私、坊主してます(part2)

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17ニセその他
>1176と9
>浄土真宗では、亡くなられた人は全て釈迦牟尼仏と等しい仏陀と
>言い切れる、そのような教義があるのですね
亡くなった人は私にとって一体何なのか。それは人それぞれだと思います。
多くの人にとって亡くなった人は霊魂でしょう。1176さんもおそらくそうではないですか。前にも書きましたが
折口信夫は、霊魂に三種あると言っています。
@純化した先祖霊。
Aまだ死の穢れがついている死んで間もない霊。
Bほとんど浮かぶことのない霊。
Aは普通に死んだ場合です。死の穢れは祀ることで清められ、次第に個性を失い、最終的には@の先祖霊と一体になります。さらに祀ることで氏神となります。
Bは不完全な死、中絶した生(横死・不慮の死・呪われた死など)の場合です。そういう死に方だと迷える魂・移動できぬ魂になります。
三種ともたたることもあれば、福をもたらすこともあるとされます。しかし特にBを恐れます。
死に際が気になるのもBを恐れるためです。死んだ時に苦しまなかったとか、死に顔が安らかだったと。それはBではなくAだと思って安心したいからです。七転八倒しながら死んだりすれば、霊は迷うかもしれないわけですから。
インチキ宗教は先祖の中に自殺した者がいるとか、ここでむかし死んだ者がいるとか言って脅します。これも同じことです。Bの霊魂になっていると言うわけです。
死んで霊魂になっていると思っている限り、迷っていないかが気になりますし、迷っているとたたりますから、何とかしなければ、となります。
たとえば、死んだ人が夢に出てきたことを気にする人は結構います。どこかで苦しんでいるのでは、迷っているのでは、と思ってしまうのです。