仏教、特に「無我」を論ずる人よ、
あなたが常識的な幸福で満足な人ならば以上のような過酷な疑問は投げかけない。
ずっと各人なりの幸福を追い求めていって欲しいと思う。
だが、あなたは踏み入れてはならない領域に足を踏み入れてしまった。
無我論を論ずる者はもはや常識的な幸福論で甘んずることは許されない。
それはアダムとイヴが食したリンゴに等しいものなのだ。
無我論を、
「禁断の実(転落への道)」とするか、
「仏性の種(成長への契機)」とするか、
もしくは何もしないで、
「無為自然(停滞の論理)」のまま死を待って元の塵に還るか、
「流浪の民(宛無き旅人)」と化して精神の不毛を感じつつも無窮の世を流離うか、
道は四つに一つなのだ。
*偽善に走るという選択肢もある。今思いつかないだけで他にもあるか・・・。
「一切の我が無い」と主張する無我論者に以上の疑問を投げかけたい。
その無我論が本物ならば、今のあなたはいったい何なのか、と。
反論もしくは定義を期待する。
ex.「人間は環境の動物(産物)だ」から「自分はこの時代の申し子だ」、とか。
私自身、何らかの「存在」の核となるべき「理念」なり「精神」なりがなければ、
ニヒリズムに行き着くしかないと考えている。
それはニーチェのような「永劫回帰」思想という意味でなく、
享楽に溺れる耽美主義という意味でもなく、
「生きる目的」を定義づける哲学のない精神的自殺状態、という意味である。
*ニーチェの思想は「力」と「美」を掲げる一種の宗教だと見ている。