○●Я親鸞仏教質問箱R(その4)●○

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210渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1213627965/890-891 に問いが出ていたので、回答します。
なお、長くなるので、こちらのスレで回答します。(レスの数は、連続8個)

 神と阿弥陀の関係に関する議論を突然分断する形になりますが、混乱しないで欲しい。
 これは、念仏の問題は、真宗の議論では大変重要な問題と考えます。
 なお、先方の問いをどなたかが移してくれたので、質問内容はそれ(>>207)を使わせて貰います。 

>「お念仏をいただく」とも言われているが、「お念仏をいただく」とは、何がどうなったことなのか。

 念仏者になると言うこと。念仏を称える身になると言うこと。特殊な念仏ではなく、次にも、次に
も重ねられていくことが当然予定されている念仏を、次にも次にも重ねていくことが予定されている、
そういう念仏を称える人に、私がなると言うことです。私が変わると言うことです。

>一度でも念仏を称えたならば、その時に、「お念仏をいただいた」ことになるのだろうか。 

 前念と後念と因と作る。 〜 何をもってのゆえに。もし一ならばすなわち因果なけん。もし異な
らばすなわち相続にあらず(行の巻)。

 普通の念仏であれば、一度でも称えれば称えたことになる。特殊な念仏を称えれば、称えたことに
ならない。
 普通の念仏とは、次にも、次にも念仏が重ねられていくことが当然予定されている念仏を言う。特
殊な念仏とは、空前絶後、一旦称えられればそれで念仏は最後となるような念仏、ぶつ切りの特殊な
不連続の念仏をいう。終わりのある念仏は、何度称えても称えたことにならない。前念と後念と因と
ならない念仏。前念と後念とに因果がない念仏。相続がない念仏。浄土教は、そのような特殊、特別
な念仏はまともな念仏と考えていない。
211渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/08(月) 00:54:13 ID:21yK3pdD
 念仏を称えるとはどういうことか。

 「如是」と言うは、すなわちこれは法を指す、定散両門なり。 〜 しかるに行に二種あり。一つ
には正行 〜 。正行と言うは、 〜 もし口に称せば、すなわち一心に専らかの仏を称せよ。 〜
これを名づけて「正」とす、と。またこの正の中についてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名
号を専念して、行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを「正定の業」と名づく、
かの仏願に順ずるがゆえに。 〜 。また云わく、定善は観を示す縁なり、と。散善は行を顕す縁な
り、と。また云わく、浄土の要逢いがたし、と。(化身土巻)

 観無量寿経に如是という言葉が登場する。そこでは定善と散善の両方を紹介している。例えば、善
導大師は正行という概念を教える。その中で、一心に専らかの仏の名を称せよと言う。行動している
ときも、停止しているときも、座っているときも、寝ているときも称える。長時間・短い時間に関係
なく称える。一瞬一瞬に絶え間なく称える。善導大師はこういう称え方を正定の業という。
 正定の業は仏願に順じている。しかし、先人が正定の業を教えたのには理由がある。修行の方法を
示すための一つのきっかけになるからである。きっかけだけでは極楽浄土の核心部分にいたることは
できない。浄土の要逢いがたし。
 親鸞は、行住座臥、不問時節久近の念仏は、極楽浄土の核心部分にいたることはできないと説く。
善導流の法然浄土教との決定的違いである。親鸞は、善導流ではなく、道綽禅師流の念仏三昧を勧め
る。
212渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/08(月) 00:55:07 ID:21yK3pdD
『安楽集』に云わく、『観仏三昧経』に云わく、「父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう。 
〜 父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる」と。 〜  もしよく菩提心の中に念仏三昧を行
ずれば、一切の悪神・一切の諸障この人を見ず、もろもろの処処に随いてよく遮障することなきなり。
何がゆえぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるは、すなわちこれ一切三昧の中の王なるがゆえなり」
と。(行の巻き)

 親鸞は、道綽の『安楽集』の言葉を背景に、念仏三昧を勧める。念仏三昧は一切三昧の中の王であ
るという。

 『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、 〜 念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。 〜 父
の王に謂いて曰わく、「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と。(行の巻き)

 法照禅師の浄土五会念仏略法事儀讃を引用し、親鸞は、座禅してただ当に念仏すべしと説く。これ
が念仏三昧である。さらに親鸞は、座禅して念仏する五会念仏を勧める。五会念仏とは何か。

 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。 〜 今「大無量寿経」によって五会に仏を念ず。 
〜 問うて曰く。五会念仏はどこに出在せりや。答へて曰く。「大無量寿経」に云う。(五会法事讃
略抄)

 念仏三昧は、真の無上の、深く妙なるすばらしい禅門である。五会念仏の根拠は大無量寿経による。
五回を一サイクルとして繰り返し念仏する。
213渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/08(月) 01:02:18 ID:21yK3pdD
 第一の会は平声に緩く念ず  南無阿弥陀仏  第二の会は平に声を上げて緩く念ず  南無阿弥陀
仏  第三の会は非緩非急に念ず  南無阿弥陀仏  第四の会は漸く急に念ず  南無阿弥陀仏  第
五の会は四字に転じて急に念ず  阿弥陀仏 (五会法事讃略抄)

 最初は抑揚をつけずゆっくり「南無阿弥陀仏」と称える。次に、抑揚をつけず、半音ほど高くゆっ
くりと「南無阿弥陀仏」と称える。三回目は遅くなく早くなく、「南無阿弥陀仏」と念じる。四回目
は、徐々に速くして「南無阿弥陀仏」と称える。五回目は速度を上げて「阿弥陀仏」と称える。五回
目は南無をつけない。

 当今の凡夫は、現に「信想軽毛」と名づく、また「仮名」と曰えり、また「不定聚」と名づく、ま
た「外の凡夫」と名づく。未だ火宅を出でず。(化身土巻)

 現代の凡夫は、信じるのも考えることも、実に軽薄である。だからこそ、あらゆるものが借り物で
あり、名ばかりである。全て不定聚である。仏道を知らない凡夫であり、迷いの道を外れない。不定
聚には不定聚のための教えがある。

 阿弥陀経の意なり 至心回向の願 不定聚機 難思往生(化身土巻)

 阿弥陀経の心、それは大無量寿経の至心回向の願、二十願に現れている。不定聚機に向けては、
難思往生を説いている。
214渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/08(月) 01:03:13 ID:21yK3pdD
 竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり(教
行信証 前序)。

 仏の真意を考えてみれば、不定聚に難思往生を説く難思の弘誓こそ、難度海を渡る大いなる船であ
る。不定聚機に対し、苦しみと迷いの闇を破ってくる知恵の太陽である。難思往生の道を学ぼう

 方便真門の誓願について、行あり信あり、また真実あり方便あり。「願」とは、すなわち植諸徳本
の願これなり。「行」とは、これに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。「信」とは、すな
わち至心回向欲生の心これなり。「機」について定あり散あり。「往生」とは、これ難思往生これな
り。(化身土)

 難思往生の道は、大無量寿経、第二十願に基づく。方便真門の誓願である。ここには行と信がある。
植諸徳本(願)と善本・徳本(行)と至心回向欲生の心(信)がある。受ける人間の器としては、精
神集中型の定器(タイプ人間)と、行動型の散器(タイプ人間)である。難思往生の道で定器と散器
は難思往生を実現する。

 信心かけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、
報土のさとりをひらくとこそ、うけたまわりそうらえ。(歎異抄)

 生まれつき最初から信心のある人はいない。信心のない不定聚機は本願を疑う。そのため、難思往
生によって一度は辺地に生じ、その後、疑いの罪を償なって真実報土にいたる。難思往生の道は何か。
215渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/08(月) 01:04:25 ID:21yK3pdD
『経』に「執持」と言えり、また「一心」と言えり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを
彰すなり、「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり、「心」の言
は真実に名づくるなり。この『経』は、大乗修多羅の中の無問自説経なり。しかれば、如来、世に出
興したまうゆえは「恒沙の諸仏の証護の正意」ただこれにあるなり。(化身土)

 阿弥陀経では執持という言葉が出てくる。一心ともいう。散らず失わず、二無く、専一にという意
味である。その心こそ、真実である。無数の諸仏の真意はここにある。

それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。 〜 良に教は頓にし
て根は漸機なり、行は専にして心は間雑す、 〜 罪福を信ずる心をもって本願力を願求す 〜 こ
の嘉名は万善円備せり、 〜 この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず、十方三世
の徳号の本なり。 〜 しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したま
う。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。
(化身土)

 濁りきった現代においては、坊さんも在家の人も、急いですばらしい真実の門、真実への入口に立
て。入口の難思往生を願へ。まことに阿弥陀仏の教えは迅速である。しかしそれを学ぶ我々が頑迷牢
固である。実践することは専一であっても、心はさまざまに揺れている。つらいことは嫌、幸せにな
りたい。そういう心で仏の救いを求める。心は様々でいいんだ。称える心は乱れていていいんだ。な
ぜなら称えられている南無阿弥陀仏は、様々な善と徳を備えているからだ。だからこそ、釈迦はこの
念仏であらゆる人を救おうとしている。阿弥陀如来は、果遂の誓いを発して、諸の群生海を救おうと
する。
216渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/08(月) 01:12:05 ID:21yK3pdD
 極楽世界はあらゆる迷いをたった真実の世界である。そのような世界には、疑いの心をもって我流
でいきなり到達することは難しい。だからこそ、諸仏は難思往生を願えという。ひたすらひたすら念
仏を称えよ。五会念仏を称えることが大事だ。

 ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を
出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。
しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難
思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。(化身土)

 念仏三昧せよ。座禅して念仏せよ。五会念仏を称えよ。それが念仏三昧である。念仏を疑い、信じ
る心のない者は疑いの心で念仏を称えればいい。これをだめと言ってもしょうがないだろう。五会念
仏は称える心は疑いの心でも、称えられている念仏は、間違いのない善本であり徳本である。ひたす
ら称える。そこが入口である。目的地は近い。
 親鸞は言う。念仏以外の様々な行をするような万行・諸善の仮門は、曇鸞・善導の教えによりずっ
と昔に卒業した。双樹林下にあった釈尊先生の祇園精舎の真似ごとはずっと昔に辞めた。
 善本・徳本の真門にすすみ、ひたすら難思往生の心を発してきた。ひたすらひたすら座禅して念仏
を称え、五会念仏を実践してきた。これによって、今、新たな世界が開かれようとしている。いよい
よ、難思往生から難思議往生への転換が開始した。
 これまで難思議往生を求めてきたわけではない。定器、散器の自力の称名を称えてきたのだ。
217渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/12/08(月) 01:13:01 ID:21yK3pdD
定散自力の称名は果遂の誓いに帰してこそ覚(おし)えざれども自然に真如の門に転入する(和讃)

 ひたすら称えよ。必ず救うぞと言う果遂のちかいにゆだね、定散自力の称名をしてきた。いま、特
別なこともなく自然に真如の門への転入が開始してきた。
 
 果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり(化身土)。

 果遂せずば正覚を得じ。大無量寿経で阿弥陀仏はそう誓う。ひたすらひたすら真剣に念仏を称える
者は、必ず真実の世界、難思議往生の世界に導く。この言葉には、実に深い意味があった。深い意味
があったと、そのように真実の信を得ることができた。真剣に真剣に座禅して五会念仏を称える深い
意味がわかった。
 
 おほよそ佛法修行のところはみな道場といふ、 〜 念佛三味の道場もその義おなじかるべし。さ
れば念佛の行者、うちに信心をたくはへて心を淨土の如來にかくといふとも、道場をかまへて功を安
置の本尊につむべし。自行化他の利益これにあるべきなり。(至道抄 存覚)

 信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし(和讃)  

 以上で、念仏を称えることに関するコメントを終わります。神と阿弥陀仏との比較論に戻ります。
(念仏に関するこの議論に対する質問・反論には、神の問題と混同しないため、
http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/hyakka/soomei.htmlの掲示板で回答します。)