当たり前のことやけど、改めてはっきり言われて すっきり腑に落ちましたわ。 それと、グリンベルグ他「ビオン入門」岩崎学術出版、ガンザレイン「対象関係集団 精神療法」ですわ。ビオンは対象関係論をグループに適用しはったんですけど、work groupとbasic consumption groupの関係はごっつうおもろいと思いますわ。作業とか レクとかの場面に応用するには、これがいちばんええんとちゃうかと。ただ、これ、 わかりにくいんですわ。読んでも読んでもようわかりまへん。え……お前の頭、悪い だけやて。そんなホンマのこと言うたらシャレになりまへんがな……。
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/12 00:10
ちょっと下がりすぎたので あげておく。
171 :
名無しさん@酔っぱらい :02/03/13 23:26
今飲みはじめたトコやけど、まだあんまし酔うてまへんわ。またしても閑話休題ですわ。 申し訳ないけど、心理の方はちょっと興味のないお話かも。もしそうやったら、許して 下され。 意識障害の問題は精神科臨床では避けて通れんもんですわ。心理学ではどないでっか? 意識障害についていろいろ議論してはる心理学の分野ってあるんかいな。あったら、 教えてくださいな。 意識障害は、今は日本やったらJCSの3−3−9度方式による分類がよう使われてますなァ。 日本やったら、内科、外科、脳神経外科ではこれがわかりやすいし、便利ですわなァ。 もうご存知でしょうけど、一応、下にあげときますわな。
172 :
名無しさん@酔っぱらい :02/03/13 23:27
3−3−9度方式による分類 【Japann Coma Scale (JCS)】 V:刺激をしても覚醒(開眼)しない。 V- 300 痛み刺激に反応しない V- 200 痛み刺激で少し手足を動かしたり、顔をしかめる。 V- 100 痛み刺激に対し払い除けるような動作をする。 U:刺激すれば、覚醒(開眼)する。 U- 30 呼びかけを繰り返すと、かろうじて開眼する U- 20 手を握る、話すなど簡単な命令に従う U- 10 合目的な運動をする T:刺激しなくても、覚醒(開眼)している。 T- 3 自分の名前、生年月日が言えない T- 2 見当識障害がある T- 1 意識明瞭とは言えない O:清明
「Trappist Achel Bier」を飲んでますわ。これは、ベルギーのいちばん新しい トラピストビールですわ。トラピストビールはトラピスト(修道院)で作られるビール ですわ。ブロンド色で微かに白く濁ってますわ。ちょっと甘くて、酸味も噛んでますな。 そのせいで、フルーティな感じですわ。それから、かなりの苦みがありますなァ。 これはホップの苦みではのうて、酵母の苦味でしょうな。美味しいビールですわなァ。 さて、この前は、3−3−9度方式を紹介しましたけど、精神科臨床の場合、意識障害 (Bewusstseinsstoerung)の分類はもっとややこしいものになりますねん。 大体、意識障害とはなんでっしゃろ? よく使うんは、意識をサーチライトに喩えるん ですわな(前に、現存在をサーチライトに喩えましたけど、それとは一応別の話と思うて 聞いて下さいや)。
暗闇の中にサーチライトが照りますわな。そしたら、暗闇の中に光景が照らし出される わけですわ。この光に照らし出された領域が意識野ということになりますわ。中心部は 明るうて、周辺部になるにつれて暗うなりますわな。意識野の中心部は注意が行き 届いてるけど、周辺に行くにつれて、注意が行き届かんようになるわけですわ。 このサーチライトの照らし方には、2種類の異常がありますわ。(1)明るさの異常。 (2)照らし方の異常ですわ。 (1)明るさの異常は、意識混濁(Bewusstseinstruebung)て言いますねん。だんだん 暗うなってきて、最後には真っ暗になってしまいますわ。そしたら、3−3−9度方式の 「V刺激しても覚醒しない」になるわけですわな。 (2)照らし方の異常は、意識変容(Bewusstseinsveraenderung)て言います。例えば、 明るさはおんなしでも、照らし出す範囲が異常に狭うなることがありますわ。これは、 意識狭窄て言いますねん。朦朧状態なんかも意識変容に分類しますわな。
この中で、いちばん軽い程度の意識障害と意識変容が精神科臨床ではちょくちょく問題に なりますねん。特に最軽度の意識障害ですわな。これは明識困難状態(Schwerbesinn -lichkeit)て言いますねん。これは、放っておいても眠ってもうたりせんと、ずっと 起きとりますさかい、これは意識障害に含めるよりも、精神機能(主に注意力なんか)の 障害て考えたほうがええて言わはる方もいてはりますわ。せやけど、意識障害の回復期に も見られますし、譫妄起こしてはる老人は、昼間にはたいがいこの明識困難状態を残して はるんで、やっぱし意識障害に含めたほうがええと思いますねん。
明識困難状態は教科書的に言うたら、(1)注意力の集中や持続性に障害、(2)自発性、 創造性の低下、(3)見当識はほとんど保たれている、(4)記銘力の軽い障害、後に軽い 健忘を残すことがある、(5)多幸的あるいは抑うつ的で興奮しやすく、気分の易変性が めだつ、(6)放置すると無欲状になりやすい、とまあ、こないなりますねん。せやけど、 実際には、ごく単純な診察ではほとんどわからへん場合がありますねん。せいぜい、 なんとなく元気がない、ぼんやりしてる時間が多いくらいですかなァ。
「常きげん山廃仕込純米酒」て言うお酒がありましたわ。これは農口尚彦ていう能登 杜氏が作らはったお酒やそうですわ。この農口尚彦ていう杜氏さんは、もともとは 「菊姫」ていうお酒の杜氏さんやったそうですわ(売ってた酒屋さんの受け売り)。 それが、鹿野酒造いう蔵に移らはって「常きげん」を作らはったそうですわ。 「菊姫」いうたら「ブランド」ですやん。楽しみですわなァ。 さて、続きですわ。明識困難状態を確認するには、幾つかのポイントがありますねん。 (1)患者さんは一見しっかりしているけど、後に健忘を残してますわ。今朝とか昨日 あった話をもっぺんお喋りしてもらいますねん。すると、細かいことを憶えてたり 憶えてなかったりていうことはありますけど、結構、ごそっとまとめて抜けてる箇所が ありますねん。これを島状(inselartig)な健忘と言うてますわ。これは、後になって 初めてわかる意識障害ですわな。なんで、こんなふうに記憶が抜けるんかいうたら、 やはり意識レベルに軽いながらもかなりの動揺があるからでしょうな。
こんなふうな島状の意識障害を残してる患者さんには次のような方法で確認しますねん。 (2)一番簡単な方法は、連続引き算をさせることですな。長谷川のスケールでもする あれですわ。この「100−7」を続けて何度もさせますねん。ちょっとボーっとしてる 人は、「93」て言うてそんで終わりになるかもしれまへん。そんな時は、「93−7は ……そのまま続けてください」て言うてうながしますねん。ちょっと長い目にして もらいますねん。そしたら、大体間違わへんけど、時々、ポカミスが入りますねん。 「83、76、69、61、51、44、……」といった具合ですな。結構、10の位の間違いが 出ますわ。注意の障害によるうっかり間違いの類ですわな。これも動揺する傾向が ありますわ。おっ、できとるできとると思うてると、ポカポカッと間違いよるんですわ。 それから、ちょっと長い目の話をしてもらいますねん。例えば、「昨日一日をどんな ふうに過ごしましたか?」とかですな。そしたら、短い応答ではわからへんだのが わかるんですわ。ここでも、話が動揺するんですわな。「朝、ちょっと寝坊して、 7時頃に目醒まして、顔洗うて、歯磨いて、それから服を着て、朝食食べて、大急ぎで 家を出て、(会社で?)代理が出張で、(私が?)走ったらこけて……」普通に喋っとるな と思うたら、急に話が大まかになって曖昧になったり、関係ない話へ飛んだりするん ですわ。ありゃと思うて質問したら、ちゃんと答えるんですわな。これは、意識レベルが 動揺しとって、下がった時に、話が散乱(inkohaerent)するんですわな。せやけど、 質問すると、質問がきっかけになって、覚醒度と注意のレベルが上がって、きちんと お喋りできるようになるわけですわ。
このレベルが下がった時に、ちょくちょくちょっとした単語の言い間違いが入ります ねん。これは語性錯語ですな。出張してたんは代理やのうて、課長やったりするわけ ですわ。本人は「課長て言いませんでしたか」と課長と言うたつもりになってはったり するわけですわ。字性錯語(例えば、カチョウ→タチョウ、シュッチョウ→シットウ)は 滅多にありませんな(字性錯語や語健忘が多かったら、また別のことを考えんとあかん かなァ)。 こんなふうにレベルが下がった時に、後に、健忘を残すんでしょうな。せやさかい、 診察が始まってから15〜20分くらいに、質問しますねん。「診察が始まってから、 どれくらい時間がたちましたか?」て。はっきりした記銘障害があれへんのに、 「5分くらいでっか」とかなりの短縮があれば、意識障害がある可能性が大になり ますわな。
180 :
名無しさん@酒が足りん :02/03/18 20:47
age
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/18 21:04
酔っぱらい先生は、診察時間に20分以上かけられるんですね。 丁寧な診察。 私は、パラメディカルですが、Dr.には先生のように時間をかけて診察して もらえたらと思います。患者さんの愚痴がこちらにきてしまうもんで(笑)。
>>181 ともかく初診だけは、時間をかけてきっちりやるようにしてますわ。それは、別に
丁寧とかいうんやのうて、その方が、その後の診察の手間が大幅に省けるからですわ。
その後の診察は、けっこう5分間診療でも行けまっせ。たまに、きちんと時間かけんと
あかん時がまた来ますけどな。まあ、大したことおまへんわ。
最初がええ加減やと、後々まで治療方針やとかなんやかんやでもめて、結局、よけいに
手間がかかってしまいますネン。
この最軽度の意識障害がある時、ちょくちょく感情の異常が起きますねん。軽躁的で はしゃいだり、呑気で多幸的やったり、逆に、不機嫌で寡黙やったり、憂鬱そうで 沈み込んでいたり、いろいろですわ。ただ、気分の変化ばっかしが注目されて、 精神科に紹介されることがようあるんですわ。 特に気つけんとあかんのは、一般の内科や外科の病院に入院してはる患者さんで、 精神科にコンサルテーションにまわされてくる症例には、意外とこの最軽度の意識 障害がからんでることがあるんですわ。どうもヒステリーやないかとか、主治医と ちょっとトラブってから抑鬱的になったとか、心因も一応あるし、……神経症圏、 それともうつ病て思うてたら、この意識障害やったということが意外に多いんですわ。 軽い意識障害があると、患者さんはちょくちょくヒステリー的に見えるんですわ。 だいたい、専門家でないお方が一目見て「ヒステリーっぽい」て思うのはヒステリーで ないことがけっこう多いんですわ。かなりベテランの精神科医でもだまされる時が ありますネン。注意が必要ですわなァ。
だいたい、身体疾患、特にごく軽い意識障害がそれにからんどる時には、退行が起こり やすうなっとりますわ。そんな場合、本来の(比較的些細な)身体的愁訴が誇張されて、 ヒステリーっぽう見えることが起こるちゅうわけですな。所見に不似合いな腰痛を 訴えて、「看護婦さ〜ん、お医者さんを読んでちょうだい。お願いよ〜」ていうわけ ですわな。ああ、そうそう。「意識障害→ヒステリー様などなど」は真でも、 「ヒステリー様→意識障害」とは限りまへんから、そこんとこは承知しといて くださいや。 こういう軽い意識障害を診断する客観的な決め手になるもんて、あるんやろか。 ないことはおまへんね。脳波ですわ。脳波は、普通頭皮上から誘導しますわな。 正常成人やったら、閉眼時、後頭部中心に10〜12Hzのα波が見られますわ。ところが、 眠とうなってくると、α波が減って、7〜8Hzの不規則な波が中心となり、4〜6Hzθ波が あちこちでだんだん増えて来ますねん。そのうち、δ波も出てくるようになってきます。 これを徐波化て言いますねん。軽い意識障害でもこれとほぼ同じことが起きてくる ことが多いですわ。
>>「意識障害→ヒステリー様などなど」は真でも、 「ヒステリー様→意識障害」とは限りまへんから すんません、ここんとこもーちょい詳しく解説きぼん
すんまへん。説明不足でんな。酔うてると、だんだん書くのが面倒くそうなってきますねん。 総合病院の精神神経科で、他科から「ヒステリーちゃうか」て依頼が来た時に、まず 「これはヒステリーやあれへんのとちゃうか」と疑ってかかれていうことですわ。 わしは、まず考えるのが、身体疾患が原因とちゃうか、特に身体疾患による最軽度の 意識障害が原因とちゃうかと疑うことにしてますわ。臨床心理の方にはなじみのない ことかもしれへんけど、まあ、これは、精神科医の間やったら常識とちゃいますか。 わしもセンパイからさんざんうるそう言われましたわ。これが「意識障害→ ヒステリー様などなど」で言いたかったことですわ。 ただ、意識晴明でヒステリーみたいやけど、結局ちゃうかったていうのがありますねん。 転換性障害の失歩か?て思てたら、小ちゃな脳腫瘍やったとか、次々といろんな訴え する大げさな患者さんやなと思うてたら、多発性硬化症やったとかですな(もともと γ-グロブリンが上がる場合、気がつきにくいかも)。他にもようわからんのがけっこう ありますねん。他にも、ヒステリーみたいやったけど、後になって、うつ病やった、 統合失調症(使い慣れへんから気持ち悪いでんな)やったてわかる場合もありますし なァ。これがまあ、「ヒステリー様→意識障害」とは限りまへんということですわ。 最後の例は身体と直接の関係はあれへんけど、いずれにしても、「ヒステリー様」は 最後まで身体に何かあれへんか、気ぬいたらあかんということですわ。
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/23 12:28
週末にじっくり読みたいスレ。
「他者のとの関わりは投影? 他者は理解できるか?」スレで書きかけたお話を こっちでやっていきますわな。書いてるうちに、話がどこへ行くかわからんように なってきそうなんで。以下、一部書き換えながら、ちょっとコピペしますわな。
28 :名無しさん@酔っぱらい :02/03/13 10:33 1> 24,25> 「『言葉』で理解し、『身体』で理解する」とはどういうことやろて言う話ですわなァ。 「言葉」で理解するとは、その都度、相手の言うてることが理解できるいうことでっ しゃろか。実際、たくさんの人が、「私」の周囲にはおって、いろんな人々がいろんな ことを言うてはりますわな。「私」は、その都度、その人が何か「言葉」を言うところを 認識し、言葉の意味を理解してますわな。せやけど、それだけでは、「私」はその人 全体を「理解」したことになりまへんわ。 ところが、ある程度、お喋りしていると、「私」は「その人」がわかったと思うわけ ですわ。その時、「私」にはその人の全体像が、一人の人間全体が理解できたと確信 しよるわけですな。これが「身体」で理解するて言うことでっしゃろか。実際には、 「言葉」で理解するだけやありまへんわ。一目見て相手のことが理解できたて確信する こともありますやろ。いずれにしても、ある瞬間、相手のことが全部(あるいは大体) わかったていう確信が(強い場合も弱い場合もあるやろけど)生まれるわけですわな。 これは、「身体」で理解したとしか言いようがないんかもしれまへんな。 後期フッサールは、この辺の問題を扱うてはるんですわ。 29 :名無しさん@酔っぱらい :02/03/13 10:42 そうそう。対象(ここでは相手)の部分的特徴(ここでは相手の言葉)でもって相手を イメージすることを、確かラカンは「換喩」言うてましたな。それに対して対象を 全体として把握してイメージすることを「隠喩」て言うてましたな。確かラカンは 「換喩」とフロイトの夢の「置換」に、「隠喩」を「圧縮」に関係づけてました。 どこで、読んだか、思い出せへんけど。間違いがあったら指摘してくだされ。分析に 関してはシロートなんで。
33 :名無しさん@酔っぱらい :02/03/14 23:54 フッサールの他者論に触れる前に、ちょっとフッサールのポイントについて考えとかんと あきまへんねん。わしにわかる範囲で、なるべく噛み砕いてみますわな(わしの頭で理解 しようと思うたら、必然的に噛み砕くどころか、お粥にせんとしゃあないかもしれま へんな(笑)。 フッサールは、超越論的な経験についていろいろと考えはった人ですわ。この超越論的な 経験て言うのはいったいなんでっしゃろか? それは、自然な意識の確信ていうこと ですわ。 例えば、わしが目を開けたら、前にパソコンがありますわ。目を閉じたらパソコンが 見えへんようになりますわな。こんなふうに、その都度知覚されたパソコンの経験、 それを「現前(Praesentation)」て言いますねん。そうして、その都度、私の見る (知覚する)という行為によって、パソコンは見えたり見えんかったりするわけですわ (現前Praesentation)。ところがでんな、私はそういったその都度の知覚の経験を、 はっきり意識したりしませんわ。つまりこの現前Praesentationは「非主題的」な ものなんですわな。 ほなら、私は何を「主題的」に経験しよるんでしょうか? これはパソコンという 対象を「主題的」に経験するんですわな。つまり、パソコンがその都度の知覚経験 (現前Praesentation)とは独立して、客観的に存在するということを、わしは確信 しとりますわ。私が目を閉じて、パソコンが見えへんようになっても、私の前には パソコンがあるていうことを私は「知っとる」わけですわ。これは一種のイメージ された経験ですわな。これを「間接提示(Appraesentation)」て言いますねん。 こんなふうな一種拡大された対象の把握をApperzeptionて言いますねん。この確信が、 どんなふうにもたらされるのか、それが超越論的意識の問題ですわ。 34 :名無しさん@酔っぱらい :02/03/21 23:25 だいたい「他人を理解できる」←→「理解できない」てどういうことなんやろ。 例えば、ボールを一塁目がけて投げますわ。ボールが一塁に着くやろうて予測でき ますわな。それが、ありゃ、外れたていうこともありますわ。せやけど、これは 「ボールを理解できた」「理解でけへん」ことにはなりませんわなァ。ボールには 意志はない、主体性はないわけですわ。せやけど、「他人」には意志がある、 主体性がありますわな。「自分」と同じように主体的に考え、意志を持ち、行動 しよるわけですわ。この「他者の主体性」を前提にして、「他人が理解できる←→ 理解できない」ということが可能になるわけですわなァ。この「他者の主体性」が どんな風にして「世界構成」に組み込まれているんか、それが問題ですわ。
ところで、この「他人を理解できる」←→「理解できない」という系列を人間学的 均衡ていうわけですわな。この人間学的均衡は、現象学的精神医学のお決まりの テーマですわ。まあ、存在的・実存的には、誰それ(例えば恋人、子どもとか、自分に とって大切な対象)を理解したとか、理解できんかったとかが問題になるわけですわな。 せやけど、現象学的精神医学では、そもそも「理解できる←→できない」という自体を 成立させ、可能にする基礎が問題になるわけですわ。これは存在論的・実存論的問題な わけですわ。こういう人間学的均衡で有名なんは、ビンスワンガーの「思いあがり」の 「高さ−広さ」、ブランケンブルクの「自然な自明性の喪失−不自然な自明性(→妄想)」 などがありますわな。
さて、前期フッサールの他者理解は「デカルト的省察」にいちばんまとまった形で 書かれとるそうですわ。わしは「デカルト的省察」を読んだことがないんで (フッサールの本はちょこっと持っとるけど、要るとこしか読んだことあれへんの ですわ)、木村敏のトイニッセンが要約した「デカルト的省察」の他者論を引用させて もらうつもりですわ。でけたら、この他者理解を精神分析の投影的同一視と比べたら 面白いんちゃうかと思いますねん。けど、果たしてどんだけでけるかいささかあやしい ですけどな。取りあえず、もうちょっと読み直して、でけるだけ整理してみまっさ。
193 :
名無しさん@酒が足りん :02/03/24 10:12
age
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/28 23:36
ごんぞうも 名無しさん@酔っぱらいも 同じ精神科医...なのね(息
> ごんぞうも名無しさん@酔っぱらいも > 同じ精神科医...なのね(息 「(息」は何でっしゃろか?「ハァ〜〜」溜息? 吐息? 寝息?
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/29 00:54
酔っぱらい先生とごんぞうさんの公開討論会があればおもしろいかも。 このスレ読んでる大学祭の実行委員の学生さんがいれば、企画としてどうよ?
ごんちゃん VS. 酔っ払い先生だと 病 人 対 治療者(自称) 対決だからあんまし面白くなさそう。 意外性がないし。
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/29 14:03
期待しる。
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/03/29 23:29
酔っぱらいセンセー、まだですかー?
今、「山桜桃」ていう日本酒呑んでますわ。これは「ゆすら」て読むんですわ。 吟醸酒ですけど、なんちゅうか、ほんまにフローラルちゅうか、花のような華やかな 香りがしますわ。 さて、この前の続きですわ。フッサールの「デカルト的省察」の中の「他者理解」 ですわな。けっこう酔うとるけど、まあ、ゆっくりいきまっさ。 (1)フッサールは、まず、「私(=自我)」は、「あそこ(Dort)」の「物質的身体 (Koerper)」がこの(つまり私の)「身体(Koerper)」と同種のものととらえると 仮定しはるんですわ。これを「類比化」と言うんやそうですわ。 (2)私(Ich=自我)は、絶対の「ここ(Hier)」やと、そして「生きた」「からだ (Leib)」やし、同時に「物質的身体(肉体)(Koerper)」やととらえるんですわ。 つまりと、「からだ−肉体(Leib-Koerper)」ですわな。 (3)それから、他者を「そこ(Dort)」としてとらえるはるんですわ。んで、私の 「からだ−肉体」を「あそこ(Dort)」の肉体へと移すんですわ。つまり、「もし、 私があそこ(Dort)に身を置いているとしたら(wie wenn ich dort waere)」と いうことですわな。これは「間接提示(Appraesentation)」的な意識ですわな。 その都度の他者の肉体(Koerper)の知覚経験(現前Praesentation)ではなくて、 意識の中で持続する一種のイメージなわけですわ。 この「もし、私があそこ(Dort)にからだを置いているとしたら(wie wenn ich dort waere)」という仮定には二つの要素がありますねん。 一つは、(a)「位置的意識」「私があそこにからだを置いている時(wenn ich dort bin)」ですわ。つまり、過去または未来に私が実際にあそこ(Dort)にからだを置いた、 あるいは置くだろう、そして………というわけですわな。 もう一つは、(b)「偽-位置的意識」「あたかも私があそこにからだを置いているかの ように(als ob ich dort waere)」ですわ。これは、私(=自我)が、空想上でからだ をあそこ(Dort)に置いたらどうやろかということですわ。 「もし、私があそこ(Dort)にからだを置いているとしたら(wie wenn ich dort waere)」は、この(a)と(b)両方のまぜこぜなんですわな。 (4)このような「間接提示(Appraesentation)」的な意識=持続的なイメージが、 他の「からだ−肉体」という拡大された対象把握「統覚(Apperzeption)」になる わけですわ。 この(1)〜(4)は空間的な見方ですわ。つまり、フッサールは、私が他者に感情移入 (思い入れeinfuehlen)するて言うのは、私(Ich=自我)がここ(Hier)からそこ (Dort)へ居場所を移すことやて考えはったんですわな。
このフッサールの他者理解には幾つかの問題がありますねん。 まず、他者の身体現前(=その都度の他者の肉体の知覚経験)を通じて、他我が 「間接提示(appraesentieren)」(イメージとして把握)されるんですわ。つまり でんな、主体自我(=私(Ich))がまず客体他者(つまり、他者の肉体)を認知し、 その上で初めて主体他者が構成されることになるわけですわ。 んで、この他者は、私(Ich=自我)がここ(Hier)からそこ(Dort)へ居場所を移す ことによって、他者の主体性(他者の意志)が現れるわけですわ。ところが、この 他者の主体性は、まあいわばフィクション、錯覚なんですわ。これは、他者という 肉体(Koerper)の擬人化、つまり私(=自我)の意識の二重化にすぎへんわけですわ。 ここでは真の他我そのものは出て来まへんねん。つまり、主体的な意志を持った 他者が見えてけえへんのですわな。 その結果、どんなことが起こるんか? 他者は単数でも複数でもかまへん。要するに 自我に対して(私の目の前に)現れる多くの他者の中の交換可能な誰かとして認知 されることになるんですわ。さらに視覚的な他者知覚のみが論じられとって、聴覚 その他による他者知覚は問題にされてまへんねん。 さて、いちばん引っかかりよるんは、他者は私(=自我)のイミテーションで、真の 他者が出て来えへんていうことですわ。これは、他人がわかることは説明でけても、 他人がわからんことは説明でけへんのですわ。つまり、最初から、「わかる−わから へん」の人間学的均衡が壊れとるんですわな。 この「わかる−わからへん」の人間学的均衡の中で、他人はどない出て来ますんやろか? いちばんはっきり出てきよるんは裏切りですわ。他人ていうんは、思いがけないことを しよるんですわ。私(=自我)の予想を裏切るとこに、未知なる他者の主体性がいっちゃん はっきり出て来よるんですわな。
「山桜桃」おいし! ベロンベロン!
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/04/02 04:15
夜明け前のこっそりあげ。
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/04/07 15:03
休日の日なたぼっこあげ。
某板の糞スレから
> 141 名前:ごんぞう 投稿日:02/04/05 01:42 ID:QrDN9YRv
>
>>135 なんと医者版にもこのごんぞうのフリークがいたとは!
> あっちでは、シーラカンスのような自称・プシコが現象学講座開いて
> とうとうと騙っていて、そこそこ人気をはくしているんだよ!!
> 氏ぼんだ西丸四方と、中井久夫がバイブルらしいから、このごんぞうとは
> 五十歩百歩なんだけどね・・・。
> ごんぞうテイストは、なんと言っても心理のお姉さんへのfixationに尽きるね!
> あとは中田氏かな?最近は病棟での観察学習の限界が露呈されてるんだよね。
> ところで、キミ達は女性?出てきて話そうよ!
> 医者というメリト・アリストクラシーに属するなら、愚民を啓蒙することも
> ノブレス・オブリージュのひとつなんだよ!どうか参加しておくれよ!
シーラカンスはよかったなァ。でも、わしとしては、せめて、トリケラトプスくら いにしてほしかったですわ。まあ、滅びるしかない時代遅れのプシキアータです さかい。せやけど、シーラカンスやったら、こりゃ、グリージンガ以前という感じ ですやん。そこまで古うはあれへんと思うけどなァ。それとも、いつの間にか、 もう、そんな年になってしもうたんかいな…。 まあ、気の向くままにカキコしてますけど、ここは、ほんまにレス少ないちゅうか、 レスがあれへんのですけど、まあ、それはそれで、よろしいかと。今は年度がわりで 妙に忙しうて、あきまへんねん。なんで忙しいかて? 歓送迎会ですわ。もう、 アルコールの切れる時があれへんし。
酔っ払い先生 質問です。先生は木村敏さんはお好きですか?ドイツ精神医学、人間学に造詣深いように拝察されますのでお聞きした次第です。 私自信は何度も読んでいますが、読んだ時には理解したように思うのですが他人に説明してみるとうまく出来ず、しかしものすごく大切なことが言われているように思うのですが。 又興ののった時にでもご返事いただければ幸いです。
中井先生の分裂病に関する考え方は本当に参考になる! 慢性患者なんかいない!急性分裂病の回復過程である段階が阻害されているだけだ! と言う考え方は僕は好きだね。なんというか似非ヒューマニティではない実際の観察感覚に 基づいた正しい意見のような気がするんだよ!本当にすごいよ! しかしその中井先生もPTSDを可愛そうがることによって晩節をけがしたよね。 このごんぞうに言わせればPTSDは早く割り切るべきことにいつまでもこだわってい続ける 人格障害者の中でもかなりたちの悪い奴らだからね。
ごんちゃん、それじゃ、中田氏強姦魔や通り魔の理屈だよ
>207 木村敏さんでっか。木村敏さんの論文も、一時はよう読みましたわ。いっちゃん最初に 読んだんが、講談社現代新書の「異常の構造」でしたわ。それ以後、木村敏さんの論文 (というか、エッセイと言うたほうがええんやろうか)は、しばらく前までは大体読んで ましたわ。なかなかおもろいとは思いますわ。最近は、全然読んでまへんけどな。 ところで、木村敏さんの声、聞いたことありまっか? これがけっこうかん高い声です ねん。んで、なんか喋り方がきざっぽいちゅうかなんちゅうか…軽い感じでしたなァ。 勿論、これはわしの一方的なただの印象でっせ。けど、わしは、文章読んだ印象から、 落ち着いた重厚な感じのお人を想像しとったんやけど、ほんまに予想外でしたわ。
木村敏さんの文章は、実はわしにはようわからんところがあるんですわ。木村敏さんの 文章というんは、微妙な感覚的なことを表現しとると思うんですわ。例えば、「分裂病と 他者」という本の中に「他者の主体性の問題」という文章がありますわ。 前に、フッサールの「デカルト的省察」の中の他者論についてちょっとふれましたわな。 この他者論はトイニッセンが要約したものを、木村敏さんが紹介したもんなんですわ。 この紹介が「他者の主体性の問題」から引っ張ってきたもんなんですわ。
閑話休題。今、「吟香乃一滴」ていう焼酎をロックで呑んでますねん。これは、前は 現在のと違う版の「田の川」やったやつですわ、多分。これ、けっこう美味しいですわ。 値段の割に。材料に、酒粕て書いてありますけど、これは吟醸酒の搾り粕でしょうな。 「鳥飼」と比べたらあきまへんけど、一応、ちょっとは吟醸香がしよりますねん。
この「他者の主体性」の第2章『「あいだ」と主体性』の最初の部分で、私が列車の 窓からある民家を見る話が書いてありますわ。この話の特徴は、ともかく言い換え が多いんですわな。例えば、「絶対的な未知性」を説明を加えながら、「圧倒的な ネガティヴな実感」と言い換え、さらに「主体的な意味としての未知性」、「量的な 未知性でなく質的な未知性」、「私の世界の流出孔」、「親近感を持った未知性」と 次々と言い換えていくんですわ。これって、読んでるとわかったような気にはなるん やけど、逆に、あんまし次々と言い換えられるんで、ようわからんようになるんです わ。 その後、「いま」「あいだ」という使い慣れた言葉がいろんな形容詞付きで、これま たずらずらと言い換えられながら、出てきよりますねん。このへんが、読んでるとわ かったような気がしてくるんやけど、実際は、ようわからんようになっていく理由と ちゃいますかの。
これは、勿論、木村敏さんが、自分の言いたいことをはっきりさせようと思うて、 苦心して言い換えてはるんやろうと思いますねん。せやけど、読んでるわしの頭が もひとつやさかい、わかったような気がしてくるんやけど、実際は、だんだんとわ からんようになってまう原因の一つでしょうな。 それと、もう一つ、ようわからん理由は、木村敏さんは、きちんと説明せんと自分 なりの使い方で専門用語つかいはることがありますねん。「ノエシス」「ノエマ」 なんかはその代表的な例でしょうな。それも、繰り返し繰り返し使わはるさかい、 耳に馴染んでしもうて、わかったような気になるんやけど、そしたら「ノエシス」 「ノエマ」て何やねんて、改めて質問されると、ようわかりまへんねん。困ります ねん。
これだけやったら、木村敏さんの書いてはることが、わかるような気がするのに、 実はようわからへん。それは何でやていうことの説明にしかなってまへんな。 木村敏さんのいいたかったんやろうなとわしが思うてることは、もちっと主な 文章にチョト目をとおしてからレスしますわな。せやけど、木村敏さんて、言う てることがけっこう次々変わるんで、面倒かもしれまへんなァ。
>208 ん〜。中井センセの非器質的な精神障害に対する考え方には、共通性があると思い まへんか。本来は適応的に備わっている反応パターンとか行動パターンが、環境が 変化してもうて、適応的にうまいこと働かへんていう考え方が一貫してますねん。 例えば、躁うつ病は積分的な知覚回路の変調やし、Schizophrenieは微分的な知覚 回路の変調ですわな。そしたら、PTSDはどうやねん? PTSDはフラッシュバック 記憶の非適応的な発動やと、こういうわけですわ。人間には、フラッシュバック 記憶がもともと備わっとったと。これが、原始人の時はうまいこと役に立っとった。 せやけど、文明社会になって、このフラッシュバック記憶が、環境とうまいこと噛み あわへんようになってもうた。これがPTSDやていうわけですわな。
それにしても、最近、ゴンゾさんのスレはメチャクチャでんなァ。ゴオンゾさんは アルコールが入ったら、壊れてしまいまんのんでっか。まあ、人のことは言われん かもしれまへん。ワシは、アルコールが入ると理屈っぽうなりまんねん。まあ、 このほうがタチ悪いかもしれまへんなァ(笑)。 今呑んでるんは、「冬の華」て言いますねん。これは「薄にごり」て言いまして、 生酒を寝かせてるうちに、瓶の中で発酵が進んだやつですねん。ちょっと冷やし方が 足れへんと、栓を開けたとたんに、シャンパンみたいにポンと栓が飛んで、シュワーと 泡が吹き出てきますねん。
>>217 ごんちゃんのお酒を飲んで書き込みという設定は酔っ払い先生のパクリですよ。
癖になるから、あんまりかまわないでくださいな。
さあ、ごんちゃん戻ってらっしゃい。
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/04/20 03:29
ageてみる…
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/04/25 04:00
夜明け前のこっそりあげ。
閉鎖の婦長を強姦したらどういうことになるのかね。 うーん、自分自身の性欲というより・・・。 怖いもの見たさで中だししてみたいね。
看護婦さんの中には強姦したらすごい反応をしてくれそうな娘が結構いるよね。 実際にしたらえぐいよね。
すごい反応ってすごそうだね。えぐいよ!
ごんぞうよ,スレを間違えてるぞ.自分の隔離スレに戻ってくれ.
昨日(今朝?)はよう飲んでしまいましたわ。
>>201 の続きですわ。
前は、フッサールの他者理解について書きましたわな。
フッサールによれば、まず、他者の身体現前(=その都度の他者の肉体の知覚経験)が
あるんやと。それを通じて、他我が「間接提示(appraesentieren)」(イメージとして
把握)されるんやと。つまり、主体自我(=私(Ich))がまず客体他者(つまり、他者の
肉体)を認知し(これは非テーマ的)、その上で初めて主体他者(これはテーマ的)が構成
されることになるわけですわ。この他者のテーマ的意識(間接提示)が、間主観性の
基礎となるんやていうのが「デカルト的省察」でのフッサールの考えですわな。
どんなふうに、間主観性の基礎になるんか?いうたら、(a)「位置的意識」(私の
現在を過去や未来へと変換する)と、(b)「偽-位置的意識」(私の現在を空想的に
変換する))の二つによって、他者が理解できるんやと。せやけど、これは私という
意識の二重化に過ぎへん、私にとって未知の他者は出てけえへんていうことですわ。
この辺は、前回のまとめみたいなもんですけどな。
結局、フッサールは「間接提示(appraesentieren)」から、他者理解を導き出そうと したんやけど、これが二重に(「位置的意識」と「偽-位置的意識」の両方で)うまい こといかへんだわけですわ。一言で言うと、他者というテーマ的意識が間主観性の 基礎ではあれへんということですわ。そしたら、間主観性の基礎は何やろう。この 辺は、結論を先取りして言うてしまうと、「他者を把握するというテーマ的意識」の 反対、つまり「他者によって把握されるという非テーマ的意識」ですわ。 ところで、テーマ的意識と非テーマ的意識は一般に同時には出てきませんわ。言葉を 換えたら、テーマ的意識か非テーマ的意識のどちらから、時間的に先行しよるとも 言えますわな。せやけど、超越論的な世界構成は、受動的構成を前提にしとるさかい、 歴史的にも「他者を把握するというテーマ的意識」に先行して、「他者によって把握 されるという非テーマ的意識」があるんとちゃいますか。 と、まあ、少々強引に話を「他者によって把握されるという非テーマ的意識」が、 共同主観性の基礎にあるというとこへ持ってきたわけですけど、ここで、わしは精神 分析のことを考えてしまいますねん。
タウスクはフロイトのお弟子さんの一人ですけど、「自我境界」を自分と他人の 自我意識の境界やと定義してはりますわ。んで、赤ちゃんが成長するにつれて、 自我意識が発達分化してきて、親との間に自我意識の境界ができてくると言うて はるそうですわ。 このプロセスの中で、タウスクは「子どもが親に最初の嘘」をつくことに注目して はりますわ。つまり、子どもは、この「最初の嘘」によって「最初の秘密」を持つ ことになるんやけど、この「最初の秘密」が自他の境界設定(=分離・固体化)の 最初のサインやていうわけですわ。 こないして、子どもは、ある時期までは、親が全てのこと、自分にとっても最も 秘密的な考えさえも知っていると想像しとると言うんですわな。つまり、親という 最も重要な「他者にすでに前もって(アプリオリに)わかられてしもうとる」わけ ですわ。そして、最初の嘘をつくということは、黙っとったら、自分の頭の中の ことは自分にしかわからへん。つまり、自我境界がでけて、自分なりに感じたり、 考えたりするようになっていきよるわけですけど、その自我の活動の歴史的以前、 構造的以前にすでにいつも前もって他者にわかられてしもうとるという体験が存在 するわけですわ。 ここで、親にわかられてしもうとるという意識、これは子どものいろんな体験の 背後にいつも存在しとる意識ですわな。つまり、非テーマ的な意識なわけですわ。 これこそが、「他者によって把握されるという非テーマ的意識」の歴史的(発達史的 )に先行する原始的な形態やと思いまへんか。
チオンピ「感情論理」という本がありましたわ。これがなかなか面白い本ですわ。 フロイト(精神分析)とピアジェとシステムズ・アプローチを一緒くたにしてまおうと いう野心的な本ですわ。原書の出版が1992年、訳本の出版が1994年6月20日やから もうけっこう古い本ですわな。昔出た本でもこんな面白い本があるんですわなァ。
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/05/16 21:22
忘れた頃のチオンピあげ。
酔っぱらいさん、どこ行った。チオンピの話はどうなった。
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/06/23 00:22
温故知新あげ
ちょっと前に、後輩のセンセから「プレコックス感て何ですか」で聞かれましてん。 プレコックス感ていうのは、プレコックス・ゲフュールて言うて、Schizophrenieの 患者さんを前にした時に感じる独特の感情やて言うことですわ。 日本ではこのプレッコックス感はけっこう有名になりましたけど、外国ではあんまし 広まってまへんねん。で、その後輩のセンセに返事するために、ちょっと調べてみまし てん。
すんません、ひとつお尋ねしたいのですが 解離性同一性障害の複数の人格を 酔っ払い先生はどのように捉えておられますか?
う〜ん。わしは解離性障害のお相手はしたことがありますけど、解離性同一性障害の お相手はしたことあれへんのですわ。目の前で人格が交代するのをみたことがあれへんの ですわ。 ただ、解離性障害のかたが、解離を起こした時、確かに人が変わったようになりますわな。 よう似たもんでは、てんかんの精神運動発作の分別朦朧状態でも、人が変わったように なりますわ。これをもう一つの人格と解釈でけへんこともありまへんわな。 この解離状態で、人が変わったように見える状態を、交代人格と思いこんで、そのように 対応しとったら、ほんまに一つの人格みたいになってしまうんとちゃうかと思いましたわ。 というわけで、解離性同一性障害は、今んとこ、iatrogenicなもんとちゃうかと思うて ますねん。言うときますけど、これは個人的な感想でっせ。ホンモノの解離性同一性障害を 診たら、考えが変わるかもしれまへん。
オーベンのセンセには、「プレコックス感(Praecoxgefuehl)」は、「プレコックス 臭さ」とか「分裂病臭さ」とも教えてもらいましたわ。このプレコックス感は、もちろん 早発性痴呆(dementia praecox)からきたもんですわな。で、だいたい、古い慢性分裂病の 患者さんを見た時に感じる奇妙な感じのことやて教わりましたわ。せやけど、最近は分裂病の 患者さんもほとんど全員が薬を飲んではるさかい、ホンマもんの「プレコックス臭さ」は もうわからへんと言われましたなァ。ところがですな、いっぺん、ずっと家に居てはって、 クスリを10年以上全然飲んではらへんSchizophrenieの患者さんが初診で来はった ことがあるんですわ。オーベンのセンセは「これがプレコックス感や、わかったか」て 言わはったんやけど、全然わかりまへんでした。入院中のSchizophrenieの患者さんと 同じようにしか見えへんのですわ(汗)。
プレコックス感のことを最初に言わはったんは、オランダの精神科医リュムケ(H.C.Ruemke) ですわ。せやけど、このプレコックス感て言うんは、有名なわりにはようわからんもんでしたわ。 オーベンの先生に聞いても、も一つはっきりした答えが返ってけえへんのですわ。この プレコックス感の出展は、「Die klinische Differenzierung innerhalb der Gruppe der Schizophrenie」ていうNervenarztの文章でしたわ。リュムケは、真性分裂病(echte Schizophrenie)と偽性分裂病(Pseudoschizophrenie)があって、真性分裂病には プレコックス感が必ずあるて言うてはるんですわ。ところが、困ったことに、この文章の 中には、プレコックス感に関する説明がほとんどあれへんのですわ。
で、他にリュムケの論文を捜したら、Schweizer Archiv fuer Neurologie,Neurochirugie und Psychiatrieに「Ueber alte Schizophrenie」(高齢化した分裂病患者について)て いう論文があって、ここにプレコックス感について書いてはったんですわ。プレコックス感て 言うんは、一種の自己不確実感で、対人接触の時に必ず起こる何かが起こらへんために その自己不確実感が出てくるんやて言うてはりますねん。ところが、プレコックス感は、 治療したり、陳旧化した高齢の分裂病の患者さんでは、プレコックス感は感じへんて言うて はるんですわ???。
レスありがとうございます。 やっぱり解離性同一障害には なかなか出会わないものですよね。
239 :
酔っぱらい :02/07/06 23:50
ということで、プレコックス感てやっぱしようわからへんわ、ということに落ち着いたん ですけど、ある日、リュムケの別の論文を見つけましてん。Excerpta Medicaの1950年 パリ国際精神医学会の講演集の中に、プレコックス感に関するまとまった記述があります ねん。しかも、英語でしたわ。ヤターと喜んで、読みました。で、リュムケが言うには、 人間には対人接近本能があって、プレコックス感ていうのは、面接者の対人接近本能が、 分裂病患者さんの対人接近本能が欠如しているために傷つけられて、一種奇妙なためらい、 自分がよそ者やていう感じを持つことやて言うてはるんですわ。つまり、慢性分裂病や のうて、むしろ急性分裂病に特徴的なんですわな。オーベンのセンセが言うたんと全然 ちゃいますやん。
あ………………sage入れるの忘れてしもうた。……………………… ところが、これにはオチがありますねん。ヤター、これで知ったかぶりができると思うて 喜んでたら、それからしばらくして、中井久夫センセの「リュムケとプレコックス感」て いう論文が季刊・精神療法に載りましてん。ここには、リュムケがプレコックス感について 触れた論文がほぼ全部日本語訳されてますねん(オランダ語のオリジナル論文まで!!)。 というわけで、プレコックス感については、中井久夫センセの「リュムケとプレコックス 感」を読んでくださいな。「著作集1 精神医学の経験 分裂病」に入ってますわ。
も一つ、オチがありますねん。オーベンのセンセにリュムケのプレコックス感について 知ったかぶりかましてみたら、「リュムケはそう言うてるかもしれんけど、日本での 「『いわゆる』プレコックス感」は慢性分裂病患者を見た時に感じる分裂病臭さとして、 広く使われておるから、それでええやないか。いまさらリュムケがどうのこうの言うても、 しゃあないやろ」と言われてしもうて、へこんでしまいましたわ。『いわゆる』つけた だけで、あっさり切られてしもうたんですわ。 ♪チャンチャン♪(^^;)……
242 :
没個性化されたレス↓ :02/07/07 00:42
リュムケのプレコックス感のこと書いたんで、ちょっとパッと見いの診断について 触れておきますわな。これは、「一撃診断」とか「感情診断」とか言いますねん。 患者さんをパッと見たら、その印象で診断がつくというやつですわ。こんなんが、 ホンマにできるんかいなと思いますけど、精神分析なんかでは、確かラッカーが 逆転移(治療者が患者さんを前にした時に感じる感情)を診断に役立ている議論を してはったんですわ。同じことを分析心理学ではM.ヤコービが議論してはり ましたわな。
「山猫」ていう焼酎がありますねん。芋焼酎ですけど、これがなかなかいけますねん。 ジョイホワイトていう焼酎専用のお芋を使うてつくった焼酎やそうですけど、さつま 芋を生でかじった時みたいに、甘い香りと甘い味がしますねん。お薦めでっせ。
私らがノイエヘレンやった時、精神分裂病のプレコックス感に並んで、有名やったんが 「Resonanzlosigkeit」ですねん。これは「反響喪失性」とでも訳すんでしょうか。 うつ病の一撃診断の標識としてけっこう有名でしたわ。これは確かチュービンゲン大学の Schulteが言うてはったんですわ。Schulteは「悲哀不能(Nicht-traurig-sein -koennen)」ていうことを言わはったんですわ。これはうつ病の極期には、精神運動抑制が きつうなって、もう悲しいていう気持ちも起こってけえへんということですわ。 「感情がなくなってしまった」と患者さんが言いますわ。一種の離人症て言うても ええんかもしれまへんな。 この「Resonanzlosigkeit」は、お医者さんがなんぼ患者さんを支持し、指慰め、 力づけても、手応えがないというのを言いますねん。あんまし手応えがあれへんので、 お医者さんは徒労感にとらわれてしまうんですわ。この患者さんを前にした時の 無力感、これが「Resonanzlosigkeit」やそうですわ。
とまあ、こない書きましたけど、この「Resonanzlosigkeit」は、内因性うつ病の 標識なんですわなァ。内因性うつ病て、もう今では流行りまへんやろ。最近は、これが reinな内因性うつ病やて言えるような症例をとんと見かけんようになりましたなァ。 これがあったら内因性うつ病やでていう徴候として、有名なんは、シュナイダーの 「生気的抑うつvitale Traurigkeit」でしょうな。せやけど、私は先輩のセンセに 回診で「これがvitale Traurigkeitや。よう見とけよて、言うてもろたことありま へんねん。先輩のセンセは「昔はようあったけど、最近は見いへんな」て言うてはり ましたわ。そういや、「悲哀不能Nicht-traurig-sein-koennen」も最近はとんと 耳にしまへんなァ。重症のうつ病自体がえろう少のうなったような気がしますわ。
で、「Rosonanzlosigkeit」ですけど、重症のうつ病患者さんは、「大丈夫、必ず ようなります」てなんべん保証しても、「もうあきまへん」て言いますねん。きりが ないんですわ。もう終いに「よくなります」て言うのがイヤになりますねん。確かに 反応がない(resonanzlosig)んですわな。けど、最近は、なんかようわからん比較的 軽い鬱が多うなりましたなァ。
ああ、そうそう。resonanzlosigやからて、「大丈夫、必ずようなります」て言うのを やめたらあきまへん。患者さんが元気になった時、後で感謝してもらえることがよう ありますさかいな。
保全SAGE
保全さげ
センセまだ見ておられますか? 質問です。よく、「綺麗な(?)うつが目に見えて減った(=遷延うつや限りなく人格障害(語弊がありますが)に近いPtが増えた」 と言われますけど、シゾも軽症化しているってホントでしょうか? 少なくとも臨床でそういう実感はお持ちでしょうか? ご教示賜りたく
252 :
没個性化されたレス↓ :02/08/23 03:44
>>251 ヨパライ先生ではありませんが横レス失礼します。
Sも軽症化しているという話は数年ほど前にどっかの先生が
新聞に書いていたのを見たことがあります。
Sが軽症化してるなんて10年以上前から言われていることです!
Schizophrenieが軽症化しとるていうんは、現場の精神科医の間では、20年以上 前から、よう話題になってましたなァ。昭和40年頃に精神科医にならはった センセーが「ノイエヘレン(侵入医局員)の頃は、カタトニーのクランケがようけ 入院してきたけど、最近(昭和60年頃)は、典型的なカタトニーはとんと見いへん ようになった」と言うてはりましたわ。これは関西の都市圏でのことですわ。 田舎に行ったら、また話はちゃうかもしれまへん。 わしが初めてお世話になったアンシュタルト(単科精神病院)では、診察室で患者 さんと二人きりで面接するなんて、考えられへんことでしたわ。診察机を挟んで 患者さんと対面して、患者さんの後には必ず看護者(男性病棟では看護士)がついて ましたなァ。それが、今は、患者さんとベッドに並んで座って話したり、保健所の 相談員の方が病棟の中まで入っていって、患者さんと面接したりですわ。これは 病院が変わっただけやないと思います。初発で初診の患者さんも穏やかにちゃんと 話が通じる人がごっつう増えましたわ。
もう、12時まわってしまいましたなァ。明日は早出ですねん。もう寝ますわ。 続きは後日に。お休みなさい…。
256 :
没個性化されたレス↓ :02/08/24 07:18
酔っ払い先生御机下。 schizophreniaの軽症化は、よく言われるように 薬物療法の普及や軽症患者が気軽に精神科に受診するように なったからでしょうか。 それとも、そもそもシゾが社会構造の関数で、社会が狂えば 相対的に軽症化し、数も減るものなんでしょうか?
多分、両方でしょうな。一つは軽症患者が気軽に精神科を受診するようにならはった ことがあるでしょう。実際は、そんなに気軽やあれへんと思いますけど。患者さんは だいたい家族に連れてきてもらわはるさかいに。せやけど、連れてきてもらうんを 嫌がる人は昔はえらい抵抗しはったもんやけど、最近はあんまし嫌がらはらへん みたいですわ。 もう一つは、文化的な背景があるんとちゃいますか。
躁うつ病は一つしかあれへんけど、分裂病は患者さんの数だけあるて言うたんは、 KranzやったかGlatzelやったか、忘れてしまいましたけど、Schizophrenieは 患者さんによってえらいちゃいますねん。 で、このいろいろばらばらなSchizophrenieは、実はいろんな別々の病気が Schizophrenieて呼ばれているだけで、ホンマは別々の病気やねんていう人がいて はりますねん。この手の代表選手がクライスト〜レオンハルトでっしゃろな。
もう一つは、Schizophrenieは一つの病気やねんけど、その表現形がいろいろ あるんやていう意見ですわ。この代表がやっぱりクレペリーンでっしゃろな。 そしたら、なんで表現形がいろいろあるんかていう疑問が出てきますわな。 ビルンバウムていうお方がいてはって、病気の症状をpathogenetischな要因と pathoplastischな要因に区別しはったんですわ。pathogenetischな要因ていうんは Schizophrenieという病気を引き起こした要因ですわ。まあ、ブロイラーでいうたら 基本症状ていうやつですわ。それに対して、pathoplastischな要因ていうんは、 病像を修飾して、個人によってちゃう病像を生み出すもんですわな。
まあ、そのpathoplastischな要因が、文化的なものか、性格的なものか、発達的な ものか、わかりまへん。取りあえず、興味があるんは、文化的な要因ですわな。 よう言われてるんは、西欧文化圏ではヘベフレニー(破瓜型分裂病)があるけど、 西欧文化の影響のないところでは誇大的な妄想型分裂病が多いていわれてますわ。 これは文化的な影響と考えられるけど、そうやないとも解釈できますわなァ。
261 :
没個性化されたレス↓ :02/08/25 11:38
ビルンバウムのpathogenetisch、pathoplastischの二分法は どうも納得できません。はたして統合失調症(の各サブタイプ)には 遺伝子や病原菌などの実体的な病因があるのでしょうか。 自分たちとは違う精神構造の人を精神病と定義し、その原因を 何らかの実体に求めるのは、 いわゆる未開人の魔術的思考を「思考障害」としてとらえ、 その「障害」の原因を人種的劣等性に求めるのと同じパターン ではないでしょうか。 そもそも統合された人格なり自我なりがアプリオリに遺伝子によって 保証されているわけではないのに、 「何か原因があって統合が壊れたに違いない」と決めつけるのは 重大な誤りのように思えます。 正常な精神なるものの定義も不可能なのに、恣意的に精神異常を 定義、分類してその「原因」の存在を疑ってもみないドイツ精神医学の ありかたそのものに狂気を感じます。 かれらが精神異常者を嬉々としてガス室に送り込んだのも当然でしょう。 ところでナチスの活躍により、旧第三帝国領では精神異常者の 有病率は下がったのでしょうか。
まあ、ビルンバウムの二分法は、昔からのドイツ流の疾患単位の実体を基礎づける ための理屈でしたんでしょうな。つまり、「分裂病」は見かけは様々でも、その 原因はひとつやし、身体に起こってる変化も基本的には一つなんやと言いたいわけ なんでしょうなァ。 ビルンバウムの考え方そのものは、もう古典的なもんやと思いますけど、これは、 当時、進行麻痺の原因が梅毒の感染やとわかって、予防法とか治療法がわかって きた。「分裂病」も同じように、「身体的な変化=原因」がわかったら、治せるんと ちゃうかという期待があったからとちゃいますか。 現代の研究でも、この発想はしっかりと受け継がれてると思いますわ。schizophrenic disorderやaffective disorderの特異的なマーカーを見つけようという発想自体が 特異的な病因というか病態を想定しとるんやと思いますわ。まあ、今でもこういう 考え方があるということですわ。
だいたい、「こりゃいったい何やねん???」と思うものに出会うた時、それを説明 せんといられんのが人間でっしゃろなァ。あるお人がわけのわからん言動をして はる時、それを「悪魔憑き」「犬神憑き」と見たてて御祓いするか、「身体に基礎 づけ得る精神病」として治療するか、「環境への反応」としてカウンセリングするか、 どれの方法がいちばんよろしいんでっしゃろか。ぶっちゃけた話、ようなって くれはったら、それでよろしいんですわ。それが臨床家というもんやと思いますわ。 これが、「悪魔憑き」やさかい焼き殺してまえ、「遺伝(身体)に基礎づけ得る 精神病」やさかい断種してまえ、「悪い環境の影響」やさかい矯正施設に入れて たたき直せやったら、こりゃナチスと五十歩百歩ですわ。これは、考え方の問題や のうて、異質なものに対する姿勢や偏見の問題とちゃいますかなァ。
> 261 > そもそも統合された人格なり自我なりがアプリオリに遺伝子によって > 保証されているわけではないのに、 > 「何か原因があって統合が壊れたに違いない」と決めつけるのは > 重大な誤りのように思えます。 これは当然のことですわな。そもそも、人格や自我の統合、理性の支配が望ましいと する考え方そのものが、西欧的な文化の偏見やと思いますわ。 西ドイツのエーリッヒ・ヴルフという精神科医がいてはりますねん。ヴルフは、 1961年から67年まで、南ヴェトナムのユエ大学で精神医学と神経学の教育をして はったんですが、ヴルフは、西洋社会では、自我を確立して、人格を統合することが 自己実現の大切なポイントとされてますけど、ヴェトナムなんかの東南アジアでは、 全然ちゃうと言うてはります。で、この辺が、西洋と東南アジアのSchizophrenieの 症状や予後が違う理由やないかて言うてはりますわ。ヴルフは、西洋の「分裂病」の 自我障害を中心とした病的体験が、西洋的な発達課題の失敗に関連して生じてるんや ないかて考えてはるみたいですわ。Schizophrenieは、やっぱし社会的・文化的・ 発達的なことが仰山関係しとるということでしょうな。わしはそない思いますねん。
> 261 > ところでナチスの活躍により、旧第三帝国領では精神異常者の有病率は > 下がったのでしょうか。 そんなことでは下がらんと思いますけどなァ。データは知りまへんねん。誰か知ってる 方がいてはったら教えてください。
sage進行でお願いしますわなァ。
ビールのハーフ&ハーフ飲んでまんねん。黒ビールはアサヒの黒生がましですな。 前に、キリンの一番搾りの黒生飲んでみたんやけど、これ、最初からハーフ&ハーフ みたいな色でんねん。やっぱ、ちゃんと黒いビールがよろしいですわ。ホンマは アサヒのスタウトが手に入ったらええんやけど、手に入りまへんなァ。
268 :
没個性化されたレス↓ :02/09/20 02:34
真夜中のこっそりあげ。 ギネスでハーフ&ハーフなんて贅沢を時々やってます。
なんか「精神分裂病と人類」(うろ覚え)みたい。
>269 ヨパライさんは、中井フリークだろう。前の方でも、延々と中井久夫の引用しているからね。
271 :
没個性化されたレス↓ :02/10/14 12:10
真昼間の堂々あげ。 防波堤がわりにしちゃって悪いけど。
272 :
没個性化されたレス↓ :02/10/14 12:32
>>270 中井フリークどころか中井久夫当人だという説もあるが(w
273 :
没個性化されたレス↓ :02/10/26 04:14
贋?中井久夫召還あげ。
274 :
没個性化されたレス↓ :02/11/02 16:58
こちらは精神病理学史だな。
↑ 何のサイトですか?
277 :
没個性化されたレス↓ :02/11/11 06:21
早朝のこっそりあげ。
278 :
没個性化されたレス↓ :02/11/20 01:05
真夜中のこっそりあげ。
279 :
没個性化されたレス↓ :02/12/02 01:33
真夜中の防波堤あげ。
280 :
没個性化されたレス↓ :02/12/02 01:36
最近、ヨッパライセンセは、おかわりないのだろうか。。。
281 :
没個性化されたレス↓ :02/12/02 01:38
真夜中のモッコリあげ。
282 :
没個性化されたレス↓ :02/12/02 01:41
真夜中のスッキリあげ。
283 :
没個性化されたレス↓ :02/12/02 01:43
真夜中の2回戦あげ。
新しい酒屋を見つけましてん。菊姫、黒龍、奥播磨、十四代なんかが置いてますねん。 めちゃうれしいですわ。ことに奥播磨は面白い日本酒ですなァ。いっぺん、飲んでくだされ。 はまりまっせ! 最近は臨床心理とも精神病理ともあんまし関係あれへん仕事ばかしですねん。 精神科リハビリ関係の仕事が多いですねん。今、精神科ケアマネの勉強してますわ。 この際、福祉板に引っ越したほうがええかいな?……
病院・医者板の腐れきったゼニゲバプシコどもの内輪話には、正直反吐が出る思いが致します。 ですから、センセのご降臨を引き続きお待ちしております。 …精神科ケアマネって老人関係ですか?
286 :
没個性化されたレス↓ :02/12/14 13:09
帰ってきたヨパライあげ!
すみません、ゼニゲバプシコの一人でございます。 へどをどうか飲み込んでいただいておつきあい下さいませ。 酔っ払い先生の御講議は拝聴し、大変勉強になっております。 これからもよろしく御教示下さいませ。
288 :
没個性化されたレス↓ :02/12/26 22:04
hoshu
(^^)
保全sage
sage
292 :
没個性化されたレス↓ :03/02/13 23:02
ヨパライ先生降臨期待age
新参者ですが、参加していいでつか?
(^^)
295 :
没個性化されたレス↓ :03/03/24 12:00
真昼の堂々あげ。
296 :
没個性化されたレス↓ :03/03/24 18:22
このスレは精神病理学中心? それとも医療現場の精神療法でもいいの??
>>296 過去ログを読めば精神病理学の話題で終始していることは
すぐわかると思うのだが。
>>297 いや、最近閑散としているから、病理以外の話もいかがかと。
スレ違いになるから嫌がられる、かな?(汗)
既に倉庫逝き寸前だったわけだし再利用するのも良いのでは? ネタにもよるが。 てか、精神療法ってことは精神科医? ちなみにカウンセリング・心理療法叩きが目的であれば 散々概出なので他スレでどうぞ。 個人的には密かに良スレだと思っているので 変なネタで汚すのはいかがなものかと思うが、まあ極々個人的意見ですた。
>>299 >ネタにもよるが。
いやあ、病院臨床での精神(心理)療法の話題をマターリ話し合う
スレがあってもいいかなと。いろんな考え方や見方を
建設的に使うのって大事かなと思うので、ね。勿論、
精神療法と薬物療法の兼ね合いとかA-T Split(今は
managementかな)の話なども楽しいかなと。
>ちなみにカウンセリング・心理療法叩きが目的であれば
そんなのつまんないじゃない?(笑)他のスレで大概なやりとり見てるし、
カウンセリング批判もなんかステレオタイプだし。批判して新しい方法
論でも提示するのかと思えば、単なる担当カウンセラーの愚痴だったりだし。
漏れは精神科治療にとって精神療法は非常に有意義な方法論だと思っているよ。
随分とその知識と技術で助けられたしね。
ま、またーり、またーりとネタを考えておきます。
>>300 >そんなのつまんないじゃない?(笑)他のスレで大概なやりとり見てるし、
>カウンセリング批判もなんかステレオタイプだし。批判して新しい方法
>論でも提示するのかと思えば、単なる担当カウンセラーの愚痴だったりだし。
変に疑ってしまって申し訳ない。時期が時期なので
こちらも警戒せざるを得なくなってしまいます。
296氏が言っているような内容ならば、個人的には非常に興味があります。
何かネタがありましたら振ってみるのもよろしいかと。
ということで、久しぶりにコテハンにもどった
>>296 です。
あ、漏れの立場はPsychotherapyを精神療法と訳ちまつ(笑)。
自分の臨床は、力動的な指向性の精神療法でありたいと考えています。
で、ネタを色々考えていたのですが、まずはよくある話で
精神(心理)療法と薬物療法の併用について、皆さんどうですか?
BPDの限りなく妄想に近い空想に抗精神病薬や経過中出現する
顕著な抑うつ気分に対して抗うつ薬など、心理療法を円滑に
するのに役だっている印象があります。ある程度、薬物で
症候学的な症状を叩いておかないと内的体験に左右されて
言語による洞察が進み難く感じるのですが、感覚的にいかがでしょう?
(有効性に関する論文はもうすでに出ていましたよね?)
このあたり、Administratorの仕事とも考えていますが・・。
303 :
没個性化されたレス↓ :03/03/26 04:59
>300 いちいち断るのが面倒なので、ハンドルネームを作ってみました。以前コンテインメントの 話をしたのと同一人物です。 私ももともと「精神療法」という言葉を使う立場ですが、訳あって数年間日本を 離れています。したがって、浦島太郎なのですが。。。そこで単純な質問ですが、 最近日本ではAT splitという言葉は、あまり使われないのでしょうか?
>302 精神療法と薬物療法の併用については、私は賛成です。というより、薬物療法を 併用しないと治療に乗らない患者さんもたくさんいると思います。 但しこれは、Aの機能として薬物療法がされた場合です。Tが投薬もする、又はAの 存在なしに精神療法をする場合、精神療法がきちんとはできなくなってしまうように 私は思います。日本の場合、これはよくあることだと思いますし、私自身も そのようにやっていましたが。。。
>302 私自身は、AT両方の経験がありますが、個人的にはAの方が難しく感じました。 特に初めの頃は、「こんな人を回して心理の先生にバカにされるのではないか」 「自分の見立てに自信がないので助けて欲しい」「回すより自分で治療をしたい」 「今度こそちゃんとしたロールシャッハを取って欲しい(これは問題外ですが。。。)」 など、複雑な感情を抱いたことを覚えています。 少しずれますが、心理の先生方は、医者から患者さんが回されてきた時、どのように 感じるか、という点について、どなたか書き込んでいただければ、と思います。 特に、「医者に対する遠慮」を除いた本音の部分において。。。この板に、 実際に臨床をしている先生方がどれくらいおられるのかは知りませんが。。。
>>303 お久しぶりです、浦島さん。お待ちしておりました。
>>300 >AT splitという言葉
いや使われていると思いますが、SplitよりもManagementのほうが
よいだろうという論議が出ていたように思います。
splitというと治療スタッフの分裂のニュアンスが強くなるとのことで。
特に治療構造の面で、AとTの治療場面の内容およびクライエンとの情報
をどこまで伝えるか、治療場面での言語的やりとりの内容をいかに
仕分けしていくかが難しいと思います。
>Tが投薬もする、又はAの
>存在なしに精神療法をする場合、精神療法がきちんとはできなくなってしまうように
>私は思います。日本の場合、これはよくあることだと思いますし
これはほんとに困りますよね。ATを同時にせざる終えない場合は苦しいものが
あります。一応面接の最初に症候学的な問診→力動的志向のアプローチ→
身体的なチェックという組み立てでやりますが、はたしてどうやらというところです。
>>305 精神療法の志向性があると、「Aに徹する難しさ」がありますよね。
私の考えでは、Aは精神療法のセッティングを含めた構造を維持する
役目ですから基本的に「裏方」ですね。「父性」というものを感じて
しまいます。
漏れがAのときに(6年ほど前ですが)、Tに対してEnvoiusなものもあ
ったかもしれませんが、T側は上手にやり過ごしてくれて助かった覚え
があります。そのあと、漏れのかみさんになってたりしますが(笑)。
>306 >ATを同時にせざるをえない場合 実は私自身、以前はあまり考えずに簡単に「薬物療法も併用した」と書いてきました。 幸い、というか何と言うか、今まで誰も真剣に突っ込んでくれなかったのですが。。。 考えてみると、「薬物の増減」というのは、治療者にとって自分の感情をごまかすために 使いやすい手段だと思います。「患者さんをうまく治せない申し訳なさ」「よくならない 患者さんに対する(理不尽な)怒り」などの感情をごまかすよい方法の一つは、 薬物を増量することだと思いますので。(私について言えば、入院患者さんの場合は、 「看護婦さんたちの不安を減らしたい」という動機で増量したこともあったように 思いますが。。。これは別の話ですね) 北○研究所(「精神力動的精神療法をしていると思いますが。。。実は現在もあるか どうか知らないのですが。。。)では、私費で投薬もする、という話を聞いたことが あります。実際のところ、「自分で投薬しながら精神療法をする」という問題を、 どのように扱っているのか私は非常に興味をもっています。
>307 >漏れがAのときに(6年ほど前ですが)、Tに対してEnvoiusなものもあった かもしれませんが、T側は上手にやり過ごしてくれて助かった覚えがあります。 そのあと、漏れのかみさんになってたりしますが ということは、その患者さんは、A-P Psyさん(父親)と奥様(母親)との間に 生まれた「(象徴的な)子供」ということになりますね。。。 その後その患者さんがどうなったのか、興味深い話ですね。(質問ではありません。 単なる思い付きです。念のため) 私がAとして最もよい関係がもてた、と感じたときのTは、ほぼ同世代の男性の 心理の先生でした。ということは、私はホモだということか。。。よく「安月給」の 愚痴を聞かされたことを覚えています。
>AT splitという言葉 >使われていると思いますが、SplitよりもManagementのほうが よいだろうと いう論議が出ていたように思います。 splitというと治療スタッフの分裂の ニュアンスが強くなるとのことで。 書き忘れていましたが、ありがとうございました。確かにその通りですね、 勉強になりました。
311 :
没個性化されたレス↓ :03/03/27 05:20
>>308 >「薬物の増減」というのは、治療者にとって自分の感情をごまかすために
>使いやすい手段だと思います。
ほんとに、薬はそう思います。ある意味「プレゼント」ですよね。
それにTh.の様々な想いが投影されているという・・。
ただ、客観的現実として幻想や抑うつがつよ過ぎるか、もしくは
自我機能が脆弱でworking throughできないような場合は治療が
継続出来なかったり、言語的・非言語的交流ができない状態
になりますよね。特にAのみに専念していた時にこれが非常に分かりやすい
かたちで見えました。
一者関係に退行?を避ける為に薬物を使用していたイメージがあります。
そういう意味ではTh.の投影を避けた症候学的な判断がA側には
しやすい条件がそろっていますよね。
>入院患者さんの場合は、「看護婦さんたちの不安を減らしたい」という動機で増量
私もやってますねぇ、思いっきり(笑)。どうしても入院のセッティングはDoing
が優位にならざるおえないし、「入院における責任」というのも生じますので。
このあたり、Basic Assumption Groupの概念が主治医を守ってくれたりしますね(笑)。
ちなみに北○先生は大学に戻られたような・・。
>>309 >単なる思い付きです。念のため
ご配慮有難うございます。
結局、私が途中転勤し、後輩のAに渡したあと、終結したケースで
結婚はそのあとなので(笑)A-T間のプライベートにより混乱
する事は無かったようです。
でもこの「象徴的な子供」に関しては「親」が育てられたと思います。
A-T managementの構造が曖昧になると(勿論、直接的な価値下げなどは
してないのですが、A側のセッションで精神療法的になると)、顕著な退行
を引き起こしやすくなるなど、本当に勉強させていただいた症例ですね。
まあ、この構造を揺るがす病理水準であったという事なんでしょうが。
>よく「安月給」の愚痴を聞かされたことを覚えています。
いいですねぇ、自由に話せるTh.との治療チームの仕事はわくわくしますね。
続編キボン
インターネット上で見る限り、最近日本ではいわゆる「カウンセリング」を行うところが 増えてきているようですね。しかしネット上だけで判断すると、かなり「あやしい」 ところが多いように思います。「あやしい」ところ程、ホームページをもつ必要があると いうだけのことかも知れませんが。。。 そこで質問なのですが、実際のところ、日本では現在、精神療法に対する患者さんの 側の需要は増えているのでしょうか?そしてそういう人は、あまり精神科を受診 されないのでしょうか?(まあ、あまりたくさん来られても、さばききれないでしょうけど) あと、例えば総合病院の精神科(大学病院も含む)などで、「ある程度ちゃんとした治療の 出来る人」の情報を集めて提供する、などのことは行われていないのでしょうか? (どうしても自分の医局中心になってしまうのは許してもらうにしても) よろしければれば教えてください。
>>315 >日本では現在、精神療法に対する患者さんの側の需要は増えているのでしょうか?
>そしてそういう人は、あまり精神科を受診されないのでしょうか?
極めて限られたソース(n=1(笑))からの情報ですと、需要は増えているそうです。
ただ、公開SVにでるようなcaseはドラマティックで、たいがいPharmacotherapy
を併用されているようです。このあたり、開業の先生とうまく連携されているよう
ですね。
やはり、時間の関係や精神療法の親和性もありなかなか精神科医の構造化された
精神療法は難しいようです。
まあ、私の近辺での情報ですのであまり信用しないでください(笑)
>総合病院の精神科(大学病院も含む)などで、「ある程度ちゃんとした治療の
>出来る人」の情報を集めて提供
これに関しては、児童・思春期外来という形でそこそこ旗揚げされていますが、
精神療法で「ちゃんとした治療」されているのかどうかは分かりません(笑)
勿論、「きっちりされているとこもあれば、いまいちのところも」というあり
きたりの答えになってしまいます。ネットでも各病院が旗揚げしているところ
はありますが、この情報を統括しているようなところはないですね〜。
私自身もある程度構造化した面接は入院のみですし、尚且つ対象がア症という
ことで暗中模索を繰り返しています。
このスレ、非常に書き込みたいのだが 自分の臨床実践について書くと、自分の素性がばれる可能性が高いわけで・・・ というわけで当分静観させていただきます。
>>317 んなこといわずにさあ、コテハンでなくてもいいから書き込んでYO!
楽しみにしてるよん(ぴ〜す)
正直に言うと、少しでもいろいろな方が書き込みたくなるようなネタを振ろうとして いるつもりです。 >316 >精神科医の構造化された精神療法は難しいようです。 精神科医が「構造化された精神療法」を自分の臨床の中心に据えようとした場合、 「個人精神療法」だけでなく「集団精神療法」も同時に行わなければ、少なくとも 経済的には引き合わないでしょうね。しかしそれでも、「普通の精神科医」として 働いた方が、ずっと楽にたくさん儲けられる、という問題がありますが。 但しこれは、日本だけの問題ではないと思います。「一生懸命苦労して訓練を受けて 精神療法家になった方が、儲からなくなる」というのは、精神科医にとっての宿命の ようです。その他の職種の方にとっては、必ずしもそうではないようですが。 結局、「自分がその仕事をやりたいからやる」というだけのことだと思います。 これは、(失礼ながら低収入で)現在病院に勤務しておられる心理の先生方にも、 ある程度当てはまることかもしれないですね。但し心理の先生の場合、開業して経営が うまくいけば収入が上がる、というメリットはあると思いますが。(医者の場合、 精神療法だけで開業すると、確実に収入は下がります。したがって、あまりそういう人は いないでしょうね)
>316 >316 AP Psyさん、お答えどうもありがとうございました。
>>320 あまり、役に立たない回答ですいません。
>「集団精神療法」
事情で時々(というとアバウトなのですが(汗))、ア症のセッションに
入ることがあります。基本的には「いいっぱなし」「聞きっぱなし」
の構造をとるので、力動的な介入は難しいですね。唯、あまり、活発な
メンバー間のやり取りは、侵襲的になることがあるらしくて、この構造
も悪くないなと思っています。
メンバー間の交互の言語的な交流がないので介入自体はあまりできていませんが
前言語的な集団力動を見ていけたらなと四苦八苦しています。
#この構造だと、基底欠損グループにはなりにくいみたいですね(印象ですが)。
私の言う「集団精神療法」とは、「精神分析的集団精神療法」(=治療者が基本的には、 直面化、明確化、解釈しかしない)を指しています。正直に言って私自身、以前は 「集団精神療法」をあまり面白いとは感じませんでした。「個人精神療法」と違って、 「感動できる」ような、「集団精神療法」についての論文や報告に出会ったことがなかった、 ということも関係していたと思います。 そして「直面化、明確化、解釈のみでグループが維持できる」という考え方自体にも 懐疑的でした。その後いろいろありまして(あいまいですみません。身元を明かしたく ないため)最近は「精神分析的集団精神療法」を評価するようになってきていました。 しかし心のどこかで、「個人精神療法」よりも「集団精神療法」を低く見ていたのも 事実だと思います。 最近、「グループ分析家」による実際のグループ経過の報告を聞く機会がありました。 私にとって、「グループ分析家」の報告を直接聞くのは初めての経験でしたが、、、 感動しました。グループの中で、恐ろしいほどに生き生きと感情の交流がなされて いました。そして、以前自分が「集団精神療法」を面白いと感じていなかったのは、 単に自分が無知であったためだと気付きました。 私に知る限り、このような形の「精神分析的集団精神療法」は、あまり日本では行われて いないように思います。現在、その研修を受けておられる日本人の方もいるようですので、 これから日本でも、このような集団精神療法が増えていくといいなと思います。
>>321 すみません、ア症とは何でしょうか?教えてください。
もし痴呆(アルツハイマー)という意味でしたら、
「精神分析的集団精神療法」(ビオンの行ったようなものを含む)には、
あまり向いていない方々のように思います。SSTのようなグループの方が、
よりふさわしいように私は思いますが。。。どうでしょうか?
324 :
超真剣です!!!聞いてください!!! :03/04/02 05:21
突然失礼します!!!自己中ですが、伝えずにはおれません。許してください!恨まないでください!愛ゆえの行動です。彼女の超悲惨な死をなんとしても無駄にするわけにはいかないのです。 日本最大超残忍事件!!!!! (「絶対」忘れてはならない事件です!!!) 女の子が40日間渡って監禁され、計100人ぐらいに強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。(深くかかわったのは5,6人) 膣を灰皿代わりにされ、自慰(オナニー)を強制され、 真冬に裸で外(ベランダ)に出され、裸で踊らされ、膣やお尻の穴に鉄の棒を突っ込まれ、20キロの鉄アレイで殴られ、瞼にろうそくをたらされ、 膣にマッチ棒を入れられ、膣の中のや裸体をライターで火あぶり、精液を大量に飲まされ、500ccの尿を飲まされ、基礎の他むちゃくちゃ。(生きてるか死んでるかわからないが)ゴキブリも食わされたそうだ。 殺された彼女の親友が言うには、監禁され殺される一日前、幽霊となって「助けて!」と親友に助けを求めたが、親友はどうすることもできず、泣きじゃくった。 「狂宴犯罪」は 一ヶ月以上 続いた 。 そして殺された。 死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。死体には髪がなくなっていた。40日間の監禁で極度のストレスのあまり全部髪が抜け落ちた 死体の膣(マンコ)にはオロナミンC2本、入っていた。 「裁判記録」は死ぬほどエグイ内容であった。「コンクリート詰め事件」で検索すればわかる。 (俺は何時間も涙が止まらず、夜も何日も眠れなかった。たとえ99.9%の人が幸せでも残る0.01%の人が(超)不幸なら、そんな世の中、絶対承認しない!!!!!そんな世界いらない!!!!!絶対いらない!!!!!)(私の心の底からの叫びでした。)
>>322 浦島さん
えー、曖昧な略語ですいません「ア症」=「アルコール依存症」です
基本的に自助グループ(海外ですとAAのみですが、日本だと断酒会
とAAの2種類に患者会があります<このあたりは私がいうまでもないですが)
に導入することを意図した集団精神療法セッションですので
メンバー間の交流の構造はこの自助グループの形態にあわせてあります。
「対象関係集団精神療法」はガンザレイン氏がかかれていますが、すごく生き生き
したやり取りが書かれていますよね。すごすぎて、ただただため息が出るばかりです。
「精神分析的集団精神療法」に関しては、あまり発表を見せていただいたことがないですね。
某セミナーで治療スタッフのミーティングに「全体としてのグループ」を適応されている
K大学病院の先生の講義を聞いたことがあります。
集団の凝集性という意味では、私がかかわっているセッションは構造的にも
起こりにくいのかな?その意味では侵襲的ではないということになるのですが。
ロナルド・ブリント著の「信念と想像:精神分析のこころの探求」を読まれた方は いらっしゃいますか? この本、買うかどうか思案中なのです。
>>326 まだ一章しか読んでないけど結構面白いよ。
一章は信念の形成が書いてあって「なるほど」と思いまちた。
第2章はBionの概説(コンテインメントが中心)にまとめてあります。
第4章のクライン派からみたエディップス状況というのが白眉の
論文だそうで(まだ読んでまてん)、対象関係論に興味があるの
でしたらいい本だと思います。
なんといっても松木先生が監訳されてますし(って、ミーハーだな(笑))。
>>325 アルコール依存症の方は、基本的には「精神分析的精神療法」の適応にならない、
と私は考えています。したがって、「依存症」の治療が終わって始めて、アセスメントを
開始することになると思います。(これは、わりに一般的な考えだと思います。)
なぜならば「アルコール依存症」の方は、「我慢して言語化する」よりも、
「酒を飲んでしまう」と考えられるからです。
逆に考えれば「アルコール依存症」の方に対して、「精神分析的集団精神療法」を
行うことは難しい、ということになると思います。
ところで恥ずかしい話ですが、私はアルコール依存の方の治療はほとんど経験があり
ません。(勤務していた病院の関係で)したがってその治療について、ほとんど知りません。
もしよろしければ、どのように治療していくのか教えてください。もちろん体系的には
無理でしょうから、A-P Psyさんの気が向いただけ、適当に、で結構です。(外来でも入院でも
かまいません)常識として知っておきたいだけですから。。。
>>326 実は私は全く読んでいないのですが。。。ただ、ブリトンは、「彼が書いて
いるなら面白いに決まっている」と言える位の大物だと思います。
あとは翻訳ですが、、たぶん古賀先生はきちんと訳されていると思います。
保障は出来ませんが。。。
330 :
没個性化されたレス↓ :03/04/04 04:22
>>328 治療プログラムは後ほどまとめて書かせていただくことに
します。
>基本的には「精神分析的精神療法」の適応にならない
これに関しては浦島さんの「精神分析的精神療法」が
厳密に定義されておられるので分かりませんでした。
ただ、Gabbardの"Psychodyanamic Psychiatry in Clinical
Practice-The DSM-IV Edition-"では、個人および集団精神療法で
力動的な精神療法が有効である旨記載されています。ただ、力動的な
集団精神療法は補助的であるそうですが・・・。
他の文献ではアルコール依存症のClが境界例構造をもつものが多いという
報告もあるのでなるほどなぁと思いました。確かに自己表象が不安定な
Clが多いですな。
>>327 >>329 アドバイス、ありがとうです。ブリトンの本を買い求めてみる決心がつきました。
私はまだまだ厨房ですが、対象関係論、特にクライン派に関心があります。
クライン派といえば、スタイナーの「こころの退避」も読んでみたいのですが、
これは今、品切れ状態でなかなか手に入りません。先生方の中で、ご存知の方が
おられたら、またご教示いただけたらと思います。
横レス、失礼しました。
>>328 >もしよろしければ、どのように治療していくのか教えてください。
一応、久里浜方式でやっています。
まず、外来治療では、基本は「継続的な断酒」を目標とし、
離脱症状(抑うつや自律神経症状などの早期症状を含む)
に対する薬物療法、精神療法(これは各担当が様々に工夫してやっています)、
抗酒薬(シアナマイド・ノックビン)の投薬、自助グル-プの勧奨などです。
入院のセッティングですと、自由意思による入院である事を前提とし、
外来のメニュに加えて、アルコール教育講座、農耕などの
作業療法、過去を振りかえりながらの長距離の歩行などの運動プログラム、
集団精神療法があります。基本的にPsychoeducationを中心とした入院に
なりますね。他のアルコール専門病院では認知行動療法も導入されている
ようです。
私自身の感触ではどうもBPOと思われるような人格構造の方が多い印象が
あります。ですので力動的な個人精神療法がその他の治療方法を維持す
る上でも大事かなと思っています。
アルコール依存は「否認」の病気といわれますが、よくよく見てみると
活発な投影性同一視を用いているような例が多い気がします。Bad self-object
をコンテインできずに吐き出すかアルコールを使って麻痺させるか
どちらかの印象が強いですね。このあたり、斎藤学先生が力動的な
観点から一時書かれていましたが、最近はあまりいい本が無いですね〜。
最近は、A-P Psyさんと浦島さんのディスカッションが面白うて、ROMしとり ました。ちょと一言させてもらいますわ。 確かにアルコール依存症ではアクティングアウトのパターンは、原始的な防衛 機制が多い印象がありますわな。しかし、アルコール依存症の方は結構NPOの 方が多いのではと思うとります。中井久夫センセの「看護のための精神医学」で 中井センセは、アルコール依存症の方は「超自我が重すぎる人」が多いと書いて はったと思いますが(間違うてたらスンマセンな)、確かにそういうお方が結構 おると思いますわ。こういうお方は、重すぎる超自我を活発に投影しはります。 奥さんがこの重すぎる超自我の投影を引き受けはることがしばしばですわ。 治療者が引き受けてしまうこともようありますわな。この辺が、アルコール 依存症の患者さんを前にすると、つい説教してまう原因かと思いますわ。
335 :
没個性化されたレス↓ :03/04/05 00:56
説教いやーん
>>334 ヨパライさん、どーもです。
>アルコール依存症の方は結構NPOの方が多いのではと思うとります。
確かに、「飲む」という事実の象徴的な理解として「口唇期固着」
とNPOが示唆されますよね。漏れも一時、その様に感じていたのですが
NPOに多い「万能的ではあるがある程度安定した自己表象」は逆に少ない印象が
あります。漏れのNPOの理解不足と言う問題なのかもしれませんが(汗)。
サンプル数が少なくて漏れの印象どまりなのですが、ア症の方は、自己表象
としての不安定さが目立ちます。漏れが"BPO"といったのは意外と同一性の
障害を持つ人が多いのではないかと言う印象とGabbardの本に書いてあった(笑)
為でつ。
で、万能的な自己表象を守る為に、躁的防衛や投影性同一視を活発に駆使する
印象があり、これがいわゆる「否認」として映るのかなと愚考しています。
最後の2行は漏れ自身の印象なので信憑性のない印象ですが(汗)
>>332 >スタイナーの「こころの退避」
あまり悪口は書きたくないのですが、この翻訳はお勧めしません。読んでいるうちに
訳がわからなくなって頭がおかしくなってきたことを覚えています。
ただ、この本そのものは非常に読む価値があると思います。精神病など重症の人を
クライン派がどのように理解するか、という事に関する理論の一つです。
できれば、原書で読まれることをお勧めします。
John Steiner,"Psychic Retreats", London: Routledge
>>333 >力動的な個人精神療法がその他の治療方法を維持する上でも大事かなと
思っています。
考えてみれば、「アルコール依存症」を治療するためにきちんと通院されて
いる方、入院中の方は、「現在酒を飲んでいない」訳ですから、そのような
人たちに「精神分析的精神療法」「精神力動的精神療法」を行うことは理屈に
合うわけですね。そのような人たちを治療した経験があまりないため、
気付きませんでした。ありがとうございました。
>>336 334番でヨパライさんの書かれているNPOは、カーンバーグの言う「高次の人格水準」
(いわゆる「神経症レベル」)(つまり、「原始的な防衛機制」を使わない、
比較的「健康な人」)という意味のように思います。A-P Psyさんは、
少し違う意味で使っておられるように私は感じましたが、違うでしょうか?
>>339 ちなみにこのあたりは、カーンバーグ、自己心理学、対象関係論などの概念が
入り混じっており、やや混乱している領域だと思います。
例えばクライン派や独立学派においては、NPOやBPOという概念が存在して
いません。なぜならば、投影性同一視を、健康な人にも普通に見られる
防衛機制と考えるからです。(つまり、BPO水準以下の人たちのみが用いる
「原始的防衛機制」とは考えない)これらは便利で役に立つ概念だと
私は思うのですが。。。
カーンバーグの理論は厳密には対象関係論ではなく、自己心理学に対象関係論を
振りかけただけだ、といわれる理由の一つがこれだと思います。
>>340 すみません。まちがえました。
自己心理学に対象関係論を振りかけた→自我心理学に対象関係論を振りかけた
342 :
没個性化されたレス↓ :03/04/05 21:11
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>>339 m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m
すいません、私NPOのNをNarcissisticと勘違いしていました。
ご指摘有難うございました。
>「アルコール依存症」を治療するためにきちんと通院されて
>いる方、入院中の方は、「現在酒を飲んでいない」訳ですから、そのような
>人たちに「精神分析的精神療法」「精神力動的精神療法」を行うことは理屈に
>合うわけですね。
とりあえず診察日には「飲酒して来ない」というのが原則となっています。
唯、境界例の行動化と同じように飲酒を使う人が多いですね。私自身は
「飲酒行為」を行動化と考え、直面化するようにしています。
ただ、流石にプレバーバルな面で十分に抱えないと「懲罰的な超自我」の代理物
みたいになってしまうので介入には物凄く気を使います。
#周りのスタッフが直面化のなのもとで「高圧的なあげつらい」になって
#いて、はらはらする事も多いのですが(笑)
日本では、コフート流の立場で臨床しているDr.やCPは、どのくらいの割合 いるのでしょうか。
スンマヘン。NPO=neurotic personality organizationですわ。省略せんと、 きちんと書かんとあきまへんな。 >343 「高圧的なあげつらい」は逆転移でしょうなァ。アルコール依存症の 方とニュートラルな対話をするんは、時には至難の業になることもありますわなァ。 このへんが、321>「アルコール依存症のセッションは言いっぱなし」のほうが 逆転移をまぬがれて運営するための一つの工夫やったんやろなと思うとります。
>>345 ヨパライさん
えいえ、こちらの不勉強でしたm(_ _)m
>「高圧的なあげつらい」は逆転移でしょうなァ。
家族に対するアプローチをせざるおえないので
患者自身より家族(特に妻)に肩入れする場合が多いですね。
患者=加害者、家族=被害者の図式になりやすく、アルコール依存「症」
を疾病モデルでなく倫理モデルで対応してしまうことが多いようです。
>>344 >日本では、コフート流の立場で臨床しているDr.やCPは、どのくらいの割合
いるのでしょうか。
実はよく分からないので、以下は無責任な書き込みです。すみません。
意外と多いんじゃないでしょうか?自分の経験からいっても、コフートの理論は
「分かりやすい」(彼の言葉では「経験に近い」)と思いますので。。。
350 :
bloom :03/04/08 09:20
ヨパライ先生は もと十字軍の人ではないかと ふと思うのであった。
ん〜、ちと某スレで熱くなって反省&何となく精神療法の事を書くのが気が引ける A-P Psyです(自嘲)。 でも、かひてしまう・・・。 で、ネタ振りなのですが、 皆さん、治療構造は臨床場面の中でどのように役立てておられますか? 特に、行動化に関して治療構造の意義というのを少し考えさせられる事が あったので取り上げてみました。 #決して契約を守らせる事が治療的ではないと思うのですが・・・。
353 :
没個性化されたレス↓ :03/04/11 23:45
失礼
>>354 は漏れです。
ちと
>>352 の書き方が悪かったですね。スマソ。
#決して契約を守らせる事が
というより
#契約を守る守らないで雲泥する事が
に直します。いや勿論、枠として守る事は治療の継続を維持する事として
大事なのは分かっているのですが・・・。
356 :
没個性化されたレス↓ :03/04/12 00:55
>>355 臨床心理士の資格は持ってますか?
かけもちのお仕事?
ボーダーってやりにくい?
>>356 もう一つ質問の意図が分かりにくいのですが・・
>臨床心理士の資格は持ってますか?
いいえ、もってません。
>かけもちのお仕事?
管理医と精神療法担当を兼任をせざるおえないのでかけもちといえば
かけもちですね
>ボーダーってやりにくい?
BPDは勿論、BPOもやはり難しいですね。
ただ、最近直面化を行う場合の、構造の意味について少し考える所があったので
ネタふりしたまでですが。
ちなみに私は治療契約(時間・場所・期間)などについては厳密な方ですが。
>>358 どーも。まあ、今更ながらの治療構造論なのですが(笑)。
いや、精神療法のセッションの「中」で、この治療契約をどのように使われていますか?
というネタ振りです。古典分析などでは「支払いの遅れ」や「自由連想が滞る事」
などが抵抗として取り扱われていますしね。
最近、いわゆる「自傷行為」に分類される行動化が相次ぎ、すこし考える機会が
ありました。確かに「自傷行為」などの行動化は治療構造を脅かすものであり、
以前は『「契約(自分が傷つくような行為はしない)」と言う概念ではなんと
もできなかったな』と行動化の時点で治療構造が破綻したような感覚が強かったの
ですが、少し考えが変わってきました。すなわち、「約束(契約)したのに、
そうせざるおえないあなたの心の状況はどうだったの?」と伝えた場合に、
Clが「約束していたにもかかわらず、それを超えて無茶なことをせざるおえない
その心のうちの有り様」ということに目をむけやすいかなという印象が強くなりました。
行動化した後の治療構造の役割というか・・・。治療の契約が明確出ないと
結構「なんとなく」「おぼえていない」と言う答えが返ってきてがっくりする事が多いの
ですが。
ちと、このあたり空想してみた次第です。
いやいや、今更どころか非常に重要な概念ですよ。 私の専門はシステマチックな方の家族療法なので、内面的な事には深くは立ち入らないために A-P Psyさんとは治療構造の使い方は若干異なりますね。 私の場合目指している形は、それぞれの家族に対して治療契約・構造を微妙に使い分ける、というのが理想です。 その家族にとって厳格すぎたり、逆にルーズすぎたりする治療契約は家族が治療構造に乗るための障害になり、 ジョイニングが困難になるという考えからなのですが。 しかしインテークの最中にどのような治療契約の形態にするのか、という判断は正直難しいところではあるのですが。
>>352 某スレで熱くなって反省
某スレで書かれていた方は、おそらく精神分析のトレーニングを受けている人では
ないと私は思います。きちんと分析を受けて、ちゃんとそれを利用できている方で
あれば、「自分だけが特別なもの(この場合は精神分析を受けること)を持っている」
といって「それをもっていない人を見下す」事は決してしないと思いますので。
362 :
没個性化されたレス↓ :03/04/12 07:34
それは理想論。外国では訓練受けてないとわかると、びっくりされて相手にされない。あからさまに見下される。 というか、関係ない人にされ、分析の話にいれてもらえない。そういう感じだった。 ちゃんとしたところで訓練受けているひとはとくにそうだった。 彼らからすると、訓練受けてない人に何をいってもしかたないし、そういう人が何を言おうと聞いてもしかたないらしい。
>>359 また大きな問題ですね(笑)。きちんと書こうとするととんでもないエネルギーが
必要になりそうなので、359番を読んで思いつく範囲で書かせていただきます。
>「約束(契約)したのに、 そう(行動化)せざるをえないあなたの
心の状況はどうだったの?」
このコメントは、精神力動的精神療法の文脈では良い介入だと私は思います。
なぜならば、患者さんの行動化についてできるだけ中立的な(特に、批判的
でない)立場で取り上げて、その意味を一緒に考えようとしているからです。
精神力動的精神療法(この場合、精神分析も含む)において行動化を取り上げる
場合、治療者の以下のような誤った行動を正当化してしまう危険性があると
私は思います。
<1>治療者の考えを一方的に押し付けてしまう
これは「抵抗」という用語そのものにも含まれている問題だと思います。
つまり「患者は滞りなく自由連想をすべきだ」という考えを治療者が持って
いたため、「患者の沈黙」を、「患者が『抵抗』している」「とんでもない
患者だ」と治療者が感じて、思わず「抵抗」という言葉を使いたくなったとも
考えられるからです。(特に初期のフロイトのことを指しています)だからこそ
初期のフロイトは、「いや、何か浮かんでいるはずだ」といわば「患者を尋問(?)」
したのだと思います。
力動的精神療法の実際のセッションにおいては、「セッションの中に『患者の沈黙』
というものが存在していること」を、できるだけ批判的にならないように指摘
して、その沈黙の意味を患者さんと一緒に考えていこうとするべきだと私は
考えます。
>>363 続きです。
<2>治療がうまくいかない治療者のイライラを患者さんにぶつけてしまう
「自傷行為などの行動化は、治療構造を脅かす」という表現をよく目にしますが、
私はそこに「治療者側のイライラ」を感じざるを得ません。つまり「この患者が
行動化するから治療がうまくいかないんだ」というわけです。
実際のセッションでは、「自傷行為などの行動化によって、患者さん自身が
利益を得られるはずである治療そのものが、危険にさらされてしまっている」
という事実を、やはり批判的にならないように指摘し、そのことについて
一緒に考えていこうとするべきだと私は思います。
これらのコメントはもちろん、「現在その患者さんに対して、精神力動的精神療法を
行っている」という前提で書いていますので念のため。
SAGE進行で。
>>362 >外国では訓練受けてないとわかると、びっくりされて相手にされない。
あからさまに見下される。 というか、関係ない人にされ、分析の話にいれて
もらえない。そういう感じだった。
どんな経験をされたのか私にはわかりませんが。。。実は私は現在「外国」に
住んでいますが、そのようなことを経験したことはほとんどありません。
こちらへ来た当初は、今から考えれば語学の問題で、被害的に感じたことは
ありましたが。。。
もしあなたが本当に分析のことをご存知でしたら、362番の記述がPSポジションに
なっていると私が指摘することは、役に立つかもしれないですね。
367 :
没個性化されたレス↓ :03/04/12 12:52
> それは理想論。外国では訓練受けてないとわかると、びっくりされて相手にされない。あからさまに見下される。 というか、関係ない人にされ、分析の話にいれてもらえない。そういう感じだった。 ちゃんとしたところで訓練受けているひとはとくにそうだった。 彼らからすると、訓練受けてない人に何をいってもしかたないし、そういう人が何を言おうと聞いてもしかたないらしい。 外国だけでなく日本でもそうです。 「外科手術をしたこともないものに、手術のことがわかるわけがない」と 露骨に研修会で言い放った、IPAの正会員を知っています。 精神分析を外科手術と同一視すること自体が原始的過程、あるいは かれの教育分析が不十分であったことの傍証だと思いますが。 ところで、これまでのアルコールの集団療法のご意見は 大変勉強になりました。
368 :
没個性化されたレス↓ :03/04/12 13:11
>>352 >某スレで熱くなって反省
私も、精神療法を勉強したいので某スレをえ教えてくだはい。
お願いします。
>368 ◆…器◆のことぢあない?
370 :
没個性化されたレス↓ :03/04/13 00:18
>>367 外科手術と分析はけっこう多くの人がつかっているメタファー。
分析家を外科医にたとえたフロイト以来ね。
それを「同一視」とみるのは要するに、具体思考なんではないかな。もしくは馬鹿か。
>>367 精神分析とは、「誰かある人(例えば患者さん)が、例えばPSポジションなどの
『原始的過程』で機能していることを批判したり、また、より高次の段階で機能する
ように教え諭すもの」ではない、と私は思います。
ある人が例えばPSポジションの状態にある場合、その人が今感じていることを理解して
受けとめることを通して、精神的に苦痛を伴うその状態から、その人が自分の力で
何とか脱出出来るように手助けする、という営みが、精神分析の一面だと思います。
そして「ある人」が、「その人らしい人生」を一層楽しめるようになることが、
精神分析の大きな目的の一つだと私は考えています。
そして、「PSポジションという状態が苦痛を伴う」ということをなぜ分析家が知って
いるかというと、自分もそうだったからだと思います。そしておそらく分析家の資格を
とった後でも、しばしばそうなってしまうからです。ただ「教育分析」を受けてきた
結果、そこから脱出することが少し上手になっている、というだけのことだと思います。
>「外科手術をしたこともないものに、手術のことがわかるわけがない」
「精神分析は、知識のみを勉強しても本当に理解することはできない技術である」
という意味では、このたとえ自体はわりに適切なものではないか、と私は思います。
その前後の文脈は全く分かりませんが。
PSポジションの苦痛について、もう少し教えてください。 抑うつ態勢における「こころの痛み」との相違点は、どんなものでしょうか。
>>372 PSポジションの場合、例えば以下のような苦痛があると思います。
「ある人たち(又は周りの人すべて)によって自分は批判されている」
「ある人たち(又は周りの人すべて)によって自分は見下されている、バカにされている」
それに対してDポジションでは、例えば次のような苦痛があると思います。
「自分の能力には限界があり、自分のできることには限りがある」
「自分のしてしまったことは受け入れ、その償いをしなければいけない。しかし、
自分のしたことを全くなかったことにすることは出来ない」
したがって前者では、「とにかく自分を守るために周囲を攻撃する(本人の気持ちの
中では『反撃する』)」という反応につながりやすいと思います。そして後者は
「つらいことも多い現実を受け入れて、成長していこう」という反応につながりやすいと
思います。
以上は、ごく簡単に書いただけですので、詳しくは「対象関係論を学ぶ」
(松木邦裕)(岩崎学術出版社)などを御参照ください。
>373 いつも日常用語におろした解説を、ありがとうございます。自分の体験にことばが与えられる思いが、いたします。
ご教示ありがとうございました。 実際の人の心の中では、PSポジションの中にもDポジション的な色合いがあったり、 Dの中にもP的な色彩が含まれたりする場合もあるのでしょうか。 これは、疑問というより、なんとなくそんな気がするという程度の試験ですが。。。 乳児に限らず、大人になっても、PとSの間を行きつもどりつするという捉え方は、 納得できるものがありますが、それは実際の臨床的にも当てはまるものなのかどうか、 またご教示いただけたらと思います。
>>375 >PSポジションの中にもDポジション的な色合いがあったり、Dの中にもP的な色彩が
含まれたりする場合もあるのでしょうか。
「一つのセッションの中で、PとSの間を行きつもどりする」ことはあります。また、
「その人が、どの程度Dポジションになっているか」もあると思います。そして、
「抑うつ不安をPSポジションで経験する」もあると思います。
しかし、「PSポジションの中にDポジション的な色合いがある」例については、私は
具体的に思いつくことが出来ませんでした。
もし具体例がありましたら、教えてください。
>PとSの間を行きつもどりつするという捉え方は、・・・実際の臨床的にも
当てはまるものなのかどうか
というよりも、精神分析の「実際の臨床」を観察した結果をまとめたものが、
「PとSの間を行きもどりつする」という表現だと思います。
そして、念のために書いておきます。精神分析の理論はどれもそうですが、実際の
セッションをするにあたって役に立つ理論はないと思います。より正確に言うと、
実際のセッション中に理論を用いるようでは、精神分析又は精神分析的精神療法を
しているとはいえないと思います。
精神分析における理論は、(例えば論文を書くために)セッションの後それを
まとめようとした時に、セッション中に何が起こったかを説明する枠組みを提供する、
という役割しかないと私は考えます。
>>376 すみません。まちがえました。
PとSの間→PSとDの間
3ヶ所もあります。。。
>>359 自分の臨床実践の環境を明らかにしなくとも入れそうなので参戦。
>「約束(契約)したのに、そうせざるおえないあなたの心の状況はどうだったの?」
>と伝えた場合に、Clが「約束していたにもかかわらず、それを超えて無茶なことをせざるおえない
>その心のうちの有り様」ということに目をむけやすいかなという印象が強くなりました。
それが「治療契約を治療的に有効に用いる」ということなのではないかと思います。
A-P Psy氏も書かれたように、治療契約とは「守らせることが重要」なのではなく
その契約が存在することや治療契約に対してCl.がどの様に反応するのかが重要でしょう。
とはいえ、治療契約が明確であっても、上記の様な質問をした場合に
>「なんとなく」「おぼえていない」
という答えが返ってくることも多々あるように思われます。
・・・というのは私の面接が下手だからということもあるとは思いますが。
自分の能力の問題はさておき、結局何らかの「枠」がないと
psychotherapyなんてのは不可能だというところが重要なのではないでしょうか?
枠がある中で行うからこそ、そのCl.の独自性が明確になり
それに対して介入することが可能である、と。
もし枠がなかったとしたら、そこで生じた現象がCl.の個別性によるものなのか
治療場面という場の特殊性によるものなのか判断するのは難しいと思います。
そうした意味では
>>376 で浦島氏が仰っている
>精神分析における理論は、(例えば論文を書くために)セッションの後それを
>まとめようとした時に、セッション中に何が起こったかを説明する枠組みを提供する、
>という役割しかないと私は考えます。
というのは正にその通りだと思います。
いっぱいレスしたいんですけど 体調不調の為、また後日・・。スマソ・・。
>>379 >何らかの「枠」がないとpsychotherapyなんてのは不可能だというところが
重要なのではないでしょうか
その通りだと思います。そして「治療構造を維持すること」は、「治療者としての
自分を維持すること」である、というのが私の意見です。正確に言うと「現在の私の
課題」なのですが。。。
一例をあげます。いつもセッションに遅刻し続ける患者さんがいるとします。
そして「遅刻するということ」は、「治療をうまくいかせるために、治療者が
患者さんにして欲しいと期待することに反している」ということは、治療者が以前
指摘しているため、明らかに患者さんは知っています。
>>381 続きです。
この場合、治療者はどのように対処すべきでしょうか?「遅刻し続けている事実」
について指摘し続ければ、「細かい点につて批判し続ける超自我」になってしまう
かもしれません。かといって指摘しなければ、「おそらく何かの感情-例えば治療に
対するアンビバレンス-に対処するために(おそらく無意識的に)遅刻し続けている
患者」と共謀することになってしまうかもしれません。
このとき治療者が「治療者としての自分」に十分自信を持っていれば、「自分の提供
している治療に来ないことは、患者にとって損失である」と明確に考えることが
出来るかもしれません。そして「自分にとって損失になることをしてしまっている
患者の行動」について中立的に指摘し、一緒にその行動の意味を考えられるように
なるかもしれません。
このような意味で「常に治療者としての自分を維持できること」が、現在の私に
とっての課題です。「表面的に取り繕った自信」ではなく、いわば「穏やかな、
心の底から出てくる自信」を持ち続けることは、本当に難しいと私は思います。
>>381-382 >「治療構造を維持すること」は、「治療者としての自分を維持すること」である、
>というのが私の意見です。正確に言うと「現在の私の課題」なのですが。。。
その意見には全面的に同意します。
こちらから見ると自己の臨床観を確立されているような感のある
浦島氏が「現在の私の課題」という言葉を使われているのを見て
少しホッとしたりもしています。
上で挙げられている例を取ってみると「逆転移に対する気づき」を促すという意味でも
治療構造は重要なのではないかと思います。
この「逆転移に対する気づき」も浦島氏が挙げられている
「治療者としての自分を維持できること」なのではないでしょうか?
そして逆転移に気づくことで、それを治療的に活用できると思います。
もちろん、直接的にTh.がそれを言語化するということではありませんが。
>>383 あまりおたがいに同意しあってばかりでも面白くないため(笑)少し意図的に
「天邪鬼」的に書かせていただきます。英語ではdevil's advocate(議論を深めて
より理解するために、意図的に反論することーしたがって、いわば「建設的な反論」
です)という便利な言葉があるのですが。。。
>自己の臨床観を確立されている
「臨床家としての自分には、もう何も課題がない」と考えるようになった時には、
少なくとも精神分析や精神分析的精神療法の治療者ではなくなってしまう、と現在の
私は考えています。「常に変化することのできる能力を持っていること」「常に進歩
しようとすること」が、治療者として不可欠だと思うからです。但し、「自分がまだ
臨床家として未熟であること」が、この考えを持つ事に対してどれだけ影響しているかが
私にははっきりとわかりませんでした。
私がこのことを、ずっと経験の豊富なある治療者(精神分析家として非常に長い間
働いています)に話した時、彼が次のような話をしてくれました。
「精神分析家であるということは、非常に長い橋を一方から塗装するようなものだ。
やっと塗り終わったと思う頃には、塗り始めたところからまたさび始め、再び塗る
必要がでてくる」
つまり、その人にとっての課題(=橋)を解決(=塗装)し終わったと思っていると、
すぐに同じような課題が問題になり(=さびはじめ)、再び塗る(=再び解決しようと
努力する)必要がでてくる、ということだと思います。
つまり、どれだけ経験をつんでも、「臨床家としての自分の課題」は、
なくならないもののようです。
>>383 >逆転移に対する気づき
これも難しい問題だと思います。なんと言っても「自分では気付くことが出来ない」
のが「自分自身の無意識」ですから。。。
スーパーバイザーに何かコメントされた時、「腹が立つ」などの感情が自分の中に
生じたこと自体を、「逆転移が存在する(=つまり、スーパーバイザーのコメントが
正しい)」印として私は使っていました。そしてこの「逆転移」の範囲は、自分で
気付いていた「逆転移」の範囲よりも、ずっと広いものでした。
つまり、「自分で気付くことの出来る逆転移」は「実際に起きている逆転移」の
ごく一部に過ぎない、ということだと思います。したがってこれについても
「自分で気付くことのできる逆転移」の範囲を少しでも広げようという努力が
一生続く、という性質のものであるように思います。
但し、治療構造がきちんと維持されていなければ、「逆転移に対する気付き」などと
いうこと自体がありえないでしょうし、それが「治療者としての自分を維持できること」
の一部であるということも、ロテ職人さんの仰る通りだと思います。
386 :
没個性化されたレス↓ :03/04/15 23:53
ageます。
387 :
没個性化されたレス↓ :03/04/16 11:57
>浦島様へ PS、Dポジションについて丁寧な記述有り難うございます。 私は初心者でよく理解できないのですが、Dポジションでの抑鬱について。 この概念とFreudの超自我が強くかかわり合ってくると、私は 思うのですが、「自我とエス」「続精神分析入門」で記述されている 心的構造論との関連はどのように御考えでしょうか? またPSポジションにおいては、前エデイプス的な構造が 前提になっていると思うのですが、その一方で 不安、攻撃性というものの前提には、主体の成立、さらには 超自我というエデイプス的概念が登場せねば理解が困難であるように 私は思いました。この点については如何でしょうか? 長いレスをおかきになっていてお疲れとは存じますが、よろしければお教え下さいませ。
医学的治療モデルでは、医師はメタ的な立場からの操作者として 患者のもつ「疾患の構造」にアクセスし、これを変容させようとします。 フロイト自身の、特に初期の精神分析は基本的にはこの立場にありました。 一方ロジャースの援助的モデルでは、患者のもつ「自己変革力」を重視し、 それを間接的に支持することで治療を達成しようとします。 医療においても、「医者が患者を治すのではない、患者は自分で治るものだ」 という発想がもちろんないわけではなく、これと同種のものといえるでしょう。 これらに対し、セラピスト−クライアントの関係そのものを一個のシステムとして捉え、 その関係の中で双方が変容していく、というモデル、これはユングが構築したといいます。 >「常に変化することのできる能力を持っていること」「常に進歩しようとすること」 という発想はこのシステムモデルの中でとらえることができましょう。 それと家族療法などのシステムズアプローチはこれらとはまた別のモデルに立ちます。
389 :
没個性化されたレス↓ :03/04/16 18:32
>>388 このスレは個人的に気に入っているので、下げて一部の人たちに
独占させるのはもったいない。
内容がかなり高度などで荒らしも書き込みしずらいので、時々
上げて、外部の専門的な人間を誘ってはいけないだろうか。
と言うわけで期待age
>医学的治療モデルでは、医師はメタ的な立場からの操作者として >患者のもつ「疾患の構造」にアクセスし、これを変容させようとします。 >フロイト自身の、特に初期の精神分析は基本的にはこの立場にありました 精神分析もいわゆる「自我心理学」は、発達モデルだけどね。。
う〜、尿路結石からやっと復帰。イタカッタナァ。
>>363 ご評価頂き光栄っす。ただ、自分の伝え方はイマイチ垢抜けないところが
あって回りくどいですね(笑)。で、ここで返ってくる患者さんの言葉は
「(Th.が怒る前に(笑))じゅうぶん徴罰的な空想を経験している」と
いう事でした。そのコンテキストだと「何も感じる事の無い」一者関係
への退行かなと、空想してみたりします。
意外と大量服薬を含む行動化はスタッフに「振りまわし行為(操作性)でしょ」
として片付けられる事が多く、中にはそのようなケースが有るでしょうが
頻度ととしてはそれほど多くない印象があります。というか、振りまわす
ほどの2者関係がその時あったかどうか疑問ですし、「振りまわし行為」
とみなす事が、治療的に有効な理解とも感じる事ができません。
勿論、「折角、約束したのに残念なことになったね」と伝える事に
より、行動化自体を肯定する事はしないのですが。
で、参考書紹介レス(笑)
>>375 PSポジションにおけるDになるかどうか分かりませんが、
迫害的罪悪感として(松木邦裕先生)分析空間での発見(岩崎学術出版)
P142に書かれていることに近いと思います(違うかな?)
臨床の素材も豊富で、「え〜、松木先生でもこういう流れに巻き込まれて
しまうんだ」ということでさえ有りのまま書かれていて、漏れのフアン心を
くすぐられる内容でした(笑)。
>>387 浦島さんのコメントを読んでからのほうがいいかもしれませんが
同じく松木先生の「対象関係論を学ぶ」P126早期エディップス
が解説して有ります。口唇期水準でのエディップスについて
クラインの学説がまとめられています。
>>378 >>「なんとなく」「おぼえていない」
>という答えが返ってくることも多々あるように思われます。
確かに、そうですね。特に思春期症例ではなかなか内的な
観察ができていないことが多く肩透かしを食らう事が多いっす。
成人の場合だと、結構答えてくれる事が多い印象があるので、ね。
>>376 ちと、悪乗りさせて頂きます(笑)
>精神分析における理論は、(例えば論文を書くために)セッションの後それを
>まとめようとした時に、セッション中に何が起こったかを説明する枠組みを提供する
確か、「理論バリバリの発表があって、苦笑いをしていた人がいて、よく見たら
ウィニコットだった」という逸話を読んだ事があります。
さて、精神分析における理論がどのあたりまでが「後知恵」でどのあたりの
理論までが「実践的な」理論とお考えになっているのか是非是非ご教示下さいませ。
いや、転移・逆転移・中立性や、解釈・直面化(こちらはどちらかというと技法、
ですかね?)も理論といえば理論かなと厨な事を考えてみたり・・。
どちらかといえば、(一回のセッションではなく、全体としての)
精神分析療法の流れを示す一連の理論というのが浦島さんの
指摘される「精神分析の理論」と考えてみましたが、いかがでしょうか?
>>389 まあ、あげ・さげはいろんな考えがあってもイイかなと。
ただ、あげると結構、宣伝やコピペがはいることもあるし
学問的だからこそ荒らす厨もいるし、功罪相半ば、でつね。
#このスレ、漏れの空想する学問板ぽくて好きでつ。
変な臨床叩き厨にスレをぶっ壊されたくなかったら sageといたほうが無難だと思う俺の確証バイアス。
>>387 >Dポジションでの抑鬱とFreudの超自我の関連
超自我は、エディプスコンプレックスを通り過ぎることによって生じてくると
フロイトは考えていたと思います。つまり、口唇期、肛門期を通過してしまった後に
生じる、ということです。それに対してPSポジション・Dポジションは、もともと
口唇期を二期に分けたものです。
フロイトが口唇期、肛門期、男根期と発達段階を分類したのは御存知だと思いますが、
その後アブラハムは、それぞれの時期についてより細かい分類を試みました。その
文脈でクラインも、口唇期をより細かく分類しようとして、PSポジション・Dポジションを
考えたわけです。この概念は後にクライン派の精神分析において、単に発達段階の
分類のひとつというよりも、もっと重要な意味をもってくるようになります。
しかし少なくとも、フロイトの考えた超自我という概念とは、生じる時期が
全く違うということになります。
>>387 >不安、攻撃性というものの前提には、主体の成立、さらには超自我という
エデイプス的概念が登場せねば理解が困難
すでに392番でA-P Psyさんが書かれていることと重なりますが。。。
クラインは、生直後から「主体」が成立していると考えています。もちろんその
「境界」は、大人などに比べてあいまいではありますが、「赤ん坊と母親は
一体になっている」と考えるウイニコットなどとははっきりと異なった意見を
持っていました。
そしてクラインは、「早期エディプスコンプレックス」という概念を登場させています。
どのようにお答えすればよいのか迷ったため、このような書き方になってしまいました。
もし十分にお答えしていないようでしたら、再びご質問をお願いします。
>>388 セラピスト−クライアントの関係そのものを一個のシステムとして捉え、
その関係の中で双方が変容していく、というモデル、これはユングが構築したといいます。
ご教示ありがとうございました。このモデルは、「対象関係論」が最初だと私は
思っていたため、正直言って驚きました。でも言われてみると、そうかもしれません。
「ユング派」は、「夢分析という現実から目をそらすことばかりしている」ように
私には思え、あまり良い印象をもっていませんでした。しかし、少し見直さないと
いけないようです。
>>391 「振りまわし行為」とみなす事が、治療的に有効な理解とも感じる事ができません。
ある「行動化」に対して、「振り回し行為」とレッテルを貼って相手にせず、
全くショックを受けていないかのように振舞う(又は、実際にショックを受けない)
ことは、治療上良くないと思います。
しかし同時に、その「行動化」が、「振り回し行為(=相手を操作する目的で
行われる行為)」という側面を持っていることも事実だと思います。そして、この
「事実」を直視しないことも、あまり治療的でないように私は思います。
したがって、その「行動化」が、「振り回し行為である」という「事実」を、
「単にレッテルを貼って相手にしない」という態度を取らず、「批判せず」、
しかし「事実は事実としてきちんと患者さんに伝える」ということが必要だと
私は考えます。もちろんここに書いたことは理想ですが。。。
>>393 >どこまでが「実践的な」理論か
「転移」という「理論」を考えてみます。
例えば治療者が何かコメントした時、患者さんが涙ぐんだり、不安が治まったりした
時には、治療者と患者さんとの間で、分析的に意味のある「情緒的な交流」がされて
いると考えられます。
しかしそれに対して患者さんが例えば、「その通りだと思います。これって、
転移って言うんですよね」と言った場合、多分そこには「知的な交流」があるだけで、
分析的に意味のある交流はされていないと私は思います。
そしてこのことは、治療者にも当てはまると思います。つまり、治療者がセッション中に
「これは転移だ」と考えている限り、分析的に意味のある「情緒的な交流」はされて
いないと私は考えます。
したがって、それが「転移」「逆転移」「中立性」「解釈」「直面化」の何であれ、
これらの「理論」が治療者の心の中にある限り、分析的に意味のある交流はできない、
というのが私の考えです。
そして、このような「理論化できない分析者の心のあり方」を「理論化」するという
「論理的に不可能な課題」に挑戦した人がビオンだと私は思います。
(^^)
402 :
没個性化されたレス↓ :03/04/17 20:11
転移って・・・?
403 :
超話題今後雑誌記載に掲載かも?今がチャンス :03/04/17 20:18
>>399 >>400 浦島さん、レス有難うございます。実はこの2つのレスを読んで
「うききぃ」とサルになってました(笑)。その後、その前から
サルで有る事に気付きました。
>「行動化」が、「振り回し行為(=相手を操作する目的で
>行われる行為)」という側面を持っていることも事実だと思います。そして、この
>「事実」を直視しないことも、あまり治療的でないように私は思います。
実はこの部分、ボディブローのように堪えました。
いわゆる大量服薬のような行動化の場合、その「行動化」から
患者自身が生き残れないのではないか(常習犯は結構
生き残れる事を知っていたりしますが)、
そして、生き残れない場合、「最終的に」操作の目的を
達成しないのではないかという考えが強くて大量服薬に
おける操作性という事に関してピンときませんでした。
でも、行動化に関しては「最終的な」というような時間軸に
沿ったものではないし、行動化後の個体としての生き残り
を前提にしたものではないということに改めて考えさせられました。
もう一つ大事な気付きは、私が「治療的に有効な理解とも感じる事ができません」
といいきっている部分です。すなわち、心的現実は様々に動く可能性を秘めている
のにかかわらず、自分のモデルに当てはめようとしている点では「行動化は振りまわしである」
という当てはめ方と何ら変わりが無い点ですね。単にモデルが変わっただけで
内的な世界を探求する事を放棄しているという点では何ら変わりないし、治療的で
ないと痛感しました。様々な可能性を考えながら患者の内的世界をいっしょに
探索していくという基本的な立場がおろそかになっていたようです。
>>400 >したがって、それが「転移」「逆転移」「中立性」「解釈」「直面化」の何であれ、
>これらの「理論」が治療者の心の中にある限り、分析的に意味のある交流はできない、
>というのが私の考えです。
はじめて境界例の患者を担当した時の苦い想いでから、いつしか私の中では
「生の情緒」を味わう事を避けていたのかもしれません。自分の情緒に距離
を置く方法としての「理論」というものがいつも鎌首を持ち上げるのかもしれ
ません。
ということで、浦島さん、非常に貴重なコメント有難うございました。 恐らく、自分一人では気付けない事だったと思います。 有難うございました。
407 :
没個性化されたレス↓ :03/04/17 23:04
ボーダーを悪く言うな! ボーダーのおかげで仕事があると思え!
現在のタビストックでは、どんな研修や実践が行われているのでしょうか。
>391 「行動化」は「不安」に対する鎮静薬みたいなもんとちゃいますかな。 この場合の「不安」は、サリヴァンのいうネガティブな感情や気分全てを 含む意味での「不安」と考えてください。この「不安」がきつうなったら、 クライアントは何らかの方法でこの「不安」を抑えようとしはりますわ。 何らかの方法にはだいたい「行動化」「身体化」「精神症状」「薬物」が あるでしょうな。この四つは「不安」を抑えるための四大鎮静薬ですわな。 この広い意味での「鎮静薬」に関しては、依存というか習慣性という問題が ありますわな。中井久夫センセが、アルコールという物質に関して、酔いを 楽しむためにアルコールを摂取するのは問題が少ないが、嫌なことを忘れる ためにアルコールを薬物(鎮静薬)として用いると依存や習慣性の問題が起こり やすいと指摘してはりました。中井センセはアルコールや煙草を例にあげて、 この辺の事情をわかりやすう説明してはりますわ。確か、Gebsattelは「嗜癖の 人間学」で全ての行為は嗜癖化し得ると書いてはりましたが、これも広義の 「鎮静薬」の作用の本質をついとるのかもしれまへんな(Gebsattelは「不安」の 中でも「実存的空虚」を重要視してはったみたいですが、これはチョート わかりずろおますな)。
>>404 正直に言うと、「サルになっていた」の意味が良く分からないのですが。。。
でも少なくとも、私の書き込んだことがA-P Psyさんのお役に立ったことは確かな
ようで、うれしく思います。
>>405 念のために書き込ませていただきます。
私が400番に書いたことは、あくまでも「精神分析」「精神分析的精神療法」の文脈に
おける「精神分析理論」についてです。つまり「情緒的な交流」をする目的で構造化
された特殊な枠組みにおいての話です。
したがって、「精神力動的精神療法」の文脈においては、「精神分析理論」が実際の
セッションにおいてある程度役に立つということはありえる、と私は思います。
イースター休暇になりますので、しばらくの間書き込めなくなると思います。
またお会いしましょう。
412 :
没個性化されたレス↓ :03/04/18 11:15
>397の浦島様へ 御教示有り難うございました。 クラインの理論というか前提となっている発達論は、Freudとは ずいぶんと異なったもののように私には思われました。 A .Freudとの激しい論争もこの辺が、起爆剤になっていたのでしょうか? 私はクラインの著作は全然読んでいませんので、遅まきながら 勉強したいと思います。 よい休暇をお過ごし下さいませ。
>409 >この四つは「不安」を抑えるための四大鎮静薬 なるほど!私の感覚に、ぴったりきました。 ところで、他者への怒り・憎しみを不安への対処方法としている場合もあると思うのですが、これは四つのうちのどれかにあてはまるでしょうか?
414 :
没個性化されたレス↓ :03/04/19 02:22
>>413 よっぱらい先生ではありませんが。
他者への怒り・憎しみは行動化、身体化、精神症状、薬物すべての
形で表現されうるのではないでしょうか。
およそ他者へのメッセージの性質を持たない症状など考えられず、
そのメッセージが治療者に向けられていないことも考えにくい。
症状は必ず治療者がコミットせねばならないのですから。
言葉ではなく、症状で治療者と会話しようとする患者さんは
単に言語化能力が低いケースもあるでしょうが、言葉では言いにくい
怒りや憎しみを向けているケースが多いと思います。
たとえば、症状によって
治療者を恫喝しつつ自分がそうしたことを否認し、
治療者に拒否や交渉の権利を与えず一方的にコントロールする
試みであるとか。
治療者を隷属させることはネガティブな感情や気分(不安)を
大いに解消させるでしょう。
サリヴァンを持ち出さずとも、精神神経疾患が対人関係のひとつの
ありかたであることは自明で、権力闘争が対人関係の重要な要素
であることも自明です。
415 :
jfklsjvkngvnsg :03/04/19 02:34
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
>413 確か、サリヴァンの定義やったら、怒りや憎しみも「不安」に含まれるんや なかったかとおもうんですが。「不安」はむしろ「安心欠如」ていうほうが 意味的には正確かもしれまへん。この辺はちょっとあやふやなとこもあります さかい、詳しい方のコメントを期待しますわな。
>414 実際の治療場面では、414さんのおっしゃるみたいなことはちょくちょくあ りますわな。確かに、メッセージの性質を持たへん症状は考えられへんので しょうが、それが治療者に向けられてへん場合は存外多いかもしれまへん。 例えば、人事異動を告げられて食欲がのうなったお嬢さん「異動先のことを 思うと、ご飯が喉を通らへん」→「この人事異動は飲み込めない→受け入れら れない」かな。「転勤を命じられてまもなくギックリ腰になった」→「姿勢= 構えが定まらない、しっかり立てない→対応できない、どうして良いかわから ず戸惑っている」くらいやろか。こんなんもありますわ。「風邪引いたのか喉 が痛い。食事を飲み込みづらい」→「飲み込むのに痛みを伴う→受け入れる覚 悟はしたが、痛みを伴う、つらい」 これは身体言語(Laibsprache)ですわ。これはたまたま家族や仕事の同僚に 告げられて、メッセージの意味を持つこともあるかもしれまへんけど、本人が そない思て、そんだけで終わりていうことも多いでしょうな。まあ、「不安」 をはっきり自覚せえへん本人への身体からのメッセージと言えるかもしれまへ んけど。
>417 お返事ありがとうございました。おそらくサリヴァンでは、 怒りや憎しみの下には、不安=安心欠如があるという訳ですね。
>>414 >>418 「メッセージとしての症状が、治療者に向けられているかどうか」という点について、
少し書き込ませていただきます。
自由連想法を用いる「精神分析」「精神分析的精神療法」においては、「メッセージ
としての症状が治療者に向けられている」のは疑いのないことだと思います。
というより、いわば「そうなるように構造化されている」と思います。
そしてこの文脈においては、「症状の象徴的解釈」に深入りしすぎることは、あまり
治療的ではないと思います。なぜならば、そうすることによっていわば「知識を教える
先生と生徒」という関係になってしまい、患者さんは「知的理解」をすることは
出来ても、「(感情などの)実感を伴った理解」をすることにはあまりつながらない
と思うからです。但し私自身、このことを「知的に」理解してはいるのですが、
ついつい深入りしてしまうのですが。。。
しかし「精神分析的精神療法」以外の「精神力動的精神療法」においては、
「症状の象徴的解釈」に「深入り」して「知識を与えること」自体が、役に立つことも
多いと思います。そしてその場合、「メッセージとしての症状が治療者に向けられて
いない」ことも、しばしばあると思います。但しこれについては、正確に言えば
「治療者に向けられている部分が大きな問題にはならない」ということだと私は
考えています。つまり、「大きな問題」になっていない以上、必ずしも「取り扱う」
必要はない、但しそれは、「治療者に全く向けられていない」という訳ではない、
ということです。
421 :
没個性化されたレス↓ :03/04/28 00:51
境界例の治療は、共感能力の低い治療者がマニュアルどおりに 認知療法やSSTをしたほうが治療成績がいいような気がするのですが。
最近、割と暑い日が続きますな。冬はずっと日本酒を飲んどったんですが、 最近、ビールが美味しうなりましたなあ。また、ベルギー、ドイツ、イギリス のビールを飲み始めましたわ。 「症状の象徴的解釈」や「夢の象徴的解釈」はクライアントの前でそうそう やることはありまへん。大体、セラピストは治療の流れというかストーリーを 読み、かつ構成していきますわな。せやけど、そのストーリーをクライアント に全部言うてまうセラピストはおりませんわ。せやさかい、症状や夢の象徴的 解釈は一応しても、クライアントには言わへんことの方が多いんとちゃいます か。クライアントに言うとしたら、夢や身体言語について話し合うことが治療 的に役に立つと思うた時だけとちゃいますかなあ。 まあ、ユング派の夢の解釈みたいにそれ自体が主要な手段の場合は、夢の解 釈事態が一番大切な武器やさかいに、使い方がちゃうんやろうと思いますけど な。
酔うてるさかいに、独断と偏見で行きまっせ。 象徴的解釈はいろいろありますけど、実際に大切なんは解釈やのうて、生々 しい感情やと思いますわ。特に夢には生々しい感情が伴いますさかい、その感 情をどない扱うかがキモやと思いますわ。内容的には、圧縮や置換があるさか い、夢の状況と現実の状況をリンクできるかどうかはむずかしいと思いますわ。 うまいことリンクでけて、クライアント「あっ、そうか」て言うてもらえそう やったら、突っ込んでみよかという感じですな。
>420 精神分析においては、メッセージとしての症状が治療者に向けられるように 構造化されている… という点はまさしくその通りだと思いますわ。というか、本来象徴的なメッ セージは他者一般(他者、第三者、我々など)に向けられたものかもしれまへん。 それが、精神分析的な治療では、二者関係に置き換えられやすうなるんでしょ うな。この三者関係が強引に二者関係に置き換えられてしもうたんが、神経症 的な転移なんかもしれまへん。
最近、プレエディパルな規制がよう議論されますけど、この超自我がどうも くせ者と思いまへんか。超自我について誰かさんが前のほうでも言うてはった んで、浦島さん、なんか建設的(議論がしやすくなるような)コメントをお願い します。
426 :
没個性化されたレス↓ :03/04/30 12:14
主体の中で「のさばる超自我」というものを、PTSDやアルコールの患者さん で、よく眼のあたりにします。 この肥大化した超自我にたいしては、私はなす術をなく感じますし、難治化する ことが大半です。
>>422 >「症状の象徴的解釈」や「夢の象徴的解釈」はクライアントの前でそうそう
やることはありまへん。
実は最近も、「いけない」と知りながら「症状の象徴的解釈」に深入りしてしまい
ました。患者さんから「何とか助けて欲しい」という強い感情を向けられたのが
きっかけで、「何とかしてあげたい」と強く思い、「症状の象徴的解釈」に入り込んで
しまったようです。あとから考えると、いわば「私が理屈だけで考えた」「実感の
伴わない」「患者さんに伝わるはずのない」解釈でしたが。。。
>>423 >象徴的解釈はいろいろありますけど、実際に大切なんは解釈やのうて、生々しい
感情やと思いますわ。
その通りだと思います。あえて付け加えるとすれば「『治療者に向けられている』
生々しい感情」が大切だと思います。
>>425 >超自我について・・・なんか建設的(議論がしやすくなるような)コメントをお願い
します。
これはプレッシャーですが(笑)少し書いてみます。
「超自我」について議論する場合、フロイトの言う「超自我」と、クラインの言う
それを区別することが前提として必要だと思います。
前にも書きましたが、フロイトは、エディプスコンプレックスを通過することで
「超自我」が生じると考えていました。したがってそれは、少なくとも4-5歳以後に
生じることになります。そしてこの「超自我」は、「自我」と同様、心的装置の一種
です。基本的にフロイトは、「内的対象(関係)」という概念を持っていませんでしたから。
それに対してクラインの言う「超自我」は、「内的世界」(生直後から存在し、
phantasyとも呼ばれるもの)に存在する「内的対象」の一つです。
(「早期エディプスコンプレックス」は、話がややこしくなるためここでは触れません)
つまりまとめると<1>「超自我」が生じる時期の違い
<2>「心的装置」か「内的対象」かのちがい、ということになると思います。
>>429 429番に書いたことは、いわば「公式見解」でした。後は私も「独断と偏見」で
書かせていただきます。
「超自我」という言葉にとらわれすぎること自体、少なくとも患者さんを理解する
ためには良くないと私は考えます。それよりも、「超自我」という術語で表される
「内的な対象」が、どのような性質を帯びたものかをそのまま描写することの方が
建設的だと思います。具体的には、「自分の行動について細かく批判してくる対象」
とか「罪悪感を押し付けてくる対象」などのようにです。
私がこう考える理由は以下の二つです。
<1>「超自我」という言葉を使うことで、治療者が患者さんを理解したつもりに
なってしまい、その結果理解がそれ以上進まなくなる。
<2>「超自我」と呼ばれる「内的対象関係」の背後に潜んでいる別の不安
(これは、しばしばあるように私は思います)を見逃してしまう危険性がある。
>>422 −425
ヨパライさんの書き込みは、非常に刺激的でした。実はここに書いたこと以外にも、
2−3書きたいことが浮かんだのですが、収拾がつかなくなりそうだったのでやめました。
これからもよろしくお願いします。
432 :
没個性化されたレス↓ :03/05/02 19:28
うまくまとまらないのですが、話題提供ということでお許し下さい。 >「メッセージとしての症状が、治療者に向けられているかどうか」という点について、 少し書き込ませていただきます。 自由連想法を用いる「精神分析」「精神分析的精神療法」においては、「メッセージ としての症状が治療者に向けられている」のは疑いのないことだと思います。 というより、いわば「そうなるように構造化されている」と思います。 症状として語る、ということは、所謂行動化と区別せねばならないと思う一方、共に 「行為」として治療者に向けて関わってくる、つまりラカン的文脈で考えると、言語 という象徴的なものle symbolic、行為という現実的なものle reelをどう治療者が捉えるのかという、視点が必要なのではないでしょうか。 >そしてこの文脈においては、「症状の象徴的解釈」に深入りしすぎることは、あまり 治療的ではないと思います。なぜならば、そうすることによっていわば「知識を教える 先生と生徒」という関係になってしまい、患者さんは「知的理解」をすることは 出来ても、「(感情などの)実感を伴った理解」をすることにはあまりつながらない と思うからです。但し私自身、このことを「知的に」理解してはいるのですが、 ついつい深入りしてしまうのですが。。。 象徴的解釈では、知的理解を促進してしまうというよりも、 私は、いわば語られた言葉のsignifiantではなく 意味signifieとして捉える限り、無意識の戯れを拘束してしまう、そういう 危険性をはらんでいると考えます。 いわば、無意識という深い海を語るのに、コップ一杯の水を見ながら 語ってしまうような、それはそれで当を得て入るのですが そのようなことではないでしょうか。 少し乱暴な譬えで申し訳ありません。
433 :
没個性化されたレス↓ :03/05/02 19:30
超自我」という言葉にとらわれすぎること自体、少なくとも患者さんを理解する ためには良くないと私は考えます。それよりも、「超自我」という術語で表される 「内的な対象」が、どのような性質を帯びたものかをそのまま描写することの方が 建設的だと思います。具体的には、「自分の行動について細かく批判してくる対象」 とか「罪悪感を押し付けてくる対象」などのようにです。 >この点についても、海を語るのにいかに語っていくのか、適当なコップ と思っていても、それはコップにすぎない、しかし コップがあることにより水を眺めることができるのかもしれません。 しかし浦島様がおっしゃるように、言葉から可変性を奪ってしまうと、無意識の 流れも止まってしまうのかもしれません。
ラカンに関する私の知識は耳学問だけですので、的外れな議論になってしまうかも
しれませんがお許しください。
>>432 >症状として語る、ということは、所謂行動化と区別せねばならないと思う一方、
共に「行為」として治療者に向けて関わってくる、つまりラカン的文脈で考えると、
言語という象徴的なものle symbolic、行為という現実的なものle reelをどう治療者が
捉えるのかという、視点が必要なのではないでしょうか。
私が420番で書いているのは、414番などで言及されている「他者へのメッセージの
性質を持った症状」のことです。したがって「症状として語る」のではなく、例えば
「身体言語」(418番)などの形で「症状が語る」という話です。
私の理解が間違っていたらお知らせください。「私がきちんと理解している」という
自信がもてませんので。。。
>>432 >象徴的解釈では、知的理解を促進してしまうというよりも、私は、いわば語られた
言葉のsignifiantではなく意味signifieとして捉える限り、無意識の戯れを拘束
してしまう、そういう危険性をはらんでいると考えます。
私は、「無意識の流れを全く拘束せずに精神分析を行うこと」は不可能だと考えて
います。これは言い換えれば、「患者さんの『無意識的空想』が、そのままの形で
分析場面に再現されることは不可能」ということです。
なぜならば、治療者は(患者さんの無意識をそのまま映し出す)「完全な鏡」
などではなく、解釈などの介入もするし、治療場面に一人の人間として存在しても
いるからです。もちろん治療者は、できるだけ「完全な鏡」になるように最大限
努力すると思いますが。
このことを「前提」にして、「(患者さんの無意識をかなり映し出している)
治療場面で生じている関係」について、解釈を通して患者さんと一緒に考えていこう
とするのが「精神分析」(又は「精神分析的精神療法」)だと私は考えています。
したがってこの意味では、420番の書き込みは、「『知識を教える先生』と
『知的理解をしようとする生徒』の関係を作り出してしまう」と書いた方が、私の
言いたいことにより近いようです。つまり、「知識を教える(=症状の象徴的解釈に
深入りしすぎてしまう)」態度を治療者が取ると、「治療場面で何が起きているかを
一緒に考える関係」ではなくなってしまう、ということです。
>>421 >境界例の治療は、共感能力の低い治療者がマニュアルどおりに認知療法やSSTを
したほうが治療成績がいいような気がするのですが。
これに対しては書き込む術がないな、と思っていたのですが、少し思ったことが
あったので書いてみます。
まず「共感能力」をどのように定義するか、が問題になると思います。そして例えば
「患者さんのことを理解したいと思い、実際に理解することのできる能力」と定義
したとします。その場合、ここでいう「共感能力」が低い治療者は、少なくとも
認知療法においては、「きちんと治療のできる、ほど良い治療者」にはなれない
ように思います。SSTについては私はあまりよく知りませんが、「共感能力の低い」
治療者が「ちゃんとした治療者」になれると私は信じることが出来ません。
そして「ほど良い治療者」であれば、対象が「境界例」であろうとなかろうと、
あまり大きな問題にはならないように思います。
「帰山 超辛純米」ていうお酒を飲んでます。これなかなかいけますわ。冷 やが美味しいですわ。大根おろしみたいな辛みとさわやかな若草系の吟醸香が よろしいわ。常温になると、ほんまに大根おろしみたいな辛みが強うなるんで、 冷やのほうがおいしいですなァ。 >430 ところで、超自我ですわ。 超自我(Uberich)は、なんやかやと自我(Ich)にプレッシャーをかけてきよる もんと、私は単純に理解しておりました。 ちょこっと話は飛びますが、ぐるっと回って超自我に戻ってくるつもりです けどなァ。うまいこといきますかどうか。いわゆる境界性人格障害的な方の相 手をしてますと、投影的同一視や原始的理想化などの原始的防衛機制は、役割 関係を二者関係にすり替えるという形で現れることが多いんですわな。 例えば、「先生はぼくの本当の理解者です。ぼくを本当に理解してくれる人 が一人いれば、ぼくは生きて行けます」といった具合ですわ。ある友人のセラ ピストがこれをクライアントに言われて、引いてしまいよったんですが、逆に これを聞いてコロッと引き込まれよる人もおるんやろうなぁと思いますわ。
この二者関係は、いわゆる双数関係というやつでしょうな。ここで、気にな るのは役割関係ですわ。治療契約による、セラピスト=クライアント関係、治 療同盟というやつですな。治療契約が交わされた場合、原則としてセラピスト は自分の個人的な好悪の感情でクライアントを追い出したりでけへんわけです。 セラピストは契約が終了するまでクライアントを放り出したりでけまへん。極 端な言い方をしたら、クライアントが治療契約の枠の中で、クライアントでい てはる限り、セラピストはクライアントを裏切ることがでけへんわけですわな。 セラピストは、なんぼ嫌なクライアントやなと個人的に思うても、それを表に 出したり、実行したりすることは許されへんわけですわ。
今度は「特別醸造 伏龍梅 無濾過原酒」を飲んでます。これはぬる燗つけた ほうがええかなァ。 こんなふうに、治療契約に限らへんで、契約一般にはそれを守る義務が生じ ますわ。義務は守らんとあきまへん。けど、何で守らんとあきまへんのや? 破ることは許されまへん。誰が許しまへんのや? これは、外界的には社会や とか共同体やとか神様やということになるんでしょうけど、内界的には超自我 ということになるんでっしゃろな。浦島さんの言葉では、クライン派的には (「超自我」風の)内的対象が私(Ich=自我)を強制してきよると言うわけでしょ うな。 当然、この心の中の強制は人によって色々ですわ。センセに怒られるていう 感じみたいな人もいてはるやろし、神様にどやされるていう人も、セラピスト として恥ずかして言う人もいてはるでしょうな。色々混じっとるていう人もい てはるでしょう。こういう人は、超自我に相当する内的対象が一つやないんで しょうな。 超自我については、精神病理的にもいろいろ気になることがあるんやけど、 もうちょっと整理できたらカキコしますわ。
また、境界例の話に戻りますけど、境界例の人は、治療契約の中で出てきよ る理解の関係を「ぼくのことを理解してくれるのは先生だけです」という具合 に治療におけるセラピスト=クライアント関係を明示的に二者関係(双数関係) に引き戻そうとしはることが多い印象がありますねん。 それに対して、いわゆるヒステリーのクライアントは、治療契約による役割 関係を明示的でない形で(隠喩的に?)二者関係に引き込もうとしはりますわな。 「建前レベル」では治療契約による関係やと言いながら、治療契約を盾に取っ て、裏(本音レベル)では個人的な受容を強要してきはるんですわ。個人的には そういうんは大嫌いなんやけど、まあ、しゃあなしにちゃんと相手するように してますわ。ただ、素直にお相手してるだけやったら、行動化に巻き込まれて るだけいうことになりかねまへんので、ちょっとひねりを加えます。この辺は システムズ・アプローチの治療的パラドックスがごっつう参考になります。 超自我についてカキコしようと思うてたけど、話が逸れてしまいましたなァ。
ご無沙汰しておりました。超自我の話題で面白そうなので漏れも少しカキコさせて もらいます。 最近、「超自我」的な性質をもつ症状として興味を持っているのが 「幻聴」です。確か、この「容赦のなさ」をもつ性質に関してBionが 言及してましたね(多分、ですが)。 実は、保健所で統合失調症の家族教室でこれをネタにはなした事があります (おいおい)。「悪い自己部分対象が投影されて物質化し、これが超自我 的な性質をもち患者さんを攻めたてる。このため、この「攻め」は患者さんに とっては『的確』で『容赦のない』ものになるんです」(前半部分は、さすがに もう少し噛み砕いて説明しましたが(汗))という解説をしたように思います。 いつもは家族教室で症候学の羅列しかしてませんでしたが、この解説は ご家族にピンとくるものがあったようです。 最後の質疑応答で「なるほど、家族がいつも『声なんか無視しろ』とか『気に するな』とか言っても、やっぱり気になって辛くなるんだなということが分か りました。やっぱり気になって当然ですね」と話して頂いたご家族がいて、 とても嬉しかったのを憶えています。 このあたりの「幻聴」の性質は漏れのつたない臨床でもしっくりくるものが あって、一つのモデルとして重宝してます。
ベルギービールDuvelて言うんを飲み始めました。8.5%の750ml瓶ですわ。こ いつはゴールデン・エールて言うて、濃くてうまいでっせ。泡までうまい。 441> 自我機能が弱まってきて、自我境界がええ加減になってくると、自己 の中の自我異和的(ich-fremd,ego-dystonic)な感情や思念が自我境界の外に排 出され、幻聴や妄想などの病的体験として自我(Ich=私)に還ってくるという考 え方ですなァ。 これには、代表的なものとして二つありますわ。 一つはヘフナーとウィンクラーの「自我退縮」説、もう一つはキスカーの病 的体験のトポロギー分析」ですわ。分かり易いんは「自我退縮」でしょうなァ。 ヘフナーとウィンクラーの原文は私も呼んだことはあれへんのですが、笠原嘉 センセが昔、精神神誌の論文で分かり易う紹介してはりました。精神病理畑の 人間やったら誰でも知ってる有名な論文ですわ。
ちょっと記憶だけで書いてみますわ。憶え違いがあったら、堪忍してくださ い。 人間の自我(Ich=わたし)は、成長につれて、周囲のいろんなものを取り込 んでいきますわな。いろんなもを取り込むことによって自我(Ich=わたし)は 大きくなり、だんだんと複雑になっていきますわ。大体、自我親和的(Ich- gerecht,ego-syntonic)なものが内側、中心近くに、自我異和的(Ich-fremd, ego-dystonic)なものが外側近くに定着して、自我(Ich=わたし)はいわばタマ ネギの皮みたいな層状構造になるわけですわ。 ところが、自我エネルギーが枯渇してくると、自我境界を維持でけへんよう になって、自我境界が縮小してきよるんです。自我境界が縮小すれば、自我 (Ich=わたし)のタマネギの皮の外側が、自我境界の外にはじき出されて、自 己としての親密さを失い、他者としての性質を帯びてきよるんですわ。この他 者としての性質を帯びた感情や思念が、自我(Ich=わたし)に結局は戻ってき よるんです。病的体験の形を取って。 ただ、この説明は一見分かり易う思えますけど、自我エネルギーて何やねん、 自我境界て何やねん、自我エネルギーと自我協会の関係は? 等々、ようわか らんことがいっぱいありますなァ。
>>437 >「先生はぼくの本当の理解者です。ぼくを本当に理解してくれる人が一人いれば、
ぼくは生きて行けます」
患者さんがこのように言った場合のことを考えてみました。
例えば患者さんは、「治療者は自分とは別の個人であり、『自分のことを完全に
理解してくれる』ことはないのではないか」という不安を持っているのかもしれません。
(これはもちろん「事実」ですが、この種の患者さんは多分「事実」を受け入れる
ことが難しい、と思います。)又は、「治療者が『本当の理解者』でなくなれば、
自分は死んでしまう」と治療者をいわば「脅して」いるのかもしれません。
このような「治療場面で起きている事」(=患者さんが治療者に対して行っている
こと)について、「一緒に考えることのできるスペース」を、治療場面の中に作って
いこうとすることが、精神分析(精神分析的精神療法)だと私は思います。いわば、
「患者」「治療者」という「二者」の他に、「その関係を一緒に考えていく」という
「第三者的な存在」を作り出していこうとする営みだと思います。
>>438-439 ある治療者が、自分自身の「超自我」のために、患者さんとの「治療契約」を守って
いるとしたならば、それはあまり健全な状態ではない、と私は思います。
少なくとも精神分析や精神分析的精神療法を行っている治療者が治療契約を守ろうと
するのは、「治療契約を破る」ことが、「患者にとってどれだけ大きな傷つきになるか」
という点を身にしみて知っているからだと思います。というか、この方が「健全」
だと私は思います。そしてこのことは、訓練として受ける自分自身の精神療法の経験
から学ぶことの一つだと思います。
>>441 ビオンは、人格を「精神病的部分」と「非精神病的部分」とに分けて「精神病的部分」
の働きによって精神病的体験が生じる、と考えていたと思います。
具体的には、心的現実や外的現実が患者さんにとって苦痛であるため、それを認識
しないために、「対象表象」を断片化するだけでなく自分自身の「知覚装置」をも
断片化してしまう。そしてそれらを「投影性同一視」を用いて排出し、結果として
「奇怪な対象」が生じる、という感じだったと思います。
多分良く分からないと思います。書いている本人もあまりよく分からないので(笑)。
ただ、もともと「自分の知覚装置」であるため、いくら「排出」しようとしても
「自分のほうへ戻ってきてしまう」し、「対象表彰の断片」も混ざっているため
その体験は「他者性」を帯びてしまいます。しかも、いわば「無理やり叩き壊して
無理やり排出した」ため、「攻撃的、侵入的な色彩」も加わると考えられます。
つまりこれは、特に統合失調症の精神病体験を説明するのに役立つと思います。
精神病理の方から見れば穴だらけの書き込みだと思いますが、お許しください。
ビオンの責任というよりも、精神病の方を分析的に治療したことがほとんどない
私の責任です。
「超越的他者」なんてことを考えたのは、ものすごく久しぶりになる浦島でした。
>444 「先生はぼくの本当の理解者です。ぼくを本当に理解してくれる人が一人い れば、ぼくは生きて行けます」 この言葉は、浦島さんがおっしゃったとおりですわ。これは試しの言葉です わ。つまり、クライアントは「自分を完全に理解し(そしてサポートし)てくれ まっか」と問いかけると同時に、「先生ならなってくれる」と誘惑し、「なっ てくれへんと、どうなるかわかってるんやろな」とプレッシャーをかけてきと るわけです。ただ、これは、クライアントがわざとやっとるんやありまへん。 primitiveな不安を双数関係の中で投影的同一視などを用いて解消しようとし たら、こないなってしまいよるんでしょうな。こないなクライアントでは、 primitiveな不安─primitiveな防衛機制─双数関係が深く結びついとるていう か、この三つは構造的に結びついとるんかもしれまへん。 これをprimitiveな発達段階への固着てとらえることもできますけど(精神分 析ではそない考えるんでっしゃろか?)、私は不安を局地化するskillの欠如あ るいは拙劣や不足と考えた方がやりよいんとちゃうかて思いますねん(この問 題(不安)に対して局地化戦略を取るか、統合的戦略を取るかという問題につい ては、中井久夫センセが分裂病の寛解過程についての論文で論じてはります)。 これは、境界例の治療に、行動療法的・認知行動療法的・心理教育的ななアプ ローチを応用するための考え方の一つですわな。 私は精神分析をしたこともないし、訓練を受けたこともないので、ついつい 分析の道具(概念)使うても、あっち向いていてまいますねん。この辺はご容赦 を。
>445 ある治療者が、自分自身の「超自我」のために、患者さんとの「治療契約」を 守っているとしたならば、それはあまり健全な状態ではない、と私は思います。 これも異議はありまへん。これは実は治療契約・治療同盟に依存するという 意味で「不安を局地化するskill」の一つとしてあげたわけですわ。クライア ントだけやのうてセラピストもまた治療契約・治療同盟という社会的な制度 (あるいはそれに対応する内的対象あるいは構造物)に依存することができるわ けです。実際、一人の人間を全面的に支えるなんぞそうそうできることやおま へんわ。それを見ず知らずのクライアント(それも複数になる可能性が大っき いのに)に全面的サポートを提供するのは不可能ですわ。それを、局地化され た限定された形ではあっても、全面的サポートの変わりになるものを提供でき るんが、治療契約のええとこでっしゃろなァ。
>>447 「不安を局在化する」という概念を良く知らないので、無責任な書き込みになって
しまうかもしれませんが、お許しください。
精神力動的精神療法において、例えば次のようなコメントをすることがあると思います。
「ある人があなた以外の人のことを話し始めたとたん、あなたはその人に見捨てられたと
思い込んで、不安に圧倒されてしまうのですね。」
ある種の患者さんは、セッション中のこのようなコメントを覚えていることが出来、
その結果、次に同じような状況が生じたときに、不安に圧倒されずに対処するという
ことができるようになる思います。これはいわば、「二者関係」(患者さんと話し手
という視点)から、「治療者によるコメント」という「第三者」(=別の視点)を
含んだ「三者関係」へ移行することが出来た、と考えることが出来ると思います。
逆に言えば、このように移行する能力のある人が、このようなコメントを含む
「精神力動的精神療法」からメリットを得られる、と考えられると思います。
精神分析又は精神分析的精神療法を行う場合にも、似たようなことがいえると
思います。つまり「(患者と治療者という、感情の錯綜した)二者関係」から
「その関係から少し距離を取って、その関係について治療者と一緒に考えることが
できる」という「三者関係」に移行する能力のある人が、精神分析又は精神分析的
精神療法からメリットを得られる、ということになると思います。
結論としては、「精神力動的精神療法」も「精神分析又は精神分析的精神療法」も共に、
「二者関係」から「三者関係」への移行を目指すものである。但し、「三者」に相当
するものが異なっている以上、その適応も異なっている。(もちろん重なっている
部分も大きいと思いますが)したがってありきたりですが、患者さんそれぞれに対して
最もふさわしい治療を提供するのが良い、ということになると思います。
書き終わって気付きましたが、誰かがすでに書いていそうなことですね。。。掲示板は
別に論文とかではないからいいでしょうけど。。。
いつもありがとうございます。ここのレスはとても勉強になります。
>>449 >「精神力動的精神療法」も「精神分析又は精神分析的精神療法」も共に、
>「二者関係」から「三者関係」への移行を目指すものである
確か、神田橋先生の「治療の心」という小冊子に書かれていた様に思います。
あの本にのっている事は、見落としがちな内容が多いはず(笑)ですので
あまり、大きく取り上げられている事は無いような(偏見ですが)。
神田橋先生はこの「三者関係」になった時に「もう一度主訴を見直す」こと
等のポイントを説明されていました。
余談ですが、この本の中で神田橋先生自身が翻訳されたマーガレット・リトルの
「精神病水準の不安と庇護」に関して、結構きびしいコメントを書かれていました。
漏れなぞは、「あ〜、みる人がみるとこんな事が浮き上がってくるのか〜」
と唖然としてしまいましたが(汗)。
>449 わかりにくいことを書いて申し訳ありまへん。「問題を局在化する」ことに ついては、中井久夫センセがかなり昔に議論してはったんですわ。記憶だけに 頼って書きますさかい、間違いがあってもお許しを(文献を見直す気になりま へんし、特にええ気分で酔うてる時には)。 それは、分裂病に親和性のある人と躁うつ病に親和性のある人とを比較して 論じてはったんですわ。で、S親和者は、小問題も大問題に引きなおして、解 法を求めはる傾向があるていうことですわ。 例えば、中井センセが上げてはった例ですが(ちょと間違うとるかもしれま へんが、まあ、細かいこと言わんといてください)、ある男の子がいじめにあ ったとする。普通は、いじめという特殊な暴力に対しては、ガッコのセンセに 相談する、そのいじめっ子の友人に仲介を頼む、いじめっ子に対抗できる友人 を見つけるなど、特殊解を捜すわけですわ。ここにセラピストに相談するてい う方法があってもかまいまへんわな。これはいじめという暴力の問題(ひいて は不安)を局地化して、その中で解決策を捜すという方法ですな。浦島さんの 言を借りたら、男の子といじめっ子の二者関係に、第三者を導入すると、まあ、 こういう言い方になるんでっしゃろうなァ。こういう方法はMDI親和者や神経 症親和者が得意なんやそうですわ。
ところが、その男の子がS親和性を持っている場合、いじめという特殊な暴 力に対する特殊解を求めるのではのうて、暴力一般に対する自分の耐性を高め るために、剣道や空手を習い始めるというんですわな。これは本来、特殊な局 所的な問題を一般的な問題に還元して、強引に一般解を求めるという手法です な。せやけど、これは、本来限局されているはずの不安が汎化しやすいという ことでもありまへんか。それを中井センセは、分裂病者は発病が近づくにつれ て(つまり、不安が高まるにつれて)世界と対立すると言うてはりました(と思 う)。 ところで、投影的同一視は、ある意味で様々な人間関係を、「あんたとおれ」 の二者関係(双数関係)に還元してしまいがちやと思うんですけど、いかがなも んでしょうか。「あんたとおれ」の二者関係も、ガッコのセンセに相談したり、 友人に相談したり、セラピストに相談したりという方法で不安を局在化したり できにくいですわなァ。やっぱし不安(問題)が汎化しやすいんとちゃいますか。 「センセさえボクを理解してくれたら、ボクは生きていけます」て具合になァ。
>>451 >神田橋先生の「治療の心」という小冊子に書かれていた様に思います。
あ、やっぱり(笑)。
>マーガレット・リトルの「精神病水準の不安と庇護」
かなり前になりますが、読んだ時に「こんなに重症の人が分析家になっていいんだろうか」
と思ったことを覚えています。今はどう感じるか分かりませんが。。。
>>452-453 「問題を局在化すること」についての解説、ありがとうございました。勉強になりました。
少し考えたことがありますので、書き込ませていただきます。
ハンナ・シーガルに、「象徴等価」という概念があります。精神病者に見られる現象で、
「・・みたいなもの」(象徴)が、「・・そのもの」になってしまうことです。
シーガルは次の例をあげています。「楽器を弾くこと」は、「マスターベーションを
すること」の「象徴」です。したがって、ある種の神経症(死語ですが)の患者さんは、
人前で楽器が弾けなくなってしまいます。なぜならば、「人前で楽器を弾くこと」は、
「人前でマスターベーションをするみたいなもの」だからです。(もちろん無意識の
レベルの話ですが)
これに対して精神病の人は、「人前で楽器を弾くよう求められる」と怒り出します。
なぜならばそれは、「人前でマスターベーションをするように求められた」ことと
「全く同じ」だからです。
この「象徴等価」の概念を使って、「いじめ」と「暴力」の関係について考えてみます。
ここで「いじめ」を、「命にかかわらない程度の、精神的肉体的攻撃を受けること」、
「暴力」を、「自分が武道を学んで身を守らないと殺されてしまう程度の攻撃を
受けること」と定義します。(この定義は、ここでの議論のためだけの定義です。
念のため。)
すると神経症レベルの患者さんは、「いじめ」を「暴力みたいなもの」と考えるため、
「『いじめ』を解決するために『特殊解を探す』」ことになると思います。
それに対して精神病の患者さんは、「いじめ」は「暴力」そのものである、と考える
ため、「(自分が殺されてしまう)暴力」から身を守るため、「武道を学ぶ」という
ことになると思います。
>>453 >投影的同一視は、ある意味で様々な人間関係を、「あんたとおれ」の二者関係
(双数関係)に還元してしまいがちやと思う
以前書いたことがありますが、投影性同一視についての考え方において、カーンバーグと
クライン派との間には大きな違いがあります。すなわち「投影性同一視は、BPO水準
以下の人にみられる特殊な防衛である」と考えるカーンバーグに対し、クライン派は
「投影性同一視は、どんな人にも一般的に見られる防衛である」と考えます。
但しクライン派から考えても、ヨパライさんの書き込まれていることは、ある意味
正しいと思います。なぜならば、クライン派の考える「投影性同一視」とは、
「内的世界」(又は「幻想(phantasy)」)に存在している「自己表象」(おれ)と
「対象表象」(あんた)が、「現実世界の対象(又は自分自身)」に投影されること
だからです。つまり、世の中には「あんた」と「おれ」しかいないと考えている
と言うことも可能だと思います。
>>453 >投影的同一視は、ある意味で様々な人間関係を、「あんたとおれ」の二者関係
(双数関係)に還元してしまいがちやと思う
456番の自分の書き込みを読み返してみましたが、結局のところ453番のヨパライさんの
書き込みの上記の部分が、今ひとつ私には理解できていないようです。
できれば、もう少し詳しく説明していただけると助かります。
458 :
没個性化されたレス↓ :03/05/13 00:47
ageさせていただきます。
>457 キビシイツッコミで冷や汗が出てきましたわ(^^;)。 浦島さんは精神分析的精神療法をしてはるとのことで、ちゃんとトレーニン グしてはるんやろうと思いますけど、私は実のところ、精神分析的精神療法や ったこともあれへんし、精神分析してはる人とおつきあいしたこともあれへん ので、思い違いがいっぱいあると思うんで、教えたってください。 「投影的同一視」は、だいたい次のようなことやと思うんですわ。 自分の中に陰性感情(特に不安や苦しみ)が出てきたとします。最初は「そん なはずあれへん、そんなことあれへん」と否認しますわな。せやけど、否認だ けで処理でけへん場合は、陰性感情を外におっぽり出して、他のもの(人)に投 影します。「こんなことになったんは、あいつのせいや。けしからん」ムカッ ときた、キレた、癇癪てわけですわな。
>>453 >ヨパライさん
> ところで、投影的同一視は、ある意味で様々な人間関係を、「あんたとおれ」
>の二者関係(双数関係)に還元してしまいがちやと思うんですけど、いかがなも
>んでしょうか
この御指摘で、ふと思いついたのですが、投影性同一視が容易に行われる場合、
(それが「排泄」か「原初的コミュニケーション」が目的かはさておいて)、
既に対象関係が「二者関係」になっているような気がします。言いかえれば、
投影性同一視が活発になっている時には、すでに「退行」(といっていいの
かな(汗)。クライン派ならP-S Positionに移行と言う所ですかね)が
始まっており、結果として投影性同一視が活発になったと考えてみました。
現実問題として、内的対象関係が明らかになるのは言葉でやり取りを通して
ですから、Th.としては、まず、投影性同一視と思われる交流が先にあらわれ
るので、投影性同一視によってTh.が「二者関係に持ち込まれた」感じが
漏れなぞするのですが、実はこの少し前に、Clの内的世界では二者関係が
優勢な状態で、投影性同一視はそれを実現させる手段かなと
漏れ的に考えなおしてみたりします。
>>455 >浦島さん
ハンナ・シーガルの解説有難うございました。
勉強になりました。
漏れはヨパライさんの「暴力そのものが襲いかかる」という点に
関してはBionのベータ要素に近いのかなと連想しました。
「対象を修飾する攻撃性」が「攻撃性そのもの」になって襲ってくる
ところがPsychosisのとてつもない恐怖ですね。
そんなことを考えながら、担当の患者さんにあうと「こんなに怖い状況を
やけにならずによく耐えてるなぁ」としみじみしてしまう事がままあります。
ボーとしているうちに、A-P Psyさんのレスが入りましたな。以下は前のカ キコの続きです。 普通は、ちょっと時間が経つと、不安や苦しみはだんだん収まってきて(慣 れてきて?)、「Aだけが悪いんと違う。Bにも責任があるし、俺も悪かったん や」という具合になりますわな。これは、不安や苦しみが分散されて、いくつ もの対象に投影され、それぞれの対象との関係の中で処理されるようになるわ けです。この対象の中にはいわゆる超自我にそうとうするものもあるでしょう し、その意味では神経症的な防衛機制と言うてもええんかもしれまへんな。 (もっとも、私は神経症の中心的な防衛機制ていわれる「抑圧」がどないなも んか、ようわかっとらんのですけど) このプロセスは、不安や苦しみはもともとが自分の中全体に広がっとる(汎 化しとる=頭ン中は不安でいっぱい状態ですかな?)もんやけど、それがだん だんと局在化され、分散処理されていくプロセスとして理解できると思うんで すわ。これはいわゆる健康な人間にも認められるんとちゃうかと思いますんで、 いわゆる原始的な防衛機制は健康な人にもかなり活発に出てきよると思います。 ただ、それはあんまし長続きせえへんし、支配的になることもおまへんけど。 そういや、プレコックス・ゲフュールで有名なリュムケは、分裂病の症状も非 常に短時間やけどいわゆる正常な人間にも出てきよると言うてはったそうです な。
これが、境界例のクライアントの場合、不安の分散局在化のプロセスより投 影的同一視を中心とした原始的な防衛機制が主になるということでっしゃろ。 治療関係の中で不安を分散局在化するプロセスは、セラピスト=クライアント の治療同盟(役割関係)がきちんとしていきよるプロセスですわな。それに対し て、セラピスト=クライアントの中で「俺が苦しいのはおまえのせいや」「俺 が心地よいのはあんたのおかげです」ていうのが表に出てくると、二人とも 「セラピスト=クライアント」の役割関係からだんだんはみ出していきますわ な。役割関係を超えた「あんたとおれ」の関係に置き換わって行きよるわけで すわな。こうなると、セラピストは自分の家族や恋人の相手しとるみたいに、 クライアントの心配したり、しょっちゅう連絡取ったりすることになってまう んでしょうな。 これは、境界例のクライアントの内的世界には、役割に関する表象、あるい は役割を構成する上で重要な表象が不十分なんやと考えてよろしいんでっしゃ ろか?
>>462 >ヨパライさん
すごいですねぇ。患者さんとの短いやりとりで、その状況が目に浮かぶようです。
えーと、生意気なのを許していただければ、
>>462 のコメントは
>>439 に
続くのかなぁと考えてみました。
> これは、境界例のクライアントの内的世界には、役割に関する表象、あるい
>は役割を構成する上で重要な表象が不十分なんやと考えてよろしいんでっしゃ
>ろか?
漏れなりに考えてみました。頓珍漢でえらそーでしたらすいません(と先に
誤っております)。この状況は、治療者の表象がクライエントの転移により
万華鏡のように(不安定に)変わっていくというストーリーを考えてみました。
で、神経症圏の患者さんはこうはならずに、役割を生産的に維持しようという
力がありますが、これが「観察自我」というものかなと考えてみました。
神田橋先生が「視点を天井に持って来て、患者さんと自分がやり取りして
いる光景をイメージする」というものに近いでしょうか?(もっとも、これは
治療者側の機能ですが)。そういう意味では「Cl.とTh.の関係」と
それを観察する「第3のCl.の目」(勿論、第3の目はTh.にも必要ですが)
がないと、容易に二者関係に突入し激しいバトルがまってそうな気がします(笑)。
そういう意味も含めて、セッションで二者関係から三者関係への移行というのが
セラピーの一里塚になるのかなと思ってみたりします。
この観察自我が「容赦がない」感じだと「超自我」的な性質をおびたり、
また、ほどよいものだと「治療同盟」を維持するものなのかなと空想しました。
464 :
没個性化されたレス↓ :03/05/14 20:02
>ところで、投影的同一視は、ある意味で様々な人間関係を、「あんたとおれ」 の二者関係(双数関係)に還元してしまいがちやと思うんですけど、いかがなも んでしょうか。 ラカン派なら、鏡像段階 schema Lのa-a'の関係がまさにこの関係になると思います。 ただ、神経症水準であれば、大文字のAがこの関係を主体(斜線をひかれたS)との間で差異化 しますので、主体は無意識のままに支えられる、という仮説になるのだと思います。
>>459 >>461 少し細かい話になりますが、「投影性同一視」について書き込ませていただきます。
もともとこの概念を言い出したのはクラインだと思いますが、その前提として彼女の
「内的対象関係」又は「内的世界」という概念があります。そして「内的世界」には、
「感情」と結びついた「内的対象(自己表象及び対象表象)」が存在しています。
具体的には、「自分に不安を感じさせる対象表象」「自分を幸せに感じさせる対象表象」
「不安に感じている自己表象」などです。
これは重要な点で、「感情」は常に「(自己表象も含む)対象」と共に存在する、
とクラインは考えたわけです。これを前提としているため、「投影性同一視」において
投影されるのは、常に「(自己表象も含む)対象、又はその一部(=部分対象)」
及び「それに結びついた感情」となるわけです。そして、感情そのものが投影される
わけではありません。
慣用的に、「不安を投影する」とか「悲しみを投げかける」などの表現を使うことが、
混乱を招く一因になっていると思います。
>>461 >不安の分散局在化
クラインは、「不安などの感情は、自分の内的対象関係から生じている」と考えました。
つまり、感情と結びついた「内的対象」を、「投影性同一視」によって、現実の対象
に投影した結果生じる、ということです。具体的には例えば「自分を迫害してくる
対象」をある人に投影して、「自分が不安になっているのは、あいつが自分を不安に
陥れているからだ」などのようになります。
したがってクライン派は、「不安や苦しみが治まる」のは、「不安や苦しみが分散
する」からではなく、「自分が内的対象を投影していたことに気付く」ことを通して
だと考えます。つまり、「自分が一方的にAが悪いと思い込んでいたんだ。Aに申し訳
ないことをしたな」と気付くことによって、ということです。この状態が
D positionです。
そしてこの「投影性同一視」は、正常の人にもしばしば起こることだ、とクライン派は
考えます。例えば、ある人のことを嫌いだと感じる場合、よく考えてみると、その人の
中に「自分では受け入れることの出来ない自分の性質(例えば、傲慢であるとか)」
を見出して、その性質ゆえにその人を嫌っている、ということは良くあることだと
思います。この過程が、クライン派の考える投影性同一視です。
>>462 >セラピスト=クライアントの役割関係
「(精神分析を含む)精神力動的精神療法」は、きちんとした「セラピスト=クライアントの
役割関係」を目指すものである、と定義することも可能だと思います。つまり、
きちんとした「セラピスト=クライアントの役割関係」を「外れた行動」が、「転移」
又は「逆転移」で、それを考えていくことが「精神力動的精神療法」ということです。
(ちなみにこれは私のオリジナルではなく、成田善弘先生のご意見です。)このような
「外れた行動」を引き起こすものが、「投影性同一視」だと思います。
そして、このような「外れた行動」から、きちんとした「セラピスト=クライアントの
役割関係」へ、たとえ短時間でも戻ることのできる人は、精神力動的精神療法の適応
となる可能性があり、もどることの出来ない人は、おそらく適応にならないと思います。
「境界例」と呼ばれる人の中にも「もどることのできる人」と「もどることの出来ない人」
の両方がいる、というのが私の意見です。もちろん、いわゆるNPOの人とBPOの人では、
「外れやすさ」「もどりやすさ」において、程度の差が存在するとは思いますが。
あまり理論的なことばかり書いていても疲れるので、もう少し気楽に書けそうな話題 を振ってみます。 単科の精神病院で働いていた時、困難を感じたことがいくつかありました。第一に、 長期入院されている方への処遇でした。退院させようとしても受け入れ先がなく、 家族の方から「何かあったら先生を訴えます」と脅されたりしながら退院させたこと もありました。 第二に、外来通院を中断しがちな方への対応でした。暴れたりしてどうしようもなく なってはじめて、無理やり連れてこられて入院、ということがしばしばありました。 そこで、この問題に対処する方法を考えてみました。一つのアイデアとして、一定の 地域(市程度)に住む精神科の患者さんに対応することのできるチームを作っては どうでしょうか?チームには、Dr、Ns、CP、PSW、薬剤師などが必要でしょう。 そして、往診が活動の大きな部分をしめ、危機介入が中心ですが、外来通院をきちんと できない患者さんも対象にします。但し、いわゆる夜間などの精神化救急への対応は、 基本的には行いません。つまり、欧米におけるLocal Mental Health Teamをモデル にしています。 うまく機能すれば、地域に患者さんを受け入れる可能性を引き上げることが出来、 精神病床の削減につながり、医療費の増加につながることはないのではないか、 と思います。一人の医者としては、あまりありがたくない話ではありますが。。。 正直に言うと、「日本で実現することは難しいかな」と私は思います。しかし、 何とかならないかな、と思って書き込んでみました。皆様はどう考えられるでしょうか? 日本を離れており日本の現状をあまり知らないため、的外れの話題になっているかも 知れません。その場合はお許しください。
>>468 患者の家族です。
精神病の患者さんは通院をいやがる人が多いし、家族もいやがる患者を
引きずってでも病院にと言うのが患者が悪い時ならともかく症状が安定
すると、どうしても、マー良いか、となりがちです。それで、薬を止めて
ほかっておいては再発の繰り返しとなると思うのです。
往診があれば、それは助かりますが、近所の目があるし。
したがって、すんなりと受け入れてくれる家族ばかりではないと思います。
Dr、Ns、CP、PSW、薬剤師意外にも、スタップの保護のためと無駄な
入院治療をしないためにも裁判所命令と警察官が必要な時もありそう
な気がします。
>浦島さん
>家族の方から「何かあったら先生を訴えます」と脅されたりしながら退院させたこと
>もありました。
>>469 >症状が安定すると、どうしても、マー良いか、となりがちです。
>それで、薬を止めてほかっておいては再発の繰り返し
漏れも、地域精神保健にかかわる事がそこそこありますので、
この2点は頭が痛いですね。本当なら家族内の葛藤等を
とりあげる必要があるのですが、疾病や治療に対する理解の
不足も結構みられますので、家族教室などの参加を促したり
しています。
最近になり、医療保護入院の搬送に精神保健指定の診察が行われる場合があり、
この場合、診察した上で診察先で薬剤の投与等ができるようになっています。
現在日本では、事例化している場合、保健師の訪問が中心になり
(今年度から県の事業から市町村の事業へ業務内容の一部が
シフトしていますので、大変そうですが)、福祉(生活保護
を使われている方も多いですので)、警察、民生委員、
時には作業所のスタッフによるケース検討会議が開かれています。
>>469 >裁判所命令と警察官が必要な時もありそうな気がします。
468番で私が「危機介入」という言葉を使ったため、誤解されてしまった部分がある
かもしれません。私が書いたチームは、「外来通院をきちんとすることは出来ないが、
(その患者さんの暴力などのために)強制力を使う必要のある程ではない患者さん」
に対処することを主目的にする、というイメージを私は持っています。いわば、
現在すでに存在している(と思いますが)「訪問看護」を、より大掛かりに系統的に
行う、といって良いかもしれません。
したがって、そのチームに警察官を含むことは考えていません。(強制力を使う
必要のある場合には、別の議論が必要だと私は思います。)
少し話がずれますが、(措置入院、医療保護入院などの)強制入院に関しては、
現行のように精神科医(指定医)の判断ではなく、裁判所命令(つまり、裁判長の
判断)にした方がすっきりすると私は考えています。なぜならば、基本的に
(強制入院などの形で患者さんの)「人権を制限する」場合には、裁判所などの命令
ではじめて行う、というのが法治国家の本来の姿だと考えるからです。ただ現実問題
として、裁判官の数を、現在の数倍にでもしないと無理だとは思いますが。
>>470 468番に書いたシステムを考えた主目的は「外来通院からドロップアウトした方、又は
外来通院に結びつけることが困難な方のうち、まだ事例化していない人を何とかしたい」
ということです。これがうまく行けば、理屈では「事例化する前に、地域の中で
患者さんをみていける」ということになりますが、、、現実には大変でしょうね。
地域の側の受け入れの問題は大きいでしょうから。
かなり前のことですが、家族の協力が全く得られない患者さんをグループホームへ
退院させたものの、保証人が居ないことがネックになって、引越しできるアパートを
見つけることが出来なかったことを思い出しました。今は、何かいい方法があるので
しょうか?よろしければ教えてください。
書いていて思い出したのですが。。。最近(でもないのでしょうか)日本では、 「Ns」「Pt」の呼び方が変わっている、ということを知りました。 私自身は反射的に、「看護婦さん」とか「・・・(患者さんの名前)さん」とか 呼んでしまいそうですが。。。やはり皆さん(精神科医の方など)は、「看護師さん」 「・・・(患者さんの名前)様」と呼んでおられるのでしょうか?
474 :
没個性化されたレス↓ :03/05/19 15:59
>465 >少し細かい話になってしまいますが、「投影性同一視」について書き込ませていただきます。 もともとこの概念を言い出したのはクラインだと思いますが、その前提として彼女の 「内的対象関係」又は「内的世界」という概念があります。そして「内的世界」には、 「感情」と結びついた「内的対象(自己表象及び対象表象)」が存在しています。 具体的には、「自分に不安を感じさせる対象表象」「自分を幸せに感じさせる対象表象」 「不安に感じている自己表象」などです。 細かいことにこだわって失礼かとは存じますが、重要と思いましたので 内的、外的という言葉の概念について; Freudは、「科学的心理学草稿」の9装置の機能、「夢判断」夢過程の心理学、心的装置で述べているように、単純に主体の内と外、とは考えていなかった点がある意味では革新的であったと思うのですが、クラインはどう考えていたのでしょうか? >これは重要な点で、「感情」は常に「(自己表象も含む)対象」と共に存在する、 とクラインは考えたわけです。 「感情」とは乱暴にいってしまえば、「愛」と「憎しみ」に集約されるものなのでしょうか? (勿論そんな単純な問題ではないのでしょうけれど) 感情というものを更にナルシシズム、自体愛という概念まで還元されねば曖昧な議論になってしまうのではないでしょうか?Freudの主張した1次ナルシシズム、2次ナルシシズムとどのように関わってくるのでしょうか? 「不安」についても自我、超自我、特に抑圧という概念が重要だと思うのですが、これらが複雑に絡まってくると思うのですが、この点が整理できないと(わたしも勿論混乱していますが)曖昧な言説で終わってしまうので、惜しいことだと思います。
475 :
没個性化されたレス↓ :03/05/19 16:28
>最近になり、医療保護入院の搬送に精神保健指定の診察が行われる場合があり、 この場合、診察した上で診察先で薬剤の投与等ができるようになっています。 この場合、応急指定病院での入院となり、あまり一般的入院形態とはいえないと思います。 各都道府県で対応がまちまちらしいのですが、警察官の協力が警察官職務執行法の制限のため かかわった医師の話では、大変だそうです。
476 :
没個性化されたレス↓ :03/05/19 16:44
>少し話がずれますが、(措置入院、医療保護入院などの)強制入院に関しては、 現行のように精神科医(指定医)の判断ではなく、裁判所命令(つまり、裁判長の 判断)にした方がすっきりすると私は考えています。 精神科に限らず、医療が行政の範疇で行われる以上、措置、医療保護入院のみが司法が かかわってくるというのは、 無理ではないかと私は思います。 紛争等でその事例での法の妥当性が問われる場合は別として、裁判官は精神科医療に関して 充分な知識をもっているわけではありませんので。
479 :
没個性化されたレス↓ :03/05/20 00:09
>>465 クラインを読んでますか。クライン派における内的対象は内的「表象」ではありません。
表象と内的対象の違いは、たとえばヒンシェルウッドの事典の内的対象のところを
読んでください。
480 :
没個性化されたレス↓ :03/05/20 17:27
表象というと、Freudのいう知覚形象と共通性があるのでしょうか? あるいは、記憶痕跡のような知覚複合体をいっているのでしょうか? Freudの源流である、「科学的心理学草稿」にもどると、整理しやすいのではないかと 思います。 科学的心理学草稿で、「不安」というものも「不快の鍵ニューロン」 「一次過程」「二次過程」という仮説でFreudは仮説提示したわけですが この点をクラインはどう考えていたのか、という点を知りたいのですが。
あぼーん
483 :
,,,,,,,,,,, :03/05/20 18:05
貴重なスレです。上げるな。
>>474 さん
浦島さんのレスが待ち遠しいのですが、ちと、漏れなりに整理してみようと
おもってカキコします。文献を参照せずに書いているので、誤解&言葉足ら
ずなのはご容赦を(あと、訂正&加筆御願いします>ALL)
>単純に主体の内と外、とは考えていなかった点がある意味では革新的であった
>と思うのですが、クラインはどう考えていたのでしょうか?
これに関しては、クラインは全ての外的な関係性は内的な対象の関係の
現れである(すなわち、関係性は全て転移である)といっていたような。
現実の母子関係でさえ幼児の内的対象関係の結果であるといっていたような
気がします。この点が、ウィニコットらの独立学派の主張する「外的対象関
係が、内的対象関係にも影響する」という点と異なっていたような(汗)。
曖昧なカキコですいませんm(_ _)m。
つづきます
>「感情」とは乱暴にいってしまえば、「愛」と「憎しみ」に集約されるものなのでしょうか? ? 漏れ的には(乱暴に言えばという事です(笑))、フロイトの自己愛水準 (いわゆる口唇期ですね)のリビドー論に平行して発達する、内的な関係性 を細かく探索していったのが対象関係論だと考えています。 で、この場合の「自己」に関しては「良い」自己(対象)、「悪い」自己(対象) と自己の対象が分断されており一つの自己表象になっていないという立場だったと 思います。すなわち浦島さんのいう「心地よい自己」と「不快な自己」が統合されず ばらばらで、同様に「快い対象(空腹を癒してくれるおっぱい)」と「不快な対象 (思い通りに母乳がでなかったりたまたま口から外れたおっぱい)」が存在したはずです。 そして、「不快な自己」が「不快な対象」を攻撃するのですが(分裂-妄想態勢、でしたよね?)、 最終的には「攻撃していたのが実は『いいおっぱい』(の一面もある対象)だった」 というシフトが起こりこの段階で対象が統合されたはずです(抑うつ態勢でしたよね)。 ですので、この統合された対象に関しては「償いたい」「大事にしたい」という 情緒が出現したと思います。 >「不安」についても自我、超自我、特に抑圧という概念が重要だと思うのですが 浦島さんがかかれた「不安」という言葉は、対象がばらばらである時期に関する 説明と受け取り、漏れ的には「精神病性不安」と読み換えていました。 すなわち、いわゆる成熟した(神経症水準の)不安ではなく、「脅かされる」 というような迫害不安を想像しています。この場合の不安はフロイトの葛藤モデル による「不安」(この場合は対象はすでに統合されていますので)ではないと 思いますので異なる性質のものかと思います(クラインの早期エディップスで したっけ?(汗))。 ということで、つたない説明を終わります。失礼しましたm(_ _)m
>>474 >Freudは、・・・単純に主体の内と外、とは考えていなかった点がある意味では革新的
であったと思うのですが、クラインはどう考えていたのでしょうか?
私がこの書き込みをきちんと理解できているかどうか自信がありませんが、フロイトと
クラインの「対象」に関する考え方の違いについて書いてみます。
フロイトが「対象を取り入れる」という場合、「自我」(=生体)が「対象に同一化」
して(いわば「対象のまね」をして)「対象」を「自我装置の一部として取り入れる」
という意味だと思います。この「自我装置の一部として取り入れたもの」が、具体的
には「自我理想」であったり「超自我」であったりするわけです。
それに対して、クラインが「対象を取り入れる」という場合、「内的対象」として
「内的世界」に取り入れる、という意味だと思います。そしてこの「内的世界」は、
主体の外(外界)と、自分自身の内なる「本能」の影響によって生じている、と
考えていたと思います。
お答えになっているでしょうか?
>474 >487 >「感情」とは乱暴にいってしまえば、「愛」と「憎しみ」に集約されるもの なのでしょうか? 487番にA-P Psyさんが書かれていることに、大きな異論はありません。あえて付け 加えるとすれば、本来「口唇期」の分類であった「分裂妄想態勢」「抑うつ態勢」が、 より後期の発達段階でも問題になるとした点、及び、不安に対する考え方がフロイトと クラインとでは異なっているため、二人の考えに整合性を持たせることは難しいで あろうという点でしょうか。 感情の起源について言えば、フロイトとクラインでは、いわば前提が異なっている ように思います。ご存知の通りフロイトは、リビドーというエネルギーを仮定する ことにより、感情、不安などの心的体験を「科学的」に説明しようとしました。 この「科学」が「当時の科学」であったため、現在からみると時代遅れであることは 否定しようがありませんが、何もないところに「精神分析」という「科学」(この 使い方が議論になるようならば「理論」)を作るためには仕方がなかったと私は 考えています。 それに対してクラインは、自分が子供の精神分析を通して観察したこと(例えば 「感情は常に対象と結びついて存在するようであること」など)を、いわば 「フロイトの理論に当てはめて理解」しようとしたわけです。したがって、クライン において感情の起源に関する理論があいまいなのは、ある意味当然だと思います。 それは「観察によって得られた」(少なくともそう思った)「前提」ですので。 「不安」についても、同様のことがいえると私は思います。
>476 471番に書きましたが「人権を制限する」(しかもある程度の期間)ため、単なる 医師に過ぎない指定医に権限が与えられるのはおかしいのではないか、という発想です。 実は私自身も指定医ですので、自分の権力(?)を弱めることになりますが。。。 裁判官が知識をもっていないことは、大きな理由にはならないのではないか、と私は 思います。それは単に、精神科医が「知識を持っていない裁判官」にもきちんと理解 できるように書類などを書く義務がある、さもないと強制入院を行えない、という ことになるだけだと思います。 但し、もし本当にこうなった場合には、受け持ち患者さんの数を思いっきり減らして 欲しいですが。。。
>479 >クライン派における内的対象は内的「表象」ではありません。 「内的対象」の意味で、安易に「対象表象」という(別の)用語を使っていました。 不注意でした。 御指摘ありがとうございました。
>486 >文献を参照せずに書いているので 白状しますが、私はいつもほとんど文献を参照せずに書いています。したがって、 読んでおられる方には申し訳ないのですが、まあ掲示板ということでお許しください。 >現実の母子関係でさえ幼児の内的対象関係の結果であるといっていたような気がします。 クラインの理論を読む限り、環境を重視しなかったように私には思えます。なぜならば、 コンテインの概念がない以上、(子供を育てる)母親の機能が理論に入ってこない からです。 しかし実際のところクライン本人は、臨床においては、母親の影響を重視していた そうです。したがってクラインは、母親の機能をうまく理論化できなかった、 というのが真相のようです。 今回の書き込みは見直す暇がありませんでしたので、正確でない部分が多いかもしれません。 お許しください。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
>486 >これに関しては、クラインは全ての外的な関係性は内的な対象の関係の 現れである(すなわち、関係性は全て転移である)といっていたような。 現実の母子関係でさえ幼児の内的対象関係の結果であるといっていたような 気がします。この点が、ウィニコットらの独立学派の主張する「外的対象関 係が、内的対象関係にも影響する」という点と異なっていたような(汗)。 ということは、Freudのいった転移とは共通しつつもかなり異なった概念と 解さねばならないと思います。 彼は、「科学的心理学草稿」では、単に転移をリビドー備給の移動、「夢判断」では リビドーの意識、前意識、無意識の間の移動と記述しており、後には 「転移の力動性」のなかで、「印刷源版」という隠喩で表現するように、 過去の幼児期の期待表象の反復とされ、分析に対する抵抗として発露される、 とのべていますさらに、「精神分析概説」では転移を取り上げることで 患者の過去の生活史を知る糸口となり治療の糸口となる点が述べられています。 「関係性がすべて転移である」、という言説の中には、「他者」という掟の世界、 (勿論分析の場面でも既にそうなのですが)より多次元で複雑な的世界が 既に包含されており、この点に注意しなければ、曖昧模糊とした混乱を招くと思います。
>487 >漏れ的には(乱暴に言えばという事です(笑))、フロイトの自己愛水準 (いわゆる口唇期ですね)のリビドー論に平行して発達する、内的な関係性 を細かく探索していったのが対象関係論だと考えています。 で、この場合の「自己」に関しては「良い」自己(対象)、「悪い」自己(対象) と自己の対象が分断されており一つの自己表象になっていないという立場だったと 思います。 自己とは、良いとは、対象とは、表象とは、一体なんでしょうか?というはてしない 言語の連鎖に引き込まれてしまいますが、「自己」とは「主体」、「よい、悪い」、は快感原則での「快、不快」「表象」とは記憶痕跡と結合した知覚表象から 更に差異化された言語的表象と考えて良いのでしょうか?
>すなわち浦島さんのいう「心地よい自己」と「不快な自己」が統合されず ばらばらで、同様に「快い対象(空腹を癒してくれるおっぱい)」と「不快な対象 (思い通りに母乳がでなかったりたまたま口から外れたおっぱい)」が存在したはずです。 そして、「不快な自己」が「不快な対象」を攻撃するのですが(分裂-妄想態勢、でしたよね?)、 「統合」というのが何を意味しているのか良くわかりませんが、これは、快感原則と 現実原則との関連で考えて良いのでしょうか? 快感原則の彼岸」では母親への欲望の断念から糸巻きぼうやは、言語への領野への 導入というより高次の次元への弁証法的発展が語られたわけですが、このような 視点はクライン派はどう考えているのでしょうか? >最終的には「攻撃していたのが実は『いいおっぱい』(の一面もある対象)だった」 というシフトが起こりこの段階で対象が統合されたはずです(抑うつ態勢でしたよね)。 ですので、この統合された対象に関しては「償いたい」「大事にしたい」という 情緒が出現したと思います。 これは、まさに超自我が関与しているわけですね?
>490 :浦島 >476 471番に書きましたが「人権を制限する」(しかもある程度の期間)ため、単なる 医師に過ぎない指定医に権限が与えられるのはおかしいのではないか、という発想です。 実は私自身も指定医ですので、自分の権力(?)を弱めることになりますが。。。 裁判官が知識をもっていないことは、大きな理由にはならないのではないか、と私は 思います。それは単に、精神科医が「知識を持っていない裁判官」にもきちんと理解 できるように書類などを書く義務がある、さもないと強制入院を行えない、という ことになるだけだと思います。 これは、見解の相違というか水掛け論になると思います。 ただ私がここで申し上げたいのは、誰かが線をひかないといけない、それは ベストとはいえなくとも精神保険指定医あたりかな、ということです。 確かに割り切れないものは有ると思います。ちょこッと鑑定にいって赤い紙に 決まり文句を書く、なんか後ろめたさをお感じになるのではないかと思います。 しかし、指定医のめんどくさいレポートを書いて指定医となった以上は、 嘱託ではあれ公務員として行政の機能をになわねばならない、ということです。 露悪的にいえば権力の走狗として働くということです。 役人が行政の批判をしても、資格を返上しない限り、説得力は乏しいですわ。 >浦島 >現実の母子関係でさえ幼児の内的対象関係の結果であるといっていたような気がします。 クラインの理論を読む限り、環境を重視しなかったように私には思えます。 クライン著作集1巻のまだ30ページまでしかよんでいませんが、その中でしきりに 両親の宗教観、特に全能観が子どもに与える影響を重視する記述が有りました。 そのことが子どもの超自我の形成、学習能力の発展に強く影響する という文意だったと思います。
>>496 「精神分析理論」とは、精神分析または精神分析的精神療法において「実際に観察
されたこと」をどのようにまとめるか、というやり方だと私は考えます。例をあげます。
治療者との間で「理解してもらっている」という「良い体験」をある程度重ねてきた
患者さんがいるとします。あるセッションの連想の中で、彼女が治療者を次のように
攻撃しました。「私が何か言ってから先生がコメントするまでに、すごく時間がかかる。
先生は考えるのが遅すぎると思う。」これに対して治療者は、できるだけ中立的に
(治療者が批判している、という印象を与えないように)「患者さんが、治療者の
持つ能力の価値を下げようとしていること」を伝えました。その背後に存在する不安
(例えば「治療者が患者のことを見下げたり、攻撃するのではないか」)も同時に
伝えながら。
この解釈に対して患者さんは、しばらく考えた後「そういえば先生は、いつも言葉を
選んで話そうとしている。私の言ったことに対して、あらゆる可能性を考えているの
かもしれない」と言いました。しばらく沈黙した後彼女は「誰かが何かを傷つけて
しまった。もう元には戻らない」というテーマの連想をし、治療者は「あなたは私を
傷つけてしまい、もう取り返しがつかない、と心配していると思います」と解釈しました。
患者さんは涙を浮かべました。
このやりとりをクライン(派)流にまとめると「『悪い対象』と『良い対象』が
統合され、患者さんは抑うつ態勢になった」という表現になると思います。
フロイトは別のまとめ方をするでしょうし、ラカンもまた違ったまとめ方をする
でしょう。
臨床を離れた「精神分析理論」は、あまり細かい議論になってしまうと、あまり
意味をなさなくなってしまうのではないか、というのが私の意見です。
>496 >母親への欲望の断念から糸巻きぼうやは、言語への領野への導入というより高次の 次元への弁証法的発展が語られたわけですが、このような視点はクライン派は どう考えているのでしょうか? クライン(派)流に言えば「糸巻きを、母親という対象に対する象徴として使用 できるようになった」などと表現すると思います。 >まさに超自我が関与しているわけですね? フロイトの言う「超自我」という意味でしたら、時期が一致していないと思います。 クラインの抑うつ態勢は、基本的には口唇期の話ですし、フロイトの「超自我」は、 エディプスコンプレックスの後の話ですから。
>497 確かに水掛け論になりそうなのでやめておきますが、念のために一言だけ。 少なくとも私に関して言えば、指定医としての自分の罪悪感ではなく、制度上の 問題点について議論するつもりでした。 キリ番というのは、何か意味があるのでしょうか。。。
>>500 >キリ番というのは、何か意味があるのでしょうか。。。
この板のコテハンの遊び好きロボがキリ番は大好きです。
AA使って派手にキリ番とっとりました。まる。
後は、みんなで、まねっこしてます。
ちょっと、ブレイクタイムをどうぞ
ヨッパライ先生、なにかコメントいただけませんでしょうか?
503 :
没個性化されたレス↓ :03/05/25 19:29
大変興味深く読ませていただきました。 境界例を理解するのに、精神分析は役立ちますが、治療的にはどうでしょうか? 元来、境界例は、分裂病と神経症の境界と言う意味で始まりました。 分析の影響で、人格障害という誤診に近い追加病名が付いたがために、 さも精神療法が中心のような誤解があります。 敏感性や衝動性は、ドーパミン由来の症状にしか見れません。 当然治療的には、major(+SSRI)を中心とした薬物療法が主体となるべきで、 カウンセリングだけというのは、放置に準じるぐらいマイナスな影響しかない印象です。 精神療法が主体になっていいものでしょうか? ご指導お願いします。
>>503 境界例にあたって、特に治療者の治療観が経過に大きく影響すると思いますが、
現実問題として薬物+精神療法に落ちついているような気がします(印象ですが)。
その点からどちらか一方では限界があるように思いますし薬物療法 対 精神
療法の図式はなかなか結論が出ない討議になりそうな予感がします。
>敏感性や衝動性は、ドーパミン由来の症状にしか見れません。
どちらかといえば衝動性に関してはセロトニンの問題かなと・・・
などといいだすと板違いと怒られそうなのですが(笑)、
漏れ自身は、基本的に境界例の薬物療法に関しては
(限りなく『妄想』に近い)「空想」を標的症状にアプローチしています。
で、迫害的な空想に対して精神療法のみのアプローチだとどえらい
時間がかかるようですし、またリスクも増える印象は持っています。
ただし、薬物療法も完全にリスクを解消するわけではなく、
時には衝動行為の手段にもなりますので良し悪しかなと考えています。
>カウンセリングだけというのは、放置に準じるぐらいマイナスな影響しかない印象です。
これは、衝動行為の有無や治療同盟の築きやすさ、内的世界を観察する指向性や
能力などの要因が様々なので「境界例」の診断だけでは断言できないかなと思います。
DSM診断のBPDだと行動化症例が合致する印象が強いので薬物療法は多くの症例で
必要かなと思いますが、いわゆるBPOの水準だと精神療法のみで対応可能な場合も
あるかと思います。
>>503 >>505 >境界例を理解するのに、精神分析は役立ちますが、治療的にはどうでしょうか?
「精神分析又は精神分析的精神療法(以下、精神分析と略します)」が、ある人に
対して適応になるかどうか(つまり有効であるかどうか)は、「分裂病」「境界例」
「神経症」などの「診断名」では決めることが出来ません。基本的にはそれらの
「診断名」とは関係なく、その人が「精神分析」を利用して成長することが出来るか
どうか、という点に基いて決めます。
したがって、「境界例の治療として精神分析が有効ではない」ということは言えず、
「有効な場合とそうでない場合がある」ということだと私は思います。
そしてこれは「認知行動療法」「システム療法」などでも同じではないか、と私は
考えます。(これは違っているかもしれません。これらを専門にする方、よろしければ
ご教示ください。)
>(境界例に対して)カウンセリングだけというのは、放置に準じるぐらいマイナスな
影響しかない印象です。精神療法が主体になっていいものでしょうか?
A-P Psyさんのご意見に賛成します。べつの書き方をすると、これはアセスメントの
問題であるように私は思います。
精神療法を行う場合、どの程度「現実的な面における支え(構造)」が必要であるかを
評価することは不可欠だと思います。ここで言う「構造」とは、「入院させる」
「投薬する」「仕事を休むなど、現実的な面について指示する」などを含んでいます。
例えば「分裂病」の方の場合、入院させた上で精神療法を行うことが必要かもしれま
せんし、「境界例」の場合、薬物の併用が必要かもしれません。
そして、自傷行為が増悪したり、自殺企図がおきたりしているにもかかわらず、
「現実的な面における支え」を作らずに、ある「境界例」の患者さんに対して漫然と
「精神療法」のみを続けているのであれば、その治療者(又は管理医の)アセスメントに
問題がある、といえるかもしれないと私は思います。
507 :
没個性化されたレス↓ :03/05/26 23:09
>>503 ,505,506
境界例という言葉を最近私は用いていないのですが、
そのようにラベルされる患者は、ヒステリー的な人の群、
より発達障害的な群に分けられる気がします。
よりヒステリー的な転移状況が展開しやすい群は、比較的早く精神療法プロパーを利用しやすいようです。
いずれにせよ、多くの境界例といわれる人たちが、一般外来を初診して、
構造化した週1、2回の精神療法を利用できるのは、
かなりの期間管理医がはたらいた上でのことでしょう。
よくある現象は、日本の精神科医がめんどくさくなると心理臨床家にカウンセリングを頼む。
心理臨床家はアセスメントの力がなく、漫然と50分というやりかたによっては退行促進的な時間を
与えてしまい、どうにもならなくなる、という絵柄です。
ただよい管理の下に精神療法がおこなわれたとき、私は確実に意味のあることがおきる、と思っています。
>>507 >よくある現象は、日本の精神科医がめんどくさくなると心理臨床家に
>カウンセリングを頼む。
悲しいかな、結構このパターンはみられますね。現実問題として、
心理検査などは臨床心理士の方にお願いしますが、最終的な
判断は管理医にあるのではないかと思います。すなわち、
A-T managementを行うのも治療方針のひとつだし、
開始する段階ではこの治療形態で治療効果が上がる見立てが
管理医側に必要だと思っています。勿論、心理士の方の
インテーク面接とその評価を参考にしての決定というのは
大事だと思いますが。
>退行促進的な時間を与えてしまい、どうにもならなくなる
これに関しては患者さん側の病態水準もあるのでなんとも
一概になんとも言えないのですが、ただ病態水準が精神療法が
進んでからでないと明らかにならない場合も結構あるという印象
を持っています。
>ただよい管理の下に精神療法がおこなわれたとき、私は確実に意味のあることがおきる、
>と思っています。
ご指摘のとおりだと思います。ただし、管理=構造と読みかえさせていただいた場合、
この状態にシフトするのが当面の治療目標になることがあると思います。
患者側で管理医と精神療法家を使い分け、尚且つ、内的な観察が出来るという
状態はある種のお膳立てがそろった状態だと思いますし、この構造に治療を
シフトしていく「泥臭い」営みもまた、治療的かなと思います。
509 :
没個性化されたレス↓ :03/05/27 00:12
突然失礼します。スレ違いだったらすみません。 このスレにはすごく専門的な方が多いと思って書き込みました。 友人に普段は冷静かつ頭も切れて面白いやつがいます。 でも、側でたばこを吸う人を見ると突然逆上して怒鳴り散らすのです・・・。 他の要因でその友人が逆上した状態になることはなかったので、 たばこが怒りの起爆剤になっていることは間違いないと思います。 先日その程度が酷くなったのか、相手の胸倉を掴み警察沙汰の一歩手前くらいまでいきました。 普段の彼を見ていると精神を病んでいるようには見えないのですが、 医者に行くことをを勧める必要はありますか? また友人として彼のその悪癖のようなものを治してやれる方法はありますか? ちなみに彼も私も受験を控えた高校生です。 どうかレスお願いします。
510 :
没個性化されたレス↓ :03/05/27 00:13
彼の前でたばこを吸うんじゃねえ。 それで問題ないだろ。
良スレにつき上げるな。
板違いだから質問スレでもだめ。メンヘルか医者板。
515 :
没個性化されたレス↓ :03/05/27 00:23
すみません。荒らすつもりじゃなかったです。他板逝ってきます。
516 :
没個性化されたレス↓ :03/05/27 00:34
>出会い業者 このくらいの質問、彼は素人さんのようだから 適当に返事するだけでも良いから、心理学板の質問スレで 受け付けるだけの余裕を心理学徒も持った方がいいよ。
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
520 :
没個性化されたレス↓ :03/05/29 22:04
保全アゲ
521 :
没個性化されたレス↓ :03/06/08 00:25
定期あげ。
522 :
没個性化されたレス↓ :03/06/08 10:59
皆さんどこかに行っちゃったのかな。このスレ楽しみにしていたのに 誰かネタ振りませんか。そうしたらみんな返って来るかもしれない。
523 :
没個性化されたレス↓ :03/06/09 00:16
「視覚神経とも連動」って いかにも素人くさいな。
525 :
没個性化されたレス↓ :03/06/09 02:32
いたずらはいやづら
526 :
没個性化されたレス↓ :03/06/09 02:37
てゆーか、心療医学って何よ? 心身医学と心療内科の合成語か?
527 :
没個性化されたレス↓ :03/06/09 04:12
>>523 マジかゆなった。とりあえず感作は体験。w
529 :
没個性化されたレス↓ :03/06/09 16:32
530 :
没個性化されたレス↓ :03/06/11 00:15
浦島先生は、いずこへ?
臨床でまともかつ興味深いスレで、ずっとロムしていたのですが、 雑音が入るのを恐れ、他のをスレでも紹介せずに黙っていました。
>530 私の名前が出てきましたので、少しだけ書き込ませていただきます。 最近は全く書き込んでいませんが、ちょくちょく目は通していました。書き込ま なかったのは、いろいろと理由があります。仕事が忙しくなったとか、花粉症が 悪くなったとか。。。あと、ネタ切れになっていたのもありますし、私があまりでしゃばり すぎるとヨパライさんに申し訳ないのではないか、という遠慮もありました。 よろしければ、どなたか話題を振ってください。私ももう少し暇になったら 何かトピックを考えたいとは思っていますが。
>>532 お帰りなさい。ヨッパライさんやA-P Psyさんと一緒に、是非楽しくて勉強になる
レスを続けて下さい。お願いします。
I'm Back!てなところで、久しぶりに戻って来ました。 季節はずれの人事異動で、おろおろしてましたが(笑)、気持ちのWork throughをしている所です。 さて、お題目を一つ。「行動化の取り扱いについて」。 この場合の「行動化」はリストカットや大量服薬などの狭い意味でなく、原始防衛機制としての「行動化」を少し考えてみたいなと思って取り上げてみました。 で、振った以上自分の介入について(恥ずかしいですが)(管理医と精神療法担当が兼任です) 1)面接室の外部の設定として 身体的にリスクが生じるような「行動」の場合、物理的な治療設定の強化(閉鎖病棟への入院など) 2)衝動行為直後の介入 とにかくスプリットさせないように、その時の気持ちや、可能であれば空想を手短に取り上げ、「今の事を覚えておいてくださいね。 次の面接でその事を詳しく話しましょう」と面接室でのセッテッングへ持ち込むように誘導。この段階で「迫害的な空想」があきらかになるよう であれば、抗精神病薬を開始します。 3)面接室にて 衝動行為の時に「どんな感じ?」(情緒)からはじめて、「どんな思い?」(空想)までに焦点をあてる表出的な精神療法をアプローチします。この点で結構、 「忘れた」「憶えていない」などの分裂機制を食らって(汗)なかなか一回の面接で解決しないのはざらなのですが。ある程度、言語化できれば「今までに こんな感じになった事は無いの?」→「その時、どういう感じでやり過ごした?」→「その時と今回の違いは?」という流れに進む事が多いです。 1)2)はどちらかというと管理医の仕事ですね。 私自身は3)で空想が明らかになった場合に抗精神病薬(最近PZCが多いです(笑))を開始してしまう事が多いのですが(と、この段階で管理医に戻る問題があるのですが)。 文章にしてしまうとマニュアル化したみたいで陳腐な上に、リストカットの対応みたいになってしまいましたが(汗) 「行動化」全般に関して、皆さんはどう介入されてますか?
535 :
没個性化されたレス↓ :03/06/13 21:35
閑話休題 浦島先生は、クライン派の分析をメインにされているんでしょうかね。 上のレスを読んでいて、勝手ながらそう思いますた。
537 :
没個性化されたレス↓ :03/06/14 00:18
>>535 浦島氏がクライン派とは思えん。
それに「クライン派がメイン」って何。
クライン派の分析家は丸ごとクライン派でしょう。
精神分析の現在の主流は、何?
534> 行動化というのは、一体なんなのでしょうか。 という素朴な疑問から、「行動」と「現実」とのかかわりあいを 探る行為、 これは人間の普遍的な行為なわけですが その差異をどこに持っていくかが難しいと思いました。 精神分析学でいう行動化と、精神科の一般臨床でいう行動化はかなり 異なっているのではないでしょうか。 その辺をまず、明文化していく作業が必要ではないかと、 面倒ですけど、そう思いました。
主体が「現実」にかかわり合う「行為」およびその反復が 現実検討の基本であることを、Freudは「科学的心理学草稿」 ですでに記述していますが、そのことをずっと分析学は無視し続けた のではないかと、私は思います。 臨床で問題となる行動化というのは欲動の解消としての身体を介在した行為 と考えるべきなのか、あるいは換言すれば葛藤の解消としての行為 ということなのかもしれません。
>534 「行動化が起きた後の取り扱い」に関しては、A-P Psyさんの書き込まれていること に大きな異論はありません。 そして「行動化が起きる前」には、「行動化が患者さんにとって害になることである ため、止めなければならないこと」を出来るだけ共有しようとし、「止めるには どうしたらよいか」を一緒に考えようとすると思います。そして「行動化を止める」という 目的を達成するために、「このような行動化が生じたら、このような行動制限をする」 などの合意が出来るように努めると思います。(いわゆる「リミットセッティング」 です) 実は最近「激しい行動化の取り扱い」をしていないので、昔の事を思い出して 書きました。時代についていっていないかもしれません。「リミットセッティング」 という概念は、今もあるのでしょうか。。。
>534 「リストカット」という現象そのものから、無責任に連想を膨らませてみました。 論文と違ってきちんと考察してあるわけではありませんので、あまり突っ込まないで 下さい。一種の「遊び」です。 「リストカットの背後に存在すると思われる感情」について考えてみました。 A-P Psyさんが、知らず知らずのうちに「マニュアル化」されてしまったのは興味深い と思います。なぜならば私自身も、リストカットの対応について「具体的に文章− 一種のマニュアル−にすること」はよく行っていましたから。つまり「リストカットに 対応する治療者」の中には、「マニュアル化してきちんとコントロールしたい」という 逆転移が生じる、ということかもしれません。そしてこれは、患者さんの中に 「混乱、混沌、収拾がつかない」などの感情が生じており、それが治療者に投影 された結果の反応かもしれません。つまり「混乱していると感じるからこそコントロール したい」というわけです。 患者さんの中にこのような感情が生じていると仮定して、もう少し詳しく考えて みます。 「手を切る」という言葉があります。ご存知の通り「関係を断ち切る」という意味 です。「リストカット」は実際に「手を切って」いるわけですから、いわば「対象 との関係が切れたこと」を具象的(具体的)に再演していることになります。これは つまり、健康な人であれば「関係が切れるのは、手を切ることのようだ」と考えて 例えば「彼と手を切った」と「言葉にする」のに対し、リストカットをする人は、 「実際に(自分の)手を切ってしまう」ということです。 以上のことをまとめると、リストカットの背後には「対象喪失に伴う、混乱、困惑、 収拾がつかないという感情」が存在するのではないか、と考えられます。 (ここで言う「対象」とは、実際の対象ではなく「内的対象」のことです、念のため)
>542 続きです。 「リストカットという行為そのものに含まれる意味」について考えてみました。 「切ること」−患者さんは「皮膚という連続性のあるもの」を「切って」います。 これは「スプリッティングや解離」の具象的表現とも理解できます。なぜならば これらはいわば「自我という連続性のあるものをを切ること」だからです。 「痛み」−「肉体的痛み」は、「精神的痛み」「心の痛み」(例えば、対象喪失に 伴う抑うつ)の具象的表現とも考えられます。 「出血」−「白い皮膚」と「赤い血液」の対比は、「良いもの」と「悪いもの」が 全く統合されていない心性(PS position)を、視覚的に表現しているようにも 理解できます。 以上をまとめてみます。リストカットをする人は、「対象喪失に伴う抑うつ」などの 「心の痛み」をDep positionで経験することが出来ないため、PS positionになって しまっている。具体的には、「混乱し収拾がつかない」と感じ、スプリッティングを 多用し、具象的(具体的)なレベルで主に機能している(本来の意味での「象徴」を 利用することが出来ない)ということになると思います。 はじめにお断りしましたが、これは「暴論」です。あまり真剣に突っ込まないで下さい。 書いた本人が一番良く分かっていますので。(笑)
>539 >精神分析学でいう行動化と、精神科の一般臨床でいう行動化はかなり 異なっているのではないでしょうか。その辺をまず、明文化していく作業が 必要ではないか その通りだと思います。「精神分析療法における行動化」の分類について、体系的に 行うのは大変なので、思いつくままに書いてみました。他にもあれば指摘してください。 <1>セッションの中における行動化 セッションの中で「私は先生のことを恋人のように思っています」と語る代わりに、 実際にセッションの中で「恋人のように振舞う」 <2>治療構造そのものに対する行動化 「セッションに対する両価的な気持ち」を語る代わりに「セッションに遅刻する」 <3>セッションの外部における行動化 「治療者に対する怒り」を語る代わりに「自分の手首を切る」
>540 >主体が「現実」にかかわり合う「行為」およびその反復が現実検討の基本である ことを、Freudは「科学的心理学草稿」ですでに記述していますが、そのことを ずっと分析学は無視し続けたのではないかと、私は思います。 原文に当たっていないので申し訳ないのですが。。。この文章のみから判断する限り、 「分析学がこれを無視してきた」とはいえないのではないか、と私は思います。 なぜならば、「患者さん(主体)が、『現実』を代表している『治療者や治療構造』 に対して実際に『行為』していること」を明確にし、その意味を一緒に考える、 というのが、精神分析における重要な作業の一つだと私は考えるからです。 ここで言う「行為」とは、「治療者を恋人のように扱う(現実には、治療者は 「治療する人」である)」「セッションに遅刻する(現実には、決まった時間に セッションは始まり、決まった時間に終わる)」「治療者の価値切り下げを行う (現実には、治療者は「治療する能力」を持った人である)」などのことを指しています。
>>541 >>542 浦島さん、コメント有難うございます。
私も最近になって激しい自傷行為の症例はご無沙汰ですが、
それ意外の行動化症例は相変わらずお付き合いがあるので書いてみました。
でも、「今、何故、マニュアル化を自分が考えているのか」というところで
前意識的に、はたと気付くものが沢山ありますね(笑)。
>>543 リストカットの象徴的な意味合いは色々文献を検索してみたのですが
みつから無くて本当に参考になりました。
あと、浦島さんの文章を読んで連想をしてみました。
「切ること」によるスプリッティングと「傷」による心の痛みから
この時の「痛みを感じない」という状態は「スプリッティングを使って
心の痛みを感じ無いようにしている」という心的状態を象徴しているのかな
と思いました。
又、時々語られる「出血をみるとほっとする」と言う感覚は、「スプリッティング
が成功して一時的に内的な緊張が収まる」と考えてみました。
#勿論、私の単なる連想なので突っ込まないで下さい(汗)。
>「リストカット」は実際に「手を切って」いるわけですから、いわば「対象
>との関係が切れたこと」を具象的(具体的)に再演
なるほど。日本語臨床の醍醐味ですね〜、と思ったのですが、英語でも
Hand Off(手をひく)という言い回しがあるんですね(汗)。
>>539 リストカットや大量服薬の衝動行為を、精神分析の言葉を借りた症候学
として「行動化」と呼ぶ事には私自身、実は抵抗がありまして、厳密に言えば
「思考を行為でおきかえる」(ライクロフトの精神分析辞典)という事に
なります。精神分析で言えばその前に「過去のでき事を思い出す代わりに」
という修飾がつくのですが。
ですので、「リストカット」や「大量服薬」などの自分にダメージを与える
問題行動だけでなく、広い意味での「行動化」を考えてみたいなと思い立っ
た次第です。
ある問題行動を「行動化」と名づけてはいるが、「行動化」により、守られて
いる「何か」(原始的な防衛の側面ですね)を探索する努力が私の周りでは
あまりにもなされていないので、ちと、話題にしてみたくなりました。
>532 浦島さんのカキコは楽しく読ませて頂いとります。ヨパライは精神分析 には半可通というより、よく知らないので、またご教示頂きたいと思うとりま す。 >534 A-P Psyさん、人事異動でしたか。ヨパライもただ今トラバーユで忙しく しております。そのせいでROMばかしになっとりましたが。 「行動化」に関しては、「思考を行為でおきかえる」(ライクロフトの精神 分析辞典)という定義はヨパライ的にはちょとすっきり頭に入ってきまへん。 この表現では、「思考」が「行為」より先にあることになってしまいそうです が、どうもそうとは思えへんのですわ。まあ、「思考」の定義にもよるんでし ょうけどなァ。
ヨパライはいちばん先頭にくるのは「欲動(Trieb)」かなと思いますねん。 以前に不安をコントロールするのに、「行動化」「身体化」「精神症状」「薬 物」というのをあげましたけど、それと同じような言い方をすれば、「欲動 (ひいては感情?)」をコントロールするには「思考」「行動」「病気」の手段 があると言えまへんかのう。 「思考」は理屈で欲望や感情をコントロールするということですわな。例え ば「A子が好きやねん」という欲望(感情)があれば、「俺はカッコ悪いさかい、 A子には相手にしてもらわれへん。けど、金儲けして金持ちになって、俺を振 ったことを後悔させたるぞ」というやつなんかがそれでしょうな。「思考」を 言語表象の操作だけでなく、広義の表象の操作と考えるのなら、A子とデート してるとこを想像して楽しむという「ファンタジー」も含まれるんかもしれま へん。
「行動」はA子が好きなら、実際にアタックするということでっしゃろな。 ストーキングまでエスカレートすることもあるかもしれんけど、こうなったら 問題行動になりますさかい、「行動化」あるいは「犯罪」という言葉がふさわ しいんかもしれまへん。 適当なものを思いつかへんさかいに、「病気」という言葉を使いましたけど、 これは「思考」でもコントロールできず、「行動化」もできずという場合です わ。最初は「我慢」しとるしかないわけやけど、「我慢」のあげく「欲求不満」 で不安や抑うつ(精神症状)を来したり、あるいは「身体化」して胃潰瘍(心身 症)になったりするかもしれまへんな。
で、ヨパライ的には「行動化」により何かが防衛されておるというよりは、 「欲動」のエネルギーが一つの「行動パターン」という狭い水路に流れ込んで 来とるわけですわ。これはリストカットだけでのうて、パニック発作でも強迫 行為でも同しことやと思いますねん。ほな、どないしたらええねんというたら、 この狭い水路への流れの集中を他の「行動」や「思考」の水路へ流れを変えて やることはでけへんかという発想になりますかのう。 さて、「行動化」への対応ということになりますけど、その前にちょっと疑 問がありますねん。そもそも「行動化」は対応せんとあかんもんなんですか? どうもここには「行動化」=「問題行動」という思いこみがあるような気がし ますわ。 精神科医の間でとても笑えんジョークがあって、「病識欠如」とは医療者の 言うことを聞かへんことやというんですわな。「病識がない」ということはIP が「sick roll」を拒否するということでしょう。これは治療者=クライアン ト=IPの社会的な関係の中で起きてくることですわな。「行動化」=「困った こと」という図式にも同しことがいえると思いますねん。つまり、それを「行 動化」=「問題行動」だとラベリングする人がおるわけですわ。つまり、ラベ リングする人抜きに話は進まんのとちゃうかと思いますねん。
552 :
没個性化されたレス↓ :03/06/16 00:45
恐縮ですがage
>>548 ヨパライさん、お久しぶりです。ヨパライさんもおいそがしそうですね。
>「行動化」に関しては、「思考を行為でおきかえる」
>(ライクロフトの精神分析辞典)という定義
これは私の引用の仕方が悪かったためです。すいません。原文は
「患者が過去のでき事を想起する代わりにその代用と解釈できる
行為に訴える場合、これを行動化とよぶ。この概念の本質は
思考を行為でおきかえる点である」(以下略)です。
確か、別の本では精神分析のセッションでという前提から
「自由連想をせずに行為で置き換えてしまう行為」と定義
していたようにも思いますが、これだと(力動指向性の)
表出型精神療法では当てはまらない場合が多くなると思い
ましたので、かなり曖昧な定義を用いてしまいました。すいません。
ですので、この場合の「思考」というのは「自由連想の内容」や 「ファンタジー」と思われますので、 厳密に言えば1次過程の思考(Primary Process Thinking)のことで いわゆる現実原則が優勢の二次過程の「思考」(Secondary Process Thinking)では ないような気がします(が、このあたりは辞書に書いて無いので なんとも(汗))。 と考えると >いちばん先頭にくるのは「欲動(Trieb)」かなと思いますねん。 まさにご指摘の通りだと思います。 >そもそも「行動化」は対応せんとあかんもんなんですか? >どうもここには「行動化」=「問題行動」という思いこみがあるような気がし >ますわ。 ですね〜。厳密に言えば行動化の一部に問題行動があるのかなと思いました。 ただ、行動化自体は内的な視野を広げるPtの意識的な努力を妨げるものだと 思いましたので、生物学的・社会的に大きな問題が無いような行動化であれば Pt.がどれだけ探索できるかがセッションの目標になるような、ならんような <どっちだ(笑)。 >ラベリングする人抜きに話は進まんのとちゃうかと思いますねん。 この点、最近よく話題になる「間主観性」とも関係する所なのでしょうか・・。
>546 >コメント有難うございます。 私は思いついたことを書いているだけですから、「コメント」には違いないのですが。。。 どちらかというと(人のことを考えず)自分が楽しむために書いているだけですので、 あまり丁寧にされると恐縮してしまいます。 私もA-P Psyさんの書き込みから連想してみました。 「痛みを感じない」「出血をみるとほっとする」については、A-P Psyさんの書かれて いる通りだと思います。そして前者については、「(スプリッティングによって) 痛みを感じずにいることが出来る」という「万能的な」空想も関与しているように 思いました。 他の思い付きです。「切れる」という感情は、「『怒り』といういわば『発達した』 ものになりきれない『未分化な感情』である」と私は理解しています。 「自傷行為全般」が「自分に対して向けられた怒りである」ということはよく言われる ことだと思います。すると「リストカット」は、「自分に対して向けられた『切れる』 という感情』かもしれないと思いました。 もちろんすべて、単なる連想です。(言い訳ですが)
>549-550 ヨパライさん、こちらこそよろしくお願いします。 御存知だと思いますが、ここにヨパライさんが書かれていることは、フロイトの考えに 良く似ています。彼は「欲動」という「エネルギーのようなもの」を仮定し、それが 増えると(緊張が高まると)不快を感じ、それが放出されて緊張が減ると快感を感じる、 と考えました。 そして生直後の赤ん坊は快感のみを求めますが(快感原則)、成長するにしたがって、 次第に「欲動を満たすために現実の状況を改める」という方向に動くようになる、 と考えました(現実原則)。そして「欲動を放出して緊張を減らすこと」を、いわば 「我慢」するところから「思考」が生まれ、「欲望を満たすために運動する」ところ から「行動」が生まれた、と考えたわけです。
>551 >554 >「行動化」=「問題行動」という思いこみ 以前、家庭内暴力についての報告を聞いたことがあります。家族の対応の仕方を 変えさせるような介入をすることで、「患児の暴力」が「問題行動でなくなった」 という例でした。確か具体的には、患児が暴れ出しそうになる前に親が逃げてしまう ようになったので、暴力をふるいたくてもふるえず、結果として「問題行動」と された「暴力」がなくなってしまった、ということでした。その結果、患児の状態も 明らかに改善したそうです。「家庭内暴力」に張られた「問題行動」というラベルを はがすことの有用さを思い知らされました。 しかし同時に、「はがしてはいけないラベル」も存在すると私は思います。例えば 上記の例であれば、この患児が犯罪を犯す可能性が大きければ「患児の暴力は 問題行動である」というのは現実で、それは「はがしてはいけないラベル」だと 私は思います。 554番でA-P Psyさんが指摘されている通り、これは「間主観性理論」に関係してくると 私は思います。 「分析においては、セッションの間に治療者が(逆転移として)感じたことは、 もらしてはいけない。なぜならばセッションは、『問題を抱えた人(患者さん)』 の感じたことを話す場であり、『問題を解決する能力を持った人(治療者)』の 感じたことを話す場ではないからである」というのは、正しいと私は思います。 つまり「問題を抱えた人」「問題を解決する能力を持った人」は「はがしてはいけない ラベル」だということです。「間主観性理論」は、この「はがしてはいけないラベル」 をはがそうとしているように私は感じます。
558 :
没個性化されたレス↓ :03/06/19 00:08
Clさんの同胞葛藤には、先生方はどのように注目されているのでしょうか
559 :
没個性化されたレス↓ :03/06/19 01:36
心はいつも動いている。
動いていてあたりまえ。
だから「こころのはんどる」も
いつも動いて見えるんです。
私のHPが何かお役に立てれば幸です。
「こころのはんどる」は、
見ようとする方向に回って見える不思議なハンドルです。
このハンドルに以下のような
さまざまなメッセージを添えて回してください。
御意見御感想お待ちしておりマース!
\(^〇^)/
http://homepage2.nifty.com/32036/index.html
行動化議論を面白く読ませていただいております。 リストカットがまず連想されるところが面白いと思いました。 「手を切る」という言語との関連や、皮膚に切断せんを入れる、 つまり皮膚という一つの立体的な「もの」を差異化する という過程は重要な視点だと思います。 これは一つの欲動の備給の解消であるとともに、 原始的ではあるものの、差異化する過程であるならば、 「不可能」ということを受け入れる、つまり「去勢」に相当する 行為であると思います。 糸巻き坊やは、糸巻きを放り投げると共に、 「あー」「おー」という発声を交互に繰り返しました。これは 対象喪失に対する喪の作業であると共に、差異化を連続させる過程、 つまり言語という新しい領域に主体を投げ入れる 「行為」であるわけで、さらには主体の「実存」という 重大な問題もこの「行為」及び何よりも重要なことは 「反復」というものが支えていると、私は考えます。 患者さんの多くは、症状を反復します。 これには、人間の差異化、言語という領域に「反復」が 介入というよりも中心的役割を果たしていることの反映であると思います。
欲動の放出を押さえるのは二次過程に相当しますが、 これはψニューロン、つまり疎通性、伝導性に差異のある 一連のニューロン群からなるものであり、これが 発展した結果、自我が誕生するというのが「科学的心理学草稿」 でのFreudの仮説であったわけです。 また、事物を差異化する過程に必要なものとして、 Freudはωニューロンなるもの、つまり知覚ニューロンを 仮説提示しています。 さらに「判断」といった高次の学習機能の発展には、 行動、経験、身体運動というものの統合が 必要であると考えていました。 したがって、統合された認知というものが成立するためには、 Freudによれば「行動」というものが不可欠であったわけです。
ところで、精神分析ではなく一般の臨床、 それも身体科を含めて問題となるような「行動化」を考えて みますと、そこに浮かび上がってくるのは 「法や倫理の世界」もっと極論すれば、「法律」に突き当たる と思います。 臨床家は、よくもわるくも「法律」のなかでしか判断し 行動することはできない、ということになるのではないでしょうか。 最終的かつ根源的な治療構造とは「法律」である ということは、あえてそれに挑む患者さんの「行為」がある種の 性愛的意味合いを帯びていることから理解できると思います。「法律」ほどエロチックなものはありませんから。
563 :
没個性化されたレス↓ :03/06/19 22:01
>>558 兄弟(同胞)葛藤を取り扱うことは、とても大事な観点だと思います。
ただ、それを臨床場面でどう対応するかは、ケースによりそれぞれだし、
一般化することは、なかなか難しいと思います。
どなたか、臨床上工夫されている先生は、他におられるでしょうか?
>558 >563 精神分析的精神療法の中では、同胞葛藤は必ずと言っていいくらい、転移の中に 表れてくると思います。そしてそれが表れた場合、そのことを解釈するという形で 取り扱うと思います。 具体的には例えば「自分より後に生まれた妹が、自分よりもいい物を親からもらって いる」という「無意識的空想」が、「自分よりも後に治療をはじめた他の患者が、 自分よりも良い治療を治療者から受けている」などの形で、「転移」として出てくる ように思います。 お答えになったでしょうか?
>560 「リストカットという行為」と「糸巻き坊やの行為」が、ともに「去勢」という 「『不可能』ということを受け入れること」を象徴しているとしても、その差異は 非常に大きいと私は思います。 「糸巻き坊や」は、「そのことを象徴する言葉を使うこと」「その言葉も用いて 遊ぶこと」を行っており、その「ことば」と「遊び」の持つ象徴機能を使って 「喪失」という体験を乗り越えていけるようになる可能性を示していると思います。 実際のところ最終的に彼は、「母は不在だけど帰ってくる」という形にまで遊びを 発展させることが出来ています。 それに対して「リストカットという行為」は、「喪失」という体験そのものを 「ただ繰り返して」いるだけで、いわば「そこにはまり込んで」おり、その体験を 乗り越えていける可能性を私は感じ取ることが出来ません。 そしてこの点は、560さんが「(リストカットは)原始的」「(糸巻き坊やは)言語 という新しい領域に主体を投げ入れている」と書かれていることに関係するのでは ないかと私は思います。 「糸巻き坊や」は、フロイトの「快感原則の彼岸」に出てくる子どものことです。 (ご存じない方のための注です。)
>562 「臨床家が、『法律(や倫理)』のなかで判断し行動する」というのはその通りだと 思います。しかし「法律や倫理の中でしか判断、行動できない」という点は、異論が あります。なぜなら「法律や倫理」というのは、枠として少し大きすぎるように 感じるからです。 具体的に言うと、例えば患者さんから「リストカットはなぜいけないか?」とか 「自殺はなぜいけないか?」と問われた場合、この枠だけでは答えられなくなって しまうか、少なくとも説得力のある答を返せなくなってしまうように思います。 但し、何を「法律や倫理」に代わる枠にすればよいのか、という点については、 うまい答を思いつくことが出来ませんでした。現時点における私の答としては 「人間としての真実」(例えば、「人間の一人として、他の人間が傷つくのは つらい」などのことです)といえるくらいでしょうか。
>>560 「糸巻き坊や」の象徴機能とリストカットの象徴的な意味合いについて
私なりに考えて見ました(すなわち、私見です(笑))
現象的に見た場合、前者は「遊び」になると思いますし、後者は
「衝動行為」という違いがあると思います。で、両者とも無意識が
働いているのですが、前者は「遊び」という創造的な空間で、
去勢不安を徹底操作しようという「生の本能」に満ちているのに対し、
後者は「自傷」という個体にとって破壊的な「死の本能」に満ちているのかな
と思いました。
以上、連想です。
>>562 >最終的かつ根源的な治療構造とは「法律」である
このご意見に関しては関しては、ピンときませんでした。
治療構造の設定に関して、治療者がわから提案される内容は、
「安定した精神療法が円滑に行われ、維持される事」を目的としている
と、私は考えますので、その意味では治療者からの提案は
「法律」を含めたものになるかと考えます。現実適応的で治療関係を
安定して維持すると言う意味では、治療者の自我の機能が治療構造に
反映されるのかなと思いました(勿論、そこには治療構造を維持する技法が
あるのはいうまでも無いですが)。
>ということは、あえてそれに挑む患者さんの「行為」
以前はその行為が治療関係を破壊する「けしからん」(笑)行為という
感覚が強かったのですが、最近になり「約束が守れない(観察自我が
働かない)ほど、内的体験に脅かされた状態」と、考えるようにしています
(できているかな?(汗))。で、患者側には「約束が守れていない」
という事自体を伝えないとピンときていなかったことが沢山ありますね。
治療者側からだと治療契約が守れていない事が明らかなのに、行動化後
治療構造を再度取り上げて、はじめて行動化が破壊的であるということが
治療者-患者間で共有されるように感じます。
#なんか、とりとめのない文章になってしまいました。
「(臨床家としての)面接技術をどう学ぶか、どう学ばせるか」というお題を ふらせて頂きます。ここで私の言う「面接技術」について、少し明確にしてみます。 面接によって行う専門的治療法には、様々なものがあると思います。具体的には 「精神力動的精神療法」「認知行動療法」「システム療法」などです。しかしここで 言う「面接技術」とは、このような「ある分野の専門家としての専門技術」ではなく 「一人の臨床家として必要な面接技術」のことを指しています。 そしてこの「面接技術」は、大きく「基本技術」と「応用技術」に分けられると 思います。「基本技術」とは、大体「面接を専門としない臨床家(例えば、脳波を 専門とする精神科医)として必要な技術」を念頭においています。(脳波を専門と する精神科医に「応用技術」が必要ない、という意味ではありませんので念のため) 具体的には「臨床家として必要な基本的態度」「患者さんへの説明の仕方」「リスク マネージメント」などです。 「応用技術」とは、「面接を専門とする臨床家として必要な技術」をイメージして います。具体的には「認知行動療法的介入の仕方」「転移現象の理解」「システム的 理解の仕方」などです。 そしてこれらの「基本技術」や「応用技術」を、医局などのシステムの中で、臨床家の 卵たちがきちんと学び、又は学ばせるためにはどうしたらよいか、というのがテーマ です。具体的には「こういう教育法はためになった」とか「こういう教育法があれば 役に立ちそう」などのご意見が伺えれば、と思います。 なお、以上は精神科医についての記述ですが、臨床心理士についても、これらの技術を 学び、学ばせるためにはどうしたらよいか、という点について、ご意見を伺えればと 思います。
>570 私自身「面接技術」を学んだのは、以下のような機会を通してでした。 「先輩による講義」「自分で本を読んでの勉強」「先輩のカルテを読むこと」 「先輩の外来に同席すること」「症例検討会」「個人スーパービジョン(但しこれは、 いわば『専門技術』を学ぶついでに)」 しかし考えてみると、「面接技術」については(基本技術、応用技術ともに)いわば 「自分で学んだ」部分が多く、例えば医局などできちんと体系的に教わったり、訓練を 受けたという印象はありません。したがって、これをもう少し効率的に教えたり訓練 したりすることは出来ないか、と考えたのが、このテーマを思いついた理由です。
>>562 >最終的かつ根源的な治療構造とは「法律」である
この台詞はなんか示唆的でおもろいですなァ。法律とは何ぞや。穴だらけの
理屈になるかもしれまへんけど、なるべく単純に考えてみますわな。
まず、二人の人がおるとします。二人の言い分が違っとったら、討論になり
ますわな。うまいこと折り合えばええけど、折り合わんかったら、言い争いに
なりますわ。さらにエスカレートしたら、喧嘩になるかもしれまへん。この喧
嘩は、どっちが勝つか、疲れて嫌になって止めてしまうかするまで、続きます
わ。周囲にとばっちりが来るかもしれまへん。で、何とか仲直りさせんといか
ん。仲直りまで行かへんでも、仲裁が必要ですわな。この仲裁はだいたい第三
者による仲裁です。この仲裁の集積が法律と考えてもええんでしょうか? こ
の第三者ていうのは、神様、国、共同体(コミュニティ)、人、いろんなケース
があるでしょうな。
ところで、問題行動のセラピーを考えてみますわな。 問題行動ていうんは、問題行動を起こす患者さん(IP)がおるわけですわな。 しかも、繰り返し起こしよるわけです。1〜2回だけやったら、これは困ったこ とが起きた程度で終わってしまうでしょうな。問題行動とまで行かへんで、立 ち消えになってしまうでしょうな。これが何回も繰り返されると、たとえばリ スト・カッティングとラベリングされて、問題行動の仲間入りしよるわけです わ。まあ、リスト・カッティングだけやないかもしれまへん。リスト・カッテ ィング以外に家庭内暴力、家出、その他が組み合わされているかもしれまへん けど、1回やのうて何かが何回もくりかえされよるわけですな。そして、それ に困ってセラピストのところへ相談に来はる人(クライアント)がおるわけです。
で、セラピストは何をするんか? IPの言い分を聞いて、クライアントの言 い分を聞いて、方針を立てますわな。私のセンパイは「治療者は患者と家族の 間を取るんや」と言いましたわ。つまり、仲裁ですわな。もう少し洗練された 言い方をすれば、両方とも納得のできる折り合いのつく点を見つけるというこ とですな。この折り合いのつく点とは、診断をつけて、評価して、治療方針を 提示するということでしょうかな。うまいこといったら、IPとクライアントは 納得して、セラピストのいうことを聞いてくれはりますわ。
これは言葉を換えれば、IPとクライアントの両方に通用する言説を提示する ということでしょうな。IPとクライアント両方が従う契約を提示すると言うて もええかもしれまへん。これは対立する二者(IPとクライアント)の折り合いを つけ、従わせる言説を、第三者が提示するということで、法律の構造に似てる と思いますねんけど、いかがなもんでしょうか? 治療方針、治療契約、治療 構造の概念は、こういう意味で法律的なものに通じとるんかもしれへんなと思 いました。
ところで、アメリカでは陪審員制度ていうのがありますわな。これは、陪審 員が判決を決定する制度やったと思いますが(間違うてたらご指摘をお願いし ます)、ここでは陪審員が判決を下すんではのうて、個々の陪審員が自らの心 の中に判決を見出すんですわな。つまり、法は個々の人の中にもともとあって、 それぞれの状況に応じた法を人が新たに見出すだけやていうんですわ。これは ある意味で、心理療法における洞察に通じるもんがあるような気もしまへんか。
もっと風呂敷を広げてみるんやったら、問題行動をくりかえしよるIPと、問 題行動を止めさせようとするクライアントの対立関係は、ある意味に二者の互 いを支配しようとする対立関係ですわな。これは、ある意味で二者の闘争関係 ですわな(中には三者以上が絡んだ関係もあり得るので、うまいこと当てはま らんかもしれまへんけど)。ここにセラピストが介入して、二者の闘争関係を コントロールしよるわけですけど、これって、プレエディパルな二者の闘争関 係に第三者(父親的なもの)が割って入るのに似てまへんか? チョトチャウカ …。
陪審員制度といっても、判決を下すのはあくまで裁判官です。 陪審員は、事実の認定、有罪無罪の決定を討議によって行います。 ここでは全員一致の原則が厳しく貫かれ、意見が揃わないと判決が出せません。 それに、陪審員が求められるのは個人の道徳的判断ではなく、 あくまでも現行法に基づいた有罪か無罪かの判定です。 アメリカは個人主義の国であるだけに、逆にコモン・ローの遵守にはシビアです。 そうでないと、やってかれませんから。日本のような社会とは違って。 アメリカはロイヤーとカウンセラーの国ですが、 あの国の法はカウンセラーほど甘くはないと私は思います。
>>578 早速のご指摘ありがとうございます。やっぱし、よう知らんことに口出した
ら、恥かきますわな(笑)。私は成文化された法律と成文化されとらん法を対比
したかったんやけど、ボロが出てもうて、うまいこといかへんだということで
すわ。
ロボさん、法と治療構造について何かコメントを言うてやってください。
ていうかそもそも、個人に属する価値・信念体系と 社会という大きなシステムの構成要素である「法」という概念を 同列に扱おうとすること自体に無理があるかと…… 「社会規範」でも「超自我」でも言葉は一杯あるんですし
まあ、法律の現場では第三者の調停というのはよくありますし あの有名な大岡裁きの「三方一両損」みたいなのはいかにもですが 法律それ自体は、あくまでも厳然としたもんです。 その場の解釈によって法律の意味が変わったりしては、困ります。 ただ、正統的フロイト派精神分析のように、 堅固な理論的枠組みと治療構造をもっていて、 そこに個々のケースでの「法的解釈」を当てはめていくというなら どこかで似たような要素は出てくるのかも……ようわからんけど。
>577 >580 >プレエディパルな二者の闘争関係に第三者(父親的なもの)が割って入るのに 似てまへんか? 「社会に対する法律の役割」と「母子関係に対する父親の役割」の相似については、 精神分析の中でしばしば議論されていると思います。 「母子関係」は、「ミルクでお腹がふくれて満足だ」「オムツがぬれて気持ち悪い」 などのことを、「言葉にしなくても分かる」という性質を持っていると考えられます。 「言葉にする」ことがなければ「論理」は存在しませんから、これは「正邪が存在 しない、論理のない関係」であるともいえると思います。いわゆる「二者関係」です。 この関係に「社会的規範」と「共通の言葉(=論理)」を持ち込み、それによって 「正邪の概念」と「論理」を導入する役割を果たすのが父親だと考えられます。 そしてこれが「三者関係」ということになります。 これに対して「社会」においては、「共通の言語(=論理)」を持っていないために 争う個人間に、「社会的規範」という「共通の言語(=論理)」を導入する役割を 果たすものが「法律」ということになります。 私の理解では、上記の点を強調したのはラカンで、560−562番は、その視点から 書き込んでおられるのではないかと思います。
>>570 浦島さん
>面接技術をどう学ぶか、どう学ばせるか
う〜ん、大きなテーマですねぇ。
症候を同定する面接(診断面接に近いかな?)に関して言えば、
指導医の面接に同伴し、面接内容を診療録に記載するのが一番
勉強になりました。このときにObjective(チャートの記載が
POS方式でしたので)な所見の記載を叩き込まれたような気がします。
あと、「調子はどう?」という質問から導入して最後は
「食事と睡眠とお通じの状況を聞く」ということも教わりましたねぇ。
今になってこの面接の構造の意味が分かるようになりましたが、
当時は「言われたから」(笑)やっていました。
あと、病歴を聞く場合は、「時間軸に沿って漏れがないように」
聞くことを厳しく言われました。
本ではやはり、神田橋先生の「精神科診断面接のコツ」が役に立ちました
(これも指導医の薦め)。
で、自分の面接技術はよいのか悪いのか分かりませんが(笑)、 「面接場面で感じ取れるもの」に関してはそれなりに増えてきました。 1)第一段階として、面接のはじめと終わりのパターンが理解できる。 2)次に、面接者の質問する内容がどのような症候を同定しようとしているのか がわかる。 3)面接の中で質問の順番(構成)が理解できる 4)面接中の相槌や沈黙の意味が分かる。 というところですかね。後は専門的な診察方法かなと思いました。 が、実は最近指導医の(であった)先生に患者さんの診察をお願いすることが ありまして同席させていただきました。ここで1)〜4)はさすがに分かっていた のですが最後に 5)面接者の声の調子や視線などがかもし出すある種の雰囲気 というのに気がつきました。と、同時に「ああ、私はここから 面接の勉強を始めて、そして、まだ、ここに到達していないんだな」 ということが改めて理解できました。決してねぎらいの言葉や 共感を言葉で表現することなく、まさにプレバーバルに癒す雰囲気が 面接室にありましたね。文章にすると陳腐なのですが(笑)、 「内的な体験を自由に話しても許される」空間が出来ていたかと思います。 結局、いままで私が一生懸命勉強してきた面接技法は、自分の技術の向上 以上に指導医の面接のすごさが理解できるようになった感じです。 #ということを元指導医に告げたら「バカ、んなことは昔から教えてるだろうが」 #と、不勉強なのを叱られました(笑)。
585 :
没個性化されたレス↓ :03/06/25 01:03
ageさせていただきますm_._m
>583-584 A-P Psyさんの書き込みを読んでいて、正直に言ってだんだんとうらやましくなりました。 思い出してみると私の場合、「講義」「初診に同席」以外は、ほとんど自分で勉強 したように思います。当時「指導医」という制度はありませんでしたし、「個人 スーパービジョン」から多くを学んだのは確かですが、結局自分でお金を払って いましたし。。。 どうやら「面接技術をどう学ぶか、どう学ばせるか」というお題を私が出した動機の 一つは、「自分が医局の中で面接に関するきちんとした訓練を受けられなかったので、 せめて後輩のためにシステムを考えたい」という気持であったようです。 A-P Psyさんは「指導医」という制度によって多くを学ばれたようですが、これに ついて少し質問させてください。 まず、指導医はどの程度の経験の人がなり、どのような形で指導するのでしょうか? また実際上、一人の指導医が指導できるのは同時に何名くらいまででしょうか?また、 この制度はどの程度きちんと機能するものでしょうか?(A-P Psyさんの場合、機能 したのは明らかですが、この制度によってきちんと学ぶことの出来る医者の割合は どれくらいか、ということです) 身元がばれない程度に(笑)教えていただければ幸いです。私自身は、質問してくる 後輩に対して断片的に教えた経験しかない上に、最近数年は日本を離れておりますので。。。
>>586 >浦島さん
それでは、ばれない程度に(笑)。
>指導医はどの程度の経験の人がなり、どのような形で指導するのでしょうか?
経験は実際の所まちまちです。基本的に助手・講師が担当します。ちなみに
私の指導医は卒後8年目でした。指導内容を書き出すと一般の研修項目みたいに
なりますので(笑)、重点だけを書きますね。入院主治医は教授回診時に、
症例の病歴・症候・診断をプレゼンしないといけないのですが、その時の
サマリーを校正します。勿論、研修医の1年目ではろくに病歴がとれないので
必要に迫られて(笑)、指導医が面接し完成する事になります。この時に
シュライバーを私はさせてもらっていました。つたないながらも、一度事前に
診察していますので、自分が聞いた事・聞いていない事が明らかですね。
診断がDSMでしたので、特定の症候学の有無を同定するのに、どういう聞き方を
すればいいのかをここで勉強させてもらいました。Auditory Hallucination
一つにしてもどう言う聞き方をすれば患者さんに答えてもらいやすいかを
経験として勉強した覚えがあります。
また、薬物療法が中心の治療ですが、どの標的症状にどの薬をどの位使うかは
研修医の報告によって指導医の指示が入りました。というか、私はびびりで
少しでも症状が悪化すると指導医のもとに報告に行き、「どうしましょう〜?」
と困った顔をしていましたが(爆)。この時、もって行く(笑)症状は
はじめは再度指導医が確認していましたが、ある程度信頼されると(笑)、
報告から指針を出してもらいました。
又、退院時も回診があり、基本的な症状の時間的な変移と薬物療法の
変化を文章で報告する指導も受けていました。
>>586 >浦島さん
まあ、いうなれば入退院のサマリーがちょっとした症例報告になる
かたちまで要求されてましたね。でないと厳しいチェックが神から下る(笑)
指導医の先生も大変だと思います。
>実際上、一人の指導医が指導できるのは同時に何名くらいまででしょうか?
当時は入局者が少なかったので、ほぼ1対1でした。途中で増えた時は指導医
一人に研修医3人でしたかね(うち、卒後1年目は一人が限度だったかな?)
>この制度によってきちんと学ぶことの出来る医者の割合はどれくらいか
「きちんと」という判断がなんとも難しいので、現在も医局人事でそれなりの
ポストについているのは私の同期で50(2/4)%、優秀な学年で100%
(6/6)位です。ちなみに、他学部出身で再度医学部に入学したような年長者が
多い学年はどうやら比率が落ちるようです。
>>586 >浦島さん
私自身が上手く育ったかどうかはさておき(汗)、システムよりも研修医と指導医
の資質が大きいように感じています。
こんな事書くと、非常に場あたり的ですが気付いた点を少し書いて見たいと思い
ます。
研修医時代、私が意識してやっていた事としては、
1)精神科領域は結果が形として見え難いので、まずは先輩(指導医)の臨床
スタイルに惚れ込むことが大事かと。特に、研修の超早期に指導医を惚れ込み
尊敬できれば自ずと「取入れ」をする用になります。
面接技術の習得もしかりで入局して六ヶ月が肝かと思います(事実、
私の尊敬する指導医も六ヶ月で異動になりましたが、残していっていただいた
ものは、物凄く多いです)。
形にならないものだとすぐ自分流にやる同期生がいましたが、結局、医局と
関係が途絶えています。
2)夜遅くまで医局にうろうろしている事(爆)
指導医はリサーチワークをしている事が多いので、仕事にあきると(笑)
研修医の相手をしてくれます。で、深夜に語られた指導医ならではの
ノウハウがいまだに役に立っています。これ、2年目以降にはあんまり教えても
らえなくなりますね(爆)。私はコレをやってて、指導医以外のいろんな先輩から
ちょっとしたノウハウを色々教えてもらいました。まあ、リーディング・リストを
読む気がおこらないので、聞いて済ましていた所もあるんですけどね(爆)。
「臨床の世界は本よりも(そこそこ妥当な)経験の方が即戦力がある」ことを
思い知らされましたね〜
>587-589 A-P Psyさん、丁寧にありがとうございました。参考になりました。 私の所属している医局と共通点もありますが、かなり違っている点もあり、興味深く 感じました。 結局私は、自分の医局以外のことはあまり良く知らなかったということのようです。 もう少し医局間の風通しが良くなるとおもしろいかもしれないな、と思いました。
>>590 浦島さん
ども、です。意外と他の医局の研修態勢は分からないですね。
研修よりもどうしても研究を優先する風潮が大学ではありますしね
まあ、医局にもよるんでしょうけど。
さて、最近ちとレスが沈んでいるのでネタ振りをしてみます。
「妄想」の治療について。コレに関して、精神療法・薬物療法
含めてお気づきの点があればカキコ宜しく>ALL
少し板違いなのですが、ちと、薬物療法に関してです。
私は妄想に随伴する症状によって少し処方を変えてますが
幻覚が随伴する場合はリスペリドンを、追想妄想に近い場合は
クエチアピンを中心に処方する事が多いです。特に後者の場合は
妄想が消えなくても面接で妄想の内容を扱うのが楽になったり
妄想があっても情緒的に圧倒されなくなる印象があるので精神療法に
乗り易い気がするのですが如何でしょうか?
>591 >「妄想」の治療について。 しっかりした(というのも変ですが)妄想をもった患者さんを精神分析的精神療法で 治療したことがないので、書くことを控えていました。しかし誰も書かなさそう なので、少し書き込ませていただきます。 私自身の経験では、「妄想そのもの」に対して精神療法的介入をして、何らかの 手ごたえを感じる事が出来たことはありません。少しでも効果があった、と感じた のは以下の二つの介入です。 「二重見当識を強化する方向の介入」−これは例えば、統合失調症の方の妄想に 対して行う「分かりました。でもまあそれはそれとして、この話もしましょう」 という感じの介入です。 「『不安』を和らげるような介入」−これは、患者さんがその妄想を持つことに 至った原因と思われる感情やそれに伴う不安を推測して、それを和らげる介入を することです。具体的には例えば、ある中年女性の被害妄想の発生に「息子を 嫁さんに取られた怒り」が関係していると推測したとします。つまり「直接息子に 対して怒ることは出来ないので、その怒りを誰か他の人に投影した結果、その人が 自分に怒りを向けて命を狙っている、と体験するようになってしまった」と仮定でき る場合、息子や嫁さんに対する愚痴を引き出して聞いてあげる、但し妄想そのものの 意味には立ち入らない、という介入です。 薬物療法に関しては、私は時代遅れの浦島ですので書き込むことはやめておきます。
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
594 :
没個性化されたレス↓ :03/07/28 21:30
対象関係論の実際を知るには、ケースメントの「患者から学ぶ」がいいでしょうか? 他のスレで、確か浦島先生が薦めていたのを見かけました。
596 :
没個性化されたレス↓ :03/07/28 21:49
最近、タスティンの翻訳書が出ています。 クライン派や対象関論の見地からは、自閉性障害はどのように検討されているので せうか?
>>594 >対象関係論の実際を知るには、ケースメントの「患者から学ぶ」がいいでしょうか?
そう思います。理由は以下の通りです。
「精神分析」とは「患者さんをより深く理解するための専門技術そのもの」であり、
「精神分析理論」は、いわばその技術に「理屈をつけた」ものに過ぎない、と私は
思います。
しかし現在出版されている本は、「精神分析理論」に関するものが多いようです。
そして「技法」に関する本でも、「技法論」と言う「理論」でしかないことがしばしばです。
したがってこの本のように、「精神分析のセッションの中で実際に何が起きているか、
に関する本」は、「専門的な技術としての−したがって本来の−精神分析」を理解
するのに有用だと考えます。もちろん一番良い方法は、教育分析やスーパービジョンを
受けることですが。
また「精神分析が好きではない」という意見は、実際のところ「精神分析理論が
好きではない」という意見であることが多いように私は感じています。従って
このような人にも、この本をお勧めしたいと思います。
書評のようになってしまいましたが。。。
ちなみにケースメントは英国独立学派に属していますので、対象関係論の考え方を
知るためには最適の本の一つだと思います。
>>597 >クライン派や対象関論の見地からは、自閉性障害はどのように検討されているので
せうか?
私は児童について詳しくないので、きちんと書くことができません。すみません。
ただ、例えばタスティンの「付着同一化」の概念は、クライン派の中でもあまり
使われてはいないようです。そして、「投影性同一視の一種」と考えることが多い
と思います。
>浦島先生 レス、ありがとうございます。 今度、読んでみようかと思います。 近いうちに、ケースメントの「失敗から学ぶ」も、出版されるというウワサ(?) も聞きました。
∧_∧ ∧_∧ ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕 = ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
浦島先生は、おかわりないですか?
603 :
没個性化されたレス↓ :03/08/10 01:11
酔っ払い先生、いいお酒が手に入らないのですか?
浦島先生はサマー・ホリディ、酔っ払い先生はお盆休みカモ。
605 :
没個性化されたレス↓ :03/08/10 23:26
楽しみに見てるのに。
そう、抑うつポジションは成熟のメルクマール。
(⌒V⌒) │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。 ⊂| |つ (_)(_) 山崎パン
609 :
没個性化されたレス↓ :03/08/30 10:30
続かなくなったのはねた切れというよりも、BBSの限界かもしれない。 具体的事例を言及する事は、守秘義務が有り不可能。 従って、行動化などの問題に言及するにあたっても 個別の事例からえた、一般的には共有できない治療経験 を、当たり障りなく陳述するほかない。すぐに壁に突き当たる。 分析なら分析学の理論と割り切った方が話の穂は切れないだろう。 その点、よっぱらいセンセイの精神病理の総論的講議はものすごく ためになった。
610 :
没個性化されたレス↓ :03/08/30 22:06
今の彼女は頗る美人なのですが、 Hの時に化粧を落としてしまうのが難点なのです。 Hの前にはシャワーを浴びなければ彼女は決してしようとしません。 化粧を落としても美人は美人なのですが、 漏れはファンデーションでツルツルになった顔が好きですし、 目の周りのアイシャドウにセクシーさを感じてしまうのです。 このままでは、バイアグラ無しでは勃起させる事が難しそうです。 この先、漏れはどうしたらいいのでしょうか?
611 :
没個性化されたレス↓ :03/08/30 22:13
>>610 分かる! 分かります!
俺も昔、すっぴんの寝顔をじっと見ているうちに、彼女のこと
が嫌になってしまって、別れた経験があります。そして、もち
ろん、面と向かってそんなこと言えませんよね・・・・・本当に
可哀相だと思ったけど、結局、彼女にとっては理由不可解なまま
別れを突き出された形になってしまいました。
結局、解決策は、「すっぴんが綺麗な子と付き合う」これ以外に
あり得ないと思います。そうすると、肌の綺麗な若い子ということ
になり・・・・・ロリコン的になってしまうのが難なのですが。
ごーまんかましてよかですか。
「世の男どもがロリコンに走るのは、女どもの肌の手入れがまだまだ
足りないからだ!! 目先の魅力に走った、薬品付けのメイクを今すぐ
やめろ!!」
613 :
没個性化されたレス↓ :03/08/30 22:22
↑なんかワロタ。
イギリスのタビストック・クリニックの現在の様子などをご存知の先生は いますか? 浦島先生は、海外で臨床されてるようですから、このあたりのことは もしかしてご存知かもしれないと思い、お尋ねしました。
勉強させていただいております。浦島さんの「面接技術をどう学ぶか」について、 心理の人がレスしていないようなので、書き込みます。私は40代で精神科に十数年 おりましたが、この道に入った頃は臨床心理士の資格もなく、「心理って何する人?」 が職員の見方でした。それはそれでありがたいもので、ムダ飯を食いながらのんびり 患者さんたちに接していたのが、自分には良かったようです。臨床心理士の職域は色々 で精神科の経験がない人も多いのですが、精神病圏の臨床をすると腹の据わり具合が 違ってくるように感じています。 精神科で働いている時に感じたのですが、医師は卒後教育のシステムがあって、5年も すればまずまず(失礼)の水準に達するのに、心理がまずまずに達するには10年はかか ります。それに今はなまじ資格らしきものができたために、若い人が就職するとすぐに 形になる仕事を求められるので大変です。 大学院での養成をお手伝いすることもあるのですが、私はライブで行うようにしていま す。例えばあらかじめクライエント役の学生に、生活歴、主訴、家族関係などを決めて おいてもらって、授業で演じてもらいます。セラピスト役の学生は、初回面接をみんな の前でやってみせることになります。 初心のうちはスーパービジョンのように面接をレポートしてもらっても、実際にやってい ることと報告が全くずれていることもあり得るので、here and now でやっていくのが良い だろうと考えています。
>>616 かわずさん、はじめまして。少し書き込ませていただきます。
>心理がまずまずに達するには10年はかかります。
これは正直に言って意外でした。心理の先生方は、医者と同じか、それよりも早く
「まずまずの水準」に達する、という印象を私は持っていましたので。。。もちろん
私の存じ上げている心理の先生方は、大学の医局に所属されている方がほとんどです
から、そうでない先生方は「10年はかかる」ということなのかもしれません。もちろん、
「10年経って」も「どうにもならない」人が存在するのは、医者も心理の先生方も同じ
だとは思いますが。。。
>私はライブで行うようにしています
これは試したことがありませんが、やらされた(笑)ことがあります。認知行動療法の
セミナーに参加した時、参加者同士で「患者役」「治療者役」をさせられました。
「患者役」は(少なくとも私から見ると)すごく楽しそうにやっていましたが(ちなみに
彼も精神科医でした)私は大変でした。ついつい「精神分析的精神療法」の癖が出て、
「相手の考えを変える」よりも、「相手の話を聞いてしまう」ので。。。しかし勉強には
なったと思います。
このような自分の体験から考えても、試す価値のある方法だと思いました。教えて
いただき、ありがとうございました。
浦島さん レスありがとうございました。 「まずまず」の中身について補足しておきます。精神科医の「まずまず」は病名 をつけて(「診断」は話がややこしくなるので)処方を出し、入退院の管理や家 族との関係調整をして‥‥と、ATスプリットで言えばAの仕事をまず求められ るわけで、その中での「面接技術」はあり得るわけです。「A」さえきちんとや っていれば、薬理でもなんでも好きなことを研究すれば良いので、精神療法はあ くまでプラスαの一部です。 しかし心理は薬を出すわけにはいかないし、心理療法を志している人が大多数な ので、心理療法はプラスαではありません。大学病院ではロールシャッハなどの 心理テストに明け暮れている人もいますが、アセスメントのエキスパートを志す 人は少数でしょう。心理療法と言う「ある分野の専門家としての専門技術」を身 につけていくうちに、「一人の臨床家として必要な面接技術」も身についてくれ ば良いのですが、必ずしもそうではありません。 大学院を卒業したばかりの若い人は、心理テストやデイケアなどの仕事をする中で まず「一人の臨床家として必要な面接技術」を身につけて行く方が、患者さんやス タッフのためにも良いだろうと考えております。
619 :
没個性化されたレス↓ :03/09/12 23:43
ふーん40のおやじか
621 :
没個性化されたレス↓ :03/09/26 21:50
このスレ、伸びないねえ。 最近、コテハン諸氏は他の似た臨床スレに移ったからだろうか。
622 :
没個性化されたレス↓ :03/09/26 22:02
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624 :
ミルト ◆cA7oIM8fok :03/09/28 05:03
精神医学にうさんくさいもの感じるの俺だけかな。 かつてある精神医学者が書いた本読んだことあるんだが その人は女性上位の性行為、いわゆる騎上位を好む人を その嗜好のゆえに異常としてたぞ。 これではキリスト教原理主義と勘違いされても仕方あるまいよ。 キリスト教が強いアメリカの一部の州では同性愛は違法で 官憲に見つかったら逮捕されるところもあるらしいしな。 でもハリウッド映画にも騎上位なんてでてくるじゃんかよお。 騎上位を好む人を明らかに異常とすれば 該当する人はかなり多数に及ぶし 正常と異常を区別する実益が無くなるんじゃないのか。 こんな考えをしてる精神医学者に精神鑑定をして欲しくないな。
625 :
ミルト ◆cA7oIM8fok :03/09/28 05:08
つまりそんな記述があると精神医学とは 似非科学、もしくは科学の皮をかぶった 一種の宗教じゃないのかという気がするわけだ。 日本には信教の自由がある。 宗教団体が同性愛や自慰行為を異常としたって 別にかまわないが、 その考えを科学や医学といわれる世界にまで持ち込むのは やめて欲しいな。
626 :
ミルト ◆cA7oIM8fok :03/09/28 05:19
また法律家のこういう文章を読んだこともある。 たとえばナチスがやった障害者の安楽死なんかに たずさわるのは、たとえ法律や政府の命令によるものでも 従ってはいけないとね。 だが精神鑑定なんかではだ 「悪法でも法は守らなければならない」 というような趣旨の文章を出して、 それにいいえと答える奴は 反社会的人格だとして異常視してるわけだろ。 法律家と精神医学者でまるで反対のこと言ってるじゃんかよ。 いったい法医学者は何をしてるのかね。 そんな矛盾に満ちた考えで精神鑑定できるのか?
627 :
ミルト ◆cA7oIM8fok :03/09/28 05:27
こういう考えがいわゆる同性愛者なんかに 限定されて適用されてるうちはまだいいさ。 オレは同性愛者じゃないんでね。 だがタバコを吸うからといって精神異常者にされては たまらんな。 日本人のかなりの数がタバコを吸ってるから いまのところはヘビースモーカーが精神病院に 強制入院させられる可能性はまったく無いが、 20年後はどうなっているかわからんからな。
628 :
ミルト ◆cA7oIM8fok :03/09/28 05:35
つまりオレとしてはだ、 不特定多数を特に理由も無く暴行、殺害する人、 またはその恐れが極めて高い人以外は 軽々しく精神異常者にして欲しくはないということだな。 まあそのかわり刑事責任もとれと言うことなんだが。
629 :
没個性化されたレス↓ :03/09/28 19:02
↑ばか
630 :
没個性化されたレス↓ :03/09/28 20:43
631 :
没個性化されたレス↓ :03/09/29 21:26
精神医学はオカルトです
632 :
没個性化されたレス↓ :03/09/30 20:44
たとえ話です。 C型肝炎で、元々精神病を持っていて、肝性脳症が進んだために病院側も 困り、退院させたとします。余命は2ヶ月も無いです。 自宅では、妻と息子がいます。家族がHCVに感染する可能性は高いでしょうか。 本人は、あちこち食品をいじくったりしているようです。真夜中の異常行動も あります。本人の妻は、もう精神的にも参ってしまっています。このスレは 優秀な専門家がたが話しているようなので。スレ違いと思えば、無視してください。
634 :
没個性化されたレス↓ :03/09/30 23:36
ありがとうございます
635 :
没個性化されたレス↓ :03/09/30 23:46
636 :
没個性化されたレス↓ :03/10/05 21:53
裁判の場合には、1人殺だと15年以下の有期懲役、2人殺だと無期または 死刑、3人以上だと死刑という、精神鑑定の結果にかかわらない、裁判業界 のローカルルールのようなものがあります。 「被告人の鑑定結果は、心神喪失状態であったが、本裁判では、心神耗弱 状態であったことと認定する。」という何のための精神鑑定かわからない ような判決文も実際にあるわけです。 そういった意味からは、鑑定医は、弁護側、検察側で、大きく判断が異なる のは普通です。 弁護側は病気を主張し、検察側は病気でないということを主張します。
637 :
没個性化されたレス↓ :03/10/30 00:31
最近、ヨッパライ先生をお見かけしませんが、お元気でしょうか?
638 :
没個性化されたレス↓ :04/02/15 16:02
保全あげ
hosyu
640 :
没個性化されたレス↓ :04/05/22 09:18
600age
641 :
没個性化されたレス↓ :04/07/04 23:14
600age
642 :
没個性化されたレス↓ :04/07/05 21:12
他スレで見かけたけど、精神科医の専門医制度のようなものが、できるのでつか?
>>642 できます。
精神神経学雑誌2004 vol.106 No.6を参照ください。
644 :
没個性化されたレス↓ :04/10/29 12:48:37
保守&指導age。
645 :
没個性化されたレス↓ :04/10/31 03:43:25
いえてる
646 :
没個性化されたレス↓ :04/11/27 17:00:08
精神科医になりたいんだけどどの医学部に行ってもなれるの?? 医学部卒業したら自分の希望の病院にいけるの??
希望の病院にいけるかどうかは、あなたの能力とウンとコネ次第。 精神科のない医学部はないと思うがな。。。
ひえー。なつかしー。このスレまだあったのね。 あれから3年、もう精神科にも通ってないし、 薬も飲んでないし、元気に働いてるよ!
ホシュ。
650 :
没個性化されたレス↓ :05/01/06 00:50:19
口直しにあげてみる。
651 :
没個性化されたレス↓ :05/03/03 02:53:46
突然ですみませんが、精神医学をやるには日本でどこの大学が設備や講師陣がよいでしょうか? 公私立問わずで。臨床系をしたいのですが。
652 :
没個性化されたレス↓ :05/03/03 03:33:16
653 :
没個性化されたレス↓ :05/03/03 14:55:59
>>632 HCVは血液感染なので、まず家族が感染することは無いと思います。
特に食べ物をいじって感染ということは心配要らないと思います。ただ、絶対はないので責任は持てませんが。病院で主治医に相談はされたのですか?
654 :
没個性化されたレス↓ :05/03/03 14:57:33
655 :
没個性化されたレス↓ :05/03/04 22:36:47
小田晋教授は日本を代表する精神医学医なんだよね?
精神医学医って何だよ。 あんなのが代表だと思われたら 精神医学徒だって脱力するわな。
自分は神経科の一通院者ですが、ここのスレを興味深く 読ませていただいております。 しかし、ここは人気ないなあ。
658 :
没個性化されたレス↓ :2005/05/11(水) 15:37:51
へえー、今時精神病理学なんか読む医者もいるんだねぇ
酔っ払いさん来ないのかな
660 :
没個性化されたレス↓ :2005/07/12(火) 03:18:28
閑散としているな…
661 :
没個性化されたレス↓ :2005/09/22(木) 22:03:07
小田晋
662 :
没個性化されたレス↓ :2005/09/30(金) 18:10:54
age
663 :
没個性化されたレス↓ :2005/12/08(木) 13:25:38
age
665 :
没個性化されたレス↓ :2006/01/30(月) 00:38:16
666 :
没個性化されたレス↓ :2006/05/14(日) 23:10:23
よぱらい先生かえってきてー。
667 :
没個性化されたレス↓ :2006/07/29(土) 23:09:37
668 :
没個性化されたレス↓ :2006/07/30(日) 00:26:26
669 :
没個性化されたレス↓ :2006/07/31(月) 01:50:01
よっぱらい先生は、今も飲んでるのだろうか?
今読み直してみたが、前半は精神病理学史のいい復習になるような気がしますた。
俺。メンヘラなんだけど。医者の目から見て患者ってどう写っているんだろう? ちょっと知りたい。医者って知能高いから何考えているのか分からない。 先生は好きなんだけど。
94 名前:心理屋(ロテ職人) ◆BH3.etDo :02/09/02 12:36 某大学病院なんかでは (どういうシステムになっているかはわかりませんが) やっぱり医師の診察なしで 「標準型精神分析療法」を取ったりしてます。 95 名前:心理屋 ◆BH3.etDo :02/09/02 12:38 あ、もちろん噂で聞いた話ですけどね。 こういうカキコすると 「また自爆しましたね」 「大学病院勤務ですか?」とか言われそうですね。 こんな漏れみたいなヤシが 大学病院の精神科にいるわけないでしょう。
674 :
没個性化されたレス↓ :2007/04/19(木) 16:11:15
臨床精神医学って重要論文0のガクモンなんでしょ。 評判悪いんですよね。
保守
678 :
没個性化されたレス↓ :2007/10/09(火) 18:22:45
たまにage
てすと
680 :
WORK&PLAY :2008/05/26(月) 18:07:44
酔っぱらい様、お尋ねしたいことがありまして。 239で、「Excerpta Medicaの1950年パリ国際精神医学会の講演集の中に、 プレコックス感に関するまとまった[英語の]記述があります」とお書きですが、 どの巻(分野)でしょうか。1950年のExcerpta Medicaと言っても 少なくとも48種類(分野)ほどあるようで、大学図書館にある30数巻には すべて目を通したんですが見当たりません。 原語から「対人接近本能」と邦訳されているこの表現に、 本人はどういう英語をあてているのか(あるいはこの講演集が翻訳なら 翻訳者はどう訳しているのか)調べているんですが、 出典の詳細(分野名、正確には「セクション」名)いただけませんか。
/ 、彳"爻=-==''" `.:巛ミ彡 ,:' ミ''" ..,,》'.::-─‐-、 .::ミ爻,,' ,' 爻 彡".: :,:': : : ;、:`:、ヽ. .:彡ミ''; !ミ''"..〃: : ,:': :,.: ,: :ハ:. : :',:゙i .:: ミ彡' _,.ミ''",,''彡ゞ.: :':__':ノノ i !: :i |: !.::,,彡" ,ミ'",,乂彳゙: : : : :i'´,:=、´" ,.ニヽノ: :!ミ'' 、彡 爻":. ヽ: : : :.、!イ'じ じ〉イ: : ! ミ" ,〃::.. ヽ: : : トゝ" __' "ノ;'.:/ ミ''" ミ;、,..,.、,.y''",ィヽ、:.ゝ、 `ー´,.彳:/ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ "''-'-==-''゙"´ノ ``ゞ` r<彡'"-、 < 臨床する? / ___ ゙ ,:-'´ 、 i \_______ /´ ヽ` ̄ ー-゙:.、 i - 、 `ヽ_ l: 、.: ヽ ゙i" ! i ; n .:c.: ', _..ハ | ハ/ { _,..-ァノ 、r‐、>ー ヽ | ト./ ` ̄__,.:=彡 :.ヾ、ニ二 / . | |ノ -=< ゙=tラ'" | / ,-一'" ̄´ i |:/ / \:. ! | ' / ヽ:. :、 \ ゙、 ノ .i:. ` ヽ `ー' _:/__:. `
683 :
没個性化されたレス↓ :2009/01/06(火) 16:05:24
(臨床精神医学は、臨床心理とは違うので、そのノリで入ってこないでね!)
685 :
没個性化されたレス↓ :2009/04/26(日) 00:01:37
たまに読むとおもしろい。
686 :
名無しの床ズレ :2009/05/16(土) 02:44:13
臨床精神医学を、もはやすべて汲み尽くされてた、枯れた井戸のようにいう人がいるが、 症候学も、病態の変遷も、現代社会の反映が見えたり、また脳科学の新知見から見ると 新しい視点も見つかったりして、(古典もいいけど)むしろ自分には現代の臨床のほうが よほど興味深いものがある…
>>683 学歴厨なら何も言わん。
社会に出れば理系≪文系の意味がわかるだろう。
688 :
没個性化されたレス↓ :2009/07/11(土) 15:42:19
Borderline Conditions って何なの?
金持ち子弟 −−−→ 医学部へどうぞ 貧乏人子弟 −−−→ 心理学科へどうぞ 高知能 −−−→ 医学部へどうぞ 低知能 −−−→ 心理学科へどうぞ 親子関係良好−−−→ 医学部へどうぞ 親子関係最悪 −−−→ 心理学科へどうぞ
691 :
没個性化されたレス↓ :2009/07/24(金) 13:59:37
薬物療法メインになりますね。他は支持的精神療法。好みによって認知療法。
692 :
没個性化されたレス↓ :2009/10/03(土) 08:46:39
小平の件も良く知っている _,|///////ゝ ヾ:. /ソ ソ 彡ハ,_ ∧∨///////ヾミ;;、 :: ソ/ ///j ハ,} ∨////////レ、_,_,_、_ ,. 、 ソf/// Y | ∨/////////////////rrjr'ゞ_jしyxyyy//彡ミy , Y/,,_ j l///////////iv シヾ////( ` /彡y'tも;ヾミ_,,ノソ_ノ う f / ∨//////////三彡|///|{ /ミミ三彡≧-、ヾ } jノ / |/////≧ ニ彡ア"ア///{ ヾ ̄⌒ヽヾ j f ヾ////∧ >//lト ( ノ  ̄∨/∧_ ,.ィ////| \、_ f" ∨//∧__,ィ//////ヾ_ _,.彡 \ミ、、 } ,' ∨/////////////テY” ヾ、ヾ〃 / ∨//|ヾ////////∧、z、,,,,,.... -''´ヾ j:! ∨/∧ ∨/////r  ̄ ̄ ∧ ∧∨/∧|///////ミヾ ,'' ,/ Y\ ////∧∨////ト////ニ- / .,.' / ヽ ,/ ////////////∧._ / ,.' 〃 \ / ////////////////ミ、_ _,,;彡ノ // 丶 //////////////////////////// //
護送車で認知療法を受けさせにいくのか?
小平1990〜
>>731 292 :ロボ ◆lSiROBOsc. :05/01/03 23:10:30
まるた島
293 :没個性化されたレス↓:05/01/03 23:24:30
何、それ?
294 :ロボ ◆lSiROBOsc. :05/01/03 23:25:46
地中海に浮かぶ人体実験専用の隔離された島
295 :没個性化されたレス↓:05/01/03 23:27:30
丸太島ね。
どこにあるのやら?(ワラ
697 :
没個性化されたレス↓ :2009/11/26(木) 03:44:32
hosyu
699 :
没個性化されたレス↓ :2009/12/12(土) 14:27:58
7〜8年前の心理学スレには、酔っ払い先生やロボ、ドナみたいに おもしろいコテハンがいたんだな。 この人たちは、今何処??
↑クビになって今年の年末は派遣村行きだそうです。
701 :
没個性化されたレス↓ :2009/12/14(月) 21:57:55
【元厚生次官ら連続殺傷 第2回(11)】「私は君が心配なんです」鑑定医を“鑑定”する被告 《小泉毅被告(47)の精神鑑定を行った獨協医大越谷病院の井原裕教授への証人尋問が続いている。 自ら井原教授に質問する機会を得た小泉被告は、一字一句確認するような口調で、質問を投げかけている。 井原教授は苦笑混じりに答える》 被告「君の『イライラ事件』の中で、印象に残ったのは、君は『母親が心配している。 何か伝えたいことは』と 私に質問しましたね?」 証人「かもしれませんね」 被告「私が『伝えたいことがあっても、精神鑑定医には言わない。弁護士に言う』と答えたら、 君は怒りを押し殺した口調で『どんどん弁護士に言えばいい』と憤りましたね?」 証人「弁護士との信頼関係の証し、と受け止めましたよ」 被告「君は、私から信用されていないことが、そんなに悔しかったのですか」 証人「私も長く精神鑑定をしてますけど、被鑑定人に信頼されたことなんか、1回もありませんよ」 《苦笑いを浮かべる井原教授。法廷にも失笑が広がる》 被告「米軍の精神科医が銃を乱射して人を殺しました。 精神科医が、ミイラ取りがミイラになることはあるのですか? 井原君は大丈夫なのか、という質問です」 証人「…大丈夫です」 被告「私は君が心配なんです。面接中に異常な行動が多かったから。 うつむいて薄ら笑いをしてみたり、 怒ったような表情をしてみたり」 裁判長「あなたがそう見えた、というだけですね」 《精神鑑定医を小ばかにしたような質問を続ける小泉被告を、伝田喜久裁判長がたしなめる》 被告「じゃあ、別の質問をします。統合失調症に関する質問は、あまりに幼稚と思いませんか。 何を答えれば、正常か異常かが、すぐに分かる質問でした。 答える方がコントロールできると思いませんか?」 証人「精神鑑定の定石の一つなので、念のためやったんです。お決まりでね」
小泉の方が、頭脳は上じゃないか?
703 :
没個性化されたレス↓ :2009/12/20(日) 12:05:56
臨床心理士って精神科医の下で働くんでしょ。
>>702 能ある鷹は爪を隠す、とも言うよ。
『激励禁忌神話の終焉』 井原裕【著】
うつ病に励ましはタブーなのか?精神科の治療に薬は必須なのか?精神科臨床の常識をくつがえす。
激励禁忌神話の終焉
仕事こそ「諸悪の根源」か
うつ病の反逆―「ふざけやがって、この野郎!」
ストーリを読むか、猥雑性を避けるか
スポーツとしての精神科臨床
超短時間精神療法の経済倫理
精神科医は薬のソムリエにあらず
薬に依存しない治療
リストカットの臨床
接遇に慎重な配慮を要する人々
危機管理と精神科医
旅立つ人に何を語るか
こころのジェネラリスト
宮本忠雄への手紙
井原裕[イハラヒロシ]
1962年神奈川県鎌倉市生まれ。1987年東北大学医学部卒業。
1994年自治医科大学大学院修了、医学博士。2001年ケンブリッジ大学
大学院博士号修得。G.E.Berrios博士の下で医史学・神経心理学の
研究に従事。順天堂大学医学部精神科准教授等を経て、獨協医科大学
越谷病院こころの診療科教授。刑事・民事精神鑑定多数。専攻は、
精神病理学、司法精神医学。論文「精神科臨床における法と倫理の峻別
―法的パターナリズムと官僚主義」で、第一回精神科治療学賞優秀賞受賞。
>>706 その人の本をアマゾンで見ると、レビューが全くない。
よっぽど読まれていないんだな。
おまえって、さもしい人間だな。
久しぶりに覗いたら、全くカキコが無くてワロタw 俺と言えば、試験に落ちて留年決定。クソ!!
ハリー・スタック・サリバン 田舎の秀才であったサリバンは、コーネル大学の物理学科に進学する。 成績は芳しくなく、非行グループの手下となり、ついには、退学処分となる。 その2年後、シカゴ医学校(速成医師養成所・シカゴ大医学部ではない)に入学する。 その学校が閉鎖されるに際し、単位不足であったが、お情けで学位をもらう。 驚異的治癒率を誇ったサリバンの分裂病治療は、アドラー的なものであったそうだ。
711 :
没個性化されたレス↓ :
2010/08/30(月) 23:44:21 夏の終わりの虫干しあげ。