私、坊主してます(part2)

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1南無
真宗大谷派(お東)に僧籍を持ってます。儀式全般の質問に
出来る限りお答え致します。どうですか?

古い書き込みURL
http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/bouz.htm
2渡海 難:2000/08/14(月) 18:24
>1162さんへ
>何故、仏教には輪廻転生の考えが有るのでしょう?

 輪廻転生思想は仏教の原点です。空と輪廻転生とは同じ認識を別の言葉で表したものと考えます。
 人間の皮を被っている存在はみな人間ですか。人間はその表皮を失ったときに死ぬのでしょうか。あるとき、裁判所で傍聴席に座っていた被害者の遺族が被告席に向かって「ケダモノ」と叫びました。被告席には牛さんか豚さんが座っていたと思いますか。人間が座っていたんです。人間でも、「ケダモノ」と言われる。ケダモノの心でケダモノの行為をするものは、人間の皮を被っていてもケダモノです。鬼の心で鬼の行為をする者は、人間の皮を被っていても鬼なんですよ。
 お釈迦様はどんな人だったと思いますか。時には有頂天になり、時に鬼になり、真人間に戻ったかと思ったら次の瞬間には地獄にも堕ちる。意思と行動が変われば人格が変わります。人格が変わるとそのたびに新たな人格の誕生があります。誕生した人格は、やがて疲弊(老病)し、挫折(死)します。挫折するとそこからまた全く違った新たな行動が始まります。行動には新たな意思が伴います。意思と行動が変われば新たな人格の誕生です。人は時に鬼となりケダモノとなります。生死生死をくり返します。これが迷いです。
 人は、挫折すると自分が馬鹿だったことに気づきます。愚かだったからこそ、人は疲弊し、挫折します。そして愚かなまま、新たなスタートを切る。愚かなまま、新たなスタートを切るから、また挫折する。生死生死の原因こそ、自らの愚かさにあった。これが三十五歳のときのお釈迦様の発見(お悟り)でした。お釈迦様のお悟りを十二因縁の法理といいます。無明から老病,死まで十二個の単語が因果則で並びます。ギリシャ哲学の無知の知の認識に一脈通じるものでしょう。ああ自分は愚かだった。これは大変なことだ。お釈迦様はそう認識すると、その認識を人々と共通の財産として共感的に享受し、利用し合おうと、祇園精舎を開き、教育事業に乗り出します。無明に目覚めたお釈迦様が作った学校が祇園精舎です。世界中の寺院はその分校です。無知の知に目覚めたソクラテスはプラトンを育て、プラトンが作った学校がアカデミヤです。洋の東西で学校は自らの愚かさに目覚めた人によって作られました。
 人は畜生となり、真人間から天界に生まれ、次の瞬間には地獄にも堕ちる。輪廻思想は、我々の愚かさそのものを指摘しています。自らの意思のまま自由闊達に行動できるもの、これは天才と言われます。幾ばくかの自由な意思があり、自らの意思で行動をする者を人と言うのでしょう。自らの意思を殺し、他人の意思で動かなければならないもの、これが兵士です。兵士は時に人の上に立ち、時に人以下に見下げられます。これが阿修羅です。盲目的意思と行動に走るものが畜生でしょう。満たされない自らの欲望の意思に支配されて行動する者を餓鬼と言います。欲望の意思があり、行動は身動きできない存在、これを地獄と言います。
 人は、畜生となってもいつかは天界に生まれる可能性もあり、いつかは地獄に堕ちる可能性もあります。地獄にあっても天界に到達する可能性はあり、天界にあっても地獄に落ちる可能性もあります。無知だからこそ、福あれば天界にいたり、不運が来れば地獄にも堕ちます。永遠の天界もなく、永遠の地獄もありません。縁に従って予測を超えて変化します。永遠なものはありません。これが空です。空でありながら、やはり天もある。地獄もある。これが色です。色がそのまま空であり、空がそのまま色です。
 般若心経の色即是空は、輪廻思想といささかの相違もありません。
3渡海 難:2000/08/14(月) 20:27
>1163さんへ
>現世での悲惨な最期に執着する事なく、来世で暮らして欲しいと思うのは当然ではないのですか?

 当然かも知れんが、これは生きている人の思いじゃな。死んだ人はどう思っているかは誰にも分からん。

>また死んだ人の事を心配する事はないと仰っておられますが、
     心配したくても、生きている人には測り知れず、心配できないと言うことです。

>死者を弔う事を否定しても言い訳ですね?

 死んだ人はどう思っているかは誰にも分からん。わしらが出来る範囲は、弔いたいという生きている人の今の心を大事にできるのが限度じゃ。弔いたいという生きている人の今の心を無視すれば、生きている人は次の動きをとれなくなる。死んだ人はどう思っているかは誰にも分からんのよ。

>またその否定により今迄の仏事は行わなくても良い、それこそ読経すらしなくて良い。

 生きている人のために読経するんじゃ。死んだ人に向けてのサービスなどはだれにもできん。

>こうなると、死者を火葬して墓所に葬る事無く、死者はその屍を死んだ場所で野ざらし、そして朽ちて行くまま時を待つ。またその屍が朽ちても誰も骨を拾わなくても良いとゆう事ですね。

 生きている人の気持ちがどこにあるかが問題じゃ。誰も骨を拾わなければ、生きてる人の気が済まんじゃろ。生きている人の思いを最大限に尊重するのが仏教じゃ。

>何時から日本はチベットや中米・南米の鳥葬を信仰する事になったのでしょう?
   ????

>これも上記に上げた疑問と同じですね。
   ???

>自分自身どれ程、世俗の垢にまみれ・現世に狂おしいまでの執着を持っている事を否定しませんしね。
       お好きなように。

>自分よりも高位な方に弔って貰うのは当然じゃないですか?

 世俗の垢にまみれ・現世に狂おしいまでの執着を持っているあんたを弔わなければならんようじゃ、高位な方にとっては、不愉快な話かもしれんのよ。貴方を弔う高位な方の気にもなってみなさい。

>そのルールに則った生き方をせねばならないと思いますが?
     そんなルールがどこにある?

>自称僧侶で自分で営業し 顧客をつかんで経を上げ金銭を貰っても良い訳ですよね。     僧とは何かについては、後に書きます。

坊さん達や、実にいい質問じゃなー。あんたらは、こんだけ自分の職業を真剣に考えておるか。
4渡海 難 :2000/08/15(火) 15:09
1163さんへ(その1)
>自称僧侶で自分で営業し 顧客をつかんで経を上げ金銭を貰っても良い訳ですよね。同じスケベでしたら僧侶も一般人も変わりないとの事ですし。

 いいじゃろう。顧客をつかんで経を上げ金銭を貰って何か支障がありますか?
 僧侶と一般人の違いはどこにあるか。頭をそってない。僧服を着ていない。こういう違いがある。大きな違いじゃ。

 「私はきのう僧侶宣言しました。宗派とは関係ありません。お宅のご主人の葬儀を執行させてください」と言って、果たして需要があるかは知らんぞ。頼まれもしないのに、相手方の家に乗り込んでいって読経を始めれば、家宅侵入罪で逮捕されるかも知れません。
 ただ、大谷派に属してないのに「大谷派僧侶」を名乗ったり、本願寺派に属してないのに「本願寺派僧侶」を名乗り、布施を受領すれば仮にそれが事実上の葬儀執行料であっても詐偽罪になる(刑法246条)。遺族との葬儀契約は取り消される(民法96条)。単立寺院の僧を名乗っていれば、これは問題にはならんじゃろ。
 僧とは何か。現代では頭を丸め、僧服をまとった人いう意味じゃ。ろくに経も読めず、家族だけは一人前に妻をめとり、子供の手を引いて酒屋から酒屋にはしごするような輩でも、僧は僧。頭を丸め、僧服をまとっておれば尊いんじゃぞ。なぜ僧は尊いのか、頭を丸め、僧服をまとっておるから尊い。僧服だって、色は何でもいい。黒でなく、黄色でなくとも、白でもいいんじゃ。真宗の僧は頭を剃らん。これはどうじゃと言われたらこちらも言葉に窮する。まあ、得度の時は頭を剃るからいいことにしよう。
 頭を丸め、僧服をまとっておればなぜ尊いのか。理由は簡単じゃ。僧は、頭を丸めて僧服を着なさいよ。お釈迦様がお弟子さんにそうおっしゃった。頭を丸め、僧服をまとっておる僧は、お釈迦様のその言いつけを守っておる。だから尊い。
 頭を丸めて僧服をまとっておればそれだけで尊いというと、反発する人は多いじゃろう。頭を丸めて僧服さえまとえば、人を殺してもいいのか。物を盗んでもいいのか。そう聞く奴がおる。馬鹿なことを言うもんじゃない。人を殺したり物を盗めば、社会が許さんじゃろう。坊さんだからといって無罪放免になるもんじゃない。僧でも社会的な指弾を受ける。これは必要じゃ。ただし、社会的な指弾を受ければそれでいい。社会的な指弾を受けた者を、仏教では重ねて宗教的に指弾を浴びせることはしないということじゃ。
 頭を丸めて僧服さえまとえば、勉強もしないでもいいのか。馬鹿なことを言うもんじゃない。坊さんが仏教の勉強をしなければ、一般社会が坊さんとして相手にしてくれない。ただ、一般社会が相手にしないからと言って、仏教ではその僧を重ねて宗教的に指弾を浴びせることはしないんじゃ。
 坊さんは、頭を丸めて僧服さえまとっておれば、それだけで尊い。馬鹿でもちょんでも尊いんじゃ。昔は無論、そうじゃなかった。昔は厳格な規律があった。戒律という。坊さんは戒律を守ることで社会の尊敬を受けた。しかし、戒律は社会の価値観に根ざす。三千年昔の南国の価値観が、そのまま三千年後の北国で妥当するとは限らん。校則を変えることが出来るのは教師であって、生徒ではない。釈迦の時代、先生がインドで作った戒律を、現代の日本で守れと言っても、これは無理な話じゃろう。
 ただ、戒律でも、守れる戒律と守れない戒律がある。頭を丸め、僧服をまとうということは出来る。それができるなら、出来る範囲で最善を尽くすがいい。釈迦が決めた法であれば、出来る範囲で最善を尽くすのが尊い。だから頭を丸めて僧服をまとっておれば、それだけで尊いんじゃ。
5渡海 難:2000/08/15(火) 15:10
1163さんへ(その2)
 坊さん達や。
 自惚れるではないぞ。頭を丸めて僧服をまとっておるから自分は尊いんじゃなどと思いなさんや。尊いのは、僧服じゃ。頭の形じゃぞ。頭の中身でも、僧服の中身でもないんだぞ。ここはしっかり認識しなされよ。頭の中身、僧服の中身には、釈迦の弟子と言いつつ、何一つ真実は無い。忘れなさんなや。何一つ真実は無くとも他人様は尊いと言ってくださるんじゃ。何故じゃ。お釈迦様のお力じゃ。坊さんよ。あんたらの手柄じゃないぞ。お釈迦様のお力じゃ。
 釈迦の弟子といいながら、頭を丸めて僧服をまとっているだけ。あんたらは形ばかりじゃぞ。何一つ真実がない。何一つ真実が無くとも、他人様は尊いと言ってくださる。坊さん達や、頭を、服を世間様は尊いと言ってくださるんじゃ。どうかどうかその尊さに驚いてくだされよ。尊いと言ってくださるその尊さに驚けば、相手は何でもいい。あんたのお檀家でも、ご両親でも、友人でも、自分勝手に阿弥陀仏と名前を付けなさい。阿弥陀仏と名前を付けた相手を、「先生。ああ先生」という思いで身を縮め、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念じていってみんさいよ。頭ン中はアホ丸出しでも、称えている南無阿弥陀仏に対し、他の人も南無阿弥陀仏ときっと応えてくれることじゃろう。これがあんたらの宗祖親鸞聖人の教えじゃぞ。現代僧の本質なんじゃぞ。
6渡海 難:2000/08/15(火) 15:14
1163 2行目
「尊いんじゃなどと思いなさんや。」は、「尊いんじゃなどと思いなさんなや。」です。
7渡海 難:2000/08/15(火) 15:31
>1164さんへ
>最大限好意的に解釈をしても良いのではないですか?

 最大限の好意的に解釈かどうかは、生きている人の判断じゃな。死んだ人がどう思っているかは誰にも分からん。

>戦没者の姿がしかと、確かに、確実に見えるとゆうのでしたら話は別ですが。
 これは、こっちのセリフじゃな。

>じゃあ、結論としては僧侶は要らないって事ですよね。僧侶が要らないって事は仏教はこの世に存在しないって事ですよね?
 これは、釈迦が僧制度をこの世に残した意義に関するので、後に回答します。
8ニセその他:2000/08/15(火) 17:11
>1176
>>亡くなった人を私にとっての仏だと言いきれるようになりたいものです。
>これはまた、いまだかつて聴いたことの無い珍説ですね(笑)
>浄土真宗では、亡くなられた人は全て釈迦牟尼仏と等しい仏陀と
>言い切れる、そのような教義があるのですね。
このことや死者に対する供養については、「阿含宗という宗教」1 というスレッドのたしか1030番以降にいろいろ書かれていますから見て下さい。
9 名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 18:09
↑あれっ、ここって浄土真宗スレッドじゃなかったの?(笑)

このスレッドの話題はこの場でけりをつけるのが本筋でしょう、
違いますかね?
10名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 08:06
よいっしょ。age
11渡海 難:2000/08/16(水) 14:34
1164さんへ
>じゃあ、結論としては僧侶は要らないって事ですよね。

 まあ、世襲坊主は不要じゃろうな。オヤジが坊主だから息子も坊主にならにゃならんなんて、そんな意味不明の理屈で坊主になるんだったら、止めておいた方が無難じゃろ。

 僧侶の僧とは僧伽(そうが)の略です。本来は、衆議する人々という意味らしい。侶は友という意味だそうだ。お釈迦様の下に集まってきたお釈迦様の仲間、それが僧侶と言う言葉の本質的な意味だそうだ。
 お釈迦様の仲間とは何か。お釈迦様の提案に賛成し、お釈迦様に学び、お釈迦様の事業を継承していく人々を言います。
 お釈迦様の発見とは何だったのか。お釈迦様は、ご自身の様々な迷いの原因が自分の無知にあったと気付いた人でした。無知にあったと気付いたとき、これは大変なことだと思い、この認識を多くの人々と共通の財産として共感的に享受し、共同で利用し合おうと決意されました。そして、互いに助け合い、学び合っていこう。そう提案され、祇園精舎を創建されました。僧は、お釈迦様から自らの本質的ありかたを教わります。学んだその認識は、多くの人々に拡散し、人々との共通の財産とし、多くの人と共感的に享受し、共同で利用し合あわなければなりません。僧はそうした釈迦の提案に賛成します。この提案に賛成し、自らをその拡散運動に捧げます。僧はそうした釈迦の仲間達です。
 社会とって、僧は不要でしょうか。実に我々は、無知を原因に様々様々に迷っています。そのことは三千年昔も今日も変わりありません。三千年昔、お釈迦様がインドで提唱したものは、現代でも極めて重要な提唱と考えます。その重要性は、戒律というものが社会の間尺に合わなくなってきた現代でも変わっていないでしょう。自らの愚かさに目覚めよう。そして、互いに学び合おう。「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと」しよう。この提案は、今日でも決して色あせてないと考えます。
 お釈迦様のこの提案はいまどこに存在するのでしょうか。この提案こそ、実は現代においては僧の法服に象徴され、僧の頭に象徴されています。法服と剃髪は、お釈迦様が定めた僧の形です。お釈迦様が僧の形を定めた理由は、自らの提唱を世の中に継続的に存在させようとしたからです。自らの愚かさに目覚めよう。互いに学び合おう。「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと」願ったからこそ、お釈迦様は僧の存在をゆるし、法服と剃髪を僧の姿として定めました。
 僧は、社会的に仮に戒律が崩れても、その存在でお釈迦様のメッセージを我々に伝えています。賢愚経、大集経は言います。僧の法服を敬え、剃髪を敬え。経典のこの叫びは、法服と剃髪をもってお釈迦様はそのメッセージを我々に伝えているんだという事実を物語るものでしょう。僧は、どんな破戒僧であっても必ずや必ずやいつかは仏になる。経典はそう説いています(大集経)。僧は、剃髪と法服によって釈迦の提唱をダイレクトに現代に伝えています。身体をもって人々を真実に導いている存在なのです。
12渡海 難:2000/08/16(水) 15:45
1173さんへ
>キリスト教の聖歌とか、黒人霊歌と同じようなものと考えていいわけでしょうか。

 そうですね。現代ではそうでしょうね。ただ、原点はそうじゃなかった。読経というのは、善導大師の五正行のうちの読誦という部類に入る。葬儀は五正行実践の場と考えるべきでしょう。
 ただ、現代では、その読誦という意味がほとんど消滅し、仰るような意味に変わってきた。読誦という意味が完全に消滅したかどうかはもっと議論があっていいと思います。
13渡海 難:2000/08/16(水) 15:46
1174さん
>実際に生で会ってお話を伺えると、より一層色々なお話がお聞き出来るかと思いますので

横浜駅近くの喫茶店でときどき「こんにちは会」を開いています。次回は9月以降となりますが、もしよろしければおいでください。浄土通信インターネットで時期などを掲示します。
14渡海 難:2000/08/16(水) 15:49
>1175さん
>亡くなった人を私にとっての仏だと言いきれるようになりたいものです。

 仏だと言い切ったらどうですか。
 お寺に行くと木偶の坊に人の形を彫刻して「阿弥陀様」と言い切っていますよ。紙片に「南無阿弥陀仏」と書いて「阿弥陀様」といい切っていますよ。ご存知ありませんか。
 亡くなった人に限らず、亡くなってない人も、それぞれを嘘っこで「阿弥陀様」と名付ければいいんじゃないでしょうか。

>アレは肉体を鳥に布施しているのです。

 昔、我が家にはポチという犬がいました。ジステンパーという病気で死にましたが、死ぬまでの間、我が家ではその犬に食べ物を布施していました。
 動物に餌を与えることでは布施という言葉を使いたくないですね。概念が混乱し、仏さんとワンちゃんが同列になるのはいかがなものでしょう。
15渡海 難:2000/08/16(水) 15:55
8さんへ
>1030番以降にいろいろ書かれていますから見て下さい。

 「阿含宗という宗教」1というスレッドは現在読めないんだから、この書き方は不親切ですね。
16渡海 難:2000/08/16(水) 16:39
>14
 失敗。  表現がおかしい。(^^ゞ
「木偶の坊に人の形を彫刻して」は誤り。「棒切れに木偶の坊を彫刻して」が正しい。
17ニセその他:2000/08/16(水) 17:40
>1176と9
>浄土真宗では、亡くなられた人は全て釈迦牟尼仏と等しい仏陀と
>言い切れる、そのような教義があるのですね
亡くなった人は私にとって一体何なのか。それは人それぞれだと思います。
多くの人にとって亡くなった人は霊魂でしょう。1176さんもおそらくそうではないですか。前にも書きましたが
折口信夫は、霊魂に三種あると言っています。
@純化した先祖霊。
Aまだ死の穢れがついている死んで間もない霊。
Bほとんど浮かぶことのない霊。
Aは普通に死んだ場合です。死の穢れは祀ることで清められ、次第に個性を失い、最終的には@の先祖霊と一体になります。さらに祀ることで氏神となります。
Bは不完全な死、中絶した生(横死・不慮の死・呪われた死など)の場合です。そういう死に方だと迷える魂・移動できぬ魂になります。
三種ともたたることもあれば、福をもたらすこともあるとされます。しかし特にBを恐れます。
死に際が気になるのもBを恐れるためです。死んだ時に苦しまなかったとか、死に顔が安らかだったと。それはBではなくAだと思って安心したいからです。七転八倒しながら死んだりすれば、霊は迷うかもしれないわけですから。
インチキ宗教は先祖の中に自殺した者がいるとか、ここでむかし死んだ者がいるとか言って脅します。これも同じことです。Bの霊魂になっていると言うわけです。
死んで霊魂になっていると思っている限り、迷っていないかが気になりますし、迷っているとたたりますから、何とかしなければ、となります。
たとえば、死んだ人が夢に出てきたことを気にする人は結構います。どこかで苦しんでいるのでは、迷っているのでは、と思ってしまうのです。
18ニセその他:2000/08/16(水) 17:41
死者に対する我々の思いは、今言った
@死者への恐れ
の他にもう一つ
A死者に対する罪悪感
があります。
他人に対して我々は愛憎半ばする感情を持ちます。その人が死ぬと愛だけが残り、憎しみは自分自身への罪意識になるそうです。小此木啓吾「対象喪失」にそんなことが書いてあります。
また戦争や災害で生き残った人は、死んだ人たちに対して罪悪感を持つことがあるそうです。自分のような者が生き残ってしまった。申し訳ない。
この二つの気持ちをを消したい。そこで慰霊や供養をしたり、死の意味づけをしたりして、死を受け入れ納得しようとします。
靖国神社に対する一般の人たちの心情もおそらくこうしたことから生まれるのだと思います。それを政治家などが利用するものだから問題が起きるのです。

しかし死んだ人が私にとって仏なら、死者は迷ってはいませんし、まして祟りません。それどころか迷っている私を救おうとはたらかれています。このことに気づかされるのは、私が亡くなった人を通して仏の教えに遇えばこそです。
私にとって亡くなった人は仏ですが、あなたにとっても仏だとは言いません。
ちなみに、真宗では信心をいただいた人は、弥勒と同じ、諸仏と等しいと説きます。

>14
死者をホトケと言いながら霊だと思っているでしょう。仏と言い切れていないわけですよ。
チベット仏教では布施だと言うのだから仕方ないです。
19 名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 18:16
>18、 ニセその他
>しかし死んだ人が私にとって仏なら、死者は迷ってはいませんし
、まして祟りません。それどころか迷っている私を救おうとはたらかれています。

貴方様はイタコですか?シャーマンを職業とされているのですか??(笑)

上記の発言は死後の我われの認識のおよばない、それゆえに科学的検証に
耐えない、単なる迷信です(爆)

そもそも
>それどころか迷っている私を救おうとはたらかれています。

などという事柄を、貴方様はどのようにして認識されているのでしょうか???
20名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 18:45
> 19

そういうあなたは亡くなっていかれた先祖がどのようになっていると考えているのですか?
21渡海 難:2000/08/16(水) 19:36
>18さん
>死者をホトケと言いながら霊だと思っているでしょう。仏と言い切れていないわけですよ。

 死者をホトケと言いながら霊だと思っている人とはどなたのことですか。私は霊だと思っていませんよ。
 お寺では、棒切れに木偶の坊を刻んで「ご本尊」とか「阿弥陀仏」と呼んでいますよ。この場合、お寺では仏とは言い切れていないのですか。棒切れに刻んだ木偶の坊を霊だと思って「ご本尊」とか、「阿弥陀仏」とか呼んでいるんでしょうか。そうじゃないでしょう。お寺では自分勝手に棒切れを雛壇に飾って「阿弥陀仏」と呼んでいるんでしょう。勝手に「阿弥陀仏」と名付けて仏と言い切っているわけでしょう。だったら、死んだ人を自分勝手に仏と名付けてもいいんじゃないですか。死んだ人を自分勝手に仏と名付けるなら、生きている人にも自分勝手に仏と名付けてみようというのが、私の提案なんですよ。仏と名付けて念じてみよう。これが私の提案です。

>チベット仏教では布施だと言うのだから仕方ないです。

 私はあなたを浄土真宗のお坊さんだと思っていました。浄土真宗のお坊さんでも、最近はチベット仏教を信仰しだしたんですか。全く知りませんでした。貴方の霊魂観は、チベット仏教からきたものですね。そういえば麻原さんもチベット仏教を信仰していました。どこか似ている感じがしていました。
22ニセその他:2000/08/16(水) 19:37
>19
>貴方様はイタコですか?シャーマンを職業とされているのですか??(笑)
なぜ(笑)なのかよくわかりません。イタコやシャーマンを笑っているのでしょうか。
イタコやシャーマンが呼び出す霊魂は、その人たちにとって客観的な実在でしょう。
亡くなった人が私にとっての仏というのは、主体的なものです。
>貴方様はどのようにして認識されているのでしょうか???
南無さんの1078からの引用です。
「近所のお婆さんなのですがパ−キンソン氏病で自宅療養をしていました。医師からは病気の進行を遅めるためにも、極力自分で動きなさいと言われていたのです。そのお婆さんが自宅のお風呂で転び、頭を強打し亡くなりました。
その後納骨までの49日間は自宅に骨壇が作ってあるのですが、そこのお父さんが時々コップ酒を一杯持ってチビチビ飲みながらじっとうつむいて骨壇の前に座っている姿を見かけました。49日法要が終わってそこのお父さんが私に話したことは「なんでもう少し母親に優しくできなかったのか」という一言でした。
彼は医師の言葉通り、すこしでも動ける母親であって欲しいとの思いから時間が掛かってもいいからと極力手助けをしないで見守っているという姿勢を通していたのですが、不慮の事故ということもあり自分の接し方を後悔しているのです。
母親に対し「すまなかった」という思いを抱え骨壇の前に座っていたのでしょう。生前の母親との関係は誰よりも彼が知っていますし、母親の愛情の深さを彼自身が一番よく知っているのです。にもかかわらず自分は最後、母親に対して何もしてやれなかった、いや、何もしてやらなかったという後悔なのですね。
母親が彼にかけた愛情は生前も死後も変らずに一つのものでしかないのですが、生前のものは「愛」、愛情をかける側も愛情を受ける側も「愛」を挟んで色々な期待や思い入れを孕んでいます。しかし死別したあとになってしまうと同じ「母親からの愛情」なのだけれど「質」が変る。つまり彼の受け取り方が変る。「愛」を挟んで色々な期待や思い入れの入り込む余地がなくなってしまう。のみならず、母親のかけてくれた愛情の姿や形ではなく、愛情をかけてくれたことの真意が問題になる、愛情を持つということの在り方全体が問われるということだろうと思います。
生前かけてもらったのは「母親からの愛情」でした。しかし死別して彼が感じ取っている内容は「母親の慈悲」だと言えると思います。」
この場合、母親の霊魂などどこにも出てきません。母親の願いを受けとめているからこそお父さんは悩んでいるのでしょう。これが亡くなった人のはたらきだと思います。この後お父さんはどのように母親の願いをいただいたか。この続きを聞きたいものです。

多くの名無しさんは釈尊以外の仏を認めていないようです。釈尊は二千数百年前になくなっています。それならどうして仏を教えを聞くことができるのでしょうか。
阿含経は釈尊入滅後、約500年たって編集されたもので、釈尊の直説ではありません
23ニセその他:2000/08/16(水) 19:51
>21
ほんとに疲れる人ですね。
>私は霊だと思っていませんよ
あなたがそう思っているとは私も思っていません。
>お寺では仏とは言い切れていないのですか
多くの人は死んだ人を仏ではなく霊魂と思っている、と言っているのであって、お寺でのことは言っていません。
>浄土真宗のお坊さんでも、最近はチベット仏教を信仰しだしたんですか。
ということですが、1163の七使さんが
>何時から日本はチベットや中米・南米の鳥葬を信仰する事になったのでしょう?
>(まあ、鳥葬云々そのものは否定しませんが、アレはアレで鳥が天空に座します
>神々に死者の魂を連れていくと考えられていますからね)
というから、チベット仏教での鳥葬の意味は自分の肉体を鳥に布施するんであって、鳥が天の神に死者の魂を連れていくのではない、と説明しただけのことです。

すべて自分に対するいちゃもんだと、あなたは思っているようですね。私としてはなるべくあなたを無視して書き込みをしているつもりですから、そのつもりでいて下さい。
24渡海 難:2000/08/16(水) 21:33
>あなたがそう思っているとは私も思っていません。
分かりました  m(_ _)m

>お寺でのことは言っていません。
分かりました  m(_ _)m

>多くの人は思っている、と言っている
「多くの人は思っている、と言っている」のだと分かりました  m(_ _)m

>チベット仏教での鳥葬の意味は、鳥が天の神に死者の魂を連れていくのではない、と説明しただけのことです。
分かりました  m(_ _)m

>布施するんであって
布施? (^^ゞ

>自分に対するいちゃもんだと、あなたは思っているようですね。
   そんなことは全然ありませんよ。
   突飛な考えを持っているんじゃなく、説明上で貴方は舌足らずのところがあるようですね。

>そのつもりでいて下さい。
    ご自由に。


25名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 21:44
渡海 難 てなんてよむの?

とかい なん ?
26 名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 23:05
>22、ニセその他

貴方のレスを読ませていただいて、ますます混乱してきました(笑)

引用された1078のお婆さんが、仏陀なのでしょうか?
世間によくある家族のエピソードのひとつではあるけれども、
それ以上でもそれ以下でも無いとおもいますが、どうでしょう?

お婆さんの死に対して遺族がどのような意味付けをするか、
それは彼らの全くの自由でしょう。別に坊さんにとやかく言われる
筋合いのものでも無いし、みなそうして生活して特に不自由が
あるわけでも無い。

>亡くなった人が私にとっての仏というのは、主体的なものです。

これは間違い。「主体的」というより、「主観的」にしか貴方の言葉は
わたしには聞こえてきません。

>多くの名無しさんは釈尊以外の仏を認めていないようです。

認めているかいないかは知りません。
引用したお婆さんが仏陀ですか?

>釈尊は二千数百年前になくなっています。それならどうして仏を
教えを聞くことができるのでしょうか。

なんのために仏教学者はこの世に存在するのでしょうか。
大谷大学はなんのために著名な学者を招聘しているのでしょうか(笑)

>阿含経は釈尊入滅後、約500年たって編集されたもので、
釈尊の直説ではありません。

大乗経典は釈尊の生前の言行を探るうえで、
机上にも載りません。全くの研究対象外です。

・・・というフレーズを付け加えたほうが正解なのではないですか。

いずれにせよここは浄土真宗の坊さんが質問にお答えするという
趣旨で立ち上げられたスレッドです。部外者が批判のために
作ったわけでは無い。渡海 難氏もよほど信用できないのか、
躍起になって発言していますが、もう少し僧籍のかたたちも頑張って
ほしいものです。

>20
わたしは坊さんではありません。知識を求めてこちらに
参加させていただいているものです。悪しからず(笑)
27七使さん:2000/08/16(水) 23:37
渡海 灘さん ニセその他さんへ
詳細な解説を頂きまして、有り難うございます。
今まで、頭の中では何となくしか理解していなかった物が
有る程度、理解出来るようになりました。
正直な所、渡海 灘さんへは最初反感を感じていましたが
丁寧な解説を見て、誤解をしていたと思っております。

さて、話が本筋からずれるかもしれませんが渡海 灘さん
が仰っておられる一文で下記の部分で思いだした事が有り
ました。
>単立寺院の僧を名乗っていれば、これは問題にはならんじゃろ。
この部分ですが、以前何方かがかかれた時代小説で(戦国物で、確
か天正年間を扱った小説だったと思います)の一文です。
「本日、只今を持って私は志である」とその作品では書いてありました。
で、この一文なのですが、一介の人間が本日をもって私は武士であると
公言すると同時に特別な存在なれた希有の時期とその小説では書いてあ
りました。つまり、名の有る武将や大名家に仕え、其れ相当の武勲を上
げると、一国一城の主ですら夢では無い。との事を言いたかったんだと
思います。で、渡海 灘さんの文面を読んでふと思い出した次第で有り
ます。間違っていたらすみません。
28名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 09:37
> 19@`26

坊主であるとか一般人であるとかではなく、
仏教的であるとか、他宗教的であるとかではなく、
イメージとして、
あなたは亡くなった先祖はどうなっていると想像しますか?
あなた自身が死んだらどうなると想像しますか?
29>28さん、坊主の逆質問はダメ・ダメ〜〜(笑):2000/08/17(木) 10:27
>坊主であるとか一般人であるとかではなく、
仏教的であるとか、他宗教的であるとかではなく、
イメージとして、
あなたは亡くなった先祖はどうなっていると想像しますか?
あなた自身が死んだらどうなると想像しますか?

あなたが坊主で無いのなら、当然答えられますよね?(爆)
30渡海 難:2000/08/17(木) 12:11
>25さん
 Tokai Katasi
31ニセその他:2000/08/17(木) 12:13
>24
>説明上で貴方は舌足らずのところがあるようですね。
大いに認めます。
しかし長文だと文句を言われるし、短くすれば意味不明と言われるし。

>26
>ますます混乱してきました(笑)
混乱して笑うというのはどうしたことでしょうか。精神的に不安定なようですね。

1078の南無さんの話は、おばあさんを偲ぶことを通して仏さまの教えに出遇っていく過程にある人の話だと思います。あなたにとってはよその家のお話でしょうが、お父さんにとっては単なるエピソードの一つではないでしょう。
>お婆さんの死に対して遺族がどのような意味付けをするか、
>それは彼らの全くの自由でしょう。
おばあさんが迷っている霊魂になったと思うのも自由ですが、しかしそれよりもおばあさんを仏さま、私の迷いを気づかせる仏さまとして手を合わすことができるようになる方がいいとは思いませんか。
他の人を仏さまとして手を合わすという一例を紹介します。
「鬼や畜生やと憎んだ人が、まことは、このわてを、この広い道に、出してくれんがために、あの姿になって,現れてくれた仏さんや」
山崎よんというおばあさんの言葉です。鬼のような姑、ぐうたらの夫、村八分にした村人、そうした人たちが仏さんやと言っているのです。

>釈尊は二千数百年前になくなっています。それならどうして仏を
>教えを聞くことができるのでしょうか。
釈尊は二千数百年前になくなっています。釈尊しか仏として認めていないのなら、どうして仏の教えを聞くことができるでしょうか。
という意味です。
32渡海 難:2000/08/17(木) 12:23
>30 追加
Toumi Katasi も可。

Tokai Nan    は不可
33名無しさん@ダメ・ダメ〜〜(笑) :2000/08/17(木) 13:08

> 29

別に正解・不正解というテストの解答を求めているのではなくて、
あなたの思いを聞かせてくださいという意味です。

あなたは自分が死んだらどうなっていくと想像していますか?
三途の川を渡って冥土の旅をして、えん魔さまの裁判を受けて、浄土へ行ったり地獄へ堕
ちたり・・・、餓鬼になったり畜生になったり天人になったり・・・、そんなふうに想像します
か?
それとも、神様に導かれて天国へいくと思いますか?
そうではなくて、神様の指導であの世で修行をすると思いますか?
または、仏に導かれてお浄土に生まれると思いますか?

私は、病気をしたり、ケガをしたり・・・、痛がったり苦しんだりする体から開放されて、
また、何かと欲しがったり、人を恨んだり妬んだり、悲しんだり苦しんだり・・・、厄介者
の心(気持ち)からも開放されて、自分というものがなくなって清々するんじゃないかと思
います。
私はお浄土へ生まれさせてもらえるんじゃないかと、厚かましくもそう思っています。
これは私の想像です。

あなたは自分が死んだらどうなると想像しますか?
34>28さん、坊主の逆質問はダメ・ダメ〜〜(笑):2000/08/17(木) 14:50
浄土真宗関係者の言ってることは全て自らの観念にもとずいたもので、
具体性に乏しいこと甚だしいですね。自説が他人の検証に耐えないとみるや、
お得意の逆質問、話のすり替えのパターンですか?(笑)

>私はお浄土へ生まれさせてもらえるんじゃないかと、厚かましくもそう思っています。
これは私の想像です。

どうぞご自由に。ついでにそのお説を証明することができるなら、
あなたのボロ寺の檀家が増えますよ。頑張って(爆)

35 名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 15:01
>31・その他

で、結局のところ、お婆さんは仏陀なのですか、貴方は実際にお会いして
確かめられたのですよね?そしていろいろと質問なり会話なりしたうえで
「ああ、確かにこのお婆さんは仏陀である。間違い無い」と判断されたうえで
こちらに書きこみされたのですよね?仏陀であるか、無いかの見極めができる
あなたご自身も相当に御立派な僧侶なのでしょうね?

ああ、有り難や、有り難や・・・(笑)
36 名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 15:09
201 名前: ハエたたき 投稿日: 2000/08/17(木) 09:36

> 198

仏教=仏陀の教えでいう信仰心・信じるということは、
納得した、理解したということです。
納得できない、理解できないことを信じているのなら、
それは間違いだと思います。

ハエタタキ大先生の仰るとおり!!!

オマエらの検証不可能な法螺話、宇宙人の寝言を間に受けるような奴は
仏教徒では無い(爆)


37中学生のお兄ちゃん:2000/08/17(木) 16:07
ようちえんも宿題はないけど夏休みがあるんだったよね。
宿題のかわりに仏教のお勉強でもしてみればぁ〜?
38名無しさん@ダメ・ダメ〜〜(笑) :2000/08/17(木) 16:10
> 34

逆質問ではないでしょう。
3925:2000/08/17(木) 17:06
ありがとうございました。
40 名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 18:46
中学生のお兄ちゃんはお友達がいないのかなあ〜〜?いまから
黄色い救急車が迎えにくるからね、そこには
お兄ちゃんのお友達がいっぱいいるところだよ、
もう寂しくないよ、良かったね(ワラ
41 名無しさん@1周年:2000/08/17(木) 19:20
> 34

)逆質問ではないでしょう。

あなたの質問はニセその他さんがこちらの質問に答えるまえになされています。
非常にたちの悪い「逆質問」です(笑)

もしも 名無しさん@ダメ・ダメ〜〜(笑) さんが不特定多数の参加者に
逆質問を浴びせたいのであれば、そういった趣旨のスレッドを立ち上げて
ください。

さしずめこんなところでしょうか。

[3:40] 私、坊主してます(part3) ■▲▼
1 名前: 南無 投稿日: 2000/08/14(月) 18:18

真宗大谷派(お東)に僧籍を持ってます。儀式全般の質問に
出来る限り逆質問でお答え致します。どうですか?(超ド級爆!!)
42 名無しさん@アホクサ:2000/08/18(金) 00:15
浄土真宗が来るべき21世紀に向けて送り出す新作お伽話、
「ブッダになったおばあさん」、ってかあっ!(笑)
43名無しさん@1周年:2000/08/18(金) 08:10
単なる荒らしは無視しましょう。
44渡海 難:2000/08/18(金) 08:50
 名無しさんの叫びは坊さんに届かない。届かない。坊さんの声は名無しさんに届かない。届かない。
 声をからしても届かない。届かない。  (-_-;)

 釈迦如来隠れましまして 二千余年になり給う 正像の二時は終わりにき 如来の遺弟悲泣せよ
 末法五濁の有情の 行証かなわぬ時なれば 釈迦の遺法尽く 竜宮に入り給いにき
 正像末の三時には 弥陀の本願広まれり 像季末法のこの世には 諸善竜宮に入り給う
 大集経に説きたまう この世は第五の五百年 闘諍堅固なる故に 白法隠滞したまへり
 
45渡海 難:2000/08/18(金) 13:46
>31
>南無さんの話は、おばあさんを偲ぶことを通して仏さまの教えに出遇っていく過程にある人の話だと思います。

 あのね。こういう話をしても、僕なんかには意味が分かるんですよ。いままで僕は、ちんぷんかんぷん、宇宙人の寝言と言ってきたけど、本当は通じているんですよ。でもね、名無しさん達はね、「それじゃその仏さまはどこにいますか」という話になるわけ。夢枕にでも立ちますか。地獄からでもやってきますかという話になるわけよ。
 地獄からでもやってきますかと僕が言うときは、冗談であり茶化しなんですよ。だけど、名無しさんが聞くときは本気ですよ。
 「仏さまの教えに出遇っていく」というのはあくまで表現方法の一つです。表現方法は相手と場所を選ぶんです。御維新も過ぎてお侍さんの時代は終わったのに、相手や場所を選ばず、百数十年も昔に偉いお坊様が寺子屋で文字も知らない人々に話していた例え話のネタを、一品メニューでインターネットに垂れ流せば、大学も出ている人からは物笑いとなる。誤解を招く。そういうことなんですよ。

>おばあさんが迷っている霊魂になったと思うのも自由ですが、しかしそれよりもおばあさんを仏さま、私の迷いを気づかせる仏さまとして手を合わすことができるようになる方がいいとは思いませんか。

「霊魂になったと思うのも自由ですが」
 確かにこれは自由だが、この自由をいまここで自由などと言うから話が分からなくなる。相手の概念で迎合してはいけないところは迎合しないんですよ。自由でも議論の途中では駄目と言うときもある。おばあさんが迷っている霊魂になったと思い、私の迷いを気づかせる仏さまとして手を合わすいえば、聞いている人には霊魂信仰になる。貴方は自分から議論に墓穴を掘っているんですよ。

>鬼のような姑、ぐうたらの夫、村八分にした村人、そうした人たちが仏さんやと言っているのです。

 鬼が仏なら、仏は鬼か?相手を選ばずインターネットに垂れ流せば物笑いとなる。意味の通じている人からも馬鹿にされるんです。

>釈尊は二千数百年前になくなっています。釈尊しか仏として認めていないのなら、どうして仏の教えを聞くことができるでしょうか。という意味です。

 「釈尊しか仏として認めていない」などと言っても、仏とは何かという概念を、話し手と聞き手とで共通化しておかないと話は通じないですよ。仏とは何かが今問題になっているんでしょう?自分の現代の言葉で、きちんと筋道を立てて考えなさいよ。相手構わず言葉をぶつければ、罵詈雑言と同じでしょ。相手を傷つけ、自分も傷つく。
46¥5さま:2000/08/18(金) 15:09
お盆前の12日にご門徒のおとうさんがやって来ました。
1〜2日中におじいさんの13回忌の法事をして欲しいとのことでした。
2年ほど前からおばあさんの具合が悪くてお使者さんに往診をして貰っている
のですが、そのおばあさんがおじいさんのお勤めをして欲しいと言って聞かな
いということでした。

おとうさんが私に、
 死んだ人より生きてる者だといっても聞いてくれない。
 次の17回忌は必ず勤めるからといっても聞いてくれない。
 具合が悪くて寝ていても法事だけは譲れないとおばあさんが言い続けている。
 おばあさんは、あなたの顔を見ただけで安心して満足するだろうから、
 短いお経でいいからお参りに来て欲しいということでした。

私はまるで2チャンネルの議論のような話しだとちょっと笑いだしそうになりました。

13日の夜にお参りに行きました。
おばあさんはとても満足されたようで、お経の後で、
 早くよくなって、お寺へお参りに(お説教を聞きに)行くのを楽しみにしている、
と言ってくださいました。


私は、「死んだ人より生きてる者」というおとうさんの言葉が、
とても嬉しく思いました。
そして、おじいさんの供養を目的に勤めたお経(法事)でしたが、
安心し、満足したのは、供養されたおじいさんではなく、
お参りをした自分だと思われたのではないかと考えながら帰って来ました。
47渡海 難:2000/08/18(金) 18:18
>46さんへ
 言葉は恐いですよ。

>13日の夜にお参りに行きました。

 貴方は13日の夜にお参りに行ったんですね。
 貴方は何をお参りしに行ったんですか。おばあさんをお参りしに行ったんですか?おじいさんをお参りしに行ったんですか。お父さんをお参りしに行ったんですか?
 おばあさんは、私(おばあさん)をお参りしてくださいと貴方に頼んでいたんですか。おじいさんをお参りしにきてくださいと貴方に頼んでいたんですか。
 貴方が、「おばあさん、私は貴方をお参りにきましたよ」といったら、おばあさんはどんな顔をしますか。きっと怒るでしょうね。そんな馬鹿な話は聞いてないと。
 貴方は、気休めにお参りに行ったんでしょうか。貴方はどこに、何しにお参りに行ったんですか。

>早くよくなって、お寺へお参りに(お説教を聞きに)行くのを楽しみにしている、と言ってくださいました。

 あなた方はこのおばあさんにいままでどんなお説教をしていましたか。おばあさんをお参りに行きますよ、というお説教をしていたのですか。おじいさんをお参りに行きますよ、というお説教をしていたのですか。
現在、浄土真宗の教義は非常に混乱しています。蓮如以来数百年、一向宗・浄土真宗は恐ろしいばかりに惰眠を貪ってきました。インターネットの時代は待ったなしです。ここに反省がなければ、だれかの安易な言葉で、明日は教団全体が命取りになっているでしょう。
48¥5さま:2000/08/18(金) 18:49
> 47

申し訳ありませんが、無視します。
49名無しのゴンベィ:2000/08/18(金) 19:20
お盆が過ぎました。もう季節はずれの話題になるかも
しれませんが、私は京都出身で親戚や知人宅でも「盆提灯」を
飾ることを知りませんでした。
私は浄土宗の檀家ですが、京都では日蓮宗の親戚も使っている風景が記憶にありません。
東京の知人宅で「盆提灯」を仏壇の前に飾っていることを知りました。
地域により異なるのでしょうか?又、私の記憶違いでしょうか?
浄土真宗では使用されていますか?浄土宗では、位牌を用いますが
東京の知人の家は、確か、真宗だと位牌を使わないと言っていましたので
質問させて頂きます。宜しくお願いします。
50ニセその他:2000/08/18(金) 19:55
>渡海難さんへ
私は以前、話し方教室に通っていたことがあります。そこではまず先生の話を聞いた後、3分間スピーチをします。生徒が3分間の話をし、その録音を聞きながらみんなで話しあう、ということをしました。
ある時、先生が、なんと言っても健康が一番だ、健康でなければ幸せとは言えない、といった話をしました。カチンときた私は、3分間スピーチで、健康でなければ幸せとはいえないと言うのなら、病人は不幸なのか、というような話をしました。真宗の話を聞いている人なら、聞き慣れた話です。
その後の話し合いで先生は、どんな話をしてもその人の自由だが、訳の分からない話をしてはいけない、と言いました。すると年輩の女性が、でもお寺さんはそういった話をよくされますね、と言われました。ちなみに先生は本派の寺の総代をしているのだそうです。
その時、思ったことですが、真宗の価値観と普通の人の価値観というか常識は違うんだなということに納得しました。この両者の壁はすごく高く強いものだと思います。
おっしゃるとおり、仏とか霊魂とかいくらいってもおそらく多くの名無しさんは理解してもらえないと思います。けれども、たまたまこのスレッドを読んだ人の中に、ああ、そういう考えもあるのか、と思ってもらえたらありがたいと思います。
もちろん、名無しさんにも通じる言葉で話すべきですし、壁を壊す努力をすべきです。そうしようと私なりに試みてはいます。
意味の通じている人からは馬鹿にされないと思います。
51ニセその他:2000/08/18(金) 19:56
つづき
こういうスレッドを立てました。

真光のスレッドに
>因縁というのは前世の話しになりますが、前世や、
>先祖が人を殺したとかそこまで極端じゃなくても、
>人を虐めたというような人は今世で殺されたり虐められたりする。
>児童虐待はこれに入りますね。
>その子供が前世で自分の子供に同じようなことをしたので、とか。
とある。虐待されたのは前世で悪いことをしたからだというのだ。
幸福の科学の信者も同じことを言っているので驚いた。
他にもこんなバカなことを平気で教える宗教があるのでしょうか。

それに対して
>>老人の膝が痛いのも因果応報なのだろうか。
>これも因果ですよ。過去世を考慮しなければ因果は語れませんよ
といった書き込みもあります。
>話し手と聞き手とで共通化しておかないと話は通じないですよ
その通りと思いますが、
52残念ですね・・・:2000/08/18(金) 20:04
  渡海 難 さんの叫びは坊さんに届かない。届かない。坊さんの声は 渡海 難 さんに届かない。届かない。
 声をからしても届かない。届かない。  (-_-;)

 釈迦如来隠れましまして 二千余年になり給う 正像の二時は終わりにき 如来の遺弟悲泣せよ
 末法五濁の有情の 行証かなわぬ時なれば 釈迦の遺法尽く 竜宮に入り給いにき
 正像末の三時には 弥陀の本願広まれり 像季末法のこの世には 諸善竜宮に入り給う
 大集経に説きたまう この世は第五の五百年 闘諍堅固なる故に 白法隠滞したまへり

宗教的な見解はさておき、47の 渡海 難 氏の発言には信仰者としての
「誠実さ」を、読み取りました。このあたりがおそらく貴方の
「素顔」というか、「地の部分」なのでしょうね。

48 名前: ¥5さま 投稿日: 2000/08/18(金) 18:49

> 47

申し訳ありませんが、無視します。

情けない・・・・・(ふ)
53ニセその他:2000/08/18(金) 20:09
51の最後が切れていたので。

その通りと思いますが、因縁、バチが当たる、因果応報、その他の言葉の意味が共有できないのです。
54名無しさん@1周年:2000/08/18(金) 20:11
>50
時には霊魂がないといい、時には霊魂があるといい
勝手なもんだね。坊主の話は。
55渡海 難:2000/08/18(金) 21:00
八月十五日のNo4が壊れたそうなので2つに分けてもう一度入れます。
<その一>
>自称僧侶で自分で営業し 顧客をつかんで経を上げ金銭を貰っても良い訳ですよね。同じスケベでしたら僧侶も一般人も変わりないとの事ですし。

 いいじゃろう。顧客をつかんで経を上げ金銭を貰って何か支障がありますか?
 僧侶と一般人の違いはどこにあるか。頭をそってない。僧服を着ていない。こういう違いがある。大きな違いじゃ。

 「私はきのう僧侶宣言しました。宗派とは関係ありません。お宅のご主人の葬儀を執行させてください」と言って、果たして需要があるかは知らんぞ。頼まれもしないのに、相手方の家に乗り込んでいって読経を始めれば、家宅侵入罪で逮捕されようぞ。
 ただ、大谷派に属してないのに「大谷派僧侶」を名乗ったり、本願寺派に属してないのに「本願寺派僧侶」を名乗り、布施を受領すれば仮にそれが事実上の葬儀執行料であっても詐偽罪になる(刑法246条)。遺族との葬儀契約は取り消される(民法96条)。単立寺院の僧を名乗っていれば、これは問題にはならんじゃろ。
 僧とは何か。現代では頭を丸め、僧服をまとった人いう意味じゃ。ろくに経も読めず、家族だけは一人前に妻をめとり、子供の手を引いて酒屋から酒屋にはしごするような輩でも、僧は僧。頭を丸め、僧服をまとっておれば尊いんじゃぞ。なぜ僧は尊いのか、頭を丸め、僧服をまとっておるから尊い。僧服だって、色は何でもいい。黒でなく、黄色でなくとも、白でもいいんじゃ。真宗の僧は頭を剃らん。これはどうじゃと言われたらこちらも言葉に窮する。まあ、得度の時は頭を剃るからいいことにしよう。
 頭を丸め、僧服をまとっておればなぜ尊いのか。理由は簡単じゃ。僧は、頭を丸めて僧服を着なさいよ。お釈迦様がお弟子さんにそうおっしゃった。頭を丸め、僧服をまとっておる僧は、お釈迦様のその言いつけを守っておる。だから尊い。
56ニセその他:2000/08/18(金) 21:01
仏陀について
以前にも引用したのですが、中村元「仏教語大辞典」の「ブッダ」の項です。
「覚めた人。さとれる者。もとは、釈尊をゴータマ・ブッダと称した呼称であったが、後には広くさとった人一般に用いられるようになった。大乗仏教では、もろもろの命の根源としての永遠な、無量の命のことをいい、この命を自分の命として生きる者をまたブッタとよんでいる。すなわち、もとは真理に目覚めた人一般をさしたものが、大乗仏教では阿弥陀仏・薬師仏などのように多数の仏が立てられている」
「大乗仏教では、もろもろの命の根源としての永遠な、無量の命のことをいい、この命を自分の命として生きる者をまたブッタとよんでいる。」
ここで書かれている命、そのはたらきを仏というのだと思います。
そのはたらきにおばあさんを通してうなずけば、おばあさんを仏として手を合わすことになるでしょう。35や42にはそのはたらきに気づかないわけですから、おばあさんは35や42にとって仏とは言えない。
57渡海 難:2000/08/18(金) 21:01
八月十五日のNo4が壊れたそうなので2つに分けてもう一度入れます。
<その二>
 頭を丸めて僧服をまとっておればそれだけで尊いというと、反発する人は多いじゃろう。頭を丸めて僧服さえまとえば、人を殺してもいいのか。物を盗んでもいいのか。そう聞く奴がおる。馬鹿なことを言うもんじゃない。人を殺したり物を盗めば、社会が許さんじゃろう。坊さんだからといって無罪放免になるもんじゃない。僧でも社会的な指弾を受ける。これは必要じゃ。ただし、社会的な指弾を受ければそれでいい。社会的な指弾を受けた者を、仏教では重ねて宗教的に指弾を浴びせることはしないということじゃ。
 頭を丸めて僧服さえまとえば、勉強もしないでもいいのか。馬鹿なことを言うもんじゃない。坊さんが仏教の勉強をしなければ、一般社会が坊さんとして相手にしてくれない。ただ、一般社会が相手にしないからと言って、仏教ではその僧を重ねて宗教的に指弾を浴びせることはしないんじゃ。
 坊さんは、頭を丸めて僧服さえまとっておれば、それだけで尊い。馬鹿でもちょんでも尊いんじゃ。昔は無論、そうじゃなかった。昔は厳格な規律があった。戒律という。坊さんは戒律を守ることで社会の尊敬を受けた。しかし、戒律は社会の価値観に根ざす。三千年昔の南国の価値観が、そのまま三千年後の北国で妥当するとは限らん。校則を変えることが出来るのは教師であって、生徒ではない。釈迦の時代、先生がインドで作った戒律を、現代の日本で守れと言っても、これは無理な話じゃろう。
 ただ、戒律でも、守れる戒律と守れない戒律がある。頭を丸め、僧服をまとうということは出来る。それができるなら、出来る範囲で最善を尽くすがいい。釈迦が決めた法であれば、出来る範囲で最善を尽くすのが尊い。だから頭を丸めて僧服をまとっておれば、それだけで尊いんじゃ。
58ニセその他:2000/08/18(金) 21:02
また長いお説教です。
知らない女性(おそらく40代)から電話をもらいました。その人のお母さんが死んだことについての質問です。
その人の両親はその人が小さい頃に離婚し、それ以来、母親には一度もあったことはないし、会いたいと思ったこともなかったそうです。母親の記憶もないそうです。親戚の話ではあまりいい母親ではなかったとのことです。
ところが母親が死んだという電話が東京郊外の市からかかってきました。なんでも、お母さんは生活保護を受けており、連絡先を娘(電話してきた人)のところにしていたそうです。
ほっておいても別にかまわないわけです。母親の思い出なんか全くないし、戸籍も別だし。
しかし、どうしようかと思ったが、東京まで行き火葬場で立ち会ったそうです。その時にお骨はどうされますかと聞かれ、そちらでよろしくお願いします、と答えたそうです。
家に帰ってどうも気になる。お骨はないわけだから墓を建てるわけにもいかないし、どうしたものでしょうか、という電話だったわけです。
そこで私が、供養して差し上げましょうと言えば、その人も楽になる。しかし私はそんなことは言いたくなかったのです。
私は、死んだ人はまわりの人に宿題、あるいは贈り物を残して死んでいくんだと思っています。死んだ人が実際に宿題や贈り物を残していたということではありません。人が死ぬことによって、まわりの人はいろんなことを考えざるを得ません。いろんな考えが次々と浮かびます。それは亡くなった人から何らかのものを心に受け取ったことです。
それは人によって違います。気づかない人もいるし、面倒なのでほっておいたり忘れようとしたりする人もいます。
電話してきた人はお母さんの宿題、贈り物がどうも心にひっかかり、私のところへ電話したのでしょう。それはお母さんが死んだときの連絡先を娘のところにしたということが大きいでしょう。お母さんにとってそれは深い意味があったかどうかはわかりません。しかし、電話してきた人はお母さんの死を知り、火葬場で立ち会い、家に帰って悩んだ。
それを供養することでないものとするのではあまりにも安易だと思います。
お母さんの残した宿題をきちんと受けとめ、それにどう答えるかが、その人の今後の課題となるわけです。
その人もしんどいですねと言っていました。その後どうなったかは知りません。
59¥5さま:2000/08/18(金) 21:09
>>49

名無しのゴンベィ (権兵衛)さん

位牌というのは、字義のとおり位の牌(フダ)で、古代中国の儒教の習慣で、故人の生存中
の官位と姓名を書き記した木札をいいます。
死者の霊が、生前の肩書きをつけたまま1枚の板の中にとどまっていると考えて、それを
うやうやしく拝礼していたようです。
その位牌が日本に渡ってきて先祖崇拝と結びつき、仏教にも転用されるようになったもの
で、本来仏教にはないものでした。
日本で位牌が一般化したのは、鎌倉時代以降とくに江戸時代ではないかと推定されていま
す。
位牌の広がりとともに、位牌に魂が宿るという迷信が一般化し、位牌は先祖そのものだと
みなしている人もいるようです。
浄土真宗で位牌を用いないのは、位牌が仏教の教えにそぐわない霊魂観にもとづくものだ
からです。
しかし、位牌を用いないからといって、先祖を粗末にしているのではなく、「法名」を記
した「法名軸」や「過去帳」を仏壇(お内仏)に配置して故人をしのび、ご恩に対して感謝
の念を深めます。

盆提灯は私の地方にもありません。
盆灯篭はあります。

とりあえず
60ニセその他:2000/08/18(金) 21:19
>名無しのゴンベィさん
真宗ではお盆には盆提灯ではなくて切籠灯籠(きりことうろう)を用います。
といっても、おそらく地方によって異なると思います。
私の地方ではまず切籠灯籠は用いません。なにせ私の寺にもありません。盆提灯を使う家が多いです。しかしこれが昔からの習慣かどうかは疑問です。

位牌は真宗では用いません。法名軸もしくは過去帳を使います。
しかし、これも地方によって異なっており、京都では位牌を使うそうです。私の地方では箱位牌、くりだし、というものを用いている家が多いです。
位牌を使うのは中国の習慣からきているようです。中国では死んだら肉体は墓に、精神的要素、つまり霊は位牌に宿るという考えをしていたそうで、それが日本でも受け伝えられているのでしょう。
本尊よりも位牌の方を大切にする人がいますが、それは祖霊信仰、位牌に宿った先祖の霊を守るという信仰のためだと思います。
もちろんこんなことは真宗では言いません。真宗で位牌を使わないのは、つい我々は本尊よりも位牌、つまり死んだ人を拝んでしまうから、というのも理由の一つでしょう。
61残念ですね・・・:2000/08/18(金) 22:18
56、ニセその他

懇切丁寧なるお教え、まことに有難う御座います。
さて質問ですが、

>「覚めた人。さとれる者。もとは、釈尊をゴータマ・ブッダと称した
呼称であったが、後には広くさとった人一般に用いられるようになった
。大乗仏教では、もろもろの命の根源としての永遠な、無量の命のこと
をいい、この命を自分の命として生きる者をまたブッタとよんでいる。
すなわち、もとは真理に目覚めた人一般をさしたものが、大乗仏教では
阿弥陀仏・薬師仏などのように多数の仏が立てられている」

阿弥陀仏・薬師仏などの多数の仏は歴史上実在されたかたなとでしょうか?
実在されたとすれば、考古学的な資料は現存するのでしょうか?
実在されていないのだとすれば、

いつ頃の時代の、
誰が、
どのようにして、

それらの阿弥陀仏・薬師仏などのように多数の仏の存在を認識されたのでしょうか?

62 名無しさん:2000/08/18(金) 22:25
>「覚めた人。さとれる者。もとは、釈尊をゴータマ・ブッダと称した
呼称であったが、後には広くさとった人一般に用いられるようになった

とのことですが、
「広くさとった人一般」とは、誰と誰と誰を指すのでしょうかねえ?

甚だ曖昧模瑚として、イメージが沸かないのですが、よろしければ
具体的な名前を挙げてください。

63 名無しさん:2000/08/18(金) 22:36
>大乗仏教では、もろもろの命の根源としての永遠な、無量の命のこと
をいい、この命を自分の命として生きる者をまたブッタとよんでいる。

とのことですが、
>この命を自分の命として生きる

というフレーズも非常に抽象的で、わかりずらい。もう少し具体的に
説明していただけませんか?それによって万人が

>この命を自分の命として生きる者をまたブッタ

と呼ばれるような存在と成り得る道が開かれるかもしれません(笑)
64 名無しさん@1周年:2000/08/18(金) 22:41
で、結局のところ、お婆さんはブッダなの?
それともどなたかが言ったように、
「ブッダになったお婆さん」式の
昔からよくある真宗お得意のお伽話の現代板??
そこんとこ、どうなのよ???
65 名無しさん:2000/08/18(金) 22:57
>そのはたらきにおばあさんを通してうなずけば、おばあさんを仏とし
て手を合わすことになるでしょう。35や42にはそのはたらきに気づ
かないわけですから、おばあさんは35や42にとって仏とは言えない。

真宗坊主は話のすり替え、逆質問で2ちゃんユーザーからさんざん批判を受けて
いるのですから、そのはたらきに2ちゃんユーザーを通してうなずけば
、2ちゃんユーザーを仏として手を合わすことになるでしょう。47や
56にはそのはたらきに気づかないわけですから、2ちゃんユーザーは
47や56にとって仏とは言えない。(激笑ッッッッッ!!!!!)
66名無しさん仲間:2000/08/18(金) 23:54
>61@`62@`63@`64@`65

皆さん通りすがりや単なる煽りではなく、じっくり浄土真宗について学びましょうね。
皆さん、五つ子ちゃんかと思うほど同じレスですよ。
ちゃんとした自分の意見として、異論・反論・質問をしましょうね。
67名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 00:05
礼儀正しく学んで帰って来なさい。
68>66:2000/08/19(土) 10:37
お得意の逃げ口上はもう聞き飽きた、さっさと質問に答えてやりなさいよ。
このスレッドにおいては貴方の発言は負け犬の遠吠えでしかありません。

ねえ、浄土真宗のご住職、、、(笑)
69名無しのゴンベィ:2000/08/19(土) 10:48
59¥5さま
60ニセその他さんへ

盆提灯と位牌の件に関しまして、ご返答有り難うございました。
私は浄土宗の檀家ですが、盆提灯の習慣で、京都の葬式では、
参道に、緑一色のシキミでしたか、(名称不明です)を並べ
東京では色とりどりの開店祝いのような花輪を参道に
並べていた記憶がある点で、盆提灯も関連している地域性かと
思いました。上記の件、記憶違いだったら申し訳ないです。
位牌の件に関し、他、日本で現在でも中国の慣習が
方位や大安吉日等残っているような気がしました。
私は、霊や霊魂と言う意識は持っていませんが、要するに
今の自分や家族が生きているのは、先祖がいたから
私は存在している。感謝しろ!でなく、今の私の生きている
道をしっかり、がんばりぃやと自己への励ましのように
とらえる事は、我流ですか。其処に浄土宗の檀家なんだから
沢山の此処の掲示板の意見のように宗教の本質を捉えろと言う気持ち
には、到りません。一般教養として浄土宗と浄土真宗の違いが
分かる程度だなと感じました。一般の檀家の気持ちとは、こんなもんで
良いのでしょうか。先祖の祟りを浄土宗の住職から聞いたことは
ありませんでしたし、拝むと言うことは仏像の両脇の位牌のみ拝むと
言う感じは無く、唯、中央の仏像と一緒に位牌も
一緒にして拝んでいる感覚があります。
無碍の一道と言う言葉は、親鸞聖人の言葉でしたでしょうか?確か
文頭、文末に語句が入るかと記憶していますが、
とても良い言葉で、とても、厳しい言葉であるなあと感じています。
70 名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 11:07
そもそも
>:名無しさん仲間
なんてとぼけたハンドルつけてるけど、
「信仰宗教ベスト10」のスレッド、まともの読んでないんじゃないの?
浄土真宗系に対する投票が、どれだけのものか。
458 名前:名無しさん@1周年投稿日:2000/08/15(火) 17:39
こうしてみると仏教とりわけ真宗関係が多いなぁ〜
社会悪なのはむしろ仏教なのかもな〜

471 名前:名無しさん@1周年投稿日:2000/08/16(水) 18:39
お東さん紛争の結果、大谷派から分裂した東本願寺派に一票。

496 名前:>490投稿日:2000/08/19(土) 02:32
華光会−親鸞会−一の会 と、続くこの系統は全て妖しいな。
(浄土系全部妖しいけど)


71 名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 11:15
そういうと、
「いや、我々はあんな連中とは違う、正統な教団です」と
くるんだろうな。だが、いままでの真宗僧侶のこのスレッドの
質問に対するリアクションを見て、世間はそれをどう評価するか。

「まあ、同じようなもんだろう」というのが、妥当なんじゃないですかねえ?(笑)
72その他:2000/08/19(土) 11:17
その他さんたちは、同じことばかりレス付けまくっているけど、
少しも矛盾をつく批判になっていないと感じる。
単なるストーカー的な嫌がらせとしか思えない。
73 名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 11:24
↑この程度の質問にも答えられないほど、浄土真宗の教義は
現在、混乱しているのですか(笑)
74 名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 11:31
浄土真宗のお坊様から納得のいくお答えがいただけるまで、
何回でも同じ質問をさせていただきます。

懇切丁寧なるお教え、まことに有難う御座います。
さて質問ですが、

>「覚めた人。さとれる者。もとは、釈尊をゴータマ・ブッダと称した
呼称であったが、後には広くさとった人一般に用いられるようになった
。大乗仏教では、もろもろの命の根源としての永遠な、無量の命のこと
をいい、この命を自分の命として生きる者をまたブッタとよんでいる。
すなわち、もとは真理に目覚めた人一般をさしたものが、大乗仏教では
阿弥陀仏・薬師仏などのように多数の仏が立てられている」

阿弥陀仏・薬師仏などの多数の仏は歴史上実在されたかたなとでしょうか?
実在されたとすれば、考古学的な資料は現存するのでしょうか?
実在されていないのだとすれば、

いつ頃の時代の、
誰が、
どのようにして、

それらの阿弥陀仏・薬師仏などのように多数の仏の存在を認識されたのでしょうか?

75 名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 11:34
浄土真宗のお坊様から納得のいくお答えがいただけるまで、
何回でも同じ質問をさせていただきます。

懇切丁寧なるお教え、まことに有難う御座います。
さて質問ですが、

>「覚めた人。さとれる者。もとは、釈尊をゴータマ・ブッダと称した
呼称であったが、後には広くさとった人一般に用いられるようになった

とのことですが、
「広くさとった人一般」とは、誰と誰と誰を指すのでしょうかねえ?

甚だ曖昧模瑚として、イメージが沸かないのですが、よろしければ
具体的な名前を挙げてください。

76 名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 11:36
浄土真宗のお坊様から納得のいくお答えがいただけるまで、
何回でも同じ質問をさせていただきます。

懇切丁寧なるお教え、まことに有難う御座います。
さて質問ですが、

>大乗仏教では、もろもろの命の根源としての永遠な、無量の命のこと
をいい、この命を自分の命として生きる者をまたブッタとよんでいる。

とのことですが、
>この命を自分の命として生きる

というフレーズも非常に抽象的で、わかりずらい。もう少し具体的に
説明していただけませんか?それによって万人が

>この命を自分の命として生きる者をまたブッタ

と呼ばれるような存在と成り得る道が開かれるかもしれません(笑)
77 名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 11:38
浄土真宗のお坊様から納得のいくお答えがいただけるまで、
何回でも同じ質問をさせていただきます。

懇切丁寧なるお教え、まことに有難う御座います。
さて質問ですが、

> で、結局のところ、お婆さんはブッダなの?
それともどなたかが言ったように、
「ブッダになったお婆さん」式の
昔からよくある真宗お得意のお伽話の現代板??
そこんとこ、どうなのよ???
78 名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 11:47
浄土真宗のお坊様から納得のいくお答えがいただけるまで、
何回でも同じ質問をさせていただきます。

懇切丁寧なるお教え、まことに有難う御座います。
さて質問ですが、

>そのはたらきにおばあさんを通してうなずけば、おばあさんを仏とし
て手を合わすことになるでしょう。35や42にはそのはたらきに気づ
かないわけですから、おばあさんは35や42にとって仏とは言えない。

>真宗坊主は話のすり替え、逆質問で2ちゃんユーザーからさんざん批判を受けて
いるのですから、そのはたらきに2ちゃんユーザーを通してうなずけば
、2ちゃんユーザーを仏として手を合わすことになるでしょう。47や
56にはそのはたらきに気づかないわけですから、2ちゃんユーザーは
47や56にとって仏とは言えない。(激笑ッッッッッ!!!!!)

47さんや56さんは
>2ちゃんユーザーを仏として手を合わすこと
ができますか?

それができていれば、66や67のレスはまた違ったものになるでしょう。
出来ていないから、平気で

> 47

申し訳ありませんが、無視します。

などという発言をして、少しも恥じるところが無い・・・。

貴方達のこのスレッドでのお説教は、なんの説得力もありません。
79傍目:2000/08/19(土) 12:51
>74〜78
そんなに、かまって欲しければ、スレッドをコピペして
プリントアウトして
近くの真宗寺院の住職に読んで貰って、
実際に質問しに行けば、どう?
その後で、レポート書きな。
80名無しさん:2000/08/19(土) 12:52
↑ 質問して不充分な答えだと「へんだなあ」と
みんなわかるわけで、それはそれで、ちょっと
指摘するくらいで流すほうが、かっこいいと思う
けどね。
81¥5さま:2000/08/19(土) 12:59
「仏陀(ブッダ)」というのは「ブッダ」の音写語(意味ではなく発音を
漢字にあてはめた翻訳)で、「さとった人」を意味し、「覚者(カクシャ)」
とも漢訳されています。
お釈迦様のみを指す固有名詞は、「釈迦牟尼」「釈尊」「ゴータマブ
ッダ」あたりが適当だと思われ、誰であれ、さとった人はみな「ブッ
ダ」です。

で、仏教では、悟りを開いた覚者はゴータマブッダのみではないと教えま
す。
これは釈尊の教えから必然的に導き出されてくる論理的な帰結で、
釈尊が説いたように、
「渇愛を滅して業の連鎖を断ち切れば解脱できる」なら、
だれでも修行しだいで仏にならなければおかしいのです。

釈迦仏以外にも多数の仏が存在するという信仰は、ジャータカなどに
見られる過去仏に端的に表現されています。
毘婆尸仏(ビバシブツ)、尸棄仏(シキブツ)、毘舎浮仏(ビシャブブツ)など過去
六仏に対する信仰は古く、
「長阿含経」に記されている毘婆尸仏(ビバシブツ)の伝は、ゴータマ・
シーダールタの伝記とそっくりなことで有名です。

取り敢えず。
82>79:2000/08/19(土) 13:02
この場での議論、というか2ちゃんねるの存在意義自体を否定するような
発言ですね。あんた今後一切書きこみやめなさい。
83名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 13:10
>>72
「名無しさん」をコピーしたつもりだったのに、「その他」をコピーしてしまったようです。
その他さんごめんなさい。

84 名無しさん:2000/08/19(土) 13:16
81、¥5さま

>「渇愛を滅して業の連鎖を断ち切れば解脱できる」なら、
だれでも修行しだいで仏にならなければおかしいのです。

おかしいかおかしくないかは知りませんが、(笑)

さて質問ですが、くだんのお婆さんは

>「渇愛を滅して業の連鎖を断ち切れば解脱できる」

という存在、つまりブッダになったのでしょうか?
85¥5さま:2000/08/19(土) 13:46
>>69

> 今の自分や家族が生きているのは、先祖がいたから私は存在している。
> 感謝しろ!でなく、今の私の生きている道をしっかり、がんばりぃやと自
> 己への励ましのようにとらえる事は、我流ですか。

ご先祖が「感謝しろ!」なんて押しつけがましい要求はしないでしょう。
私が、ご先祖の生命を受け継いで生まれさせていただき、育てていただいて、
生かさせていただいていることに感謝せずにはおれないのでしょう。
で、感謝をしたら、私がどうすることがご先祖のご恩に報いる=恩返しにな
るか、供養になるかということになるのでしょうが、
私を生みだし、育ててくださった願いに応えた生き方をしていくことが、親
(ご先祖)のご恩に報いるということだろうと考えます。
「力一杯生きよ、一生懸命生きてくれ」というのがご先祖の願いではないで
しょうか。
「お前はそれでいいのか、それがお前の生きる道か?」と、私は常に問われ
ているのではないでしょうか。
あなたの言葉でいうと、“がんばりぃや”と常に励ませれているのでしょう。
先祖供養というと、先祖の冥土の幸福を願うことのように思いがちですが、
先祖から心配されている私なのだと思います。
お盆や彼岸、法事のお参りは、ご先祖のご恩に対する感謝の念を新たにし、
私たちが日ごろ忘れてしまいがちな“がんばりぃや”という親(ご先祖)の励
ましを思い出す行事ではないかと思います。
「南無阿弥陀仏」ということばには、「ありがとう」という感謝に、「一生
懸命生かさせていただきます」という決意表明も込められているのではない
かと思います。

非難轟々覚悟で・・・。
86¥5さま:2000/08/19(土) 13:52
>84

おばあさんの話しにまで私が横レスを付けるのは行き過ぎ(失礼)かと思いますので、
例を出された方の答えを待って下さい。

87名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 14:23
>72 ストカー的気質の書き込み多し。同意。

>84も他 質問君は、くだんのお婆さん件他色々レス待ちだけどさあ、
待てないのかな。何故そんなに急ぐのか?
インターネットの時代じゃぁと、そろそろ、海から渡ってくる方が
僧侶以外のレス付けまくりになるかもね。
88名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 16:04
小さなリンク集です。各サイトで、お尋ねするも良し。
2chのみに、拘るも良し。現実の寺院へ行くのも良し。

ttp://www.jtvan.co.jp/link/A0005.html
89名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 16:19
夜の街 そこどけそこどけ 坊主が通る
90ニセその他:2000/08/19(土) 18:18
>61
>阿弥陀仏・薬師仏などの多数の仏は歴史上実在されたかたなとでしょうか?
ご存じのように歴史上実在された方ではありません。
>62
具体的な名前は知りません。
>63
>万人が
>>この命を自分の命として生きる者をまたブッタ
>と呼ばれるような存在と成り得る道が開かれるかもしれません(笑)
わたしはこの(笑)の意味がよくわからないのですが。教えて下さい。
>78
>>2ちゃんユーザーを仏として手を合わすことができますか?
正直なところ一部の名無しさんにはいささかイライラします。豆腐の角に頭をぶつけて死ねという気持ちになることもあります。
でも確かに大切な質問です。きちんと答えるべきですし、いささか長文になるでしょうから、明日のお楽しみにして下さい。

>名無しのゴンベィさんへ
無碍の一道と言う言葉は『歎異抄』第7章に出てきます。
「念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々」
浄土宗と浄土真宗の違いを言えば、往生はいつかという点です。もっとも浄土宗の中でもいろんな教えがあるので一概には言えませんが。
91>90 名前: ニセその他 :2000/08/19(土) 19:19
クソ坊主 今日も檀家の 死人待ち
92ニセその他:2000/08/19(土) 20:53
>62
>「広くさとった人一般」とは、誰と誰と誰を指すのでしょうかねえ?
もっともな質問だと思います。私もその疑問を持ちました。
仏教とは仏になるための教えです。釈尊の説かれた教えに従って行をすれば仏になれるはずです。では仏になった人がいるのでしょうか。
釈尊の仏弟子としては舎利弗や目蓮が有名です。では彼ら仏弟子の悟りと釈尊の悟りとは同じものでしょうか。
釈尊の仏弟子たちは阿羅漢という境地に達したとされています。阿羅漢とは本来は仏と同じ意味なのですが、釈尊入滅後しばらくして釈尊を特別視、神聖視する中で、阿羅漢は釈尊を除いて仏ではないとする考えが広まったそうです。つまり舎利弗さえも釈尊と同じ悟りではない、仏陀ではないとされたわけです。
竜樹や世親も有名です。しかし彼らは菩薩とは呼ばれても仏になったとか涅槃に入ったなどとは言われません。
ということならば、約2500年の仏教の歴史の中で仏になったのは釈尊だけということになります。そういうことなら、仏になるための教えとしての仏教なのに、誰も仏になれないということで、仏教は仏になるための教えではないと言わなければならないことになります。
つづく
93渡海 難:2000/08/19(土) 22:48
50さんへ
>真宗の価値観と普通の人の価値観というか常識は違うんだなということに納得しました。

 そうですか。私は最近思うんですよ。親鸞聖人の価値観と普通の人の価値観というか常識は、実に親和性があるんだなーと。なーんだ、親鸞聖人ってのはこんなことを思っていたのかって思うんですよ。
 貴方の書き込みを見て、真宗の価値観と親鸞聖人の価値観というか常識は違うんだなということに納得しました。この両者の壁はすごく高く強いものだと思います。

>仏とか霊魂とかいくらいってもおそらく多くの名無しさんは理解してもらえないと思います。

 私も理解できません。親鸞聖人だって仏とか霊魂とかいくらいっても理解できないかも知れませんね。
 「古は人死と名づく、帰人とす。<中略>形あるいは人に似たり、あるいは獣等のごとし。心正直ならざれば、名づけて「諂誑」とす、と。
 こんなことを言う人には、貴方の霊魂観などちんぷんかんぷんかも知れませんね。

>ああ、そういう考えもあるのか、と思ってもらえたらありがたいと思います。
     なるほど。

>名無しさんにも通じる言葉で話すべきですし、壁を壊す努力をすべきです。

 親鸞聖人にも通じる言葉で話すべきではありませんか。親鸞聖人との壁を壊す努力もすべきでしょうね。そうすれば、意味の通じている人からは馬鹿にされないでしょう。


>因縁、バチが当たる、因果応報、その他の言葉の意味が共有できないのです。

 浄土真宗などをいい加減にかじった連中が自分に都合良く小細工した概念でしょう。浄土真宗の恥部にあたる概念を出発点としてるように私は思います。私にはこういう言葉の意味は、共感できませんが、とてもよく理解はできる感じがしますよ。
94渡海 難:2000/08/19(土) 22:49
58さんへ
>その人の今後の課題となるわけです。その人もしんどいですねと言っていました。その後どうなったかは知りません。
     他人の課題はよく見えるようですね。貴方は自分への課題は無いのですか。
95渡海 難:2000/08/19(土) 22:50
81さんへ

>さとった人はみな「ブッダ」です

「ああ、わしゃ本当に愚か者じゃ。悟りなど爪の垢ほどもない。恥ずかしいばかりの愚か者じゃ。地獄行きの愚か者じゃ」と涙を流しながら認識された方はブッダなのでしょうか。ブッダではないのでしょうか。
「悲しきかな、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。」と認識した方はブッダなのでしょうか。ブッダではないのでしょうか。
 釈尊の教えから必然的に導き出してみてください。
96渡海 難:2000/08/19(土) 22:51
85
>ご先祖が「感謝しろ!」なんて押しつけがましい要求はしないでしょう。
>先祖から心配されている私なのだと思います。

ご先祖様は仏様なのでしょうか
97渡海 難:2000/08/19(土) 22:52
92さんへ
>舎利弗さえも釈尊と同じ悟りではない、仏陀ではないとされたわけです。
> しかし彼らは菩薩とは呼ばれても仏になったとか涅槃に入ったなどとは言われません。>約2500年の仏教の歴史の中で仏になったのは釈尊だけということになります。

「もとは、釈尊をゴータマ・ブッダと称した呼称であったが、後には広くさとった人一般に用いられるようになった。」
 確認します。これは間違いであるということですね。仏教学上では間違った意見を表明していると貴方は思っている内容の本を、貴方は引用したのですね。
「大乗仏教では、もろもろの命の根源としての永遠な、無量の命のことをいい、この命を自分の命として生きる者をまたブッタとよんでいる。」
 これもまた嘘だという事でいいですか。
98名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 23:57
92さんへ
>釈尊の仏弟子たちは阿羅漢という境地に達したとされています。
>阿羅漢とは本来は仏と同じ意味なのですが、釈尊入滅後しばらくして釈尊を特別視、
>神聖視する中で、阿羅漢は釈尊を除いて仏ではないとする考えが広まったそうです。
>つまり舎利弗さえも釈尊と同じ悟りではない、仏陀ではないとされたわけです。

これについては、釈尊と同じ境地(=阿羅漢果)を得た弟子たちが、師匠の釈尊を敬う気持ちから、
自分たちをへりくだり、仏と阿羅漢とは別物と、本来同じ物を区別してしまった事が始まりとされています。
このことは、弟子が師匠を敬うと言う事で、非難される事ではないでしょう。
しかし、後になって、この自主区別が客観事実として扱われ、仏陀の弟子は決して仏陀の境地には到達できないのだ、
と曲解されてしまうのは、悲しい事ではあります。
99¥5さま:2000/08/20(日) 00:09
>>95 >>96 渡海 難さん

あなたはどのように思われますか?
100名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 00:18
どうも悟りを得るのは楽しい事ではなさそうだな。
人生を悟りだけにかけるわけにはいかんな。
101渡海 難:2000/08/20(日) 07:16
99さんへ
 私のあさはかな考えで考えれば、決してブッダではない。
 あなたはどのように思われますか?
 
102渡海 難:2000/08/20(日) 07:35
98さんへ
 観音菩薩様は、ブッダなのでしょうか。ブッダではないのでしょうか。
 弥勒菩薩様は、ブッダなのでしょうか。ブッダではないのでしょうか。
 弥勒に同じと言われような方は、ブッダなのでしょうか。ブッダではないのでしょうか。
 弥勒に同じと言われような方をブッダではないというのは曲解である。あなたはこのように思いますか?
103渡海 難:2000/08/20(日) 09:08
81さんへ
>誰であれ、さとった人はみな「ブッダ」です。
>釈迦仏以外にも多数の仏が存在するという信仰は、ジャータカなどに見られる過去仏に端的に表現されています。

今大医あり、「富闌那」と名づく。
いま大師あり、「末伽梨拘シャ梨子」と名づく。
いま大師あり、「刪闍邪毘羅胝子」と名づく。
いま大師あり。「迦羅鳩駄迦旃延」と名づく。
いま大師あり。「阿耆多翅舎欽婆羅」と名づく。
いま大師あり、「尼乾陀若提子」と名づく。
 釈迦仏以外にも多くのお弟子さんを持っていた優れた多数の指導者がいたことは、涅槃経に端的に表現されているそうです。この人々はブッダなのでしょうか。ブッダではないのでしょうか。
 貴方の場合、ジャータカは、実話だと思いますか。史実だと思いますか。涅槃経に登場する釈迦仏以外の優れた多数の指導者達の存在は作り話だと思いますか。史実だと思いますか。
104¥5さま:2000/08/20(日) 09:11
>101 渡海 難さん

渡海さんに一つお願いなのですが、コテハンのあるカキコに対するレスには面倒でもコテ
ハンを付けて貰えませんか?
レスナンバーだけでは自分に向けられた発言かどうかわかりにくいことがあります。

> 決してブッダではない。

と断定できないと思います。

>>95

一言で言い切ってしまえば、
「我執から自分を解放すれば、“苦”から抜け出ることができる」
というのが悟りの内容でしょう。
我執(迷い)をふっきることができたかできないかは分かりませんが、
ふっきるべき我執(自己)がはっきりと見えたということばでしょうから、
私からみれば限りなくさとりに近づいた方ではないかと思います。
“迷いをふっきれない”と告白されていますから、ことばをそのまま読ませて貰えば、
さとりを得た仏陀とはなられていないのでしょう。
しかし、さとられたかもしれないという可能性は私には否定できません。

叱られるかもしれませんが、
私には、ブッダとなられたかもしれないし、ブッダとなられなかったかもしれないとしか
いえません。

しかし、もう一つ屁理屈をいえば、
ブッダとなられたのなら、「念仏者」となる必要がないのですから、念仏者であるという
条件が加われば、ブッダではないと言い切れるのかもしれません。
でも、
念仏による回心・安心と、悟りの涅槃の境地と、どう違うんだと問われれば、また悩まな
ければなりません。

また、それでプロかという渡海さんのことばが見えるようです。 (;^^)

その他さんの、>92のづづきのレスを待ってみましょう。
105¥5さま:2000/08/20(日) 09:13
それにしても、みなさんどうしてこうも仏陀であるかないかにこだわるのでしょう。
106¥5さま:2000/08/20(日) 09:22
>>103

申し訳ありませんが、
私には渡海さんの質問の趣旨が理解できないので、お返事できません。

取り敢えず、無視します。
107渡海 難:2000/08/20(日) 09:26
五濁増の徴には この世の道俗尽く 外儀は仏教の姿にて 内心外道を帰敬せり
悲しき哉や道俗の 良時吉日選ばしめ 天神地祇を崇めつつ 卜占祭祀勤めとす
僧ぞ法師のその御名は 尊き事と聞きしかど 提婆五邪の法に似て 卑しき者に名付けたり
外道梵士尼乾志に 心は変わらぬ者として 如来の法衣を常に着て 一切鬼神を崇むめり
悲しき哉やこの頃の 和国の道俗皆共に 仏教の威儀を基として 天地の鬼神を尊敬す
五濁邪悪の徴には 僧ぞ法師という御名を 奴婢僕使と名付けてぞ 卑しき者と定めたる
無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連に等くて 供養恭敬を勧めしむ
108名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 10:42
我々の指導者となるべき仏陀は、ゴータマブッダのみと
思い定めるべき。1億10億年に一人の他の覚者を想定
しても仕方がない。
宇宙には人の住める星が無数にあるだろうが、我々には
地球しかないのと同じ。しかも、その辺の地球儀を地球だ
というのもまちがい。地球儀とは阿弥陀さんのことだよ。
109名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 10:48
1億10億年に一人の覚者と阿弥陀さんを結びつけるなんて
机の上の地球儀が、はるかかなたの、他の恒星に属する「人の
住める惑星」だと言い張るのと同じ。
恒星と惑星の区別はつきますか?五円さん、渡海さん?
110名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 10:59
恒星と惑星はよーちえんでも知っているよ。保育園は
知らないかな。
111ニセその他:2000/08/20(日) 16:21
涅槃とは煩悩の火が消えた状態、煩悩を滅した状態のことです。しかし人間の身で煩悩をなくすことが本当にできるでしょうか。
釈尊も男だから精子がたまれば夢精をするだろう。その時、釈尊は快感を感じるだろうか、スケベな夢を見るだろうか。
こんなことが釈尊入滅後の原始教団では考えられたのです。
いくら心の束縛、とらわれから解き放たれたにしても、身体がある限り完全とは言えないのではないか。そこで生きているときの涅槃は有余涅槃、死んでからが無余涅槃とされ、無余涅槃が完全な涅槃であるとされました。
死んだら仏になるという考えの元はここかもしれません。
というように、仏教は仏になるための教えなのですが、実際は仏になることは大変むずかしいわけです。出家者でさえそうなのですから、まして在家信者には仏になる望みはないことになります。

釈尊は教えを体系的に説いてはいません。相手と場所に応じて説法をされました。だから矛盾しているようなところもあります。
たとえば無我説と輪廻説です。輪廻を説きながら、一方で輪廻をする主体が何かあるとして、そういったものはない、無我だと否定しているわけです。ミリンダ王が、無我説は輪廻の観念と矛盾するのではないかと質問したのももっともです。
釈尊の真意は何か、何を本当は説かれたかったのか、悟りの内容はなんなのか。後世の人たちは釈尊の言葉の背後にある密意を読みとろうとしたのです。
また仏になることは困難である。在家にとっては不可能と言ってもいい。しかし人々は苦しみ悩みながら生きている。それを放っておいていいわけがない。苦悩の元は何か。苦悩の現実をいかに克服するか。これも当然問題になる事柄です。
112渡海 難:2000/08/20(日) 19:53
106 ¥5さまへ
>質問の趣旨が理解できないので、お返事できません。

 <(_ _)>  申し訳ない (^^;
 僕の立場は、過去六仏は架空の話じゃないかというわけです。過去六仏はブッダであるというのは、桃太郎さん、一寸法師さんは偉大な人だという話と大差ない。僕はそう言いたいわけです (^^ゞ。
 過去六仏が架空なら、モデルになった史実は何かという話になる。過去六仏のモデルは、六師外道でしょ。これが私の問題提起でした(舌足らずで分かりにくかったですね。申し訳ない <(_ _)>)。
 仏とは何かと言う定義は、思想的に一義的じゃありません。立場、立場で様々に異なります。立場が違えば、ある人が仏と呼称した対象が、別の人には仏ではないということになります。(中村元さんの定義もある一つの立場から発しているものです。少なくとも、親鸞仏教とは相容れないものでしょう。ちなみに中村元さんは、浄土真宗の人ではありません)
 釈迦の時代、釈迦以外の六師も仏と呼ばれていたでしょう。私はそう思います。しかし、釈迦の弟子達は釈迦以外を仏と呼びたく無かった。これは謙遜の問題ではない。思想の立場の違いです。
 客観的に多くの人々を指導している外観があれば、外観を指して仏と呼ぶ。これが一般的立場です。一方、自分を直接導いてくれた人だけを、主観的に仏と呼ぶ立場があります。釈迦の弟子達が釈迦以外を仏と呼びたくなかったのは、主観的この立場に発するものでしょう。
 立場はたくさんある。例えば、日蓮も親鸞も法然も仏教の聖者だという立場、親鸞も法然も仏教の聖者だけど、日蓮は嘘つきだという立場、法然だけが仏教の聖者だという立場、立場は様々です。日蓮も親鸞も法然も仏教の聖者だという立場には、さらにキリスト様も宗教的聖者だという人と、キリスト様は宗教的聖者ではないという立場があるでしょう。全て依って立つ思想的立場の違いです。
 より主観客観には広い狭いがあります。主観的な狭い立場に立つ人の場合、より客観的な広い立場に立つ人について、本当のことが分かってないと評価します。より主観的な狭い立場に立つ人は、しばしばより客観的な広い立場に立つ人に主観的真実を知らせようという動きに出ます。主観的な立場に立つ人は、自分たちの主観的な考えこそ、より客観的な真理だと思うからでしょう。過去六仏伝説は、主観的な立場に立つ人が、客観的な立場に立つ人に真実を知らせようという試みの中から出てきたたとえ話の一つでしょう。
 過去六仏伝説は浄土教親鸞仏教の立場と相容れません。早い話が、大無量寿経は阿弥陀仏以前に五十三仏を挙げています。五十三仏伝説は、六仏伝説と別の主観的な立場に立つ人が、客観的な立場に立つ人に主観的真実を知らせようという試みの一つの中からでてきたたとえ話のひとつでしょう。
 親鸞思想と相容れないどのような立場を採ることも自由です。浄土真宗の坊さんだからと言って、なんでもかんでも親鸞万歳である必要はありません。しかし、親鸞思想と相容れない立場を選ぶなら、親鸞思想と相容れない立場を自分は採ることを鮮明にして欲しいと思います。それでないと名無しさんが混乱します。
 思想が違う人と坊さんが違いを越えて話すのはいいですが、原点になっている自分の思想的立場に無知で話しをすれば物笑いになります。宗祖の思想を継承するのか、独自の新説を立てるのか、何れも自由です。「死んだ人は仏様である。死んだおじいちゃんをお参り来ましたよ」。こういうのも悪い話じゃない。でも、依って立つ思想の根拠を突かれてぐらつくんじゃどうしようもない。まして自分の宗祖の思想的立場に無知で、自分の勝手な思想を宗祖になすりつけているんじゃ救いようがないでしょう。
113渡海 難:2000/08/20(日) 19:55
104 ¥5さまへ

>私には、ブッダとなられたかもしれないし、ブッダとなられなかったかもしれないとしかいえません。

 ブッダとなったというのもひとつ立場でしょう。ブッダとなられなかったというのもひとつの立場でしょう。両方の間で坊さんがおろおろするのは勝手ですが、ブッダとなったという思想的な立場は、少なくとも親鸞思想の立場とは別の所にたつ思想でしょう。 「順次生に仏になる(歎異抄)」

>念仏による回心・安心と、悟りの涅槃の境地と、どう違うんだ

 同じだという立場で思想を論じることも可能でしょう。違うという立場で思想を論じることも可能でしょう。同じだという思想には、同じだという思想独自の体系があります。違うという思想にも、違うという思想独自の体系があります。元は釈迦に始まる一つの思想ですから類似箇所も多いです。思想の体系の仕切がきちんとできてないと議論はぐらつきます。違うという思想を採るなら、違うという思想で全体の体系を一貫させなければいけません。すくなくともそうしないと、口の悪い名無しさんはヨーチエンと言って盛んに馬鹿にしてくるでしょう。
114渡海 難:2000/08/20(日) 19:56
105 ¥5さまへ
>それにしても、みなさんどうしてこうも仏陀であるかないかにこだわるのでしょう。

 坊さんがしっかりしないからでしょう。
115渡海 難:2000/08/20(日) 19:57
>108さん
>地球儀とは阿弥陀さん

 地球儀と阿弥陀さんとは違うんだよ。保育園は知らないかな。
 大きい文房具屋さんに行けば地球儀は買えるんだよー。文房具屋さんで「阿弥陀さんください」なんて言えば、馬鹿じゃないかと思われるだけだよー。
 ゴータマブッダと地球とも違うんだよ〜。地球のこと知ろうと思って図書館言って「済みません、ゴータマブッダについて知りたいんですが」と言えば、宗教コーナーに案内されるだけだよー。宗教コーナーに案内した人を「馬鹿」と言えば、逆に「大馬鹿」と言い返されるだけだよー。保育園は知らないかな。

>宇宙には人の住める星が無数にあるだろうが、我々には地球しかないのと同じ。

 21世紀の終わりころになると、南極みたいに月に人間を送り込んで、そこに住むようになるかもしれないんだよー。火星にだって住んでいるかもしれないんだよー。保育園は知らないかな。
 108の名無しさん@1周年のおにいちゃん(おねーちゃんかな)は、保育園かな?。
116渡海 難:2000/08/20(日) 19:59
111 ニセその他 さんへ

>しかし人間の身で煩悩をなくすことが本当にできるでしょうか。
   できもしないことで仏教は三千年間も嘘をつき続けてきたということでしょうか。

>こんなことが釈尊入滅後の原始教団では考えられたのです。
    あなたも随分と大胆なことを言われる方だ。想像ですか、根拠ある発言ですか。

>生きているときの涅槃は有余涅槃
    生きているときの涅槃とはどういう涅槃でしょうか。

>死んでからが無余涅槃とされ、無余涅槃が完全な涅槃であるとされました。

 死んでからの無余涅槃とはどういう涅槃ですか。死んでからどのくらいで無余涅槃となるのでしょうか。

>死んだら仏になるという考えの元はここかもしれません。

 お釈迦様は死んで仏になったのでしょうか。死んだら仏になるというのは誰のことでしょうか。阿弥陀様は、生きて仏になったのでしょうか、死んで仏になったのでしょうか。
 お経では、生きているお釈迦様を仏と呼んでいますが、仏でもない相手を勘違いして仏と呼んでいるということでしょうか。

>実際は仏になることは大変むずかしいわけです。出家者でさえそうなのですから、まして在家信者には仏になる望みはないことになります。

 ご出家の場合、少し望みがあるのですね。
 お釈迦様は死ぬまで仏になれなかったけど、現代のご出家はいきたまま仏になる望みがあるということでしょうか。

>だから矛盾しているようなところもあります。

 矛盾しないような統一的な理解はないのでしょうか。

>釈尊の真意は何か、何を本当は説かれたかったのか、悟りの内容はなんなのか。後世の人たちは釈尊の言葉の背後にある密意を読みとろうとしたのです。

 結局、密意を読みとれたんですか。読みとれなかったんですか。現代の仏教は、密意を読みとれてないんですか。親鸞仏教は読みとれてないということでしょうか。

>当然問題になる事柄です。
   問題になって結局どうなりましたか。
117名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 20:29
>116渡海 難さんへ
元スレからの引用ですけど、ご参考に。

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジエータ(祇陀)林なるアナータピンディカ
(給弧独)の園にましました。
 その時、世尊は、比丘たちに告げて、つぎのように仰せられた。
 「比丘たちよ、わたしは、汝らのために、涅槃と涅槃にいたる道を説こうと思う。よく聞くがよい。
 比丘たちよ、では、涅槃とは何であろうか。比丘たちよ、貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊
 滅、これを称して涅槃というのである。
 比丘たちよ、また、涅槃にいたる道とは何であろうか。比丘たちよ、ここに比丘があって、遠
 離により、離貪により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して、正見を修め育てる。また、遠
 離により、……正思を修め育てる。……正語を修め育てる。……正業を修め育てる。……正命を
 修め育てる。……正精進を修め育てる。……正念を修め育てる。……正定を修め育てる。此丘た
 ちよ、これを称して涅槃にいたる道というのである。
 比丘たちよ、このようにして、わたしは、汝らのために、涅槃を説き、涅槃にいたる道を説いた。
 比丘たちよ、およそ、弟子のさいわいを願い、慈しみある師が、慈しみをもって、弟子たちの
 ために為すべきことは、わたしはすべて、これを汝らのために為した。
 比丘たちよ、ここに樹下がある。ここに空屋がある。思索するがよい。放逸であってはならぬ。
 後日に悔いることなかれ。これが、汝らに与えるわたしの教誡である」
118¥5さま:2000/08/20(日) 21:45
>>81
“仏陀はお釈迦さんだけか”“一仏か多仏か”というテーマでのレスのつもりでした。
一仏派と思えるその他さんがいらっしゃると思ったので、大乗ばかりではなく小乗の時代
から多仏という考え方があったということをジャータカや阿含経に登場する仏でもって示
したほうが納得してもらえると考えました。
お釈迦さんが、躊躇しながらも布教を始められたのは、お釈迦さん以外にも真理を覚るも
のが現われるという可能性を信じたからでしょう。
でなければ、お釈迦さんの説法は全くの無駄だったということになります。
言われついでに続きを書いてしまいます。

>81の続き

大乗仏教になると、過去世(カコセ)、未来世、現在世の十方(八方+上下)に無数のブッダが
いるということになりました。
中でも人気があったのは、阿シュク仏、阿弥陀仏、薬師仏でした。
そのうち、誰でもブッダになれる素質をもっている(悉有仏性:シツウブッショウ)という考えに
より、仏が多数存在するという考えが確固たるものとなりました。
119¥5さま:2000/08/20(日) 21:47
>118
“その他さん”じゃなく“名無しさん”でした。
すみません。
120名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 22:00
浄土真宗東本願寺派てかつての親ですか?

http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/17497774
121¥5さま:2000/08/20(日) 23:18
>120

すごいものがオークションに出ていますね。
金額もすごい。

浄土真宗東本願寺派は、真宗大谷派を離脱した団体の一つです。
真宗大谷派現門首の長兄(故人)の団体です。
122>120:2000/08/20(日) 23:56
自分の遺体は、鴨川にでも流して、魚のエサにしてくれ、
と遺言したと伝えられる親鸞が聞いたら、びっくりするような現実ですね。
死した後にも、名声や財産に執着する、
人間のアサマシサ、ですな(笑)
123¥5さま:2000/08/21(月) 08:04
> 120
> 浄土真宗東本願寺派築地本願寺和田堀墓地 永代供養権の譲渡

ってオークションに出ているけど、
「築地本願寺」は「浄土真宗本願寺派」の別院ですよね。
「浄土真宗東本願寺派」の「東京本願寺」と称しているものは、「旧真宗大谷派浅草別院」です。
どうもオークションの出品者が間違っておられるのではないかと思うのですが・・・。
124南無:2000/08/21(月) 08:43
>84ですが、「ブッダになったお婆さん」式の話の元が私ですので
私の了解だけ書き込んでおきます。

事実としてはパーキンソン氏病のお婆さんが死んだという事実だけです。
お婆さん自身の残したものは物質的には「白骨」だけです。
死んだお婆さんがどうなったのかという「お婆さん側の問題」は解かりません。
死んだお婆さんがどうなったと理解するのかという「私達、生きている側の問題」が残ります。
名無しさんにとっては面識もなく、また話だけでは何の問題提起にもならなかったようですから
「仏陀(佛)」という意味はなく、その他大勢の過去の人でしかないのでしょう。
しかし名無しさんにとって仏陀(佛)という意味がなくても、お婆さんの息子である彼にとっては
自分の在り方(このことから家族、愛情、生死という問題に広がってゆくことと思います)を問い直す
契機になりました。本当の愛情を模索することは、今までの愛情が本当ではなかったとお婆さんから
知らされたということでしょう。お婆さんのことを通して気付いたということでしょう。
そのように我々を「促す力」が観念や理解ではない現実の仏の姿です。
名無しさんや私にとって「唯の過去の人」でも、彼にとってお婆さんは「仏」です。
貴方や私の理解などどうでもいい、彼によってお婆さんは「仏」になったのです。
125南無:2000/08/21(月) 14:52
>118の中で¥5さまが引用していらっしゃる
「悉有仏性」についてなのですが

1.人は仏性を悉有している。と読むのか
2.人か゛悉有しているものが仏性である。と読むのか

1は機根においての疑いを孕みます。
2は大乗を証明します。
親鸞の立場は2だと理解しています。
126名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 14:52
坊主は稚児のチンチンしゃぶってひっこんどきなよ
127名無しさん@1周年:2000/08/21(月) 15:07
それ、人間の浮生なる相を・つらつら観ずるに、
おおよそはかなきものはこの世の始中終・まぼろしのごとくなる一期なり、
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず・一生すぎやすし、
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや・我やさき人やさき・きょうともしらずあすともしらず、
おくれさきだつひとは・もとのしずくすえの露よりもしげしといえり、
されば、朝には紅顔あつて・夕には白骨となれる身なり、
すでに無常の風きたりぬれば・すなわちふたつのまなこたちまちにとじ・
ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて・桃李のよそおいをうしないぬるときは、
六親眷属あつまつて・なげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず、
さてしもあるべき事ならねばとて・野外におくりて、
夜半のけむりとなしはてぬれば・ただ白骨のみぞのこれり、
あわれというもなかなかおろかなり、されば、人間のはかなきことは・
老少不定のさかいなれば、たれの人も・はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて・念仏もうすべきものなり

以上 間違えていれば申し訳ないです。この言葉には生かされている今の自分へ
問いかけのようなものが言葉として迫ってきます。あくまでも、自分自身へです。
レス不要の言葉として。

  
128ニセその他:2000/08/21(月) 17:54
続きなのですが、毎日少しずつ考えながら書いていますので、前後の脈絡が通じないだろうと思います。ごめんなさい。

仏教は仏になるための教えであるにもかかわらず、実際には仏になる者がいない。涅槃とは煩悩を滅した状態だから、ほとんどの人にとって涅槃に入ることは不可能である。こういったことを言いました。
>108
>我々の指導者となるべき仏陀は、ゴータマブッダのみと
>思い定めるべき。1億10億年に一人の他の覚者を想定
>しても仕方がない。
この人も同じような意見だと思います。

しかし釈尊は仏になる、悟りを開く、といったことをそんな不可能に近い困難なことだとは考えていなかったのではないかと思います。
仏陀とは覚者、道理に目覚めた人という意味です。一切皆苦、諸法無我、諸行無常の道理に目覚め、自分が自分がという執着を離れる、これが悟りではないでしょうか。
また四諦の中の滅諦とは、苦の原因である渇愛を滅すということです。渇愛とは「のどの渇き」という意味で、欲望のことです。
釈尊は欲望とは善でもなければ悪でもない無記だとされています。つまり、欲望を否定してなくしてしまう(生きている限り食欲や睡眠欲などをなくすことは不可能です)という立場ではなく、かといって単純に欲望を肯定する立場でもありません。中道ということです。欲望にとらわれたり振り回されたりしない、ということでしょう。
このことは欲望をなくすということではありませんから、困難ではありますが不可能ではありません。
129ニセその他:2000/08/21(月) 17:57
このように考えていきますと、仏とは、
1、釈尊のこと
2,執着を離れた人、道理に目覚めた人
そして
3,煩悩を断じ尽くした人、あらゆることを知っていてもはや知ることもない人
4,三十二相、六神通のある人
というように、仏という概念がどんどん広がっていきます。
げんに禅宗では、悟ったのだから仏だと言い切るそうです。これは2の概念です。この意味での仏となった人は数多くいることでしょう。
竜樹や世親は菩薩であって仏ではない、というのは3や4の超人的仏ではないということでしょう。おそらく彼らも2の意味では仏だと思います。
仏という言葉の意味はこれら以外にも広がっていきます。
つづく
130ニセその他:2000/08/21(月) 17:58
今日のおまけです
白隠禅師とある信者の会話
「わしがさっき説教をしている時に、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と言いながら聞いておったが、南無阿弥陀仏とは何のことだね」
「これは凡夫が仏様になるおまじないでございます」
「では阿弥陀様はどこにおられる方かね」
「お浄土が阿弥陀様のお国でございます」
「それじゃ阿弥陀様は今そこにおいでか」
「いや、ただいまはお留守中でございます」
「お留守中というのは、何の御用でお出かけになったのだね」
「衆生済度の旅にお出かけでございます」
「それじゃ今頃はどのへんを旅しておいでかね」
 すると信者は自分の胸を指して、
「ただいまこの中を旅しておいでございます」
131ニセその他:2000/08/21(月) 18:14
>116
>根拠ある発言ですか。
もちろん。しかしどの本に書いてあったかは忘れた。
それと有余涅槃、無余涅槃についての説明を書くとまた長くなる。長くなるとそれだけで非難される。その意味を知っている人がどうして質問するか。知らない人の質問なら答える。
>問題になって結局どうなりましたか
これからも書き続ける。辛抱して待ってほしい。
あなたのようにみんながあなたのレスについて一字一句について文句をつけたほうがいいのだろうか。自分の書き込みに反応がないのでさみしいのだろうか。
132¥5さま:2000/08/21(月) 18:55
>>81 >>118 のおまけ

『梁塵秘抄(リョウジンヒショウ)』法門歌(ホウモンノウタ)に

「仏も昔は人なりき、
 我らも終(ツイ)には仏なり、
 三身仏性具せる身と、
 知らざりけるこそあわれなり」

というのがあります。

三身仏性という、人には本来、仏となるべき3種類の因が備わっている。
ところが心に曇りの多い人々は、そのことを知らずに、あわれにも迷いさまよい続けてい
ると歌われています。
133名無しさん:2000/08/21(月) 19:30
>13
くさい¥5、自分で「さま」つけるなよな。
他のスレッドの、ハエたたきとまったく同じ文章だよ。
¥5はハエたたきだった。
134渡海 難:2000/08/21(月) 21:25
118 ¥5さま
>仏が多数存在するという考えが確固たるものとなりました。

 それで、貴方も、仏が多数存在するという考えが確固たるものとなっているんですか?仏が多数存在するなどとは、嘘だろう。そんなはずはないと思っているのですか。
 「煩悩具足の身をもって、既に悟りを開くということ。この条、もっての他のことに候。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。」
 つまり貴方は、「真言秘教・三密行業・法華一乗の教えこそ真実の教え」という考えが確固たるものとなりましたということですね。

「しかればすなわち末法の中においては、ただ言教のみありて行証なけん(教行信証)」。
 行証の無い仏が多数存在するという考えが確固たるものとなりましたか?
135渡海 難:2000/08/21(月) 21:26
>124 南無さん

>お婆さんの息子である彼にとっては自分の在り方を問い直す契機になりました。
>彼にとってお婆さんは「仏」です。貴方や私の理解などどうでもいい、彼によってお婆さんは「仏」になったのです。

 「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」。ということは、念仏しなくても仏になるということだったんでしょうか。自分の在り方を問い直す契機になれば、仏なる。念仏があっても無くても仏になる、ということなんでしょうね。
 念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門。 念仏なくとも仏になる。自分の在り方を問い直す契機になれば、仏なる。
 親鸞聖人の教えはこういう教えだったということでしょう。
 親鸞も唯円も、仏教には全くの無知だったということでしょう。自分の在り方を問い直す契機になれば、仏なる。そういう事実を二人は知らなかったんでしょうね。
136渡海 難:2000/08/21(月) 21:27
125 南無さん
>2は大乗を証明します。
   これは正真正銘、宇宙人の寝言。全く理解不能。
137渡海 難:2000/08/21(月) 21:28
>127さん
>生かされている今の自分へ問いかけのようなものが言葉として迫ってきます。あくまでも、自分自身へです。レス不要の言葉として。

 レス不要と言われてもレスしない分けなわけには行かんがな。
 在家の人なら問題にしないが、坊さんらしいので放っとけん。
 「生かされている今の自分」
 生かしている主体は何ですか。
 「天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ」だれが生かしてくださっておるんかのう。
 天も仏、鬼神も仏、ありがたや。ありがたや。ああ、ありがたや、ありがたや。
138渡海 難:2000/08/21(月) 21:28
>128ニセその他
 このことは欲望をなくすということではありませんから、困難ではありますが不可能ではありません。

「煩悩具足の身をもって、既に悟りを開くということ。この条、もってのほかのことにそうろう。」
  もってのほかと言っておる。歎異抄とは仏教にアホーが書いた本と言うことになんじゃろう。
139渡海 難:2000/08/21(月) 21:29
>128ニセその他

>げんに禅宗では、悟ったのだから仏だと言い切るそうです。
>欲望にとらわれたり振り回されたりしない、ということでしょう。このことは欲望をなくすということではありませんから、困難ではありますが不可能ではありません。

 禅宗の教えが真実。
「仏心宗というは、この世にひろまる禅宗これなり。…これみな聖道門なり。…すでに仏になりたまえる仏・菩薩の、仮に様々の形を顕わして勧め給うがゆえに、権というなり」(末燈抄)
 親鸞とはなんとアホーなことを言っておるんかのー。禅宗の教えが真実じゃ。

「もってのほかのこと」じゃなどと、歎異抄はなんと馬鹿なことを書いておる本なのか。

>白隠禅師とある信者の会話
     親鸞は間違った仏教を説いていたんですね。
140渡海 難:2000/08/21(月) 21:30
131 ニセその他さんへ
>どの本に書いてあったかは忘れた。
      便利な言葉じゃ。
141渡海 難:2000/08/21(月) 21:31
131 ニセその他さんへ
>その意味を知っている人がどうして質問するか。

   貴方の定義と私の定義とが違っているようだから聞きました。
   座禅もしない禅宗坊主の貴方がどう思っているは、私は知りません。

>あなたのようにみんながあなたのレスについて一字一句について文句をつけたほうがいいのだろうか。
       ご自由に

>自分の書き込みに反応がないのでさみしいのだろうか。

 私がレスを付けてもそれで私への反応が大きくなるとは思っていませんよ。
 反応があれば書き込んだ甲斐があったと思いなさいよ。
142渡海 難:2000/08/21(月) 21:32
>132 ¥5さまさんへ

>心に曇りの多い人々は、そのことを知らずに、あわれにも迷いさまよい続けていると歌われています。
        だから何? それで何がどうしたの?
143渡海 難:2000/08/21(月) 21:40
竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。

Ah kono kotoba ga munasiku natte kita.
144:2000/08/21(月) 21:54
あ、怒ってる、怒ってる〜〜〜
145渡海 難:2000/08/21(月) 22:28
144さんへ
 怒ってない。怒ってない。 (^^)
 坊さんのアホさ加減に呆れ返ってきただけ。
 今に始まった話じゃないけどね (-_-;)
146144:2000/08/21(月) 22:44
よかった。\(*´▽`*)/
怒ると、誰もいい思いしないからね。
147>90:2000/08/21(月) 22:46
daitaiga jisyuunitaisuru hihann wo kawasutameni
nakamura hajime yara hakuinn zennji yarawo
tateni tukau sono konnjou ga
kini iraneeeeeeeeeeeeeeeee!!!!!!!
148南無:2000/08/21(月) 22:57
教え(教)に準じて行(行)をつむことで悟りを得る(証)、ということに沿って
言うなら、仏教は「諸行によって成仏を得る」ことが目的です。
しかし親鸞は「念仏によって往生を得る」という教えです。
当然、成仏と往生はその意味が違いますから、「念仏往生」
ということは上記の構造を持つ「仏教」の枠の外にあると
言わねばなりません。それを皆さんが仏教として認めるか否かは
私の感知することではありませんが私は仏教として了解します。
そこで先の「悉有仏性」と関連してくるのですけれど、
1.人は仏性を悉有している、と読むのか
2.人か゛悉有しているものが仏性である、と読むのか
2は大乗を証明します、とレスを入れたのですが、人の能力の違い
や生きている状況を超えて、誰にでも可能なこととして道が開かれ
なければなりません。親鸞は人間に共通した、意識にものぼらない
ようなギリギリの底にあるものに「清らかさ」、つまり「仏性」
を見出したのではないでしょうか?いや、そう信じ切ったロマンチスト
だったのかも知れません。一切の衆生が悉有しているものこそが仏性であると。
  罪業もとよりかたちなし
   妄想顛倒のなせるなり
    心性もとよりきよけれど
     この世はまことのひとぞなき
現実は「無慚無愧で蛇蝎のような自分」に出会い続けながらも無慚無愧で
蛇蝎のような自分の中の仏性を信じた。今、成仏出来るような私ではないけれど
往生決定すればいずれ成仏するのだから、成仏したことと同じなんだと。
その浄土往生を決定する阿弥陀仏の立てた「念仏という行」を信ずるのだと。
ここに大乗の道として、易行の大道としての仏道があるのだと思います。
149渡海 難:2000/08/21(月) 23:49
>怒ると、誰もいい思いしないからね。

    <(_ _)>  (^^;ゞ 
150¥5さま:2000/08/21(月) 23:58
渡海 難さん

私は私のペースがありますので、あなたの矢継ぎ早のペースについていけません。
その他さんのレスのペースにあわせて話題を進めていきますので、あしからず。
その他さんが続きがあるとおっしゃているのですから先走らないで終わりまで読んであげましょう。
そのくらいのゆとりがあってもいいではありませんか。
世の中のペースが速くなっていますが、このスレッドはゆっくりでもいいでしょう。
151渡海 難:2000/08/22(火) 00:05
>147
Jisyuu ni taisuru mono jya nai.
Son na koo do na mono jya nai.
Daitai ga jibun no aho sa kagen wo kawasu tame ni nakamura hajime yara hakuin zenji yara wo tateni tukatte iru dake nano sa.
Sinran Bukkyo ga zen zen wakatte nai no sa.
152渡海 難:2000/08/22(火) 00:07
>150 ¥5さま

 どうぞ、ごゆっくり。
153¥5さま:2000/08/22(火) 00:26
あなたがとても頭がよくて、浄土真宗のことをよく勉強されて、
私がとても愚かで、あなたのレベルにあったカキコができないということは良くわかりました。
私は、とうていあなたに納得して貰えるレスはできないし、
あなたのレベルに達することは困難だと思います。
私はあなたに認めて貰うことは断念します。
それでも、このスレッドで自分の意見を発言することはやめないと思います。
あなたからすると馬鹿としか思えない間違ったレベルの書き込みしかしないと思いますが、
どうか愚かなエセ坊主のたわごとと笑い飛ばしてください。
あなたの指摘は、私の能力からすればレベルが高過ぎて理解できません。
懇切丁寧に指摘くださっても私には馬の耳に念仏です。
私をさとしてくださっても無駄な労力を使っていただくことになりますので、
ご理解ください。
154渡海 難:2000/08/22(火) 13:49
>あなたがとても頭がよくて、浄土真宗のことをよく勉強されて、

 いやはやお恥ずかしい。仏教は下手の横好き。道楽半分、冗談半分で読んできました。自慢できるようなモンじゃありません。

>私がとても愚かで、あなたのレベルにあったカキコができないということは良くわかりました。

 長い人生の中では、先行く者と後追う者は、瞬間瞬間に入れ替わる。自然の流れですよ。貴方はたまたまインチキ仏教しか教わって来なかったということなんでしょう。
 私の方が多分あなたより年長でしょう。仏教に触れたのも私の方が早いでしょう。渡海レベルのカキコができなくても恥じゃありません。自分より勝っている奴がおると思えばそいつに教わればいい。教わることは恥じゃない。貴方は生まれて始めて今、ここで本物の仏教に出会っているのかも知れませんよ。

>私は、とうていあなたに納得して貰えるレスはできないし、あなたのレベルに達することは困難だと思います。

 そうですか。そう思える時期もあるでしょう。半年たてばどんな思いになっているか分かりませんよ。

>私はあなたに認めて貰うことは断念します。
      渡海に認められるかどうかなんてことが大事でしたか。

>それでも、このスレッドで自分の意見を発言することはやめないと思います。
      どうぞご自由に。

>あなたからすると馬鹿としか思えない間違ったレベルの書き込みしかしないと思いますが、

 間違っていてもいいんですよ。聞くは一瞬の恥、知らぬは一生の恥。間違っていたと思えば次からは直してくださいな。


>どうか愚かなエセ坊主のたわごとと笑い飛ばしてください。

 浄土真宗の坊さんは大同小異。みんな貴方程度でしょう。
 貴方などはいい方だ。折角こういう書き込み板があっても、声の上がらない坊さんが大半ですよ。「物をいわぬ者は、おそろしき」。あなたのように物いうお坊さんは尊いんですよ。
 自分はエセ坊主だと思うなら、世間に嘘をつくのは止めましょう。坊さんを廃業するのも一つの選択肢です。坊さんでありたいなら、エセ坊主ですまさずに、心を入れ替えて本物の仏教を真剣に求めてみませんか。

>あなたの指摘は、私の能力からすればレベルが高過ぎて理解できません。

 そうですか。2CHの名無しさんなら一発で分かっても、坊さんという衣を着ると頭の回転が鈍くなる。そういうことはあるでしょう。貴方の場合、坊さんを廃業するのも、仏教が正しく分かってくる条件かも知れませんね。

>懇切丁寧に指摘くださっても私には馬の耳に念仏です。

 自分は馬じゃと言えば、お檀家No46が可哀想じゃありませんか。お馬さんにお参りされてお布施を払ったわけでしょう。心を入れ替え、本物の仏教を真剣に求めてみませんか。

>私をさとしてくださっても無駄な労力を使っていただくことになりますので、ご理解ください。

 うるさい奴じゃと思っていても、繰り返し指摘されれば、いつかは分かるときもあるでしょう。「無駄な労力を使っていただくことになります」と仰るなら、こちらは不請之友となりましょう。
 「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと」しようじゃありませんか。迷惑ですかな?。
155¥5さま:2000/08/22(火) 14:02
私たちの生活、私たちが生きている世界は、私たち自身の心の表わし出したものだとしな
がら、心の根本には純粋で清浄な本性があると主張する思想を「如来蔵縁起説」といいま
す。
如来というのは仏陀というのと同じ意味で、如というのは真理(真如)という意味です。
如来蔵というのは、私たちが自己の本性に、如来を持っているという意味と、もう一つは、
如来に蔵せられているという意味があります。
如来を蔵しているというのは、迷っている凡夫が、如来となる性質(仏性)を備えていると
いう意味ですが、如来に蔵せられているというのは、私たちが、私たちが如来の慈悲の光
の中に包まれているという意味であって、この私たちの世界がそのまま如来の働きの世界
であり、私たちは常に如来の働きを受けているが、それに気がつかない。しかし、いつか
はこの如来の呼びかけに気がつくときがあるという考え方です。
阿弥陀如来は、まさにそういう仏陀だと思います。
親鸞聖人は、
「煩悩にまなこさへられて、摂取(セッシュ)の光明みざれども、
 大悲ものうきことなくて、つねにわが身を照らすなり」
と詠んでいます。
156¥5さま:2000/08/22(火) 14:44
人間に仏性があるという見方は、人間が覚ったときのことを想像すれば、自然に出てくる
考え方です。
仏陀になりうる以上、仏陀となる性質が、すでに凡夫のときにも備わっている。
あらゆる衆生に仏性、仏陀となる性質が備わっている。
これが悉有仏性という考え方です。
如来蔵説でいうと、眠っている仏性を目覚まさせて、仏性が煩悩を打ち破って、覚りに近
づいていくのが仏教の修行であると考えます。
いままで備わっている仏性が目覚め、これまで破られなかった煩悩のおおいを破っていき、
次第に仏陀の性質があらわれていくのです。
仏性は本来かわりません。
しかし、仏性が本性をあらわしていくのです。

浄土教は、自己を煩悩具足の凡夫と考えて、自己の罪悪性に徹する立場なので、一見、異
なった思想のようにとらえられがちです。
しかし、親鸞聖人も、私たちの真実の信心は如来から与えられたものであると考え、大信
心は仏性であると説いておられます。
したがって、やはり人間の本性は仏性であると認める立場です。
それでありながら、人間の人間たる点は、煩悩を備えたみにくい人間であるとし、その点
に仏陀に対する自己の人間性を考えておられるのではないかと思います。
157渡海 難:2000/08/22(火) 15:24
>親鸞聖人は、「煩悩にまなこさへられて、摂取(セッシュ)の光明みざれども、大悲ものうきことなくて、つねにわが身を照らすなり」と詠んでいます。
>親鸞聖人も、私たちの真実の信心は如来から与えられたものであると考え、大信心は仏性であると説いておられます。

 仏が多数存在するという考えが確固たるものとなって、小手先で小器用に親鸞を出したり引っ込めたり。誰をお参りに行ったのか自分でも分からないお坊さんでも、人形遣いだけはお得意のようじゃなー。操られてる人形は迷惑顔でくしゃみしておるんじゃろう。
158ニセその他:2000/08/22(火) 17:18
>渡海難さんへ
>93
>親鸞聖人だって仏とか霊魂とかいくらいっても理解できないかも知れませんね
親鸞は霊や神を冥衆、鬼神としてとらえています。現世利益和讃が書かれたのは、霊や神におびえる人がいたからでしょう。
>私にはこういう言葉の意味は、共感できませんが、とてもよく理解はできる感じがしますよ。
それでは、虐待された子供は前世において悪いことをした報いで虐待されるんだという考えに、共感できないが理解できるわけですね。どういう理解でしょうか。
>107
>この世の道俗尽く
>悲しき哉や道俗の
この道俗の中に自分も含まれているんだと慙愧して書き込まれたのでしょうか。
159ニセその他:2000/08/22(火) 17:20
>64の名無しさんへ
>で、結局のところ、お婆さんはブッダなの?
>「ブッダになったお婆さん」式の真宗お得意のお伽話の現代板??
これについては>124の南無さんの説明で十分だと思います。
おばあさんの息子さんはおばあさんを通して仏のはたらきを感じられたのだと思います。そのはたらきが>63の質問にあった
>もろもろの命の根源としての永遠な、無量の命のこと
のはたらきだと思います。仏のはたらきについてはまた今度。
>65の名無しさんへ
>>2ちゃんユーザーを仏として手を合わすこと
>ができますか?
という質問ですが、前に山崎よんというおばあさんの言葉を引用しました。苦しみのただ中にあるときは、なんで自分ばかりがこんな目にあうのか、としか思えません。逆に楽しみの中にあれば、仏のことなど全く念頭から消えています。
それが後日になって、あの時のおかげで、と喜べるようになることがあります。それは仏のはたらきに目覚めることによって頭が下がったからだと思います。
私もそうなりたいものですが、現実はそうはいきません。
なるほどなあ、大した人だなあと感じる人もいますが、ナントカイうひとや(笑)う人など、とてもじゃないけど仏として拝めません。
160ニセその他:2000/08/22(火) 17:21
>62
>「広くさとった人一般」とは、誰と誰と誰を指すのでしょうかねえ?
>63
>>この命を自分の命として生きる
>というフレーズも非常に抽象的で、わかりずらい。
>もう少し具体的に説明していただけませんか?
これらの問に答えるためには仏とは何かを考えていかなければなりません。それで92などで書き込みをしたのですが、もう一度まとめてみると、
1,仏教は仏になるための教えである。
2,釈尊は道理に目覚め、執着を離れることで仏になると説いた。舎利弗など多くの直弟子は教えに従って悟りを開いた。
3,釈尊の入滅後、釈尊の神格化、神聖視、理想化がなされ、それに伴い仏の概念が広くなった。
では釈尊や仏についてどのように考えられていったのでしょうか。
1,釈尊の悟り、智慧と、弟子の悟り、智慧とは異なる。だから釈尊は仏だが、弟子は阿羅漢であって仏ではない。
2,仏は三十二相八十随形好という身体的特徴、六神通という能力を有する。仏のスーパーマン化です。
3,仏になるためには無限に近い時間(劫という単位)がかかる。だから釈尊も6年間の修行で悟りを開いたのではなく、数え切れないほど転生して修行してきたのだ。
この修行の目的は、自らが悟りを開く(上求菩提、自利)ことと、衆生を救う(下化衆生、利他)ことです。こうした修行にはげむ人が菩薩です。つまり釈尊は前世において菩薩だったという考えです。
また、釈尊だけが仏なのではなく、数多くの仏がいるとも考えられました。なぜなら、釈尊の説いた教え(法)は永遠不変の真理です。その真理に目覚めた者が仏なのです。だから、
1,釈尊以前にも真理に目覚めて仏になっている者がいるはずだし、未来にも仏になる者が現れるはずだ。過去には釈尊を含めて七仏、未来仏は弥勒菩薩です。
2,現在、三千大千世界には釈尊以外にも仏がいて説法をしているはずだ。有名なのが東方の阿罠仏、西方の阿弥陀仏です。
この釈尊の説いた法、永遠不変の真理こそが仏だとされました。これを法身と言います。
法身は色も形も言葉もありません。人格的存在ではありません。しかしはたらきはあります。これでは我々にはわかりませんから、理解できるように形をとり、言葉となります。
たぶん「もろもろの命の根源としての永遠な、無量の命のこと」とは法身のことだと思います。

>61の残念ですねさん
>実在されていないのだとすれば、いつ頃の時代の、誰が、どのようにして、
>それらの阿弥陀仏・薬師仏などのように多数の仏の存在を認識されたのでしょうか?
よろしければ続きとしたいのですが
161ニセその他:2000/08/22(火) 17:29
いささか長いおまけ
松井恵光「中陰のための法話@」法蔵館 からの引用です。
幼児を亡くした若い母が私にたずねました。
「亡くなったのは五つの女の子です。あの子のことを思うと、夜も眠れません。どこへ行ったのでしょう」
「迷っていることでしょう」
「仏になったのと違うのですか」
「仏になったと思われるなら、あなたからそんな問いは出ないはずです。不安だからそう聞かずにおれぬのです」
「ひどいことをいわれます。どうして迷っているとわかるのですか」
「そうではありませんか。そのお子さんと道ではぐれたとき、こうして家に帰るのだよと行き先をはっきり教えておきましたか。そのお子さんはどこをどういってよいか、おそらく道の真中で迷って泣いていることでしょう。だから迷っているといったのです」
「…」
「あなたは自分の行き先がわかっているのですか」
「わかりません」
「それならお子さんにも教えられないのは当然ではありませんか、仏法にあわなかったら、いつまで経ってもその行き先はわかりません。あなたがはっきりとそのことがわかったら、亡くなったお子さんの行き先がわかってくるのです。つまりそれはですね、あなた自身がアミダの世界に帰るということがわかる。それがわかったのは、五つのお子さんが迷うすがたを見せて、お母さんのあなたに驚きを立ててくれたのですよ。お子さんは浄土からこの世にあらわれ、お母さんの目を覚まさせて、お浄土に帰った仏さまだったのですよ」
162ニセその他:2000/08/22(火) 17:56
>151
>Daitai ga jibun no aho sa kagen wo kawasu tame ni
>nakamura hajime yara hakuin zenji yara wo tateni tukatte iru dake nano sa.
>Sinran Bukkyo ga zen zen wakatte nai no sa.
おっしゃるとおり全然わかっていないから、ごまかしているだけです。
でも真宗が渡海さんのような頭のいい人でなければ、知識の豊富な人でなければ救われないという教えでなくてよかったです。
あるいは
>自慢できるようなモンじゃありません
と言いながら、平気で自慢をするようなタフさがなければ駄目だとなれば、私など失格です。
あるいは
>>どの本に書いてあったかは忘れた。
>便利な言葉じゃ。
と人を信じない、もしくは自分の無知を認めない、というずうずうしさも真宗では必要はない。
ああ、よかった。
163渡海 難:2000/08/22(火) 18:56
148  南無さん
>親鸞は「念仏によって往生を得る」という教えです。それを皆さんが仏教として認めるか否かは私の感知することではありません。
>お婆さんの息子である彼にとっては自分の在り方を問い直す契機になりました。
>彼にとってお婆さんは「仏」です。

 念仏によって往生を得るか否かは南無さんの感知することではありません。しかし、自分の在り方を問い直す契機になれば、仏なる。親鸞と手を切った南無さんが最近起こした新手の宗教なんでしょう。

>親鸞は人間に共通した、意識にものぼらないようなギリギリの底にあるものに「清らかさ」、つまり「仏性」を見出したのではないでしょうか?いや、そう信じ切ったロマンチストだったのかも知れません。

 坊さんが宗祖を語るとき、群盲が象をなでてるようなことを言っててどうするの <差別的表現かも知れんが、他にうまい言い方がない。許してほしい。「隔靴掻痒」ではニュアンスが伝わらん m(_ _)m>。
164渡海 難:2000/08/22(火) 19:00
158 ニセその他さんへ
>どういう理解でしょうか。

 金の無い子供は、相手にするなというお諭しじゃないんですか。虐待されるような子供の心配しても、お布施は入りませんからね。発言者の気持ちはよく分かりますよ。

>この道俗の中に自分も含まれているんだと慙愧して書き込まれたのでしょうか。
     いいえ。
165渡海 難:2000/08/22(火) 19:02
162  ニセその他
>おっしゃるとおり全然わかっていないから、ごまかしているだけです。〜知識の豊富な人でなければ救われないという教えでなくてよかったです。

 自見の覚悟をもって他力の宗旨を乱しても救われる教えで、大変おめでとうござんした。
 全然わかっていなくても、お坊さんなら「全く仰せにて無きことをも、仰せとのみ申して救われる教えで、大変おめでとうござんした。

>自慢できるようなモンじゃありませんと言いながら、平気で自慢
      このようなことを言われれば、私の不徳の至りでござんすよ。

>人を信じない

 お釈迦様に対する尊敬を傷つけられた感じがしたざんす。
 アンタの言葉を信じないでえらくワルーござんした。
166ニセその他:2000/08/22(火) 20:16
いつもながらの丁寧なご返事、ありがとうございます。渡海難さんへお願いがあります。
坊主三人が名無しさんたちへの答えをしても、渡海さんには納得してもらえないのだから、渡海さんが名無しさんたちに答えてもらえればと思います。私たちも勉強させてもらえます。
できましたらわかりやすい言葉でお願いします。
もう一つ頭の悪い坊主の質問ですが、
>金の無い子供は、相手にするなというお諭しじゃないんですか。虐待されるような子供>の心配しても、お布施は入りませんからね。発言者の気持ちはよく分かりますよ。
この意味がよくわかりません。虐待される子供は前世の因縁で虐待されているのでしょうか。

167ニセその他:2000/08/22(火) 20:41
>165の難度さん
>お釈迦様に対する尊敬を傷つけられた感じがしたざんす。
>アンタの言葉を信じないでえらくワルーござんした。
物事を悪い方に受け取る難度さんのあり方は、ただ、ありがたいありがたいと騙される真宗信者にとっていいお手本だと思います。
それはともかく、仏とは何か、仏教の中における阿弥陀仏とは、法身が仏とはどういうことか、といったことについて、どうか教えて下さい。
168ニセその他:2000/08/22(火) 20:43
あ、逆質問だとは言わないでしょうね。
>聞くは一瞬の恥、知らぬは一生の恥。
ですから、恥をしのんで質問しています。
169名無しさん:2000/08/22(火) 21:21
逆質問、悪質なすり替え。↑
170>155、¥5さま:2000/08/22(火) 21:28
如来蔵思想ね、そろそろでてくるんではないかと思ったケド(笑)、
さて質問ですが、親鸞上人は御自身の思想の中心として
如来蔵思想を掲げ、如来蔵に言及する経

不増不減経 央掘摩羅経 大法鼓経 勝蔓経 涅槃経 無上依経
大乗蜜厳経

如来蔵に論及する論

究境一乗宝性論 大乗法界無差別論 入大乗論 大乗荘厳経論
仏性論 大乗起信論

これらの経論を自らの信仰の拠り所とし、周囲の信者に教え諭した
のでしょうか?表題を見ただけでもなにやら難しそうですし、
なぜか浄土三部経がこのなかに含まれていないのが謎なのですが・・・(笑)
171時々読むぞ:2000/08/23(水) 01:54
お坊さんは教えを請う人を待って、その人に解る貴方自身の言葉でその人が納得するように答えてあげてください。悩みを持つ多くの人が尋ね来るお坊さんになってください。
170に書いてある経や論の知識はお坊さんには必要なのかも知れませんが、私なんかは避けて通りたいです。
 このスレはいつしか私なぞには解らない内容の討論会場になったような気がします。
コテハンの皆様それで満足されておられるのなら、少し私は残念です。
172渡海 難:2000/08/23(水) 08:50
166ニセその他さんへ
>いつもながらの丁寧なご返事、ありがとうございます。渡海難さんへお願いがあります。
    (+_+) あれっ。 急に態度が変わりましたね。
173渡海 難:2000/08/23(水) 08:51
166ニセその他さんへ
>坊主三人が名無しさんたちへの答えをしても、渡海さんには納得してもらえないのだから、渡海さんが名無しさんたちに答えてもらえればと思います。

 渡海が納得しなくても、名無しさんたちが納得したらいいんじゃないんですか。私に構う必要はないざんしょ?

>私たちも勉強させてもらえます。できましたらわかりやすい言葉でお願いします。
     何を?   いまさら何を勉強させてもらえます?。

>もう一つ頭の悪い坊主の質問ですが、

 口の悪い第三者は勝手なことを言う。貴方が心にもなく自分から卑下することはないでしょう。

>虐待される子供は前世の因縁で虐待されているのでしょうか。

 わたしゃ知りません。私は占い師でも霊媒師もありませんからね。ただ、真光でそう言う風に言う人がいるなら、その人だって、本当は分かってないでしょう。分かってないのに分かったようにいうだけでしょう。占い師や霊媒師を名乗っていても、そんな話は眉唾でしょ。
 前世の話はチョー便利なんですよ。立証不可能とみんな知っているから、何でも言える。実際は本当のことは分かってないのに、証明不可能なそんなことを言うのは、腹は金に向いているんでしょう。見え透いている。私だって金が欲しいですからね。
174渡海 難:2000/08/23(水) 08:52
167 ニセその他
>物事を悪い方に受け取る難度さん

  難度さん?渡海さん?  へそ曲がりは私のトレードマークだけど、今回は悪い方に受け取ったとは思っていません。いつもと違って真正直に受け取っているでしょう。

>ただ、ありがたいありがたいと騙される真宗信者
    こんなのは、ニセその他さんの回りに群がるニセ信者でしょ。

>仏とは何か、仏教の中における阿弥陀仏とは、法身が仏とはどういうことか、といったことについて、どうか教えて下さい。

 やれやれ、お坊さんからこんな質問が出るとは思わなかった。時代じゃなー
 なお、目下、多忙です。1,2日の間、時間をください。少し長くなる可能性があります。
 この問題については私はこれまで繰り返し議論してきました。私のホームページでも既に自分の考えは紹介してあると思います。
175渡海 難:2000/08/23(水) 08:53
168ニセその他
>あ、逆質問だとは言わないでしょうね。
      逆質問でも何でも聞いてくださいな。応えられる範囲で応えます。

>聞くは一瞬の恥、知らぬは一生の恥。ですから、恥をしのんで質問しています。
      お気持ち分かります
176ニセその他:2000/08/23(水) 16:50
渡海難さんへ
>私にはこういう言葉の意味は、共感できませんが、とてもよく理解はできる感じがしま
>すよ。(93)
と理解できると言われ、あるいは
>金の無い子供は、相手にするなというお諭しじゃないんですか。
>虐待されるような子供の心配しても、お布施は入りませんからね。
>発言者の気持ちはよく分かりますよ。(164)
と、よく分かるということですが、
>173では
>わたしゃ知りません。私は占い師でも霊媒師もありませんからね。ただ、真光でそう言
>う風に言う人がいるなら、その人だって、本当は分かってないでしょう。分かってない
>のに分かったようにいうだけでしょう。占い師や霊媒師を名乗っていても、そんな話は
>眉唾でしょ。
> 前世の話はチョー便利なんですよ。立証不可能とみんな知っているから、何でも言え
>る。実際は本当のことは分かってないのに、証明不可能なそんなことを言うのは、腹は
>金に向いているんでしょう。
とあります。以前の答とは違っています。虐待されている子供に対してそれは前世の因縁だ、因果応報だと言うことが理解でき分かるそうですが。わたしにはそういうことが言える神経が理解できません。

>1,2日の間、時間をください。少し長くなる可能性があります。
楽しみにしております。ただし>171 時々読むぞさんにも解るようにお願いします。

177渡海 難:2000/08/23(水) 20:51
176 ニセその他さんへ
>以前の答とは違っています。
   どこか違っていますか。

>それは前世の因縁だ、因果応報だと言うことが理解でき分かるそうです

 結論が大事なんでしょう。
 前世の因縁・因果応報という話の結論は、「子供は構うな」ということなんでしょう。なぜ子供と関係を持っちゃいけないか。虐待されている子供は金をもってこないからでしょ。金を持ってこない奴とは関係持つなということなんでしょう。構っている時間がもったいないんでしょう。違いますか。気持ちは分かりますよ。

>神経が理解できません。
 そうですね。確かに、厚顔無恥なその無神経さは理解できませんね。
 こういうと突っ込んで来る? 発言者の気持ちはよく分かるというのと、無神経さは理解できないというのはおかしいじゃないか、と。
 ま、いいでしょう。

>ただし、 時々読むぞさんにも解るようにお願いします。

 そんなところまでは責任持てませんよ(笑)。
178時々読むぞ:2000/08/24(木) 00:22
 責任持つ必要はまったくありません。
解るかどうか?自分自身に対する楽しみがあります。
179名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 00:49
まり夫さんでもイザベルさんでもいいデース。
できれば御二方に答えて頂けるとウレシイのですガ。
質問がありマース。

旧約の神についてどのように御考えでしょうか。

難しく思わないでください。ただ、あなたがたの印象を
まっすぐに教えて下さればいいのデース。
他意はございませんデース。
180名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 00:52
179やい。お門違いだぞい。
181虚無僧:2000/08/24(木) 04:05
私は将来マハトマガンジー賞を取りたい。
私の教えは宇宙より広く深く虚無である。
182名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 09:48
age
183渡海 難:2000/08/24(木) 10:05
 2日程度、多忙のため、書き込み出来ません。
184ニセその他:2000/08/24(木) 16:08
>渡海難さんへ
>前世の因縁・因果応報という話の結論は、「子供は構うな」ということなんでしょう。
>なぜ子供と関係を持っちゃいけないか。虐待されている子供は金をもってこないからでしょ。
この意味がさっぱりわかりません。お金がどうのこうのとはどういうことでしょうか。
真光系の教えでは、虐待されている子供は前世において悪いことをした因縁で、虐待を受けている、だから子供の罪穢れを浄霊で取ると、虐待する側は虐待する理由がなくなるので虐待しなくなるという理屈だそうです。
こういう考えの人と因縁について話をしても話がかみ合わないと言ったのです。

>そんなところまでは責任持てませんよ(笑)。
時々読むぞさんは責任を持つ必要はないと言われていますが、今まで批判を数多くされてきたのですから、わかりやすく、あいまいな表現でごまかすことなく、他人の言葉を引用せず、真宗を非難する人にもうなずけ、仏教や真宗の考えになじんでいない人でも理解できるような、そういう文章でお願いします。
185時々:2000/08/24(木) 20:39
 書くぞ、になって来たので読むぞ取ります。
184ニセその他さんへ
 もし渡海さんが貴方の言われているような文章を書く事ができるのなら、渡海さんはなかなか凄い人物と言う事になります。何となく無理なような気がします。
とにかく私にどれぐらい解るのか楽しみにしております。
186子羊:2000/08/25(金) 01:49
坊主に質問があります。
南無ってどういう意味ですか?
インド語ですか?
是非教えて下さい。
187¥5さま :2000/08/25(金) 08:20
取り敢えず、私から。

南無:ナマス(サンスクリット語)の音写語(発音を漢字の読みにあてはめた翻訳)
   敬礼する、帰依する、信頼する、崇拝する、尊敬するという意味です。
188名無しさん :2000/08/25(金) 10:10
女たたきをする社会に、疑問はありませんか?
投稿者:Madame Soleil 00/08/24 Thu 23:17:01
女たたきをする男尊女卑の社会を恐ろしいと思っている方も
世間にはいるでしょう。
フェミニストというだけで、拒絶反応をされるのが健全な社会でしょうか?
男女平等社会は、女たたきをしない社会です。
女性も男性と同様の機会が与えられ、一人一人の個性を活かした
生き方が認められるのが、平等社会です。
体罰に関しては、18世紀の英国式教育でもムチ打ちが行われて
いましたが、近代教育では体罰は、人権侵害と考えられています。
8年ぐらい前、シンガポール在住の米国人少年が同国でムチ打ち刑が課され、
米国で人権侵害と大騒ぎになった事件がありました。
さて、日本では座禅などで姿勢が崩れると、警策(きょうさく)で心の
ゆるみにムチ打ちます。 禅寺での社員研修などでは、警策でたたかれるのは、
形式だけみると体罰に見えますが、東洋の伝統・文化を考えるとき、
人権侵害には当らないと思います。
私も背中が腫れるほど修養した経験がありますので、個人的には警策は
コリゴリです。
しかし、禅寺での社員研修は日本独特のもので続いていくと思いますので、
警策のような体罰も変わらないでしょう。
私は、禅寺での警策よりも、男尊女卑の考えを持ちつづける寺の方が
ずっと、気になります。
男女の精神は平等であるということを、寺でも是非、率先して教えて
ほしいと思います。

http://www2.aaacafe.ne.jp/free/soleil/index.bbs
189名無しさん :2000/08/25(金) 10:11
男尊女卑な寺ね。
投稿者:れん 00/08/25 Fri 07:50:42
確かに、仏教には熱狂的なフェミニストからみれば、
目くじらもののドグマが存在します。
ただそれと、日本国内の法律が、男性優位になっているのと、
直接の関係は無いと思います。まぁ、確かに公明党のように、
仏教信者の投票によって支えられている政党もありますから、
仏教のドグマの影響はゼロだとは言い切れませんがね。
ただ、それをいうなら、キリスト教にも男尊女卑だと
熱狂的フェミニストが指摘したくなるようなドグマが
存在しますが、かなり熱心なカトリック信者が半数以上という
北欧諸国の法律が日本に比べて、男女平等の進んだものと
なっています。つまり、キリスト教と男女同権の法律が
イコールで結びつくなど、とても考えられません。
つまりね。宗教のドグマは、家庭環境や社会構造には多少は
影響するけど、法律にはもうほとんど影響されないということ
なんですよ。
また、仏教のドグマがそんなにお気に召さないのなら、
ソレイユさんが率先して、「宗教改革」をなさってみては
いかがですか?

http://www.hbs.ne.jp/home/soleil/


次回の書き込みにこうご期待!
190ハエたたき :2000/08/25(金) 11:24
お釈迦さんは、はじめ、女性の出家に消極的でした。
それをアーナンダの嘆願によって、いくつかの条件を守るという約束で、なんとかお釈迦
さんの養母の出家を認めさせたということです。
お釈迦さんが、女性の出家を快く思っておらず、女性を差別しているように思えますが、
典型的な女性蔑視社会だった古代インドにおいて、お釈迦さんは、真実に修行すれば「男
でも女でも涅槃のもとへいたるだろう」と、男女共に仏陀になれることを説き、女性の修
行を公認した、古代インドにおいては画期的な男女平等の立場をとりました。
お釈迦さんは、女性蔑視からではなく、出家修行者同士の性関係を危険視したため、男の
修行僧(比丘)にとって女性は妨げになると考えていたようです。

男女平等を説いたお釈迦さんでしたが、社会運動にまで発展させることはなく、残念なが
ら、お釈迦さんの死後、教団は男尊女卑的な傾向となっていったようです。
中村元氏は、
「後世の教団は尼僧のみの教団をいわば足手まといと感じていたらしい。そこで後世にな
ると、尼僧を出家させることは釈尊の真意ではなかったという伝説が成立するに至った」
と指摘しています。
191渡海 難 :2000/08/25(金) 15:59
167 ニセその他さんへ。
>仏とは何か、仏教の中における阿弥陀仏とは、法身が仏とはどういうことか、といったことについて、どうか教えて下さい。

 宿題について早い内に済ませておこうと思います。
 難しい事じゃないんですよ。私はこれまで、何回も同じことを書いてきました。またほとんど同じことを書きます。私の話の結論を知っている人からは、「あっ、またか (-_-;)」と言われそうですね(苦笑)。

 長いので自分のホームページ(浄土通信)からリンクさせました。
http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/ami.htm

192渡海 難 :2000/08/25(金) 16:24
184 ニセその他さんへ
>という理屈だそうです。こういう考えの人と因縁について話をしても話がかみ合わないと言ったのです。
     そうでしたか。

>仏教や真宗の考えになじんでいない人でも理解できるような、そういう文章でお願いします。

 理解していただけるかどうかは、私とその方との御縁の問題もありますので、簡単なことじゃないですね。(苦笑)
193渡海 難 :2000/08/25(金) 16:25
186 子羊さん
 お聞きしたかった南無と言うことは、これで分かったのでしょうか?
194渡海 難 :2000/08/25(金) 16:27
190 ハエたたきさんへ
>お釈迦さんは、はじめ、女性の出家に消極的でした。
>男の修行僧(比丘)にとって女性は妨げになると考えていたようです。

 お釈迦様は当初、祇園精舎を男子校として創建したわけですよ。現代だって男子校、女子校ってあるでしょう。
 日本女子大、昭和女子大なんて、今でも男子の入学を認めない。あれを差別だなどとはだれも言わない。男子校を作ろうが女子校を作ろうが、それは創立者の自由でしょう。クドン・シダッタに限っては、創立者として生徒の選択の自由を認めないというのはおかしい。
 学校一つ作るということは、今でも大変なことでしょう。まして当時はもっと苦労が多かった。男女共学にしておかしな問題がおきたら収拾がつかなくなる。お釈迦様は自分に手に負える範囲から着手した。そこで当初は男子校を作ったんですよ。それだけの話でしょう。
195名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 16:40
渡海 難 様
神さまはいますか。
196ハエたたき :2000/08/25(金) 17:16
仏伝によれば、
お釈迦さんの養母マハージャパティは、お釈迦さんの説法を聞いて仏教に帰依し、
お釈迦さんに布を布施しようとしたが、お釈迦さんはそれを受け取ろうとせず、
アーナンダ(阿難)のとりなしによって初めて受け取った。
その後、マハージャパティは出家を願い、お釈迦さんに再三許可を求めたが、そのつど拒絶された。
だが、アーナンダの嘆願によって、マハージャパティは8つの条件を守るという約束で、初めて女性として出家を許されたということです。

あくまで仏伝と中村元氏の説を紹介したまでで、私の説でも空想でもありませんので、念のため。
197ニセその他 :2000/08/25(金) 17:18
>渡海難さん
>理解していただけるかどうかは、私とその方との御縁の問題もありますので、
>簡単なことじゃないですね。(苦笑)
人には厳しい、というよりも、文章をきちんと読まずに思いつきで非難され、
もっと人に分かる言葉で書けとおっしゃる渡海さんが、こういうことを言わ
れるとは、ちょっといいかげんじゃないかと思いますね。
>男子校、女子校
釈尊は最初から男だけの教団、女だけの教団を作ろうとしたわけではないでしょう。
ハエたたきさんの説明で十分なわけで、それにいらぬ注釈をつける必要はないでしょう。


198ニセその他 :2000/08/25(金) 17:20
渡海さんへ
それとですね、すべての質問に自分が答えなければ満足できない、
人の答では納得できないということであれば、
南無さんのように、どんな質問にもお答えします、というスレッドを
新しく立てられたらどうですか
199渡海 難 :2000/08/25(金) 18:04
196ハエたたきさんへ
>私の説でも空想でもありませんので、念のため。
     なるほどそうでしたか。
200渡海 難 :2000/08/25(金) 18:07
197ニセその他さんへ
>文章をきちんと読まずに思いつきで非難され、
     思いつきで非難しているところはどこでしょうか。

>もっと人に分かる言葉で書けとおっしゃる

 「もっと人に分かる言葉で書け」と私が言いましたか?はて?言ったような、言わなかたような気がしているんですよ。「もっと人に分かる言葉で書け」と言われた感じをもったのはいつでしょうか?済みませんがお知らせいただけませんか?もし、誤解があれば解きたいと思います。

>渡海さんが、こういうことを言われるとは、ちょっといいかげんじゃないかと思いますね。
      当たり前のことじゃないですか?

>男子校、女子校
 釈尊は最初から男だけの教団、女だけの教団を作ろうとしたわけではないでしょう。

 お釈迦様が宗教教団を作ろうとしたかのかどうか、その他さんとは見解が違うようですね。
 宗教ではなく、釈迦は教育者として、当初男子教育から開始したんだろうと思っていますよ。女子教育というのは、男子教育を開始されてそれが軌道に乗ってから思い立ったんでしょう。
 緒方洪庵・福沢諭吉・大隈重信、幕末明治期に、新国家の柱を教育しようと人は当初、男子教育から始めていますよ。慶応・早稲田が女子教育を始めたのは戦後のことでしょう。

>ハエたたきさんの説明で十分なわけで、それにいらぬ注釈をつける必要はないでしょう。
    2CHではとりわけ真宗のお坊さんの回答にレスを入れるのが面白いんですよ。
     (^_^;)
201渡海 難 :2000/08/25(金) 18:08
>198 ニセその他さんへ
>南無さんのように、どんな質問にもお答えします、というスレッドを新しく立てられたらどうですか

 ご助言に感謝します。
 これまでは、お坊さんのお答えを拝見して、その都度、偶々言いたくなると言う場合がありました。お坊さんのお答えでなければそのまま見過ごしていることも多いんですよ。お坊さんの書き込みでもレスを入れてないはあるでしょう?
 ところで、阿弥陀仏に関する御質問の回答はあれでいいですか? 人に分かる言葉で書けていますか?
202名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 18:15
http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/ami.htm

ざっと読みましたが、?????、めまいがしそうでした。

コロンブスはインドを探す航海に出たんじゃありませんでしたっけ?
東インド諸島って名づけられているのはそのためでしたよね。
真理を説明する例えとしてはちょっとお粗末じゃ・・・。

「真理」と「事実」が同じというにはもう少し説明が必要でしょう。
国語辞典だって異なる説明をしていると思うのですが・・・。
渡海語ではそうだといわれれば、了解するしかありませんが。
203名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 18:23
>2CHではとりわけ真宗のお坊さんの回答にレスを入れるのが面白いんですよ。

坊主相手の、煽り、ちゃかし、罵り・・・、あなたの本音でしょう。
204ニセその他 :2000/08/25(金) 19:53
>、釈迦は教育者として、当初男子教育から開始したんだろうと思っていますよ。
あなたが思ったのは勝手ですが、それはどこに書いてあるのですか。
>緒方洪庵・福沢諭吉・大隈重信、幕末明治期に、
>新国家の柱を教育しようと人は当初、男子教育から始めていますよ。
それらの人と釈尊がどう関係があるのですか。
>「もっと人に分かる言葉で書け」と私が言いましたか?
宇宙人の言葉だ、ちんぷんかんぷん、その他もろもろ。
きちんと調べてもいいが、こんなくだらないことで時間を使いたくないので。

それと阿弥陀仏に関するあなたのホームペ−ジは読んでいません。
1,2日待って下さいということだったし、多忙のため二日間書き込み
ができないとのことだったのですが。
205¥五円 :2000/08/25(金) 20:22
女のほうが男より業が深いの。
206名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 20:41
>204 ニセその他 さん
HP読まないというあなたの姿勢は正しい。読むのは労力の無駄。質問や指摘をしようにもレポートとして理論だった成り立ちになっていないから手をつけられません。ハチャメチャなカキコだから誰もレス付けない、だから自分の考えは正しいと自分で思い込んでいるおめでたい人なんですよ。相手にしないのが正しい付き合い方です。
207渡海 難 :2000/08/25(金) 22:24
>203さんへ
>煽り、ちゃかし、罵り・・・、あなたの本音でしょう。

 煽り、ちゃかし、罵りに思えるんでしょう。これがあなたの本音でしょう。
 あなたは渡海からほめて貰いたいのですか。
208渡海 難 :2000/08/25(金) 22:25
>204 ニセその他さんへ
>あなたが思ったのは勝手ですが、それはどこに書いてあるのですか。
      勝手な思いですよ(笑)。
209渡海 難 :2000/08/25(金) 22:26
>204 ニセその他さんへ
>それらの人と釈尊がどう関係があるのですか。
 賢人・哲人というのは考えることがだいたい共通しているんじゃないかというのが、私の勝手な思いです。

>宇宙人の言葉だ、ちんぷんかんぷん、その他もろもろ。
 お気に障りましたか。
 「宇宙人の言葉だ」ではなく、「宇宙人の寝言」ですね。
 「宇宙人の寝言」「ちんぷんかんぷん」というのは、私の偽らない感想です。それは「もっと人に分かる言葉で書け」と命令しているものではありません。「宇宙人の寝言」のように聞こえるということであり、「ちんぷんかんぷん」に聞こえるということです。私に聞こえるということは、改めなさいと命令していることではありません。間違えのないようにしてください。

>それと阿弥陀仏に関するあなたのホームペ−ジは読んでいません。

 そうですか。気が向いたとき見てください。貴方からのリクエストに応えたつもりですから。

>1,2日待って下さいということだったし、多忙のため二日間書き込みができないとのことだったのですが。
      いけませんでしたか。
210渡海 難 :2000/08/25(金) 22:27
>205 ¥五円さんへ
>女のほうが男より業が深いの。
    そういうことでは無いでしょう(笑)
211渡海 難 :2000/08/25(金) 22:28
>206さんへ
>ハチャメチャなカキコだから誰もレス付けない、だから自分の考えは正しいと自分で思い込んでいるおめでたい人なんですよ。
          貴重なご感想に感謝します。
212ニセその他 :2000/08/26(土) 16:26
>208
>勝手な思いですよ(笑)
>209
>いけませんでしたか。
適当なことを書いている、嘘をついている、と言われるわけですね。
それでよく親鸞と手を切った(163)とか、親鸞は間違った仏教を説いたのか(139)とか、ぼろくそに人に厳しいことが言えたものですね。
213渡海 難 :2000/08/26(土) 18:24
212  ニセその他 さん
>それでよく親鸞と手を切った(163)とか、親鸞は間違った仏教を説いたのか(139)とか、ぼろくそに人に厳しいことが言えたものですね。

 親鸞と手を切ってなければ、手を切っていませんよとご本人がレスすればいいんじゃないですか。親鸞は間違った仏教を説いてないと思うなら、間違った仏教を説いてませんよとご本人がレスすればいいんじゃないですか。それだけの話じゃないですか。他人がとやかく言う話じゃないですね。
 渡海は所詮自分勝手な思いを書いているんですよ。くだらんことを書いていると思えば無視すればいいでしょう。必要があれば小手先で適当に反論しておけばいいんじゃないですか。目くじらを立てるような問題ですか。
214渡海 難 :2000/08/26(土) 18:25
 浄土真宗のお坊さんは恐いですね。
 浄土真宗のお坊さんのお話は、「ありがたい、ありがたい」と言って聞きましょう。
 自分の感想を述べるのは止めましょう。まして、ちんぷんかんぷんだ、とか、宇宙人の寝言だ、とか、こんな感想を口にしてはいけません。煽りだ、ちゃかしだ、罵りだ、と言われます。恐いですよ。浄土真宗のお坊さんは、いつも誉めて貰いたいようです。お坊さんに向かっては、合い言葉、「ありがたい、ありがたい」を忘れてはいけません。ありがたいありがたいと騙される真宗信者がよい真宗信者です。
 お坊さんのお話を聞くときは、予め、これからありがたいお話を聞くんだと覚悟を決めましょう。聞いている最中も「ああ、ありがたい。ありがたい」と決めて聞きましょう。終わった後も、「ああ、ありがたかった」と感謝しましょう。それでないとお坊さんは怒ります。怒ると何を言い出すか分かりません。
 その昔、カルト被害者の会という名で親鸞会批判のホームページを作った人がいました。彼は、実際に必要以上の多額の布施を払わされてい人でした。
 お坊さんのお話を「ちんぷんかんぷんだ」とか、「宇宙人の寝言だ」とか評すると、「煽りだ、ちゃかしだ、罵りだ」と言われ、インターネットで瞬時に「被害者の会」が結成されます。坊さんは、煽られ、ちゃかされ、罵られた被害者だそうです。
 浄土真宗のお坊さんは恐いです。
215名無しさん :2000/08/26(土) 18:34
>213
>くだらんことを書いていると思えば無視すればいいでしょう。
>必要があれば小手先で適当に反論しておけばいいんじゃないですか。
>目くじらを立てるような問題ですか。

この言葉を自分に言ってみてください。
216名無しさん :2000/08/26(土) 18:43
>214
>所詮自分勝手な思い
でまくしたてられたら、煽りだ、ちゃかしだ、罵りだ、と言われてもしかたないでしょう。
根拠のない自分勝手な思いでは議論にならないでしょう。
ここは少なくとも浄土真宗の教え・儀式を論ずるスレであって、あなたの自分勝手な思いを皆で読ませて貰うスレではありません。
自己中過ぎると思う。
217名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 18:58
>214
で、被害者は、お坊さんであり、怒ると何を言い出すか分からないと
書いていますが、此処で、お坊さんは、怒っていると感じているのは
貴方だけでしょう。
また、親鸞会のサイト作成の理由を書いていらっしゃいますが、
読み手にとっては、親鸞会は、浄土真宗のお坊さん全てに該当すると
間違った解釈を生む可能性もあると思います。また、
浄土真宗のお坊さんは、多額の布施を払わせる お坊さんであると
これも間違った解釈を生む可能性があります。
214の発言に対して、無視すれば良いのですが
苦言を呈します。 ちなみに私は、坊さんでありません。
また、親鸞会の者でもありません。また、お坊さん擁護派でも
ありません。
218渡海 難 :2000/08/26(土) 19:28
215さんへ
>この言葉を自分に言ってみてください。
    まあ、そう言う考えもありますね。
219渡海 難 :2000/08/26(土) 19:30
>216さんへ
>あなたの自分勝手な思いを皆で読ませて貰うスレではありません。自己中過ぎると思う。

 穢れた意見お見せしていましたか。申し訳ないですね。どうぞ貴方がお好きな浄土真宗の教え・儀式を存分に論じてくださいな。お邪魔はいたしませんよ。
220渡海 難 :2000/08/26(土) 19:31
217さんへ
>お坊さんは、怒っていると感じているのは貴方だけでしょう。
    そうでしたかね。

>親鸞会は、浄土真宗のお坊さん全てに該当すると間違った解釈を生む可能性もあると思います。
    仰っている意味が分かりません。

>浄土真宗のお坊さんは、多額の布施を払わせるお坊さんであるとこれも間違った解釈を生む可能性があります。
    仰っている意味が分かりません。
221渡海 難 :2000/08/26(土) 20:24
>195さんへ
>神さまはいますか。

 神様はいます。鳥居のあるお社に行ってみてください。神様はちゃんといらっしゃるでしょう。
 神様とは、その多くは昔生きていてその後亡くなった方でしょう。天照大神、イザナギ、イザナミなどは議論のあるところですが、菅原天神、明治天皇などは歴史上の人物ですね。亡くなった方以外でも、村々では大きな木が神様になっていることもあります。滝が神様になっていることがあります。
 亡くなった方皆様が必ず神様になるわけではありません。木が全て神様になるわけではありません。福が備わると神様として祀られます。大木でも、神様になったのは、偶々村人などから尊敬を受ける福があったということなんでしょう。祀られるという内容をもった福があったということです。
 福あれば時には不幸もあるでしょう。神にも不幸が来ます。神社が道路計画の計画線上に位置すれば潰されます。村の神社は、過疎の村になれば零落します。神も福が尽きれば忘れられます。
 亡くなった方も、何かの原因で不運に見回れると怨霊として恐れられます。怨霊は、怨霊と呼称される不運に見回れて怨霊と称されるようになったものでしょう。神になるか怨霊になるかは紙一重の差でしょう。
 かつて、死と帰とは同じ意味だったそうです。古代中国の話です。死人は帰人とも言ったそうです(化身土巻)。死者は戻ってくる人だそうです。死者は思い出として、様々な心的作用をもたらしてくる。死者には悔しさがある。悲しさがある。亡くなると亡くなった人の思いが生きている人の腹に響いてくる。響いてくるとそんな死者が、時に神と称され、怨霊とも称される。だからこそ、ある者はたまたま神と名付けられる。あるものはたまたま怨霊と名付けられる。名付けられながら、名付けている人同士にはやはり思いこみがある。誤解もある。誤解、思いこみが神を作る。怨霊を作ります。神も怨霊も、結局、無知を因として輪廻する天・畜生・餓鬼、地獄の部類でしょう。迷いのひとつだろうと私は考えています。
 キリスト教の神については私のホームページの特別企画<神の誕生>で議論しています。長くなりますのでここでは割愛します。また、霊魂については自分は論議する資格はないと考えています。占い師でも霊媒師もありませんから。御了解ください。
222名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 22:37
>221 渡海 難さん

常識であるかのように「福」という概念を持ちだされていますが、
「福」というのは目新しい言葉で、仏教では普通使われない言葉だと思います。
その「福」という概念を突然持ちだされても理解できません。
先ず、「福」という概念の説明をしてください。

> 亡くなった方も、何かの原因で不運に見回れると怨霊として恐れられます。怨霊は、
>怨霊と呼称される不運に見回れて怨霊と称されるようになったものでしょう。神になる
>か怨霊になるかは紙一重の差でしょう。

あなたは「怨霊」という存在を認めるのですね。
「怨霊」が実在するということを証明してください。

>死者が、時に神と称され、怨霊とも称される。
>霊魂については自分は論議する資格はない

「怨霊」は「霊魂」とは異なるものなのですか?
「神」は「霊」であるかのような説明ですが違うのですか?


あなたは、自分のカキコを読み返していますか?
疑問の一部を上げさせて貰いましたが、はっきり言って支離滅裂で、結局「神」がなんで
あるのかわからないし、「神」がいるのかいないのか、答えにすらなっていないと思うの
です。
223時々 :2000/08/27(日) 02:34
> 渡海さん
 難しい事は抜きにして、渡海さんの言っておられるのは、人を善なる方へ導く真理が阿弥陀仏であると言う事でしょうか?悪い方へ導く真理は阿弥陀仏では無い。悪い方へ導くものは真理とは言わない。
このような理解で良いですか?
真理とは、神とは、霊魂とは、福とは、これらの問いに答は無いと私は思っています。
224渡海 難 :2000/08/27(日) 09:33
222さんへ
>仏教では普通使われない言葉だと思います。
>その「福」という概念を突然持ちだされても理解できません。

 「普通使われない言葉だと思います」と自信ありげに主張し、「理解できません」というところにも自信を持っているという方は、もしかするとお坊さんでしょうか?。浄土真宗のお坊さんですか(笑)。まあ、どういう素性の方でもいいでしょう。

>先ず、「福」という概念の説明をしてください。

 浄土真宗では昔から福徳という言葉を使っています。福徳という言葉は専門的すぎると考えて「福」にしてみました。「福」でも「福徳」変わりはありませんでしたか。もしお坊さんなら、もっと勉強してください。在家の方には「もっと勉強してください」なんてことは言いませんよ(笑)。
 福あるいは福徳というのは、評価的な概念でしょう。
 福徳ある者は山林塚廟神と作る。福徳なき者は、不浄処に居し、飲食を得ず、常に鞭打を受く。
 浄土真宗では昔からこんな言い方をするんですよ。福というのは、固定的に存在するような具体的なものじゃない。ある人が死んだらたまたま神様になっていた。そういうことがある。明治天皇や東郷元帥のようにね。
 なぜあの人だけは神様になったんだろう。ある者は神になり、ある者は忘れられていく。不平等がある。そんな不平等を何とか説明しようとして、仏教は、説明上「きっと福があったんだよ」というような考え方をするんです。お坊さんでなければ言いません。お坊さんだったら知っておいてください。
 本質は平等なんだという主張が仏教にはあるんです。本質は平等のはずなのに、目の前には不平等という形が顕現する。そこで仏教はその顕現を結果から評価的に説明するんですね。原因はあの人にたまたま福があったんだというという説明的な方法を採るんですよ。福があったんだという説明的な方法を採ることで、本質は平等なんだという潜在的な主張を忍ばせているんです。福とは、こうした議論をするための説明的用語と言っていいでしょう。
 少し難しいかも知れませんね。ちょっと考えると難しくないんですけどね。

>あなたは「怨霊」という存在を認めるのですね。

 「怨霊」というと従来の真宗の用語と不一致だと言われるかも知れません。用語統一の意味で鬼神と言い換えましょうか。でも、最近は鬼神なんて言葉はマスコミでも言わないもんなー。
 詳しい説明は後日行いましょう。もし、お坊さんなら、教行信証の化身土巻末を勉強してくださいな。私も親鸞から教わっているだけですからね。教行信証は難しすぎますか?
225渡海 難 :2000/08/27(日) 09:36
223 時々さんへ
> 人を善なる方へ導く真理が阿弥陀仏であると言う事でしょうか?悪い方へ導く真理は阿弥陀仏では無い。悪い方へ導くものは真理とは言わない。

 ウーン。難しい質問ですね。私は善とか悪とか言われてもよく分からないんですよ。何が善で何が悪か。  (^^ゞ

>真理とは、神とは、霊魂とは、福とは、これらの問いに答は無いと私は思っています。
    そうですか。色々な考え方があっていいでしょうね。
226名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 09:39
>214
>お坊さんのお話を「ちんぷんかんぷんだ」とか、「宇宙人の寝言だ」とか評すると、「煽りだ、ちゃかしだ、罵りだ」と言われ、インターネットで瞬時に「被害者の会」が結成されます。
瞬時に「被害者の会」が結成されます。
どこのサイトで結成されていますか?瞬時に結成されたサイトを貴方は知っているのですか?
少なくともサイトは瞬時には完成出来ませんよ。貴方の言う瞬時とは、何秒ですか?
214は、浄土真宗のお坊さん全て対象とした発言ですか?
何故、浄土真宗のお坊さんは恐いのでしょうか?
214の発言だけでは、全く理解出来ません。なぜ浄土真宗のお坊さんは恐いのか
具体的に述べて下さい。
222さんの発言と同じ気持ちです。スレッドでの貴方の発言を今一度、読み返して
欲しい。矛盾点を指摘しても、貴方には、聞く耳すら持たないようです。
坊主憎ければ袈裟まで憎し。貴方は、そう言う在家さんで、何を発言しても構わないが、
分からない点を、その他さんなり、お坊さん達の発言に噛み付いているだけの
不要な言葉だけだと感じますよ。
議論の場だったら、貴方自身で、やっぱりスレッド作った方が宜しいかと思います。
227名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 09:44
>224
>あなたは「怨霊」という存在を認めるのですね。

>「怨霊」というと従来の真宗の用語と不一致だと言われるかも知れません。用語統一の意味で鬼神と言い換えましょうか。でも、最近は鬼神なんて言葉はマスコミでも言わないもんなー。
>詳しい説明は後日行いましょう。もし、お坊さんなら、教行信証の化身土巻末を勉強してくださいな。私も親鸞から教わっているだけですからね。教行信証は難しすぎますか?

何処が明確な答えになるのか分かりません。認めたのか、認めていないのか
はっきり、述べて下さい。
228名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 10:01
>224
>ある人が死んだらたまたま神様になっていた。そういうことがある。
>明治天皇や東郷元帥のようにね。

仏教の教えからどうしてこういう説が出てくるのかを説明しなければなりません。
お経や菩薩・大師・聖人・上人と呼ばれている仏教思想体系にもとづいた立証が必要
です。
あなたの単なる空想をお釈迦さんや親鸞さんの説だなんてのは立証になりません。
また、自分は仏陀や親鸞の生まれ変わりだなんてのも駄目ですよ。

あなたが自分の空想を世間に発表したいんだったら別スレを立ててください。
そうしないと迷惑です。
229名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 10:58
今の時代、坊主は不要だ。
230青道心(予定) :2000/08/27(日) 12:29
今日初めてこのページ(?)を読みました。僕は今年得度をしようと思っていたので、なかなか、いろいろ参考になります。ちなみに僕は本派です。僕は普通の在家の出身で、今もこれからも所謂俗世間の仕事は続けるつもりです。師僧になってもらった先生からも、坊主で食べよう
とは思うなっていわれてます。だから、僕自身の得度の目的は仏教徒として如何に生きるかを実践したいと思っているからです。そこで質問があります。真宗の法話はなんであんなにも真宗の信心のことだけしか(ちょっと言い過ぎ)いわないんでしょうか?釈尊の教えはいかに正し
く生きることですよね。そこんところも、もう少し話してもいいと思うのですがいかがなものでしょう?
231名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 12:40
ただでさえ長いお経で足が痺れているのに
面白くも何ともない法話を長々聞かされたら、そりゃ印象悪くなるわ

俺はスポーツやってたせいで足が太くてあぐらでも痺れるんだわ
市販の正座椅子も使えないし

いつも「早く終われ…」と思っているよ
232名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 13:47
>229
理由によっては賛同できるし、理由によっては違うと思う。
233名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 13:51
>230
たまたまあなたがそういう法話にしかであっていないというだけのことでしょう。
234ニセその他 :2000/08/27(日) 13:58
>221の渡海さんの神の話は、ごくまともな意見です。
それに対する222,227,228の反論は、まるで渡海さん自身が書いたような反論ですね。
あなたはいつもこういうような反論をされているのですよ。ひょっとしたら自作自演でしょうか。
それはともかく、今の状態は「渡海難を問う」というスレッドのようなので、もうやめにしたらどうでしょうか。
青道心(予定)さんに先輩として何か書こうと思っても、渡海さんがあれこれ口をはさむだろうし、それに反論していれば、元の話がなんだったのか分からなくなるし。
できたらどこかへ引っ越して下さい。
235ニセその他 :2000/08/27(日) 14:17
>233
そんなことを言うからいけない。たまたまではないと思う。
>231さんの言うことはもっともだと思います。
質問ですが、どういう法話だといいと思いますか。
236名無し :2000/08/27(日) 14:33
>224
>もしかするとお坊さんでしょうか?。浄土真宗のお坊さんですか(笑)。まあ、どうい
>う素性の方でもいいでしょう。

>もしお坊さんなら、もっと勉強してください。在家の方には「もっと勉強してくださ
>い」なんてことは言いませんよ(笑)。

>お坊さんでなければ言いません。お坊さんだったら知っておいてください。

>もし、お坊さんなら、

単なるあなたの根拠のない想像による全く意味のないごまかしです。
質問者がお坊さんであるか、一般人であるかということと、あなたの主張が正しいか正し
くないかということは無関係です。
これこそあなたがしつこく主張している論理のすり替えです。

>少し難しいかも知れませんね。ちょっと考えると難しくないんですけどね。

>教行信証は難しすぎますか?

単なるROMするもの(質問者)を小馬鹿にするだけの煽りの言葉に過ぎないでしょう。
237名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 15:10
>230
本当に聞きたかったら聞けばいい。
238渡海 難 :2000/08/27(日) 16:41
226さん
>瞬時に結成されたサイトを貴方は知っているのですか?

 http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=964403775&ls=50 の226です。

>少なくともサイトは瞬時には完成出来ませんよ。貴方の言う瞬時とは、何秒ですか?

 渡海難を問うの226でも冗談的に書いているんで、こちらも半ば冗談で返したつもりなんですがね。瞬時とは、何秒ですか?などと定量的に聞いて来ましたね。返答に窮する質問を浴びせたいですか。シャレが通じなかったようですね。こちらにも原因がある。まあ、被害者の会でも何でも作ってくださいな。どうせシャレでしょう。

>浄土真宗のお坊さん全て対象とした発言ですか?

 そんなことはありません。そんな風に聞こえますか。俺は違うぞというお坊さんがいれば是非出てきて欲しいですね。出てきてくれないと、全てを対象としているような感じないなりかねない(笑)。

>何故、浄土真宗のお坊さんは恐いのでしょうか?
 204を見てください。
>>「もっと人に分かる言葉で書け」と私が言いましたか? >宇宙人の言葉だ、ちんぷんかんぷん、その他もろもろ。

 宇宙人の言葉だ、ちんぷんかんぷんだというのは、「もっと人に分かる言葉で書け」ということなんですか。命令ですか。単なる私の感想ですよ。宇宙人の言葉だ、ちんぷんかんぷんだというのは、「もっと人に分かる言葉で書け」という意味を取る採らないのは本人の勝手だけど、それで不快感をぶつけられても私は困ります。
 私は命令なんかしていませんからね。私は命令なんかしていなのに、お前は俺に命令しているなんて風にインネンつけられたら恐いですよ。この人は一体、何考えているんだとうということです。

>222さんの発言と同じ気持ちです。スレッドでの貴方の発言を今一度、読み返してしい。矛盾点を指摘しても、貴方には、聞く耳すら持たないようです。

 貴重なご指摘に感謝します。こちらも襟を正さなければいけないところはあるでしょうね。

>坊主憎ければ袈裟まで憎し。

 そんな気持ちはありません。言いがかりです。貴方には、聞く耳すら持たないようですけどね。

>貴方は、そう言う在家さんで、何を発言しても構わないが、分からない点を、その他さんなり、お坊さん達の発言に噛み付いているだけの不要な言葉だけだと感じますよ。
     貴重なご感想でしょうね。

>議論の場だったら、貴方自身で、やっぱりスレッド作った方が宜しいかと思います。

 ご助言感謝します。管理人さんから苦情がこない限り、今その気はありません。
 私は質問をお寄せいただけばお寄せくださった掲示板に返答を書きます。貴方が別の掲示板に渡海宛の質問を書いてくだされば、そちらで回答するでしょう。ただし、私が気がつけばの問題ですが。
239渡海 難 :2000/08/27(日) 17:32
234 ニセその他さん
>221の渡海さんの神の話は、ごくまともな意見です。
     光栄です

>それに対する222,227,228の反論は、まるで渡海さん自身が書いたような反論ですね。
     まさか(笑)

>あなたはいつもこういうような反論をされているのですよ。
     大きなお世話です。

>ひょっとしたら自作自演でしょうか。
     不愉快です。

>それはともかく、今の状態は「渡海難を問う」というスレッドのようなので、もうやめにしたらどうでしょうか。
     誰に向かって言っていますか?

>青道心(予定)さんに先輩として何か書こうと思っても、渡海さんがあれこれ口をはさむだろうし、それに反論していれば、元の話がなんだったのか分からなくなるし。

 渡海が口をはさまなくても、他の人が口を挟んで元の話がなんだったのか分からなくなるでしょう。ひそひそ話をインターネットの掲示板でやろうなんてことを考えること自体が非常識。ひそひそ話は暗号メールでも使ってやりなさい。

>できたらどこかへ引っ越して下さい。

 大きなお世話です。嫌なら貴方の方こそ余所に行きなさいよ。PART2は渡海が起こしました。その証拠に、No1の古い書き込みのURLは渡海のホームページにリンクしています。
240渡海 難 :2000/08/27(日) 17:33
>235 ニセその他さんへ
>そんなことを言うからいけない。たまたまではないと思う。
       ひさしぶりにここは貴方と同意見です。
241渡海 難 :2000/08/27(日) 18:02
236さんへ
>単なるあなたの根拠のない想像による全く意味のないごまかしです。
      どこがごまかしですか?

>質問者がお坊さんであるか、一般人であるかということと、あなたの主張が正しいか正しくないかということは無関係です。
      当たり前です。

>これこそあなたがしつこく主張している論理のすり替えです。
       どういう主張を別のどんな主張にすり替えていますか?

>単なるROMするもの(質問者)を小馬鹿にするだけの煽りの言葉に過ぎないでしょう。

 あのねー。222さんはなんて言っているんですか?
 「福というのは目新しい言葉で、仏教では普通使われない言葉だと思います。」なんて言ってるんですよ。ご本人はどこまで仏教が分かったつもりでいるんですか?。私は、この態度に猛省を求めたいんですよ。
 私だってロクに知ってる訳じゃないけど、こういう風にあたかも自分は仏教を知っているぞというような態度をとられると、こちらにも言いたいことがことが出てきます。
 福というのは福徳という言葉で親鸞だって七〇〇年も昔に議論しています。今回のこちらの221のレスは、親鸞が行っている議論をベースに極めて古典的にオーソドックスに展開してるだけでしょ。目新しいところありますか?
 福という言葉が普通に使われているかどうかなんてことを222さんが知っているかどうかは問題じゃないですよ。222さんが、自分だけ仏教が分かったつもりでいるというのも勝手ですけど、分かったと思ったら、それだけ謙虚になりなさい。それでないと馬鹿にされるだけですよ。そういうメッセージだったんですよ。
 222さんは、「怨霊」という存在を認めるのですね、なんて依然、馬鹿な質問しているでしょ。仏教では普通使われる言葉を自分は知っているというなら、親鸞の鬼神観は自分の中でその存在の証明をどう処理してるんですか。この辺が問われていなければ嘘でしょ。
 まあ、教行信証を読む読まないは本人の自由です。物知り博士が救われていくんじゃない。読書家が救われていくのでもない。読まないなら読まないでいいですよ。それなら167のその他さんのように謙虚に質問したらどうですか。そういうメッセージだったんです。
 「あなたは、自分のカキコを読み返していますか?…支離滅裂で、結局「神」がなんであるのかわからないし、「神」がいるのかいないのか、答えにすらなっていない」などと失礼千万じゃないですか。自分は仏教で普通に使われている言葉は知っている。お前は支離滅裂だと言うなら、親鸞はどんな議論をしているのか、福徳とか鬼神とかも教行信証で一応確認した上で書き込みしなさいよ。それでも遅くはないでしょ。教行信証で親鸞は難しい議論をしていますか。そうじゃないでしょう。そういうことなんですよ。
242¥5さま :2000/08/27(日) 18:22
>221の渡海さんの神の話は、ごくまともな意見です。
と、その他 さんは、渡海さんの説明が分かったと言われます。
私には、正直なところよくわかりませんでした。

私が、「分かった」といっても、渡海さんの説明を私が誤解して正しいと勘違いしている
のかもしれないし、本当に正しいのかもしれません。
私が、「分からない」といっても、私に渡海さんの文章の意図するところを読み取る読解
力がなくて分からないのかもしれないし、渡海さんの説明不足で分からないのかもしれな
いし、説明自身に間違いがあるのかもしれません。

私たちが互いに交わす言葉とはそんなあやふやなものでしょう。
243¥5さま :2000/08/27(日) 18:24

私の独り言、感想ですから、渡海さんのレスはけっこうです。
244¥5さま :2000/08/27(日) 18:31
>PART2は渡海が起こしました。

私はてっきり南無さんが新たに起こされたのだと思い込んでいました。
>1はそういう勘違いをされてもしかたないんじゃないですか?
私は南無さんじゃないのでこれ以上はいいませんが、少々問題があるように思いますが・・・。
245222 :2000/08/27(日) 18:49
岩波仏教辞典
福徳 ふくとく [s:pu_ya]
 原義は,善いこと.〈_功徳(クドク)〉とも漢訳される.善い行い,もしくは,それがもたらす善い報いのこと〔増一阿含経(清信士品)〕.また,他者に恵みをもたらす善行・功徳を意味することもある〔須真天子経(1)〕.__大智度論_(巻15)は,_仏の_法門を〈福徳門〉と〈智慧(チエ)門〉に,また_大宝積経(ダイホウシヤクキヨウ)(巻49)は〈福徳資糧(シリヨウ)〉と〈智慧資糧〉にそれぞれ大別しているが,この福徳門・福徳資糧は_布施(フセ)・_持戒(ジカイ)・_忍辱(ニンニク)の三_波羅蜜(ハラミツ)をさす._華厳経(ケゴンギヨウ)(巻26)では,八地以上の_菩薩(ボサツ)が現ずる福徳成就の身体を〈福徳身〉と呼称している.なお漢語としての〈福徳〉は,_鬼神や統治者などがもたらす幸いや恵み.用例は_漢書_(孔安国伝)などに見える._五戒を持(タモ)たむ人の福徳限りなし_〔今昔(2_26)〕

私の家にある岩波仏教辞典「福」という項目がなかったので、仏教用語として使われているとは思いませんでした。
私の不勉強は謝りますし、教えていただいたことには感謝します。

でも、だからといって、私が浄土真宗坊主であるというのはあなたの勝手な決めつけで空想でしかありません。
自分の空想を事実であるかのように決めつける傲慢な態度は改めるべきです。
246ニセその他 :2000/08/27(日) 19:29
渡海難さんへ
多くの名無しさんたちは、人のいやがることを書いて喜んでいるのですが、これがいかに人を傷つけるか知っているのでしょうか。イジメと同じだと思います。
渡海さんも同じ傾向があると思います。あなたとしては間違いを指摘しているのでしょう。しかし人を不愉快にさせていると指摘されれば、開き直るのではなくもっと違った言い方で会話をしてもらえないでしょうか。
実質的には、「渡海難との会話」というスレッドになってしまっているわけで、親鸞の教えを語るスレッドに戻せたらと思っています

>239
>>あなたはいつもこういうような反論をされているのですよ。
 >大きなお世話です。
たとえば
>222の
>あなたは「怨霊」という存在を認めるのですね。
という質問に対して
>241で
>222さんは、「怨霊」という存在を認めるのですね、なんて依然、馬鹿な質問しているでしょ。
と答えておられますが、あなたも同じようなことを私に言われましたよ。
それと、申し訳ないですが167の私の質問は単なる皮肉です。
247名無しさん@1周年 :2000/08/27(日) 19:48
>自分だけ仏教が分かったつもりでいるというのも勝手ですけど、分かったと思ったら、それだけ謙虚になりなさい。それでないと馬鹿にされるだけですよ。

自分だけ仏教が分かったつもりでいるというのも勝手ですけど、分かったと思ったら、それだけ謙虚になりなさい。
それでないと嫌われるだけですよ。


248ニセその他 :2000/08/27(日) 19:57
>242の¥5さまは
>221の渡海さんの神の話がよく分からなかったそうですが、
それなら私が書いた霊魂がどうのといった話も分からないのでしょうね。
そうなると門徒さんにはとうてい理解してもらえないですね。
いささか寂しいです。
249¥5さま :2000/08/27(日) 20:02
いきなり問われても何のことだか分かりません。
250¥5さま :2000/08/27(日) 20:17
>>17 でしょうか?
折口信夫の三種の霊魂は理解できません。
251¥5さま :2000/08/27(日) 20:51
その他 さんへ

>>221 について

>神様はいます。
>鳥居のあるお社に行ってみてください。
>神様はちゃんといらっしゃるでしょう。

私の頭の程度では、この言葉だけでパニックです。

>福が備わると神様として祀られます。

>亡くなった方も、何かの原因で不運に見回れると怨霊として恐れられます。

このあたりの言葉が理解できないんです。

> かつて、死と帰・・・

ここからはたぶん私の理解もそう遠くないものだと思います。

怨霊の説明をしながら、霊魂については自分は論議する資格はないというのが理解でき
ません。
252渡海 難 :2000/08/27(日) 20:52
>244 ¥5さま
>少々問題があるように思いますが・・・。
    どのような?
253渡海 難 :2000/08/27(日) 20:54
>245 222さん
>私の不勉強は謝ります
いやいや、謝られるようなことじゃー  ナインデスヨネ m(_ _)m  (^^;ゞ

>教えていただいたことには感謝します。
   いえ、いえ。  (^^;ゞ

>自分の空想を事実であるかのように決めつける傲慢な態度は改めるべきです。

 私は浄土真宗坊主であるかのように貴方を勝手に決めつけた覚えはありません。自分の空想を事実であるかのように決めつける傲慢な態度は改めるべきです。
254渡海 難 :2000/08/27(日) 20:55
246 ニセその他さんへ
>開き直るのではなくもっと違った言い方で会話をしてもらえないでしょうか。
    改めるべきところはあるかも知れませんね。

>実質的には、「渡海難との会話」というスレッドになってしまっているわけで、親鸞の教えを語るスレッドに戻せたらと思っています
    はて。どうしたらいいものか。

>あなたも同じようなことを私に言われましたよ。
    仰っている意味が分かりません。

>申し訳ないですが167の私の質問は単なる皮肉です。
    何を、今更。
255渡海 難 :2000/08/27(日) 20:57
247さんへ
>自分だけ仏教が分かったつもりでいるというのも勝手ですけど、分かったと思ったら、それだけ謙虚になりなさい。それでないと嫌われるだけですよ。
     ブーメラン効果? 他人を斬れば自分も斬られる、か。  (-。-;)
256名無しさん@1周年 :2000/08/28(月) 17:29
てこ
257名無しさん@1周年 :2000/08/28(月) 19:02
>PART2は渡海が起こしました。
旧URLなんて見ていなかった。スレッド保存しているから。

ここは、渡海スレッド・・・・・・・・・・・・・・・・・。

南無さん、新しくスレッド立て下さい。多くの人が
希望していると思います。
258南無 :2000/08/28(月) 19:55
>257です。

元々「私、坊主してます」のスレッドは教義論争を目的にしたものでは
ありませんでした。寺(坊主)と一般社会(門徒)との接点をIN上に
開こうと考えたものです。確かにこの数ヶ月の間、このスレッドは気軽さ
が喪失しているように思われます。雑談的な内容を目的としたものを
「坊主の談話室」という名で別のスレッドとして立ててみます。
259渡海 難 :2000/08/28(月) 19:58
257さんへ
 あなた、自分でホームページを作って、そこに会員制の掲示板を起こしなさいよ。
 渡海は貴方が管理するホームページの会員にはなりませんから、ね。
 オープン形式の掲示板はだめよ。貴方が不愉快に思う人がいつ書き込んでくるか分かりませんよ。
260渡海 難 :2000/08/29(火) 07:19
>222さんへ
>あなたは「怨霊」という存在を認めるのですね。

 怨霊、龍、阿修羅、夜叉、梵天、毘沙門天、魑魅魍魎、こういうもろもろの精神達の存在を否定して浄土教は語ることができません。肉体の誕生は決してその人の始めての誕生でなく、肉体の死は決してその人の最後の終着点ではないはずです。こうしたことも併せて考えられるべきでしょう。
 道理にかなった正しい経営を行った創業者は、肉体が死んだ後もしばしば企業経営に大きな影響力を与えることがあります。企業経営に行き詰まると、現役経営者達は、創業者の精神に戻ってものごとを考えて経営戦略を立てます。その意味で、創業者は、しばしば経営の神様、経営の原点と呼ばれ、現役経営者以上の発言力を有します。
 死んだ後、現役経営者に大きな心理的な重圧をもたらす創業者もいることでしょう。企業を不法に乗っ取った二代目経営者などは、経営に行き詰まれば、非業の死を遂げた先代創業者の影に怯えだすということもあるかもしれません。菅原道真が神として祀られるようになったのは、非業の死を遂げた後に天変地異が続いたという事情があったそうです。
 亡くなった創業者が、現役の経営者以上に経営方針に発言力を持つことがあるということは、霊魂論を持ち出す話ではないでしょう。創業者が、生前、立派な人だったということに過ぎません。そうであれば、現役経営者に大きな心理的な重圧をもたらす場合も、霊魂論を持ち出すような話ではないでしょう。創業者が、生前、立派な人だったということに過ぎないででしょう。
 亡くなった創業者が企業経営に大きな発言力を持った神様となるか、現役の経営者に重圧をもたらす怨霊となるか、偶然によることも多いでしょう。菅原道真は、死んだ後に怨霊として恐れられ、その後に神として祀られました。偶々都で起きた落雷事故が原因だそうです。
 神も怨霊も、生死生死をくり返す人間の迷いとともに存在するものでしょう。私はそう思います。念仏者達は、古来、神や怨霊の問題を扱いながら、自らの愚かさに気付こうとしてしてきました。
261ニセその他 :2000/08/29(火) 12:08
>250の¥5さま へ
> 折口信夫の三種の霊魂は理解できません。
ということですが、これは「折口信夫全集20巻」中公文庫と「柳田国男全集13巻」ちくま文庫 とを読んで、日本人はこういう霊魂観を持っているんだな、と思っていただくしかないです。理屈ではなく感情ですから。その後に五来さんの本を読むと、日本人の習俗はこういう意味なのかと納得できますし、
>>福が備わると神様として祀られます。
>>亡くなった方も、何かの原因で不運に見回れると怨霊として恐れられます。
>このあたりの言葉が理解できないんです
このあたりが理解できます。くどいですが阿満利麿の本は勉強になります。
もう少し書きたいのですが、時間がないのでまた後で。
262222 :2000/08/29(火) 12:15
神様はいます。鳥居のあるお社に行ってみてください。
>神様はちゃんといらっしゃるでしょう。

私には、「私のこころを離れた実在としての神」の存在を認めているのだと読めたのです。

同様に、
>亡くなった方も、何かの原因で不運に見回れると怨霊として恐れられます。
という文章から、「怨霊」という「霊魂」の実在を認めた文章であると読めたのです。

間違っているかもしれませんが、あなたは神も怨霊などは私のこころがつくりだしたもの
だとおっしゃっておられるのでしょうか?

それにしても、あなたにレスを付けるのはとても気を使いますね。
頭ごなしに叱られそうで怖いです。
あなたはご自分で渡海 難は神のように優しいと思ってらっしゃるかもしれませんが、私
にすれば馬声を浴びせかける鬼としてのイメージが強いです。(失礼ですが・・・)
263¥5さま :2000/08/29(火) 12:55
>261 ニセその他さん
わたしも222さんと同様で、神も怨霊も外界に存在するものという説明だと理解していました。
福とか不幸とか不運ということばは勉強不足でイメージできません。

なにぶん田舎なので本を求めるのも大変です。
近くに本屋さんがあって、注文するのですが、届かないということが多いのです。
最近はクロ○コブックサービスを利用しているのですが、内容を確認できないので・・・。
264222 :2000/08/29(火) 15:25
>262 は 260 渡海 難さんへのレスです。

とりあえず、あなたのおっしゃりたかったことはわかったつもりです。
265ニセその他 :2000/08/29(火) 18:08
>¥5さまへ
人はたたりやバチを怖れます。なぜならそれらによってよくないことが起こるからです。
たたりをおこすのは、神や霊。
バチが当たるのは、過去の行為、前世の因縁の報い。神による懲らしめ。
ですから親鸞は『歎異抄』第7章に、
「信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず」
とあるように、たたりやバチを怖れる必要がないことを説かれました。
「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」が、たたりのことですし、
「罪悪も業報を感ずることあたわず」が、バチのことです。
こういったことは¥5さまもご承知の通り。
たたりやバチのことを言う人に、霊とか神とはこういうことですよと教えて理解してもらえたら、それらを怖れなくてもすむようになると私は思っていました。
それで神のことですが、4種類あると思います。
1,山、岩、木などの自然崇拝
2,打撃の神様、スリの神様といった言葉があるように、普通の人よりも何か優れたものを持っている人
3,先祖霊が氏神となる
4,たたりをもたらす霊を神として祀ることにより、災いがなくなるようにする
1ですが、渡海さんの言う福とは、自然に対する畏敬の念と言ってもいいかもしれません。
2に含まれるのが乃木や東郷でしょう。
天皇の先祖である天照大神は3に含まれます。
4のたたり神ですが、災いをもたらすものを神として祀ることを御霊信仰といいます。京都に御霊神社があるでしょう。菅原道真、佐倉宗五郎などもそうですし、靖国神社もそうです。
渡海さんが怨霊云々と言われたのは、この4の神です。怨霊になる原因とは>17に書いた3種の霊魂のうちB、つまり不完全な死、中絶した生(横死・不慮の死・呪われた死など)、この世に思いを残した死といった場合です。
などとよく知っておられるであろうことを長々書きましたが、¥5さまはどのように分からないのでしょうか。教えて下さい。
266しあわせ :2000/08/29(火) 18:14
南無様

仏教の葬儀の時、手の平をあわせますが
どういう意味があるんですか。
267南無 :2000/08/29(火) 18:57
>266です。

 >「手の平をあわせます」

これは合掌のことでしょうか?
合掌ならば「敬う」という意味です。
268¥5さま :2000/08/29(火) 19:40
>265 その他さん

>神様はいます。鳥居のあるお社に行ってみてください。
>神様はちゃんといらっしゃるでしょう。

>人はたたりやバチを怖れます。なぜならそれらによってよくないことが起こるからです。
>たたりをおこすのは、神や霊。
>バチが当たるのは、過去の行為、前世の因縁の報い。神による懲らしめ。

こういう言葉が文章の頭にくると、「この人はたたりやバチを怖れている。神や霊を信じ
ている。因果応報を説いている」と思い込み、ずっとその最初の思い込みのまま文章を読
んでしまうから、誤解するのではないかと思います。
その最初の思い込みが、その後に続くそれら例題を否定する文章の展開を意味不明なもの
にしている大きな原因ではないかと思います。

>福が備わると神様として祀られます。
>亡くなった方も、何かの原因で不運に見回れると怨霊として恐れられます。

これらの文章は、私の言葉に置き換えられないのです。
「多くの人々から幸福を与えてくれるものだと認められると神様として祀られます」
「人々から、未練、悔い、怒りがあると想像されると怨霊として恐れられます」
と言い換えて間違いがなければ、理解できます。
221の文章では、神が福を備えて自ら神となったのか、人間が福が備わっていると考え
て神としたのかが読み取れないのです。怨霊も同様です。
269ニセその他 :2000/08/29(火) 20:29
>¥5さまへ
知ったかぶりのことを書いて申し訳ありません。
私の息子の家庭教師(同世代です)は大川隆法などの教えを信じています。現世で苦しい目にあうのはその人の過去の因縁だという考えです。
バチではないそうです。死んだ後、今度の人生においてこういう人生をしようと選んで、現世の人生を過ごすと言うのです。先天的障害者も自分で選んだというのです。虐待される子供も前世でこういう悪いことをしたから、来世でこういう生き方を選んだということらしいです。
霊とか神とか理屈を言うことができるのですが、前世がどうのということは否定するにしても、結局水掛け論に終わります。
こういう考えをする人に対してどう言ったらいいでしょうか。
それとお節介ですが、手に入らない本は図書館を利用されてはいかがですか。私はほとんどの本は図書館から借りて読んでいます。
270渡海 難 :2000/08/29(火) 22:01
>262さん
>私には、「私のこころを離れた実在としての神」の存在を認めているのだと読めたのです。

 そうですか。
 鳥居がある。社殿がある。こういうことは、鳥居や社殿を作った方がいたわけでしょう。鳥居や社殿を作った方がいたということは、ここに神様が居ると思った心、ここに神様を安置しようと思った心があったわけでしょう。神様が居ると思った心に沿って考えれば、神様が居ると思った心には神様がいるわけでしょう。神様を安置しようと思った心に沿って考えれば、神様を安置しようと思った心には神様がいるわけでしょう。いかがでしょうか。
 神様が居ると思った心、神様を安置しようと思った心、こういう心では、自分の心を離れて独立的に神様は実在すると思っているのではないでしょうか。自分の心を離れて独立的に神様は実在すると思われているという事実は大事にしたいと思います。

>間違っているかもしれませんが、あなたは神も怨霊などは私のこころがつくりだしたものだとおっしゃっておられるのでしょうか?

 作り作られる関係で言えば、むしろ反対でしょう。私のこころこそ、神や怨霊によって作られると考えるべきでしょう。神や怨霊を作り出すものは、私の心でなく、無知そのものでありましょう。無知ではなく無明という言葉の方が仏教学的には適切かも知れません。無明が神や怨霊を作り出し、我が心はこの神や怨霊によって作られるという考えの方が多分正しいと思います。
 こちらでは議論に自分の直感が先に走っている感じがしています。理論的な説明に甘さがあります。巧く説明できません。後日、分かりやすい説明ができるようになるかもしれません。逆に、自分の考えを撤回するかも知れません。ただ、今の時点では、このように直感しています。

>私にすれば馬声を浴びせかける鬼としてのイメージが強いです。

 私にも貴方に同じような感じがあります。
<常識であるかのように「福」という概念を持ちだされていますが、「福」というのは目新しい言葉で、仏教では普通使われない言葉だと思います。その「福」という概念を突然持ちだされても理解できません。先ず、「福」という概念の説明をしてください。あなたは、自分のカキコを読み返していますか?疑問の一部を上げさせて貰いましたが、はっきり言って支離滅裂で、結局「神」がなんであるのかわからないし、「神」がいるのかいないのか、答えにすらなっていないと思うのです。>
 発言には喧嘩腰のような感じがありました。
271222 :2000/08/29(火) 22:57
>270 渡海さん

>>私には、「私のこころを離れた実在としての神」の存在を認めているのだと読めたの
>>です。

“自分の心を離れて独立的に神様は実在すると思われている”のは、“鳥居や社殿を作っ
た方”でしょう。
私が問題にしているのは、渡海さんの認識です。
渡海さん自身が、「私のこころを離れた実在としての神」の存在を認めているように読め
たと言っているのです。

>>間違っているかもしれませんが、あなたは神も怨霊などは私のこころがつくりだした
>>ものだとおっしゃっておられるのでしょうか?

間違いかもしれませんが、“無知・無明から生まれる私のこころ”、“無知・無明な私の
こころ”と考えてはいけませんか?

これは反論ではありません。
私の発言が言葉足らずだったようなので・・・。
272¥5さま :2000/08/29(火) 23:39
>269 ニセその他さん
>知ったかぶりのことを書いて申し訳ありません。

イエイエ、何をおっしゃる。
>>>>248 >>265 その他さん、>>260 渡海さん のレスがなかったら、
多分私は、神や怨霊の存在を肯定した文章だと読み違えて、仏教(親鸞)的発想の文章だと
は読めなかったでしょう。
私こそ勉強させていただきました。

でも、新たな270の渡海さんのレスを読むと、やっぱり私の勘違いかもしれませんね。
今後の渡海さんの222さんに対するレスを待ちたいと思います。

渡海さんのご意見とは無関係に、その他さんは私の268の理解についてどう思われます
か?
その他さんの考えと同じでしょうか?違いますか?
273¥5さま :2000/08/30(水) 15:59
>269 その他さんへ
感想
どんなにひどい目にあっても、「前世の因果とあきらめる」といった消極的な宿命論
は、かつてはお説教の定番として語られ、常識化しているようです。
そこには、他から何も影響を受けずに独立して存在し続ける“不変の自己”が想定さ
れているように感じます。
前世の自己のそのままの延長線上に現世の自己が存在していると考えられているよう
です。
しかし、自己とは、瞬間瞬間に自分の業と縁によって新たに生まれ変わっている私で
しょう。
私たちの運命は、縁という偶然性に支配されているのでしょう。
渡海さんの言葉を借りると、今は幸福な私にも、いつの瞬間か、運命のいたずらによ
って不幸がやってくるかもしれないのでしょう。
いつ誰にやってきても不思議ではない不幸が、必然の運命とはいえないと思います。
「自分で自分の人生を選んだ」というのはとても傲慢な考えだと思います。
先天的な障害者、ダウン症や精神薄弱児、知的障害者・・・、生まれついての素質、性格、
体質などは、先祖・両親からの遺伝による影響ばかりではなく、現代でいえば、公害、
薬害、食品添加物、放射能汚染、農薬・・・などが原因であるものも多く、それらを前世
の業による必然だと決めつけるのは無理だと思います。

新宗教でよく取り入れられている概念ですが、因果応報、自業自得、輪廻転生、宿命・・・、難しいテーマですね。
274名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 16:03
坊主はなんで、髪の毛をつるつるに剃るんですか。
275名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 16:06
>274
頭にマジックで筋を引くとチンポ顔になるから。
276¥5さま :2000/08/30(水) 17:43
>274
一言で言うと、お釈迦さんが髪を剃っていたからです。
どうしてお釈迦さんが髪を剃ったのかというと、古代インドの風習で、出家して修行をす
る人の多くが髪を剃っていたので、お釈迦さんもそうしたということです。
髪をきちんと整えるというのは、社会生活を営む上では必要なマナーです。
出家するというのは、社会生活、世俗の生活を捨てるということです。
そこで、自分はもう今までの自分ではない、世俗とはきっぱりと縁を切ったということを、
自分にも、世間にもはっきりと示すために、世俗の生活のシンボルともいうべき髪を剃っ
たということです。
しかし、インドでは必ずしもつるつる頭にしなければならないということではなかったよ
うで、お釈迦さんは指の節2つ分ほどの長さであったといういうことです。
ちなみに浄土真宗では、宗祖親鸞聖人が、お坊さんでもなければお坊さんでないのでもな
い(非僧非俗:ヒソウヒゾク)ことを宣言したため、得度式(お坊さんになる儀式)以外は髪を剃
らなければならないということはありません。
277274 :2000/08/30(水) 18:00
お返事ありがとうございました。
なーるほど。つるつるにする事はないんですね。
確かに仏像はパンチパーマみたいですね。
278¥5さま :2000/08/30(水) 18:33
>277
そうなんです。
仏像のパンチパーマみたいな髪型を「螺髪(ラホツ):巻き貝のような髪」といいます。
279触媒 :2000/08/30(水) 19:24
人間が存在を証明できるような神は無いでしょう。
私は超越的なもの、神と言っても良いと思いますが、そう言うものは
あるんじゃないかと思っています。
なぜ掲示板に書き込みしている”私と言う意識”があるのかと言う疑問は
超越的なものがあるほうが納得できるのです。
280渡海 難 :2000/08/30(水) 19:49
271さん
>渡海さん自身が、「私のこころを離れた実在としての神」の存在を認めているように読めたと言っているのです。
      なるほど。

>“無知・無明から生まれる私のこころ”、“無知・無明な私のこころ”と考えてはいけませんか?

 御質問の焦点がよく分かりません。神や怨霊の本質を聞いてくださっているのでしょうか。渡海はどういうふうに考えているのか。「神や怨霊は自分の心の投影であって、自分の心というのは無知・無明から生まれる」と考えている。渡海の思考プロセスはそういうことでいいかという趣旨の御質問でしょうか。
 試論として言わせてください(変動する可能性はあります)。
 無知・無明から直接的に心が生まれるとは私は思っていません。心は、動きを待って形成されるものと考えています。
 我々は様々な心をもっています。Aは好きだがBは嫌いである(好き嫌い)。自分はかくかくしかじかの人間である(アイデンティー)。Xをやりたいが、Yはしたくない(意思・願望)。
 こうした心はどうして形成されてくるものでしょうか。我々(自我)自身は心の主体です。しかし、心の形成に当たって我々は自由意思を持ちません。好き嫌いの形成、アイデンティーの形成、意思・願望の形成、こうした形成に自我の自由意思の発動の余地はなく、自我に選択の自由はありません。気が付いたとき、特定の好き嫌い、特定のアイデンティー、特定の意思・願望を我々は持っていたというのが普通です。神や怨霊を恐れる心も、通常は気が付いたときに抱いていたものでしょう。
 神や怨霊があると言う人々は、神や怨霊を恐れる心を併せ持っているようです。神や怨霊を恐れる心を前提に持っていて、神や怨霊を恐れる心に支えられ、神や怨霊の存在を信じるようになっているようです。神や怨霊を恐れる心が無い人の場合は、恐れるべき神や怨霊などは無いと思っているのではないでしょうか。
 神や怨霊を恐れる心はどうして生まれるのか。それは神や怨霊の働きでしょう。こうした神や怨霊の働きは、霊魂の有無に関係なく、十二因縁で無明の次にくる行という概念に当たるものではないかと思います。
 自分はリンゴが好きだという人がいます。その人は、「自分はリンゴが好きという嗜好を持とう」という希望があってそれを実現したものではないでしょう。そういう心が形成される前に、何らかの動き、例えば旨いリンゴを食べたという具体的な動きがあったはずです。心(識)は、行を因として形成されものだと思います。創業経営者を経営の神様のように思った心、あるいは怨霊のように思った心には、その形成以前に、創業経営者の神業のような経営手腕の具体的発揮事例があったはずです。
 無明は、心(識)の直接の因でなく、直接的には行の因に位置します。旨いリンゴを食べたからと言って、百人が百人ともリンゴ好きになるわけではありません。リンゴなどは見るのも嫌と言い出す人も中にはいるかも知れません。創業経営者の神業のような経営手腕の具体的事例があったとしても、百人が百人とも創業経営者を神様のように思うわけではありません。馬鹿にして、軽蔑した人もいたかも知れません。なぜでしょう。当てにならなさというのがあるからでしょう。どんなリンゴを食べても、好きなる人もいるし嫌いになる人もいる。どんな優れた経営実績を示しても、尊敬する人もいれば馬鹿にする人もいる。リンゴをたべるという行為、あるいは企業経営をするという行為、どんな行為も当てにならなさという部分(無明)を本質的に含んでいます。人に神を恐れる心を作るのは神業ですが、神業とは、当てにならなさ(無明)を本質的に含んでいる行為だということも忘れてはならないと思います。
 神や怨霊を恐れる心(識)は、こうした当てにならない行為、働き、当てにならない動きを因として生成されるものでしょう。
 神や怨霊は、心の投影であるという考えにも僕はやや抵抗があります。投影というと直接的な因果関係があるように感じます。僕は心(識)から名色・六処・触・受・愛・取・有・生という因果を経て神あるいは怨霊というものに達すると考えます。特に、取・有・生という論理の流れが不可欠だと思います。名色・六処・触・受・愛・取・有・生という因果則は説明が長くなりますので割愛します。心と神とは間接的につながるのであって、投影というような直接的な因果関係ではないと思います。いかがでしょうか。
281渡海 難 :2000/08/30(水) 20:16
279 触媒さんへ。
>私は超越的なもの、神と言っても良いと思いますが、そう言うものはあるんじゃないかと思っています。

 神と言っても良い超越的なものはあるという考えを持つことはおかしなことではないかもしれません。超越的なものはあるとか、無いとか言っても誰も証明できませんからね。
 ただ、僕は、梵王帝釈帰敬伝説に着目します。釈迦が悟りを開くと天の神々がお釈迦様に礼拝したというあの伝説です。釈迦は在世中、インドの巨大国家の国王に招聘されて政治顧問になったという話がモデルでしょうが、梵王帝釈帰敬伝説には、史実以上の哲学的な主張が含まれていると思います。
 梵天も帝釈天もあらゆる面でお釈迦様より勝っていたはずです。あらゆる面でお釈迦様より勝っていた梵天・帝釈天が、十二因縁の法理を悟ったお釈迦様に何を学びに来たのか。実は、たった一つだけお釈迦様にかなわないものがあった。それは何か。自分は愚かな存在であるということ、この認識だけは梵天・帝釈天はお釈迦様に叶わなかった。梵天・帝釈天がお釈迦様に学びに来たのは、ただひとつ。自分は愚かな存在であるということ、これを教わりにきたんだということでしょう。
 神と言っても良い超越的なものはあると考えるのはいいけれど、超越的なものからは、自分は愚かであるということは学べない。超越的なものからは学べないものを仏教からは学んでいきたいと思います。
282222 :2000/08/30(水) 23:52
>280 渡海 難 さん

>>270 で新たに無知・無明という言葉が加わったので、話題を単純化しようと思ったの
ですが、かえって渡海さんのこだわりを刺激して難しくしてしまったようで反省してい
ます。

「神や怨霊は自分の心の投影である」と渡海さんは考えている、そういう了解でいいかと
いう趣旨の質問でした。

渡海さんは十二因縁の識を、私のいう“こころ”と思われたようですが、十二因縁でいう
と無明から取あたりまでおおざっぱに引っくるめたものを“こころ”と表現しているとご
理解ください。(仏教学的に間違っているかもしれませんが)

で、大切なことは、
>リンゴを食べても、好きなる人もいるし嫌いになる人もいる。
>創業経営者を、尊敬する人もいれば馬鹿にする人もいる。
ということです。
創業経営者に認められて部長や常務に抜擢された人は、経営の神様として尊敬し続けます。
同じ創業経営者によってリストラされた人にとっては、人を見る目を持たない大馬鹿者で
しょう。
創業経営者は一人です。どちらが正しいのでしょう。
どちらも、あるがままの創業経営者を見ているわけではありません。
自分を認めてくれた人、自分を認めなかった人という色眼鏡で創業経営者を見ています。
>リンゴを味わうという行為、あるいは企業経営者を判断するという行為、
>どんな行為も当てにならなさという部分(無明)を本質的に含んでいます。
ということです。
私たちが、こころに思い浮かべている世界、あるいは理解している世界は、それぞれの人
の理解の世界であって、それがそのまま外界ではないということです。
あるがままにものを見ていない、自分のこころの色眼鏡でものを見ている、ということは、
自分のこころのつくり出したものを見ているということだろうと思います。

>誤解、思いこみが神を作る。怨霊を作ります。神も怨霊も、結局、無知を因として輪廻
>する天・畜生・餓鬼、地獄の部類でしょう。迷いのひとつだろうと私は考えています。

私のことばで、「神や怨霊は自分の心の投影である」と言い換えて理解して間違いないで
すね、という確認です。
たぶん、私とあなたはこれまで共通の共有できる言葉がなかったので、
互いの言葉を理解するために、互いに確認することが必要ですが、
互いにそれほど違うことを主張しているのではないと思います。
283渡海 難 :2000/08/31(木) 07:22
282さん
>かえって渡海さんのこだわりを刺激して
      こだわり? (^^ゞ

>おおざっぱに引っくるめたものを“こころ”と表現している

 おざっぱならそれでもいいかも知れない。でも、おざっぱの中の先人の細密な論理は大事にしたい。おざっぱでいいのは、細密な論理も分かった上ということにしたいです。

>どちらも、あるがままの創業経営者を見ているわけではありません。自分を認めてくれた人、自分を認めなかった人という色眼鏡で創業経営者を見ています。

 言葉尻をとらえるようだけど、僕はここではあるがままの創業経営者に触れていると理解したいですね。色眼鏡で創業経営者を見ているという言葉にも僕は抵抗がある、この段階は、色眼鏡以前の問題だと思う。十二因縁の論理は、僕はそのように受け取る。
 あるがままの創業経営者に触れてながら受け方に差異が生じる。これが無明性の本質だと思う。<確かにここはもっと議論があっていい。議論が行われると、僕の方は持論が維持できなくっなて考えを変える可能性はある。ただ、定説はかくかくしかじかだから、お前の説は間違っているなどと言う議論が出てくれば、僕は相手にしない>

>自分のこころのつくり出したものを見ているということだろうと思います。
     おおざっぱに言えばそういうことかも知れない。

>たぶん、私とあなたはこれまで共通の共有できる言葉がなかった
     捜す努力をしてこなかっただけでしょう。

>互いにそれほど違うことを主張しているのではないと思います。
     こちらは突飛な理屈を主張しているつもりはありません。
284>アホ教祖渡海難 :2000/08/31(木) 07:55
ああ、うざ
285222 :2000/08/31(木) 08:35
>283 渡海さん

>あるがままの創業経営者に触れてながら受け方に差異が生じる。
>これが無明性の本質だと思う。

あなたの考えは分かりました。
私は、282以上に申し上げることはありませんので、とりあえずこれで失礼します。
286¥5さま :2000/08/31(木) 09:26
>>221
>誤解、思いこみが神を作る。怨霊を作ります。
>神も怨霊も、結局、無知を因として輪廻する天・畜生・餓鬼、地獄の部類でしょう。
>迷いのひとつだろうと私は考えています。

私も、「誤解、思い込みという無知な迷いの心が神を作る。怨霊を作ります。」と読んで
いました。
外界の実存として神や怨霊が存在するのではなく、神や怨霊をおそれる心が神や怨霊を生
み出している、神や怨霊を見ているもの自身の誤解、思いこみの心が神や怨霊をつくり出
していると理解していました。
それで間違いないですよね。
222さんは、「誤解、思い込みという無知な迷いの心」を「色眼鏡」ということばに置
き換えて表現されたのでしょう。
《渡海さん》
>あるがままの創業経営者に触れてながら受け方に差異が生じる。
>これが無明性の本質だと思う。
《222さん》
>私たちが、こころに思い浮かべている世界、あるいは理解している世界は、それぞれの
>人の理解の世界であって、それがそのまま外界ではないということです。
>あるがままにものを見ていない、自分のこころの色眼鏡でものを見ている、ということ
>は、自分のこころのつくり出したものを見ているということだろうと思います。
お二人とも同じ主旨の発言だと思うのですが、違うのでしょうか?
287名無しさん :2000/08/31(木) 10:42
>286
霊感がないので四方の世界しか見れない。
仏教は十方世界を教えてたのでは。
十方ってどことどこ?
288T氏の落書き :2000/08/31(木) 11:26
クリスチャンの皆さんへ

  聖書の十字架は直訳では「杭」ですよね。
 パウロが「肉体のとげ」(第Uコリント12:7)にあるといった時の
「とげ」がこの「杭」と同じ語が使われているという事実はどう説明しますか。
289名無しさん :2000/08/31(木) 13:17
>288
意味不明、説明してくれ?
290名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 19:38
>287
十の方角、東・西・南・北・東南・西南・西北・東北・上・下
291ニセその他 :2000/08/31(木) 19:57
¥5さまへ
>273
前世の因縁とか因果応報とは違います。
死後において、次にはどのような人生をおくるかを自分で決めるのだそうです。苦しい人生をおくる人も、前世で悪いことをしたからその償いとして選んだり、勉強のために選んだりする。
これは「前世療法」という本にも書いてあります。ひょっとしたら幸福の科学でそんなことを説いているのかもしれません。
言っていることわかりますか。
ひろさちや「お浄土のはなし」という漫画を読んだことありますか。
私たちは浄土の菩薩で、この娑婆世界に修行に来ているんだ。そして浄土で学べない悲しみや苦しみを耐えるという、苦の修行を娑婆でさせていただいているんだ。
といったことが書かれています。
読んだときはなるほどと思ったのですが、考えてみればこれも同じことですね。虐待される子供も苦しむ修行をしているということになります。
もっともらしくてもどこかおかしい。こういうのは結構多いのではないでしょうか。
292¥5さま :2000/08/31(木) 20:56
>291 その他さん

違うだろうなぁって思いながらレス付けたんですけど・・・、私も聞いたことがあるようなないような・・・。
理解できない言葉ですね。

ひろさちやは何冊か読んだことはありますが、徐々に流行作家になってしまって、私には???という内容のものもかなりあります。
「お浄土のはなし」は読んだことはありませんが、何となくひろさちやが使いそうな表現だと思います。
>もっともらしくてもどこかおかしい。
そうなんですよ。日常用語で表現されているのですんなりと読めるので理解したつもりになるんですが、改めて考えるとどうも納得できない、いかがわしいことが多いように思います。

>死後において、次にはどのような人生をおくるかを自分で決める
何か分かったら教えてください。

なんだかあなたと私の公開メールのようですね。
293名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 21:27
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/1914/geobook.html


渡海 難さん

この掲示板のジミ−さんと一回話してほしいです。
なんというか、共通点というか…

それでは。

294渡海 難 :2000/08/31(木) 22:11
286 ¥5さまさん
 心は、識・名色・六処・触・受・愛・取という概念で切り分けて考えないと話が混乱すると思うんですね。切り分けていくと色眼鏡もその概念がハッキリするんでしょう。
 リンゴを食べてある人は非常にリンゴ好きになった。別の人はリンゴ嫌いになった。こういうことはあると思うんですね。リンゴ嫌いになった人は、色眼鏡をかけて食べてリンゴ嫌いになったのでしょうか。多分、そうではないでしょう。最初に形成される心が識でしょう。識の形成には色眼鏡が関与する余地はないと思います。
 識が定着(名色)すると、耳は耳となり、目は目となる。六つの感覚器官は本来の感覚器官になる。五感ではなく六処という。心臓が感覚器官に数えられているんでしょう。心あらざれば、見ても見えない。聞いても聞こえない。五感あるいは六処は、感覚器官として機能してこそ感覚器官と言える。感覚器官として機能するには、識の存在が必須なんでしょう。<識は、五感あるいは六処に先行する。見ても見えず、聞いても聞こえずに蓄積(行)されていく意識なんでしょう>。
 感覚器官は、心(識)が備わったときから始めて本来的な機能を果たします。感覚器官は積極的に外部に触れて(触)いって外部のものを受け止めます(受)。外部に引き寄せられ(愛)、とらわれていく(執・取)。リンゴは絶対においしい。不変の真実がここにある(有)と思い、不変の真実がここにあるという思いから偶像(絶対のくだもの)が発生する(生)。神もこうしてできた(生)偶像なんでしょう。振り返れば、偶像神が発生する原点は、無明を本質とする当てにならない行為(行)にある。
 色眼鏡は、識が備わった五感(六処)なんでしょう。色眼鏡に付着しているその色が問題で、その色こそ無明を本質とする行の結果つまり識なんでしょう。識の形成にも色眼鏡が関与するといえば、私の肌感覚とはズレがあります。
295¥5さま :2000/08/31(木) 23:22
>294 渡海さん

いろいろ思案してみましたが、286以上のことは申し上げられません。
渡海さんにあとはお任せします。
296¥5さま :2000/08/31(木) 23:27
はじめてリンゴを食べる前の、
生まれついての素質、性格、体質、感覚などを見落とされてはいませんか?
297触媒 :2000/09/01(金) 01:08
なにやら禅問答のような話になってきましたね。リンゴの話はひとまずおいといてと。
¥5さまやニセその他さん達は渡海 難と言う字を見ると色眼鏡かけたりしてませんか?
私は宗教用語の多い書き込みは良くわかりませんが、渡海さんのレスの文章はわりと解りやすい方だと思います。渡海さんがじっくり書いた文章より、ポンポンと言う感じで返すレスの方が私は好きです。
返された人は腹立たしいだろうなと思いながら楽しんでおります。
 ちなみに私リンゴは紅玉がお気に入り!
298¥5さま :2000/09/01(金) 07:47
全てが色眼鏡ですよ。
仏陀の教え・言葉を語っているつもりでも、私の主観で理解した、私の思い込み、私の勘違いを語っているのだし、
それを読まれる触媒さんも、触媒さんの主観で読み、分かろうと分かるまいと、触媒さんの理解は触媒さんの思い込み、勘違いでしょう。
確かに、私は「渡海さん」には、いい奴って色眼鏡じゃなくて、嫌な奴って色眼鏡でしょうね。 (^^ゞ
299渡海 難 :2000/09/01(金) 11:59
296 ¥5さまさんへ
>生まれついての素質、性格、体質、感覚などを見落とされてはいませんか?

 いろいろと突っ込んできますね。 (^。^; アセ
 こちらの考えは、議論としてはまだまだ不完全みたいですか。なにしろ、十二因縁と神との関係は、ここ2,3日の思索ですから、まだまだ不完全でしょう (^。^;
 リンゴが好きになるか、嫌いになるか。この問題では素質や性格は関係ないんじゃないでしょうか。リンゴが好きになる素質って何でしょうか。リンゴが嫌いになる性格って何でしょうか。素質ではなく、素地ならまだ分かる感じがします。感覚というのも分からない。「私の感覚ではリンゴみたいな丸いものはダメなのよ」なんて話はあまり聞かない。
 体質は関係するでしょうね。リンゴでは余り聞かないけど、サバを食べるとじんましんが出るという人がいる。僕のオヤジは昔、生の牛乳を飲むと下痢をすると言っていました。「体質」なんていうのは、大事な点をかも知れませんね。
 体質を考えると二通りあるでしょうね。じんましんが出るからサバが嫌いだという人と、じんましんは出るけどサバは好きだという人がいる。体質は現象の一つでしょう。サバを食べるとじんましんが出るという現象。これは無明性を本質として含む行の概念の一部と言っていいんじゃないでしょうか。じんましんが出てもサバが好きになる人もいるし、サバが嫌いになる人もいる。一定しない。実に当てにならない。体質も無明性を本源とするのでしょう。
 いろいろ指摘してくださると嬉しいです。理屈でおかしいところがあったら直していきます。十二因縁の法理は、先人がいろいろ検討してくれている。自分の理屈がこれに合わなくなったら、十二因縁の法理を疑うより、自分の理屈の方を疑った方が手っ取り早いことが多い。十二因縁の法理を手直ししなければならない自体は、僕はほとんど想定していません。これも色眼鏡かもしれませんね。危ない、危ない(笑)。


>298
>嫌な奴って色眼鏡でしょうね。

 Kore wa iromegane de wa nai. Toumi o suki to iu yatu wa@` ki ga sirenn. Toumi wa iya na yatu . Kore wa daremo ga kudasu tadasii tettutsui jya roo. m(_ _)m
300¥5さま :2000/09/01(金) 12:25
>299 渡海さん

>いろいろと突っ込んできますね。
>こちらの考えは、議論としてはまだまだ不完全みたいですか。

イエイエ、そんなつもりではありません。私の確認です。

私はものごとをおおざっぱに考えるし、あなたは一語一語を大切に考察されるので、こち
らこそ敬意を感じています。

>生まれついての素質、性格、体質、感覚などを見落とされてはいませんか?

という私の質問ですが、少々言葉足らずで、禅問答でしたね。
言葉を変えていうと、
リンゴを食べてみて、リンゴが好きになる、嫌いになるという、後天的な経験値、後天的
な要素だけではなく、先天的・遺伝的な要因・要素があるのではないでしょうか、という
ことです。
味覚の好みのような要素も遺伝として先天的に持っているのではないでしょうか、という
意味です。
301名無しさん :2000/09/01(金) 12:51

五円も、渡海も、逝って良し。
ローマ字書くな、せめて英語で。
302293 :2000/09/01(金) 13:31
> 渡海 難さん

293です。
いきなり、なんじゃい?と思われたと思います。
別に煽りでもなく、
本当に似ているなァ。と思ったものだから。
ジミ−さんは難しそうな昔の日本の言葉をよく使い、
あなたは,キリストについて自分のホームページで取り上げている。

でもあなたのほうがユーモアがあるということに気づきました。
あなたにとっては、不愉快な事だったかもしれません。
ごめんなさい。
それでは。
303触媒 :2000/09/01(金) 17:36
どうも色眼鏡と言う言葉はイメージが良くないですね。
人にはその人に備わった認識力や理解力や表現力があります。
これらによる違いは個人差と言うほうがふさわしいでしょう。
反発心などで認識力が偏ったり、理解力が落ちたりするのが色眼鏡状態じゃないでしょうか。
どのような分野においても、認識力や理解力や表現力の優れた人が良い人材です。
カルト的な宗教団体の熱心な信者には偏った認識力、高い誤解力の持ち主が
多いようです。そこへ優れた表現力を備えていたりすると迷惑を絵に書いたような人物になります。
304¥5さま :2000/09/01(金) 19:08
>303 触媒さん

確かにイメージが良くないですね。
その悪いイメージ通りの私たちの迷いで汚れた心を表現しています。
無知な迷いの心のために、ものごとを正しくあるがままに認識できないことを、
目の前の先入観や偏見というフィルターを通してしかものを見つめることができないと
いう意味で、色眼鏡という言葉を使うのだと思います。
単なる個人差ではないかな?っと私は思います。
“偏った認識力、誤解力”というあなたの表現はその通りだと思います。
305名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 10:15
ぱげ。
306名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 11:04
あれ
307名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 16:40
自分の頭の悪いのを棚に上げて申し訳ないのですが、どうも話が難しくなりました。
なるべく仏教の言葉を使わないようにはできないでしょうか
308¥5さま :2000/09/02(土) 17:26
>307
一部の者の議論の場と化してしまいましたね。
その中の一人として反省しています。
申し訳ありませんでした。
309名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 17:28
>>307さん

本家の『坊主の談話室』へGO!!
310触媒 :2000/09/02(土) 19:34
現在使われている仏教用語の内どれぐらいを仏陀御自身が使っていたのでしょうか?
以下は >307さん
 私はたまには、そのへんにある辞典をひいてみたりするのですが、載っていない時は片目をつぶって読み飛ばしております。
誰かお坊さんの方に説明をお願いしたら良いのでしょうが、又辞典をひくはめになりそうなので、なかなかその気になれません。
311 名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 21:55
仏教用語は辞書を引けばいいとしても、浄土真宗の僧籍のかたが
中村 元や白隠禅師の説を引用するからどうも話の筋が読めなくなってしまう。
彼らが真宗の教義とは違う文脈で語った言葉を自宗に対する批判をかわすために
悪く言えば利用してるだけなんですよね。

だからいまだにくだんのお婆さんが渇愛を滅してブッダになったのか、
それとも昔からよくある真宗御伽噺の焼き直しなのか、さっぱり分からない。
白黒をハッキリつけてなにか都合の悪い事情でもあるのだろうか。

「仏陀御自身は自分の言葉を貴族語・聖典語であるサンスクリットに翻訳しようとした
弟子を誡められたようだが、僧籍のかたの発言はサンスクリットより難しい。」

「そのこころは?」

「翻訳不可能」(笑)


312名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 09:50
つるっぷAGE
313名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 10:06
age
314名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 15:54
;
315ニセその他 :2000/09/03(日) 16:29
>311
>浄土真宗の僧籍のかたが中村 元や白隠禅師の説を引用するから
>どうも話の筋が読めなくなってしまう。
>彼らが真宗の教義とは違う文脈で語った言葉
他宗の人の言葉を引用するのがどうしていけないのでしょうか。
中村元の辞典から引用してはいけないのなら、どの仏教辞典を使えばいいのでしょうか。

316名無しさん :2000/09/03(日) 16:44
>315
文脈には、組み立てがあります。
その組み立てを無視して、一部を引用しても全く無意味です。
経典を引用するなら、せめてその「最小構造」を含むべきです。
317名無しさん :2000/09/03(日) 16:45
>315
まあ、何とでも言ってごまかしていくしかない宗教ですから。
それは、人々もわかっています。
318ニセその他 :2000/09/03(日) 16:49
>316
その「最小構造」がどれくらいかは意見の分かれるところではないでしょうか。
>317
ごまかしているつもりはないのですが。
319名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 17:58
渡海難さん?
320渡海 難 :2000/09/03(日) 18:25
317さんへ
 あのねー。浄土真宗はごまかしていくしかない宗教なんかではありません。浄土真宗にごまかしはありません。坊さん達が不勉強なだけです。
 確かに、浄土真宗には、これが本当に仏教だろうかと、本質的に議論されていいような場面は幾つかあります。でも、それは、2chに登場する坊さん達が、中村某やら、白隠某などを苦し紛れに引用しているような次元の低い問題のところではありません。
 親鸞の考えは、もともと、中村某やら、白隠某などとはスーケールが違うのよー < だからって、中村某やら、白隠某などのスーケールはどのくらいかなどとは、お願いだから聞かないでね。こっちも分かんないから  ^^; ≪親鸞の考えの方がスーケールは大きいと思います。 多分ネ。中村某やら、白隠某についてはこっちも不勉強だから苦しいなー  (-_-;)≫ >。
 坊さん達が、中村某やら、白隠某を引用してくるのは、ごまかしていくしかない宗教だからじゃないんです。浄土真宗の中身と、浄土真宗の坊さんのおつむの中とを、どうか一緒にしないでくださいよー。2chでの浄土真宗の坊さんは不勉強でも、浄土真宗それ自体は立派な教えです。誤解しないでくださいよー。2chで名無しさんから出される質問ぐらいは、中村某やら、白隠某を引用しなくても、回答できるんです。
 お坊さんに質問してらちが明かなかったら渡海に聞いてくださいなー。ごまかしていくしかない宗教かどうかは、その後に判断しても遅くはないでしょう。
321名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 18:32
結局、元に戻る。
322 名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 18:52
 お坊さんたちは 渡海 難 氏にボコボコに叩かれっぱなしですな。(笑)
323 名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 20:34

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324 名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 20:36



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       ヒクソンにゾヌられた尊師
325 名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 20:37
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326 名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 20:37

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327 名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 20:38
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328 名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 20:41



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 ■■■■         ||          ■■■■   / あなたは神からの転生かな〜?
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329 名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 20:41


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330 名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 20:42
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■■■■■   〓〓〓〓||〓〓〓〓   ■■■■■ <  マントラを一億回唱えなさい
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331阿弥陀仏マントラ一億回修行するぞ :2000/09/03(日) 21:19
修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

332名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/03(日) 22:49
これはどういう意味だ?
渡海難がターゲットか?
真宗坊主がターゲットか?
意図するところが理解できんぞ!
333名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/03(日) 23:29
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
334渡海 難 :2000/09/04(月) 12:13
 私、坊主してます(part2) は、普通の人と言葉によるコミュニケーションが採れない方に、余人には予測不可能な心理的な衝撃を与えたようです。
 No323〜331,333は、かなり心が迷走状態にあるネクラな性格の方なんでしょう。自分の情念を相手が分かるように表現することが、病的に下手な方なようです。
 渡海 難は、ここの板では、普通の事を書いてきていたつもりです。当たり前な普通の事を示されても、それだけで病的錯乱的な迷走状態に突入していく方がいらっしゃるようです。
 病気の方は世の中似にたくさんいらっしゃいます。驚くことではないでしょう。病人気質の方については、自主的にあるいは直接の回りの方が精神科医なり、心理カウンセラーにご相談戴くほかに手だてはありません。
 病気持ちで無い方は、インターネット上で錯乱状態の病人気質の方に気を回すのは止めましょう。気が重くなるだけで、インターネットのホームページなどで手に負える相手ではありません。
335ニセその他 :2000/09/04(月) 17:11
>311さんと渡海さんは白隠と信者の会話が真宗の教えとは違っていると考えているようですが、どのように違うのでしょうか。教えて下さい。
>322
ボコボコと叩かれております。
しかし非難するより非難に応える方が難しいし、
結局声の大きいものが勝ったように思うのではないでしょうか。
336渡海 難 :2000/09/04(月) 21:00
>どのように違うのでしょうか。教えて下さい。

 こんなことは私に聞かないでくださいよ (^^;)。これはこちらがお願いすることでしょ。私は白隠禅師を全く存じ上げません。白隠禅師という方は、どのように念仏の信心に立っておられた方なのでしょうか。こういう点は、仏教が御専門のニセその他さんからしっかり教わらないとなりません。どうかお教えくださいな。親鸞聖人は末燈鈔で禅宗を権つまり仮の教えと言っています。親鸞聖人は禅宗に対してどこを誤解されていらしたのか、ここもお教えください。そうすれば私の貴方に対する私の失礼な誤解も解けるでしょう。
337名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 21:04
age
338渡海 難 :2000/09/06(水) 09:36
age
339 名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 12:42
ここ、荒れちゃいましたねぇ。
でも、しかたないですよ。
浄土真宗の僧侶(と思える)人達は、全く議論をしようとしないんですから。
議論をしようという以前に、考えるということがないように感じられます。
教えを理解しようとしないから、疑問を持つことがない、自分を振り返らない、
考えない。
もっとも、教団・教祖に教えるような教義・思想がなくて、
何も教えない、疑問を持たせない、考えさせないようにしているのかもしれま
せんが・・・。

奇跡の体験のみを信仰の拠り所としている宗教の信者の人のほうが、自分の歩
みを振り返って、疑問をもって、考えていますよ。
(こんな比較した発言はマナーに反するかもしれませんが・・・)
正に親鸞会の本家・元祖を見せてもらいました。

でも、このまま反浄土真宗グループで荒らしてしまうには惜しいですね。
単なる罵り合いではなく、少しは一緒に考えて、
議論できる浄土真宗僧侶の方、出てきませンかねぇ。
もう少し浄土真宗の活動とか、教えとか知りたいです。


340触媒 :2000/09/07(木) 17:31
レス減りましたね。渡海さんのageなんて珍しいもの見ました。
みなさんレス疲れか、忙しいのか、飽きたのかな?
私も親戚の葬儀で5日の11時頃帰ってきました。
真言宗の葬儀でした。南無大師〜〜とか棺の後ろに掛けてあった。
骨拾いまで行ってきました。骨拾いも6回目になりました。
いつもの事ですがお骨を見ると、こうなったら人間もお終いだ、生きている内に、やりたい放題しておこうと言う思いと、それはいけない、身はある程度律して生きようと言う思いが交錯します。普段でも考えている事なんですが
葬儀の時はより深く考えてしまうようです。
341ニセその他 :2000/09/07(木) 17:45
白隠禅師とある信者の会話
「わしがさっき説教をしている時に、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と言いながら聞いておったが、南無阿弥陀仏とは何のことだね」
「これは凡夫が仏様になるおまじないでございます」
「では阿弥陀様はどこにおられる方かね」
「お浄土が阿弥陀様のお国でございます」
「それじゃ阿弥陀様は今そこにおいでか」
「いや、ただいまはお留守中でございます」
「お留守中というのは、何の御用でお出かけになったのだね」
「衆生済度の旅にお出かけでございます」
「それじゃ今頃はどのへんを旅しておいでかね」
 すると信者は自分の胸を指して、
「ただいまこの中を旅しておいでございます」

私は単純なせいか、これを読んでなるほどと思ったわけです。
ところが渡海さんは白隠が禅僧だから親鸞の教えとは違う、だからこの会話には問題があると言っているように思います。
この信者の答ではダメなのですか。ダメとしたら、どういう答をあなたならしますか
342ニセその他 :2000/09/07(木) 18:10
>339
全く議論をしようとしないということはないです。議論しているつもりですが、かみ合わないようです。というか、相手の言葉を理解できていないというべきか。お互いがですけど。
>もう少し浄土真宗の活動とか、教えとか知りたいです。
どういうことを知りたいのでしょうか。教えについては渡海さんに聞かれるのがいいでしょう。我々が答えると、反論、非難が二倍になってかえってきますから。
343ニセその他 :2000/09/07(木) 19:21
私は阿弥陀仏とははたらきだと思っています。私を生かしめるはたらき、それを気づかしめるはたらきです。
胎児は母親の胎内では呼吸をしませんが、胎内から出ておぎゃあとと泣くとともに呼吸をします。これは胎児がいちにのさんで呼吸をしたのではありません。そういう不可思議のはたらきです。
そして、そんなことのは我々は気づこうともしません。それが何らかのきっかけで、ああ、そうだったのか、とうなずけることがあります。
ある奥さんが三人目の子供を流産しました。その方が言われたのですが、上の二人の子供は別にどういうこともなくすっと生まれ、育っている。それが当たり前だと思っていた。ところが三人目を流産して初めて子供が産まれることが、そして大きくなることが本当にありがたいことなんだなあと分かった、と言われました。
流産した子供によって今まで気づかなかったことに目覚めさせられた。これは不可思議なはたらきに気づかされた一例です。
ですから、白隠の質問に対してある信者が
「それじゃ阿弥陀様は今そこにおいでか」
「いや、ただいまはお留守中でございます」
「お留守中というのは、何の御用でお出かけになったのだね」
「衆生済度の旅にお出かけでございます」
「それじゃ今頃はどのへんを旅しておいでかね」
 すると信者は自分の胸を指して、
「ただいまこの中を旅しておいでございます」
と答えるのは、阿弥陀如来がはたらきであることをいっているのだと私は思っています。
>139で渡海さんがこれに対して
>>白隠禅師とある信者の会話
>     親鸞は間違った仏教を説いていたんですね。
というのはどういう意味なのでしょうか。親鸞と信者が阿弥陀如来について全く別のことを言っているということでしょうか。

また中村元「仏教語大辞典」を引用することを非難されます。中村元なら中立的ではないかと思って引用したわけです。「真宗大辞典」の引用では名無しさんは真宗を認めていないようですから、こちらから非難されます。では仏教の言葉の説明としてどの辞書を使ったらいいのですか。
344 名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 22:29
81 名前:¥5さま投稿日:2000/08/19(土) 12:59

>釈尊が説いたように、
「渇愛を滅して業の連鎖を断ち切れば解脱できる」なら、
だれでも修行しだいで仏にならなければおかしいのです。

これらのコメントは素人目にも原始仏教の文脈にあるように読み取れますが、
真宗僧侶がこういう発言をすれば、「ああ、なるほど、浄土真宗の教義に
こういった要素があるのだな。」と、受け取るわけですよ。

それに対して「ブッダになったオバアチャン」のおはなしが、どう結びつくのか?
極端な例として、隣り近所の顔見知りの家族を刃物で惨殺した14歳の少年を、
南無さんなり、オマンコ臭い¥5さま なり、その他さんなり、ニセその他さんなり,
ハエタタキ大先生なりが

>31 名前:ニセその他
>私の迷いを気づかせる仏さまとして手を合わすこと

によって、

>渇愛を滅して業の連鎖を断ち切れば解脱できる

と仰るのですから、是非ともそれを実行に移して頂きたいものです。

>亡くなった人を私にとっての仏だと言いきれるようになりたいものです。
と言われるくらいですから、きっと生きている人間を仏だと言い切れる
のは、さぞかし容易いことであるのでしょう。是非、昨今の少年犯罪の当事者
たちを浄土真宗の御立派な僧侶の皆様のお慈悲によってブッダとして
更正出来るようにしてあげて頂きたいものです。それによる社会全体への
貢献はきっと甚大なものとなるでしょう。

ああ、有り難や、有り難や・・・(笑)
345渡海 難 :2000/09/07(木) 23:33
341ニセその他さんへ
>これを読んでなるほどと思ったわけです。

 そうでしたか。あなたがなるほどと思ったということは、こちらもそのままうなづかせていただきます。ところでどういう点をなるほどと思ったんでしょうね?
 「南無阿弥陀仏とはおまじない」   はて? おまじない? 南無阿弥陀仏はおまじないなんでしょうかね?。   (・_・?
 「阿弥陀様はお留守中」   阿弥陀様はお留守をすることがある? 阿弥陀様はお留守をすることがあると教わってなるほどと思った?  はて?  (・_・?
 「衆生済度の旅にお出かけでございます」  阿弥陀様は衆生済度の旅に出る? 旅に出る?。  はて?(・_・?
 「この中を旅」    阿弥陀様はこの中を旅することがある?    阿弥陀様はこの中を旅することがあると教わってなるほどと思った?  この中を旅することがある?  はて? (・_・?

>白隠が禅僧だから親鸞の教えとは違う、だからこの会話には問題があると言っているように思います。

 問題があると私は言っていませんよ。あなたはなるほどと思ったんですよね。貴方は親鸞の教えと同じと思っているわけですか?   (・_・?

>禅宗では、悟ったのだから仏だと言い切るそうです(No129)。

 この信者は悟ったのでしょうか?悟ってないのでしょうか?この信者さんは仏様なのでしょうか?仏様ではないのでしょうか? 禅宗では、悟ったのだから仏だと言い切るそうですね。禅宗の考えは正しいのでしょうか。間違っているのでしょうか。
346渡海 難 :2000/09/07(木) 23:36
343 ニセその他さん
>流産した子供によって今まで気づかなかったことに目覚めさせられた。これは不可思議なはたらきに気づかされた一例です。
       なるほど。

>ですから、「ただいまこの中を旅しておいでございます」… と答えるのは、阿弥陀如来がはたらきであることをいっているのだと私は思っています。
       (>_<?ゞ

>親鸞は間違った仏教を説いていたんですね。というのはどういう意味なのでしょうか。

 白隠の例は、「禅宗では、悟ったのだから仏だと言い切るそうです。」という発言の同じ路線上の問題として理解しています。<No139>の「間違った仏教を説いていたんですねと」は、「禅宗では、悟ったのだから仏だと言い切るそうです。」という発言の路線上の言葉に申し上げました。

>仏教の言葉の説明としてどの辞書を使ったらいいのですか。
     御自分の確信を語ればいんじゃないですか?
347名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 08:19
> 渡海さんへ

その他さんが引用している話しは、禅僧と信者の会話ですが、引用している言葉は、信者の言葉です。
あなたは禅僧が会話の相手だから、禅宗の教義に基づいた話しだと決めつけて、会話の内容を正しく理解しようとしていないように思います。
もし、禅僧の言葉であっても、語られている内容が、親鸞の教えを語るものであるならば、それはそれとして認めて問題ないと思います。
渡海さんは、人を肩書きで決めつけて、先入観・偏見で言葉を決めつけているように感じる。
348名無しさん :2000/09/08(金) 08:44
「おろかなる 身こそなかなかうれしけれ 弥陀の誓いにあうと思えば」
「不可思議の 弥陀の誓いのなかりせば 何をこの世の思い出にせむ」

良寛さんの言葉です。
本来は曹洞宗の禅僧で、法華経などへの傾倒で有名な方ですが、晩年には阿弥陀仏の本願
を詠っているのだと思います。
禅僧の言葉だから、親鸞の教えと矛盾している、親鸞の教えとは違うという決めつけは誤
りだと思います。
349ニセその他 :2000/09/08(金) 18:15
>344
坂上香「癒しと和解への旅」岩波書店 という本があります。
「ジャーニー・オブ・ホープ─希望を求める旅」と名づけられた2週間の旅が毎年アメリカで行われています。死刑制度廃止を求める旅です。それに参加する人は殺人被害者の遺族と死刑囚の家族です。旅をしながら彼らは自分の体験を語り歩きます。
娘が殺され、それが原因で鬱病になった息子が自殺をした女性は、
「憎しみや怒りに駆られているよりも、こうして娘の思い出や自分の体験を話している私の方が、天国にいる娘も喜んでくれるはずだ」
「死刑であろうが殺人事件であろうが、事故や病気であろうが、家族を失うのは辛いこと。私は子どもを二人も失くした母親として、その苦しみや哀しみを誰にも味わせたくないの。そしてその死が防げるものなら、防いであげたい」
と語る。別の女性は、
「犯人の死刑に立ち会ったという被害者遺族に会った。彼女はとてもがっかりしていたわ。執行が終わって帰ってきても、何も変わっていなかったというの。死刑囚が苦しんで死んだようにも見えなかったし、執行されれば気持ちも楽になるとか、家族の関係がうまくいくようになるとか、今まで彼女が期待していたことがひとつも起こらなかったっていうの」と語り、
「人が癒されるためには相手を赦す必要がある」
と言います。そして著者は
「ジャーニーに参加している人々は自分たちの過去にふたをしていない。反対に過去をみつめようとしている。どんなにつらい体験であっても、なかったふりをするのでなく、事実を事実としてとらえ、そのことを聴衆とわかち合おうとしていた。そしてわかち合われた聴衆のほうも、その事実をしっかりと受けとめようとしているように見えた。こういうことがじつは何よりも被害者遺族を精神的に支えることにつながるのではないだろうか」と書いています。
>顔見知りの家族を刃物で惨殺した14歳の少年
が、私とは全く無関係の存在でしたら楽なわけで、いくらでもぼろくそに言えるのですが、私や私の子どもがいつそういうことをしでかすか分からないのですから、他人事ではないです。逆に私が被害者になるかもしれません。どちらにしろその事実をどのように私が受け止めるか。大きな課題です。それと
>「ブッダになったオバアチャン」のおはなし
ですが、私は343で書いたように仏とははたらきだと思っています。私を目覚めさせるはたらきです。オバアチャンを通してさまざまなことを教えられ目覚めさせられる。するとオバアチャンに手を合わして感謝するということになるのではないでしょうか。
350 名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 19:06
んで、顔見知りの家族を刃物で惨殺した14歳の少年なり、
「ブッダになったオバアチャン」なりを、ニセその他 さんが

>>私の迷いを気づかせる仏さまとして手を合わすこと

によって、

>渇愛を滅して業の連鎖を断ち切れば解脱できる

わけですか?もしそれが可能であるならば、どのようなメカニズムで
それが為されるのでしょうか?浄土真宗の教義に無知なものにでも
分かるように、どうかお教えください。期待しております。


351ニセその他 :2000/09/08(金) 19:53
>344
>渇愛を滅して業の連鎖を断ち切れば解脱できる
とハエたたきさんが書いていましても、凡夫でも渇愛を滅することができるとは書いていますか。
それよりあなたは煩悩の一つである瞋恚を断ち切っていますか。仏弟子として恥ずかしくないような書き方をしていると思っていますか。頼むから、人をからかうための(笑)はやめてくれませんか。

>345
おまじない、という言葉は誤解を受けるかもしれないし、「衆生済度の旅にお出かけでございます」は阿弥陀仏を実体的にとらえていると言われるかもしれない。しかし、渡海さんはそういう誤解をするような初心者ではないはずだし、まして親鸞の教えを学んで柔軟心の人が言葉じりをつかまえるとは思われないのだが。
まあ、信者の答になるほどと思わないのだったら仕方がない。白隠さんと渡海さんは意見が合わないということですね。
>禅宗では悟ったのだから仏だと言い切るそうです
どうしてこの言葉にこだわるか分からないが、道元は修証一等、人は仏なのだからこそ修行をするのだと言った。
どこで読んだのか分からないが、たぶん曽我量深の対談集に書いてあったと思う。
仏と等しいのなら仏だと禅では言う。久松真一は久松仏だと言っているそうだ。が、真宗では仏と衆生を分ける。仏と同じとは言わない。
と言うような話を読んだ。あるいは、往生と成仏の違いで、
信の一念の時に往生したのならそれは成仏だ、と鈴木大拙は言うが、真宗では往生と成仏とは違う。
という内容だった。パラパラと本を調べたが分からない。こういうことを調べるにも時間がかかる。博識な渡海さんならどの本の何ページかご存じでしょう。
それで、禅では悟ったから私は仏だ、ということのどこが気に入らないのでしょうか。気に入らないことだらけでしょうから、さぞかし長いレスになるでしょうが、なるべく短くお願いします。
352ニセその他 :2000/09/08(金) 20:09
>350
私が14歳やオバアチャンを仏にすることはできません。まして私が自分の力で渇愛をなくして仏になることはできません。仏にするのは仏の仕事です。
宗教とは私にとって、という立場で考えます。私にとって死んだ人は何なのか。私にとってオバアチャンは私を目覚めさせた、だから仏なんだ、という自覚です。
ですからあなたにとってどうなのかは分かりません。あなたが、私にとってこの人は仏だ、という人が一人でも多ければ、あなたの人生は豊かだと言えるでしょう。
多くの新興宗教は、生きている者が死者を供養することによって死者を成仏させると説きます。この場合でも、第三者が死者は成仏したと認めるわけではなく、供養した私が納得するわけでしょう。
どちらにせよ自己満足です。しかし後者の場合は本当の納得を得ることができるでしょうか。なぜなら、よくないことは迷っている死者のせいだ、とそうした新興宗教は言います。よくないことはいくらでもあります。そうなると、本当に死者は成仏したのだろうか、という疑問、不安が生じます。それでよくないことがなくなるまで供養をします。よくないことがなくなることなど不可能ですから、これで終わりということはありません。本当の安心は得られません。
亡くなった人を偲ぶことを通して、多くのことを教えられ気づかされた。悲しみ、苦しみを通して思いがけないことに目覚めさせられた。あなたもこういう経験をしたことがあるでしょう。
もしも大切な人が死んでも、こういう目覚めがなければ虚しいと思います。 「癒しと和解の旅」もそういうことを教えてくれます。
353渡海 難 :2000/09/08(金) 20:29
347さんへ
>あなたは禅僧が会話の相手だから、禅宗の教義に基づいた話しだと決めつけて、会話の内容を正しく理解しようとしていないように思います。

 禅僧との会話の話は、No129で「禅宗では、悟ったのだから仏だと言い切るそうです」という話のおまけで出てきました。
 話は前後の脈絡と切り離してくり抜いても意味がありません。347さんは、その他さんとの話流れを勝手に分断し、内容を正しく理解しようとしていないように思います。

>親鸞の教えを語るものであるならば、それはそれとして認めて問題ないと思います。

 親鸞の教えを語るものでないならば、これを親鸞の教えを語るものとして認めることは問題だと思います。

>渡海さんは、人を肩書きで決めつけて、先入観・偏見で言葉を決めつけているように感じる。

 347さんは、自分よがりの考えで話の筋を決めつけて、先入観・偏見でこちらの主張の内容を決めつけているように感じる。
354渡海 難 :2000/09/08(金) 20:32
348さんへ
> 良寛さんの言葉です。
         そうですか

>晩年には阿弥陀仏の本願を詠っているのだと思います。

 曹洞禅で晩年に到達した良寛さんの心境を語っているのだと思います。
 阿弥陀仏の本願を詠うのは阿弥陀仏であって、阿弥陀仏以外の何者でもないと思うのですがいかがでしょうか。348さん。あなたの心を語れるのはあなただけであって、あなた以外の者には不可能ではないでしょうか。

>禅僧の言葉だから、親鸞の教えと矛盾している、親鸞の教えとは違うという決めつけは誤りだと思います。

 「禅僧の言葉だから、親鸞の教えと矛盾している、親鸞の教えとは違うという決めつけ」を行っているという決めつけは、誤りだと思います。
 禅僧の言葉だから親鸞の教えと矛盾しない。親鸞の教えとは同一という決めつけは誤りだと思います。
禅僧の認識と親鸞の認識とは非同一であるという推定を、私は行っています。非同一であるということは、矛盾しているということではありません。矛盾していることもある。矛盾してないこともあるでしょう。矛盾していないというなら、そう主張する人からそれなりの詳しい説明が必要でしょう。推定は決めつけでもありません。
355ニセその他 :2000/09/08(金) 20:44
>353の渡海さんのレスで、どうして誤解されているのかが分かりました。
129と130とは関係がありません。単なる思いつきで130を書きました。
>「禅宗では、悟ったのだから仏だと言い切るそうです」という話のおまけ
ではありません。
130に白隠と信者の会話を引用したのは、阿弥陀如来とははたらきだということを言いたかっただけです。
禅宗とは無関係に引用しました。
356名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 20:50
>矛盾していないというなら、そう主張する人からそれなりの詳しい説明が必要でしょう。推定は決めつけでもありません。

イヤ、ケチをつけているのはあなただから、あなたがケチを付ける理由を述べるべきです。
その他さんたちのことばの提示に対して、あなたはケチをつけるが、ケチをつける理由、根拠が示されていない。
ケチの根拠、理由が分からなければ、答えるほうはどういう論点で答えていいか分からないではないでしょうか?
357名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 21:39
>禅僧の言葉だから親鸞の教えと矛盾しない。親鸞の教えとは同一という決めつけは誤りだと思います。

同一だとは、わたしも決めつけていないでしょう。
でも、禅僧のことばだから、間違っているとも決めつけられないでしょう。
ただそれだけです。
358 名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 22:57
>352 名前:ニセその他
>私が14歳やオバアチャンを仏にすることはできません。まして私が自分の力で
渇愛をなくして仏になることはできません。仏にするのは仏の仕事です。

「どの仏が」
「誰を」
仏にしたのですか?

このスレッドをロムしているみなさんに分かるように、
具体例を提示してください。

359渡海 難 :2000/09/09(土) 00:08
351ニセその他さんへ
>言葉じりをつかまえるとは思われないのだが。

 言葉尻を捕まえるつもりはありませんが、多義的に解釈できる概念についての最終判断は保留するんです。安易に了解すると同床異夢ということにもなりかねませんからね。
 「誤解を受けるかもしれない」と、ニセその他さんも言ってる。誤解を受けるかもしれない言葉は、少なくとインターネットでは誤解を受けないように手当てすべきでしょう。

>白隠さんと渡海さんは意見が合わないということですね。

 合うか合わないか以前の問題です。多義的に解釈できるものについては、予め選択肢を潰しておく必要があるでしょう。

>どうしてこの言葉にこだわるか分からない
 これは、あなたが言い出した言葉ですよ。責任は負ってくださいな(笑)

>仏と等しいのなら仏だと禅では言う。

 「日本は戦後、ここまで発展したんだから太平洋戦争は日本が勝ったも等しい」。こう言えるんなら、太平洋戦争は日本が勝者だと言うことになるんでしょうか?
 等しいとは、非同一ということです。等しくないということですよ。

>真宗では仏と衆生を分ける。仏と同じとは言わない。

 真宗の考えでよろしいんじゃないですか。私には禅の考えに賛成する貴方がよく分からない。

>往生と成仏の違いで、信の一念の時に往生したのならそれは成仏だ、と鈴木大拙は言うが、真宗では往生と成仏とは違う。という内容だった。
       だから何?

>禅では悟ったから私は仏だ、ということのどこが気に入らないのでしょうか。
       悟ったに等しいとは、悟ってないと言うことでしょう(笑)。
360渡海 難 :2000/09/09(土) 00:12
355ニセその他さんへ
>単なる思いつきで130を書きました。
     (>_<)  そうですか。了解しました。

>130に白隠と信者の会話を引用したのは、阿弥陀如来とははたらきだということを言いたかっただけです。

 白隠と信者の会話から、阿弥陀如来とははたらきだということが導かれているんですか? はたらきって何?
 白隠と信者の会話から阿弥陀如来とははたらきだということが言えるといえるなら、阿弥陀如来とはエネルギーであるとは言えますか。言えませんか。これだけの論理の飛躍が認められるなら何でも言えそうですね。阿弥陀如来とは日本人であるとは言えますか。言えませんか。阿弥陀如来とは旅人であるとは言えますか。言えませんか。阿弥陀如来とは宇宙である、等々。百でも千でも、何でも言えそうに思いますが、いかがでしょうか。
 白隠と信者の会話を引用するから、何が言いたいのか余計にさっぱり分からなくなりました。

>禅宗とは無関係に引用しました。
     (>_<)  そうですか。了解しました。
361渡海 難 :2000/09/09(土) 00:18
355ニセその他さんへ
>単なる思いつきで130を書きました。
     (>_<)  そうですか。了解しました。

>130に白隠と信者の会話を引用したのは、阿弥陀如来とははたらきだということを言いたかっただけです。

 白隠と信者の会話から、阿弥陀如来とははたらきだということが導かれているんですか? はたらきって何?
 白隠と信者の会話から阿弥陀如来とははたらきだということが言えるといえるなら、阿弥陀如来とはエネルギーであるとは言えますか。言えませんか。これだけの論理の飛躍が認められるなら何でも言えそうですね。阿弥陀如来とは日本人であるとは言えますか。言えませんか。阿弥陀如来とは旅人であるとは言えますか。言えませんか。阿弥陀如来とは宇宙である、等々。百でも千でも、何でも言えそうに思いますが、いかがでしょうか。
 白隠と信者の会話を引用するから、何が言いたいのか余計にさっぱり分かりません。

>禅宗とは無関係に引用しました。
     (>_<)  そうですか。了解しました。
362渡海 難 :2000/09/09(土) 00:28
356さんへ。
>ケチをつけているのはあなただ
        私がどこでケチをつけましたか。

>ケチの根拠、理由が分からなければ、答えるほうはどういう論点で答えていいか分からないではないでしょうか?

 どこでケチをつけているか分からなければ、答える方はどういう論点で答えていいか分からないのではないでしょうか?
363渡海 難 :2000/09/09(土) 00:31
357さん
>同一だとは、わたしも決めつけていないでしょう。

 「親鸞の教えとは違うという決めつけは誤りだと思います<348>」ということは、親鸞の教えと違わないということなんでしょう。親鸞の教えとは違わないとは、親鸞の教えと同一だということではないのですか?

>禅僧のことばだから、間違っているとも決めつけられないでしょう。
    そうですね。だから?
364 名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 06:51
352 名前:ニセその他
>どちらにせよ自己満足です。

宗教とは、そして浄土真宗とはニセその他 さんにとっては
所詮「自己満足」に過ぎないわけですね。
真宗現役僧侶としての正直な告白です。
貴方様の真摯な姿勢に大変、感銘をうけました。(笑)
365渡海 難 :2000/09/09(土) 20:59
>所詮「自己満足」に過ぎないわけですね。感銘をうけました。

 やれ、やれ。(-。-;)
366名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 16:05
坊さん元気よく age
367多周年 :2000/09/11(月) 12:36
age
368 名無しさん :2000/09/11(月) 14:33



         @` ⌒⌒\
       ((ll.l__ll))) .)
       ((l ロ-ロl)         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 シコ     ヽ ∀ノ     /| < 寺ジャックするぞ!それでもいいのか!
      /    \  //   \________
 シコ  ||  ゚ ゚   /⊂//
      \\_  /⊂//    ギュイーン!
        \_⊃/
      (  // |
       | |○○\\
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       | /       | |
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     //         U
     U
369>351、ニセその他さん :2000/09/11(月) 15:28
>>351 名前:ニセその他 投稿日:2000/09/08(金) 19:53
>344
>渇愛を滅して業の連鎖を断ち切れば解脱できる
とハエたたきさんが書いていましても、凡夫でも渇愛を、、

この、ハエたたきさんが書いたという原文が見つからないのですが
何番でしょうか?読みたいもので。
370>369 :2000/09/11(月) 18:43
ハエたたきさん本人に聞かなきゃわからんだろうな。ハエたたきさんはあちこち書きまくってるから。
渡海さんとはタイプが違うが渡海さんも一目置く人物みたいだな。
371名無しさん :2000/09/11(月) 19:04
>33
長文消してしまいした。がっくり。

基本的には、私は、在家の成仏法「三福道」で十分過ぎるほど満足して
います。ですから、道品法については、まったく興味も無いし、知識も
無いのです。
文章が消えたのは、知らないことは想像では書かないほうが良いからな
のでしょう。

となたかの書きこみを待ちましょうか。(不充分で済みません)。
372名無しさん :2000/09/11(月) 19:05
↑すれっどまちがいでした。
373ニセその他 :2000/09/11(月) 19:37
>358
>「どの仏が」 「誰を」 仏にしたのですか?
あなたと私は仏とは何かということについて考えが一致しないようです。というよりも、あなたは私の考えを理解しようとしないのではないでしょうか。
160と343で仏についての私の考えを述べています。これ以上は書く気がありません。なぜなら、名無しさんたちの反応がないし、渡海さんの非難に答えるのが面倒になったからです。
真宗では仏をどうとらえているかを知りたければ、渡海さんに聞いて下さい。
>364
>宗教とは、そして浄土真宗とはニセその他 さんにとっては
>所詮「自己満足」に過ぎないわけですね。
『歎異抄』の
「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」
という意味で自己満足という言葉を使ったのですが、不適切であったことは確かです。

私は名無しさんたちがどういう気持ちで「私、坊主しています」というスレッドを読んでいるのか不思議です。恐らくあなたも宗教に関心を持っているのでしょうが。
(笑)とはどういう種類の笑いでしょうか。人を馬鹿にした笑いですか。間違いを見つけて笑っているのですか。優越感から笑っているんですか。
ひょっとしてどこかの宗教の信者なのですか。その教えでは真宗という邪教の坊主など笑ってもかまわないということでしょうか。
374ニセその他 :2000/09/11(月) 19:38
>359
>私には禅の考えに賛成する貴方がよく分からない。
禅宗の考えを紹介しただけで、禅の考えに賛成していると思う貴方がよく分からない。
以前チベットにおける鳥葬のことを書いたら、
>浄土真宗のお坊さんでも、最近はチベット仏教を信仰しだしたんですか。
と言う。どうしてそういうふうに受け取るのでしょうか。ほんとよく分からない。
そして
>はたらきって何?
と聞きながら、
>阿弥陀如来とはエネルギーであるとは言えますか。
と言う。ちゃんと分かっているじゃないですか。
>45で
>あのね。こういう話をしても、僕なんかには意味が分かるんですよ。いままで僕は、
>ちんぷんかんぷん、宇宙人の寝言と言ってきたけど、本当は通じているんですよ。
わかっているのなら、それなりの書き方があると思います。
たとえば白隠のことでももっと早い時点で、これでは誤解されるとか、あいまいだ、という指摘すべきでしょう。
もっと普通の会話がしたいものですが、あなたには無理なのでしょうか。
それに言葉は本来多義的なものです。
南無さんや¥5さまが沈黙しているのは、渡海さんに反論できないからではなく、あなたとの会話が空しいものだからでしょう。私も面倒になったので名無しさんとの応対はよろしくお願いします。
375名無しさん :2000/09/11(月) 21:11
>369
何で、引用した本人がわからんのじゃ。ハエタタキの原文なんて
どこにもないぞ。じぶんでじぶんのHNまちがえたんだろう?
お前は、ハエタタキだよ。

>370
自画自賛するなよ。ハエタタキが誉められているなんて、この板で
始めて見たぞ。自分で誉めるしかないのか?
376 名無しさん@1周年 :2000/09/11(月) 21:30
>373 名前: ニセその他

>ひょっとしてどこかの宗教の信者なのですか。その教えでは真宗と
いう邪教の坊主など笑ってもかまわないということでしょうか。

 えっ、そうなんですか?

 浄土真宗は邪教なんですか?真宗坊主は邪教の坊主だから笑っても
 かまわないんですか?

 そいつは知らなかったなあ…(苦笑)
377 名無しさん@1周年 :2000/09/11(月) 21:45
>374 名前: ニセその他

そして

>はたらきって何?
と聞きながら、
>阿弥陀如来とはエネルギーであるとは言えますか。
と言う。ちゃんと分かっているじゃないですか。

 エネルギー、働き、って言われてもねえ、、、、。

 バスジャック事件の少年も、家庭内暴力が高じて父親に殺された
 子も、自分が生んだ子を置き捨てて凍死させた十代のカップルも、
 自転車で列島横断した高校生も、大分の子も、阿弥陀如来のエネ
 ルギー、働きですか?確かに彼らもなんらかの働きをしましたね。

 彼らは阿弥陀如来ですか?
378私は私 :2000/09/12(火) 01:33
>375
 370は私です。それにどこが誉めとるのじゃ。あほ!
379私は私 :2000/09/12(火) 01:34
>375
 370は私です。それにどこが誉めとるのじゃ。あほ!
380渡海 難 :2000/09/12(火) 09:16
>373 ニセその他さんへ
>渡海さんの非難
非難? (>_<)

>親鸞一人がためなりけり」という意味で自己満足という言葉を使ったのですが、不適切であったことは確かです。

 「親鸞一人がため」と「自己満足」とでは、意味が正反対に思うけどなー(笑)。

>374 ニセその他さんへ
>禅宗の考えを紹介しただけで、禅の考えに賛成していると思う貴方がよく分からない。

 「禅では悟ったから私は仏だ、ということのどこが気に入らないのでしょうか。<351>」 『悟ったから仏だという禅の考えが、私≪ニセその他さん≫は気に入っているんですよ』 「真宗の坊さんは禅の考えに賛成していけない」という決まりがあるんですか。
  
>以前チベットにおける鳥葬のことを書いたら、
     No24の書き込みで話は終わりませんでしたか?

>ちゃんと分かっているじゃないですか。
     どのように分かっているとあなたはお受け取りになりましたか?

>もっと早い時点で、これでは誤解されるとか、あいまいだ、という指摘すべきでしょう。

 私はあなたに家庭教師を頼まれた覚えはありません。自分の意見は139のカキコで十分に書きました。

>言葉は本来多義的なものです。
     こんな話でことで済めば、世の中に坊さんはいらない。

>名無しさんとの応対はよろしくお願いします。
     あなたから頼まれる筋はありません。
3812chの常識として :2000/09/12(火) 09:22
ブラクラ相手にしなよ>>380
382名無しさん :2000/09/12(火) 10:57
>浄土真宗は邪教なんですか?真宗坊主は邪教の坊主だから笑っても
>かまわないんですか?

現代人の常識でしょう。ありもしない、阿弥陀、極楽で儲けて
俗世間でどっぷりと遊興三昧のやから。

 
383渡海 難 :2000/09/12(火) 15:30
>377さんへ
 坊さんの話は漠然としてるでしょう。何が言いたいのか、誰にもさっぱり分かんない。一人や二人の坊さんの問題じゃ多分ないでしょう。自分の見解を正確に伝えようと言う意思が先祖代々、何百年も職業的に欠存してる。珍しい職種です。しかも、自分の見解が正確に伝わってないということも知らない。正確に伝えなければいけないという意識もない。伝えるべき正確なものがもともとないんでしょ。何も分かってないんでしょ。何も分かってなくても勤まる。それが坊さんという職業なんでしょう。
 「その場でお布施の包みを破って、中身を確かめてめてから、施主にお布施の包みを返しながら言うのだそうです。『何かお間違えではありませんか?』と。参列者がいる中での出来事ですから、施主は大恥をかくこととなり、あわててお布施の中身を増額するそうです。もっと老獪で豪快な方は、お布施の包みを投げて返すそうです。お布施の包みを開封しなくとも、手に持っただけでいくら入っているか分かるという僧侶もいます<『坊主の談話室』 No62>」。
 世の中に、冗談だけで勤まる仕事があるんでしょうか。珍しい職業だ。
 「言葉は本来多義的なものです」。坊さんはここにあぐらをかいてれば安泰らしい。誰がどう思ってもいい。坊さんと門徒とは同床異夢。何かあれば施主が大恥をかくんだから、坊さんの方は冗談でいい。それでも施主はあわててお布施の中身を増額する。交わす言葉は、結局、「ありがたいありがたい<No176>」となる・ら・し・い。
 「生かされている<127>」という主張も、裏を返せば、坊さんは冗談で生きていけるんですと言うことでしょう。「言葉は本来多義的なものです」から、お坊さんの教えにはいろんな意味が込められている。
384渡海 難 :2000/09/12(火) 18:27
>383
 文中<No176>は間違いです。<No167>が正しい。 m(_ _)m
385ニセその他 :2000/09/12(火) 19:59
渡海さんと名無しさんは人の言うことをわかろうとせず、わかろうとするよりも文句をつけることに喜びを感じている人なのでしょう。
これでさようなら。
386名無しさん@お腹いっぱい :2000/09/12(火) 20:15
>383
>もっと老獪で豪快な方は、お布施の包みを投げて返すそうです。
>お布施の包みを開封しなくとも、手に持っただけでいくら入って
>いるか分かるという僧侶もいます

これって最高ですね。私だったら、押しいただいて
「申し訳ありません。後で、、、、」と言う。
家で「後で、、持って行きません。」
それっきりにしますよ。ジャンジャン。
 
387名無しさん :2000/09/12(火) 20:36
↑ 坊主が、そうですかと言って帰るわけが無いだろう。
お布施もらうまでは、一歩も動かんぞ。
388名無しさん@1周年 :2000/09/12(火) 22:02
かえらなきゃあ初七日までいてもらおうじゃあねえか。
また呼ぶ手間が省けるぜ。

って言うか、俺は別の宗教の宗教屋なんだが、出入りの葬儀屋に聞くと
「どこどこの誰々はこんなことしやがった嫌な野郎だ」
「どこどこの誰々はこんなことなさったすばらしい先生だ」
でてくる出て来る。ま、業界にもいろんな方がいらっしゃると言うことです。
両極端挙げて話しても埒あかない。
389名無しさん@1周年 :2000/09/13(水) 18:15
元気よく 上げ
390名無しさん@1周年 :2000/09/14(木) 22:57
AGE
391ニセその他 :2000/09/15(金) 17:28
>377
法然上人の父は敵の夜襲で死にますが、父は臨終に際して
「汝さらに会稽の恥をおもひ敵人をうらむることなかれ。これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすばば、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれ、いえを出で我菩提をとぶらひ、みづから解脱を求めんには」
と遺言したということです。これを今ふうにかけば、
「おまえが仇を討てば、相手の子供がまたお前を狙うだろう。そしてお前が殺されれば、お前の子供がまた仇を討とうとするだろう。これではいつまでたっても同じことの繰り返しだ。恨みは恨み返すことでは決しておさまらない。恨みは恨み返さないことで初めておさまるのだ。
お前は父が救われ、そしてお前自身が救われる道を求めてくれ」
ということでしょう。
怨親平等、怨む者も親しい者も共に生きていく世界、殺した者と殺された者が共に救われる世界。これを仏教は説いているのではないでしょうか。もちろんこういう世界を求めることは難しいことであり、きれいごとだと言われるでしょうが。
しかし怨親平等の世界の具体例が法然上人の一生であり、377で書いた「癒しと和解の旅」にも紹介されています。
392>391 、ニセその他 :2000/09/15(金) 17:45
それじゃあ377への答えになっていないよ。

それに、391の話しをそのままあなたに返すと、少年犯罪の加害者を
貴方の寺で引き取って面倒見れるのでしょうか?ここでの議論でさえ
支障をきたしているような、ニセその他 さんが・・・。

 ああ、有り難や、有り難や・・・(笑)
393ニセその他 :2000/09/15(金) 17:52
>392
面倒をみる自信はありません。
ではあなたはどうすればよいと思っているのでしょうか。
あなたは少年犯罪の加害者に自分がなるか、もしくは自分の子供がなる、ということは思わないのでしょうか。
それと(笑)はどういう意味の笑いか教えてください。
394 名無しさん@アホクサ :2000/09/16(土) 01:24
>面倒をみる自信はありません。

 それ即ち、391の発言はきれいごと以外の何物でもないというわけで
 ございましょう?

>ではあなたはどうすればよいと思っているのでしょうか。

 ハハ、いいのかい、そんな無責任な口きいて。
 こういう発言をあなたがなんの臆面も無く言えるというのは、
 プロの宗教家としての資質を疑われるだけじゃないのかな?
 別にわたしが困るわけではないからどうでもいいんだが。(微笑)

>あなたは少年犯罪の加害者に自分がなるか、もしくは自分の子供がなる、
ということは思わないのでしょうか。

 あなたがそういう状況に直面したらどうするおつもりですか?

 ただ、「諸行無常、全てのものは生じては滅する性質のものだ」
 とばかりに、傍観者であり続けるおつもりですか?

 そういえば、どっかの掲示板で、亡くなった肉親を入れる墓が無くて、
 電話相談したかたに対して、ただ聞き流しただけで何もしてやらなかった
 坊さんの書きこみがあったけど、アレ、何宗だったかな?

 確か、浄・・・。(苦笑)

>それと(笑)はどういう意味の笑いか教えてください。

 ニセその他さんは 笑)はどういう意味の笑いだとお思いですか?(笑)
395 :名無しさんって優香 名無しさん@アホクサ :2000/09/16(土) 02:03


        ∧ ∧          /
   シコ  ( ゚Д゚)     /|  <アーヒャヒャヒャヒャーイクー
      /    \  //    \________
 シコ  ||  ゚ ゚   /⊂//
      \\_  /⊂//
        \_⊃/
      (  // |
       | |○○\\
       | |     \\
       | /       | |
      //        | |
     //         U
     U
396 :名無しさんって優香 :2000/09/16(土) 02:06

        ∧ ∧          /
   シコ  ( ゚Д゚)     /|  <hey!俺のふぐりは宇宙だ
      /    \  //    \________
 シコ  ||  ゚ ゚   /⊂//
      \\_  /⊂//
        \_⊃/
      (  // |
       | |○○\\
       | |     \\
       | /       | |
      //        | |
     //         U
    

397 名無しさん :2000/09/16(土) 02:38

                                 ∧ ∧   ∧ ∧
   /⌒~~~⌒\                       (   @`@`)   (@`@`・Д・)
 / ( ゚>t≡ )y─┛~~                〜(___ノ  〜(___ノ @`γ_
(_ ノγ U  ∩_∩)   ありがとう ニセその他    ┌───────┐   \
  α___J _J                  .    (| ●        ● |      ヽ
  / ̄ ̄ ̄ ̄\    安らかにお眠り下さい  . /.| .┌▽▽▽▽┐ .|____|__||_| ))
 /     ●  ●、                   ( ┤ .|        | .|□━□ )
 |Y  Y       \ また天国で会おうね   \.  .└△△△△┘ .|  J  |)
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  | | | c(*・_・)  |  |ヽ(´ー`)ノ_|  |  | |   |〜 /\.\う\| (-_-)
  (__)_) UUUU /∪∪ (___)(_(__) ◎ ̄ ̄◎─┘ .└──┘.(∩∩)
398ニセその他は     :2000/09/16(土) 07:21
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399 名無しさん@お腹いっぱい。     :2000/09/16(土) 10:17


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  \|、   __ _< | | >_ __   ,|/  < ヒロポンさえあれば負けやしねぇ
    -| l  ↑ ̄   ヽ__/   ̄↑  //     \____________
     | l  ヽ、________/   //
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400名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/09/16(土) 10:18
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        _ >::::::::::::ヾ::::::::〃::::::::´::ゝ_
        __ヽ:::::::ヾ::::::::〃:::::::"::::_::::::::::::Z_
        _.ゞ:::::::::::ゝ::::::::":::::::":::_:::::゛:::く
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       _レ'ニニヽヽ=〉ミ  `━´ u @`/-┴ 、    ゛ ゛ |
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      .〈 u ミヽ | V  〉『` ‐----〉、_____人人       "
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     ≠:::::::::;;;;ノ        〈         .ゝ 》::::::::::::ヽ
   <ヾ;;;;;;;/         .〉/` T ー´⌒ l`ヽ___λ_.〉
      ̄ ̄           ゝ.____ノ   / . 〈----‐ ′人λ
                    〈   リ   ゝ.   < 十   ̄7
                     ゝ   u   ヽ  _ゝ十ュキュ>
                      ヽ     〃 〉  ヽ@` -v、/ `

401名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/09/16(土) 10:19


  / ̄ヽ         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
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  ヽ_/             ヽ_/


402名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/09/16(土) 10:20


    | ̄ ̄ ̄ ̄|
  _|_  † _|_
   / /  \_ヽヽ
   |ノ / 殺 \ ハ    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (| 〇 〇 |)  < 今こそ蘇れ、バモイドオキ神!!!!
   丿ゝ  Π  ノ     \________
    厂 ̄ ̄ ̄|   √ \
   /  ̄ ̄厂/丶 ‖Γν
   / )  ○  | \‖
  ○丿     丶○
   (⌒⌒⌒⌒⌒) ‖
    ⌒|⌒|⌒|⌒  ‖
     |vv|vv|
    /_T_ \
403名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/09/16(土) 10:20
 ̄ ̄ ̄ ̄|
  _|_  † _|_
   / /  \_ヽヽ
   |ノ / 殺 \ ハ    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (| 〇 〇 |)  < おぉ我が主、ネオむぎ茶よ!!!!
   丿ゝ  Π  ノ     \________
    厂 ̄ ̄ ̄|   √ \
   /  ̄ ̄厂/丶 ‖Γν
   / )  ○  | \‖
  ○丿     丶○
   (⌒⌒⌒⌒⌒) ‖
    ⌒|⌒|⌒|⌒  ‖
     |vv|vv|
    /_T_ \

404名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/09/16(土) 10:30



        ∧ ∧          /
   シコ  ( ゚Д゚)     /|  <hey!俺のふぐりは阿弥陀如来だ(笑)
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 シコ  ||  ゚ ゚   /⊂//
      \\_  /⊂//
        \_⊃/
      (  // |
       | |○○\\
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       | /       | |
      //        | |
     //         U
   
405名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/09/16(土) 10:35


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406名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/09/16(土) 10:37

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■■■■        //  \\       ■■■■     \
■■■■      //( ●● )\\     ■■■■       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■■■■    // ■■■■■■ \\   ■■■■
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407ニセその他 :2000/09/17(日) 20:01
>394
こちらの質問にまともに答えられないのは、答えることができないからでしょう。(笑)
>391を読んでも、なるほどとは思えないのはあなたの感性が鈍いか、人の言うことには反発したいだけでしょう。

仏の世界はお互いが拝みあう世界、尊敬しあう世界です。憎んでいた者をも拝むことができるようになるのが仏の世界です。法然上人は父の遺言に導かれてそうした世界を求められたのでしょう。

>亡くなった肉親を入れる墓が無くて、電話相談したかたに対して、
>ただ聞き流しただけで何もしてやらなかった坊さんの書きこみがあった
一応きちんと読んでいるんですね。しかし誤解して読むところは渡海さんと似ていますね。

>少年犯罪の加害者を貴方の寺で引き取って面倒見れるのでしょうか?
私が犯罪者に対して全く何もしていないわけではありません。だからこそ、こういうことは個人の力だけでは難しいと思いますし、素人がしてもかえってまずい結果になりかねないことがわかっています。
おそらくあなたは矯正ということについてよく知らないのでしょう。
こういう問題で単純に人を判断し否定するあなたは、どういう仕事をしておられるのでしょうか。

>傍観者であり続けるおつもりですか?
傍観者とはあなたをはじめとするような、すべてを人ごととして考えている人のように私は思います。 
408名無しさん :2000/09/17(日) 21:50
>私が犯罪者に対して全く何もしていないわけではありません。だからこそ、こういうことは個人の力だけでは難しいと思いますし、素人がしてもかえってまずい結果になりかねないことがわかっています。
おそらくあなたは矯正ということについてよく知らないのでしょう。

い〜え〜、 ニセその他 さんならどのような極悪非道な犯罪者でも
更正させて社会復帰させられるでしょう。本スレッドのお見事な
対機説法(?)を読まれたかたは皆そう思われていますよ。(笑)

まず手始めにネオ麦茶あたり、いかがです?

では、論より証拠で結果報告楽しみにお待ち申し上げておりますよ、大先生・・・(微笑)

409ニセその他 と真宗坊主の皆様へ :2000/09/17(日) 21:58
ささやかなアドバイスですが、、、。

19 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/09/17(日) 20:51

>14
もう少し文を短くしたほうが良いです。長文は神経症の
始まりです。ドキュンはドキュソとも言うみたいですよ。


410ニセその他 と真宗坊主の皆様へ :2000/09/17(日) 22:00
20 名前: いつになったら直るんだろうね。 投稿日: 2000/09/17(日) 20:54

長文は神経症の始まりなのですか?
ドキドキ。

411ニセその他 と真宗坊主の皆様へ :2000/09/17(日) 22:01
21 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/09/17(日) 21:04

精神科医は、こいつがおかしいかどうかは文の長さで決める。
患者から封筒をもらってずっしり重いと診断確定だ。
1は、かなり危ないが、やや、セーフだ。私は精神科医では
ない。精神病院の看護夫でもない。謎の人物。

412 名無しさん@1周年 :2000/09/17(日) 22:03
そうだね、あと適当に改行をいれたほうがいいよ。
本当に危ないひとだと思われるからね。(笑)

ていうか、それぐらい常識なんだけどね。
413chalk :2000/09/18(月) 00:56
しばらくぶりに来てみれば、煽り、叩きの出没中ですな。
色々な宗教ができて二千年はたちました。犯罪は減りません。
便利な世の中にはなりましたが、生き甲斐の見えにくい世の中です。
僧侶にできる事はできるだけ仏陀の教えにそって生きる事でしょう。
廻りの人への影響は神のみぞ知るってところでしょうな。
414名無しさん@1周年 :2000/09/18(月) 04:52
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415名無しさん@1周年 :2000/09/18(月) 05:18
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     \ メ  /_/ /   \__________
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    |  ー―――――、 ___l
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416渡海 難 :2000/09/18(月) 12:20
413 chalkさんへ
>僧侶にできる事はできるだけ仏陀の教えにそって生きる事でしょう。
     仏陀の教えにそった生きかたとはどういう生き方なんでしょうか?

407 ニセその他 さん
>しかし誤解して読むところは渡海さんと似ていますね。
    (>_<)   グゲェ
417chalk :2000/09/18(月) 21:31
>416 渡海 難さん
 それは各々が考える事でしょう。ある人は親鸞を、ある人は空海を、ある人は・・・を案内人として
考えていくんじゃないでしょうか?そして自分自身の路を探すのでしょう。
418ニセその他 :2000/09/19(火) 13:11
>408のようなレスにまともに答えても仕方ないのですが、少年犯罪を憂い、
怒りを覚えているようなことを書きながら、まともな応答をせず、人をからか
うばかりでは、あなたは少年犯罪が起きるのを楽しみ、そしてそれに怒ることで、
自分は正しいのだと思いこむ人なのではないかと思います。
まあ寂しい人なのでしょう。
419ニセその他 :2000/09/19(火) 17:39
ネオ麦茶のことですが、彼は確か精神障害(?)の一種と診断されて医療少年院に
送られることになったのではなかったですか。
専門家のもとで治療してもらうことが大切なのは言うまでもなく、素人が口をはさ
むべきではないでしょう。
私は犯罪を犯すのは一種の病気だと思います。たとえば窃盗は中毒のようなものだ
そうです。金が欲しいことよりも、盗みをすることが快感なのです。
彼らも理屈では盗んではいけないことはわかっていても、盗みをしたいという欲望
を押さえることができないのです。
ですから窃盗中毒をいかに治すか、を考えていくべきなのです。
ネオ麦茶にしても専門家に任せるべきだと思います。
420 名無しさん@1周年 :2000/09/19(火) 18:18
あれっ?ニセその他大先生は385で
>これでさようなら

とばかりに本スレッドから立ち去ったんではなかったのかな?

こんな糞スレッドにいつまでもしがみつくあなたは

>まあ寂しい人なのでしょう。

ア〜〜ンド、ネット依存症!!!(笑)
421名無しさん@1周年 :2000/09/20(水) 07:24
エイヤage
422ニセその他 :2000/09/21(木) 11:39
名無しさんは私の息子みたいですね。
人のいやがることをわざわざ言う。人を傷つけることを平気で言う。
それなのに人から何か言われるとすぐに傷つき怒る。
無神経なくせして被害者意識が強い。自分勝手で人の痛みがわからない。
それでは自分が困るぞと言うのだが、人の言うことなど聞こうとはしない。
人の意見には決して賛成しようとはせず、とにかく反対したがる。
都合悪くなると、関係ない、知らない、どうでもいい、などと言う。
(笑)
423 名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 14:39
>名無しさんは私の息子みたいですね。

 じ・つ・わ・そ〜なんです!(激爆&アメリカンジョ−ク)

>人のいやがることをわざわざ言う。人を傷つけることを平気で言う。
それなのに人から何か言われるとすぐに傷つき怒る。
無神経なくせして被害者意識が強い。自分勝手で人の痛みがわからない。
それでは自分が困るぞと言うのだが、人の言うことなど聞こうとはしない。
人の意見には決して賛成しようとはせず、とにかく反対したがる。
都合悪くなると、関係ない、知らない、どうでもいい、などと言う。
(笑)

 いやはや、困ったものですね。親の顔が見たいものです。

 昔から宗教家、教師、警察官の息子は問題児が多いなどと言いますが、
 親の職業との対比でかえって目立つので、比率としては他の職業をされている
 師弟と変わらないだろうと見ていましたが、なるほど実態は
 ニセその他さんが告白されているとおりなのでしょう。 
424 名無しさん :2000/09/21(木) 15:00

    /∵∴∵∴\
   /∵∴∵∴∵∴\
  /∵∴//   \|
  |∵/   (・)  (・) |
  (6       つ  |    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |    ___ |   < もっと腰を使えや、糞坊主!
   \   \_/ /   ζ \_________
     \____/   / ̄ ̄ ̄ ̄ \
  /⌒  - - ⌒\/\   / \|
/ /|  。   。丿 | |   (゚)  (゚) |
\ \|    亠  | (6-------◯⌒つ |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  \⊇  /干\| |    _||||||||| |  <馬鹿な息子ほど可愛いものじゃ
    |       |  \ / \_/ /    \_________
   ( /⌒v⌒\_ \____ /
パンパン|     丶/⌒ - - \
    / \    |  |     / |
    /  ノ\__|  |__三_ノ|  |
   /  /パンパン|  |      |  |
  /__/     |  |      |  |
          ⊆ |     | ⊇


425 名無しさん :2000/09/21(木) 15:12


      γ___
     /      \
    /        ヽ       _____
    ( ((|__|____|__||_| ))     /
    ( ((  □━□  )     <  ニセその他先生、近日中にお伺いします
     (6    J   |)       \______
      ヽ  ― ノ
        -     Λ
    〜 ┘  └   │)\ +
   /   \\ /|  │) │
   /  ノ   ‖│ │) ノ

426渡海 難 :2000/09/21(木) 17:05
 浄土真宗の坊さん達、見とるかー。
 ニセその他さんには今、何を言っても通じないと思う。それ以外で耳ある人、目ある人は、肝に銘じて欲しい。他人の事なら多少冷静に見えるじゃろう。
 ニセその他さんは特別な坊さんではない。どこにでもいる普通の坊さんじゃ。特別な坊さんではない普通の坊さんが、名無しさんから滅茶苦茶に叩かれておる。名無しさんが言っておることは確かにおかしい。言っておることは確かにおかしいが、普通の坊さんの声が普通の人にこれほどまでに通じないという事実も、ニセその他さん以外の人にはイヤでも見えてくる。坊さん達や、あんたらにだってわかるじゃろう。
 坊さんが仏法を語ろうとして、これだけ逆襲を受けているのは、日本仏教史上おそらく初めてのことじゃ。これからはしばらくの間、これが日常化する。
 いままで仏教を語る場所はお寺だけだった。お寺だけだったから、坊さんが何を言っても誰も反論しなかった。反論する奴は寺が追い出せばよかった。追い出されることが分かってるから、分かってる人は最初から寺に足を向けなかった。坊さんに反論する声は社会の声にならなかった。坊さんの回りは「ありがたい、ありがたい」というアホーばかりが集まった。
 坊さんが言っとることは、昔から無茶苦茶だったんじゃ。無茶苦茶なことが、無茶苦茶なこととして白日の下にさらされる時代が来た。これがインターネット掲示板の時代じゃ。
 普通の坊さんが、仏教を知らない名無しさんと同じレベルでいがみ合い、それが世界中に宣伝されておる。虚像だった仏教が、インターネット時代以前の歴史的遺物として瓦解していくタイムカウントが、いま始まった。おそらく我々は、二千年以上の歴史をもった仏教が、のたうち回りながら崩壊していく歴史の転換点の始まりを、目撃しておるんじゃろう。
427RRR :2000/09/21(木) 17:14
坊主は別に特別なものではない。例えば「陰間」って知ってますか?ここの客はほとんど坊主。そういうものです。やりたいことやってるだけです。むかしから。
428ニセその他 :2000/09/21(木) 18:07
前に紹介しました「癒しと和解の旅」の著者である坂上香さんの講演があります。
興味のある方は聞きにいってください。
  10月23日(月)1時30分より
  真宗大谷派京都教務所二階
   京都市下京区花屋町通烏丸西入ル
    075−351−5267

>427
>ここの客はほとんど坊主。
というのは間違い。
役者買いなど、江戸時代はホモ行為が特別なものでなかった。
429ニセその他 :2000/09/21(木) 18:17
>426
全くその通り。
以前あなたが、名無しには少しも言葉が通じていない。通じる言葉を使え、
といったことを言っていたが、全くその通り。
沈黙すべきかどうか。
430名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 19:35
>423
こいつは本当に坊主の息子じゃないか。
親とやりたいと思ってるんだろう。
431ニセその他 :2000/09/21(木) 19:38
>426
私の言ったことにまともな反論があれば歓迎します。
でも思うのですが、人と話をする時に名無しのような話し方をするでしょうか。
話しながら人を馬鹿にして笑う人がいたら、誰もまともに相手にしないでしょう。
人の揚げ足取りばかりをしていれば嫌われるでしょう。
家庭の中ではこういったことは許されますが、
他人にはできないことです。
ところが2ちゃんねるではこれが特別ではありません。
他のスレッドをみても、まともなことを書いているのはHMを持っている人ですが、
煽る人は名無しです。しかもしつこい。
匿名であることをとことん利用しています。
424や425を平気で書き込むのはどういう人間なのでしょうか。
ただ面白がっているだけです。
こういう人格がインターネットで増幅されているように思います。
ネオ麦茶は2ちゃんねるでたたかれたのが、バスジャックをした原因の
一つらしいですが、ネオ麦茶をたたいた名無したちはそのことをどう思
っているのでしょうか。
ある意味ではネオ麦茶よりもたちが悪いと思います。
こういう人間に通じる言葉があるのでしょうか。
432名無しさん@金メダル :2000/09/21(木) 20:24
>431
おまえが一番しつこい。くだらない。あげあしとり。
逝って良し。
433 名無しさん@1周年 :2000/09/21(木) 20:40
> ニセその他

あなたが管理者でもないのに2ちゃんねるの独特の文化、雰囲気について
云々するのはいかがなものでしょうか。ましてや宗教板においては
多少しつこいと思われる煽り叩きも各発言者の根ざすところの
価値観・思想が違うのですからやむをえないでしょう。

それとも、ニセその他さんや浄土真宗の坊さんたちは
不特定多数の人々が自由に回覧・投稿可能な掲示板において、
無条件の賛同、同意を求めてここに来られたのでしょうか。

もしそうであるのならば、個人サイトを立ち上げるか、
メ−ルアドレスを公開したらいかがでしょうか。その他さんたちとの
議論はそちらでやっていただくということで。2ちゃんねるの
ありかたについてあなたが憂慮されておられるのなら、
なおさらそうすべきでしょう。

さて、真宗僧侶の皆さんがどれだけ腹をくくれるか、
このスレッドを見ている不特定多数の人々は、
注目していますよ。
434名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 08:18
>433
こいつらイジメが好きなだけ。
弱みを見せたらだめ。甘い顔したらつけあがる。
人間の言葉がわかるような奴じゃない。
435名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 12:03
>433
煽り叩きが文化とはね。こいつも基地買いか。
だったらネオ麦茶は2ちゃんねる出身の文化人というわけだ(笑)。
お前こそ管理者でもないくせによく言うよ。
不特定多数の人々とは鉄格子の向こうにいる基地買いの仲間のことだろう。

436渡海 難 :2000/09/22(金) 16:54
434,435さんへ
>人間の言葉がわかるような奴じゃない。

 人間の言葉がわかるような奴じゃなければどうしますか。切り捨てますか。人間の言葉がわからない相手を切り捨てれば、僧は僧としての社会的な使命を失うでしょう。
 煽りなどは基本的には無視すればいい。ただ、煽りを無視できないところがニセその他さんの苦しいところでしょう。煽り発言には背景がある。
 395〜400,402〜406,408,414,415,420,423〜425 427,432の発言のうち少なくとも重要な幾つかは、391と392に影響されていると考えます。特に392は一行目だけが大事です。392のわかりにくさは、二行目以降があること。これは、発言者の発言の稚拙さが原因している。392は一行目だけで止めるべきだった。ニセその他さんは、392の一行目に真剣に応えていれば、395以下の発言はほとんど出て来なかったでしょう。
 2chでは、392の一行目のような質問に肩すかしを食らわすと、猛烈な反撃を食らいます。いままで浄土真宗の坊さんは、肩すかしを巧く食らわす人が名僧と言われる傾向にあった。そういう坊さんが「ありがたい、ありがたい」と称えられてきた。インターネットの時代とは、そんなトリックが利かなくなった時代だということでしょう。

>418ニセその他
>まともな応答をせず、人をからかうばかりでは、…自分は正しいのだと思いこむ人なのではないかと思います。

 395から432までの名無しさんは、ニセその他さんにこのことばを向けているのでしょう。自分は相手の問いにまともに答えくせに、闇雲に相手を攻撃すれば、火に油を注いで混乱を煽ることになるでしょう。

>435
>煽り叩きが文化とはね。こいつも基地買いか。

 売り言葉に買い言葉はやむを得ないけど、相手の怒りの原点を見据えないと、本質を見失うでしょう。
437名無しさん@1周年 :2000/09/23(土) 07:58
渡海さんはニセその他さんが名無しさんにまともな答えをしないから煽られている
んだと考えているんでしょ。でもそれっていじめる子よりもいじめられる子の方が
悪いと言うのと同じじゃないですか。だって名無しさんは面白がってからかってい
るだけでまともな答えなんてどうでもいいんだから。渡海さんはいじめの手伝いを
気づかないうちにしてしまう教師の役ね。
438渡海 難 :2000/09/24(日) 09:40
437さんへ
>名無しさんは面白がってからかっているだけでまともな答えなんてどうでもいいんだから。

 まともな答えなんてどうでもいいという人にはまともに応える必要はありませんか?。
 プロを自認する以上、どうでもいいという人にも、全て平等にきちんとした対応をしていくべきでしょう。
 392の一行目の問いにニセその他さんは応えない。応えられないんでしょ。応えられないならそれはそれでしょうがない。それだけの実力なんですよ。
 質問に応えられないなら、応えられないということを正直に表明すべきでしょう。これはプロを自認する人の場合、責任の一部です。プロを自認しながら、他の職業分野の人に比べてニセその他さんは嘘がありすぎる感じがする。
 No391は一例です。391でニセその他さんは「>377」と書いた。391で「>377」と書いてはいけなかった。「>377」という記述には、2chの多くの閲覧者を騙そうとしている嘘がある。名無しさんはそう感じているんじゃないですか。437さん。あなたは、その後の392も、「面白がってからかっているだけ」の質問だと思いますか。392の一行目は、宗教の本質と共にニセその他さんの矛盾の核心を突いているんでしょ。あの質問の刃はニセその他さんの急所に剣先が向いている。からかっているだけなら、あれだけの切れ味は出ませんよ。核心を突く質問が出され、そこから逃げたら、プロは命取りになる。核心を突いた質問なら、逆に核心を突き返すか、さっさと誤まっての壇を降りるか、プロは二つに一つしか選択はない。ニセその他さんだけじゃない。2chの坊さんは、社会の当たり前のルールを知らない。マスターベーションを行っているポンチ絵は、社会の当たり前のルールを知らない坊さんの本質像を描写しているんでしょう。
 人間に嘘があってはいけないなんて、聖人みたいなことは私は言いませんよ。でも、プロが自分の専門分野の問題で嘘がばれたら、潔く謝罪してプロの旗を降ろすのが社会のルールです。名無しさんを煽っているのは、ニセプロのニセその他さんその人でしょ。坊さんの存在が、名無しさんの目には、マスターベーションを行っているポンチ絵そのままに見えている。マスターベーションを行っているポンチ絵をインターネットに掲示することは私も反対です。止めて欲しい!!。でも、名無しさんの目には坊さんの存在そのものがポンチ絵以上に風紀上で問題があると思っているんでしょう。核心を突いた質問から逃げるプロの聖職者は叩かれてもしょうがないでしょ。聖職者は他の分野以上に厳しく監視される。叩かれてもしょうがない面は、坊さん側にあると思う。
 437さん、あなたは煽りの教師役ですね。
439名無しさん@1周年 :2000/09/24(日) 11:59
>渡海さんはいじめの手伝いを気づかないうちにしてしまう教師の役ね。
訂正します。
渡海さんは一緒になっていじめる教師の役ね。
こういう教師が結構いるそうですね。

440渡海 難 :2000/09/24(日) 13:56
>渡海さんは一緒になっていじめる教師の役ね。こういう教師が結構いるそうですね。

 この場におよんであなたは何が言いたいんですか。渡海がだれをいじめていると言うんですか。あなたは私に何をして欲しいと言っているんですか。
 古い書き込みをもう一度読んでください。

>257
> ここは、渡海スレッド・・・・・・・・・・・・・・・・・。
>南無さん、新しくスレッド立て下さい。多くの人が希望していると思います。

>258
 雑談的な内容を目的としたものを「坊主の談話室」という名で別のスレッドとして立ててみます。

>259
> あなた、自分でホームページを作って、そこに会員制の掲示板を起こしなさいよ。渡海は貴方が管理するホームページの会員にはなりませんから、ね。オープン形式の掲示板はだめよ。貴方が不愉快に思う人がいつ書き込んでくるか分かりませんよ。
441名無しさん :2000/09/24(日) 15:13
渡海 難さんは、浄土真宗=親鸞についての知識は豊富かもしれないけど、人間性がそれに伴っていないと思う。
性格や物の見方がひねくれているよ。何か坊主に対するひがみのようなものを感じるよ。
あんたに意見されても、あんたを嫌いにはなるけど、全くお互いの向上にはつながらないね。
あんた、人のことを非難するよりも、自分の性格、精神構造を見つめ直したほうがいいよ。
442名無しさん@1周年 :2000/09/24(日) 16:24
渡海難に悪気はないんだろうが、相変わらず見当違いのことばかり言っている。391のレスのせいで煽りが始まったわけじゃないだろう。そのずっと前からだ。
渡海難は真宗の坊主がなぜ叩かれているのかわかっていない。
2ちゃんねるに書き込む人は全員匿名だ。どこの誰か全くわからない。学生か社会人か、年寄りか若いのか、何もかもわからない。ようちえんのおばさんだって本当のところ女なのかどうか。みんな透明な存在だ。
しかし真宗の坊主だけは違う。彼らは愚かにも自分の職業を言ってしまったために透明ではなくなった。具体的なイメージを持つ存在となった。
特定の宗教や個人への煽り叩きはある。信者が反発しても、信者はやはり透明人間である。HNを変えればまた透明な存在になれる。そんな透明人間を叩くよりも個人を叩く方が面白い。
そこで真宗の坊主が狙われた。しかも真宗の坊主は立場上、煽りを無視しにくいし、反論もお上品にしかできない。おまけに彼らは甘いから、本音で語ればわかってくれると馬鹿なことを思っている。
奴らのとって思うつぼだ。渡海難というお調子者がお手伝いまでしてくれる。HNを変えても坊主という立場は変えれない。
このスレッドでは仏とは何かというまともな質問から煽り始めたが、「坊主の談話室」は坊主の内輪話が主なので、そういうもっともらしい質問はできない。そこでコピペの連発となったわけだ。
煽り叩きをしているのは2,3人、それに通りすがりのヒマ人。坊主への反発が煽りを生んだと一般化するのは針小棒大だ。
渡海難は造反有理だと言いたいのだろうが、それがいかに奴らをつけあがらせているかわかっているのだろうか。
443 名無しさん@1周年 :2000/09/24(日) 22:52
>442
教義問題で坊さんがまともに答えられないと、
それがなんでイジメ問題にまで発展するんでしょうか。
渡海さんが言うように答えられなければ
「分かりません」でいいでしょう。それ自体はなんら
恥ずべきことではないんじゃないかな。

私の知り合いの坊さんもその場で答えられない質問については
「分かりません」「よく調べてからお答えします」と率直に
言いますし、そのほうがかえって人間関係が円滑にいくものです。
質問によっては資料集めが必要であったり、時間がかかる場合も
ありますしね。

>2chの坊さんは、社会の当たり前のルールを知らない。

は、そのへんのことを言われているようにわたしには思えます。

このスレッドの問題点は、またすこし違うところにあるのですが。

444渡海 難 :2000/09/25(月) 08:46
441さんへ
 441さんは渡海 難に何を望んでいるんですか。何をして欲しいのか、さっぱり分かりません。
 441さんは、浄土真宗=親鸞についての知識は豊富かもしれないけど、人間性がそれに伴っていないと思う。
 性格や物の見方がひねくれているよ。渡海 難に対するひがみのようなものを感じるよ。
 あんたに意見されても、あんたを嫌いにはなるけど、全くお互いの向上にはつながらないね。
 あんた、人のことを非難するよりも、自分の性格、精神構造を見つめ直したほうがいいよ。
445渡海 難 :2000/09/25(月) 08:49
442
>391のレスのせいで煽りが始まったわけじゃないだろう。そのずっと前からだ。

 オープン形式の掲示板に煽りはつきものです。No259で会員限定の掲示板を立てることを私が勧めたのはそのためです。
 ところで、391のような核心を突く質問は、レスに値しないというお考えですか。回答しなくてもいい質問もあるでしょうが、掲示板参加者として誠実に回答しなければいけない質問はあると思いますよ。質問には自ずから軽重があるでしょう。

>しかし真宗の坊主だけは違う。彼らは愚かにも自分の職業を言ってしまったために透明ではなくなった。具体的なイメージを持つ存在となった。

 仏教理解の程度が透明人間と五十歩百歩の人が、専門家の顔をして透明人間と仏教論争すれば、勝負は最初から見えている。

>本音で語ればわかってくれると馬鹿なことを思っている。

 本音で語るには本物の智恵が必要です。本物の智恵がなければやりたくても本音で語ることなんかはできません。自分には本音で語れる智恵があると思ったのが坊さんの間違いでした。

>渡海難というお調子者がお手伝いまでしてくれる。

 お調子者に見えて悪うござんした。お調子程度は442さんの半分程度でしょう。

>このスレッドでは仏とは何かというまともな質問から煽り始めたが、

 このスレッドの煽りは今は小康状態です。「坊主の談話室」でも収まりそうだ。煽り叩きもワンパターンの絵ばかりじゃ逆効果だと知ってるんでしょう。新しい絵のアイデアも生まれない。盗作もままならない。¥5さまさんとニセその他さんの名コンビで、無視する形で素知らぬ顔のキャチボールをして見せ、坊さん同士の鉄の団結で力任せに煽りを押さえ込んだという図式です。
 「坊主の談話室」は、今後、煽り屋さん達に坊さんという鉄の集団の力を誇示する格好の場となるのかもしれません。今後は、坊さんは教団という鉄の集団の結束力を社会の前面に打ち出して大衆と力の対決をしていく時代に入るのかも知れない。しばらくは坊さんの勝利が続くでしょう。その裏で、煽り屋さんの煽り方法には賛成できなくても煽り屋さんとは心情で一脈通じる大衆は、仏教から去っていく。
 古い時代が終わって新しい時代に入ったんでしょう。

>「坊主の談話室」は坊主の内輪話が主なので、そういうもっともらしい質問はできない。そこでコピペの連発となったわけだ。

 「そういうもっともらしい」って?
 坊さん達はお葬式の段取りの話に花を咲かせている。「仏とは何か」というようなお葬式と無関係の話は、お坊さんにとってはもっともらしい話なんでしょう。坊さんとは内輪話をしなければいけない。「仏とは何か」というような、お葬式と無関係のよそよそしい話をすることは、お坊さん貴族に対しては非常に失礼なことなんでしょう。
 「そこで」ってのはどこで?
 お葬式の段取りの話こそが大事な話で、「仏とは何か」というようなお葬式以外の話をすることは、お坊さん貴族に対して非常に失礼である。お坊さんとはお葬式のこと以外でお話をしてはいけない。お葬式のこと以外では話ができないのでやむにやまれず、名無しさんたちはコピペの連発となったという理解でしょうか。

>煽り叩きをしているのは2,3人、それに通りすがりのヒマ人。坊主への反発が煽りを生んだと一般化するのは針小棒大だ。

 一人が発言すれば、同じような考えを持った百倍千倍の人がその裏にいる。針小棒大だと思うと判断を誤るでしょう。
 反発なんていう高等なものじゃないと思いますよ。透明人間と同じレベルで、お葬式のこと以外は話ができない坊さんが格好つけるから、叩かれるんでしょ。

>渡海難は造反有理だと言いたいのだろうが、それがいかに奴らをつけあがらせているかわかっているのだろうか。

 何に対する造反ですか。変な邪推はしないでくださいな。
 彼らがつけあがっているんじゃんない。透明人間と同レベルの坊さんが、自分の能力を過大評価したのが間違いだったんでしょ。


>443
>答えられなければ「分かりません」でいいでしょう。それ自体はなんら恥ずべきことではないんじゃないかな。

 概ね、同じ考えです。「分かりません」でいったん引き下がればいい。分かった時点で再登場すればいい。
 分かった上で再登場する自信の無い人が、やたら格好をつけようとするから叩かれるんでしょう。
446名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 10:38
渡海さんを叩きたいわけではないが、わかっていないので書くが、
>442
>渡海難は造反有理だと言いたいのだろう
煽る奴らのは理ではなく屁理屈、なぜか渡海難は奴らの言うことは深読みする。
しかし坊さんの書くことは悪意を持って反論する。
奴らが本当に真宗の教えを聞きたいと渡海難が思っているとしたら、本当におめでたい人だ。
渡海さんならヤクザにからまれても、理を説いてわかってもらえるのか。
ヤクザは金が目当てだが、煽る奴らは面白がっているだけ。

>258
>雑談的な内容を目的としたものを「坊主の談話室」という名で別のスレッドとして立ててみます。
何でこれが気に入らないんだ。あんたは仲間に入れてもらえないと思ってすねているのか。
ひがみだろう。ひょっとすると坊主に嫉妬しているんじゃないか。
渡海難も無神経なくせして被害者意識が異常に強い人間の一人のようだな。

煽りが小康状態なのはこうやって奴らを叩いているからだ。
無視をしたらおさまると考えていれば、あんたは甘い。
煽りでも程度問題なのは当たり前だろう。
自分がされていやなことは人にしない、ということは常識だろう。それを奴らに教えてやっているんだ。
どのスレッドでもこういう煽り叩く奴がいれば、徹底して叩き返してやる。
447終了すれば? :2000/09/25(月) 12:08
このスレッドは終了させてはいかがですか?
南無さんが、自分の意志でPart2を立てたようになっていますが、実際は、渡海さんが立
てたスレッドです。
渡海さんに悪意がなくて、善意で行ったことだとは思いますが、現実には、渡海さんが南
無さんの名を語ったようになってしまっています。
南無さんがPart2になってからほとんど参加されていないことと、そもそも南無さんの
「儀式全般の質問に 出来る限りお答え致します」という主旨から大きくはずれてしまっ
ている現状を見ると、一旦終了させるべきではないかと考えます。
渡海さんは、誤解のないように自分のHNで、親鸞教学を語るなり、浄土真宗を語るなり
のスレッドを新たに立てられてはいかがでしょうか?
私が南無さんだったら、自分のHNでこういうことが続けられるのは嫌だろうなと思った
ので・・・、ちょっとしたおせっかいでした。
448名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 17:36
>445
「坊主の談話室」で坊主同士が会話をしたらどうしていけないんだ。
仲間に入れてもらいたいのか。うらやましいのか。
渡海さんも文句ばかり付けずに世間話に加わればいいじゃないか。
渡海さんは坊主が憎いあまり他のことが見えなくなっているんじゃないか。

>447が言うようにこのスレッドはもうおしまいだろう。
まともな人が儀式全般の質問なんかしやしないだろう。
煽った名無したちのもくろみ通りになったわけだ。
その責任はニセその他などの坊主、煽った名無しどもとともに、
渡海さんにもあることをよく知ってほしい。
449名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 17:57
>渡海さんにもあることをよく知ってほしい。

私は渡海さんの責任が最も大きいと思う。
煽りと坊主だけなら大して問題にならないことを、渡海さんが妙に意味を持たせて煽りの指導者になってしまった。
渡海さんは、自己顕示欲が強くて、さらに若干自信過剰ぎみだから、議論を進めることで、自分も新しい知識や違った考え方を吸収しようとはできない。
ただただ、勝った負けたの議論しかできないから、自分の主張を押し通そうとしかしない。
宗教板には、マイコンされて狂信・盲信している人が大勢いるけれども、渡海さんの場合は、自分の考えに狂信・盲信的だと思う。
450渡海 難 :2000/09/25(月) 18:25
446さんへ
>なぜか渡海難は奴らの言うことは深読みする。

 方法論は賛成しないが、心情的には一脈通じているんですよ。
 自分たちへの反対者は目前にいる少数だけ。残りは全て自分の見方だ。そんなことは思いなさんな。

>坊さんの書くことは悪意を持って反論する。

 悪意はありません。間違ってるところがあれば指摘してくださいな。
 坊さんのいうことを、「ありがたい、ありがたい」と応えなければ、悪意を持った反論だと思うのですか。それは大間違いですよ。そんなアホーは豆腐の角に頭ぶつけて死んでくださいな。

>奴らが本当に真宗の教えを聞きたいと渡海難が思っているとしたら、本当におめでたい人だ。

 坊さんに反論する奴には、真宗の教えを聞きたいと思っている奴はいないと446が思っていたら、ジコチュウの本当におめでたい人だ。

>渡海さんならヤクザにからまれても、理を説いてわかってもらえるのか。ヤクザは金が目当てだが、煽る奴らは面白がっているだけ。

 446さんは、からんでくる奴はみんなヤクザだと思いこむのか。ヤクザは金が目当てだが、自分の間違いを親切に指摘してくれているだけの奴もいる。

>何でこれが気に入らないんだ。あんたは仲間に入れてもらえないと思ってすねているのか。
      あんたは自分の意に反する人はすねてるだけに見えるのか。

>ひがみだろう。ひょっとすると坊主に嫉妬しているんじゃないか。
      ひがみだろう。ひょっとすると渡海に嫉妬しているんじゃないか。

>渡海難も無神経なくせして被害者意識が異常に強い人間の一人のようだな。
      446も無神経なくせして被害者意識が異常に強い人間の一人のようだな。

>煽りが小康状態なのはこうやって奴らを叩いているからだ。
      モグラ叩きはいくらやっても、坊主の頭を叩き直すことはできんだろう。

>無視をしたらおさまると考えていれば、あんたは甘い。
      叩いていたら奴らはおさまると考えていれば、あんたは甘い。

>煽りでも程度問題なのは当たり前だろう。

 坊さんの不勉強が許されるのも程度問題というのは当たり前だろう。国民の多くは、坊さんなら自分たちより仏教を知っていると誤解しているぞ。

>自分がされていやなことは人にしない、ということは常識だろう。それを奴らに教えてやっているんだ。
      貴方は正義の味方アンパンマンか。

>どのスレッドでもこういう煽り叩く奴がいれば、徹底して叩き返してやる。
      2chの風紀委員を買って出たわけだ。静かに勝手にやってくれ。
451>448、449 :2000/09/25(月) 18:27
自作自演ご苦労さん。

でもどうせなら文体を変えるなりしてほしかったな。
そうでないとこれほどつまらん煽り叩きも無いんだぜ、
このスコバカ!
452渡海 難 :2000/09/25(月) 18:28
 このスレッドは447さんだけ一人勝手に終了させてはいかがですか?
 南無さんが、自分の意志でPart2を立てたようになっていますが、実際は、渡海が立てたスレッドであるという人もいます。
 渡海に悪意はなく、善意で行ったことです。現実には、渡海が南無さんの名を語ったようになっていると言う人もいます。
 Part2になってから南無さんはほとんど参加されていないと、証拠もなく自分勝手に想像している人もいます。「儀式全般の質問に 出来る限りお答え致します」という主旨から大きくはずれてしまっているという人もいます。こういう現状を見ると、447さんだけは一人だけ一旦音もなく終了させるべきではないかと考えます。
 誤解のないように渡海は、自分のHNで、親鸞教学を語るなり、浄土真宗を語るなりのホームページを持っています(http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/)。渡海はこれ以上スレッドを新たに立てるつもりは現在のところありません。2chが気に入っています。
 私が南無さんだったら、447さんにとやかく言われるのは嫌だろうなと思ったので・・・、ちょっとしたおせっかいでした。
453名無し厨房 :2000/09/25(月) 18:29
今から6年ほど前、僕はあるデパートの衣料品コーナーの
警備員をしていました。
冬場は大変です。腹巻きの下に懐炉を突っ込み、懐中電灯を
肩からぶら下げ、深夜警備をします。暗く寂しい警備の中で
僕の唯一の楽しみが、マネキンに話しかけることでした。
ある一体のお気に入りのマネキンが居ました。それが「あゆ」
です。上司とぶつかったとき、将来のことで悩んだ時などは
彼女に相談しました。彼女は優しく僕に語りかけてくれるのです。
(勿論、心の交流ですよ。実際に声が聞こえたなんていったら
嘘になりますし、それこそ基地外です)それがあったこそ、僕は
仕事を続けてこれたし、生きていけたのです。
ある日、僕は2年付き合ってきた恋人と喧嘩別れしました。
その日の仕事はやる気がせず、上司からこっぴどく怒られました。
辛い深夜警備の仕事も押しつけられ、僕は涙をこらえつつ
衣料品コーナーの警備へ向かったのです。僕は地下一階の酒屋
から、ワンカップ大関を5本かっぱらってきました。あゆと酒を
飲み交わす予定だったのです。だけど、所詮マネキン。酒など飲める
訳もなく、僕が一人で飲み干してしまいました。ベロベロに酔ってしまった
僕は、あゆに手をかけてしまいました。服を引っ剥がし、固いおっぱい
を鷲掴み、股ぐらをさすり続けました。「くそっ!俺はココまで生き恥を
さらすのか!」店内に怒号が響きわたりました。その時です。暖かい
温もりが僕の体内を駆けめぐり、女性特有の柔らかな感触に、僕は
思わず射精してしまったのです。どこからともなく声が聞こえました。
「好きにして・・・・」僕は朝までマネキンあゆと一夜を共にしたのです。
次の日の夜、あゆは衣料品コーナーから消えていました。悲しかった。
だけど、これから頑張っていこうという充足感に満たされていました。
その後、TVをつけると、彼女は歌を唄っていました。あの時の
優しい声と同じように・・・・・・・。
454渡海 難 :2000/09/25(月) 18:31
>448
>「坊主の談話室」で坊主同士が会話をしたらどうしていけないんだ。

 そんなことは誰も言ってない。坊主同士の会話は、今回、煽り叩きの押さえ込みに有効だったようだ。あうんの呼吸のチームワークさえよければ、こういう手法があるということを僕は始めて知った。鉄の宗教教団でこそなせる技だろう。

>仲間に入れてもらいたいのか。うらやましいのか。渡海さんも文句ばかり付けずに世間話に加わればいいじゃないか。

 必要なときには割り込んでいく。ただ、発足のいきさつからこちらは多少自主規制している面がある。入っていって迷惑がられても不愉快だ。

>渡海さんは坊主が憎いあまり他のことが見えなくなっているんじゃないか。
    憎いなんて思っていない。しっかりして欲しいと声援を送っているだけだ。

>このスレッドはもうおしまいだろう。
    おしまいかどうかは、2chの世論が決める。

>まともな人が儀式全般の質問なんかしやしないだろう。

 そうかもしれん。もしそうなら、儀式の話が盛んな「坊主の談話室」はまともじゃないということか?

>煽った名無したちのもくろみ通りになったわけだ。
     結論は急ぐな。

>その責任はニセその他などの坊主、煽った名無しどもとともに、渡海さんにもあることをよく知ってほしい。

 こんな掲示板は、つかみ所のない霧か雲みたいなものだ。誰が何を書いても責任などというものはない。ただ、仏教が新しい未知の時代に入っていくとしたら、それは2chのような世界からだろうと僕は思っている。いいにつけ、悪いにつけ、ここには民主主義がある。
 2chの管理人には悪いが、仏教が新しい時代に人々の真の支えとして本来のあり方で有効に活用されるようになるなら、2chのスレッドなどはいくつ潰れても構わない。
455449 :2000/09/25(月) 18:37
>>451

よーちおばさんみたいな愚かな人ですね。
448は、私ではありません。

>>450 >>452

あんた、自分で読み返してごらん。ただいやらしいだけだよ。
456渡海 難 :2000/09/25(月) 19:24
449
>渡海さんが妙に意味を持たせて煽りの指導者になってしまった。

 これは言いがかりだ。品のないポンチ絵を描くという手段は賛成しないが、心情的には煽り側に共通するものを感じている。僕は中立ではない。審判でもなければ裁判官でもない。プレーヤーだ。

>渡海さんは、自己顕示欲が強くて、さらに若干自信過剰ぎみだから、議論を進めることで、自分も新しい知識や違った考え方を吸収しようとはできない。ただただ、勝った負けたの議論しかできないから、自分の主張を押し通そうとしかしない。
       御批判は丁重に承っておく。

>渡海さんの場合は、自分の考えに狂信・盲信的だと思う。

 同じ言葉を、あなたに返しておく。449さんは、自分の考えに狂信・盲信的だと思う。
457渡海 難 :2000/09/25(月) 20:45
>455
>あんた、自分で読み返してごらん。ただいやらしいだけだよ。

 No452は、相手の言葉をそのまま反射しています。No452をいやらしいと思うなら、No447がいやらしい文だったと思いなさい。
 No450は嫌らしい文ではない。嫌らしい文と思うのは、455さん、あなた一人だけだろう。
458名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 22:46

  ====================== 無事終了 ======================

       渡海さん、ごきげんよう。さようなら。
459渡海 難 :2000/09/26(火) 08:52
>458
 なんだい!? 坊さん側の新手の煽り叩き手法か  (-_-;)
460名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 12:58
渡海難は度し難し
461名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 13:44
ああボーダーライン人格。やだやだ
462名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 14:03
================== The END ==================

渡海難の人格を問うテーマでの議論は下記専用スレッドで行ってください。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=964403775&ls=50
463政教分離名無しさん :2000/09/26(火) 14:25
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=959304648&ls=50

で渡海難が見事3位にランクされている。よくまあここまでコケにされたものだ。
 アンチ渡海の皆さん、どんどん投票しましょう!

464名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 14:29
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=969781832&ls=50
>10 名前:政教分離名無しさん 投稿日:2000/09/25(月) 21:13
> 念仏宗渡海会についても教えてください。
> きょうそが2chでボロカスに叩かれていながらゾンビみたいに生き延びることで有名だそうですが……。そうそう、ビリーバーゼロの教団だそうですね。


>11 名前:名無しさん@1周年 投稿日:2000/09/26(火) 10:40
http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
>自己顕示欲が強くて、独善的で自信過剰な人です。
>念仏宗渡海会の具体的な活動は知りませんが、
>精神的にストレスがたまるだけの人ですからできるだけ付き合わないほうがいいです。
>仏教的な知識は豊富かも知れませんが、その知識が人間性の向上に役立っておらず、
>他人を批判する道具にしかなっていません。
>特に、浄土真宗の坊主には過剰な反応を示すようです。
465名無しさん :2000/09/26(火) 14:37
渡海難の人格を問うテーマでの議論は下記専用スレッドで行ってください。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=964403775&ls=50
466名無しさん :2000/09/26(火) 15:26

  ====================== 無事終了 ======================

       渡海さん、ごきげんよう。さようなら。(^_^)/~
467渡海 難 :2000/09/26(火) 15:58
坊さんが、自分達の本質を突かれて頭に来てるんかいな。あほらしい。
「私、坊主してます(part2)」には、坊さんの痛いところが渡海によって詳しく紹介されていますよ、と世界中に宣伝しているのと同じじゃないか。
468名無しさん :2000/09/26(火) 18:05
渡海 難 さんが、自分達の本質を突かれて頭に来てるんかいな。あほらしい。
「私、坊主してます(part2)」には、渡海 難 さんの痛いところが名無しによって詳しく紹介されていますよ、と世界中に宣伝しているのと同じじゃないか。
469名無しさん :2000/09/26(火) 19:09
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=959304648&ls=50

で渡海難が見事3位にランクされている。よくまあここまでコケにされたものだ。
 アンチ渡海の皆さん、どんどん投票しましょう!
470 名無しさん :2000/09/26(火) 19:53
この勝負、真宗坊主の負けだよ・・・。
471名無しさん :2000/09/26(火) 20:01
誰が勝ったの?
472渡海 難 :2000/09/26(火) 20:01
> 468

僧ぞ法師のその御名は 尊き事と聞きしかど 提婆五邪の法に似て 卑しきものに名付けたり
473名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 20:05
渡海難とコピペと真宗坊主に悪い順に順位をつけてください。

(悪い) 真宗坊主<<渡海難=コピペ (まだまし)
474名無しさん :2000/09/26(火) 20:51
『渡海 難さん、あなたは一般人でありながら、
 坊主以上によく親鸞さんのことをよく知っているとても偉い人だ。』
といって誉めてもらいたいのか?
『渡海 難さん、あなたは一般人でありながら、真宗坊主共をやり込めたすごい人だ。』
と誉めれば満足するのか?
『浄土真宗のエセ坊主共!偉い渡海難さんを見習って、精進努力せよ!』
と言われれば満足するのか?
475名無しさん :2000/09/26(火) 21:01
>472
『愚者ははげしい言葉で語りながら「私は勝っている」と考える。
 しかし、真理を知る人が(誹謗を)堪え忍ぶなら、その人にこそ勝利がある。』
476名無しさん :2000/09/26(火) 21:09
>473
『愚者が「私は愚かだ」と知れば賢者である。』

大切なのは本当の自分というものを知ることです。
人間には人それぞれの持ち分と個性があります。
どんな人にも必ず得意とするものがあります。
これは人間の真理です。
誰が賢くて、誰が愚かだということを決めるのはむずかしい。
477名無しさん :2000/09/26(火) 21:15
それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。
しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、
一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。
478真宗坊主は :2000/09/26(火) 21:48


      ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     ( ‐∀‐)< 最悪ですかっ?
     (  ∩⊂) \_______
     |   |
     (__)_)

|最悪でぇーーーーーーーーーーーーーーーーす!!! |
\__ _  _  _  _  _  _  _  _  ____/
   ∨  ∨  ∨  ∨  ∨  ∨  ∨  ∨  ∨
  ∧_∧∧_ ∩_∩∧_ ∧_∧∧_ ∩_∩
 (x∀ x )x∀(x∀ x )x∀ (x∀ x )x∀ (x∀ x )
 ∪ ̄∪ ̄ ̄ ∪ ̄∪ ̄ ̄∪ ̄ ∪ ̄ ̄∪ ̄∪ ̄ ̄|
 |最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪 |
 |_____________________|

479渡海 難 :2000/09/27(水) 08:43
 偉い人だといって誉めてもらいたいのか?
 <渡海は、誉めてもらいたい人間なんだろう。その程度の人間なんだろう。誉めてもらってどんな意味があるというのだ。渡海よ、誉めてもらいたいと思っているお前は愚か者だぞ。ワシはお前のような愚か者ではない。ワシはお前に勝っているんだぞ>

『愚者ははげしい言葉で語りながら「私は勝っている」と考える。しかし、真理を知る人が(誹謗を)堪え忍ぶなら、その人にこそ勝利がある。』

すごい人だと誉めれば満足するのか?
<渡海よ。お前を誉めればお前は満足するのだろう。お前は愚か者だ。お前は愚か者だぞ。そのようなことで満足するお前とは違って、ワシはお前のような愚か者ではない。ワシはお前に勝っているんだぞ>

『愚者ははげしい言葉で語りながら「私は勝っている」と考える。しかし、真理を知る人が(誹謗を)堪え忍ぶなら、その人にこそ勝利がある。』

 渡海難さんを見習って、精進努力せよと言われれば満足するのか?
<渡海よ。そんなことで満足するなら、お前は愚か者だ。お前は愚か者だぞ。そのようなことで満足するお前とは違って、ワシはお前のような愚か者ではないぞ。ワシはお前に勝っているんだぞ>

『愚者ははげしい言葉で語りながら「私は勝っている」と考える。しかし、真理を知る人が(誹謗を)堪え忍ぶなら、その人にこそ勝利がある。』

 大切なのは本当の自分というものを知ることです。人間には人それぞれの持ち分と個性があります。どんな人にも必ず得意とするものがあります。これは人間の真理です。誰が賢くて、誰が愚かだということを決めるのはむずかしい。 南無
480名無しさん :2000/09/27(水) 09:42
>ワシはお前のような愚か者ではない。ワシはお前に勝っているんだぞ

どうしてあなたはこういうような発想、想像しかできないんですか?
勝ったか負けたか、やるかやられるか、いじめるかいじめられるか・・・、
どうしても敵対する関係から抜け出すことができないんですね。
自分と違う考えを持つ者は敵で、徹底的に攻撃しなければ気がすみませんか?
自分の考えを押し通して、相手をやり込めなければ気がすみませんか?
あなたの考え方や意見が間違っているとは思いませんが、あなたから新たな知識を教えて貰ったとしても、
逆にあなたを嫌いになるだけで、親しく付き合いたいとは思いません。
あなたのことばからは、共に歩もうという姿勢が感じられず、上から下への押しつけでし
かありません。
あなたは自分で聖句や仏語を語っているつもりかもしれませんが、
読むものにとっては、刺々しい言葉でしかなく、罵られているとしか思えません。
>>479
>大切なのは本当の自分というものを知ることです。

そうだよ、渡海さん。それが大事。
でね、本当の自分は、自分の耳にやさしい言葉だけ受け入れてたんじゃ、見えてこないよ。
人からちょっと批判されただけで逆上して攻撃的になって、相手が黙るまで攻撃し続けるようなことを繰り返してたら、ホントの自分はいつまでたっても見えてこないよ。
482渡海 難 :2000/09/27(水) 15:57
>481
>ホントの自分はいつまでたっても見えてこないよ。

浄土真宗に帰すれども 真実の心は有り難し 虚仮不実の我が身にて 清浄の心も更になし
外儀の姿はひと毎に  賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪儀大きゆえ 奸詐百端身に満てり
悪性更に止め難し 心は蛇蝎の如くなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞ名付けたる
無慚無愧のこの身にて 真の心はなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方に満ち給まう
小慈小悲もなき身にて 有情利益は思うまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでか渡るべき
蛇蝎奸詐の心にて 自力修善は叶うまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にて果てぞせん
五濁増の徴しには この世の道俗尽く 外儀は仏教の姿にて 内心外道を帰敬せり
483渡海 難 :2000/09/27(水) 15:59
>480
 どうしてあなたはこういうような発想、想像しかできないんですか?
<本当に渡海は悪い奴だ>

 勝ったか負けたか、やるかやられるか、いじめるかいじめられるか・・・、どうしても敵対する関係から抜け出すことができないんですね。
<本当に渡海とは、とことん馬鹿な奴だ>

 自分と違う考えを持つ者は敵で、徹底的に攻撃しなければ気がすみませんか?。自分の考えを押し通して、相手をやり込めなければ気がすみませんか?。
<徹底的に攻撃し、自分の考えを押し通して、相手をやり込めなければ気が済まない渡海とは、本当に馬鹿な奴だ。私は自分と違う考えを持つ者でも敵とは思わない。攻撃などはしない。自分の考えを押し通すこともしない。相手をやり込めようとは思わない。私は聖人のような人間です。それにひきかえ渡海は敵を作る。攻撃する。自分の考えを押し通し相手をやり込めなければ気がすまない。渡海は社会の敵だ>

 あなたの考え方や意見が間違っているとは思いませんが、あなたから新たな知識を教えて貰ったとしても、逆にあなたを嫌いになるだけで、親しく付き合いたいとは思いません。
<渡海は正しいが、正しい渡海を私は嫌っていますよ。まともになりなさい。せめて私と親しく付き合えるぐらいになりなさい。渡海とは本当に馬鹿な奴だ>

 あなたのことばからは、共に歩もうという姿勢が感じられず、上から下への押しつけでしかありません。
<共に歩もうという姿勢がなければ、私には好きになって貰えませんよ。上から下への押しつけでは誰にも聞いて貰えない。私を見なさい。共に歩もうという姿勢で生きています。決して上から下への押しつけはしない。私は坊さんとしてとても立派です。それに引き替え渡海とは本当に馬鹿な奴だ。少しは改めなさい>

 あなたは自分で聖句や仏語を語っているつもりかもしれませんが、読むものにとっては、刺々しい言葉でしかなく、罵られているとしか思えません。
<私は、僧として常に優しく分かりやすく聖句や仏語を語っています。渡海さんあなたの語りは、刺々しい言葉でしかなく、誰一人罵られているとしか思えません。私は決して上から下への押しつけはしない立派な人です。渡海さん貴方は馬鹿な人ですよ。私を見上げて見習いなさい。>


『愚者ははげしい言葉で語りながら「私は勝っている」と考える。しかし、真理を知る人が(誹謗を)堪え忍ぶなら、その人にこそ勝利がある。』
484名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 17:13
あなたは、いかにも卑下してみせているようだけれども、
>私は坊さんとしてとても立派です。
>私は、僧として常に優しく分かりやすく聖句や仏語を語っています。
と、相手が誰であるのかわからないのに、坊主(僧)であると決めつけています。
あなたには、自分勝手な想像を事実であるかのように決めつける傲慢さがあります。
479も483も、他人のカキコ(言葉)を素直に読めないひねくれた性格、
卑下してみせてはいるけど、自分の想像で相手を決めつける傲慢さで他人を見下している。
485名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 17:30
『愚者ははげしい言葉で語りながら「私は勝っている」と考える。しかし、真理を知る人が(誹謗を)堪え忍ぶなら、その人にこそ勝利がある。』

あなたは、今、誹謗を堪え忍んでいるつもりかもしれないが、自分にそういう心があるなら、どうして他人を徹底的に誹謗するのですか?
あなたには、他人の言葉を理解しようという姿勢がないし、他人の心を思いやる心がないし、他人の痛みがわからない。
486名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 18:13
渡海難との話し合いは「渡海難を問う」というスレッドがあることだし、
そちらでお願いできませんか。
「渡海難を問う」では、悪人についてのことが論じられていますが、
それこそ「私、坊主してます」にふさわしい論題だと思います。
どうも逆になってますね。
487>485 :2000/09/27(水) 18:24
>あなたには、他人の言葉を理解しようという姿勢がないし、他人の心を思いやる心がないし、他人の痛みがわからない。

これってマンマ、

>484
>自分の想像で相手を決めつける傲慢さで他人を見下している。

だよね・・・。(はあと)
488名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 19:29
渡海難にわかってもらおうという気持ちは捨てたらどうかな。
言えば言うほどかたくなになるし。
>487みたいなアホが出てくるし。
渡海難が説く親鸞の教えがいかにもつまらないものに思えてくるし。
489渡海 難 :2000/09/27(水) 20:01
>484
>他人のカキコ(言葉)を素直に読めないひねくれた性格、卑下してみせてはいるけど、自分の想像で相手を決めつける傲慢さで他人を見下している。

 渡海が、自分の想像で相手を決めつける傲慢さで他人を見下しているとしたらどうだって言うの?。渡海は悪い奴だ、悪い奴だって言うだけ?。それだけ?。渡海が底なしの極悪人だったらどうだっていうの?。渡海が底なしの極悪人だったらいけないの?。貴方は自分をどれだけ聖人だと思っているの?。アホクサ。
 484さんには、同じ言葉を返しましょう。484さんは、他人のカキコ(言葉)を素直に読めないひねくれた性格、卑下してみせてはいるけど、自分の想像で相手を決めつける傲慢さで他人を見下している。

>相手が誰であるのかわからないのに、坊主(僧)であると決めつけています。

 484さんには480が坊さんではないと分かるの?
 決めつけても、当たってれば失礼じゃないでしょう。外れていればご本人が文句言ってきてくださいな。いつでも誤りますよ。
490渡海 難 :2000/09/27(水) 20:03
>485さんへ
>今、誹謗を堪え忍んでいるつもりかもしれないが、

 勝手に決めつけないでくださいな。No475の書き込みにただ賛成しただけです。悪口を言われていても、誹謗されてるなどとは思っていませんよ。誹謗されるような私はそんな器じゃありません。
491渡海 難 :2000/09/27(水) 20:05
>488さん
>いかにもつまらないものに思えてくる

 つまらなくない(気持ちが惹かれる)ような瞬間があったんですか?
 そんな瞬間があったなら、なぜそのとき反応しなかったの。
 気持ちが惹かれる瞬間でもあったとしたら、それだけでもあなたは大した人物だ。右顧左眄し、こんなときには「いかにもつまらないものに思えてくる」というあなたは、大した人物ではないようだ。
492名無しさん@1周年 :2000/09/27(水) 20:08
>486
>渡海難との話し合いは「渡海難を問う」というスレッドがあることだし、
>そちらでお願いできませんか。

486さんのおっしゃる通りだと思います。
渡海難を批判するカキコは、「渡海難を問う」へ移動しましょう。
493名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 15:31
「渡海難を問う」で善と悪の問題が論争されています。その要点をまとめてみました。
渡海
>根っからの悪人は根っからの悪人なんです。根っからの悪人以外の何者でもない。
そんなことは分かってるんですよ。その場合でも、根は善人だと思いなさいよ。
お釈迦さまはそう言っておる。
>根っからの善人と思えるような人にはどうするのか。
この場合は反対に、根っからの悪人と思えばよろしい。
名無し
>善悪の区別があいまいですね。
「悪党を裁く」ではなくて、「悪事を裁いて、悪人を許す」ではありませんか?
悪党にも善人の部分があるから、そのよいところを見てあげるというのは、
寛大なようで実は放漫にすぎません。悪事は悪事。
渡海
>善人だと思うと僕がいうのは、善人の部分があることが前提ではないんです。
善人だと思う対象は善人ではないんです。善人でない相手を、善人だと思うということです。
>善人だと思うということは、悪党を弁護する道具ではありません。
自分が窮地に落ち込まないようにするため、自分にかける保険と思ってください。
相手の悪党さには関係ないんです。
つづく
494名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 15:33
つづき
名無し
>私の目から見ると、単なる「悪」の善用 としか見えませんでした。
いわゆる「必要悪」で、「善」ではなく、「次善」でしょう。
もともと犯罪がない方がいいし、犯罪がなくなれば犯罪学もなくなります。
「悪」に存在を頼るような「ひよわな善」など存在しないと思います。
逆に、「善」だけで独立できないようなのは「善」ではないでしょう。
渡海
>犯罪の無い世界が存在すると思いますか。絵に描いたみたいな犯罪の無い世界は現実にはあり得ないと思いますよ。
もしそうなら、次善こそが最善でしょう。
>善は常に相対的であり、悪から隔離された善などは存在し得ないと考えます。
名無し
>私の主張は、裁きは極悪人という「人間」に対して行うのでなくて、
極悪犯罪という「行動」に対して行うべきだ、ということです。

私の感想ですが、善とは何か、悪とは何か。善人とは、悪人とは誰のことか、
といったことがお互いはっきりしないまま論じあっているように思います。
つまりどういう立場に立って論じているかということです。
私の目から見てなのか、ある教えを通してなのか、法律的になのか、といったことです。
私は、自分は悪人であると思っている人が悪人だ、と思っています。

495名無しさん :2000/09/28(木) 15:34
最近コピペないね。つまんないの。
496名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 16:03
>495
そういう煽りは止めなさい。

>493-494

素直にレスすると、禅問答のようで、何がなんだか私には理解できません。
497名無しさん :2000/09/28(木) 16:49
>496
煽っているんではないけれど、風物詩と言うことで、
ないとさびしいね。
498名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 18:01
ある人から聞いたのですが、その人の生まれ故郷では、お寺に参るものは悪人だ、という言葉があるそうです。
寺に参って話を聞くことによって自分の罪に気づかされ、悪人の自覚を持つ、という意味かと私は思ったのですが、
そうではなく、お説教を聞くことで賢くなり、人のあらが見えるようになり、あの人はどうのこうのと悪口ばかり言うようになる、
ということなんだそうです。

>496
どのあたりが理解できませんか。
499名無しさん@1周年 :2000/09/28(木) 18:56
長いのできちんと引用しなかったため理解しにくいのでしょう。ごめんなさい。
「渡海難を問う」の255から281まで断続的に続き、
289で名無しさんがやめたと宣言しました。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=964403775&ls=50
ここを読んでもらえたら話の流れがわかるでしょう。
500ゲスト :2000/09/28(木) 19:08
「渡海難を問う」で善悪問答を仕掛けた者です。お招きいただいたので
お邪魔します。

>493−494

そうですね。まず善悪は存在するのか、存在するとして、絶対的な
基準を持つのか(万人に共通の善悪があるのか)、それとも全く相対
的なものなのか、を問題にする必要があります。

まず、法律で決めた善悪は、絶対的な善悪と相対的な善悪の混合にな
っていると思います。「こんないいかげんな法律があってたまるか」
という声が少数あるものの、大部分の人は満足して、これに従って
います。しかし、「理不尽」だと感じるものがあるのは確かですし、
少年法など実際に賛否両論に分かれて議論されています。だから、
かなり合格点に近い「絶対的善悪の尺度」を含んでいると言ってよいと
思います。

次に、宗教上の善悪についてですが、私は「絶対的な善悪がある」
と思っています。世界中の宗教の教義を見ても、命を大切にせよ、
隣人にやさしくせよ、と共通の教えを説いています。善悪が完全に
相対的なものだとすれば、これはおかしな話です。

私は宗教も国籍も違う友人を何人か持っていますが、善悪の価値観
というのは人類共通なんだな、関心することがしばしばあります。

こういうバックグラウンドがあるからこそ、仏教の教えとは何か、
と問われて「善いことをなせ、悪いことをなすな」と単刀直入な
答えが返ってくるのです。絶対的な善悪がわからない人は、仏教
には入門できないということです。(違いますか?)
501ゲスト :2000/09/28(木) 19:26
次に、498さんの善悪ですが、これは「次善」同士の比較の善悪
です。子供が試験で50点取ってきた。親は「出来の悪い息子の割
にがんばったな」と誉める。しかし、塾に通わせるようになって
70点が当たり前になったら、50点は今度は「悪く」なる。

「善」は「よりよい善」に会うと「悪」に変わってしまうのです。
ですから、善悪を計る尺度が同じでも、善悪は決められません。
ちょうど、磁石のN極とS極のように、善悪は背中合わせに存在
します。旅人は、磁石を持ちながら、ゆっくりと「北=善」の
方向に旅していきますが、昨日は自分から見て「北」であったもの
が、今日はすでに「南」に移っているのを見ます。こんなイメージ
です。

さらに善悪を計る尺度が異なる場合があります。警察の「善」は
泥棒の「悪」です。警察の「悪」は泥棒の「善」。お互いに自分の
「善」が正当だと主張します。この時に、絶対的な善悪の尺度が
大切になってきます。もし絶対的な善悪がないとすれば、何を
やっても「善」ということになり、仏教の教え「善いことをなせ、
悪いことをなすな」は検討違いということになります。

以上、長くなりましたが、私の主張は以下の通りです。

1)絶対的な善悪は存在する。
2)相対的な善悪というのは、絶対的な善悪に近いかどうかで決まる、
「次善同士の比較」である。
3)利害関係で善悪の尺度が異なる場合(警察と泥棒)も、同様に
絶対的な善悪の尺度に照らして、どちらが「より次善か」という判断
ができる。
502渡海 難 :2000/09/28(木) 19:48
493さんもかなり強引に議論を移設をするんですね(苦笑)。
 「渡海難を問う」のNo290さんと渡海との議論に注目してくださるのは嬉しいですが、No290さんが抜けると気の抜けたビールのような感じがします。どうもしっくりきません。

>私は、自分は悪人であると思っている人が悪人だ、と思っています。

 これは大事な視点かも知れませんが、今回の議論とは問題点がやや離れていると思います。
 No290さんとの議論の善人悪人観は、「WMの教祖も善人か?」という問題提起が示唆する善人悪人の概念(定義)から離れません。「自分は悪人であると思っている人が悪人だ」、という議論からは遠いと思います。
 WMはインチキ宗教だと確信している人は、WMの教祖は大悪人だと思っているわけです。当然のことでしょう。この当然の思いを当然のこととして自分の心が共感的に理解できないと、相手の議論の動きは分かりません。渡海はこの思いを共感的に理解することに失敗したようです。
 「自分は悪人であると思っている人が悪人だ」、という概念を持ち出せば、相手の当然の思いを当然のこととして共感的に理解することはできないでしょう。
503ゲスト :2000/09/28(木) 19:49
次は善人と悪人の定義です。

人間には自由意志があります。例えば、私は床に落ちている一万円を
警察に届けることもできるし、そのままポケットに入れることもでき
ます。今、他には誰もおりませんので、私が何をしようと自由です。
しかし、自由には責任が伴います。私は自由の代償として、なした
行為の結果に責任を負う義務を引き受けます。

私がそれを盗むことを決めたとします。そして、盗んだ。この時、私
は「盗人」になります。そして、この行為が「絶対的な善悪の尺度」
に照らして「悪」の行為であれば、私は「悪」の行為者、つまり悪人
になります。しかし、私は生まれつきに悪人だったわけではありま
せん。私は自由を濫用し、自ら「悪」をなしたことで悪人になったの
です。ですから、明日「善」を行えば、私は善人になることができま
す。それをするかどうかは、私の自由です。

私の主張をまとめます。

1)善人、悪人とは、「善」または「悪」の行為者である。
2)人間は自由意志で「善」も「悪」もなすことができる。しかし、
自由であるがゆえに責任を負わなければならない。
3)人間は生まれつき善人でも悪人でもない。行為によって刻々と
善人になったり悪人になったりしている。
504渡海 難 :2000/09/28(木) 20:09
>500,501,503
   ??  500,501,503は、「渡海難を問う」のNo290さんと同じ人?違う人?
505ゲスト :2000/09/28(木) 20:17
これでようやく議論の土台ができたようです(^^;)。

WMでインチキにあった人は、教祖は極悪人だ、と主張しました。
確かに、彼らが「被害を受けた」と感じているのは確かですし、今の
法律では教祖は裁かれないのです。私は、教祖の本心はわかりません
が、結果的に他人を騙したことは間違いありません。そして、他人を
傷つけることは「絶対的善悪の尺度」から見て「悪」だと思います。

では、われわれは教祖を裁くべきでしょうか。いや、まずそのために
は彼が自由意志でやったかどうかを確認する必要があります。悪気が
なかったのに、結果が悪かっただけかもしれない。あるいは、誰かに
命を脅されてやったかもしれない。次に、本人が自由意志で「悪」を
なしたことが確認できたとして、彼を裁くべきでしょうか。その通り
です。彼には責任がありますから、なした「悪」の行為を償わねば
なりません。しかし、償えば彼の責任は消えますから、もはや悪人で
はありません。

表面から見ると、彼は裁かれたように見えますが、実は裁かれたのは
行為で、彼はその責任を負って償いをしただけです。ただ、「悪」の
行為者の多くは「悪」を好む習慣を身につけている(たいてい、悪は
肉体的な快楽に結びついているので、常習性がある)ので、何度も
何度も「悪」の行為を繰り返します。このため、前科がある=悪人
というイメージが先行して、「法律は悪人を裁くもの」というように
錯覚してしまいます。

1)人に対してでなく、その行為に対して「善悪」が裁かれる。
2)人は自由意志でなした行為に対する責任から、「悪」の行為を
償う義務がある。
3)一旦償いを終えれば、その人は悪人ではなくなる。
4)ただし、多くの「悪」の行為者は常習性があるので、「悪」が
人間そのものにあるかのように錯覚している。
506ゲスト>504 :2000/09/28(木) 20:21
290本人ですよ。もっとも、招待くださったのは他の方のようなので、
その方がお相手をしてくださると期待をしているのだが。
507ゲスト :2000/09/28(木) 20:27
議論を仕掛けておいて申し訳ありませんが、明日から3日ほど出張で
RESができませんので、後ほど皆様の議論に加わらせていただきます。
508渡海 難 :2000/09/28(木) 21:11
>506
>他の方のようなので、その方がお相手をしてくださると期待をしている

 了解しました。
 楽しみに傍観させて戴きます。
509議論の参考までに :2000/09/29(金) 11:08
止悪修善

法句経(183) 七仏通戒偈(シチブツツウカイゲ)
『もろもろの悪をなさず,善をたもち,みずからの心を浄めるこそ,諸仏の教えである』


善悪超越:仏の境地〔涅槃(ネハン)〕をいったもの

〔法句経(39)〕
『善と悪とを捨て,目ざめた者』

〔スッタニパータ(520)〕
『善と悪とを捨て,…生死を超越した者』

仏は悪のみならず,善をも捨て,超越するということは,一般の善悪論が,功徳(クドク)・
利益(リヤク)を目的としたものだからで,善を意味する原語が,しばしば〈福〉と漢訳され,
因果についていえば,善因楽果・悪因苦果とされたところである.
510議論の参考までに :2000/09/29(金) 11:30
『ダンマパダ』(『法句経(ホックキョウ)』)の「一切の悪を作さざることと善を身につける
ことと自らの心の浄化とは、これ諸の仏の教えである」ということばは、禁止とか命令と
かのものではない。
みずからの自覚と意志に基づき積極的に善を実践することにより高次の宗教的境地に到達
すべきことを教えているのである。
心の浄化が仏教の究極的な実践であるから、仏教者はその究極の実践である心の浄化に向かって精進することになる。

心が人間の活動の中心であることは、例えば『ダンマパダ』の第一句に、
「すべてのものは心を先とし、心を主とし、心によって作られる。もし汚れた心でものを
言ったり行ったりするならば、それより苦しみがその人に従いゆくのは、ちょうど車をひ
く(牛の)足跡に車がついて行くようなものである」とある。
すべてのものは人間の心の内容が変化したものであるとするから、われわれの煩悩が画き出したものと言うことができよう。
人生の苦悩迷乱は人間の心の内容であるさまざまな欲望やこだわりやとらわれがさまざまに展開した結果であるから、すべては心の変化したものであるとも言える。
この人間の煩悩が浄化すべき心の内容である。

人間はあらゆる場合において主体的にみずからの生き方を決し、他から支配され管理され規則によって拘束される存在ではない。
人間はみずから進んで善を求めるべきであるし、つねにみずからの日々の営為を反省し、それぞれ自己のありようを振り返ってみるべきであろう。
現代社会のあらゆるところに蔓延している拝金主義などによる腐敗や政治的権力者の正義
感の喪失などの諸悪を思うにつけ、上の七仏通誡の偈は、時空を超えて全人類の基本的理
念として価値ある箴言(シンゲン)であることは事実である。
511議論の参考までに :2000/09/29(金) 11:44
『善悪の二つ惣じてもって存知せざるなり。』〔『歎異抄(タンニショウ)』〕
「自分は善ということも悪ということも本当のことはまったくわからない愚か者である。」

人間は善とか悪とかがわかるようになって一人前になったといえるのであって、善悪の判
断ができないようでは、人間性まで疑われるのが通常である。
ところが親鸞は善ということも悪ということも本当のことは何もわからないと告白してい
るのである。

『そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきを
しりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさを
しりたるにてもあらめど……。』
「その理由は、すべてを知りぬく知恵を完成した如来が、そのお心に善と思(オボ)しめさ
れるほどに知りぬいてこそ、善を知ったということもできるであろう、また、如来が悪と
思しめすほどによく知りぬいてこそ、悪を知ったともいわれもしよう」

善を知り、悪を知る、という以前に、本当に善がわかり、悪がわかっているのか、と自分
に問いただすことの大切さを親鸞は指摘しているのである。
善とか悪とかをよく知りもしないで、善悪を知りぬいていると考えることは、自己を知ら
ざる思いあがりにほかならないであろう。
自己を絶対視しているうぬぼれといってもよい。
それは自分自身の愚かさに気づいていない己の無知を如実に物語っている。
とかく私たちは自分中心に考えがちであり、そのために善悪をめぐって、他と争うことに
なる。
しかも多くの場合、お互いに自分を善とし、他者を悪として、言い争うのである。

聖徳太子の『十七条憲法』第十条
「人みな心あり、心おのおの執(ト)れることあり。
彼れ是(ヨシ)むずれば則ち我れは非(アシ)みす、我れ是むずれば彼れ非みす。我れ必ずし
も聖(ヒジリ)にあらず、彼れ必ずしも愚(オロカ)にあらず、共に是れ凡夫のみ。
是みし非みするの理(コトワリ)たれぞよく定むべき、相共(アイトモ)に賢く愚かなること鐶
(ミミガネ)の端なきが如(ゴト)し」
一方を是(善)とすれば他方が非(悪)となり、他方を是とすれば一方が非となるのであ
って、ともに凡夫であるから、是非の理をいったい誰が定めることができようか、という
のである。
ここには人間性への内省による深い人間自覚が示されている。

親鸞の言葉は、これと軌を一にするものであって、善悪についてのわれわれ人間のとらえ
方がいかに皮相的なものであるか、また本当に善悪を知りわけることができているのか、
ということについて鋭い反省をうながしているといえよう。
人間の善悪について考えるとき、このような自己内省の視野こそが大切であって、善悪を
めぐる人間の問題がそこではじめて深く追究されることになるのである。
512議論の参考までに :2000/09/29(金) 12:05
親鸞(シンラン)『教行信証(キョウギョウシンショウ)』信巻、『文類聚鈔(モンルイジュショウ)』
『雑毒の善(ゾウドクノゼン)』
「(心中にいつわりをもち、煩悩にみちているわれわれ人間のなす善は)毒のまじった善
である。」

もと中国浄土教の大成者である善導(ゼンドウ)(613―681)の言葉であるが、親鸞自身もこの言葉を随所に用いている。
善導は、真実心(うそいつわりのない心)がなくてはいかに善をなし往生を求めても不可
能である、と述べている。
親鸞はこれをうけて、真実心とは如来の心であって、凡夫の心には真実はないとする。
なぜならつねに貪(ムサボ)りの心に汚れ、怒りの心にやかれているからである。
したがって凡夫のなす善は毒のまじったものであり、むなしいいつわりの行いにほかなら
ない。
ここで毒とは無明や煩悩をさしているのである。
つまりわれわれ人間の行いはすべて無明(迷い)の行であり、煩悩の行為であって、その
意味においてたとえ善の行であっても、雑毒の善なのである。
われわれ人間に真実心というものはどこにもない。
真実心のない行為は真実の行為でもなく、清らかな行為でもない。
親鸞は、われわれ人間は果てしないいにしえから、無明の海をさまよい、迷いの世界に沈
み、さまざまの苦しみに束縛されていて、清らかな信心がないというのである。
これは深い宗教的内省による人間自覚を示しているのであって、通常われわれが善として
いることも、この内省に立つとき、善とはいえなくなる。
純粋無垢な善をなしえないことがわかるからである。

『正像末和讃(ショウゾウマツワサン)』(親鸞)に収められている「愚禿悲歎述懐(グトクヒタンジュッ
カイ)」では、
『悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎(ジャカツ)のごとくなり
 修善も雑毒なるゆえに
 虚仮(コケ)の行とぞなづけたる』
とうたっている。
これは善導の言葉を和讃にしたものであるが、親鸞自身の悲歎の言葉なのである。
悲歎は宗教的内省の自己告白にほかならない。
自己の善にとらわれ、それを誇るほど自己へのおそろしい思いあがりはない。
それは自己への絶対的自信とみられないこともないが、自己を真に知らざる欺瞞である。
自己の善を雑毒のものと知ることは、この自己への思いあがりがあるかぎり、絶対にあり
えない。
自己の心を照らすものに出会って、はじめてわれわれ人間は自己の偽り、邪(ヨコシマ)な心、
悪の心を知るのである。
われわれ人間がなす善は、この偽りや邪な心を離れたものではないから、「雑毒の善」と
いわれるのであって、自己の善を「雑毒の善」と知るのは、この意味において、最も深い
心のめざめを示しているといえる。
513議論の参考までに :2000/09/29(金) 12:28
親鸞(シンラン)『正像末和讃(ショウゾウマツワサン)』
『悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり(アクショウサラニヤメガタシ ココロハジャカツノゴトクナ
リ)』
「悪に侵されいっこうにそれをとどめることができず、わが心はへびやさそりのようにみ
にくい。」

自己を内省することは、人生にとってきわめて大切である。
すぐれた思想家あるいは宗教者は、例外なく自己内省の人であった。
いかにわれわれ人間は迷いの深い存在であるか、また煩悩を断ち切ることができない身であるか、すぐれた仏教者は宗派のいかんを問わず、赤裸々にそのことを告白している。
ところが、われわれ凡夫は、みずからの凡夫の姿に気づかずに、自己を愚かでないとか、自分は悪いことをしていないとかと思い、自己にとらわれ、思いあがっているのである。
自己を見、自己を知るとは、自己の内面を深く掘り下げることであり、そのことなしには自己の迷いを知ることは不可能である。
迷いとは自己の真の姿を知らないことである。
この自己を知るということがいかにむずかしいことか。
それは例えば、他人の過ちはすぐ目につくが、自己の誤りはなかなか気がつかないという
ことによっても明らかであろう。
われわれ人間の眼は外に向いていて、自己の心を見る眼とはなっていないからである。
心の眼を開け、ということがよく言われるのはそのためであって、この心の眼を得てはじ
めて自己の真の姿に気づくことができる。
ここに掲げた和讃の一節は、深い自己内省を表している。
それとともに自己を悲しみ、恥じ、歎く親鸞の心がいかに深いものであったかを示してい
る。
この親鸞が自己を悲歎する言葉はそのまま悪をとどめることもできず、みにくい心をもっ
ている自己についての懺悔告白でもある。
またこの悲歎の言葉が語られるのは、そこにみずからを罪悪深重(ジンジュウ)(罪が深く
悪が重いこと)の凡夫と知る覚醒(めざめ)があるからである。
罪とか悪とかというと、法律に背(ソム)くとか、背徳の行為をなすとかという次元でいう
こともあるが、ここでは人間存在の本質まで掘り下げて、われわれ人間が無明煩悩の存在
であることをさして、罪悪深重の凡夫といっているのである。

われわれも一般に日常生活において悪を知ることがある。
良心の呵責を覚えるというのは、自己の行為を悪と思うことがあるからである。
また自分の行為の誤りに気づいたときとか、あるいは他人に迷惑をかけたときなど、罪の
意識をもち、心に痛みを感じることもある。
しかし多くの場合、自己の行為の誤りに気づくことはまれであって、気づかずに誤りを犯
している。
また他人からそれを指摘されても、ただちにそれを認めようとしないし、逆に自己を正当
化し、あるいは弁解をするのである。
のちに自己を反省して、自己の行為の誤りを認め、自分も悪かったと思うこともあるが、
いつしかその意識も消えていく。
このような日常意識における悪は、深い人間自覚の内容とはなっていない。
またわれわれの日常意識においては、悪は善と相対的にとらえられている。
したがって悪が人間存在の本質的なものとして自覚されていないのである。
514議論の参考までに :2000/09/29(金) 12:29
念仏者として生涯を送った木村無相(ムソウ)氏の『念仏詩抄』の中に次のような言葉があ
る。
『煩悩具足のぼろ家に
 南無阿弥陀仏が住みついて
 灯りがついて
 ぼろ家のおんぼろが見えまする
 南無阿弥陀仏と見えまする』
「煩悩具足のぼろ家」とは、貪欲や怒りや愚かさなどの煩悩のつまったぼろ家ということ
で、みずからのことをさしている。
「南無阿弥陀仏が住みつく」とは、わが身の中に仏が南無阿弥陀仏となって住みついたと
いうことで、念仏者の信仰の内容を示している。その仏がわれの内面を照らす灯りとなる。
そこで今まで見えなかったみずからの心の中が見えてくる。
そこにぼろ家のおんぼろを照らし出す仏の光を知るのである。この言葉は、自己の根底に
あって、自己の煩悩性を照らし出すものが南無阿弥陀仏であり、この南無阿弥陀仏こそ仏
そのものであることをあざやかに語っている。
自己の中に入って自己を照らすものが仏である、と木村無相氏は言っているのであるが、
深い宗教的人間自覚は、この仏を知るところに生まれてくる。
つまり仏を知ることと自己を知ることとは一つなのである。
この宗教的自覚の知から、右の言葉が語られていることは言うまでもない。
悪とか罪とかは、結局、人間自覚のあり方によって、その内容も違ってくる。
仏を知るとは最も深い自覚を示しているのであるから、そこで語られる悪とか罪とかは、
この自覚によって明らかに知られる人間性の姿にほかならないといえる。

親鸞に悪とか、罪とか、愚かさとか、濁悪とか、虚仮不実とかという言葉が多く、しかも
それらが自分自身について語られていることは、親鸞の信仰の本質から由来している。
「愚者になりて」という法然の言葉があるが、まさしく親鸞は愚者としてみずからを自覚
した人であった。
この姿は、自己を賢い人間とみせようとする現代のわれわれに、人間を知るうえに実に大
切な問題を投げかけている。
また親鸞がみずからの虚妄(コモウ)性、愚悪(グアク)性を知って、いかに悲しみ、歎き、
恥じたか、親鸞の著作の随所にそれを見ることができます。
真実(まこと)の心をもたず、清浄(きよらか)な心のない身であることの悲歎が述べら
れ、そのような自己をいつわり、知者とか善人として自分を飾ろうとしている無慚無愧
(ムザンムギ)(自己にも人にも恥じないこと)の姿が赤裸々に告白されている。
この悲歎告白にこそわれわれは真の宗教者の姿を見ることができる。
515議論の参考までに :2000/09/29(金) 12:31
つい、調子に乗って長々と書き込んでしまってすみません。
読み飛ばして貰っても一向に差し支えありません。
本当に参考になればという意味でのカキコですから・・・。
516 名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 19:17


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    /   ̄  \
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 |   三  ○  三   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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  \ \___//
      \Ω/   / ̄ ̄ ̄ ̄ \
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  \⊇  /干\| |    _||||||||| |  <    げ (笑)
    |       |  \ / ι_/ /    \_________
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パンパン|     丶/⌒ - - \
    / \    |  |     / |
    /  ノ\__|  |__三_ノ|  |
   /  /パンパン|  |      |  |
  /__/     |  |      |  |
          ⊆ |     | ⊇


517名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 19:59
>516
久しぶり!もっとがんばらなきゃダメ。
518名無しさん@お腹いっぱい :2000/09/29(金) 20:54
age. こぴぺきぼーん。
519名無しさん@お腹いっぱい :2000/09/29(金) 20:55
more@`more kopipe!
520名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 21:04
>516
お前のコンプレックスがわかったぞ。
お前は父親に反発しているが、父親には頭が上がらない。だから父親をはいつくばらせたいと考えている。
そこから生まれる妄想が516によく表れている。
本当に父親の肛門につっこみたいんだろう。
さらには父親と同じ男性であることにも嫌悪を感じている。
だから男の顔に女の性器というコピペを書いた。
それはお前がチンポを切りたいという願望を表している。
516を読んで喜ぶ517,518,519も似たような奴なんだろうな。
(笑)

521名無しさん@1周年 :2000/09/29(金) 21:38
>>517-519
>こぴぺきぼーん。

阿含さんはコピペがお好き?コピペさん、リクエストされている阿含スレに行ってあげてください。
522神道自由派 :2000/09/30(土) 01:12
 このスレ読むと「親鸞会」も浄土真宗もいかがわしいって気になってくるよね。
    そうだね。葬式は無宗派のお別れの会でしようって気になってきたよね。
    仏壇もいわゆる無宗派のモダンな仏壇にとっかえたくなってきたよね。
 でも、新興宗教の親鸞会はともかく伝統仏教の浄土真宗も変なのかな?
    どうなんだろうね。少なくとも悪いことはしていないんだろうね。
    親鸞会も犯罪をしているって所まではいってないような気もするよね。
 お寺やお坊さんって現代社会でどういう役割があるのかな?
    ずーっと昔の国家仏教の頃は公務員だったんだろうね。江戸時代も寺請
   制とかあったらしいから、統治機構の一部を担っていたんだろうね。
 で、信教の自由、政教分離の今ではどうなの?
    お寺がなくても困らなかったりしてね。重要文化財がある寺には鑑賞に
   行くんだろうけど、葬式を無宗派でやるって決心してしまえば関係ないや
   って感じだよね。
 でも、お寺だって経営があるから大変じゃないの?
    経営の世界だと価値のない物は淘汰されていくよね。まあ伝統の価値っ
   てことなんじゃないかな。
 お寺やお坊さんのあるべき姿ってどうなのよ?原始釈迦教団やるとΩになるし。
    このスレでも見解はでてなかったよね。原始教団の言葉を持ち出されて
   も鎌倉時代の言葉を持ち出されてもね。少なくとも個人の信仰に対して訴
   えかけるものが不足してるよね。
    とりあえずはお坊さんたちの宿題ってことにしておこうね。
523議論の参考までに :2000/09/30(土) 09:31
>522
とりあえず、私のカキコが言葉足らずで意味がないとの批判のようですので、私が無能なのは素直に認めます。
申し訳ありません。

>原始釈迦教団やるとΩになるし。

ただし、このカキコが、「原始釈迦教団やるとオーム真理教になる」という意味なら、それは間違いです。
オームを生み出す元となった阿含宗もオーム真理教も原始仏教や釈迦仏教とは名ばかりで、釈迦の教えに反することばかりが教義であり実践項目になっています。
このことは専用スレッドがあり、そちらで議論されていると思いますので、そちらへ参加してください。
524499 :2000/09/30(土) 17:21
丁寧なレスをありがとう。
2ちゃんねるは煽りや荒らしが当たり前と言う人がいますが、まともな話をしたいものです。

いくつか疑問、意見があります。
 ○絶対的善悪は存在するか。存在するとしたら具体的には何か。
あらゆる民族、文化、宗教では殺人は悪です。しかし殺人が絶対的悪とは言えません。
たとえば戦争で人を殺すことを認める民族や宗教は多いでしょう。
あるいはオウム真理教では麻原の指示による殺人は悪ではありませんでした。
殺すべき者は生きていても罪を作るだけだから殺すことは慈悲であるという論理です。
この論理はチベット仏教にあります。
こんな例を持ち出さなくても、正当防衛による殺人は罪にならないことを言えばすむでしょう。

あるいはほとんどの宗教では教えを信じない、教えをそしることが悪です。これは絶対的悪かどうか。
宗教の勧誘は信者にとっては絶対的善でしょう。勧誘者には全く悪意はありません。
しかし懐疑精神を否定することは盲信、狂信を生み出します。

ここで私は、信じている者にとって宗教を勧誘することは絶対的善かもしれないと言いました。
信じている者にとって、と限定したのは、宗教の勧誘はその人にとって、あるいはその宗教に
とって絶対的善かもしれないが、普遍的善、つまり誰にとってでも善だとは言えないからです。
525499 :2000/09/30(土) 17:25
善悪の判断はどのようになされるかを考えてみましょう。
 1,神などの超越者、及びその教え
 2,法律や世間の常識といった社会のきまり
 3,自分自身
宗教を勧誘する人にとって1と3の意味で勧誘は善なのです。
しかし2の意味では善とは言えず、場合によっては悪です。
このように考えますと、普遍的な絶対的善悪が存在するとは思えないのですが。

>「善いことをなせ、悪いことをなすな」
とは七仏通誨偈です。では善とは何か、悪とは何か、ということになると
仏教でははっきりしていないと思うんです。
そのあたりは「議論の参考までに」さんのレスを読んでもらう方がいいのですが。
真宗批判の名無しさんに読んでほしいものです。
仏教では十善という言葉があります。これは不殺生のように十悪に不がついているだけです。
悪をしないことが善だということです。
いささか消極的な善です。

疑問はほかに
○人間には自由意志があるか。あるとして自由意志に基づいて行動できるか。
○悪の行為を償うとは、具体的にどのような償い方があるのか。
○上に関連して、悪という行為はあっても悪人はないのなら、死刑をどう思うか。
といったことがあります。
これらについてはまた書けたらと思います。

悪に関連して罪と罰も考える必要があると思います。
罪とは自らの悪を自覚することによって罪の意識が生まれる。
「自分は悪人であると思っている人が悪人だ」
とはこの意味です。
罰とは他者が悪という行為をした者を罰する。
ということでしょうか。

こういう話題だとつい長くなりますね。読みにくいしわかりにくいでしょうが。
526議論の参考までに :2000/09/30(土) 20:48
>524

道元『正法眼蔵随聞記(ショウボウゲンゾウズイモンキ)』六
『人の心、元より善悪なし。善悪は縁に随っておこる。』道元
(ひとのこころ、もとよりぜんなくなし。ぜんなくはえんにしたがっておこる。)
「人の心には、もともと善悪というものはない。善悪は条件や状況によって起こってくるものである。」

われわれの精神は、自己の内界と外界との間に相関的にたえず流動変化しているものである。
ゆえに一方だけで独立して固定的に存在しているものではない。
つまり、われわれの心の働きは善悪の条件によって変化するものである。
だからよい条件を選び、近づき、悪い条件は離れ、しりぞけなければならない。
ところが、われわれは我執に基づき、自己のはからいによってものごとを判断するから、実際には正しい条件選びができない。
いたずらに自己以外に理想像を求めたり、逆に理由もなく嫌ったりする。
そして、みずからの命から遊離して観念の葛藤にとらわれて、過ちを犯すことになるのである。
では善悪を正しく判断するにはどうしたらよいか。
それは善も悪も、ともに無自性にして実体がないという事実を実践行動に即してとらえていくことである。
527議論の参考までに :2000/09/30(土) 20:50
しかし、これは善悪を無視し否定することではない。
善悪を同じと見て区別をなくしてしまうことでもない。
すなわち善悪を形式的固定的に見ることを否定して、善悪とは元来、私たちが自分なりの立場からレッテルをはったものであるとみるのである。
一つのことが時や状況が違えば善にも悪にもなり、人によっても違う。
つまり、善も悪も無常なのである。
これが善だ、悪だ、と決定できるものでないから、「不可得」とも言う。
この有りさまは仏教の基本の教えである空、無我を実践することによって現実化するのである。
善悪を一方的に善、悪と決めつけない。
自己を規制する規範などにこだわらない。
こうしてこそ悪もさまたげとならず、善もたのむに当たらなくなるのである。
しかしこれは善悪を知らず、あるいは意識せずということではなく、善悪を明確に意識して、しかもその判断にとらわれ振りまわされず、不思の善、不思の悪として、無執着にして、善を行じ、悪を制することである。
これは善は行いっぱなし、悪はやめっぱなしの「なりきり」の実践においてあらわれてくるのである。
528神道自由派 :2000/09/30(土) 23:10
 お坊さんやるのに資格いるのかな?
    新聞の通信教育の広告で僧侶の資格がとれるっていうの見たことがあ
   るよ。要は儀式に必要な行為を身につければいいんだって思ったよ。
 このスレ読むとお経の解釈とかが話題になってることがあるけど?
  仏教系の大学の教授にとかなりたければともかく、一般のお寺の坊さん
   にそういう話は求めてないよ。葬式の時に喪主の意向に沿ってお経を読ん
   だり法話をしたり形式的な行為ができれば必要十分だと思うよ。
 宗教って心の救済とか社会改革を主題にしているんじゃないの?
    新興宗教はそういう面が強いけどね。でも各種の宗教の説く道徳って
   憲法の前文にすべて含まれていると思うよ。憲法理念に沿った行動がで
   きるようになった上でのオプションみたいなものだと思うよ。
 伝統宗教って形骸化して改革されてきたっていうのが宗教史じゃないの?
    そうだと思うよ。でも立憲民主主義の社会になってからもそうなのかな。
   昔は宗教を使わなくてはできないことが今では政治社会で可能になってき
   ているような気もするよ。
 だったら別にお寺やお坊さんは葬式だけやってればいいってことじゃない?
    そうなんじゃないの。当のお坊さんたちの見解を聞きたいよ。
529神道自由派 :2000/10/01(日) 05:31
 お経の解釈ってなんか難しく聞こえるんだけど?
    そうだよね。現実の生活とちょっと遊離しているような印象を受ける
   よね。
 どうして昔の中国でできたお経で今の時代の出来事を解釈できるわけ?
    ちょっと無理があるよね。ニュートンの法則で今の時代の科学をすべて
   説明できるなんて誰も思っちゃいないよね。お釈迦さまの悟りや親鸞上人
   道元禅師の悟りで今の時代をすべて解釈しようってとこに問題があるんじ
   ゃないかな。無理なものは無理なんだし、憲法で解釈した方がてっとり早
   いのにどうして訓詁学みたいなことするんだろうね。
 善とか悪とかの話も詳しく書いてあったけど?
    お坊さんの主張なのかどうかがわからないんだけど、お坊さんってこう
   いうこと考えているのかな。仏教系の大学教授なら論文書くために必要な
   んだろうけどね。今の時代の日本人としてのアイデンティーって天皇神道
   でもないし鎌倉仏教でもないよね、日本国憲法だよね。
 憲法で善悪決めれるの?
    民主主義ってことが前文にあるよね。国会で立法する時の民主主義は議
   員の多数決だし、裁判所の憲法判断となるともう少し厳格に判断している
   よね。利害関係をもつ人たちの多数決で決めてるよね。
    違法かどうかは宗教の教義でも独裁者の恣意でもなくて民主主義で決め
   るってことだよね。
 お経は不要だってこと?
    学問として大学とかで研究したり、趣味で読んだりするのはともかくも、
   日常生活に持ち出すのはそぐわないって気がするんだよね。
    お坊さんたちの見解を知りたいよね。
530議論の参考までに :2000/10/01(日) 09:39
>昔の中国でできたお経

お釈迦さんはインドの方で、仏教の源流はインドです。

>ニュートンの法則で今の時代の科学をすべて説明できるなんて誰も思っちゃいないよね。

人類の誕生からアリストテレスやソクラテスの時代を経て脈々と続いてきた人類の歩みの上に現代文明の存在があるのでしょう。
ニュートンの法則と無関係に現代科学があるわけではありません。

数千年前の社会と現代社会は全く異なっています。
しかし、古代人の体の構造と現代人の構造が全く違うかといえばそうではありません。
同じように古代人の心の構造と現代人の心の構造が全く違うかといえばそうではありません。
苦しみや悩みを生み出す精神構造の基本的なものは、古代人も現代人も共通するものがあります。
古代インドから現代日本へ、時代と地域を移りながら、仏教思想体系の流れとして脈々と受け伝えられてきた仏教思想が、
現代社会と現代人にとって全く用をなさない無意味な過去に遺物であるかといえばそうではないと思います。
531名無しさん :2000/10/01(日) 09:46
お経が、中国でできたとは!なんと言う理解。
中国に伝わったのは
いつころ?紀元後でしょう?
4世紀?5世紀?最終は三蔵法師玄奘の時代と
して紀元後8世紀ごろ?
三蔵法師が天竺(てんじく、インド)へお経を取りに行く
西遊記、孫悟空とか知らないのかしら?

(年代不確かです。)
532名無しさん :2000/10/01(日) 10:17
追伸だけど、仏教はインドで紀元前4.5世紀だよ。
これも不確かだけど。
533よーちさん@アホいっぱい :2000/10/01(日) 10:32

よーちさんにしたら珍しくまともなカキコだと思ったけど、
自分でも自信のない不確かなことを追伸カキコまでするのは止めましょう。

仏教は、釈尊による開教=紀元前5世紀ごろ
中国への仏教の初伝は,文献上は魏略の元寿1年=紀元前2年とする説がもっとも信憑性が高い.
534 名無しさん@1周年 :2000/10/01(日) 13:48
坊さんたちが使っているお経は確かに

>昔の中国でできたお経
だよね。

原語でも無ければ、現代語訳されたものでも無い。それらのもので

>今の時代の出来事を解釈できるわけ? ちょっと無理があるよね。

と言っているわけで、それは至極ごもっともな話でしょう。

>お経は不要だってこと?
    学問として大学とかで研究したり、趣味で読んだりするのはともかくも、
   日常生活に持ち出すのはそぐわないって気がするんだよね。

我々の日常生活と、坊さんたちの日常生活とは全くの
別物なのでしょう。だから、

> お坊さんたちの見解を知りたいよね。

という真摯な問いかけにも、ものの見事に肩透かしを食わせている。

  想像したとおりだったでしょう?(苦笑)

   
535499 :2000/10/01(日) 17:40
>ゲストさんへ
 ○人間に自由意志はあるか
  人間は自らの意志で悪を選ばず善のみをなすことができるか
腹が立つとまず頭にかっときて怒ります。妻子が相手だと押さえられません。
さすがに他人には怒りを押さえますが、表情が変わっているでしょう。
後で、ああ、まずかったと思うことはしょっちゅうです。
またつまらないことを言ってしまったと後悔します。

クレイジー・キャッツの「スーダラ節」を知っていますか。
青島幸男の作詞です。
 ちょいと一杯のつもりで飲んで
 いつの間にやら はしご酒
 気がつきゃ ホームのベンチでごろ寝
 これじゃ体に いいわけないさ
 わかっちゃいるけど やめられない
まさに真理です。人間の真実をついています。
わかっちゃいるけどやめられないのが人間の本性です。
いや、本当にわかっているのか。やめようとしているのか。やめたくないのではないか。
536499 :2000/10/01(日) 17:42
北森嘉蔵という人が「日本の心とキリスト教」という本の中でキリスト教の原罪とは、
「そうせざるをえないことをする」ことが、同時に「そうしたいことをすること」になるのである
と定義しています。
つまり、避けることのできない必然的なことをしたことが、同時に自分の
意志によることだ、と言うのです。
わかりにくいですね。もう少し引用しますと、
もし人間がその時その時に失敗しさえしなければ、人間は罪を犯さなくてすむ。人間の努力次第では一生罪を犯さないですむと考えられる。しかしルターは「わたしはつねに罪人である」と言った。
なぜなら人間の心は狂った弓のようなものであり、人間はどのように努力しても、的ははずれるのである。
人間は「行為」において「罪を犯す」前に、すでに存在において「罪びと」である。しかも必然性を負わされたままで、自己の意志でもって「罪を犯す」のである。

つまり「そうせざるをえないこと」、必然的なことは必ずしも善ばかりとは限りません。
それが悪だとわかっていても、「そうしたいこと」として自己の意志でそれをしてしまう。
原罪を仏教の言葉で言えば宿業ということでしょうか。
うーん、人間は存在そのものが罪びとならば、人間存在が絶対的悪とい
うことになるのでしょうか。
537499 :2000/10/01(日) 17:43
○悪の行為の償いとはどのようなことか
○罪を憎んで人を憎まず
 では死刑制度についてどう思うか

これは単なる質問です。
538名無しさん@1周年 :2000/10/01(日) 18:08
>神道自由派
キリスト教の中に聖書根本主義というのがある。聖書に書かれてあることはすべて
事実だという考えだ。
神が世界を創造した。それは今から約6000年前だ。とか、エデンの園は現実に
どこかにあったし、我々はノアの子孫だし、といったようなことをまじめに信じて
いる人がいる。
でも仏教の経典に書かれていることが文字通りの事実だと考えている人はまずいないだろう。
法華経や華厳経なんかSFみたいなものですからね。
そうした表現で一体何を説こうとしたのか、それを考えていかなければならない。
古いからだめだという方がおかしい。
人間は何千年たっても大して進歩していない。だから昔の人の言葉が現代の我々の
指針となる。
釈尊やイエス、孔子その他の時代の人間よりも現代の我々の方が上等なんだから、
彼らの説いた教えは我々には必要がない。神道自由派はそう思っているんだろうか。
宗教や哲学に限らない。小説や音楽でもそうだろう。古びていくものもあれば、
ますます光り輝くものもあるじゃないか。
539議論の参考までに :2000/10/01(日) 20:01
>537 499さん
>悪の行為の償いとはどのようなことか

『ダンマパダ』173
『かつての悪行を、のちに善行でつぐなう者は、雲間(クモマ)をはなれた月のように、世の
人を照らす。』

アングリマーラは、盗賊で、人を殺しては財産を奪い、その指を糸でつづって首飾りにし
たから「指(アングリ)を首飾り(マーラ)とする者」(漢訳仏典に「指蔓外道」という)と呼
ばれた。
人々を恐怖のどん底におとしいれたが、後に釈尊により教化され、比丘として修行を始め
た。
当然、托鉢(タクハツ)のために舎衛城(シャエジョウ)にゆくが、人々は面罵(メンバ)し、石を投げ、
棒を投じて、アングリマーラの鉢はこわされ、衣は破られ、頭から血を流して戻ってくる。
釈尊は、過去の悪業(アクゴウ)のむくいを今、ここに、受けているのだから耐え忍び、今な
すべきことを真面目に行ずることを教える。
こうして彼は自分の今おかれている状況の意味をみずからに納得し、比丘としての正しい
生活を続けていった。
次第に非難の声は少なくなり、托鉢の食物ももらえるようになった。
アングリマーラは修行を続け、ついに悟りをひらいた。
そのときの詩が見出しの句である。
私たちはさまざまなミスをおかし、自分に納得できぬ「悪」を行っている。
その結果が具体的に身に振りかかるのは自明の理で、してしまったことはとりかえしがつ
かないことであり、耐えるところは耐え、正しく生きるところに救いがあることを、この
詩は教えている。
540議論の参考までに :2000/10/01(日) 21:13
>537 499さん
>死刑制度についてどう思うか

真宗大谷派
『死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明』より抜粋

(略)

最近頻発する凶悪犯罪や動機の不明な殺人事件など〈いのち〉の尊厳が踏みにじられる多くの現実に対しましては、誠に慚愧に耐えないことであります。

しかしながら、その事をあらためて想う時、この凶々しい現実が何に由来しているのかと
いうことが問題となってまいります。
そこには、一人の〈いのち〉が「もの」あるいは「量」のみで捉えられ、何ものにもかえ
られない、一人ひとり固有の「質」を持った〈いのち〉という受け止めが、現代を生きる
我々に欠如しているからではないのか、という課題が突き付けられてまいります。

犯罪を犯すその根底にも、そしてまた、死刑制度を支えるその根底にも、同様に、〈いの
ち〉を「もの」として捉える意識があるといっても過言ではないと思います。
今、まさに我々に問われていることは、〈いのち〉をどのように受け止めているのかとい
うことであります。

(略)

今や国際社会は勿論、日本国内でも、死刑制度が何ひとつ問題を解決するものでないことは明らかとなってきています。
それだけでなく、憎しみを育てることはあっても、決して愛すること、悲しみを共有することを育てることはないと言わねばなりません。

私たちは仏教徒として、都合の悪い誰かを排除するのではなくて、あくまでも許しと償い
の可能な社会に共に生きることを求め続けたいと思っています。
そして、本当の意味での「犯罪抑止力」として、何ものにもかえられない固有の「質」を
持った〈いのち〉の大切さを、一人ひとりが受け止める必要があると考えています。

あらためて、今回の死刑執行に遺憾の意を表明すると共に、ただちに死刑執行を停止し、
さまざまな立場の人と共に考え議論していく場が開かれることを強く要望いたします。
541渡海 難 :2000/10/01(日) 22:58
Kankyaku wo oiteke bori ni site@` tuki ni mukatte ookami boozu ga hoeteru dake da.
542議論の参考までに :2000/10/01(日) 23:50
>541
渡海さん、ローマ字でカキコなんて自分でもいやらしいと思いませんか?
普通に参加すればいいでしょう?
私が気に入らないようですので、私は消えます。
どうぞ、参加してください。
543読み飛ばしてください :2000/10/02(月) 00:05
『ダンマパダ』314
『悪を行うよりは何もしない方が良い。悪を行えば後で悔いる。
 単に何かを行うよりは、善を行う方が良い。後で悔いることがない。』

善いことをしろ、悪いことをするな、というのは当たり前のことである。
その当たり前のことをするのが仏教の基本だ、という教えもある。
しかし、それでは何が善で何が悪か、というと、その判別はむずかしい。
日本人は昔は牛、豚、羊等の「四つ足」の動物の肉を食べなかったが、今は平気で食べる。
わずか百年で価値基準が違ってしまっている。
インドのヒンドゥー教徒にとってビーフを食べることは悪だし、イスラム教徒にとっては
ポークを口にすることは考えられない。
欧米では肉食の伝統があるが、最近では動物愛護の観点から菜食をよしとする運動もある。
一般に倫理と言われている人間の行為規範は、つねに一定ではない。
時代により、場所により、また世界観により変わることがありうるので、相対的なものな
のである。
544読み飛ばしてください :2000/10/02(月) 00:07
では釈尊は善・悪をどう説いたかというと、それを行ってあとで悔いることのない行為が
善だという。
『ダンマパダ』67〜68には、なにかをして、あとで後悔し、その結果に涙を流して泣くの
は悪い行為であり、反対に後悔することなく、嬉しく、楽しくなるような行為は善い行い
だと説いている。
つまり、善・悪を絶対的な基準をもうけて決めるのではなく、自分がどう受けとめられる
かによって決定する、というのである。
しかし、単にこう言っただけでは誤解を招きやすい。
人を殺したり、泥棒したりして、しかも、自分が楽しい、と思えればそれも善だ、という
ことにもなりかねない。
何の前提もなく、自分で後悔せず、楽しければいい、というわけではないのである。
釈尊は人生の不安、苦の原因を欲望にみた人である。
私たちはつねに「ないものを欲し」がり、「限りなく欲し」がっている。
老病死は人間にとって必然なのに、それを嫌がって悩むのは前者の一つの例である。病気
になったら、病気をなおすことに全力をつくす一方、そこから起こるだるさや痛さは堪え
なければならない。
それをゼロにしろと言い、思うようにならないといって苦しんでも、それは「ないものね
だり」だと釈尊は言うのである。
あるいは、これだけ豊かな社会になりながら、私たちは満足できない。
もっと、もっと欲しい、と願いながらさまざまな欲求不満に悩む。
「限りなくねだり」つづけるなら、ついに、これでいい、と満足することはない。
釈尊が自分で楽しく、嬉しくなる行為を善なるものとして行え、という裏には、こうした
人間の苦、不安の洞察がある。
「嬉しく、楽しい」というのは、だから、感覚的な満足ではない。
自分の自我欲望をコントロールし、欲求不満に苦しめられない心の平安を得ることをこそ、
嬉しい、楽しい、と表現しているのである。
だから、仏教の倫理は、基本的にいえば、具体的な行為を挙げて「これをしろ」「あれを
するな」とは説かない。
また、それは不可能でもあって、先述の例でいえば、ビーフを食べることの是非は客観的
基準をもうけようがない。
各人それぞれが真に「心の平安」を求める宗教的良心に立ち戻って、自主的に判断するよ
りほかに方法がないのである。
545読み飛ばしてください :2000/10/02(月) 00:26
こうした自律的、主体的な行為の選び方を仏教では「戒」と言う。
これに対して、何らかの集団生活にあって、自分も最大限に自由に、他人の自由も最大限
に保証するためのルールを「律」という。
律とは他律的であり、上から与えられるものだが、その根本には戒の精神が横たわってい
る。
戒の考え方は仏教の倫理を理解するのに重要である。
あくまでも真実にのっとりつつ、内なる良心の声に従うところに善なる行為が実現する。
したがって、個人に応じ、状況に応じ、行為の形態は同じではない。
「状況的」であり、キリスト教の新しい神学の言葉をかりるなら「状況倫理」と言っても
いい。
こうして戒の根本の趣旨に沿って「善」が行われていくとき、そこにおのずから皆が肯
(ウナズ)き、認める共通の行為パターンが出てくる。
それを中道とも言う。
仏典には「快楽追求と禁欲の両極端をすてる」のが中道であるという。
これは釈尊の伝記に即していうものであり、一般論で言うなら、仏教の教えに従い「心の
平安」を求めて「善」を行う行為のことである。
それが結果的に極端を離れ、バランスのとれた行為となる、ということである。
単なる「まん中」ということではない。
宗教的良心に立ち戻りつつ、主体的に善悪を選びとっていくことであり、これこそ「後悔
しない」行為をせよ、と勧めているのである。
546議論の参考までに :2000/10/02(月) 00:34
543~545は、499さんのカキコに対して書き残した賛同のつもりです。

渡海さん、それでは本当にさようなら。あとはよろしく。
547ゲスト :2000/10/02(月) 09:33
丁寧なRESを本当にありがとうございます。何ぶん仕事中なので、すぐにフォロー
はできませんが、日頃「仏教は絶対的な善悪を説くか」という疑問を持っていた私
にとって、ありがたい参考資料ばかりでした。ちょうど「悪人成仏」が心にひっか
かっていましたし、私にとって「渡りに船」です。

昨日、弥勒経に関する解説書を読んでいて、おもしろい記述にぶつかりました。
涅槃は「楽ばかり、至善至福の状態」と考えた一派と「楽も苦もない状態」と
考えた別の派が原始教団にあったというのです。涅槃がこういう状態だから、善悪
に絶対的な尺度があるかどうか、二論が出るのは当たり前ですね。

私は、544の「それを行ってあとで悔いることのない行為が善」というのが
「正解」だと思います。「罪と罰」で完全犯罪を成し遂げた主人公は、悪人に制裁
を加えるという「義」でもっても、「良心の咎め」を納得させることはできません
でした。彼は、法ではなく、彼自身の良心によって裁かれたのです。なぜか?それ
は「殺人が悪いことだから」としか説明できないでしょう。前のところで書かれて
いる「集団の善」としての戦争の話と関連してきますが、たとえ大儀名分があろう
とも、殺人という行為そのものに「良心の咎め」はあり、釈尊の言う「悪」なので
はないか、と思うのです。同様の理由により、私は死刑には反対です。日本では
死刑囚に袋を被せて、表情が見えないように工夫するようですが、それも「良心の
咎め」の裏返しだという気がします。

残りはまた後ほど。それでは。
548渡海 難 :2000/10/02(月) 09:39
>542議論の参考までに
>ローマ字でカキコなんて自分でもいやらしいと思いませんか?

 野次馬の野次ですよ。見てる人が多ければ、いろんな野次があるでしょう(笑)。

>私が気に入らないようです
        そんなことはないんですよ。

>私は消えます。

 乗りかかった船でしょ。頑張ってみなさいな。ここで降りてどうするの。神道自由派の人だって、言ってることがおかしいところも多少、あるようですね。

>543〜545
>読み飛ばしてください

 読み飛ばしてほしいなら、読み飛ばしただけで分かる内容にしてくださいな。これじゃさっぱり分からない。

>499さんのカキコに対して書き残した賛同のつもりです。

 あなたが言いたいことは一言ですか?「499さん。貴方に賛同しますよ」ということでしょうか?。

>渡海さん、それでは本当にさようなら。あとはよろしく。

 リング上の一人は、開始早々、渡海以外に相手になって欲しいと言っているんでしょう(No504@`506)。開始早々、競技者の一人からそう言われて、わざわざ私が出ていくまでもないでしょう。
 これまで自分で盛んに書き込んでリングに上がり、野次馬の一声に驚いてリングから降りてどうするの?
 折角これだけたくさん書き込んだんだから、その内の一つでも、他の人に少しでも伝わるように努めて頑張ってみなさいよ。
549ゲスト :2000/10/02(月) 10:01
>526−527

同じ道元さんが、禅で何を悟ったか問われて「目は横に、鼻は縦に付いている
ことがわかった」と述懐されていたと思いますが、同様にこの言葉は善と悪とは
はっきり違う、という意味にも見えます。世間で言う「家族のため、会社のため、
国のため」の善、という相対的な善をすべて取っ払って、身欲が未だ出てこない
時の「主人公」の心の鏡に映る善悪に従え、という感じです。

禅の名僧は口々に悟りの境地を「この世が一瞬に極楽に変化する、自分の素顔に
惚れきって忘れられなくなる」と言い表し、悟りを開いた後に殺人に興じる人は
おりません。仏教に善悪なし、なら、仏教徒が殺人をやらない理由はありません。
南山は猫を切り捨てますが、あれは弟子達を導くための仏心からでた「涙を飲んで
の悪行」であったように私には思います(それが証拠に、後で「猫をむざむざ殺す
必要はなかったものを」と猫を惜しんでいます)。彼らには彼らの善悪があって、
思うままに振舞ってそれがことごとく「善」に適う、そういう境地であるように
思いますね。

熱心な仏教徒で殺人鬼という人はおりませんね。キリスト教、ユダヤ教、イスラム
教は別のようですが。
550ゲスト :2000/10/02(月) 10:30
>543−545

「宗教的良心」がまさに「主人公の心に映る善悪」に相当すると私は
思います。「〜のため」という行為は厳密には「似非善」でしょう?
「〜のため」とは注釈であり、言い訳です。下請け業者を切る。これは
自社の利益だから「善」だと。そこには言い訳が見え隠れします。宗教
的な善だと割り切って「聖戦」で人を殺すのも同じです。そこには良心
のやましさから逃れるための言い訳がついた「似非善」です。絶対的な
善なら「これは善だから善だ」としかいえないし、「〜のための(限定的
な)善」などありえません。

人が「似非善」だと直感的にわかるのも(人はとっさに言い訳をするも
のです。熟考して言い訳するかどうか決める人はいない。言い訳の中身
を熟考することはあっても)、生まれつき善悪を「知っている」が故で
す。だからこそ、「悪と知っていながら自由意志でそれを行うと罪に
なる」のです。

子供の環境が悪いために犯罪者になってしまった人でも、生まれつきの
良心はちゃんと持っているはずだ、と私は考えます。その証拠は、捕ま
って彼らに分けを聞けば、「〜が欲しかったから」とちゃんと言い訳を
します。「人を殺すのがなぜ悪いんだ?」と真顔で聞く人は居るもので
しょうか?
551ゲスト :2000/10/02(月) 12:10
>善を知り、悪を知る、という以前に、本当に善がわかり、悪がわかって
いるのか、と自分 に問いただすことの大切さを親鸞は指摘しているの
である。

>自己の心を照らすものに出会って、はじめてわれわれ人間は自己の偽り、
邪(ヨコシマ)な心、 悪の心を知るのである。

これらの文章も、われわれの日常的な「善悪」が、注釈つき、言い訳つき
の「似非善」ではないか、と指摘しているだけで、「絶対的な善悪」の
存在を否定してるわけではない。

私が「悪人成仏」に引っかかりを感じたのは、この言葉が「盗人猛々しい」
感じに悪用されやすいと思うからです。
1)人と仏を比べたら、人は常に「悪」です。つまり、この世には仏の目
から見て善人と呼べる者はいない
2)よって、悪人である人間が、悪人同士である他人を裁くことはゆゆしき
ことである。

ここまではよいとして、

3)よって、善悪などないのだから、世の中の不合理など放置しておけ
ばよい。最後にどんな悪人も許されて成仏するのだから。

にまで行ってしまう。

私は自分が悪人であることを意識した上で、仏教のお坊さんの悪業ぶり
を断罪せざるを得ません。社会的な悪は、仏の目から見てすべて悪とは
限らない。しかし、一部は「正真正銘の悪」であって、それを排除する
のが仏教徒の勤めです。日本の坊さん達は、3)の理屈を利用して、
社会的に関係のないところで信心をやっているような気がする。

東南アジアの寺院は、ほとんどがエイズなどで社会から見捨てられた
人々の収容施設になっているそうです。それは、エイズ患者は社会に
とっては「悪」ですが、仏の目から見れば「悪」ではなく、慈悲の対象
になるからで、良心の声に従えば当然にこうなるのです。

ところが、日本の坊さんは社会的な活動には一切目をつむっている人
が圧倒的に多い。もともと仏教とは、「本当の善悪」を悟らしめ、苦
から解放されるための教えですが、現代の坊さんは生者には関心がな
く、もっぱら死者を相手にされているようです。

私自身は悪人ですが、悪人だからといって「悪」を無視することは、
罪の上塗りになります。故に「悪」を断罪するしかありません。ただ、
坊さんその人を断罪するつもりはありません(裁きの対象は行為です
から)。
552名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 16:02
>現代の坊さんは生者には関心がなく、もっぱら死者を相手にされているようです。

その通りです。耳が痛い。
情けないことですが、そういう声が大きくならないと、坊主も教団も目覚めないと思います。


553名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 17:35
>539 議論の参考までにさんへ
アングリマーラのようにころっと心を入れ替えることができたら苦労はないんですが。
罪を背負いながら生きていくことが償いだと言う人がいますが、罪の意識はだんだん薄れていくんじゃないでしょうか。

>ゲストさんへ
ワールドメイトは悪か。
法律的には 悪とはされないだろう
常識的には うさんくさい
多くの人は感情的には 嫌いだ
オウム真理教は
法律的には 悪
常識的には 悪
多くの人は感情的には 悪
ではアレフは
法律的には 今のところ悪ではない
常識的には うさんくさい、不気味だ
多くの人は感情的には 悪
となるのではないですか。
554499 :2000/10/02(月) 18:12
>547のゲストさん
>弥勒経に関する解説書を読んでいて
弥勒経というお経を初めて知りました。どんな経典でしょうか。

死刑には私も反対ですが、それでは話が進みませんから、死刑賛成ということにして質問。
死刑に変わるどういう刑罰をすべきだろうか。死刑になるべき者が社会に出て、再び犯罪を犯さないという保証があるだろうか。現に再度殺人をして死刑になる者がいるではないか。

確かに犯罪者は言い訳をいいます。仕方なかった、相手が悪かった、巻き込まれただけだ、向こうが誘った、とかなんとかいろいろ言います。つまり自分は善人だと思いたいわけです。
犯罪者も一応は、これをしてはいけない=悪ということは知っています。
しかし自分は悪いことをしたという罪の自覚は乏しいようです。
少年院のある教誨師さんの話ですが、最近はケロッとしている子が多いそうです。悪いことをしたとは思っている。しかし相手(被害者など)のことは考えていない。悪いことをしたから自分が損したと思っている者が多いそうです。つまり自分のことしか考えない。
何が悪かを知っていることと、自分が罪を作ったと自覚することとは別です。
悪人が救われるというのは、自分は悪人だと自覚したからこそ、救われたいと思うし、だからこそ仏の教えが聞こえるわけでしょう。
そうでなければ、自分は善人だと思っていれば助かりたいと仏にたのむことなどないでしょう。
555名無しさん :2000/10/02(月) 18:18
age
556ゲスト :2000/10/02(月) 18:36
>553

そうですね。実際のところ、そういう構図になっていると思います。
ただ、世間の言う「感情的に嫌い」というのも、時には的確な判断で
あることが多いのは事実です。特に、自分の利益に関連ない事柄につい
ては、人は正しい善悪判断をするものだと私は思いますので。

>554

弥勒経は、弥勒菩薩のことを扱った6編のお経の総称です。今は手元
に原本がありません。もし、ご興味があるようでしたら、明日持って
きて詳細を書きたいと思います。

>犯罪者も一応は、これをしてはいけない=悪ということは知っていま
>す。しかし自分は悪いことをしたという罪の自覚は乏しいようです。

以前、テレビで売春をする女子高生を集めて覆面座談会をやっていま
した。その席で、彼女らは言うのです「売春やって何が悪い、相手も
望んでいるからビジネスじゃない」と。これに対してわれわれは何も
答えられません、だけど、「何か悪いことのような気がする」。
その時、ひょんなことから「お母さんに知られたら気にする?」と
いう話になり、「絶対イヤ〜」「ナゼ?悪いことやっているわけじゃ
ないんでしょう」「お母さんが知ったら悲しむと思うから」「なぜ、
悲しむの」「わかんないけど、絶対悲しむ」

結局、「お母さんを悲しめないために、今後は売春をやめる」と約束
を取り付けたのでした。

そういう意味では、

>何が悪かを知っていることと、自分が罪を作ったと自覚することとは別です。

というのは本当のことだと思います。罪の自覚のためには、相手の涙、
自分の母親の涙が必要なのかもしれません。だけど、涙を見て「悟る」
のは、すでに心の中に真理があったという証拠です。真理を覆い隠す
「ツッパリ」とか「反抗心」とか「エエカッコシイ」とかが、涙で
ぶち敗れたときに本心に立ち返り、良心の声を聞くことができるので
はないでしょうか。

>悪人が救われるというのは、自分は悪人だと自覚したからこそ、救わ
>れたいと思うし、だからこそ仏の教えが聞こえるわけでしょう。

そうですね。やはりその場合にも「自我」をぶち破る「悔悟の涙」が
不可欠だと思います。頭の隅で「あの株はそろそろ売り時かなあ、明日
証券マンと連絡とらなきゃ」と考えながら悪人を自覚するのは至難の
わざだと思うのです。

説教者が口先で「われわれは皆悪人だ」などと言っても、善男善女がそれ
に頷いたとしても、悔悟の涙を伴わない限り、「なぜ売春が悪か」という
簡単な問題すら答えることはできません。その意味で、お母さんの涙に
免じて売春をやめた女子高校生の方がずっと「悟って」います。
557ゲスト :2000/10/02(月) 18:52
>554

死刑問題を抜かしました。

先ほどの「母親の涙」の話ではありませんが、肉親への愛が最後の砦
だと思うのです。親の涙に無感動になってしまった犯罪者なら、もう
改善の余地はないのかもしれません。逆説的に言えば、自分の親で
すら愛せないのだから、赤の他人を愛せるはずがありません。もちろん
神仏も愛せるわけがない。

一番の理想は、「神様、仏様が悲しむからそんなことはやめようよ」
次善は、「他人に迷惑になるから、やめようよ」
最後には、「親が悲しむぜ、やめようよ」

それでもわからなければ、
「痛い目に合いたくなかったら、やめようよ」
「殺されたくなかったら、やめようよ」
で、もしかしたらすでに畜生界の領域かもしれません(^^;)
でも、たとえ畜生でも生きる権利はありますからね。
558名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 19:37
本当に素直な気持ちで書くのですが、渡海さんは自分が無視されているとか仲間はずれにされていると思わないでもらいたいです。
渡海さんの考えにはなるほどと思うことも多々あります。ただ反論が的はずれだったり、しつこかったりすることはありますが。
名無しでもいいじゃないですか。思うところを素直に書いてみたらどうですか。皮肉っぽいことはやめにしましょう。
渡海さんの考えも聞きたいものです。
559499 :2000/10/02(月) 19:57
>ゲストさんへ
>世間の言う「感情的に嫌い」というのも、時には的確な判断で
>あることが多いのは事実です。
衆愚論は嫌いですが、世間が正しい判断をするかどうかは疑問です。
そして世間とは何か。マスコミかもしれません。少なくともマスコミが主導しているでしょう。

弥勒経の解説書の名前だけで結構です。

涙はすぐに出ます。悔悟もします。しかし同じことを繰り返しては言い訳を言うのもまた事実です。わかっちゃいるけどやめられない、ということです。
涙を流し売春をやめても、はたして自分がしたことをどう受け止めているかは疑問です。
自分も若い頃は馬鹿したもんだ、と反省のふりをしながら自慢する人がいます。
新聞で読んだのですが、22才の女性(元暴走族)が近頃の若い子の気持ちは分からない、私たちの頃は今とは違っていた、と言っているのです。
その女性が暴走族として活躍していたのは数年前でしょう。その頃だって、迷惑だったわけじゃないですか。
それなのに自分の過去を美化し、他を責める。
こういういい加減さも人間の事実です。

>肉親への愛が最後の砦だと思うのです。
砦にならないのが現実です。覚醒剤なんかそうです。わかっているんです。
でもやめられない。覚醒剤が欲しいとなったら、彼らは親でも子でも売りますよ。

どうも反論を言いたいだけのように思われるかもしれません。ゲストさんや議論の
参考までにさんの考えと基本的には同じなのです。でも、こうしたことは私自身が
納得できない疑問なので、こうやって書いています。
560渡海 難 :2000/10/02(月) 21:21
558さんへ
>自分が無視されているとか仲間はずれにされていると思わないでもらいたいです。

 仲間はずれにされているとは思っていませんよ。
 558さんは、ゲストさんの次の発言をどのように読んでいますか。ゲストさんが真宗スレッドに善悪論を仕掛けてきた思いは、多分、次の言葉に集約されるんだろうと見当をつけています。この気持ちのところを分かってあげないと、議論は噛み合わないものになるんじゃないでしょうか。
 「渡海難を問う No551」の、「愛想をつかした若者が新興宗教に走って詐欺に遭ったのでしょう。……かわいそうな被害者の若者」という言葉は、ゲストさんの最大限の重い言葉だと思います。ゲストさんは、多くの宗教被害者の現実の涙を背負い、坊さんに力を借して欲しいと言っているんでしょう。坊さん達が例によっていつもの空論のつもりで相手をしたら、非常に失礼なことになるでしょう。ゲストさんは、坊さん相手の議論で、自分の本当の叫びのところにどう論点を絞り込んで行くのか、坊さんはそれをどこまで真剣に受け止めて上げられるのか、僕は注目してるつもりです。

「私、坊主しています No 551」
「ところが、日本の坊さんは社会的な活動には一切目をつむっている人が圧倒的に多い。もともと仏教とは、「本当の善悪」を悟らしめ、苦から解放されるための教えですが、現代の坊さんは生者には関心がなく、もっぱら死者を相手にされているようです。」

「渡海難を問う No551」
「そういう宗教上の悪を放任したから、既成仏教が腐敗しまくり、愛想をつかした若者が新興宗教に走って詐欺に遭ったのでしょう。あなたには罪の自覚もなければ、宗教界の不合理を正す気概もないんだな。手を汚さずに念仏だけ唱えて、極楽へ行けると思ったら大間違いだよ。あなたは「誠」をどこに忘れてきたのだろうか。かわいそうな被害者の若者を、空理空論で誤魔化して、自分は手を汚さずに念仏なんて唱えたって、そんな「誠」のかけらもない念仏を仏が聞くものか。
561ゲスト>559 :2000/10/03(火) 11:34
毎度のRESをどうもありがとうございます。

>そして世間とは何か。マスコミかもしれません。少なくともマスコミが主導しているでしょう。

そうですね。この場合は「権威」を「多数決の論理」に求めているので、やはり
「邪見」のひとつに過ぎないと思います。

>弥勒経の解説書の名前だけで結構です。

ちょっと古い本ですが、
現代人の仏教8「愛と平和の象徴ー弥勒経」、渡辺照宏著、筑摩書房、1966
です。

>自分の過去を美化し、他を責める。
>こういういい加減さも人間の事実です。

「だって、他の人もやってるじゃんかよ」という言葉が出る内は、悔悟にはなって
いないと私は思います。「涙」と言っても、目には見えない「涙」のお話でしょう。

>覚醒剤が欲しいとなったら、彼らは親でも子でも売りますよ。

本当に親や子供に覚せい剤を売って、それで何とも思わないとしたら、人間では
ないでしょう。私としては、心の底ではほんの少しでも良心の呵責を感じるもの
だと思いたいです。本当のことはわかりませんので、希望ですね。

562ゲスト>560 :2000/10/03(火) 11:47
こちらの気持ちを代弁していただき、ありがとうございます(笑)。

私は既存宗教のあり方には大いに問題を感じているし、それは私の
投稿にもはっきりと読み取れることと思います。ただ、こういう問題
を論じると、「坊主を殺せ、寺壊せ」的な個人攻撃に陥ってしまうの
ですね。

私としては、悪いことを悪いと指摘さえすれば(幸運な場合には、
552さんのように賛同をいただくこともありますが、そうでない
場合でも)、これを読まれたお坊さん達の良心にいくばくかの種が
蒔かれたわけですから、後は神仏にお任せすればよいと思います。
心あるお坊さんがひとりでも多く、社会問題に目を向け、青少年の
更正教育に尽力していただくようになれば、これ以上の実りはないと
思うのです。

今、小学校教育が危機に瀕しています。思うに、私が小学生の時には
身の回りに老人がいて「お天道さまに申し訳ない」というような宗教
教育をさりげなくやってくれていたのです。それが核家族化が進んで
宗教的情緒と無縁の幼少期を過ごした反動が、今の結果につながって
いるのではないでしょうか。私としては、今こそがお坊さんの出番で
あるように思えてなりません。
563559 :2000/10/03(火) 17:17
話しが寺や坊主の社会的責任ということになってきました。
少し話を戻して、しつこく絶対的善悪はあるかということですが、
犯罪者もこれはしてはいけないということは知っています。それは社会通念としての
悪であり、絶対的悪ではないですね。ただ、言い訳を言うということは、悪をするこ
とは恥ずかしいことだと思っているからでしょう。
恥ずかしいという気持ちがまずは人間性を保つ基本でしょう。
しかしどうも恥ずかしいという気持ちがなくなりつつあるのではという気がします。
電車の中で化粧をしたり、ケイタイで大きな声で話す人がいるが、それは前頭葉の
どこかが未発達だからだとかいう話ですね。こうなるとどうしようもない。
恥ずかしいという気持ちがない、無慚無愧が絶対的悪というべきでしょうか。
それに対してどうするか。このスレッドでも、煽りをする名無しに対する言葉を坊主
は見つけることができなかった。
現実を前に大人はうろたえている。坊主も例外ではありません。
564名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 17:20
「閉ざされたいのちを前に」という報告集が東本願寺から出ています。死刑囚が書いた絵の展覧会の報告書です。
その中に、中山千夏と向井武子という牧師の方の講演が載っています。
それを読むと、死刑の問題点がはっきりします。多くの人に読んでもらえたらと思います。
向井さんは死刑廃止運動をされているのですが、死刑囚を養子にされています。そして被害者の方とも関わりを持っておられます。
死刑は反対と言うのは簡単ですが、死刑囚や被害者と関わっていくのはしんどいことだと教えられました。
565559 :2000/10/03(火) 17:44
>562
>今、小学校教育が危機に瀕しています。
まさにその通りですが、そこで教育勅語の復活とか、道徳教育をもっとすべきだ、
という意見が出てきます。これらによって小さい頃に善悪をきちんと教えるべきだ
ということです。
それに対する反対意見があります。池田大作も教育勅語復活には反対だそうです。
何を善だとして子供に教えるべきか意見が分かれるということでしょう。
どう思われますか。
566ゲスト :2000/10/03(火) 18:36
>564

こういうと反発されそうですけど、本当にその人が死刑という体験を
することによって「学ぶ」ことができるなら、死刑は否定するべきで
はないと思います。「その人のためになる死刑」というものがあれば、
という限定つきですけど。

一般でいう死刑廃止運動は、宗教上の理由にせよ、法曹上の理由にせよ、
本当に死刑囚のことを考えた結果でないと思います。結果は同じでも
大違いです。場合によっては、涙を飲んでバッサリと斬り捨てる場面が
あるような気がします。

>565

これも特定の宗教的な尺度で善悪を決めて、子供達に押し付けるから
問題が起きるのだと思います。「自分がしてもらいたいことを人にし、
してもらいたくないことを人にしない」それだけで十分だと思います。

教育勅語にも「不純な目論見」が入っています。社会の繁栄という目的
が大前提になっていますから。小学校低学年の徒競走で、よく仲良しの
友達をゴール直前で待って、いっしょにゴールするという場面に出くわし
ます。教育者はこれを善と教えるか?難しい問題です。他人を思いやる
ことは善だとして、これを推奨すれば、入学試験は全廃、オリンピック
選手もゼロになってしまうでしょう。だからと言って、全面的に教育勅語
を善にするのもやはりおかしい。

結局、善悪の尺度を固定して、社会人全員に守らせるということに問題
があるように思います。善悪とは、個人個人がいろいろな場面で悩み、
良心の呵責を手がかりに突き止めていくもののように思います。

>小さい頃に善悪をきちんと教えるべきだ

とは言っても、「それは大人や社会の都合のいい、身勝手な善じゃないか」
と子供に突っ込まれて、立ち往生するような「理不尽な」善悪を押し付け
ないことが肝要だと思います。説明して子供が納得できるところで抑え
るべきでしょうし、親自身が無理なく実践できる善悪でないと、逆効果
です。

あと、善悪については「スジ」を通すことが必要でしょう。善悪を子供
に押し付ける側にも義務を課すべきで、親が違反したときは丸坊主にな
る位の覚悟がないと説得力がないでしょう。

ちょっと、お坊さんには耳に痛い話をしますと、施餓鬼は餓鬼に供養す
るのが本来の意味です。今は金銭を受け取っているお寺がほとんどです
が、いただいた施餓鬼はすべてお米に換えて、一部を炊き上げて餓鬼に
供養し、残りは飢えている国の食料支援に使うべきです。それが「スジ」
というものです。
567名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 20:30
>お坊さんには耳に痛い話をしますと、施餓鬼は餓鬼に供養するのが本来の意味です。
>今は金銭を受け取っているお寺がほとんどですが、いただいた施餓鬼はすべてお米に換
>えて、一部を炊き上げて餓鬼に 供養し、残りは飢えている国の食料支援に使うべきです。
>それが「スジ」というものです。

浄土真宗には施餓鬼はない、ということはともかく、
日本人は飢えどころか、美食に飽きて、食い散らかしては毎日、生ゴミの山を作りつづけています。
飢えている国に食糧援助するより以前に、もったいないという気持ちを取り戻すべきではないかと思います。
もったいないというと、ケチでシミッタレのように思われるような世相ですが、地球規模での環境破壊という危機が叫ばれる今日においてはとても大切な心だと思います。
省エネだとかゴミ問題・リサイクルというと新しい生活形態のようだけれども、贅沢三昧の生活を送り、物質的快楽を謳歌する現代の私たちが忘れてしまった「もったいない」という心を思い出すことだと思います。
坊主が本来性を取り戻してスジを通す歩みをしていくということは当然ですが、坊主の責任のみを追及しても問題解決にはならないのも当然です。
568>1 :2000/10/03(火) 20:47
おぼうさんに遊ばれました
彼はデート1回にほぼ10万使ってました
いったいどういう神経しているのですか
569名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 22:25
>善悪とは、個人個人がいろいろな場面で悩み、良心の呵責を手がかりに突き止めていく
>もののように思います。

現在の教育は、教科書に書いてある知識をなんの疑いもなく効率良く覚えて、試験のときにその知識を効率良く引き出すという訓練をしているように感じます。
疑問をもって考えていては効率が悪くなるので、自然と疑問を持たせない、疑問を持たない教育をし、疑問を持たない、考えない子供を育てているのではないかと思います。
大人の社会が、効率優先で結果のみを重視して過程を問うことがないのですから当然かもしれません。

>「それは大人や社会の都合のいい、身勝手な善じゃないか」と子供に突っ込まれて、立
>ち往生するような「理不尽な」善悪を押し付けないことが肝要だと思います。説明して
>子供が納得できるところで抑えるべきでしょうし、親自身が無理なく実践できる善悪で
>ないと、逆効果です。

子供を教育する、しつけるとは、親が子供に考え方を押しつけるということではないと思
います。
子供を育てるとは、親である自分が親として成長していく、子供によって自分が親になっ
ていくということだと思います。
「親の後ろ姿を見て子は育つ」ということばがありますが、その通りではないかと思いま
す。
口先だけ立派なことを言って子供を指導しても子供は育たない。
本当の子育て、教育は、親が一生懸命生きる姿を見せることだろうと思います。
570名無しさん@1周年 :2000/10/04(水) 16:21
自分がされていやなことを人にしないのが善。
悪は逆だから、自分のことしか考えないこと。
難しいことをあれこれいうから混乱する。
571564 :2000/10/04(水) 16:59
>本当にその人が死刑という体験をすることによって「学ぶ」ことが
>できるなら、死刑は否定するべきではないと思います。
このことは私もかねがね思っていることです。
死刑を求刑されることによって初めていのちの大切さに気づくわけでしょう。
もし懲役刑なら被害者の痛みを自分の痛みとし真摯に反省するだろうかと疑問に思います。
だからといって死刑を認めるわけではありませんが。
いかに罪を自覚させるかが矯正の大切なところなのですが難しいです。

前にも書きましたが、
 10月23日に京都教務所で
坂上香さんの講演とビデオ「アミティ日本招聘の記録」上映
があります。
「アミティとは、米国・アリゾナ州を拠点とし、薬物依存症や犯罪など様々な問題を抱えた人々が1〜2年の共同生活を送り社会復帰するのを支援する非営利団体である。刑務所から出所したばかりの人、裁判所の判断で送られてきた人、自らの判断できた人などが、ここで仲間の体験談を聞き、また自ら語ることにより過去を見つめ、ありのままの自分を受け止めようとしている。自らの加害体験や被害体験(虐待やレイプなど)をコミュニティでシェアーする(分け与える・共有する)のは、自身の心の傷を、反抗や暴力ではなく、言葉によって表現することを学ぶためであり、他者との友好的な関係を作ることを学び、その友好的な関係を通して、一人一人の抱える問題のより良い解決を図るためである。
このようなアミティの活動理念は、精神分析家アリス・ミラーの理論「子供の頃に精神的・肉体的痛みを体験した人は痛みを体内にため込みがちで、犯罪や嗜癖は、毒素をため込んでしまった結果だといえる」に深く影響をうけている」
このアリス・ミラーという人は、極端にいえば子供を育てることは子供を虐待することだ、
という考えの人で、どんな人でも毒素をため込んでいると言えるわけです。
アミティのようなものが日本でも行われたらいいと思います。
宗教がこういうことでがんばってもらいたいものです。
572>567 :2000/10/04(水) 17:01
>「もったいない」という心を思い出すことだと思います。
みんながもったいないと思って質素になれば、おそらく不景気になるでしょう。
消費税が5%に上がったら、買い控えで景気がいっぺんに悪くなりました。
景気が悪いと犯罪も増えます。
573499 :2000/10/04(水) 17:03
悪という行為を償うことについて質問しましたが、どのようにしたら
罪を償うことになるでしょう。
どうしたら被害者や遺族が納得するでしょうか。
どなたでもいいですから、思うところを教えてください。
574>572 :2000/10/04(水) 18:56
私たちは、生きるために働いてお金を稼いでいます。
働くのは、食べるためです。
食べて生きるためです。
ところがどうでしょう。
私たちは生きていますか?働いてお金を使って生きているでしょうか。
いつのまにか、働いて食べるばかりに一生懸命になって、生きることを忘れてしまってはいないでしょうか。
私がお金を稼いで、お金を使って食べて生きるはずなのに、
いつのまにか、お金を稼ぐばかりの人生になってはいないでしょうか。
お金を使うはずの自分が、お金に使われてはいないでしょうか。
お金になれば何でもいい、お金のためなら何でもする、という私になってはいないでしょうか。
私たちはいつのまにかお金の奴隷になってしまっているように思えます。
お金と物ばかりの快楽の世の中に、私たちは浮かれ過ぎてはいないでしょうか。
575>>574 :2000/10/04(水) 18:58
お金がなければ、生活に困ります。
しかし、お金以上に無くなってしまったら困るものは生命です。
「生命あってのものだね」といいますが、本当にそのとおりです。
私たちは何の考えもなしに、地域活性化だ、地域振興のためだという大義名分とちっぼけ
な欲に踊らされて人間の生命が脅かされるような環境を作り出そうとしています。
生命を育む自然環境よりも、経済の安定のほうが大切なのでしょうか。
この世で最も大切なものは、人の生命です。
そんなことは誰でも知っているあたりまえのことです。
しかし、そのあたりまえのことを皆忘れてしまっています。
一番大切なものがお金になってしまっています。
お金最優先の世の中です。
生命よりもお金と物です。
それは、あたりまえのことが、あたりまえではない世界です。
私たちは、さかさまの異常な世界に慣れっこになってしまって、
それこそが正常であるかのように錯覚しています。
576>>575 :2000/10/04(水) 19:10
贅沢三昧の生活を送り、物質的快楽を追求しつづけるわたしたちは、たいへん恵まれた環
境にあります。現在の住宅環境は冷暖房完備の快適なものである。
就職したばかりの若者でさえ車を乗りまわします。
日本人の中流意識は、近世までの王侯貴族の賛沢をはるかに上回っていると思われます。
それでもまだ、目先に金をぶら下げられれば、保険金殺人を犯してまで金を手に入れよう
とさえしています。
金もうけよりも、いのちこそが何よりも大切なのです。
豊かな自然の中で人間らしくのびやかに生きる、こんなに当り前のことが当り前でなくな
ってしまっています。
それが、現在の日本のあり方ではないでしょうか。
わたしたちはもう一度、人間としての原点から出発すべきではないでしょうか。
物質文明のうちにあって、欲望を際限なくふくらませる道を選択してはなりません。
「欲望を捨てたところに、真実の幸福がある」
そのことを、ボロをまとって釈尊は呼びかけておられるのではないでしょうか。

私も、現代社会を根底から否定するものではありませんが、経済至上主義にとても危険な
ものを感じます。
577名無しさん@1周年 :2000/10/04(水) 20:00
>574、575,576
あなたの考えはよくわかるが、現実問題として不景気になれば失業者が増える。
犯罪も増える。気持ちの余裕がなくなる。
豊かになれば幸せになるとは思わないが、景気が悪くなると不幸と思う人間は多い。
あなたにしても生活に困れば、田中角栄みたいな政治家が出てきたらと思うだろうし、
またバブルになってほしいと思うだろう。
将来を考えれば現状維持の生活がいいのだろうが、それでは問題が噴出するだろう。
578議論の参考までに :2000/10/04(水) 22:27
『ダンマパダ』186。
『お金の雨が降っても、欲望は満たされない。
 快楽は短くて苦痛である、と賢者は言う。』

金があって、思う存分に欲望を追求して、それで満足できるか。
この問いに対してノーと言い切るのは、少し厳しすぎます。
人間、誰でも好きなことをしたいし、贅沢もしたい。
お金の雨が降って喜ばない者はいないでしょう。
同時に、歓楽の後のさびしさも万人が経験しているし、欲望にきりはありません。
一を得て二を望むのは人間の本性です。
無限にあるのならいざ知らず、実際問題として少々のお金があっても、限りなく望むこと
は、結局、買えない苦しみを味わうこと、貧しい人と同じでしょう。
今日のグルメの流行を例にとれば、たしかに、おいしいものはおいしいし、人生の楽しみ
であることは間違いありません。
同時にあまりにそれを追い求めると、楽しいはずのグルメがかえって不自由になります。
次から次へと行きたいところも出てくるし、食べたいものもふえてきます。
楽しみの追求がかえって欲求不満をもたらし、心を苦しめます。
感覚的な欲望を満足させることは結構だが、それが人生の目的になると、いかにも侘(ワ
ビ)しい。
つまりはバランス感覚が大切なのです。
釈尊は決して人生の楽しみを否定していません。
しかし、快楽を追うだけの人生では本当の幸福はつかめません。
もっと重要なのは私たちの心の豊かさだ、と釈尊は言うのです。
579渡海 難 :2000/10/04(水) 23:12
ゲストさんへ。
 渡海に遠慮して欲しいと仰っていた善悪論争は終わっているんでしょうか。
「これを読まれたお坊さん達の良心にいくばくかの種が蒔かれたわけですから、後は神仏にお任せすればよいと思います。」
 もしかすると、これが終了宣言だったのででしょうか?
580議論の参考までに :2000/10/05(木) 08:44
>579
そうでした、うっかりカキコしちゃいましたけど、私もカキコしないはずでしたね。
反省。
581名無しさん@1周年 :2000/10/05(木) 09:27
>579 渡海 難さん

>573 名前:499 投稿日:2000/10/04(水) 17:03
>悪という行為を償うことについて質問しましたが、
>どのようにしたら 罪を償うことになるでしょう。
>どうしたら被害者や遺族が納得するでしょうか。
>どなたでもいいですから、思うところを教えてください。

ゲストさんではありませんが、横レスします。
499さんの質問が生きています。
継続中だと考えたほうがいいでしょう。

582ゲスト>579 :2000/10/05(木) 10:02
そうですね。私としては、
1)善悪は(一部の仏教徒に誤解されているように)相対的なもので「善悪などそも
そもない」という見解は間違いであり、絶対的な善悪の尺度というものが存在する。
2)その尺度は万人が生まれつき持っていて、誰もが「納得できる」尺度である。
3)この故に人は「罪」を負う。

という考え方を出し、どなたからも反論がありませんでしたので、善悪論争(実は
論争にはなっていません、反対者がいないのだから)は終結していると思います。
583ゲスト>499、581 :2000/10/05(木) 10:50
罪の償いとはいかなるものか、は、そもそも「罪」など存在するのか
についてYESという答えが前提になっています(言い換えると、絶対
的な善悪の尺度がなければ、罪などもともとないことになります。
あっても「人為的なもの=相対的なもの」)。

だから、「罪はある」という議論は解決して、次の段階に議論が進んだ
ということだと思います。

「罪の償い」について、私は「後悔」と「再発根絶の誓い」だと思います。
「罪がある」と自覚し、「償わなければならない」という良心の咎めを受けて
苦しむのは加害者本人です。被害者からの責めが直接に加害者に及ぶこと
はありません。加害者が納得のいかない責めであれば、「理不尽な言いがかり」
に過ぎず、やがて裁判闘争になります。ですから、裁判闘争になること自体が
「罪の償い」が不在であることの証明になります(最初から「罪の償い」
を棚上げにした上、法規で加害者を罰して「罪を償わせ」ようというの
ですから、茶番にすぎません)。

こんな苦肉の策がまかり通るのは、社会システムの温存という「不純な動機」
(宗教から見てですが)で善悪を決めているからだと思います。
社会的には、個人の善悪の基準の高低(絶対的な善悪基準に近いかどうか)
を無視できませんから、暫定的に誰もが「これはいくらなんでも悪だろう」
という行為を線引きし、それを下回る行為に罰則を下します。しかし、実際
には生まれつきの心を忘れて「悪」が「悪」とわからない人が出てきます。
その場合、その人は法的制裁を受けても「後悔」はなく、したがって再発
を免れません。

宗教上の善悪は、もともと社会システムの温存とは関係のない所から出発
しています。罪の償いに法的制裁は必要ありませんし、加害者が非を認め
て「後悔」し、二度とこんな「悪い」ことはしないと再発根絶を誓うこと
で、その罪は姿を消します。その時に、被害者に対して詫びの意味を込めて
金銭的な代償を支払うこともあるでしょうが、それはあくまで「結果」の
お話です。貧乏人では、与えた損害をすべて金銭的に償いことが不可能な
場合もありますし、罪の償いを「量る」ことがそもそも間違いです。

「罪の償い」は一回きりしかありえません。何度も罪が再発し、その度に
償いを繰り返さねばならないのは、それが本当の「償い」になっていない
からです。
584ゲスト :2000/10/05(木) 11:08
罪の償いを「量る」ことが愚かであることについて、ひとつ追加します。

個人の善悪の基準は、人さまざまというのが現実です。人は、「罪」を犯すごとに
「悪」とは何かを知り、「悪」を避けるようになります。これは、人が頭の中に
作りあげる「罪のヌラックリスト」にどんどんと項目が増えていくことを意味しま
す。つまり、人は罪を償えば償うほど罪を犯しやすくなり、良心の咎めも大きく
なります。言い換えると、人はどんどんと「自称悪人」になっていく。

親鸞上人の「悪人」とは、こういう意味において捉えられるべきだと私は思います。
「悪人」という自覚を持たず、したがって「罪の償い」の機会もなく、自分が善人
だと思い込んでいる人が、実はもっとも悪人だということです。

人が努力を重ねて、完全なる善をめざすほど、償う罪の「量」は増えるのです。
恐らく、最後は無限大になるでしょう。だから、罪の償いを「量る」ことは、
「人は誰も罪から免れることはない」ことを認めていることになります。
585参考になれば :2000/10/05(木) 13:11
(1)『善人なおもて往生す、いわんや悪人をや。』
  法然(ホウネン)『法然上人伝記附三心料簡(ホウネンショウニンデンキツケタリサンジンリョウケン)
                         および御法語(ゴホウゴ)』

(2)『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。』
   親鸞(シンラン)『歎異抄(タンニショウ)』

常識から言えば、悪人や罪人ですら救われるのであるから、善人が救われるのは当然と考
えることは間違いがありません。
そのことを法然はたしかに伝えています。
世俗倫理でよしとしていることを、宗教倫理がよしとしないことはおかしい。
そのような常識の論理の世界にとどまっているものには、まず、両者の一致を理解させな
ければ、信の世界も後退することになります。
世俗倫理と宗教倫理が一致しているなかで、人々は宗教を信じてきたことは事実であった
からです。
そのように信じている多くの人々にも宗教の世界は展開していなければならないのです。
釈尊は語りかける相手の能力(機)に応じて説法したといいます。
これを対機(タイキ)説法と呼びました。
そのことを、乱世の時代に人々を納得させるためには、釈尊が対機説法したのと同じ道を
法然も歩まなければ、念仏の価値の転換を浸透させることはできなかったことであろうと
考えられます。
586参考になれば(2) :2000/10/05(木) 13:12
法然が師と仰いだ唐の善導(ゼンドウ)(613―681)は、浄土の教えは「定(サダ)んで凡
夫のためにして、聖人(ショウニン)のためにせず」(『観経疏(カンギョウショ)』玄義分)と示
しています。
これを受けて、法然が「この宗は悪人を手本となし、善人まで摂するなり」(醍醐本『法
然上人伝記附三心料簡および御法語』)と語ったことを弟子の源智は記しています。
さらに法然はある人への手紙の中で、念仏して往生しようと思う者に対して、仏は「常
(ジョウ)没(モツ)流(ル)転(テン)の凡夫を正(マサ)しき器(ウツワモノ)とせり」と伝えてい
ます。
常没流転というからには、迷いの世界から絶対に抜け出すことのできない人間を仏
の正客として迎えると言うのです。
このような立場から、悪人こそ往生しなければ、仏の慈悲はないと断言します。
ここでいう、悪人とはすでに世俗的立場でいう悪人ではなく、人間そのもののことです。
と同時に「十悪の法然房」と省察する法然その人のことでもありました。
587参考になれば(3) :2000/10/05(木) 13:13
親鸞とて、「煩悩具足のわれら」はどのような行をしても、この迷いの世界を逃れること
はできないのを、阿弥陀はあわれみ、誓願をたてられた、その本当の意思は、この悪人を
成仏させようとなさったのであるから、悪人の往生は正しい救済の対象である、と言うの
です。
「悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因(ショウイン)な
り。よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき」でありました。
覚如(カクニョ)(1270―1351)が著した『口伝鈔(クデンショウ)』巻下には、「如来の本願は、
もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事」の条の最後に、「善人なおもて往生す。
いかにいわんや悪人をやというべしとおおせごとありき」ともあります。
この信仰のパラドックスを悪人正機(アクニンショウキ)と呼んでいます。
ここで、法然と親鸞との違いを問題にする気は毛頭ありません。
ただ、ぎりぎりの世界ではまったく同じであると言ってよいと思います。
しかしながら、悪人と自覚し、省察した自己は、はたして悪を犯すかどうかは、まったく
問う必要はありません。
それでも、はたで見ている人は問いたくなるようです。
法然を脇から見れば聖者に見えます。
それでも自分は悪を犯した法然であると懺悔しているのです。
親鸞は妻をもったがゆえに、自分は戒を破った当事者とみています。
そのことはすでに法然が、破戒無戒の者が救われずして仏の本願はないと断言した、その
こととあわせてみても、少しでも居直って語っているとは言いがたいのです。
自己省察したそのとき人はまったく謙虚となり、新生した状態となっていることを充分に
理解すべきです。
表面は紳士然として陰で悪なる行為をするより、どれほど尊いことであるかを、あらため
て考えてみたいところです。
588ゲスト :2000/10/05(木) 14:53
>585-587

大体、趣旨には賛同できましたが、今読み直しても以下の部分には
ひっかかりを感じます。

>悪人と自覚し、省察した自己は、はたして悪を犯すかどうかは、
>まったく 問う必要はありません。
>それでも、はたで見ている人は問いたくなるようです。

つまり、絶対的な善悪の尺度はある。その試験が難しすぎて、ひとりも
合格者がでない(「迷いの世界から絶対に抜け出すことのできない人間」)。
これは出題者のミスだと。だから、99点取ろうが0点取ろうが合格に
なるんだと。そういう理屈に見えてくるのです。前にも書きましたが、
「盗人猛々しい悪人」ないし、「悪人を盾として仏を脅す」行為だと
感じます。

親鸞、法然の教えの元になったのは善導の悪人成仏の教えですが、
それまではずっと千年以上「善人成仏」だったのです。彼が始めて悪人
成仏を言い出した。私は彼に質問状を叩きつけます。「それを約束する
のは善導さん、あなたですか?それとも仏様がそう言われたのですか?
なぜ、あなたが仏様の代理を努める資格をお持ちなのですか?」

悪人の救済を行うのは仏様です。善導でも親鸞でも法然でもない。
彼らが死後、本当に極楽へ行ったか、誰が確認されたのでしょうか。

私は彼らの書いたものを人間の思想のひとつとして高く評価し、参考
にしますが、それを無条件に鵜呑みにするのは盲信にすぎないことで
あり、釈尊の教えに背く行為だと思います。「法句経」は釈尊の言葉
を集めたものですが、その中に出てくる「善」と「悪」をそのまま
親鸞さんの「悪」人成仏に置き換えたら、釈尊の教えに反することに
なります。その「一線」を超えれば、たちまち外道に堕します。たとえ
親鸞さんといえども。

実を言うと、キリスト教でもやはり同じ「取り違え」が起きているので
す。パウロが親鸞と同じ「悪人成仏」を説き、人間の行いの善悪などは
魂の救済には関係ない、イエスキリストの十字架上の死による贖罪を
信じればすべて救われるのだ、と「宣言」しました。しかし、注意して
聖書を読んでみても、イエス自身はそんな約束をしていません。

人間は弱い存在です。できれば「手を汚さずに」天国に行きたい。
だからこそ、「イエスの贖罪」や「悪人成仏(悪い意味での)」がはやるのです。
589渡海 難 :2000/10/05(木) 17:15
>581,582

 善悪論争は、終わったと思う人もあり、終わってないと思う人もある。掲示板の論争なんてそんなもんでしょう。
 すこし遠慮して欲しいと言っていたゲストさんが一応終わったと言っているから、僕の方で遠慮する理由はなくなったと考えます。
590渡海 難 :2000/10/05(木) 17:18
>499さんへ
>どうしたら被害者や遺族が納得するでしょうか。

 被害者や遺族を納得させられる方法はないと考える方が宗教的でしょう。宗教的とは、解決が無い場合の解決を考える必要があるんだという意味です。そこは宗教的な論理で考えようということです。
 貴方が殺人鬼に殺された場合を考えてみてください。貴方は殺されたあと、その殺人鬼が何かしたら貴方は納得しますか。しないでしょう。できないでしょう。だって貴方は死んでるんだから
 何か償いの方法はあるのかもしれません。それを僕は単に知らないだけかも知れない。でも、見つからない以上、納得させられる方法は無いと考え、解決の無い解決を考えることも大事でしょう。それが宗教ですよ。
 犯罪は起こります。人間は弱い者です。感情の暴走は日常茶飯事でしょ。そして、いったん過ちを犯せば取り返しがつかない。499さん。さあ、その現実に貴方はどう向かいますか。
591渡海 難 :2000/10/05(木) 17:20
>576さんへ
>わたしたちは、たいへん恵まれた環境にあります。現在の住宅環境は冷暖房完備の快適なものである。就職したばかりの若者でさえ車を乗りまわします。日本人の中流意識は、近世までの王侯貴族の賛沢をはるかに上回っていると思われます。……わたしたちはもう一度、人間としての原点から出発すべきではないでしょうか。物質文明のうちにあって、欲望を際限なくふくらませる道を選択してはなりません。
「欲望を捨てたところに、真実の幸福がある」そのことを、ボロをまとって釈尊は呼びかけておられるのではないでしょうか。

 これは、お坊さんの世界の話でしょうか。
 現在の社会経済の課題は消費が上を向くかどうかにかかっています。鉱工業生産性は、ITを中心に上向きと言われていますが、中小企業には波及してないようです。
 現代は明治維新以来の大改革の時代だそうです。明治維新では、多くの士族が職を失い、各地で叛乱を起こしました。また多くの自殺者を出しました。現代はこれに似ています。多くの自殺者を生んでいます。社会が消費を抑えれば、ますます多くの悲劇を生むでしょう。
 冷暖房完備の快適な恵まれた環境にあるというのは、お坊さんの世界の話でしょう。最近はお坊さんのなり手が増えているようですね。
 ボロをまとって釈尊は呼びかけていると言いますが、釈尊は現代のお坊さんに向かって言っているのではないでしょうか。昨日、駅頭に立っていたホームレスの方は、立派にぼろをまとっていました。
592渡海 難 :2000/10/05(木) 17:22
>588さんへ
>親鸞、法然の教えの元になったのは善導の悪人成仏の教えですが、それまではずっと千年以上「善人成仏」だったのです。彼が始めて悪人成仏を言い出した。私は彼に質問状を叩きつけます。「それを約束する
のは善導さん、あなたですか?それとも仏様がそう言われたのですか?なぜ、あなたが仏様の代理を努める資格をお持ちなのですか?」

>悪人の救済を行うのは仏様です。善導でも親鸞でも法然でもない。彼らが死後、本当に極楽へ行ったか、誰が確認されたのでしょうか。

>私は彼らの書いたものを人間の思想のひとつとして高く評価し、参考にしますが、それを無条件に鵜呑みにするのは盲信にすぎないことであり、釈尊の教えに背く行為だと思います。「法句経」は釈尊の言葉を集めたものですが、その中に出てくる「善」と「悪」をそのまま親鸞さんの「悪」人成仏に置き換えたら、釈尊の教えに反することになります。その「一線」を超えれば、たちまち外道に堕します。たとえ親鸞さんといえども。

 正攻法的な論理ですね。非常に大切な考え方だと思います。
593名無しさん@1周年 :2000/10/05(木) 19:27
絶対的善悪は相対的善悪の延長線上にはない。絶対的悪は相対的善をすることで償う
ことはできない。
人類の原罪をイエスは十字架にかけられることによって贖った。
存在自体が悪であることを仏教ではどのように償えるのか。
594ゲスト>593 :2000/10/05(木) 19:45
私は人間が最初から償い切れない罪などないと思います。もし、あなた
の言うように人類が原罪を持って生まれてきて、イエスの贖罪でしか
「解除」できないとしたら、神はサディストです。人間の体に時限爆弾
を仕掛け、キリスト教や仏教など、数え切れない鍵を地面にばらまいて
誰が時限爆弾を運良く解除できるか、酒の肴に楽しむ暴君です。ネロ
よりも残酷だ。

まず、伺いましょう。イエスが原罪を言い出したのですか?また、
イエスが自らの言葉で「人類の贖罪のために自分は十字架にかかる」
と宣言していますか?それは福音書のどこに書いてあることですか?
(パウロ書簡はだめですよ、お分かりでしょうけど、念のため)
595ゲスト>593 :2000/10/05(木) 19:51
イエスが「黄金律」について評価している部分をご覧ください。
「唯一絶対の神を心をこめて愛しなさい、隣人を貴方自身のように愛
しななさい」そうすれば「天に宝を積むことになる」のです。

これは、「黄金律」こそが絶対的善悪の尺度だということです。償う
ことができないのをわかっていて、なぜイエスは「黄金律」を支持す
るのですか?
596名無しさん :2000/10/05(木) 19:59
コピペはないのかな?
597名無しさん@1周年 :2000/10/05(木) 20:00
最近、コピペさんサボってるね!
598499 :2000/10/05(木) 20:20
>ゲストさん
>582
私は524と525で絶対的善悪はないのでは、と書いたつもりなのですけど。
あるとしたら具体的に絶対的善悪とは何かを聞きたいのですが。
かりに絶対的善悪があるとして、それは相対的善悪の判断基準とはならないと思います。
なぜなら絶対と相対は断絶しているからです。

>583
>二度とこんな「悪い」ことはしないと再発根絶を誓うことで、その罪は姿を消します。
これも書いたことですが、いくら誓っても、わかっちゃいるけどやめられないのが人間の本性です。
同じ失敗をしては後悔を繰り返すもんでしょう。ですから
>何度も罪が再発し、その度に償いを繰り返さねばならないのは、
>それが本当の「償い」になっていないからです。
ということならば、本当の償いは不可能だと思います。

>588
>その中に出てくる「善」と「悪」をそのまま親鸞さんの「悪」人成仏に置き換えたら、
>釈尊の教えに反することになります。
法句経や阿含経などに出てくる善と悪は客観的判断で示されるものです。
道徳的と言ってもいいでしょう。
親鸞の言う悪とは自覚によって気づかされるものであり、
同じものとして語るのはおかしいと思います。
599499 :2000/10/05(木) 20:24
たしかに阿含経に書かれていないことを後生の仏教者が語っています。
だからそれは嘘だと言うのは問題があります。
このことは大乗非仏説論ともつながることはゲストさんはご存じでしょう。

悪人とは何か、ということが、釈尊やその直弟子と善導が違うから、
善導の言うことはおかしいということにならないと思います。
600渡海 難 :2000/10/05(木) 22:21
>593さん
>人類の原罪をイエスは十字架にかけられることによって贖った。

 こんなおとぎ話は僕らは信じないんですよ(笑)。
 以下の文は、僕が自分のホームページ浄土通信<http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/>でしばらく掲示していた自作のエッセーの一部です。イエスは殺されるべくして殺されたんでしょ。原罪を贖ったなんて、笑い話ですよ。
 キリスト教論ならこの先は僕の浄土通信の掲示板で論議しませんか。ここではあまりしたくない。

 ある日イエスはユダヤ教パリサイ派の人の家に招かれる。連れの者が手も洗わずにパンを取る。「なぜ手を洗わないのですか」。こう尋ねられるとイエスは、「あなた達パリサイ派の人は偽善者である。あなた達は手を洗いなさいという人間の言い伝えを守るため、神の戒めを忘れている(ルカ 11、マルコ7)」、と応える。おかしな話だ。手を洗うことくらい誰からの言い伝えでもどうでもいい話だろう。他の事情はどうあれここで戦闘的に屁理屈を並べる必要は全くない。主人がどういうつもりで発言したのか、聖書の記載だけでは明白ではないが、はらはらする弟子を尻目に、イエスは驚くほど次元の低い話で相手を侮辱して裁いて(ルカ6-37)突っかかり、相手を怒らせる。
イエスは祭日に集団で寺院に行く。境内では市が開かれている。イエスはムチで商品を蹴散らし、金をまき散らす。「私の父である神の家を商売にするな」と、無慈悲(ルカ6-36)にも怒鳴り散らす。門前市に罪はない。怒った相手に、「自分は神の子である。神殿まで壊れたら三日で直してやる」とうそぶき、周りの人と喧嘩になる(ヨハネ2)。
「パリサイ人達よ、貴方がたはわざわいである。貴方がたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが内側は腐った偽善と不法で満ちている。蛇であり、蝮である(マタイ23)」。 イエスはパリサイ派の人を口汚く罵る。パリサイ派の人の家に招かれ、手も洗わずにパンを取ろうとして「手を洗わないのですか」と言われると、貴方がたパリサイ人は杯や盆の外側を清めるが、内側は貪欲と邪悪で満ちている。もっと内側にあるものを清めなさい(ルカ11)」と、全く意味不明の言葉で挑発する。「偽善者(マルコ7-6)」と蔑んで相手を裁き、話し合いを壊す。人を裁くなと説いた(ルカ6-37)教えは影も形も無い。自分の目にある梁を見ないでいて、どうして兄弟に向かって、兄弟よ貴方の目にあるちりを取らせてくださいと言えようかという、自分が説いた教訓(ルカ6-42)さえ忘れている。
イエスを招いたのはユダヤ教パリサイ派のたぶん長老だろう。イエスが来ているということで訪問先にはパリサイ派の人々が集まってくる。この前後、イエスは寺院に集団でやって来て、境内の市場の商品を蹴散らし、店の金をばらまく(ヨハネ10-22)。この時期、イエスへの反感は頂点に達していた。状況を憂慮した長老がゆっくり話を聞きたいと若いイエスに申し出ても不思議はない。
大衆から一定の支持を受けている宗教は、少なくとも多少の真理は持っているものだ。そうした真理を無視し、大きな宗教の指導者を「偽善者」などと侮辱すれば、指導者は寛容に構えても大衆は気が済まない。それだけで報復が行われる。いつの時代でも体制派宗教は非合法的手段を採る必要はない。裁判を求めれば足りる。裁判官は判決にためらった。他人を罵る一方で自分は神の子だと名乗り、寺院で乱暴もあったとしても死刑は重過ぎる(ルカ23-15)。しかし勝負は告発の段階でついていた。陪審員はパリサイ派が固めていた。裁判は単なる形式に過ぎなかった。喧嘩を売ってきたイエスに対する結論は裁判前から決まっていたのだ。捕まっても三日位で戻れると軽信していたイエスの計算(マタイ16-21)は崩れる。圧倒的な宗教的政治勢力に骨の髄まで憎まれれば、殺されない方がむしろ奇蹟である。殺されれば奇蹟でも何でもない。
601ちょっと部外者だけど・・ :2000/10/06(金) 00:19
>捕まっても三日位で戻れると軽信していたイエスの計算(マタイ16-21)
 主張は、嘘や曲解を含めちゃいけないよ。マタイ16章21節は
『このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、
祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活
することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。』だよ。

602渡海 難 :2000/10/06(金) 08:54
>601さん
 この件について疑義があれば、浄土通信で論議しましょう。私はここでは何も言いません。
603ゲスト :2000/10/06(金) 09:05
>598

>なぜなら絶対と相対は断絶しているからです。

そうである根拠もありませんね。私のイメージでは、絶対的善悪が南北の方向で
表されるとしたら、相対的善悪の「傾き具合」で絶対的善悪との「距離」が
決まると思います。北東よりも北北東の方が北に近い、という具合に。具体例
ですが、マフィアが持っている「掟」と、法治国家が持っている法律は、どちら
も相対的善悪ですが、それには差がありませんか?差がないのなら、宗教的に見る
と法律に従う必要はなくなりますね?

>本当の償いは不可能だと思います

それも決め付けというものです。禁酒ひとつをとっても、ある人は一回でやめ、
別の人は何度もチャレンジしては失敗する。人間の欲望の中でも特に強いのは
性欲だと思いますし、キリスト教の教父達の中には欲望のコントロールが不可能
なのに絶望して自ら虚勢した人もありました。しかし、この問題は生きている間、
肉体がある間に限定されるわけで、死後は解放される「大難問」にすぎません。
まあ、私は最後まで解けない難問については、死ぬまで待てばよいと楽観的に構えて
います。

>親鸞の言う悪とは自覚によって気づかされるものであり、
>同じものとして語るのはおかしいと思います。

その通りです。私はそれが言いたかったのです。親鸞さんの「悪人成仏」ないし、
パウロの「信仰義認」は、間違って理解され、現に多くの聖職者達によって悪用
されていますよ、ということが言いたいのです。だからこそ「文字通り」と断った
のです。

絶対的善悪が何か、については、釈尊の言葉(法句経)、イエスの言葉(福音書)
を読めば浮き上がってきます。くれぐれも、大乗仏典やパウロ神学に惑わされない
ことです。これらのものは、初めにあったものを補強するために出たものですが、
益だけでなく(恐らく益をはるかに上回る)害をも持ち込みました。迷ったときは
人間でなく、神仏の使者(釈尊、イエス)の声を聞くべきです。
604ゲスト>599 :2000/10/06(金) 09:07
善導さんが間違っているとは言いません。ただ、釈尊の教えと違うの
ですから、「仏教」とは呼べない。「善導教」ではありませんか?
仏教の僧として、釈尊の声を代弁するような形で「善導教」を説く
からおかしなことになるのです。一番迷惑しているのは釈尊でしょう。
605ゲスト>600 :2000/10/06(金) 09:25
イエスが殺された理由は、ユダヤ教の説く善悪の基準が、絶対的善悪
の基準(南北)から見て的外れ(東西)だということを指摘したから
でしょうね。具体的に言えば、神殿に十分の一税を納めるという掟に
従うというのは、神への愛の強さと何のかかわりもない。逆に、心
ある人ならば、神殿に納める税を誤魔化してでも、貧民に施しをする
でしょう。東の極に立って、「我こそは義人あり」と誇るユダヤ人に
対して、「本当の義とはここだよ」とはるか遠方からイエスがたしな
めた。それが許せなかった。

もう少し議論を広げると、贖罪という意義そのものが東西を向いた
ユダヤ的価値観なのです。神という厳格な支配者がいて、人間に原罪
という重責を負わせ、睨みを利かしている。人間は罪を「自覚」して
いませんので(名しか知らない先祖の借金など誰の知ったこっちゃない)
神には「恐怖による服従」を強いられる。これは、ユダヤ人と同じ型の
信仰です。その恐怖を克服するために、イエスを十字架上で犠牲にし、
神の怒りをなだめるという発想です。

つまり、イエス自身は絶対的善悪の基準=「黄金律」を打ちたて、
「アッバ(父ちゃん)」である神への「信頼による信仰」を広めよう
と奔走したのに、パウロがまたもとのユダヤ教的恐怖信仰に引き戻して
しまった。その恐怖を餌にして、教会が無限に肥満していったという
構図です。
606名無しさん@1周年 :2000/10/06(金) 09:54
>釈尊の教えと違うのですから、「仏教」とは呼べない。「善導教」ではありませんか?

『罪悪深重』『愚禿』『悪人正機』『他力本願』・・・など釈迦仏教に出てこないことばが多く使われているし、
私たちにとっては非日常的な概念ですので、難解で誤解され易く、大乗非仏説という批判は仏教の歴史の中で続けられているようです。
阿含経典と浄土経典、釈迦仏教と浄土教は、一見全く異なったともすれば矛盾しているように見えるということは理解できます。
しかし、表現が異なる、ことばが違うから思想的に矛盾しているかというとそうではないと思います。
仏教の歴史というのは、お釈迦さんの本当に言いたかったことはどんなことか、仏の救済をいかに我々に理解させるか、
ということを追求する歩みであったのだと思います。
釈尊のことば以外は、すべてウソという決めつけは間違っていると思います。
善導さんは、突然、自分勝手に、自分の思い込みを語りだしたわけではありません。
釈尊の声を龍樹が代弁し、また世親が代弁し、曇鸞(ドンラン)、道綽(ドウシヤク)、善導という思想の流れの上で語っているのでしょう。
それを受け継いで、源信、法然、親鸞と代弁してきたというのが浄土教の思想の歴史でしょう。
607ゲスト>606 :2000/10/06(金) 10:24
>釈尊の声を龍樹が代弁し、また世親が代弁し、曇鸞(ドンラン)、
>道綽(ドウシヤク)、善導という思想の流れの上で語っているのでしょう。

それは、やはり人間が考えた結果の話で、釈尊自らが「宣言」したわけ
ではないかぎり、ひとつの「仮説」にすぎないわけです。

どのような聖典も、最初は実に明々白々、教祖の教えが脈々とうつもの
であったでしょう。仏教の場合には、まず「空」思想に「うつつを抜かし」
(私が釈尊の立場なら、そういうでしょう)、上座部との対立の中で、
在家の民衆を救う手立てとして、法華経を初めとする大乗仏典を生み出して
きました。その中には、確かに「釈尊がこの世に生きていたら、きっと
こういう説法をしただろうな、時代が変わったからな」と解釈できるよう
なものも含まれていますが、維摩経に見るように、明らかに上座部をこき
おろす目的が見え見えなものもあります。動機は必ずしも「釈尊の声を
代弁する」だけでなく、他の不純な動機も含まれています。これを真摯に
受け取るのが、現代の世に釈尊の教えを生かそうとする者の取るべき
態度だと思います。

単に、浄土教の歴史を盲目的にありがたがるだけでは、進歩もなく、
釈尊の教えとの「関係」の希薄さはそのまま放置されています。

端的に伺いますが、法句経と浄土教のどちらをあなたは信頼される
のですか?両者に矛盾があった時、どちらをあなたは正しいとされる
のでしょうか?前者を正しいとするのが「仏教徒」、後者を正しいと
するのが「浄土教徒」(釈尊から見れば外道)。それ以外の答えはない
と思いますが。
608名無しさん@1周年 :2000/10/06(金) 10:59
仲間内で模擬問答をやってるのかと思ってたのですが、
結構本格的に、問答をしているみたいですね。ゲストさんの
コメント読みなおしてみようっと。
609単なるコピーです :2000/10/06(金) 12:13
970 名前: \5さま 投稿日: 2000/08/03(木) 22:37

堂々巡りをしているように思えます。
過去レスをまとめてアップします。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

仏教のお経は、お釈迦さんの言葉を記録したもの、という考えがあります。
しかし、実際にはどんなに古いお経でも、 お釈迦さんが亡くなられてから何百年も経っ
てから書き記されたものなのです。
古い時代、一般にインド人は、文字を使うことがありませんでした。
すべて、暗唱にたよっていたのです。
仏教も同じで、お経の編集は、お坊さんたちが集まって、あるお坊さんが暗唱するのを、
他のお坊さんたちが聞いてチェックする
ことでした。 最初の編集会議は、お釈迦さんが亡くなって間もない時に行われましたが、
それにしても、 お経は、お釈迦さんの全く知らないところで編纂されたのです。
お釈迦さんの直接の弟子が暗唱したといいましても、あくまでも、それは、そのお弟子さ
んの耳と頭を経由したものですから、そのお弟子さんの考え、理解力によって、大なり
小 なり、ゆがみが生じます。

お釈迦さんの語録としてのお経が、人から人へ口伝えに、時々編纂会議を経ては伝承され、
数百年もの間、代替わりを繰り返し、様々な地域へ伝えられていくと、ふくらませたり、
削ったりという手が加えられて、ゆがみが大きなものとなっていって、極端なものは内
容 が矛盾するお経、ほとんど同じだけれども一部が違うお経、一部は同じだけれどもほ
とん ど違うお経などが、さまざまあらわれるようになりました。

水野弘元博士『経典−その成立と展開』によれば、
「原始経典の中には、仏滅後になってから、仏の遺弟たちによって説かれたものもかなり
あります。
これらは仏滅直後の第一結集では誦出されなかったものであるのに、どうしてそれらが現
存経典の中に含まれているかといえば、おそらく第二回以後の結集で、経典として誦出さ
れたものと思われます」と書かれています。
つまり、阿含経典のうちには、後世につくられた経典も多数あるのです。

確かに、阿含経典には、間違いなく釈尊その人が説かれたであろうと断定されていること
ばの数々が含まれていることは間違いないと思います。
しかし、阿含経典の全ての作者が釈尊であるかといえば、そうとはいえない。

大乗のお経は、お釈迦さんの言葉ではない、という非難はずっと昔からあるようです。
お経が仏教にとって大切だというのは、それが、単に、お釈迦さんという一人の人物の教
えを記録しているということによるのではなく、「さとった人」が語った「さとった内
容」と「さとりにいたる方法」を盛り込んでいるということによるからです。
当たり前ですが、「さとった人」というのは、「仏」のことです。
お釈迦さんは、「仏」に違いありませんが、「仏」はお釈迦さんだけではありません。
お釈迦さんと同じ境地に達したと自他共に認める人は、すべて「仏」ということになり
ま す。
したがって、そういう仏の語った言葉は、お釈迦さんの教えの流れを汲むもの、お釈迦さ
んの教えの表現 (内容は同じ)を変えたものとして、じゅうぶんに「お経」の資
格を持つ ものといえます。
大乗のお経も、釈尊の教えを伝えるお経です。
610渡海 難 :2000/10/06(金) 14:33
 面白いねー。
 まあー、どんな風に考えてもいいんだろう。いろんな考え方が可能だ。それにしてもゲストさんと番号さん達との論争はゲストさんの方が強そうだなー (笑)
 番号さん達は若い坊さんでしょうか。龍谷大学真宗学科の学生さんですか。
 ゲストさんは正攻法のシャープな視点を持っている人のようです。若い坊さんなら、小賢しい屁理屈や借用理論でゲストさんをうち負かそうと考えなさんなよ。相手が強そうなら胸を借りて教わるぐらいのつもりでいればいい。教わる相手が親鸞仏教批判者なら、教わる相手としてなおさら決して不足はない。そう思いなさいよ。
 親鸞仏教の本質なんかは、こんなところの議論でびくともするじゃない。安心してうち負かされなさいよ。
 本当は相手をうち負かすより、うち負かされる方が難しいんだ。ゲストさんの主張をひっくり返せるなら、それをするのもいいでしょう。でも、若い坊さんなら、下手に勝つより、貴重な機会を生かして打ち負かされ方をしっかり体験するのがいいと思いますよ。
 <年輩の坊さんがゲストさんに相手をしているんだったら、ゲストさんに向けている応答はお寒い感じがする。まあ、若い坊さんなんでしょう。ここはしっかり負けるといいでしょう>
611名無しさん@1周年 :2000/10/06(金) 17:20
パウロを否定することはキリスト教を否定することにならないだろうか。
イエスの言葉だけではキリスト教は世界宗教にはならなかったような気がする。
イエスが語っていないから、というのは、一種の大乗非仏説ではないだろうか。
612ホスト :2000/10/06(金) 18:16
罪の償いのことですが、被害者が癒されれば償いになるのではないでしょうか。
加害者が死ぬことによって被害者が癒されるわけではないと思います。被害者が癒
されるのは加害者を許すことによってだと、「癒しと和解への旅」で教えられました。
でも被害者が許す気持ちになるように加害者もしなければいけない。どのようにするか。それが加害者の償いの具体的行動になるのでしょう。
また宗教も被害者が怒りの気持ちを許す気持ちに転じる手助けになるべきなのですが。
ころころ意見が変わりますが、これはゲストさんたちの書き込みを読んでいろいろ考えさせられるからで、
まことに勉強になります。

絶対と相対ですが、やはり断絶しているところがあると思います。
1にいくら足して数を増やしても、無限大にはなりませんね。
みなさんみたいに上手な説明ができないのでわかりにくいでしょうが。

仏教と善導教ということですが、釈尊滅後の仏教の展開を認めないということになりますが。
613ホスト :2000/10/06(金) 20:03
>マフィアが持っている「掟」と、法治国家が持っている法律は、どちらも
>相対的善悪ですが、それには差がありませんか?差がないのなら、宗教的に
>見ると法律に従う必要はなくなりますね?
差はあります。たとえば1と一億ぐらいの。
でも無限大との違いはどちらも同じです。

>絶対的善悪が何か、については、釈尊の言葉(法句経)、イエスの言葉(福音書)を
>読めば浮き上がってきます。
釈尊の言葉は対機説法です。しかも、釈尊は釈尊が生きた時代、社会の考え方を
無視することはできなかったわけですし、その枠組みにそって教えを説いているわけでしょう。
釈尊の真意がどこにあるかは読む人の解釈によって異なってきます。
ゲストさんにはどのようなものが浮き上がってきたのでしょうか。

やはり絶対的悪とは、わかっちゃいるけどやめられない、という人間存在のあり方だと思います。
それを原罪とか宿業と言うのだと理解すべきでないですか。

>両者に矛盾があった時、どちらをあなたは正しいとされるのでしょうか?
身の事実に問うでしょう。
もしくは矛盾しないように理屈を考えるでしょう。それは可能だと思います。
実際、阿含経には矛盾するような表現がありますからね。
614生徒 :2000/10/07(土) 17:02
ホストでは力もないので生意気そうでやめて生徒にしました。韻をふんでいるつもりです。
>ゲストさんへ
>>親鸞の言う悪とは自覚によって気づかされるものであり、
>>同じものとして語るのはおかしいと思います。
>その通りです。私はそれが言いたかったのです。
だったらどうして
>善導さんが間違っているとは言いません。ただ、釈尊の教えと違うの
>ですから、「仏教」とは呼べない。「善導教」ではありませんか?
と言われるのかわかりません。
仏教である限り、善悪とは自分自身を通して語られるものでしょう。
善導だって自分の外に悪人をおいて語っているのではなく、自らの悪人性を見つめ
ながら、悪人とは、と語っていると思います。
615609 :2000/10/07(土) 23:32
保守派(長老派)の上座部に対して進歩派(革新派)としての大衆部は、正統派に対する
異端派と見られたのはないかと思いますが、それでも仏教教団から追い出されることなく、
相対して論争をしながら教団を形成していました。

また、自ら大乗と名乗ったグループは、釈尊やその弟子たちの全く関知しないところで、
自らの新しい主張のために、多くの新しい経典を自ら制作しました。
この大乗の行動も、保守派・正統派からすれば、異端であり、大乗非仏説という批判も当
然なことと思えます。
しかし、それにもかかわらず、大乗グループも仏教教団から追放されなかったばかりか、
そこから次々と仏教の新しい展開が産み出されました。

中国における禅宗は、「教外別伝」といって、経典には本物の仏教はなく、釈尊の精神は
以心伝心で心から心に伝わっているのだとしました。
したがって、禅僧は経典には目もくれずに、只管打坐、ただひたすらに坐禅をしました。
それは、経を拠り所とする仏教の伝統を否定することであり、正統派からすれば異端とい
えます。
しかし、その中国人による新しい仏教の流れが、今日の日本にまで仏教の一派として受け
伝えられています。
616609 :2000/10/07(土) 23:35
法然や親鸞は、時代を「末法」とし、自己の人間性を省みて、罪悪深重・煩悩熾盛、地獄
は一定であるといいます。
罪悪生死の凡夫の自覚に徹しきると、その凡夫の立場から、仏教の思想と実践を吟味して、
凡夫の身に相応しいものを選択しました。
まず、仏教全体を聖道・浄土の二門に分けて、凡夫の立場から選んで、聖道門を捨てて浄
土門を選択しました。
さらに、浄土門のいとなみを正行と雑行に大別して、雑行を捨てて正行を選び取りました。
つまり、他の全てを選び捨てて、ただ称名念仏のみを選びとりました。
聖道門を選び捨てるということは、釈尊の説かれた積極的な人間形成のいとなみを全く否
定したものと考えられます。
仏教の本流・正統からすれば異端といえます。
にもかかわらず、浄土教も仏教の一派として堂々と認知されて続けています。

で、このような仏教的事実が何を意味しているかというと、その事実が正しいか間違いか
は別として、仏教は釈尊に尽きないという事実を示していると思います。
仏教は、釈尊の教え・思想を起点として、単純な直線的な展開をしなかっのでしょう。
しかし、そういう展開によって仏教は、幅広く、人間の持つあらゆる面を包み込む思想と
なったのではないでしょうか。
釈尊の対機説法的展開を仏教の歴史は歩んでいるのではないでしょうか?
617渡海 難 :2000/10/08(日) 09:29
 609 名前:単なるコピーです、611 名前:名無しさん@1周年、612 名前:ホスト、613 名前:ホスト、614 名前:生徒、615 名前:609、616 名前:609
  以上の方々はみなさんお坊さんですか。ゲストさんはお坊さんではないようですよ。あなた方には相手に話が通じている感触をもっていますか。
 ゲストさんに話が通じてないんじゃないかと心配します。ゲストさんの主張点は分かりやすい感じがします。大学から借りてきた自分の知識を総動員するんじゃなく、相手に分かりやすい話をしてください。ゲストさんに分かりにくい点を、ゲストさんに教わりながら話を進めようというくらいの思いが坊さんにあってもいいでしょう。
618神道自由派 :2000/10/08(日) 19:09
死んだ後人間はどうなるの?
   受精卵・・・→ 二酸化炭素、水、灰(無機物)(火葬の場合)だよね。

宗教は死後の世界を言ってるんじゃないの?
   死んだあと人の人格はどうなるのか?人の肉体を通して神仏が具現してい
  るのを人格だと信じると、肉体が消滅すると人格は神仏の元に戻るというこ
  とになるよね。でも、それだと悪人の説明がつかないから魔とか地獄を信じ
  るようになったのかもしれないね。

人格って人と人との関わりあいで形成されるって習ったけど?
   それなら死んだら神仏の世界に帰ると、こだわることはないよね。故人の
  人格を社会の中で継承するために葬式するんだよね。

悪人も人格残すの?
   人格が人と人との関わりあいで形成されるなら、悪人だけに人格形成の責
  任があるわけではないよね。仏とか如来はこの世のすべてに関わっているん
  だから、悪にも責任あるんだよね。だから、仏教徒は世の中すべての人のた
  めに反省し、すべての死んだ人のために供養することを理想としているんだ
  ね。

南無阿弥陀仏、いわゆる1つの、反省するしかない。
619神道自由派 :2000/10/08(日) 19:11
絶対的な善悪ってあるの?
   生きとし生ける生物は、己の為に自己保存、欲にまみれた自己保存、他を
  食して自己保存、するのは弱肉強食の、原理と知るは世の習い、果たしてこ
  れを善悪と、判断するのは人心の、迷いと知るもこれ真理。

生物じゃなくて社会の中の善悪の話なんだけど?
   己にとっての自己保存、他の者たちの生命を、侵害するのは悪でない、
  己にとっての自己保存、己の仲間の生命を、侵害するから悪となる、仏や如来
  大如来、生きとし生ける全の物(者)、生かし続けて何億年、この世の物はす
  べて「友」、この世のすべてが「わが子」だと、語ってくれるは阿弥陀様、
  子供同士が喧嘩して、友達同士が喧嘩して、仏の眼から見るならば、「善」
  「悪」くっきり浮き上がる。

死刑は善なの?悪なの?
   死刑を執行する時に、死刑囚は仲間だと、思える人には、悪だろう、
  死刑囚はすでに「敵」、反省なんか虚構だと、思える人には正当な、刑の
  執行これ正義。

償いって?
   子供を失い悲しみで、供養を捧げ何回と、祈りを捧げ何回と、鬼子母神様
  地蔵様、親の心の悲しみを、癒してくれるこれ真理、己の欲で人殺し、罪を
  背負って刑科され、社会の正義が守られる、遺族の怨みの感情は、加害者罰
  して満足す、けれども家族は戻らない、心の傷は刑罰で、癒されることはな
  いと知る、加害者悔いて懺悔して、己の欲を懺悔して、果たして知ったすべ
  て友、この世の人はすべて友、仏の子供と知った時、すべて消え去る罪穢れ、
  刑を科されど悲苦はなし。

善に近づく方法がなかったら宗教なんて死後の世界を信じるだけじゃん?
   正しい生き方八正道、南無阿弥陀仏と念ずれば、阿弥陀の友となりなさい、
  阿弥陀の友となったなら、阿弥陀の心になりなさい、反省しながらなりなさ
  い、生きるためには殺生す、己の保存のためならば、殺生するのは当然の、
  自然の摂理と知りなさい、殺生されたその相手、獣や魚や雑穀の、命を背負
  って生きなさい、阿弥陀の世界でいつの日か、再会するのもこれ摂理。

反省ってどういうこと?
   刹那の欲に従がえば、その時その場の自己満足、時が過ぎれば後悔の、
  自責の念も起こるだろう、己の小さな欲望が、友を傷つけ苦しめて、阿弥陀
  の眼にはこれ涙、反省すればこれ涙、阿弥陀の心がそこにある。
   もうやらないと誓っても、果たして歴史は繰り返す、友がするとも限らな
  い、阿弥陀の慈悲の道標、残しておくのも反省だ。

南無阿弥陀仏、いわゆる1つの、反省するしかない。
620神道自由派 :2000/10/08(日) 19:12
誰にとってもいいこと(絶対善)なんてフィクションじゃないの?
   己にとっていいことが、家族の間でどうなのか、地域の習慣どうなのか、
  憲法理念でどうなのか、他国の法でどうなのか、常々反省続ければ、阿弥陀
  の心を歩むれば、絶対善へは永遠の道、人の進歩は限りなし。

お経だけで反省できる?
   拝金主義はよくないと、生命も物も大切に、金銭的にめぐまれた、写経の
  暇ある貴族らを、相手にするならともかくも、厳しい経済社会では、反論さ
  れて逃げ隠れ。
   健康に関わる反省に、医療の知識が必要と、社会に関わる反省に、政経知
  識が必要と、ステップ踏みつつ科学的、知識を修得することが、必要なのが
  現代だ、小中高の学習も、反省できたら、次進め、偏差値とるため暗記して、
  論理で納得英秀才、もういいかげんこの辺で、やめにしたらどうだろう。

今の日本に仏教って必要なの?やっぱり百済や中国にお引き取り願ったら?
   積もり積もった罪穢れ、祓い清めて3000年、祓い清めたその直後、また
また積もる罪穢れ、祓い清めたその後で、反省したなら罪穢れ、大海原
  にさようなら、反省こそは仏法を、日本に招いた神々の、願いと知るなら
  念仏者、反省せずして念仏の、法を説くのは本末を、転倒させると心得よ。

南無阿弥陀仏、いわゆる1つの、反省するしかない。
621神道自由派 :2000/10/08(日) 19:13
>530、531、532、538
 昔のインドのバラモンは、論理が悟りと御錯覚、はたして今のお坊さん、
学僧たちと在家者も、お経の論議を繰り返す、はたして歴史は繰り返す、
お経を読んでも、唐の字で、気持ちが全然伝わらない、論理を解いても伝
わらない、今に生きる人びとの、気持ちを汲んで語りなさい、今の社会は
これ違う、憲法あるは民主主義、資本主義あり自由主義、仏の世界もこれ
変わる、永遠に変ぜずこれ仏法、釈迦の悟りというけれど、反省するは今
の世の、仕組みを知ってできるもの、ああ随神随神、日本は神道神の国、
もういいかげん末法を、終りにしないか仏弟子よ、仏も手を取りキリスト
と、ようやくできるは神の国、言葉を変えれば仏国土、天の国とも人は言う。
622悪人正機 :2000/10/08(日) 21:56
『善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
 しかるを世のひとつねにいはく、
 「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。』

仏教では、釈尊以来、正しい教え(法)を学び、きちんと修行に励んで、さとりを得るこ
とが、仏教徒のあるべき姿であるとされてきました。
しかし、正・像・末の三時思想によると、釈尊滅後の1500年後からは、教えだけが残
り、人がいかに修行してさとりを得ようとしてもとうてい不可能な時代(末法)であると
されました。
そこで脚光を浴びたのが阿弥陀仏であり、浄土教が盛んになりました。
阿弥陀仏は、かつて法蔵菩薩という名前で修行を重ねて、生きとし生きるもの全てを救い
とるまでは、あえてさとりを得ないという、48の願を立て、その願かなって仏となり、
極楽世界の教主となったとされています。
特に18番目の願が「念仏往生の願」とよばれているように、心から浄土に往生したいと
願って、阿弥陀仏の救済を願い、「南無阿弥陀仏」(南無とは帰依するの意)と自分の名
をたとえ10遍でも念ずる者は、すべて阿弥陀仏の国である極楽浄土に救いとってやろう、
という誓願であり、さらに、阿弥陀仏は、自分のこの誓いが果たされないときは、自分は
絶対に仏にならないと誓願したのです。
ただ「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」「なまんだぶ、なまんだぶ」と言えばいいので
すから、たいへん流行しました。
何千回、何万回と、念仏をとなえればとなえるほど極楽往生が確かなものになるのではな
いかと考えられ、念仏の数を競う傾向も現れました。
623悪人正機 :2000/10/08(日) 21:57
しかし、阿弥陀如来は、48願を実現したからこそ如来となり、極楽浄土を建立し、その
教主となったのです。
くどくどしくいうと、48願はすでに達成されているのであり、そうしますと、生きとし
生きるものは、みな、阿弥陀仏に救われることになっている、いや、もう救われてしまっ
ているということになるのです。
ですから、念仏に専心するという行為は、じつは阿弥陀仏の慈悲の心がわかっていない、
信じていない人の行為だということになります。
この逆説的な重要なことがらを痛切に感じとったのが親鸞聖人でした。
いっしようけんめい努力し、よい行いを心がけて極楽往生をめざしている人びとのことを、自力作善の人といいます。
こういう人を「善人」というわけでありまして、つまり、阿弥陀仏の願のわかっちゃいない人であるとされます。
この善人に対して、どうせ無知と迷いと欲望に振り回されて修行に励むことのできない人
(どうせ末法の世ですから修行したってどうにもならないはずですが・・・)、またはそう
いう自分であるといやになるほど身にしみている人のことを「悪人」といいます。
悪人は、自らの力(能力)をたのむというわけにはいきませんから、できることといえば、
せいぜい、阿弥陀仏が実現されたありがたい願、阿弥陀仏の他力にまかせてしまうことし
かありません。
阿弥陀仏の願は、自力ではどうしようもない人々を救ってあげようというのが基本になっ
ているのですから、悪人こそに阿弥陀仏は目をつけている(正機)ということになります。
しかし、悪人正機ということばだけを強調すると、どんな悪いことをしたってかまわない
んじゃないかという具合の悪い考えも現れてきます。
624名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 00:34
平和な他人の家庭に嫉妬して、ライバルの奥さんじゃなくて
3歳になるその娘をポアした僧侶の奥さんがいました。
旦那である坊主が事件の公判においてネゴトを言ったようですが
それに対してどう思いますか?
そういう人もまっさきに「天国」へ逝くのですか?
625名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 10:20
>624
「なんの罪もない、幼い幼児を殺すような凶悪な奴は、間違いなく地獄行きです」
と言われて、
「当然だろ、ざま〜見ろ!」
っと、すっきりしたいのは、私の感情です。
私の願い・期待通りにいかないのが世の中です。

「阿弥陀様は、すべての人を平等に救って下さるのだから、間違いなく浄土に行きます」
と言われて、
「そんなばかなことがあるか!」
っと、憤まんやる方ないのも、私の感情です。
私の願い・期待通りにいかないのが世の中です。

他人が、死んだ後に、天国へ行こうが、地獄へ堕ちようが、どっちでもいいじゃありませ
んか。
私たちにはどうしようもないことなんですから。
626名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 10:35
>>625
まぁ世の中そんなもんなんでしょうが、
妻の公判にぶちきれるような坊主に
「アミダくじが〜」なんてこと言ってもありがたみが無いし
そんな坊主を抱えてる宗教にも救って欲しくないんですわ
じっさい
627名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 10:43
あまりにも逆説が多いのは
原典が偽物だからです。

無量寿なんてどうするの。
永遠に死ぬこともならないんだよ。
628名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 10:47
>妻の公判にぶちきれるような坊主に
>「アミダくじが〜」なんてこと言ってもありがたみが無いし
>そんな坊主を抱えてる宗教にも救って欲しくないんですわ じっさい

それでいいんじゃないですか?
あなたがイヤなら、そんな坊主も宗教も信じなきゃいいでしょう。

でも、そういうあなたの思いを離れたところに真実があるし、
あなたの感情と無関係に事実は進んでいきます。
ただそれだけです。
629ゲスト :2000/10/09(月) 11:34
またまた出張で席を空けてしまいました。度々申し訳ありません。

悪人正機のお話(622−623)と「悪人など極楽にいかれてたまるか」
(624−625)の意見は、結局同じことを指し示しているのだと私は思います。

まず、善悪とは、自分の心が判断するもので、道端に落ちている一万円を取ること
にものすごい罪悪感を持つ人も、ぜんぜん平気な人もおります。同じ行為をしても
前者は「悪人」、後者は「人並みの善人」と自己申告します。ですから、善人とは
単に罪の自覚がうすいだけという可能性が高いです。

そういう意味の「悪人正機」なら矛盾は一切起こりません。昨日、善導上人の解説書
を読んでいると、彼の言う「悪人正機」には三種類の「悔い改め」が登場してきます。
一番すごいのは血の涙をダラダラ流しての悔悟だとか。つまり、悔悟を伴った悪人
でないと成仏しないのです。悔悟などどこ吹く風、「おれは悪人だ。誰がこんなおれ
にした。仏が救わないのはおかしい。」という逆ギレした悪人を救うとは善導さんは
言っていないのです。

念仏さえ唱えれば極楽へ行ける、という発想も同じことだと思います。仏の慈悲に
すがるという気持ちにはなっていますが、悔い改めの気持ちが伴うかどうかは別
問題です。「自分は悪人だ」と悔い改めて、その悪行をやめようとしない人はおり
ません(仮に、悪行をやめられなかったとしても、罪に対する悔悟を持ちます。
人間はもともと悪しかできないという居直りとは大違いです)。また、仏という他力
に全部を委ねるのなら、自分のことはすべて捨て去るのが当たり前です。人は、
道端に捨てられてた赤子が手を差し伸べると、憐れを感じて何とかしてやりたいと
思いますが、それは赤子が何も持たずに前面的に頼ってくるからです。それが、ひねた
顔の赤子だなあ、と思って抱きよせてみると、しっかり常備食を握って離さず、
おまけにズボンのポケットに隠し預金を持っていた、なんて興ざめです。私が仏なら
、即座に打ち捨てます。そして、食料も持ち金も全部使い果たして、本当に困るまで
放置しておきます。それが本当の仏心というものです。

浄土教のお坊さん達も「悪人正機」の意味は同じように解釈されていると思います。
そして、その意味で「善悪」を使う限り、釈尊の原始仏教の教えとも矛盾はしません。
ところが一方で、人間は自分の都合のよい解釈をしたがります。浄土教では、念仏さえ
唱えれば極楽浄土に行ける、と大盤振る舞いが横行します。夏休みの宿題を早くやれ、と
親にせかされて「ちゃんと最後にはやるから」と遊んでばかりいる生徒と同じです。
最後にはやる、つまり、すでに宿題は終わっているのだ、と。おまけに自分を正当化
することも忘れない。「勉強しなくちゃいけない、と思いつつ遊ぶのが人間の業だ。
それを学校の先生は理解するべきである」と。

問題の根源は、このふたつの「悪人正機」の巧妙なる使い分けにあります。
630ゲスト>ホストさん :2000/10/09(月) 14:47
>被害者が癒されれば償いになるのではないでしょうか。
>また宗教も被害者が怒りの気持ちを許す気持ちに転じる手助けになるべきなのですが。

法句経にあるように、恨みもって恨みをなくすことはできず、恨まないことによって
のみ恨みは消えるのだと思います。一番いいのは、加害者も被害者もすべて水に流せる
ことでしょうね。そのために「必殺技」になるのが、加害者に対する被害者の「愛」だと
思います。加害者が一番参るのは、ひどいことをして自分を憎んでいるはずの被害者
から愛情を示されることだそうです。卑近な例ですけど、「レミゼラブル」の主人公が
回心するきっかけになったのも、そういった「愛」でした。イエスが「他人を裁くな」
と主張したのも、やはりこういうことではないかと思います。被害者が許せば、それは
自分を救うだけでなくて、相手をも救うことになります。

>絶対と相対ですが、やはり断絶しているところがあると思います。
1にいくら足して数を増やしても、無限大にはなりませんね。

最後のところは、仏の人間との間に横たわる無限に深い断絶を経験すると思います。
それでもひとつひとつ積まざるをえないのが人間の「美しさ」だと思います。賽の河原
で石を積む子供は、たとえ鬼の妨害にあって石塔が完成しないことがわかっていても、
父母のために積み上げざるを得ません。その姿は実に美しい。永遠に尽きることの
ない大事業に身を投じた菩薩の請願と同じ美しさではありませんか?

>やはり絶対的悪とは、わかっちゃいるけどやめられない、という人間存在のあり方だと思います。
それを原罪とか宿業と言うのだと理解すべきでないですか。

私の目には、そういった「汚れちまった悲しみ」を持ちつつも、冷酷に悪には徹底できず、
悔悟の涙を流しつつ、傷つきながらも前進せざるをえない人間の姿こそ「美しい」と
思います。人間に悪があるから原罪だ、という言い方は、先祖が嘗め尽くした苦しみを
無視して、その進化の成果だけを我が物のように弄び、「こんなもの悪だ」と断罪して
いるにすぎません。先祖を踏み台にしているわれわれが、先祖をまるごと否定する。
一言で言えば、「恩知らず」です。
631イザベル :2000/10/09(月) 15:32
本当はもっと書きたいけど、
これ以上はあたし達巫女と天皇家の奥義に関わるから書けないの。
許してちょうだい。
ただ、書いていいこととして、
イエズス・キリスト、彼は+の世界と−の世界をつかさどる
主なる神の体現者。そのため、彼は人として生まれたの。
そして人として行き、十字架にかけられて死んだ。
十字架という図形は、タビデの星の上の三角と下の三角を
統合した形。それにかけられた事とは、まさに主なる神の形。
だからその支配は、地の底にまで及ぶの。
+の存在も−の存在も彼の管轄下にある。
御父は、全ての創造神。聖霊は、全てに命を吹き入れる存在。
と感じたんだけど、詳しい人、補足や情報や訂正をお願い。
なんせ私は全く本から得た知識がないのよ!
632名無しさん :2000/10/09(月) 15:42
ゴメンなさい。どういうわけかこちらに書き込まれてしまっているの。
許してください。理由はわからないの。本当にすみません。
633>624 :2000/10/09(月) 17:47
>坊主が事件の公判においてネゴトを言ったようですが
どういうことを言ったのか教えて。
634名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 17:49
>神道自由派
七五調で通したのは大した才能だが、結局何を言いたいのかわからなかった。
馬鹿な人間のために真意がわかるように書いてくれ。
HMからして>621の終わり三行が言いたいことなのだろうか。
635生徒 :2000/10/09(月) 17:50
>ゲストさん
>浄土教では、念仏さえ唱えれば極楽浄土に行ける
今どき、そういうことを言う坊さんはいないと思いますがどうでしょう。

>人間に悪があるから原罪だ、という言い方は、先祖が嘗め尽くした苦しみを
>無視して、その進化の成果だけを我が物のように弄び、「こんなもの悪だ」と断罪して
>いるにすぎません。先祖を踏み台にしているわれわれが、先祖をまるごと否定する。
>一言で言えば、「恩知らず」です。
原罪については>536で北森嘉蔵の本から引用しましたが、
私自身の「どうにもならなさ」ということだろうと考えています。
先祖を悪く言うとか否定するということで原罪という言葉を使っている
のではないのですが。
636625 :2000/10/09(月) 22:04
>>624 >>626

>旦那である坊主が事件の公判においてネゴトを言ったようですが
>妻の公判にぶちきれるような坊主

実は私も事実を何も知らずにレスしたのですが(いい加減)、どういうことなんでしょうねぇ。
637渡海 難 :2000/10/09(月) 23:44
 少し黙っていようと思っているんですよ。しかも今日は忙しい。でも、気になるレスには言いたくなります。

>今どき、そういうことを言う坊さんはいないと思いますがどうでしょう。

 今どきの坊さんは、どうやったら極楽浄土に行けると言っているんですか。それとも、どうやっても極楽浄土に行けないと言っているんですか。
638ゲスト>生徒さん :2000/10/10(火) 08:52
>先祖を悪く言うとか否定するということで原罪という言葉を使っている
のではないのですが。

人間の体は、先祖が苦しみぬいた挙句に「作りあげた」システムです。たとえば、
動物には発情期がありますが、人間にはなく、人間は365日(+24時間? 笑)
好きなときに性交渉を持つことができます。同様に、女性のバストの大きさは
動物に比べると桁外れに大きく、性的な魅力をアップする手段として、先祖が
「大きく育ててきたもの」です。これは、人間の繁殖力が弱く、猛獣に対する
防備もなかったことから、生き残るために身につけた知恵です。先祖がスケベ
でなかったなら、われわれは今この世にはいないことになります。

それを「どうにもならなさ」で不満を言うというのは、先祖の努力を否定する
ことだと言いたいのです。

原罪とは、自分で自分を裁く行為です。自分の行為を「悪い、いけないこと」と
判断し、良心の呵責に苦しむ。もともと、人間に自由意志などなければ、原罪も
ないはずなのです。原罪に苦しむ動物はおりません。つまり、原罪と呼ばれるもの
があるとすれば、それは動物と人間を分けるものです。

「どうにもならなさ」は人間の悲しみですが、それを乗り越えるという道も開かれる。
それが「煩悩即菩提」だと私は思います。最初から良心の呵責などなく、「善悪など
ない」といって済ませられる人は、動物の境涯に甘んじることを是とする人です。
私はそういう人々を非難はしませんが、そういう人間になりたいとは思いません。

原罪という概念がいけないのです。人間は生まれながらにして呪われているのか?
それなら動物以下の存在ということです。「あなたがたはすずめよりも価値ある
ものである」というイエスの言葉は嘘だったのでしょうか。「どうにもならなさ」
は人間が仏の道を(はいずりながら)進む原動力だ、と考えれば、また別の意味が
見えてくると思うのですが。
639名無しのパーポー君 :2000/10/10(火) 09:05
640634=ニセその他 :2000/10/10(火) 09:12
あれ〜、ハンドル捨てちゃったんですかあ!!!
もったいないですねえ、真宗のお坊さんを代表してニセその他大先生は
発言されていると思って、注目していたのですが。(笑)

相変わらず口の利き方がぞんざいですねえ、
そんな態度で公共の場でお話されても迷惑だし、
ハッキリ言って不愉快です。(爆笑)
641634=ニセその他 :2000/10/10(火) 09:16
>634
>馬鹿な人間のために真意がわかるように書いてくれ。

いちおう自覚症状はあるんですね、安心しました。
どうも、ありがとう。
642ゲスト(参考記事) :2000/10/10(火) 12:02
善導大師の指す「悪人成仏」には懺悔が不可欠である、と主張する意見を見つけまし
たので、引用いたします。

「善導大師〜信仰と生活」、仏教大学宗教部編、大東出版社から

「至誠心、深心、回向発願心という三心説は浄土宗の安心論として極めて大切なもの
であります。(中略)善導大師の著書といわれております五部九巻をひろく拝読する
ならば、至誠心とは真実心なり、と解釈しながら言外に極めて重要なことを示唆して
おられることに気づくのであります。それはなにか。それが懺悔心なのです。至誠心
とは懺悔心である、ということが善導大師の本意だったのです。」(中略)
「善導大師は懺悔の人であった、ということはまことに驚異そのものです。口先だけ
で、善導大師は懺悔の人である、などといとも簡単に申し上げることにためらいを
覚えます。これだけのすさまじい懺悔をしてこそはじめて滅罪できるのです。かりに
血や涙を流さなくとも、真心をもって徹底すればよい、というおことばは注目すべき
です。真心とはいうまでもなく至誠心のことです。至誠心が徹底することが懺悔なの
です。」(水谷幸正著)
643生徒 :2000/10/10(火) 20:17
「悪人とは自らの罪を自覚して苦しみながらも、悔い改めることができない者のことである」
という言葉があります。
悔い改めることができるなら、悔い改めようとしているなら、救いを求める必要は
ないでしょう。何とかしようとしても、全くどうしようもできないからこそ、救わ
れたいと願わざるを得なくなるのです。
仏をたのむということは、自分で何とかしようというはからいがない、というよりも
、はからう余裕すらないからこそたのむわけです。
そして救われたいと願うことも自分で起こした願いではなく、自分の力ではなかった
ことに気づかされます。
このはからいを離れるという点において、釈尊の教えと浄土教はつながります。
ただ、釈尊の教えは自らの力で修行することによってはからいを離れよと説かれますが、
浄土教では罪を作りながらもどうすることもできない自分に目覚めることが、
おのずと仏をたのむことであり、はからいを離れることである、と説くところが違います。

644生徒 :2000/10/10(火) 20:20
悪人でも念仏を称えたならば救われる(本当は「悪人だからこそ救われ
る」なのですが)のなら、悪いことをした方がいいことになるじゃない
か、と言う人が結構います。
あるいは、地獄がなかったらみんな自分勝手なことばかりするようにな
る、と言う人もいます。
こうした人たちは、人間は規制がなければ何をするかわからない、つま
り性悪説の信者なわけです。
そして自分は善人だ、悪いことをすることはない、と信じているんでしょう。
でも、死んだらそれでおしまい、死後の世界はない、と思っている人は
NHKのアンケートによると半分以上です。この人たちが死んだらそれ
っきりだからと、勝手気ままに生きているかというとそうではないですね。
善や悪をするのは縁によってである。悪人とは自分が悪人だと自覚した人だ。
こういうことは宗教(仏教や浄土教に限らないと思います)の基本だと思う
のですが、理解しにくいようです。

八正道の正しいとは、どうなことが正しいということなのでしょうか。
645渡海 難 :2000/10/10(火) 20:58
原罪とはキリスト教から出ている概念です。キリスト教の概念に縛られる必要はないだろうけど、意味は合理的に解釈したい。

 <広辞苑>  アダムが神命に背いて犯した人の子孫として生れながらに原罪を負うものと考えられる。
 <ブリタニカ百科事典> 原罪とはキリスト教的概念で自罪と対置される。キリスト教はユダヤ教の影響の下、人類の始祖のアダムの堕落物語を聖書的根拠として、全ての人間には人祖の罪を負い、生まれながらにして罪の中にあり、そこから脱出する自由を自分では持たないと説く。原罪の観念は、パウロやアウグスチヌスらによって強調された。


 原罪とは、暴走しがちな人間の性的欲望を、神という創作的な概念にくくりつけて制御するため、創世記にかこつけたキリスト教的安全装置だろうと渡海は思っています。
 聖書には、原罪original sin という言葉の登場はありません。性を異常に蔑視した中世の偽善的禁欲主義に始まる概念だと僕は思います。
 浄土通信に掲示した自作のエッセーの一部を紹介します。

子供は二人欲しい〔創1-18〕。両親はそう思ったのかも知れない。小さい子が生まれるよ、親<神>が兄<アダム>に話す。幼い兄は胸をふくらませる。親は兄が寝ている間に妹<イブ>を生み〔創2-21〕、兄の胸に突き刺さっていた骨〔期待〕〔創2-22〕が除かれる。
 昔の子供は裸で日々生活する。親が子に持つ心配は、幼い子供同士が密かに相姦〔お医者さんごっこ〕することだ。親は家庭生活と社会生活上の決まりを教えながら、子供のうちには性器に興味を持つことを厳禁する〔創2-17@`3-3〕。
禁じれば言うことを聞くほど子供は単純ではない。知恵がつけば親の決まりに反抗する。妹は親に隠れて兄のペニスに興味を持つ〔創3-6〕。蛇は首を上げ、皮を脱いで顔を出し、妹の耳元に囁く〔創3-1@`3-4@`3-5〕。やがて兄は、妹の吐息がかかった実を妹に埋める〔創3-6〕。快楽が去ると二人は忘れていた互いの恥ずかしさを思い出す〔創3-6〕。親は驚く〔創3-14〕。家に残せば二人がいつ同じことを繰り返すかも分からない。外に出れば野獣が牙を研いで獲物を待っている。今を逃せば婚期を逃す。今後は理性的に行動するように親は蛇の忌まわしさを強調し、独立生活の厳しいリスクと現実社会の責任も教える〔創3-14〕。決して戻ってくることの無いように諭し〔創3-15〕、戻ることの無い道を送り出す。アダムとイブはそれぞれ別のイブやアダムと出会う。新天地で新たな家を作り始める。
創世記伝説が創世された時代、ユダヤ人達は既に祖父母の時代からの古い掟を持っていた。掟は、村や家庭の秩序を守るための決まりと性欲の抑制という二つの柱からなる。決まりを破れば村は崩壊し、生存が危ぶまれる。彼らは先祖の決まりが生命生存の基礎であると考えた。性欲は種族防衛のために善悪の判断をもって理性的に抑制されなければならない。男子の陽根に割礼をもって掟を刻み、彼らは巧みに性的暴走を防いできた。
646生徒 :2000/10/10(火) 21:08
>ゲストさん
>「どうにもならなさ」で不満を言うというのは、先祖の努力を否定する
>ことだと言いたいのです。
どうも話がかみ合っていないと思うのですが。
おそらくゲストさんは「どうにもならない」という言い訳で何もしないことは、人類の歩みを否定することだと言われているのでしょう。
私は原罪とは罪を作らなければ生きてはいけないという自覚だと思います。
原罪がいけないのなら、宿業はどうでしょうか。

至誠心については浄土宗と浄土真宗では解釈が違います。
浄土宗では私が至誠心をおこすのですが、親鸞は至誠心とは如来の心だと言います。
647生徒 :2000/10/10(火) 21:18
書き忘れですが、至誠心の解釈の違いは自力と他力ということです。
>643で書いたことも同じようなことです。

北森嘉蔵もアダムが神に背いたことが人間の原罪だとするのは現代の人間
には受け入れられない、と言っています。
渡海さんが言うような性的欲望を制御する安全装置とは、私は思いません。
仏教の言葉を使えば、やはり宿業がふさわしいと思います。
もっとも宿業という言葉も誤解されやすい言葉ですが。
648生徒 :2000/10/10(火) 21:22
書き忘れですが、至誠心の解釈の違いは自力と他力ということです。
>643で書いたことも同じようなことです。

北森嘉蔵もアダムが神に背いたことが人間の原罪だとするのは現代の人間には受け
入れられない、と言っています。
渡海さんが言うような性的欲望を制御する安全装置とは私は思いません。
仏教の言葉を使えば、やはり宿業がふさわしいと思います。
もっとも宿業という言葉も誤解されやすい言葉ですが。
649ゲスト :2000/10/11(水) 09:13
渡海さんの「創世記解釈」はおもしろいですね。人間が他の動物よりも貪欲な性欲
を持つようになったのは、人間が生き抜くために身につけた知恵で、それを「悪」
と決めつけるのは「恩知らず」ということです。とは言うものの、それを野放しに
すれば社会は崩壊します。すべての子供が母子家庭に生まれるとなれば、養育の
義務がないがしろになりますし、隣人同士のいさかいが絶えません。それをコント
ロールすることは必要です。

ただ、そういう実利的な問題の他に、人間には「良心の咎め」のようなものが付い
て回るのではないか、と思います。よく耳にする話ですが、浮気をすると肝心の
場面で「役に立たなくなる」人がいるということです。人によって理由はまちまち
ですが、私がその立場ならば、配偶者に対する裏切り行為になることを「自覚」
するからではないでしょうか?

中世のキリスト教父達は、性欲そのものを罪悪視し、思い余って自ら去勢した者も
おりました。また、パウロのようにすべてのキリスト者が独身を通すなら、1代で
キリスト教は終焉します。パウロはギリシャ哲学の影響を強く受けていますが、
もともとは性欲とは人間の理性がコントロールできない強いものなので、ギリシャ
哲学者にとっては最大の屈辱だったのです。ですから、それほど「真剣に」性その
ものを悪と見ていたのではないでしょう。キリスト教の原罪は、多分にパウロの
被害妄想の産物であるように思います。

まとまりませんが、性そのものに善悪があるのではなく、性によって隣人(特に
配偶者)を傷つけることに悪があるのでしょう。それを間違って、性とは悪だ、
性を持つ人間は原罪を背負っている、という風に狂信化していったのだと私は
考えます。その証拠に、中世の修道院では「隠し妻」が横行していたらしい。
彼らは、口で言ったことを実行できなかったのです。きっと「あんた大見得切る
んじゃなかった」と後悔しながら、罪に怯えつつ性を味わっていたことでしょう。
650ゲスト :2000/10/11(水) 11:49
そもそも、性には善悪はないのなら、性は万人に開放されているはず
です。そのやり方によって善悪が生じるとしても、それは個人の責任
ということで済むはずです。それを、性そのものが悪だ、原罪だ、イエス
の贖罪に頼まねば滅亡だ、と決めつめる行為が、「性悪説」であり、
「われこそは善人、お前ら悪人」の発想だと思うのです。

性が本来悪いものだとしたら、神様は人体を99%完成させた時点で
悪魔に手渡し、最後に1%の性器を埋め込んで完成した、と考えるしか
なくなりますね。実際に切り取った教父がいたくらいだから。これは
もう妄想狂の世界ですね。
651ゲスト>生徒さん :2000/10/11(水) 14:11
>私は原罪とは罪を作らなければ生きてはいけないという自覚だと思います。
>原罪がいけないのなら、宿業はどうでしょうか。

原罪も宿業も、それを捉える側の心ひとつだと思います。人間は性行為がなけれ
ば絶滅してしまう。人間は他の動植物の命を犠牲にしなければ生きられない。
この「必然」を原罪、ないし宿業を捉えるのなら、人間など抹殺してしまえばよい、
性器も胃袋も呪われよ、という発想になります。同じ「必然」を感謝として捉える
こともできるでしょう?私は、こんなに美味い食物や酒がある世界に生きることに
無上の喜びを感じますし、男の端くれですから、美女の隣に座ると天国に行くよう
な気分を味わいます。美味いから、美女だから、と「のめりこむ」のが悪なんだと
思うのです。美味いこと、美女であること、は悪ではないでしょう。かえって
「恵み」ではありませんか?釈尊の教えは、人間の欲望そのものを悪としている
ように見えますが、私にはどうしてもそれが納得できません。

人間が肉食を始めたのは、恐らく旱魃が長く続いて植物では命をつなげなくなった
からでしょう。動物からも栄養素がとれるように、だんだんと消化酵素が充実し、
肉を噛み切りやすいように犬歯ができたのです。それは、業でも何でもありません。
私の目からは、性器も胃袋も犬歯も、自然からの恵みで、感謝して使う道具です。
そして、使い方さえ逸脱しなければ、悪に陥ることはないと思っています。

女性の裸体は、芸術家にとっては究極美の源泉ですが、性に飢えた青年にとっては
わいせつな像です。同じものを美と見るか、わいせつと見るか、で善悪が分かれます。
同様に、原罪も宿業も見る人の心の中にしか存在しません。
652生徒 :2000/10/11(水) 19:25
>ゲストさん
>人間は他の動植物の命を犠牲にしなければ生きられない。
>この「必然」を原罪、ないし宿業を捉えるのなら、人間など抹殺してしまえばよい、
>性器も胃袋も呪われよ、という発想になります。
どうも話がずれています。ゲストさんは原罪や宿業を否定的なものとしてとらえている
ようですね。
宿業の身だと自覚することは仏のはたらきに気づくからこそです。
他者のいのち(もちろん人間に限りません)を奪わなければ生きてはいけない、
他者に迷惑をかけなければ生きてはいけない。その事実に目覚めるからこそ、
自分のいのちも他者のいのちも大切にしようという心が生まれてくるのではないでしょうか。
つまり、いただきますの心ですね。
653ゲスト>652 :2000/10/11(水) 19:45
う〜む。原罪という言葉がいかんのでしょう。メッチャ暗い言葉、人を
地獄へ落とす言葉ですよ、あれは。

「奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の日が落ちる」という寅さんの
「どうしようもなさ」という意味なら生徒さんの言葉は納得できるの
ですけどね。宿業も十分に暗いし、まして原罪というのは一種の呪詛です。
あるいは、ユダヤ人が異教徒を皆殺しにする時に唱える呪文。癌患者
に容赦なく突きつけられる死刑宣告。この辺の深刻さはキリスト者に
しか理解できないかもしれない。

とにかく、私は原罪を否定する立場なので、
(1)生徒さんの主張はよく理解できる。
(2)しかし、使われている原罪の意味は、キリスト者の感じるイメージ
よりも桁外れに軽く、明るい。つまり別物だと思いますね。

>いただきますの心ですね。

これは的を得たいい表現だと思います。いただきます、と感謝して
「恵み」を味わう限り、人の分まで横取りしようという野望は出て
こないものだと思う。人がむさぼろうとする時、その心に必ず「不満」
があるんですね。「あいつは俺よりも楽している」とか。少なくとも、
感謝に満ちた人が人に迷惑かけたり、人から奪ったりするのを見たこと
がありません。

「いただきます」で全部が解決するのかもしれないです。
654生徒 :2000/10/13(金) 18:07
善の魅力よりも、悪の魅力の方があると思いませんか。
一生涯、自分の好き勝手なことをして生きた人を、何となくうらやましく思います。
とても私にはそういうことができないからかもしれません。

655生徒 :2000/10/13(金) 18:11
それと原罪のことですが、
ある神父さんに北森嘉蔵の本が良かったと言ったら、
うーんというような感じでした。
増谷文雄が北森嘉蔵との対談で、あなたはキリスト教ではなく真宗ですよ、
というようなことを言っていました。
親鸞的な原罪解釈と言えるのかもしれませんね。
656弟子 :2000/10/13(金) 22:07
>654

>一生涯、自分の好き勝手なことをして生きた人を、何となくうらやましく思います。

私も同感です。

束縛から開放された自由奔放な心をさとりというのではないかと思います。
自分の生きざまを不自由にしているのは私の迷いだと思います。
見栄や体裁などの人の目を気にして、したいことができない、それが煩悩ではないでしょ
うか?
良寛さんは、自由奔放に生きた人というイメージがあります。
でも、犯罪者でも、悪人でもないと思います。
好き勝手=わがままは、確かに人迷惑ですが、自由奔放が悪とは限らないのではないかと
思います。

私は、死ぬまでに自由奔放な心を手に入れたいものだと願っています。
657生徒 :2000/10/14(土) 17:42
>束縛から開放された自由奔放な心をさとりというのではないかと思います。
そんな立派な人のことを言ったわけではありません。単なる道楽者のことです。
それはともかく、「わがまま」とは「私のまま」、本来の私そのものとして生きる、
という意味もあるんだ、と誰かが言っていましたが、そういう意味での「わがまま」に
生きた人が一休さんや良寛さんのような気がします。
658ゲスト :2000/10/16(月) 12:52
私が血気盛んな青年だったこと、ビニ本という存在が実に魅力的に感じました。
今考えると馬鹿みたいですけど、その頃は「ヘア」を巡って警察と「芸術家」
が攻防を繰り広げていました。その禁断の「ヘア」が見たいばかりに、大枚を
はたいてビニ本を買い求めたものです。

思うに、あの頃は「ヘア」が見たかったのではなくて、「ご禁制」を見たかった
だけなんですね。それが証拠に「ヘア」ヌードなんて見ても、当たり前って感じ
しかしません。

一休さんや良寛さんの「わがまま」は、「ご禁制」を自ら破ることで「なあんだ、
こんなものか、つまらん」と真実を認識した状態なように思います。好き勝手とは
いいながら、「ご禁制」を破りたいという「歪んだ」欲望に駆り立てられている
だけでしょう?日本でもイスラム国みたいに奥さんを4号まで持てるとしたら、
こんなに不倫が流行るでしょうか。「ご禁制」を破りたいという欲望そのものが
「転倒夢想」にすぎないのではありませんか?つまり、好き勝手に「ご禁制」を
破りたいというのも、単なる煩悩にすぎない。

仏典を「ご禁制」品にしたら、意外と仏教が盛んになったりして(笑)。
659生徒 :2000/10/16(月) 19:22
私は人がうらやましくてならない性格です。みんな楽しく生きているような気がして。
これは迷いであることはよくわかっています。私は私であり、他人にはなれないのですから。
それはわかっているつもりですが、うらやましい。充たされていないわけです。
井上陽水に「限りない欲望」という曲がありますね。あれですよ。
>「なあんだ、こんなものか、つまらん」と真実を認識した状態なように思います。
と言われますが、つまらん、と思ってもしばらくすると、
ああなったら、こうなったら、という気持ちが起こります。ヘアの下が見たくなるでしょう。
まさに、のどの渇き、です。


660ゲスト>659 :2000/10/17(火) 08:48
う〜ん。そうなんですよね。

「ヘヤの下」なんてないのにね。あとは皮剥ぎしか残っていない(笑)。そういう
「ないもの」に渇きを感じることが煩悩の正体かもしれません。色魔とは、皮一枚
の間に住んでいるようです(何とも恐るべし)。ビニ本のページの、わずか厚さ
0.数ミリに「刷り込まれた色欲」って、一体何なんでしょう。これが「空」なの
かなとしばしビニ本を手に物思いにふける秋(^^;)。

私も青年時代は、「他人がうらやましい」とよく思いましたが、どうも世間を見て
みると、抱えている悩みの種類はみな同じようです。その量の多少に差があるだけ
で。釈尊の言葉に説得力があるのは、彼が出家前に腰が抜けるほど、美女と楽しみ
まくった経験者だからです。その彼が、「こんなものつまらんからやめておけ」と
真顔で言うのですから、多分間違いないでしょう(と、信じるしかない)。

これが、生まれてから「不犯」だと誇らし気なお坊さんだと、話が違う。どうせ
俺は女にはもてないんだから、こっちの道で大成してやる、というような「負け犬
の遠吠え」のように聞こえてしまう。
661生徒 :2000/10/17(火) 16:23
のどの渇きはいくら飲んでもおさまるものではないことはわかっているつもりですが、
それでものどは渇く。
どうしたもんでしょうかね。

今読んでいる「新みちしるべ ときかた」という本に、家田秀信という人のことが書かれています。
この人は幼い頃のけがで下半身不随です。周りの人をうらやんだり、すねたり、怨んだり、
腹を立てたり、運命をのろったり、両親に八つ当たりするなど苦しんだといいます。
ところが、自分がこうなったのは、他の誰のせいでもない、自分に責任がある。
誰も責めることはできない。そして今与えられたものを、せいいっぱい活かして生きればいい、
とそれ以来、こだわらず、とらわれず、明るく心が開けたそうです。

心のあり方が転じたら、のどの渇きもおさまるのでしょうけど、
私のうらやましい病はどうも治りそうもありません。
662ゲスト :2000/10/17(火) 16:49
私ものどが渇きますけど、時々飲んで渇きを癒しています(笑)。

渇きに任せて腹を下すほど飲むのはいけないでしょうが、「盗泉の水
は飲まず」などと意固地になって我慢するのも素直じゃないと思います。
あるいは、飲みつつ反省するとか、騙し騙し渇きを処理していくことも
必要かもしれません。ミイラになるよりましかな(笑)。

「うらやまし病」は、真面目な生き方してさえおれば、年をとると自然
に治まってくるらしいです。自分の知り合いが急死したりして、「無常」
を感じたりすると、ついそうなりますね(笑)。一時期、自分のまわり
の人が立て続けにあの世へ行ってしまいまして。
663むぅ :2000/10/17(火) 19:52
何だか皆さんありきたりの悩みでクルクルしてるようですね。
頑張ってください。応援してます。

さて、

何故宗教は集わなければならないのでしょうか?
もちろん、普段は個人的に信心してるのでしょうが、最終的には
寺やら堂やらで集いますよね。みんなで集って幸せ感に浸る、と。

信じる者が自然と集まってきてしまってのぅ(´▽`)ゞイヤハハ参った、
とは言いますが、どうも真実は「来ないと浮かばれないっすよ」と
暗黙の脅しを掛けているのが、古来からの現状のように思えます。

宗教は安寧と和平、慈愛等、およそ人たるものが求めて止まないものを
説く割には、他者を虐げ、殺し、略奪することを許してきました。
「それは人間のやることで、、」とは言い得て妙で、それを止めさせる
ことが出来るのが、宗教の教えではないのでしょうか。

売り込みの時は万能、そして都合が悪い時は「人間のせい」。
はてさて、万能とは言い逃れのワザについてなのか?

万能の教えにも関わらず、たかが一時の少数の権力者によっていとも
容易く利用されてしまう「絶対真実の宗教」。

そこから見えてくるのは、真実真理最高の至福なんという
華やかなものではなくて、寧ろ「無(虚)」ではないのかなぁ。
664ゲスト>むぅ さん :2000/10/18(水) 09:12
この世に生きているかぎり、無神論でも矛盾はしないわけでしょう?だから、人間
の側が望んで宗教ができたのだと思います。それが「霊性による真実の直感」なの
か、缶詰の中のグリーンピースの一粒としての寂寞感から出た「ないものねだり」
なのかは判断できません。

もともと、人間の「悩み」はすべて自由意志から発しています。自由だからこそ、
選択を迫られ、その結果に責任を持たされ、不透明な未来におののく。その不安
を解消するために釈尊が出、キリストが出たのでしょう。彼らは、自由意思という
暴走しやすいプログラムの制御方法を残した。それを実践すれば、霊的な至福は
別にしても、精神的には実に素晴らしい効果が得られる。彼らの教えは、この世で
絶大なる効果をもたらすものです。教えを完全に実践すれば、即、世界から一切の
紛争を根絶できる。

問題は、宗教の本質が人間の不安にあるために、すぐに権力者に悪用されてしまう
ということです。どんな教えも、教義を掲げて集金を始めたら、もうビジネスで
しょう。もともと、釈尊もキリストも「無料で」教えを公開したので、その亜流が
金を取るというのはそもそもおかしい。ましてや、教祖達の教えの実践をやめて
しまって、自分達のビジネスの都合のよい教義を作り出したら、それはもう詐欺で
しょう。「私どもの新製品は、教祖のものよりも桁外れにグレードアップしており
ます。ただ、この世ではなくてあの世で効果が現れるのですが、大した問題では
ありますまい」。こういうセールスキャッチが聞かれるようになったら、その宗教
は「虚無」と断言してよいと私は思います。

その典型例が、キリスト教のパウロ、仏教の親鸞さんだと私は思います。彼ら自身
には悪意はなかったでしょうが、後世の権力者は彼らの教義を嬉々として悪用し、
また教団も権力者と共生することで、世界各地に大伽藍を建てました。
665生徒 :2000/10/18(水) 18:14
>ゲストさん
>本物の宗教とは、「何を崇拝すればよいか」ではなく、「人間はどのように行動すれ
>ばよいか」を指し示すものです。
同じことの繰り返し言うようですが、
「このように行動しなさい」と指し示されても、その通りに行動できるでしょうか。
できない人間はどうしたらいいのでしょうか。できない人のためにとりあえず
>「〇〇にさえ帰依すれば、無条件に救われる」
と説かれたのでしょう。しかし上の言葉には条件が付いています。
>「〇〇にさえ帰依すれば」
がその条件です。
では帰依するとはどういうことか、となってきます。問いが生まれてきます。
あるいは、救われるとはどういうことだろうと、問いは次々に生まれるでしょう。
問いとともにだんだんと深まっていきます。
で、最後にはどうなるかと言えば、救われようと救われまいとかまわない、
となるんだと思います。
よく別の自分になる、変身すると説く宗教があります。
立派な人になる、人格が向上するというのも同じことです。
でも本物の宗教とは自分になる教えだと私は思います。
666ゲスト>665 :2000/10/18(水) 20:23
>最後にはどうなるかと言えば、救われようと救われまいとかまわない、
>となるんだと思います。

う〜む。でも、この言葉を殺人狂がつぶやいたとしたら、私は身震いしますね。
居直り強盗になっちゃうから(笑)。1年程前の話ですけど、アメリカで末期
癌と診断されたオバサマが、見ず知らずの人に「ダイエット薬の無料サンプル
です、一度お試しを」という手紙と一緒に青酸カリを送りつけた事件があり
ました。それも何十人も。彼女は、自分は助からないと思ったので、他の人が
許せなかったのです。自分だけ死ぬのは許せないと。彼女は最後の居直りに
出たのです(^^;)。

ふと、彼女が「救われようと救われまいとかまわない」というセリフを言った
時の表情を思い浮かべておりました。このセリフをいいつつ、大量殺人はできない
のでしょうかね。彼女は自分が救われないことを知っている。それでも救われた
かったから、こんな暴挙に出たのだろうか。だんだん判らなくなってきました(笑)。

取りとめのない話で悪いのですが、聖女テレーズの臨終の場面(とは言っても映画
ですけど)を思い出しました。彼女はハンセン病患者の看護に命を賭けて、最後は
自分も感染して他界しました。いよいよ最後の秘蹟を司祭が授けるという段になって
テレーズは恐ろしい悪魔の幻影を見て、私は闇の中に引きずりこまれてしまう、
助けて欲しいのにイエスさまが見えない、とうわごとを漏らします。彼女のような
聖女ですら、自分が本当に天国に迎えられるのか、一抹の疑惑があったのでしょう。
「帰依」とは何とも難しいものです。その命綱はくもの糸よりも細く、弱い。
667むぅ :2000/10/18(水) 23:50
「教えを完全に実践すれば」というのは、結局のところ主観的な解釈が
無限にありツメがないわけで、クレームに対して「当社規定条件を完全に
満たした場合、完全な効果が得られるのです」という、昨今の企業製品と
何ら変わりがないのです。

つまり宗教やら教えとは、都合が悪ければ利用者にいくらでもケチが
つけられる手前勝手な理屈といえるでしょう。同じ団体内であっても
解釈の違う者同士が「お前は間違っている」と非難応酬を繰り広げる
ものであって、幾ら宗教とはいえ結局最後は「力」がモノをいうわけ
です。端的な例としては宗教界にも身分的な階級があることです。

従って全ての宗教で言うおよそ「真実」と呼ばれるものは、平たく
言うなら「ウソんこ」と言えましょう。宗教とは妄想でしょう。
その妄想を妄想と認めず、あくまでも真実として盲目的に強固に
売り出すことが、本質的に信用ならないのです。

宗教家は集いには必ず絶対に来い!、と言います。時には監禁します。
救いを旨とするなら、どうして「困った時にはいつでもおいでなさい」
と寛容的にものを言う&ことを構えることが出来ないのでしょうか。

しかしながら、

>人間の側が望んで宗教ができたのだと思います。
>霊的な至福は別にしても、精神的には実に素晴らしい効果が得られる。
>宗教の本質が人間の不安にあるため

これらの客観的な見解がそちら側から出てくるのは極めて異例であり、
斬新です。これらについては自分も同様の見解を持っています。
ゲストさんは信者ではない冷静な傍観者か、それとも本当の信仰をして
おられる方ですね。大変参考になりました。

お付き合いいただいてありがとうございます。

またよろしくお願いします。
668ゲスト>667 :2000/10/19(木) 08:45
>ゲストさんは信者ではない冷静な傍観者か、それとも本当の信仰をして
>おられる方ですね。大変参考になりました。

いやあ、冷や汗ものですね(^^;)。

むぅさんの論理は現代宗教の問題点の核心をついたものだと思います。昨日書いた
記事(666)でなぜ信仰の命綱が「くもの糸のように細く、弱く」なるかという
と、信仰の対象を自分の外に求めるからなのです。デカルトは、目に見えるものは
本当に存在するかどうかを考えている内に、何がなんだかわからなくなって、最後
に「そうだ、こうやって悩んでいる自分が存在する、これだけは確かだ」という
原点に到達しました。まして、信仰で崇拝するのは目に見えない存在なのです。
それを人間は一点の疑惑もなく信じきれるものか?それは「盲信」ということでは
ないのでしょうか。

「〇〇に帰依せよ」が実際には実行不可能であるのは、むぅさんのご指摘の通り
です。証拠は実に乏しい。それにも関わらず、善導上人の逸話に出てきた信者の
ように命を賭けるのは、ある意味では自分を欺く行為ではないでしょうか。自分
を欺くだけならまだしも、他人にそれを勧めることができましょうか?そこに
現代宗教の病巣があります。

もともと仏教もキリスト教も自らの内にある神の声に従って生きよ、と教えまし
た。仏教でいう「仏性」に目覚めよ、という教えです。生まれながらに仏性を
持つ人間が、どうして自分の他に仏を求めねばならないのでしょう?

そこに、要りもしない「人造の仏」をひっさげてビジネスをやっているのが現代
仏教だと意地悪な言い方もできるでしょうね。
669ゲスト>665 :2000/10/19(木) 09:10
>「このように行動しなさい」と指し示されても、その通りに行動できるでしょうか。
>できない人間はどうしたらいいのでしょうか。

人にもともと仏性があって、救われるも救われないも何もない、すでに「成仏」して
いる存在だとしたら、どう解釈できるでしょうか。

「仏」が学芸会で人間の役をやることになり、人間のボロ服を着て、人間らしく貪欲、
残忍、利己的にふるまっているうちに、演技であることを忘れて「人間とは、悪と
わかっていてやってしまう。これは仏の慈悲にすがるしかない」と思いつめてしまった
ようなものです。「仏」が仏の慈悲にすがる。すでに演技がパロディになっていること
に本人は気がつきません。ところが、学芸会には「仏」がうようよ登場してきて、各々
が「私こそは本当の仏」と主張するし、おまけに「金よこせ」と来る。「いつ助けてく
れるのか」と尋ねれば「学芸会が終わったら、小学校の裏山で待っているから」と
甚だ怪しい返事。

ところが、その時に風に煽られて落下した柿の身が「仏」の頭を直撃し、自分は学芸会
で人間の役を演じていただけなのを思い出す。「こんな馬鹿なことしてられるか」と
早々にボロ服を脱ぎ捨て、もとの美しい姿に戻った「仏」は、演技の中でやったような
人間の愚行など二度と繰り返そうとは思わず、小学校を後にする。

演技中には、演技のために仕方なしにやる「悪」はあります。人間として生きるために
は他の命も取るし、病原体が体内に侵入したら白血球でやっつけなくてはいけない。
しかし、それは人間という役をこなすためには必要な「悪」なのです。死んで「お役
御免」になれば、悩まされることもない。それをクヨクヨ悩んで、「所詮、人間など
悪人だから」と決め付け、演技にどっぷり浸かったり、外に「仏」を求めたるするのは
問題解決にはならないでしょう。

すべての宗教が原点、自分の中に「神仏」を見出し、「神仏」としての自覚を身につけ
て行動すれば、この世から「悪」は一掃できます。その時に、「〇〇に帰依する」という
実行不可能な難題も陽炎のように消えうせるのです。そして、すべての宗教はひとつに
溶け合います。
670ゲスト :2000/10/19(木) 09:16
ちょっと文章が変ですね。訂正させていただきます。

>すべての宗教が原点、自分の中に「神仏」を見出し、「神仏」としての自覚を身につけ
て行動すれば、

---&gt;

すべての宗教が原点に戻り、人間ひとりひとりが自分の中に「神仏」
と見出し、「神仏」としての自覚をもって行動すれば、
671生徒 :2000/10/19(木) 17:42
ゲストさん
最初から「救われようと救われまいとかまわない」と開き直るのでは問題があるの
はもちろんです。
救われたいと思うのは、今の自分ではダメなんだと思っているから、何とかなりた
いと救いを求めるわけでしょう。自分を否定しているわけです。そして救われると
は別の自分になることだと思いこんでいます。
ところが救いとはそういうことではなかった。この私でよかった、と自分自身を受
け入れることなんだとうなずけた。
そうなると「救われようと救われまいとかまわない」となるんだと思います。
ここに至るまではこんなに簡単には行かず、紆余曲折があることは言うまでもありません。
自分を単純に肯定している人なら救いを求めることはありません。

聖テレーズの場合ですが、彼女は死後の救いを求めてるから安心ができないわけです。
これは浄土宗の救いと同じです。

>デカルトは、「そうだ、こうやって悩んでいる自分が存在する、これだけは確かだ」
>という原点に到達しました。まして、信仰で崇拝するのは目に見えない存在なのです
>それを人間は一点の疑惑もなく信じきれるものか?それは「盲信」ということでは
>ないのでしょうか。

我あり、というのも一種の盲信です。
私がいて、仏がいて、私が仏に帰依する、という構造なら皆さんの言うとおりです。
しかしそうではないと思います。前に白隠と信者の話が引用されましたが、その話は
このことを言っているんではないでしょうか。
672ゲスト>671 :2000/10/20(金) 09:00
>この私でよかった、と自分自身を受け入れること

これはその通りだと思いますが、学芸会の例で言えば、本来の「仏」としての自分
と「私は仮の世で演技をしているだけなのだ」という立場を受け入れる
べきだと思うのです。演技にはまり切ってしまって、それが自分自身だと思い込んで
いる人に「この私でよかった、と自分自身を受け入れよ」と言ったら、きっと正反対
の意味に取られてしまうと思います。

>自分を単純に肯定している人なら救いを求めることはありません。

そうですね。ただし、演技が自分自身だと錯覚している人にも救いを求めない人は
いるし(無神論者とか)、その人が本当に「救われる」かと言えば、そうではない
と思います。「犬」を演技しているうちに、本物の犬のつもりになって、ワンワン
吠えたり人に噛み付いたり、ところかまわず交尾しまくったり、そういう「自分」
を肯定することが、本来の自分である「仏」にふさわしいかどうかは別問題だと
思います。そこにはまた、逆の意味での自己欺瞞があると思います。「仏なんて
やめて、せいせいした」というような。

>聖テレーズの場合ですが、彼女は死後の救いを求めてるから安心ができないわけ
>です。 これは浄土宗の救いと同じです。

私が思うに、聖テレーズは実際に死後地獄におちただろうと思います。

>我あり、というのも一種の盲信です。

釈尊の教えの根幹には、その盲信を打ち砕くという使命があったと思います。
デカルトのスタート地点は、人間としては妥当なものだった。そこから前へ進む
べきだったのに、「あるかどうかわからない外の仏」にすがって問題を回避する
方向に流れた。氷を溶かせば水になるものを、氷が冷たいからと避け、どこかで
水を恵んでくれないかと放浪の旅をするようなものですね。


673名無しさん@1周年 :2000/10/20(金) 17:31
「青い鳥」では、青い鳥を求めてあちこち訪ね、結局は自分の家に青い鳥がいたことに気づきます。
自分のままでよかった、というのもこういうことだろうと思います。
でもせっかく見つけた青い鳥は逃げ出します。旅の途中でも青い鳥を捕まえますが、
青い鳥は別の色の鳥になります。
同じように、これでいいんだ、もうわかったと座り込んではいけません。嘘になってしまいます。
「この私でよかった」ということがそういう意味ではないことはもちろんです。

帰依ということですが、南無とは元々の意味はひざまずくという意味だそうです。
ひざまずけば頭が下がる。私がなくなるわけです。
ところが我々は頭を下げる。いくら下げても、頭を下げる私は頭が下がっていない。
こういう意味で帰依という言葉をむぅさんやゲストさんは使っている気がします。
674ゲスト>673 :2000/10/20(金) 17:48
>帰依ということですが、南無とは元々の意味はひざまずくという意味だそうです。
>ひざまずけば頭が下がる。私がなくなるわけです。
>ところが我々は頭を下げる。いくら下げても、頭を下げる私は頭が下がっていない。
>こういう意味で帰依という言葉をむぅさんやゲストさんは使っている気がします。

ぎくっ。例えば、女性にプロポーズするとしましょう。一生、あなたしか
愛しませんから結婚してください、と頭を下げる。でも、実は頭の中では
いつも電車で一緒になる可愛い子のこととか、1年前にふられた彼女との
よりが戻らないかなあ、などと考えているんですよね。まあ、プロポーズ
受ける女性の側も打算的なところがあるんでしょうけど。

「帰依」と言ったって、本当に途中で心変わりしないって誰が宣言できる
だろうか。死んでから路頭に迷わないように、福音書だけでも読んでおこう
か、なんて考える私はやっぱり救われない存在なんでしょうかね?

と、こういうふうに自分の「誠」を反省してみて、改めて問い直してみる
のです。

1)「帰依」と「盲信」はどこが違うのか。

2)所詮、宗教とは宝くじのように、死んでみないと当たりか外れかわから
ないものなんだろうか。

さあ、あなたはどうです?本当に頭を下げたとしても、相手が神か悪魔が
わかりませんよ。それでも、あなたはすべてを相手に捧げるのですか?
675amane :2000/10/20(金) 23:27
> それでも、あなたはすべてを相手に捧げるのですか?

結局最後は自分しかいない、ということになるんではないのかね?
676ゲスト>675 :2000/10/21(土) 12:52
私の主張したいことを代弁していただいて、ありがとう。

ただし、「自分」と言っても、日常に埋もれた自分でなくて、自分自身も、また
両親も生まれる前から存在していた「真の自分」の意味ですけど。
677生徒 :2000/10/21(土) 17:32
>1)「帰依」と「盲信」はどこが違うのか。
帰依といっても疑問を持たないことではありません。信順を因とし、疑謗を縁とし、です。
盲信はこれでいいとそこにとどまることだと思います。
ただオウムの信者はサリンをまくことに悩みながらも、麻原に従いました。
信心と盲信、狂信の違いは微妙です。

>2)所詮、宗教とは宝くじのように、死んでみないと当たりか外れかわから
>ないものなんだろうか。
死んでから後の救いを求めるならそうでしょう。
でも、今、救われるなら、死後を心配する必要がありません。

>「帰依」と言ったって、本当に途中で心変わりしないって誰が宣言できるだろうか。
だからですね、自分が帰依したのなら心変わりはあります。頭を下げているわけですから。
頭が下がる。でもすぐにまた頭を下げてしまうのが私です。


678名無しさん@1周年:2000/10/30(月) 21:38

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679 名無しさん@1周年


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