1 :
神も仏も名無しさん :
2010/03/04(木) 18:08:17 ID:VgEBYxQC
昨年6月にニサルガダッタ・マハラジに突然はまり、衝動的に単発スレを 建てた初心者です。あちらのスレは前半は「無我・真我」など、 活発な(喧嘩っぽいとも言うw)論争その他で伸びたあと、中盤から デヴィッド・ゴッドマン氏の「ニサルガダッタ・マハラジの思い出」を、 複数の方々が自発的に私訳を持ち寄る形式で、中身の濃い良スレとして 発展してるようで、ニサルガ愛好者の人々の応援カキコもあって、 素晴らしいことだと思います。 ただ、原文翻訳の投稿とその支援激励にスレが特化してしまい、自由な質疑応答や 雑談で流れを切る訳にもいかず、まだまだ中身を理解してない初心者の自分は、 すっかり置いてけぼりで、後半は完全にROM読者に徹していました… orz 怒りっぽいマハラジ師をちょっと棚上げしw、柔和なイメージのある マハルシの言葉に共鳴したりしたあと、最近はシャンカラも読み始めたのを きっかけとして、やはり自由な質疑応答・雑談もOKな雰囲気のスレが必要だと 思ったので、「アドヴァイタ関連なんでも総合」という位置付けの スレを建ててみました。
とりあえず別スレで「勝義諦と世俗諦」という言葉を見かけ(恥ずかしながら)
初めて聞く単語だったので、google で検索してみたら、ものすごく難しそう…
言葉の意味はなんとなくわかるが、どこまでが勝義諦でどこからが世俗諦なのか
その境界線をどの辺に解釈するかで、仏教・ヒンズー教各派でも色々ありそうですね
って、のっけから言葉の意味や定義範囲にこだわりはじめる自分の悪い癖
そのものをなんとか退治しなきゃいけないんですが… orz
ニサルガの 「I AM THAT」 は、サンスクリットの「ソーハム」
( so'ham ← soH aham : 彼は我なり ) に相当する、と解釈して構わないのかな?
あと、個人的に面白そうだと思ったスレがあったんだけど
真我・無我・非我はすべて同じことではないのか [既にdat落ち]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1248924180/ (これ、ニサルガのスレで去年7月頃に議論してた人が建てたのかも)
期待してROMってたけど、ちっとも伸びずすぐ落ちてしまったのが残念でした
4 :
神も仏も名無しさん :2010/03/07(日) 03:04:41 ID:vC3r/gwa
ウパデーシャ・サーハスリー (シャンカラ著/前田専学訳) より引用 韻文篇 第十二章 三節 〔一〇人の少年たちが川を泳ぎ渡ってから〕 自分自身がその第一〇番めであった〔一人の少年〕が、 自分自身も〔他の〕九人のうちにいる、と考えて、 〔「一人足りない」と判断し、別の少年から、 「君が第一〇番目だ」と言われるまで、そのように理解していたように〕、 この混迷に陥った世人は、〔アートマンを統覚機能などのような〕 認識対象のうちにある、〔と考えて〕、それとは別様には〔理解して〕いない。 ----- かっこ〔 〕の中は、前田氏の注釈文で、それをつなげて読めるような 形に翻訳されているので、逆に少し読みづらくなってますが 意味はわかりやすいと思います。 ラマナ・マハルシの Be As You Are (あるがままに) を読んだ時に 「川を渡る10人」のたとえ話がでてきて、地元の民話か何かから マハルシが創作したのかな、と思い込んでいたので、1200年も昔の シャンカラ (Adi Shankara 788〜820 中世インド) の本に、 ちゃんと元の話が載っているのを知って、とてもびっくりしました。 他にも、縄をヘビと見間違える話とか、 鋳型に注いで様々な形になっても銅は銅、っていう話とか ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジが 質問者との対話で、よく引き合いに出すような例え話の元ネタが 昔のシャンカラの本にでてくるので、もしかすると インドのヴェーダ関連の古典では、ありふれた題材なのでしょうか? インドの古典はさっぱり知らなくて、何か勘違いしてたらすみません
5 :
神も仏も名無しさん :2010/03/07(日) 12:33:25 ID:7JlzB5WP
マハラジのインタビューの翻訳をはじめたものです。 スレ主さんの姿がないなあ、、、と思っていたのですが、図らずもおいてけぼ りにしてしまい申し訳ありません。 マハルシ関連書籍は、海外から取り寄せて色々持っているので、わかること がありましたら、答えさせていただきたいと思います。 へびとロープの話とかよく出てきますよね。たぶん昔からある喩えなんだと思います。 マハルシ独自だろうと思う喩えもありますよ。映写機の喩え。昔にはなかった だろうと思うので。
6 :
2 :2010/03/07(日) 14:51:53 ID:WgBxhBAI
>>5 いえいえこちらこそ、放置ぎみで他をうろうろ探索したりしてて
すみませんでした。ゴッドマン氏のインタビューの翻訳が始まってから
I AM THAT の多くの読者が、三々五々集まる全国規模(w?)のスレに
進展したみたいで、すごいことなんですが、うかつな発言ができなくなった(笑)
「Who Am I ?」や「Be As You Are」を勧めてもらって、読み始めたのが
自分がマハルシをまじめに考えるスタートになった、とも言えるので
たくさんの引用やバガヴァーン紹介の書込み、ありがとうございました
それまでは、ふんどし姿でにっこり笑うやせたお爺さん…
ぐらいの軽い印象しか持ってなかったんでw (マハルシの写真集の表紙?)
(前置きはこれ位にして) 映写機とスクリーンの喩えだけど
確かにこれは20世紀のマハルシならではの、わかりやすい話だと思う。
現代の我々にとっても親しみやすい。
ニサルガダッタの本にも同じ話が何度も出てくるけど
マハルシの受け売り、と言ったら語弊があるが(汗)
ラマナ・アシュラムからの多くの来訪者との対話で、ニサルガ師にとっても
もはや、共通によく出る有名な例え話になってたのかもしれませんね
7 :
5 :2010/03/07(日) 18:58:31 ID:7JlzB5WP
マハルシはまさに聖者の典型みたいな人でしたが、お茶目なところもあったみ たいです。私が気にいっているストーリーを「Day by Day with bhagavan」から、、、 1945年3月31日 One night, a few days ago, after supper, when Bhagavanwas resting on his cot in the verandah, east of his hall,something funny took place. He was facing south. Chadwick was sitting behind Bhagavan’s back. Soon after Bhagavan took his seat and leaned on the cushions, Chadwick from behind stealthily and unnoticed fanned Bhagavan. さる数日前の夜、夕食後に、バガヴァンが講堂の東にあるベランダのベッドの 上で休んでいると、面白いことが起こりました。 彼は、南の方を向いていました。 チャドウィックはバガヴァンの背中に面して座っていました。 バガヴァンが座り、クッションに寄りかかると、チャドウィックは後ろからこっ そりとバガヴァンに気づかれないように、あおいで風を送りました。
8 :
5 :2010/03/07(日) 19:13:33 ID:7JlzB5WP
When Bhagavan turned and looked, Chadwick withdrew the fan and remained still. When Bhagavan turned his face south, Chadwick resumed fanning again. Bhagavan turned round and Chadwick stopped. Bhagavan was left wondering how he got the breeze. Chadwick then laughed out and Bhagavan joined in the laughter. This shows how even with such an eminent Master a devotee can play and both can enjoy the joke like children バガヴァンが振り返って見ると、チャドウィックはあおぐのをやめ、じっとしていました。 バガヴァンが南に顔を向けると、チャドウィックは再びあおぎ始めました。 バガヴァンが振り返ると、チャドウィックはやめました。 バガヴァンはどこから風が吹いてくるのか分からないままでした。 するとチャドウィックが笑いだし、バガヴァンも一緒に笑いだしました。 このことは、このように優れた師とでさえ、信奉者は戯れることができ、 両者ともに子供のように冗談を楽しめることを示しています。 バガヴァンが身近に感じれる話ではないでしょうか。
まるで映画の1シーンを見てるような ほのぼのした情景が目に浮かんでくるようだ… いいなぁ
10 :
神も仏も名無しさん :2010/03/17(水) 22:40:30 ID:f251oCAk
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
ニサルガダッタのスレは落ちちゃいましたね・・・ 良スレだったのに
12 :
1 :2010/04/09(金) 23:56:29 ID:dkL6Df1U
殆どの大手プロバイダからの一般会員が、軒並み 2chアクセス規制・書込み禁止という大規模措置が、最近続いていたので その期間中に、貴重なスレが DAT 落ちしてしまったのは、とても残念です。 他板と違って、「心と宗教」板のスレ落ち基準に一貫性があるのか はっきり判りませんが、ニサルガダッタのスレはかなり伸びてたし 最後の書込みが3/28日付けなので、こちらのスレよりも書込みが最新だったし 活気があったように思います。
13 :
神も仏も名無しさん :2010/04/13(火) 20:04:47 ID:BtOut0h6
Living the Inspiration of Sri Ramana Maharshi A dialogue between David Godman and Maalok, an Indian academic now teaching in America Page 3から Maalok: You obviously have a reverence for the people you were writing about. Didn't that make it difficult to be objective about facts? For example, if you saw something 'not so nice' (at least as perceived by an average reader) about these people or their lives, there could have been a tendency to not include it in the books, given that you have a reverence towards them. マーロック: あなたは明らかにあなたが本に書いている人々に尊敬の念を持っています。 そのことは事実について客観的でいることを難しくしませんか。 たとえば、もしあなたがその人々や生き方で、何か「あまり好ましくないこと」(少なくとも一般的な読者にはそう思われる)見たとしたら、 本にそういうことを書かないようにしがちになるのではないですか。
14 :
神も仏も名無しさん :2010/04/13(火) 20:18:07 ID:BtOut0h6
David: Let me start with Ramana Maharshi. I have been researching his life and teachings for a large part of the last twenty-five years and in all that time I have not come across a single incident that I would keep out of the public domain because it might give people a bad idea of him. デイヴィッド: まずラマナ・マハルシについて始めましょう。 私は彼の生き方と教えについて、その最後の25年の大部分を研究していますが、 その間中ずっと、人々が彼について悪く考えるだろうという理由で、 公開しないようにした出来事は、ただの一つもありません。
15 :
神も仏も名無しさん :2010/04/13(火) 20:32:03 ID:BtOut0h6
His behaviour and demeanour at all times were impeccable. All the attributes we associate with saintliness were present in him : kindness, gentleness, humility, equanimity, tolerance, and so on. 彼の振る舞いや態度はいつも非の打ちどころのないものでした。 我々が聖者としての性質と結び付けるあらゆる性質が彼の中にありました。 親切、寛容、謙虚、平等性、忍耐などなど。
16 :
神も仏も名無しさん :2010/04/13(火) 20:42:24 ID:BtOut0h6
For decades he lived his life fully in the public spotlight. He had no private room of his own, so everything he did and said was open to scrutiny. Except when he went to the bathroom, he was never behind a closed door. 数十年の間、彼は完全に公衆の目にさらされた生活をしていました。 彼は自分専用の私室を持たなかったため、その行動と言動のすべては調べることができました。 浴室に行ったとき以外は、彼は閉ざされたドアの後ろにいることは決してありませんでした。
17 :
神も仏も名無しさん :2010/04/13(火) 21:00:11 ID:BtOut0h6
Up until the 1940s, if you wanted to come and see him at 2 a.m. in the morning, you could walk into the hall where he lived and sit with him. Some people did occasionally invent stories about him to try to discredit him, but no one who had moved with him closely would ever believe them. 1940年代まで、午前2時に彼に会いに行きたいなら、 彼が住む講堂に歩いて行き、共に座ることができました。 ときおり、信用を失墜させようとして彼に関する話をでっちあげる人もいましたが、 彼のそばで行動する人はだれもその話を信用しませんでした。
18 :
神も仏も名無しさん :2010/04/13(火) 21:14:00 ID:BtOut0h6
There was simply no scope for scandal or misbehaviour because his life was so public, and so saintly. He never dealt with money, never spoke badly of anyone, he owned nothing except his walking stick and his water pot, and he was never alone with a woman. Only people who had never watched him live his life could invent scandalous stories about him and expect other people to believe them. 彼の生き方はまったく公然のもので、聖者そのものなので、単純にスキャンダルや不品行の余地は皆無でした。 彼はお金を決して扱いませんでしたし、誰の悪口も言いませんでした。杖と水さし以外何も持っていませんでした。 そして、女性と二人っきりになることも決してありませんでした。 彼の生き方を観察したことのない人だけが、彼についてのスキャンダルをでっちあげて、 他の人がそれを信じることを期待することができました。
19 :
神も仏も名無しさん :2010/04/13(火) 21:19:10 ID:BtOut0h6
続きがあるのですが、ここまでにします。 なぜか今日は書き込む気が起きたので、私が気にいっている部分を翻訳してみました。 デイヴィッド・ゴッドマンさんへのインタビューの抜粋です。
翻訳GJ! 続きに期待してます。
21 :
神も仏も名無しさん :2010/04/16(金) 03:10:12 ID:QTsrrfUP
無数の意識の主体がいるというのが常識であって、 ただ一つの意識しか存在しないというアドヴァイタを どうしても最終的に理解出来ないというか、しっくりこないんだけど。 心の内容も体を構成する原子も元々世界にあった材料で出来ていて、 世界から切り離された考えや体なんてものは存在しないというのはわかるんだが、 ならばなぜ個々の意識があるのかが分からない。 自分では空というのを体験したことがあると思うんだが、 そこにはただ意識しかないのであって、 それがすべての人の意識と同じものだという自覚はなかった。 ネットから落とした違ったプログラムが入った同じメーカー同じ型番の 別々のコンピュータという理解。 誰か説明出来る人答えてくれたらありがたい。
22 :
神も仏も名無しさん :2010/04/16(金) 20:34:48 ID:Hq1G6XkK
>>21 その境地がどういうものかわからないけど、自分の意識と他の人の意識が同じかどうかを
気にする自我が抜けてないんじゃないかな
自分の意識と他人の意識が同じというのじゃなくて、自分の意識と他人の意識を区別しよう
とする自分などいないという意味で、全てはひとつであるんじゃないかな
自分も同じような疑問があったし、一応その答えは体験で出たかな
空の体験もどの程度空であるかでいろいろ違うと思うよ
自分も何度か体験してるけど、深みというか空の部分というかそのつど違った
完全に空になるとまた違うんだろう
いわゆる覚者と呼ばれる人たちでも完全に空になってるひとは少ないように思うし
自分もそこまでの体験はまだない
サマーディを体験している人が居るんだ。なら共感できると信じたいのだけど 私も自らの体験を通して言えることは、実に悟りを開いた人は謙虚で言葉を選んでいるのだと思う。 体験そのものより、世俗の人から見た勝義のほうが実に衝撃だったから、あれは無茶でしょ、生きてるそのものがなんなのか 自分の懐に閉まっているだけなのが苦しくなる。 いや、このような凄いことを目の当たりにして、理解される訳も無いので自分の懐にしまいこんで普通に知らない顔で のほほん と生きるのが辛い。 ラマナ・マハルシとかリアルで会えたら一生付いていこうか真面目に悩む、それくらい世間の常識と違うんだよね。
サマーディ自体は世俗人の視点から見るならたいしたものではない。 ラジオで流れる音楽と人によっては対して変わらないのかも知れない。 問題は一切皆空とか全てはひとつとかのそれだよ。全然脳内ではない現実の話なんだよね。
悟りを開いた人はそれとなくやんわりと言ってるんだけどね。 ラマナも世界と神と真我はひとつなのだと、わかる人にしかわからない 理解される訳も無いのだと諦めるほかない。説明するのが色々と面倒というか どうしようもないね。
26 :
神も仏も名無しさん :2010/04/17(土) 03:24:50 ID:4GeAy0SR
>>22 酔っ払ってる時に書いたことに答えてくれてありがと。
確かに自我、考えも世界もなければ「一つ」も「複数」もないんだけど、
それだと考えが復活したとき、世界の中で暮らしている時には
やっぱり最終的な解決とはいかず、迷いが続くように思う。
インターネット和尚という人のサイトにいろんな見性の体験がのってて、
普通の女子高生や女子大生が自我を持ったままで
「すべてが一つ、あなたもあれもこれも私」という体験をしてる。
昔のような悟りたい願望はないんだけど、それでもちょっと羨ましい。
ここまで行けばこの問題はなくなるんだろうな、と。
でも、ラマナの言ってる状態はどうも単に考えの無い状態のことのようで
ボケ老人になればなんの悩みもない的な解決はちょっと…
27 :
22 :2010/04/17(土) 05:40:32 ID:+JuCZh6e
>>26 インターネット和尚、自分も見てるよw
あれもこれも私っていうなら似た体験はあるかな。
そうなったときはすべてが宇宙と思えたよ、そうとしか思えなかった。
あらゆるものが宇宙の一部とかでなく、それ自体宇宙そのもの、何もかも。
木も宇宙、犬も宇宙、壁も宇宙、自分も宇宙、なんでもそれ自体宇宙でしかない。
自分は宇宙でしかないものを勝手に犬とか壁とか自分とか解釈していただけなんだと気づいた。
もちろん、そんなことはわかってたけど、体験そのものにはなってなかったから。
そのときは目では犬とか壁とか自分とか、ちゃんとそれぞれに映ってるのに、なぜか実感は
どう考えても宇宙としか思えないんだよね。
目に映ることと実感は別物だとわかった。
逆に言うと普段は目に映る違いから自分で自分なりの実感を作ってるだけなのだとわかった。
その体験は歓喜でしかなかったよ。
空は何も無いって感覚だけど、それはあふれる歓喜だった。
第一全てがおもしろかった。
フロに入ればタイルの一枚一枚がそれぞれ宇宙
宇宙であるシャワーのノズルの穴から宇宙である水が降り注ぐ、それ全部宇宙自身
宇宙であるバスタブに満たされた宇宙であるお湯に宇宙である自分が入ったとたんはね返
るしぶきも全部宇宙、宇宙まみれ、もう笑うしかない、どこ行っても宇宙、宇宙しかない
結局それが3日続いて終わった
この体験は終わらないと思ったけどやっぱり終わりが来た
自我をまた作っちゃったんだね
28 :
22 :2010/04/17(土) 05:46:22 ID:+JuCZh6e
この体験のきっかけになったのはすごく根本的な自我への気づきなんだけど こういうのは自分で気づいて効果あるものだから言うべきではないのかもしれないけど、 自分のそのとき気づいた自我は、現実があると思ってることだった この世は夢かもとか嘘かもとか口ではいくらでも言えるけど、やっぱり心の中では、自分も この世もあると思ってる。 あると思いながら、この世はないかもね、なんて言葉で言ってるだけ。 でもこの現実はないのかもって100%本気で思えた瞬間に世界が変わった。 現実があるはずだ、現実があってもらわないと困るっていう自我が消えたんだろうね。 ○○だ、△△だっていう自我が個性をつくり、自分があるような錯覚をしてるんだろう。 やろうと思ってできることじゃないけど、ものすごく根本にある自我が抜けたら、かなり無と いうか、かなり同じになると思うよ。 自分が個だと思うのは、やはり積み重ねられた自我とか物理的な個の身体性とかから、実感 までそう錯覚しちゃいだすんだろうね。
ラマナの想念の無いサマーディは言ってることが深すぎるからね。 でも本当に体験をしたのなら自我の個性を維持しながらの生活も可能だとわかるはずなんだけどね。 でも、この場合はヴァ−サナーから開放されて無いから元に戻ってしまう。ラマナの言ってる通りだよ。 ラマナは体験した者にしか知りえないことをシンプルに話る。
それでもサマーディ自体よりも 水がワインになる奇跡のほうが驚きだと思うんだけど、宗教は世間の人にとってはどうでもいいような酷評される ことのほうが多いけど、ラマナも奇跡は否定してたけど、水がワインになるような奇跡を目の当たりにしたら誰でもきっと変わると思うな。 サマーディも確かに重要だけど、悟ってない所詮は世俗人の私には奇跡はもっと驚きだった。 やっぱりラマナ以外の他の聖者がそうであるように、奇跡とサマーディは切り離せないワンセットのような気はする。
>>27 >この現実はないのかもって100%本気で思えた
で、元に戻ったあとは、どっちに傾いている状態?
こんなスレに関わっているのだから頭の中にはヴェーダンタがあるんだよね?
常識とヴェーダンタとの折り合いはどうなってんの?
>>30 ヴァーサナから開放されてない=元に戻る=
自我の個性を維持しながらの生活も可能
ってことでいいのかな
でもこの場合、思考はあるからたまには
ヴェーダンタが常識との間で問題を起こすでしょ?
今の俺みたいに。
もうこの関係については言葉で考える必要が無い状態
になりたいんだよね。
個の消滅を選択出来ない以上
(自我が崩壊しそうになるとやはりそれは選べなかった、
自我を静かにさせるのがやっとだね)
ヴェーダンタを捨て去るのが平安への道かな、と。
ところでドラッグとババの影響ある?
サマーディは奇跡と同等だと思ってるからね。 水がワインに変わるとか言ったら馬鹿みたいだけど、自我を残そうと自我が完全に無くなろうと奇跡には変わりない。 何を持って奇跡とするのかって話になるけど、目に見えるのか見えないのかの違いだけで、 水がワインに変わるなんて見たことも聞いたこともないくらいにめったに起こることではないと思うよ。 本当にサマーディを知っている者なら水がワインに変わる、そのような人知を超えたことも受け入れていると思う。
自他が無い一つとは気のせいとかではない 現実に世界と一つなわけだから、意識がただ在るといっても本当に世界に意識が拡がっているのだからね。 周囲に居る人間も霊的に敏感なら他人の意識に触れられると思う。ラマナの周囲の人も空気の違いを感じていたらしいし その意識の拡がりの沈黙で信者に平安を教えていたくらいだから
聖者は人の姿形をしていても、その精神は神なんだよ。 そして選ばれた人間だけに本当の姿を現したりする。クリシュナもアルジュナにビジョンを見せたりしていたらしい。 普通の人には世界が自分とは別の物質に感じられるけど、同じように偉大な聖者もただの人間にしか見えないように出来ているんだよね。
35 :
22 :2010/04/18(日) 21:47:09 ID:t7Y6VoWb
>>31 >で、元に戻ったあとは、どっちに傾いている状態?
現実はあるともないとも思ってるし、思ってないよ、不可知
でもあのときの状態でないから現実があると思ってるのかなあ
なんとなく現実うんぬんとは別の自我があって、あのような状態になれてないと思うけど
自分にどういう自我があるのか気づけてないわけだからなんとも言えないよね
新しい自我をまたつくり無明に覆われ、それが消えて無となりの繰り返しかな
でも繰り返すごとにクリアーにはなってきてる、全体的に
ヴェーダンタと常識に関しては、常識への自我が生まれたらヴァーダンタは遮られ、自我が
消えたらヴェーダンタへ戻りかな、単にそれだけ、システム的なかんじ
ところで
>ヴェーダンタが常識との間で問題を起こすでしょ?
ってどういうこと?
ヴェーダンタも真我であり、常識も真我であり、あらゆるものが真我で、真我以外ないなら
問題はないんんじゃないかな
真我をヴェーダンタとか常識とか自我が錯覚してるだけってことじゃ平安じゃない?
自我もまた真我だし、錯覚も真我だし、平安も真我だし、真我しかない…
自我で何かと何かを分けてそれらがあるように錯覚してるだけで、あらゆる全ては真我でしかない
ドラッグは経験あるし、こういう世界に入ったきっかけのひとつだったけど、シラフで同じ経験 ができるとわかってから全くしなくなった する必要もないし、害もあるし、しないほうがいい あれは薬効とかでなく内面をリセットするだけで、自分でリセットすればいいだけだとわかった もちろん簡単にはできないけど 空の経験者ならわかると思うけど ババってなんだろ?
37 :
21 :2010/04/19(月) 01:24:28 ID:rKSAsJ/X
>>36 ごめん。
自分の中の過去のデータから
文章の区切りの変な人や文の構造が崩れている人
(それと、同じく経験者なので内容から)=ドラッグ経験者
ワインの話=たしかサイババの講話に「あなた方は超能力を奇跡というが普通だと思ってい
るすべてのことが奇跡なんだ」みたいな話があったので、信者の人かな?と。
区切りが変だと思ったのは単に俺のほうのウィンドウの大きさに問題があった。
>>35 常識も真我だし、問題も真我だし、矛盾も真我、煩悶も真我であると。
同じ認識にあったことあるから気持ちも分かるんだけどね。
真我である俺は真我であるヴェーダンタと真我である常識の間で
真我である煩悶、問題を感じている。
すべて真我なら面倒くさいから真我省略したほうがよくない?
普通に問題があるでいいじゃん。
原子である犯人は原子である被害者を刺して死亡させたが、
すべては原子であり、増えも減りもしておらず原子的には何も起こっていないのだが
原子である犯人を原子である刑務所に送っても原子は増えも減りもせず
原子的に何も起こっていないので刑務所に送られた。
みたいな感じで、普通のことが残るっていうか。
奇跡の無い真我なんてないよ。 そんなのが悟ったなら、私には自他が無いと言えば悟ったことになるし、そんなのはあくまでもただの主観でしかない。 極端な話、寝たきりの昏睡状態が悟ったのと変わらなくなる。 釈迦もイエスもそうだけど、仕事もしない偉そうな講釈を喋るだけの人間なんて誰も相手になんかしないよ。 奇跡が現実に起こるから人々に認められるんだよ。
本当に真我に在るなら、天が味方をするんだよ。 その結果が奇跡で本物の証明にもなる。
真我を本当に知っているのなら、師は人間である必要は無いっていうラマナの言葉が理解できるはずだ。
何に対しての反論か最初分からなかったよ。 サイババの言葉に対するもんだね。 ちょっと絡まりを解くのが難しいな。 「水からワイン」を「ぶどうからワイン」と俺が読み違えて あなたが「普通の宇宙法則に従って宇宙が運行することこそ驚くべきことで サマーディと同じくらいの奇跡」と言っているのかと思って、 サイババを連想してしまった。 そうではなくて、ずっと文字通り「奇跡の存在が大きい。奇跡があればみんな注目する」 って言ってるんだね。 正直でいいけど、ラマナを信奉するのに珍しい人だ。
42 :
22 :2010/04/20(火) 01:45:50 ID:ZkMjLQ0s
>>37 そうそう専用ブラウザ使ってるからふだん右端はそれでで折り返しちゃうんだよねー
ところで「問題がある」でいいんじゃない? 問題っていうかただ全て原因と結果があるだけでそれだけで
いいとか悪いとかでなく、ただそういうものがあるってことで、全て
真我でも無我でも真理でもいいけど、常識が真我、○○が真我ではなく、「真我でしかない」
にならないとおかしいんじゃないかな、実感として
言葉で説明するときは○○は真我、○○も真我、真我しかない、になるけど
実感は「真我!」それだけ、別に「空!」でも「真理!」でも「常識!」でも「問題!」でもなんでもいいけど
それはそのひとが勝手に言葉にするものだから
要はひとつであり二つでないってことかな、アドヴァイタってことで、ただ「○○!」
聞かれたことが理解できず答えになってないかもしれないごめん
ちなみにマハルシ系のラメッシの本読んだら、
「全てはもう決まっている、誰も何もしていない、ただ意識だけがある」って言ってた
あとプロバイダ規制くらったんでいちいち代行たのむのなんだし、しばらくレスできないようです
また規制解けたらきます
>>41 ラマナの言葉を読めば奇跡は認めてますよ。
ただ真摯な修行者には奇跡が妨げになるといっているだけ
我々のような世俗人には奇跡の存在は大きいですよ。
全ては真我で一つであると言ってて第三者から見て何の変化も無いほうがそもそもおかしい。
手を動かすように、世界が動くような
その人間が天に選ばれたであろう奇跡の証明は当然に要ります。
それ程のことでも起こらないと漁師の仕事を捨ててまで
まともな人間がイエスなどの聖者に付いていきませんから、釈迦もイエスもクリシュナも奇跡の伝説は多く残ってます。
そういった意味ではカトリックの聖人信仰はある意味正しいのですよ。 真我を実現したなら口先だけではいけない、それに信者から見た人格やら奇跡やらのプラスアルファを付け加えることで間違ったグルを排除できます。
確かに真摯な修行者には奇跡が妨げになる これには大変に同意しますけど、釈迦もラマナも出家者等に対する言葉が多く残っているために 誤解されて悟りを哲学と勘違いする人は多いと思われますけど、事実は違います。真我は奇跡なんですよ。
奇跡の無い真我意識などは存在しません。水がワインに変わるようにです。
私の言っているのは真我実現のことですけど
がんばれ、 超がんばれ。
奇跡を受け入れたとしても初心者です。入り口に立ったにすぎません。 真我体験があって中級者 そう考えたならば、確かにがんばらないと。
奇跡を受け入れたとしても初心者 真我体験があって中級者 真我体験があって、出家生活のような節度ある暮らしを心がけて上級者 そのうえで真我実現した者など非常に稀ですね。
>>35 アドヴァイタの説明として、
@ブラフマンのみが実在する
A世界は存在しない
B世界はブラフマンである
というのがありますが、
22さんの仰る、自我もまた真我、錯覚も真我、というときの、
自我や錯覚というのはBにおける「世界」に当たるわけですね?
あるスレで、あなたの発言の一部をコピーして、
自我や錯覚も真我なのだから、Aにおける、世界は存在しない、
というのはおかしい、と主張している人がいます。
Aの過程を経ない@→Bではアドヴァイタにはならないと思いますが如何ですか?
Aにおける世界というのは我々のエゴが見ている錯覚としての世界で、
それはブラフマンの見ているBの世界とは異なるという意味でOKですか?
まあ、こんなのは所詮言葉の遊びに過ぎないとも思いますが。
そうです。 議論というより無意味な言い掛かりでしかありませんが。
ラマナの本をよく読めば、それらの答えは書いてあるのに 全てが真我だとか言いながらも、何故そのような初心者のような疑問ばかりを持つのだろうか? 真我体験してラマナを信じてるのだから、それなりにわかっている人ばかりだと思ってたのに
ヴァーサナはその人の人格そのものだから、前世からの気質 例えば2chして楽しいとか議論が楽しいとかがそうだよ。 だからヴェーダンタが重荷になるって話は自然体じゃ無いからだよ。 科学者が研究好きだったりするのと一緒で、ラマナみたいな修行者はお喋りより瞑想の平安が好きなんだよね。 これは釈迦の中道と合い通じると思う。嫌々苦行するのでなく 信じられないかも知れないけど、それが好きでやってるんだよね。
まあ、あのスレには近づかないことをお勧めします。 彼等は『神との対話』という一昔前に流行ったチャネリング本の信奉者で、 尚且つ、脳呼吸という韓国系のカルト団体と関わりのある連中のようで、 議論というより、自分たちの信じている教義にとって脅威となる別の系統の教えにヒステリックに反応しているだけですから。 彼等にとっては、ラマナやニサルガダッタやラメッシの本は、 難解過ぎて理解する能力もないでしょう。 『神との対話』という偽書でマスターベーションするのが彼等にとっては関の山です。 いつか自分たちの無知を恥じ入る日が来るのかも知れませんが。
57 :
22 :2010/04/25(日) 01:59:20 ID:V1BIL0uO
なんかへんなことになってますねw 前もって言っとくと、アドヴァイタ自体そんなに知らないんですよね。 ラマナとかマハラジとかもちろん読んだけど、自分は仏教の無分別とか、クリシュナムルティ の否定して否定して最後に残ったものが真理だって方法から入ったから。 個人的にはアドヴァイタと同じだと思うけど、詳しくないんで、それでよければ自分なりに言い ます。 @ABもそもそも言葉だから矛盾してますよね。Aで世界が存在しないとしながら、Bでそれ はブラフマンであり、そのブラフマンは実在すると@で言ってるし。 だから言い換えると @ブラフマンのみがあり A世界とはブラフマンを自我によって見た錯覚という意味では存在しないとも言えるが Bその錯覚の世界も、ブラフマンである世界も、全て世界はブラフマンでしかない ってことかな。 でも@だけでもいいしAだけでもいいしBだけでもいいと思うんですよ。 っていうか、どれもブラフマンだし、○○だから△△で□□だって捉えること自体ブラフマン でないし、それもまたブラフマンだと思います。 ブラフマンってのは、ブラフマンであることもブラフマンでないことも、全てブラフマンじゃない ですか? ブラフマンのみが実在するとかしないとか判断する自分(自我)などいないし、世界が存在す るとかしないとか気にする自分(自我)もいないし、世界はブラフマンであるかどうか判断する 自分もいない。 そのとき全てはブラフマンでしかないってことかな。
58 :
22 :2010/04/25(日) 02:02:19 ID:V1BIL0uO
自我に関しては、何をもって自我とするかですよね。 (全てがブラフマンなら果たして自我と呼べるものがあるのかってことでもあるし) 呼吸、睡眠ぐらいは自然にするかもしれないけど、自我(欲求)がなくても食べるのかとか。 自我がなければ死ねといわれて死ぬかとか。 殺されるときに抵抗しないかとか。 でも殺されるときに抵抗しないってのもそういう判断をした自我かもしれないですしね。 相手に合わそうとか受け入れるというのも自我な場合もあると思います。 一見自発的な行為も受動的な態度も、実は自我と重なる部分とそうでない部分があるので はないでしょうか。 でもこういうのは言葉による説明であって、「全てがブラフマン」としか言いようがないと思い ます。 全てがブラフマンなら自も他もないですしね。 自も他もないなら能動か受動か言えませんし。 自我はブラフマンだから自我として自我はないって言ってもいいし、自我はブラフマンだか らブラフマンとしてあるって言ってもいいし、どう言ってもいいと思います。 どう言ってもブラフマンしかないのだから。 ただ、全てがブラフマンだと気づいてる人と気づいてない人がいるだけです。 しかしどちらもブラフマンです。
59 :
22 :2010/04/25(日) 02:04:37 ID:V1BIL0uO
ブラフマンってなんだとかいろいろ自分が考えちゃうわけど、そもそもそういう自分なんてい ない、考える必要もないって気づくことが重要なんじゃないでしょうか。 どちらにせよブラフマンでしかないのでしょうが。 いろいろ議論?が起きてるようですが、仏教でいう勝義諦(悟りにおける真理)と世俗諦(世 俗の言葉で表せた真理)の混同が言葉上で起きているからではないでしょうか。 どちらにせよブラフマンでしかないのでしょうが。 みたいに思いますよ。 自分も体験があるだけで悟った人ではないですしよくわかんないですけどねw
そうそう。
神との対話信者がいかに馬鹿かがよくわかりますよねぇw
>>60 は日本語も理解できないようだしwww
神との対話(笑) 幼稚園児が偏微分についての議論に参加しようとしてるようなもんだなw まず君は算数を習うのが先でしょw 神との対話(笑) 幼稚園児がこんな駄本読んだくらいで哲学してるつもりになってるなんて、 傍から見てるこっちが恥ずかしくなるからやめてくださいね、そこの君w 神との対話(笑)
@【ブラフマン】のみが実在である A〈世界〉は存在しない B【世界】は【ブラフマン】である Aの〈世界〉とBの【世界】について。 【ブラフマン】のみが実在であることがわからない段階の人にとって、 〈世界〉とは〈わたし〉の外側に確固として存在する客観的な何ものかなのであり、 その客観的な〈世界〉の中に〈わたし〉が生きている、という「〈世界〉理解」にある。 つまり、彼らにとって〈わたし〉と〈世界〉とは、相互に干渉しつつも、 それぞれが独立し分離した存在として位置づけられているわけだ。 さて、Bにおける、【世界】は【ブラフマン】である、ということの意味は、 文字通りの意味での【世界】=【ブラフマン】なのであって、そもそもそれしかない、 それもこれもあれも何もかも、すべては【ブラフマン】であり、 つまりは、【世界】はただ【世界】として在る、ただそのようにして在る、 在るものとしてそこに在る、それそのものとしてそこに在る…。 それは、〈わたし〉が〈わたし〉の外側に確固として存在する何ものかとして、 〈わたし〉を取り囲む未知の何ものかとして見なしている、その〈世界〉ではない。 実のところ、〈わたし〉がいて、それを取り囲むように〈世界〉が存在している、 という認識にある人にとって、【世界】は「まだ」ただの一度も経験されてはいないのだ。 それは「〈わたし〉それ自体」が、【世界】についての真の経験を拒絶する、 その隔壁として立ちはだかっているからだ。
【ブラフマン】のみが実在であるという証言の意味は、〈わたし〉という隔壁の、 文字通りの意味での消滅の報告なのであり、それはつまり、〈わたし〉がその外側に、 客観的な確固たる〈世界〉として認識しているもの、の消滅に他ならない。 そのとき、【世界】はただ【世界】としてそこに在り、つまりそれは、 【ブラフマン】のみがただそこに実在する、ということなのであって、 そこで初めて、本当の意味での「【世界】が経験される」ことが起こるわけだ。 「あらゆるものは【ブラフマン】である」と言う資格を有するのは、 そのあらゆる事どもを「ほんとうに経験している」人だけなのである。 そして、それをほんとうに経験しているのは、決して〈わたし〉ではないのだ。 なぜなら〈わたし〉は、〈わたし〉ではないもの、つまり〈わたし〉を取り囲み、 外側に確固として客観的に存在していることになっている〈世界〉、すなわち、 「分離されたもの」を「ほんとうに経験する」ことなどできやしないからだ。 〈わたし〉が、それを取り囲む客観的な〈世界〉を「経験しているつもり」になっている以上、 実際は如何なる事象をも、真の意味において「まるで経験などしていない」のであるから、 その人が「経験しているつもり」になっている事どもは、〈わたし〉の消滅によって、 当然のごとくに消え去る、というよりも、そんな経験は元からなかったのだから、つまり、 A〈世界〉は存在しないし存在していなかった、という理解となって結実することだろう。 つまり、〈世界〉が消滅するのであって、【世界】が消滅するのではない。 存在しないのは〈世界〉なのであって、実際には【世界】以外が存在しないのである。
65 :
ixtlan :2010/05/02(日) 19:43:44 ID:VEyvQtCU
神道とキリスト教はどちらも神と私は別々の 初心者の信仰だとは思うけど、バランスは大切 服は大きすぎず、小さすぎずが一番 全てはブラフマンとか私には大きすぎる服だ。
67 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 15:13:58 ID:8tb4/TGD
test
68 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 15:21:47 ID:8tb4/TGD
18の続き When outsiders did make up stories about him, Sri Ramana would react with amusement rather than annoyance. When a disgruntled ex-devotee brought out an extremely libellous pamphlet about him in the early 1930s, the ashram manager wanted to go to court and sue the author to protect the good name of Sri Ramana and the ashram. 部外者が彼についての話をでっち上げたとき、 スリ・ラマナはうんざりした様子というよりも、 むしろ楽しそうに反応しました。1930年前半に、不満を持った元信者が彼についてひどく 中傷する内容のパンフレットを出版した時、アシュラムの管理者は、スリ・ラマナとアシュラム の名誉を守るため、裁判所に行き、著者を相手取って訴訟を起こそうとしました。
69 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 15:24:07 ID:8tb4/TGD
Sri Ramana dissuaded him and said, 'Why don't you instead sell it at the front gate? The good devotees will read it and not believe a word of it. The bad devotees will believe it and stay away. That way we will get fewer visitors here.' スリ・ラマナは彼を引き留め、言いました。「かわりに正面の門のところで販売したらどうですか。 よい信者はそれを読んで、その一言も信じないでしょう。悪い信者はそれを信じて、いなくなるで しょう。そうして、ここに来る人が少なくなるでしょう。」
70 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 15:27:13 ID:8tb4/TGD
The manager, of course, could never agree to such a proposal since the devotees would not stand for such a scurrilous booklet being sold on the ashram's premises. However, the whole incident illustrates an interesting aspect of Sri Ramana's character : not only was he unmoved by personal criticism, he occasionally enjoyed it, and at times even seemed to revel in it. 管理人はもちろん、そのような提案に決して同意できませんでした。というのも、信者はその ような口汚い小冊子がアシュラムの敷地内で売られるのに我慢できなかったでしょうから。 しかしながら、この出来事はスリ・ラマナの性格の興味深い一面を表しています。彼は個人的な 批判に動揺しなかっただけでなく、ときおりそれを楽しんでいましたし、非常に喜んでさえいる ような時もありました。
71 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 15:36:32 ID:8tb4/TGD
It is said in the sastras that response to praise or blame is one of the last things to go before enlightenment happens. It was definitely absent in Sri Ramana. Let me mention one o ther story that very few people have heard about. 聖典では、称賛と非難への反応が、悟りが起こる前にもっとも消えにくいものであると言われています。 それは、スリ・ラマナにおいては全くありませんでした。では、非常にわずかな人しか聞いたことのない 別の話をしましょう。
72 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 15:40:06 ID:8tb4/TGD
There used to be a scrapbook in the hall where Sri Ramana lived. If there were any stories about him in the newspapers, someone would cut them out and paste them in the book. They were either neutral reports that gave information about his life, teachings and ashram, or they were very favourable testimonials. 昔、スリ・ラマナが生活していた講堂にはスクラップブックがありました。新聞に彼に関する記事が載ると、 誰かがそれを切り取って本にはりつけました。それらは彼の生活や教えやアシュラムに関する情報を与える 中立的な報告か、とても好意的にラマナを推薦するものでした。
73 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 15:44:42 ID:8tb4/TGD
One day a highly critical report appeared in a newspaper. Sri Ramana himself cut it out and pasted it on the front cover of the scrapbook, overruling the horrified objections of all the devotees. 'Everyone should have their say,' he said. 'Why should we keep only the good reports? Why should we suppress the bad ones?' This is all a roundabout way of saying that there are no bad stories about Sri Ramana, so the question of suppressing them doesn't arise. ある日、非常に批判的な報告が紙面に現れました。スリ・ラマナは自分でそれを切り取って、 スクラップブックの表紙にはりつけ、ショックを受けたすべての信者の異議を却下しました。 彼は言いました。「すべての人は自分の意見を持つべきです。なぜよい報告だけ保存するべき なのですか。なぜ悪い報告を伏せるべきなのですか。」これはスリ・ラマナについて悪い話が ないということを言うための遠回しの方法です。ですから、伏せておくという問題は起こりません。 'Everyone should have their say,' he said. 'Why should we keep only the good reports? Why should we suppress the bad ones?' This is all a roundabout way of saying that there are no bad stories about Sri Ramana, so the question of suppressing them doesn't arise.
74 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 15:55:20 ID:8tb4/TGD
A few years ago I was sitting in on a conversation between Kunju Swami, someone who had been with Sri Ramana since the early 1920s, and a friend of mine, Michael James. Kunju Swami was revising one of his books, deleting a few stories that he thought might give a bad impression of Sri Ramana. To me the deletions were pointless. 数年前、私はクンジュ・スワミと、1920年代の初期からスリ・ラマナと共にいたある人と、 友人のミッシェル・ジェーンと座りながら話していました。クンジュ・スワミは彼の 本の一つを改訂していて、スリ・ラマナに悪い印象を与えるだろうと思う2・3のストーリー を削除しました。私にとっては、その削除は意味のないものでした。
75 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 16:00:14 ID:8tb4/TGD
For example, when Sadhu Natanananda first came to Sri Ramana in 1918, he asked someone in the temple in town for directions.The man he spoke to said, 'Don't waste your time going to see that man. I have been visiting him for sixteen years. He is completely indifferent to everyone.' たとえば、1918年にサードゥ・ナタナナンダがスリ・ラマナのところに初めて来たとき、彼は街にある寺院 にいた人に道を尋ねました。彼が話しかけたその男が言いました。「その人に会いに行って時間を無駄にしないほ うがいい。私は16年間、彼を訪れている。彼はすべての人に全く無関心だ。」
76 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 16:03:58 ID:8tb4/TGD
Kunju Swami wanted to delete this reply because he didn't want people to feel that someone could spend sixteen years visiting Bhagavan and not feel some benefit. For me, this is a reflection on this particular visitor's spiritual immaturity, not a criticism of Sri Ramana's transforming power. The story reflects badly on the person who was unable to recognise Sri Ramana's greatness, not on Sri Ramana himself. It may rain twenty-four hours a day, but nothing will grow in sterile soil. クンジュ・スワミは、16年間バガヴァンを訪問しても、その恩恵を感じない事がありうると人々に思って ほしくなかったので、この答えを削除したかったのです。私にとっては、このことは、この特定の訪問者の 精神的な未熟さの不名誉で、スリ・ラマナの変容させる力への批判ではありません。このストーリーは、 スリ・ラマナの偉大さを認識できない人を非難していて、スリ・ラマナ自身を非難していないのです。 一日に24時間雨が降るかもしれませんが、不毛の土地では何も育たないでしょう。
77 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 16:12:22 ID:8tb4/TGD
Anyway, Michael asked Kunju Swami, 'In the thirty years that you were associated with Sri Ramana [1920-50] did you ever see him do or say anything that was so bad or so embarrassing that you feel that you couldn't tell anyone, or make it public, because it would reflect badly on his public image?'Kunju Swami thought for a while and said 'No'.'Then who are we protecting by censoring stories?' asked Michael.He didn't receive an answer. ともかく、ミッシェルはクンジュ・スワミに尋ねました。「あなたがスリ・ラマナとかかわ ってきた30年間(1920−50)に、彼のイメージに傷がつくと思い、あなたが誰にも言 えないとか公にできないと感じるような悪いことや、恥ずべきことを、スリ・ラマナがしたり、 言ったりしたのを見たことがありますか。クンジュ・スワミは少し考えて、「いいえ」と言い ました。「では、我々は話を検閲して削除することで、誰を守っているんでしょう。」と ミッシェルは尋ねました。彼は返答を得ませんでした。
78 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 16:15:51 ID:8tb4/TGD
Kunju Swami felt that that it was an expression of his Guru bhakti to filter out any stories that might, even remotely, cause readers to think that Sri Ramana was not some great omnipotent being who transformed everyone who came to him. I take a different view. I don't think I need to burnish Sri Ramana's image at all because the uncensored truth of his life speaks for itself. クンジュ・スワミは、スリー・ラマナが来る人すべてを変容させる偉大な全能者でないと、読者に かすかにでも思わせるかもしれない話を取り除くことを、グルへのバクティの表現と感じていたのです。 私は別の見解です。私はスリー・ラマナのイメージを良くしようとする必要があると全く思いません。 彼の人生の検閲されない真実が、それ自身で語るからです。
79 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 16:19:51 ID:8tb4/TGD
これでインタビューの抜粋を終わります。 長い間、規制で書き込めませんでした。 シャンカラの@ABについてラマナの見解をまた書き込もうと思いますが、 今日はここまで。
80 :
神も仏も名無しさん :2010/05/08(土) 20:44:33 ID:2x375b5J
talks with Sri Ramana Maharshiのtalk315(p289)から、英語は省略して、 付き添いの一人が尋ねました。スリー・バガヴァンは「現実と架空のものは両方とも同じです。」といいました。 どうしてそうなのでしょうか。タントラ教徒やそのたぐいの他の人々は、正しい理解をしないで、スリー・ シャンカラの哲学をマーヤ・ヴェーダ(訳注:まやかしの教説)として非難します。シャンカラは何を言うの でしょうか。 彼は言います。 @ブラフマンは現実のものである A世界は架空のものである Bブラフマンは世界である 彼は二番目の発言でやめず、三番目をさらに付け加えます。どういうことを意味するのでしょう。世界はブラフ マンと異なるものと思われていて、その知覚は誤りです。
81 :
神も仏も名無しさん :2010/05/08(土) 20:47:13 ID:2x375b5J
論敵はロープと蛇の例を指摘します。これは、条件付けのない付加です。ロープという真実が知られると、 蛇という幻は一度に取り除かれます。しかし、彼らは条件づけられた付加も考えに入れるべきです。 つまり、蜃気楼にある水です。蜃気楼はそれを蜃気楼であると知った後も消えません。その景色はそこに ありますが、水を求めて駆け寄ることはありません。 スリー・シャンカラは両方の例に照らして理解されなければいけません。世界は架空のものです。それ を知った後も、世界は現れつづけます。世界はブラフマンであり、(それから)分離していないと知られ るべきです。
82 :
神も仏も名無しさん :2010/05/08(土) 20:50:07 ID:2x375b5J
もし世界が現れるならば、しかし誰に現れるのか、と彼は尋ねます。あなたの答えは何ですか。あなたは 「SELF」というべきです。そうでなければ、世界は認識する「SELF」がなくても現れるのでしょうか。 それゆえに、「SELF」が現実です。これが彼の結論です。現象は「SELF」として現実で、「SELF」を離れる と架空のものです。
83 :
神も仏も名無しさん :2010/05/08(土) 20:54:44 ID:2x375b5J
では、タントラ教徒などは何を言うでしょう。彼らは、現象はそれが現れる「現実」の一部であるから 現実であると言います。これらの二つの意見(訳注:シャンカラとタントラ教の意見)は同じではありま せんか。これが、現実と虚偽が一つで同じであるということで私が言わんとすることです。
84 :
神も仏も名無しさん :2010/05/08(土) 20:58:38 ID:2x375b5J
論敵は続けます。「条件付けなしの幻とおなじく条件づけられた幻を考えに入れると、蜃気楼の水 という現象は純粋に幻です。というのも、その水はどの目的にも使うことができないからです。一方、 世界という現象は異なります。というのも、世界には目的があるからです。いったいどうして、後者 (訳注:世界)が前者(訳注:蜃気楼の水)と同じとなるのですか。」
85 :
神も仏も名無しさん :2010/05/08(土) 21:00:11 ID:2x375b5J
現象は、ひとつのもしくは複数の目的にかなうからというだけで、現実になりえません。夢を例に とりましょう。夢の創造物には目的があります。創造物は夢の中の目的にかないます。夢の中の水 は夢の中の渇きをうるおします。 しかしながら、夢の世界は目覚めている状態と矛盾しています。目覚めている世界は、他の二つの状態 (訳注:夢を見る眠りと夢を見ない深い眠りの状態)と矛盾しています。連続していないものは、現実 となりえません。もし現実ならば、それは常に現実であるはずです。短い間だけ現実で、その他の時間 は非現実ということではなく。
86 :
神も仏も名無しさん :2010/05/08(土) 21:04:36 ID:2x375b5J
魔法の力による創造物も同じです。それらは現実的に見えますが、しかし幻です。同じく、 世界はそれ自身で、つまり、根底にある「現実」をはなれて、現実となりません。 talksからの抜粋終わり。難しい話ですね。
真我体験をして、聖書にのってるような奇跡を見てきた私の感想ですけど やはりDNAやら原子の配列やら私の意志ではまるで無い。 全てはブラフマンで等しいとは感じられない。 世界と神と私の自我はまるで別々に感じられるのが結局の感想ですね。 ですけど多くの奇跡や予知夢やら見てきたことも事実ですし ようするにラマナの説くサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディでしか想像の神秘までは理解できない 全てはブラフマンとはいかないようです。 ただ真我体験中は確かに一体感しかありませんね。そのような疑問を持つ自我が無いからです。
88 :
神も仏も名無しさん :2010/05/10(月) 08:20:10 ID:aOEgXItU
>>87 あなたの見た聖書にのってるような奇跡や多くの奇跡ってどのようなことなんですか?
>>88 色々あるんだけど
あまり具体的に書きたくないんだよね。
聖書にもイエスが誰にも言わないようにと念を押すところがあるけど
あまり人に話すことでは無いのかも?
ただひとつだけ話すなら寝起きの時に頭は起きてるんだけど
目だけ閉じてる状態のときに瞼の裏にイエスの顔を見たことがある。
あまり私は学のある人間ではないからさ 凄く頭のいい東大卒の研究所勤めの人とかが奇跡見たり真我体験したなら どのような表現をするのだろうかとは思ってしまう。 でもおかしな人と思われたくないから結構だんまりなのかもね。
インドの田舎ではテレビも無いし電気とかも通って無さそうだから 奇跡見ても天然系のノリでそんなこともあるさくらいで受け流しそうなんだけど NHKの科学番組とか見たら細胞がどうとかミトコンドリアがどうとか 凄いメカニズムなんだけど、俺なんかより科学者の周りで奇跡が起こったほうがその重みが伝わるんじゃないのか? とか感じるんだけど、どうも世の中はそのようにできてるんだろうね。
ルルドの奇跡をノーベル賞取った科学者が目撃したことがあって それくらい社会的に立場のある人間が語れば説得力あるんだけど、でもまあラマナに言わせれば 自分が真我に在ることだけ気にしなさいらしいから、これでいいのか?って感じもあるんだけど 結局は多くの奇跡や真我体験も誰にも語らずに生涯を閉じることになるんだろうね。私だけに限らず
具体的に話したくないんなら最初から何も話さなきゃいいのに 長々と書いてるが、一体何が言いたいのか
>>93 私の言いたいことは所詮自我の主張だからね。
極端な話ラマナの言葉があれば何も要らない。
ただ悟ってる訳でもない中途半端な世界観なんだけど
言いたい事はわかるよみたいな共感はどうしても生きてたら求めてしまう訳さ
例えば世の中には色んな趣味の持ち主がいるだろう、機関車を撮るのが趣味なら
同じ嗜好の持ち主に出会えたら嬉しいものだろうからさ
ふーん
96 :
神も仏も名無しさん :2010/05/11(火) 21:38:32 ID:+Z5+33Ih
ビジョンって大した話じゃない。 みんな夢見るじゃん。 脳はそれこそ世界の永遠の過去から永遠の未来までが収束してきて、それが自分なんて 体験もできる。 脳内妄想よりはいくらか現実性のある予知夢の方が聞きたい。
そんなことよりラマナとかパパジとかマハラジとかラムダスとかの話をしよう。 ラーマクリシュナやパラマンサでもいい。
麻原尊師も不二一元論者だったけ
>>96 期待に添えなくて悪いけど
ジョセリーノのような予知夢は見たことが無いよ
ただ抽象的な自由意志の入り込む余地のある親しい人との別れであるとか
私の人格の欠点を指摘したりするような当たり障りの無い予知だけ
それに変な犯罪にも巻き込まれたこともあって透視でそのことを関わりのある人に
デッドゾーンのように指摘しても相手にされなくて痛い目にあったこともある。ろくなことはなかったね
人より優れた何かを得るとそういった好ましくない出会いも呼び寄せるんだと思う
だからジョセリーノのような予知夢みたら逆に困るよ
人々に呼びかける情熱も私には無いのだから
地球シュミレーターとか凄く細かいけど、実際私の見た予知夢は更に細かく完全で人知を超えてたから
頭が痛くなるだけ
実際全てはブラフマンだとか言いながらも石ころと万札がビッシリ入ったケースが落ちてて 同等に扱える人なんか皆無でしょ?子供ぐらいのものだと思う例外があるとすれば 世間では真我より奇跡や神通力のほうを重んじるし、ラマナのような偉大な聖者が山に住み着いても 変な浮浪者が住み着いて迷惑なのが世間での常識、わたしは散々人の汚さを見てきたからそれらの世間の当たり前だけは譲れないし 「全存在である神、自ら進んで与える用意のある神から、役にも立たない超能力を欲深く乞うことは 全てを喜んで与えようとする慈悲深い人から、古くてかび臭くなった薄がゆを乞うようなものだ。」byラマナ・マハルシ 私はこれらのラマナの言葉からどれだけ救われたことか、実際釈迦の言葉どおり世の流れに真理は逆らってると思うな。
102 :
神も仏も名無しさん :2010/05/13(木) 02:45:53 ID:xNCt1sMT
石ころと万札がビッシリ入ったケースが落ちてて 同等に扱えない人もまたブラフマンですよ 人の汚さもまたブラフマン どこまでもなにもかもブラフマン ブラフマン以外ない それでいいじゃない
104 :
神も仏も名無しさん :2010/05/13(木) 20:03:28 ID:YgcXnqhV
ハンパないレベルで、科学法則を脅かすぐらいの奇跡や神通力ならすごいし、 観念論ではないんだけどね。 実際の奇跡や神通力って、ほとんど手品、トリック、鍛錬、潜在能力、勘違い、 宣伝の範囲のものばかりだからね。 重要視しても、疑問の余地のないものに遭遇できることはまずないだろう。 つーかこのヨギの弟子になればいいよ。
107 :
神も仏も名無しさん :2010/05/14(金) 21:04:20 ID:yra0dbJK
用語としての、「真我」の多用を好み、 ラマナ好きの、「ラマナの言葉」引用が目立つ。
どちらかというとニサルガダッタ師に近いと思うな。
スレタイ見たらラマナやら真我やらの話題が出るのは当たり前だろ? それが気に入らないのなら見なけりゃ良いのに 何考えてるのかわからん
110 :
神も仏も名無しさん :2010/05/15(土) 17:42:18 ID:M4VO4umD
そろそろ真面目に修行の質問でもしますか。 "「私は誰か?」と問うことで考えが消え、深奥より何かがあなたを捉える。 それは探求をはじめた私ではない。" これは単に、考えの無い状態の意識のことを言っているのだろうか? それとも、多くの人の悟りの体験にある離人症のようになる変化が起きるのだろうか? 後者はどうも普段の自我の機能の何かが阻害されるために認識が変化するだけのようなのだが。
一時的な何かが起こったり、経験したのなら、 それは心の創り出したなにかを経験したに過ぎないとおもうけど 最終的な境地を悟ると、すべての”なぜ?”つまり疑問が崩壊するらしいので なにか疑問が起こる時点で、単に心の状態を経験したに過ぎないんじゃない。
問うものは誰ですか? 問うものを疑えますか? 私は誰か? その質問者があなたです。疑う人自身を疑うことはできない。 この世があるという思考する人が夢。 実在の世界が夢にすぎないのは我々が夢を見ているから。
「私は誰か」としつこく問うてみても、 なんかマインドがマインドに向かって問い掛けてるだけのような気がするんだよな…… どっかで「私は誰か」と問うのは初心者には向かない、と書いてあるのを読んだことあるし
深く入れない場合は呼吸法とかした後に、一回「私は誰か?」と問うて座るといいよ。 コレ繰り返してるとどんどん深く入れるようになるよ。
>最終的な境地を悟ると、すべての”なぜ?”つまり疑問が崩壊する
そうすると、自我に何らかの変化が起きるという考えなわけだね?
>>112 夢の中の相手に説教するあなたが目覚めているとは到底思えない。
ティルにも1年以上いたし、にわかラマナさんの言葉はまるで響かない。
間違って書き込み押しちまった。
>>112 夢の中の相手を目覚めさせようとしてる人っておかしくないか?
って書けばよかった。
どう思う?
ラマナ系には時々いるが、「この世界は夢」と言う人が良く分からない。
夢の中の相手に「この世界は夢だよ」と教える夢を見てる人なのかね?
あんまり議論しても、犬が自分の尻尾追い回すみたいな堂々巡りで意味ないと思うけど、 ラマナは自我は無いっていう考えなのでは?
何が夢かというと 「目覚めさせようとしている。」「説教」 という解釈。 上位下位、競争という観念が投影されている。 問いを見つければ答える。 だが私は答えていない。私は答え手ではない。 私は私の心が勝手に応えるのを見つめる。 あなたの答えに喜びぶでなく悲しむでなく、あなたの答えからあなたの精神構造を見極め、 それを自身にも当てはめる。 (という「事実」の部分と残存自我のなにくそという悪「夢」の両方)
>>118 そのレベルまで行くと、みんなそうだろう。
ソフトの入ったコンピュータ同士が勝手にソフトのままに会話してるだけで、
こちらも基本的には反応だよ。
ソフトウェアがコンピュータの振りはしないだけ。
ソフトウェアを消去できなかったからね。
ソフトの無いコンピュータにはなれなかった。
そういう意味では残存自我はあってる。
>>115 あそこに1年いて瞑想して図書室に通って菜食していれば
2ちゃんには書き込まないと思うんだけどねえ。
世界のことは世界に、他人のことは他人にまかせろってヴァガバンは言ってたじゃん。
にわかラマナ扱いを受けましたが。 私はラマナを全く知らないし、そのマントラ試したこともなく。 この言葉は私の人生と、心と体の関係の議論から生まれた 借り物ではない生きた言葉です。 あなたは過去の経験から生きた言葉を借りもの扱いした。 でも、ラマナが似たような言葉を言っていると知ってたら 違う言葉を選んだでしょう。露骨な引用は無知の言明ですから。
>>120 図書室にあまり通わなかったし、たまに肉食してたからw
なんにせよ、忠告聞いた方が良さそうだ。収拾つかなくなってる。
>>121 =118さんでいいのだろうか?ずいぶん趣が違うけど。
ラマナを知らないけど、このスレを見て答えたということですか。
にわかラマナさんではないんですね。失礼しました。
答えて欲しいのは、夢の中で夢の中の幻の相手に「この世があるという思考
する人が夢。」と書き込んでる幻の自分を見てるわけですか?
私なら「これは夢だ」と分かったら、そんなことしないですけど。
こちらの理解がおかしいですか?
生きることが夢であると看過し、死も夢であると看過する。 生に固執する理由もないけれど、急に生命維持をやめることもない。 生は現れ消える、こころの活動も現われては消える。 わたしの心は動く。遊び好きだし、学び教え学び成長してゆく。 プラクティリティー、その人の要素、本質というものがあります。 それにあえて逆らう理由はありません。夢は流れるままほっておけばいい。 と、質問に直接答えてみます。複雑です。 そしてこの答は半分は私の生そのものですが、半分はただの理想論です。 私は今に生きています。何の結果も求めておりません。 「この世があるという思考 する人が夢。」 と書き込んでいたとき、またたった今 全くの無なのです。無からこれらの言葉が出ている。そしてこれらの言葉も無である。
あ、わかりました。 私は存在しないことが現実で、存在するというのが思考の作る夢であると述べました。 あなたは、存在するということが現実で、存在しないというのが夢であると述べています。 目覚めた人は存在しないものとして世界と戯れますし、眠った人は存在するものとして世界と苦闘します。 「存在しない私が」「現実に」「存在しないあなた」と遊ぶのです。 また、人の固定観念、自分の固定観念を通じて自分の思考の全工程を解き明かしてゆくために私はここにいます。
無とやらはこの世界を夢とも現実とも思わないし、 存在するともしないとも思わないはずだけどね。 一連の書き込みはあなたの言う遊び好きの心の認識だろう。 単にアイデンティティが崩壊して自我が混乱してんだよ。
無論。何も思わない。 言葉の質問に対する 言葉の遊びである。
完全な無の人も喋る。無は喋らぬが、人の形も持っている。 また私は無と有の挟間にいると言明もしている。 それにつけても、話し手なく話すという基本をこの対話で思い出せさてくれた。 話し手があるというだけで不幸は確約されている。
では、あなたは目覚めた無の方でなく、 言葉の遊びをする幻のほうなわけですね? いわゆる自我ですが。
あらら、書き込みがあったのか、128は取り消しで。
130 :
神も仏も名無しさん :2010/06/01(火) 20:34:36 ID:7qlh4ZGz
Sri Ramana Lila、p104から... For some unaccounted reason there was an emotional upsurge in Iyer on seeing the Maharshi and he asked him, “Swami, great souls like Jesus arose on the earth to redeem sinners. Is there no hope for me?” The Swami was moved and rising from his seat said in English, “Yes there is hope, there is hope, there is hope.” Iyer noted this in his diary, a habit he had cultivated since then. 何らかの説明のつかない理由で、マハルシをみてアイアーの中に感情の高ぶり が起こり、尋ねました。 「スワミ、イエスのような優れた方々は、罪びとを救うために現れました。 私には、希望がないのでしょうか。」 スワミは心を動かされ、座から立ち上がりながら、英語で答えました。 「希望はあります。確かに。」 アイアーはこのことを日記に書きました。日記を書くことはそのこと以来彼の 習慣となりました。 英語では「希望はあります。」と三回くり返してマハルシは述べています。英語では強調の 為に繰り返して述べるので、直訳しない方が自然であるとどこかで読んだので、上記のよう な訳にしました。 マハルシは、英語を理解できましたが、英語で答えることはほとんどなく、タミル語ではな すことが通常であったらしいです。英語で答えたのは、特別のことだったでしょう。
131 :
神も仏も名無しさん :2010/06/13(日) 14:35:48 ID:Y55g89c6
Iyerは通常「アイヤール」というんだと思う。 南インドのブラーミンの姓でラマナの出自もアイヤール。 英語版のwikiにはIyerだけで結構な量の説明があって インドの大変さを実感する。 ある姓に属する人たちに固有の文化があるなんて日本ではちょっと考えられない。 「高橋」ってwikiがあって、「高橋は祭司階級であり、主に何宗の何派で、 食べるものは主に海産物、祀りは特に誰々を重要視する。江戸時代後期には鈴木 の進出により北陸地方に多くが移住した。最近では伝統を捨てるものも多く、 海産物以外も口にする。」とかありえないし。
と思ったら、「高橋氏」でwikiありました。 すみません。
イエス・キリストが奇跡を意識してなかったとか受け答えしているけど 地味に凄いんだよなあ、殆どの人はイエスは特別な存在で神の子だったからって答えるけど 科学の進んだ現代で、もしそんな奇跡のようなことがありえるなら そもそも人間の能力でミクロの単位とか理解して把握出来てる訳が無いんだよね。
私は誰か?と問い続けていけば悟れるのでしょうか? 悟りを拓いた方いらっしゃいますか?
tes
仏教での他人が悟りを開いたとか、それらを多くの人に認められたいとか どうでもいいのにね。 釈迦の真理は割合に多く残ってるし、釈迦自身が私に依存しない者は最高の境地にあると弟子にアドバイスまでしてるのに
>>136 悟るための簡単な方法をご教授願えませんか?
悟りを開いたとかを数多くの人に認められないと悟りでないとか 奇跡が起こったから、私は選ばれた人間だとか、そんなの宗教では多いけど 歩いてて多くの蟲を踏んでも、みんな無意識だし、ラマナも悟りを開いたら 奇跡を意識して無いとか言ってるし、結局我の事柄だったら特別なことなんだと大事にしてるだけ 蟲が人に踏まれようと踏まれまいと、川の流れのように水災害や水不足と同じで悟りに善悪なんてあるわけが無い。 誰も知らなくても、多くの人間に尊敬され認められようと悟ってるなら変化は受けないハズだから
139 :
137 :2010/07/09(金) 00:31:41 ID:MhS54LLN
私は、苦しみから解放されたいだけです
>>137 悟りのことなんて考えないほうが幸せかもね。
知れば知るほど
多くの輪廻を繰り返して、これからも多くの輪廻を繰り返す。
仏教国とか坊さんに奉仕を行い、来世の功徳を積むとか最初から悟ることを諦めてるし
誰でも子供の時は
どこでもドアとかタイムマシンとかあったらいいなとか考えるんだけど、
それらの便利な道具を作るために難解な数式を見て挫折するのがイエスや釈迦の生涯の現実なんだよね。
ラマナも半端じゃないよ、一円も持たずに家を飛び出し、過去のラマナを知ってる人が見たら あまりの別人格に驚いたらしいし、スズメバチに刺されても、癌に侵されても、本当にひょうひょうとしていたらしい まあ、何かあんまり無理しないほうがいいよ。悟りを開いたとかは特別だから、魚に生まれたら魚の群れにとどまるのが幸せなんだよ。
142 :
神も仏も名無しさん :2010/07/09(金) 00:49:18 ID:b5S8enGS
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
143 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/10(土) 15:37:40 ID:L+QjrHeh
ACIMスレ落ちちゃったね。なんで?
>>143 レスが980を超えたり、スレッドのサイズが512KBをオーバーしたり、
スレッドストップがかけられるなどしてからしばらく経ったとき近いうちに dat落ちするです。
書き込み数が980回以上か、データ容量が板ごとに設定されたある容量以下
(5KB以下、30KB以下など)という条件を満たす時にこの判定が行われ、
最後の発言から丸24時間以上経っているスレッドはdat落ち状態になる。
書き込みの多い板では最後の発言から12時間、 6時間と判定が
より厳しくなっている所もある。また、実況系板では一定の時間が経過する
とスレの書き込み数に関係なくdat落ちする判定がある。
・・・らしいですよ。
145 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/11(日) 23:02:24 ID:zFHDQoEe
>>144 サンクス
誰かACIMの次スレを立ててくれまいか・・・・
146 :
神も仏も名無しさん :2010/07/16(金) 20:25:08 ID:pod8r9tU
147 :
神も仏も名無しさん :2010/07/16(金) 20:34:21 ID:pod8r9tU
148 :
1 :2010/08/09(月) 02:47:46 ID:A348eocj
別スレの書込みより一部抜粋
ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 5
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1278889706/232 >ラマナ・マハリシ、プンジャジ、マハラジ、ラメッシといった方々は、
>本物の解脱者です。この方々の言葉を知るのはとても役立つと思います。
>もちろん、ブッダ、キリストも同様です。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1278889706/235 >解脱とは → これが私であるという思い込み(幻想・自我)を捨てていき、
>最後の最後に残るものが「本当の私」であると気づくこと。悟り。
>つまり、解脱とは新たに何かを手に入れるのではないということ。
>我々の自我は肉体を私と信じている。わたし、あなた、という区別された
>存在を受け入れている。本当はそうではない。
ACIMスレより、こちらのアドヴァイタのスレの方が適切なような気がしたので
質問させてください(勝手に抜粋してすみません)。
自我を捨てていき真我に気付く、というのはわかるのですが
覚者(ジニャーニ)のAさん、Bさん… という感じに個別の人格があるのが
納得できません。
マハラジの本にも「あなた(ニサルガ)がもし、ラマナ・マハルシと会ったら
すぐ互いにジニャーニとしてわかっただろうか?」みたいな質問をした人がいて
(現実には二人は会わなかったらしい)、マハラジは「談笑したかもしれない」的な
答えをしてます。
しかし個別の肉体という幻想を捨てたら、それぞれの覚者は
「みんな一体」つまり‘たった一つの真我’なのではないでしょうか?
マハラジもマハルシもイエスも釈迦も神も「同一人物」
(ていう言い方は、すごく語弊があるかもしれませんが(笑))
のほうが自分のような入門者?には、わかりやすい気がします。
149 :
神も仏も名無しさん :2010/08/09(月) 07:20:13 ID:xZ2ib2oY
>>148 マハルシは、本当は「ジニャーニはいない。ジニャーナのみある。」という
事を言っています。
色々なジニャーニがいるという見方は、私たちの見方で、実はみんな同じ人物と
いう見方はそれより真実に近いと思います。ただ、本当は「人物」はいないでしょう。
150 :
神も仏も名無しさん :2010/08/09(月) 22:30:34 ID:qTFPx7dG
ラマナかマハラジのどちらか忘れましたけど、 聖者であっても肉体を持っている状態は本当の状態ではないから、 肉体を脱ぐことは喜ばしいことだ、 と言っていたと思います。 個別の人格というのが虚妄であり幻なのです。 聖者もあなたも私も幻です。 各聖者が同一人物なら、ヒットラーも金正日も連続強姦魔も同一人物です。 精神世界を志向する人の常として、いわゆる聖なるものが聖者としてのみ 何度も顕現すると思い込みたいのは分かりますが、 悪人であっても顕現なのです。 悪人も真我から離れていないのです。
151 :
神も仏も名無しさん :2010/08/09(月) 22:59:58 ID:I8D+ti8O
ま〜嫌、マーヤー、幻力(マーヤ)。
152 :
神も仏も名無しさん :2010/08/09(月) 23:00:55 ID:I8D+ti8O
ま、良いや!
153 :
148 :2010/08/09(月) 23:58:25 ID:A348eocj
解説のレス、ありがとうございます。
>>149 「ジニャーニはいない、ジニャーナのみがある」という言葉はたぶん
個別の聖者(覚者)のように見えている人(肉体)は、本当ではなく
‘絶対的な知’があるだけだ、という意味なのでしょうか?
この部分のジニャーナの日本語訳が、適切かどうかわかりませんが
なんとなく「人物じゃなくてもっと超えた‘何か’」という
ニュアンスは、しっくり感じ取れることができました。
繰り返しになりますが、ありがとうございます。
154 :
148 :2010/08/10(火) 00:27:36 ID:TH7u9gSu
>>150 見かけの「人物像」にこだわってしまう、僕自身の見方が
まだまだ問題なのかもしれません。
>各聖者が同一人物なら、ヒットラーも金正日も連続強姦魔も同一人物です。
この部分がとても厳しい言葉なので、一瞬ひるんでしまいましたが
確かに全てが‘マーヤ’(幻)だとすると、こういう結論になりますね。
ただ、ヒットラーやポル・ポトなどの話題になると、ついつい
虐殺事件の被害者や遺族の方々の気持ちのほうに、感情移入してしまい
なかなかこういう風な見方になれない僕自身の弱さ?がもどかしいです orz
いきなり思い出したけど「バガヴァット・ギーター」で
戦争開始を渋るアルジュナに、クリシュナが語る一連の言葉って
殺戮は善悪でなく単なる幻想内の‘行為’であるから
くよくよ気にしちゃいけないみたいな話は、これと似てるなと思いました
(ギーターはまだ途中で棚上げしてて、ちゃんと読めてませんが)。
ラマナ・マハルシが飼ってた鹿とか牛とか犬とか草木とか、
そういう自然界の物に‘ジニャーナ’の顕現を見よ、と言われるほうが
僕としてはまだ受け入れやすいのですが…。
とりとめのない文章ですみません。レスありがとうございました
極めたら石ころみたいなもんになるんかな? 食事を信者に口に押し込められなければ死んでたくらい 深い瞑想になると、石ころのように蹴られても踏まれても気付いてさえいないような 善悪すら無いみたいな深い眠りのような悟りに
156 :
神も仏も名無しさん :2010/08/10(火) 06:57:28 ID:axrx9vxV
>>1 53
>「ジニャーニはいない、ジニャーナのみがある」という言葉はたぶん
個別の聖者(覚者)のように見えている人(肉体)は、本当ではなく
‘絶対的な知’があるだけだ、という意味なのでしょうか?
わたしもそのようにとらえています。主体が対象を知るという相対的な知識ではなく
絶対的な知・・・かな。
Guru Vachaka Kovai 422から
All other knowledges are defective and petty; the
experience of Silence [i.e. Self-Knowledge] is alone
Perfect Knowledge. The different objective knowledges
are merely superimposed on Self, the Pure
Knowledge, and hence they are not true.
全ての知識は欠陥があり、劣ったものである。
静寂(Silence)の経験のみが、完全な知である。
様々な客観的な知識は単に真実の自分ー純粋な知ーの上に付け加えられたもの
にすぎず、それゆえそれらは真実ではない。
157 :
神も仏も名無しさん :2010/08/12(木) 01:09:58 ID:s8YHzqhA
>全ての知識は欠陥があり、劣ったものである。 最終的にはアドヴァイタだのブラフマンだのも欠陥があり、劣ったものなんだよね。
米景気の不透明が高まってるって 日本の景気の不透明感の方が高まってるんだが。
>>148 覚者A、覚者B、覚者C・・・・・・という見方は、肉体として顕現している個の性質を
見るときの見方です。
覚者には自我は残されてはおらず「真我」という意識であり、
そこには、誰、彼の区別はないというのは多くの覚者共通の真理の教えです。
ご理解されていることと同じだと思います。
ただ、覚者たちは自我を共通のものとして指してはいないはずです。
つまり、「真我」はひとつだけれども、自我である個の人格は同一と見なしていないはずです。
肉体的存在で自我を区別して見るとして、
Aという人物を構成する自我がなくなり悟りに至ったとき、この意識の純化はAという人物のみならず、
その他すべて(B、C・・・・・・)の自我にも影響を与えているのです。
つまり、Aが悟る→B、C・・・・・・の自我の曇りもまた、それにつりあうだけ取り除かれるということです。
マハラシ、マハラジらが、戦争や苦しみの被害者らについて言及する質問者たちに、
彼らを救う最善の方法とは、あなたが目覚めることだ、と答えているのもこの理由によるものと思われます。
また、いわゆるオーラとかエネルギーと表現できるかもしれませんが、
覚者たちは、同じ「場」に居合わせる者たちの意識へ、見えない作用を及ぼすようです。
覚者たちが、「言葉ではなく、沈黙の教えがもっとも優れている」というのは
この見えない力による意識の引き上げのことを指すようです。
一体というのは主観だから 覚者から見た一体感は 覚者同士出会っても、出会った相手が悟って無くても 変わらないんだろうね
対象と同一化できる人間に聞いたら、自分が相手と同一化してるときは相手も同じように 感じてると言ってたな 自分のことではないしホントかどうか、錯覚でないかはわからない そういう状態の経験がある人いますか?
162 :
神も仏も名無しさん :2010/08/14(土) 17:24:33 ID:XfN7O9+5
深い川に近づくと「エンコに引き込まれるから気お付けなさい」と 子供のころよく言われた。エンコって何なのか知らないし、どんなものか 聞くのをわすれたが、とにかくえたいの知れない怖いものらしい。 エックハルトトールのStillness Speaksを読むと、エンコに引き込まれそう になる。この感覚はエンコだ。深い淵の底に引きずりこまれていきそうになる。
163 :
神も仏も名無しさん :2010/08/23(月) 01:25:25 ID:hOFsZ93/
>>159 真我の実現がオカルティックに伝播するなんてことはないよ。
通常の伝播の仕方のみ。
グルから弟子へのパワーの伝播はマハルシが否定している。
マハラシ、マハラジが「あなたが目覚めることだ」と答えたのは、
彼らがそれについて具体的に行動するわけでもなく、戦争や貧困等について考えて
苦しんでいたから。幻である考えで苦しんでいることほど無駄なことはない。
マハラジがそういう人に言っている。
「しかし、あなたは自分の富を分け与えようとはしない」
はっきり言えば、悟りを求めている、オカルティックな実現を必要としてる一連の
考えの構造体が自我であり、幻であり、消滅するものなんだよ。
あなたや私が自我なんだよ。
我々が御託を並べていない時、そこには至福しかない。
それだけのこと。
あなたが黙ったとき、あなたは悟りなんて求めていない。
考えが出てきて、あなたは悟りを求めるんだ。
164 :
絶対神 :2010/08/23(月) 01:31:01 ID:0pC/YnvW
>>154 教説を信じこむのではなく
『常識の範囲内でやる事が重要だと思うよ』
「当たり前けど、許せない事は許せない、駄目な事は駄目だ」
という一線は、どんな宗教だろうと『絶対に必要』で、
「でないと非現実的なオウムのようになるだけさね」
当たり前だけど、
『我々にとってこの世界が幻の訳がないのだから』(神から
すればどうかしらんがね)
>>163 その考えそのものが既に現実を認識していない考えだって
「自我を抜きにして人間の活動は成立しない」
つまり、『幻』であると断じている時点で、「人間性を否定している恐ろしい
行為だ」
「自我があるから道を求められる」
当たり前の事だ
至福があるのも、「我があるからさね」
「自我がなく物事を認識できないところには『何もないよ』」
> 『我々にとってこの世界が幻の訳がないのだから』 同意するが、この世界を「今」と「今以外」にわけるなら、「今以外」は幻と 言ってもいい。「今」を非常にリアルに認識すればするほど、「今以外」は 取るに足らないものになる。というようなことではないだろうか? つまり「我々にとってこの世界」というとき、それは「今」を指していない。 もちろん「今」を含んでいるつもりになっているが、実際には世界はその世界では なく「今」にしかない。 自分も覚者のいう「今」についてよくわからないが、沈黙を修行するようになっ て、「今」が確実に増えてきたような気がする。「今」は現実とは異質の世界(瞑想) なのだが、まぎれもなくリアルな世界だとわかる。そうすると現実はなんなのだと いうことになる。
166 :
神も仏も名無しさん :2010/08/25(水) 01:49:12 ID:vdGp91vb
>>164 誤解を生んだようだが
主に考えを自我と言っていて、
考えのない意識、あなたの言う我?は自我とは想定してないんだ。
それは問題を起こさない。
まあ、半分方便と思っていただくとありがたい。
西洋人の書いた本だと考えの有用性を認めた上で、その幻性も指摘するように
なってるね。
>「自我があるから道を求められる」 自我とは別に「自我を意識している」意識、「思考を意識している」意識がある。 「道」は思考によってつかむと概念だが、花を思考なしに直接知覚できるように、 「道」も思考を通さずに直接知覚できる。それは私が求めている道ではなく、ただ あるものとしての道で、私が道を知覚するのではなく、私が私としてあり、道が 道であり、私が道であり、道が私であるようにある。概念化することなしに 直接知覚するときには、そこに私はいない。ただ知覚だけがある。
168 :
神も仏も名無しさん :2010/08/25(水) 23:03:34 ID:VqIDcc95
あるとはいっても、その自我を意識している意識に何ができるのかという疑問 が絶対に出てくる。質問の答えになっていない。 自我を意識してゆくと自我がまとまる。さまざまな世間体や迷信に右往左往する 分裂自我ではなく、意識によってまとめられたあなただけの自我だ。 「一番大きな羊が迷う、神はその羊を探している。」 そんな研ぎ澄まされた自我こそ自我の中の自我であり、意識の中に消え失せる ことが可能な自我だ。 実際探求は自我による熱望から始まる。今自分があるところから始めるというのは正しい。 自我は無いなどという言葉は実際にそれを知った人にとってのみ意味のある言葉で それを頼りに探求しても白昼夢に浸るのが関の山だ。
テレビでガンジス川沿いのヨガマスターを適当かどうか知らんが 探して来て、そのヨガマスターですら瞑想中に目の前で風船割られても反応無しだったからな インドの伝説ラマナ・マハルシとか当然スイッチ切れたように何時間も瞑想で動かなくなるのも納得いくな
170 :
神も仏も名無しさん :2010/08/26(木) 23:19:49 ID:EXVmxNUB
>>170 ババジャンとかメハーババとか、日本ではほとんど知られていない聖者ですね。
初めて知りました。貴重な情報をありがとうございます!
サイババってスレ見たら認められてないんだな それでも山の中で隠れて瞑想してるだけだったら、誰にも気付かれないと 思うのだけどな、私もサイババブーム無かったら宗教に興味持ってなかったし ラーマクリシュナいわく、シャンカラも人々に真理を伝えたいといったエゴを 少し残していたらしく、ラマナの言葉では他者を意識してるのは悟ってないらしいけど それ以前に気付かれないのはどうにもならないからなあ 本物かどうかは個人で判断するとしてサイババは聖者だと思うな
言行録でも復活後120人だから、実際に真面目に話し聞いてた弟子は もっと少ないんだよな、それに加えてヨハネ伝でも教えに躓く弟子続出 抽象的で仏教の空思想のような難解なことをイエスは語っていたらしいんだよ 大半は読み書きできない弟子の中から生まれた正典は非常に少ないと思う 預言も復活もキリスト教の発信源はヨハネ伝と解釈すればなんとなく理解できる
何でこんな紛らわしい弟子が躓くような表現や喋り方をしたのかは 弟子が迫害されるのを心配したからなんだろうな
ラマナやラメッシは完全な運命論者みたいですが、 おまいらもそれが正しいと思います?
運命論っていうより、運命があるとかないとかいう自分はいないってことだろうね。 自分が選んでるようでも選ばされてるのかもしれないし、そもそもそういうふうに、どちらが どちらにどうしてるってこと自体が錯覚なんだろう。
>>713 どうもです。
地橋さんの本も読みました。
マハシ式とはラベリングの頻度が違うだけで、基本の考え方は
同じという解釈をしていたんですが、そうではないのですか?
これ以上はスレ違いなのでここでやめておきます・・・
アドヴァイタスレ、読んでみます!(`・ω・´)
179 :
178 :2010/09/23(木) 20:17:28 ID:PXNULdW6
すみません。誤爆です。
自我が存在しないことを体験する。 そのための方法としてジニャーナとバクティがある。 ジニャーナは「私はどこから来たのか」とたずねることによって、自我が存在しないことを知る。 バクティは「御心のままに」と受け入れることによって、自分がなにもしていないことを知る。 ラメッシのバクティに始まってジニャーナに終わる。 ラマナのジニャーナ・バクティ・カルマを共にする。 どれでも個人の自由に。
>>181 ラージャ・ヨーガはウパニシャッドの初心者用独習技術ですから。
最終的には同じところに行きますが、ラマナやラメッシとは関係ありません。
ジニャーナ・マールガ、バクティ・マールガ、カルマ・マールガの三種をラマナは教え
後二つのヨーガとタントラについては、説明はしても伝えはしませんでした。
詳しくは「ラマナ・マハルシの伝記―賢者の軌跡」の巻末用語解説をお読みください。
ヨーガスートラからウパニシャッドへと至るのがインド正統派瞑想の道ですが、
あれは師がいないと絶対にできないようになってます。
ウパニシャッドとは「師のかたわらに座る」と「同一化する」を指していますから。
現代日本では縁がないのではないかと
師は物理的な人間とは限らないとも言うけどね
>>184 なるほど。
では、たとえばクリヤ・ヨガの師がいる場合なんかだと、
まずは方便としてのヨーガ・スートラ(サーンキャ哲学)の道を進むこともあり、
ということですね。
それと『現代人のためのヨーガ・スートラ』という本の解説に、
ウパニシャッドは「一点集中することのできる心」の状態にある弟子が、
師と(の共鳴により)同一化し「止滅した心」の状態へと至る段階のプロセスであり、
「一点集中することのできる心」の状態にない人たちは、
ヨーガ・スートラ等の明文化された方法論に従って、
まず「一点集中できる心」を達成することが先だ、というような記述があります。
自分がどの段階にいるのかを見極めることは大切ですね。
そうでないと、ラマナやマハラジやラメッシの本を読んで、
その気になっているだけで何も進展しないということもあり得ると思われます。
それはそうなんですが、実際にラマナアシュラムに行ってきて 生きている師についている人間としては。 生きたグルがいないと正直きついと思いますよ。 エックハルト・トールのような才能がある人なら別ですが。 今アドヴァイタ系のグルをやっている人は 大抵どこかで長期間修行したり生きている師について学んでいますから。
>>187 さん。
もし、よろしければ教えて頂けないでしょうか?
グルは、どなたなのでしょうか?
(ラマナアシュラムで常時サットサンをやっているのでしょうか?
ラマナアシュラムには生きたグルはいないと思っていました。)
ちなみに、生きたアドヴァイタ系のグルで常時、サットサンをやっているグルはいるのでしょうか?
当方、生きたアドヴァイタ系のグルに教えを受けたい者です。
もし、お答えいただけたら幸いです。
>>188 アドヴァィタとはちょっと違うかもしれないけど、
関東在住なら岩城和平さんの会に行ってみては?
最初の半年間は瞑想会と勉強会にしか出れない。
半年経過すると修道会というのに出られるようになる。
この修道会がアドヴァイタ系のサットサンと同じものです。
師との共鳴による一体化。
ただし合うか合わないかは実際に行ってみないとわからないと思います。
ラマナアシュラムではある意味で常時サットサンが行われています。 それはラマナがアルナーチャラとして臨在しているからで、 メディテーションルームやスカンダアシュラム、ビルヴァークシャ・ケイブにて 座ることがサットサンです。 そうはいってもティルヴァンナーマライのまわりには欧米・韓国・日本等の修行者が多く それらに指導するグルも存在します。 生きたグルというならガンガジ、エックハルト・トール、ステファン・ボディアンなどが 有名です。特にステファン・ボディアンの「過去にも未来にもとらわれない生き方」は 一読の価値があります。 日本ですと関東でラージャヨーガとジュニアーナヨーガの指導を されておられる方がいます。 別途アンマやサイババなどインド系グルがいますが、あちらは私の専門外ですので なんとも解りかねます。 なんにしろハワイにも行ったことがないのにハワイのガイドブックを書いているような 想像で本を書いている人にかかわらないことが重要だと思います。
という、ハワイに行ったこともないのにハワイのガイドブックを書いているような人のアドバイスは話半分に聞いておくことです。
>>190 関東でラージャヨーガやジュニアーナ・ヨーガを指導されておられる方について
もっと詳細を教えていただけませんか? どこに連絡すればいいのですか?
>>191 まあそういう話です。
自分の頭で考えて自分の意志で決めましょう。
2ちゃんの情報を当てにしてはいけません。
>関東でラージャヨーガとジュニアーナヨーガの指導をされておられる方 ひょっとしてヨーガスクール・カイラスのM川さんのことですか? 彼は元オウム真理教の出家者だった人ですね。 裏ブログというのがあって、今でもオウムを評価していますよ。
>>194 はずれです。
クンダリーニを覚醒したら悟れると言っている時点でオウムはアウトです。
密教ヨーガは顕教ヨーガの準備段階ですから、
ハタヨーガやクンダリーニヨーガで真我は実現できません。
それは失礼しました。 ということは火の呼吸のあの方ですかね? 十牛図の本はすごくためになりました。
そんなことより不二一元論の話をしましょう。 ラメッシが教えたサーダナ(修行法)は 夜眠りにつく前に一日の行動を見てみるというものです。 朝起きたときから夜寝る前までの行動を一つ一つ見ていく。 するとその行動が自分の意思で行ったのではなく、 外部からの情報に反応して、肉体精神機構が遺伝子と条件付けに反応していることに気づく。 つまるところ自分は何も選択しておらず、何もしていない。 ただ行為が起こっているだけであり、高次の力が体を動かしている。 ギータにあるように「御心のままに」物事が起きている。 これを長期間繰り返すと、自我が弱まってくる。 そして存在の根源より「ではこの何もしていない私とはいったいなんのか」 という疑問が湧き出してくる。 かくて自我が存在しないことを体験し、真我が実現する。 これがラメッシの言った「バクティより始まりジニャーナで終わる」というものです。
198 :
188 :2010/09/27(月) 22:45:03 ID:6F+Ng/Gw
こんなに早くレスがきているとは。。。
レス、どうも、ありがとうございます。
(昨日、書き込んだら寝てしまいました。。。今は、会社から帰宅しました。)
>>189 さん。
岩城和平さんの会には、勉強会に一度行ったことあります。
合わないというわけではないのですが、
方便の話が多かったのと、値段がちょっと高かったので遠慮しているという感じです。
でも、いい先生だと思いました。
>>190 さん。
生きたグルに名をあげられた方の本は既に読んでます。
ただ、みんな単発的なサットサンしかやってないように思ってます。
(プンジャジのように毎日やってるという感じじゃないのかなと。)
個人的には、翻訳されているアドバイタ系の本は、たいてい読んでると思いますが、
実際には、本ばかり読んでてもしょうがないので、
ただ座るというをよくやってます。
(ラメッシの寝る前のサーダナや、今、〜しているのは誰か?何か? などもよくやってます。)
ただ、生きた本当のグルがいたら、指導してもらいたいなぁと思う今日この頃です。
ラメッシのサーダナをやるかやらないかも、 肉体精神機構のプログラミング次第ですね?
200 :
神も仏も名無しさん :2010/09/29(水) 21:28:39 ID:55pluQxN
2 〇 〇
一回でも真我を知れば そのクリアさに驚くのだけどね 聖書のヨハネ福音書、17、21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように すべての人を一つにしてください。 真我を一回でも知ればそのままを表現している言葉なのだと 共感できるはずなんだけど、多くのクリスチャンが居ても殆どの人は 何を言っているのか共感できない、真我を知らない人が多いみたいだ
クリアーさはずっと保たれてる?
ずっと保たれていたら 今頃は悟っているよ でも不二一元とはそうだろうね、共感できる わかる人だけがわかる境地、まずそれが無いと 何が言いたいのかまるでわからないみたいなのはあると思う
>ずっと保たれていたら >今頃は悟っているよ そうだよね〜w クリアーは何回か体験した? 体験に深みが増したり違いはあった? ひょっとしてACIMのスレにいたひとかなとか思ったんだけど(違ったらゴメン)
ACIMのスレは知りませんけど >クリアーは何回か体験した? >体験に深みが増したり違いはあった? 何回かあるけど 凄い一体感で目を閉じたくなるんだよね 細かい粒子なってキラキラ光がきらめいてるような感覚 上手く言葉で表現出来ないけど、体と世界の境界線は間違いなく無いよ あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように これは事実の感覚だよ、手で何かを持つような自他の無い実感だよ
それはなかなかの体験ですねー 自分も何回かあるけど、そのぐらいはあんまないかなー ちなみに体と世界の境界線が無いと見ている(体験している)のは誰? 自分? 誰でもない自分? 世界? 自他がないってのはわかるけど、自他がないと知覚(観照)してる主体は誰なんだろっての はあるかな 観照者の正体っていうか ラマナの「わたしは誰か」は完全にわかった? もちろん体験中は疑問なんてないと思うけど
今ある「自我」の体験だけでいいんかな、と思うけどね。 「自我」が起こってるさまを見てるというか。
体感的には 濁った水の中に居て いきなり視界がクリアになるような感覚っていうのかな 意識が世界と一つになるような、愛の中の愛って一体感っていうか 子供の時の人恋しい感覚が気のせいでなく現実のことなんだって確信するような アインシュタインは物質がエネルギーなんだっていったわけだけど 意識もエネルギーなんだって確信するのが真我なんだと思うよ >観照者の正体っていうか >ラマナの「わたしは誰か」は完全にわかった? だから私の答えは自己の意識が世界との境界が無くなる 世界の本質は意識なんだって思う
別に悟ったアピールがしたい訳ではないよ 最初から自分で体験して体感して共感しないと 意味がわからないのでは無いかと指摘してるわけだからね ラマナも真我を知りなさいと言ってたと思う、答えは自己の中にあるのが真我なんだから やっぱり自分で体験だよ
ラマナも座っている床のタイルまでも生きてるんだとか言ってたからね 普通の現代人の感覚とはそこはまったく違うと思う、宗教ってのは大なり小なり理解不可能な 所はあるよ 共感されないわからなくても仕方は無いな、無理はないと思う
どれほどかは別にして、まあまあ体験してるひとはそれなりにいると思うよ でもクリアーさが維持されない限り真我実現ではないと思うんだよね 大抵は一日〜数日で終わるし その間はクリアーで自分などどこにもなくどこまでも無限なんだけどさ でもそれを観てる主体がある 誰でもない自分だけど 完全に世界そのものにはなれてないと思うかな 自分と呼べるものはないけど 目覚め、夢見、眠りを超えた段階はわかった? クリアーはまだ目覚めの段階だと思うんだよね ちなみにラマナが真我の場所は胸にあるっていうのはわかった?
何でそんなに私の悟りレベルを訊ねたがるのかがわからない ラマナならきっと 他人のことよりも、あなたが真我に在りなさいと言うと思うよ 事実そういったことを本に書いてたし、私も実にそう思う
あら、へんな意味じゃなくて自分がまだわからないことを聞きたかっただけなんだけどな 知ってたらなんか聞けるかと思って ラマナやアドヴァイタの覚者の本で質問者が質問してたようなつもりだったんだけど 別に悟りのレベルとか試したわけじゃないよ まあ他人のことより自分のことってのはそのとおりだね 一応自分の疑問を聞きたかったんだけどさ それもまあ自分に問うべきだしね
自分の体験と照らし合わせて ラマナの本を読むのが一番吸収はやいと思うよ やっぱ体験が無いと本の内容にも半信半疑になるし それらが疑問が起る部分だとも思う 真我を自ら知るしかないのは避けれない部分だろうけど それはどうしようもないし仕方ないよ
まあそうですねー 自分はおまけぐらいの意味でも誰かと話し合ったり交流もあっていいと思うけど なんでも全て体験のきっかけになりますしね でもそれで自分を観ることがおろそかになったらしょうがないですしね マハラジもよくわからなかったっていう真我の場所が胸ってのはちょっと聞いてみたかった けどなーw
感覚を伴う体験を求めることはリーラーなんじゃ ないかと思ってるが、どうか。
忘れてはいけないところは ラマナ・マハルシは沈黙の聖者と呼ばれてた人ですからね 真我の沈黙が理解できない人向けの説法ですから 言葉でのやりとりは二次的になりますよ、体験をしたことがあるのなら そこまで言葉を重んじる必要は無いと思います
「あるがままに」を読んだけど、やっぱり「私は誰か?」 という問いしか印象に残らないなあ。 なんていうか、真我に対する理解も納得も体験も重要視 するこたあない、みたいな。
私は誰か?との問いは良いですねえ ラーマクリシュナも祈りの言葉を聞いて深い瞑想に入ったり スイッチが入るキーワードというか、そういうのは 個人個人で大切だと思いますね
んま、私ってか、心という現象を見てる?眺めてる?ニュアンスで、 湧いた心(感情)を振りかざして押し出すことは少なくなったかな、 みたいな。 うむ、やっぱ言葉はむつかしいなwww
222 :
188 :2010/10/02(土) 11:19:29 ID:0tlCwGzX
221 のurlはムージですね。 実は、僕が今、一番参加したいサットサンはムージだったりします。 多分、近いうちに参加することになると思いますが。。。 < 根拠のない予定(笑) P.S. ムージのグルは、プンジャジ。 最近、僕は英語読めないのですが、ムージの洋書を買ったら、 本中のラマナとプンジャジの写真が家に飾ってる写真と同じだったのがうれしかったです。(笑)
225 :
神も仏も名無しさん :2010/10/03(日) 17:09:12 ID:VwiYPXj5
Sriについて 1.Used in India as a title of respect for a man. 2.Hinduism. Used as a title for a deity or holy man bhagavanについて Bhagavan used as a title of veneration is often translated as "Lord", as in "Bhagavan Krishna", "Bhagavan Shiva", "Bhagavan Swaminarayan", etc. In Buddhism and Jainism, Gautama Buddha, Mahavira and other Tirthankaras, Buddhas and bodhisattvas are also venerated with this title. The feminine of Bhagavat is Bhagawatī and is an epithet of Durga and other goddesses. 簡単に言うとどちらも尊称で、とても尊敬される人はだれでもシュリ・バガヴァンと 呼べることになります。シュリは単独で使われているように思えないので、形容詞 みたいな感じで、バガヴァンは名詞なのかも。
まあ、その自称カルキなるシュリ・バガヴァン(バグワン)はいろいろ問題ありみたいだけどね。
227 :
224 :2010/10/03(日) 18:07:31 ID:3/l306jL
>>225 レスありがとうございます。
>>7-8 の Bhagavan (ラマナ・マハルシ) も、そうですよね。
それにしても
>>223 は、どういう人物なんだろう?
シュリーは聖なるという意味合いで バガヴァン(バグワン)は神や神聖なという意味。 一般的にはシュリー○○、もしくはヴァガバンという使い方をします。 シュリーにバガヴァンを重ねて使うことは 二重の意味を重ねることになり、あまり見受けられません。 同じ名称を名乗っていたラジニーシはインドにおいて その呼び名によっても不評をかっていました。 また神でもないにもかかわらずバグワンの名称を名乗ることに対して クリシュナムルティは大いに反対していました。 ソースは『ラジニーシ――堕ちた神』 この本の審議に関しては、ラジニーシの信者か否かで大きく分かれています。
>>226 >>228 レスありがとうございます
早速「カルキ・バクワン」で検索してみたら、大量にヒットしました
ていうか、癒し板にディクシャのスレもあった orz
批判サイトもあったので読んでみましたが、インドの流行カルト教団という
見方もあるようですね。これ以上は突っ込まないことにします。
自分は過去にいくつか苦い教訓があるので「組織活動」には
とても抵抗感があります。
当スレでもサットサンの話題が何回かあがっていますが
真のグルか偽のグルかをどうやって見分けるべきか、不安になります。
生きた真のグルに出会える人は幸運だとは思いますが
自分としては、グルを捜し求めるよりも、ラマナ・マハルシや
ニサルガダッタ・マハラジの本を読んだり、自宅で一人で座禅を
してるほうが性に合っている気がします。
たとえそれで、一人よがりな解釈にはまり、悟りが何十年も遅れたとしても。
自分に向かないグループに縛り付けられ、しかも抜け出せなくなったり
ノイローゼになったりするよりはマシだと思う。
身体的なグルや神秘体験は必要ない、心の中のサット・グルを探せ…
みたいな言葉を読んだ気がしますが、これが希望です。
(自分以外の他者の行動は‘夢’みたいなものなので、各自の求道の方法を
こちらがとやかく言うべきではないかもしれませんが)
ラマナ・マハルシとかバリバリの出家者ですからね 仏教も小乗に対して大乗が興ったように ミャンマーの寺院とか 一日に6時間以上も瞑想してますからね 参考までにラマナの本などを私も読んでいますけど、 とりあえず世俗の生活してるなら これだけは変えていこうと低くてもいいから目標持って生活したほうが いいような気はするなあ
あんまり出家とか真我とか話しても 世間一般では唯物論者も多いんだよなあ・・ 実に新興宗教でも神は信じてるから立派だ
しかし神というのも結局のところ自分の内なる本質である真我 を外に見て礼拝したり、信仰したりしているわけだから・・・ 宗教とか信仰は突き詰めれば自分信仰なんじゃないかな 本来の宗教はなにかを盲信したり、信じこむものではなて 究極の真実である神=真我を悟るための様々の方便だとおもうよ シャンカラも「真の自己とは何かと真剣に探求すること」をバクティ(愛と信仰の道) と定義してる
私あるいは自己と自らを示す言葉を発するときの想念 この感覚の先なんだろうけど…
234 :
神も仏も名無しさん :2010/10/06(水) 02:35:11 ID:mJCyXXy2
>>229 アドヴァイタ系は組織活動する方が難しい。
個人的な修行が主になるし、民衆の救済とか無私の奉仕を
目的としてるわけでもないから、大きな組織も組織化する必要性もほとんどない。
ラメッシやマハラジが自宅で集まりを開いていただけなのを
考えると分かりやすい。
運営するのに人員がほとんど必要ないんだよ。
クリヤ・ヨガのスレが見当たらないのでここに書き込ませていただきます。
私はある師からクリヤ・ヨガを学んだ後、それがラヒリ・マハサヤ直系の技法とかなり異なっていることを知って
ショックを受けたことがあります。またヨガナンダの技法にもいくつか改変されているところがあると知って、
困惑し、絶望してから何年たったことでしょう。
基本的な技法だけで成長する人もいるし、秘教的な技法を知っていてもなんら進歩しない人もいる。
結局、技法よりも、その人の持つ資質が問題なのだと思って、あきらめていたのですが…
そろそろ新しい情報が出ているかなと久しぶりにWebを探索していたら、決定的なものを見つけました。
クリヤ・ヨガの技法がすべて書かれているPDF(英文)です。
Ennio Nimis: A Personal Experience
http://www.kriyayogainfo.net/Eng_Downloads1.html 2007年にはこれを公開している様だけど、
日本語のページでひとつぐらいしか検索にかからないので
情報を拡散させようと思い書き込んでいます。
Kechari Mudraを完成させるためのTalabya Kriya のやり方も公開されています。
小舌帯をかみそりで少しずつ切っていかなくとも、ケーチャリ・ムドラを完成させる方法です。
とりあえず分からないところは飛ばしながらPart I を読み終えたました。
主にクリヤ・ヨガの技法を公開するにいたるまでの自伝的内容で、
Part II から、彼が学び、検証した技法が詳細に書かれています。
236 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 05:14:23 ID:y9C1pnSR
和訳きぼん
Talabya Kriya の概要 舌先は上顎の前歯の裏につけたまま、 できるだけ上顎の口蓋に舌全体を押し付けて、 下あごを下げると吸盤が吸い付いたような感じになる。 そのまま顎を下げることで舌小体(下の裏の真ん中のスジのようなやつ)が引き伸ばされる。 そのまま顎を下げると舌は自然に離れてピチャッというような音がする。 元の位置に戻った下を口から出して顎に向けてさし伸ばす。 最初は1日に10回まで。次第に50回まで増やす。 50回を約2分(110-120秒)でこなす。 舌先が軟口蓋の後ろに入るようになれば最初の段階のケーチャリ・ムドラの完成。 PDFの図版と紹介したホームページにある動画で、実際の舌の動きや音を確認してください。 Many practice Talabya Kriya incorrectly by instinctively turning their tongue backwards (or keeping it vertical) but this cancels the whole effect. It is very important to have the tongue tip touching the back of the upper teeth before pressing it against the upper palate. 多くの人々は Talabya Kriya を本能的に舌を後ろ向きに回して(垂直に保つ)間違って訓練するが、 これではまったく効果が無効になってしまう。極めて重要なのは、舌を上口蓋に押し付ける前に、 舌先を上の前歯の裏につけたままにすることだ。 著者は(たったの)3ヶ月でケーチャリ・ムドラができるようになったと書いてあった。
>>235 >>237 貴重な情報ありがとうございます。
ケーチャリー・ムドラーは絶対に無理だと思って諦めていましたが…。
やってみる価値はありそうですね。
ところで日本でもラヒリ・マハサヤ直系のクリヤを教えておられる方がいますがご存じですか?
数学教師だった人ならホームページを見つけました。 学識の深い人のように感じました。 関口野薔薇や玉城康四郎まで読んでそうですね。
『あるヨギの自叙伝』の翻訳者の方は名前を隠していますね。 森北出版は理工系の本がメインのようですが、 この数学教師の人と関係あるのでしょうか?
妄想が入ってしまいました。 数学教師の人は図書館で『あるヨギの自叙伝』を 見つけたと書いてありますね。
242 :
神も仏も名無しさん :2010/10/12(火) 17:14:25 ID:yCtbnJV2
クリヤヨガとアドヴァイタはとりあえず関係ないですよね。
>>239-241 レスありがとうございます。そうです、その方です。
私も偶然サイトを見つけたんですが、説得力ありな内容なんで
迷いが生じてます、私は一応SRFの会員でもあるんですが…。
『あるヨギの自叙伝』がまだ『ヨガ行者の一生』というタイトルだった頃、
学校の図書館?でたまたま見つけて以来嵌ってしまい、
その後SRFに連絡してクリヤ講座は全部受けたと書いてますから
その先生はかなり古参のSRF会員みたいですね。
ここ数年、アドヴァイタ(ネオ・アドヴァイタ?)関連の洋書、たくさん 出てるけど、誰がおすすめ?
ラマナ・マハルシってインドの伝統的な考え方の影響を、 結構受けていると思うけどどうですか。 例えば、「動物に生まれ変わることもありますか」と聞かれて 「そういうこともあるだろう。」と答えています。 これは真我に留まっているからわかることではなく、 インドの伝統的な教えからきているんじゃないでしょうか?
>>245 問うた人の信仰を破壊しようとしなかったからじゃないかな。
ラマナは質問者によって言い方が変わるよ 人によっては実際の輪廻転生は無いといったりもしてるし
>>244 やっぱり再販された岩波文庫の「ウパデーシャ・サーハスリー」とラマナ・マハルシ「あるがままに」でしょう
>>最近の洋書さがしてんじゃない?
そだね、よく見たら洋書って書いてるね
>>251 本当に悟った人は、自分は悟った悟ったと言いふらして本を売ったり講演会を開いて商売したりはしませんw
ラマナ・マハルシやクリシュナムルティの事か
ラマナもクリシュナジも商売はしていないがねw ニール・ドナルド・ウォルシュは、脳呼吸という韓国カルトと組んで世界中で講演やって稼ぎまくってるんだってね。 それで金銭トラブルなんかも多数抱えてて、あちこちから訴えられているんだとかw 愛なら今何をするかw ニューエイジビジネスも大変だw
>>254 >ラマナもクリシュナジも商売はしていないがねw
印税を食ってたよ
もっと具体的にw
クリシュナジ「印税でガッポリガッポリでとても嬉しい!」 ラマナ「圧倒的空前絶後至福!」
258 :
1 :2010/10/17(日) 15:02:20 ID:OrUhUHx2
このスレはアドヴァイタのスレです。 関連する雑談もOKというスタンスで建てたので 「神との対話」や「神の使者」の話題を 一概に否定するわけではありませんが、 個人的な私怨や荒し的とも見える書き込みの応酬で 無闇にレスカウントを増やす行為は、ご遠慮ください。
260 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 16:58:36 ID:zFraz2TG
クリシュナムルティは知らないですが、バガヴァンは講演会をしなかったし、 自分で本を出版しようとはしなかったと思います。周りが、訪問してきた 人や信奉者とのバガヴァンの対話をまとめて出版していたのでしょう。バガヴァン はそれを止めさそうとしなかったようです。昔「WHO am I?」の小冊子を、貧しい人 もできるだけ読めるようにと、アシュラムで無料で配布していて、そのことを バガヴァンは良いことだと推奨していたみたいです。 バガヴァンは自分から「何か欲しい」ということは言いませんが、来るものは一辺倒に 否定したりしなかったみたいです。ただ、特別に贈り物されるのはあんまり嬉しくなか ったみたいで、固辞しても相手が引きさがらなかくて、仕方なく受け取り、アシュラムの 管理人に預けて、二度と触らないことが多かったみたいです。 バガヴァンが立派なベッドに寝ている写真がありますが、あれもいらないと言って いたのに、持ってきた人が泣き落して受け取らせたみたいで、バガヴァンはベッド が来てから好きな場所に座れないから、私には牢獄みたいだと言っていたようです。 外見上「印税で食っていた」「商売していた」と言えるかも知れませんが、 私はバガヴァンは聖者として恥ずべきことをしていたように思いません。 きちんと節度をまもっていたと思います。
マハリシは著者ではないので印税は1銭もはいりません。 クリシュナジも印税の入手先は法人であり、個人ではありません。 外見上も「印税で食っていた」「商売していた」とはいえません ちなみにクリシュナジは自分のことを「悟った」などとは言っていません。 「話し手のことを鵜呑みにしないように」「自ら確かめるように」といっています マハリシも同じです。悟ってなければ悟っていない。悟るべき個人はいないから悟れば悟ったとはいえないどちらにしても悟ったとはいえないと
>>260 バガヴァンはベッドが邪魔なら捨てれば良いのに
何に囚われていたのだろう
>>261 本を売ったり講演会で家賃や食費を賄っていたなら商売していたと言えるのでは
>>263 本は売っていません。本を売るのは法人です。 家賃は自分の家があるのに払う必要はないでしょう 食費を何でまかなっていたかは知りませんが(おそらく講演会の時に招いたスポンサーから提供されていたのだと思われる)、講演会の値段はほとんど無料だったようです。
>>264 法人から生活費が渡っていたのかが問題だな
>>265 クリシュナジは法人のメンバーではありませんから金銭の授受はありません
どのみち無料の講演会をくりかえしたところで儲けにはなりません。
ある日本の翻訳者が言っておられましたが、クリシュナジの本の翻訳・出版は本当に割りのあわない仕事だそうです(コストに見合う売り上げがないということでしょう)。
それゆえ日本では大手の出版社は引き受けたがらないといっていました。
その人は内容の素晴しさから志で翻訳をしているとのことです。
版権が高くてはとても引き受けられないでしょうから、版権自体も微々たる物でしょう。
およそ商売にはならないようです
多くの金銭問題とそれにまつわる訴訟を抱えているニール・ドナルド・ウォルシュとは大違いですね。
>>264 生活費を講演会の時に招いたスポンサーから提供されていたもので賄っていたなら講演会で食ってたといえるがな
本を出版することも講演会の聴衆を集めるのに役立っていたなら講演会の宣伝の一種
269 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 19:32:01 ID:zFraz2TG
>>261 アシュラムで本を販売しているので、アシュラムにお金が入るでしょう。そのお金
で、食事などを含めたアシュラムの管理をしていたので、「外見上」そのような見方
もできると思います。
ただバガヴァンはお金には触れることすらしませんでした。
問題はそこに執着があるかないかだろ 金が入ってくるなら入ってくるにまかせるのは金儲けでもなんでもねえよ 金だからって特別に思うのが俗物なんだよだよ 金でも水でも環境でも概念でもなんでも、それに執着があるかないかだけが問題だよ
>>268 生活費そのものではなく食事 金銭の授受もあったでしょうが、「講演会で食ってた」とは評価できないでしょう
ここでいう「食ってた」とは、「職業にしていた」あるいは「商売にしていた」というニュアンスが近いですが、「商売」ならば、「何らかの物品や技能・サービスを定価を定めて相手方に提供し、その見返りに金銭を受け取る」ということになります。
しかしクリシュナジは「特定の技能やサービス・物品に定価を定めて提供」はしていませんし、その見返りに「金銭を受け取る」様なこともしていません。
どちらかというと相手方の好意の布施の意味合いが大です。
また無料の講演会に対し、事実上の何らかの宣伝になったとしても、いわゆる商業用のコマーシャルとは意味合いが違うものであり、「宣伝した」とは評価できません。
>>269 アシュラムとマハリシ個人は違います。またアシュラムの管理は個人の布施による部分も多く、外見上「商売をしてその利潤で食っている」とは評価できません。
>>271 定価の問題じゃないよ
講演会で金銭を貰って生活していたという事だ
商売の一種
ID:0vvBFxZ6、敗北せりwww
サドゥーでもない限り金がなければ生きてはいけない。 話をしてその代価にお金をもらうことは悪いことではない。 法外な金額や脅しがないのなら誰も困らない。 それから死んだ聖者の真偽をどうして気にするのか。 ラマナはよく言っていた。 「他人のことは他人にまかせるがいい。 あなたはあなたのことをしなさい」 どうせやるならラジニーシやTMのマハリシのほうが叩きがいもあるだろうに。
インチキ本、神との対話の著者は、毎年毎年お金を儲けるために諸外国で講演活動にいそしんでいます。 その際、韓国のカルト団体である丹学(ダンワールド、脳呼吸)がいつも協賛としてピッタリと行動を共にしています。 本を売ったり講演で稼いでいるなんていう生易しいレベルではなく、カルトの広告塔として、公然と活動しているわけですw
>>272 商売とは利潤を得るためにするものです。
そこには「これこれ程度の労力ならば、これこれ程度の見返りが必要」という打算が働きます。
クリシュナジの場合、相手の言う条件(中には全くのボランティアもあったでしょう)を一方的に飲んでいるのですから、商売とは到底言えないでしょう。これは相手方の布施です。イニシアチブが相手方にある以上「商売」ではなく「布施」です。
貨幣経済の世の中で世間と暮らすためには最低限の金銭が必要ですが、金銭を得れば商売というのであれば、自給自足の人間が、片手間に農作業を手伝ってお駄賃をもらっても商売になってしまいます。しかし通常このような場合に「あいつは商売している」なんていいません。
サラリーマンは労働力を対価に賃金を得ますが、通常サラリーマンを商売人とはいいません。労働力に定価が定められていてもです。
クリシュナジの場合に「商売」と評価することは、世の中の理性的な見方から逸脱しており、「山奥で文明と隔絶されて暮らさない以上商売だ」というようなもので、そのような話に何ら意味はありません。
277 :
神も仏も名無しさん :2010/10/17(日) 20:12:36 ID:zFraz2TG
>>271 >アシュラムとマハリシ個人は違います。またアシュラムの管理は個人の布施による部分も多く、外見上「商売をしてその利潤で食っている」とは評価できません。
マハリシはアシュラムに所属していて、その管理者の意見を尊重していました。そのアシュラムの管理費
の一部でも、書籍販売のお金から出ているならば、意地悪な方が「外見上」商売しているという見方をする
ことはありうると思います。
私は、商売しているように見做そうが、そうしまいが、どちらでも関係ないという意見です。
バガヴァンの生き方をみれば、そういうことがバガヴァンを汚すことにならないと思うからです。
>>276 布施だって実質的な商売
自分が覚醒者ということを本や講演会で世の中に知らせたから貰えた
お金が欲しくないなら布施なんて「そんなものは不要」と受け取らなければいい
>>278 >布施だって実質的な商売
まずID:0vvBFxZ6氏は、世の中の社会現象に対する「言葉」の使い方を間違っています。
「商売」というのは通常その行為によって利潤を上げる場合や、実質的に利潤を上げる行為や現象を指す言葉です
相手方の一方的な条件提示やボランティア・無料の講演を繰り返す行為ないし事象に対し「商売」と呼ぶことは、言葉の概念に対する無知ないし幼稚な理解力によるものといえます。
>自分が覚醒者ということを本や講演会で世の中に知らせたから貰えた
クリシュナジはこのようなことは言っておりません。ここでは事実誤認があります
>お金が欲しくないなら布施なんて「そんなものは不要」と受け取らなければいい
貨幣経済の世の中で、他人と関わりあいながら生きていくのに、お金が全く不要などということはありません。もっと常識に照らして書き込みましょう。
>>277 >マハリシはアシュラムに所属していて、その管理者の意見を尊重していました。そのアシュラムの管理費
の一部でも、書籍販売のお金から出ているならば、意地悪な方が「外見上」商売しているという見方をする
ことはありうると思います。
商売に関しては上で言ったとおりですし、マハリシがアシュラムのメンバーの一員であり団体の利益活動に携わっていたとはいえないでしょう。
アシュラムは個人とは別物であり、その行為や活動も別物です。
>>279 形式的な事を言っているのではない
お布施だって実質的な利潤がある
創価学会、幸福の科学のお布施なんて暴利を貪っているようなもの
>クリシュナジはこのようなことは言っておりません。ここでは事実誤認があります
お布施する人はKを覚醒者と思っていたのだろ
>貨幣経済の世の中で、他人と関わりあいながら生きていくのに、お金が全く不要などということはありません。もっと常識に照らして書き込みましょう。
Kは死にたくなかったようだなw
>>280 >形式的な事を言っているのではない
そうです。クリシュナジの場合、形式的にも実質的にも「商売」ではないといっているのです。
>お布施する人はKを覚醒者と思っていたのだろ
それは本人に聞かなければ分りません。ただスポンサーがどう思っていたかということと、クリシュナジ本人がどう言っていたかは明確に区別されるべきものです。
>Kは死にたくなかったようだなw
私のコメントに対する反論になっていません
ID:0vvBFxZ6 ↑ こいつはニューエイジのクズ本「神との対話」の熱烈な信奉者です。 ACIM系アドヴァイタとも言える「神の使者」の続編である「不死というあなたの現実」という本の中で 「神との対話」が痛烈に批判・否定されているのを恨み、 それでアドヴアイタに対して執拗な嫌がらせを繰り返しているただのゴミです。 まともに回答しても、そもそも聞く耳など持っていないので無駄ですよw
>>281 講演会で食ってたなら実質的に商売
「商売」という言葉が気に食わないなら「仕事」
>私のコメントに対する反論になっていません
生きていく為にお金を貰っていたのだろ
無一文で死ぬつもりはなかったという事だな
>>283 >講演会で食ってたなら実質的に商売
「商売」という言葉が気に食わないなら「仕事」
講演会で「食ってはいない」ということは既に書き込んだはずですが
「仕事」でも同じことです
>生きていく為にお金を貰っていたのだろ
無一文で死ぬつもりはなかったという事だな
無一文で死ぬつもりはなかったとは思いますが、だからなんだというのでしょう?
この御仁は何が言いたいのでしょうか?
講演会で得た金銭で生きていくつもりだったかどうかなんて私には分りませんよ。
もしかしたら違う仕事で生きて行こうと思っていたかもしれないですし。
ただここでのミソは、講演会で利潤を得ようとしたり、講演会を「商売」「仕事」にはしていないということです。そのような形態やシステムになっていないということです
だから多分、講演会で得た金銭で生きていこうなんて思ってなかったと思いますよ。呼ばれなければやめたでしょう
>>284 講演会のスポンサーからお金貰ったんだろ
× 講演会で「食ってはいない」ということは既に書き込んだはずですが
○ 講演会で「食っている」ということは既に書き込んだはずですが
>>285 ID:0vvBFxZ6氏のコメントは蒸し返しであり、私に対するまともな反論となっていませんのでもうやめます。
ID:0vvBFxZ6氏が仮に「○との対話」の熱心な信者であるならば、このようなコメントを書き続けることは、「○との対話」の信者はカルトだと思われるだけでいいことないと思いますが
まあそれぞれの勝手ですのでこれ以上は言いませんが
別にどう思おうとお前の自由だぞ カルト(笑)
ラマナは自分の悪口を言う人間をむしろ推奨していた。 ラマナを誹謗中傷する者に対して怒る信奉者に言っている。 「それを彼にさせておきなさい。」 ラマナもKも自分を非難する人間に対して、怒ったり否定したりはしなかった。 そのような人はアドヴァイタに縁がなかったのだから、 他のサイババでも和尚でも新興宗教にでもいかせればいい。 ただ真面目に話をしているスレで暴れられるのは迷惑極まる。
まあラマナのように受け入れてやれ どんなようであれそういう修行の仕方をしてるんだろ
ラマナ・マハルシは家を出た当初は 仏典スッタニ・パータに書いてるような修行生活をガチでやってたんだよね? 屋根のあるところなら雨風凌げるし、部屋の中で線香炊けば蜂アブや蚊も飛んでこないし ある意味小乗仏教徒よりも仏教徒らしい修業生活してたのが凄い、小乗も一日6時間以上も瞑想したり 半端じゃないんだけど
>>288 そのさ、Kとラマナを並べないでくれるか?
Kの方は別スレで、金庫番を訴えてんの明らかになってんだよ。
「起こったり否定したりはしなかった」なんて賢者ぶった話じゃないんだよ。
英語のwikiに普通に載ってる事実だから。
あれとこれは一緒とか、あれとこれは違うとか、あれとこれを並べないでとか…
293 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 02:31:45 ID:KKWIC4TS
悟った人は〜はしませんなんて固定観念が一番悟りの障害になってたりしてね
悟ったひとがどうであるかなんてどうでもいいし何も言えないはずだしな 自分が悟らないと悟ったひとがどのようなものかわからないはずだし 勝手に悟ったひとはこういうもんだろとか思って言うけど、それってたんに自分の持ってる美 徳の基準じゃんっていう
295 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 08:08:59 ID:WdwlPysm
Kは悟った人である、と仮定するなら悟った人は金庫番を訴えることもあるという事か
実際に誰が金庫番を訴えたかは知らないが、悟った人が金庫番を訴えるのがなにか問題 か? 金庫番を訴える状況が起これば金庫番を訴えるのが自然なことかもしれない 金庫番を訴える状況であえて訴えないほうを選ぶほうが何かへの執着かもしれない 歩いていてる道に石が落ちていればよけるのはおかしだろうか 石を道からどけるのはおかしいだろうか もちろん石を石のままにしてよけて通るひともいるだろう しかしそれらの他人の行為をいちいち自分の道理で解釈してどれが正しいとかわるいとか 考えていったい何がどうなるのか 自分が歩いていていて石が落ちていたときに、よけるなりどけるなりそのままにするなりす ればいいだけではないか
クリシュナジは在家ですから、出家者と違いお金の管理は最低限するでしょう 訴訟が必要な場合はそうすべきでしょうね。実際は取り巻きの行為かもしれないし なんにしても在家とはいえ「真理」や「悟り」を切り売りして商売のネタにはしていないということです。 これがニューエイジの怪しい教祖達とは明確に違うところです
まあ訴訟といっても金庫番を刑事告訴したのか、民事上の、例えば権利関係の確認訴訟だったのか、これら種類によってニュアンスや必要性が変わってくるでしょうし
例えばその金庫番が勝手に、「K○○財団」とか「K○○会」などと名乗って寄付などを募り始めた場合、名称の差し止めや、名義貸与の不存在あるいは、契約の不存在などを訴える必要はあります。
自我を消せば全て解決!、とはいかないのかな
自我レベル→存在証明必要 真我レベル→存在証明不要 ということは、「私は在る」という感覚・知覚は不要なのかな?
「私」って対象物?
303 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 21:33:44 ID:44xXxs8P
クリシュナムルティって悟るための具体的な方法とか話してるのかな? 本屋で読んだ限りでは、理屈ぽくてあまり魅力的に感じなかった記憶だけど。
304 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 22:07:33 ID:Zn0VsMUQ
>>303 「思考は何も解決しない」とは言ってる。それだけ読めば十分。
この人、なんだか分からないんだよね。
矛盾しまくっているというか。
「思考は何も解決しない」と言いつつ、ラマナのように黙らないで
いろんなことについて話しまくったから、
思考を増やして思考地獄から抜け出せない信者が多いし、
「グルは必要ない」と言いつつ、偉そうに講演したので、
これまた彼をグルにしてるコピーを量産している。
なんかね、結果が真逆になる人。
>>303 矛盾しまくってるって・・・
仮にこいつの言うことが正しいとしても(大いに怪しい いついかなる方法で確かめたのか?)、信者や受け手の問題ばかりを挙げてるじゃん
もしかしてニール氏の信者ですか?
講演会というのは実質的な布教活動かな
>>307 ニー○氏の講演会はそうでしょう
布教というより悪質詐欺的商売
>この人、なんだか分からないんだよね。 >矛盾しまくっているというか。 Kは「賢者」の振りをして人集めをする「霊媒」だから仕方ないんじゃない? ぶっちゃけ「秘密の大師」のスピーカー。 だから、講演時にそのことに突っ込まれると、質問をはぐらかして逃げた。 大師が実在の人物か、オカルトサークルの創作物かはともかく、碌なもんじゃねえと思う。 所詮、神智学協会出身だから眉に唾をつけながら読むと良いと思う。 Kの教えの価値はともかく、ラマナと違って教え通りには生きなかったから、ラマナと並べるなという人の気持ちはわかる。
>>309 >教え通りには生きなかったから
何に対して言っているのかは相変わらずわからないけどニー○氏の信者だね
言っていることが抽象的で内容がない
○との対話そのもの
>何に対して言っているのかは相変わらずわからないけどニー○氏の信者だね Kに対して言っている。 何を聞かれているのかわかっているにも関わらず、あえてはぐらかしたり、 自分に都合の良いように捻じ曲げて受け止めるのはKの嫌な部分。 そんな嫌な部分を真似することは無いぞ。
アドヴァイタに関係ない人物の話は該当スレでやったらどうかな 神対スレもKスレもあるでしょ
>Kに対して言っている。 だから具体的に書けよ 信者の作文だろそれじゃあ まるで○との対話みたいじゃねぇか
神対VS神使は文通スレ立ててやったらどう? もし一人の自演でないなら。
>>312 Kは‘真我探求’とか‘梵我一如’に関係ないのか
>>315 少なくとも西洋版インチキイタコ本「○との対話」とは無関係
>>315 とりあえず俗にいうアドヴァイタじゃなでしょ
関係あるって幅を広げたらそりゃどこまででも広がるさ
アドヴァイタと全く関係ないものなんてないし
真我探求や梵我一如というんなら、そういう話をすれば?
>>316 Kの話をしているのに何故神対に絡める?
恨みでもあるの?
>>317 親和性が高いならここにKが出てきてもOKでしょう
>>319 誰が親和性が高いなんて言った?
真我探求や梵我一如って言ったんだからそういう話しなよ
問題は、インチキイタコ本信者の知性の低さ
>アドヴァイタに関係ない人物の話は該当スレでやったらどうかな うむ、確かに。Kはラマナと並べてよい人でもないしね。 K信者が出張ってきているようなので、ついかまってしまった。 スレ汚し失礼! …しかし、なぜ「神との対話」なんてのが出てくるかねえ…
>>322 実生活では人生負け組みの分際で、何いきがって1流の人間を批評してんのかねぇ・・・
いろんな人がいるもんだ。 俺だとラマナとK、マハラジやパパジ・ラメッシなんかを尊敬している。 逆にラーマクリシュナやヴィヴェーカナンダは趣味にあわない。 ラジニーシやTMマハリシのようなグルグルしてるやつは論外。 縁というか好みというか、いや本当に人によって異なるから面白い。 神との対話? あれは自己啓発だからシークレット系の引き寄せスレだろ。
まあ好き嫌いはともかく、 自分が今どのレベルにいるのか、を客観的に判断する冷静さを必要だと思うね。 ラマナにしてもKにしてもマハラジやラメッシにしても、 本を読んでると哲学してる気分になって、自分も一端のアドヴァイタ系じゃないかと思えてくる。 だけど、それだけではどうしようもない。 本当は神にマントラを捧げたり、プラーナヤーマやったり、 そういうことが必要なレベルにいるのかもしれない。 本を知的に理解しただけなのに、そういう行を地道にやっている人たちを馬鹿にできるだろうか。 本当は彼らのほうがアドヴァイタ系を自認している人たちより、ずっと先を行ってるのかもしれないよ。
まあよくもわるくも他人のことはどうでもいいということで
327 :
神も仏も名無しさん :2010/10/21(木) 06:09:29 ID:RytJ++tT
マハルシの本を読んでいたら、神にマントラささげたり、プラーナヤ―マする 人をばかにするという発想が湧かない。マハルシが実践重視で、それらに意味 があることがわかるから。 知的理解だけで満足する人に共感できない。そういう人は、他者よりすごいこと 知っているという証が欲しくて学んでいるだけなのか、単に実践に心が向かないのか。 他人のことはほっとくのは正しい事だろうけど、さらりと流すのは難しいですね。 まだまだ未熟であることを痛感する毎日。
>>327 「馬鹿にする」という言葉と、「共感できない」という言葉は、確かにニュアンスは違いますが、
327の文脈では、「共感できない」という言葉が他人を見下すニュアンスで使用されていますね。
知的理解は実践よりも基礎にあると思います。理解すれば理解に応じて生き方そのものが変わるはずですから。
理解を欠いた実践など同じレベルを循環する可能性が大でしょうね
どうでもいいことだけど、気になるので質問。 なんでマハリシじゃなくてマハルシ? アルファベット表記が Maharshi だから? でも「rshi」はもともとサンスクリットの「risi」でしょ? マハリシのほうがいいように思うのだけど。
>>329 昔、ニサルガダッタのスレで同じ質問したんだけど、とくに回答レスが無かったので
ずっと疑問に残ったままでした。
日本語 Wikipedia の項目名は「ラマナ・マハルシ」
日本ラマナ協会の公式HPでは「バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ」
ttp://21ramana-kendra.vpweb.jp/ 書籍では大雑把に言ってナチュラル・スピリット社が「マハルシ」
めるくまーる社や出帆新社が「マハリシ」
みたいな感じだったので、サンスクリットのことを何も知らない自分は
てっきり「マハルシ」が正しい表記で、「マハリシ」は古い記法かなと思い込んでました。
英語表記の rshi は risi と同じだったんですか…
331 :
神も仏も名無しさん :2010/10/21(木) 15:07:24 ID:lw+a+nXW
wikiでは、サンスクリット語でmaharshiで、英語風ではmaharishiとなっているけど。
>>331 サンスクリットをアルファベット表記する場合、
rshi 「r」は下に点を打って「ri」と読ませていたと思います。
日本人が「マハルシ」と言うとき、たいていの人は
「mahalushi」と発音するので、すごく違和感あるんです。
マハルシ、という言い方が使われだしたのは、 ナチュラルスピリット社の本でそう表記されているからだろう。 それ以前は、ラーマナ・マハリシが一般的だった。 尤も。そのせいで、TMのマハリシ・マヘッシ・ヨーギと混同する人が後を絶たなかったがw
334 :
神も仏も名無しさん :2010/10/21(木) 18:43:02 ID:lw+a+nXW
335 :
神も仏も名無しさん :2010/10/21(木) 19:05:24 ID:lw+a+nXW
336 :
神も仏も名無しさん :2010/10/21(木) 19:07:42 ID:lw+a+nXW
同じ動画の8:44あたりのおじいさんの発音はルシにも聞こえますね。 どちらでもいいかも。
>>333 >TMのマハリシ・マヘッシ・ヨーギと混同する人が後を絶たなかったがw
そうそう、かくいう自分も最初は検索でずいぶん戸惑った一人だったw
で、このスレ建てるときに、「TM」と間違われてたまるかっ!
と気合をいれて、「マハルシ」をスレタイに使ったわけですw
でも Google では曖昧語予測機能で、結局どっちでも二人が並列で出てくる感じ
困ったもんだ…
>>338 1さん乙!
真我の知覚はこの個我の知覚の延長線上にあるんかな?
意識(思考・感情を除く)って共有してるんじゃね?というのが
最近の俺という自我の考えなんだが、どうだろう?
>>339 自分の場合、内面の探求はちっとも進展がなく落胆気味です。個我→真我の
知覚がどんな風に expand (でいいのかな?)していくのか全く不明です。
最近の体験では、共有無意識というより、思考・感情も全部含めて
自分だけの世界で独りで‘自作自演’してる錯覚。
例えば、庭で雑草刈りをしてて「孤独だな」と思うと、いつのまにか野良猫が
後ろに来て悠然と座ってる(どっから来たん?汗)
しかも自分より猫のほうが遥かに悟ってるように見えるw
さらにどこかの飼い犬が、飼い主なし(?!)で単独で、巡回ルートを散歩して
こちらを賢そうに観察してる… 明らかに自分より数段上に見える
初対面のような近所の人が、こちらが何か些細なことで困ってると
殆ど説明もしてないのに、まるで全て承知してるかの如く手伝ってくれる等々。
あれこれ思索して悩んで2ch宗教板を開くと、不思議にどこかのスレで誰かが
同じ疑問や見事な解答が書いてあるのがすぐ見つかったり、イライラしてるときは
論争でスレが伸びてたり。
いつまでたっても内側の‘mind’が観察できてないのに、外側にその反映?みたいな
現象ばかりが目について、混乱気味ですね。
ただもっと不安なのは「真我は皆一つのはずだ、そうに違いない」と永年
念じる癖がついてしまって、周りを見る自己が支障を来たしている危険性。
医学的には『境界性パーソナリティ障害』(Borderline Personality Disorder)
とかいう物々しい病名で説明がついてしまうらしい。
うぅむ参ったなぁ、神経科に相談すべきなのだろうか…
341 :
神も仏も名無しさん :2010/10/22(金) 06:42:44 ID:Kye4cMY/
>>340 進歩が見られなくて落胆したり、混乱するのは私もしょっちゅうです。バガヴァン
にもそのような質問をしている方がいました。答えは「なぜ進歩していないと
わかるのですか?進歩は自分では分かりにくいものです」みたいな解答だったと
思います。正確な対話が知りたいなら、また調べて書き込みますが。
境界性パーソナリティ障害は自己診断でしょうか?いくつか特徴に当てはまって
も障害と診断されるとは限りませんよ。「自己が支障をきたす」と書いていますが、
どのような状態でしょうか。
念じている事ですが、よく「I am Brahman」とかgayatriのマントラなどを念じる
という話はバガヴァンの対話で出てくるのですが、「真我は一つのはずだ。そうに違いない」
と念じるのはどこかに書いてあったのでしょうか。別に悪くないとは思いますが。
そういえば動物や自然をグルにして学んだ聖者がいたという話をバガヴァンは
していましたよ。色々学ぶところがあるのはいいですね。
>>341 「念じる」って書いたのは何か念仏みたいに唱える話でなく、強い思い込みがあると
悟りの憧れ・願望が強すぎて、その先入観で間違った幻・幻覚を見たり感じたり
するかも…っていう心配を書いたんですが、おおげさすぎたかも
自分と外界の境界がはっきりしなくなって溶けてしまい、全部が自分の中の‘真我’に
もし思えたとしても、それが正しい悟りでなく、何かの病気だったらどうしよう?的な
ことを、精神疾患に関連付けて考えたのですが、Wikipedia の診断基準など
読んでみると「自傷・他害の恐れ」とか「衝動的な怒り」とか、まるきり今の自分の
心境と無関係のようなので、ただの杞憂みたいで安心しました
何しろ猫や犬や木にまで感謝の念で拝んだりしてるので(笑
ラマナ・マハルシの言葉を引用して元気づけてくださって嬉しいです
レスありがとうございました
343 :
神も仏も名無しさん :2010/10/23(土) 02:53:03 ID:dP7Szbcz
マハルシかマハリシか、ということについてはどの本だったか忘れたけれど、 タミル語発音、テルグ語(?)発音、サンスクリット発音によって違うということでした。 よって、マハルシもマハリシもありということになります。好みで使えばいいと思いますが なんとなく自分はマハルシという言い方に思い入れがあります。 でもマハルシというのは書くときの言葉で、実際に呼ぶときは多分バガヴァーンという 呼称が主流だったのではないかとも思います。 ちなみにアドヴァイタも本当の発音はアドヴェイタ(またはアドウェイタ)のほうが近いですが 日本でもインド以外の国でもアドヴァイタと読まれることが多いですね。
マハルシ、マハリシについては自分も気になっていた一人で ラマナの方がいいんじゃないと内心思いつつ各スレを読んでいました。
バガヴァーンもインド人はバグゥワーンと発音するね。 バグゥワーンだとKが犯罪者だと言ったあの人になってしまうけどねw
マハリシとマハルシの違いについては ラマナ関連本の訳者によって異なっています。 現在はマハリシで統一されたような話も聞きましたがどちらでも問題ないでしょう。 リンゴをアップルといってもリンゴに違いはないわけです。 呼称についてはヨガとヨーガ論争に近い感じですね。 中村元先生はそもそもインドの言葉をカタカナで正確に表現することが 不可能なためヨガでもヨーガでもいいと言っていました。 ちなみにマハリシの言葉の意味は マハー:偉大な リシ:神仙 です。 私はラマナのディボーティーなのでバガヴァンと呼んでいます。
どんな言語もカタカナで正確に表現することは不可能だけど なるべく原音に近い表記を使いたいという希望はあるな。 インド関係で他に気になる表記を挙げると クンダリーニ < クンダリニー アサーナ < アーサナ バングラディシュ < バングラデシュ アムリトサル < アムリルァル 明治時代の人はjacketをチョッキと表記したが、ジャケットよりも 原音の雰囲気つかんでるよな。
348 :
神も仏も名無しさん :2010/10/24(日) 17:01:19 ID:HaLUxu2M
バガヴァンは1879年から1950年まで生きられたのですが、この間に2回の 世界大戦がありました。次の対話は示唆的に思えます。Surpassing Love and Graceの p16から。どうも1931年ぐらいの話みたいです。 質問者: 世界は堕落した状態にあります。どんどん悪くなってきています。霊的に、道徳的に 、知的に、そして全ての面において。霊的な師は混沌から世界を救うために現れるのでしょうか。 バガヴァン: 必ず。善が衰退し、悪がはびこるとき、彼は善を元通りにするために現れます。 世界はあまりにも善かったり、あまりにも悪かったりしません。善と悪の混合物なのです。 混ざりけのない幸福や混ざりけのない不幸はこの世では見つかりません。 世界はいつも神を必要としていて、神はいつも訪れます。
349 :
神も仏も名無しさん :2010/10/24(日) 22:35:54 ID:BXLaIXcn
別に示唆的でも何でもない普通のヒンドゥ教の考えだと思うけど。 訓練や薬物によって霊能力が得られることがあると言っていたりするし、 彼の考えのいくらかは普通のヒンドゥ教徒、インド人の考えだよ。 それより、ミッション系の学校に行っていたのに、キリスト教や西洋文化の 影響がまったく見られないのが俺には不思議だったりする。
350 :
神も仏も名無しさん :2010/10/25(月) 15:27:21 ID:xExoe70i
ニサルガダッタの対話集「Prior to Consciousness」の日本語版が 近々出版されるらしいね 楽しみ
354 :
神も仏も名無しさん :2010/10/31(日) 12:16:44 ID:P4DbpDvA
ラマナ・マハルシがインド人(グルの習慣がない国)でなかったら、 餓死してましたか? 真我に目覚めてふらふら出て行ったとき。
356 :
神も仏も名無しさん :2010/10/31(日) 14:06:32 ID:kkX+KR9J
先進国なら保護されて親許に帰されるんじゃないかな。 ラマナも当てもなく出て行った訳では無いしね。
覚醒した人には調整されたかのように援助の手が入るらしい。
年中裸で腕上げっぱなしとか食事取らない人や ヒマラヤの冷かで裸で居る修行者も多く居るのに その中でもアルナーチャラの伝説とか言われて有名になるのが凄すぎるな
>年中裸で腕上げっぱなしとか食事取らない人や 実際サドゥーのひとたちってどうなんだろう いろいろかわった修行があるけど、ああいうのは修行になってるのかな ラマナとかそういう人たちの修行方法とかには特に言及してないよね そういうカルマがあったからそういう修行をするようになったということなのかな
360 :
神も仏も名無しさん :2010/11/04(木) 01:31:15 ID:uwItKe4o
私とは誰か?をやりすぎたのか 過去の記憶が出て来なくなってしまって 「あれからもう何年か」というような時間の経過の感覚がなくなり 刹那的な動物的な欲望はあるものの長期的な人間らしい目標もなくなり 世間的、内的にどうも半廃人なんだが。 これでいいのかね。 自我は時々癇癪起こして「悪い」と言うんだが、これまで常勤だった自我が パートタイムになってしまったもんで力が著しく弱っている。
蓄えで生活したり、養ってもらっていたこともあるけど、今は働いてるよ。 ずいぶん自我を修復したので。
363 :
神も仏も名無しさん :2010/11/04(木) 21:21:49 ID:AlNo8Uy9
仕事をやめるならもっとゆっくりいけるんですが。 だれかと一緒に行くのなら、一人でチケットとるより安くすみますね。 ただ個人なら近場のサイババに会いに行ったりもできるし。 図書館で文献を読んだり周りの聖者に会いに行ったり できることもたくさんありますし。
365 :
神も仏も名無しさん :2010/11/18(木) 10:37:30 ID:NKtFZxWx
366 :
神も仏も名無しさん :2010/11/27(土) 19:04:15 ID:/SNNabBF
どのようにしてアートマンを実現するのですか? 誰のアートマン? わたしの。 それなら、あなた自身がそれをしなければなりません。 私はそれをすることも、知ることもできません。 誰にそれが知られていないのですか? 私自身にとって。 その「私自身」が誰であるかを知ろうとしなさい。 それはあなたが教えなければならないことです。 (笑いながら)なんだかあなたはここに私を試しに来たようですね。わたしが あなたがなんであるか言うと、本当にあなたの為になりますか?ただあなたに 言っただけで、あなたは満足するでしょうか?自分自身に「私はだれか?」と 尋ねなさい。問いかけたのち、自身の内側から答えを得るでしょう。それはあなた を満足させるでしょう。
367 :
神も仏も名無しさん :2010/11/27(土) 19:06:29 ID:/SNNabBF
私は長い間サーダナをしてきましたが、無駄でした。 あなたは「私」を探し求めなければなりません。そうすれば、その見せかけの 「私」は消えます。 その詳しい過程を教えてください。 こころとは、実際のところ、思いのかたまりです。そして、すべての思いは、 「私」から飛び出します。だから、それは一番初めの思いです。二番目の思い に溺れる代わりに、探求者は根本の思いであるこの「私」に集中しなければな りません。
368 :
神も仏も名無しさん :2010/11/27(土) 19:27:05 ID:/SNNabBF
ある思いと「私」とはどのような違いがあるのですか? 思いは独立したものではありません。思いは「私」とかかわっているとき のみ、地位を得られるのです。しかし、「私」はそれ自身で立つことが 出来ます。実際は、この「私」も独立していません。「私」の場合は、ア ートマンに支えられているのです。幾度も幾度も、それは真実の私(SELF) から起こり、そこに沈みます。それは深い眠りには退き、目覚めるとふ たたび現れます。我々はその誕生の地を、内に向かう視野でもって、探しだ さないといけません。
369 :
神も仏も名無しさん :2010/11/27(土) 21:27:24 ID:/SNNabBF
わたしはそのように問いかけていますが、答えを得られません。 あなたがその質問を熱心に尋ね、内に進むならば、誤った「私」は消え、真実の 「私」現れます。 真実の「私」とはなんですか? 「魂」や「神」と呼ぶものです。 私が探求を始めると、膨大な思いがやってきて道をふさぎ、邪魔をします。 一つ取り除くと、代わりに別のが現れます。終わりがないようです。 私は思いと格闘するようにとは言っていません。そのようにするなら、終わりは ないでしょう。ここに秘密があります。「私」という、すべての思いの源があり ます。我々はそれを捕まえ、それがどこから現れるか確かめなければなりません。 これが絶対的に必要です。犬が主人を、においの跡をたどることで、突き止める ように、あなたは源に到達するために「私」の内的な発達をたどらねばなりませ ん。源とは、(真実の)魂です。
これ引用? いきなり羅列してあるから、頭のおかしい人の自問自答かと思ってしまった。
誰の言葉なのでしょうか? マハルシですか? よければおしえてください
372 :
神も仏も名無しさん :2010/11/28(日) 06:31:49 ID:Runf8ZNq
>ないでしょう。ここに秘密があります。「私」という、すべての思いの源があり >ます。我々はそれを捕まえ、それがどこから現れるか確かめなければなりません。 秘密もなにも、それがビッパッサナ瞑想をやる理由だろ。 私の本体をとらえることは普通にはできない。だから微細な体の感覚を掴むことから 始めるんだ。そしたら感覚を源として自我が生成してるのが解る。そこが私の原点だ。
374 :
神も仏も名無しさん :2010/12/21(火) 13:20:42 ID:7xxSYtpL
本質は真我であることは、なんとなくわかりましたが、 肉体精神機構は何度も生まれ変わるということで良いですか? ニサルガは、愚かな死は愚かな生に繋がると言っていますし。 ラム・ダスは死後のシステムはまったくわからないが、 直感では何度も生まれてきたと言っています。
中井天山ワロタwww大菩薩のご真言を唱えるスレ 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華 南無金剛蓮華南無金剛蓮華南無金剛蓮華
生まれ変わりなどないです。 全ては観念です。 あなたの認識しているものは何であれ、全て観念であり、真実ではありません。
377 :
神も仏も名無しさん :2010/12/23(木) 07:10:58 ID:G6G1M5ve
Day by Day with Bhagavanの1946年6月19日の日記から、 G. Mehta: Is there a rebirth? Bhagavan: If there is birth there must be not only one rebirth but a whole succession of births. Why and how did you get this birth? For the same reason and in the same manner you must have succeeding births. But if you ask who has the birth and whether birth and death are for you or for somebody distinct from you, then you realize the truth and the truth burns up all karma and frees you from all births. The books graphically describe how all sanchita karma, which would take countless lives to exhaust, is burnt up by one little spark of jnana, just as a mountain of gunpowder will be blown up by a single spark of fire. It is the ego that is the cause of all the world and of the countless sciences whose researches are so great as to baffle description, and if the ego is dissolved by enquiry all this immediately crumbles and the Reality or Self alone remains.
378 :
神も仏も名無しさん :2010/12/23(木) 13:42:08 ID:Iw8iPjkG
379 :
神も仏も名無しさん :2010/12/23(木) 15:31:41 ID:G6G1M5ve
生まれ変わりはありますか? もし生まれることがあるならば、一回だけ生まれ変わりだけでなく、多くの連続 した生まれ変わりがあるはずです。どうして、そして、どのようにこの生まれを 得たのでしょうか。同じ理由で、そして同じ方法で、連続した生まれ変わりを 持つはずです。しかし、もしだれが生まれを持つか、そして誕生と死があなたに とってにあるのか、あなたとは別の誰かにとってあるのかを尋ねれば、あなた は真実を理解し、その真実は全てのカルマを焼き尽くし、すべての生まれから あなたを解放します。聖典は、使い果たすためには無数の生を要するだろう全 てのサンチッタカルマが、ジニャーナの一つの小さな火花により焼き尽くされ る様子を、ちょうど山ほどの火薬が火炎のたった一つの火花で爆発するようだと、 生き生きと描いています。まさにエゴが、世界全体と、記述することもできない ぐらい優れた研究をする無数の科学の原因で、もしエゴが探求により消されると、 このすべては一瞬にして崩れさり、真理(現実)もしくは真実の自分(真我)のみ が残ります。
最初のカルマはどうして出来たのだろうか? 無から生じたのだろうか
原因をたどって行くと原因なき原因にたどり着きます。 つまり始まりにポジティブなエネルギーとネガティブなエネルギーが存在 していたということです。 ラム・ダスの死の処方箋に、このようなことが書いてあった。 図書館で読んだだけだからうろ覚えだけれど。
384 :
神も仏も名無しさん :2010/12/31(金) 16:02:54 ID:1W77ABa6
385 :
188 :2011/01/01(土) 11:09:21 ID:/EiZsHiC
>>222 で書いた根拠のない予定がホントになりそうです。
明日、ムージのサットサンに参加するために、
ティルヴァンナマライに向かいます。
今は、緊張と不安が入り混じった気持ちです。(笑)
>>385 旅の安全をお祈り申し上げます
アジズやフーマンとはまた別の意味で、何か‘道’が見つかるといいですね
アルナチャラ山のまわりを、はだしでぐるっと歩き回るという修行も
あるそうですが、もし実践なさったら、どんな感じだったか
後日また感想をお聞かせください
(さすがに高尾山や高野山みたいに観光客で賑やかってことはないと思いますがw)
387 :
188 :2011/01/01(土) 18:14:16 ID:6ZB1z3uJ
>>386 さん。
優しいお言葉、ありがとうございます。m( _ _ )m
今は、正直、今後の事は真っ白な状態で、
ただティルに行くことしか考えてないって感じです。
なので、感想は、お伝えできるならばお伝えしたいという感じです。
>(さすがに高尾山や高野山みたいに観光客で賑やかってことはないと思いますがw)
いや、どうなんですかねぇ。。。
とちょっと恐れていたりします。(笑)
では!
悟ったら全てか一つらしいが 宇宙から見た地球だけでも砂粒なんだが 宇宙の大きさは実感できるのだろうかな
あるがままに(福間巌氏訳)の巻末に収録されてる小冊子「Who Am I?」の原文が
英語Wikipediaの「Self-enquiry」の後半に丸ごと掲載されていたので読んでみました
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Self-enquiry (質問) 2. If I am none of these, then who am I?
(バガヴァン) After negating all of the above-mentioned as
'not this', 'not this', that Awareness which alone remains - that I am.
この部分はネチネチ法に近いような気もして、ちょっと意外でした。
身ぶり手ぶりや砂に字を書いたりなど、まだ若い頃のごく初期の教えでは
質問者の理解の度合いに応じて、ネチネチ法も薦めていたのかも。
もちろん、自分の中に深く潜る「直接の自己探求」が教えの一番の主眼であることは
若い頃もアシュラムでの熟年期もずっと一貫してると思いますが。
もひとつ雑談。上と同じ引用 (質問) 17. Is not everything the work of God? (バガヴァン) Without desire, resolve, or effort, the sun rises; and in its mere presence, the sun-stone emits fire, (... 後略) ネットで検索するまで、日長石( sun-stone )という宝石をまったく知りませんでした。 日光を当てると凸レンズみたく自然発火したりするのかなぁ? それとも「太陽の光で炎が出るほど美しく輝く」という、インドでは一般的な おめでたい言い回しなのかも? とか考えてしまった。
俺よく貧血おこすんですけど、 そうなると全てが消えるような感じになります。 このことから脳が自分自身なのではと思うんですけど、 本当に自分は永遠の存在なのでしょうか? 死んで無になるのはどうしようもなく怖いので、 自分は肉体であって欲しくないと思っているのですが。
>>388 遅くなったけど、ちょっとレスを考えてみた。
ブラフマンとか真我とかは、物理学的な時空とは無関係なんじゃないだろうか。
つまり、時間の長さとか距離の遠さとか空間の大きさは、理論物理で取扱うために
人間が定式化したパラメータで、観測事実を説明したり各種の応用工学には有用だけど
宇宙の巨大さや素粒子の微小さの感覚は、教科書やTV番組や科学誌によって
創り出された虚像にすぎず、真の自分が実感するわけではないような気がする。
ちょっと矛盾して聞こえるかもしれないけど、僕はむしろ
そういう様々な情報を受け取って色んなイメージを心の中に作り出せる
誰もが持つ自我・マインドの想像能力の深遠さ・凄さに感心する。
悟りに全然近づいたことがない万年初心者が、不確実で意味の薄い返答してゴメン
>>392 髪の毛や爪を失っても自分は変らない、的な話がよく出てくるから
血中の酸素濃度や赤血球の数や、それで維持される脳細胞が少しぐらい減っても
自分の本質にとっては、どうということはない(笑)。
っていう冗談はさておき、マハルシその他のアドヴァイタの本には
夢も見ないほど熟睡してる時とか気を失ってる(気絶)状態こそ
真我に一番近い至福の状態、みたいな記述をよく見かけるので
貧血とかで消えてしまいそう… と心配する対象としての部分は
「消えるんじゃないか」と気遣う主体側の「自分」(真我に少し近い部分?)とは
別物なのかもしれない。
395 :
392 :2011/01/23(日) 09:44:29 ID:842Fo28T
>>394 結局自分は消えるんですかね〜。
返答ありがとうございました。
396 :
神も仏も名無しさん :2011/01/31(月) 20:22:44 ID:XOOlegVj
質問です。 最近ニサルガダッタ・マハラジを知って、例の「私は在る」に焦点をあわせ続けるというのを、試しているんですが、 自分のやり方であっているのか自信がありません。 「私は在る」らしき感覚に気づいていると、自然に顔に力が入る感じがします。 とくに眉間あたりに意識が行って、そのあたりの筋肉に自然と力が入る感じがするんですが、 このやり方であっているんでしょうか? また、この方法やっておられる方がいれば、皆さんそれぞれこの「私は在る」をどんな風にやっているのか、いろいろ聞かせてくださると嬉しいです。
>>396 > 「私は在る」らしき感覚に気づいていると、自然に顔に力が入る感じがします。
> とくに眉間あたりに意識が行って、そのあたりの筋肉に自然と力が入る感じがするんですが
少し違うかもしれませんがラマナ・マハルシの「あるがまま」の中に似たような質問と回答があるので
転載させていただきます。
--------------------------------
209ページ
質問者:バガヴァーン、いつであれ私が瞑想するとき、頭の中に大変な熱を感じ
それでも瞑想し続けると全身が燃えるように感じるのです、どうすればいいでしょうか?
ラマナ・マハルシ:脳の中で精神集中を行えば、熱の感覚や頭痛さえ起こることは確実だろう
集中は冷静でさわやかなハートの中でなされなければならない。リラックスしなさい。
そうすれば瞑想も楽になるだろう。無理せずに、侵入してくるすべての想念を穏やかにかわしながら
心を安定させなさい。そうすれば、すぐにうまくいくだろう。
---------------------------------
398 :
神も仏も名無しさん :2011/01/31(月) 22:37:10 ID:RiEZOil6
「私は在る」という感覚をつかむには、 思考や身体の感覚などをすべて落としていくことが有効だと思います。 それには深くゆっくりとした呼吸が役に立ちます。 思考や身体の感覚が静かになって、瞑想が深まっていくと、 その状態でしかアクセスできないあるエネルギーにたどり着きます。 それはとても神聖な感情を伴うエネルギーとして感じられ、 すべての人が持つ神性の部分の発現であると思われます。 このエネルギーが人を癒し、非二元の意識領域へと導きます。
399 :
神も仏も名無しさん :2011/01/31(月) 22:41:02 ID:RiEZOil6
398の続き ラージニシはこの状態を中空の竹と呼んで以下のように表現しています。 “中空の竹のごとく汝の体をくつろがせ” 内側が完全に中空になった一本の竹 休むときに ちょっと自分が一本の竹であるかのように感じてみてごらん 内側の完全に空っぽになった竹だ そして、これは事実そうなのだよ あなたの体はちょうど竹みたいなものだ そして内側は中空だ 皮膚 骨 血液 みな竹の一部だ しかし内側には中空の空間がある あなたが完全に口を沈黙させて坐っているとき 非行動的 舌は天蓋に触れて静かだ 思考にふるえてはいない 心は受動的に見守り 特別何を持ってもいない 一本の竹のいうな感じ するとそのとき突然 無限のエネルギーがあなたの中に注がれはじめる あまたは〈知られざるもの〉によって 〈神秘なるもの〉によって 〈聖なるもの〉によって満たされる 中空の竹は一本の竹笛となる そして〈聖なるもの〉がそれを奏ではじめる (存在の詩 p227)
400 :
神も仏も名無しさん :2011/02/02(水) 05:50:12 ID:bI6hQLr3
死んだら肉体精神機構が消滅して、真我のみになりますか?
この粗雑な肉体はなくなっても より微細な精神的な身体は残るみたいなことを言う人もいます
私は誰かをやると私は○○(自分の名前)だ、や 自分は意識だ、自分は脳だ、で終わってしまいます。 自分はこれだと思っているものではないをやってみたのですが、 私は意識ではないと言ったら気持ち悪くなりました。 どうしたらうまく行くのでしょうか?
捨てなさい
404 :
402 :2011/02/04(金) 17:07:37 ID:QDRZuE7L
「私は誰か?」をやるのであれば ラマナ・マハルシの「あるがまま」は読んだほうがいいよ そういう疑問に付いてもすべて事細かに書いてあるよ
406 :
402 :2011/02/05(土) 08:28:37 ID:H0BIKBS/
>>405 あるがままには読んだことあるのですが
ずいぶん前なので失念しているところが多いかもしれません。
もういちど読んでみます、ありがとうございました。
自分、将来に不安をかかえてて、 早く悟りたいんですけど、 何をすればいいでしょうか?
何をしなくてもいいと知れば良い。
409 :
407 :2011/02/14(月) 19:15:54 ID:OznZvqdB
>>408 ありがとうございます。
何もしなくてもいいと知るにはどうしたら良いでしょうか?
あるがままに、読めるときは一気に読んじゃうんだけど、 読めないときは全然読めないから不思議。
>>409 なんで、何かをしたくなるか、何もしないでいられないか、
その原因を自分の中に洞察してみたら、いんじゃない?
自我を取り去ることによって気付けば良い。
413 :
407 :2011/02/16(水) 20:33:48 ID:djSGKu/D
レスありがとうございます。
>>411 わかりました、やってみます。
>>412 自我を取り去るにはどうしたら良いでしょうか?
質問ばかりですみません。
414 :
神も仏も名無しさん :2011/02/17(木) 13:36:22 ID:LaIL+i+q
Talks With Ramana Maharshi : On Realizing Abiding Peace and Happiness という本があるのですが、 日本語に訳されていますか? 海外amazonで売っていて評判よさそうなので・・。 あるがままに(be as you are)を何度か読めば十分でしょうか。 たぶん、そうなんでしょうね。 内容がだぶっていて、結局は同じことを言っているんでしょうね。
417 :
神も仏も名無しさん :2011/02/17(木) 20:03:16 ID:LaIL+i+q
>>415 その本、いつも見ている掲示板で、
紹介されていて、気にはなっていたんですけど、
アドヴァイタ系だったんですね。
エックハルトトール読んだことあるから、
まあいいか、くらいに思っていました。
読んでみたいですね。
>>416 あったんですね。同じものが。
でも、7000円はちょっと・・。
アドヴァイタ系と言ってしまいましたが… ラメッシ・バルセカールみたいにエゴをとことん絶望させるようなのとはちょっと趣が違いますかね。 ということはアドヴァイタ系ではないかも(^^; 最終章に著者の覚醒プロセスがどのように起こったかが書かれていますが、 この部分だけでも読む価値はあるかもしれません。
419 :
神も仏も名無しさん :2011/02/17(木) 21:56:04 ID:3jgmWGtN
talksは日記の形で書かれているから、会話の流れを知りたいなら役に立つ と思います。be as you areのようにテーマごとのまとまりはありません。
>>407 さしあたり本だけ読んで自習しても効果がでないので
師を探すことをお勧めします。
ラマナやパパジ、ラメッシの本は言行録ですので
師が目の前にいることを前提として話された言葉です。
ですから師についたうえで本を理解しなければ
よい結果は出にくいかと思います。
南インドの瞑想は誤訳があるため、あまりお勧めしません。
「あるがままに」「不滅の意識」「ラマナ・マハルシの伝記」の三冊があれば十分です。
421 :
神も仏も名無しさん :2011/02/18(金) 02:13:25 ID:qqx1UAWG
>南インドの瞑想は誤訳があるため どういうあたりにおいてですか?
二章の訳に問題があると、「不滅の意識」を訳された柳田先生が 言っておられたという話を聞いたことがあります。 「あるがままに」「不滅の意識」「ラマナ・マハルシの伝記」と重複する話も多く 高額を出してまで買う必要はありません。
423 :
407 :2011/02/18(金) 18:18:43 ID:DY9W8LLM
>>420 ありがとうございます。
おすすめのグルがいたら教えていただきたいです。
できれば日本語ができる方だと助かるのですが。
424 :
神も仏も名無しさん :2011/02/21(月) 15:51:04.65 ID:ODtF1W/E
マーヤーはどこから湧き出してきましたか。 はじめからブラフマンとマーヤーが在ったのかな。 陰と陽みたいな感じで。
前触れもなく求めてもないのに覚醒するのって羨ましいです。
エゴも真我から生じたらしい。 ということはこの世のすべての残酷さも醜さも たどれば一元にいきつくわけか。 この世界は神の自作自演みたいなもんですな。
自分を落とすとか、そりゃ出来る人間なら 簡単に言うけど、殴られたり蹴られたり あるいは食べ物が無くなれば、すぐに我が我がと顔をだすよ。
世界の中には私は無くて、世界には私の顕れしかないんだよね。 なんだこれ。
昨日はじめてマハラジの動画を見たけど 何か落ち着きの無い人だと思った。 本当に悟っていたのか怪しく思えてきた。
どの動画?
なるほど、ありがとう。 でも思ったより好感もてたw へんにつくろってないあたり やっぱ、悟ったと言われるひとで、いわゆる悟ったひとのように見えるひとって、ほとんどい ないよねえ。
ラメッシのおかげで過去を後悔したり自分を裁くことが 極端に減った。 そしてもう他のインチキくせえスピリチュアルやらなんやらを 読まなくても良くなった。 ラメッシマンセー
436 :
神も仏も名無しさん :2011/03/15(火) 21:47:25.72 ID:Z6oWbFiq
GURU RAMANA』p110,111 1949年8月28日 午前10時15分、アメリカ人の信奉者のRappoldさんが深く没入しているよう であった瞑想から目を覚まし、声をあげた。 Rappold:バガヴァン、死に直面したとき信奉者は何をするのがいいでしょうか。 Bhagavan:信奉者は決して死にません、むしろ彼はすでに死んでいます。 (そこで彼はやめ、有能な通訳であるDeveraja Mudaliarが入室するのを待ちました。 バガヴァンは答えを続けました。) 死に直面して信奉者は何をするのがよいのでしょうか。彼に何ができるのでしょうか。 何であれ、かれが存命時に考えていることと同じことを、最後の時に考えます。 世俗的な人は世俗的な事がらを考え、信奉者は献身や霊的な事柄を考えます。 しかし、ジニャーニはどのような種類の思いも持たないので、変りなくあります。 彼の思いはずっと前に死に、彼の肉体もその思いと共に死ました。 それゆえ、彼には死のような物事は存在しないのです
437 :
神も仏も名無しさん :2011/03/15(火) 22:06:29.94 ID:Z6oWbFiq
Bhagavan:また人々は死を恐れますが、それは所有物を失うことを恐れるからです。 彼らが眠りに就くとき、そのような恐れは全くありません。 眠りはすべての所有物を置き去るという点で死に似ていますが、 次の日の朝に再び所有物の中に入るという知識のため、心に恐怖を引き起こしません。 ジニャーニは、所有の感覚を持たない、完全に死の恐怖から自由です。 彼は死の後も死の前と同じく変わらずにあります。
438 :
神も仏も名無しさん :2011/03/15(火) 22:08:40.86 ID:Z6oWbFiq
所有の感覚を持たない「ため」、、、「ため」がぬけました
>>436-438 ラマナ・マハルシの大事な言葉を紹介してくださって、ありがとうございます
じっくりかみしめようと思います
440 :
神も仏も名無しさん :2011/03/16(水) 01:16:18.00 ID:Boj+gYDI
ここは哲学板に行った方がよくね?
442 :
神も仏も名無しさん :2011/03/16(水) 22:24:00.17 ID:rRxIIuER
『Day by Day with Bhagavan』 1946年1月5日午後の抜粋 シュリ・オーロビンドゥ・アシュラムから来たと言う、別の訪問者がバガヴァンに尋ねました。 「しかし我々は世界の中で苦しみを見ます。ある人は空腹です。それは身体的な現実です。 それは彼にとって、とても現実的です。我々はそれを夢であると呼び、彼の苦しみに無感動 でいるべきなのですか?」
443 :
神も仏も名無しさん :2011/03/16(水) 22:26:17.35 ID:rRxIIuER
Bhagavan: ジニャーナや真実の視点からは、あなたが言う苦しみは確かに夢です。それは、 世界と同じく夢で、苦しみは世界のごくわずかの部分です。夢の中でもまた、 あなた自身が空腹を感じます。あなたは他の人が空腹で苦しんでいるのを見ます。 あなたは食事をとり、かわいそうに感じて、空腹で苦しんでいると気付いた他の人 に食事を与えます。夢が続く限り、これらすべての苦しみは、今あなたが世界で 見ている苦しみを現実的と思うのと同じように、非常に現実的です。
444 :
神も仏も名無しさん :2011/03/16(水) 22:27:59.85 ID:rRxIIuER
目覚めて初めて、あなたは夢の中の苦しみが非現実的なものと発見します。 あなたはたっぷり食べて、眠りについたかもしれません。あなたは灼熱の 太陽が一日中照りつける中で激しく長時間働き、疲れて空腹でたくさん食 べたいという夢を見ます。その時あなたは目覚め、お腹一杯で、ベッドから 少しも動いていないことに気付きます。
445 :
神も仏も名無しさん :2011/03/16(水) 22:29:41.17 ID:rRxIIuER
しかし、このすべてのことで、夢を見ている間、あなたが、あたかも感じている苦しみ が現実的でないかの如くに振る舞うことができるということを言おうとしているのでは ありません。夢の中の空腹は、夢の中の食べ物で満たされねばなりません。夢の中で とてもお腹が減っているとあなたが気付いた仲間には、夢の中の食べ物が与えられ なければなりません。夢と目覚めている状態の二つの状態を混ぜることは決してできません。
446 :
神も仏も名無しさん :2011/03/16(水) 22:31:17.77 ID:rRxIIuER
ジニャーナの状態に達するまで、そしてこのマーヤ−から目覚めるまで、あなたは、 苦しみを見た時はいつも、苦しみを和らげることで、社会的な奉仕をしなければ なりません。しかし、その時でさえ、あなたはそれを、告げられたように、アハン カラなしに、つまり「私が行為者である」という感覚なしで、「私は主(神)の道具 である」と感じながら、行うべきです。
447 :
神も仏も名無しさん :2011/03/16(水) 22:32:25.53 ID:rRxIIuER
同じように、「私は自分より下にいる人を助けている。彼は助けが必要だ。 私は助ける位置にいる。私は優れていて、彼は劣っている」と思いあがる べきではありません。そうではなく、あなたはその人の中にいる神を崇拝 するための手段として助けるべきです。そのような奉仕のすべては、「自ら」 (真我)のためでもあり、他の誰のためでもありありません。あなたは他の 誰ではなく、あなた自身のみを助けているのです。
448 :
神も仏も名無しさん :2011/03/18(金) 00:07:53.60 ID:znSD/B3F
なぜ
ラマナ・マハルシと釈迦は似てるように感じる。 いらないことは言わない、重要なことだけシンプルに話すところが
450 :
神も仏も名無しさん :2011/03/21(月) 23:00:32.15 ID:4FCof0nd
素粒子とか物質を突き抜けてるのだから それ以上の観測出来ない微細な魂のアートマンとか 仮にあなたがわたしでも、科学的に見てもおかしくない気はするなあ
そもそもわたしがわたしなのだと思えてることが不思議だしね
不二一元論も古いよ、シャンカラが聖徳太子の頃だし 聖典のギータとか紀元前と言われてるし 日本では新興宗教の一つみたいに思われてるかも知れないけど 実はサイババさんもラマナさんもれっきとした伝統宗教の聖者
454 :
神も仏も名無しさん :2011/04/01(金) 00:02:03.52 ID:B0O+VHzz
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
とにかく、ただ「私は在る」だよ。
457 :
神も仏も名無しさん :2011/04/16(土) 18:41:55.51 ID:cRaXFlx0
あ
ttp://www.sriramanamaharshi.org/downloads/talks_full.zip 25th January, 1938
Naham - I am not this - corresponds to rechaka
Koham - Who am I? (search for the I) - corresponds to puraka
Soham - He am I; (The Self alone) - corresponds to kumbhaka.
So these are the functions of pranayama.
Again the three formulae are:
Na - Aham (Not - I).
Ka - Aham (Who - I).
Sa - Aham (He - I).
Delete the prefixes and hold on to the common factor in all of them.
That is Aham-’I’, that is the gist of the whole matter.
[大雑把な意訳]
----------
(マハルシ談: 呼吸制御法の質問に対する答え)
呼吸を制御しようとする必要はなく、心(マインド)の制御で充分。(だが)
直接マインドを制御できない人には、呼吸の制御もお勧め。
ナハム 我は是にあらず 息を吐く
コハム 我は如何(誰)なりや? 息を吸う
ソハム 我は其なり 息を止める
これが呼吸制御法の作用である。もう一度、三つを定式化すると
ナーアハム 非 − 我
カーアハム 何 − 我
サーアハム 其 − 我
接頭語を取り除いて、共通項に注目すると
つまり、アハム − ‘我’(Self) が、全体の要点である。
----------
>>457 たぶん保守ageの目的で、誰かが「あ」の一文字だけ書いたと思うんだけど
せっかく久しぶりのレスなので、この「あ」の書込みから
ラマナ・マハルシの「アハム」の解説を連想したので、英文を引用してみた。
タミル語のことを何も知らず、英語にも不慣れなので、自分の訳文は
ちょっと乱暴すぎるかも…。誤訳があったらすみません
460 :
今北産業用 :2011/04/17(日) 13:05:53.13 ID:m9UdN0lN
長くなりすぎたので、三行にまとめると 息を吐き出す 「私はこれじゃない」 ( 身体やエゴや幻想知覚の全面否定 ) 息を吸い込む 「私って誰?」 ( 自己探求 ) 息を保持する 「私は彼=真我」 ( I AM THAT I AM ) ヤハウェ=ブラフマン
461 :
神も仏も名無しさん :2011/04/17(日) 18:50:45.04 ID:hDhuJG5D
『Guru Vachaka Kovai』 by Micheal james and Sadhu Omから、、、 J701 Completely giving up the notion ‘I am the body’ is rechaka ; diving within through the subtle scrutiny ‘Who am I?’ is puraka ; and abiding as one with Self as ‘I am That’ is kumbhaka – such is jnana-pranayama. 「私は肉体である」という概念を完全に捨て去ることが、息を吐くこと 鋭い探求である「私とは誰か?」を通じて内に沈潜することが、息を吸うこと 「私はそれである」として真我と一つにあることが、息を止めること これが、ジニャーナ・プラーナヤ―マである。
息を吸うとき、身体の中心であるみぞおちのあたりにエネルギーの波が収束する。 息を吐くとき、みぞおちから四肢・外部へとエネルギーの波が拡散する。 この波を見守ることにより、身体感覚の消失を待つことが ラマナの提唱した穏やかなプラーナヤーマです。 上記の表現はそれをより真我探求に即したようにしたものです。
464 :
神も仏も名無しさん :2011/04/21(木) 17:37:29.58 ID:1WKciLsK
>>463 ラマナが、プラーナヤ―マで「エネルギーの波を見守る」という表現をしている
箇所に出会ったことがありません。よろしければ、出典を教えてください。
465 :
神も仏も名無しさん :2011/04/23(土) 10:43:45.68 ID:1YeOR2s3
466 :
神も仏も名無しさん :2011/04/23(土) 17:25:37.75 ID:b96A96/x
マハルシに関して言えば、私が書き込むことまで決まっていると言えると 思います。最小のことまで、、、と似たような質問をマハルシにした方が いて、決まっていると答えていたと思います。
test
468 :
神も仏も名無しさん :2011/04/25(月) 00:33:35.83 ID:+9z2x6JJ
すべては決まっている。これはすごいことやで。 みんなに知らせてあげて。 これをハートから理解できたらすごいでしょうね。 直感では正しいと思いつつも、まだ疑いの気持ちがある。
将来の苦しみは回避できないのでは
470 :
神も仏も名無しさん :2011/04/25(月) 02:32:01.59 ID:+9z2x6JJ
確かに、悲惨な運命だったら苦しむでしょうね。 でもかなり苦しみが減る気がしますね。 神が創った映画だから仕方ねえか。 自分にどうすることもできないんだから。って感じでね。
自分の自由意思の結果苦しむなら自業自得と納得するけど シナリオ通りに苦しむしかないなんて無力感しかないわ
私という星座の神話すなあ。 決まっていることも決まっていないことも私の物語すなあ。
473 :
神も仏も名無しさん :2011/04/25(月) 08:47:00.08 ID:AH58n3u0
Talks with Sri Ramana Maharshi 19th June, 1936 Talk 209. より Mr. B. C. Das, the Physics Lecturer, asked about free-will and destiny. Maharshi: Whose will is it? ‘It is mine’, you may say. You are beyond will and fate. Abide as that and you transcend them both. That is the meaning of conquering destiny by will. Fate can be conquered. Fate is the result of past actions. By association with the wise the bad tendencies are conquered. One’s experiences are then viewed to their proper perspective. 物理学講師の B.C.Das 氏が、自由意志と運命について質問した。 マハルシの答え:誰の意志だろうか? 「私の」と言うかもしれないが、 あなたは意志や運命を超越している。両方を超えた所にとどまりなさい。 これが運命を意志で征することの意味である。宿命は征服できる。 宿命は過去の行為の結果である。(「結果でしかない」のニュアンス?←文の流れ) 賢者と繋がることで悪い傾向は抑えられる。 そうすれば、(日々の)体験を適切な観点から見ることになる。 ----- いつものように曖昧な訳ですみません 日常現象レベルの一挙手一投足は決まっているけど 真我に留まると、超越した見方ができるようになる… とか 仏教用語だけど「輪廻の循環から解脱できる」っぽいことを言ってるのかな
Talks with Sri Ramana Maharshi 4th February, 1938 Talk 451. の後半より A Swami asked: I feel toothache. Is it only a thought? M.: Yes. D.: Why can I not think that there is no toothache and thus cure myself? M.: When engrossed in other thoughts one does not feel the toothache. When one sleeps toothache is not felt. D.: But toothache remains all the same. M.: Such is the firm conviction of the reality of the world that it is not easily shaken off. The world does not become, for that reason, any more real than the individual himself. D.: Now there is the Sino-Japanese war. If it is only in imagination, can or will Sri Bhagavan imagine the contrary and put an end to the war? M.: The Bhagavan of the questioner is as much a thought as the Sino-Japanese war. (Laughter.)
あるスワミの質問:私は歯が痛いのですが、これもただの想念でしょうか? マハルシの答え:その通り。 問:なぜ、歯痛など存在しないと自分で考えて、治すことができないのでしょう? マ:他のことに夢中になっている時や寝ている時は、歯の痛みは感じない。 問:でも歯の痛みは同じように続きます。 マ:それはこの世の現実性を固く信じ込んで、容易に振るい落せないからである。 同じ理由から、各個人自身より以上には世界がリアルになることはない。 問:いま日中戦争(支那事変:旧日本政府の公称?)が起きています。 もしこれが単なる想像の中なら、その気があればバガヴァーンは逆に 想像することによって、戦争を終結できるのではありませんか? マ:質問者(あなた)にとってのバガヴァーンも、日中戦争と同じ程度の 想像上の者である(笑い)。 ----- ラマナ・マハルシとの対話の長い本文の中で、唯一みつけた Japanese が 出てくる箇所なのでドキっとしたんだけど、1937年12月のいわゆる南京虐殺事件の 直後なので、笑いのネタっぽい対話なのは悪く誤解されないか、ちょっと心配… インド独立やガンジーの無抵抗主義や人権に反するカースト制度などについて 政治的見解をマハルシに問いただす来訪者も、当時はたくさんいたみたいなので 外界の政争に巻き込まれず「ただ Self に潜りなさい」という、 いつもの主張だけでなく、機知のウィットで追及をかわしたようにも見える。
下手な答えをすると突っ込まれるから大変だな
歯の痛みは修行になるかもと放置して、歯が腐って神経まで犯され、 ボロボロになって食事ができなくなったので歯医者に逝きました。 先生からカツ!を頂きました^^
ラマナだって全知全能という訳じゃないのに色々質問されてかわいそう
480 :
神も仏も名無しさん :2011/04/26(火) 00:13:50.04 ID:EkNj8uxh
運命と自由意志の両方の源を知らない人々だけが そのどちらが優っているのかの議論に関心を持つ 運命と自由意志の共通の源である真我を実現したものは それらに拘束されることはない 彼らがそれらに再び依存することなどあるだろうか ラマナ・マハルシ 四十頌からなる実在−19
481 :
神も仏も名無しさん :2011/04/26(火) 13:47:12.65 ID:gown3rFP
全ては決まっている 自分で決めたこと。 ・・・・・・震災の現場で言って来い。
482 :
神も仏も名無しさん :2011/04/26(火) 14:19:19.92 ID:uqJaad7B
突然スレ違いのような事を言って申し訳ないのですが・・・ その日わたしが寝床に入り、ただひとつの目で「在る」を探索していたとき 首の後ろに丸い影のようなものが現れ グッグッっと広がりはじめたのです それはなんというか、電気がジリジリっという音を立てるような 波動をもった同心円の集合のような模様も感じられて しかもその中に「自分」という意識めいたものをありありと感じていました 5秒ぐらいそれが続いて 突然それは下に(ベッドの床面に)ガクン!と落ちたように動いたんです そうしたら 背骨がまるで焼け火箸のようにカーッっと熱くなってきて その熱さが背中全体に広がり、胸に広がり、足と両腕に広がって
483 :
神も仏も名無しさん :2011/04/26(火) 14:20:27.50 ID:uqJaad7B
あろうことか恐怖が起きました わたしは変化を怖がってしまったのです それで力を振り絞って意識にしがみつき 体勢をうつ伏せにしました それでも灼熱は消えなくて わたしは、人体はわたしではない、わたしは一度も生まれたことが無いと それが理であると思い続けました 意識を捕まえると 灼熱は去り、凍える寒さに変わりました ガタガタと震えながら、助かった・・・と思いました
484 :
神も仏も名無しさん :2011/04/26(火) 14:21:22.63 ID:uqJaad7B
やがて知らぬ間に眠りがおとずれ 朝に目が覚めましたが 体中だるく、頭痛がして、その日はなにもできませんでした その後2日の間、だるさが続き、仕事を休みました これがもしクンダリーニの灼熱なら クンダリーニでは覚醒は起きないと思いました わたしは観照者としての内なる目は持っていますが 真我と同一化できないでいます
485 :
神も仏も名無しさん :2011/04/26(火) 20:42:47.68 ID:LVO3LLDa
マハルシは確か、クンダリーニを真我の別名として扱ってましたよ。 サーダナ中に起こることに対してのマハルシのよくする答えは、何が起こって もそれを感じている自分があるはずだから、その自分とは誰か問うようにとい うものです。 私はあなたの体験について意見を言えるほど成熟してませんので、とりあえず 『あるがままに』を読むのをお勧めしておきます。
486 :
神も仏も名無しさん :2011/04/26(火) 21:40:00.66 ID:uqJaad7B
あなたがそれを勧める(薦める)のは あなたがそれを読んで悟られたからなのでしょう 人は不毛なものは薦めるはずがございませんもの 著書の紹介、ありがとうございます
クンダリニーと関係してるかはわからないけど、恐怖が起きる時点で、自分の中に恐怖を生 み出す(恐怖を感じる)ものを持ってるってことじゃないかな なぜ恐怖したか 恐怖するものと、恐怖しないものを、誰がどこで分けてるか それがわかることが重要なんじゃないかな 単純に真我そのものになるのが怖かったんだと思うけど 失いたくないものが何かあったんじゃないかな 観照とか、これが観照だと思ってる自分とか
どっちみちファンタジーだから、やりたきゃどんどんやれ、 ってことでしょうなあ。
489 :
神も仏も名無しさん :2011/04/27(水) 17:28:37.28 ID:SnxJ9sZX
482です。 恐怖が起こったのは、わたしの自我の故です。 わたしは自我を離せないでいるのです。 わたしは天頂のチャクラが開いておりませんので、 脊髄で灼熱がこもってしまったのかも知れません。 ところがわたしはクンダリーニにはまったく興味がなく、 欲しいとも思ったことがこざいません。 それが突然、よけいな事に・・・。 気づきは信仰・宗教・崇拝に関係なく、また、経典にもグルにも拠らず それは突然起こると聖者達は申されます。 内なる事は、求める求めないに関わらず、ただ起こるのかも知れません。
>>489 こんなサイトがあったので紹介しておきます。
http://www.hm3.aitai.ne.jp/~hisaha/index.html この方もクリヤヨガの実践の結果、クンダリーニ昇華を体験し、
ニルヴィカルパサマディに到達されたようです。
最近は、クンダリーニが覚醒した、と自称している人は多いですが、
その大部分は、単に気功でいうところの中脈をちょろちょろと気が流れて、
ちょっとしたエクスタシーのようなものを味わっただけ、
みたいな人たちばかりで、本当のクンダリーニ覚醒ではありません。
何か最近ようやく少しわかってきた 要は人生の先輩の金八先生が不良に注意しても あの時の言葉がようやくわかりました 先生に感謝していますになるのが何年も後になるのと 一緒でよほど心の底からガツンと来る何かが無いと 身につかないもんなんだろうなあとは思うな まあ難しいことだから生死を超えた真理なわけだが
アドヴァイタって限られた人のための教えって言われるしね。 一時期はまってたけど、動物性の欲望、人間性から無理。 いつか終わるのでこの人生は幻なのは理解するし、 幻にも基板となる実在が必ず必要なことも理解する。 幻の基盤であるのが実在と言われても、この体と心、 このくちゃべってる自分が自分ってとこはなかなか捨てられない。 自我としては一生反抗しそうだよ。
493 :
神も仏も名無しさん :2011/04/29(金) 01:18:19.75 ID:L+jCjQwb
492さんの意見も、よくわかるし、 なげやりなマインドが出てくる事もあるけど それを自分と同一視する事でダメにされてるように思うしなぁ
マインドが自分じゃないと感じてるのは離人症とは違うのかな? ちょっと離人症スレを検索してみたら、離人症の人たちが言ってる症状のいくつ かはもろ精神世界系の不思議体験だったりする。 彼らは宗教の影響を受けてないから割と常識的に分析したり、認識していて勉強になった。 例えば、「幽体離脱のように浮かんで自分が歩いてるのを背後から操作する 自分の後頭部(もちろん想像だけど)を客観的に眺めるのって変な感じだった」とか。 想像なんだね。これが認識によっては想像でないことになるわけで 真相やいかに?という感じ。
宗教は難しいよ、イエスや釈迦でさえ 家族や身内を説得することが出来なかったんだから 色々とー難しいなって日々感じる
497 :
神も仏も名無しさん :2011/04/29(金) 10:11:10.69 ID:L+jCjQwb
離人症とか脳の異常だとかも、正常といわれる側からの視点だからね 正常といわれる側が実は異常なのかもしれない それは社会でどう言われてるとかではなく、自分で納得いく答えにたどりつくしかないよね なにが正常でなにが異常か、その疑問の答えが訪れるまで探求したらいいんじゃないかな その答えが訪れたときが探求の終わりだよね
まあ、不二一元でいえば、正常も異常も、疑問をもつことももたないことも、全て同じであり あると同時にないけどね
>>499 逆にそれが理念である側面もあると思う。
俺も若いときはへそ曲がりで頭でっかちだったから、思考して「善も悪もない。
すべては相対的。」なんて考えに至った。
でも、実際相対的な思い込みを落とそうとしたら怖いんだよ。
どんどん常識がなくなっていってこのまま行ったら、路上で寝て、
食べられないもの食べて、そこらへんでうんこして、人々に石投げつけられて、
精神病院に入っても、それでも価値判断しない人になっちゃうんじゃないかって。
できないのであれば、それは現実ではなく、ただの理念、幻だよね。
どうも自分の若い時の匂いを感じ取ってしまって過剰反応してるきらいもあるんだが、
ちょっと考えてみて欲しい。
アドヴァイタもマインドが握ってしまうと、ただのアイデアになってしまうというか。
世界もあらゆる体験も全てファンタジーですよ。
宗教って本当に難しいよ 不二一元って言葉の持つ意味がすでに難しい あーなるほど、だから不二一元なんだなと理解出来る そこまでがなかなか簡単には行かない
過疎スレだと思っていたけど、 なにげに待機してる人結構いるんだね。
ファンタジーが止むまでファンタジーを続ければいいよ。 顕れる事も顕れない事もファンタジーだから。
まあ怖がる人は、怖がるのをやめようなんて思わずに、思う存分怖がったらいいよね どれほど怖がったところで、なにがどうなるものでもないんだから
怖がることを放棄しようとせずに、まず怖がれるという素晴らしさに感謝したらいいんじゃない かな なにかができるということも全て真我のあらわれ 怖がるということすらね
Q:「ブラフマンはリアルである。世界は幻である。」はシャンカラチャリアの言葉ですが、 他の人達は「世界は実在である」といいます。どちらが本当ですか? A: 両方とも正しい。彼らは進歩の異なった段階、違った観点から言っている。 探求者は「常に存在するものが実在である」という定義から始める。 そして世界を非実在として捨て去る。 なぜなら常に変化するからだ。 探求者は最終的にセルフに到達し、the prevailing noteとして調和を発見する。 それから初めに非実在として捨てたものが調和の一部であることが分かる。 実在に浸った状態では世界もまた実在である。 自己実現の中にはただ存在しかない。 意訳だけど、そんな訳でファンタジーファンタジー言ってる人はちゃんと修行してない人だと 個人的には思いますが、どうでしょう。
どっちでもいいんじゃない? 自分がわかるときにはわかるんだから そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないよね 自分がわかるときに自分がわかるだけだよね
「そう思えばいいよ。」はなしで。
何を求めてるの? 他人にちゃんと修行しろってこと?
アドヴァイタの常識的な落とし所をそういう見方の出来る人と話し合いたかった んだよ。 上の方のレスだとそういう人たちがいたから。 そしたら、いつもの「いいよ君」達が出てきたからカチンと来た。 君らだと話にならないんだよ。 何かを主張してるのに、それに反論すると、「そう思えばいいよ」だから。 だったら、出てこないでくれよ。
言葉遊びじゃなくて、もうすこし現象の裏付けのある話をしたいんだ。
ああ、河合隼雄の「ユング心理学と仏教」読んだんだよ。 ほら、想念って結局は星と星を線でつないだ星座みたいな もんかな、と思って。
上江洲義秀さんはどう? 覚者に見えるけど。
>>513 俺の知ってる「いいよ君」ではないのかな?
常識的な話と言ったら、突然普通の話しだしてびっくりした。
それとも誤爆なのか?
>>515 なんでだよww
「私」を思考なり感情なり体験なりに分解すると
ファンタジーができるのか、ファンタジーが「私」を
在らしめるのか、はたまた…
518 :
神も仏も名無しさん :2011/04/29(金) 17:55:22.81 ID:Jday2zC7
482です わたしは、わたしの経験した事しか語れません。 実は、そういう事があった一ヶ月ほど前、別の体験をしていました。 マハラジが「ただ『わたしは在る』に注意を向けていればいい」と言うので、 疑わずそうして過ごしておりました。 そうすると仕事で作業している時、目の前に真っ白な髪と 顔中タワシの毛のようなヒゲの老人が見えたのです。 彼の顔で皮膚が見えているのは、鼻と額と目の周囲と頬の上部だけでした。
519 :
神も仏も名無しさん :2011/04/29(金) 17:57:03.65 ID:Jday2zC7
血色良く、元気そうで、生気にあふれ、にこやかにわたしを見ていました。 民族衣装のようなものを着て、 頭には小さな東京ドームのような帽子をのせていました。 アイヌ人だ!・・とわたしは思いました。 だれだろう?わたしの前世?守護霊? そしてその時、普段だれもが頭の中に思い浮かべるように、 別の想像映像も思い浮かべることが出来たのです。 なんと、わたしは想像の映像と、目の前の老人と、 肉眼では世界を、三つのビジョンを同時に見ていたのです。 作業しながら結構長いこと、二分ぐらいそれは見えていて 次第にかすみのように消えました。
520 :
神も仏も名無しさん :2011/04/29(金) 17:58:28.87 ID:Jday2zC7
2日後、それはアイヌ人ではなく、 ダグラス・ハーディング氏だとわかりました。 民族衣装のようなものは、なんというのでしょう・・ よく教会のえらい人が着ている聖衣?っていうか、コスチュームだったのです。 わたしは彼の『頭のない方法』を知ってから (全部は読んでいません)顔を無くしました。 わたしは顔という窓を通して世界を観ているのです。 顔の内側にわたしが居て、顔の外側の世界に一つの世界と、 それを構成するパーツたち(自分の胴から下の身体も含めて) を観ているのです。 世界は、わたしの顔になったのです。
521 :
神も仏も名無しさん :2011/04/29(金) 17:59:38.21 ID:Jday2zC7
世界の中にわたしが居るのではなく、 わたしの中に世界が顕れ、通り過ぎていきます。 そして内側の観ている『わたし』は、わかることが出来るその『わかる』であり、 気づくことが出来るその『気づく』です。 そうしてその『わかる』=『きづく』=ひとつの目は、さらに内側に向けられます。 「ただ一つの目で『それ』を観ろ」とマハラジが申されているからです。 そうすると、なんとも言いようの無い至福と喜びが沸き起こってくるのです。 でもそれは数日で無くなりました。 わたしが真我と繋がっていないからです。 それは、輻射のような、木漏れ日のようなものでしかなかったのです。
522 :
神も仏も名無しさん :2011/04/29(金) 18:00:31.97 ID:Jday2zC7
それでもそれ以後、『わかる』は前以上に冴えて、 いろんな事が理解できていくのです。 般若心経はあたりまえのように「そのとおりだ」とわかるし、 あの言葉パズルのような金剛般若経でさえ納得できるのです。 スッタニパータも、マーハ・パリニヴァーナ・スッタンタも 何を言っているのか手に取るようわかってしまうのです。
523 :
神も仏も名無しさん :2011/04/29(金) 18:01:24.93 ID:Jday2zC7
仏陀は遠くに居て、町に使いに出したアーナンダが 女性と無駄口をしているのを観ていました。 若き人、アーナンダが帰ってくると仏陀は次のように言いました。 『気をつけておれ。目覚めて夢をみる者となるな』 ここで洞察されなければならないのは、『気をつけておれ』です。 マハラジの言う、『わたしは在る』に注意を向けていなさいと、同義です。 彼もまた世界は意識が見る夢だと申しています。
私には私の内というのがどこなのかわかりません。 世界も考えも同じ意識の上に現れるので。 >『わかる』=『きづく』=ひとつの目は、さらに内側に向けられます。 の内側とはどこのことを言っているのですか? 目をつぶって考えに集中するのでしょうか?
>>524 お、奇遇だな。俺も今マハルシの「『私』の源を
見いだしなさい」て言葉にひっかかってたところだ。
感覚で捉えられるもんでもなさそだし。
バイロン・ケイティの「私が観念を手放すのではなく、
観念が私を手放すのだ」って言葉が浮かんできた。
なんとなくだけど。
正確にはこうだ。 「私は自分の観念を手放しはしない。私はそれと 出会い、問い直す、すると それが私を手放す。」
527 :
神も仏も名無しさん :2011/04/29(金) 21:47:19.16 ID:Jday2zC7
>>524 >>525 内側とは意識と真逆の方向としか言えません。
言葉の適用できない所のような気がするのです。
ただそこに向けることができるだけです。
方向も形も大きさも色も無いところです。
どこまで広いのかさえわかりません。
ただ、そこに漂うことができるだけです。
あらゆるものがそこにある・・・なんにもない空っぽです。
表現できません。申し訳なく思いますが、表現できないんです。
でもそれが真我ではありません。
深遠のはじまりとしか表現できません。
自分の姿は鏡を見て知ったよね でももし鏡に自分じゃないものが映ってたら、そrを「自分じゃないものが映ってる」って思う よね でもそれっておかしいよね いつでも鏡に映ったものを自分だと思わないのはおかしいよね 他人からお前はおもしろいとかかわってるとか○○だと言われるよね ○○をその通りとか違うとか思うよね でもなんで同じように他人が言った言葉をその通りとか違うとか別の反応するんだろうね 他人が自分を○○と判断してそう言ったのは毎回同じだよね なのにどうして自分は別の反応をするんだろうね 自分の名前を呼ばれても違和感がないよね だのに間違った名前で呼ばれると違和感があるよね でも名前なんて元々なくって後から付けられたものだよね じゃあ自分の名前を呼ばれても違和感があってもいいよね 自分の名前が違和感ないなら間違った名前で呼ばれても違和感がなくてもいいよね 自分の中にいろんなわたしがいるよね それらがたぶんごっちゃになってるよね それらをひとつひとつ明確にするのが自分を知るということだよね 思いや判断はどこから生じてるのかってことだよね それらがわかったとき、わたしは誰かってことだよね
>>527 お答えありがとうございました。
以前、やはり同じ質問をぶつけた知り合いも同じように言ってました。
「意識の矢印がこうあったら、それを反対の方向、根元の方に向けるんだ」と。
しかし意識の方向というのがわかりませんでした。
あなたの言う一つの目=意識の空間ですよね?
この空間を収縮するということですか?
追記 私は結局、(普通の意味での)意識を特定の対象に向けるのをやめ、 その一つの目でいることをずっとやってました。 それでも至福は至福でしたが、その至福とも違うのでしょうか?
531 :
神も仏も名無しさん :2011/04/30(土) 05:40:44.17 ID:1dIo77lW
>>529 一つの目=意識の空間・・とは違うようです。
それは、人がなにかを考察しているとき、あっ!・・とわかる事ができる
その「わかる能力が働くそこ」だとしかいえません。
意識がわかろうとするとき、それを発揮するコアみたいなものです。
それが在る感覚をだれもが持っているはずです。
532 :
神も仏も名無しさん :2011/04/30(土) 06:38:18.80 ID:1dIo77lW
>また意識を特定の対象に向けるのをやめて・・ は、正しいと思います。 なんであれ、何かをどうにかしようとするのは執着です。 >それでも至福は至福でしたが・・ は、おそらくそれと同じもののような気がするのですが、 わたしはわたしのそれ以外を窺い知るすべを知りません。 あなたが得られた至福をどうか保たれますように。 そして、今も、ビッグバンのときも、その前のゴマつぶのときも そこに在った事を知る事ができますように。 わたしは真我にほど遠い。 ここにあって それなのだろうけど。
宗教は難しいよ アインシュタインもオバマも真理は何なのかなんて わからないから神を信仰してるし イエスや釈迦でさえ身内を説得するのは不可能だったし 一気に悟ろうとせずに一生ものの課題くらいに思ったほうが いいよ ガンジス川河口の修行者ですら一回の生でどれだけのことが わかろうか?人は何回も何回も生まれ変わると言ってたくらいだ
>>531 >一つの目=意識の空間・・とは違うようです。
そう思います。あれから久しぶりに瞑想をしてみて、違ってました。
起きていて視覚がある状態で、特定のところに意識を置かない、という
ことをやってみて書き込んだので、視覚により創出された空間と早とちりしました。
なんにしろ、物理的な2つの目に対して、1つである意識、気づきのことと思いますが。
>は、おそらくそれと同じもののような気がするのですが、
>わたしはわたしのそれ以外を窺い知るすべを知りません。
精神的なことになると現物を比べることができず、言葉によって窺い知るだけですからね。
計らいのない状態、心(意識?)のまっさらな状態以上の状態はないですから、
同じはずと私も思います。
それ以外は現れては消えます。
>わたしは真我にほど遠い。ここにあって それなのだろうけど。
その観念のなくなる日が来るといいですね。
本当にこんなものから自由になって子供のようになりたいものです。
535 :
神も仏も名無しさん :2011/04/30(土) 20:56:15.89 ID:1dIo77lW
しかしながら、わたしの言うことをゆめゆめ信じる事のなきように。 さらにまた、マハラジだろうが、マハルシだろうが、 ゴーピクリシュナだろうが、どこのグルだろうが、どこのバガヴァンだろうが、 理解する前に信じてはいけないのです。 信じたら、そこで探求は絶たれる。 理解できない事を受け入れる事が「信じる」と言われるのです。 信じたらそこで終わるのです。 そういう意味では、信仰が障害です。宗教が障害です。 なにひとつ崇拝することなく、内なる「わたしは在る」に注意を向け、 わかったなら彼らの言うことを素直に賞賛するべきでしょう。
536 :
神も仏も名無しさん :2011/04/30(土) 22:03:34.04 ID:qq4JNYYZ
師(神)のことをひたすら信じ、悟りに達するタイプもいるでしょう。 マハルシのように、分からないことを置いておいて、否定しがたい「私」を 探求するように勧めてくれる方は、ありがたいですね。懐疑的なタイプも受け いれる懐の深さがあります。
自分がわかるときにわかるだけだよね。 信じるなら、そのへんのおばさんも街の噂も落書きも全部信じる。 信じないなら何も信じない。自分もこの世も信じない。 ある特定のものを信じてある特定のものを信じないなんておかしいよね。
>>537 ん?なんかそれは違う気が。
条件一緒じゃないけど、
「食べるなら米でもプラスチックでもヒ素でも食べる。」って言ってるのに近い。
>>538 プラスチックや毒は食べ物じゃないよ
それを食べて生きていけないでしょ
信じるのは、何を信じても生死と関係ないよね
信じないのも、何を信じなくても生死と関係ないよね
心(意識)のことと生死(身体)のことは別だよね
信じたり信じなかったりするのは、心に見合ったものがわからないから 食べ物は身体に見合ったものを選んで食べる ちゃんと心や身体に見合ったものがわかるといいんじゃないかな
だから条件が違うと言っているのに。 食べないと死ぬから、わざわざ「食べないなら食べない」とは言わなかったろ。 もっと、穏便に書けば「食べるなら米でも塩辛でも納豆でも食べない」とおかしいよね? でいいか? 納豆嫌いで納豆食べなくても別にいいだろ。 それぞれの個人が持ってる情報によって、反応が違って何が悪いんだ? ってこと。
身体が納豆を受け付けないならそうだけど、納豆が嫌いで食べたくないってのはおかしい んじゃない? 身体が持ってる情報と心が持ってる情報は別だよね
意味が分からん。お前は食べ物ならなんでも食うの?
納豆は納豆の味がするだけでしょ 好きとか嫌いは心が反応してるだけだよね 体が反応してるわけじゃないよね 食べ物の好みなんて変わるものじゃない? 生まれてから好きなもの嫌いなもの変わらなかった? 変わるものは自分の心がそう見てるだけだよね 身体が拒否してるなら身体がある限りずっと変わらないよね
相変わらず何言ってるか分からんのだが。 食べ物の好みが変わるように、信じるものの好みが変わっていかんのか?
いけないなんていってないよ ちゃんとその仕組みがわかってるならいいんじゃない? 仕組みがわかれば自分で変えることはあっても、勝手に変わることはないと思うけど ラマナが「全ては真我のあらわれ」だと言っても、それに対して、「全て真我のあらわれなら プラスチックを食べてください」とは言わないよね
>>546 お前が「信じるならなんでも信じないとおかしいよね」って最初に言ってるんだが。
ラマナが「全ては真我のあらわれ」だと言っても、それに対して、「全て真我のあらわれなら
すべての情報を信じてください」とは言わないだろ
「信じるならなんでも信じないとおかしいよね」ってのは自由に信じたり信じなかったりでき るでしょという例えだよ 「全て真我のあらわれと信じるならすべての情報を信じてください」ってこと 「全て真我のあらわれと信じないならすべて信じない」ってこと 信じるとか信じないとかいうことに捉われないようにってことなんだけどね
ちょっと、お前を理解するために試す。 >信じるのは、何を信じても生死と関係ないよね アメリカの宗教団体が集団自殺している。詳細忘れたがUFOに迎えてもらうために 肉体を捨てたとかだったかな?とにかく、信じることと生死が関係している。 この事実に対して、「あ、あの意見は間違っていた」と言える?
信じたから死んだのではなく、信じて自殺行為をしたから死んだんでしょ 信じた瞬間に死んだわけではないよね 行為で死んだんだよね もっと言うならどうやって死んだのかわからないけど、窒息とか毒とかそういうので死んだ んだよね 信じたことと死んだことは一見直接関係してるようで別々のことじゃないかな 間接的には関係してるけどね
信じて→自殺行為をしたからと、原因と結果の関係になっていると思うが。 これでも直接的でないのか?
そういう原因と結果でいうなら、自殺の原因は今までの全てとも言えちゃうでしょ 今までの何かひとつなければUFOを信じることに繋がらないかもしれない 今までのどれひとつとっても遠まわしに自殺の原因と言えるよね 物理的な原因と結果と、心の原因と結果は別じゃないかな? いままで言ってた、身体のことと心のことは別ってのと同じでね
今までのすべてなら「信じる」「信じない」どちらも生死に関わる。 「信じるのは、何を信じても生死と関係ないよね」は間違っている。 なんにせよ、「あ、そっちのほうが正しいね」って言えないマインドと分かったのでやめる。 時間の無駄だ。
ただ、「あ、そっちのほうが正しいね」って書いてもだめだよ。
どっちかが正しいならどっちも正しいよ どっちかが間違ってるならどっちも間違ってるよ どっちかが正しくも間違ってもいないなら、どっちも正しくも間違ってもいないよね 話してくれてありがとね
556 :
神も仏も名無しさん :2011/05/01(日) 06:59:53.06 ID:0pex4+VU
555さんの言ってることは、洞察されるべき価値があると思いまよ。 でも誰もいきなりは、わかりません。 誰にも受け入れられがたい、価値です。 ある日、なるほど とわかるかも知れない価値です。
557 :
神も仏も名無しさん :2011/05/01(日) 08:25:18.75 ID:0pex4+VU
ヒントは、「自分は何も知らないんだ」という前提に立ってみればいいかも。
まずは思考を落とせと思う 書き込みが思考の迷走に嵌まってる感じするな
不滅の意識読み始めたばかりだけど、グルってACIMでいうとこの聖霊と同義なの? 誰かよろしく。
560 :
神も仏も名無しさん :2011/05/02(月) 19:35:39.40 ID:Rmmdh3dV
Wiki Thayyumanavarの項目から、、、マハルシはよくこの方の詩を引用します。 象を統御すること、トラの尾をつかむこと、蛇をつかみ踊ること、天使に命令 すること、他の身体に転生すること、水の上を歩くこと、海の上に座ることは簡単 である。 しかしより難しいのは、こころを統御し、静かにいることである。
>象を統御すること、トラの尾をつかむこと、蛇をつかみ踊ること、天使に命令 >すること、他の身体に転生すること、水の上を歩くこと、海の上に座ることは簡単 >である。 簡単って・・・ マハルシはこれらの事が本当に出来たの? 特にトラの尾をつかむこと、海の上に座ること
トラは何匹も放し飼いで飼ってる寺院もあるくらいだしな もちろん野生とはまた別だろうけど っていうか、例えだろう 例えっていうか、そういう他人(ラマナ)の言葉に対しても静かであれっていう 自分の外側のことに、自分の内側に、静かでいること
マハルシなら出来たのでないの? 私が居たから不幸が起こらないと言っても 不幸なパラレルワールドが無いから比べようがないし 事実マハルシの周りでは野生動物が滅茶人間に懐いていたらしいよ それが聖者のパワーなんだな
実際聖者のパワーは凄いと信じてるけどね 釈迦が座ってたらコブラが日除けに背後に現れたと伝説ある くらい 災害も何もないのは聖者のパワーだと信じられてるくらい インドでは尊敬されてるよ
>災害も何もないのは聖者のパワーだと信じられてるくらい インド独立時100万人近い死者と数千万人の難民を出したけどラマナは何してたの?
ラマナは子供に石投げられてるのにね
クリシュナムルティは虎をまったく恐れなかったらしいね。
俺でさえライオンに触ったり戯れたりしたことあるよ 他の人に噛み付こうとして飼い主にタコ殴りにされていた 俺が聖者なら信者が喜んでその話を言い触らしただろうし、尾ひれもついただろう あの国の人達のバイアスのかかり具合を知ってたら真に受けられないよ
ちなみにコブラ使いのコブラにも触ったことがあるな その話を友人にしたら「馬鹿、コブラ使いは小さいうちから毒に慣らしてくんだ。 普通の人が噛まれたら死ぬぞ。」(真偽不明)と言われて、なるほど知らないとい うのは最強だなと思った。
もちろん無病息災なのは聖者の住んでいる村限定だよ 口頭伝達の人の噂なんだから広がる範囲も限られてるし とんでもない山奥とかそんなもんだよ
聖者にそれなりの力があるとは思うけど、そんなの確かめようがないし、それがわかるのは 自分の境地がより聖者に近くなることでだけ 聖者が実際どうなのかを気にするのは単なる聖者依存、神聖な何かへの憧れにすぎない よね
>>571 日本でも田舎の集落とか犯罪もなければ災害もないのが普通だけどな
>実際聖者のパワーは凄いと信じてるけどね
ってレベルなんだから自分の経験から話せよ
勝手な妄想話すな
それでなくても作り話大好きな業界なんだし
てめえの支えにするのは構わんが 他の奴らまで巻き込むな 聖者の村限定ならどこの村で確認したか書け アマチって聖者のアシュラムの近くは津波でやられてる
日本みたいな人口密集した狭い地域と同じにされたら困る インドはトラが出ても宗教理由で狩りせず 人が住んでない地域なんぞゴロゴロあるし電気がきてないとこもある 聖域のガンジス上流なんかも修行者以外住んでない
大体インド人は万事そんな価値感だよ 良いことが無かったら祈りが足らなかったのだとかな 文化の違いがわからない奴だな
>>576 576=572でいいのかな?それだと話が通らない気もするが。
まあ、日本にも人が住んでない場所もあれば電気来てないところもあるんだけどな
人口密度は公式には日本の方が上だし。
実際はインドのほうが上だろうが、まあ似たようなもんってことだ。
文化の違いなんてのは分かってる。
その文化の違いが大きいから実際のところはどうなんだって話をしてる。
>無病息災なのは聖者の住んでいる村限定だよ
ってのは文化、習慣、認識の違うインド人が言ってることなのか
それとも自分で確かめたことなのか?って聞いてるんだよ。
君具体的な話なんもせんでしょ。
ちょっと勘違いした。訂正。 「人口密度は公式には日本のほうが上だが、実際はインドのほうが上だろうね。 インドのほうが過密もしくは日本と同じくらい。」
聖者がすごくてもすごくなくても、どっちでもいいじゃないか 自分がどうか、どうであるか、それだけ
精神世界の法螺話に翻弄された口なのでなるべく迷信の拡散は防ぎたい。 〜だと言われている 〜だと信じられている を省いただけでもおかしなことになるから。
でも実際にどうだかなんて確かめようがないんだから、全て迷信と思ってればいい 全て迷信というか、なにかを事実とか迷信とか判断できないよね 判断できるとか、判断したいという自我の働きを捨てることがいいと思うけど それは自分が見たことですらどうかなんてわからない 幻覚や錯覚かもしれないんだから 判断を全て捨てたところに、事実とか迷信とか2元でないものがあるかもしれない
そんなことどうなのか言い切れたら そもそも信仰とは言わないよ 自分以外の他者や何かに頼ってるから信仰なんだよ そこまで白黒付けたいなら 自分で悟って聖者になればいいじゃないか
ラメッシ 「悟ったからといって、人生が楽になるとは限らない。」 ニサルガダッタ 「悟ったら、日常生活において不利になるだけ。 自分の身を守ろうとしなくなるから。」 聖者にへんな幻想持ってる子は 目を覚ましなさい。
裸でとか他にも多くサッドゥはいるのに ただ座ってたラマナの何がここまで有名にしたのだろうな? やっぱ貫禄というかオーラが漂ってたのかも知れないな 考えてみたら自分で悟ってるとか自己アピール無しに ここまで有名になってるのが只者で無い
聖地でずっと座ってりゃ有名になるよ 子供に石投げられてるくらいでオーラなんてない デイドリームはそのへんにして目覚めたらどうだろう
聖地でずっと座ってたら有名になる?? そんな考えの方がよっぽどデイドリームだと思うが
まあ本物でもインチキでも有名になるのは有名になる。 有名にならないのは有名にならない。終わり。
589 :
神も仏も名無しさん :2011/05/07(土) 08:19:00.16 ID:PZYcVYN/
『Day by Day with Bhagavan』 p197 Question 3: There are a number of spiritual teachers, teaching various paths. Whom should one take for one’s Guru? Bhagavan: Choose that one where you find you get shanti or peace. 質問: 数多くの聖なる師がいて、様々な道を教えています。誰をグルとして選べばいいでしょうか。 バガヴァン: あなたが(その人のもとで)シャンティ、すなわち安心(平安)を得ると分かる人を選びなさい。
>>587 なるよww
ずっと座ってれば勝手に弟子とか出来てくる
ただ、そのずっと座ってるってことが普通できない
そういう意味じゃ只者ではない
でも、オーラだの威厳だのは妄想だね
591 :
神も仏も名無しさん :2011/05/08(日) 16:26:08.63 ID:C6yu8niC
『Maharshi Gospel』 P34 質問: 私の悟りは他者の助けになるでしょうか? バガヴァン: ええ、しかもそれは、あなたが他者になしうる助けの中で最高のものです。 偉大な真理を発見した人々は、真我という静かな深みの内でそのようにしました。 しかし、実際は、助けられるべき「他者」はいません。というのも、悟りをひら いた存在は、真我(自ら)しか見ません。それはちょうど金細工師が、金で出来た 様々な宝飾品の中の金の価値をはかるとき、金しか見ないようなものです。 あなたが、自身を肉体と同一視すると、名称と形態がそこにあります。しかし、 あなたが肉体としての意識を超越すると、「他者」も消えます。悟った人は世界を 彼自身(原文は大文字)と異なるものとしてみません。 質問: 聖者が他者と交われば、より良いのではありませんか。 バガヴァン: 交わるべき「他者」はいません。真我が唯一の真実です。
592 :
神も仏も名無しさん :2011/05/08(日) 16:41:58.94 ID:C6yu8niC
質問: 私は苦しんでいる世界を助けようとすべきではないのでしょうか。 バガヴァン: あなたを創造した力が世界も同じくを創造しました。その力があなたの 面倒をみれるならば、それが同じように、世界の面倒もみれるでしょう。 もし神が世界をつくったならば、その世話をするのは彼の仕事で、あなた の(仕事)ではありません。
593 :
神も仏も名無しさん :2011/05/08(日) 17:00:54.07 ID:C6yu8niC
質問: 愛国者(憂国の士)になることが我々に義務ではありませんか。 バガヴァン: あなたの義務は「在ること(to be)」であり、あれやこれやであること (to be this or that)ではありません。「私は、私は在る、である(I AM THAT I AM)」が全ての真理を集約しています。方法は「静かでいる( be still)」に要約されます。 では、静けさ(stillness)とは何を意味しているのでしょう。それは「 自分自身を破壊せよ」を意味します。なぜなら、すべての名称と形態が 問題の原因だからです。「私−私」が真我です。「私はこれである」が エゴです。「私」が「私」のみとして保たれているならば、それは真我 です。それが脇道にそれ、「私はあれやこれで、なにがしである」という と、それはエゴです。
594 :
神も仏も名無しさん :2011/05/08(日) 17:12:38.28 ID:C6yu8niC
質問: では神とはなんですか。 バガヴァン: 真我が神です。「私は在る(I AM)」が神です。もし神が真我と離れている ならば、彼は真我(自ら)のない神になり、馬鹿げています。 必要とされることすべては、静かにいることです。なにがこれより簡単に なりえるでしょうか。それゆえ、アートマ・ヴィドヤ(真我という知恵)は 最も得やすいのです。
やっぱ悟るのが面倒で無くていいな 肉体があるからあれやこれや面倒臭いからな ラーマクリシュナも器用に人生を生きてる人を見て 悟ればいいのに悟りを知らないから 上手に生きる、私はもはや人生のゲームを楽しめないと 言ってたもんな、悟るのが一番楽なんだな
要するに色々と面倒臭いと感じないのか? 悟るのが一番完全で楽では無いか?と言いたいんだな まったくそのとおりだな
問題は悟りを得る(真我を実現する)ためには 相応の体力と財力が必要となることです。 真我を実現するためには生命力が必要であり、 そのために気功やハタ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガをするしかありません。 あと俗世間で人並みの生活をするためには金を稼ぐ他ないことも事実です。 あとはラマナの真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)のように 仕事が修行となるようにするのが肝要です。
>596 お前アスペなのか? アスペは謝ることができないらしい これで宗教板にいる他人の指摘に変な言い逃れする奴が理解できた
悟れば他人がアスぺとか気にする必要も無いし 無理に理解する努力も必要ないよ 万事が脱ぎ捨てた服だよ 捨てた服の破れなんか気にしても仕方ない
世に居るように見えるが 実は世に居ない だから悟りなんだな
悟る気なんてこれっぽっちもない
人がアスペだと気にしてるのを気にする必要もないよね 同じ気にしてるのに自分が上だと思ってんだって アスペは 客観的に見れないんだって
まあ、頑張ってください あなたのような自我を滅ぼすためにこの教えはありますから 自我のない私らは同じですしね
悟る気なんてこれっぽっちも無くても 生物の進化が偉大な精神を手に入れるための神の壮大な計画なんですね。 そしてその偉大な精神こそが悟ることなんですね。 これは逆らっても仕方が無い大きな流れなんですね。 自然の雄大さとかそのレベルの流れなんですね。 諦めて悟りましょうね
悟るのは最高 その境地を知ってる者なら誰でも悟りを勧めるだろうな 当然な話だな
悟った人は死後どうなるか? 悟ればわかる、生死の無い境地が悟り 悟ればそんな迷いも無いから幸せだ
いくら金持ちでも死んだ後にはお金は使えないが 悟りは死後も有効、と言うか悟った時点で生死も無くなる
悟る以外に救いの確信なんか無いよ 何か真理を求めて宗教に答えを求めても 確信にまで至るのは真我以外にない。 それほどに有り難い境地なんだよ だからホッするよ、ラマナマハルシの言葉は そうじゃないとおかしいくらいに真我を勧めてる。
イエスキリストもヨハネ福音書で わたしには身体なんか無いのだって散々に言ってたのに 人間なら自己視点で物事を見るから受肉とか浅はかに想像するが 霊でさえ身体が無いのに、至高の悟りの境地である真我に 身体なんかあるわけがないのにな。
個我を認識してる間は悟ってないのはある。まあ遠い旅だよ
旅なんかどこにもないのだよ。
まず真我が何かを知りなさい 話はそれからだよ。
あまりにもあたりまえすぎて拍子抜けするよね。 インド人、大げさに語りすぎ。
ニューエイジ系のキーワード、Nowhere いまここ って、元ネタは道元なの?
「かなしいとき〜!」「かなしいとき〜!」
>>615 Be here now. だろ。
べつに道元持ち出さなくても、アドヴァイタやタントラの教典に
似たような概念がよく出てくるんじゃないの?
ラムダスで世界的に広まった。 ヒッピームーブメントが流行ってかもめのジョナサンが読まれていたころ。 禅でも原始仏教でもアドヴァイタでも同じことは言っている。 一番解りやすいのはエックハルト・トールかな。
自分自身に埋没していくこと 素晴らしい何かを知って、習いたどって行くこと 自分以外への態度、関わり方 自身の思う事と、現実に見える動きに、できるだけ単純に自分なりの言い訳があること 時折、住所や名前なく、自分がなぜそこに暮らしているかを、丁寧に自分に説明すること
620 :
神も仏も名無しさん :2011/05/15(日) 15:44:53.78 ID:4Avq4xW1
ニサルガダッタでもマハルシでもいい。同じことだ。 だが信じて掴もうとしてはいけない。 疑わずやることだ。 「疑わない」と「信じる」は違う。 信じるからマーヤにしてやられるのだ。 ただ「それに気づく」だけなのだから、それに溶け込め。 在るのだから。
621 :
神も仏も名無しさん :2011/05/15(日) 18:04:01.40 ID:MTbYgkY+
『Talks with Sri Ramana Maharshi』 p423 October 15,1938 質問: アートマ・ヴィドヤはどうしてもっとも得やすいものだといわれるのですか。 答え: 他のどのヴィドヤも、知る人・知識・知られる対象を必要としますが、これは それらをどれも必要としません。それは真我です。何がそれと同じぐらい明ら かになりえるでしょうか。それゆえ、それはもっとも簡単です。あなたがすべき ことすべては、「私は誰か」と探求することです。人の真実の名前はムクティ (解放)です。
いつもありがとうございます。
悟るのは凄いよ 自分が魚で瓶の中に隠れてるのを 人間に持ち上げられてチラ見されるのと同じ だからラマナも釈迦もヨハネ福音のイエスも しきりに何かとんでもない境地に辿り着くのを 何回も勧めているから それ以外に救いの確信なんか無いっての もう少し悟ろう人類、悟り知らない人が多すぎ、くだらない
悟ったらどうなる?悟ったらわかる 悟りを知らないからぬかに釘みたいな現状なんだろうな 悟りとはこれのことを言ってたのか?とんでもないことだぞ そのリアクションが悟りを知ってるってことだ それが何なのか悟ればわかる
この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。 踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。 行けばわかるさ。 アントニオ談
元気が一番、元気があれば何でもできる。元気があれば悟りもできる。 偽アントニオ談
悟りって本当に変なのが何か言ってるで終わりなんだよな 何が悪いのだろうかな? 意味がわかって貰えたらそんな凄いこと言ってたの? になるはずなのだが、このぬかに釘みたいな状況が変わるには これから何千何万年も人類の進化にかかるな
道理が理解出来たら変なことはやってないのだが 第三者から見たら変に見えるってことなのだろうな そんなのは生きてたら多いよね
コウモリの超音波で飛び回るのも 鳥から見たら変な奴等だろ? 道理のわかる人間から見たらどうだ 少しもおかしなことはやってないだろ 変な奴が変なことを言ってるだけだとか 決め付けはよくないぞ
何のために人間は生きてるんだ?何時かは悟るために生きてるんだろ? それをいくらなんでも変な奴が変なことを言ってるでお終いはないだろ
個我を認識している間は悟っていない 死んだ後も失われた肉体を個我は求めて探すから生まれ変わるらしいが 悟りを開けば個我なんか無いから生まれ変わる主体がない ようするに自分が自分で無くなるということだな
>>625 それ言ったのは一休さんね。猪木は一休和尚の言葉を引用しているだけ。
「迷わずいけよ」と言っても、俺にも迷う時もある。 アントニオ談
シュートを超えたものがプロレス ジャイアント談
>>634 涅槃でも兄貴と呼ばせてくれ。
ラッシャー談
悟ったときの至福は表現できないくらいだぞ 自分は身体として個我の中で一生を終えるかどうか 救いの確信は悟りにしか無いのだが、 言ってもぬかに釘な現状なんだよな 多くの人は悟りを知らないのだと思う カラスは知らないから高圧電線にも平気でとまるが そんな人生を送っちゃいけないなとは感じる
変な質問なんだけど、「私は誰か」ってことを意識した時に、 「あくび」が出ることありませんか? なんか、プンジャジの言う、「外的対象ではなく、それを投影するスクリーン(真我)」 に意識を戻した時に、フッとあくびが出る。 これが、「EFT」や「セドナメソッド」をやった時と同じ感覚なんですわ。 「思考との同一化」から逃れた時にこういう現象が起こるのは あんまり聴かないですが、、、。
悟らないと変な人で終わるのが否定できないから辛いな ラマナも自分の身体を探し求めてフラフラと家出したらしい 自分は身体として個我を認識できる間は悟ってないからな
640 :
神も仏も名無しさん :2011/05/19(木) 18:24:10.38 ID:j7n2g2y1
君は一体何を言ってるのかね
ははは
赤ん坊の頃を想像して見たらいい 狼に育てられた人間も居るらしいぞ 自分を狼と勘違いして人間社会で最後まで馴染めなかったらしい 私が身体であるというのも同じく幻想なんだよ 悟ったら身体が無い感覚が当たり前になる 何を言ってるのかわからない間は この世の罪に裁かれることになるな
もう少し悟ったらそういうのもどうでもよくなるよ
悟った人も多少は何かを残したい そんなのはあると思うけどね、それじゃ必ず失敗する みたいなの どうでもいいにもほどがある、人類はそのレベルなんだろう
どうでもいいなら教祖や宗教なんか存在しないよ どうでもいいけどあまりに酷い人類はそのレベルなんでしょ
彼らはいつまで引き篭っているつもりなんだ?
引き籠もっても悟ればいいんだよ 歩くだけでも虫を殺すからな 国家予算かけても死んだ虫は生き返らない 悟ったら要らない罪は犯さないんだよ
彼らはいつまで言い訳するつもりなんだ?
悟ったら身体が無い感覚が当たり前になる 私は身体であるといった価値観が前提にあるから 根本で意見が食い違う 私は身体って感覚が実は壮大な思い込みなんだよ
なんでそんなに必死なんだ? 誰かにじゃなく自分に言い聞かせているのかい?
引きこもりを理解しない家族を説得して家に置いてもらおうとしてるんだ
同情してるんだよ こんなスレを見てるんだから多少なりにも 宗教に興味ありながら悟りを知らずに終わる人生に 一生個我の中でいきるんだぞ?人間に生まれながらだ それでは動物と変わらんだろ いや、罪を犯さないだけ動物のほうがマシだな
悟りを知らない者は本当に哀れだよ 釈迦も繰り返し仏典にその有様を説いている
スレを見てるひとは悟ってないはずだと想像してるのか 悟っているものと悟ってないものを誰がどこで分けているんだろうね
本当にくだらない 悟りを知らない者が多すぎる どれだけぬかに釘なんだ 何回同じところをループすれば気がすむのだろうか? やれやれ溜め息しか出ないな
くだらないなんて素晴らしいことだね 悟りを知らないなんて素晴らしいことだね ぬかに釘もループもも溜め息も全て等しく素晴らしいことだね どれも真我のあらわれでしかないね もちろんそれらがわかり無明から抜け出すことも同じように尊く素晴らしいことだね あるがままに
私は悟りを知っているwww
何で俺がスレ住人は悟りを知らないと判断することが可能か 少しの会話で見抜けるんだよ それは悟りを知ってる者にしかわからないよ
悟りは素晴らしい でもそれを語っても誰も理解しない、くだらん奴らばかりだ ぬかに釘、ぬかに釘…… それ以外に言いたいことは無いのか ループしてんのはお前の方じゃん やれやれと言いたいのはこっちだ
だけどそれが理解できないと同じところばかりループする ようになるよ ガクっと元の場所に戻るという、根本的にわかってないんだよ 宗教に関心もあるから残念だなーって、 もう少しがなーって感じだ、ハッキリ言ってだいぶ色々と駄目だよ
自分と同じくらいか、それ以前までしか悟れてない他人をみて、どの程度悟ってるかはだい たいわかるよね でも自分以上悟った人を見てどの程度悟ってるのかはわからない その行為が自分が知らない範囲のことだから当然だね 悟ってたり知ってるのに無知や無明のふりしてるひとも多いしね もし自分が相手より悟ってるなら、その状態をうまくそこにあらわすのはいいことだね 自分が悟りそのものであるなら、相手も自然と導かれるだろうね
ループや元の場所に戻っても、そこもまた悟りそのものでることに目覚めればいいんじゃな いかな 悟りはどこか切り離してあるものじゃなく、悟りでないものも悟りだよね それがわかってない相手には、それに気づけるように、自分が悟りそのものであるのがいい かもね
悟りってのは自分が自分で無くなることだよ 寝てるときと起きてるとき以上に違う だからね、根本的に話が噛み合ってないんだよ 考えて理解してほしいとかの話をしていないわけ だから悟れ、何時も真我にありなさいって話になるわけで ずっとその話をしているのだが
じゃあそれをうまく伝えられるといいね 自分も自分でないし、相手も相手じゃないね そのとき誰が誰に何を伝えるのだろう 真我であるということはどういうことなのだろう どちらにせよ噛みあってなくてもそれもまた真我でしかないからね 真我を垣間見るのと真我そのものであるのはまた違うしね
悟りました どうもありがとう
禅寺でも行って来いよ 「そうか、お前は体じゃないのか」とボコボコにしてくれるから
失恋した。苦しすぎる。 人生もうまく行ってないので、 まじ自殺してもいいんだが失敗が怖いのと親に悪い。 悟りが苦しみの終わりなら本当に悟りたい。 どっかの本に悟りとは生きながらにして死ぬことだって書いてあったけど、 死ぬ準備はできている。 でも、真我の感覚がまったく掴めない… 苦しみだけが襲ってくる。
その自我をなくそう。
悟らないと動物とそこまで変わらないよ 表面上は宗教に属していても その中身は悟ると悟らないではまるで別物 だからここまで来たら悟る努力したほうがいいよ ラマナや釈迦の仏典を読んでごらん 悟れ、悟れ、悟りなさいばかり連呼してるから 過程はどうでもいい、とにかく悟れっていうこと 誰のためでもない自分のためにとにかく悟れ
そのような言葉も その魅力とりつかれてしまった者には意味ないし 理解して、なる程なと、他人との会話に楽しむ人にも、同様に意味無いし 自分の現状のありようが、今までの結果だ 素晴らしい考え方や宗教などとは照らさずに、今この現状で自分が何を必要とし大事にしどうしたいかを、明確にする事は大事だ
ちょっと悟ったら悟りを持っちゃう人がいるね。 悟りを持ったら悟りも手放さないと。 空も空。悟りも無。 悟りを持っちゃったら悟りじゃないね。
恐怖を無くすにはどうしたら良いのでしょうか? 放射能への恐怖で発狂しそうです。
放射能の無いところへ行けばいいでしょう。
674 :
672 :2011/05/21(土) 04:10:59.66 ID:EyTOWVK+
恐怖を無くそうとするより、とりあえずなぜ恐怖が起こるか調べてみたらどうだろう。 放射能がなくても人はいつか死ぬ。 せいぜい数十年あとには死ぬ。 ひょっとしたら何かの原因で運悪く数時間後に死ぬかもしれない。 それでも放射能には特に怖れ、それらにはそれほど怖れない。 この程度の放射能ではなんともないかもしれないのに、この程度の放射能で苦しんだり死 んだりしてしまうほうを想像してしまうのは何故だろう。 その違いはなんだろう。 それは想像しやすいか、想像しにくいかだけの違いではないだろうか。 あるいは自分で想像したいほうを選んでいるのではないか。 想像しやすい恐怖を想像してしまうのは何故だろう。 例えばいま何かに夢中になっていればその間はそんな想像はしないはず。 おいしいものを食べてる間とか、たのしいテレビに笑ってる間とか。 そんなときは恐怖なんて忘れてる。 言ってみればその程度の恐怖なのに、何故かまた恐怖という思いを生じさせてしまう。 その思いを大きくし、恐怖に集中していまう。 その理由、恐怖の思いがどこからどうやって生じるのか、自分を調べてみたらいい。 なぜいい可能性の方でなく、わるい可能性の未来ばかり想像してしまうのか、自分を調べて みたらいいと思うよ。
一生個我の中で彷徨うなら動物とそんなに変わらないよ とにかく悟れ!誰のためでもない己のために
どうやったら悟れるんですか?
>>677 今手元に本がないので適当だけど。
あと、俺自身はまったく悟ってないし、それほど詳しくはない。
マハルシは二つの道があるって言ってて、「明け渡し」と「私とは誰か?」だったけな?
「あるがままに」参照。
ラメッシは方法の一つとして、一日の行動を振り返り、自分の行動が
自由意思によるものではないことを確認してエゴの働きを弱めるとか書いてた。
未だ悟ってない俺が推奨するのはマハラジ。マハルシスレですまんが。
マハラジは真我発見には2段階あると言ってて、
第一段階は私が知覚するものすべてが自分でないことを知ること
第二段階はこの世のすべてが私であることを知ること
としている。
俺はもちろん今は第一段階で、知覚できるもの、すなわち、身体、感情、思考等々
を自分でないとよく確認している。
マハラジによると、知覚者は知覚できないのだから、知覚できるものは、
知覚者ではないということ。
ここらへんはアジズのステイトオブプレゼンスとかと通じる。
感情や思考が自分でないことを確認するだけで大分楽になる。
自分はまだまだ苦しいが。
どれくらい効果があるかが分からないが、
上の放射能の人も恐怖している考え、恐怖心、どちらも知覚可能なんだから、
自分ではないと意識してみることをお勧めする。
>>674 大阪あたるのドヤ街へ住み込みで行けば、たぶんお金なくても放射能の恐怖から
は逃れられると思うよ。
それとも恐怖って、放射能以外のほかのところにあるのかな?だとすれば質問の
設定がおかしいということになる。
680 :
672 :2011/05/21(土) 17:01:07.78 ID:EyTOWVK+
どうやったら悟れるかとか 問われても困るが、頭が良い悪いでは無い ラマナいわく動物でも悟れるらしい ただ真我に個我が被さっているだけらしい 悟るとアナログ放送がスーパーハイビジョンの大画面になる 感じだと想像してもいいかも知れない 自分なんだけど別の何かになってるみたいな感じだね だから悟れ、表現できない至福が待ってるはずだ
真我の上に個我が被さってるは良い表現だと思う やっぱり悟ってるラマナみたいな人は言うことが違うよ
悟り自体はシンプルだと思うよ ただ真我の上に乗っかってるエゴ個我を無くなせばいいだけだから ただ×無限大な感じ、単純なんだけど悟ると無限大だから 粘菌みたいに複雑な動きをして現実に対応するって感じだ
>>683 どうやって悟ったの?
悟ったときなんかきっかけとかあった?
俺の場合は特殊だから参考にならないと思うよ 悟りもチラ見だし、ただの2ちゃんねらーでも悟れるんだみたいな 起爆剤になればいいなとは感じるな
>>685 特殊でも自分のこと、自分の体験を書いたほうが参考になるんじゃないかな
ラマナがどうとか悟りとはどうとかは本読めば書いてあるし
よかったら自分のこと書いてみてよ
687 :
神も仏も名無しさん :2011/05/21(土) 22:48:02.00 ID:WyBW406U
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
>>685 俺も体験談希望
悟れ、とだけ言われてもどうしようもないし、
悟りが至福の境地なのもこのスレ見る人ならみんな分かってる
>>686 ,688
ラマナマハルシの言葉が全て
悟り開くことの重要さを理解しているなら
とにかく悟れとしか言えない
と言うのは生まれつき自分の世界に入るところがあって
やはりカルマだと感じるからなんだよね
じゃあ悟れってただ書き続けるより、ラマナの言葉でも書いたらいいんじゃないかな 英語がわかるなら未訳文を訳してくれるとありがたいね でも、悟れってただ書き続けるのが大切なことだと、あなた自身が思うなら、それもいいかも ね
だめだこりゃ・・・
そういうカルマなんでしょ その外側に出るまでそれが何なのかわからないからね 悟りじゃないものを悟りだと思って外側に出るまで気づかない人は多いみたいだね
言っておくけど悟りを開いた人が何でもかんでも 話してるわけではないよ はっきり言って非常に言葉を選んで話しているようにも感じるんだ だからとにかく悟れとしか言えない 自分を信じて自分で真偽を確かめろってわけだよ
もちろん何か隠し事をしてるとかじゃないよ わかる相手にしか通じない絶妙に言葉を選んで語ってるように かんじるんだな 色々と難しい、悟ると別だが人間社会で生きるというのは
だいたい嘘つきは言動が矛盾するから、2ちゃんねるでも見抜ける。
696 :
神も仏も名無しさん :2011/05/22(日) 13:16:00.81 ID:yOS+XCXr
『Face to Face with Sri Ramana Maharshi』p74 A. Devaraja Mudaliarの思い出から 昔、ヨーロッパからきた女性が講堂で、バガヴァンの対面に座っていました。 足を交差させて床にしゃがむことに慣れていなかったので、足を前に伸ばしていました。 バガヴァンの付添人の一人が、このことをバガヴァンに対して不敬であると思い、彼女に 足を曲げるように頼みました。このかわいそうな女性は、敬意を表すために来たのに、 不敬なことをしてしまったと感じました。私は彼女が無念で泣さんばかりな印象を受けました。 行為でなく、心を読まれるバガヴァンは、女性に悲しみが生じたことを悲しく思いました。 彼は、彼女にもっとも快適に座れるようにすわって何の差し支えもないと話しましたが、 彼女を説得して再び足を伸ばすようにすることはできませんでした。
697 :
神も仏も名無しさん :2011/05/22(日) 13:17:42.57 ID:yOS+XCXr
バガヴァン自身、長いすのうえで足を伸ばしていました。それは膝のリューマチのため 短い間以上は足を組んでいることに痛みが伴うからです。しかしながら、彼は今、 足を組んでまっすぐ座り、説得して再び緩めさせることが一日中できませんでした。 彼は、「もしこれが彼女にとって規則ならば、みなにとって規則です。私も足をのばさない 方がいいでしょう」と言いました。どれだけ我々がバガヴァンに、付添人によってなされた 愚かな行為を気にとめないよう懇願しても、彼は全く説得に応じませんでした。 次の日になってはじめて、我々はいつも通り彼が好むときに足を伸ばさせることに成功しました。
みんな悟ればいいと思う 俺がそのなかで落ちこぼれでも全然いいよ みんなが悟るのが一番面倒でなくていい 自己中に語るならそれが本音だよ 課程とか面倒だから飛ばしていきなり悟ったでいいな それが一番だと思うのだが
699 :
神も仏も名無しさん :2011/05/22(日) 15:39:51.83 ID:yOS+XCXr
『Face to Face with Sri Ramana Maharshi』p297-298 ほぼ病気の初めから仕えていたShankar Rao医師の思い出 バガヴァンに医師として仕えることは、非凡な栄誉で非凡な経験でした。 それは、最高の教育であり、独特な性質の訓練でした。それにより私は、 スリ・マハルシの超人的で神のような人格のみならず、人間的な人格を 生き生きとかいま見ました。
700 :
神も仏も名無しさん :2011/05/22(日) 15:42:36.92 ID:yOS+XCXr
1948年12月に私が初めてアシュラムに来た時、バガヴァンの肘のうえの皮膚の下には、 小さなこぶができていました。それは、1949年の2月に取り除かれました。顕微鏡検査で、 筋肉の悪性腫瘍であると判明しました。傷は回復せず、数日経つと新しい腫瘍が現れました。 腫瘍は放射線療法で少し小さくなりましたが、再び成長し始めました。8月に、マドラスの 外科医に手伝ってもらい、腫瘍は取り除かれました。1949年の12月に、小さなこぶが また手術した腕の真ん中に現れました。1950年2月の中頃から、腫瘍は再び大きくなり 始めました。ホメオパシーとアーユルヴェーダを含むすべての治療は失敗しました。バガヴ ァンの全身状態は次第に悪化し、1950年4月14日に終わりを迎えました。
701 :
神も仏も名無しさん :2011/05/22(日) 15:43:38.99 ID:yOS+XCXr
自分の肉体に対するバガヴァンの態度は完全な無関心なものでした。病気と痛みは 彼の心に何の影響も残しませんでした。もし彼が彼自身に病の治療を受けることを 許可しているならば、彼が苦痛の軽減を求めたというより、彼の信奉者が望んだか らでした。彼の態度は、いつも肉体の病に対する至高の無関心でした。そばにいる 者すべてにとって、しばしば激しく責めさいなむ痛みを、苦しんでいる様子を表情 にあらわさずに、彼が耐える様子は驚くべきことでした。
702 :
神も仏も名無しさん :2011/05/22(日) 15:45:17.21 ID:yOS+XCXr
私の友人のひとりが、ある日の午後スリ・バガヴァンの写真を撮りました。夜に、我々2人が 一緒にいて、私が傷の手当てをしているとき、彼は写真のことに触れ、例として写真撮影の科学 を使いながら、深遠な聖なる講話をしました。彼は、「写真を撮るために、暗闇で銀塩がフィル ムにかぶせられ、カメラの中でフィルムが光にさらされた時、外の光により引き起こされた痕跡 が写ります。もし、フィルムが、カメラに入れられる前に光にさらされると、フィルム上には何 の痕跡も写りません。ジーヴァ(生命)についても同じです。いまだ闇の中にいるときは、漏れい る小さな光により、その上に痕跡をつけることができます。しかし、知恵の光がすでにそれに押し 寄せている時、何の外の対象の痕跡も得られません」と言いました。よく似たやり方で、彼はよく 医療の付添人を深遠な聖なる教育がちりばめられた冗談で楽しませました。
703 :
神も仏も名無しさん :2011/05/22(日) 15:47:06.05 ID:yOS+XCXr
バガヴァンを観察し、彼の日常の会話に耳を傾けることさえ、そばにいる人にとっては教育でした。 宗教や哲学に関する本を読む必要はありませんでした。彼のすべての哲学と世々の哲学はバガヴァン の人生の中にありました。彼の人生が、最高の哲学の現れでした。
真我の実現を望むならまず身体を鍛えましょう。 なぜなら強い生命力があればこそ、その状態ができるからです。 ラマナがハタ・ヨーガについて否定的な言葉をだしたのは、 語っている相手が目の前にいる信奉者だからです。 彼は「自分の前に座る人に限っては、ハタ・ヨーガをする必要は無い」といいました。 サットグルがいれば、ハタヨーガのような生命力を高める手段はいりません。 もしくはアルナーチャラや伊勢、三輪のような場の力が強い場所で瞑想できるなら 一人で結果を出せるかも知れません。 けれども日常的に師と接することの出来ない人には ハタ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガ、気功、その他呼吸法などの 生命力を強化することが必要不可欠です。 また早寝早起きをする、食事を少量として肉・砂糖・アルコールを控える、房事を節することも良いでしょう。 古来より聖者と呼ばれる人は、悟りを開くまでは肉体が強健であったことを考えましょう。
身体は大事だよね 身体に執着せず、執着なくただ大切に扱う 身体を大切にできることはいいこと 身体をきちんと観察できることはいいこと 身体を身体の望むようにしてあげられるのはいいこと
706 :
神も仏も名無しさん :2011/05/23(月) 01:40:05.28 ID:irrCQH1z
悩みの深さによるよ 普通の幸せが手に入らない苦しみなら 体を鍛えることで手に入ったり、自分に自信がついたり、 鍛錬によって無駄なエネルギーが消費され、苦しみも去るだろう それ以上に深い苦しみに対しては体を鍛えてもあまり意味はない むしろしばらくの間、おそらく体が衰えてくるまで苦しみが表面化しないことで 先送りになる
707 :
神も仏も名無しさん :2011/05/23(月) 01:47:18.04 ID:irrCQH1z
ほとんどの人は真我など求めずに体を鍛えればいいレベルなのは同意する 生物である以上体を動かせば、飯もうまけりゃ、世界は綺麗だし、 妄想による不安もなけりゃ、存在してるだけで感謝なのさ ある意味阿呆な自我、こんがりがりすぎた自我だけが真我とか下らないことを言う
鍛えるといううか適切に面倒見るということだろうね 自分と身体を同一視せず そのとき、身体は自分とは関係なく身体自身で健康であろうとしてることがわかる それを正しく理解し、それに無関心であり、それを行う 他人の身体を面倒見るように、自分の身体を適切に面倒見る 身体と無関係でありながら身体とよい関係でいる
ラマナの考えや言っていることは、その言葉以外に、必要で重要な条件が山の様に有るだろうね ラマナの前に居なければ、人によってはまったく役には立たない言葉も有るだろう
710 :
神も仏も名無しさん :2011/05/23(月) 07:20:52.45 ID:DZNQOeAQ
>彼は「自分の前に座る人に限っては、ハタ・ヨーガをする必要は無い」といいました このような言葉に出会ったことがありません。出典はどこでしょうか。 私の知る限り、バガヴァンが真我の探究に、肉体の頑強さを条件にしたことはありません。 逆に、何らかのハンディキャップがあってもあきらめないよう励ましていました。 「あるがままに」にも書かれてあることだと思います。 ハタヨーガは、例として絵を描くためにはスクリーンを整えないといけないと主張し、 絵を真我でスクリーンを肉体と捉えているが、実はスクリーンが真我で絵が肉体である という内容の講話をしていたと思います。 ハタヨーガを否定していないが、自分から勧めることはなかったというのがバガヴァンの 立場だったと思います。
1元論を信じていたが、今日、死にそうな思いをして考え方が変わった。 全ては存在しない。0元論が正しい。
アドヴァイタで真我というのに対して、仏教で無我というようなこと?
バガヴァンの作った詩で 「解放には三つの種類、すなわち形を持つ物、形を持たない物 形を持つ持たないの区別のない物があると言われているとすれば 我々は言う、解放とは形を持つか持たないか、あるいは形を持つ持たない の区別がないのかの議論をする自我(エゴ)の死滅であると」 というのがあるのですが、結局ゼロが正しいとか、いやイチだ あるいは真我だ、無我だとか、それを言うその人の死滅ということで おそらくどんな表現であれそれはただの精神的な概念であって 最終的には意味はないんだろうとおもいます。 人生の大半をこいう議論に費やすのだけは避けたいところです。
それは全くその通りだけど、
>>711 がどういう意味で711のように言ってるのか聞いてみたい
な
それが真理であろうとなかろうと
別に議論したいわけじゃなくてね
心配するな人は必ず死ぬ。
そうだ 食べても死ぬ 食べなくてもまた死ぬ しかし不二一元は死なない
717 :
711 :2011/05/27(金) 13:40:42.86 ID:UJyv0ghB
意識が遠退いたら
自分が信じていた1元論は思い込み、
意識を支えにしている信念がつくり出した幻だとわかった。
死ねば全ては消える、そして
>>715 が言うように必ず死ぬ、
全ては幻、あるのは(あるというのか?)無だけ。という意味。
>>717 最後の1行、それを一元論というのでは?
719 :
神も仏も名無しさん :2011/05/28(土) 14:43:19.97 ID:R2pFm6SX
『Face to Face with Sri Ramana Maharshi』p180 Krishna Bhikshu (Voruganti Krishnayya)の思い出から、、、 Ramakrishna Swamiは、長年バガヴァンにつかえていた人ですが、町の女性を訪問し始めました。 彼女の親戚は彼女の家で彼を捕まえて、彼の手足を縛り、部屋に閉じ込めました。彼は何とか逃 れ、敵に追いかけられて、アシュラムに走ってやってきました。彼がアシュラムの門をくぐると、 彼らは追跡を諦めました。彼は震えながら講堂に入り、「助けて、助けて」叫びながら地面に倒 れこみました。バガヴァンはその男の告白を聞いた後、理解と憐れみをもってこの罪人を見て、 「もうこのように恐れる必要はありません。寝てきなさい」と言いました。
720 :
神も仏も名無しさん :2011/05/28(土) 14:44:16.56 ID:R2pFm6SX
アシュラムの人々は、バガヴァンに、その男がいることがアシュラムの名声を傷つけるだろう という理由で、追い払うように頼みました。バガヴァンはその男を呼び、皆の前で彼に語りま した。「あなたはなかなか悪いことをしましたが、あまりにも愚かでそれを隠すことができま せんでした。他の人はもっと悪いことをしますが、見つからないよう注意します。今、見つか っていない人々が、あなたが見つかったという理由であなたにアシュラムを離れることを望ん でいます。」その人はとどまることが許されました。
721 :
神も仏も名無しさん :2011/05/28(土) 14:45:36.86 ID:R2pFm6SX
バガヴァンの通例の道徳律は、他人の欠点と思われることに目を向ける前に、自分の過ちに注意する ということでした。ある時、社会奉仕などに関心を持った人が、バガヴァンに言いました。「私がし たいことは、物事を正して巡り歩くことです。私はあなたのもとへ、この仕事を行うための力を求め てきました。」バガヴァンは言いました。「あなたは来る人皆にごちそうしようと申し出る乞食のよ うです。はじめにあなた自身を正しくして、それから他人を改善しようと試みなさい。どこかで始め なければならないですが、自分自身のみから始めることができます。」
722 :
神も仏も名無しさん :2011/05/28(土) 19:25:00.70 ID:R2pFm6SX
713に書かれた詩句はReality in Forty Versesの40番目のようですが、 Prof. K. Swaminathanの訳 40. If asked, ‘Which of these three is final liberation: With form, without form, or with-and-without-form?’ I say, Liberation is the extinction of the ego which enquires ‘With form, without form, or with-and-without-form?’ Arthur Osborneの訳 40. If it is said, that Liberation is of three kinds, with form or without form or with and without form, then let me tell you that the extinction of three forms of Liberation is the only true Liberation. 多少違いますね。
私が読んだのは柳田さんの翻訳本ですけど K. Swaminathanの訳に近い感じなんですかね。 それをする(言う)その人を(ある種)消滅させなさい というような表現は他のバガヴァンの本の中でも 読んだ記憶がありますが 結局のところある種の一時的か、永遠なものか わかりませんけど、精神的な消滅の状態をSelf って表現している感じですね。
724 :
神も仏も名無しさん :2011/05/28(土) 20:30:16.79 ID:R2pFm6SX
柳田さんの翻訳は、K. Swaminathanの方を訳したみたいですね。たしかに、こちらの 訳の方が、他のバガヴァンの対話からみてしっくりくるように感じます。 下の方は、3種の解放の消滅が、本当の解放だと言っていますが、あまりそういう表現 を読んだことがありません。
725 :
神も仏も名無しさん :2011/05/31(火) 16:05:04.18 ID:05OrWrt4
どなたか教えてください。 たとえば赤い花と青い花があったとする。 賢者が言うとする。「この花をあるがままみなさい」と。 あるがままとは、どうみればいいのだろう。もとより、目が見るのは 反射された光であり、 低い周波数の赤と高い周波数の青の光をみているだけだ。 物理的レベルでその花を見るには、ミトコンドリアレベル、塩基配列、 あるいはクーロン力や花として形を保持するある種のエネルギーにまで 及ばないといけないのか。 もとよりその花たちは神の愛でできているだろう。 また空より出でて見えてるのであろう。 しかしながら見るためには観察者がいないといけない。 観察者がいなければ、当然世界は無い。 見られる花があるためには、見る観察者がいないといけない。 それとも見るとは感じることなのか。 色のおりなす美しさ、葉脈の驚くような美の構築などは見て取れる。 しかし、それは普通に見ることだ。 「あるがままみる」とは普通に見ることなのか。 また、その花が明らかに生きているというけなげな生命力や、 語りかけてくるような親密ささえ感じることはできる。 それが「あるがままにみる」ことなのだろうか。 どなたか解かる人はいませんか? 「あるがままに」みてみたい。
726 :
神も仏も名無しさん :2011/05/31(火) 16:23:19.30 ID:05OrWrt4
それとも、「あるがままみる」とは観察者の立場なのか? あるがままのあり方で見ることなのだろうか。 肉の目で見る全ては、過去にすぎない。 「いま」の「この瞬間」から過去に去ったそれを記憶が見ている。 「いまこの一瞬」にみることがそれなのか? それを見るのは難しい。 だれでも見ているものは、過去であり、在るのは今だ。 今その花を見るには、どうすればいいだろう。
なにも判断せずに見れば?
スレ違いで申し訳ないのですが、アジズ(アナディ)フーマンスレはもうなくなってしまったのですか?
うん
あるがままに見るとは「私は身体で無い永遠不滅な真我」 であるとする悟りの境地だよ だから目を閉じていても至福の境地にとどまるのが悟りだよ 目、視力を重用視するなら五感が私なのだとするマーヤの中にある
>>729 やはりそうですか・・・残念です。ありがとうございました。
732 :
神も仏も名無しさん :2011/05/31(火) 21:04:52.36 ID:ohRLfZqX
>>「あるがままに」みてみたい。 見る主体である、エゴである、「私」を無くすことが肝要だと思いますが、 その時「見る」ということがあるのでしょうか。 夢から覚めた人は、夢の中にいた自分が「あるがままに見る」ことを考えるでしょうか。
>>730 エゴは真我が作り出したものでしょうか?
>>730 だからそれは私も模索してる最中
真我を知ってる者は夢の中でも夢と気付いてるらしい
夢の中でも夢と気付けるならエゴは無いと言える
いま、 自分がみたいように見 理解したいように理解するでしょう
737 :
神も仏も名無しさん :2011/05/31(火) 21:51:26.16 ID:05OrWrt4
>>730 >>732 それは当然、自我の終焉は真我に気づくことであるだろう。
そのために「あるがままにみなさい」とクリシュナムルティが言う。
もちろん夢から覚めた者は「見る行為」などしないだろう。
それに導かれるために「あるがままにみる」のでしょう。
だれか答え知ってる人いませんか。
私は身体とする確信は強烈だから無理はないよ ラマナのステージまで本の知識だけで簡単に 辿り着けたら誰も苦労はしない
夢から醒めるのに何かしなければならないのはおかしくないか 何事もなかったかのように勝手に醒めてくれないものか 毎晩見る夢は勝手に醒めるのに
夢から覚めた起きたのが本当の現実だと思ってる間は悟ってないのが 不二一元論なんだから仕方ないよ
ラマナ自身は経験した後に、本を読んで色々まなんだわけでしょう? 個人的にはラマナにあって私に無い、一番重要だなと思うものは、ラマナにとってのアルナチャラとして現れたものへの強い憧れや熱情、衝動、行動だとおもったね。 自分との違いを知るには簡単な猿真似して見ると、わかりやすい事だと思うね
742 :
神も仏も名無しさん :2011/06/01(水) 06:24:32.06 ID:F3m3RQ9V
クリシュムナルティは「あるがままに見なさい」というらしい。 バガヴァンは「あるがままに在れ(be as you are)」という。直訳は、「あなたが在るように在れ」ですが。 「あるがままに在る」ことが先で、「あるがままに見ること」が先ではないでしょう。 730さんの言うように「あるがままに在る(真我である)」ことが、「あるがままに見る」ことではないだろうか。
743 :
神も仏も名無しさん :2011/06/01(水) 06:37:14.20 ID:5XhuatlN
>>742 わたしも当初はそう思っていた。
しかしながら、「あるがままに在る」のであれば、もはや「あるがままに見ている」のでしょう。
「あるがままに見る」ことから「あるがままに在る」に導かれるから、
「あるがままに見る」というアプローチを置いてるかと思うのだが。どうだろう?
その「見かた」は、「あるがままに在る」に至る祝福されたトリガーだと思うのだが。
それだから賢者はうるさく「あるがまま」と言うのではないだろうか。
744 :
神も仏も名無しさん :2011/06/01(水) 06:45:59.91 ID:5XhuatlN
結局のところ、花を見て、どう見るかの問題であろうと思われる。 「見かた」の問題。 「花」と「自ら」の「間」はなく、「花」と「自分」との差異が全く無い。 「花を見て花が在る」を認識するのと「わたしが在る」とは、完全に一致する。 ということではないだろうか。 つまりその二つは一つであって、全的に一つであると。 そのときに、「花はわたしである」という、疑いようの無い真実を見るのでしょう。
745 :
神も仏も名無しさん :2011/06/01(水) 07:14:21.39 ID:F3m3RQ9V
人が視覚に執着しているから、あるがままに見よ、と言語上表現するのかも。 盲目の聖者は、あるがままに見れないのだろうか。世界をみることは重要なのか。
746 :
神も仏も名無しさん :2011/06/01(水) 08:49:20.68 ID:K02RN6kg
言語によって分離してるようにみえるだけだから とりあえず言葉なしにいればそれがあるがまま 真我が永遠だのなんだのは自我の言うことだ 727がせっかく1行で終わらせたことをなんで蒸し返してんだよ あーだこーだという理屈が幻なんだよ 下らねえこと考えなきゃ、あるがままもあるがままでないものもなけりゃ 真我も真我でないものもねえだろ
>>746 言語を使わない動物は悟っているのだろうか?
>>746 だよね。
「あるがまま」をめぐっていろいろ考える「自分」が大好きなんだろうな。
でも、判断しないっていう判断を持ってしまってるひとも多いしな
750 :
神も仏も名無しさん :2011/06/01(水) 12:39:16.81 ID:F3m3RQ9V
『Maharshi Gospel』p29の対話が「見る」ことに関連していて、興味深いと思うので 紹介しておきます。 D: Sri Bhagavata outlines a way to find Krishna in the heart by prostrating to all and looking on all as the Lord Himself. Is this the right path leading to Self-realization? Is it not easier thus to adore Bhagavan in whatever meets the ‘mind’, than to seek the supramental through the mental enquiry, Who am I?
751 :
神も仏も名無しさん :2011/06/01(水) 12:40:31.60 ID:F3m3RQ9V
M: Yes, when you see God in all, do you think of God or do you not? You must certainly think of God for seeing God all round you. Keeping God in your mind becomes dhyana and dhyana is the stage before Realization. Realization can only be in and of the Self. It can never be apart from the Self: and dhyana must precede it. Whether you make dhyana on God or on the Self, it is immaterial; for the goal is the same. You cannot, by any means, escape the Self. You want to see God in all, but not in yourself? If all is God, are you not included in that all? Being God yourself, is it a wonder that all is God? This is the method advised in Sri Bhagavata, and elsewhere by others. But even for this practice there must be the seer or thinker. Who is he?
752 :
神も仏も名無しさん :2011/06/01(水) 12:41:07.88 ID:F3m3RQ9V
D: How to see God who is all-pervasive? M: To see God is to be God. There is no ‘all’ apart from God for Him to pervade. He alone is.
ttp://www.sriramanamaharshi.org/downloads/talks_full.zip Talks with Sri Ramana Maharshi 16th April, 1937 Talk 401. より
Mr. Krishnamurti, an Andhra gentleman, asked as follows:-
When we make tapas, on what object must we fix our sight? Our mind is fixed on what we utter.
M.: What is tapas for?
D.: For Self-Realisation.
M.: Quite so. Tapas depends on the competency of the person.
One requires a form to contemplate. But it is not enough.
For can anyone keep looking at an image always?
So the image must be implemented by japa.
Japa helps fixing the mind on the image, in addition to the eyesight.
The result of these efforts is concentration of mind, which ends in the goal.
He becomes what he thinks. Some are satisfied with the name of the image.
Every form must have a name. That name denotes all the qualities of God.
Constant japa puts off all other thoughts and fixes the mind.
That is tapas. One-pointedness is the tapas wanted.
The question what tapas is was asked in order to know what purpose to serve.
It will take the form required for the purpose.
D.: Are not physical austerities also tapas?
M.: May be one form of it. They are due to vairagya (dispassion).
D.: I have seen a man with his arm lifted all his life.
M.: That is vairagya.
D.: Why should one afflict his body for the purpose?
M.: You think it is affliction whereas it is a vow and
for the other man it is an achievement and a pleasure.
Dhyana may be external or internal or both. Japa is more important
than external form. It must be done until it becomes natural.
It starts with effort and is continued until it proceeds of itself.
When natural it is called Realisation. (後略)
754 :
753 :2011/06/02(木) 18:28:26.57 ID:Cm9UsAU4
アーンドラ州の紳士、クリシュナムルティ氏が次のように尋ねた: タパス(苦行?)をするとき、視覚を何に固定すべきでしょうか? 私達の心(マインド)は口からのつぶやきに固定してしまいます。 マ(ラマナ・マハルシの答え):何のためのタパスでしょうか? 問:真我認識のためです。 マ:その通りです。タパスは各人の適性に依存します。 人は熟視する形(物)が必要です。しかしそれだけでは不十分です。 なぜなら、あるイメージをいつも見つめ続けることができるでしょうか? なので、イメージをジャパ(呪文や神名などの暗誦?)で実行(補強)しなければなりません。 ジャパを唱えると、視覚に加えて、心をイメージに固定する助けになります。 これらの努力の結果、心の集中、つまりゴールに至ります。(修行者は何であれ) その人の思うところになります。ある人はイメージの名前で満足します。 どの形態にも名前があるはずです。その名前が神のすべての特質を表しています。 ずっとジャパを唱え続けると、他の全ての雑念が消えて、心が固定します。 これがタパスです。タパスで求められるのは一点集中です。 タパスが何かという質問は、その目的が何のためかを知るための問いなのです。 その目的に応じた形を採用することになるでしょう。 問:身体的修行もタパスではありませんか? マ:おそらくそのひとつの形です。その目的はヴァイラーギャ(無執着)です。 問:生涯ずっと腕をあげたまま、という人を私は見かけました。(…すげー! w) マ:それがヴァイラーギャです。 問:目的のためとはいえ、なぜ彼は体を苦しめなければならないのですか? マ:あなたは苦行と思うかもしれませんが、そうではなく、これは誓願であり 他の人にとってはむしろ祈願成就で喜びなのです。 ディヤーナ(瞑想)は外向けでも内向けでも両方もありえます。ジャパは外見よりも (内面が)重要です。自然になるまで続けなければなりません。 最初は努力して始めますが、続けるとそれ自身で進むようになります。 それが自然体になったときが(真我)認識なのです。
755 :
753 :2011/06/02(木) 18:32:36.91 ID:Cm9UsAU4
バガヴァーン(マハルシまたはマハリシ)とクリシュナムルティが、なんと 直接対話する箇所を見つけた! と喜んだのもつかの間、巻末索引を見ると Krishnamurthi, J...................................41, 239 Krishnamurti, Mr. (Andhra) ................401 という感じで、たまたま同じ名前の別人のようでした。残念 orz それと、タパス、ジャパ、ヴァイラーギャの具体的なことを何も知らないので、 とんでもない誤訳になってるかも…(冷や汗)。 間違ってる所もあると思うので、訂正など突っ込みお願いします。 『視覚』の対象について質問者が聞いたけど、マハルシはむしろ 『心の集中』のほうに話題をもっていった…、という感じなのが興味深い。 あるがままに、というのは「見る」とか「唱える」とかを超えて とにかくマインドを何かに固着させて鎮めて、そこから真我探求に潜るべし っていう、いつものバガヴァーンの教えを繰返しているように感じました。 でもこの質問者の「視覚」へのこだわり方から見て、やっぱり著名な J.クリシュナムルティ本人じゃないのかなぁ…。英語の綴りや出身地も似てるし。 対話録メモには前後の状況説明がないので、出版時に編集者の判断で 索引が別人扱いになってしまった、という気もします。 K(計算では41歳)が単身ふらっとアシュラムを訪れて、受付記録の人に 「バガヴァーン(このとき57歳)とお話がしたいのですが」 「どちらのクリシュナムルティさん?」て訊かれて 「アーンドラ・プラデーシュから来ました」とか答えて 「あ〜はい、アーンドラのクリシュナムルティさんね、では質問どぞ〜」 みたいな感じで‘一般の巡礼者’として、そのまま質問開始… とかないかなぁw
夢の中で夢と気付く知ってるのも「あるがままに見る」だから 別に五感の視力で物事を見ているわけではない。
グル(指導者)嫌いのクリシュナムルティが自分からマハルシに会いに行くことはなさそうに 思う たくさん出てる文献にも会ったという記述はないと思うし 会ってたらおもしろいとは思うけど
>>755 多分U.G.krishnamurtiじゃないかと思う。
アンドラの出身のようだし、ラマナにもジッドゥクリシュナムルティにも
会っている。
うろ覚えだが、滅茶苦茶な人生を送った人だよ。
ネット上にいろいろ資料があるので読むと面白い。
クリシュナムルティさんなんてインドに何万人もいるでしょ。
761 :
753 :2011/06/03(金) 00:32:26.60 ID:QvZN1vri
いろいろレスどうもです。もし二人が直接対話とかしてたら 後世まで話題に残ってそうだし、そんな面白い事態がそうそうあるわけないか…。 ありふれた名前なんですね。
晩年のクリシュナムルティがボンベイ(現ムンバイ)で講話したとき たまたまボンベイにいて、講話に誘われたんだけど、行かなかった。 今となっては返す返すも残念。 行った人の話によると、無邪気によく笑う人で、本から受ける印象とは だいぶ違うとのこと。
763 :
神も仏も名無しさん :2011/06/03(金) 07:28:57.12 ID:WVNK9/0w
今日も朝から晩までガンジス川沿いで祈り捧げたり 腕上げっ放しだったり、氷点下で裸とか ヒマラヤ倒れたり起きたり巡礼してるサッドゥがいるんだろな よくそんな中でラマナマハルシは無言で悟ったアピール無しに ここまで有名になったな
生温くないぞ、不二一元論 ラマナも一円も持たずに家出だからな
虎がウロウロするような洞窟でよく瞑想出来るよな
インドや中東の人たちが今でも宗教的なのはクソ熱い気候もあるだろうな 早く天国で涼みたいっていう
中東の暑さはカラッとしてるから良いよ。 だから長袖着てる。日陰にはいれば涼しい。 日本の夏の蒸し暑さは嫌になるね。
http://plaza.rakuten.co.jp/alex99/diary/200508050000/ 中東の暑さはみなさんの想像以上である。
イラクはまだそれほどでもないと思うのだが、少なくともアラビア半島のUAE(アラブ首長国連邦)やサウジアラビアの暑さと言ったら無い。
ここは昔、白人の墓場と言われたほどの場所だ。
気候は HOT HOTTER HOTTEST の三季節しかない。
温度は60度以上になる。
発表される温度はそれほどでなくても、実際に地上に立ったら、そこの温度は60度を越す。
自動車のボンネットで軽く目玉焼きが出来る。
駐車した車のハンドルを握ることが出来ない。
タクシーにはクーラーが無いことが多かったが、だからといって窓を開けると熱風が入って来るから、窓は閉める。
>>765 ラマナの言ってることや考え方が10代で家から出て、働いて稼いで暮らして行くことなどを、吹っ飛ばしてしまった意思や行動で成り立ってるってことを思うと、せめて自分なりにも同程度な事やって見ろよと、自身に思うね
大乗でも千日行とかあるけど それ以上だと思うからね、不二一元論は 初期仏典のスッタニパータも かなり厳しいこと書いてるけど ラマナマハルシの半生がリアルスッタニパータだし 実は仏教徒以上に本来の仏教徒らしいんだよね
ナチュラルスピリットのStar People誌最新号に無空庵の無空さんのインタビューと顔写真が載っていたが、 いやぁ、正直たまげた。最初どこか見覚えのある顔だな、と思ったんだが、ラマナ・マハリシとそっくりなんだよ。 特に目がね。悟ったふりをしている人は多いが、目をみれば本物かどうかがわかる、目に全てが現れる、 とよく言われるが、確かにあの独特の眼差しと目に宿った光は覚醒者のそれだと確信した。
その顔写真うpしてください
著作権があるしね。それに特定個人の顔だからw 実際に書店で手に取って見てみるか、近くに置いてある書店がないのなら Amazonで購入されたし。
>>776 ググれば写真でてくるよ。サイズ小さいけど。
ちっちゃくて、目がどうとか分からん
目を見てわかった、あの娘俺にほれてる、確信した! レベルの話?
悟りをビジネスにするような人を悟っていると思いたくないなぁ。
ラマナも結局は人からもらった金や食べ物で食ってたしね 「釣り人は魚に餌をやろうとしているのだろうか?違う。釣り人は魚を釣ろうと しているのだ」と喜捨がビジネス(取引)であること分かってたし そこまで分かってて、彼はなぜ喜捨を断らなかったのだろう?
もらうのと要求するのはまたちがうと思う 取引として代金を要求する人でも、経費程度の要求しかしない人もいるし、 けっこうな額を要求する人もいるし、その意味は違うと思う 身体に必要な量は誰でも食べるけど、それ以上過剰に食べるか食べないかの違いがある
785 :
神も仏も名無しさん :2011/06/07(火) 20:51:47.86 ID:ztUxPbC9
受け取る方が、相手のためになったから、受け取っていたんだと思います。
インドでの聖者に対する喜捨はほとんど社会慣習的な要求だけどな 寺に置いてある賽銭箱みたいなもんだ 賽銭は要求の結果なのか、勝手にくれたものなのか それで身を立てていたという意味でラマナはあれが生業(広義のビジネス)だと 思うけどね 狭義のビジネス、金儲けに該当するかどうかの判別はそう簡単ではない。
寺に置いてある賽銭箱と、一時間○○円で会いますってのはまた違うと思うけどな お賽銭なんていくらでもいいし、入れなくてもいいし でも別に批判してるわけじゃないんだ 金の概念なんて人によるし、そこに執着がなければどうでもいいし ただ、金を出す側との関係はいろいろ違うよね 賽銭箱にお金を入れなくても寺に参ることはできるけど、金額の提示してる相手にはその金 額を出さないと会えない いいわるいを抜きにして、会える人間会えない人間を選んでるよね
ラマナに会いに行くための交通費は誰でも出せたわけではないので ハードル的には5,000円と大して変わらん気はする
長文書き込み不可だったので削ったらおかしなことになった 788の前に なるほど 相談に行く側の視点としてはそういう違いがあるな を加えてくれ
交通費かあ 自分の求める事が、自分にとってどんな価値があるのか考えてしまうね。 関東から四国まで歩いて見たことがあるけど、例えば自分が求めることが、自分にとって歩いていく程の価値は無いのだろうか、非常識に無理やりにでも頼んで会おうとする程の事では無いんだろうか、そこまで常識知らずの馬鹿じゃないと言うだけなんだろうか
無理やりにでも頼んで会いたいのが、まだ会ったことない人間なら、その求める気持ちは単 なる妄想と執着だろうな。 常識うんぬん以前に。 そもそも自分の会えない相手に会おうとする気持ちがわからん。 あるがままにじゃなくずいぶんと能動的だね。
そんなこと分かり切ってるけど ラマナ・マハルシなら教祖にしたい! グルに相応しい者を称えるのが我々の任務だから
釈迦やイエス・キリストとか周期的に凄い、凄い 言ってないと偽グルがはびこるからな
もちろん新興宗教を目の敵にしてるわけではない 信じれば信じるだけで救われるとかの嘘が嫌いなんだ あなたの学力では希望の大学が受からない、救われないと ハッキリ言われたほうが自分には合っているだけ
人のために役に立ちたいはもちろん基本だ そのために宗教を信じているのに、 かえって人の迷惑になるとか愚の骨頂だ たとえば公園の飲み水設置だ 飲みたく無いなら飲まなくていい、飲みたい者だけ飲めばいい シャンカラ不二一元論は自分との戦いだ、信仰したい者だけ 信じればいい、人に押しつけたりするものではない ラマナ・マハルシも他人にどころか自らの病気にさえ無関心だったんだ
ラマナ・マハルシは不治の癌に侵されても無関心だったんだ 治らないなら死んでしまうのに その精神性の高さに周りの者は感動して 信仰するのが本来の宗教の役割 イエス・キリストや釈迦の生涯がそうだったように そうじゃないといけないな、押しつけるものではない
チラシの裏にでも書いとけ
仏教も不二一元論も自分との戦いだと言ってるのに それでも気に入らないんだな まあチラシの裏はその通りなのだが 自分の面倒だけ見てたらそれでいいな 他人を巻き込んでゴタゴタするとか馬鹿げてる
悟りに信仰心は障害でしかありません。 原始仏教経典にもそのように書いてあります。 信仰心は依存であり、神やグルに依存している人は ジニャーナで真我を実現することはできません。 グルや神がなんとかしてくれるという姿勢では 箸にも棒にもかからないのです。 またラマナやギータの言うバクティは「起きることは全て源泉(神)が起こしている。 ゆえに個人は無く私という自我も存在しない」という意味です。 そのように体験することによって、自我を止滅させるのがバクティです。 一般的にバクティ・ヨーガと言われる花輪を飾ったり 念仏を唱えているのとは異なります。 あれは心の安定と宗教的ビジネス以外には 何の役にもたちません。
誰に対して言ってるの? みんな? 自分?
801 :
神も仏も名無しさん :2011/06/10(金) 06:01:34.05 ID:zM8Fh1GO
>>799 少なくともバガヴァンはそのような否定的な事は言っていません。物事には段階がある
ということを理解したほうがいいと思います。
ラマナは死ぬのが怖いと言った人に 熟睡も意識を失うのに何故それは恐れないのかと言ったと聞いたけれど、 タナトフォビア(死ぬのが異常に怖い人)スレで 寝るのも怖い、意識失うからと言っていた人がいた。 ラマナだったらこういう人には何て言うだろう?
その人からの質問がどんな事かによるだろうし、まずは、その人がラマナの本の言葉を読んでどう感じるかな。
>>802 熟睡しても元の人生に戻ってくるけど死んだら戻れないだろう
同日の談ではない
805 :
神も仏も名無しさん :2011/06/10(金) 19:03:34.91 ID:Ne4pjjKS
タナトフォビアという括りがあるのを初めて知った もうタナトフォビアではないんだが
凡人でも大半の人は死を受け入れている。 なかには人を助けるために自分の命を投げ出す人さえいる。 そう思うと、ラマナや白隠は、偉いというよりも異常性格者だったのかな とも思えてくる。
タナトフォビアの話が出たせいなのか、比較がずれてないか? お気楽に津波を撮影してた奴が家が水没するに及んで「ちきしょう、マジかよ。 たかし(子供)、逃げるぞ。はやくしろ。」とテンパってた。 大半の人は受け入れてるわけじゃない。
808 :
神も仏も名無しさん :2011/06/11(土) 00:02:48.15 ID:3YS7Mr+z
釈迦も王族の出で世俗を捨て 乞食みたいな生活をしてた 他人の目をいちいち気にしてたら出来ないよ 自己を制する者は世界を制する 自己の管理だけしてたらいいんだよ
他人の痛みは神経繋がってないのだから わかるわけないがない 自己の管理だけしっかりしてたらいい 他人は他人で真我にある
★★★エホバ=ヤハウェ=アラー=高橋信次=エル・ランティ★★★ (釈迦、イエス・キリスト、モーセはエル・ランティの意識の一部) ★★★大天使ミカエル=アポロ=エリヤ=マルティン・ルター=如意輪観音=高橋佳子★★★
672ナイトはどこいったんだ?
>>812 閉鎖したのかな
俺もよく読んでたんだけど
神経が繋がってないのだから 他人の痛みがわかるわけがない 自己を制する者は世界を制するは根拠ある 他人は他人で真我にある、自己の管理さえ出来てればいい 悟ってから自他無く世界と関わればいい
小乗がまず自己の悟りだったが実に正しいと思うな 他人の痛み神経が繋がらない限りわかるわけない
自己のエゴを通して世界見ている限り 他人に独り善がりな正義を押しつけてもろくな結果がない
安心しろ 黙ってられないキチガイを誰も悟ったとは思わないから
イエス・キリストも悟って自身を神だと告白する前は まったくと言っていいほど 聖書にそれまで何してたか書いてないし やっぱり小乗のまず自身の悟りの完成が正しいんだよ 実際に神経が繋がってないから他人の痛みはわからないし 世界ってのはそんな風に出来てるんだよ
イエス・キリストも仏教を知ってた可能性ある ガンダーラ遺跡には西洋と東洋の融合の ブッダ遺跡の中にギリシャ彫刻残ってる
紀元前にはすでに結構東洋と西洋は交流あったらしいよ ローマ帝国は宗教に興味無いから記録に残ってないだけで 聖書の世界なんか狭いエルサレム界隈の話だけだし
誰と戦ってるんだ?
石の彫刻とか残るからな、二千年前の物も 聖書地域とか乾燥地帯だし紙とかすぐ腐る 貴重な資料とか大体石の彫刻だし、死海文書とか存在が奇跡
パピルスも腐るよ、試しに週間紙を野晒しにしてごらん? あっというまにダンゴ虫やダニの餌食 貴重な資料が偶然に見つかる可能性は宝くじと変わらない
現存する最古のものは紀元280年。 ”聖書地域とか乾燥地帯だし紙とかすぐ腐る。”って意味が分からない。
ヨハネ福音書とか最古の資料は最近まで3世紀頃のものと 思われていたらしいよ キリスト教は何億も信者が居るし、偶然に見つかった資料に 炭素年代測定とか、普通はそこまで調査しないよ
対して石の彫刻が発見されてそれまでの常識が覆るとか多いよ
死海文書もナグ・ハマディも公になるまでかなりの期間がかかってるし 偶然に見つかるまでが奇跡
>>828 ご苦労さまでした
一種の異常人格だから相手にしてもしょうがないんだよ
異論はスルーしてそれ以外の言葉から想起を続けるか、
言葉に切り刻んでそれぞれの単語の意味付けを変えることによって
その批判に反論したりして相対性の森の中を逃げまわるんだ。
いわゆるプライドが高いって奴。
それらは言葉に過ぎず、現実はちゃんと追い詰めるからほっとくのが一番いい。
観念と現実の我慢比べ。
最初から勝負にならんけどね。
831 :
神も仏も名無しさん :2011/06/15(水) 12:58:55.42 ID:bvLiUbJB
結局のところ、対象物である身体と自分自身を同一視する無知 が根本ではあるんでしょう。限定的な部分を自分として、その ちっぽけな自己が傷つく恐れから、それを守ろうと必死になれば なるほどドツボにはまる結果になるんでしょう。 本人も思考や感情を対象化する気づきがないから、いつまでも引きずり まわされる事になるんでしょう。
>>830 聖書の時代に誰でも読み書きが出来たと勘違いしてないか?
危険な異国まで旅するくらい下々は読み書き出来ない可能性高い
ガンダーラのギリシャ彫刻なんか石だから現代まで残ってるんだよ
誰でも石の彫刻のほうが保存が利くのは理解出来ると思うのだが
遺伝子を調べたら人類は世界中に旅して広がってるんだよ 鎖国とか日本みたいな島国だけだよ 鎖国でも実は外国と交流あったらしいし パルテノン神殿とかピラミッドとかクレーン重機の無い時代に 組み立てる建築技術があったんだよ ギリシャ人がインド行くくらい充分ありえるよ
そんな薀蓄はどうでもいいです
俺だったら重機もクレーンも無しに 奴隷でパルテノン神殿を組み立てるくらいなら 当てもないけどインドに行く、異国に逃げるほうを選ぶよ
当時の奴隷よりも、現代日本のサラリーマンのほうが労働時間はるかに長いらしいね。
ま、河合隼雄氏が言うところの「物語る」ってやつですな。
腸の中の菌とか住んでないと人間は生きていけないらしい バクテリアとか寄生生物の働きないと生きていけない 本来は自他無いのだが、自他あると思い込んでるのがエゴ
新興宗教とか教祖がやれと言うことを信じて突き進む行う それが一番楽なのだろうが しかし、考えて見たら五感はあなたとわたしは別々だ 神経もあなたとわたしは別々だ あなたがネッシーやUFOみても仮に痴漢冤罪で捕まっても 本当か嘘かあなたにしか真実はわからない まずはあなた個人の悟りの完成を考えなさいと 他人は他人で自分の面倒を見る
もう考えなくていいから
あなたが見ている景色はあなたにしか分かるわけない あなたが感じる痛みはあなたにしか分かるわけない あなたはあなたの五感の中に生きている、まずは自己の悟りの完成だ
もう書き込まなくてもいいから
自分の言ってるようにまずは自分の悟りを完成させてくれ 流れともスレとも関係ない「なんとからしいよ」とかそんなのどうでもいいから それかクリニックに行け お前は本には影響されるのに生身の人間には影響されないのか? 本の著者のようにお前が持っていない知識、経験を持ってる者はいくらでもいるこ とが分からないのか?
そんな日本語がテキパキ通じるなら問題無い ぬかに釘のような同じことを何度も言わないとわからないから 宗教事件が起こる
最低限の道徳レベルのモラルも無いのに 全人類を救いたいとか言い出す奴が居るから事件が起こる
最低限の下の下も出来ない そんな当たり前のことも出来ないから 同じことを鸚鵡のように繰り返す
小学生レベルのモラルも無いから宗教事件が起こる
このスレに来る奴でそんな傾向がありそうなのはお前くらいのもんだし、 お前自身のことを言ってるようにしか思えないんだが。 全人類を救うのはバクティ、大乗の方であってまるでお門違いだろ。
甘いよ、現実の認識が、まったく甘い 試しにそのあたりの高校生に大乗とかバクティとか言ってみたら? そんな話が通じるならNYテロなんか起きないっての
アドヴァイタスレでそんなこと書きこんだって このスレには対象者がお前以外いない上にスレ違いも甚だしいと 言ってんだよ、キチガイ。 さっさとクリニック行くか、黙って小乗の悟りを完成させろ。
大乗とかバクティとか言ってる人間のことは まるで信用出来ないよ 正直気持ち悪い、繰り返し言うが小学生レベルの下の下のモラル も無いから宗教事件が起こる
大乗とかバクティとか小乗とか軽く言うがまるで違うし
そんな話はこのスレとほとんど関係ない クリニックに行け
わかってる人間なら小乗、バクティとか一括りに話さないから
別にわかってない人間でも構わない。 お前がスレ違いの思索を脈略もなく書きこむことさえしなければ。
わかってるなら何も言わない バクティ大乗とか言ってるからうさん臭い
お前が言った「あなた個人の悟りの完成」を「小乗」 「全人類を救う」を「大乗、バクティ」と言い換えただけであって その言い換えが気に食わないのは分かるが、 それは枝葉であって、俺の言いたい幹ではないのだよ。 845-847のようなスレと関係も脈略も無い思索を毎日毎日書きこむなと言うことだよ。 それは分かったか?
NYテロも小学生でもまともなら これから飛行機で突っ込むけど突っ込んでいい?と、 一言断り入れるわな? 自称まともな奴なんか多いから 大乗とバクティを一括りにしてる奴なんか信じるのは無理
それは枝葉だと言っただろ。 お前のやり方はいつも同じ。 幹が都合悪ければ、枝葉で延々と話をすすめる。 「異論はスルーしてそれ以外の言葉から想起を続けるか、 言葉に切り刻んでそれぞれの単語の意味付けを変えることによって その批判に反論したりして相対性の森の中を逃げまわるんだ。 」 と数日前に書き込んでいる。孫悟空のようだな。
世間を見ろ!お前は世間を知らない! 甘い!
そんなことはどうでもいい。 845-847のような関係の無い思索を書き込むなと言っている。 それに対しての答えだけしろ。
エゴは討論が大好き
大乗とバクティを同一視で語る人間が アドヴァイタの何を語りたいのだろうか? 訳分からん、何を考えてるのかわからん人間は世の中居るわな
>>863 「スレ違いの下らない思索を毎日毎日書き込むな」という極めてシンプルなこと
が理解出来ないのならクリニックに行け
大乗とバクティを同一視して語る人間に注意されたくないよ
枝葉とか幹とかそんな脳内ルールなら 大乗もバクティも同じでスレ違いで無いとか 他人の欠点が気になって自己の正義は絶対な人なんだろな そんな脳内ルール知らんがな
そんな戯言はどうでもいい 「毎日毎日どうでもいいスレとは関係の無い思索を書きなぐるのをやめろ」 と言っているだけ
魂の叫び 「世間を見ろ!お前は世間を知らない!甘い!」 あはは、すごい脳内ルールだ さぞや、いじめられてきたのだろう
アドヴァイタを本気で語りたいからスレと関係ない話題は止めろ ここまではいい にしては大乗とバクティは同列だ、何じゃそりゃ?って思うな 何教の人間なのか知らないがうさん臭すぎるな
まったく変な奴は居るわ、理解出来ん
「本気で語りたい」なんて言ってないけど。 「話題」?「独り言」の間違いだろ
まあ何教の人間なのかは知らないが わけ分からないのは居るってのだけは伝わったわ
チラ裏おじさんのせいで、糞スレと相成りましたなw
アドヴァイタスレなんだからスレ違いな話は止めろ 小乗の話さえするな ↓ まあ、それはわかるな ↓ しかし、大乗とバクティは同じ ↓ はっ??何言ってるんだ? ↓ 脳内ルールによれば枝と幹だからどうのこうの とにかくスレ違いで無いらしい ↓ ??わけわからん、今ここ
宗教事件とか多いからな、人に注意するなら最低限の道理はわきまえろ バクティと大乗が同じとか注意するにも知らなすぎだろ 変な奴だとしか感じないぞ
横からのレスで、すみません。たぶん
>>848 さんが言いたかったのは
大乗仏教やバクティ・ヨガについての話でなく、他者や世界の救済や歴史の雑談に
こだわりすぎると、この世のマーヤ(でいいのかな?)に執着することになるから
ほどほどにしましょう、という提案なんじゃないでしょうか。
本から判断すると、ラマナ・マハルシも丘や洞窟で、小乗仏教徒なみに厳しい黙想や
修行を積んだのかも…とは思いますが、弟子に対して「あなたも厳しい苦行が必要」
とは、押し付けないのが、とても気に入りました。
バクティという言葉も、自分はアドヴァイタの本で初めて知ったので
「心の中の神・真我への無条件降伏・帰依」の意味でマハルシは使ってると
思いますが、もしかすると元々のヒンズー教の他の宗派ではもっと一般的な
寺院や神像への帰依・奉仕…みたいな意味なんでしょうか?
とにかく、バガヴァンの優しさ、一人一人のニーズに合わせて、できる範囲内で
「常に‘我’に注目していなさい」(Who am I? とか vigilantly attention)
の言葉を大事にするつもりです。シンプルだけど決して簡単ではない覚悟で。
ラマナやラメッシのいうバクティ・マールガと 一般のヨーガで言うバクティ・ヨーガは異なります。 アドヴァイタでいうバクティ 「御心のままに」とあるように、全ての出来事にかくあるべしと抵抗せずに受け入れる。 起きることは高次の力(真我・意識・源泉)が行っている。 全ては遺伝子と条件付けによる反応でしかなく、 自我が存在しないことを体験することによって真我を実現する方法。 ヨーガでいうバクティ 神様の名前を数珠を回しながら唱えたり、花輪を飾ったりすること。 あるいは恍惚的な状態となって神をたたえること。 宗教的な行為としての意味はあるが、真我の実現には役に立たない。 ただこのようなバクティからアドヴァイタでいうバクティに移行することはあるため 完全に無益というわけでもない。 インドの思想・哲学は同じ言葉でも時代と場所によって意味が異なります 例えばカルマやサンサーラといった言葉でも 意味の違いを考えながら勉強をしたほうがよいのです。
878 :
876 :2011/06/20(月) 00:42:36.05 ID:B/A7jPCe
>>877 丁寧な解説ありがとうございます
同じバクティ(bhakti: devotion)でも、マルガ(marga: path 道とか径路?)と
ヨーガ(yoga: union 神との統合→転じて教義や儀式全般の各分野手法?)みたいに
その背景というかジャンルを分けて説明してもらって、とてもわかりやすく
しかも覚えやすいと感じました。すっきりしました
インターネット和尚のブログが地震以来陰謀論じみてきてげんなり
仏教では末法思想が昔からあるからねぇ。
>>877 ニサルガダッタはジャパ(マントラのリピート)だったはずだし
ラマナもジャパは否定してないよ
ジャパの終局はアートマ・ヴィチャーラと同じと言ってるはず
「真我の実現には役に立たない」は言いすぎ
いろいろな素晴らしい教えや考え事態も、自分のエゴが 自己武装というか、理論武装に使って自分をまもろうとするって事はあるよね。 自分にもそれを感じたりするからわかるんだけど。 エゴが存続を図るために教えを都合よく解釈したり、耳障りの良い言葉を拾い集める ような事をやるんだよね。言葉の教え事態が「私」の存在を必要としている ために、いつまでも教えの段階にいると深まらない感じもしてるんだよな。
>>877 全ては遺伝子と条件付けによる反応でしかないのなら抵抗せずに受け入れる事も反応でしかない。
結局、真我が自我を作るのを止めるのを待つしかないのでは?
全ては真我次第、自力ではどうにもできない。
不二の見地で語るから誤解が生じるんだろうな ギータでアルジュナが戦いながらも意識は 我執に囚われずに真我にあったとか、理解出来ない者も多いからな これはイスラムやユダヤ教の神は形に出来ないから 像に拝む者は偶像崇拝と似ているな そうではなくてヴェーダンタでは像を拝みながらも意識は 無形の神に向いてるんだよ でもアドヴァイタの専門的なスレにしていく方向は いいかも知れない、2ちゃん=世俗だし、不二とか難しすぎる
アドヴァイタ=不二一元論者だから 本来は世俗化とか無理があるのだが 理解出来ないのだから仕方ないな
本当は不二なんだから世俗と出家をわける必要は無い 全てはブラフマンのみで言葉は足りるけど そういった見地に立てない者にはラーマ ヌジャが バクティの道を提示したという アドヴァイタはそれくらい極めるのは難しいよ
タパス(修行、苦行)ということについてラマナが 修練を重ねてきた修行者に答えている話があって 以下転載 「もし人が、<私>という想念がどこから現れてくるかをじっと見つめるなら 心は”それ”の中に吸収される、それがタパスなのだ。 マントラを繰り返すとき、もし人がマントラの響きが出てくる源をじっと見つめるならば 心は、”それ”の中に吸収される。それがタパスなのだ。」
888 :
神も仏も名無しさん :2011/06/23(木) 01:43:44.82 ID:iMnsqh6I
>>887 これは見る働きに集中することによって想念を作る方が疎かになり
結果として想念がなくなるということでいいのだろうか?
源と言われても、意識の内部に現れてるとしか分からん
テレビの創世記の笑い話にテレビの中に人が入っていると思って驚く人がいたように
「俺の中にすべてがあるんだ」とか思えばいいのだろうか?
すべては俺なんだ。ブッダもキリストも俺なんだ!とインターネット和尚風に。
創世記ではなく創成期だな 失礼した
キリスト教の最高の聖人フランチェスコでも イエス・キリストのように 私と父は一つなのだとは言わなかったからね 偉大な聖者ラーマーヌジャも全てはブラフマンなりと 思えない、ヴィシュヌ神と私は信仰で一つになるのだと 一歩控え目な信仰だったし それくらいアドヴァイタ=不二一元論者は普通じゃないよ あなたはわたしだとか言ってるんだから 私は神なのだと告白してる、悟りの境地だよ。それくらいレベル高い
891 :
神も仏も名無しさん :2011/06/23(木) 19:10:15.19 ID:sbamR/8K
>>888 この場合、<私>という想念が現れてくるのは真我以外にありえないから
真我を見つければ心は真我に吸収される(元は1つだからね)
真我を見つけることがタバスだって事じゃない?
ガンジスの名も無きサッドウですら瞑想中に耳元で風船を 割られてもピクリも動じないから 伝説の聖者ラマナ・マハルシのタパスとかどんなレベルの 話をしてるかわからないよ
>>890 レベルが高いとか低いとか、誰々は悟りに近いが誰それはまだまだとか
そういう考え方を始めると、すでに一元論から足を踏み外しかかってるような気がします。
理論上は私もあなたもマハルシもキリストも、みんな‘一つ’なんだから
それでいいんじゃないでしょうか?(自分も理屈だけで体感できてませんがw)
変にぼやいたり、あれこれ過去の偉人に思いを馳せたりするより
自分の中にじっくり浸って根源探しをしたほうが、早道なのでは?
アシジのフランシスコに関して言えば、彼は修道会の仲間が大勢いたから
「神と一つである」なんて言ったら、傲慢・不遜な奴だと誤解されるので
言うのを控えてただけだと思う。
カトリック修道院の黙想会(リトリート)でよくやるように、フランシスコも
「イエズスと一心同体」って、普通に心で感じてたと思う。
ハワイのフーマン・エマミ師も生前、安易な偽アドヴァイタの流行を厳しく
批判してたそうですが、だからといって「不二一元は難解だから普通の人にはムリ」
って、門戸を閉ざしたわけじゃないと思います。
それはそうなのだが、ラマナ・マハルシはスズメバチの大群に 襲われてもあるがままに自然に構えてたらしいよ 実際に見たら驚くんだよ、その精神性の高さに
年中素っ裸で神に対する祈りも寝転んだりするくらい のサッドウもインドでは居るけど その中でも伝説だからね、ラマナ・マハルシは
896 :
神も仏も名無しさん :2011/06/23(木) 19:51:13.97 ID:sbamR/8K
>>892 ラマナ・マハルシは思ったことを素直に語ってくれてるから分かりやすい
>>894 ちょうど自分も昨日、Guru Vachaka Kovai のPDFを読んでて、
Hornet (スズメバチ/くまんばち) に刺される話の解説がでてきて
「すげぇーーっ」て感心してたとこでしたw
故意ではないとはいえ、足をぶつけて巣を半壊にして可哀想なことをしたので
罰をうけるのだ…、みたいな考えで、じっと足をハチの群れに刺されるのを
我慢してたそうなので、ありのままっていうより、わざと忍耐した感じ。
ラマナの様な人にあって身近に密接に接する事で、話したり伝わった事を理解するなり、体験するための材料が揃うことはあるだろうな。書いてあること以外のことが知らずに染み込む事はあるだろうな。
899 :
神も仏も名無しさん :2011/06/24(金) 00:29:43.61 ID:HE9mWDce
ラマナの言明に近いのは、ヴェーダーンタより禅だと思う 真我(ラマナ)=本来の面目(禅)、などはほぼおなじ意味だ 禅の膨大な経典・語録・公案のエッセンスを凝縮すると、 ちょうどゴッドマンの「あるがままに」の冒頭の数章になる ヴェーダ・ウパニシャッドは多数の哲学者が参加しているので、玉石混交の傾向がある ラマナの言明はとてもシンプルで、たとえば「真我はすでに実現されている」という言明は、 盤珪禅師の「我々が生まれつき持っているのは不生の仏心のみ」と同じ意味だが、 これだけで真我の実現に到達するのはとても困難だ それで、ラマナも真我にアプローチするごく少ない手段(瞑想など)を、迂遠だが有効として認め、 禅も中国・日本においてさまざまな手段を工夫・発明して来た
宗教国家で私は神なのだとか少々の覚悟では言えない イエス・キリストみたいなことになる だからアドヴァイタは凄い
901 :
神も仏も名無しさん :2011/06/25(土) 05:43:20.63 ID:8tzPbFoy
そういえば、バガヴァンは「私は神」ということや、「あなたは神」という表現 はあまりしなかったような印象です。「あなたはSELF]という表現はしていましたが。 ところで、神は最も己を低きにおいたから、皆に崇拝されるようになったという話を バガヴァンはしていました。神になりたい人は、誰よりも謙虚でなければならないようです。
>怒りと憎しみと悔しさがひしひしと伝わってきてなかなか宜しい そう、まさにそれが今の君に立ち上る正直な感想である。そこで、なぜ僕は混乱 させられるのだろうか?と冷静に分析することをお薦めする。 腹が立ったから脊髄反射的に反撃をする、という君の恒例のパターンから脱出できる チャンスだよ。
一方で質問者に対して「あなたがバガヴァンなのだ!」と、言うような こともおっしゃっています。つまり仏陀もそうだったように。 偉大な存在はいつも対機説法なのであって、その場、その時、相手に応じて 話は変わるんだと思うんです。どんなものであれ言葉で表現される教えは常に その反対の教えも存在するんだと思います。 やはり完全な教えは「沈黙」。 修行者にとってはこれが最高の言葉であり、祈りであり、雄弁なのではないかと。
問題はその沈黙によるサットサンを 私たちが受けられないということです。 サットグルが面前にいない状態で 真我探求だけでは結果は出にくいでしょう。
禅に見性ってのがあるが、真我探求と同じことだろうと思われる 希少な舶来品を探すよりは国産の同等品のほうが手に入りやすいのでは? 当然、その国の文化に従って機能、形は異なるが、本質は一緒
真の天才ラメッシ・バルセカールが言った言葉 「私にとって現象世界でラマナ・マハルシより重要な存在はない。」 驚愕した。
ラーマーヌジャも私は世界や神と等しく同じなのだと どのように考えても感じられない だから探求して新しいバクティの道を開発した 凄く素直な疑問だと思うな アドヴァイタを告白しながら、全てはブラフマンであると 告白しながら、お金と石ころを同等に扱えないのは矛盾している
ニサルガダッタマハラジ 「もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望はかならず満たされるだろう。 しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当に、ほかに何も求めてはならないのだ。」
自分の場合だと 自分なりに禅寺はいってみたり、金持たずに歩いて暮らしてみたり、求めた態度を、自分なりの単純な行動に現す事で、結果的にはズレを感じて、根底では何を求めているかを見続けるための経験になった。
910 :
神も仏も名無しさん :2011/06/28(火) 23:59:39.47 ID:3WxbWIgy
911 :
神も仏も名無しさん :2011/07/04(月) 01:30:49.06 ID:+VYHw/95
>>908 そりゃ自分の中にも外にも何も求めなきゃ
自分はここにいるだろ
912 :
神も仏も名無しさん :2011/07/07(木) 22:09:24.92 ID:quEC4itX
ようするに、心底世界にあきあきしないと、ダメだってことでしょ。
そういうのでも無いんだよ テレビの画面の映像のように世界に無関心になる テレビの画面の映像が本当の自分視点で無いと気付くのが悟り
914 :
神も仏も名無しさん :2011/07/11(月) 17:52:31.09 ID:+szXoiYE
坐禅と見性77章 延長国会会期は、8月31日迄か
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1309158184/ 坐禅と見性スレ避難所第1章
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11155/1296476490/ __ i`:. __
(__.`ー-::... ,rt': : :\ ,::-'",...)
,..::ア - ::::::)-:'':':'(|i(゚):(゚)テ):-:-:-::、イ::: `┬-っ
(,.::'",::' / ,....: : : : r'" ・・' く/i!: : : : :!、,:::::,<` `ニつエイギョウデスー
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【仏教】悟りを開いた人のスレ96【天空寺】
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悟っていない凡夫にも真我はあるんでしょ。 だったら、真我も輪廻転生するの?
916 :
神も仏も名無しさん :2011/07/21(木) 20:58:17.98 ID:ukrVTH5H
テレビの例え。映画など見ると意識せずにのめり込んでるけど、 CMなんかでふと部屋に意識が引き戻されるようなものなら、 輪廻は新たな番組やチャンネル切り替えのようなもん?
すごい分り易い例えだね
五蘊というか、執着とそれが織り成す現象体が輪廻する
919 :
神も仏も名無しさん :2011/07/22(金) 11:39:19.93 ID:swwB+t9O
アメリカのコメディアン ビル・ヒックス 「すべての物体は、エネルギーが凝縮してゆっくりした波動になっただけだ。 私たちはみんな一つの意識で、それが自分を主観的に体験しているんだ。 死なんかないし、人生は夢だ。私たちは自分のイマジネーションが作ったものなんだ。」 不二一元論をこれほどわかりやすく言葉で表現したものがいただろうか。 しかし彼がやったのは、バクティでもジュニャーナでもマントラでもなく LSDであったw。
920 :
神も仏も名無しさん :2011/07/25(月) 06:47:43.90 ID:P2mp75pU
『Ramana Puranam』 467-72 あなたは光。あなたは闇。 あなたはそれらのどれでもない現実。 あなたは、私たち、あなたの信奉者にとって寄る辺である至高のもの。 あなたはジニャーナ。あなたはジニャーナという輝き。 あなたは、恩寵の澄み渡った静けさ。 あなたのものであるのは、意識である全てを超越する広がりという偉大さ。 あなたは1つ。あなたは2つ。 あなたはそれら両方を超えて立つ美しいモウナという寺院。 あなたは薬。あなたは宝石。 あなたは気高い聖なるマントラ。
>>919 LSDを自分自身によって発現させるのがバクティやジュニャーナやマントラとも言えるけどね
LSDじゃ真理は垣間見えても留まることはできないし、いろいろ犠牲にすることも出るだろう
しね
何も知らずにLSDやってそういう体験をしたならまだしも ムーブメントの中で色々吹き込まれてやったのだろうから そういうのは信用できない。 同じようにLSDやって自殺してんのもいるんだし。 経験者だから言うが単なる頭の中の思考だ。 なまけ者のさとり方でも読んで紙食ったんだろう。
まあでも、準備できてない状態で、指導者も無く特別な修行法の結果、おかしくなってしまう場合も有りますからね。 おおくのひとにとっては自分なりの身近な暮らしを軸にしたやり方は大事でしょうね。
どんなやり方であれ技法なんだからおかしくなるひとはおかしくなるさ それらも含めてそれをどう判断するか、判断する私とは誰か、だよね 判断は誰でもしてる、あれはこうだ、これはああだ では、それがなんであるか、判断とは何か、判断してる私とは誰か
不二一元論が他の宗教と明らかに違うのは キリスト教の天国と地獄とか天使と悪魔とか 仏教の不殺生とか菩薩とかあれとこれは別だとわけないところ 深い宗教だよ、わかっているつもりでも石とお金は同列に扱えない あれとこれは人間だから悟ってない 神で無いから別だと考えてしまう
>>925 それは汎神論なのでは?
不二一元論というのは、神以外いかなるものも実在しないというもので、
天国も地獄も天使も悪魔も不殺生も殺生も菩薩も阿修羅も、
すべては実在しない幻影(マーヤ)と見なす。
927 :
神も仏も名無しさん :2011/07/26(火) 22:45:11.83 ID:dLCzhpoR
宗教に興味がなかったコメディアンが、 LSDをやったことにより、いきなり不二一元論と同じようなことを言うのが 興味深いね。 化学物質によって、エゴが一時的に消滅すると インドの聖者と同じような世界が見えるんや。
928 :
神も仏も名無しさん :2011/07/27(水) 01:56:19.26 ID:qqh3+nfA
「宗教に興味なかった」なんてどこにも書いてないけど。 Wikiには"南部バプテストの敬虔な家庭に育ち"とある。
>>922 シラフで同じ状態にもっていけるようになったら、いろいろわかってくるよ
>>928 「共通認識としての物語」にこだわってもねえ。
「神」も物語なわけだし。
931 :
神も仏も名無しさん :2011/07/27(水) 12:59:41.70 ID:qqh3+nfA
「共通認識としての物語」にこだわっているのではなく 「宗教に興味なかった」という認識の元は?って聞いているだけ。 ソースがあることなのか、単なる間違いなのか、願望から来る歪みなのか 前にも勝手に"彼は「自分の前に座る人に限っては、ハタ・ヨーガをする必要は 無い」といいました。"という人がいた。 学校のテストを思い出せばいいが、人は覚え間違い、思考間違いはいくらでもやらかす んだよ。俺だって仕事でいくらでもミスをする。 ミスを指摘されれば頭に来ることもあるが、またやっちまったかと思うだけだ。
933 :
神も仏も名無しさん :2011/07/27(水) 17:38:34.51 ID:lcQWtDP/
>>928 それは親の話でしょ。
どんな家庭で育ったかということが書いてあるだけでしょ。
親が熱心な宗教信者だと、洗脳されるか宗教嫌いになるか
どちらかだね。英語版によると
Much of Hicks's routine involved direct attacks on mainstream society, religion, politics, and consumerism.
ですとよ。
934 :
神も仏も名無しさん :2011/07/27(水) 19:02:34.72 ID:qqh3+nfA
>>933 親の話だが、
あなたも理解している通り、そういう親を持った子供の心の中には
肯定否定どちらにしろ宗教というものが特別な位置を占める。
それで引用した。
この引用からすれば「宗教に興味がなかった」とは思えない、という意味。
「宗教に興味がなかったコメディアンが」と書いた人が答えてくれるのが一番いい。
935 :
神も仏も名無しさん :2011/07/28(木) 18:38:28.47 ID:oOIaFJMo
『Ramana Puranam』 233-40 ごまの種の中の油のように、あなたは自らを私の内にかくしてしまい、 そうして、私の中にあるあなたの存在は明らかには見分けられなくなった。 無知としてしられるあのヴェールのため、私のハートの内にある真実は深い闇の 中にすっかり覆い隠されてしまい、こういう事情で心はともかくも外にむかった。 惑わし、世界を5つの感覚の認識として表す多様性の力をつうじて、それらを 「あれ」として知る私の心は困惑し、それらを有益であるとみなしながら、 それらをさがし求めた。
936 :
神も仏も名無しさん :2011/07/28(木) 19:31:28.74 ID:oOIaFJMo
241-43 その追求は、それ自身欲望へと発展し、決して終わることのない生まれ の連続を生じる種となり、生(と死)という幻の巨大で邪悪な木を誕生 させた。
937 :
神も仏も名無しさん :2011/07/28(木) 19:44:19.43 ID:oOIaFJMo
244-47 私の忘却の中で、私はその木にいる鳥となり、私の心は善と悪の行為に 混乱させられた。 四方八方を見渡して、困惑の中で、私は無益に繰り返し甘い果実と 苦い果実をむさぼり、幾度も幾度も止むことのない楽しみと苦しみを 経験した。
938 :
神も仏も名無しさん :2011/07/28(木) 20:12:17.70 ID:oOIaFJMo
248-54 わたしの心の中に明晰さのかけらもない、そのうんざりした状態におい て、私のまさに生命であり、楽しみと嫌悪の感情から自由である王は、 真理である彼の恩寵を通じて、無価値なろくでなしである私を死から救 うためにアルナイの都市に、比類ない聖者として現れた。 そして、慈愛に満ちたまなざしを通じ、彼は私に神聖で蓮華のような足 をあらわし、私に豊饒な止むことない、実在かつ意識であるアンブロシア を注ぎ、私の心は静まった。
939 :
神も仏も名無しさん :2011/07/28(木) 20:16:02.66 ID:oOIaFJMo
詩の形式で書かれていて、私には難しくて、訳にあまり自信がないのであしからず。
>>939 感動しましたよ。ありがとうございます。
>>931 "彼は「自分の前に座る人に限っては、ハタ・ヨーガをする必要は
無い」といいました。"という人です。
まあ酒を飲まない限り2ちゃんには書き込まないので、
正確でなかったことを書いたのを謝罪します。
他の方が指摘していた内容が正しいです。
ただラマナが面前にいればハタヨーガやクンダリニーニヨーガが必要ないのは確かです。
それらの技術はサットグルがいないという人々のために作られましたから。
つまり身体を動かす系統のヨーガは、アドヴァイタの準備段階として価値があります。
なぜ真我を実現するためにハタヨーガをするのか。
信仰ではなく技術として考えてみるのも面白いかと思います。
942 :
神も仏も名無しさん :2011/07/30(土) 14:27:49.90 ID:FkQs2BgJ
>それらの技術はサットグルがいないという人々のために作られましたから。 お酒のせいか、また変なこと言ってる気が。 「自分は有用だと思う」でいいんじゃないですか?
943 :
神も仏も名無しさん :2011/07/31(日) 17:57:12.47 ID:iimrb2/F
Ramana Arunachala - Arthur Osborne Asramam Publication: 2007 edition Sri Bhagavan and Buddhismの抜粋 言葉の上では、スリ・バガヴァンとブッダの教えには、スリ・バガヴァンがただアートマンのみ があると宣言したのに対し、ブッダはアートマンは全くないと宣言したという点において、矛盾 がありあります。 しかしそれは、言葉の上以上のものではありません。というのも、スリ・バガヴァンは「アート マン」という言葉を普遍的な自ら(universal Self)として使い、それはニルヴァーナのことで すが、ロード・ブッダはそれを個々の魂(individual soul)として使ったからです。 そして、スリ・バガヴァンはまた個々の存在はまったくないと説いており、それは、 それ(個々の存在)が死後に継続しないというだけでなく、今もないという意味でです。 「死後どうなるか全く気にしないように。今あなたがなんであるか見つけなさい」
>>942 ハタ・ヨーガの聖典『ハタヨーガ・プラディーピカー』の
第一章1-1から1-3に書いてあるよ。
「ハタヨーガは高遠なラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって
すばらしい階段に相当する」
訳本は佐保田鶴治 『ヨーガ根本経典』より。
945 :
神も仏も名無しさん :2011/08/03(水) 08:42:36.02 ID:wgVM6qy6
>>944 ハタ・ヨーガのそういう主張は理解してる。
ラマナ自身が触れてるし。
俺が言いたいのは「それらの技術はサットグルがいないという人々のた
めに作られました」ってどっから出てきた話なんだ?ってことなわけだが。
「サットグルがいない人のために歴代のたくさんのただのグルが作り上げた」
のがハタ・ヨーガなんて聞いたことがないんでね。
嫌なことがあった 良いことがあった それをわけて考えるなら、それは世界が悪いのでなく 自身の性格に問題あるから 全ては神の奇跡である いやーわかっていても奥の深い宗教だな、それは日々感じる
ちょっと質問です。 ラーマクリシュナは、絶対的な次元においては神(真我)は無形の存在だが、 まだ相対的な次元に留まっている一般人にとっては、神は有形、ゆえに人格神は真実である、と いうようなことを話していた。 また、ラマナ・マハルシも、「個我の実在性を信じている人々」にとっては 「イーシュワラ(主宰神)」はおられ、人格神崇拝は「深い意義をもっている」と いっています。(「不滅の言葉」p236〜) つづく
私は、凡夫中の凡夫なので、人格神にバクティをささげることにより 真我を実現したいと思うのですが、「イーシュワラは宇宙のいたるところで、 どの人にもどの物質的対象物の中にも内在しています」という ラーマクリシュナの言葉からは、汎神論的な神をイメージします。 私自身にとっても、自分の神のイメージは「汎神論的な性格の人格神」なのですが、 この汎神論的なイメージを、凡夫の私としてはもちつづけていてもかまわないものでしょうか?
本当に凡夫なら何も持ち続けられない イメージも何もかも 持ち続けるということすらも全て神に捧げたらいいんじゃない?
イシュワラは宇宙のいたる所にいるのだから、当然‘あなた’の中にもいて つまりそれが‘True Self’と同じなのだ… みたいなことを確かマハルシは言ってた
>>948 私の場合は、ラーマクリシュナなどの本をよんで、対象へ気持ちを捧げようとしているうちに、現実にいる母が材料になっている事が感じられて、そこにむくようになった。
>>949-951 ありがとうございます。
一まとめのお礼で申し訳ないようですが、
三つのご返答すべてなんかしっくり来ます。ほんとに。
953 :
神も仏も名無しさん :2011/08/05(金) 23:59:01.50 ID:msr5bwRm
ラーマクリシュナはまさにこの歌の5番目の詩にあるような
存在だったとおもう、四六時中「おお母なる神よ!」
ってその栄光を称え、母なる神を真我(ブラフマン)以外の
何ものでもないものとして愛するような人だったと思う
http://www.youtube.com/watch?v=6m-nKYQVVJg 「熱烈な帰依によって、実在の中に留まり、全ての想念を超越することは
至高のバクティの精髄そのものである」
ってラマナは謳ってるしバクティとジニャーナを表裏一体で進むものとして話してる
こともあったと思う
素晴らしいね・・・嗚呼
954 :
神も仏も名無しさん :2011/08/06(土) 07:06:28.38 ID:1Zwnfqjk
『Day by Day with Bhagavan』 p181 ある質問に対してのバガヴァンの答えの一部、、、 そのような分離した神を必要とする限り、崇拝するための神をもつことを、いったい誰が 反対しているのですか。バクティを通じて、自分を高め、神のみがあり、バクタである自 分は重要ではないと感じるようになります。「私ではなく、あなたです」「私の意志でな く、あなたの意志です」と言う時、ある段階に至るようになります。バクティ・マッガ での完全な明け渡し(委ね)と呼ばれている、その段階に達するとき、エゴを取り除くこと が、自ら(真我)の達成であると気づきます。・・・
ずれるようだが、法然という人はほんとに凄い人だ。 他力の系譜はあったとしても、そこに捧げきるという偉業を達成することは 奇跡に近い超越だ。。
それはかいかぶりすぎだろ。どうすごいんだよ。
なんでいきなり法然? と思ったら、今年は800回忌(没後799年)なのか 知恩院で法然上人の八百年大遠忌やるんだね 親鸞も没後749年で、親鸞聖人750回大遠忌だし、今年はあちこち賑やかだね
不二一元論が一番性に合う、わかりやすい。 お金と石ころを差別するなら それは世界じゃなく自己に問題があるとするのが潔い。 十字軍のような勧善懲悪で悪しき者を排除したら天国にいけるとか 全員で悟るために世界救済でまず法を世界に広めるだとか 外界をまずどうにかして変えようと他人にグチャグチャ関わるのが まじ本当に性に合わない。他人は他人、自分は自分だ。 まず悟ってからそれから他人に関わればいいのだと思うな。
959 :
神も仏も名無しさん :2011/08/09(火) 17:02:42.26 ID:6Rve1MrS
960 :
神も仏も名無しさん :2011/08/09(火) 19:02:53.38 ID:eljhwzle
>他人は他人、自分は自分だ。 思いっきり2元論だなw
このスレの方のおすすめ書籍教えてくれませんか? 「これはひろいもの」っていうのを… 自分はさほどくわしくないので有名書籍でも
ニサルガダッタマハラジ「アイアムザット」
>>961 俺は「誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」を
推します。
精神世界の本いろいろ読んだけれど
今のところこれが究極だと思っています。
ただ、読んでも何の救いにもならないと思う人もいるようですが。
>>960 あったり前だろ?
他人は他人、自分は自分だろ?
俺は救急車が走っててもうるさいなとしか感じないぜ?
そいつらも弱者の動物の肉を食べてるんだぜ?
お前はお金と石ころを等しく見なせるのか?
悟ってない、全てを等しく見れない罪ある世俗人だから
半端に他人にグチャグチャ関わっても仕方無いだろ?
私はお金と石ころを等しく見れるとか騙るほうがむしろ偽善者
まず他人より何より自分が悟れ!ちゅーわけや、わかりやすいやろ?
965 :
神も仏も名無しさん :2011/08/10(水) 23:43:08.42 ID:IwRFRI6p
>>964 反論するのも馬鹿馬鹿しいが
ちょっこっとだけ
石とお金は役割が違う。自分勝手な付加価値つけるなと言うこと
あなたが救急車の音を聞いてどう感じるかは人それぞれ違う
966 :
神も仏も名無しさん :2011/08/10(水) 23:44:41.29 ID:IwRFRI6p
>>965 ? あなたが救急車の音を聞いてどう感じるかは人それぞれ違う
○ 救急車の音を聞いてどう感じるかは人それぞれ違う
それなら二元だろ? 救急車の音を聞いて人それぞれ反応様々なのも二元 石とお金の役割が違うも二元、あれは悪くてあるいは俺が悪くて 自分は正しいと思うなら二元
>>962-963 ありがとうございます、両方とも未読なので、読んで見ます。
プンジャジの本が非常に面白かったので。
私は正しいがあなたは間違っていると感じるなら その時点で二元論者ですね。
971 :
神も仏も名無しさん :2011/08/11(木) 00:14:04.76 ID:YKNcF84d
>>967 事実を無視するのが2元じゃないよ
お金と石の違いも分からなくなるのが一元だと思ってるの?
>>971 お金と石ころは違うものだと感じるのがあなたの事実なら
二元論者だよ、大いなる勘違いをしてる。
974 :
神も仏も名無しさん :2011/08/11(木) 00:24:39.77 ID:YKNcF84d
>>973 どんな大いなる勘違いをしてるのか
教えてください
なんでよく分かってないのに わたしは正しくてあなたは間違ってると 世界や他人に関わるのだろうか? くり返しいう、あなたは間違っていて私は正しいと 考えるなら二元論者だ。 お金と石ころを差別するなら二元論者だ
>>974 私と貴方と客体と主体があるレスしてる時点で二元論者だろ?
977 :
神も仏も名無しさん :2011/08/11(木) 00:33:31.34 ID:YKNcF84d
>>975 > なんでよく分かってないのに
> わたしは正しくてあなたは間違ってると
> 世界や他人に関わるのだろうか?
> くり返しいう、あなたは間違っていて私は正しいと
> 考えるなら二元論者だ。
あなたのレスそのものですな
> お金と石ころを差別するなら二元論者だ
差別では無く
あなたにはお金と石ころの”違い”すら分からないのですか?
と言ってるんだけど
978 :
神も仏も名無しさん :2011/08/11(木) 00:35:43.78 ID:YKNcF84d
>>976 じゃあどういう文章にして書くのか教えて
あなたと私と書かなければ通じないのでは?
シャンカラも反論者に対して「それは正しくない。」とやっているが あなたはシャンカラを二元論者というのか
>>977 現にあなたはお金と石ころは別な物との価値観を感じている。
何でそれで一元論者を名乗るの?、私は最初から別だと感じてるし
悟ってないから他人にグチャグチャ干渉しないようにしようと提案してる。
>>979 シャンカラはシャンカラだよ
大切なのはあなたがお金と石ころを等しく感じられるか?って
ことだと思う
それこそ他人は他人、自分は自分だろ
982 :
神も仏も名無しさん :2011/08/11(木) 00:44:45.11 ID:YKNcF84d
>>980 なんども言うけど価値(相対的なもの)では無く”違い”を言っている
だから大切なのは自分がどのように感じるか?ってことだと思うな。 シャンカラが悟ったからあなたは悟れるのか? 死ぬのなんかそれぞれバラバラだろ? あなたはあなた、私は私だ 何でそれでお金と石ころを一つも等しいと感じられないのに 全ては等しい一元なのだと騙る?
お金に執着もしないしこれの価値が不変ではないと知っている。小石を卑小だとは思わないしこれが不変ではないと知っている。両者は別々のもので別々の価値を持つけど不変ではないことにおいて小石もお金も同じもの。これが一元なのでは?
985 :
神も仏も名無しさん :2011/08/11(木) 00:58:01.28 ID:YKNcF84d
>>983 お金と石ころの価値じゃなく”違い”はあります
人の顔はみんな違う。それだけなのに
それを美醜という色付けをしてしまうのが人なんです
そういうことを言っています
無明
現象として個に見えはするが森羅万象は真奥において一つのもの。 これが一元なのでは?
>>984 それが建て前じゃなくて
心の底からそう感じないと一元論者とは言わんよ。
別に他人と競うような趣旨の物ごとと違うし
>>988 建前だろうとそこにたどり着こうとする限り諦めない限りそれはいつか変化してたどり着くだろうから一元者と言っても良いのでは?
一元という終着駅があると分かっているのならばそれは一元者という旅人だと言っても誤解は無いのでは?
991 :
1 :2011/08/11(木) 01:28:56.94 ID:GnGS0mTH
次スレ
ラマナ・マハルシ等【不二一元論】アドヴァイタ総合2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1312992867/ なんか急に進行が加速したので、あわてて建てました。
シャンカラの話題がほとんど出なかったので、タイトルから外しました。
(最初にスレ立てたときは情熱があったんだけど、難しすぎて
ウパデーシャ・サーハスリーはいまだに途中までしか読めてないという… orz)
でも、シャンカラを軽視してるわけじゃなく、基本スタンスは変ってません。
あと関連書籍、関連リンクとかも自由に追加してもらって構いません。
>>991 スレ立て乙
量子脳論って興味深いね。
真我に通じるものがある。
お金と石ころは別物、それでいて一つ。