禅に関する話のできるスレッドがないようなので、
僭越ですが立てさせていただきました。
またーりといきましょう。
私自身は初心者なのでまだ本をすこし読みはじめたばかりですが、
なにかよい入門書などありましたら教えてください。
やはり学研のブックスエソテリカの2冊あたりからでしょうか(読み中です)。
3 :
ななしさん:2001/06/15(金) 02:08
いや、なにごとによらずそういう通俗書から入るのは
避けたほうがよいかと……
あと禅一般に関心があるのか特定宗派(ex.曹洞禅)に関心あるのか
などによってもすすめるべき本は違うのではないでしょうか。
禅については素人なので、適切な本を挙げることはできませんが、
手近なところだと講談社学術文庫あたりに古典や研究書がいくつか
あるのではないでしょうか。
4 :
ななし:2001/06/15(金) 03:11
禅といえば鈴木大拙。
5 :
ひみつ:2001/06/15(金) 03:52
私は、通俗書から入るのもいいと思います。
別に、僧侶になるわけでもないし・・・
ただ、本だけ読んでその気になって、
ろくに座禅もしない人が多いのには閉口しますが・・・
6 :
ななし2:2001/06/15(金) 09:33
>1
おかしな通俗書を読むよりも、日本の名僧達が残された「仮名法話」の現代語訳
を読まれた方が身につくと思います。主だったもので、盤珪、白隠、大燈など。
私は『無門関』や『十牛図』から禅に入りましたが、いきなり難解(本当は、理
外の理で書かれているので、理で読むとわからないだけ)な禅語にぶつかると、
禅のもつ奇想天外な雰囲気に惑わされて、空理空論の遊びの世界に迷い込み、どん
どん原点から離れてしまいます。
通俗書の多くは、そういう誤解を元にして書かれている場合があるので、百害
あって一利なし、です。鈴木大拙や、秋月龍ミンの本なら、まず大丈夫です。
>>2〜5さん
レスありがとうございます。
講談社学術文庫はいくつか噛り読みしています。
>>6さんが仰っている「仮名法話」の現代語訳も
これから探してみようと思います。
(というかいくつかは目にしていたのですが
どのへんから読もうかと思案中でした(^^;)
通俗書では(モノによるかもしれませんが)
書いた人の考え方や解釈に気がいってしまって
原典について自分で考えるのには向かないように思います。
まだ入り口から一歩足を踏み入れた状態ですが、
みなさんよろしくお願いします。
8 :
名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 13:18
>通俗書の多くは、そういう誤解を元にして書かれている場合があるので、百害
>あって一利なし、です。
禅では無理では?
だいたい『一休さん』がある以上は…
9 :
nanashi:2001/06/16(土) 01:18
age
10 :
:2001/06/16(土) 01:24
『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル(岩波文庫・青)は
面白いよ。日本の弓の先生が理屈っぽいドイツ人(作者)に
遭遇して、困りながらも弓術を伝えていく過程は、後の世への
送りものになってる。
11 :
名無しさん@1周年 :2001/06/16(土) 01:35
禅の師家は神経衰弱等のいわゆる害基地が多いって本当ですか?
関係者の情報きぼーん
12 :
ひみつ:2001/06/16(土) 01:37
まあ書物によって禅を理解しようとするなら、
小難しい本を読んだほうが、それらしく見えていいかもしれません。
名僧の現代語訳であろうと、通俗書であろうと、
きちんとした師につかずに、自己流に禅を行うと、
野狐禅になってしまいますからね。
>12
きちんとした師はどこにいるのれすか
14 :
nana:2001/06/16(土) 02:20
>>10 買ったまま読んでない本だ!
あとで読んでみます。
15 :
会員:2001/06/16(土) 02:38
・・・・・・・・・・・そんな事より枝豆でも食べませんか
16 :
名無しさん@1周年:2001/06/16(土) 17:15
うっとうしいから喫茶去の真似事はやめれ、会員さん
13さんへ、少し前にあった瞑想スレッドを見に行って見てはいかがでしょう。
後半は嵐の方々がきてめちゃめちゃですがその辺以外はかなり真面目だったと思います。
>>17 そのスレには嵐を指導できるような宗教者はいなかったのれすね。
19 :
3:2001/06/18(月) 18:47
入門書ではなく、むしろ体験記なのですが
『食う寝る坐る』は面白かったです。
1 さんはいろいろな本をすでに読まれているようですが、原典を読むなら
あまりつまみ食いしないでいま読んでいる一冊を読み通すことも大事かと思います。
私の専門は西洋哲学なのですが、本を読むというのは著者と語りあうことに似ています。
自分が云っていることに最後まで耳を傾けない人とは、腹を割って話すことが難しいように、
書物にも虚心に読むことで開けてくるものがあるように思います。
あ、著者のいってることをそのまま受けいれろ、ということではないですよ。
でも批判的に読む場合ですら、書かれていることを整合的に理解しようと努める
必要はありますから。
20 :
通行人さん:2001/06/19(火) 00:42
禅のどんなところに興味あります?
))18
同意
22 :
やんと:2001/06/19(火) 16:41
禅の入門書は多いけど、碧巌録や無門関などの提唱本を初めての人がいきなり理解
する事は難しいです。
余り専門的な解説に終始せずに、禅的な生き方を平易に説いたものとして
「禅 迷わずまっすぐ」則竹秀南 春秋社 1500円をお薦めします。
著者は山田無文老師の法嗣で、著者の目を通した無文老師像も興味深いです。
23 :
はな:2001/06/19(火) 20:11
大蔵出版から出ている原田祖岳老師の本はいかがでしょう。
老師は曹洞宗の方ですが、臨済宗の僧堂でもかなり修行されようです。
『普勧坐禅儀講話』『正しい坐禅の心得』『白隠禅師坐禅讃講話』
『延命十句観音経講話』等どれもおすすめです。
24 :
会員:2001/06/19(火) 20:18
禅はやってみたけど全然だめ
湧いて来るのは雑念ばかり
26 :
通行人さん:2001/06/20(水) 00:53
>24
人間生きてる限り欲望や雑念はでてくるのは当然です。どうしようもないでしょう。
そういったものにとらわれなくなる、左右されない、迷わないといったことが
大事ではないですか?
27 :
会員:2001/06/20(水) 02:00
とらわれっぱなしです
28 :
会員:2001/06/20(水) 02:05
てゆうか、とらわれたり、迷うのは禅ではいけない事なんですかね?
とらわれたり、迷うのも人間だからしょうがないですよね
29 :
10:2001/06/20(水) 03:18
とらわれ、迷う自分を平気で見ている自分…?
30 :
kouei34:2001/06/20(水) 05:20
私は盤珪が好きです。
盤珪はイイ。
31 :
名無しさん@1周年:2001/06/20(水) 23:05
620age
32 :
通行人さん:2001/06/21(木) 01:05
>28
べつにわかってて迷ったりこだわったりするのはかまわんでしょう。
禅に限らず般若心経を勉強すれば仏教の根本が「こだわりをなくすこと」
というのはわかるでしょう。なぜなら物事にこだわりすぎると
そこに「苦」が生まれるわけです。執着ですね。
人はどうにもならないことを時としてどうにかなると思いこみます。
たとえば年を取ることを嫌がりますが、一瞬一瞬年はとってるもので
赤ん坊が大きくなるのも年を取ってるわけです。
物事にこだわる、とらわれるということが虚しいこととして書いてあります。
なぜなら物事には実体がないからです。ここが「空」でしょう。
全ての物は諸行無常で縁によって成立している実体のない物、
どんどん移り変わっていくものにこだわっても虚しいと言うことです。
ただそこをわかっていてあえて迷うことも禅では否定はしないと
思います。なぜなら禅では何事も体験することを重視しますから
体験してみないと何もわからないということです。
昔、ある禅の指導者がアメリカで布教していた頃、麻薬が蔓延して
いるということを問題視したその方は「それなら麻薬を体験してみよう。」
と仰って周りの者が必死になって止めたという逸話も聞いたこと
あります。
宗教的な世界を突き詰めていくと必ずしも世間の常識とは合致しない
ということもあります。
苦しみは執着というのはその通り。言い換えれば、肉体の持つ自己保存欲と
魂の分離ともいえる。執着=苦しみとすれば、執着の強い犯罪者は、何故人を
殺しても苦しまないのか。となるわけ。で、その肉と魂の分離とは、
何か? それは「自分を良く見せたい。自分をより良い状態で保ちたい」
という願望に集約される。クリシュナムルティは「苦しみとは、自分以外の人物を
演じることから生じる」といったが、まさにその通りで、肉に縛られた自己が、自分の
欲望のままに非常に高い部分にあろうとすることに魂がついていけないというわけ。
で、その分離を苦しみとして認識する。実は脳がこの状態を処理しきれなくて、
パニックを起こしているだけなんだがな。ここで、思うのだが、禅の修業とは
この肉と魂との融合を図ることにあるのでは?と思うわけ。で、瞑想によって、
分離した肉と魂を融合させ、安心の境地を得ると。
にしても、「自分を良く見せたい」。こんな単純な命題で、人間の行動・因果が左右されることを
考えると情けなくもあり、新しい可能性をそこにかんじないでもない。
理由は、それを鍵にして、自己分析をすれば、苦しみや悩みは消え去るのだから。
34 :
通行人さん:2001/06/21(木) 01:53
>33
仏教は「魂」の存在なんか認めませんよ。
肉は虚しい物。よってこだわるべき対象ではない。
魂とは禅でいうところの「真我」です。禅坊主はそれを目指してひたすら、禅行にはいる。
>肉は虚しい物。よってこだわるべき対象ではない。
そういう対立概念も、肉(健在意識)と真我(潜在意識)との対立より生じる。
潜在意識を顕在化させることで、自我の作り出す健在意識と深層意識の作り出す顕在意識を
同時に認識する。その延長線上に悟りがあると考えるわけです。
つまり、生物の本能で生きられるし、人間の自我本能でも生きられると。
37 :
通行人さん:2001/06/21(木) 02:08
真我というものがあるならここに出して見よ
健在意識→顕在意識。表層意識。人間の脳といわれる前頭葉のよりよくいきる脳。
深層意識→深層意識。動物の脳と共通。
こう考えればグルジェフは偉大な禅師だな(笑)。
還元論の立場に立つと「魂」も物質的なものによって
説明可能みたいれすね。感情を持ったロボットの開発が
結構進んでいるみたいれすよ。
>真我というものがあるならここに出して見よ
一休さんじゃないんだから。絵に描いたトラは出せないよ。
ただし、禅坊主はただのリラックスのために座っていた。なんてバカなことはない。
禅問答なんて、顕在意識を打ち壊し、パニックを生じさせ、潜在意識を顕在化させる以外の
なにものでもないからね。
まぁ感情も機械。人間も機械のようなものだね。
人間は機械と違って自分自身の意思で違った行動パターンを作り出す
のが長所だと思うのれすが、ある特定の刺激に対していつも決まりきった
反応しかしない奴って。。。機械より始末が悪いれすね。そういう意味では
座禅、あるいはグルジェフワークは有意義かも知れないれす。
43 :
通行人さん:2001/06/21(木) 20:27
じゃあ潜在意識がピエールですか?
それとも感情がピエールですか?
44 :
通行人さん:2001/06/21(木) 22:21
>一休さんじゃないんだから。絵に描いたトラは出せないよ。
ちなみにこの時点で禅的には不正解。
出せと言われたら七転八倒してでも出さなければだめ。
45 :
通行人さん:2001/06/22(金) 02:30
質問してもいいよ
46 :
名無しさん@1周年:2001/06/22(金) 08:16
44>
禅はそんな芝居がかったもんじゃないよ。
47 :
通行人さん:2001/06/22(金) 23:49
じゃあどんなもんか教えてくれ
48 :
名無しさん@1周年:2001/06/23(土) 23:31
禅について議論しよう
>時点で禅的には不正解。
>出せと言われたら七転八倒してでも出さなければだめ
おい! 俺は禅の修業をしてるわけではないぞ。
50 :
通行人さん:2001/06/24(日) 00:42
禅スレッドだから禅的な立場から話をしてるんだ。
いちいち説明されなきゃわからんか?
51 :
10:2001/06/24(日) 02:14
>通行人様
おそらく通行人さまは色々な禅書を読まれ、座禅も日頃から組まれているかも
知れません。その禅的な手法による書き込みも興味深く拝見致しております。
しかしながら、通行人様のように何もかも分かっている立場の方が
何もかも分かっているものとして、発言なされますと、まだまだ修行が
足りないものとしてははなはだ、書き込みつらく存じます。
分かったものを分からないふりをせよとは申しませんが、もう少し、
我々の目の高さまで降りて来ては頂けませんか?
今までの書き込みを拝読するに、私にはあなたもまた苦しいの
ではないかとさえ思えてきますが。
>>
ここはディスりOKの板ではあるけれど、
それが可能ならば知識の共有の場であってほしいれすね
53 :
通行人さん:2001/06/24(日) 05:01
いやはや10さん失礼しました。せっかくの禅についてのスレが
あるのに盛り上がってないようなので色々議論ができれば面白いかと
思いいろいろ書き込んでみました。
で多少はわかっているような人がいたものでその人の知識を
ぶちこわしてそこからまた構築していけばひょっとするともっと
深い話題に行けるかと思い試していたというのが正直な気持ちです。
こういったことは相手に試してるのがばれてしまえばもともこも
ないのですが・・・。
禅というのはこういうものもあるものと思っています。
正解を言っても殴られるような・・・。
昔の祖師の言行とか読みますと師匠をぶん殴ったとかいう話も
あります。
まあそういうこともあって禅は理解されにくいかもしれません。
みなさん大変失礼しました。
いろいろ初歩的なことでも答えさせていただきますよ。
でも禅では質問してもますます混乱することもありますし、
わざと混乱させることもあるかもしれません。
こういったところに来られるかたは多少は知識があるものかと
思いこんでおりました。反省いたします。
基本的には禅の話がしたいことは私も変わりません。
54 :
10:2001/06/24(日) 12:37
>通行人様
理解いただいてありがとうございます。
感謝してます。
55 :
46:2001/06/24(日) 18:01
通行人さん>
>じゃあどんなもんか教えてくれ
教えてあげたいけど、教えようがないよ。
それに出す、出さないの沙汰にとらわれてるのは、ピエールさんより
そこに突っ込んだ通行人さん、アンタの方だろ。
自ら馬脚を露呈すって感じだ。
土台掲示板でそんなオウギョウな事を持ち出す事自体がナンセンス。
芝居がかった禅風問答で、京風会席みたいなものだ。
そういうのがお好きならYahoo掲示板のトウザンジのところでも行くといい。
56 :
名無しさん@1周年:2001/06/25(月) 11:20
#age
57 :
6:2001/06/25(月) 12:11
>46
賛成です。そういう弊害があるから、あんまり「解説書」は読むべきじゃないと
思います。禅語を読んで「わからない」のは、考え方のスタートが違っているの
で、わからないから解説書を読めば、ますます迷路に入り込む。どなたか書かれて
いたけど、盤珪さんの法話は、誰にでもわかるように書いてあるし、もともと禅と
は「あたりまえに食う寝る坐る」教えですから、わかって当然だと思います。
試験前日なんかに、目がさえて眠れないことがよくありますけど、無理にリラック
スして寝ようとすると、ますます目がさえて眠りから遠ざかります。「ちくしょう、
どうにでもなれ」と諦めるといつの間にか寝ていたりする。基本的に、禅は無駄な
抵抗を一切放棄して、あたりまえに「寝る」ことを教えていると思います。禅僧に
禅の極意を尋ねることは、「あなたはどうやって眠りに落ちるのか」と尋ねている
ようなもので、答えようがありますまい。
誰もが「わかる」ことだからこそ、盤珪さんの書き方で皆が「わかる」のです。
58 :
名無しさん@1周年:2001/06/25(月) 13:18
>6
一概に解説書の全てが悪いと言うつもりはないですが、結局は自分で
体験しなければ、いくら本を読んだり話を聞いても理解する事は出来ないでしょう。
それと解説書と言っても信用できるものと、信用できないものがある。
著者が本物か偽者かを見抜くのは、一般にはなかなか難しい。
巻末の経歴見ただけでは人格まで判らないですからね。
通行人さんへ>
色んな言い方されてるんで、今更なんですが…。
禅を私の言葉で言えば”比べるな”という事でしょうか。
59 :
46:2001/06/25(月) 13:19
あ、↑は46です。
60 :
通行人さん:2001/06/26(火) 01:47
あのですね、私はべつにここで結論を出そうというわけではないです。
べつに真我とやらを出せというのも出せないのをわかっていて聞いている
のであり教えようがないものを教えろとかいうのも全部わかったうえで
聞いているんですが・・・。いままでの流れの中でみなさん気づきませんでしたか?
>「あなたはどうやって眠りに落ちるのか」と尋ねている ようなもので、答えようがありますまい。
そんなことを言い出したら禅についての話なんてできませんよ。
ここは初心者の人にもいろいろと禅の世界に広く触れて貰うのが目的でしょうから
答えがでなくてもああだこうだと議論して貰いその中で禅の世界に触れて貰う。
そのためには罵倒も誹謗も脊髄反射的な虚言もいりませんから
質問したら禅の世界観によったかたちでそれなりに答えていただければいいかと。
それによって相手の力量を推し量るわけですから。
>土台掲示板でそんなオウギョウな事を持ち出す事自体がナンセンス。
べつに遊び半分で仏教または禅について議論しようと言うのです。
僕のいままでの質問なんて初歩の初歩と思いますが。
だいたい46が僕の禅を否定したのであなたの禅を教えてくれというのに
教えようがないでは議論になりませんね。自分の禅がないのに人の禅を否定する
というのはどういうわけでしょうね?どっかで誰かに聞いた禅と違うから
多分違うだろうと軽い気持ちで否定なさったのでしょうか。それなら
55みたいに自ら馬脚を露呈すなんて誹謗してないで
あなたの禅を説明して下さい。
61 :
46:2001/06/26(火) 07:12
通行人さん>
だからそれを示したのが”比べない”事だよ。
今お互いにそれぞれに目の前の事に一生懸命取り組めばそれで良い。
成すべき事をなし、成さざるべき事は成さない、ただそれだけ。
その過程で、もし私が○○であれば、とか、なんで自分だけ××なんだ、
というような比較はしない。
人は人、自分は自分。
その為には、自らの使命とは何か?を見極めなくてはならないが、
それがおのれを明らかにしていくという事。
62 :
6:2001/06/26(火) 08:38
>60
うむ。やっぱりズレがあるなあ。
禅に「力量」などないと思いますけどね。あるとすれば、どれだけ妄想
の中で作り出した「虚仮の自分」を捨てられたかということです。46
さんのおっしゃるとおり、「相手」、「自分」の区別の中で、どちらが
「力量的に優れているか」などと妄想している限り、いくら禅をやっても
真理から離れるばかり。
禅の真髄を「あるようべき」と言い表した禅師もおられる。君は君、
臣は臣、坊主は坊主、それぞれがあるべき姿でいることが禅の教えだと
言います。親指は小指の力のなさを見下さない、小指は親指の力を卑下
しない。親指も小指も自分の本領の中を生き、「あるようべき」の働き
をする。だから、日常生活の起き臥しの中で、悟った人は悟っているの
です。
63 :
46:2001/06/26(火) 13:39
眉毛が全部抜けちゃいそうだけど、折角だからもう少し説こうか。
私が「人は人、自分は自分」と言ったのは「自他を区別しろ」と言ったわけではない。
自分と他人を比べたり、有と無と比べたり、善を悪と比べたり、生を死と比べるなど、
対象を比較し理解しても禅的には何の意味もない。
だからここで禅を浄土門や他の宗旨と比べて、どっちが良いか?なんてやってるようでは
禅的にはどうしようもない。(まぁ、それはそれで面白いけどね)
禅的には、縁に随ってたまたま出会ったのが禅であれば、その禅に参ずれば良いし、
たまたまキリスト教であれば、そのキリスト教に参ずれば良いのである。
自分に取捨得失があっては結局何も得る事が出来ない。
例えば、自分に参じるのであれば、自分VS他人を超えたところの自分、徹底自分自身に
成り切っていく事が大切である。
そうする事によって自他の区別のない平等一枚の世界が現れる。
だから逆説的に言えば、禅的な平等一枚の世界。
火にも焼けず、水にも溺れない、不生不滅、不垢不浄の消息が知りたいのであれば、
一切の物事を比べずに、たまたま自分の目の前にあることを夢中になってやっていく
しかない。
それがそのまま禅的な生き方である。生死もなければ、迷悟も得失もない。
それをどこまで行じていけるかが、力量といえば力量なんでしょう。
64 :
一言:2001/06/26(火) 14:22
ヴィッパッサナー瞑想でもやれば?
言葉の構築の仕方を論じても絵に描いた餅。
↑以上のことは、誰かの受け売りでしかない。
65 :
う〜ん:2001/06/26(火) 14:43
拘らないのが禅だと勝手に思っていたのですが、禅僧が、禅に拘る方が多
いのはなぜなのでしょう? ずっと疑問に思っていました。
>>64はいいかもしれない。
66 :
名無しさん@1周年:2001/06/26(火) 15:53
あ、オウムがきた。
67 :
46:2001/06/26(火) 18:08
単に言葉の構築だと思うのは自分の事として捉えていないから。
お説は全てが絵に書いた餅。
拘る拘らないも客観的に見ているから、単に理屈でしかない。
本当に今の自分の生活が充実していれば、誰がこようと関係ない。
それなりにやっていく、自分なりにやっていくだけだでしょう。
68 :
通行人さん:2001/06/26(火) 22:48
おもしろくなってきましたね。
>65さん
32にも書きましたがこだわらないことをわかってこだわっているのです。
僕は説明が聞きたいのではありません。
祖師曰く
「私はお前が教典から学んだことや、今まで積み重ねてきた思索や学問の
結論などは一切聞きたくない。お前が生まれる前、まだ西も東もわからない
ときに向かって、ぎりぎりの一句を言ってみよ。」と問いかけた。
やあ、ごくろうさん。
69 :
う〜ん:2001/06/26(火) 23:03
>>68 通行人さんは、おもちゃをいっぱい持っていて、子供みたいですね。
70 :
南無阿弥陀仏:2001/06/26(火) 23:05
ところで京極夏彦が禅をテーマに推理小説かいてますが、
あれどうですか?
71 :
考える名無しさん:2001/06/26(火) 23:53
見性して4年経ちますが全然幸せじゃありません。
なにが間違ってますか。どうしたらいいですか。
毎日つらいです。
72 :
10:2001/06/27(水) 03:14
>71様
初歩的なことだろうと思うけど、ごめんなさい、
「見性」ってなんですか?
73 :
う〜ん:2001/06/27(水) 03:44
>71さん
修行が窮屈なのでしょうか?
それとも、成果を求めすぎているのでしょうか?
どのような辛さか分かりませんが、あまりご自分を追いこみすぎない方がよろ
しいかもしれませんよ。緩急のバランスは必要かもしれません。
う〜ん、やはり私の頓珍漢なレスでは、あまりお役に立てませんね。
とにかく、少しでも早く楽になれるといいですね。
お力になれなくて済みません!
74 :
名無しさん@1周年:2001/06/27(水) 03:49
>>70 山口雅也の「続日本殺人事件」にも禅ネタの作品が入ってますよ。
どちらもなかなか面白かったです。
75 :
以心伝心:2001/06/27(水) 03:57
>>1 「禅に関する話のできるスレッドがない・・・」
理由→禅は「不立文字」だから。
76 :
10:2001/06/27(水) 04:02
私の場合---
禅というとどうしても実践が大切よ〜んと言ってるうちに、
気がつくと遠ざかってたりしますよね。
でも(邪道といわれようが)サリンジャーの『大工よ屋根の梁を高く
あげよ/シーモア/序章』なんか読むと日常の中にも禅的なものが
発見できると思った。
あと、お坊さんのお話も大切だけど、例えば山岡鉄舟の話を読むのも
好きだったですね。
ヨーロッパの監督が小津安次郎の映画を「そこでは日常が行われていた
ただし鈴木大拙のいう"2inches off the ground"で。」と言ってた。
小津監督自身は志賀直哉を尊敬してるけど、確かに『暗夜行路』では
「臨済録」が重要な位置を占めていたと思う。
とりとめもないですが、意外と身近なところにも禅は発見できるのでは?
77 :
>通行人さん:2001/06/28(木) 02:11
2chでの禅の表現は通行人さんが一番わかりやすい
おれも同じように云いそうだもん。
うそ
むつかしいね。禅を語れば(とらわれると)禅から遠ざかる
78 :
名無しさん@1周年:2001/06/28(木) 02:17
68
通行人センスあり
79 :
>78:2001/06/28(木) 02:39
80 :
名無しさん@1周年:2001/06/28(木) 02:54
独創性ってわけか・・
独走性だったりして
ダサ
81 :
名無しさん@1周年:2001/06/28(木) 03:15
借り物でも表現できたもン勝ち
82 :
>81:2001/06/28(木) 03:25
何を表現したのだろう?
83 :
通行人さん:2001/06/28(木) 06:26
ですからね、不立文字とか実践が大切とか平等一枚とか自他の区別がないとか
「相手」、「自分」の区別の中で、どちらが 「力量的に優れているか」などと妄想している限り、いくら禅をやっても
真理から離れるばかり。 日常生活の起き臥しの中で、悟った人は悟っているの
です。とか、
こういうことは参禅してもわけわからんとか言ってた夏目漱石や司馬遼太郎も
わかっていたのだと思います。
門の開け方の説明をして欲しいのではなくて今、ここでこの門を開けて見よ
というのです。ですから最初に戻りますが「真我を出して見よ。」というのは
出せる物か出せない物かとは聞いておりません。
今、ここに出して見よ。というのです。いわば詰問しているわけです。
絶対出せ!命がけで出せ!すぐに出せ!これは問者と答者との真剣勝負です。
真剣勝負なんて必要ないとかそんなことは妄想だとか迷悟だとか出せる物など
ないとか日常そのものが禅であるとかそういうことを聞いているのではありません。
それが真実であるということをわかった上でそういう見地の上に立った上で「絶対に出せ!」とつめよっているのです。
もっとわからないひとがいればもっとわかるようにやりますがそこそこわかって
いるようなひとがいるようなので性急な問のような感じは受けるかもしれません。
借り物があるのはみなさんわかる(気づいている)ようですが私も含めて
ここに書いてあることはほとんど借り物でしょう。ある意味語り尽くされてる
事ですからまったくの自分の物というのはなかなか難しいし、気にしても
いられないでしょう。
あと借り物もないとどの程度勉強してるかどうかもわかりませんよね。
私にとっては推理小説ほど難解なものはものはありませんので京極さんとか
読んだことはないです。読むのはそうとうな苦痛を伴いそうです。
「続日本殺人事件」は読みましたが何年も前に読んだんで覚えてないっす・・・。
84 :
46:2001/06/28(木) 07:50
>今、ここに出して見よ。というのです。いわば詰問しているわけです。
>絶対出せ!命がけで出せ!すぐに出せ!これは問者と答者との真剣勝負です。
>真剣勝負なんて必要ないとかそんなことは妄想だとか迷悟だとか出せる物など
>ないとか日常そのものが禅であるとかそういうことを聞いているのではありません。
>それが真実であるということをわかった上でそういう見地の上に立った上で「絶対に出せ!」とつめよっているのです。
何力んでんの、もう出てるやないの。
それに貴方が気付いてないだけ。
85 :
う〜ん:2001/06/28(木) 12:19
>通行人さん
他人に問うより、まずご自分に問うべきなのでは?
素人考えですが…。
86 :
名無しさん@1周年:2001/06/28(木) 12:21
87 :
名無しさん@1周年:2001/06/28(木) 13:43
86>
アハハハ…!おもろいけど品ないね。
というかそういう発想になる貴方のセンスが素晴らしい!!
88 :
86:2001/06/28(木) 13:53
>>87 私の抱いている禅問答のイメージってこんな感じです。
89 :
>88:2001/06/28(木) 15:54
いわゆる頓知の類ですね。
90 :
通行人さん:2001/06/29(金) 05:09
続日本殺人事件後半だけ読み返してみました。
なかなかよくできてるし非常に丁寧に解説してあります。
三島由紀夫の豊饒の海のパロディにもなってたんですね。
age
92 :
通行人さん:2001/07/02(月) 04:36
おはようございます。ちょっとぶりに来ました。
>自分と他人を比べたり、有と無と比べたり、善を悪と比べたり、生を死と比べるなど、
>対象を比較し理解しても禅的には何の意味もない。
>火にも焼けず、水にも溺れない、不生不滅、不垢不浄の消息が知りたいのであれば、
>一切の物事を比べずに、たまたま自分の目の前にあることを夢中になってやっていく
しかない。
>それがそのまま禅的な生き方である。生死もなければ、迷悟も得失もない。
>それをどこまで行じていけるかが、力量といえば力量なんでしょう。 本当に今の自分の生活が充実していれば、誰がこようと関係ない。
>それなりにやっていく、自分なりにやっていくだけだでしょう。
対象の比較に意味がないのなら高峰顕日や一休や良寛などの権力を嫌い、名利を
厭ってわざわざ大寺を出て富貴を捨てて清貧を愛したのは何故でしょうね!?
大寺で富貴の生活をするのもそれなりにやっていくということではないのでしょうかね!?
富と貧、名と無名の差なんてものもないわけですから。
そこのところをどう説明なさります??
大寺を厭って清貧を愛するなんて俗世間的な比較じゃないですかね???
>85さん
僕に答えを求めるということは降参ですか?
というか僕の答えを聞くのは絶望してからにして下さい。
93 :
6:2001/07/02(月) 08:45
>92
横レスになりますけど....
>高峰顕日や一休や良寛などの権力を嫌い、名利を厭ってわざわざ大寺を出て富貴
>を捨てて清貧を愛したのは何故でしょうね!?
決して名利や富貴を嫌ったわけではないと思いますよ。名利や富貴を「超越」する
というのが正しい仏教的な考え方でしょう?嫌うもまた、その対象に縛られている
わけで。一休さんも良寛さんも、晩年には尼僧と同棲生活をして憚らなかった。名利
や富貴を唯一の価値観とする偏った世界だから、禅僧達の生活ぶりが「反名利・
富貴」に見えるだけの話で、釈尊の時代のバラモン教の苦行僧のように、飲まず食わずの
禁欲生活者ばかりの団体に対してなら、逆の教え方(名利・富貴を嫌うのもまた執着
だ)と説いたのだろうと思います。釈尊が苦行をやめて、乳粥を口にした時、同僚の
修行者は釈尊を「堕落した」と罵ったと言います。仏教の原点とは、むしろ名利・富貴
を嫌う心の否定にあるのだと思います。そこに、バラモン教から仏教への転換点がある。
道元は、師の言葉を守って、一生名利に近づかず、越後の田舎に骨を埋められたの
ですが、それには、天台宗が政治権力と密着して名利と富貴に魂を奪われ、今の仏教
のように堕落しきっていたという時代背景があるのです。もし、イエスの代わりに
釈尊がユダヤに生まれ、禁欲エリート主義者のパリサイ人に対して説法をしたとした
ら、どういう風に説かれたものか興味深いところです。
94 :
う〜ん:2001/07/02(月) 08:54
>通行人さん
>僕に答えを求めるということは降参ですか?
>というか僕の答えを聞くのは絶望してからにして下さい。
一人よがりな人だ。
あなたに絶望しました。
あなたの答えは要りません。
しょせん借り物のおもちゃです。
95 :
う〜ん:2001/07/02(月) 09:32
というか、私は通行人さんに、答えを欲したことは無いのですが?
もう一度
>>85を良く読んでくださいね(笑)
通行人さんの借り物の「禅」には、私はまったく興味が無いので、答え
など気にせず、安らかにお過ごし下さい。
私の通行人さんに対する感想は、
>>69に尽きています(笑)
それでは失礼します。
96 :
通行人さん:2001/07/03(火) 05:38
6さんの言うことはまったく賛成です。
禅的に言えば悟りさえも捨てるということでしょう。
そこが「わかっていて迷う」ということではないでしょうか。
そしてそれを前提としての「真我を出してみよ。」の問いなわけです。
これに対する禅的な答えはいくつもあると思いますが、
1「そんなことを言うならお前が出して見よ。」と言うか
2 なにも言わずに問者の横っ面に平手打ちを喰らわすか
3「裏庭の紫陽花を見よ!」と答えるか
4「即心即仏」あるいは
5「わざわざ出さなくても全宇宙に満ち満ちてお前の目の前に堂々と
現れているではないか。」
こんなふうに僕なら答えますが。
これが「問い」と「答え」というものです。説明は答えではありません。
それといかにも悟ったような哲学的、思索的分別はニヒリズムに陥るおそれが
あります。それに対するもう一度の否定がなければなりません。
もういちど俗世間的な分別に立ち返るのです。
ですから怒ったり、泣いたり、喜んだり、楽しんだり、そういった生き生きとした
感情を押さえつけるものではないと思います。
しかし答えを出すのが重要ではなく疑団を発して頭の中がそれでいっぱいに
なるということが大切なのであっていろいろ自分で考えるべきだと思います。
僕も今回の件でいろいろ勉強し直してみて面白かったです。
97 :
6:2001/07/04(水) 06:08
>96
>答えを出すのが重要ではなく疑団を発して頭の中がそれでいっぱいに
>なるということが大切なのであっていろいろ自分で考えるべきだと思います。
この点については、私自身にも疑問を持っていましてね。大燈禅師という方が、
禅のことを問われてある身分の高い女性に説明されたものが残っているのですが、
ものすごくすっきりしていて、それこそ20世紀のおかしな入門書などよりよっぽ
どわかりやすい(笑)。ところが、同じ大燈禅師が弟子を相手にした禅問答は、そ
れこそチンプンカンプンです。大燈禅師が相手によって、説法を使い分けていた
ことがはっきり見えます。
確かに、「疑団そのものに成りきって悩む」ことは重要なことかもしれませんが、
大燈禅師が身分の高い女性に説いたような方法でも、禅の教えはある程度伝わると
思うのです。その一部でも生活に生かされて「自分のもの」になればいいのではと
思ったりします。盤珪さんが市井の人を相手に説いた法話もまた、同じ狙いのよう
な気がしますし、忙しい現代人が数日やそこら山寺に座って悟れる内容など、大部分
は禅の雰囲気に飲まれた「勘違い」にすぎないんではないか。それよりは、少々
アンチョコ的なズルさがあっても、大燈禅師や盤珪禅師のやり方の方が、禅の真髄
に近づけるという気がしています。
98 :
名無しさん@1周年:2001/07/16(月) 23:45
考える名無しさん
(1)見性が本物ではなかった。
(2)悟後の修行が間違っている。
(3)見性が災いになっている。
(4)現在の生活に問題がある。
考えられる理由はこんなところです。
99 :
非公開:2001/07/18(水) 23:42
無名庵EOを知っていますか?
彼は、本物の解脱をしたのでしょうか?
EOは、鈴木方斬と言う人の自作自演という説がある。EOの発想はユニーク
で面白い。ただ、解脱というのはありえないな。悟りを得ているわけでもなさそうだし。
彼の思想と言うのは、俗に言う黒魔術のようなものであり、世界を陰陽にわけ、
その陰に自己を収束させると言う者です。遊びでかかわるのならいいが、本気で
やったら、無意識のレベルで、取り返しがつかなくなるのではないかな。
死人禅で頭に茶碗を載せるというのもアレだし、中野のブロードウェイの古書店「大予言」でしか、
売っていない限定書籍を買った俺って一体(笑)?
限定書籍=EOの
103 :
名無しさん@1周年 :2001/07/19(木) 07:51
栄西は権力迎合主義 仏道は王道です(ワラ
道元は嫌いな弟子を追い出しその弟子の固定位置の床をはずし3Mも穴を掘って土を捨てた
道元のダンディズム
104 :
非公開:2001/07/19(木) 23:04
嫌いな弟子ではなく、権力に迎合したのが、気に入らなかったのだろうね。
道元様も、大人げないし、いささかやりすぎと思う。
105 :
非公開:2001/07/19(木) 23:10
辛辣で、鋭く、徹底しているEOは本物のように思えるね。
無師独覚というのも、好ましいね。
独覚は通称エンカクとも言われる。ともかくEOがそれとは、買いかぶり
ではないのかな。
107 :
非公開:2001/07/19(木) 23:20
死人禅で頭に茶碗を載せてみた人いませんか?
効果を教えて下さい。
死人禅専用の茶碗なら、中野の「大予言」で売っとるよ。
109 :
通行人さん:2001/07/24(火) 04:25
>>103 道元というか臨済禅自体権力指向なところはある。
これについては僕も考えたことはあるが
まず、
中国の儒教の影響があると思う。儒教というのは政治によって現実世界を
変えることによって理想社会を実現するというのがあるから。
政治というのは権力者がおこなうものだからね。
当時南宋がモンゴルに攻められていた時に自国の政治家達のふがいなさから
政治がしっかりしていないと国が滅ぼされる、あるいは滅びるという危機感を
持っていたものと思われる。現に円覚寺の開山無学祖元は中国にいるときに
モンゴル兵に刃を突き付けられたという人だからな。
身にしみて国が滅びるということをしっていただろうよ。
110 :
通行人さん:2001/07/24(火) 04:32
>6さん
>>93についてですが僕は賛成と書きましたがやはり富貴を嫌ったと思います。
>>97についてですがもちろん一般のまったく仏教について無知な人達に
いかに簡単に理解してもらうかという点ではそれはかんたんにかんたんに
教えて行くしかないものとは十分承知しています。
しかし、ある程度かじってわかった気になってる人がいたらそれを強烈に
否定して俗世間的な価値観に戻すということです。
ニヒリズムになってしまっては禅ではないのです。
111 :
名無しさん@1周年:2001/07/24(火) 07:03
112 :
6:2001/07/30(月) 09:12
>110
そうですね。順序ということかもしれない。最初に富貴を否定し、次に今度はその
否定をも否定し去る。結局は、原点に戻ってきてしまうのだけど、それは例えば
地球を苦労して一周してきたようなもので、最初からスタート点で何もしないで
待っているのとは雲泥の差です。たとえ見かけは同じでも、内面は天地の差。
後でスタート点に戻るとも、まずは富貴を否定することから始めなければならない
ということでしょうね。
113 :
6:2001/07/30(月) 09:21
そこでふとこんなことを考えました。
コロンブスが新大陸を発見した時、地球が丸いという事実はわかって
いなかった。いわば、彼の妄想にすぎなかった。それにも関わらず、
彼はそれに賭け、賭けに勝った。今、現代人のわれわれは、誰でも
地球が丸くて、一周すれば元の場所に戻ることを知っている。知って
いるが故に、もはやコロンブスが感じたような不安や焦燥、それを
乗り越えた歓喜は味わえない。
大燈禅師や、盤珪禅師が「真理」をわかりやすく解く時、それは
「地球は丸いから、一周すると元に戻るんだよ」という事実を知識と
して与えているのですね。答えは正しいけど、それは本当の意味での
歓喜を伴っていない。「冷暖自知」にはなっていないのですね。
114 :
:2001/08/06(月) 15:39
115 :
名無しさん@1周年:2001/08/07(火) 18:46
迷いのない人生って、つまんな〜い
116 :
名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 06:41
迷いばかりも困りもの。
>>98 >(1)見性が本物ではなかった。
>(2)悟後の修行が間違っている。
>(3)見性が災いになっている。
>(4)現在の生活に問題がある。
>考えられる理由はこんなところです。
無字はちゃんとした老師から認めてもらいましたし、
じぶんでもたしかにはっきりわかりました。
悟後の修行とは具体的にどんなものですか
(2)か(4)が原因だとおもいます。
118 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長 :01/08/28 18:29 ID:IwIsA8pU
「見性」が災い・・・
はは・・・
『十牛の図』・・・
見性で全てが分かるわけではない・・・
尻尾を掴むのは「見性」してからじゃぞ・・
ははは・・・
119 :
名無しさん@1周年:01/09/15 19:53
最近、鈴木方斬みないよな、、
君らの職業は何なんだ? 坊主か? 自給いくらだ? 寺や神社は給料もらえないのか?
121 :
名無しさん@1周年:01/09/25 19:46
足がしびれない?座布団ぐらい使える?
喝!
123 :
名無しさん@1周年:01/09/25 20:31
というか、道元って最初帰朝後には朝廷に取り入ろうと宇治に住んで『普勧坐禅儀』
なんか書いてみるんだけどそれほど相手にされなくて、それで仕方無く波多野氏の
招きで田舎行くわけでしょう。
で、途中でやっぱり幕府取り入ろうと思って鎌倉なんかにも出ていくんだけど、
結局自分自身逡巡するものが在って永平寺戻っちゃう訳ですよ。
多分彼には名利心があって、それを自覚しているからこそ、弟子が自分の為に幕府に
取り入ろうとしたことを怒って、禅堂の土まで捨てちゃうわけですけど、
この尋常で無い行動の背景には、道元自身の名利心との格闘が在って、ああいう
形になったんだと思う。
124 :
名無しさん@1周年:01/09/28 00:22
中国を舞台にした禅の話には、なかなか面白い物もあるが、
日本の禅となると・・・。
小悟と大悟を繰り返す人々に、、うんざり。
>>126 言葉に拠る者は言葉に溺れる。って、ことさ。
128 :
名無しさん@1周年:01/09/28 15:57
偉そうに言ってないで、現実の自分の生活を見詰めたら(藁
130 :
名無しさん@1周年:01/09/28 19:00
>>126 どうせ碧巌録と無門関ぐらいしかよんだことないんだろ?
正法眼蔵ばかりみてないで、槐安国語や不動智神妙録ぐらいは読んでみれば。
131 :
名無しさん@1周年:01/09/29 01:59
ははあ・・・「不立文字」っていうから、書物読んで勉強しなくてもいいのかと
思っていましたが、そうでもないみたいですねえ、禅って。
133 :
名無しさん@1周年:01/09/29 12:35
>>131 禅だから勉強しなくて良いと思ったら大間違い!(藁
何故、農民よりも武家を中心に広まったかを考えてください。
不立文字とは、「文字を読んで意味を知るのではなく、意味を知ってから文字を使うのだ」
と山本玄峰老師が仰っているように、禅宗だから勉強せんで良いと言う事ではないよ。
むしろ白隠にしろ大燈にしろ、みんな滅茶苦茶頭いいです。
現代の偏差値は別にして、大体老師になるような人はみんな頭いいですよ。
記憶力なんかも凄いです。
134 :
名無しさん@1周年:01/09/30 07:23
右か、左か・・・
前か、後ろか・・・
上か、下か・・・
135 :
名無しさん@1周年:01/09/30 21:18
>>134 「差別無き平等は仏法に順ぜず、平等無き差別は仏法に順ぜず」
そういうのを悪平等と言う。違うのは違う。
ラジニーシ解説は?
137 :
名無しさん@1周年:01/10/01 00:18
>>133さん
「馬鹿がいくら座ったって、悟りなんか開けるもんか」って
ある有名な和尚さんが言ってた記憶があります。
じゃ、どうしても頭の悪い人は救われないんですかねえ?禅では。
がんばって勉強しても、頭よくならない人っているでしょう?
138 :
名無しさん@1周年:01/10/06 18:36
心の中で不毛な考えに囚われている自分を改善するにはどうしたらいいのでしょう
139 :
名無しさん@1周年:01/10/08 01:14
禅問答のことですが、師に質問したら殴られたという話がよくあります。
「殴られたら痛いだろう?おまえは今生きているんだぞ!」と、
(文字にするとうすっぺらな感じになるかもしれませんが)
そういう意味で殴られるのかな、と思っていますが、勉強不足なので、
まるっきり見当違いかもしれません。
禅の入門書とか基本とかの書物があれば、教えてやってください。
大きな書店で宗教書のコーナーに行って手当たり次第禅関係の本を
見てみるのがいいでしょう。
自分のカンで2,3冊買って読む。
↑アホみたいですけどこれって結構大事だと思う。
そうした本のなかに次に読むべき本は載ってますから
興味が沸けば進んでいけばいいのでは。勿論、実践も大事。
禅問答では逆に師が言ったことに対し修行僧が師を殴るということもあります。
>「殴られたら痛いだろう?おまえは今生きているんだぞ!」
確かに、そうとれないこともないですが現実には違う場合が多いです。
これは相手がどういう立場でモノを言ったかによりますね。
141 :
名無しさん@1周年:01/10/10 01:29
別に禅に学問はいらないと思いますが。
頭でわかるものじゃないんです。
ただ一般の人や弟子に教えようとしたら沢山勉強してないと無理でしょうね。
難しいのをかみ砕いてただしくやさしく教えるのは難しいものです。
禅問答で師が弟子をなぐるのはそんなとこ聞かないで、今自分で気付けという
叱咤でしょうね。
逆に弟子が師匠を殴ることもあるようです。(今は実際はないと思いますが。)
>>136 ヒッピー禅はお呼びではありません。
142 :
名無しさん@1周年:01/10/11 02:17
>禅問答で師が弟子をなぐるのはそんなこと聞かないで、今自分で気付けという
叱咤でしょうね。
禅問答、素人が見るとさっぱりわからない感じですが、案外普通なんですね。
143 :
名無しさん@1周年:01/10/11 21:35
師が弟子に向かって、一本の棒を見せ「この棒は本当に存在しているか?」と聞き、
弟子が「存在しません。存在しているように見えるだけです。」と答えると、
師はその棒で弟子をしたたかに打つそうです。
>>143 面白いですね。
存在していると思えばそれが正解。
存在していないと思えばそれが正解。
ようは、どちらでもいいんでではないですか?
私はそのような気がしますが。
145 :
名無しさん@1周年:01/10/13 04:36
>144 ちょっと違うんじゃない!?
棒の話は聞いた記憶無いけど「存在しない」と答えたので叩くことによって
棒の存在を示したのでしょう。
あと「存在しているように見えるだけです。」というのはよく陥りがちですが
べつにそんな説明しなくてもそんなことは師匠は先刻承知だと思います。
説明はいらないんですね。
>>145 貴方の説はごもっとです。私はその裏をかいたのです。
この場合だと、師匠の発想自体が問題だとおもうんです。
こんなこと質問しているようでは、弟子の頭がやられて(破壊)しまう。
そんな気がしたのです。「存在」という発想自体が「?」だとおもうのです。
気がつうじるからでしょうね。
おまえうそいったなぁと・・・
148 :
名無しさん@1周年:01/10/13 13:07
149 :
名無しさん@1周年:01/10/15 02:56
>146
だからお前が間違ってると言ってるんだよ。
お前の言っていることを前提としてわかっていて師匠は聞いているんだよ!
そんなことゼンマスターがわからないとでも思ってるのか?
自惚れるなボケ!
151 :
名無しさん@1周年:01/10/15 11:05
152 :
ビギナーさん:01/10/15 12:50
初心者です。いろいろ教えて下さい。
ところで、144>さん
存在していると思えばそれが不正解。
存在していないと思えばそれも不正解。
禅では、第3の心境になるのが正解と聞きましたが。
現代の最先端の科学では、これに似た考えに至っているそうです。
箱形の中の猫は、蓋を開いたときは存在し、蓋を閉じたときは
存在しないと考えても、分子レベルでは、矛盾しないとか。
、
>>152 私が、こういう問答というのが苦手だというのが解りました。
「煩悩」とか「執着」とか「死」とか「存在」とか・・・無頓着でして。
その延長線で考えてしまいました。
「存在」が有っても、無くてもあまり世界観は変わらないんじゃないかと・・
「存在」という概念がないんですよ。難しい。「不動心」。
154 :
名無しさん@1周年:01/10/15 18:49
>>154 煩悩を否定する訳でなし、迷いを否定する訳でなし。
死を否定するわけでなし、存在を否定す訳でなし。
肯定する訳でなし。拘らない心。
有っても、無くても常に「不動の心」。
156 :
Berzin:01/10/18 17:40
禅こそが、宗教の本道であり、他の宗旨は全て複道と信じて疑わない
が、このスレッドが、155>でストップとは本当に情けない。
心と宗教板の信者は、こんなにレベルの低い連中の集まりか。
議論の種は尽きぬと思うのだが。
私は、下記のような公案(問題)を考えた。
2本の平行線は、無限(∽)の彼方で交わるというのが、数学的
に証明された公理である(高校で教わる?)。
私は、これが不思議でならないが、この真実を考えつづけて体験的に
「分かった」と言える心境に至ってみたい。そのときの心境を不動心と
言うのだろうか?。
ほら、言うでしょう、悟りたい人は、どこから入るの?と聞かれた
老師は、裏川のせせらぎが聞こえたら、ここから入れ、といわれたとか。
>>156 面白いね。私、最近気がついたのですが「覚悟」という言葉。
「覚醒」と「悟り」の、2文字合わせて「覚悟」。
覚悟すると、不動心という心境になる。そこからがスタートのような気がする。
人間、最初は「無」になんないと、解らんのではないかな?
これは私の経験から・・。既成概念を引きずりながら、いろいろ考えても
結局は観念的で終わってしまう気がする。そこのところが肝要なのかな?
変人、こんなところにもレスしてんだな。。
第三者が評価しやしように判断材料をコピペしとくよ。
267 :変人 :01/10/11 19:49
>266
>見識を身につけましたか?
この板の「悟り」スレに私のことがカキコしてあります。後半、9月ころでしょうか?
今は荒らされてしまって、下の方に沈没しております。
よく探せば見つかる。たしか942までいって終了状態。
「それらしき書籍」というのは、わたしはあまり詳しくない。
というのは、禅宗は書籍もあまり読まないし、修行もしたことないですから。
278 : 変人 :01/10/13 12:10
221さん
私が、朝忙しかったものですからゆっくりレス見られませんでした。
貴方の世界観は良く解りますね。私も以前は似たような世界観でしたから。
その頃でしたら「変人ていう奴は可笑しな事いうな」。でおわっていたでしょうから。
当時読んでいた「禅」の本でも、「観念的お遊び」程度でしたから。
ですから、貴方が私を見る眼というのは理解できます。
客観的に自身を考察したら、殆ど変人ですね。たまたま私が「禅」の思想とめぐり合いまして
それによって、自身の「世界観」というのが構築されていきました。
そういった経緯というのがありまして、なかなかこれは万人に通じるものではない・・
というのが最近になってやっと解ってきました。まあ、これも人生勉強なんでしょうけど。
380 :変人 :01/10/18 13:48
上記レスは、「認識」という概念ではないので「熱いお湯」の喩えで説明した。
そういう訳で、認識ではA子は好きであり、B子は嫌いである・・解るかなー
もし、解らん奴は解らんで宜しい。とにかく説明の仕様が無い・・「禅」を薦める。
159 :
名無しさん@1周年:01/10/19 23:29
変人アゲ
160 :
Berzin:01/10/20 04:11
157>さん、158>さん
私は、あなた方にすごく親しみを感じます。ソウカ系の連中のような
殺伐とした、雰囲気がない、なんとなく、ほのぼのとした、温かみを感じる。
157>さんは全然変人ではないと思う。
アインシュタインも言っている。何が最大の不思議かといえば、人間が
自然を、宇宙を理解できることだといっている。
彼は言っています。「私にとっての宗教とは、自然の摂理と宇宙の神秘に対する畏敬の念」
である」と。
私達が、森羅万象に不思議を感じることほど面白い事はない思いませんか。
>>160 >老師は、裏川のせせらぎが聞こえたら、ここから入れ。といわれたとか・
私は、こういった話が好きでして・・。つまり、そこにこそ「小宇宙」があるという事なんでしょうか?
貴方が提唱している「仏教の本道は禅」。私も、そう思いますね。
何ゆえ、私も「禅」には疎いのですが、世界観というならやはり「禅の世界」に近いと思います。
「信仰」という概念。「絶対無」。行き着くところ「禅」だと思いますね。
162 :
名無しさん@1周年:01/10/23 01:52
ここの人達は面白いね。
禅について何にもわかってないのにあれこれ知ったかぶりばかりして。
知らないんならもうちょっと謙虚に質問したら?
163 :
名無しさん@1周年:01/10/23 02:51
ある禅宗の修行僧が、箒で掃除をしていて、石ころが飛んで竹に当たり、
「コーン!」といい音がしたのをきいて、悟りがひらけたという。
わかるような、さっぱりわからないような・・・
この「修行僧」が誰だかわかる方いますか?
「香厳撃竹」の話ですね。
香厳(きょうげん)でしょう。
>>163 こういう話は実に真実味がありますね。
修行僧の意思のまったく関知しない状況で体現している。
「不二」の世界は、現在の世界そのものですから。本来「悟り」とは・・・
喩えていうなら、忘れていたのを「一瞬にして思い出す」。(例は悪いが)。
そういった、極自然な境地かと思います。
決して理論で理解できる世界で無いでしょうから。
166 :
名無しさん@1周年:01/10/24 02:12
少し戻しますが、
>師が弟子に向かって、一本の棒を見せ「この棒は本当に存在しているか?」と聞き、
>弟子が「存在しません。存在しているように見えるだけです。」と答えると、
>師はその棒で弟子をしたたかに打つそうです。
弟子の答えとしては「在る」というのなら在る証明をしなければならないし
「無い」と答えるのならない証明をしなければならないんです。
>変人さん
あなたのいい加減な答えでせっかく問答の発展するところを
潰してしまったのを気づいてます!?
>>166 確かにそんなレスがありました。覚えています。
申し訳ない。継続して議論きぼ〜ん。
貴方の考えは、どういったものでしょうか?
いやだから以前に書いてますが。
女のおまんこは偉大だね。釈迦でも仏陀でも、大悪党でもなんでも
ひょいひょいうむんやから。合掌
170 :
名無しさん@1周年:01/10/26 02:53
>>168 そうでしたか。失礼しました。
ようは「存在」という概念の問題ですね。
すでに貴方は答えを出しているのではないですか?
それが正解かと思うのですが、いかがでしょうか?
172 :
名無しさん@1周年:01/10/26 06:46
爆笑!!
見性体験についてのレス。きぼ〜ん。
174 :
名無しさん@1周年:01/10/26 13:24
>>166答えます。
「色即ち空なり」「空即ち色なり」「すべて不二なり」。これが正解かな?
176 :
名無しさん@1周年:01/10/26 22:09
爆笑!!
177 :
4号、5号:01/10/26 22:25
わいすきー 前前
178 :
名無しさん@1周年:01/10/27 02:20
>>173 瞑想をしている者です。
他スレでレス読んでいるのですが、僕の場合は「自我」が主観になったり、客観になったり
いろいろですが、瞬間的に変人さんが言っているような事があるみたいです。
要因がどうしても分かりません。波動、リズム、時間の概念、体調、いろいろ考えています。
気分が悪くなったり、至福感に包まれたり、いろいろです。
変人さん、あせらなくていいですよ。
まだ答えは出ていません。
>師が弟子に向かって、一本の棒を見せ「この棒は本当に存在しているか?」と聞き、
>弟子が「存在しません。存在しているように見えるだけです。」と答えると、
>師はその棒で弟子をしたたかに打つそうです。
たしかに答えは両方ありえますがその両方を証明できなければ答えには
なりませんよ。
あることは証明するのは簡単かもしれませんが無いことを証明できるのか
ということです。
>>179 師「痛いか?そうであろう。したたか打っておるのじゃからな・・あっはっは」
弟子「痛いでごじゃりまする〜」
師「もう一度問う。早う答えーい」
弟子「分かりました。非心非仏。「痛み」即ち、非ず心の所業なり」
師「うむ。さすがわしの弟子じゃ」
これが正解かな?
>>176 大爆笑!!!(先にカキコしておきました)
181 :
名無しの話:01/10/27 08:13
禅で仏性とかいわれても何が教義なのか良くわからないので宗教として接してはいないのですが
生きていく上で折に触れ支えになってくれています。 碧巌集、無門関、臨済禄、趙州禄どれも
大切にし読み返しています。無神論者の宗教という感じですかね。
>>181 私は、宗教だと思っているのですが「信仰」の対象が無い・・そういうふうに捉えています。
それ故、自己の世界観に依るところが大きいのではないか。
「開放された宗教」。仏教における「自由性」ということに関しては本道であろう。
>>178 私は時間だとおもう。
相対性理論によれば、「空間の歪み」「速度」によって時間のズレは生ずる・・
ということだが、「普遍的で無い」ということは確か。
小規模なズレということもあるのではないか(人間周辺)。
宇宙飛行士がロケットに乗船している場合、厳密にいえば時間はユックリ流れている。
そういったことが日常生活において、全く「有り得ない」とは言い切れない。
勿論「高速」という条件なしの、なんらかの作用によるものであろう。
一応、空論ではあるが・・・「時間がユックリ」は間違いないと思っている。
184 :
名無しさん@1周年:01/10/27 18:05
>>183 物理でせめるなら、相対性理論の否定ではないかと。
アインシュタインが論破されたのは知ってる?
それと「棒がない」を繋げたらどうよ?
なんで「箱の中に猫は…」なのかてよ。
爆笑!!
後、「一期一会」て言葉知ってる?
>>178 宇宙創生における物質(陽子?)の残存について・・反物質が消えているとなれば
当然理論的には、反宇宙の存在しか考えられない。
いわゆる「ゆらぎ」の話なのだが、この宇宙観と「不二」が重なるのである。
物理学の方が、先行して「不二」を証明しているのではないか?
時間という概念の絶対性について、考察してもいいのではないか。
186 :
名無しさん@1周年:01/10/27 18:53
変人は科学については、かじっただけだね。
それっぽい所を抜き出して、自分の理論を補強してるだけ。
しかも、その理論は、にちゃんで聞きかじっただけのものも見られる。
187 :
名無しさん@1周年:01/10/27 19:06
188 :
名無しさん@1周年:01/10/27 20:55
変人さんその他、禅に興味のある方に一応注意を喚起しておきますが、
この2ちゃんには中途半端な禅僧がいます。
他スレで見てると思いますが
その方はきちんとしたとこで修行をしている方なので、
よけい始末におえないのですけど。
本物と偽者を見分ける力を持たないと引っかかります。
偽者は変人さんがまだカキコしていない禅のスレにいます。
多分、気づいていると思いますが。念のため。
189 :
名無しさん@1周年:01/10/27 21:00
>>188 「禅」の修行は、ある程度のリスクがあるのはいたしかたない。
伝統宗派においても、極少数ではあるが精神障害をおこしている。
悪くて自殺、良くて薬物中毒になる。一人だけ確認ずみ。
他の宗派には見られない、特徴的なものだ。
個人個人の自己確立ができないと相当ヤバクなる。そういう連中は複数知っている。
その件に関してはノーコメント。188さんは気が付いているとは思うが・・・。
私は「禅」における世界観に興味がある。煽り承知で居座っている。ご忠告有難うございます。
191 :
名無しさん@1周年:01/10/27 22:47
ここで1つ。偽物と「五体倒地」に絡んで。
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1003680801/93-104 93 :変人 :01/10/23 11:18
>92
まあ医者も良いのだが、私だったら違う手法をとる。
地面にうつ伏せになり、土を舐め舐めして犬になる。
「生きる」とは、そうしてみて初めてわかるのではないか思う。
「劣等感」云々は、犬になんないとナカナカ吹っ切れない。
人間における「付加価値」なんてものは、吹けば飛ぶようなもの。
まあ、それに「生を絶つ」など、愚かだと思う。
96 :むもん :01/10/23 11:23
>93
変人さんに賛成。
102 :変人 :01/10/23 14:39
品川さん
なかなか深いお言葉です。
人間を捨てる・・とは難しいことですね。「覚悟」という言葉を分解すると・・
「覚醒」「悟り」。なにかそこに暗示するものを感じます。
「死にたい」とおもうのでしたら。人間を捨てるくらいの覚悟はぞうさもないこと。
捨てきれないところが「元凶」なのかと思う。
「死ぬ」とは捨てる事。そこで初めて「生きる」が解ると思う。
「生死一如」「生死不二」。生死は一体である事に気が付くのではないか。
104 :むもん :01/10/23 15:10
>102
そうそう。死ぬ勇気があれば、犬になる勇気があるはずだ。
192 :
名無しさん@1周年:01/10/27 22:48
むもん、変人の考え方は方向性としては合ってるとも思うけど、魔境と見る。
自我ではなく、すり変えて「人間性」を否定してますよね?
禅では、「生きる欲望」のために、「人間性」を否定することを肯定しますか?
自我から生じる欲望がすべての苦を生み出す。
だからと言って、「人間性」は放棄してはならない。
生きるために「人間性」を放棄すれば、
そのまま人間以下、犬以下の存在となり果てるから。
二度と、人間に戻ることはできないかもしれない。
しかし、「動物に成り果てよ」とする勧めに魅惑が生じることも否めない。
心が疲れた該当スレの1さんを犬にして、むもん、変人の自我を満たそうとするところに、
どうしても受け付けないものがある。
193 :
名無しさん@1周年:01/10/27 22:51
>>188 変人さんを看破できなかった業は重いよ。
194 :
名無しさん@1周年:01/10/27 23:19
>>188 もう少し詳しく説明するね。
宗教をやってる人は変人さんの病気に、すごく無頓着になりやすい。
特に禅ではそうだと思う。「行」の過程では多々あるものだから。
「行」にいる人なら、その修正の機会は何度もある。
しかし、変人さんは「行」を侮って、無宗教を気取ってる。
修正の機会はない。
無宗教の立場から言うなら、もう変人さんはOUTだね。
「自然な流れ」「あるがまま」を感じることができず、
簡単に潰すけど、元の流れに戻すこともできず、
その必要性すら分からなくなってる。
世の中で言っていいことと悪いこととの判断がつかなくなってる。
それを「自由性」と自称し、「自分の世界観・価値観」(そんなものは
存在しない)とやらで意固地になってる。
批判、煽りが1人だと思いこんでる。
無宗教なら嫌悪を感じ、放置するか、無視するものでしかないんだよ。
批判や煽りをかけてる奴は…としか思えないな。
更に、変人さんの病気は臨床でも治すのが難しいものなんですよ。
それを助長させた
>>188さんは、
咎められても仕方がないかもしれませんね。
以後、発言に注意されたし。
>>193 >>194 私は変人さんの今の「立場」は肯定してないんですが。
そう受け取りましたか?
かと言って一部の人が書くような変人完全否定も違うと思う。
ただはっきり言えるのは今のままではまずいというのは同じです。
>師が弟子に向かって、一本の棒を見せ「この棒は本当に存在しているか?」と聞き、
>弟子が「存在しません。存在しているように見えるだけです。」と答えると、
>師はその棒で弟子をしたたかに打つそうです。
私なら最初の質問のすぐ後に師の棒を取り上げ一撃を食らわすでしょう。
殴ることによって2つの立場を1度に表現してるんですがそれを説明するともう禅ではない。
晩年の鈴木大拙は「自分はあまりにも喋りすぎて禅は遠くに行ってしまった」と
述懐してました。
194さんなら「この棒は本当に存在しているか?」の問いにどう答えますか?
ただ他人の批判だけなら誰でも出来ます。
あなたの境地は如何に?
>>188 >変人さんその他、禅に興味のある方に一応注意を喚起しておきますが、
>この2ちゃんには中途半端な禅僧がいます。
だれのこと?むもんさんのこと?
197 :
名無しさん@1周年:01/10/28 00:48
>>195 >私は変人さんの今の「立場」は肯定してないんですが。
>そう受け取りましたか?
貴方からその言葉を聞きたかったです。(感涙
変人さんは、貴方から「自分の世界観」を肯定されてると思いこんでるフシがあると
見ています。
>かと言って一部の人が書くような変人完全否定も違うと思う。
完全、同意!
すばらしい体験をされたのに、そこから抜け出せないでいると思ってます。
今まで肯定も、否定もしてきたつもりですが、すべては「煽り」とみなされたようで。(爆)。
>194さんなら「この棒は本当に存在しているか?」の問いにどう答えますか?
答えは最初から用意して「爆笑!!」と言ってたのですが…
俺なら、そこいらにある小石を拾って、軽くお坊さんにぶつけ、ポン〜、コロコロと
転がっていく様を見て、お坊さんと一緒に笑いたいですね。
石も、棒も、お坊さんも、俺も同じこと。
年齢を重ねた人(お坊さんを勝手に高齢だとみなしています)を棒で打つことは、
どうしても反してしまうと思いますので。
お坊さん同じ年齢になったとき、棒で打とうして、そのときの青年から石をぶつけられて、
一緒に笑えばいい。そこに時間差なんてないのだから。
いつも、最後は笑いあいたいものですね。
>ただ他人の批判だけなら誰でも出来ます。
38さんやいかに。
結局、棒はあってもなくても、子の一瞬に「ある」と思うんですね。
小石や、棒や、俺や、お坊さんのように。
そして、そのすべては「笑い」の中にあると。
199 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:02
>「この棒は本当に存在しているか?」の問いにどう答えますか?
横から勝手に私の見解を書きいてみます。
「この棒は本当に存在しているのか?」というのは、
その真意をウラ返して読み解くなら、
「この棒を見ているおまえは本当に存在しているのか?」
ということでしょう。
だから答えは、その答えを答える人の存在のありよう次第ですね。
私だったら…そのときになってみないと分かりません。
あらかじめ頭で考えて答えを用意する、
というのは、その答えがどのようなものであれ、
その人のありようが思考レベルにとどまっている、
ということでしょうから。
>>198 「臨機応変」を忘れた思考遊びではないことをご理解くださいな。
問い掛けられた状況が本当に存在する実感を持って、
答えようとしてるわけです。
そこに思考レベルと現実状況との「差」はないわけです。
(俺は少なくともそう思っています。)
さて、どうしますか?
201 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:23
>>199 >そのときになってみないと分かりません。
う〜ん、その答え自体が思考レベルにとどまっているという
批判はまぬがれないでしょうねぇ。
今がそのときなんですよ。
今、即今答えなさいと問われているわけで
そのときに・・というのは答えにならない。
これ、別に煽りじゃないですよ。
202 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:24
>そこに思考レベルと現実状況との「差」はないわけです。
>(俺は少なくともそう思っています。)
>さて、どうしますか?
>>199(私)あてですよね?
俺は少なくともそう「思っています。」というのですから、
立派な思考遊びでしょう。
それと、問いかける方が禅僧でない場合、
答えを見逃すこともある訳です。
人によっては無言で後ろを向くだけかも知れない。
人によっては笑うかも知れない。
人によっては怒りだすかも知れない。
私の場合は199で答えたとおりで、それが答えなんですよ!!
棒の話面白いですね。
今の私はその棒で自分の肩を叩いてコリをほぐして、ついでにお坊さんの肩も叩いて
あげます。
204 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:25
>>201 煽りじゃないのは分かってますよ。(←煽り厨の印)
今、問い掛けられてるわけです。
答えられなくても、棒で叩かれますよ。(笑)
205 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:27
>>203 お坊さんから棒を取り上げてしまう訳ですね??
発想になかったです。
206 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:29
>>202 多分、そんなこと言ってる間に棒で叩かれますよ。(笑)
禅宗のお坊さんは本当にやる!うん!
207 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:30
>>206 >
>>202 >多分、そんなこと言ってる間に棒で叩かれますよ。(笑)
>禅宗のお坊さんは本当にやる!うん!
頭の中でね(笑)。
208 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:33
>>207 >頭の中でね(笑)。
そうかなぁ…?
痛いと思うけどなぁ…?
209 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:37
>そうかなぁ…?
>痛いと思うけどなぁ…?
もちろんイタイですよ。
でもそのイタさはリアルじゃない。
思うだけですから。
あっ、「痛い」て言うのは、「苦しい」でもいいかな。
211 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:41
>>210 なんか意地になってますね(笑)。
さらっと流せないですか?
>>208 209のことはしばらく放っておけ。
禅を知らん人間には何を言っても無駄。
213 :
名無しさん@1周年:01/10/28 01:42
>>210 >あっ、「痛い」て言うのは、「苦しい」でもいいかな。
いや、「イタい」でしょう。
あなたの意固地な態度が(ワラ。
は確かに
たぶん208さんは、今、すごく気分を害してるだろうね。
212さんとかも。
なんでさらっと流せないかなぁ。
禅知っている人が。
>>199から何回もこれが私の答えのありようだ、
と説明しているのに…。
>>214 いや、まったく。
なんで???
楽しんでるのが分からなかったのかな?
199
>>215 私の答えはあんまり気にしないで下さいね。
今、現在、目の前にあるのはパソコンのモニターとキーボードで、
そのモニター内に掲示板があり、
そこに臨機応変に自分なりに思ったことを、
今、書いているわけです。
そして、ここには言葉という棒があり、
その棒で殴り合いが…(爆笑。
いや、もうやめます。
おやすみ(^-^)/。
>>216 おやすみ。
煽りとは思ってないですよ。(笑)
質問・・・
白骨観について、5行で説明して下さい。
私が、納得できる答えをくれた人には、
あなたの草履を取ってあげます。
>all
むもんさんの、「幻想世界論」と私を一緒にされたら困る。真贋を見極めていただきたい。
>>188 「禅」の世界観は、現存する言語では説明不可能・・不立文字という手はあるが、それでも限界。
そういうことが常に念頭にありまして、私が「禅も問答は苦手」と言う所以でもある。
だがしかし、あえて「説明せよ・・」となればそれ相当の勉強になるのは確か。大変参考になりました。
師にしても、「世界観」を説明する・・ということは相当難しいと思いますね。
「棒」の話は、それを如実に表わしている。基本的に「不二」は説明不可能。
それをベースに「禅問答」を学びたいと思っております。
全然
>>218 う〜ん。こういうレスは私は好きです。
このスレはハマリそうです(waku waku
222 :
名無しさん@1周年:01/10/28 08:55
>>197 >俺なら、そこいらにある小石を拾って、軽くお坊さんにぶつけ、ポン〜、コロコロと
>転がっていく様を見て、お坊さんと一緒に笑いたいですね。
しかし、実際にはそうした場合師は笑いませんよ。
更にもう一度「この棒は本当に存在しているか?」と聞くか、
「この石は本当に存在しているか?」と聞くか様々でしょうが簡単には問答は
終わりません。
>年齢を重ねた人(お坊さんを勝手に高齢だとみなしています)を棒で打つことは、
>どうしても反してしまうと思いますので。
ここに分別の働きを見てしまうのでやはり不正解となりますね。
師の質問には「答えそのもの」にならなければダメなのです。
「こんなことしたらまずいかな?」とか「ここまでは・・・」等思った時点で
禅からはずれてしまうので、どんなに上手く答えてもダメなのです。
そのために師は次々に質問を繰り出してきます。
まあ現代の禅マスターで本物は少ないと思いますがね。
禅は頭で考えてもダメだと言われますが実際には頭で考えても答えが出る。
だから禅の高僧で頭がいい人が多い。
でもそれでは本物の禅ではない。
今、本物はどこにいるのだろうか?
>>222 >>年齢を重ねた人(お坊さんを勝手に高齢だとみなしています)を棒で打つことは、
>>どうしても反してしまうと思いますので。
>ここに分別の働きを見てしまうのでやはり不正解となりますね。
>師の質問には「答えそのもの」にならなければダメなのです。
何が分別で何が分別でないかを分別していますね。
あなたは
>>195さんですか?
自分が分別を分別しないからこう振る舞う、
と考えるのは、もはや禅ではないでしょう。
禅の人たちは常識にとらわれないために、
わざと常識をはずして非常識に振る舞う、とでも言うのでしょうか?
実際に師の棒を取り上げて師を一撃したら、
逆に殴り返されるかもしれませんよ。
>まあ現代の禅マスターで本物は少ないと思いますがね。
>禅は頭で考えてもダメだと言われますが実際には頭で考えても答えが出る。
>だから禅の高僧で頭がいい人が多い。
さすがにこれはトンデモに属する発言ですね。
>今、本物はどこにいるのだろうか?
その前にあなたが本物の弟子で在れるのか?
を問いかけたほうがいいように思いますが…。
>>222 禅の宿命は、精神世界の自己確立。
これの精神世界が、見性において一律同一か?ここが問題。
本人のみ知る世界ゆえ、第三者が知るよしもない。
ここが大きなジレンマなのではあるが、しかしそこを何とかクリアしないと前に進まない。
えてして、こういった事を前提にしてみると、必ずしも「答え」が主眼でなくて
トータルで「禅問答」の意義というものがあるのではないか?そう思ってしまうのです。
勿論「答え」には、それなりの精神世界が反映されえいることには興味があるのだが・・
225 :
名無しさん@1周年:01/10/28 11:59
>>223 >何が分別で何が分別でないかを分別していますね。
「至道無難、ただ選り好みを嫌う」という禅の名句がありますが
これも「嫌う」と言った時点で選り好みだと言われてしまう。
しかし、これはただ表現として解り易く言っただけで本当に
嫌っているわけではない。
分別智を超えた分別智があるのですが
もうその世界は言葉では限界で説明のしようがない。
そこが不立文字といわれる所以です。
>>224 >本人のみ知る世界ゆえ、第三者が知るよしもない。
>ここが大きなジレンマなのではあるが、しかしそこを何とかクリアしないと前に進まない。
そこで師は様々な質問を繰り返す。
そうすることによって弟子の境界をはかろうとし、更なる意識の向上を促す。
変人さんが天地一体を体得したのならその境地を現実の世界でどう生かすのですか?
平等の世界は手に入れたようですから差別の世界ではどう働けばいいのでしょう。
>>222 >しかし、実際にはそうした場合師は笑いませんよ。
笑うまでは「無言」で見据えるでしょう。
そして聞かれたことにだけ答えていく。
>「この棒は本当に存在しているか?」
「石と同じ」と答えます。
>「この石は本当に存在しているか?」
「石はもう存在しない」と答えるしかないと思います。
>ここに分別の働きを見てしまう
>「こんなことしたらまずいかな?」とか「ここまでは・・・」等思った時点
頭で考えた分別ではなく、
人間なら身体で反応できない種の「不自然」だと思います。
「不自然」なものは消えていくしかない。
「ここまでは」とか思うわけではないんですね。
>>223 >実際に師の棒を取り上げて師を一撃したら、
>逆に殴り返されるかもしれませんよ。
ここまで入ったら、「妄」になるかもしれません。
>>225 >「至道無難、ただ選り好みを嫌う」という禅の名句がありますが
>これも「嫌う」と言った時点で選り好みだと言われてしまう。
>しかし、これはただ表現として解り易く言っただけで本当に
>嫌っているわけではない。
「嫌い」といっても嫌っているわけではない、
のと同じように
>>197さんが
>年齢を重ねた人(お坊さんを勝手に高齢だとみなしています)を棒で打つことは、
>どうしても反してしまうと思いますので。
と言っても、それを分別だからと否定するのはおかしいんですよ。
>分別智を超えた分別智があるのですが
>もうその世界は言葉では限界で説明のしようがない。
分別智なら言葉で説明できます。
>そこが不立文字といわれる所以です。
言葉で説明できないのは無分別智でしょう。
どうも
>>225さんは変人さんのこととやかく言えないような気がしますが…。
>>227 >どうも
>>225さんは変人さんのこととやかく言えないような気がしますが…。
いや、これは違うと思いますよ。
変人さんに人がとやかく言うのは「自然」なことだと思うんですね。
それが225さんや227さんなら、きちんと修正されると思うんですね。
(変人さんが更なる勘違いをしなければですが…)
223
>>226 >>実際に師の棒を取り上げて師を一撃したら、
>>逆に殴り返されるかもしれませんよ。
>ここまで入ったら、「妄」になるかもしれません。
その状況になってみないと分かりませんから確かに「妄」でしょう。
答えはその状況になってみないと分からない。
師がどういう人か、そのときにどういう口調で聞くか、
それを答えるときの自分のあり方、周りにどんな人がいるか?
棒は堅そうか?などなどですからね。
>>225 差別の世界
相対の発想が無ければ、差別という意識も無くなる。
優性も「そのままの世界」。劣性も「そのままの世界」。単体においては
同一な世界観を有する・・と考える。
根源的には、自己に内在する精神世界ではあるが、それとて・・・
「我」の根源となれば大自然と同一なるが故、すべて「不二」に帰す。
>>229 いや、そういうことで「妄」と言ってるわけではなく、
「これをすれば、ああされるかもしれない」とか、
「あれをすれば、こうされるかもしれない」とか、
そのような思案は「いらない」わけなんです。
う〜ん、伝わるかなぁ…(汗
>>231 >そのような思案は「いらない」わけなんです。
それが私の言ってることです。
234 :
名無しさん@1周年:01/10/28 12:37
>>232 では何故あなたはsageで書くのですか?(笑)
思案だらけですね。
229、232
>>231 その時の状況に対応するのに思案はいりません。
>では何故あなたはsageで書くのですか?(笑)
上げる価値が無いと思ったからです。
197さん、
>>234さんは禅のマスターのようですね(笑)。
239 :
名無しさん@1周年:01/10/28 12:42
>>239 >
>>237 >分別してますね
もちろんです(笑)。
私は犬や猫ではありませんから。
ただ単に分別がない、というだけなら犬や猫だって分別がありません。
犬や猫になることが禅だとは思いません。
242 :
名無しさん@1周年:01/10/28 12:48
>>242 単純に面白い、と思ったり、
単に批判がましいだけのレスが無かったとき。
ではまた(^-^)/。
>>237さん、242(変人)は当分は放置でいきましょう。
これが変人なのですよ。
246 :
名無しさん@1周年:01/10/28 12:52
>>243 相手批判しまくりの君からそんな意見が出るとは(笑)
何、妄言吐き捨ててるの?>変人
248 :
名無しさん@1周年:01/10/28 13:07
>>247 あれ?まだいたの?
放置するんじゃなかったのか?(爆笑)
249 :
名無しさん@1周年:01/10/28 13:10
何を?
250 :
名無しさん@1周年:01/10/28 13:18
ほんまに病気だな。>変人
>>225 天地一体について
これは同時に「我」という認識が変わるとおもうのです。
「死生観」という認識も瞬時に変わります。こういった事において、「死の恐怖が無くなった」。
というのはよく耳にしますが、私はそれが良く分かります。
誤解を恐れずに言うならば「生死一如」とはこの事か・・と思ってしまうのです。
とりあえず、生活面においては大きく世界観が変わるのは確か。決して無意味のものではない。
「信仰」という概念も一変している。仏教の本道に近づけたことは評価している。
252 :
名無しさん@1周年:01/10/28 13:39
>>223 内容のない「分別してますね」受け売り変人説法で流れてしまったので、
気になるところをレスしときますね。
変人は禅に分別みたいなもの、「無分別の分別」があることに気付かないのだろうか…
>禅の人たちは常識にとらわれないために、
>わざと常識をはずして非常識に振る舞う、とでも言うのでしょうか?
俺は「お坊さんから棒を取り上げ、打つ」て非常識も、「あり」だと思うんですね。
それが「無分別智」に至るものだということも
>>195の通りだと思います。
(ていうより、教科書通りの回答をしてくれたものと思ってます。)
しかし、本当にその手のことをやって一体感に至った体験のある人は、
もっと他によい方法はなかったのだろうか?と思うわけです。
俺の場合なら、その手のことをやって、一方では政治に影響しちゃいましたし、
もう一方では大切な人の職が無くなってしまいました。
そこに善悪判断はないと言っても、やはり腑に落ちないものがあるわけです。
気転を効かせて、「笑い」に持っていけなかったことが恥ずかしいわけですね。
それで、そんな一体感があることを知った上で、
>>197のような回答になるわけです。
そんな感じです。
言葉によって得よんと欲すれば、言葉に溺れる。
精進されたし。
223
>>253 >
>>223 >内容のない「分別してますね」受け売り変人説法で流れてしまったので、
>気になるところをレスしときますね。
>変人は禅に分別みたいなもの、「無分別の分別」があることに気付かないのだろうか…
変人さんは名無しでレスして攪乱してるんですかね?
>>禅の人たちは常識にとらわれないために、
>>わざと常識をはずして非常識に振る舞う、とでも言うのでしょうか?
>俺は「お坊さんから棒を取り上げ、打つ」て非常識も、「あり」だと思うんですね。
>それが「無分別智」に至るものだということも
>>195の通りだと思います。
>(ていうより、教科書通りの回答をしてくれたものと思ってます。)
ありか、ないか、で言うなら、もちろん「あり」でしょう。
ただ、それが答えで正解、
みたいなことを書いていた人がいたので…(あれが変人さん?)。
>しかし、本当にその手のことをやって一体感に至った体験のある人は、
>もっと他によい方法はなかったのだろうか?と思うわけです。
197さん、言うまでもなく、
この手の答えに固定した正解は無いわけです。
もちろん正解がない、ということではありません。
正解はあくまでもその人の存在のあり方が正解かどうか、
ということなんです。
その人のあり方が正解ならどんな答えでも正解ですし、
その人あり方がおかしかったら、
いくら理屈にあった見事な答えでも不正解でしょう。
だから、棒はありますと答えてもいいし、無いと答えてもいいし、
お坊さんから棒を取り上げて打ってもいい。
つまり答えが正解かどうかは理屈じゃないところで決まる訳です。
ここでレスを読んでも、
それだけではその人の存在までは分からないわけですから、
私が仮に「棒があります、と答えるでしょう」
とここに書き込んだからといって、
それで掲示板のみなさんがそれを正解だ、
いや、間違っている、など言い合うのは不毛なんですよ。
何回かやりとりしているうちにどの程度の理解を持っているか、
は分かりますけどね。
もちろんこんな当たり前のことは分かっているんでしょうけど。
ただ、さかのぼって、棒がある、無い、
あるならそのあることを証明しなければならない、
ないことは証明できるか?
物理学的には相対性理論の否定がうんぬん…
というレスが続いていたので
マジレスしてみたら…という訳です。
煽ってるつもりは無いんですけどね(^-^)/。
ん?
>>255-256は、
>>166さん?
煽りとは思ってないですよ。ん〜、だけど少し感覚が違うかな。
禅問答の答えは、いつも先にありきだと思ってるんですね。
無意味に五月蝿いぐらい連呼されてる「不ニ」て奴です。
いかにその答えを体感できる「具体的なあり方」を提示できるか、
てことなんだと理解してます。
>変人さんは名無しでレスして攪乱してるんですかね?
幼児的な全知全能感の中にいるみたいですね。
権威付けしてもらったとき、ああなるみたいです。
平等の世界(母胎)の中で、怯えてるのかな。(笑)
>ただ、それが答えで正解、みたいなことを書いていた人がいたので…
>(あれが変人さん?)。
違うと思いますよ。彼はしっかりしたところで行する禅僧かと。
その後で、その正解を振りかざして「分別してますね」「サゲ云々」「思案云々」とか
受け売りしてたのが変人さんみたいですね。
>>257 >ん?
>>255-256は、
>>166さん?
いえ、違います。
>煽りとは思ってないですよ。ん〜、だけど少し感覚が違うかな。
>禅問答の答えは、いつも先にありきだと思ってるんですね。
>無意味に五月蝿いぐらい連呼されてる「不ニ」て奴です。
うーん、それは確かに感覚が違いますね(笑)。
260 :
名無しさん@1周年:01/10/28 17:20
1.2
私は「名無し」では発言していない。
「棒」の話においては、すでに答えを出している。
それ以上の興味はなし。
見性のみ興味がある。他の事に関しては、それに付随しているもの・・の範疇なり。
262 :
名無しさん@1周年:01/10/28 18:22
とうとうウソツきかよ。
コテハンだから、煽りは覚悟のうえ。
しかし、私のプライドに賭けても、そういった誤魔化しはしない。
「変人レス」に文句をつけるのは、いたしかたないが、
「濡れ衣」はゴメンこうむる。
264 :
名無しさん@1周年:01/10/28 18:34
犬になって、他人を犬にしようとした何物かのプライドを他人が信用するとでも?
265 :
名無しさん@1周年:01/10/28 18:39
>>263 >しかし、私のプライドに賭けても、そういった誤魔化しはしない。
本当か?
今までに一度もないか?
ヴォヶとかでしなかったか?
266 :
名無しさん@1周年:01/10/28 18:45
>>263 >コテハンだから、煽りは覚悟のうえ。
「コテハンだから、煽りが来る」と信じてるのか?
自分の発言がヒドイから批判されてるということはないか?
煽りをかけて煽り返されてることはないか?
後、「批判」は煽りじゃないよ。「分別」がつくか?
「禅」に関して、見性、世界観、人生観(死生観)について意見交換したい。
結局のところ、スレの存在意義となれば、この事だと思う。
スレの住人において、こういったことは関心ないのであろうか?
私はそれが不思議なのです。潜在的にそういった願望があるなら・・
あえて私がキッカケを作りたい。
「禅」における中枢部分である。もし、あえてタブーというのであれば遠慮はするが・・
もし差し支えなければレス付けて下さい。その時は参戦します。
結局、ウソツキかよ。
一通りROMはしたか?
269 :
名無しさん@1周年:01/10/28 22:02
ところで197さん気づいてないですか?
sageて書いている人のこと。
某スレの○○さんです。
お気をつけて。
>>269 そうか、だんだん読めてきた。某スレとは、あの人気スレのことかな?
ROMしていたので、だいたい分かる。とにかく手法が良く似ている。しつこい。
某スレで、「覚醒」に関することで、異常に反応するものがいる。
理由は分かっている。
まだ分からん人は、これに関するスレを参考にされたし。
殆どのところが煽られている。
個人を狙った煽りではない。キーワードは「覚醒」。
やっと謎が解けた。
>>272 「覚醒」て俺が立てたスレ??(もう終了とみなしてる)
類似スレは多々あるけど。
あそこで煽り掛けてるのは、シバ命とその対抗者、宗教板の煽り魔だよ。
ていうか、あれは煽りじゃなくて基本的には2chらしい展開なんだけどな。
あの良さを理解するのは無理かな?
だけど、今朝のこのスレでの煽りとは種類が違うと思うぞ。
もしかしたら、変人ファンじゃないのか?と見てる。
俺を叩こうとしてたフシがあるし(間違えてたけど)
他スレでそれらしき人物を、話の流れ上、強要的に威圧したことがあるから。
(カルトスレだから仕方なし)
P.S. 見性の話はこのスレの冒頭で展開されてるから、そっちから話を振れよ。
274 :
名無しさん@1周年:01/10/28 23:49
>>271 たまたま2分前にsageて書いてるのがいるけどそれは解らない。(笑)
そのことを言ってるのではない。
100番台終わり頃から200前半にかけてsageてる人のこと。
○○には数字が入る。
>>272>>270 それは知らない。違うと思う。
>>274 >2分前
僕で〜す。(笑)
>○○
分かりました。
同じ時間帯に該当スレがあがってたのを確認しています。
>>273 私だったら「絶対仏信仰」「絶対神信仰」のスレには間違ってもレス付けない。
それは思想、信条が違えば全く意味がないからだ。
だったら、思想、信条の全く違う人間が何故に私を追いまわすのか?
不思議だとは思わんか?
彼らは、思想、信条にのっとって「信念」で追いかけまわしている。
いわば宗教上の理由からだ。ここまでカキコすれば分かるだろ−よ。
個人の判断ではない。バックがある。これ以上は言えないが・・
ここまでカキコすれば、答えは直ぐ出るはず。ここまでやるのかよーーというのが正直なところ。
禅における世界観とは、ある宗派にとっては致命的といえる・・・
ここまでカキコすれば分かるだろーよ。
私を煽っているのは、いわば熱心な宗教信者ということだ。
277 :
名無しさん@1周年:01/10/29 00:09
279 :
名無しさん@1周年:01/10/29 00:24
「絶対仏信仰」「絶対神信仰」の人達に「絶対というものは存在しない」
という真理を明らかにしてしまうと、彼等のアイディンティティがなくなってしまうから。
280 :
名無しさん@1周年:01/10/29 00:27
「膳、膳」
>>279 ふむふむ。
それと変人論とどう関係するの?
私は、「悟り」レスで1000番まできたら、この件については卒業するつもりでいた。
そのことは、「悟り」レスで表明している。
しかし、期せずして途中で挫折。自分を駆り立てる何かを感じている。
それは何か・・というと、わたしを封印しようとする「圧力」のようなものだ。
人間というものは、そういった状況になると、かえって跳ね除けようとする・・
それが現在、私の置かれた立場というものだ。
>>269 >ところで197さん気づいてないですか?
>sageて書いている人のこと。
>某スレの○○さんです。
>お気をつけて。
それは私
>>255-256のことかな?
誰だと思っているの?
>>273 >だけど、今朝のこのスレでの煽りとは種類が違うと思うぞ。
えー、煽りだと思ってるの?
そもそも
>>199から入ってきたんだが。
あれは勝手に私の見解を書いただけ。
反応してきたから説明しようとしてる。
お互いの感覚が違うなら意見の違いは仕方がないのでは?
>もしかしたら、変人ファンじゃないのか?と見てる。
>俺を叩こうとしてたフシがあるし(間違えてたけど)
あのですね。
私は変人さんって人のことよく知らないんですけど。
それとあなたを叩こうとなんてしていないでしょ。
私の意図は
>>255-256で書いたとおり。
ただ、あなたが
>>257で
>>ただ、それが答えで正解、みたいなことを書いていた人がいたので…
>>(あれが変人さん?)。
>違うと思いますよ。彼はしっかりしたところで行する禅僧かと。
と言ってる方の言うことは??ですね。
私の話にさえまともについてこれていないで
トンチンカンなレスつけて煽ろうとしていましたから。
あなたはそのとんちんかんなレスを変人さんの名無しでの煽りと見ていたようですけど。
私は
>>269さんだと思いますけどね。
>>276 変人さん、言っておきますが私は無宗教者ですよ。
>>283 別人の話ですよ。
変人さんが「名無し」で煽ってたのではなく、○○さんだったてことです。
煽られたのは、貴方と私です。(笑)
283
>>284 うーん、そうですかね。
>>274の書き込みを見る限り、
私のことを指しているとしか思えませんが。
話の内容に対する反論ならいくらでも応じますが、
>>225みたいにトンチンカンなこと言ってくる人もいますしね。
>>227で間違いを指摘してあげたら、以降
>>239の人とか
>>269の人とかと同一人物か分かりませんが
ずいぶんこそくな煽り方をするし、
もしも同一人物だとしたらこれが禅僧な人とはとても思えませんけどね。
え〜とちょっと来ない間になんか進んでますね。
内容的には進んでるとは思いませんが。
でも新しい人が来たと言うことは良いことかもしれません。
>「禅」に関して、見性、世界観、人生観(死生観)について意見交換したい。
こいうことなら過去の祖師達の言葉や逸話を持ってこないと話に
ならないでしょう。
そういう話ならそれはそれでお付き合いしますが。
287 :
名無しさん@1周年:01/10/29 03:01
>こいうことなら過去の祖師達の言葉や逸話を持ってこないと話に
ならないでしょう。
知りたいです、そういうお話。
288 :
名無しさん@1周年:01/10/29 03:14
緊褌一番
289 :
名無しさん@1周年:01/10/29 03:30
>>166 >弟子の答えとしては「在る」というのなら在る証明をしなければならないし
>「無い」と答えるのならない証明をしなければならないんです。
>>179 >たしかに答えは両方ありえますがその両方を証明できなければ答えには
>なりませんよ。
>あることは証明するのは簡単かもしれませんが無いことを証明できるのか
>ということです。
棒が在るか、無いかにこだわったピントはずれの問答。
その同じ人物が
>>286で
>>「禅」に関して、見性、世界観、人生観(死生観)について意見交換したい。
>こいうことなら過去の祖師達の言葉や逸話を持ってこないと話に
>ならないでしょう。
とはね。片腹痛いというかなんというか。
>>287>知りたいです、そういうお話。
同意。棒にこだわっている人は放置してそういう話に持っていきましょう。
290 :
名無しさん@1周年:01/10/29 07:13
>>289 わたしは166でも179でもないが
棒に拘ってるのは289では?
166&179は棒に拘ってるわけじゃないだろう。
2つの立場を答えろと言ってるだけだろ。
291 :
名無しさん@1周年:01/10/29 07:25
>棒に拘ってるのは289では?
>166&179は棒に拘ってるわけじゃないだろう。
>2つの立場を答えろと言ってるだけだろ。
2つの立場を答えろ、というのがこの禅問答の言いたいことなの?
それって棒のあるなしにこだわるよりもっとピントはずれですよね・・・
>>286 >こういうことなら過去の祖師達の言葉や逸話を持ってこないと話に
ならないでしょう。
貴方自身の見性体験で、それによって構築された世界観、死生観があるはず。
「禅」の本懐はそれにつきるとおもうのですね。
不立文字では、なかなか「不二」の世界は伝わってこない。
ならば自分の肉声で、「死生観がOO変化した」くらいの境地はあるはず。
その会得した世界観のことを言っておるのです。
祖師の話は「道すじ」として・・。一応中枢部分に話を進めたい。
祖師の話も悪くはないのだが・・・2チャンネラーはそれよりレベルは高いはず。
293 :
名無しさん@1周年:01/10/29 08:29
見性体験をしたことの無い人は、祖師の話をしてみても、
いいように誤解していることがあるので、
題材として祖師の話をするのは良いとして、語る人の力量は問われますね。
ということで
>>286さんにその力量があれば問題ないのでしょう。
某老師の見性体験
「周りは光り輝き、木々も、空も、宇宙でさえも私と一体であることを感じる」。
というのがある。
実際は光輝いていない。眼がショボショボしてそう感じるのだと思う。
「一体であることを感じる」。この部分も、主観として感じるものではない。
しかし、この老師は嘘は言ってない。そう表現する以外に無いという事。
不立文字には限界があるので、私はそのとうりには受け取っていない。
ようは、こういった体験は副次的なものとして、私は重要視はしていない。
(つづき)
では、何故眼がショボショボした感じになるのか?
前レスでわたしが提唱した「時間」ということになる。
リズムがユックリなので、どうもそれに馴れないのではないか?
まあこの件に関しては、さほど重要でないので一応見解ということで・・
296 :
無宗派さん:01/10/29 12:38
変人さん、あなたの宗教への探究心、
非常にほほえましく思えます。
しかし、印象として、頭で考えることが先行している感
を受けるのですが。
294>の
某老師の見性体験は、話の内容からして、小悟も小悟に思われます。
白隠様の大悟は、そんなものではなかったと思いますヨ。
しかし、私は思うのですが、大悟が究極とは考えたくない。
蓮の花に自分が座れたとして、それが究極の行き止まりなら、
悟って、蓮の花に座ってなどいたくない。
無限への旅を続けていたいのです。
>>296 レス有難うございます。
70歳、80歳の年齢がくれば、無宗教の人でもそれなりの「悟り」はあるものです。
私は、そのレベルで話をしております。
「小悟」であれば、その扉を開いただけで充分ではないでしょうか?
鰯の缶詰で充分の人もいれば、キャビアでないと駄目という方いろいろです。
ある程度の世界観、死生観を確立しただけでも全く人生は変わります。
私は、鰯の缶詰で充分です。
鰯を食べた後、カラになった缶から・・それにてなにかを会得するもの、
缶を捨てるもの。そこにおおきな「差」があると思います。
いわば、「無」から得るもの・・の意味です。 合掌
298 :
無宗派さん:01/10/29 17:20
変人さん>へ
貴殿の宗教への探究心、心からご尊敬致します。
文章の行間から、ズンズン感じますよ。
宗教というのは、面白い分野ですね。
例えば、哲学者(実践家)と哲学学者(研究家)の区別はなく、
全て哲学者でくくられますネ。
ところが、宗教では、宗教家(実践家)と、宗教学者(宗教研究家)は、
目指す方向や、在り方がかなり違いますね。特に、仏教、中でも禅宗は
そうでしょう。
禅では、頭で考えるのではなく、身体で確信するのを旨とするのですね。
(不立文字)
私は、全然高い境地には有りませんよ。でも禅には若いときから、精神的
にずいぶん助けられた。まだ、幼稚園の段階ですが。
禅を求める傾向の人は、生きることの絶対的意味を求める気質の強い人が
多いのでしょうか。
>>298 「非心非仏」。これは禅にとっては始まりだったのですね。
最近、やっと気が付きました。
「絶対無」は道標で、さらなる世界があるのでしょう・・
私にとっては、はるか彼方ですから、それが分かっただけでも喜びです。
まあ、こういった奥の深いところは大変魅力です。
禅宗は、自己責任で境地を会得するわけですね。
他の宗派には見られない独自の仏教観がある。まあ、宗教の本道なのでしょう。
内容が噛み合ってないような気が…
301 :
名無しさん@1周年:01/10/29 19:22
>>276 変人さん
またまた、見当違いの妄想してますね。それと、案外、「小さい」んだね。
俺は、絶対神仏信仰スレでも、ばんばんレス付けますよ。
レスのやり取りを通して、彼らがどのような「人間性」を持ってるのか
感じるのは楽しみですね。
相手が絶対神仏信仰であっても、「自分」の問題なのではないでしょうか?
>>282 変人さん
「悟り」スレですか?良い終り方をしたと思ってますよ。うんうん。(笑)
>>285 >>225さんと
>>239,
>>269は完全に別人です。(キッパリ)
ていうか、後2つで潰れた目を開こうとしてるのが、
225(
>>274)さんのように拝察しています。
>>286 166さん
>内容的には進んでるとは思いませんが。
貴方が振り始めた話ですので、もう少し進んだレスをしてまとめといてくださいな。
>>292 変人さん
その方法論を釈迦は否定してたと思いますが・・
さて、なぜでしょう?
302 :
名無しさん@1周年:01/10/29 19:23
>>294-295 変人さん
まったく違うと思うよ。
目が潰れるのは、「白銀の世界」と「反対の世界」が現出してしまって、
そこから抜け出せず、怠慢にも、そこで自分の世界観とやらを構築して身構え、
安住してしまったときではないかな?
そしてそれは「白銀の世界」でも同じことだと思うが。
要するに、双方、まだ「不二」ではないということか・・
>>296 無宗派さん
反対だと思いますよ。
変人さんは病気を原因として「体験」を持ってしまってるけど、
その体験を活かしきれずにいる。
そして、その体験に「理解」を付けようとしてるけど、そこで失敗してる。
今の変人さんは、「血の渇き状態」(blood of thirst)だと思ってますよ。
ときに、無宗派というのは「古道」と関係してますか?
303 :
名無しさん@1周年:01/10/29 19:24
zenzenわからん
304 :
名無しさん@1周年:01/10/29 19:29
305 :
名無しさん@1周年:01/10/29 20:05
>>291 この人、誰だか解るんだけど(笑)
あいかわらずこのスレでは自我を押し通すなぁ。
他スレで本物の禅僧にこんなとこで遊んでる場合か!と一喝されてませんでしたか?
もう一度僧堂に帰って修行やりなおしたほうがよろしいかと。
301〜304
これは、同一人物です。
絶対仏信仰宗派です。
先ず、宗教における「負」の部分を考察して頂きたい。
私がレス付けるまでもなく、一目瞭然、各自判断して頂きたい。
いわゆる、仏教は「仏世界」においては宗派によってマルッキシ違っております。
そういう面を、こういったレスを見ることにより垣間見えてきます。
私は、「仏世界」を信仰の対象にはみておりません。
こういった立場を取っているものですから、「絶対仏信仰者」とは全く見解が違う。
このスレにROMされている方は、レスの流れをよーく見て頂きたい。
真贋が解るはずです。「発言者」。「批判者」。明確に分かれております。
自らの宗派が正当というならば・・・私でしたら「論破」という手法をとりますが・・・
いかがなものでしょうか? こういった手法というのは「唯一限られた宗派」です。
もう、お解りになりましたか?
308 :
名無しさん@1周年:01/10/29 20:54
309 :
名無しさん@1周年:01/10/29 21:00
310 :
名無しさん@1周年:01/10/29 21:15
d
311 :
301‐302,304:01/10/29 21:53
>>306 (´-`).。oO(変人妄想が炸裂してるよ・・、デンプァが入ったかな・・・)
>>307 しっかり真贋、見極めような。。。迷惑だぞ。。
>仏教は「仏世界」においては宗派によってマルッキシ違っております。
浄土真宗の「救済」と、禅宗の「解脱」は、究極的に同じものとされてるんだけど、、
その感覚、分からんかなぁ・・
絶対仏信仰では、「仏世界」は見えないと思いますね。
見ようとする「我」。すなわち現世利益の思想そのものが見性を阻むと思います。
たとえ見えたとしても、そこには信仰の対象になる仏様はいないとと思いますね。
すべて、「無」に帰します。
仏様は、拝んで利益をもたらすものでは無いと思いますね。
そういう心自体が間違っていると思いますよ。
そういうことを話あいたいのではないのでしょうか?
もし興味があるのでしたら、新興宗教を脱会して、お近くの禅寺で参禅会
に行かれたらいかがでしょうか?
迷っているのでしたら、とにかく参加するのが一番良いと思います。
311のレスなど、本当にメチャクチャな解釈ですよね。
浄土真宗と禅宗ではマルキシ違うでないの・・。
316 :
名無しさん@1周年:01/10/29 22:46
>>313 つーか、少し見方を変えたら分かるかもね。
変人は「病気」が原因で「体験」を持ったんだろ?
それは決して変人の自力で得た境地じゃない。(自力なら無理だったと思う)
変人の体験は、(絶対仏による)他力本願<悪い意味じゃないぞ>で得た「体験」とも言えないか?
いや、そっちの方が近いと断言できる。
そのとき「体験」しようと「我」で見ようとしたか?
そこに現世利益信仰はあったか?(意味はよく分からんが…)
世の中に多々いる拝む人間の心は間違ってるのか?(「差取り」の問題だな。)
つまるところ、絶対仏に対する変人の怯えと、それに基づく偏見が、
その勘違いを生んでるんじゃないのかな?
言っとくけど、俺は真宗とも、真宗系カルトとも関係ないよ。
禅宗スレで議論の意志はない。
(正確に言えば、真宗との関係がないことはないが、その関係が
変人に理解できるとは思わん)
317 :
名無しさん@1周年:01/10/29 22:47
318 :
名無しさん@1周年:01/10/29 22:49
それで、変人。
まだいい加減な妄想でスレを潰す気か?
319 :
名無しさん@1周年:01/10/29 22:56
現代白隠禅の批判的展開とかって誰もやる人いないんですかね?
何故現代には白隠禅しか残らなかったのか?
その白隠禅は本物なのか?等
かなり高度なモノが要求されるのは確かだけど。
出来る人いないのかな?
自分は・・・・う〜〜〜ん、無理か?
>>319 そんな話に流れようとしたところで、
変人電波が炸裂したようですね。(とほほ
321 :
名無しさん@1周年:01/10/29 23:11
つーか、変人は『禅』についてよく分かってないのでは?
単に、イメージで語ってるだけではないか。
もしも「違う」と言うのなら、具体的に禅ではどのような修行をするのか、
知ってる事を書いてほしい。
>>321 >知ってる事を書いてほしい。
そういう事をカキコする場合は、「変人さん」と普通カキコするのではないのか?
「さん」このことは大事な気がするよ・・・。
323 :
名無しさん@1周年:01/10/29 23:32
>>322 321じゃないけど、普通、「さん」付けにする理由は何だと思う?
では、
変人さん、書いてください。
私は、297のレスのとうり。小悟で充分。
大悟、解脱はさほど関心はない。
というか、何故に「悟り」に拘るのか。
たかだか人生80年。そこそこの境地でいいではないか?
解脱しようが、輪廻になろうが、なぜにこだわるのか?
そこのところが、根本の問題。いかがでしょうか?
326 :
名無しさん@1周年:01/10/29 23:54
>変人(南無さん)
待て、待て。
今までさんざんぱら既成概念の否定を煽動してきたよな?
それがいきなり、「さん」付けを求めてる。
これも既成概念だよな?
このスレは弟子が老師から棒を取り上げ打ってもいいスレなんだよ。
その上で、「さん」付けをどう考えるのかと。
妖刀抜いて、答えてみなよ。
>>325の発言は脳内「あぼーん」しとくよ。
それが失礼な言葉だとは「悟り」スレで言ったはず。
見性後の「死生観」において、それでも「解脱」に拘るのか?
不思議に思わないですか?
しても、しなくてもいいような気がするけど・・う〜ん解らん。
328 :
名無しさん@1周年:01/10/29 23:57
で、禅の修業は?
329 :
名無しさん@1周年:01/10/29 23:58
>>327 かなり混乱してるな。
今日はこれまでにしよっか。
>>327のヒントは、オーラスレにあると思うよ。
おやすみ!
禅は1年くらいやったことがある。そういう時に限って雑念というものが
沸いてくるもんだ。短期により、さして効果なし。
その後丹田呼吸法をやったが、こちらは今でも続けている。
私は、こちらの方のが身体に合っている。
331 :
名無しさん@1周年:01/10/30 00:16
>>330 修行とは、どんな事をやるのかと聞いているのだが。
332 :
名無しさん@1周年:01/10/30 00:25
変人、まだいたのか・・
俺もよく分からんけど、
多分、禅的に変人は飛び級的に「経験」したんだと思う。
けど、いざ活かそうしても「道のり」がないから、対応できないんじゃないかな。
ほんで無理に活かそうとすればチョロマカシや、「殺し」の論法を流しちゃう。
だから、禅でいうところの「悟後の行」が絶対に必要になってる。
やらなかったら、
変人の相手は感覚的に「何かを知ってる人」として反応しちゃうから、
ある程度答えられなければ「嫌な奴」になるだろうね。
これが結構、死活問題だったりするわけで。
丹田呼吸法では追いつかないと思うよ。
今度こそ、おやすみ。
私は、「悟り」スレにおいて、「悟り」を捨てている(レスで表明)
今は「無」になった心境。この境地が一番大切。
いったい、このスレには「禅」の解る人はいるのかねー。疑問。
334 :
名無しさん@1周年:01/10/30 00:28
>>333 つーか、それこそ変人レス
>>315じゃないのか?
新興宗教を「我流」に変えてよ。
ただ、変人の場合はかなり選ばなけりゃならんだろうが・・
ま、まだいたんかい・・・
「無」これが極意かと思う。なかなかたやすい事ではないが。
すべてを捨てて・・それでないと見つからない・・。
おやすみ。
337 :
名無しさん@1周年:01/10/30 00:46
>>336 禅はどんな修行をやるのか?には答えないのね。
本当に禅をやっていたかも怪しいもんだ。
338 :
名無しさん@1周年:01/10/30 01:03
>>305 >
>>291 >この人、誰だか解るんだけど(笑)
ふーん、私は自分が誰だか分からないから禅を勉強しようと思っているんですけどねぇ・・
ていうか、透視ごっこしてて楽しい?
純粋にレスの内容に対して反論するなりなんなりして下さいな。
>あいかわらずこのスレでは自我を押し通すなぁ。
???ですね。なんか妄想入ってるんじゃない?
>他スレで本物の禅僧にこんなとこで遊んでる場合か!と一喝されてませんでしたか?
>もう一度僧堂に帰って修行やりなおしたほうがよろしいかと。
そんなこと一度もありません。
誰かと勘違いしていますよ。
なんかこのスレの人で内容で反論できないとすぐ、
この人、あのスレの誰々さんですよ、気をつけて下さい、
とかいって人格攻撃仕掛けてくるね。
あんた禅を語る前にやることあるでしょ。
>>305本物の禅僧にこんなとこで遊んでる場合か!
本物の禅僧が2ちゃんにきて一喝したのか(ワラ?
言いたいことだけ言わして貰います。
なんか棒の問題にこだわってるとか言われましたが、まあそんなことを言うのは
ド素人ですな。師の問いに「こだわるな」とか言うと修行全てを否定することに
なる。
>>301 言わせて貰えば内容的に無視されてるようなのでまとめなんかできない。
あと祖師の話を持ってこいといったのは素人が禅に限らずこういった話を
するときに好き勝手いって全く抽象的でかつわけわからん方向に行くから。
今のここがその状態。
>70歳、80歳の年齢がくれば、無宗教の人でもそれなりの「悟り」はあるものです。
そういったレベルの話ならもう結論は出てるでしょう。
議論するほどの問題ではない。ここの話題にも相応しくない。
まあ小悟のレベルでは禅の究極と真宗の究極が同じということが
わからんのも当然。「自然法爾」って聞いたことないかなぁ。
まあ本当の究極でないとわからんと思うが。
しかしなんでこんな抽象的な話でレスが続くのかわからん。
>変人さん
とりあえずあなたの「不二」の定義を明確にしてくれないと。
既出だったらすまん。
>>340 >まあそんなことを言うのは
>ド素人ですな。師の問いに「こだわるな」とか言うと修行全てを否定することに
>なる。
また問題すり替えてますね。
だーれも師の問いに「こだわるな」とか言ってませんよぉ。
過去ログよく読んで発言しましょうねぇ>プロの禅師さん。
342 :
名無しさん@1周年:01/10/30 05:14
>>338 ん〜。毎回、毎回あまりにも寝ぼけたレス返すのでまともに
レス返せないんですわ(笑)
人の批判ばかりしてる今のあなたに何言っても無駄でしょうからな。
>>166さん
>小悟のレベルでは禅の究極と真宗の究極が同じというのが解らんでも当然。
究極をめざしたいですか? 私でしたら、どうでもいい事ですね。
「小悟のレベル」「大悟のレベル」で分別していないですか?
小悟において、「自分には勿体無い」くらいの気持ちがありませんと、至難だと思います。
そこですべてを捨てて、「無」になりませんと・・なにも会得できないと思います。
「自分には勿体無い」これが小悟の究極かとおもいますね。
この境地を会得するのが最も大事かと思います。大悟は求めるに非ず。
有って良し。無くて良し。この境地を会得しませんと・・
「不二」とは、相対に非ず。一体なり。
説明より、見性が一番かと思います。
>>342 >ん〜。毎回、毎回あまりにも寝ぼけたレス返すのでまともに
>レス返せないんですわ(笑)
>人の批判ばかりしてる今のあなたに何言っても無駄でしょうからな。
あんただれ?
私は166に言ってるんだけど???
毎回、毎回って?
確かに166は人の批判してるみたいけどね。
>>340 >言いたいことだけ言わして貰います。
言いたいこと言うだけならオナニーと一緒。
独り言書くなら自分のHP立ち上げたら良いでしょ。
342もお得意の独り言なのかなぁ(ワラ?
345 :
名無しさん@1周年:01/10/30 08:46
>確かに166は人の批判してるみたいけどね。
ワラタ。
なんか人の批判ばっかりしているね、166は。
>まあ小悟のレベルでは禅の究極と真宗の究極が同じということが
>わからんのも当然。
おまえは大悟したのかと問いたい。問いつめたい。大悟するまで問いつめたい。
>>305で「修行しなおしてこい」と言われてるのは、僕のことかな?
そりゃ、あんた人違い〜。僕は338さんやないです。(爆藁
まぁ、少林寺のとこでも紹介したのでせっかくやから紹介しますが、
禅、とくに臨済禅に興味がある方はティク・ナット・ハン師の『禅への鍵』春秋社
を”絶対に”読んだ方が良いです。
前からティエプヒェン教団の14戒は知ってましたが、最近うちの坐禅会に
ナット・ハン師のセミナーに2年通ってるっていうイギリス人が来ているので
本屋で見つけて読み始めたんですが…、この方凄いです。
誰にでもお勧めできる禅の本というと、私は無文さんか、盛永さんぐらいしか
無かったんですが、正直この本は無文老子の御本よりも読んでいてスカッとします。
ナット・ハン師がこの本を書かれたのは48歳の時と言うから、禅僧としての
レベルが我が国とヴェトナムでは違うのかな?と思わざるを得ません。
英文和訳の為もあって、非常に明快で簡潔、ハッキリと書かれています。
たとえば松本・袴谷以来、わが国では鬼の首を取ったような如来蔵批判ですが、
これを読めば彼らの指摘が誤りであることがハッキリします。
と言ってもナット・ハン師がただの学者でなくって、嗣法の禅僧である事は、
その文面からもハッキリと感じ取れます。
日本の坊さん嫌いやから、最近チベット仏教行く人多いけど、ダライ・ラマ師より
ナット・ハン師のほうが遥かにお坊さんだと思います。
チベット仏教は陰陽師ばやりと同様、神秘的なものを求める人が行くこと多いですが、
仏教はもっと醒腥したものです。ナット・ハン師のヴィエトナム禅は明歴々です。
長々と失礼、最近感動してるんですよ。(藁
私の場合は始めに体験ありき。なんですね・・
そして、般若心経の世界観に近いのではないか?そんな日々を送りながら、ある日
白隠禅師の見性体験談に巡り合ったのです。その時は衝撃的でした。
急激に「禅」の世界観に傾倒していきました。
「悟りありて悟りなし」。この言葉の意味が解るまで月日を要しました。
つまり、全部捨てて初めてその世界が見えてくる・・こういうことだと思うんですね。
捨てきれないと、どうしても重荷になりますよ。なにも好き好んでそんなことしなくていいですよね。
こういったことは、なかなか気がつかないものです。
言われてみれば簡単なことなのですが、簡単な事も出来ないのが人間だと思いますね。
これが「禅」の世界観の魅力だと思います。自分を成長させてくれます。
>>343 正直、感動した。
無分別もあり、分別もある。
実際の「無分別の分別」とはそんな感じなんだろな。
棒の話の答えも、「さん」付けの話の答えもそれでいいんじゃないか?
自分の答えが「頭でやってる」と批判されたときは「してない」と思ったが、
その答えを見るに、「頭でやって」たことがよく分かる。
(-人-)ナムー
166=197でした
>>349 >166=197でした
えーと、
>>340 >まあ小悟のレベルでは禅の究極と真宗の究極が同じということが
>わからんのも当然。「自然法爾」って聞いたことないかなぁ。
の発言が166だから、さかのぼって
>>311 >>仏教は「仏世界」においては宗派によってマルッキシ違っております。
>浄土真宗の「救済」と、禅宗の「解脱」は、究極的に同じものとされてるんだけど、、
>その感覚、分からんかなぁ・・
の発言も166なのか?同じこと言ってるし。
てことは301、302、304もその前の197も全部166なのか?
別人に扮そうして交互に変人さんを叩いてるのか?
>>338さんや
>>285さんを
>>346と誤爆したのか?
だれか解説しちくり。
>>350 だから私は他のハンドルで書いてないっつーの。
なんで車板はIP出るのに、ここは出ないんだろう?
そうすれば少なくとも上のような勘違いはなくなるだろうに。
352 :
名無しさん@1周年:01/10/30 19:23
>>350 だからもうどうでもいいんですよそれは。
どんなに装っても解る人は解っているんですから。(微笑)
それと心の本源や宗教の本質が理解出来ていない他のスレで
相手批判に終始するのは仕方がないとは思うけど
少なくとも禅のスレでそれは恥ずかしい。
そうしたものをすべて卒業した者が辿り着く場所だから。
まだ禅のスタートラインにすら立っていない方がいるとしたら
もう一度心安らかに内省を試みるとよいでしょう。
353 :
名無しさん@1周年:01/10/30 20:04
┏━━━━━━━━━┓
┃┌──────┐□┃ ザーーーーーーー
┃│=-_~-=-__=~ 2 | ◎┃
┃│~~_-==~-==~_ | ○┃
┃│_~_=~_=--~_=~__ | ┃
┃└──────┘■┃
┗━━━━━━━━━┛
// \\
// \\
// \\
 ̄  ̄
∧ ∧
( ) ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ | ( ) < 終了か?
〜(___ノ (____) \________
ふーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>>349&all
う〜ん発言を読めば…、そう思われても仕方がないかも、、
んが、俺は166さんじゃねぇーよー ヽ(`Д´)ノ
38改さん
「少林寺拳法」スレを見ました。
座禅による、心(意識)の所在は是如何に・・は大変面白い。
まあどちらかというと、あのスレは学問系だからと知識としては面白い。
ところで、ナット・ハン師はどこが面白いですか?
面白いところだけ教えて頂けませんか?
シナ禅も面白そうですね?
博識ですので尊敬しております。
356 :
名無しさん@1周年:01/10/30 20:39
>>354 大丈夫。わたしは判ってる。
>>351 また自作自演してるんですか(苦笑)
38のハンドル名のときは人の良さそうなふり。
名無しのときは本性丸出しで批判する。
みなさんの言うこともわかるのでこれ以上はやめとくが
やっぱり僧堂に帰ったほうがいいってあなた。
出来れば虎渓じゃなく天竜にね。
ヽ(´Д`)ノ ヤッター!!
前のレスで「無宗派さん」が、禅実践派と禅学者派についての考察・・・
まあいわば、「問題提起」と受け取ったのだが、それが顕著に出ているということことか?
端的に言えば、禅におけるリスクの問題だろー。
前スレッドにおいても一人いたからね。
これはイデオロギーにおいての「負」の部分だろーね。
思考回路を系統だてて構築しようとすれば、デリケートな部分に抵触せざるをえない。
なあ想像されたし。コテハン故これ以上のことは言えぬが・・・
359 :
名無しさん@1周年:01/10/30 21:29
変人、それは全く違うぞ。
まあ宗教といえども、その世界においては競争原理が働くということか?
2ちゃんといえど、随分勉強させて頂いています。
一般人にはこういった面が見えないので、ヤッパ厳しいっていうのは実感すると。
361 :
名無しさん@1周年:01/10/30 21:45
それも、ちょっと違うな。
>>359 え、っえ。そうですか?
私が言っているのは人間考察ですよ。
356はそれが言いたいんではないの?
>>358 思い出した。きえ?とかいう名前の女性だ。
ところで変人さんは○○さんのことは見抜いてますか?
なにやら尊敬してるみたいだが・・・。
ほえっ? 人間観察だったの?
勘違いしてた。。
宗教信仰と宗教団体考察との関係の方かと思った。
逝ってきまーす。(ピュー
>>363 あはは。きえさんではないですね。
薬物中毒者です。
OOさんは356レスで解りました。確かに博識。
他スレで活躍中。
まあ、私もハッキリ言わないから分りずらいのだが・・
「禅」は裏を返せば「悟りたい」という強欲の塊りになりやすいのではないか?
だから下手をすると、頭がヤラレル可能性があるのではないか?ということ。
だから、そのへんは各人が見極めていくしかないのではないか?
367 :
名無しさん@1周年:01/10/30 22:31
>>365 なんだ、なんだ、俺のことかいな?
まっ、いいけど。
ときになんで薬物中毒者て思うんだ?
>>367 う〜ん。いたんかいな?
やけに、さとさんに絡んでくるし、まあ私にも結構挑発的だし・・
最初は「野狐禅」を切り出したから、まあイケテルとは思ったが、
そうでもないし・・失礼ながら。
さとさんに絡むのは尋常じゃなかったよね。まあ異常の方だよ。
ヤラレテイルと思ったね。
バーチャルリアリティーの世界だけど、さとさんとは心が通じていたなー。
だから、貴方から守ってあげたかったんだよ。
そのために私がホロ−にまわって、まあ苦労したよ。
どうも、貴方は女性に優しくないんだねー。
もっと優しくしないといけないyo。
370 :
名無しさん@1周年:01/10/30 22:53
>>367>>368 >なんだ、なんだ、俺のことかいな?
>う〜ん。いたんかいな?
ハハハハ!笑った!
木馬さん。変人さん。
バーチャルリアリティーは間違い。
285
>>301 >>285 >>225さんと
>>239,
>>269は完全に別人です。(キッパリ)
>ていうか、後2つで潰れた目を開こうとしてるのが、
>225(
>>274)さんのように拝察しています。
こんばんは。
うーん、そうですか。
きっぱり言うのでしたらそうなのでしょう。
その後のレスとか見てるとみなさんお互いによくご存じのようですし…。
ただ、
>>225さんが
>>239さんでなかったとしても
やはりこの方が禅を知っているようには思えません。
あと
>>166さんも。
なんか
>>340-342のあたりのやりとりとかひどいですし。
とか言うと、また煽りと思われるのかな…。
372
>>356 もしかして、私と38改とかいう人と間違われているのでは?
>>352 >そうしたものをすべて卒業した者が辿り着く場所だから。
こういうエリート意識を持つことが果たして禅なのでしょうか?
自分と違う意見を全て見下すような態度を示す
>>340さんとかも
あなたのお仲間なのでしょうか?
>>372-
>>374 もうはっきり書いておくけどこのスレで禅を一番知らないのは
あなただと思いますよ。書きこみを見ていればそれは解ります。
エリート意識を持ってる人なんか誰もいないし、そんなことは禅を
志した時点でみんな捨ててることです。
言葉尻に囚われていたら1歩も進めないでしょう。
またこの後否定レス付けるんでしょうがもう放置いたしますよ。
みなさんもお気を付けて。
>>375 >もうはっきり書いておくけどこのスレで禅を一番知らないのは
>あなただと思いますよ。書きこみを見ていればそれは解ります。
一番ですか?
せめて二番にして下さい(笑)。
私は38さんじゃないですし。
それと、私は私の発言を気にとめない人、
たとえば変人さんなどには何もコメントしていないことに気がついて下さい。
あなただけですよ。
私の言葉にいちいち神経質に「反応」するのは。
なぜでしょう?
>エリート意識を持ってる人なんか誰もいないし、そんなことは禅を
>志した時点でみんな捨ててることです。
どうしてそう、その場限りの嘘をつくのでしょう?
エリート意識を持っていない、という選民意識を持っている、
と言えばよかったのでしょうか?
下記の書き込みをよくご覧になって下さい。
>>340 >なんか棒の問題にこだわってるとか言われましたが、まあそんなことを言うのは
>ド素人ですな。
>まあ小悟のレベルでは禅の究極と真宗の究極が同じということが
>わからんのも当然。「自然法爾」って聞いたことないかなぁ。
>またこの後否定レス付けるんでしょうがもう放置いたしますよ。
もうとっくに他の方は私の発言など放置しています(笑)。
そろそろ私自身も私自身を放置しましょう。
では(^-^)/。
379 :
名無しさん@1周年:01/10/31 01:43
マターリと禅の話を・・・と思ってたんですが・・・
>マターリと禅の話を・・・と思ってたんですが・・・
あなたはもう一度心安らかに内省を試みるとよいでしょう。
もうここも終わりにしたら
どうしようもないし
382 :
無宗派さん:01/10/31 03:45
変人さん>へ
ひつこく絡む連中がでいるようですが、これは悪童が好きな女の子の関心
を引こうと、一所懸命ちょっかいを出しているのと全く同じ構図。ここまで
悪ガキき好かれたからには、1000レスまでは、頑張らないわけにはいか
んでしょう。それとも、300>他さんに、余程、恨まれることでもしたん
でしょう。それに違いない。
300>さんへ
「議論がかみ合わない」といいますが、ここは、禅を語り合う場。別に、
「議論」しているのではないでしょう。あえて言いたいのならば、「対話
がかみ合ってない」とか、かみあっていると言たほうが正しいでしょう。
対話はかみ合ったほうが良いが、しかし、お互い、自分の禅観を披露し、
視野を広げるのも良いのではないですか。そういうことにこだわる事自体、
すでに縛られた考え方です。ほら、老師が、美女をかついで川を渡してやった
ことに弟子がこだわったとき、「お前はまだその女をかついでいる」と老師に
笑われた話。知っているでしょう。
正、反、合、止揚の哲学論議をしているのでもないでしょう。ではまた。
>>382 う〜む。2ちゃんというのは、たまにこういった良レスが入るから好きですね。
前スレッドでも、424さんという人がいたけど、あの人も私を随分成長させてくれた。
まあ、その他にもいろいろいたね・・影響与えた人は。
レスの内容は、確かに思いあたるふしはあります。
前スレッドで激しいバトルを展開しましたから。
その後、めぼしいスレッドを渡り歩き・・ここを安住のスレとしておきたいのですが・・
今後の展開は如何に・・・
386 :
名無しさん@1周年:01/10/31 10:23
>「議論がかみ合わない」といいますが、ここは、禅を語り合う場。別に、
>「議論」しているのではないでしょう。あえて言いたいのならば、「対話
>がかみ合ってない」とか、かみあっていると言たほうが正しいでしょう。
>対話はかみ合ったほうが良いが、しかし、お互い、自分の禅観を披露し、
>「議論がかみ合わない」といいますが、ここは、禅を語り合う場。別に、
>「議論」しているのではないでしょう。あえて言いたいのならば、「対話
>がかみ合ってない」とか、かみあっていると言たほうが正しいでしょう。
同意です。
ざっと見て対話ができていない人は
>>212、
>>234、
>>305、
>>340、
>>342、
>>375、
>>381などですね。
共通点は、一方的に決めつけていること、あくまで自分が上という姿勢を崩さないで
批判に対して無視を決めつけていることなどです。
293でも書いたことですが、
見性体験の無い人がこういう話を仕切ろうとしても無理なんですよ。
>変人
わりぃ、昨日は寝てしまった。
俺みたいな じぇんとるまん に向って、女に優しくないてのは
どういうことか意味不明だよ。。
結局は、心が通じていた(と思ってる)女に絡んだのは尋常ではなく、
薬中でヤラレテイルってことかいな? 困ったな、、こりゃ。。
変人女性論を聞く気はないけど、
結果論的に、きえちゃんの視点からさとさんを見れば、
何か見えてくるかもしれないよ。
だけど、狂気を意図的に含めたのは確か。
あの娘の子供の「立場」から社会を見たとき、狂気の外部的存在が、
さとさんの自覚にあった方がいいと思ったし、、(詳しくは話さん)
ほんで、美しき幻想を潰して悪いんだけど、
彼女の不安定を安定に戻した(守った)のは、「12時の針」じゃないかな?
変人フォローの苦労は貪られてただけのようにも思うが・・・
# そこまで心が通じてたと思うなら、メール交換でもしたらどうよ?
確かフリーメール入れてただろ?(俺はログを持ってないから確認できない)
ただし、もうメアドを潰してると思うけど(∵ 「もう2chは必要ないんです」:爆)
>>370 まいどーーーーーーー(ガンちゃん風に:笑
>>386 >見性体験の無い人がこういう話を仕切ろうとしても無理なんですよ。
君も含めてな。(ワラ
>>382 悪童のいたづらは半分正解、半分不正解ですよ。(笑)
「議論」もばんばんしてきて、その中で問題点が浮かび上がり、
今の状態ができあがったわけです。
因みに、変人を恨んでる奴ってのはいないんじゃないかな。。。と思ってます。
変人の流してきた「狂信」(そうみなしうるもの)は叩いてきたし、
またそれが当然だと思ってますよ。
但し、この先はあまりそういうのも少なくなると思います。
「議論が噛み合ってない」というのは、「対話ができてない」というのは納得です。
「議論が噛み合ってない」で言わんとした内容は、
>>343で払拭されてますので、気になさらないでくださいな。
>>386 棒を奪って打つことが連続してますね。合掌。。。
該当レスに自レスがないことでホッとしてます。(^^)
しかし、一点。
>見性体験の無い人がこういう話を仕切ろうとしても無理なんですよ。
仕切ることは実際問題、無理だと思いますが、
そんな人から新しい問題提起や、ホッと笑えるような小悟がでてきて、
そこから「対話」が広がることもあると思うんですよ。166さんみたいに。
俺はそんなのもすごく好きなんですよね。。。
そこは、自由な雰囲気を大切にしていきませんか?
>>388 このスレで(ワラは、
不届き者に晒されることもあるよ。(笑)
別名
>>387 タイトルの「禅」のイメージと少し違うんでカキコ。
私の仏教観は「不動心」と「諸行諸有楽」。つまり、菩薩がこの世で遊ぶ姿。
名前はチト忘れたけど、「禅」の達人は境地に達すると、子供のように無邪気に遊ぶ。
あの境地が、いわゆる「禅」の本懐かと思うんだね。
今話題になっているOOさん、あの方も有楽中だね。
ただの「生臭」か、はたまた禅の本懐をとげた人か?微妙なところ・・まあ、前者だと思うが。
>そこまで心が通じてたと思うなら、メール交換でもしたらどうよ?
パソコンの世界で、そこまでしたら「無粋」というもんよ。僅かな「ひと時」だから良いんだね・・
現実世界で言うなら・・・
美人は3ヶ月で飽きるが、ブスは3ヶ月で馴れるらしい。
これを仏教的に表現すると、美人とブスは「不二」ということになる。
大悟になると、この境地に至るらしい・・諸行諸有楽の境地だね(w
393 :
名無しさん@1周年:01/10/31 21:17
>>383 某スレの424さんが某スレの64さんですよね。
その後見かけないようですがもういないんですかね。
>>384 禅とヨガは違うでしょ。
>>393 >某スレの64さんですよね。
ということは、424ハンドルの前は64だったわけですね?
私は知らなかったが。
424さんは、数ある禅師のなかでも虚飾がない人だと思いますね。
自分の言葉で語っている。正直な方という印象はあります。
424さんみたいなのもいれば、OOさんみたいな禅師もいて・・いろいろです。
木場さん
貴方を、変人かな〜と思ったのは・・
「木場」という人間が見えてこない。レスをみれば一目瞭然。
きえさんが・・云々。さとさんが・・云々。対人評が多い。
まあ、結構私にも「人物評」が集中したが・・・
狭窄的思考に一種異様なモノを感じるのだが・・いかがであろうか?
通常における、常識的範疇を逸脱していないであろうか?
こういた事に関して、自分では気がつかないのが一般的。
客観的に見て、自己判断してみてどうであろうか?
私の寛容な精神に鑑みても疑問なのだが・・一考されてはどうでしょう・・
私の「偏見」であるならば・・それでもいいのですが・・。
396 :
名無しさん@1周年:01/10/31 23:07
38改さんが勧めていたティク・ナット・ハン師の『禅への鍵』春秋社
読みましたわ。まあやはりというか予想通りです。
この方の禅に対する認識がどの程度のものか解ります。
本文の最初の5ページぐらいでもう苦笑いです。
興味のある方は読んでみればよいのでは。
ただし、立ち読みで充分でしょう。
397 :
名無しさん@1周年:01/10/31 23:21
>>388 >>見性体験の無い人がこういう話を仕切ろうとしても無理なんですよ。
>君も含めてな。(ワラ
もちろんです(笑)。
というより私は別に仕切ろうとはしておりません。
>>389 >>見性体験の無い人がこういう話を仕切ろうとしても無理なんですよ。
>仕切ることは実際問題、無理だと思いますが、
>そんな人から新しい問題提起や、ホッと笑えるような小悟がでてきて、
>そこから「対話」が広がることもあると思うんですよ。166さんみたいに。
>俺はそんなのもすごく好きなんですよね。。。
>そこは、自由な雰囲気を大切にしていきませんか?
ええ、293で書いたとおり、どうまとめるのかな、と見守っていました(笑)。
まあ、絡む人がいてもいいでしょう。
何の理由もなしに絡む訳ではないでしょうから。
どんなに理不尽な理由であれ、その人なりの理由があるはずです。
じっくり自己を見つめるなら、絡まれる自分の言動に思い至るはずですし、
そこに気がつかないで、
自分は禅を学んでいるから2ちゃんねらーごときが煽ってきたって、
そんなのは禅を知らない証拠だ、ではもはや禅師とは言えますまい。
頭を冷やしてからもう一度読み返せば、
本当にひどい発言をしている人物は誰かに気がつくでしょうな。
それもまたよし。
引き続き精進下さい。
合掌。
難しい事考えないでとりあえず
座れば良いのでしょ?
377
>>398 座っても良いけどうんこは流してね。
400 :
木馬 ◆YS1rbUoA :01/10/31 23:56
400
401 :
名無しさん@1周年:01/11/01 00:46
>>395 まず、匿名掲示板では人格特定は不可能だとされてること。
だから、2chの面白さがある。
そして、人格は「見える」もんらしい。
(俺がやればできないことはないけど、鬱が入る)
変人さんには、当面、俺の人格特定は無理だと思う。
「狂信」叩き(固定叩きじゃない)するときは、
相手に理解をさせず「実体」を見せないのが、1方法論。
主に「悟り」スレでは、その方法論を使って、確認をとった。
これからは、ある程度分かるようになるんじゃないのかなとは思う。
もう「人間性」を逸脱した「狂信」は感じないからね。
また、煽り厨は俺1人じゃないけど、俺以外のレスにも反応してた
みたいだから、俺に2つ以上の人格を見て、混在させてる可能性
がある。
結論:おいらは万年煽り厨房さ。
ということで、「名無しさん」に戻ります。
>>401 >「狂信」叩き(固定叩きじゃない)するときは、
これは明らかに私に対するヒガミだね。見性について、誤解のないよう一応カキコ・・
見性したから、直ちに「小悟」になるわけではないんだね。双肩にズシリとした重圧を感じる。
この心境を「孤独」というふうに表現をしてきたんだね(悟りスレでカキコ)
悟りスレでの私の主目的は、まさにこの「孤独」の開放だったんだね。
私の気持ちを理解してくれる人を探していたわけだね。つまり・・・
あの時点では、私は「小悟」にも至っていなかった訳だね。それは今になって解ったこと。
見性を、それなりに受け止める・・ということは結構大変な事だと思うよね。
>結論・おいらは万年煽り厨房さ。
1chで、2chの厨房が暴れているよ・・たまに応援にいってあげてね(w
どなたか、「白隠禅批判」をやりたがっていた人がいたけど。やってちょ。
私は勉強させていただく。
405 :
名無しさん@1周年:01/11/01 17:29
406 :
名無しさん@1周年:01/11/01 21:19
>>403 「悟り」スレの434さん(だったっけ?)も、同じこと言ってたような気がするが、、
まったくの見当違いだよ。ヒガミは一切ない。
手塚治虫の漫画『ブッダ』のアッサジみたいなキャラだと見てる。
彼に僻む人なんているのだろうか?
(変人にとっても、彼以上の「覚者」のような振るまいをすれば、「煽り」が入るだろう)。
40歳(?)になるまで乞食をして、「悟り」を得た禅師が昔いたそうな。
俺はそういう人の「説法」を聞きたいと思ってる。
乞食は俗世では「非人間」として扱われることもあるが、仏の道では、絶対に「犬」」では
ないし、「外道」でもないことを特記しとく。
そういう人の「悟り」なら、大地から離れることなどないだろうし、秩序と順序を大切に、
「妖刀」で切って見せてくれそうだから。
但し、和尚などのヒッピー禅には興味がない。フォレスト・ガンプに同じ。
変人の場合、「見性」の見性はそんな感じで良いと思う。しかし、一面だと思う。
俺の場合なら、毎年5月のGW頃に起こることがある。
普段から「あれやこれや、ああでもないこうでもない」と考えたりしてるが、
「小悟?」に至る1週間前ぐらいから、右のコメカミの奥の1点がチリチリと痺れ始める。
次第に痺れは増して広がっていき、次に手が震え始め、歩くのも困難なぐらい
足がカクカクするようになる。眼はうつろになってると思う。
皮膚の内外の境界が曖昧になり、外界からの刺激を感じ取り難くなり、
痺れは脳全体に広がってジーンジーンとする。(すげぇ、快感)
やがて何事もなかったように治まるのだが、治まった後は「あれやこれや」と
考えてたことが「一元論」的に纏まりを持って意識できるようになってる。
「あれやこれや」と考えてたことすべてに明確な「理解」ができ上がってる。
こんな感じで「小悟?」が起こる。
しかし、それなりに本気で「精進?」してなければ、スカシッ屁みたいになるときもある。
(これは禅的な「悟り」だけでなく、真理追究の学問研究でも起こるのを確認してる)
407 :
名無しさん@1周年:01/11/01 21:20
(続き)
こんな感じかな。
後は、「はっ」と気付いて、視覚的イメージが広がり、やがて消え、
「心の余韻」だけが残るようなものもある。
>>343を見たときに起こった。
結局は、変人の見性と俺が言ってるのは見性体験というものの両面なのだと思う。
「大悟3回、小悟数え切れず」は変わらないだろう。。。
>この心境を「孤独」というふうに表現をしてきたんだね(悟りスレでカキコ)
>悟りスレでの私の主目的は、まさにこの「孤独」の開放だったんだね。
「夢・希望」スレで言ってた「アローンウルフ」の話も含めて、
できそこないの「嘆異抄」みたいだね。
>私の気持ちを理解してくれる人を探していたわけだね。つまり・・・
この辺りで、「理解」と「相手」を間違うと、「狂信」に入るよ。
他人を変革させて、「理解」し合えるようになるのか?
不立文字そのものは無理だけど、1テーマについて「伝えられる」言葉を獲得していき、
「理解」し合えるようになるのか?
「相手」は、どこかに所属するしかないかもしれない。一般人では無理。
>あの時点では、私は「小悟」にも至っていなかった訳だね。それは今になって解ったこと。
>見性を、それなりに受け止める・・ということは結構大変な事だと思うよね。
変人ファン以外は、「分かってた」人も思かったと思う。そして「仏道」を踏みにじりはじめた。
最悪の場合、イデオロギーの「負」の面に引っ掛かってしまったかもしれなかったんだよ。
雑文、ご容赦。
408 :
名無しさん@1周年:01/11/01 21:47
チベット仏教をやっている者です。
円覚寺などに参禅した経験があるのですが、日本の禅って
帰依と発菩提心の教えをあまり説いていないと思います。
「帰依」 仏法僧、またその顕現である上師に帰依すること。
「発菩提心」 自らと、一切の生き物が苦しみから逃れられるように愛と慈悲をおこすこと。
仏教の瞑想の基本中の基本だと思うんですけれど。
>>406 さすが君の体験は素晴らしいね。おそれ入谷の鬼子母神だよ。
いろいろ勉強させてモラ〜タyo
ところで、住人達はトラウマおこしちゃったのかな?
いつもの、2ちゃんのバトルだと思うんだけど・・インパクトが強かったかな?
このスレには、数人の見識のある方がおられる。私はすでにお見通し。
彼らと共に、マタ〜リとしたスレになって欲しいのだが・・
幾分、こういった状況では彼らは参戦してくれそうもない。コマ〜タyo
私にも一端の責任はある。良質スレッド切望祈願。 合掌
>>408 う〜む。良質スレ。
この件に関して、精通している方お願いします。
411 :
名無しさん@1周年:01/11/01 22:50
>>408 >「帰依」 仏法僧、またその顕現である上師に帰依すること。
>「発菩提心」 自らと、一切の生き物が苦しみから逃れられるように愛と慈悲をおこすこと。
>仏教の瞑想の基本中の基本だと思うんですけれど。
確かに大事だと思う。
というより、
まさに瞑想のエッセンスの一つと言うべきだね。
そしてそれを、日本の禅ではあまり教えない、
というのも間違いでは無いかもしれない
(私自身は禅寺などに直接参禅していないので内部事情は詳しくない)。
ただね、こういうことは見落とされていると思うんだが、
その瞑想が行われる社会のあり方と関係が深い。
もちろん瞑想の本質は仏教であれ、キリスト教であれ、それほど違わない。
しかし、瞑想を実践する人々の「条件付け」が違う。
瞑想とはある意味、その条件付けからの脱却を意味する部分があるから、
各人の心の条件付けが違えば、
それを脱却するためのプロセスや方法論は違っていてもかまわない。
いや、むしろ当然違ったものになるんだよ。
一見、禅では師匠を棒で殴ったり(笑)?するし、
あなたの目には、
チベット仏教的な帰依が教えられていないような気がするのかもしれない。
しかしそれは、
チベット仏教が本来の仏教に近くて優れていて、禅がそうではない、
ということを意味しない。
禅には禅的なアプローチでの帰依のスタイルがあり、
菩提心のはぐくみ方があるのだと思う。
全く同じ理由で
>>406 >但し、和尚などのヒッピー禅には興味がない。
というのは、私には食わず嫌いだとしか思えないね。
>>411 面白い。
たとえば、日本建築における「床の間」「廊下」は、さほど合理性をもたない。
そういった「非合理性」に独特の美意識、価値観を見出している。
日本独特の精神文化といっていいのだろう。
「空間の美」「遊び心」。それが「禅」にも脈々と受け継がれている・・ということか。
勉強になりました。
413 :
名無しさん@1周年:01/11/02 01:08
もっと実践的な面で、頭の上にバターを載せて云々…と観想する手法や、
臍下丹田に力を込めて…というような手法と、帰依と発菩提心の教えが
一体になっていないように思えるので、もったいない気がするんです。
大乗仏教の基本的教義はヨーガの体験の中から出てきているので、
帰依と発菩提心のような教えも禅定に直接の関わりがあるんですよね。
禅というものは密教を通過したうえで、神々や種字を観想しないように
簡略化された修行スタイルだと思います。とくに初期禅においては、
「大乗の基本教義のみで禅定を行う」ということに関心があったのではないかと思います。
円覚寺に参禅した時いただいた日課経典は、帰依と発菩提心にはじまり回向におわる、
チベットとも全く変わらないものでした。はじめから軽視されていたわけではないはずです。
チベット人の間でも、帰依と発菩提心の出来ていないものが深い瞑想に入ろうとすると
魔境に落ちてしまう、と諌めています。野狐禅におちいるか否かの境目がそこにあるのでは?
と考えてます。
414 :
408(413も):01/11/02 01:10
>>411 >チベット仏教が本来の仏教に近くて優れていて、禅がそうではない、
>ということを意味しない。
>禅には禅的なアプローチでの帰依のスタイルがあり、
>菩提心のはぐくみ方があるのだと思う。
そう思います。近代の禅ブームによって、禅が仏教そのものと切り離されているきらいをかんじる
んですよね。いきなり、空とか無とか竿頭一歩とかいうまえに、死の無常とか、輪廻の苦しみとか、
因果とか、そういう基礎を説いたほうが、初心者にはいいのかなぁ、とおもうんですよね。昔の日
本の禅もそうだったと思うんです。禅宗のお坊さんはそういうところもしっかり教わってると思う
んですけど。
ところで、もと禅坊主(雲水?)の小説家、藤沢周の「サイゴン・ピックアップ」などは、
ファンシー・ダンスよりも面白いですよ。現代の禅寺の修行堂の雰囲気が良くわかります。
415 :
名無しさん@1周年:01/11/02 02:21
>>413 >円覚寺に参禅した時いただいた日課経典は、帰依と発菩提心にはじまり回向におわる、
>チベットとも全く変わらないものでした。はじめから軽視されていたわけではないはずです。
なるほど。
ただ、私が思うのは、当時の日本で目上の者を敬う、
なんていうのは、言われなくても当たり前のことだったろうし、
菩提心に関しても、和をもって尊しとなす、の国ですから、
特に強調する必要が無かったのでは無いだろうか、ということですね。
むしろ、子供の頃からあまりにも強くそういう教育がされていたので、
逆にそのことが条件付け化されてしまっていて、
本当の「自然な感情」としての帰依を感じることが
難しかったのでは、と思うくらいです。
そういう場合は、逆に師匠を叩くくらいが
条件付けを壊すのにちょうど良かったのかもしれない(笑)。
あるいは本当に帰依が必要なタイプの人は浄土宗のほうにいったのかも知れない。
そこら辺は専門家ではないのでよく分かりませんが、
私がヨーロッパに行ったときに実感したのは、
この人たちには確かにキリスト教が必要だったんだ、ということです。
>近代の禅ブームによって、禅が仏教そのものと切り離されているきらいをかんじる
>んですよね。いきなり、空とか無とか竿頭一歩とかいうまえに、死の無常とか、輪廻の苦しみとか、
>因果とか、そういう基礎を説いたほうが、初心者にはいいのかなぁ、とおもうんですよね。昔の日
>本の禅もそうだったと思うんです。禅宗のお坊さんはそういうところもしっかり教わってると思う
>んですけど。
同意できる部分とそうでない部分が混じってますね。
死の無常とか輪廻の苦しみを、この飽食の時代に実感しますか?
最近、「ファイトクラブ」という映画を見ましたが、
むしろみんなすべて終わらせたいと思っているんだなあ、
と思いましたよ。だからこそ、
空や無の部分が注目されるのでしょう。
もっとも、その肝心の空の意味が、
かなり間違って解釈されている、とも思いますが。
416 :
無宗派さん:01/11/02 04:28
(批判と感想)
ここは、禅愛好家たちの談話室と考えている。隣人
と話している人もいれば、話を一人で聞いている
人もいる。私は、後者の一人である。たまに、口
を挟むが。しかし楽しい。
自分の禅観を語るのもよし、対話するのも良し。
禅の視野が広がるし、対話が発展する。愉快では
ないか。皆さん有難う。
私にような初心者もいれば、実践面、知識面ではる
かに先を行く人、色々である。今後も、大いに談話
を展開して下さい。楽しみにしています。
また、沈着且つ冷静に事の本質を思考する優秀なタイプ
の人が多い、最も釈迦に近い立場、命をかけて空の体得
を目指す禅の人(他人は目に入らないはず)でも、匿名性
を手にしたとき、自分の優位性、正当性を主張する際、
内心の感情の発露が見られる、この人間の本性は万人共通か
と、大いに勉強させてもらっています。(大疑団人)
417 :
名無しさん@1周年:01/11/02 07:16
ここは2ちゃんねる。
ほとんどルールもなく、仕切りを嫌う参加者ばかり。
愛好者もいるし、毛嫌いする批判者もいるし、煽り厨房もいるし、
実践者もいれば、評論家もいる。
また、故あって禅を選んだ者も、離れた者もいる。
「悟」が分からず、「死の淵」で暴れてるものもいる。
そんな人達と、狂気と秩序の「悟」で本気で遊べればいいよね。
今の段階では、
「小悟」と、「小悟」を侮った発言をしたものは、
変人の放った仏光により、
無明の闇の中、
頭に「仏足」を乗せられてることに気付ければいいと考えています。
>変人
ということで、俗世の「狂信」から離れて、我「悟」を楽しもうぜ。
おいらは、これから参加機会は減るかもしれんが・・、おっと、喜ぶなよ。(笑)
× 変人の放った仏光
○ 変人が放たさせた仏光
>>417 うむ。諸行無常、一念三千、縁の不可思議。
まあ、そういうことだね。
「青い鳥」を、遠く旅をして探しに行って、家に帰ってきたら・・庭木に止まっていた。
一見無駄だったような事でも、決してそうではないんだね。
やはり「旅」をすることは大事かとおもうね。
煽り厨房も、今旅をしているんだと思うyo
なにやらみなさん、突然総括に入られたようですね。
それなら私もスレに参加してみての感想をちょっとだけ。
ここは「悟り」を体験した人が多いらしくて、
それぞれの境地からお互いの悟りの境地を探り合っているようなところがある。
私もさすがに変人さんが誰なのかはスレにきてすぐに分かりましたよ。
分からないフリをしていましたけど(笑)。
ただ、
>>197、
>>406-407、
>>417(同一人物ですね)さんとは
これまで書き込みを読んだことはあっても直接話したことはありませんでした。
彼は「前のスレ」でもそうだったんですが、
自分の悟りを過信しているようなところがあるな、という印象だったんです。
本当は
>>197さんにはもう少し言いたいこともある。
まあ、何はともあれ、
このスレで一番印象深かったのは
>>398-400のやりとりかな。
これで誰がこのスレで悟ったことのある人か、いよいよ明確に分かりました。
もちろんこの三人です。
あと、私はこういうところでは誰かさんと同じで人格を使い分けています(笑)。
説明しなくても、分かる人には分かっていると思います。
では(^-^)/。
>>420 197さんは、アクの強いキャラクターですね。
まあ、彼と対戦するとき・・・武士道における他流試合に喩えるなら・・
試合前の一礼の時、間髪をいれずに一撃を食らわす・・武蔵的発想の方ですね。
武蔵にしても、晩年は「愚」を恥じらい、開眼している訳ですから
一概に評価はできませんが・・・
一度対戦してみてはいかがですか?
小次郎の気持ちが良〜く分りますよ・・
>>420 >ただ、>197、>406-407、>417(同一人物ですね)
正解です。(^^)
>本当は>197さんにはもう少し言いたいこともある。
ばんばん、どうぞ。。
>>421 うひょひょひょひょひょ
>>422 っま、まだいたんかいなー。粘着質だな・・(汗
>>420 こうしてまたひとり勘違い人間を泳がせてしまった。
わしに甲斐性がないばかりに。
達磨さんごめんよ。
425 :
名無しさん@1周年:01/11/02 21:44
師を棒で打つ(笑) ある禅師の天国と地獄
俗世の「条件付け」がある。俗世の「条件付け」を破壊する。
新たな仏教の「条件付け」が生じる。
仏教の「条件付け」の中で、老師は棒を取り上げられ、叩かれる。
渡海氏によると、
「人に限らず、生きとし生ける物を殺すことは悪である。生きている物を殺せば、
殺害に関わった者は地獄・餓鬼・畜生界に転落する。」という教えがある。一方
では、「自らが地獄に堕ちることを覚悟しても相手の命を断て。」という教えもある。
そして救われ難くて、後者の相手に相当するものとして、(経典によって変わる
そうだが、)「大無量寿経をみれば、五箇条の大罪者と正法の誹謗者とを挙げ
ている。」そうだ。それらのものは、「人々がそのようなことを行えば、阿鼻叫喚
地獄からほとんど永遠に出ることができないと言われても、理由がないことでは
ない。」
「棒はあるか」と問う老師も、弟子も、それを知らなかったはずはないだろう。
本当に老師が棒を手に「棒はあるか」と聞くとき、
弟子も「棒で叩くこと」が「正法の誹謗者」にもなり、「阿鼻叫喚地獄からほとんど
永遠に出ることができ」なくなることは容易に浮かぶことになるに違いない。
しかし、「棒で打つ」ことが正解で、「無分別智」を会得し、「悟り」に近づことになる
ことは有名な問答として長年残ってることからも推察できる。
つまり、この問答を突き付けられるということは、天国と地獄との狭間で、
究極の選択を突き詰められてるのと同じなのではないかと思ってる。
だから、老師から棒を奪い、叩けなければならないのあろう。
決してその一時に(笑)にはないのではないだろうか・・
自分はこの問答を聞くとき、どうしても次レスの法話を思い出してしまいます。
次レスの法話を引用することで、俺は「棒」から離れることにします。
426 :
名無しさん@1周年:01/11/02 21:45
ある時、有名な禅僧の元へ1人の武士が訪ねてきた。
禅僧の高名を聞き及び、本当にそれ程の人物なのかと、試しに来たのだ。
そこで武士はこう問うた。
「地獄・極楽はどこにありますか」
すると禅僧はとうに武士の魂胆を見抜いていた。そこで、
「そんな事を知りたがるなんて、なんというへなちょこだ」
とさんざんに愚弄した。
それも、問われるたびに、何度も愚弄を繰り返したという。
ついに怒り出した武士は、怒りのままに抜刀した。
それをさっとかわして、禅僧はこう言った。
「それ、そこが地獄だ」と。
はっと気づいた武士はその場にへたへた座り込み、「ご無礼をお許しください」と、
深く非礼を詫びたという。そこで禅僧は、すかさず指摘して言った。
「それ、そこが極楽だ」と。
>>425 「無分別智」の会得でしたか。
「存在」云々は、いわば方便ということですね。
「禅」は、高度な頭脳が要求される・・という先入観がありましてが、納得です。
>達磨さんごめんよ。
その気持ちを忘れるなぁ。精進しろ!
なんちゃって。
429 :
名無しさん@1周年:01/11/03 01:38
>>425 >「無分別智」を会得し、「悟り」に近づことになる
>ことは有名な問答として長年残ってることからも推察できる。
ここの部分は正解。
でも前半はまだちょっとピントがずれているね。
前にも書いたが、
「棒」が存在するか?
は、すなわち
棒を見ている「自分」が存在するか?
ということ。
禅に限らず、仏教では、
この「見るもの」と「見られるもの」との関係性を解き明かすことに腐心する。
そもそも「分別」という言葉は、
このスレでもちょっと間違った使われ方をしていたようだが、
「対象世界」と、その対象を見ている「主観性」との根本的な「分離」を指して言う。
この分離があるからこそ、「自分」という主観性が実体を持っているように感じる訳だ。
一方、「無分別智」とは、この「主客の分離」を越えた智のことを言う。
さて、これを予備知識として、この問答をもう一度見てみる。
「棒」が在るか?と師が問うている。
普通に考えるなら「在る」が答えだ。
なぜならそれを見ている「自分」があるから。
もっとも、私は、最近のオカルト主義者の主張するような、
量子世界では観察者が観察することによって物質の在りようが決定される、
というようなトンデモを主張している訳ではない。
もっと単純に「観察」という行為が、
「観察者」とその観察者が観察する「対象」との分離を前提にしている、
ということを指して言っている。
もっとかみ砕いて言えば、
これは眼球が眼球自身を「直接」には見ることができないのと同じことだ。
もしも自分の目を見たかったら、
いったん鏡に写すなりして自身の目を対象化しなければならない。
この段階で「在る」と答えれば自我としての自分を認めるから不正解。
430 :
名無しさん@1周年:01/11/03 01:38
一方、無分別智の観点から見た場合はどうだろうか?
この段階でも実は、棒は、それをもった師とともに存在する。
ただし、無分別智では、観察者と観察する対象の間に分離がないので、
棒も、棒をもった師も、自分も一如である。
すなわち、誰かさんが言った「見るものは、見られるものだ」の境地。
この段階で在れば、たとえ棒を奪って師を打っても
本当には真我が真我を打つようなもので、
打つものと打たれるものとの別がないので正解、となる。
ちなみに、よく、世界はマーヤ(幻想)だ、という言い方をするが、
それは世界を見ている自分という「主観」の独立性が幻想だからであって、
決して、世界の物理的存在の在りようが「無」である、とか「幻想」である
という意味ではない。
431 :
名無しさん@1周年:01/11/03 01:49
>>426 まさにこのスレの展開そのものだね。
もちろん426さんが武士の役割だが。
>>もちろん426さんが武士の役割だが。
ごめん。
>>428さんにしときます
434 :
名無しさん@1周年:01/11/03 04:09
>>429>>430 学問として禅を捉える方はえてしてこういう答えが返ってくるんですが
ここで考えなければならないのは何故老師は棒を持ち出したのかということ。
>この「見るもの」と「見られるもの」との関係性を解き明かすことに腐心する
のであればただ単に「私は本当に存在するか?」と問えばいいのであってわざわざ
棒を取り出す必要はない。
あんまり喋ると眉毛が落ちるので(笑)急所だけ。
ここに老師の質問のなかに「邪」を見て取らなければならない。
勿論、老師が「邪」なのではない。
その質問のなかに「邪」があるということ。
それは老師も承知のうえ。
そこで弟子はどうしなければならないのか?ということ。
眼のある弟子はどうしてもあることをしなければならなくなる。
答えはもう出ているし、それを臭いと思うのならその思う心が臭いということ。
だってそれ以外に表現のしようがないから。
435 :
名無しさん@1周年:01/11/03 04:51
>>434 >
>>429>>430 >学問として禅を捉える方はえてしてこういう答えが返ってくるんですが
誓ってもいいが、私はこの棒の話は何の解説書も読んだことはない。
禅に関しても学問として学んだ訳ではない。
だいたい禅に関する本で完読した本なんて2〜3冊しかないんじゃないかな。
>ここで考えなければならないのは何故老師は棒を持ち出したのかということ。
>>この「見るもの」と「見られるもの」との関係性を解き明かすことに腐心する
>のであればただ単に「私は本当に存在するか?」と問えばいいのであってわざわざ
>棒を取り出す必要はない。
いいえ、それでは私の言ってることをあなたは理解していません。
棒を取り出すのは「関係性」を示すため、気づかせるために必要です。
「自分」が存在するのは、
自分と世界との「関係性(言い換えれば縁起ですが)」故なんです。
単独で「自分」は存在しない。
世界との関係性の中で「自分」対「世界」が浮かび上がってくる。
それと
>ただ単に「私は本当に存在するか?」と問えばいい
ということですが、同じような禅問がありますね。
ただし、これも私が上記で説明した「関係性」を意識した作りになっています。
たとえばもし、あなたに配偶者がいれば、
あなたはその人の「夫」であったり「妻」であったりするし、
子供がいれば、あなたには「人の親」というパーソナリティーがつく。
では、子供がいなければあなたは誰ですか?
配偶者がいなければあなたは誰ですか?
ということになって、これは結局、本来の面目は何か?
ということでしょう。
これもストレートに「私は本当に存在するか?」とは聞いていません。
意図的に「関係性」に気づかせる作りになっている。
436 :
名無しさん@1周年:01/11/03 04:51
>ここに老師の質問のなかに「邪」を見て取らなければならない。
>勿論、老師が「邪」なのではない。
>その質問のなかに「邪」があるということ。
>それは老師も承知のうえ。
>そこで弟子はどうしなければならないのか?ということ。
>眼のある弟子はどうしてもあることをしなければならなくなる。
>答えはもう出ているし、それを臭いと思うのならその思う心が臭いということ。
>だってそれ以外に表現のしようがないから。
もちろん、禅問答の場合、なぞなぞじゃないので実在的に答える訳ですから、
その「表現」という問題がある。
これについては
>>255-256あたりですでに答えています。
#あんまり意地にならない下さいね(^-^)/。
437 :
名無しさん@1周年:01/11/03 05:38
>>435 >>436 まあ誰が意地になってるのかは一目瞭然なので(笑)気にならんが
君がそこまで言い張るのなら別に構わんよ。
押し通しなさい。(笑)
438 :
無宗派さん:01/11/03 06:26
飛び入りさせてください。
「日蓮大聖人以外を拝む人かかってきなさい、」の板で頑張って
います。
「法華経」は、悟りを得た人が、更にその先を行く際の経典です。
まず悟り、次に、法華経に進む。あなたも、私も、先の道はまだ
長いですね。
>>438 悟りを得た人に法華経は必要ありませんよ。
白隠以来こうした勘違い(失礼)が出てくるのは
いたしかたないか。
440 :
名無しさん@1周年:01/11/03 07:47
>>433 424でも428でもないがお前は一生迷っとけ!
>>420 自作自演で自分のこと悟ってるなんて書く奴は・・・言わずもがな。
>>437 >君がそこまで言い張るのなら別に構わんよ。
>押し通しなさい。(笑)
別に「自分」を押し通してるわけじゃ…
>>438 >「法華経」は、悟りを得た人が、更にその先を行く際の経典です
何となく分かりますね。
というより、上記の「世界」対「主観」の壁が本当に無くなったら、
自分という思いなんて無くなる訳で、
「自分の」悟りなのか「世界の」悟りなのか分からないでしょう。
そのことを示しているのが法華経、と思っています。
他の側面も在りますけど。
>>441 >自作自演で自分のこと悟ってるなんて書く奴は・・・言わずもがな。
あれはジョークだよ(笑)。
だいたい「悟り」ってこのスレでもローカル・ルールの悟りだし…。
443 :
名無しさん@1周年:01/11/03 09:35
>>434-
>>435 老師の質問の真意に対する解釈が違うから何処までいっても平行線。
ただ気をつけるべきはこの手の質問というのは大抵、
修行の初期に言われることであるということ。
自分の解釈が正しいと思うならそれで正しいのでしょうが
頭で考えた悟りは悟りじゃないよ。
理屈を捏ね回したら髪の毛一本ほどもぴたりと合わない。
>>443 >>>434-
>>435 >老師の質問の真意に対する解釈が違うから何処までいっても平行線。
それはそれでいいです。
理解は強要できませんから。
と言うか私と197さんとのやりとり見たでしょう?
と言うか、
いつまで女を担いでるんだ!
>>442 >「自分」の悟りなのか「世界」の悟りなのか分らないでしょう。
こういう事ってありますか? 信じられませんけど・・
「宇宙即我」。ではないでしょうか?
「禅」と「法華経」というのも、またまたビックリ。
いろいろ勉強させて頂きます。
446 :
名無しさん@1周年:01/11/03 13:03
>>444 なんだ原担山和尚の真似事か?
ずいぶん重そうだな。(笑)
447 :
名無しさん@1周年:01/11/03 13:50
>>445 >こういう事ってありますか? 信じられませんけど・・
>「宇宙即我」。ではないでしょうか?
「宇宙即我」というのでは「一元論」です。
還元論的に、全ては物質だ、では間違っているでしょうし、
その逆に、全ては真我である、というのもまた実は間違いなんです。
だからわざわざ「不二元論」などと言う。
これって誤解している人が非常に多いみたいですね。
というのも、ある程度禅定が進みますと、
ある種の(世界との)一体感を感じたりしますから。
しかし、自分が世界と一如、
などと感じているようではまだまだですよね(笑)。
>>438さんの
>あなたも、私も、先の道はまだ
>長いですね。
というのは実感として素直にうなずけます。
>>447 >全てが物質、全てが真我
こういった世界観は無いですね。
>自分が世界と一如
これは見性ではないですか?
世界観となれば「非心非仏」とちがうのですか?
どうも解りづらい。不一不二。
449 :
名無しさん@1周年:01/11/03 15:27
>>448 >>全てが物質、全てが真我
>こういった世界観は無いですね。
それは失礼。
>>自分が世界と一如
>これは見性ではないですか?
>世界観となれば「非心非仏」とちがうのですか?
世界観の話しではなく、あくまでも実際の見性、
瞑想体験の話です。
一如である、という実感、見性、
まあ、言い方はいろいろあると思いますが、
そういう見性ではまだまだです。
ただ、誤解のないように言い添えておきますと、
個人の努力、瞑想、精進などでそこから先に行ける、
というようには感じていません。
全く違う何かがそこにある、という感じです。
世界と一如なのに全く違うものがある、というのは変ですよね?
でも私の実感なのだから仕方がない。
私は親鸞さんはあまり詳しくありませんが、
もしかしたら親鸞さんはこれを他力本願と言ったのかもしれません。
そういう意味で
>>343はまさに大事な態度だと思います。
>>422 >>本当は>197さんにはもう少し言いたいこともある。
>ばんばん、どうぞ。。
だいたいこれで言い終わりました(笑)。
>>443さん、正直、語る機会を与えてくれてありがとう。
変人さん、またどこかで会いましょう。
(^-^)/
450 :
名無しさん@1周年:01/11/03 17:45
法華経は、「青い鳥」が顕現したもの。
正直、真贋は分からない。
しかし、「悟」で楽しもうとする人間に、法華経はいらないとする方が罪が少ない。
贋物なら言うまでもなく、
真であっても、多くの人が空回り。
楽しくなければ「悟」ではない。
教相禅という知識で実際の体験を批判するのはどうかとおもうよ・・・
453 :
名無しさん@1周年:01/11/03 21:22
もうそろそろいいですか?(笑)
現代白隠禅の批判的展開って出来るほど自分には見識はないんですが
白隠禅師ってそれ以前やそれ以後の禅師に比べて明らかに違うところの
ある人ですよね。
ある方に言わせればその境涯における最初期と最後期に端的に顕れていると。
彼の発心は地獄に対する恐怖からであったという。
もうここからして違うと。
過去に名を残す偉大な禅師のなかでこのような形で道を求めた者はいないと。
あまりにも機根が低すぎるのではという意見がある。
確かに発心が正しくなくても途中で真理に目覚めれば問題ないだろうという意見もある。
しかし、我々のような者達でさえ禅・仏教に目覚めるきっかけはそんな低いレベルでは
ない。故に古来「発心正しからざれば萬行徒に施す」と言う。
そしてもっと問題なのは老齢になってから悟っていない者に印可を連発してしまい、
弟子の東嶺がその後その者達の境地をもう一度検証して印可を取り上げたということ。
今までこんな禅師がいたであろうか?
その他その境涯にはいくつかの疑惑があるんですが白隠禅師のような偉大な人物を
疑うなどゆめゆめ思わぬこと。
現代ではそんなことを言う者さえ少なくなってしまいました。
ここにいる見識の高い方々のご意見を拝読したいのですが。
454 :
名無しさん@1周年:01/11/03 21:51
>>453 白隠を語るには、ただ単に禅であるとかではだめでしょう。
よく、インドではヨーガとタントラという対比がありますね?
禅はヨーガの系統ですから、
禅をやっている人というのはタントラ的方法論は理解しづらいのでしょう。
両方知っているものから見ればあまり違和感はありません。
>>453 う〜む。いよいよタタキ台が出来ましたね・・良レス期待。
456 :
名無しさん@1周年:01/11/03 22:08
>ある方に言わせればその境涯における最初期と最後期に端的に顕れていると。
>彼の発心は地獄に対する恐怖からであったという。
>もうここからして違うと。
そのある方、というのはあなたの禅のお師匠さんですか?
どうも狭い世界の見識だと思いますね。
どうも禅やっている人は悟りは得るものだ、と思っているふしがある。
法華経では、悟りはもともとそこにあるもの、
という仏教本来の基本認識を前面に出している。
もちろん、そのためには命がけの修行も必要だが、
かといってそれだけでどうなるものでもない。
白隠禅師はそこのところに気が付いたんだろう。
458 :
名無しさん@1周年:01/11/04 00:07
取り敢えず、今の段階では、
>>319さんの提起に答えることで勉強してみたい。
(批評家レベルのものを含めるしかなくなるが、、、それでも無理だけど・・)
>何故現代には白隠禅しか残らなかったのか?
徹底した見性体験重視の姿勢が、
人が宗教に求める「生の苦しみからの超越」という目的を、
生の実感で、「救い」(解脱)として理解されるから。
>その白隠禅は本物なのか?等
白隠禅は本物であるが、禅において一面にすぎないはずのものである。
人によって、贋物にもなるのは世の常。
禅がすべて白隠禅になれば、禅そのものがバランスの欠いて朽ちる。
459 :
名無しさん@1周年:01/11/04 00:17
>何故現代には白隠禅しか残らなかったのか?
しか残ってないの?
461 :
名無しさん@1周年:01/11/04 00:52
462 :
名無しさん@1周年:01/11/04 01:15
>その臨済の白隠禅は本物なの?
仏陀が実在の人物かどうか?
という疑問に対して、自分で悟ってみれば分かる、
という話しがあったでしょう?
歴史的に検証することが禅的に意味があるとは思わない。
白隠禅もおなじこと。
463 :
名無しさん@1周年:01/11/04 05:44
そんなら白隠禅の検証は、体験実証的に本物とするしかないわけだな。
ん? 白隠禅の思う壺かも…(笑)
464 :
無宗派さん:01/11/04 05:48
453>さんへの、私の感想。
@ 白隠さんが、子供の頃、地獄に落ちる恐怖に悩まされたことは、読んで
知っております。
私儀、子供の頃、春のうららかな日れんげ畑で遊んでいて、フット物悲し
い気分になった事を今も記憶している。子供心に、この幸せが永遠に続か
ない事を感じたのだと思うが。
また、30才前後のころ数年間、視覚的に感じる地球が有限である事の悩み、
つまり、太陽の光で、地球とその周辺は明るいが、その外は無限に続く闇の世界
である。この考えが私を取りこみ、その悩みから逃れるための、救いを、私の場合、
禅に求めたと思う。また、私の体質が禅に合っていた合ったのかもしれない。
(今時点で、知識レベルにすぎないが)
このような禅への発心をレベルが低いというか、高いというか、それとも、この
疑団を持つこと自体が、資質が高い(単に、デリケート、神経質と言ってもよい)
というか、その判断基準は知らない。
A 後段の印可連発は、素人ゆえ、初めて教えていただきました。事実ならば、ゆゆ
しきことです。
禅発心の機根の低さ(人間性)=印可連発(不適正検証)=白隠禅の衰退。
上の図式がつながるとして、白隠人気も事実であります。このあたりを、優秀で、
時間のある方分析して下さい。白隠さんのご著書(?閑話、書名は失念)淡白な
印象があります。
この資質、法華経に行かれた事と何か体質的関連性を感じます。
∧_∧
( ) だーるーまー
(⊃ ⊂)
| | |
(__)_)
∧_∧
( ・∀・ )彡 さんが転んだっ!!
⊂ つ
人 Y
し (_)
>>457 幼き白隠が地獄の観念を植え込まれたのは、
日蓮宗の僧がやった地獄の話からと言われる。
法華経に入ったのは、
「悟り」を得た白隠のリベンジかもしれないよ。
>そんなら白隠禅の検証は、体験実証的に本物とするしかないわけだな。
>ん? 白隠禅の思う壺かも…(笑)
白隠禅に限らず、経典から読みとれる真実は、
その人の境地次第なのは昔から言われていたことでしょう。
学問として学んだ人には自分が学んだフィールド内のことしか分かりません。
現代白隠禅の肯定的展開ですか?
469 :
名無しさん@1周年:01/11/04 08:45
>>466 白隠の幼児体験が、彼の人生に影響を与えている・・と考える。
「悟り」は得たといっても、そこは人間。微笑ましい話ではないか。
>現代白隠禅の肯定的展開ですか?
そう読めましたか?
私も否定的展開は是非読みたいんですよ。
ただ、462で書いたとおり、悟ってみて仏陀はいなかった、
というレベルの批判が読みたいだけです。
>>471 >悟ってみて仏陀はいなかった、
悟っても、悟らなくても、仏陀はいないのじゃないんですか?
473 :
無宗派さん:01/11/04 11:26
>>471 >悟ってみて仏陀はいなかった、
悟っても、悟らなくても、仏陀はいないのじゃないんですか?
上の3行ですが、仏陀がいる、いないが、なにを意味するのか
私には、正直理解できません。
自分は自分、自分が悟れば、それが全て。
古来、禅僧は「釈迦何するものぞ」の覚悟で修行したと聞きます。
>>473 まあ、結論からすればそういうことですね。
各人各様の精神世界ですからね。
まあなんというか、他の方の精神世界も覗き込みたがる・・
これも一種の「迷い」かもしれませんね(w
475 :
名無しさん@1周年:01/11/04 12:28
>>悟ってみて仏陀はいなかった、
>悟っても、悟らなくても、仏陀はいないのじゃないんですか?
話がずれています。
単純に歴史的検証と内観的検証の違いの話をしているだけですよ。
>自分は自分、自分が悟れば、それが全て。
これは微妙に違いますね。
チベット仏教を学んでいる方が帰依と菩提心の話をしていましたが…
ただ難しい話で脱線してしまいますのでご容赦。
>古来、禅僧は「釈迦何するものぞ」の覚悟で修行したと聞きます。
この意気込みは大事でしょう。
ただ、今はその話をしている訳ではないようですよ・・・
476 :
453(319も):01/11/04 12:55
>>458 中国から伝わった臨済禅はいくつかの系列に分かれる。
そのなかでも大応国師―大燈国師の系列が後にまで伝わった。
その大燈国師の系列の一つから白隠禅師や快川紹喜禅師、古月禅材禅師が出て
大燈国師のもう一つの系列から一休禅師や沢庵禅師が出た。
沢庵禅師が一人の法嗣もつくらなかったのは痛いし、
別系列で最も近年まで残った古月禅材禅師の法が途絶えてしまったのも痛いと云われる。
>>何故現代には白隠禅しか残らなかったのか?
とは上記のことを念頭に置いたカキコです。
他系列でも徹底した見性体験重視の姿勢というのは変わらなかったはずです。
でなければ曹洞禅になってしまいますから。
>>464 無宗派さんのは人生の無常を感じて仏教に救いを求めたということですよね。
これは釈迦の発心となんら変わるところがありません。
それに対し白隠禅師の発心は自分自身が地獄の恐怖から逃れたいという発想であり
極めて小乗的態度と言われても仕方がないところがありますよね。
ここが元来大乗の器では無かったのでは?と言われる所以です。
白隠禅師晩年の印可連発に関してもっと確かな反論があると嬉しいのですが。
白隠禅師発心云々よりこちらのほうが重要かと思われます。
477 :
名無しさん@1周年:01/11/04 18:39
>>471 >
>>462で書いたとおり、悟ってみて仏陀はいなかった、
>というレベルの批判が読みたいだけです。
正直、無理だと思いますよ。
「仏陀がいるか、いないか」が分かり、伝えられるほど、
「悟り」に至ってる人は現代にはいないのではないかと。白隠禅でも。
「ここは違うんじゃないか?」てレベルなら可能かもしれませんが…
>>467 >白隠禅に限らず、経典から読みとれる真実は、
>その人の境地次第なのは昔から言われていたことでしょう。
>学問として学んだ人には自分が学んだフィールド内のことしか分かりません。
これを言い過ぎたのが、臨済の白隠禅かもしれません。
現に、このスレも、ここまで「経典」の引用がほとんどありませんし、、
「縦ひ老僧御望に任せて内典外典を考え合せ、種々の法理を際限もなく書き付け進候とも、門より入る物は家珍にあらずと申伝へ侍りて、生死透脱の助けには更更罷成らざることに侍り。唯願はくば自性本有の有様を一回分明に見得し玉ふに越へたる事は侍らず。」(藪柑子)
白隠が非常に経典を勉強していたとしても、
最初のこの態度により、「経典(一般的な理想)」を軽視し、「体験(実践)」を重視したなら、
なんとなくですが、波の激しい白隠にとって「本物の体験」に基づいた印可乱発を
してしまったこともなんとなく説明が付くような気がしますが、、
>>474 イカレタ病気には「診察」が必要だろ?(笑)
野放しにするわけにもいかんし。
退院許可やるよ。
479 :
名無しさん@1周年:01/11/04 18:55
白隠禅師は本当に何回も大悟した、と言っていたのですか?
小悟なら分かりますが大悟はそう何回もするものではないはずですが・・・
それとも大悟と涅槃は禅では別なものとして扱われるのでしょうか?
>白隠禅師晩年の印可連発に関してもっと確かな反論があると嬉しいのですが。
禅宗内部の事情には詳しくないのですが、
印可というのは広い意味で対世間的な意味合いで出すものなのでは無いのですか?
印可をもらわなくても悟りの境地にいる人がいてもおかしくないし、
逆に自分の悟りを、印可をもらわなければ分からない、というのではおかしなことでしょう。
そこのところのはっきりした共通認識があると思うのですが、
それを白隠禅師が晩年覆した、とか、何か政治的な理由があるとかそういうことでもないのですか?
480 :
無宗派さん:01/11/04 20:23
生意気ですが、一禅愛好者(素人)の感想として聞いてください。
名前を聞けば、皆さんご存知のAという有名で大変優秀な数学者
がいらっしゃいます。この先生は、盗作問題で、半分名誉失脚され
ましたね。しかし、それによって先生の数学の実績は何一つ変わら
ないと思うのです。でも、私もそれ以後先生への尊敬のイメージは
半減です。
何故か。それは、その人の根底にあって人間性の全てを支配する、
人間である事の深い、原点に係る大事な何かの欠如の発現と思えるからです。
白隠さんの印可連発の話を聞き、上のことを思い浮かべました。印可
連発によって臨済禅再興の祖という実績は変わらないのでしょう。
気懸りなのは、発心の機根が低いことも、印可連発(認めざるを得な
い事実)もその人格性の発露現象だとしたら、人間の深い、原点に係
る大事な何かが欠けていたことにもなり、演繹的(?)、経験的に悟りの
深さ(本人しか証明できない事実)に疑問を持つ人がでても止むを得
ないとも思うのです。知らなければよかった(?)
私も、生意気なのですが一言。
今や社会も変革を遂げ、すでにボーダーレス時代。「個人」の時代。
若者達が宗教に求める認識も変化をしている。
いつ見性するかも知れぬのに、黙って座り込む。そこまで求道心があるのか?
というと、まあ少ない方だろう。大抵は末寺の子弟が現状だろう。
まあ、この延長線で考えれば、人材が育っていない現状もある程度納得できる。
宗教界のトップは、どこでも大変だと思うよ。若者の宗教離れがある。
こういった現状だと、白隠さんもユックリ座ってられないから、
つい印可連発しちゃったんだと思う。内心、宗教界の前途を憂慮しているのかもしれないね。
>>476 >>人生の無常を感じて仏教に救いを求めたということですよね。
>>これは釈迦の発心となんら変わるところがありません。
>それに対し白隠禅師の発心は自分自身が地獄の恐怖から逃れたいという発想であり
>極めて小乗的態度と言われても仕方がないところがありますよね。
>ここが元来大乗の器では無かったのでは?と言われる所以です。
ちょっとだけ「発心」の話に戻させてくださいな。
私の器が小さいのかもしれませんが、
白隠禅師の発心こそ、一般人が「禅に求めるもの」(大乗的)ではないでしょうか。
だからこそ、特に武士階級に白隠禅が好まれたと理解してました。
そこに交錯が起こってるような気がします。
僧侶の大乗的発心は、一般人にとって「大乗的」ではなく、
白隠の小乗的発心が、一般人にとって「大乗的」である。
つまり、一般人から見たら、僧侶の発心ではなく、白隠の小乗的発心が、「大乗的」である。
そんな風に思えます。
思いつきなので、sageときます。
つまり、白隠の発心は決して低いものではないと思うのです。
>>477 >「仏陀がいるか、いないか」が分かり、伝えられるほど、
>「悟り」に至ってる人は現代にはいないのではないかと。白隠禅でも。
>「ここは違うんじゃないか?」てレベルなら可能かもしれませんが…
レスありがとう御座います。
内心、実を言うと「ここは違うんじゃないか?」というところは一杯あります(笑)。
ただ、それを言うと白隠禅以外の禅にもおかしなところがあり、
果たして本当に悟った禅師は何人いたのだろう?と思ってしまうのですよ。
ただ、私は法華経は高く評価します。
白隠禅師が評価した理由と私のそれとが同じかどうかは分かりませんが、
私も昔は法華経を軽視していたことがあり、ある内観的なきっかけから見直すようになりました。
だから他の人の意見が聞きたかったのです。
485 :
名無しさん@1周年:01/11/04 22:42
>>484 こちらこそ、勉強できる機会をありがとう御座います。
私の法華経の見方は、
>>450の通りです。
正直、分からないし、白隠禅師が評価した境地というのも、
体験的には雲の上のことです。
白隠禅師は勉強しつつも、やはり「経典」を相対的に軽視して、
見性により何度も「小悟」と「大悟」を繰り返す中で、
見性体験が、多くの「経典」と矛盾が生じたものと予想できます。
そこで、最終段階に至り、
自分の体験が納まるような「経典」を欲しがったのではないか。
そんな風に傍観者的に漠然と思っています。
…重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。
(スッタニパータ714)
私は「悟りを繰り返す」というのには、少し違和感を感じます。
悟りは、繰り返すものなんでしょうかね?
>
>>485 >白隠禅師は勉強しつつも、やはり「経典」を相対的に軽視して、
>見性により何度も「小悟」と「大悟」を繰り返す中で、
>見性体験が、多くの「経典」と矛盾が生じたものと予想できます。
なるほど。
しかし、実は私が一番疑惑を感じるのが、
その、何度も「小悟」と「大悟」を繰り返す、
の部分なんです。
他の方が言われている
>彼の発心は地獄に対する恐怖からであったという。
という部分は全く問題ないと思っています。
なぜか?
そもそも宗教を志す人のタイプにも色々ありますが、
もっとも一般的なのが俗にいう「幸せになりたい」というやつですね。
しかし、じゃあ具体的に何が幸せなのか?と言うと、
その内容は人それぞれです。
健康になりたいとか、うまいもん食いたいとか(笑)。
それと同じで、地獄に対する恐怖、などと言うと
なにやら他の人と違う特別な発心のようですが、
実は無常観を感じたり、人の死に接して逃れたい、
というのとそう変わらない。
つまり「何に対して」恐怖を感じたか?ではなく、
恐怖や苦しみを感じて逃れたい、
と思う、その「心の在りよう」に目を向けなければならないんです。
だからこれに関しては全く問題ないでしょう。
あと、
>そしてもっと問題なのは老齢になってから悟っていない者に印可を連発してしまい、
ということですが、これもまず問題の切り分けが必要でしょう。
つまり、印可を連発した、という事実と、
なぜ、印可を連発したのか、という理由とです。
単純に「印可を連発したという事実」がけしからん、
などというのは宗教家の態度では無く宗派にとらわれた宗教屋の言い分でしょう。
印可を連発した理由が明確に示されない限り、これを心配するのもおかしい。
ただ、何度も「小悟」と「大悟」を繰り返す、
というのは、「小悟」はともかく、「大悟」はさすがに何回も繰り返さないだろう、
と思うんですね。
あと「なんその法」とかいう観想法もあったと思いますが、
これはなんだか安っぽいヨーガみたいだし、
その「なんその法」を授かったエピソードというのもいかにも嘘っぽい。
上記二つ、悟りの反復と、なんその法というのは
いかにも一般受けしそうではありますが一瞑想家としては疑問に思うところです。
>>486 >私は「悟りを繰り返す」というのには、少し違和感を感じます。
この件については同意。いやー驚きました。
本当に、「小悟」「大悟」を繰り返す・・という事があるのでしょうか?
>こういった現状だと、白隠さんもユックリ座ってられないから、
>つい印可連発しちゃったんだと思う。内心、宗教界の前途を憂慮しているのかもしれないね。
白隠禅師は現代人なのか(w
491 :
無宗派さん:01/11/05 02:18
475>さんと、変人さん、その他の方へ
お礼とお詫び
当方の質問に対し、よいレスを頂いていながら、
つい限られた時間で、限られた行数に頭が行って
しまい、お礼の欠礼、対話発展のマナーなどを欠いたこと、
今後も繰り返すことがあるかも…この点お詫びします。
深い学識、良レスには、本当に勉強させて頂いている。
>悟りは、繰り返すものなんでしょうかね?
>実は私が一番疑惑を感じるのが、・・・
正直、「え〜〜!」て感じです。
それこそ白隠禅の根本思想だと思ってました。
黒海老さんまで登場されて、疑問を打たれてますので、
もう一度、自分の勉強のために確認をとってますが、
ほぼ間違いないようです。
2、3日中にまとめてみます。
「大悟」が何度も繰り返すというのは、少し誤解があると思います。
よく言われるのは、「大悟3回、小悟数え切れず」だったかと。
因みに、私は何回か登場されている禅師ではなく、
トーシローであることはご理解いただけてるでしょうか?
>>492 >「大悟3回、小悟数え切れず」
一応、タタキ台が出来たということで、今後の展開に期待。
>>491 私も、素人と言う立場でいろいろ勉強させてもらっています。
>>486 「…重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。」
この釈迦の言葉は「解脱」だと思います。
「悟り」は「解脱」と同義でも使われますし、
「悟り」と「解脱」を分けてよいかどうかもありますが、
私は分けて使っています。
「解脱」は1回だけだと思いますが、
(それすら否定するのが白隠禅かも。そして白隠禅の欠点かも。)
「大悟」は3回ほどと言われます。
因みに、「大悟」は1度きりで終わりというプロセス的な見方は、
一般人にイメージしやすくするための説法的な意味だと考えています。
>>488 「なんその法」
「夜船閑話」の仙人・白幽子、内観の法のことですよね?
あれは白隠の創作だと言われてますが、
内実は民間療法と書物に書かれていたものを綜合したもので、
白隠自らの禅病に使っていたものだと言われています。
禅病になら、場合にもよりますが、結構効くと思いますよ。
創作にしたのは、白隠一流の「方便」だったのではないでしょうか?
あれを書いたのは、弟子の雲水らが禅病にかかったとき助けるためと言われます。
ノイローゼ状態の者に対する説得として、創作が必要だったのでしょう。
う〜ん、批判的展開がどうしても肯定的になってしまうのは、なぜだろうか…
「悟り」は繰り返すものか?
素人なりに白隠禅を評論家的に描写してみます。
実践レベルでは、まあ無理だし、できたとしても不都合がありますので。
(ご専門の方、ご批判の程を)
白隠は「大悟」を、「大疑の下に大悟あり」と述べています。
「只肝心の処は行者勇猛の志をはげまし、直に進んで退かず、地一下の歓喜
を得ざらん限は、必定退惰の心を生ずまじきぞと覚悟し玉ふより外、別の子細
候はず。」この「地一下の歓喜」が「大悟」と呼ばれます。
白隠が最も激しい「大悟」をしたのは、24歳のときと言われます。
そこで白隠はズに乗るわけですが、その「大悟」はすぐに完膚なきまでに否定されます。
そして、もう一度公案を始め、それまで解けなかった「公案」を次々解いたりします。
「大悟」が生じれば、それ以前の自己とは全く別の自己となってしまいますが、
悟った後は、「悟り」を意識化することになります(せざるを得ない)。
この意識化する過程で、どうしてもまた「悟ったことに対する(からの)自我」が生じ、
「悟りの境地」との矛盾が生じるわけです。
この矛盾が「疑」となり、前の「大悟」を否定する形で、その後の「悟り」が開くことになります。
そのため「悟り」を得れば否定するのが定石となってると考えています。
(これがなくなった状態が「解脱」ということになるのかな?)
「単々に参窮して退かざるときは、忽然として玉楼を推倒するが如く、氷盤を擲摧するに
似て、八識頼耶の含蔵識を粉砕し、塵沙無明の雑毒海を踏飜し、」から、更に、
「此に於て足れりとせず、四弘の誓願輪に鞭ち、口には常に十句経を念誦し、」に続きます。
これが白隠禅の根本思想「参窮」であり、「大悟」が何回か生じる理由だと考えています。
497 :
通りがかり:01/11/05 13:09
>496
私は、白隠さんの24才の時のは単なる「野狐禅」だったと思いますよ。42才の時の
が最初で最後の大悟。そこで、法華経に対する評価が180度ひっくりかえる。そこに
注目するべきだと思います。秋月龍民(あて字)の講話だったと思いますが、禅の悟りは、
「色即是空」と、「空即是色」の二つが揃わねばならぬそうです。白隠さんの場合、
最初の悟りというのは「色即是空」にとどまっていたのでしょうね。「空即是色」が
ないと、仏教で一番大切な「菩提心」が生まれてこない。法華経の心とは、菩提心ひとつ
ですから、若い頃の白隠さんがその価値を理解できなかったのは当然でしょう。
498 :
通りがかり:01/11/05 13:17
これも白隠さんの教えを考察するのにヒントになると思いますので。
白隠さんが禅の門を叩いたきっかけは、地獄が恐ろしくてしようがなかった
からです。何とか仏法の力で、地獄に落ちず、たとえ落ちても火にも水にも
苦しむことがない神通力を得ようとしたのです。それが、24才のときの悟り
で、もはや自分は火にも水にも滅びない体を得たと確信した。それが「巌頭
和尚はまめ息災だったわい」の叫びです。その時点で、白隠さんは当初の目的
を果たしたのですが、残念ながらそれは仏法ではなかったということです。
499 :
名無しさん@1周年:01/11/05 13:21
>>497-498 「野狐禅」と「悟り」との関係を簡単に説明していただけませんか?
私には「野狐禅」と「悟り」の違いは紙一重のようにも思えます。
しかし、500は頂き。ナム
>何故現代には白隠禅しか残らなかったのか?
ヴェトナム臨済禅が残っています。
『禅への鍵』ティク・ナット・ハン 春秋社
臨済禅語る前に、上記の本を読みましょう。
無駄な説明を省くことができるでしょう。
>>501 今、日本の話をしてるんです。
レスをちゃんと読みましょう。
503 :
名無しさん@1周年:01/11/05 20:46
>38改さん
38改さんは、日本の白隠禅に限界を感じてないのですか?
504 :
453(319も) :01/11/05 21:14
白隠禅師の師正受老人は当時の仏教界の堕落を思い、弟子の白隠に
一人でも二人でもいいから本物をつくれ、決して多くをつくろうと
するなと戒めていました。そうして禅門の再興を託したと言われています。
ここは後年の印可連発を考える上で重要なポイントとなるので書いておきます。
そしてみなさんがあまり触れない
>弟子の東嶺がその後その者達の境地をもう一度検証して印可を取り上げたということ。
ここも重要です。
東嶺はハッキリと師である白隠の行為を否定していることになります。
では東嶺に非があるのか?それは疑問です。何故なら彼は白隠存命中からその右腕と
して活躍しており、白隠禅師にかなり信頼されていたからです。
ある年の正月には「こうしてよい年を迎えられるのも東嶺禅師のおかげである」と言っていた
くらいですから。
いや、東嶺が悟っておらず慢心したのだというのであれば、それを見抜けず印可を与えた
師にその非があるでしょう。
むしろ東嶺の行為は師の印可連発により未熟者が慢心して変な事をやらかさぬよう、
白隠の評価がそれによって落ちることのないよう配慮したものと考えることもできます。
>本当に、「小悟」「大悟」を繰り返す・・という事があるのでしょうか?
実は最初のカキコの後その方向にもっていきたかったわけです。(笑)
つまり白隠禅師は「悟り」という言葉を正しく理解していなかったのでは?という疑問
がここから出てきます。
「悟り」という言葉を正しく理解していないのであれば自分の「悟り」そのものが
極めて疑わしくなってくるのです。
そしてそこからはじめて本題である「現代白隠禅の批判的展開」へと繋がって行くのです。
>>502さん
日本の禅云々以前に、「臨済禅とは?」「禅宗とは?」「悟りとは?」「公案とは?」
といった基本的用件についての理解が得られるのでお勧めしたまでです。
老婆心でしたね。
>>503さん
確かに日本の禅宗は、白隠に至る応燈関の一流しか現存していませんが、
逆に「日本の臨済禅は白隠禅である」とも思っていません。
(「白隠は公案を体系化した」なんて言われてますが、そりゃ十数年も僧堂に居れば
別ですが、数年間しかいない人にとっては『無門関』終わらすのがやっとで、
余り関係ありません。ただ『槐安国語』なんか読んでみると、やはり白隠って面白いですね。)
ですから限界を感じているのは、白隠禅に対してではなく自らに対してです。
でもヴェトナム臨済禅には、日本禅宗再生の可能性を感じますね。
506 :
名無しさん@1周年:01/11/05 21:54
追伸:
白隠禅に限界がある(を感じる)わけではないのです。
なぜなら確かに白隠には白隠の家風と言うものがありますが、
同時に白隠の禅と臨済の禅、あるいは趙州や馬祖の禅と少しも違いが
あるわけでもないからです。
白隠だろうが誰だろうが、どのようなお方を介しようと、お釈迦様の正法が
伝われば、それをどう料理するかはその時々の禅匠のお好みです。
甘かろうが、辛かろうが、それは家風ですが、少しも損なわれることがありません。
問題は、正法が伝わらないときです。
もちろん「禅宗は滅んでも、禅は滅ぶことはない」と誰かが言ったように、
何かの拍子に独覺もありますが、それでは釈尊の教えは滅んでしまいます。
たとえば独覺の盤珪がなぜ印可を受けることにこだわったかは、決して権威付け
だけではありますまい。
ところで、ここでは皆さんで白隠が正しいか否かを論議されているようですが…。
それって何の役に立つのでしょうか?
>それって何の役に立つのでしょうか?
何の訳にも立たないよ。
453が馬鹿なだけ。
509 :
名無しさん@1周年:01/11/05 22:27
>>508 いや、すごく意味あると思う。
結論は見えてきたような気がするけど。
但し、その批判的展開の結論にも「疑い」は必要だとは思うが。
510 :
名無しさん@1周年:01/11/05 22:27
>>507 >それって何の役に立つのでしょうか?
ヴェトナム臨済禅って何の役に立つのでしょうか?
私の言わんとしている意味が解りますか?
老婆心ながら付け加えればヴェトナム臨済禅のことを
言ってるのではありませんよ。
もし解らないのであれば解るまでしばらく坐ってみてはいかが?
>>510 あなたね、いくら何でもそれはひどいよ。
38改さんは白隠禅に何の意味があるのか?
とは聞いていませんよ。
正しいか否かを論議することに何の意味があるのか?
と聞いていますよね?
それに対して
あなたの
>ヴェトナム臨済禅って何の役に立つのでしょうか?
>もし解らないのであれば解るまでしばらく坐ってみてはいかが?
というのは、むしろあなたに向けて言いたいくらいだ。
すなわちくだらない真贋論争をやめて、
真贋のほどが解るように、
解らないなら解るまでしばらく坐ってみてはいかが?
とね。
>>511 >老婆心ながら付け加えればヴェトナム臨済禅のことを
>言ってるのではありませんよ。
何故あなたは510の文の引用をここだけ外したのですか?
やはり理解出来なかったのですね。
だったらあれこれ言わずに坐るべきでしょう。
>
>>512 >>老婆心ながら付け加えればヴェトナム臨済禅のことを
>>言ってるのではありませんよ。
>何故あなたは510の文の引用をここだけ外したのですか?
私がなぜそうしたのか解りませんか?
解らないのならあれこれ言わず座りなさい。
514 :
名無しさん@1周年:01/11/05 23:39
>>497 24歳のときのを単なる「野狐禅」にしてしまっていいのかと疑問があります。
「野狐禅」とすると、24歳の「野狐禅」がなければ、42歳の「大悟」を得ることも
なかったことなります。
「野狐禅」がなければ「悟り」にはならないというのは肯けないものがあります。
やはり「色即是空」を悟るのは、「大悟」(「解脱」の意味ではない)と考えたい。
但し、そこで「空即是色」に向わず、
「悟り」を得たと確信し、人に迷惑(説法)を撒き散らす場合なら、
必ず惨めな「野狐禅」が生じると考えたいですね。
般若心経の基本なのですから。
515 :
名無しさん@1周年:01/11/05 23:45
>>513 見苦しい。
こういう輩は放置で。>ALL
515<<
元気になりましたか?(笑)
>>515さん、
僭越ながら忠告させていただきます。
あなた以外の方は513さんのレスを全く放置しています。
あなただけですよ、見苦しいレスをしているのは。
それと、なぜ、わざわざ他の人に放置を呼びかけるのですか?
あなたは学校でいじめっ子だったタイプなのでしょうか?
さらに言わせていただくと、仏教は理をもって説く宗教です。
川を渡ってまで船を担ぐ必要はありませんが、
川を渡るまでは船が必要です。
同じように禅では不立文字といいますが、
本来言葉で説明できないのは彼岸にわたってからのこと。
それまでの段階は言葉で説明できます。
もちろん実践は大事ですが。
自分の説明できないことをすぐに言っても解らないかえあ座りなさい、
というのでは、あなたがからかわれて当然ですよ。
>>491 >475>さんと、変人さん、その他の方へ
>お礼とお詫び
私は別に気にしてませんよ。
>>492 >因みに、私は何回か登場されている禅師ではなく、
>トーシローであることはご理解いただけてるでしょうか?
もちろん、そのつもりです。
つもり、と言うのは、485さんの指す禅師さんの発言がどれなのか分かりませんし、
私はその禅師さんにも実際には会ったことがないし、ついでに言うなら
485さんとも会ったことが無いはずですから(笑)。
少なくとも485さんの発言は450、485、492なのでしょう?
その前提で話しています。
ただ、話の内容は
ここを読んでいるだろう他の人たちのことも考慮しています。
>>495 >あれを書いたのは、弟子の雲水らが禅病にかかったとき助けるためと言われます。
>ノイローゼ状態の者に対する説得として、創作が必要だったのでしょう。
方便ということなら、時代が時代だけに非難の対象にはなりませんね。
また、この観想法の効果自体を疑っている訳ではありません。
>>496 私なりに感じたことを書いてみます。
まず、
>白隠は「大悟」を、「大疑の下に大悟あり」と述べています。
白隠禅師は自分の言葉としてこれを言ったのですね?
私はこういうことが言える人はなるほど高い境地にいた人だと思います。
理由は色々ありますが、基本は自身の瞑想体験です。
>この「地一下の歓喜」が「大悟」と呼ばれます。
歓喜という言葉を使っていたのですか?
これは驚きです。これはいわゆるサーマディーですね。
これだけでは本来の「悟り」とは言えません。
またサーマディーには段階があることも知られています。>「大悟」が生じれば、それ以前の自己とは全く別の自己となってしまいますが、
ということですが、全く別人になるのは485さんの用語で言うなら、
大悟ではなく「解脱」の後のことではないでしょうか?
もちろん、「大悟」の後にも大きな変化はあるでしょうが
全く別人になるわけではないでしょう。
>悟った後は、「悟り」を意識化することになります(せざるを得ない)。
>この意識化する過程で、どうしてもまた「悟ったことに対する(からの)自我」が生じ、
>「悟りの境地」との矛盾が生じるわけです。
>この矛盾が「疑」となり、前の「大悟」を否定する形で、その後の「悟り」が開くことになります。
>そのため「悟り」を得れば否定するのが定石となってると考えています。
これは白隠禅師が自身で言ったことですか?
それともあなたの推論ですか?
もしも白隠禅師自身の言葉だとしたらやはり用語の混乱でしょう。
最初の大悟は本来なら大悟と呼ぶべきものではないものですし、
あるいはそう呼ぶにしても「解脱」ではない、ということです。
ただ、「悟ったことに対する(からの)自我」というのはどちらにしろ正解です。
世界対自己の対比というのは、
単純に「自分」と「自分の見ている世界」という構図になっていません。
最初の段階で世界と自分の一体感を感じても、それは最初の段階で本当の悟りではないです。
#私は白隠研究している訳ではないのでこういう話を聞くと参考になります。
>>498 >42才の時の
>が最初で最後の大悟。そこで、法華経に対する評価が180度ひっくりかえる。そこに
>注目するべきだと思います。秋月龍民(あて字)の講話だったと思いますが、禅の悟りは、
>「色即是空」と、「空即是色」の二つが揃わねばならぬそうです。白隠さんの場合、
>最初の悟りというのは「色即是空」にとどまっていたのでしょうね。「空即是色」が
>ないと、仏教で一番大切な「菩提心」が生まれてこない。法華経の心とは、菩提心ひとつ
>ですから、若い頃の白隠さんがその価値を理解できなかったのは当然でしょう。
なるほど。
しかしちょっとだけ誤解もあるようです。
また、二つが揃うためには上記の通り、それなりに段階があります。
私は一瞑想家なので、話がちょっとずれますが、
瞑想について説明しながら上記の意味を考えてみたいと思います。
以降、
>>498さんに対して、というより
このスレで説明を必要としている人に対してのレスです。
まず、瞑想には主に2つのタイプがあります。
一つは外に向かう瞑想、
もう一つは内に向かう瞑想ですね。
外に向かう瞑想、というのはなんだか全然瞑想らしくないようですが、
これは「愛」とか「祈り」とかから始めるタイプで、
世界規模で見るとこのタイプの宗教のほうが一般的です。
禅(仏教)は言うまでもなく内に向かうタイプですね。
このタイプは道を進む上で、後々「菩提心」が絶対に必要になってきます。
もっとも、後々必要になる、と言っても最初の段階から強調するわけですが。
一方、外に向かうタイプの瞑想では、
最初から菩提心から始めるようなものなので強調することが別にあります。
それがいわゆる「神」なんです。
愛から始めるタイプの場合、どうしても注意が外側に向かうので、
愛を向ける「対象」が必要になってきます。
その対象は普通、「異性」だったり「お金」だったりするわけでしょう。
しかし、そういう具体的な対象を取り上げて、
代わりに「神」を対象として設定するわけです。
では、「神」とは具体的にどのようなものなんでしょうか?
よく考えてみると、実は具体的に「神」をイメージできる人などいません。
なぜなら神を見た人なんていない訳ですから。
つまり、
「イメージできない神」を愛する、
ということは、実際には
愛を向ける「対象を取り去る」
ということを意味しているんです。
こうすることで「愛」は「祈り(いわゆる願いごとではない)」になっていきます。
最初から神を対象の無いものとして、祈りの世界に入っていける人はいないと思いますが、
それだけ逆に、本来なら「神」はより純粋な形で強調されなくてはなりません。
では逆に内に向かうタイプではどうでしょうか?
この場合は、自分の内側を見なさい、と言われる訳です。
しかし自分を見つめているのは誰でしょうか?
自分を見ている自分がいるのなら、
その自分の方が本当の自分でしょう?
そっちの方に降りて行きなさいよ。
と、わかりやすく言うとこんな風に言われるわけですよね。
今度は取り去るのは「対象」ではなく
それを意識している「自分」のほうなわけです。
一方は意識を外に向け、その「対象」を取り去り、
もう一方は意識を内に向け、その「主体」を取り去る。
一方では神というかたちで「無」が強調され、
もう一方では菩提心というかたちで「対象世界」が強調される・・・
そしてその両方が合わさったとき、
つまり
「自分の」悟りであると同時に「世界の」悟りである、
そういう境地になったとき、
その時こそ本当の悟りなのではないか?
だからこそ、覚者は皆、教えを広めようとするのではないか?
教えを広めるのは、それは、やむにやまれぬ悟りの表現で、
世界全体が悟らない限り本当の悟りでない、
そういう風に感じているからなのではないか?
それが前に私が言った、
ある内観的なきっかけで法華経から感じたこと、
なんです。
もちろん私自身がそのような境地にいるわけではありませんが、
ある段階まできてしまうと、
「それ」の求めに応じて身を投げ出すためには、
確固とした帰依と菩提心が必要なのが分かってきます。
菩提心は最初から無くても瞑想はできますが、
昔からよく言われているように深いところまでいけないし、魔境に入るだけでしょう。
自分が消えていく恐怖に耐えられませんから・・・・
一方、外に向かうタイプでも、神を設定しないで愛することはできますが、
「対象」に執着してしまい、祈りへと昇華することは難しいことでしょう。
・・・私がこういうことを書くのは、
本で読んだだけの知識がいかに役に立たないかを示したいからです。
そういうものはそれなりに重要ですが、
何が正しいか、間違っているか、真偽が知りたかったら
やはり実際に自分自身で検証するしかないんです。
>>518 あの〜自作自演なさってる最中大変申し訳ないんですが(笑)
515は自分じゃないんですが・・・
515さんが反論しないもんで一応・・・
こんなこと書くと俺も違うぞって書くんだろうな(笑)
>>524 あの〜513は私ですが。どうでも良いけど…(笑)
訂正します。
やっぱり白隠24歳の「大悟」は、「野狐禅」に間違いないようです。
原因は、「発心」によるもの。
「発心」が仏法でなかったら、「悟り」にはならず、「野狐禅」になる。
派生的に、説法したくなって、やってみても、「仏法」にはならない。
しかし、軌道修正して、再度「発心」を「仏法」に戻せば、大丈夫。
正しい「発心」に対する「大悟」は、やはり1回になりそうです。
(となると、いかに誤謬が罷り通ってるのか、恐いですね。)
瞑想で必ず言われる「野狐禅に気をつけるように!」というのは、
実際は「発心は正しいのか確認せよ!」(「悟ってどうするのか?という理解」)
ということになりそうですね。
>>498 >白隠さんが禅の門を叩いたきっかけは、地獄が恐ろしくてしようがなかった
>からです。
>その時点で、白隠さんは当初の目的を果たしたのですが、
>残念ながらそれは仏法ではなかったということです。
ありがとうございます。そういうことだったのですね。
寝て起きたら、まとまりました。
>>453 故に古来「発心正しからざれば萬行徒に施す」と言う。
の意味が実感できました。
遅レスですが、
>>408の重要性も実感できました。
528 :
名無しさん@1周年:01/11/06 06:39
現代白隠禅の批判的展開はやはり意味のあることのようですね。
昨日の○○さんのやりとりを見ていればね。
僧堂で何年も修行しててあのようなことをしてしまう。
無門関を終わらせるくらい進んでて本来ならもう見性をしているはずなのに
未だに出来ていない。
というか、見性していないのにそこまで進んでしまうこと自体おかしい。
これは本人の資質の問題というより白隠禅自体の問題である可能性を考えるべき。
白隠自体が悟ってないのならそこから伝わった悟りも本物ではないことになる。
>>528 1.厳密に言えば白隠禅というようなものは白隠だけのもの。
「日本白隠禅の批判的展開」なんて松本史郎みたいな口調で言うと
もっともらしいけど、それはあなたの幻想に過ぎない。
日本白隠禅なんていうものはどこにも存在しない。
せめて「現代日本の禅宗批判」ぐらいにしてほしいもんだ。
2.ここで公案のことを云々してなんになるの?
興味があるならば、実際に参禅しなさい。
日本の僧侶が信用できないなら、ティクナットハンの僧伽も京都と奈良に
在るらしいから。
悟りについて、自分でも悟っていないし、悟っている人と出会ったこともない
あなたが云々すること自体意味を為していないのではないだろうか?
>>528 っま、最後の砦白隠がそんな状態ですと、もはや日本にはホンモノは無いのですか?
531 :
通りがかり:01/11/06 08:53
>475様
おっしゃることはよく理解できるのですが、
>このタイプは道を進む上で、後々「菩提心」が絶対に必要になってきます。
にあるような、表現に違和感を感じます。同じような方向を進んでいるように見える
が、実はスタートラインが違っているのではないか、という感じです。達磨大師は
仏法の功徳を問われて「無功徳」と喝破されましたが、いかなる宗教も「無功徳」で
なければ嘘だと思います。悟りを得る「ために」坐れば、もう「野狐禅」です。なぜ
なら、悟りを得ようとすること自体が悟りに反するからです。道元も「ただ坐れ」と
言っていますし、公案も悟りを開くためでなく、虚仮の自我を壊すためです。
盤珪禅師は、悟りを開くのに坐る必要などない、人は生まれつき「不生の真我」を
持って生まれているのだから、虚仮の自我を自分だと思い込まなければそれでいい、
と言いました。そこに禅の原点があると思うのです。修行で悟りを得ようとするのは、
瓦を磨いて鏡にするようなものです。そこに「正覚禅」と「野狐禅」の差もあると
私は思います。
菩提心は、手段ではなくて目的なのではありませんか?それに、菩提心を修行で身に
つけられるとすれば、そんなものは贋物です。菩提心は、心の底から自発的に湧きあ
がってくる無限の慈悲なんですから。
>>531 なるほど・・・貴重なレスです。これが第一義ですね。解りました。
野狐禅だ、白隠禅、菩提心だ、慈悲心だと、いくら言葉をいじりまわしても
それが理解できるのでしょうか?
禅とは、事象を概念化しないことだと理解していますが。
>>このタイプは道を進む上で、後々「菩提心」が絶対に必要になってきます。
>にあるような、表現に違和感を感じます。同じような方向を進んでいるように見える
>が、実はスタートラインが違っているのではないか、という感じです。達磨大師は
>仏法の功徳を問われて「無功徳」と喝破されましたが、いかなる宗教も「無功徳」で
>なければ嘘だと思います。悟りを得る「ために」坐れば、もう「野狐禅」です。なぜ
>なら、悟りを得ようとすること自体が悟りに反するからです。道元も「ただ坐れ」と
>言っていますし、公案も悟りを開くためでなく、虚仮の自我を壊すためです。
全くその通りです。
表現の違いは実践的な説明だと思って下さい。
悟りを得ようとすること自体が悟りに反するからのなら、
最初から修行自体が成り立ちません。
>修行で悟りを得ようとするのは、
>瓦を磨いて鏡にするようなものです。そこに「正覚禅」と「野狐禅」の差もあると
>私は思います。
それも全くその通りなんですよ。
でも最初からそれが「実際に」分かっているなら誰も苦労しません。
>菩提心は、手段ではなくて目的なのではありませんか?それに、菩提心を修行で身に
>つけられるとすれば、そんなものは贋物です。菩提心は、心の底から自発的に湧きあ
>がってくる無限の慈悲なんですから。
そういう風に読まれましたか?
私は
>教えを広めるのは、それは、やむにやまれぬ悟りの表現で、
>世界全体が悟らない限り本当の悟りでない、
>そういう風に「感じている」からなのではないか?
と書いたんです。
ただ、おっしゃるように、
悟りを目的として座っていると途中でそれ以上は先にいけない。
「その種の人」に対しては、
菩提心を思い出すことが一種のなんというか修行の命綱になるんです。
・・ここのスレを見ていればその種の人がたくさんいるのが分かるでしょう。
だからわざわざ
>以降、
>>498さんに対して、というより
>このスレで説明を必要としている人に対してのレスです。
と書きました。
私も普段はこういう実践的な書き方はしませんから。
もう少し補足します
>>531 >盤珪禅師は、悟りを開くのに坐る必要などない、人は生まれつき「不生の真我」を
>持って生まれているのだから、虚仮の自我を自分だと思い込まなければそれでいい、
「虚仮の自我」とは何でしょう?
私たちが普通に知っている自我(エゴ)は本当の自我(エゴ)ではありません。
>>531さんのおっしゃる言葉で言うところの「野狐禅」によって
初めてその「本当の自我(エゴ)=虚仮の自我」が見つかるんです。
そうしてから初めて、その「虚仮の自我」が自分(真我)でない、と悟る訳です。
#条件付けを砕くための瞑想、という説明でしたら
>>411ですでにしています。
>>530変人さん
では、あなたご自身はどうでしょうか?今のあなたは偽者でしょうか?
では本当のあなたとは如何?
何度も言いますが、これが白隠禅だ!と言うような固定化したものはありえません。
もしあるとすれば、それは禅でもなんでもないです。
白隠を検証しても意味はないです。法が伝わったことは明歴歴ですから。
でなければ隠山惟エンも儀山善来も滴水宜牧も生まれなかった訳ですし、
卓洲胡僊も豊田毒湛も山本玄峰も輩出されなかった訳ですから。
現代の日本臨済宗に問題があるとすれば、それは我々現代禅僧の生活に
問題があるのであって、禅そのものに問題があるわけではないでしょう。
50年前までは正法が彼方此方で行じられていたことは明らかです。
しかし、いまや風前の灯であることも間違いないでしょう。
悟りだ何だと言っても、大切なことは公案を数えたり、印可状を貰う事ではありますまい。
悟りが真の人間性に目覚めることならば、当然目覚めた方の人格は素晴らしいものです。
そういう人はそこに居るだけで、周りの人に影響を与えます。
現在でもそういう方々が、僅かですが居られます。
ただ、それが次の世代に伝わるかどうかは疑問です。
538 :
通りがかり:01/11/06 11:12
>535
前にも書きましたが、私は475さんの指摘はすべて正しいことを認めているのですが、
ここがうまく説明できないのですが、何かが違っていると感じているのです。悟りを
開こうとするのは、自分が仏ではない、と言っていることと同じです。自分の額に
めがねを上げているのを忘れて、必死になってめがねを探す。その探すという行為
自体がナンセンスなので、探すのをやめて、ちゃんと額にめがねがあることを認識
する、めがねをなくしたのではという無用な不安を払拭するのが本当の悟りだと
思うのです。475さんは実践家でらっしゃいますが、文章から察する限り、まだ
めがねをなくしたという不安を乗り越えておられない、つぎは箪笥の上を探して、
その次はテレビ、という風に探し続けておられるような気がしましてね。
悟りとは、「なあんだ、心配して損した」と探すのをやめたときに「見つかる」の
ではないでしょうか。
>悟りとは、「なあんだ、心配して損した」と探すのをやめたときに「見つかる」の
>ではないでしょうか。
それは「探すのをやめる」というのが
具体的にどのような状態であるかをご存じないからですよ(苦笑)。
ただ単に探していない、というのなら犬や猫も探していません。
ちなみに探すのをやめると見つかる、というのは、
実際にその場面に遭遇すればそんな単純な説明では不十分だ、と感じることでしょう。
また、見つかってそれがゴールというのも実は間違いなんですよ。
540 :
通りがかり:01/11/06 11:26
>535
ちょうど、盤珪禅師が似たことを書かれているので、引用しましょう。
また皆の衆が、修行の、座禅のとござって、悟り出さんと思はしゃって、
力を出して修行するは、大きな誤りでござる。一切諸仏の心と、各々の
仏心と、二つは御座らぬに、悟りたいと思はしゃれば、悟る人と、悟ら
るる物と、二つに成りまする。また、少しにても悟りたいと思ふ心があれ
ば、はや不生の場を退き、仏心に背きまする。この親の産付け与へられ
ました仏心は、唯一つにて、二つもまた三つも御座らぬぞいの。
(『盤珪禅師説法(不徹庵本)』下巻の二)
541 :
通りがかり:01/11/06 11:30
>539
いや、簡単ですよ。人は不安だから探すのです。不安が払拭されれば、
探す必要などない。行き当たったのが本当のゴールかどうか、という
迷いもまた不安の一種にすぎません。具体的に伺いますが、475さんは、
念仏三昧で一切の不安から脱却した「妙好人」の境地は贋物だとおっ
しゃるのでしょうか?
>>540 >悟る人と、悟ら
>るる物と、二つに成りまする。
くどいようですが、これは「悟る人と悟らるる物」の二つが、
「具体的に」どのようなものかを知っている段階で初めて言えることなんです。
またこのこと自体が間違っている訳ではありません。
盤珪禅師は完璧に正しい。
しかし「虚仮の自我」が何かさえ知らない段階の人には…
>>541 >行き当たったのが本当のゴールかどうか、という
>迷いもまた不安の一種にすぎません。
そんなことは言っていませんよ。
>>539の意味を誤認しています。
>具体的に伺いますが、475さんは、
>念仏三昧で一切の不安から脱却した「妙好人」の境地は贋物だとおっ
>しゃるのでしょうか?
その「妙好人」のことを私は知りません。
出かけますので失礼。
「通りがかり」は「言いがかり」に改名した方がいいんじゃないか(藁。
546 :
通りがかり:01/11/06 11:49
>475さん
>これは「悟る人と悟らるる物」の二つが、 「具体的に」どのような
>ものかを知っている段階で初めて言えることなんです。
???盤珪さんは、生まれつき「不生の仏心」を持っているのだから、
取り立ててさらに修行して仏心を得る必要はないと主張されているの
ですが。
なるほど。こうやって議論してみると、表面的には同じ知識でも、その
実態は千差万別、同床異夢なのがはっきりわかりますね(^^)。非常に
勉強になりました。
547 :
無宗派さん:01/11/06 12:43
素人故、しばらく、短く、問題提起
のみといかせて下さい。興味ある人
感想ないし、ご教示ください。
花は紅、柳は緑。これの意味するとこらは、
悟った後も前も、やはり、花は紅で、柳は緑で
あったが、同じ紅、緑でなかったということ
と聞いたことがあります。何となく分かる気がします。
」
戻りました。
>>546 >???盤珪さんは、生まれつき「不生の仏心」を持っているのだから、
>取り立ててさらに修行して仏心を得る必要はないと主張されているの
>ですが。
「不生の仏心」は仏教の根本認識でしょう。
一番最初にこの認識が無ければならないのは言うまでもないことです。
修行するから仏心が生じる、などというのはカルトですよ。
元々ない仏心が修行によって芽生える、
などというトンデモ話を私がしているとでも思いましたか?
くどいようですが、
>>531 >道元も「ただ坐れ」と
>言っていますし、公案も悟りを開くためでなく、虚仮の自我を壊すためです。
などの部分も否定しているのではないですよ。
ただ、道元は座ることも否定しましたか?
私も普段は修行だなんだと言ってるカルトを叩く方だから、
イヤと言うほどあなたの言いたい意味は分かっているんですよ。
それともう一つ、禅的手法以外の手法も私は認めますし、
念仏仏教は知らないだけです。
しかしそんなことは
>>521以降の書き込みを読めば分かることではありませんか?
549 :
通りがかり:01/11/06 14:38
>548
盤珪禅師の見解は、禅の世界でも評価が分かれるところだと思います。白隠さんは
盤珪さんを否定していましたし。私の問題提起は、オリジナルなものではなく、
「本覚思想」を云々する際には必ずと言って話題になることでしょう。人が本来
仏なのなら、なぜ修行をする必要があるのか、盤珪さんは修行は要らぬと断言し、
白隠さんは修行は必要だと言う。禅を論じる上で、この問題は避けて通れないと
思ったので、475さんの胸をお借りして、問題提起してみました(^^)。無礼を感じ
られたのでしたら、お許しください。
38改さん
既存の「禅」は、それなりの重要な位置をしめるでしょう。がしかし・・
その道に入門しようとするものが、旧態依然の「禅の世界」にどれほどの価値観をみいだすか?
世の中、女性が携帯もってピコピコやっている。それらの誘惑を振り切って入門するほど
求道心があるのか? まあ、そこのところが最大の問題。
白隠禅云々は、いわば問題提起。ある時代は良かったのかもしれないが、
今や時代が即応出来なくなってきているという現れなんでしょう。
それはレスを読んでいても、それなりに感ずるところはある。
30年位前なら解るのだが、果たして現代若者が対処できるのか?
これまでのごとく、伝統教義に固執するか?否か?そこのところが興味あり。
たぶん38改さんは、そこのところを見抜いている人だと思う。
時代の先駆者・・というところでしょうか?
もしかしたら、私と同意見かもしれないな。
>>547 僭越ながら、一言。
紅花も、枯葉も、ゴミも自然に溶け合って美しいのではないでしょうか?
これは、紅葉とか、桜見物みたいな「風情」の美しさではなくて・・
人間臭さの美しさ・・というのでしょうか?
人間の営みが混沌と混じり合ったような、なんともいえない感じなのでしょう。
私のレスは無視していいです。独り言ですから。
552 :
通りがかり:01/11/06 17:09
>>547 私のイメージはこんな感じでしょうか。「色即是空」で、見た目に違ったものも実は
同じ「ひとつ」のもの=平等だということを知る。しかし、逆に「空即是色」で、
花が赤く、柳が緑であるという区別があって、それゆえに尊さがある。サン=テグジュ
ペリの『星の王子』に似た話が出てきます。春になると、いっせいに花が咲く。それは
外から見た限り、「花」の集合としか見えない(色即是空)。しかし、王子が裏庭に
咲く一本の花は、他の「花」では代えられないほどの「特別な一本」になるのです。
それは、もはや「ワンオブゼム」ではない。「わたし」と「あなた」という一対一の
関係です。「あなた」が枯れれば、王子は地に伏して泣くだろう。そういう「あなた」
でいてくれることに無限の感謝が出て来る(空即是色)。少し屁理屈をこねると、
「花」という集合で捉えることが人間の妄想なんでしょう。実際に存在するのは、
「Aさんがかわいがっている花」とか、「Bさんが育てている花」という一本一本。
それを「同じものだ」とみなすのはカン違いでしかない。ひとつ区別があるからこそ、
相手の存在をかけがえのないものと尊重し、慈しむという「菩提心」が生まれてくる
のでしょう。
553 :
名無しさん@1周年:01/11/06 18:38
38改さん
>>503=
>>514=
>>526 です。
>>505 >>507で、ご返答ありがとうございました。
私が514で白隠24歳の「野狐禅」を「大悟」と考えてしまったとき、38改さんのレス、
>>533と同じようなことを考えてました。
「善悪一如」を説く仏教で、なぜ「野狐禅」だけは、ほぼ絶対否定になってしまうのか。
おかしくないか? なぜ白隠が「大悟」と考えたものを、簡単に「野狐禅」にして否定
してしまうのか?実は「大悟」として得るものは、「大悟」も「野狐禅」も同じものなの
ではないか? 「野狐禅」が否定されたものは、「悟り」を得た仏僧の邪魔になるから
ではないか?白隠批判の論点、「発心」と「印可乱発」なら、「印可乱発」問題に近い
理由で、「野狐禅」は否定されてるのではないか?
そういう戯けた見方で迷ってたんですよね。しかし、白隠禅を肯定的に見ようとしてた
わけです。
それで前から不思議に思ってたのですが、白隠禅の「疑」と「信」では、最後には「信」
まで否定してしまいますよね?その間接的な方法が「専従念仏」であり、最後に消す
のが「仏」であるなら、だいたい実感できる。
しかし、禅の「信」はいかにして消すことができるのかは、少しイメージがしづらかった
んですね。しかし禅で「信」が消えるのは、当たり前のことだったんですね。
「発心」が白隠的な方法を取る際の一貫した「信」であり、「大悟」の見性ににより、
「発心」=「信」=「大悟」が遂げられた以上、「信」は自ずから消えるしかなくなるんだ
と気付いたわけです。常識感覚そのものだったんだと。
白隠禅の手法「疑団」は強烈だし、すべて「疑」が「信」に置き換えられて進むものだと
思っています。もし「発心」がズレていれば、「疑団」がすべてズレた「発心」に置き換え
られて進む。そうなると、ズレた「発心」は「野狐禅」にならざるを得なくなってしまう。
そこにはやはり髪の毛一本も入る余地がなくなってしまう。
白隠禅の手法を肯定的に見たときに、白隠24歳の「大悟」は「野狐禅」と見ざるを得なく
なったわけです。
>ですから限界を感じているのは、白隠禅に対してではなく自らに対してです。
この一文が気になってしまい、レスさせていただきました。
554 :
名無しさん@1周年:01/11/06 18:54
>>531
>菩提心は、心の底から自発的に湧きあがってくる無限の慈悲なんですから。
確かにこれは本来誰もがが持ってるものだと思います。
しかし、菩薩心の歪んだものが社会の中で蔓延ってるのも事実です。
純粋なカルト信者ほど、菩薩心(の歪んだもの)が非常に強い。
いや、彼、彼女らの行動はすべて菩薩心からのものと言っても過言じゃない。
やはり「菩薩心」の真贋をしっかりと見極める必要があると思います。
その第一印象で、盤珪禅師を批判的に見て、勉強をさせてもらいたいと思います。
555 :
名無しさん@1周年:01/11/06 19:09
>>541 >>盤珪禅師は、悟りを開くのに坐る必要などない、人は生まれつき「不生の真我」を
>>持って生まれているのだから、虚仮の自我を自分だと思い込まなければそれでいい、
>いや、簡単ですよ。
>念仏三昧で一切の不安から脱却した「妙好人」の境地は贋物だとおっ
>しゃるのでしょうか?
では、なぜ人は皆「妙巧人」の境地でいられないのか
それは、実際問題、
>虚仮の自我を自分だと思い込まなければそれでいい
如何に掛かると思います。
虚空の自我を自分と思いこまずに、生きていくことは難しいのではないでしょうか?
そのように生きてる人ばかりですので、その中で人間関係を維持することすら、
難しい現実があります。
いかに「虚空の自我」を「自己意識」として信じられるのかが、
社会生活上の勝負の分かれ目かもしれません。
結局は、「個人」の問題なのですが、例え「妙巧人」の境地ですら、
「不立文字」では済まないのが現実生活のように思っています。
556 :
名無しさん@1周年:01/11/06 19:24
>>547 悟った後の境地というのは分からないけれど、
生の躍動感のある紅と緑に見えたのではないでしょうか?
「花一本の赤」に惹かれ、「花一本の赤」に壊れると、灰色の世界が広がる。
周りの花も、柳もあってもなくても良いもの。
ただ自然にある花の「紅」、柳の「緑」が、灰色の世界に美しく映える。
それだけで本当にありがたい。
そんな中で心の通じた1本が、自然な「紅」であり、唯一の「花」になるように思います。
557 :
通りがかり:01/11/06 19:36
>555
「虚仮の自己」を感じ取ることは、日常生活でも容易だと思います。別に
座禅を組むまでもない。先日、酒屋に行って、棚に一本だけ残っていた
酒を買ってきました。それが実にうまかったので、早く入荷しないか、と
心待ちにしていたがなかなか入ってこない。こうなると、ますます欲しく
なって、出張先ごとに酒屋めぐりを始める。もう病気です。
ところが、数週間してお目当ての酒がめでたく入荷した。しかも棚に溢れ
んばかりに。それを目にした途端、熱意が醒めてしまい、実は「美味かった」
という感覚の半分は錯覚にすぎなかったことを思い知りました。
こういうのが「虚仮の自己」です。大切なのは、その都度、「自ら不合理な
欲望の無限連鎖」にはまっている愚かな自分を認識することでしょう。
これもまたレッキとした仏道修行だと思います。
>>555 >虚板の自我を自分だと思い込まなければそれでいい、
究極のところ「禅」も、観念論に終結する。
白隠禅依然の問題。こういった観念論的発想で、見性するとは偉大なり。
ということは、なにも「座らなくても」それなりの手法を駆使すれば、それなりの見性
が可能であると見たり。これは全くもって大発見です。もう白隠どころの騒ぎでは無い。
私も明日から、この秘伝を研究することにした。言わんとしていることは大体解る。
盤珪禅師は、こういう事にかけては先駆的発想の方とお見受けする。
559 :
名無しさん@1周年:01/11/06 21:17
>>557 少し話が飛躍してます。
>では、なぜ人は皆「妙巧人」の境地でいられないのか?
この事実を安易に見過ぎてる気がします。
浄土真宗スレの渡海氏は「妙巧人」について、
「僕は妙巧人にはなろうとは思わない」と言い切ってます。
私は当初、彼の見方に対して批判的でしたが、今は理解できます。
「妙巧人」への安易な肯定的評価はできない。
(「妙巧人」は好きだからこそなのですが)
>こういうのが「虚仮の自己」です。大切なのは、その都度、「自ら不合理な
>欲望の無限連鎖」にはまっている愚かな自分を認識することでしょう。
上記酒屋の例は、人間としての問題です。
そして、そこから人はすぐに外れてしまう。
この「気付き」ができるのは、
「発心」のようなものがあるからではないでしょうか?
「発心」のようなものがないところに、「妙巧人」
「発心」のようなものと言うのは、
「菩薩心」が「妙巧人の境地」には当てはまらないような気がするからです。
確か浄土真宗は「般若心経」を使わなかったはずです。
悪い言い方をすれば、日本では盤珪禅師の方法なら、
仏教はいらないかもしれません。
訂正
× 「発心」のようなものがないところに、「妙巧人」
○ 「発心」のようなものがないところに、「妙公人の境地」があるのかと問われれば
素晴らしい例外はありますが、???となります。
561 :
名無しさん@1周年:01/11/06 21:20
>>558 「大仙は宮中にあり、中仙は市井にあり、小仙は山中にあり」
もう一度、「悟り」スレを読んでごらん。
「罪」と「恥」に気付けるか?
そして、致命的な過ちを犯すところだったことに「気付く」ことができるか?
562 :
無宗派さん:01/11/06 22:04
良レスには、何時も感謝しています。
初心に戻って質問します。
今は、臨済禅を中心に話が展開されていると思います。
禅を目指す人は、今後も少なからずいるわけですが、悟りが全てとし、
それ故に、厳しい公案修行中心の臨済禅と、坐ること自体に意義あり
とする曹洞禅のどちらを選択すべきか、参考となる選択の基準、その
違いはどんな考え方の違いから来るのかを教えてください。
563 :
名無しさん@1周年:01/11/06 22:12
皆さん、はじめまして。
>>547 井筒俊彦の『意識と本質』(岩波文庫)で、「本質」論ですが、
「見山是山→見山不是山→見山祗是山」という
それに関する記述がなされています。読まれてみては如何ですか。
個人的には非常におもしろかったです。
>>561 文脈を、そのまま受け取ってはイカンザキ。
肯定もこれ即ち否定なり
否定もこれ即ち肯定なり
>>564 嫌悪すべき言い訳だな。
他人はそんなものを認めない。
(「妙巧人」的に生きることのネックもここにあると思う。)
今、話題になってる「妙巧人の境地」に肯定も否定もないよ。
うわぁ・・・ スマソ。。
「妙好人」を「妙巧人」と誤変換し続けてました。
謹んで訂正させてもらいます。
>盤珪禅師の見解は、禅の世界でも評価が分かれるところだと思います。白隠さんは
>盤珪さんを否定していましたし。
白隠禅師が否定したのですか?
それは手法の違いからくる方便かも知れませんね。
私は盤珪禅師のことは白隠禅師以上に知りません。
しかし
>>540(初めて読みます)の内容を読む限り、
間違いがあるとは思えません。
>私の問題提起は、オリジナルなものではなく、
>「本覚思想」を云々する際には必ずと言って話題になることでしょう。人が本来
>仏なのなら、なぜ修行をする必要があるのか、盤珪さんは修行は要らぬと断言し、
>白隠さんは修行は必要だと言う。
私は両者の立場に何の矛盾もない、と見ます。
たとえ白隠禅師が否定したとしても、です。
これは「修行する」という言葉の意味を考えれば
そんなに難しいことではないでしょう。
「修行する」とは具体的にどういうことだと思いますか?
言葉には実在的な意味があるはずです。
実在的な観点から見るなら「修行する」というのは、
ある種の「行動する」こと、を意味しているように見えませんか?
もちろん一口に「行動する」と言っても、
いろいろな種類の行動形態があるわけですが。
ここでは一応「修行する」は、その行動形態の一種であると見るわけです。
では、今度は「行動する」ということの意味を考えてみてください。
「行動する」とはどういうことを指して言うのでしょうか?
例えば一番普通に考えれば、
私が体を動かせば、動かし方はいろいろあるにせよ、
「行動した」ことになるでしょうね。
これには異論がないと思います。
では体を動かさないでじっとしていれば行動していないことになるんでしょうか?
実は、私は、ことはそう単純では無い、と考えます。
たとえば必死になって体を動かさないでいたとしても、
それは「体を動かさないでいるという行動」を行っているからです。
屁理屈みたいに聞こえるかも知れませんが私は大まじめです。
本当の本当に、言葉のその真の意味において、
「全くなんにも行動するな」
と言われれば、人は死ぬか、悟るかしかないわけです。
なぜか?
理由は、
「私」がそこにいる限り、
行動から逃れるすべは全くないから
です。
「行動する」ということの実在的意味を考えれば、
そこには必ず、行動するための「主体」が必然だとわかるでしょう。
「主体」なしには「行動」はあり得ません。
考えてみて下さい。
例えば仮に、死体が死後硬直で動いた、というような場合、
それを死体が行動した、と言いますか?
こういう場合は、死体に死後硬直が「起こった」と言うでしょう?
たとえ動きがそこにあっても、それは誰かが行ったのでは無いので、
行動とは呼べないんです。
これを基礎に「修行するな」の意味を読み解けば、
心の中に「悟りたい」という気持ちがある人にとっては、
修行をしないでいることなど全く不可能であることが解るでしょう。
なぜなら「修行する」という言葉の意味は、
悟りたい心を持った人が、悟るために行う行動全般のこと、だからです。
しかし仏門を叩く人に、その「悟りたい」という気持ちがない、
なんてことがあるんでしょうか?
もっと具体的に言いましょう。
例えば誰か悟りたい、という気持ちを持った人が仏門を叩き、
盤珪禅師のもとを訪れたとします。
盤珪禅師は「悟りたい」という気持ちを捨てろ、と言うでしょう。
言われた方はじゃあ捨てよう、と思うんです。
しかしその場合は、捨てれば悟れるんだ、
という心がどこかに残っている、ということを意味しています。
なぜか?
もしも本当に、その人に「悟りたい」という気持ちが全くなかったとしたら、
そのときにはそもそものはじめから「悟りたいという心」を捨てる必要がないからです。
ということはですね、
「悟りたい心を捨てようとすること」も悟りを妨げるはずですから、
悟りたい心をそのまま持っていることも、
あるいは逆にそれを捨てることも「両方ともに」出来ないんですよ。
出来ない理由はハッキリしています。
そこに「悟りたい人」がいるからです。
そこに「悟りたい人」がいる限り、悟りは不可能なんです。
だから修行をする必要がない、という言葉の真意は、
何をしても良いが「悟りたい人」を落とせ、
道元禅師の言葉なら、ただ座れ、ということでしょう。
そして何をしても結局最終的に「悟りたい人」を落とせば良いんですから、
逆に言うと修行をしたって良いんですよ(笑)。
もっと解りやすく、かみ砕いて言い直すと
これはつまり、盤珪禅師は「修行する」ということを
「行動」という観点から見ていない、ということを意味しているんです。
「行動」という観点から見ていないからそれを無視しているだけなんです。
まあ、私は盤珪禅師のことはほとんど知りませんから推測ですが(笑)。
白隠禅師に関してはまた機会をみて感じたことを書きますが
ここで知った範囲では、今まで以上に高い評価になっています。
上記
>>569の
>これはつまり、盤珪禅師は「修行する」ということを
>「行動」という観点から見ていない、ということを意味しているんです。
の部分ですが、「行動」という観点からみた修行を否定している、の意味です。
571 :
名無しさん@1周年:01/11/07 04:02
盛り上がってる話題と違って申し訳ない。
ちょっとしたドラッグ体験がきっかけで座禅をはじめて一年になります。
もちろんドラッグ抜きでやってますよ。
(しかし、ヒッピー禅のそしりは免れないのだろう。。。)
足の痺れがひいては消え、もう、どうにも我慢ならないってとこで、
見えるものが輝きだして、まぶしくなって、
意識と認識が分かれたようになるような感じで、
だからある意味、ゆったりしてる、
でも、足が痛すぎて、心臓もどきどきしだして、目にも力が入っちゃって、
それまでの平静な感じからかわっちゃって、
いつもそこでやめちゃうんですよ。
これ以上足に血液を送らないと、やばいんじゃないか、なんて思ったりして。
でも、足は大丈夫ですか?
何時間くらい血液が行かなくても大丈夫なんですかね。
体の痛みがなければもっとやりたいんだけど、
わたしには、結跏趺坐が向いてないってことなんでしょうか?
それとも、誰もがその壁を超えていくのか??それが知りたい。
572 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/07 06:04
やっぱり盤珪禅師の「無修行」、「妙好人」的生き方を勧めるのは躊躇せざるを得ず、
仏教を選ぶなら、「発心」し修業を必要とする方が、罪が少ない気がします。
強いて言うなら、
「悟りたい」と思って禅の修行をするぐらいなら、盤珪禅師の「無修行」、
道元の「ただ坐れ」の方が良い、、ぐらいになるんじゃないかと。
「妙好人」同様、「発心」に「菩薩心」がないのだから。
(「われ1人」は、「菩薩心」を自ら否定したところに成立するものではないでしょうか?)
だけど、盤珪禅師の「無修行」を選択するなら、神道、仙道を選ぶ方が無難かもしれません。
(「日常生活を修行と考える」のは、こちらの方が一般的なイメージに沿う。)
「無修行」の欠点は、
>>518に出てるかもしれません。2点です。
1つは、どうしようもない奴が発生してしまうこと。
もう1つは、「無修行」で「妙好人の境地」を得れば、
努力して「悟り」を得た人のように見られ勝ちで、
不安を抱える人からの相談が増え、それに対応しなければならなくなる。
しかし、「妙好人の境地」に至る際、「言葉」が身に付いていないので、
理解できる人にしか理解されず、負担ばかりになってしまう。
「心の荒んだ時代」と言われる今の社会では、その負担は破壊的に甚大かと。
結果として、悲しむのは自分の「家族」になる。
よって、3つぐらいの選択肢になりそうです。
・家庭内「出家」(=家族崩壊) これは決定的に否定することの方が多いです。
・神道に安定を求める。 これには肯定的です。
・「出家」して、「発心」し修行をする。 これにも肯定的です。
う〜ん、仏教の「発心」と、家族と、人間関係か・・・
# なんだか、漱石の『門』みたいになってきたぞ。。。
573 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/07 06:05
574 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/07 06:06
>>571 光を見てるとき、不快感はないですか?
もし不快感があるようなら、止めた方がいいと思いますよ。
話が込み入って来ましたので、
今回から、固定HNを使うことにします。
風車さん
素人にも大変解りやすい。良質のレスです。
まあ、私は一般社会人ですから、その範囲内で少しでも「禅」の世界に触れたいと思っています。
その立場上、各禅師の相対的考察というのは大変興味がある。
自分との接点を模索している段階。一応ベースが組み立てられたら、その後自分なりに考察してみようと思う。
>>498 >白隠さんが禅の門を叩いたきっかけは、地獄が恐ろしくてしようがなかった
>からです。
>その時点で、白隠さんは当初の目的を果たしたのですが、
>残念ながらそれは仏法ではなかったということです。
そういう解釈はやはり見方が狭いと思いますよ。
あなたの見地からはそう見える、ということだけでしょう。
前にも書いた事ですが、地獄が恐ろしくてしようがなかった、
というのは、これは人間のタイプと関係があることです。
それが発心が正しくない、と言ってしまえばそれまで。
仏陀だって妻を捨てて出家したのだから、ずいぶん自分勝手な事をしているんです。
いちゃもんをつけようとすればいくらでもつけられる。
もしも人を救おう、というような崇高な気持ちを発心に持っていたのなら、
そういうタイプの人は愛や祈りを強調するタイプの宗教に心惹かれるだけなんです。
つまり外向タイプか、内向タイプか、という事だけで
白隠さんは仏教的手法が向く内向タイプだったということでしょう。
また、最初の悟りが本当の悟りではない、というのはその通りでしょうが、
それは一つの段階にしかすぎません。
白隠さんがそこで止まったままだったのなら非難されても仕方がないが、
そこから先に行こうとしたのだから、
やはり単に発心が低いというだけでは説明が付かない。
私が
>>519-523で言おうとしたことが
誤解されているようにも感じますのではっきりさせておきますが、
私はやはり白隠さんは42才の時に本当に悟りに入ったのではないか、
と思っていますし、白隠さんのことは高く評価しています。
579 :
通りがかり:01/11/07 08:43
いろいろな意見を伺って感じたことですが、どうも皆さんと私とでは宗教の門を
叩く動機そのものが違っていたようですね。私が仏教に興味を持たざるを得なかった
のは、若い頃にある事件に遭遇した挙句、それがトラウマとなって長く残り、昼も夜も
ある人物を呪い明け暮れる毎日を送ることになったからです。自分でも、こんなこと
をしていてはどうしようもないとわかっていたが、どうしようもなかった。そういう時
に、すがりついた藁が仏教だったのです。それまで、信仰など道楽の一種か、迷信家の
するものだと思っていましたからね。私の場合は、「悟りたい」という高尚な動機など
なかった。
だからなんでしょうが、盤珪さんのアプローチがしっくり行くのです。とにかく、当面
の「苦」を解決すればそれでいい。「苦」から脱却して感謝感謝で生きる人は仏でしょう。
そもそも仏教は「苦」からの脱却が目的なんだから。観念論はお好きな人が趣味でやればいい。
市井の人を「抜苦与楽」するのが菩薩の本分ならば、それだけで十分でしょう。それこそが
菩提心というものではないか。白隠さんは、盤珪さんをよしとはしませんでしたが、
彼もまた市井の人を教え諭すために、かな法語を多く残しました。私にはこちらの方
がわかりやすい。晩年に、市井の人への門戸を堅く閉ざした道元さんと、またこの部分
は対照的で面白い。
>>538 >ここがうまく説明できないのですが、何かが違っていると感じているのです。
>>557を読んでいて私は何が違いか分かってきました。
>公案も悟りを開くためでなく、虚仮の自我を壊すためです。
の部分ですね。
犬や猫にも仏性がありますが、犬猫は悟れません。
なぜなら元から悟っているし、虚仮の自我を持っていないから。
虚仮の自我を持っているのは人間だけで、だからこそ悟れるのでしょう。
あなたが
>>557で説明してる虚仮の自我への気づきはそれで間違っていません。
間違っていませんが、虚仮の自我というのは、その観察の深さに応じて
違ってきますから、そこで出てくる悟りも違ってくるわけです。
>>519で
>白隠は「大悟」を、「大疑の下に大悟あり」と述べています。
という言葉が出てきたでしょう。
そもそも、虚仮の自我を壊すには、まずしっかりと虚仮の自我が何か分かっていなければなりません。
あなたはその部分の認識が甘いのでしょう。
>>579 475さんの洞察力には敬意をはらうが・・・
私は、貴方の考えに納得いきます。
ヒッピー禅にしても、それなりに「泥臭さ」というものがありますよ。
そこに、一瞬キラリと光るものが見えます。心を突き動かすものというのでしょうか?
そういった素朴なものを大事にしたいですね。
真贋云々も大切なのですが、人間の原点はそればかりでは推し量れない。
>白隠さんは、盤珪さんをよしとはしませんでしたが、
そこがよく分かりません。
座禅和讃のようなものを書ける人物が無為自然を理解していないはずがない。
>>567-570で書いたように、一口に「修行する」と言ってもいろいろな観点があるわけです。
道元さんのタイプで「修行」と言えば、
座ることを基本に日常生活のあらゆることが修行なはずです。
なぜか?
それは特定の「行動」という観点で修行を見ていないからです。
そうではなく、その行動を起こす主体に近づくこと、
言葉を代えれば「気づくこと」を修行と言っているからでしょう。
盤珪さんの「無修行」というのは、行動としての修行がない、ということで
「気づき」がない、という事ではないはずです。
実際に虚仮の自我に「気づき」なさい、と言っているのでしょう?
普通は「気づき」は行動ではありません。
583 :
通りがかり:01/11/07 09:19
>580
>そもそも、虚仮の自我を壊すには、まずしっかりと虚仮の自我が何か分かっていなければなりません。
???白隠さんの公案、たとえば「隻手の声を聞く」というのは、虚仮の
自我を知るためにあるのですか?それは初耳です。知るのではなく、知る
までもなく、虚仮の自分をニッチもサッチもいかぬ状態に追い詰め、粉々に
粉砕するためではないのですか?「大疑」とはそういう意味でしょう?
>虚仮の自分をニッチもサッチもいかぬ状態に追い詰め、粉々に
>粉砕するためではないのですか?「大疑」とはそういう意味でしょう?
あなたはささいな表現の違いにとらわれて本質を見失っているだけですよ(笑)。
>虚仮の自分をニッチもサッチもいかぬ状態に追い詰め
と言いますが、虚仮の自我がしっかりしていなければしっかり追いつめられんでしょう。
585 :
通りがかり:01/11/07 09:32
>582
盤珪さんは、自分自身が壮絶な修行を積んで、「悟り」を得たのだが、
市井の人に自分と同じような目に会わせて悟らせるのは忍びないから、
その「悟り」の内容を誰でもわかる平易な表現で説いたのです。これを
裏返すと、盤珪さんは修行そのものに価値を認めず、修行の結果である
「悟り」の内容が大切だと考えていたことがわかります。その「悟り」
の内容は、たとえ自分の力で得たものでなく、他人から教えられたもの
であっても、各自が日常生活で工夫して実践することで、「苦」から脱却
できるという考え方です。
白隠さんは、これは私見がはいりますが、どうしても一旦は自分自身で
その「悟り」を開くために苦労するという経験が不可欠だと考えていたの
ではないでしょうか。白隠禅のシステムは、これでもか、これでもか、と
いう公案のオンパレードで、修行者を苦しめることを目的にしているように
見えます。
いずれにせよ、悟りとは、悟ってみればな〜んだ、と思われるような内容、
探し回っていためがねは自分の額にあった、という程度のものです。道元さん
は「悟って、目は横に、鼻は縦に付いていることがわかった」と言いました。
ある別の禅師は、「悟ってみても、夏は暑くて、冬は寒い」と述解しました。
それを人に言われて気づくか、自分で散々苦労した挙句悟るか、の違いだと
思います。
>>585 >盤珪さんは、自分自身が壮絶な修行を積んで、「悟り」を得たのだが、
>市井の人に自分と同じような目に会わせて悟らせるのは忍びないから、
>その「悟り」の内容を誰でもわかる平易な表現で説いたのです。
壮絶な修行という内容がよく分かりませんが、
内観が基本の仏教で修行が「壮絶」というのは何か間違った認識で修行をしていた、
という事だと推測します。
おそらく盤珪さんは若い頃に「行動」という観点で修行をとらえ、
壮絶な行動をしたのでしょう。
しかしそれは「気づき」という内観とは関係なかった、
だから「行動としての座禅」とかの修行を否定した、
そういうことなのではありませんか?
>>580 >まずしっかりと虚仮の自我が何か分っていなければなりません。
これが分るというのは、すごい事ですね。
よく、こういう言い方をする人がいます・・・「悟り」を得るなら、悟りとはどういうものか
知らなければならない云々。 この論法に似ていますね。
たぶん、貴方は宗教学者か、またはそれに類するタイプと察する。
そういう視点でレスを拝見していますが、位置付けとしてそれで宜しいですか?
>いずれにせよ、悟りとは、悟ってみればな〜んだ、と思われるような内容、
>探し回っていためがねは自分の額にあった、という程度のものです。
実を言うと、ここの部分はものすごくよーく分かるんです(笑)。
「そのこと自体」は否定はしません。
>よく、こういう言い方をする人がいます・・・「悟り」を得るなら、悟りとはどういうものか
>知らなければならない云々。 この論法に似ていますね。
悟りは知ることができるような「対象」ではありません。
ごっちゃにしないでくださいな。
590 :
通りがかり:01/11/07 09:48
>584
>虚仮の自我がしっかりしていなければしっかり追いつめられんでしょう。
そこがよくわからんのです。自分自身が虚仮の自我にどっぷり浸かって、
虚仮の自我を通じて世の中を見ているのですから、その辺の鏡を見れば、
たいてい映るのは虚仮の自我でしょう。追い詰めるのは何でもありません。
分別智では絶対に解けない難題を出してやればいい。両手を打ち鳴らすと
ポンと音がする。では、片手だけの場合はどんな音がするか?こんなもの、
いくら考えても答えなど出てきません。その内、疲労の極になって、脳の
どこかがぶちきれる。その時に虚仮の自我が崩壊して、「不生の仏心」
ないし「真我」とご対面する。
妙好人は念仏三昧を通じて、この過程を経験するのです。原理は禅と同じ。
ポイントは、最後の最後に「命綱」として握り締めた拳を離すということ
です。「百尺竿上に一歩を進める」です。
>>590 >>虚仮の自我がしっかりしていなければしっかり追いつめられんでしょう。
>そこがよくわからんのです。自分自身が虚仮の自我にどっぷり浸かって、
>虚仮の自我を通じて世の中を見ているのですから、その辺の鏡を見れば、
>たいてい映るのは虚仮の自我でしょう。追い詰めるのは何でもありません。
>分別智では絶対に解けない難題を出してやればいい。
ただ単に頭で考える問題なら、分別智では絶対に解けない難題でいいでしょう。
しかし人間存在はただ単に頭で考えているだけではない。
「虚仮の自我」は、単にあたまで考えている自我、という以上の意味がある。
>妙好人は念仏三昧を通じて、この過程を経験するのです。原理は禅と同じ。
念仏は知らないのでうまくコメントできませんが、
祈りや愛の手法に似ているのかな?
一心不乱の祈りに向かうタイプが念仏なら、
全く同じだと私も思います。
>>590 禅問答のシステムが分って、大変勉強になる。
594 :
通りがかり:01/11/07 10:24
>592
中世の修道院でも瞑想修行はしていたらしいのですが(内容は、キリスト
の受難を想起するというもので、禅とは違いますが)、そこで生まれた
名著と呼ばれる本の中には、禅や念仏三昧の境地と驚く程近い見解が書かれ
ているのが面白いです。トマス・ア・ケンピスとか、マイスター・エックハルト
などなど。口々に、自我を滅却しただけ、神が自分の中に流れ込んでくる、
と言っています。自我を捨てることで真理に到る、という原理は同じですね。
こうやって見てくると、必ずしも「公案」のような特定のシステムがなくても
人は悟れるのではないか、と思ったりします。
>>594 >禅や念仏三昧の境地と驚く程近い見解が書かれ
>ているのが面白いです。トマス・ア・ケンピスとか、マイスター・エックハルト
>などなど。口々に、自我を滅却しただけ、神が自分の中に流れ込んでくる、
>と言っています。自我を捨てることで真理に到る、という原理は同じですね。
その通りです。
>こうやって見てくると、必ずしも「公案」のような特定のシステムがなくても
>人は悟れるのではないか、と思ったりします。
私は別に公案というシステムを擁護したり白隠さんが正しくて
盤珪さんは間違っている、などと言っていません。
私は両者はの立場に矛盾はない、と言っているだけなんですよ。
596 :
無宗派さん:01/11/07 12:48
「不立文字」を旨とする、禅宗が、最も多くの文字
を費やして悟りを説くといわれている。
我々無明の民を悟りへ導くには、やはり、百万語が必要なのですネ。
手助けをして下さる、ご老師、先達に感謝。
>>594 うむ。この話は私も聞いたことがある。大変参考になりました。
598 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/08 07:39
>>572は、無修行の「公案」について、私の第一印象をまとめたものです。
公案と説くとき、私はいつも第一印象を大切にします。
第一印象はいつも「間違っているから」。
それに「気付く」とき、自分の殻が壊し、成長できるのかもしれません。
今、「無修行」を肯定する方向に心が傾いています。
この第一印象を構成するものが、「虚仮の自我」なのでしょう。
572には、すごく自分の「虚仮の自我」が出ていると観察してます。
今は、これまで。思案中。。。
>>598 >それに「気付く」とき、自分の殻が壊し、成長できるのかもしれません。
まあ、これの連続かと思いますね。実に良レスが続くので目が離せない状態。
伝統教義に、それなりの先入観がありましたから、まさに「目から鱗」。
600 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/08 08:11
けど、600はゲト!
>>583 >???白隠さんの公案、たとえば「隻手の声を聞く」というのは、虚仮の
>自我を知るためにあるのですか?それは初耳です。知るのではなく、知る
>までもなく、虚仮の自分をニッチもサッチもいかぬ状態に追い詰め、粉々に
>粉砕するためではないのですか?「大疑」とはそういう意味でしょう?
昨日、これを読んだとき、私は少し驚きました。
用語の混乱があったからです。
>虚仮の自分をニッチもサッチもいかぬ状態に追い詰め、粉々に粉砕する
ということですが、
そもそものはじめから自分が気がついてもいないものを粉砕することなどできません。
それと、「粉砕する」という言葉には、
普通は粉砕する主体と、粉砕される客体の2つが必要です。
しかし、よく考えてみると、公案で粉砕されるのは「虚仮の自我」で、
それを粉砕するのもまた「虚仮の自我」です。
私は昨日、
>>582で
>普通は「気づき」は行動ではありません。
と書きました。
なぜか?
それは、行動は前にも見てきたように主体が動くことで成り立っていますが、
「気づき」においては主体の動きは主体の中にとどまるからです。
つまり、583さんが「粉砕する」という言葉で言い表そうとしていたものと、
「気づき」というのは同義語なんですよ。
仏教において修行といえばこの「気づき」の他にありません。
盤珪さんの「無修行」は、行動としての修行を否定しているだけで、
「気づき」は否定していない、と私は見ます。
道元さんは修行という言葉で行動を意味していません。
やはり「気づき」が修行、と考えていたはずです。
どうして、白隠さんの公案だけが例外などということがあるでしょうか?
私は、白隠さんの公案は、
クリシュナムルティーの手法に非常によく似ていたと思っています。
疑いによる気づきとは、まさに「気づき」の王道をいく手法と言えるでしょう。
私自身にとっても意外な発見でした。
>>601 「粉砕」→「気付き」
この解釈に敬意を表します。
>>601 >疑いによる気付きとは、まさに「気付き」の王道をいく手法と言えるでしょう。
いよいよ、問題の中枢部分に議論が展開している感あり。
604 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/08 12:23
>>602-603 鋭いな。
「気付き」はフロムの用語だよ。
フロムは鈴木大拙と対談して、絶賛してる。
605 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/08 23:51
ここ数年禅から離れていたが、勢い余って今禅について考える。
面白いものである。
足をよく組んでいたとき、何を禅に求めてたのか、振り換える。
心の中に「空白」の中心ポイントを置くためだったと思う。
「発心」と呼ぶべきものは何もなかったような気がする。
そうすることで、生活に纏まりをもたせていたような。。。
久し振りに足を組んで「ポイント」を作り、再度
>>572を見てみる。
禅特有の「集中」が失われ、
だらしなく「拡散」してることを認めざるを得ない。
隙間だらけ…、情けね…
今、論点は 白隠禅の「修行」を必要とする「公案禅」は不必要で、
盤珪禅師の「無修行」、道元の「ただ坐れ」で良いのではないか?
しかし、572では、神道や、リスク、イカレ、家族崩壊、『門』などが含まれてる。
そんなものは関係なく、「今、ここにあること」のみに「集中」すべきなのに・・
それらのものは本来「ない」はずである。
また、他の宗教のように依存性が消える「主体性」こそ禅のよさなのに、
572を見るに、禅に、いや仏教に不必要に委ねようとする情けなさが良く分かる。
606 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/08 23:52
しかし、そうなるのも私にとっては「当たり前」のような気がする。
通りがかりさんの仏教を求めた動機(
>>579)をお伺いするに、
心痛悼みいると同時に、ある種の「羨ましさ」を感じざるを得なかった。
もし相手が固有の人であるなら、自分はそれなりの対応をしてそれなりに
決着をつけたと思う。(無茶もしたかも)
私の相手は、社会の人々に「拡散」してゆく屍臭の漂う思想、風俗、
特に子供を貪ることになるであろう思考、イデオロギーそのものだった。
実在のない敵に激しい憤りを覚え、対抗しようとし、
「拡散」していたものに「集中」したとき、そいつを感得してしまった。
社会に「拡散」していった屍臭を発する風俗の「払拭」、
引いては、自分が感得したものの間接的な「払拭」、
それが仏教に「委ねていた」ものだったと思う。
しかし、当時、世間に仏教は「なかった」。
この辺りまで振り返らなければ、
私には白隠禅の「修業」、盤珪禅師の「無修行」
を見ることはできないと思う。
私が今回のやりとりを通して感じたことを少し。
人間として大切なものは、頭の良さとか知識の豊富さなどではなく、
まっすぐな心や、人を思いやる暖かいハートだ、ということ。
変人さんは相変わらずで(笑)、論理的的思考はいささか怪しいが、
そのつどそのつど自分に正直にレスしていること、
スレの流れをいい方に持っていこうと、
所々で合いの手を入れていることなどから、
彼の素直さ、優しさを感じることができた。
私も変化身を使うことはあるが、
それが自分の言いたいことをてっとり早く言えたり効果的だったりするから。
相手を言い負かすためのトラップをあからさまな嘘までついて仕掛けたことはない。
元から「論争」をしてるつもりも無かったが、
特に475のハンドルネームにしてからは、
できるだけ虚心坦懐、何が真実で何が間違いか、
だけを考えるようにしていたつもりだ。
それは私の過去ログを読めば分かると思う。
正しいことには素直に正しいといい、間違ったことはそこが違うのではないか、
と言うようにしてきたつもりだ。
その姿勢が分かってもらえなかった事を残念に思う。
皆様、中間総括しているようだが・・
私は、今後どう議論が展開するのか注視している。
というのは、ある程度の内面的メカニズムは議論されてきた。そこに、外的要因が加味される。
というのが私の自論。いわば、内外の融合というべきか?(不二の論法関係なし)
音、声、風の動き、こういったものが微妙に誘発すると考える。全くの静粛では考えられない。
周波数、リズム色々考えられるが、まあこのところは経験則ということで・・
鳥の声、川のせせらぎ、風による樹木のかすかな動き。
それに、最も重要な事は「時間」。これは常日頃私が提唱している。
このことは、どうも気がかりなのだが・・
他スレで、レーシングドライバの体験レスを読んだ事がある。限界的速度に達すると
状況は一変、スローモーション的感覚になるそうだ、至福感も伴うらしい。
まあ、このことは錯覚的範疇なるものか?捉え方次第であるが、私は重要だと思っている。
これは私も経験しているからだ(高速関係なし)。別に解明するには及ばぬ事だが・・
なんらかの「示唆」を与えているのではないかと、帰納的考察のキッカケでもあれば幸いくらいに思う。
たぶん、パズルを組合すような手法で解るとおもわれる。
(つづき)
例えば「座っている時」は、見性、気付き、は起こらない。
これには全く関わらない、ある瞬間的に顕現される・・一般的にそうであろう。
これは、論理的解釈に非ず。経験則及び、情報集約の結果である。
「ソウドウ」の「ただ座ればよい」は、どこにその主眼が置かれているのか推測できる。
つまり「一念三千」の理法が、ここに浮上してくると思うのです。
ようはベースにあるのがこの理法。これにより、主客を超越した直覚により見性するものと推察する。
いわば、物質世界も偶然に出来てしまった。見性も偶然の出来事といえるのではないか?
これを誘発する「素因」と言えるものが「禅」と思えるのだが・・・
>>608 >音、声、風の動き、こういったものが微妙に誘発すると考える。全くの静粛では考えられない。
>周波数、リズム色々考えられるが、まあこのところは経験則ということで・・
>鳥の声、川のせせらぎ、風による樹木のかすかな動き。
独特の言い回しなので読み解くのに苦労しますが(笑)、
何となく言いたいことが分かるような気がします。
内的悟りが、何か外的要因によって誘発されるはずだ、ということですね。
もしかしたら見当違いかもしれませんがその線でレスします。
旅のはじめの段階では師匠(外的要因)がいて、
それが自分にいろいろと教えてくれる(内的目覚め)
というように感じると思うんです。
誰にとっても、最初はそのように感じられるということはまず間違いない。
人間としての師匠がいないにしろ、何かの要因がきっとあるはずだ、と。
つまり外的要因(師匠)が先で内的目覚めが後、
という順番ですね。
これに対して、ある程度旅が進むと、
師匠(インスピレーションをもたらす外的要因全般)が現れるのは、
必ず自分の探求の深さに応じているのだ、と気がつくようになるんです。
たとえ外的要因がきっかけで目が覚めたとしても、
それ(外的要因)は、そもそものはじめから内的探求に応じて現れたものだ、と。
これは私が経験済みなので間違いありません。
つまり、内的要因(探求)が先で、師匠(外的要因)は後、という感じです。
しかし、私は、それもまた一つの段階で、究極的には「同着」なんだと思うんですよ。
占いの世界に「辻問い」というのがあるそうです。
これは、たとえば誰か問題を持っているひとが、
それに答えてくれる人(師匠)がいないような時に、
辻(街角)に出かけて人の会話などの中にその答えを探す、
というものなのだそうです。
ある人が自分は極楽にいけるだろうか?
と思い悩み、師がいないため、
この辻問いをして答えを得ようとしました。
しばらくすると、ある人が偶然通りかかり、
その男の前に来たときに涼しい風が吹きました。
その涼しい風に、通りかかった人は思わず
「いやー、涼しい、極楽極楽」
と言い、それを聞いた男は、
これは自分が極楽にいけるという啓示だ、と喜んだそうな。
まあ、これは一つのたとえ話だとは思いますが、
「啓示(師匠、もしくは教え)」というものは、そもそもどこにでもあるんです。
それは街角のちょっとした誰かの会話かもしれない。
大事なのはあくまでも素直に耳傾けるという姿勢(内的態度)。
>>222で
>今、本物はどこにいるのだろうか?
と本物の師匠を探している方がいました。
私はすかさず
>>223 >その前にあなたが本物の弟子で在れるのか?
>を問いかけたほうがいいように思いますが…。
と答えたのを覚えています。
38改さんが、白隠禅が問題なんじゃない、
自分自身に限界を感じただけ、
と言っていたのも同じ事を言っているような気がするんです。
>>585 >盤珪さんは修行そのものに価値を認めず、修行の結果である
>「悟り」の内容が大切だと考えていたことがわかります。その「悟り」
>の内容は、たとえ自分の力で得たものでなく、他人から教えられたもの
>であっても、各自が日常生活で工夫して実践することで、「苦」から脱却
>できるという考え方です。
悟りには、人から人に伝えることのできる「内容」などありません。
伝えることができるのはあくまでも方便(技法)と知識だけ。
それが白隠の公案であってもいいし、無修行であってもいい。
>いわば、物質世界も偶然に出来てしまった。見性も偶然の出来事といえるのではないか?
>これを誘発する「素因」と言えるものが「禅」と思えるのだが・・・
それは違います。
まず「見性」は正確には「出来事」ではありませんし、
誘発する「素因」という表現自体がおかしい。
>>594 >トマス・ア・ケンピスとか、マイスター・エックハルト
>などなど。口々に、自我を滅却しただけ、神が自分の中に流れ込んでくる、
>と言っています。自我を捨てることで真理に到る、という原理は同じですね。
自我を捨てる、というのは私が上記で言った耳傾ける姿勢の事です。
そしてそれには「方法」などありません。
方法というのは私がこのスレので説明して来た「行動」を意味し、
耳傾ける姿勢は「気づき」を意味するからです。
クリシュナムルティーとボームの対話をコピペしておきます。
>( クリシュナムルティ) あの無限なるものの呼び声を聞かなければなりません。
>( ボーム) では、無限なるものが人間の成り行きを転換するのであって、
>個人にはできないのですね。
>( クリシュナムルティ ) ええ。個人にはできません、明らかに。が、
>この道をたどりきったとされる存在である覚者が「聞きなさい」と言っても、
>非覚者は聞かないのです。
>( ボーム ) では、人々を聞かせるようにさせる方法を発見することができるでしょうか?
>( クリシュナムルティ) いや、それではあと戻りです!
>( ボーム ) と言いますと?
>(クリシュナムルティ) じたばたするな、ということです。何もすることはないのです。
>( ボーム) 「何もすることはない」とはどういう意味ですか?
>( クリシュナムルティ) 非覚者としての私は、犠牲、修行、放棄など何をしようと、
>なおあの暗黒の円のなかに生きていることがわかります。
>そこで覚者は「じたばたしないようにしなさい。
>何もすることはないのだ」と言い聞かせます。
>が、それは、何が起こるかを待ち、
>そして見ること以外のあらゆることをしようとする
>非覚者によって勝手に解釈され、
>あれこれのことを追求しなければ望みはないと思いちがいされてしまうのです。
><1980年4月19日、カリフォルニア、オーハイ> 97’4月1日更新
>>610 >(外的要因)は、そもそものはじめから内的探求に応じて現れたものだと、
まあ、これは「主観」の問題ですから、通常の認識の範疇です。
>究極的には「同着」なんだと思うんですよ。
これが即ち、609レスの「主客を超越した直覚」。と言う事ですね。
ですから、話は一足飛びに、本質の部分にメスを入れているのです。
「気付く」とは、「もともと内面に内在している」。という仮説をベースにしております。
まあ、ここのところは見解の相違はあるとは思いますが・・。
一応、仮説をたてませんと議論が進みませんので、独断で進行させてしまいました。
>>614 >「気付く」とは、「もともと内面に内在している」。という仮説をベースにしております。
>まあ、ここのところは見解の相違はあるとは思いますが・・。
「内と外の両方が一致する事」が「気づき」という感じです。
たとえば歩くという行動は、
普通は、歩く主体と、歩いている体という客体に分かれている。
しかし「気づき」の中では、
「歩いているということ」というプロセスとして両者に分別がありません。
そもそも気づくためには気づくための「対象」が必要ですが、
両者が一致していることが気づきなんです。
頭で気づくというのは、
まだ気づいている頭と気づかれている体に分離してるので
本当には「気づき」ではありません。
>>614 >>究極的には「同着」なんだと思うんですよ。
>これが即ち、609レスの「主客を超越した直覚」。と言う事ですね。
そのようですね(笑)。
ただ、そうだとすると分からないのは
>音、声、風の動き、こういったものが微妙に誘発すると考える。全くの静粛では考えられない。
>周波数、リズム色々考えられるが、まあこのところは経験則ということで・・
>鳥の声、川のせせらぎ、風による樹木のかすかな動き。
の部分です。
私は全くの静寂が必要と思います。
風の動きが誘発したように見えても、
それはそれはどちらが先に誘発した、
ということでは無いでしょう。
475さん
>そもそも気付くためには気付くための「対象」が必要ですが
と言っておいて・・
>>究極的には「同着」なんだと思うんですよ。
↑この解釈が・・・「私は全くの静粛が必要と思います」。<616レス。
まあ、これをどう解釈したらよいのか迷うところですが、とにかく・・・
仏教の本質である、「内なる探究」これの重要性は確かに否定はしない。
しかし、伝統教義がいずれにせよ岐路にたっているのも明らかである。
ここのところを、視点を変えて見るのも一考かと思う。
観念論とは言わないまでも、「探求」は「探求」に終わる・・というのも真なり。
618 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/09 13:07
475さん
仰ってることは、ほとんど合ってるんじゃないでしょうか?
(真摯な検証は伝わってきています。)
いくつか、私が補足しなければならないところや、
「対話」が必要なところを留保させてもらってるところもありますが。
基本的には通りがかりさんの指摘、
>>538と同じような違和感があります。
それはなぜ禅に興味を持ったのか、なぜ「修行」をするのか?というところに
帰結するような気がしてます。
それで、今、自分なりにその点をはっきりさせようと思ってます。
後、クリシュナムリティーと白隠との対比が念頭にされてると思いますが、
私はクリシュナムリッティーの「沈黙」と鈴木大拙の「無言」に共通性を感じています。
クリシュナムルティーを知ったのが最近のことですので、未検証ですが、、
(鈴木大拙の方も忘れてたりして、、汗…)
619 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/09 13:08
変人さん
>そこに、外的要因が加味される。
同意です。しかし、普通に生活していれば、必ず生じるものです。
これを無くすことが、今、「無修行」の論点になってると考えています。
自分を中心とした「発心のようなもの」と「集中力」の問題かと。
(もう1つは、「所有」という方法がありますが…)
それで、この外的要因がなくなる(「主体性」)というのは、
禅、念仏に特有なもので、他の宗教では「神」は残ります(いや、残さなければならない)。
その点を加味しなければ、誤解が生じるような気がします。
>他スレで、レーシングドライバの体験レスを読んだ事がある。限界的速度に達する
>と状況は一変、スローモーション的感覚になるそうだ、至福感も伴うらしい。
>これは私も経験しているからだ
この話振ったのは私なのですが、すべてのものとの一体感ならこの感覚が近い。
この時間に外部的存在はありません。
これはギリギリのところでの「集中力」に基づくものだと思ってます。
>例えば「座っている時」は、見性、気付き、は起こらない。
フロムの「気付き」(「丹田呼吸法」に近い。今度、引用します。)でいいますと起こります。
というか、激しい生活の中、「すべての思考を停止させる時間」を作るわけですが、
思考がしばらく止まった後、次々と「内省」(対象との一体化)が生じるはずです。
620 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/09 13:15
変人さん
>頭で気づくというのは、
>まだ気づいている頭と気づかれている体に分離してるので
>本当には「気づき」ではありません。
少し語弊があるかもしれません。
公案による白隠禅は、頭でやるんですよ。
そして、頭でやったことをすべて破壊するのです。
そうすることで、「頭でやること」を否定するのです。
DNAに関して。
岸田秀が、神経症などに関して、次のように言っています。
「人間は動物として壊れてる」
この原因は「認識」です。
だから、「認識」を持たぬ、鳥も猫も悟ってるのでしょう。
そして、人間が他の動物になることは不可能なのです。
そして「悟り」の境地が存在する。これを可能にするのが、白隠禅だと思っています。
>>619 外的要因ということで、音、声、風の動き、と言う事をカキコしましたが、上手く説明できませんでした。
これをもっと端的に説明しようとすると「ゆらぎ」かと思いますね。
この世界は「かすかな動き」があります。微妙とは、こういう解釈で良いかと思います。
で、やはり「ゆらぎ」は気持ちがリラックスするのかと思います。
これが感応するか、否かは難しいところですが、やはり私とすると肯定的に捉えたい気持ちです。
、
>>617 >475さん
>>そもそも気付くためには気付くための「対象」が必要ですが
>と言っておいて・・
>>>究極的には「同着」なんだと思うんですよ。
>↑この解釈が・・・「私は全くの静粛が必要と思います」。<616レス。
それは
>>615で説明した通りです。
何の矛盾も無いんですよ。
ただ、私の言っている「対象」の意味が変人さんの言ってる「主体」なんです。
言っている意味がわかりますか?
私は前に自己と世界との対比は、単純に
「自己と自分が見ている世界」と言うように分かれていない、と言いました。
あなたが自己とか主体という言葉で言い表していることは、
私にとっては、まだまだ「対象」の範疇に含まれているんです。
>>620 私は変人さんではありませんがお答えします。
>少し語弊があるかもしれません。
>公案による白隠禅は、頭でやるんですよ。
>そして、頭でやったことをすべて破壊するのです。
>そうすることで、「頭でやること」を否定するのです。
白隠さんの公案に限らず、公案は頭でやるだけのものではありません。
私とみなさんの見解が分かれる理由がいよいよはっきりしてきたと思います。
自己と世界との対比は、
単純に「自己と自分が見ている世界」と言うように分かれていない
この一点です。
>>クリシュナムルティーと白隠との対比が
クリシュナムルティーは「懐疑」ということを言いましたが
私はこれが禅の公案である、と見ます。
>>620 >頭で気づくというのは
>・・・・・・・・
>本当には「気づき」ではありません。
これは、私のレスではありませんので、なんともコメントしようもないですが。
文面どうりに受け止めると、相当なリスクがあるように思います。
つまり、精神障害ですね。
「ソウドウ」からすると全く手法が違いますね。
白隠系は見性率が高いといわれてますが、リスクと背中合わせのような気がします。
>>624 私が
>>615で言っているのは、
昔から「ソウドウ」の禅で言ってる
歩くとき、歩く人はいない、
ということですよ(苦笑)。
全然分かっていないじゃないですか。
626 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/09 14:05
>>621 >これが感応するか、否かは難しいところですが、
>やはり私とすると肯定的に捉えたい気持ちです。
それを「ゆらぎ」と称するか否かは別として、
私も肯定してますよ。
ただし、スローモーションの世界での体感を、
日常的な生活の中で、恒常的に感じているわけではありません。
再現するには、すんごい「集中力」を要すると思います。
変人さんはかなり恒常的に感じられてるように拝察させていただいています。
>>622 >白隠さんの公案に限らず、公案は頭でやるだけのものではありません。
>自己と世界との対比は、
>単純に「自己と自分が見ている世界」と言うように分かれていない
う〜ん、これにも同意してるわけですが、、、
例えば、内観することも、やはり「頭でやってる」と禅では理解されるかもしれません。
公案には「それ以外にはない!」ぐらいの答えが用意されてしまうのが、
禅だと考えています。
何度も出ている「髪の毛一本の隙もない」と表現されてるものです。
>何度も出ている「髪の毛一本の隙もない」と表現されてるものです。
そこから先は言葉を越えています。
475さん
>歩く主体と、歩いている客体
この論法に、どうも馴染めなかったのかもしれませんね。
まあ、これが「不二」観な訳でしょうから、反論はありません。
意見の違いは意見の違いのまま、
お互いの道を行くしかないでしょうね。
(^-^)/。
630 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/09 14:49
>>624 リスクは、白隠禅のカラクリから見ても、その通りだと思います。
ユングの「集合的無意識」と白隠の「参窮」を見れば一目瞭然なのですが、
なかなかそこまでは行けないようです。
(いや、じっくりと行きたいと思ってたのですが…)
ただ、リスクを言うなら、「無修行」の方にも確実に存在すると思いますよ。
場合によれば、こっちの方が実害が大きい。
公案ではなく、現実を「疑」とするわけですから。
ミスが(いや、その態度が)そのまま、実害となる。
>>627 >そこから先は言葉を越えています。
というか、そこに「発心」=「信」の問題があると思うのです。
その点で、見解が分かれてるのかもしれません。
私の論法は「主客合一」がベースになっている。
白隠の見性体験が、どうも主観の域を出ていないとオモタ。
そこのところを、検証したいと思っていました。
どうも論法のベースに「自観法」が見え隠れする。
この論法は公案なのか?まあ私とすると、ここが原点。
私の論法を「自観法」にあてると、「我」が認識されてしまうのだが・・
いや、実に難しい。
633 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/09 18:54
>>631 おいおい、正解率の低い指摘だな。。
面倒だから、
>>197 =
>>425-426 ≠
>>571 だけ。
>>632 白隠禅師は、間違いなく本物の「主客合一?」の「悟り」に達してると思うよ。
24歳の「野狐禅」のときですら、「主客合一?」に近い描写があるから。
しかし、その「悟り」の領域すら突き抜けようとするのが白隠禅。
だからこそ、白隠禅は「悟り」に達しやすい方法として練成されてると思う。
ただ、白隠禅師自身は「悟り」の領域を、「悟り」だとは理解してなかったんじゃないかな。
中興の祖、言い換えればパイオニアたる宿命かも。
後の弟子が白隠の「修行」を客観視することにより、「悟り」を純化した。
それが「印可取下」の重要な意味なんだと思う。
634 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/09 18:59
>>632 もう1点。
>私の論法を「自観法」にあてると、「我」が認識されてしまうのだが・・
変人さんには「発心」がないよね?
「我」と描写してるものが、変人さんに欠けてるものが、「信」なのかもしれないよ。
>>632 主語が2つあるので意味不明。
「発心」の話よりも、ベースの事を言っている。
すなわち、自観法は究極的に「幽体離脱」を引き起こす。
これが「禅」と、どうも結びつかない。ここのところの解釈が難しい。
「発心」とは信心のことかな?
「我」と「信」がどうも結びつかない。
つまり「我」を認識しないと、自己を客体にできないでしょ。
この「我」は、いわば「幽体離脱」の「我」ということになる(簡単に言うと)。
「信」とどういうふうに結びつくのか解らない?
風車さんって197さんだったんだ。
ゲンメツ。。。。
私は、最初から「我の認識は無い」という前提で論議している。
レスがどうも噛み合っていない。
一応、このレベルで議論したいのだが、そのために私が一足飛びに
タタキ台を提示した。がしかし・・暗中模索状態。
肝心なところにメスを入れることが、スレの目的かと思うのだが残念。
638 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/09 20:07
>>635 失礼。
「我」と描写してるもの = 変人さんに欠けてるもの = 「信」
という意味です。これで大丈夫ですか?
「信」のないところに「疑」なし、とも言われます。
変人さんが、白隠禅の「疑団」(公案を用いる修行)を簡単に否定してるのも、
ここにあるかもしれません。
これはあらゆる宗教で共通している部分かもしれません。
「発心」については、この辺りのレスが参考になると思います。
>>375 >>408 >>453 その他
禅を始める時点で、「発心」により「我」を捨て去らなければ、
「行」にも入れません。
その「発心」が、行を通して「疑」に対する「信」となり、練成されいきます。
「大悟」は、「信」が練成され尽くして、「発心」が成就したものかと。
ここいらから、「一に始まり、一に終わる」と言われるのでしょうね。
後、精神障害ですが、「発心」のある者は、そんなものに怯えませんし、
例え精神障害を起こしても、ある程度までは治癒できる方策も禅にはあります。
臨床でも、禅の方法を用いることもあるようですよ。
>>638 自観法→白隠、を連想して「主観の域を出ていないんじゃないか?」と言ったまでで
そこのところは了承下さい。
「信」=見性という意味なら、そのことで私がタタキ台を提示してある。
で、「信」が欠けてる・・・となれば、話は振り出しですね。
637レスを良く見て下さい。このレベルで話しませんか?と言っているのです。
見性についての、世界観の変化、死生観等です。これは明らかに変わるわけです。
たぶん、死の恐怖が変化します。認識が相当違ってきます。そのレベルで話さないと
意味がないのではないでしょうか?
>>639 >たぶん、死の恐怖が変化します。認識が相当違ってきます。そのレベルで話さないと
>意味がないのではないでしょうか?
そのレベルが
>>633さんの
>24歳の「野狐禅」のときですら、「主客合一?」に近い描写があるから。
でしょう。
みんなとっくにその先の話をしてるようですよ・・・・
641 :
名無しさん@1周年:01/11/10 06:51
>>639 >見性についての、世界観の変化、死生観等です。これは明らかに変わる
参窮を続けた結果、こんな状態が意志とは無関係に突然、厳然してきたんだってさ。
(もしかしたら42歳の方かもしれない。資料整理が甘かったよ。)
いつしか妄想思量の境を打ち越え、前後際断の工夫現前して、
男にあらず女にあらず、賢にあらず愚にあらず、生ある事を見ず、
死ある事を見ず、唯一向空洞々地虚濶々地にして、昼夜の分ちを見ず、
心身ともに消へ失する心地は、幾たびも有之事に候。
641は私です。
「解脱」と言う概念が、迷いを生じさせる。
「野狐「悟り」これの解釈に思い煩うのも迷い。
この境地から抜け出すためのには・・・
「我」を捨て去るが如し、「「解脱」もそのようにした方が宜しいかと思う。
まあ、そういう訳で白隠云々は、さしてわたしは拘らぬ。
これも「小悟」の境地なり。まあいずれにせよ・・・
641レスはしかと見とどけた。これに付随して、「生死」の概念さえも
滅してしまったスグレモノ老師がいる。彼は、立位のままで往生したらしいが
この境地こそ、白隠に並ぶ者として尊敬している。
白隠だれそれ「拘る」のも、一つの「迷い」。
「迷い」の根元は何ぞや?それを検証してみるのも宜しかろう・・・
>>637 >「我の認識は無い」という
変人さんの認識しているような種類の「我」は、
白隠の24才のときの体験でも主客の合一の結果無くなるでしょう。
>>608のようなレスを見ていれば分かります。
>>626 >ただし、スローモーションの世界での体感を、
>日常的な生活の中で、恒常的に感じているわけではありません。
>再現するには、すんごい「集中力」を要すると思います。
それは「集中力」ではありません。
集中の中には緊張があり、意識の狭まりがありますから。
あなたがこの現象を誤解していることは、集中力の前の「すんごい」
という形容詞から分かります。
実際には深い禅定に入ったことのある人なら誰でも知っている事ですが、
これはむしろ意識の狭まりではなく、意識が広がることで起こりますし、
通常非常にリラックスしている状態で起こります。
>>単純に「自己と自分が見ている世界」と言うように分かれていない
>う〜ん、これにも同意してるわけですが、、、
いったい「いつ」同意されたのですか?
私がこの話をした相手の方は通りがかりさんなのですが・・・・
前にも書いたのですが、こういう事は
それなりに見性体験がないとうまく説明できないものです。
まあ、「体験」というのは語弊があってただ単に体験するだけなら
ドラッグをつかっても体験が可能でしょう(私はしたことがないが)。
しかし、体験というものは来てはまた去っていくものです。
体験自体は悟りではありません。
ある種の神秘体験は理解をもたらすように感じますが、
実際には理解が神秘体験をもたらすんです。
ですから、本物の体験の後には、理解が残り、
ただ単に体験しただけではその場限りになってしまうでしょう。
こういうことは、ある程度話をすれば自然と分かってきます。
なぜなら、言葉には実在的な意味があり、単なる記号ではないから。
その人の言葉の使い方から、その人がその言葉をどのレベルで理解しているかが分かるんです。
そしてその理解のありようが間違っているようでしたら、
その人の体験など、いったい何の価値があるのでしょうか?
私の見地からは白隠さんも道元さんも、念仏も同じところにたどり着くだろうし、
禅の種類はその人のタイプの問題、条件付けの問題なのですから、
ことさらそれを批判しようとする方がどうかしているように見えます。
646 :
名無しさん@1周年:01/11/10 11:05
へりくつこいてねーで座禅しろ!
ひたすら座れ。
>>475 ドラッグ体験とは全く別物と思いますね。
というのは、私がいつも言ってることなんですが、あくまでも体験は「副次的」なもの。
体験そのものには殆ど意味はないのですよ。至福体験を重視するため本質の部分を
考察しきれない。そこのところが非常に肝心なのですが、これが全部解ってしまえば
後は不立文字は、とりあえずですが「いらない」のです。
で、これが相当インパクトがありますから、通常自分では消化しきれない。
そこで消化するため、数ヵ月?の猶予が必要なんかと思いますね。それを悟後というのでしょうか?
白隠さんや、道元さんがどういう境地に達したかは、さほど重要ではないですね。
一応は、知識として見聞はしますが、その境地を目指す訳ではありませんから。
>>648 >体験そのものには殆ど意味はないのですよ。
それが私の言っている意味です。
>>649 よくぞその境地に達した。いやーおそれ入谷の鬼子母神。
それこそが「無」の境地なり、これが解ってしまえば、すでに不立文字などいらぬ。
ご精進あれ。 合掌
>>645 >実際には理解が神秘体験をもたらすんです。
まあ、これに尽きると思います。「理解」の捉え方は、貴方自身の胸の内。野暮な事は聞きますまい。
これを、私は「主客合一」といっておるのです。
「直覚で顕現」という人がおりますが、こういういい方は相応しくないと思うのです。
これには「主観」という意味合いがありますからね。ここのところを明確にしませんといけません。
「主客合一」と「主観」では全く違いますからね。重要な点かと思います。
たぶん、貴方でしたら私が言っている意味が解るとは思うのですが。
こればかりは説明しようがないですからね。
652 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/10 21:04
ようやく「体験」主義から、「理解」主義で共通見解が見られたようですね。
「理解」というのが、分別智による理解ではなく、無分別智による理解であることも
一致を見るでしょう。
>>644 >それは「集中力」ではありません。
>集中の中には緊張があり、意識の狭まりがありますから。
>通常非常にリラックスしている状態で起こります。
この部分から察するに、ヨガと白隠禅・念仏との違いがあるかもしれません。
このスローモーションの世界の話は、車でスピードの世界に突っ込んだときに
生じる体感の話からきています。リラックスして運転してるが、スピードが増すに
従って意識的・無意識的に緊張が増していく。そして、死の実感が強烈に襲った
直後に「眼前」する体感です。
禅でも、非常にリラックスした状態から始めます。公案を解き始めるとどうしても
緊張します。そして「集中」するに従って、意識の狭まりが生じます。
そして、禅から離れようとした瞬間に「意識の広がり」が生じ、「眼前」する。
悟りから離れようとしたときに生じるというのは、覚者一般の共通感覚として、
禅の世界では常識なのです。
今、出てる「瓦」の話も、有名な法話です。
ただ、今、白隠批判で「無修行」が出てきてるのは少し方向性が違うと思いますが。
ときに、ヨガでは神への帰依を非常に大切にすると聞きます。
神への帰依がなく、ヨガをして、「悟り」を得ることはあるのでしょうか?
653 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/10 21:36
>>645 >ことさらそれを批判しようとする方がどうかしているように見えます。
白隠批判の面白いところは、白隠さんを批判することによって、
白隠禅が本物であることがありありと浮き彫りになってくることだと思っています。
そして、白隠さんの人間味が直に感じられて、楽しく、嬉しくなってしまう。
なぜ白隠さんが否定されるか、
1つには、白隠さんの「言葉」の使い方が、白隠禅によって「悟り」を得た人
の「言葉」と違うからです。「悟り」の体験をしながらに、「理解」が間違ってる。
「理解」を正しくすることによって、白隠禅の「悟り」に対する理解、白隠さんの
方法が洗練されて、一点の隙もなくなっていくみたいです。
もう1つは、白隠さんの犯したミス、「野狐禅」は、人々が禅を求めるときに、
十中八九、犯してしまうミスだからです。同じミスを犯さないように、白隠さんが
間違えてくれたのではないかと思えるほど。そして、例え、ミスを犯しても、
やり直しがきくことを、生身で教えてくれてます。ドラマのような面白さです。
>>650 私に印可証を渡したつもりですか(笑)?
>>652 >ようやく「体験」主義から、「理解」主義で共通見解が見られたようですね。
いいえ、風車さん。あなたとは全く何の共通見解もありません。
私は最初から「主義」の話なんてしていませんから。
主義と言うのは「観念」で、昔、このスレの197さんや、通りがかりさんに、
「あなたは頭で禅をやっている」という意味の話はしましたが(笑)。
私が「見性体験」という言葉で言っていたのは、
最初から
>>645のことを念頭に置いてのことです。
私が途中で見解を変えたとでも思ったんですか?
あなたが知らないだけで、
私は他のスレで同じ様なことを何度も言っているんですよ。
それに共通見解をはぐくむには対話が必要ですが、
その対話をあなたとした覚えはありません。
あなたがこのスレに現れたのは
>>572からでしょう?
私があなたに話しかけたのは
>>622です。
その前に通りがかかりさんと話はしましたが、
どこに共通見解をはぐくむ余地があるんですか?
>禅でも、非常にリラックスした状態から始めます。
あきれてものも言えません。
最初から非常にリラックスできる訳がないでしょう。
私は「非常なリラックス」という言葉で禅定の話をしているんです。
あなたは
>>626で勘違いしていて私に指摘されて訂正しただけでしょう。
>神への帰依がなく、ヨガをして、「悟り」を得ることはあるのでしょうか?
私はヨガの話なんてしていません。ヨガの実習もしていません。
>>653 >なぜ白隠さんが否定されるか、
あなたが自分の理解の低さから勝手に否定しているだけでしょう(苦笑)。
私は否定していませんし、だからと言って他の禅を否定してる訳でもない。
>>653 >もう1つは、白隠さんの犯したミス、「野狐禅」は、人々が禅を求めるときに、
くどいようですがそれはミスではなく段階です。
あなたは
>>572、
>>605、
>>598、
>>606をもう一度読み返して出直してきなさい。
ほとんど病気としか思えないこと書いてますよ。
入院なされたらいかがでしょうか(笑)?
>>653 人間が「解脱」を目指すとなれば、それはそれ「野狐」はまずかろう。
解脱は、そもそも「生きる」が「苦しい」という前提で成立つもの。
さほど「生きる」が苦しいとも思わない世の中で、「解脱」がどれほどの意味があるのか?
これによって、相当「禅」の認識も変わってくるであろう。
「野狐」が懸念されるようだが、その弊害について憂慮されているのですか?
これについても「解脱」がキーワードだろう。
「野狐アレルギー」は常に、このキーワードが見え隠れするのだがいかがであろうか?
こうやって話が進むと197も変人も真性基地外だと寒くなるくらいよく分かるな(ワラ。
>>655 「少林寺拳法と北禅」に私のレスをつけたのですが、やはりヨガと禅は違うと思いますね。
まあヨガと言いましても、私の場合は「丹田呼吸法」ですが・・・
これを、同じ土俵でドッキングしましても、やはり相容れないと思いますね。
ハラ(丹田)と「悟り}を結びつける手法らしいけど、いささか混乱しますね。
まあ、これとて自分自身の認識が最も大事でしょうけど、情報選択も今後重要かと思いますね。
「野狐」→直覚(認識、主観)の範疇であろう。
「見性」→主客合一。明らかに認識から逸脱している。
であるから、私は「一念三千」→「主客合一」を絡めてきたのです。
で、もしこれでも「迷い」が生ずるのであれば、すでにそれは認識の範疇と見たほうが良いと思います。
「認識」→即ち「我」によるものですから、「我」の実在は歴然として在る訳です。
これは見性といえないでしょう。
まあ、私としては「一念三千」摩訶不思議なる「縁」について探求したいと思ったのですが
念願半ばにして頓挫状態。
これに興味のある方は、レス下さい。
>>659 「一念三千」っていうのは祈りの手法なんじゃないの?
大筋ではそれで間違ってないと思うよ。
でも手法としては禅の手法とは違うというだけ。
行き着く先は同じなんだろうね。
>>660 人の心も「諸行無常」。折に触れ揺れ動くのが常。
また、世界も動いております。
この「縁」に触れ、真の世界を見るのではないか?
これが私の経験則です。なんでもないことのようですが、
実は、大変重要なことだと思っているのです。
662 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/11 11:23
>>606の続き
盤珪禅師の「無修行」、道元の「ただ坐れ」を肯定してみる。
まず市井のすべての人々に「不生の仏性」が存在することに異論はない。
しかし、市井の人々皆が「虚仮の自己」に「気付き」をもって、自己修正する
わけではない。「妙好人」、「一無位の真人」、「無事の人」もいるが、
もう一方では、「気付き」も自己修正もなく、何もしないで単なる煩悩の塊の
ままで生きてる人もいる。
「不生の仏性」に基づき、「菩薩心」を発揮するわけだが、
「妙好人」には、「われ一人」と意識に「菩薩心」はないけれど、
その生き方そのものが、他のものをして「仏性」を感じさせ、合掌させてしまう。
手を合わせる人々の「不生の仏性」を見て、自分も合掌したくなる。
結果、「抜苦与楽」の「菩薩心」は実現される。
これなら「修行」は必要ではなく、盤珪禅師の「無修行」の方が良いだろう。
「気付き」も自己修正もなく、何もしないで単に煩悩のままの人が「菩薩心」を発揮し、
彼らに盤珪禅師の「無修行」を肯定するとき、教相禅、無事禅が罷り通ってしまう。
教相禅、無事禅が罷り通るとき、今の時代、眼も当てられぬ惨状が繰り広げられる。
幼児虐待の動機の多くは、「しつけ」である。
そこで白隠禅の「修行」を本物とし、盤珪禅師の「無修行」を贋物とするなら、
教相禅、無事禅への戒めが効くのではないかと考えていた。
しかし、彼らにも「不生の仏性」は存在するのであり、
道元の「ただ坐れ」なら、「気付き」による自己修正が可能と考えたい。
それでも駄目な場合は、「自業自得」となるしかないだろう。
663 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/11 11:24
しかし、心の半分で「自業自得」と言い切れないでいたのも事実である。
教相禅、無事禅の相手方、得てして子供や、理不尽な苦しみの中にいる人に対し、
「自業自得」と言い切ることができるためには・・・
虐待を受けて傷つきし者、藁にもすがる思いで教相禅、無事禅を信じてしまった者、
彼らに対し「自業自得」と言い切るためには、何が必要か・・・
彼らの「不生の仏性」は、教相禅、無事禅のため、哀しいまでの煩悩に覆われる。
しかし、彼らの、その他の人々の、私の「不生の仏性」に何の違いがあろうか?
何もない。すべては繋がっているではないか?
彼らが育くむ生そのものに、死そのものに「不正の仏性」を見つつ、
彼らの「自業自得」と見よう。
彼らから覚える生命力の勇気と悲哀の中で、「虚仮の自己」に「気付き」を持ち、
私の「自業自得」としよう。
すべての人々にある「不生の仏性」に対する果てしない信頼と、
教相禅、無事禅、そして「野孤禅」に対する妥協を許さぬ冷徹な眼と、
その全てから生じる「現象」を「自業自得」として飲む込むことで、
悲惨な現象と、それへの執着から生じる「迷い」、暗闇に、
「不生の仏性」の青白き光を灯し、「払拭」することにしよう。
「不生の仏性」への果てしない信頼と、「自業自得」に対する見性を持って、
盤珪禅師の「無修行」を肯定してみたいと思う。
(白隠批判 盤珪禅師の「無修行」 終わり)
やはり見性体験のない人には何を言っても無駄のようだ。
白隠禅師のいう「修行」という言葉の実在的意味と、
盤珪禅師の「無修行」という言葉の実在的意味は全く一緒。
どちらか一方を否定してどちらか一方を肯定する、という種類のものではない。
ただ、手法の問題から、
混乱が起きないように方便として白隠禅師が否定していた可能性はある。
また、「見性体験が重要」という言い方と、
「体験など重要じゃない」という言い方も、
一見矛盾しているようで実は全く同じ事を言っている。
>>661の
>この「縁」に触れ、真の世界を見るのではないか?
というのは、明らかに世界に向かう祈りの手法なのに、
内に向かって主体をとり去る禅本来の手法とごっちゃにしている。
なんど説明しても自分の境地からしか物が見えないから勘違いが分からない。
仏教を突き詰めると、こういう矛盾のある表現にいくつも出くわす。
金剛般若経を読んでごらんなさい。
そこにかかれている意味がすらすら分かる見性体験が無いことには、
同じ説明を延々とぐるぐる続けることになるんですよ。
>>663 底辺に、ユング、フロイトの集合意識、深層意識が垣間見られる。
これを仏教的に言うならば「不生の仏性」と言うのだろう。
これは「不二」の世界観においても、当然ここのところがベースになっていますから
この論法は、誠にもって理解しやすい。
>彼らが育む生そのものに、死そのものに「不生の仏性」を見つつ、
>彼らの「自業自得」と見よう。
まあ、ここのところで独自の自論をブチアゲているのだろう。
おおむね、納得する部分はある。
これは、私の自論であるが・・・
飽食、ニヒリズムの台頭、精神的ストレス・・こういった時代にあって、30年、40年前
に通用していた「価値観」というのも、一応転換期にきているのではないか?
38改さんのレスが、そういうふうに私は読めるのです。
そういった、時代の流れに鑑み、貴殿の論法に一応の肯定的立場をとりたい。
666 :
名無しさん@1周年:01/11/11 12:25
このスレには一人だけ可哀相な方がいらっしゃるが放置したほうがいいのかな。
人の揚げ足取りに執心して相手の言わんとしている本質をまったく理解しようとしない。
その方が悟りどころか見性すらしていないことは明白なのだが、
ご自分ではそう思ってはいないようです。
>>664 「縁」とは、上手く説明しようがないのですが・・
「ゆらぎ」みたいな概念で捉えて頂ければ幸いなり。
まあ、不立文字で言うならば・・・
「ゆらぎ」と「我?」が「不二」になる訳ですね。
一方的に、我が顕現する・・という論法(野狐)を否定しているのです。
また「一念三千」とは、めくるめく「心の動き」を意味するもので
「祈り」には一切関係ありませんよ。
このスレをまじめにロムしている人には、
いくら何でも「揚げ足取りに執心して」いるのが誰なのか分かるだろう。
強行に自分の狭い見地からみた白隠批判を偏執的に繰り広げている多重人格者がね。
>>665 時代の変遷ということなら
>>411ですでに私は書いているよ。
>一方的に、我が顕現する・・という論法(野狐)を否定しているのです。
前に自分が気がついてもいないものを粉砕できない、という話をしたでしょう?
「野狐」で完成した「主客の合一による自我」が無ければ、
いったい何を粉砕するんですか?
>「ゆらぎ」と「我?」が「不二」になる訳ですね。
なんどもなんども同じ事を延々と言っている気がしますが、
その「不二に成ったもの」こそが白隠禅師の「野狐」禅なんですよ。
全わかってないじゃない・・・・
ちなみに私が以前言った「全く別のもの」というのは、
認識の対象でも無ければ、
それを認識している主体でもありません。
ここから先は言葉を越えているし、私もその中に入った訳では無いので
文字通り「沈黙」しか無いでしょう。
>>670 >ここから先は言葉を越えているし、・・・・・
言葉を超えている世界を「縁とは、上手く説明しようがないですが」
という前提でもって『無理に説明しているのです』。
すなわち、言葉には認識の限界がある。ということを、先ず念頭に入れるべきです。
「見性すれば不立文字はいらぬ」。ということは、私の文脈を見て、見性した人なら
直ぐ意味が解ると思いますよ。
「ゆらぎ」と「我」が「不二」になる・・と言いましても、文字どうり解釈する人は
先ずいないでしょう。
禅問答でも同じかと思いますよ。
672 :
名無しさん@1周年:01/11/11 15:41
…重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。
(スッタニパータ714)
やはり悟りには段階があって、行けり行けり、超えて行けり、で主客の合一でさえ超えるみたいですね。ということは決して白隠さんの道も間違ってない、正しい、ということのようですね。ひとりで一所懸命、白隠批判をしている人が哀れです。
>>672 まあ、「悟り」も良いのですが、話題の飛躍が見られます。
ここのところは、段階に・・ということで、いかがなものでしょうか?
結局、何を書いても無駄のようですな。w
風車さんどうしますか?
もう出てくるのもイヤかな?
死生観
参考までに記します。
見性において、瞬時に死生観が全く変わってしまう。いわゆる、死の恐怖の開放。
ヨガの覚醒においても、これが顕著に顕れるらしい。
また、臨死体験においても然り。(キューブラーロス著・参考)
これらについては、いずれも理由は説明するのだが、言葉では限界がある。
私が、あえて言葉を選んで、選んで、選び抜いて説明しようとしても、おそらくは誤解を生じる。
何故私が、こういったスタンスをとるのか?
それは、ROMしている皆様と共に、この問題を探求しつつ、互いに「ヒント」を得、
互いに成長しようではないか?という私自身の志以外のなにものでもない。
この主旨を汲んで頂きそうろう。
676 :
名無しさん@1周年:01/11/11 22:42
>>675 「ゆらぎ」→感応→「一念三千」。
「一念三千」→直覚→「ゆらぎ」。
と言う訳ですか?
ちょっと複雑ですね。
つーか、面白い。
>>675 >言葉を超えている世界を「縁とは、上手く説明しようがないですが」
>という前提でもって『無理に説明しているのです』。
変人さん。
何度も言うように、私は別に誰かに自分の意見を押しつけたい訳じゃない。
理解は強要できないとも書いてきたし、
意見の違いは違いのまま、人それぞれの道があっていい。
あなたがそう思うならそれは自由だ。
私は言うべき事は言ったし、
あなたのためだけに語っている訳でもない。
私は白隠禅師も、道元禅師も、盤珪禅師も肯定する。
実際のところ、
本当に大事なのは師のありようよりも、学ぼうとする弟子の態度だからね。
かたくなな心では何も学べない。
私のスレへの書き込みは基本的に
>>519で書いたとおり。
このスレにはどうも、何が何でもどうしても、
私をカルトかなにかとして扱って、
何とかして私の間違いを指摘したい人がいるらしい(笑)。
だが、そういう人は、私に逆にやりこめられて、
変人さんとかの気持ちが少しは分かったろう。
人は人、それぞれの段階があってあるがままでよい。
おまえはこのスレで禅を一番知らない、なんぞとよくぞ言えたもんだ。
一番も二番もあるか!
それが盤珪禅師を慕うもののとる態度なのか!
>>607は私の心からの本心だよ。
禅を語る人たちがこんなに愚かだとは知りませんでした。
私は仏教界、いや、宗教界の人間じゃないから本当に知らないんだ。
いい勉強になったよ。
678 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/12 06:10
>>665 ユングはオカルトとして否定しますし、心理学では行動分析の立場に近いかも。
だから、ユングを引用するのには、どうしても気恥ずかしさが伴ってしまいます。
文化論でも、別の「言葉」を使いますし。
ユングは、分かりにくいところを伝えるための「法弁」にすぎないかと。
その上で、ユングの「集合的無意識」は、仏教の「阿頼耶識」に相当すると言われます。
独自の自論、価値観、世界観なんてものに、私は一切価値を置いていません。
ていうか、そういうのに固執する姿が「病的」にさえ見えてしまう。
必要に気張らなくても、自然に在って「当たり前」だと思いますので。
強いて言うなら、「無修行」を肯定するに、避けざるを得なかった独自の部分は、
>>教相禅、無事禅、そして「野孤禅」に対する妥協を許さぬ冷徹な眼と、
この部分になるかもしれません。
「自業自得」を見性すれば、「自業自得」は「不生の仏性」の働きの一部となります。
しかし、その点を「言葉」にすることができないというところです。
最後に、貴方の665の自論に関して細かくコメントしませんが、やや否定気味です。
見性で得られるものは、時代に酷く左右されることはないと考えていますので。
# 叩き台を提示してるときに悪いんだけど、
後、何点か白隠批判について必要なレスを打たせてね。(5つぐらい)
679 :
名無しさん@1周年:01/11/12 08:44
>>677 禅の本懐は「大愚?」かもしれませんね。
それは、菩薩がこの世で遊び戯れる姿でしょう。
まあ、話は違うのですが・・・
江戸末期に、「仙台四朗」という人物がおりました。この方は、殆ど白痴ですね。
市井の人が、彼に手を合わせるのは、やはり「菩薩」を見るからかもしれません。
権威に裏打ちされたものは、それなりの意義があるのでしょうけれど、それに惑わされてはなりません。
菩薩の眼で見れば、そこにキラリと光るものを見つけることが出来るのではないでしょうか?
見逃してはなりませぬ。今大切なのは「大愚?」。これに掛かっているのではないでしょうか?
白隠云々で迷いが生じております。これを取り払ったところに・・・
貴方の好きな?白隠が、眼前に姿を現わすのです。
おーい、風車くーん、
これこれ、
>>678 あたまで禅やってるヤツはどうしようもないな(笑)。
38改さんの気持ちがよくわかる。
あなたは
>>572、
>>605、
>>598、
>>606をもう一度読み返して出直してきなさい。
ほとんど病気としか思えないこと書いてますよ。
入院なされたらいかがでしょうか(笑)?
>>679は変人です。ハンドルが消えてしまった・・よくあることです。
>>678 ユングは、神秘主義者のイメージが強いので、貴方の意見が大勢なのは解っております。
>教祖禅、無事禅、そして「野狐禅」に対する妥協を許さぬ冷徹な眼、
これには大いに同意しますね。ほとんどこれに集約しても良いくらいですよ。
「自業自得」は、私も抽象的で理解しにくかったんですが・・
「因果律」でも無さそうだし・・・今後の私の命題にしておきましょう。
レスの様子ですと「信念」が垣間見られる。こういった信念がありませんと「真意」はなかなか
伝わらぬもの。そういうことで、今後のレスも真摯に受け止める用意がある。
私としても、禅に関する先入観が一変した。一応参考にするつもりはある。
>レスの様子ですと「信念」が垣間見られる。
最初から結論があって、
その結論がたとえ間違っていても、それを人に押しつけようとするのは
信念とは言わないよ(笑)。
言いたいことがあるなら言ったらいい。
しかし、いかにも「対話」をしているフリをするのは病気の人がすることだよ。
>貴方の好きな?白隠が、眼前に姿を現わすのです。
私の白隠の知識は、もともと座禅和讃と断片的なエピソードだけ。
別に好きな訳じゃない。
>>453、
>>504をもう一度読んでご覧。
最初からこれは「対話」じゃない。
自分の結論がある。
何が真実かを突き詰めようとする私の姿勢とは全く違う。
それならそれでかまわないが、自分の言いたいことと違う事を言われたからといって
それを教相禅と批判するのはどうか?
最初から嘘をつかなければいいだけ。
人間としての誠がない、と私は指摘している。
まあ、それを聞き耳持たない、というのもそれはそれで勝手だがね。
そんなに「自分」を押し通したければ押し通しなさい(笑)。
私は「自分の意見」ではなく、「真実」を指示する。
475さん
私は、前レスで貴方の事を・・
>宗教学者ですか?それとも、それに類するタイプに思われる・・
というふいうにカキコしました。
私は、どちらかというと「実践派」ですからね。
白隠がどうであれ、盤珪がどうであれ、互いの良いところがあれば実践していく方です。
名前は拘りません。仮にヒッピー禅であっても、良いところは吸収します。
>>685 私も実践家ですよ(笑)。
学者じゃない。
本を読んでも知識が増えるだけ。
「理解(知的理解を意味しない)」は増えない。
私が白隠の資料を引用してましたか?
それをしていたのは通りがかりさんや風車さんでしょう。
>白隠がどうであれ、盤珪がどうであれ、互いの良いところがあれば実践していく方です。
>名前は拘りません。仮にヒッピー禅であっても、良いところは吸収します。
同意します。
しかし、自分の宗派にこだわり、それを非難している人がいるようですよ(笑)。
このスレをもう一度読み返して見て下さい。
>>6 あたりから盤珪禅師の話をする人が出てくる。
>>257あたり読めば、どうも盤珪禅師につながるお寺の禅僧さんがいて、
自分の宗派を宣伝したいのだろう、という事が伝わってくる。
何を言っても無駄なのは最初から結論があるから。
最初から結論があったら真実など分かるはずもない。
689 :
通りがかり:01/11/12 12:37
>688
放置しておくと、どんどん誤解を招くようなので、ちょっとコメントしますね。
>>6を書いたのは私です。私は自己流で禅の真似事をするだけで、参禅経験はあり
ません。もちろん、白隠禅には興味があっていろいろと禅籍を漁りましたが、特定
の思い入れのようなものはありません。
私が盤珪さんのアプローチに共感するのは、悪い意味で「バラモン教的に反動化した」
アビダルマ哲学の技法至上主義を否定しているからです。人間として生まれてきて、
この種の特別な技法がなければ、幸福にはなれんのでしょうか。私はどこかおかしいと
思います。人間として、昼は起きて夜は寝て、腹が減ったら食う、死ぬときが来たら
死ぬ。幸福になるのに、六大通力はいらないでしょう。そんなものを振り回すのは魔
ですよ。人間が幸福になるというのは、そんな特別なことではないはずです。自分が手に
している饅頭を半分ちぎって、腹を減らした隣人に分けてあげ、一緒に「うまいな」と
顔を見合わせれば、「自他不二」は実現するのです。そういう、日常の「とるにたらない
こと」から仏法が芽をふくのじゃないか。そうでなければ、禅の開祖の「無功徳」の意味
はどう捉えればよいのでしょう。悟りもまた求めれば功徳にすぎません。功徳を求めて坐
れば「野狐禅」です。
>人間として生まれてきて、
>この種の特別な技法がなければ、幸福にはなれんのでしょうか。
私の「手法」という言葉の意味を誤解しているんですよ。
技法が無ければ幸福になれない、などというカルトなことを私がいつ言いました?
私は、幸福はもともとそこにあるもので、
技法はそれを覆い隠す偽りの自我を壊すためにある、
という内容のことを言っているんです。
ただ、あなたと私の間には、
その偽りの自我の深さに関する認識の違いがある。
白隠さんの「野狐禅」はその手法から行くとさけて通れない段階なんです。
>人間として、昼は起きて夜は寝て、腹が減ったら食う、死ぬときが来たら
>死ぬ。幸福になるのに、六大通力はいらないでしょう。そんなものを振り回すのは魔
>ですよ。
全くその通りですよ。
私がいったいいつ、六大通力を振り回しました(苦笑)?
あなたが言葉の実在的な意味を見抜けなくて誤解していただけではありませんか?
>そうでなければ、禅の開祖の「無功徳」の意味
>はどう捉えればよいのでしょう。悟りもまた求めれば功徳にすぎません。功徳を求めて坐
>れば「野狐禅」です。
やはりあなたとは非常に微妙な意見の違いがある。
しかし正直に言って、今のあなたにそのことが分かるとも思えない。
いや、別にあなたを馬鹿にするわけでも見下す訳でもありません。
私の言っている事は全て「修行」と「無修行」は同じ、とか
相対的な見方では無い、ということに気がつかれたでしょう?
それと全く同じで見性体験と言ってもそれは全く体験なんかではありません。
また、「無功徳」こそは最高の功徳です。
というとまた、相対的に功徳の反対は無功徳、
というような解釈で反論されそうですけど(笑)。
私の言っている意味は、無功徳というのは、
その言葉の真の意味で全くの功徳がない、という意味です。
分かりますか?
悪いことは言いません。
金剛般若経をお読みなさい。
そこには、
仏教を学ぶものは、生けとし生けるもの、
一切の衆生を救おうという堅い決意を生み出さなければならない、
とした後で、しかし同時に、
自己という思い、生けるものという思いがあってもならない、
と続いていきます。
>>613で
>(クリシュナムルティ) じたばたするな、ということです。何もすることはないのです。
というのがあったでしょう?
これは「何もしないことをする」、という意味ではありません。
文字通り何もしない、ということです。
そしてクリシュナムルティーは「見ること=気づき」を否定してません。
しかしそれは「行動」ではないんです。
盤珪さんでも同じでしょう。
であるなら、白隠さんも同じである、ということがどうして分からないのですか?
>>689 まあ、だいたい私が考えている事と一致します。
>>690 どうも解りずらいのです。
言葉をどんどんイジクリ回して、どんどん魔境に入っていく・・そんな感じです。
私はどちらかと言うと、人間の「泥臭さ」というのでしょうか?
そういうところに惹かれますね。
まあ、一応論理的思考そのものは評価しておりますが、その粋を脱しきれないとこが
非常に残念かと思います。
「禅」愛好家というのは、基本的に「自由人」だと思うのです。
たとえ宗派、師に付いたとしても、底流にあるのは「自由人」かと思いますね。
693 :
通りすがり:01/11/12 14:34
>691
いや、読み方によるのではないですか。たとえば、
「スプーティよ、どう思うか。<永遠の平安の流れに乗った者>が、
わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ>
というような考えを起こすだろうか。」
スプーティは答えた「師よ、そういうことはありません。永遠の平安への
流れに乗った者が<わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果
に達しているのだ>というような考えを起こすはずはありません。それは
なぜかというと、師よ、実に彼はなにものも得ているわけではないからです。
(中略)師よ、もしも、永遠の平安への流れに乗った者が、<わたしは、
永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ>というよう
な考えを起こしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることに
あるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着
があるということになりましょう。」(9a)
悟りを求める心とは、「自分が果たして悟りという果を得たかどうか」を
窺う心、執着にすぎません。達磨大師は、だから「無功徳」の心で坐れと
言ったのです。「無功徳」で坐るが故に、功徳への執着に囚われず、自発
的に(しかも自覚症状もなしに)悟りに達するのです。金剛経に書いてある
逆説は、そういう意味で解するべきだと私は思います。
私が今まで抱えていた問題も、いよいよ解凍の方向に向かっている。
どうやら既存の価値観に、私自身がふりまわされていたようだ。
えてして人間というものは、そういった既存の価値観が眼前に塞がると、超えねばならぬ・・
という一種の方向性というものができてしまう。それも実は意に反することなのだが・・
「野狐」にしても然り。自分にとってどうなのか?→ここを座標軸にしないと混乱するばかりである。
まあ、私は最初からこのスタンスを取っていたから、一応「確信を得たり」の心境である。
>悟りを求める心とは、「自分が果たして悟りという果を得たかどうか」を
>窺う心、執着にすぎません。達磨大師は、だから「無功徳」の心で坐れと
>言ったのです。「無功徳」で坐るが故に、功徳への執着に囚われず、自発
>的に(しかも自覚症状もなしに)悟りに達するのです。金剛経に書いてある
>逆説は、そういう意味で解するべきだと私は思います。
良いでしょう。
しかし、それはあくまでも結果から見た解釈です。
そこでお聞きしますが、悟りを求める心がそもそも最初から無かった場合、
その人は悟ることができるとお考えですか?
ちなみにここでは悟りたい心=苦から逃れたい心ということにしましょう。
あなたの用語でしたら発心、ということなのかな。
いよいよハッキリしてきました。つまり・・・
>達磨大使が、「功徳の執着に囚われず、云々」
これは正に、そのとうり。がしかし・・
>「野狐禅」に対する妥協も許さぬ冷徹な眼。
ここでもって、相当な執着が見られる。
まあ既存の宗派は、功徳の執着に囚われ過ぎている・・ということが明白。
私自身が疑問に思っていた事でもある。
698 :
名無しさん@1周年:01/11/12 20:00
達磨大使よりマグマ大使
699 :
名無しさん@1周年:01/11/12 21:19
ねえ、みなさん。もういいんじゃないの?
変人さん、通りすがりさん、風車さんもう解ったでしょう?
ここでこれ以上無理なんですよ。
野狐が暴れまわっているかぎりまともな話は出来ないでしょう。
しばらく静観しましょうよ。
700 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/12 22:39
700!
701 :
名無しさん@1周年:01/11/13 00:05
無門関 二 百丈(ひやくじよう)の野狐(やこ)
百丈和尚、凡(およ)そ参の次(つい)で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。
衆人退けば老人も亦た退く。忽(たちま)ち一日退かず。師遂に問う「面前に立つ
者は復(ま)た是れ何人ぞ」老人云く、「諾(だく)、某甲(それがし)は非人なり。過去、
迦葉(かしょう)仏の時に於いて曾(か)つて此の山に住す。因みに学人問う、大修
行底の人還(かえ)って因果に落ちるや。某甲対(こた)えて云く「因果に落ちず」。
五百生(しょう)野狐身(やこしん)に堕す。
今請う、和尚一転語(いってんご)を代わって貴(ひと)えに野狐を脱せしめよ」と。
遂に問う「大修行底の人、還って因果に落つるや」。師云く「因果を昧(くらま)さず」。
老人言下に大悟し、作礼(さらい)して云く「某甲、已に野狐身を脱して山後に住在す。
敢て和尚に告ぐ、乞うらくは、亡僧(もうそう)の事例に依れ」。
師、維那(いのう)をして白槌(びゃくつい)して衆に告げしむ、「食後に亡僧を送らん」と。
大衆言議すらく「一衆皆な安し、涅槃堂に又た人の病む無し。何が故ぞ是くの如く
なる」と。
食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下(がんか)に至って、杖を以て一死野狐を挑出し、
乃ち火葬に依らしむるを見る。師、晩に至って上堂、前の因縁を挙(こ)す。
黄蘗(おうばく)便ち問う、「古人錯(あやま)って一転語を祗対(しつい)し、五百生野狐身に
堕す。転々錯らざれば合(まさ)に箇の甚麼(なにに)か作(な)るべき」。師云く「近前来
(きんぜんらい)、伊(かれ)が与(た)めに道わん」。黄蘗遂に近前して、師に一掌(いっしょう)
を与う。師、手を拍(う)って笑って云く、「将に謂(おも)えり胡鬚(こしゅ)赤(しゃく)と。
更に赤鬚胡有り」
無門曰く「不落因果(ふらくいんが)、甚(なん)と為(し)てか野狐に堕す。不昧因果
(ふまいいんが)、甚と為てか野狐を脱す。若し者裏(しゃり)に向って一隻眼(いっせき
げん)を著得(じやくとく)せば、便ち前百丈の風流五百生を贏(か)ち得たることを
知り得ん」。
702 :
通りすがりB:01/11/13 00:09
>>701 現代語訳するか、せめて解説を入れてくれ。
不親切すぎ。
ただ単に「悟りを求めない」というだけでしたら、
猫や犬だって悟りを求めていません。
しかし彼らは決して悟る事がないでしょう。
なぜなら元から悟っているし、悟るための自我がないから。
悟るためにはそもそものはじめから発心(悟りたい心=苦から逃れたい心=自我)、
が是非とも必要なんですよ。
仏教は人を見て説く宗教でしょう。
私は、第二祖が達磨さんに教えを求めて訪ねてきたとき、
悟りを教えなければ自分の腕を切り落とすと迫った、と聞きます。
彼はそれほど強く大きなしっかりした
「悟りたい心」を持っていたと考えるべきです。
もしも仮に、このような人に、
「その悟りたい心を落とせ」
と教えるのなら、これ以上ない、
最上級の大きな「公案」を与えている事になるのではないでしょうか?
仏教界の人がそれをどう呼ぶか知りませんが、
私には、それはその人の存在を丸ごと投げかけた公案だと思えるんですよ。
ただし、その公案が成り立つためには、そもそものはじめから
「悟りたい人」がそこにいなければ成りません。
第二祖のようにしっかりとした、
それこそ悟りを得ることができないなら死ぬ、
というほどの大きな発心を持つ人がね。
そのような悟りたい心がもともとない、
あるいはあまりそれほど苦を感じていない人に、
「無修行でいい」などといっても
犬や猫に対して無修行でいい、と言っているようなものです。
上記のことを念頭に置くなら、
「無功徳」というのも、ただ単に功徳が「無い」とか、
「有る」とかいったような単純な話では無いことが分かるでしょう。
そういう相対的な話をしている訳ではない訳です。
もう少しわかりやすく言うと、
たとえば仮に、犬や猫に対して「座っても功徳がない」といえば、
それは単純に「功徳が無い、ということが有る」という意味で、
本当には功徳が無いのではありません。
仏陀が座るとき功徳がない、といえば、
無いことが有るのではないし、無いことも無いのです。
つまり、犬や猫のレベルで功徳が無い、というのは
ただ単に功徳未満でない、というだけで、
仏陀のレベルで無い、というのは
功徳が有るとか無いとかいう相対概念以上のレベルで「無い」のですよ。
・・・・対話が重荷になったのかな(笑)。
大疑の後に大悟あり
というのは、逆に言えば大疑が無ければ大悟はない、
という意味でもあるんですよ。
もっと言い換えるなら、
大疑は「否定するために必要」なんです。
それは例え無修行であっても同じことです。
初心者ですが、このスレでの対話は興味深く読ませて頂いております。
どのような流れになるかは私にはわかりませんが(笑、どうぞ続けてくださいませ。
が初心者です。(笑
・・・・(笑)。
しかし、この人には、とことん人間としての「誠」が無いようですね。
僕は生命科学を学んでいる大学院生なのですが、
先へ先へと進むにつれて自分の「こころ」の問題や自分の存在、
「死」について考えさせられることが多いような気がします。
その重圧に押しつぶされないためにも、自分なりの哲学のような
ものを持っていなければならないのかな、と感じているところです。
(問わず語りになってしまってごめんなさい)
えらそーに文献引用して、
間違った見解押しつけようとしていたセンセーは、
自分の発言を恥ずかしいとも思わないのかな(ワラ?
しかし。このセンセーは妙にみなさん、みなさん、って
他の聴衆に放置を呼びかけるな。
子供の頃、よっぽどみんなからいじめられてたんだろうな。
かわいそうに。
475さん
禅の世界を論ずる時、すでに言葉の概念を逸脱ていると思うのです。
ですから私の場合は、言葉そのものの「意味」にさほど拘らないのです。
いままでの、レスのやり取りで私の印象は・・・
禅の技法は、一種のブロイラー化?したシステムのイメージがあったのですが。
まあ、それが一番の疑問でした。私と同じこ事を考えている人も数人いるようです。
このことについては、私は最初から「禅の世界」というのをイメージしておりましたから
別に大発見という訳ではありません。再確認の範疇。
で、「禅の世界」の本質の部分に基軸をあてれば、言葉も、それなりに理解できるんじゃ
ないかとおもうんですね。言葉そのものズバリ解釈する必要は無いと思うのです。
>>712 変人さん。
私は言葉の問題を言っているのではなく、
その理解のありようの問題を言っているんです。
あなたには解らない部分(納得出来ない)も多いでしょうが、
素直に解らないことは解らないまま、
そのまま、ありのまま放置しておくのも大事なことです。
無理に解ろうとしても誤解を招くだけです。
>>506のリンク先によると、
>禅師はそういう常識を「手前の浅はかなる了簡」と言われる。
>「手前の」というのは「自分の力の範囲内の」という意味である。
>孫悟空がいくら飛び回ったところで、
>結局はお釈迦さまの手の内にいるようなもの、
>というところであろうか。
ということだそうです。
>>713 >結局はお釈迦さまの手の内にいるようなもの
私は実際「手の内」でいいと思っているんですね。
「手の内」で有り難いことではないですか?
475さんは、それでは不満ですか?
>475さんは、それでは不満ですか?
不満とか不満でないとか、そういうことは関係ないんですよ。
ありのまま放置する、と言っているでしょう?
ありがたいとも思わないし、ありがたくないとも思わない訳です。
解りますか?
475さん
人生「得る」ことも大切ですが、「捨てる」ことが第一義なり。
これをもって、清貧の思想に到達した禅師もいるのです。
目を覚ましなされ。光明は近し。
>人生「得る」ことも大切ですが、「捨てる」ことが第一義なり。
それこそ私が言っていることです(苦笑)。
>>715 「有り難い」という心がありませんと、道は拓けません。
「有り難い」の究極が「清貧」です。ここを極めませんと・・・
一番大事なところですから。
本筋を「わきまえ」なされ。
独りきて独り去らぬも迷いなり、来たらず去らぬ道を教えん
だったっけかな?
一休禅師の歌です。
本当のこと言うとね、
捨てるとか得るとかいうのも「両方ともに」迷い、なんだよ。
目を覚ましてね(笑)。
>
>>715 >「有り難い」という心がありませんと、道は拓けません。
あなたの道は否定しません。
>>717 貴方は、頭で解っていらっしゃる。しかしながら・・・
最も大切なのは、噛み砕き、エッセンスを吸収する事にあり。
そこを、なんともオゴソカニしている感あり。
>>721 そう感じられるなら、それでかまいません。
しかし、実際には私の言っていることは非論理的でしょう?
あなたが解らないのも、あなたが頭で理解しようとしているからなんですよ。
私は、他の何よりも人間として大事なのはハートだと思っています。
475さん
貴方は、基本的な部分で「禅」の世界とはかけ離れていると思います。
テクニックに拘りすぎている。よく、こういった魔境に陥りやすい。
まあ、こういう面で私は勉強させて頂いてもらっている。
これは、宗教一般に言える事なのだが・・・
こうなってきますと、「自覚」以外に救われる道は無し。
>こうなってきますと、「自覚」以外に救われる道は無し。
どのような道のどのような段階であろうと「自覚」以外にありません。
テクニックなどにこだわっていません。
議論の最中に入り込むのは申し訳ないのですが、
初心者の私がまず最初になすべきは何だと思われますか?
不躾かとは思いますが、よろしくお願いします。
475さん
「禅」は、いわば仏教の本道です。
そこには、自由の思想が脈々と受け継がれねばなりません。
原点に立ち返って、思いをはせてはいかがでしょう。
眼を、宇宙に向けなされ。
これにて床につきまする。精進あれ。
変人さん。
気を悪くされたんですか?
別に「あなた」を否定している訳でもバカにしているわけでも無いんですよ。
私はあなたの道はそれでいいと思っています。
おやすみ(^-^)/。
707さん
またまた、難しいことを聞きなさる。
まあ一言で言うなら、「言葉」の概念。これに惑わされる事なかれ・・
という事でしょうか?
少し間違えますと、言葉によって人間は飲み込まれてしまいます。
言霊(ことだま)・・・日本には言霊という良い言葉があります。
475さん
私は気を悪くはしていない。
貴方の考えは、それ相当の勉強になっているのは確か。
ご存知のように、私は過去において厨房に袋叩きにあっていますからね。
あれ以来、少しの事では気を悪くはしませんよ(w
>>719 >捨てるとか得るとかいうのも「両方とも」迷いなんだよ
「迷い」こそ「菩提心」なのですよ。
ここのところが、非常に大事。「迷い」が「菩提心」などと普通は考えられないどすけどね。
私の経験ですと、これが正にそのとうりなんですよ。どういうことかと言いますと・・・
私にも「迷い」はあります。しかし、この「迷い」と言うのは『生きている』という
実感が生ずるのですよ。まあ、死んでしまったら「迷い」はありませんからね。
「煩悩即菩提」とは、身をもって会得しなければ解るものではありません。
年の瀬の除夜の鐘は、聞いていますと「煩悩即菩提」の実感がふつふつと湧いてきますよ。
禅において、良く使われる四文字熟語・・あれは身体で解るものですね。決して頭ではありません。
変人さんの睡眠時間は一日平均どれくらい?
732 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/13 09:48
>>681 >ユングは、・・・貴方の意見が大勢なのは解っております。
いや、分かってないと思う。
正直、心理学板ではユングの話は成立しないぐらいの扱い。
・変人さんは強烈な神秘体験をしてる。
・ユングの概念を留保なく引用してる。
・物理学を引用して説明しようとする。
・仏教の用語を駆使して、「悟り」や「菩薩心」を説こうとする。
これだけ揃えば、もう社会的信用はなくなり、
他人の疑惑ばかりを相手にしなければならなくなるかと。
>「自業自得」は、・・・今後の私の命題にしておきましょう。
必要ないと思います。
これは、「無修行」の公案を私の見性体験にて解こうとしたとき、
出てきたものですから。
公案は、各自の見性体験にて解くものだと思っています。
公案を見たとき、自分の見てきた生の経験(「虚仮の自己」)が浮かぶはずです。
それを突き詰めていけば、必ず即非即是の状況が生じる。
それを直覚するためには・・・人それぞれに「課題」があるはず。
そして、答えはいつも「不ニ」であり、万人にとっての答えとなるかと。
>「信念」
無理に「信念」で当たろうとすれば、必ず途中で潰れるかと。
ベースは、やはり「抜苦与楽」の「菩薩心」ではないでしょうか?
それが自己破壊的な「疑」に対する「信」となり、「面白い」が生じるわけです。
自分の感覚は、「無修行」の公案は「面白い」ものでした。
733 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/13 09:49
>>725 707さん
>>1-142 を御覧下さい。答えが見つかると思います。
素人の私からは、
平尾誠二・松岡正剛 『イメージとマネージ』の立ち読みをお勧めします。
>>725 私には分かりません。
それと、初心者とは何でしょうか?
私は自分を初心者とは思っていませんが、
上級者とも思っていません。
私自身は、まずはそういう「比べるこころ」を捨てて、
何もしらない、というところからスタートしました。
>>730 >「迷い」こそ「菩提心」なのですよ。
すばらしい。
驚きました。全くその通りだと思います。
逆に言うなら、迷いが無ければ菩提心も無いのではないでしょうか?
そして、それこそは大疑の後に大悟あり、の意味ではないでしょう?
>>732 うむ、よくぞそこまで精進なされた。しかと見届けた。
>公案は。各自の見性によって解くものだと思っております。
そうですね、そういう立場からいろいろ話を聞かせて下さい。
>「無修業」の公案は面白いものですた。
まあ、そういった気持ちを大切にして下さい。
>「抜苦与楽」の菩提心。
う〜ん。こればかりは考えてしまいますね。
「苦楽」が不二と捉えているんですよ、これは私の体験からくると思われるのですが、
究極の「苦」と、究極の「楽」がどうしても重なるんですね。
これは、例をあげれば納得できると思いますが、732レスのように誤解が生じるかと思います。
期が熟したころに、お話いたしましょう。
あと気がついたのですが、ご自身の精神世界を大切にすると良いでしょう。
私の精神世界に、惑わされることはないですよ。
>>731 睡眠時間は通常8時間。1時か2時に眼が覚める事がたまにあります。
>>736 >うむ、よくぞそこまで精進なされた。しかと見届けた。
風車さん、変人さんに印可証もらってよかったね(笑)。
・・・途中、もしかしたら気を悪くしたやりとりが有ったかもしれませんが、
まあ、私は本当には気にしていませんし、
あなたもそんな事を気にするような小さな器ではない、と信じています。
「対話」は一人ではできません。
話の内容についてきてくれる人がいてうれしかったです。
(^-^)/
738 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/13 12:29
>>736 う〜ん、本当に「野孤」ぎりぎりの輩だ。
びっくりするほどの自己愛的プラス思考。
変人さんは1つ間違えば、簡単に「野孤」になると見てますよ。
きっちり見てますので、ご自愛を。
確かに
>>732の表現は間違ってる。
>「抜苦与楽」の菩提【道】。
に訂正させてもらいます。
>「苦楽」が不二と捉えているんですよ。
>究極の「苦」と、究極の「楽」がどうしても重なるんですね。
これは私の見性でも、さすがに分かってるつもりですが、、、
しかし、それは「色即是空」の段階ではないでしょうか?
「抜苦与楽」の菩薩道は、「空即是色」の段階のはず。
「不ニ」の領域からの差別的世界の話。
人にとって苦は辛く、楽は有り難い。
人にとって苦が有り難く、楽に苦しむときもある。
「苦」や「楽」を人の道を外れて「生きる実感」とされるなら、
場合によれば、搾取的快楽、性的倒錯として「狂信」とみなします。
ただ、期が熟したときの展開は楽しみにしてますよ。
変人論に流されてるわけではなく、
おいらも禅的「対話」(放置じゃないって)しながら、
「白隠批判」のレスについて期が熟すのを待ってるところです。
# 文言が少しズレてるかもね。
「大疑の【下】に大悟あり。」
「信(不生の仏性が発揮しての菩薩心・発心)のないところに、疑なし。」
739 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/13 12:37
>>737 >風車さん、変人さんに印可証もらってよかったね(笑)。
あやつは「野孤」にも見えるね。(笑)
これ続ければ、間違いなく「野孤」だ・・・
(本人は偽侍口調に満喫してるようだが)
>「対話」は一人ではできません。
もちろん。(笑)
但し、禅では徹底した「主体性」(悟)が必要とされます。
議論じゃないのは、無宗派さんの仰る通りです。
いかに自分のところで一人の人間として纏めるか、
そんな皮膚感覚が、非常に大切だと思っています。
># 文言が少しズレてるかもね。
> 「大疑の【下】に大悟あり。」
> 「信(不生の仏性が発揮しての菩薩心・発心)のないところに、疑なし。」
なるほど、ご指摘ありがとう。
しかし、何かの見解を書く場合、
その見解をもつための「立場」が必要ですから。
その立場の視点によって説明の仕方は変わるでしょう。
最終的に両者が「同着」であろう、というのは前に書いた通りです。
そこで金剛般若経では、
菩提心を生み出せ、と言いつつ、
同時に助けようとする相手も自分もいると思うな、と続く訳です。
>>738 空即是色は、いわゆる菩薩心かと思いますね。
菩薩が、童(わらべ)と遊ぶあの姿ですよね。しかし。経済社会に順応しなければ
ならない一般人としては、折り合いというものを考えませんといけません。
搾取的快楽、性的倒錯
これは「瞬時」の快楽、その後の「虚しさ」が残存します。
これが嵩じますと、頭がヤラレると思います。
まあ、貴方が思っているとうりでしょう。
>>740 >>信(不生の仏性の発揮しての菩薩心、発心)
菩薩心というのは「菩提心」と違うんじゃないですか。
それにですね。
「大疑の下に大悟あり」は、大疑の前提として、菩提心、発心があるわけでは無いんですよ。
大疑があって、菩提心が後から付いてくる事もあるのです。
技法に囚われるな、ということですよ。これは少し難しくなるのですが・・・
人間というものは、ある状況下にあると、なんの欲が無くても「発心」に目覚める事があるんです。
これを「一念三千」めくるめく心の変化、摩訶不思議の世界なんです。
ベースにあるものは仏性です。これが生命の摩訶不思議なんですよ。
一応、理解は無理かと思いますが、参考までにカキコしました。
744 :
通りがかり:01/11/13 16:24
>>701 誰もレスしないようなので、例によって私が珍説でかきまわしてみますか(^^)。
「不落因果」とは、因果応報の理に左右されないという意味です。つまり、仮に
悪いことしても、悪い果を得ない。仏教は因果応報による輪廻転生から脱却すること
を説きますので、仏になれば「不落因果」だと信じる人が多くいるのです。ところが、
それを信じて修行した僧は死んで野狐になってしまった。考え方のどこに誤りがあった
のか、と百丈和尚に尋ねると、それは「不昧因果」でないといかん、と。因果をくらま
さず、つまり因果を誤魔化さずに悪因から出た悪果はおとなしく受ける、それが仏という
ものだよと。
野狐になった僧は、「功徳」のために修行をしていたのです。「不落因果」になったら
結構だという下心があった。その欲によって野狐になったのです。輪廻転生は嫌だな、
脱却したい、という動機にすでに「不落因果」と同じ下心があるのです。もともと、
「不昧因果」でよいなら、凡夫であるわれわれも(いやいやではあるが)忠実に従って
いるので、仏になったからといって何の「功徳」もない。つまり「無功徳」です。
この公案は人によっていろいろと解釈が違うようですが、私はこのように考えています。
>>744 まあ、仰せとうりかと思いますね。
すなわち、「下心」が見え見えなんですよね。
私も珍説かましましょう。
菩提心、発心は「無常」です。一日、一日揺れ動き変化します。
人の心は、こういった「たわいのないもの」です。
すべてを否定する訳ではありませんが、もっと大事な事があります。
それは、市井全ての人に仏性が有るという事です。これは、縁によって目覚めます。
人によって様々ですが、病気、貧困、死別いろいろです。
これが究極になりますと、明らかに仏性は自覚されます。
これを私は「因果律」の極だとおもっているんですね。
746 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/13 17:31
>>740 「対話」と「立場」についての法話があったような覚えがありますので、
探しています。
747 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/13 17:31
白隠批判1 白隠禅の自己破壊力について
前にも述べた白隠禅「参窮」の引用をもう一度。
>「単々に参窮して退かざるときは、忽然として玉楼を推倒するが如く、
>氷盤を擲摧するに似て、【八識】頼耶の含蔵識を粉砕し、塵沙無明の
>雑毒海を踏飜し、…
>此に於て足れりとせず、四弘の誓願輪に鞭ち、口には常に十句経
>を念誦し…
この「八識」の第8識が「阿頼耶識」です。
「阿頼耶識」は、ユングの「集合的無意識」に相当すると言われます。
ユングの精神分析医療は、「悩み」を軽減させるために、その原因である
無意識にある個別内容を「集合的無意識」と調和させることで、治療とします。
禅では、「集合的無意識」に起因する「悩み」について、「集合的無意識」すら
転回、突破し、そこから自己を解放し、「無念の念」として統一することで
「悩み」を根こそぎ離捨してしまうそうです。
その際の典拠とされるのが、白隠です。
これが本当なら、死生観などが変わるのは、当たり前でしょうね。
(禅僧の話、変人さんの話から信憑性はなきにしもあらずです。)
748 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/13 17:32
白隠批判2 白隠禅は本物である。
仏教とは?宗教、宗教哲学、観念論、自由のためのイデオロギー(eg.「直指一心」)。
「道(tao)」、人が生きる道というのが、最も適当だと思う。
仏教とは、菩薩道に生きる道である。
白隠禅とは、菩薩道を実践するためのほぼ完全なシステムである。
仏教以外の宗教を「外道」という向きもある。
しかし、人を人として生きる道から外すようなものを「外道」と考えたい。
白隠さんを批判的に見たとき、
・「参窮」を示す「大悟3回、小悟数え切れず」というのは誤謬である。
・「発心」に対して「大悟」は一度である。
・「菩薩道」のために必要な「大悟」も一度である。
・「悟りを求める」ことが目的になったとき、その時点で「野狐禅」となる。
・白隠さんの誤謬は、後の弟子によって修正され、白隠禅は完成した。
こうした白隠さんを批判的に見た白隠禅は、完全な様相を呈するように思えた。
イメージしたのは完璧な「円相」である。
■ 「発心」=「信」=「大悟」=「菩薩道」 ■
この関係に髪の毛一本の隙もないように感じる。
「発心」は目的であり、行中は「信」であり、「悟り」で準備が整い、「菩薩道」で実践される。
「菩薩道」のためでない「悟り」は、「悟り」ではなく無価値であり、「小悟」も「大悟」もない。
「発心」がズレれば、「信」もズレ、「悟」もズレ、「菩薩道」にはならず、「野孤禅」となる。
しかし、白隠さんが「発心」のズレを自ら行い、それが批判的に見られることで、
白隠禅のシステムには、「発心」の段階でズレることに対して強い戒めがある。
また、ズレた「発心」に「大歓喜」が訪れるのも、「小悟」の段階で阻止されると思う。
(当然ですが、私がそう考えているだけです。)
749 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/13 17:33
白隠批判3 野孤禅
白隠禅が上記のようなシステムと考えるとき、
「野孤禅」とは、「菩薩道」に資さない「似非悟り」からの教え
だと考えています。
原因は、「発心」のズレが主であろう。
現代的センスから言えば、「天国」や「地獄」などが存在しないことは明らか。
人の邪な心が「地獄」を生み出し、正しい心が「天国」を生み出す。
因果は結局、人の心の働きに起因するものがほとんどである。
そして、人々はその心の働きの中で、生の誕生に歓び、死の恐怖に怯え、
「迷い」ながら、それでも一生懸命に生きている。
人が「野狐」になるわけはないけど、
人々の「心」(主観)から見て「野孤」にしか見えない人間は確実に存在する。
「野孤禅」を説くものは、人々の目には「野孤」のように見えるのだろう。
「不落因果」
「悟りらしきもの」を得て四苦八苦から解脱したものが、「菩薩道」から解離し、
人々の生の喜びや死の恐怖感を蔑ろにして、
人々の心(主観)を頑な(非人間的)にする教え。
結果、教えを説くものは、人々に「野孤」のように扱われる。
「不昧因果」
「悟り」を得て四苦八苦から解脱する術を得たものが、
自他の「心」(主観)を見据えて大切にし、「抜苦与楽」の「菩薩道」に資する教え。
一番大切なのは「悟り」を得ようが得まいが、自他の心の動きだということでは
ないでしょうか?
750 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/13 17:55
>>744 >>745 お決まりの突っ込みを。
「野孤」になって何がいけないのか?
仏教では、「草木国土悉皆成仏」を説く。
人間と野孤も繋がってるし、「不ニ」のはずです。
>>749 これは、まさしく「ブロイラー製造装置」ですね。
やはりこれでは頭をヤラレますね。
このレスをROMした人は、どういた印象を持つか?だいたい解っております。
それは、現代詰め込み教育です。完全システム化。まあ、それはそれで良いのでしょう。
私の自論に、いよいよ自身が持てました。すなわち・・・
これだけは言いたかったこと。
私は「野狐」「本覚」あまり拘らないんですね。すなわち・・・
「野狐」であっても、本人がそれで幸福であれば、それで充分だと思うのです。
ほんの小さな幸福でも掴むのは大変ですからね。些細な幸福で良いのですよ。
それが「大悟」でなくても、自分で「大悟」と思っていれば一番幸福だと思いますね。
>>750 風車さんも、それを言いたかったのですか?
まあ私と同じですね。
私は「野狐」という言葉が好きでしてね。どことなく愛嬌があって・・
マイナーなところが親しみやすいですね。
753 :
通りがかり:01/11/13 18:35
>750
う〜ん。それは自分が狐でなくて人間に生まれたから、としか答えようがないな。
>人間と野孤も繋がってるし、「不ニ」のはずです。
しかし、一方では人間と野狐という歴然とした違いはあるのです。「空即是色」です。
菩提心とは、すべての人間を同じ思想に染めることではなく、おのおのの違いを尊重
することだと思うのです。お互いの違いぶりを喜び合うという感じでしょうか。
one of themでは個々に対する愛情は生まれてこないと思う。one of fathers, one
of mothers,と「父母」とは全然違います。そもそも、すべての破壊行為は、相手を
one of ○○と見なして、存在の尊厳性を否定することから始まると思う。菩提心だって、
相手をone of ○○と見なす心からは出てこないでしょう。「色即是空」では菩提心が
出てこないというのも、この辺に原因があるような気がする。
754 :
通りがかり:01/11/13 18:44
>751
私はちょっと異論を持っています。死ぬのが恐ろしいのは人間だけです。
人間に生まれてきたが故の宿命です。いくら自分は野狐だと自分に言い聞か
せても、人間である以上、死ぬのは怖いし、煩悩によってありもしない「苦」
を作り出します。いっそのこと野狐に生まれればよかったかもしれない、
けれども証文の出し遅れです。人間として生まれたからには、人間として
よりよい生涯を全うするべきでしょう。
前の方でどなたかが触れられていましたが、仏法とは、人間の宿命的な悩み
を解決するためのもので、野狐には用はありません。「大疑」そのものが
ないからです。ですから、野狐たらんとして自己満足の「大悟」を振りかざす
と、それは人間にも野狐にも徹しておらず、一種の化け物です。
>>753 >人間と野狐という歴然とした違いがあるのです。
ここのところは「輪廻転生」が絡むのでしょうか?
どうも、私の死生観からすると、輪廻転生は方便のような気がするのです。
死の恐怖からの開放は、「同一性」によるものと思われるのです。
この延長線上で鑑みますと、すべて「同一」。
ここのところが、どうもネックですね。
>>754 >煩悩によってありもしない「苦」を作り出してしまいます。
煩悩が、すべて「苦」ではありませんよ。
これは、私の体験によるものですが、煩悩によって「生きる歓び」を実感する
こともあるのです。まあ、信じられないでしょうが・・・
人間、とことん追い詰められますと、全く価値観が変わってしまうのです。
ここのところを、わたしは「仏性」からなる「目覚め」と称しているのです。
>自分は野狐だと自分に言い聞かせても、人間である以上、・・
私は、そういう意味で言ったのではありませんよ。
自分では、野狐だとは思っていません。
たとえ野狐だとしても・・・という意味ですから。
すべて、自分の体験をベースに世界観を構築してあります。
それをもとに、すべてレス付けています。
観念的に捉えている訳ではありません。野狐に寛容ななのも、自分の世界観をベースにしてあります。
>>754 まあ、誤解のないように言っておきますが、私が「大悟」を振り回して
いる訳ではありませんよ。
たとえ、そういう人がいたとしても、人に迷惑の掛からない程度なら
宜しいんじゃないでしょうか?という意味です。
「大悟」を信じて一生を全うするのでしたら、その人は幸福ではないでしょうか?
という意味です。人の幸福にチャチは入れられないでしょうから・・・
その人は、その人で「自分なりの生きる術」を見出したのですから・・
寛容な気持ちで見守ってあげたい・・という事です。
宜しいでしょうか?
と言う訳で・・・・・
「不二」の世界観。死生観に興味のある方はレス付けて下さい。
特に「死生観」は、その人の一生に関わる重要テーマです。
「生死」の問題をクリアしますと、人生は計り知れなく有意義になると思います。
さあ、この問題を一緒に考えていきましょう。
何が正しいのか、何が間違っているのか、
人間には決して分からない。
「人間万事塞翁が馬」の話の中で、
落馬して足を骨折した青年の話が出てくる。
普通に考えればこれは「不幸」だ。
しかし、しばらくして戦争が起こり、
その青年は、足の負傷のため戦いに行かずにすみ、
かえって命を落とさずに済んだ。
これは命が助かったから「幸い」だろう。
視点をちょっと変えるだけで同じ出来事が
「不幸」になったり「幸い」になったりする。
ここで大事なのが、何かを不幸と判断するのも、逆に幸いと判断するのも、
両方ともに、それが「判断」である、ということだと思う。
しかし「判断」には、判断するための材料が必要で、
肝心のその材料が私たちの手元にはない。
いや、正確には、判断のための材料はあるにはあるのだが、
その材料が、どれもこれも「断片」でしかない、という事。
もしも「全体」が見渡せるのなら、正しい判断を下す事は可能だろう。
しかし人間には決して全体を見渡すことができない。
だから「判断する事」は全て間違っている。
では「判断」とはなんだろう?
今、私は、判断する事は全て間違っている、と書いたが、
「判断しない」でいることが人間にできるのだろうか?
よくよく考えてみると、「判断しないでいようとすること」は、
そこに判断しない、という活動があるため、
この場合は「判断しないということを判断した」にすぎない、
という事が分かる。
判断を下さなければいい、と判断することも、やはり一つの判断なのだ。
こうやって考えてみると、
どう考えても、人間が判断を下さないでいることは不可能に思えてくる。
そこで、注意深く、状況のありよう、この世界のありように目を向けてみる。
注意深く見続けているという「終わることのないプロセス」のなかで、
判断は存在できるだろうか?
何かに対して、ことさら答えを出そうとしないで、
問題があっても、その問題をあるがままにそのままに放り出してしまうとしたら、
そこに判断が入り込む余地があるだろうか?
そこで私は気がつく。
あらゆる「判断」は、実は思考の産物である、ということに。
思考が止み、ただ見るとき、そこにはいかなる判断もない。
状況のありよう、世界のありようは、瞬間、瞬間ごとに変化している。
もしも私が、その「流れ」の途中で、これこれは不幸な出来事だった、
と判断したのなら、それは全体の流れを、そこでストップさせる事にならないだろうか?
この「生の全体性(ダールマ)という絶えざる流れ」は、
決して止むことがないというのに。
それなのに、私はその流れの「途中」で、
自分がそのとき手に入れることができるちっぽけな材料を元に、
勝手な判断という「結論」を導き出そうとしていた。
この生の流れには結論などないというのに。
しかしそれでも、確かに何か、瞬間ごとに、その状況ごとに、
その度ごとの真理があったようにも感じる。
なぜならそのとき、私は確かにその「流れの一部」であったからだ。
「生の全体性(ダールマ)という絶えざる流れ」と「私」の間には、
注意深く目覚めていたとき、お互いを隔てる分別がなく、
「気づき」により、両者はお互いの一部であった。
>>747-749は、もしもそれが「結論=判断」ではないのなら、すばらしいと思う。
実際のところ、その内容が正しいかどうかなど、さんざん文句を言っていたくせに、
今となってはどうでもいいような気がします(笑)。
このようにみるのなら、座る姿がそのまま仏、というのも、
悟りを繰り返し終わりがないということにも、
それぞれ間違いがないということが分かるでしょう。
なぜなら「個人」としての悟りとは、ただ単に個人としての終焉を意味するに過ぎないから。
ある人が別のスレで、親鸞さんの教行心証とかいう文献を引用していました。
そこには、先を行くものは後のものを助け、後のものはその後のものを導く、
という趣旨の事がかかれていて感動したのを覚えています。
また、ある覚者は、
無明には始まりがない、誰もそれがいつ始まったのかを知らない。
しかし、その無明は悟ることで終わりを迎える。
一方、光明には悟りによる始まりがあるが、終わりがない。
誰もそれがいつ終わりを迎えるのかを知らない。
そして、その始まりの無い無明と、終わりのない光明が出会うところが「悟り」なのだ、
という意味のことを言っていました。
公案の答えは、問いかけ自体を、問いかける人間ごと、その存在ごと、
丸ごと放り投げてしまうことで初めて本当の意味で解けるのではないか?
そしてそこに「答える人」がいなくなったとき、
>>199(最初にループします 笑)で書いたように、
「その状況ごとの答え」があるのではないでしょうか?
合掌。
お釈迦さまの掌の上で飛びまわる孫悟空(微笑)
>>762 >お釈迦さまの掌の上で飛びまわる孫悟空(微笑)
あはは・・・(笑)
心配してくれているのかな?
もちろん自覚してますよ。
>>759-761は、結局
>>199で言いたかったことの中身を説明したまでのこと。
>>199は最初からこれを念頭に置いて書いていたからね。
説明するのに時間がかかったけど。
764 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/14 00:42
>>751 >このレスをROMした人は、どういた印象を持つか?だいたい解っております。
私にも、だいたい分かりますよ。(笑)
>>752 >まあ私と同じですね。
違うと思いますよ。同じなのは、輪廻転生は方便だということでしょうか?
とても大切な方便です。
>>753 だいたい同意できます。
人間は人間として生まれた以上、悩み、苦しみ、そして歓喜に溢れながら、
人間として死んでいかなければならない。
だから、素晴らしい。
自分が唯一無二の存在として生きてる以上、自分一人で苦しみ、悩み、
そして「歓喜」を噛み締め、自分一人で死んでいかなければならない。
だから、素晴らしい。
だからこそ、「草木国土悉皆成仏」など「色即是空」の「方便」も必要なんだと
考えています。
「色即是空」は、人間として生きていくために必要なコントロールをするための
「方便」にすぎないのかもしれません。もちろん「悟り」もです。
>>761 >もしもそれが「結論=判断」ではないのなら、
もちろんです。(私)
今、この時の私と云う唯一無ニの「立場」からの見方です。
>>もしもそれが「結論=判断」ではないのなら、
>もちろんです。(私)
>今、この時の私と云う唯一無ニの「立場」からの見方です。
(^-^)/
相変わらず拝見しております。。。
悟ることの難しさを実感しているところです。一度参禅してみたいと考えております。
実のところ、「こころ」の意味、生と死の意味を毎晩のように
自問自答しているような近況です。そして、まだ見ぬ死の恐怖に
おびえることを繰り返しています。こんな状態の私は、一体何を
するべきなのでしょうか?
>>767 死の恐怖は、その先が見えないからでしょう。
それは誰も見ることは出来ません。
しかし、感じる事はできます。一瞬にして目の前が明るくなった感じです。
これは、決して頭で考えての結果ではありません。
仏性の目覚めとはこの事です。
私は、死ぬことはあまり考えないでいいかと思いますね。
それは、生きることと同じなんですよ。生死一如という意味です。
生死一如は、頭で考えてもなかなか理解できるものではありません。
しかし、ふっとしたキッカケでですね、この意味が解ってしまうんですよ。
人間一人の存在なんて、大きな生命の流れ(人類200万年)の一瞬ですからね
これを身体で感じるんですね。これは「歓び」です。
「歓び」というのも変ですね。しかし、これも身体で感じてしまうのです。
こういった心境は、「死」ということも「生」ということも同一なんですよ。
これを「生死一如」というのかなーなんて思ってしまいます。
770 :
名無しさん@1周年:01/11/14 03:24
普通500万年いいます
人間は、物忘れ状態(潜在意識に内在)だと思うんですね。
しかし、ある精神的に追い詰められたような状況になりますと、突発的に
思い出すこともあるんですよ。自己保存本能の発露というのでしょうか?
たとえば、武士が合戦の前の「覚悟}。死刑囚の「覚悟」。これらは「悟り」。
という文字が入っています。これには深い意味があるのではないか、と思っています。
まあ、こういった事をマタ〜リ話していきたいと思っております。
「悟り}=「禅}全く関係ございませんので、煽り禁止ne(w
>>770 >普通500万年いいます。
そうですか? まあ、それにしても人類の文明開化が5000年前。
そのころは、殆ど野人的だったでしょうね。
773 :
名無しさん@1周年:01/11/14 03:51
普通文明一万年いいます
>>773 ああ、そうですか。まあ、開花ということで(w
775 :
名無しさん@1周年:01/11/14 04:03
だめです。知らぬことはむしろ沈黙すべきです。
変人氏の知識は万事この態ではないかと思われて
しまいますよ。指摘されても糊塗して済ます。
475さん
良質レスです(759〜761)
私の世界観に近い部分が多く見受けられます。
たとえば人間の歴史においても、その時点で「善悪」はなかなか決められませんからね。
数十年後に解ることだってありますから。で、その時「善」と判断しても
数百年後は「悪」という具合に、変わってしまう事もありますから。
やはり、大きな視点で物事を見ていきませんといけませんね。
時と場合によっては、繊細な眼というのも大切なんでしょうけど。
>>775 どうも有難うございます。
文献の裏づけがありますので、レスの内容は問題ないです。
773へのレスは、「ご愛嬌」ですね。せっかくレスつけてくれたんですもの。
太古の昔の人類が、どういう手法をもって情報を蓄積してきたか?
これは、他ならぬ「経験」でしょう。私が言う経験論云々の原点はまさにここにあります。
前レスにおいて、外因云々はこういった考えの延長線上にあります。
外因→経験→潜在意識の情報?。こういった流れを一応ベースにして考えてみたい。
スタンスとしては、多角的視点も視野に入れております。
こういったことで、広範囲に検証してみたい。お気づきの点はレス下さい。
779 :
BigPig:01/11/14 08:58
変人さんのスタミナには、ほとほと感心します。
そのスタミナ、2Cchのベストテンに優に入るのでは?
では、変人さんに、閑話休題として、一つだけ、問題提起しよう。
貴殿が、永久に死ねない、無限に生き続けなければならなとしたら、
それと、死とどちらを選びますか。
極限まで、想像力を働かしてみて下さい。
>>779 これについては、ずっと前から結論は付いております。
「死」を選びますね。これは「生」が「苦」だから・・と言う事ではなくて
「永久に死ねない」というのが、相当な精神的束縛になると思います。
人間の精神構造は、そんなに強固ではありませんからね。
頭がイカレテしまいますよね。
「死」が無い。というのは「生」もありませんね。
というのは、生きている意味が全く無くなってしまうんですよ。
「死ぬ」「生きる」の言葉も必要ありませんね。
「生死一如」はこういうことなんではないかと思いますね。
>>780 このレスの意味は良く解ります。
つまり、空も樹々も「万編」なく仏性?そのものに直覚?されるんだと思いますね。
自分の「我」も仏性そのもの、境目が無い状態。
こういった状況というのは「生」も「死」もすべて包含してしまうんですよ。
ですから、死の恐怖が全く無くなってしまうんかと思いますね。
悠久たる、歴史的生命の流れを、そこに見るんでしょうね。
自分の生命の存在など、そこには無いんですね。
心地よい心境なのでしょう・・・
>>780 高橋信次スレッドは今拝見しました。
残念ながら「過去世」とか「霊魂」とかは、あまり意味は無いと思いますね。
仏教における「輪廻転生」もあまり意味はないと思います。
「じゃ〜、好き勝手に生きたほーが得じゃ〜ん」。となりそうですが、さに非ず。
それでも、真っ当に生きる道すじはハッキリ示してくれると思います。
782レスに、それも全部含まれていると思いますね。だから「色即是空」なんだと思います。
後から、尾ひれの付いた解釈を入れる必要は無いと思いますね。
観じたまま、その世界こそ「空」であり、解釈を入れる世界では無いと思いますね。
784 :
BigPig:01/11/14 12:43
死生観について:
悪法も法なりと言って、逃避のチャンスがあるに拘わらず
毒杯を仰いで刑死した、ソクラテスは、死の前夜、まわりの
者に、死について、次のように言っていますね。
「自分は死を恐れない。
死後の世界があるのであれば、来世で先に死んだ多くの
賢人と真理について語りあえるので、それが楽しみである。
死後の世界がないのであれば、夢を見ないで深く安眠
できた昨夜と同じで、それは一瞬のことである。」
哲人ソクラテスでもこういっている、「仏教の輪廻転生」も
東洋の知恵の一つなのでしょう。
質問。「幽霊が出る」と言うような類の、心霊現象は全て否定されるか?
>>784 老境の身で、あまり夢も無くなった場合、輪廻転生は良い夢を見させてくれる
のではないでしょうか?まあ、それだけでも大きな価値はあると思います。
まあ、死んでしまえば実現するかしないかは、さして問題ではありませんからね。
生活の知恵としては優れているのでしょう。
>>785 心霊現象をすべて否定している訳ではありません。
未知なる世界というのは、まだまだ有ると思いますね。
たとえば、疲れているとき車を運転していて、道路際に幽霊?らしきもの
が立っていることがありますよ。まあ、それは幻覚なのですが・・
これは、大体の人が経験すると思います。
貴方が見たのは、本物の幽霊だったですか?
死んだ人の数に比べて、幽霊の数があまりに少ないですけど、
もし、いるんだったら私も考えてみます。
>>785 幽霊の存在を、仮に肯定したとしても、それは本当に特殊な場合ですよね。
この世に怨念があるとか・・。(私は一応疑問ということにしときますが)
まあ、それだからといって直ぐに「死後の世界」には結びつかないと思います。
ここのところを、早合点する方が多いと思うのですが、それとは問題が別のような気がします。
抜苦即与楽。与楽即抜苦。ですな。思うに。
無上菩提の外に、何をかこれを楽と名づけん耶。
三世恒沙無量無辺諸仏如来。随機説法。応病与薬。其病者。名為無明六道所生自傷傷他。其薬者。名為抜苦与楽無上功徳也。応知。
と、独り言を言ってみる。
なんか、禅って、如来の世界に直に参入する頓教だと思ってましたけど、
法爾を縦に登ってゆく漸教っぽいですね。レス見てると。
>>788 念仏と禅は、登り方が違えど頂上で出会うらしい。
肯定されなくても、否定さえされなければ満足ですね。まだ、質問してみたいことはあるけれど、スレとは関係ないので控えることにし
ます。ありがとうございました。
791 :
名無しさん@1周年:01/11/14 22:08
そういえば、鈴木大拙も教行信証に傾倒してたような‥
それと良寛さん?
お坊さんの見解キボーン
なんか、レス止まっちゃいましたね。
念仏者の一人や二人、とっとと斬り殺して欲しいですね。
ちなみに
>>789 お念仏は頂上で出会うために登ったりしませんよ。つーか。頂上って何?
って、ネタふっといてナンですけど。
793 :
名無しさん@1周年:01/11/14 23:58
巧言令色は道からも遠い
なるほど、縁無き衆生は度しがたし。ってことですか。
結構簡単ですね。
って、煽りみたいになっちゃうんで、これで失礼します。さよなら。
っと思ったけど、
>>793は残念でしたね。悪意のつもりはないんですけど。
そう見えたんだったらごめんなさい。
796 :
名無しさん@1周年:01/11/15 00:21
>一念仏者さん
煽りじゃなく、正当な批判だと思いますよ。
ちなみに、
>>788 「レス見てると。」
ずっとROMしてましたか?
それとも、最近の20レスぐらいですか?
それ次第で返答が変わりますので。
>>796 おお、ありがとうございます。
1から初めて、変人さんが出てきて、変人さんいじりになりかけかな。っと思った
ところからは、最近のレスしか見てませんね。(最近のも20以上は読んでますけど。)
風車さんがどこから登場したのかは知りません。
798 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/15 01:06
>>797 では、私も含まれての批判だと受け止めることにします。
念仏宗も、禅宗も、仏教であり、菩薩道に生きるためものだと考えています。
ハート(菩提心:かなり混同して使ってきてしまいました)は変わらないはず。
菩薩道は、まさに一念仏宗さんの
>>788の通りだと思います。
しかるに、このスレの、
>>751 「ブロイラー製造装置」レス、766以降の展開は、
もう菩薩道から外れてます。
特に「具足凡夫」の念仏宗ならば、???と思うのも当然かと。
>法爾を縦に登ってゆく漸教っぽいですね。
私のイメージは縦というより、仏性、菩提心が引き起こす
「点と広がり」の世界、「自在」の世界を明確にしていくものとの
イメージがあります。
頓教的イメージはありますが、やはり漸教なのかもしれません。
正直、分かりません。
>「頂上」
「有頂天」(禅宗では基本的に良い意味です)が「頂上」なのかどうか…
「歓喜」でいいんじゃないでしょうか?
方法論は違っても、「歓喜」に至るのは同じという意味のような気がします。
まずは、ここまで。
799 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/15 05:57
白隠批判4 「無修行」に必要な「虚仮の自己」への「気付き」
(
>>766-767 707さん宛てにします。)
■白隠禅の「「修行」(公案)、具体的な内容の瞑想は必要か?
今の苦しみを「悟り」を得ることで逃れようとしてる限り、私の立場では「発心」に該当しません。
よって、「修行」(公案や瞑想)にも手を付けない方が良いでしょう。やっても「野狸禅」です。
■ポンイント
1.今、禅の本は読むべきではないと思います。
2.今、苦しんでいることは、誰もが経験することです。決して特別なものと思わないでください。
そこから抜ければ、とても愛しい経験になるのが普通だと思います。
3.必要なのは「自己の中心ポンイント」です。それは「空白」(何も思考してない状態)です。
これが日常生活の中で、心に動きを作ってくれます。
4.毎日5分だけ、世界中で生きている生命の存在のため、時間を頂けませんか?
5.「死」や「生」に対して執着するとき、マズいのはそこから「心が動かなくなること」です。
■「心」の意味、「生」と「死」の意味、「気付き」
今、これらの「意味」を、自分の皮膚の内側、自分の心の内に見い出そうとしてるのでは?
その時点で、実は間違っているのです。
「言葉」に対する「意味」は、本当は外界にあるのでは?とユングは発想しました。
哲学者ヴィトゲンシュタインは、「言葉」と「意味」の二元論に疑問を呈しました。
「言葉」の「意味」は、その人が生きている社会的文脈の中、皮膚の外側にある、ってことです。
だから、皮膚の外側に、貴方の「心」や「生」や「死」の「意味」、貴方の「存在」を感じてください。
そして、皮膚の外側と、自分の「心」の中を一致、調和、一体化させるのが、「気づき」と
言われるものです。
分からなくても大丈夫です。
次に述べるエーリッヒ・フロムの呼吸についての「気付き」を実行してみてください。
800!
801 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/15 05:59
■フロム『よりよく生きるということ』 呼吸についての気づき
身体的な気づきの単純な例としては、呼吸についての気づきがあげられる。もちろん、
われわれは自分が呼吸をしていることを知っている。だが、これは知的な意味での
知識であり、呼吸、すなわち息を吸って吐いているという事実、あるいは腹部の動きなどを
観察することによって証明されるようなたぐいの知識である。しかしながら、われわれが
呼吸という行為そのものへの気づきとはまったく違う。この違いは、ちょっとした実験を
やってみれば誰にでも分かる。リラックスした姿勢で、−だらけず、こわばらずに−座っ
て、目を閉じ、何も考えずにただ自分の呼吸を感じるようにしてみる。これは決して言う
ほどたやすいことではない。というのも、たくさんの考えが邪魔をするからである。最初の
うちはとくにそうなのだが、2〜3秒もすると呼吸への気づきが頓挫し、たくさんの、しば
しば関係のない事柄についての思いが去来するようになるだろう。呼吸に集中するのに
成功していればその分だけ、呼吸のプロセスへの気づきが生じていると言える。それを
無理にしようともせず、コントロールしようともせず、まったく目的もなくゴールもなく、呼吸
という行為にみずからを明け渡す。呼吸に対するこのような気づきは、呼吸についての
思考とはまったく別のものであるということが分かるだろう。実際、二つの様態は、互いに
排除しあうようなものである。呼吸について考えるやいなや、呼吸という行為への気づきは
不可能になるのだ。
* 別の個所で、この呼吸についての「気づき」ができるようになる(妄念が何も浮かば
なくなる)には、数ヶ月(1〜5ぐらい)が必要である趣旨も述べています。
ここから始められることをお勧めします。
* フロムという思想家(心理学者・社会学者:科学者としてはイマイチ)が、いかなるもの
として「気づき」を理解しているか、彼の著書をお読みください。
翻訳されている主だった著書は、「自由からの逃走」「人間における自由」「愛するという
こと」「悪について」「生きるということ」「よりよく生きるということ」ぐらいになると思います。
一念仏者さん
念仏宗ですから、阿弥陀如来に帰依して信仰するわけですよね。
まあ、数年信仰してますと、最初の志より数段進歩してくると思うのです。
本当のところ、信仰の対象よりも「帰依」する心が大事かと思うのですよ。
そう気が付いた時、自分なりに会得するものがあるやに思うのです。
これは、人それぞれの世界観ですから、なんとも言いようがないですが、
如来に「帰依」する、この「帰依」の概念が全く変わってしまうかと思うのです。
それこそが、仏世界の境地かと思うのです。
まあ、ここは他宗派ですからなんとも言いづらいのですが、
「帰依」の概念が変わるとなれば・・・・→「禅」に通ずるのせはないか?
そうわたしは解釈しているのですが、いかがなものでしょうか?
なんか、話がややこしくなるんでひとつだけ言っときますと、
浄土真宗のお念仏です。わたしは。
おっとっと。
>>798の訂正。
>ハート(菩提心:かなり混同して使ってきてしまいました)は変わらないはず。
>菩薩道は、まさに一念仏宗さんの
>>788の通りだと思います。
この部分を削除させていただきます。間違ってるし、不必要な部分ですので。
805 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/15 11:08
>一念仏者さん
>>793は単なる煽りだと思いますよ。
宗教の話をしてるときに、「巧言令色」は煽りによく使われる文句ですので。
>抜苦即与楽。与楽即抜苦。ですな。思うに。
誤解があるかもしれませんが、同意です。
禅的には「相手と一体となること(不ニ)」を介して、実現しようと発想するでしょう。
真宗は、悪人である自分と阿弥陀仏だけの世界と聞きます。
いかにして「抜苦即与楽。与楽即抜苦」が実現されると考えるのか、
教えていただけませんか?
(漢文は苦手ですので)
>>803 浄土真宗と言えば→歎異抄→人生如何にいきるべきか?帰結するところ、人間とは何ぞや?
仏を通して、結局はここに到達するのでしょうか?
このことは、つまり・・・
「即心即仏」→「非心非仏」。に通ずるところがありますか?
もしそうだとしたら、山の頂上は「仏」に非ず。と言う事でしょう。
仏に非ずとも、そこに仏を見るのではないですか?
その境地こそ「禅」に通ずるということでしょうか?
私が言う仏とは、通常の概念と遥か違う意味で言っているのですが、
そこのところは、各自の世界観でしょうから何とも言えません。
真宗の世界観がどういうものか、よく解りませんので言いようがないのですが、
私は、前記のごときに捉えております。 つまり、仏教には方便もかなりありますから
それを一つずつ自分なりに消化していかなくてはなりません。
そこで、最終的に到達するのが「禅」に通ずる・・という事なのではないでしょうか?
抜苦即与楽。
まあ、私としては「煩悩即菩提」と解したいところです。
809 :
名無しさん@1周年:01/11/15 15:07
>>802 「帰依」の概念が理解できません。教えて下さい。
それは、カルト思考にも思えるのですが?
810 :
名無しさん@1周年:01/11/15 15:18
マジで?
>>809 通常言われている、仏教に「帰依」する。という意味ですね。
広義において使われる「帰依」です。
それが、カルト思考になりますか?
まあ、そうでしたら私のほうが認識の誤り、という事になりますから御教授願います。
>>809 私自身の世界観としましと、「帰依」とか「信仰」という概念は無いんですよ。
そこのところが、うまく説明しようがないのですが、つまり・・
信仰の対象としての「神仏」。という概念が無いのです。
理解して頂けましたか?
>>799>>801 新参者に、わざわざありがとうございます。
ここのところ、少し精神的に持ち直してきました。
強迫観念めいたものに悩まされることは、ひとまず鎮まったと思います。
正直、何もわからない者なのでこのようなことを書くのが憚られるのですが、
僕は趣味でスポーツ(テニス)をやっています。そうすると、色々なテクニック
を覚えていくわけですが、不思議と「ある日突然できるようになる」ことが
多いのです。どんなにコーチに教わり、本を読んで知識を仕入れても、いつまでも
目指すテクニックとは身につかないものなのですね。
ですから、仕方なく練習ばかり繰り返してみたり、あるいは逆に気分転換の
ために練習から離れてみたりする。そんなことをしているうちに、ある日何気なく
ボールを打ってみると、突然できるようになってしまうことがあるのです。
打てるようになるのですが、いざこれを人に説明しようとするとうまくいかない。
言葉は出てくるんですが、それはまず相手に伝わらない。
何か、「悟る」ということはこれに似ているのかなとちょっと思った次第です。
悩める者の戯言でしかありませんが。
>>799 >4.毎日5分だけ、世界中で生きている生命の存在のため、時間を頂けませんか?
とは、どういうことなのでしょうか? 教えて下さいませ。
707さん
>「悟る」というのはこれに似ているのかな・・・
以前に「死の恐怖」のレスが有りましたが、生命の捉え方として・・・
単体か?集合か?この認識の違いが、全く異質の世界観を構築してしまう。
悩みの根元が、すべてここに集約されるのである。
ここをベースに考えてみれば、何らかの回答が得られるのではないでしょうか?
815 :
名無しさん@1周年:01/11/15 21:18
ようやく嵐が去ったようなので(笑)書き込みます。
今、禅の道を志す人々に伝えておかなければならないことがあります。
それは現代の禅はほとんど偽者であるということ。
実際、僧堂の行って修行してみれば解ります。
似たもの禅、なりきり禅ばかりです。
公案にしても雲水が本当に理解していなくても、ある程度月日がたって行動や言動に
落ちつきが見られると透してしまう。
雲水は何故自分がその公案を透ったのか解らず、師もまた理解していない。
いくつかの公案は長い間にその本当の意味が失われてしまい、
答えそのものを放棄してしまったものもあります。
こうした僧堂の実態を知らず禅の知識をひけらかしてああだこうだ書いてみても
あまり意味はないでしょう。
>それは現代の禅はほとんど偽者であるということ。
禅に本物も偽物もない。
偽物かどうかはそれを修する人間がどうか、ということ。
>こうした僧堂の実態を知らず禅の知識をひけらかしてああだこうだ書いてみても
>あまり意味はないでしょう。
誰も宗派の宣伝なんてやってねーよ。おまえ以外はな(ワラ。
見えてきたね。どうもここには念仏宗の人がいて禅宗の批判をしたいらしい。
安心しな。だれもこのスレみて禅寺行けば何とかなる、なんて思わないから。
他力のお念仏には煩悩具足・罪悪甚深の凡夫の仏性はこれを否定します。
ですから、末代悪世の凡夫が菩薩道を行ずることは、これを捨てます。
弥陀の浄土を宗とするひとは「愚者となりて往生す」ですからね。
そういえば、良寛さんのお歌にこんなのありますね。
「おろかなる/身こそなかなか/うれしけれ/弥陀の誓いに/あうと思えば」
愚かな我が身をそのまま「なかなか嬉しけれ」と頂かれたところに良寛様の
「大愚」が透徹されたのかも知れませんね。(はは、ここは反論きそうですけど)
「不可思議の/弥陀の誓いのなかりせば/何をこの世の/思い出にせん」なんてね。
それから、変人さんのお好きな方向でネタふっとくなら、
龍樹菩薩造『大智度論』にのたまはく
若人見般若。是則為被縛。
(もし人般若を見るならば、是すなわち(煩悩に)縛せられるとなすなり)
若不見般若。是亦為被縛。
(もし般若を見ざるならば、是また縛せられるとなすなり)
若人見般若。是則為解脱。
若不見般若。是亦為解脱。
是中不離(上の)四句者。為縛。
離四句者。為解。と。
この義理を速やかに体得しようとするならば、お念仏の善巧無上の真実方便に勝るものはないでしょね。
でもね、禅もまた、同じく凡夫直入の真実功徳の修行(行を修むるなり)だろうと衷心よりお敬い申し上げております。
私としては。
ああ、それから、荒らしだとか、念仏の宣伝とか、禅の批判とか、そう取られるならそれで結構です。
ここでの書き込みはこれで最後としましょう。
正直、残念ですね。こんなに料簡が狭かったとは。
>>815 釈迦は、人間とは何ぞや?生きるとは何ぞや?・・こうゆう事を考えるのさえ「執着」としている。
では、その究極とは何ぞや?となれば、禅の世界観に答えを見出すのがベターではないか?
まあこういう観点から、仏教の本道は「禅」に有り。と結論したしだい。
宗派のことはあまり念頭にはないですね。これは皆様解っていると思います。
伝統宗派の、それなりのノウハウは敬意を表しております。
それは個人個人主観の問題でしょう。
今や、ネット社会ですからね。すでに「宗派」という垣根は殆ど形骸化していると思います。
これは、わたしが言うまでもなく、皆様肌で感じていると思います。
>>815 は念仏者の禅批判じゃないだろう。
むしろ禅者の禅批判だろう。
話が詳し過ぎる。念仏者はそこまで知らんだろ。
なので817は基地外の素人禅マニアでした。
>>819 本当に残念ですね。
このスレにはひとりだけ料簡の狭い者がいるもんで。
誰にも救えないんですわ。
823 :
名無しさん@1周年:01/11/15 22:18
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1004475414/751 また、転生輪廻を否定する“無我”の解釈にこだわっている人がいるようですね。
この無我の思想を釈尊が訴えたかった本来の意味に戻す作業が、
幸福の科学が幸福の科学であるゆえんだと、私は思っているのだが・・・。
私が、仏教に興味を持ったときに疑問に思ったのは、
実にこの部分だったから、大川総裁の無我に関する解釈は、私には納得いく。
そもそも、転生輪廻を否定し、物理的実体を否定するような、
唯物論的な無我観は、最終的には、人を虚無主義に至らしめる。
「私なんか実はないんだ」と考えると、
「じゃあ、すべての存在そのものが意味がない」
「努力がなんだ。悟りといったって、悟る主体がないんだから幻想じゃん」
という結果にならざるを得ない(笑)。
824 :
名無しさん@1周年:01/11/15 22:23
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1004475414/782 今、風呂に入りながら考えていたのだけど、仏性というのは変わらない仏の性質
なわけで、なんか人間が努力したから変わるようなものではない。
これは、縁起の法則を超えたところにあるものである、と思う。
アートマンとかアナートマンとかいう次元を超えてしまいますね。
一切を超えたものを理解できるのは、如来であろうと思います。
一切を超えたものについて釈尊が語られなかったのは、如来になった人がいなかったということだと思います。
>他力お念仏
まあ、ここのところが根本的に違っております。
>煩悩具足・罪悪甚深の凡夫の仏性はこれを否定します。
こうなりますと、選民意識が芽生えてしまいます。
826 :
名無しさん@1周年:01/11/15 22:30
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1004475414/785 仏教、特に「無我」を論ずる人よ、
あなたが常識的な幸福で満足な人ならば以上のような過酷な疑問は投げかけない。
ずっと各人なりの幸福を追い求めていって欲しいと思う。
だが、あなたは踏み入れてはならない領域に足を踏み入れてしまった。
無我論を論ずる者はもはや常識的な幸福論で甘んずることは許されない。
それはアダムとイヴが食したリンゴに等しいものなのだ。
無我論を、
「禁断の実(転落への道)」とするか、
「仏性の種(成長への契機)」とするか、
もしくは何もしないで、
「無為自然(停滞の論理)」のまま死を待って元の塵に還るか、
「流浪の民(宛無き旅人)」と化して精神の不毛を感じつつも無窮の世を流離うか、
道は四つに一つなのだ。
*偽善に走るという選択肢もある。今思いつかないだけで他にもあるか・・・。
「一切の我が無い」と主張する無我論者に以上の疑問を投げかけたい。
その無我論が本物ならば、今のあなたはいったい何なのか、と。
反論もしくは定義を期待する。
ex.「人間は環境の動物(産物)だ」から「自分はこの時代の申し子だ」、とか。
>>823 道元さんも言っているんですが、「輪廻」に思い煩うことこそ「執着」なのです。
>>824 >仏性というのは変わらない仏の性質
全くその通りかと思います。「空」の概念にあたるものかと思っております。
>>826 「無我」の底流には「空」の概念がある。
そこにすべてが包含されている。
これが世界観なのである。どうですか?素晴らしいでしょう?
>>826 そうそう、「生死」の概念が全く違う。
すなわち、大きな「時空」の流れの瞬間の「生死」と見ている。
だからそこに「生」と「死」の境目・・という概念が無いのです。
>>822 本当に残念だと思うなら、なぜ>819を救わんのか。
残念ですねで切り捨ててそれでおしまいなら、おまえも
料簡の狭い人間でしかないだろう。
念仏者が去ることをおまえも望んでいたのではないか?
>>830=819
お前以外誰も望んでいないよ。(笑)
>>381 恨み。ねたみ。恐れ。怒り。
禅ってさ。そんなもんなの?
祖師に対して恥ずかしく思わんの?
書き込みを最後にします。っていった後で煽るなら、
なんぼでも相手にするぜ。なんか言ってみなよ。
>>832さん。
念のために言っておきますが、
>>831とかの発言は私ではありませんよ。
それと私は念仏もすばらしいと思っています。
実際、正直、このスレは念仏を叩くスレッドではないし、
特定の禅宗を宣伝するスレッドでもありません。
そんなつもりの人は本当にいないと思いますよ。
また、
>>815の
>雲水は何故自分がその公案を透ったのか解らず、師もまた理解していない。
>いくつかの公案は長い間にその本当の意味が失われてしまい、
>答えそのものを放棄してしまったものもあります。
>こうした僧堂の実態を知らず禅の知識をひけらかしてああだこうだ書いてみても
>あまり意味はないでしょう。
というのも、私は実態を知りませんし、たぶんその通りだとも思います。
ただ、私は知識をひけらかしたつもりはありませんけどね。
知らないのにひけらかせるわけないし(笑)。
あなたが特定の禅寺とかの腐敗した実態を暴きたかったり、
念仏仏教を宣伝したいのでしたら、どうぞ別のレスをたてておやりなさい。
お手伝いしますよ。私は別に宗教界の人間ではありませんから。
>832
この人、自分の心を周りに投影しているってことに気が付かないんだろうか、、、
>>384 つーか、なんでこんなに、疑いばかりなの?同じ仏教徒なのに、、、、
いや、ほんと消えます。
>>831に対するレスとして、ほんとにそう思うんだろか。
そんなに念仏ウザイんだろか。正面から話合えた人もいないのに。
ぼくは好きなんだけどな。禅の人。いささか、失望しました。禅に。
いや、ほんとに「自分の心を周りに投影」だの「気がつかないんだろうか」だの
、禅の人って、「不立文字」の故なのか知らんけど。厨房の戯言じゃん。
うん、まあ、わかりました。禅の人が、廃師自立だってことが、だって結婚するでしょ。
禅宗の坊さん。それってなんで? いや、レスいらんから。もう消えます。永遠にオナニーしててちょ。
あほらし。
>835
834ですけど。私は禅の人間ではありませーん。
ちょっと心理学勉強してたんで、、、、
837 :
名無しさん@1周年:01/11/16 01:36
>>836 知った事じゃないね。ほんとあほらし。禅を敬うなら、あるいは禅に我が身を…
あほらしいから、まあ、知りません。さみし。
不思議です。
>>835さん、あなたのそのような発言と態度は。
このスレで念仏批判してる人誰もいないのに・・・
あと、ここは一応禅のお話をするスレッドだから
詳しい人がいないだけだと思いますよ。
(^-^)/。
839 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/16 06:01
>>798 自レス訂正。
>>「頂上」
>「有頂天」(禅宗では基本的に良い意味です)が「頂上」なのかどうか…
>「歓喜」でいいんじゃないでしょうか?
>方法論は違っても、「歓喜」に至るのは同じという意味のような気がします
なんて寝ぼけたことを逝ってるのか・・・、この部分も削除しておいてください。
要するに、「涅槃(極楽浄土)に至る道という点では変わらない」と。
(比較の便宜上、悟後のことは無視しますね。)
>>818 一念仏者さん
>他力のお念仏には煩悩具足・罪悪甚深の凡夫の仏性はこれを否定します。
>ですから、末代悪世の凡夫が菩薩道を行ずることは、これを捨てます。
真宗の「悪人」に徹することが、禅宗で「自我を切り捨てていくこと」に相当すると
思います。そして、真宗の「阿弥陀仏」の本願が、禅宗でいうところの「不生の仏性」
に対する信頼に相当すると思います。
>ここでの書き込みはこれで最後としましょう。
「悪人」に徹しきれてませんぞい。(笑)
>>812 変人さん
なんでそんなに「神仏」に執着してるんですか?
475さん
約束してた「対話」と「立場」の法話、なかなか見つからないです。スマソ・・・
足利将軍と法主との「対話」だったと記憶しています。
将軍が法主がおくびにも畏怖しないのをみて驚いたのに対し、
法主は、将軍がおくびにも畏怖しないのを驚いてみせた話だったんですが・・・
840 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/16 06:02
>>813 707さん
何よりです。(笑)
>何か、「悟る」ということはこれに似ているのかなとちょっと思った次第です。
普通に生活していく中で、とても大切な「気づき」だと思いますよ。
「悟り」」とは、似て非なるものだと思いますが。
理由は、「発心」に基づいてるか否か。
>4.毎日5分だけ、世界中で生きている生命の存在のため、時間を頂けませんか?
変人さんの言われる「底流」を「気づき」の中で感じられるようにするためです。
是非、フロムを読んでみてくださいな。「愛するということ」が内容的に近いかも。
強迫観念みたいなものが抜け、悩んだことが愛しくなり、禅的な世界に入るとき、
とても大切になってくると思います。
>>815 「百丈の野孤」の公案は、徹底した人間主義(だから「野孤禅」は否定される)の、
「不生の仏性」に対する果てしない信頼(だから「野孤」は「老師」へと戻る)が
エッセンスだと思っています。
>こうした僧堂の実態を知らず禅の知識をひけらかしてああだこうだ書いてみても
>あまり意味はないでしょう。
どうも分別屋なもんで、システムと構造の問題を切り離して考えてました。
白隠禅と云うシステムは信頼に足る。禅堂が…というのは野暮な話。
その点、
>>816さんの「それを修する人間」の問題とすることに同意です。
ただ、実際問題・・・だとは思いますが。
ネットだからこそ、純粋に禅も、公案も楽しめるのかもしれません。
このスレに参加してる人は、知識に溺れることなく、それぞれの立場で本気だと
思いますよ。
841 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/16 06:02
>>823 >転生輪廻を否定する“無我”の解釈にこだわっている人がいる
人間が生得的に「心」を持つ以上、「輪廻転生」のようなものは必ず心に浮かぶでしょう。
だからこそ、それに惑わされずに、人々の心の中の「輪廻転生」を大切に生きていく
ことになるのでしょうね。「因果不昧」とはそういう意味ではないでしょうか?
「輪廻転生」の否定は、自分の心、他人の心を否定することですから。
「輪廻転生」を否定、軽蔑して終わるものは、人間としての底が知れてると思いますよ。
>>824 >一切を超えたものについて釈尊が語られなかったのは、
>如来になった人がいなかったということだと思います。
釈迦の元に集まった菩薩道に生きようとする行者にとって、
そんなものを語るのは「百害あって一利なし」だからではないでしょうか?
一般論・抽象論ではなく、人々が苦しむ具体的な状況の下でのみ、
「悟りの境地」は意味があると考えたのではないでしょうか?
>>825 >>829 変人さん
やっぱり、変人さんの世界観(「枯葉一葉」だったけ?)は、完全に浄土真宗的だと思うよ。
五木寛之「大河の一滴」の書き出しの部分を立ち読みしてみたら?
風車さん
>なんでそんなに「神仏」に執着しているのですか?
文脈をよく見ていただきたい。「神仏」を否定することによって、自分の立場を明確にしているのです。
枯葉一葉
これは、あえて説明するなら(不立文字の範疇)という事で、各人捕らえ方はいろいろかと思う。
五木寛之
「大河の一滴」は熟読している。
彼の世界観には通ずるところ多し。感銘しているしだい。
察するに、五木の世界観の底流には「般若心経」の思想が有るとみている。
幸福の科学さんへ
>無我→唯物論的→ニヒリズム
まあ、こういった事を発想する段階において、仏教から離れていると思いますね。申し訳ないが。
「おいしい話」を観念的に捉えても、それはそれだけ、何も見えてこないと思いますよ。
釈迦が方便まで駆使して、民衆に伝えたかった事とは果たして何なのか?
ここのところがキーポイントかとおもうのです。
「無我」を、表面的な「言葉の意味」だけで捉えてしまいますと、大川先生的?発想になってしまうかと思う。
貴方達の求道心には敬意をはらいます。がしかし・・・
もういちど仏教の原点に立ち返ってはいかがでしょうか?
>>840 レスありがとうございます。
フロムは図書館で探してみましたが、見つかりませんでした・・・
いずれ本屋で探してみようかと思います。
毎日5分間の実践ですが、気負うことなくやっていくことにします。
唯物論の世界にいた人間にはかなり難しいもののようですが(笑)
それから、悟りと似て非なるものかとは思いますが、
スポーツの中で得た体験は大切にしておこうと思います。
>>823の「輪廻転生」について、一応明確にしておきます。
そもそも色即是空、空即是色とは・・・
生も死も無く(死後の世界がない)、我も無く、他も無く、善悪も無い・・というものです。
ここにおいて、道元禅師も「輪廻転生」も無く。に至っているのです。
この「空」の世界観をどうみるか?これは各人の捉え方でしょうけど、
私としては、道元禅師に納得する部分はあります。
>風車さん、変人さん、475さん
あまり関係ないことかもしれませんが、僕が既に書いたような強迫観念に
悩まされている理由が「将来に対する期待感の薄さ(絶望感とまではいかない)」
なのではないかとだんだん思い始めました。
ちょっと気がついたので書き残しておきます。
>>846 俗世の価値観に順応しようとする「自分」。がいて・・・・・
自由な価値観の、もう一人の「自分」がいる。
釈迦の仏法とは、まさに「自由な価値観の自分」を発見する「道筋」でもある。
であるから、本来そこには自由の思想が脈々と受け繋がれているのです。
もし、宗教から離れて自分を客観視する方法として「方丈記」を薦める。
方丈の庵で、既存の価値観を排除した人間の生き方が、生き生き描かれている。
これは、禅における「無分別」を垣間見せてくれる。
かつてトルストイが、晩年「富貴」を廃して「清貧」に徹した生活と共通する。
後期彼の作品には、こういった思想が文脈に表れている。
848 :
名無しさん@1周年:01/11/16 19:54
>>833 >念のために言っておきますが、
>>831とかの発言は私ではありませんよ。
そりゃそーでしょ。貴方の発言は816と817なんだから。(笑
>というのも、私は実態を知りませんし、たぶんその通りだとも思います。
実態を知らないのに何故その通りだと思うのかな?(笑
>あなたが特定の禅寺とかの腐敗した実態を暴きたかったり、
>念仏仏教を宣伝したいのでしたら、どうぞ別のレスをたてておやりなさい。
815のレスのなかのどこに念仏の宣伝なんて書いてあるのでしょう?
そんな曲解をしてるのは貴方だけですよ。(笑
それに特定の禅寺なんて書いていないでしょう。
今の禅界全般の話でしょう。
あなたが暴れる(笑)ようになってから少なくともこのスレで
2人は出てこなくなったのを感じてますか?
そしてそれは何故だと思いますか?
そうしたことを念頭において
>どうぞ別のレスをたてておやりなさい。
ということを自問自答してください。
禅というのはまず自分に対する否定から始まるのです。
あなたのように他人の否定しかしない人は必ず野狐になるのです。
多分このあと元気いっぱい否定レス付けるのでしょうが(苦笑)
そんなことをしていてもなんにもなりませんよ。
少しはご自分の心のなかを省みたほうがよいのではないでしょうか?
輪廻転生、因果律について
一応、大事な事を書き忘れました。
そもそも、輪廻転生、因果律はインド古代思想であり、これがバラモン教に
受け継がれ、これをワザワザ釈迦が「神仏から切り離した」のです。
で、ここのところを「空」観。すなわち「有無で有って」「有無に非ず」。
で捉えるのが宜しいかと思う。
釈尊も2CHも私の中では1つです。
もう無駄な言葉の列挙はやめましょう。
>>848 今まで放置してたんでしょうから無理に相手なさらなくてもいいでしょ。
仕方ないんです。どのスレにもこういうのが一人くらいいて
スレ自体が汚されていく。
本人に自覚がない以上無理でしょ。
2chで眼を覚まさせるのはちょっとしんどい。
>ALL
まあ宗教板において、総じて仏教系のスレは少ないですね。
そこにもってきて、私みたいな「無宗派」「フリー」の一匹狼は、なかなか自分に合ったスレを
見つけるのが大変ですよ。
いろいろな方が自由に出入り出来るのが、一番良い事だと思いますね。
853 :
名無しさん@1周年:01/11/16 23:31
>>848 貴方、多分クシュリナムティのスレに書いてた人なんだと思うけど
(違ってたらごめんなさいね。)
色んな方面の、精神的な考え方を目をとうしている様ですが
あなたは何か特定の宗教家か何かなのですか?
そういうのとは違うのかしら?ご年配の方?
707(846レス)さんは、本当に正直な方だと思う。
これは、誰しも共通している事だと思いますね。人間なんですから。
なんとか、この心の「空虚」を埋められないだろうか?というのがスレに集う方達の共通認識かと思う。
で、これをどういう方法で埋めるのか?というと、それは考えなくても、なんとなく解るもんですよ。
ただ、前を進むだけで。そこで気が付くか?気が付かないか?は本人次第でしょうけど。
まあ、スレを生かすか、生かしきれないか?という事です。
私なんかは、気の向くままレス打ち込んでますが、あまり意味がないようですが
結構役に立ってますね。そういうもんですよ2chは・・・
>禅というのはまず自分に対する否定から始まるのです。
>あなたのように他人の否定しかしない人は必ず野狐になるのです。
すみませんが、あなた様はどなた様でしょう?
私は一度も実際にはあなたにお会いした事はないと思いますが(苦笑)。
このスレのどれがあなたの発言なのでしょう?
それと、見解の相違を指摘しあうことは、
その見解を持っている人自身を否定することを意味しません。
あなたの「発言(見解)が否定された」からと言って、
「私が否定された」と感じるようでは座禅がたりないようです。
「自分」と「自分の見解」とを自己同一化されているようですよ(笑)
>475さん
>約束してた「対話」と「立場」の法話、なかなか見つからないです。スマソ・・・
>足利将軍と法主との「対話」だったと記憶しています。
>将軍が法主がおくびにも畏怖しないのをみて驚いたのに対し、
>法主は、将軍がおくびにも畏怖しないのを驚いてみせた話だったんですが・・・
別に無理に探さなくても良いですよ。でも面白そうですね。
>>847>>854 いつもながら丁寧なレスありがとうございます。
もちろん、僕が抱えている悩みというものは極めて普遍的なものなのだろう、
とは理解しているのですが(笑)、いざ自分の問題として浮上してきてしまうと
なかなかに厄介なものです。
858 :
名無しさん@1周年:01/11/17 04:28
>禅というのはまず自分に対する否定から始まるのです。
848さん。あなたがまず自分を否定して手本を見せないと、せっかくいい感じで流れていたのにだいなしですよ(怒)。
859 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/17 06:33
>>842 変人さん
失礼。「神仏」の存在だけがなぜ「不ニ」にならないのか、不思議だったもので。
神仏否定の変人論が、無神仏論者にも、有神仏論者にも、
偏狭な???となることに300ガバス。
後、変人さんの持論を文脈で理解することは、他人には不可能です。
様々な文脈が混ざりすぎでますので。
創造的破壊を唱えるなら、「分かる人には分かる」、「文脈で判断して欲しい」というのは
甘えた依存ですよ。
「大河の一滴」には納得です。世界観の毒自性を語るには、似すぎてました。
ただ、五木寛之の底流に「般若心経」があるというのには、不同意です。
もちろん「般若心経」の世界にも造詣が深いと思いますが、
それよりも遥かに他力本願の世界へ心酔してると思うのですが。
>>844 707さん
フロムは大学の図書館ならあると思いますよ。
心理学のコーナーだと思います。気が向いたら、
白隠批判を始める前の私なら、
>>813を見て、「小悟」だの、「見性体験」などと
話したことは間違いありません。
しかし、今では、「悟り」とは、「発心」に対する見性体験を介した「理解」の問題だと
考えています。
だから813は「気づき」であって、「悟り」ではないわけです(そういう方が罪が少ない)。
>>846に対しては、「主体性」の問題だと思いますので、1つだけ。
「未来」なんてない、あるのは「今」、「ここ」で生きる「自分」だけでは?と。
後、参禅について。下記のようなサイトもありますので、ご参考になれば。
座禅教室リストのURL
http://www.ah.wakwak.com/~lotus/zazenkai.html
860 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/17 06:34
>>849 変人さん
何か違うような気が・・・
釈迦が言ったのは、解脱した人間は、もう輪廻転生することはないけど、
解脱してない人間は、輪廻転生し続ける、ではなかったでしょうか?
そして、現代的センスで言えば、輪廻転生なんてあるはずがないし、
巷では、前世占いが信じられたりしてます。
>>850 ん?すべての人間が釈迦仏陀ではなかったでしょうか?
>>851 間違いを糺そうとすれば、とことん荒れるときもあります。当然です。
それでも、とことん付き合って、糺した方がいいときもある。
しかし、間違いを糺すのではなく、自分が正しいことに集中し続け、
相手の「不生の仏性」を見据えて信じれば、
「気づき」が生じ、何らかの形で修正されることもあります。
誰しもが迷う存在なのですから。
2ch限界論、ネット限界論は早計に過ぎるかもしれません。
>>855-856 475さん
>「自分」と「自分の見解」とを自己同一化されているようですよ(笑)
興味あります。詳細キボンヌ。
>別に無理に探さなくても良いですよ。でも面白そうですね。
ごめんね。。。(-_-;)
>>858 「法施」というのはご存知でしょうか?
菩薩道に生きる人には避けられないものです。
例え、持論とは違っても、
「法施」があることに有り難みを感じることができるかどうか、
大切なところだと思っています。
えぇ、えぇ。そうなんです。
我々がこのスレッドにカキコしてしまった瞬間に「それ」は遠くへ行ってしまいます。
えぇ、えぇ。そうなんです。
人間の自由意思は、存在しないものを存在させる事が可能だろうか?
>>859 風車さん
私のレスは、すべて「空」観を底流にカキコしてあります。
で、そこには無神論も有神論も無いのですよ。即ち「神仏」が・・・
「有る」ことも肯定するし、「無い」ことも肯定するし、
「有る」ことも否定するし、「無い」ことも否定する。という事なんです。
この世界を、言語を使って表わすとしたら、「信仰」「帰依」という概念が無い世界・・
と言うほかありませんよね。そこのところ御理解下さい。
五木が、他力本願の世界に心酔している・・と言うことですか?
彼の、人間の位置付けは森羅万象と同一です。そこからすると底流は「般若心経」かな?
と思うのですが、そこからは先は私の推測という事でして・・。
>>860 >釈迦が言ったのは、解脱した人間は、もう輪廻転生することはないけれど、
釈迦が生まれる前から、この思想はインドに「在った」。という事を記したのです。
ですから、釈迦が「最初」に言い出した訳では無いと思います。
釈迦は、もともとバラモン教の修行者ですからね。
バラモンの教義を真っ向から否定する訳にはいかないが、一応バラモンの教義を
やんわり否定している流れになってますよね。
ここに、釈迦の「自由思想」を見るのです。
今日は鈴木大拙の日本的霊性でも読んで寝よう。
皆様お休みなさいませ。
>>860風車さん
「輪廻転生」の意味はその通りかと思います。
>>862 既存の価値観で創りだす世界観は、その範疇にあるのではないでしょうか?
えてして、こういった世界観は「おいしく」創り上げてしまう傾向がある。
これの「絶品」というべきものが、カルトの創りだした世界観だと思う。
>>860 >475さん
>>「自分」と「自分の見解」とを自己同一化されているようですよ(笑)
>興味あります。詳細キボンヌ。
いえ、詳細というほどのことは。
・・・そうですね。
あえて言うなら飲み屋で巨人軍の悪口を言うと怒るおじさんとか。
そして大抵、そのおじさんは巨人軍のファンである、
という以外は球団とは何の関係もなかったりします(笑)。
世の中にはアンチ巨人軍の人がいてもいい。
でもどうしても巨人軍の悪口を言われると自分の悪口を言われたように感じる、
などです。本当はそのおじさんと巨人軍の間には何の関係もないのに。
それに、最終的に禅的理解によれば「無我」でしょう。
私たちが普段「自分」と呼んでいるものは、
突き詰めていくと結局は巨人軍のファンのおじさんが怒る
ファン心理で成り立っているようなものでしょうね。
だから仏教ではウペクシャ(無頓着)が強調される。
ただ、これも「主義」としてイデオロギー的に解釈されると、
どこかのカルト教団みたいに他人に対してどんな悪いことをしても
無頓着でいろ、などと悪用されかねません。
怒りがあってはいけない、無頓着でいろ、ではなく、
怒りがあってもあるがままに無頓着でいろ、でしょうね。
でないと野狐になる(笑)。
だから最初のほうで言ったように、絡んでくる人がいても良いんです。
巨人軍のファンがいて、それに一喜一憂するのも別にかまわない。
ただ、絡んでくる人はもっと冷静に自分と自分が絡む理由を見極め無いと。
私はなるべくそうするように気をつけています。
>ごめんね。。。(-_-;)
本当に気になさらないでください。
>>818一念仏さん
いやいや、これは良く見ますると良レスです。
>末代悪世の凡夫が菩薩行を行ずることは、これを捨てます。「愚者となりて往生す」。
これは、なかなかのモノです。
執着から離れる思想が、こういったところに脈々と流れている。恐れ入りました。
良寛さん
「大愚?」即ち「目横鼻直」。諸行諸有楽ですからね、これが本懐かと思います。
「空」の概念こそ、既存の価値観と全く次元の違うものですからね、なかなか理解は出来ないでしょう。
漢文について
これは良く解りますね。即ち「空」の概念に執着する事無かれ。という意味でしょう。
念仏とすれば、ここのところは方便にて極める・・という事なのでしょう。
まあ、いずれにせよ慢心への警告と見ています。
>>855 プッ。やっぱりな。848さんの質問には肝心なとこは無視。(ワラ
>ただ、絡んでくる人はもっと冷静に自分と自分が絡む理由を見極め無いと。
私はなるべくそうするように気をつけています。
とことん哀れな人だ。冷静に自分を見つめることなど出来ない人が
まさに「釈迦に説法」ですな。
869 :
名無しさん@1周年:01/11/17 19:12
>「自分」と「自分の見解」とを自己同一化されているようですよ(笑)
あれ?それって別にしちゃていいの?
二つを分離して見ようとするなら禅ではないですよ。
それじゃ天地不二が手に入らないよ。
うんこは禅ですか?
871 :
名無しさん@1周年:01/11/17 19:18
禅というのは自分と自分の見解を一体化させることが基本です。
そこを基本として発展させていくものですよね。
別に誰かの尻馬に乗って誰かを批判するつもりはないけど
基本的な間違いは正しておかないと。
それじゃなきゃやっぱり野狐の謗りは免れないです。
>>859風車さん
>「神仏」の存在が何故「不二」にならないか、不思議だったもので
>偏狭な???となることに300ガバス。
これは、どういう意味ですか? 「神仏不二」と300ガバス。是は如何に?
私は以前、無修行と修行は同じ意味、という話をしました。
ただ単に無修行というだけでしたら犬や猫でも無修行でしょう。
犬や猫になることが禅ではありません。
それと全く同じで、飲み屋で隣の客に巨人ファンのおっさんが絡むのは禅ではありません(笑)。
>>869さん、
>>871さん。
>>866をもう一度よく読んで下さい。
私はちゃんと
>それに、最終的に禅的理解によれば「無我」でしょう。
と言っているでしょう?
そこには質的な違いが有るんですよ。
>禅というのは自分と自分の見解を一体化させることが基本です。
というのは、言葉のあやで、実際には本当に一体化されたらそこには自分が生じません。
前に言った、歩くとき、歩く人はいない、というのと一緒です。
飲み屋のおっさんが酔っぱらっているのとは同じではありません。
>>868さん。
もしかして何かむしゃくしゃするようなことが有ったんですか?
そういうときは掲示板でこんな独り言ぼそぼそ言っていないで、
海に向かって叫んでみたらどうですか?すっきりしますよ(笑)
#どうもこのスレには全く同じ間違いを性懲りもなく繰り返す人がいらっしゃるようだ。
>>873 相変わらずだな(ワラ
人の忠告を真に受けることが出来ず自分が攻撃されてると思いこんでる。(爆笑)
同じ間違いを性懲りもなく繰り返しているのは誰なのかよ〜く考えてごらん?
875 :
名無しさん@1周年:01/11/17 21:29
>>860 >間違いを糺そうとすれば、とことん荒れるときもあります。当然です。
>それでも、とことん付き合って、糺した方がいいときもある。
>しかし、間違いを糺すのではなく、自分が正しいことに集中し続け、
>相手の「不生の仏性」を見据えて信じれば、
>「気づき」が生じ、何らかの形で修正されることもあります。
>誰しもが迷う存在なのですから。
>2ch限界論、ネット限界論は早計に過ぎるかもしれません。
風車さんのこの意見は大変貴重なものです。
みなさんもこの一文を読んで何かを感じ取っていただきたいと思います。
自作自演じゃないですよ。(笑)
ここで次の話に続きます。↓
876 :
名無しさん@1周年:01/11/17 21:29
臨済の弟子三聖が若かりし時に老師雪峰とこんな問答をしたそうです。
三聖「網を透った金の大鯉は何を餌にしているのでしょうか?」
雪峰「君が網を透ってきたら答えよう」
三聖「大宗匠がこのくらいの話もご存知ないのか」
雪峰「わしは住職としての仕事が忙しくてのう」
三聖は自らの悟りを鼻にかけて老師に自分のような金の大鯉は如何に?
と問いかけています。
それに対し雪峰は若い三聖をまともに相手にせず軽くいなしています。
上記のレスを考えた上でみなさんに読んでいただきたいと思ってカキコしました。
雑文陳謝。
>>876 むむ。これは、誰それが「三聖」で誰それが「雪峰」と解するのですか?
どうも私は深読みしてしまいます。
まあ、ここのところは「無分別」という事で如何でしょう。
「禅」の基本ですから・・・。
878 :
876じゃないですが:01/11/17 22:54
>>877 ははは、変人さん鋭いですな。
でも誰かが答えるまでもないでしょう。
>>877 >むむ。これは、誰それが「三聖」で誰それが「雪峰」と解するのですか?
>どうも私は深読みしてしまいます。
あはは(笑)。
私は気が付きませんでした。
もしかして876さんは本当にそういう意図があったのかな?
まあ、腹を割って本心を書けば良いのにね。
どう話が続くんだろうと思っていました。
あははは(大笑
どうも話が進みませんな。
あははは、これぞ「無」の境地ですな。
あははは、今「悟り」ました。あははは
風車さんを含め、今回このスレで私に親切至極な忠告とやらを
躍起になってしようとしているらしい(笑)?
方々とのやりとりをしてみて感じたこと。その2。
頭でとらえすぎ。
これにつきます。
前に
>>788で
>なんか、禅って、如来の世界に直に参入する頓教だと思ってましたけど、
>法爾を縦に登ってゆく漸教っぽいですね。レス見てると。
というのがありましたが、禅に限らず仏教であれなんであれ、
頓教と漸教の両方だ、という言い方もできるし、
逆に両方とも間違っている、という言い方もできる。
で、両方の表現が同時に正解だったりします。
なぜなら頓教と漸教という物の見方自体が「観念=イデオロギー」によるもので、
禅はもっと実在的なものだから。
もちろん観念的なものの見方そのものを否定している訳ではありませんよ(笑)。
それは便利ですし、最初のうちはそういう見方しかできない訳ですから。
まあ、私はこの頓教と漸教という捉え方にはずっとコメントしませんでした。
別に各人が好きにとらえれば良いことだし、
人にこうあるべき、と押しつける問題じゃないですから。
呵々大笑!
884 :
名無しさん@1周年:01/11/18 00:31
禅って要するに腹話術なんだ。
>まあ、私はこの頓教と漸教という捉え方にはずっとコメントしませんでした。
>別に各人が好きにとらえれば良いことだし、
>人にこうあるべき、と押しつける問題じゃないですから。
負け犬の遠吠えって言葉知ってる?
そんなこといってると底の浅さがばれるぞ。
>負け犬の遠吠えって言葉知ってる?
私は何度も言うように「論争」していません。
これは本心です。
争っていないのに何で勝ったり負けたりするんでしょう(笑)?
あなたはもしかして私を言い負かそうとか思っていたんですか?
そんなこと思ってるから鬱になるんですよ。
あんたも言葉遊びで論理のすり替え好きだね。
じゃあ、揚げ足取りって言葉知ってる?
不立文字って便利だね。勉強してなくてもごまかせるから。
なにいっても聞こえないもんね。あなたの耳には。
教判って知ってる?立教開宗って知ってる?
>そんなこといってると底の浅さがばれるぞ。
まあ、
>>818あたり読めば言いたいことは解るよ。
念仏に関する本はそれこそただの1冊も読んだことが無いけど、
ここを読む限り、私の中ではこれに対応する理解がありますから。
おや、レスついてたね。でもね、
>>889、あんたわかってないよ。
なんですなー。このスレには野狸とか、野狐とか住み付いて、化けて出てくるから
非常に面白い。
私も、いろいろスレを渡り歩いたけど、こういう愉快なスレはあまりない。
「禅の世界」というよりも「水木しげるの世界」という感じ。
まあ、これも大愚?の境地ということか?非常に勉強になる。
>あんたも言葉遊びで論理のすり替え好きだね。
それは私が嫌いなことです。
>じゃあ、揚げ足取りって言葉知ってる?
あなたがいつもやってることでしょ(笑)。
>不立文字って便利だね。勉強してなくてもごまかせるから。
>なにいっても聞こえないもんね。あなたの耳には。
知識をためることを勉強とは思いません。
またもう一度
>>199をよくよんでごらんなさい。
私は一貫したことを言ってるんですよ。
あなたが知らないだけで私は同じようなことを他で何度も言っています。
>教判って知ってる?立教開宗って知ってる?
私は知識には知識の役割があると思っていますし、
その重要性を否定していませんし、
白隠禅師のエピソードなども勉強になりましたよ(笑)。
ただ、こういうコメント読むと、
やっぱりあなたは頭で禅をやってたんだなあと改めて思いますね。
ははは、ははは、言われちゃったね。変人さんが一番まともにみえてくるよ。
なんだ、ただの人違いか。それなら言いがかりつけんでほしいね。
まずは、さいなら。
>あんたも言葉遊びで論理のすり替え好きだね。
私は心からそんなことをしていない、と言える。
言葉の実在的意味を何度も言っているでしょう?
ただ、私はそれをあなたに押しつけるつもりはないから安心してね(笑)。
896 :
名無しさん@1周年:01/11/18 01:27
>なんだ、ただの人違いか。それなら言いがかりつけんでほしいね。
???自分から出てきて絡んで何言ってるんだろう。この人。???
>>895 老婆心ながらいっとくと、あんまり魔境で遊びなさんなよ。
>
>>895 >老婆心ながらいっとくと、あんまり魔境で遊びなさんなよ
忠告ありがとう。
あなたが自分なりに自分の見地から真剣なのは解りますよ(笑)。
あなたも少し頭冷やしてね。
念のためにいっとくと、魔境ってのは2ちゃんじゃないからね。
はい、さいなら。
>>894 >なんだ、ただの人違いか。それなら言いがかりつけんでほしいね。
というかコテハンで話して下さいな。
はぁ。鬱だ。 さんは一念仏者さんじゃなかったのかな?
なかなか、さいならできんね。そーだよ。
でも、
>白隠禅師のエピソードなども勉強になりましたよ(笑)。
ってのは知らないね。
頭で禅をやった覚えなんかもないし。もし頭で禅をやってる人間だとおもうなら、
仏教に対する認識の狭さをもう少し自覚してほしいね。
ああ、ほんとに荒らしになってもーたよ。
でも、正直、ここ客観的にみてネタスレっぽくなってるよ。つまんない。
疑りあい。探りあいばっかでさー。
ほんと、禅の祖師がたには最大の敬意を払ってるつもりなんだけどね。
っていってもどうせケチつくんだろね。
>でも、
>>白隠禅師のエピソードなども勉強になりましたよ(笑)。
>ってのは知らないね。
>頭で禅をやった覚えなんかもないし。もし頭で禅をやってる人間だとおもうなら、
>仏教に対する認識の狭さをもう少し自覚してほしいね。
あのね、私はあなたにだけ話しかけてるわけじゃないですよ。
私はあなたに直接会ったことないし。
>白隠禅師のエピソードなども勉強になりましたよ(笑)。
というのは、以前そういう話をした、やはり知識を駆使していた方の話しで、
知識の話が出てきたからそういう話をしただけ。
>疑りあい。探りあいばっかでさー。
あなたがそうしてるだけでしょ。
>でも、正直、ここ客観的にみてネタスレっぽくなってるよ。つまんない。
変人さんは面白いそうです(笑)。
>>792のレスとかものすごく不自然ね。最初から絡んでるし(笑)。
もう、ここにはくるつもりなかったんだけどね。
反論がかえってこないだろう相手のレスにさ、
>まあ、私はこの頓教と漸教という捉え方にはずっとコメントしませんでした。
>別に各人が好きにとらえれば良いことだし、
>人にこうあるべき、と押しつける問題じゃないですから。
こんなのどうかと思うんだよね。禅以前の問題としてさ。一人の人間の根性としてさ。
だから出てきただけだよ。なんか、自作自演なのか、マジなのか、ここ空気悪いよ。ほんと。
禅のイメージ悪くなるよ。ほんと心配。っていっても皮肉にしか聞こえないかもしれんけど。
>禅のイメージ悪くなるよ。ほんと心配。
ははは。
私は禅(宗教界と言う意味)の世界の人間じゃないから心配してないよ。
>まあ、私はこの頓教と漸教という捉え方にはずっとコメントしませんでした。
>別に各人が好きにとらえれば良いことだし、
>人にこうあるべき、と押しつける問題じゃないですから。
これは別にあなたに言った訳じゃないだけどな。一つの例として引用しただけ。
といってもまた言い訳に聞こえるんだろうな(苦笑)。
>この義理を速やかに体得しようとするならば、お念仏の善巧無上の真実方便に勝るものはないでしょね。
というのは別に否定しないよ。
というか本当に念仏の話がしたいならそんなに性急にならんで下さいな。
知らない人もいるわけだし。
ちょうど良い機会だし、
私が
>>848さんの質問に答えなかった理由などにも念を押しておきましょう。
例えばあの質問の中で、
>>というのも、私は実態を知りませんし、たぶんその通りだとも思います。
>実態を知らないのに何故その通りだと思うのかな?(笑
というのがありましたが、「たぶんその通り」というのは推測で、
自分は知っているという人が、「それはこうなんだよ」と言えば、
知らない私としては「へぇ、そうなんだ」と推測するわけです。
何ら不自然なところはない(笑)。答える必要さえない。
それを
>>868さんのような名無しさんが
>
>>855 >プッ。やっぱりな。848さんの質問には肝心なとこは無視。(ワラ
などと煽る訳です。
まあ、ハタで冷静にやりとり見ている人は、
誰がおかしな振る舞いをしているかが明白でしょうから気になりませんけどね(笑)。
909 :
ハタで冷静にやりとり見ている人:01/11/18 05:52
>>908 実態を知らないのなら「へぇそうですか」ですむ話だろ?
なぜ「たぶんその通り」になるんだ?
>誰がおかしな振る舞いをしているかが明白でしょうから気になりませんけどね(笑)。
随分気にしてるみたいだな(笑)
910 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 06:08
創造的破壊と一念三千について
「言葉」と「意味」については、
>>799で説明した通りです。「意味」があるのは、
自分の心の中ではなく、自分の皮膚の内側と外側が一致したところです。
さて、創造的破壊。
破壊すべき固定概念はどこにあるか?
破壊すべき固定概念は、自分の心の内にあり、自分の皮膚の外側にはありません。
自分の皮膚の外側にある破壊すべき対象としか思えないものは、
自分の心の内から投影されているにすぎません。
(
>>836のレスは私ではありませんが、、)
自分の心の内にある固定概念を破壊するときの「我」の基軸は?
「発心」と「不ニ」の一致したところだと思います。
「発心」、エゴではなく、菩提心に基づくものかどうか。
「不ニ」から見て、「虚仮の自己」を形成している「固定概念」を「不ニ」に沿うところ
から破壊するわけです。
固定概念を破壊して、新たに創り出されるものはどんなものか?
革新的なもの? 革命的なもの? 進歩的なもの? 斬新なもの?
黒澤明は、『生きる』の中で「新しいものとの出会い」と言っています。
しかし、私は「当たり前のもの」、「人間として当然のもの」だと確信しています。
どんなに一見、斬新で、進歩的なものであっても、
その本質が「人間として当然のもの」でない限り、
自分の心、人々の心に響き、根差すはずがないからです。
こんな創造的破壊から生まれたものは、「折伏」など行わずとも、
自然に広がっていくのではないでしょうか?
そんな仏性の働きを、「一念三千」と考えたいと思います。
911 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 06:09
>>862 前スレ?から執着してるのね・・・(^ー^;) >自由意志
ユングは意識によって、外界の存在が変わるみたいな
韮沢先生モドキのことを言い、オカルティズムと断定されてます。
「自由」は「不二」に帰すべきというのが、持論です。
「自由」を求めて云々との主張には、どうしようもない「不自由さ」を感じますし、
「不自由だ」云々と言うことができることには、非常に「自由さ」を感じます。
その意味で、「自由」とは、正しい心から生じる「天国」のようなものだと
思っています。つまり、因果律の支配に関わる問題だということです。
(「不ニ」に根差すからこそ「自由」でいられる。)
変人さんにおいても、白隠さん同様、体験を間違って「理解」してしまい、
「自由」に執着してるのではないかと疑ってる次第です。
体験したのは「観自在菩薩」ではないだろうか・・・
912 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 06:09
>>863 変人さん
その内容の神仏論ならば、だいたい捉えることができます。
それならば、
>
>>842 「神仏」を否定することによって、自分の立場を明確にしている
が余計な混乱を生んでしまわないでしょうか?(
>>872の回答です。)
五木寛之に関しては、変人さんの知識の偏り、「嘆異抄」や「教行信証」を
知らないことに基づくのではないでしょうか?
もう絶対仏信仰に対する偏見は霧散したものと思います。親鸞という素晴
らしい人の思想に触れてみるのも、変人さんの宗教観を大きく広げてくれる
ものだと信じます。
あと、3点。
・変人さんの「無」論は55%ほど捉えてるつもりなのですが…
変人論の中核には、「孤独」即「不ニ」?があったと思います。 しかし、変人さん
のレスには見当らない言葉があります。「大悲」です。私は「不ニ」の領域にどう
しても感じてまうのですが、、変人さんの体験に、そんな感覚はないのでしょうか?
・「帰依」について逆説を提示したいと思います。
変人さんには「帰依」の概念がないとのこと。しかし、私には変人さんに「帰依」が
あるようにお見受けします。まず仏に対する「帰依」は、変人さんが 「不ニ」観から
二度と離れられないほど委ねていることに見ることができると思います。そして同じ
道を歩む先人に対する「帰依」に関しては、変人さんが引用する良寛や、鴨長明
などに対しても見られますし、「勉強させてもらった」と感謝する人々に対しても見る
ことができます。第三者から見るとき、「帰依」の概念がないというのは、不思議に
思えます。
・釈迦と自由思想について
釈迦に「自由思想」があったというのは、少しイメージが異なります。忘れてならな
いのは、ゴータマは釈迦族の王子であり、何不自由のない生活が目の前にあった
ということ。そこから「自由」を求めて、苦行に入ったとは思えないところがあります。
では、何を求めていたのか? 釈迦誕生の逸話、天上天下唯我独尊に現れてい
ると思います。自分の足で「立ちたかった」のではないかと。
913 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 06:10
>>866 475さん
どうもです。
その渡辺恒夫のような巨人ファンのおっさんは、淋しかったんじゃないでしょうか?
自分が思ってる巨人と、現実の巨人の悲惨な姿にズレが生じ、巨人が信じられない
「空虚」を作り出してしまった。
その「空虚」をアンチ巨人で埋めようとしたのかもしれません。
私はというと、特定球団のファンというより、各選手のスピリッツとスキルに痺れて
います。
桑田の野球に取り組む姿勢や、仁志の忍者のようなプレーや、ヤクルトの宮本・古田
の状況判断とコントロール、全盛時の今中のピッチング、イチローの考え方と技術。
サッカーで言うなら、中田のレベルの高い普通のプレーや、稲本のフィジカルとフィード、
小野、ストイコビッチの遊んでるかのような高度なテクニック。
もし、痺れもせず「無心」になれと禅師が言うなら、小1時間ほど問い詰めるでしょう。
自他の喜怒哀楽を放棄した「不動心」、「無」などという非人間的なものは、人間には
いらないと思ってますので。
914 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 06:11
>>876 私の稚拙な意見を考えていただき、、、どうもです。
しかし、公案の解説が・・・(汗)
>>877-881 おーい、・・・
ここにいる1人1人が、具体的な「三聖」であり、具体的な「雪峰」なんじゃないのかー
自分の心に問うて見るべし!(もちろん私も)
>>891 座敷藁師
オマエモナー。い〜や、オマエガナー (「不ニ」はない!)
実に楽しい夜の運動会である。。。
>>902 >>906 一念仏者さん
もちろん、ケチつけますよ。(笑)
>でも、正直、ここ客観的にみてネタスレっぽくなってるよ。
>つまんない。疑りあい。探りあいばっかでさー。
禅の「対話」て、確かにネタスレの展開に似てますよ。うんうん。
けど、「つまらない・・・」以降の部分は、「主体性」の問題かと思います。
過剰に何かをこのスレに求めてらっしゃるようにお見受けするのですが、
いかがなものでしょうか?
>なんか、自作自演なのか、マジなのか、ここ空気悪いよ。ほんと。
>禅のイメージ悪くなるよ。ほんと心配。
スレの空気なんて、現象に過ぎません。良くもなりーの、悪くもなりーの。
悪いときには光を見出し、良いときには慢心せず。
すべては「主体性」の問題だと考えています。
# 「老婆心」に仏性の発揮、菩薩道の実践を見てしまいました。
/. ――┤
./(. = ,= | < 連続投稿、すまんかった。
|||\┏┓/
>>914 >私の稚拙な意見を考えていただき、、、どうもです。
>しかし、公案の解説が・・・(汗)
ああ、「それに対し雪峰は若い三聖をまともに相手にせず軽くいなしています。」
に引っ掛かりましたか。
そうですね。一見、そう見えて実は三聖の問いにしっかり答えているんですね。
風車さんなら解りますね。
私はそこまで説明する必要はないと思ったんですが一応、追加しておきす。
>>912 >変人さんには見つからない言葉があります。「大悲」です。
>「不二」の領域に感じてしまうのですが、変人さんの体験に、そんな感覚は無かったか?云々。
「大悲」は勿論ありますよ、ただし感覚?的なものでは有りませんから、なんと表現していいものやら。
「不二」そのものが「大悲」なのですよ。で、「我」も包含している訳ですよ。
ですから、「我」が感じる?というのは、あまり適当ではないと思うのです。
つまり、「不二」そのものが「大悲」ですから「我」との境界線は無いのです。
「帰依」について
これは、「有っても」「無くても」拘らない心。これが第一義なり。
釈迦と自由思想について
釈迦族の王子と言うのは、自由でないと思いますけどね。
日本で喩えるなら皇太子様ですよ。自由から程遠い印象があります。
私がレスを打ち込むまでもなく、釈迦の軌跡は推測できます。
>>912 「大悲」の捉え方
これについて補足しておきます。
つまり、これもすべて「自他不二」「天地不二」なのですよ。
貴方にもありますし、私にもあります。
それどころか、宇宙に万編しておるのです。
私が一人で合唱せずとも、皆様全員万編なくあるのです。
人それぞれ「気づく」か「気づかないか」の違いだと思います。
全くそこのところは、平等普遍的なものかと解しております。
>>912風車さん
>「神仏」を否定することにより自分の立場を明確にしているが余計な混乱を生んで・・云々
前レスにおいて「カルト」云々の話がありましてね。こういう場合は「空」観で説明しても解らんでしょう。
そういう場合は、方便として「神仏否定」と言ってしまうのです。
まあ、私も説明方法としてはマズイとは思ったのですが・・
親鸞とか、歎異抄とか非常に興味はあります。徐々に勉強していきたいと思っております。
920 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 10:24
>>916 876さん
ありがとうございました。
私もそこまでの解説は不必要だと思います。
禅のお話は、それ1つで絶えず完結性を持っていますので。
しかし、実際、疑心暗鬼が先走ってしまったのは…
ここのところスレの流れで観念論が優先されてましたからでしょう。
禅における「具体性」と「主体性」ばかり主張してきた私も観念論に
流されてしまってました。。気を付けなければ…
>>917-918 変人さん
・「不ニ」について
だいたい私の「理解」と合致してます。
変人さんのレスに「大悲」に触れているものが無かったように思われたので、
確認させてもらいました。
「我」が感じる?、感覚? 「万編なくある」に関しても、
イメージの助けを借りて、捉えることは可能です。
(しかし、体験に基づかないイメージですので、あまり意味はありませんが)
・「帰依」について
囚われるとか、囚われないとかよりも、道(tao)の問題ではないでしょうか?
・釈迦の自由思想
ていうか、そもそも「個人の自由」という概念はなかったように思うのですが。
釈迦の軌跡を見ても明らかだと思います。
921 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 10:26
>>919 変人さん
了解です。
非常に良く分かります。
922 :
名無しさん@1周年:01/11/18 12:09
自らを顧みず相手のためを思って第二義に落ちて語る人。
我見を消すことが出来ず自分は悟っていると思い込んでいる人。
今の彼に百万言費やしても軌道修正することはないでしょう。
それでも不生の仏心を信じる人に私は心から敬意を表します。
923 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 12:11
白隠批判その5 臨死体験と「悟り」体験 (変人さん宛て)
臨死体験をした人の中には、仏教でいうところの「悟り」体験をする人が
いるそうです。突然のごとく、菩提心が湧出することも多々あるそうです。
では、その体験は「悟り」か?
体験的に見れば、「悟り」とほぼ同じものと見てよいと思います。しかし、
理解としてみるとき、やはり「悟り」ではないでしょう。「悟り」に達するまでに、
見性体験を介した具体的な「理解」が築かれていないからです。いや、あま
りに「悟り」を体験として理解しがちな誤謬が罷り通っているからこそ、「悟り」
と見ないことが大切だと思うのです。
・変人さんの「変人」
変人さんのレスには、ときに「大悟」のような凄まじいものもありますが、
もう一方では、ウンザリするほど幼稚なもの、非人間的なものもあります。
(他スレのレスを含めます)
しかし、本人はそんなことよりも気になることがあるように拝察してます。
簡単にウソを付いてしまう自己、非人間的なことを言ってしまう自己などが湧出して、
ときに自分をコントロールしきれていないように思われるのです。つまり「変人」です。
これをどう見るか?一つの仮説を提示してみたいと思います。
「悟りの境地」は、禅宗的に「自我を消していくこと」で「集合的無意識」に達しますが、
「臨死体験の悟り」は、自我が自然消滅することにより、「集合的無意識」に達します。
しかし、その過程でユングの「影」が表出してしまっているのでは?と。
次々と「陰」が表出し、次々と新しい意識となることで、次々表面化してしまう。
それをコントロールする術を獲得しようとしてるのではないか?
臨死体験をする前に、いかなる自己だったのか、非常に重要になると思います。
924 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 12:12
(続き)
自然発生した菩提心を「発心」とし、「行」を行い、「虚仮の自己」となった「陰」を
消していく。「臨死体験の悟り」を「悟りの境地」に変えるわけです。
これ以外で、体験を「悟り」として語ることは不可能だと思うし、「悟り」として語れば、
「野孤」として扱われることになる可能性が大です。
もう1つは「妙好人の境地」で、「仏性」は無視して、体験を大切にし、俗世の中で
流れて生きていく。必要なのはスキルと人間性でしょう。
人間性に関しては中核に素晴らしい体験があるので、あとは統合された広い知識が
必要となるでしょう。体験は「行」がなければ、知識でカバーされたものしか信用され
ないから。スキルは菩提心に根差したものに執着して、獲得し、それで「自由」を実現
していくしかないような気がします。
# 取り敢えず、無理せず、頑張ってみてくださいな。
>>921 仏教をどう見るか、まあここのとこが大事なのですが、私としては・・・
バラモン教の本流は、ヒンドゥー教だと思っています。
バラモンは、そもそも形式的、儀式的なものですから、神仏依存性が強い。
そこへ持ってきて、釈迦が「人間とは何ぞや?」これを初めて「問う」。
これは、当時とすると一大革命かと思うんですね。
つまり、神仏に頼っていれば何も考える必要は無かったかと思うのです。
「善因善果、悪因悪果は神仏介在せず」の理法は、バラモンからの「引継ぎ」を「手直し」したのです。
ヒンドゥー教と仏教の違いは、まさにここにあるのではないでしょうか?
ここのところを「自由なる思想」と言っておるのですが、
「個人の自由」云々の話ではないですね。
>>925 キミのためにあるような公案だね(微笑)。
>>923 臨死体験というのは、誰のことを言っておるのですか?
私のことでしたら、それは「大間違い」ですよ(大笑
>>926 少し怪しいけど、2点。
・なぜインドで仏教が廃れたとお考えでしょうか?
これは文意のまま。
ヒンドゥー教は、今でもありますよね?
カースト制度も健在。
・その「自由」は、他人には通じないと思いますよ。
そうなるともう少し表現を考えた方が良いのではないでしょうか?
変人さんは「一匹狼」「個人」というレスを多くしてますよね。
それで「自由」を唱えれば、もちろん「個人の自由」に解されます。
そこだけ、「個人の自由」云々の話しではないですね、は通りません。
>>927 お互い解けたみたいですね。(笑)
930 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 12:51
>>928 違うの?
病気てのは、臨死体験まで逝ってなかったの?
# そろそろ、容量オーバーだけど、どうするよ?
>>923 私をどう見ているのか?というのも、しいては御自身の心象世界の反映なのですよ。
貴方は、「悟り」レスから私をずっと「追いかけ」しているのは解っております。
私の事がどうしてそんなに気になるのでしょう?
そこのところがどうも解らないですね。理由をカキコして頂けませんか?
932 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 12:55
>>931 >しいては御自身の心象世界の反映なのですよ。
誰かさんと同じですね。
>貴方は、「悟り」レスから私をずっと「追いかけ」しているのは解っております。
>私の事がどうしてそんなに気になるのでしょう?
自意識過剰だね。勢い半分、面白半分てところかな。
前スレ?から言ってるように単なる人間観察かもね。
>>923>>924 このレスは、なんともコメントしようもないですね。
あえて自己弁護はいたしません。
それに、あなたの心象世界まで私がズカズカ入り込む様なことはしたくありませんし。
まあ、そのへんで御察し下さい。
>>932 そうですか?
まあ、いろいろ勉強にはなります。人間考察として。
935 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 13:11
>>933 >あなたの心象世界まで私がズカズカ入り込む様なことはしたくありませんし。
無理だと思いますよ。(笑)
できるものなら、やってみてくださいな。
世の中には対象というものと絶対に距離を取らなければならない分析思考と
いうものもあるのですから。
936 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 13:12
若い三聖=風車で一致したみたいですね(微笑)。
>>937 あれ? 役割なんてものが法話にあったのですか?
人として正しい道を示してくれてるものと思っていました。
そんなところは真宗でも変わらないはずなんですけど、、
勉強不足でした。(笑)
# そりゃ、つまらんわ(ボソッ
>変人さん
分析思考に怯えるな。そんなもんは因果律にすぎん。
「不ニ」の体得はもっと凄いことなんだよ。
>おーい、・・・
>ここにいる1人1人が、具体的な「三聖」であり、具体的な「雪峰」なんじゃないのかー
>自分の心に問うて見るべし!(もちろん私も)
>あれ? 役割なんてものが法話にあったのですか?
こんなゲームをやっている人にはまだまだ役割があるみたいですよ(微笑)。
雪峰の側から見れば、役割があるわけでも無いわけでもないでしょうね。
役割が無い、という見地からみている人にはまだ役割があるんですよ、、、、
もう、迷える小羊にさ〜びす。
931 :変人 :01/11/18 12:51
>923
私をどう見ているのか?というのも、しいては御自身の心象世界の反映なのですよ。
922 :名無しさん@1周年 :01/11/18 12:09
自らを顧みず相手のためを思って第二義に落ちて語る人。
我見を消すことが出来ず自分は悟っていると思い込んでいる人。
今の彼に百万言費やしても軌道修正することはないでしょう。
それでも不生の仏心を信じる人に私は心から敬意を表します。
↑
この無理してる部分が「迷い」を生じさせてるんでしょうね。
二種深信、大丈夫ですか?ナムー
>もう、迷える小羊にさ〜びす。
922は別の人です(微笑)。あなたが自分で迷っている。その迷いを他の人に反映しているんでしょうね。
943 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/18 14:29
>>942 >922は別の人です(微笑)。
本当なら何も言うことはありません。(笑)
ご自愛を。
>それでも不生の仏心を信じる人に私は心から敬意を表します。
不生の仏心を信じる人は、決して人を説き伏せようなどとはしません。
それでも仏陀は何年も何年も語り続けました。
ある覚者は、なぜあなたは語るのをやめないのですか?
と聴衆から聞かれたそうです。
彼はこう答えました。
「あなたは小鳥に、なぜさえずるのか、と聞きますか?」
混沌とした、2chのスレッド
駄レスもあれば
キラリと光るレスもある
うむ、「自他不二」とはこの事なり
思わず自らの心に問うなり
いかなる答えをだすか?
それが肝要と見たり
>>937 あなたもういい加減にしたほうがいいよ。
このスレでそんなこと書いてるのはあなただけなんだから。
あなたが誰なのかみんな気づいているんですよ。
誰もあえて書かないだけでね。
あなたは私を風車さんか念仏者さんと思うんだろうが
そんな腹話術使ってるのはあなただけなんですよ。
もう目を覚ましなさい。
ところで、新スレは立てないのでしょうか?
僕としては、いましばらくここで話される内容を見ていたいのです。
・・・ということで、「禅」に興味のある方は、どんどんレス付けて下さい。
どんな簡単な事でもかまいません。
私と一緒に考えてみませんか?
人生に「空虚」を感じる時。そんな時「禅」の世界観に触れてみませんか?
貴方の求めているものが、必ずやあるはずです。
「心のオアシス」。きっと、安らぎのある世界に導かれることでしょう。
>>913 >もし、痺れもせず「無心」になれと禅師が言うなら、小1時間ほど問い詰めるでしょう。
>自他の喜怒哀楽を放棄した「不動心」、「無」などという非人間的なものは、人間には
>いらないと思ってますので。
風車さん、
>>866で書いたとおり、
そのようなイデオロギー的な解釈は所詮解釈の域を出ず、
従ってどこかで破綻をきたします。
もう一度再掲しますね。
>ただ、これも「主義」としてイデオロギー的に解釈されると、
>どこかのカルト教団みたいに他人に対してどんな悪いことをしても
>無頓着でいろ、などと悪用されかねません。
>怒りがあってはいけない、無頓着でいろ、ではなく、
>怒りがあってもあるがままに無頓着でいろ、でしょうね。
>でないと野狐になる(笑)。
そこで、今度は上記と逆の論法で、
怒りがあったって良いじゃないかという、
犬猫のレベルで自分の怒りを正当化する事も可能なんですよ。
私の主張は昔から、
何らかの立場に固執することは「両方間違い」です。
>>946 誰に話しかけているのか知りませんが「対話」に参加しないで
独り言書いているのはあなただけのようですよ。
↑
こいつの辞書に反省という字はないのか?(ワラ
宗教板の皆さんへ
仏教の、基本的な部分について私と話をしませんか?
新興宗教も一つの選択肢。だがしかし・・・
仏教の原点を振り返った時、何か新しいモノに巡り合った感動があるはず
その感動を源泉に、新しい世界観を構築してみませんか?
2500年脈々と受け継がれてきた仏教。
その本来の思想を、再度検証してみませんか?
もう少し視点を変えて説明しましょう。
これを読んでも、それでも私を悪し様に言いたい人は、
どうぞ好きなだけ罵詈雑言を書き込めばいいことでしょう。
正直、私は本心から楽しくてしようがありません(笑)。
>もし、痺れもせず「無心」になれと禅師が言うなら、
>小1時間ほど問い詰めるでしょう。
「無心」とか「不動心」というものは、
そうしようと、ことさら努力してそうなるものでも、
あるいは、自分のあるがままの感情を否定したり、
抑圧した結果そうなるものでもありません。
しかし、決してその気持ちを野放図にしていて良い、
というのでもないのですよ。
たとえば暗闇でロープを蛇と見間違えて怖がっている人を想定してみて下さい。
その人に怖がるなとか、無心になれとか、そうなるように努力しろとか、
その感情を抑圧しろ、などと言うのは全て無意味です。
ではどうすればいいんでしょうか?
その暗闇に光を持ち込んで「ロープが蛇でない」、
という事を分からせれば良いんです。
それが蛇でない、ということが分かって、
それでもロープを怖がる人がいるでしょうか?
その人はもともとそこに在りもしないものを怖がっていたんです。
それが蛇でない、ロープである、という事が分かって
それでも怖がる人などいないでしょう。
では、その人は怖がらないように努力したんでしょうか?
その人は、自分の恐怖を抑圧したんでしょうか?
その人は、自分のあるがままの感情を否定したから、
だからロープを怖がらなくなったんでしょうか?
そうでは無いでしょう(笑)。
その人がやった唯一の事は光を暗闇に持ち込んだことです。
もちろん、「やった」と言っても行動ではありませんよ。
いうまでも無く、ここでいう光とは「気づき」のことです。
実際、注意深く気づきの中にいるなら、
ロープを蛇と見間違える事などありません。
そして、見間違えないのなら、そこには何の努力もなしに、
いいですか、全く無努力で、ですよ、
恐怖が消えて不動心が現れます。
もちろん、私は、全く感情が無くなるだろう、
と言っているのではありません。
「気づき」のなさからくる余計な感情は無くなるだろう、
ということです。
ここでも「気づき」がキーポイントであることが分かるでしょう。
無努力というは、決して「気づき」が無くてもいい、
という意味では無いんですよ。
これで、飲み屋のおっさんが隣客に絡むのが禅でない、
と言った理由が少しは分かっていただけましたか(笑)。
さらに付け加えると、ここは匿名が前提の掲示板です。
現実の私はこの掲示板の中には存在しません。
それなのに、もしも私に怒りを向ける人がいるとしたら、
あるいは逆に慈悲心から、ありがたい忠告を向けるとしたら、
冷静に考えてそれは私に対してではなく、
「彼らが作り出した私へのイメージ」に対して、
だと言うことが分かるはずです。
それが腹の底から分かっていて怒れるものでしょうか?
怒りたくっても怒れませんよ(笑)。彼らは知らないのですから。
それではまるで、ロープをロープと知って、
蛇では無いから怖がらないでいいんだ、
と自分に言い聞かせようとするようなものです。
954 :
名無しさん@1周年:01/11/19 01:14
>>953 随分、怒り心頭のようですな。(笑)
>実際、注意深く気づきの中にいるなら、
それが禅じゃないと言ってるんだけどなぁ。
解りませんか?ティク・ナット・ハンさん。(笑)
宗教板の皆さんへ
人生とは何ぞや?生きるとは何ぞや?こういうことは、頭で考えても解るものではありません。
「無明」という闇を抜けて初めて解るものです。
さあ私と一緒に、この無明の闇から抜け出す方策を考えてみましょう。
「空虚」な心は、いつか「歓び」に包まれる事でしょう。
すでに、貴方の席は用意されております。
そこに座るだけで、すでに「新世界」を見ることが出来るのです。
私と共に考えてみましょう。良き人生の為に・・・。
ついでにこれに関するもう一つの側面についても書いておきましょうか。
あるがままに見る、ということに関してです。
あるがままに見る、というのは、
否定するでもなく、肯定するでもなく、否定することを肯定するでもなく、
否定することを否定するでもなく、肯定することを否定するでもなく、
肯定することを肯定するわけでもなく、
それらの全ての「立場をとること」一切を拒否することです。
たとえば、そのようにしてあるがままに注意深く、
怒りに向き合うなら、怒りと怒る人の分離はなく、
怒りが通常とは違った質を持つことに気がつくかもしれません。
私自身は、実を言うと、いかなる怒りの感情も、
その内奥に慈悲の心がない、などとは思えない体験をしました。
慈悲があるからこそ人は怒るのです。
そういう人の怒りには、
酔っぱらいのそれとは別の質があることに気がつくでしょう。
>解りませんか?ティク・ナット・ハンさん。(笑)
誰ですか、ティク・ナット・ハンさんとは?
38改さんが言ってたベトナムの人?
私は知りませんよ(笑)。
958 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/19 01:25
http://www5a.biglobe.ne.jp/~pedantry/pedantry/zenmondo.htm 『無門関』は岩波文庫から刊行されている。興味のある方はお読みになるのも一興だ。
論理を超えた公案の数々を見ていくと、その思いがけぬカッコよさに引かれてしまう人も
いるかもしれない。
だが、うかつに公案に取り組むのは危険もある。きちんとした師家につかずに公案と
取り組むと、時に、論理の破綻したスタイルこそ正しいという思いこみ。わけのわからな
いことで相手を煙に巻くのが快感になるといった、おかしな者になる危険があるという。
禅はこれを「魔境に入る」と表現している。
「それは間違いだ!」と弟子を指導できる師家のもとでの修行でない限り、凡夫の我々
としては、チラリと流し読みする程度のほうが無難のようだ。
959 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/19 01:26
一 趙州狗子(じようしゆうのくす)
趙州和尚、因(ちな)みに僧問う「狗子に還って仏性有りや無しや」。州云く「無」。
無門曰く「参禅はすべからく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せん
ことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、ことごとく是れ依草附木(えそうふ
ぼく)の精霊ならん。且らく道(い)え、如何が是れ祖師の関。只だ者(こ)の一箇の
無の字、乃ち宗門の一関なり。遂に之を目(なず)けて禅宗無門関と曰(い)う。透
得過(とうとくか)する者は、但だ親しく趙州に見(まみ)ゆるのみならず、便ち歴代
の祖師と手を把って共に行き、眉毛(びもう)厮(あ)い結んで同一眼に見、同一耳
に聞くべし。豈に慶快ならざらんや。透関を要する底(てい)有ること莫しや。
三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って、通身に箇の疑団を
起こして、箇の無の字に参ぜよ。昼夜に提撕(ていぜい)して、虚無(きょむ)の会(え)
を作すこと莫れ。有無の会を作すこと莫れ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相い
似て、吐けども又た吐き出さず、従前の悪知悪覚を蕩尽して、久久に純 熟して
自然(じねん)に内外打成(ないげだじょう)一片ならば、唖子(あし)の夢を得るが如く、
只だ自知することを許す。驀然(まくねん)として打発(だはつ)せば、天を驚かし地を
動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏(ぶつ)に逢うては仏を殺し、
祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)に於て大自在を得、六道四生
(ろくどうししょう)の中に向かって遊戯三昧(ゆげさんまい)ならん。且らく作麼生(そも
さん)か提撕せん。平生の気力をつくして箇の無の字を挙(こ)せよ。若し間断(けん
だん)せずんば、好(はなはな)だ法燭(ほうしょく)の一点すれば便ち著(つ)くるに似
(に) ん」。
頌(じゅ)に曰(いわ) く
狗子仏性、全提正令。
纔(わず)かに有無に渉れば、喪身失命せん。
このスレの最後に相応しい公案をアップしました。
・「無」、「仏性」、「大悟」のすべての要素が含まれているものです。
・「禅」のすべてです。「無」に始まり、「無」に終わる。
・分別の限りを尽くさなければならないこと、参窮についても。
このスレの更新には反対します。
おやすみー
このスレを読む人はじっくりと読んで内容をよくよく消化してほしい。
>時に、論理の破綻したスタイルこそ正しいという思いこみ。わけのわからな
>いことで相手を煙に巻くのが快感になるといった、おかしな者になる危険があるという。
>禅はこれを「魔境に入る」と表現している。
論理以下の破綻と、論理を越える事の違いを分からない限り、
私の言うことを理解するのは至難の業でしょうから。
>哲学者ヴィトゲンシュタインは、「言葉」と「意味」の二元論に疑問を呈しました。
注意深く読めば、たとえば上記のような誤解もはっきりするかもしれません。
ヴィトゲンシュタインの言う「言葉」と「言葉の意味」の二元論の否定は、
決して行動主義が言うような還元論的一元論ではありませんからね(笑)。
>論理以下の破綻と、論理を越える事の違いを分からない限り、
それはみんな理解していてレスつけているんですよ。
このスレが終わりに近づいてまでそんな寝言言ってるんですか?(苦笑)
あほらし、もう寝る。
>それはみんな理解していてレスつけているんですよ。
頭の中でね(笑)
おやすみ(^-^)/。
965 :
名無しさん@1周年:01/11/19 02:25
自分とくらべて誰かさんは上か下かって、やっぱりイヤでも分かるもんなのかい。
で、そんなことに拘泥している境涯って客観的にどうなの。
素人の禅かじりの話題は必ずつま先立ちの背比べになるんだよね。
967 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/19 06:06
>>965 よこレスになりますが・・
平等観の観点から、「外れている」のは嫌になるぐらい分かるでしょうね。
しかし、上だの、下だのてのは、口にする人以外の心にはないと思いますよ。
但し、仏教にある差別的世界も大切なものと考えています。
ていうか、差別的世界にまみれて生きるために仏教(宗教)の「理解」が
必要になると言った方が正確でしょうね。
客観的に見れば、もちろんご存知とは思いますが、ありふれた当然のことです。
「仏性」に基づく「法施」があったことに、感謝するべきでしょうね。
聞き手(「無分別の分別」)ならば、「鳥がさえずるようなもの」とは断じて言えない
はず。
「仏法」ではなく、「世俗の法」なら、あらゆる分野で「抹殺」てところでしょうか?
968 :
風車 ◆RED/rT.2 :01/11/19 06:07
>>966 まぁ、曲がりなりにも発展でしょう。可能性も僅かながらに見えたはずです。
今まで、禅スレが900を超えたことなんてなかったんですから。
素人「かじり」なら、禅スレも十分に地に足ついて展開すると思います。
しかし、自ら「かじる」こともせず、「人生経験」と皮相的な「耳学問」だけで
禅や仏教の本質を、観念論、抽象論、世界観で騙ろうとすれば、もう無理です。
(別目的により、自らもやってしまいましたが・・、反省です。)
おそらく公案や法話を自分で考えたことなど一度もなかったのでしょう。
禅ではどこを見て、何に集中すべきか・・・
公案や法話とは何か・・・
こんなのに説明をすれば、禅をしようとする人の「主体性」すら奪ってしまう。
そして、公案の恐ろしさも、「狂気」と「魔境」の中に垣間見得たと思います。
心を痛めるのは・・・、菩薩道に生きる人です。
結局、「悟り」と同じく、「仏教・禅に何を求めてるのか?」に対する明確な自覚、
つまり、「帰依」の問題に帰着すると思います。
「帰依」については、本職の方は嫌がられたかもしれませんが、
一般の人でも受け容れられやすいように「道」として砕いてきました。
それでもダメなようですね。
禅で使われる言葉の一般的イメージ(禅では否定する「妄」がほとんど)が、
良過ぎるのが原因かもしれません。
# 自戒を込めて。
969 :
□ ◆vl9p7xCk :01/11/19 06:17
風車さんの話はもっと聞いてみたいな。
あなたのテーマの取り方とセンスならば、禅からそのスタイル、表面的な
レトリックの幻惑を抜き去った内実を取りだして語ることができるかも
しれない。
自演だと思われるといけないからトリップつけときますね。ここに書くのは
はじめてです。ふらっと書いてみました。
970 :
名無しさん@1周年:01/11/19 06:39
>>969 私も同意です。
964のような「絶対に言い負けるのはイヤじゃ〜」なんて
思いながら必死に平静さを装ってる人の話しは聞きたくない。
>自分とくらべて誰かさんは上か下かって、やっぱりイヤでも分かるもんなのかい。
>で、そんなことに拘泥している境涯って客観的にどうなの。
あはははは(爆笑)!
なるほど。
そんな話の内容とは関係ないところでつまずいていたんですか。
誰宛か分かりませんが、
たぶん私宛ての部分があるようですからマジレスしときますね。
早く聞いてくれればいいのに(笑)。
私は誰かと比べている訳じゃない。
ということ。
私はあくまでも私自身のことを言っている訳です。
それが分かってもらえればいいし、
反感を買うなら仕方がない。
いや、冗談抜きで本当にそんな上下関係なんて気にしてなかったんで
気が付きませんでしたよ(苦笑)
そんなこと気にして禅を語る人もいるんだね。
教えてくれてありがとう。
私は話が出来ない人を説得しようとなんてしてません。
みなさんが訳の分からない揚げ足取りをして、
ハッキリ最初から言いたいことをちゃんと言わないから話がこじれているだけです。
「対話」が独りで出来ない、と書いたのも思い出して下さい。
ついてきてくれた人がいたから話せたことも一杯あるんです。
一番最初の
>>199のレスにもう一度立ち返って下さい。
私は私の見解を書いているだけです。
それを間違っている、というのでしたら、
どう間違っているのか説明すれば良いだけでしょう。
不立文字だ、などと言わないでね(苦笑)。
船がなければたどり着きません。
船は最終的に必要ないから、最初から使わない、
などというのでは、それこそ魔境です。
さらに言えば「上下の別そのもの」はあります。
しかし上だから偉いとか下だから偉くないというような
「価値判断」は全くない。
実際、そんなことを気にしていたら学べない。
謙虚でなければ学べませんが
「謙虚になる」ということは「へりくだる」のとは全く違う。
それからさらにもう一つ、
私は特定の誰かに対してだけ言っている訳ではありません。
てっきり「自分」が否定された、と思うのでしょうね。
私にはそのような意図はありません。
まあ、親切に忠告してくれる人は、私の「話の内容」ではなく、
「態度」を指摘しているつもりだったのかな?
それならまったくのお門違いも良いところですよ。
私は自分が賞賛されたいわけでも認めて欲しい訳でもない。
これは私の個性ですから(笑)。
>
>>969 >私も同意です。
>964のような「絶対に言い負けるのはイヤじゃ〜」なんて
>思いながら必死に平静さを装ってる人の話しは聞きたくない。
私は争ってないのにそう見えるとしたら
あなたは「対話」のなんたるかをご存知無い。
実際には誰かさんが彼らの考える謙虚さを私に教えようとして、
私の間違いを無理矢理作り出そうとしていたことは明白でしょう。
#風車さん、自戒はすばらしい。それはあなたの代わりに誰かが出来ないことです。
呵々大笑(^-^)/。
973 :
名無しさん@1周年:01/11/19 12:29
なんか勝手に自分に引き寄せて物言ってるひとがいますが
>なんか勝手に自分に引き寄せて物言ってるひとがいますが
だからそういう独り言はやめなさいよ。
975 :
BigPig:01/11/19 18:27
この期に及んで、禅の本質論はさておき、禅を求める一部の人の人間学を
勉強させてもらった。No,475>あたりから、必ずこうなると
思っていたら案の定である。1>さんが立てた禅板を知り、禅に興味
を持ち、出家は無理にしても、生涯に亘り禅を心の拠り所としている
者として、拝見させてもらっていた。私の場合、この板で期待したのは、
書物とは違う観点からの禅実践者、禅研究の先達の本音、章外のエピ
ローグなどであった。観念論を論じる諸君貴殿等の頭脳の緻密さ(?)
は分かった。観念論なら禅哲学の板で議論するのが良かろう。しかし、
生きることの意味を命がけで問う姿勢、地についた生活臭そして、人間
性が行間から読み取れない。超難解な内容でも、中学生が分かるように
消化して表現して欲しい。歪んだ性格で悟っても意味がないと思う。
>>975 僕も、今まさに生きることの意味を問うている者の一人として、
このスレの皆さんの生の声を聞きたいと思っているところです・・・
977 :
一念仏者@はぁ。鬱だ。:01/11/19 19:32
>>975 禿同です。
ほんとに、禅って素晴らしいとは思うんだけど。
なんでかなぁ。禅の本質なんてどうでもいいから、
禅者としての生活の味わいを聞きたいね。
禅がなんであるか?なんて、それこそ一人一人が
見つめていけばいいことじゃない。
禅の入り口、つーか、「私」にとっての禅の必要性・必然性が
全然みえてこないね。このスレの「禅の人」からは。
だからさ、漸教みたいにみえてしまうって言ってるの。
まあ、わかんないんだろうけどね。
ああ、叩いていいよ、はぁ。鬱だ。
978 :
名無しさん@1周年:01/11/19 19:40
わたしもこのスレで学ぶことがありました。
それはやはり正師に付いて禅を修行しないとダメだということ。
自己流で禅を行なってみても結局は野狐になってしまうということ。
多分、このスレにいる全員が身を持って実感したことでしょう。(苦笑)
なにやら後半に入って独り言をつぶやく人が突如たくさん現れたようです(笑)。
私もこのスレのやりとりから感じたことを改めて書いておきましょう。
やはり現代の日本の禅は、誰かさんがおっしゃっていたように
危機的状態にあるらしい、ということ(推測です)。
ちゃんとした師についてきちんと学ばなければならないというのは、
私自身の経験からよく知っていますし、
帰依と信心の重要さについても再三三四書いたとおりです。
しかし、スレの前半で、本物(の禅師)は今どこにいるのだろうか、
と探している方がいらっしゃいましたが、
どうも残念なことに本当に日本にはいらっしゃらないようですね。
私は禅の伝統に属していませんし、
かといって他の特定の宗教団体に属する人間でもありませんが、
それでも「師」がいないわけではありません。
ここでは書けないような不思議な導き
(このスレで言うと法施なのかな?)もあったりもしました。
しかし「法施」というのは決して一方通行なものではありません。
真剣に命がけで問いかけなければ、決して答えは見えてきません。
私も若い頃、第二祖のように悟りが無ければ今すぐ死んでやる、
という気持ち(苦しみ)がありましたよ。
私にとっては自我の存在そのものが苦しみだったので、
触れるもの全てが苦しみでしか在りませんでしたから・・・・
今はもうそういう段階では在りませんが、
それでも深いところでは真実にたいする押さえがたい渇きがあります。
本で読んだ知識にあぐらをかいて、他人の批判しかできない人には、
師がいくらしっかりしていても何もないでしょう。
正直、38改さんと間違えられたり、「気づき」の話をしたらそれはフロムの話だとか、
ティク・ナット・ハンとか、私の知らないことがたくさん出てきてとまどいましたよ(苦笑)。
また、このスレの全体を通して、野狐批判、言葉による魔境批判などがありましたが、
私も普段は全くみなさんと同じ論調でカルトを叩く方ですからよく分かります。
しかし、何度も言うようですが、本来の仏教は漸教でも無ければ頓教でもありません。
人に合わせて説くべきもので、イデオロギーから最終的にはこうなるから、
だからこのように進むべき、というのでは魔境に入ることすらできません。
言葉が魔境に入るから必要ない、などと言えば言葉の魔境に落ちることもないでしょうが、
そこから抜け出すこともできず、野狐による主客の合一が無ければ、
それを否定する事さえできません。
善巧無上の真実方便だけしか認めない、というのでは衰退して当然です。
白隠禅師が衰退しかけた時期にでたパイオニアであったことを思い起こして下さい。
真実方便を念頭に、あくまでも人に合わせて説くのが本来の仏教というものでしょう。
ここには終始、私自身が、自分自身の足で歩んできて見つけたことを書いたきたつもりです。
みなさんがそれをどう受け取るか、それはみなさん次第である、
ということに気がついて下さい。
合掌。
981 :
名無しさん@1周年:01/11/19 22:55
風車さん変人さん本当のところどう思いますか?
お二人が475さんのお相手をすればするほど相手の増上慢を助長するだけ
のような気がします。
今のところ彼を「気づき」に至らしめる結果にはなっていません。
それでもレスを付けますか?
別にお二人に放置しろ!なんて言うつもりは毛頭ありませんが
今の彼は「風車さんの真心の精神」と「変人さんの寛容の精神」の上に胡座をかいているだけです。
まあもうじきこのスレも終わってしまうんですけど
わたしも新スレ立てようと思ったのですが
今のままでは話は進まないし
また荒らされてしまうのだろうから止めてしまいましたが・・・。(苦笑)
>475へ。
「無功徳!」
当選おめでとう!
>>981 私は渡り鳥ですからね、今朝飛び立ちましたよ。
今晩、様子見に訪れました。
ご挨拶もなしに、突然逝きました。
改めて、皆様お世話になりました(笑顔