私、坊主してます(part2)

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260渡海 難
>222さんへ
>あなたは「怨霊」という存在を認めるのですね。

 怨霊、龍、阿修羅、夜叉、梵天、毘沙門天、魑魅魍魎、こういうもろもろの精神達の存在を否定して浄土教は語ることができません。肉体の誕生は決してその人の始めての誕生でなく、肉体の死は決してその人の最後の終着点ではないはずです。こうしたことも併せて考えられるべきでしょう。
 道理にかなった正しい経営を行った創業者は、肉体が死んだ後もしばしば企業経営に大きな影響力を与えることがあります。企業経営に行き詰まると、現役経営者達は、創業者の精神に戻ってものごとを考えて経営戦略を立てます。その意味で、創業者は、しばしば経営の神様、経営の原点と呼ばれ、現役経営者以上の発言力を有します。
 死んだ後、現役経営者に大きな心理的な重圧をもたらす創業者もいることでしょう。企業を不法に乗っ取った二代目経営者などは、経営に行き詰まれば、非業の死を遂げた先代創業者の影に怯えだすということもあるかもしれません。菅原道真が神として祀られるようになったのは、非業の死を遂げた後に天変地異が続いたという事情があったそうです。
 亡くなった創業者が、現役の経営者以上に経営方針に発言力を持つことがあるということは、霊魂論を持ち出す話ではないでしょう。創業者が、生前、立派な人だったということに過ぎません。そうであれば、現役経営者に大きな心理的な重圧をもたらす場合も、霊魂論を持ち出すような話ではないでしょう。創業者が、生前、立派な人だったということに過ぎないででしょう。
 亡くなった創業者が企業経営に大きな発言力を持った神様となるか、現役の経営者に重圧をもたらす怨霊となるか、偶然によることも多いでしょう。菅原道真は、死んだ後に怨霊として恐れられ、その後に神として祀られました。偶々都で起きた落雷事故が原因だそうです。
 神も怨霊も、生死生死をくり返す人間の迷いとともに存在するものでしょう。私はそう思います。念仏者達は、古来、神や怨霊の問題を扱いながら、自らの愚かさに気付こうとしてしてきました。