ラマナ・マハルシ等【不二一元論】アドヴァイタ総合2
1 :
神も仏も名無しさん :
2011/08/11(木) 01:14:27.36 ID:GnGS0mTH インド古典のヴェーダやウパニシャッドから発展した、インド哲学の
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(純粋不二一元論)の分野について、
難しい言葉の議論でなく、むしろ瞑想や体験など実践的な視点で
結局‘真我探求’って何?とか、本当に‘梵我一如’を会得できるの?
とかを、初心者〜覚者の分け隔てなく、自由に語りあおうという主旨の
「アドヴァイタ関連・雑談その他なんでもOK」の総合スレです。
関連リンクや関連書籍など
>>2-10 あたりをどぞー (自由な追加も歓迎)
前スレ
シャンカラ/マハルシ等【不二一元論】アドヴァイタ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1267693697/
2 :
神も仏も名無しさん :2011/08/11(木) 01:19:25.57 ID:GnGS0mTH
3 :
神も仏も名無しさん :2011/08/11(木) 01:21:31.12 ID:GnGS0mTH
4 :
神も仏も名無しさん :2011/08/11(木) 02:56:50.13 ID:B2MGB3NM
ttp://www.sriramanamaharshi.org/downloads/talks_full.zip Talks with Sri Ramana Maharshi 20th July, 1936 Talk 239. (Volume I巻末)より
Mr. M. Frydman: One imagines things and enjoys them by strength of imagination.
Such creations are possible to Brahma the Creator.
Can the same statement apply to His creature, man?
M.: This is also your thought.
D.: Krishnamurti says that man should find out the ‘I’.
Then ‘I’ dissolves away, being only a bundle of circumstances.
There is nothing behind the ‘I’.
His teaching seems to be very much like Buddha’s.
M.: Yes - yes, beyond expression.
M.フリードマン氏の質問: 人は物事を想起し、想像力の強さでそれを楽しみます。
このような創造は造物主ブラフマーにも可能です。
彼の被造物、つまり人間についても同じことが言えますか?
マハルシの答え: それもまた、あなたの想念です。
問: クリシュナムルティは、人は‘私’を見つけなければならない、と言っています。
そうすれば‘私’が融け去り、単に周りと一体になります。
そこには‘私’以外に何もありません。
彼の教えは、ブッダの教えにとてもよく似ているように思えます。
マ: そう、そうです。表現を超えています。
-----
ラマナ・マハルシだけでなく、後年はニサルガダッタ・マハラジとも親しかった
モーリス・フリードマンや、ジッドゥ・クリシュナムルティや、果ては仏陀まで…
このスレの守備範囲の著名人オールスター総出演!って感じの豪華な対話なのでw
ちょっと紹介してみました。誤訳があったらすみません。
最後の行の beyond expression は、仏教用語の『無記』と何か関係あるのかも
5 :
神も仏も名無しさん :2011/08/11(木) 23:32:52.78 ID:5SaN7699
6 :
神も仏も名無しさん :2011/08/13(土) 07:35:10.14 ID:YCgAnElo
7 :
神も仏も名無しさん :2011/08/14(日) 11:09:33.19 ID:0npYvfQU
ここの人は、本やマハルシの言葉を読む以外に、
日常どのような健康法というか、ワークというか、
サーダナというか、心がけていることはありますか?
たとえば、寝る前になにかイメージを観想したり、自分なりの霊句を
繰り返したりとか
食生活においてなにをとるか気をつけているとか。
自分はアドヴァイタとは関係ないかもしれませんが、
最近ちょっと疲れ気味なので、アシュワガンダやブラフミー(ゴッコラ)といったサプリメントを注文しました。
食生活のサプリ板で評価が高いだけでなく、アーユルヴェーダでは
「サットヴァ」を増すハーブとして有名なので。
http://www.supmart.com/search/?cid=ashwagandha 雑談ありとのことで、ちょっと聞いてみました。
8 :
神も仏も名無しさん :2011/08/14(日) 20:48:19.30 ID:KTFEVyO+
え?そうなん? 昔、DHCで頼んだインド人参飲んでたら切れやすくなって使用中止した。 たしかアシュワガンダだったと思う。 人によってはタマスが中和されてサットヴァになるんだろうか? 完全にラジャスだったが。
9 :
神も仏も名無しさん :2011/08/15(月) 13:15:35.04 ID:XwuzCmR8
サプリ板ではなかなか評判いいけどなぁ。 沈静系でよく眠れるとか。
やはり個人差があるのかもしれませんね。 自分はちょっと試してみます。
DHCのをみると、イチョウ葉(ギンコロバ)がはいっていて、 それは脳の血流を促すんだけど、イライラを促進するような意見がよくあった から、それのせいじゃないかな、、、。 あと、ゴツコラはヨガの行者が瞑想のために使っていたとか。 マジックマッシュルームのように変性意識を得るとかじゃなくて っていうか、あまりにもスレ違いでしたね、すみません
12 :
神も仏も名無しさん :2011/08/15(月) 19:30:20.61 ID:NRWisSma
ラマナの牛乳はサットヴァ説は間違いじゃねーの。 動物性食品だし、身体に悪い説多数だし。 まあラマナも間違えるし。
グナの話と健康はまた別の話です。 瞑想に役立つから健康に寄与するわけではありませんし、 健康によいからといって瞑想を助けるわけでもありません。 五葷(ネギ・にんにく・にら・らっきょう・あさつき)はラジャスを増加させますが 健康に寄与することもあります。 牛乳に関してはホモジナイズしているか否か、低音殺菌か高温殺菌か 牛の飼料は牧草か遺伝子組み換えのコーンか等で健康への影響が変わります。 ラマナの生きていた1900年から1950年代のインドにおける 食生活と食べ物の質を考慮してみてはどうですか。
ブッダも牛乳粥
川に居る魚のことを考えてラマナ・マハルシなら 洗剤使わないで服を洗うのかな? 世の中がそんな人間ばかりなら良くなるかも知れないな。
純粋な非二元論ということなので、興味があります。 入門者向けの書籍を教えてください。 ちなみにACIM(奇跡のコース)も読んでいますので、思想そのものについて拒否感みたいなのはありません。
あちゃー。
そっちになくてもこっちにあるかも
うん、奇跡のコースはインドのアドヴァイタとは別物だよ。 カニとカニかまぼこくらい違う。 どっちがカニかは知らないが。
20 :
神も仏も名無しさん :2011/08/23(火) 21:15:03.12 ID:hAsKdc/u
>>20 本を読んではそれをまとめて探求した気になって、分かった気になって
こういうこと書く人たくさんいたよね。
今どうしてるんだろう?
精妙な波動で素晴らしい世界に住んでればいいんだが。
一度こういうこと書いた人の10年後の自己反省とか聞いてみたいわ。
実践していれば安息を感じる瞬間が増えているだろうけど、 ただわかった気になってるだけなら、現実逃避にしかなっていないかもしれない。 「世界が無い」と、現実逃避の違いは、今の俺にはわからない。 後者には真の安息がないってのだけはわかる。
安息は感じるよ しかしそこが限界の気がする インド系の大げさなお話はそれ以上に行かない 相対性を抜けだして年老いた親の蓄えでインドに行っても何の罪悪感も感じないような 基地外ばかり生み出す。 生活保護でもハッピー。 相対性を抜けだして石でも食べて死んでくれればいいんだけどな。 中途半端に、都合のいいように相対性を抜けだした奴の話を誰が聞くかよ。
アドヴァイタには、兄弟のために何かするという概念は無いの? あくまで自己主体であり、世界で何をしようと自分の造り出した世界であるという考え方なの?
実践する事で考えるなら,向き不向きはあるだろうし、人の育ってきた環境や、そこからの選択、染み付いた感覚、慣れ親しんだ感情、何故自分がそれを好むのかを掘り下げるより前に実践している事もあるだろうしなあ。 私はヴェーダーンタの修行者というと、ラーマクリシュナが会ったトタプリをイメージするので、今現在、屋根のしたに住んで雨に濡れずに寝れないと具合が悪くなり、仕事をしてかねを稼いで暮らしていることを基盤にしているなら到底無理だなと思ってるな。
26 :
神も仏も名無しさん :2011/08/25(木) 00:35:34.57 ID:8S7pfgHB
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
27 :
神も仏も名無しさん :2011/08/31(水) 13:45:46.54 ID:VSrYaTl5
老子と荘子ってちょっと不二一元論に近いですね? タオとか言ってるし。
不二一元も、二元も、限定不二一元も、キリストもユダヤもイスラムも すべてを受容し、共感するのが真のアドヴァイタという考えでOK?
ただ“在る”
レヴェルが高いなみんな。 感心したわ
>>28 神の目から見れば全てアリってことだよね?
なにもない
>>33 アドヴァイタもこの世は幻影という視点なの?
あれが正しいとか悪いとかいちいち考えたりしない ただ在る、最高だな。ラマナ・マハルシ 宗教はこうでないといかん。
作為なく、努力も緊張もなくただ在る。 今にひたりきる。 観察するのではなく観照する。 すると肉体感覚がなくなり心の作用が止滅して 真我(仏性)が見えるようになる。
ムージ師いいよね でもいったい何者なんだろう? ぐぐっても情報出てこないし
>>38 俺もよくわからないけれど
プンジャジの弟子らしい。
40 :
神も仏も名無しさん :2011/09/17(土) 16:08:55.08 ID:VaHpLTpC
覚者にも、幼い覚者、愚かな覚者、ホラ吹きの覚者とかいろいろある その辺は、普通人と同じ事なので、おかしな者に引っ掛かって、 時間を無駄にしないようにしたい
41 :
神も仏も名無しさん :2011/09/19(月) 23:29:51.47 ID:gC3T9L+/
>>40 今は、ラマナの本とかを読んで同じようなことを言えば
誰でも偽グルになれるしね。あとはカリスマ性と演技力の問題。
42 :
神も仏も名無しさん :2011/09/21(水) 23:49:39.87 ID:2VJQzxk+
インターネット和尚が陰謀論に呑まれてるな。 だめだ、ありゃ。 あんな頭の人間の言葉が世の中通用するわけがない。 世の中斜めに見てた学生時代そのまま。 仮想現実、言葉に簡単に騙されるタイプだわ。
地震後からおかしくなっていったよね。東電云々はそれでもまだ理解できるとしても、 ケムトレイルだのイルミナティーだの、tyotto hikuwa... よそのページからの転載も、どこからが転載でどこからが地の文かわかりにくいし。。 いまみたいなブログになる前の、上から読んでいけば内容がつながる形式の長文の ページの頃は読み応えあったのに
「私は在る」の感覚がつかめない。
私も
逆に「私は無い」をやってみたら?
エゴの殻の中は空(くう)じゃなかったっけ? それから考えると、私というものは本来は 無い になる
48 :
神も仏も名無しさん :2011/09/24(土) 08:21:23.68 ID:/ja4gBfM
「私は在る」と言う実感は、心が外的対象からはなれて、ハートに向かい、 ハートに溶け込んで初めて実感できるものと思うので、まずすぐわかるもの じゃないと思います。 つまり、心が何らかの修練で統一されてないとまず無理かと。私もほど遠いです。 「私は在る」はいつも感じているエゴである私と違うので、混同するとわけが わからなくなるかもしれませんね。
49 :
44 :2011/09/24(土) 10:09:57.85 ID:+BrmEAkY
参考になりました、レス下さった方々、ありがとうございます。
50 :
sage :2011/09/24(土) 21:56:06.18 ID:U4j2Oxzi
君はどこからかやってきたのか でピンときた 確かに私は在るわ 最初はあんまりピンとは来なかったが 君は〜までに至るレクチャーみたいなものだから外せないな でも、私は在る それで?って思ってしまうんだよなあ。 在るからなんだ、世界はそのままだし、私もこのままで、明日の飯は引き続き買いに行かないといけないぞって思う。 これがエゴってやつなのかしら?
豆腐や納豆でタンパク質が足りるのなら 動物の肉を食べるのなんかみんなやめたらいいのにな。 エゴだよエゴ 食べて旨いなら他人の痛みなんかどうでもいい。
他者もまた別な自分だとしたら、自分の悪を自分で食べるんだから頂きますの感謝の念があればいいんじゃね?
想念(エゴ含む。)は、マインド だと思うので。 - 私のグルは、「私は在る」という感覚に留意し、ほかの何にも注意を払って はならないと指導し、私はただそれにしたがったのだ。 私は呼吸や瞑想、あるいは聖典の研究などの特定の過程にはしたがわなかった。 何が起ころうとも、それから注意を背け、「私は在る」という感覚とともに とどまったのだ。 それはあまりにも単純で、粗野にさえ見えるかもしれない。 私がそうした理由は、グルが私にそうするように言ったからだ。 それでも、それは効果があったのだ! 服従はすべての欲望と恐れに対する強力な解決策なのだ。
マインドを占有するすべてのものから注意を背けなさい。 完成しなければならない仕事は何であれ完成させなさい。 だが、新たな義務は避けなさい。 空っぽでいることを保ち、つねに用意のできた、開いた状態でありなさい。 招かずにやってきたものを拒んではならない。 最後には、あなたは無欲、歓喜の無執着、内なる平安、そして描写不可能な 解放の状態に達する。 しかも、それはすばらしく実在なのだ。(p393) by ニサルガダッタ・マハラジ
招かずにとは言うけど、常にそこにあり続ける問題はどうなんだろうか? ホームレスは街を歩くだけで見つかる。 それに対して救いの義務を持たないようにしろってことだと思うが、それは見て見ぬふりをしろと同じ意味を持ってしまうのではないだろうか。 全ての世界を私が造り出したなら、ホームレスを物理的に救うより、 ホームレスという存在を生み出した私の心を癒す方が先だし、そちらだけに尽力した方がホームレス救済になると思うんだが、 アドヴァイタではそういう教えあるの?
私は在るって感覚はおもしろいな 自分の行動の中で、私は在るの「私」は思考に関連して無くて、 他の部分が思考しているようなオートマチックに動いているような感じがする で「私」は思考してないっていう発見をする私も居てなんだかとってもカオス
どんな数を素因数分解していっても、それ自身×1がある、ようなものか? 数学上、1は素数じゃないから例えとして不適当かもだけどさ。
意識の「私」(個でない私)と身体の「私」(個である私)が別物だとわかるといいよ 意識の「私」と身体の「私」をごっちゃにしてなにが「私」か自分でわからなくなってるのだから
60 :
神も仏も名無しさん :2011/09/25(日) 10:36:22.93 ID:bqpH9Js9
>>56 普段からホームレス助けてんの?
だったら考えなくても自然に助けるだろ。
そうでないなら、しもしないことを妄想したところであまり意味が無い。
社会奉仕について 彼の利己心のない仕事は有用です。 その有用性は否定することがでこません。 仕事が彼の心を浄化し、そのため彼は賢者の知恵への洞察力をかなり 素直に獲得しました。社会奉仕は霊的向上の計画の中に1つの地位を占めています。 神ははじめからずっと目を離さず見ています。公的な利益がその人自信の利益とみなされています。 そのような心身の活動は心を浄化します。 ですから適切な社会奉仕は、心をより清浄にする1つの方法なのです。 ラマナ・マハルシ
62 :
神も仏も名無しさん :2011/09/25(日) 15:31:30.39 ID:vNnjghXE
>>61 何処から引用ですか。よろしければお教え下さい。
不滅の意識
「不滅の意識」のP19からです。 まったくの余談ですが、ラーマクリシュナの万教同根の思想に触れて以来、宗教は「神が人に合わせてつくった幼児食」であり、 成長するのはその人自身、という考えをもちました。 友人にエホバの人や創価の人がおり、とても利他的で親切な人です。 創価やエホバにはもちろん尊敬できない人もいますし、教義的には自分に そぐわないですが、個人を見た場合大変成熟していて、その人にとっては創価やエホバが 大変適した受け皿なんだな、と思うこともあります。 とくに末端の信者さんが創価の地域集会でおたがいを励ましあい、 利他的な理想を高めあっているのをみると、上に書いたラマナの言葉を思い出すのです。 いずれにせよ、「宗教」は、この世から立ち去るまでのつかの間の乗り物。いろいろあるのが当然と思います。
65 :
神も仏も名無しさん :2011/09/25(日) 17:37:37.42 ID:vNnjghXE
ありがとうございます。
66 :
神も仏も名無しさん :2011/09/25(日) 19:44:37.73 ID:CblaD1c/
>>61 注意しなれればならないのは、ラマナ・マハルシは、
社会的奉仕を推奨してるわけではないということです。
引用箇所はたしか、奉仕活動を実際にしている宗教家や団体に関して
「カルマ・ヨガは重要か?」という質問に、マハルシが答えた部分だったと
思いますが、ブラントンが前後の文脈を省略して、そこだけ抜き出すと
少しイメージが変ってしまいますね。
行為者の自覚なしに、淡々と何か援助をこなすとしたら、それは実際は「神」が
人の手を通して行っているだけなので、無理に止める必要はないし止めることは
そもそも不可能です。
マハルシは余程の事情がない限り、他の宗教家やグルや来訪者を批判することは
避けるので、「どうしても社会奉仕がしたい」という質問者に対して、「行為者」
意識を持たずに奉仕するならば、悪いことではないし心の浄化の役には立つ…、
という消極的な答えだと思います。
その理由は、「‘私’は奉仕活動をして社会のために頑張っている」という自己陶酔
(行為者感覚)に陥りやすく、それこそマインド(エゴ)を強めてしまうからです。
これは掲示板に奉仕活動についての話題を書き込むことも同様で
「私は社会奉仕の重要性を皆に話して、正義をまっとうしているのだ」という
優越感を増長させてしまいます。
あくまでも「探求(私は誰か)」「帰依(明け渡し)」が難しいと感じる人の
ためのやむを得ない第三の手段、単なる心の準備運動と捉えるべきだと思います。
>>60 助けてない。俺自身がホームレスになってもおかしくない状況だから。
少々の金銭的余裕ができたら炊き出しに参加もしくは寄付したいとは思ってる。
というのも、俺自身が彼らになりかけてる現状、人ごと(対岸の火事)とは思えない。
言い方を変えると、彼らは俺にとって兄弟と呼べる存在に近い。
でも、彼らの存在を俺自身が造り出しているなら、俺はその存在を訂正することに勤める。
>>66 町中に転がってる空き缶を、自転車が踏むと危ないから捨てようと考えるように、
社会奉仕も、そのくらい気軽に、利益を考えずやればいいってことかね?
69 :
神も仏も名無しさん :2011/09/26(月) 09:26:17.12 ID:wq0MK2fh
マハルシの言葉に解説は不要でしょう 言葉を受け取る一人ひとりが、考え感じればいい
70 :
神も仏も名無しさん :2011/09/26(月) 19:28:56.06 ID:04LbpOkG
Upadesa Saram (The Essence of Instruction) 3. Disinterested action Surrendered to the Lord Purifies the mind and points The way to moksha. 主(神)に委ねられた無私の行為は、 心を浄化し、 解放への道を指し示す。
>「私は社会奉仕の重要性を皆に話して、正義をまっとうしているのだ」という >優越感を増長させてしまいます。 それは何でも同じでしょう。 「私は探求(私は誰か)をして求道をまっとうしているのだ」という 優越感を増長させることもあれば、 「私は帰依(明け渡し)をして正しい人のあり方をまっとうしているのだ」 という優越感を増長させることもある。 マハリシは「利己的なものでは」ない、「適切な」社会奉仕(p20)について語っています。 「人の努力は社会奉仕で終えることは出来ません」「すべてのことは適切な時におこる」 のは、折込め済みとしても、それで「適切な社会奉仕」の価値が「有用」であり「そのような身心の活動が 心を浄化する」というラマナの言葉を「「消極的」と解釈するのは無理があるし読み手の主観が混じっているような気がします。
72 :
66 :2011/09/26(月) 23:34:21.43 ID:r1G0jmGR
>>71 ちょっと感情的になっていたので言葉の選択を間違えました、謝罪します。
確かにどんな教義や実践でも優越感の原因になり得るし、社会奉仕について
ラマナは消極的にみえるという、自分の独自解釈が混じっているかもしれません。
自分としては
>>69 に書いてある
>マハルシの言葉に解説は不要でしょう 言葉を受け取る一人ひとりが、考え感じればいい
に同意します。しかしそれを自分の中でおさめず、あちこちで人に説いて回る・スレに
引用をコピペする場合は話が別です。
なぜ感情的になってしまったか率直に書きますが、
>>61 と
>>64 の内容が
なんらかの布教活動に悪用されかねないと感じたからです。
以前、ACIMスレで他者が存在するか否かとか、他者への愛とかの議論が白熱したときに
やはり
>>61 と類似の内容のレスがあり、(同じ人か別の方か不明ですが)
「マハルシがこう言っている。だから他者への奉仕活動をしなければならない」的な
ニュアンスで引用を使われていて、とても違和感を覚えました。
もし、マハルシをよく知らない人が ACIM スレの書込みを見たら、マハルシはまるで
組織宗教の教祖で信者に社会奉仕活動を強要してる、とも誤解されかねない印象でした。
マハルシは質疑応答の流れや相手の話に合せて答えるので、ある箇所では「グルは必要」
別の箇所では「グルは不要、自分の中を探せ」と、まるで矛盾したように読めることもあります。
だから前後から切り離して、引用者の意図にあわせて加工される危険性や、本来の
マハルシの考え方とは全く違う誤解を受ける可能性もあるので、引用やコピペは
慎重にすべきだと思います。
(ACIMの文章の抜粋を、わざわざ発言者「イエス」と先頭に権威付けして、
むりにその言葉の価値を持ち上げた書込みをする気持ち悪さに似ているかも)
だめだ、すごい時間かけて長文書いたけど、不完全燃焼で全然すっきりしない。 短く適切な言葉ですぱっと書けない… いま PAUL BRUNTON の「A SEARCH IN SECRET INDIA」を読んでるんだけど そこで描かれてる日常のマハルシって、何時間も無言のトランス状態で ごく稀にしか弟子や来訪者と言葉を交わさない感じで まさに‘沈黙’(モウナ) の人って感じなのがすごい。 ブラントンやゴッドマンその他のマハルシ本ばっかり読んでると、ついつい よく喋る親切な賢者の印象を抱いてしまうので、結構ギャップを感じます。
有用と無用を分けたら不二一元じゃないよ 根源的には同じだとわかってて、表面上で有用と無用を分けてるならいいけど 奉仕と奉仕でないものは分けられないものだし、 生から生じるあらゆるものはどのような形であれ奉仕だし、 別の言い方をすれば、生じていることはどのような形であれ奉仕ではないよ あらゆるものがただ同じであり、全て同じものの現れ方に過ぎないいう前提で、あれは奉仕、 これは奉仕でないと言うのはいいけど、 ほんとに実体として奉仕とか奉仕でないとかいうものがあると思ったら、 それは自我が求めてる願望や錯覚だろうね。
75 :
神も仏も名無しさん :2011/09/27(火) 06:23:25.32 ID:cDI4zYaN
>>66 いいたいことはなんとなくわかります。でも、その人なりの理解をするのは避けられない
でしょうね。
たとえば、今あなたの書き込みの内容についてですが、マハルシは、グルの必要性は常に
認めていると思います。ただ、グルが人である必要はなく、内側にいるとい言う言い方
をしたりしてると思います。これはわたしの理解です。
確かに、マハルシはだいたい沈黙していたと思います。答えを引き出すのは一種のアート
であるとどこかの本に書いてありました。たぶん。
>>72 多分オレだよwACIMでマハルシ書いたの。ACIM理解できなくてマハルシまで手を出した
だけだからwエゴを浄化させる方法のひとつに社会奉仕、自己完結って書いたでしょw
上の人とは別人だからw
福祉関連の進学を考えてる俺にとっては、非二元論はホントややしこいんだよなあ。
本読んでもイマイチ頭に入らないから質問するけど、マハルシは他人に心は無いと
考えてるのかね?医療関連の仕事はどう思ってるの?
ACIMにとってもそうだろうけど、不二一元にとって、 不二一元がどういうものであるかわかるのが目的だから、 他人に心が無いでも、心が有るでも、言い方は、言う人聞く人、その人に応じてかわると思う よ。 心が有るということも無いということも同じなのだから。 悩みや疑問があるなら、その悩みや疑問が何故生じてるのか?、悩みや疑問を生じている 自分とは誰なのか、その自分とはどこにどのようにいるのかいないのか、誰なのか?、を 自分自身に問いかけてみたらいいんじゃないかな。
悩みは疑問は突き詰めると無いという回答が出てくるけど、それでいいのか?というささやきが常に消えない。
悩みや疑問は無いという回答は出てても、 悩みや疑問は有っても無くてもいいのかという問いの回答が出てないんだろうね。 悩みや疑問が有るとき、すべきことがあるのだろうか、ないのだろうか。 悩みや疑問が無いとき、すべきことがあるのだろうか、ないのだろうか。
>>79 有ってもなくてもいいと思う。あれば暇つぶしになる。なければ心が安定する。
現状の俺は悩みにどっぷり浸かってて、暇つぶしが強制労働に変わってるんで、心の安定が欲しい。
悩みや疑問があるときにすべきことはある。悩みや疑問があるとき、解決しようとするわけだから、すべきことが見つかってしまう。
悩みや疑問がないときにすべきことはない。ただ、悩みや疑問を無理矢理みつけてしまう。
いまの俺が持ってる答えはこんな感じ。
81 :
61 :2011/09/27(火) 22:50:27.86 ID:qXJX0zta
>>72 なんだかよくわからないですが、もっとシンプルに考えられないですか?
ACIMっていうのは最近このスレで知りましたが、私はまったく本気で興味がないし、
そのスレにもいったことがない。
すくなくともあなたが何を言ってるのかわからない程度には、ACIMとかに詳しくない。
同一人物とか言われてもって感じです。
言葉というのは、ラマナの言葉だけではなく、どんな言葉でも(ブッダの言葉でも)
悪用しようと思えば悪用でき、曲解しようとすれば曲解できるものだと思います。
それこそ受け取り手によって。
単にあなたがACIMスレとかで経験したことよって身につけたフィルター解釈を、
逆に読み手に押し付けてるだけではないですか?
まあ、読む人もいろいろだなあとは思い、確かに引用は慎重にしなければいけないとは感じました。
周りのすべてが敵と思えるような、つねに死の恐怖に晒されているような、 そんな厳しい状況にあっても指導者はそのひとを助けることはなかった 神か自我か、その選択の前に立っていたからだったようだ そんな苦しい状況にあっても自我を選んだそのひとは、あとになって振り返ってそのことに気付いた 「苦しみ」を利用したんだと、自我を守るために 神や真理に引き寄せられた人々というのは、遅かれ早かれこの選択の前に立つために今、在るんだろうな 遊び半分で真理に触れないほうが人生は楽だな 楽な人生は幻だけど
不二一元論て、「自分」と「他者」という言葉の意味するところをかえて、 それまで「他者」と呼んでいるものを「自分」に含める。 というか、その時点で自分・他者の言葉の意味が失われるようなものかな? 普通の考えでは、肉体(あるいはその脳内で展開される現象)を自分、外側の世界を他者としてるとしてるけど。 自分というのは縁起、因果関係的に他者に依存して構成されるものだから、外側のあれも自分これも自分と広げていって ビッグバンよりこのかたの宇宙も、あの世この世もすべてが自分だとする。 すると「自分」という言葉のさすものがなくなる──こんな事考えてみた。
自分というものを突き詰めると 体は誕生以前にあった原子の集まりに過ぎないし、 言葉や考えは世界から与えられたものだし、 なんだか分からんのよ。 世界と不可分と言うか。 分けられない以上世界=全体=私となる。 しかし、自我は自我として機能する。 自我が真我として機能しようとすればおかしなことが起きる。
命を狙われる恐怖や死の恐怖に日々を満たされていながら、 それを小さな試練といい、それを乗り越えられないようじゃ役に立たないと 振り返ってみればたしかに小さなことだった 他人の運命に干渉できる力なんてこの世には滅多に存在せず、 その力を持つ者は神にすべてを捧げた者のみ どんな権力も武力も運命には指一本触れられない 聖者はそれを知っているから、他人の苦しみにも微笑んでいられるんだろうな 昔も今も全く変わらない態度を見ているとそう思う みんなもこれから、その道を行くのだろうな
>>85 世界は寝ているときに見る夢のようなものだから、恐怖そのものが実際にはない。
ってことじゃないの?
何がおきても、夢の中だから何もおきていない。
>>86 それを本当に実感しているひとはく少ないだろうね
実感してるから指導者は時々、冷徹で血も涙もない人間だと思われたりする
夢の中で好き勝手に苦しんでいるだけで、その夢から目覚めたければ瞑想しなさい、不完全をわざわざ認めるのはやめなさいと指導する
それでも勝手に苦しむひとに対して心の中では「もっと苦しめと思っていたりするよ」と笑う
「うんと苦しんでこの世で戯れることに飽きなさい」っていう感じだね
苦しみも取り除いたりなんて滅多にしない
自殺しない程度に助けるくらいだろうね
88 :
神も仏も名無しさん :2011/10/06(木) 20:24:48.12 ID:4fFZSCfc
指導者ってだれですか?
釈迦なんかは和顔愛語を語ってなかったかね? 今だ二元性のなかに生きる凡夫に対して「もっと苦しめ」とは誰も言わないと思う。
>>87 二元論って、夢を見ているのは私で、他の人たちは自分の造り出した人々ってスタンスじゃなかったっけ?
夢の中の痛みでも、痛いものは痛いでしょ。夢見ている当人にとっては
そうだよね。それをどう扱うかだ。
93 :
神も仏も名無しさん :2011/10/06(木) 23:01:37.00 ID:dXULmArb
生きる苦しみの中にも完全性を見ることができるね。 存在は偉大で、苦しみを通しても本来の自分に返っていくように促していく。 苦しみは神の猟犬。
夢の中で夢と気づいたら、痛くても笑えるな わはは痛いやって、痛いと同時に笑える 痛みはあるけど、それは別に問題ではないよね
95 :
神も仏も名無しさん :2011/10/07(金) 06:53:18.38 ID:LeBeJUxp
夢をみているときは、夢であると気づけないと思うけど。非常にリアルにかんじて、おき た時に初めてわかる。だから「現実」がSELFであると気づいたときと対比されていると思う。
>>89 真理を求めて釈迦のもとに集まった人々に対しては「もっと苦しむ必要がある」と思っていたかも知れないよ
いつまでも苦しみの中でもがいている姿を、わざわざ見ていたいとは思わなかったはず
それがありもしない苦しみだとしても
「かもしれない」ですか。
運がいい?と以下のような体験?ができるかもしれません。 夢の中で、リアルな感情で行動している。 目覚ましの音が聞こえる。 リアルな感情がなくなり、今まで夢の中で行動していた者が消え、見ている者だけが残る。 そこには、「見ている者」しかない。 かゆみを感じ、じょじょに今の世界に入ってくる。 「見ている者」は、今の世界では、いつも同じ人を通して世界を見てしまうためか、 「見ている者」は、たいていは、その人と同一化してしまう。 夢の中、今の世界にもいる「見ている者」。 これが、本当の私でしょう。 普段でも極力、「見ている者」に意識を向ける事によって、運が良ければ、本当の私が分かるかもしれません。
運って言ってるけど、まあ真剣さだよね
Lucid Dreaming
http://www.lucidity.com/LucidDreamingFAQ2.html 明晰夢 (覚醒夢 : これは夢であると自覚できる睡眠状態) を見ようと、毎晩いろいろ
試して一ヶ月たつけど、まだ一度も見ることができない。個人差が大きいみたいだ。
ラマナ・マハリシの言葉では、覚醒・夢見・昏睡の各状態よりも、それを超越した
第四のチューリヤ意識が大事とのことだから、明晰夢の訓練は脇道かもしれないけど、
夢の中で空を飛んだり自由に世界を探求できたりするのは、個人的に魅力を感じる
この世が幻想だと分かった時、 夢の中とか、宇宙とか、外側に対しての興味がばっさり落ちると思う。 今、いる場所自体が夢の中のようなものなので、なんか意味ないじゃん?みたいな感じで。
明晰夢がアドヴァイタと関係あるかはわからないから スレ違いってことで書くけど、ヘミシンク使えばけっこう簡単に みられるよ。wave1ってcdで、半覚醒状態になって、そのまま 体をひねるとリアルな実感を伴って夢の中で歩けたりした。 そのまま玄関を出て外を歩いた。 自分の体を触ったり。 カスタネダの夢見の技法にもそんなのがあるらしいし、 他にもチベット仏教の観想法や発声法に近いメソッドがあるから、 興味ある人にはおすすめです。確かにある種の効果はある。 手っ取り早く神秘体験したい人には驚異的な効果とおもう。 でもこのスレの人は神秘体験は望んでないんじゃないかな。 最近のヘミシンク周辺のメディアをみてもアセンションだとか共同幻想にとりつかれてるようだし。
それに、それが人格の向上につながるかって言うと、「直結はしない」と いうのが答えかな。各種アファメーションがはいっている ディスカバリーシリーズや、オープニングハートみたいな「マインドフード」シリーズだと、人格向上につながるけど。 まあ、「意識の拡大」って奴をインスタントには味わえる。 オカルトに興味本位の一般人でさえある種の効果はでてるけど、それが 単なる「観光」に終わってる感があるな。 アドヴァイタはもっとリアルな日常に根ざした感覚じゃないかな。
ただ、
>>100 みたいに「脇道」とわかってて
>夢の中で空を飛んだり自由に世界を探求できたりするのは、個人的に魅力を感じる
って人には、やってみる価値があるとはおすすめする。
悟りと関係はあるかわからないけど実生活に生かすにはそれほど否定的なものじゃなく、
「リボール」とか技法があったり、「レゾナントチューニング」という技法があったりまあ気功の一種ですね。
実生活で役に立つ。
誤 ゾクチョン 正 ゾクチェン
創造もなく、破壊もない 誕生もなく、死もない 運命もなく、自由意志もない いかなる道もなく、いかなる達成もない ラマナの言葉だがじゃあどう生きりゃいいのかとエゴ的には尋ねたくなるのだが。
108 :
神も仏も名無しさん :2011/10/08(土) 10:48:06.48 ID:6TIXWerA
それは究極の真理の言葉だから、他の言葉を参考にした方がいいと思います。 バガヴァッド・ギーターのアルジュナも分からなかったわけだし。
109 :
神も仏も名無しさん :2011/10/08(土) 18:22:48.55 ID:gQ8ivDJm
ラメッシの本を読めばすべて解決する。 何を考え、何が起こり、何を感じるかさえ自分でコントロールできない。 人生を起こるがままにするしかない。
インドは凄いよな、道に座ってる牛を神として避けたり 日本に住んでたらイライラして時間に追われて 牛跳ねてもそんな罪悪感だとか二の次だもんな 仮にやりたくないことはやらないし俺は虫も殺したくない人生を送りたいで 乞食になっても尊敬されるサッドゥになれるから凄い文化だ
地球温暖化の影響かどう考えてもおかしい気候状態だが 仮に虫も殺したくない乞食のような世捨て人のほうが 地球規模の気候もおだやかで輪廻とかあるのなら 来世に今快適な文明社会より楽な人生送れるとしたら 現代人は何をやってるんだろ?って気にはなるな
虫も殺したくない人生を送りたいで乞食みたいな風貌になったら 日本人は本当にその精神性の高さは認めない風潮だもんな それでも一昔前は勝ち目の無い戦争をやらなければ 何の得にもならないのに精神論のみで非国民とかやってたんだから訳わからんな
>>100 起きてトイレにいったけどおしっこがなかなか止まらなくて起きたら夢で、
ああ漏らさないでよかったそれにしてもリアルな夢だったと思いながら、
おしっこしてたらこれも夢だったというのは明晰夢にはいりますか?
ちなみに漏らしませんでした。ご静聴ありがとうございました。
>>109 人生を起こるがままにするというのは、現世での学びを否定することになって、同時にあの世から転生する必要も無いということになるな。
この世に生まれてくる理由は、効率よく学ぶためらしいが、善悪ひっくるめて学びを放棄して、
ただ流れに任せるようになったら、転生の意味が無くなる。輪廻の輪はそこでとぎれる。
輪廻転生の必要が無くなったら、あの世に留まることになるわけだけど、あの世でも私のみという状態になるんだろうか。
>>109 >人生を起こるがままにするしかない。
起こるがままに「する」こともできない。
努力しようが怠けようが、すべては起こるがままに「ある」ということだ。
「人は無限だ。それぞれの生きる道は 天によって完璧に決められていて、それでいて完全に自由だ。 根っこのところを天に預けている限りは。」 by沢庵和尚。
117 :
元芝 :2011/10/09(日) 03:36:29.58 ID:uOFOGFgk
>>114 それは転生に意味があった場合の話だろ?
花は意味があって咲くのだろうか?
花はただ「在る」ために在る。
起こる出来事に自分のエゴたる意味付けを為さない。
花はそこに無為に咲き続ける。
>>97 「かもしれない」だよ
自分で直接会わないかぎりね
ただ在るといっても、そのままで仕事しないで寝てるだけってわけにはいかん
そういう意味じゃないじゃん 仕事してるときは、ただ仕事してる ただ寝る、ただ起きる、ただ仕事する、ただくつろぐ、どのようでもただ在る
私が行為していると主張することなく、気づきとして、目撃者として 行為し続けないといけないわけでしょ
どんなに働きたくないと思ってても、お金がなくなれば、飢えて死ぬ事へのおそれの想念が 沸き起こってきて、ハロワークへおもむき仕事を探す。 仕事を得て、金を得て飯を食らう・・・ その間も私はそれらすべての目撃者であり、気づき・・・
124 :
神も仏も名無しさん :2011/10/10(月) 00:05:55.50 ID:vVZY8v7j
125 :
神も仏も名無しさん :2011/10/10(月) 11:25:10.55 ID:fqhBnUsz
「在る」という認識と二元性を統合すること、 それとクンダリーニの覚醒はワンセットとしてあります。 それは、すべてがそのままでOKであると気付くこと、 自分もまた神そのものであったと気付くこと。 愛に一切の条件を付けないことがキーになります。
ダスカロスは東洋のクンダリーニ系の瞑想は危険だから勧めなかったらしいが・・・ 師についてやるなら別だけどさ。 変にクンダリーニが活性化(って言うのか?)すると、身体異常や統合失調症のような状態を引き起こすと聞いたことがある。
クンダリーニ × クンダリニー ○
128 :
神も仏も名無しさん :2011/10/10(月) 14:42:38.50 ID:fqhBnUsz
実際クンダリーニ覚醒は危険です。 第一チャクラで信じられないほどの強度のエネルギーが発生します。 私は三年ぐらい本当に苦しみました。 なぜ苦しいかというと、意識が「在る」という状態に至ると それまでの意識領域とまったく別の領域に入るので、 強制的な浄化が起こるのです。 潜在意識の中に眠っていた恐怖や痛みが解放を求めて上がってきます。 ですから肉体的に苦しいだけでなく、精神的にかなり苦しくなります。 見たくないと逃げていた心の闇が、解放へ向かうのです。
それ苦しむだけの自我が残ってもがいてるだけじゃん 特にクンダリーニと関係ないよ 一緒に起こる人もいるかもしれないけど
悟りに至るまでの間に何を経験するかは、人ぞれぞれでしょう 喜びを通して至る場合もあれば、苦しみの末に到達する人もあり 結局、主客を伴う経験の全てはその人の心の創造物でしか ないのでしょう。何を内在しているかによるのでは。
目を閉じ眉間に集中し、そこに光り輝く白光をイメージする 「我すでに神なり」「我すでに光なり」と意識で唱える 光を描くと、その光が雑念を静め、眠気も防いでくれるそうだよ これはチャクラを無理にこじ開けたりすることがない、静かで安全な瞑想だと思うよ なんも見えない、刺激もなからつまらないかも知れないけど、だから安全だともいえる ゆるやかに自然な形でチャクラが開いてくれるそうだよ といっても続けると光が自分を満たしたり、光の中に自分が溶け込んで消えることもあるだろうけど ここから先は少し勇気が必要だろうね
132 :
神も仏も名無しさん :2011/10/10(月) 20:03:05.20 ID:fqhBnUsz
自分の瞑想の経験からいうと、 >光が自分を満たしたり、光の中に自分が溶け込んで消える ここのところが、人を癒したり、変容させるのに重要と感じる。 最終的には、サマディの経験、思考が落ちて自分の内奥に深く集中した状態 が瞑想経験のコアにあるように思う。 明らかにこの状態でしかアクセスできないとても精妙なエネルギーがある。
そういうやり方なりが本当に大切なら、マハルシもそういう話を細かくたくさんしただろうよ 技法やイメージを使うのもありかもしれないけど、あくまで使うというだけで、 特別な技法やイメージなどに捉われないようにしたほうがいいと思うよ
ダスカロスの瞑想法ってのはマルハシ系の瞑想とは別物なの?
ダスカロス自体がアドヴァイタとは別じゃない? 神秘的キリスト教の流れじゃなかったっけ アドヴァイタとも根源的に同じということはあるだろうけど ダスカロスの瞑想法は知らないけど、 不二一元的に言えば全てが瞑想であり特別な瞑想法はないんじゃないかな もちろん、それがわかるためにみんないろんな瞑想法とか試すんだろうけど 瞑想法より、瞑想法を試したり探してるわたしとは誰かのほうが重要じゃないかな
136 :
神も仏も名無しさん :2011/10/11(火) 02:10:16.66 ID:J7PQ7XoE
ウィルスソフトでウィルスを除去するようなもんで その途中経過を神聖視しても意味ない。 必要ない人もいるし。 精神世界自体が一種の幻だわ。 考えも幻なんで幻には幻が力を持つだけのこと。
神聖なものと神聖でないものを分けたらただのエゴだからね 全てのものに真我を神聖そのものを見ないと
光などを感じることでエゴを手放すのではなく、 エゴを手放すことで光なりを感じたらいいんじゃないかな むりやり光を感じようとしなくても、エゴが消えていけば自然と光はあらわれるよ
139 :
神も仏も名無しさん :2011/10/11(火) 09:32:28.08 ID:0qZrMjJD
140 :
神も仏も名無しさん :2011/10/11(火) 09:34:55.76 ID:0qZrMjJD
一つだけh抜くの忘れてました。。
光をイメージするのは一元に近づくためなんだよね 元々が光によってできているこの世界、そして自分を意識するほうが楽だということだそうだよ でも光も途中であることに間違いはない あらゆる現象を越えて実相に到達すると、そこは光でも闇でもないということらしい あえて世界に意識を向ければすべては自分、あらゆるものを一瞬で同時に実感することになるとか 分離のないその場に立ってはじめて本当の愛を行うことができるそうだよ 瞑想は光を知り、光を越えて一元に到達するためのとっても便利な道具、近道だそうだよ
瞑想系の話が出てるんで質問 某スレでも書いたけど、ある人を何度も尋ねて居ない→次にいなかったら帰るかどうするか→突然、絶対にいるという確信を持ったことがあった。 でも居ないかもよという仮定が存在できない、全く否定が無意味になるようなくらいの確信。強烈なものじゃなく穏やかだった。 これどういう現象かわかる? 歩きながら瞑想状態に入ったにしては、帰ろうかなと考えていたんで雑念は入ってる。 居るのかなと心配しながらのところにいきなり確信がもたらされた感じ。
たんなる、マインド。
ARUNACHALA SHIVA かぁ。 アルナーチャラで、この歌をよく聞いて気に入ってたのだが、 タイトルが分からなかったので、アシュラムの売り場で、 自分で歌歌って、この歌のCDありますかって聞いて、 CD買ったのを思い出した。(笑)
チベット密教でも光を観ずる瞑想はたくさんあり、 なんか「甘露を頭から流す」という白隠の軟蘇の法そっくりのものもある。 チベタン仏教は世界最高峰の「心理学」だと思う。 ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの本を読んだらラマナと同じことを言っていて1ページごとに首肯できた。 まあ覚者は結局同じことを言ってるのかも知れないけど。
瞑想話ついでに、みなさんは1日何時間くらい瞑想してますか? それはどんな? まあ、「瞬間瞬間、日常が瞑想」といわれればその通りですが、 そういう言い方をすれば座して瞑目するのも「日常であり特別な瞑想ではない」といえるわけで。 そうではなくエクササイズ的なことをやってますか?心の健康法として。
147 :
神も仏も名無しさん :2011/10/12(水) 08:33:33.22 ID:tRkbb6ik
ヨガスタジオでアーサナやってる。これは面白くてはまってる。 アシュタンガヨガはきついけど面白い。 瞑想は一日一時間ぐらい。 只管打座。特別なことはせずただ座る。 ヨガスタジオのヨガティーチャーのお姉さまがたは、 体操はうまいんだけど瞑想しないから、 ヨガの本来の目的を取り逃がしてると感じることが多い。
僕も1日1時間くらいです。 夕方は15分座るのもきついけど、朝は1時間余裕と気付いて。 早起きして座ってます。格式ばったヴィパッサナーではないですが、 いまここに気付くように
椅子に座っていても胡座でも正座でも構わないけど 背すじと首すじ(脊椎と延髄)を真っ直ぐにしておくことは大切らしいよ エネルギーが流れる通路みたいだから なるべく無理な姿勢をとらずにリラックスしてね
みんな一時間もよく座れるなぁ。 私なんか三十分がせいぜい。 瞑想始めてもう三年ぐらいなのに。 足が痛くなるか、退屈になるかで、座ってられなくなる。
20分やって10分休んで、とかでもいいと思うよ あと30分で疲れたら、身体を横にしてそのまま続けてもいんじゃないかな 横になれば自然に背筋、首筋も真っ直ぐになるだろうし 寝てしまったら、それもまた良しということで あと姿勢を同じ状態で維持し続けようとし過ぎているのかもね 楽になるまで身体を動かして姿勢を変えても問題ないし 途中で立ち上がってストレッチしてもいいし
152 :
神も仏も名無しさん :2011/10/14(金) 20:28:46.19 ID:BvEOR8hf
確かに背筋をまっすぐに伸ばして座るのはとても重要。 自分が瞑想していて、背骨がまっすぐ伸びていないと瞑想が深まらない。 何故なんだろうか。理由は不明。 このスレに興味あるような人でも、本は読むけど、 実際に瞑想の実践をしている人は少数派ではないかと推測する。 本を読むことによって得られる理解と、 瞑想を実践することによって得られる理解はまったく違う。 本よる理解は、記憶の劣化とともに消えてしまう。 瞑想による理解は、その人の存在のあり方そのものに刻まれて、 決して消えることがない。
153 :
神も仏も名無しさん :2011/10/14(金) 21:33:53.98 ID:NLLo/Dzx
自分の経験では、背筋伸びてなくても集中が深まることがあります。 姿勢は、あくまでも助けになるもので、必須ではないと思います。
>>150 自分もそんなもんですが、自分の障害である眠気とイライラが
少ない朝イチならけっこう座れるようになりました。
夕方は15分でもきついんですが。
寝ながら自己を見る自己を見ようとしてるが、いつの間にか寝てしまう
私も、寝るときに見ている者を意識するということは、 よくやるが、いつの間にか寝てしまう。 でも、夢から現世界への移行の >> 98 の体験は、かなり強烈だった。 まぁ、「見ている者を意識」するのが一番、簡単で強力な方法だと思う。 瞑想18年間毎日続けて、今は瞑想はしていない者の所感でした。 (「見ている者を意識」する事は、気がついている時にやっているが、 その行為も意図的というより勝手にやっているという感じ。)
見ているものを意識するというより、外界・内界含めて 全現象が現れている「場」そのものに気づいている、 という言い方のほうが、俺はしっくり来るな。 最初のうちは何かしらのブレイクスルーを期待していたけど、 今はそれもなくなった。さまざまな瞑想体験は起こり続けるけど それは単なる飾りだな。
>>156-157 いわゆるヴィパッサナーの感覚だろうか
「考えているわたしは誰」「ヴィパッサナー」「セドナメソッド」「ホ・オポノポノ」「EFT」
まあこのスレの人には笑止かもしれないが、どれも自分流に脚下照顧の手段にしている。
かならずどれも「あくび」がでる。
「EFT」のときは一通りタッピングするとあくびの涙が頬を伝う。
言い方は、いろいろある。
基本的には、何もしてないし、物事が起こるだけ。
しいて言うなれば、ラマナの以下の表現がぴったりだ。
創造もなく、破壊もない、
運命もなく、自由意志もない、
道もなく、達成もない、
これが究極の真実である。
>>156 は、
これを理解するための、ひとつのメソッドを示しているにすぎない。
人間の生きてることに意味はないってことですね。 しいて言えば、成し遂げることは全くないということを認識すること以外に成し遂げるべき ことは全く何もないということですね。 初心者には頭を悩ませることばかりで困ります。
意味がない からといって、生を楽しんではいけない わけじゃないから、絶望する必要はないと思う。 たとえばエクストリーム・アイロン掛け。それに意味はないけど楽しめる。
意味がないのではなく、意味があるとかないとか判断する自分などいないということ 意味があるとかないとか悩まなくていい、悩みも悩む自分も、どこにもいない もちろん、悩みたいなら悩めばいい 悩むことも悩まないこともどれもみな真我のあらわれであり好きに選べばいい
163 :
神も仏も名無しさん :2011/10/16(日) 19:06:04.41 ID:LmK48QfF
好きに選べるなら、悩まない方を選ぶと思いますけど。
悩むのはつらいことだとしてるからつらいのかも 悩むのもたのしいかもよ 永遠に悩みがなかったら、悩んでみようかと思うかもしれないね
でも実際にはほとんどの人が悩みというジェットコースターを好んでる現状。 シンプルなことを複雑にして、簡単なことを難しくとってしまってる。
悩むからつらいんじゃなくて、精神的・肉体的につらいことがあって、 今までの自分の能力や知恵で解決できない、または一定期間苦しみが続くことがわかっている、 そういう避けられない苦しみの状態が本当に悩むってことじゃないの? 悩まなければ、考えなければ苦しみがなくなるという程度の悩み、 何かについてどうしようか迷っているという意味の悩み、そういうのは同じ悩みという言葉でも意味が違う。 まぁ精神的な苦しみだけなら極論を言えば、悩まなければ解決するとも言えるけどね。 本当に苦しいのは精神も病んでしまう状態だから、その状況ではそれも通用しない。
悩んでる自分を自分だと思ってるからつらいんじゃない? 悩んでる自分を自分と思わなければ、悩んでがんばっててえらいなあって生に感謝するだ けだよね 身体と心は悩んでても意識は悩まない、悩みようがない
この世界は苦しみは避けられない。 解脱した人でも、肉体と心のレベルでは苦しみは受けるように見えるだろうし、 実際受けているともいえるだろう。自分という感覚はないかもしれないが。 仏陀はこれを、「第一の矢は受けるが第二の矢は受けず」と言い表した。 肉体と精神の根本的な避けようのない苦しみはただ苦しむしかない。 ただ苦しみの中にあって未来を思い煩うことはないし、それが過ぎ去れば何の痕跡も残さない。 そういう意味だろう。
170 :
神も仏も名無しさん :2011/10/16(日) 20:32:32.31 ID:LmK48QfF
バガヴァン・ラマナは「全ての思いは悲惨です」と言っていました。 というのも、思いをもつこと自体が真我から離れることになるからです。 ですから、聖者の視点では、「悩み」だけでなく「楽しみ」の思いも悲惨 なものにすぎないと思います。 また、悩む自分がない時、どうやって悩むこと自体が起こるのでしょうか。 。
そりゃ悟った人は悩まないだろう。そこが俗人とちがうところ。 ただ外から見ると、悟りの人も腹が痛けりゃ苦しそうな顔をするし、 病気で苦しむこともあるけどね。だがそのことについて思い煩わない、それは確かだろう。
まあ、楽しいってのも言葉だから、それが何を表してるかだよね 楽なのか喜なのか精妙なのか合一なのか無なのか ラマナだって笑ったりしただろうし 悩みも楽しみも思いも自分も、その言葉が何を指しているかで全く別のことになるかもね 表面上の意味や事柄を指せば別のことだし、あるいはどのような言葉を使おうと、根本的に は真我しか指せないとも言えるかもしれないし
蚊に刺されるのも、腹痛も同じ扱いになるのかね
174 :
神も仏も名無しさん :2011/10/16(日) 21:01:51.72 ID:LmK48QfF
まず、勘違いされるところがバガヴァン・ラマナをある肉体とみなしている ことがあると思います。たびたび、バガヴァンは信奉者にあなたの前にある 肉体をバガヴァンとみなさないように言っていました。それが理解できない 人に、聖者も苦しみを経験するが、悩まないという言い方がされるのでしょう。 あと、楽しみ(pleasure)と幸福(happiness)をバガヴァンは分けています。 欲望が満たされるのが楽しみで、幸福とは真我と同義です。あらわしている ことは別に複雑なことではありません。
俗人の真我の一端(観照者)はマインドに完全に同化している。 瞑想やスポーツなどでいわゆる「ゾーン」に入った時、観照者は一時的に少しマインドから分離するが、 強い傷みなどの外的な不快な刺激が起こればすぐにマインドに同化してしまうだろう。 解脱の程度によっていろいろ段階はあるだろうが、おそらくラマナなどの解脱しきった人なら マインドの中身と観照者は真我に溶け込み、真我としても自覚が完全に確立された状態だろう。 この状態では肉体とマインドには自分という感覚はなく、自動的に活動を続ける3次元幻想世界の 映像の一部程度に感じるはずだ。肉体が何を喋っても、教えを説いていても、 それに真我である自分は関わっていない。肉体に傷みが起これば苦しんでいる肉体を見ているだけ。 肉体(マインド)に焦点を合わせれば、幾らかは自分の事のように感じられるかもしれない。
「第一の矢は受けるが第二の矢は受けず」という言い方をする理由はおそらく、 悟ってない普通の人間が苦しみから逃れようとすると、かえって苦しみを増す結果になることを 懸念していることが考えられる。 避けられない苦しみがある時にそれから逃れようとしてマインドから離れようとしたら それは余計に巻き込まれる。 むしろ逃れることを諦めて苦しみの真っただ中でいつまでも苦しんでやろうという心境の時に 幾らかマシになる(観照者の視点が出てくる)。
もちろん肉体の根本的苦痛、「第一の矢」についてのこと。 小さいことにこだわって悩んでることに原因がある精神的な苦しみは いろいろ工夫して苦しみを減らすことが出来る。
まあ、ラマナがどうか悟った人がどうかじゃなくて、自分がどうなのか、自分が誰なのかだよね それだけ
179 :
神も仏も名無しさん :2011/10/16(日) 22:21:40.29 ID:zHhndb6b
ラマナの教えの勉強会、都内で行っている団体はないの?
ヨガナンダやユクテスワが本に書いてることを実践すればいいんじゃないの
>>161 絶望なんかしてないよ。何かやる気が抜けるだけだよ。
ACIMもそうだけど単に夢見てるだけだしニューエイジの教えは所詮はエゴの範疇だから
頭悩ませてる所。
>>174 全部幻想ってことか?
起こる全てが自分から投影された全てなら、聖者も悪者も”私”の可能性の一つにすぎないってことかね?
>>181 ACIM知ってるなら、JACIMの質疑応答にやる気がなくなることについての話が出てなかったっけかな?
スレのほうでも前に出た記憶がある。
ラマナ・マハルシは悟ってましたよね 日本に住んでたら仕事しない浮浪者で いつも座ってる人なんだろうけど やけに人格者であんな辛い修行するなら 警備の仕事でもすればいいのに と日本では囁かれる程度なんだろうけど 頑に世間に関心無いのに問われたらあれだけ語れるのが すでに只ものじゃないよね
184 :
174 :2011/10/17(月) 07:35:18.35 ID:x0pUwQV0
>>182 全部幻想であることは、基本的な教えだと思います。だからといって、体験してないのに
幻想・幻想と言って回るのは滑稽に感じますが。
二行目は、よくわかりません。どちらにもなりうるという話よりも、真我であることを
忘れているから、その忘却から目覚めることが、強調されますね。
185 :
174 :2011/10/17(月) 07:50:37.26 ID:x0pUwQV0
Talks with Sri Ramana Maharshiに詳しいです。 Talk 33. A visitor: “The Supreme Spirit (Brahman) is Real. The world (jagat) is illusion,” is the stock phrase of Sri Sankaracharya. Yet others say, “The world is reality”. Which is true? M.: Both statements are true. They refer to different stages of development and are spoken from different points of view. The aspirant (abhyasi) starts with the definition, that which is real exists always; then he eliminates the world as unreal because it is changing. It cannot be real; ‘not this, not this!’ The seeker ultimately reaches the Self and there finds unity as the prevailing note. Then, that which was originally rejected as being unreal is found to be a part of the unity. Being absorbed in the Reality, the world also is Real. There is only being in Self-Realisation, and nothing but being.
186 :
神も仏も名無しさん :2011/10/17(月) 07:50:58.78 ID:x0pUwQV0
Again Reality is used in a different sense and is applied loosely by some thinkers to objects. They say that the reflected (adhyasika) Reality admits of degrees which are named: (1) Vyavaharika satya (everyday life) - this chair is seen by me and is real. (2) Pratibhasika satya (illusory) - Illusion of a serpent in a coiled rope. The appearance is real to the man who thinks so. This phenomenon appears at a point of time and under certain circumstances. (3) Paramartika satya (ultimate) - Reality is that which remains the same always and without change. If Reality be used in the wider sense the world may be said to have the everyday life and illusory degrees (vyavaharika and pratibhasika satya). Some, however, deny even the reality of practical life - vyavaharika satya and consider it to be only projection of the mind. According to them it is only pratibhasika satya, i.e., an illusion.
無学なおれにどなたか訳してください
188 :
174 :2011/10/17(月) 18:27:59.44 ID:0fieg0uG
ある訪問者: 「至高の神霊(Brahman)は現実的である。世界(jagat)は幻である」とはスリ・シャンカラチャリヤの決まり文句です。 しかし、他の人は「世界は現実だ」と言います。どちらが本当でしょうか。 マハルシ: 両方の言説は真実です。それらは、異なる発達の段階に言及しており、異なる視点からかたられています。大志を抱く者 (abhyasi)は、現実的なものはいつも存在するという定義から始めます。それから、彼は世界が変化しているゆえに、 それを非現実のものとして排除します。それは現実的になりえません。「これではない。これではない!」というように。 探求者は、究極的に真我に達し、そこで行きわたる特徴として統一性を発見します。すると、もともとは非現実的である として拒絶されたものが、その統一性の一部であるとわかります。現実の中に吸収されて、世界もまた現実的です。真我 の実現の中では在ること(存在)しかなく、在ること以外何もありません。
189 :
174 :2011/10/17(月) 18:30:06.45 ID:0fieg0uG
またその一方で、現実は違った意味でつかわれ、ある思想家によっては対象に大雑把に適用されています。彼らは、反映された(adhyasika)現実 は以下のように名づけられる段階の余地があると言います。 @Vyavaharika satya(日常生活の段階)―この椅子私によってみられ、現実的です。 APratibhasika satya(幻の段階)―巻かれた縄を蛇に見るという幻。その見せかけはそのように思う人にとっては現実的です。この現象は、ある 時点において、ある状況下で現れます。 BParamartika satya(究極の段階)―現実とは、常に同じく変化せずにとどまるものです。 もし現実が広い意味でつかわれるなら、世界は日常生活の段階と幻の段階(vyavaharika and pratibhasika satya)があると言われるかもしれません。 しかしながら、実際の生活の現実性―vyavaharika satyaさえ否定し、それを心の投影とみ考える人もいます。かれらにとっては、世界はただpratibha sika satya、幻にすぎません。
190 :
174 :2011/10/17(月) 18:32:34.86 ID:0fieg0uG
またその一方で、現実は違った意味でつかわれ、ある思想家によっては対象に大雑把に適用されています。彼らは、反映 された(adhyasika)現実は以下のように名づけられる段階の余地があると言います。 @Vyavaharika satya(日常生活の段階)―この椅子は私によってみられ、現実的です。 APratibhasika satya(幻の段階)―巻かれた縄を蛇に見るという幻。その見せかけはそのように思う人にとっては現実 的です。この現象は、ある時点において、ある状況下で現れます。 BParamartika satya(究極の段階)―現実とは、常に同じく変化せずにとどまるものです。 もし現実が広い意味でつかわれるなら、世界は日常生活の段階と幻の段階(vyavaharika and pratibhasika satya)がある と言われるかもしれません。しかしながら、実際の生活の現実性―vyavaharika satyaさえ否定し、それを心の投影と考える 人もいます。かれらにとっては、世界はただpratibhasika satya、幻にすぎません。
191 :
神も仏も名無しさん :2011/10/17(月) 19:13:59.22 ID:QnaIayHc
189は見にくいので、190を見てください。
どうもありがとうございます
193 :
神も仏も名無しさん :2011/10/18(火) 06:05:11.88 ID:2ISpfznd
190でsatyaを「段階」みたいに訳してますが、「現実性」のほうが正しいようです。真理という訳もあるようですが。 『Maharshi’s Gospel』p64 Q: とても多くの方法で、我々に見られ、触られ、感じられる世界は、夢のようなもの、幻ですか。 マハルシ: もしあなたが真理を、真理のみを探究するなら、世界を非現実的なものと受け入れる以外に道はありません。 Q: なぜそうなのですか。 マハルシ: もしあなたが、世界が現実的という考えを放棄しなければ、あなたの心が世界をいつも追いかけるという簡単な理由からです。 もしあなたが見せかけを現実的ととらえるなら、あなたは現実的なもの(the Real)自体を決して知らないでしょう。しかし ながら、存在するものは、現実的なもののみです。この点は、「ロープの中の蛇」の例えによってあらわされます。あなたが 蛇を見る限り、ロープをそうであるように見ることはできません。存在していない蛇はあなたには現実的になり、他方で現実 的なロープは全く存在していないように見えます。 この後に、世界を現実的に感じるのは当たり前だよー、という話が続きます。真我に達する前に、世界を現実的に感じること をマハルシは批判していないのであしからず。
ガンジーの著作を読むとやっぱりアドヴァイタを信奉してるんだね。 その上で自分は未熟だといい、非常に謙虚な人物だ。 彼の非暴力運動を「あれは暴力だ」といった人がいるけど(スリランカの某僧やクリシュナムルティ)、 ガンジーの思想としては一貫して「英国人にも慈悲と友愛を」であり、その一点が暴力とはちがうと思うんだけどなぁ。
不二一元論そのものではないけど、ヨガの認識論から発生した縁起空の概念ということで。 今読んでる『龍樹』 中村元 講談社学術文庫より中論の現代語訳を貼ってみる。改行位置は修正 ------ 『中論』 第三章 認識能力の考察 一 見るはたらき、聞くはたらき、嗅ぐはたらき、味わうはたらき、触れるはたらき、 思考作用──これらは六つの認識能力(六根)である。見られるもの(色、かたち)などが、 これらの認識能力の対象である。 ニ 実に見るはたらき(視覚、眼)は、自らの自己を見ない。自己を見ないものが、 どうして他のものを見るのであろうか。 三 〔火は自分を焼かないが、他のものを焼くという〕〈火の喩え〉は〈見るはたらき〉を 成立せしめるのに十分ではない。〈見るはたらき〉と〈火の喩え〉とは、 〔すでに第二章において〕〈いま現に去りつつあるもの〉と〈すでに去ったもの〉と 〈未だ去らないもの〉とによって、すでに排斥されてしまった。 四 何ものをも見ていないときには、〈見るはたらき〉ではない。〈見るはたらき〉が 見るというならば、どうしてこのことが理に合うであろうか。
五 〈見るはたらき〉が見るのではない。〈見るはたらきでないもの〉が見るのでもない。 〈見るはたらき〉を〔排斥しおわったこと〕によって〈見る主体〉〔の成立しえないことも〕 説明されたと理解せよ。 六 〈見るはたらき〉を離れても、離れなくても、〈見る主体〉は存在しない。〈見る主体〉が 存在しないから、〈見られるもの〉も、〈見るはたらき〉も、ともに存在しない。 七 母と父に縁って子が生まれるといわれるように、眼と色かたちとに縁って認識作用(識)が 生ずると説かれる。 八 〈見られるもの〉と〈見るはたらき〉とが存在しないから、識などの四つ(識のほか、感官と 対象との接触〔触〕、感受作用〔受〕、盲目的衝動〔愛〕)は存在しない。故に執着(取)などは 一体どうして存在するのであろうか。 九 〈聞くはたらき〉〈嗅ぐはたらき〉〈味わうはたらき〉〈触れるはたらき〉〈思考作用〉も、 また〈聞く主体〉〈聞かれるべき対象〉なども、〈見るはたらき〉について〔論ぜられたことを適用して〕 同様に解説されると知るべきである。
197 :
神も仏も名無しさん :2011/10/20(木) 03:10:28.14 ID:LPzFTuvY
アドヴァイタでは自殺をどういうものとして扱ってるの?
198 :
神も仏も名無しさん :2011/10/20(木) 05:51:04.58 ID:pZxqjps1
自殺について。アドヴァイタというか、マハルシの教えですが。 Talk 53. D.: Is it right that we kill other lives, e.g., mosquitoes, bugs? M.: Everyone is a suicide. The eternal, blissful, and natural state has been smothered by this life of ignorance. In this way the present life is due to the killing of the eternal, pristine Being. Is it not a case of suicide? So then, everyone is a suicide. Why worry about murders and killing?
199 :
神も仏も名無しさん :2011/10/20(木) 05:55:45.61 ID:pZxqjps1
Talk 340. (略) M:A question arises, why there should be suicides in that case. Why does one do it? Because he is unhappy and desires to put an end to his unhappiness. He actually does it by ending the association with the body which represents all unhappiness. For there must be a killer to kill the body. He is the survivor after suicide. That is the Self.
自動翻訳で訳したものを意訳したんだが最後がよくわからん。 自殺して真我になるとも読めてしまう。 永遠不滅のものは、いまの生において覆い隠されてる。 これは死んでるのと同じこと。だから殺人や自殺についてなぜ心配する必要があるのか。 彼が自殺するのは、不幸を現す身体と決別するためで、身体を殺せると信じるのは、 身体を殺せる存在がいると信じているから。彼は自殺したあとに彼自身となる。
ググったら他の人が翻訳した物が見つかったわ。俺の英語センスは錆び付きを通り越して新たな物質を造り出しつつある。 すべての人々が自殺の罪を犯している。 永遠の至福に満ちた、自然状態は、この無知の人生により窒息させられ続けられて来た。 現代生活は、永遠の明確な実在を殺害することによって成り立っている。 これが、本来の自殺と言うものではないかね。 そうであるとすれば、何故殺人と言うようなことを想い煩うのか。
202 :
神も仏も名無しさん :2011/10/20(木) 13:01:10.37 ID:pZxqjps1
自殺して真我になるということでなく、肉体を殺した後にのこるものが、 真我ということ。みんな寝るたびに、真我に帰るわけだから、それと同じこ とではないかなあ。目覚めた状態で、真我を実現しないと、また生まれるん でしょうね。 ここでは、マハルシは殺す人(killer)をエゴではなく、真我ととらえている みたい。ちょっとふに落ちないところ。
分離の中にあるひとが愛を行えばいつかそれを刈り取る時がくるという しかし分離のない無限の愛の中にいる者が愛を行ったとしても、それを刈り取ることはないという 無限の中にどうして刈り取る必要があろうかと
マハルシって虎が現れるようなところで裸で瞑想してたのだろう? 仮に真横を虎が素通りして危機一発でも次の日に 他者との間に差異を見ず自慢話もしないなら格好良すぎ インドはそうだよね、福音書のような奇跡見てもそこまで言い伝え無い
奇跡の内容が重要なのではなくて、奇跡が起きるということが重要だからね。 我々が考えている物理的な常識にそぐわないことが起きることで、信じていた常識が崩れて、新しい視点が入り込む余地が生まれる。 普通の人には巨石が浮くとか、泉からラーメンがわき出すとかの奇跡はショックがでかい。 スプーン曲げや幽霊を見たレベルでも十分ショックになる。それすら受け入れられない人たちがいるくらいだし。 物理的奇跡より、憎み合っていた相手と親友になるという奇跡のほうがよほどすさまじいと俺は思う。
206 :
神も仏も名無しさん :2011/10/21(金) 21:41:40.62 ID:GziDN2sL
・ヒョウと蛇の話 (18) LEOPARDS AND SNAKES The other day I learnt of one more incident in Bhagavan’s life on the hill and so I am writing to you about it. When Bhagavan was living in Virupaksha Cave, the roar of a leopard was heard from the place where drinking water was available nearby. By the time the scared devotees had gathered some plates and drums in order to make a noise and drive the leopard away, it had drunk the water it required and gone away with one more roar. Bhagavan looked at those frightened devotees and said to them in an admonishing tone, “Why do you worry so much? The leopard intimated to me by the first roar that she was coming here. After drinking water she told me by another roar that she was going. She went her own way. She never meddled with your affairs. Why are you so scared? This mountain is the home of these wild animals, and we are their guests. That being so, is it right on your part to drive them away?” Perhaps with the intention of relieving them of their fears, Bhagavan added, “A number of siddha purushas (holy beings) live on this mountain. It is perhaps with a desire to see me that they come and go, assuming various shapes. Hence, you see it is not right for you to disturb them.”
207 :
神も仏も名無しさん :2011/10/21(金) 21:43:53.67 ID:GziDN2sL
From that time onwards, the leopard used to come frequently to that place to drink. Whenever the roar was heard, Bhagavan used to say, “There you are! The leopard is announcing her arrival.” Then again he used to say, “The leopard announces her departure.” In this manner he used to be quite at ease with all the wild animals. One devotee asked Bhagavan whether it is true that, when living on the mountain, he was friendly with snakes, and one snake crawled over his body, one climbed up his leg and so on. In reply, Sri Bhagavan said: “Yes, it is true. A snake used to come to me in all friendliness. It used to try to crawl on my leg. At its touch my body used to feel as though it was tickled, so I withdrew my leg; that is all. That snake used to come of its own accord and go away.” _______ 『Letters from Sri Ramanasramam』から。ヒョウや蛇の気持ちを理解 しているのがすごい。
マハルシってあの朝1で冷たいガンジスに浸かるのが日常で 伝説なんだから半端無いよね 日本だったら浮浪者狩りや冷たい視線もある でも虐待してるそいつらも魅了するくらいニコニコしてる人格者っぷりがきっとあるのだろうな
209 :
神も仏も名無しさん :2011/10/21(金) 21:55:31.92 ID:GziDN2sL
ガンジス川ってアルナーチャラと場所が違うと思いますけど。。。
ガンジーも表の有名人だものな マハルシなんか本当に座ってただけで何にもしてなくても 伝説だから凄い
>>209 有名だったらしいよ
秘められたインド見たらわかる
212 :
神も仏も名無しさん :2011/10/21(金) 22:12:10.03 ID:GziDN2sL
アルナーチャラに行く前の話かな? 「秘められたインド」持ってないんだよね。
>>212 キチガイを相手にしたらダメだよ。
病気が進行するから。
「日本では何々、でもラマナは〜だからすごい。」っていうおかしな書き込みをいつもしてる人なんだ。
214 :
神も仏も名無しさん :2011/10/22(土) 11:10:18.04 ID:bgsDpN6F
『Guru Vachaka Kovai』 Dr. T.V. Venkatasubramanian, Robert Butler, and David Godmanの翻訳 858 ただあなたの死のみによって、そして他のどの手段によってでなく、あなたは解放の、 分割されないアートマ−スワルパの、意識の広がりの世界に入ることができる。 もし、そして「どのように死ぬのか、存在することをやめるのか」と聞かれるなら、 (答えは)束縛の源である「私」と「私のもの」という幻想を殺すことのみによって、 となる。しかしながら、肉体を殺す事はあやまりである。
いや、マハルシはインドで有名だったでしょ? ヨガナンダもはるばる会いに行って本に紹介してるくらいだし
>>213 ぶっちゃけ宗教に興味あること自体が白い目で見られることは無いのか?
日常でそんな状況もありえると思うのに
凄い排他的なんだな
217 :
神も仏も名無しさん :2011/10/22(土) 19:43:29.22 ID:LJpDKmW1
最近出たチベット仏教の本にこんな一文があった。 「このようにして心が落ち着いたならば、心を通り過ぎるすべての思考、すべての感情、 感覚などに気がつくようにします。そして、自分に問い掛けます。一体、こうして通り過ぎる思考と 心の間には違いがあるだろうか。思考するものと思考とはどこが違うのかと。この問いをもちながら、 さらにおこってくる思考を三分間ほど見つめなさい。そして止めるのです。」 「昼食や夕食を取るときに、前に紹介しました簡単なテストを思い出してください。 この料理の味がいいとか悪いとか考えているものは何か、 食べていると言うことを認識しているものは何か。 出てくる答えが混乱した、矛盾を孕むものであれば、それでよいのです。混乱は理解のはじまりです。」 上の文は著者が父である僧から指導された時の言葉。 なかなか奥深いね。
多くの聖者がイエスと同じ、あるいはそれ以上の奇跡を起こし、 その奇跡を間近で見たであろう弟子達も多くいたと思う でも聖者と同じ道を歩き、自らも等しく聖者となろうと決心した弟子はほとんどいなかった 自分を捨てて聖者になるくらいなら、聖者を近くで崇めていたほうがいいと すべてそのもので在るためには、捨てる必要のない自分を一度捨てる決心、覚悟、あるいは諦めが必要であることが多い でもそれは聖者の間近にいてさえ容易ではない いまもそれは変わらない
自分を捨てるってちょっと違わないか? 間違った認識に凝り固まった見方を捨てるようになるだけで、 自分そのものは捨てることにならなくね? 子供のときの価値観を捨てて大人になっても、自分を捨てたとは言えないわけで。 子供の時は宝物だと思っていたおもちゃだが、大人になりそれの無意味さを認識する。 でも捨てるのも、無意味さを認識したまま遊ぶのも自由だという視点が身に付く。それと同じじゃなかろうか。 でもそれだと現実にまだ未練を残してることにはなるな。
自分がひとりの人間に過ぎないという勘違いに気づくだけだから、自分を捨てる必要は全くないんだけど 実際は多くの聖者方もそうであるように、その気づきのために生き地獄という状況の中でその選択をしている 小さなな自分よりも大きな自分を選ぶだけなんだけど、たとえ殺されることになっても小さいほうを選ぶことがほとんど 自分(自我)のまんまで死ねば自我にとっては勝利だから 生きる希望を失えば自分を守る理由が自然に小さくなるから、わざわざ聖者方はそんな人生にしているかも知れない
222 :
神も仏も名無しさん :2011/10/25(火) 19:55:40.24 ID:2855V3so
223 :
神も仏も名無しさん :2011/10/26(水) 06:44:40.76 ID:fE68R8NV
さっき考えたこと 瞑想をしている/していない、誰かに愛されている/殺している、喜んでいる/苦しんでいる 多次元があるとすれば、これらの自分が全く同時に存在しているってことだと思うんで、いろいろ努力したり思い悩むことそのものが意味を失ってしまう。 どの自分も同時に幸福であり不幸であり、悟りへの道を進んでおり、後退(停滞?)しているから。 こうなると、在る以外には無いとしかいいようがない。 霊的体験で上記の多次元構造を経験した先人が、在ることを見つめろって言い出したんじゃないかと考えている。 でも多次元に関する言及ってアドヴァイタ系の瞑想話に出てこないよね?
難しいこと考えるなぁ。 多次元というのも観念に過ぎないのでは?そういう観念からは解放されたいかな。
結果的に見れば観念なんだろうけど、結果にたどり着くまで自分を説得する道具が必要な段階だからこういうこと考えちゃうのよ。 いろいろ考えると、真我から遠ざかることに繋がるかもしれないとは思うけどね。
まあ観念は道具として必要不可欠かな。凡夫としては。 それも素晴らしいが・・・
この世界にアートマンは人の数だけあるの?それとも、世界に一つなの?
この世界で私以外の誰かが悟ったとして、世界はガラリと一変ぜずに相変わらず存在してるよね。 釈迦やらマナマハリシ、バグワン、クリシュナムルティが悟り入滅しても、俗世間は俗世間なまま
229 :
神も仏も名無しさん :2011/10/28(金) 08:49:58.97 ID:p8nr/vJV
つまり、、、私が変わらないといけないということか。
世界は絶えずいまも生滅を繰り返しているのだから、世界がガラリと一変したように見えようと 世界はガラリと一変してないように見えようと、それはそのように自分が見ただけであって、 まったく同じことではなかろうか
部屋に観葉植物をおけばそれまで見ていた世界とは違った世界が見える。 観葉植物が一番の違い。 うちには置くスペースがない。部屋を片付けても違った世界が見える。 整いました。 フローリングにワックスをかけまして、紅茶にハチミツを溶きます。 きれいになった部屋で優雅なひとときです。
「すべてが完璧なのがわからないのか?」 ある聖者が言った言葉。
それは何億年前のことだ
235 :
神も仏も名無しさん :2011/10/31(月) 20:21:38.15 ID:jDeTJx7B
>>222 いい曲ですね。何度もくり返し聞いてしまいます
>>227 アートマンが世界で、すべてなんじゃないの
236 :
神も仏も名無しさん :2011/11/02(水) 18:11:21.20 ID:ORcGOTIg
今日のニュースアンカーで、中国政府の弾圧に対する抗議としての、チベットでの僧侶の自殺が、 相次いでいるとありました。若い方ばかりでショックな内容です。チベットの方々の苦しみが無く なりますように。 『Guru Vachaka Kovai』 Dr. T.V. Venkatasubramanian, Robert Butler, and David Godmanの翻訳 811 もし強者が弱者をその強大な力で迫害するならば、賢者は、弱者を不断に憐れんでいる神が、それら の虐げる行為を裁き、ふさわしい罰を割り当てると、理解すべきである。虐げられている人々に対し て深い同情を抱き行動することは、(賢者の)義務である。
私が自殺による抗議を外に見ているということは、 私は自殺を問題解決の有効手段だと考えているということだよね?
239 :
神も仏も名無しさん :2011/11/03(木) 21:03:31.20 ID:jZGcPS4R
240 :
神も仏も名無しさん :2011/11/03(木) 21:14:31.81 ID:jZGcPS4R
分類「に」・・・「に」がぬけました。
>>238 空であってもありがとうという感謝はあるんだね
空であっても感謝の気持ちはあり、感謝の対象はある
これを見つけたという実感もある
じゃあやっぱり在る物は在るわけで、目覚めてない人が持ってる「在る」は、
単に汚れがついてる純粋ではない「在る」ってだけなんじゃないかと思うんだが如何よ?
242 :
神も仏も名無しさん :2011/11/16(水) 17:59:44.78 ID:iNkWdTlQ
感謝は空(虚妄)である。感謝の対象は空(虚妄)である。 眼ある者は実にそれらが空(虚妄)であると観ずる。 覚者に非ざる者の眼には存在しているかのようにみえる物質や非物質の存在は、実在ではない。 なんとなれば、それらは一時的にしか存在し得ないのだから。
何も無い「空」 意識すればそこにすべてがある「空」 肉体を越えてさえ、まだイエスや釈迦の元でともに世界のために在ることは簡単ではないという どこまで高めれば本当に「空」を知ることができるのだろうか
244 :
神も仏も名無しさん :2011/11/17(木) 10:16:14.54 ID:dV15oCQT
まず肉体は不浄であると知れ。 この世は無常であると知れ。 それ無しには、悟りはないし、空もない。 釈迦やイエスとともに「ある」ことを目指す勿れ。 なんとなれば、一切の存在は無常であるから。 その上、別に彼らは特別な人間ではない。 悟りはおろか、求道者ですらなく、煩悩を捨てきれない人は、無理にそうする必要はない。 楽しめるなら、現世を楽しむのもよい。 「空を知る」だとか、advaita vedanta を悟るだとか、 そんなことに思い悩んでも、 この種の悟りは世俗的人間にはそれほど役に立たないし、反って混乱を招く。 そして、別に世俗的人間の方が求道者より劣っているわけではない。 人間のタイプが違うだけである。男と女、背の高い人、低い人 etc. のように。
うるせーバーカ
ラマナ・マハルシ何か良いよね 奇跡とかじゃなく日本にも昔居た高僧の味がある
247 :
神も仏も名無しさん :2011/11/18(金) 15:26:50.79 ID:InM4TDpi
>>246 いやむしろ
日本にも昔居た高僧=奇跡とか
神仏習合とか、加持祈祷とか。比較的呪術に関心の薄かった空海ですら神格化されてるし。
マルハシはむしろ純インド的伝統(バラモン/クシャトリア)僧侶の典型で、
サイババみたいなのの方がインド(のバラモン/クシャトリア階級)的には異端。
マハルシは昔の禅僧に似た味がある
めんつゆっぽい
250 :
神も仏も名無しさん :2011/11/19(土) 13:31:25.24 ID:AKHLXazh
251 :
神も仏も名無しさん :2011/11/19(土) 15:57:33.75 ID:P4kIPEAM
ディヤーナ (dhyana: サンスクリット) 瞑想・探求 ↓ 禅那 (ぜんな: 漢語で音読み) ↓ 禅 インド〜中国〜日本と伝来した結果、教義やニュアンスは変化したかもしれないけど、 語源からシンプルに考えれば、マハルシやニサルガは日本人に受け入れられやすいと思う
252 :
神も仏も名無しさん :2011/11/19(土) 18:24:35.14 ID:4cgz1q+f
不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏なんてモウナ(沈黙、静寂)に似てるような感じしますね。
ぐだぐだ理屈こねてないで黙って働けってことです
ニサルガダッタ・マハラジのところで悟った セーラー・ボブ・アダムソンの「Only That」の訳本が もうすぐ出るらしい。
あ、ごめん。著者は別の人だ。 アダムソンの経歴と教えをまとめた内容。
いまさらだけど、なんで「マハルシ」? 「マハリシ」でいいんじゃないの? カタカナで「マハルシ」と表記すると「mahalushi」みたいな発音になって かえって原音から遠ざかるような気がするんだけど。
257 :
神も仏も名無しさん :2011/11/20(日) 06:30:48.02 ID:9bZ0UVJM
以前もその話はでましたが・・・ 「マハリシ」はバガヴァン出身地の言葉のタミル語の発音 「マハルシ」は学術用語であるサンスクリット語の発音 らしいです。
「マルハシ」は岩手県に本社をおく創業80年のめんつゆメーカー
259 :
神も仏も名無しさん :2011/11/20(日) 13:28:59.00 ID:FKCWI6At
>>256 サンスクリットのrは日本語のrと結構似ている。
スペイン語やラテン語もそうだけど。(ってか本来のr音はこっちなんだけど。)
これが英仏独語なら問題ありだけど、サンスクリットの場合は特に問題ないかと。
260 :
神も仏も名無しさん :2011/11/21(月) 00:00:21.78 ID:8BXhWzB6
>>257 言葉の違いというより、方言の違いだね。
ベンガル方言だとリ、南部の方言だとル。
まあどっちにしても日本語のら行はl音ではなくてr音なので、
Maharshiの場合はカタカナ表記が原音から離れているわけではないかと。
>>260 maharshi ってサンスクリットのmaha+rsi(rの下に点がつく)
すなわち「偉大な聖仙」から来ているのではないんですか?
もしそうだとすると、rsiは普通「リシ」でしょ。「リシケシュ」の「リシ」
だから「マハリシ」のほうが良いように思うのだけど、
いちど現地の人の発音を聞いてみたいです。
また、日本語のら行は必ずしもr音ではないでしょう。たとえば
「ラッパ」と発音するときは、rよりもl(エル)音に近いでしょ。
アルコール アルコホール マリファナ マリワナ そんなに’’読み’が大切なの?
>>262 言うても人名やからね、納得できる理由でどちらかに統一してほしいわ。
264 :
神も仏も名無しさん :2011/11/21(月) 06:06:33.27 ID:GLR/kHbl
>>261 リシケシュってウィキからみるとヒンディー語がRishikesh (Hindi: ऋषिकेश)で、サンスクリットは"Hṛṣīkeśa" (Sanskrit: हृषीकेश)だから、
ヒンディー語のほうの発音じゃないですか?
265 :
神も仏も名無しさん :2011/11/21(月) 13:03:44.12 ID:8BXhWzB6
>>261 だから、rをリと読むのはベンガルの人たちで、それ以外では大抵ルと読む。
英領インドは基本ベンガルが中心地だったから、ヨーロッパ人はベンガル人にならって
今まで「リ」って読んでいたけど、最近見直されてきている。
それと、日本語のラ行は常にr音. ラッパのラもr音。
確かに米音rに比べればlに近い気が(聞いてる方は)するけど、
発音する側にとってはラ行とl音は全然違う。
蛇足ですが、
日本人が英語を習うとき、発音できないのは、実はrじゃなくてl音。
アメリカ人みたいに巻けなくても、ラ行の音でちゃんとr音として通じる。
(ヒスパニックが増えてる現代では尚更通じるようになってるはず。)
ただ、日本人はl音のところを全部r音みたいに読むから変なんです。
(因に私は帰国子女です。)
あとヒンディーは英語の影響を受けているので、ヒンディー流なら
英語(RP)のrで発音する人もいます。その場合はmaharshiはマハーシもしくはマハルシです。
要するに「マハルシ」が一番汎用性が高いはずです。
266 :
1 :2011/11/21(月) 14:36:29.52 ID:9SEABmPi
もし今後の普及や検索の利便を考慮して真剣にカタカナ表記の統一を検討するのなら、 現地ラマナアシュラムの日本人世話役の方々や、故柳田侃氏の流れをくむ 日本ラマナ協会あたりが仲介役となって、ナチュラル・スピリットやめるくまーる等 各出版社での表記統一の話し合いを、働きかけてもらうのがいいのかもしれませんね。 自分がスレタイを「マハルシ」にしたのは、実はもっと単純な理由で 前スレを立てるときに初心者だったもんで、Googleで「マハリシ」で検索したら 別の人が出てきて、すごく混乱して間違いやすいかな?と思ったという低レベルな話w 実際いま Google で試してみたら、やっぱり「マハリシ」だと別の瞑想や企業ブランドや アドヴァイタとあまり関係ない健康食品やらが出てきて、肝心のラマナは1割ぐらい? いっぽう「マハルシ」で検索すると、ほぼ全部ばっちりバガヴァンでOK!て感じですね。 自分はすっかりマハルシに慣れちゃってたので、いま読んでる A Search in Secret India では Paul Brunton が一貫して‘Maharishee’という風に i を入れて書いてるのが面白いなぁ と思いました。
日本人だったら禅僧の道元が一番似てる気はするな
269 :
神も仏も名無しさん :2011/11/23(水) 12:38:38.34 ID:/nPgWoHt
1さん久しぶりです。発音についてちょっと調べたので書いてみます。
サンスクリット語でमहर्षिはmaharshiとあらわされて、この時「r」の発音は、furやstirの「r」の発音だと、あるインドの方の意見です。
「リ」と読まれるのは、ṛでrではないようです。英語のウィキではṛṣiと書かれているのですが、サンスクリット語のページで
確認すると、対応するアルファベットはrで、子音字の前につくので、変化してうえの方につく点みたいなのであらわされています。
ttp://www.manduuka.net/sanskrit/ogi/e11.htmから 「ṛ(他2つは貼り付けたら消えてしまう・・)は、学問の現場ではリ、リー、リのようにイという母音を伴って発音されています。
これはベンガル地方の読み方の影響だといわれています (イギリスがインドを植民地化していったはじまりはベンガル地方
であり、インド学の始まりもベンガル地方からだったというわけです)。現代のヒンディー語話者はル、ルー、ルのように発
音しています。今後はそういう発音のほうが多くなるのかもしれません。」
そうなると、サンスクリット語のmaharshiはマハーシみたいな発音になって、マハリシとマハルシはいったいどこからきたのか分からなく
なってきます。タミル語ではமகரிஷிがmaharishiとなるのでマハリシという発音になるのですが、ヒンドゥー語ではどうなのか、マハルシ
はどこからくるのか、、、など分からないです。ややこしや〜。
何かまちがいでもあったらご指摘ください。
270 :
神も仏も名無しさん :2011/11/23(水) 15:37:13.35 ID:/nPgWoHt
追加情報。 maharshiでrとあらわされる文字は、र で、子音につくと特殊な半子音形になります。 「り」と読まれるのはऋという文字みたいです。 ヒンドゥー語について調べると、サンスクリット語と同じデーヴァナーガリー文字を使用していて、日本語で言う古文と現代文のようなもの とか書かれていました。それで、महर्षिはヒンドゥー語でもmaharshiになるようだから、発音も同じようです。たぶん。
271 :
神も仏も名無しさん :2011/11/23(水) 17:17:03.52 ID:/nPgWoHt
追加情報。 サンスクリット語(ヒンディーも)のरामन を調べると、ラーマナとrのあとがaの長母音になっています。 そうすると、サンスクリット語では、ラーマナ・マハーシのようになりそうです。 タミル語ではのばさずに、ラマナ・マハリシとなるので、私が愛用していた「マハルシ」の居場所が 今のところ見つかりません。おかしい・・・。このまままではTM瞑想のひととかぶってしまう。
272 :
神も仏も名無しさん :2011/11/23(水) 17:18:59.45 ID:EH3sgUEZ
>>267 割と似たところあるんだよ
弟子が多すぎて寺がやりくり出来ない時にも
来るものは拒まず去る者は追わずとか
病気でも薄着で気にせず座ったりとか
まあ日本人限定ならだけど
274 :
神も仏も名無しさん :2011/11/23(水) 21:10:16.89 ID:/nPgWoHt
ヤフーのプログレッシブ英和中辞書にmaharishiとのっていて、発音はマハリーシとなっています。 ところで、ブラフマンやカルマはサンスクリット語と英語の発音だと、ブラーマンとカーマのようになってます。 知らなかったので意外でした。
タミル語でマハリシなら、マハリシでいいのでは?
>>269 ごぶさたしてます
あまり書き込まないけど、ちゃんと皆さんのレスは読んで、いつも心の励みにしてます
古典と現地の文字と発音をいろいろ真剣に調べて教えてくれてありがとうございます
ポール・ブラントン氏の古い本は、戦前イギリスから植民地のインドに旅して
ぐるっと各地のヨギも紹介する内容だから、昔のベンガル読みだったわけですね
実は英語も辞書引きながらゆっくり読む程度で、会話経験はゼロなので
ベンガルやサンスクリットの話はちょっと難しすぎて、自分は焦ってたりして(汗)w
277 :
265 :2011/11/24(木) 13:45:06.78 ID:XQMS/2lL
>>275 そう考える場合には、「インド」とは何かということが結構問題になってくる。
乃ち、アーリア系のサンスクリット文化を主とするか、
ドラヴィダ系のタミル文化を主とするか。
今の「インド」という国家は、
英語を公用語にすることによってなんとか統一されているものの、
タミル人はタミル語読みで、ベンガル人はベンガル語読みで. . .
という風になっていくと、現在一番力のあるアーリア系北インド人にとっては不都合になる。
故に、「読み」の問題はインドにとっては政治的にも結構重要です。
実際タミル人はまだ独立運動まではいかないまでも、国の言語政策に相当憤ってます。
タミル語読みを優先することは、タミル人は喜ぶでしょうが、
英語を排してヒンドゥー語をインドの公用語にしようとしている人達にとっては、
邪魔してくれるな、ってことになるでしょう。
このスレ瞑想の話はあんまりしてない気がする
279 :
神も仏も名無しさん :2011/11/25(金) 18:16:35.85 ID:JbdZlcR2
サンスクリット語のmaharshiの発音のことなのですが、rの発音がやはり、「ル」に近く発音されているようです。 ウィキのsanskritの項目で、rの発音が英語のtripのrに近いと書かれていることや、र्षिのつくヒンディー語である हर्षितがハルシット、वार्षिकがバールシックと発音されているので「ル」として問題無いと思います。 サンスクリット語とヒンディー語の発音の違いや、furやstirの「r」の発音という意見については、はっきりと 答えを持っていませんが、とりあえずマハ「ル」シという読みという結論です。『あるがままに』もマハルシと 言う表記なので、翻訳家から見てもいいんじゃないでしょうか。 とりあえず発音についてはここらへんで終わりにしておきます。色々勉強になりました。
280 :
265 :2011/11/26(土) 22:28:19.64 ID:DExmQjSZ
>>278 瞑想は言語表現を超えているから瞑想なんじゃないでしょうか。
横からだが瞑想に「ついて」の話なら出来るでしょ。 そういうことを言ってるんじゃない?
そうです。
マハルシとマハリシとどちらで呼ぶのが妥当でしょうかとラマナに聞いたらなんと答えるかな マハルシとマハリシで誰かと議論するより、その問いを自分で考えてみるほうがいい気がする
ラマナ・マハルシは、仏教的な見方からすれば外道でしょうか?
日本にもマハリシがいます。 マヘーシュワラー・マハーリシ(愛内清隆)です。 インドでこの称号を獲得しました。 アトランティスやムー大陸の頃から神官をやっていた凄い人です。 ある有名な聖者の生まれ変わりです。 これから日本の救世主になられる至聖のお方です。
はぁ。。。(苦笑) 当たり前の事だけど、真理を理解するのに高額なお金は必要ないし。 しかし、しょうもないのも多いなぁ。 どうでもいいけど。
アドヴァイタでは世界は夢なんだから、しょうもない人は居ない
>>284 知らない、仏教的な見方なんて
わかってることはラマナはそんなことは無関心だった
ただ真我にありなさいと
>>285 その男は警察にマークされています。
第二のロマゾフィ、第二の神世界、第二のオウム必至です。
社会問題化するのは時間の問題です。
その手の称号は…金で何とでもなります。
>>285 アトランティスやムーの頃をどうやってその人は証明するのですか?
その称号は誰に貰ったのですか?
>>290 あなた意外にそれを証明できるひとはいない
真実か否かも
292 :
神も仏も名無しさん :2011/12/01(木) 11:46:21.85 ID:7Nk2Zx78
分離して生まれてこなきゃ幸せだったのに。 なんで俺たちは生まれてきたしまった?
その「私は生まれた」と言う、その「私」を内部に探すのがラマナの教えでしょ。
私は生まれたと考えている私を見ている私がいる 考えている私を見ている私を見ている私を見ている私が〜・・・って永遠に続きそうな物だけど、やってみるとある程度のところで見ている私が止まる気がする
>>294 「私は生まれたと考えている私=v
なぜそこで当然のように私≠ニ言ってしまうのか?
「私は生まれたと考えている」という思考に対する気づきがあるだけではないのか?
その気づきを私≠ニ名付ける必要があるだろうか?
名付けようのない不断の「気づき」が進行しているだけではないのか?
297 :
神も仏も名無しさん :2011/12/01(木) 21:27:56.83 ID:xwdd3VVP
どういう風に説明を変えても、「私」という実感を否定することはできないと思いますけど。 不要な混乱を招くだけだと思います。 誰が「気づい」ているのか。 「私」。
298 :
神も仏も名無しさん :2011/12/02(金) 02:16:35.83 ID:YWbho7YO
分離せず、真我そのもののまま。至福を味わうという選択肢はなかったのか。 残酷すぎるんや。この世の中は。
>>298 好きで残酷な人生を生きてるのかも知れないよ
毎年、ヒマラヤの頂上に自殺しにいくひとも何千人っいるし
ザマネーゲームから脱出する法という本には、この世はアトラクションだと書いてあった。 まずは本来の自分の力を完全に隠して、その隠した力を見つけるゲームだと。 当たらずとも遠からずな例えだと思う。
暇をもてあました神々の残酷な遊び。
302 :
神も仏も名無しさん :2011/12/03(土) 07:48:14.18 ID:TXEM5IR4
『Guru Vachaka Kovai』 Sadhu Om、Michael James訳 53. If one’s outlook is changed into Jnana, seen through That, this same world, seen previously as a hell of misery, will be found to be a heaven of Bliss. もし見方がジニャーナに変わると、「それ」を通じて見られると、 以前は悲惨な地獄として見られていた、この同じ世界は、至福の 天国として知られるようになる。
303 :
神も仏も名無しさん :2011/12/03(土) 07:51:28.22 ID:TXEM5IR4
とありますが、時々私も、悲惨な世界を嘆きたくなります。しかし、マハルシにであう前より はずっと嘆きが浅くなりました。
聖者だって、蟻から見れば、仲間を踏みつぶす無慈悲な怪物かも知れない。
>>304 たしかに一歩踏み出すたびに聖者だって多くの命を奪ってるだろうね
でも聖者に命を奪われた者は、もしかしたらすぐに光を見出だすかも知れない
我々が殺すのとはえらい違いだったりして
聖者を特別視するな いずれあなたもそうなるのだ 特別視したら乖離した存在のままになる と思うんだがどうよ?
307 :
神も仏も名無しさん :2011/12/03(土) 08:39:04.40 ID:TXEM5IR4
B3. Look! While God is bearing the responsibility of the whole world, it is a mockery for the false jiva to think that it shoulders these responsibilities, like the sculpture which appears to carry the temple-tower. Whose fault is it if a passenger in a train, which is hauling a heavy load, suffers by keeping his luggage on his head instead of placing it on the rack? 見よ。神が全世界の責任を担っているのに、偽りのジーヴァが、その責任を引き受けていると 考えるのは、寺院の塔を支えているがごとく見える彫像のように、無駄な骨折りである。 重い荷物を運ぶ列車に乗る乗客が、荷物を棚に置くかわりに、頭の上にのせ、苦しんでいると したら、いったい誰の責任であるのか。
308 :
神も仏も名無しさん :2011/12/03(土) 08:59:59.17 ID:TXEM5IR4
>>306 それは、やめた方がいいようですよ。どちらかというと傲慢な態度ではないでしょうか。
B14. O son, always have [the experience of] non-duality
[advaita] in the Heart, but never express non-duality
in action. Non-duality may be applied towards the
three worlds, but know that non-duality should never
be applied towards the Guru.
Michael James: The three worlds are Brahma Loka, Vishnu Loka
and Siva Loka, and applying non-duality towards the three worlds
means having a mental attitude ‘I am not different from Brahma,
from Vishnu or from Siva’. However, so long as one’s ego or individuality
survives, one should not have the attitude ‘I am not different
from the Guru’, since such an attitude would be a mere act of
imagination and would make one’s ego wax all the more. Thus this
verse stresses the same idea as verse 800, namely that whatever
wrong one may do to God, one should never do any wrong to the
Guru, for the Guru is to be regarded as more sacred even than
God.
ヨガナンダがラマナに合って、全ての人に合った教えはなにか? って聞いた時ラマナは、そんなもんは無いよって言ったんじゃなかった。 その人の資質によるって 人によっては306さんの考えも適用される場合もあるんじゃないかと思ったりすな
310 :
神も仏も名無しさん :2011/12/03(土) 10:20:15.61 ID:TXEM5IR4
マハルシは確かに特別視されたくなかったみたいですけどね。行為にあらわさ 無いように、と書かれてあるから、心でサーダナとして思うのはいいのかも。 言いすぎたかもしれません。すみません。
311 :
神も仏も名無しさん :2011/12/03(土) 10:25:21.50 ID:GxSXgMXi
悟りよりいい運命をくれ。 生まれ変わってしまったら、また悟りよりいい運命をくれ。
オウム真理教では言葉と行為と思いとで殺生を繰り返したわけだから、我々も同じようなもんだろうね やっていること、生きていること自体が 実際に犯罪を繰り返したり、殺人を犯したりして身内を悲しませているわけではないにしても
>>313 自分でもよくわからないことは書かないほうがいいよ。
言葉と行為と思いとで真理を日々殺しているということだよ それは自分を殺し他者を殺しているようなもの
しかしこの世ってか我々の思考システムの基盤が、その日々殺し(神からの逃避行)であるから、 何の支援も受けないで、独力で本当の悟りへの道に踏み出せる人は少ないんじゃ無かろうか。
そうだよ、蟻から見たら聖者すら化け物 その発想があるからこのスレ信じれる、凄くまともだよ そのくらい悟りと世俗は違うとは感じる
まともに在りたいなら悟りにあれ それが真我ってこと
まともに在りたいなら悟りにあれ それが真我ってこと 蟻から見たら聖者すら化け物なのは事実だ ならどうやれば蟻すら救われるのか?それが真我ってこと それが釈迦の説く悟りってやつだな
320 :
蟻一同 :2011/12/04(日) 19:37:28.52 ID:E/IFwn8/
聖者を化物となんて考えた事はありませんよ。失礼ですからね。
師匠たちと弟子たち とかけて 私は罪人ではない ととく そのこころは あれはおまえの聖者
我々の全身は神でできている 我々は神です すべては神 神のみが存在する 風が語りかけます
うまい うますぎる
すべてが神なのは結構なんだけどさ 悟りを求めちゃってる時点で 惨めな境遇をも神だとして受容できるような自我ではないんだよね 上昇志向、助けてくれってな感情満載でさ もがくならこんなくだらんものより普通に努力したほうがいいよ ヒンドゥ勉強しようがまったくもって無駄 そうです あなたは頭がいいけど欲に罪悪感感じて世間じゃいい目みないけど 宗教にかこつけていい状態になりたい そんな人達のための教え
上昇社会に疲れた場合はどうなの?
326 :
神も仏も名無しさん :2011/12/06(火) 18:21:33.03 ID:tdsPWHbo
セドナメソッド創始者の到達した境地が書いてある。
(ブログ閉鎖されてるらしく、グーグルのキャッシュです)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:WEIsJYU1dicJ:f33.aaa.livedoor.jp /~mindtech/index.php%3F''%25A5%25E1%25A5%25BD%25A5%25C3%25A5%25C9%25C8%25AF%25B8%25AB%25A4%25CB%25BB%25EA%25A4%25EB%25BC%25AB%25B8%25CA%25C3%25B5%25B5%25E1%25A4%25CE%25CE%25B9''+mindtech&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
たぶん、この境地はかなりのものだと思うのだが、
この境地かそれ以上の境地に達した人って、このスレにいる?
そして、
セドナメソッドでここまでいけるのか?
>>326 セドナメソッドはまじめにやってないけど、まじめにやったら
多分すごいことになると思うw
ラマナ・マハルシの本にも書いてあったけど、書物を読むよりも瞑想の
実行の影響の方が大事だと言うしね。
レスターさんはアドヴァイタの信奉者だっけ?
セドナとアドヴァイタはとても似てると思う。
ヴィパッサナーとアドヴァイタも共通点が多い。
老荘とアドヴァイタなんか、まったく同じものとすら思える。
だがセドナと老荘はあまり似てないw1つの真理のアプローチの違いだろうね。
328 :
神も仏も名無しさん :2011/12/07(水) 13:50:37.77 ID:UwRwiNyT
死んだら悟れるんだから、 このゲームを楽しもうぜ?
そのチャンスがあるって事でしょ 欲望がある限り輪廻は避けがたいらしい
I am
331 :
神も仏も名無しさん :2011/12/10(土) 12:41:06.51 ID:1i0ApEi/
ACIMスレが荒れている 希美もまた我々の内面の投影なのか
333 :
神も仏も名無しさん :2011/12/11(日) 17:28:00.44 ID:Tfqz3H9s
『Guru Vachaka Kovai』 Sadhu Om、Michael James訳 618. Discriminating and knowing well that all the sufferings that come by prarabdha in his life are sent to him by God’s Grace in order to make his mind stronger and thereby save him, let an aspirant bear with them patiently as tapas without being alarmed even in the least.
334 :
神も仏も名無しさん :2011/12/11(日) 17:30:10.78 ID:Tfqz3H9s
彼の人生におけるプララブダ(今世で受け持つカルマ)によって来る全ての苦しみは、心を鍛え、それにより彼を 救うために、神の恩寵により送られているということを、よく弁別し、知り、大志を抱くものに、その苦しみを タパス(苦行)として、少しでさえも恐れることなく、辛抱強く耐えさせよう。
それだと罰する神という解釈にならない?
336 :
神も仏も名無しさん :2011/12/14(水) 01:14:45.10 ID:UbVmOM3Z
しかし、あれだね。 悟りを開いてどうすんだっぺね? グルにでもなるんか? 幸せになりたいんか?
悟ったら幸せがあることを伝えること以外、することがなくなるんだろうね この世にも影響されなくなるから 悟らずとも瞑想で無限の至福の一欠けらを味わえるそうだよ 言葉で表現するのは難しいそうだけど、地球上に存在するすべての人々の歓こびや至福を一度に一瞬で同時に体験するようなものらしい そこが楽しくてそこで途中下車する人も多いとか 導く方々は、一瞬ですべての人々を苦しみを感じることもあるらしく その苦しみが自分そのものの苦しみだとダイレクトに感じるから、助けたくもなるのかな たとえお遊びだと知っていても
338 :
神も仏も名無しさん :2011/12/15(木) 02:22:35.27 ID:nA5GZ2Z9
>>336 337は理解できないみたいね。
んなもん求めてるお前がすべての苦しみの原因ってことに。
そのために餌が撒かれてんだけどね。
喰いついてるし。
>>338 クサッた感情を吐き出すお前自身もまた世の中や周りにいる人間、身内の苦しみの原因だと理解しているならお前は正しい
>>338 君のような人の事を「悟りすましたような奴」って言うんだよw
さすが「理解できてる」人はちがうね。
喧嘩するなよ 俺らは本当は居ないことを思い出せ 小説家が登場人物になりきって喧嘩シーン書いてるようなもんだ
全てがあらゆることに対して原因であり同時に結果なんだから、どこをどう切り取って、 これが原因とか結果とか言ってもしょうがないでしょう 言いたい人も言った人も言わなかった人もまた原因であり結果でしょう
343 :
神も仏も名無しさん :2011/12/16(金) 06:36:35.32 ID:50/aie43
『Guru Vachaka Kovai』 Sadhu Om、Michael James訳 970. Why does the impartial God, who bestows [His] gracious glance upon one and all, discard wicked people? The [divine] eye which surges as everything, does not discard anyone; [it is only because of] the delusion of their dim, defective outlook [that it seems to reject some people]. なぜ、誰でにでも慈悲深いまなざしを向ける公平な神が、邪悪な人々を見捨てているのか。 すべてとして押し寄せるその(神聖な)目は、誰も見捨てない。(ある人々を拒絶している ように見えるのは、ただ)ぼんやりした欠点のある見方の惑わし(ゆえ)である。
344 :
神も仏も名無しさん :2011/12/16(金) 12:53:52.78 ID:DWcg8nX2
>>339 ,340
しばらく見てなかったんでごめんな。
ネットじゃ年期って分りにくいよね。
こっちにはああ新人さんだねって分かるけどww
吐く言葉でどの辺にいるか分かるんだよ。
歳食うと若いのが吐く言葉聞いて恥ずかしくなるでしょ?
私も悟りがあると思っていた時期がありました。ww
>私も悟りがあると思っていた時期がありました。ww だっせ〜w 臭っせ〜w
ラマナやプンジャジの本を読むと、「悟りはないんだ」って気になるよね、一瞬。 そんなことどこにも書いてないのにね。 何もしないということがわかるのは何もしていないときだけ。 何もしないことが凡夫にどんなに困難か。 「それを努力とよんでもいいだろうbyプンジャジ」
真我実現したジニャーニ以外「悟りはない」などという言葉をつかうことはできない。 上面だけ読んで感動レベルでとらえると、これと同じことをしちゃうんだよね。 >すなわち、人間は誰もが悟っているのだから >修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、凡夫は凡夫のままでよい、 >などという急進的な解釈がされるようになった。
悟りってのは夢見る神の子が目覚める状態を表していて、言い換えれば目覚め。 目覚めた瞬間に目覚めている状態が続くわけだから、私は今目覚めてますなんて常に言うやつはいない。 つまり悟りは無くなる。ってのは言葉遊びでしかないかな?
349 :
神も仏も名無しさん :2011/12/16(金) 18:35:14.08 ID:50/aie43
350 :
神も仏も名無しさん :2011/12/16(金) 18:36:45.13 ID:50/aie43
あれ、最後まで青くならない。
あなたの青春は始まったばかりなのです
悟りなんて、存在しないじゃん。 そもそも、悟るべき存在がないんだから。 一度でも、条件付けから解放された事がある人にとっては、当たり前の事。
当たり前のことに気づくために、死に物狂いの努力を積み重ねてきたんだろうね みんなやさしく穏やかで、普通のおじさんにしか見えない聖者の方々 でもたまに見せる瞳の奥の鋭い眼差しが、生きてきた厳しさを、力強さを、その徹底した在り方を映し出していたりする
>>352 思ったんだけど、悟りが存在しないって、悟った人しか言えない言葉じゃなかろうか
億万長者になっても何も得られなかったという言葉と同じようなもので、
そうなってから始めて見える得られるものなのではと思う。
修行者が、悟りなんて無いと口で言ったところで、実感は無い。
一度、そういう疑問を横において、 ただ静かにしてみると良い。 そうすると、おのずと答えが現れるから。 でも、きっと多くの人はそれが出来ないから、 マインドを静めるためにいろんな修行があるんだろうな。
ついでだから、もう一言書いておこう。 あなたの頭に浮かぶ全てがマインドだ。 どんな良い考えだろうが、ゴミみたいな考えだろうが。 で、本当のあなたは、その背後にあるもの。
>>353 Youtubeで動画見たけど、ニサルガダッタ・マハラジはぜんぜん「やさしく穏やか」じゃなかったぞ。
えらく落ち着きが無いし、喋り方も激しい。
しかもタバコスパスパ吸いながらサットサンやってるし。
聖者に対するイメージ(幻想)を壊してくれる。
肉も(たぶん鶏肉だろうけど)ある程度は 食べてたみたい。 食べないのが悟る為にはは好ましいのだろうけどさ
>>357 性格や表現は聖者それぞれだろうから、タバコも吸うし慌ただしさもあるだろうけど、やさしいおじさんだと思うよ
気性の激しさではイエスも似たような激しさを持っていたらしいけど、その根底に共通して在るのは愛だろうから
ちなみに気性の荒さや短気というのも、瞑想を通して穏やかになるらしい
光の柱が脳の天辺から背骨へ真っ直ぐ突き立てられる体験によって、家族みんなが驚くほど短気が消えてしまったとか
それ以来、怒ろうとしてもそれができなくなってしまったらしい
その光の柱はACIM関連書籍著者のゲイリーRレナードも見てるな 自分の妻の柱だけど
悟ると死後の世界が今らしい 実在のように感じられる人生が夢みたいなもの 夢の中でも実在のように勘違いしてるなら それが無明ってことなのか
ギャーニがいると思ってる時点でダメなんだよ。 神の子だのなんだの。 お前が向上したくて満点じゃん。 区別して向上したくて、基準があってそれに当てはめて苦しんで。
それはお前だろw
www.youtube.com/watch?v=UM1xkV4FqqY クンダリーニと目覚めについて
>>362 俺がそうであったことは当然のことながら認める。
そうでなくてはこんなものに関わらない。
まあ、そのうち分かるだろう。
無駄だと思うが言っておく。
こんなもの無駄だよ。
言葉に騙されてるだけ。
劇を見に行ったとしよう。
舞台の上では役者が苦しんでいる。その苦しみに同化することはあっても
「これは劇なんだよ。その苦しみは本当じゃないんだよ。あなたは演技してるだけなんだよ」
と言うおせっかい野郎は果たして聖者なのか、阿呆なのか?
366 :
神も仏も名無しさん :2011/12/27(火) 23:47:13.55 ID:4XHfH5x7
自分探しに振り回されるってのは脳内アドレナリンと関係があって、刺激を 求める20代はどうやっても振り回されます。脳内アドレナリンが戦争に行って る状況ですから。でも、リハビリ期間に入る30代、再構築に入る40代にとって 『自分探し』は毒でしかありません。『本当の自分は〜』とか『自分の夢は〜』 を考えるのは時々チラッと考えるくらいで、本気で考えることはやめましょう。
俺は老人関係で働いているけど、みんな80になっても90になっても 「何のために生きてるのか」で苦しんでる。 君が何歳かわからないが、悟りすましたようなことを言うのはやめましょう。 「探求」は起るものだよ。
何のために生きるのか は悟りあるいは神の家が目的地で、世界が夢だと知った時点で薄れてきてやがて消え去ると思うんだが。 俺は何のためにとはもう考えてない。 ただ、やはり世界はまだ俺に牙を剥いている状態に見えるので、これをどう扱えばいいのだろうかと考えてはいる。
369 :
神も仏も名無しさん :2011/12/28(水) 03:56:11.11 ID:Lh/cihU3
ラメッシとシェイクスピアは話が合いそうだ。 シェイクスピアはかなりの運命論者。不ニ一元論も 直感で理解している感じがする。 キリスト教に洗脳されてる地域なのに凄いわ。
人生とは唯の暇つぶしですか?
暇つぶしっていうか罰を受けるためにあえて制限かけてる感じがする どんなに自由に生きられても、衣食住と生老病死から逃れられぬ
罰ってのは違うか あえて苦しむ道を選んでる感じ
神の遊び
ACIMでは遊びじゃなくて神の子の逃避という説明がされてる。 その逃避も、ほんの一瞬の出来事で、神の家に居る人たちから見ればもう終わってる(向こうは空間も時間もない)という話だったと思う。
375 :
神も仏も名無しさん :2011/12/29(木) 05:57:41.22 ID:9nOsoQCa
ラメッシいわく賢者は罪悪感を持たないらしいですが、 例えば、自分の運転ミスで歩いている子供を殺してしまった場合も 罪悪感を抱かないのかな? ラメッシに質問してみたかったね。
現象をそのまま現象としてとらえて、 訂正すべき部分として、子供を傷つけた現象を受け入れることになるんじゃないかな? そこには罪悪感はなく、ちゃんと周りを見て運転しようという訂正しか含まれない。 見た目は嘆き悲しんでいるとしたら、以前同じ状況下で訂正しますとだけ言ったら遺族に切れられたから、 こういう場合は自分も嘆き悲しむのが適切という訂正を過去に受け入れた結果とか。 ラメッシがどういうかわからんけどね。
>>375 事故の原因の運転ミスそのものが神の仕業であり
自分の行為では無い以上、罪悪感は無いでしょう。
ただ、人を殺してしまった事実と道義的責任は残るので
罪を償う必要がありますが
その罪を償うという行為も神の仕業において
自動的になされていくでしょう。
神の仕業っておかしくない? 神はそんなことをする存在じゃない、罪と罰は神の子が作り出した物というのが不二一元論じゃないの?
>>378 実際に神が行ってるって訳じゃないけど
自分に選択の余地が無く自分の意志とは関係無く発生する事象を
ラメッシは「神の仕業」って呼んでるの。
それに不二一元論はラメッシの話を聞いた人が勝手に分類してるだけで
ラメッシ本人は自説を特定のカテゴリーには入れてないよ。
そういうことか
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。 本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである」
聖書の「ヨブ記」なんか一神教だけど、いってることはまるっきり バガヴァッドギーターと同じだからな。 クリシュナ=ヤハウェ アルジュナ=ヨブ って役回り。
>「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 >神の業がこの人に現れるためである」 真我実現していない因業論的な存在である凡夫だったら 「本人あるいは両親の罪」と言うだろう。 だけど、ラマナのように「私など実は居ない、神だけが存在する」という立場からは 「すべては神の業」という言い回しになると思う。イエスも真我に帰っていたんだと思うな。
キリスト教の「神の前であなたの罪は許された」 みたいな言い回しにしても、バガヴァッドギーター的に言えば、 「バクティには、罪を犯すような行為者は存在しない、したがってあなたに罪はない」ってことになるだろうね。 長文投稿できないみたいなんで、連投失礼。
ただ、「罪はない」って言説を、我々凡夫が安易に使用するのは間違いだと思う。 そういう言葉は、実感的に「真我だけがすべて」と捉えられる聖者の口から自然に出ることであって、 本を読んで知的に理解したつもりの凡夫がいうのとニュアンスがちがう。
バクティでない凡夫が「罪はない」とばかり言っていると、 一部の浄土宗の門徒が、「すでに救われてるからどんなことをしてもいい」 と狼藉をはたらいたみたいに、いろんな支障を生む。 長文かけないのも不便だな・・・もう書き込みませんのでどうぞスルーしてください。
凡夫って言い方より眠る神の子って言い方の方が自虐感がない 目が覚めてないうちは、どこまで悟りに近付いても夢見てるだけなんだし
388 :
神も仏も名無しさん :2011/12/30(金) 18:23:45.08 ID:wKyWzdVT
>>386 ラメッシの本にも書いてあったとおり、
何をしてもいいと聞いたからといって、
銃を持って20人殺したりしないのと同じで、
別に凶悪になったりはしないでしょう。
その門とははじめからそういう性質。
ACIMスレにさっき書いた奴だけどこっちにも書いておく さっきまでフジテレビの大震災特番を見ていた。 あまりにも多くの人たちが犠牲になり、そして残された人たちには筆舌に尽くし難い苦しみが残された。 しかしこれらが本当は起きていないただの悪夢ならどれほどの救いだろう。 割と最近まで、覚醒したというある人の勉強会にずっと出ていた。 その人は、すべてはみこころ、だと言う。 今度の大震災の前にマザーのものすごい祝福が来ていたって。 死んだ人たちはいいところに行ったから心配ない、 神はマーヤを投げかけて我々を成長させているんだって。 マーヤを解くことで我々は成長するんだって。 冗談じゃないよ。 そんなの神じゃないって。 この人全然覚醒なんかしてないじゃん。 なんにもわかってないじゃない。 今年の収穫はコースを知ったことでこういう中途半端な自称覚醒者から離れられたことかな。
今度はコースが新しいマーヤになったりして
マーヤについて調べてて、現実はなくならず解釈と判断が消え、超客観的な世界が見えるって書いてあるサイト見つけて数日前の体験思い出した。 自分が収束していき、物が物として見えるという感覚があった。
ただ、静かにすればいいだけなのに。。。 全ての人が自分の中にある真実に気がつきますように。
ただ静かにすればいいのなら このスレを見たりレスしたりもせず、ただ静かにしてればいいんじゃない? ただ静かにする、とか、何もしない、何も考えないでただ在る、というのは 言うのは簡単だけど結構至難の業だと思う
行動が静かになるのと、精神が静かになるのは、実は無関係だからな
そのへんがよく分からないんだよなぁ マインドも体が活発に動いていても、それと自分は関係ない、という感じなのだろうか 静寂と至福は一体誰が感じているんだろう
間違えた 「マインドと体」ね
>>395 ACIMスレ867で書いた者の見解、ACIM学習者の視点で良ければだけど、あの状態の時は安心と身体は別物というか、
身体がどうであろうと安心は揺らがなかった(でもエゴのささやきは小さいながらもふつふつ出る)。
たとえばどこかに手をぶつけても、おお私は手をぶつけたぞ おお痛いぞ という感じ。
だから物や自分への怒りはわからないで、現象だけは認識できる。
痛みに絶対対処しないといけないという必要性までは感じないが、痛いからシップでも付けるか、あと物をどかしたほうが痛い思いはしないで済むなという感じ。
人生を楽しむことはできると思う。実際、ヤフオクと2chずっと見てて、買いたい物もあったし、この出品は最初から高いなって思ったりもしたけど、それに怒りなど感情が伴うという感じがなかった。
高額出品してるなという現象を認識しただけで、ジャッジまではしていないという感じ。
あれが悟りへの入り口なら、普通の生活をしながら絶対なる安心を維持して生きることができると思う。
自分は関係ないという感覚は・・・微妙なところだな。これは私が投影しているのだと見つめることで、自分の作り出したものとして取り扱っていた。 でも通常精神状態における”リアル”なものではなくなるので、自分とは関係ないという感覚も遠くはないのかな・・・ 安心を静寂と言えばそうなるけど、静寂と言うよりは静かにウキウキしてる感じだった。 初めての経験に驚いてるのも関係してるかも。こりゃ楽でいいわって思ってた。安心があるから至福もあるということで、両方セットでやってくる。
僕の見解。 自分というものの認識、昔は、自分の体の境界線を境に内、外とあったが、 自分というののが、この体でないと理解した時から、 この境界線がなくなり、内も外もないという理解に至る。 なんて言うか、この体も世界の一部にすぎないっていう感じ。 よく言われている、「あなたが世界だ」っていうのは、これかなと思った。 ちなみに、理解は忘れた頃に突然やってくるって感じ。 しかし、ほんと、知っている人が増えてきたねぇ。
うーん、みんなハイレベルだなー 震災についてはどう感じたんでしょう? スピリチュアルな人々がこの震災は覚醒のチャンスだなんだと言って 妙に冷たい反応をしてるのに違和感を感じてたのだけど
俺はその当時はまだ目覚めの片鱗すら味わってなかったから、やべええええええ死ぬううううう って感じだった。ガクブルだし、生命の危機を感じてかなり荒れた心模様になったし、 宵越しの金は使わん主義になったし、楽しいことがあってもどうせ死ぬんだという虚無感もずっと残ったまま。 でも当時に397の体験をしていたら、揺れちょる逃げるべって感じになっただけだったのではと思う。 そのままエゴとの同一化が無い状態だったら、地震大国というシナリオがある以上、そりゃ地震も起きるわなって感じで過ごすんじゃないかな。 復興したらPS3買おうって程度に気楽に過ごせたのでは。
やっぱりそういう反応なんでしょうか・・・・・・ 真我の本質は愛だとか言いながら、覚者たちは戦争とか災害に対して人事のように反応するから 悟りとか覚醒って、一体なんなんだと思ってしまう
そりゃ善も悪も聖も俗も何でも愛だから 愛と愛でないものの区別なんてなく、何でも愛だから どれかが愛で、どれかが愛でないなんてことはない
僕自身、TV持ってないし、諸事情で今年は、ほとんど人と話す事がなかったので、 平和な一年でした。 地震については、今の僕が出来る事をしただけです。 ただ、透明な水に青いインクをたらせば、青い水になるように、 今の人類を見ていると、真理に気づきはじめた人が増えてきているから、 次第に気づく人が増えていくと思います。 ちなみに、真理を知れば、 例え今が極悪人だとしても無意識に、 世界が平和になりますようにとか、 体が不自由な人を見れば、心はいつも幸せでありますようにとか、 思うようになります。 それは、勝手になります。 なんていうか心身の条件付けが勝手に変容するんです。 それと同時に、不思議な事に、自分が変わると周囲も同様に変わっていくのです。 僕的には、まず、周囲をどうこう思う気持ちを放っておいて、 その思いの背後にあるものに注意を向ける事をオススメします。
不安感が無いから他人へ優しくする余裕がうまれることもあるよ あけますたー
自分の物語を語ることを止めると、沈黙しかないと思いますわ。
なんでもよくなると言うことなくなるよね なんでもよくはないから何か言いたくなるだけで
お金が一つの判断の目安になるよね。 口だけなら何とでも言えるので。 知ってしまえば、高額請求するのはありえない。 恩寵は、常にそこにあって、いつも受け取れる人を探している。 人の多くは、頭の中ががらくたで一杯で、 無料で授けたくても、受け取れる人が見当たらない。 極力身軽に、頭の中を空っぽにしましょう。
私も金儲けに走る(自称)覚者は避けるようにしてる でも409のような情報も真実とは限らない 世の中には人を悪者に仕立て上げて叩きまくることに喜びを見出す人間も多いし
安息状態に入ったのは1回だけで短時間しかないが、そのときはお金の必要性が生きるためのツールとしての必要性に下がる感じがした。 大金を押しつけられたら貰うけど、集金しようとは思わない。 集金する場合は、現在起きているあるいは未来に起こる不足への恐怖がある段階だと思う。 ステージを借りて布教したいという覚者もいるかもしれんが、俺自身は、要請された場合、あるいは理解できるであろう人を見つけたら教えようと思っただけで、大々的に発表する気は起きなかった。 でもみんなをこの場所へ導きたいとも思った。超楽な場所なんだもん。
年々、年を重ねるごとに体は衰えていっているかもしれないけど、 あなた自身は、いつも新鮮ではないですか? それが、本当の「あなた」です。 普段は、なんの変哲もないと感じる「あなた」が、 あるとき、 あなた自身が幸せそのものだったという事に気づき、 きっと大笑いするでしょう。 私自身が幸せそのものだったと。
>>408 これくらいなら知識で語れるから
本当に悟っているかどうかの判断は難しいね。
それに人は実際に悟っている人よりも
悟っていると言われてる人の話を聞きたがるね。
悟りを外の人に証明することなんてできないと思う 自分の内側で確信されるだけだと思うな 外側にそれを証明する人がいても それを信じれる人、信じない人って感じになるでしょ ラマナの詩で悟っちゃうと、悟ってないという思い、想念は残らない したがって、どうすれば悟ったという想念が残ることが出来るのか? だから、悟ったというのも悟っていないというのも愚かな話なのだと
>>408 は何かを読んでるような感じも受けるし
所々で音声の質が変わったりするし、うまく編集
されたもののようにも感じるね
わかんねーよ
ラマナであろうと誰であろうと、その人が悟ってるかどうかなんてどうでもいい そこに、全てに、愛を、真我を見出せるかどうかだよ そして見出せたときは自分も誰かもラマナもいない あらゆるものが、ただ真我であるだけだよ ただそれだけなんだよ 悟りと呼ばれるものはあるし、悟りと呼ばれるものなんてないし、そんなことはどうでもいいんだよ ただ、ただ、「ただ」、それだけなんだ あらゆる、無限の、全ての「ただ」なんだ
>>417 その男は犯罪者。
自分のところに来たクライアントと揉めて、
そのクライアントの個人情報を2ch他に書き込んで警察沙汰になった。
警察からは要注意人物としてマークされてるよ。
>>419 >あらゆるものが、ただ真我であるだけだよ
全員そのままで真我じゃないの、
真我じゃ無い人ってどこにもいないよね。
真我でないものは何もないけど、真我の現れという言い方があるように、知覚の仕方は いろいろあるだろうね そしてそれらいろいろなありかたもまた真我だろうね 真我であるとか、真我でないとかいう、真我の現れ方、真我があるだろうね 何でもあらゆるものがあるだろうね
俺が安息状態や、絶対的確信を経験したときは、あ、これいままでと明らかに違うわって実感があったんで、 悟った場合もすぐわかるかもしれないよ。 お湯だと思って入ったら完全に水だったみたいな。 最初はお湯だと思いこんでるんだけど、入ったら、あ、これ違う、これ違うんですよ! 水じゃあないんだ。私びっくりしましてね、フロントに電話したんですよ。 そしたら、その時間、風呂は沸かしてないって言うんです。おかしいですよねえ。 じゃあ私が見た湯気、いったい何だったんでしょうねえ・・・
あ、間違えた 水じゃあないじゃなくお湯じゃないだ。 ネタで誤字やったらどうしようもないな・・・
悟った場合は、分かるよ。 そして、悟りが存在しない事も分かるよ。 言葉的には矛盾してるけど。 そして、書いてる文章や話す言葉で、その人が知っているかも分かるし、 受け入れられるか受け入れないかも分かる。 まぁ、一つの夢の世界の中の事だけどね。
悟りというか、真我がわかるということにも程度や深さがあるしね 悟ってないと言われる人でも誰でも悟りをその人なりにわかってるし、日々悟りを経験し続けているし、 ただ、改めて本来の状態がどうであるのか、自分が誰で何が何なのかわかり直すだけだしね 全ては悟りであって、ごはんをおいしいと感じることも、朝になると眠りから覚めることも、迷えることですら悟りだし 人それぞれ個の作られ方がちがうから、その人なりの悟りの経験に出会っていくだろうし、 そこには程度や深さのちがいがあるだろうね そこで終わりにする人もいるだろうし、そこからより悟りをわかっていく人もいるだろね それらのちがいを言うこともできるし、全て同じでしかないとも言えるだろうね
四禅比丘なんて話もあるからな
俺たぶん真我にかすかに触れたことがある。 瞑想しているときに、自分の中に 今まで見たどんな景色よりも、ダイヤモンドよりも美しいものを 発見した。 いや、自分はそれそのものなのだ。 もうセックルなんて二度としなくていい。 どんな麻薬でも作り出せないような至福。 しかし3日もすればもとのしょうもない人間に戻った。
俺もこれはセックルよりも至福だなって思う経験した でもおかしいよね 俺はセックルしたことないんだよ
>>429 >俺たぶん真我にかすかに触れたことがある。
かすかに触れるも何も、
今のあなたが、そのまま真我でしょう。
不思議なことをおっしゃる。
今の私がそのまま真我であるなら 私はなぜ至福も静寂も感じないんでしょう? いまここ、とか、ありのまま、とか、さっぱり分かりません
>>432 真我以外のモノを「私」だと思い込んでるからだな。
至福も静寂も感じないという真我の現れ方を体験しているからでしょう それでも体験できるということはそれが真我だからではないでしょうか できないということを体験できるのも真我だからではないでしょうか 当たり前と思っていることを洞察してみるといいかもしれません ご飯を食べてなぜおいしいと思えるのか 自分がいるとなぜ思えるのか 呼吸がなぜできるのか できることやできないことが、どうしてできことやできないこととして体験できるのか それらが当たり前のことではなく、そこに見えなかった何かが見えてくれば、 真我というものがどういうものであるのか、 いまここや、ありのままというものがどういうものであるのか、 分かってくるかもしれません
黒い闇(マーヤー)が真我にまとわりついていて、 真我の光がさえぎられている。 マハルシも言っていた。カーテンがどうのこうの。
よく「私」を調べて見なさい、という言を聞きます。 でもどうやって調べたら良いのでしょうか? 私が在るを否定する者は居ないとも言いますが、僕にはこの私が在るという感覚が 身体感覚から来ているように思うのです。眠っているときは、私が在るなんて感覚は無いですから。
>>436 今、「私」と感じているモノに
意識を集中し「それが本当に私なのか?」と疑いなさい。
自我は巧妙に「私は、私だ」と答えるでしょう、
それでも「それが本当に私なのか?」と疑い続けなさい。
そのうち私が分からなくなり「私は誰だ?」と思い始めたら
今度は、より深い所に「私」を探すとイイでしょう。
僕の体験から書くと、 僕はマハラジの「私は在る」に意識を向けなさいというのをやってました。 しかし、「私は在る」に意識を向けるようにしてはいましたが、 そもそも、自分が意識を向けている「私は在る」が本当に正しいのか、 非常にあやふやでした。 しかし、あるきっかけで、「私は在る」という感覚が分かりました。 このきっかけは、人によって様々だと思いますので、ここでは書きません。 ただ、言えることは、自分の今の感覚を信じて、 「私は在る」に意識を向ける事をやっていれば問題ありません。 遅かれ早かれ、なんらかの形で自分が幸せそのものであると分かるでしょう。 ちなみに、現代人の多くは、 生まれてから外側の情報ばかりで条件づけされてしまっているため、 内側からくる声を聞けなくなってしまっています。 なので、まず自分の感覚を信じるようにして下さい。
>>438 「私はある」では、まだ途中ですよ。
「私」が消えて「存在」だけにならないと。
440 :
神も仏も名無しさん :2012/01/06(金) 14:25:04.80 ID:RA/K56a+
自分の感情って言うのは特に重要なものとして扱わないでもいいんだろうか 動きたくないという感情を無視し続けると身体に不調が来てしまうと思うんだけど・・・
>>440 「自分の感情」って言ってるけど本当に自分のモノなのか、
そう思い込んでて感情に振り回されてるだけなのか、
まず見極める必要がありますね。
>>441 感情や願いを積極的に放出しているものと、それをただ観察するものがいる。
観察するほうからは何も出てこないようだ。
観察するほうがいると発見する自分がいるような気がする。
観察するもの=発見する自分と考え、なおかつ再帰的に自己を観察発見できるのではと考えたけど、
放射と観察してるのは、もの(存在というより自分の中に包括するもの)であり、両者を発見しているのは自分だという感覚がある。
観察する方と同調していても、身体の痛みなどには反応できる。
つまり感情に同調せず動くことは可能みたい。
上記は短い自己探索で見えた物だから、もっと探るとちゃんと見えるかもしれないんだけど、
どうも一定以上深く潜れない壁みたいな物がある感じがする。その壁の手前で堂々巡りになる。
途中もなにも、そんなの気にするのはマインドだけ。 というか、そんな事、思ってもいませんでした。 起こるがままに、まかせるだけ。(笑)
「私は在る」という感覚は体の中のどこかに感じるのでしょうか? 頭の中とか
>>444 「私はある」だと意識の中、
「存在する」は意識全体で感じる。
でも、そのうち「存在する」って感じはなくなる。
ま、当たり前になって気にしなくなるだけなんだけど・・・
う〜ん、分からない(笑)
まず、「自分が存在しているか?」という問いに黙想してみて下さい。 「存在している」と感じたなら、感じた部分に意識を向けて下さい。 多分、やってる事に確信は持てないと思いますが、自分のできる範囲でやっていれば良いです。
>>447 それやってみたらものすごい早く入眠できた
「アイアムザット 私はある」重版決定したようです。今年の上旬頃と出版社が言っていました。
寝ちゃっても、全然、問題ないですよ。 マハラジだって、2年かかったんだから、 気長に、気がついた時に、「私が在る」に意識を向ける事を習慣にしていけば。 少なくても、いつしかマインドに振り回される事はなくなってるから。
ちなみに、「私が在る」という感覚がなんとなく分かれば、 別に座ってやらなくてもいいです。日常いつでも出来るものなので。
想念。思い。頭に浮かび上がってくるもの。
>>453 想念や思いって世界が実在しないって納得できれば
結構早い段階で消えて無くなるよね。
異次元に宇宙があるとして、(物理学で可能性があると言われている) それも1つの意識が作り出しているということで良いですか? ひとつの宇宙にひとつの意識なんてことはないよね?
>>454 自分の場合は、納得というより、
ラマナを読んで、世界が幻想という事が分かっちゃったって感じで、
それと同時に、外側への興味が一気に失せたという感じです。
例えると、壁に張り付いていた砂が一気に落ちるような感じ。
想念や思いってのもあるのか、ないのか、
あんまり気にしてないですね。
ただ、一般常識と違った行動をしていても、
不安、心配もなく、
今、自分にやりたいたい事に集中出来る感じですね。
普段は、あまり意識してませんが。
瞑想で見られる世界は死後の世界とはどう違うの? 死後の世界は光に溢れて何でもあるという人と、言葉通り無でしかないと言う話とかいろいろあるみたいだが。 後者は臨死体験者の話だから、死後の世界とはいえないかもしれない。
>>458 無は語り得ないよ。
無だと言っても、無と認識している意識があるわけで、それなら無ではない。
「あくまで物語」かもしれないが、すくなくともいまここで 君や私が2ちゃんやってるのと同じくらいのリアリティをもった物語 なんだから、いちがいに斬り捨てることはできないな。少なくとも真我実現するまでは。 ラマナの本にも、「創造神は存在する。あなたが存在するのと 同等のリアリティをもって」と書いてあった。 決して否定的な言い方ではないようだった。
>>461 その物語を求めているのは誰か、ってことだと思うよ。
宗旨宗派も方便なのでしょう。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。 なぜなら、あなたはあなたの隣人であるから。 あなたの隣人はあなたとは別人だと思いこんでいるなら、それは幻想だ」 元インド大統領 サルヴパッリー・ラーダークリシュナン(1888〜1975)
>>463 これ非常に罠があると思うんだよなあ。
共依存関係になってしまう可能性がある。
あといらぬお節介。
465 :
神も仏も名無しさん :2012/01/12(木) 18:50:42.74 ID:QqWCZtzW
Reality in Forty Ver ses:Supplement 14 「あなた」と「彼」−これらは、「私」が現れる時のみ現れる。 しかし、「私」の本質が探され、自我が破壊されるとき、「あなた」と「彼」は終わりを迎える。 その時、一者として輝くもののみが、真の自らである。
466 :
神も仏も名無しさん :2012/01/12(木) 19:02:01.53 ID:QqWCZtzW
あ、supplementじゃない方の14でした。 マハルシは、「愛しなさい」という表現をしないのが興味深いですね。
ブッダなんかは「愛すな」だからねえ
キリスト教のアガペーだって単なる愛じゃないだろ。 隣人にも家族にも同じようにアガペーをむけるのは仏教で言う慈悲とおなじでしょ。 ブッダが否定したのは、キリスト教でいうフィリア、エロス、ストルゲー。
自分の肉体が滅びたあと、そこにはまだ残るものがあるのか。 「私という存在」「意識」「私とは誰か」は不滅なのか。
470 :
神も仏も名無しさん :2012/01/16(月) 23:19:42.28 ID:fzVJvHaM
マハラジは禁欲をすすめてましたよね。 私は、飲酒、喫煙、自慰をやめようとおもいます。 1/1よりやっていません。上記の3つは欲望の中で、 特に喫煙と性的なものは”もっともっと”と不全感の苦しみにはまります よね。 あと、なんとなく缶ジュースとか買うのもよそ。キャバクラも風俗も やめよ。がんばるぞ。 みんなは禁欲はしてるの??
禁酒禁煙はやってるよ というか元々好きじゃないし 禁オナはなかなかできないね でもいずれにせよ、それらをしたくなるのは、刺激になる何かを探してるときなんだよね 今に退屈したり、今から逃避したいという思いが生じてる ありのままであったり、今そのものを知覚しているときは、何かを望んだりしないしね だから、禁○○みたいに形から正していくのもいいけど、自然に禁○○の状態であるように 今の自分の心の状態を洞察するのもいいかもね 精神が今に留まっていれば、禁○○なんて努力しなくても自然とそういうふうになるだろうし ね 禁酒禁煙禁自慰もそうだけど、それらに限らず、その他の飲食も生活の仕方も想念の生じ 方も、なんでもすべて自分の自然なあり方に治まっていくといいだろうね
472 :
神も仏も名無しさん :2012/01/17(火) 11:41:43.84 ID:BRs685dM
禁欲に関してなんだけど。 マハルシは「食べ物、セックス、権力、名声といったささいな事が あなたを幸せにすると想像するのは自分 自身を欺く事だ」と言っているよね。 セックス等については解る。 でも、悟っていない求道者にとって 食べ物についてどう考えて付き合っていくかって 難しくないですか? 食べ物は楽しむためでなくて 身体を維持する為だから出された料理をありがたくいただく なら解りやすいけど、そんな環境にいる人ばかりじゃないでしょ。 一人暮らしの人もいるし。スーパー行って食材を買うときも自分の 好みとかでてきて食事を楽しみたいという欲が出てきて、お菓子まで 買っちゃったりするんじゃないの。 偏っためちゃくちゃ極端な話してるけど。
473 :
神も仏も名無しさん :2012/01/17(火) 13:16:33.87 ID:/MURikVG
>>472 あんまり厳しく考えない方がいいと思いますよ。マハルシはそもそも禁欲を
積極的に勧めてませんし。どうですか、と聞かれたら、良いですね、と答えていますが。
基本は、なんでも「適度」を心がけていればいいと思います。食べ過ぎないとか。
サーダナ、瞑想、修行、なんでもいいですが、を続ける方が現実的だと思います。
買えるものを買っておいしいならそれでいいんじゃない? おいしいと感じることも感じることができる自分であるのも感謝と同じことだし ただ、おいしいものを幸せに感じると、その反面、おいしいものが食べれないとき不満に感じ たり不幸せに思ったりするかもね それが問題じゃないかな 与えられる(自分が買うこともの含めて)ものをたのしむのは生きているものとして当然だし いいんじゃないかな それでいて与えられない(そこにない、買えない)ことを気にしなければいいんじゃないかな そこにないものに執着をせず、ただ与えられるものを味わうってことかもね 10万円あったら10万円分おいしいもの買ってもいいと思うし、それが一万円でも百円でも それは同じことじゃないかな その人が自分にいくらの食事が必要だと思うかはその人次第だよね それを自分自身に常に問いかけていけば、自分に必要なものが何でどういうものか、次第 に明らかになっていくんじゃないかな 自分を無理に制するよりは、自分自身に問いかけることのほうが、より大切じゃないかと思う よ
解脱が目的なら、はじめから分離しなければよいだけ。 やはり何の意味もない神の遊びなのかな。
>>475 解脱は、あくまでオプションだから
標準装備にはならないよ。
いつまでたってもマインドぐるぐる
アジズ(現・アナディ)の「ヒューマンブッダU」ってのがいつの間にか出版されてたんだね。 「ヒューマンブッダ」が原作のつまみ食いの抄録みたいな本だったわけだが、 このUはその落ち穂拾いみたいな内容になっている。 でもどうせ出すならUではなく、オリジナルの完全訳をヒューマンブッダ増補改訂版として出すべきだった。
真我は何もしなくてもなんの努力をしなくても真我なんだよ。 万有引力を知ることはあっても万有引力が働くように維持してますなんて人いないだろ。 万有引力に到達しましたとか万有引力になりましたなんてないだろ。 ずっと万有引力なんだよ。 お前ら全員考えすぎ。 言葉の世界でもがきすぎ。 言葉の世界は現実じゃない。 そういうこと。
真我なんて存在してないのに みんな有ると思ってる。 いいかげん目を覚ませ。
481 :
神も仏も名無しさん :2012/01/24(火) 08:10:05.19 ID:ZXib9/Nh
目の見えない人が、必死に「色なんてない」といっても誰が信じるのか。
ラマナでさえ、ただ沈黙によってのみ伝え得たというのに 誰がそれを言葉で伝えることなどできようか。
ラマナが言葉で伝えられなかったのは ボキャブラリーが少なかったからじゃないの。
>>480 真我を何か大層なもののように思ってるからそういう発想が出てくる。
在ることそのものだよ。あまりにも当たり前すぎて、みんな気づかないだけ。
>>484 「在る」という感覚そのものが錯覚なんだよ。
>>482 沈黙が言葉そのものだったのかもしれない
487 :
神も仏も名無しさん :2012/01/25(水) 08:00:14.61 ID:jRJRRg3h
ときどき、無知な我々を目覚めさせようと頑張る奇特な方が来られる。
奇特か奇特でないかでいえば、 ただひとつのままであればいいのに、様々な現れ方をする神(真我)がそもそも奇特だからね
真我が実在していると感じることから執着が始まる。 真我の実在を否定できないところが不二一元論の限界。 釈迦の悟りのほうが実は正しかった。 印度の悟り人の多くが、 真我を肯定する悟りに留まるため、結局我執から逃れられずにいる。
君は、釈迦の悟りが正しい、ということに執着しているわけだな?w
>>490 結果として釈迦が正しかっただけで
執着するような答えじゃないな。
492 :
神も仏も名無しさん :2012/01/25(水) 11:20:49.54 ID:jRJRRg3h
釈迦の悟りと真我の悟りの何処に違いがあるのか。愚かものにしか違いは見えない。 ニルバーナは、自我の消滅であり、残るものは真我、神、真実、真理、完全なもの、不変不滅である。 真我のみしかないのに、何に執着できるのか。執着の主体も対象もなくして、何が何に掴まるのか。 ナムチよ。
いや、正しい、ということに執着しているよw
>>492 >真我のみしかないのに、何に執着できるのか。執着の主体も対象もなくして、何が何に掴まるのか。
真我が真我に執着してるんだ。
実体のない真我が真我の「実在」に執着する、滑稽だとは思わないか?
釈迦も釈迦の教えも真我のあらわれだとして見ればわかるよ たとえ釈迦が真我などないと言おうと真我ではなく無我非我だと言おうと、 実際にそうであろうと、真理でなかろうと それすらもね
498 :
神も仏も名無しさん :2012/01/25(水) 12:31:30.78 ID:jRJRRg3h
真我は主体でも、対象でもない。しかし、愚かものは、真我を掴まる行為をする主体と、掴まられる対象とでしか捉えられない。 彼は、二元性の枠組みで認識するために、不ニの精妙な真理を、論理の上ですら、理解できない。 バーラよ。
「誰」が「何」に「なった」んだ?
>>498 >真我は主体でも、対象でもない。
実在しないんだから、そりゃそうでしょ。
>>499 教えてあげないよ。
空がわかったら、愛がわかるといいかもしれない それらは同じでありながら、違う色彩としてあらわれる 一切は無いのも、一切は有るのも、有るということも無いことも無いのも、 知っている自分も知らない相手も、それらは無く、また有り、全く同じなのだから
502 :
神も仏も名無しさん :2012/01/25(水) 12:48:21.65 ID:jRJRRg3h
>>500 あのー、その「実在しないもの」を、主体と対象で捉えたのは、あなたなんですけど。 書いていること理解してますか。
>>502 >あのー、その「実在しないもの」を、主体と対象で捉えたのは、あなたなんですけど。
どの部分の事かな?
504 :
神も仏も名無しさん :2012/01/25(水) 13:00:42.81 ID:jRJRRg3h
あなたが書いた494ですよ。もうお忘れですか。
>>500 はい、逃げたw お前は受け売りしているだけだから答えられないよなw
>>504 主体と対象で捉えて書いた訳でもないのに
主体と対象で捉えたように読めてしまう
「言語」って不思議だね。
507 :
神も仏も名無しさん :2012/01/25(水) 13:12:38.73 ID:jRJRRg3h
じゃあ、どう捉えているのですか。 何か行為をするのが、主体。されるのが、対象というのが、私の定義ですが。 不思議なのは、言語でなくあなたですよ。
>>507 執着するのが真我、でも実在していない。
執着されるのも真我、でも実在していない。
主体と対象共に実在していないのに
執着しているという行為があるように感じる不思議。
>>508 無理するなよw これ以上傷を負わないうちに巣(テーラワーダ)にお帰り。
>>509 昼休みも終わりだから、そろそろ去るけど
聞きたいことがあるんなら、まとめといてね。
511 :
神も仏も名無しさん :2012/01/25(水) 13:33:35.10 ID:jRJRRg3h
508は意味がわからないけど、真我を自我に置き換えると、面白いね。 執着するのが自我、でも実在していない。 執着されるのは世界、でも実在していない。 主体と対象共に実在していないので、 執着しているという行為も実在していない。 これがわからないのが、不思議。
512 :
神も仏も名無しさん :2012/01/25(水) 13:37:28.06 ID:jRJRRg3h
>>511 なぜ、私はVOSJEaNtという人を相手にして時間を無駄にしてしまったのですか。
今後、このような人は相手にしない方がいいでしょうか。
513 :
神も仏も名無しさん :2012/01/25(水) 13:40:31.46 ID:jRJRRg3h
510でした
頭で理解した世界観を語るより、もっと建設的なこと 話そうぜ。 真我があるとかすべてが真我とか、そういうことを言えるのは、 探求がすんだ人だけだろ。 「探求者はいなかった、という悟りに到達するまで 探求はなされなければならない」んだから。
515 :
神も仏も名無しさん :2012/01/25(水) 13:44:07.28 ID:jRJRRg3h
確かに。確かに。これらの理屈は、全く重要でないし、こざかしい。
それもまた物語なのでしょう。
>>500 教えてあげないってのはおかしいな・・・
いまどういう感じなの?安定と安息を感じてる?
俺が短時間だけ経験した安息は、その状態が持続する間においては、聞かれればその詳細と至る方法を全て話すし、
その場所まで一緒に行こうぜ!って感じのものだった。
たとえるなら、ものすごい気持ちいいマッサージチェアが○○電気にあるから1回は経験してみろ恥ずかしいなら着いていくぞって感じのもの。
いまは自分のことで手一杯感いっぱいです
>>512 いずれ真我が表に出れば、私の真意も分かるでしょう。
真我は実在しないんじゃなかったの? 実在しないものがどうやって表に出るんだよ そもそも表とは何の表なのか あなたのいう「私」とは何なのか
>>519 真我は実在しないが、実在すると信じる人は
一度真我が奥から表層に現れるって体験をしないと納得しないでしょう。
その後だよ真我が実在しないって気付くのは。
結論だけ先に言っても、頭で考えて変な答えを出しちゃうからね。
「私」が指し示すモノは何もないが
「私」って書かないと分かりにくいから
「私」「あなた」「彼」のように区別しやすくするために「私」と書いたの。
分かりました 何を語っても無意味だと言うことが
522 :
神も仏も名無しさん :2012/01/26(木) 06:21:51.60 ID:Ua3r+UDL
人生をよりよく生きたいと思っている俺はどう祈るのが一番いいの? みんなが考える祈りに近いのは何番ですか。 @神様、私は安らかではありません、救ってください。 A神様、結局あなたの道が最善です。私はあなたを信頼していますから 従うだけです。(望み、願い等も意識しない、要求もしない) B神様、幸せになるにはどうすればいいのですか?教えてください。 C(不満はあるが置いておいて)毎日食べられて寝られて痛いところも無くて 私は幸せです。(と、恵まれている点に感謝する。要求はなし) D(神に対してなにも言わず)私は○○なれるよう頑張ろう。 E(神に対してなにも言わず)私は○○を望んでいる。○○になりますように。 今は俺はAかな。
523 :
神も仏も名無しさん :2012/01/26(木) 06:23:20.70 ID:TvMOp0XU
なんで実在しない真我がいちいち奥から現れるのか。釈迦がそう言ったのか? 言ってることが、その場その場で変わって、何とか論理破たんしていないかのよ うに見せかけるのに必死なのが哀れ。 わざわざ頼まれてもないのに、他スレに自説を開陳するのが、大した境地を 悟った人のすることなのか。行為や発言から、王様が裸なのがあきらかなのに 、裸だとばれてないと思っているのか。 しかし、「自分が愚かであるとわかっているなら、愚かものではない」と いう内容の対話をマハルシがしていたけど、愚かとわきまえない人がいるのをこう してみると、確かに良く理解できる。「無知の知」すらない人はどうしようもない。 この意見に対しても、覚者らしい素晴らしい返事をしてくるんでしょうね。
>>523 論理で何とかしようとすること自体が浅はか。
頭でいくら考えても答えはでないだろうに。
全てを捨てて只見なさい。
頭でっかちじゃダメですよ。
525 :
神も仏も名無しさん :2012/01/26(木) 08:42:04.42 ID:TvMOp0XU
>全てを捨てて只見なさい。 何をみればいいのでしょうか、覚者さま?
>>525 あなたが「自分」だと思い込んでるモノ全て。
そして、それらが偽りだと気付くまで。
527 :
神も仏も名無しさん :2012/01/26(木) 09:23:21.96 ID:TvMOp0XU
具体的には何でしょう? また、見るとは、どういうことを指しているのですか。目で見るのですか?
>>527 「自分」だと思い込んでるものは人によって違うよ。
マハルシは「肉体」って言ってたようだけど
俺には「意識」だったし・・・・・
「見る」と書いたけど漢字的には「観る」が近いかな。
自分の中から「私」と感じる部分に注意して
それが何から起こっているのかを観て
それらが実在しないのだと気付く、これの繰り返し。
ずっと続けていくと、自分の中から余計なモノが消え
隠れていた真我が現れるよ。
>>522 2かな
全托
でもこれは物事がうまくいってるときはいいけど
状況や環境が悪化すると信頼も揺らいだり
そうならないように修行しろということだろうけど
このスレ的には、祈るよりも祈ってる「俺」は誰なのかと問うべきかも
「俺」の不在を悟るというか
「俺」=神というか
530 :
神も仏も名無しさん :2012/01/26(木) 11:27:28.44 ID:TvMOp0XU
>>528 その真我とはどういうものですか。
真我が現れた後は、どうなるのですか。
>>530 真我が現れた状態で言うと、存在そのもので実在の根拠となるモノだよ。
その後、真我そのものは実在しておらず
人は実在の根拠を持たないことに気付いた。
ここに至って、「私」も「世界」も存在せず
全ては元に戻る。
532 :
神も仏も名無しさん :2012/01/26(木) 12:03:26.62 ID:TvMOp0XU
>>531 ちょっと難しくてわからないのですが、存在そのもの、実在の根拠とはどういうもの
ですか。
>>531 実在という言葉をどういう意味で使ってるのですか?
現実に在るもの?実体として在るもの?
在るという想念の対象になるもの?心の拠り所となるもの?
>存在そのもので実在の根拠となるモノだよ。
ということは真我は実在してはいないが存在そのものということですか?
実在はしてないけど存在であるということですか?
たとえばあなたのその言葉、思い、想念は実在してますか?存在してますか?
>>532 「存在そのもの」とは存在しているという強い確信を抱かせる感覚で、
「実在の根拠」とは存在しているのかどうか分からない世界を
あたかも存在していると感じさせる根拠って意味です。
真我が無いと「存在してる」って感覚そのものが発生しないし
真我が無いと「世界」そのものが存在していないようです。
>>533 「実在」は実際に存在するって意味で使ってます。
真我は実際には存在していませんが存在しているように感じますし
真我が存在してると感じることで、世界が存在してるように感じます。
>たとえばあなたのその言葉、思い、想念は実在してますか?存在してますか?
言葉は現れては消えていくので、存在してるようにも存在していないようにも感じます。
思いや想念は、それらを想起させる対象も無ければ
想起する「私」もいないので存在しません。
536 :
神も仏も名無しさん :2012/01/26(木) 12:51:21.56 ID:TvMOp0XU
>>534 自分が、「存在そのもの」になっているのですか。それから、その「真我」
がないということが分かるということですが、それが分かるには、どうすれ
ばいいですか。また、それがわかった「私」は存在するのですか。
ところで、あなたの言う真我とマハルシの言う真我は異なるものであるという
可能性はないですか?
>>536 まず、「私」という感覚は真我が現れた時点で無くなっています。
と言いますか、「私」という感覚が無くならないと真我は現れて来ません。
ただ、表現上便宜的に「私」と使うことがあります。
真我が現れた時点で「存在そのもの」になるのですが
真我が実在しないと気付いたとき「存在する」という感覚も消えます。
私のいう真我とマハルシのいう真我は
マハルシの本を読む限り一緒だと思いますが
私はマハルシじゃありませんので
マハルシの真我が私の真我と違っている可能性は否定できません。
>それが分かるには、どうすればいいですか。
まず、マハルシの言葉にしたがって私は誰かを探して下さい。
そして私が消え真我が表に出た時に
真我が存在するかどうかを見極めて下さい。
長文、失礼しました。
538 :
神も仏も名無しさん :2012/01/26(木) 15:53:54.02 ID:TvMOp0XU
>>537 >まず、「私」という感覚は真我が現れた時点で無くなっています。
と言いますか、「私」という感覚が無くならないと真我は現れて来ません。
真我が現れた時点で「存在そのもの」になるのですが
真我が実在しないと気付いたとき「存在する」という感覚も消えます。
存在する感覚すら消えたら、たとえば、ここに書きこむことはどうやって
行っているのでしょうか。存在する感覚が消えた、というには、どうしても
それを感じる「私」が必要なので、「私」が消えてないことの証明ではない
でしょうか。「何もない」というには、それを言う誰かが必要であると思います。
>私のいう真我とマハルシのいう真我は
マハルシの本を読む限り一緒だと思いますが
私はマハルシじゃありませんので
マハルシの真我が私の真我と違っている可能性は否定できません
失礼ながらどうも違うように思えます。というのも、真我が消えたという時点で、
マハルシの定義から、ふつうはそれは真我ではなかった、という結論になると思
います。たぶん別の何かを経験して、真我だと思い込んだんじゃないでしょうか。
そして、その別の何かが消えたと経験したということではないでしょうか。
>>538 >存在する感覚すら消えたら、たとえば、ここに書きこむことはどうやって
>行っているのでしょうか。存在する感覚が消えた、というには、どうしても
>それを感じる「私」が必要なので、「私」が消えてないことの証明ではない
>でしょうか。「何もない」というには、それを言う誰かが必要であると思います。
変な書き方になるのは承知の上で書きますが
ここでいう「私」とは、あなたが今感じている「私」というモノで
これは「主体としての自分」ではありません。
「私」と「主体としての自分」は混じり合いながら存在しています。
そして「私」が無くなって初めて「主体としての自分」が現れます。
これは「主体としての自分」ですが「私」では無いため「私」という感覚はありません。
こういう書き方で分かってもらえるでしょうか?
そして「主体としての自分」も存在せず、今に至っています。
>>539 >失礼ながらどうも違うように思えます。というのも、真我が消えたという時点で、
>マハルシの定義から、ふつうはそれは真我ではなかった、という結論になると思
>います。たぶん別の何かを経験して、真我だと思い込んだんじゃないでしょうか。
>そして、その別の何かが消えたと経験したということではないでしょうか。
違うと判断されるのは自由だと思いますが、結論を出すのが早いように思います。
まずはマハルシの境地に立った上で正誤の判断を付けられたらいかがでしょうか。
541 :
神も仏も名無しさん :2012/01/26(木) 17:05:57.08 ID:TvMOp0XU
>>539 「主体としての自分」と書かれていますが、主体があるなら、客体が存在する
ことになります。これでは、真我とは言えません。禅でも、悟りの境地を主客
未分という表現をしています。ここでも矛盾です。
>存在する感覚が消えた、というには、どうしてもそれを感じる「私」が必要
なので、「私」が消えてないことの証明ではない でしょうか。「何もない」
というには、それを言う誰かが必要であると思います。
という質問には答えていないです。『そして「主体としての自分」も存在せず、今に至っています。』
と言っているのは誰ですか。
>>540 今までの話を十分聞いたうえでの結論です。あなた自身が「少なくとも」マ
ハルシの境地に立っていたら、「真我が消えた」ということは口が裂けても
言えないと思います。論理が必要なところで、論理を使えないのは、論理を
超越しているのではありませんよ。ただの論理破たんです。
あと、マハルシの本を読んでいるようですが、528に書かれていることは、
マハルシの方法と、似て非なるものですので、よく読み返された方がいい
と思います。間違った方法で、間違った結論を出してしまったみたいですね。
では、ごきげんよう。
>>541 信じるのは自由ですが、信じ過ぎると自由が無くなるので
まあ、ほどほどにと言っておきます。
、
Kz1f+LKR氏は何か非常に貴重な境地に達してるっぽいね (「境地」も「達する」も本当は無いんだろうけど) 究極的には実在も非在へ消え去る、とかどっかで読んだことある 無、としか言いようのない感じなのかな
>>541 ひとつ引っかかる部分がありましたので書き込みします。
>主体があるなら、客体が存在することになります。
主体と客体は対立する概念として存在するように見えますが
客体は主体の影として存在しているだけで実はひとつのモノです。
主体があれば客体があるというのは思い込みに過ぎません。
あなたの中にも、主体はあっても客体は無いですから
一度確認されることをお勧めします。
>。『そして「主体としての自分」も存在せず、今に至っています。』
>と言っているのは誰ですか。
これは難しい問いですね。
名前も存在せず、的確に表現出来る言葉の無いものを
何と言えば良いのでしょうか?
>>544 >名前も存在せず、的確に表現出来る言葉の無いものを
>何と言えば良いのでしょうか?
自分の体験上、エゴ(個人性)が止まっている(止めている)状態と、
エゴ(個人性)が捉われにならない自然なものとなり共にある状態があり
それらを体験してる方がいるように思います
しかし、どちらの場合の方も、自分と呼べるものを感じられなくなっているため、
自我が消えたとか、エゴがなくなったとか、
誰でもない自分とか、真我が現れたといったような
表現をしていますように思います
その点についてはどうお考えですか?
たとえばあなたは何の捉われもなく完全に自由なのでしょうか?
アドヴァイタの覚者の本などを読んで、どういうことなのかわからない部分はもうないのですか?
それとも、まだ道の途中なのでしょうか?
>>546 参考になるかどうかわかりませんが・・・・
>自分の体験上、エゴ(個人性)が止まっている(止めている)状態と、
>エゴ(個人性)が捉われにならない自然なものとなり共にある状態があり
>それらを体験してる方がいるように思います
このエゴと呼ばれているものが正直良く分かりません。
自分の知覚できる意識の領域にはエゴと呼ばれるものを含め「私」はありません。
ただ、知覚できない意識の領域にエゴが存在している可能性はあります。
これはおそらく他の方でも同じだと思います。
知覚できない所に存在しているモノは知覚できない。
知覚できないものは、どうすることも出来ないと思います。
>たとえばあなたは何の捉われもなく完全に自由なのでしょうか?
自分の感覚の及ぶ世界については完全に自由ですが、
それ以外では完全に世界に同化しており全く自由じゃありません。
私が望むと望まざるとに関わらず起こることは起こるし
起こらないことは起こりません。
>アドヴァイタの覚者の本などを読んで、どういうことなのかわからない部分はもうないのですか?
言ってる事は分かるのですが、文化的なバックボーンが違うので
喩え話がよく分からないということはあります。
>それとも、まだ道の途中なのでしょうか?
これは私が聞きたいくらいです。
全ては私の意志とは関係なく流れの中で起こっているので
どこまで行くのか私も分かりません。
>>547 >自分の感覚の及ぶ世界については完全に自由ですが、
>それ以外では完全に世界に同化しており全く自由じゃありません。
それは、意識はあらゆるものから完全に離れているのでただ自由そのものであり、
肉体的身体は物理的な現象の中にあるのでその影響(因果の連鎖)の中にあるというような
ことですよね?
>言ってる事は分かるのですが、文化的なバックボーンが違うので
「わたしは誰か」に関して、「わたし」は右胸にあるというようなことをマハルシが話してたように
思うのですが、それはわかりますか?
わかっているのなら、どのようなことなのでしょうか?
>全ては私の意志とは関係なく流れの中で起こっているので
>どこまで行くのか私も分かりません。
そうですね
まだ明らかになっていくことがあるなら、ただ自然と明らかになっていくのでしょうね
>>548 >それは、意識はあらゆるものから完全に離れているのでただ自由そのものであり、
>肉体的身体は物理的な現象の中にあるのでその影響(因果の連鎖)の中にあるというような
>ことですよね?
難しい事は分かりませんが、
例えば、悟った人でも交通事故や災害、殺人、結婚、戦争などは
起こるときには起こってしまい避けようがありません。
>「わたしは誰か」に関して、「わたし」は右胸にあるというようなことをマハルシが話してたように
>思うのですが、それはわかりますか?
>わかっているのなら、どのようなことなのでしょうか?
これは個人差があるのでしょうか、
私は「私」が意識の中にあると感じていたので
体で言うと頭の中だと勝手に思っていました。
でも、厳密には「私」がどこにあるか体で指し示すのは難しいと思います。
>>549 >体で言うと頭の中だと勝手に思っていました。
私や世界という実体がないとか、個というものはないとか、一切は無限であるというような
知覚は頭部あたりで知覚されると思いますが、
それらは今まで思考や概念を作っていた自己が頭部に依存したためかと自分では思います
頭部は思考や概念としての私や世界を作り出し、またそれらが消えたとき、消えた状態を
知覚すると思います
しかし、それと胸の知覚はまた別なように思います
源は同じでしょうが、それぞれの知覚の現れがあるように思います
とはいえ、自分はマハルシの言う胸というのがまだよくわかっていません
もし、何かわかりましたらおしえていただきたいです
あと、真我は実在しないとおっしゃってますが、
真我が実在するかどうかのこだわりが実在しない、こだわる自分が実在しない、という方が
より近い表現に自分は思うのですが、どうですか?
>>550 >あと、真我は実在しないとおっしゃってますが、
>真我が実在するかどうかのこだわりが実在しない、こだわる自分が実在しない、という方が
>より近い表現に自分は思うのですが、どうですか?
あの時は「真我が実在しない」と気付いた勢いで書き込んでしまいました。
今振り返ると、「真我は実在してもしなくても、何かどうでもイイ」です。
ラマナの右胸の話は、方便だよ。 そう言えば、 ニサルガダッタ・マハラジもラマナの真我が右胸の話についてだけは同意できないと、 どっかに書いてあった気がする。 頭部で知覚。 うーん、違うなぁ。 どこで、と言われると答えられないけど。
>>552 どのような意味で方便なのですか?
単に胸というと方便にも思えますが、右胸というと具体的なので意味があるように思いました
もし方便だという理由がわかっていらっしゃるのならおしえていただきたいです
マハラジに関しては、同意できないというより、自分にはわからないみたいな表現だったような
気もしますが(自分も記憶が定かでないのでわかりませんが)
554 :
神も仏も名無しさん :2012/01/27(金) 02:57:32.46 ID:4Ve5pig9
522だけど。 529さんありがとう。全托ですか。 でも心の中では「人生は天から見れば完璧だろうけど 私自身はそんなには喜びはない。まあでも、完璧なんだろう・・ ならいいか・・感謝しなきゃ 」と、なんかあまり明るくない 感じになりませんか。俺はまだ若いのにそのスタンスで死ぬまでもつかな。 それとも、「今は実感がない。でも神の完全は認める。完全なんだから そのうち私自身が心から幸福だと思える日が来るだろう。」と幸福に対する 期待はもっても、まったく差し支えないと思いますか?(でも神の完璧さと 自分の幸福感はまったく関係ないなら、期待すらもてないことになる。 なら祈りの際は期待すらあまり考えない方がいいのか。) 長くなったが要は「期待はもっても差し支えないか」です。
祈るならただ無心に祈ればいいんじゃないでしょうか 参考になるか分かりませんが、ラマナ・マハルシはこう言ってます 「放棄そのものが、力強い祈りである。 あなたが、神はあなたがしてほしいことのすべてを為してくださると信じるなら、 あなた自身を彼に放棄せよ。 さもなくば、神のことはさておき、あなた自身を知るがよい」 「熟していない心が神の恵みを感じないとしても、それは神の恵みがないことを意味してはいない。 なぜなら、神がときどき慈しみがなくなるということは、神であることを中止することだからである」
556 :
神も仏も名無しさん :2012/01/27(金) 19:31:22.22 ID:C5DozcPZ
参考になるかも知れないので、マハルシの言葉です。 "A person begins with dissatisfaction. Not content with the world he seeks satisfaction of desires by prayers to God; his mind is purified; he longs to know God more than to satisfy his carnal desires. Then God's Grace begins to manifest. God takes the form of a Guru and appears to the devotee; teaches him the Truth; purifies the mind by his teachings and contact; the mind gains strength, is able to turn inward ; with meditation it is purified yet further, and eventually remains still without the least ripple. That stillness is the Self. The Guru is both exterior and interior. From the exterior he gives a push to the mind to turn inward; from the interior he pulls the mind towards the Self and helps the mind to achieve quietness. That is Grace.Hence there is no difference between God, Guru and Self."
>>553 右胸が方便ってのは、私が誰かと分かれば、
あらやる手法は、所詮、観念の積み重ねと分かってしまうので、
そう意味で、方便と書きました。
ただ、体が、まだ、私の主体だと思っている時は、
右胸は、扉になる要素を持ってると思う。
自分の経験からでは、
右胸に注意を当てながら、瞑想していた時は、
慈悲が湧き出てくる泉だと思った。
あらゆる物を浄化して、限りなく慈悲があふれ出してくるという感じ。
ちなみに、山田孝男っていう人は、若い時、インドに悟りたいって旅してて、
縁あって手に入れたラマナの本に右胸の事が書いてあったので、
右胸に注意をあててつつ、見ている主体を辿っていた時に、
私自身が満足と平和で満たされた者である事が初めて分かったって、
なんかに書いてあった。
ついでに、さらに私を辿っていくと私も消えたと書いてあった。
まぁ、ここらへんの体験の仕方は個人個人千差万別なんだけど、
最終的に知る物は同じだと思う。
>>557 全てが方便という意味ではそうですね
ただ、わたしが誰であるかを完全にわかるまでは意味のある方便のように思います
胸が慈悲ということは自分なりにわかります
真我は人の身体的特徴に沿った真我の現れ方をしてると思います
人の身体ということに限らなくてもそうだと思います
山田孝男さんは読んだこともありますし好きな方ですが、わたしは誰か(真我)を完全に
わかった方のようには思いませんでした
ありがとうございました
>>554 期待することも期待しないことも神にまかせてはどうでしょうか
期待することも期待しないこともそれらはどちらでも同じであって、
それらを自分が為していると思うか、神が為していると思うかの違いのほうが大切だと思い
ます
それが祈りということではないでしょうか
期待してるときは、神が自分を期待してる状態にしてるのだと、
期待してないいときは、神が自分を期待してない状態にしてるのだと、
そう思うことが神への帰依であり祈りではないかと思います
ご飯をたべればおいしいし、眠るときは気持ちがいいし、
それらはおいしくし食べようとか、眠るとき気持ちよくなろうとか、
自分が意識しなくても自然とそのようになっていると思います
それと同じように、あらゆる一切は自分が為さなくてもそうであるように勝手になっていると思います
自分の身体に関することでも心に関することでも、自分の外側のことも自分の内側のことも
それらを、自分が為していると思うか、神が為していると思えるかの違いしかないと思います
あらゆる外界の状況も、あらゆる自分の内面も、
自分が為しているのではなく、
神がそのように現してるのだと、真我がそのような現れ方をしてるのだと、
自分のことも含めただ一切を神にまかせ、自己を放棄するのが祈りではないかと思います
期待をしても、期待をしなくても、その選択は自分がしているのではなく、
神がそのように自分を働かせているだけなので、どちらでもいいと思います
自分にとって自然で自由であると感じるほうにしたらいいのではないでしょうか
560 :
神も仏も名無しさん :2012/01/28(土) 02:44:46.64 ID:R0BmZdci
>555. 559 なるほどね。ありがとう。 考えてみると結局、みんな(どうにもならないやつを除いて) 自分が正しいと思ことしか行えよね。 自分が いい と思えることをして幸福を目指す以外のこと は苦痛ですよね。永遠の生命とか、真の喜びを信じていなければ、 この世界での快楽の放棄とか無執着は絶対にできないはずだと思うし。 結局しあわせを望んでいるとおもう。 誰しも確実に希望とか期待とかは持ってるんじゃねーかな。 そうしなきゃ生きていけないと思う。
561 :
神も仏も名無しさん :2012/01/28(土) 02:53:14.95 ID:R0BmZdci
だって仮に期待も持つべきでないと言われたとして、 期待を捨てることが、目指す幸福への期待 に繋がってるからな。 求道者は明らかに希望、期待、探求はあるでしょ。 悟ったらそれは無いかもしれないけど。
うーん、歎異抄的な世界だな・・・
真理とか悟りを求める者は我が強く、欲の深い者が多い この世の喜びに飽きて、より大きな喜びを求めて生まれてきたんだから それでもこの世の執着を捨てるのは大変みたいだ 様々な能力を与えられる者は多いけど、能力に溺れ、より自我を拡大させて真理からはるか彼方へ弾き飛ばされる者がほとんど
564 :
神も仏も名無しさん :2012/01/29(日) 18:53:52.30 ID:cEjlf5I4
その理屈でいくと、全部捨てて出家したお釈迦様がすごい欲深いことになる ので、全員には当てはまらないと思います。
565 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 00:54:46.84 ID:YIR4Z3zw
この世の全ては単なる夢で、この世で繰り広げられる ドラマの中では本当の幸福を得られい。 そこから開放されるには、この世を放棄しなさい、 しかもこの夢のある部分を愛しある部分を嫌う ではなく すべて放棄しなさい って理屈では解らなくないけどさ。 でもこの現代の日本で、しかも働き盛りで、べつに 隠居しているわけでもない俺らにそれが実践できますか? この世界が非実在、この肉体も非実在なら非実在の肉体が 創造した、例えばベートーベンやバッハなどの巨匠が生み出した 音楽を美しいと思うことも 違う のですか? 理屈でなく、単純に直感的に美しいと感じる神秘的な名曲に 感動するのは 違う のですか?
566 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 00:55:21.95 ID:YIR4Z3zw
しかもその神がかり的な名曲もピアノが無くてはあらわせない。 ピアノだって非実在の 木 で、いや、そもそも非実在の肉体の きこりが、非実在の肉体によって作られたノコギリを使って 切られた木で、非実在の肉体のピアノ職人によって作られた んでしょ。 これらを全て放棄するのですか?こういうこの世の素晴らしい美しい ことも放棄するのですか。なんか最近混乱してきて、なんか最初に立ち返って きはじめて最近は「神との対話」で言われているような、人間は、素晴らしい 体験を体験することが目的なんだ ということが真理なんじゃないか と思えてくる。それは一歩間違えると享楽主義に陥りやすいけど、そこを 踏み間違えなければそれが幸福への道なような気がしてきた。
>>566 そう思うのなら、素直にこの世的な素晴らしい体験を求めればいいと思うよ。
アドヴァイタはそういうことを卒業した人たち向けの教えだから。
>>566 迷いがあるのなら、この道に進むのは止めておきなさい。
見たところ、まだ時期尚早に感じます。
果実が実を結ぶには1度花が咲く必要があります。
果実を得るのは花を十分楽しんだ後でも遅くはありません。
>>566 強いて言うなら、幸福のそのまた先の物語、なんじゃないでしょうか。
悟りを求める欲望に比べれば男が女を求める欲望などかわいいもんだと ニサルガダッタが言ってますけどね。 アドヴァイタの釣りに騙されて悟りを求める自分は高級だ、この世界など 超越してるなんて思わないほうがいいですよ。単に自我が大きいだけなので。 普通の人より劣ってるんです。
普通の幸せが得られなくて代替の悟りを求めるか 普通の幸せで満足しないおかしな自我が悟りを求めてるんです。
>>566 でもみんな命を殺して喰ってウンコして老いていくからすばらしいこと”だけ”では無いんだよねえ。
アドヴァイダの人は普段どんな生活を送ってるのですか?
引きこもっていても構わないってことですか?
>>565-566 素晴らしいという意味ではね、全てが素晴らしくなるんだよ
全てが神秘的な名曲になるんだよ
放棄するというのは、素晴らしいと思う自我を放棄するんじゃない
素晴らしいことと素晴らしくないことと分別する自我を放棄するんだよ
だから、一切が素晴らしい
子供は名曲の素晴らしさなんてわからなかったよね
大人になってそれがわかった
それと同じように、今まで素晴らしいと思えなかった一切が全て素晴らしかったとわかるんだよ
あれが神秘的、これは普通、そんなことはない
一切が神秘的で、神の現われなんだよ
神秘的で素晴らしいと同時に、そんなことはどうでもいい自由で無限なんだよ
何かが神秘や素晴らしいという感覚は、自分や世界が有限だという感覚に根ざしている
自分も世界も自由で無限なとき、ただ一切はありのままなんだよ
感動の感覚は捨てる必要はないよ
ただ、感動の中に何が含まれているか
それが何から生じ、何と何を結び、何が中心であり、何がそこに含まれているか
感動は何か、感動とはどういうことか、感動させてるものは何か、感動してるわたしとは誰か
それら、わたしのわかってない部分までわかるといいんじゃないかな
放棄するというのは、感動することを放棄するんじゃない
感動しようとすることも感動しないでおこうとすることを放棄する
放棄しようとすることや放棄しないでおこうとすることを放棄する
ただ自然に現れる感動はそのまま享受すればいい
それを放棄することも放棄しないことも選択せず(放棄して)、
ただ与えられたものを与えられたままに全身と心と意識で受け取っていけばいいんじゃないかな
576 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 07:55:56.50 ID:v+Za5edI
なにか「放棄」という意味を難しくしているような気がする。 極端に進むと、「放棄することも放棄する」とかなって結局アホのままになる ことのススメみたいになる。 簡単に、「欲望」を放棄するで、何の問題もないと思うけどね。「自我」でもいいけど。 もちろん、すぐにできるわけないけど。 ここで、考えすぎる人は、それが大きな欲望だよ、など言って何処にもすすま なくなるみたい。
人は特に何もしていなくても、様々なものを放棄したり放棄してなかったりする たとえば、今の人生を歩いているというのは、他の一切の人生のあり方を放棄してるからなんだ 放棄しないように体験してるのが今のこの人生とも言えるよね だから身体がある以上、人が何かを放棄するというのは実はできないんだね 放棄しないということもできない それらは選べない、選ばされてるだけなんだ 放棄している瞬間と放棄していない瞬間が身体の因果に沿って立ち現れてるだけであり、 それらは全て真我の現われにすぎないという意味では全く同じなんだ それに気づくということが放棄なんだね 放棄する放棄しない、放棄している放棄していない、放棄するもの放棄しないもの、 という2元性の放棄だね
578 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 08:23:07.59 ID:ssvLcx1U
みんな考え過ぎだよ。 「放棄」って呼んでるから大変だと感じるけど、 実際に放棄するのは「自分」や「自分のもの」だけで、 これらは「自分」や「自分のもの」って思い込んでるだけで ホントは「自分」でもなければ、「自分のもの」でもない。 「自分」じゃないモノや自分のものじゃないモノを放棄するのは そんなに難しいかな?
579 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 08:31:33.06 ID:v+Za5edI
放棄は難しいよ。簡単だという人は、実際にその難しさを理解していないだけ。 簡単だったら、皆、すぐに悟ってる。
580 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 09:17:10.53 ID:ssvLcx1U
>>579 それは放棄自体の難しさじゃなくて
何を「自分」とか「自分のもの」と思い込んでいるのかが
良く分からない難しさなんじゃないの。
581 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 18:57:30.28 ID:YzLxeVKU
>>580 「自分のもの」と思い込んでるものの代表は、肉体でしょう。誰のと問われると、
誰でも「自分の」身体と答えると思います。実感もありますから、別に難しくない
と思いますよ。
しかし、肉体への愛着を放棄するのは、至難の業だと思います。
体は私ではない、とはどうしても思えない 他の部分はともかく、脳が無くなったら「私」もなくなるような気がして
583 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 19:37:11.21 ID:09yTzlir
>>582 >他の部分はともかく、脳が無くなったら「私」もなくなるような気がして
もともと「私」は存在してないから気にすんな。
>「自分のもの」と思い込んでるものの代表は、肉体でしょう。誰のと問われると、 > 誰でも「自分の」身体と答えると思います。 ない。ない。(笑) 頭いい人ほど、自分は、首から上か下かと問われると、 上って答えるんだよね。 西きょうじの講演会行った時の、会場の上記問いの答えの反応が興味深かった。
585 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 20:00:58.42 ID:YzLxeVKU
>>584 よくわからないのですが、首から上は、肉体じゃないのですか?
すまん。 俺も、何を聞かれているのか良く分からん。(笑) 首から上も、首から下も肉体であるけども。。。 言いたかった事は、 ホントは、自分は、首から上でも下でもないのだが、 ただ、その前段階として、 思考ばかりしている人は、頭が自分だと思ってるし、 逆にハートで生きている人は、胸が自分だと思っている所があると、 書きたかっただけです。
587 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 20:19:48.91 ID:YzLxeVKU
なるほど(笑)。 自分を指で指し示す時、胸をさすか、頭を指すか、どちらでしょうね。マハルシ は自然と胸になるようなことを言ってましたが。 サッカーとかで国歌斉唱するときとか、みんな右胸おさえて歌ってる気がします。 なにか関係あるかも。何しゃべってるか私も分からなくなってきた(笑)。
イエスも釈迦も瞑想によって、この世の喜びよりもはるかに大きな喜びに浸っていたからこそ、 この世のものよりも、全体の自分としての幸せを選択できたと思うんだよね 彼らは我々よりもはるかに喜びの中に浸ることが好きだったからこそ、つねに内に向かっていたんだろうし、我々にもそれを望んだと思う 意志を弱めてしまう感情を沈黙させるために、瞑想がどれほど役立つものなのかも知っていただろうし
他人を幸せにしようという気持ちは余裕がないと生まれない物だと思う。 神もしくは何か広大なものにアンカーを打ち込むことで、この世の何ものにも左右されない余裕が生まれる。 その結果、他者の幸せを考えられるんじゃなかろうか。 これは宗教レベルの視点であって、瞑想や超常体験で得られる内的な安心の実感とはまた別だと思うけど。 実感は一度だけ体験したけど、これがあるなら恐れは意味を成さず誰にでも優しくなれるわなという感覚だった。
実践はどうしてる? ラマナのいう「わたしは誰?」という質問は、 ティク・ナット・ハンのいうマインドフルネスや、禅で言う即今当即と同じものですか? チベット密教で憤怒神に供物を捧げるのは、怒りを対象化する作業と聴いた。 こうした「観」につうじるメソッドはどれも同質なのだろうか。
みなさんは、日常でどのようなことを意識してますか? 寝る前、仕事中、朝起きたとき、習慣づけていることはありますか? そしてそれは何のためですか?探求?
592 :
神も仏も名無しさん :2012/01/30(月) 22:41:14.36 ID:09yTzlir
>>588 外の世界に何にも無いから
内の世界にこもっていくんだよね。
2chにも出てこないで引きこもってればよくね? なんででてくんの?
>>589 イエスも釈迦も肉体を越えたところにある喜びとひとつだったと思うよ
そこには生きることへの執着もないし、死ぬことへの恐怖もない
このまま死んで行ってもべつになんともない、死んでいく自分を一点も心を揺さ振られることなく眺めていられる、そんな感じだったんじゃないかな
目を閉じなくとも座することもなく、いつでもその状態に入れるからこそ、自分がなすぺきことがどれほど困難であったしても果たすことができたんだと思う
595 :
神も仏も名無しさん :2012/02/01(水) 19:40:50.12 ID:unVgOScS
喜びも幸福も、あくまで物語なのでしょう。
596 :
神も仏も名無しさん :2012/02/02(木) 02:59:45.40 ID:aaOm9sVp
ラマナ マハルシは>>身体は死ぬ。だが、それを超越した霊性は死に触れられることはない。 それゆえ、私は不滅の霊性なのだ このように言われるが つまり死後の世界はあるということなのでしょうか?
597 :
神も仏も名無しさん :2012/02/02(木) 09:50:16.94 ID:B3Ff04Je
それも物語なのでしょう。
この世の影響を超えた聖者方はハートを通して地上の我々にずっと語り続けている 心を静め沈黙の中に入るとその声が聞こえるらしい 「わたしはずっとあなたと一緒にいた…あなたに気付いてもらうために、あなたのハートをノックし続けていたことをあなたは知らないのか」 聖者方はまた、あの世で応えを求める方々のためにも出かて行って語るらしい 様々な館があるとか言っているし
599 :
神も仏も名無しさん :2012/02/02(木) 10:38:45.90 ID:tLDofTwl
メルヘンだなぁ。
600 :
神も仏も名無しさん :2012/02/02(木) 18:41:12.75 ID:9tYJYMnx
>>596 まあ、だいたいの疑問への答えは『あるがままに』にのってますよ。
答えは、死後の世界の現実性は、今の世界の現実性と同じだから、結局、夢みたいなもの
だと思います。
ちなみに、霊性はゴーストやお化けとは関係ないですよ。
>>599 そのメルヘンな世界に辿り着いた方々は、生き地獄のような毎日を生き抜いてきた方々だけどね
我々のように中途半端でもないし、生きることに本気になれない人間でもない
まだまだ自分のことしか考えられない、ちっぽけな人間なんだろうな、ただ眺めるだけの我々は
602 :
神も仏も名無しさん :2012/02/03(金) 15:18:37.63 ID:zozE86nH
1月31日は朝食はとらなかった。 昼12時、ラーメン1杯とおにぎり2つ、お茶を とる。その後その日は水分はとったと思うが 食べ物は食べずに眠った。 2月1日の朝8時くらいに起きる。のちに濃いコーヒー300cc位 を飲む。濃いコーヒーを飲んだせいか空腹を感じなかったので昼食は とらなかった。外出(散策)し、16時くらいに帰って来る。 強烈ではないが若干空腹感がある感じがしたのでケシゴム小サイズの チョコレート5つ、おにぎり1つ、お茶一杯をとる。空腹感なのか、 栄養を取ってないというちょっとした恐怖だったのかは判別しがたい。 夕食をとる前に眠ってしまう。 2月2日、朝8時起床。お茶400cc飲む。 空腹感を感じておらず昼も食事はとっていない。
603 :
神も仏も名無しさん :2012/02/03(金) 15:19:52.74 ID:zozE86nH
ここんところあまり飲食をとっていないはずなのに 空腹感がないことに驚く。 ここまでくると探求者として断食に興味が出てきた。 食べたいという確かな衝動を感じるまで食事しないで みようかな。 でも欲していなくても最低限 の水分と塩分と糖分はとったほうがいいかもという ちょっとした恐怖はある。 でも身体が至高なるものでなく、 生命というか「実在」するものにとって恐怖すべきものという物 自体が存在しないなら 俺は別に恐れることはないじゃん、とも思える。 ホントに食べたくなるまで、食べ物はもちろん、水も塩も砂糖も やめていーんじゃねーか?真実なるなにかが掴めるかもよ?という 興味が出てきた。
604 :
神も仏も名無しさん :2012/02/03(金) 15:22:39.19 ID:zozE86nH
ちなみに俺はいま休職(つうか仕事やめた)してるから こんな生活できるんだけどね。働いていたら倒れちゃうかもね。 人生の苦悩に耐えられずウツになっちゃってそのストレスを埋めるため 過度の風俗、飲酒、喫煙から抜け出せなくなって収入以上にお金を使っちゃう のが歯止めが利かなくなったから辞めた。仕事自体が面白くなく、お金のために 仕事してるのにもらったお金以上にお金を使ったんじゃ意味ねーじゃんと 思って辞めちゃたよ。で、その風俗も飲酒も喫煙もそんなに欲していないのに なぜかどうしてもやめられなかったんだ。いや、タバコは禁断症状 はきつかったかな。でもどれも充足感もほとんどなかった。 だから俺は1月1日から、風俗も自慰も飲酒も喫煙もやっていない。 律することができててスゴイんじゃなくて実はウツが治ってなくて だから欲望が少ないから 律することができてんのかな 笑 まあ、禁欲がどういう結果をもたらすのか興味あるところ。
605 :
神も仏も名無しさん :2012/02/03(金) 16:21:58.70 ID:7mVuQKgJ
断食は健康にイイなんて話をたまに聞くけど、 肉体は「私」じゃないから食事を制限しても効果がないんじゃないかな。 禁欲してても頭や気持ちが「禁欲」に囚われてたら意味ないと思うし・・・・
606 :
神も仏も名無しさん :2012/02/03(金) 18:12:07.87 ID:qL5h+s+S
菜食と量をほどほどにすることは、マハルシの勧めるところです。心が落ち着くよう になるとのことです。 しかし、鬱の薬を飲んでいたりするなら、特に過度の食事制限は心配です。タバコや 酒などやめているのは素晴らしいですね。頑張ってください。
欠けた何かが悟りの先にあるとわかってる状態で、わざわざ食で欠けた部分を見たそうとすることはないってことじゃなかろうか。 マハルシを知ったという人は、輪廻含めたこの世界では絶対に永続的に満たせない物が悟りの先にあるらしいということがわかっている。 他人を愛することとかでも生きてる内は満たせるかもしれないが、もう一度輪廻した先で他人を愛せる機会に恵まれるかはわからぬ
あと、性に関する禁欲と、食をコントロールする方法、断食はよく言われてるのに、 睡眠については聞かない。なんか言われてるの?
性欲の食欲もその大半は心の空虚感や退屈感、何か楽しいことはないかなという期待感 から生じていると思います ありのままになっていくにしたがって、それらは自然と減っていくでしょう 過度の努力はする必要はないかもしれませんが、自分に生じる欲求を、本能や必要なもの と錯覚しないで、身体の本当に自然な状態を知ろうとする努力は必要かもしれません 睡眠欲も日常から逃避したい気持ちから生じてる部分が多いでしょう 日常に抑圧をすると、その分睡眠量は増え、睡眠の質も雑になるでしょう 日常をありのままに過ごせるようになっていくとと、睡眠量も減り、睡眠の瞬間まで意識は 明晰で朝起きた瞬間から明晰に目覚められるでしょう 水分くらいは摂ったほうがいいと思いますが、その他は、どれだけ必要なのか不必要なのか 実際に試して調べてみるのはいいことだと思います 意識や身体の状態を、意識し観察しながらやるといいのではないでしょうか
610 :
602 :2012/02/03(金) 22:25:23.05 ID:zozE86nH
まだ断食は続いています。 食べたいという確かな、衝動はないです。 そういえば朝にお茶を400cc飲んだきりだな。 そのお茶も、特には水分を欲していたわけじゃなく 気分転換程度に飲んだだけだしな。 薬は飲んでいません。 あ、性的な欲求もあまりないです。 まあ、ちょっとヌキたいとか思っちゃうときも あるけど、人生での説明のつかない満たされない感情に対する はけ口としての、幻想の欲求っぽいし。 しかもヌイても充足感がなかったり、あったとしても あっという間だったり、と悪循環に陥りやすいからな。 でも禁欲開始日より2回夢精しちゃったけどな。エッチな夢は見るって事は 欲求を抑えているってことかも。でも日常生活での性的禁欲は そこまできついとも思ってないよ。よっぽどタバコの禁断症状のほうが きつい。 でも1月1日からオナニーしていないって28の俺にしては すごいよな 笑
いきなりやめて一ヵ月続いてるのは凄いな 俺が昔オナ禁したときは、二週間目ぐらいで気が狂いそうになった
612 :
602 :2012/02/04(土) 16:34:35.73 ID:/kkRKhwH
8時、水分を欲したので白湯300cc。 10時、腹は減っているということが わかった。でもそれほど苦痛ではない。 様子見。 11時 食塩3〜4gなめる。低血糖も 防ぎたかったので砂糖7〜8gたべる。 空腹感がだいぶ減る。 14時 飲みたいと思ったのでお水300cc。 16時 確かに食欲を感じる。我慢できるが 無理なんかしても禁欲のための禁欲になってしまうと思い、 断食をやめる。おかゆ1.5杯、 豚汁2人分とる。 おいしすぎ。
613 :
602 :2012/02/04(土) 16:45:25.21 ID:/kkRKhwH
結果と考察 数日間の断食でしたが霊的覚醒はありませんでした。 空腹感はなくてもエネルギー不足を感じてしまい 、普段やることが多い起床時の瞑想、祈りをめんどくさがって やりませんでした。結局むしろマイナスだったような。 禁欲のための禁欲はどうかと思うけど なんとなく習慣にしたがい3食食べるより 食べる気がしたときに、そんときありがたく食べるという姿勢は いいかもしれません。 ここを断食日記にしてしまいすいませんでした。
614 :
神も仏も名無しさん :2012/02/04(土) 16:45:29.61 ID:maYiqM6c
悟りは意識下と無意識下で起こる状態の変化で 肉体は関係ないのに、それでも肉体の変化にこだわるか。 難儀なことですね。
615 :
神も仏も名無しさん :2012/02/04(土) 17:33:33.46 ID:Z/8ViGPK
意識下と無意識下って、ずいぶん下で起こるんだなー、悟りって。
>>614 そういうの初めて聞きましたが、マハルシやその他の教師たちがそう言ってるのですか?
マハルシの本には適度な食事、適度な睡眠、適度な会話が重要だ、みたいなことが書いてありますが
617 :
神も仏も名無しさん :2012/02/04(土) 20:16:34.99 ID:maYiqM6c
しまった、うっかり秘伝を書いてしまった。 これはここだけの秘密な。
身体(感情)が必要としている間は肉を食べても構わないそうだけど 必要を感じないなら、あえて摂ることはないと聞いたことがあるな でも肉は感情を波打たせてしまいやすいから、適度に控えることは大切かも知れない 意識が上がるにつれて肉を必要としなくなるのは、事実みたいだな 指導者はたまにやるけど、自分を真似されて倒れられても困るのでみんなと敢えて肉を食べたりする といってもせいぜい魚や鶏肉なのは、感情の荒くない肉のほうがいいのかな
真我はずっと真我なのに意識が上がるという意味が分からない。 変化するものは常在でないとラマナも言ってるのに。 上がるなら下がるんだよ。現れるなら消えるんだ。 達成されるなら失われるんだ。 上の方で睡眠欲、性欲、食欲を考察してたが、悟り欲も考察したほうがいいよ。
620 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 01:05:27.52 ID:qQu/x5I5
結局、真我とは何なの? 本当にそれは不死なの? 肉体の死後も存在するの? 単なるラマナマハルシの夢物語なの? それとも本当に永遠なのか?
621 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 01:20:11.98 ID:qQu/x5I5
偉大なる宗教上の指導者たちは、多分その真我と いわれる境地に達していたと推測される。 多分、大差なく共通してると個人的に思います。 で、それは真実なのか。それとも単なる精神病の一種なのか。 それとも、ある化学反応による脳の錯覚なのか。
>>617 君は体裁だけ大事で実際は生きてないつまらない人ですね
全て真我だから肉体の変化にこだわらなくていいって言い方もあるけど、 全て真我なら、肉体の変化にこだわるのもまた真我だからね 本当の放棄は、こだわることもこだわらないことも、こだわらないことだと思うよ こだわるって言い方はなんだけど、身体は生まれてからの長い付き合いだし、 身体の喜ぶようにしてあげてもいいんじゃないかな 肉が食べたいなら食べればいいと思うけど、人間の肉体は内臓の仕組みから体質まで 肉食向きではないのだし、身体が自然と喜ぶようにまかせていけば、 肉を食べる気持ちはだんだんなくなっていくと思うかな
624 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 07:43:10.62 ID:drxY1Q2K
>こだわることもこだわらないことも、こだわらないことだと思うよ あなたはいつもわけのわからないことを言いますね(笑)。
こだわるということも、こだわらないということも それに執着したら、それは放棄ではなく執着だと思うよ つまりこだわりだと思うよ
626 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 11:23:44.90 ID:drxY1Q2K
「こだわらない」って「執着しない」ってことだと思うけど、「執着しないことに執着する」って どういうこと?これがあり得るには、「執着しないこと」が、言葉道理に出来ていないってことに なる。 言葉遊びみたいに、「執着しないことに執着しない」ということに執着しないとか、無限に言える けど、こういのは禅病とかいうたぐいだと思う。
執着してはいけない、こだわってはいけない、みたいに観念化されてると、 それは無執着という執着、こだわらないという執着だと思うよ 何かをどうにかしようという主体の放棄が放棄でありこだわらないということ 俺は執着しない、こだわってはいけない、みたいな主体を持つと、 それは主体を持つ執着から生まれてる観念じゃないかな 身体がこだわろうがこだわるまいが、あるがままってことがこだわらないことであって、 こだわることと、こだわらないことと、どっちがいいか悪いかって優劣の判断が生まれてるなら、 それはこだわることこだわらないことに関してこだわってると思うよ 別の言い方をすれば、こだわることとこだわらないことは、根本的にはまったく同じことであって、 意識においてはどうでもいいことなんじゃないかな こだわらないぞって意識して自分はこだわってないと認識してるのと 自然にこだわらなくなってる状態は違うよね 前者はこだわってない自分というものを持ってるし、 後者はそういう自分を放棄してると思うよ
628 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 11:46:21.45 ID:drxY1Q2K
>身体がこだわろうがこだわるまいが、あるがままってことがこだわらないことであって、 こだわることと、こだわらないことと、どっちがいいか悪いかって優劣の判断が生まれてるなら、 それはこだわることこだわらないことに関してこだわってると思うよ こういう意見は滅茶苦茶ですよ。「あるがまま」ってそういう意味じゃないと思いますよ。まあ、 絶対に納得されないと思いますけど。 自分としては、あなたの考えがよくわからないということが、よくわかりました(笑)。
629 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 11:53:13.46 ID:OswgHmjS
630 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 12:01:05.63 ID:drxY1Q2K
>>629 全然構いませんよ。みんなそれぞれの意見を持つ自由がありますから。
こだわらないとか、執着しないという言葉は、その人がどういう意味で使ってるのかわからないから、 その人が完全に自由であるなら、そのとき放棄や無執着の状態にあると思うよ 不二の言い方で言えば、 こだわることとこだわらないことは身体的(物理的)には違いがある(違いを言葉にできる)けれども、 根本的には(意識では)それらは全く同じであり、 誰一人こだわってる人もこだわってない人もいないと言えると思うよ 一切は原因と結果の連鎖の流れであって、 全体のある部分に焦点を合わせるから、こだわりとかこだわりじゃないとか判断できるだけで 全体としては、ただ流れてるだけ、あるがままじゃないかな
それならいい加減、「不二」とかいう観念を放棄してもいいと思うが。
個我は幻だからすべての価値判断も幻って程度の話を ぐだぐだしないで欲しいよ。
それは期待に沿えなくてすみませんでした
あれ?成長したね。 仕事でもはじめた?
あなたが神に近づけば近づくほど、世俗的な義務は遠のくであろう ラーマクリシュナ
637 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 15:27:56.24 ID:OswgHmjS
まあ、確かに神に近づくほど したい事とやらなきゃいけない事はなくなるなぁ。
お金持ちならいいけど ナマポや失業保険もらっててそんなこと言ってないことを祈るよ。 やれる仕事がなくなるのが日本だからね。
起こるべく定められている事は起こるだろう。 あなたが仕事を離れるべく定められているのであれば 仕事はいくら探してもみつからないだろう。 反対にあなたが仕事を続けるべく定められていれば それを避ける事はできないであろう。 あなたはその仕事を続ける以外にはない。 それゆえにより高い力にそのことを任せなさい。 あなたの想いのままに放棄したり続けたりすることはできない。 ラマナ マハルシ
640 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 16:29:04.39 ID:drxY1Q2K
マハルシの言葉はやはり美しいなあ。原文を載せておきます。 『Maharshi's Gospel』 What is destined to happen will happen. If you are destined not to work, work cannot be had even if you hunt for it; if you are destined to work, you will not be able to avoid it; you will be forced to engage yourself in it. So, leave it to the higher power; you cannot renounce or retain as you choose.
まあ原文といえば原文なんだが、そのまた原文もある上に あなたと違って帰国子女でない我々には必要ないよ。
いや、英語を勉強している僕にとっては、うれしいです。 ありがとう!
時々英文のまま載せる馬鹿も同じ。 日本語訳してその旨表記して載せないなら ああ英語ができるのを自慢したいか、 自分には普通のことだからと一般の事情も慮れないアホな人なんだな と思うだけだけどね。
645 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 16:52:36.17 ID:drxY1Q2K
>>641 『Maharshi's Gospel』は英語をマハルシ自身がチェックした貴重な本で、その
また原文はないんですよ。ソースはディヴィッド・ゴッドマンさんのブログの
文献からです。ですから、英語がわかる人には絶対にお勧めです。
あと、私は帰国子女じゃないですよ。
>>642 いえいえ、どう致しまして。
そうなのか。 その本だけなぜかアシュラムの本屋で買って持ってたな。薄っぺらいから。 デイビッドゴッドマンのペンギンブックスも持ってたが。 まあ、舶来趣味のインテリが多いだろうから需要はあるだろうけど 日本語訳がおかしい時に原文にあたる以外は原文いらんよ。
647 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 17:09:51.61 ID:drxY1Q2K
640は、 D: Is it possible to enjoy samadhi while busy in worldly work? M: The feeling ‘I work’ is the hindrance. Ask yourself ‘who works?’ Remember who you are. Then the work will not bind you; it will go on automatically. Make no effort either to work or to renounce; your effort is the bondage. の続きですね。マハルシがチェックした原文は、他の英語の文献より 美しく感じます。
喧嘩売るなら買うけどw
649 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 17:19:05.75 ID:drxY1Q2K
May God Ramana bless you! May God Arunachala make your and my mind calm and still! ww
自我は馬鹿だからそう簡単に静かにならんよw これが天与のものであるのだから天与に任せるだけ。
651 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 17:30:43.73 ID:OswgHmjS
最終段階では天に任せるしか無いが そこまでは自分の努力でなんとかしなさい。
652 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 17:31:58.67 ID:drxY1Q2K
どうもそのようですねw
十分努力して悟りだの真我だと馬鹿らしいなと思ったけどな。 と言うか努力さえ自然な運行、天与であって個人の意志も努力もないんだが。 仕事をあなたの意志で放棄したり続けたりできないとラマナが言ってるのに 努力は意思でできると思ってるの?
654 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 17:53:19.53 ID:OswgHmjS
自我が強い場合は、天与があろうがなかろうが 勝手に行動しようとするから 自我が弱くなるまで自我に努力させろと言っているのです。
655 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 17:53:31.26 ID:KekN9rB/
特にはその現在に不満はなくて、 日常生活的にも不足はなくて、 喫緊的な心配もなくても、とっても イライラする時があるのは何でだろう。そういうことが皆さんもないですか? 欲望が満たされないからイライラしてるのとは違うと思う。 したいことがないからイライラすんのかな。 したいことが分からないからイライラするのかな。 いやでも、したいことや欲望がなくて、無為に時間を過ごして いるのが、実は不愉快でイライラしてるんだとしたら、 本当は意味ある価値ある人生を生きたい という欲望が満たされないから、つまり 欲望が満たされないからイライラしてるってことか??
>>654 苦しんでいる。そうですか。自我を黙らせなさい。
入門の段階のアドバイスとしては理解するが、
究極的には勝手に行動する自我なんてないんだよ。
説明が下手だが631がこのスレの中では一番理解している。 (ただそれは真理であって自我には無理というか成立のステージが違う。 それはすべては原子の運行に過ぎなくても近しい人が不条理に殺されたと したら心が波たち決してすべては原子の運行だなどと達観できないように。 しかし憤ってさえすべては原子の運行にすぎないように。)
658 :
神も仏も名無しさん :2012/02/05(日) 18:13:25.37 ID:OswgHmjS
知ったかぶり以外に自我になにがあるのかww
>>655 イライラするなら必ずその原因があるでしょう
不足はないと思えていても、不足がないと自分を納得させてる場合と、
自然と不足がなくなっている場合があると思います
前者はエゴでエゴをコントロールしてるだけですし、後者はエゴの放棄です
不足があってもそれは身体上(物理的)のことなのですから、身体においては不足であり
意識においてはそれをイライラともたのしいとも自由に思えるのではないでしょうか
イライラの原因となっているものを見つけ手放していけば、
コントロールによってエゴを静止させるのではなく、
エゴがエゴとならないあるがままの状態に移行していくと思います
イライラなども身体の反応(心、感情)であって、
身体の反応(エゴ)と不変のもの(真我)を別々に感じられるようになっていくと思います
そして、イライラがあるないではなく、身体やエゴやあらゆるものが、それそのものであり、
同時に真我の現れであるということが知覚されるようになると思います
不足がない状態やあるがままの状態でも、自分にそう思わせてるだけの自己催眠の
ような状態の人は多いように思います
それらは知覚を麻痺させているだけであって、あるがままは完全に全てをありのままに知覚し、
完全に目覚めた状態で真我と真我のあらわれという全体性に奉仕することだと思います
k
結局この道離れる人が多いよ。 だって最終的に矛盾してるし。 言葉がきれいとか言葉寄りな人がいつまでも引っかかる。 この世は言葉通りにいかないものだから。
超常現象みたいなのを体験できればいいのだけどねえ それだけでも得る物はあるかもしれないと思える まあその体験無くても物事の見方が中立寄りにはなってるとは思う
好きな道を行けばいいよ。 というより、やりたい事をやりきった人しか、ここには来れない。 無意味さを知った時に、恩寵が訪れ、ここにこれる。 私が誰かを知れば、超常現象なんて、しょうもねぇーになるだろうし。
世欲で達成したい事があれば、紙に書くといいよ。 あと、それをベースに声に出したりして、目標に意識を集中する。 それやると、たいていの事は達成できるから。 まぁ、最も、それも最初の内は、おもしろいだろうけど、 敏感な人ほど、その無意味さに気づくよ。 金はある。環境は、ほとんど思い通りになる。 これといった不満はないけど、なんで満足しないんだ?ってね。 では、おやすみ。
666 :
神も仏も名無しさん :2012/02/07(火) 07:55:55.92 ID:d0NUp5bJ
昼夜逆転して2chに書き込んでるお前らがそんなすごい人生を歩んだとは 思えないなぁ。やりきった運動選手、成功者がこの道に来ないのに。 やりきった人は行動力あるから2chで書かなくても周りも行動力も黙ってないはず。 前には生き地獄を生き抜いた人だけがどうのこうのって言ってたがw 660ではないが「自分にそう思わせている自己催眠」ってやつだろう。
なかにはエリートが来ることはあるけど エリートはがちがちに自分を型にはめての成功、 周りからのお膳立てにプレッシャーの下での成功だからそりゃ無意味に感じるだろう。 真我が「この世界は無意味だ」なんて思うことはないわけで そんなあほなことを思ってしまう自我だから黙らせないといけないわけだ。 ま、お互い苦労しますな。
668 :
神も仏も名無しさん :2012/02/07(火) 11:45:45.89 ID:yvjlh3Ai
>>667 >真我が「この世界は無意味だ」なんて思うことはないわけで
この世界は何も無いなぁとは思うよ。
だからそう思うのは自我だよ。 自分の体験でも心配事も何もなく頭空っぽだとただ存在して普通のことしてるだけで 幸せ、嬉しいんだよ。 何かあるとかないとかは考えを積み重ねた自我からしか現れない。 一度馬鹿になるといい。
670 :
神も仏も名無しさん :2012/02/07(火) 12:41:58.02 ID:yvjlh3Ai
幸せ、嬉しを感じるのこそ自我だよ。
仏教みたいに一切は苦だって言い方もあるし、空って言い方もあるし、 平和や涅槃って言い方もあるし、あるがままや真我って言い方もあるし、 それは言い方次第だよ 何かを無と言おうが有と言おうが、どうであると言おうが、どうでもいいよ
自分で「何も無いなぁとは思うよ。」と言っておいて どうでもいいよじゃ困るよ。 ほんと一回言葉捨てることと、その言葉捨てたところを基準に 言葉を構築しようとしないこと。 あんたある価値基準を握ったと思ったら、今度は離して喋るから 一貫性無い。
いつもそのパターンでしょ。 ある基準から話するのに、反論異論来ると突然その基準放り投げちゃう。
674 :
神も仏も名無しさん :2012/02/07(火) 12:57:13.34 ID:yvjlh3Ai
>>672 「何も無いなぁとは思うよ。」と書いてる人と
「どうでもいいよ」って書いてる人は別人だよ。
ちゃんとID見ようよ。
ほんとだ。ぱっと見てyがあって勘違いした。 そうすると価値基準なくなっちゃってる人か。 価値基準ない人とは話しても仕方ない。
何かを語るにしても、 どうでもいいって真我の立場にとどまりながら、状況に応じてあれこれ言うか どうでもよくないエゴの立場に巻き込まれながら、つい言わずにいられないか の違いがあるよ 大事なのは同じ真理を言葉で語っていても、いま自分がどうであるか、だよ
自我の言葉遊びはどうでもいいんだ。 そんなこと考えてたら言葉の枝葉が茂って重くなり 何の判断も取れずに動けなくなるから。 真我の立場も正直どうでもいい。 俺は真我じゃないし自我でけっこう。
エゴもけっこうだけど、 エゴが親友として仲良くできてる場合と、 エゴが悪友として巻き込まれてるだけの場合は、また違うと思うけど どちらにせよ、生まれたときからの友人だから、まずエゴを愛することだろうね そして他人のエゴもね
この道って結局こういう話を誰かにしたくなるだけだから どうしようもないんだよ。 普通の人は当然相手にしないからね。 本読んでるうちに本の内容が自我になっちゃう全くの洗脳だよ。
それもまあいいんじゃない いいかわるいかで言うと、いいとかわるいとか言えるけど その人はその人の運命をただ忠実になぞっているのだから あるがまま
本を読んであるがままを繰り返したいだけのあなたもあるがままですな。 あるがままなんて言葉誰が教えたんだよww このうるさいのに余計な言葉教えんなよ。
まあ、いいじゃないのさ
「あるがままに」を買った当初は、まさに雲をつかむような感じの内容で、 その分厚さに圧倒されつつも理解しようとして必死に読み進めていたけど、 あるとき、最初から最後まで同じことを言い換えてるだけだ、って気づいた時に なんつーか、あんだけ分厚く感じていた本が忽ち薄く感じるようになってしまった。 結局、「ラマナ・マハルシ」の人柄とかしてたこととかなんて、物語に過ぎないんだよね。 悟りとか幸福とかエゴとか、もうどうでもよいわww
684 :
神も仏も名無しさん :2012/02/07(火) 15:32:38.41 ID:yvjlh3Ai
>>683 >悟りとか幸福とかエゴとか、もうどうでもよいわww
「もうどうでもよいわ」と言いながら
こんな所に書き込む矛盾。
やぁ、気持ちは裏腹ですなぁ。
解放された人を喜ぶべきだよ。 悟りという概念を捨てれば悟ってない人とか悟らなきゃもないんだから。
意識を上げるには何年もかかるけど下げるのは一瞬 瞑想で何年もかけて上げてきた意識が、たった一言の否定的な言葉で失われる 「あなたはいまの一言で自分がどういう状態になったかわかりますか?」 そう問われて、たった一言の否定的な言葉を放ったその人は、自分自身が一気に落ちたことに気づき泣き崩れてしまった 努力しなくてもいずれ悟るけど、何万年も遅れるかも知れない 「いま一秒の努力が、数年後あるいは何十年後にどれほどの差になるかあなた方は知らない」 自我は運命を守るために、努力や可能性を否定するのかもね
自分の内面の葛藤が相手への言葉になっている人は多いね そしてその事実に気づきたくないがゆえに、自分の言葉や思いを正しいと思おうとする 言葉を出すときは、相手より、その言葉が自分のどこから生まれ、出ているのか、 自分の方を観てみるといいかもね
>>687 ,688
ラマナは「私は悟っていないという考えを無くしなさい」と言っている。
それがなくなったのになぜ喜ばない?
自分の言葉もどのような頭の中の世界観から出てるかチェックしたほうがいいだろう。
ニサルガダッタも「あなたと私は何も違わない。違いがあるとすれば あなたはどこかに優れた人がいると思ってあちらこちらと駆け巡る。 私はどこへも行かない。」と言ってるだろ。 お前らは優れた人になりたくて仕方ないんだよ。
自分から悟っていないという考えが無くなったらその人は喜べばいいと思います 他人の中から悟っていないという考えが無くなったかどうかはわかりません わたしはその人ではないのですから あるかどうかも無いかどうかもわかりません 単なる妄想や想像はいくらでもできますが それに688は特に誰に対して言った言葉でもないですよ
別に喜んでもいいんじゃないの? なんでダメなの? どうでもいいって言うと思うけど。
いや、特にどれってことではなく全てに喜んでるよ ダメなんて言ってないし、喜びたい人は喜べばいいし、悲しみたい人は悲しめばいいし どれもすばらしいことだよね
そうだね、素晴らしいことだねww って、なんだかとても無理のあるスタンスな気がしますが… すべてに肯定的だと反論あると大変だね。
どう考えても善良なる真我ぶろうと自我が頑張っちゃった結果 なんだか論理的におかしな人になっちゃってる感じなんですけど それ大丈夫ですか?
反論ってあったのかな 反論と思うひとにとっては反論なのかもね すべてに肯定してるわけでもないけどね 肯定や否定も、それらがあると思うからあるだけだし
大丈夫でも大丈夫でなくてもいいんじゃない? 大丈夫でないとよくない人にはよくないのかもね
そのレベルまで行くと私にはどうにもなりません。 字面では最強お花畑モードでしょうね。 おそらくどんな人生の苦難が来ても苦難とは取らないのでしょう。 人が聖人と崇めてくれるかどうかはわかりませんが、それも気にしないのでしょう。 ちゃんと働いているのかどうかも分かりませんし、働かなくても働かなきゃとも思わ ないでしょう。
しかしなぜ2chに来るのか不思議ですけどね。何を求めてるのかな?と。 物心ついた時から不思議に2chという場所を神聖な場所として意識していたわけでもあ すか?
700 :
神も仏も名無しさん :2012/02/07(火) 17:46:59.70 ID:YnZnqn9/
安価付けないと誰に対しての書き込みなのか 良く分かんないね。
求めて? あなたは求めてるから生きてるの? 求めてるから呼吸したり水を飲んだりするの? それらと2ちゃんをすることの違いがわからないな 違うと思う人には違うだろうけど 何かを求めて2ちゃんに来てる人もいれば、 ただ2ちゃんに来てる人もいるんじゃないかな
>>701 考えをやめたり、マントラをずっと唱えていて分かったのは
息をする、瞬きといったとか原始的な作業や潜在意識が代行してる習熟した作業
(歯磨き、トイレなど無意識でできるもの)を除いて表層意識(我々)の動きが
ないとできない。複雑な作業は考えがないとできない。
もし、それができるなら犬でも猫でも2chやら複雑なことできるはずで、 彼らは私らほどの考えがないから出来ないわけです。 だから2chに来るにはなんか思考が働いてる。 ただ来るにも微細なところで考えが働いているんです。 で考えはなぜに浮かんでくるのか? これ生命力と言うかつまりは欲でしょうな。
もちろんあなたが生命維持といった機能と思考という機能のどちらも 同じ自発的な動きとして区別しないのであればどちらも勝手に行われて いることになります。 しかし「その言葉が自分のどこから生まれ、出ているのか、自分の方を観てみる といいかもね」と言っているのでどうやって2chに来ているのか見てみたらどうで しょう?
人間の脳は人間の脳の考え方をしてるし 犬の脳は犬の脳の考え方をしてるんじゃない? 人間の脳は人間の欲を作るし 犬の脳は犬の欲を作ってるだろうね 簡単や複雑な作業があるのではなく、そてぞれに応じた作業をしてるだけだと思うけど これが簡単だとかこれが複雑だとか思うのが、人間の脳かもね
>>704 自分でも観てるよ
ありがとう
観たい人は観て、観たくない人は観なければいいと思うよ
特に誰に向けて言ったわけでもないし
まあ言葉遊びもあれなんでこのへんで失礼します。 おっせかいながらあなた達のようになりたいと大部分の人は思わないでしょうね。 苦しみがなくても。
まあ、いいじゃないですか
710 :
神も仏も名無しさん :2012/02/07(火) 20:29:46.48 ID:YnZnqn9/
712 :
神も仏も名無しさん :2012/02/08(水) 00:33:30.31 ID:kVJuCsu0
>>711 この女性は「私はここにいる」って気付いただけだから
同じような体験はみんなしてると思うよ。
俺は数日ゲラゲラ笑い続けたこともあるし、一日中歓喜に泣いたこともあるよ 話してる相手をそういう状態に導いたこともある でも、そういうのは大したことじゃなくて、そこにとどまることができないと意味ない また普段の日常のマインドに戻ってしまうのが普通だからね それにそういう状態にも深さがあると思う グルがそこにいるかどうかってのは大して意味はないんだよ その動画を見ることでも、覚者の本を読むことでも、そういう状態は訪れる 本当に真剣に自分を導いて動画を見れば、本を読めば、自分に向かえば、 そういう状態は訪れる この女性もグルに導かれたのではなく自分の力で自分を導いただけなんだから グルはその適切なサポートとしてたまたまそこに存在しただけだし 大切なのは、本当に真剣に自分に向かえるかどうか、それだけなんだよ 真剣ということすら通り超えて、完全に何もしないで、どこにも行こうとしないで、 考えでも、推測でも、思いでもなく、 ただ自分を見つけられるかどうかそれだけなんだよ 見つけるといっても、見つけようとせず、理解しようとせず、知ろうとせず、 ただ、それは訪れるんだよ 初めから、いつも、不変に、それはそこにあるんだよ
もうその見つけようって気が全然無いなぁ 自分は自分なのになんでそそのかされて他の自分さがしてるのか さっぱり分からない。 ただの意識が何の役に立つのかも分からない。 結局なんだか言葉はすごいけど、需要もなくて これやってる人は働きもせず聖地で時間潰してるか、ここでやってるように 数少ない来る人を待ってるような有様だろ。現実的に。
716 :
神も仏も名無しさん :2012/02/08(水) 13:15:39.47 ID:kVJuCsu0
>>714 見た感じ縁がなさそうですね。
役に立つとか考えだすと先に進むのは無理でしょ。
こういうのは損得関係なく訳も分からず引き付けられる
そういう何か強いものがないとねぇ。
そういうものがあったんでしょうな。 インドに行き、ティルも行ってますよ。もう何年前でしょうか。 しかし、あそこに長くいる人たちがここで大げさな話している人のようなこと言わないですよ。 あなたが20年後にもそのスタンスでいられるでしょうかね? これからですよ、自分がなぜそれに引きつけられたのか整理していくのは。
718 :
715 :2012/02/08(水) 13:29:13.25 ID:tnQWkFgJ
英文Wikipediaのプンジャジ(パパジ)の中の「Meeting Ramana Maharshi」の段落を読んで (超簡略・意訳だけど)神のビジョンを見せてほしいと願ったプンジャジに対して ラマナ・マハルシは「顕れたり消えたりする神々は続きません(永続的な存在でない?)。 それよりも常に神々に気付いてる‘ワン’(唯一のひと? 自己? One)、来ては去っていく ようなものでなく、ずっと居続ける観察者(つまり True Self ?) を探しなさい」と言った みたいな説明があって、いかにもマハルシらしいなぁと思いました。さっそく Talks with Ramana Maharshi で原文をあたってみようと思ったけど、収録年が1939までで プンジャジ(31歳)が初めてマハルシを訪ねた1944はそれより後だった orz 残念 Wikipedia の説明の後半で、クリシュナ・バクティという言葉が出てくるのですが これって何でしょう? 辞書を引きながらのたどたどしい英文読解なので、前後関係が 自分はよくわかってなくて、きちんと読み取れなかったりしてすみません。
>>716 多くの精神世界活動で
初めてこういうものに触れた人が舞い上がって周りも見えなくなるのは
見ているでしょう。しかし言葉ほどのことはなく、成果があるのかないのか
何年かで下火になります。
オウムでもテレビで絶叫していた女が印象に残ってますが、今ならなんと言うのでしょうね?
720 :
神も仏も名無しさん :2012/02/08(水) 13:58:02.97 ID:kVJuCsu0
>>719 結局、自分の外の世界に答えを求め彷徨い歩いているうちは
真理を得ることは出来ないでしょう。
そのオウムの女性も外の世界には求める答えが無いことに
気付ければイイのですが・・・・・
>>720 私は私しかいない内側に飽きましたよ。
あなたもずっと内側にいられないので出て来てるのではないですか?
なぜラマナのように篭ってないで出てくるのでしょうか?
722 :
神も仏も名無しさん :2012/02/08(水) 14:10:37.42 ID:kVJuCsu0
>>721 >私は私しかいない内側に飽きましたよ
私しかいない内側ですか、さぞや退屈でしょう。
ここだけの話、私の内側にも外側にも私はいません。
加えて内側も外側もありません。
>なぜラマナのように篭ってないで出てくるのでしょうか?
ラマナは篭るのが好きだったみたいですが
俺は変化する外の世界が好きなんです。
まぁ、何もありませんけど・・・・・
飽きると同じことみたいですが、物は言いようですね。
724 :
神も仏も名無しさん :2012/02/08(水) 15:26:58.84 ID:HN1sRT4a
外から見ると同じように見えても 中は全く違うかもしれませんね。 飽きたと感じる「私」がいる限り どこに行っても飽きるでしょうねぇ。
ある程度進んだにも関わらず、これ以上進むと自我を放棄しなくてはならない事実から逃れるため瞑想を否定しだす人も多い その方が社会的に信頼されている場合、悟りに向かう者に多大な被害を与えてしまう 悟りに到った方々は決して瞑想を否定しない そのまな弟子達がそれを放棄しないことからも明らかだと思う 「瞑想を通さずして悟りに到る者はひとりもいない」と断言する方もいる 「一日中、愛の中に在って愛に生きるなら瞑想は必要ない。生きていることそのものが瞑想だから」とも言われるが、そんな人は滅多にいない
変えられる力も変える力もリーラなんでしょうな。
何にしてもこのスレに来てあなた達と話すと変な状態になります。 現実の話と違い言葉の指し示すものが曖昧なのでどうとでもかわせるのです。 批判された途端嬉しそうに返事を返してきます。 どうも悟りが上だと思っているようです。悟りを否定する人もまた良しとは思えないようです。 それで囚われがないとは不思議な話ですね。 よく読んでないので的外れかもしれませんが。
ラマナは自分を必要としなくなった人を喜ぶと思いますよ。 転んだなんて言うのは他のヒンドゥの影響です。 幻の中で転んだことに目くじら立てるなんてどっちが迷妄に捕らわれてるのだろうか?
それと、この世界に何も無いとはとても悲しく思います。 多くの人は家族だったり知人であったりいろいろ詰まってます。 普通の人にそんなこと言ったら洞察の鋭い人ではなく、単なる可哀想な人として 一蹴されますよ。
>>725 する人もしない人もどっちみち同じじゃないすかね。
否定する人も否定しない人もどっちみち同じじゃないすかね。
悟った人も悟らない人もどっちみち同じじゃないすかね。
731 :
神も仏も名無しさん :2012/02/08(水) 18:53:42.80 ID:0q6R0tOL
>>718 Oneについてですが、gooの辞書では、
7 ((the O-))絶対者, 神;(新プラトン哲学で)万物の本源;一者
とあります。
クリシュナ・バクティってwikiだけでは分かりませんね。クリシュナの名のジャパ
なのか、クリシュナにすべてを委ねようとするなんらかのサーダナなのか。『覚醒
の炎』を読めば、良く分かるかもしれませんね。
それぞれがそれぞれの道で悟りに向かっているのだから、 相手がどのような道で歩いていようと、慈悲と愛を持って接したいね 相手も自分であり、自分も相手である あらゆるものはそのものであると同時にただ尊い すべて真我でしかないのだから
瞑想や自己探求を否定してる人はどんな境地に達した上でそういうことを言ってるのでしょうか? 悟り的なことを体験したのか、ただ途中で飽きてしまっただけなのか。 何か体験したことを話してもらえると有難いのですが。
734 :
神も仏も名無しさん :2012/02/08(水) 20:46:50.50 ID:2cLQdTy1
>>733 否定も肯定もないんじゃないすかね。
クリシュナとアルジュナの例えのように。
そういうレスはもううんざりです
736 :
神も仏も名無しさん :2012/02/08(水) 21:45:39.63 ID:HN1sRT4a
瞑想や自己探求を否定してる人って、 どういう事を言っているのかよく分からないけど、 一度、自分の中心が分かれば、今まで毎日瞑想していた人でも、 マインドが騒がしくならない限り、瞑想しなくなる事はあると思うよ。 ちなみに、711 の動画の女性は、あれで自分の中心は分かったと思う。
座ってやるだけが瞑想でなく、日常が瞑想そのものになっていくってことはあるね
歓喜して騒ぐのは目新しい体験に興奮してるだけで、 それが日常、当たり前になれば、興奮することはないんだろうな。
>>733 説明するのが難しいです。否定まではしてないです。
ラマナが真我は実現されていて、新たに実現することもなく到達されることもなく知ら
れることもないと言っていますね。だから真我を求めても、あり得ないし無理なんです。
ですので、「馬鹿らしい。俺やーめた」でやめられる人はやめた方がいいのです。
741 :
神も仏も名無しさん :2012/02/09(木) 02:57:54.41 ID:Gur2enXT
少なくともラマナは”真我”を強烈に実在として経験したんだと思う。 ただそれが主観なのか、それとも本当に客観的に不死なるものなのか。 脳の仕業なのか、肉体を超えた死後世界を肯定したものなのか 誰にも証明できないだろうが、そこは皆さん、どう捉えてますか?
で、そういう無理なものあり得ないものを求める修行というのは結局のところ 悟りを求めている苦しんでいる自我の方を何とかするんです。 悟りを何らかの達成とか世界の仕組みが分かるとか勘違いしている人は やめた方がいいです。一種の方便です。
743 :
神も仏も名無しさん :2012/02/09(木) 03:11:02.09 ID:Gur2enXT
普通の人間として生を受けたにも関わらず 世俗的な事柄以上に、真実なものがあるなど 凡人の自分には理解不能。 例えるなら覚醒剤級の反応でしょ。 脳が自我であるとするならば。 単なる夢物語であるにしては、ラマナの言う真我は強烈すぎる モチベーションを持続させてるでしょ。世俗に興味を失うなんてよほどの経験 なんだろう。
744 :
神も仏も名無しさん :2012/02/09(木) 03:14:12.36 ID:Gur2enXT
それが無理なもの、ありえないものとするのは あなたの主観ではないですか? 何故あなたはそう言い切れるのでしょうか。
>>744 うだうだ言うあなたが現れている時は悟りを求めているが
そのあなたが黙っている時にはあなたは悟りを求めていないって分かりますか?
電車の中でぼーとしている時に悟り求めてますか?
これで分かるかどうか心配ですが。 また、普通の人が求めもしないものを求める自我って戯れに高級低級で言ったら どうなりますかね?
普通の人も、心の奥で完全な自由、完全な平和を望んでいるんじゃないかな そうなってなから、表面的な快楽を求めてるだけでしょう 悟りを求めるのをやめるってのは、悟りが何であるかわかったときのことだよね 人の本来の悟りの状態に戻ることができたとき、悟りを求める心もいらなかったなとわかる むしろ、余計だったなとわかる でも、それがわかる前に悟りを求めることをやめても、悟りを求めることをやめるって選択を しただけでしょ 悟りを求めることをやめるってのは選択しないってことだから 悟りを求めるを選択するのも、悟りを求めないを選択するのも、同じだよね それがわかってないまま、悟りはいらないとか、悟ろうとしてはいけないという人は 多いだろうね 悟りも悟ろうとする気もいらないし、それらは余計だけど、 それは自分が完全に自由になったとき、真我実現できてるときの話 悟りを求める、求めない、という2元性が自分の中にあるときは、 ただの、悟りを求めることの裏返しに過ぎないだろうね
>>741 それは自分がわかっていくしかないだろうね
個人的には、主観とか客観とか、脳の仕業とか肉体を超えたとか、一回そういう観念は
取ったほうがいいと思うけど
逆に、この現実や自分をどうして実在と思ってるか、思えてるかだよね
現実も自分も、瞬間瞬間変わってる
それをどうして実在だと思えてるか、自分の中の何がどうしてそう思ってしまうのか
あらゆるものの固有性は瞬間瞬間消えて現れてるだけかもしれないね
すでに死と生を無限に繰り返してるのかもしれない
まず実在とは何かってことじゃないかな
749 :
神も仏も名無しさん :2012/02/09(木) 10:27:18.85 ID:8cdw7pM7
>>741 その「ラマナ・マハルシ物語」は誰の物語なのか?、
ということなんでしょうな。
>>740 >>742 >>745 >>746 あなたが言ってるのは結局「すっぱいぶどう」なんです。
真我を実現するどころか、中途半端で探求をやめたあなたがなぜ、
「真我はありえない」とか「真我を求めるのをやめられる人はやめた方がいい」などと
偉そうに人にアドバイスが出来るのんですか?
真我の探求なんて馬鹿らしいとうそぶいているあなただって
そんな自分を「高級」だと思ってるんじゃないんですか?
751 :
神も仏も名無しさん :2012/02/09(木) 12:43:10.26 ID:CmCPJUYC
ぶっちゃけ「真我」って今この時点ですでに「真我」なんで 特に探求するモノでもないし・・・・・
それは悟った上でそう言ってるんですか? あなたは常に時空を超えた至福の境地にいたり 「私」が存在しないすべてが一つの状態にあるのですか?
753 :
神も仏も名無しさん :2012/02/09(木) 13:14:26.80 ID:CmCPJUYC
>>752 >それは悟った上でそう言ってるんですか?
「悟り」なんてモノは特に無かったよ。
>あなたは常に時空を超えた至福の境地にいたり
当初は至福を感じたこともあったけど、
それがずっと続くと普通になるんで
至福だと今は感じてないよ。
それに至福はここにあるんで、時空を超えてはいませんね。
>「私」が存在しないすべてが一つの状態にあるのですか?
一つの状態が何を指すのか分かりませんが
「私」と以前呼んでいたモノはありませんね。
>>749 その書き込みで昨日のこと思い出したわ。
あるアニメ見ててむかつくやつが出てきて、ずっとむかむかしてたんだけど、それがアニメの中の出来事だと気がついたら、むかつきはもちろん消えた。
で、それを今見ている世界に拡張(適応?)したら、あなたは何もする必要がないの真意が一瞬完璧に理解できた。
理解できたが、すぐに霧に隠れて持続しなかった。言語化できないから説明はむずかしい。あのときの感覚を想起して書く。
いま見ている世界は、小説「田中太郎物語」である。アニメ、マンガ、映画でもいい。田中太郎は自分の名前に置き換えて。
何もする必要がないというのは、何もしなくていい、何でもしていいを含んでいることは含んでいるのだけど、
それよりは、自動的に動くというニュアンスの方が強い。すでに描かれた物語をなぞっていることに気がつくという言い方もできるか。
つまりは何もしなくても何でもしても、それは意思があるように思えるけど、すでに描かれてる物語のワンシーンを選んでるという意味での自由にすぎないのではないだろうか。
これを適切なときに、適切に動くようにするという状態にするには、もう一歩何か必要になると思う。
気づいた時点で自動的にそうなるのかもしれんが。俺はACIMも学んでるので、あっちの言葉で言えば、もう一歩とは、聖霊の助けになるんじゃなかろうか。
以下完全推測
この状態においては、登場人物全てに対し激しい怒りは覚えないだろう。だからといって喜びを覚えないわけじゃない。
うれしいものはうれしいし、気持ちいいものは気持ちいい。
背中にお灸を置きながら、アルパカの毛に顔を埋めるようなもので、一方の苦に対する価値を落として、楽を上げるということはできる・・・と思う。
熱いより気持ちいいのほうが勝るような。世界は無意味になるというのは言い過ぎで、遊園地にはなるだろう。
何かイベントが起きても本気にならず、適度に受け流すことができるようにはなるだろう。
> これを適切なときに、適切に動くようにするという状態にするには、もう一歩何か必要になると思う。 これが「不自由さ」の原因だったりして。
756 :
718 :2012/02/09(木) 23:54:54.81 ID:qXcB6XVd
757 :
神も仏も名無しさん :2012/02/10(金) 04:04:31.52 ID:3QstCET8
「誰が考えているのか?」 の問いかけから、問いかけそのものが次から次へと沸き上がってくる現象を認め、 その沸き上がってくる問いかけ=思考を生じさせているのは、誰でもない、 そうした思考が沸き上がる場所=空間であるとの認識に至る。 それは空間だから、当然、何もない(=emptiness)わけだ。 いわゆるこれが、伝統的仏教における「空」の理解ということでよいのかな?
758 :
神も仏も名無しさん :2012/02/10(金) 09:09:37.49 ID:1/G9NUwt
>>757 >いわゆるこれが、伝統的仏教における「空」の理解ということでよいのかな?
認識に至るまでは、それでもイイと思うけど
>それは空間だから、当然、何もない(=emptiness)わけだ。
ここは思考により導きだした結論だから良くないと思う。
空間とか理由を付けずに何もないと認識できたら
それはそれで、あなただけの答えにはなると思う。
意識というのは無の中にもつねに在り続いているもんだろうから、なんにもない無、完全な闇ということはないんだろうな 元から在った意識あるいは神が、無かった自分を振り返ることもできないのかも知れない
>>757 いいと思うけど空でいうなら空もまた空だから、何もないということも無くならないとね
有るということを手放したら無いということがわかる
でも無いということがわかってるということは無いということを持ってるから、
次は無いということも手放す
それが空だと思うよ
有るも無いも、無い、あるいは、有るも無いも、有る
手放すということも含めて全部手放すか、手放すということも含めてあらゆる全てを抱えるか
それが言葉の論理ではなく体験としてわかるといいんじゃないかと思うよ
761 :
神も仏も名無しさん :2012/02/10(金) 12:37:13.13 ID:K6VrBI5I
762 :
神も仏も名無しさん :2012/02/10(金) 12:39:57.83 ID:K6VrBI5I
Maalok: That seems to take care of Ramana Maharshi. What about the other people you have written about? の質問に対するゴッドマンさんの答えからがプンジャジについての話です。 「長すぎるから書き込めません」と表示されたので、分けました。
>>755 それで気がついたが、俺は幸福であることを譲れない絶対条件にしてるわ。
真我を発見し本来の形に戻ることじゃなくて、今生で幸福に生きたいと思ってる。
目指す場所を間違えてるようだ。でも辛いのイヤだしなあ。
真我実現したら何か現世的な見返りがあるんじゃないかと、期待しちゃうよね
T
>>764 まあでも、一般社会の喧騒の中で生きながら、一応は瞑想もできてるし、それによって心を静かにできることもあるから、
安全安心で何も気にすることなく瞑想に打ち込めるという環境は必須というわけじゃないのかもね。
もしかしたら無意識のうちにそういう環境を求める生き方をするのかもしれないが。
ラマナ・マハルシは昔の中学時代の同級生から見ても 外見は同じでも中の人はまるで別人に変わってたらしいな イエス・キリストも昔のイエスを知るものからはまるで別人だったらしい
768 :
神も仏も名無しさん :2012/02/10(金) 22:22:05.95 ID:/uBkJPnA
>>767 そうなのか!?
それじゃ俺もそのうち変わっちゃうな。
まるごと変わったように見えるほど、エゴは分厚いってことだろうね エゴ一つ抜けただけで別物になるんだから
>>763 まあ、生あるうちはなるようにしかならんのだろうから、そうしてりゃいいんじゃないかな。
772 :
神も仏も名無しさん :2012/02/11(土) 17:39:50.44 ID:e6mWGJy0
>>771 ありがとう!!
さっそく行ってきた。
これでオレも悟りを開いて、
あんなことやあんなことができるようになっって、
ムヒヒになれるぜ!
773 :
神も仏も名無しさん :2012/02/11(土) 17:43:03.98 ID:ss1Uqf1V
悟りを超越した者にだけ開眼するという、あのステマか!
>>771 この人、無空庵ブログの無空さんのところでセッション受けてた人だね。
こんな商売始めてしまったわけだね。幻滅だね。
無空さんは本物だと思うがこれってどうなのかね?
無空さんはこのこと知ってるのだろうか。
>>775 え?ちゃんとやってた人なの?
文章といいページの感じといい、インチキ商材売りかと思った。
悟っても全知にもならんし、自我の性能は大して変わらんのにねぇ。
ま、だからこんなこと始めちゃうんだが。
ラマナとか完全に目覚めている(誰が検査するかわからんが)師たちはどうやって生計立ててるの?
ヒンドゥ教徒は修行者やグルに喜捨することは徳を積むって考えがあるから 多くは施し、寄付で食ってる。 変わったところではニサルガダッタはタバコ屋の親父。ラメッシは銀行の頭取か 支店長だったので十分な蓄えがあっただろう。パパジは軍人だったか?でも団体の 運営は寄付だろうね。
心理療法は、金儲けをする機械だ。 サットサンは、ただ自由をあげて金儲けはしない。 それは、マインドの平和の為でマインドを騒がせる為ではない。 サットサンは愛と平和を与えるが、心理療法は人をもっと混乱させる可能性がある。 〜 「私は、誰か?」、「私達は本質的に何の病気を持っていない」という事を見つけ出すのだ。 ほとんどのセラピストは、ほんの一時間だけあなたの前にいて100ドル取る。 そして、行ってしまう。 サットグルは、永遠にいつもあなたと一緒にいる。 これが違いだ。 「the truth is」 by papaji
そのかわりグルは100ドルどころか10万ドルでも受け取るからな。 難しいところだw
弟子があげたいというなら貰うけど、 弟子よ、あなたは感謝の気持ちと物品を同じものとして考えてはいないか と諭したりするんじゃないかな
弟子の懐の痛まない寄付なら、いいんじゃね。 もっとも、無言の寄付しろよの圧力あるグルは駄目だど思うけど。(笑)
前述したような教えになってるから圧力なくても寄付するようになってるんだけどね。 仕組みとしてはうまいよ。 すべてのものは神のもの。お金持ちは神様から預かってるだけ。神様に返すのは当然。 グルは欲がないからどんなに高額でも少額でも文句も礼も言わない。 神様だからこの世は幻だからお金は必要ない持って帰れとは言わないw
まあ、教え自体が圧力になってるわけですな。 その枠組みの中に入ったらそうするようにできてるわけですわ。 貧しいチベット人がそれでも坊さんに喜捨するように。
ダスカロスは金銭物品の受け取りを拒否してたらしい なんでそうしたのか忘れてしまったが理由があったような
生存〜死を繰り返す連鎖。 体験する世界を含んだ、その行為の主体者は誰か。 たとえば、夜見る夢の中の自分について。 その自分の体験する、夢の出来事。 また、その真っ只中ではけして疑ったりしない夢の自分の意志。 それらを作ってるものは、本当の所、誰なのか。 無料のバスに、私も含めた大勢で乗り込み目的地にゆく。今朝、そんな夢を見ました。 バスが目的地に付く前に、私は夢から覚めました。夢から覚めた私は考えます。 はたして、夢から覚めたことは夢の中の大勢の他者にとって、彼らの目的についたといえるのだろうか、と。 実のところ、彼らは私の脳が創りだした夢の一部です。つまり、私の一部。 夢からさめてしまえば、目的地へ向かいたいという意志も、目的地も、目的も、 どーだっていいことなんですね。 『川を渡るため筏を作り、対岸に渡った後もまだ筏を担ぎつづけて旅するバカ』 ってのはそのへんの機微をさした言葉かも。 一度夢からさめて起きてしまえば、夢の中での出来事について、 思い返したりその意味を考えることはできるでしょう。 それでも、本気で夢の中の物や人に執着することはできない。
>>785 確か奇跡を起こしているのは精霊(聖霊だったかな?)だから
自分が報酬もらうわけにはいかないという理由だったような。
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
金、女、権力、これが見えたら即アウトにすれば指導者を間違うこともほとんどない ただ、神か自我かの選択の場に立つ人は、自我を選択する(守る)ため良き指導者を否定したりもする 助けもしないし、選択の邪魔もしないから、力を失ったようにしか見えない指導者を否定して離れていく 「自ら立ち上がるために選択の場に立っているんだな」と本人は気付かないし、気付いていても気付かないフリをする 単なる欲望、恐怖、自己否定、内から手に入れた英知など、自我は自我を守るための巧妙で強力な武器をいくつも用意している
>>789 自我は自我すらも攻撃対象にして自我を守るからな。
誰にも罪をなすりつけられなくなったら、私が悪いという最後の手段に出る。
アホか。 真我が修行なんてせんぞ。
だいたい不安だの不満から悟りを求めておいてばかじゃないの?
794 :
神も仏も名無しさん :2012/02/14(火) 18:22:32.90 ID:unnCMHDV
Maitri (friendship), karuna (kindness), mudita (happiness) and upeksha (indifference) and such other bhavas become natural to them. Affection towards the good, kindness towards the helpless, happiness in doing good deeds, forgiveness towards the wicked, all such things are natural characteristics of the Jnani. Patanjali Yoga Sutra, 1: 33
795 :
神も仏も名無しさん :2012/02/15(水) 08:13:07.15 ID:j84rFrwK
マイトリ(友情)・カルナ(優しさ)・ムディタ(幸福)・ウペクシャ(平静) そして、そのような他のバーヴァ(心の状態)は彼らにとって自然となる。 善への愛好・貧しい人々に対する親切・良い行為を行うことの幸福・悪人への 赦し、このようなすべてのことは、ジニャーニの持つ自然な特徴である。 パタンジャリ・ヨーガ・スートラ 1:33
>>787 最初はすごいと思ったが、ギリシャだかキプロスだかの公務員が言っても説得力に欠ける気がする。
そもそも公務員がそういう兼業できる時点で日本ではありえないような。
>>796 すごいというのは能力に対してだと思うけど、たとえ能力がすごくても人格まで尊敬できる人間とは限らない。
ダスカロスの場合は能力抜きにして人格はどうだなんだろうか。
俺はダスカロス著の書籍は読んだことがないからなんとも言えない。
ダスカロスのサークルメンバーたちは能力に心酔してるのか、人格に心酔してるのかどちらだろう。
能力と人格は結びつかないという例は、軍人や宇宙飛行士を見れば明らか。 優れた能力を持つが、事件を起こす人も居る。 宇宙飛行士といえば、地球に来られる宇宙人は文明レベルが高いのだろうけど、だからといって精神的にも高いレベルかはわからん。
能力=精神の高さではないとは明恵上人も言っていることで、 イエスも「奇跡を起さなければ信心をしない」弟子に嘆息している。 ダスカロスという人は知らないけれど、 評価すべきは金品を受け取らないという点じゃないの。
インドやチベットにはたまに現れるんだよな いきなりある日人格が変わって聖者になる人 肉親ですらその変貌ぶりに驚くという そんな人に今まであたり前だが出会ったことないから想像出来ないけど
逆に君子豹変ならよくあるけど
802 :
神も仏も名無しさん :2012/02/19(日) 22:44:23.62 ID:5tflJwB6
>>800 人格変換しても本人的には以前のままなんだからややこしいんだな。
本人的に変化を感じるのがウォークインとか呼ばれる現象だっけ? 宇宙人の魂が入り込むってやつ 聖者化って単に気がついただけじゃなかろうかな。 単にって書いたけど、その気づきが悟りと言われるレベルのものだったんだろう。 普通の人でも日常生活で大きな気づきを得たとき、一部だけ人が変わったように生き方を変えることがある。 たとえば人の振り見て我が振り直せを地でいく経験をしたときとか。
神とか摂理だとかに、自分の存在を「全託」できたら、 本人は変わらないまま何かが変わるんだろうな。
何年か前にちょっと知り合ったプロテスタントのおばあちゃんは、「砕かれる」という 言葉を使っていた。 「あたし達の間では、壁にぶつかって限界を知る時に『砕かれる』と いうんですよ」って。 本当に普通のおばちゃんだったけど、神の話をするときは深い境地を感じた。 妙好人ってやつだったのかも。
釈迦もそんな感じだったらしい 厳しい修行についてけない釈迦に 一旦愛想付かした弟子が 釈迦の悟った後の豹変ぶりに魅了された イエスも故郷ではあまりの豹変ぶりに相手されなかった
イエスの自分は神だ発言は当時のユダヤ教文化やギリシャ文化 考えたら疫病神で故郷で相手されなくても仕方ない
イエスだ釈迦だと何千年も前の外国の人をお手本にしたって 日本社会ではおかしくなるだけだよ。 宗教の本は信じるのになぜこの世界自体を神だとはみなさないの? 砕けるとはそういうことだよ。その偏狭な考えが限界にあたって砕けるんだよ。 悟りを求めてる偏狭なあなたが砕ける。 聖者に固執する偏狭なあなたが砕ける。
809 :
神も仏も名無しさん :2012/02/20(月) 14:01:13.08 ID:IkxtsSlz
そんなおかたいこというなよw 昔の人だろうと外人だろうと語ったっていいじゃないか。 聖者を手本にしちゃいけないことに固執する偏狭なあなたもちっとは砕けてくれw
それに世界を神と表現するのはラマナの本を 読んでる人なら自明だろ。 自分もその神の中の人、だけどそれを理屈ではなく実感できる 人ってのは少ない。その中に昔の外国人もいたってだけの話。 今さらなにをって感じだわ。
ラマナって中学や高校の友達と悪ふざけしてた普通の学生が いきなり小額の金だけ持って家出した後は まるで人格が変わってたらしいから意味わからん 日本では居ないよな、インドやチベットならそんな人たまに居るからわからん やっぱ土地ってあるのかもな、渓流魚は汚い川に絶対居ないもんな
おかしな常識はずれの言葉だけありがたがって世界が神だと本当に思ってるか? お前の親が「働け」とか「学校行け」ってのも神の言葉だぞ? 聖人なんぞありがたがらんでも世間にはいくらでもまともな人がいる。 普通のことを普通に了承しないでおかしな思想に食らいついてることが 世界を受容してないってことなんだよ。 10代くらいかね?頑張って学校行けよ。論理も理解も稚拙だから。
それかインドでも行って来い。 お前の「なんとかなのかもな」とか「らしい」とか飽きた。 実際行って確かめてこい。 お前の話みんなそれじゃん。釈迦は何とからしい、インドは何とかなのかも。
だから伝説なんだよ、俺にはどうしてもそれが簡単に嘘だと 感じられない、 インドの奥地なら野生のコブラや虎がいきなり懐く そんな人が居ても不思議じゃない奥深さがある 逆にそんな所だからびっくり人間は居る らしいじゃない居ても不思議でも何でもない
>>814 一度インド行っておいでよ。よーくわかるから。w
隣りに居たあの人はまるで違う景色を見てた 何であり得ないと決め付けるんだ? 霊感なんかそんなのばかりじゃないのか? 俺は見たこと無いから信じないとか言われても 事実あるから困る、いきなりある日人格変わって別人も世界にはありえる
別に理屈でも何でもない 犬や猫は色盲で人間とは見える景色違うらしい 何でそれがありえないんだ? いきなりある日人格が変わった人が居ました あっても不思議でも何でもない、訳わからんってだけだな
あり得ないなんて言ってない。 頭でごちゃごちゃ考えてるよりさっさと確かめに行っちまうか 自己探求でもして黙らせるかしろってこと。 一応ラマナスレなんでここで下らないファンタジーおっぴろげるなよ。
>>812 そんなこと言うならまずお前が2ちゃんの「聖人」スレに入り浸るのやめなよ
まっとうな意見だろ?
はい、神の言葉でーす。
君がスレの言葉に反応してべちゃくちゃ喋るのも 自己探求して黙らせたらいかが?俺は喋っていたいけどw はい、神の言葉です。さあ実行しろ。
>>820 入り浸ってもいないなぁ。仕事あるし。
ここ自我の強い人多いの分かってるから出来れば来たくない。
いくら言っても分からないし。自分の意見に固執してるっての?
俺もそうなのかも知れんが。
ただ、経験者として教えたいなぁとは思う。
それに気付くのに無駄な時間使うから。
確かめる必要なんかない 例えば霊か何かに肩を叩かれた そんなことは人居ても俺だけなんだよ その俺の感がありえると言ってる理屈じゃない ありえるんだよ
>>823 客観的に見てとても自我の強い人なんだが本人はそう思ってないんだろうね。
その感とやらを信じればラマナも宗教も必要ないでしょ。
人生万々歳だね。
背後に誰も居ないし 回りにひと居るし怖がってない そんな時でも誰かに肩叩かれた十分あり得ます お前は世界知らないだけだろ
また、来たのかw もう、来ないんじゃなかったのかw お主、エゴ強すぎ。
被害妄想とかもあるしね。 脳は狂えばコンピュータのようにいくらでもイフェクトかかるよ。 夢を考えれば分かるように五感を再現する能力あるんだから。
>入り浸ってもいないなぁ。仕事あるし。 のめりこみようがすごいよ。他の人は軽く書き込んでる感じだけど。 >ここ自我の強い人多いの分かってるから 君トップクラスだよ。 >出来れば来たくない。 こなきゃいけない理由でも? >いくら言っても分からないし。自分の意見に固執してるっての? 教えなきゃいけない義務でもw?誰が見ても固執してるの君!!
お前らラマナみたいな聖者舐めすぎ エゴあるとか見下すが周囲の誰もお前ら尊敬しないだろ? いきなり人格変わって多くの人から尊敬される人格者になった とんでもない凄いことなんだぜ
>俺もそうなのかも知れんが。 そう、トップクラスです。 >ただ、経験者として教えたいなぁとは思う。 その欲求を手放せないかな?聖者ごっこは御一人で。 >それに気付くのに無駄な時間使うから。 わかってらっしゃる人が何故くるの。みんな神の現れなのに。 このスレもこうしたレスも了承せよ受容せよ。神より。さあて寝るか。
>>828 ああ、そうかぁ。そんな気もしてた。
ブラウザーでアクセス禁止にして違う興味も出来て、けっこう来なかったような
気がしたけどなぁ。
どうも上級者っていう意識が強いんだろうね。
これ捨てる、忘れるのが大変なんだよ。
インドならこんな戯言言ってても役割あるけど 日本じゃ捨てないことにゃ社会生活できんからね。
聖者になりきりゃ騙すのも簡単だけどね。 それは申し訳ない。 ロムってる人が自己探求の全体像分かってくれて こんな下らんもん回避してくれりゃそれでいいや。 分からん奴はそういう自我だから俺みたいに必要。言っても分からない。
834 :
神も仏も名無しさん :2012/02/21(火) 01:38:30.07 ID:EZVkUsWX
薄っぺらな話で何が聖者だ。
WARNING! このスレッドを開いたあなたこそが、この警告を必要としていたのです。 あなたがこの無駄な警告を読む一秒一秒、あなたの人生の大切な時間が奪われているのです。 他にすることはないのですか?この時間をもう少し有意義なことに使えないのですか? あなたの人生はそんなに空虚なものですか? それともあなたは権威を表す者を誰しも尊敬、信用してしまうのですか? あなたは読むべき書を全て読むのですか?あなたは考えるべきことを全て考えるのですか? 欲しいはずだと言われる物を全て買うのですか? 部屋を出ろ!異性に出会え!過剰消費もマスターベーションも止めろ!仕事を辞めろ! けんかを始めろ!自分が生きていることを証明しろ! 自身の人間性を主張しないと腐敗していく有機物でしかない。 注意はしたぞ!
みなそれぞれに応じた修行をしてていいね
837 :
神も仏も名無しさん :2012/02/21(火) 06:18:22.18 ID:3S2xJsnX
『Letters from Sri Ramanashramam』 p199、200 Question: How is one to decide upon a proper Guru? What is the swarupa of a Guru? Bhagavan: He is the proper Guru to whom your mind is attuned. If you ask, how to decide who is the Guru and what is his swarupa, he should be endowed with tranquillity, patience, forgiveness and other virtues capable of attracting others, even by a mere look, like the magnetic stone, and with a feeling of equality towards all — he that has these virtues is the true Guru. If one wants to know the true Guru swarupa, one must know his own swarupa first.(略)
838 :
神も仏も名無しさん :2012/02/21(火) 06:37:43.16 ID:3S2xJsnX
質問: どのように適切なグルを決めればいいでしょうか。グルのスワル―パ (本質)は何でしょうか。 バガヴァーン: あなたの心が合う彼が適切なグルです。あなたが、どうやって誰がグル か決めるのか、彼のスワル―パは何かと尋ねるなら、彼は平静・忍耐・ 寛大や、一瞥だけで、磁石のように他者を惹きつけることのできる その他の美徳や、全てに対して平等の気持ちを持っているはずです。その ような美徳を持っている彼が、真のグルです。 もし彼が真のグルのスワル―パを知りたいなら、人は彼自身のスワル―パ を初めに知らねばなりません。 急いで訳したからいい加減なところがあるかもしれません。
ttp://www.holybooks.com/the-truth-is-poonja/ The Truth Is / Sri H.W.L. Poonja (Papaji) の p58 あたりから
Q: Why are some people like Ramana Maharshi able to find the Truth
without a physical Guru?
P: Ramana Maharshi also had a physical guru whose physique was very big. (laughs)
It was Arunachala itself. The guru can be in any form.
Arunachala is silent and does not move, which are symptoms of a good Guru.
The real Guru does not teach by words because by words the Truth cannot
be conveyed. Silence is the Teaching.
The Maharshi also taught by silence, like the Mountain.
Most other teachers bark day and night.
質問: ラマナ・マハルシのように一部の人々は、身体的なグルなしで
真理を見つけることができるのはなぜですか?
パパジの答え: ラマナ・マハルシにも物質・身体的なグルはいました。その体格は
とても巨大でしたが(笑)。それはアルナチャーラ山そのものでした。グルはどんな形でもあり得ます。
アルナチャーラ山は沈黙し動きません。これは良いグルのしるしです。
真のグルは言葉で教えません。なぜなら言葉では真実を伝えられないからです。
沈黙が教えです。山と同じくマハルシも無言で教えました。
他の多くの教師たちは日夜ほえるばかりです。
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>>779 で、プンジャジ(パパジ)の本が紹介されていたので、自分も検索してみました。
まだ序盤しか目を通していませんが、本物のグルをどうやって見つけるかの対話で
山のたとえが面白かったので、ちょっと転載します(初学者の素人訳ですみません)。
自分の場合は、草刈するときの裏山の木や雑草や野良猫がグルの代りかも… w
840 :
神も仏も名無しさん :2012/02/21(火) 17:25:16.69 ID:EZVkUsWX
真我そのものがグルだから、他にグルはいらないよ。
841 :
神も仏も名無しさん :2012/02/21(火) 18:51:17.21 ID:3S2xJsnX
>>839 分厚い本ですね。かなり読むの大変そう。
パパジとマハルシの教えに違いはありますか。私はパパジの本は読んだことないので。
>>779 は、自費出版の「真理のみ」の訳を書きました。
日本いる時は、アルナーチャラの存在の大きさをあまり感じなかったけど、
ティルに行ったら、アルナーチャラが主で、ラマナが従みたいに感じました。
なので、当初は、予定していなかったプラダクシナを毎日やってしまいました。(笑)
睡眠時間をわずかに削っての瞑想、朝が辛くてもグルの元へ出かけて行く こんなちっぽけな努力も、グルは何十倍、何百倍にも祝福して実らせてくれる そのグルに巡り逢うために大切なことが、上記と同じく小さな努力の積み重ね 真理を求めるわずかな努力を真理は知っているし、決して忘れることもムダに終わらせることもしない 自分に準備が整えば、そして必要ならグルは必ず顕現われる グルは「己こそがグルそのものであることを悟る」最短距離を示してくれる マハルシやヨガナンダの言葉に従うなら、お二方が直接グルとなられるかも知れない
844 :
神も仏も名無しさん :2012/02/22(水) 06:06:48.29 ID:5URrFGjp
>>843 がんばれ〜。
グルの恩寵が我われの努力の源であるので、恩寵はすでに働いているみたい。
ああ、アルナーチャラ・ラーマナ!
845 :
神も仏も名無しさん :2012/02/22(水) 08:22:22.98 ID:nA3EKHri
今の日本でグルになれそうな人はいる? いたら教えて。
俺俺
決して間違っているわけではないので突っ込めない
848 :
神も仏も名無しさん :2012/02/22(水) 18:55:58.84 ID:nA3EKHri
俺俺から始まる言葉は詐欺の始まり
私が日本で唯一ただ一人、敬意を払っていた老師がいる。彼の名は原田雪渓(福井県の 発心寺の住職)。ただし私と老師の間には、直接の面識はない。さて、老師は言う 『今は認識できない。(今には、時間も距離も、場所もないからであります) 認識できるのは、過去と未来のことだけです。』 『坐禅が、明瞭でなくてもよろしいから、 ただひたすら座布を「坐」で温めて「坐忘」をすることです』 この二言だけで、彼が「どこにいるか」の、そのすべてを語っている。 私は彼の事を日本のクリシュナムルティーと呼んでいた。 私が、会ってみることを他人に勧める、ただ一人の日本の導師だ。
852 :
神も仏も名無しさん :2012/02/24(金) 00:13:21.19 ID:C/hppLKS
>>851 >『今は認識できない。(今には、時間も距離も、場所もないからであります)
>認識できるのは、過去と未来のことだけです。』
逆じゃない、「過去と未来は認識できず認識できるのは今だけ」だよね。
>>852 どっちも正しいかもしれん
いまを認識しようとすればそれは「過去の今」を今見返しているから、結局過去を見返していることになる。
無心になっているとき、「今」であるが、それを思い返して今在るを認識できたと思うときは過去を見ている。
「認識できるのは」は思考できるのはって意味じゃない? 過去と未来は思考で認識できるけど、今は思考によってはなく、 ただ今にとどまるしかないって意味なんじゃないかな
855 :
神も仏も名無しさん :2012/02/24(金) 00:47:29.47 ID:C/hppLKS
過去は既に去り記憶の中にしか存在しない「幻」であり 未来は未だ来ず想像の中にしか存在しない「夢」だよ。 認識できるとしたら「今」しかないよね。
簡単に言えば過去や未来は「概念化」されてるってことだろ。 だから認識できる。今は概念化されてないから認識対象とならない。
ようするに、認識という言葉をどういう文脈で使っているかってこと。
>>855 のいっている認識とその原田っていう人の言ってる認識では、
用途がちがう。
言葉の遊びだよね。
858 :
神も仏も名無しさん :2012/02/24(金) 00:57:21.51 ID:C/hppLKS
認識ってのは普通の意味では主体が対象(客体)を知覚してすることじゃない? (今には、時間も距離も、場所もないからであります)って注があるから、 今は捉えようがないものであって対象(客体)にならないってことじゃないかな 主体と対象(客体)の関係における意味で認識という言葉を使う場合と、 主客のない直接体験という意味で認識(気づいてる状態)と使う場合があるんじゃないかな
そうだ 普通は二元の感覚で話す表現するが 不二一元では全てが一つなので二元の感覚では理解しにくい 気を失うとか立ってるつもりなのに横に倒れてたくらい感覚が違う
ただそれだけっていうマハラジのお弟子さんの本買ってしまった… 真我発見できないまま、人生は辛いまま、ナチュラルスピリット社の本だけが増えていく。 誰かラメッシの本読んだ人いないですか? この人の本って少し他のアドヴァイタ系の人とちょっと違わないですか? 読んでてムカついてくるほど、冷たいっていうか救いがないというか。
ラメッシ大好きだけど、どこが冷たいの? アドヴィバイタそのものだし。
自由意志とかを否定するような言い方だから冷たく感じる人がいるんじゃないかな 自分に厳しい人に合ってる言い方だろうし、救いを求める人には冷たく感じる言い方かもね ムカついたり、冷たく感じるなら、それはとてもいい気づきのチャンスだけどね
>>862 全編にわたって、どうしようが人生変わらない運命は決まってる
悟る悟れないも最初から決まってる屈服するしかないって説いてるじゃないですか。
マハルシが悟れたのも最初から悟れる運命にあったからとか。
あと、人生に役立つところがあるとすれば、エゴに少し巻き込まれないくらいとかの部分ですかね。
その割には、私の言うこと聞かなかったから、あいつは自殺したとか言ってるけど。
まあ、彼の言うことが現実なのかなとも思う。
銀行の頭取までやった人だから、はっきり言ってんのかなあ。
ラメッシにとっては、悟れたというのはありがたいこと運が良いことではなくて、 そう決まってからそうなっただけで、何も特別なことではないという感覚なんだろうかね
>>863 自由意思の否定とかは他でもあるからいいんですよ。
人生苦しいままとか普通に言ってるじゃないですか、
あとそもそも何もできないとか言っててそこらへんですね。
言ってることは大体同じでも、
パパジ、マハラジ、マハルシなどとは違う読後感ですね。
苦しいままって言い方なんてしてたかな 苦しいものは苦しいっていう意味なら他の人も言ってると思うけど 身体や心が苦しいことはあるだろうし、それに抵抗してもしょうがないんじゃないかね 身体や心が自分でないと理解できたら、それらが苦しくても別にいいと思うけど そのときには苦しくても苦しさは自分ではないから苦しいという言い方は微妙だけど 自分は人生を選べる人間だとか、選ぶ力があるとか、選び取る自分というものがあるとか、 そういう風に思いたい人、そういう思いを生じさせる人、そういう想念を自分と同一視する人には 厳しい言い方かもね なんにせよ、読んで何らかの思いが生じるなら、それはそれで勉強になってると思うけど
>>868 多分言ってたと思います。人生は苦しいままでしょうとか。
悟ったら楽になりますとも言ってないと思いますw
今世で悟れない運命の人は何回か生まれ変わる必要がありますとかw
マハルシも似たようなこと言ってたけど、ここまで冷たくはなかったですw
冷たく感じるか、暖かく感じるかは、自分の心に生じた印象だから、 大事なのは言ってる内容の真意がどうであるかじゃないかな 冷たいかどうかより、なんでその言葉を自分は冷たく感じるか、 なぜ言葉から生じた冷たい感じを自分は嫌だと思うのかが、わかるといいんじゃないかな
ラマナ等のアドヴァイタ、この世が幻想って知らなかった時、 ラメッシの「人生を心から楽しむ」をタイトルに惹かれて、 本屋で立ち読みした時、読むに耐えられなくて、 「あわねぇー。何これ?」って本を閉じた事をすごく覚えている。 この世が幻想って分かってから、 「人生を心から楽しむ」を読んでみたら、 引き込まれるように3回繰り返して読んでしまったのも覚えてる。 そういう意味で、ラメッシは、僕にとってすごく印象に残っているお方なのです。 ちなみに、高木さん曰く、 ラメッシは、幼い頃から運命は全て決まっているという事は知っていたそうです。
>>870 そうですよね。
まあ、自分の読みが浅いんだと思います。
>>871 その領域までたどり着きたいです。
自分は「誰がかまうもんか」しか読んでないです。
運命が決まっているというより、運命があるとかないとか迷わなくていいってことなんだよね ある意味、何一つ努力しなくていいんだから楽だとも言えると思うけど 自己放棄の道をすすむタイプにはラメッシはいいと思うけどね 自分は他の人とはちょっと違う言い方も含めてラメッシは好きだな
ID:gNN2peomさんの「疑問」というか「違和感」は、 人として重大な「問い」だと思う。 その「問い」がなければ多分真我実現という「答え」もないだろう。 自分も今とても苦しんでいるんだけど、この苦しみは人生への「問いかけ」 だという気が最近している。だからきっと答えが与えられると信じている。
>なんにせよ、読んで何らかの思いが生じるなら、それはそれで勉強になってると思うけど その通りだと最近思うようになってきましたが、 なんというか、混乱したまま人生が破綻したらという恐怖も強い。
苦しむのは、良いよん。 うんと苦しんで、「もう、僕には無理です。神様に全てお任せします。」ってなった時に、 運が良ければ、何か分かるかもしれませんよ。
877 :
神も仏も名無しさん :2012/03/08(木) 00:17:11.60 ID:QcOa4hgl
「私は誰か」くらいまでなら努力で何とかなるけど 「私が無くなる」のは運しかないな。
日本でアドヴァイタ系のサットサンできる人いないのかね。
新作落語のさっとさんなら披露できる さっとさんがお猿に騙されて魔界の門を開く話
880 :
神も仏も名無しさん :2012/03/08(木) 10:47:36.51 ID:9M/l6D02
881 :
神も仏も名無しさん :2012/03/08(木) 13:00:07.93 ID:KkJQIZfs
個人的に、苦しみに追い詰められての目覚め、悟りにはどうも懐疑的。自分自身 の経験から、また、マハルシの言葉からも、そう思います。良い経験があった だろうことは否定しませんが、完全な悟りまで達成するかなあ。 エックハルト・トールさんはそういう苦しみに追いやられての悟りという話だった ような。
苦しみにどこまで追い込まれるか、それによってどこまで諦めるかでしょ だって、もう死んでもいいと思えたら、受け入れられないものなんて何もないし、 怖れずなんでもできるしね 死んでもいいと思えるってのは、生から逃げることじゃなく、生死を気にしなくなることね ちなみに、心の苦しみは、苦しみが苦しいんじゃなくて、苦しみから逃れようとする苦しさだよ だから苦しくてもいいと諦めたら、苦しくなくなる 体の苦しみ(痛み)は心の苦しみとは別な物理的な苦しさがあるけど、 痛みから逃れようとせず、諦めたら、痛みの大部分は痛みではなく単なる刺激に過ぎなくなる そこまで追い込まれるのはつらいし、むずかしいけどね だけど、苦しみはチャンスだと思うよ 何より、苦しみから逃れきれなくなったら、苦しんでるのは誰かってことに焦点が集まるしね
883 :
神も仏も名無しさん :2012/03/08(木) 13:56:24.65 ID:9M/l6D02
>>882 全く同感だ。
あんた、遠くないよ
もうすぐそれになる
楽しみだ
884 :
神も仏も名無しさん :2012/03/08(木) 14:14:15.87 ID:D0uGAlLS
マハルシは 「わたしは誰か」という自我の問いが 静寂の彼方に消え去るとき それがわかるのだ とは言ってなかったのか 残念だ
885 :
神も仏も名無しさん :2012/03/08(木) 14:19:30.05 ID:D0uGAlLS
886 :
神も仏も名無しさん :2012/03/08(木) 17:32:57.52 ID:KkJQIZfs
苦しみから、悟りへの跳躍には、重要なものがかけているように思えます。 それは、現代的アドヴァイタの落とし穴みたいに感じてます。といっても エックハルト・トールと、ガンガジぐらいしか知りませんが。
>>886 たとえばどんなものがかけてると思うのですか?
888 :
神も仏も名無しさん :2012/03/08(木) 19:56:32.22 ID:KkJQIZfs
>>887 皆ができればしたくないものです(笑)。
>>880 このスレであんまり批判めいたこと書きたくないんだけど…
苦しいときにすべてを明け渡したら、内面が変化したところまではいい。
そこから、金銭的に奇跡が起きてってところで、冷めてしまった。
まるで、明け渡しが願望実現方法みたいに書かれてしまってる。
俺みたいなニューエイジ系から脱落してきた人間には合わないなあ。
アドヴァイタはニューエイジ的に読まれやすいから本当に注意が必要。
ちゃんとした人は期待するなって注意してる。
上の方にあるラメッシは、そこらへんで徹底してるからすごく好感が持てる。
891 :
神も仏も名無しさん :2012/03/09(金) 05:08:33.29 ID:y9kg2afR
>>890 そうではないと思うよ?
金銭的なことは奇跡ではなく、そういう流れができていたって
そういう事じゃない?
明け渡すんだから奇跡も何も期待してないし
願望なんて無いと思うけど?
ただそうなっちゃったって言ってない?
892 :
880 :2012/03/09(金) 06:46:47.98 ID:twGLBDId
>>890 の気持ちもわかる
だが受け取りかたがちがうと思うんだよな。
おれもラメッシは大好きだ。
でも彼が言うのとそれほど違和感は感じない。
明け渡してその結果、神の意志を受け入れたのだから。
なんでも神の意志に従うつー事なわけだから。
ちなみにおれは、マハラジはもっと好きだ。
普通のタバコ屋の親父が、肉食っても覚醒したつーのがいい。
つーことはだ。
普通の人でも悟れるつーことでしょう。
希望もてるよなあ。
「生き方」「在り方」は到達点ではないんでしょうな。
そういうもんが見えるなら、それこそリーラでしょう。
悟りによって何らかの利益を得るってのは、特段不思議なことじゃないと俺は思う。
悟りによって利益を得るのって、たとえば人を殴らなかったために平穏無事に過ごせたってことと同じく、単に選択と結果の関係でしかないのではと思う。
>>880 ではたまたま金銭を得たというだけで、人間関係が改善されたり、ストレスが無くなり持病が消えたってのだって立派な利益になる。
逆に、悟りによって不利益を被ることも有り得る。俺の友達は宗教嫌いでこの手の話は全く受け入れられないから、
俺が悟ったら小学校から続いている友人関係が壊れること必須。あと家族関係もおかしくなるだろう。親は俺を精神病だと思うのでは。
これはいまの認識の段階では不利益だが、悟ったあとは、悪いこととも良いこととも思わなくなるだろう。
春から夏に変わるように、環境が変わっただけという認識にしかならないのでは。
あ、でも悟ったからって悟りましたーってみんなに報告しないでもいいし、そもそも悟ったときにその選択はしないだろうから、友人も家族もいまのままか。
そういえば悟ったあとに酷いことになった人は聞いたことがないな。
悟っていたと思われる人たちで酷い最後を迎えたのはイエスくらいしか知らんが他にいるんだろうか。
イエス本人は酷いことと感じてなかったみたいだが。
896 :
神も仏も名無しさん :2012/03/09(金) 18:59:51.50 ID:MOBv/+aH
イエスにとっては、起こるべき事がただ起こっただけだからね。
信徒(正確には弟子たちか)の力を借りれば逃げられたわけだから、イエスが磔を選択したという認識を俺は持ってるんだけど、 逃げなかったという選択すらも含めて起こるべきことだったのかね。
898 :
神も仏も名無しさん :2012/03/09(金) 19:24:13.09 ID:xc5fGbZF
真我実現に現世利益を絡めちゃうと 真我遠くなっちゃうと思うけどなあ。 だって真我実現って個人の消滅でしょう。 自分は真我のしの字も体験してないが。
真我実現したいってのも現世利益とかわらない欲とも言えるし、 その人にとってどうかだよね 欲を通して欲の正体に気づけるのかもしれないし、 なにが真我実現の障害になるか、あるいは真我実現のグルになるかは、その人次第だと思うよ あらゆるものは真我の現れであり、恩寵であり、それに気づけるかどうかじゃないかな
900 :
神も仏も名無しさん :2012/03/09(金) 19:53:07.15 ID:xc5fGbZF
悟りたいという欲が煩悩かってのは 一つの論点だよなあ。 まあ真我を実現した人がここには いないみたいだから何が正しいか分からんね 〜失礼しました。
901 :
神も仏も名無しさん :2012/03/09(金) 21:30:39.19 ID:jVJdEE+w
欲望には低級な欲望と、高級な欲望がある。高級な欲望が、低級な欲望にとって かわり、次にその高級な欲望も消える、という段階を経る。なんでも一緒にすべ きではない。
902 :
神も仏も名無しさん :2012/03/09(金) 21:36:40.69 ID:jVJdEE+w
悟りたい、幸福になりたいという欲望もだめ、という話は高いレベルに達した 人にとって必要な話であって、そうでない凡人が心配するのは、小学生が、 大学入試の心配をしているようなもの。
だめってことじゃないよ それらの欲望の違いを心に生じさせてるのは誰かって話だよ 低級と高級と分けている想念はどこから生じてるのか あれとこれは違うという思いは何から生じてるのかって話だよ どのような欲であろうとなんであろうと、いいとか悪いとかないんじゃないかな
904 :
神も仏も名無しさん :2012/03/09(金) 21:46:35.21 ID:jVJdEE+w
もういいから、休みなさい。
“たとひ法然聖人にすかされ(だまされ)まひらせて、 念仏して地獄へおちたりとも、 さらに後悔すべからずさふらう” 阿弥陀仏に生死、進退、幸不幸、すべてをゆだねるってのは 簡単に見えてなかなか・・・ このスレで「歎異抄」読んだ人いる?
不幸、苦難のあとにくる悟り、あるいは個と神の主客転換について、 もし未読なら、ぜひ岩波書店の「ヨブ記」を読んでほしい。絶対面白いです。 短いから数時間で読めます。 で、神は最後にヨブから奪ったすべてを回復するんですが。 岩波の解説者はこの回復を余計なものとする立場だけど、 この現世利益的回復が結構奥が深いと思うな。
907 :
神も仏も名無しさん :2012/03/10(土) 07:02:45.44 ID:OMNAmMjl
>>905 、906
完全な委ねは、非常に難しいみたいですね。
「歎異抄」今ネットで少し読んだけど、念仏はジャパで、絶対他力はself-surrender
(自分自身を委ねること)にとてもよく似ていますね。マハルシの教えを聞いていな
かったら、非論理的ないかにも「宗教」として一蹴してただろうな。
908 :
神も仏も名無しさん :2012/03/10(土) 07:21:50.26 ID:OMNAmMjl
「一方、次に生まれる世界を阿弥陀さまのお浄土として、そこで仏のさとりを 開こうとするのが、阿弥陀さまの他力によって救われる浄土門の教えであり、 阿弥陀さまの本願を信じることで、この世で仏となることができる者としてい ただくのです。」
909 :
神も仏も名無しさん :2012/03/10(土) 07:39:26.52 ID:QY88gzEd
>>906 奪われた子供を蘇らせてあげる、とかじゃなく、
新しい恵みを一方的につきつける、ってのがまた……。
910 :
神も仏も名無しさん :2012/03/10(土) 08:01:23.12 ID:OMNAmMjl
「これは、だれでもできる簡単な修行で、根性無しな者のための 教えであり、善人も悪人関係なく救ってもらえる教えなのです。」 一気に悟ろうとしているわけでないようです。浄土にまず行ってから、悟りへ。 「根性無しの教え」っていいなあ、正直で(笑)。
老荘でいう無為自然というのも、主体が「人ではなく天にある」って 思想かもね。 任せちゃおうという。
「苦しみ」が自我を精算するための機会になることもあるよね。
まあ、結局は「私は誰か」ってのを言い換えただけだけどw>自我の精算 楽しいことも辛いこともうれしいことも苦しいこともたちまち霧消してしまうようなこの感じ。 なんだろ?
今読んでる仏教の瞑想関連本に、すべてを瞑想の対象にできる、 とくに苦しみはとてもよい材料だ。と書いてあった。 チベット仏教の本は慈悲が感じられていいな
苦しみから不二に入るという話なら
セドナメソッド創始者レスターの物語 メソッド発見に至る自己探求の旅
http://mallam.oh.land.to/Mindtech/index.php? ''%A5%E1%A5%BD%A5%C3%A5%C9%C8%AF%B8%AB%A4%CB%BB%EA%A4%EB%BC%AB%B8%CA%C3%B5%B5%E1%A4%CE%CE%B9''
これも利益的な話が途中にあるけど、そういうことにこだわっている話ではないと思う
利益はよくないと思ってしまうのも執着で、利益を目指すのと同じ結果を生むよなあ 全部通過点であり、最後に到達するのは一番最初(原初)だと自覚していれば、 途中で出てくる利益だの不利益だのには惑わされないだろう
918 :
神も仏も名無しさん :2012/03/12(月) 01:04:00.30 ID:NaDzjgyK
何かに書いてあったけど、 川を渡るときに師匠が女性に触れたのを 弟子がずっと気にする話。 ちゃんと書ける人いるかな? 現世利益とか欲に関するいい寓話だと思う。 アドヴァイタの本いろいろ読みすぎて 出典がわからんのはすまん。
919 :
神も仏も名無しさん :2012/03/12(月) 01:10:44.54 ID:0FoB9Sgv
お尻揉むの飽きたらオッパイ揉めって話?
たしか禅宗の話だよね そもそも体にとらわれなければ、利益があってもなくても同じなんだよね だいたい日本に住めてる時点で世界全体からみれば数%のめぐまれた利益をすでに受けているわけだし 住むところや食べ物や水がないほうが多いわけだしね 自分の状況を当たり前だと思って、そこから得るものを利益、失うものを苦だと思ってるのは単なる観念のとりこだよね 利益の尺度も自分勝手だし、利益と利益でないものを分けてる時点でおかしい
921 :
神も仏も名無しさん :2012/03/12(月) 05:55:17.48 ID:VTADhtn4
橋や船がなく、川を渡るのに、困っている女性がいた(足が濡れるからか)。そ れで、師匠が女性を抱き上げて、川を渡った。歩みを進め、ずいぶんたったあと 弟子が師匠に、「川で女性を抱いて渡っていましたが、女性に触れてはならない という戒に違反するのではないのですか。」と言った。すると、師匠は、「おや、 お前はまだ、あの女性を抱いていたのかい?」と答え、弟子は赤面した。 だいたいこんな話だったと思います。弟子は、戒の本質が心にあることがわか っていなく、女性と別れた後も、もんもんと女性のことを思っていた。一方 師匠は、ただ人助けをさらっとしただけだった。
欲に対する執着の話なら、 天から花びら(色欲)が降って来て、小乗の小聞たちはそれに触れまいと 逃げ回るが、菩薩は逃げない。 花びらは小聞たちに触れるとくっ付くが、菩薩に触れてもくっ付かずに ハラハラ落ちていく。 と維摩経にあるエピソード。 維摩経はアドヴァイタ信奉者にもおすすめだ。
まあ、ただ欲は執着になりやすいのは確か。 あと、苦を避ける気持ちも。 でもどうせ抱くなら、すべての衆生が悟れるような大欲をいだけと 明恵上人や空海は言ってたような。 そこまでの大欲なら我執にならないし、その大欲が本来の人間の目的であり、 身近な現世利益は、その代替物である、と。
>>922 花びらだと何かエロいから、雨って言い換えて、
気にしてもしなくても、いずれ流れ落ちていくものっていうのはどうだろうか
エロいって思う時点でありのままの花びらではなく観念としての花びらと見てるんじゃないでしょうか 花びらはただ花びらそのもので、エロくもエロくなくも、ないんじゃないかと 小乗の小聞たちにとってはエロい花びら 菩薩にとってはただの花びら
地球が生まれる前から生命の居る星はあったとして 釈迦やイエスなんかは地球が生まれる前から輪廻繰り返して 磨かれた偉大な魂なんだろうよ 同じスタートとは思えないから
たぶんね、そういう物語は重要じゃないと思うんだ。 否定はしないけどね。
誰がどれほど進んでいるとか遅れているとかは、ただの時間の概念からくる錯覚で、 どうでもいいことなのではないでしょうか 誰しも数兆年後にはイエスや仏陀と同じように悟ってるだろうし 誰しもいつか必ず悟るならば、もうすでに皆悟っているとも言えるし 過去と未来があるという思いから誰がどの段階だとかいう視点や思いが生じるだけで
過去、どれほど憎んだ人がいても、いまその憎しみが消えてしまったら、それと同時に過去が存在しなくなるからね。 記憶はあるけど、”憎しみを抱き、憎しみとともに存在し続けていた「憎い人」”は消える。 憎しみと共にあったので、憎しみが消えたら、その憎い人はただの人になる・・・のではなく、 その人自身も消えるものと俺は解釈っていうか考えてる。 過去の記憶を見ても、ただの人として見ていた記憶はないのだから、そのただの人は今は居て、過去には居ない。
>>929 それは自分自身に対しても同じだと考えていますか?
解説お願いします(。-人-。)
そりゃ諸行無常で無我、空なんだから、過去の他人は他人ではない、だが それを理屈で自分にいい聞かせようというのは頭でっかちというもんでは? 悟りを開くまでは「心相続」というのがあって、カルマに応じた五蘊の集成は、 変わらず連続しつづける。 瞑想を地味に続けて空を体感していくしかないのでは。
身体には身体の働きがあり、心には心の働きがあり、 それらはそれらにまかせて、 身体でも心でもない、意識(真我)が何であるかを観ていくのがいいのではないでしょうか あれであるこれである、あれだろうこれだろうというのは、 身体、あるいは心の働きにすぎないように思います
ヴォイス/ポルノグラフィティ
重度の神経症で働けず、人とろくに関われず十数年・・ 何で俺は生きてるのか?さっさと死ぬべきだろ、とずっと考えてきました 先ほども早く首吊れよ自分と促していた でも死ねない、そうやって追い詰めても追い詰めても絶対に死のうとしない 首吊りようのぶら下がり健康機買うまでは出来たけど、組み立ててもいない 何で死ねないのか、何で死なない自分?と問い詰めても、死のうという衝動は 起こってきません それどころか、さっきは笑ってしまいそうになった 何でだろう?笑っていられる状況じゃあないのに 友達も恋人もいない 職も健康な心身もない そんな状況が十数年続いてきた、これでも生きていかないといけないというのか? もううんざりだよ、とにかく死にたくてたまらないんだ でも死ねなくて、笑いそうになった 何でか分からない 分からないけれど、静かな自分が居たんだよね 静かな自分、苦もなく存在している自分が居た
誰か真理を知ってそうな好きな人はいないの? 会いに行ったらおもしろい状態かも。
937 :
神も仏も名無しさん :2012/03/14(水) 00:22:25.87 ID:Q406sKPb
>>935 人間、寿命があるうちは死にたくても死ねないから
そちらに意識を当てれば当てるほどに楽になっていった 苦しむ自分と冷静な自分、どちらが本当の自分なんだろうか? こういう感覚は以前にも度々訪れていた 存在は至福だということが本に書かれていたけれど、これがそうなんでしょうか? この感覚さえ掴めばどんな地獄のような状況でも生きていける 受け入れられると思った でもそんな感覚も長くは続かなかった また、苦しみとそれを何とかしようとする自分に戻ってしまった そんな自分がしばらく続き、またさっき存在している喜びを感じられる自分になった 悟った人よ、どうか教えてください 私はここからどうすれば良いですか?ただ冷静な自分に意識を当てて行けばいいのでしょうか? でも苦しむ自分も居ます この苦しみを取り除く為に何かをすること、ただ存在する自分に意識を当てることと 両立させることが難しく思います 全く見当外れの道を進んでいるのかもしれない でも、余りに人生が苦しい為に、もう苦しみに付き合うのに疲れてきた 冷静な自分、ただただ存在している自分を感じることが出来たのだからそこに意識をずっと留めて 置けば行けばいいのかもしれない でも現実の生活はどうしたら良いのでしょうか? そっちを良くして行こうと思うと途端に苦しみに巻き込まれてしまって上手くいきません
苦しみを取り除く事をあきらめて、ただ存在する自分に意識を当てること。 難しいかもしれないけど、自分の出来る範囲で。 そもそも苦しんでいる者は影だし、あなた自身ではない。 これから、どうなるかは分からないけど君はすごく近い所にいるよ。
死にたいって思うのは、今の辛い状況よりは死んだほうがいいと思うから。 つまり、よりいい状態になりたいと思っている。よりいい状態を目指している。 そういう意味ではネガティブでもなんでもない、生にポジティブ。 ようするに、他の人たちと変わらない。 全ての人は、みな、今ある状態より、いい状態を目指している。望んでいる。 誰もが、今ある状態よりよくなりたいと思い、行動している。 つまり、人はみな、同じことしかしていない。同じ方向しか向いていない。 人はみな同じ流れに沿っている。ただみな等しく悟りに向かっている。 その表現の仕方が異なるだけ。表面上異なっているだけ。 そして、表面的な違いにこだわらず、あらゆる行為は同じであり、 あらゆる存在は全て同じでしかないことがわかってくると、 それら現れの全ての源泉が見えてくると思います。
死にたいと思えることだってすばらしい。 存在していなければ死にたいとすら思えない。 少なくとも自分には死にたいと思うことができている、それだけですばらしい。 どんなことであれ、何か思える、できることはすばらしい。 息ができることも話せることも考えられることも悩めることも死にたいと思えることも、どれも等しくすばらしい。 それらがなぜできているのか。 そこに何もないならば何ひとつできてないはず。悩むことすら死にたいと思うことすらできてないはず。 表面的な事柄の奥、源泉の何かが常にそこにあるのでしょう。
>>938 ご自分にまつわるよいことわるいことすべて、自分がどんな人物であるかということも
含めて、静かな気持ちで精算してみてはどうか?
そんでもって、人物像なんて所詮はリーラですよ。
945 :
神も仏も名無しさん :2012/03/14(水) 06:30:01.20 ID:gQGhirx3
>>938 悟っていませんが、、、。
マハルシの教えから考えると、苦しんでいる「自分」であれ、冷静な「自分」
であれ、「自分」に注意を向けるのは心を純粋にするサーダナー(修練)に
なると思います。ただ、これは神経症という苦しみがあるとかなり難しいと思
いますが(誰でも難しいのですが)、やる価値はあるでしょう。
サーダナーはほかにもあるので色々トライして、自分に一番簡単に感じるもの
を見つけるのもいいかもしれません。
>でも、余りに人生が苦しい為に、もう苦しみに付き合うのに疲れてきた
苦しみに打ち勝とうとしても、無理だから、あきらめるしかないと思います。
もう知らん。どうにもならん。勝手にして。と責任を放棄するしかないのでは。
経験から、サーダナーをしていると徐々に苦しみは和らいできます。が、まじめ
にしても治るまで数年かかるかもしれません。
マハルシの教えでは、苦しみは、心の汚れを除くために神から与えられるもの
のようです。無意味ではない、と思うとすこし苦しみが和らぐでしょうか。
あなたの苦しみが無くなりますように。幸福でありますように。
946 :
神も仏も名無しさん :2012/03/14(水) 09:02:05.97 ID:b85SI3/X
間違えないようにしたいのは 苦しみが私と別にあるのではなく 苦しみが私です。 苦しみが私を装っているだけです。 いくら頑張っても、考えても、苦しみを積み上げ強化するだけです。 ですから、ただひたすら自分に、苦しみに気づき理解すれば 私も苦しみも自然に消えていきます。 頑張らないで下さい。頑張っているのは苦しみそのものですから。
みなさんはどんな修養をやっていますか? 自分は 1日20分の座禅 電車内でのマインドフルネス PC筋を鍛える(フーマンの本に書いてあった) 仕事中はできるだけ他人の立場に立つ 仏教の本を読むなどですが・・・ 毎日やっているわけではないです。
1日30分の座禅 PC筋トレーニング
途中で投稿しちゃった 追加 腹式呼吸とステートオブプレゼンスを出来るだけ維持するようにしてる
ステートオブプレゼンスいいことばですね
自分も途中で送信(失礼) 音楽聴くとき「いまここ」を意識しながらそれに集中してます おすすめはECMレーベルのジャズで キースジャレットのケルンコンサート
みなさんアジズやフーマン読んでるんですね PC筋トレーニングやってて何か変化ありましたか? 自分はSPというかヴィパッサナーのような観瞑想 今の状態に気づき、分別しないこと あとは体と心と意識は別だと明らかであるように私は誰かを問い続けています
死への恐れを持たなくなった人の中には「このまま死ねば自我を守れる」という隠れた欲望を抱えてるような人もいる 真理を語り、それを実践している人の中にも、そんな人がいたりする ある程度進みながら、あと一歩というところで停止している人の中にそんな人がよくいる
954 :
神も仏も名無しさん :2012/03/15(木) 13:11:08.49 ID:qFVds+/x
へーそう。
955 :
神も仏も名無しさん :2012/03/15(木) 14:14:30.05 ID:59aModFS
天国があったり幸福になれたり真理を悟ることの できる人たちのことですね。わかります。
>>952 PC筋トレーニング、あんまり変化無いです
というか、エネルギーが背骨を上下するのを視覚化する、というのがさっぱり出来ません
PC筋だけは鍛えられて、射精を食い止めることが出来るようになりましたけど
PC筋やってないけどボディメソッドは大切だなぁ。 一方で、凄く世俗的な方面での「倫理」も大事だという気がする。 ケン・ウィルバーのいうスペクトル理論じゃないけど、身体、精神、心、魂、 すべて同時進行で分化して向上させる必要があるという気がする。 というわけで、Dカーネギーの「人を動かす」でも読んでみようかと思ってます。