1 :
神も仏も名無しさん:
『煮解賭(にげと)』
明朝末期、中國北東部の男達の間で、素麗建(すれたて)なる遊びが流行していた。
先端に話題旗をくくりつけた棒を地面に立て、合図と共に棒に駆け寄りに旗を奪
い合うという、己の機敏さを誇示する遊びであった。
やがてこの遊びにも飽きた者達が、毒草を煮込んだ煮汁を飲み、その解毒剤を旗
代わりにして奪い合うという競技に発展させた。
これのせいで命を落とす者が続出したが、競走に勝利したものは現人神として賞
賛され、朝廷に仕える者を輩出するほどであった。
この、解毒剤を賭けた戦いは「煮解賭」と呼ばれ、時代を左右する勝負の場でも
最も信頼できる、決定権獲得試合として行われてきた。
己の速さを誇示できることの少なくなった現代社会においては、電子掲示板などで
「2ゲットォォ!」と、機会を変えて、現代人が機敏さを争っているのかもしれない。
(民明書房刊 「DNAに刻まれた勝負心 現代人の奇行のルーツを探る」より)
『酸下吐(さんげと)』
「煮解賭(にげと)」により、毒にやられて命を落とす者が続出したのは前述の通りだが、
全国的に流行するにつれて、これは深刻な問題となっていった。
そこで、時の皇帝である崇禎帝は、新しい規範を作り出した。
煮解賭に失敗した人間でも、その毒素を完全に吐き出すことができれば
煮解賭の勝利者に準ずる豪傑という評価を与えるというものである。
肉体を酷使して、大量の胃酸とともに吐き出すことから
庶民の間で、酸下吐(さんげと)と呼ばれるようになった。
酸下吐の登場により、煮解賭に参加できない文民の中には、
これを専門とする者も現れ始めた。
彼らの策謀能力を、朝廷が重宝したことは言うまでもない。
己の戦略を進言する機会の少なくなった現代社会においては、インターネットで
の「3ゲット」と形を変えて、現代人が狡猾さを競っているのである。
( 民明書房刊 「DNAに刻まれた中國 現代人の行動のルーツを探る」 より )
4 :
神も仏も名無しさん:2013/09/23(月) 16:31:08.69 ID:njDKjJaD
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむなり。
について、分かりやすく言うとどういうことなのでしょうか。専門用語など使わず小中学生に説明くらい噛み砕いてくれるとありがたいです。
また、本やサイトなどありましたら教えて下さい(この場合は分かりやすさより正当性を重視してくれるとありがたいです)。
特に「自己をならふ」や「自己を忘るる」の部分に焦点を当ててくれると助かります。注文が多くてすいませんがお願いします。
5 :
神も仏も名無しさん:2013/09/24(火) 02:45:23.29 ID:ziY0pne6
>>4 まずは質問に即した回答
>分かりやすく言うとどういうことなのでしょうか。
→仏道をならう=心身脱落する・させる、ということです。
>「自己をならふ」や「自己を忘るる」の部分に焦点を当ててくれると助かります
→自己を習うというのは自分の本質と向き合うこと。自己を忘れるとは肉体的精神的歴史的な自己を忘れるということ。
で、ここからが重要な説明。
たとえばの話。
「神保町の『まんぷく』というカレー屋のカツカレーが旨いんだぜ」
こういう情報があるとします。
そのカレーを食べたことがある人には、説明は不要で「ああ、旨いね。俺も好きだよ」で話が済む。
双方の意思が疎通する。説明なしで、味のイメージの共有ができる。
ところが、食べたことのない人に何がどう旨いのかを説明しようとしたら、万言億言を重ねても、無理。
要するに、体験以外に説明のしようのないことってあるわけなんです。
だがしかし、体験したことがない人でも「どうやら神保町の『まんぷく』というカレー屋のカツカレーが旨いらしい」というところまでは、わかる。
あくまでも「らしい」までね。しかし肝心要の実態の体験がないからこのレベルの情報は、まったく無意味。
「旨い」を知るためには、そのカレーをを実際に自分で食べてみるしかない。
いくら「おいしいんだぜ」的な情報を集めても、それはゴミの集積にしかならないのです。
なので、とりあえず「座禅しろ」とか、「日常作業に没入するという形の『座禅』でもいいからしろ」っていう話につながっていくわけですが、
これは回答の範囲を超えるので雑談です。
6 :
神も仏も名無しさん:2013/09/24(火) 06:58:28.40 ID:hCrFqiE4
7 :
神も仏も名無しさん:2013/09/26(木) 05:03:41.29 ID:iOMCGRZ6
密教美術を学び始めたはいいが、梵字やら種字やらが読めなくて困ってる。
アルファベットの発音を打ち込むと梵字に変換してくれるサイトとかアプリってないんですかね?
8 :
神も仏も名無しさん:2013/09/26(木) 06:06:02.51 ID:k0bfAKz8
>>7 あるはず。
寺の坊さんなら持ってるんじゃないかな。
アルファベット即変換ではないけど、漢字を出す感覚で変換が出来るんだろうと思う。
そのソフトと、特殊な専用プリンターを使って、塔婆に直接印字させてるのを見たことがある。
アレならきれいに書けるし書き損じもないし、合理的で便利でいいなあと感心した記憶がある。
9 :
神も仏も名無しさん:2013/09/26(木) 12:18:12.33 ID:mTRxagA4
>>8>>9 ありがとう。
一応フォントは落としてみました。
samとかmaiとか打ち込むと変換してくれるサイトがありゃ随分と便利なんだがな
ー。まあ、需要がなさ過ぎて誰得だが
>>10 フォントさえ入れちゃえば、単語登録すりゃ済む話じゃない?
これにて一件落着
もうかけるかな
前スレで一切経の中古本について書いたものです。
スキャンして、画像処理で赤色だけ消える方法なんて都合のよいことできないですか? 調べてもわからなかったです。
モノクロでコピーしたら赤線よりは読みやすいけど、そんなのでも読みたいという希望者いますかね? とにかく傍線だらけでスゴイ。
>>14 むしろ、どこに傍線が引いてあるのかの方が興味深いなw
一切経ならネットでいくらでも見れるが、他人の注視した部分ってのは、貴重な資料だから
>>15 レスありがとう
教えてもらったサイトの一切経は阿含部第一巻がアップしてなかったの
だから読みたい人いたらと思って、その一巻だけスキャンしておこうとしたのです
前にも先人の書き込みから学べるようなこと書いてらしたんで
それはなるほどなあと思ったよ
でも私が持っている本は、ほんとにどこもかしこも
そこいらじゅうに赤線ひいたり丸印つけてあるのがほとんど
一ページほとんど赤線びっしりというところもあって、
単に呼んだところに傍線引いて確認していたような感じ
まっかっかで目がクラクラして頭はイライラしてくる
安いからいいやと思ったけど、いざ読もうとしたら目障りで本文が読めない・・・・
続き
あまりにも状態が悪いので、白い修正液買ってきて
消せるところだけはとがんばってみたけど、
数ページで挫折したーー
すんごい苦行だわ(**)
こんなことしてるひまあったら、少々高くてもまともな本買って読んだ方がましだったわ
興味があるようだったら画像を何枚かアップしてみます
がっかりさせたくないんだけど・・・どうだろ?
・・・最初の 国訳一切経解題と雑阿含経解題は線引いてない
かわりに大東出版社阿含部第一巻、ネットのどこにあるか教えてくだされ
申し訳ないけど、いつかのために確認だけしときたいです
大東出版だけでなくて、ほかの出版社の経典も一巻目はネットに無いようでした。
これはやっぱり本当は著作権あるので、それくらい買うか図書館で読もうってことかも。
私も自粛することにしました。気になるところだけ使わせてもらいます。
知られているのだろうけれど、
阿含経訳者の椎尾氏によると 一切経というのは
大乗経もすべて釈迦の説いたものだという考えみたいですね
書かれていることすべてが事実ではないけれど、
教えは釈迦の言説からきていると。大乗のほうがすばらしいと。
学者が最初にそう書いているのもちょっと困りものだとおもいました。
なんか私ひとりでうるさかったみたい。(^^)
お邪魔しました
これにて一件落着
師よ、どうか教えて下さい。アーナンダ尊者がブッダに「女性に会ったらどうすればいいか」と問うと、「見るな」「話すな」と
答えたと書籍で読んだのですが、ブッダは恋愛もするべきではないと諭しているのでしょうか?
21 :
神も仏も名無しさん:2013/10/08(火) 23:19:27.73 ID:vzY9W+OQ
>>20 いや・・そりゃ、理の当然だと思うけど・・・・(^^;
>>20 師ではありませんが、仏縁により回答させていただきます。
回答:違うと思います。
恋愛をしても良いけど、それにとらわれてはいけない、ということでしょう。
公案としては、
「婆子焼庵(ばすしょうあん)」が導きの参考になるかもしれません。
もっと簡単な話もあります。
川を渡ろうとしていた坊主三人。一人が師匠で、二人が小坊主。
ふと見ると、川を渡れないで困っている、うら若き乙女が一人困ってる。
すると師匠は、私が連れて行ってやろうと、言うと、その女性を抱っこしてあげて、川を渡りきった。
小坊主は衝撃を受けるわけです。女犯ではないのか、と。
その後の道行きで二人はひそひそそのことを話し合う。
そしてどうにもたまらなくなって、師匠に詰問するわけです。
「師匠、あの川であなたが乙女を抱いたのは、女犯の行為ではないのですか」と
それに対する師匠の回答が傑作です。
「おや、おまえはまだあの女性を(心の中で)抱いていたのかね?」と。
ただし、たいていの場合、この師匠のような境地にまでは至れない。
ならば事前の割くとして、臭いものにフタという意味で見るな話すなとは言ったかもしれません。
しかしそれは本質ではなく便法。本質は、執着するな、ということです。
23 :
22:2013/10/08(火) 23:31:49.79 ID:BF8ZTkU0
>>20 別の角度から話をしましょう。
恋愛の根底にあるのは性欲です。その性欲を堂取り扱えば良いのか。
禅に対しても造詣の深かった山岡鉄舟は、それに対してすばらしい回答を出しました。
それがどういう話なのかを話す前に。。。
「恋愛をしない」「性欲を押さえつける」という行為は、所詮臭いものにふたの応急対処に過ぎません。
根治ではなく、対症療法であり、永遠に臭いもののにおいまみれ殻抜けることはできない。
なので、「恋愛をしない」のは次善策に過ぎないのです。
これをふまえて。
山岡鉄舟がえらんだ方法とは、
「暑い時は厚さに、寒いときには寒さに成りきる。これが唯一、暑さ寒さをしのぐ方法」
という考え方の実践です。
つまり、臭いものにどっぷり漬かりきって、それが本当の意味で気にならなくなるまで、浸かりきる、
という方法hです。
そのため、山岡氏は恐ろしいほどの女アサリをし尽くして、もうこれでいい、と心のそこから納得できるまで愛欲にまみれきったそうです。
これも修行のうちだと称して。奥さんは死ぬよりつらかったそうですが、禅の修業のためだからガマンしろと説得しきったとのこと。
ご参考になることがあれば幸いです。
>>22-23 馬鹿か?
性欲でなければいいのか?w
あほ過ぎるにもほどがある。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1275992988/104 104 1/2 sage 2010/06/10(木) 20:43:41 ID:LQQ+TrJr
仏教が、非生産的であり、出世や利益(利潤)・余剰追求をしない価値観である
ということは、留意されていい。
勿論、それは、世俗的価値観からすればマイナスの性格を持つ。
(だから、世俗の価値観に於いても、(理由として)そのフォローは必要とされる。)
今、これを托鉢という行為に引き当てて見てみよう。
(仏典にも、具体的にそのような記述があるが)、
托鉢に回った時、一軒も施して貰えなかったとしよう。或いはほんの少しだったとしよう。
その時、行者には次のような考えが起きる。「もう一度回ったら、貰えるかもしれない」、と・・。
だが、その考えは「私にとって(=修行者にとって)ふさわしくない」と、はっきりと排斥される。
この境界が、まさに、世俗と聖、在家と出家の(価値観の)明確な境界となる。
世俗的に見れば、「もう一度回って食を得て、身体の維持に資させる」ことは、
寧ろ目指されるべき判断だろう。
(また、身体の維持自体も聖なる価値観に於いて蔑ろにされるわけではない。)
だが、釈尊は再度托鉢に回ることをしなかった。
なぜか。 それは、「施物に余裕の無い所に対しても、しつこい勧誘になる」し、
「もっと欲しい」「食べたい、空腹を満たしたい」
或いは「“食べれない”ということ、一食抜くということがあってはならない」
といった欲の肯定或いは保身に繋がっているから。
*そういう【形式に捕らわれている】という言い方をしてもいい。
(一般的に言えば『必ず一日3食食べねばならない。【2食の日があってはならない】』という【形式】に。)
捕らわれている、と。)
「自己の欲求(欲、ひいては貪り)を【肯定し】、【それに従うことを意味する】」から。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1275992988/105 105 2/2 sage 2010/06/10(木) 20:45:12 ID:LQQ+TrJr
境界の話だったか。
たとえば、営業マンがいたとする。販路開拓の為、(あちこちに)足しげく通う。
ついに相手が折れ、繋がりができる。長い付き合いとなれば、三者(取引先・会社・自分)の利益となる。
それは儲けだけでなく「繋がり」や「信頼」、「充実感」「自信」「ノウハウ」等々、様々なものがある。
だから、再度と言わず、『相手が契約してくれるまで何度でも通う』という姿勢は、
悪い行為であるどころか、『営業マンとしてふさわしい姿勢、意気込み、情熱』ということになる。
そして、同じコースで二度三度托鉢に回った時も、財施・法施・功徳(衆生済度)として3者の利はあり得る。
そのことで、《各家の者に、“より強い”(仏)縁ができ、教えに強く耳を傾け、理解が高まる》
ということもあり得ないことではない。
だが、上で触れたように、《我欲の肯定に繋がる》ので斥けられる。
たとえ三者の利が見込まれても、【それが我欲の肯定、我欲への従属となるならば】、(それを背後に持つならば)、
斥けるのが「聖なる」「出世間の」価値観であろう。
その意味でも、この価値観の境界は押さえられるべきものとなる。
比丘(修行者・遊行者)足らんとしたなら、踏み越えてはならない境界となる。
翻って見た時、《現代日本仏教は、生活、寺院経営、伽藍の維持、慣習・前例・地域との繋がり関係性等のため》
この境界を踏み越えねばならない。
(上で言えば、【三者の利をこそ求めるべき】ということだ。これを「大乗的」と言えないこともないが・・。)
27 :
けちゃっぷ:2013/10/09(水) 03:28:32.63 ID:gB8OFVZh
>>20 出家者に関して言えば、恋愛もするなと言われています。
出家者は、あらゆる煩悩を克服する(悟る)ための修行をしているですから。
本気で悟りたい(だから出家している)人には、悟るための方法を説かれている。
在家の人にまで恋愛するなと言われているわけではありません。
28 :
神も仏も名無しさん:2013/10/09(水) 16:50:15.84 ID:l0gjBVv8
仏教のことはまったくわからないのですが
仏教に神はいるのでしょうか?どこかでいないと聞いたことがあります
自分の理解では神はこの世には信じる価値があるものがある 生きてる意味がある
というために 宗教に神がいると思っています
よく仏教で 無とか空とか形あるものはいつか壊れるとかきくと
この世には絶対的に正しいものはいない 普遍的な真理などない という考え方が
仏教にはあるのでしょうか?
まあ、日本の今の仏教ってのはでtららめだからあまり軌にしないほうが良いかもね。
死んだら無であの世はないっていうのが禅宗の坊さんの話で、
それが仮に事実だとすると、じゃあ何で高い金を払って葬式やるんだという自己矛盾。
出家は性欲を抑えなきゃいけないとか良いながら、見んな結婚して子供作ってるし。
酒を飲んじゃあいけないといいながら酒のことを般若湯とラベルの付け替えでOKにしちゃうし。
とどのつまりは、如是我聞。
このように釈迦から話を聞いた、って最初に断りが気宇を入れれば何を行っても教義はあり。
こんなでたらめでうそだらけのな宗教なんてないよ。
嘘だらけのクソまみれ。
だから仏教に期待は持たないほうが良い。
> 仏教に神はいるのでしょうか?
密教の場合は↓
梵天−ナウマク・サマンダ・ボダナン・ボラカンマネイ・ソワカ
帝釈天−ナウマク・サマンダ・ボダナン・インダラヤ・ソワカ
多聞天(毘沙門天)−オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ
持国天−オン・ヂリタラ・シュタラ・ララハラバ・タナウ・ソワカ
増長天−オン・ビロダキャヤ・キシャヂ・ハタエイ・ソワカ
広目天−オン・ビロハキシャ・ナウギャヂ・ハタエイ・ソワカ
吉祥天−オン・マカシリ・エイ・ソワカ
弁財天−オン・ソラソバテイ・エイ・ソワカ
閻魔大王−オン・エンマヤ・ソワカ
地蔵菩薩−オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ 屮(_ ._)屮
31 :
神も仏も名無しさん:2013/10/09(水) 17:36:55.61 ID:gB8OFVZh
>>28 仏教でも、神々(梵天や天人)の存在は認めます。
ただし、神々も生き物の種類のひとつという感じです。
神々の中には、仏教に賛同している仏教の守護神とされている者もいます。
もともとインドで信仰されていた神々が仏教に取り入れられたパターンが多いです。
また、日本仏教については、本地垂迹(ほんちすいじゃく)と言う考え方もされるようになりました。
神道の神様を、その正体(本地)は仏様・如来であると位置づけ、
仏様が人々を導くために神様の姿に化けて現れた(垂迹)のだという思想です。
神仏習合の流れの中で編み出された考え方ですね。
32 :
神も仏も名無しさん:2013/10/09(水) 18:18:14.20 ID:l0gjBVv8
.
これにて一件落着
.
34 :
外道主人:2013/10/12(土) 10:01:38.40 ID:e9QvHavk
ケチャップをひさしぶりに見た、元気かあ?
最近の日々を聞かせてくれえ。
35 :
けちゃっぷ:2013/10/12(土) 19:57:30.19 ID:z8RzJg1s
>>34 好きなミュージシャンであるジャングルスマイルが
12年ぶりに新曲つくってくれたのでうれしいです。
ジャングルスマイルが活動休止する前から2ちゃんねるに
お世話になってるんだと考えたら感無量です。
36 :
だいおう:2013/10/13(日) 18:34:21.71 ID:TrrWUbpW
ケチャップ氏へ
こっちのコテのつもりが・・・
うーーん、前に会った時のとの違いは、
ワイは曹洞宗宗門主流派の悟りをげっとしたぞ。2年10カ月要したんだ、
修行天才のワイが・・・w
37 :
だいおう:2013/10/13(日) 18:40:25.63 ID:TrrWUbpW
で、っケチャップは山崎弁栄さんて知ってる?
仏教に関するよろず質問スレッドです
仏教人に関するよろず質問スレッドではありません
39 :
だいおう:2013/10/13(日) 19:18:05.40 ID:TrrWUbpW
仏教人と仏教を区分けするとは、頭が・・・
仏教人への質問とと仏教への質問をいっしょくたにするとは、頭が・・・
41 :
だいおう:2013/10/13(日) 19:32:46.29 ID:TrrWUbpW
40の負けず嫌いに、縄張り根性、これが仏教?
他人に訊く前に、まず自分の良心に訊かれることをお勧めします。
43 :
けちゃっぷ:2013/10/13(日) 22:23:09.39 ID:QbGGkVEo
>>36 それはおめでとうございます。
山崎弁栄さんについては、名前くらいしか知りません。
浄土宗では有名な方ですけどね。
ところで、実は私、大王(だいおう)さんというコテハンを2人知ってまして、
あなたはどちらの大王さんでしょうか?
リアルでお会いしたことがあるほうの大王さんでしょうか?
雑談してる奴らっていったい何なの?
>>1が読めないのか?
46 :
だいおう:2013/10/14(月) 12:27:35.60 ID:AD2sEXdg
ケチャップへ閻魔じゃない方だな。
山崎弁栄さんは浄土宗内の評価てどうなの?
あとケチャップから見て、どんな評価なんだろうか?
42,44,45は初心者の質問に答えられる器でない我執の強い人間であるという事は
よく理解できた、
仏教知らぬ我執人格ダメ君は質問のきちんと回答をできるか疑問だなあ、
ワイが代理でやってあげよう。
47 :
だいおう:2013/10/14(月) 12:29:55.82 ID:AD2sEXdg
まあ、ワイは浄土宗宗門内は詳しくねえから初心者だわな、専門のケチャップに聞くと・・問題らしいw
なにせ我執、法執の塊の御仁方が縄張りを主張しているようで・・
>>46 スレの戒律も守れないあなたに、戒律の厳しい仏教の回答者としての資格があるのでしょうか?
大いに疑問です。
49 :
だいおう:2013/10/14(月) 19:01:55.27 ID:AD2sEXdg
48ていうのなんと、驕り高ぶった人物であるな。
自分の思い付いた戒律で、すべてを判断されるようですね。
仏教の縁の無い、仏教の恥でしょうね。彼は。
なんという居直り。盗人猛々しいとはまさにこのこと
49は仏教どころかそれ以前に人間としてどうかと思うわ。
自分の不始末を指摘されて居直り、見苦しいにもほどがある、
いい加減恥を知れ。
52 :
だいおう:2013/10/14(月) 19:29:22.52 ID:AD2sEXdg
負けず嫌いの三毒の
1、貪欲(俺に反するものは書き込むなと仕切る)
2、瞋恚(50、51の負けず嫌いから起きる心理状態)
3、愚癡(50、51を書き込んでいる時の自らの無明の心を自覚できない状態)
このスレを見る者に良い反面教師を提供してくれるようで・・
そろそろ引き上げるわ。
スレ汚しになってほかの人に申し訳ないから。るから。
それにしても、お前がここまで恥知らずの大大馬鹿者とは思わなかった。
お前には心底失望した。
55 :
だいおう:2013/10/14(月) 19:38:57.79 ID:AD2sEXdg
三毒撒き散らしご苦労さん、懺悔しろよ。
56 :
けちゃっぷ:2013/10/14(月) 20:41:49.13 ID:xq9W9yNE
>>46 浄土宗で住職になるための資格をとる課程で、
山崎さんの名前と光明主義というワードは聞いたことありますが、
まぁ、「そういう人がいたよ」程度の認識です。
57 :
だいおう:2013/10/14(月) 20:50:07.30 ID:AD2sEXdg
ケチャップさんへ、私の近所の寺が先代が山崎弁栄さんの弟子だったらしので、
どれほど影響力があったのか知りたかったんで。
あと、徳本上人は宗門内で、どんな評価ですか?
58 :
けちゃっぷ:2013/10/14(月) 21:12:36.29 ID:xq9W9yNE
>>57 徳本上人は、マニアにしか知られていない感じがします。
59 :
だいおう:2013/10/15(火) 13:32:47.41 ID:d5Uz4EAd
浄土宗の中で。聖者の方がたまにいますけど、
宗門内で聖者的な人は関心は薄いのでしょうか?
宗門内では、どういう位置付けになっているんでようか?
けちゃっぷさんに迷惑をかけるのもいい加減にしろ
61 :
神も仏も名無しさん:2013/10/19(土) 16:14:13.34 ID:/lytDfrp
執着が無くなると、どうなるんでしょうか?
今もっている野心や人生の目標が消えてしまうのか、と心配しています。
思いつくのは二通りです。
@執着がなくなる→野心や欲がなくなったことで、全てのものごとに対して喜怒哀楽がなくなる
A執着がなくなる→野心は消える。目標は達成できても出来なくてもどっちでも良い。
よろしくお願いします。
62 :
だいおう:2013/10/19(土) 17:06:49.12 ID:Er2vrO6X
1も2も該当しません
60氏みたいな執着がなくなります。 負けず嫌いの三毒の
1、貪欲(俺に反するものは書き込むなと仕切る)
2、瞋恚(50、51の負けず嫌いから起きる心理状態)
3、愚癡(50、51を書き込んでいる時の自らの無明の心を自覚できない状態)
その分60氏のような苦は減り、日常が楽になります。
63 :
神も仏も名無しさん:2013/10/19(土) 18:59:55.49 ID:ZXnjxEml
>>61 目標に対する執着がなくなったら、目標を達成する必要がなくなります。
執着をなくしたお釈迦様を例に考えてみましょう。
執着をなくしてやるべきことがなくなったので、
独り静かに人生を終えようと考えていたお釈迦様でしたが、
梵天に頼まれて、お釈迦様は他人に教えを説くことにしました。
他人から何か頼まれたときに、それが断るべき不適切な頼みでないなら軽々とそれを引き受けて、
能力の範囲内であれば、労力を惜しまずやってのけるのです。
もしも、あなたがあらゆる執着をなくしたとしても、
あなたの能力を必要とする人から何かを頼まれたら、それをやってあげればよいのです。
執着の権化、醜い人間の塊。それが62です。
65 :
神も仏も名無しさん:2013/10/19(土) 21:37:09.81 ID:/lytDfrp
>>62>>63ありがとうございます。
>>63 すると、執着をなくした瞬間から、静かに人生をすごす、つまり
努力とか成長もしなくなるのでしょうか?
>>65 たとえば、
味人間で、食べ物にとんと執著がない人は、
断食してますか?その人は食事をしませんか?
「執著がない」こと=「(それを)しない」こと
ではないと思いますよ。
あ、修正ミスったw
>>65 たとえば、
趣味人間で、食べ物にとんと執著がない人は、
断食してますか?その人は食事をしませんか?
「執著がない」こと=「(それを)しない」こと
ではないと思いますよ。
68 :
神も仏も名無しさん:2013/10/19(土) 22:49:34.38 ID:/lytDfrp
>>67 ということはやっぱり
A執着がなくなる→野心は消える。目標は達成できても出来なくてもどっちでも良い。
という感じなんでしょうか?
>>68 そう。
だから、ボーイズビーアンビシャス、アメリカンドリームを実現、みたいなこと、
或いは夢のマイホーム、或いは
といったようなこととは、一線を画すことになるし、
文明の発展には寄与しないよねw
不足がなければ、現状で十分だから。
これを、「悪しきベクトル」と見做すのも一つの見識ではあるけれど、
(ボクサーや騎手の減量とか相撲部屋の食事とか?w)
過剰な負荷をかけたり、多大な心理的ストレス、
或いは実現しなかった場合の落胆、悲嘆、悔恨、或いは怨み八つ当たり等の発生を避ける手段ではある。
そこは、内気で大人しい子がアイドル芸能界を目指す必要がないのと同じだと思うよ。
食べないと死にますよ
私は生きるために
食べるだけ
雲水みたいだな
71 :
だいおう:2013/10/20(日) 05:14:12.98 ID:/6Kjirl1
65氏へ、
67氏野見解とは別ですが、執着しないレベルで終わりません、
他者との関与で他者と共により良く生きる日々を過ごす必要があります、
64のような血迷った人物によりよく生きていく為に気づく機会を与えるなどです。
他者とまともな生き方を導く方便は無限にありますし、道はたくさんあります・・
73 :
神も仏も名無しさん:2013/10/20(日) 10:18:25.32 ID:Vol9jA8T
>>68 >A執着がなくなる→野心は消える。目標は達成できても出来なくてもどっちでも良い。
Aは仏法内のハナシ。
もっと先は、仏法さえ捨ててまったき自由なんだから(Sn.1072)、
好きなヨーにあればいいんだよ。
晩年の一休なんか、完全に天衣無縫だぞw
一休の臨終の言葉『死にとむない』(世阿弥 聴聞)を本当に分かる奴はめったにいない。
74 :
神も仏も名無しさん:2013/10/20(日) 10:28:45.07 ID:korxscju
>>69 なるほど、納得できました。ありがとうございます。
>>70 屁理屈を言うつもりは無いんですが、”他者との関与で他者と共により良く生きる日々を過ごす”
というのは執着にあたるんじゃないんでしょうか?
>>74 屁理屈だよw
そのレベルの志向性の却下は自殺の推奨以外の何ものでもないw
勿論、悟りの究極は完全なる滅び(≒死)だけれどもね。
「生」と関連したあらゆる方向性は全て「煩悩」だから。
(大乗仏教では、ここで「利他」に関するベクトルを除外するけどね。)
だから、病に苦しむ修行者(阿羅漢)の自殺を仏陀は許可している。
また、梵天勧請以前の悟り様相は、明らかに社会との完全なる決別・隔絶の志向だよ。
つか、世間レベルで言っても、
田舎の爺ちゃん婆ちゃんが、美味しいと言ってくれる人が居る限り(自分が動ける限り)は、
畑(或いは店)を続ける気持ちで居るとき、(子供や孫等の継承が期待できず、一代限りのとき)、
彼らに「執著がある」という表現、評、感想は妥当だろうか?
76 :
神も仏も名無しさん:2013/10/20(日) 11:29:09.74 ID:sfipT1HY
>>68 野心が消えて、野心があるときに目標だと思っていたものに価値を見いださなくなるとして、
それで何か支障があるのでしょうか?
たとえば、親は子供に金持ちになってもらいたいとして、
しかし子供は悟ってしまって金儲けに興味なくなり商売をやめてしまったとする。
いったい、親と子供とどちらが愚かなのか?
金に執着する野心こそが悩み苦しみの原因だと気づいていない親の方が、子供より愚かなのです。
いくら親でも、子供より愚かであるなら、子供が親に従う必要はありません。
>>72 の続き
> @執着がなくなる→野心や欲がなくなったことで、全てのものごとに対して喜怒哀楽がなくなる
> A執着がなくなる→野心は消える。目標は達成できても出来なくてもどっちでも良い
例えば
「 輪廻からの解脱 」 の考えに基づいているのなら
「 涅槃への目標は必要である 」 と思います
78 :
61:2013/10/20(日) 14:09:06.34 ID:korxscju
最初の疑問については答えが出ました。みなさんありがとうございます。
ここから先は、どツボにハマらない程度に理解しようと思います。
(仏教を完全に理解することが目的では無いため。)
>>78 わざわざトゲのある言い方を残していかなくてもいいだろw
イヤラシイ性格だな・・w
80 :
61:2013/10/20(日) 14:33:05.64 ID:korxscju
レスの入れ違いがあったのでレスします。
>>72>>77 なるほど。苦しみをもたらし続けるような目標だけ消えるんでしょうね。
>>73 仏法を捨てることもあるんですね。なるほど。
>>75 そのレベルなら確かに、執着という表現は妥当では無いですね。
畑を続けたいという気持ちは苦しみを引き起こすようなものでは
無いから執着とはいわない、だから消す必要が無い、という感じでしょうか。
81 :
61:2013/10/20(日) 14:37:26.30 ID:korxscju
>>76 前提を説明してなかったので変に思われたかもしれませんね。
今は野心を消すつもりは無いんです。ただ、野心を持ちはじめたころ辛かったので
仏教を学びはじめました。
その頃の疑問を解決したくなったので、今になってこの板のみなさんに質問しました。
なので今は”苦しみから開放されたい”では無く、
”苦しみから開放されるという仏教とは、どういう考え方なのかを知りたい”という状態です。
不快に思われたら申し訳ありません。
>>79 すいません、仏教を少しかじっただけの自分には正直難しかったんです。
明確にしておかないと収拾がつかなくりそうだったので…
83 :
神も仏も名無しさん:2013/10/20(日) 18:11:25.29 ID:F7CwX1bb
釈尊会って、まだあるんですか?
携帯でググっても若村さんと小野さんのことばかり
84 :
神も仏も名無しさん:2013/10/20(日) 23:33:00.41 ID:BVDW0XvW
師よ、尊き者達よ、どうか教えて下さい。般若心経で舎利子というのはシャーリープッタ尊者のことと聞いたのですが、
シャーリープッタ尊者はお釈迦様の次に偉い人とも聞いたことがあります。すると舎利子よと説法している観自在菩薩という方は
お釈迦様のことなのでしょうか?
>>84 心経は、二次創作の経だから。
一部の(実在)登場人物だけ登用して、オリジナルキャラ或いは別作品(別経)キャラとコラボさせてるだけ。
難しく考えるなw
ああ、ちなみに舎利弗は阿含から登場する実在古株だが、
観音さんは大乗以降の創作キャラ。
有名なのは法華経普門品だけど、初登場もそれかな・・?
87 :
神も仏も名無しさん:2013/10/21(月) 00:56:53.05 ID:qOKHa0UI
>>84 スマナサーラ長老は「般若心経は間違い?」という本の中で、
菩薩とはまだ悟っていない修行者であり、サーリプッタ尊者は悟っているので、
観音菩薩は、サーリプッタ尊者に自分の見解が正しいかどうかを確かめるため
質問しているんじゃないか、みたいに言われています。
まぁ、いずれにせよ、観音菩薩とお釈迦様とは別人です。
>>85 仏教というのは真実の教えちゃうんかコラァ、なんじゃ創作キャラてコラァ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C 『般若心経』(はんにゃしんぎょう)『般若波羅蜜多心経』(はんにゃはらみったしんぎょう)
現在の宗教学では
『般若心経』が中国撰述の偽経であるという説が定説化している
1992年米国のジャン・ナティエ(Jan Nattier、当時インディアナ大学準教授)は
鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』などに基づき
玄奘が『般若心経』をまとめ
それを更にサンスクリット訳したという説を発表したことに端を発する
現存する最古のサンスクリット本(梵本)は法隆寺所蔵の
(7〜8世紀の写本)貝葉本であり、これを法隆寺貝葉心経と称する
漢訳よりも古い時代の写本は発見されていない
チベットやネパール等に伝わる写本もあるが
それらはかなり後世のものである
90 :
神も仏も名無しさん:2013/10/22(火) 21:06:20.40 ID:8D1i7/lK
昔の中国のすごいところは、漢語に翻訳したら、
サンスクリット語の原本を保存しなくても平気なところ。
翻訳しても、翻訳前の原本も写本とか残しておいてくれればよかったのに。
そら、サンスクリットなんて日常では使わない言語の写本を作る莫大なコストを払うのをためらってたら、原本が風化しただけじゃね?
今と違って、コピー機も無いし、電子化も出来ないし、記録媒体の質も悪かっただろうしな
92 :
神も仏も名無しさん:2013/10/23(水) 14:54:10.42 ID:KglchKh1
>>89 >現在の宗教学では『般若心経』が中国撰述の偽経であるという説が定説化している
はっきり言って、そんなんどっちでもええのんや。
仏道実践的には、内容が「如理作意(中部15)」に値するかだけが問題なのや。
<如是我聞>がついていようが、ついていまいが、
アカンもんはアカン、エエもんはエエ、それだけや。
『〜三世緒仏』以前は勝義示唆で、クドすぎるが、まあ合格。
『三世緒仏〜』以降は、ヒンドゥ教の洗脳を受けた俗物根性の落第答案。
般若心経は般若教典群のエッセンスとかいう奴がいるが、
他の般若教典群に呪文絶賛の馬鹿仏典はあるんか?
>>92 ん?
閻魔じゃないのか?w
心経の構成が 「マントラ+マントラへの前フリ」 であるのはその通りだろうと思うが、
前フリ部分が、ちゃんとエッセンスになってると思うが?w
(勿論、端的簡潔に単語の列記となってるから、読み解きは必要と思うけど。)
まさに、 >エエもんはエエ と、読まれてきたのが心経なんじゃないかい?w
95 :
神も仏も名無しさん:2013/10/23(水) 18:11:57.64 ID:CmGo6NL+
マントラを使った冥想も仏教のサマタ冥想のバージョンでは?
96 :
神も仏も名無しさん:2013/10/24(木) 01:58:32.26 ID:Rt4rZFBI
>>94 >前フリ部分が、ちゃんとエッセンスになってると思うが?w
だから『勝義示唆で、クドすぎるが、まあ合格。』てゆーてるやん。
ただし、『無・空・不』という否定的字句が「仏道もとより豊倹より跳出せる」(道元)ということならば。
『三世緒仏〜』以下は現生的なる法基準(相応部35-23・70)によって検証できない仏道「一切外」妄想でしかない。
『カットすべきである。
いままで勝義を示唆しながら、なぜ突如三世という世俗時間概念を持ち出し且つブッダが禁止された呪文を自画自賛するのか。
この落第修行僧のカンジーザーは下半身をオカルト神秘主義に毒された半端モノでしかない。
般若心経の「心」とは、サンスクリット「hrdaya」(フリダヤ、心臓、重要な物を意味する)の訳語であり、
同時に呪(陀羅尼、真言)をも意味する語でもある。
それはフリダヤに本質を見る本質主義である。
これがブッダ禁止の呪文(Sn.927など)であると同時に、反仏法であることは明白。
ヒンドゥ教の仏教浸透謀略に洗脳されているとしか言いようがない。
典型的な世俗「一切外」妄想と勝義を、<混ぜるな!危険>を犯してしまっているのである。』(議論スレッド75
>>446)
>>96 >ブッダが禁止された呪文
チョット待ってくれよ、じゃあ「のうまくさんまんだばあさらだあせんだんまあかろしゃだやそわたやうんたらたあかんまん」って言うたらアカンのかよ
98 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/24(木) 23:49:04.37 ID:xUwObdG0
>>97 ゴータマは、
バラモンの持つ呪力とその効力については明確に認められています。
ただし、自分の下で完成を目指して修行する出家僧たちには、
それらは(自己修行としては)無用であるという姿勢にありました。
これが戒律的には禁止事項となった。
しかし、
他者を救済するための一助とすべく用いられるバラモン祭祀的な意味合いならば、
または、在家が自らを支える補助としての祈願利用といったものならば、
特に問題はないと思います。
その目的と意図が重要でしょう。
>>98 あれ?
大乗諸経には否定的スタンスじゃなかったっけ?w
多くの大乗経典(の真言、陀羅尼)は、まさに
>他者を救済するための一助 であり
>自らを支える補助としての祈願利用 であり
>呪力とその効力について >明確に
述べられた経だぞw
100 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/25(金) 00:34:59.51 ID:3Rq9762b
はい、厳密の意味で仏教とは見なしていないからね。
大乗およびその一派(後期大乗)については。
そして、この私には元々、
仏教が唯一といった見解がないから(一代のような姿勢には強く非難する)。
つまり、大乗(非仏教)の優れた点はそれはそれで認めます。
私は大乗も利用するということです。
ダメなところはやっぱりダメだとも批判します。
上座部に対する不当な過小評価と大乗の誇大宣伝などには。
101 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/25(金) 00:37:06.08 ID:3Rq9762b
100は、
>>99へのレス
あっ、それと私は基本、
大乗よりもバラモンを讃えているのでね。
102 :
ウソつきは宝珠@神智学徒の始まり:2013/10/25(金) 02:47:26.86 ID:TvFahvF3
>>98 >ゴータマは、バラモンの持つ呪力とその効力については明確に認められています。
議論スレッドならともかくも、質問箱でウソをつくなウソを!
・どんなに高徳のバラモンたちが祈祷し、呪文を唱え、合掌したところで、<大石は水に浮かず、油は水に沈まず>。
(相応部42-6、同趣旨Sn..249・927など)
・『また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、
たとえば、肢体の占い、前兆の占い、天変の占い、夢の占い、身体的特徴の占い、ネズミの齧りあとの占い、
火の献供、杓の献供、籾殻の献供、糠の献供、米の献供、バター油の献供、油の献供、口の献供、血の献供、
肢体の呪術、宅地の呪術、王族の呪術、墓地の呪術、鬼霊の呪術、土の呪術、蛇の呪術、毒の呪術、サソリの呪術、
ネズミの呪術、鳥の呪術、烏の呪術、寿命判断、矢の呪術、獣の輪といった、このような無益な呪術によって邪な暮らしをしている。
しかし、かれ(仏法僧)はそのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている。』(沙門果経22)
マントラのような神秘主義丸出しなものは、マントラの対象になる本質主義であり、基体・核→自性設定であり
逆に妄執の矢を射るようなものだからから呪文、祈祷、占いの類は禁止されるのが当然だ。
マントラは我執着そのもののクレクレ取引根性である。
二項相対対象化思考からの離脱がブッダのコペルニクス的転回だったのであり、
これによって我執の対象化不能によって実存苦の超克という本懐が達成されたのだ。
ウソをつくな、ウソを!
103 :
ウソつきは宝珠@神智学徒の始まり:2013/10/25(金) 02:55:05.54 ID:TvFahvF3
真言密教はまさしく『このような無益な呪術によって邪な暮らしをしている。』
拝観料だとか、高額祈祷料だとか、これが<邪な暮らしをしている>以外のなんなのか!
104 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/25(金) 03:10:42.73 ID:yVYRyMTQ
wwwwwwwwwwwwww
そうかww
>>102 は、まさしく、もってその通り と同意するが
>>103 は、 う〜〜〜〜〜〜ん、 そこまで踏み込むかww
オレも密教は、かなりその方向性が危ないとは思うが、w
閻魔は、完全否定か?w そこに、通底するものを見ないか?w
セブンは、どうよ?w
密教に関する見解を詳しく聞いた記憶がないんだが、その辺り
どう思ってるんだ? よかったら、議論スレに暇な時にでも書いてくれww
105 :
ぼったん帝國協力隊員:2013/10/25(金) 16:49:54.98 ID:f8XeSe1z
ふーーん、密教否定ね・・・
ワイは前世からの密教のもうし子らしいが・・
禅が高嶺の花の時代にゃ、密教の世話になったわなあ・・
禅定による精神安定はなかなかものだぞ。学問批評する連中には理解できぬだろうが・・
>>23 いや、正しい解答じゃないか?
しょせん健康的な男性の性愛はぺニスの欲求に尽きる
愛だ、恋だと抜かしたって最終的にはぺニスの愛だ
じゃあ、ポコチン切り取るか?ってそれは知恵がない
むしろソープでもどこへでも出掛けて「抜く」
これしかないんですよ
大乗的にはそれで正しい
>>100 あのさ、キミ
仏教と大乗はクリティカルだよ?
真の仏教徒が大乗の何を利用するの?
俺は大乗だから、自分はお釈迦さまの弟子だとは
考えてない
むしろ反逆者
まあ、確かに大乗がお釈迦さまの名前を利用したのは
まずかった
が、しかし「宗教」として大乗はひとつの正しいありかた
108 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/26(土) 00:23:45.10 ID:8QQAsrSf
>>102 もちろん、これは何でも賞賛しているわけではないですから。
バラモン祭祀や呪法の中には、クダラナイ迷信や忌むべき生贄なども多分に含まれています。
ゴータマがその効力を認め讃えるバラモン呪法とは、当然、そのようなものを指してはいません。
あなたの方こそ、もっと読解力を磨かれるよう頑張って下さい。
『究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、
その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。』(Sn.458)
『マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、
施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、
このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。』(Sn.509)
『火への供養は祭祀のうちで最上のものである。
サーヴィトリー[讃歌]はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。』(Sn.568)
109 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/26(土) 00:25:33.20 ID:8QQAsrSf
>>103 ある意味、
“真言僧は現代のバラモン”のようなものとこの私はみています。
しかし、
>>102のような酷いものはしていませんからね。
まっ、私の目からはあまり好ましいとは思えないものも真言密教ではしていますけれどね・・・
(それは善意だからご愛嬌かな?)。
>>107 真の意味では、
ゴータマの真実の教えとしての仏教を現代に伝えているところなどは皆無でしょう。
私はただ最低限の仏教精神に沿う方向での一助として、
---「宗教」として大乗はひとつの正しいありかた---の部分を利用するだけです。
キリスト教は日曜日に教会で礼拝があり、説教聞いたり、聖餐式なんかがあります。
仏教では、そういった日常生活で普通の個人が参加するものはないのでしょうか。
葬式や法事などで、住職が唱えるお経を理解もできないまま側で聞くようなのではなく、
ちゃんと内容が理解できるようなのは
>>110 自分トコの町内市内、ぐるっと廻ってみ?
で、(拝観料の有無関係なく)
お寺の前(や、ちょっと中や)の掲示板探してみ?
112 :
神も仏も名無しさん:2013/10/27(日) 23:16:34.33 ID:D4GKEZ3R
>>110 キリスト教は「日曜日」というイメージ戦略で成功していますね。
それに比べて、お寺は、各寺院によってさまざまです。
たとえば、毎月何日に行けばどこのお寺でも必ず説教が聞けますよ、
というような回答はしてあげられません。
各お寺でバラバラです。
一般向けに法話するのは年に数回の行事のときにさない、という寺もありますし。
>>112 そりゃ創世記ベースだしw
ただ、例えば本山クラスなら(隔週)土日で法話の企画があるとこ多いし、
一般寺院でも土日に持ってきてるとこは多いんじゃない?
また、二祖三仏忌や彼岸(中の土日祝祭日)に法要企画や法話の機会を設けることもできる。
これらは、(特に三仏忌は)キ教の日曜扱いと同じ重みと憶え易さを持たせ得るよね。
いや、まあ、>各お寺でバラバラ というのは完全解決できないけどw
所詮、個人商店みたいなもんだから、セールの企画タイミングのとり方は様々だわな・・。
114 :
神も仏も名無しさん:2013/10/27(日) 23:32:46.84 ID:D4GKEZ3R
>>113 花まつり、彼岸、お盆、成道会、涅槃会、なんかはたいていのお寺でイベントあるけど、
観光寺院でない場合、檀信徒ではない見ず知らずの人がふらっと立ち寄れる雰囲気じゃないかも。
檀家対象のうちわの行事かもしれないので、
事前に「仏教に興味があるので参加させてほしい」と連絡してから行ったほうがいいかな。
>>114 まあね。
統計があるわけじゃないからイメージだけど、
全国の半数以上(7割8割?)が、一般家庭と同じだからね・・。
檀信徒以外の(≒不特定多数の)訪問・面談・参加は無いんじゃないかな。
檀信徒の入場可能な公的空間と寺族に限ったプライベートな空間との別は当然としても、
街中なら(セキュリティの面もあるだろうけど)完全締め切りってこともあるだろうし。
また、観光寺院の方が、逆に入れない空間が厳格かもしれんしね。
116 :
神も仏も名無しさん:2013/10/27(日) 23:51:08.51 ID:D4GKEZ3R
>>115 法事のとき、生活空間の部屋にまで勝手に入ってきた人
(普段来ない檀家さんの親戚だからお寺の事情は知らない人)がいた。
たしか、住職以外の家族が食事中だったかな。
その人は「あ、ごめん。普通に生活しているとは思わなかった」みたいなこと言ってた。
たぶんその人は、お寺全体が公共施設だと思って、
せっかく来たんだから本堂以外の部屋も見てみよう!的な感じだったんだろう。
仏教の歴史を一から学ぶための座右となる書物を探してるんだけど、おすすめを教えて欲しい
119 :
神も仏も名無しさん:2013/11/03(日) 07:41:04.26 ID:YdghBlrv
>>117 古坂紘一『宗教史地図 仏教』
これがいいよ
120 :
神も仏も名無しさん:2013/11/03(日) 10:39:32.30 ID:oLu43io2
僕は一体どうすればいいのですか?何もない
>>120 具体的な情報が何も無いところに、いったい何が言えるだろうか・・・。
今日の「ダーウィンが来た」は、インドサイ。
「犀の角のように只独り歩め」が、
単にZ“一本角であること”から来ているわけではなく、
その生態(≒行動様式)からでもあることが推測できる内容になってたね。
お経をコピペしても功徳はありますか?
音声ファイル、画像ファイルなどで密教の儀軌をエミュレートしてた召喚プログラムを作って、
コンピューター上で仏菩薩諸天を召喚できますか?
124 :
神も仏も名無しさん:2013/11/04(月) 10:25:35.65 ID:9wZR2/6Q
>>123 功徳とは、心で善いことを思ったり、善い行いをすることで、
心に善い癖がつく(善い心になっていく)ことです。
心に染み付く善い癖が、功徳です。
お経に思いを馳せることで仏教的な善い感情、善い精神状態を起動できるとすると、
音読だろうが書写だろうがコピペだろうが、
善い精神状態の癖(功徳)を心に刻む効果は期待できます。
仏・菩薩の召喚は、目の前に仏や菩薩がいらっしゃるとイメージして、
仏・菩薩を敬う気持ちをバーチャルにつくりだし、それが功徳につながります。
儀式で実際に仏・菩薩が召喚できているわけではないと思います。
目の前に仏・菩薩がいらっしゃるのだというイメージをつくりだせるきっかけとなるならば、
コンピュータ上であっても、掛け軸であっても、仏壇であっても、同じような効果が期待できます。
なお、仏・菩薩を信じることは、
人間が悟りを開くことができるのだと信じることになるので、
修行の励みになります。
125 :
神も仏も名無しさん:2013/11/04(月) 11:39:08.72 ID:q/rHmuXm
>>124 それって、悟達できてない坊主の俗物セリフだよw
相手の機根に応じた対機でなければならないのだが、
>>123がどの程度の機根なのかわかっていっているのか?
で、あんたはどの程度なんだ?
無功徳
対象化不能、と示しうるのか?
>>125 一億総修行僧でないといけないとでも思ってんのか?
馬鹿じゃね?w
こういうのも、或る種「勝義厨」なんだよな・・w
特に2chや電子掲示板に多い、
距離を置いた在り方を一切認めない、
外道か求道者かの二者択一を迫る大馬鹿者が・・・ ┐(´ー`)┌
輪廻から抜け出せず戻ってきたんだけどwちょと参考意見を聞かせていただきたい
ヒンドゥの経典?とされる宗教詩マハーバーラタ(バーラタ族の大戦)だけど
王子アルジュナ(ごぞんじ竜樹の樹の部分の由来っすね)が同族との戦いを前にして
同族あいはむ人間性の相克矛盾に悩んでしまっちゃて、馬車の馭者クリシュナさん(実は最高神っすw)に
励まされるわけだけど、具体的には「利害を離れた行為だけが価値ある行為であり、最高神に近づく道である」と諭されるわけです。
また、カウティリヤの実利論あたりだと戦士階級や王の資格・能力を弁じており、さしずめマキャベリの君主論的な話になる。
やはり、人間極意に達すると似たような認識をもつようになるのか、上記の書籍では節制の大切さを説いてるようであり
仏教的と思える部分も多いように感じる。
仏教は別に医学を専門に扱っているわけではないけど、仏教はもともと遁世的であるし、
医学も患者が社会に適応している限りにおいては不干渉の立場をとりますよね。
やり手のビジネスマンが書いた「これぞ極意」みたいな本、たとえば「七つの習慣」みたいにインサイドアウトだーみたいな
認識論て、仏教徒も共通点があるように思うんですよ。
でも、企業の世界は弱肉強食で職業柄、過剰に利益を追い求めることもするじゃないですか。
医学は本人が満足してるなら関わらないですけど、仏教は現代の戦士階級、企業戦士に
どういうアプローチをとるべきだと思いますか?別に個人的見解でもいいです。
たとえば、禅僧でも、肉食妻帯なんでもありな破戒坊主に寛容な面があると思うんですけど
彼らはアルジュナとちがうんですかね。同じなんですかね。
考えてみれば、禅は武士に信仰された経緯もあります。いくさにおける恐怖の克服に禅が有効だったからでしょう。
弓道ですすめられる腹式呼吸もあれモロに禅ですし。アーチェリーは落ち着いた人、心が動揺しない人が強いとよく言われますよね
哲学は違うかもしれませんがメソッドとしては共通部分は多くあると思います。
あと、修羅道、正確には阿修羅道ですけど。
もともと、五悪趣と言われるように、地獄・餓鬼・畜生・人間・天の5つが基本形であるところに阿修羅が加わったんですよね
よく三悪道と言われますけど、阿修羅は三善道に含まれ、どちらかと言えば恵まれてる方なんですよ。
現代的に言えば、ワーカホリックの人たちなのかもしれませんね。
さて、この修羅道は果たしてもともと悪いところだったのでしょうか?
マハーバーラタなんか見ると、戦う運命を肯定してますよね。
思うに、修羅道はもともと戦士にとっての天国だったのではないでしょうか?
北欧神話を読むと面白いのですが、結構相似点が見つかるんですよね。
卑近な例だと、名誉ある戦士はヴァルキリーによってヴァルハラ(天国?)へ連れて行かれるって話ありますよね
ゲルマンっておもしろいんですよ、彼らはキリスト教の天国をすごく軽蔑していた。
まあ、彼らの言う天国って毎日主神オーディンのために来るべきラグナロクに向けて毎日殺し合いの稽古して
城に帰ってきたら美人のヴァルキリーを給仕して豪快に飲み食い歌えや踊れやのヤリたい放題の繰り返しなんですけどね・・・。
なんか修羅道に似てますよねw
レベル落としてしまってなんですが、幸村誠の漫画「ヴィンランドサガ」って北欧神話とキリスト教がちょうど切り替わる様子などを
題材にしてて、すごく考察してるなあって思う作品なんで、解説本よむのめんどくさいなら入門としてよいかもです。
でまあ、戦士階級というのはどこもそういう面があるものだと思います。
日本の熊谷次郎直実が敦盛討ち取ってはじめて、やべー俺なんてことしちまってるんだいって気づくわけですけど
現代人からすれば遅せえよwて感じですもんね。いくさってのは彼らからすれば相手領地を手に入れて
一攫千金ねらえるお祭りみたいなもんだったのかもしれませんね
それはともかく先に個人的な回答をしておくとですね
マハーバーラタのように、戦士であっても、禅のように、動じない心・節制ある状態(あるいは無双状態か)に最高の価値をおくわけですが
仏教とはちがうと思うんですよね。
マハーバーラタの描く境地はインド的なカーストの中の秩序の一つの回答なのかもしれませんけど
王・戦士・苦行者・平民・乞食・泥棒・娼婦に至るまでそれぞれの職業の固有法則に基づいてそれぞれの秩序が形づくられていて
それぞれのカーストの中に政治・戦争・真理・仕事・恵み・盗品・客が秩序立てられてゆくわけです。
たしかに、お互いノータッチで互いが満足な間は有効に機能するものだと思います。
現代人からすれば納得いかないところはあるかもしれませんが、現代人も実は似たりよったりのところはあります。
自由とは言っても、大卒の子はたいてい大卒ですし、それぞれの境界はなかなか越えられないもので
親の職業つぐのが楽だったりしますから。簡単に言えば自由度の程度の差ってことでしょう。
日本は士農工商とは言っても、医師は誰もがなれましたし、武士も郷士なら株で買えました。
それはともかく、どう言えばいいか難しいですが、自分なりにカテゴライズすると
インドは階級が固定していて、人々は生きている間は秩序に絶対的に適応することが求められており
江戸時代の日本は、長男以外は基本、町人予備軍ですが、才能のためには階級移動の自由が許容されており
近代国家は、人間の尊厳として職業の自由が認められている、ということでしょうか?実質、資本家たちに囲い込まれているわけですが。
ええーと、つまり、仏教は帝国の異民族宥和の方便として利用された歴史から考えて
既存のヒンドゥのカーストを絶対視することはないとは言えるんですけど
かと言って、仏教は基本的に世間のことは世間に合わせるスタンスなんですよ
仏教の回答を見つけるとすれば、それぞれの階級の秩序をそれぞれ慮って、間を取り結ぶという立場にあるのではないですかね。
その点、江戸時代の日本や現代日本人はインドと比べて自由度は高いですが、それぞれの立場の人たちを思いやっているのかってのが
考えさせられるところなのではないでしょうか?
蛇足ですけど、北欧神話で戦士階級にはバルハラって天国が用意されてるんですけど
庶民は死後、暗鬱とした世界で暮らすことになってますw
まあ、北欧諸国の厳しい環境では、しかも昔の環境では、なおさらキツかったでしょうね
アイスランドなんか偏西風吹かないとどうやって暮らしていけるのか分からないくらいです。
でも、アイスランドだけが貴族社会がなく、民会が発達したんですが
そっすね
ブログ考えます。
でも、見解がいただきたい
仏教のめざすところが奈辺にあるか
>>134 だったら、もう少し読み易く(解り易く)書かないと何言ってるかわからん。
>>128-132じゃ、羅列されてるだけで意味不明だからw
簡単に書くとですね
たとえば普段は豪放磊落、酒豪で自由闊達な性格の軍人なんだけど
何百という戦場で鍛え上げた経験から、その戦闘の極意を言い表したとき
禅の思想にとても共通したことを言ったとする。
仏教としては、彼はどういう位置づけになりますか?ってことです。
衆生・凡夫でしょ?
まあ、そうですけど・・・
僧がめざすところと彼はなんら変わりないのか
それとも、ちがうのか、どちらでもないのか
勝義で答えても世俗で答えてもいいです。
ちなみに、カーストは否定しますか?
仏教は社会的にまったく関与しない方向へいくか
あと、関係ないですが、30代の女性を捨てるのは犯罪ですか?
139 :
神も仏も名無しさん:2013/11/04(月) 22:54:55.45 ID:dxLnrcMV
軍人は人を殺し勝つことが命
仏教は死んだ戦士した人を救うが命
役割分担というあり方ですね
あなたの見解了解しました
141 :
神も仏も名無しさん:2013/11/04(月) 23:21:03.08 ID:9wZR2/6Q
>>138 仏教が目指すのは煩悩の消滅や煩悩の制御です。
煩悩の制御は、煩悩の消滅という目的に向かう過程の方法として行います。
しかし、仏教がもつ煩悩制御のテクニックを世俗的な目的に利用することは可能でしょうし、
世俗的な活動の中で仏教と共通する煩悩制御のテクニックを発見する人もいると思います。
>>138 違うに決まっとるやんw 勝義でも世俗でも。
否定するに決まっとるやろw
ただ、そのこと(否定するというスタンス)の
「表明の仕方」「実現の仕方」、そもそも「実現(現状の強制的変更)を目指すのか?」
には、基準(或る一つの「“べき”スタンス」)はないよ。
個々人や、地域・社会性による振れ幅があるだけで。
これは「勝義で否定、世俗で甘受」ってことではあるけど。
で、甘受の姿勢にバリエーションがある、と。
>>138 最後一行スクロールしてなかった。
「犯罪」かどうかは法律の問題で、仏教宗教関係ないやらw
あらいっぱい
あざーす!
>>141 なるほど
制御の練達というと、深すぎてつっこめない領域ですね
先生の先生的な存在というか
でも、滅身まで行くのか、そのできるけど手前でやめてもどるのか
その辺の分岐点は僧の人それぞれなんですかね?
>>142 具体的にどう違うか教えてもらえるとありがたいです
大まかなところでは一致しているのか、それとも見当はずれなほどちがうのか
たとえるなら、虫めがねで見てるのと顕微鏡で見てるのとのちがいに近いみたいな
わかり易い例で
カーストと30代の件はなんかすみません
>その辺の分岐点は僧の人それぞれなんですかね?
あ、これ別に答えなくていいです。確認しようがない
146 :
神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 01:39:10.31 ID:wjpvsj7O
>>144 武士が戦うときに戦い以外の雑念を払うのも、煩悩の制御です。
この場合、武士は敵に勝つための手段として煩悩を制御しますが、
武士は敵に勝ちたいという煩悩は制御したり消したりしようとしません。
一方、仏教は、敵に勝ちたいという煩悩まで消すことを目指します。
質問です。
葬式とかでよくお経を唱えますが、あれ何のためにやってるんですか?
>>147 別に読まなくてもいいよ。
・会葬者の焼香の爲の時間
・「経を唱えた」(→おしえを復習・確認した/おしえを他者に教えた、広めた、伝えた、護持した)
という功徳をつむことになり、その功徳を故人に捧げる
或いは
・故人に経の内容を届ける(→故人がおしえの内容に近づけるように聞かせる)
ため、だから。
仏式でない葬儀ではまた別の作法、理屈があるだろうし。
浄土系はまた違った意義が付与・加味されるだろうけど。
>>148補
読経の意義は、葬送儀礼遂行の意義と、必ずしもリンクするわけじゃないから。
ありがとうございます。
では、葬儀に限らず、読経の意義はなんなんでしょうか?
経を唱えると、故人に届くんですか?故人はそれを聞くと教えの内容に近づくんですか?
功徳をつむと何か良い事あるんですか?
152 :
神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 12:39:44.72 ID:wjpvsj7O
>150>151 読経には功徳があります。
お経には、仏教の教えが書かれていますので、読経は、
仏教の教え(善い心持ち)のイメージトレーニングの反復練習になります。
仮に、経文の意味がわからなくても、読経のときの心に仏・法・僧への尊敬の念が伴うなら、
仏道修行(善の心をめざす)の習慣につながる励みになります。
功徳とは、心に染み付く善い癖のことです。
善い行いや善いイメージトレーニングをすればするほど、心に善い癖がつき、善い心になってゆく、
それを「功徳が積もる」と言います。
功徳は、善いイメージを抱くたびに積もります。
他人が善い行いをしている場面を見たりして、「すばらしいな」と共感したときにも、
イメージトレーニングになるので自分の功徳になります。
ですから、死者(故人)が、遺族等の読経を見聞きして「すばらしいな」と思ってくれれば、
死者の心にも功徳が貯まることになります。
死者が、読経を見聞きしてくれているかはわかりませんが、
見聞きしていると想定して、功徳の援護射撃のために読経などをしているわけです。
功徳が積もって善い心になればなるほど、煩悩が減り、悩み苦しみが減りますから。
153 :
神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 12:50:25.28 ID:wjpvsj7O
日本では一般的に、死後49日間の中陰の期間は、
中陰という肉眼では見えない微細なサイズの子供の姿になって、
輪廻転生待ちの状態で周辺に留まっていると考えられています。
だとすると、少なくとも満中陰までは、読経を見聞きしてもらいやすいでしょう。
その後で輪廻してしまうと、どんな生き物になっているかわかりませんが、
極楽浄土に往生した場合には、極楽に生まれた者は神通力を得て、
しかもすべての前世の記憶があると言われていますので、
遺族のことを憶えていて、神通力で遺族の様子も見聞きしてくれている確率が上がります。
>>150 向こうと全然態度が違うなw
一応「質問箱」という場所柄はわきまえてるのかw
156 :
神も仏も名無しさん:2013/11/05(火) 16:24:04.86 ID:VGO5FGyg
確か仙台育英高校出身の人で凄い修行をして到知に出た人誰ですか?
体育会けいの人は毎日すごい修行してます
頭は知らん
>>146 あざす。
カーストという(物心がつけばいた自分の)立場で、客観的に必要な仕事をなせっていう
己の欲望や利害から一旦離れて、職業に内在する法(ダルマ)を粛々と行使してゆくという考え方そのものが
ある職業に必要とされることはこういうダルマであるという前提を立てているのでヒンドゥ的なのですが
では振り返って仏教のダルマとはなんなのか?
そう言われて、答えてしまえばヒンドゥと同じ野壺にはまりって
仏教というカーストにカテゴライズされるのを指をくわえて見ているだけになりそうだし
答えられないと、仏教に社会的意味が認められないということで、近く滅びてしまうのではないかと不安になる。
法滅の予言もむべなるかなという感じです。
でも、まあ上のヒンドゥ的態度はある種理想として語られるものであり、
だからこそ実際は仏教が間に入る隙もあるって感じなんですかね
みんなわりと自分が救われることばかり考えるから往相に目が行くけど
還相に理解が行かない
最近身内の死があってYouTubeの仏教関連の動画や上祐史浩氏の講話等を見て非常に興味を持ち出しました。
しかし私自身仏教徒でありながお釈迦様が何たん者なのか、そもそも仏教とは一体なんなのか?
お恥ずかしい話ですが何も分かっていません、こちらのスレにも参加はしたいのですが、まずは自分なりに基本的な仏教をやかり易く学んだのち此処へ帰って来て
皆さんと色々お話がしたいのですが、全くのズブの素人にも分かりやすく尚且つ正しく学べる著書や動画等あれば教えていただけ無いでしょうか?
161 :
神も仏も名無しさん:2013/11/08(金) 13:00:39.74 ID:ev2G2k0J
大学で仏教を学びはじめたときには「仏教要語の基礎知識」の岩波の仏教辞典が重宝しました。
仏教の基本は四諦・八正道です。
あとは、一切行苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静という考え方。
五蘊(ごうん)、眼耳鼻舌身意・色声香味触法の六根・六境という世界のとらえかた。
そのあたりはあらゆる宗派に共通でしょう。ネットでも検索できるはず。
あとは、仏教の興味のある面から学んでいくしかありません。
日本テーラワーダ仏教協会のサイトもいいです。
>>160 『仏教入門』(三枝充悳/岩波新書赤)
『仏教』(渡辺照宏/岩波新書・緑)
『お経の話』(渡辺照宏/岩波新書緑)
『仏教思想入門』(山口益/理想社)
『日本人の仏教1―仏教の教え―』(奈良康明/東京書籍/(東書選書)
『インド・中国・日本 仏教通史』(平川彰/春秋社)
『宗教史地図―仏教―』(古坂紘一/朱鷺書房)
『釈尊の生涯』(水野弘元/春秋社)
『ゴータマ・ブッダ T.U』(中村元/春秋社(選集決定版11-12巻))
『仏教要語の基礎知識』(水野弘元/春秋社)
『岩波仏教辞典』(岩波書店)
『パーリ仏典入門』(片山一良/大法輪閣)『釈尊との対話』(奈良康明/NHKブックス554)
『般若心経講義』(奈良康明/東京書籍)
『仏法―テーラヴァーダ仏教の叡智―』(ポー・オー・パユットー/野中幸一訳/サンガ社)
『智慧の眼をひらく』(ダライ・ラマ/菅沼晃訳/春秋社)
>>152 >>153 私は質問者ではありませんが、非常にためになりました。
あなたはお坊様でしょうか。研究者の方でしょうか。
何で仏教を学んだのでしょうか。
よろしければ、さしつかえない範囲で教えていただけますか?
中村先生と三枝先生の共著、バウッダをおすすめします
これで大体の概要が掴めますよ
165 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/11/09(土) 23:45:15.19 ID:KGDoCYio
>>151 >経を唱えると、故人に届くんですか?故人はそれを聞くと教えの内容に近づくんですか?
せっかくのいい雰囲気に水を差すようですが、これは少し異なった私からの個人的な意見です。
生前のとき仏教に特に関心もなく、お経のおの字も知らなかったようなごく普通の人間が、
死後には急に自然と仏教に関心を抱くようになったり、
また、いきなり読経を聞いただけでその内容を理解するなどということは残念ながらない、
ということ。
希望的な願いも含めて、もしあるとするならば、
それは故人を想うその念と行為(行動)を故人が感じ取って歓ばれるのだということ。
別にお経そのものの意味が云々ということではないのです。
従って、極端な話がこの場合はどんな御経でも構わないということ。
そして、そのことを踏まえて大乗的な死者供養の手法においてより重要な観点としては、
自分自身が読経によって故人を供養しようという、半場、直接的で無理のある方法ではなく、
そこにワンクッション置いて(大乗の)ホトケさま(取りあえずは何でもいい)に
読経を自己修業の一環として礼を尽くして御法楽を捧げ、
そのホトケさまに故人との間を取り持って頂くということ(つまり、救済を依頼すること)。
これには当然、その尊像の開眼力が重視されることになるのですが、
けれども、尊像を本当に開眼する力については、宗派的には密教である真言宗(及び天台宗)は信頼性があるけれども、
それ以外の顕教諸派の場合にはあまり期待することはできないと思われます。
つまり、密教以外の場合には宗派というよりは、より僧侶個人の力量が問われることになるでしょう。
とはいっても、家系の宗派の問題があってこれは仕方ない場合も多いので、
とにかく心を込めて一生懸命やる以外にはないですが・・・。
166 :
仏教魔王:2013/11/10(日) 12:28:08.13 ID:6If/ogyh
宝珠@神智学徒は出鱈目を・・・
どっか、こいつの密教観は池口えかん臭いなあ・・・
167 :
仏教魔王:2013/11/10(日) 12:30:57.28 ID:6If/ogyh
宝珠@神智学徒寄りの出鱈目山伏クズレの新興宗教教祖の質問、回答を繰り返しが起きているようじゃw
168 :
仏教魔王:2013/11/10(日) 12:42:40.36 ID:6If/ogyh
普通お経を読む行為は自己と亡くなった方々、諸仏と共に仏道を歩むという
ぐらいが普通なんだが・・・
密教ですら、自己の悟り=万物の万人の悟りという世界観故に、
出鱈目山伏クズレの新興宗教教祖宝珠@神智学徒みたいな
>そのホトケさまに故人との間を取り持って頂くということ
という解釈は起きない・・・
169 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/11/10(日) 13:28:22.30 ID:Q4gLKEHR
>>166-168 “読経がそのまま死者のために役立つ”
などという楽観視などは読経する側の勝手都合に過ぎないから。
ただし、その故人を想う気持ちには意味(効果の期待を含め)がある。
より効果的にするには、開眼仏の御前でということ。
以上
170 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/11/10(日) 13:36:26.83 ID:Q4gLKEHR
>>168 >普通お経を読む行為は自己と亡くなった方々、諸仏と共に仏道を歩むという
>ぐらいが普通なんだが・・
はい。それは読経する側の気持ちとしてはね!
それはそれ以上のものでも、以下でもない。
171 :
仏教魔王:2013/11/10(日) 18:01:44.04 ID:6If/ogyh
外道の宝珠@神智学徒の分際で、169の文章読解は甘いw
悟り無縁の分際で解説ができると思っていやがるw片腹いたいわw
>“読経がそのまま死者のために役立つ”
などという楽観視などは読経する側の勝手都合に過ぎないから。
などと平然と言えるのは、宝珠に、仏教の悟ったという前提の認識が欠如しているからだ。
空想屁理屈で解かったつもりかw
172 :
神も仏も名無しさん:2013/11/11(月) 00:58:24.62 ID:9L8Vuba2
どうか教えて下さい。死んでから生き返った人など誰も居ないのに、なぜブッダは輪廻転生すると言えるのでしょうか?
証明仕様がないのではないでしょうか?
>>172 ?
輪廻や転生は、生き返ることではありませんよ?
175 :
152:2013/11/11(月) 05:05:08.68 ID:+NfAAJ3O
176 :
神も仏も名無しさん:2013/11/11(月) 05:12:39.20 ID:+NfAAJ3O
>>172 仏教では、悟るための修行の副産物として、前世の記憶を思い出す力を得られると言われています。
前世の記憶を思い出せたなら、過去の生まれかわりを理解し、
その流れから推測して未来にも生まれかわりが続くと考えられるでしょう。
修行方法に、過去に記憶を遡っていく瞑想もあるようです。
私達には過去世の記憶がないから輪廻の実感がないので実感がないだけでしょう。
177 :
神も仏も名無しさん:2013/11/11(月) 13:16:31.31 ID:8rlJ/Wz+
>>172 ブッダは宿命通という過去世を直接知覚する能力があるから
ブッダ以外でもそういう力がある人はいるけどブッダは無限です
それと生き返った人はチベットでたくさん記録されてるよ〜
178 :
神も仏も名無しさん:2013/11/11(月) 22:33:22.19 ID:9L8Vuba2
>>173 すみません、質問がおかしかったです。僕が聞きたいのは死んだ者にしか、死後の世界があるかないかわからないのでは?
でもお釈迦様は亡くなる前から、死んだらこうなると言えるのはおかしくないですか?と言いたかったのです。
だってそれが宗教だし
キリスト教は死んだら天国に行くし
180 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/11/12(火) 00:13:53.77 ID:P+G8ZINY
>178
同じ「仏教」でも様々な考え方があります。
因みに、「ブッダ」も「輪廻」も仏教以前からあった思想であり、
一応、仏教とは「縁起を説く」とされています。
で、死後云々、つまり輪廻思想ですが、仏教学者には「輪廻は仏教のオリジナル」と言い張ってる人もいます。
輪廻思想なんてのは世界中にあるんですけどね。(笑)
まぁ、迷信として流布してた様々な輪廻説を、カテゴライズ好きな仏教徒が組み立ててしまったと考えるのが無難かと思います。
181 :
神も仏も名無しさん:2013/11/12(火) 00:39:46.31 ID:7t5SyyYW
test
182 :
神も仏も名無しさん:2013/11/12(火) 01:37:43.37 ID:mOECgZlT
>>178 過去世の記憶があるということは、
まさに「死んだ者」(死んだことがあり、それを憶えてる)なんです。
その人自身が過去に死んだことがあり、生まれかわって今は人間になっている人なら、
確信をもって輪廻はあると言えますよね。
また、仏教の戒律では嘘を禁止しています。
だから、ブッダやブッダの弟子が嘘の輪廻話をでっち上げるとは考えにくいです。
183 :
神も仏も名無しさん:2013/11/12(火) 06:56:55.07 ID:8y79YV8E
>>180 十二因縁に基づく輪廻の解釈が釈迦のオリジナルなんじゃないですか?
>>178 瞑想によって死後の世界を見ていた可能性があります。
実際に、東南アジアの伝統仏教では瞑想修行を徹底的に行い、
過去生や未来生等を見て悟りに近づくという修行が行われています。
釈迦自身も瞑想はかなり重要視していましたからね。
184 :
神も仏も名無しさん:2013/11/12(火) 07:38:40.16 ID:G5Y+zfHX
>>178 いやいや、だから
>>182もいうようにブッダには様々な生死を繰り返してきた、記憶が直接知覚としてあるから分かるという意味ね
185 :
神も仏も名無しさん:2013/11/12(火) 08:02:08.57 ID:mOECgZlT
ブッダは、未来を予言するというよりは、過去のデータから推測するという感じでしょうね。
>>177 現在の議論スレについて何か感想はありますか?w
187 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/11/12(火) 18:30:50.31 ID:P+G8ZINY
>183
いわゆる十二因縁観が、お釈迦さんの説かれた話の一部分を、初期の仏教徒がまとめたものであり、
十二因縁観を過去現在未来の三世に渡る因縁とした三世両重説は、後世の解釈の一つです。
188 :
神も仏も名無しさん:2013/11/12(火) 21:28:07.91 ID:G5Y+zfHX
>>186 もういいは
「邪見とは何か〈布施なく、祭祀なく、供犠なく、善悪業の報いなく、この世、かの世、母父なく、化生の有情なく、シャモン・バラモンで正しく道を行じて、自らこの世とかの世を直接知覚して説く人はいない〉とする。これが邪見です」
『大四十経』MN PTS III, 71頁; 大正1巻、735c頁『国訳一切』 阿含部6、181頁 『原始仏典』春秋社、中部4、151頁
>>188 そかw
梵天勧請があって復活したかと思ったが、
あっちは懲り懲りか・・w
お疲れさんw (-人-)
190 :
神も仏も名無しさん:2013/11/12(火) 22:07:53.99 ID:G5Y+zfHX
>>189 やっぱ、ネットだと質問に答えるぐらいですね。
それと如来死後は、『原始仏典』春秋社、相応部3、196頁に如来死後無記の
如来は明解に煩悩を尽くしたと書かれてるよ〜
それと無記は答えないじゃなく明らかに中道
それが『中論』や『般若経』『維摩経』『智光明荘厳経』と『アッギ・ヴァッタゴッチャスッタ』に明解に説かれてることを次訳解説で展開しますんで
お楽しみに〜
>>182 そうなるとキリスト教や、他の宗教関係なく生きとし生けるものすべて輪廻転生するということになりますよね?
>>187 あとすみません、教えて貰う立場なのにこんなこと言うのはアレなのですが、ちゃんとアンカーを打っていただけませんか?
「 仏教内における輪廻否定の主張をする者も少なくない 」 と言う事であるらしい
輪廻肯定側の立場なら
「 キリスト教や、他の宗教関係なく生きとし生けるものすべて輪廻するということになる 」 と思ふ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB 仏教内における輪廻思想の否定
現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には
「釈迦は輪廻説を前提としておらず
インドに古代から信じられて半ば常識化していた輪廻を直接的に否定することをせず
方便として是認したに過ぎない」
と主張する者も少なくない
輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に
反発してインドにおける仏教復興を主導したビームラーオ・アンベードカルは
独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た
この解釈はアンベードカルの死後
インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている
195 :
神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 08:02:31.99 ID:5JVFdV7a
>>192 はい、すべての生き物が輪廻します。
神様でさえも輪廻します。
煩悩を完全に亡くした阿羅漢果の悟りを得た者だけが、輪廻から解脱できます。
>>195 「煩悩を完全に亡くした阿羅漢果の悟りを得た者」と判断するのは誰がするのでしょうか?
197 :
神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 21:06:54.18 ID:5JVFdV7a
>>196 資格や免許ではないんだから、他人が判断する必要はないと思います。
煩悩のリストがありますので、リストと照らし合わせてみて、
すべての煩悩がなくなっているかどうか、自分で確認できるのでは。
死んだとき、まだ生きていたいと思う執着が少しでもあれば輪廻してしまう。
「たとえ生まれかわって若返り、生をやりなおすことができるとしても、
もうこれ以上生きる必要はない、完全に満足だ。」
というような境地になっていれば、二度と輪廻はしないで、平安なる滅びに入れる。
198 :
神も仏も名無しさん:2013/11/13(水) 21:09:00.49 ID:lv28fKWs
>>196 自分、そういう直接知覚が生じる
ただ勘違いの人も偶にいる
そういう時、師匠が重要
できえう ×
できる ○
201 :
神も仏も名無しさん:2013/11/14(木) 01:30:47.13 ID:nA96rYqc
>>199 基本的な知識は大学時代に見聞きした講義や本ですが、先日の功徳の説明に関しては、
日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老や藤本晃さんの本の影響もあります。
>>201 なるほど、いろいろ教えていただき、ありがとうございます。
立派なお坊さまになってください。
203 :
神も仏も名無しさん:2013/11/21(木) 23:31:06.81 ID:Ca+Ge8Gm
悟りを得たいのなら、
誰か 「仏教議論スレッド79」を建ててくれ。
その功徳によって、まあナントかなるだろうw
204 :
名無しさん@もうたくさん:2013/11/21(木) 23:37:10.72 ID:h1lxOocN
素朴な疑問です。 そもそも、悟りとは どういう状態のことを、いうのですか?
平常心???
205 :
神も仏も名無しさん:2013/11/22(金) 00:33:05.39 ID:hKEJIJ2x
>>204 二項相対の対象化思考(想い→苦)の離脱・放棄(Sn.1072)によって、
縁起の直接現実=空・中道の如く、を直覚することです。
仏法の本懐は実存苦(三毒)の根本的超克であり、
実存苦の原因は二項相対思考の一方に対する我執ですから、
非相対・対象化不能の空・中道の如き様相においては(言語・観念の不立)、
「我執」→苦そのものがあり得ません。
その様相を直覚・透過・体得することで、娑婆で慶安にくらすことで、
仏法の本懐が円満成就されます。
だれにも分からん
> 悟りとは どういう状態のことを、いうのですか?
私は実践した事がないので、わからないけど教学としては ↓ こんな感じかも
【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
//homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
頭を裂け落とさせるものである
ウダーナヴァルガのギルギット写本
//archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bukkyo95/BR095L017.pdf
因と縁に依存するものがなければ、動揺はない
動揺がなければ、愛著はない
愛著がなければ … … あらゆる苦しみの大きな集まりが消滅する
縁起したものを離れることは
思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり
形成作用の寂滅であり
死ぬことも、生まれることも〔説か〕ない
それこそが苦しみの終わりである
仏教には、ドクマはないとある本で読んだんですが
「無我」とかはドグマではないんですか?
>>208 ID:IB1ZOZs1 さんの、ドグマとは「独断・偏見的な説」と言う意味ですか?
> 「無我」とかはドグマではないんですか?
私の場合は実践した事がなく教学として勉強している段階だけど
例えば
最終的には
止(サマタ)・観(ヴィパッサナー)によって
無我・無我所を得て、智慧を決定する
と実践を伴った教えなので
「智慧を決定する為の方法を実践せよ」と
「独断・偏見的な説」と受け取られるような側面もあるのかも
210 :
神も仏も名無しさん:2013/11/22(金) 07:21:21.64 ID:/KMN/Ocg
211 :
神も仏も名無しさん:2013/11/22(金) 07:27:04.37 ID:/KMN/Ocg
>>208 ドクマじゃないです。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静を仏教の特徴を示す三法印といいますし、
これに一切皆苦を加えて四法印といいます。
ですが、これは導きの方便であり、ドグマではありません。
これらは道としては正しいのですが、これが正しいと掴んでドクマにしてしまっては、それこそ戯論・分別になり涅槃寂静に導けませんから。
>>205 > 縁起の直接現実=空・中道の如く、を直覚する
それって、例えば、今から目の前の道を真っすぐ歩いたときに
どれくらいの確率で焼き芋やさんと遭遇するか
ピコピコーン!と分かったりするのでしょうか?
213 :
神も仏も名無しさん:2013/11/22(金) 10:14:35.03 ID:/KMN/Ocg
214 :
神も仏も名無しさん:2013/11/22(金) 12:15:53.32 ID:p0adOHHO
>>204 有身見・戒禁取・疑・欲貪・瞋恚・
色貪・無色貪・掉挙・慢・無明
という10種類に分類される煩悩が、段階的になくなってゆくのが悟りでしょうね。
悟りは4段階あります。
悟りの第1段階である預流果では、
有身見・戒禁取・疑の3つの煩悩がなくなります。
先に誰かが言われていた2項対立がなくなるとかは、
有身見の煩悩がなくなることをさすのだと思います。
215 :
神も仏も名無しさん:2013/11/22(金) 12:30:44.68 ID:p0adOHHO
>>204 たとえば、有身見の煩悩がなくなるというのは、
自分という存在に実体がないと心底わかることだと思います。
説法を聞いたり、冥想する中で、
「そうだったのか!今までの考え方がまちがっていたことがはっきりわかった!」
と、ストンとわかる、わかってしまえば二度と間違わない、それが悟りでしょう。
なぞなぞの答えでもなんでも、わかってしまえば簡単な話で二度と間違わない、ということがありますね。
そんな感じで、今まで実体がある感じがしていたが、
その感じは勘違いだったと明確にわかるのではないでしょうか。
> 悟りの第1段階である預流果
預流 - 聖者の流れに入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く・須陀洹(シュダオン)
一来 - 一回人と天の間を往来して悟りに至る・斯陀含( シダゴン)
不還 - 欲界には再び還らず色界に上って悟りに至る・阿那含(アナゴン)
応供 - 供養を受けるにふさわしい者で、今生の終りに悟り涅槃に至り再び三界には生れない・阿羅漢(アラカン)
>>215 自分に実体が無いと言っても
例えば昨日の自分が借金をしたとしたら
返すまで自分には返済の義務がありますよね?
貸した人は自分のことを「あのときお金を貸した人」だと認識しますよね?
そういった流れが無数にあって、それによって人は1つの形に固定されるのではないでしょうか?
十二因縁は釈迦が悟ったその悟りの内容ですか?
それとも、悟った後の境地で思惟したものですか?
>>217 その通りです。
だから、世間法:出世間法、世俗:勝義、というダブスタが仏教では必須なのです。
一神教系の弱点は、このダブスタを許さない(ように見受けられる)ところにもあるんじゃないかな、
とか思ったり思わなかったりw
> 人は1つの形に固定されるのではないでしょうか?
アートマンを認めない無我の立場をとる思想では
五蘊の仮和合の仮りに現れている状態が
因 → 縁 → 果 → 報によって
心の流れ(心相続)によって
「あのときお金を貸した人だ」と
掴み取ろうとする、心の働きが現れる
↑ こんな感じかも
>>218 十二因縁は、釈尊が説いた縁起をもとにして
釈尊の滅後、弟子たちがまとめたものだとされています。
最も古い経典とされる『スッタニパータ』には
連鎖縁起は説かれていても、十二支の連鎖縁起は
まだ説かれていません。
十二因縁が整うのは、『阿含経』です。
222 :
神も仏も名無しさん:2013/11/22(金) 22:29:05.81 ID:/KMN/Ocg
>>221 そういう文献史的な発展展開考察はあんまり意味ないと思うけどね
『スッタニパータ』の「二種随観経」は順観と逆観を表してる。
順観と逆観は、般若とも言われ中観は正にこれを説いている。
『スッタニパータ』756, 758 はきっちりそれを表してる。中村訳だと分かりにくいけど。
『ブッダゴーサ註』もそう解釈してるし、それは無常、生滅、不生不滅の縁起とも言われるよ。
つまり、最初からあって此縁性といわれる二句が縁起の基本で、
十二支縁起などの支分の数は、それぞれ場合に応じて説かれただけだと思う。
その中でも十二支縁起は洗練された本質的項目だけ抜き出したものだと。
例えば生滅の縁起も、その間に老病死憂汚などがあるけど省略されるように
初めて書き込みさせて頂きます。
転輪浄王について教えて下さい。
サンスクリット語ではチャクラヴァルティラージャンと言うそうですが、詳しい意訳と転輪浄王についての細かい記述を知りたいんです。
ご存知の方いらっしゃいましたら宜しくお願いします。
つか、こんなとこにも常駐してたんだなw >>一代
(まあ、或る意味、専門領域と言えるが・・w)
226 :
神も仏も名無しさん:2013/11/22(金) 23:23:26.66 ID:/KMN/Ocg
>>223 チャクラ輪をヴァルティ転ずるラージャン王ですよ
この場合、輪というのはエンジンみたいな巨大な力と考えると分かると思う
つまり強権を持った王という意味
>>224 わざわざリンク貼って貰って…行ってみます。
>>226 そこらまでは判ってるんですが、 ラゴラ、ラーフラが釈尊の息子>足を引っ張る者、邪魔をする者、障碍‥と言う意味で転輪浄王について詳しい意訳が知りたいんです。
お二方、ありがとうございました。
228 :
神も仏も名無しさん:2013/11/23(土) 09:18:15.62 ID:tcMDUrLq
>>218 悟った(正見を得て煩悩のフィルターが消えた)あとに、
クリアーな智慧で観察して発見・分析したものでは?
229 :
神も仏も名無しさん:2013/11/23(土) 09:33:18.80 ID:tcMDUrLq
>>217 ある役者が、今日は借金を負った人の役を演じている、ただそれだけです。
借金があるという事実は事実として、その役を懸命に演じるが、
借金があるという嫌な感情までずっと継続する必要はない。
瞬間瞬間ごとに新しい自分なので、感情も瞬間瞬間ごとにリセットすればよい。
ケンカした敵とでも、次の瞬間に笑って冗談が言える、無常・無我はそれができること。
毎朝目がさめる度に、新しい台本を渡された役者の気分で、昨日の続きの物語を演じればよい。
>>222 ご指摘ありがとう。
言いたかったことは、
はじめから十二支縁起というものはなく
単純な縁起、複雑な縁起、
連鎖縁起などを思惟して
最終には、二種と多種(集起)の
縁起を見極められたのでは?
という推察です。
>>229 それでは、借金がかさんで自殺する台本を選ぶか、それとも完済してまだ浮世に遊ぶ台本を選ぶかの
自由意思論、業報論が置き去りになるんじゃないですか?
あなたは、誰も完済する台本を選ぶことを前提で話をされているのだとは思いますけど。
良い業を起こすための心のエネルギーは、そうした自己の外部化によっておこされてゆくはずだという観点に立てば
彼は自然と完済の台本を選ぶのかもしれませんが、どうも卵が先か鶏が先かの話になっている気がします。
232 :
神も仏も名無しさん:2013/11/23(土) 11:06:19.67 ID:fLq+xiI3
>>230 それは考えにくいですね。
なぜなら、悟るならば必ず慧・般若といわれる縁起によって戯論寂滅しているはずで、
また、悟った時に宿命通天眼通が出るから、あらゆる業の縁起を直接知覚してるので、初転法輪の時にあらゆる縁起に通じていなくてはならないからです。
問題は教えとして言語化する時に、どうするかであって、その時に重要な法の縁起を説かれたはずで、支分の多少は対機説法としか考えられません。
それを史的発展とか思想的変遷と捉えるなら、端から釈尊がブッダでないことを前提に説を立ててるとしか思えません。
そういった見方が意味あるとは思えません。
>>232 そうかな?
「最初に十二支で観ぜられた(考察された)」(他は、十二支のアレンジver.である)
ということの方が、“考えにくい”ようにも思うけど・・w
「晩年に十二支となった」「後代(口伝中としても)、編纂の過程で」
を、オーバーな謂いとして却下したとしても、
45年の間の「極、早い時期に於いて」と見る方が“自然”かと。
*(十二支でないから、完成形でない(未達、劣っている)とは言えないでしょ。
例の簡略型を思えば。)
234 :
神も仏も名無しさん:2013/11/23(土) 19:56:35.33 ID:fLq+xiI3
>>233 いやいや、そういうことではなく原理である此縁性を使って、
宿命通などから完全網羅の行体験の実験を行ってるから全て網羅されてるので、
問題は言語化の過程だけど、それはそれぞれの場合の対機説法だったということ
もっとも標準的な諸法を列挙したのが十二縁起なんじゃないかと
省略も拡大も可能で
>>234 「(敢えて)バリエーションの先後を問わない」
という感じか。
「時系列の先後に意味を見ない」、と。
後か先か、でなく「【過不足無き】完成度の高さ」を見る、と。
236 :
神も仏も名無しさん:2013/11/23(土) 20:29:16.50 ID:fLq+xiI3
>>235 つか、完成してなかったらブッダでも一切智でもないし
凡人の思想家と一緒にしないでほしいは
聖者を見ると現代でもブレないんだよね〜、子供の頃から
237 :
神も仏も名無しさん:2013/11/23(土) 22:52:15.55 ID:0cNOqD+N
中阿含とマッジマニカーヤってなんで「中」なん?
概説書とか読んだら経典の長さで云々って言ってるけどマッジマにも短いお経や長いお経も入ってんじゃん。
だれかわかりやすい解釈だしてない?
>>237 厳密に長さを比較して仕訳されたわけじゃないからね・・・w
ただ、傾向として、長部ほどでなく偈頌の集成でもない「単体完結型」(つまり中程度のボリュームの経)
が集められたもの、ってことだからでしょ。
で、実際にも、
(相応部や増支部のように)《テーマが細分化しておらず》、
或る意味《「一話完結」になってる経》としては、上記のように《長部とその他(小部・相応部・増支部)の間のサイズ》
と言えるんじゃないかな。
で、流布している解釈(説明)として 「中ぐらいの長さの経の集成」 以上のものはないと思う。
人(著者・学者)によってそこに上記のようなことを含意させる程度で。
>>227 向こうだと、インド定番の叙事詩(及びヴェーダ文献中)の用例が紹介されるかと思ったんだけどね・・(^^;
ま、頑張ってくれ・・w
ちなみに、仏教内では「原意」と「新義」と両方見られるが
原意は、向こうの710+
>>226でいいと思う。
強いて言えば、
「優れた智慧(≒世俗智)(…無敵の武器或いは権力)を用いて〔転輪〕、世を統べる、
尊敬すべき・畏怖すべき・凡人常人と異なる〔聖〕、治世者〔王〕」といったところでしょうか・・。
(過去世での立場として言われることが多い)
そこで更に、仏教内ではブッダの称号として、
上記と相似した賞賛の形で「優れて、無上な、比類なき(精神的)指導者・救済者」という意味で
転輪聖王に比した形で言われたり、
もっとダイレクトに「法輪を転じる偉大な聖者〔王〕」という意味合いを含むこともある。
240 :
神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 05:49:38.86 ID:4ESffpvR
法華経って、本質的にそれ自体が
凡夫に発心を起こさせるための方便なのでしょうか?
241 :
神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 21:33:39.27 ID:30t+H9A0
>>231 心は、過去の心の業を相続しており、判断するてきに、業の影響を受けています。
また、肉体(物質)も、過去の肉体や周囲の物質の影響を受けて変化しています。
仏教で扱うのは、主に心の問題です。
心を改善するために、善い業(心の訓練)につながる生活をするのです。
242 :
神も仏も名無しさん:2013/11/24(日) 21:48:59.03 ID:30t+H9A0
>>231 借金の話ですが、借金のことを24時間絶え間なく考えて生きてる人はいないし、
そんな生き方は辛いのでやめたほうがよいのです。
借金のことを考える必要がないときは考えなくてよい。(悩まなくてよい。)
注射を受けるときに、針が刺さる瞬間まで痛くないんだから、
針が刺さる瞬間まで怖がる必要もありません。
周囲の人は、「あいつはこれから注射されるから怖がっているにちがいない」
という目で見ているかもしれませんが、
注射器を刺される未来の自分と、診療所に向かって歩いている自分とは、別の自分ですから、
注射器を刺される自分の痛みについて、今の、
ただ歩いているだけの自分までが怖がる必要は、ないのです。
物語(肉体)としては連続しているが、演じている役者(心)は毎回違うのです。
243 :
神も仏も名無しさん:2013/11/25(月) 12:19:55.55 ID:/pv5GdrZ
>>240 仏教はスゲー、お釈迦様はスゲー、ということを表現する方便ではないでしょうか。
244 :
神も仏も名無しさん:2013/11/25(月) 16:41:51.07 ID:1+3OcEpo
>>243 それは違うでしょう。七地以上の菩薩のためが主でしょう。
245 :
240:2013/11/25(月) 18:36:58.77 ID:g9F6h1k9
回答いただいた方ありがとうございます。
まだ全体の概略といくつかの品の本文を読んだに過ぎないのですが、
法華経も「悟りなんてそう簡単に開けないが、それでも
修行して悟るしかない」という根本仏教の主張の範囲内にある気がします。
でも大乗の考えからすれば、たとえ相手が凡夫であろうと救わないといけない、
そのためには発心を起こさせなくてはいけない。
なので後半の本門の方では(言い方はともかく)「お釈迦様スゲー」な
内容を説いてまず仏教(法華経)に帰依させる。
しかし本当に発心を起こせば、法華経の勉強をしているうちに
迹門の部分で「火宅」など方便を説いていることに気が付いて、
「スゲー」の部分も所詮は方便に過ぎず、自分で悟りを得るしかないと
気付くはず、という編纂者の意図があるように思います。
あるいは日蓮は、他人に発心を起こさせる方便を究めること自体が、
悟りそのものだと考えていたのかも知れませんが。
246 :
神も仏も名無しさん:2013/11/25(月) 20:41:16.99 ID:1+3OcEpo
>>245 日蓮は仏教じゃないし、法華経も誤解してるんで基準になりませんよ。
法華経は融和的包括的な教えで、排他的な教えじゃありませんから。
>>240 法華経の対象は、
凡夫ではないでしょうね。
譬諭品第三には、
機根の低い人、自己中心的な人、
憍慢な人、浅識の人たちには、
みだりに法華経を
説くなと書かれています。
そういう人たちには、
まず、簡単な教えを説いてあげて
機根を引き上げてから
機が熟したときに
法華経を説くようにと
念を押してあります。
法華経の前半において
声聞の弟子たちに
菩提心を起こさしめてから
虚空会の本題に入りますので
かなり慎重な態度です。
そういう風に書くことによって選民意識をくすぐる手法だろうな
うまいな
249 :
神も仏も名無しさん:2013/11/26(火) 16:28:15.08 ID:RIRvjDYN
>>248 いやいや、そうじゃない。
それが分からないようじゃ、大乗は全く分かってないと思った方がいいよ〜
でも日蓮さんの行動を見たら
実際、選民意識くすぐられてノリノリだったんじゃないの
251 :
神も仏も名無しさん:2013/11/26(火) 21:51:33.75 ID:RIRvjDYN
>>250 だから日蓮は仏教じゃないし、法華経も融和じゃなく排他と誤解してるんで、
全く基準になりません。
252 :
神も仏も名無しさん:2013/11/26(火) 21:55:45.14 ID:rUX3+TRq
>>250 日蓮さんは、最初から自分がお山の大将になりたくてなりたくて、
なにかいい方法はないかと探しまくっていた感じがします。
新宗派を打ち立てた法然さんを意識し、
自分もそうなりたくてたまらなかったんじゃないでしょうか。
253 :
240:2013/11/27(水) 03:34:36.33 ID:mqDAL4mV
再度、回答ありがとうございました。
>>247 てっきり凡人でも教えに対して興味を持てるように、
虚空会のような豪華絢爛な説話を差し挟んだんだと思っていました。
最初から対象にある程度の素養を求めているとすれば、
虚空会には経の中でどのような意味合いがあるのでしょうか。
254 :
247:2013/11/27(水) 10:07:16.71 ID:3vV8xs8z
>>253 虚空とは、無為法のことです。
無為とは、因縁のない境地ですから
諸行のない世界であり、
諸行無常、一切行苦から離れています。
世間の法は「縁起」です。
縁起は、分別によって起こります。
出世間の法は「空」です。
空とは、無分別の境地です。
そして、空中にあれば涅槃に入ります。
凡夫であれば、まずは世間法である
縁起から学ぶ必要があります。
縁起を学び、空を会得した者が
空中(涅槃)に入れます。
法華経の虚空会の儀式は、
空中(涅槃)の体験コースのようなものです。
菩提心を持った弟子たちに
涅槃(仏)の境地を見せています。
よって、凡夫が虚空会の儀式のシーンを読んでも
何を象徴し、何を譬えているのか、
チンプンカンプンだと思います。
255 :
神も仏も名無しさん:2013/11/27(水) 10:52:13.33 ID:PXWYVOS8
>>254 そうですよね。日本は変な解説書ばっかだから、困る。
そこでいう「虚空とは、無為法のことです」とした方が誤解ないかも〜
初心者は今までの概説書は捨てて山口益『仏教思想入門』と水野弘元『仏教要語の基礎知識』あたり読むといいよ〜
密教について詳しい方に聞きたい。
中国にある法門寺の地下宮殿って、全体が曼荼羅の構成になってるってホント?
//ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/6329/1/003-%E8%A6%8B%E7%94%B0%E5%85%88%E7%94%9F.pdf
名古屋大学博物館報告
法門寺地宮出土の真身宝函に表される八大明王について
>>257 の続き
法門寺地宮出土の真身宝函に表される八大明王について、の pdf の下の方に
〔資料1〕法門寺地宮出土の真身宝函の展開図及び各尊格の配置
〔資料2〕仏眼曼荼羅や大仏頂曼荼羅における八大明王の配置
が書いてあります
259 :
250:2013/11/27(水) 19:07:11.52 ID:mqDAL4mV
>>254,255
ありがとうございました。
「空中に浮いた搭」は、それが“空にある”境地という意味なのですね、
これは納得です。「縁起」辺りから勉強し直したいと思います。
> 「空中に浮いた搭」は、それが“空にある”境地 …
ウダーナヴァルガのギルギット写本
//archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
因と縁に依存するものがなく、縁起したものを離れて
そこには支えとなる地面もなく、水もなく、火もなく、風もなく
この世もなく、あの世もなく
そこは〔何かに〕支えられているところではなく
寄りかかられているところでもない
ここで比丘たちよ、私は〔そこに〕
死ぬことも、生まれることも〔説か〕ない
それこそが苦しみの終わりである
>>257 おお、ありがとう!
ちなみにその論文のpdf、どこで公開してるの?
> (法門寺についての)論文のpdf、どこで公開してるの?
名古屋大学博物館報告
法門寺地宮出土の真身宝函に表される八大明王について
//hdl.handle.net/2237/6329
//ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/6329
//ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/6329/1/003-%e8%a6%8b%e7%94%b0%e5%85%88%e7%94%9f.pdf
>>262 の続き
私は書き込み規制で
リンクを貼り付ける事が出来ないので
誰かリンクを貼り付けて下さいませ 宜しく 屮(_ ._)屮
264 :
神も仏も名無しさん:2013/12/01(日) 12:21:06.94 ID:uCZdA3SS
ここで質問していいのか分かりませんが、良く分からない事があるので
よかったら教えてください。
仏伝にある、『見つつ、見ず』とはどういう意味なんでしょうか?
ググってみると、見て見ぬふりをする、のような意味とありましたが、
『剃刀を見て、その刃を見ないのである〜』からの文に照らし合わせると、
少しズレているように思えてしまいます。
我が家のお墓を手入れしてくださっている寺の和尚さんに聞いたところ、
物を見て、その機能を見ないことだとおっしゃっていましたが、果たして何が
正解なんでしょうか? それとも、禅問答的な言葉のクイズみたいなものなのでしょうか?
265 :
神も仏も名無しさん:2013/12/01(日) 14:00:27.52 ID:aSK/hXnp
>>264 このことは、色んな解釈ができますね。
「それを見て、部分を見ない」
「それを見て、特徴を見ない」
「それを見て、実体を見ない」
仏教は、そのものをありのままに見ます。
そのものを見る時に、部分を見れば部分にとらわれます。
美しい女性を見て、鼻毛に気づけばそこにとらわれます。
そのものを見る時に、特徴を見れば特徴にとらわれます。
特徴(相)とは、他と比べることによって認識されます。
浄不浄、大小、長短、美醜などの特徴は
比べるものがなければ見ることができません。
そして、特徴を見たならば、それに執着し欲を起こします。
そのものを見る時に、実体を見れば実体にとらわれます。
剃刀の実体を「切れる刃」だと見たならば
刃以外の部分は剃刀ではないことになります。
このような見方は、いずれもとらわれをつくります。
とらわれ(執着)は、苦の原因です。
> ありのままに
「煩悩そのままで」と言う意味ではなくて
煩悩を滅させてから「ありのままに」観察する
と言うような意味になると思います
(↑補足として一応、念の為に…)
268 :
神も仏も名無しさん:2013/12/01(日) 21:10:24.66 ID:V1UG/tr9
さるべーじ
269 :
神も仏も名無しさん:2013/12/02(月) 06:02:07.23 ID:8pzQp9QL
>>264 >仏伝にある、『見つつ、見ず』とはどういう意味なんでしょうか?
その出典を教えてください
270 :
264:2013/12/02(月) 14:11:43.85 ID:HcxdTIsR
>>266 とても分かりやすい説明ありがとうございました。
八正道における正見のような考え方ということですね。
勉強になります。
>>269 聖典です。
ゴータマがウッダカについて、チュンダに説いた所で
上記の表現が出てきました。
>>270 『長阿含経』にある『清浄経』
『ディーガ・ニカーヤ』にある『パーサーディカ・スッタ』
こんなふうに書いていただけると助かります。
出来ることなら、誰の訳でそれを読んだかもあると
さらにわかりやすいかな。
>>270 または『中阿含経』にある『優陀羅経』の方でしょうか?
273 :
神も仏も名無しさん:2013/12/02(月) 17:34:15.67 ID:cNcsbxw7
旅館とかホテルに置いてあるアレだったりしてw
だとしたら、ズバリの出典か、“その聖典”のページ指定がないとわからんだろうな。
274 :
264:2013/12/02(月) 18:14:43.32 ID:HcxdTIsR
すみません。うろ覚えで、誰が訳したものか等、細かいことはよく分かりません。
パーリ仏典の訳本だということは分かるのですが……。
今度図書館に行ったときに調べてみます。
>>264 自分の心を見て他人の行いを見ないのだ。
276 :
神も仏も名無しさん:2013/12/02(月) 20:53:41.14 ID:8pzQp9QL
277 :
神も仏も名無しさん:2013/12/07(土) 00:48:21.04 ID:tcSWIF46
さるべーじ
278 :
神も仏も名無しさん:2013/12/09(月) 00:46:36.16 ID:BSBnK7VS
さるべーじ
279 :
神も仏も名無しさん:2013/12/09(月) 12:32:08.40 ID:bDfQdisG
>>264 >仏伝にある、『見つつ、見ず』とはどういう意味なんでしょうか?
平易に説明すると。
幽霊を見た。とする。
幽霊を現観している訳ですから、幽霊は現にいることになる。
しかし禅者なら、幽霊を見ていることとは観じてないですね。
迷いとしか観じてない。
幽霊は見ていないです。
『見つつ、見ず』。とはそういう意味です。
おじゃる氏は、これを悟と邪念から解放されるのですが・・・
281 :
神も仏も名無しさん:2013/12/10(火) 19:12:38.22 ID:toL5EBFN
またか
さるべーじ
282 :
神も仏も名無しさん:2013/12/10(火) 22:50:48.64 ID:ARygCqxa
幽霊を見ても輪廻の証拠にはならない。
成仏できない霊か、枯れ尾花であったかのどちらかでしかない。
幽霊を見たと言う人はけっこう多いのではないだろうか。
しかしそれが本当だとしても、その意味は輪廻とは無関係であり、
その意味や限界をわきまえるべきだろう。
落ち武者の幽霊が本当なら「霊界」があることの証拠になるが、
仏教の「中有」を否定する証拠にもなる。
284 :
神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 07:41:47.82 ID:fpg35XaR
この現実において、肉眼で幽霊を見たというケースは、
まず100%枯れ尾花であり、見間違いだと言っていいだろう。
肉眼で幽霊を見ることはありえない。
肉眼にはもともと幽霊を見る機能がない。雲の形を見て、
それが龍に似ているからといって龍を見たことにはならないのと同じだ。
そんなものは幽霊を体験したうちに入らない。
285 :
神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 21:19:00.89 ID:2+fL7tvE
ダルマとは元来、人の名前ではなく
「法」「最高の真理」という意味と云う話がありますが
ホントですか?
>>285 サンスクリット語のダルマ "dharma" の漢訳が「法」です。
インドでは、「ものごと」よりも、
「ものごと」をそのように存在・現象させる
「ダルマ」のほうを重視して観察する傾向が強いようです。
「ダルマ」は、「真理」「法則」「道徳」「宗教」
「法律」「規律」「教え」などなど非常に多義ですが
基本的には、何かを存在・現象させる背景にあるものです。
ただし、「ダルマ」は、事物・現象そのものを
表わす言葉でもありますから、少々ややこしいです。
諸法無我の「法」は、事物・現象のことであり
仏法の「法」は、教え、道、宗教のことをいい、
法身仏の「法」は、真理のことをいいます。
288 :
神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 22:24:13.18 ID:2+fL7tvE
>>286-287 ありがとうございます。
だとすると人名のように使われてるダルマ(達磨大使)は
その名で呼ばれてるだけと
思っていいんですか?
>>288 達磨大師とは、サンスクリット語のダルマのことです。
本名は、「菩提達磨(ボーディダルマ)」です。
これは、「法を覚る」という意味です。
290 :
神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 22:59:52.86 ID:2+fL7tvE
>>289 ああ、確かにその使われかたもありますね。
ありがとうございます。
>>290 たとえば、
優しい子になってほしくて「優子」、
誠実な子になってほしくて「誠」「直人」とか、
或いは歌手で「ドリームズ・カム・トゥルー」とかw
現代日本でも珍しくはない、名前の付け方の一つだよ。
292 :
神も仏も名無しさん:2013/12/12(木) 00:01:43.42 ID:yyOyc/5k
293 :
神も仏も名無しさん:2013/12/12(木) 20:47:27.50 ID:bbGi49ZQ
サンスクリットを普通に理解できる昔の印度人ならvailocanaと聞いたら
vilocanaのvRddhi化でヴィローチャナの息子だなぐらいに軽く理解すると思うんですが、
やはり大日如来はマハーバリと関連性が深い尊格なんでしょうか?
ネットでもまことしやかにそのような噂が囁かれていますが。
>>293 アスラ王の中にヴィローチャナ "Virocana" の
名前がありますので「大日如来」のモデルだとも言われます。
大日如来は、マハー・ヴァイローチャナですから
名前が同じだし、太陽に関係するからでしょうね。
ヴァイローチャナとは、「太陽の子」の意味です。
ヴィローチャナの子がマハーバリと呼ばれますが
この辺りの神話は複雑ですので、分かりにくいです…
>>294 名前だけではよく分からないですよね。ありがとうございます!
296 :
宝珠@神智学徒/規制代行:2013/12/20(金) 00:53:22.96 ID:UCpRd9wx
「仏教議論スレ 82」として
スレ代行依頼をしてきました。
上手くいけば1-2日以内でスレが立つと思います。
重複を避けるために善意の方は数日間、様子を見て下さい。
宜しくお願いします。
宝珠
297 :
神も仏も名無しさん:2013/12/20(金) 14:41:14.13 ID:mSSYxt9I
禅定、三昧、止観、瞑想、作意
これらの違いがよくわからないので教えてください
サンスクリット語の dhyaana の音写である
「禅」と、その意訳した「定」の複合語で、三昧と同義語である
止(サマタ禅定)
心の動揺をとどめて本源の真理に住することである
止は禅定に相当している
観(ヴィパッサナー智慧)
不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである
観は智慧に相当している
自覚的という意味で「意識する」ということがいわれるが
それは仏教では心所(個別の心作用)の作意(注意する働き)
大辞林 第三版の解説
作意(さくい)
@意志。たくらみ
A芸術作品における作者の意図・趣向
B機転。工夫
C茶道で,創意工夫。作分(さくぶん)
300 :
297:2013/12/20(金) 19:07:26.44 ID:mSSYxt9I
お答えいただきありがとうございます
ただ、作意に関しては明らかに心所としての意味以上の文脈で出てくることが多かったのでそこが疑問です
http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm 大地法(だいじほう)
心所法六類中の第一
(1)受(じゅ):苦、楽、倶、非を領納する
(2)想(そう):境に於いて差別の相を取る
(3)思(し):能く心をして造作あらしむる
(4)触(そく):恨境識和合して生じ、能く触対する
(5)欲(よく):所作の事業を希求する
(6)慧(え):法に於いて能く簡択(選択)する
(7)念(ねん):所縁の事に於いて能く明記して忘れず
(8)作意(さい):能く心をして警覚せしむ
(9)勝解(しょうげ):能く境に於いて印可審定する。勝れた理解
(10)三摩地(さんまじ):三昧(さんまい)、定(じょう)、等持(とうじ)と訳し、心の一境性
302 :
神も仏も名無しさん:2013/12/20(金) 20:19:34.21 ID:0xW2zHBh
>>297 禅定、三昧、止は精神集中という意味でほぼ同じ
瞑想というのは、仏教用語ではなく、メディテーションの訳語でニューエイジ系の人などがなんとなく修行とか禅定、三昧、止という意味で用いるものと思う
作意というのは心を働かせること一般を言います。
観は、精神集中ができて初めて本来の意味でできるもので、縁起観や空観などによって感受や現象、知覚などが幻で空であると観る方法、般若とも慧とも言います。
>>300 結構詳しいみたいなのに、なんでそんな(
>>297)質問?
(ニュアンスの違いが気になるのかな?)
304 :
297:2013/12/21(土) 02:22:46.72 ID:e80ui/33
三昧と禅定と止観は自分も近い意味だと思っていました
でも仏典を読んでいくなかで三昧は慈心三昧とか光明三昧とか空三昧とか用語的に記述されることが多く、なんらかの能力的なものとして描かれていると感じました
それに対して禅定や止観は実践の徳目としての色合いが強い
それから禅定にはいわゆる座禅の意味と心所としての定の意味があり前者は止観の止とイコールだと思いますが後者は瞑想の状態になくても適用されるのでここにもギャップがあるように見えます
ブッダは常に禅定の中にいると論書などに書いてあるのもこの後者だと思います
ですからこれら三者がどういう関係にあるのか気になり質問しました
それに関しては
>>302さんの答えで納得できますが、作意については違うと思っています
作意は@心所の作意A第六意識を働かせることB心全体を働かせることと考えることができますが、大乗荘厳経論を読むと用語的に多くの○○作意が羅列されている箇所が二つありました
まるで三昧のように
ですから私にはそれは瞑想的な意味合いで描かれているようにしか思えませんでしたし、今でも謎です
あと書き忘れてましたが尋伺にも単に考察するという心所の意味以外に瞑想的な意味があるように思います
「作意(注意する働き)に依存して、能く心をして警覚させて
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践する」
と言うような意味もあるのかも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
よく自覚的という意味で「意識する」ということがいわれるが
それは仏教では心所(個別の心作用)の作意(注意する働き)…
意識は意根という器官に依り、法という対象を認識する
この場合の法とは、物質的・精神的一切の事物を含む
意識には、過去を再構成したり推理したりする働きがあり、分別のあり方が顕著である
よく執着ということがいわれるが
仏教ではそれは悪見(誤った見解を固執する働き)の一つであり、それも主に意識と相応する
意識は聖教(経典)を対象として、心が清浄(しょうじょう)になる道を開くものである
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shoki2/jinsi-shoki.htm 初禅に尋伺あり
八正道を修習して、禅定が深まっていく
四段階に区分して「四禅」と呼ばれる
その最初に「尋伺」が出ている
「比丘等よ、ここに比丘あり。諸欲を離れ、諸の不善の法を離れ
有尋・有伺にして、離より生ずる喜と楽とある初禅を具足して住す
尋と伺とが止息することより、内清浄となり、心専一性となり
無尋・無伺にして、定より生ずる喜と楽とある第二禅を具足して住す
喜を離れることより、捨に住し、正念正知にして、身に楽を感受し
諸の聖者が 「これ捨にして、正念ある楽住なり」 と宣説する第三禅を具足して住す
捨を捨て苦を断ずることより、さきにすでに喜と憂とを滅したるが故に
不苦不楽にして、捨による念の清浄なる第四禅を具足して住す」
307 :
神も仏も名無しさん:2013/12/21(土) 06:29:34.33 ID:ToJoBelS
>>304 上に書いたのは一般的意味で必ずしもどの経論でも同じ意味で使われるわけじゃありませんよ
言葉の意味が一義的だというのは西洋本質主義の妄想です
>>307 またそこw
彼が言ってるのは、そういうレベル(言語そのものの仮設性を見る)のことじゃないでしょ。
各文脈で相違があるようだけれども、その相違はどういうものなの?ってことじゃない?
言語の多義性をいきなり言うなら、それはもう「問う意義がないのだから質問自体が成立しない」ってことだから。
>>304 感じた通りだと思いますよ、ニュアンスも。 (ざっくりし過ぎじゃない?w
>>302 )
実際に目にする文脈としては、(単なる辞書語義でない実状としては)、
こんな↓感じとか。
(瞑想≒) 禅定┬三昧( ┬止 )
| .└観
├止
( ├随観 )
└観
勿論、同義のときもあるだろうけど。
たとえば、「彼は剣道をする」というとき、
彼が、試合をするのか練習をするのか、はたまた居合い、型の演武をするのかは示されていない。
厳密に言えば、型の演武と試合は違うし、かかり稽古や打ち込みも違う。
けど、「剣道」の一語で準用する。
同じように、各場面で、それぞれが持つニュアンスの重点部分を残し(示し)つつ、
トータルで、所謂『禅定』状態ですよということが言いたいとき、
一番大枠の「禅定」を使いながら
狭義として「止」を言ったり、(禅宗の語法は、こんな感じかも)
狭義として「観」を言ったり、(こちらは密教的かも)
或いは、「それ、そこにどっぷり浸りきっている」ような状態にあることを指して
“一般的にも”「三昧」ということがあるけど、その感覚で、「法悦にあること」「悟り(の安楽)を味わいつくしていること」
などを言いたいときに、逆に「三昧」を用いて「禅定、定」の状態にあることを示したり、(大乗経典に多いかも)。
で、畢竟は
>>307になっちゃうねぇ・・って話。
309 :
神も仏も名無しさん:2013/12/21(土) 11:38:14.46 ID:ToJoBelS
>>308 いや、一般的な言葉として答えたまでで、
各経論の文脈に即して言えば自ずと異なるということ
つまり、作意については最初から『大乗荘厳経論』に限定して言ってくれればいいでしょってこと。
特に気になった箇所を
310 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/12/21(土) 11:43:24.09 ID:O9PBYwDk
ここだけは、今まで通りかw なんか、ホットするなww
311 :
神も仏も名無しさん:2013/12/21(土) 11:52:57.76 ID:ToJoBelS
>>309 いつもの茶々だからスルーで宜し。あまりツッコむなw
(作意に関しては、よくわからんかったしねw manasikAra かな?
こっちは、あまり語義の拡がりようがないようにも思うけど、そうでもないのか。
マイナーなバリエーションの別があるだけで、語義としては一貫してるようにも見えるし・・。)
313 :
297:2013/12/21(土) 16:16:12.56 ID:e80ui/33
確認したところ、大乗荘厳経論の述求品と教授品にそれぞれ多くの作意が書かれていました
述求品のほうは善根や白法を長養する方法として色々な形で六ハラミツを念ずることが示されています
これらは詳しく描かれており、それは単に概念を対象とする第六意識を超えた作意だと見受けられます
教授品のほうは何故かサマタとヴィパサナーと関連して十一の作意が段階的に書かれています
あとこの直後に九種の住心というのも出てきてこれも似た意味に思え、全く謎です
314 :
神も仏も名無しさん:2013/12/21(土) 16:32:53.64 ID:ToJoBelS
>>313 なんの不思議もない
作意は心を使うこと一般だから
大きくわけて不如理作意と如理作意がある
不如理作意は理に適わない心遣いで、凡夫が一般にする行為
流転門の縁起、輪廻する無明による心遣いという方向で考えられる
如理作意は理に適った心遣いで、行者が解脱のためにする行為
還滅門の縁起、戒定慧・発心・普賢行による心遣いという方向で考えられる
こいつは解り易い事を難しく言うのが好きなんだなw
そうやって上座の連中の慢心は高まって根本分裂を起こさせた訳だがw
ヨーニソ・マナシカーラ、つまり如理作意とは道理に合った考えって事で
如理は「理に適った」、作為は「思考」って事
>>297 >禅定、三昧、止観、瞑想、作意
禅定と三昧は同じ事
強いて言うなら禅定は業態、三昧は状態を言ってる
前者を「ご飯を食べている」とすれば後者は「食事中」となる
止観は座禅の事とほぼ同義、一点に集中して心を動かさない行法
瞑想は美容体操までも含むので仏教内外も形態も問わない瞑想の事
作意は上記の通り、「思考」つまり考える行為の事
仏が教える如理作意とは何か?
それはその考えが出た・まとまった・聞いた・理解したの何れかに及んだ時
その結論からは新たな苦を生み出さない潔癖な答えと言うものを如理作意と仏は教える
それ以外では更なる煩悩苦や疑念苦を生じてしまうので不如理作意となる
317 :
神も仏も名無しさん:2013/12/21(土) 19:50:14.47 ID:ToJoBelS
>>315 >止観は座禅の事とほぼ同義、一点に集中して心を動かさない行法
そりゃ止だけだがな
>>317 すまん、いやすまん
観は毘鉢舎那行の事だから間違いだった
>>313 >何故かサマタとヴィパサナーと関連して
それは、
各ステージに於いての、作意する(意識する、念ずる、集中する、思惟する)先、目的及び方法といった
アプローチや内容の種別が言われているだけなんじゃないの?
出典見てないからわからんけどw
言ってみれば「シュートを打つこと」みたいな。
だから、そのシュートの打ち方は、ヘディングだったり爪先だったり踵だったり、
こぼれ球だったりアシストからだったり自分でドリブルからだったり、
ノートラップだったりオーバーヘッドだったり・・。
それらのシュート全てに
「○○シュート」と名が付いているが如く「○○作意」なのではなかろうか?とね。
320 :
297:2013/12/22(日) 00:32:39.57 ID:GhGFiDVo
皆さんお答えありがとうございます
まあ実際合理的に考えるならそういう風に最広義で取るしかないですよね
ただそれでも無覚無観作意というのもあって心が働いてるのに無覚無観ってどういうことだよとも思いますが
正直インド人や中国人がこれ読んですんなり理解できたのか甚だ疑問です
>>320 (心を)「働かせようと思って(→意図して・志向して・計らって)」、意(マナス)が作される(カローティ)
のでなく、(論語で言えば「欲するままにして則を超えず」的なw)
(凡夫の)「欲求や願望に随った意が作されるのでなく」
「法に随った、善なる流れの縁起に隨った、あるべき成るべき理に随って
(→意図されず志向されず計らいから解かれた)」意が作されている(状態)、ってことじゃね?
大智度論 巻第七之下 三昧王三昧
http://www.geocities.jp/tubamedou/Daichidoron/Daichidoron1-10/Daichidoronn07b.htm 「長阿含経巻8衆集経」に
「また四法あり、謂わく四禅なり。ここに於いて比丘は欲悪不善の法を除き、有覚有観にして離生の喜楽あり、初禅に入る
有覚観を滅して内信一心に − 無覚無観 − にして定生の喜楽あり、第二禅に入る
喜を離れて捨を修し、進を念じて自ら身楽を知る。諸聖の所求を憶念し、楽を捨てて第三禅に入る
苦楽の行を離れて先づ憂喜を滅し、不苦不楽捨念清浄にして第四禅に入る」
初禅にはなお尋伺の二ありて未だ麁細の分別を離れざるが故に、これを有尋有伺または有覚有観と称す
喜楽の二は、初禅は欲界の悪を離れて心に喜受、身に楽受を観ずることを説けるものにして、これを離生喜楽と名づくるなり
二禅に内等浄と喜と楽と心一境性との四支を摂すとは、心一境性は上に述ぶるが如く二禅の自性支なり
内等浄とは、二禅はすでに初禅の尋伺塵濁の法を離れて内の信相明浄なるが故に内等浄と名づく
即ち − 無尋無伺無覚無観 − なり
喜楽とは、この定に依りて勝れたる喜楽を生ずることを説けるものにして、これを定生喜楽と名づくるなり
三禅に行捨と正念と正慧と受楽と心一境性との五支を摂すとは、心一境性は前に述ぶる如く静慮の自性なり
行捨とは、三禅は前の軽安を捨して不苦不楽に住するを云い、正念正慧とは正念正知に住して自地の喜楽に耽らず
進んで上地の勝法を欣ぶを云い、受楽とは二禅の喜楽を離るるもなお自地の妙楽あるを云う
故にこれを離喜妙楽地と称するなり
四禅に行捨と念清浄と非苦楽受と心一境性との四支を摂すとは、心一境性は前の如く静慮の自性なり
323 :
神も仏も名無しさん:2013/12/22(日) 07:48:50.38 ID:/CBsboep
>>320 最終的な境地は言葉で対象を指示できないから、パラドキシカルな表現になるけど
それを言葉が対象を指示していると捉えるから、そう思うんで、
そういった表現は指示できないものを暗喩で表してるんですよ
「言葉の意味なんてWikipediaに書いてあるじゃないか」
…と思う人が多い世の中になってしまった。
でも、ある言葉の意味を別の言葉で正確に表現出来るとは限らないわけで。
325 :
神も仏も名無しさん:2013/12/29(日) 13:29:08.71 ID:htR3cv1a
>>324 そもそも辞書とかの記述は指針なわけで、そのまんまのことが書いてあると思うのは間違いでしょ
みなさまの中で仏教徒でもある宮崎哲弥さんの
様々な宗派のお坊さんとの教義対談をした
対談集の仏教教理問答を読まれたかたの感想を知りたいです。
Wikipediaは書き間違えとかもある可能性があるから
少しはそのつもりで居ないとだめだね
しかしWikipediaの内容を丸ごと考え無しにコピペしてるようなサイトも多いね・・
328 :
神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 11:24:18.52 ID:hIZ0NbTU
>>327 質問箱で答えにウィキの引用は禁止って盛り込んだ方がいいかもね
329 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2014/01/04(土) 11:39:12.51 ID:30/Z7h91
>>326 あいつはTVでの露出が多いので、なんか軽く見られがちだが
奴の言ってることは、世俗視点からの仏教の論点、問題点の洗い出しは
じつに的確だと思うよw
語り口も、自己の見解を押し付けるのではなく、宗門に対し敬意を保持しつつ
問題点を指摘する姿勢は好感が持てるがねw
Amazonのレビューによると、仏教専門誌の連載をまとめたものだから、
専門用語が解説無しに多く使われていて、基礎知識が無い人が読むと難しいそうだね
宮崎氏はどちらかというとインタビュアーの立場で大人しくしているらしいね
他に質問がないようなので。
智波羅蜜(jnanaのほう)について調べていたところ、「菩提心離相論」にて
「智波羅蜜多是即菩提心」という記述に行き当たりました。
考えてみれば、同じ知恵でも空の境地そのものである般若波羅蜜に対して、
それを現実社会で実践する智恵である智波羅蜜が即ち菩提心というのは
もっともな気がします。
この智波羅蜜を菩提心だとする考え方は、割りと一般的なのでしょうか。
> 智波羅蜜を菩提心だとする考え方は、割りと一般的なのでしょうか?
(私の場合は僧侶ではないので)
出家した僧侶の場合は、どうなのか、わからないけど、在家の場合は
僧侶から
喜捨を行なう事を教わり、そして、喜捨(財施)を行なう
恐怖心を取り除く事を教わり、そして、恐怖心を取り除く(無畏施)
仏法について教わり、そして、法施(仏法について教える)などの布施をおこなう
「仏法について知らない人に対して仏法を教え広める、これも菩提心である」と言うような雰囲気もあるかも
参照資料
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C 布施波羅蜜
智波羅蜜
333 :
神も仏も名無しさん:2014/01/18(土) 14:17:45.48 ID:qQXZiDRy
>>331 その前に、菩提心って何なのでしょうか?
道心・さとりを求める心?
それとも、さとりの心?
335 :
331:2014/01/19(日) 01:06:52.20 ID:xmysg83G
色々ありがとうございます。
お聞きしたかったのは菩提心という言葉の意味そのものより
「菩提心離相論」(大蔵経に収められている)に「智波羅蜜多是即菩提心」という
記述があることが広く知られているのか否か、
もしくは他の経典や論に同様の記述があるのか、でした。
もしかしたらこの「菩提心離相論」自体がそれほど知られていないのでしょうか…。
それはそれとして、菩提心とは菩薩の心を起こす、要するに
衆生を救済しようと思い立つその意志のことだと理解しています。
336 :
神も仏も名無しさん:2014/01/19(日) 07:53:36.92 ID:2Ya5ripo
337 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/01/19(日) 08:17:33.53 ID:oSYXK+5Y
菩提とは阿耨多羅三藐三菩提の略。
かの大智度論に於いては般若を他の五波羅の礎とする。
これら大般若経の流れを汲む諸経論に於いては、万事に融通無碍。
更に密教に至れば「発心即ち涅槃」「煩悩即菩提」とも説く。
(^。^)いずれも八万四千が法門の一。お好きな門を潜るが良いかと。
338 :
神も仏も名無しさん:2014/01/19(日) 11:04:28.29 ID:0sTEo7WH
しょうきょうちゃんが如何にまともかwと思いいる今日この頃w
質問です
受用法楽智とは? 成熟有情智とは?
私の場合は英語も、まったく、わからないので
リンク先も日本語の説明のもので、お願い致します
>>339 の続き
受用法楽智とは↓この自受用法楽の事ですか?
http://www.h7.dion.ne.jp/~sdaisin/sanjinsetsu.htm (2)受用身=報身
「受用身・・は動くもの、変わるもの、可視的なものであり、自性身に依拠するものである」271. MSA\60
「受用とは享受の意であり
願と行との結果として(「起福徳智慧二行、二行所得之果」『摂大乗論』真諦訳大正31−249c竹村223)
清浄国土と大乗法楽とを享受するものと理解されている(『摂大乗論』玄奘訳大正31−370a)
・・自ら悟った法を・・味わう・・を「自受用法楽」という
・・自受用(MSA\63釈)はやがて
「他受用(自らの法楽を他に分かち
他特に諸菩薩−『摂大乗論』無性釈大正31−438a竹村223−に説法すること)」に発展する
それ故に受用身は、説法の会座において見られる仏身であるとせられる(MSA\60釈)
この仏身は、人間が理智的に(また情緒的にも)理解しうるという意味において
可視的な仏身にほかならない」271〜2.例:阿弥陀仏270
342 :
神も仏も名無しさん:2014/01/19(日) 12:18:13.96 ID:2Ya5ripo
>>339 もしかして?さん
だったら、そういう方向で複雑に考えるのは無理なんで辞めた方がいいよ
違ったら失礼
その場合、どの文献で使われる言葉について聞きたいのか言わないと厳しいです
『成唯識論』ですか?
344 :
神も仏も名無しさん:2014/01/19(日) 15:11:11.40 ID:2Ya5ripo
>>343 ウィキとか見ても仏教分かんないし
アナタは複雑な話に向いてないんで、そういうことは辞めた方がいいよ
ナンマンダブ、とか、ナム観世音菩薩、とかそういう方向が合ってると思います。
それと、人の質問に答えるのも辞めた方がいい。
人を混乱させるだけだから
346 :
神も仏も名無しさん:2014/01/19(日) 15:43:49.27 ID:2Ya5ripo
347 :
331:2014/01/20(月) 01:07:15.36 ID:Sul3tvMW
>>336 回答ありがとうございます。余談ながらチベットも、
反共に拘るあまりかえって欧米各国に利用されている感がありますね。
仏教徒なら、執着心が苦しみを生むことは分かりそうなものですが。
>>346 いい加減なソースを信じたり、Wikipediaに依存したりするのは危険ですが、
大蔵経を簡単に参照出来るのもネットの利点ではあります。
薬の面と毒の面を見極めないといけないのでしょうね。
348 :
神も仏も名無しさん:2014/01/20(月) 06:52:08.35 ID:T5cGvAhy
>>347 チベットと言っても色々でしょう。
少なくとも聖者は反共ではないです。
拷問を受けても、拷問者に慈悲を持つ方々です。
私は諸聖者に直接お会いして、そう確信しています。
政治のことは、よく分かりませんけど。
>>346 は一般論でなく彼に言ってるのです。
彼は多くの論を読み解く力がないので、読んでもためにならないからです。
>>335 波羅蜜(正確には波羅密多=至彼岸)は中国、チベットでは伝統的に度と訳しますよね
六波羅蜜を六度と言いますもの
度は渡るという意味ですから、彼岸に渡る行為という意味なんでしょう
だから菩提心、幸せになろう(悟りを起こそう)という心はすなわち
波羅蜜と同意義になるのは自明かと。
慈悲をおもんじる大乗では、菩提心は自利のみならず利他をも意味しますから
菩提心は自分が悟ろうと頑張る心もさりながら
相手を助けようと思う心も含まれてきますから複雑な意味が発生しますよね。
でも、般若心経の最近の研究での訳では
すみません本がないのでうろ覚えですが
波羅蜜、パラミーターはパラを至ると動詞で訳すのではなく
名詞でうんたらかんたらということを読んだ覚えがあります。
まあ、中国の書籍でそのように訳しているものはないでしょうけど。
大智度論はだから
大智慧波羅蜜論のことですね
漢訳ではだいたい論というのはそんじょそこら論ではなくて
菩薩(大乗の出家者)が書いたものを論といいます。
たとえば、浄土教系の書籍、浄土論は通称であって
正式名称は無量寿経優婆提舎願生偈で、論は優婆提舎の訳です。
天親(世親)は多くの論を書き起こされたので千部の論主ともいいます。
大智度論はおそらく
マハーパンニャパラミータアウバダイシャの直訳なのだと思います。
ごめん、大智度は大般若波羅蜜多経のことですね
いわゆる大般若経のことです。その注釈書が大智度論ですから
般若波羅蜜多(prajfiaparamita)の解釈
でググると詳しい話がでてきます。
本にのっていた解釈も含まれていると思います。
353 :
神も仏も名無しさん:2014/01/20(月) 23:31:39.18 ID:T5cGvAhy
>>349 『入中論』ではこうですね。
施物と受け手と施し手[という意識]が空である[無所縁の]布施を出世間の波羅蜜と言う。と述べた。
そのうち「波羅(パラ)」とは、輪廻という海の向こう岸や彼岸、つまり、煩悩障と所知障を余すことなく断じた特性を持たれる仏そのものである。
彼岸に到ったことを波羅蜜(パーラミター)と言う。
[パーラミターを語形分析すると]「複合語の後分がある時、省略不可」というこ(文法書)の定義は、
目的格[のm]を省略しないので[para+m+itaaでpaaretaaとならずにpaaramitaaという]形になるか、あるいは不規則形だから「ム(m)」が挿入された形になる[と解釈される]。
コンゼと原田さんの説かな。辛嶋先生も何か言っているかもしれません。
>>353 今352のPDFを見たんだが、本になんて書いてあったかよく分からなくなったな
itaに行くという意味があるが、それは本来的ではないという解釈だったと思う
入門書なので、たいしたことは書かれていないと思うが。
般若波羅蜜は、智慧の完成が本来的な意味で
六波羅蜜は波羅蜜行であるので、完成に到っていない修行者にとっては
完成するための行という位置づけになりやすいがそうではないのだな
波羅蜜行は波羅蜜の現れとして起こる行といった方が分かりやすいのかもしれない。
行というのは、文字通り彼岸へ行くための行いという意味とされるが
増上とも言われるものな
不相応行が批判されるのも心が伴っていないからであるし。
だが、華厳経が菩提心は悟ろうと決意したはじめの心に集約されると結論づけている
ところからして、やはり凡夫の悟ろうと決意した心に菩提心(悟りの心)が含まれているのは
間違いないだろうし、これが仏性や如来蔵、果ては本覚思想にまでつながっていることを
考えると、勝義での意味だけにとどまらないようにも思えるのだがなぁ
と考えてみたりするわけだが・・・
ちなみに真宗の教えでも
凡夫がどれだけ我利我利の心で努力しても
心不相応ではすべての功徳は虚仮(こけ)で無駄とは言わないが
雑毒ゆえに善果は帰ってこないとされるな
とくに末法の仏教思想が退廃した世ではなおさら無駄だと。
それゆえ仏心をいただかないといけないという結論にいたるわけで
仏心すなわち利他心であり、波羅蜜の心であろうなぁ
「世の中に変わらないものなど何もない」というブッダの見つけた真実は、変わること無く在り続けますか?
357 :
神も仏も名無しさん:2014/01/21(火) 07:29:58.63 ID:4XgaXWaR
>>355 真宗は正しい仏教だと思いますが、
清沢満之とかの近代教学は、完全な邪見だと思います。
>>356 そこは難しいところです。縁起する法性、法則は不変ですが、教えとしての無常が不変ではありません。
仏教が何か思想や見解を説いていると考えると、例えば三/四法印を説く仏教は世界が無常だと主張していると誤解しがちです。
例えば『宝性論』は「〈諸行は無常〉と見るなら、それは断見になるでしょう」という『勝鬘経』を根拠に「勝義の我は、我・無我の戯論が鎮まり」と述べていす。
「諸行無常」は言うまでもなく三/四法印(三相)で、仏教の徴、根本に他なりませんが、「諸行無常」「一切皆空」も思想や見解として掴むなら、それは戯論に他ならないのです。
『中論』13-8にも「〈空性は見解一切を離れること〉と勝者は説いた。〈空性を見解とする者たちは救いようがない〉と説く」と説かれます。
これは思想一切を離れるために空性を道として示したのに、空思想として捉えてしまっては救いようがないと言い換えることができます。
358 :
神も仏も名無しさん:2014/01/21(火) 07:37:40.64 ID:4XgaXWaR
これは大乗仏教だけではなく『ヴァッチャ族火喩経』でも説かれます。
ヴァッチャ族の行者が釈尊に世間は 1.恒常である。2.無常である。3.恒常でもあり無常でもある。4.恒常でもなく無常でもない。
などと問いますが、釈尊はいずれも執らないと答えられ、それらの見解を執るなら悟りや涅槃などに導かないと説きます。
釈尊の答えに納得しない行者に釈尊は譬喩として「目の前で燃えていた火が消えたら、どこへ行くか?」と行者に訊ねます。
行者は消えた火はどこへ行ったかという問いがおかしいと答えたのに対して、それと同じことだと説明します。
つまり、戯論寂滅した境地では恒常は勿論、無常であることもないのです。
無常は導きとして教えますが、それを掴んで離さないと見執になるということです。
ですが、無常は正しい教えで、途中まではこの見解を掴んで修行するのが正しいのです。最初から無常なんてないとか、無常も戯論、喝!とか言ってもどうしようもありません。
>>356 諸行が無常なのであって、
諸法は無常だと説かれていません。
諸行とは、有為法のことです。
因縁和合によって生じ、
滅する現象世界のことですから
有為法では、無常です。
ただし、涅槃の境地は常です。
涅槃は無為法だからです。
清沢が出るまでは他力信仰など誰も問題にしていなかった。
彼がいなければ親鸞などを日本の思想界の最高と考える事にはならなかったろう。
清沢が出るまで日本の浄土教、親鸞の宗教は真宗教団成立以来ずっと、
いわば愚夫愚婦の宗教として知識階級から無視されてきた。
清沢出世の本懐は、よくもあしくも愚夫愚婦の宗教を近代知識人の宗教に引き上げる事であった。
なるほど・・。
そういう見方もアリか・・・。
>>360 「教学」「教義、理屈」でなく、
シンプルに、救済或いは浄土への一心一念しかなかった、という感じか・・。
362 :
神も仏も名無しさん:2014/01/21(火) 13:37:28.49 ID:4XgaXWaR
>>360 う〜ん、江戸までの真宗よく知らんけど、
七里恒順のような方もいらっしゃったし、
なにより妙好人がいた。
佐々木月樵、金子大栄、多田等観、山口益とかのが偉大だと思うけどね。
いずれにしろ清沢満之の言ってるようなことは仏教でもなんでもない。
ニューエイジみたいなキリスト教と仏教に基づく妄想でしょ
初めまして。
中部経典で登場する「感覚の防御」又は「根を守る」について教えて下さい。
この語が登場する経典は、
中部経典の27経、38経、39経、51経、53経、107経、112経、125経等です。
例えば107経の「ガナカモッガッラーナスッタ」では、
「學處を守る」の後に「根の門を守る」があります。
根を守る方法の説明は、南伝大蔵経の訳では
「相に捉われることなく、細かな相に捉われることない」のような意味となっています。
しかし具体的な実践方法が見つかりません。
できれば説明がある経典を示してくだされば嬉しいです。
どうか、よろしくおねがい致します。
>>363 大般涅槃経の、アーナンダへの助言に尽きるんじゃね?
よーするに、
「六感(五感+意識に於ける感受)の魅力に屈することがないように」
ってことだし。
また、具体的実践方法は多岐に亘るしケースバイケースだし、経として或いは教説として
幾つか描写はあるかもしれないけど、それが全てとはならないだろうしね。
その意味では、節制が言われている箇所、世俗の諸(の楽しみ)を厭離することが説かれているものは、
全て、根を守ることが言われているに同じでしょ。
下卑た一言を添えればw、
街歩いてて、ミニスカートを目で追うな、ってことだなw
>>364 ありがとうございます。
他の修行の段階では、
「目覚めているように過ごす」については眠る時間帯が明確に示されているし、
「食の量を知る」については、食事が何の為にあってどのように考えて食べるべきかが示されています。
これらを実践することは、文字通りに従うことが可能です。
欲から離れることで苦しみが起きなくなるというたとえ話はいくつか見ます。
でも、この「根を守る」の箇所はほぼ共通して
「相を取らず、随相を取らず」とあって、
「もし根を守らずにすごせば悪不善法が流入する」とだけ書かれています。
PTSの英訳では相と随相が
「general appearance」と「detail」と訳されています。
これが何を示しているのかわかりません。
文字通りに全体像や細かな点を感覚から取り入れないようにしたら、
虫や毒蛇などにも気づけないし危険だと思うのです。
省略しすぎたので修正します。
誤「もし根を守らずにすごせば悪不善法が流入する」
正「もし根を守らずにすごせば貪欲・憂い・悪不善法が流入する」
こっちの方がより正確だと思います。
367 :
神も仏も名無しさん:2014/01/25(土) 12:31:07.90 ID:M0BoguBX
唐の善導大師は目を上げて女性を視ることもしなかったと伝えられている。
そのように、欲や怒りを刺激するようなものには六根をゆだねないようにせよ、ってことでしょうね。
ぼーっとせず、うっとりせずに、常に注意深く、誘惑から離れるように六根を制御する。
>>367 貴重な情報をありがとうございます。
清浄論道(南伝62巻 pp67-74)で似た話があったのを思い出し、確認してみると、
相応部(ヴァンギーサテーラサムユッタ)(南伝12巻 pp320-325)又は
長老偈(1223偈〜1226偈)(南伝25巻 pp321-322)からの引用がありました。
欲を止める方法として書かれているのは
「貪欲を呼び起こす淨相を見るのをやめる。
諸々の行を無常と見る。
苦で自己ではないと見る。
不浄想に依って心をおさめる。
無相を修習する。」
このような方法でした。
相については書いてあるようですが、
随相についてはまだ見つけられていません。
>>368 マニュアル化できないから、具体的に教示されてないってことじゃないの?
細かく、コレコレこうしなさい、って言われないと六根の防護は不可能だろうか?
たとえば、耳根を
>>365>取り入れないという形で行くなら、
ブッダの説法も聞いてはならないということになるが?
ファーストフード店のバイトマニュアルみたいに事細かに規定されていないと防護できないと考えてるの?
(´・ω・`)
>>369 「眼で色形を見て、相を取らず、随相を取らず」
「耳で声を聞いて、相を取らず、随相を取らず」と書かれています。
眼耳鼻舌身意について同じように書かれているんですよ。
声は聞こえているようです。
>>370 だからそれは、
見ない、聞かない、嗅がない、食べない、触れない、思わない・考えない
ってことなの?
違うでしょ。 だから貴方は具体的描写を探している。
が、(睡眠のように)取り過ぎないようにという一般化ができない・し難い領域だから、
探しても求める描写は無いと思うよ。
(尤も、貴方の望んでるモノは「何時間までなら寝ていい」とかの踏み込み方な気がするけど・・。
一切の相を「取らない」なら、重要な(危険な)情報が入力されないから、
どういうものなら良いという記述があるのでは?ということでしょ?
それは、涅槃・悟り、修行に資するものは良く、妨げとなるものは悪い、としか言えないんじゃないのかな。
だから、上座部では250もの律になってしまった、と。)
そこの取るの原語が何かは見てないけど、中部27経は「執せず」と訳してるぜ?
勿論、感受する内容を操作制限すること、或いは遮断・捨断することが必要な場面はあろう。
特に、行や修習に於いては。
が、それは、外道の苦行の如く完全にシャットアウトすることでないならば、
「節度をもって」「よく見究めて」ということになるんじゃないの。
上では「食べない」と書いたが性格には「味あわない」というべきかもしれない。
とするならば、自ずと、どのようにあるべきか見えてくるし、
危険の察知等ができないということにはならないと思うけど・・。
372 :
砂丘のらくだ:2014/01/26(日) 11:07:25.88 ID:hSQ7xv3K
仏教のことはよく分かりませんが
以前、人間関係を切り、死ぬほど苦しいトレーニングをしていたら
悟りとも言える安楽な境地になっていました。
やはり肉体的苦行が第一ではないでしょうか?
そうしていたらおかしな事が起こり
心にダメージを受けました。
↓
☆ 事情を調べてくれ。20年経つのに地元鳥取市のヤツは事情を教えてくれない! ☆
半年間の世界一周後、1993年人間関係を皆無にし山を走る肉体的苦行に専念しながら
鳥取市のテスコという工場で夜勤専属工員をしていた。
テスコの社長から「ほかの会社に行ってくれ」と言われ事実上クビ。
詳しい事情ははぶくが、元請けで山陰最大の工場だった鳥取三洋電機リビング事業部からクビ。
あとでテスコの社長から「社員にしてくれなかったことを恨んでリコーに報復したのか?」
と僕本人に心当たりの無い質問をされた。
僕はその3年前、地元鳥取市のリコー工場にアルバイトに行っていたことがある。
僕がリコーに報復した方法は、リコーのバイトでは、いい加減に働いたが
リコーのバイトを辞め、テスコに就職し休まずに真面目に働いたら、リコーで問題が起きたらしく、真面目に働いたことが僕の報復らしい。
僕もテスコの社長もこの話が訳が分からなかった。
社長はこの訳の分からない話を、元請けで山陰最大の工場だった鳥取三洋電機リビング事業部の管理職北村さんから聞いたらしい。
報復の話を聞く前、同僚の一人が僕に向かって
胸を張り、手先を伸ばした軍隊式の最敬礼の姿勢を2度取った。
そりゃあ僕が地元で「大会社」と言われるリコーに報復したと聞けば
「こいつは凄いヤツだ」と思い、軍隊式の最敬礼の姿勢を取るかもしれないが
おかし過ぎる。
数日後、テスコの社長は「リコーの事は無かった事。凄いおとなしい人という噂があっただけ」と非現実的な話を否定した。
373 :
神も仏も名無しさん:2014/01/26(日) 12:01:14.93 ID:nQREhtW7
>>372 ここで仏教以外に何が言いたいの?
>以前、人間関係を切り、死ぬほど苦しいトレーニングをしていたら
>悟りとも言える安楽な境地になっていました。
>やはり肉体的苦行が第一ではないでしょうか?
そういう体験はあると思います。だからインドでは行として苦行が釈尊以前から今に至るまで続いているのでしょう。
ですが、仏教ではそういう苦行では解脱も悟りも得られないとします。
ですから、アナタがここでそういうのは仏教を否定すること、あるいは釈尊やブッダより自分が優れていると言っていることになりますよ。
そういうことがしたいんですか?
初歩的な質問かもしれませんが、
密教における金剛界と胎蔵界の違いがよくわかりません。
経験的と観念的ということでしょうか?
簡潔で分かりやすい説明は無いものでしょうか。
ご教授お願いします。
胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵曼荼羅)は主に「大日経」基づき
金剛界曼荼羅は「金剛頂経」(経典群)という密教経典に基づいて描かれている
「大日経」と「金剛頂経」は同じ大日如来を主題として取り上げながらも系統の違う経典であり
違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった
これら2系統の経典群の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは
空海の師である唐僧の恵果阿闍梨であると推定されている
恵果阿闍梨は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして
宮廷絵師の李真に命じて両界曼荼羅等々を描かせ、空海に与えた
金剛界・胎蔵界について
//detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1013049480
(私は、書き込み規制対象者なので ↑ リンクの貼り付けが出来ません。失礼)
金剛界・胎蔵界について
//www.mikkyo21f.gr.jp/mandala/
//www.mikkyo21f.gr.jp/
曼荼羅について
法門寺地宮出土の真身宝函の展開図及び各尊格の配置
//ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/6329
//ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/6329/1/003-%e8%a6%8b%e7%94%b0%e5%85%88%e7%94%9f.pdf
380 :
神も仏も名無しさん:2014/02/10(月) 11:42:43.73 ID:mxHsyT7A
保守
381 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/02/10(月) 12:40:44.56 ID:gR0kGCqu
>>375 両部曼荼羅の意味は阿闍梨にならないと解りません。
(^。^)密教とはそーゆーもんです。
382 :
375:2014/02/10(月) 16:42:40.34 ID:Y5M6+fYQ
僅かな時間にたくさんの返答、ありがたき幸せ。
頭でわかろうとしても無理ってことですかね。
あと素晴らしいサイトを紹介していただいてありがとうございます。
>>375 >密教における金剛界と胎蔵界の違いがよくわかりません。
>経験的と観念的ということでしょうか?
>簡潔で分かりやすい説明は無いものでしょうか。
では、簡潔明瞭な説明です。
「胎蔵界」は、大日如来の“真実そのもの”(理)を現しています。
「金剛界」は、そこへ至るための過程(智慧と実践)を示したものです。
両部曼荼羅の三十七尊の諸仏は、
ゴータマの説かれた成仏法「三十七菩提分法」を象徴しています。
384 :
375:2014/02/12(水) 17:09:08.63 ID:G1ydt26T
なるほど。なんとなくわかってきました。
では金剛界曼荼羅で九つに仕切られたます目は個々のプロセス
なんでしょうか?そのどれかが実践のための入り口なんでしょうか?
密教に於ける曼荼羅
金胎理智不二とは胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅を融合したもので地・水・火・風・空の五大に識を加えたもの
胎蔵曼荼羅
理、心を表わす
大日如来は法界定印を結ぶ
大毘盧遮那大悲胎蔵生曼荼羅(本来は界が無い)
女性的
金剛界曼荼羅
智、頭脳を表わす
大日如来は智拳印を結ぶ
男性的
金剛界五佛を五智如来と言う
八十一尊曼荼羅
五部心観
//www10.ocn.ne.jp/~mk123456/man.htm
他スレで質問して回答を得られなかったので、こちらへ誘導されました。
宜しくお願い致します。
仏教に詳しい方、教えて下さい。
例えば相談スレで相談者が悩みを相談をするとします。
相談者は色々自分本位の考え方で苦しんでいるので、回答者が善意で親切で間違いを指摘して、どうしたら良いか提案をするとします。
でも相談者が「酷い、ショック」と言って自分を顧みず聞き入れないとします。
結果的には相談者は自分に都合の悪い回答は受け入れず、逆切れしたり傷ついたと文句を言ったとします。
そしたら善意でわざわざ回答していても、回答者は悪い行いをした事になるんですか?
良くなる為の改善の提案を複数挙げたとしても。
又、相談者が逆切れしないとして、自分に都合の悪い回答だと御礼も言わずにスルーした場合はどうなりますか?
この場合回答者は良い行いをした事になり、相談者は悪い行いをした事になりますか?
私の質問は、この2つのパターンで相談者と回答者が善行になるか悪行になるか、についてです。
387 :
神も仏も名無しさん:2014/02/12(水) 20:04:03.42 ID:1pf3HXe/
>>386 仏教は心、動機を重視します。
ですから、自分が良い動機で為したことは善行です。
ですが、本当に良い動機かどうか、自分自身を欺いてないかを見るのは大変難しいものがあります。
そこに注意してよく心を見つめて良い動機で行えば必ず善行です。
良い動機とは他者のためになるために、とするということです。
>>387 レス有り難うございます。
それでは回答者が相手の為と思って意見を言って相手が傷ついたとキレても善行なんですね。
相談者は逆切れですから悪い行いですよね?
じゃあ更に言えば、回答者が能力不足で相談者の為になる様な回答ができなくても、回答者は善行ですよね。
相談者は回答者の能力不足の不適切な回答でイラっと来たら、相談者は感謝の気持ちが足りないって事で悪い行いになるんですか?
>そこに注意してよく心を見つめて良い動機で行えば必ず善行です。
>良い動機とは他者のためになるために、とするということです。
すいません、これは仏教用語で何と言うんでしょうか?
>>387 >仏教は心、動機を重視します。
相談者は「回答者の言葉によって傷ついた」と逆切れを自覚していないので自分は悪いと思っていないです。
そしたら、逆切れは悪事にならいんですか?
391 :
神も仏も名無しさん:2014/02/12(水) 20:47:58.97 ID:1pf3HXe/
392 :
神も仏も名無しさん:2014/02/13(木) 12:19:58.52 ID:JcJgiT5U
身口意の三業で善を実施すれば、心に善の癖(功徳)が積もり、
心の悪い癖(罪業)が弱まり、悟り(煩悩・悩み苦しみの消滅)に近づくことができる。
393 :
神も仏も名無しさん:2014/02/13(木) 12:22:57.22 ID:JcJgiT5U
>>389 善因善果・悪因悪果という言葉があります。
仏教でいう善とは、悩み苦しみを減らす方向、
悪とは、悩み苦しみを増やす方向のことです。
394 :
神も仏も名無しさん:2014/02/13(木) 12:31:02.92 ID:JcJgiT5U
>>388 人助けをすればするほど人助けをする癖(功徳)が強くなり、
心はより善(煩悩を弱め悩みを減らす)になります。
怒れば怒るほど、怒り癖(罪業)が強くなり、
怒りの煩悩が強くなり、日常生活で嫌な気分になりやすく悩み苦しみが増え、
つまり心の悪(悩み苦しみ増やす)が強くなります。
回答下さった方々、有り難うございます。
仏教って奥が深いですね。
誰かの為に良い行いをしたいと思っていますが、自己満足で終わりそうで中々難しいです。
>>395 自己満足からでもいいじゃないw
>>394さんが言うように、(たとえ想い・考えのみだったとしても)
【轍のように】「癖になる」「習慣付く」のが「業」ってもんだと思うから。
今真っ盛りのソチ五輪も、期待された人が何人か取れてなかったりする。
彼らは特に、
【習慣付けた】演技・プレイ(→行為)を、どれだけ【いつも通り】(或いはそれ以上)に、
そこに顕現(再現)させられるか?なんだろうと思う。
スノボハーフパイプも、2回の試技のうち一回は失敗してる人は多い。
メンタル面が以下に重要か、ってことと思う。
沙羅ちゃんも、ジャンプ台のスロープの違いもあrったろうが、
意識しちゃったのかもしれない。【いつも通りの】【行為】なら、金すら取れていたと思う。
でも、種々の条件(縁)によって4位に終わった。
けど、無駄なことなんて何一つ無い。全ては次への糧(・・・縁)となる。
天狗になったり鼻にかけたり、見返りを求めたり評価の程度に不満をもったりすれば、
そのことが悪業悪因悪縁であるし、そういうことなしに、結果への後悔や周囲の不利益が生じてしまったとしても、
それをそのままに受け止めて、次へ活かす想いがある限りは、
善なる道を歩んでいると自負していいと思うよ。
なんかうまく言えてないけどw
397 :
神も仏も名無しさん:2014/02/13(木) 20:26:20.36 ID:egwTojTL
>>395 仏教は動機が重要だから、その気持こそ尊いものですよ。
随喜、随喜!
その利他心を大切に!
再度レス下さった方々、有り難うございます。
今後も自分本位にならないように気を付けて、善い行いをします。
399 :
神も仏も名無しさん:2014/02/14(金) 12:38:59.61 ID:rfgjpc7C
>良い動機で行えば必ず善行です。
悪業を減殺させるオウムのポア殺人も、当然善行です。
400 :
神も仏も名無しさん:2014/02/14(金) 13:11:07.96 ID:BTM4s760
>>399 だから、他人の行為を云々するのは仏教じゃないって
401 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/02/14(金) 20:14:43.05 ID:8nstYwax
オウムなどの仏教と詐称する連中は、
この様な善悪を用いた詭弁や、輪廻転生を用いた脅迫で、
自己正当化をする。
これら善悪云々や輪廻転生は、仏教ではいわゆる「初心者コース」であり、
本来の仏教に導く為の「一般受けし易い道徳」として説かれた。
従って、この二つを教義に据えたであろう
オウムなどのカルト団体は、仏教の裾野ですらない、
道徳や迷信を基本とした単なるカルトと言える。
402 :
神も仏も名無しさん:2014/02/14(金) 20:39:14.77 ID:BTM4s760
>>401 この方は唯の断見なんで、仏教ではないです
403 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/02/15(土) 01:30:45.21 ID:brFaeGgD
405 :
神も仏も名無しさん:2014/02/15(土) 06:53:26.50 ID:FD6WjAVo
>>403 常見の意味も分かってないですね。
なんど言っても
>>404 密教の内容について質問することも答えることもサマヤを犯してますよ
>>403 三世に跨る輪廻転生を「常見」扱いなどしてたら仏教理論の崩壊です。
常見の意味すら分からず、自ら無知を露呈するとは、
さすが真言宗を破門されただけのことはありますね。
誰でも密教僧になれるんだね・・・。
>>404 そのような所詮、
人間が勝手に作り上げたものに縛られるのが迷信というものです。
常識の範囲での問答をわきまえれば問題なし。
程度の問題です。
407 :
神も仏も名無しさん:2014/02/15(土) 15:29:26.58 ID:FD6WjAVo
>>406 そういう一方で常識により仏教を解釈し、
一方で常識的仏教説を仏教理論の崩壊とする、
その短文の中に矛盾を感じないのが、この手の常見を仏教と解釈する人のパターン
408 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/02/15(土) 15:42:32.72 ID:brFaeGgD
>>407 お前ら、仲間同士でケンカすんなよ。(笑)
>>406 輪廻はするが転生は無い
お前は全然解ってない
何が続くから常見でダメなのか
何が続かないから断見でダメなのか
お前は未だに、釈尊はこの両極端に寄らず、しかもどちらでも無い事を理解出来てない
中道は上記の断見・常見の中間って意味じゃ無いんだよ
410 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 07:09:52.83 ID:cyJQYOhv
>>409 遊びか、その輪廻はするが、転生はしないってのはどういう意味だろう?
断見、邪見はこのように言われる。これは異端を除くどんな時代、どんな地域でも認められる見方だ
『大四十経』MN PTS III, 71頁:邪見とは何か。〈布施なく、祭祀なく、供犠なく、善悪業の報いなく、この世、かの世、母父なく、化生の有情なく、シャモン・バラモンで正しく道を行じて、自らこの世とかの世を直接知覚して説く人はいない〉とする。これが邪見です。
『原始仏典』春秋社、中部4, 151頁
大正1巻735c頁『国訳一切』 阿含部6、81頁
それと転生しないということも言われる。これは以下のような勝義を説いた説をごっちゃにしてるだけだろう
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/28.html 確かに勝義では「この世からあの世に微細な原子すら移らない。けれども、他ならぬ空なる諸法から、空なる諸法が生起するにすぎない」
これだと現在仮設されているあらゆる対象が、連続しない。
私も連続しない、あらゆる言葉の指示対象は連續しない。
それと仮設され指示される対象は全く違う。それらは全て言い習わしに従ったものに他ならない。
だから、釈尊も死後の主体として意識を説かれている。
中村元『悪魔との対話』50頁でゴーティカが自殺した後、悪魔が識別力を探すと説かれる。
これはヴィンニャーナが原語で識と一般に訳されるが、魂、霊魂と訳すべき文脈に他ならない。
中村元も註、324頁で「一種の魂、霊魂のようなものを考えていたのであろう」といいガイゲルの die Seele という訳を挙げている。
もちろん、この識、魂、霊魂も空で仮設されたものに他ならない。輪廻も転生もそうだ。
中村元『神々との対話』40頁で「世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、[仮りに]そのような表現をしてもよいのである」という通り
411 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 07:17:11.52 ID:cyJQYOhv
>>409 遊びなら、自分の妄想が釈尊の説くとこと矛盾しているって自覚したばっかだろ
君の見方は常識に立って、観念的に勝義を都合よく解釈して部分的に納得してるだけだろ
だいたい、京都学派の劣化版だ
そんなセコイ、見方いつまでも大事にすると無駄に過ごすだけだぞ
何にも拘らないなら、異説やオイラに拘って、一々反論するのはお笑いだ
どうみても自分の見解とオイラに拘ってるとしか見えない
自説とも矛盾して、言行不一致でしょ
悪いことは言わない、仏教やるなら、ビルマかチベットのいい先生について、
妄想壊し、ちゃんと行することだ
412 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 08:24:59.75 ID:5l2hhCYO
>>409 自分が一番釈尊の言わんとしていることを理解しているつもりなのだろうけど、
釈尊の言いたいことが理解できるのは瞑想によってのみであり、
その行をある程度までこなした人たちは輪廻はあるけど転生はないなどという
わけのわからん事は言っていない。
唯物論は謗法だよ。
413 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 08:39:50.38 ID:3AEYKa5O
○○という密教の法門があるとします。
しかし、伝承に足る人物はいません。
この場合、○○という法門は途絶したほうがマシである
(もしかしたら未来にこの伝承によって成果を出す人がいるとしても)
と仏教は考えますか?
414 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 08:57:13.58 ID:cyJQYOhv
>>413 口伝なら、その通りだと思います。
経典なら、将来、成就者が現れることもあるでしょう。
>>410-412 断見・常見・それらの折衝案的中間の類
これらが全部邪見とされるのは
我執に囚われた妄想を論じてるからだよ
釈尊はそれらの妄想・戯論を寂滅した立場だからどれにも属さない
仏教のイロハだろそんなの
我が、肉体が滅んでも常住である=常見
我が、肉体が滅んだら今世限りで終わり=断見
これだけ見ても、どっちも「我執」が残る・残らないに拘ってる
梵網経の言う62見の邪まな見解とは、全部我執の処遇に付いて言っている
釈尊の教えは無我なので我執の執着をスッパリ捨ててからでなければ話にならない
62見はその我執を捨てられない愚人の種類を言ってるに過ぎない
417 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 10:13:07.07 ID:cyJQYOhv
>>415 勝義なら、そうとも言えるが、
今、言ってるのは因果だぞ
その因果も否定するなら、間違いなく断見に他ならないでしょ
そういう観念的勝義に仮託した常識主義じゃ仏教でもなんでもない
ただの気休めにしかならない、と思うけど
418 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 10:17:22.59 ID:cyJQYOhv
>>416 やっぱ、ただの気休めだは
六十二見は、基本、凡人を超えた外道の行者に対してとかれてる。
三昧で得られる境地を見解として掴んだヴァリエーションが六十二なわけだ
その見解を打ち壊して戯論寂滅に導く道が、般若であり、中論八不なんだが
419 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 10:22:02.27 ID:cyJQYOhv
>>417 我執は肉体に依存した願望でしかない
肉体に依存している以上、我の因行果徳の因は肉体による思考である
果は勿論執着である
中論冒頭にこうある
「不生不滅 不常不断 不一不異 不去不来」
これは究極の真理の事を言い表しているのだが
字義通り読むなら、これの言わんとしてる事は「無」の事と同じである
しかし、中論曰く、一切はみな空なる存在で実体を持たないと説く
存在してる風に見えてるその姿は、縁起に因って一時的に仮和合してるに過ぎないのだと言う
これも、総じて言えば一切とは根本は結局無なのだ、と同義と言って差し支えない事になる
だが、無と言えども目には見えたりするので無い訳ではない、故にそれを無と言うには無理がある
有無と言う概念では存在は語れない事になって来る
それが中論の言う一切皆空となる
一切の事物事象は、全て悉く現象である
現象は縁起によって起こり、縁起によって滅するのである
起こりが生、滅するが滅、故に生滅そのものも現象なのであり
一切の現象は全て悉く空なのであり、縁起によって成り立っているだけなのである
思考も現象に過ぎないので空であり、そこから勘案された輪廻も転生も空なのである
それらが空なれば、実体がそもそも無いのである
実体が無い、と言う事は即ち
全て幻なのである
422 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 14:24:35.97 ID:cyJQYOhv
>>420 それは唯の誤解ですよ。
無って捉えるのは断見に他ならない。
>「不生不滅 不常不断 不一不異 不去不来」
これが八不ね。
>これは究極の真理の事を言い表しているのだが
いやいや、真理を表したら、見解を掴んでいることになる。
それじゃ六十二見のどれかに囚われることになる。
戯論寂滅への導きに他ならない。
423 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 14:26:39.63 ID:cyJQYOhv
>>421 そういうことはできるけど、
>>420のように捉えてるなら、
そいう見解として掴んで、よしよし俺は真理を知ってるぞ、と掴むことになるよ。
それも我執に他ならない。
>>423 勝義を言葉で説く事は誰にも出来ない
これ自体を納得し理解出来る事は、我執を解っていなければ出来ないのである
我執の正体を理解できなければ勝義が何故言葉で解けないかが理解出来ないのである
私に反論する君こそがその人であり愚人である
425 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 14:47:40.21 ID:cyJQYOhv
>>424 つまり、ブッダであるオレちゃんに反論するな、と。
では、話はお終いですね。
427 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 15:58:12.86 ID:cyJQYOhv
こういう無意味な言い合い、止めたいね〜
>>420-421>>424 あなたのようなのが、
よく見られる勝義に狂っちゃった人の典型ですね。
すべてが「空」なのだから、修行も瞑想も最初から何もする必要がないよね。
因果の道理を無視する勘違い者にとっては、元々、「苦」もないのだしね。
だったらホント..楽でいいよね。おめでたい御めでたい(笑)
まっ、頑張って!!
>>425 この方は“遊び閻魔”じゃないと思いますよ。
たぶん最近、ここ数か月前から張り付きだした人でしょう。
>>420-421>>424 すべてが「空」であって、転生などないと思えばないのに、って?
そんな簡単なことも分からずに、ゴータマは壮絶な苦行に明け暮れたっての??
ホント..ブッダ舐め過ぎでしょ!!!(苦笑)
皆さん、経典を読んで勉強してらっしゃるのですから、
乱暴な言葉を使わずに話しあいましょう。
431 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 18:24:01.46 ID:5l2hhCYO
>>420氏はこんな感じかな?
(野狐禅 Wikiより)
『「無門関」第2則の「百丈野狐」の公案には、前世に百丈山にいた老人が、
かつて覚った者は「因果に落ちない」と言い、「空」の境涯のみを持ち上げて因果の理法を無視したが為に、
五百生の間、野狐身の畜生道に堕したという話がある。
この話からいったんの「空」の無相の境涯に捉われて、
真に妙有・妙用(みょうう・みょうゆう)の境地に達しないのに、
自ら覚り終ったとする独り善がりの増上慢(ぞうじょうまん)の禅をたとえて言ったものである。』
432 :
神も仏も名無しさん:2014/02/16(日) 20:05:05.13 ID:cyJQYOhv
>>428 ども〜
>>430 そうありたいものです
>>431 野狐禅は、少なくとも禅定体験のある人です。
観念的勝義で気休めタイプは、単なる思い込み。
434 :
神も仏も名無しさん:2014/02/17(月) 08:58:19.87 ID:Rq4O+28L
>>414 在家や勧請受けてない出家者は読まない方がいい
タントラ経典の場合はどうなるんでしょうか。
書物の場合だと口伝に相当するのは書写、ということになると思いますが、
筆記をやめて、経蔵に保管だけする、という形になりますか?
435 :
神も仏も名無しさん:2014/02/17(月) 09:46:19.39 ID:sQTYiVI+
>>434 密教は読まない方がいいです。
顕教は読んでもいいですが、やはり聖者から教えを受けるべきです。
私はビルマとチベット以外、聖者の伝承は仏教で、ほとんど絶えていると思います。
口伝というのは密教の紙に表さない教えという意味です。
つまり、ある境地に達してない人に教えても誤解しか生まないような教えという意味です。
436 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/02/17(月) 13:11:07.45 ID:Drg4XRN1
>>433 普通なら、過去世譚やら宝行王正論やらを思い浮かべると思うんだが、
なかなか変わった感性の方ですね。
438 :
神も仏も名無しさん:2014/02/22(土) 01:02:29.20 ID:lmH3AhTv
あげ
439 :
神も仏も名無しさん:2014/02/23(日) 19:57:54.87 ID:lBExgV1p
質問ですけど、
仏教の宗派の中でお釈迦様の教えに一番近い宗派ってなんですか?
440 :
神も仏も名無しさん:2014/02/23(日) 20:18:18.84 ID:lFuFGN4m
>>439 それは釈尊をどう捉えるかによりますね
もし、パーリ三蔵に説かれる釈尊だけが釈尊と考えるならビルマ仏教が一番近いでしょう。
日本だと曹洞宗でしょう。
そうでなく大乗経典に説かれる釈尊も釈尊だと考えるなら、
諸宗派が釈尊に近いですね。なぜなら、さまざまな道を示したから。
ただし日蓮宗とアーベンドカール仏教などの伝統のない新興宗教は除きます。
441 :
神も仏も名無しさん:2014/02/23(日) 20:19:24.08 ID:VOXM8Mus
>>439 もちろん南伝仏教だ。北伝仏教は龍樹の「空」を説く邪教だね。
苦の滅は龍樹の「空」では絶対に不可能。
442 :
神も仏も名無しさん:2014/02/23(日) 20:31:05.28 ID:lBExgV1p
443 :
神も仏も名無しさん:2014/02/23(日) 20:50:27.64 ID:lFuFGN4m
>>442 いや、私はそうは言いません。
むしろ、大乗が正当で見解が高い
444 :
神も仏も名無しさん:2014/02/23(日) 20:54:35.81 ID:lFuFGN4m
>>442 >やはり、ビルマなどの南伝ですよね。
ああ、それとテーラワーダで伝統が生きてるのはビルマだけと考えた方がいいでしょう
特にスリランカ仏教は伝統が絶えた後、ナショナリズムと結びついて排他的になっているので別ものと考えた方がいいと思います
445 :
神も仏も名無しさん:2014/02/23(日) 22:42:52.75 ID:4x12Trqf
446 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 09:33:36.88 ID:n6yXjfwC
>>441 >もちろん南伝仏教だ。北伝仏教は龍樹の「空」を説く邪教だね。
>苦の滅は龍樹の「空」では絶対に不可能。
スリランカ仏教は上のように言うかもしれないが、
ブッダゴーサは龍樹菩薩の教えに近い
しかしその注釈者であるダンマパーラは明確に龍樹菩薩を否定しているが、
それは単に見解が低いだけのこと、と思われる。
なぜなら、パーリ・ニカーヤと『中論』は矛盾しないどころか、
『中論』は、ほとんどの根拠をパーリ・ニカーヤにも見いだせるから
もっとも直接の根拠はパーリ・ニカーヤではなく、
よりサンスクリットに近いアーガマだと思われるけど
447 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 18:55:49.73 ID:dvxvkg36
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
──影がそのからだから離れないように。
448 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 18:58:01.66 ID:dvxvkg36
よって、清らかな心で、南無阿弥陀仏を唱えれば
その人には福楽がつきしたがうでしょう。
449 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 19:08:34.59 ID:Ul/96iCg
親鸞会はカルト宗教
苦とは何か。貧病争は苦の、外面的な現実を語っているに過ぎない。
貧病争を苦にしない人々もいるからだ。
その違いは、貧病争に対する「心の受け止め方」から生じる。
であれば、心はいったい何を問題にしているのかという話になる。
苦の源には、自分が「この世から愛されていない」という失意がある。
愛が周囲に見当たらない。これが苦の本質に他ならない。
そうであるなら、苦を滅する方法も明らかになる。
愛の欠如が問題なのだから、「神から愛される」ことが答えになる。
竜樹の「空」では、苦を滅することができない。
451 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 20:54:09.19 ID:n6yXjfwC
>>451 どこが? 釈迦は愛(慈悲)を説いてなかった?
453 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 21:33:11.45 ID:n6yXjfwC
>>452 そりゃ、一部が似てるからって、空を否定して
>愛が周囲に見当たらない。これが苦の本質に他ならない。
ってのは仏教じゃないね。仏教の苦の本質は無明や我執、有身見でしょ。
君の言う愛は寧ろ、苦の原因と説くのが仏教ですよ。
これはテーラワーダでも大乗でも仏教に一貫してるよ。
十二縁起でも四諦でもそう説かれるよ。
逆に「愛が周囲に見当たらない。これが苦の本質に他ならない」と説く仏教の経典があるなら、教えてほしい。
>>453 愛には、愛するという側面と、愛されるという側面がある。
だれでも愛されたいと願っているから、周囲から愛されないと苦が生じる。
だから、この苦を消滅させることが課題になる。
貧しくても愛があれば耐えられる。病んでも周囲に愛があれば耐えられる。
争いはそもそも、おたがいに愛があれば生じない。
愛されることばかり望んでいるから、貧病争が生まれ、苦が生じる。
苦とはこういうものだから、愛されないと解決しない。空では解決しない。
しかし神に愛されたら苦は消滅する。神の愛には罪の赦しもある。
それを仏教でないと言うなら、仏教の方が間違っている。
455 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 23:19:19.47 ID:n6yXjfwC
>>454 要するに俺ちゃんの考えは絶対だと
根拠は俺ってわけね
問答無用だと、
それなら、スレ違いでしょ
体証と理証で語れば十分ではないかな。
たぶん原始経典を調べたら文証もぞくぞく出てくると思う。
いま読書中なので失礼 (^^)
457 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 23:36:14.75 ID:n6yXjfwC
>>456 >体証と理証で語れば十分ではないかな。
そりゃ妄想が根拠って白状してることに気づかんといかん
仏教とはほとんど関係ないのに無理矢理、自説の根拠付に出してるだけでしょ
458 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 23:37:23.52 ID:w/J238E5
愛されたいと願っている人を納得させるには、
思いっきり愛してやる以外にない。
それができるのは神しかいない。
だから、神に出会う以外に、人間は救われることはない。
大乗の空、竜樹の空では救われない。
459 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 23:40:29.53 ID:n6yXjfwC
>>458 釈尊は神では輪廻から解脱できないって、あらゆるところで説かれてるんですよ
460 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 23:44:54.82 ID:w/J238E5
わたしが言ってるのは、バラモンの神々ではなく、真実の神です。
知らないと思うが、真実の神が存在するのですね。
461 :
神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 23:48:00.48 ID:n6yXjfwC
>>460 どんな神でもですよ
そういう見方は、我見、常見として輪廻から解脱できないとされます。
こういった仏教の基本中の基本を知らないんでは、どうしようもないでしょう。
462 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 08:05:47.50 ID:EMfDgJDo
>>458 愛されたい(愛されていない)と思うのは、プライドの煩悩(慢)があるから。
自分はすばらしいと思いたいのに、
周囲の者が自分をすばらしい者だと扱ってくれないと、苦悩になる。
仏教で目指すのは、プライドの煩悩を消滅させること。
ただし、消滅させなくても、「これはプライドの煩悩だな」と
自分の感情に潜む煩悩に気付くだけで、悩みは冷める。
スッタニパータの蛇の章、慈しみはキリスト教的な愛を説いている。
この愛は精神的なものであり、愛欲や愛執のようなものではない。
愛されることを前提にしない愛だ。
仏教は、(現代的な意味での)愛に、二つの性格の違いを見て区別する。
ひとつは個人の執著としての愛(愛欲・愛執)、
もうひとつは個人の執着を超えたアガペー的な愛(慈悲・慈しみ)である。
釈迦の時代には、愛という概念が社会的に未発達だった。
愛と言えば愛欲・愛執になり、アガペー的な愛を表現することが難しかった。
そのため、慈悲・慈しみという言葉が選ばれたのだろう。
464 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 08:26:49.68 ID:YTRvSSVR
>>463 無理過ぎる
自分の妄想を捨てるために仏教はあるのに
自分の妄想を仮託しては苦が増すばかりだ
465 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 08:31:05.77 ID:Aq5sClWS
>>463 そりゃ推測の方向が違うだろw
《「(アガペー的)愛」に該当する言葉がなかった》のではなく、
《その概念自体がなかった、不要だった》と見るのが妥当。
そして、仏教では、2500年経った今でも、その概念を採用しない。
弥陀の慈悲も誓願も、やっぱり「愛」ではなく「慈」だよ。
無理してキ教に“合わせる”必要はない。
466 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 08:41:57.94 ID:YTRvSSVR
>>465 >弥陀の慈悲も誓願も、やっぱり「愛」ではなく「慈」だよ。
慈より有情の苦への悲が根源とされるのが仏教ですね
>>462 大乗の「空」が問題なのは、心に生じている「苦」を、
それは気のせいだ、思い過ごしだとうそぶき、
貧病争を放置、生活上の指針など何も教えられないことだろうか。
何かしたり、何か言ったら「空」にならないからね。
そのくせ自分は、世俗の垢にまみれきって偉そうにしている。
大乗僧はプライドの塊のような人が多いかも。
>>465補
そして、
>>463>仏教は 二つの性格の違いを 区別する のならば、
せっかく分別した両者を再度結合させる意味もない。
百歩463(や
>>454)を許容するとしても、
どこまでいっても、「愛的なモノ」は「愛」で「慈悲」ではないの。
違うから、わざわざ「慈(metta)」が言われるわけで、
ここを押さえない限り、仏教的価値観に迫ることはできないと思うよ。
ちなみに、仏教で「愛」と訳されるのは以下
taNhA、(rAga)、kAma、pema、piya
日本語の一般的「愛」に近いのは後者二つ、特にpema。
piyaの方は、その感情、想いだけでなく、愛すべき対象をも含むニュアンス。
>>466 ああ、そうか、阿弥陀さんは「慈」より「悲」か。なる。
>>467 あれ?
いつのまに近現代仏教批判の話になったの?
教義の話じゃなかったの?
(空思想という)北伝仏教の教義が、
世俗の垢に塗れて偉そうにさせている、という仮説を立ててるの?
ワケワカメ(´・ω・`)
>>464 苦を消滅させることが目的だ。
ところが「空」では、苦を消滅させることができない。
愛も憎も「空」だと思っても、実際には「空」にならない。
愛されなかった記憶は消えない。→ いつまでも癒されない。
悪いことをした記憶は消えない。→ いつまでも悔いが残る。
浴びるほど、沐浴するほど愛されて、癒され、悔いの念も消失する。
汚れがあり穢れがあるなら、洗い流さないと清くならない。
神霊との出会いだけが、苦を滅し、心をよみがえらすことができる。
471 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 09:07:30.60 ID:YTRvSSVR
>>467 大乗でもテーラワーダでも空は説くし
そういう単なる観念的な気休めじゃない
戒律によって身体・言語・心を抑制し対外的散乱を収め、
その上で禅定によって心を集中させ、
その上で観法として空を用いる。
凡夫が観念的に空だから、といっても大した効果はない。
現代日本仏教から仏教を語っても何もならない
そりゃまるで腐った魚を食べてこれは毒だから食べてはいけないと言っているようなもの
仏教を語るなら経典、ビルマやチベットの聖者から語らなくては意味がない
新鮮な魚を適切に調理したものを食べれば美味いように
アナタは全く仏教が分かってないと自覚することからしか仏教に関われないと思う
472 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 09:10:28.67 ID:YTRvSSVR
>>470 >浴びるほど、沐浴するほど愛されて、癒され、悔いの念も消失する。
>汚れがあり穢れがあるなら、洗い流さないと清くならない。
>神霊との出会いだけが、苦を滅し、心をよみがえらすことができる。
こういうのは仏教的には一時的な苦の忘失と考えられる
明らかに仏教ではないんで、スレ違いです
これでも繰り返すようなら、もうレスするのは止めるね〜
>>470 いやいやw
それ、初手から反対方向の考え方だから。
>愛も憎も「空」だと思っても、実際には「空」にならない。
>実際には
実際にってどういう風に?
科学的・物質的に?認識論的に当人にとって真実として?
まあ、いずれにしても、逆の視線なの、仏教は。
「実際に」一切が空なるもの(縁起して生じ滅しつつあるもの)であるのを、
愛だ憎だと認識受容するところに苦が生じる、と見るのだから。
実際にAやBであるものを空と見做すのでなく、
実際に空であるものを、人はAやBと見做している、という構図なの。
>>465 >>466 >>468 慈にしても、悲にしても、慈悲にしても、
そういった感情が湧いてくる根源に、愛そのものである存在がある。
それが神ですね。ただしバラモンなどの神々とは別ね。
>>471 縁起の空は悟りの道具、筏として認めている。
しかし、事物自体を空とする般若の空は成立しない。
>>472 キミは神霊を知らない。キミは苦を消滅させていない凡夫だ。
>>473 キミの話は転倒妄想だね。空で記憶に刻まれた過去をどう清算するの?
>>474-475 キ教的にはそうなのでしょう。
けど、仏教じゃない。
無理して仏教と擦り合わせる必要はないでしょ。
キ教はキ教、仏教は仏教、それぞれをそれぞれとしておけばよい。
477 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 11:51:20.10 ID:eindL+LM
>>476 仏教とキ教をすり合わせているわけではない。
事物の真相に興味があるだけだ。事物の真相に洋の東西はない。
神の愛という言葉はすでに日本語になっている。
大乗も釈迦が慈悲を説いたことを認める以上、
この慈悲がいったいどこから湧いてきたかを説明すべき義務がある。
まさか「空」から? それなら空を具体的に語ってほしい。
空から慈悲が湧いてくる必然性を語れ。
478 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 12:13:16.33 ID:YTRvSSVR
>>476 相手にしても仕方ない
自分が正しいと盲信して譲らないタイプ
釈尊が言っても認めないでしょう
480 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 12:32:34.00 ID:EMfDgJDo
>>477 仏教は自分と他人の悩み苦しみを制御したり消したりするための教え。
悩み苦しみを制御したり消したりするために、
慈悲喜捨の四無量心を育てることが有効であるから慈悲を説く。
執着を伴う愛だと悩み苦しみの原因になるから愛は説かない。
481 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 12:38:07.67 ID:EMfDgJDo
神様が人間を愛しているなら、神様には愛に伴う悩み苦しみが発生してしまう。
苦しみがあると、苦しみに対処しようと色んな行動をする。
キリストを世に遣わしたのも、
神様が愛(執着)のせいで辛くて仕方なくなったかだろう。
483 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 19:38:32.62 ID:p6wMmExg
>>482 キミには仏教はこうあるべきだ、みたいな固定観念があるよね。
それを転倒妄想だと指摘したが・・・キミは初手がどうだこうだと言い訳する。
そうじゃなくてキミは王手されたのであり、もはや詰んでいる。
こちらの質問に何も答えられないではないか。
縁起で慈悲を説明したら、釈迦は縁起を超えていない凡夫になってしまう。
釈迦は世俗諦を超えたところで説法する。これに対してキミは、
頭から空を信じ、世俗諦へと落ち込んでいく。
そこは捨てられるべき執著の肥溜めではなかったのかw
484 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 19:44:10.10 ID:p6wMmExg
>>480-481 与えるだけの愛、アガペーには悩み苦しみが生じない。
見返りを望んでいないから。
486 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 22:00:53.47 ID:1AdQmLi9
Sn.1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、
それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、
かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、
あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
かれは神霊を体験し、縁起を超えてしまった!
一代も“再生”すればいいのにw ノシ
輪廻、自性、五蘊、唯識、分別心などの仏教用語を見ていくと、
日本の伝統的宗派としての仏教ではなく、本来の仏教って
なぜ自分は自分なのか→「自分」の定義、自分以外としての世界
→存在するものの認識のメカニズム→悟り?
って宗教というより、現代で言うと哲学・認識論的なものに思えてくるのですが、
史的釈迦の悟り・涅槃って、自分という仮設された認識が、世界の外側に行ってしまうというよりも、
世界全体に溶け込む(現在のスピでいうならワンネス系?)という方向であってますか?
489 :
神も仏も名無しさん:2014/03/01(土) 05:03:40.81 ID:YRJLD0y2
>>488 >あってますか?
それを自分で確かめるのが仏教
490 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/03/01(土) 05:31:50.77 ID:t9L/Ix3K
現代人は、現代知識から過去の文化をカテゴライズしがちだが、
過去の文化や概念が、現代の文化や概念に変化して行った点にも留意しなくてはならない。
(^。^)特にキリスト教文化というクソッタレな呪縛には注意が必要だ。
491 :
神も仏も名無しさん:2014/03/01(土) 06:04:25.47 ID:XWzws7l0
>>488 全く違いますね
まず、自分という出発点が根本的に倒錯してます
なにせ、無我ですから自分がない
次に定義という方法も仏教では採りません。
定義というのは観念的に勝手に定める。
仏教では言葉は、言い習わしあるがままです。
492 :
神も仏も名無しさん:2014/03/01(土) 06:05:23.18 ID:PO7MNZFg
493 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 09:02:50.03 ID:zhsaxdWS
古い時代劇の「無用ノ介」や「花山大吉」に出てくるのですが
数十人の白装束を着た人達が丸い太鼓のような物を
ドン!ドンドン!ドン!ドンドンと叩きながら行進するところが出てくるのですが
あの人たちは、どういう人たちで何をしてるのでしょうか?
494 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 09:13:01.26 ID:s6PauXyr
495 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 09:27:14.46 ID:zhsaxdWS
>>494 ありがとうございます。そうです。団扇のような太鼓ですね。
確かに、そんな感じで白装束で行進するのですが
「無用ノ介」のときも「花山大吉」ときも全く同じ調子の太鼓の音だけで
南無妙法蓮華経の題目は、ありませんでした。
496 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 09:29:22.48 ID:s6PauXyr
>>495 それはあるがままに再現したら色々面倒だからでしょう。
異様な形だけ映像として利用するのが、娯楽時代劇だと思います。
虚無僧とかも同様でしょう。
497 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 09:42:10.45 ID:zhsaxdWS
>>496 分かりました。
ありがとうございます。
498 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/03/02(日) 10:30:48.10 ID:QLVqxqv8
因みに虚無僧は禅宗の一派。
太鼓の人達同様に、当時は流行ってて日常風景だったので、
時代劇などでは二八蕎麦などと同様に、それを再現しているだけの話。
499 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 10:47:45.08 ID:s6PauXyr
>>498 ほんとに何もしらんな
虚無僧は普化宗って言って完全なヤクザの隠れ蓑だよ
禅宗の一派というのは自称で単なるカモフラージュ
明治政府もきっちり潰してる
500 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 10:49:52.74 ID:s6PauXyr
あるいは、スパイとか
いずれにしろ仏教でもなんでもない
501 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 10:59:20.49 ID:GP2lgmDS
虚無僧の読経は尺八吹くことだしな
502 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/03/02(日) 11:08:20.11 ID:QLVqxqv8
おやおや、普化宗がヤクザの隠れ蓑なんですか。(笑)
(^。^)じゃあ胡麻の灰がいたから真言宗もヤクザの隠れ蓑なんですか。(笑)
503 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 11:16:42.34 ID:s6PauXyr
これだよ。間違っても詭弁で逃げ
いつもの断見仏教を吹聴する
君は仏教を全く知らないし、信じてもないんだから
質問に答えるのは止めた方がいいって
504 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/03/02(日) 11:36:39.71 ID:QLVqxqv8
>>503 なるほどなるほど。(笑)
因みにウィキペディアでも「普化宗は禅宗の一派」とか「1950年に普化宗再興」とかあるけど、
ウィキペディアが間違いで、現在ある普化宗もヤクザの隠れ蓑なんですか。(笑)
(^。^)えらい無茶言いますなぁ。(笑)
505 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 11:41:59.83 ID:s6PauXyr
>>504 そうやって文脈ずらして拡大解釈して揚げ足とることばっかですなあ
話の流れから時代劇の虚無僧、つまりほぼ江戸時代に限定することは自明でしょ
現代のは別物で尺八の宗家みたいなもんでしょ
506 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/03/02(日) 11:46:47.96 ID:QLVqxqv8
「ボクのかんがえたぶっきょうとちがうひとはこっちこないで!」
ってのが仏教だと教わった方が居るみたいですが、(笑)
一体全体、どこの宗派の方ですか?(笑)
(^。^)ひょっとしてオウム?(笑)
507 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 11:54:07.95 ID:s6PauXyr
こっちこないということではなく
君のために言ってるだけなんだけど
もちろん発言してもいいけど、分かってないって自覚して発言した方がいいという意味ね
君と同じ真言宗だけど、今回ももう辞めとくは
508 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/03/02(日) 11:58:35.84 ID:QLVqxqv8
江戸時代限定でも、
「普化宗がヤクザの隠れ蓑」
だったなんて事はありませんよ。
虚無僧を、ヤクザが隠れ蓑にした事はあったでしょうがね。(笑)
それよりも武家や隠密などが諸藩を渡り歩くのに利用したのが遥かに多いでしょうが、
何にせよ、話をズラしてんのはアンタでしょう。(笑)
(^。^)バカな事ばっかり言う所は、オウム信者そっくりだがなぁ。(笑)
509 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/03/02(日) 12:06:06.57 ID:QLVqxqv8
最近の真言宗では、他宗派を「ヤクザの隠れ蓑」扱いしろ、って教えてんのかね?(笑)
俺の時には、そんなバカな事は教わって無いが。(笑)
(^。^)何時の間に真言宗の教義は変わったんだ?(笑)
510 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 12:07:28.97 ID:oHUO8Dss
511 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/03/02(日) 12:11:12.29 ID:QLVqxqv8
オラ!
さっさと質問に、答えろや真言宗!
俺は元真言宗で現在は一切関係ないから、現状知らねーんだよ。
今の真言宗は他宗派をヤクザの隠れ蓑扱いしろって教えてんのか?
512 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 13:19:02.32 ID:gLIJYjLu
虚無僧と尺八については、和歌山県由良町の興国寺を検索してみるとでてくる。
513 :
神も仏も名無しさん:2014/03/04(火) 06:46:20.92 ID:jmEgb3hg
『無我』について考えることが多い。
『無我』とは物事そのものになる事なのだろうか。
例えば、勉強で数学を取り組んでいるとすれば、数学そのものになるということなのかな。
そして『諸行無常』の様に、そのものになる物事が英語に変わったり、仕事に変わったりすることなのかな。
514 :
神も仏も名無しさん:2014/03/04(火) 07:17:28.79 ID:YXPVmPiR
>>513 そういう説明する人も、たまにいますが、それは三昧とか念と呼ばれる精神集中状態と考えるのが仏教一般だと思います。
無我というのは、あらゆる現象や知覚に本質がないという意味と考えるのが一般的だと思います。
諸行無常というのは、諸行というのは、行為によって作られる現象の潜在力みたいなもので、それが定まらず、移ろいやすく儚いみたいな意味です。
大雑把に諸行を現象と捉えたり、行為によって「作り出されたもの」と捉えたりもしますが、同じことと思われます。
質問させてください。
日蓮正宗ってみなさんどう思いますか?
516 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2014/03/04(火) 11:02:58.26 ID:kbXRdJlX
>>515 日蓮宗は仏教ではありません。
その攻撃性、排他性は仏法と相容れないものだからです。
・・・・・・・・と、一代がコメすると予想wwww
517 :
神も仏も名無しさん:2014/03/04(火) 11:51:41.53 ID:YXPVmPiR
>>516 それは容易な予想ですね
そして、三宝帰依もしないし宥和包括的な万善同帰、
あらゆる善は一切智の仏となることに帰するという『法華経』を排他的、
しかもエゴに基づき政治的に利用したのはオウムにそっくりだと思ってます。
518 :
神も仏も名無しさん:2014/03/04(火) 13:01:20.96 ID:IlDm+qud
>>513 ちなみに、もともとすべて無我なので、
無我になる、とかいう表現もしませんね。
無我夢中になる、とは言いますが。
519 :
神も仏も名無しさん:2014/03/04(火) 14:19:46.18 ID:YXPVmPiR
520 :
神も仏も名無しさん:2014/03/05(水) 09:32:49.56 ID:j5eqRuop
人間は常に、「わたし」という視点から、考え、判断し、行動する。
言葉も同じ、表現しようがしまいが、「わたし」という主語が必ずある。
この「わたし」がなければ、人間は支離滅裂になってしまう。
大乗は無我や「空」を説く。「わたし」は無いらしい。
しかし、無我や「空」を体験できた者は、昔から今に至るまで一人もいない。
無我や「空」などは存在しないからに他ならない。
それにも関わらず、大乗教徒は無我や「空」を主張している。
無我や「空」を妄信しているからだ。
そういう意味で、大乗は邪教だが、宗教のひとつと言ってよい。
521 :
神も仏も名無しさん:2014/03/05(水) 09:58:40.38 ID:j5eqRuop
本当に無我であり「空」ならば、この世は消滅するだろう。
作用だけ、作用点のない作用など存在できない。
因果だけ、実体がない因果も同じ。
こんな簡単なことを見失ったのが大乗仏教
522 :
神も仏も名無しさん:2014/03/05(水) 11:23:13.28 ID:5O0lZB2g
>>520 >>486 >かれは神霊を体験し、縁起を超えてしまった!
の人か? ここは質問スレで自分語りスレじゃないですけど
どっか別のところに書いてください。
あと、アナタは仏教でない別のものを仏教と思い込んでるだけですよ
523 :
神も仏も名無しさん:2014/03/05(水) 12:43:15.58 ID:F8EI6w2o
>>520 ゆるぎない「我」とやらを実際に見た者はいない。
あるのは瞬間瞬間に変化している現象だけ。
仏教は悩み苦しみを減らすための教え。
「わたし」に執着すると悩み苦しみが増えるから、
仏教では「わたし」への執着をなくそうとする。
病気にならない人はいないが、苦しみを減らすために病気を治療する。
それとおなじで、たとえ「わたし」をなくせなくても、
悩み苦しみを減らすための「治療」は続けるのである。
524 :
神も仏も名無しさん:2014/03/05(水) 16:53:49.98 ID:wRhm50F3
>>522 スレの流れ、無我への質問に答えたのw
キミは北伝仏教オンリーで、南伝仏教を知らないのかな?
気の毒な人だね (TT)
>>523 別スレですでに、意識そのものが「我」であることを指摘している。
自分のことばかり考える「我」と、周囲のことも考える「我」との違いだよ。
前者を否定して後者に移行する。
無我や「空」なんぞは、その間のプロセスであり、手段に過ぎない。
526 :
神も仏も名無しさん:2014/03/05(水) 20:35:49.73 ID:5O0lZB2g
>>524 流石、話にならないご勝手主義っすね〜
どうぞご自由に
527 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/03/06(木) 05:26:19.97 ID:2yOuxtKh
>>520 是非とも今後の参考にしたいので、貴殿の法流をお教え下さい。
(^。^)一体、どこのバカヤロウから、その仏教モドキを教わった?寺和田か?恥ずかしがらずに言ってみ?
528 :
神も仏も名無しさん:2014/03/06(木) 07:30:28.07 ID:FnmqDetr
しょうきょうちゃんがまともにみえるぐらいに、
2ちゃん仏教の劣化はすごいですよねえ・・・
529 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/03/06(木) 08:43:35.14 ID:2yOuxtKh
>>528 同じ昔話を繰り返すのは痴呆症っぽいから気をつけなよ。(笑)
530 :
神も仏も名無しさん:2014/03/08(土) 06:25:41.51 ID:0zI5T2VI
>>528 昔の酷かったように思うけど、断見一派が大手を振って脅してた
531 :
神も仏も名無しさん:2014/03/08(土) 06:45:02.89 ID:0zI5T2VI
>>530 >昔の酷かったように思うけど、断見一派が大手を振って脅してた
以下に訂正
昔の方が酷かったように思うけど、断見一派が大手を振って脅してた
532 :
チラ裏:2014/03/08(土) 23:34:32.91 ID:8X343vwy
今の議論スレは、
“仏教”議論スレじゃなくて、“新興宗教”議論スレと化しとるな・・・w
533 :
神も仏も名無しさん:2014/03/09(日) 05:58:25.32 ID:5sUyd36d
>>532 ふ〜ん、見てないです。
柴山全慶『禅林句集』『訓註 無門関』を入手した
チラっとしか見てないけど、いい感じ
あと『六祖壇経』の『法華経』解釈「心迷えば法華に転ぜらる、心悟れば法華を転ず」
これは『正法眼蔵』も引用してるけど、素晴らしい。
『法華経』の心髄で、往相廻向と還相廻向、他力と自力に準ずると思う。
寒松軒も学者肌だからね・・。
外国人向けの(向こうでの講義の和訳)無門関は、
痒くない所まで掻く感じだしw (或る意味提唱録みたいなもんだしw)
既にある程度読めてる人には、その訓註くらいがちょうどいいのかも。
句集は解釈付だけど、読み方の一例という自覚を持てれば、
網羅抽出の仕方も含めて、一番使い易いかもね。
通底する部分を見れれば、大乗小乗南伝北伝言う必要もなくなるんだろうね。
535 :
神も仏も名無しさん:2014/03/10(月) 19:47:31.59 ID:7DdIzLxd
南伝と北伝は違うよ。
南は「空」が手段、北は「空」が目的、全然違うじゃないか。
釈迦の思想をより正確に伝えてるのが南伝仏教だ。
大乗小乗、南伝北伝を区別しないのは、クソミソ一緒の邪見だなw
536 :
神も仏も名無しさん:2014/03/10(月) 20:11:47.63 ID:sAw13MoP
>>535 w
仏教風呂敷論っつーのがあってだなw 以下略
538 :
神も仏も名無しさん:2014/03/11(火) 21:01:23.30 ID:ai0HfbnM
法華信仰の説く「人間釈迦の生誕前も入滅後も存在する久遠実成の仏」と
密教の説く「釈迦の知恵、法身としての大日如来」と
阿弥陀信仰の説く「釈迦の本願としての阿弥陀如来」って
基本的に同じ発想のように思うのですが。
539 :
神も仏も名無しさん:2014/03/11(火) 21:30:46.68 ID:ANm8vE64
>>538 基本的に小乗的な信・戒定慧によって涅槃・解脱に至るという道の大きな外枠に
菩提心を起こし、一切智の仏になる誓願を立てて涅槃せず、無住処涅槃で生まれ変わり死に変わって普賢行するのが大乗ですから、大きい道、広大な道なのです。
しかしながら、以下の「」内の引用って何に書かれていたものですか?
微妙に誤解が入り込んでます。
>法華信仰の説く「人間釈迦の生誕前も入滅後も存在する久遠実成の仏」と
>密教の説く「釈迦の知恵、法身としての大日如来」と
>阿弥陀信仰の説く「釈迦の本願としての阿弥陀如来」って
>基本的に同じ発想のように思うのですが。
541 :
538:2014/03/16(日) 01:27:55.92 ID:CCkqhNqj
>>539 回答ありがとうございます、お礼が遅れてすみません。
誤解というのは、具体的にはどうですか。
何かをそのまま書き写したわけではないのですが。
542 :
神も仏も名無しさん:2014/03/16(日) 06:06:31.82 ID:Vn+DJ0zt
>>539 >>法華信仰の説く「人間釈迦の生誕前も入滅後も存在する久遠実成の仏」と
上の「存在」が問題。
>>密教の説く「釈迦の知恵、法身としての大日如来」と
「釈迦の知恵」という部分。
>>阿弥陀信仰の説く「釈迦の本願としての阿弥陀如来」って
「釈迦の本願」でなく「法蔵菩薩の本願」
要するに釈尊との関係がおかしい。
悟った人は常人と人相が違いますか?
544 :
神も仏も名無しさん:2014/03/28(金) 09:26:42.78 ID:rk8jboI5
545 :
神も仏も名無しさん:2014/03/28(金) 09:36:18.64 ID:rk8jboI5
>>544 の訂正
次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両鼻孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。
547 :
神も仏も名無しさん:2014/03/28(金) 13:11:55.27 ID:CDBjykVY
>>546 見た目で判断するというのは難しいです
たとえば狂人が正常かどうか自分や他人を判断するようなものです
548 :
神も仏も名無しさん:2014/03/28(金) 13:25:43.76 ID:DEYX3j8F
【何故、シャバに居る??】
・戸塚宏
・金賢姫
・上祐史浩
・金正恩
・習近平
・モサド
549 :
チラ裏:2014/04/10(木) 20:48:24.89 ID:fYrKpwMn
> なんつーかね・・・
>
> 哲学的思弁に矮小化したと、部派仏教は批判されるわけだが、
> 大乗もまた、高度に観念的な思考遊戯に陥った面もあるわけで、
> 現実からの乖離という点では部派の比ではない気もするわな・・w
>
> 特に、ここ最近のスレの流れを見てるとw
>
> 大乗(というか竜樹の系譜)こそが、観念的遊戯に堕していないか?
> とね・・。
550 :
神も仏も名無しさん:2014/04/10(木) 23:35:03.27 ID:XFJWZEmG
>>549 まず、その批判対象の歴史観が鎌倉仏教史観で、誤解ですね。
部派というより、有部とかが仏道を整理するあまり体系化して一面的な見解にしてしまったことが問題じゃないかと
この場合の見解は思想や哲学と言い換えられるもので、それだと最終的に戯論寂滅になりにくい。
ここでその掴んだ見解を放すために中論が説かれたと思うけど、必ずしも有部だけのためではないでしょう
そんな偏狭なものではない
大乗もそうで、部派や小乗の批判とかアンチで出現したわけではありえない。
それは、やはり一切智の仏になるため、利他の普賢行のために説かれ、この世にも流通するようになったと考えるのが妥当だと思う
551 :
チラ裏:2014/04/10(木) 23:47:05.43 ID:fYrKpwMn
>>550 でも、行や体験或いは価値観の逆転が必要、
ということとはまた別種の(理における)「難解さ」があったりしないかね?
だからこそ、その《「理」の部分の謎解き》が注目抽出される傾向を生んでいる、と。
552 :
神も仏も名無しさん:2014/04/11(金) 06:04:52.96 ID:Un1W/n5Q
>>551 それはある。そもそもボサツ地でいえば六地の空性、それ以上の如来蔵や普賢行を、
凡夫の実在論でコジツケて妄想する傾向はどうしようもない、と思う
やっぱ和辻が凡人でも解釈できるとしてしまったのが最大の堕落なんじゃないかと思う
どこに質問したらいいのかわからなくてここにたどりつきました。
スレ違いでしたらお詫びするとともにどこに行ったらいいか教えて頂けると嬉しいです。
もうすぐ知り合いが誕生日なのですが、その方は奈良方面のお寺などで仏像を見るのが
とても好きな方です。
どんなプレゼントがいいか尋ねたところ、綺麗な仏像の写真集が欲しいと言われました。
普段は東北に住んでいるため、いつでも大好きな仏像を見ていられるようにとのことです。
解説などで文章がたくさんあるような資料ではなく、純粋に写真集のようなカラーの写真が
たくさん載っているものを希望しています。
予算は特にないので、安めなものから高価なものまでなにかお勧めのものがありましたら
ぜひ教えていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。
>>553 今正に書店に行けば、所謂「A4ムック」という形だろうけど幾つもあるよ。
昨日も「日本の仏像」とか「仏像入門」って感じのを見たよ。
一度、大き目の本屋へ行ってみたら? ネットより寧ろ探し易いかも。
また、今NHKでやってる「趣味Do楽―仏の履歴書―」(たぶん第2シリーズだろうけど)
のガイド本も出てるから、これなんかもいいかも。
555 :
神も仏も名無しさん:2014/04/16(水) 20:09:53.82 ID:H7VUkMGR
556 :
神も仏も名無しさん:2014/04/16(水) 20:12:32.09 ID:4DXRhNvV
みうらじゅんの本もおもしろいよ
557 :
553:2014/04/17(木) 12:56:17.74 ID:wr26jyOX
ありがとうございます。
別冊〜とか、定期購読系が種類もたくさんあっていいんですかね。
家の近くのモールにはいってるような本屋さんに見に行ってみたのですが、
場所柄かあまり置いてなかったので他の大き目のところを探してみたいと思います。
土門拳、みうらじゅんも詳しく調べてみようと思います。
ありがとうございました。
558 :
神も仏も名無しさん:2014/04/21(月) 00:43:21.48 ID:2r0cQcmk
お知恵をお借りしたくて参りました。
宗教法人宗三寺というのがありまして、そこを調べているのですが
ネット上では今イチ掴みきれません
ご存じの方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いします
559 :
神も仏も名無しさん:2014/04/21(月) 05:43:52.39 ID:AUajJNpr
560 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/04/21(月) 09:37:56.06 ID:JIoLP7wm
>>558 ちょっと検索しましたが、それが株主のガー○とか言う会社は朝鮮系みたいですね。
宗教法人は、税制上優遇されてるので、ヤバい連中が潰れた宗教法人を買い取って利用しているという噂を聞いた事があります。
(^。^)まぁ何にせよ、在日の闇については宗教板では判らないと思いますから、他所で聞いてみて下さい。
561 :
神も仏も名無しさん:2014/04/22(火) 14:39:03.09 ID:GdLogWCm
我が強い。
我をなくす、清める。
両者の意味がわかりません。
あと、自分可愛い性格を仏教的に教えてください。
562 :
神も仏も名無しさん:2014/04/22(火) 15:16:58.58 ID:4vPHjryY
>>561 >我が強い。
「自分が、自分の」と自分中心に考える傾向が強いこと
それを失くすのが、
>我をなくす、清める。
>あと、自分可愛い性格を仏教的に教えてください。
「自分可愛い性格」って「自分が、自分の」と自分中心に考える性格みたいなもん?
だとすれば、それこそ苦の根源と仏教は考えます。
563 :
般若の智慧:2014/04/22(火) 17:54:07.48 ID:5N1xG0FT
般若の智慧は、六支縁起の順観で無明を突破すれば得られる。
ヴィッパサナーを利用してもいいが、考えごとに熱中できるならそれも不要。
2chで、ああだこうだと議論し合うのも順観なのだと思う。
般若の智慧は、五位七五法で言えば無為法の三つのうち、
択滅(チャクメツ)無為によって得られる。智慧による煩悩の消滅である。
残りの虚空とか非択滅はどうでもいい。解脱には無関係だ。
では般若の智慧とは何か。それこそが意識である。
ただし、凡夫の意識は煩悩で覆われているから、般若の智慧にならない。
煩悩を根こそぎにした時、般若の智慧が姿を現す。
>>563 質問箱で、いきなり「俺流仏教」語られてもね・・・。
「チラ裏」とか「独り言」とか「徒然に」とか「偶語」とか
但し書きくらい付けとけw
てか、2ch的言い方をすれば
「ここはお前の日記帳じゃねーぞ(AA略」
「ブログでやれ」
って感じ。
って、誤爆かw
565 :
神も仏も名無しさん:2014/04/22(火) 20:00:49.88 ID:4vPHjryY
>>563 恐らく三昧体験を般若の智慧と捉えたんでしょうね
そして適当に仏教書読んで、適当に解釈した
言葉の使い方が、バラバラで少なくとも伝統仏教とは合いません。
566 :
般若の智慧:2014/04/22(火) 20:09:26.29 ID:5N1xG0FT
567 :
神も仏も名無しさん:2014/04/22(火) 20:34:44.02 ID:GdLogWCm
562
やっぱりそうでしたか。
それって在家なら基本生活ありきの
我を清めるってことですよね。
さすがに衣食住なくしたらそれこそ危ないですよね。
それがあって、まず人に優しくしたりすることですよね。
自分可愛いってのは、褒められたら嬉しいって思っても自分可愛いですか?
自分の解釈では、その通り自分の意見や考えを押し通したり、何かしら嫌なことがあれば怒ったりする人のことかなっていつも思います。
再確認できて良かったです。
仏教って大乗仏教のことですけどね。
有難いです。
568 :
神も仏も名無しさん:2014/04/22(火) 21:03:11.05 ID:4vPHjryY
>>567 そうですね。人に優しくは根本ですね。
褒められて嬉しいは、いいんですけど、その瞬間の感情に執着して
「オレは偉い」などとずっと引きずって妄想が膨らんでは終わりです。
ここは難しいとこで、初心者は褒められても、自分が褒められていると思わない方法の方が安全です。
微細な心の流れを散乱せず見失わずに、感情の遊戯をありありと見つめられるような境地は難しいものだと思います。
我を通したりするのは我執に他ならないと思います。
いや、大乗は素晴らしいですよ。
正に有り難いと思います。
569 :
神も仏も名無しさん:2014/04/22(火) 21:43:41.36 ID:GdLogWCm
ありがとうございます。
そういうことですか。
凄いですよね。その精神というか
自分でも一時の感情で相手のことを考えてるつもりが、結局違ったり。
だからこそ今でも尚伝え続けられてるんだなって感じます。
こんばんわ、質問お願い致します。
あるサイトで↓のような投稿がありました。
「地球とは、様々な動植物が互いに殺し合うために
永遠に子供を産み続ける地獄である。
この本質を理解しない限り、苦痛は永遠に繰り返される。」
↑ このレスは仏教と関係がありますか?
571 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/04/29(火) 19:47:40.79 ID:MXjja32E
>>570 その文言を仏教的に見ると、
>〜地獄である。
→様々な生態系の極一部を短絡的に考える感情論で、強い現実逃避や「地獄」という概念などの誤解がある。
>〜永遠に繰り返される
→同じく「輪廻」という概念の誤解。
結論としては、オウムや肛拭くの禍学などのようなエセ仏教的パラダイスを妄想している方でしょう。
>>571 そうですか。。。御回答ありがとうございます。
人間も他の生物も、生命を落とす時に一番苦痛を感じるものではないでしょうか?
人間も自分の命を養うためには、他の動植物を殺さなければならないし・・・
あながち現実からかけ離れているようにも思えませんが。。。
本物の仏教では上記のような内容をどのように説明しているのでしょうか?
573 :
神も仏も名無しさん:2014/04/29(火) 20:25:32.29 ID:ivualghc
>>572 輪廻とは一切が苦であると説かれます。
そして苦から逃れるために苦の因を認識し、
そこから逃れるために道を歩むのが仏教です。
そしてですから、仏教では他を傷つけず、他を利することを勧めます。
特に殺生、生き物を殺すことは止めるべきとされます。
ここで現代人は、そんなことは不可能だと考えがちです。
ですが、完全にできる方もいますし、できない方でも少しでも不殺生に向かうことがいいことだと仏教は勧めます。
>>573 完全に出来る方・・・とはどのような方でどのような生活をされているのでしょうか?
>>570の方のレスには反出生主義のようなニュアンスも感じられますが、この点は
仏教とは合致するのでしょうか?
575 :
神も仏も名無しさん:2014/04/29(火) 22:49:32.34 ID:ivualghc
>>574 色々ですね。分かりやすいところでは、食べない方です
反出生主義とは、どんな主義なのでしょう?
>>575 反出生主義は、文字通りの意味です。
検索すればヒットすると思います。
577 :
神も仏も名無しさん:2014/04/30(水) 06:11:36.21 ID:23J/Ukxl
>>576 言葉は使ってる人によって微妙に違うので対話することで意味が確定できるものと思います。
そこで、ある程度予想できるのですが、どういう意味で使っているか確認するんですが、
まず、仏教は主義や見解、思想ではありません。
ですから、生まれることや生を一義的に否定することはありません。
逆に、仏教を主義や見解、思想と捉えるなら誤解するでしょう。
仏教はあくまで道であり、道を示す時に主義や見解、思想のように見える言葉を用いるだけのことです。
ですから、言葉としては合致する点もありますが、だからといって生を否定するという思想・見解・主義ではありません。
ここは難解な点ですが、ここを理解しないと仏教を思想・見解・主義と捉え、言葉を摘んで適当に一面的に理解することが起こります。
通説となっている仏教説がそれぞれ矛盾するように見えるのは、思想・見解・主義と捉えて解釈しているからです。
>>577 仏教の道かどうかは分かりませんが、何かでその最終目的は
この苦界から全ての人(魂?)を引き上げて云々〜・・・と
いうレスを見たことがあります。
この世の苦痛は何年経っても実在しています。
そういう意味で反出生主義かと思ったのです。
579 :
神も仏も名無しさん:2014/04/30(水) 10:48:37.95 ID:23J/Ukxl
>>578 魂ではなく、引き上げるというより解脱なら大乗仏教ですね
とりあえず、水野弘元『仏教要語の基礎知識』か山口益『仏教思想入門』を読まれるといいと思います。
後者は思想という言葉をタイトルで使ってますが、内容的に穏当な優れた入門書です。
581 :
神も仏も名無しさん:2014/04/30(水) 11:10:14.11 ID:23J/Ukxl
>>580 いや、ですからあらゆる仏教は反出生主義ではありません。
もちろん、生の肯定なんかもしませんけど。
>>581 自分が生きるために誰も殺し合いたくなんかないし、
誰も苦痛なんか味わいたくないし、
他者にも勿論苦痛は味わせたくない
これは皆が心の底に持っている本質ではないですか?
看過できますか?
583 :
神も仏も名無しさん:2014/04/30(水) 11:56:00.38 ID:23J/Ukxl
>>582 そうですね。仏教だと仏性とか如来蔵とか言われますが。
ただ、そういう前提から何かの主義や見解、思想に還元・導入しようとするなら、
それはもはや仏教ではないでしょう。
584 :
神も仏も名無しさん:2014/04/30(水) 15:58:23.81 ID:WOloFyGb
要するに、釈迦の時代は遺伝子の概念が
無かったから、生命ってのは執着・業に
よって輪廻を繰り返してる呪縛霊みたいな
もんだって考えられてたわけよ
そんな呪縛霊みたいな生命(有情)が
誤った執着・煩悩を捨てて、業を正して
涅槃にゴールできるといいですねってのが
仏教思想の本質
他の宗教もそうだけど、仏教も多分に
迷信に立脚してる、一歩踏み外すと危険な
宗教だわな
まあ、仏教にもっと高尚な思想を期待
しちゃってる人達は「そんな迷信は釈迦が
愚民に合わせて方便で説いたに過ぎない」
って否定するだろうけどね
龍樹みたいにw
>>583 仏教はあくまで道であり、道を示す時に主義や見解、思想の
ように見える言葉を用いるだけで主義や見解、思想ではない
ことは何となく解った気がします。thanks.
586 :
神も仏も名無しさん:2014/04/30(水) 20:09:26.27 ID:23J/Ukxl
般若心経の般若の智慧って何ですか?
現実もフィクションの一種だから執着するなってことですか?
588 :
神も仏も名無しさん:2014/05/05(月) 05:07:32.57 ID:UoyLwlPA
>>587 知覚を実体視せず幻、空と直接知覚することでしょう
観念的に思い込むのではなく
自分抜きで物事が見えるということです
//ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5
般若(はんにゃ、サンスクリット語:プラジュニャー、パーリ語:パンニャー)
一般には智慧といい、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧をいう
同じ悟りの智慧をあらわす遍智(へんち)と区別される
遍智とは文字通り「あまねく知る」ことで、四諦の道理を無漏(むろ)の智によって知ることである
『大智度論』 (44) に次のように説明される
「般若とは秦に智慧という。一切のもろもろの智慧の中で、最も第一たり、無上、無比、無等なるものにして、さらに勝るものなし」
布施・持戒・忍辱・精進・禅定などの五波羅蜜の修行によって
達せられるのが般若波羅蜜であり、般若波羅蜜の調御により五波羅蜜が達成される
「智」は一般に世間で真理といわれるものを知ること
「慧」は出世間的な最も高く勝れた第一義の事実を照見し、それに体達するものであるとする
592 :
┐(´ー`)┌:2014/05/17(土) 23:03:48.92 ID:/kRNlsn5
>>一代
覗いてもいないんだろうがw、一言くらい評を入れてみたらどうだ?
693 神も仏も名無しさん sage New! 2014/05/17(土) 20:55:37.11 ID:0IbJI5HE
>> 691
涅槃らしきものはあるが、仏陀、阿羅漢、解脱はない。
おそらく釈迦か仏教教団の勘違いが入っている。
>それは受入れられませんw
>いやむしろ、脳内麻薬出しっぱなしのまま涅槃したいくらいw
その態度そのものが卒業を拒否している。それじゃたどり着けない。
でも別にたどり着けなくても問題はない。
701 神も仏も名無しさん sage New! 2014/05/17(土) 22:01:36.93 ID:0IbJI5HE
つまり二辺、飽きるまで徹底的にやるか断つ
趣味嗜好においては二辺を極めつくさないと中道は悟れない。
714 神も仏も名無しさん sage New! 2014/05/17(土) 22:40:11.01 ID:clA8aHuE
>> 707
大体仏の4種類というのも無いし、死んでどうなるこうなるというのも無いw
仏像の世界なんてNHKでやってますが、あんなのは文化仏教であり仏教ではないのですよw
文化、師匠-弟子の伝播(担保とか言われるww)、伝統、伝承なんてのは糞です。
糞の世界こそ大事と非常な守りの体制=保守の人たちもいますが、全く価値の無い人たちです。
仏教に興味があるのならゴータマを想像するべく中村元氏の原始仏教(岩波青)でも読むのをお勧めいたします。
594 :
神も仏も名無しさん:2014/05/18(日) 03:37:02.93 ID:s5aPITVf
>>592 オレオレ仏教ですね
言ってもしょうがない
それが分かった
浄土と図絵、読んで頂けた?
↓じゃないよね?w
浄土和讃図絵 - 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/821389
書誌情報. 簡易表示. タイトル: 浄土和讃図絵; 出版者: 宇田総兵衛; 出版年月日: 明26.1;
請求記号: 特36-855; 書誌ID: 000000464896; 公開範囲: インターネット公開(保護期間満了).
詳細表示. 資料種別 (materialType): Book; タイトル (title): 浄土和讃図絵
大法輪か何かのコラム的なもの?
過去ログもぐぐる先生もヒットしないお(´・ω・`)
596 :
神も仏も名無しさん:2014/05/18(日) 11:38:04.23 ID:s5aPITVf
二冊です
一冊は流通してる浄土本
もう一冊は美しい図絵
具体的には勘弁してください
メールしてくれれば、図絵の方は送るよ〜、セブン
>>590 般若思想をきちんと理解していれば、「ある人にとっての世界は
与えられた情報と自分の感覚器、経験が和合して作り出されたもの」と分かります。
なのでWikipediaで調べれば何でも分かると思っている人間は
「Wikipediaに自分の世界を作られてしまっている」と分かりそうなものですが。
>>596 大法輪閣から「涅槃図物語」(竹林史博)ってのが出てて
(速攻買ったがw)中々面白かったな。
仏像だけでなく、仏画・図像も見る機会って少ないしね。
好きな人は寺巡りして図像行脚(w)でもするだろうが、普通の人はそこまでせんしね。
どこにどういうのがあって見れる見れないとかもわからんし。
ああやって一度に比較閲覧できると、
細部の細部に至るまで、ああ、ちゃんと意味があって描かれてるんだなぁ・・ってのを再確認できる。
二度以上使うことなぞないだろうと思ったからか、PC交換前だったからか、
メアドなんざ残ってないなw やふーの棄てアドも使わずに幾年月でどうなってるか不明だしw
ほんとの文字通りの片手間程度で済むなら、見てみたい気もしないでもないけど。
判断お任せするw 気が向いたらでいいよ。(はたしてそっちにアド残ってるかどうかって状況だと思うから。)
浄土絵図か・・・。つか、画像ファイルになってんの?(´・ω・`)
ノシ
599 :
神も仏も名無しさん:2014/05/19(月) 05:44:31.67 ID:qPcf0yxo
> 涅槃らしきものはあるが、仏陀、阿羅漢、解脱はない
> おそらく釈迦か仏教教団の勘違いが入っている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6 一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる
仏教は輪廻からの解脱の考えに基づいている
苦集滅道によって解脱を目指すことが初期仏教の目的であった
_ _ _
> 般若思想をきちんと理解していれば
> 「ある人にとっての世界は与えられた情報と自分の感覚器、経験が和合して作り出されたもの」
> と分かります
> なのでWikipediaで調べれば何でも分かると思っている人間は
> 「Wikipediaに自分の世界を作られてしまっている」と分かりそうなものですが
個人的な見解・主張よりも
ウィキペディアの方が (教学として勉強する場合は)
一般的なものを、わかりやすく説明してる場合もあります
>>599 お手数おかけしたな・・w (^^;ゞ
リンク蟻m(_ _)m
2012年の「絵解きってなぁに?」、まるっきりの図像学の展示なのなw
こっちも注文したったw(´・ω・`) 当時宣伝の時から気にはなってたんだけどね。
余談だが、
絵伝の解説担当の学芸員の一方、なんとなく名前が思い当る・・w
袴谷・・いや松本ゼミだったかなぁ・・? 直接の接点はないけど、学内でよくみかけた。
チベット・インド系中心に授業とってて、すげーやる気ムンムンのオーラ出してる子がいて・・。
あの子かしらん・・・w
そろそろ、私信に使うなと怒られそうだな・・・ また何か面白そうなネタあったら宜しくw ノシ
>栄西
よく禅宗の祖といわれるけど、
各宗門内での歴史的位置付けだけでなく、実際の影響としても、
単に「日本に紹介しただけ」みたいな扱いだからね・・・w
各宗歴代祖師の系譜・名簿(勿論、戒脈としても)に、名前出てこないし。
確認してみてなるほど。そりゃ存在も霞むわな・・。
現行臨済は楊岐派で栄西は黄龍派で、今は更に白隠ひと色に集束しちゃってるから、致し方ない面もあるかも。
良寛・一休は、系譜とは別にその個性によって目立ってるわけで・・。
師資相承を軸にした直接対面指導直接対面学習の世界だから先細った流派じゃ
伝承のメインストリームも担い切れなかったのかな・・。>日本黄龍派
(多くの祖師方も皆、国内無視して入唐してるしw)
たぶん、ちゃんとやるとそれなりに面白いんだろうな・・(^^; >禅宗史
602 :
神も仏も名無しさん:2014/05/24(土) 10:13:55.55 ID:AuO5Kxcc
自分自身を「この経」と表現するメタで自画自賛な「法華経」の中で、
「薬草喩品」「五百弟子授記品」「授学・無学人記品」「観世音菩薩普門品」には
「法華経」自体を指す単語を見つけられなかった。
なぜ? この辺が法華経の「本文」なのか?
鳩摩羅什の訳をしか見てないので他の訳では違うのかもしれん。
だれか法華経の「本文」について知ってる先人は居ないかな?
日蓮系、天台系以外で。
603 :
神も仏も名無しさん:2014/05/24(土) 11:54:04.30 ID:Zu9xhlnY
>>602 文献学のようなマテリアルに定型的なテキストを『法華経』と考えるようでは分からないでしょう。
道元禅師が引用する六祖慧能の言葉「心迷えば法華に転ぜらる、心悟れば法華を転ず」[『正法眼蔵』岩波文庫、四巻、四三三頁]でいう『法華』が「この経」でしょう。
そのような教えという意味。
つまり、迷える凡夫は『法華経』を聞いたり受持したりすることによって一乗に信を起こし仏への道に転ぜられ誓願を立てます。
やがて誓願どおり仏になり、『法華経』という教えを生き物に転じます。言い換えれば、仏になって『法華経』を有情に説くということです。
つまり、そこでいう経というのはマテリアルなテキストでなく、一切智を目指す一乗を示すために七地で涅槃しようとするようなものを驚愕、加持する教えというような意味に他ならないと思います。
>>603 彼は、
そういうマテリアルな意味での、(経典成立史としての)、(研究(≒趣味・興味)の一端としての)
先後をこそ求めてるんじゃないの?
>>602 前半が早いらしいよ
後半がやや遅れて成立、付属は別途成立したものが後に付加されたらしい
606 :
神も仏も名無しさん:2014/05/24(土) 14:21:32.89 ID:AuO5Kxcc
>>603 どうもありがとう。
マテリアルな「法華経」には「言葉」として表現された『法華経』は書かれていないということかな?
まあ、でも僕が知りたいのはまさに文献学的なマテリアルの話なので。
「薬草喩品」を読み直してみたら「一味之法」なる単語があった。
これも『法華経』の代名詞となれば・・・ハイ、「薬草喩品」消えた!
>>604 そんな感じです(^^;
主に「観音経」は「法華経」の一部なのに、なんで『法華経』出てこねーの?
ってところから出発した、単なる「興味」です。
>>605 ということは「観世音菩薩普門品」本文説、ハイ消えたー!w
誰か「観音経」と「法華経」の関係について書いてあるような著作とか論文とか知らないですかね?
どうも「法華経」の中での「観音経」の空気読めてない感が半端ないもんで(^^;
観音信仰は西インド・チベットでかなり古い時代からある
そのへんの土着信仰であった可能性はあるかもね
608 :
神も仏も名無しさん:2014/05/24(土) 15:53:38.72 ID:Zu9xhlnY
>>606 そうか、
それなら法華経成立論とか色々あるでしょ
私はそういうの論は意味がないと思う
なぜなら、大乗経典は感得経典に他ならないから
感得者の意志で書き換えているとは思えないんで
610 :
神も仏も名無しさん:2014/05/24(土) 19:06:54.55 ID:AuO5Kxcc
>>607 やっぱり、観音信仰を「法華経」が取り込んだ系ですかね。
他所から持ってきたから勝手に改変できなかった。みたいな?
>>608 ですか。
まあ、意味があるかどうか決めるのは僕なんで(^^;
とりあえず法華経成立論とかググっときます。
ありがとうございました。
611 :
神も仏も名無しさん:2014/05/24(土) 20:09:14.33 ID:Zu9xhlnY
>>610 >まあ、意味があるかどうか決めるのは僕なんで(^^;
仏教的に意味あるかどうか決めるのは伝統聖者だけだと思うよ
>>611 激辛ラーメン、
A美味しいかどうかの価値判断と、
B健康に関する価値判断とは、
同じじゃないし、一方だけが正義でもないわな。
Aの価値基準で、
Aに叶う例を提示する必要のある場面で、Bでなければならない意味はないよ。
今の場面では、聖者の価値観なんぞ全く不要だろ。
さすがに難癖過ぎるわw
613 :
神も仏も名無しさん:2014/05/24(土) 20:51:21.95 ID:Zu9xhlnY
>>612 そうか?
歴史主義に立って経典成立論を持ち込んだ時点で
もはや大乗を信じてないと思う
そちらに立ったら、もはや骨董鑑賞とか考古学みたいなもんにしか見えないし
正に仏教学者はそういう心根で研究してる人が多いように思う
そういう方向だと、どう足掻こうと廃れていくだけでしょう
>>613 サッカー選手に野球のルール押し付けてどうすんのさw
615 :
神も仏も名無しさん:2014/05/24(土) 23:11:32.92 ID:Zu9xhlnY
>>614 そりゃ、求めてるものが違うのは分かるけど
覚醒剤求めてる人に覚醒剤あげるようなことはできない
それと大乗と言ってしまったけど仏教と言い直すは
少し丁寧に言えば、
仏師が仏像を彫るにしても、
漫画家が、或る作品のキーマンとして僧侶或いは教導役の仙人的キャラクターを造形しようとしたとして、
そのとき、服のデザインはどうだったか、
肌の色は?髪型は?顎の形や頬のラインは? ということを気にするのは、
確かに、仏道からすれば全く無駄・無益な愚かな思考・志向でしょう。
けれども、作品の製作に於いては、最重要課題と言ってもいい。
或る要素、或る方向性を無駄無益と切り捨てるのは容易いが、
それが文脈無視では、勝義厨と変わらんと思うよ。
文献を資料的に見る視線が覚せい剤的ってのは
さすがに言い杉でしょ・・(^^;)
>>615 つーか、
>>613>もはや大乗を信じてないと
は、
大乗(仏教)を信じている者だけが仏典に触れるべきで、
信じていない者は触っちゃいけない(→考察対象としてはいけない)
と言っているように聞こえるぞw
*(君は、聖書やコーランを(阿含や大乗諸経と同じように)信じているかい?
もし、信じていないなら、聖書やコーランを読んだり、
ましてや、もっと踏み込んで考察したり仏教(仏典)と比較検討したりしてはならない、
ってことになる。)
あなた宗教学者に向いてる
南伝仏教には大日如来も阿弥陀如来も薬師如来も観音菩薩もいないんですか
620 :
神も仏も名無しさん:2014/05/25(日) 07:18:34.46 ID:Ply1eBFW
621 :
神も仏も名無しさん:2014/05/25(日) 08:08:53.11 ID:NPuTMA7a
法華経成立論でググって見たんですが、大半が宗派宗学的な物ばかりで「色々」はなかったですね(´・ω・`)
とりあえず、
『法華経成立の新解釈-仏伝として法華経を読み解く』平岡聡 (著)\4,752
が目的に近そうな雰囲気なんですが、「法華経」全体的な成立論ですよね。
「観音経」へのクリティカルな興味本位だけで買うにはちと高いすね。ジャンル的に地元の図書館にはなさそう。
誰か読んだ人いないですかね?
「観音経」に『法華経』出てこない理由とか書かれないですか?
622 :
神も仏も名無しさん:2014/05/25(日) 08:50:44.80 ID:Ply1eBFW
623 :
神も仏も名無しさん:2014/05/25(日) 09:34:01.13 ID:NPuTMA7a
>>622 国会図書館ですか、敷居が高いですね(^^;
どうやら興味本位で簡単に調べられるような話じゃなさそう。
そこまで執着のある話でもないし、仕方ないですね。
縁があれば自然と知れるでしょうw
リンクありがとうございましたm(_ _)m
624 :
神も仏も名無しさん:2014/05/25(日) 09:50:50.13 ID:Ply1eBFW
>>623 国会図書館は検索のため、そこから所蔵図書館も辿れるよ
ただ、成立論はたいてい研究書だから一般図書館にはないし
基本的な知識がない人には読めない
シリーズ大乗仏教4とか以前の講座大乗仏教シリーズの法華思想
が入手しやすいけど
625 :
神も仏も名無しさん:2014/05/25(日) 14:05:16.70 ID:MNc8T6MD
って、五万もなかった・・w すまんw
627 :
神も仏も名無しさん:2014/05/25(日) 19:28:33.35 ID:NPuTMA7a
>>625 はあ、最近は便利なものがあるんすね。ありがとうございます。
でも、ネットで読めるものは少ないようですね。
タイトルからでは「観音経」のKY感についての考察もなさそう。
となるとやはり国会図書館で論文漁り・・・orz
今は機根的余裕ないんで、仕事クビになった時にでもやってみます(^^;
628 :
一代へ茶の肴w:2014/05/27(火) 20:05:41.86 ID:c/dAaTwE
390 神も仏も名無しさん sage New! 2014/05/27(火) 19:04:24.05 ID:bB3j2fr7
道元が釈迦を否定したかどうかだって?
大乗と上座部はまるで別人のような観がある。
道元は禅宗だが、大乗の法華経と般若心経を基本経典にしている。
本人は無自覚でも、そういう意味では、
釈迦を根本帝に否定していると言ってもいいかもしれない。
御隠居が指摘するように、釈迦は時空裁断など思いもつかなかった。
この言葉は、道元と釈迦が異質であることの決定的証拠だね。
道元は「中論」系統の人だよね
629 :
神も仏も名無しさん:2014/05/27(火) 20:20:46.78 ID:MwLf2SXC
>>628 中論と大智度論はテーラワーダより釈尊そのもの
道元禅師は中論と大智度論そのもの
つまり、テーラワーダより道元禅師の方が釈尊に近いと思う
お釈迦さん┬部派┬上座部
| └略
|
└大衆部―大乗諸派―・・・―禅
一般的には、
(一代が嫌うw)こうした↑距離感があるから、
なかなか首肯する人は少ないよね・・w >釈尊→道元、釈尊=道元
631 :
神も仏も名無しさん:2014/05/28(水) 06:30:53.05 ID:yXQKlwwK
>>630 大衆部から大乗ってのはもはや否定された説で文献学でも通じないと思うよ
スッタニパータと中論・大智度論が少なくともスリランカ仏教より接近するのは
文献的にも明らかなんだけどね
ブッダゴーサまではいいけど、ダンマパーラ以降は逸脱してくし
排他的で政治的なスリランカ仏教は日蓮的でしょ
632 :
神も仏も名無しさん:2014/05/29(木) 10:24:49.08 ID:W9HrVEv5
『禅宗編年史』正続『東福寺誌』という圧倒的な歴史書を書いた白石虎月、
またの名を白石芳留は東福寺派の僧侶で、東大史料編纂所で働いてたみたいだけど、
ほとんど仏教学の中で無視されてるのはなんででしょう?
634 :
神も仏も名無しさん:2014/05/29(木) 14:17:22.19 ID:W9HrVEv5
635 :
神も仏も名無しさん:2014/05/29(木) 21:21:30.81 ID:VTWsKhJ/
法華経と言う経文はどのような内容なのでしょうか?
637 :
神も仏も名無しさん:2014/05/29(木) 22:34:29.56 ID:x3sIGhC2
638 :
神も仏も名無しさん:2014/05/30(金) 06:28:13.65 ID:nAPMvK25
>>635 釈尊の誓願が説かれたお経
その誓願とは一切の生き物を一切智の仏にしますという誓いです。
ですから『法華経』で「私はかつて誓願を立てて、あらゆる生きとし生けるものを私など[諸仏]と異なら無くさせたいと望んだ。私がかつて願ったようなことは今、満たされ、あらゆる生きとし生けるものを導いて仏道に入らせた」と説かれます。
[『法華経』大正大蔵経、九巻、八頁中; 岩波文庫、上巻、一◯八頁]
聖徳太子が「釈尊がこの世に化身した大意は『法華経』を述べて、あらゆる善が真如である仏智に帰する妙因を修行させ、不二の大果を得させよう望まれてです」と説かれるのも正にそういうことです。
[『法華義疏』大正大蔵経、五六巻、六四頁下; 岩波文庫、上巻九頁]
ですから『法華経』は本来、空性を悟った第七地の菩薩や、アルハット、独覚のための教えです。
ですが「あらゆる善が真如である仏智に帰する妙因」は「万善同帰」とも言われ、一乗の教えを指します。
万善同帰は「法を聞いて布施し、あるいは持戒、忍辱、精進、禅定、智慧など様々な福徳を修習するような人々はみな皆仏道を成し遂げていると『法華経』が説くように
あらゆる善行をちょっと為したものは、みな仏道を成し遂げている、つまり仏の覚りへの道、仏になる道、ボサツ行、普賢行に入ったということです。
この意味で凡夫でも『法華経』を聞くことに意味があります。
薬師如来と薬王菩薩ってなんか関連がありますか?
史的人物の釈迦が自らを衆生の煩悩を沈めて悟りに導く医師に例えたってのはしってるけど
「薬師如来の八大菩薩の一人」ということであるらしい
http://tobifudo.jp/butuzo/25bosatu/02.html 薬王菩薩 やくおうぼさつ
三十日秘仏の二十九日仏
薬をもって人々の身心両面の治す仏様です
もとは星宿光という名の長者で、電光明長者という弟がいます
後に星宿光は薬王菩薩に、弟は薬上菩薩やくじょうぼさつになります
そして将来は浄眼如来、浄蔵如来におのおのなると言われています
また薬王菩薩は、一切衆生喜見菩薩の生まれ変わりとされています
薬師如来の八大菩薩の一人であり、阿弥陀様の二十五菩薩の一つでもあります
楊柳観音と同じとする説もあります
持ち物 幢幡どうばん
_ _ _
薬師如来
小咒−オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ
642 :
神も仏も名無しさん:2014/05/31(土) 05:18:43.38 ID:MVu3jZr/
>>641 そっちはいいは
疲れるだけなんで
いいよ現物、素晴らしい
でも、その図録の解説はいろいろ残念です
643 :
神も仏も名無しさん:2014/05/31(土) 06:42:41.12 ID:41LG08es
| └略
|
└大衆部―大乗諸派―・・・―禅
一般的には、
(一代が嫌うw)こうした↑距離感があるから、
なかなか首肯する人は少ないよね・・w >釈尊→道元、釈尊=道元
禅の達磨は、中国で住んでいた寺院は小乗仏教寺院だったらしい・・・・。
無功徳とは、意外に他の大乗の功徳思想のアンチテーゼ。
小乗仏教寄り要素があったりして・・・・。
644 :
神も仏も名無しさん:2014/05/31(土) 07:13:41.70 ID:MVu3jZr/
>>643 もはや、大衆部から大乗が生まれたという説は支持されないと思うよ
オイラのイメージだと部派と大乗って矛盾しないんだよね
部派は律と経、アーガマ・ニカーヤの伝承サンガで
大乗はそれらを受けても受けなくてもいい遊行者集団
どうも唯識ができてから、部派としての大乗ができたんじゃないかと妄想
唯識は宗派意識があって、諸部派と対立、対抗したのかもしれない
そこらへんチベットで大乗はニンマなどの遊行集団、部派はゲルクなどの僧院集団、日本でも同様に大乗は遊行集団、僧院集団に相当すると妄想
僧院系は教科書を用いた形骸化したものになりやすく、遊行集団も放逸無軌道な集団になりやすいけど、どうも本物はこっちが多そうな気がしてる
達磨については文献的にフォローできるのか疑問ですが、少なくとも『六祖壇経』は本物の大乗だと思う
646 :
神も仏も名無しさん:2014/06/01(日) 11:09:16.49 ID:4gEt5qlP
もう議論され尽くされ、且つ禅問答かもしれないけれど、質問です。
中学、高校、大学の進路実現なんか、ときどき自分のエゴを満たす為の方法を国が支援しているように思えてしまいます。
仏教は、それすら否定しているように思えます。
「自己中はいけませんよ」といいますが、
進路の考える始まりとして、
自分の中にある自然な喜びや生き方について考えることは、厳密に言えば他人に共有される事は無く、
エゴであることは変わらないと思います。
仏教の思いやりや自分を律することの厳しいところは憧れますが、
とにかく試験やチームでリーダーシップを振る舞う度に、罪悪感があります。
現実に言えば落ちる人だっているし、その中には命をかけざるを得ない人がいる。金子みすゞの「海の中では何万の鰯の弔いするだろう」ではありませんが。
それにそれは試練に立ち向かわない言い訳だし、他に自己実現している人を攻撃したりねたみそうで、そのエゴの方だけは受け取りたくないです。
持論は、「エゴを消すには、悪を背負ってでもエゴと本気で向き合う」です。
それでも子どもの頃は、赤ちゃんの頃からエゴを徹底的に抑えるようにすれば、争いなんていっさいなくなりみんななかよくできると本気で思っていました。
進路を歩む事って、仏教からすればエゴであり、必要であれど悪なんでしょうか。
648 :
神も仏も名無しさん:2014/06/02(月) 20:29:48.18 ID:GpZ7grH4
>>647 ほんとに仏教そのものの答えなら、世俗の中にいるかぎり全て罪作りなので
真剣にやってられないと思うなら、ビルマかブータン、ネパールあたりの高僧の元に行って真剣に出家し、解脱、成就するのが最善です。
ですが、仏教の道は一つではないので、社会生活しながらでも続けることができます。
出来る範囲で最善をつくせばいいのです。
ちょっとでもいい状態になることも仏教は教えます。
こちらの場合は、単に念仏でもいいですし、もうちょっと真剣にやりたい場合は、大乗の方があってるのでチベット系の高僧に教えを受けて実践するのがいいと思います。
>>647 ありがとうございます。
>>ちょっとでもいい状態になることも仏教は教えます。
これなら出来そうです。
>>ほんとに仏教そのものの答えなら、世俗の中にいるかぎり全て罪作りなので
もの凄い抑圧の中で生きるのですね......。
親の元にいざるを得ないとは言え、無欲にも程があるニートや引きこもりとか、実は近いところにいるんじゃないかと思えます。
人類は必要悪を重ねて生きているようにも聞こえました。
それは物事の悪い部分を忘れるな、という良い意味での後ろめたさを教えてくれるようです。
相当自立した考え方にも思えます。
650 :
神も仏も名無しさん:2014/06/02(月) 21:32:01.95 ID:GpZ7grH4
>>649 仏教は素晴らしいですよ
輪廻の悲惨さを説く一方で、人に生まれる有り難さ、
あらゆる生き物が仏性を持つことも説かれますので、
悲観せず、喜んでよく生きることを勧めます。
651 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/06/02(月) 23:44:07.08 ID:LVQBHtcv
「維摩経」という経典がある。
この主人公は豪商の仏教徒で、
「金儲けダメ!」とか色々言う出家者をコテンパンに論破しまくる。
遂には観音などの菩薩らも論破され、
最後に文殊さんとの対話で、かの「維摩の一黙」という慣用句まで生まれた有名な経典。
仏教なんてのは、上っ面だけ学んでも意味は無い。
(^。^)先人の教えを逃げ道にすんなよ。(笑)
このタイミング(≒レス位)で
>>651が書き込まれる理由がピンと来ないんだが・・w
このタイミング(≒レス位置)で
>>651が書き込まれる理由がピンと来ないんだが・・w
>>650 昔、手塚治虫のブッダとか、岩波のブッダの言葉とか、ガンジーの自伝読んだりして、
こんなんなれないよ!と嘆いていました。
やっぱりエゴからは今は抜けきれないし、
いきなり解脱は僕には無理です。
自分への背徳です。この考えもエゴでしょうが、
自分に子どもがいたら、エゴすら認めて自分に正直であれと言い、その中で学ばせます。
仏性と言う考えをwikiで見ましたが、良い考えですね。
原始仏教ではないようですが、僕はこの考えは、後世が生んだ良い考え方だと思います。
当たり前に自分に何か出来る事に喜び、人と交渉できる事を喜び、
その過程で嘆いている人の話を聞きあい、共有できることにも喜び、
そんな当たり前に感謝して、良いも悪いも含めて全力でぶつかっていくことが、
解決かもしれません。
ちょっと、物事に対してマイナスになりすぎてました。
私事ですが、誤解から始まった事と言え、卑屈になりすぎた事がありました。
今も少し引きずっていますが、いいところに○をつけて、それを伸ばす努力を認めます。
長い目で、成長し続けたいです。
今の自分でできることをやっていくだけですね。
655 :
神も仏も名無しさん:2014/06/03(火) 08:37:10.19 ID:s5zz0cpk
>>654 ブッダは長い過去世にずっと修行してきた一切智者ですので、我々とは全く違います。
ですが、そのブッダに我々もいつかなれる仏性がありますから、
ちょっとでもいいことをして悪いことはしないようにして
ブッダを信じブッダになればすようにと誓えば、もうボサツですよ。
コツコツと地味にブッダに近づいていこうと思ってます、私も
真宗の人のページなんかに時々「お待ち受け法要」という言葉があるのですが
これはどんな法要ですか?
隠居節、今日も絶好調です。
991 神も仏も名無しさん New! 2014/06/05(木) 17:23:49.27 ID:8ADByfW5
>> 988
三(四)法印は、小乗を区別するためのもの。釈迦の狂気の残存に過ぎない。
無意味である。大乗では、事実上は否定されている。大乗では、「常楽我浄」である。
658 :
神も仏も名無しさん:2014/06/05(木) 20:16:34.03 ID:nWFG+jBL
>>657 法印も仮設だと説明するために常楽我浄が説かれるんですけどね
もちろん常楽我浄も仮設、宝性論に詳しいです
>>658 それだけじゃ、質問箱としては?マークが消えんでしょw (仮設の説明から入らなきゃならんし)
「常楽我(浄)」と、
「無常・苦・無我(・不浄)」の正反対が言われているのに、
それが矛盾でない、ということは、如何にして得心可能なのだろうか、と。
それとも、悟るまでは理解できない(矛盾なまま抱え続けねばならない)ことなのか?と。
>>656 本来勤めるべき年次よりも時を早めて行う法要のことだと思います。
例えば親鸞聖人750回大遠忌法要は平成23年から24年にかけて
真宗各派の本山において厳修されましたが、本山以外の寺院では
早めに行っている場合があり、それを「お待ち受け法要」と呼んで
いるのだと思います。
真宗以外でも、宗祖○○上人○○回大遠忌「お待ち受け法要」を
勤めているところがありますから。
661 :
神も仏も名無しさん:2014/06/05(木) 22:08:48.31 ID:nWFG+jBL
>>659 だってセブンに答えてるんだも〜ん
じゃオマケで仏教は何らかの思想や見解を主張しているのではなく、
実在論的な見方を鎮めるために無常・無我・空を説き、
無常・無我・空を思想・見解として掴んでしまった人に
その見解を鎮めるために常楽我浄を説いた。
無常・無我・空も常楽我浄も導きの教えであって
教えも寂静の境地に至った時は、鎮めなければ寂静にならない、と
了解w
663 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 07:28:20.71 ID:zMOwepk1
>>661 > 教えも寂静の境地に至った時は、鎮めなければ寂静にならない、と
教えを鎮めるとは、どゆことやねん?
意味不明!!
664 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 07:48:06.53 ID:pK40DfFn
>>663 教えも分別であり、その分別も消え鎮まるってこと
これが筏という教えも、河という輪廻を渡るためのものだけど
渡ったら捨てる、つまり教え自体も消え鎮まるという意味
665 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 08:12:17.35 ID:njYql0YA
>>664 >
>>663 > 教えも分別であり、その分別も消え鎮まるってこと
> これが筏という教えも、河という輪廻を渡るためのものだけど
> 渡ったら捨てる、つまり教え自体も消え鎮まるという意味
教えを筏に例えてるのは分かるけど、その筏(教え)で生死の海(輪廻)を渡れる道理がわからん?
666 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 08:26:07.34 ID:pK40DfFn
>>665 >教えを筏に例えてるのは分かるけど、その筏(教え)で生死の海(輪廻)を渡れる道理がわからん?
う〜ん、そうなると仏教について何も分からないってことかな?
四諦が分かれば、問題ないと思うんだけど?
どこが分からないのか、もはや手がかりがないです。
667 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 08:57:04.22 ID:njYql0YA
>>666 > どこが分からないのか、もはや手がかりがないです。
うん!じぇんじぇん分かんない( ̄▽ ̄;)
でも、四諦はしってるよ。
空については
ひろさちや先生が(こだわらないこと)って言ってるけど、それでいいの?
でも、それって、その辺のおっちゃんの人生哲学とたいして変わらないじゃん!!
ある学者さんは、結局、空というのは、目線を変えただけ!!って言ってるけど、一般的な解釈でよいなら自分も学者さんの言ってるとおりだと思う。
生老病死の問題から始まった仏教だけど、目線を変えて問題解決しましたとか、自分には♪全く理解できないや。
ほんとうに、「空」とは、「仏教」とは、そのような教えなのでしょうか?
ほんとうに?
668 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 09:19:04.97 ID:pK40DfFn
>>667 そういう気休めと仏教は違います。
ひろさんの本は捨てて書かれたことは忘れた方がいいです。
山口益『仏教思想入門』
水野弘元『仏教要語の基礎知識』
この順番で三回ぐらい読んでみてください。
本当は伝統的な聖者から教えを受けるのがいいのですが、
なかなかそういう方と出会えることも少ないし、
現代日本人でいきなりそこに行くのは抵抗もあると思いますので上をお勧めします。
669 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 09:36:43.99 ID:njYql0YA
>>668 う〜ん、本を読んで下さいもイインダけど…
どうして、仏教とはナニナニである!って単純に言えないのかな〜
パンタカさんは、自分と同じで理解力無かったみたいだけど、覚られたんでしょ?
パンタカさんは、そーゆー難しい本を読まなくても、覚れたんでしょ?
どゆこと?
難しいことを、知らないと悟れないの?
とするなら、パンタカさんは悟れないよね?
やっぱり精神の持ち様とかなの?
釈然としないよね(´Д`)
670 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 09:54:34.18 ID:pK40DfFn
>>669 もう言ってあるけど、
変な知識が邪魔して理解できないだけですよ
要するに妄想を鎮める道としての教え
鎮めるためには教えを行わないといけない
パンタカは釈尊から教えを受け、
それを愚直に行ったので妄想が鎮まったんですよ
671 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 10:06:36.08 ID:njYql0YA
>>670 >
> もう言ってあるけど、
> 変な知識が邪魔して理解できないだけですよ
>
> 要するに妄想を鎮める道としての教え
> 鎮めるためには教えを行わないといけない
>
> パンタカは釈尊から教えを受け、
> それを愚直に行ったので妄想が鎮まったんですよ
ん〜?
へんな知識って何なのよ?
まぁ兎に角一度、その悟りのシステムを書いてみて欲しいな
書けない筈はないのだから
妄想とやらが鎮まって、
苦しみから逃れられる道理が知りたいのです。(´-ω-`)
672 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 10:11:25.39 ID:pK40DfFn
>>671 ひろさんとかですがな
今は聞く耳もたないんで無理でしょう
私はやめときます
673 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 10:14:41.09 ID:njYql0YA
>>670 > パンタカは釈尊から教えを受け、
> それを愚直に行ったので妄想が鎮まったんですよ
これとかさ↑
釈尊からどう言う教えを受けて、其を愚直に行うとどの様なシステムで妄想が鎮まって、結果、苦しみから解かれるのか?
その辺を説明しないと、しょーもない話で終わっちゃうよね
674 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 10:17:14.17 ID:njYql0YA
>>672 質問箱なのに…ズルー
分からないなら分からないと言えばいいのに…
>>673 (日本的に言えば)、
「汚れよ落ちよ。汚れよ落ちよ」と念じながら、
玄関・下駄箱と同僚達の履物を毎日丁寧に掃除しなさい。
と教えたの。
一心不乱、純粋に余念なく、心が澄み落ち着いてきて・・、といった感じ。
676 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 10:41:08.35 ID:njYql0YA
>>675 そのくらいのこと、自分だって知ってるよ!!(´・д・`)
漫画で読んだもん
問題は、それが、最終的に、苦しみからの脱却にどう繋がるのかってこと
そこんとこ説明しないと無意味だって書いてるでしょ!(´-ω-`)
お釈迦様は、アーナーパーナ・サティという、呼吸に気づきながら
入息・出息をする方法を弟子たちに教えた。
そして、多くの弟子が悟ったと言われている。
つまり、呼吸という命の根源的なものにひたすら意識を向けることにより
どんどん悟りそのものになっていく。
お釈迦様の偉大な功績を一つあげるとするなら
アーナーパーナ・サティをあげたい。
戒というのは、このアーナーパーナ・サティを不断に行ずれば
おのずと守られるのである。
679 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 10:55:35.68 ID:njYql0YA
>>679 そう。座っても、歩いても、立っても、サティ「気づき」
>>676 チュッラパンタカの場合には、ほぼそれだけじゃない?
心が澄み切って、欲望も悪意も邪な想いもなく、ただ鎮まった心の状態(苦からの解放)に繋がった、と。
勿論一般の弟子は、行により心を鎮め、諸法の縁起してあることを見、頷き、
自身(の身心)もまた縁起せるものであることを見、頷き、
苦の生じてくる諸因諸縁を断って、防いで、心の平安(苦からの解放)に至るわけだけど。
682 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 11:04:07.51 ID:njYql0YA
>>680 そんなことより
「悟りそのものになっていく」 とか
訳の分からないこと書かない方がいいよ。
父ちゃんでも、学校の先生でもいいから、その文章見せて、意味が分かりますか?って聞いてみるといいよ。 ̄(=∵=) ̄
683 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 11:08:52.80 ID:njYql0YA
>>681 > チュッラパンタカの場合には、ほぼそれだけじゃない?
> 心が澄み切って、欲望も悪意も邪な想いもなく、ただ鎮まった心の状態(苦からの解放)に繋がった、と。
悪心がおさまったってこと?
じゃ病の苦しは?
病の苦しみって心の問題じゃないよね?
お釈迦様は、「四念処」という、自分と肉体の同一化を離れる瞑想を伝えた。
この肉体は、わがものではないと。
病苦は、この身はわがものだと思うと、ものすごい地獄の苦しみとなる。
しかし、苦しいながらも、呼吸に意識を向けていると、全然違う。
これは、自分の体験でもある。
>>683 仏伝には、入滅間近のお釈迦さんは、食中毒(赤痢?)の激痛に襲われたが、
集中して(念を凝らして)痛みに耐えられた、とあるよ。
つまり、そこに(悟った人には)『「痛み」はあるけど「苦」はない』ということなんじゃない?
痛いものは痛いでしょ。
物理的な、肉体的な作用は作用として感受されるけれども、
それが苦と感じられるか(受け止められるか)は、また別問題(別段階)、と。
喘息発作で苦しんでいたころ、ただ息をすることだけに集中していると
苦しいながらも、心は静かだった。
しかし、なんでこんなに苦しい思いをせにゃあかんのか。とか
俺は、なんでみんなのように、健康じゃないのか?などの
想いにとらわれると、まさに地獄になる。
687 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 11:36:41.81 ID:njYql0YA
>>685 >
>>683 > 仏伝には、入滅間近のお釈迦さんは、食中毒(赤痢?)の激痛に襲われたが、
> 集中して(念を凝らして)痛みに耐えられた、とあるよ。
> つまり、そこに(悟った人には)『「痛み」はあるけど「苦」はない』ということなんじゃない?
> 痛いものは痛いでしょ。
> 物理的な、肉体的な作用は作用として感受されるけれども、
> それが苦と感じられるか(受け止められるか)は、また別問題(別段階)、と。
「痛みはあるけど苦はない」←これ、分かりやすいよねー
チョッと信じられないけどさ、分かりやすい話ではあるよ、うん!
で、いつも思うのだけれど
それなら、それで、最初からそう書いとけよ!って思わない?
悟りとは「痛みはあるけど苦はない状態だ」って
凄く分かりやすい説明のに、何故、経典にはそう書いてないの?
まぁそんなことが書いてあったら、馬鹿話すぎて、殆どの人は相手にしないと思うけどね…(*´-`)
688 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 11:44:21.05 ID:njYql0YA
>>686 > 喘息発作で苦しんでいたころ、ただ息をすることだけに集中していると
> 苦しいながらも、心は静かだった。
> しかし、なんでこんなに苦しい思いをせにゃあかんのか。とか
> 俺は、なんでみんなのように、健康じゃないのか?などの
> 想いにとらわれると、まさに地獄になる。
それって、ひろさちや先生の「こだわらない」ってやつだよ
精神論だよ、気休めだよ、目線ずらしだよ。
何より病の苦しみは全く消えてないし…
>>687 それだけじゃないし、
―というか、それは、涅槃(「苦の解決」「絶対的安心(あんじん)」「平安、寂静、安静」等等)の一部でしかないし―
経典の各教えは、「実際の問答」や「法話」の伝聞集成だから、そういう具体的言い方が、
たまたま必要とされなかっただけかもしれない。
そして今まさに、貴方はそのような言い方を耳にしたわけです。お釈迦さんから2500年経った日本の電子掲示板で。
8万4千の法門と言われるが、或る意味8万4千1個目の教えとなったとも言える。
今後も、多くの場面で、多くの問いに対して、種々説かれていくのさ。
>>688 病苦に苦しむ人も、最期は穏やかになる人が少なくない。
彼らは、すでに病苦を自分ではどうすることもできないと悟ったんだよ。
肉体を自分のものとすることを離れたんだ。
691 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 12:01:56.69 ID:njYql0YA
>>690 じゃ皆、修行なんてしなくとも最後には悟れるってことだね
よかった、よかった…(*´-`)
>>691 690の例は、大病した人(しかも間際)でしょ。
691の考え方だと、大病することが必須条件になるよね。
(一生)健康な人には悟りは来ない、ってことだ。
さて、大病した人は、曲りなりにも今わの際に到れるとして、
健康な人はどうしよう?悟りへの道は完全に閉ざされてるよね。
自分からわざと病気にならなきゃ駄目かな? (´・ω・`)
693 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 12:12:04.46 ID:njYql0YA
>>689 おぉそれは、なんとありがてーこって、ナンマンダーナンマンダー♪
チョッと皆の意見を聞いての感想を書くとね
人生、そんなに困ってないでしょ?皆さん!
本当に困っている人は、なんて言うのかな、武術で例えるなら
畳の上で考えた技に酔ったりしないもんなんですよ。(´-ω-`)
何故って!!それは実践で役にたたないから…
上の方で書いてる、とある人は(名前は出さないケド)
「空」の教えを聞いて、ガッカリしたと言った。
それが、当たり前なんですよ。
そうでなくちゃいかんのです…
本当に求める気持ちが皆さんには無い!! (想像ダケド)
其が原因となって正しい理解もない!!
気持ちが有ったってなかなか難しいのに…
無いのではどうしょうもない
人生ですから夫々悩みはお有りでしょーが
たぶん足りない…苦しみが…
>>691 そういうことですね。
しかし慈悲深いお釈迦様は、黙って傍観できなかった。
生きているうちに悟ってしまいなさいと説かれたわけです。
>>693 確かに、せっぱつまってない。
これは、お釈迦様や賢者の方々のおかげだと思う。
>>693 そうだね。
腹減ってる人には、話を聞かせるより、まず飯だね。
だから、やなせさんはアンパンマンを描いたんだろ?
つか、結局、このスレに書き込んだ人たちのことを腐したいだけなの?
なんでそういう(693のような)発言が、急に、出てくるのかわけわからないw
(つか、693の文意自体も読み取りにくいし・・。)
悩みや抱えてるものが様々なのは当たり前でしょ。
697 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 12:54:10.68 ID:njYql0YA
>>696 > つか、結局、このスレに書き込んだ人たちのことを腐したいだけなの?
> なんでそういう(693のような)発言が、急に、出てくるのかわけわからないw
かんたんでしょ
役立たずの話を仏教とし定義つけて、皆さん、何の疑問も持っていないみたいだから!
おれは仏陀の言説を思うに、違うような気がしてならない。
それを、書いてるんだよ
パンタカの話なんかとくにそう。(´-ω-`)
とてもじゃないが、パンタカが「空」を理解したとは思えないし
「塵を祓わん垢を除かん」だけで悟りに至ったとも思えない…
勿論それ以外でもある。
俺からすれば、そう言うことに何の疑問も持たない君達が理解できない
その取り敢えずの結論が、苦しみが足らないからだろうって事だ!!
仏典は鵜呑みにはしてない。
仏陀は、極論を言わない。そして矛盾したことも言う。
相手によって、違うことを言う。
しかし、これが仏陀なんだよ。
学者論文と違う。
学者は岩のように硬い。ゆえに時代とともに消えてゆく。
仏陀は水のように柔らかく、変幻自在だ。
>>697 役に立つか立たないかを決めるのは、畢竟当人でしょ?
数十年後に、ああ、そうか・・、ということもあるかもしれない。
一生同意できないかもしれない。
でも、八万四千の法門と言われる意味を、もう一度考えてみたらいいと思うよ。
ここは質問箱。
問われたことに、誰かがレスする。
合う合わないもあろうけど、それも一期一会だし、
子供だって、先生が変われば、或いは教え方が変われば、理解が進んで勉強が面白くなることもあるかもしれない。
ちなみに、空が主軸で説かれだしたのは、釈尊滅後ずっと後だってのは知ってるよね?
700 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 13:13:11.34 ID:njYql0YA
701 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 13:18:36.83 ID:njYql0YA
>>699 > 役に立つか立たないかを決めるのは、畢竟当人でしょ?
そゆ温いこと言ってるあたりが、やっぱりねって感じ…
>>700 無我で理解できるなら(頷けるなら)、無我で理解したら?
わざわざ「空」でアレコレ考える必要ないと思うよ。(それこそチュッラパンタカが掃除のみだったようにw)
>>701 逆に、
仏教が万能ツールのようなもの
(処方されれば「万人に」「等しく」「効果が出る」もの)
だと想ってるとしたら御目出度いとしか言えないがね。
704 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 13:22:34.74 ID:njYql0YA
>>702 理解なんてしてないよ!
してないから聞いてんじゃん!何言っとんねん!!
705 :
神も仏も名無しさん:2014/06/13(金) 13:29:10.62 ID:njYql0YA
>>703 >
>>701 > 逆に、
> 仏教が万能ツールのようなもの
> (処方されれば「万人に」「等しく」「効果が出る」もの)
> だと想ってるとしたら御目出度いとしか言えないがね。
仏教ってのは“本人”が効果を決めるモノなの?そうなの?
へー!(´-ω-`)なるほど精神論になるわけだ!納得!!
706 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2014/06/13(金) 13:46:16.95 ID:W7OJMTuW
覚者と病苦の関係について簡単に述べると、
覚者自身の意識の焦点というのはすでに肉体レベルにはないから、
肉体上における病苦などは自己のものとしては感受しない。
たとえ、それが周囲の人々からは痛みに苦しんでいるかのように見えようともです。
また、ある意味においては、これらのすべてでさえも覚者自身による壮大なる演技と演出でしかない、
ともいえるということ。
つまりそこには、それを見ている者や残された者たちへの何かしらの教訓なり、
意味深いメッセージが表現されているのです。
まっ、一代ならば瞬時にこの説明を理解する。
(一代の説明は基本的に正しいし)
ID:njYql0YA
馬鹿は念仏だけ唱えてろクズ
>>705 鰯の頭でも本尊さんになるようなもんだw
それは半分冗談としても、
学校で教わる・かつて教わったことの多くを、
「実際何の役にも立たないじゃん・立ってないじゃん」と言う人もいるが、
本当にそうか?という疑義を立ててもいいし、
何より、同じ授業を受けていても、
将来画家になる奴も居れば小説家になる奴も、医者になる奴も弁護士になるやつもいる。
当人が決める、というのは、「これは自分の爲にならない」として排除するなら、
そこに結果がついて来る筈がなかろ?
そういうこと。
子を持って知る親の心、とかなw
嫌々でも子供に色々やらせるのは、それが、経験するということ、そのことだけによっても、
僅かながらでも、本人が意識しないところでも「身について」欲しいからだろう。
当然、拒絶排除しているようなものは、まず身につかない・つきにくいだろ?
むしろ学生時代の知識は、
忘れているから役立たないんだよなあ。
本当に頭に入れていれば、
国語や理科や社会はそのまま役立つし、
数学も考え方が役立つし、
他の補助教科に至ってはそれがそのまま実技になる。
ってかその中のひとつを完璧に身につけた人はその道のプロだ。
ほどほどにまんべんなく身につけた人が秀才になる。
凡人は、結局、時間が過ぎて「そういうのあったな」程度だ。
ただ、その「そういうのあったな」程度で、
まともな社会人になれるのだから、
そう考えると学校教育はやはり大切だよ。
>> 69
> 学者は岩のように硬い。ゆえに時代とともに消えてゆく。
> 仏陀は水のように柔らかく、変幻自在だ。
水はすぐ蒸発するけどね。
>> 705
> 仏教ってのは“本人”が効果を決めるモノなの?そうなの?
その通り。自分自身がどのような状態にあるか
それを見つめることが仏教です。
712 :
神も仏も名無しさん:2014/06/15(日) 20:00:50.48 ID:7IjJbJy/
>>711 >>> 705
>> 仏教ってのは“本人”が効果を決めるモノなの?そうなの?
>
>その通り。
そりゃどこら辺の仏教?
そうですね。とりあえず『脚下照顧』ぐらいでいかがでしょうか。
家に上るときは、靴はちゃんとそろえましょう。
トイレのスリッパはきちんとそろえましょう。
714 :
神も仏も名無しさん:2014/06/16(月) 14:43:26.49 ID:j2u7LeNy
>>713 そういう禪もどきですか
胡散臭いっつうか、まず勘違いでしょう
>>651が言っている維摩経って読んだけれど、今のところ一番腑に落ちるよ。
ただ、維摩がなんでいじわるなやりかたをしたのかがわからない。
手段を選ばないし小を切って大を教えるとは言え、
維摩ほどの者ならもっといい教え方もあったと思うし、
人に意地悪したり遊んだりするのはおかしいと思う。
小さいと言われても、私ならそういうやり方は許せないです。
小さな事でも確実に良くしていくのが人ってもんだし、仏教ってもんじゃないのでしょうか?
716 :
神も仏も名無しさん:2014/06/16(月) 23:32:42.44 ID:9gpIse8e
>>711 > その通り。自分自身がどのような状態にあるか
> それを見つめることが仏教です。
耳年増仏教wwwww 乙!!
717 :
神も仏も名無しさん:2014/06/16(月) 23:37:44.87 ID:qMRqn7/X
>>713 伝統的道場で武術を習ったりすると、道場の掃除なども修行と称してやらされるけど、あーゆーのも君的には武術なんだろうね?(笑
>>717 その考え方は普通にアリでしょ。 (´・ω・`)
一般的な感性で見ても、関連行為すべてひっくるめて○○
ってのは、別におかしいことじゃないと思うけど?
(家に帰るまでが遠足です、みたいなw)
719 :
神も仏も名無しさん:2014/06/17(火) 01:19:02.23 ID:Avlbiyx5
>>718 武術と武道の違いが分からない奴…乙!!
腹筋運動はマラソンです!
腹筋運動はテニスです!
腹筋運動は剣道です!
腹筋運動は野球です!
腹筋運動は…
よく分かってない奴にかぎって、仏教はナニナニだー!ど言いたがる!
720 :
神も仏も名無しさん:2014/06/17(火) 07:43:01.23 ID:GNgGSFWk
>>711 >自分自身がどのような状態にあるか
>それを見つめることが仏教です。
上はそういう言い方も悪くないでしょう。
問題は以下、
>>> 705
>> 仏教ってのは“本人”が効果を決めるモノなの?そうなの?
>
>その通り。
このような仏教がどこらへんで言われるてるのか知りたい。
仏教は多様な道があるけど、各自が勝手に道や結果を決めるなんて聞いたことも
読んだこともないんで
>>719 お前みたいな(―語義は常に辞書通りであるべき的な―)奴が
スッタニパータ古層以外は仏教じゃない!とか言い出すんだよなぁ・・w
722 :
神も仏も名無しさん:2014/06/17(火) 09:12:13.03 ID:GNgGSFWk
>>721 >お前みたいな(―語義は常に辞書通りであるべき的な―)奴が
>スッタニパータ古層以外は仏教じゃない!とか言い出すんだよなぁ・・w
こういう物言いや発想は、反縁起で実在論・本質主義に基づく実在史観ですね。
全く仏教と反対の発想だと思います。
初めまして。こちらで良いのか迷いましたが質問させて下さい。
今お付き合いをしている男性がいますが、色々あって相手に対する信頼が失われつつあり、私と今後付き合っていたいのかを聞きました。
すると彼は私次第だといい、つまり私が別れようといえば別れるのか?私に対する執着はないのか?と聞いたところ「仏教の根本思想は執着からの解放だ」といい、どういうことかと聞くと「愛と慈悲で調べて」と言われました。
ネットで何件か調べてみても宗教に触れたことのない自分にはなかなか噛み砕いて理解が出来なくて困っています。
こちらにいらっしゃる皆様、宗教や倫理に疎い私にも理解出来るよう教えていただけないでしょうか?
私の中では単純に、執着がない=興味ない、愛していないだと捉えてしまうのですが・・・
724 :
神も仏も名無しさん:2014/06/19(木) 22:13:12.38 ID:kU7caljB
>>723 まあ、言葉の問題ですね
仏教的言葉使いでは「執着」というのは煩悩で、捨てるべきものなので
「愛」も結構同様なので、こう言ってみてはどうでしょう?
「私に対する慈愛はないの?」
この「慈愛」はあらゆる生き物を等しく愛し慈しむという、仏教徒が持つべき本来の心ですから、こちらなら彼も「ある」と言わざるえないでしょう?
それでも何か理屈をこねて「ある」とは言わないなら、もう彼のことは忘れた方がいいでしょう。
正に彼とは縁がなかったので、その気のない彼への「執着」を断つべきだと思います。
極楽往生を説かれた歎異鈔2章目を読んで感想
いままさに自室の部屋にて会心の心でありますw
726 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/06/22(日) 00:41:15.45 ID:SZfPOMoe
>>723 先ず、その彼氏さんの普段の言動が、本当に仏教徒的か考えてみて下さい。
酒や博打や女遊びをしないか?
一般社会人的な常識とは違う価値観か?
或いは、どこかの仏教系新興宗教の信者という可能性もありますね。
伝統的な仏教宗派で学んだなら、「別れる口実」の様な事に教えを用いる事は有りません。
お話を伺う限り、自己陶酔型の誠実さが無い男性の様に思えます。
727 :
神も仏も名無しさん:2014/06/25(水) 07:58:37.54 ID:5BqeWFPR
自分で自分の心の成長、つまり仏教の効果をある程度が、
ある程度はわかる。
728 :
神も仏も名無しさん:2014/07/04(金) 13:38:37.81 ID:VVBIFSZZ
池田大作はお釈迦様よりも偉いんですか?
仏教に詳しい方どう思いますか?
池田大作の方がエロいと思います
730 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2014/07/05(土) 00:03:57.09 ID:kRztB3b2
>>728 まともな仏教徒ならば、
ゴータマ・ブッダよりも上位のホトケを認めることそのものが在り得ません。
では、ゴータマと同格、もしくはゴータマに近しい境地の存在という云い方が在り得るものとして、
池田先生がそれに該当するのかどうか??
そりゃ〜巨額の寄付ばかりしていれば、
勲章なり名誉博士号の称号も授かるでしょ。
そして、寄付といえば聞こえはいいですが、本当は勲章を買い漁っているというのが実態のようです。
その金の出どころは当然、信者らからノルマ的に課して徴収してきたものです。
歴史に名を残すような偉人たちというのは、
生前は勲章や人々の賞賛には目もくれずに、黙々と己の義務や使命を全うしています。
むしろ、死後の暫くたってから、やっとその偉業が認められるということも多い。
731 :
神も仏も名無しさん:2014/07/05(土) 00:35:40.57 ID:TEFWbItm
池田大作はダライ・ラマよりは偉いけどお釈迦様には劣るでしょう。
732 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/07/05(土) 13:50:14.10 ID:gICCE089
>>728 どちらが偉いという分別心や世俗的価値観を断ち切るのが仏教。
因みにソウカイとしての序列ならば、出家すらしてない在日さんは問題外。
因みに、
>>730の「上位の仏」云々は上座だけの話。
華厳ではルシャナ、密教ではマカビルシャナ(大日)を置く。
733 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2014/07/05(土) 16:51:26.52 ID:kRztB3b2
>>730追記:
一応、補足しておきます。
池田大作氏とゴータマ・シッダッタとの比較なのですから、
この場合は、あくまでも肉体を伴って生存した実在の人間としてのホトケに限定して述べています。
734 :
神も仏も名無しさん:2014/07/06(日) 11:30:50.30 ID:wKlC+EBu
顕正会と創価学会は どちらが本物の仏教ですか?
(池田大作氏発言)
「口八丁。手八丁でよ、なんでもうまくやるんだ。社会(党)だって方便を使っている。
共産(党)だって目的のためなら皆な謀略じゃないか。一般社会だって利益のためならあらゆる手段を使う。うちは信心を守るため、学会を守るためだ」
(扶養研修所での指導)
「アッ、クリントン元気かしら、ああっ、そう、あのよーにね、口をうまくね、
うんと、うんと人を誤魔化してね、あのー、あのー警察につかまんないように、ンフフフ、まあーいいや、
ね、口をうまく、クリントン以上に口をうまくね、折伏戦でやってください。
指導してください。口をうまく、口下手なんて言うのはね、時を遅れています。
クリントンは口がうまかったんだから。」(ロサンゼルスアメリカSGI&関西合同総会)
「目立たないように枝を伸ばし、産業界に網の目を張りめぐらして、最後に総合商社を作って決戦だ!」
「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・
最高権力者である。
(池田大作発言・『池田大作――その思想と生き方』)
おまえら欲まみれクソハゲ糞馬鹿乞食野郎共に聞きたいんだけど
諸行無常って仏教自体にも適用されるの?答えろ
738 :
神も仏も名無しさん:2014/07/09(水) 17:00:25.76 ID:JkbwH1uj
そりゃ、聞く態度じゃないし、不明な文だけど
教え自体が無常かという意味なら、そう無常
739 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :
本来無一物の筈が豪奢な衣を着飾り高い敷居の寺院を構え、酷いのは女を囲う。
(^。^)実に無常だろ?(笑)