【真宗・親鸞】妙好人と学ぶ10【信心獲得(決定)】

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1神も仏も名無しさん
1 名前:神も仏も名無しさん 投稿日:2008/04/18(金) 23:49:45 ID:mM852yvd
真実信心について語りあうスレです。
(※特定の団体個人を叩くのは他の専用スレで
前スレ
【真宗・親鸞】妙好人と学ぶ9【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1208530185/
【真宗・親鸞】妙好人と学ぶ7【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1205508962/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ7【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1205512840/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ6【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1204420011/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ5【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1203573106/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ4【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1202651606/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ3【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1200414712/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1198478098/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/
2あぼーん:あぼーん
あぼーん
3渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/15(日) 13:17:42 ID:jEnFFdKU
>http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1213502403/696

> それは根本的には、渡海さんと同じ。
自身の「たのんだ」体験、渡海さんならば「見性した」体験を基礎があ
るのですから、 それは、実に、本願をはからっている行為に他ならないのです。

 おかしな見当違いのことで僕の名を出すのは止めてほしいものです。
4神も仏も名無しさん:2008/06/15(日) 13:20:47 ID:jEnFFdKU
>3
 引用したURLが違ったようです。
>http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1208530185/696
5神も仏も名無しさん:2008/06/15(日) 14:58:44 ID:l9jl7W72
前スレ
>723:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/06/15(日) 12:10:31 ID:jEnFFdKUさん
>一宗の根幹に五会念仏があるならば、口酸っぱく「五会念仏」を修せよ、
>貴方は口酸っぱく言って貰わなければ話が分かりませんか?
>乳母さんからはそろそろ乳離れしなさいな。嫌なら縁を切りなさい。
>貴方に口酸っぱく五会念仏を勧める人など、世の中には一人もいるわけがない。
そんな事は一切尋ねていませんし、問題視していません。
親鸞聖人が「五会念仏」を修せと言われているのならば、それが明確になっている所が、
随所に見られるわけです。実際にはない。『教行信証』の法照禅師引文にしても、
「五会念仏」を修せとの内容ではありません。故に、覚如上人、蓮如上人に到って
「五会念仏」を修せとのお勧めが皆無なのは当然です。
親鸞聖人はそのような事を勧められていなかったからです。
信心決定して念仏申せとはお勧めになりますが、その内容が
「五会念仏」である等とは言われませんし、勧められてもいません。
にもかかわらず、あなたは五会念仏が浄土真宗の本義のように言われる。
それはあり得ないと批判しているのです。
6神も仏も名無しさん:2008/06/15(日) 15:31:57 ID:jEnFFdKU
>>5
>親鸞聖人はそのような事を勧められていなかったからです。

 このうえは、念仏を取りて信じ奉らんとも、また捨てんとも、面々の御計らいなりと云々
貴方には、誰一人、何も勧めてないでしょう。

>信心決定して念仏申せとはお勧めになりますが、

  はて?聞いたことがない。夢でも見ているんですか?

信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
 信心決定しなくても、称名念仏はげむべし。親鸞聖人は、僕にはそう言っているんですよ。

 まあ、これは渡海難に言っている言葉であり、親鸞聖人が5さんに言っている言葉ではないん
でしょう。

 信心決定して念仏申せというお勧めは、信心決定したら、いつでもいいから、そのときにもう一
度ゆっくり考えなさいなと、親鸞聖人は5さんに、優しくそう言っているということでしょうね。
 
>あなたは五会念仏が浄土真宗の本義のように言われる。それはあり得ないと批判しているので
す。

 まあ、貴方がものを言うのは、信心決定してからになさるといいと思います。それまでは、休ん
でいるといいでしょう。
7298:2008/06/15(日) 21:26:35 ID:m5XZq7At
>>前スレ717,709 http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1208530185/709
ご引用のご文章の「ふつと」ですが、「突然に」「急に」の意味にも、解せると思います。

この場合、対偶を取りますならば、

「突然に助かるということがあるのならば、弥陀の本願を信じているのである」

という論旨になります。

「ふつと」には、「急に切れる」というニュアンスがございます。

即横超截のこの道、「截」とは「刃物で断ち切る」の意味です。

この「ふつと」を「少しも」の意味に解する場合(否定と呼応する副詞)、対偶を取りますれば、

「ほんの少しでも助かるということがあるのならば、弥陀の本願を信じているのである」

となり、造悪無善であり、諸佛もさじを投げた私たちであるという味わいになると思います。

(この場合は、「ふつと」は、「あるべからず」にかかります。)

この「ふつと」を「完全に、確かに」の意味に解する場合は、対偶を取りますならば、

「完全に助かるということがあるのならば、弥陀の本願を信じているのである」

ということになり、私たちを「完全に」助けてくださるのは、彌陀一佛であるという味わいになるのではないでしょうか。

(この場合は、「ふつと」は、「たすかる」にかかります。)

私自身は、「突然に、急に」(そして、「完全に、確かに」)の意味に解しております。

南无阿彌陀佛
8渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/16(月) 10:38:08 ID:9bFWfp0P
>6
 ↑
 名無しになっていました。渡海難のカキコです。
9神も仏も名無しさん:2008/06/16(月) 17:22:32 ID:OnSvcIDH
723 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/15(日) 12:10:31 ID:jEnFFdKU
>一宗の根幹に五会念仏があるならば、口酸っぱく「五会念仏」を修せよ、

 貴方は口酸っぱく言って貰わなければ話が分かりませんか?乳母さんからはそろそろ乳離れし
なさいな。嫌なら縁を切りなさい。貴方に口酸っぱく五会念仏を勧める人など、世の中には一人
もいるわけがない。

>法照禅師に従いなさい、と言うお勧めこそ肝要でしょう。ならば、そう勧めてある箇所をお聖
教から引くべきです。

 世世に善導いでたまい 法照少康としめしつつ 功徳蔵をひらきてぞ 諸仏の本意とげたまう
 五会念仏を明らかにしたことまさに、諸仏の本意とげたことなのでしょう。

 インターネットで話をするときには、他人を断章取義となじる前に、顔を洗って鏡を見直して
きなさい。名無しの匿名ではなく、自分がどこの誰か、自信を持ってきちんと名乗れるようにな
ってからにしなさい。
10あぼーん:あぼーん
あぼーん
11神も仏も名無しさん:2008/06/16(月) 22:32:06 ID:dfnoqgYu
たまに見ている者です。みなさまに対してあれこれ言うつもりは
ありません。わたしは浄土より一念を聞かせる為に娑婆へまいりました。
対象はわたしの周りにおられる人々です、ネットを縁として人を導くなど
手がつけられません。まさに一対一でなければ話は出来ません。
 縁の深い人はおのれの過去世をも知るすべを与えられます、これによって
十方衆生済度のお手伝いを行い、また生身の人を導くのです、これが報恩で
あり、報恩の姿なのです。ただ自信の計らいをたのまず、愚者にならなければ
たどりつくことはかなわないでしょう。わたしのつたない文章を見てくださる
方は、まず一心に弥陀を念じてください(助けて下さい)と、弥陀に通じますから。
12神も仏も名無しさん:2008/06/17(火) 00:09:50 ID:LDwwlLHz
>6
「聖人一流のご勧化のおもむきは信心をもって本とせられ候」
「開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもって先とせられたり」
「今の時の衆生は、他力の信心をえて、浄土の往生をとげんとおもふべきなり」
「さらになにの造作もなく、一心一向に如来をたのみまゐらする
「信心ひとつ」にて、極楽に往生すべし」
「それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは
まづ他力の信心をもって、肝要とせられたり」
「それ、末代の悪人・女人たらん輩は、みなみな心を一つにして
阿弥陀仏をふかくたのみたてまつるべし。そのほかには、
いづれの法を信ずといふとも、後生のたすかるといふことゆめゆめあるべからず」
親鸞聖人が勧められた趣旨とは「唯信心」であったと、蓮如上人は言われています。
他力の信心を勧められている箇所は、上に上げた文章以外にも
枚挙に暇ありませんが、親鸞聖人が五会念仏を勧められたとは、
一言も言われていません。
親鸞聖人は末代の凡夫に、五会念仏を勧められなかったからです。
と言う事は、末代に生まれた者、即ち、私だろうが、あなただろうが、
五会念仏は勧められていないと言う事です。
13神も仏も名無しさん:2008/06/17(火) 00:22:07 ID:LDwwlLHz
>11
浄土真宗の信心に、機の深信の欠けた信心はありません。
廣劫来流転が欠ければ、弥陀をたのむ心も欠けます。
さらに、信心未決でありますから、その罪による悪果は、
すべて自分で背負っていかねばなりません。
不常不定不浄の我心を広めるのはやめて、常定浄の弥陀の願心こそ広めるべきでしょう。
1411:2008/06/17(火) 08:25:55 ID:dIz5FVfE
>>13
真宗は平生業成ですよ、そのままこいとの弥陀の大悲を根本から
疑ってませんか。機の深信すら弥陀より授かりますゆえ、凡夫の
つたない深信など最初は必要ないですよ、それより以降弥陀に
育てられ、深信を身につけて行くものです。
15渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/17(火) 11:35:37 ID:CF4+7w1Z
>12
>五会念仏は勧められていないと言う事です。

 口酸っぱく繰り返し構ってあやしてくれるあなたの爺や婆やが、
貴方の耳元に刷り込んだ田舎の土着の浄土真宗では勧められ
てないと言うことでしょう。

 信心決定したら、それから落ち着いてゆっくり考えなさい。
16神も仏も名無しさん:2008/06/17(火) 12:04:07 ID:LDwwlLHz
>>14
つたなければ、深信とは言えません。浅信と言うべきです。
もし機の深信が、初めはいらない、次第に深まっていくものと
主張されたいのならば、そのように言われている親鸞聖人の言葉を引用してご説明下さい。
浄土真宗なのか、そうでないのかはお聖教に照らし合わせて、
正誤を判断するより他に、確実な方法はありませんから。
>>15
ご老人を馬鹿にしてはいけませんね。我々もいずれ、
そう呼ばれる日が来るのですから。
それはそれとして、>>12に挙げた蓮如上人の『御文』では、
信心が、親鸞聖人の教えの肝要、浄土真宗の肝要であるとのお示しです。
あなたは、蓮如上人のお示しを田舎の土着の浄土真宗のお勧めとして、
否定される立場なのでしょうか?
1711:2008/06/17(火) 16:15:00 ID:dIz5FVfE
>>16
あなたには無くても、わたしにはありますのであしからず。
ご引用ではなく、それぞれが感じた事を言葉にするのはいけないのでしょうか
ご引用を否定している訳ではなくて、あなたの間違いをゆるさない正義感は
立派ですよ。
 『不常不定不浄の我心を広めるのはやめて、常定浄の弥陀の願心こそ広めるべきでしょう』
同意します。
18渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/17(火) 22:19:20 ID:CF4+7w1Z
>16
>ご老人を馬鹿にしてはいけませんね。我々もいずれ、

  馬鹿な老人などは、世の中に腐る程いるんですよ。無論、
立派な老人もたくさんいる。
 12さんの言葉には、彼に嘘を刷り込んだノータリンの影が
僕にはちらちら見える気がする。

>蓮如上人のお示しを田舎の土着の浄土真宗のお勧めとして、
否定される立場なのでしょうか?

 まあ、田舎だから悪いと言うことではないが、蓮如上人のお
示しは、孤立的閉鎖地域に土着して歪曲化し、その中で固定
化した各地の日本シャーマニズムとは、縁もゆかりもない教
義だと言っているんですよ。
19神も仏も名無しさん:2008/06/18(水) 00:29:35 ID:oL4IQZJc
>18
あなたの希望的憶測は結構ですので、蓮如上人が「五会念仏を修せよ」と
示されている箇所を挙げて下さい。
ちなみに、五会念仏を要としない文証を挙げておきます。
『尊号真像銘文』「ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、
正定聚の位に定まるとみえたり」
『唯信鈔文意』
「唯はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。
また唯はひとりといふこころなり。信はうたがひなきこころなり、
すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。」
「正定の因は唯信心なり、惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」
「すみやかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす」
『改邪鈔』
「当教の肝要、凡夫のはからひをやめて、ただ摂取不捨の大益を仰ぐものなり。
起行をもって一向専修の名言をたつといふとも、他力の安心決得せずんば、
祖師の御己証を相続するにあらざるべし。」
「他力の安心よりもよほされて
仏恩報謝の起行・作業は
されるべきによりて、行住座臥を論ぜず」
20神も仏も名無しさん:2008/06/18(水) 00:31:27 ID:oL4IQZJc
>18
あと、もうひとつ。バカな老人はあなただと思いますよ。
21神も仏も名無しさん:2008/06/18(水) 00:47:55 ID:oL4IQZJc
>17
「文書」というものは素晴らしいもので、あなたにあって私にないとか、
私にあってあなたにないと言うことがないのです。
だれもが見ることが叶う。勿論、「読む」と言うスキルが要るのですが、
他者と私を繋ぐ、素晴らしいツールです。自義に陥る事が好きな私達にとっては、
これ以上のものは無いツールです。ですので、あしからずと言わず、
遠慮なくお示し下さい。
22渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/18(水) 09:37:46 ID:uU581M1a
>19-20
 僕は貴方の家庭教師じゃないし、貴方の両親から貴方に仏教を教えるように頼まれた
覚えもありません。あなたと意地の張り合い競争をする意思はありません。

 貴方は、貴方に、口酸っぱく繰り返し言って聞かせてくれる方と、どうぞ張り合って下さ
い。僕は貴方の相手ではありません。
23神も仏も名無しさん:2008/06/18(水) 12:25:33 ID:oL4IQZJc
>22
あなたが親鸞聖人や蓮如上人が勧められない事を、浄土真宗だと
主張する事を問題視しているのであって、私はあなたから
何か教授してもらいたいとは一切思っていません。
根拠を持たぬ主張を繰り返し、一文を以て異義を立て、
迷惑の衆生に対して、さらに迷惑を深めるような行為はやめなさい、と、
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の文言を根拠に勧告させていただいているだけです。
自義に執すれば、道理が欠ける、と言うことです。
24神も仏も名無しさん:2008/06/18(水) 19:46:50 ID:Z2j/mMDp
ふっ と助かっちゃいました。
25神も仏も名無しさん:2008/06/19(木) 23:43:13 ID:j5wJTCsY
>23
 急に静かになったな。23さんは、もう言いたいこと
は尽きたのかな。
26渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/20(金) 21:28:49 ID:i3yLT/VQ
 静かになったね。 謹慎中? <苦笑>

 僕のカキコを待っているのか?
 僕はしばらく忙しい。
27神も仏も名無しさん:2008/06/21(土) 16:06:40 ID:ZubYsPPQ
>7
弥陀の本願信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず。
ふつを、「不意に」「急に」ととれば、
「弥陀の本願を信じなければ、
(突発的)不意にたすかると言うことはありません。」と言えるでしょう。
しかし、298さんの言われるように「不意にたすかったから、
弥陀の本願を信じているのである」と言う事にはなりません。
「出家者は、剃髪している。」が成立しても、
「剃髪している人は、出家者である。」は成立しないのと同様です。
「ふつと」を否定の「べからず」にかければ、
「弥陀の本願を信じなければ、決してたすかると言うことはありません。」
と言うことになります。いずれにしても、他力の信心が肝要と言う事には
変わりありません。
28298:2008/06/21(土) 16:30:52 ID:C8IJdI++
>>27
「Aならば、Bである」が成立しているときに、
「Bでなければ、Aでない」は成立しますが、
「Aでなければ、Bでない」は、成立するとは限りません。

これを、「逆は、必ずしも真ではない」と言い表したり致します。

ここは、紛糾するような箇所ではなく、共通了解が得られるところだと思います。

ご省察いただけたら、うれしいです。

南无阿彌陀佛
29神も仏も名無しさん:2008/06/21(土) 19:07:38 ID:ZubYsPPQ
>28
あなたは>7において、
>「突然に助かるということがあるのならば、弥陀の本願を信じているのである」
と書かれています。これは、「弥陀の本願信ぜずしてはふつとたすかるといふことあるべからず」
の解釈としては、おかしい。拡大解釈だと言うことです。
即ち「弥陀の本願を信ずる(A)」から、「ふつとたすかるということがある(B)」
のであって、「ふつとたすかることがあった(B)」から、
「弥陀の本願を信じている(A)」と言うことは出来ません。
他宗にあっても、「ふつとたすかること」はあるかもしれませんし、
異義・秘事法門にあっても同じ事が言えます。
剃髪している人が、出家者とは限らないのと同様です。
また、如来の本願をたのむから、ふつとたすかるという事があるのであって、
ふつとたすかった体験があるから、弥陀の本願を信じているのである、
と言えば、これは実に、体験を本としてたのんでいることになり、
弥陀をたのむとは言えなくなってしまいます。不可逆の関係を邪見によって、
可逆関係に貶める失があると言えるでしょう。
30渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/23(月) 11:37:40 ID:TblGxZGm
>>29
 29は、対偶と逆の関係について、誤解しているんじゃないか。

 第一命題
 弥陀の本願を信じなければ、ふつと助かることはない。
 第一命題の対偶は
 ふつと助かるということがあれば、弥陀の本願を信じていたということである。
 対偶論では、298の主張は正しいと思うぞ。

>剃髪している人が、出家者とは限らないのと同様です。

 この命題は、「助かったと言う人は、必ずしも弥陀の本願を信じていると限らない」という命題になる。
 この対偶を取ると、
 「弥陀の本願を信じていなくても、助かったということがある」

 蓮如の基本命題とずれている。29が言いたいのは、「298は、弥陀の本願を信じていない
のに助かったといっている」という主張になる。これが29の本音だ。
 29は、自分の主張を対偶論で証明しようとしている。29は論理的な思考ができない人なん
だろう。

 蓮如の命題は正しいと思い、298の主張は間違っていると結論づけるなら、対偶論の問題で
はない。解釈論の問題だ。阿弥陀・本願・信じる・ふつ・助かる、という中の1以上のキーワー
ドの中に、蓮如の概念と298の概念とにずれがあると感じているということだろう。
31渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/23(月) 11:39:09 ID:TblGxZGm
 蓮如の命題が正しく、しかも蓮如の言葉の定義と298さんの定義とが一致していると考える
なら、298さんの主張は正しいことになる。


 ちなみに僕は、ふつと助かったと思っている298さんには、「ふつと助かる」ということに
誤解があるんだろうと思っている。
 近眼の人が、「ありがたい。ありがたい。ふつと助かりました」と言って、感激して眼鏡をし
っかり胸に抱くようになっても、それで近眼の人は助かったことにはならん。「ありがたい。あ
りがたい」と言っているから、あたかも信心があるように自分で自分に暗示をかけ、「信心が得
られて、お陰で死後の極楽往生が楽しみになりましたといえば、「アホか!」と言いたくなる。

 298さんは、一生懸命自分で夢を作出しようとしているようだ。眼鏡屋さんのショーウィン
ドーに飾ってある眼鏡を見ながら、「ありがたいありがたい」と言っている坊主と大差ない。
 ショーウィンドーを眺めているだけか、ショーウィンドーから取り出して両手でしっかり胸に
抱いているかの違いはあるが、僕から見れば、五十歩百歩だ。使い方が全く分かってない。
32あぼーん:あぼーん
あぼーん
33神も仏も名無しさん:2008/06/23(月) 16:35:02 ID:eudHuQwE
>30
>29は、>28で出された定義によって答えているに過ぎません。
よって、298さんとのやりとりは成立しています。
即ち、そのやりとり上において、非論理的と言う批判は的外れです。
あなたが横から、>28以外の定義をもってきたいのならば、
そのように前置きをして、レスをすべきと言うことです。
さて、あなたにはまだ宿題が残されています。覚如上人・蓮如上人が、
五会念仏を修せよ、と勧められた積極的文証の提示です。
無ければ、無いとお書き下さい。
34神も仏も名無しさん:2008/06/24(火) 13:53:10 ID:Z6bZS6vX
>>33
298の言うことは成立しているな。

安心決定抄 末にこうある。

かるがゆえに、機の念・不念によらず、仏の無碍智より機法一体に成ずるゆえに、
名号すなわち無為無漏なり。このこころをあらわして、極楽無為というなり。
念仏三昧というは、機の念を本とするにあらず、仏の大悲の、衆生を摂取したまえることを念ずるなり。
仏の功徳も、もとより、衆生のところに機法一体に成ぜるゆえに、帰命の心のおこるというも、はじめて帰するにあらず。
機法一体に成ぜし功徳が、衆生の意業に、うかびいずるなり。
南無阿弥陀仏と称するも、称して仏体にちかづくにあらず、機法一体の正覚の功徳、衆生の口業にあらわるるなり。
信ずれば仏体にかえり、称すれば仏体にかえるなり。
35渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/25(水) 00:47:12 ID:znpzfX1J
>>33
> 28で出された定義によって答えているに過ぎません。
  そうですか。貴方は論理的な話が本質的にできない方だと了解しました。

> 298さんとのやりとりは成立しています。
  まあ、考えを持つことは誰も自由ですからね。

>非論理的と言う批判は的外れです。
  貴方は、論理的な話ができない方だと言うことが分かりました。

>そのように前置きをして、レスをすべきと言うことです。
  貴方の加わる話には、ノーコメントとしましょう。

>あなたにはまだ宿題が残されています。
  私はそのようには認識していません。私の論証は、種が尽きています

>無ければ、無いとお書き下さい。
  お断りします。僕は口酸っぱく貴方の子守を引き受けるつもりはありません。
36神も仏も名無しさん:2008/06/25(水) 01:18:30 ID:GTor2zwm
>35
それでは、認識を新たにしていただきましょう。
五会念仏を親鸞聖人の御勧化とする覚如上人、蓮如上人の文言を挙げて下さい。
37神も仏も名無しさん:2008/06/25(水) 01:22:17 ID:GTor2zwm
>30
>33の補足
「何かの縁によって、「ふつとたすかる」感情(意業)が生じた。
そういう感情が生じたと言う事は、即ち弥陀の本願を信じているのと同じである。」
と言えますか?と言うことです。
「ふつとたすかる(ここでは不意に、突然に救われる、突発的回心と取ります)」
そういった感情が、例えば、雑行や自力信を本として生じたものであっても、
神仏の啓示を聞いたと言う体験を本として生じたものであっても、
例えば修験を行じて、密教的一体感に浴し生じたものであっても、
「ふつとたすか」ったのだから、弥陀の本願を信じている、
=他力の信心を決定したと言えるのか?と言うことです。
ちなみに、渡海さんが提示された「対偶」に依るのならば、
「「弥陀の本願信ず」れば、必ず「ふつとたすかる」感情(意業)を生ずる事がある。
故に「ふつとたすかる」感情(意業)が生じたのは、「弥陀の本願を信じ」たからである。」
と言えます。この場合、上に挙げた、
雑行・自力信・神仏の啓示・密教的一体感で得た「ふつとたすかる」は
蓮如上人の言われる「ふつとたすかる」とは全く相違した何かであって、
本当の「ふつとたすかるではない、何か違う別の物」と言う事も可能です。
いずれにしても、弥陀の本願信じる事が肝要であるのは言うまでもありません。
五会念仏を修する事が肝要では無いと言うことですね。
38298:2008/06/25(水) 01:45:22 ID:komZ7LAm
>>35
>>28にて、「共通了解が得られるところ」と私は書きましたが、
自分が思い上がっていたことが、よくわかりました。

本当に、私は傲慢な、泥凡夫だと思います。

南无阿彌陀佛
39298:2008/06/26(木) 02:33:20 ID:0r/KYAwT
>>37
他宗他派の方には、また様々なお考えもあると存じますが、
私に関して言いますならば、私のような悪人は、
弥陀なればこそ、救ってくださったのだと慶んでおります。

弥陀の光が、悪機を照らし出してくださいます。

私にできるのは、六字を仰ぐこと。

邪正もわからぬ私です。そんな私が、六字を信じることができた。

これは、理屈ではなく、不思議なことです。

「自らの体験をたよりにしている」と言われれば、おっしゃる通りだと思います。

そして、「私の信仰は、これで良い」それが、近頃思うことです。

間違っているかもしれませんが、それでも良いのです。

これが私の道なのだと思います。

私には、何もできません。私は、一心に弥陀をたのむ気持ちになりました。

弥陀は、どのような衆生も救ってくださる如来です。

ありがたい、ありがたいことだと思います。

南无阿彌陀佛
40渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/26(木) 13:06:31 ID:CwXxlXuw
 悪人のまねをするよりはましだということか。
 悪人のまねよりはいいといわれても、血の通わない後世者ぶった決定者の口先の真似を演技
されても、実感が伝わってこない。演技がうまけりゃ持ち上げるというのは、浄土真宗風土の昔
からの悪い癖だ。嘘と真実の境が見えにくい。

 坐禅持戒は真功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわち仏になるといはば、喩へば飢えたる
人のひろく風を掩ふがごとし (五会法事讃略抄)

 坐禅持戒が無くても、念仏すれば仏にはなれるが、空腹の人が風下に立ち、風上から吹いてく
る風を腹にため込んで空腹を癒そうとする空手形の信心決定では、腹の足しにならんだろう。
余計なお世話と言うべきか。
41渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/26(木) 13:09:06 ID:CwXxlXuw
>>40  (冒頭の一行抜けました)

誤 悪人のまねをするよりはましだということか。



正 同じく仰せに云わく、悪人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよと、仰せられ候う。

 悪人のまねをするよりはましだということか。
42神も仏も名無しさん:2008/06/26(木) 16:43:47 ID:fu9o8KCy
>38
そのレスは、「弥陀の本願信ぜずしてはふつとたすかるといふことあるべからず」
に関してですので、問題提起した私にも関係ある話です。故に、レスさせていただきます。
「思い上がっていた」と言われますが、何をどのように思い上がっていたのですか?
この文言の解釈が間違っていたとの表明なのか、
それとも「逆はまた真ならず」が共通了解されると
思っていたのが、思い上がりだったのでしょうか?
また、あなたの一感傷たる「思い上がっていた」が、
この論議に一体何の関係があるのですか?
いずれにせよ、具体性のない発言は控えてほしいのですが。
>39へのレスは、それが明確にされてから、答えたいと思います。
43298:2008/06/26(木) 22:40:25 ID:0r/KYAwT
>>42
>>28の文章は、私が書いたわけですが、それによって、了解が得られると
思っていたところが、実際は、そうではありませんでした。

私の書く事に、同意が得られる保証があるはずもなく、
思い上がっていたと言う他ありません。

「Aならば、Bである」と、「Aでないなら、Bでない」は、別の主張であるという
立場に変わりはありません。

蓮師は、「Aならば、Bである」という主張と、「Aでないなら、Bではない」という主張を
双方共になすことによって、「AすなわちB」ということを、おっしゃっていると思います。

しかし、これはあくまでも私の意見に過ぎません。

愚見というべきものですので、私の信仰は、個人的に、
自らの胸に暖めるようなものであるのだと思います

この暖かい感じは、とても良いものですので、
わかってくださる方とは、共によろこびたいですし、
そうでない方には、おすすめしたくなりますが、
だからと言って、私にできることがあるわけでもないのです。

阿弥陀さまのおはたらきに、私は、ただ宿縁をよろこび、
感謝するばかり。尊い尊い南无阿彌陀佛。

南无阿彌陀佛
44神も仏も名無しさん:2008/06/26(木) 23:43:24 ID:fu9o8KCy
>43
違います。問題提起を理解されてないのは、申し訳ないですが、あなたの方です。
弥陀の本願信=A、
ぜずしては=条件、
ふつとたすかること=B
あるべからず=Bの否定
AでなければBではない。「弥陀の本願信じなければ、
ふつとたすかるということはあるわけがない」とこのとおりに読むのには、
何の差し支えもないわけです。文言のとおりなのですから。
これに沿って、AであればBである、即ち「弥陀の本願信ずれば、ふつとたすかることがある」
とも言えます。しかし、あなたは、「Bであれば、Aである」と書かれているのです。
>7がそれです。
「ふつとたすかることがあったならば、弥陀の本願を信じているのである」
不可逆の関係を可逆にしてしまっている点を批判しているのです。
横から渡海さんが入ってきて、混乱したのが原因かもしれませんが、
私の論点はそこ一点だけです。
45神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 00:15:27 ID:xFCRnrGy
>44追記
「共通了解されないのは不徳の致すところ」と
勝手に納得し反省される前に、どこがどう問題視されているのか
理解するところから始めていただきたいのですが、無理な相談でしょうか?
46298:2008/06/27(金) 00:59:04 ID:dk7+sAxu
>>45
果の有る所、因が有ります。

しかし、私のような凡夫には、何が因で、何が果かは、わかりません。

しかし、事、即得往生につきましては、弥陀の廻向によるものと、わかるのです。

それは、我が身を省みて、往生の因があるとは思えないからです。

今の果から、過去の因を知ることも、できないわけではないでしょう。

しかし、「知る」とは言っても、凡夫の「知る」に過ぎませんから、
間違っている可能性がございます。

これにより、一人のしのぎになるのであると思います。

私に、あなた様を理解できるかは、わからないのです。

私の理解力など、たかが知れているのですから、無理な相談かもしれません。

私に能力が足らぬことを、歎く限りですが、どうにもならないのです。

その上、「Aでなければ、Bでない」のであれば、「Bであれば、Aである」が成立すると、
私は考えているのですから、理解が平行線になる可能性が高いのではと愚考するのです。

二価論理にこだわるわけではないのですが・・・

ここは、単純に解して良いところであると思っております。

44様にとりましては、教義上の、大切な論点なのでしょうか?

南无阿彌陀佛
47298:2008/06/27(金) 01:29:06 ID:dk7+sAxu
>>44
本筋とは、ずれてしまうかもしれませんが、例を出して、言わんとする所を説明しようとしてみます。

「昨日が木曜日でないならば、今日は金曜日ではない」

「今日が金曜日であるならば、昨日は木曜日である」

この2つの命題の関係を考えていただければ、私の言わんとする所もご理解いただけるかもしれませんが、
自信はありません。

私が勘違いしているだけかもしれません。

私のような凡夫が救われるなら、それは弥陀によるしか無いのであると、
私は思い、感謝しております。

南无阿彌陀佛
48神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 17:35:53 ID:xFCRnrGy
>47
あなたは>28で「逆は必ずしも真ならず」と言われました。
故に、その論に基づいて話をすすめてきましたが、
ここにきて、「木曜日」と「金曜日」の関係性を持ち出されました。
これは明らかに「逆もまた真なり」のケースです。矛盾しています。
どう整合性を取られるおつもりでしょうか?
49神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 17:47:34 ID:xFCRnrGy
>48つづき
さて、仮説として言わせていただくならば、
Aは、次第相承かどうかわからない人間を次第相承の善知識と信じ、
その善知識によって、たのみ方を伝授され「ふつとたすかる」意業を発動した。
しかしながら、Aに「たのみ方」を教授した次第相承の善知識を
次第相承と呼ぶべきお聖教上の根拠は無い。そうならば、
その次第相承してきたという「たのみ方」は、当然、
浄土真宗の次第相承を経てきた法とは言え無いことになります。
親鸞聖人にも覚如上人にも蓮如上人にも根拠を持たない法をたのんで、
「ふつとたすかる」意業を発動したのですから、
その本は、聖人一流の御勧化にかなったものとは言えず、
蓮如上人のお言葉を借りれば、
「これこそ信心を得たるすがたぞと言いて」人を惑わす者に従って発動した
「ふつとたすかる」意業とも言うことは可能でしょう。
そうであれば、Aの「ふつとたすかる」思いは真実信心から起こされた意業ではなく、
親鸞聖人のみ教えに相違したたのみ方によって起こさしめられた意業と言えます。
「逆もまた真なり」から言えば、
その「ふつとたすかる」は偽物の「ふつとたすかる」であり、
「ふつとたすか」ったと認識していても、本当は「ふつとたすか」っていないと言えるでしょう。
「逆は必ずしも真ならず」から言えば、
「ふつとたすかる」意業が生じた事象があったとしても、
弥陀の本願を信ぜずに、偽善知識を信じて起こされた意業であって、
「ふつとたすかる」ことがあっても、「弥陀の本願」を信じていない、
という事が成り立つわけです。
50298:2008/06/27(金) 19:28:43 ID:dk7+sAxu
>>48
用語に混乱があるのではないかと愚考致します。

私は、「Aならば、Bである」と、「Bでないなら、Aでない」を、「対偶」と呼び、
両者の真偽は共通していると述べております。

そして、私が、「逆」と呼んでいるのは、「Aならば、Bである」に対する、
「Bならば、Aである」という命題です。

「Aならば、Bである」に対して、「Aでないなら、Bでない」を「裏」と呼び、
「裏」(Aでないなら、Bでない)と「逆」(Bならば、Aである)の真偽は共通すると考えております。

ですけれども、「裏」という言い方は、日常会話においてあまり用いられませんので
私の書き込みでは、「裏」を指して「逆」と書いている箇所もあると思います。

これは、「裏」と「逆」の真偽は共通する(同値である)と考えているからです。

わかりにくい書き込みで、申し訳ありません。私としては、筋が通っていると感じておりますが、
言葉足らずの責はありますし、そもそも、あくまでも、邪正わからぬ凡夫の思考に過ぎません。

ですから、同意を強制するものではありませんし、ご納得いただけなくても、
仕方が無いことと存じております。

私の不徳の致すところであり、弥陀の顔に泥を塗らぬよう、気をつけねばならぬと思っております。

南无阿彌陀佛
51神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 23:09:43 ID:xFCRnrGy
>50
解りました。水曜日と言えば、曜日である。では、曜日と言えば水曜日か?
水曜日は曜日に含まれるが、必ずしも水曜日だけが曜日だけではない。
月曜日も火曜日も曜日である。この関係性をあてはめるとどうなりますか。
この場合をあてはめれば、弥陀の本願信じれば、ふつとたすかることがある。
しかし、ふつとたすかった事が弥陀の本願を信じたからだとは言えない。こう言えます。
あなたは、自称(証拠がないのだから、かく言わせていただきます)次第相承の善知識が
相承してきたと言われる「たのみ方」(お聖教上の根拠がない法)を修して、
「ふつとたすかる」意業が生じた。それは、親鸞聖人の教えに従い、
蓮如上人が言われるが如く一向一心に弥陀をたのむとは全く別物でしょう。
何故なら、「ふつとたすかった心をたのめ」
「自称次第相承の善知識にたのみ方を教授されよ」と、
親鸞聖人、覚如上人、存覚上人、蓮如上人、そんな事を仰った方は
おられないからです。弥陀の顔に泥を塗るなどと表明する以前の問題なのです。
きつい言い方ですが、聖人一流のご勧化のおもむきに無い事を修する事によって、
信心を得た、ふつとたすかったと倒錯している仲間たちの一人、とは言えませんか?
52298:2008/06/27(金) 23:39:17 ID:dk7+sAxu
>>51
「水曜日は、曜日である」の対偶は、「曜日でないなら、水曜日ではない」であると思います。

また、「ふつと助かる」と、「私(298)がふつと助かっている」を混同されていらっしゃるように
思います。

おっしゃる通り、私は、倒錯しているかもしれません。間違っているかもしれません。

そして、信心も獲ていないかもしれないし、異安心かもしれません。

どちらなのか、私には、知る術がありません。

知る術はありませんが、お聖教を御拝読すれば、正統だと感じます。

しかし、あくまでも、「感じて」いるだけです。

それに、「感じたい」だけなのかもしれません。自身では、よくわかりません。

ですから、51様が、私(298)を信じる必要が無いのです。

そして、私は、自身でお聖教を御拝読する限り、連綿と伝わってきた一流の道を歩んでいると
感じています。

そして、この有縁の道を歩み続け、弥陀に感謝してゆきたいと思っています。

そして、自身の意業を見、「変えられたなあ」と思いますし、
こんな疑い深い自分が、六字を信じることができた。それも、うれしいのです。

すべては、弥陀のひとりはたらき。私に出来ることは、何もありません。

南无阿彌陀佛
53298:2008/06/27(金) 23:44:48 ID:dk7+sAxu
>>51
私は、たとえば、

◎黒谷の聖人、本願寺の聖人相承しましますところの、
報土往生の他力不思議の信心を、善知識ありて、つたえときて、
さずくるを行者ききうるによりて、文のごとく一念歓喜のおもひおこるについて、
往生をたちどころにさだまるを、正定聚のくらゐに住すともいひかならず滅度にいたるともいひ、
摂取不捨の益にあづかるともいふなり(本願鈔)

などを御拝読致しますと、「本当にそうだなあ」と思いますし、
とても有り難い気持ちになり、感謝合掌致します。

そして、「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛」とお称え致します。

そのようにして生きて行くことが、気に入っております。

こうして、一人でも、相続してゆくことができる。

「何と有り難いことだろう」と、感嘆しております。

彌陀一佛だけが、このようなことをすることができると、
私は信じます。もちろん、個人的な信仰です。

しかし、真宗を尊いと思う方であれば、弥陀への思いは、共通しているのではないかと
思います。

ただただありがたい、南无阿彌陀佛です。

南无阿彌陀佛
54神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 00:43:51 ID:Zsmgh8l7
>52
対偶において、
ふつとたすかることがないのは、弥陀の本願を信じていないからである
とまでは言えても、ふつとたすかることがあるのは、
弥陀の本願を信じたからである。と言えますか?
次に、勘違いしてほしくないのは、あなた自身の信仰をとやかく言う筋合いはありません。
それは浄土真宗と呼べるものかどうかを問題にしているのです。
次に、凡夫の合点について。
新聞のコラムを読んでも、なるほどその通りと思う事もありますし、
それが、何代にも渡って揉まれ、錬られ、受け継がれてきた
仏教の論釈であれば、なおさらです。何の不思議もありません。
問題は、「たのみ方」を自称次第相承の善知識に教授され、
真実行と呼ばれる行を修し、いままでの意業が変化したのを
感受した事をもって、浄土真宗の肝要とせられているのか否かです。
あなたが引文された『本願抄』にもそのような事は述べられていませんでした。
次に、可逆・不可逆については、
他力には他力の法則があり、論理学には論理学の法則がある。
他力の法には、自力疑心は不可ですが、それは論理学の分際ではない。
ふつとたすかる意業があったとしても、弥陀の本願を信ずる事にはならない。
何故なら、弥陀の本願を信ずるが先、ふつとたすかる意業は後、であるからです。
55298:2008/06/28(土) 01:42:31 ID:oSbPgb80
>>54
「Aでなければ、Bでない」の対偶は、「Bであれば、Aである」だと思います。
蓮師の御文章には、

◎弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず(御文5-2)

これは、「Aでなければ、Bでない」の型であります。

時間の順序の点につきましては、>>46にて、因果についてお書き致しました。

また、その点も考慮しまして、>>47にては、曜日の例をお書きしてございます。

「今日が金曜日であるならば、昨日は木曜日である」

この命題におきましては、「昨日は木曜日」が過去に当たります。

浄土真宗の肝要は、南无阿彌陀佛であり、「弥陀をたのむ」ということではないでしょうか。

他力真宗の根幹は、弥陀の神力により、真実信心を埋め込んでいただくことにあると思います。

摂取不捨の不可思議こそが、根幹であると思います。

私は>>53の引文を、「その通りだなあ」と有り難くいただいております。

一念の信心のいはれを知り、一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみもうすことが
肝要であると思います。

みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解が無く、後世を知ること無いのであれば、
どれほどお聖教読もうとも、どれほど聴聞しようとも、いたづら事であると考える次第です。

南无阿彌陀佛
56神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 02:06:21 ID:Zsmgh8l7
>55
金曜日⊇曜日。曜日=金曜日とは言えない。
ふつとたすかることがあっても、真実信心を得ない者は、
往生決定の者ではない。真実信心を得た者は、ふつとたすかることがある。
真実信心を得たのだから、往生決定。ふつとたすかることがあるから、往生決定するのではない。
信心正因の所以です。
いくらみづからたのんでも、それが自力であれば、化土往生。
いくらみづからたのんでも、親鸞聖人の言わのない「たのむ法」によるならば、
浄土真宗ではありません。
57神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 02:09:19 ID:Zsmgh8l7
>56
金曜日⊆曜日でした。すみません。
58神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 11:18:43 ID:1y/idZI3
>>56
面白いやり取りでワクワクしました。

56はまず前提に自分が是である。なぜなら親鸞さんの言うことを是とするから。
というわけでしょ。ではあなたは親鸞さんの言うことを間違いなく領解したと言い切れるのか?
言えないでしょう?
59神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 12:33:26 ID:MRs4viRZ
>58
> 面白いやり取りでワクワクしました。

 理屈のわからん理屈オンチの56に、298の忍耐力
がどこまで耐えられるかという問題だ。

 ここまで教わっている56は、298にお相手料、家庭
教師授業代を支払ってもいいよな(笑)。
60神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 18:52:57 ID:Zsmgh8l7
>58
自分が「是」と言う前提は必要ありません。親鸞聖人が伝えられなかった事を、
伝授していると称するのは「浄土真宗ではない」と問題にしているだけです。
298氏においては、自称次第相承の善知識に「たのみ方」を教わり、
真実行を修する事が信心決定の方法だと述べておられます。
渡海氏においては、五会念仏を修する事が真宗の肝要だと主張されたいようです。
そうであるならば、どこで親鸞聖人がそのような事を言われ、
また親鸞聖人から如信上人、と相承された浄土真宗列祖覚如上人、
また蓮如上人は、どこで、親鸞聖人ご一流の肝要をそのような事として勧められているのか、
その根拠を求めているに過ぎません。
>59
仏教には仏教の論理があります。例えば龍樹菩薩の『中論』中で、論破されていることは、
一般論理から言えば、詭弁と言われるべきものでしょう。
しかし、お釈迦さまが説かれた「空」を基に論を展開すると、
成立します。この点については中村元先生の『龍樹』(講談社学術文庫)においても言及されています。
浄土真宗においては、一宗の肝要たる他力信心を基にせねばなりません。
61神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 19:07:30 ID:Zsmgh8l7
>59
もう一つだけ書きます。信心には多くの異名があります。例えば、疑蓋無雑。
ふつとたすかる意業があれども、仏智疑惑を帯しているのならば、
浄土に生まれることはありえません。わかりましたか?
62神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 19:35:27 ID:EBsRh2yZ
>>61
ニート海難にレスしないように。
63渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/06/29(日) 21:10:44 ID:JZDeZA9m
 298さんが以前、しきりに問題にしていた浄土真宗の口伝に
ついて、議論を進めています。

 www.しんらん.jp/
64298:2008/06/29(日) 22:11:37 ID:e+FpbOq/
>>61
佛智疑惑があるならば、ふつとたすかれりとは、言えないのでは
ないでしょうか。
そして、真実のところ、自らが助かったかどうかは、
わかることは無いのだと私は思います。
助かったと思っている人が、助かっていないかもしれず、
助かったと思っていない人が、助かっているかもしれません。
私が助かっているかどうか、弥陀はご存知だと思いますが、
一方、私は、何もわからぬ凡夫です。
それでも六字を尊いと思い、お称えして参ります。
そのような気持ちになれたことを、尊いと思い、よろこんでおります。
南无阿彌陀佛
65神も仏も名無しさん:2008/06/29(日) 23:48:30 ID:fiLDWMxZ
>64
何もわからぬ凡夫ならば、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人に根拠を持たぬ、
次第相承の善知識を浄土真宗の相承と主張し、その知識が言うところの
「たのみ方」によって、信心決定するなどと宣伝すべきではないでしょう。
「ふつとたすかる」については、対偶で読んだ場合、
「ふつとたすかる」意業が生じたからと言っても、
蓮如上人がここで言われるところの、
他力信心の利益たる「ふつとたすかる」ではないと言えます。
何故なら、「弥陀の本願たのむ」事が「ふつとたすかる」の条件となっており、
その条件が満たされなければ「ふつとたすかることあるべからず」だからです。
つまり、浄土真宗の上からすれば、真実信心に根拠を持たぬ
意業の発動である疑似的「ふつとたすかる」は、
真実の「ふつとたすかる」ではない、と言うことです。
その件に関しては、以前、書きました。
今、あなたは親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお勧めにない
次第相承の善知識が伝える「たのみ方」によって、
信心決定されたと言われるのですよね。それを根拠とされ、
「たのみ方」を他人に勧める活動をなされているわけでしょう。
しかし、その根拠の基盤、即ち次第相承の善知識自体、
その方が相承されたと言う「たのみ方」自体、既に根拠がない訳です。
その結果として、信心決定したといくら主張されても、
また、「ふつとたすかる」意業が生じたとしても、
それは、親鸞聖人一流の御勧化によっている訳ではないと言うことです。
66298:2008/06/30(月) 00:09:53 ID:4eRq4VKK
>>65
「ふつとたすかる」は、凡夫の意業を指すのではないと私は考えます。
「ふつとたすかる」のは、機法一体に成じる功徳を指すのであり、
この功徳により、衆生の意業に浮かび出る思いが生じます。
これにより、以前の自分には「ありえなかった」と思うような、
意業が感じられ、真実信心をいただいたのだと思えるのです。
しかし、本当にいただいているのかどうか、凡夫の知る所ではありません。
この功徳は、今の私(信心を獲得した時節の私)がいただいたように
感じられますが、その実はそうではなく、十劫の昔に成就していたものです。
それをいただかず、逃げていたのが私であり、それこそが、
佛智疑惑であると言えます。
南无阿彌陀佛
67神も仏も名無しさん:2008/06/30(月) 00:17:59 ID:eam3fM1c
実は、人は死ねばすべからく、所謂極楽や天国とか色んな言い方をされて居るような
状態に入るのでは無いですか?もう煩悩も悪事も五濁も関係無い、正に理想の境地で
すので。どんな宗教であれ本当の所は分っていながら、そうは教えず生あるうちの悟りとか、
修行とか、救いとか、死後も影響するとか、供養が大事とか、言って来たのでは??
真宗はそのタブーを破った異質の教えだと思います。どんな人も(阿弥陀如来の救い)とは
説いてはいますが死後(後生)の安寧を只管説いた教えと思います。信心決定とはその安寧を
心底理解する事だと思います。
68298:2008/06/30(月) 00:26:16 ID:4eRq4VKK
>>65
また、忘れてはいけないのは、五重の義のはじめに、「宿善」とある
ことです。
善智識と言えど、宿善なければ、いかんともできないはずです。
つまり、「善智識が信心を与えている」と見えるかもしれませんが、
それは、錯覚に過ぎないと思います。
あくまでも、弥陀のお育てがあってのことであると思います。
お手引きも、同様です。
私たち凡夫には、お手引きもできなければ、信心を与えることも
できません。
すべて、弥陀がおはたらきになっているだけです。
たとえて言うならば、弥陀を外科手術をするお医者さんとすれば、
善智識は、メスを渡す係りのような者と言えると思います。
知識が信を与えるようなことができるのであれば、
煩悩ある知識にすべてが託されてしまいます。
善智識は立場上、思い上がりやすいと思います。
そして、思い上がれば、知識の役から離れたことになるのでは
ないでしょうか。
すべては宿善まかせ。それは、弥陀任せということであり、
他人を「宿善が無い」と非難することではないと思います。
各自各自に、歩む信仰の道があるはずです。
もし、「宿善が無い」と見えるならば、非難するなどは
もっての他であり、「宿善が育つように」と願うことだと思います。
(これは、「救われますように」と願うことと同じです。)
それも、弥陀任せなのですから、南无阿彌陀佛と称える他はないと思います。
南无阿彌陀佛
69298:2008/06/30(月) 00:31:13 ID:4eRq4VKK
>>67
「すべからく良いところにゆける」と思っている方は、
幸せな方です。
私は、「このまま死んだらヤバイ」という感覚を持っていました。
死は、暗黒であり、怖いものでした。
この私の気持ちを救ってくださったのは、
阿弥陀様だと思っています。
私は、自分を、地獄にいた、悪魔のような存在だと思っていました。
そんな自分のみにくさが怖かったのです。
今は、今でもみにくい自分はイヤですが、そんな自分を受け入れて
くださる阿弥陀様に感謝して、お念仏をお称えしています。
南无阿彌陀佛
70神も仏も名無しさん:2008/06/30(月) 01:05:49 ID:eam3fM1c
私も同様です。真宗の教えは、「死」を日常に身近に受け入れざるえ負えない人々にこそ
染み入ったのではないでしょうか。理論や教えの真意の探求も宗教にとっては重要な事
です。一種の学問として非常な価値が有ります。阿弥陀如来の救いを方便として人々の心
を救わんとした、上人に思いをはせたかっただけなのです。下品下生のわが身ごも後生十二
大劫の後蓮華を開かれん事を思っています。

71298:2008/06/30(月) 01:21:38 ID:4eRq4VKK
>>70
私も、学問も大切だと思います。教えがいい加減なものにならない
はたらきをしているのではないかと愚考しております。
もちろん、止住百歳のおはたらきの全貌は、凡夫の私の知る所ではありません。
あくまでも、想像に過ぎぬことですが、いらぬ想像もしてしまう凡夫であります。
本当に、価値の無い想像を、随時為しますね・・・
私は、素朴な信仰こそが、もっとも大切なものであると思っております。
その信仰が得られないからこそ、学問をするという順序であり、
もともと、学問によって信を獲るのではなく、
「弥陀をたのむ」ことによって信を獲るのがこの道であると思います。
六字は無上の方便であると、感じること頻り、
本当に尊い南无阿彌陀佛であると思います。
南无阿彌陀佛
72神も仏も名無しさん:2008/07/03(木) 01:46:53 ID:5HgjFmxq
死なんて本当はないのに、何を勘違いしているんだろう。
総てが意味を持つ。それが総てが消滅する死であろうとも。自然法爾。
「死」そんなものを相手にしてどうするのかな?
虫も、植物も、馬も、地球も、宇宙もみんな経験することなのに。
ちっぽけな自分の一生涯かもしれないこど、今日も創ってるのさ。
自分しか経験できない自分を。そう、奴隷にならなくていい法が南無阿弥陀仏。
298さんとは「そこ」が決定的に違う。298さんは自分の経験してきた道に真実を見る。
そして、他者をその経験則、即ち信心を得る方法としてあてはめようとする。
でも、僕は違う。経験してきた事、培ってきた物に、価値をおかない。
何故なら、今こうして生きてる事、僕の僕にしか発揮できない
僕の人生を創っている事が、何物にも変えられない事実だから。
無量寿無量光のお徳を限定しない。解らないとも言わない。
今、こうして、自分の人生を創り続けている事が、
無量寿無量光の仏のお支えによるものだから。
創り続けていいんだ。命終わるまで。終わっても終わりじゃないんだ。
何故なら、今、現に、僕は僕の人生を創っている。明日には白骨になっても、
ようこそ、ようこそ。ならなくても、ようこそ、ようこそ。
お前は浄土に生まれるに間違いないと無量寿無量光の仏が、
直々に呼び掛けて下さっているから。今、今、今。仏教は今、今、今。
73神も仏も名無しさん:2008/07/03(木) 22:30:47 ID:cS0K9lQZ
>>72

さすがにそれでは無帰命安心だわな。
平生業成だろ真宗は。たった今のお救いにあずかる。
今というのは常に今のようであるが、1秒先すら分からないのが私たち。
74神も仏も名無しさん:2008/07/04(金) 00:26:43 ID:WEZ72Hol
>73
何言ってるのかよくわからないけど、一秒先が解らない僕らだから、
阿弥陀仏の本願があるんじゃないの?
もし今、未来の事考えてくよくよしたら、阿弥陀仏の「必ず救う」という願いを思いだすし、
もし今、すごくラッキーな事があって、調子に乗ってたら、
痛い目あうよ、本当の喜びじゃないしって、
本当の喜びは「必ず救う」ご本願じゃんって、思い浮かべる。
それで、お念仏申して暮らせば、ありがたいし、心休まるよね。
75神も仏も名無しさん:2008/07/04(金) 01:11:18 ID:UycUaSfH
>>74

言いたいことは良く分かるけど、それを自力信というんだよ。
分からんかなぁ。
76神も仏も名無しさん:2008/07/04(金) 01:51:04 ID:WEZ72Hol
>75
全然わかんない。何処をどう自力信って言うの?
77神も仏も名無しさん:2008/07/04(金) 10:37:57 ID:SC+JicrO
「死」というものがあって、そして地獄行きが嫌だと思うから、阿弥陀仏におすがりしたです。
>72さんの信心にとって、そういうのはあまり大きな位置を占めていないのでしょうね。
それもひとつの境地というものかなあ。
私個人的には、それでは心配でたまらないと思うのですが。
78神も仏も名無しさん:2008/07/04(金) 18:36:10 ID:WEZ72Hol
>77
何の心配があるんだろう?阿弥陀仏が「必ず救う」と誓っているのだから、
その誓いにおまかせする以外ないでしょ。みんなおまかせするんだから、
僕の心配もまた、おまかせです。それでもまだ心配なら、
それは阿弥陀仏の誓いを疑っていることが原因になってるんじゃないかな。
仏さまの心より、自分の心配な心の方を真実と受けとめれば、
仏さまの願いは不完全なもの、不真実になっちゃう。
不安になったら、思い出せばいいんだよ、お念仏称えればいいんだよ、
「必ず救う」っていうのは、観音さまも勢至菩薩も褒め称える、
テキトーな僕らの誓いじゃない、誰あろう無上覚の仏さまの誓いなんだって。
79神も仏も名無しさん:2008/07/04(金) 21:58:00 ID:EwS0Gvkw
>万理一空の境地の事ですね。他宗の教えでは良く自力でその境地に達する事を目指しますよね。
80神も仏も名無しさん:2008/07/04(金) 22:10:11 ID:UycUaSfH
>>79

78は自力信であることにすら気が付いていない。
そう考える自分の心が信心になってるから無因外道と呼ばれる。
81神も仏も名無しさん:2008/07/04(金) 23:49:17 ID:WEZ72Hol
>79
むつかしい事はよくわかんないけど、空を悟るって事?
そんなこと言ってないのに。証知生死即涅槃だよ。
無上覚の仏さまから導きでたお言葉じゃないのかなー。
>80
よくわかんない。解るように説明してみて。あと、どうして他の人に、
自分の意見の同意を求めるんだろ?
僕の書き込みの何処が自力信で、何処を無因と言うのか、
ちゃんと答えてよ。それを聞いたら、僕もへーって思うかもしれないよ。
大切な事は、正面からぶつからないと、大切な事を卑屈にしちゃう人間になっちゃうよ。
そんなのつまんないじゃん。
82298:2008/07/05(土) 01:03:34 ID:HoYE+sfq
誰もが救われる南无阿彌陀佛。
だけど、他の人が救われるかは、わからない。
なぜかといえば、他の人が実際にどのような存在かは、自分には、
わからないから。
それでも、誰でもが救われる南无阿彌陀佛だからこそ、
こんな自分も救われる。
宿縁という他はなく、なぜ信じられたのかは、
自分でもわからない。
それでも、六字という基盤があり、だからこそ、
無上の方便と知らされる。
自分が信じようが信じまいが関係ない南无阿彌陀佛。
私とは、無関係の南无阿彌陀佛。
その六字と縁があり、六字とひとつになる。
不可思議。
南无阿彌陀佛
83神も仏も名無しさん:2008/07/05(土) 01:22:36 ID:gZcjqNdb
>82
違うよ。誰でも救われるなら、清浄之因唯信心って言う必要ないし。
総衆生往生浄土って言わないといけない。でも、そうは誓わなかったんだよ。
阿弥陀さまは。自分の願望と仏さまの願望をごっちゃにしたらダメだね。
84298:2008/07/05(土) 01:29:46 ID:HoYE+sfq
>>83
誰でもが救われるけれども、誰も救われないかもしれない。
それでも、誰でもが救われることが定まったのだと思います。
南无阿彌陀佛
85298:2008/07/05(土) 01:36:26 ID:HoYE+sfq
>>83
往生の真因がきざすのは、清浄の信心をいただくからですが、
これは、あくまでも他力の信心であるが故に、
誰でもが救われる。
それでありながら、浄土に往く人、ほとんど無し。
それでありながら、数え切れない衆生が集う大法会。
集う人が集う。
救われたい方は、救われます。
南无阿彌陀佛
86298:2008/07/05(土) 03:33:59 ID:HoYE+sfq
御恩報謝の南无阿彌陀佛は、本当に人生を良くすると思います。
もちろん、私がこう言っても、私が言っているに過ぎないわけですが、
信じてくださる方がいて、実行してくださるなら、
本当にうれしいです。
南无阿彌陀佛
87渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/05(土) 10:23:49 ID:fG6sill9
 ブログ「親鸞仏教」更新しました。
  www.しんらん.jp/
88あぼーん:あぼーん
あぼーん
89神も仏も名無しさん:2008/07/05(土) 12:26:22 ID:gZcjqNdb
>85
なんか曖昧だなあ。他力の信を決定しなければ、
浄土往生はかなわないって、蓮如上人は言っておられるよね。
肝要は、仏さまが助けるって言ってるからホントだよね、
みんな助かるよね、不思議だよねって、慰めあう事じゃなくて、
他力の信を決定しなければいたづらごとって事。これは僕の思いでも何でもなく、
蓮如さんの思し召し。つまり、浄土真宗ってこと。
>86
浄土真宗の人なら、多分、私の言葉を信じなよ、
みたいな言い回しはしないんじゃないかなあ?
あの歎異抄の問答を味わってるならさ。
90298:2008/07/05(土) 14:00:58 ID:22LEfvYO
>>89
私の言うことなのですから、信じなくていいですよ。
信じてもらえれば、うれしいだけ。
しかし、そのうれしさも、ただの煩悩の可能性も高いのです。
私は、弥陀に現世も救われ、後生も救われたと思っています。
ですから、同じような体験を味わっていただければ、
その人もしあわせだろうと思うだけで、
望む、望まぬは、その人次第です。
私にどうこうできることではないと思います。
「御恩報謝の南无阿彌陀佛とは、本当にすばらしい」と
私は思うのです。
ちょっと空いている時間にも、行えます。
そして、この「(いわゆる)空いている時間」に行っていることが、
実はメインのことで、そのほかのことが、助業となって、
六字を称えることを助けています。
南无阿彌陀佛
91渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/05(土) 15:50:46 ID:fG6sill9
 298さんも、最近は主張が変わってきたのかなぁ。心境に
変化がおきているような気がする。
 本質的変化か、上辺だけの変化かは分からないけどね。

 自分だけが本物の信心を持っていると思っているような
スタンスは、多少ぐらついているようだ。
 「自分だけ」と「本物」という2点にぐらつきを感じる。

 ただ、自分からは、自分の信心に進んで疑念を持つという
ことはしたくないという固執もあるようだ。

 火宅無常の信心だから、いろんな変化があっていい。
92神も仏も名無しさん:2008/07/05(土) 16:21:45 ID:gZcjqNdb
>90
仏法は無我にて候って蓮如上人が言われてるから、
浄土真宗もそこから外れた法じゃないって事だよね。
298さんの書き込みが曖昧に感じるのは、救われた我を中心に、
み教えを組み立ててるからなのかな?なんて思う。
ま、僕のご恩報謝の日々とは表面上は似てるけど、大元は違うとは言えるかもね。
93渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/05(土) 16:27:40 ID:fG6sill9
>91
 一つ加えておきたい。もしかすると上辺だけかなとも思う。
 ぐらついているように見せているのは、機の深信を演じる
大根役者の演技なんじゃないかと、そんな風にも、勝手に
思うんですよ。

 法の深信の猿芝居を見せられても、機の深信の猿芝居を見せ
られても、僕はちっとも感動しないが、猿芝居を見ると喝采を浴び
せたくなるギャラリーは、浄土真宗という風土には少なくないよう
だ。

 まあ、他人のことは構う必要はないんだけどね。
94神も仏も名無しさん:2008/07/05(土) 17:16:52 ID:Epq3GNU4
どう考えても渡海 難 はルサンチマンでしかない

残念なことではあるが真の無我を得る事が出来ない
95渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/05(土) 18:04:26 ID:fG6sill9
>94
 ルサンチマンかサンドイッチマンかよく分からんが、渡海難は真の無我
の境地を体得するかどうか。
 我の強い僕も、大変なレベルの評価段階に入ったものだなぁ。 (苦笑)
96神も仏も名無しさん:2008/07/05(土) 18:16:46 ID:Q90X11ft
>>91

面白い人だなぁ。
他人のこと言う前にその発言をそのまま自分に返すべきだなw
97渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/05(土) 18:33:52 ID:fG6sill9
>96
 自分には返りませんよ。

 自分のことはよく見えず、他人のアラは、嘘でも本当でも手
に取るようによく映る。

 真の無我など、夢のまた夢。  <苦笑>
98神も仏も名無しさん:2008/07/05(土) 20:27:45 ID:rJ+Ppu82
>>90
>しかし、そのうれしさも、ただの煩悩の可能性も高いのです。

仏法のことにせよ、ぼくらが感じるうれしさって煩悩なんじゃないですか?
煩悩以外の場合もあるのん?
99神も仏も名無しさん:2008/07/05(土) 22:00:36 ID:zmODDtyx
>81さん、以下のご意見、やはり自力で頑張れ、信じろ。弥陀を信じる気持ちを持つんだ。
それは「死」なんか超越した考え方が出来るようになる。と聞こえます。何かご上人の教えとは
違和感を覚えますが?

100神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 00:43:14 ID:r0g83+iE
超越世界だ〜

高森会
101298:2008/07/06(日) 03:48:56 ID:NY+pLpOQ
>>99
そうですね、弥陀を信じる気持ちと言っても、
自分で信じるわけではなく、弥陀がくださるわけですからね。
しかも、せっかく弥陀がくださっても、
全く気づかないかもしれない。
それでも救われているのだから、すごいことだと思います。
南无阿彌陀佛
102神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 11:01:35 ID:0lSg28He
>99
頑張るのは自力なのかなー。
問題や障壁があったら乗り越えようとしなければ、乗り越えられないでしょ。
蓮如さんが、ご文章や名号をたくさん書き与えたのも、
赤尾の道宗がご恩忘れないために、四十八本を枕木に休んだのも、
自力信のあらわれなのかなあ?お経読んだり、親鸞聖人の書を読んだりするのも、
自力なら止めないといけない事になっちゃうよね。
103渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/06(日) 11:26:57 ID:sy53vpkY
>98
他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよ
たのもしくおぼゆるなり。

> 仏法のことにせよ、ぼくらが感じるうれしさって煩悩なんじゃないですか?
> 煩悩以外の場合もあるのん?

 なるほど。非常に貴重なご意見、痛み入る。 (w)
104あぼーん:あぼーん
あぼーん
105あぼーん:あぼーん
あぼーん
106あぼーん:あぼーん
あぼーん
107あぼーん:あぼーん
あぼーん
108あぼーん:あぼーん
あぼーん
109渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/06(日) 14:37:41 ID:sy53vpkY
 木辺派では座禅をしているそうだ。
 五会念仏を称えているのか、称えてないか定かではないが、
真宗の中で、座禅アレルギーが崩れ始めた兆候とすれば、歓
迎すべき事柄だ。

http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1205382068/l50
110神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 15:03:34 ID:QJXiDzg0
木辺派は禅宗に鞍替えするそうです。渡海さんも一緒に親鸞から禅宗に鞍替えしてはどうですか?

406 :名無しさん@京都板じゃないよ:2008/06/29(日) 12:27:53
>>395
既に、得度や教師の研修で静座なる坐禅の行が強制されていて、
木辺派が真宗から禅宗に転派する動きが着々と進んでいるよ。
で、異安心の指摘を恐れて研修予定表には静座についてわざと書いていない。
やましいことが無いなら堂々と書けばいいのに。

ただ、先生の一人が「静座は旅行会社の要求で始めたものだ」と研修中に
口外したため動機不純だ、宗教法人への不当介入だと抗議する僧侶が出たが。
111神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 15:31:31 ID:kt0iYozS
渡海氏と木辺派は一心同体!
112渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/06(日) 15:36:54 ID:sy53vpkY
>110
>禅宗に鞍替えしてはどうですか

 禅宗に鞍替え? 聞いたことがないな〜ぁ。

宗派にこだわらず真実を求めればいいんじゃないですか?

 僕は別にどこの宗派にも名前を登録してないよ。
 座禅して念仏申す人がいてもいい、念仏しながら座禅する人がいてもいい。
実体は同じだ。

>111
  しらんな〜
  なに宗ともなき、念仏ばかりはとうときことと存じたるばかりなるものなり
113渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/06(日) 16:24:00 ID:sy53vpkY
>111
> 渡海氏と木辺派は一心同体!

 道綽禅師、善導禅師は座禅していたんだが、彼らは
木辺派と一心同体なのかい?

 おぬし馬鹿じゃないか?
114神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 16:41:57 ID:kt0iYozS
>>113
七高僧と木辺派、そして渡海氏は一心同体!
115神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 16:48:58 ID:8kj5QL7u
キリストのメッセージ 
「最も大きな罪を犯した人であっても、わたしの憐れみを願うならば、わたしは、彼に罰を与えることが出来ない。
その代わりに、わたしの限りない、はかり知れないいつくしみによって彼を義とする」
http://www.nowaksvd.net/jp/jiai/jiai02.htm

ご遺体は腐敗していなかった 日本を愛した宣教師 チマッティ神父様
http://www.v-cimatti.com/pub/cimatti/intro/intro.htm
http://www.v-cimatti.com/pub/beatification/reppuku_chosa.htm

煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣
http://www.sanpaolo-shop.com/product/4359

キリストと会話できる女性 ヴァッスーラ・ライデン
http://www.tlig.org/jp.html

キリストの人生を見せられた女性 マリア・ワルトルタ
http://swedenborgian.hp.infoseek.co.jp/valt.htm

キリストの受難を目撃し体験した女性 アレキサンドリーナ・ダ・コスタ
http://www.salesio.jp/web/sdb_saints/biography/alessandrina.htm
http://salveregina.dyndns.org/avemaria/data/book2.html

病を患いながらも信仰心が篤かった女性 マルタ・ロバン
http://homepage3.nifty.com/mercy/treasure/marthe01.html

カトリック書店/日本国内にあるカトリック教会の住所と地図
http://www.donboscosha.com/
http://www.sanpaolo-shop.com/
http://shop-pauline.jp/
http://www.cbcj.catholic.jp/publish/shoten.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/diocese/index.htm
116神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 17:18:14 ID:sy53vpkY
>114
>七高僧と 〜 渡海氏は一心同体!

              (/≧◇≦\)アチャー!!
117神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 22:04:27 ID:3ODDDiDs
>102 頑張るのはやはり自力と思います。お気持ちは充分分りますが、「ああ・・
そうだったのか」の気付きが統べてて有り、その後の念仏は頑張りではないのでは。
その時の感動の自然の行動が継続しているのであり、教えの探求もその自身の感情の
因を確かめんとする自身の欲求と思われます。何ゆえ「ああ・・そうなのか」の気付きが
人々が得られたのか、御一考下され、御高見を。


118神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 23:14:10 ID:RWPQtVbg
次スレからはこれに変更しようよ!

【真宗・親鸞】カルト真宗の愉快な仲間達と学ぶ10【信心獲得(決定)】
119神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 23:24:18 ID:Z2Oe5HQh
>>118
そうだね。このスレに妙好人はいないみたいだし。
いるのは298と渡海難のように頭の中がちょっと変な人たちだし。
120神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 23:41:28 ID:0lSg28He
>117
そんなこと、親鸞聖人は言われてるの!?
あと、みんな妄想猛々しく勝手に浄土真宗を創りすぎだと思う。
自分勝手に創るのも、それが趣味っていうなら、勝手にすればいいんだけど。
そういう時は、正直に最初に言っとかないと、みんな迷惑するよ。
僕の趣味、僕の求道ごっこが浄土真宗、僕の主張がすなわち浄土真宗なの、
僕にとっては、ってさ。
121神も仏も名無しさん:2008/07/07(月) 00:06:40 ID:X1W9+QLk
>117
もうひとつだけ。称名念仏いさみありてって、蓮如上人のお言葉があるけど、
君は努力を否定して、君ならではの浄土真宗を創るつもりなのかな?
キミの世界観はそれでもいいよ。
でもそれは、蓮如上人の世界観じゃないって事は知っておいてほしいな。
浄土真宗って、よくできてんなーって、僕なんかは思うんだけど、
まあそれも僕の感じたことに過ぎないわけで。どうって事ないんだけど。
僕なんかは、限りあるいのち、フル活動で生きまくればいい。
阿弥陀さまが憑いてるから、大丈夫。どこまで堕ちようが、どこまで有頂天になろうが、
真実なんてそこにはない。煩悩のなせる業。じゃ、そんな真実らざるものをば
ポイッと捨てといて、弥陀の必ずたすけるをたのめみな人。
ガラクタは私の思い。そのガラクタの僕を決して捨てない思い。
どっちの思いが、死にゆく僕を支えてくれてるんだろう。
自ずから、真実とは何か、わかるんじゃないの?
122渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/07(月) 01:03:32 ID:8Ttr5yuL
>117
 詮ずるところ、信心の定まらざりけると聞き候。如何様なる事にて、さほどに多くの人々のた
じろき候らん、不便の様と聞き候。また、斯様の聞こえなんど候えば、空事も多く候べし。又、
親鸞も偏頗あるものと聞き候えば、力を尽くして、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』の
文の心ども、二河の譬喩なんど書きて、方々へ、人々に下して候も、皆空言になりて候と聞こえ
候は、如何様に勧められたるやらん、不可思議の事と聞き候こそ不便に候え。

深く考えてみると、結局は信心が決定してなかったと聞いております。どのような理由でそれほ
ど多くの人々が動揺してしまったのでしょう。哀れむような状況があったと聞いております。そ
のような話がいろいろあるなかで、根も葉もない間違ったこともたくさんあると思います。親鸞で
あっても偏った間違いがあると思いましたので、一生懸命になって、唯信鈔・後世物語・自
力他力の文書の意味、二河の譬喩についても詳しく書き、皆様の方にお渡ししたところでござ
います。それもみな無意味になってしまったと聞いております。一体どの様な話があったのでし
ょうか。理解不能の内容だった聞きましたが要領を得ません。
123渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/07(月) 01:04:26 ID:8Ttr5yuL
 唯信鈔、様々の御文共は、今は、詮なくなりて候と覚え候。よくよく書き持たせ給いて候法門
は、みな詮なくなりて候なり。慈信坊に皆従いて、目出度き御文共は捨てさせ給いおうて候と聞
こえ候こそ、詮なく哀れに覚え候え。よくよく、唯信鈔・後世物語なんどを御覧あるべく候。

 唯信鈔などなどの文書は、今はもう意味が無くなってしまったように思います。一生懸命書い
てお渡しした文書は、みな無意味になってしまいました。慈信坊に騙され、大事な文書を破棄し
たと聞いております。誠に残念で悲しく思います。どうかどうか、唯信鈔や後世物語などをお読
み下さい。 


 親鸞さん。あなた頑張って書いたんですね。それが自力だったんですよ。お気持ちは充分分り
ますが、「ああ・・ そうだったのか」と今、気が付いたでしょう。その気付きが統べてて有り、
その後の念仏は頑張りではないのではないでしょうか。
 あぁというその時の感動の自然の行動が継続しているのであり、教えの探求もその自身の感情
の因を確かめんとする自身の欲求と思われます。何ゆえ「ああ・・そうなのか」の気付きがが得
られたのか、親鸞さん、御一考下され、御高見を。
124あぼーん:あぼーん
あぼーん
125神も仏も名無しさん:2008/07/07(月) 09:20:57 ID:MoLnmLah
真宗およびその思想自身が異安心だろう
126渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/07(月) 09:56:31 ID:8Ttr5yuL
>>122-123
 思いついていきなり書くと他人に理解しにくい内容になる。122-123もそんな一つのようだ。
意味が分かりにくかった。失敗だ。

 >>117は頑張ると言うことが、なにかいけないことのように言っている。122-123はそんな印象
に呼応して書いたものです。

 >>117の「頑張るのはやはり自力と思います。」というここの文章は意味が分かりました。そ
れ以降「お気持ちは 〜 人々が得られたのか」は、意味不明の呪文のように聞こえます。「御
一考下され、御高見を。」は分かりました。

 122-123は、要するに、「頑張るのはやはり自力と思います。御一考下され、御高見を。」という
書きこみがあったものとしてレスしました。
127渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/07(月) 09:57:46 ID:8Ttr5yuL
 頑張りは大事なことです。自力・他力などとという以前の問題です。何事にも頑張るのは人と
して当たり前のことです。
 親鸞聖人という方は、非常に頑張る方だったと思います。現代において、親鸞聖人のたくさん
の文書を読むことができるというのは、あの方の大変な頑張りのお陰だと思っています。しかも
生前には、その頑張りを無駄にするような悲しい事件もあったようです。しかし、現代において
宗祖の文書を読むことができるのは、困難を克服した先人達の大変な頑張りがあったからだと思
います。

 犬畜生、虫けら、ゴキブリには頑張りは必要がない。しかし、人間に頑張りは必要です。人は、
まず、社会性ある誇りある健康人でありたいものです。あいつは信心があるケダモノだ。犬畜生
だ。死んだら極楽浄土に行くダニ、ゴキブリだ。社会の寄生虫だ。そのように他人から眉をひそ
められ、背中に唾を吐きかけられるような大信心の人にはなりたくないものです。

 生きているときには信心などなくていい。死んだらたとえ地獄の業火に焼かれても、少なくと
も生きている間は、犬畜生でなくありたいものです。他人から、虫けら、ゴキブリと後ろ指ささ
れる大信心家であるよりも、人々からは仁義礼智信をわきまえた努力家として愛され、尊敬され
るそんな無信心者でありたい。
 犬畜生・ダニ・ゴキブリからはたとえ偽善者・嘘つきと罵られても、死んで仏様になろうとす
るよりも、生きているときにはまず人間でありたいものです。努力と向上を目指す真人間として
ありたい。そう思います。
128渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/07(月) 10:11:42 ID:8Ttr5yuL
>125
 たとい牛ぬすびととはいわるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは仏法者とみゆるように
ふるまうべからずとこそおおせられたり。

 信心などなくていい。死んだら地獄に堕ちるなら、そのまま堕ちて行くのもいい。しかし、生
きているときは、仁義礼智信をわきまえた常識人として生きていきたいものだ。

 アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野
原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキ小屋ニイテ 東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ 西
ニ疲レタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロ
トイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボー
トヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ

 死後の往生極楽を願う怠惰な信心者より、今の生き方を大事にしようとする真人間、地味な努
力達を自分の手本にしたいものだ。

 浄土真宗を考えるのは、その先の先、ずっと後、夢の彼方で十分だ。
129神も仏も名無しさん:2008/07/07(月) 10:42:52 ID:MeNbZis/
>126-128
渡海難はゴキブリ以下である

まで読んだ。
130神も仏も名無しさん:2008/07/07(月) 22:44:54 ID:T9CnYF6Q
>121僕なんかは、限りあるいのち、フル活動で生きまくればいい。
阿弥陀さまが憑いてるから、大丈夫。どこまで堕ちようが、どこまで有頂天になろうが、
真実なんてそこにはない。煩悩のなせる業。じゃ、そんな真実らざるものをば
ポイッと捨てといて、弥陀の必ずたすけるをたのめみな人。
お強いですね。実にご立派。
131神も仏も名無しさん:2008/07/07(月) 23:02:02 ID:54HULpIN
そうですねえ。気持ちの良いくらい前向きな方ですね。
すばらしいと思います。
でも、後ろ向きでも暗くても、救ってくださるんですよね。阿弥陀様は。
それがうれしいです。
132神も仏も名無しさん:2008/07/07(月) 23:22:03 ID:T9CnYF6Q
117です >128死後の往生極楽を願う怠惰な信心者より、今の生き方を大事にしようとする真人間、地味な努
力達を自分の手本にしたいものだ。
 申し訳ありませんでした。御門徒を侮辱していました。
133渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/08(火) 00:56:55 ID:wVT+6V59
>131
障わらぬことなればとて、人の為にも、腹黒く、すまじき事をもし、言うまじき事をも言わば、
煩悩に狂わされたる義にはあらで、わざと、すまじき事をもせば、返す返す、あるまじき事なり。

勝手なことをやってもいいんだとばかり、他人に対し企みを立て、してはいけないことを行い、
言ってはいけないことを口にすれば、それは煩悩に翻弄されたという意味ではなくなる。悪いこ
とを意図的に行うということは、なんとしてもあってはならないことです(消息集)。


そうですねえ。気持ちの良いくらい前向きな方ですね。すばらしいと思います。でも、後ろ向き
でも暗くても、救ってくださるんですよね。阿弥陀様は。それがうれしいです。


 無上仏と申すは形もなくまします。形のましまさぬゆえに、自然とは申すなり。形ましますと
示すときには、無上涅槃とは申さず。形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて弥陀仏とぞ聞き
習いて候う。弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(親鸞)。

 無上仏というのは形而下の存在ではありません。無形の観念的存在、形而上の存在です。だか
らこそ自然というのです。もし、有形の形而下の存在であれば、無上涅槃とは言いません。阿弥
陀仏というのを始めて教わったとき、無形の観念的概要を明らかにするために阿弥陀仏とい
う概念を使用すると教わりました。阿弥陀仏というのは、無形の観念を明らかにするための試料
です。手段です。道具です。人形です。

 131よ。自然法爾抄を百遍くらい声を出して読んでみるといい。頭がたたき割られるようなショッ
クを受けないと、おぬしのような人間は、ひょっとして、社会の寄生虫、ばい菌になるだけだぞ。
134298:2008/07/08(火) 01:50:36 ID:o3OFHSpf
>>131
もちろん、後ろ向きでも暗くても、阿弥陀様は救ってくださると思います。
135神も仏も名無しさん:2008/07/09(水) 00:25:46 ID:mUm89XYS
>131
強い?何が?
強いとか弱いとか、あてはめてない?自分に自分でリミッターつけて。
ホントはなんでも出来るのに、勝手にリミッターつけて、出来ないよ、俺なんかって思ってる。
君は、僕とは経験もちがう、生い立ちもちがうよね。
って事はだよ、君は、僕の持ってないたからものを実は一杯持ってるって事。
阿弥陀さまがいつだって、鬱陶しくてもw憑いてござるなら
「一切衆生を悉く救う」思いをあるじにしようよ。
明日にはなくなっちゃう命を不安に思ってる余暇があるなら、
その余暇を大切に過ごそう。ろくなこと出来ないかもしれないけどさ。
僕の生きた証は、世間にも歴史にも、評価されないことかもしれないけど、
僕は僕の精一杯の人生を生きたって言えるように生きていいんだ。
そんな僕に、命賭けてるお方、南無阿弥陀仏があるからね。
進もう、前へ前へ。
阿弥陀さまがいるよ。摂取不捨の真言が、もれなく憑いてる、憑いてる。
力になってくれる、思ってくれるお方がいるんだから、
突破できるぜ、何事も。くじけたって、絶望の淵に追い込まれても、
俺はいつも見られてる、守られてる、必ず助けるのお呼び声に。
南無阿弥陀仏に。
136神も仏も名無しさん:2008/07/09(水) 00:53:39 ID:4ozrJsI1
憑く、憑いている。何か特別の意味が有るの?
1377:2008/07/09(水) 01:53:44 ID:dZUFjzG0
お久しぶりです!皆さんお元気そうで何より。
調熟の光明は皆さん全員浴びているのですから、阿弥陀様のお育てに感謝して南无阿彌陀佛。
摂取の光明に救われた方はもちろん御恩報謝の南无阿彌陀佛。
みんなみんな、南无阿彌陀佛。信前も信後も南无阿彌陀佛。
嬉しい事です。
138298:2008/07/09(水) 02:11:41 ID:4G7sVeym
>>137
7様、お久しぶりです。お元気そうで、何よりです。
本当に、すべてが、南无阿彌陀佛、南无阿彌陀佛ですね。

◎此処に居ながら 畳の上で、他力不思議の 南無阿弥陀仏、
機法一体 願行具足、助け給えも 助かる法も、何もかも皆
此御六字に、こめて収めて たたんで巻いて、是をやるのじゃ
貰えよ早く、貰えさえすりゃ 悟りの都

南无阿彌陀佛
139神も仏も名無しさん:2008/07/09(水) 07:27:37 ID:mUm89XYS
>136
別に意味ないんだけど、憑む(たのむ)って、親鸞聖人が使ってるから、
ためしに使ってみた。キツネ憑きとか言われるから、
あんまりいい表現じゃなかったかも。
140神も仏も名無しさん:2008/07/09(水) 22:33:44 ID:egOrErGq
信心決定っていうのは一つの体験じゃなくて、状態を言うんだよね。
どんな体験をしても、その後、信心がくずれたら、妙好人とは言わない。

特定の体験をよりどころにして、その体験があるから助かっているとかいうのは、なんか違う。
特定の体験をさせることを表看板にしてるのは、なんか間違えてる。

今救われている、という思いが臨終一念まで続くのが、光明に摂取されているすがた。
141神も仏も名無しさん:2008/07/09(水) 22:53:08 ID:aBg3lQjQ
「今救われている」 と 「すでに救われた」 

どう違うんでしょう。

わたしには後者のほうがしっくりきますけれど。
142神も仏も名無しさん:2008/07/09(水) 23:54:39 ID:egOrErGq
「すでに救われた」というのは体験をたよりにしてる、つまり自分で何かにすがりついてる状態。
なんか重たい感じがする。
すがる手を離して、一切をうちまかせたら、軽々と楽になるのにね。

前に誰かが書いてたけど、仏教は今を大切にする教え。
過去に頼らず、未来を頼まず、
いま、阿弥陀仏に救われている、ということが大切。
143神も仏も名無しさん:2008/07/10(木) 01:12:06 ID:8vDZLuBN
>142
超同感。
144あぼーん:あぼーん
あぼーん
145あぼーん:あぼーん
あぼーん
146神も仏も名無しさん:2008/07/10(木) 22:11:50 ID:DgCOrZrN
>>140

>今救われている、という思いが臨終一念まで続くのが、光明に摂取されているすがた。

そのとおりですが、しかし、かならずしもそれが絶対条件というわけではないと思います。
死に臨んで心が揺れ動いたにしても、ひとたび光明に摂取されたからには、それが往生の障りにはならないのでは。
「今救われている」 、「「すでに救われた」  どちらも「体験」なんじゃないでしょうか。
147117:2008/07/10(木) 22:49:34 ID:mZz3L6Lg
>123親鸞さん。あなた頑張って書いたんですね。それが自力だったんですよ。お気持ちは充分分り
ますが、「ああ・・ そうだったのか」と今、気が付いたでしょう。その気付きが統べてて有り、
その後の念仏は頑張りではないのではないでしょうか。
 あぁというその時の感動の自然の行動が継続しているのであり、教えの探求もその自身の感情
の因を確かめんとする自身の欲求と思われます。何ゆえ「ああ・・そうなのか」の気付きがが得
られたのか、親鸞さん、御一考下され、御高見を。
 何か私の言い方が悪く、誤解を持たれたようです。ご上人の教えを伺い「気付き」を得たのは
下品下生の我が身で有ります。もしや、教えを説かれるご先達方々の過程を統べて「自力」と
言われえるのでしたらまた違う考え方も出来ましょう。
148117:2008/07/10(木) 23:09:27 ID:mZz3L6Lg
>統べて「自力」削除
統べて「自力や頑張り」
 
149神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 02:52:09 ID:+6qbNAJc
>>146
本当に「ひとたび光明に摂取され」るということは、「今救われている」という思い
(つまり信心)が続く、ってこと。
光明に摂取され、名号と一体になっているから、信心が崩れない。
心(意業)が乱れても信心が崩れないから、差し支えなく往生できる。

「あの時救われたから大丈夫!」とか、いくらがんばってみても、
肝心の信心が崩れていたら、その時点で往生は不可。

>「今救われている」 、「「すでに救われた」  どちらも「体験」なんじゃないでしょうか。

持続する「状態」と、過去のものである「体験」を一緒にしたらいけないと思うよ。
150298:2008/07/11(金) 04:05:13 ID:0CVZTCdC
>>149
「体験」というのも、現在の意業に過ぎないのではないでしょうか。
過去の体験を思い返したつもりで、それが何だと言うのでしょう。
重要なのは、弥陀の真実信心に他なりません。
南无阿彌陀佛
151298:2008/07/11(金) 04:06:36 ID:0CVZTCdC
>>149
また、崩れるのは、自力の信心です。
弥陀の信心が、どのようにしたら、崩れるのでしょうか。
私の心をあてにしても、水面に画ける絵のごとしで、
何のあてにもなりません。
南无阿彌陀佛
152神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 12:27:05 ID:7bIj6pgW
ブログ親鸞仏教 更新しました。
  www.しんらん.jp/
153神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 14:29:19 ID:r0xy7FLf
>「あの時救われたから大丈夫!」とか、いくらがんばってみても、
肝心の信心が崩れていたら、その時点で往生は不可。

それはそうですけれど、なにか「すでに救われた」という状態を、頭から否定しているように聞こえるのですが。
過去現在未来、いつ救われても弥陀の信心は同じなのではないでしょうか。

154神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 20:47:28 ID:OFVmPUfY
>>151

確かに観経疏で善導さんが言ってるね。
「たとい清心をおこすといえども、みずに画せるがごとし」
155神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 22:06:10 ID:+6qbNAJc
>>151
>私の心をあてにしても、水面に画ける絵のごとしで、

そうそう。
一度、水面にそれっぽい絵が書けたからといって、それをあてにするようでは、ね。
水面に絵をひとたび書かせて、これでよしというような団体はおかしい。ってこと。

ふたがとれて、月が映ったら、以降ずっと月が映りっぱなしということが大切。

ちなみに、自称善知識が「ほら、これが月ですぞ」と示したものを月と思ったらダメだよ?
156神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 23:50:05 ID:+6qbNAJc
>>153
>それはそうですけれど、なにか「すでに救われた」という状態を、頭から否定しているように聞こえるのですが。

「すでに救われた」と言う言葉の裏には、過去の体験を確認せざるをえない
不安が見え隠れしてるんだよね。

例えば、その体験がきれいさっぱりなかったとしても、今、往生一定と言い切れる?
157神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 23:57:44 ID:ZrV2dNf5
>>155

月が映っていると認識するのは、これも凡夫の体験なんじゃないですか?
158神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 00:02:55 ID:lg0W28oX
>>156

>例えば、その体験がきれいさっぱりなかったとしても、今、往生一定と言い切れる?

それは言い切れません。というか、無理です。
南無阿弥陀仏を称えることがなくて、なんで往生できるでしょう。
あなたのおっしゃることを考えれば、私にはそういうふうに思えます。
159神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 09:27:24 ID:bkW5k29p
J仏教なんてただの世襲の葬儀屋だぜ、相手にするなよ。
ニセモノの自称仏教イラネ
160渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/12(土) 13:02:43 ID:FSd8d++u
 極楽往生とはどういうことか。元親鸞会員の田中氏とチューリップ企画
との間で、長い論争が行われていました。

 両者の議論は噛み合わないまま、物別れになったようです。

 積み残された論点は数が多く、議論を見守っていた人々の中でも
煮え切らない不満があるようです。

 問題になった論点について、僕なりの立場から考えを提唱してみたいと
思います。

 ブログであらたなカテゴリーを立てました。

 ブログ親鸞ブッキョウ  www.しんらん.jp/
161あぼーん:あぼーん
あぼーん
162神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 18:03:59 ID:8zsjkhTI
>158
言い切っていいんですよ。
そうじゃなければ、体験に依っているのではないと言う義が立たない。
あと、南無阿弥陀仏は称えるべきと勧められるけど、
称えた事は往生の正因じゃないよね。そうであれば、
極端な話、たとえ称名を称える事が出来なかったとしても、善知識のもと、
摂取不捨の誓いを聞いて、信楽開発すれば、往生治定と言う事。清浄之因唯信心と言う言葉に従えば。
163神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 18:23:59 ID:8zsjkhTI
>162蛇足
多分、真実信心必具名号と言う言葉が、反論として考えられるけど、
そしたら、清浄之因唯信心との言葉と矛盾なく、称名と信心との関係性を顕らかにしなければ、
親鸞聖人は、片や必具名号と言って、片や唯信と言ってる二枚舌の人って事になっちゃう。
どうする、どうする。
164神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 18:27:25 ID:v2Tb1W3Z
よく体験って言葉がつかわれてますが、皆さんの言うところの体験とは具体的に何なんですか?
あと、お念仏は感謝であって、往生とは関係ありません。
往生の因はあくまでも信心。
今更言うまでもないのでしょうが、信心正因称名報恩です。
165神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 18:44:22 ID:v2Tb1W3Z
真実信心必具名号。これはあくまでも信心の体は名号であるという意味ですね。
教学的に?言うなら、阿弥陀仏の名号が私に届き、その名号が私の上に信心となってあらわれる。とでも言えばいいでしょうか?

したがって、この名号は称名念仏とはわけて捉えるべきでしょうね。
166神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 19:01:43 ID:kg2KWTeL
>>165
>教学的に?言うなら、阿弥陀仏の名号が私に届き、その名号が私の上に信心となってあらわれる。とでも言えばいいでしょうか?

それじゃ信心の体が名号であるとは言わないな。名号とあなたの信心が別物だから。自力やね。

名体不離の名号だからだよ。分かるかな?
167神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 19:08:51 ID:v2Tb1W3Z
残念ながら分かりませんね。
何をもって自力だと仰ってるのか分かりません。
だからと言って説明して頂かなくても結構ですよ。おそらく何の説明もなく「それすら分からないとは話にならないね。」とでも言われるだけでしょうから。
それに別にあなたにどう思われようが構いませんし。
168神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 21:29:16 ID:vFQOR4KR
>>162

>そうじゃなければ、体験に依っているのではないと言う義が立たない。

そういう義があるのは知りませんでした。
それに私は体験に依っているのではないとは言っていません。
肉体を持って生きていくうえで、あらゆる感覚器官から受ける刺激や、身口意のはたらきを通した体験を抜きにしては、なにも成り立たないのではないかと思います。
信心も称名も体験としてとらえるのは間違いなんでしょうか。
169神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 21:30:12 ID:vFQOR4KR
>>163

そういう難しいことをおっしゃられてもよく分からないので、「どうする、どうする。」と言われてもどうもできません。

少し呆れはしましたけれど。
170神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 22:15:31 ID:8zsjkhTI
>165
それは違いますね。行巻には、
「しかれば、名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、
よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。
正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり〜」と言われています。
さすれば、弥陀の仏名を称えるという行為は、正しくこの世界において、
最も尊い業と言わねばなりません。煩悩の発生源である無明を破す、とまで言われるのですから。
膨大な功徳利益をもたらす最勝の行いと言わねばなりません。
そののちに、六字釈によって、この称えている南無阿弥陀仏の本質は何か?
と言うところに行き当たるわけです。
称名と言うも、その本体は南無阿弥陀仏であって、
さらに南無阿弥陀仏の本体は何かと突き詰めれば、
「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふのこころなり」
即ち、本願力回向、本願他力なんだって事です。これは信巻へのプロローグと考えていいでしょう。
信から行へが、普通一般の仏道修行のプロセスでしょう。
何故なら、信じたから、行ずる、というのが至極当然だからです。
この人の言っている事は本当だ、信用に値する、と信じ、
それに準じて行動を起こすのが、我々の常の姿だからです。
この商品はなるほど信頼できる素晴らしいと信じてから、
買うという行為が起きる。この方程式にあてはめるなら、
「教信行証」と言う構成になっていなければ、
おかしい。でも、親鸞聖人は「教行信証」と語られるんですね。
〜つづく〜
171神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 22:26:36 ID:8zsjkhTI
>169
ごめんなさい。
体験すると言った時、体験したのは、誰が体験したのかと問われれば、
私以外にありませんよね。ところが、私達は、末代無痴の凡夫と言われます。
その煩悩具足の私が体験したことが真実だと言えますかって事です。
それが、救われたでもいいし、気分がよくなったでもいいのですが、
その体験をもって浄土往生が叶うと言えるか、
即ち親鸞聖人が言われる真実信心と言えるだろうか?ということです。
172神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 22:58:35 ID:auo6aKJt
>>171

>その煩悩具足の私が体験したことが真実だと言えますかって事です。

言えるかどうかはわかりません。
しかし、体験してみないことには何もわからないのもまた事実だと思います。
念仏為本、信心為先とは、そういうことではないのかなと思うのです。

ここを読んでいるうちに、教学というものはたいへん膠着したものだなあという思いがしたので、素人考えについ変な書き込みをしてしまいました。お許しください。
173298:2008/07/13(日) 01:58:40 ID:gcoAGi+V
>>172
教学で助かるわけではないですからね。
言いたい人には、言わせておけばいいと思っています。
理屈では助かりません。
一文不知の方も助かる教え。
素朴な感覚が大切だと思います。
南无阿彌陀佛
174神も仏も名無しさん:2008/07/13(日) 02:08:49 ID:5lVRVBHW
>>158

ちょっと無茶な質問だったかも。ごめん。

大切なのは、今現在、本願を信知して南無阿弥陀仏を称える身であること。
それに比べたら、過去の特定の体験は、あってもなくても同じようなもの。

信心開発というのは、何かの免許をもらうようなものじゃなくて、
阿弥陀仏の本願に対する信が起こさしめられる、一番最初。
その後は、その一念と同じ信が、他力によって起こされ続ける。
175298:2008/07/13(日) 10:35:25 ID:0Fn9N9Cb
>>174
因があって、果があるのですから、過去の特定の体験が異なれば、
現在の状況は、異なるのではないでしょうか。
現在は、過去から独立しているのでしょうか。
「宿縁」を、忘れてしまってはいませんか。
ましてや、光明のご縁を忘れることがあって、良いのでしょうか。
無記になるかもしれぬ私たちですが、意識ある間は、
御恩を感じ、お念仏申したいものであると思っております。
南无阿彌陀佛
176神も仏も名無しさん:2008/07/13(日) 12:54:47 ID:ftkobyih
>172
現代は、体験という執着が強化されたんです。これは近代自我主義を選択し、
それに基づいて教育されてきたのだから、当然の結果でしょう。
しかし、仏教は「それは真実か否か」を問います。
さて、
弥陀の救済、本願力即ち「必ず浄土に生ぜしめん」「必ず仏と成さしめん」
が働いている、という表現と、弥陀の救済を私が体験する、
ここには雲泥の差があります。片や、弥陀にまかせたすがたであり、
片や、弥陀にまかせた自分の体験を重視するすがたです。
ためしに、妙好人と呼ばれた方々が「私は信心開発という体験をしました」
と言われている所を探してみるといいですよ。
まず無いと言っていいんじゃないかな。
私の体験より、弥陀が必ず助けると誓われた事が最重要事であるからです。
そして、弥陀の本願が働いているのは、有限の存在である無常の私にとっては、
「ただ今」しかありえません。過去は過ぎ去り、未来は未だ来ない。
杞憂や体験を真実絶対だとし、そこに基を置くのならば、
結局、無常をたよりにしていくだけの生き方になり、
無常であるがゆえに迷惑も苦悩も消滅する事が無いってことです。
177神も仏も名無しさん:2008/07/13(日) 12:56:12 ID:+h/I8Z15
>170
何を仰りたいのかイマイチ分からないのですが、何が違うんでしょうか?
名号とは即ち私を救わんとする弥陀の本願力そのもの。その名号が私に届き、私をして信心獲得せしめ、その後には報恩感謝の称名となりてあらわれる。
私はそうお聞かせ頂きましたが、何か間違ってますでしょうか?
178298:2008/07/13(日) 13:03:52 ID:0Fn9N9Cb
>>177
私は、177様と同意見だと思います。
六字こそが、信の体です。
自分で塗り固めた信など、たよりにならないと思っております。
南无阿彌陀佛
179神も仏も名無しさん:2008/07/13(日) 14:26:01 ID:ftkobyih
>177
ごめんなさい。書きかけのままでした。
信巻の「真実信心は必ず名号を具す」で言われる名号は、南無阿弥陀仏のお働き、
いわゆる法体名号を指すのではなく、私たちが称える称名と言わねばならない。
結論から言えば、以上です。
180神も仏も名無しさん:2008/07/13(日) 17:30:45 ID:+h/I8Z15
なるほど。必具名号の名号の部分でしたか。
今あらためて調べましたら、確かに私が間違っていました。申し訳ありませんでした。

298さん、ご意見どうもです。
181神も仏も名無しさん:2008/07/14(月) 00:07:14 ID:+ZbO+dBu
>>175
>因があって、果があるのですから、過去の特定の体験が異なれば、
>現在の状況は、異なるのではないでしょうか。

私たちの過去の特定の経験は、往生の因とはなりえませんよ。

>ましてや、光明のご縁を忘れることがあって、良いのでしょうか。

今現在の光明のご縁を、過去のものとして、良いのでしょうか?
182神も仏も名無しさん:2008/07/14(月) 14:38:53 ID:SYPL6V+E
過去の特定の経験にこだわるべきではないのなら
面授口訣とか次第相承とかはかならずしも、というか、
まったく必要ではない?
かならず助けるという弥陀の本願を、自分なりに信じると
いうことでOKなのかなあ。

183神も仏も名無しさん:2008/07/14(月) 14:41:07 ID:k+VXVtli
顔面評価スレで「はっきりいいます。生理的に無理です。私みたいになんとなくそう思う女性は多いと思います。」って言われました。俺は何を思って生きたらいいんでしょう。晒しまくったら何十回も生理的に受け付けない顔と言われました。みなきゃよかったと…
184神も仏も名無しさん:2008/07/14(月) 16:32:09 ID:35rqlNdA
>182
他力信心に、面授口決だろうとも、次第相承だろうとも、
何物も一切差し挟めないでしょう。
一心一向に弥陀をたのめと言うみ教えにしたがって(このことを
私に教えてくれた方が「私にとっては」善知識ね)、
弥陀を一心一向にたのむ生活をおくる。
弥陀の悟りの功徳を頂戴しながら生きるから、
自ずと現生十益に言われるように、ご利益多き人生を歩む事になると。
平生業成ですね。
185神も仏も名無しさん:2008/07/14(月) 16:37:59 ID:35rqlNdA
>183
人形は顔がいのちかもしれないけど、人間は人生がいのちさ。
くよくよばかりしてると、くよくよ人生になっちゃう。
そっちの方が問題じゃん。気にはなっても、気にすんなって。
ドンマイ、ドンマイ!
186神も仏も名無しさん:2008/07/14(月) 17:31:27 ID:ZS7BknvQ
>>184

たのむ一念の時、往生は一定と存じるものなのでは?
平生業成は一念で定まるものなのでは?
あなたは一心一向になったつもりで日々生活されているのですね。
達者な内はそれでもいいでしょう。しかし明日も分からぬ身で、一心一向に日々弥陀をたのむ生活などあり得ない話。
所詮は自力の域を抜けていない。

往生一定の一念に全てが籠っているから、いかに己が生活しようが、
どんな死に様になろうが関係がない。四種の往生はそれを教えている。
187神も仏も名無しさん:2008/07/14(月) 21:57:27 ID:35rqlNdA
>186
どんな死にようになるかなんて、逆立ちしたってわからないのに。
未来は未だ来ないんだから。
病気になって、親の顔もわからなくなって、自分の名前もわからなくなって、
ま、そういう風に終わってしまうかもしれないけど、
口に世事を交えず、高声念仏で、感謝に満ちあふれて終わるかもよ。
脳内麻薬が分泌されて、二十五菩薩が紫雲に乗ってお迎えにくるのが見えちゃうかも。
想定不可能のものを想定するのはナンセンスって事。
そんな不定な事ばかり、気にして生きてるなんて、生ける屍みたいなもんだ。
つもりも何も、今、若不生者の誓いを聞くだけ。それに基づいて念仏申し、生活するだけ。
別になんたることもないやね。
188神も仏も名無しさん:2008/07/14(月) 22:45:46 ID:h62jk7CX
なるほど。
よく分からないけど、なにも心配せずに念仏しろってことかな。
で、187さんの往生は治定ですか?
189神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 00:11:41 ID:A2EJqFxt
>>188

残念ながら20願止まり。
190神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 00:15:07 ID:s06U12RN
>188
それじゃあ、阿弥陀さまに聞いてみようか?
ぴっぽっぱっぽっぴっ。
「もしもし、如来さま。若不生者のお誓いは、真のお心で起こされたのですか?」
「そうですよ、あなたに真の心が無いからね。それではあなたは浄土往生は言うにおよばず、
ずーっと迷い続けちゃうからね。」
「そうでしたか。じゃあ、その真のお心をたよりに生きていきます」
「いつも護ってるからね、みんな見てるからね」
「ありがとうございます」
信心決定したか否かを凡夫の心に聞いたって、土台、真の心などありゃしない。
聞くだけムダな話じゃないか。若存若亡の凡心、信外の軽毛。吹けばどっかに飛んでくよ。
いつでも、間違いない仏に聞く。聞其名号は信心歓喜。
摂取不捨の真言まことなるかな。
191神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 00:29:48 ID:s06U12RN
>188
何も心配せず念仏称えるなんて出来んの?スゲーなあ。定善の人?
末法濁世にそんな人いるんだ。築地市場の中に、虎が歩いてるより珍しいわあ。
私には出来そうもないよ、明日のことさえわからないのにさ。
私は、何の心配もせずに念仏称えなさいなんて書いた覚えはないんだけど。
弥陀の「必ず浄土に往生させる」この誓願ひとつをたのめって
勧めさせていただいてるだけなんだけど。
さすれば、必ず現生に十種の利益を得るよって事。
入正定聚の利益があるんだから、死は解決だよね。
必ず浄土に生まれるに退転しない仲間が、正定聚なんだから。
192神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 01:07:25 ID:0wkI5Gxa
>>186
>しかし明日も分からぬ身で、一心一向に日々弥陀をたのむ生活などあり得ない話。

有り得ちゃうんだよね。これが誓願不思議。凡夫の智恵で理解できる範囲を超えてる。

日々、一心一向に弥陀をたのむ心が、他力によって起こされ続ける。
これが信心決定したるすがた。

むしろ過去の特定の体験をよりどころとしている人こそ、自力。
193神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 13:56:57 ID:QxpazYNt
たぶん効能書きを読んでるだけなんだろうなあ
と思ってしまうオレは邪見のカタマリ。

おどろかす甲斐こそなけれ村雀耳慣れぬれば鳴子にぞのる
194神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 14:33:37 ID:QxpazYNt
しかし御伝鈔なんか読んでると、体験とかたくさん出てくるような気がするし
195神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 14:46:05 ID:A2EJqFxt
>>192

ブッブー。誤りでしゅ。それでは他力誓願不思議の言葉に酔ってるだけ。

口伝鈔読んでみ。

「さればいくたびも、先達よりうけたまわり、つたえしがごとくに、他力の信をば、一念に即得往生ととりさだめて、
そのとき、いのちおわらざらん機は、いのちあらんほどは、念仏すべし。これすなわち、上尽一形の釈にかなえり。
しかるに、世の人つねにおもえらく、上尽一形の多念も、宗の本意とおもいて、それにかなわざらん機の、すてがてらの一念とこころうるか。
これすでに、弥陀の本願に違し、釈尊の言説にそむけり。そのゆえは、如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。
もし多念をもって、本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。」

以上終了。
196渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/15(火) 16:56:02 ID:Tiz1tx0/
>>195
 195よ。往生をもたらすその一念の念仏とはどんな念仏なんですか?。一度称えたら、金輪
際二度と念仏を称えないという、そういう種類の念仏なんですか?
 それとも、一度称えたら、次にも、次にも、命ある限り繰り返し、繰り返し南無阿弥陀仏が重
ねられていくことが、当然のようにして予定されている、そういう念仏なんですか?。
 貴方は、一念の念仏で往生が決まったら、二度と念仏を称えないのか?それとも、当然のこと
として、次にも、次にもひたすら称え続けていくのか?。どっちなんでしょうね。

 貴方の一念の念仏は、二度と称えないでいい、そういう念仏なんですか?一念の念仏が、念仏
を称えないでいいことのいいわけに使われている気がしますよ。

 「要するに、自分は念仏を称えたくないんだ」と、あなたは言っているんでしょう。貴方は、念仏が
好きですか、嫌いですか?

 自分は念仏が嫌いなんだ。念仏なんか称えたくない。そう思うなら、屁理屈はいらない。堂々と腹
を決めたらどうですか?
 貴方に、念仏を称えてくれなどと、そんなことを頼む人も、勧めている人もいないんですよ。その
ことをしっかりと認識しようよ。念仏なんか頭から忘れるといいでしょう。
197渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/15(火) 17:08:59 ID:Tiz1tx0/
>196
 195を考える分かりやすいたとえ話に気が付いたよ。

 一度称えたら、もう二度と称えないでいい。なぜならそれで往生は決定したのだから。つまり称
名念仏が、極楽往生取引の交換条件になっているんだね。お金を払えばディズニーランドに入
場できる。入場すれば、もう入場料は払う必要がない。金を払ったか払わないかで入場の可否が
決まる。念仏を称えたか称えないかで、往生できるかどうかがきまる。一念の念仏とは、往生極
楽の通行料なんだろうね。
 入場料は一回払えばいい。これが阿弥陀の本願である。御伝抄の教える195の考えた往生極
楽のノウハウのようだな。
198神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 18:08:21 ID:Tiz1tx0/
 一人の人物が、ディスニーランドの正門から、大手を振って中に入っていった。

警備員「お客さん。お客さん。入場料を払って下さい」
客 「む?。入場料? そんなものは、10年前に一度払ったわい。」
                                         <誤伝笑>
199あぼーん:あぼーん
あぼーん
200神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 19:07:44 ID:A2EJqFxt
>>196-198

ブーブー。新興宗教開祖の外道はお呼びでないずら。
口伝鈔を引いただけで勝手な妄想しない方がいいぞい。
これを否定すればお前さんが外道確定だぞ。

以上終了
201渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/15(火) 19:49:11 ID:Tiz1tx0/
>200
>新興宗教開祖の外道はお呼びでないずら。

 まあ、新興宗教開祖の外道は呼ばなくてもいいが、先人の真意は正確に理解しておきたいものだ。

>これを否定すればお前さんが外道確定だぞ。

 僕が口伝鈔を否定した?。心当たりがないな。まあ、覚如の書き物なんかは、僕は嫌いだけどね。

 僕はA2EJqFxt>>195を否定したんだよ。A2EJqFxtは、自分が否定されると、口伝抄が否定された
ように錯覚するのか?。
 A2EJqFxtは、教祖になって口伝抄で新興宗教でも起こそうというのか?

 自分と口伝抄との区別が付かないというのは、いささけ幼稚じゃないか?それでおぬしは、自分が
20願を越えて18願に入っていると(>>189)、錯覚しているんか。
 おぬしの新興宗教は、三日と持たんぞ。

              以上終了   −笑−
202神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 20:12:19 ID:s06U12RN
>194
例えば?
>195
善知識に遇って、仏願の生起本末を聞き、信心決定するも、
僕らはすぐ死んじゃうような短命なものだから、
南無阿弥陀仏の南も言わないうちに息絶えるかもしれない。
阿弥陀さまはそれをよくご存知だから、信心決定をもって浄土往生の因とされたと。
でも、信の一念は相続心であります。あながちにブ、ブーとは言えないんじゃないかな?
203神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 20:13:13 ID:A2EJqFxt
>>201

釣れたずらw

全部そっくりおぬしに返しますわ。
十八願は遠いのぉ。

以上釣り終了
204渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/15(火) 21:03:05 ID:Tiz1tx0/
>203
 釣りごっこだったの?
 大きい餌だったな。自分の体そっくりそのままを釣り糸の先にくくりつけ、
私を食べて下さいと獲物に餌として我が身を差し出すとは、お主もたい
そう愉快だな。

 これじゃ18願など、夢のまた夢。 −笑− 
205神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 21:45:49 ID:IpDpdFUq
たのむ心が他力によっておこされ続ける念仏 と 御恩報謝の念仏
これって同じもの?
206神も仏も名無しさん:2008/07/15(火) 22:53:16 ID:0wkI5Gxa
>>193
せめて効能書きを照らし合わせないとね。
御六字と違うものを、飲まされてるひともいるかもしれないから。

>>195
前後をよく読んでね。これは、多念の功をもって往生しようとするのは自力だよ、ってこと。

「一念は多念のはじめたり、多念は一念のつもりたり。ともにもつてあひはなれずといへども、
おもてとしうらとなるところを、人みなまぎらかすものか。」(口伝抄)

最初の一念で往生治定したらその先は、命ある限りその状態が念々に続くわけ(多念)。
いずれにしても、「今助かっている」こと=今、信の一念があることが大切。

>>205
他力によって信が起こされるから、口に称える御恩報謝のお念仏がある。
でも、口に称える御恩報謝の(つもりの)お念仏があっても、信があるとは限らない。
207神も仏も名無しさん:2008/07/16(水) 01:01:07 ID:x3+pqiWg
名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 投稿日:04/05/10 19:39
>>508
さてその信仰といふはいかやうなることぞといへば、ただ「南無死に神様」なり。この南無死に神様の六
つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち信仰のすがたなり。
 されば、南無死に神様といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなる
こころぞといへば、理屈を抜きに死に神様がいるのだと信じたてまつりて、霊魂を天国に導いてください
とふたごころなく、死に神様の存在を信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。

つぎに「死に神様」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに死に神様の存在を一心に
信じ、疑いのこころのなき人を、かならず死に神の御身より、あーら不思議に光明を放ちて、照らして
くださいます。そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて死ぬときにはかの死に神様は、霊魂を天国
におくりたまへるこころを、すなはち死に神様とは申したてまつるなり。

 いいことをすることは雑行、自力です。悪いことをしてもいいんですよ。所詮、この世は意味がない
ところです。大事なことは天国に行くことです。さあ、死に神様の天国に一緒に行きましょう。
208神も仏も名無しさん:2008/07/16(水) 08:28:28 ID:ziRGd0vA
パロディにしていいものと悪いものがあるんじゃないかな
209神も仏も名無しさん:2008/07/17(木) 11:57:41 ID:h1nOygaa
仏願力にはからわれながら、日々時々をおくる。
煩悩中心の私が、仏願力に帰る。
真実は「必ずたすける」と誓われた仏心だけ。
この御心に順ずる生活は、真実心のもたらす落ち着きがあり、歓喜心がもたらす楽しみがある。
苦に苦を重ねる生活が、摂取不捨の大益によって、日々転ぜられていく。
210渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/17(木) 13:07:11 ID:jhW5LtvS
>209
 浄土真宗では、新手の呪文が発明されたようですね。
 意味不明の怪電波は、インターネットに乗せない方がいいだろう。
宇宙人が誤解する。
211あぼーん:あぼーん
あぼーん
212神も仏も名無しさん:2008/07/17(木) 15:19:09 ID:I9tPfJIW
>>210

ってか、この人ある意味おもしれー!!
怪電波是非俺にも飛ばしてくれ!!座禅しながら発するのか??
213渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/17(木) 20:05:43 ID:jhW5LtvS
>212
>この人ある意味おもしれー!!

      ある意味?。どういう意味だね?

>怪電波是非俺にも飛ばしてくれ!!座禅しながら発するのか??

 電波をとばせ?。難しいな。 電波には同調する波長が大事なんだよ。
 おぬし、親鸞さんと同調しているようには見えないな。親鸞さんと波長が合わ
ないおぬしの電波に合うような電波を送るというのは、並大抵ではない。
214神も仏も名無しさん:2008/07/17(木) 22:00:51 ID:h1nOygaa
他力というは本願力なり。他力信心と言うならば、本願力回向の信心と言わねばならない。
我執によってこしらえられた信心ならば、本願力回向の信心とは言われない。
真実信心の人は、この本願力回向の奴隷である。
自力信心の人は、自力の見解と感覚の奴隷である。
本願力回向の奴隷の足枷は、弥陀の本願だけである。「必ずたすける」これだけ。
自力信心の人は煩悩の奴隷である。我が感覚を信じ、我が感覚を主人とし、
他者と対峙する。他者も、また我が感覚を信じ、我が感覚を主人とするものである。
何度輪廻を繰り返しても争いは絶えることがない。自力の迷妄の失である。

215神も仏も名無しさん:2008/07/17(木) 22:24:17 ID:VQCS9vIf
>>214

>自力信心の人は煩悩の奴隷である。我が感覚を信じ、我が感覚を主人とし、
>他者と対峙する。他者も、また我が感覚を信じ、我が感覚を主人とするものである。
>何度輪廻を繰り返しても争いは絶えることがない。自力の迷妄の失である。

このスレには真実信心の人は一人もいないということ?
216神も仏も名無しさん:2008/07/17(木) 22:26:58 ID:LTd6QGdw
>>215
>このスレには真実信心の人は一人もいないということ?

そういうこと。
このスレには渡海難とか298のようにちょっと変な人はいるけど、真実信心の人はいない。
217神も仏も名無しさん:2008/07/17(木) 22:49:56 ID:h1nOygaa
他者に真実信心の人をもとめる事に意味はない。それを判断する私が、
判断できるほどの力が無いからである。弥陀の本願においては、
末代の凡夫に、判断力を期待しない。智者も愚者も、弥陀の救済対象は、
ともに凡夫でしかありえない。世間で智者と言われようが、自分で判断しようが、
自身を智者と思っている者は、弥陀の本願をたのまず、
自身の積み上げてきた経験、それによる見解という名の作品に生きる。
有限の自己解釈、欠陥の自己感覚の奴隷は、争いを好む。
自分の正当性を主張して、同じく欠陥の他者と対峙するからである。
欠陥同士が争っても、出た答えはいつでも欠陥品なのは言うまでもない。
「俺は正しい」と死ぬまで言い続ける人の生きざまに
時として、人はそれに信心を見、信用するが、皆自力信心、欠陥品である。
見るべき場所を間違えているのである。
218神も仏も名無しさん:2008/07/17(木) 23:56:46 ID:VQCS9vIf
つまらん。

座禅して念仏したりする人が出てくるのも、仕方ないかもしれんね。
219神も仏も名無しさん:2008/07/18(金) 00:22:06 ID:yEG5RrMS
本当に、念仏の無い生活なんてつまらない、むなしいもの。

如来の本願を忘れて刹那的に享楽的に生きるものの行く手にあるのは、
やみばかり。
間に合わなくなってから気づくよりも、今気づくべきだと思う。

生のどん底にある地獄…死に出会うときが、誰にでも必ずある。
言葉も思いも絶え果てる絶望に出会うときが。
そのときに、如来の本願に一切をまかせて逝けるかどうかは、今、平生に決まる。
220渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/18(金) 01:04:03 ID:V2pONTuy
>218
顕浄土真実行文類二 愚禿釈親鸞集 浄土五会念仏略法事儀讃に云わ
く、 〜 王いま座禅してただ当に念仏すべしと。

 座禅して念仏することを勧めている人 → 親鸞

>>218
>つまらん。
>座禅して念仏したりする人(つまり親鸞なんかが)が出てくるのも、仕方な
いかもしれんね。

 つまらん親鸞なんか相手にするの、やめたらどう?。人生には面白い道は
他にもいっぱいあるぞ。

>219
 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
 信心の人は当然のこととして、称名念仏はげんでおるぞ。
221神も仏も名無しさん:2008/07/18(金) 13:23:25 ID:5i9KLgb5
>>219
>生のどん底にある地獄…死に出会うときが、誰にでも必ずある。
>言葉も思いも絶え果てる絶望に出会うときが。
>そのときに、如来の本願に一切をまかせて逝けるかどうかは、今、平生に決まる

これはもっともだね。
つまるつまらん関係なしに死はやってくる。
たぶんオレは、ぶっちゃけ死に臨んだとき、如来の本願を疑うと思うなあ。

さておき、
真実信心の行者なら、それでも往生間違いなし?
それとも、疑いなど塵ほども思わないのが本当?
222神も仏も名無しさん:2008/07/18(金) 20:51:39 ID:FTfmqNNe
>>221

愚禿悲歎述懐第一首にこうある。

浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし

横川法語にはこうある。

妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。

改邪鈔にはこうある。

そのゆえは、まず「金剛心成就」という、金剛はこれたとえなり。
凡夫の迷心において金剛に類同すべき謂なし。凡情はきわめて不成なり。
されば大師の御釈には、「たとい清心をおこすといえども、みずに画せるがごとし」(序分義)と云々 
不成の義、これをもってしるべし。
223神も仏も名無しさん:2008/07/18(金) 23:41:11 ID:myXlYJXW
>221
考えすぎじゃないのかな。未来の事は予測に過ぎない。
その予測に過ぎない事に捉われる必要はないよね。
信用に値するのは、必ず浄土に参らせると言う、
無上覚者の誓いでしょ。予測よりも、中心にすべき事は何か?
自ずと知れるよね。
224神も仏も名無しさん:2008/07/19(土) 00:52:16 ID:1CMgiKhK
>>221
正直だよね。それは凄いと思う。

それはともかく、平均寿命からすれば、死に臨むのは何十年先と思うかも知れないけど、
突然の病に倒れるかもしれない。実は明日にでも、通り魔にやられるかもしれない。
いやいや10分後には、心臓が止まってるかもしれない。
死の縁はどこにでも転がってる。

だから先のことと考えないで、今、疑っているかどうかを考えるほうがいいんじゃないかな。
本願に疑いあるままでは、真実信心の行者とは言わないし、報土往生は叶わない。

真宗門徒としては、釈尊、諸仏方、善智識方が示してくださる道をいくだけ。
疑い晴れるまで本願を聞き抜いて、お念仏称え抜くことだけ。
225神も仏も名無しさん:2008/07/19(土) 08:50:50 ID:Z/Ha/nES
>>223

「若不生者 不取正覚」だけ見つめても意味がない。願文・成就文をもう一度見てみよう。
それだけでは十劫安心・無帰命安心と呼ばれる。佛因がない状態で助かる助かると喜んでいる状態。
「至心・信楽・欲生」の三信、「聞其名号信心歓喜乃至一念」を具足したものに対するお誓い。即ち信心正因だね。

未来の予測は私たちにはできない。それは確かだが、だからこそ只今、往生一定の身にさせて頂かねばならない。
今というのはいつまで経っても今でしかないが、その今という時間には限りがある。これは確かなこと。
平生業成こそ真宗の大事。

>>224

>真宗門徒としては、釈尊、諸仏方、善智識方が示してくださる道をいくだけ。
>疑い晴れるまで本願を聞き抜いて、お念仏称え抜くことだけ。

聞きぬいてみなさい。聞きぬけない自分が分かるから。
226神も仏も名無しさん:2008/07/19(土) 09:11:35 ID:/I3rXVNA
>225
違うよ。若不生者の誓いを好ましく信ずるのが信楽。
三不三心との懇ろなお示しがあるのに、
誓願不思議が?願成就の名号か?みたいに人を惑わすような事を言ってはダメ。
僕もかつてそうだったけど、領解心をあてにすると、
誓願成就の南無阿弥陀仏六字中の帰命とは言えなくなっちゃうのさ。
つまり自力帰命だね。聞きぬいた心をあてにしちゃうんだよね。
仏智不思議を疑う罪は、ホント根深いなって思う。
227神も仏も名無しさん:2008/07/19(土) 10:41:53 ID:/I3rXVNA
おまけ
「十悪五逆の罪人をわれたすけんという大願をおこしたまひて、阿弥陀仏となりたまへり。」
阿弥陀仏の救済対象は、十悪五逆のわたしって事。
その誓願を疑いなく慮りなくたのめとのお勧めだよ。
法話をたくさん聞いたり、仏書をたくさん読む事は、
知恵もつく。理解力も深まる、感動も多い。
この土で、生きていく上での大きな楽しみの一つだね。
でも、生死の拠り所にはならない。
人よりものを多く知ってる。彼より、領解が深い。
あいつより俺は聞きぬいている、なんて思ってる。
まるで一念多念のひがごと、そっくりじゃん。
そんな比較を気にして生きてても、仏恩報謝にはならないし。
世の中、上には上がいるのにね。ま、その頂点は阿弥陀さまの本願なんだけどね。
必ず浄土に生まれさせていただくと信じ、念仏申すのが肝要だね。
228渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/19(土) 10:58:47 ID:EwoTg050
>>224
>疑い晴れるまで本願を聞き抜いて、お念仏称え抜くことだけ。

 称え抜かなくていい。南無阿弥陀仏と称えたら、称えた念仏はさらにその上にもう一度南無阿
弥陀仏が重なることを待っている。南無阿弥陀仏と称えたら、その上にまた南無阿弥陀仏を重ね
る。繰り返し、繰り返し称えていく。
 称名念仏は、疑いが晴れても称えていく。疑いが晴れなくても称えていく。

 正式には結跏趺坐し、あるいは半跏趺坐であしを組む。蓮華座は極楽浄土の正式な着座法だ。
自分一人の時は、胡座でも、正座でも、いいだろう。胡座・正座は略式だ。
 腹式呼吸で息を整え、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とゆっくりと称える。僕は南無阿弥陀仏の
ナからツまで8秒かかる。念仏は座禅して称えるのが親鸞流だ。

 自分は歩きながら称えたいという人は、歩きながら称えるといい。歩幅は踵から爪先までの長
さが丁度いいようだ。正面を見据え、普通の速さで南無阿弥陀仏と称える。称え終わったら右足
を一歩進める。また南無阿弥陀仏と称える。終わったら左足を一歩進める。歩行禅のやりかたに
南無阿弥陀仏を重ねるといい。渡海難がお勧めの方法だ。

 自分は寝ながら称えたいという人は、楽な気持ちで大の字になる。腹式呼吸で、ゆっくり南無
阿弥陀仏を称えていく。
 自分は速く称えたいんだという人は、速く称えるのもいいだろう。南無阿弥陀仏はいやだ。自
分は帰命尽十方無碍光如来と称えたいという人は、それもいいだろう。

 信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし

 称名念仏の励みで、疑い晴れた信心の人が、疑心自力の行者に負けたら残念だ。
 信心の人も、疑信自力の行者に劣らじと、如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし。
229あぼーん:あぼーん
あぼーん
230渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/19(土) 13:36:55 ID:EwoTg050
ブログ 親鸞仏教 歎異抄論 更新しました。

 www.しんらん.jp/
231神も仏も名無しさん:2008/07/19(土) 13:56:53 ID:tpKF83+0
>>230
見てる人っているの?
232神も仏も名無しさん:2008/07/19(土) 13:59:05 ID:8/c04u+A
みんなオレとそんなには変わらないのが、よく判った。
知識の多寡に差はあっても、そんなもの、とことんのところでは関係ないだろうし。
信心を、実感として語れる人はおらんですか。

そう言いながら、そんな人が出てきたら、たぶん眉に唾をぬるのだろうけど。
233渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/19(土) 15:32:05 ID:EwoTg050
>232
>信心を、実感として語れる人はおらんですか。
>そう言いながら、そんな人が出てきたら、たぶん眉に唾をぬるのだろうけど。

 僕は信心を実感として語っているつもりだけどね。そうは感じないかね?
僕が何を言っても信じない連中が多い。僕も信心を看板にするつもりはない。
しかし、信心を実感として語ろうと努力はしているんだよ。まあ、努力は足りないか
も知れないけどね。

 僕のカキコを見て、眉につばどころか、親鸞の顔に泥を塗っている連中は腐るほ
どいる。宗祖の顔は、幸いにも、泥を塗られても、ぴくともしない堂々たるものだ。
234神も仏も名無しさん:2008/07/19(土) 15:43:23 ID:8/c04u+A
>>233

ごめん。 渡海さんのはいつもの癖で、つい読み飛ばしてました。
235渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/19(土) 15:47:47 ID:EwoTg050
>234
 いやはや、こういうカキコが返ってくるとは予想していなかった。
 釣りのつもりで書いたんだが、とんでもないものを釣ってしまった。

 穴があったら入りたい感じだ。(→o←)ゞあちゃー
236神も仏も名無しさん:2008/07/19(土) 16:10:45 ID:8/c04u+A
>>235
いや、そういうつもりでもなかったんだけど・・・申し訳ない。
237渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/19(土) 17:09:53 ID:EwoTg050
> いや、そういうつもりでもなかったんだけど・・・申し訳ない。

 いやいや。ここは謝って貰う所じゃないんだ。僕は非常に書きにくいんだけど、考えにすれ違
いがあると嫌なんで気持ちの裏話をしておきたい。

 2ちゃんねるには、反渡海のような空気があり、実を言うと僕はそれを楽しみにしている。反
渡海のような空気とぶつかると、弁証法的に僕には第三の真実が見えてくることがある。実際、
僕はそれで随分勉強させてもらってきた。

 >>233 は、いわば「さあ、向かってこい」というような意気込みで書いたんです。但し、その
立場は驕慢の位置にある。驕慢の位置は守りが弱い。守りの弱いところで「さあ、かかってこ
い」というようなポーズを取ったわけです。こっちが驕慢の位置にたてば、相手もそれを映して
驕慢の位置からどうせへっぴり腰で攻撃してくるだろう。へっぴり腰に反撃する二の太刀は用意
していました。もともと広げた大風呂敷は驕慢の位置にあるから、立場は不利。まあ結果はどう
なってもいい。ゲーム感覚だったわけです。二の太刀、三の太刀を返せば、たとえゲームでも、
見えなかったものが弁証法論的に何か見えるようになるだろうと思ったわけです。

 ところが、へっぴり腰ではなく、正攻法で真正面を向いた反応がきた。>>233 はゲーム感覚の
驕慢という非常に弱いところに立っている。だから、真正面からの言葉には返す太刀を用意して
いなかったわけです。こちらは返す言葉が無く、全滅したわけです。

 この勝負は渡海の負け。 (→o←)ゞあちゃー   苦笑。

 遊びすぎたので、しばらくカキコ不能。
238神も仏も名無しさん:2008/07/19(土) 20:01:37 ID:/I3rXVNA
>232
信心を実感として語る人がいないなんて言うのはどうなんだろうね。
自分の感覚にピッタリ来る言葉を誰かに期待しても、意味ないし。
そんな人は、テレビ観て、コメンテーターや芸人の批評やってるのと大差ないんじゃないかな。
LIVE YOUR LIFE
人に期待するな、弥陀法を灯火とし、犀の角のように独り歩め。
期待する者はまがい物を掴まされる。世の中、お人好しばかりじゃないからね。
期待する以前に、自ら考え、自ら実践すべきでしょ。
239神も仏も名無しさん:2008/07/19(土) 22:18:19 ID:Z/Ha/nES
>>238

>期待する者はまがい物を掴まされる。世の中、お人好しばかりじゃないからね。
>期待する以前に、自ら考え、自ら実践すべきでしょ。

まがい物を掴ませられるか。あんたはそれがまがい物か見分ける目を持ってると主張するのかね?
自ら考え自ら実践する。いい響きだね。でもね。盲目には変わりがないからね。真実なんて分かりはしない。

南無阿弥陀仏の六字だけは真実である。ただそれだけだけだわ。
240神も仏も名無しさん:2008/07/20(日) 00:28:08 ID:tpEtySCt
南無阿弥陀仏だけが真実であるなんて、わかりきった事を
金科玉条のように唱えてても、親鸞聖人のお示しは顕らかにならないよね。
親鸞聖人は多くの著作を残しておられるのは、どうして?
「聞思」して遅慮することなかれと言われるのはどうしてなのかな?
疑問も持たず、信心正因称名報恩ですからなんて、
○○のひとつ覚えを繰り返してても、意味ないよね。
それは、親鸞聖人が身をとして伝えようとした事を、
死に物にしちゃう事だと思う。他力の信は、数式じゃない。
逆に、凝り固まった自力執心をぶっこわす力じゃないのかな。
活動しない信心は、死に物。そういう人の仏さまは、多分座ってる。
本願力は力、力は作用を生む。その作用に動かされる。
私は今生きてる、活動してる。悪業をつくる。
ならば、摂取不捨の善巧方便も、生きてる。活動してる。
悪業を消滅させ、浄土に必ず往生させんがために。
241神も仏も名無しさん:2008/07/20(日) 00:37:09 ID:tpEtySCt
>239
もうひとつだけ。
見分けられますよ。なぜなら、南無阿弥陀仏だけが真実で、あとは嘘ものだからです。
お前を必ずたすけるという弥陀の誓願だけが本物ならば、
必ずたすけるをたよりに生きていく。それに反する自業を恥じ、
日々お育てをいただきながら。これが楽しみ、南無阿弥陀仏。
それを教えて下さったのが善知識。数限りない善知識がいらっしゃる。
ありがたいな。
242神も仏も名無しさん:2008/07/20(日) 08:19:41 ID:7TvUonx9
>>241

239や。

>見分けられますよ。なぜなら、南無阿弥陀仏だけが真実で、あとは嘘ものだからです。

だからそう言ってるじゃない。能書き垂れてもしょうがない。
あれかい。お前さん本山系の坊さんじゃねーよな?
かつて2chで騒いでた。違ったらごめんね。許してね。
あの坊主と言ってること同じなだからさぁ。

信心正因を馬鹿の一つ覚えってw
んなこと言われてもそれは真実だもんなぁ。
その信心の体は南無阿弥陀仏なんだなぁ。
これも君のいう数多聖教に見られるなぁ。
お前さんが信じた、間違いないという心が信心じゃねーぞ。
243神も仏も名無しさん:2008/07/20(日) 09:15:42 ID:tpEtySCt
>242
南無阿弥陀仏が助けてくれるだからいいんだ。
だからいいんだという納得が根底にある信心を
他力信心と言えるのかな?無上覚の仏心が回向されてきた
信心って言えるのかなって事。
そうした信心には護持養育の利益がない。堕落のはじまりであり、
腐敗の原因になる。何故なら、弥陀の本願をたのんでいるのではなく、
だからいいんだ、これでいいんだと言う心が
その人を動かす力になっているからです。
「絶えず」「常に」煩悩が起こるという事は、
それを療治しようという弥陀の本願力も、また「常に」「絶えず」
働いているという事。つまり、いつも「今」って事です。
南無阿弥陀仏が真実、それしかないって、お名号を飾って眺めてても、
南無阿弥陀仏の本懐は全うされない。
つまり、功徳利益もものにならない。絵に書いた餅になってしまうわけ。
領解心にまかせず、弥陀の本願にまかせようよ。
244神も仏も名無しさん:2008/07/20(日) 10:52:38 ID:7TvUonx9
>>243

いいこと言うなぁ。あんた。大事なことだわね。
言いたいことよーく分かるよ。ありがとうね。

弥陀の本願にまかせる。まあ、蓮如さんでいえば「たのむ」ということになるわな。

お前さんとちーとばかり解釈が違っているんだわ。わしがだよ。
お前さんが間違ってるとは言わん。わしには正邪は分からんのよ。そういう目は持ち合わせてないからなぁ。

>>237

あんた面白い人やなぁ。
最近人間的に面白い面が出るようになったん?
しばらくしたらまたおいでな。
245神も仏も名無しさん:2008/07/20(日) 11:08:44 ID:7TvUonx9
>>243

ちょっと真似して続きね。

今、名号法が働きづめなのは分かるよ。ってか長時の行だからなぁ。
今、今、今、只今常に絶えず。よく分かるわ。

ではお前さん、今晩寝るやろ。縁あって脳血管詰まってまった。
薬石効なく、無記になってもうた。もう何も考えられん。感じられん。しゃべれん。称えられん。
それでもなお、何年か生きながらえるやろ。

あんた。その間何もできんよ。今の今。そんなんも分からんなるよ。
いや、それでもあんたは本願に任せたから往生できる言うんやったら、
所詮、過去の己の本願に任せたという領解心が体になるんやないの。
あんたさんの否定する過去の体験云々になるで。

他人事や架空の話なんぞ知るかいな。と言うてきそうじゃけど、
他人事じゃないで。皆同じや。

そのあたりのあんたさんのお心聞かせて下さりませんか。
246神も仏も名無しさん:2008/07/20(日) 17:45:44 ID:tpEtySCt
>245
明日、巨大隕石が落ちてきて、地球が宇宙の藻屑になる。
そんなこと考えて今を送るのか、如来の大悲を思って念仏申し、
自分のなりわいに出来る限り力尽くして今を送るのか、
時間の使い方の問題でもあるね。今に、IFは無いって事ね。
247神も仏も名無しさん:2008/07/20(日) 18:13:05 ID:qOxkzWWl
「今」に「IF」はない、ですか。
でも、私なんかはどうしても、IFを考えてしまうけど。

IFはない、と言い切れる人って、正直いったいどういう神経してるのかと。
っていうか、もしかして、すでに決定してそういう境地に入ってしまってるわけ?
それとも、理詰めに考えたらそうなるのかな。
よくわからん。
248神も仏も名無しさん:2008/07/20(日) 23:24:30 ID:uyr7NMVw
>243 南無阿弥陀仏が助けてくれるだからいいんだ。
だからいいんだという納得が根底にある信心を
他力信心と言えるのかな?

本当に、心底其処に気付いたら、それはそれで「信心」でいいのでは?何故いけないの?
 何か努力をしなければ駄目なの。その為の「努力」って何?
249神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 08:14:46 ID:jnevPlX+
>247
お釈迦様の言葉にあるでしょ。過去は過ぎ去った、未来は未だ来ない。
過去を追うな。未来を願うな。今、なすべきことをなせって。
覚者による真実の言葉でしょう。
浄土真宗の信心が、真実信心と言われるのは、
覚りの真実に基づいた信心だからじゃないでしょうか。
未来も憶測に過ぎないし、覆水も盆にはかえらない。
現生正定聚は、覚りの理にかなってますよね。即得往生の利益は今と言う事だから。
いつか信心決定するだろうも、未来に対する憶測に過ぎないから、定まってない。
だから、不定聚の機と言われるんじゃないかな。
逆に過去信心決定しましたと言うのも、過ぎ去っていく。
その時の体験も、様々な縁にさらされて劣化していく。
劣化していくものを頑なに護ろうとし、それにひしとすがっても、
諸行無常の理があるから、ほころびは免れない。
250神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 08:22:06 ID:jnevPlX+
>248
いけない、と言うより自力でしょ。「それでいいんじゃないですか」と言うのは。
努力したくないなら、努力しなければいいし。そんなの面々の御はからいです。
浄土真宗のスレだから、今、弥陀をたのめと言ってるだけですよ。
聞思して遅慮することなかれ、親鸞聖人のお勧めだよ。
251神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 11:01:31 ID:jsod8HEu
>>249
そりゃあそうだろうけどさあ。。。
そういうふうに理がわかる人はいいよね。
みんな、すごく物分りがいいんですね。
ジタバタしてる人なんかいないみたいだ。
立派といや立派だけどね・・・

252神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 12:21:53 ID:7HOf+nPi
>250
何をもって自力だと言っているんでしょうか?
僕には自力と他力の違いがイマイチ分かりません。
あなたにとって、具体的に自力とはどういうもので、他力とはどういうものなのですか?
良ければ参考までに教えてもらえますか?
253神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 13:31:33 ID:7HOf+nPi
それと、いつかは分かりませんが、誰もが皆等しく往生するのは間違いない訳で。つまり、私もあなたもいつかは信心獲得せしめられるのは定かですよね。

過去がどうのこうのと(何を言いたいのかはよく分かりませんが。)言われますが、まさか宿世の仏縁をありがたく感じる事すら否定なさるおつもりですか?
254神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 18:27:22 ID:jnevPlX+
>251
じたばたしようとしまいと、面々の御はからいですよ。
浄土真宗において大事なのは、一心一向に弥陀をたのむことでしょう。
いつかじたばたするのがおさまるのか、じたばたするのか、
どっちでもかまわないんじゃない?
>252
自力とは、我が身をたのみ、我が心をたのむ「一念多念文意」だよ。
255神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 19:46:36 ID:odeXfEY/
だめだこりゃ
256神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 22:23:00 ID:jnevPlX+
>253
>間違いない訳で
いや、そんなことは言えないよ。どんな浄土真宗?
257渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/21(月) 22:34:56 ID:I35Hdb93
>253
「いやだねぇ」
「何がいやだって?」
「きまってんじゃねぇか。とうとうあいつまで信心獲得しちまったよ。他人が困っていても、見
向きもしない。馬鹿にしてせせら笑う。他人が喜んでいれば、すぐ僻む。何かと言うと突っかか
ってくる。平気で嘘をつく。そんなあいつが、とうとう死んだら極楽浄土に行くことが決まった
んだってよ。」
「しょうがねぇだろうよ。なんたって悪人正機、信心正因なんだ。誰もこれには反対できねぇだろ。」
「そうだよな。なんで信心正因なんかになっちゃったんだろうね。嫌だね。おれは寒気がするぞ。
あいつの腹は真っ黒だよ。とうとう信心決定してその日に、のぞき見痴漢して警察に追われてい
たぞ。高校生の女の子が、目を真っ赤に腫らしていた。腹立たしいね。俺はあいつの背中に唾ひ
っかけてやりたいよ」
「そうだよな。あいつは町のダニだからな。ゆすり、たかりで生活してるんだろう。」
「そうだよ。それで、とうとう極楽行きだってよ。俺は、もうなさけねぇぞ」。
「信心正因なんだよ、阿弥陀さんも今は後悔しているという話だぞ」
「いくらなんでもそうだろう。あんな奴が極楽行きになるなんて、予想もしてなかったろう。で
も、阿弥陀さんでもどうしようもねぇんだってよ。」
「極楽行き決まったんで、あいつはますます鼻息が荒くなって威張りちらしているというじゃね
ぇか。そりゃそうなるだろう。なんたって信心獲得したんだから、もう大いばいりだよ。いやな
話だな。」
「信心正因で信心を得たのは、宿世の仏縁なんだってよ。『おれはこんなに感謝しているぞ』と、
回りにつばっひかけながら威張り散らしているぞ。誰も手がでねぇ。しょうがねぇよな。宿世の
仏縁ならばな。みんなもう、がっかりしてるぞ。あいつを見ていると、俺たちお先真っ暗だな」。
258神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 23:06:01 ID:7HOf+nPi
どんなも何もありませんけど?浄土真宗ですよ?
誰一人もらさず救うという誓いが本願ですよ?現世で救われるのか、もしくは来世以降に救われるのかは分かりませんが、皆等しく本願によって往生させて頂けます。それを否定されるのですか?
そうであるならば、それこそ本願を疑っているという事になりますけど・・・。
259神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 23:45:20 ID:jnevPlX+
>258
仏号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらわるる
雑修の人は千が一にも、真実報土に往生することはないとのお示しです。
「みんな浄土に往生するんだよ、よかったね。よくわかんないけど、
そういうシステムになってるんです。」そんなことを言わせるための教えじゃないって事です。
私がこのたび往生成仏する教えだから、意味があるんであって、
「みんな浄土に往生するんですよね、間違いないですよね」
などと、答えが出る訳もない不定な事を、沙汰して何の得があるのかって事です。
まず自身が成仏すれば、そんな事は仏智によって顕らかになるし、
迷いの人も、完成した慈悲によっておもいのままに救う事だって出来るでしょ。
意味の無い沙汰をするよりも、自身がまず往生決定する事が肝要です。
260神も仏も名無しさん:2008/07/21(月) 23:45:34 ID:pfzGDPeF
>>251

本当は物分りが悪くてジタバタしてるのが、
弥陀の正客なんだよね。
浄土真宗は、立派になって救われる教えじゃないし。

ただ、お釈迦様の教えすべてが詰まっているのが六字の名号だから、
それを頂いたあとは、ジタバタしつつ理がわかっているという、不思議な状態になる。

>>253

往生を未来に期待したり、過去の仏縁があるからとたのみにしたりするのは
自力だってことじゃないの?
261神も仏も名無しさん:2008/07/22(火) 00:44:13 ID:aJPv5Avx
下品下生者、或有衆生、作不善業、五逆十悪、具諸不善。如比愚人、以悪業故、応堕悪道、経歴多劫、受苦
無窮。〜 「仏説観無量経」
 阿弥陀如来は、救いに条件なんて(平気でうそをつく人も、町のダニと言われる人も)憑けていないと思うの
ですが?
262神も仏も名無しさん:2008/07/22(火) 10:01:31 ID:OkRpkfWL
>259
答えが出ない?答えは出てます。誰もが皆、必ず本願によって救われる。僕もあなたも一人残らず救われる。それが答えです。
今現在、信のない人も、いつしか必ず本願力によって信心獲得せしめられ、往生させて頂けます。それが本願です。
263渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/22(火) 10:13:47 ID:YTBsCTEN
>261
>阿弥陀如来は、救いに条件なんて(平気でうそをつく人も、町のダニと言われる人も)憑けていないと
思うのですが?

 貴方は、浄土宗の真の底(親鸞消息)が分かってないということでしょう。

なにごとよりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の放逸
無慚の者共のなかに、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、あるべくも候
らわず。(親鸞)

 どんな場合でも、聖教の教えも知らないで、また、浄土宗の真底も分からないまま、身勝手で自己
中心、放逸に振る舞い、我が身を全く恥じることもない者共に、自由に悪を振る舞っていいんだと言
うようなことは、どんな場合でも許されることはありません。


 それ、国にあらば守護方、ところにあらば地頭方において、我は仏法を崇め信心を得たる身なりと
言いて、疎略の義、ゆめゆめあるべからず。いよいよ公事を専らにすべきものなり。かくのごとく心
得たる人を指して、信心発得して後生を願う念仏行者の振る舞いの本とぞ言うべし。これ即ち仏法・
王法を旨と守れる非とと名づくべきものなり。穴賢、あなかしこ。(蓮如)

 国や社会で指導的地位にある人に対し、非礼があってはならない。仏法を信じていれば、国家社会
の秩序を混乱させてよいということではない。仏法者であっても、まず公益を尊重せよ。国家社会の
秩序を重んじよう。信心を得て、後生を願う念仏者の基本は、国家社会の秩序を重んじ、公益を尊重
するということである。仏法とともに、社会の倫理・道徳・憲法秩序を守れる人とは、そういう人を
指す。

 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべき」よしを、懇
ろに仰せ定め置かれし(蓮如)
264渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/22(火) 10:14:26 ID:YTBsCTEN
 博愛・正義・礼儀・知識・信頼、こういうものを守り、人間社会の秩序を守り、倫理道徳を仏法に
優先して尊重し、その上で心の中には仏法の価値観を維持する。このように、言葉を砕いて詳しく分
かりやすく仰せになっておられた。

 まず王法をもって本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心に深く貯え
て、外相に法流の姿を他宗他家に見えぬように振る舞うべし。(蓮如)

 仏法より、社会の法・倫理・道徳を優先して大事にせよ。博愛と正義をもっとも優先せよ。世間の
常識的正義に従い、(悪苦しからずと言うような)浄土真宗の教えを正面に出すな。自分の心の中に
深く潜め、(悪苦しからずと言うような)浄土真宗の教えを他人からは見えないようにせよ。

 そのほか仁義をもって本とし、また後生のためには、内心に阿弥陀如来を一心一向に頼みたてまつ
りて、自余の雑行雑善に心をば止めずして、一念も疑心なく信じまいらせば、必ず真実の極楽浄土に
往生すべし。(蓮如)

 社会的には、通常は博愛と正義をもって基本とせよ。これまでの考えでは通用しなくなる人生の危
機あたっては、内心に阿弥陀如来を拠り所とせよ。自分の勝手な判断で行動をするな。念仏を称えよ
と言ってくれているんだから、その言葉を疑いなく信じ、危機管理は、ひたすら念仏を称え、先人の
知恵をもって危機を必ず乗り切るようにせよ。

 王法は額にあてよ。仏法は内心に深く蓄えよ(蓮如聞き書き)

 通常の価値判断は、社会の法・倫理・道徳・常識をもって価値判断の基準にせよ。仏法は人生の危
機に備え、いつでも使えるように心の中にしまっておけ。

正法能超出世間   正法楽  持戒坐禅を正法と名づく 念仏成仏これ真宗なり 仏言を取らざる
を外道と名づく 因果なしとの見を発すれば空となす(親鸞)
265渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/22(火) 10:16:29 ID:YTBsCTEN
 正法こそ、世の中を正しく生きていくあり方である。正法を大事にしよう。戒律を守り、座禅をす
ること、これが正法である。成仏は念仏で果たすのが真宗である。これを無視し、仏の言葉に耳を貸
さないのは外道である。結果を恐れず、道理を外れた行動をしてもいいんだと思えば、これは間違っ
た考えである。

 正法能超出世間 正法楽 禅律如何これ正法なり 念仏三昧これ真宗なり 了心を見性せばすなわ
ち是仏なり いかんぞ道理相応せざらん (親鸞)

 正法こそ、世の中を正しく生きていくあり方である。正法を大事にしよう。禅定と戒律がどうして
正法であるのか。座禅してひたすら五会念仏を称える念仏三昧が真宗である。悟った心を見極めるこ
とができれば、これは仏である。 禅定・戒律と念仏三昧との間にはなんら矛盾はない。

 正法能超出世間 念仏は声声に仏種を下す 坐禅持戒は真功を用いてなり 汝若し修せずてすなわ
ち仏になるといはば 喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(親鸞)

 正法こそ、世の中を正しく生きていくあり方である。念仏は、一声一声で仏になる原因が積まれる。
成仏の原因は念仏にある。しかし、これに加えて座禅と持戒を勧めるのは、その効果に実体を持たせ
るためである。座禅もなく、戒律もなく、私は仏になりますと言えば、それは空腹の人が風下に立ち、
吹いてくる風を腹一杯に飲み込もうとするもので、腹の足しにはならん。 


 悪苦しからずと言う教えを、あなたは学んではいけない段階で浄土真宗のその教えを学んでしまっ
たので、混乱しているのでしょう。
 悪苦しからずと言う教えは、いまは忘れることが大事です。

 座禅しながらしっかりと五会念仏を称えつつ、王法を額にあて、社会の倫理・道徳・正義を博愛心
を持ち実現に努力していくことが大事だと思います。悪苦しからずと言う教えを学ぶのは、余りにも
早すぎる。
266渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/22(火) 10:28:07 ID:YTBsCTEN
>262
> 今現在、信のない人も、いつしか必ず本願力によって信心獲得せしめられ、
往生させて頂けます。それが本願です。

 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本
とすべき

 社会の道徳・倫理・正義・使命・責任・博愛心、人間のもっとも大事な核心部
分の重要性を深く認識し、それを実践している上でそういう話をするなのならい
いだろう。

 いつしか必ず本願力によって信心獲得できるということが、反道徳、反倫理、
反正義、反責任、反博愛の屁理屈として使われるなら、残念なことだ。

 大事なことは、仏法よりも王法を先とし、本願他力の信心は深く内心に秘め
るということだ。王法を無視し、仏法を屁理屈の盾にするなら、それは外道で
ある。
267渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/22(火) 10:34:47 ID:YTBsCTEN
たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。(大経)

 阿弥陀仏はケダモノを救うとは言ってない。鬼の心で鬼の行為をする者を鬼
という。ケダモノの心で、ケダモノの行為をする者はケダモノという。

 善人でも悪人でも救うとは言っても、鬼・ケダモノを救うとは言ってない。人は
人であることが救いの原点である。鬼・ケダモノのままで救って貰えると思ったら
大間違いだろう。

 仁義礼智信をまもれとは、まず、人であれということだ。仏である必要はないが
人間でなければ、阿弥陀の救いにあずかることはありえない。
268あぼーん:あぼーん
あぼーん
269神も仏も名無しさん:2008/07/22(火) 14:22:58 ID:OkRpkfWL
残念ながら、やはりここではまともな話し合いなんて出来ないようですね。
渡海さんですか?何やら自分は偉いんだとでも勘違いしてるのか知りませんが、実のところは何も分かっていないみたいですね。
まぁ、何も分かっていないからこそ、あの態度なんでしょうけど。
その割には訳の分からない御託をならべて、品性の欠片もない。見苦しい限りです。

ケダモノ?鬼?そんなものは救われない?
一体何を聴聞されてきたんでしょうか?
縁があれば誰もがケダモノにも鬼にもなります。逆に、ケダモノや鬼のようにならずにすんでいるのは、そうなる縁がなかったからに過ぎません。
決してあなたが聖者だからとか、そういう事などではありませんよ。
そんな事すら分からないのでは、自らのお粗末さや仏縁のありがたさなど、まだまだ分かるはずもないでしょうね。
しかし、それが本来の我々凡夫の姿です。あなたも僕も本来は何も違わないんです。

でもご安心を。阿弥陀仏のお育てにより、いつしかあなたにも分からせて頂ける時が来ますから。

その時が一刻も早く来るといいですね。
270渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/22(火) 14:39:59 ID:YTBsCTEN
>269
> 縁があれば誰もがケダモノにも鬼にもなります。逆に、ケダモノや鬼の
ようにならずにすんでいるのは、そうなる縁がなかったからに過ぎません。

ケダモノや鬼になる可能性があると言うことと、今、いま、ケダモノや鬼であ
るということとは別の問題だ。誰でもケダモノや鬼になる可能性がある。だ
から、おれは今、ケダモノでいい、鬼でいいというのは別の問題だ。将来
ケダモノでいい。鬼にでいいとは、別の問題だ。

 過去においてケダモノであったということと、今、いまケダモノであるとい
うこととも別の問題だ。

 人間の皮を被った鬼・ケダモノでなければ、僕の話は分かるはずだ。
271神も仏も名無しさん:2008/07/22(火) 17:12:33 ID:bvGpY9L+
>>270

なかなかいいこと言うじゃない。大事なことやと思う。
あんた面白いわ。教義云々抜きで結構好きやな。

269は御縁があればケダモノになりうる自分という自覚やね。
できればそうありたくはないけどもなりうる可能性はあるわな。

でもな。269が救われているというのであれば鬼やケダモノではないはず。
あんたは菩薩や。ちゃんと十種の益がついとるからな。
救われておるのにケダモノになる自分がおるんや。と慄いても意味がない。
そんな時あんたの顔は暗くて既に鬼のようや。

鬼にも蛇にもなる可能性のある自分やけど、それは阿弥陀様にまかせたんやろ?
んなら、もっとニコニコしとればええねん。
272神も仏も名無しさん:2008/07/22(火) 18:26:33 ID:FU6Zp/AH
けだものだもの。
273神も仏も名無しさん:2008/07/22(火) 18:29:46 ID:G44C/bGp
もののけだもの
274神も仏も名無しさん:2008/07/22(火) 23:22:21 ID:OkRpkfWL
ふぅ。話になりませんね。
失礼な言い方になりますが、少しだけ忠告?しときましょうか?

あなたは日々、様々な形で殺生を繰り返してますよね?たとえば食事だったり、歩いて虫を踏み潰してたり。
最も罪深いと言われる殺生をし放題の日々を送ってるんです。そんなあなたが自分はケダモノでも鬼でも何でもないと言うんですから困ったものです。

いいですか?殺生をするもしないも何もかもが縁次第。あなたが自分をどう思っていようが、あなたは鬼やケダモノ、いやそれ以上にお粗末な罪深い存在なんです。
他の誰でもない、あなた自身が最も罪深い存在なんです。
それは僕も同じ事。
だからこそ阿弥陀仏の本願の対象なんです。

今現在が問題?今まさにあなたは自らのお粗末さや罪深さの自覚すらろくに出来ていない「ケダモノ凡夫」なんです。
これは何も殺生だけの問題ではありませんけどね。

ケダモノでいいとか、過去にケダモノであったとか、そんな問題ではありません。今、まさに僕もあなたも、どうしようもない存在なんです。
そういった自覚と共に本願のありがたさに気付かせて頂けるんですよ。
275神も仏も名無しさん:2008/07/23(水) 01:14:11 ID:hdbJj3g3
>274
けだものがけだものに忠告してるだけだもの。
なんの役にも立ちゃしねえ。
276神も仏も名無しさん:2008/07/23(水) 08:26:29 ID:ED/Plwzr
>>275

けだもの駄洒落か。
俺もけだものだけどねw
277渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/23(水) 08:57:56 ID:bw9UNxfv
>>274
>失礼な言い方になりますが、少しだけ忠告?しときましょうか?

 貴方は恥知らずな失礼な方ですね(苦笑)。忠告などは不要ですよ。鬼ケダモノよばわりされ
るのは、貴方一人で十分だ。他人を巻き込みなさんなよ。

> 最も罪深いと言われる殺生をし放題の日々を送ってるんです。そんなあなたが自分はケダモノ
でも鬼でも何でもないと言うんですから困ったものです。

 道を歩いて虫が死ねば、僕は鬼ケダモノなんですか?。動物を殺して食べれば、僕は鬼ケダモ
ノなんですか?。いったいどういう頭をしているんでしょうね。

それ、一切衆生、三悪道を遁れて、人間に生まるる事、大なる喜びなり。身は卑しくとも畜生
におとらんや、家貧しくとも餓鬼にはまさるべし。心に思うこと叶わずとも、地獄の苦しみには
比ぶべからず。世の住み憂きは厭う便りなり(源信)。
278渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/23(水) 08:58:53 ID:bw9UNxfv
 僕は、見ず知らずの人間から、ネットでいきなり鬼ケダモノという罵声を浴びせられる必要は
ないと思っていますよ。僕は人間であるというアイデンティティを持ったら「困った者です
か」?。 (苦笑)

 「虫を殺しているだろう。生き物を殺しているだろう。お前は人間以下だ!」ID:OkRpkfWLは、
一体どういう教育を受けてきたの?。まあ、カルト浄土真宗のノータリンにノータリン教義を刷
り込まれてきたノータリンだと言うことは十分に見当がつくけどね(苦笑)

 人間とは何か。阿修羅とは何か。ケダモノとは何か。畜生とは何か。地獄とは何か。天とは何
か。貴方とは、根本的に価値観が違うようだ。

 それで、鬼ケダモノの貴方(OkRpkfWL)は、「仁義礼智信」は必要と思っているんですか?
不要と思っているんですか?。仁義礼智信など、無用だと思っているんでしょうね(苦笑)

 浄土宗の真の底も知らず(親鸞消息)、見ず知らすの人をいきなり鬼ケダモノ呼ばわりするの
はやめたらどうよ?
279あぼーん:あぼーん
あぼーん
280渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/23(水) 10:30:27 ID:bw9UNxfv
 昔の権力者は、革職人、死体処理職人集団を人非人よばわりした。現代の真宗のノータ
リン共は、虫を踏みつけて歩く人間を、鬼ケダモノ呼ばわりする。あんたらの頭の構造は
どうなっているのよ?
 先日、漁民達は重油の高騰にたまりかねて全国ストをやった。これからは、魚食品が高
騰するだろう。魚を釣って生活している彼らも、鬼ケダモノなんか?。鬼ケダモノが人間
の真似をして全国ストをやったという話なのか?。馬鹿を言うのはやめたらどうよ?
   (苦笑)

 全国には、無数の食肉加工場がある。そこでは多くの労働者が牛や豚を生きたまま殺し
ている。彼らも鬼ケダモノなのか?。人間ではないのか? (苦笑)

 日本には、死刑執行刑務官というのがいる。法務大臣の命令で死刑を執行する。最近、
朝日新聞は法務大臣を死に神呼ばわりし、法務大臣が憤慨していた。死刑を執行した刑務
官に対し失礼ではないか、と。

 ああいう人たちも、みんな鬼ケダモノなのかね?阿弥陀様をありがたがらないといかん
そんな鬼ケダモノなのか?

 人間でない連中には、基本的人権というのはあるのか?。ないのか?人権とは人の権利
だ。あれは、鬼ケダモノに必要なのか?。不必要なのか?。

 食肉加工場の人には、基本的人権などは必要ないのか?。彼らは、牛や豚を生きたまま
殺している。生き物を殺せば鬼ケダモノだそうだが、彼らには仁・義・礼・智・信など無
用なのかね?。倫理・道徳などは必要のない連中なのか?

 食肉加工場の方々よ、あなた方は鬼だケダモノだ。あなた方には倫理・道徳など必要ない。
人非人だ。さあ、私たちの神様(阿弥陀様)を有り難く思いなさい。お前(OkRpkfWL)はこん
な馬鹿宣伝するノータリンか?。

 ノータリン宗教の馬鹿宣伝するのはやめたらどうだ?
281渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/23(水) 10:32:23 ID:bw9UNxfv
>280は、> 274へのレスの続きです。
282神も仏も名無しさん:2008/07/23(水) 11:47:49 ID:B41NRQ02
何をムキになってるんですか?僕の発言で気分を悪くしたのなら謝りましょう。まさか、あんな態度で人を馬鹿にしているあなたが、そんな事で気分を害するとは思いませんでしたのでね。
自分が馬鹿にされて気分を害するならば、人にもちゃんとした態度で接した方がいいと思いますがね。

まぁ、そんな事はさておき。何を幼稚な話をしてるんですか?あなたが自分でケダモノの心でケダモノのような行いをするものをケダモノと呼ぶと言ったんでしょ。
それにあわせてケダモノという言葉を用いてるんですよ。基本的人権?何を言ってるんですか?僕の言う罪深さと、人間社会の法律に基づいた罪深さとはまったく別の話ですよ?そんな事すら分からないんですかね?

無数の殺生をしながら、何の罪悪感もない。むしろそんなのは当たり前だとでも言わんばかりのあなたこそ、仏教の基本から分かっていないみたいですね。

まぁ、あなたが自分をどんなに素晴らしい存在だと勘違いしていようが勝手ですもんね。
あまりあなたを刺激しない方がいいみたいなので、このくらいでヤメときましょうか。
283神も仏も名無しさん:2008/07/23(水) 13:48:11 ID:ED/Plwzr
ケダモノ論議はそろそろやめ。
ケの一字をクに変えてクダモノにすればいいじゃないか。
そう。皆クダモノ。南無阿弥陀仏のタネの入ったクダモノになればよろし。
284神も仏も名無しさん:2008/07/23(水) 13:53:48 ID:zAmzSlpi
ていうか、渡海難の相手にならなければいいじゃん。
285神も仏も名無しさん:2008/07/23(水) 14:05:06 ID:B41NRQ02
皆さんにまで不愉快な思いをさせてしまいまして、申し訳ありません。
僕も先程の書き込み通り、もう終わりにしましたのでご安心下さい。

最後に今一度、お騒がせしまして申し訳ありませんでした。
286:2008/07/23(水) 17:29:17 ID:eSk7AuSL
 唯、御念仏と親鸞様を信じて行けば良いのです。それは充分幸せな事です。
人と比べず、自分を捨てず愚かに帰り、唯、親鸞様を信じている私で充分幸せです。
他は何も要りませぬ、
287神も仏も名無しさん:2008/07/23(水) 18:24:30 ID:ED/Plwzr
>>286

唯、念仏と弥陀を信じるだろう。祖師を信じても助かるわけじゃない。
心得違いなさるな。弥陀を信じることに幸せを見出しなさいな。
288渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/23(水) 18:35:53 ID:bw9UNxfv
>>285
 話をすり替えて相手を鬼・ケダモノ呼ばわりし、相手の顔を先にぶん殴っておいて、これで
ヤメだヤメだと、幕引き宣言ですか。きちんと納得のできるところまでけじめを付けたらどうで
すか?。

>もう終わりにしましたのでご安心下さい。

 何を安心させたいんだい?何か誰かに不安があったのか?。

 貴方が話を持って行った相手は、鬼なんですか?ケダモノなんですか?。人非人なんですか?。
 貴方には、仁義礼智信は必要なんですか。不要なんですか?。仏法に先んじて仁義礼智信は必
要なんですか。不要なんですか。決着を付けようじゃない。
 

>>282
>何をムキになってるんですか?

 ムキになっている?。はて心当たりがない。あなたはいま、鬼ケダモノに向かって質問してい
るですか?。人間に向かって質問しているんですか?。(苦笑)

>僕の発言で気分を悪くしたのなら謝りましょう

 相手を鬼ケダモノとぶん殴って、気分を悪くしたのなら謝りましょうとは、随分失礼な人だ。
貴方の謝罪には心がない。相手を鬼ケダモノ扱いする人から謝られても、ちっとも嬉しくない。
詭弁を弄するのはやめたらどうよ?。貴方には礼儀は必要なのか?不要なのか?
289渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/23(水) 18:38:14 ID:bw9UNxfv
>人にもちゃんとした態度で接した方がいいと思いますがね。

 はて、ぼくはちゃんんとした態度で接してない?。心当たりがない。
 相手を鬼ケダモノよばわりする御仁からそんなこと言われるとは思わなかった。

>まぁ、そんな事はさておき。       棚上げですか(苦笑)

> 何を幼稚な話をしてるんですか?

 幼稚?。相手を鬼ケダモノよばわりする御仁から、こんどは幼稚扱いされたようですね。

>自分でケダモノの心でケダモノのような行いをするものをケダモノと呼ぶと言ったんでしょ。
       それがどうかしましたか。

>法律に基づいた罪深さとはまったく別の話ですよ?そんな事すら分からないんですかね?
     ほほう。

> 無数の殺生をしながら、何の罪悪感もない。むしろそんなのは当たり前だとでも言わんばかり
のあなたこそ、仏教の基本から分かっていないみたいですね。
       ほほう。

> まぁ、あなたが自分をどんなに素晴らしい存在だと勘違いしていようが勝手ですもんね。

 ほほう。

>あまりあなたを刺激しない方がいいみたいなので、このくらいでヤメときましょうか。

 相手を鬼・ケダモノ呼ばわりし、相手の顔を先にぶん殴っておいて、あなたを刺激しない方が
いいとは、随分と失礼な幕引き宣言ですね。貴方に礼儀は必要なんですか?。不要なんですか?
290渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/23(水) 18:39:25 ID:bw9UNxfv
 食肉加工場の方々、漁民の方々、殺虫剤メーカの方がなどには、>>282はなんと言うんですか。

 食肉加工場の方々よ、あなた方は無数の殺生をしながら、何の罪悪感も無い?。いけませんね。
あなた方は、自分たちのしていることに深い罪悪感を持たなければいけませんよ。あなた方は人
非人ですよ。人でなしですよ。あなた方は自分たちを人間と思っているでしょう。とんでもない
間違いですよ。仏教ではあなた方は人ではありません。ケダモノですよ。四つ足です。
 道を歩いて虫を殺す?。とんでもない罪悪です。ケダモノの心でケダモノの行為をしている鬼
・ケダモノのそのものです。


>>282は食肉加工場の方々にもこんなことを言うのか?死刑執行する刑務官の方々にも、こん
なことを言うのか?

 食肉加工場の方々よ、あなた方は、仏教上でとんでもないことをしているんです。それを気が
付いてないでしょう。あなた方は、恐ろしいケダモノの心でケダモノの行為をしているんです。
あなた方はケガラワシイ人非人です。まともな人間ではありません。仏教的には、あなた方は鬼
です。ケダモノです。罪悪感を持ちなさい。

 罪悪感無く殺生をしているあなた方は、仏教的には鬼ケダモノです。あなた方のような人には、
仁も義も礼も智も信もいりません。国民の食事を支えてる仕事の上の誇り?使命感?ちゃんちゃ
らおかしい。そんなものあなた方のような鬼ケダモノは全くいりません。

 私の信じる宗教の神様(阿弥陀様)を信じなさい。あなた方のような人非人・鬼・ケダモノ、
あなた方を救うのは、私の宗教の神様(阿弥陀様)しかおりません。私の神様に感謝しなさい。

 「道を歩いて虫を殺す?。とんでもないことだ。それこそケダモノの心でケダモノの行為をし
ているケダモノだ。渡海には懺悔の心がない。鬼だ。人非人だ」。
291渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/23(水) 18:46:10 ID:bw9UNxfv
>>282よ。おまえがノータリン浄土真宗を信じるのは勝手だが、言っていいことと悪いことが
あるだろう。

282よ。罪悪感無く、むしろ誇りを持って仕事をしていれば、食肉加工場の人々は、仁義礼
智信の必要な不要なケダモノなのか?。不要なケダモノなのか。かれらは、お前の神様を信
じれば、仁義礼智信は不要なのか?。不要なのか。

 おぬしは、自分に仁義礼智信は不要だとおもうのか?仏法と仁義礼智信とどっちを優先させる
んだ?
292渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/23(水) 18:57:43 ID:bw9UNxfv
>291
誤り  罪悪感無く、むしろ誇りを持って仕事をしていれば、食肉加工場の人々は、仁義礼
     智信の必要な不要なケダモノなのか?。不要なケダモノなのか。かれらは、お前の
    神様を信じれば、仁義礼智信は不要なのか?。不要なのか。


正  罪悪感無く、むしろ誇りを持って仕事をしていれば、食肉加工場の人々は、仁義礼智信の
   必要なケダモノなのか?。不要なケダモノなのか。かれらは、お前の神様を信じれば、仁義
   礼智信は、お前の神様の教えに優先して不要なのか?。必要なのか。
293:2008/07/23(水) 20:51:36 ID:eSk7AuSL
 はい、親鸞様を信じその先に阿弥陀親様を見ております。親鸞様の教えに喜びと安らぎを頂き、幸せを見付けるでなく只今、幸せの真真ん中に生きております。智者の振る舞いをせず、唯唯頂くばかり。有り難うございます。
294神も仏も名無しさん:2008/07/23(水) 21:26:04 ID:v3YwsSA5
969 名前: 名無しさん@3周年 04/04/24 21:45

 死の前には何物もない
 学問も何かあらん
 金銭も何かあらん
 名利も何かあらん
 毀誉褒貶も何かあらん
 希望も目的も何かあらん
977 名前: 渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 04/04/24 22:02
>>969
>死の前には何物もない
   馬鹿だね。死も忘れちゃいかんが、生も大事なんだよ。

>学問も何かあらん
    学問をしなければ社会は発展しないんだよ。

>金銭も何かあらん
 金がすべてじゃないが、金も大事だ。金がどんなに大事かは、布施に群がる親鸞会が一
番知ってるんだろう。

>名利も何かあらん
  名利も大事なんだよ。見ず知らずの人を頼るとき、最初は何でスクリーニングするんだい。
  名利を否定すれば、人々は最初のスクリーニング手段が無くなるんだよ。

>毀誉褒貶も何かあらん    これも大事だ。

>希望も目的も何かあらん   これも大事だ。

 出世間道の問題が解決すれば、世間道で全力を尽くすべきなんだ。出世間道の問題が未解決
の段階では、無価値のものでも、世間道で全力を尽くすべき時には、大事なものは山ほどある。
そのことを忘れなさんなよ。
295神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 01:13:12 ID:k0sX4nR4
なにやらアホみたいに仁義礼智信?がどうのこうの言ってるようですが、気は済みましたか?

仏教では殺生は最も罪深い行いのひとつとされている事すら知らない渡海さん。
社会常識の話などしていないのに、勝手に社会常識の範囲でグダグダ言ってる渡海さん。

もう、あなたと話などする気はありません。だって話にならないんですから。
人の意見は聞かない。答えに困れば「ほほう」「だからどうした」で済ます。
そんなあなたとは話す価値がないんですよ。だからヤメ。分かります?まぁ、分からないんでしょうけど。

勝手に勝ち誇って終わって下さい。そもそも勝ち負けなんて考えてるのはあなただけですけどね。
僕を負かしたと思えば気が済むんでしょ?

ではこれにて失礼。
296神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 03:41:20 ID:aUeR+B9y
 何か、話が題名の妙好人に学ぶと全然関係有りませんがな。
297神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 09:58:06 ID:+cl8CY/J
>>296

んだね。誰も全然妙好人じゃありませんがな。
298渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/24(木) 10:43:05 ID:p9sDfQeQ
>>295
>勝手に勝ち誇って終わって下さい。そもそも勝ち負けなんて考えてるのはあなただけですけどね。

 敗北感に打ちひしがられ・悔し涙止まらないようだ。お前は渡海難を打ち負かそうとしていたらし
いな。そしたら、渡海難が気が付かないうちに、返り討ちにあったということか?(苦笑)
 僕は返り討ちにした覚えはないんだが、どこかに勝者がいるのか?。法論はどっちが勝っても釈迦
の負け。勝者などどこにもいない。勝手に敗北感に襲われていれば、釈迦が一番悲しむだろう。もっ
と真剣に仏道を学ぶ気になったらどうよ?

>なにやらアホみたいに仁義礼智信?がどうのこうの言ってるようですが、気は済みましたか?

 なにごとよりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の放逸
無慚の者共のなかに、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、あるべくも候
らわず。(親鸞消息)

 それ出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、
内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり。   改邪鈔

 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべき」よしを、懇
ろに仰せ定め置かれし   御文

 アホみたいに仁義礼智信がどうのこうの言ってる人、このアホ三馬鹿大将 → 親鸞・覚如・蓮如

 265よ。お前、どうせ本願寺の坊主だろう。親鸞・覚如・蓮如をアホというなら、着ている坊主
服を脱ぎ捨てろ。
299渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/24(木) 10:43:54 ID:p9sDfQeQ
 京都には西本願寺・東本願寺という大きな寺がある。そこに行けば親鸞像が置いてある。「馬鹿た
れ!アホみたいに仁義礼智信を言うな!」と、着ている坊主服を脱ぎ捨てて、親鸞像・蓮如像に思い
きっり叩きつけてこい。「坊主など、馬鹿馬鹿しくてやってられるか!!」と啖呵を切って来い。そ
うすれば、おぬしの話にも少しは耳を貸そうじゃないか。馬鹿者め!。

>仏教では殺生は最も罪深い行いのひとつとされている事すら知らない渡海さん。

 295は、敗北感に打ちひしがられ、悔し涙が止まらないらしいな。目が真っ赤に腫れ上がってい
るぞ。お前のような奴をノータリンと言う。覚えておけ。

>社会常識の話などしていないのに、勝手に社会常識の範囲でグダグダ言ってる渡海さん。

 王法をもって先とせよ。仏法の前にはこれに先行して社会の常識がある。仏法は社会の常識を破ら
ない。社会の常識で間に合わなくなったところを部分的に繕うのが仏法だ。
 「道を歩いて虫を殺せば、鬼だケダモノだという」。お前はいったいどこの話をしていたんだ?。
涙を拭いてよく考えろ。

 仏は善人も悪人も救うとは言っているが(歎異抄)。鬼・ケダモノを救うとは言ってないといった
ところが出発点だ。(>>267

 人間であろうとするなら、まず、社会の常識、仁義礼智信を守る。仏法に先んじて王法を守る。使
命感・正義感・博愛心・克己心・向上心・努力、こういうこころを大事にしようと努める。これが親
鸞仏教の出発点だ。

 僕は、自分を鬼ともケダモノとも思っていない。295よ。渡海難を鬼・ケダモノ呼ばわりしたの
はお前の方であることを忘れるな。
300神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 10:44:45 ID:M+aLSs9k
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ\ /  \ /  \ / \  /   \
301渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/24(木) 10:45:08 ID:p9sDfQeQ
>もう、あなたと話などする気はありません。だって話にならないんですから。
   ノータリンのお前に呆れかえって愛想を尽かしているのはこっちの方だ

>人の意見は聞かない。答えに困れば「ほほう」「だからどうした」で済ます。

 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべきよしを、懇
ろに仰せ定め置かれし    御文

 お前には渡海難の話はまともに耳に入らんようだ。渡海難を打ち負かしたい。打ち負かしたい。悔
しい。悔しいと思えば、渡海難の話は耳に入らん。僕の話は耳に入らんでも、先人の大事な言葉ぐら
い耳に入れたらどうだ?。

>そんなあなたとは話す価値がないんですよ。だからヤメ。分かります?まぁ、分からないんでしょ
うけど。

 耳が痛くて聞きづらいんだろう。見ず知らずの相手を、いきなり名無しで「鬼・ケダモノ」よばわ
りする。2ちゃねんるは、何でもありだから気にはしないが、頭を冷やしてよく考えろ。

>勝手に勝ち誇って終わって下さい。そもそも勝ち負けなんて考えてるのはあなただけですけどね。

 渡海難が勝ち誇っているように感じるんだな。打ち負かそうと思ったら、返り討ちにあったか?。
馬鹿馬鹿しい。(苦笑)渡海難を打ち負かしたい。打ち負かしたいという根性の延長線だ。自分で勝
手に敗北感・屈辱感に打ちひしがられ、まともに相手が見えていない。勝者などはどこにもいない。
お前が勝手に一人で敗者になって目を回しているだけだ(苦笑)。

>僕を負かしたと思えば気が済むんでしょ?
 悔し涙で気がむしゃくしゃし、気の済む場所が無いようだな。頭を水風呂にでも入って頭を冷やせ。
302神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 10:46:27 ID:M+aLSs9k
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ\ /  \ /  \ / \  /   \
303渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/24(木) 10:54:54 ID:p9sDfQeQ
>>296-297
>何か、話が題名の妙好人に学ぶと全然関係有りませんがな。

 貴方にとって、蓮如上人は学ぶべき妙好人ではないんでしょうか。
 まあ、東西本願寺系以外の方であれば、蓮如などは見向きもしないかも知れない。しかし、蓮如は
本願寺中興の祖という立場を越え、親鸞聖人の教えをとても分かりやすく語ってくれている大恩人で
すよ。僕にとって、親鸞・蓮如はほとんど一体だ。僕の中では、題名といささかも違っていません。

 まあ、蓮如上人に学ぶと言っても虫食い的に都合良く読み、嫌なところは墨を塗り、白ペンキを塗
って書き替えるというのは、本願寺の坊主のお家芸だ。

 仏法ではなく王法をもって先とせよなどと言うところは、真っ先に削除し、書き替えているんだろ
う。本願寺のマインドコントロール操り人形には、僕の話など、妙好人とは全く関係ないことになる。
渡海難の話は、妙好人と関係ないと言われても、それは僕のせいではない。
304あぼーん:あぼーん
あぼーん
305神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 13:40:15 ID:aUeR+B9y
何故そうやって上から下を見る物言いしか出来ませんの。難しい事を並べる事は誰でも出来ます。優しい言葉に話すことが出来るが本当の賢さですよ。汚い言葉で話し、沢山本引きして並べて満足ですか。
306あぼーん:あぼーん
あぼーん
3077:2008/07/24(木) 15:56:23 ID:kVmoGDGs
今年の夏も暑いですね。皆さん熱中症は室内でもかかるので気をつけてください。水をこまめに飲むといいです。

南无阿彌陀佛
308神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 17:51:10 ID:m6N8YZoJ
世法は、時代によって変わっていく。権力の交代だったり、
前時代の過失を改正または改悪したものだったり。
王法もまた同じ。現代は一応は民主主義が王法に当たるものかな?
だから善悪の価値も、建前的には、その時々の民意が反映した流動的なものになる。
仏法は変わらない。ことに真宗においては「若不生者不取正覚」の
阿弥陀如来の誓いは全く変化する事無く、私を救済し続ける。
私に療治するものが無くなるまで。毎日が、お慈悲のなか。毎日が、診察中。
つまり、今。常行大悲だよ。
309神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 20:30:14 ID:O4HRQYOO
真宗オタクの特徴は漢字の専門用語ばっかりで、何を言ってるのかよくわからないことだ。
310神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 21:40:35 ID:dyQq7+tD
 蓮如さんは大嫌いです。奥さん五人で女性にだらしが無いから。お坊さんで潔癖でなく如何しますのや。親鸞さんのように葛藤したと聞きませんしねえ。大嫌い。
311神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 22:52:39 ID:+cl8CY/J
>>310

まあ凡夫はそんなものじゃないですかねぇ。
尊い生き方して往生するんじゃないですからねぇ。
312261:2008/07/24(木) 23:28:28 ID:VzE+kqRk
<303 妙好人に蓮如上人を上げるのは如何なものでしょう?。 渡海様のご意見以前より
感じ入り、信心の助けと致しております。ただ、「妙好人」とは教えの信底と無縁の一凡夫
に過ぎない私どもが、必ず救うという「南無阿弥陀仏」のを教えを只管信じ、願えば、そこに救いを
得られる。、これは大きな心理で有ります。私が、下品下生の者と気付かせて頂いたのも、真宗の
教えで有ります。それでも、阿弥陀7如来の救いで、どの様な者でも、後生は弥陀の蓮華として、
極楽浄土に往生出来る安心を糧に日常を生きているのです。これに気付かせて下さったのが、
親鸞上人や、蓮如上人や他の先達で有り、気付いて実践しておられるのが「妙好人」と
と言われる方々と思います。もちろん私はその境地には至れません。
313神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 23:58:33 ID:m6N8YZoJ
>309
ごめんね。ここではこんな感じ。
簡単に言えば、大無量寿経っていうお経に説かれた仏さまの誓い
「必ず往生成仏させる、もれなく救う」と言う願いが
自分の人生の核となるってことかな?さすれば、死後どうなるのか、は解決される。
その願いを必ず叶う真実とするから、必ず浄土に往生することに疑いがない。
死が解決されれば、それは必然的に今現に生きてる事にも影響してくる。
この影響のことを昔の人は、「おかげさま」とか、「ご恩うれしや」と呼んで
労苦の中にも喜びを感じて生きていた。
それは、現代の競争的価値観とはまた一味違う生き方。
負け組が生まれない、実質的に存在しない生き方なのさ。
314神も仏も名無しさん:2008/07/25(金) 09:50:59 ID:bw/8Gnfd
>312
「仏言広大勝解者 是人名芬陀利華」と言われる。芬陀利華(白蓮華)はまた、
妙好人、上々人とも名付くと言われるから、弥陀の弘誓をそのまま受ける人は、
みんな妙好人と言えますね。蓮如上人もまたその一人と言うことが出来ます。
315:2008/07/25(金) 20:43:25 ID:N2Xxh0ra
傲慢ではありません。どうして下品下生なんですか?。人皆佛の子であるのに。御念仏出来る・親鸞様のお聖教読める。望めば千教万典読め能力あるのに本当に、低下の泥凡夫なんですか?。
316渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/26(土) 12:47:51 ID:2c200USH
 親鸞会系の出版社、チューリップ企画と元親鸞会会員の田中さんとの間で
行われた論争の番外編につい、続きを書きました。


 ブログ親鸞仏教    www.しんらん.jp/
317あぼーん:あぼーん
あぼーん
318渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/26(土) 13:34:25 ID:2c200USH
 >>315については、みんな、ダンマリ?
 間違っていてもいいから、食いついてコメントしようという人はいないのか。

 「俺は下品下生ではない」と思っている人は別だが、「俺は自分を下品下生だと
思っている」という人はいるんだろう?。

 自分は下品下生であるのか、下品下生でないのか、それもわかりません。
という人はもっと多いんだろうけどね。

 清沢満之と歎異抄が、思いもよらず、浄土真宗を根本から意味不明の混乱思
想にしてしまった。僕は全くそう思う。
319261:2008/07/27(日) 00:43:32 ID:ePPZJhbT
>315 貴方は下品下生では有りません。ご上人の教えを充分摂取され、弥陀の真髄やその他の仏典
も熟読され、実践されて、現在を生きていらっしゃいます。そして尚、「傲慢ですが」と謙遜され、
他の人に強じる事も有りません。
320神も仏も名無しさん:2008/07/27(日) 01:30:03 ID:M2Ro+ElE
917 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :04/04/20 13:06
 浄土教の先人は「先生(阿弥陀仏)」という言葉を下に創作物語を添えた。それが阿弥陀物語
だ。阿弥陀物語をなぜ作ったのか。「ああ先生」と称えることのすばらしさを伝える手段として
「先生物語」を創作したんだ。阿弥陀仏という化け物がどっかに存在するんじゃない。人は、結
婚すれば、田中さんが鈴木さんと結婚すると鈴木さんに変わる。人は、どう名前が変わってもい
い。しかし阿弥陀仏はそうじゃないんだ。阿弥陀という名前を離れてどっかに存在するんじゃない。
「ああ先生(南無阿弥陀仏)」と称えることはすばらしいことだよということを、人々に伝える
ための道具として、阿弥陀物語が作られたんだ。それが阿弥陀物語なんだ。そういうことを忘れ
ちゃいけない。阿弥陀ではなく、南無阿弥陀仏が尊いんだ。
 阿弥陀仏(先生)は、阿弥陀物語(先生物語)を通じ、南無阿弥陀仏を称賛している。こうい
う構造にこそ、創作者たち先人の知恵がある。南無阿弥陀仏は、我々が口にそれを称えるところ
で実体を持つ。南無阿弥陀仏は、座禅して称えるところに根元的な意味を持つんだ。

321渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/28(月) 10:12:45 ID:qmHWOVzL
>319
 下品下生の人から「貴方は下品下生では有りません。ご
上人の教えを充分摂取され・・」などとおだてられても、相
手は嬉しくないんじゃないか?

  下品下生の人からは「アホ・馬鹿」と言われた方が、安
心する人の方が多いと思う。
 上品上生の人から「貴方は立派な人だ」と言われれば、
これは名誉なことだろう。
                         −苦笑− 
 
322渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/28(月) 11:53:58 ID:qmHWOVzL
>321
 まあ、319を見ると、まさにこれこそが、典型的な下品下生
の見本であるということも、まあ、言えるわな。

 浄土真宗に嵌った人間には、こう奴が実に多い (苦笑
323神も仏も名無しさん:2008/07/28(月) 13:03:31 ID:niluCmUr
どうでもいいけど、苦笑というのは見苦しいものだね。
324渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/28(月) 14:26:19 ID:qmHWOVzL
>323
>見苦しいものだね。

僕の感情は、貴方に到達しようだね。
 >>319 のカキコを見て僕が感じた見苦しいという思いを伝えたい。苦笑にはそう
いうメッセージがある。
 
 こういうことは、へたに言葉で説明しても伝わらない。苦笑という表現なら、少なく
とも一部の人には伝わるだろうと思っていたのさ。

 苦笑にはもっと伝わって欲しい思いはあるんだが、全部伝わるとは、僕も思って
ない。貴方のカキコで、思いの5割から6割程度伝わった人がいるということがわ
かったよ。
325神も仏も名無しさん:2008/07/28(月) 16:54:08 ID:wkaGHQbH
まあ、どうとでもいいたまえ。(苦笑
326:2008/07/28(月) 21:26:31 ID:OwwjA3Zn
 私は聞いております人は皆神佛の子であり、それは変わらないと。南無阿弥陀佛とは「貴方は神佛の子であると言う約束である」と。それ以外無いのだと。
327渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/28(月) 21:30:48 ID:qmHWOVzL
>325
<苦笑>にはTPO(時と場所と場合)が必要。
使うところを間違えると間抜けになる。

 気位の高い人は気を付けた方がいい。(苦笑)
328あぼーん:あぼーん
あぼーん
329神も仏も名無しさん:2008/07/29(火) 01:01:28 ID:zCspY7+r
>>320

まあ、320を見ると、まさにこれこそが、典型的な基地外

の見本であるということも、まあ、言えるわな。
330渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/29(火) 12:05:31 ID:xgq8jUa5
>329
 日本人の先祖達は、「桃太郎」という架空の人物の元に創作物語を添えた。それが「桃太郎物
語だ」。
 「桃太郎物語」をなぜ作ったのか。「善を行え。悪をするな」といことの大切さを伝える手段
として「桃太郎物語」を創作したんだ。犬や猿やキジと会話するそんな化け物がどっかに存在す
るんじゃない。吉備団子を喜ぶキジがいるわけがない。人は、結婚すれば、田中さんが鈴木さん
と結婚すると鈴木さんに変わる。人は、どう名前が変わってもいい。しかし桃太郎はそうじゃない
んだ。桃太郎という名前を離れてどっかに存在するんじゃない。
 善をすることは大事なことだ。悪いことをしてはいけないんだ。こういうことを、少年少女に伝え
るための道具として、桃太郎物語が作られたんだ。それが桃太郎物語なんだ。そういうことを忘
れちゃいけない。
 桃太郎が偉いんじゃない。桃太郎は架空の人物なんだ。それよりも、桃太郎を見習って、一人
一人が善をすることが大事なんだ。悪をしないことが大事なんだ。桃太郎物語は、物語を通じ、
善を称賛し、悪を懲らしめている。こういう構造を子供達に示そうという働きにこそ、物語創作
者たち先人の知恵がある。
 善は我々がそれを実行するところで実体をもつ。悪はそれをしないことで意味を持つ。南無阿
弥陀仏は、座禅して称えるところに根元的な意味を持つんだ。


 まあ、↑を見ると、まさにこれこそが、典型的な基地外の見本であるということも、まあ、言
えるわな。(by >>329  −329の笑話−)
331神も仏も名無しさん:2008/07/29(火) 18:34:53 ID:zCspY7+r
>>330
923 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :04/05/03 23:44
>>877
>架空ではないだろ?

 架空でなかったら何なんだい?。架空と言っても、原型はあるんだよ。原型はもちろん釈迦だ
よ。原型は釈迦でも、阿弥陀が架空ということには変わりがない。
 あんたらは、犬に吉備団子を与え、日本一の旗を掲げて鬼退治した桃太郎を、実話と思うか。
架空と思うか?。
 阿弥陀仏が架空でなかったら何なのか。答えが出るまで、おぬし、豆腐の角に頭を休めて、坊
主を名乗るのを辞めとくといいi。

名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 投稿日:04/05/06 20:33
>>354
>南無阿弥陀仏といへる行体は、すなはちわれらが浄土に往生すべきことわりを、
この六字にあらはしたまへる御すがたなり

 我々には霊魂がある。死んだら霊魂は冥界に行く。冥界には王様がいる。王様
は、存在を信じてくれた人だけ、自分の冥界に引き入れてくれる。冥界の王様を
信じると、あ〜ら、不思議とばかりに、体から霊波が出て、あの世に一瞬で届く。
死ぬまで信じ固めていくと、冥界の王様を信じた霊波で、王様の世界に引き入れ
られ、霊魂は清められる。ああ、ありがたい。ありがたい。
 冥界には王様がいないという人が一人でもいると、今度は、その全員が冥界に
入れなくなる。連帯責任だ。だから、みんな信じないといけない。王様の実在を
信じ固め、死んだら王様の冥界に行きましょう。
 栗花さん。あなたが言いたいことはそういうことなんだろう?。親鸞だの信心
だの、仏教だのと言わなくても話ができるじゃないか。
332渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/29(火) 19:34:04 ID:xgq8jUa5
>>330
 僕は、自分が過去に2ちゃんねるで書き込んだ記事が、2ちゃんねるの中で
コピペされることはある程度我慢しているが、こうもやたら書き込むと、まるで
ここのスレッドが渡海学校の教室のようになって、不愉快に思う人もいるだろう。

 ここのスレッドは、渡海思想を学ぶところではない。僕は、自分の発言に責任
を回避するつもりはないが、掲示板の議論には流れがある。勢いもある。そうい
う背景を無視してコピペされることは、僕にとって愉快ではない。
 僕の中でも、考えには変化があり、以前の考えていた考えを今は持ってないこ
とも多い。書いた本人が忘れているものもある。

 無意味なコピペは自粛したらどうだ
333渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/07/29(火) 19:35:40 ID:xgq8jUa5
>332  m(_ _)m

誤 >> 330
正 >>331
334神も仏も名無しさん:2008/07/29(火) 20:20:52 ID:zCspY7+r
972 名前: 渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 04/04/24 21:47

>>965
> 十分、汗かいてるよ。

 汗かいてる?。うん。それならもう心配することはない。
 十分あせかいてる人に、重ねて汗をかけなどと、僭越なことは言わないよ。
 汗を掻いていても、困ったときがくれば、座禅して念仏してみなさい。どこか
に活路は見つかるだろう。

 困ってから、急いで念仏称えても間にあわんかもしれん。そう思ったら、
困ってないときから、こまめに称える習慣をつけるといい。背筋を伸ばし
腹式呼吸しながら息を整え、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えるといい。
それだけで、もし、気づかなかった問題が見つかれば、それも儲けもんだ。

 親鸞さんも、お釈迦様も、965が幸せになること以上のことは、望んでいない。
335神も仏も名無しさん:2008/07/29(火) 20:32:34 ID:7ObnN2eA
>ここのスレッドは、渡海思想を学ぶところではない。

だったらこのスレに来るな。つーかこのスレの秩序を乱す渡海はこのスレに必要ないから。
336神も仏も名無しさん:2008/07/29(火) 20:55:36 ID:zCspY7+r
渡海は自分の書いた事も覚えてられない認知症

渡海、お願いだから来ないでね!

あ!言っても理解出来ないから、無駄なんだ・・・・・・・・・・
337神も仏も名無しさん:2008/07/30(水) 07:00:18 ID:tjn5AYR4
まことの信を定められてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、そらにみちみちて、
釈迦のをしへ、 弥陀の本願はひがことなりと仰せらるとも、一念も疑あるべからず
3387:2008/08/01(金) 09:15:57 ID:1Sk/mheD
まことの信を定められてのちには・・・・

そう、「定められて」と示されていることが本当に有り難いですね。仏の方より往生は治定せしめたもう・・・。

南无阿彌陀佛

南无阿彌陀佛
339渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/02(土) 10:45:38 ID:s54hCTmD
>337
>まことの信を定められてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、そらにみちみちて、
釈迦のをしへ、 弥陀の本願はひがことなりと仰せらるとも、一念も疑あるべからず。

 そうか、いいことをしなければいけないんだ。悪いことをしてはしてはいけないんだと分かる
と、非常に多くの人々が、そのような努力をされていることに気づかされてきます。

 ああ、あの人も桃太郎さんみたいだ。こっちの人も桃太郎さんみたいだな。あっ、頑張って
いる桃太郎さんは、向こうにもいるぞ。そっちの方にもいるぞ。桃太郎さんは、実にあらゆると
ころ、空に満ち満ちているように思えてくるでしょう。

 桃太郎さんの教え、つまり、 いいことをしなければいけない。悪いことをしてはしてはいけな
いという教えは、仮に間違っているという歪んだ主張をする人がいても、それに引きづられて
決して疑いを持ってはいけません。
 
念仏を称えることが大事なんだなと分かれば、弥陀のような仏、釈迦のような仏は、そらにみ
ちみちているように思えてきます。念仏を称えることが大事なんだという釈迦の教え、 弥陀
の本願は間違っていると、誰かが言っても、それに引きづられて疑いを持つべきではありま
せん。
340渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/02(土) 18:17:03 ID:s54hCTmD
>338
 いいことをしなければいけない。悪いことをしてはいけない。こういう確信、
認識観、世界観は、架空ではあっても、桃太郎さんが私たちに持たせてく
れる。桃太郎さんは架空だけど、本当に有り難いですね。

 そうか。念仏は大事なんだな。念仏することは大切なことなんだな。こう
いう確信は、架空ではあっても、阿弥陀物語に登場する阿弥陀仏が、時
代を超えて持たせてくれる。阿弥陀仏さんは本当に有り難いです。

 南无阿彌陀佛 南无阿彌陀佛
341神も仏も名無しさん:2008/08/03(日) 09:44:27 ID:55w8Wbsl
>>338

>そう、「定められて」と示されていることが本当に有り難いですね。仏の方より往生は治定せしめたもう・・・。

そやね。だから念仏行者は義なきをもって義とするんやね。
義とは行者のはからいと祖師は言われとりますがな。

まことの信には信心守護の益がありますし、阿弥陀さんの心は金剛心ですから。
342渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/03(日) 11:29:13 ID:OvQaSf3J
>>341   議論の結論に異議を差し挟むつもりはない。考えのプロセスに賛成しかねる。

>そやね。だから念仏行者は義なきをもって義とするんやね。義とは行者のはからいと祖師は言
われとりますがな。

 念仏行者は義なきをもって義とすると言ったのは誰?

 親鸞は言う
他力には義なきを義とす
 <尊号真像銘文末 末燈鈔 浄土三経往生文類 親鸞聖人血脈文集 如来二種回向文>

他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり
        <正像末和讃>
他力には義なきを義とすとしるべきなり。
        <正像末和讃>

他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。<消息>
如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人の仰せに候いき。<消息>
このゆえに他力なり。義なきがなかの義となり。<消息>
義なきを義とすと、他力をば申すなり。<消息>
他力と申すは、行者のはからいのちりばかりもいらぬなり。かるがゆえに、義なきを義とすと申
すなり。<消息>
弥陀の本願を信じそうらいぬるうえには、義なきを義とす<消息>
他力ともうすは、仏智不思議にてそうろうなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりをえそ
うろうなることをば、仏と仏とのみ御はからいなり。さらに行者のはからいにあらずそうろう。
しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。義ともうすことは、自力のひとのはからいをもうす
なり。他力には、しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。        <消息>
343渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/03(日) 11:31:11 ID:OvQaSf3J
 歎異抄は言う。
 念仏には無義をもって義とす。
 念仏は、無碍の一道なり。
 念仏は行者のために、非行非善なり。

 金子大栄は言う。
 「念仏者は無碍の一道なり」。
 「念仏者は」念仏(者)は、者を「は」と訓したるものが、「者は」と連書された。(岩波文
庫 金子大栄)。

 念仏行者は義なきをもって義とすると言ったのは誰?
 これは、2ちゃんねるの341が初めてではないか?


 自説を立てることに僕は反対はしない。絶対的孤立的一人説であることは、なんの支障もない。
しかし、自説は自分の責任で立てるべきであり、祖師が言っていると誤解することは、厳重に避
けたいものだ。

 なお、ついでながら、念仏者は無碍の一道なりと読む金子大栄流の読み方に、渡海難は反対し
ている。
 「念仏には無義をもって義とす」という歎異抄の考えにも、渡海難は反対している。
 いずれも理屈に合わないと考える。

 「他力には義なきを義とす」これは正しい。親鸞の考えだから正しいのではなく、もっとも自
然で素直な分かりやすい考えだから、僕はこれに賛成する。


 自分はどのようなことを考えてもいいが、それが自分から発した説か、他人からの説かは、明
瞭に意識しておくべきでしょう。
344神も仏も名無しさん:2008/08/03(日) 15:42:05 ID:5RgsvS7x
座禅して自力で念仏称えるのだから、無義の義というのは理屈に合わないだろね。
でも、まったくはからわない、てのも考えてみれば無理な話に思える。
こういうところになると298さんの説なんかが、なるほどと思えてくるけどなあ。

345渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/03(日) 16:14:01 ID:OvQaSf3J
>>344
 「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と。(行の巻)

 お釈迦様と法照様と親鸞様に申し上げる。あなた方の理屈では、座禅して自力で念仏称えるの
だから、無義の義というのは理屈に合わないだろね。でも、まったくはからわない、てのも考え
てみれば無理な話に思える。
 
 親鸞様に申し上げる。貴方の説は無義の義という理屈に合わない。平成時代、2ちゃんねると
いう掲示板にご登場遊ばされた298さんの考えには、なるほどと思えてくるものがある。親鸞さ
んよ。貴方の説は、298さんの考えには及ばないよ。  (by 344)


 この上は、念仏をとりて信じ奉らんとも、また捨てんとも、面々の御計らいなりと云々(親鸞)
346神も仏も名無しさん:2008/08/03(日) 16:34:54 ID:5RgsvS7x
なんか、親鸞さんに成り代わって説明してるみたいだ。
その姿勢は、最早すがすがしいね。
自分の信心に一片の疑念もないんだろね。
ひとえに「王いま座禅してただ当に念仏すべし」に依る、ですか。
よくそこまで解釈できたものだよね。すげーや。
おれなんか、あーでもないこーでもない、だもんなあ。
ほんとすげーです。うらやましくはないけど。
347渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/03(日) 17:24:15 ID:OvQaSf3J
>346
>なんか、親鸞さんに成り代わって説明してるみたいだ。
  単なる受け売りだ。僕は親鸞さんの腰巾着みたいなもんだからね。

>その姿勢は、最早すがすがしいね。
  他に能がないだけさ。

>自分の信心に一片の疑念もないんだろね。
  親鸞さんの信心に疑念がないだけさ。自分の信心は、疑いの固まり
だよ。

>ひとえに「王いま座禅してただ当に念仏すべし」に依る、ですか。
  そうだね。

>くそこまで解釈できたものだよね。すげーや。
  解釈なんかしてないだろう。親鸞さんの言っていることを、そのまま
伝えているだけだよ。述べて語らずだよ。教行信証読んでごらん。そのま
ま書いてあるだろう。本願寺発行の教行信証には墨が塗ってあるんなら、
岩波や角川のを読むといい。

>おれなんか、あーでもないこーでもない、だもんなあ。
  幸せだからだろう。

>ほんとすげーです。うらやましくはないけど。
  僕も貴方を羨ましくないよ。おあいこだな。
348あぼーん:あぼーん
あぼーん
349神も仏も名無しさん:2008/08/04(月) 11:42:32 ID:fN3e3ynW
>>347

>「念仏には無義をもって義とす」という歎異抄の考えにも、渡海難は反対している。
 いずれも理屈に合わないと考える。

まあ、理屈で考えれば納得できないんだろうなぁ。

>「王いま座禅してただ当に念仏すべし」

都合に合う部分だけ納得するわけか。聖教よみの聖教しらずだわな。
観経さんもう一遍読み直してみ。では。

聞其名号 信心歓喜 乃至一念。
350渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/04(月) 12:33:08 ID:DM8tmBP1
>>349
> まあ、理屈で考えれば納得できないんだろうなぁ。

 それじゃ貴方は、納得しているのか?
 納得しているんじゃなく、もっと単純なんだろう。理屈で考えることができない。疑い、そして自
分で考えるということが貴方にはできないだけだろう。

 聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。
 超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。

 考えの結論は合っているか違っているか知らないけど、僕はこの問題について、聞き、そして
思索していると、僕は自分を信じているよ。

 信謗共にあるべし。
 「理屈を考える。聖教を妄信しない。自分の頭で考える」こういう作業を自分でするというこ
とを夢にも思ったことのない坊さんには、思いもよらないことだろう。
351渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/04(月) 12:37:48 ID:DM8tmBP1
>都合に合う部分だけ納得するわけか。聖教よみの聖教しらずだわな。

 妄信しない。批判的に自分で考える。批判の余地があるところと、余地のないところを峻別す
る。これは宗教だけでなく、あらゆる事で重要な姿勢だ。批判の余地あるところは、正論はなに
かを考える。
 僕の聖教の読み方は完全だなどと、自分で思ったことはないが、僕の読み方でおかしいと貴方
が思ったところはどこだい?。例が挙がるか?。挙がらないだろう(苦笑)。

 貴方は根拠もなく反発しているだけだ。聖教を思索的に読んでない人には、批判しようにも批
判ができない。思索的に読んでないから批判できないという人は、信心があるんじゃない。妄想
して、自分で自分に騙されているだけだ。
 道を歩いて虫を殺せば、鬼だ・畜生だなどと、そんなノータリンを考えていても、ノータリンを考
えている自分に気が付かない人がいた。いろんな妄想・迷想が頭の中でぐちゃぐちゃになってい
て、それで自分は信心があると妄想している。
 貴方がそうかどうかは知らないが、そんな人からなら、聖教よみの聖教しらずと言われれば、
名誉なことだ。

> 観経さんもう一遍読み直してみ。では。聞其名号 信心歓喜 乃至一念。

 これは誤記か? もしかすると、これがどこに書いてあるのかも知らないんじゃないか?。聖
教よまずの聖教しらずなんじゃないか?。貴方は、仏教のことについて発言するのは、十年早す
ぎるかも知れんぞ。もう少し勉強してこい。(苦笑)

 ブログ親鸞仏教、更新しました。 www.しんらん.jp
352あぼーん:あぼーん
あぼーん
353神も仏も名無しさん:2008/08/04(月) 16:12:56 ID:fN3e3ynW
>>350-351

やはりこの程度か。わが字ぢからをもって聖教を読むとこうなる。
まあ自力のうちはそれでもよかろうさ。

しかし自流を立てるのならば真宗という字は使わない方が宜しかろう。
聖教の相伝もなきくせ法門は蓮如さんの時代からあったわけだから。

まあ、邪説である以上それを改める意味で改邪鈔があなたにはふさわしい。

「それ本願の三信心と云うは、至心・信楽・欲生これなり。
まさしく願成就したまうには、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」(大経)とらとけり。
この文について、凡夫往生の得否は乃至一念発起の時分なり。
このとき願力をもって往生決得すと云うは、すなわち摂取不捨のときなり。
もし『観経義』によらば、「安心定得」といえる御釈、これなり。
また『小経』によらば、「一心不乱」ととける、これなり。
しかれば、祖師聖人御相承弘通の一流の肝要、これにあり。
ここをしらざるをもって他門とし、これをしれるをもって御門弟のしるしとす。」

三経に安心あり。さて上記を知らざるをもって他門とするわけだ。
ではでは。
354渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/04(月) 19:57:59 ID:DM8tmBP1
>353
> まあ自力のうちはそれでもよかろうさ。

 貴方は、それで自分には他力の信心があると思っているのか?(苦笑)

まあ、なんでもいいよ。どうせ、仕事は坊さん業をやっているんだろう。今
度は書籍名と中身とは間違えてないようだ。気を付けたようだね。

 改邪鈔のここに書いてある内容は難しくない。貴方も、その意味くらい、
理解できるようになるといいのにね。まともに読んだことはないんだろう。
この意味が分かる人は、貴方の回りにもほとんどいないんだろう。

 観無量寿経に何が書いてあるかも分からない内は、難しいだろうね。
それともここで、貴方が詳細を解説してみるか?

 はは。冗談冗談。(笑)
355あぼーん:あぼーん
あぼーん
356渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/07(木) 13:51:41 ID:5yrxdcfV
 最近、298さんが見えないね。このスレで、唯一、僕が高く買ってた
人物なんだけど、僕が少し強く言いすぎたかな?

 信心がしっかりあって、聖教もきちんと読める人で、しかも彼が尊敬
できる人に出会えると、一気に開花するんだろうけどね。そう言う人は
非常に数が少ないということなんだろう
357神も仏も名無しさん:2008/08/07(木) 14:24:18 ID:UbyWcG6e
>>356

なんだ、その上から目線w単純に不快なんだが。
358渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/07(木) 14:45:04 ID:5yrxdcfV
>357
 郷に入っては郷に従え。物事にはTPOがある。2ちゃんね
るには、2ちゃんねるの文化がある。2ちゃんねるはことのほ
か、あくが強いところだ。
 もともと気位が高く、僻みの激しい人には、耐えられない領
域だ。ここでは、面の皮に厚さが必要だ。
359神も仏も名無しさん:2008/08/07(木) 15:19:08 ID:CKtX/Kr+
>>356

>僕が少し強く言いすぎたかな?

心配いらないよ。問題にしていないと思う。
360あぼーん:あぼーん
あぼーん
361神も仏も名無しさん:2008/08/08(金) 08:12:22 ID:uULjBeM4
>>356

君ほど暇じゃないんだろう。

>信心がしっかりあって、聖教もきちんと読める人で、しかも彼が尊敬
>できる人に出会えると、一気に開花するんだろうけどね。そう言う人は
>非常に数が少ないということなんだろう

で、君はそういう師に出会ったのかな?
362渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/08(金) 10:32:46 ID:jIizuwUr
>361
>君ほど暇じゃないんだろう。

 僕の環境を自分の勝手な想像で決めつけたい衝動があるようだね。僕がここに出入りしているこ
とが不愉快なんだろう。言っておくが、僕は暇で2チャンネルに来てるんじゃないよ。自分の生涯の
残り時間はわずかだと思うから必死になって、今、使命感を感じて書き込んでるんだ。

>で、君はそういう師に出会ったのかな?

 もちろんだとも。僕が師に出会ってないとでも思ったか。僕が出会ったときには、既に故人だっ
たけどね。僕の使命感は師の遺訓だと信じているよ。

 見ず知らずの人にいきなりものを尋ねる場合、「君」という二人称は言葉を使わない方がいい。
一番一般的なのは、「貴方」という表現だ。

 「君」という表現は、僕に対する不快な感情を込め、敢えて使っているんだろうが、前ぶれもなく
匿名で露骨に不快感をぶつけたくなったら、自分には相手がまともに見えなくなっていると思い、
自分の精神状態を疑うべきだろうね。
363神も仏も名無しさん:2008/08/10(日) 16:00:46 ID:yzHQAVvj
渡海氏のお師匠さんは800年前に故人となられた御開山ですか。
師の遺訓と信じて渡海流念仏にやよ励む。結構なことですな。


しかし298氏がこなくなって、このスレ急に静かになってしまったね。
やはり彼の発言は、寺院さんとかには見過ごしに出来ない内容だったんだろね。
書き込みにみんな気合が入っていたものね。
実際、浄土真宗の根幹にかかわることだったのかもしれんよね。
364神も仏も名無しさん:2008/08/10(日) 21:12:25 ID:LsV7f5rr
良いじゃ無いですか。別に御仏と御念仏と御開山様にとって、浄土真宗なんて関係ないから潰れたって困らないし。
365神も仏も名無しさん:2008/08/11(月) 20:07:38 ID:sJFjgwwW
>>363

>実際、浄土真宗の根幹にかかわることだったのかもしれんよね。

う〜ん。そう思うよ。
真宗の理想像?みたいなもの考えさせられたからね。
366神も仏も名無しさん:2008/08/12(火) 11:45:57 ID:ucQolQqE
>363
 父の王にいうてのたまはく、王いま坐禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。 
(行の巻)

親鸞氏のお師匠さんは親鸞氏より500年前に故人となられた中国の法照さんですか。師の遺訓と信じて
親鸞流念仏にやよ励む。親鸞さん、あなたもまあ、結構なことですな。わたしゃ、その手には乗りませんよ。

親鸞様に申し上げる。貴方の説は無義の義という理屈に合わない。平成時代、2ちゃんねるという掲示板
にご登場遊ばされた298さんの考えには、なるほどと思えてくるものがある。親鸞さんよ。貴方の説は、298
さんの考えには及ばないね。  (by >>344)

しかしニクヤ氏がこなくなって、このスレ急に静かになってしまったね。やはり彼の発言は、寺院さんとか
には見過ごしに出来ない内容だったんだろね。書き込みにみんな気合が入っていたものね。(親鸞は自力
の人・坐禅の人だが、ニクヤ氏は完全他力の人。いよいよ親鸞を超える信心の人が登場したわけでこれ
は)実際、浄土真宗の根幹にかかわることだったのかもしれんよね。

 浄土真宗も、いよいよ「2ちゃねんるニクヤ宗」に名前を変更して、ニクヤさんに他力の真実を教わる時
代に入ってきたようだ。道を歩いて虫を殺せば、鬼ケダモノだという人が登場する時代だから、何があっ
ても僕は驚かないよ。

>>365

>う〜ん。そう思うよ。 真宗の理想像?みたいなもの考えさせられたからね。


親鸞聖人の思いもよらなかった珍しき教えを説くのが真宗の理想像なんだろう(笑)。
367渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/12(火) 11:47:37 ID:ucQolQqE
>366
 ↑
 渡海 難がカキコしました。 
368神も仏も名無しさん:2008/08/12(火) 12:23:28 ID:z3DuH9eV
>>366

>父の王にいうてのたまはく、王いま坐禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。(行の巻)

念仏三昧を勧める場所だね。
そこで直ちに座禅念仏としては誤りだよ。

行巻の先を拝読してみよう。

『仏本行経』に依る。   法照
何者をか、これを名づけて正法とする。  

もし道理に箇らば、これ真宗なり。
好悪いまの時、須らく決択すべし。  
一一に子細朦朧することなかれ。

正法よく世間を超出す。  
持戒・座禅を正法と名づく。
念仏成仏はこれ真宗なり。  

仏言を取らざるをば、外道と名づく。

因果を撥無する見を、空とす。  
正法よく世間を超出す。

禅律いかんぞこれ正法ならん。  
念仏三昧これ真宗なり。

対にして語られてるね。
念仏三昧これ真宗なり。ここに極まるわけさ。
369渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/12(火) 12:59:22 ID:ucQolQqE
>368
>念仏三昧これ真宗なり。ここに極まるわけさ。

 真宗があれば正法はいらないということか? 二者択一じゃなく、道理に相応した付随的多面性
だよ。

 聞法悟道して真常を證す  何者をかこれを名づけて正法と為る 若しこの道理ならばこれ真宗
なり 好悪この時にすべからく決着すべし 一々に汝くはしく朦朧とすることなかれ
 (五会法事讃略称 親鸞作 親鸞真筆 専修寺蔵)

 持戒坐禅を正法と名づく 念仏成仏これ真宗なり 仏言を取らざるを外道と名づく 因果なしとの
見を発すれば空となす

 禅律如何これ正法なり 念仏三昧これ真宗なり 了心を見性せばすなわち是仏なり いかんぞ
道理相応せざらん

 念仏は声声に仏種を下す 坐禅持戒は真功を用いてなり 汝若し修せずしてすなわち仏になると
いはば 喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし

 
 坐禅持戒は非常に重要である。なぜそれが重要なのか。念仏に具体的な効果を具現したいか
らである。禅持戒を疎かにすれば、それは腹の空いた人が自分に向かって吹いてくる風を、腹の
中に押し込めようとするものであり、腹の足しにならないからである。念仏すれば仏になるからと
言って、腹をすかせたままの仏になって、どれだけの意味があるというのか。


 風を腹に蓄えて空腹の足しにしたいと思えば、それもいいだろう。僕は付き合いかねるね。
370渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/12(火) 12:59:58 ID:ucQolQqE
>369
 あげ
371渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/12(火) 13:06:02 ID:ucQolQqE
>369
誤 五会法事讃略称 親鸞作

正 五会法事讃略抄 親鸞見聞集
372神も仏も名無しさん:2008/08/12(火) 14:21:29 ID:z3DuH9eV
>>369

なるほど。正法とは何かと言いたいわけだね。
ただ、それが座禅念仏であると言えば誤りになる。

正法とはこれ念仏三昧、すなわち佛名を称するに尽きる。

また行巻を拝読してみよう。

(観経義疏)三論の祖師、嘉祥の云わく、問う、念仏三昧は何に因ってか、よくかくのごとき多罪を滅することを得るや、と。
解して云わく、仏に無量の功徳います。仏の無量の功徳を念ずるがゆえに、無量の罪を滅することを得しむ、と。已上

(大経義疏)法相の祖師、法位の云わく、諸仏はみな、徳を名に施す、名を称するは、すなわち徳を称するなり。
徳、よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること、決定して疑いなし。
称名往生、これ何の惑いかあらんや、と。已上
禅宗の飛錫の云わく、念仏三昧の善、これ最上なり。万行の元首なるがゆえに、三昧王と曰う、と。已上

個人的には渡海難さんの考え方は嫌いじゃない。
ご聖教の読み込みもそこら辺の坊さんより遥かに上だと思う。
373渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/12(火) 16:10:46 ID:ucQolQqE
>>372
 念仏三昧は、これ真の無上深妙の 禅門なり。  〜 今「大無量寿経」によって五会に仏を念
ず。 〜 五とはこれ会数なり。会とは集会なり。かの五種の音声、緩より急に至るまで、仏法
僧を准念して更に雑念なし 〜 父の王に曰く、王今坐禅してただ当に念仏すべしまた、 〜 
また共に諸仏が定を印とすべきところなり。また如来禅と名づく、二乗外道等の禅にあらず。ま
ことに知るべし。 (五会法事讃略抄 宗祖真筆 親鸞見聞集)

 親鸞さんよ。なるほど貴方は正法とは何かと言いたいわけだね。ただ、それが座禅念仏であ
ると言えば誤りになる。念仏三昧は、禅門であると言えば、これは間違いだよ。
 個人的には親鸞さんの考え方は嫌いじゃない。ご聖教の読み込みもそこら辺の坊さんより、
親鸞さんの方が遥かに上だと思う。

 座禅念仏?知らんなぁ。??
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 親鸞さんは、最近のそこら辺の坊さんより上かどうか知らないが、すくなくとも372よりは上
だろう。

>>372さんよ。あなたは、>>365さんとともに、→ http://shinshu.in/ここで教わってくるといい
298さんのホームページだそうだ。親鸞が足元にも及ばないびっくりするような教えを説いて
くれているぞ。教えを学ぶ相手をこっちに乗り換えた方がいいぞ。



 以後、この問題でコメントは無し。 しばらく多忙。
374298:2008/08/14(木) 09:47:51 ID:B1g6af96
「道を歩いて虫を殺せば、鬼ケダモノ」という見解が、それほど的外れであるとは、私は思いません。

そのようなことをしないように気をつけても、免疫系は殺生をしています。

また、自分から関わりの遠いところでも、殺生は日々起こっており、
それをとどめるために真剣な私であるわけでもありません。

これらは結局、私が自身を優先していることの現れです。

このような心を持つ私は、本来救われない自分だからこそ、
他力の有り難みを感じます。

ひどい私ではありますが、弥陀は救ってくださいました。

そこにご恩を感じております。

南无阿彌陀佛
375渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/14(木) 14:52:30 ID:0fxuj537
>374
 コメントするのも馬鹿馬鹿しい。

 それより、 ブログ親鸞仏教 更新しました。

 www.しんらん.jp/

 田中氏の議論の続きを書きました。
376神も仏も名無しさん:2008/08/14(木) 14:54:27 ID:0zH6SAld
>373
覚如、蓮如が座禅して念仏するべしと勧化した文証は未だ挙げられていませんが?
また、親鸞が仮に座禅をして念仏をすることを勧めていたならば、
和語の聖教にも多く載っているはずです。よろしければ、こちらも文証をおあげ下さい。
377神も仏も名無しさん:2008/08/14(木) 16:25:09 ID:HsC0L7rn
>>376

だから、渡海なんて相手にするレベルじゃねーってのw
自分の字ぢからで聖教解釈して勝手に自説を言ってるだけ。

これを信じるもの無間地獄に堕罪するものなり。
378神も仏も名無しさん:2008/08/15(金) 13:20:52 ID:0vJ1EclJ
>374
真実の行信を獲れば、必ず十種の益を得ると言われます。
正定聚不退転の徳の体は、法蔵菩薩の六波羅密行のお徳、自利利他行のお徳と全く変わることはない。
法蔵菩薩の行徳が、私たちにとってはこの上無い利益となるわけですね。
だから、今生きている所に必ず十種の利益があると。
今まで、蚊もぱちんと叩いて当然だったのが、当然の事じゃなくなるんだね。
その利益のあらわれの強弱は人によって異なるけれどね。
379渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/16(土) 10:06:55 ID:YIcp2nj5
>>376
>覚如、蓮如が座禅して念仏するべしと勧化した文証は未だ挙げられていませんが?
 そんなものは十年、百年待ってもでないでしょう。それがどうしたの?

>親鸞が仮に座禅をして念仏をすることを勧めていたならば、和語の聖教にも多く載っているは
ずです。

 誰一人、念仏など勧めていませんよ。誰かが勧めているとでも思っているんですか?

 このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり
(歎異抄)。

 念仏せよとか、座禅して念仏せよとか、坊主になれとか、そんなこと誰かが貴方に勧めている
んですか?。坊主になってほしいなどと、貴方に口酸っぱく懇願している人が一人でもいるんで
すか?。いないでしょ。何なら、そんな人の名を一人でも挙げてみなさいな。いるはずもないで
しょ。
 貴方には、念仏も座禅も必要ない。念仏など忘れ、坊主も捨てて、自分が一番気に入った
人生をひた走りに歩んで行ったらどうですか。
380あぼーん:あぼーん
あぼーん
381渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/16(土) 10:26:02 ID:YIcp2nj5
>>377
>自分の字ぢからで聖教解釈して勝手に自説を言ってるだけ。これを信じるもの無間地獄に堕罪
するものなり。

 渡海難を「字ぢからで聖教を解釈している」と非難するのはいいが、少し早すぎるんじゃない
か。おぬしは、「五会法事讃略抄」という書物の名を聞いたことがあるか?。ないだろう。おぬ
しの周りでさえ、この書物の名に関心を持ったことがある人がいるか?。いないだろう。

 如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず。このゆゑに名づけて聞不
具足とす。

 聖教データベースでさえ五会法事讃略抄をはずしているんだから恐れ入る。親鸞の真筆につい
ては、明治・大正時代に外国から鑑定技術が輸入され、その結果、飛躍的に発展した。
 「五会法事讃略抄」は、歎異抄とは一見するとまっ反対のことが書いてある。読めば、これま
での理解が激変するだろう。「字ぢからで聖教を解釈している」と非難するのは、親鸞の真筆書
くらい自分の目で読んでみてからにしたらどう?。それでなければ、「字ぢからで読んでいる」
と言うのは、単に、おぬしの妄想ということになる。

 まあ、あなたは、宗祖の言葉が聞こえる耳のある人ではなさそうだ。宗祖の書き物を読める目
のある人でもなさそうだ。貴方のような人なら、僕を「字ぢから」と非難するのは勝手だ。ここは2
ちゃんねる。あなたも好きに発言すればいい。
382渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/16(土) 10:29:11 ID:YIcp2nj5
>>378
>真実の行信を獲れば、必ず十種の益を得ると言われます。
 真実の行信を獲なければ、十種の益は得られないと言われています。

>正定聚不退転の徳の体は、法蔵菩薩の六波羅密行のお徳、自利利他行のお徳と全く変わること
はない。

 邪定聚・退転・輪廻の本体は、「法蔵菩薩の六波羅密行のお徳、自利利他行のお徳」と縁もゆ
かりもあるわけがない。

>法蔵菩薩の行徳が、私たちにとってはこの上無い利益となるわけですね。
 法蔵菩薩の行徳は、邪定聚機には、全く無益となるわけですね。

>だから、今生きている所に必ず十種の利益があると。
 今生きている邪定聚機には十種の利益などがあるわけがない。

>今まで、蚊もぱちんと叩いて当然だったのが、当然の事じゃなくなるんだね。
  邪定聚機には、ときおり、神経症に見舞われる時期もある。

>その利益のあらわれの強弱は人によって異なるけれどね。
  神経症のあらわれの度合いは、邪定聚機でも、人それぞれでしょう。神経症は治る病気だ。
多少重くても気にするな。
383あぼーん:あぼーん
あぼーん
384神も仏も名無しさん:2008/08/16(土) 10:51:52 ID:DvREN0gb
>>381

>おぬしは「五会法事讃略抄」という書物の名を聞いたことがあるか?。ないだろう。

だから字ぢからだっていってるのw分かる?行巻によく引用されている以上拝読しますわ。
自分だけが読んだことがあると思ったらあなたの世界はあまりに狭すぎる。

「念仏三昧は無上真妙の禅門」これをあなたは座禅と自釈したわけでしょw
残念。だから字ぢからだって言ってるの。勝手な自説は控えた方が宜しかろう。

合掌
385渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/16(土) 11:05:10 ID:YIcp2nj5
>384
 父の王にいうてのたまはく、王いま坐禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を
求めんや。生を離れて無生を求めんや。

 親鸞さんよ。私はだから字ぢからだっていってるのw分かる?行巻によく引用されている以上
拝読しますわ。親鸞さんよ。自分だけが読んだことがあると思ったらあなたの世界はあまりに狭
すぎる。
 親鸞さん。貴方は、「念仏三昧は無上真妙の禅門」これをあなたは座禅と自釈したわけでしょw
 残念。だから字ぢからだって言ってるの。親鸞さん。勝手な自説は控えた方が宜しかろう。合



 仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとの疑をあらせじと、説きおかせた
まふことを申すなり。
 まあ、どうぞお好きな説をおたてなさいな(笑)。
386ファルコン:2008/08/16(土) 11:17:08 ID:tNgp7fol
そんなに浄土にいきたいなら歌を教えてやるよ。

母なるー大地をー、しずかなー大地をー、
・・・・・・
あーーー、あーーー、ひーとの子ら土ぃに感謝ぁせよー。
387神も仏も名無しさん:2008/08/16(土) 12:11:05 ID:0p+Kml++
>379
「不退のくらいすみやかにえんとおもはんひとはみな
恭敬の心に執持して弥陀の名号称すべし」
「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」

ちゃんと勧められていますね。もちろん自力の称名は嫌われるとありますが。
蓮如上人、こちらも挙げきれないほどあります。
「ひたすら弥陀如来のやすく御たすけにあづかるべきことの
ありがたさ、またたふとさよとふかく信じて、ねてもさめても
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すべきばかりなり。」
この上は、このご勧化を採るも捨てるも
あなたのおはからいだと、『歎異抄』にはあるわけですね。
388神も仏も名無しさん:2008/08/16(土) 12:34:08 ID:0p+Kml++
>382
すみません、真実の行信ではなくて、
「「一念」といふは、信心ふたごころなきがゆえに、「一念」といふ。
これを「一心」と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、
かならず現生に十種の益を獲。」でした。
「現生十益」は、信心の利益と言う事でした。訂正いたします。
他力の行信ならば、同じ事になるでしょうが。
いうまでもなく、座禅して念仏申す利益ではありません。
389神も仏も名無しさん:2008/08/16(土) 12:36:50 ID:0p+Kml++
>386
なつかしい!厨房のとき、合唱したよ。
浄土も土だね。
390渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/16(土) 13:29:33 ID:YIcp2nj5
>>387
>「不退のくらいすみやかにえんとおもはんひとはみな恭敬の心に執持して弥陀の名号称すべし」
 〜 ちゃんと勧められていますね。

 そうですか面白い方ですね。

>蓮如上人、こちらも挙げきれないほどあります。

 なるほど。なるほど。興味深い。
 宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつての
ほかの当流の掟にあひそむけり。
 仏は機を見て法を説く。親鸞聖人・蓮如上人による念仏のお勧めが、果たして貴方に向かって
いるのか、どちらでしょうねぇ。蓮如の言葉は、無宿善の機には向かっていない。貴方は、自分を
宿善の機と思っているんですね(苦笑)。
391渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/16(土) 13:31:12 ID:YIcp2nj5
>父の王にいうてのたまはく、王いま坐禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を
求めんや。

 それで、この言葉は、自分に向けておっしゃっているのではない。そのように思うわけですね。
聞く耳はないんでしょう。

 如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず。このゆゑに名づけて聞不
具足とす。「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」行の巻のこの正信偈は信じるが、行の巻の『浄
土五会念仏略法事儀讃』は信じないということだな。
 まあ、適宜選択し、気にいらんところには墨を塗る。字ぢからで聖教を読んではいかんという
のは384の主張だが、字ぢからでは聖教を読みたくないものだ。
 覚如、蓮如が座禅して念仏すべしと勧化した文証の問い合わせがあったが、墨を塗ろうとして
いる箇所の問いあわせをしてくる宿善の機がいるとは知らなんだ(w)

>ご勧化を採るも捨てるもあなたのおはからいだと、『歎異抄』にはあるわけですね。

 そうですよ。歎異抄のこの言葉こそ、387に向けられている言葉だ。
392渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/16(土) 13:33:43 ID:YIcp2nj5
>>388
>いうまでもなく、座禅して念仏申す利益ではありません。

 是を以て如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて謂く、父の王に曰く、「王今坐禅し
てただ当に念仏すべし。(行の巻・五会法事讃略抄)
 持戒坐禅を正法と名づく(行の巻・五会法事讃略抄)
 念仏は声声に仏種を下す 坐禅持戒は真功を用いてなり 汝若し修せずしてすなわち仏になる
といはば 喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(五会法事讃略抄)

 念仏は一声一声の中に成仏の種を宿す。その上で、なお、行の巻などで座禅・持戒を勧めるの
は、効果に実体を持たせるためである。念仏だけでも仏になる。しかし、坐禅持戒を修めないで
そのまま仏になると言えば、これはたとえば、空腹の人が、風下に立ち、吹いてくる風を腹の中
に蓄えて空腹を紛らわそうとするようなことであり、全く意味がないということだ。

 親鸞さん。貴方は何を馬鹿なことを言っているんですか?。坐禅をしなければ効果がないです
って?。貴方は馬鹿じゃないですか?。「現生十益」は、信心の利益と言う事でした。いうまで
もなく、座禅して念仏申す利益ではありません。 逆に、座禅して念仏申せば利益なんか無くな
るんですよ。

 苦笑。388よ。貴方の師僧は誰?。 光真さんか?
393ファルコン:2008/08/16(土) 14:29:17 ID:tNgp7fol
>>392
きっと破戒僧と噂されている彼の父から僧の資格を頂いたんでしょうね。
未成年時だったくせに。

なんか、今は無きHPの写真みたらハゲでデコで仰角27度くらいで斜め上の方
見てましたよ。
394神も仏も名無しさん:2008/08/16(土) 16:26:50 ID:0p+Kml++
>390
宿善という言葉は、便利ですね。自説に好意を持つものに対して、
あなたには宿善がある、と言い、自説を批判するものに対しては、
あなたには宿善がない、と言い放てばよいのですから。
自己自説防衛のためには無敵のツールですね。
このツールを用いれば、諍論は絶えないでしょう。何故なら、
自己主張を互いに繰り返し、落ち着く所がないからです。
宿善をツールとして用いれば、無諍法たる仏法に背反すると言う事です。
自分の宿善を沙汰する事、即ち、現今の自分を「果」と見、過去の自分にその「因」を探り、
未来に向けて因子を作らないように訂正していく事は出来るでしょう。
しかし、他人の宿善を沙汰する事は他心智通、宿命通等の
六神通を得た者でしかなしえません。つまり、仏智見でしかなしえない事になります。
末代の凡夫が沙汰するならば、市で虎に遇うようなもの。
眉唾どころか、微塵も信用すべきところはありません。
さて、あなたの座禅して念仏申すべきという説は、
浄土真宗祖師方の著作の上では、
『教行信証』行巻の「略法事讃」引文だけにしか拠り所がないことがわかりました。
その点をふまえて、座禅に対して、祖師方がどのように捉えておられるか、
うかがってみることにしましょう。
395神も仏も名無しさん:2008/08/16(土) 16:46:42 ID:0p+Kml++
>394
存覚上人『持名鈔』(本)
「おほよそ持戒・座禅のつとめも〜(中略)〜、その門に入りて行ぜんに、
いづれも利益むなしかるまじけれども、それはみな聖人の修行によるがゆえに、
凡夫の身には成じがたし。〜(中略)〜すべからく末法相応の易行に帰して、
決定往生ののぞみをとぐべしとなり」
〜つづく〜
396渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/16(土) 19:53:30 ID:YIcp2nj5
>395
 持戒坐禅を正法と名づく(行の巻・五会法事讃略抄)

 念仏は声声に仏種を下す 坐禅持戒は真功を用いてなり 汝若し修せずしてすなわち仏になる
といはば 喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(五会法事讃略抄)

 親鸞さんよ。あんたが言っていることはおかしいよ。わしか?。わしは、あんたが死んで 28年後
に生まれた浄土真宗の高僧様だ。親鸞さんよ。あんたはいつから偉そうに浄土真宗に嘘教義を持
ち込むようになったんじゃい?。法照なんぞの阿呆にだまされなさんなよ。
 ようく聞きゃれ。坐禅持戒が必要じゃと?。馬鹿をいいなさい。おほよそ持戒・座禅のつとめも、そ
の門に入りて行ぜんに、いづれも利益むなしかるまじけれども、それはみな聖人の修行によるが
ゆえに、凡夫の身には成じがたし。〜(中略)〜すべからく末法相応の易行に帰して、決定往生の
のぞみをとぐべしとなり。

 親鸞さんよ。あんた偉そうに、持戒坐禅が必要などといいふらし、浄土真宗の尊い教えを壊すの
はやめんしゃい。
 わしゃ、あんたの後に生まれた 存覚上人様じゃ。そのくらい覚えておけ。
397渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/16(土) 20:08:17 ID:YIcp2nj5
>396
 >>395には、存覚さんの心など、読めるはずもない。
 見る目もない。聞く耳もないということでしょう。
398神も仏も名無しさん:2008/08/16(土) 22:37:19 ID:FaqSXVXB
親鸞の看板作って隠れんぼ
399神も仏も名無しさん:2008/08/17(日) 15:38:16 ID:ZfPBfv4S
つづきの『持名鈔』はどうなったのかな?
400あぼーん:あぼーん
あぼーん
4017:2008/08/18(月) 17:30:38 ID:UgiEOWhS
信心決定・・・他力の一念。あれから何日、何週間、何ヶ月も経ちました。
難しい教学的なことは分かりませんが、お聖教を読むと何だか嬉しいのです。
読んでいない時も嬉しいですが。有り難いです。

南无阿彌陀佛

南无阿彌陀佛
402神も仏も名無しさん:2008/08/18(月) 23:39:29 ID:T4FsHxGP
>401
>お聖教を読むと何だか嬉しいのです。 読んでいない時も嬉しいですが。有り難いです。

 おや?
 悪人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよ(蓮如)
 悪人のまねをするよりはいいだろうと言われ、信心決定の人のまねでもなさろうとなさってい
るんでしょうか。

 信を得ずして、よろこび候わんと、思うこと、たとえば、糸にて物をぬうに、あとをそのまま
にてぬえば、ぬけ候うように、悦び候わんとも、信をえぬは、いたずらごとなり。「よろこべ、
たすけたまわん」と、仰せられ候うことにてもなく候う。たのむ衆生をたすけたまわん、との本
願にて候う(蓮如)。

 信心など得ていないのに、得たような暗示をかけられ、喜ぼう、喜ぼうと思うことは愚かなこ
とだ。糸で生地を縫っても、糸の端末に止め玉を作らないで縫えば、糸は次第に抜けていく。ど
んなに喜んでみても、信心がなければ、無意味なことだ。
 喜びなさいよ、そうすれば助けますよなどと、阿弥陀仏はそんなことを言っているのではない。
阿弥陀仏の誓いを力とする人々を助けようと言うのが本意である。
 喜ぶことで阿弥陀様に助けてもらおうと思えば、愚かなことだ。
403渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/18(月) 23:40:47 ID:T4FsHxGP
>402

渡海難のカキコです。 
404298:2008/08/19(火) 03:15:53 ID:UFM0pvlo
>>401
7様。うれしいことですね。
六字の尊さを我が身に受け、娑婆の日暮らしも、ご守護のうち。
このありがたさは、自ら体験してこそのもの。
ありがたさが感じられることが、またありがたいです。
南无阿彌陀佛
405298:2008/08/19(火) 03:19:18 ID:UFM0pvlo
>>402
よろこぶことで助けてもらうのではなく、
弥陀をたのむことで即座にカンタンに助けていただき、
実際に助かったから、うれしいのです。

何が真実かは、ひとりひとりが感じることです。

私は、日々うれしいですし、7様がよろこんでいると聞き、
尚うれしい。

このようなよろこびは、過去ありませんでした。

深く弥陀に感謝申し上げる次第です。

南无阿彌陀佛
406298:2008/08/19(火) 03:55:27 ID:UFM0pvlo
自ら求めても救われない。

「それでは」と善知識を求めようとしても、どこにいるのかわからない。

知識に会えたと思ったとしても、紙一重で、知識がその姿を現してくださらないかもしれない。

すべて、微妙な成り立ちであると思います。

それでも救われるのは、弥陀の御はたらきがあるが故です。

間違いだらけの私ですが、弥陀の御はたらきには間違いがありません。

ですから、私は安心しております。

信を獲ても、はからう自らが知らされます。

何もできぬ私ならば、何も心配する必要もありません。

六字を知らされている方は、求めるならば、六字に導かれると思います。

今生において、救われる道が準備されている。

この流転に出口がある。

ありがたいことです。

南无阿彌陀佛
4077:2008/08/19(火) 09:41:46 ID:H//xnKN1
298様 お久しぶりです。

そうですね。何にもはからう必要がないですよね。もちろん凡夫が喜ぶも喜ばないも自由です。六字の障りにはならないですから。

何にも難しいことが分からなくても・・・一文不知の尼入道が救われる道。

信心決定したい、信心決定とは何だろう、と思っていた頃は、いろいろな想像をしていたものです。

もちろん、想像と実際は違いますし、人と心を直に比べることは出来ませんから、これが信心決定だとは、他の誰にも、本人にも分からないはずです。

なのに、あの人と自分は一味だなぁと実感できる不思議。お聖教とピタリ合う不思議。

もちろん誰かに、一生喜びの思いが溢れるような究極の暗示をかけられたのかも知れませんよね。

疑煩悩はなくならないですから、疑おうと思えばいくらでも疑うことは出来るのです。

ならば、疑えるだけ疑うのもいいかと思います。凡夫が疑うも信じるも限界があり、どちらも六字の障りにはなりません。

南无阿彌陀佛の六字に関心を持っておられる皆さんとこうして集えることも嬉しいです。

南无阿彌陀佛
408298:2008/08/19(火) 13:27:21 ID:UFM0pvlo
>>407
7様。「お聖教とピタリ合う」についてですが、昨日は略本を御拝読していたのです。

◎まことにこれ選択摂取の本願、無上超世の弘誓、
一乗真妙の正法、万善円修の勝行なり。

「選択摂取の本願」「無上超世の弘誓」「一乗真妙の正法」「万善円修の勝行」どの呼び名も、
うれしくなるのです。

勝他のためにお聖教を学んでも、学びになりますが、
そのような思いから離れ、ただ「ひとりよがり」の道をゆくのも、
またゆったりとした気持ちで、楽しいものです。

私がわかってもらおうとしても、それは本当に無粋なはからいであって、
ただ弥陀のお育てを信じ、ありがたく六字をお称えするのが、
私の器に合っていると思います。

南无阿彌陀佛
409渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 16:39:26 ID:Zqg7Q72K
7  「信心決定・・・他力の一念。あれから何日、何週間、何ヶ月も経ちました。」
医者 「ほう。それでこの薬を使い続ける決心はつきましたかね。」
7  「難しい教学的なことは分かりませんが、お聖教を読むと何だか嬉しいのです。 」
医者 「ほう。あの本は私が書いたんだ。貴方のような慢性病の人は、この薬を使い続けるのが
一番いい。私はそう書いたんだ。どこまで分かってくれたか心配なんだが、そのところは理解で
きましたかね。」
7  「先生の本は読んでいない時も嬉しいですが。有り難いです。」
医者 「別に、読んでないときに嬉しいと思ってもらおうとは思ってないんだよ。この薬を使い
続ける決心はついたのか?」
7  「南无阿彌陀佛。南无阿彌陀佛」
医者 「私が勧めている薬は写経じゃないんだ。文字に書けばいいというものじゃない。薬はい
ろんな種類がある。塗り薬、貼り薬、注射剤、飲み薬、座薬等々、みんな用法が違う。座禅しな
がら自分の口で、自分の声で、繰り返し繰り返し音に発する。これがその用法だ。」
298「7様。うれしいことですね。 」
医者 「おやおや。298さんかい?。貴方は最近、あの薬を使おうという気にはなったかい。
薬は持ち帰ったようだが、胸に抱きしめて、嬉しい嬉しいと言っているだけじゃだめなんだよ。」
298「六字の尊さを我が身に受け 」
医者 「文字の尊さなどはどうでもいいんだ。口に出して称えることが大事なんだよ。」
298「娑婆の日暮らしも、ご守護のうち 」。
医者 「ご守護もあるだろうが、薬はしっかりとその用法を守らないとだめなんだよ。用法は守
っているか?」
410渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 16:40:47 ID:Zqg7Q72K
298「このありがたさは、自ら体験してこそのもの。ありがたさが感じられることが、またあ
りがたいです。
医者 「あのね。ありがたいもいいけれど、薬には用法があるんだ。胸に抱きしめているだけじ
ゃだめなんだよ」。
298「南无阿彌陀佛 」
医者 「私が勧めている薬は写経じゃないんだ。文字に書けばいいというものじゃない。座禅し
ながら自分の口で、自分の声で、繰り返し繰り返し音に発するんだ。そこに意味があるんだよ。
ありがたいというのも結構だが、しっかりその用法を守って使用し、その効果が出たとき、あり
がたいといってほしいものだね」。
298 「よろこぶことで助けてもらうのではなく、弥陀をたのむことで即座にカンタンに助け
ていただき、」
医者  「たのむって言ってもな、用法を守って使用してもらわなければ、薬の発明者は嬉しく
ないんだよ。用法を守って使用してもらうことを予定して、その薬を発明したんだからね。用法
を守って使用しなければ、即座にカンタンに助けるなんてことはないんだよ。」
298 「実際に助かったから、うれしいのです。」
医者  「用法を守って使用しないと、助からんのよ。助かったと思っても、それは錯覚だよ」
298 「何が真実かは、ひとりひとりが感じることです。」
医者  「それじゃ、医者も薬もいらんだろう」。
298 「私は、日々うれしいですし、7様がよろこんでいると聞き、尚うれしい。」
医者  「医者の言うことを聞かず、薬も用法を守らず、それでいて嬉しい嬉しいと言っている
んなら、医者など必要ないだろう」
411渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 16:41:39 ID:Zqg7Q72K
298 「このようなよろこびは、過去ありませんでした。深く弥陀に感謝申し上げる次第です」。
医者  「医者の話が聞けないなら、勝手したらいいだろう」
298 「南无阿彌陀佛」
医者  「私が預けた薬は、写経じゃないよ」。
298 「自ら求めても救われない。『それでは』と善知識を求めようとしても、どこにいるの
かわからない。」
医者  「私は、昔からここにおったが、話を聞く気の無い人には、語る言葉がない」。
298 「知識に会えたと思ったとしても、紙一重で、知識がその姿を現してくださらないかも
しれない。すべて、微妙な成り立ちであると思います。」
医者  「姿を現してくださらない?。私は足のない幽霊かい?」。
298 「それでも救われるのは、弥陀の御はたらきがあるが故です。」
医者  「あのなぁ。薬は用法を守らないとだめなんよ。薬は写経じゃないんだよ」
298 「間違いだらけの私ですが、弥陀の御はたらきには間違いがありません。」
医者  「あのなぁ。薬は用法を守って使ったとき働きが出るんだよ。用法を守らんでどうす
るの」
298 「ですから、私は安心しております。」
医者  「あのなぁ。安心するのは、用法を守って使うようになってからにしたらどう?」
298 「信を獲ても、はからう自らが知らされます。」
医者  「信は、用法を守って使うように決心することだ。はからいがあってもいいから、用法
を守って使うよう決心したらどう?」
412あぼーん:あぼーん
あぼーん
413渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 16:47:53 ID:Zqg7Q72K
298 「何もできぬ私ならば、何も心配する必要もありません。」
医者  「??意味不明??」
298 「六字を知らされている方は、求めるならば、六字に導かれると思います。」
医者  「薬は文字じゃないんだよ。私の薬は、声を出して称えることだ。導くものでもないし、
導かないものでもない。用法を守って使うように決心したらどう?」
298 「今生において、救われる道が準備されている。」
医者  「それは、用法を守って薬を使ってからの話だよ」
298 「この流転に出口がある。」
医者  「用法を守って薬を使わなければ、出口なんかないんだよ」。
298 「ありがたいことです。」
医者  「礼は、用法を守って薬を使い、効果が出てきてからにしたらどうなの」
298 「南无阿彌陀佛」
医者  「私が預けた薬は、写経じゃないよ」。
7   「298様 お久しぶりです。そうですね。何にもはからう必要がないですよね。もちろ
ん凡夫が喜ぶも喜ばないも自由です。六字の障りにはならないですから。」
医者  「まあ、喜ぶも喜ばないもいいから、用法を守って薬を使おうという決心はついたの?。
用法は、患者が自分で思案してもだめなんだよ。患者が考えることじゃないんだよ。この薬は妙
薬なんだ。きちんと用法を守れば、何も障りはない」。
7   「何にも難しいことが分からなくても・・・一文不知の尼入道が救われる道。」
医者  「一文不知の尼入道が救われるかどうかなど、そんなことはどうでもいいんだ。貴方は
別に一文不知でもない。尼でもない。入道でもないだろう。貴方は貴方が救われる道を探せばい
いんだ。この薬を、用法を守って使えば、それだけでいいんだよ」
414渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 16:49:11 ID:Zqg7Q72K
7   「信心決定したい、信心決定とは何だろう、と思っていた頃は、いろいろな想像をして
いたものです。」
医者  「それで信心決定したんですか。この薬を、用法をきちんと守って使っていこう、そう
決心したときが信心決定だ。そう思わない内は、信心決定なんかないんだよ」
7   「もちろん、想像と実際は違いますし、人と心を直に比べることは出来ませんから、こ
れが信心決定だとは、他の誰にも、本人にも分からないはずです。」
医者  「ほらほら、それだって貴方の想像の内だろう。」
7   「なのに、あの人と自分は一味だなぁと実感できる不思議。お聖教とピタリ合う不思議。」
医者  「一味だと思われたあの人は迷惑しているだろう。お聖教と同床異夢の関係にあっても、
救いはないんだよ」
7   「もちろん誰かに、一生喜びの思いが溢れるような究極の暗示をかけられたのかも知れ
ませんよね。」
医者  「暗示をかけられたのは自分なのに、その自分の問題が他人事になっているというのは、
症状が進行していると言うことだろうね」。
7   「疑煩悩はなくならないですから、疑おうと思えばいくらでも疑うことは出来るのです。
ならば、疑えるだけ疑うのもいいかと思います。凡夫が疑うも信じるも限界があり、どちらも六
字の障りにはなりません。 」
医者  「薬も使えないで、出口のない長い長いトンネルの中に入っちゃったようだね。」
7   「南无阿彌陀佛の六字に関心を持っておられる皆さんとこうして集えることも嬉しいで
す。南无阿彌陀佛」
医者  「もう、手がつけられん」
415渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 16:52:14 ID:Zqg7Q72K
298「7様。『お聖教とピタリ合う』についてですが、昨日は略本を御拝読していたのです。」
医者 「ほう。あの本はそんなに面白かったかい」
298「まことにこれ選択摂取の本願、無上超世の弘誓、一乗真妙の正法、万善円修の勝行なり。」
医者 「選択摂取の本願とは、298さんや7さんのような慢性病の方々を特に指定し、その方
々の慢性病を治そうというのが本意であるという意味だよ。無上超世の弘誓とは、298さんや
7さんのような慢性病の方々を特に治してあげようと言うのは、世に超えて最高の決意であると
いう意味だ。一乗真妙の正法とは、この薬を処方することこそ、唯一絶対的に正しい処方である
という意味だ。万善円修の勝行とは、この薬を正しい用法で使用することは、すばらしいことで
あるとい意味だ」
298「選択摂取の本願・無上超世の弘誓・一乗真妙の正法・万善円修の勝行、どの呼び名も、
うれしくなるのです。」
医者 「呼び名が嬉しくなるより、この薬を正しい用法で使用しようという気にはならんものか
ね?。」
298「勝他のためにお聖教を学んでも、学びになりますが、」
医者 「薬は論争ではないんだよ。自分は使うかどうかだけが問題なんだ。」
298「そのような思いから離れ、ただ『ひとりよがり』の道をゆくのも、またゆったりとした
気持ちで、楽しいものです。」
医者 「ひとりよがりの道を進んでも、治らないんだよ。」
298「私がわかってもらおうとしても、それは本当に無粋なはからいであって、ただ弥陀のお
育てを信じ、ありがたく六字をお称えするのが、私の器に合っていると思います。」
医者 「座禅して称えてほしいものだね」
298「南无阿彌陀佛」
医者  「写経じゃないよ」。
416あぼーん:あぼーん
あぼーん
417298:2008/08/19(火) 17:06:56 ID:UFM0pvlo
「ああせねばならない、こうせねばならない」ということは、基本的にはないと思うのです。

それでありながら、「弥陀をたのむ」ことは必須であるという。

これは、表面的には、矛盾していることばの使い方です。

ですから、「やるべきことは、ただひとつ」と捉える方がわかりやすく、
それは、「弥陀をたのむ」ということです。

そして、これは自身ではできませんので、弥陀におまかせすることになります。

◎さてこのうへには、ねてもさめても、たつてもゐても、
南無阿弥陀仏と申す念仏は、弥陀にはやたすけられまゐらせつるかたじけなさの、
弥陀の御恩を、南無阿弥陀仏ととなへて報じまうす念仏なりとこころうべきなり(御文1-7)

南无阿彌陀佛
418渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 18:16:44 ID:Zqg7Q72K
>>417
親鸞 「『安楽集』に云わく、『観仏三昧経』に云わく、「父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめた
まう。 〜 念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。 〜 父の王に謂いて曰わく、「王いま
座禅してただ当に念仏すべし」と。
 仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがいをあらせじと、ときお
かせたまうことをもうすなり」

298 「親鸞さん。私は貴方の話など聞きたくありません。念仏三昧など関係ありません。念
仏三昧は、座禅して念仏することだなどと、そんな話は聞きたくありません。釈迦は、人々に謗
法が起こるだろうと予想し、人々の疑いを晴らそうと、父の王に説法していたなんて、全く関係
ありません。
 みんな自由です。ああせねばならない、こうせねばならないということは、基本的にはないと
思うのです。 だから私は、座禅して念仏するのは嫌です。やりませんそれでも、「弥陀をたの
むことは必須であるという。これは、表面的には、矛盾していることばの使い方です。でも、こ
れが今私が教わっている善知識様のみ教えです。「やるべきことは、ただひとつ」と捉える方が
わかりやすく、それは、「弥陀をたのむ」ということです。座禅して称えないと言うことです。
座禅して念仏するなどという親鸞さんの話など、聞く耳は持ちません。弥陀をたのむ」というこ
とは自身ではできませんので、弥陀におまかせすることになります。 」
親鸞「??」
4197:2008/08/19(火) 18:17:18 ID:H//xnKN1
298様の言われるとおりだなぁと感じます。

凡夫がどうこうすることはないのです。

ただ念仏を称えていくことになると思います。

お念仏は、信前信後かかわらず全ての人にオススメできるからいいですね。

他力の信心を求めている間も南无阿彌陀佛、そして南无阿彌陀佛に救われて、御恩報謝も南无阿彌陀佛。

南无阿彌陀佛
420渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 18:18:23 ID:Zqg7Q72K
親鸞 「また決定して「釈迦仏、この『観経』に 〜 定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証
賛して、人をして欣慕せしむ」と深信す、 〜  次に行に就いて信を立てば、 〜 この正の
中についてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問
わず、念念に捨てざるは、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。 〜 散
善は行を顕す縁なり、と。 〜 浄土の要逢いがたし、と。」

298「さてこのうへには、ねてもさめても、たつてもゐても、南無阿弥陀仏と申す念仏は、弥
陀にはやたすけられまゐらせつるかたじけなさの、弥陀の御恩を、南無阿弥陀仏ととなへて報じ
まうす念仏なりとこころうべきなり。
 まあ、こう心得たのですが、私はどうすればいいんでしょうね。何もしなくてもいいんでしょ
うかねぇ?。座禅は絶対に嫌ですよ。」
親鸞「??」
421渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 18:24:34 ID:Zqg7Q72K
298 「一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、
これを『正定の業』と名づく。この正定の業では、浄土の要逢いがたしですって?。親鸞さん。
あなたはどうして私にそう逆らうんですか。私は、このうへには、ねてもさめても、たつてもゐ
ても、南無阿弥陀仏と申していきます。正定の業です。貴方の話はききません。私は、私の善知
識様の教えを守ります。」
422渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 18:40:00 ID:Zqg7Q72K
>419
> 凡夫がどうこうすることはないのです。

 それで、高僧の説を信じないで、「座禅しては念仏しない」という、凡夫の選
択をするということですね。 

>ただ念仏を称えていくことになると思います。

 高僧の説を信じないで、座禅もしないで、闇雲に、ただいたずらに、意味もな
く称えていくことになるわけですね。

 また名号をもってなにのこころえもなくして、ただ(いたずらに)となえては
たすからざるなり(蓮如)。
423渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 18:52:29 ID:Zqg7Q72K
>419
信前信後かかわらず全ての人にオススメできるからいいですね。

 大津近松殿に対しましまして、仰せられ候う。「信心をよく決定して、ひ
とにもとらせよ」と、仰せそうらいき。
四月九日に、仰せられ候う。「安心をとりて、ものをいわば、よし。用ない
ところをば、いうまじきなり。一心のところをば、よく、ひとにもいえ」と、空
善に御掟なり。

 7さんも、用ないところは言わないで、自分がどのようにして安心の一
心を得たのか、その瞬間の状況を秘事することなく明らかに言えば、
他の人にも貴方の信心が見えてくるでしょう。
424298:2008/08/19(火) 19:48:13 ID:UFM0pvlo
>>419
そうですね、信前も、信を獲るのも、信後の相続も、すべて南无阿彌陀佛。

ただ南无阿彌陀佛の六字の中に、すべてがある。

私としては、信後の相続も南无阿彌陀佛で良く、
ここにすべての行がこもっていることがありがたいです。

内心に秘めながら、社会生活を営みながら、
相続してゆくことができます。

ますますありがたいと思い、頭が下がります。

合掌。南无阿彌陀佛。
425渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/19(火) 21:33:15 ID:Zqg7Q72K
>>424
298「そうですね、予防も治療も養生もすべて南无阿彌陀佛。」
医者 「うん。まあ。そうだな。」
298「ただ南无阿彌陀佛の六字の中に、すべてがある。」
医者 「すべてが南无阿彌陀佛の六字の中にあると言ってもなぁ、胸に抱いてるんじゃだめなん
だよ。用法に従って使わなければ、薬は薬として機能しないんだよ」。
298「私としては、信後の相続も南无阿彌陀佛で良く、ここにすべての行がこもっていること
がありがたいです。」
医者 「治療も終わってないで、養生の話するというのは、おかしいんじゃないか?。まず用法
に従ってその薬を使おうという気を起こしたらどうなの?。胸に抱いてるだけで、ありがたいあ
りがたいなんて言っているのは、馬鹿じゃないのか?。」
298「内心に秘めながら、社会生活を営みながら、相続してゆくことができます。」
医者 「あのねぇ。薬はいくらでもあるんだ。一つ使用すれば、次にまたある。一つの薬をずっ
とそのまま内心に暖めていても、効果はないんだよ。」
298「ますますありがたいと思い、頭が下がります。」
医者 「あのなぁ。頭が下がるのは、治ってからにしたらどうよ。悪人のまねをするよりはましだと
言われたからと言って、まだ治ってない内から完治者のまねをしてどうするの?。今は、用法に
従って薬を使い、治療することが大事なんだよ。」
298「合掌。南无阿彌陀佛。」
医者 「薬は写経じゃないんだよ。」
426神も仏も名無しさん:2008/08/20(水) 00:01:57 ID:SYqADqVP
なあむあああみいだああんぶ

あわれあわれ
親鸞会滅亡ももうマジか
そろそろ成仏の時間でつよ県手通

あああみだああんぶ
なあむあまいいだあんぶ
427298:2008/08/20(水) 01:48:57 ID:6U04OVas
>>425
ひとたび弥陀をたのめば、往生治定であり、
もはや、さまたげる悪も無し。
また、超える善もありません。
そのように治定することがありがたく、
かたじけないのです。
人智を超えたはたらきを、我が身に受ける不思議さは、
言葉も絶え、ただ南无阿彌陀佛です。
南无阿彌陀佛
428渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/20(水) 10:50:45 ID:XmGrrZb8
>>427

<ひとたび弥陀をたのめば、往生治定であり、>
 いったん医者を信頼すれば、必ず治るんだと喜ばれてもなぁ。医者の言うことを聞かない邪定聚機
の患者には、手の施しようがない。

<もはや、さまたげる悪も無し。また、超える善もありません。>
 いったん医者を信じれば、何一つ怖いものはない、自分で何かを工夫する必要もないと、勝手に思い
こまれても困るんだよなぁ。自分の勝手な判断で、薬を胸に抱きしめ、医者の言うことを聞かない邪定
聚機の患者には、医者は手の施しようがない。

<そのように治定することがありがたく、かたじけないのです。>
 治った。治った。治ったも同然だ。ありがたい、ありがたいと言われてもなぁ。邪定聚機の患者には治
療は進んでおらんのよ。


<人智を超えたはたらきを、我が身に受ける不思議さは、>
 患者が治らんと諦めていた病気でも、医者は治せるから、不思議だと思うのは勝手だが、医者は魔
法使いじゃないんだ。医者は、道理に従って対策を立ててるんだ。
 道理に沿わせた医者の言うことを聞かないでどうするんだ?

<言葉も絶え、ただ南无阿彌陀佛です。南无阿彌陀佛>
 頭がおかしいんじゃないか?。耳を栓で塞ぎ、人の話も聞かないで、南無阿弥陀仏もないもんだ。
また名号をもって何の心得もなくして、ただ(いたずらに)称えては助からざるなり(蓮如)。
429神も仏も名無しさん:2008/08/20(水) 13:47:48 ID:zPf86srH
>>428

> 頭がおかしいんじゃないか?。耳を栓で塞ぎ、人の話も聞かないで、南無阿弥陀仏もないもんだ。
>また名号をもって何の心得もなくして、ただ(いたずらに)称えては助からざるなり(蓮如)。

ううむ。含蓄のある言葉だね。
どうも頭が固くなってるみたいだから、いま一度我が身を振り返ってみるのもいいね。
430神も仏も名無しさん:2008/08/20(水) 17:31:27 ID:xqbGEyw2
0 :神も仏も名無しさん:2008/08/20(水) 07:42:10 ID:6yoXk6bj
先生、脱税行為があるのなら懺悔して、 一からやりなおしましょうよ
若くて仏縁深い学徒も沢山ありましょうが、 それらの人が呆れたら終わりです。
一人の育成に何年かかりますか。 今の対応では、呆れる人の方が多いと思います。
会の情報を知りたい人もいるのですから、 ネットは禁止しきれないと思います。
最近の先生のお話も、ネットを見ていないと、 何言っているのか、まず分からないですしね。

募財活動は今後もしていくのでしょう。 お金のあり方は誤魔化さず修正して下さい。
今の誤魔化しが大変なことになります。
因果の道理を説かれる方が、「リークする奴が悪い」では、 m晴の時同様の禍根を残すでしょう。

あの時も、多くの学徒が「必死になって出した浄財を」と 憤慨していました。
純粋な人が多いから、仏法の為と信じて出している人ばかりです。
裏切ってはなりませんし、裏切るような事実があるのなら、
懺悔して、一から信用される努力をしなければなりません。

ネット対策をしている人も、親友部も特専部も講師部も、
荒療治も必要と感じている人もあることを期待しています。
懐かしい親鸞会ですから、対策に追われる姿は悲しいです。
とにかくお金のスキャンダルがあるならきちっと清算して下さい。

311 :神も仏も名無しさん:2008/08/20(水) 08:19:07 ID:pDz97RQf
>310
残念ながら、会長はそこまで純粋な方ではありません。 今回のアップの、最も問題なのは、

>ちなみに、真生会病院の資本金は、7億9800万円。出資者は高森一家となっており、医療法人は高森一族の資産となっているのが実態です。
>すでに、会長の娘が経営の実権を握っており、高森一家の孫たちも勤務をはじめています。

この部分です。ここに脊髄反応しているのです。
なぜか?ご自分でよく考えてください。 どうしてもわからなければ、質問ください。お答えします。
431渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/21(木) 10:28:01 ID:7UeipLpe
>>429

>どうも頭が固くなってるみたいだから、いま一度我が身を振り返ってみるのもいいね。

 298さんや7さんの心理状態がおかしいと言うことは、本人以外には分かるが、本人は気づけない
だろう。二人の症状は病的な洗脳カルト宗教の典型だろうと思う。催眠術を使い、考え方が動かな
いよう、枠がはめ込んであるようだ。浄土真宗を名乗る悪魔の宗教がどこかに存在する。

 鬱病患者などに精神科医が使用する催眠術を健康な人に乱用するというのはとんでもない悪行
だ。信心を決定できず彷徨うというのは、ある意味では本当はとても大事なことで、心が健康な証
拠だ。善知識を名乗って健康な人をだまし、催眠術をかけ、考え方が動かないように細工するとい
うのは、人間をロボット化する犯罪的行為だろうと思う。

 阿弥陀を頼むと言いながら、298は頼むと言う言葉の意味を知らない。医者を頼むという場合、
治療してくれようとしているその医者の決意と実力とを信頼し、医者の決意と実力を我が力に頂戴
する。医者の決意と実力を我が力として頂戴するということは、医者の言うことをよく聞いて、言葉を
守るということだ。医者の言いつけを守るということが、医者を頼むということだ。これが他力だ。医
者との信頼関係の基礎であり、宗教的にはこれを信心という。

 座禅して念仏しなさいよと医者が言えば、医者の言葉を信頼してできるだけ言うとおりに努める。
座禅して五会念仏を称えなさいよと言えば、座禅して五会念仏を称える。専一に、持続的に称え
なさいよと言えば、そのように専一に、持続的に称える。きるだけ言うとおりに努める。これが、阿
弥陀仏を頼むと言うことだ。

 嬉しい嬉しいと言えば、助けてくれるんじゃないかなどと、自分勝手に想像し、患者が我流の処
方箋をたてることは、阿弥陀を頼んでいることではない。
432渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/21(木) 13:41:10 ID:7UeipLpe
ブログ親鸞仏教を更新ししました。
 www.しんらん.jp/
433神も仏も名無しさん:2008/08/21(木) 15:52:30 ID:ESoDmXJd
>>431

>298さんや7さんの心理状態がおかしいと言うことは、本人以外には分かるが、本人は気づけない
だろう。

これは298さんや7さんだけじゃない、私にも貴君にもあてはまることなんだよね。
自分は正しいと思って他人を批判するのは簡単だけれど、我が身を点検するのは思いのほか難しいことだと思うよ。
434298:2008/08/21(木) 16:22:03 ID:EtY9vr4f
>>433
「よろこんでいる」と言えば、「いいなあ、私もそうなりたい」と思う方もいらっしゃるわけです。

この場合は、「よろこんでいる」というのは、プラスのイメージです。

ネガティブキャンペーンというものは、一般的に、「プラスと見なされているもの」をマイナスと捉え直す
フレームワークの書き換えをしようとします。

一所懸命信仰している方を見て、「信仰が篤いねえ」とプラスに見るのではなく、
「狂信者だ」とレッテル付けをするのも、同じようなものだと思います。

この場合、どちらの認識が適切なのか、結局は、ひとりひとりが判断して行く他ありません。

同じものでも、それをどう見るかは、各自の責任だからです。

私のことを言うならば、「他を批判する」のはなるべく避けたいところ、そのように意識では思っています。

しかし、私が未熟であるために、批判的な言動をなしてしまいます。

そのような状態であれば、「救われる」ことなどあるはずもなく、
その苦果を受けねばならないのが当然ですが、弥陀はそこに働きかけてくださり、
御徳をくださいます。

世間では、「南无阿彌陀佛」と言うだけでも、批難する方はたくさんいらっしゃると思います。

その場合、「気持ち悪い」と思われると思います。そしてもちろん、それで見捨てる彌陀ではありません。

渡海様は、とにかくさみしいのではないかと思います。

南无阿彌陀佛
435渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/21(木) 23:59:52 ID:qodDvA8B
>>434

>「よろこんでいる」と言えば、「いいなあ、私もそうなりたい」と思う方もいらっしゃるわけです。
  フムフム。なるほどねぇ。そうかも知れないですね。

>この場合は、「よろこんでいる」というのは、プラスのイメージです。
   ほほう。ふむふむ。

>ネガティブキャンペーンというものは、一般的に、「プラスと見なされているもの」をマイナス
と捉え直すフレームワークの書き換えをしようとします。
   ふむふむ。なるほど。なるほど。そうかも知れないですね。

>一所懸命信仰している方を見て、「信仰が篤いねえ」とプラスに見るのではなく、「狂信者だ」
とレッテル付けをするのも、同じようなものだと思います。
   ふむふむ。なるほど。なるほど。そうかも知れないですね。


>この場合、どちらの認識が適切なのか、結局は、ひとりひとりが判断して行く他ありません。
   ふむふむ。なるほど。なるほど。

>同じものでも、それをどう見るかは、各自の責任だからです。
   ふむふむ。なるほど。なるほど。そうかも知れないですね。

>私のことを言うならば、「他を批判する」のはなるべく避けたいところ、そのように意識では思っ
ています。
   ふむふむ。なるほど。なるほど。立派な心がけですね。
436渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/22(金) 00:03:42 ID:qodDvA8B
>しかし、私が未熟であるために、批判的な言動をなしてしまいます。
   ふむふむ。なるほど。なるほど。そういうこともあるかもしれませんね。

>そのような状態であれば、「救われる」ことなどあるはずもなく、
   いやいやそんなことはないんだよ。医者の処方箋をきちんと守れば、批判的な言動をする
人も、批判的な言動をしない人も、処方箋通りの効果が現れる。

>その苦果を受けねばならないのが当然ですが、
   処方箋をきちんと守れば、そのほかには、批判的な言動をしてもいいし、しなくてもいいんだ。

>弥陀はそこに働きかけてくださり、御徳をくださいます。
   批判的な言動をしているところに阿弥陀は働きかけなどはしない。邪魔もしない。
処方箋さえきちんと守ってくれていれば、それ以上は何も邪魔をしないんだよ。

>世間では、「南无阿彌陀佛」と言うだけでも、批難する方はたくさんいらっしゃると思います。
   なるほど、なるほど。
437渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/22(金) 00:04:55 ID:GYsd7S9w
>その場合、「気持ち悪い」と思われると思います。
   ふむふむ。なるほど。なるほど。そうかも知れないですね。

>そしてもちろん、それで見捨てる彌陀ではありません。
  見捨てるも何も、こっちが言い渡している処方箋の約束を患者が守ってくれれば、処方箋
通りの結果が出るだけだ。「南无阿彌陀佛」は気持ち悪いという人も、気持ち悪いと言わない
人も、そんなことは関係ないんだ。座禅して念仏すれば、どんな人にも、座禅して念仏した効
果が出る。それだけなんだよ。



>渡海様は、とにかくさみしいのではないかと思います。
  口の減らないあんなやつの言うことなどは放っておけばいい。黙らそうとしても、黙るやつ
じゃない。



>南无阿彌陀佛
   これを、座禅して声にする。それだけでいいんだよ。
438渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/22(金) 00:09:11 ID:GYsd7S9w
>433
 ご意見、承りました。
439渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/22(金) 08:39:22 ID:GYsd7S9w
>>436
誤   批判的な言動をしているところに阿弥陀は働きかけなどはしない。邪魔もしな
い。処方箋さえきちんと守ってくれていれば、それ以上は何も邪魔をしないんだよ。


正   批判的な言動には、助力をしない。邪魔もしない。賞賛もしない。咎め立ても
しない。阿弥陀は、処方箋さえきちんと守ってくれれば、それを喜ぶ。



>>437
誤   見捨てるも何も、こっちが言い渡している処方箋の約束を患者が守ってくれ
れば、処方箋通りの結果が出るだけだ。「南无阿彌陀佛」は気持ち悪いという人も、
気持ち悪いと言わない人も、そんなことは関係ないんだ。座禅して念仏すれば、ど
んな人にも、座禅して念仏した効果が出る。それだけなんだよ。

正   言い渡された処方箋の約束を患者が守れば、処方箋通りの結果が出る。南
无阿彌陀佛」は気持ち悪いという人も、気持ち悪いと言わない人も、そんなことは関
係ない。座禅して念仏すれば、どんな人も、座禅して念仏した効果が出る。それだけ
なんですよ。
440渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/22(金) 09:10:51 ID:GYsd7S9w
 「いいなあ、私もそうなりたい」と思う方も、思わない方も、座禅して念仏すれば、座禅し
て念仏した効果が出る。

 プラスのイメージであっても、マイナスのイメージであっても、座禅して念仏すれば、
座禅して念仏した効果が出る。


 フレームワークの書き換えをしようとする人も、フレームワークの書き換えをしようとし
ない人も、座禅して念仏すれば、座禅して念仏した効果が出る。

 一所懸命信仰している方も、一所懸命信仰しない人も、座禅して念仏すれば、座禅
して念仏した効果が出る。

 「信仰が篤いねえ」とプラスに見る人も、「狂信者だ」とレッテル付けをする人も、座禅
して念仏すれば、座禅して念仏した効果が出る。



441渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/22(金) 09:15:09 ID:GYsd7S9w
 どちらの認識が適切なのか判断する人も、どちらの認識が適切なのか判断しない人
も、座禅して念仏すれば、座禅して念仏した効果が出る。


 「他を批判する」のは避けたいと思う人も、「他を批判する」のは避けたいと思わない人
も、座禅して念仏すれば、座禅して念仏した効果が出る。

 
未熟な人も、未熟でない人も、座禅して念仏すれば、座禅して念仏した効果が出る。

 批判的な言動をすれば救われることなどあるはずもないと思う人も、批判的な言動
をしても救われると思う人も、、座禅して念仏すれば、座禅して念仏した効果が出る。

 さみしい渡海様も、さみしくない渡海様も、無口の渡海様も、口の減らない渡海様
も、座禅して念仏すれば、座禅して念仏した効果が出る。

 他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥
陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに
442渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/22(金) 09:25:51 ID:GYsd7S9w
 「いいなあ、私もそうなりたい」と思う方も、そう思わない方も、座禅して念仏しなければ、
座禅して念仏した効果は出ない。



 プラスのイメージであっても、マイナスのイメージであっても、座禅して念仏しなければ、
座禅して念仏した効果は出ない。



 フレームワークの書き換えをしようとする人も、フレームワークの書き換えをしようとしない
人も、座禅して念仏しなければ、座禅して念仏した効果は出ない。



 一所懸命信仰している方も、一所懸命信仰しない人も、座禅して念仏しなければ、座禅し
て念仏した効果は出ない。



 「信仰が篤いねえ」とプラスに見る人も、「狂信者だ」とレッテル付けをする人も、座禅して
念仏しなければ、座禅して念仏した効果は出ない。
443渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/22(金) 09:29:28 ID:GYsd7S9w
 どちらの認識が適切なのか判断する人も、どちらの認識が適切なのか判断しない人も、座禅して
念仏しなければ、座禅して念仏した効果は出ない。



 「他を批判する」のは避けたいと思う人も、「他を批判する」のは避けたいと思わない人も、座
禅して念仏しなければ、座禅して念仏した効果は出ない。


 
未熟な人も、未熟でない人も、座禅して念仏しなければ、座禅して念仏した効果は出ない。



 批判的な言動をすれば救われることなどあるはずもないと思う人も、批判的な言動をしても救
われると思う人も、座禅して念仏しなければ、座禅して念仏した効果は出ない。



 さみしい渡海様も、さみしくない渡海様も、無口の渡海様も、口の減らない渡海様も、座禅し
て念仏しなければ、座禅して念仏した効果は出ない。



因果応報、自因自果。
444あぼーん:あぼーん
あぼーん
445渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/22(金) 19:40:49 ID:GYsd7S9w
>>434
>そのような状態であれば、「救われる」ことなどあるはずもなく、その苦果を受けねばならな
いのが当然ですが、弥陀はそこに働きかけてくださり、御徳をくださいます。

 仏教は魔法使いじゃないんだ。「救われる」ことなどあるはずもないとは何を根拠にしている
のだろう。その苦果を受けねばならないのが当然とは、何を根拠にしているんだろう。
 仏教は魔法ではない。腹を痛めた患者には、医者は腹薬を与える。医者の腹薬は、他人を批判
する人にも、他人を批判しない人にも効き目がある。患者には想像もつかないような、夢のよう
な治療効果が生じても、医者は魔法を使っているわけでない。
 行いの悪い人には薬効が出るべきではないのは当然だなどと言う人はいない。行いの悪い人に
薬効があっても、医者が御徳を下さったわけではない。腹を痛めても、腹薬は、科学的な道理に
よって効果を発揮する。

 座禅して念仏申せば、科学(精神医学・心理学・生理学)的な道理が背景にあって効果が生じ
るだけだ。魔法でも神秘でもない。阿弥陀仏は、自然の様を知らせるための説明上の資料である
(自然法爾抄)。手段である。方法論である。阿弥陀は、神様でも、魔法使いでもない。これは
架空の存在だ。

 298の言動を見ると、彼の背後の善知識は、催眠術を操り、仏教を魔法のように言いくるめ
て人をだますペテン師のように思えてしょうがない。
446298:2008/08/22(金) 20:18:39 ID:/F8ldclJ
>>445
南无阿彌陀佛に渡海様のような成果を求める方がいても、もちろん良いと思います。

一方で、永き流転をどことなく感じ、弥陀により、今度こそは救い出されたいと願う方も、
ごく少数ですがいると思います。

つまり、不可説・不可称・不可思議な救いを求める方です。

そのような方は、滅多にいないだろうと思います。

求めるものが違うのであれば、そこに至る手段も異なって来ると思います。

南无阿彌陀佛
447渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/22(金) 21:55:16 ID:GYsd7S9w
>>446
>弥陀により、今度こそは救い出されたいと願う方も、ごく少数ですがいると
      人の心の弱みを狙っているということか。

>永き流転 〜 不可説・不可称・不可思議な救い

 口ほど便利なものはない。詐欺師、嘘つき、ペテン師、催眠術師には魔法の呪文がある。不思
議不思議と言えば、煙に巻いた言葉の魔力で騙されるやつがいる。
 催眠術を使える人がみんな詐欺師だといっているんじゃない。しかし、麻薬と催眠術は昔から
悪いやつが乱用してきた。そのときには、必ず「不思議・不思議」という言葉が使われた。麻薬も
催眠術も、扱いを間違うと、とても怖い結果を生む。

 背後の詐欺師も、犯罪集団としていづれ正体が暴かれる時が来るのかも知れない。

>求めるものが違うのであれば、そこに至る手段も異なって来ると思います。

 僕は、ペテン師の口車を求めるつもりは無いんだよ。
448298:2008/08/22(金) 23:46:59 ID:/F8ldclJ
>>447
私の発言から、あやしさを感じられるのであれば、それは私の不徳の致すところであり、
誠に仕方のないことです。

くり返し述べてきておりますように、人はひとりひとり、各自の考え方で歩んでいると思います。

今生での生育条件だけでなく、これまでの永い流転があり、ひとりひとり、
考え方から、先入観、感じ方に至るまで、差異があることと思います。

だからこそ、渡海様には渡海様の道があり、私には、私の道があると思います。

渡海様は、私(の背後)に詐欺性を感じるとのことです。

しかし、私の実感としては、直接お会いし、少ない時間とは言え、
お話させていただき、純粋なお気持ちを感じました。

また、私自身、幾人かの救いを求める方ともお会いしたことがありますが、
よろこんでいただけたこともあれば、失望させてしまったこともございます。

あくまで泥の凡夫の私ですから、私に期待しても、失望を生むだけでしょう。

尊いのは、六字であり、弥陀であります。

限られた私の表現力では、私のお伝えしたいことも、伝わることなく、
自らの非力さを知らされております。

このような非力な私をも、救ってくださる阿弥陀如来、
大きな大きな存在であると思います。

南无阿彌陀佛
4497:2008/08/23(土) 04:58:55 ID:EFuSKoJP
私はあやしげなこと自体はそんなに悪しきことだとは思わないのです。

疑おうと思えばいくらでも何でも疑える、その時は自分自身の防衛本能を信じているということです。

阿弥陀仏は架空の存在であるという主張をするのも、必ず存在すると主張するのも、どちらも証明のしようがありません。

いないという証明をすることほど難しいことはないですし、仏様の実在を科学的に証明したという話も聞いたことがありません。

どちらも信じているに過ぎないことで、どちらの主張もあやしむことが出来ます。

私はそもそも死んだらどうなるのだろう、そもそも自分は何故存在するのだろうという、死んでみなければ分からないような問題にぶつかって、

悩み、答えを捜し求めてきたので、人生の問題点が違う方とは話が擦れ違うのだろうと思います。

ペテン師に遭っても遭わなくても死ぬ、騙されても騙されなくても死ぬ、生まれた時点でいつ死ぬことやら、自身の存在そのものがあやしげです。

私は南无阿彌陀佛に答えがあると思うに至って、遂にその答えを得たと信じるに至ったことが有難く嬉しいのです。

それが全て南无阿彌陀佛の六字にこもっている事が不思議ですし、一味の方がみえることも不思議ですし、求める方がみえることも不思議です。

もちろん人それぞれ信じるところにしたがって生きる他はないわけですから、皆さんそれぞれの主張をなるほどと拝読しています。

私は皆さんとここで出会えたことに感謝しています。

南无阿彌陀佛
450298:2008/08/23(土) 11:42:40 ID:wu9xHU/E
>>449
>阿弥陀仏は架空の存在であるという主張をするのも、必ず存在すると主張するのも、どちらも証明のしようがありません。

7様、まったくその通りですね。

わかるわけではないのに信じることができるのも不思議、
そして、わからないのだから信じないというのも当然、
どちらもすべて、彌陀の大きなはたらきの中にあるものだと思います。

南无阿彌陀佛
451渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/23(土) 14:24:13 ID:4KaR9/H0
親鸞 「無上仏と申すは形もなくまします。形のましまさぬゆえに、自然とは申すなり。形まし
ますと示すときには、無上涅槃とは申さず。形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて弥陀仏と
ぞ聞き習いて候う。弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり。」

 無上仏というのは形而下の存在ではありません。無形の観念的存在、形而上の存在です。だか
らこそ自然というのです。もし、有形の形而下の存在であれば、無上涅槃とは言いません。阿弥
陀仏というのを始めて教わったとき、無形の観念的概要を明らかにするために阿弥陀仏という概
念を使用すると教わりました。阿弥陀仏というのは無形の観念を明らかにするための資料です。
手段です。道具です。人形です。

7 「(親鸞さん。あんたは私らの看板になって黙っていればいいんですよ。貴方の話なんか誰
も聞いちゃいませんよ。私らの世界には、貴方に発言権なんかありません。)阿弥陀仏は架空の
存在であるという主張をするのも、必ず存在すると主張するのも、どちらも証明のしようがあり
ませんからね。」

298「7様、まったくその通りですね。わかるわけではないのに(自然の様を知らせん料なり
なんて、よくいいますね。)信じることができるのも不思議、そして、わからないのだから信じ
ないというのも当然、どちらもすべて、彌陀の大きなはたらきの中にあるものだと思います。
(看板に口を利かれても迷惑ですねぇ(笑)。)」

渡海「嘘つき、ペテン師、催眠術師は、薄笑いを浮かべながら意味不明の呪文をあやつるという
ことか。」
452渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/23(土) 14:31:08 ID:4KaR9/H0
>>449

> 私はあやしげなこと自体はそんなに悪しきことだとは思わないのです。疑おうと思えばい
くらでも何でも疑える、その時は自分自身の防衛本能を信じているということです。

 つい最近まで、親鸞会に騙されたと嘆いていたのに、こんどもまたペテン師の手先にで
も成り下がったのか。コメントするのもばからしい。
453神も仏も名無しさん:2008/08/23(土) 14:55:13 ID:qL2s0ECE
コメントするのもばからしい
とかなんとか言いながら、すっごく丁寧にレスしてるじゃない。w
454神も仏も名無しさん:2008/08/23(土) 15:12:21 ID:aC4b7Bvk
べっ、べつにあんたのためにコメント書いてるわけじゃないんだからね!!
455298:2008/08/23(土) 16:31:46 ID:wu9xHU/E
渡海様は、「形もましまさぬ」=「存在しない」「架空の存在」との見解を
お持ちのようですが、私はそのようには、考えておりません。
456あぼーん:あぼーん
あぼーん
457渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/23(土) 18:53:37 ID:4KaR9/H0
>>455
>私はそのようには、考えておりません。

 言うことはこれだけか?。まあ、なんだっていい。
 「不思議・不思議」と薄笑いを浮かべながら術をかけ、相手を煙に巻く催眠
術のペテン師にとって、阿弥陀は、魔法(他力)を発する神秘の源だ。架空と
言えば、魔法に力が入らんだろうよ。
458神も仏も名無しさん:2008/08/24(日) 01:59:06 ID:nU6GX5iq
女優と結構したデブ(死んだ)の宗教ってこれ?
459神も仏も名無しさん:2008/08/24(日) 03:22:28 ID:q2fToIGj
袈裟が全然違うから多分違うと思うぞ
460神も仏も名無しさん:2008/08/24(日) 09:35:00 ID:nU6GX5iq
有り難うです。
しかし、あのデブの宗教はいったい何だったんだろ。NHKのドラマ見てたら、あの女優が出て来て、かなり気になった。
461神も仏も名無しさん:2008/08/24(日) 16:05:45 ID:7jVSH33j
 渡海と298との論争も決着がつき、妙好人スレもこれでいよいよ事実上
終わったな。今後は、単にアラシが勝手に荒らし回るだけになるだろう。
 スレの数は十本。終わってみれば、意外に少なかった。百本近いかと思っ
たが桁が一つ少なかった。
 それにしても、真宗の教義史に残るような中身の濃い議論だったなぁ。
462あぼーん:あぼーん
あぼーん
463神も仏も名無しさん:2008/08/24(日) 18:32:26 ID:+calXPCB
298氏と渡海氏は論争もなにもしていなかったと思うよ。
だってふたりの焦点がぜんぜん噛み合っていないもの。
違う土俵で相撲を取るようなもの。
粘着する渡海氏に、298氏が仕方なく応じていただけに見えたけどね。
しかし、ともかくも渡海氏の念仏に対する姿勢は、まあ立派だとは思うよ。
ただ、その考えに同調する人を探すとすれば、浄土真宗よりも浄土宗のほうがいいんじゃないかなあ。

ところでこのスレ読んだり書き込んだりしてる人は、どういう人たちなんだろうね。
少なからず興味が沸くね。 やっぱりお坊さんが多い?
4647:2008/08/24(日) 22:51:19 ID:4jGY+Tgq
自分は在家、普通のサラリーマンです。お坊さんは意外と少ないのでは・・・?

でも信心決定に真剣に関心がある方が集うべく建ててもらったスレなので、本業?たるお坊さんが少ないとしたら寂しいですね。
465神も仏も名無しさん:2008/08/24(日) 23:16:26 ID:+calXPCB
>>464

なるほどねえ。
職業人としてのお坊さんは、余暇にまで仕事を持ち込みたくないかもしれんですね。
私だって、家に帰ってまで仕事したくないものねえ。
そうすると、少数でもここに書き込みされていたお坊さんたちは、たいした方々だということになりますね。

ちなみに私も在家。うどん屋のオヤジ。(笑)
466298:2008/08/26(火) 02:42:39 ID:dy7IRJrL
私も在家です。
在家でありながら、罪を重ねる生活を送りながら、
それでも、弥陀は救い摂ってくださいました。
それだけの力をお持ちであり、大慈悲の如来です。
御文様を読んでいても、心に響いて参ります。
他の方のことはわかりませんが、
地獄に堕ちること当然であった自分。
今でもその生き方に、大して変わりがあるわけではありません。
未熟で傲慢である私に変わりがあるわけではないのです。
違うのは、「弥陀をたのんだ」ということ。
このひとつの理由により、私は自分の心が変化してきているのを感じます。
それは、「良く」なったというよりは、「ラク」になったという感じです。
そして、その結果、次第に良くなってきているようにも感じます。
これらのきっかけは、「弥陀をたのんだ」ということであって、
それによって、方向転換が起こったのだと思います。
私は、私がよろこべていることがうれしい。
そして、他の方は、私にはどうしようもないのだと思います。
「阿弥陀さまはすごい、すばらしい」ということを、機会があればお伝えしようと
思いつつ、六字を称える日々です。
南无阿彌陀佛
467117:2008/08/26(火) 22:47:39 ID:WQGLNAGP
お盆の節を過ごしました。小6年の息子毎日、仏倶様を日課に上げています。「何で阿弥陀7様
阿弥陀如来は死んだ後にしか救ってくれないの?]何と答えたら良いのでしょうか。
468298:2008/08/27(水) 00:55:26 ID:MUNCOiQK
>>467
もちろん、現世にて、弥陀は救ってくださると思います。
だからこその、御恩報謝であると思います。
救っていただいても、怠惰な私は、その御恩を、すぐに忘れてしまいます。
それでも、弥陀は捨てませんので、また思い出させてくださり、
六字を称えることができるのです。
ご子息の疑問は、とても良い疑問であると思います。
もちろん、弥陀は生きている間に救ってくださいますが、
「では、救われるとは、どういうことか?」と問いは発展してゆくことでしょう。
南无阿彌陀佛
469神も仏も名無しさん:2008/08/27(水) 01:17:11 ID:YqIv6uz3
>>467
今も未来もお救い下さっているんですよ。
弥陀にとっては、現世も来世も同じなんだよ。と言ってみてはいかがでしょうか?
人間の目で死によって現世と来世を勝手に分けているだけで、それに気づかない人間は愚かだと。
470298:2008/08/27(水) 01:28:07 ID:MUNCOiQK
>>469
「死んだ後にしか」という問いには、「なぜ『今』救ってくれないの?」という問いが
含まれているように感じますが、如何でしょうか。

「救われていないように感じても、実は救われていて、救われていると気付かない人間は
愚か」ということにもなるのでしょうか。
4717:2008/08/27(水) 02:01:11 ID:dvZ49CUt
現世にて救われるので御恩報謝のお念仏といわれるのですよね。有難いという言葉では言い尽くせません。

南无阿彌陀佛
472渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/08/30(土) 16:04:25 ID:Yv6naGEj
ブログ親鸞仏教 更新しました。

 www.しんらん.jp/

 田中氏の議論の続きを書きました。
473神も仏も名無しさん:2008/08/30(土) 20:00:49 ID:2jPBPJDx
474あぼーん:あぼーん
あぼーん
475298:2008/09/02(火) 10:16:22 ID:XWQqj2/p
ちょっと前までは、法論サイトを見ても楽しかったのですが、
近頃は、距離が遠くなって、距離が遠くなると、
そこでの出来事は、振れ幅が小さく見えるので、
どちらでも良いことになってきました。

これもまた、弥陀のみはたらきによって、
自分が変わってきているのだと思い、うれしく思っています。

南无阿彌陀佛
476神も仏も名無しさん:2008/09/02(火) 20:48:25 ID:D1gcW82X
104 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2008/09/01(月) 01:41:27 ID:twE4aj+M
917 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :04/04/20 13:06
 浄土教の先人は「先生(阿弥陀仏)」という言葉を下に創作物語を添えた。それが阿弥陀物語
だ。阿弥陀物語をなぜ作ったのか。「ああ先生」と称えることのすばらしさを伝える手段として
「先生物語」を創作したんだ。阿弥陀仏という化け物がどっかに存在するんじゃない。人は、結
婚すれば、田中さんが鈴木さんと結婚すると鈴木さんに変わる。人は、どう名前が変わってもい
い。しかし阿弥陀仏はそうじゃないんだ。阿弥陀という名前を離れてどっかに存在するんじゃない。
「ああ先生(南無阿弥陀仏)」と称えることはすばらしいことだよということを、人々に伝える
ための道具として、阿弥陀物語が作られたんだ。それが阿弥陀物語なんだ。そういうことを忘れ
ちゃいけない。阿弥陀ではなく、南無阿弥陀仏が尊いんだ。
 阿弥陀仏(先生)は、阿弥陀物語(先生物語)を通じ、南無阿弥陀仏を称賛している。こうい
う構造にこそ、創作者たち先人の知恵がある。南無阿弥陀仏は、我々が口にそれを称えるところ
で実体を持つ。南無阿弥陀仏は、座禅して称えるところに根元的な意味を持つんだ。
477神も仏も名無しさん:2008/09/02(火) 20:49:15 ID:D1gcW82X
105 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2008/09/01(月) 14:22:56 ID:ct1FzY1G
>>104
 これは、アラシなのか、声援なのか、ヤジなのか。趣旨がわからん。
 僕は、アラシについては一切ノーコメントとすることにしたんだ。僕を声援
するつもりでコピペしたのであれば、ありがた迷惑だ。話には常に流れある。
>> 101〜103の議論は、>> 104と矛盾はしないが、微妙に温度が違う。初め
て読むんだ人の中には、矛盾を感じる人がいるかもしれない。

 話の温度差については、説明すればほとんどの人にわかってもらえるだ
ろうが、読み手が混乱するかも知れない過去のカキコは、アラシ目的でな
ければ、無闇なコピペは遠慮してほしい。

 >> 104の考えは、今でも堅持している。しかし、こちらも生身の人間であり、
考え方は激変していることがある。そういう意味でも、無意味なコピペは迷
惑する。

 なお、敵対的アラシ目的のコピペであれば、ノーコメントだ。
478神も仏も名無しさん:2008/09/02(火) 23:24:05 ID:bAQt9buQ
スレがちょっと停滞したからって、↑を召還しようとしないでくれwww 無駄にスレ消費されるだけw
479298:2008/09/03(水) 14:56:36 ID:ff9f+yC2
>>476
渡海様は、「なぜ、『南无阿彌陀佛』なのか、『阿彌陀佛』ではないのか」ということについて、
ご自分なりにお考えをすすめたのではないかと思います。

その他の佛であれば、「南无○○」であれば、「南无+○○」であって、
2つに分けることができるが、「南无阿彌陀佛」は、「南无」も含めて一体の
南无阿彌陀佛である、のようなことが、真宗では言われるからだと思います。

(もちろん、そうでありながら、善導大師の尊い六字釈でも、
2字と4字に分けて釈しておられます。)

しかし、この取り出された104の議論だけでは、やはり「なぜ、阿彌陀佛という名に
意味があるのか」がわからないと思います。

名体不二とは、何なのか。

なぜ、「九字のいわれ」ではなく、「六字のいわれ」を聞かねばならないのか。

不可思議の法である、真実の大行があるからこその、
真宗であると私は思います。

南无阿彌陀佛
480神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 11:52:43 ID:BDz+/cCA
   /⌒~~~⌒\
 / ( ゚?д?゚ )y─┛~~
(_ ノγ U  ∩_∩) 大変長らく御愛顧頂きました ┌───────┐
  α___J _J      このスレッドも       (|●        ● |
  / ̄ ̄ ̄ ̄\   とうとう終了となりました。  /.| ┌▽▽▽▽┐ |
 /     ●  ●                    ( ┤ |      |  |
 |Y  Y       \誠にありがとうございました。\.└△△△△┘   \
 | |   |       ▼ |                  | \あ\      |\ \
 | \/        _人| ∧∧∩゛    ∧_∧     |     \り\     | (_)
 |       _/)/)/( ゚Д゚)/     (´∀` )   __ n    \が\.  |
 \    / 〔/\〕 U  / ∩∩ (    )o/  \ ヽ    \と\ |
  | | | c(*・_・)  |  |ヽ(´ー`)ノ_|  |  | (__丿    |.  /\ \う | (-_-)
  (__)_) UUUU /∪∪ (___)(_(__) ⊆_    ヽ_┘  └──┘(∩∩)
481神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 21:07:25 ID:/lPljhF1
ん・・・復活!w
482渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 14:56:26 ID:rZ6da2xv
 念仏宗渡海会(私怨の込もった流言飛語)について

 検索エンジンを見ると、私怨を込めた根も葉もない流言飛語に、天下の大会社が
大量のリンクを張っている。社会の誤解を解く意味で記載しておきます。

 念仏宗渡海会についてリンクを張るなら、社会の公器として社会的責任において、
同じ割合で、今回のこのかき込みについてリンクを張り、根も葉もない流言飛語と
渡海難の発言と、どちらの言い分が正しいか、公衆が判断できるようにしてほしい
ものである。

 同じような内容の記述が、随所にコピペしてあるので、流言飛語への反論の対象
として、2ちゃんねる用語サイトの記述をベースにしておく。
http://www.media-k.co.jp/jiten/wiki.cgi?%A1%E3%A4%CD%A1%E4

>2chが生んだカルト教団の一つ。別名「こんにちは会」。

 「念仏宗渡海会」は存在しない。「こんにちは会」も存在しない。

>心と宗教板のコテハンで親鸞ヲタの「渡海 難(とうみ かたし)」が教祖として
開いた非認証の宗教団体。

 渡海 難は教祖を名乗ったことはなく、渡海難を教祖と呼んでいる者もいない。
存在しない架空の存在であることから、認証などという問題もありえない。渡海難
は、無位無階、一介の無名の念仏者である。仏教はアマチュアである。

>本部は神奈川県横浜市保土ヶ谷区あたり。
 渡海 難住所は川崎にある。教団本部があるというのは妄想である。
483渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 14:58:14 ID:rZ6da2xv
>2chでの布教活動を主な活動内容とするため、教団公式サイトは全く更新されて
おらず、誰もアクセスしてくれない。

 2chで布教活動は行われていない。教団などは存在しない。公式サイトなど、
そもそも存在しない。存在しないサイトに更新も何もない。
 なお、渡海難は、かつて、イーグルヘッド・親鸞庵・おはなし広場・御本典研鑽
集記などにも投稿し、一部はアーカイブされ、インターネットに残っているようで
す。
 ただし、確かに、渡海難の発言の舞台は2chが一番多い。僕は自分の仮説を提
起するが、明日は180度変わるかもしれない仮説など、布教教義などにはなりえ
ない。

>浄土真宗の教えすなわち親鸞の思想(教団用語で「親鸞仏教」と呼ぶ)を教義とし
ているが、渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。

 教義がコロコロ変わる宗教教団など、存在するわけがない。ばかばかしい。

>ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思想の代弁者となる。

 お釈迦さまの代弁者となったことはない。ある時は親鸞思想の代弁となったこも
ない。
 渡海難を釈尊の生まれ変わりではないかと、ノータリンに妄想されても、それは
渡海難の責任ではない。ノータリンの勉強不足に過ぎない。
 僕は、単に仮説を述べているのに過ぎない。仮説に圧倒的迫力があるとノータリ
ンから思われ、お釈迦さまの代弁者、親鸞思想の代弁者だと妄想さても、こちらは
迷惑千万、うれしくも何ともない。

>大川隆法の「霊言」のようなものである。
     大川氏には会ったこともない。関心もない。
484渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 14:59:43 ID:rZ6da2xv
>渡海教祖著「親鸞の思想と教行信証」が聖典

 渡海難は教祖になったことはない。教祖と仰ぐ者もいない。思っている者もいない。
聖典などを書いたこともない。

 かつて数度にわたり教行信証論を書いてネットに公開したが、全てお蔵入りとして
ある。書いた当時の思想をそのまま維持できなくなっていることによる。
 こちらは生身の人間である。考え方は時に応じて大きく変化している。書く内容は
常に試論であり、仮説である。聖典などであるはずもない。

>世界数ヶ国語に翻訳されると渡海教祖本人が称しているが、

 世界数ヶ国語に翻訳されると渡海教祖本人が称したことはない。

>翻訳者がいないため未だに翻訳されず。

 金を払えば、日本には翻訳者などいくらでもいる。翻訳者がいないのではない。試
論の公表に投資をするつもりはないというだけである。
 今は、教行信証論はお蔵入りしてある。改めて書き直す時間もない。アマチュアに
はそんな予算もないということである。

>浄土真宗のお坊さんと「浄土真宗親鸞会」という浄土真宗系カルト教団を敵視して

 浄土真宗の坊さんには、是々非々で対応している。結果としてノータリン坊主には
厳しい言葉が向かうことはある。
 念仏宗渡海会などという、ありもしない会について流言飛語をでっち上げるような
人物に優しい言葉をかけろと言われても、世の中には乗れる相談と乗れない相談と
がある。
485渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:08:07 ID:rZ6da2xv
>ちょうど創価学会が日蓮正宗を「日顕宗」と呼ぶように、自分に都合の悪い者がい
ると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決めつける。

 かつて坊さんですねと言われたことが相当悔しいことだったようだ。坊さんとい
う看板が腫れ物になっている。看板が腫れ物になっているという人は珍しい。看板
をおろしたいんだがおろせない。掲げたいんだが、掲げられない。職業がいやでい
やでたまらないんだが、その職業にべったり甘えて浸かっている。複雑な感情が絡
んで腫れ物になっている。本願寺派の世襲坊主だろう。

 僕は創価学会を知らない。日蓮正宗も日顕宗も知らない。念仏宗渡海会の流言飛
語者は、創価学会が日蓮正宗を「日顕宗」と呼ぶことには反感を抱いているようだ。
ばかばかしい。流言飛語者は、浄土真宗内の「日蓮正宗」シンパなんだろう。浄土
真宗に「日蓮正宗」シンパがいても変ではないが、そんなやつからカルト呼ばわり
される渡海難はいったい何なんだ?(苦笑)

 日蓮正宗を「日顕宗」と呼ぶことはいいことかわるいことか。僕はそんなこと知
ったこっちゃない。関心もない。

 渡海難は、「浄土真宗のお坊さんですね」と相手に聞くことはある。そう聞くこ
とが悪いこととは思っていない。
 心と宗教板で、しかも真宗を表示している掲示板では、浄土真宗の坊さんはプロ
である。あなたはここの専門家ですねと、専門家に相手を確認することは当たり前
のことではないのか。プロは匿名でもプロらしく発言すべきだろう。プロは、背負
っている看板など、隠そうにも隠せるものではないのだ。
486渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:09:00 ID:rZ6da2xv
 こちらも感情の動物であり、話しには流れもある。坊さんではないと、匿名で発
言している相手を、「浄土真宗のお坊さん」と言って決めつけて話をしていくこと
もあるだろう。
 なお、「親鸞会」については、自分は親鸞会員ではないと言っている相手を、親
鸞会員として決めつけて議論をしたということは、記憶がない。

>また、浄土真宗と異なる点として「座禅念仏」という行を勧めており、

 渡海難は、「座禅念仏」という言葉を使ったことはない。着座念仏という言葉は
使うことがある。

 念仏は座禅して称えよう。これは教行信証で親鸞が勧めている。しかし、座禅念
仏という特別な念仏が存在すると言えば、これは間違いである。

  『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、それ如来、教を設けたまうに、広・略、
根に随う。 〜 父の王に謂いて曰わく、王いま座禅してただ当に念仏すべしと。

 「教行信証」の巻である。親鸞は、念仏の方法論を説明するにあたり、中国の高
僧が書いた書を引用する。浄土五会念仏略法事儀讃は、経典を引用している。釈迦
は父君にいう。父君、座禅して念仏をお称え遊ばされよ。
487渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:09:50 ID:rZ6da2xv
>「ああ先生」という

 南無阿弥陀仏の南無は感嘆詞である。梵語のナーマスの音を漢字で表している。
インドの人は、道で人に会えばナーマスという。別れるときもナーマスという。こ
んにちは。さようなら。おはよう。やあ。ナーマスとはそういう意味である。
 感嘆詞には意味はない。しかし心がある。「あなたを信頼しています。あなたの
方も私を今後とも信頼してください。お互いに信頼関係を続けましょうね」そんな
心で、ひとは、こんにちは、さようなら、おはよう、やあなどという。インドの人
はナーマスという。中国の人は、これを漢字で「帰命」と書いた。命とは心である。
帰るとは寄せるという意味だ。帰は寄に通じる。寄命、寄心と書く方が、現代日本
の漢字の意味としてはふさわしいだろう。
 阿弥陀仏の阿弥陀は先生という意味だ。仏も先生という意味である。阿弥陀の阿
はインドヨーロッパ語で否定を表す。英語のunに通じる。阿弥陀は中国で無量寿、
無碍光と訳されている。

 無量寿は、限りなく継続の命を与えてくれる人という意味だ。もうだめだ。もう
続かない。そう思って絶望しても、その壁を破ってくれる人、つまり先生である。 無
碍光とは、限りない知恵を与えてくれる人という意味だ。足下が暗く、どっち
に行けばいいかわからない人に、何者にも遮られることなく足下を明るく照らして
くれるひと、つまり先生という意味だ。
 仏陀とは、優れた知恵を持った人、つまり先生という意味だ。

 かつて釈迦は人々から先生と呼ばれた。無量寿・無碍光・仏陀と呼ばれた。阿弥
陀仏と呼ばれた。阿弥陀仏とは先生という意味である。
488渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:21:57 ID:rZ6da2xv
>呪文のようなもの(浄土真宗で言うところの名号「南無阿弥陀仏」か?)もある。

 念仏は誦文である。
 山家の伝教大師は 国土人民をあわれみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏
をとなうべし   (親鸞著 現世利益和讃)

 比叡山の伝教大師は、社会のあらゆる場所で苦しんでいる人々に優しく声をかけ、
様々な苦しみを克服していくのに、南無阿弥陀仏を誦文として称えなさいとおっし
ゃった。

 親鸞が最澄のどの文書を見たのか、僕は知らない。しかし、最澄の優しい心と、
最澄のその心に寄せる親鸞の思いは伝わってくる。

>渡海教祖は基地害で電波で独善的で絶対に他人の言うことを聞かない性格で、

 なるほど。話は聞いた。念仏宗渡海会というのは、私怨を込めた流言飛語である。

>裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす

 身に覚えはない。議論で一方的に負けたという思いがあるようだ。悔しさが晴れ
ていない。

>心と宗教板の住人から嫌われており、

 人の評価は様々だろう。渡海難に私怨が晴れない人が、少なくとも一人はいると
いうことだ。浄土真宗の坊主の看板が腫れ物になり、日蓮正宗のシンパである人か
らは、渡海難は嫌われ者ということか。
489渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:23:45 ID:rZ6da2xv
>信者数は教祖を除いてゼロである(2001年12月現在)。

 信者はゼロ。教祖もゼロ。念仏宗渡海会など、最初から存在しない。

>信者には、渡海教祖に毎月4000円の布施をするよう義務付けられている。

 生活に苦しかったとき、インターネットのプロバイダー費用の一部をカンパ金で
賄おうとしたことはある。布施を求めたことはない。義務づけたこともない。毎月
などと言ったこともない。義務と思ってカンパしてくれるような人は一人もいない。

 カンパ金のお願いは、目下中止しているが、将来再会する可能性はある。

 『起信論』に曰わく、あるいは衆生ありて、善根力なければ、すなわち諸魔・外
道・鬼神のために誑惑せらる。 〜 もしは布施 〜 を説き、これ真の涅槃なり
と説かん。 〜 知るべし、外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心を離れず、世
間の名利恭敬に貪着するがゆえなり、と。已上 (親鸞著 教行信証 化身土巻)

 親鸞は大乗起信論を引用し、布施は世間の名利恭敬に貪着するものであると言っ
て警告している。親鸞の教えに布施はない。

 無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連にひとしくて 供養
恭敬をすすめしむ(親鸞著 愚禿悲歎述懐)
490渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 15:25:28 ID:rZ6da2xv
 流罪により受戒の効果を失い、国家公認の僧ではなくなった。親鸞は、善導大師
の教えに基づく名ばかりの私度僧である。それでも、行も証もなくなったこの現代
にあって、なお人々に念仏を勧めている。これは、釈尊の時代であれば、舎利弗尊
者、目連尊者の行ったすばらしい行為に匹敵するはずである。だからこそだからこ
そ、私はその活動を維持していくために、その目的のため、人々には心のこもった
カンパをお願いしている。

 人々が共にあつまり、共に念仏を称えようという場合、舎利弗尊者、目連尊者の
仲間として、必要最小限のカンパを求めることは、親鸞の道である。

 一瞬の言葉のやり合いで悔しさに見舞われ、私怨をいだいて流言飛語をコピペし
ている人がいる。そんな連中の発言にいちいち反応するのは不愉快なのだが、google
やgooなどともあろう検索エンジンまで、根も葉もないそのような流言飛語の尻馬
に乗り、インターネットで世界中に喧伝している。

 世界的な企業が、人類の公器として、2チャンネルのノータリンの尻馬に乗って
いるというのは実に情けない。世界企業が念仏宗渡海会などの馬鹿話を宣伝してい
る以上、googleやgooなどは相手にせざるを得ない。誤解を解く意味で、今後はこの
記載を、随所に書いていく。
491あぼーん:あぼーん
あぼーん
492渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 18:53:55 ID:rZ6da2xv
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1205382068/450

 流言飛語者は浄土真宗本願寺派の僧侶のようだ。

 
>●親鸞聖人が問題を解決したから、我々は世間のことに努力すれば良いと「十劫安
心」まがいのことを言う

 十劫安心などという言葉が飛び出てくる。
  教学上の専門用語である。(坊さんだろう)
  本願寺教学の言葉である(大谷派ではない)。
  まがいのことを言う (意味がわかってない)。

 本願寺派のノータリン坊主が書いているんだろうと思っている。まあ、証拠はないがね(笑)。
493神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 18:57:40 ID:4OTICdn/
955 名前: 渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 04/04/24 20:32
>災害で、九死に一生を得たものの、愛する妻子や家を失い、自殺していく人も多い。
みな、信じて疑わなかったものに裏切られ、苦しみ悩んだ末の行為であろう。
 愛する妻子や家を失い、自殺していく人が多くてもいいんだよ。信じて疑わなかった者
に裏切られてもいいんだ。失敗してもいいんだ。どんなに悲劇を味わってもいいんだ。
実に我々は、まさにそういう中に生きているんだからね。
 本願を信じ、念仏すれば往生する。人には、二つの大きな仕事がある。世間道と出世間
道だ。始め無き始めから、終わり無き終わりに無限に続く膨大な時間軸をもった大問題、
これが出世間道の問題だ。もう一つが、自分の肉体の誕生で始まり、肉体の死で終わる人
生の大問題だ。
 親鸞さんは、出世間道の問題を、完璧に解決してくれた。完璧に解決してくれたということは、
もう出世間道の問題では、何一つ心配することはないということだ。
 災害で、九死に一生を得て愛する妻子や家を失って、人生が破滅しても、親鸞さん以後は、
それは世間道の問題だ。出世間道に尾を引かない。自分の肉体の誕生で始まり、肉体の死
で終わる中での問題だ。
 始め無き始めから、終わり無き終わりに無限に続く膨大な時間軸の大問題ではない。出世
間道の問題は、本願を信じ念仏すれば完璧に解決する。だから我々にとって、それは過去の
問題だ。 出世間道の問題が解決しているということは、世間道の問題まで解決しているとい
うことは意味しない。
 親鸞さんは出世間道の問題を解決してくれたんだから、さあ、我々は世間道の問題で大いに
汗をかこうじゃないか。失敗を恐れることはないんだ。既に出世間道の問題は解決しているんだ
からね。どんなに失敗しても、出世間道には尾を引かないんだ。出世間道の問題が解決してな
いと思う人がいれば、本願を信じ念仏しなさいよ。もうそれで十分だ。これで完璧に解決する。さ
あ、後顧の憂いは消えた。我々は、世間道で大いに汗をかこうじゃないか。
 学生は学生の本分を忘れるな。勉学に励め。これが世間道だ。クリーニングやさんも、パンさ
んも、お巡りさんも、みなその仕事に精励しよう。出世間道の問題は過去の問題だ。何一つ心配
することは必要ない。世間道で汗をかこう。
494神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 18:58:25 ID:4OTICdn/
977 名前: 渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 04/04/24 22:02

>>969
>死の前には何物もない
   馬鹿だね。死も忘れちゃいかんが、生も大事なんだよ。

>学問も何かあらん
    学問をしなければ社会は発展しないんだよ。

>金銭も何かあらん

 金がすべてじゃないが、金も大事だ。金がどんなに大事かは、布施に群がる親鸞会が一
番知ってるんだろう。

>名利も何かあらん

  名利も大事なんだよ。見ず知らずの人を頼るとき、最初は何でスクリーニングするんだい。
  名利を否定すれば、人々は最初のスクリーニング手段が無くなるんだよ。

>毀誉褒貶も何かあらん    これも大事だ。

>希望も目的も何かあらん   これも大事だ。

 出世間道の問題が解決すれば、世間道で全力を尽くすべきなんだ。出世間道の問題が未解決
の段階では、無価値のものでも、世間道で全力を尽くすべき時には、大事なものは山ほどある。
そのことを忘れなさんなよ。
495渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 19:43:56 ID:rZ6da2xv
>>493-494
 4OTICdn/が言いたいことがわからんという人は多いと思う。掲示板はいろいろ
な人が見ているので、意見を主張する場合には、誰がみてもできるだけわかるよ
うにすべきなんだが、4OTICdn/は表現能力がない。横からの助け船が必要なの
だ(苦笑)。

 ふつう、僕はお節介はしないのだが、今回は僕が言い出しっぺなので、例外
的に一回だけ助け船を出しておこう。


 493-494のカキコは、4OTICdn/にとって、>> 492に対するできる限りの反論
のつもりなのだ(苦笑)。

  そうだろう。ノータリンの4OTICdn/よ。!

 >> 492はいう。「十劫安心などという言葉が飛び出てくる。 〜 意味がわかっ
てない」。この発言に対し、4OTICdn/は、間違いなく渡海は十劫安心じゃないか、
と精一杯の反論をしているつもりなのである。

 ただ、自分の言葉を出せばしっぽを捕まれそうなので、渡海の書き込みだけ
を引用している。これなら渡海も反論できないだろうと、そう思ってているのさ(笑)。

 つまり、4OTICdn/は、>>492で自分のことを言われているという意識を持って
いる。流言飛語者と同一人物と言うことだろう。

 4OTICdn/よ。おぬしのカキコに渡海難は直接反論なんかしないよ。ばかばかし
いからね。僕はおぬしの家庭教師ではない。豆腐の角で頭をかち割り、洗濯して
出直してこい!。
496渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 20:00:51 ID:rZ6da2xv
 4OTICdn/よ。宗教板に登場するおぬしの背中には「本願寺派僧侶」という看板が
でていることを忘れるな。 (苦笑)
497渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 20:22:53 ID:rZ6da2xv
>496
 宗教板で「本願寺派僧侶」という看板を掲げて坊主が発言すれば、
それは、教団を代表する意見となる。

 十劫安心もわからん。仏教のぶの字も知らんノータリンのおまえで
も、本願寺派の看板を出せば、2ちゃんねるでは本願寺派教団の代表者
になる。
 本願寺派は、ノータリンのおまえを輩出するようなノータリンの腐り切
った教団だということは、おまえを見ればよくわかるが、おぬしも自分の
行動の一つ一つが教団を代表し、教団に泥を塗っているという意味をす
こし考えたらどうだ。

 門主は幽霊に本を書かせたというのは、つい最近の話だそうだ。末寺の
坊主は2ちゃんねるでノータリンの恥をさらす。
 本願寺派は、親鸞会とともに、上から下まで、崩壊のカウントダウンに
入ったいうことか。
498神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 20:42:53 ID:o4eAh0gF
突然発狂した精神病の方がいると聞いてやって来ました。
499神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 21:14:17 ID:4OTICdn/
>>498
昔から精神病で、今日も発作を起こしたんだよw
500神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 22:03:48 ID:M/c+l061
>>499
>昔から精神病で、今日も発作を起こしたんだよw

でも昨日まではおとなしかったのに、今日になって突発的に発作を起こしたのは何かあるという証拠だよ。
家庭で何かあったのかな?それとも薬が切れたとか。
501渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 22:04:04 ID:rZ6da2xv
>463
> 少なからず興味が沸くね。 やっぱりお坊さんが多い?

 498(o4eAh0gF)と499(4OTICdn/)は、お坊さんだね。
ポンチ絵はほとんどお坊さんが書いてるんだろう(笑)。
502渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/09(火) 22:30:35 ID:rZ6da2xv
>501
 一面識もないはずなのに、498(o4eAh0gF)と499(4OTICdn/)に親しげに
書き込みをする500(M/c+l061)も、498(o4eAh0gF)と499(4OTICdn/)
とはことのほか気心が通じるこれもお坊さんですね。

 同じ宗派、本願寺派だろう。多分。

 そういえば、幽霊に本を書かせた門主は、東京大学、インド哲学ご出身の
宗教音痴だそうだ。上から下まで、教団は腐りきっていると言うことだろう。

 上から下までポンチ絵のように、笑えない腐りきった教団の中に浸かり
きっていると、仏教のぶの字もわからん坊主は、苦言を言われると、
相手をキチガイあつかいする。

 坊主に布施する檀家はいい面の皮。
503神も仏も名無しさん:2008/09/10(水) 00:01:36 ID:8lEMeDIi
>>500
きっとクスリを飲み忘れて、妄想の世界にハマっているのだろう
504渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/10(水) 00:34:56 ID:OR6arYLa
 念仏宗渡海会について

 google、あるいはgooなどの検索エンジンの用語選定担当者に申し上げる。

 渡海難は、念仏宗渡海会などというものは存在しないという発言をしています。一方で、その
渡海難を、「キチガイである。妄想の世界にハマっている」という意見を出している人がいます。

 あなた方はどちらの意見を正しいと思いますか。渡海難を、「キチガイである。妄想の世界に
ハマっている」という意見を出している人は、浄土真宗本願寺派の若手僧侶だと思われます。十
劫安心という聞き慣れない言葉は、本願寺派の僧だけが学んでいる特異な思想です。

 なるほどその通りだ。本願寺派の坊さんの言うとおりだ。念仏宗渡海会をいう教団が存在する。
渡海難はキチガイである。そのように判断することは、あなた方の自由です。事実あなた方は、
これまで、念仏宗渡海会というものがあると信じ、それを社会の公器として、インターネット検
索エンジンのキーワードとして公開してきています。

 渡海難はキチガイではない。まともな人間である。そのように考えるのも、あなた方の自由で
す。

 あなた方の会社は、念仏宗渡海会というものを、実在の宗教教団として確信し、それを世界中
に今後も宣伝するのか。それとも、浄土真宗本願寺派の一僧侶が、私怨ででっち上げた架空の存
在であると考えるか。道は二つに一つです。

 あなた方は、今後も検索エンジンとして、社会の公器として、ノータリンボーズの尻馬に乗り、
私怨に便乗して架空の話を社会に喧伝していくか、あなた方、世界的企業の常識が問われている
ことに、気づいてほしいと思います。
505あぼーん:あぼーん
あぼーん
506渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/10(水) 09:28:54 ID:OR6arYLa
 念仏宗渡海会について

 google、あるいはgooなどの検索エンジンの用語選定担当者に申し上げる。

 渡海難は、突然発狂した精神病患者である。そういう意見を述べる人がいます。いやいや、渡
海難は、昔から精神病で、今日も発作を起こしたんだという人もいます。家庭で何かあったのか
な?それとも薬が切れたんだろう。そういう人もいます。

 そうか。やはりそうだったのか。渡海難は、精神異常者だったのだ。あなた方がそのように思
うことは自由であると思います。念仏宗渡海会というものの存在も、渡海難は精神異常者である
と主張する人から主張されてきたものです。

 世界的検索機関であるgoogleなどは、渡海難は精神異常者であるという主張をする人の意見に
同調し、念仏宗渡海会というものの存在を世界に宣伝しています。どういう意見を信じるか、そ
れは検索エンジン社の自由であり、用語選定担当者の自由です。それは、何人にも批判をされる
必要のないあなた方の権利行使であるということでしょう。

 もう一つの意見があります。「渡海難は精神異常者だ」という主張をしているのは、日本を代
表するノータリン坊主であるという意見です。これは渡海難が主張しています。念仏宗渡海会と
は、「あなたはお坊さんですね」、とういう質問に逆上した本願寺派僧侶が、逆上した脳内でわ
き起こした妄想の脳内宗教教団であるということです。

 お坊さんが、「あなたはお坊さんですね」、と言われて逆上するはずがないではないか。渡海
難は精神異常者だ。日本のお坊さんはみなさん立派な方々ばかりである。そのように、検索エン
ジン社の方々が信じるなら、それはあなた方の自由です。日本のお坊さんはみなさん立派な方々
であれば、「日本を代表するノータリン坊主」などという発言をする渡海難は、まさに精神異常
者ということになるでしょう。
507渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/10(水) 09:30:46 ID:OR6arYLa
 念仏宗渡海会を主張する記事は言います。「ちょうど創価学会が日蓮正宗を「日顕宗」と呼ぶ
ように、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決めつける」。

 渡海難はいいます。浄土真宗の教義を議論している掲示板であれば、坊さんは身分を隠そうと
しても隠せるものではない、と。坊さんか坊さんでないかは、大方、見当がつく。
 十劫安心などという言葉が突然飛び出てくれば、相手が坊さんか坊さんではないか、どこの宗
派か、そんなことはすぐにわかる。一つのキーワードだけではない。キーワードとキーワードと
をつなぐ議論の流れ、勢い、それがワンパターンであればワンパターンであるほど、お里が知れ
る。そのように申し上げておきます。これを、キチガイ渡海の妄想であると思うのは、検索エン
ジン社用語選定担当者の自由です。

 浄土真宗というのは立派な宗派であり、お坊さんはみなさん立派な方々ばかりである。検索エ
ンジン社の方々が、そのように、浄土真宗本願寺派のお坊様方を尊敬し、その言葉を信じること
は、あなた方の立派な自由です。もしそうであれば、渡海難は、ここの掲示板の多くの人が言っ
ているように、渡海難はとんでもない精神異常者であることになるでしょう。あなた方がそう信
じるなら、今後も念仏宗渡海会を世界に宣伝していくことに立派な意義を感じるでしょう。

 泥棒にも三分の理といいます。しかし、仮に三分の理があれば、七分には疑いが残る。そうい
うことでしょう。念仏宗渡海会というのはやはり実在のキチガイ宗教として存在する。七分に疑
いが残ると思えば、あなた方はそう信じると言うことでしょう。もしそうであれば、念仏宗渡海
会というキーワードを検索エンジンに残すのは、あなた方に与えられている自由です。しかしそ
の場合には、いまここの妙好人スレ10の482〜506まで、誰もが簡単にアクセできるよう
リンクを張り、公衆が自由な判断をできるようにしていただきたい。
508渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/10(水) 09:35:21 ID:OR6arYLa
 ここの妙好人スレ10の482〜506を残せば、渡海難はとんでもないキチガイなんだ。精
神異常者なんだ。そのように確信を強める人々はさらに多くなるかもしれません。浄土真宗本願
寺派といえば、実に立派な既成宗教として社会的には評価が大変高い教団です。門主が、宗教な
ど全く知らない宗教音痴、仏教音痴の幽霊に本を書かせ、あたかもそれを自分が書いたかのよう
に門徒に宣伝して印税を儲けても、その門主が、東京大学インド哲学科出身であれば、本人はど
んなに宗教音痴、仏教音痴であっても、社会からは大変高い尊敬を受ける。法務省などは、喜ん
で教誨師連盟総裁という大役を任す。

 トップがノータリンなら、末寺の坊主も負けず劣らずノータリン。浄土真宗本願寺派のお坊様
方は、大変ありがたい教えを示してくださいます。「渡海難は精神異常者である」こういう話を
聞けば、googleの担当者などは、一斉にその言葉に信頼を寄せる。しかし、一部には、渡海難を
指さし、あいつは精神異常者だけど、浄土真宗の坊さんの爪のあかほど程度はまともなことをいう
こともあるんじゃないか、そんな風に思ってくれる人も出てくると思います。
509あぼーん:あぼーん
あぼーん
510神も仏も名無しさん:2008/09/10(水) 23:21:23 ID:qoym0zUm
こんばんは。

http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1188015520/
↑このスレから来ました。
何だか、真面目に取り合う気の起こらないレスばかりですね。

http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1220349512/
↑こちらはキリスト教編です。よかったら、感想を書き込んでやってくださいね!

511渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/11(木) 11:43:45 ID:d7knLrX9
>>465
 うどん屋さんへ。
 月々、あるいは年ごとに、お寺にはいろいろな名目でお布施をなさっていらっしゃるんでしょ
うね。1円でも無駄にできないお金、うどんを召し上がって頂いたお客様から頂いた大事なお金、
家族を守るため、あなたが汗水流して稼いだお金ですよね。あなたはそれを、お寺にお布施する
んですよね。

 そのお金がどのように使われていると思いますか。一部のお坊様は、インターネットのプロバ
イダーに払うお金になっているんです。プロバイダーに払ってどうすると思いますか。2ちゃん
ねるで破廉恥なポンチ絵の投稿代に変わっているんです。
 破廉恥なポンチ絵も、他人が書いた絵を別の板からコピーペーストしてきて貼り付けているだ
けですよ。

 決してそんな坊さんばかりとはいいません。しかし、門主に座っている人物は、東京大学イン
ド哲学科を出、教誨師連盟総裁という地位にありながら、宗教など全く知らない宗教音痴、仏教
音痴、信心などかけらもないゴーストライタに本を書かせ、あたかもそれを自分が書いたかのよ
うに門徒に宣伝して印税を稼ぐ、そんな仏教のぶの字も知らない宗教音痴、仏教音痴だそうです。

 トップがノータリンなら、末寺も右にならってノータリン。あなたはお坊さんですねと言われ
ると、腫れ物に触られたように逆上し、何年も何年もストーカーを続けるやつもいる。まあ、上
から下までノータリンというのはこの世界のことだと思います。

 お寺にお布施するとき、次回はお坊さんに質問するといいでしょう。あなたは渡海難をどう思いま
すか、と。

 あいつはキチガイですよ。最高にアホですよ。きっとクスリを飲み忘れて、妄想の世界にハマ
っているんですよ。こういう返事が返ってくれば、その坊さんは2ちゃんねるでポンチ絵をコピ
ペしている人でしょう。お客様から頂いたお金は、プロバイダーに支払われ、あのポンチ絵に変
わっていくんだなぁと、しみじみとそのように思うといいと思います。
512神も仏も名無しさん:2008/09/11(木) 14:24:15 ID:JaNq2Dg+
>>511
> お寺にお布施するとき、次回はお坊さんに質問するといいでしょう。あなたは渡海難をどう思いま
>すか、と。

「渡海難?とかいなん?誰それ?何やってる人なの?聞いたことも見たこともない。」という返事が返ってくるよ。
513うどん:2008/09/11(木) 14:48:11 ID:o8QLE7TW
>>511
お坊さんのなかにも、いろいろな方がおられますからねえ。
正直、「え〜?」てな方もいますよね。
でもまあ、私なんかは我が身を顧みたときに、まあ仕方ないかな、なんて。
もしも私がお寺に生まれていたら、そりゃもう酷いものが出来上がったと思いますものね。

うろ覚えですけれど、法華経のなかに「末法の世になれば出家の堕落は目を覆うばかりになるが、それでも敬うべきものである」というようなことが書かれてあったように記憶しています。
ですから、敬うべきものは敬えばいいではありませんか。
その僧侶が敬うに足る存在でなかった場合、恥ずべきは先方のほうなんですから。
渡海さんの場合は、どんな誹謗中傷をうけようとも、真心からの座禅念仏は変わるものではないでしょう。それでいいじゃないですか。
私は私で、いただいた信心をよろこび仏恩報謝の日送りをするだけ。ひとりひとりのお念仏です。

・・あと、うどん屋からしてみれば、税金がないというのはうらやましいなあ、って。そのくらいかな。(笑)
514渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/11(木) 19:41:01 ID:d7knLrX9
>>512
>「渡海難?とかいなん?誰それ?何やってる人なの?聞いたことも見たこともない。」という
返事が返ってくるよ。

 こういう返事が返ってくれば、それは2ちゃんねるの坊さんだよ。なぜなら、それはID:JaNq2Dg+
だろうからね。(笑)


>>513
>お坊さんのなかにも、いろいろな方がおられますからねえ。正直、「え〜?」てな方もいますよね。

 立派な人はたくさんいますよ。実は、その立派な人が内心非常に迷っている。僕は、明治に歎
異抄を、特に坊さん達に公開したことの重大な弊害だと思っています。

>私がお寺に生まれていたら、そりゃもう酷いものが出来上がったと思いますものね。

 おもしろいことを言う正直な方ですね。

>うろ覚えですけれど、法華経のなかに「末法の世になれば出家の堕落は目を覆うばかりになるが、
それでも敬うべきものである」というようなことが書かれてあったように記憶しています。

 親鸞の教行信証でしょう。
515渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/09/11(木) 19:42:05 ID:d7knLrX9
>敬うべきものは敬えばいいではありませんか。

 うんうん。
 僧侶一人一人を尊重してほしいというのは、教行信証の化身土巻の末に出てくる。愚禿の名乗
りの原因になった禿の意味もそこにある。大事なところなんですよね。

>その僧侶が敬うに足る存在でなかった場合、恥ずべきは先方のほうなんですから。

 うんうん。そうですね。
 ただね。恥を知らない坊さんは困ったものだ。

>いただいた信心をよろこび仏恩報謝の日送りをするだけ。ひとりひとりのお念仏です。

 うんうん。

>うどん屋からしてみれば、税金がないというのはうらやましいなあ、って。そのくらいかな。

なるほど。なるほど。
516あぼーん:あぼーん
あぼーん
517神も仏も名無しさん:2008/09/12(金) 23:46:21 ID:MwbBuX4V
僧侶が葬儀中に株取引 三人を謹慎処分
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1221227554/

「創価に負けてられん」日蓮正宗がテレビCM放映へ
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1221228826/

尼さん萌え必見!尼さんが精進料理を食べされてくれる、尼さんカフェ【香川】
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1221213858/
518298:2008/09/13(土) 12:23:57 ID:s4QC4qjy
>>513
そうですよね、「ひとりひとりのお念仏」だと思います。

こうして歩む道が与えられたこと、感謝したいです。

南无阿彌陀佛
519神も仏も名無しさん:2008/09/13(土) 15:29:29 ID:b3AZZlNM
仏門に入ったきっかけは身体のコンプレックスから Dカップ巨乳住職誕生
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1221234048/
「お題目を唱えるとガンが治る」薬事法違反で新興宗教団体を摘発
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1181050412/
520うどん:2008/09/14(日) 19:41:26 ID:nuiliSnu
>>518
たとえ自力の念仏であっても南無阿弥陀仏は尊いですね。
ましてや、たのむ衆生を十人は十人、百人は百人、みなもらさずたすけていただける他力の念仏ならばなおさらです。
521298:2008/09/14(日) 23:10:36 ID:6v5htCyn
>>520
南无阿彌陀佛は、ほんとうに尊いですね!
どこからどこまでも尊く、すべてを具足していらっしゃる六字。
信前から、信後まで、そして、現生から、後生まで、
すべて六字が守ってくださると思います。
南无阿彌陀佛
522渡海 難:2008/09/14(日) 23:27:22 ID:rqPHY7V+
ブログ親鸞仏教 更新しました。   www.しんらん.jp/
523神も仏も名無しさん:2008/09/15(月) 00:36:22 ID:ci/J7mEO
六字とかどうでもええ。

「阿弥陀仏」と「他力」と「神」の違いを教えてくれ。
一般人には理解し難い。同じなら同じでいいし。
字とか漢字だし、仏陀はインド(ネパール)人だし。
もし「字」や声に出す「行」としての意味合いがるとしたら、
密教的呪文的マントラ的意味合いや象徴言語としての意味合いがあるということなん?

そのあたりを分かり易く教えてちょうだい。

あと、「アーメン」と「ナマンダ」には、どれほどの深い意味での違いがあるんだ?
524神も仏も名無しさん:2008/09/15(月) 00:42:29 ID:ci/J7mEO
「神」とはどういう意味ですか?とか聞かんといてね。
現代人なら、物理学者ドーキンスが「神は妄想である」と言ったことぐらい知ってるでしょ?

そういう意味での「神」だよ。
525神も仏も名無しさん:2008/09/15(月) 00:43:22 ID:ci/J7mEO
訂正)物理学者→生物学者
526神も仏も名無しさん:2008/09/15(月) 09:22:23 ID:NF0WZIPN
>>523
なぜ、仏の名を称えただけで救われるのか?往生できるのか?
ってことじゃないですかね?
なぜなんでしょうねぇ?
常識的には、そんなバカな!って思いますよね。
527神も仏も名無しさん:2008/09/15(月) 11:38:09 ID:i1f90COB
だから信方便易行なんじゃね?
528神も仏も名無しさん:2008/09/15(月) 17:09:44 ID:KRlQoGqg
>>527
だから、それはどういうこと?
529298:2008/09/16(火) 00:03:52 ID:FCihsoSu
>>526
しかも、「ただの一度で」救われるわけですから、
信じられないことが当然だと思います。
530神も仏も名無しさん:2008/09/16(火) 21:34:43 ID:v86jug8G
>>529
> しかも、「ただの一度で」救われるわけですから、

「ただの一度」もお念仏を称えられなかったもの、例えば乳児・幼児は救われないのですか?
531うどん:2008/09/16(火) 22:01:39 ID:vHCHbcHs
乳児でも幼児でも、南無とたのめば救われるのではないでしょうか。
たとえ声にならなくても南無阿弥陀仏のすがたとなれば、それはお念仏であると思います。
532神も仏も名無しさん:2008/09/16(火) 23:46:43 ID:v86jug8G
>>531
> 乳児でも幼児でも、南無とたのめば救われるのではないでしょうか。

乳児・幼児が、南無とたのめるでしょうか?
南無とたのむとはどういうことでしょうか?
533うどん:2008/09/17(水) 00:18:56 ID:uP4z5Uwn
>>532
南無とたのむとは、本願招喚の勅命に素直にしたがうこと。
弥陀のおはからいにすべておまかせすることだと思います。

・・って、まったくあたりまえで答えになってませんよね。
よく知らんくせにテキトーなことを書いてしまったようです。
ごめんなさい。
534神も仏も名無しさん:2008/09/17(水) 17:30:04 ID:XywsHRUK
>>533
乳児・幼児が、本願招喚の勅命に素直にしたがう?
弥陀のおはからいにすべておまかせする?
それはどういうことでしょう?
 
うどんさんを批判しているのではなく、私の疑問です。
535うどん:2008/09/17(水) 19:07:08 ID:uP4z5Uwn
>>534
>それはどういうことでしょう?

私自身、いまひとつたよりないので、うまく説明できません。申し訳ないです。
ただ、「老少善悪の人をえらばず」というからには赤子であっても弥陀をたのむことはできると思います。
阿弥陀仏から見たときに、大人も赤子も年寄りも健常者も病人も、多分どれほども違わないです。
弥陀をたのむにしても、赤子では難しいのならば、大人にだって難しいのではないでしょうか。
他力の信心なればこそ、もし大人に南無阿弥陀仏を聞きひらくことができるのならば、赤子にだってできるはずだと思います。
5367:2008/09/17(水) 21:06:41 ID:8lWhv2uL
赤子から大人になる時、人は何を身に付けるのでしょう。経験や知識、体格やら学歴やら経済力。その他いろいろ大人になることで身に付けていきますが、

それらがはたして往生の足しになるのか?考えてみたらいかがでしょうか?赤子が救われてこそ他力ではないかと思った次第です。
537神も仏も名無しさん:2008/09/17(水) 21:34:44 ID:XywsHRUK
>>535
私は、幼児・乳児・赤子が救われるなら、
「弥陀をたのむ」とか、「南無阿弥陀仏を聞きひらく」とか、
「本願招喚の勅命に素直にしたがう」とか、
「弥陀のおはからいにすべておまかせする」とか、
そのような条件は存在しないのではないかと思います。
何も条件が存在しない、それが他力ではないでしょうか?
538うどん:2008/09/17(水) 22:33:55 ID:uP4z5Uwn
>>537
>何も条件が存在しない、それが他力ではないでしょうか?

南無阿弥陀仏という名号がある以上、それにかかわる何かがあると思うのですが・・・

何も条件が存在しないということがどういうことなのか、どうもイメージできません。
しかしまあ、「イメージする」ということ自体が自力であり、凡夫の妄念ですね。
たしかにそういう考え方もあるのかもしれません。
もしそうならば、人は生まれながらに救われているのでしょうか。
539298:2008/09/18(木) 03:23:04 ID:NfgRY14J
「人は生まれながらに救われている」ということも、ひとつの考え方ですし、
その考え方にやすらぐ方もいらっしゃると思います。
ひとりひとりが歩む道。
私は、私の信じるお念仏の道を歩ませていただいて、とてもうれしい。
そして、同行を得まして、さらに心強く、ますますうれしい気持ちがしております。
こうして、疑い深い自分が、ひとつの結論に辿り着けたことが、
つくづくうれしいのです。
「奇跡だなー」と、素直に思えます。
ありがたい、ありがたい、南无阿彌陀佛。
そう思えることが、うれしいのです。
南无阿彌陀佛
540神も仏も名無しさん:2008/09/18(木) 09:02:40 ID:AFOtE/jk
>>539
> 「人は生まれながらに救われている」ということも、ひとつの考え方ですし、
> その考え方にやすらぐ方もいらっしゃると思います。
> ひとりひとりが歩む道。
> 私は、私の信じるお念仏の道を歩ませていただいて、とてもうれしい。

ひといひとりが歩むお念仏の道が違うなら、それは阿弥陀如来よりたまわった信心ではないのではないですか?
法然上人も、親鸞聖人も、他力の信心は如来よりたまわった信心だから誰の信心も等しいとおっしゃっています。
他力の教えに、「ひとつの考え方」とか「その考え方にやすらぐ」などということが根本的にあり得ないと思いますよ。
541神も仏も名無しさん:2008/09/18(木) 09:14:36 ID:AFOtE/jk
>>539
> 私は、私の信じるお念仏の道を歩ませていただいて、とてもうれしい。
> そして、同行を得まして、さらに心強く、ますますうれしい気持ちがしております。
> こうして、疑い深い自分が、ひとつの結論に辿り着けたことが、
> つくづくうれしいのです。

「私の信じるお念仏の道」は、あなたが作り出したものであって、如来よりたまわった万人に共通のものではないと思います。
あなたのおっしゃる同行は、あなたと同じ考え方の人たちであって、万人ではないでしょう?
阿弥陀如来の元では万人が同行のはずです。
あなたが辿り着いた結論は、あなたがあなたの頭で作り上げ、納得した結論であって、普遍的なものではないと思いますよ。
 
思い込みが激しく信じ込んでいる時に何を指摘しても無駄でしょうけど・・・。
5427:2008/09/18(木) 11:04:47 ID:74jdh9wK
>>540 味わい方は人それぞれではないでしょうか?信心決定したら誰もが親鸞聖人のようになりますか?有名な同行の方のようになりますか?
    信後の味わい方も人生も、人それぞれ。不断煩悩即涅槃なのです。一人一人の煩悩はまだ断たれていませんから。
    それでも、一味同行だと分かる不思議です。

>>541 あなたが辿り着いた結論は、あなたがあなたの頭で作り上げ、納得した結論であって、普遍的なものではないと思いますよ。
    これは全ての人に対して言えると思います。
5437:2008/09/18(木) 11:07:18 ID:74jdh9wK

とは言え、煩悩に満ち満ちた凡夫がコレが正しいとかその考えや解釈は間違っている、ということに拘って論争ばかりしていてもねぇ・・・

「たゝ念仏して 弥陀にたすけられ まひらすへしと よきひとの おほせを かふりて 信するほか
に 別の子細なきなり」(歎異抄)

阿弥陀仏が信じられないと、苦しむ方もあるのですから、信じる身となった人にはまず「おめでとう」と言ってあげたいです。
540さんも、何か縁があって阿弥陀仏を信じていらっしゃるんでしょう?信心決定したという自信がなければ人にそれは間違いだと断言できないでしょうから。
ならば、おめでとうございます!
5447:2008/09/18(木) 11:45:10 ID:74jdh9wK
あ、もちろん信心決定していらっしゃらなくても、「これは間違いなく間違いだ!」と思うことは断言口調になるものだと思います。

今までの知識と経験でそう判断されたことだと思います。人それぞれ自分が信じるところにより生きていくのだなぁと思いました。

南无阿彌陀佛
545神も仏も名無しさん:2008/09/18(木) 15:50:50 ID:JO4B0BlK
うーん

味わいは教義より大事だと思うけど、味わいが教義を曲げたらいけないと思うよ
たかが教義、されど教義。

>阿弥陀仏が信じられないと、苦しむ方もあるのですから、
>信じる身となった人にはまず「おめでとう」と言ってあげたいです。
南無阿弥陀仏といっといた方がいいんじゃない、その方がまちがいすくないよ
蓮如は宿善めでたしというはわろしとか言ってるし
5467:2008/09/18(木) 16:24:59 ID:74jdh9wK
確かに南无阿彌陀佛のほうが適切で間違いが少ないかも知れないですね。

蓮如上人、仰せられ候う。「「宿善めでたし」と、云うは、わろし。
御一流には、「宿善有り難し」と、申すが、よく候う」由、仰せられ候う。
(蓮如上人御一代記聞書)

ここのことですね。なぜ蓮如上人がそのように仰られたのか、詳しく知りたいです。
信心決定した人があると聞けば、「良かったねえ、おめでとう!」と思わず言いたくなるけど、
どうなんでしょう。上記のお言葉は自身の宿善に対する態度を言われているような気がします。
5477:2008/09/18(木) 16:35:05 ID:74jdh9wK
ちなみに、味わいか教義か・・・両方大切ではないかと考えているのが今の自分です。

お聖教には、味わいと教義の両方が書かれていると受け止めています。
味わいだけに拘れば主観的な話になってしまい、教義だけに拘っても解釈が分かれます。
両方書き残してくださったことがとても有り難く、祖師聖人に感謝したいと思います。

南无阿彌陀佛
548298:2008/09/18(木) 23:49:01 ID:NfgRY14J
>>541
>思い込みが激しく信じ込んでいる時に何を指摘しても無駄でしょうけど・・・

まあ、やっぱり、そうなんだと思います。

それで、たのしくて、しあわせで、うれしいのですから、私は満足です。

南无阿彌陀佛
549298:2008/09/18(木) 23:54:05 ID:NfgRY14J
>>546
ほんのちょっとの宿善ですが、弥陀の強さのために、強くひかれて救われた。

なんとか、救われるだけの宿善があって、良かった。

宿善などないはずの自分であったが、弥陀のお育てにより、
なんとかこうして救いにあずかれた。

あぶないところだった。救われてよかった。

のような感慨があるような気が致します。

南无阿彌陀佛
5507:2008/09/19(金) 18:19:06 ID:rJqqR/bU
そうですね。何故、自分のようなものが救われたのだろう、と不思議に思うことは度々あります。

自分のようなものでも摂取不捨、救ってくださるのが阿弥陀仏と聞けば有り難く思いとりて南无阿彌陀佛。

憶念するたび、南无阿彌陀佛。何もかもが自分にこの六字を信ぜしめんがためのご方便であったと感謝して、

南无阿彌陀佛
551298:2008/09/19(金) 20:28:51 ID:fKHg1WDt
>>550
7様

私など、ほんとうにあさましい日暮しをしております。

身の回りのことも、まともに出来ないダメな男です。

こうして、偉そうなことを書いておりますが、その実際を知れば、
みなさまあきれて、さらに、失望することでしょう。

(失望なさらない方がいれば、その方が、「できている方」なのだと思います。)

そんな私でも、こうして救われたと思い、そして、ほんのすこしずつですが、
どうしようもなくダメであった私が、やはりすこしずつでも、変えられていることを
感じ、さらに感謝しております。

御恩報謝もとぎれてしまう、どこまでもダメな私でありますが、
弥陀の御心は、とても大きく、私を守り、包み込んでくださいます。

南无阿彌陀佛
552神も仏も名無しさん:2008/09/21(日) 01:17:50 ID:IxRdR2yJ
信心決定てさ

(私の)信心が決定する

(私の)信心を決定する

どっち?主語は何?
553神も仏も名無しさん:2008/09/21(日) 01:29:07 ID:Xy+CWX75
5547:2008/09/22(月) 19:56:09 ID:KYkADmAg
>>552
 阿弥陀仏が 私の 信心を 決定する と読むことも出来るのではないかと、思います。

 『聖人一流の御勧化のをもむきは信心をもて本とせられ候 そのゆへはもろ〜の雑行をなけすてゝ一心に弥陀に帰命すれは

 不可思議の願力として仏のかたより往生は治定せしめたまふ 

 そのくらゐを一念発起入正定之聚とも釈し そのうへの称名念仏は如来わか往生をさためたまひし
  御恩報尽の念仏とこゝろうへきなり あなかしこ〜』(御文章)

>>298
 個人個人の機に向かえば、ナンじゃこりゃ!としか思えないのが人の有様ですが、
 いつでも南无阿彌陀佛と御恩報謝させていただけることが、とても有り難いです。
 南无阿彌陀佛
555うどん:2008/09/22(月) 20:28:04 ID:KTCgKIFi
信心決定とは関係ないですが

このところ、毎朝ウォークマンで『往生礼讃偈』を聴きながら仕込みをしています。
いいですねえ。
旋律といいご文といい、心に染みわたりますねえ。
松虫鈴虫の気持ちもわかるなあ。
なんかウルウルしてきますもんね。
・・仏法に年齢は関係ないけれど・・・やっぱ歳なのかなあ。
556渡海 難:2008/09/24(水) 12:56:34 ID:8Lpfb594
ブログ親鸞仏教 更新しました。   www.しんらん.jp/

557神も仏も名無しさん:2008/09/24(水) 16:05:17 ID:NeXJlw7y
ようつべかニコ動でみれる鬱系のオススメアニメを教えなさい!キモオタ共
5587:2008/09/29(月) 09:57:54 ID:FPc5awvH
>>555 うどん様

>このところ、毎朝ウォークマンで『往生礼讃偈』を聴きながら仕込みをしています。
>いいですねえ。

いいですね^^。まさに「仏法は嗜め」ですね。
559うどん:2008/09/30(火) 14:34:56 ID:KWiuxu+j
>>558
そうですね。仏法を味わえるのはトクですよね。

弥陀の信心をいただき、法を味わい日々喜ぶ。
そんな人が私の周囲にもいますが、ちょっとした妙好人だなあ、なんて思います。

たとえば近所のバアチャン。弥陀のご本願を大変に喜んで御恩報謝に怠りがない。
超年寄りで文字も満足に読めないけれど、ボツボツと喋る言葉は御聖教とまったくズレがないんですよね。
まあ、一流安心のとおりを聞き開けば、おどろく事ではないのかもしれないなあ。

嬉しくても嬉しくなくても信心は同じだけれど、やっぱり喜んで生きられるということはシアワセですね。
そういうプチ妙好人、案外たくさんいますよね。
できれば、そんなふうになれたらいいなと思いますが、とてもとても。。。
560神も仏も名無しさん:2008/10/04(土) 03:12:42 ID:BY8siVIO
「本願の名号、われらにあり」の出典をお聞きしたいのですがご存じの方おられませんか?
561渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/10/06(月) 11:48:10 ID:SG6PV8BQ
ブログ親鸞仏教 更新しました。
  www.しんらん.jp/
562渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/10/06(月) 12:48:39 ID:SG6PV8BQ
>>560
 佐木隆三の小説『復讐するは我にあり』の題名を高森さんか誰かが模倣した
のでしょう。

 映画化され、ブルーリボン賞、日本アカデミー賞も受賞しているそうです。

 
 「復讐するは我にあり」
 新約聖書(ロマ書12の19節)
 「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒りに任せまつれ。録して『主いひ給ふ、
復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり。

 近代法が被害者個人による仇討ちを禁止し、犯罪を犯した者は国家が代わって
罰を下す思想の根拠となっています。

 悪に勝たるることなく、善をもて悪に勝て。この一節は、そう結んでいます。
563神も仏も名無しさん:2008/10/07(火) 01:51:03 ID:fyzIW//y
90 名前: 渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 2006/01/01(日) 09:16:20 ID:q/gXKE5R

>>76
> ロジャース教授は、著書の中で、こう書いています。

 ロジャーズというのは、心理学者のカール・ロジャーズのことか。
非指示的療法というのは、カトリックの告悔にヒントがあったとい
うことは、彼の本に書いてあった。
 。ロジャーズは、一時、プロテスタントの牧師を目指していたらし
い。非指示的療法は東洋的だというのは、東洋日本の学者の意見
だ。東洋哲学、東洋宗教には関心があったのかもしれない。非指示
的療法というのは、禅の影響を受けているんじゃないかということは、
日本の学者(複数)から、随分聞かされた話だ。ただし、そういうこと
が本当にあったかどうかは、僕は確認できない

 確かに、ロジャーズのエンカウンターグループというのは凄いも
のだ。僕は、日本では何十回も経験させて貰った。カリホルニヤ
のライホイヤキャンプにも、一回だけだが参加させてもらったこと
があった。
 しかし、ロジャーズの考えの中に真宗的なものがあるとは思えな
い。まして、インチキ宗教親鸞会のカルト教義が入っていると言え
ば、これはキチガイの戯言だ。

 ついでに書いておきたい。座禅して念仏した直後、エンカウンター
グループを開けば、宗教的な心は急速に開いていくだろう。蓮如教
団の宗教パワーは、溝という組織の中で、実質的にそうしたものが
行われ、育ったものだろうと僕は思っている。それにほとんど近いこ
とは、禅宗ではずっと古くから伝統的に行ってきている。真宗を本気
で学ぼうと思えば、座禅を忘れた本願寺カルト教義の中だけで固ま
るのではなく、現代では心理学や禅宗の中にこそ教わるものが極め
て多い。僕はそう思っている。
564渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/10/08(水) 12:55:55 ID:Uy75ilGh
>>523
 これに回答する人はいないのかねぇ。

 523も、回答する人がいなければ、そう言う人が出てくるまで、ひたすら
待つだけいか。それとも、どこかに消えてしまったか。

 時間ができたら僕が書いてみようじゃないか。阿弥陀とは何か。神とは何が違うのか。
他力と神の救いとは何が違うのか。
 浄土真宗にとっては、極めて重要な基本的な問題だ。

  「アーメン」と「ナマンダ」は何が違うのか。これも大事な問題だ。
565あぼーん:あぼーん
あぼーん
566渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/10/11(土) 10:44:05 ID:+/nYeJrv
>>523

↓ ここで書き始めました。

 ○●Я親鸞仏教質問箱R(その4)●○
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1211038645/
567神も仏も名無しさん:2008/10/11(土) 11:08:22 ID:Dn4xuM4N
ここも閑散としてるね。以前の賑わいがうそのようだ。
568神も仏も名無しさん:2008/10/12(日) 10:19:07 ID:XZhhOAEB
ここも渡海スレになっちゃったの?
569神も仏も名無しさん:2008/10/12(日) 10:21:13 ID:XZhhOAEB
信心獲得後も往生に疑いが残るという説は
その後どうなりましたか?
570神も仏も名無しさん:2008/10/12(日) 10:38:24 ID:ldrIrff0
>>568
>ここも渡海スレになっちゃったの?

このスレは渡海が立てたスレだから。しかも>>461で名無しになって勝手に終了宣言してるし。
5717:2008/10/12(日) 22:24:56 ID:+5mzmYe8
ちょ・・・一応スレ建て依頼したの自分です^^; 

前半のまだ未信だった頃の書き込みを読み返すと何とも感慨深いです・・・

南无阿彌陀佛
572神も仏も名無しさん:2008/10/12(日) 22:28:12 ID:XZhhOAEB
7のお人は298流で獲信しはったんですね。
よろしおしたな。
573298:2008/10/15(水) 01:25:33 ID:6xDqL4+l
自らの考えを表明すれば、それと異なる考えの方が存在するのは、自然なことです。

そして、その異なる意見を聞いたときに、私の感情が揺れるのは、私の未熟さを示すこと。

このような未熟な私でも、凡夫の妄念とは違うところで、弥陀の真実信心により、
救われてしまうということが、この道のすごいことだと思い、感謝しております。

しかも、私の考えに価値があるかと言えば、そこに価値などありません。

結局、価値を持つのは南无阿彌陀佛。

この六字がすべてであり、この六字に尽きているところが、
真宗の真宗たる由縁であると、いただいております。

南无阿彌陀佛
5747:2008/10/15(水) 02:28:35 ID:Uoobjd3Q
ありがとうございます。

私は298様に出会えて本当に良かったと感謝しています。

ここで皆様に出会えたことも本当に有難いことです。

南无阿彌陀佛
575渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/10/15(水) 12:23:03 ID:NYoOk6Ea
ブログ親鸞仏教 更新しました。
  www.しんらん.jp/
576渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/10/15(水) 14:07:12 ID:NYoOk6Ea
>>573
前々住上人、法敬に対して仰せられ候う。まきたてという物、知りたるかと。法敬、御返事に、
まきたてとあって、一度まきて、手をささぬ物に候うと、申され候う。仰せに云わく、それぞ、
まきたてが、わろきなり。人になおされまじきと思う心なり。心中をば申し出だして、人になお
され候わでは、心得のなおること、あるべからず。まきたては、信をとることあるべからずと、
仰せられ候うと云々

 前々住上人、法敬に対しておっしゃった。まきたてというものを知っているか。法敬は答えた。
まきたてというから、一度巻いて、手を通してないものでしょうか、と。前々住上人はおっしゃ
った。それだ。まきたてというのはよくないことだ。他人に直されたくないと思う心、これをま
きたてという。思ったことを口にしても、それを直して貰わなければ、間違った考えは変わると
きがない。まきたてでは信心は得られないぞと。このようにおっしゃった。
577神も仏も名無しさん:2008/10/15(水) 15:10:55 ID:wiHF0ZPu
72 名前: 渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 04/04/25 13:39

>>52
>51ですが、ちなみに私は学生ですが、もうすでに信心決定しています。

 なおなおよくよく念仏者達の信心は一定と候いしことは、みな御空事共にて候いけり。これほどに第十八
の本願を捨て参らせ合うて候人々の御言葉を、頼みまいらせて年頃候いけるこそ、浅間敷う候。
                                                             親鸞

 ご立派ですね。信心決定なさいましたか。ご立派なお方でいらっしゃいますね。信心決定遊ばされて、
何がどう変わりましたか。
 ほしい物は手に入るようになりましたか。愛する人と別れることはなくなりましたか。嫌な人とは合わずに
済むようになりましたか。苦の種になるようなものは、無くなりましたか。

 お若い方よ。信心決定して正義を掲げても、掲げても、掲げる正義は、所詮は絵に描いた餅。決定した
正義では腹の足しにはならんでしょう。腹の足しにならんものじゃだめなん。こう叫べば、絵に描く餅もな
くなる。あれも駄目、これもだめと、下手すりゃ未来永久に争いと破壊だけが続いていく。
 人間はね、得意絶頂の有頂天などは、三日と持たぬ。人は、いつでも地獄餓鬼畜生に転落する。けだもの
の心でけだものの行為をする者をけだものという。鬼の心で鬼の行為をする者を鬼という。欲望だけが天をも
焦がす炎となって燃えさかっても、身は微動もできないときを、地獄という。

> だから、これだけはっきりと断言できるのです。
                                   ああ、浅間敷う候。
578298:2008/10/15(水) 16:28:09 ID:6xDqL4+l
>>574
7様

不思議なご縁ですね。

私は、何が本当か、わからぬ凡夫でありますが、あくまでも感覚的なものとして、
六字を尊び、六字をよろこんでいる。

そうなれたことが、奇跡だと思います。そして、うれしいのです。

この六字を、相続してゆきたいと思っております。

南无阿彌陀佛
579神も仏も名無しさん:2008/10/18(土) 09:19:35 ID:olc5G6N/
>>65
ありがとうございます。南無阿弥陀仏。
580神も仏も名無しさん:2008/10/19(日) 11:51:55 ID:5kA7ny7K
阿弥陀仏がほめてくだされる。
よくぞ願いを聞いてくれたと喜びほめてくだされる。
うれしや、もったいなや、
本願を聞くとは、ただ大悲を頂くことであったとは。
581渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/10/19(日) 13:03:36 ID:94imIc8q
>>580
 馬鹿馬鹿しい。

 悪人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよ(蓮如)
 悪人のまねをするよりはましだろうと言われ、信心決定の人のまねでもなさろうとなさってい
るんでしょうか。

 信を得ずして、よろこび候わんと、思うこと、たとえば、糸にて物をぬうに、あとをそのまま
にてぬえば、ぬけ候うように、悦び候わんとも、信をえぬは、いたずらごとなり。「よろこべ、
たすけたまわん」と、仰せられ候うことにてもなく候う。たのむ衆生をたすけたまわん、との本
願にて候う(蓮如)。

 信心などありゃしないのに、喜んで見せよう、喜んで見せようと演技するのは愚かなことだ。
糸で生地を縫っても、糸の端末に止め玉を作らないで縫えば、糸は次第に抜けていく。どん
なに喜んでみても、信心がなければ、無意味なことだ。

 喜び組を見てはしゃぐのは、北朝鮮の金正日と本願寺のノータリン坊主だけ。人間のまねし
た猿芝居を見せられても、まともに喜ぶやつなどいやしない。後ろを向いてそろばんをじき、布
施の皮算用でもしているんだろう。
582神も仏も名無しさん:2008/10/19(日) 13:16:13 ID:UhJ5d23V
阿弥陀が俺らをほめるんじゃなくて
俺らが阿弥陀をほめる(讃仰)んじゃねーの?
583神も仏も名無しさん:2008/10/19(日) 20:08:20 ID:rLrk76Qr
阿弥陀仏は、善人からではなく、先ず、念仏を唱えさせられる悪人から救う。
とすれば、阿弥陀仏は、男をではなく、女人を最初に救うことになるだろう。
584あぼーん:あぼーん
あぼーん
585神も仏も名無しさん:2008/10/21(火) 00:58:29 ID:i77m0fyi
>>582
一念多念文意

また『経』(観経)にのたまはく、「若念仏者 当知此人 是人中分陀利華」とのたまへり。
「若念仏者」と申すは、もし念仏せんひとと申すなり。
「当知此人是人中分陀利華」といふは、まさにこのひとはこれ人中の分陀利華なりとしるべしとなり。
これは如来のみことに、分陀利華を念仏のひとにたとへたまへるなり。
この華は、「人中の上上華なり、好華なり、妙好華なり、希有華なり、最勝華なり」(散善義・意)とほめたまへり。
光明寺の和尚(善導)の御釈(散善義)には、念仏の人をば上上人・好人・妙好人・希有人・最勝人とほめたまへり。
586神も仏も名無しさん:2008/10/21(火) 01:17:09 ID:i77m0fyi
>>583
信巻

おほよそ大信海を案ずれば、貴賎緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、
造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、
頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、
有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、
ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。
たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。
如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。
587渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/10/25(土) 15:22:30 ID:guyLisI5
ブログ親鸞仏教 更新しました。
  www.しんらん.jp/
588あぼーん:あぼーん
あぼーん
589神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 16:43:43 ID:UUgkDkn1
宿善は、前世から今までの阿弥陀様のお育てがあったからこそ、今生でご信心をいただけたはずです。
自分には、少ししかない宿善だったと思う事ほど傲慢な考えに思えます。
今回、こうしてご信心をいただけたのは、少ししかない宿善なんかじゃ有りません。
今の今まで、たった今まで、無始以来の阿弥陀様の働きがあったからこそでしょう。
少ない宿善しかなかったなんて、思うのももったいないことです。
自分が何様だと思っているのでしょうか・・・
もう少し、阿弥陀様のお心をよぉーく考えて発言したらどうですか?
どれだけのお力を私達はいただいているのか。
590神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 16:55:01 ID:UUgkDkn1
後念相続は、決して自分の為にあるものではありません。
相続とは、次の人に引き継ぐことでしょう。
この喜びを独りでも多くの人に繋いで行こうと言う心が大切かと思います。
この道は、決して一人しのぎではありません。
皆さん何か勘違いをしているように見受けられます。
今現在、何処でどう凡夫の浅知恵が入り込んでしまったのか、皆言っている事がばらばらです。
誰が正しいとは言いません。
一人の人間に信心をとるように働きかけているのは、阿弥陀様です。
独りでは名にも出来ないくせに、何が一人しのぎなのでしょう。
阿弥陀仏初め諸々の仏菩薩、神に至るまで私のためにどれだけのご苦労をしてくれていると思っているのでしょうか。
591うどん:2008/10/30(木) 21:02:19 ID:x13Tt0BE
なんとなく文面が恐いけれど、たぶん御一流の方でしょうね。
どうしてお怒りなのでしょうか。

>相続とは、次の人に引き継ぐことでしょう。

私としては、後念相続とは、第一に仏恩報謝の南無阿弥陀仏を称えることではないのかと思っています。
できるかぎりは有縁の方を勧化するよう努めることも、たいへん大事なことですよね。
しかし、私などはこれがなかなか出来ないんですよね。
何事も阿弥陀様まかせ、と甘えております。まことに申し訳ないことです。

が、先頃、ご縁がありまして知り合いを二人、お手引きすることができました。
お二人とも大変喜んでくださって、私もともに感激しておるところです。
けれども、これだって結局は、私がお手引きしたのではなくて、阿弥陀様のお育てのよるものなのだなあとつくづく感じているこの頃です。

592神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 21:33:00 ID:UUgkDkn1
宿善が薄かったのに等と言う言い方自体、他力の信心をいただいたもののいう言葉ではないと思います。
是の宿善を用意してくれたのは、阿弥陀仏であることすらも忘れているとしか取れないい方をしています。
をいただくことがかたじけなくも阿弥陀仏のお心に催促されて、阿弥陀様からいただいた宿善をまるで自分で積み重ねたように、少ししか無い信心の私の宿善は薄かったと誰が判断したのでしょうか。
私などと言ってしまうのがおかしいです。
私たち、いただいた人は、菩薩の扱いになります。
菩薩の仲間入りをさせてくださった阿弥陀様のご意志は、ただひとつ、衆生済度しかありません。
阿弥陀仏が何を私たちにして欲しいかって、衆生済度のお手伝いただひとつだと思います。
口で称える南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏への感謝と賛嘆だと思います。
593神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 21:49:39 ID:eZVX3jT8
「ご一流」とは298さんの法門ことですね
赤子も獲信するという例の
594神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 21:54:01 ID:eZVX3jT8
でも「少ない宿善」とは>>549の「ほんのちょっとの宿善」というのを
さしているように思われますね。
ということは赤子も獲信する例の法門の方ではないのかな?
それとも例の法門にもいろいろな解釈があるということか。
あるいは今回書き込みされた方が例の法門ではなく
普通の真宗の方であるか。
595神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 21:58:42 ID:CdqbHHjL
・・・阿弥陀仏のご意思はこうである、と言うこと自体は傲慢ではないのですか?
仏様のお考えになることは菩薩様でも想像の及ばぬ世界だと聞いております。
阿弥陀仏が私たちにして欲しいこと・・・?
早く救われて欲しい、弥陀をたのんで欲しい、ということ以外には想像もつかないことです。
煩悩は死ぬまで消えず、絶えず、信後も間違いだらけの私たち、頭で考えてする衆生済度はあくまでも真似事の域を出ないと思います。
立派な心がけ、尊いこととは思いますが、十方の諸仏方からも分陀利華と褒め称えられる信心獲得者の方なら、お分かりのことと思います。
現生十種の益をよくよく考えていただければ、私たちの信後の振る舞いも分かってくるかと思います。
596298:2008/10/30(木) 22:51:11 ID:5TiqQe77
私に感謝が足りないのは、全くその通りであると思います。

しかしながら、

◎われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり(唯信抄)

のような御文もございます。

彌陀の広大な御恩を思えば、それは強縁であり、誠にありがたいことです。

それでありながら、ここまで流転してきてしまったのは、やはり宿善がすくなかったからであると思います。

傲慢な私です。六字を称えて参りたいと思っております。

南无阿彌陀佛
597神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 23:45:10 ID:0gu66I95
宿善が多いと思えばありがたい。
宿善が少ないと思ったらやっぱりありがたい。
598神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 04:16:26 ID:Tv7nIpg+
この世からお浄土に住まわせて頂く身になれば、
自ずから阿弥陀仏のお考えもわかるはず。

衆生済度につとめようとするのも、阿弥陀仏のお力によってのこと、
真似事と卑下するのは、逆に申し訳ないことではないかと思います。
5997:2008/11/02(日) 20:35:10 ID:YzBhPFrx
信心決定しても、煩悩の厚い雲は死ぬまで晴れませんから、浄土は直接見えません。
阿弥陀仏のお考えが分かるような、知能はかけらもないままのような気がします・・・。

衆生済度につとめようとすることはとても尊いことで、もちろん阿弥陀仏のお力無しには出来ませんが、心は蛇蠍のごとくなり。
親鸞聖人も「名利に人師を好むなり」と仰っておられますが、これも決して卑下されたわけではないでしょう。謙遜でもないと思います。
600神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 21:51:51 ID:Kr6Nn6lA
煩悩はいよいよ明らかですが
疑いは消滅します。
601神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 21:57:51 ID:bINYRKFG
一人しのぎという言葉は、聖典の何ページに載っているのですか?
6027:2008/11/02(日) 22:41:11 ID:YzBhPFrx
>>601さん

一 往生は 一人のしのきなり 一人[々々] 仏法を信して 後生を たすかる事なり よそ事のやうに 思ふ
事は 且は我身を しらぬことなりと 円如仰候ひき

蓮如上人 御一代記聞書より  (『浄土真宗聖典』P--1251)
603神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 00:09:23 ID:pK8d1vwm
>>599
もちろん、機の深信と卑下は、違います。

阿弥陀仏のお考えがわかるのは、阿弥陀仏から頂く信心によってです。

また、信心の行者は、現生十種の益を頂きますから、常行大悲の益があります。
煩悩一杯、心は蛇蝎そのものの私たちが、
阿弥陀仏のお力によって、阿弥陀仏のお手伝いができるということです。
6047:2008/11/03(月) 00:25:33 ID:T/ohIxWk
常行大悲の益って、本当に凄いことだと思います。常、ですから。
私のような凡夫は、やる気があっても続かない、努力も懈怠で続かない。
信後急に真人間に生まれ変わるわけでもなく、信後も疲れれば寝て過ごす日もあるわけです。
それなのに、「常行大悲の益」を与えられていますので、寝ても覚めても、自分ではサボっているつもりでも、
阿弥陀仏の大悲に叶う行いをさせていだいていることになります。常、ですから、24時間、寝ても覚めても。
これは普通に考えると、全く理解できないことです。ですが、佛語に虚妄なし、と有り難く受け止めているのです。
常行大悲の益、自分が意識的にやる気になる「時々」ではなく、「常」の益であることが本当に有り難いのです。
605神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 02:18:22 ID:WevN8EPB
昔は信心をいただいた喜びをなんとか人に知ってほしいと
いろいろ話していたけどなんだかそれは自分の領解であって
他人を導くなんて思い上がりも甚だしいと思ってしまう今日
南無阿弥陀仏を称えることだけが自分にできることだと思ったりする
ここでこんなことを書いているのだから念仏称えるだけはないだろと
つっこみがきこえてきそうだけど、ここで書くのは書きたいからであって、
弥陀の恩に報うためとか高尚な考えがあってしているわけではない
自分の領解が人の救われる縁になることはうれしいことだ
思わずわしが育てたと思ってしまうこともある
よかったよかったと共によろこべればなおいい
でも、どこかではき違えて、俺が真宗だ!とならないようにつとめたい。
606神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 02:24:22 ID:WCvUo+CC
宇宙時代、グローバル時代に「阿弥陀仏」に固執するのはカルトだろ
607神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 02:28:40 ID:WevN8EPB
宇宙時代、グローバル時代は何をするものなんですか?
608神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 02:44:32 ID:s5e/tn9C
>>607
末法の時代。仏法は籠宮に入ってしまう。

6097:2008/11/03(月) 02:46:11 ID:PmeGVRCf
カルト【cult】宗教的崇拝。転じて、ある集団が示す熱烈な支持。[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]

ということで、釈尊の時代からカルトです。
610神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 07:57:47 ID:nyBmT3cw
一人「の」しのぎと、一人しのぎでは、
「の」と言う言葉が付くのと付かないので意味が違って来ると思うのですが・・・
「弥陀をたのむ」と「弥陀にたのむ」だって意味が違うことを考えると、
「の」があるか無いかで意味が違ってくると思えます。
6117:2008/11/03(月) 11:39:07 ID:PmeGVRCf
そうですね。ただ、上記で「一人しのぎ」と言われた方が、蓮如上人の言われた「一人のしのぎ」の「の」を省略されたのか、
それは本人でないと分かりません。
真宗、一人しのぎ、で検索すれば約55,800 件(google)以上ヒットしますし、「の」もあったりなかったりしますから、
どちらも真宗においては一般的な概念かと思われます。
612神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 21:53:29 ID:pK8d1vwm
常行大悲の益は、いつのまにか、そのつもりがなくても、していることに
なっている…というようなものではありません。
常に阿弥陀仏のお心を知らせて頂き、それにかなう行いをするように
まもり育てて頂くので、大悲を行うことができるのです。

信心を頂くとは、阿弥陀仏の心光の中に包まれて生きるということですから。

私たちにできるのは、お念仏をとなえることだけ…と思うのは、
阿弥陀仏のおはたらきを過小評価しているのではないでしょうか?
6137:2008/11/03(月) 23:57:15 ID:PmeGVRCf
>>612さま

 なんと・・・まさか、阿弥陀仏のおはたらきを過小評価していると言われるとは、思いませんでした。
何しろ、常に大悲にかなう身にさせていただいた!と喜んでいたのですから。

それは阿弥陀仏のおはたらきの過大評価だ、常に阿弥陀仏のお心を知り、育てていただかねば急には無理だ、
そのつもりがなくても常に大悲の行が出来るような身にするお力はさすがにない、とお叱りを受けるかと思っていましたので。

予想とは真逆の意見を言われることもあるのですね。
614神も仏も名無しさん:2008/11/04(火) 10:50:41 ID:dTb5TOXN
阿弥陀と一味であるなら
その心も行いも、法蔵菩薩の誓われたごとくに
なっていくはずのものなんですね。
615神も仏も名無しさん:2008/11/10(月) 11:20:37 ID:2785941h
 こうるさいアラシはアボーンになったようです。
 2ちゃんねる専用のブラウザの場合、通常のダウンロードでは
消えませんが、スレそのものをいったん消去してリロードすると、
アボーン後のスレがダウンロードするようです。
6167:2008/11/11(火) 01:18:34 ID:007cgYNR
あ、あぼーんがいっぱい・・・ AAが削除されたのかな?
617神も仏も名無しさん:2008/11/12(水) 20:36:14 ID:Hk9E181t
さて、また質問です。
善知識が相続できる人数に違いが有ります。
ある人は三人、ある人は五人、ある人は七人、
また人数に制限は無いと言う方も見受けられます。
どうしてこんなに違いが有るのでしょうが・・・
お経をよく読めば、相続出来る人数も書いてある筈ですが・・・
大体五人と言う流れでは、五念門からその人数になったと言う
推測をしていますか・・・
一人しのぎの定義と、一人のしのぎの定義を明白にした方が良いと思います。
618神も仏も名無しさん:2008/11/12(水) 20:37:02 ID:Hk9E181t
テスト
619神も仏も名無しさん:2008/11/12(水) 20:42:09 ID:Hk9E181t
>618
前回書き込んだものがどこかに行ってしまったので、ここのスレにきちんと送信されるか確認しただけですので意味ありません。
620神も仏も名無しさん:2008/11/12(水) 20:49:02 ID:osHM9dBj
赤ちゃんでも獲信できるのだから
無制限では?
6217:2008/11/12(水) 21:19:02 ID:ZOBNxN6G
赤ちゃんの獲信と善知識の相続はあまり関係ない気がします。
もちろん赤ちゃんの獲信について不信はありません。何しろ自分のようなものさえ獲信出来たのですから。
しかし、次第相承の善知識については、私は、その人数だとか、赤ちゃんがどうとか、分かりません。

また、一人しのぎについてですが、あなたは「の」のあるなしをどう受け止めていらっしゃいますか。
恥ずかしながら、自分は「の」のあるなしは単なる省略として受け止めてきましたし、「の」のあるなしで「一人しのぎ」の意味合いは
これだけ変わるんだよ、という話を聞いたこともないですから、分かりません。
ただ、上記で「一人しのぎ」という言葉に対して批判的だった方が、蓮如上人も「往生は一人のしのぎ」だと仰っておられたことに、
相当動揺されて、「の」のあるなしにしがみついているような気がしてなりません。
622神も仏も名無しさん:2008/11/12(水) 21:29:05 ID:Hk9E181t
仏の言葉とされているものに、一字一句過不足は許されていないはずです。
一つ一つの文字が仏菩薩の化身のはずです。
一人しのぎと聞いて、自分「が」というものを感じます。
一人のしのぎと言うと、一人の人の為に有るしのぎ事のように受け止めます。
623神も仏も名無しさん:2008/11/12(水) 21:36:37 ID:Hk9E181t
赤ちゃんの往生を問題にしていません。あしからず。
焦土真宗は、老若男女すべてに平等に与えられるものですから、
生まれたばかりの赤ちゃんだって、
善知識の下で一念帰命できなければ、
浄土真宗と言わないと思います。
624神も仏も名無しさん:2008/11/12(水) 21:38:57 ID:FL1Kme9Y
漢訳仏典は昔の支那周辺の人が編纂したんだけどね
サンスクリットもほぼ口承で伝えられたものだし
そこまで頭かたくしなくてもいいと思うが

昔は紙なんて媒体はほとんどなかったわけで
みんなで唱えながら暗記していた。
だんだん印刷術や図書館の個室などの整備が
宗教改革を産む土壌をつくったとか
6257:2008/11/12(水) 21:51:21 ID:ZOBNxN6G
サンスクリットから中国語に翻訳するときは相当苦労されたと思います。表音文字を表意文字に変えていくのですから、
意味と音を両方大切にされたことと思います。一字一句を大切にされる622さんの思いに同意いたします。
その点、日本語は相当融通が利く言語だとは思いますが、祖師上人もただ機械的に日本語に翻訳されたのではなく
相当ご苦労されたに違いないと、有難く思います。

「一人しのぎ」という言葉に、自分が、自分が、という「我」臭を感じられたのですね。自力的な。
「一人のしのぎ」だと、阿弥陀仏による私達一人一人のための、という他力の姿を感じられたのですね。
祖師上人のお言葉である「往生は一人のしのぎ」というお言葉、「の」を略したばかりに反発し謗る人が現れては申し訳ない話です。
私は今後気を付けることにいたします。
626神も仏も名無しさん:2008/11/12(水) 22:13:03 ID:xm5E60Hz
まともなところはまともですね。紹介しておきますね
http://www.hamq.jp/i.cfm?i=axz
627神も仏も名無しさん:2008/11/12(水) 22:30:45 ID:osHM9dBj
獲信ではなくて善知識の相続でしたね。
勘違いです。失礼しました。
628神も仏も名無しさん:2008/11/12(水) 23:15:01 ID:osHM9dBj
それにしても書き込みが減ってしまいましたね。
何か理由があるのでしょうか?
6297:2008/11/12(水) 23:40:32 ID:ZOBNxN6G
信心決定を探し求めることと、獲信者の方に信心について語ってもらうことが、このスレのスタートでした。
その当初の目的は無事達成されましたので、静かなのかも知れません。

 個人的にはその名残りを懐かしみつつ、また自分のように捜し求める人が
あるかも知れない、と思いつつ、このスレを時々見ています。信心についての話に、興味は尽きないですし。
また、信心決定したと言っても、いくつか違う見解があるものだな、と分かったことも勉強になりました。
解釈や味わいが違うだけなのか、信心そのものが違うのか。お聖教で分からない部分については答えの出ない問題ですが、
関心は尽きません。ただ、仏法の話はとても楽しい、嬉しいものだと感じます。
630神も仏も名無しさん:2008/11/13(木) 21:14:45 ID:G5QH34qX
結局、善知識が相続できる人数についての説明は誰も出来ないんですね。
お釈迦様も、法然上人も、親鸞聖人も、蓮如上人も
相続した人の人名を明らかにしているし、
三者とも、みな相続した人数は同じです。
お聖典を読めば明らかです。
631神も仏も名無しさん:2008/11/13(木) 21:55:45 ID:XW5bzFHW
そうですか、手元には真宗聖典があるので、是非どこにどのように書かれているか教えてください。勉強になります。
632神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 14:53:31 ID:4yeWi1hg
相続とは、南無阿弥陀仏が行者の上に生きていることです。
み教えが伝え受け継がれて、これまで数え切れない人々の心に
信心の華を咲かせ続け、これからも未来永劫、咲かせ続ける
ということです。

特定の技量や技術が受け継がれるのではありません…

また、赤子でも獲信できるのはまことですが、獲信させられる
というのは誤りです。
阿弥陀仏とひとりひとりの間のことですから。
これを、一人のしのぎと言われます。
633神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 15:10:25 ID:4yeWi1hg
昔は阿弥陀仏の絵像の御手のところに穴を開け、そこと
臨終に赴く人との手を紐でつないで、来迎のかたちとしたそうです。

善知識の下で一念帰命の儀式をするのは、それと同じ、
阿弥陀仏の無条件の救いを疑う心が生み出したしきたりです。

いつの時代も人は迷うので、そういうものもまた「相続」されて
今に至るのでしょうね。
634神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 20:03:34 ID:WhSTWCdt
一念帰命とは儀式?
そもそも一念帰命とは、真宗安心の絶対条件?
もしや無条件の救いと一念帰命は別のもの?
635神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 20:36:14 ID:5vb/Tpp1
儀式を経て「獲信する」グループもあるようですね・・・。
636神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 21:02:36 ID:uiMRsjgJ
>>632
> また、赤子でも獲信できるのはまことですが、

赤子でも獲信できる、赤子がそう言いましたか?
赤子でも獲信できる、そう判断しているのは当人の赤子ではないでしょう?
理屈では、赤子でも救われると思いますがね。
637神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 21:06:07 ID:gc7ryFQL
阿弥陀仏は霊的存在ですか?

それとも脳内信仰ですか?

638神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 21:19:18 ID:4yeWi1hg
一念帰命とは真宗安心の絶対条件です。
(これがないと十劫安心になります)

無条件の救いを、無条件だったと受け取ったのが一念帰命。

誰にも言ってはならない、とか、善知識の言うとおりにしたら
信心頂けるとかいうのは、儀式であって「獲信」ではありません。

>>635
悲しいことに、そういうグループが多いようです。

>>636
同感です。
いずれにせよ阿弥陀仏と当人以外には本当のところはわかりません。

>>637
どちらでもありません。
639神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 21:36:22 ID:gc7ryFQL
阿弥陀仏は物質なのですか?
それとも偶像ですか?
脳内信仰ではない、ということは観念でも妄想でも想像でも象徴的存在でもないということですよね。
詳しく教えてください。
640神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 22:26:12 ID:ouOgdV+E
>>631
この公共の場で、ここに書かれていると教える事は出来ませんが、
浄土三部経をよく読めば、
お釈迦様が誰に付属したのかが明白に書かれています。
法然上人も親鸞聖人の他に誰に相続したのかも記してあります。
親鸞聖人も然り、蓮如上人も然りです。
共通の人数が分かるはずです。
なぜ、浄土三部経で、その他のお経を選ばなかったのか・・・

>>639
阿弥陀仏は、理仏であります。
人間の知恵で考えられるような存在ではありません。
言葉には、それぞれ意味があり、色々な形で存在しています。
風を直接見ようと思っても、肌に吹き抜いた現象で、
風と云う存在が分かるようなものです。
南無阿弥陀仏が何であるのか、御文章を読めば書いてありますよ。
641神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 22:27:51 ID:gc7ryFQL
理仏って何ですか?
642神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 22:37:26 ID:LD4anDXg
ちょっと質問!
人間死んだら地獄or極楽浄土だそうですが、地獄・極楽からまた人間界
に戻ってくるなんてことはあるのですか?
643神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 22:47:14 ID:WhSTWCdt
>>642
あるんじゃないかなあ。
地獄に落ちても、いづれ気の遠くなるような時間を経れば出てこられるだろうし。
極楽から人間界というのは、いわゆる還相廻向ってやつかなあ。
644神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 23:00:22 ID:LD4anDXg
またまた質問!!
親鸞聖人の教えの中に、人間死んだら地獄に落ち八万劫中大苦悩。決してこの
苦しみから逃れることは出来ないとありますね。前世でろくな目に合わないの
も前世の種まきが悪いとか。
ここで疑問に思うのだが、一劫は4億3200万年、つまり八万劫という時間は
3.456×10^13(年)
宇宙の年齢は137億年。これだと前世は時間も空間もないところに存在してい
たということになり、矛盾しないかぁ?
645神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 23:14:05 ID:ouOgdV+E
理仏とは、人間の理解できない、
見る事も触る事も出来ない存在とでも言いましょうか・・・

人間の知恵の中での宇宙の年齢や、物理学・科学・医学・数学を
もってしても、解明出来る程、阿弥陀仏の世界は狭くないとも言えますね。
646神も仏も名無しさん:2008/11/14(金) 23:35:11 ID:LD4anDXg
しかし、人間には理解できないなんて言ってたら、宗教なんて
なんでも好き勝手いい放題だとは思わないか?
6477:2008/11/14(金) 23:57:52 ID:V2PiDOe0
>>633 阿弥陀仏の救いが無条件とは、機を問わないという意味でしょうか。・・・もちろん宿善は必要な条件ですよね?
    18願には、至心信楽欲生我国〜とありますので、極楽浄土に生まれること、浄土に生まれることが確定する「救い」は、
    「信楽になったら」という条件がありますよね、念のため。でないと十劫安心ですから。

>>636 赤子でも獲信できるというのは、蓮如上人が仰っておられます。「男女老少」を選ばず、と。性別も年齢も関係ないと。

>>637 霊的存在の、霊の定義が一般的に共通化されていないと思います。例えば、私は霊的存在でしょうか。

     脳内信仰とは、信仰とどう違うのですか?脳外信仰が対になるとすれば、意味が分かりません。

>>638 善知識頼みを戒められるのは結構なことです。しかし五重の義を忘れたら真宗ではなくなると思います。

6487:2008/11/15(土) 00:00:23 ID:V2PiDOe0

>>639 阿弥陀仏とは、という疑問が何故自分に生じたか、振り返って見られたらいいと思います。
     仏教に阿弥陀仏のことが説かれているから、知る機会が生じ、そのお名前を知ったがゆえに、疑問が生じているのです。
     ならば、仏教にその答えを求める他はありません。阿弥陀仏とは、本師本佛であると、お釈迦様は説かれていますので、
     阿弥陀仏は仏さまです。そして、仏とは何か、それも仏教に全て答えがあります。いくらでもお調べください。

>>640 次第相承の善知識、と幾度もお聖教には出てまいりますね。これを無視される方が多いのも、悲しい現実です。

>>644 宇宙ってのはまだ物理学でも解明しきれてないですよね。ビッグバン説が正しいと仮定しても、この宇宙が始めての宇宙だという結論には
    至っていませんし。宇宙の年齢はだいたい計算されていますが、その宇宙を生み出した原因となる世界も計算すると、無限に辿れるのではないでしょうか・・・

>>646 実際、宗教に限らず人間は好き勝手いい放題だと思います。自分が納得出来る、信じられる道を進むことしか出来ないのが人間です。
    世間虚仮、唯佛是真、ただ念仏のみぞ真にておはします、の親鸞聖人のお言葉が有難いです。
649神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 00:49:00 ID:hZWVWpEa
阿弥陀如来は、超自然(オカルト)的な存在なのですね。
ところで、仏教には、いろんな如来(仏)がいますが、その中でも、大日如来、薬師如来が有名です。
これらと阿弥陀如来の関係を教えてください。

650神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 00:57:01 ID:5WEv5nP4
>>647
報土浄土への往生の条件は、一念帰命、信楽の身になることひとつです。
宿善は条件とは言いません。
五重の義とは、私たちが信楽の身になる過程を五つに分けてお示しくださったもの。
また、信前にははっきりとわかるということはありません。

光明にあって信心を頂いた後、ふりかえって宿善を喜び、あの方こそ
善知識であったと尊び、また報謝のお念仏称えていきます。

それなのに、もし善知識を特に重視してその言葉ばかりに従い、
阿弥陀仏の御心を省みずにいるのなら、
それはまことの信ではないのでしょうね。

善知識の言葉こそ阿弥陀仏の御心と考えるのでしたら、
それこそ善知識頼みというもので、真宗ではありません。
(信前はしかたのないことですが)
6517:2008/11/15(土) 01:18:21 ID:LJ/wsXPH
>>650 条件とは何か、という話になるかも知れませんね。本願を仰げば「信楽」一つなのは間違いありません。
    「宿善」の有無を条件と呼ぶのは乱暴ですか?

    光明秘事の方でしょうか。善知識と、次第相承の善知識とが説かれていますので、蔑ろには出来ないと思います。
    五重の義とは、五重であって五順ではないのですが。信前にはもちろん分からないことがあります。
    つまり信後には必ず分かることがあります。
6527:2008/11/15(土) 01:24:39 ID:LJ/wsXPH
また、善知識の言葉こそ阿弥陀仏の御心と考える、これは善知識が弥陀の代官である限りは間違っていないと思います。
この場合の善知識の言葉、とは、親鸞聖人、蓮如上人の書き残されたお聖教のことです。

もちろん、善知識と言えども生身の人間である限り、間違えることもあると思います。
しかし、「善知識の言葉の下に帰命の一念・・・・」のような間違いがあってはならない場面では間違いが起きないものだと素朴に信じています。
それは一人の人間としての善知識に特別な力があるわけでなく、阿弥陀仏のお力に依るが故だと、単純に思うばかりです。
653神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 02:05:30 ID:5WEv5nP4
>>652
お聖教の善知識方のお言葉から阿弥陀仏の御心を聞こうとすることは
素晴らしいですね。

けれどそのことと、善知識の言うとおりにしたら信心頂ける、というような話は
まったく別です。

>しかし、「善知識の言葉の下に帰命の一念・・・・」のような間違いがあってはならない場面では間違いが起きないものだと素朴に信じています。

場面とは、何か大切な儀式の場面のようですね。
土蔵秘事の方でしょうか。

「善知識の言葉の下に帰命の一念…」とは、本来、善知識の説く教えを、
聴聞し、やがて信心決定すればということです。
ご説法の席かもしれないし、家にいるとき、寝ているときかもしれない。
場所も、していることも、人によってまちまちです。

どこにいて、何をしていようと阿弥陀仏の光明は宿善開発した人に届き、
たちまち信心決定の身になれるのです。
6547:2008/11/15(土) 02:32:37 ID:LJ/wsXPH
>>653 どこにいて、何をしていようと・・・?思わず、光明秘事の方ではないかと決め付けてしまいそうになりました。
     突然、心が地獄に落ちるような経験をしてみたり、突然、心底から阿弥陀仏の声が聞こえてみたり・・・。
     なるほど、あなたは私のことを土蔵秘事の者だと決め付けているのでしょう。仕方の無いことです。

     私は、お聖教のお言葉に基づいている信心かどうかで判断するしかないと思っています。
    自分の心というものは、幻覚と現実を区別する能力を、究極的には持っていないと思うからです。
    信心決定とは真実信心頂くのだから、その南無阿弥陀仏の佛智によって分からせていただくのだ、言われるかも知れません。
    しかし、いつも真実信心は煩悩の厚い雲に覆われているのです。夜中では無く昼間にはなりますが、太陽を直接見ること叶いません。
    信心決定することを、太陽を直接見れることのように思っていると、道を間違えるのではないかと思います。
    私は疑い深い人間ですから、命続く限り、お聖教を拝読しては、我が身の信心の沙汰をしているのだと思います。
    ですから、ちょっとでも自身の信心とお聖教に書かれている信心に違和感があれば、ご同行の皆様に尋ねたいと思います。

   南无阿彌陀佛
655神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 05:16:32 ID:BDTb5V1P
>>653

どうしたら宿善開発できるのかお教え願いたい。


656神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 09:08:58 ID:5WEv5nP4
信心を頂くと言うのは、太陽に照らされるようなものです。

闇の中では、ものの姿かたちも方向も見えません。何を見ても聞いても、
それが善いものかどうか(阿弥陀仏の御心にかなうかどうか)、一切が闇の中です。
だから、人のことばにも必要以上に動揺したり、頼ったりします。

太陽に照らされたなら、たとえそれがどんな曇りの日であっても、
光がありますから、もののかたちが分別でき、方向も見えます。
それと同じように、煩悩に惑わされたままでありながら、
阿弥陀仏の御心にかなうのかどうか、知らされるのです。

>>654
>突然、心が地獄に落ちるような経験をしてみたり、突然、心底から阿弥陀仏の声が聞こえてみたり・・・。

光明秘事とはそういうものなのですか。
暗いところに閉じ込めてから外の光を見せ、「獲信」したと思わせるものかと
思っておりました。よろしければ、そうしたものについて書かれた資料をご紹介願えますか。

破闇の光明とも言われ、廻心ともいわれるように、心が翻えるのですから、
信心決定が、ある種、突然のものであることは確かです。
それを(無意識にせよ)自分の力や他人の力で、人為的にきっかけをつくって成すのか、
まったくの他力によってなさしめられるのか、表面的な違いはそれだけかもしれません。

内面的な違いは、お聖教をまるまる心の中に頂くようなものだと思ってください。
覚えるのではありません。日々体験することを通じて、分からせて頂くということです。
ご説法を聞くとき、お聖教を読むとき、より一層はっきりとわかりますが、
それ以外のときでも、常に全世界が、自分に真実を教えてくださるご縁となることが
わかってきます。
657神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 09:10:08 ID:5WEv5nP4
>ですから、ちょっとでも自身の信心とお聖教に書かれている信心に違和感があれば、ご同行の皆様に尋ねたいと思います。

尊いことですね。あらゆるお聖教をどんどん読まれたらよいと思います。
私もよく拝読します。
こう思ってはおかしいとか、ここはこう解釈すべきだ、などの先入観は交えずに読むと、
本当にたくさんのことを知らせていただくご縁ですね。

>>655
「どうしたら」が自力の親玉です。というか、これを「こうしたらいいのだ」と決めたい、
という、その心ひとつによって、たくさんの間違いが起こってきます。
それでも、常に自分の心を振り返り、お聖教と照らし合わせることが大切だ、とは言えます。

この世の全ての人、もの、ことがらを、自分のためのご説法と有難く真剣に
受け止めていくこと。
何が起きても、阿弥陀仏のご念力によって進ませて頂いているのだと信じていくことです。
その道中に、宿善開発ということがあります。
658神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 09:30:05 ID:5WEv5nP4
仏様のお心はいつも明るく、暖かく、穏やかで、慈悲に満ちています。
また、軽やかで、自由で、平等です。
自分もそうなりたいと、そうなれるのだと思って、日々暮らしていく。
また、できるだけ、そうなれるものに親しみ近づいていきます。

すると必ず、どうしてもそのようにはなれない自分がわかってきます。
仏様の心に添わない自分と知らされ、ついに完全に、正反対の自分だったと
知らされたときが、光明のお照らしにあうときです。
(しかし、このようになるのだと予定して、決め付けて進むことも、またおかしなことです。
道行きとしてはこのようですが、それを期待して「まだか、まだか」と求めることも
自力そのものであると思ってください。)
6597:2008/11/15(土) 10:34:01 ID:LJ/wsXPH
光明秘事の資料ですか。すいません、紙の資料は持ち合わせていないんです。確かに物理的な光を見せて光明が・・・とやる秘事がある、
とネット上で調べたことはあります。私は阿弥陀仏の光が見えた、とかもその類だと思っておりましたので。

その後の書き込みを拝見いたしますと、身調べ系の方のような気もします。罪悪観や無常観をつめていくという・・・。
観相は自力聖道ではありませんか?それに普通の人がそれをやると心が壊れるような気もします。
660渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/11/15(土) 11:50:15 ID:DVfR6UvN
ブログ親鸞仏教 更新しました。
  www.しんらん.jp
661神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 13:01:50 ID:44tjQJJf
>>660
宣伝荒らしはやめろキモヲタ

        /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \   パー───ン       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
      <       (☆)   〉                     /               \
       \ =======,/                  (__i|__i|__リ     ;       |
        /~`ー=、=,=ィ.                  (   ;;    ∪     |
      /    (●)ヾ'(●) \                    ,◎─ 〃⌒)         |
      |    "⌒(__人__)⌒" |    _'そ       (o,;(´   ´_'ノ     ,; ′;| ´  ;  '
.     \     `ヾ┬ノ´ ,/〔ニ二【@】        ゝ   u.  ゞ    ,●";`‘,`・    ;
       /⌒ ̄ ̄〃 ̄ ̄〆⌒'ニ)ソ  ̄ Y `       `i       ーーーーrーゝ
        ヾ  、__゙__il、_,ジ,イ            ヾ、__  ____-‐ー‐\
       |       o| = |_ノ               /´ ̄ ̄         ヽ
.        |          |    |               /    ゙ヽ  渡海 難   |
.      |       o|   .|               /     |           |
      |   ===   | ==|                /      |           |
662神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 15:02:59 ID:VThXoo0c
また盛り上がってきましたね!
私は特定の善知識と対面して儀式を通じて
信心決定する、という主張を持つグループを
ここで始めて知りました。
他のどこにも資料が出ていないので
いつも興味深く拝見しています。
663神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 21:19:04 ID:BDTb5V1P
このまま、阿弥陀仏の光明を分からずに、
私は死んでいくのかなぁ?
>>658
結局自力の考えじゃないですか?
664神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 22:20:57 ID:53OQ7Ykp
光明なんて分かりようがないなあ。
そんなことお構いなしに、有無を言わさず阿弥陀仏に引かれていってるのかも。
偶然に巡りあったような一念帰命も宿善開発も、仏の遠大な計画の末の出来事かなぁ。
逃げて逃げて、やっと今生捕まった人はおめでとう。
まだの人は逃げるのやめて、お手上げして降参したらいいのかも。
665神も仏も名無しさん:2008/11/16(日) 00:50:30 ID:xqtJdYSY
>>659
なるほど、お返事ありがとうございます。
物理的な光だと、光明秘事というものが疑われるのかもしれませんね。

光明は闇に対する言葉で、わからないものがわかる状態になったことを、
光明を見るとか照らされると表現しています。
(何が分かるのかと言うと、阿弥陀仏の本願がわかることを言います)

>罪悪観や無常観をつめていくという・・・。

罪悪や無常観をつめても、自分の影の頭を自分で踏もうとするようなもので、
追えば逃げますし、どこまで行ってもきりがありません。
大事なのは追うことではなく、目前に迫ってくるものから、目を逸らさないことです。

>それに普通の人がそれをやると心が壊れるような気もします。

何の支えもなしに闇雲にやろうとしたら、壊れるでしょうね。
実際は、阿弥陀仏が支えてくださいますので、壊れずにすみます。
まず阿弥陀仏に近づこう、親しもうとしていくことが、大切だと思います。

>>663
そんなことないですよ。今だって阿弥陀仏のお力は663さんにかかっています。

>結局自力の考えじゃないですか?

他力になるまでは自力しかないですからね。
6667:2008/11/16(日) 01:23:24 ID:hQ4okuLs
そうなんです。物理的な光を用いた光明秘事があると聞いたことがあります。
それに加えて、心に見える光や心にだけ聞こえてくる声もどうなのかしら、と思うわけです。
何が見えようと何が聞こえようと、人間の心なんてあてにならん、と思うわけです。

そう書くと、お聖教と真実信心、南无阿彌陀佛をあてにしているじゃないか、と言われるかもしれません。
お聖教は人間が書いたものではないか。南无阿彌陀佛、真実信心だ、と思って喜んでいるのは人間の心じゃないのか、と。
それでも、ただ念仏のみ真にておはします、の親鸞聖人のお言葉に深く肯くばかりです。
お聖教は仏教であり、仏様の教えそのものであり、仏様のお言葉であると有難く思うばかりです。

我が身の変化など、心の変化など、信心が真実であることの保証にも証拠にもなりませんが、
そのように信じている、それだけのことに、素直に驚き、有難く尊く思うのです。
6677:2008/11/16(日) 01:27:19 ID:hQ4okuLs
 さて、どれだけそう書いても、否、お前は違う、それは秘事である、とか、思い込みだ、とか、思う人はあると思います。
お聖教の根拠をいくら示しても、自分に都合のいいところばかり拾い出して、都合のいい解釈をしている、とやるわけです。
ならばいくらでも都合の悪いところを拾い出して、都合の悪い解釈をしてみせていただければいいと思うのです。
そのように根拠を示しあっていけることは、とてもいいことだと思うのです。
分からないことだらけ、知らないことだらけですから、いろんなお聖教のお言葉を示して頂ける事は本当に有難いのです。
お聖教のお言葉に触れる機会が増えること自体が、実はとても楽しく嬉しいのです。
みなさま、よろしくお願いします。
668神も仏も名無しさん:2008/11/16(日) 11:41:38 ID:ZpFBHqnT
7さん、よろしくおねがいします
> みなさま、よろしくお願いします。
とありましたので、素人の私もいいのかな?と思い
横レスさせて頂きます

>> 666-667について、私は以下のように理解しました
@人間の心なんてあてにならん
 ↓
Aお聖教は仏教であり、仏様の教えそのものであり、仏様のお言葉であると有難く思うばかり
 ↓
B我が身の変化など、心の変化など、信心が真実であることの保証にも証拠にもなりません
 ↓
Cそのように信じている、それだけのこと
 ↓
Dお前は違う、それは秘事である、とか、思い込みだ、とか、思う人はあると思います
 ↓
Eいろんなお聖教のお言葉を示して
 ↓
Fお聖教のお言葉に触れる機会が増えること自体が、実はとても楽しく嬉しい
669神も仏も名無しさん:2008/11/16(日) 11:42:13 ID:ZpFBHqnT
>>668のつづきです

私の理解が適切であるなら
7さんは、@〜Dの解決方法として、Eを挙げていらっしゃいます
しかし、御聖教はAのように評価されていますから
Cの結論になってしまうと思います
その理由はBにあたります
ですから、結局Dに戻り、その解決方法としてEが提示される
これでは@〜Eの無限ループとなるのではないでしょうか?

つまり、@〜Dの解決方法としてのEを提案しながら
実際はFが目的でいらっしゃるというように思いましたが
誤解ありますでしょうか?
670神も仏も名無しさん:2008/11/16(日) 11:50:07 ID:xqtJdYSY
>>666
書かれていることに何ひとつ、異議はありません。
ただ、「儀式によって信心を得た」という事実さえなければ。
心などあてにならないと仰りながら、儀式と、「次第相承の善知識」をあてにして
おられるように見えるのが気がかりです。

結局のところ、阿弥陀仏の本願以外、この身この世界は何ひとつあてになる
ものではありませんが、それでも何かをあてにしようとする心の現われが、
来迎の儀式であり、各種の秘事なんでしょうね。
671神も仏も名無しさん:2008/11/16(日) 11:51:03 ID:xqtJdYSY
>>667
>お聖教のお言葉に触れる機会が増えること自体が、実はとても楽しく嬉しいのです。

このように言われること、まことに尊いことだと思います。ありがとうございます。
それでは、真実の信心を得るすがたは、どこにいて、何をしているかは関係ないと
いうことについて、お聖教から引用しますね。

 「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の
 時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。」(教行信証 信巻)

信楽には一念ということがあると言われています。その信楽は、

 「恵心院の和尚は、『往生要集』には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、
 〈行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず〉と仰せられたり」(末灯鈔)

行動も場所も時節も問わないと言われています。また、これを、

 「「行住座臥不問時節久近」というは、「行」は、あるくなり。「住」は、たたるなり。
 「座」は、いるなり。「臥」は、ふすなり。「不問」は、とわずというなり。「時」は、ときなり、
 十二時なり。「節」は、ときなり、十二月、四季なり。「久」は、ひさしき、「近」は、
 ちかしとなり。ときをえらばざれば、不浄のときをへだてず、よろずのことをきらわざれば、
 不問というなり。「是名正定之業 順彼仏願故」というは、弘誓を信ずるを
 報土の業因とさだまるを、正定の業となづくという。仏の願にしたがうがゆえにと、
 もうす文なり。」(一念多念文意)

弘誓を信ずることによって報土の業因と定まると言われ、上記の信楽の一念を、
詳しく説明されています。

これによって、真実の信心(信楽)とは、儀式(時、場所、動作、相手などが
定められたものをいいます)によって得られるものではない、とわかります。
672渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/11/16(日) 15:12:44 ID:UV41kDWT
新年会の予定
東京新宿で新年会を予定します。
来年1月25日 午後五時頃から。
詳細は後日、再度、公表します。
673神も仏も名無しさん:2008/11/16(日) 15:46:09 ID:5gIS7gyX
称名念仏は正定の業だから、時や所や状態を選ばなくてよい、ということなのかな。
一念帰命もこれと同じように時所諸縁をきらわない、という理解でいい?
ただ、これに「五重の義が成就したうえで」という条件が必要か否か。。。
どうなんだろ
674神も仏も名無しさん:2008/11/16(日) 16:40:34 ID:HZEcWQOI
  |\__/ハ__
 {_____」
       
         \\              ∧_∧
◎     ≫〃vミー‐w  へ          (´<_` )  >>672あちこちでマルチポスト宣伝するなキモヲタ
  \   彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \   
      {_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )
 ◎-○一( * *    ヽミ            |.      |
      ((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉      | |
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ:: -=_二__ ̄ .   \_     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ        ̄\      / /
    (   ) 渡 ≡ ;;; )  )         .\__/_丿
     |__|. 海 ≡ ;;; )_l          .|  |
    _|  |  難 ≡ ;;;; ) (           |  |
   |  \.._\.      入 \,       |  |
   |ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv)       \ ヽ
   |___||:::::::::::::/::::::::::/               \ |
         .|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/             / ノ
         (___|)__|)
6757:2008/11/16(日) 23:13:43 ID:+iVosD2M
書き込みありがとうございます。さっそく該当部分の原典にあたります。
676神も仏も名無しさん:2008/11/17(月) 00:50:46 ID:2MRquiIX
>>673
その通りです。
一念帰命と称名念仏は離れてあるものではありませんから。

五重の義は、真実信心であるかどうかの一つの判断基準として示されているので、
順番が違っても、一つが欠けても、誤った信心であるということですね。
(ただし、「じゃあこれが揃えばいいのか」と考えて、人間がお膳立てして
信心得たことにするのは、もちろん誤り。この代表が土蔵秘事ですね)

>675
はい、ありがとうございます。
6777:2008/11/17(月) 02:45:04 ID:2TSew6q2
末灯鈔、親鸞聖人御消息、該当の章を拝読いたしました。紹介して下さった部分は
 第六通「笠間の念仏者の疑ひとはれたる事」の中間にある、以下のところですね。

〜 しかれは、恵心院の和尚は 往生要集には 本願の念仏を 信楽する ありさまを あらわせるには
 行住座臥を えらはす 時処諸縁を きらわすと おほせられたり 真実の信心を えたる人は 
摂取のひかりに おさめとられ まいらせたりと たしかに あらわせり しかれは〜

「しかれば」に挟まれていますね。「しかれば」には「だから(理由)」と「さて(文の冒頭に置く言葉)」の二つの意味があるようですから、
前後の文章も読まないと、この「しかれば」が(理由)を意味しているのか、話題を変えているのか分かりません。

「しかれば」が二つとも(理由)であった場合、前後の文章によって挟まれた文章の意味は相当限定されてくると思います。
ですから、前後は無視出来ないのです。何度か通しで第六通を読み返してみたいと思います。
678神も仏も名無しさん:2008/11/22(土) 01:47:14 ID:lKKFPKyw
お聖教を、先入観を持たずに読ませて頂くのは素晴らしいご縁ですね。

信心頂くとは、阿弥陀仏の本願をそのまま聞くことです。
御名号を成就してくださったのはまことに私のためでした、
ありがとうございます、と頂いてお念仏することです。
これは、阿弥陀仏が現在只今、私を助けてくださることを信知することです。

本当に聞かせて頂いたなら、何の文句も出ようがないのですが、信の一念までは、
それが信じられない故に、どうしても何かつけくわえようとしてしまいます。
679渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/11/28(金) 12:09:37 ID:DopWDjCA
 ぶろぐ 親鸞仏教 更新しました。
 www.しんらん.jp
680神も仏も名無しさん:2008/11/28(金) 12:24:07 ID:gF7IMk1i
  |\__/ハ__
 {_____」
       
         \\              ∧_∧
◎     ≫〃vミー‐w  へ          (´<_` )  >>679マルチポスト宣伝荒らしはやめろキモヲタ
  \   彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \   
      {_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )
 ◎-○一( * *    ヽミ            |.      |
      ((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉      | |
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ:: -=_二__ ̄ .   \_     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ        ̄\      / /
    (   ) 渡 ≡ ;;; )  )         .\__/_丿
     |__|. 海 ≡ ;;; )_l          .|  |
    _|  |  難 ≡ ;;;; ) (           |  |
   |  \.._\.      入 \,       |  |
   |ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv)       \ ヽ
   |___||:::::::::::::/::::::::::/               \ |
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         (___|)__|)
681渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/05(金) 12:18:59 ID:exoGQnEV
ブログ親鸞仏教 更新しました。
  www.しんらん.jp
682渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/08(月) 08:45:12 ID:21yK3pdD
 念仏を称えるとはどういうことか。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1211038645/210-217 に書きました。
683渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/11(木) 14:05:10 ID:V6lLC4nb
 2ちゃんねる「親鸞仏教質問箱」で書いてきました「阿弥陀仏と神との違い」・「念仏をい
ただくとはどういうことか」、この二つについて、アラシが激しいので、ブログにアーカイブ
を作りました。

 なお、今後も2ちゃんねるで進めますが、適宜、ブログにアーカイブを転記していきます。
http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/cat29/
http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/cat30/
684渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/14(日) 16:25:06 ID:Vje7uUbo
 「親鸞仏教質問箱」 の続きを書きました。神と阿弥陀仏の違いを問題にしています。
 アラシが入ってわかりにくくなっています。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1211038645/245
に整理を入れました。
 IEでは区別できませんが、2ちゃんねる専用ブラウザを使うと、論筋レスとアボーンレストの区別が簡
単になります。
685神も仏も名無しさん:2008/12/15(月) 01:04:58 ID:lbdZ/JC6
用事があるので、郵送で、投票しようと思ったので、そこんとこを読んでみた。
病気の所の項目?っていうのかな。ここに公示日?より前3ヵ月以内
の証明書云々て、書いてたんだが?意味がよくわからない。
オレの思った通りの意味だと、国政選挙の不在者投票なんかとは
比べものにならないぐらい、やりにくい。旅行の所にも、領収書を出せと書いてある。
泊る前に、ホテルに領収書をもらって、それを願書?に添付して認められたら郵送で
受け付けるってことだと思うのだが。。。これも変だと思う。できるだけ郵送でさせないための
手段なのだろうか?
686渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/17(水) 13:27:32 ID:/lzqZYUt
ブログ親鸞仏教更新しました。
 しんらん.jp

 「辺地に生じて、疑いの罪を償のいて後、報土の証を開く」。
極楽浄土の構造から往生という概念の議論を進めています。
687神も仏も名無しさん:2008/12/17(水) 13:36:33 ID:fg1h66ER
  |\__/ハ__
 {_____」
       
         \\              ∧_∧
◎     ≫〃vミー‐w  へ          (´<_` )  >>686マルチポスト宣伝荒らしはやめろキモヲタ
  \   彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \   
      {_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )
 ◎-○一( * *    ヽミ            |.      |
      ((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉      | |
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ:: -=_二__ ̄ .   \_     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ        ̄\      / /
    (   ) 渡 ≡ ;;; )  )         .\__/_丿
     |__|. 海 ≡ ;;; )_l          .|  |
    _|  |  難 ≡ ;;;; ) (           |  |
   |  \.._\.      入 \,       |  |
   |ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv)       \ ヽ
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         (___|)__|)
688神も仏も名無しさん:2008/12/19(金) 03:21:52 ID:VHuCJ6Dx
岡田屋事件について批判する、匿名掲示板での無責任な騒ぎが続いている。

水の息遣いを感じていれば
腐乱死体の存在に気づいたはず。
客にも責任の一端はあるのだ。
確かに悲惨な事件だった。
だがちょっと待ってほしい。
心配のしすぎではないか。
腐乱死体の腐汁や繁殖した細菌を飲んだ事にはなるが、
なあに、かえって免疫力がつく。


そんな事より、麻生の読み間違いのほうが重要かつ喫緊の問題なのだ。


689神も仏も名無しさん:2008/12/19(金) 20:45:34 ID:Hn+dl3JW
>>686
ときどき読ませてもらってます。
歎異抄が入門書とされてしまっている現状とか、
親鸞の「矛盾」とかとても興味深いテーマですね。
690神も仏も名無しさん:2008/12/20(土) 03:52:27 ID:QYiEl+0W
日曜日か。
大山鳴動して鼠一匹の風情だと拍子抜けだな。
だからといってオオゴトになって自分が世話になった人が深く傷つくのも心配。
ソフトランディングを望みつつ
対岸の火事として楽しみたい野次馬根性もある。
聴聞にふらっと行った後、現在の住所がバレて、会員が顕正に押しかけてくる・・
・・なんて悪夢でいまだにうなされたりするもんな。
青春時代をすごした会が今こんなことになってるなんて・・なんてエキサイティングだ!
日曜まで待ちきれんな。
691渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/24(水) 09:41:56 ID:wWg+X7LI
>>689
>ときどき読ませてもらってます。
       ありがとう。うれしいです。

>歎異抄が入門書とされてしまっている現状
       現代浄土真宗の混乱の致命傷になっているのが歎異抄だと思います。
      歎異抄は、記載内容にも間違いがある。しかし最大の間違いは、その使
      い方です。歎異抄は入門書ではない。歎異抄を社会に広く公開したのは
      明治の清沢満之の一生の不覚でしょう。それに追随した教学者も万死に
      値する。彼等は、浄土真宗は何かが全く分かっていない。
       親鸞・唯円・蓮如は、声を挙げなくても、非常に残念がっているでしょう。

>親鸞の「矛盾」とかとても興味深いテーマですね。
       現代の真宗教学はでたらめだらけです。現代真宗教学の主張と、親鸞
     の肉声との間に矛盾があることを恐れず、向き合える人は、自分に嘘をつか
     ないで、真摯に向き合っていってほしいものです。
692渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/24(水) 11:27:55 ID:wWg+X7LI
ブログ親鸞仏教更新しました。
 しんらん.jp
693神も仏も名無しさん:2008/12/25(木) 16:56:18 ID:a4yDmwCD
606 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2008/12/25(木) 16:07:31 ID:a4yDmwCD
>>604
渡海を精神秒呼ばわりすることは、精神病患者への差別です。

渡海は善良な精神病患者とは比べものにならない最悪の下劣な奴です。

607 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2008/12/25(木) 16:51:35 ID:5fsit5Cx
>>606
> 渡海は善良な精神病患者とは比べものにならない最悪の下劣な奴です。

 あなたの発言は不法行為(民法709条)の不法行為に当たると思うんですよ。
一度、裁判所でゆっくりお会いしましょうか?。

 損害賠償金の支払いをお願いをすることはないと思いますが、貴方の住所・氏
名・職業を公開して、2ちゃんねるの宗教板に、公式に謝罪文を掲載させて貰うと
いうお願いをするようになるかもしれませんね。

 実際には、裁判所の許可を貰い、貴方の名前で、渡海難が渡海難宛に書くので
すが、確定判決後ですから、法的・社会的には、貴方が僕に実名で謝罪したこと
になります。

 これを強制執行と言います。 ひとつ、考えてみましょう。
694渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/29(月) 16:56:27 ID:mVMgs1UA
親鸞仏教質問箱を書き足しました。

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1211038645/291-294
6957:2008/12/29(月) 18:21:46 ID:PMmBjo/J
ようやく仕事納め・・・皆様それでは良いお年を〜!
696神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 19:21:03 ID:fGlgRIpS
親鸞仏教質問箱を書き足しました。

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1211038645/295-296


697神も仏も名無しさん:2008/12/30(火) 19:28:48 ID:X9oKRnqa
309 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2008/12/30(火) 16:52:30 ID:6qUB+sV4
 現代の浄土真宗は、脅迫に屈し、愚痴の煙に巻かれ、まんまと脅迫の術中に嵌って恐れおの
のき、寺に隷属するようにマインドコントロールされるようになった人を、信心のある人と誤認して
いるんじゃないか。

 証拠を出せと言われても困るけど、親鸞会や華光会の噂を漏れ聞いていると、そんな気がす
る。これは僕の誤解か?

 脅迫するな。愚痴を聞かせるな。愚痴と脅迫を聞かせて耳にたこを作らせれば相手は信心決定
するなど、そんな馬鹿な話は無い。これが渡海難の主張です。
698渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/01/01(木) 10:19:11 ID:ZrG/t51l
ブログ親鸞仏教を更新しました。
 しんらん.jp

 お正月で不釣り合いかも知れませんが、重要な問題ですので「死」を
扱いました。
699神も仏も名無しさん:2009/01/01(木) 12:45:18 ID:7DN9vacN
  |\__/ハ__
 {_____」
       
         \\              ∧_∧
◎     ≫〃vミー‐w  へ          (´<_` )  >>698新年早々宣伝荒らしかキモヲタ
  \   彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \   
      {_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )
 ◎-○一( * *    ヽミ            |.      |
      ((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉      | |
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ:: -=_二__ ̄ .   \_     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ        ̄\      / /
    (   ) 渡 ≡ ;;; )  )         .\__/_丿
     |__|. 海 ≡ ;;; )_l          .|  |
    _|  |  難 ≡ ;;;; ) (           |  |
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   |ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv)       \ ヽ
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700神も仏も名無しさん:2009/01/02(金) 23:48:57 ID:3F1i5KTU
606 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2008/12/25(木) 16:07:31 ID:a4yDmwCD
>>604
渡海を精神秒呼ばわりすることは、精神病患者への差別です。

渡海は善良な精神病患者とは比べものにならない最悪の下劣な奴です。

607 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2008/12/25(木) 16:51:35 ID:5fsit5Cx
>>606
> 渡海は善良な精神病患者とは比べものにならない最悪の下劣な奴です。

 あなたの発言は不法行為(民法709条)の不法行為に当たると思うんですよ。
一度、裁判所でゆっくりお会いしましょうか?。

 損害賠償金の支払いをお願いをすることはないと思いますが、貴方の住所・氏
名・職業を公開して、2ちゃんねるの宗教板に、公式に謝罪文を掲載させて貰うと
いうお願いをするようになるかもしれませんね。

 実際には、裁判所の許可を貰い、貴方の名前で、渡海難が渡海難宛に書くので
すが、確定判決後ですから、法的・社会的には、貴方が僕に実名で謝罪したこと
になります。

 これを強制執行と言います。 ひとつ、考えてみましょう。
701神も仏も名無しさん:2009/01/08(木) 18:43:25 ID:Ezp/jiAo
新年会の予定
東京新宿で新年会を予定します。
1月25日 午後五時頃から。


 参加を希望してくださる方、yahooメールをお待ちします。

 [email protected]

 なお、このyahooメールはスパムメール防止上、新年会用で、2月以降は使用しません。

 新年会以外の一般的なメールは↓これでお願いします。 (渡海 難)

http://www.propatent.jp/utf-8/letter.html
702神も仏も名無しさん:2009/01/08(木) 20:33:12 ID:HuFKHTCT
>>701
宣伝荒らしはやめろキモヲタ

        /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \   パー───ン       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
      <       (☆)   〉                     /               \
       \ =======,/                  (__i|__i|__リ     ;       |
        /~`ー=、=,=ィ.                  (   ;;    ∪     |
      /    (●)ヾ'(●) \                    ,◎─ 〃⌒)         |
      |    "⌒(__人__)⌒" |    _'そ       (o,;(´   ´_'ノ     ,; ′;| ´  ;  '
.     \     `ヾ┬ノ´ ,/〔ニ二【@】        ゝ   u.  ゞ    ,●";`‘,`・    ;
       /⌒ ̄ ̄〃 ̄ ̄〆⌒'ニ)ソ  ̄ Y `       `i       ーーーーrーゝ
        ヾ  、__゙__il、_,ジ,イ            ヾ、__  ____-‐ー‐\
       |       o| = |_ノ               /´ ̄ ̄         ヽ
.        |          |    |               /    ゙ヽ  渡海 難   |
.      |       o|   .|               /     |           |
      |   ===   | ==|                /      |           |
703神も仏も名無しさん:2009/01/08(木) 23:58:04 ID:2gqBBKSc
316 名前:名無し検定1級さん[] 投稿日:2007/01/23(火) 21:06:53
弁理士の国家試験を廃止し、
能力のない人も弁理士になったら、
不完全な明細書により、出願人の財産権たる「特許を受ける権利」が特許権とならず、
そのまま却下・拒絶・見做取下げ等により消滅してしまうかもしれません。
これは出願人の財産権を害していることになります。
なので、出願人の財産権を守るべく、職業選択の自由は一定限度の制限を受けるのです。


317 名前:名無し検定1級さん[] 投稿日:2007/01/23(火) 21:34:21
渡海よ、この意見に対してはどう反論するのだ。
いまだにまともな反論ができていないのだが、この意見を承服するのだね。

医師の国家試験を廃止し、能力のない人も医者になったら、
患者さんにいつ被害が出るかわかりません。
これは患者さんの生存権を害していることになります。
なので、患者さんの権利を守るべく、
職業選択の自由は一定限度の制限を受けるのです。
704神も仏も名無しさん:2009/01/09(金) 10:46:18 ID:5+nbLPAy
ぶろぐ親鸞仏教の更新をしました。

   しんらん.jp

新年会の予定
東京新宿で新年会を予定します。
1月25日 午後五時頃から。


 参加を希望してくださる方、yahooメールをお待ちします。
 [email protected]

 なお、このyahooメールはスパムメール防止上、新年会用で、2月以降は使用しません。
 新年会以外の一般的なメールは↓これでお願いします。 (渡海 難)
http://www.propatent.jp/utf-8/letter.html
705神も仏も名無しさん:2009/01/10(土) 00:49:14 ID:2GI5G9IY
361 名前:名無し検定1級さん[] 投稿日:2007/05/19(土) 21:32:03
やっぱり基地外はどこへ行っても基地外だなw
遂にコテハンの使い分けもできなくなった

http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1179063729/
451 :渡海 堅  ◆Fe19/y1.mI :2007/05/19(土) 00:34:09 ID:QmgtySWY
>>450
> 5/18だけで何十回書き込んでるんだw

 いま、彼は、全身全霊をかけて親鸞聖人の教えに向かっているんだよ。
 こういう精神を、真の求道というんだ。嘘つき勧誘することが求道じゃない。
自分が今抱いている疑問に真正面から立ち向かうことが求道だ。dMUBatP
Kは、親鸞学徒の鏡と言うべきだろうね。

466 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/05/19(土) 09:00:42 ID:QmgtySWY
>>455
 「難」の変換ミスです。m(_ _)m
706神も仏も名無しさん:2009/01/10(土) 18:56:04 ID:Hu7b8lQl
親鸞聖人や蓮如上人の時代に「妙好人」という言葉はあったのですか?
7077:2009/01/12(月) 14:04:57 ID:lbRswuDi
wikiより

妙好人(みょうこうにん)とは、浄土系仏教などで、信仰心が篤い在家念仏信者を称賛して言う言葉。

語源は、サンスクリット語の白蓮華を意味する漢訳「妙好」から採られており、言葉として使われるようになったのは1753年に編纂された、
石見国浄泉寺(島根県邑南町市木)の僧侶・仰誓(履善の父)が編纂した『新聞妙好人伝』からと伝わっている。
以後、江戸期から明治初期にかけて何篇かの妙好人伝が編まれた。

妙好人を最初に取り上げた知識人は、禅の研究者として名高い鈴木大拙であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%A5%BD%E4%BA%BA
7087:2009/01/12(月) 14:08:20 ID:lbRswuDi
庄松同行は妙好人として有名ですけど、以下のエピソードを、wikiより。

同行5,6人と一緒に本山興正寺に参り、帰敬式を受けるとき。本寂上人がお出ましになり、庄松の「おかみそり」をすませ、次の人に移ろうとしたとき、
ご門主の袖を引き止めて「あにき覚悟はよいか」といった。ご門主は振り返って庄松をごらんになり、そのまま続けた。
 式が終わると、奥から使いの僧がきて「いまご門主さまの法衣の袖を引いた同行はどこにおるか、ご前に出られよ」と。
 庄松は礼儀作法も知らないので、ご前であぐらをかいて座りこみました。
7097:2009/01/12(月) 14:09:06 ID:lbRswuDi
ご門主「先ほど私の法衣を引っ張ったのはその方か」
庄松 「ヘエ、おらであった」
ご門主「何と思って引っぱったのだ」
庄松 「ヘエ それは、そんな立派な赤い衣を着ていても、赤い衣で地獄を逃れることならぬで、後生の覚悟はよいかと思うて聞いてみたんじゃ」
ご門主「ほほう 赤い衣を着ても地獄は逃れぬかの 私もそれが聞きたいためにそなたを呼んだのじゃ。私を敬うてくれる人はたくさんいるが、
親身になって後生の意見をしてくれたのは、そなた一人じゃ、よう意見してくれた。しかしそなたはどうじゃ、信をいただいたか」
7107:2009/01/12(月) 14:10:45 ID:lbRswuDi
庄松 「ヘエ、いただきました」
ご門主「その信をいただいた姿を一言もうしてみよ」
庄松 「何ともない」
ご門主「それで後生の覚悟はよいのか」
庄松 「そりゃわからぬ」 
ご門主「わからぬで浄土へ参れると思うのか」
庄松 「そりゃ親分に聞いてもろたらようわかる」
ご門主「親分とは誰のことか」
庄松 「ご本堂におられる阿弥陀様のことじゃ、お浄土参りはわしの仕事じゃないし、わしに聞いたとてわかるものか」
ご門主「おお よく申した。往生の一定は弥陀のはからいである。我が機のはからいではない。
おまえはまことに正直な男じゃ、今日は兄弟の杯をするぞよ」
 ご門主は非常に喜ばれて、兄弟分の杯をかわしたそうである

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E6%9D%BE
7117:2009/01/12(月) 14:23:20 ID:lbRswuDi
庄松さんは 江戸末期から明治まで生きられた方ですけれど、こうしたエピソードが残り伝わっていることが有り難いです。

信心決定とは何か、信後の姿がよく分かると思います。これこそ信心の沙汰だなぁと思いました。時代も人格も超えて、ピタリピタリと合う不思議。

南无阿彌陀佛
7127:2009/01/12(月) 21:31:16 ID:YwQJIiuf
とはいえ、誰それが信心決定している、っていうことが分かる能力なんてハナから持ち合わせてはおりませんけれども。

南无阿彌陀佛
713神も仏も名無しさん:2009/01/12(月) 22:03:05 ID:lO0gXpC1
土蔵秘事でもらったつもり信心の人がまた来ましたね。
妙好人のことばに自分の心境を合わせて喜んでいては、まだまだですよ〜。
7147:2009/01/13(火) 08:19:54 ID:HOxISnPb
お、最後に母音を伸ばすのが好きな人が来ましたね。おはようございます。本年も皆さまよろしくお願いします(*´∀`)
715渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/01/13(火) 11:33:42 ID:R9W9xUFx
>>707
 間違ってるんじゃないか?

>>708-710
 全く意味のない、くだらん馬鹿話と思うのは、僕だけか?
7167:2009/01/13(火) 12:37:30 ID:BTC3kQ7I
間違ってるかもしれませんよ。どうやって正しいと証明するんでしょう。また、正しいと証明できたとしても、信じられるかどうかはまた別問題ですよね。
717渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/01/13(火) 16:38:39 ID:R9W9xUFx
>>716
> どうやって正しいと証明するんでしょう。また、正しいと証明できたとしても、信じ
られるかどうかはまた別問題ですよね。

 もし念仏の者は、すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり、人中
の上上人なり、人中の希有人なり(教行信証 信の巻)

 親鸞の時代に「妙好人」という言葉があったのは、明らかでしょう。

 無物可以方之故引分陀利為喩言分陀利者名人中好華亦名希有華亦名人中上上
華亦名人中妙好華此華相伝名蔡華是若念仏者即是人中好人人中妙好人
      観経玄義分   沙門善導集記

   妙好人は善導大師の言葉です。日本では飛鳥時代に当たります。

 
 妙好という言葉は論註に出てきます。善導大師はこの論註を受けたとすれば、さら
に150年もさかのぼります。


7187:2009/01/13(火) 16:55:13 ID:BTC3kQ7I
そういう意味ですとwikiは間違ってますよね。1753年どころか、由来はサンスクリット語の時代、原始仏教の時代からあったという訳ですから。

渡海さん、わざわざ根拠を引いていただいて有難うございます。
719神も仏も名無しさん:2009/01/13(火) 18:49:41 ID:8jkuv7nf
319 名前:渡海 堅  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2007/01/24(水) 09:10:43
>>316
 職業選択の自由は一定限度の制限を受けるからどうなんだ。おぬしは何が言いたいんだ?。お
ぬしの頭の中はパーマン状態なんじゃないか。弁理士制度は、既に人道に反する段階なんじゃな
いのか?。

A 職業選択の自由は一定限度の制限を受けるんだから、 → 受験生から受験権を奪い、問題
解読権を奪い、答案解答権を奪い、訂正権を奪い、茶番の国家試験を行い、国民を愚弄し、騙し、
無数の頭脳達、才能達、意欲溢れる精神達を引きつけ、全財産を喪失させ、その人生を人生の登
竜門で再起不能状態で社会のゴミにして永久に社会から抹殺する憲法違反の行政は、実に愉快で
楽しい行政だ、と言いたいのか?
 
B 職業選択の自由は一定限度の制限を受けるんだから、 → 受験生から受験権を奪い、問題
解読権を奪い、答案解答権を奪い、訂正権を奪い、茶番の国家試験を行い、国民を愚弄し、騙し、
無数の頭脳達、才能達、意欲溢れる精神達を引きつけ、全財産を喪失させ、その人生を人生の登
竜門で再起不能状態で社会のゴミにして永久に社会から抹殺する行政は、特許界から競争をなく
し、ノータリン弁理士を大量に温存し、どんなノータリンでも、いったん既得権を確保した弁理
士には、死ぬまでラクチン生活を保護するので、なんと素晴らしい行政でしょうね、と言いたい
のか?

C 職業選択の自由は一定限度の制限を受けるんだから、 → 受験生から受験権を奪い、問題
解読権を奪い、答案解答権を奪い、訂正権を奪い、茶番の国家試験を行い、国民を愚弄し、騙し、
無数の頭脳達、才能達、意欲溢れる精神達を引きつけ、全財産を喪失させ、その人生を人生の登
竜門で再起不能状態で社会のゴミにして永久に社会から抹殺する行政を、憲法はこれを無効だと
いう。そんな糞みたいな憲法は一日も早く改正し、弁理士法を社会の最高の憲法とし、既得権を
確保した弁理士は社会の特権階級とし、特許庁を国権の最高執行機関とする社会を作りましょう。
こう言いたいのか?

D ・・・
720神も仏も名無しさん:2009/01/13(火) 18:50:26 ID:8jkuv7nf
173 名前:氏名黙秘[sage] 投稿日:2007/01/17(水) 07:19:20 ID:???
渡海 堅 よ。

>1 時期は、明日来るかも知れないけど、10年後かも知れない。永久に来ないかもしれない。そ
   んなものだ。
>2 世論が味方についてくれないところで単身で挑んでも、風車に飛び込んでいったドンキホーテ
   になるだけだと思っているからね。

1→ 時間がありそうだな。司法試験にさっさと合格してみろ。
2→ そして、弁護士になって、「私は、違憲の制度の下で司法試験に合格し、
   皆様の権利義務に関するマターを取り扱ってしまいました。心からお詫び申し上げます。」
   と全国紙を初め、大手放送局、インターネット、そして、世界中に発表しろ。
   そうしたら、世間も少しは関心を持ってくれるかもしれんぞ。
どうだ。根性と能力があるなら、やってみろ。どうせ・・・・・
721神も仏も名無しさん:2009/01/13(火) 18:50:57 ID:8jkuv7nf
174 名前:氏名黙秘[ ] 投稿日:2007/01/17(水) 10:03:51 ID:???
        人
       (::::::)  渡海 堅  ◆Fe19/y1.mIの正体
      (:::::::::::::) 
     (:::::::::::::::::::::)  小中高といじめられてきた。その扱いはまさに虫けら以下だった。
    (:::::::::::::::::::::::::::)  高校を中退してからは、一日中家の中に引き篭もっている。
  /:::::::::::::::::::::::::::::::\  50歳過ぎた今でも無職。友達も恋人もなし。PCだけが俺の世界。
 (:::::::::::::::::|_|_|_|_)  更に、肥満、腋臭、禿、脂症、ニキビ面、インキン、真性包茎・・・
  |;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ   どうして俺だけがこのような惨めな境遇なのか・・・。
  |::( 6  ー─◎─◎ )  
  |ノ  (∵∴ ( o o)∴)   
/|   <  ∵   3 ∵>
::::::\  ヽ        ノ\ 
:::::::::::::\_____ノ:::::::::::
722渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/01/13(火) 19:43:36 ID:R9W9xUFx
>>721
 最近、僕は被害妄想の傾向が強まっているんだ。念仏者の僕を、クソを頭に載せた虫
けら以下とか、真性包茎とか(w)、思っている人が、もしかしているんじゃないかとね。よ
もや、そんな人はおらんと思うが、ひょっとしてということだ。 (w)

 釈迦如来のみことには、念仏のひとをそしるものをば、「名無眼人」ととき、「名無耳人」
とおおせおかれたることにそうろう。

 お釈迦様は仰った。渡海難のような念仏の人、このような念仏の人を悪く言う人は、物
事を正しく見る眼の無い人、正しいことを聞き分ける耳の無い人である。そのように仰っ
ているところがある。

 善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生
怨」(法事讃)と、たしかに釈しおかせたまいたり。

 善導大師は、お釈迦様の言葉を受け、社会で五つの濁りがますます盛んになると、
インターネットの2ちゃんねるなどでは特に、念仏を疑い、そしる人が増える。坊さんも、
在家の人も、正しく聞くことを嫌うようになる。渡海難のように念仏を修行している人を見
たりすると、ID:8jkuv7nfのように怒りの心を起こす。さまざまな手段を使い、坊さん同士
が競い合い、渡海難に恨みを生みだし、親鸞聖人の念仏を破壊しようとする。このように
解説して下さっておりました。

 この世のならいにて、念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のようあ
ることにてこそそうらわめ。

723渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/01/13(火) 19:44:37 ID:R9W9xUFx
 世間によくあることだが、念仏を妨害しようとするID:8jkuv7nfのようなノータリンは、各地
各地の有力者であることが多い。西本願寺という大きな組織の中で、ひょっとして高い地
位でも占めている人かも知れん。

 とかくもうすべきにあらず。
 このようなことは、とやかく言うべきではない。

 念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをば、あわれみをなし、不便におもう
て、念仏をもねんごろにもうして、さまたげなさんを、たすけさせたまうべしとこそ、ふるき
ひとはもうされそうらいしか。

 渡海難に倣い、自分も念仏を称えようと思う人々は、念仏者の渡海難を謗り妨害する
そんなID:8jkuv7nfを哀れに思い、心を込め、自分こそは念仏を真剣に称え、それによっ
て念仏を妨害するID:8jkuv7nfも助けてあげようと、そのように思うといいでしょう。たしか、
このように昔の人は言っていたように思い出されてきます。
                                                  親鸞
724神も仏も名無しさん:2009/01/13(火) 19:49:37 ID:8jkuv7nf
名前:名無しさん@3周年 投稿日:04/05/04 00:01
923 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :04/05/03 23:44
>>877
>架空ではないだろ?

 架空でなかったら何なんだい?。架空と言っても、原型はあるんだよ。原型はもちろん釈迦だ
よ。原型は釈迦でも、阿弥陀が架空ということには変わりがない。
 あんたらは、犬に吉備団子を与え、日本一の旗を掲げて鬼退治した桃太郎を、実話と思うか。
架空と思うか?。
 阿弥陀仏が架空でなかったら何なのか。答えが出るまで、おぬし、豆腐の角に頭を休めて、坊
主を名乗るのを辞めとくといいi。

名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 投稿日:04/05/06 20:33
>>354
>南無阿弥陀仏といへる行体は、すなはちわれらが浄土に往生すべきことわりを、
この六字にあらはしたまへる御すがたなり

 我々には霊魂がある。死んだら霊魂は冥界に行く。冥界には王様がいる。王様
は、存在を信じてくれた人だけ、自分の冥界に引き入れてくれる。冥界の王様を
信じると、あ〜ら、不思議とばかりに、体から霊波が出て、あの世に一瞬で届く。
死ぬまで信じ固めていくと、冥界の王様を信じた霊波で、王様の世界に引き入れ
られ、霊魂は清められる。ああ、ありがたい。ありがたい。
 冥界には王様がいないという人が一人でもいると、今度は、その全員が冥界に
入れなくなる。連帯責任だ。だから、みんな信じないといけない。王様の実在を
信じ固め、死んだら王様の冥界に行きましょう。
 栗花さん。あなたが言いたいことはそういうことなんだろう?。親鸞だの信心
だの、仏教だのと言わなくても話ができるじゃないか。
725神も仏も名無しさん:2009/01/13(火) 23:14:49 ID:jlcpsv7H
>>713
>まだまだですよ〜。

君もまだまだなのが良く分かるw
心得たと思うは心得ぬなり。だわな。
726うどん:2009/01/14(水) 00:20:01 ID:E+uTuSSZ
庄松さんの言動は、なるほど、とも思えるし、あるいはイヤミな独りよがりとも受け取れない
こともありませんね。
とにかく強烈なキャラクターだったんでしょうね。
今となってはご本人を知る人もいませんが、聞くところによると文字を読んだり計算をしたりが
全くできない方だったそうです。
だから人からは軽く見られていたそうですが、法のことになるとこれがすごくて「法然上人が
末代に愚か者と身を変えてお出ましになったんじゃ」ともいわれていたとかいないとか、聞いた
ことがあります。

「庄松ありのままの記」を読んでみると、私の住んでいるあたりのお同行のところへも
結構来たりしてたみたいで、なんとなく親近感を持ってしまいます。
けど、庄松さんと同時代に生きていたとして、面と向かって悪態をつかれたら嫌だろうなあって
気の小さい私なんかは思いますけどね。
727神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 19:04:40 ID:6CgWGLTc
>>725
土蔵秘事の脅し役さん、毎度ご苦労様です。
そちらのご一流は、人から認定されなきゃならない信心でイロイロ大変ですね〜。

>>726
妙好人の方、特に庄松さんの言動は、先が読めないというか、あっと驚く言動が
多いですね。それでいて妙に人を納得させる力があるから凄いです。
でも実際に側にいたら、うっとおしい面もあるかも…(笑)

庄松さんにお坊さんがやりこめられる逸話も結構残されていますけど、
お坊さんのほうも、庄松さんの言葉を受け入れる度量があって凄いなと思います。

ちなみに庄松さんは最初、三業帰命の異安心だったそうですね。
7287:2009/01/14(水) 19:56:04 ID:otBtD4xv
土蔵秘事、土蔵秘事、と他人を決め付けていらっしゃる方は、もしかして、土蔵秘事に類するものと批判されてきた方でしょうか。

正直、最初の頃は、生きている今は煩悩の雲に覆われて真実がハッキリ見えないけれども、死ねば分かるさ、という気持ちもありました。
ところが、考えてみれば、生きている現在、現実と幻覚を区別できない脳を持っているように、死後に幻覚を見ないという保証もないですよね。
ですから、今では「死んでも分からんだろうな」という結論に達しています。
自分が頂いた「つもり」の信心が、本物かどうかは、ただ阿弥陀仏だけがご存知なのだと思います。
どんなに今、喜べていたとしても。死ぬまでこの満足が続いたとしても。いや、死後に極楽に行ってもそれが幻覚や夢だったらどうしましょう。
何にも分からない自分だなぁと思います。

南無阿弥陀仏
729神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 20:35:50 ID:bcBc2rrK
7さん
横レスすみません
>>677関連の件はどんな結論が得られましたか?
730神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 20:44:53 ID:6CgWGLTc
>>728
おっと、失礼。秘事法門、隠し念仏、それとも御内法、御内証とか書いたほうが
良かったでしょうか?
Wikiには次のようにありますね。

「相伝を得た善智識に会い、たすけたまえと一念に頼む儀式を行って、何年何月何日何時に
弥陀に頼んで救われたとわかるような信心決定(しんじんけつじょう)を得ることを
目的としている。しかし、この善智識に頼るということは、弥陀ではなくこの世の
善智識という救済者に頼るということであり、これこそが浄土真宗が異端とする
理由である。蓮如は、善知識に会わなければならないということを否定してきた。」

いずれにせよ、人工の信心である以上、本物かどうかなんて考えるまでもないと
思うんですけどね。
7317:2009/01/14(水) 20:59:21 ID:otBtD4xv
730さんは五重の義を否定されるんでしょうか。でも、議論するようなことじゃないんですよ。お聖教読めばいいと思いますから。

それと、670の件ですけど、もっと何度も読み返したいと思ってます。抜き出した部分だけでも、また前後を全て読んでも、
導かれてくる答えは同じようです。このお手紙では、親鸞聖人は「行住座臥不問時節久近」という部分を信後の姿として
説かれているなぁ、と受け止めました。つまり、信心決定の瞬間の時間や空間に関しての説明としては、使われていないということです。
信心決定する時間は不問ではないのです。例えば今より十劫以上昔では、弥陀の本願がまだ成就しておらず信心決定できないのです。
過去については十劫以内でなければなりませんから、不問とは言えず条件付です。
732神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 21:00:24 ID:apxdarJg
土蔵で儀式をするわけではないみたいですね。
7337:2009/01/14(水) 21:01:48 ID:otBtD4xv
土蔵ってのを、見たこと無いんですw
734神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 21:12:48 ID:apxdarJg
聖教を読んでも儀式で獲信しましょう、とはどこにも書いていない。
しかし、それをもってあなたがたは秘密だからだ、秘密だから書かれていない、
だからこの秘密の法流は正しい、とするわけなんでしょう。
735神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 21:14:55 ID:apxdarJg
一方では書いてあることが正しい、ピタリピタリと符合する、といい、
一方では書いてないから正しい、という。

これでは聖教で確認せよ、といわれても確認のしようがないですね。
7367:2009/01/14(水) 21:22:04 ID:otBtD4xv
「仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」

抑止門とか、掟とか、そういう言葉が真宗にあることはご存知だと思うのですが。また、宿善の無い人には聞かせてはならないとも。
ご自分で心ゆくまでお聖教を読み返してくださいな。
737神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 21:35:14 ID:6CgWGLTc
>>731
おお、ここポイントですね。
7さんたちは、阿弥陀仏の本願力は、有限だと思ってるんですね。

「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど
塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ」(大経和讃)

「それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまう覚体なれば、
久遠実成の古仏なれども、十劫已来の成道をとなえたまいしは、
果後の方便なり。これすなわち、「衆生往生すべくはわれも正覚をとらん」
とちかいて、衆生の往生を決定せんがためなり。」(浄土真要鈔)

十劫の昔の成仏は、方便なんですよ。
有形有限のものしか認識できない私たちのための。
実際には阿弥陀仏の救いには、時間や空間の制限はありません。
7387:2009/01/14(水) 21:40:54 ID:otBtD4xv
ポイントとか、何かゲームじゃないんですから。
でも、お聖教の根拠を次々挙げてくださるのは本当に有難いことですね。
「方便」であるがあるゆえに、十劫昔からだったり、久遠実成の古佛だったり。
「矛盾」だと、怒らないで下さいね。
739729:2009/01/14(水) 22:11:17 ID:wUe/6246
>>731
レスありがとうございます

>>738によると、7さんは「十劫成仏」と「久遠実成」とはどちらとも正しいと仰っている
と理解しました
では、なぜこのように断言できるのでしょうか?
> つまり、信心決定の瞬間の時間や空間に関しての説明としては、使われていないということです。
> 信心決定する時間は不問ではないのです。例えば今より十劫以上昔では、弥陀の本願がまだ成就しておらず信心決定できないのです。
> 過去については十劫以内でなければなりませんから、不問とは言えず条件付です。
7407:2009/01/14(水) 22:17:48 ID:otBtD4xv
親鸞聖人のお手紙に関しての話題でしたから、流れ的にそうなったかと思います。
7417:2009/01/14(水) 22:20:05 ID:otBtD4xv
どちらかも仏説です。仏語に嘘妄なしとお聖教にあるではないですか。

これは裏を返せば仏でない私の語は嘘妄だらけだ、とも理解できます。
742神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 22:20:34 ID:apxdarJg
>>736
経以外のなにか「怪術」があるのですか?
7437:2009/01/14(水) 22:21:59 ID:otBtD4xv
まぁ裏を返さなくてもいいですけど、「十劫成仏」と「久遠実成」が、どちらも仏説だということです。
佛語に嘘妄なし、と聞いております。
744神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 22:22:07 ID:apxdarJg
不思議な術にかけてもらうわけですね。
神仙か呪のようなものでしょうか。
745729:2009/01/14(水) 22:25:07 ID:wUe/6246
>>740
> 親鸞聖人のお手紙に関しての話題でしたから、流れ的にそうなったかと思います。
ごめんなさい、何を仰っているのか理解できませんので
もう少しご説明頂けませんか?
不明点は、「流れ的」とは何か?「そうなった」とは何か?です
7467:2009/01/14(水) 22:26:35 ID:otBtD4xv
「仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」

親鸞聖人の書かれた顕浄土真実信文類にあるお言葉ですよ。段落数は99番目あたり。
径術とはありますけど、怪術とはないようです。
747神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 22:36:31 ID:ucTyoMmD
南無脳細胞
748神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 22:38:50 ID:apxdarJg
径術でしたね。間違いました。

私にはお経が径術だ、と書いてあるようにしか読めないのですが。
この箇所がお経以外に何かの術がある、という主張のもとになるんですか。

749神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 22:40:59 ID:apxdarJg
宿善についてですが、
蓮如上人をさかんに引用されているということは、
蓮如上人は秘密の術、儀式で獲信された方である、という理解でよろしいのですか。
7507:2009/01/14(水) 22:45:32 ID:otBtD4xv
少なくとも自分はそんな主張をした覚えが無いので、ボケてたらツッコンでください。
とりあえず自分は、信心決定を求めている人は、御文章を読むといいですよ、とか、五重の義は大事ですよとか、
そんな感じで繰り返し書いてるだけのような。
751神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 22:50:43 ID:6CgWGLTc
>>738
久遠実成の古仏は方便ではないですよ。

「これによりて久遠実成の弥陀をもつて報身如来の本体と定めて、これより
応迹をたるる諸仏通総の法・報・応等の三身は、みな弥陀の化用たりと
いふことをしるべきものなり。しかれば報身といふ名言は、久遠実成の弥陀に
属して常住法身の体たるべし。」(口伝抄)

私もまだまだ勉強不足ですのでうまくご説明できませんが、7さんも、
阿弥陀仏が本師本仏と言われるゆえん、もっとお勉強されたほうがいいと思います。
というか、阿弥陀仏のお力が有限と考えているようでは、信心が本物かどうか
なんて考えるまでもないのでは?

7527:2009/01/14(水) 22:55:55 ID:otBtD4xv
阿弥陀仏のお力で獲信された方である、という理解のほうがよろしいかと思います。
7537:2009/01/14(水) 22:59:30 ID:otBtD4xv
言葉足らずのようでした。
久遠実成が「真実」で、十劫成仏が「方便」と聞いております。
何としても私の信心を偽物だと仰りたいのはよく分かります。
7547:2009/01/14(水) 23:02:16 ID:otBtD4xv
そもそも、私が阿弥陀仏のお力を有限だと考えようが、無限だと考えようが、信心には何の関係もないんですよ。
障りにはならないんです。
755729:2009/01/14(水) 23:08:33 ID:wUe/6246
>>753
>>745にレス頂けないようなので話を進めますと

> 言葉足らずのようでした。
> 久遠実成が「真実」で、十劫成仏が「方便」と聞いております。

ということでしたら
>>731の以下の理解は不適確だと思ってしまいます
> 過去については十劫以内でなければなりませんから、不問とは言えず条件付です。
誤解ですか?
7567:2009/01/14(水) 23:17:35 ID:otBtD4xv
そうですか。非常に分かりづらくしてしまったようで、不適切だったかも知れません。
違う観点からこのお手紙についてもう一回書き改めたいと思います。ごめんなさい。
757729:2009/01/14(水) 23:23:47 ID:wUe/6246
>>756
よろしくお願いします
758神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 00:03:14 ID:MkJbEe4x
>>753
何としてもというよりは、どう見ても…ですね。
障りになるとかじゃなくて、根本的に信心というものをおわかりでないと
いうことなんです。

たとえば阿弥陀仏の力が有限と考えることは、それによってのみ救われる
私たちの悪も有限だと考えることであり、二種深信でなくなるんです。

故に、あなたが得たと思っている信心は、浄土真宗の信心ではないと
いうことになります。
7597:2009/01/15(木) 00:21:43 ID:VNhnWUFJ
三段論法ですね。信心というものがよくお分かりだという自負をお持ちで、二種深信という言葉に、大変こだわりのある方とお見受けしました。
私の信心が、浄土真宗の信心かどうか、あなたの信心が、浄土真宗の信心かどうか、それが本当に分かるのは仏様だけではないでしょうか。
私は凡夫ですから、誰の信心が嘘とか本物だとか、確実に知る術もないですし、そんな断言することの意味を余り感じないです。
あなたの書き込みのここがお聖教と矛盾していませんか、とか、それについてはお聖教にはこのようにあります、といったお話に興味があります。
7607:2009/01/15(木) 00:28:18 ID:VNhnWUFJ
758さんの矛盾を一つあげますと、例えば阿弥陀仏の十劫昔に成仏したことと、そのお力が有限であることとは、実は何の関係もないのです。
十劫昔であれ、一劫昔であれ、百劫昔であれ、阿弥陀仏が正覚をかけたうえで本願を建てられ、成仏された以上は、私たちの悪を滅する力をお持ちだということに成ります。
私たちの悪が有限であれ無限であれ、それを見抜いた上で建てられた本願なのですから。

さらに、私が「自分の悪は有限だ」と考えたとしても、二種深信はゆらぐようなものではないのです。阿弥陀仏から頂いた信ですから、障りにはなりません。
7617:2009/01/15(木) 00:33:05 ID:VNhnWUFJ
阿弥陀仏のお力は、無限だと思いますよ。そして、十劫成仏の阿弥陀様も、久遠実成の阿弥陀様も、
どちらも阿弥陀仏であります。

南无阿彌陀佛
7627:2009/01/15(木) 00:36:20 ID:VNhnWUFJ
「十劫成仏」が方便なのですから、「十劫より昔では信心決定出来ない」という結論が導かれるのも当然方便なのです。
それなのに、そこから「阿弥陀仏の力は有限だと思っている」=「自分の悪は有限だと思っている」
などと二回も論理の飛躍をしてみせるのは、いったいどういうことなんでしょうか。
7637:2009/01/15(木) 00:38:00 ID:VNhnWUFJ
二回目の飛躍は、=「だから二種深信がない」と続くところです。
764神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 00:40:30 ID:MkJbEe4x
>>760
「阿弥陀仏から頂いた信だから」と仰いますが、
それこそ、7さんにとって都合の良いように頂いた「つもり」の
信心なんですよ。

そちらの「一流」では、同行の皆さんは「掟」でもって縛られているようですね。

阿弥陀仏の本願は、それこそあらゆる障りから人を解放するもの。
人の作る掟などに縛られないということを、わかって頂きたいものです。
7657:2009/01/15(木) 00:46:14 ID:VNhnWUFJ
掟がお嫌いだということは、よく分かりました。確かに、誰だって縛られるのは嫌です。
それでもそのあなたの大嫌いな「掟」という言葉が、何度もお聖教に出てきますので、
我慢して目を通していただきたいなぁ、と。
人間は自由です。阿弥陀仏の本願に救われてこそ、本当に自由だと断言できます。
人間にとって都合が悪い信心を、阿弥陀仏は作られないと思いますよ。
7667:2009/01/15(木) 00:50:40 ID:VNhnWUFJ
人間にとって都合の悪い信心を、五劫もの期間その設計図を考え、十劫もの工事期間をかけて完成させる・・・・
そんな壮大な嫌がらせを、阿弥陀仏がされると思いますか?
7677:2009/01/15(木) 00:55:17 ID:VNhnWUFJ
調子に乗っていろいろ書き過ぎました。言葉が過ぎたところもあったかと思います。ごめんなさい。

今晩はどうもありがとうございました。おやすみなさい。

南无阿彌陀佛
768神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 01:13:20 ID:MkJbEe4x
>>759
信心が偽か本物かは、とても大切な問題なんですよ。
その追求をやめてしまって、「あのときああして頂いたから大丈夫」
と腰を落ち着け、自分の信心が正しい」という前提でもって、お聖教を
つまみ食いするのは、異安心といって、浄土真宗では常に戒められて
きたことです。

>>760>>762
十劫の昔に成仏されたということを前提にして、親鸞聖人の
お言葉を理解しようとしたのは7さんです。

それはつまり、7さんが阿弥陀仏を、私たちに理解できる範囲の、
有限の存在としてしか理解していない、ということなんですよ。
そして、やはりその範囲内でしか、阿弥陀仏の本願も、信心も、
理解していないらしいということなんです。

>>766
工事期間は十劫ではありません。兆歳永劫です。
大丈夫ですか?
阿弥陀仏のことを語るには、少し、阿弥陀仏を知らなすぎるかもしれませんね。
769神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 01:30:05 ID:MkJbEe4x
>それでもそのあなたの大嫌いな「掟」という言葉が、何度もお聖教に出てきますので、

御文章に繰り返し出てくる「掟」とは、浄土真宗が、寺が焼き討ちにあうほどの迫害を
受けていた時代に、門徒を守るために作られたものなんですよ。
真宗に敵意をもたれやすい状況で、門徒であると公言したり、あまつさえ布教しようと
したら、どんな目に合わされるか分らないから、口外するなと言われていたんです。

「掟」に勝手に秘密の法門の意味合いを持たせたのは、秘事法門に携わる皆さんです。

でも、こちらこそ書きすぎていたらごめんなさいね。
7さんは真面目で勉強熱心な方だと思います。
だからこそ、変な異安心にはまって、そのまま終わって欲しくはないんですけどね。
7707:2009/01/15(木) 07:27:09 ID:VNhnWUFJ
おはようございます。ご心配ありがとうございます。
また、兆歳永劫なのに十劫と書いてみたり、ごめんなさいね。
確かに、頂いた信心が本物かどうかは、とても大切な問題です。
あなたはご自分の信心が本物かどうかを、どうやって確かめておられるんですか?
あなたは「自分は大丈夫」という気持ちをお持ちなんですね?
7717:2009/01/15(木) 07:28:40 ID:VNhnWUFJ
それと、方便と真実をごちゃまぜにしたら親鸞聖人のお言葉は理解できないと思うのですが。
方便の話をしたから、イコールその程度の理解範囲、という結論になったら大変なことになりませんか。
仏様ですら大変数多くの方便のお経を残されているのですから。
もう一つ、真実は久遠実成の阿弥陀仏、本師本佛の阿弥陀仏であることも、書いているんですが。
真実の話を書いたときは、無視なんでしょうか。
もう一つ、有限の理解範囲であることが、問題ですか。阿弥陀仏のお力は無限です。お経にもその功徳利益は説き切れないと
あります。有限の能力しかない凡夫たる私たちに無限の仏様を理解をする能力があるのでしょうか。
信心決定したら、無限の理解能力が身に付くとお考えなのですね。
信心決定した姿は佛凡一体とも聞いたことがありますが、同時に仏様のお力を持つわけではないと思います。
7727:2009/01/15(木) 07:48:05 ID:VNhnWUFJ
掟についてですが、そういう時代背景があったことも、理解しております。
しかし、宿善の有無に関することなど、時代は関係ないと思います。
いつの時代でも、宿善の厚薄はあり、仏教はいつの時代でも対機説法なのだと思うからです。

変な異安心かどうか、これは人から認定されるようなものではないことも、ご存知だと思います。
ただ寿命が残っている間はお聖教を繰り返し拝読していきたいと思います。
阿弥陀仏の呼び声が聞こえるタイプの信心の人には、紙に書かれた有限の存在であるお聖教よりも
その内なる声のほうが重要なのかも知れませんけど。
いわゆる獲信体験、超常体験、特殊な体験、仏教では奇瑞などと言われますけれど、
親鸞聖人ご臨終時のエピソードは、奇瑞に惑わされやすい私たちへの戒めであると思います。
773神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 09:20:41 ID:MkJbEe4x
>>770
「自分は大丈夫」と踏み固めた信心は、いつも間違っています。
でも間違えるたびに、いつも呼び覚まされます。私の考えるような
ちっぽけなものではない、といつも気づかせて頂く、それがありがたいのです。
まさに、心得たと思うは心得ぬなり、ですね。

>>771
7さんが方便と真実をごちゃまぜにしておられないのなら、それで良いと思います。

>信心決定したら、無限の理解能力が身に付くとお考えなのですね。

そうではありません。
ただ、真の信を頂けば、常に智慧のお光に照らされていますから、
自分の理解能力が有限であり、誤っていることを、常に知らせて頂くのです。

でも、儀式で頂いたつもりの信心にはそれがないのでしょうね。
だから、他の妙好人のことばやお聖教の中から、自分の有限の理解力に
合うものを選んで、安心しようとするのでしょう。
お気の毒です、心を弘誓の仏地にたててはおられないのですから。

>>772
対機説法と言われますが、他人の宿善の有無を、自分たちは判断できると
いうのが、あなたのご一流の教えですか?
774神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 10:21:31 ID:MkJbEe4x
「信心決定の儀式はオトリアゲと呼ばれる。 善知識に会い、「助けたまえ」と頼む
儀式が行われる。ある文献では同時に、頭を打ち付ける。これを善智識が
「よし」というまで行う。鏡で儀式の終わった後、鏡でピカピカさせて光明として
拝ませることもある。信者は内容を部外者には語ってはならない、
言えば血を吐いて死ぬと脅すことも行われる」(Wiki「隠し念仏」より)

秘事法門って怖いですね。

「生まれてまもなくの赤子に信心を与えることはオトモヅケと呼ばれる。」(同上)

こうなってくるともう、面白いですね。
信心決定は阿弥陀仏と本人だけのこと、「信心を与える」という時点で
怪しいと気づいて欲しいものですが。
信心欲しい病にかかってしまうと、当たり前のことが見えなくなるのかも。
7757:2009/01/15(木) 12:03:58 ID:VNhnWUFJ
>>773 具体的に、どのように呼び覚まされるのですか?「気付き」なら、いろいろあると思いますよ。

 自分の信心がどうして本物だと分かるのか、その質問には答えてくださらないのですか。

 誰がそれを本物だと判断するのですか。どうやって本物だと判断しているのですか。

 また、他人の宿善の有無を見極めよと仰られているのは蓮如上人ですから、私に文句を言われても困ります。
776神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 13:02:56 ID:Sc9bcmR6
別に何を信じようが、信じた事でその人が幸せに感じていれば良いのではないでしょうか?
秘事法門は、色々とありますね。
布団に包まされて上から馬乗りにされ、行者はあまりの苦しさに
見えもしない光明を『光明が見えた!』と苦し紛れに叫ぶという話も聞いたことがあります。
机に頭を打ち付けさせられて、あまりの痛さで目に火花が走ったのを、
光明だと勘違いしている秘事法門もありますね。
私は、痛い思いも何もせず、ただ、善知識の言う事を聞いただけですけれど。
話を聞いたんじゃないところがミソですよ。
分かる人には、とても分かる言葉だと思いますがね。
777神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 13:03:47 ID:Sc9bcmR6
別に何を信じようが、信じた事でその人が幸せに感じていれば良いのではないでしょうか?
秘事法門は、色々とありますね。
布団に包まされて上から馬乗りにされ、行者はあまりの苦しさに
見えもしない光明を『光明が見えた!』と苦し紛れに叫ぶという話も聞いたことがあります。
机に頭を打ち付けさせられて、あまりの痛さで目に火花が走ったのを、
光明だと勘違いしている秘事法門もありますね。
私は、痛い思いも何もせず、ただ、善知識の言う事を聞いただけですけれど。
話を聞いたんじゃないところがミソですよ。
分かる人には、とても分かる言葉だと思いますがね。
7787:2009/01/15(木) 13:26:53 ID:VNhnWUFJ
>>777 了解しました。確かにいろいろありますね。阿弥陀仏の御声を聞こうとしない自身の機がいけないなど、自分や人から機責めに遭って
   ついにある時阿弥陀仏の呼び声が聞こえたり臨死体験っぽいのをしてそれで信心決定だというような所があるとも聞いたことがあります。
   何を信じるも、それぞれの縁ですから、それで今幸せだという人の喜び。私も尊重いたします。
   もちろん例えばネズミ講詐欺などに遭っているのに一時的な喜びに留まっている人だと分かったら、それは違うよ、と忠告するでしょうけど。
   アル程度までしか真偽の分からないことについては、ある程度までのことしか言えないですから、そこから先は面々のお計らいだと思います。
779神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 15:04:24 ID:Sc9bcmR6
間違いだろうが、信じてしまっていれば、洗脳と言う事もあるし、
もしお金を注ぎ込んでしまっていたら、人間の欲は止め処が無いものなので、
信じ切ろうとしてしまう心が働いてしまう事が多々あると思います。
私は、下手な忠告は逆効果なので、
困った事があったらいつでも相談に乗るよ、とだけ言うようにしています。
いくら手を引いても縁が無ければ詮無い事でもありますし。。。
自分の信じている事で、人に迷惑をかけなければそれで良いと思いますよ。
同行とは、同じ行いをした者という事で。。。
780渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/01/15(木) 15:06:36 ID:nOko/pnQ
ぶろぐ親鸞仏教の更新をしました。
   しんらん.jp
   http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/

 信心はどのようにして得られていくのか。どのようにして極楽に往生
し、仏になっていくのか、その過程の議論を展開しています。
781神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 16:49:13 ID:MkJbEe4x
>>775
>具体的に、どのように呼び覚まされるのですか?「気付き」なら、いろいろあると思いますよ。

具体的に、というのが神秘体験を求める心だと思うんですけどね〜。
これは、神秘体験ではないです。心の耳に、阿弥陀仏の大悲召喚の
声なきお声を聞くということです。

「心得た」と思っていたことが「心得ぬ」、間違っていたと知らされること。
これがそのまま真実信心の働きです。「心得ぬと思うは心得たるなり」。
真実のない私の心と、真実の阿弥陀仏の心が一体であることで、
このような働きが起こるのです。

本物には、そういう働きがあるんですよ。真実は、真実であることを
自らの働きで明らかにするので、誰の認定も保証も要らないんです。

本当に、得られたなら、分ります。

>誰がそれを本物だと判断するのですか。どうやって本物だと判断しているのですか。

こういうことを聞くこと自体が、自力一杯であることの証明のようなものなんですが。
一つ確認させてください、7さんたちにとっては、人から認定してもらわないと
いけない信心は、本物なんでしょうか?

782神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 17:01:50 ID:MkJbEe4x

>>776
>別に何を信じようが、信じた事でその人が幸せに感じていれば良いのではないでしょうか?

そうですね、私もそちらの「一流」のことは、信じて幸せなら放っておけば
良いかと思うこともあります。
ただそれは、浄土真宗の真実信心とは、客観的に見ても(儀式でもらう
信心であること、善知識頼みであることなど)違うものなので、
秘事法門であり異安心ですよ、と言っています。

>私は、痛い思いも何もせず、ただ、善知識の言う事を聞いただけですけれど。

ただ、善知識の言うとおりの儀式をしただけなんですね。
阿弥陀仏に帰命したのではなく、善知識に帰命した、と。

洗脳ってホントに怖いですね。
7837:2009/01/15(木) 17:26:15 ID:rRp2hSFF
>>779同意です。

>>781 具体的にが神秘体験であるといいながら、「心の耳に〜」などと具体的に書くのはどうなんでしょう。「声なき声」は抽象的だから具体的ではないと??
    本物は誰の認定も保証もいらないということは同意です。そこは徹底的に考えて、自分も含めてなのです。ただ阿弥陀仏のみがご存知だと思うのです。
    全く何も分からないとは、私も思いません。多々、日々、分からせていただくことがありますけれど、自分の心などあてにはなりませんので、それをもって
    自分は本物を得たなどという主張をしたくないのです。

    人から認定してもらわないといけない信心ではないのは、当然です。そして、自分もその人の一人であります。

    「得たなら本物と分かる」それが事実だと仮定しても、「思い込み」とどうやって区別するのですか。「思い込み」が死ぬまで続くかも知れません。
    あなたは、ご自身の内なる声(それを阿弥陀仏の声なき声と呼んでいらっしゃるのですね)を「疑いなく信じる」状態に至って、
    自分の得た真実は本物である、誰の認定も必要ない(お聖教の根拠すら必要ない?)という結論に至っていらっしゃるのですね。
    しかし、阿弥陀仏のお姿が見えようが、声無きお声が聞こえようが、神秘で無い体験をしようが、疑ってかかるべきではありませんか。

    本物だと分かるから本物なんだ、そう仰っておられるだけですから、読んでいるほうとしては困惑いたします。
784神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 18:36:50 ID:MkJbEe4x
いっそ、「私、秘事法門の異安心ですけど、とっても幸せなんです。
皆さんもいかがですか?秘事法門の異安心ですけど」って言うほうが、
よっぽど好感持てるのにな〜と思います。

>>783
お答えありがとうございます。
つまり、「善知識」から「これであなたは信心得たのです」と認定されて
得たことになった信心は、本物ではないと言うことですね。

>自分の心などあてにはなりませんので、

自分の心もあてにならないのに、善知識の言うことと、儀式はあてにするんですか?

>「得たなら本物と分かる」それが事実だと仮定しても、「思い込み」とどうやって区別するのですか。「思い込み」が死ぬまで続くかも知れません。

前にも、そんなようなことを書いていた方がおられましたね。
あなた方の「一流」の共通の悩み事なのでしょうか。
どうも不可知論に陥って、考えることを放棄させられているように見えます。

>疑ってかかるべきではありませんか。

そう思われるなら、疑えるだけ疑えば良いではないですか。
儀式を済ませたから大丈夫だなどと、自分をごまかさずに。
785神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 19:31:23 ID:H3z4WvFG
>>776
> 別に何を信じようが、信じた事でその人が幸せに感じていれば良いのではないでしょうか?

大麻で逮捕された学生の、誰にも迷惑を掛けていなのだから不当逮捕だとの主張に、なんと答える?
韓国や中国製の偽ブランドバックをウン十万で買った持ち主が本物だと信じて喜んでいればそれでいいのか?
私は違うと思う。
786神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 22:08:06 ID:MkJbEe4x
せっかくのスレッドなので、鈴木大拙さんの「妙好人」から、能登の栃平ふじという方の
言葉をご紹介しますね。

「一.出られぬ姿で出さしていただきます。
二.法蔵菩薩の御苦労は今日この場でございます。
三.とても助からん身で有り難いことです。
四.(お茶を飲みながら)このお茶の中に三千世界がこもっております。
五.白と黒との区別は誰でも判りますが、白と白との区別はなかなか解らないものです。
六.石ころ一つに、草の葉一本に、御慈悲がいただけます。有り難いことです。
七.信の一念のところは、あるともいえません。ないともいえません。
八.信を戴かれた人には肉眼でない眼が働くものです。」

私は特に二と五などに、深いなあ…と心打たれます。
787729:2009/01/15(木) 23:52:44 ID:DsOAWDNa
>>786
私もこの本持ってます
もう5年以上前なので内容は覚えていません
ということで、>>786を初見の感覚で改めて読んだのですが
五.だけ分りませんでした
ID:MkJbEe4xさんは、どのように心打たれましたか?
よろしければ、お聞かせください
7887:2009/01/16(金) 00:44:55 ID:noXB9V2U
好感度はもちろん気になりますし、一喜一憂しています。ただ、自分の信心が秘事法門であるという根拠がないですし、
異安心であるという根拠もありません。自分の信心が本物かどうかは、お聖教によって確認していく他はないと思います。

秘事法門には数多くの種類があります。あなたとよく似たことを仰る一派もあるようです。当然、私の言うこととそっくりな流れもあるでしょう。
何故なら、偽物は本物に似せてあるから似せ物、偽物なのです。もちろん、似ても似つかぬ物もあるでしょうけれど。
傍迷惑な話ですけれど、あなたが今ここを読んでいる全ての人にご自分の信心が本物であることを証明できないように、
私も誤解されたとしても仕方の無い話です。
789神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 00:52:03 ID:D2iUS+BC
秘事法門よりも怪しい渡海教

 343 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2009/01/13(火) 11:15:02 ID:R9W9xUFx
>>341
>フリートークが難しそうですね。ゆるいテーマをもうけて、進行役みたいな人をつくって、自由に発言
する、みたいな感じでしょうか。
 浄土真宗は、分からなくなったらまず先人の記録の中に知恵を求め、先人の知恵を批判的にたたき
台に使わせて貰って新たな世界を切り開くというのが順序です。
 先人の知恵を鵜呑みにすることはいけませんが、先人の知恵を無視するのは非常にもったいないこ
とです。
 愚者三人に智者一人とて、何事も談合すれば、面白きことあるぞと、前々住上人、前住上人へ御申
し候う。是また、仏法の方には、いよいよ肝要の御金言なりと云々
 人は四人も集まれば、仮にその中で三人は愚者であっても、一人ぐらいは智者がいる。どのようなこ
とでも、話し合ってみるといいだろう。きっと面白いことが起きるだろう。蓮如は実如にそのように話した。
これは、仏法においては最も大事な言葉である。
 原則としてテーマは設けない方がいいでしょう。しかし、テーマを設けないと話ができない。テーマを
持った方が話しやすい。そういうことであれば、テーマを設けるのもいいかもしれません。しかし、テー
マは特に無い方が、究極的には形式張らずに自然になると思います。

 仰せに、身を捨てて、平坐にて、みな同坐するは、聖人の仰せに、四海の信心の人は、皆兄弟と、仰
せられたれば、我も、その御言葉の如くなり。また、同座をもしてあらば、不審なる事をも問えかし、信
をよく取れかしと、願うばかりなりと、仰せられ候なり。

 壇を設けず同じ平面で車座になり、相手の顔を見ながら話せるといいと思います。足が悪いと座りに
くいという場合には、いすを使うのもいいでしょう。

 蓮如上人、順誓に対し、仰せられ候う。法敬と我とは兄弟よと、仰せられ候う。法敬、申され候う。是
は、冥加もなき御事と、申され候う。蓮如上人、仰せられ候う。信をえつれば、さきに生まるる者は兄、
後に生まるる者は弟よ。法敬とは兄弟よと、仰せられ候う。仏恩を一同にうれば、信心一致のうえは、
四海、みな兄弟と、いえり。

790神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 00:52:34 ID:D2iUS+BC
344 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2009/01/13(火) 11:16:29 ID:R9W9xUFx
 蓮如上人は順誓に対して仰った。法敬と自分とは兄弟であると。そのとき法敬は言った。これ
は思いもかけなかった光栄なことです、と。蓮如は言った。信心を得れば、先に信心を得た者が
兄、後に信心を得た者が弟である。だから法敬と自分とは兄弟である。仏恩を同じように受け、
信心が一致すれば、あらゆる人が、皆兄弟である。

 前々住上人、御法談已後、仰せられ候う。四五人の御兄弟へ仰せられ候う。四五人の衆、寄
り合い談合せよ。必ず、五人は五人ながら、意巧にきく物なり。能く能く談合すべきの由、仰せ
られ候う。

 蓮如上人は、法談が終わってから、そこに集まっていた四、五人の門徒の方に仰っていた。
四、五人の方々、グループを作ってお話し合い下さい。五人いれば、五人の方皆さん、真剣に
相手の話を聞き、心を割ってお話し合い下さい。そのように仰った。

 たとい、なき事なりとも、人、申し候わば、当座に領掌すべし。当座に詞を返せば、ふたたび
いわざるなり。人のいう事をば、ただ、ふかく用心すべきなり。是に付きて、ある人、相たがい
に、あしき事を申すべしと、契約候いし処に、すなわち、一人の、あしきさまなること申しければ、
さように存じつれども、人の申すあいだ、さように候うと、申す。此の返答あしき、との事に候う。
さなきことなりとも、当座は、さぞと、申すべき事なり。

 仮に賛成できないようなことでも、相手が何か言えば、まず最初は相手の心、思いに共感し
てみてください。瞬間的に反論の言葉を返すと、その方はその後、黙ってしまうでしょう。相手
が言ったことは、十分に注意して聞いて下さい。例えば、こんな話があります。
 ある人が、「お互いに悪いこともどんどん自由に言い合おう」、そのように提案し、皆の賛成
を得、そのような話が始まりました。その中の一人が相手の欠点を言い出しました。すると相
手は、「仮に貴方が言うようにそうだとしても、結局人が言っていることではないか。そうでしょ
う」と反論しました。このような対応はうまくない。そのように蓮如上人は仰った。仮に、自分は
違うと思っても、瞬間的には「そうですね」と、相手の思いにまず共感してみてください。
791神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 00:53:28 ID:D2iUS+BC
345 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2009/01/13(火) 11:19:55 ID:R9W9xUFx
 無駄話で終わらせないフリートークは確かに難しいかもしれません。僕は、五会念仏をやっている坊さん
に、是非、カウンセリング心理学を勉強するように言っています。
 蓮如の考えていた談合は、アメリカの心理学者カール・ロジャーズ博士が提案した非指示的療法という手
法に酷似していると考えています。特に僕は、ロジャーズ博士が後期になって提案したエンカウンターグル
ープが非常に参考になると考えています。
 エンカウンターグループは、僕がかつて勉強していたころと恐らくだいぶ変わり、最近はかなり技巧的に
なっているのではないかと想像します。それを考えると、五会念仏とエンカウンターグループとを結びつけ
るということ自体が非常に技巧的ですから、エンカウンターグループだけはできるだけ複雑な技巧を使わ
ない原始的でシンプルなものがいいと思います。
 談合は、単純に車座になり、自己紹介をしたら自由な話を始めるといいでしょう。ただそのとき、五人から
十人に一人程度は、カウンセリングの心得のある人が含まれていることが望ましいと思います。

 カウンセリングの心得のある人の役割は、最後の聞き役です。聞き役ももちろん自由に話すのですが、全
員が勝手なことを言うだけで、相手の話を聞く人がいなくなった場合、聞き役は、自分だけはどんなことがあ
っても相手の話を聞く聞き役になるぞと、そのように決意しているひとです。最後の聞き役がいるかいないか
で、フリートーキングが単なる無駄話の集まりになるか、意味のある心の向上になるか、大きく違ってきます。

 一月二五日に新宿で新年会を予定しています。五会念仏は四百年の眠りから覚め、社会で既に動き出し
ています。五会念仏に共感してくれてグループを作り、盛んに念仏研修をしているひとも、新宿に来るようで
す。
 もしよかったら、あなたもいらっしゃいませんか。お寺での念仏研修はどのようにされているのか、現実の話
が聞けるでしょう。  
792神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 00:54:13 ID:D2iUS+BC
真実の渡海の姿

 606 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2008/12/25(木) 16:07:31 ID:a4yDmwCD
>>604
渡海を精神秒呼ばわりすることは、精神病患者への差別です。

渡海は善良な精神病患者とは比べものにならない最悪の下劣な奴です。

607 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2008/12/25(木) 16:51:35 ID:5fsit5Cx
>>606
> 渡海は善良な精神病患者とは比べものにならない最悪の下劣な奴です。

 あなたの発言は不法行為(民法709条)の不法行為に当たると思うんですよ。
一度、裁判所でゆっくりお会いしましょうか?。

 損害賠償金の支払いをお願いをすることはないと思いますが、貴方の住所・氏
名・職業を公開して、2ちゃんねるの宗教板に、公式に謝罪文を掲載させて貰うと
いうお願いをするようになるかもしれませんね。

 実際には、裁判所の許可を貰い、貴方の名前で、渡海難が渡海難宛に書くので
すが、確定判決後ですから、法的・社会的には、貴方が僕に実名で謝罪したこと
になります。

 これを強制執行と言います。 ひとつ、考えてみましょう。


 
7937:2009/01/16(金) 01:07:07 ID:noXB9V2U
あてにすべきは、あくまでも阿弥陀仏。弥陀たのめ、と何度も教えられてはいませんか?善知識はあくまでも弥陀の代官だと聞いております。

また、人間が思い込みや幻覚と本物を区別出来ない存在であることは、悩みではなく事実に過ぎないと思います。
人間が人間である限りは、疑煩悩も消えないですよね?ところがそれが障りとならないから、無碍の一道なんですけれど。
無碍の一道に出させていただくお力が、真実信心、南无阿彌陀佛にはあるのですけれど、煩悩の厚い雲に覆われております。

おそらく、あなた様のご同行さまの中には、誰かが信心決定しました、弥陀に救われました、と皆に告白するひとがあっても、
しばらく、例えば一年とか、様子をみたり、大丈夫だと思っていた人がある日「違っていた」と求道を再開したりすることがありませんか?
また、救われていない人を、真剣に仏法を聞き求めていないからだ、と責めたりしてはいないでしょうか。
そういう異安心があると聞いたこともありますので、心配しております。
794神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 12:52:43 ID:gNYEJvNc
>>788
>ただ、自分の信心が秘事法門であるという根拠がないですし、 異安心であるという根拠もありません。

根拠はありますよ。儀式でもらう信心であること、善知識に認定される信心であること、
赤ん坊にも信心を「授ける」というのも、秘事法門の特徴と思います。

>自分の信心が本物かどうかは、お聖教によって確認していく他はないと思います。

ええと、>>783

>人から認定してもらわないといけない信心ではないのは、当然です。そして、自分もその人の一人であります。

と名言されましたので、>>784

>つまり、「善知識」から「これであなたは信心得たのです」と認定されて
>得たことになった信心は、本物ではないと言うことですね。

と書きました。なぜこの部分を無視して、「本物かどうかは、お聖教によって
確認していく他はない」となるのか、教えて頂けますか。
795神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 12:54:26 ID:gNYEJvNc
>>793
>また、人間が思い込みや幻覚と本物を区別出来ない存在であることは、悩みではなく事実に過ぎないと思います。

これって結局、信仰のあきらめの表明なんですよ。
自力で他力を理解しようとすれば、結局、そこに留まらざるを得ないと思います。
他力信心には、そういう人間の思考の堂々巡りというか硬直を、洗い流すというか、
溶かす力があるんです。

>そういう異安心があると聞いたこともありますので、心配しております。

阿弥陀仏と本人の間のことですので、「様子をみる」とか、責める、とかいうことは
ありませんね。
阿弥陀仏に会えた、と言う人がいれば共に喜びますし、
阿弥陀仏のことをもっと知りたいと、求道を再会する人があればやはり共に
喜びますし、お慈悲がわからないと悩む人があれば、一緒に悩んで話をします。

共に喜ぶし、共に悩む、それだけのことです。ただ7さんたちのように、
儀式で信心得ましたという人がいれば、それは違いますよ、とお伝えします。
796神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 13:21:06 ID:33tFRJpC
>>785
問題をすり替えてませんか?
麻薬や覚せい剤は、人に迷惑をかけないとお思いですか?
宗教だって、詐欺だって、金儲けの手段にしている輩からしたら、騙すという立場に変わりは無いと思いますよ。
偽ブランドを本物だと信じて人に売ってしまう人だって居る訳だし、金儲けの為に、人を騙してお金を取る人間だって居るし、
人間には、欲という物があるのだから、騙すも騙されるも、信じるも信じないも
その人の思いひとつだと思いますがね。
善知識は、弥陀の代官ですよね。
だからと言って、善知識だと名乗る人間が、
『私は、弥陀の代官だ。私の言葉は弥陀の言葉だ!』
なぁんて言ったらお終いだと思いますがね。
偽者を本物だと思い込んでも、その人が満足していればいいじゃない。
結局、宗教や倫理に、何が正しいかなんて基準は無い訳だし、御文には、社会の通念を大切に、
世の中で決められたルールを守って生活をするようにと書かれている訳だし。
真剣に仏法を聞くって、私には、到底出来ない。
阿弥陀仏をたのむ事、頼りにする事、縋る事が必要であって、信じる事は必要ないものだと思います。
信じる心は、後から附いて来るものですよ。
信心とは、真の心と読むんだそうです。
弥陀を信じろなんて誰も言ってやしない。
弥陀をたのめとしか言っていない。
善知識から、南無阿弥陀仏が何であるか教えて頂いたからこそ、信じる心が芽生えるものです。
信心決定という言葉が近年、独り歩きをしてしまっている様に感じます。
信心決定が、とても特別なものに思われてしまっているのは、どうかと思います。
797神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 13:44:50 ID:gNYEJvNc
>>787
「五.白と黒との区別は誰でも判りますが、白と白との区別はなかなか解らないものです。 」

これは私も、よくわからないというのが正直なところです。
ただ、「信じる」と「信ぜしめられる」の水際なのかも…と思います。
自力と他力、「たのむ」と「たのみになる」との違いと言いましょうか。
他力を知るとは、白の外に広がる白を知るようなものなのかなあ、と。

他の方の感想もお聞きしてみたいものです。
798神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 13:53:08 ID:gNYEJvNc
>>796
偽物を本物と言い紛らわす人が、どんな風に迷惑かといえば、ブランド品の偽物を
(たとえその人はそう信じて幸せだったとしても)これ本物なのよ、と言って他人に
見せたとします。そして見せられた人が、なんだ、大したこと無いなと思ったとします。
これは、そのブランドを傷付けることになるわけですよ。

ブランドというのは、質の良いものを作り人を喜ばせようと努力した、職人さんの
誠意の結晶と言っていいと思います。
その誠意を、偽ブランド品はめちゃくちゃにしてしまうんですよね。

>信心決定が、とても特別なものに思われてしまっているのは、どうかと思います。

これって、偽物を本物と言って見せられた人が、「ブランド品といっても特別じゃないよ、
100円ショップでも売ってるよ」、というようなものなんですよ。
799神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 14:58:34 ID:syRzC3zL
>>798
で、君は真実のブランドを持ってると思ってるわけだ。
そう思い込んでるだけとも知らずに。
真実のブランド持ってるって思ってる自体が既に偽物だと気が付くまでに
もう十劫くらい時間が必要かも。
800神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 15:50:52 ID:gNYEJvNc
>>799
いつも間違い通しの私だと、気づかせていただいております。
十劫も兆歳永劫も、阿弥陀様とご一緒なら楽しい道行ですね。
有り難いことです。

ところで、偽物を本物と言い紛らわすことの弊害は、判っていただけたでしょうか?
801729:2009/01/16(金) 19:06:50 ID:sh67oOyD
>>797
レスありがとうございます
こうして2つの「白」が定義されると、栃平さんが言いたかった(かもしれない)ことが推測できます
原文のままでは、何を言いたいのやら、さっぱり?って感じです

私は、ID:gNYEJvNcさんが「自力の源は他力だ」と仰っているんじゃないかと思いました
そうすると、根っこは他力(仏力)だから、自力も他力によって作り出されたもの
それならば、どっちも「白」ってことですね
ホントは、自力も他力もない全他力ってことで

しかし、自分の業に意識が向いて他力をたのみとしていない時は
白(自力)の外に広がる白(他力)に気付いていない
それを栃平さんが
> 白と白との区別はなかなか解らない
と表現されている
このようにID:gNYEJvNcさんは解釈されたのかな?って思いました
802神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 21:27:02 ID:pkrsr+v9
>>797
初地以上の菩薩である聖者の積む善

阿弥陀仏が一切衆生に回向されている善

両者とも白
ただし前者すら聖者でなければ修められない
803神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 21:39:36 ID:gNYEJvNc
>>801
ありがとうございます。
概ね、書かれたとおりと思います。ただ、「自力の源は他力」というのは少し違うかも…。

少し、「妙好人」(鈴木大拙さん・ただしこの部分は楠恭さんという方が書かれたようです)
から抜粋してみますね。

「どうにもならぬ自分というとき、同時にはやすでにそこにそのどうにもならぬ自分を
眺めているもの、外に立ってそれを見ているもの、即ちその苦しむ自分を
超えているものがある。そうしてこれあるがために、どうにもならぬ自分はそのまま、
直ちに自己を超えている。即ち救われている。ここに弥陀の本願の働きが実感せられる。」

このように分析的に書かれると、何か違うもののように感じられてしまうんですけどね。
多分、頭で理解するのは簡単なのですが、実感として感じられるかどうかが
大切なのだと思います。
この栃平さんという方のお手紙の一部を書きだしてみます。

「わたしは五よくの世かいに、まよわせてもらいながら、ああ五よくがあればこそ、
転じかわらせてもらいるのです。ああありがたや、なむあみだぶつ。してみれば、
仏だね(種)とわ、どこにあるのですと、さがしてみましたら、よそになかった、
この私のあくだねでありました。」
804神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 21:52:40 ID:gNYEJvNc
>>801
>しかし、自分の業に意識が向いて他力をたのみとしていない時は
>白(自力)の外に広がる白(他力)に気付いていない

これを読んで、次のお言葉を思い出しました。

「この如来、微塵世界にみちみちてまします、即ち一切群生海の心にみちたまへるなり。
『草木国土ことごとくみな成仏す』と説けり。この一切有情の心に方便法身の誓願を
信楽するが故に、この信心すなはち仏性なり、この仏性すなはち法性なり、
法性すなはち法身なり。」(唯信抄文意)

>>802
なるほど、そういう味わい方もあるんですね。
でもすみません、よくわかりませんでした…もう少し詳しく教えて頂けますでしょうか?
8057:2009/01/17(土) 01:21:29 ID:x1ki09sr
>>794 秘事法門で検索すれば、世にはいろんな儀式があるようですね。
    儀式で信心をもらうのが秘事法門なんですね。
    私はそのような信心を知らないです。たのむ一念の時阿弥陀仏から頂くのが信心だと思っています。
   
    あなた方の信じる阿弥陀仏は、赤ん坊には力及ばずなのですね。本願に矛盾すると思います。
    男女老少を選ばず。なぜお聖教を無視されるのか、残念に思います。
8067:2009/01/17(土) 01:41:51 ID:x1ki09sr
後半の質問部分ですが、「何故お聖教によって確認するんだ?」ということですね。

「人から認定してもらう必要はないんですよ。それどころか自分自身で認定する必要もありません。」という意味の話を書きました。
そう書くと、あなたが主張する「本物だと分かるから本物なんだ」という意味で受け止めてしまうのでしょう。
そう受け止めてしまうと、「何故お聖教によって確認が必要なんだ?」と疑問に思われるのでしょうね。

お聖教によって本物かどうか確認していくことが出来ない信心があったとしたら、お聖教と矛盾する信心があったとしたら、
それは偽物かも知れないからです。

「本物だと分かるから本物なんだ」という主張だけでは、説得力が無いのです。
お聖教に根拠がなければ浄土真宗ではなくなってしまうでしょ?私が問題とするのはそこです。
807神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 08:10:49 ID:RAm39DxT
>>805
>たのむ一念の時阿弥陀仏から頂くのが信心だと思っています。

言葉の上ではお聖教のとおりですね。でも中身が肝心です。
善知識に、弥陀たのむ方法を教わり、指示通りのことをして、「たのむ」。
そして善知識に、これで信心授かったのですよと言われて信心決定したことになる。
これを儀式と言います。

>あなた方の信じる阿弥陀仏は、赤ん坊には力及ばずなのですね。

上に書いたような儀式で、赤ん坊に信心を「授ける」ことが問題なんですよ。

>>806
>後半の質問部分ですが、「何故お聖教によって確認するんだ?」ということですね。

いいえ。>>784で、
>つまり、「善知識」から「これであなたは信心得たのです」と認定されて
>得たことになった信心は、本物ではないと言うことですね。

と書いたとおりです。7さんが信心を「頂いた」時のことを考えてみてくださいね。

>お聖教によって本物かどうか確認していくことが出来ない信心があったとしたら、
>お聖教と矛盾する信心があったとしたら、 それは偽物かも知れないからです。

ということは、赤ちゃんはお聖教をまだ読めませんから、本物かどうか
確認できないわけですね。
あなた方の一流では、赤ちゃんが信心決定したと、どうやって判断されるのですか?
808神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 08:43:54 ID:CFqyiysd
お聖典を読めば、蓮如上人が、宿善の無い者には、一切を隠していた事が明らかです。
それに、信心を得た者には、この方を知らない者には、死んでも教えてはならないと口止めもしていますよ。
蓮如上人も秘事法門って訳だ。。。
老若男女という言葉の中には、生まれたての赤ん坊も死にかけている者も含まれていますが、赤ちゃんが含まれないとしたら、一切衆生を救うという阿弥陀様の誓い自体、否定してしまう事になりませんか?
知恵の無い者も救うと言う事は、どう説明するのでしょうか?
赤ん坊は喋れないし、知恵もありませんよね?
人間が勝手に区別しているだけでしょう?
信心を得たかどうかって、人間が判断するものではなく、阿弥陀様が判断する事でしょう。
所詮、人間の浅知恵なんて一番不確かなものだと思います。
阿弥陀仏にすべてをお任せできるか否かが問題であって、知る必要は無いのが、この教えです。
自我の心に囚われている内は、弥陀をたのむ事は困難なものなのかも知れないですね。
善知識は、弥陀にどうたのんだら良いのかを懇切丁寧に教えるだけですがね。
極楽に往く為の他人任せで行う修行が、南無阿弥陀仏の念仏の修行です。
自力も他力も修行するものです。
自力の修行を選ぶか、他力の修行を選ぶかの違いです。
他力の行は、阿弥陀仏の功徳をそのまま、丸貰い。
だから簡単なんですよ。
阿弥陀仏の編み出した行には、落ち度が無いという事です。
809神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 09:13:50 ID:RAm39DxT
>>808
>お聖典を読めば、蓮如上人が、宿善の無い者には、一切を隠していた事が明らかです。

この読み方がすでに歪んでいるのですけどね。>>769の通りです。
今の日本のように、宗教の自由と安全が曲がりなりにも保証された状態では、
隠す必要も無いんですよ。どうぞ安心して明らかにして下さい。

>善知識は、弥陀にどうたのんだら良いのかを懇切丁寧に教えるだけですがね。

「そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、
ひとをすすむべきばかりなり。」

蓮如上人のお言葉と、あなたの言うことには決定的な違いが有りますが、
わかりますか?

>老若男女という言葉の中には、生まれたての赤ん坊も死にかけている者も
>含まれていますが、赤ちゃんが含まれないとしたら、一切衆生を救うという
>阿弥陀様の誓い自体、否定してしまう事になりませんか?
>知恵の無い者も救うと言う事は、どう説明するのでしょうか?

問題のすり替えですね。
もう一度聞きますけど、あなた方の一流では、赤ちゃんが信心決定したと、
どうやって判断されるのですか?

>所詮、人間の浅知恵なんて一番不確かなものだと思います。

これが、あなたの一流の教えなんですね。
だから考えることを放棄して、「100発100中、信心決定させられる善知識」をたよりにし、
その言うことを聞いて自分が「弥陀をたのんだ」という体験・儀式に縋るわけですか?
8107:2009/01/17(土) 09:25:58 ID:MBoQSJKl
 「善知識に、弥陀たのむ方法を教わり、指示通りのことをして、「たのむ」。」これを儀式だといわれるのですね。
 そうすると、あなたは、善智識に、弥陀にどうしたら救われるか、聞いたことは一度も無いのですか。善智識の言われることに従わず、
 全て否定して、ついに信心決定したのでしょうか。
 善智識や同行に囲まれて、自分の信仰の現状を告白して、皆に詰められて、その時に、あるいはその後に、信心決定したり出来なかったりする儀式はどうなんですか。
 
8117:2009/01/17(土) 09:32:21 ID:MBoQSJKl
 また、あなたのような信心を得るには、知恵才覚が必要だということですね。読解力や思考力、記憶力、観察力、いろんな力を必要としていらっしゃるようです。
 認知症のご老人、生まれたばかりの赤ん坊は救えないと、断言されるのですね。
 御文章と矛盾しませんか?知恵才覚もいらず、と言われている言葉を、そのまま受け止めることが出来ないのですね。
812神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 09:33:49 ID:RAm39DxT
「思い込みでもいいや、どうせ人間の判断力なんてたいしたものじゃないんだから…」

これは信仰のあきらめです。ここの壁を破れるかどうかが、難中の難を
突破できるかどうかの変わり目なんです。
思い込みでないことは阿弥陀様と三世諸仏が証明してくださるんです。
善知識でもなく、体験でもなく。

そこまで聞き抜かず、「心得たり」と思っている…7さんたちの一流も
そうなんでしょうけど、悲しいことですね。
8137:2009/01/17(土) 09:36:31 ID:MBoQSJKl
 確認作業など、救いの条件ではないですし。信心決定した直後に寿命が来て、死ぬ方はどう確認したらいいのですか。時間などありません。
 赤ちゃんが信心決定したかどうかは、阿弥陀仏にしか分かりませんよ。それでも弥陀をたのめば0歳児だって御同行です。
814神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 09:40:31 ID:RAm39DxT
>>810
「弥陀にどうしたら救われるか」聞いたことはありませんよ。
「どうしたら」は自力です。
自力の方法を教わって、他力に救われると言うことはありません。

>全て否定して、
極論ですね。一心一向に弥陀をたのみたてまつるべし、のお言葉の通りになった
(「した」ではありません)。否定はしておりません。

>善智識や同行に囲まれて、自分の信仰の現状を告白して、皆に詰められて、

どうなんでしょうね。そういう「儀式」に出合ったことが無いので知りません。
信心の沙汰は、蓮如上人が勧められていることですし、7さんも否定はされないですよね?

>>811
断言していませんよ。>>809を読んでくださいね。
しばらくレスできませんが、ごめんなさいね。
8157:2009/01/17(土) 09:53:25 ID:MBoQSJKl
>>812 思い込みでいい、そんな主張をしたことはないですから、それこそ思い込みが激しいと思いますよ。
    「聞き抜く」という言葉がお好きなのですね。壁を破る力をお持ちの方が、救われる教えなのですね。
    どうも他力から離れてしまっているような。あなたの救いが、思い込みで無ければいいのですが。
8167:2009/01/17(土) 09:59:44 ID:MBoQSJKl
 >>814 「どうしたら」は自力であると聞いたものだから、全ての「どうしたら」を否定しないといけないようですね。
   自力は自力では絶対捨てられないのですから、どうしたら「どうしたら」を捨てられるだろう、という無限パターンの苦しみにハマルだけです。
   そこでとことん追い詰められて、精神的限界から突然新しい心境に総転移することがあるかも知れませんけれど、それが信心だと思い込みがちです。
817神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 13:38:05 ID:CFqyiysd
真剣に聞く事が必要だったら、救われる範囲が限られてしまいますね。
「聞き抜く」には、どういう事をしたら良いのでしょうか?
理解するだけの能力が無いと、どんなに救われたいと思っても無理という事になりますね。
知恵が要らないという事は、物事を理解する能力が無い人と取れます。
人間真剣になんて無理なんですよ。
こちらから、何もしない事、阿弥陀様に身も心も委ねる事が出来れば、あとは、何もいらないはずです。
自分で行動を起こすこと自体が、自力ですよ。
自分は何もしない事が肝心なんです。
仏法は、赤子になりて聞けと言われていますよ。
浄土真宗の教えは、知りそうも無い人に相尋ねよと言われています。
宿善のある人には、とても開かれた教えですけど。
浄土真宗は、どんなに知恵才覚があろうと、馬鹿に徹する事が一番だと思います。
浄土真宗は、理解しようと思えば思う程、教えから遠のいてしまうと思います。
赤子に聞けっこないと決め付けているうちは、到底弥陀の慈悲がどれほど深いか感じる事は出来ないと思います。
赤子でも聞ける教えとは、いかなるものか?
儀式なんてしていませんよ。
阿弥陀仏に帰命しただけですから。
818神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 13:43:28 ID:wU3yiOkU
蓮如上人は獲信者?それとも相承の口伝を受け継いだ善知識?
819神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 13:46:11 ID:wU3yiOkU
>>630
これは気になる。誰か答えられる人いないの?
820神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 13:52:51 ID:wU3yiOkU
善知識が宿善・無宿善を見分けることが出来るという。
善知識は普通の人間とは違う特別な能力を得るのでしょうか?
821神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 14:08:00 ID:CFqyiysd
>>818
獲信者であり、次第相承の面授、口授口伝を受け継いだ、真の善知識ではないのですか?
善知識が宿善の有無を見分ける訳ではありません。
阿弥陀仏以外に誰が見分けられるというのでしょうか?
822神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 14:10:31 ID:wU3yiOkU
宿善のないもの(生涯善知識にたどり着けなかった者)はどうなるのですか?
無間地獄ですか。
823神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 14:17:04 ID:7eRrTiAt
>>822
今から善業を積めばよいのです。
824神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 14:20:15 ID:wU3yiOkU
蓮如上人が善知識に遭うために善業をせよ、と
おすすめくださったわけですね?
825神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 14:25:09 ID:pokdclIE
>>804
A 二巻鈔 註釈版P537
「白道四五寸」といふは、「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。

B 本典 註釈版P243
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」(散善義)といふは、
白道とは、白の言は黒に対するなり。
白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。

>白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
>白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり
826神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 14:34:08 ID:7eRrTiAt
>>824
善業するのは善智識に遭うためじゃないですよ。
まあとにかく善業すればよいのです。
827神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 17:15:33 ID:gR546rbQ
ここではよく儀式と書かれてるが、三業派のことやろ。
s会あたりじゃ土蔵秘事と一緒やちゅうていうてはるようやね。
江戸期に異安心とされたが、主張の全部が否定されたのとはちとちゃうねん。
あれやろ。論註さんに書かれてはるように帰命とは礼拝やねんってとこあたりやね。
儀式ちゅうよりは行信の行の問題やね。
ま、これがあったばっかりにうちら本山は無帰命安心に陥りそうになったんやけどな。
828神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 17:29:54 ID:RAm39DxT
>>815
それは失礼しました。

>>816
自力でない「どうしたら」があると仰っているように見えますが、それでよろしいですか?

>>817
ずいぶん無気力な内容に見えますね。
ちなみに、817さんは、「赤ん坊に信心を『授ける』ことができる善知識」は存在する
と思いますか?私は存在しないと思いますけど。

7さんたちの善知識は、「弥陀にどうしたら救われるか」を教えてくださるそうですが、
教えられたことができない人がいたら、どうなるんでしょうね。
「能力が無いと、どんなに救われたいと思っても無理」ということになりますけど。

7さんと817さんの聞いておられる教えは、違うのでしょうか。
 7さん ⇒ 善知識にどうしたら救われるかを聞いてその通りにする。
 817さん ⇒ 自分は何もしない事が肝心。
829神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 17:50:25 ID:RAm39DxT
>>825
ありがとうございます。すごいなあ!お聖教に説かれている通りですね。
おそらく栃平さんという方は、お聖教の細かい知識は持っておられなかったかと思います。
(本の中に、あまり字が読めず、ひたすら説教を聞くばかりだったとありますので)
でも、平易な言葉で、ずばり本質をついておられたんですね。

こうしてみると、「自力(聖者の善)の源は他力」という、>>801さんの書かれたこととも
符合してくるように思います。
8307:2009/01/17(土) 18:24:35 ID:MBoQSJKl
自力ではない「どうしたら」があるとすれば、他力ではないですか?

ちなみに私も赤ん坊に信心を授けることの出来る善智識はいないと思いますよ。赤ん坊であれ、老人であれ、青年であれ、
人に他力信心を与えることが出来るのは阿弥陀仏だけでしょう。人の力はおよびません。
阿弥陀仏は十方衆生と誓われ、蓮如上人も男女老少を選ばずと仰られている通り、阿弥陀仏のお力ゆえに赤子の獲信はあっても不思議は無いと思います。
凡夫が不退転の身になる、また浄土へ往生し仏になる、これ以上に不思議なことはないのですから。
831神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 19:55:52 ID:RAm39DxT
>>827
いろいろご存知なんですね。

>江戸期に異安心とされたが、主張の全部が否定されたのとはちとちゃうねん。

>儀式ちゅうよりは行信の行の問題やね。

このあたり、ぜひ詳しくお聞きしたいです。

>>830
確認します。「弥陀にどうしたら救われるか」とは「弥陀たのむ方法」でよろしいですか?

>ちなみに私も赤ん坊に信心を授けることの出来る善智識はいないと思いますよ。

そうですか。ひとまず同意見で良かったです。
ではもう一つ。浄土真宗は元々、老若男女を問わない救いだと言うことは
大前提として、その中でも「赤ん坊でも獲信できる」、特別な方法がある
と思われますか?
832神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 21:11:21 ID:gR546rbQ
>>831
赤ん坊のご信心のお話でっか。
これはねぇ、大事やと思うで。小児往生の論争はそれこそ大昔からあるからねぇ。
まあ、個人の領解の問題をとれば、言葉も分からんような小児にご信心の何たるかが分かろうはずもない。
となりますわなぁ。
だけど、願成就文よ〜見てみんとあかんと思うんですわ。あらゆる衆生やからね。
そもそも、世界中のすべての人がお浄土に往生でける準備は仏の方からはでけておるわけや。
そのことわりを聞くんには現在過去未来と時間差があるわけや。
法からみれば、小児だって往生でけることに疑いはないわけよ。
小児には無理やと思うんは、仏智を疑っておるちゅうことにもなるかも知れんなぁ。
そのあたりは宗祖の信巻あたりよ〜読んでみてや。
833神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 21:12:21 ID:gR546rbQ
>>831

>儀式ちゅうよりは行信の行の問題やね。

何か怪しいことしとるやないかと思うわな。本山でもそのあたりは昔から調べてたりしとるわけ。
何の根拠も持たんあっやし〜ことしとるところもあったりするから実際はごちゃごちゃやけどね。
行の一念と信の一念は一体やよね。そこんとこはよろしおまっか?
是非を凡夫が勝手に思い定めるんを信一念とは言わんのやわ。
お浄土間違いなしや。疑いの〜なった。そんなん信一念としたらあまりにお粗末やわ。独覚やから自力の域を出てへんわけや。
疑心あることなしちゅううんは、阿弥陀さんの御心は清浄で疑心がありませんわ。
そこをたのみとする以外に信一念なんかないんですわ。

でもな、ある時点でわしは阿弥陀さんの誓願をたのみとしたんで万事OK!やとなると、
一念義っちゅうもんになって、これには相続心ちゅうもんがないんや。
阿弥陀さんの誓願をたのみとする心ちゅうもんが、何で金剛心なんちゅうもんに喩えられるかっちゅうと、
それは摂取不捨のお約束があるからなんやね。ここは大事なことやと思うよ。

行の問題の件やけど、お称名は真宗ではあくまでも御恩報謝やといわれとるわけや。
けどな、信は必ず念仏を具すとあるんや。信があっても念仏せんのは栓なきことなんやて。
真実の行はあくまでも称名念仏や。これは宗祖が言われとるから間違いないやろ。
三業派の人はこの称名念仏をもっと細やかに言わはったようやで。
念仏は五念門のご修行のかたまりなわけや。やから、簡単に言うと礼・讃・作・観・廻を念仏の行としはったんよ。
37願あたりはそれをよ〜あらわしてるんちゃうかな。

ま、種々の方便でご信心を発こさせるちゅうて言われとるわけやから、
三業派の人の中にも真実信にたどりつく人もおるんかとも思いますわ。
8347:2009/01/17(土) 21:59:06 ID:x1ki09sr
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」(顕浄土真実教行証文類)

何故親鸞聖人が「信を獲ば」ではなく「行信を獲ば」と書かれたのか、とても大切なところだと思います。

「赤ん坊でも獲信できる」「特別な方法」、言い換えるならば「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」凡夫が救われる方法、
それを考え出され実現されたのが阿弥陀仏であり、その力があるのが御名号、念仏、南无阿彌陀佛ではありませんか?
念仏以外に凡夫が救われる方法とやらを私は知りません。

赤ん坊でさえ獲信出来ないような教えであれば、間違いだらけの自分、無垢さ素直さも失った自分、余分な知識を詰め込んだ自分、
ましてや救われようがないではありませんか。
835神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 22:42:59 ID:gR546rbQ
>>834
行信やね。行だけでも信だけでもない、行信なんやね。
念仏以外に救われる方法を知らんと言われるんは三業派の方でも一本芯が通ってますな。
でもな、お念仏を真実行とするんはええねん。宗祖がわざわざ行巻を書かれはったんやからな。
そこはええと思うよ。たぶんやけど、このお念仏は五念門の行として行じはるんやと思うねん。
ただな、お念仏の行だけでは往生でけへんことは確かやよ。行一念で往生するんやないんやから。
あくまでも行と信は同時やねん。時も日も隔てんと言われとるわけやから。
そこんとこが三業派の方のち〜と理解でけんところなんよ。
836神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 23:43:54 ID:gR546rbQ
>>834
小児往生の話してはるんでち〜とばかり実地のお話な。
これは機を問う教えやと絶対に不可能になるねん。あくまでも法に問わんといかんのね。
往生は一定なりと行信獲たらな、まず妻子に聞かせなあかんと祖師は言わはってる。
でもな、同時に宿善なければ力及ばずといわれてはるんや。
これは実地の問題やねん。いろんな同行さん見てると爺さん婆さんだけじゃない。小児もいてはる。
障りの多い体もろうて生まれて来られた人もいてはるわ。もう説法なんか間に合わん人もいてはるんや。
そういう人に仕方ないからお念仏しましょ。今生は残念やったけど来世で助かりましょ。だけしか説法でけんかったら真宗ちゃうねん。
それじゃ平生業成が聞いて泣きますわ。
宗祖はお浄土に往ける往相だけのお話をされておらんねん。同時に還相ちゅう廻向のお話もされてんねん。
ほな、還相ってなんや?と同行でも知らん顔の人大勢いてはるわ。
宗祖も祖師の引用でお浄土から戻ってきはって、お釈迦さんのように衆生済度でけるようになるちゅうて言われてはるわ。
そのあたりはもっと突き詰めて宗祖の教理を知らなあかんと思いますわ。
837神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 00:03:40 ID:ou8/kec8
>>832
>小児往生の論争はそれこそ大昔からあるからねぇ。

そうなんですか〜。知りませんでした。
私自身は、阿弥陀仏の本願によって0歳児でも救われることはあるだろうと思います。
ただそれは、浄土真宗の教義において本当に当たり前のことですよね。

浄土真宗の中でも、特別な流派においてのみ(特別な方法を用いてのみ)
それが確実に可能であると言う人があれば、おかしいなと思うわけです。

ぶっちゃけそれは、「隠し念仏」のWikiにある、「生まれてまもなくの赤子に
信心を与えることはオトモヅケと呼ばれる」というものに該当すると
思われるからです。

>>833
なるほど、判りやすく教えて頂きありがとうございます。異論ありません。

>>834
「浄土真宗は元々〜大前提として」の部分、よく読んでくださいね。
元々、「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」凡夫が、ご名号によって
救われる教えが、浄土真宗というものですよね(違っていたらびっくりです)。

その上で、浄土真宗の中でも、「赤ん坊でも獲信できる」「特別な方法」が
あると思われますか?とお尋ねします。

そして、そのことと7さんの言われる「弥陀たのむ方法」とは、どのように関係して
いるのでしょうか?
838神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 00:37:18 ID:zpHSu8YM
そんなことよりみなさんは江原スピリチュアルをどう思いますか?
どうやら彼はいままでのテレビおかかえインチキ霊能者とは違うようですね。

参考
第2の江原を探せ! (単行本) 出版社: 扶桑社 (2008/12/11)

空前のスピリチュアルブームのなか、肯定派は妄信し、否定派は全否定を繰り返すだけで議論が噛み合わない。

第1章 スピリチュアル検証の趣旨
第2章 江原氏が認めたカウンセラー
第3章 有名人も会いに行くカウンセラー
第4章 クチコミで薦められたカウンセラー
第5章 本やWEB上で見つけたカウンセラー
第6章 ニセモノはこう見抜け!9つのポイント
第7章 結論―スピリチュアルの世界はあるのか
839神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 00:42:25 ID:PObOWZzY
>>837
赤ん坊でも同じですよ。一心に阿弥陀様におすがりし、南無阿弥陀仏と念仏すればよいのです。
親鸞様によれば、念仏は声に出せなければ心の中で念じてもよいのです。
赤ん坊は言葉が話せませんから、心の中で阿弥陀様のお計らいにより念じるのです。
8407:2009/01/18(日) 10:11:35 ID:TLIEfav/
>>835さんへ
 
 真宗に詳しい方がみえて嬉しいです。835さんは、私を三業派と言われていますが、どこでそう判断されたか知りたく思います。
 五念門についてもお詳しいようで、ワクワクしてきました。
8417:2009/01/18(日) 10:17:35 ID:TLIEfav/
>>837さま
 wikiで真宗と秘事の違いが分かるなら、苦労しないと思います。
 おそらく三業惑乱の反動なのか、獲信に関わる全ての「行」を否定するようになった流れの方ではないかと推測します。
 自分の得た信心は絶対である、という前提でお話をされているようですから、それは結構なことですけれども。
 ただ思い込みや偏見が前提なので、祖師聖人の径術というお言葉まで怪術と読み間違えたりする人もあるのではないでしょうか。
8427:2009/01/18(日) 10:27:15 ID:TLIEfav/
 「本物だと分かるから本物なんだ」こういう結論に達する教えには、今は魅力を感じないのです。かつてはそういうものを求めました。
 佛教であるからには、真宗であるからには、教えと符合しなければならないと聞いて、全くそうだと思ったのです。
 自分から見ると教えといろいろ矛盾する信心を得ているのに、どんな指摘もかわして、高い目線から断言される方を見るにつけ、
 「そちらの信心が本当で本物ならちゃんと説得力のある話をしてくれよ」と思いますけれど、これって自分もそうなのでしょうね。
 どれだけ頭ごなしに否定されても、ホクホクと嬉しくなってくる。そんな信心を得てしまうと、聞く耳が無くなるのでしょうか。
843神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 10:29:07 ID:HIxxB9Is
江戸時代の「三業派」って秘密の口伝を受け継いだ善知識とか、
「秘密の六字のいわれ」を聞いて、信心を決定させてもらう、
そういうものなんでしょうか。
智洞は全国から来た参詣者に堂々と法話した、ということみたいですが。

それとも参詣に来た門末に片っ端から秘密のたのみ方で信心を獲させたのだろうか?
844神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 10:47:23 ID:HIxxB9Is
オモトヅケは東北の隠し念仏ですね。
東北の隠し念仏は研究者が入って調査をしています。
研究書も公刊されています。習俗化が著しいと思われます。

それよりもwikipediaのリンクにある南山大学の論文のほうが
面白いですよ。>>837
8457:2009/01/18(日) 11:19:50 ID:TLIEfav/
 信心決定を求めて、信心決定した人を探すために建ててもらったこのスレ。
 世の中にはいろんな信心があるようですけれども、いろんな人が書き込んでくださるようになってとても嬉しいです。
 皆それぞれが「これだ!」と思うところへ、ご縁のあるところへ導かれて、信心決定していくのでしょう。
 それぞれ「自分の得た信心が本物だ」と皆思っているわけです。しかし、全てがどれも本物ということは、恐らく無いのでしょう。
 全ての人が早く真実信心に辿り着けますように。
 南无阿彌陀佛
846渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/01/18(日) 14:28:35 ID:GAfoorww
>お念仏の行だけでは往生でけへんことは確かやよ。行一念で往生するんやないんやから。
あくまでも行と信は同時やねん。時も日も隔てんと言われとるわけやから。

 真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建め
に「我一心」と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり(信の巻)。

 真実の信心があるなら、その人は必ず名号を称える。名号を称えているからといって、その人は必
ずしも信心があるという話ではない。だからこそ、世親菩薩は浄土論で、信行が併せて「我一心」と仰
った。

 極楽浄土の真の入口はどこか。

 弥陀定散の念仏、これを浄土の真門と曰う、また一向専修と名づくるなり、知るべし(愚禿抄)。

 弥陀定散の念仏、これが極楽浄土の真の入口である。一向専修の念仏である。

 念仏ビギナーは行があって信がない。念仏は、信心ができるのを待って称えるものではない。信心
の無い念仏を称えることは恥ずかしいことではない。みんな最初は暗中模索で始めるんだ。信心がな
いまま努力してひたすら念仏をとなえる。そこでやがて変化が起きる。信心はきっと備わってくる。その
とき信と行と併存する(果遂せずんば、正覚を取らじ。二十願)。
847渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/01/18(日) 14:30:47 ID:GAfoorww
>>846 は、>>835へのレス。
848神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 15:50:21 ID:q+mvcjaY
>>837
隠し念仏はな、大別すれば三業派やねん。でもな、やらはってることがお聖教に根拠がないねん。
隠しと言葉が入るから何だか怪しくなるねん。土蔵秘事ちゅうもんは土蔵の中で行しはるねん。
でもな、これもお聖教の根拠がないことしはるねん。行はあくまでも称名正行しかないねん。
正統派ちゅうかの三業派さんはな、身業、意業、口業で阿弥陀さんをたのむことを行とされるねんな。
これはお聖教の五念門に根拠があるねん。あながち誤りとは言えんのよ。
ただな、大事なんは行だけではあかんねん。信が伴わんとあかんのや。
行だけやとな、善知識だのみちゅうもんに陥りやすいねん。

>>841
それは否定でけんなぁ。惑乱以降、行を無視する流れになったんは確かやねん。
お説法聴聞だけでご信心頂けるっちゅう考えになったんよ。ほなら宗祖や祖師の行論はいらん長物になるねん。
そんな聴聞道場に限って、お念仏の声が聞こえんねん。矛盾感じんのかいなぁ。と思うわ。
そやないと思うんや。あくまでも行信なんやと思うで。
8497:2009/01/18(日) 16:04:31 ID:TLIEfav/
>>848 信を伴う行でなければならない、私もそう思います。
    848さんは、信心決定されていますか。また、次第相承の善智識については、どのように理解されていますか。
850神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 18:48:57 ID:ou8/kec8
>>844
ありがとうございます。これは読んだことがあります。
多分、こういうことなんでしょうね。

「秘密主義は裏在家であることの意義を高めてくれる。秘密を伴う排他性によって裏
在家の各人は自を真理を密かに知りえた幸運な少数者とみなすことができる。さらに
秘密主義は成員数を限定することで統制力を高める。教えを隠すことで裏在家は講へ
の加入者の選出や教えの解釈にあたっていっそう強い力を発揮できる。また善知識と
指導者たちは外部とくに彼らを異端視する真宗僧侶から権威を脅かされずにすむので
ある。」
(論文より引用)

>>848
ありがとうございます。いろいろ勉強になります。

>行だけやとな、善知識だのみちゅうもんに陥りやすいねん。

本当に、そうですね。信がないと、何かを頼りにせずにいられないでしょうから。
あと、>>843についてはどう思われます?

>>845
浄土真宗には本当に、様々な異安心がありますね。
ですが、三業派や秘事法門に留まっておられる皆様も、御同朋御同行。
暖かき阿弥陀仏の御ふところに包まれし妙味、早く共に喜びあえるように
なればと念じています。
それには、昔の妙好人も言われた通り、「晴れたお慈悲を聞きゃ晴れる」、
これに尽きると思います。
851神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 18:56:54 ID:ou8/kec8
>>841
>wikiで真宗と秘事の違いが分かるなら、苦労しないと思います。

7さんは、Wikiにない判断材料で、「真宗と秘事」の違いを判っておられるのでしょうか。
ぜひ教えて頂きたいです。「ちゃんと説得力のある話」をして頂けると幸いです。

それから、>>837の以下の部分と、>>755へのお答えもお待ちしていますね。

>元々、「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」凡夫が、ご名号によって
>救われる教えが、浄土真宗というものですよね(違っていたらびっくりです)。

>その上で、浄土真宗の中でも、「赤ん坊でも獲信できる」「特別な方法」が
>あると思われますか?とお尋ねします。

>そして、そのことと7さんの言われる「弥陀たのむ方法」とは、どのように関係して
>いるのでしょうか?
8527:2009/01/18(日) 21:03:19 ID:TLIEfav/
>>851 何が真宗かは、お聖教によるしかないと思います。真宗と秘事の違いは教えに根拠があるかないかです。

 赤ん坊でも救われるのが南无阿彌陀佛です。十方衆生を救うと誓われた阿弥陀仏を疑うのなら救われないとしか思えないでしょう。
 「特別な方法」にわざわざカッコをつけてあるということは、「特別な方法」という言葉を自力の代名詞として聞いてきたからでしょうか。
 他宗他派の方から見れば、南无阿彌陀佛こそ特別な方法にみえることでしょう。そういうことなら、特別な方法とは南无阿彌陀佛のことになるでしょう。

 十劫より昔に信心決定した人はいない、こう理解するのが間違いですか?久遠実成の阿弥陀仏だから、十劫より昔にも信心決定した人がいるという教えでしたっけ。
 もしそうなら自分の不勉強を恥じ、素直に謝ります。どうか、十劫より昔にも信心決定した人がいるという根拠をお聖教にて教えてください。
853神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 22:56:15 ID:q+mvcjaY
>>850
次第相承の善知識はんでっか。真宗聖典あたりではうちらご本山の歴代法主様をいうちゅうて書いてあるわな。
相承の義自体は仏教ではそんなに可笑しなことではないねん。むしろ当たり前のことやねん。
何でかわかりまっか?簡単やねん。仏さんがおられん世の中やからお聖教を頼りとせなあかんやろ。
でもな、経典は隠顕があんねんな。そのまんま読んだだけでは絶対に分からん部分があんねんな。
そんでもって、七祖はん方は仏証を乞うはってそれを少しづつ明らかにして下さったんやねぇ。
宗祖は師の法然さんの仰せに従いさらに突き詰めて教行信証書かれはったんや。
皆さんよ〜お勉強されてはるんで分かるかと思いますが、難解なんやわ。これが。
でな。突然に教判にない自義を立てはる人を防ぐ意味があるんや。相承にはな。これは面授口決ともいうんや。
854神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 23:18:11 ID:q+mvcjaY
>>850
続きな。
秘密の口伝でっか?そもそも口伝なんやから口外しないのとちゃいますの?口決ちゅうんや。仏教では。
その教判の受け継がれた思想ちゅうか、流れちゅうかを同行に聞かせてあげるんとちゃいまっか。
真宗にはな、宿善ちゅうもんがあんねんな。そのへんのな〜んも真宗どころか宗教にも興味のない人に
無理に聞かせるんとはちゃうねん。そういう無分別なことはすな。ちゅうて中興の蓮如はんは言わはってるわ。
こういうのを抑止(おくし)ちゅうねん。

片っぱしから行のみで決定させた?そもそも行のみで決定でけるんかいな?
秘密のたのみ方ちゅう言い方はそれを知らんから秘密と感じるんとちゃうのん?
極秘やったら、だ〜れも知らんままなんとちゃいますの?聞こうとする人には聞かせてるとちゃいますの?三業派の方々は。
惑乱もあったし、取り締まりも厳しかったんで、自流を大事にされはってんのとちゃいまっか。
855神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 23:32:25 ID:q+mvcjaY
宗祖は不可称・不可説・不可思議のお助けやちゅうて言われとりますわ。
これがな、こんなんが信心ですわ。とかな、自身の体験や境地のようなもんを信としたら自力の域で〜へんねん。
そんなんやったら、可称・可説・可思議になるねん。
ご誓願と名号法をもって易く往生でける。とたのみとする以外に何があんの?と思いますわ。
いくら金剛心になったちゅうてもそんなん水に描く絵と同じとちゃいますか。
金剛心はな、お聖教にもあるとおりに摂取不捨があるからそう喩えられるんや。
さ、お念仏させて頂いて早よ寝ましょ。
856神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 23:54:38 ID:ou8/kec8
>>852
>何が真宗かは、お聖教によるしかないと思います。真宗と秘事の違いは教えに
>根拠があるかないかです。

なるほど。ありがとうございます。ちなみにお聖教というのは、隠された秘伝の書と
いったものではなく、誰にでも確認できるものですよね?

>赤ん坊でも救われるのが南无阿彌陀佛です。

以下、大前提を繰り返しているだけに見えますね。あらためてお聞きします。

元々、「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」、凡夫がご名号
(南無阿弥陀仏)によって救われる教えが、浄土真宗というものですよね。
これを大前提とした上で、浄土真宗の中でも、「赤ん坊でも獲信できる」
「特別な方法」があると思われますか?

そう思う、か、そう思わない、かのどちらかでいいですよ。
「」をつけているのは、わかりやすくするためです。

>十劫より昔にも信心決定した人がいるという根拠をお聖教にて教えてください。

「しかれば、海徳仏より本師釈尊にいたるまで、番番出世の諸仏、
弥陀の弘誓に乗じて、自利利他したまえるむね、顕然なり。」(口伝抄)

「また竪を兼ぬるとは、遠く三世に亘りて断絶することあることなくして、
利益尽くることなし。寿命無量は、これ竪の辺に約す。且く因願に依れば、
十劫成覚の身たりといえども、諸仏の寿命、平等の果海は闕減あることなし。
ただこれ本覚弥陀の寿なり。」(六要抄)
857神も仏も名無しさん:2009/01/19(月) 00:01:24 ID:f53NjgAi
>>854
お、なるほど。お答えありがとうございます。大体判りました。
「ご本山」にもいろいろあるみたいですね。

>>855
>そんなんやったら、可称・可説・可思議になるねん。

そうですね。
信心について「ちゃんと説得力のある話をしてくれよ」とか考えちゃうのは、
自力なんでしょうね〜。

自分で水に書く絵ではない信心について、語ってくださるかたがもっとあれば
嬉しいなと思います。

まあこのスレに新しい方が来られるのが、そもそもあんまり有り得ないんですけどね。
8587:2009/01/19(月) 00:15:52 ID:GQPCtULV
>>853 レスありがとうございました。お念仏させていただいて寝ることにします。
8597:2009/01/19(月) 00:35:02 ID:GQPCtULV
>>856様 お聖教というのは、お寺さんや図書館、本屋で読めるものだと思います。
 真宗か、秘事かを区別するには、それ以外に判断材料はないと私は思います。他にあれば是非教えてください。

 赤ん坊でも救われる特別な方法、その方法が仏法だと思います。仏法は、あると思います。

 十劫より昔に信心決定した証拠としてあげていただいたお聖教ですけれど、どうして根拠になるのか分かりませんでしたので、
 お手数ですがお時間のあるときにでも解説していただければ幸いです。

 「ちゃんと説得力のある話をしてくれよ」などと書いてしまってごめんなさいね。随分お腹立ちということは分かりました。
 私の理解力が足らないのに、そんな生意気な言葉をスレに書き込んでくださる親切な人に投げかけたことをお詫び申し上げます。
860神も仏も名無しさん:2009/01/19(月) 08:06:35 ID:vQnA0x+B
人間の考えている常識は、阿弥陀仏の常識には当てはまらないと思います。
自分の人間としての知識など、通用しませんよ。
人間がこの世に存在している物のどれだけを知っているのか、理解しているのか。。。
この地球の事ですら、満足に知らないのが現実でしょ。
宇宙の果てだって、知らない訳だしね。
人間が知っている事なんて、ちっぽけなものです。
861神も仏も名無しさん:2009/01/19(月) 11:01:14 ID:BplQvqdt
>>852
>何が真宗かは、お聖教によるしかないと思います。真宗と秘事の違いは教えに根拠があるかないかです。

それで言うと、Wikiと特に矛盾することはないようですね。
Wikiは、様々な研究の結果などを踏まえて書かれているようです。
これを否定されるのであれば、お聖教や、他の研究文献などから、
論拠を挙げていただきたいと思います。

>>859
お答え、ありがとうございます。まとめますと、7さんは、浄土真宗の中でも、
「赤子でも獲信できる」「特別な方法」があると言われるわけですね。
ではこの「特別な方法」と、7さんが言われた「弥陀たのむ方法」とは
どのような関係があるのですか?

>十劫より昔に信心決定した証拠として

難しくてすみません。私の理解を書きます。間違っているところがあればご指摘ください。

(口伝抄のお言葉)
「久遠の昔からの全ての仏様が、阿弥陀仏の弘誓によって、
悟りを開き、衆生を助けてくださっていることは、明らかです。」

(六要抄のお言葉)
「過去、現在、未来にわたって途切れることなく、私たちを助けてくださっていることを、
寿命無量と言われています。阿弥陀仏は十劫の昔に成仏なされたと言いますけれど、
862神も仏も名無しさん:2009/01/19(月) 11:04:44 ID:BplQvqdt
最後が抜けましたorz

「阿弥陀仏は十劫の昔に成仏なされたと言いますけれど、
そもそも仏様は常住不変であり、欠如ということはないのです。」
863神も仏も名無しさん:2009/01/19(月) 11:26:41 ID:BplQvqdt
何にもわからぬ凡夫に、わからせて頂くのがお六字の妙味。
智恵のないものが仏智を頂くことが、不可思議です。

怒りや悲しみなどの心のざわめきも、みーんな、広く明るい
功徳の海に溶けさせてもらいます。
これが喜び。

日々起こることすべて、阿弥陀様のお手回し。
お六字となえて、阿弥陀様を思って、いえ、
阿弥陀様に思われて、極楽の日暮らしさせて頂きましょう。
864神も仏も名無しさん:2009/01/19(月) 15:34:26 ID:SjC7QQVU
ここ読んでみて、深い議論に感心して
「インターネットで十分じゃん」
て思ったりしてます。
けど、やっぱりそれじゃダメで、「面授口訣」は必要不可欠だったんですね。
865神も仏も名無しさん:2009/01/19(月) 17:34:45 ID:BplQvqdt
>>864
さて、どうでしょうね。
教え上は、インターネットでは信心決定できない、
という結論は出てきません。
読んでいる今も、「聞即信」と救われるかも知れません。

時節場所柄を問わないのが、阿弥陀仏のお救い。
それに条件を付けてしまうのが私たちですけれど。

法然上人は書物を読まれて信を得られたともお聞きしますね。
866神も仏も名無しさん:2009/01/19(月) 18:48:14 ID:00Ibivw5
秘密ぅ〜。ちゅうことをえらく議論のテーブルにのせてますな。
あくまでも、その人その人の問題ちゅうか、ご縁やねん。そういうことは。是非言うてみても意味ないねん。
別に秘されて困るよ〜なことはわてにはありませんがな。そ〜いうことやないのん?
あんな。法然さんは選択集を壁底にしまいなはれ。ちゅうて言わはったんやで。今はなぁ、選択集はネットでも皆読めんねん。
でもな、今法然さんがおられてな、壁底にしまっとけ。ちゅうて言わはったらきっと怪しい存在になるねん。
これはなぁ、法謗の罪つくる人が出ると可哀想や。ちゅうお心やねん。それが抑止ちゅうねんな。
こういう大事なもんがすっぽ抜ける説法はあかんと思うで。すっぽ抜けると宿善・無宿善の分別なぞいらんなるねん。
867729:2009/01/19(月) 19:10:16 ID:Re0R2cHh
>>866
ID:00Ibivw5さん、こんばんは
素朴な疑問なのですが
ID:00Ibivw5さんの流派では、宿善の有無の分別方法ってどうなさっていますか?
私は、分別できると思っていた時期がありましたが、今は自分には分かんないや
って感じです

それと、>>865
> 法然上人は書物を読まれて信を得られたともお聞きしますね。
は、法然上人の獲信は面授口訣方式ではなかったということですが
どのように理解されていますか?
私は、まっ、これもありなんでしょ?だから、法然上人のような
面授口訣方式ではない人だっていたっていいよね
って感じで、さして問題視せず今に至っています
868神も仏も名無しさん
>>866
まあ、それほど秘密にする必要があると思っているのなら、秘密にしていれば
良いんではないでしょうか。

でも秘密がある以上は、蓮如上人が戒められた秘事法門であり、異安心である
との評価がついてまわるのは、しょうがないでしょうね。

「それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、
さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものは
ながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。この秘事を
なほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、
あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその秘事を
いはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの秘事をありのままに
懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。」(御文章)