1 :
298:
2 :
298:2008/02/21(木) 14:57:38 ID:MxMdHy2j
>>前スレ820
>疑問に思ってたずねて、人から「それでよい」と言われて納得というのは、
>それは信前の姿です。
そう思われることも、よくわかります。
ですから、信前も、信後も、たいして変わっていないですね。
最大の違いは、如来から信心をいただいているかどうか。
>>747の吉蔵同行のおことばを、よく読んでみてください。
確かに、信をいただいて、変わる方も多くいるそうです。
私も、変わったと思います。
しかし、変化を強調するのは、営業トークみたいで、
私はあまり好きではありません。
「なにも変わらないですよ」くらいの言い方を好みます。
そうでないと、他力の信心いただくのに、凡夫の心がまともになるのを
期待してしまいかねません。
>>信をいただいても、すぐには、何の価値があるのか、
>>そして、それが正統のものであるのか、わからないかもしれません。
>それは、真宗の信心ではありませんね。
お聖教を読んでいらっしゃるとのことですが、
どうしてこれで、真宗の信心では無いと思われるのですか?
お聖教を離れて、どなたかのお言葉を信じていらっしゃいませんか?
何に反すると思うのか、よく思い出してみてください。
その教義は、どこから由来しているかということです。
3 :
298:2008/02/21(木) 15:00:32 ID:MxMdHy2j
4 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 15:01:49 ID:80TVmTm3
>>1 ありがとうございます。
このような場所を保ってくださることに感謝致します。
南無阿弥陀仏について、一緒に真剣に話をさせて頂ける皆様に、ありがとうございます。
298さん、
>疑問に思い、尋ねに行ったところ、「念仏したのですから、それで良いのです」と
>お答えをいただいたのです。
真実信心は、人に尋ねることは要りません。
阿弥陀仏が御六字を声にあらわしてお呼びづめなのを、身体中で聴いているからです。
阿弥陀仏のはたらきが、我が身に活きているからです。
それが自分でわからないのは、阿弥陀仏を自分のほかにおいているから。
仮の仏様を自分で作っていたのでは、なるほど、人に聞かなくては安心できないと思います。
「たった一度の念仏で信心頂ける」ことを信じておられると前に言われましたね。
それはやっぱり、自力です。
真実の阿弥陀様がそこにおられないからです。
私の信心も、貴方の信心も、ともに、御六字と一体になるまで、求めていきましょう。
途中で腰掛けて「これでよし」と言っていたのでは、
阿弥陀様に申し訳ありません。
5 :
298:2008/02/21(木) 15:02:24 ID:MxMdHy2j
>>前スレ820
>真宗聖典すべてが真宗で、その教えに従って
>一心一向に弥陀をたのみたてまつる、それが真宗の信心ですよね。
もちろん、私もそう思います。
ですから、お聖教のどこに反すると思われるのか、
もし、思い当たる箇所があるならば、探してみてほしいですし、
紹介していただきたいのです。
6 :
298:2008/02/21(木) 15:08:45 ID:MxMdHy2j
>>4 何がわかって、何がわからないのかを、整理してみてください。
信をいただいてわかるのは、「確かに他力であった」ということです。
しかし、真実信心そのものがわかるわけではないのです。
ですから、疑問に思う方は、お聖教を調べるでしょう。
調べれば、「書いてある通りだ」とわかるのです。
しかし、部分的に読んだり、あるいは、語学的な問題等により、
よくわからないかもしれません。
ですので、善知識様や御同行に聞いてゆくのが良いのです。
>阿弥陀仏が御六字を声にあらわしてお呼びづめなのを、身体中で聴いているからです。
>阿弥陀仏のはたらきが、我が身に活きているからです。
これも、その通りです。
信をいただけば、これもよくわかります。
ですけれども、4様のお話をお伺いしている限り、このお話をされている方は、
お聖教に基づいていて、体験が無いのでは? と感じます。(あくまでも、推測です。)
>それが自分でわからないのは、阿弥陀仏を自分のほかにおいているから。
>仮の仏様を自分で作っていたのでは、なるほど、人に聞かなくては安心できないと思います
これは、勘違いです。
私は、六字と一体になる体験は、既にしています。
7 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 15:12:07 ID:/p5QSVHL
スレ立て乙!
現代において獲信者が少ない理由は、次第相承の善知識が隠棲しているからである。
次第相承の善知識を侮ってはならない。
次第相承の善知識の実体は、還相の菩薩であり、親鸞や蓮如と同レベルの霊格を持っている。
阿弥陀は、全ての衆生を救う為に、いつの時代にもこの世に、刺客を送り込むのだ。
今後は、次第相承の善知識が、本格的に活動を開始することとなる!
8 :
298:2008/02/21(木) 15:31:39 ID:MxMdHy2j
◎されば南無阿弥陀仏と申す体は、
われらが他力の信心をえたるすがたなり。
この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれを
あらはせるすがたなりとこころうべきなり(御文5-22)
本当に、素晴しいことが書いてあると思います。
御文様と、割符が合う信心を求めてゆくことが、
大切だと思います。
信を獲て、たとえばお講などで、御文様を拝読してゆけば、
違わぬ信心いただけたと、ますますうれしくなる、
というようなものであると思います。
9 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 15:34:34 ID:80TVmTm3
(浅原才市)
「わたしや あなたの六字の中に封じ込められ なむあみだぶつ。」
「なむあみだぶつは弥陀の極楽
わしが極楽なむあみだぶつ。」
「わしらちや
如来さんとをるがいつちええ
お寺へ参る時には
つろうて参つてもろうて
戻る時には わしについて戻りなさる
仕事をする時にも話をして仕事をするし
ありがたいよ。」
「親のお慈悲のまことの実は
機法一体なむあみだぶつ
よろこびはこれにある
慚愧もこれにある
ごをんうれしや なむあみだぶつ
ありがたいな 機法一体はありがたいな
何もかも機法一体の中にある。」
10 :
298:2008/02/21(木) 15:37:35 ID:MxMdHy2j
前のスレを読んでみると、
揺らぐ部分については → 自力だから信を獲ていないのだ
揺らがない部分については → 自力でつかんでいる。思い込んでいる
のような批難の傾向があるようですね。
いずれにしても、凡夫の妄心を批判しているわけですけれども、
そこはもともと、たよりにならない部分ですからね。
>>3を、よく読んでほしいと思います。
11 :
7:2008/02/21(木) 15:48:04 ID:UwutXE5L
>>298さま、スレ建て有難うございます!
信心決定のその日まで、前念相続させていただきます。
皆様、よろしく信心の沙汰をお願いいたします。
12 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 15:55:04 ID:80TVmTm3
(浅原才市)
「聞いて助かるじゃない
助けてあるをいただくばかり
この才市もそうであります
ありがとうあります
なむあみだぶつ なむあみだぶつ。」
「才市よい
この世界をながめて見よや
なむあみだぶつが詰め込んである
自力でここへは はいられぬ
才市やこの中 なむあみだぶつ。」
13 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 15:56:58 ID:80TVmTm3
(讃岐の庄松)
「庄松ある家に泊まり、仏前で正信偈と三首引はどうやらこうやら勤め、御文章を読む
段になると、『信心を以って本とせられ候、仏の方より往生は治定せしめたもう、
この上の称名は御恩報謝の称名』と、飛々に読んですませた。聞いた人は
そんな御文章様の読み方は勿体ないではないかと言うと、庄松『お前らは
お勤めをして如来様に聞かせるつもりだから勿体なかろうが、おらは
如来様から下さるものを頂くのじゃで、よりどりして、うまいところを頂くのじゃ』
と言った。」
「ある同行が庄松とあるお寺へ詣って、説教の間に庄松はん、何か有難い話を
聞かせておくれと言うと、それはあの方に聞けとご本尊を指した。するとその人は
『いや庄松はん、あんたの領解を』と言うと、『おらはそんなこと知らぬ。
今あるだけは、今夜食いたいと思うてオジヤを炊いてあるが、
猫が食わにゃよいが、説教が早くすめばよいがと思うているだけじゃ』」
「三九郎という同行が、ある時、庄松に『庄松さん、お前はお助けを決定さしやったか』
と言うと、庄松『決定いたしました』と言う。『どう決定さしやったか』と重ねて尋ねると、
『おらは助からぬと決定したら、阿弥陀様は必ず助けると決定なされました』。
三九郎すかさず、『もし間違ったらどうなさるぞ』と押し詰めると、庄松の答えは
『阿弥陀様は親様じゃで、よきようにして下さるだろう』であった。」
>>6 >信をいただいてわかるのは、「確かに他力であった」ということです。
>しかし、真実信心そのものがわかるわけではないのです。
ここは、誤解を呼びやすいですよね。
真実信心を我が身に頂くのですから、必ずわかります。
万が一そこまでいかずに、「わかるわけないのだから、これでいいんだ」と自力の信心に留まっては、
阿弥陀様に申し訳ないことです。
>信をいただけば、これもよくわかります。
阿弥陀仏のおはたらきが身体中でわかっているのに、どうして人に尋ねるのですか。
尋ねるのは、わかっていないからですよね。
>私は、六字と一体になる体験は、既にしています。
現在ただいま一体でなければ、一度体験しても(と思っても)、機法一体ではありません。
15 :
298:2008/02/21(木) 16:59:21 ID:MxMdHy2j
>>14 14様のおっしゃることは、よくわかることが多いです。
教学に基づいていらっしゃるからだと思います。
>万が一そこまでいかずに、「わかるわけないのだから、これでいいんだ」
>と自力の信心に留まっては、阿弥陀様に申し訳ないことです。
他力の信心いただけば、「わかるわけないのだから、これでいいんだ」とどまることが、
申し訳ないですし、私の場合は、「わからないからこそ、もっと知りたくなる」という感じでした。
そういうところから、後念相続の気持ちが出て来ると思います。
もちろん、「わからない」と言っても、何もわからないのではありません。
そして、御恩報謝のお念仏を称えれば、やはり信前とは、
何かが違うと感じます。そして、感謝も出てきます。
これは、感謝が「出易い」という方が、私の場合は近いです。
厭離穢土も、徐々に育ちます。南無阿弥陀仏は、無上方便であると、
感じる次第です。
>阿弥陀仏のおはたらきが身体中でわかっているのに、どうして人に尋ねるのですか。
>尋ねるのは、わかっていないからですよね。
「それで良いか」がわからないからです。
もちろん、信後に尋ねずして、いきなり納得する方もいらっしゃるでしょう。
16 :
298:2008/02/21(木) 17:01:15 ID:MxMdHy2j
>>14 >現在ただいま一体でなければ、一度体験しても(と思っても)、機法一体ではありません。
一度信をいただけば、弥陀が一緒にいらっしゃいますから、
この身そのままに彌陀のおはたらきがあり、機法一体です。
しかし、そのようなお話は、求めている多くの方は、
もう知っているだろうと私は思っています。
それは聞いたことはあるけれど、では、どうしたらそのような信がいただけるのか、
ということを、私は中心に書いています。
機法一体のはじまりとなる南无阿彌陀佛があるのです。
17 :
298:2008/02/21(木) 17:07:41 ID:MxMdHy2j
真実信心そのものを善知識にいただくのではありません。
信心くださるのは、阿弥陀様です。
善知識が、信心いただいたと言うから、信心いただいたのではありません。
弥陀が信心くださったから、信心いただいたのです。
それでも、自力の信が揺れ動く時、
善知識に確認に尋ねる方はいらっしゃるのではないでしょうか。
私は、それは不思議でないと思います。
そして、たとえば、お聖教を示しながらであったり、あるいは、
同行のエピソードであったり、お話の内容は、多岐だと思いますけれど、
お話聞いて、ありがたくなって、御恩報謝のお念仏を称える。
それで、良いと思います。
そうしているうちに、自力の信心も定まってきたり、
真実信心のはたらきを我が身に感じ、
次第に楽になるのではないかと思います。
南无阿彌陀佛
18 :
298:2008/02/21(木) 17:11:14 ID:MxMdHy2j
わからないものをいただいて、ありがたくなるのが不思議です。
結局、凡夫は、自力の信や、自力のよろこびを求める性質があると思います。
これは、自利ですね。(特に、信前はそうではないかと思います。)
ですけれど、私の実感は、同じよろこび求めるのでも、
やはり内からわいてくる思いによって、「味わいたい」という気持ちが出てきます。
他力の作用を感じる、という感じになります。
もちろんこれを、他者からは、自力の錯覚と批判することはできます。
しかし、主観的な感じとしては、「よいものだなあ」と思うのです。
19 :
298:2008/02/21(木) 17:30:26 ID:MxMdHy2j
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1202651606/797 >親鸞は弟子一人も持たず候(歎異抄)
その歎異抄の冒頭に、
◎先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎き
とあるわけですが・・・
何に「異なる」かを歎いている書であるか、きちんと書いてあると思います。
しかし、この書は、「異なる」方々に向けて書かれているのではなく、
「同心行者」に向けて書かれているのです。
このスレを見ても分かりますように、真実信心いただいても、
「そんなのは偽物だ」と、いただいていない方から批難されたり致します。
そして、「なぜなら・・・」と、もっともらしいお話もなさる。
二河白道で言えば、「引き返してこいよー」と、叫ぶ方々です。
そうなると、揺らぐ方が出ますので、歎異抄をお書きになったのです。
後ろによばれても、よちよちと、一歩一歩を西の岸まで進みます。
二尊は、進めとおっしゃいます。
せっかくいただいた信心、わからぬままなのは、もったいがない。
打ち捨てておくには、あまりにも尊い。
だからこそ、御恩報謝のお念仏を致すのです。
一念で救われるからと言って、それで捨て置くのは、おかしいことです。
20 :
298:2008/02/21(木) 17:34:20 ID:MxMdHy2j
信心は阿弥陀様と当人のあいだのことですから、外から決定してるの
してないのと言うことではないと思っています。
それに、298さんはこれだけ反論やら否定的な意見やらを言われても、
おくせず書き込み続けてくださるからには、やはり何かの信仰を
固く持たれているのだと、尊敬申し上げます。
ただ、どのように南無阿弥陀仏を聞かせて頂けばよいか、という問いに対する、
特別な人から特別ないわれをきくこと、というお答え。
これは「さらに親鸞珍しき法をも弘めず」と言われた、親鸞聖人のひらいた浄土真宗ではありません。
牛を善知識として信心決定されたかたもいます。
それに以前の書き込みを見ると、信心決定を人に尋ねて、その答えで安心されている様子。
それは「今こそ明らかに知られたり」と、御文に説かれている真宗の信心ではありません。
>このスレを見ても分かりますように、真実信心いただいても、
>「そんなのは偽物だ」と、いただいていない方から批難されたり致します。
>そして、「なぜなら・・・」と、もっともらしいお話もなさる。
>二河白道で言えば、「引き返してこいよー」と、叫ぶ方々です。
まさに、あなたのことになってしまいますよ…。
しかるべきかたから、しかるべき話をきけば信心決定できる。
それこそ、もっともらしいお言葉です。まさしく、用心すべきところではないでしょうか。
22 :
298:2008/02/21(木) 17:42:21 ID:MxMdHy2j
◎時はさらに真実信心をうつくしくえたる人いたりてまれなりとおぼゆるなり。
それはいかんぞなれば、
弥陀如来の本願のわれらがために相応したるたふとさのほども、
身にはおぼえざるがゆゑに、いつも信心のひととほりをば、
われこころえ顔のよしにて、なにごとを聴聞するにも
そのこととばかりおもひて、耳へもしかしかともいらず、
ただ人まねばかりの体たらくなりとみえたり(御文2-5)
信をいただけば「弥陀如来の本願のわれらがために相応したるたふとさのほども、
身にはおぼえざるがゆゑに」が、とてもよく味わえます。
「なにごとを聴聞するにもそのこととばかりおもひて、耳へもしかしかともいらず、
ただ人まねばかりの体たらくなりとみえたり」
蓮師はこうおっしゃっていますが、私にも、同じ様に見えるのです。
御文様五帖八十通の御拝読を、重ねておすすめ申し上げる次第です。
私が言っても詮無きことですが、御文様は、宿善の機には
必ずわかりますいわれがある故に。
23 :
298:2008/02/21(木) 17:47:52 ID:MxMdHy2j
>>21 >ただ、どのように南無阿弥陀仏を聞かせて頂けばよいか、という問いに対する、
>特別な人から特別ないわれをきくこと、というお答え。
>これは「さらに親鸞珍しき法をも弘めず」と言われた、親鸞聖人のひらいた浄土真宗ではありません。
なぜ珍しい法では無いのかと言えば、独創ではないからです。
伝わってきたものだからこそ、教わったものだからこそ、「珍しき法」では無いのです。
それを、「珍しき法」と、多くの方が言うのです。
私も、珍しき法だとは、思っていません。
なぜなら、私の書いていることは、まさしく、南无阿彌陀佛だからです。
>それに以前の書き込みを見ると、信心決定を人に尋ねて、
>その答えで安心されている様子。それは「今こそ明らかに知られたり」と、
>御文に説かれている真宗の信心ではありません。
これは、私の書き方が悪いのでしょう。誤解があると思います。
私が尋ねたのは、信心決定の方法です。
私の場合は、事前に教学が少しですけれどもありましたので、
六字のいわれを聞いた時点で、「なるほど」という理解がありました。
一文不知の身にならねばなりませんが、自動的に考えてしまいますね。
もちろん、いただく際には、疑念を差し挟まず、
ありがたいものとしてお聞きしております。
推測していたものと、同じ部分がかなりありました。
それは、やはり、お聖教には書いてあるからです。
ですけれども、教わらない限り、きちんとは、わかりません。
お聖教が、そのように書かれているのです。
24 :
298:2008/02/21(木) 17:53:16 ID:MxMdHy2j
>>21 >それは「今こそ明らかに知られたり」と、御文に説かれている真宗の信心ではありません。
明らかにわかるのは、信後においてです。
「存(ず)」のも、信後です。
他力である事は、明らかに知れます。
ただし、私が断言を避けているのは、一瞬のことなので、
わからない方がいても、おかしくないと推測するからです。
わからない方でも、説明を受ければ、「なるほど」とわかるでしょう。
もう少し説明すれば、信をいただくのは、もちろん念仏三昧においてです。
通常の坐禅で、三昧に入るには、即日とはいかないでしょう。
しかし、凡夫が真実信心いただく、真実行たる南無阿弥陀仏においては、
凡夫が10人いたら10人、例外無く三昧に至るのです。
これだけで、私には「ものすごいことだ」と根拠になりました。
自力の心のふりすてようもわからない自分でしたが、
あっけなく捨てることができたからです。
真実信心が、そのままわからなくても、これだけでも、
私にとっては、十分でありました。
南无阿彌陀佛は嘘ではないと知り、
幼少時の疑問が解消致しました。
25 :
298:2008/02/21(木) 18:00:00 ID:MxMdHy2j
>>21 >それに、298さんはこれだけ反論やら否定的な意見やらを言われても、
>おくせず書き込み続けてくださるからには、やはり何かの信仰を
>固く持たれているのだと、尊敬申し上げます。
「うたたさらに難し」ですから、無理もありません。
尊敬いただけるなど、恐縮の極みです。
私は至らぬ凡夫でも、六字は真実の法だからです。
>しかるべきかたから、しかるべき話をきけば信心決定できる。
>それこそ、もっともらしいお言葉です。まさしく、用心すべきところではないでしょうか。
用心が必要であることも、その通りであると思います。
偽物も、多い事でしょう。
私から見れば、いわゆる「秘事」「異安心」と言われるものでも、
「なるほど」と思う部分があれこれあるのです。
「本物あっての、偽物だなあ」と思うのです。
用心が大切なのは、もちろんですから、疑心を解くのも大切なのです。
はじめからわかるような方は、弥陀をたよる必要もないでしょう。
弥陀のおめあては、弥陀から逃げている方々です。
弥陀から逃げなかった方々は、法蔵菩薩と下りられる前に、
弥陀のもとで成仏したりしております。
八正道とかうるさく言ってごらんなさい。
多くの人は逃げます。
弥陀の易行にしても、逃げるのです。
しかし、逃げる凡夫であっても、その心をひるがえし、
弥陀をたのめば易行にて信心決定します。
26 :
298:2008/02/21(木) 18:05:33 ID:MxMdHy2j
>>21 >>二河白道で言えば、「引き返してこいよー」と、叫ぶ方々です。
>まさに、あなたのことになってしまいますよ…。
私が書いているのは、あくまでも「進め」ということです。
私と同じ信を求めている方には、尋ねてください、獲信者をお探しください、
御文様を御拝読ください、と勧めています。
私と異なる道を歩まれる方には、「その道をお進み下さい」と勧めています。
信心の沙汰を行ってくださる方には、
信心の沙汰の道を進まれることを、おすすめし、
私も共に参加しています。
南无阿彌陀佛
もうひとつ、298さんには機の深信がないとお見受けします。
どうにもならぬ自分である、という気持ち、これが頭でわかっても
信前であれば到底、受け入れられません。
受け入れられないから、こそ、自分を否定する(ように自分がうけとれることを言う)相手に、
その否定を投げ返さずにいられない。
でも真実信心いただかれた人は、否定も肯定に変えてしまう。
周りの人が否定をすると、「よく言ってくれた、うれしや」と喜びに変えて返される。
ここがすごいなあ、確かに自分の信心ではできないことだろうと思わされます。
298さんは前スレで、機の深信の話で、自分は極悪人だと思ってすごすのは、
そんなのはいやだと仰っておられましたね。
極悪人と思うのでも誰かが言うのでもない、そうなのだと知らされているひとだったら、
なんと仰るでしょうか?
>「なにごとを聴聞するにもそのこととばかりおもひて、耳へもしかしかともいらず、
>ただ人まねばかりの体たらくなりとみえたり」
>蓮師はこうおっしゃっていますが、私にも、同じ様に見えるのです。
どなたのことが、ですか?
28 :
298:2008/02/21(木) 18:26:09 ID:MxMdHy2j
>>27 >もうひとつ、298さんには機の深信がないとお見受けします。
>どうにもならぬ自分である、という気持ち、これが頭でわかっても
>信前であれば到底、受け入れられません。
私の場合でしたら、「これは自分では無理だ」
「自分では、自力の心をふりすてることもできなかった。
出離の縁がなかった(そんな自分が救われた)」というような気持ちが、
対応する部分でしょう。
しかしこれは、自力の機の深信です。
もちろん、自力の機の深信が生まれるのも、
如来他力の深信のもよおしの上です。
>298さんは前スレで、機の深信の話で、自分は極悪人だと思ってすごすのは、
>そんなのはいやだと仰っておられましたね。
>極悪人と思うのでも誰かが言うのでもない、そうなのだと知らされているひとだったら、
>なんと仰るでしょうか?
「そんなのはいやだ」と思うから、極悪人なのでしょう。
それでも、信前よりも、悪機は照らされていると思います。
あきらめの気持ちのような感じですね。
自分に対しても、厭離が育っているような感じがします。
こんな自分に用は無い、はやく浄土に往きたいです。
29 :
298:2008/02/21(木) 18:29:10 ID:MxMdHy2j
>>27 >>「なにごとを聴聞するにもそのこととばかりおもひて、耳へもしかしかともいらず、
>>ただ人まねばかりの体たらくなりとみえたり」
>>蓮師はこうおっしゃっていますが、私にも、同じ様に見えるのです。
>どなたのことが、ですか?
このスレで私とやり取りしている方だけでなく、
他スレで見かけた方とか、多くの方ですね。
一方、御同行と見えるかたも、ちらほらおられます。
これも、びっくりすることで、インターネットのすごさを感じるところです。
27様につきましては、「人まねばかり」は、言い過ぎだと思います。
「ばかり」ではなく、聞く耳も、お持ちの方だと思います。
疑心あるのは当然のことですが、それから一体どうなるか、
私にわかるはずもありません。
とにかく、他人のことはよくよく見えますが、自分のことはぜんぜん見えていない目ですね。
ついつい外ばかり見てしまいますが…
>>26 >私が書いているのは、あくまでも「進め」ということです。
私もそうなのですが。(実際、ここにいる真宗を信じておられるみなさんそうだと思います)
引き返せと、書きましたでしょうか?
お互いが、群賊悪獣に見えてしまっているというところでしょうか。
阿弥陀仏をたのめば救われるということが現実にあるということ、
そのことは本当に「あり得ないほど」尊いことです。
ただ、「しかるべき人にしかるべきことを聞けば信心決定できる」というのは
やはり真宗の教えではありません(というか、非常にあやうい聞こえ方になります)。
31 :
298:2008/02/21(木) 18:44:26 ID:MxMdHy2j
>>30 >ただ、「しかるべき人にしかるべきことを聞けば信心決定できる」というのは
>やはり真宗の教えではありません(というか、非常にあやうい聞こえ方になります)。
あやうい聞こえ方になるのも、その通りだと思いますし、
身近に異安心がある方には、それの後押しをすることにもなる可能性があります。
ですから、「尋ねる」ということだけでなく、私が考える真実信心の性質も書いております。
>引き返せと、書きましたでしょうか?
私が
>>19にて、書きましたのは、歎異抄の解説です。
「自見の覚語をもつて他力の宗旨を乱る」方のことですね。
これは、「覚悟」の文字の方がわかりやすいですが、
真の原典がどちらなのか、私には、わかりませんから。
そして、アンカーは、30様向けのものではありません。
「このスレ」という言い方が、よくなかったですね。
「この一連のスレ」というべきでした。
私の発言には、簡潔性を優先し、また、私が手間をはぶいたために、
このように不完全な表現がたくさんありますから、
やはり、会話が大切であると思います。
せっかくですから、HNでも、定めていただけたら、うれしく思います。
32 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 18:45:04 ID:/p5QSVHL
次第相承の善知識に尋ねなければ、信心決定は不可能である!
その事実は体験した者にしか解らない。
念仏は最も単純な行であるが、それ故に奥が深い。
独学では、たのみ方を間違うのだ、それでは、阿弥陀には届かない。
この奥義は、言語を絶するものであり、阿弥陀から勅命を受けた善知識様しか伝えることは出来ない。
33 :
298:2008/02/21(木) 18:50:27 ID:MxMdHy2j
>>30 >ただ、「しかるべき人にしかるべきことを聞けば信心決定できる」というのは
>やはり真宗の教えではありません(というか、非常にあやうい聞こえ方になります)。
以前も引いたかもしれませんが、御文様です。
◎宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。
しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、
おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり
◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、
善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり
御消息です。
◎善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ説きおかれて候へ。
まさか牛ではないでしょう。
大経様です。
◎善知識に遇ひ法を聞きよく行ずること、これまた難しとす
南无阿彌陀佛
あれ、でも、うーん。
よく考えたら、「私は救われた!確かに体験した!」っていうのは、
例えばスピリチュアルとか、その辺でも言うことですね。
やっぱり、体験だけではわからないというか…
機の深信がないのは、やっぱり、真宗ではないですね。
(因幡の源佐)
「この源佐は落ちるだけ。落ちるまんまよりほかない源佐を親様が助けて下さるだけのう。」
「この源佐は一番悪いで、仕合せだがやあ」
(浅原才市)
「わたしやあさましあさまし
久遠から今まであさまし
かわりないことあさましや
ありがたや ざんぎくわんぎのかわりないこと
なむあみだぶつ。」
35 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/21(木) 19:57:39 ID:nIBM4E7J
>
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1202651606/818-819 > 南無阿弥陀仏と一体になり、如来から信をいただいても、
自分(298さん)は阿弥陀仏と一体になった。
> 宿善の機が多く生まれていなければ、助けようがありません。
宿善の機を助けるのは阿弥陀仏と一体になった自分(298さん)である。
阿弥陀仏と一体になる(梵我一如)というのは、298さんの考えがよく現れていると思います。
密教と融合した亜流真宗の思想でしょう。普通の浄土真宗からはこういう発想は出てない。念仏で
梵我一如になるなんてことは、例え聖道門でも決して言ってない。相承の善知識と称する人が口決
面授で(密かに得体の知れない不可思議の信)を受け、梵我一如になる。内容は他言無用。エセ法
門は親鸞の教えるところではない。
36 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/21(木) 20:20:11 ID:nIBM4E7J
>19
>一念で救われるからと言って、それで捨て置くのは、おかしいことです。
ヽ(~〜~ )ノ ハテ? 何が言いたいの?
(田原のお園)
「あるご婦人が会合の席で、お園がお茶をくみに台所へ来たので、
「お園さん、あなたがおいで下さると、家の者や近所の人たちが、朝から夜まで
嬉しそうにお話ししておられますが、私はどうした邪見者か、ただこの世のこと
ばかりが面白うて後生のことは嫌いでございます」
と言うと、
「そうそう、お前様もそうか、私もそれよりほかはない。毎日毎日
仏法の話はしているけれど、仏法は好きではありません。実は後生のことは
大嫌いで、この世のことが好きでございます。けれども嬉しいことにはのう、
後生が嫌いでこの世が好きなものをこそ、親様は好いて下されますげなで、
この世好きの後生嫌いなものが、一番がけに参らせて下されますげなで、
これが何より嬉しいでのう。このことを毎日談合しているのじゃ」
とお園は言ったとのことです。」
「ある人、お園に尋ねて言うには、『如何ほど説教を聞いても、心ははっきりせず、
ぐずぐずしています。一言聞かせておくれ』と。
お園 『お前様もか、私もぐずじゃ。けれどもそのぐずのままで来いよと仰せられたら、
まんざら嫌な気もせぬでのう』
その人、『それでも信心が肝要と仰せられるが、その信心が何時得られたやら
わかりませぬもの』
そこでお園、『信を得るというはハイと言うまでのことでありますげな』」
38 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 21:32:51 ID:F9jNbgzd
>>28 >自分に対しても、厭離が育っているような感じがします。
>こんな自分に用は無い、はやく浄土に往きたいです。
信後は厭離穢土・欣求浄土の感じが強まってくるのでしょうか
39 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 21:38:46 ID:F9jNbgzd
信後はこの世はどのようなものになるんでしょうか。
どのようにみえてくるのでしょうか。
信後の方が一番あこがれる、もの・こと、とはいったい何になるんでしょうか。
(前川五郎松)
「仏法で罪というのはいのちを我がものと思って私有する我執のことをいうのである。
この罪のお知らせを聞きながら、毎日の生活の上では、これがチンともカンともひびかない。
これも我がもの、あれも我がものと死出の旅路の荷造りまでしている爺々であります」
「道を歩いている時も、仕事をしている時も、夜寝ている時も、今、今、今、である。
仏法では『永劫の今』というらしい。如来様を忘れている時も今、如来様を思い出している時も
今である。如来様を思い出す今が南無、思い出すと現われて下さる阿弥陀如来様も今。
ここに居る私のいのちを自分のいのちを生きていると我を張る時、南無も阿弥陀仏もお留守になる。
今のこの一息に如来様の御活動を気づかせてもらうよりほかない。私はあとは野となれ山となれ、
今さえよければという今しか知らなんだ。過去も今、現在も今、未来も今という本当の今を
教えて下さる仏法さま」
「如来様に遇うのは『散る桜、残る桜も散る桜』を承知する時、桜は三日で散るのがお与えさま。
お与えさまに承知ができれば、雨にも嵐にも承知する。今日只今のお与えさまに気づかねば
永久に満足はないでしょう」
「私は大地を忘れておった。よくも天罰うけなんだ。大地に耳あり、
山には目あり、海に高鳴る口がある。天地に満てる如来がござる」
(榎本栄一)
「お念仏の第一の功徳は、自分の煩悩が見えてくるということです。この煩悩というのは、
一日中いろいろな思いが自分の中をぐるぐる回っているのが煩悩です。
一日中瞬時も休みなく、いろいろな思いが湧き出てきます。この思いというのは雑念、
妄想、悪念、さまざまな塵芥のような思いですが、この思いが見えてきますと、
この思いを何とかして取りのけようとします。
そうなると、それがまた大変なことで、私達はその思いと一緒に心中することになります。
これは取りのけようと、いくら気張っても駄目です。むしろほったらかしにして、相手にせずに
突き放しておいて、知らん顔していたらよろしいのですが、なかなかそうはゆきません。
しかしこの煩悩さま、私は『さま』をつけたいのですが、この煩悩さまがあるので、
私と仏様とのつながりができるのであります。この煩悩がなかったら、我々凡夫と
仏様とは千万里の隔たりがあって、どうしても手が届かないのです。煩悩があればこそ、
仏様とのつながりができるのです。煩悩に渦巻かれておればこそ、仏様のお光が
いただけるのです。煩悩がなかったら仏様もお照らし下さらないのです。
煩悩あればこそ仏様にお会いできて、仏様のお智慧を戴かしてもらうのです」
(榎本栄一)
「大悲無倦」
蜘蛛の張る網のように
私の中の我執が
ありありと見えるのは
なむ大悲無倦の御光照(おんひかり)
「天地開闢」
たまたま人間に生まれ
久遠劫よりの生死海(かなしみ)に
なむあみだぶつの
眼が開き
「水のこころ」
水はひくきにながれる
明治うまれの私が 今日まで
水のながれを みてまいりましたが
いつみても ひくきにながれおり
ひくきにながれる
水のこころは
なむあみだぶつの こころ
一切のいのちあるものを
生生(いきいき)させる
43 :
神も仏も名無しさん:2008/02/21(木) 22:42:04 ID:/p5QSVHL
次第相承の善知識は、スピリチュアルを肯定する!
現代人は宗教(仏教)を誤解しているのだ。
魂やあの世を知らずに、宗教が語れるはずはないのだ。
蓮如や親鸞は、実際に、不成仏霊を念仏にて、成仏させていた!
宗教学者の宗教知らず、なのである。
44 :
298:2008/02/21(木) 23:58:43 ID:MxMdHy2j
>>38 >信後は厭離穢土・欣求浄土の感じが強まってくるのでしょうか
私は、そうです。
価値観が転換しました。
>信後はこの世はどのようなものになるんでしょうか。
>どのようにみえてくるのでしょうか。
もともと仏教の教義としては、この世は穢土であるとか、
(自分を含め)みんな三毒に毒されているとか聞いていましたが、
それがより感じられるようになった気がします。
みんな、流転から抜けようとするのではなく、
むしろ積極的に、この世にかかわってゆこうとしています。
それはそれで、(私も信前だった時期がありますから)
理解のできることです。
自分もそうだったのに、なぜ弥陀をたのむ気持ちになれたのか、
よくわかりません。
お導きだったのだと思っています。
(この「みんな」というのは、私の周囲の方々です。
世界中ではありません。)
45 :
298:2008/02/22(金) 00:00:33 ID:3p8USRPP
>>38 >信後の方が一番あこがれる、もの・こと、とはいったい何になるんでしょうか。
浄土往生なのではないでしょうか。
弥陀の説法を聞くことが楽しみですし、
神通を得て、これまでの自分の経緯を知ることも、
楽しみです。
このつらい体を捨て、楽な体が得られる事もうれしいですし、
有縁の方の運命も見て、済度に参れることも楽しみです。
個人的には、地蔵菩薩様にお会いできることも、
楽しみにしています。
46 :
298:2008/02/22(金) 00:09:57 ID:3p8USRPP
>>36 わかりにくいとは思うのですが。
一念に信が生まれるからと言って、その後、お念仏しないというのは・・・
極楽往生治定、自力でくわえる念仏はないけれども、
救われた恩義に報いたくてと、それが自分のためにならなくても、
自然と出るのがお念仏。
そのためには、一念のありがたさを、理解してゆくことが
大切になるのです。
(参考)
◎又云、一念十念にて往生すといへはとて、念佛を疎相に申せは、
信か行をさまたくる也。念々不捨といへはとて、一念十念を不定におもへは、
行か信をさまたくる也。かるかゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形はけむへし
(法然聖人)
47 :
298:2008/02/22(金) 00:11:57 ID:3p8USRPP
>>35 南無阿弥陀仏と一体になるのは、凡我一如とは、全然違うと思います・・・
真実信心いただいても、わからないわけですからね。
いわゆる神秘体験とは、大分違うと思います。
あくまでも、南无阿彌陀佛です。
48 :
298:2008/02/22(金) 00:13:26 ID:3p8USRPP
>>34 >よく考えたら、「私は救われた!確かに体験した!」っていうのは、
>例えばスピリチュアルとか、その辺でも言うことですね。
>やっぱり、体験だけではわからないというか…
体験だけでは、わからないですね。
お聖教と領解を合わせてゆくことが、大切だと思います。
真宗であれば、真宗のお聖教と領解が合うはずですから。
49 :
298:2008/02/22(金) 00:20:52 ID:3p8USRPP
>>34 >機の深信がないのは、やっぱり、真宗ではないですね。
「機の深信」というのは、おそらく、
◎一には決定して深く、自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、
曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず(観経疏)
のことですよね?
「もう、永劫の流転から抜けたい」という気持ちは、
(信前における、自力の機の深信ですけれども)
私も含め、弥陀をたのむ前に、持っていることが多いようですね。
これは、「死にたい、でも、このまま死ぬのでは・・・」という感覚の
場合もあるようです。
二種深信は、カンタンに言えば、
「堕ちる自分を弥陀が救ってくれた」ということです。
50 :
4:2008/02/22(金) 00:51:43 ID:IqSPSGYr
>まさか牛ではないでしょう。
どうしてそう思われるのでしょう。
因幡の源佐が牛のおかげで信心決定でき、善知識と信じ込んでいたという
エピソードが伝わっています。
>>44 >もともと仏教の教義としては、この世は穢土であるとか、
>(自分を含め)みんな三毒に毒されているとか聞いていましたが、
>それがより感じられるようになった気がします。
……
妙好人のかたがたのお言葉からすると、真実信心を頂くと、苦しみを楽しみと変じていただけるので、
今現在、生きている時から心は浄土と喜べるそうです。
仏様の智慧で見るので、世界が桁違いに見える、光(=仏)に包まれて見える、という話も聞きます。
今現在、我が身を阿弥陀仏に抱かれて六字の中に生かされていることが、幸せでたまらない。
この身にさせてもらえた人間の身体が尊い、という話も聞きます。
なんかぜんぜん違いますね。
「娑婆の世界はここのこと
極楽の世界もここのこと
これは目の幕切りをいうこと。」(浅原才市)
>>45 >浄土往生なのではないでしょうか。
……
現世より来世を楽しみにしているんですか。
298さんはむしろ、浄土宗の信仰者なのかも……
51 :
298:2008/02/22(金) 01:00:30 ID:3p8USRPP
>>50 >因幡の源佐が牛のおかげで信心決定でき、
>善知識と信じ込んでいたというエピソードが伝わっています。
本当にそうであれば、私が獲ている信心とは違います。
そこには、南無阿弥陀仏がありません。
お聖教と、どちらを優先するのか、ということです。
そもそも、そのエピソードの史料価値を、私は疑問に思っています。
ソースを調べてみてください。
52 :
298:2008/02/22(金) 01:09:47 ID:3p8USRPP
>>50 >>まさか牛ではないでしょう。
>どうしてそう思われるのでしょう。
私が引いた御消息の前後を読みましたか?
ここの善知識が牛になるのは、おかしいと思います。
源佐さんのエピソードの記憶に、読みがひきづられていると思います。
◎この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。
師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよし
きき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。
なれむつぶべからず。『浄土論』(論註・上)と申すふみには、「かやうのひとは
仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」(意)と候ふめり。
また至誠心のなかには、「かやうに悪をこのまんにはつつしんでとほざかれ、
ちかづくべからず」(散善義・意)とこそ説かれて候へ。善知識・同行には
したしみちかづけとこそ説きおかれて候へ。
善知識にも、広義と狭義があります。
信をいただくあらゆるご縁が、広義の善知識。
次第相承の善知識は、弥陀の代官として、弥陀をたのむことを
おすすめくださり、六字のいわれを聞き開かせてくださる「ひと」です。
53 :
4:2008/02/22(金) 01:12:30 ID:IqSPSGYr
>>49 >私も含め、弥陀をたのむ前に、持っていることが多いようですね。
……頼む前じゃないですよ。
他力の信は二種深信です。
これがないということは逆に、他力の信ではないということです。
真宗の基礎ではなかったでしたっけ。
>>51 >本当にそうであれば、私が獲ている信心とは違います。
>そこには、南無阿弥陀仏がありません。
?なぜですか?牛を人間より下に見て、そう言われているのですか?
ソースというか、ご本人の信心決定体験からそのように話しておられたとのこと。
「妙好人 因幡の源佐」というご本からの抜書きが、「妙好人をかたる」に載っています。
54 :
298:2008/02/22(金) 01:13:21 ID:3p8USRPP
>>50 >今現在、生きている時から心は浄土と喜べるそうです。
>仏様の智慧で見るので、世界が桁違いに見える、光(=仏)に包まれて見える、という話も聞きます。
>今現在、我が身を阿弥陀仏に抱かれて六字の中に生かされていることが、幸せでたまらない。
>この身にさせてもらえた人間の身体が尊い、という話も聞きます。
>なんかぜんぜん違いますね。
「心は浄土」は、わかりますが、次の三行が、大分違いますね。
「この身にさせてもらえた人間の身体が尊い」というのは、
人身いただいたから、仏法聞いて弥陀をたのめたから、
ということならわかります。
どこで教わった妙好人像なのでしょうね。
記憶を振り返れば、誰に教わったのか、どこの本で読んだのか、
わかるでしょう?
55 :
298:2008/02/22(金) 01:19:24 ID:3p8USRPP
>>53 >?なぜですか?牛を人間より下に見て、そう言われているのですか?
牛が人間より下だからではなくて、
次第相承の善知識は、「ひと」だからです。
六道を流転しているのですから、上も下も無いでしょう。
『妙好人 因幡の源佐』は、インタビューをもとに構成されたものでは
なかったですか? (私の記憶違いかもしれませんが)
私と真宗のお話をした方でも、「次第相承の善知識が・・・」というお話を
(私から)聞いていない方が、幾人もいますよ。
そして、私はこの一連のスレで書いてきて、
私の書くことも、ひどく誤解されるものだな、という実感を重ねてきています。
56 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/22(金) 01:22:08 ID:RXU/orbm
>46
>一念に信が生まれるからと言って、その後、お念仏しないというのは・・・
相変わらず口の減らない御仁だな。これは、僕のことを言っているのか(苦笑)。
それで、貴方は、すこし心を入れ替えて念仏を称えるようになったの?
どうせ録に称えてないんだろう。
念仏の回数を数えるのに、神通が必要だとか、口伝によるなどと、念仏
を称えたことのない人がいうようなことを以前には言っていたけどね。
僕は貴方の口の減らない書き込みを見ていて、念仏者の息吹を全く感じ
ないんだよ。まあ、そんなことはどうでもいいといえば、どうでもいいことだ
けどね。
それで、公開の場所にて正雑二行の沙汰をしてはいけないと思っていた件は、
秘事法門の教えだったと言うことで解決したのか?
「たね」と「むね」の問題なんかは、教行信証で研究して欲しいものだ。
歎異抄で口伝と言っている件は、298は論点にしないでいいのか?
>47
> 南無阿弥陀仏と一体になるのは、凡我一如とは、全然違うと思います・・・
まあ、なんでもいいや。貴方の言葉は口先だけだ。
いつの間にか、僕は298の家庭教師にさせられていた(苦笑)。
57 :
298:2008/02/22(金) 01:24:09 ID:3p8USRPP
>>53 >>私も含め、弥陀をたのむ前に、持っていることが多いようですね。
>……頼む前じゃないですよ。
>他力の信は二種深信です。
>これがないということは逆に、他力の信ではないということです。
>真宗の基礎ではなかったでしたっけ。
私が書いている「自力の二種深信」というのは、
「二種深信のようなもの」と捉えてくださって、結構です。
これは、信前にも信後にもあります。
そして、信後には、他力信心のはたらきにより、深まるのです。
ただ、深まったとは言え、所詮は浅い凡夫の信です。
私が書いている「他力の二種深信」が、本来の「二種深信」で、
こちらは、如来がくださる深信です。
こちらはもともと深いですから、深めるもなにもありません。
58 :
298:2008/02/22(金) 01:26:52 ID:3p8USRPP
>>50 >世界が桁違いに見える、光(=仏)に包まれて見える
たとえば、私は世界が輝いて見える体験もしています。
私の場合は、世界が白く輝いて見えました。
確かに、多幸感もありました。
しかし、私はそれは違うと思ったのです。
私が真宗を獲たときには、そのような体験は、ありません。
それでも、私はこちらを真実と感じます。
59 :
298:2008/02/22(金) 01:31:33 ID:3p8USRPP
>>56 >念仏の回数を数えるのに、神通が必要だとか、口伝によるなどと、
>念仏を称えたことのない人がいうようなことを以前には言っていたけどね。
これは、十念相続の「十」の話でしょう?
念には、いくつもの義があるのです。
法然聖人は、「声」の義を説きました。
そして、信後の御恩報謝のお念仏を、この「声」とする伝統があり、
この教義も、私は尊いと思っています。
その場合には、「十念一念聞」にまで至るのであり、
信後の一声が無くとも、信心はいただいているのです。
60 :
298:2008/02/22(金) 01:33:01 ID:3p8USRPP
弥陀をたのむのはひとつですが、それをいろいろな観点から
説くことができます。
そのひとつのことを知っていれば、それをさまざまな面から見たと
わかりますから、お聖教がわかりやすくなります。
61 :
298:2008/02/22(金) 01:38:39 ID:3p8USRPP
>>50 >298さんはむしろ、浄土宗の信仰者なのかも……
私は、真宗を浄土宗と異なるものとはしません。
浄土宗にも、さまざまなものがありますが、
凡夫が一念にて弥陀に即座に救われる、この真宗こそが、
とくにすぐれたるいわれのあるものだと思っています。
私にとって、真宗は、浄土宗です。
浄土宗の真宗です。
62 :
298:2008/02/22(金) 01:49:35 ID:3p8USRPP
>>61 そして、釈尊の出世本懐という意味では、
浄土真宗ですらなく、「真宗」だという気概です。
(誤解を避けるために念のため。これは、現代の教団名のことではありません。)
63 :
4:2008/02/22(金) 02:04:45 ID:IqSPSGYr
>牛が人間より下だからではなくて、
>次第相承の善知識は、「ひと」だからです。
そうすると貴方は、「牛が善知識で、信心決定できた」という人を、
「次第相承の善知識から聞いていないなら、そこに阿弥陀仏はいない」
と言うのですか?
それこそ阿弥陀仏の不可思議なはたらきを、人間の分別で狭めているのではないですか。
>どこで教わった妙好人像なのでしょうね。
ここでも紹介してきましたが。
>>仏様の智慧で見るので、世界が桁違いに見える、光(=仏)に包まれて見える、という話も聞きます。
>>40 >>12 「わたしや大きな目を貰うて
浄土のような目を貰うて
なむあみだぶつ なむあみだぶつ。」
「目が変わる 世が変わる
ここが極楽に変わる
うれしや なむあみだぶつ。」(浅原才市)
>>今現在、我が身を阿弥陀仏に抱かれて六字の中に生かされていることが、幸せでたまらない。
>>9 前スレ737
「ああうれしみのりの風に身をまかせ
いつもやよいのここちこそすれ」(おかる同行)
>>この身にさせてもらえた人間の身体が尊い、という話も聞きます。
>>前スレ740
>>41 >>37も近いかな。
64 :
4:2008/02/22(金) 02:22:16 ID:IqSPSGYr
>私が書いている「他力の二種深信」が、本来の「二種深信」で、
>こちらは、如来がくださる深信です。
えっと、これは
>◎一には決定して深く、自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、
>曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず(観経疏)
これのことですか?
これは、298さんの信にはあるのですか?
これがないのなら、阿弥陀仏の十八願の本当の有難さ、尊さ、嬉しさも
わかりませんよね。そして、その機がないならそれに対応する法も働きません。
つまり、救われていません…
>こんな自分に用は無い、はやく浄土に往きたいです。
…「こんな自分」でなければ阿弥陀様に遇えなかった(遇えない)んですよ。
機の深信がないのなら、二十願なのかも…。
65 :
298:2008/02/22(金) 02:25:31 ID:3p8USRPP
>>63 >>どこで教わった妙好人像なのでしょうね。
>ここでも紹介してきましたが。
つまり、4様の言う「妙好人」とは、『妙好人をかたる』という本に基づく、
ということでしょうか?
4様は、お聖教は、読まれないのですか?
>そうすると貴方は、「牛が善知識で、信心決定できた」という人を、
>「次第相承の善知識から聞いていないなら、そこに阿弥陀仏はいない」
>と言うのですか?
>それこそ阿弥陀仏の不可思議なはたらきを、人間の分別で狭めているのではないですか。
まず、「牛が善知識で、信心決定できた」という妙好人が本当にいたのか、
私には疑問です。
源左さんが、牛の隣で信決定したのかも、疑問です。
http://www.biwa.ne.jp/~takahara/tannisyo01-1.htm 世界が広くなったのは、ご隠居さんに会った後ですね。
そして、「この朝、長い間の夜明けをさせてもらっただいなあ」というのも、
いつだったのか、よくわかりません。
私がインタビューアだったら、聞きたいところが、
私にとっては、肝心のところが、ぼやけているような感じです。
広い意味における善知識を言っていただけなら、理解できます。
牛が知識で信決定できるなら、弥陀をたのまず、自力で信決定できることになります。
66 :
298:2008/02/22(金) 02:27:00 ID:3p8USRPP
>>64 他力信というのは、凡夫が直接認識できるものではありませんよ。
そこが、ずれていませんか?
そこから、私の自力と他力の話がわからなくなっていませんか?
自分でわかる信は、自力の信なのです。
67 :
298:2008/02/22(金) 02:29:52 ID:3p8USRPP
>>64 4様は、未安心なわけでしょう?
それで、どうしてそこまで、あれこれとわかると仮定して、
お話するのでしょうか?
あなたが法の話を聞いている善知識がいるでしょう。
六字のいわれを、よく聞いてみて下さい。
68 :
298:2008/02/22(金) 02:32:02 ID:3p8USRPP
>>63 >それこそ阿弥陀仏の不可思議なはたらきを、人間の分別で狭めているのではないですか。
これは私から見れば、よくある誤解です。
弥陀の不可説不可思議なはたらきを、
凡夫の気付きに矮小化しています。
結局、自分の理解可能な話に狭めて、わかっているとしたいのです。
凡夫が気付いて他力信を獲ることはありません。
69 :
298:2008/02/22(金) 02:35:17 ID:3p8USRPP
>>63 『妙好人をかたる』が基本テキストの妙好人像ならば、
私とは、あまりにも、立場が違います。
私が基本としているのは、真宗聖典です。
そして、私が特におすすめしているのが、
蓮如聖人による御文章五帖八十通です。
信を獲たい方には、わかってもわからなくても、
御文章を百たび通読してほしいと思っています。(できれば、音読)
その過程で、獲信者を、探しつづけてほしいです。
少なくとも、三たびは、通読してほしいです。
御文様を読まなければ、基本がずれてしまうと思います。
それほど尊い、御文様です。
70 :
298:2008/02/22(金) 02:39:19 ID:3p8USRPP
>>64 申し訳ないですが、私からすれば、4様は、あまりにも理解がずれています。
まず、誰に真宗を教わってきたのかを、よく思い返してほしいです。
なぜなら、あまり学んでいない方(知識がゼロに近い方)なら、行わないであろう、
私のことを決めつける話法で書いています。
つまり、4様は、ある種の教義体系を学んできているということでしょう。
それがどれくらい、お聖教に基づいているか、
そして、そもそも4様はお聖教を重視しているのか、
よく思い出してほしいです。
次に、お聖教に基づかない信で良いのかどうか、
それが真宗と言えるのか、よく考えてみて下さい。
機の深信を語る方が書く事でしょうか。よく、考えてみてほしいです。
71 :
298:2008/02/22(金) 02:44:56 ID:3p8USRPP
真宗の法話を聴いていても、その内容がずれていれば、
真宗のお話を聞いているようでいて、真宗のようなお話を聞いているに
過ぎません。
それでも、知識がゼロに近い状態の方には、役にも立つと思いますが、
同時に、偏った先入観を持つ可能性があります。
そのための、お聖教だと思います。
ですけれども、各自に歩まねばならぬ道があり、
最短に見える道が、その方にとって最短であるとは限りません。
これが、「信じる道をお進みください」と私が書く理由です。
たとえ、異安心だとしても、あるいは、そもそも安心したと思えることが無いのだとしても、
もし、その方がその道を通らねばならないのならば、
通るしかありません。
この信は、難信之信です。易行であるのに、難信です。
なぜなら、凡夫が受け付けないからです。
真宗に近く見える人が遠く、遠く見える人が近いことも、よくあるようです。
ですから、誰が近くて、誰が遠いのか、凡夫には、全くわかりません。
たとえば、私の知り合いは、ある意味、他力信に近いですが、
真宗の話を、私から聞いたことのない方が多いです。
ということは、そのままでは遠いです。
72 :
298:2008/02/22(金) 02:47:23 ID:3p8USRPP
私から、真宗の話を聞いたことがある方でも、私がこの一連のスレに
書いたようなことを聞いたことがある方は、とても少ないです。
浄土宗の方にも、真宗の方にも、私がここに書いているようなことを
お話することは、めったにありません。
このスレで行っていることは、私にとって、
新しい試みです。
しかし、私は目の前のことをやりつづけ、
真宗の救いが広がる助けになりたいと考えています。
73 :
298:2008/02/22(金) 02:55:24 ID:3p8USRPP
>>64 >えっと、これは
>
>>◎一には決定して深く、自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、
>>曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず(観経疏)
>
>これのことですか?
>これは、298さんの信にはあるのですか?
「えっと、これは」ということは、
◎一には決定して深く、自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、
曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず(観経疏)
に見覚えがなくて、そして、私の書いていることが、
あなたの考えている「機の深信」と異なると思ったから、
私の書いていることがおかしいと思ったということですか?
そのそも、観経疏に書いていることの説明をきちんと受けていないなら、
「これ」と聞かれても、それに答えることに、あまり意味があると思えません。
まずは、あなたの善知識に、観経疏を示し、その意味を教わって下さい。
74 :
298:2008/02/22(金) 03:01:54 ID:3p8USRPP
>>64 そして、あなた様の書いていることを読む限りでは、
あなたの善知識は、「いい加減なことを教えているな」という印象です。
もちろん、あなた様がその方を信じてついてゆくなら、それで良いと思います。
真宗のお話を聞いて、「よい話だなあ」ということであれば、
そして、特に獲信を求めていないのであれば、
私がこのスレでお話しようとしている内容とは、違う内容を求めていることになると
思います。
獲信を求める段階には無い方のためのお話も、真宗にはたくさんあります。
私も、お話することできると思いますが、このスレは、あくまでも獲信について語るスレですので、
私も絞ってお話しており、もともと、一般的な真宗理解を持つ方から反論が来ることは
わかった上で、むしろ反論が来るように、書いている面があるのです。
それは、読み流してしまわないようにです。「よくある話」との違いがわかるように、
エッジを立てて話しているのです。
「なんだ、よくある話とおなじじゃないか」と通過されないように、
あえて、違いを際立たせて書いています。
「よい話は幾度も聞いたけど、よい話ではあるかもしれないが、
獲信できないじゃないか」という段階の方を、想定しています。
つまり、真宗の道を歩む際に、「獲信」という要があると、見えてきている方です。
75 :
298:2008/02/22(金) 03:11:35 ID:3p8USRPP
「獲信」という要が見えてきていて、それに向かって走れる方であれば、
後は早いのです。
「早い」とは言っても、獲信者に会うまでの期間が人によって異なり、
数十年かかることもあるようです。
私も、「南無阿弥陀仏には本当の意味があるはずだ」と思ってから、
数十年以上、真実の救いをきちんと求め始めてから数年、
仕事をやめて探し始めて1年かかりました。
しかし、私の実感としては、奇跡的に早いです。
弥陀の導きに、感謝しています。
南无阿彌陀佛。
凡夫が生涯にただの一度で、弥陀に救われる南无阿彌陀佛があります。
その後の南无阿彌陀佛は、御恩報謝の南无阿彌陀佛です。
宿善ある方は、正信あると知るとき、その動きが加速するはずです。
私は、これから真宗が再興すると思っており、そのための人も、
機会も、弥陀がすべて、あちらこちらに準備されており、
今後、それらが少しずつつながって、多くの方が救い摂られる時期が
来ると、私は思っています。
南无阿彌陀佛
76 :
4:2008/02/22(金) 03:27:33 ID:IqSPSGYr
>牛が知識で信決定できるなら、弥陀をたのまず、自力で信決定できることになります。
まあ、牛が「次第相承の善知識」ではありえないだろうとは、私も思います。
すると298さんの主張はやっぱり、「次第相承の善知識」から聞かなければ信心決定できないと、
(そしてそれは阿弥陀仏の不可思議な働きをせばめているのではないのだと)信じておられて、
それを元に、源佐同行の信心決定について、「そこには阿弥陀仏がいない」と言われた、
という理解でいいでしょうか。
>>66 >他力信というのは、凡夫が直接認識できるものではありませんよ。
ということは、「他力の」機の深信、
>◎一には決定して深く、自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、
>曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず(観経疏)
を、認識されていないということなのですね。
77 :
4:2008/02/22(金) 03:28:17 ID:IqSPSGYr
>>67 >4様は、未安心なわけでしょう?
>それで、どうしてそこまで、あれこれとわかると仮定して、
>お話するのでしょうか?
善知識に教えていただいたこと、真宗聖典を読んだこと、インターネットで調べたこと、
妙好人の言葉から学んだことなどの体験からなる、私の認識をもってお話しています。
>>69 >『妙好人をかたる』が基本テキストの妙好人像ならば、
>私とは、あまりにも、立場が違います。
基本テキストというか、今手元にそれを戴いており、せっかくのこのスレなので
紹介させていただいています。
>私が基本としているのは、真宗聖典です。
私もですよ。ここは「妙好人に学ぶ」スレですから、真宗を、妙好人のお言葉、お姿から
学ばせていただくものとして、書き込んでいます。
298さんが真宗聖典のなかから妙好人の描写を抜書きしてくださるのなら、私も大変幸いです。
私はお聖教を重視していますし、それに基づくものが信と思っていますし、
そうでなければ真宗ではないと思っていますよ。
その上で、機の深信を認識していないのなら、第十八願で救われたのではない、
(二十願におられるのかな?)と言っています。
78 :
298:2008/02/22(金) 03:34:02 ID:3p8USRPP
>>77 >その上で、機の深信を認識していないのなら、第十八願で救われたのではない、
>(二十願におられるのかな?)と言っています。
ということは、お聖教に基づけば、
「機の深信」というのは、凡夫に自覚のできるものであり、
4様の善知識は、そのように教えられているということですね?
79 :
298:2008/02/22(金) 03:35:18 ID:3p8USRPP
>>76 >>他力信というのは、凡夫が直接認識できるものではありませんよ。
>ということは、「他力の」機の深信、
◎一には決定して深く、自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、
曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず(観経疏)
>を、認識されていないということなのですね。
自分で直接認識は出来ません。
そのようなものをいただいたと信じ、
そして、そのはたらきを感じるにとどまります。
80 :
298:2008/02/22(金) 03:39:20 ID:3p8USRPP
>>76 >それを元に、源佐同行の信心決定について、「そこには阿弥陀仏がいない」と言われた、
>という理解でいいでしょうか。
源佐同行については、実際のところ、よくわかりません。
実在の人物についてですから、明言は避けたいところです。
なぜなら、私にとっては、信頼のできるソースがないからです。
4様は、手元の本をもとに、源佐同行の信決定について
判断しているのでしょう?
信決定を、本当に重視している方の態度には見えません。
全然自分事になっていないように見えます。
それでいながら、機の深信をお話になりますね。
お聖教を大切にするといいながら、4様は、
かなりいい加減なご判断をされるように感じます。
「妙好人スレだから、お聖教を出さない」というのは、
おかしいと思います。
それだと、妙好人の定義が、お聖教と異なるでしょう。
矛盾していませんか。
81 :
298:2008/02/22(金) 03:41:07 ID:3p8USRPP
>>77 >その上で、機の深信を認識していないのなら、第十八願で救われたのではない、
>(二十願におられるのかな?)と言っています。
つまり、自覚できる深信が、第十八願であると、
4様の善知識は、教えられているのですね?
82 :
298:2008/02/22(金) 03:43:03 ID:3p8USRPP
>>77 >298さんが真宗聖典のなかから妙好人の描写を抜書きしてくださるのなら、私も大変幸いです。
これも、とても不思議に思うところです。
4様の善知識は、妙好人について、一体どのように教えているのですか?
「真宗聖典のなかから妙好人の描写」?
真宗聖典は、妙好人の描写に満ち満ちています。
それがわからぬ善知識など、いたずら事、偽物です。
83 :
298:2008/02/22(金) 03:47:05 ID:3p8USRPP
>>76 >>他力信というのは、凡夫が直接認識できるものではありませんよ。
>ということは、「他力の」機の深信、
◎一には決定して深く、自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、
曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず(観経疏)
>を、認識されていないということなのですね。
このような疑問を持つということは、4様の善知識は、
他力信を、凡夫に自覚できるものとして、教えているということなのですね?
そして、4様は、その教えを信じ、受け入れ、お聖教とも矛盾がないと感じ、
その見解をもとに、私を批判しているということでしょうか?
84 :
298:2008/02/22(金) 03:49:54 ID:3p8USRPP
>>77 >私もですよ。ここは「妙好人に学ぶ」スレですから、真宗を、妙好人のお言葉、お姿から
>学ばせていただくものとして、書き込んでいます。
実際には、「妙好人と学ぶ」ですから、意味が異なると思います。
あくまでも、生きている妙好人、このスレに書き込むことのできる妙好人から、
信心獲得を学び、現実に、我が身に弥陀の他力信を、
いただきたい方のためのものでしょう。
85 :
4:2008/02/22(金) 04:10:20 ID:IqSPSGYr
>そして、あなた様の書いていることを読む限りでは、
>あなたの善知識は、「いい加減なことを教えているな」という印象です。
また、ご自身の信心にけちをつける(言葉は悪いですが)相手を、
群賊悪獣として退けようとされているように見えます。
>真宗聖典は、妙好人の描写に満ち満ちています。
そうですね。ぜひ、これぞと思われるものを抜き書きして頂ければ幸いです。
>ということは、お聖教に基づけば、
>「機の深信」というのは、凡夫に自覚のできるものであり、
>4様の善知識は、そのように教えられているということですね?
ずいぶん繰り返されますね。
そのように聞かせて頂いています。
逆に、298さんの善知識は、そこをどのように教えられているのですか。
>実際には、「妙好人と学ぶ」ですから、意味が異なると思います。
>あくまでも、生きている妙好人、このスレに書き込むことのできる妙好人から、
過去の妙好人からも、学ばせて頂く場だと思います。
ちょっと話がずれそうです。
浄土真宗の他力信心は、機法一体の南無阿弥陀仏のいわれを知るすがた。
これがないなら、真宗の真実信心ではありません。
それでいながら、「次第相承の善知識から特別な話を聞かねばならない」と
言われることは、とても危険と思います。
86 :
298:2008/02/22(金) 04:12:42 ID:3p8USRPP
>>85 私はこれまで、かなりのお聖教を引用してきています。
4様は、お聖教に基づいていると言い、
善知識に教わっていると言い、
その理解に基づいて、私を批判しているということでしょう?
私の書いていることに、反すると思われるお聖教が、
想起できないのですか?
思い当たるお聖教が無いのであれば、
お聖教を重視しているとは、言えないのではないでしょうか?
87 :
298:2008/02/22(金) 04:18:47 ID:3p8USRPP
>>85 >浄土真宗の他力信心は、機法一体の南無阿弥陀仏のいわれを知るすがた。
◎さればこの南無阿弥陀佛の体は、われらを阿弥陀佛のたすけたまへる支証のために、
御名をこの南無阿弥陀佛の六字にあらはしたまへるなりときこえたり(御文3-5)
◎されば南無阿弥陀佛の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、
信心決定の体とす(御文3-7)
◎さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、
ただ南無阿弥陀佛なり。この南無阿弥陀佛の六つの字のこころをくはしくしりたるが、
すなはち他力信心のすがたなり(御文3-2)
◎されば南無阿弥陀佛と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、
阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、
すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀佛の六字に
あらはしたまふなりとおもふべきなり(御文3-4)
◎さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、
この南無阿弥陀佛の六字の名号の体は、
阿弥陀佛のわれらをたすけたまへるいはれを、
この南無阿弥陀佛の名号にあらはしましましたる御すがたぞと
くはしくこころえわけたるをもつて、
他力の信心をえたる人とはいふなり(御文3-5)
私はこの種のことは、とても良くわかります。
なぜかと言えば、次第相承の善知識から、六字のいわれを聞き開き、
弥陀をたのんだからです。
88 :
298:2008/02/22(金) 04:22:55 ID:3p8USRPP
>>85 >>ということは、お聖教に基づけば、
>>「機の深信」というのは、凡夫に自覚のできるものであり、
>>4様の善知識は、そのように教えられているということですね?
>
>ずいぶん繰り返されますね。
大切なところだからです。
ものすごく大切なところですから、幾度でも繰り返します。
>そのように聞かせて頂いています。
>逆に、298さんの善知識は、そこをどのように教えられているのですか。
4様の善知識は、機の深信を、凡夫に自覚のできるものとされているとのことです。
私は、機の深信は、他力信であるから、認識はできないと教えられています。
4様の教わっている内容が確認できましたので、
さらにお聞きしたいことがあります。
4様の善知識は、
「機の深信を、自覚せよ」と勧めているのでしょうか?
つまり、信前において、自らの機を見つめ、罪悪深重の凡夫であることを
わかるようにと、おすすめになっていますか?
89 :
298:2008/02/22(金) 04:29:21 ID:3p8USRPP
>>85 >また、ご自身の信心にけちをつける(言葉は悪いですが)相手を、
>群賊悪獣として退けようとされているように見えます。
けちをつける方が、その時点において、群賊悪獣であるのは、
正にその通りです。
お聖教を重視すると言いながら、お聖教をあげないのは、
いわれの無い批判でしょう。
「お聖教のことはわからないですし、真宗のこともよくわからないですが・・・」
という方は、あなた様のような否定はなさいません。
私が否定しているのは、私には足場があり、そこに基づいて、
否定を行っています。
他宗他派について、言いたいことは、あまりありません。
しかし、「真宗」ということで、かつ私を否定される方には、
言いたいことがあります。矛盾があるなら、どちらかがおかしいからです。
そして、その方について、私は私なりに納得ができれば、言いたいことも、
なくなってくるかもしれません。
私が第一に気にするのは、私の間違いです。それを確認したいのです。
90 :
298:2008/02/22(金) 04:32:09 ID:3p8USRPP
>>89 そして、通仏教との関連でいえば、足場があり、否定があるのは、
真宗では、方便を扱っているからです。
真宗には、俗諦があり、俗諦により、一瞬にして、真諦につながる道を獲ます。
このようなものは、(私の知る限り)他にありません。
私が、他力真宗を、求める方におすすめできる、大きな理由です。
91 :
4:2008/02/22(金) 04:33:37 ID:IqSPSGYr
>私の書いていることに、反すると思われるお聖教が、
>想起できないのですか?
なんだかとても挑戦的になっておられませんか?
とりあえず御文章から、2条目9通。
「何のやうもなく、ただ「我が身は極悪深重の浅ましき身なれば〜(中略)
仏心と凡心と一つになるところを指して、信心獲得の行者とはいふなり。」
これを出して298さんに納得して頂けるとは思わないですけどね。
根拠、根拠でたたかわせて行っても、平行線なことが多いですし。
それでも、もしよろしければ参考までに、
他力の信心を得ていても機の深信はない、と示されたお聖教を教えて頂けますか。
>つまり、信前において、自らの機を見つめ、罪悪深重の凡夫であることを
>わかるようにと、おすすめになっていますか?
いいえ。どうしてそういう話になるのですか?今は、信後の話をしていますよね。
というか、親鸞聖人は徹底して自己を見つめられていて、そのお言葉には
機の深信が強く現れておられますし、ほかの、私の転載した妙好人のかたがたもそうです。
であれば、やはり、298さんはこれらの方々と異なる信心を頂かれてるんじゃないかな、と
思える次第です。
92 :
298:2008/02/22(金) 04:35:26 ID:3p8USRPP
>>88 >つまり、信前において、自らの機を見つめ、罪悪深重の凡夫であることを
>わかるようにと、おすすめになっていますか?
さらに、五念門との関連は、どのように教わっていますか?
自らの機を見つめ、罪悪深重の凡夫と見るのは、
観察門と思いますが、4様の見解は、いかがですか?
そして、自らの機を見つめ、罪悪深重の凡夫と見る観察は、
正行でしょうか、雑行でしょうか?
93 :
298:2008/02/22(金) 04:36:22 ID:3p8USRPP
>>91 >なんだかとても挑戦的になっておられませんか?
私は、真宗の救いを隠そうとする方は、嫌いです。
94 :
298:2008/02/22(金) 04:37:47 ID:3p8USRPP
>>91 >他力の信心を得ていても機の深信はない、と示されたお聖教を教えて頂けますか。
そもそも、私の書いていることを理解されているかが、疑問です。
機の深信は、他力の信心に含まれます。
私が言っているのは、凡夫が直接認識できるかどうか、ということです。
95 :
298:2008/02/22(金) 04:40:43 ID:3p8USRPP
>>91 >というか、親鸞聖人は徹底して自己を見つめられていて、そのお言葉には
>機の深信が強く現れておられますし、ほかの、私の転載した妙好人のかたがたもそうです。
>であれば、やはり、298さんはこれらの方々と異なる信心を頂かれてるんじゃないかな、と
>思える次第です。
そのような判断基準が、お聖教に書かれていますか?
4様ご自身が
>>85にて書いている
>浄土真宗の他力信心は、機法一体の南無阿弥陀仏のいわれを知るすがた。
に、矛盾すると思います。
4様は、お聖教を捨てていませんか?
私が引いた
>>87を、よく読んでください。
自分で真宗を想像して、新たな教えをかたちづくっていると思います。
96 :
298:2008/02/22(金) 04:43:09 ID:3p8USRPP
ずっと「地獄堕ち」とでも言っていなければ、機の深信が無いとでも、
思われているということでしょうか?
機の深信というのは、自力では、極楽往生などできるはずのない凡夫であったと、
よくわかることです。
弥陀をたのめば、自分では無理だったと、わかるからです。
97 :
298:2008/02/22(金) 04:49:12 ID:3p8USRPP
>>91 ◎なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、
地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、
かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、
一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、
仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、
仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり
私はこれは、とてもよくわかります。
私がどのような気持ちで弥陀をたのんだか、
あなたにわかると言うのですか。
私は私なりに、探しつづけました。
なぜ、あなたのような方に、私の気持ちがわかるでしょうか。
いい加減なことを言わないでほしいです。
真実信心を求める方々は、本当に真剣な気持ちで探しています。
あなたのように、遊びで真宗をやっている方ではありません。
死んだら地獄堕ち。あるいは、もう死にたい。
そういう気持ちがあって、弥陀をたのむのです。
私には、あなたがのうのうと生きていることが、わかります。
機の深信がどうのこうのと、わかったようなことを言ってほしくありません。
そのような評論家のような態度に終始する、
自らの獲信を求めない方は、群賊悪獣そのものです。
真宗の教えを信じている方は、あなたのような言い方はしません。
98 :
298:2008/02/22(金) 04:51:27 ID:3p8USRPP
のんびり妙好人のことばを引きながら、
機の深信がどうのこうのと、本当に言ってほしくありません。
機の深信の意味が、わかっていっているのですか?
簡単に地獄とか、言ってほしくないのです。
地獄がどこだか知っていますか。
何もわからないから、気軽に言えるのです。
99 :
298:2008/02/22(金) 04:54:06 ID:3p8USRPP
確かに、ほとんどの方は地獄に行くだろうと、
私は思います。しかし、それを言ったところで、どうなるでしょうか。
それに、脅すことは、有効ではありません。
そんなことをしなくても、自ら、自分の機をわかり、
地獄行きとわかる方がいるのです。
地獄を多少なりとも感じている方に、
簡単に地獄等、口にしたくないのです。
いわゆる妙好人のうち、何人が他力信心を獲ているか、
私は疑問に思っています。
100 :
298:2008/02/22(金) 04:55:35 ID:3p8USRPP
わざわざ地獄行き云々いわなくても、
正信あることを知れば、人は集まってきます。
それは、私のところだけではありません。
全国の真宗のもとに、必要な方は、集まってきます。
私は、今のその流れを、邪魔してほしくありません。
101 :
298:2008/02/22(金) 05:02:28 ID:3p8USRPP
ただ、4様は、このようなことを言えるだけ、まだマシです。
以前いらっしゃった方で、私が「悪魔の搾りかすのようなもの」の話をしたときの方は、
さらに遠い方で、何も届かないに近い方でした。
(以前の4様なのかもしれませんが・・・)
何をやるにも、欲や怒りや無知がからむ凡夫に、一体どうしろと?
釈尊は、ご出世くださったけれども、身近にいません。
私の知る限りは、話に聞く聖者も、何かがピンと来なくて、
足を踏み出せませんでした。
私は、釈尊のような方に、救ってほしかったです。
同じ世に生きられないのは、私の宿善故かと、仕方ないことだと、
しかし、聖道を歩める機でも無し、他力と言っても偽物ばかりに見えるし、
どうしたら良いのだ、というところで、さらに私には導きがあり、
ついには他力信に至りました。
本当に、凡夫直入の易行でした。
私が書いているのは、真剣な方に向けているのです。
「真剣」というのは、いわゆるの意味ではありません。本当の意味です。
救われたい方です。
救われたい方に、実際に本当に救われる道があると知らせる意味で書いています。
もともと、宿善の無い機に、私のできることなどありません。
探している方が、辿り着くお手伝いができるだけです。
私は、そのために、我が身を使って頂けるなら、うれしいのです。
102 :
298:2008/02/22(金) 05:04:19 ID:3p8USRPP
私には、この掲示板において、まだ探している方がいるのです。
ひとりが救われるということは、本当に尊いことで、そのための労を惜しんではなりません。
私を探すか悩んでいる方もいますし、まだ、この掲示板を見ていない方もいます。
私はあくまで目の前のことをやるだけです。
弥陀の導きを、信じているからです。
103 :
298:2008/02/22(金) 05:06:10 ID:3p8USRPP
私は、法の友とは、家族よりも強い縁だと聞いています。
それもそのはずで、同じ家族に生まれてきては、
似たような考え方、経験を得ることになるでしょう。
私には、生まれる前に約束してきた、仲間がまだいます。
私は、何も期待せずに、このようなことをつづけているのではありません。
104 :
4:2008/02/22(金) 05:09:09 ID:IqSPSGYr
>私は、真宗の救いを隠そうとする方は、嫌いです。
わたしが何を隠していると思っておられますか?
どちらかというと「特定の人から特定の事を聞かなければ信心決定できない」
といわれるほうが、隠しておられるようです。
>ずっと「地獄堕ち」とでも言っていなければ、機の深信が無いとでも、
>思われているということでしょうか?
ちょっと違います。
地獄落ちの我が身、それをめがけての弥陀の救いであったとわかるのが、真実信心のお姿と
聞かせて頂いています。
第一帖第三通、七通、二帖目一通とか…
>私が言っているのは、凡夫が直接認識できるかどうか、ということです。
認識できる・できない、とは、ご文章の中では名言されていないと思いますよ。
ただ、「思いつめて」「深く信じて」弥陀をたのむ、というように書かれているので、
それは「タノム」と同じであると考えれば、しっかりと認識できるということになりますね。
105 :
4:2008/02/22(金) 05:12:41 ID:IqSPSGYr
>>97 ずいぶん感情的になられましたね。
>のんびり妙好人のことばを引きながら、
>機の深信がどうのこうのと、本当に言ってほしくありません。
あの、ここは信心の沙汰をさせて頂く場所、ですよね。
人から何か言われると、こんなに感情的になるのが、貴方の信心ですか。
感情的になって相手を攻撃するのは、傷つくからだと思います。
真実信心は傷つきません。
貴方の阿弥陀様はいまどこにおられますか。
>なぜ、あなたのような方に、私の気持ちがわかるでしょうか。
わかりませんよ。わかるのは阿弥陀様だけでしょう。
同じように、私がどんな道を歩んで、どれだけのうのうと生きているか、
わかるのは阿弥陀様と(まだわかっていませんが)私です。
106 :
298:2008/02/22(金) 05:16:50 ID:3p8USRPP
>>104 >わたしが何を隠していると思っておられますか?
(意識的な)悪意があってやっているとは思いませんが、
真宗の救い、南无阿彌陀佛を隠そうとしておられます。
南无阿彌陀佛を感じられないのは、称名の回数が少ないからです。
第二十願をバカにしているからです。
>どちらかというと「特定の人から特定の事を聞かなければ信心決定できない」
>といわれるほうが、隠しておられるようです。
それは、あなたの勘違いに過ぎません。
求める方は、必ず辿り着きます。
私が隠しているのではありません。
あなたが私を信じていない事により、あなたにとって探すのが
面倒なだけに過ぎません。
今ある場所に正信あると信じたいだけでしょう。違うのですか?
それは、別に構わないことですが、「隠す」という批判は、
おかしいと思います。
「救いがある」と言わなければ、隠していることになるでしょう。
そもそも、南無阿弥陀仏の名号も、広められています。
私も、小さい時から、南無阿弥陀仏を聞いたことがあります。
107 :
298:2008/02/22(金) 05:17:52 ID:3p8USRPP
>>104 >地獄落ちの我が身、それをめがけての弥陀の救いであったとわかるのが、
>真実信心のお姿と聞かせて頂いています。
これは、私の領解と違います。
これでは、南无阿彌陀佛が要らないではないですか。
108 :
298:2008/02/22(金) 05:18:52 ID:3p8USRPP
>>104 再度引きます。
◎さればこの南無阿弥陀佛の体は、われらを阿弥陀佛のたすけたまへる支証のために、
御名をこの南無阿弥陀佛の六字にあらはしたまへるなりときこえたり(御文3-5)
全然違います。
南无阿彌陀佛が支証になっていません。
109 :
298:2008/02/22(金) 05:22:02 ID:3p8USRPP
>>105 >あの、ここは信心の沙汰をさせて頂く場所、ですよね。
>人から何か言われると、こんなに感情的になるのが、貴方の信心ですか。
>感情的になって相手を攻撃するのは、傷つくからだと思います。
>真実信心は傷つきません。
>貴方の阿弥陀様はいまどこにおられますか。
ですから、私は信心の沙汰をしていますよ。
わからないのは、あなたがわからないだけです。
「真実信心は傷つきません」聞いたようなことを言いますね、と言っています。
>貴方の阿弥陀様はいまどこにおられますか。
これは、あなたの教えを示していますね。華光会様ですか?
そんなのは、南無阿弥陀仏の中に決まっています。愚問極まれり。
めちゃくちゃです。
110 :
298:2008/02/22(金) 05:25:38 ID:3p8USRPP
>>105 >人から何か言われると、こんなに感情的になるのが、貴方の信心ですか。
あなたの言っていることは、矛盾しています。
真実信心いただいたら、感情的になっては、いけないのでしょうか。
なんとも、不自由なものですね。
☆とっても不自由な、無碍の一道☆
111 :
298:2008/02/22(金) 05:29:52 ID:3p8USRPP
>>109 >人から何か言われると、こんなに感情的になるのが、貴方の信心ですか。
それに、私の信心なんか、ありません。
そんなものがあれば、どうして弥陀をたのみますか。
私にあるのは、弥陀がくださった信心、南无阿彌陀佛。
あなたは、自力の信心ばかり、問題にしています。
それは、あなたが、あなた自身の信心を問題にし、
弥陀の方を向いていないからです。
それは、あなたの属している組織の問題です。
自力の信に、用のある方々ばかりのお集りのようですね。南无阿彌陀佛。
112 :
298:2008/02/22(金) 05:39:21 ID:3p8USRPP
>>105 一見論理的なカウンセラー風でありながら、
どんどん自分の心がわからなくなる道を辿っていますね。
その道を辿りはじめてから、世界がより繊細に感じられる様になったのか、
ぼんやりするようになったのか。
明るくハッキリしてきたのか、暗くなってきたのか。
宣伝者の言うことはともかく、ご自身の体験を、よくよく振り返ることです。
そして、何より大切なのは、口に南无阿彌陀佛を出すこと。
機を見つめることなんか、どうでも良いことです。
どうせ、たいして見つめられません。それよりも、南无阿彌陀佛です。
後は、お聖教を読むことだと思います。解説聞くのではなく、
自ら読むことだと思います。南无阿彌陀佛。
113 :
4:2008/02/22(金) 05:40:03 ID:IqSPSGYr
>真実信心いただいたら、感情的になっては、いけないのでしょうか。
>なんとも、不自由なものですね。
>☆とっても不自由な、無碍の一道☆
いけないとは言いませんが。
どうして機の深信のことを話したら、こういう風になるのか、よくわからないのです。
「無碍の一道」に出られたのなら、以前私はこんなに苦しんだ、でもその苦を
阿弥陀様が楽と変えてくださった、なんと幸せな私だろう、有難い。
となるのではないですか?
>そんなのは、南無阿弥陀仏の中に決まっています。愚問極まれり。
中に、ね。
>地獄を多少なりとも感じている方に、
>簡単に地獄等、口にしたくないのです。
どんどん言ってください。お聖教に書かれていることですし。
地獄地獄と言われてわかる私たちなら、如来聖人もご苦労はされなかったと思います。
>第二十願をバカにしているからです。
十八願ではなく二十願なのかな、そう思っただけです。
阿弥陀様の本願を、そんなこと。(ああ、でも、しているのが凡夫、なんですよね)
ともあれそう見えたなら、申し訳ないことです。
>これは、私の領解と違います。
>これでは、南无阿彌陀佛が要らないではないですか。
南無はたのむ機の方、阿弥陀仏はすくう法の方。
そのいわれを書いたのですが。
114 :
298:2008/02/22(金) 05:45:13 ID:3p8USRPP
>>113 >どうして機の深信のことを話したら、こういう風になるのか、よくわからないのです。
>「無碍の一道」に出られたのなら、以前私はこんなに苦しんだ、でもその苦を
>阿弥陀様が楽と変えてくださった、なんと幸せな私だろう、有難い。
>となるのではないですか?
もちろん、そう書いても構わないですし、そうも言えます。
ただ、それだと、聞き流されます。
>>そんなのは、南無阿弥陀仏の中に決まっています。愚問極まれり。
>中に、ね。
これは、私はまじめに書いているのですよ。
御同行は、これがわかるはずです。
>どんどん言ってください。お聖教に書かれていることですし。
>地獄地獄と言われてわかる私たちなら、如来聖人もご苦労はされなかったと思います。
それが、違うのです。言ってもわかりません。
わかる機は、言わなくてもわかるのです。
ですから、言うべきことは、そこではなく、南无阿彌陀佛です。
そして、とても大切なことは、そこはわからなくて良いということです。
わからぬままで、弥陀をたのめば、機の深信も、法の深信も、
弥陀からいただけるからです。
自分で作ろうとする必要など、本当に無いのです。
だからこその易行、だからこその他力です。
115 :
298:2008/02/22(金) 05:50:38 ID:3p8USRPP
>>113 >そのいわれを書いたのですが。
ここは、確かに平行線になる恐れがあるところです。
しかし、あなた様なら、もしかしたら落ち着いて読んでくださるかもしれないとも
思うので、書きます。
「そのいわれを書いた」ということは、あなた様は、
既に、あなた様のところで「いわれ」とされている内容を
聞いているということだと思います。
では、よく読んでください。
◎されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、
信心決定の体とす。
「体」の意味が、わかりますか?
「いわれをよくこころえわけたる」ことができたのであれば、
もう、信決定できるということですよ。
わずか2行です。御文様は、一文字一文字が佛菩薩だと思って、
本当に、よく読んでみてください。どうか御願いします。
116 :
298:2008/02/22(金) 05:57:36 ID:3p8USRPP
>>113 「南無が機で、阿弥陀仏が法」もちろんその通りで、これは本当に尊い御内容です。
しかし、4様は、これだけの説明で、本当に、納得できるのですか?
これが、「六字のいはれ」のすべてであると、ご納得できますか?
掟の存在を考えた場合、御文様と言えど、最後までは書いていないとわかるはずです。
「南無が機で、阿弥陀仏が法・・・ふーん、なるほど」と、
獲信できますか?
それで、「本当に本当に尊い南無阿弥陀仏」と、わかりますか?
私には、それでわかるかたが不思議です。
それだけでは足りないと、感じてほしいのです。
その足りないところを、教えてくださる方が、次第相承の善知識様だからです。
本当に、尊い方です。
もちろん、善知識と言えど、凡夫ですけれども、凡夫が救われる道を教えてくださいます。
117 :
298:2008/02/22(金) 06:04:46 ID:3p8USRPP
>>114 >「無碍の一道」に出られたのなら、以前私はこんなに苦しんだ、でもその苦を
>阿弥陀様が楽と変えてくださった、なんと幸せな私だろう、有難い。
>となるのではないですか?
それに、こう↑書くと、誤解されます。
そんな信心は嘘っぱちで、化けの皮がはがれる信心です。
あなた様は、獲信者に教わっているのでしょう?
ということは、こういうことを言っているということですね?
私は、それは偽物だと思いますね・・・
よくよく観察されてみてほしいですね。
私なら、むしろこう言いますね。
「信心獲たって、ゴリゴリ苦しみますよ。もがき苦しんで死ぬかもしれないですよ」
現世の楽を求めて、信心獲るのですかね?
これがわかるから、楽になるんじゃないんでしょうか。
118 :
4:2008/02/22(金) 06:09:31 ID:IqSPSGYr
>「体」の意味が、わかりますか?
意味、ですか。すがた、と読めます…。
大切なところと思いますので、よくよく読ませて頂きますね。
ありがとうございます。
>「南無が機で、阿弥陀仏が法・・・ふーん、なるほど」と、
>獲信できますか?
なるほどとは思います。
物凄い事をされたなと、勿体ない、ありえないほど尊いとも思います。
ただそれが、私の身体にしみこんでいない。どこか他所様のこととして
うけとめている、ということだと思います。
>掟の存在を考えた場合、御文様と言えど、最後までは書いていないとわかるはずです。
>その足りないところを、教えてくださる方が、次第相承の善知識様だからです。
いや、これはちょっと受け入れ難いです。やはり。
119 :
298:2008/02/22(金) 06:15:18 ID:3p8USRPP
>>113 >阿弥陀様の本願を、そんなこと。(ああ、でも、しているのが凡夫、なんですよね)
>ともあれそう見えたなら、申し訳ないことです。
もし、第十八願いただいていないと思えるのであれば、
せめて自力のお念仏致しましょうと、
南無阿弥陀仏を口に称えてください。
一日中称えよとは言いませんが、それなりの回数は、
称えてほしいです。
第十八願は、凡夫直入の易行です。
第十八願いただいていないなら、基本的には、地獄行きの機でしょう?
もし、それを多少なりとも感じているのなら、
口から自力のお念仏が出るのではないですか?
そして、地獄に行きたくないから、自然と口に出るお念仏は、
弥陀をたのむ心も入っていますし、実は他力が入っているのです。
だからこそ、第十八願にお導きくださいます。南无阿彌陀佛
120 :
4:2008/02/22(金) 06:18:27 ID:IqSPSGYr
>「信心獲たって、ゴリゴリ苦しみますよ。もがき苦しんで死ぬかもしれないですよ」
そういうお話も聞いていますよ。
ただ、苦が楽となる世界、とはお聞きしていますので。
>現世の楽を求めて、信心獲るのですかね?
生死流転から逃れるため、ですね。
(腹の底ではそんなもの求めていないとしても、です)
それがそのまま、現世の幸福となる、ということと聞かせて頂きます。
121 :
298:2008/02/22(金) 06:21:04 ID:3p8USRPP
>>118 >いや、これはちょっと受け入れ難いです。やはり。
受け入れがたいとわかることは、良いことではないでしょうか。
>>33にて引きましたから、ここでは再度引きませんけれども、
現状の4様は、お聖教よりも優先していることがあるということです。
>>33も幾度も読んで、ご自分の思いと、比較して欲しいですね。
>>33と、
>>115をよく読めば、善知識から「いはれ」を聞いていないと、
わかる日が来るかもしれません。
その場合、4様の善知識様は、そもそも六字のいはれを知らないか
(おそらく、知らないのだと思います。しかし、私は4様を通して
4様の善知識様を見ていますから、違うかもしれません)、
六字のいはれは知っているけれども、4様の宿善開発を待っているか、
どちらかだということになると思います。
すぐにわからない方にとっては、やはり、そのようにして
機を見つめてゆくことも有効です。自分がわかりますからね。
ただ、その方向性が大切だと思います。
そして、もし地獄行きだと多少なりとも感じるなら、
他に凡夫ができることなどないのですから、
口に南無阿弥陀仏を出して下さい。
122 :
298:2008/02/22(金) 06:26:28 ID:3p8USRPP
>>120 これを読んでも、お聖教よりも、法話優先という感じが致します。
>それがそのまま、現世の幸福となる、ということと聞かせて頂きます。
確かに、そうなのですが・・・
わかって言っているか、どうかだと思います。
私も、4様を通してしか聞いていないとは言え、
やっぱり、おかしい気がしますね・・・
それは、4様が誘導されている方向を見て、思うのです。
宿善の開発をするにしても、その方向性が、おかしいと感じます。
対応するお聖教は、出せますか?
別に、わざわざ調べなくて、いいですよ。
お伺いしている内容について、
お聖教が想起できるかどうか、いつも確認してほしいということです。
これは、信を獲るために必須ではありませんが、
もし、「お聖教を重視している」ということであれば、必要なことです。
そうでないなら、「お聖教は重視していないけれども、
お聖教に基づいているとされる法話を聴いている」ということになると思います。
123 :
4:2008/02/22(金) 06:37:57 ID:IqSPSGYr
>
>>33にて引きましたから、ここでは再度引きませんけれども、
>現状の4様は、お聖教よりも優先していることがあるということです。
これは、貴方の解釈より、私の善知識の解釈を優先している、ということです。
信じている、ということです。
信心獲得している、というかたはいろいろにいて、それぞれ違うことを言われて
いるとしたら、何方を善知識と仰げばいいのかは、それぞれ自分で決めるしかない。
>そうでないなら、「お聖教は重視していないけれども、
>お聖教に基づいているとされる法話を聴いている」ということになると思います。
同じお聖教に基づいても、教え方はいくらでもあるので…。
もう何処を読んでも「お前を助けるぞよ、お前を助けるぞよ」と書いてある、
そう思って読ませて頂くしかないと思っています。
後は、常に自分の体験や心と照らすようにして、確かめています。
例えば、298さんの言われること、ほとんどはその通りと思えるけれど、
どこかおかしなところがある…とかも。
ただ、こうして信心の沙汰をさせて頂けるのは、有難いことです。
南無阿弥陀仏を口に出すこと、お聖教を読むこと、続けさせて頂きます。
124 :
298:2008/02/22(金) 06:50:41 ID:3p8USRPP
>>118 >>「体」の意味が、わかりますか?
>意味、ですか。すがた、と読めます…。
◎されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、
信心決定の体とす(御文3-7)
これは、私は「体」と「用」の「体」と解しています。
(他の説もあると思います。)
三帖第七通は、獲信の方法がズバリ書いてあるわけですから、
とても大切です。
そのまま読んでゆくと、「機法一体の南无阿彌陀佛」が出てきますね。
そして、
◎これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして
とあります。ここにおいて、「体」が「用」となり、
凡夫が弥陀の真実信心をいただきます。
六字のいはれはむなしいものでは無く、はたらきがあるものであり、
そして、それは易行であり、南无阿彌陀佛なのです。
今、三帖第七通を幾度か読み返してみましたが、
御文様は、本当に本当に尊いです。
125 :
298:2008/02/22(金) 06:54:38 ID:3p8USRPP
>>123 >これは、貴方の解釈より、私の善知識の解釈を優先している、ということです。
>信じている、ということです。
もし、「教え」ということでなく、「解釈」ということであれば、
今4様が教わっている善知識様は、
◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、
善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり
◎善知識に遇ひ法を聞きよく行ずること、これまた難しとす
ここを、一体どう教えていらっしゃるのでしょうか。
「法を聞き、よく行ずる」私には、大変よくわかります。
それに、「報土に往生すべき他力信心の道理なり」とあるのに、
六字のいはれをききひらいていると思われている4様が獲信していないのは、
いかにもおかしいと思います。
どんな解釈なのでしょうか。さしつかえなければ、
教えていただけませんか。
126 :
298:2008/02/22(金) 07:02:58 ID:3p8USRPP
>>123 >信心獲得している、というかたはいろいろにいて、それぞれ違うことを言われて
>いるとしたら、何方を善知識と仰げばいいのかは、それぞれ自分で決めるしかない。
これは、全くその通りだと思います。
その際に、もっともたよりになるのは、お聖教ではないでしょうか。
だからこそ、私は御文様の御拝読を、みなさまにおすすめしています。
尋ねはじめる前に、3回は読んでほしいのは、
判断の基準が無いと、判断もできないからです。
>もう何処を読んでも「お前を助けるぞよ、お前を助けるぞよ」と書いてある、
>そう思って読ませて頂くしかないと思っています。
まずは、文字通りに読むことが大切だと思いますよ。
妙好人のエピソードからの影響が強いようですが、
お聖教が優先だと思います。
「お前を助けるぞよ」と読んでもいいと思いますが、
それは信後の味わいでしょう。
信をいただいてから、そのように読んで、本当にありがたくなって、
御恩報謝の南無阿弥陀仏であると思います。
>南無阿弥陀仏を口に出すこと、お聖教を読むこと、続けさせて頂きます。
それであれば、私は安心です。
127 :
298:2008/02/22(金) 07:08:55 ID:3p8USRPP
>>123 >後は、常に自分の体験や心と照らすようにして、確かめています。
>例えば、298さんの言われること、ほとんどはその通りと思えるけれど、
>どこかおかしなところがある…とかも。
「自己観察」ということであれば、その「おかしなところ」を明確化して、
私に聞いてみたり、お聖教と照らし合わせてみたりすると、
良いと思います。
今のところ、「どこかおかしなところがある」という感覚で、
とまっているみたいですね。
「どこかおかしなところがある」と感じているということは、
4様の中に、「真宗とは、〜である」という考えが入っていて、
それと私の発言に齟齬を感じているはずです。
まずは、『この「真宗とは、〜である」という考え』を見つけ出し、
お聖教と照合する。
そこまで進めば、お聖教の箇所もわかりますから、
引用しながら、こちらに書いて質問することもできます。
128 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 09:46:04 ID:JErpugK+
>93
>私は、真宗の救いを隠そうとする方は、嫌いです。
これはブラックジョークか何かでしょうか。
いや失礼冗談です。
129 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 09:52:33 ID:JErpugK+
お聖教といっても蓮如蓮如で親鸞や無量寿経ではないのは
なにか特別な理由があるんですか。
130 :
4:2008/02/22(金) 10:46:44 ID:IqSPSGYr
>>125 >◎善知識に遇ひ法を聞きよく行ずること、これまた難しとす
>ここを、一体どう教えていらっしゃるのでしょうか。
ここのところははっきり善知識にお聞きしてはいませんが、
お言葉のままと聞かせて頂きます。
私の善知識に遇わせて頂くこと、聞即信とききひらくこと、
御六字に徹した姿となって御恩報謝の念仏させていただくことは、
本当に難しくまれなことであった、ということです。
信前には信前なりに、なるほど私のことである、と納得できます。
>六字のいはれをききひらいていると思われている4様が獲信していないのは、
>いかにもおかしいと思います。
聞いてはいるけれど聴きひらいていないということです。
見れども見えず、聞けども聴けず、です。
ということ、妙好人を自称されるかたにはお分かりのことと思いますけれど。
131 :
4:2008/02/22(金) 10:47:21 ID:IqSPSGYr
>>127 >「自己観察」ということであれば、その「おかしなところ」を明確化して、
>私に聞いてみたり、お聖教と照らし合わせてみたりすると、
>良いと思います。
そうしていましたよ。
そして、私がおかしいと感じるところ、機の深信についてお話をしていたら、
突如、「貴方に何がわかる」、とばかり怒りだされたものですから、驚きました。
>>126 >まずは、文字通りに読むことが大切だと思いますよ。
>妙好人のエピソードからの影響が強いようですが、
>お聖教が優先だと思います。
冗談で書いたのですよ…
文字通りに読み、善知識に教えて頂き、自分の体験と照らし合わせ、ほかの方にも聞き、
法に我が身をつけるように、読ませて頂いています。無学ですから、わからないお言葉や
いろいろな疑問もありますが、教えて頂いたり、自分の体験ではっとわかるときがあるものです。
それでも、どう読もうと私の主観が入ります。
信前はその主観のまま進むしかありません。
貴方にも、貴方の主観が入っておられるようです。機の深信のところ、なぜ
「凡夫にわかるものでない」と最初言っておられたのに、「よくわかります」と
変わったのですか?
いずれにせよ、298さんも、ご自身の心、よくよくこれでよいのかと
確かめて頂ければ、幸いに思います。自分のためにも、改めて書きます。
・機の深信が「わかるものではない」というのは、それは、真宗の真実信心ではありません。
・「特別な人に特別ないわれをきかなければ信心決定できない」これも、真宗の真実信心ではありません。
132 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 11:11:03 ID:XAlE4aYE
298氏の言う秘密の「六字のいわれ」とは、こんな感じだろうか?
岩手県 渋谷地講 口伝の六字のおいわれ
「六字のおいわれ、どう聞きました、罪もさわりもそのままで、助けたまえる御手柄に、すがる思いでござります。
疑うな、危ぶむな、気づかえするな、尻込みするな、偽りいわんぞ、騙さんぞ、必ず助けてやるぞとある。
真実の御誠じゃほどに、水に入れば濡れるがやく、そこ火に入れば焼けるがやく、即今、頼めば助くるやくふしょうじゃの御使いじゃ。
石にかなごの金剛しん、硬い領解がまことなら、いつ死のうとも、いつ終わろうとも、息切り眼の閉じ次第、安養浄土に初参り。
ああ有難や我身をふりかえりみれば、三十二相ははちぢっち、我がおうぐんのはだえとなり、身にはおう法の妙服、
肩にざっくりとかがり、立てばしゃくやく座すればぼたん、あゆむ姿は弥陀同体二十五諸菩薩にとりまかれ、
やがてのうちにと聞こえたら、極楽浄土の真中で、さても尊や、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
『わがかくし念仏』社会評論社より
133 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/22(金) 11:58:39 ID:RXU/orbm
>>131 >そして、私がおかしいと感じるところ、機の深信についてお話をしていたら、
>突如、「貴方に何がわかる」、とばかり怒りだされたものですから、驚きました。
機の深信を問われることは、298さんにとって痛いところなんでしょうね。4さんはそこを
突いた。298さんには、演技者として芝居の台詞の準備ができていなかった(笑)。
>自らの機を見つめ、罪悪深重の凡夫と見るのは、観察門と思いますが、4様の見解は、
いかがですか?(
>>92) まあ、298からこんな珍説が出てくるとは思わなかった(笑)。
>自らの機を見つめ、罪悪深重の凡夫と見る観察は、正行でしょうか、雑行でしょうか。
(
>>92)
破れかぶれという感じだよね。正雑二行の沙汰は禁じられていると言っていた人の言葉とも
思えない(笑)
機の深信の無いところでは念仏はでない。救われてしまっていれば念仏を称える必要もない。
>
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1200414712/538 > 下根の機の修行法のはずであった、口称念仏もできないような怠惰な我らを、
> 救ってくださるのが南无阿彌陀佛です。弥陀もたのまず、口にも称えない。
> 十八願でもなければ、二十願でもありません。善行もできない。十九願でもありません。
> 結局、十八願を求めるしかないのです。
私(298)は、念仏など称えていませんという表明だ。
真実の信心は必ず名号を具す(信の巻)。298は、念仏信心者を芝居する2ちゃんねるとし
ては面白いキャラだ。なにか魂胆があるのかも知れない。
134 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/22(金) 12:08:04 ID:RXU/orbm
>132
非常に興味深い。こういう信心があるんですか。なるほど。
いまはこんな本をゆっくり読んでいる暇はないけど、いつか読んでみたい。
僕らよりは、298さんの考えの方が、これには近いように感じる。同じかどうかは
分からない。
ところで、その本の中に、正雑二行の沙汰をするなという主張は出てきませんか?
地域地域でいろんな土着思想が生まれているんだろうね。
135 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/22(金) 12:41:58 ID:kZKNpFMF
横レスごめん。
>111で弥陀からもらう信心だとおっしゃりながら、
>112で称名を勧めるのは、なぜ?
三願転入でしょう
137 :
298:2008/02/22(金) 13:09:59 ID:SynD71RZ
>>130 >私の善知識に遇わせて頂くこと、聞即信とききひらくこと、
>御六字に徹した姿となって御恩報謝の念仏させていただくことは、
>本当に難しくまれなことであった、ということです。
これは、間違いとは思いません。
ただ、「本当に難しくまれなことであった」という感慨であるなら、
それは信後のことです。
>聞いてはいるけれど聴きひらいていないということです。
>見れども見えず、聞けども聴けず、です。
>ということ、妙好人を自称されるかたにはお分かりのことと思いますけれど。
私からすれば、六字のいわれを、聞いていないからです。
「見れども見えず、聞けども聴けず」というのは、お聖教等についてのことです。
「六字のいわれ」というのは、聞けば分かるようになっています。
そうでなければ、どうして凡夫が救われるのでしょうか。
4様の教わっている教義体系は、なんとなく見えてきますが、
そこには南无阿彌陀佛が無いように感じます。
「獲信」と言っても、南無阿弥陀仏を離れている獲信でしょう。
138 :
298:2008/02/22(金) 13:12:21 ID:SynD71RZ
>>132 「こんな感じ」というのは、その方の「六字のいわれ」をいただいた、
感慨ということなのでしょうか?
六字のいわれを聞き開けば、弥陀をたのんで、獲信します。
弥陀のたのみ方がわからず、獲信もできないのは、
六字のいわれではありません。
139 :
298:2008/02/22(金) 13:17:13 ID:SynD71RZ
>>131 >貴方にも、貴方の主観が入っておられるようです。機の深信のところ、なぜ
>「凡夫にわかるものでない」と最初言っておられたのに、「よくわかります」と
>変わったのですか?
自力と他力について、何度か説明しています。
説明してもわからないようなので、あれこれ試みました。
>機の深信が「わかるものではない」というのは、それは、真宗の真実信心ではありません。
弥陀にいただく信心はわかりませんが、いただいたことはわかるのです。
>「特別な人に特別ないわれをきかなければ信心決定できない」
>これも、真宗の真実信心ではありません。
実際それで、獲信できるわけですからね・・・
私からすれば、「強固な思い込みだなあ」という感じです。
無理もないですが・・・
お聖教に、反していないでしょう?
反しているのは、あくまでも、あなたが教わっている教義に対してです。
とりあえずは、今求めている道を、真剣に追究したら良いと思いますよ。
心を疲れさせて、獲信した気分になる方法だと思いますが、
それを良いと思うなら、まず実行して、そこにて獲信者とされている状態にまで、
進むことだと思います。
140 :
298:2008/02/22(金) 13:18:17 ID:SynD71RZ
>>131 私が言っていることと、あなたが教わっていることが違うとあなたにわかるのは、
私がわかりやすく書いているからで、それは良いことだと私は思っています。
あいまいに書けば、同意する方は増えるでしょう。
しかし、それは見かけの同意にすぎず、それは、
その方が既につかんでいることを、強化するに過ぎません。
その場合、はじめから御同行の後念相続になるだけです。
私の意図は、違います。
現実に、獲信する方を増やそうとしています。
141 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 13:20:23 ID:XAlE4aYE
>>138 では本物の、弥陀のたの方がわかり、獲信できる『六字のいわれ』を教えて下され。
142 :
298:2008/02/22(金) 13:21:39 ID:SynD71RZ
>>131 >そして、私がおかしいと感じるところ、機の深信についてお話をしていたら、
>突如、「貴方に何がわかる」、とばかり怒りだされたものですから、驚きました。
あなたがたよりにしている妙好人伝に出てくるような方が、
とつぜん怒り出したエピソードが残っています。
私があなたを見て思うのは、たまたま読んだ範囲の
妙好人伝によって、妙好人のイメージを自作していて、
それによって裁いているということです。
とつぜん怒り出したエピソードが残っているその方は、
あなたの妙好人リストから、外されるのでしょうか?
143 :
298:2008/02/22(金) 13:32:35 ID:SynD71RZ
>>129 >お聖教といっても蓮如蓮如で親鸞や無量寿経ではないのは
>なにか特別な理由があるんですか。
◎『御文』のこと、聖教はよみちがへもあり、こころえもゆかぬところもあり、
『御文』はよみちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきはまりなり。
これをききながらこころえのゆかぬは無宿善の機なり(聞書53)
とある通りです。
もちろん、「親鸞や無量寿経」で構いませんし、お聖教ですから、
ものすごく尊いものです。
読む側の機の問題です。
「親鸞や無量寿経」は、信後に読んだ方が、わかりやすいと考えるからです。
獲信のために読むはずが、迷い道に深く入り込みやすいと思います。
特に、「無量寿経」は、はかりしれない内容があるわけですから、
私も、一生かけても、全部をわかることはないでしょう。
御文様は、凡夫の獲信について、しぼって書いてあります。
144 :
298:2008/02/22(金) 13:34:56 ID:SynD71RZ
>>141 そのための方法については、この一連のスレにおいて、
幾度も書いてきました。
もし本当に興味があるなら、これまでのスレを含め、
5つあるのですが、全部読んでみてください。
「他力」や「自然」ということが言われますが、
本当に興味がある方は、このようなことを言われなくても、
5つのスレを幾度も読み、本当かどうかを考え、
尋ねようかどうか考えることでしょう。
145 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 13:55:22 ID:XAlE4aYE
>>144 次第相承の善知識にあって「六字のいわれ」を聞かねばならない、まで読んだ。
多くの興味のある方の為に、こっそりと、その内容を説いてくだされ。
興味だけじゃ無理でしょう。
まことに後生を願う人なら、一歩踏み出して一生懸命に真の知識を探すはず。
147 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 14:06:06 ID:XAlE4aYE
>>146 もったいぶらずに教えてくだされ。
真の知識は、どこに居るのか?誰なのか?
手がかりや、ヒントだけでも教えてくだされ。
148 :
298:2008/02/22(金) 14:11:06 ID:SynD71RZ
>>147 手がかりや、ヒント以上のことも、既に書いていると思います。
私はごまかしを書いているのではありません。
過去ログが見えない環境であるのなら、
それも整えて、5つのスレをよく読んでみてほしいです。
ただ、私は、私にご縁が有る善知識以外は、
知りません。
でき得ることなら、地元の知識を探された方が、
後念相続が楽だと思います。
149 :
298:2008/02/22(金) 14:23:32 ID:SynD71RZ
>>131 それと、誤解されたくないのは、あなたはいろいろとご質問くださるわけですから、
単に信じ込んでいる方だとは、私は思っていません。
ただ、もともと、考え方に異なるところがあったわけですから、
すぐには受け入れていただけないのが自然だと思っています。
私にいろいろとご質問くださるように、身近な獲信者の方にも、
いろいろとお話をお聞きしてみてください。
私も、よく話そうと心がけていますが、やはり、掲示板の限界もあり、
面と向かって話せるのとは、違います。
身近な方がいらっしゃるのであれば、まずはその方々に、
よくよくお伺いしてほしいのです。
我らは短命の機ですが、あせっても、仕方がありません。
私の言うところの易行においては、そこまで辿り着けば、獲信は、
あっと言う間なのです。
ですから、まずは今いる場所で、納得行くまで求めてほしいと思っています。
5年でも、10年でも、私はそれがゆっくりとは考えません。
人の入れ替わりなども体験しながら、よくよく、感じてゆくことだと思います。
永劫の流転という時間のスパンから考えている私たちです。
本当に救われてほしいとき、よくよくわかっていただかねばなりません。
ついには浄土にて再会できるなら、それがうれしいのです。
150 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 14:56:23 ID:XAlE4aYE
次第相承の善知識はどんなことを教えてくれるのだろうか?
蓮如時代にそれを公開した者がいて、騒動がおこったという。
とんでもない秘密があるのだろうか?
どうような文献を探しても見つけられない「六字のいわれ」。
その内容は、未だ秘密のベールに包まれている。
151 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 18:42:56 ID:6roMzeU4
ジャンヌ掲示板より引用
(この書き込みは298さんと同じく「次第相承の善智識」から「直接」導いてもらわなければ
獲信できないという主張をする人の書き込み)
>私には、子供が居ます。
>理屈ではありません。
>私の産んだ子は、生後2か月の時と4か月の時に、信心を頂きました。二人産んでいますので。
>私は、しっかりとその場に立ち会っています。信心を頂いた姿を確認しています。
>言葉でもありません。知恵も教育も何もかも必要ない教えです。
>これを書くと、それこそ、秘事法門、土蔵秘事と言われてしまいます。
>実際に経験しない事には、信じられないのだと思います。
>ちなみに、私は、物心がついて、物の分別が出来る年になってからこの法に会いました。
>自分が結婚をして、子供が出来たら、一日も早く、この法に逢わせてあげたいと、その通りに、赤子の済度を善知識さんにお願いして信心決定しました。
>子供が、信を頂いていると言うのは、とても安心できます。
>本当に、理屈じゃないんです。これが、不可称不可説不可思議のなせる業です。
>みちくささんは、もう居ても立っても居られないのだと思います。
>身の置き場が無くなっているのではないでしょうか?
>一日も早く泥凡夫さんや私のようになりたいと、頭から離れないのではないでしょうか?そして、この赤子の獲信を早く解決したいと思っているのではないかと思います。
>この、赤子の獲信は、前にお話した、疑情の本願疑惑から来るのだと思います。
>阿弥陀様の力を我が計らいでどうにか解決しようとするから悩んでしまいます。
>私も、何で、赤子を救えるのか、阿弥陀様はよくもまあ、こんなすごい法を考えたものだと思います。
実際に救えてしまうのだからビックリ仰天です。弥陀の光明に逢ったと云う証拠もあります。
『弥陀の光明に逢ったと云う証拠もあります。』
光明秘事?
152 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/22(金) 19:44:50 ID:RXU/orbm
>141 名前:神も仏も名無しさん
>獲信できる『六字のいわれ』を教えて下され。
>144 名前:298
> そのための方法については、この一連のスレにおいて、
> 幾度も書いてきました。
> もし本当に興味があるなら、これまでのスレを含め、
> 5つあるのですが、全部読んでみてください。
>
> 「他力」や「自然」ということが言われますが、
> 本当に興味がある方は、このようなことを言われなくても、
> 5つのスレを幾度も読み、本当かどうかを考え、
> 尋ねようかどうか考えることでしょう。
>
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1202651606/12 名前:298
>>298さんは、その「次第」というのはどのような内容であると推測されますか?
>
> 私は、六字のいわれをいただいており、掟に触れる可能性がありますので、
> 推測といえども、お話できないのです。
二つのスレを同じ人が書いているんだよね。
298は、いつの間にか掟を勝手に破っていたということか?(苦笑)
六字のいわれと「次第相承」をごっちゃに考えてます?
(因幡の源佐)
「ご法義を聞かせてもらうと、たった一つ変わることがある。それは世界中のことが皆
本当になってくる。人が源佐は鬼のようだと言われれば、それは本当だ。地獄の出店の
子だから。また人が源佐は生き仏さんのようだと言われれば、それも本当だし、
仏種をもらっているから今に仏にしてもらうのだからのう」
(田原のお園)
「三州暮戸会所に於いて御使僧様(本山から派遣された説教僧)の説教が、あまりにも
疑い晴れよ晴れよ(如来のお救いについて疑いを持つなかれということ)がきびしかったので、
お園さんは両手を振りながら『曇らばくもれ、晴れたとて花の浄土は見えやせまい
(見ることはできないだろう)。みんなそこらじゃそこらじゃ』と囃し込んだら、御使僧はじめ
参詣の同行一同びっくりしたという。」
155 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/22(金) 21:02:36 ID:RXU/orbm
>>137 >「六字のいわれ」というのは、聞けば分かるようになっています。
自分で「聞く」のなら、これはどう考えても、真宗の信心ではありません。
>>138 >お聖教に、反していないでしょう?
上のほうで「かくし念仏」などがご紹介されていましたね。
298さんの言われることは、わたしには、親鸞聖人が否定された秘事法門の
流れを汲むものと見えます。
>>140 >私が言っていることと、あなたが教わっていることが違うとあなたにわかるのは、
>私がわかりやすく書いているからで、それは良いことだと私は思っています。
そうですね。有難いことだと思っています。
それに、298さんはとても率直で正直な方なのだと思います。
機の深信、うんうん、あるよと言ってしまえばそれですむものを、
そう言わないで、ご自分の信心を明らかにされているのですから。
ただ、その信心が真宗の信心であるかどうかは、別のことです。
だから、298さんは六字のいわれは聞きひらいているけど、「次第」は相承していないの。
もし相当のところまで推測していたとしても、「次第相承」ついては言ってはならないです。
どこも掟破ってないですが。
>>142 >あなたがたよりにしている妙好人伝に出てくるような方が、
妙好人に関することは、本のこと、インターネットのこと、ここでのやり取り含めて、
ご縁を深めさせて頂く大切な機会と思っておりますが、たよりにはしていません。
>とつぜん怒り出したエピソードが残っているその方は、
>あなたの妙好人リストから、外されるのでしょうか?
その妙好人のエピソード、ぜひぜひ、詳しくお聞かせください。
突然怒り出すと言っても、前後のやりとり、状況によってさまざまです。
このスレは貴重なご縁と思いますので、妙好人のお話をご存知の方は
ぜひ教えて頂ければ幸いに思います。
>>157 こちらの法門では赤子でも信心を獲る。
機を問わないどころか法も問わず。
「六字のいわれ」は赤子でも聞き開くことができるんですね。
そうですよ。私も赤子のときにいただきました。
六字のいわれを聞きひらくには老少善悪は関係ないです。
阿弥陀様は、意識のしっかりした、理解力の優れた人しか助けないような
そんな差別はしないです。
161 :
298:2008/02/22(金) 21:57:55 ID:SynD71RZ
>>158 獲信前なのに、妙好人のエピソードを知ろうとするのは、
おそらくわかりやすいからでしょう?
わかりやすいのは、今の自分にとって、近いからです。
自分でわかろうとすれば、どんどん離れるばかりです。
わかりにくいのだとは思いますが、真剣に考えているなら、
妙好人のエピソードを学ぶ時間で、お聖教を読んでください。
信後のすがたは、さまざまなのに、そこで判別しようとしていることが、
お聖教の内容に異なると、私は思います。
信をとったかどうかは、あくまでも、弥陀をたのんだかどうかだと、
私は思っています。
私がこのスレで書いていることも、お聖教を読むきっかけにしてほしいです。
私の書いていることで、「おかしいぞ?」と思ったら、
それに反するお聖教を探そうとしてほしいです。
そのようにして、お聖教に親しむ習慣を付けることだと思います。
162 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 21:58:04 ID:JErpugK+
>>160 なるほど。では「たのむ一念」は獲信者の側からの働きかけではないんですね。
「聞き開く」も。善知識様におまかせして。
163 :
298:2008/02/22(金) 21:59:38 ID:SynD71RZ
>>160 赤子の獲信は、信前に、自覚のできる機の深信を得ることが
必要のないことがよくわかるから、いいですね。
意識作用が、はたらきはじめる前の段階ですからね。
それでも、心があると、仏教では見るわけですから。
御同行の方がいらっしゃるのは、うれしいことです。
164 :
298:2008/02/22(金) 22:02:23 ID:SynD71RZ
>>156 >>「六字のいわれ」というのは、聞けば分かるようになっています。
>自分で「聞く」のなら、これはどう考えても、真宗の信心ではありません。
「どう考えても」というのは、もちろんレトリックだと思って読んでいます。
手順は、
>>127に書いた通りです。
「どう考えても」でとどまるのではなく、具体的に、反すると思うお聖教を
抜き出して、紹介してほしいです。
「聞」には、いくつかの意味があります。
説明を聞く段階では、まだ信を獲ていません。
体全体で聞くのなら、そのとき信を獲るでしょう。
165 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 22:03:25 ID:XAlE4aYE
赤子には、善知識様は、「六字のいわれ」をどうやって伝えるのであるか?
テレパシー?それとも、顔の表情で表現するとか?
166 :
298:2008/02/22(金) 22:06:18 ID:SynD71RZ
>>156 >298さんの言われることは、わたしには、親鸞聖人が否定された秘事法門の
>流れを汲むものと見えます。
これも、どこが共通だと思って、そう思っているのか、
ぜひ明確化して、その共通部分を紹介してほしいと思います。
親鸞聖人が否定された秘事法門というのは、
念仏では無い教えのことなのではないでしょうか。
私が書いているのは、あくまでも南无阿彌陀佛、
弥陀の第十八願についてです。
167 :
298:2008/02/22(金) 22:09:02 ID:SynD71RZ
>>165 想像すれば、あれこれ想像できると思いますが、
それは、165様の獲信には、あまり役立たないのだろうと思います。
事前に知ろうとしても、それはできない相談であるのですから、
だからこそ、聞き開かねばならないのですから、
お話聞いたのが2chだから、すぐには聞けないですが、
これが親しい知り合いから来たお話であれば、
興味を示せば、知識のもとに連れて行っていただけるかもしれません。
ですから、有縁を尋ねるのが、この意味でも早いです。
168 :
これかなぁ?:2008/02/22(金) 22:22:50 ID:DD1U3rnO
不退相伝の儀式
妊娠中に受けるとよいと勧められる儀式で 30万円
胎内にいる間に、仏との縁を結び、無事にこの世に生まれさせていただくという儀式
いわゆる、安産祈願、不退は産まれてくる子が 真実の道、浄土へ向かう道から外れないという意味を含むようだ。この儀式を受けたあかちゃんは臍のおが白いと云われるが、元、念仏宗信者の言によれば、他のあかちゃんの臍のおと 変わらないとのことである。
169 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 22:39:43 ID:ZyWWxnhA
>151
>『弥陀の光明に逢ったと云う証拠もあります。』
>光明秘事?
『弥陀の光明に逢ったと云う証拠もあります。』って・・・・
ピカーッと光ったから獲信だなんて・・・
この人、どんだけ騙されてるんですかw
298さんは同類ではないですよね?
170 :
298:2008/02/22(金) 22:53:27 ID:SynD71RZ
>>169 これだけでは、「ピカーッと光ったから獲信」っていう意味で書いているかどうか、
わからないと思います。
「弥陀の光明に逢ったと云う証拠」というだけなので、何を指しているのか、
よくわからないです。
全員が、「ピカーッと光った光を見る」ということならおかしいと思いますが、
(ライトによる手品? 視神経を外部から刺激?)
たまには光を見る方がいても、おかしいとは思いません。
私はそのようなものはよく知らないので推測ですけれども、
たとえば、視神経の刺激の仕方が次第として相承されていれば、
光明秘事の法脈が作られるのだろうと思います。
そして、たまには光明を見る方が出ても、
なぜおかしいと思わないかというと、「光明」という単語でずっと教わっている以上、
光を見る方も出るだろうと思うからです。
はからずして、定善を為す方がいないとも限りません。
それに、時には奇瑞があってもおかしくありませんし、
弥陀の光明を見ることができる方も、いるのかもしれません。
ただし、それを条件にすることは、おかしいと思います。
光明が見えまいと見ようと、弥陀をたのめば信心決定だと思います。
171 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 23:00:23 ID:ZyWWxnhA
298さん、即レスありがとう。
>それに、時には奇瑞があってもおかしくありませんし、
>弥陀の光明を見ることができる方も、いるのかもしれません。
>ただし、それを条件にすることは、おかしいと思います。
ということは、
>『弥陀の光明に逢ったと云う証拠もあります。』
と言ってる人は、『証拠』にしているので、やはり一流の同行ではない可能性があるということでしょうか?
>>170 > 弥陀をたのめば信心決定だと思います。
赤子は弥陀をたのまずとも信心決定じゃないのですか?
173 :
298:2008/02/22(金) 23:04:29 ID:SynD71RZ
>>128 私がここに書いていることを読んで、
信じる信じないはともかく、
「このような信心がある」と、
はじめて知った方もいるでしょうし、あらためて知った方も、
いると思います。
これは、「隠す」というよりは、「広める」方向性だと思っています。
私が詳しく書かないのは、あくまでも、ここが無宿善の機も見る場所であるからで、
宿善の機と見える方は、積極的にお手引きした方がよいことも、
もちろんのことです。
善知識様も、隠したいのではなく、ひとりでも多くを、
弥陀の浄土に導きたいと考えていると思います。
174 :
298:2008/02/22(金) 23:07:21 ID:SynD71RZ
>>171 可能性はありますが、言いきれません。
御同行の方かもしれないので、否定したくないです。
「データーが少ないので、わからない」というのが正直なところです。
「証拠」の意味によると思います。
175 :
298:2008/02/22(金) 23:08:14 ID:SynD71RZ
>>171 私が書いていることも、私はいろいろ書いていますから、
同行が見ても、「うーん、同行っぽいが・・・」と思われる方がいても、
不思議はないと思います。
176 :
298:2008/02/22(金) 23:09:48 ID:SynD71RZ
>>172 >赤子は弥陀をたのまずとも信心決定じゃないのですか?
赤子も、弥陀をたのんで信決定です。
177 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 23:13:16 ID:DD1U3rnO
>>176 > 赤子も、弥陀をたのんで信決定です。
儀式によって赤子は無意識のうちにたのんでいるってことかな?
178 :
298:2008/02/22(金) 23:14:19 ID:SynD71RZ
>>172 赤子の獲信について、比喩を書きます。
事情があって、生みの親と、育ての親が違う方がいたとします。
その方は、子供の頃、その事情を教えてもらえず、
育ての親を生みの親だと信じていたとします。
しかし、大人になって、説明を受けたとき、
生みの親が別にいたことを理解するでしょう。
赤子にて獲信し、説明を受けなければ、本人は、知らないかもしれません。
しかし、よく観察する方であれば、周囲の方と、
心の動き方が、どうも自分は違うとわかるかもしれません。
いつか、事情を聞けば、「そういうことだったのか」と理解し、
弥陀を求める気持ちがあったこともわかり、
あらためて、(意識的に)帰依するのだろうと思います。
これは、私の推測です。私は、意識が育ってから、信をいただきました。
赤子のときに獲信された方が読んでいらっしゃったら、ご意見をお伺いしたいです。
179 :
298:2008/02/22(金) 23:19:18 ID:SynD71RZ
>>177 >儀式によって赤子は無意識のうちにたのんでいるってことかな?
「儀式によって」というのは、正確ではありません。
赤子も、あくまでも弥陀をたのまなければなりません。
赤子の獲信も、自力がかかわっています。
他力に至る自力が必要です。
いわゆる自意識によってたのむのではないのですから、
赤子から、大人になる過程に成長した意識によって、
たのむのでは無いのです。
これがわからないから、皆見当違いのことをして、
獲信できないのだと思います。
たとえば、赤子と言えど、肉体的な苦痛を与えれば、
体を動かして、逃げようとしますね。そこには意識の働きがあります。
そして、お母さんのちくびを見れば、吸い付いたりしますね。
これは、自力の働きです。
赤子も、拒否したり、求めたり、するのです。
>>179 > たとえば、赤子と言えど、肉体的な苦痛を与えれば、
> 体を動かして、逃げようとしますね。そこには意識の働きがあります。
>
> そして、お母さんのちくびを見れば、吸い付いたりしますね。
> これは、自力の働きです。
>
> 赤子も、拒否したり、求めたり、するのです。
本能としての行為も自力かぁ?
181 :
298:2008/02/22(金) 23:25:40 ID:SynD71RZ
>>180 >本能としての行為も自力かぁ?
「本能」として簡単に区分できません。
よく観察してください。
ひとつには、境界というのは、意識作用による錯覚であり、
単純化であるということです。
言い換えれば、どこまでが本能行為が、明確に切り分けることは、
できないと思います。
もうひとつには、赤子は、単なる本能行動だけを行っていません。
本能行動だけであれば、学習を伴わず、
反射行動の連鎖したものになるでしょう。
もし、身近に赤子がいらっしゃれば、バカにせず、
よく観察してください。
赤子と言えど、人間です。
182 :
298:2008/02/22(金) 23:28:26 ID:SynD71RZ
>>180 >本能としての行為も自力かぁ?
もうひとつ、別の観点から言います。
弥陀から真実信心いただくとき以外は、
自力です。
この観点からすれば、やはり自力となります。
信後の行為については、真実信心のもよおしと思える行為は、
自意識の管理下にあるように思えたとしても、
他力と呼ぶことがあります。
183 :
298:2008/02/22(金) 23:30:29 ID:SynD71RZ
本当に、赤子をよく観察してほしいです。
赤子も、心を持っています。
母親は、赤子と心を通わせているではないですか・・・
そして、母親は、赤子との心の触れ合いを、
コミュニケーションを、楽しんでいるものですよ。
さみしいことを、言わないでほしいです。
>>181 > もし、身近に赤子がいらっしゃれば、バカにせず、
> よく観察してください。
> 赤子と言えど、人間です。
私は赤子をバカにはしていませんよ。誤解のないように・・・。
>>179 > たとえば、赤子と言えど、肉体的な苦痛を与えれば、
> 体を動かして、逃げようとしますね。そこには意識の働きがあります。
>>181 > 反射行動の連鎖したものになるでしょう。
「肉体的な苦痛を与えれば、 体を動かして、逃げようとしますね。」
これは赤子じゃなくとも、大人でも反射行動でしょう?
あなたの言われることにつじつまがあわないことが多いのですよ。
185 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 23:33:06 ID:DD1U3rnO
赤子は、話しができませんが、お念仏はするのでしょうか?
186 :
298:2008/02/22(金) 23:34:25 ID:SynD71RZ
>>184 >「肉体的な苦痛を与えれば、 体を動かして、逃げようとしますね。」
>これは赤子じゃなくとも、大人でも反射行動でしょう?
>あなたの言われることにつじつまがあわないことが多いのですよ。
そうでしょうか。あなたは殴られた時、心が動かないのですか?
私の書き方が悪かったかもしれませんが、
赤子が逃げようとするのは、単なる反射行動ではないですよ。
それが見えない方には、よくない例であったと思いますが、
苦痛で心が動いていると思います。
反射というのは、たとえば、膝蓋反射のようなものです。
機械のように、スイッチを押して、作動して、逃げているのとは違います。
よく見て下さい。
187 :
298:2008/02/22(金) 23:36:39 ID:SynD71RZ
>>185 >赤子は、話しができませんが、お念仏はするのでしょうか?
お念仏にも、さまざまな種類があります。
第十八願のお念仏は、できます。
188 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 23:36:57 ID:XAlE4aYE
赤子が本当に口称念仏するのならば、298氏を信じる!
189 :
神も仏も名無しさん:2008/02/22(金) 23:45:52 ID:DD1U3rnO
>>179 > たとえば、赤子と言えど、肉体的な苦痛を与えれば、
> 体を動かして、逃げようとしますね。
>>186 > そうでしょうか。あなたは殴られた時、心が動かないのですか?
肉体的苦痛から体を動かして逃げる肉体的行動と、
殴られて腹が立つという精神的行動がごちゃまぜになっているように思うのですが・・・。
私は乳児の心理や知能などを勉強したわけではないので、赤子の話題はもう止めます。
190 :
298:2008/02/22(金) 23:47:24 ID:SynD71RZ
>>188 いわゆる口称念仏とは、違いますよ。
◎ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、
それは極楽には往生せず(御文3-3)
「ただ声に出してとなえる念仏」では、無いのですから。
もし、声を出すことが必須なら、発声器官を損傷した方が、
弥陀の救いからもれてしまいます。
あまりにも体が壊れれば、どこかで救いから洩れてしまうと思いますが、
声を出せなくても、獲信できます。
(私の現在の知識では、交通事故等で、重傷になった方が
体が[ある程度]回復する前に、信を獲るのは、無理なのではないかと思います。
たとえば、集中治療室にいるような状態で、
はたして獲信させることができるのか・・・
ただし、私が不正確な理解をしているだけかもしれません。
善知識にも同行にも、質問したことが無いです。)
ただし、赤子の獲信を間近に見た方は、
(自力の)信を強める助けになるのではないかと思います。
私は、赤子は目の前で見たことはありません。伝聞だけですが、
自分が見た例から考えても、ある程度想像できます。
(ただし、その例については、この場所では触れません。)
191 :
298:2008/02/22(金) 23:52:06 ID:SynD71RZ
>>189 赤子の逃げる例は、よくありませんでした。
私は、わかりやすいと思って出したのですが、かえって誤解を生みました。
申し訳ありません。
赤子にも、心があり、私たちが持っている自意識とは違う面があるにしても、
似ている面もあり、みずから、望んだり、拒否するとわかっていただければ、
それで十分です。
私の出した例にこだわらないでください。
そもそも、例として、間違っていたかもしれません。
192 :
298:2008/02/23(土) 00:02:24 ID:SynD71RZ
>>189 >私は乳児の心理や知能などを勉強したわけではないので、赤子の話題はもう止めます。
「乳児の心理や知能などを勉強」というのは、真宗で言えば教学にあたると
思うのですが、私は、現在の学問の知見について述べているのではなく、
もっと素朴な、観察について述べています。
私が自分のあげた例を「良くない例」だと思ったのは、「本能行動」と思う方がいるということを、
事前にきちんと予測していなかったからです。
ですから、心の動きを示す例としては、(例というのは、相手の方に「なるほど」と
思っていただくためのものですから)良くないと思いました。
私は、「肉体的苦痛から体を動かして逃げる肉体的行動」という立場ではないのですが、
そのような立場の方に話すには、良くない例です。
ですけれども、できれば「よく見てほしい」という気持ちに、変わりはありません。
なぜかというと、世間では(特に男性)、赤子の心がなおざりにされていることが、
多いだろうと思うからです。
十方衆生を救おうとなさった阿弥陀様を、尊いと仰ぐ私たちなのですから、
赤子も大切な、仏のもとなのですから。
真宗のことだけでも、意見が異なることが多いのに、それ以外のことでも、
意見の違いを増やすのは、望ましいことではないと思っています。
193 :
298:2008/02/23(土) 00:07:37 ID:SynD71RZ
>>184 >あなたの言われることにつじつまがあわないことが多いのですよ
お手数だとは思いますが、お時間のあるときに、
指摘していただけたら、助かります。
それだけだと、私には、どのような部分に不満を持たれているのか、
わからないのです。
194 :
298:2008/02/23(土) 00:27:24 ID:rIYOiw05
>>152 言葉には意味範囲がある以上、
排他的論理和の領域ではなく、論理積の領域を見ようとすることが大切です。
しかも、同一単語でも、その意味範囲は、
文脈によって、変化します。
ましてや、このような場所であれば、なおさらです。
また、同じものでも、異なる観点から、見れば、
違う形に見えます。
そのような描写についても、「形」の違いを見るのではなく、
それらを共に成り立たせる「同じもの」を見ようと
しなければならないと思います。
ただし、152における批判は、それ以前の問題であって、
基本的な読解ができていないと思います。
195 :
298:2008/02/23(土) 00:38:29 ID:rIYOiw05
信を獲る方法
1)真実信心を獲りたいと思う
2)獲信者を探す
3)次第相承の善知識を紹介して頂く
4)弥陀をたのむ
※その後は、御恩報謝のお念仏を、命終まで致します。
※正統かどうかを感じる力を伸ばすために、
御文様五帖八十通を、繰り返し読まれることをおすすめします。
196 :
298:2008/02/23(土) 00:41:53 ID:rIYOiw05
信前の方は
・「弥陀をたのむ」とはどういうことか、わからないはずです
・「六字のいわれ」も、わからないはずです
・「易行」と言われても、わからないはずです
・「非行の行」と言われても、わからないはずです
・「他力の行」と言われても、わからないはずです
・「自力の心をふりすてて」と言われても、どうすれば良いか、わからないはずです
・「六字のすがた」もわからないはずです
・「南无阿彌陀佛の主になる」も、わからないはずです
・「一文不知の愚鈍の身になして」も、わからないはずです
信をいただけば、これらすべてがわかります。
※このチェックリストは、信後に領解を確認するためのものです。
信前には、これらに答られる必要は無く、ただ「信前である」とわかるためのものです。
もし、自分でわからなくても、御同行や、善知識に説明をいただけるはずです。
これらがわからないなら、いたずら事だと思います。
197 :
298:2008/02/23(土) 02:24:00 ID:rIYOiw05
そして、「獲信しようと思わない」という方には、
「聴聞を、心に入れる」ことが、大切だと思います。
そのうちに、阿弥陀さまの、真実のみ心を、我が身に入れたい、
と思うときが来るかもしれません。
阿弥陀さまの、真実のみ心を、我が身に入れるということは、
これまで自分がこだわってきた、根っこの根っこを捨てるということですから、
強い抵抗があるはずなのです。
この抵抗を超えるために、機の深信が説かれることもわかりますし、
そのような自覚があるからこそ、「もう、こんな自分はいやだ、救われたい」と
思うのだろうとも思います。
198 :
298:2008/02/23(土) 02:27:17 ID:rIYOiw05
悪機が照らし出されるというのは、
阿弥陀さまは、どのような悪人でも救うために御修行なさって、
その永い永い間、一瞬足りとも、清浄でない心を作ったことのない方です。
ふりかえって、私は、それほどたいした悪人でなくても、
しかも「悪人」というよりは、私を攻撃する人に対して、
清浄ではない心を、簡単に出します。
しかし、阿弥陀さまは、どんな方をも救うために、
ご自分は悟られているのに、菩薩にくだられまして、
さらに御修行くださいました。
そのようなお話をお聞きするときに、
「常識」も変わって参りますし、
自らのことが、わかってくる面があると思います。
199 :
298:2008/02/23(土) 02:32:23 ID:rIYOiw05
そして、どんな方をも救うというのは、
私のような悪人も救ってくださるわけで、
そして、私のような悪人がいるからこそ、
法蔵菩薩様となりまして、御修行くださったのです。
私のような者がいないなら、
阿弥陀さまは、御修行する必要もなかった方です。
200 :
298:2008/02/23(土) 02:43:15 ID:rIYOiw05
阿弥陀様の光というのは、全宇宙に広がっておりまして、
これを、無碍光と申します。
さえぎることのない光です。
私たちに、見えないだけでありまして、
この宇宙にも、いや、この宇宙だけでなく、
すべての宇宙をつらぬいて、
西方極楽浄土から、すべての宇宙を照らしておられます。
201 :
298:2008/02/23(土) 02:44:27 ID:rIYOiw05
この光には、救いの力があります。
この光を受け入れた方は、
それまで、どんなに魂が汚れていようとも、
どんなに汚い心を持っていようとも、
一瞬のうちに救われまして、
よろこびの心が出て参ります。
202 :
298:2008/02/23(土) 02:46:11 ID:rIYOiw05
このよろこびを、そのまま表現しようとしましたら、
「南无阿彌陀佛」と言うしか無いのです。
南无阿彌陀佛、南无阿彌陀佛と、
これは、よろこびを表すことばです。
203 :
298:2008/02/23(土) 02:47:54 ID:rIYOiw05
そのように、救われてよろこんでおりますと、
この世界のすべてが、阿弥陀様の光に包まれていると、
わかってまいります。
南无阿彌陀佛、南无阿彌陀佛と、お称えしているうちに、
次第次第に、あちらこちらに、阿弥陀さまが見えてきます。
204 :
298:2008/02/23(土) 02:52:29 ID:rIYOiw05
それまで、うまく行っていないと見えたこと、
苦しみに見えていたこと、
それらすべては、阿弥陀様の光に護られていることであって、
悩んでいる方も、苦しんでいる方もおりますが、
これは、人によって、説き方が異なるところでありますが、
清浄心のみの弥陀は、そのような衆生をみまして、
心静かに、うれしく、よろこんでいらっしゃるのです。
これは、苦しみをよろこんでいらっしゃるのではありません。
阿弥陀さまは、もう、救いを達成されました。
後は、皆救われることを知っております。
よろこびながら、お待ちしているのです。
「いつでも、その気になったら、弥陀をたのめよ」とお待ちしておられます。
私たちは、苦しんでいるようですが、本当は、その苦しみは、無いのです。
苦しみに見えるものは、あくまでも執着であって、
執着というのは、望んでこだわっているものなのです。
205 :
298:2008/02/23(土) 02:53:58 ID:rIYOiw05
たとえば、「どうしても許せない」というのも、
こだわっているだけです。
許したくないのです。
腹が立つのも、同じです。
「アイツが悪い、どうしても腹が立つ」というのも、
こだわっているだけです。
そうして、感情の動きを、娯楽として楽しんでいます。
206 :
298:2008/02/23(土) 02:55:55 ID:rIYOiw05
弥陀は安心を得ていますから、あせることはありません。
何十億年たとうとも、何百億年たとうとも、
みなさま、ひとりひとりが、弥陀をたのむのを、
ただ楽しみに、お待ちになっておられます。
南无阿彌陀佛
207 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 02:59:59 ID:Cxj1txZf
>獲信前なのに、妙好人のエピソードを知ろうとするのは、
>おそらくわかりやすいからでしょう?
ここは妙好人と学ぶスレです。
貴方のご存知の妙好人のエピソードをご紹介ください。
ご自身が妙好人だと主張され、そのお話をされるのもいいですが、
それだけでは、このスレの意味がありません。
貴方がホームページを作って、そこでご紹介されればよいことですので。
なんだか、せっかくのこのスレッドが、298さんの宗教の布教場所になってしまっています…
>>151 >>私は、しっかりとその場に立ち会っています。信心を頂いた姿を確認しています。
これは浄土真宗じゃない。
はたからみて、「赤子が獲信しました」とわかるものではありません。
周りが決めることではありません。信心決定は、あくまでも、阿弥陀様と、本人の問題ですよね。
それをおかしいと言わない298さんの宗教も、浄土真宗ではありません。
浄土真宗でないものを、このスレを利用して広めようとしているようですね。
>>163 >赤子の獲信は、信前に、自覚のできる機の深信を得ることが
>必要のないことがよくわかるから、いいですね。
信前に機の深信が必要だなんて誰も書いていないのに、そのようにしか読めないのは、
やはり298さんは何か、凝り固まった信念をお持ちだと思います。
そしてそれは、浄土真宗ではありません。
(竹部勝之進)
「一息」
一息
一息
一息一息の尊さ
なむあみだぶつ
なむあみだぶつ
「仏様から戴いた眼」
仏様から戴いた眼
その眼はわが身の見える眼
ああ かたじけない かたじけない
(讃岐の庄松)
「西讃岐のある同行が、自分の家の法会に籠をもって庄松を招待し、その晩の
勤行に正信偈を読んでもらった。正信偈が終わると鐘を打ちながら、
「何ともない、何ともない」と言うだけで一言もない。集まった人たちは庄松が
何か有難い話をするかと待ちに待っていたが一言もないので、当てがはずれ
皆小言を言いながら帰っていった。
その家の主人が『有難い話の一つもしてくれればよかったのに』と不足を言うと、
庄松『何を言う。今夜有難い話があったではないか』と言う。主人が『何もなかった』
と言うと、庄松は『おらは非常に有難かった。あっちにも南無阿弥陀仏、こっちにも
南無阿弥陀仏、実に有難かった。それではこの辺では南無阿弥陀仏よりほかに
有難い話のある所か。おらは南無阿弥陀仏より外にはなんにもない』と言われた」
298様の信心が浄土真宗でないならば、本当の浄土真宗の信心とは
どういうものなのでしょうか。
いろいろな本や、妙好人の話を読んでみても、具体的なことはまったくわかりません。
これは私が愚かなために真意が読みきれていないのかもしれませんが。
しかし、そうなると、浄土真宗は易行ではなく難行なのじゃないか、とも考えてしまいます。
>>211 具体的なことがまったくわからないという点、とても同意します。
でも信前はそうなのだ、といわれますから、そういうものなのでしょう。
自分自身が、阿弥陀仏と一体にさせて頂くまで、求め続けるものだと思います。
そして、そして「そのときは必ずある」と、親鸞聖人も善知識のかたがたも
教えてくださっているのだと思います。
↓の言葉は、妙好人が信前の思いを述べられたものですよね。
信前は誰もこういう感じなのだと思います。
(因幡の源佐)
「聞けば聞くほどむずかしゅうてなあ。寝ても醒めてもむずかしゅうて
わからんだいなあ。易しい道とは教えて下さるが、なにが易しかろうがやあ、
仏さんも嘘を言われるがやあと思ったいなあ。」
(おかる)
「こうも聞こえにゃ聞かぬがましよ
聞かにゃ苦労はすまいもの
聞かにゃ苦労はすまいといえど
聞かにゃおちるし聞きゃ苦労」
私には無理かもしれませんね・・・
214 :
212:2008/02/23(土) 10:49:44 ID:9vbSotAq
>>213 そうですね、無理かもしれません… でも、(212の続きですが)
「今の苦労はさきでの楽と
気やすめいえど気はすまぬ
すまぬ心をすましにかかりゃ
雑修自力とすてらるる
すてて出かけりゃなお気がすまぬ
思えば有念 思わにゃ無念
どこにお慈悲があるのやら」
こううたったおかるさんが、
「聞いてみなんせ まことの道を
無理なおしえじゃないわいな
きのう聞くのも 今日またきくのも
ぜひに来いとの およびごえ」
「聞いてみなんせ まことの道を
無理なおしえじゃないわいな
まこと聞くのが お前はいやか
なにがのぞみであるぞいな」
こう言われる境地に至っているので、やはり「まこと聞く」ときはくるのだな、と思います。
215 :
212:2008/02/23(土) 10:50:41 ID:9vbSotAq
そしてそれは、この儀式をすれば…とか、この人からこの話一つを聞けば…というような
レベルのものではないと思います。
それなら、話は本当に簡単なんですけどね。
それは、秘事法門の流れをくむ、「わからないもの」を、自分でわかる手段(人造的なもの)で
「わかったことにする」というもので、真宗の信心ではないと思います。
他の宗教なら、それでいいんでしょうけど。
極端な話、強烈な暗示をかけたり、薬で幻覚を見せたり、脳をいじって多幸感を出したり、
いくらでも手段はあるわけで。
そうですか。
そういう境地になれる日がくればいいです。
しかし、妙好人の言葉はわかった様なわからないような禅問答みたいで。
私の周囲には源左さんやおかるさんのような人はまったくいません。
信心決定とはそれほどに稀なのでしょうね。
これなら禅宗も変わらないんじゃないかと思ったりするこの頃です。
298様以外に、信心を獲得されたと思われる方は、ここにおられますでしょうか。
218 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 11:23:41 ID:UEnBd2Ph
何だかお坊さんが可愛そう。
コピペ
蓮如までの八世代にわたって、真の教えは僧侶のあいだで口決相伝された。
本願寺の長となり真の教えを受けた蓮如は、死を前にしてそれまで通り真宗僧侶に教えを授与するかわりに、
慣習を破って門信徒に真の教えを授けようとした。
蓮如の目には、本願寺の僧侶は金儲けのために教えを利用するまでに堕落しており、
もはや信頼できないように見えたからだ、と善知識は言う。
そこで蓮如は真の教えを九人の門信徒である弟子に伝えた。
若狭慶聞房、大津九右衛門、南部善助、桶屋半助、
大坂町医師吉益半笑、紀州喜六太夫、金森道西房、伊勢空賢、三河教賢
219 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:28:00 ID:uH1T15bS
>>152 詭弁を弄する298を相手にしてもしょうがない。六字のいわれに秘密などはない。六字のい
われとは何か。298の大好きな御文に聞いていこう。 御文三帳目二通である。
>217
> 298様以外に、信心を獲得されたと思われる方は、ここにおられ
ますでしょうか。
信謗共にあるべし。宗教では看板嘘にまみれたものはない。
それ諸宗の心まちまちにして、いずれも釈迦一代の説教なれば、真にこれ殊勝の法なり。
仏教には大乗仏教と小乗仏教がある。大乗仏教にも聖道門と浄土門がある。聖道門にも様々な
教えがあり、浄土門にも様々な教えがある。釈迦一代の教えは、一説では八万四千の法門がある
と言われている。これらはいずれも素晴らしい法である。
もっとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑いなし。
いずれの教えであっても、これらを丁寧に修行していけば、必ずや仏に至る道を得る。このこ
とはいささかの疑いもない。
220 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:28:53 ID:uH1T15bS
>219
しかるに、末代このごろの衆生は、機根最劣にして、如説に修行せんひとまれなる時節なり。
しかし、これらの教えの全てが、現代という時代に生きる人々にとって最適であるという訳で
はない。実に我々は、時間に追われ、諸事に追われている。仏道を歩もうとすれば、我々を取り
巻く環境条件は最悪である。教えの通りに仏道を修行する人は極めて少なくなった。まさに現代
はそういう時代である。
ここに弥陀如来の他力本願というは、いまの世において、かかるときの衆生をむねとたすけ救
くわんがために、五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、造悪不善の衆生を仏になさ
ずは我も正覚ならじとちかごとをたてましまして、その願すでに成就して、阿弥陀とならせたま
えるほとけなり。
阿弥陀如来というのは、現代において、このような人々を主眼として救おうと、五劫という長
い時間思惟を続け、非常に長期間修行を積んだ。造悪の人々を仏にさせないかぎりは、自分も仏
にならんと誓いを立てたのである。
かつて、祇園精舎を創建した釈迦は、戒・定・慧という三学を柱にし、教育者として教壇に立
ち、多くの人々を育てた。自分の得ている認識を、人々との共有の財産として、共感的に享受で
きるようにならなければ、真の教育者になったことにならない。大乗の仏になったとはいえない。
そう信じて、教育活動をライフワークとして取り組まれた。
釈迦から教えを受けた弟子達は、自らも釈迦の後を追い、教壇に立って多くの人々を育てなけ
ればならないと考えた。これが大乗仏教である。
221 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:29:42 ID:uH1T15bS
>220
大乗仏教の先人達は、釈迦をモデルにして一人の理想の教育者像を創作した。それが阿弥陀仏
である。阿弥陀仏というのは宇宙のどこかにいる神でもなければ、梵天でもない。釈迦をモデル
に描いた架空の教育者である。阿弥陀仏は、釈迦が祇園精舎を建設したように極楽浄土を建設し
た。極楽浄土は、祇園精舎をモデルにした架空の学校である。
大無量寿経は阿弥陀物語を語る。阿弥陀物語で、大乗仏教の先人は、学校教育の基本原理を説
く。阿弥陀仏は、非常に長い間、修行を積んだという。阿弥陀仏を理想とし、釈迦のような教育
者になれ。大無量寿経は若者にそう説いている。極楽浄土を理想とし、祇園精舎のような学校を
建設せよ。若者にそう説いている。
極楽学校には、多くの人々を入学させよ。大無量寿経十八願は、基本的教育原理の一つをその
ように説く。どのような場所、地域にいるものでも、自分の名声を聞きつけ、自分を先生と仰ぎ、
あの先生の下で学習を積みたい。そのように思う者は必ず招き入れよ。
善導は、隋から唐に移り変わっていった戦乱の時代に生きた。荒廃した教育環境の中で、若者
に勉学を説いた。親兄弟、他人まで騙し、傷つけ、あるいは殺し、自らも心身共に傷ついた者で
あっても、身と心を癒しながら勉学に志せ。心の傷は一朝一夕には癒えるものではない。傷の癒
えない者は念仏を称えよ。善導はそう教えた。阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏と称える者を、必ず自
分の学舎に招くと誓っている。阿弥陀の言葉を信じ、念仏を称え、心を癒しながら勉学に励め。
善導はそう説いたのだ。
末代いまのときの衆生においては、このほとけの本願にすがりて、弥陀をふかくたのみたてま
つらずんば、成仏するということあるべからざるなり。 (続く)
222 :
驕慢心は秘事大好き:2008/02/23(土) 11:32:02 ID:4rMO9MLx
信心決定と言うも、信心獲得と言うも、何も特別なことじゃないんだけどなー。
渡海様は、ご自分のスレでお説を発表してくださいませ。
222様、信心は何も特別じゃないんですか。
よろしければ、どういうことかお聞きしたいです。
224 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:39:40 ID:uH1T15bS
>221
法然は、善導のこの考えに賛成し、偏依善導という言葉を残し、親鸞は「善導独明仏正意」と
いう言葉を残した。
現代の人々は、阿弥陀仏の本願を拠り所とし、阿弥陀仏を水先案内として仰いでいこう。現代
には、この道以外に成仏の道はない。阿弥陀仏の名声を聞き、阿弥陀仏を先生と仰ぐ者は、必
ずや阿弥陀仏の学舎に入学する。阿弥陀学校で真実の学習をしていくこと以外、現代では仏にな
る道はない。称名念仏は阿弥陀仏の勅命である。南無阿弥陀仏を称える者は、極楽浄土に必ず招
く。阿弥陀仏のこの誓いを拠り所とし、水先案内として称名念仏を重ね、極楽浄土で仏になる道
の外に仏になる道はない。
そもそも、阿弥陀如来の他力本願をば、なにとように信じ、またなにとように機をもちてか助
かるべきぞなれば、それ、弥陀を信じ奉るというは、なにのようもなく、他力の信心といういわ
れをよく知りたらん人は、たとえば十人は十人ながら、みなもって極楽に往生すべし。
阿弥陀如来の他力本願はどのように信じればいいのか。どのような機すなわち器量の人を救う
といっているのか、それを考えよう。外でもない。他力の信心のいわれが十分に分かれば、十人
であればその十人が全て極楽に往生する。
先生の名声に心動かされ、先生を先生と呼ぶ者は必ず自分(先生)の建てた極楽学校に入学さ
せる。これが大無量寿経の説く大乗仏教教育学の根本原理であり、大乗の仏達の意思、本願であ
る。もし、それができなければ、自分の得ている認識を、人々との共有の財産として、共感的に
享受することはできない。真の教育者になったことにならない。大乗の仏になったとはいえない。
他力とは仏の本願力である。だからこそ、阿弥陀仏の名を聞き、阿弥陀仏を阿弥陀仏と仰ぎ、
南無阿弥陀仏と称える者は必ず極楽学校に入学する。南無阿弥陀仏のいわれを正しく理解すれば、
十人は十人すべて阿弥陀仏の摂取の中で極楽浄土に往生する。
【重要なお知らせ】
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。
▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)
※以下の文を10回暗誦して反省してください。
荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
226 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:40:26 ID:uH1T15bS
さてその他力の信心というは、いかようなることぞといえば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南
無阿弥陀仏の六つの字のこころをくわしく知りたるが、すなわち他力信心の姿なり。されば、南
無阿弥陀仏という六字の体をよくよく心得べし。
他力を信じる。仏の本願を信じる。それはどのような心であるのか。結局は南無阿弥陀仏であ
る。この南無阿弥陀仏の六つの文字の心を理解したのが他力信心の姿である。そうであれば南無
阿弥陀仏という六字の内容の実体をよく理解していこう。
まず「南無」という二字はいかなる心ぞといえば、ようもなく、弥陀を一心一向にたのみたて
まつりて、後生助け給えと二心なく信じまいらする心を、すなわち「南無」とはもうすなり。
南無とはどのような意味だろうか。飾ることなく阿弥陀仏を一心一向に信頼し、予測を超えた
将来の危機にあたって、どうか援助くださいと、二心つまり疑いなく信じる心を南無という。
南無とは、インドサンスクリット語でナーマスという。これは挨拶の言葉である。朝、人々が
顔を合わせばナーマスと挨拶をする。別れるときにもナーマスと挨拶する。おはようございます。
こんにちは。さようなら。すべてナーマスである。先生に学校で会えばなーますという。ナーマ
スは感嘆詞である。南無は感嘆詞である。「ああ」という意味である。
貴方を信頼します。飾ることなく相手にこう呼びかけるときに「ああ」という。南無という。
そこに信頼ができる。貴方にはいかなる疑いも持っていません。どうか互いに信頼関係を続けま
しょう。そういう意味で「こんにちは」「ああ」「南無」という。
∞〜プーン 〜
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ 〜 プゥーン
( 人____) 〜
〜∞ |ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
プーン (6 (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
|/ ∴ ノ 3 ノ \_________
\_____ノ,, ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ
/ ヽ| | バ | '、/\ / /
/ `./| | カ | |\ /
\ ヽ| lゝ | | \__/
\ |  ̄ ̄ ̄ | プーン〜∞
⊂|______|
|l_l i l_l |
| ┬ |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者
228 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:40:55 ID:uH1T15bS
つぎに「阿弥陀仏」という四字はいかなる心ぞといえば、今の如くに弥陀を一心にたのみまい
らせて、疑いの心のなき衆生をば、かならず、弥陀の御身より光明を放ちててらしましまして、
その光の内に納め置き給いて、さて、一期の命尽きぬれば、かの極楽淨土へ送り給える心を、す
なわち「阿弥陀仏」とは申し奉るなり。
阿弥陀仏とはどういう意味か。心を説明しよう。「南無」で説明したように、阿弥陀仏を一心
に信じ、疑いの心の無い人々は、その一生が尽きたとき、必ず極楽浄土に送るぞというそういう
意味である。疑いなく南無阿弥陀仏を称える者には、阿弥陀仏はその身から智慧の光を照らし、
その智慧の光の中に納める。これを阿弥陀仏という。
阿弥陀仏の阿は否定語である。インドヨーロッパ語で否定を表す。英語のunという接頭語と
通じる。阿弥陀とは、インド語でアミターパ・アミターユスという。中国ではこれを無量寿ある
いは無量光と訳した。
かつて釈迦は、困難にぶつかって動きが取れなくなっていた人に、足下を照らす知恵を与えた。
足下を照らす知恵を貰った弟子達は、また再び動けるようになった。再起(生)・挫折(死)・
再起(生)・挫折(死)を繰り返していた人々は、挫折のない歩み、持続的歩みが可能になった。
釈迦は人々に限りない継続の命を与える人だった。釈迦から知恵を授かった人は、暗闇を脱し、
智慧が導く光の世界を歩いた。釈迦は、人々に限りない光を与えたのだ。
釈迦は、限りない命(無量寿)を与えてくれる人、限りない光(無量光)を与えてくれる人、
つまり先生と呼ばれた。
釈迦は、真理を悟っていた。仏とは仏陀の略称である。仏陀とは、真理を悟った先生という意
味である。つまり阿弥陀仏とは先生という意味である。
298さんは裏在家、なんですね。
秘密というのがどうしても気になっていたんですが、ぐぐってなるほどと思いました。
やっぱり人造的な信心決定みたいですね…。
231 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:51:13 ID:uH1T15bS
>228
釈迦は、祇園精舎に生徒が入学してくると、自分から先生と名乗り、生徒に先生と呼ばせた。
自分を「あほ・ばか・あんぽんたん」という人間には、ものごとを教える責任はないと考えた。
しかし、自分を「先生」と呼ぶ者には、全力で真実を教えた。祇園精舎の外であっても、自分を
先生と呼ぶ者には全力で真実を教えた。だからこそ、人々は釈迦を無量寿仏、無量光仏、つまり
先生と呼んだのだ。
阿弥陀仏を阿弥陀仏と呼ぶ者、南無阿弥陀仏と称える者は阿弥陀仏の仏弟子となる。必ず智慧
の光の中に摂取される。祇園精舎の生徒は、先生の心が分からなくなると、一人静かに結跏趺坐
し禅定に入った。念仏は座禅しながら行うのが原則である(行の巻)。座禅しながら南無阿弥陀
仏・南無阿弥陀仏と称えてみるがいい。繰り返し、繰り返し称えるといい。人生の困難にあって
見えなかったものが、そのとききっと見えるようになるだろう。念仏を称えよ。念仏を称えよと
いう言葉の中には、人生の危機に望んでそこを脱する仏の智慧が溢れている。光に溢れている。
称名念仏する者は必ずや極楽浄土、阿弥陀仏の学舎に至る。阿弥陀仏の第十八願はそう説く。
第十八願は、死をその条件としてない。極楽浄土に到達することは死をその要件としない。しか
しその時期は、肉体の死の前にあることを保証するものではない。ある者は、肉体の死の前にあ
るだろう(不体失往生)。必ず死の前にあるということまでは意味しない。
念仏を称える者(正定聚)になるということは、必ずや極楽浄土に至る者となるということで
ある。必ずや極楽浄土に至る者となるということはどういうことか。正定聚として生涯、死ぬま
で念仏を称えた者は、そのひたむきな素晴らしい人生全体について、賞讃されるということであ
る。それは、死の瞬間をもって極楽浄土に到達したと、釈迦を始めとして全ての仏道者からその
ように評価されるということである。これが阿弥陀仏の意味である。
232 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:51:47 ID:uH1T15bS
>231
されば、世間に沙汰するところの念仏というは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなうれば、
助かるように皆人の思えり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさよ
うに沙汰するかたもあり。是非すべからず。
世間の人が議論している念仏では、いたずらに口先だけで南無阿弥陀仏を称えていれば助かる
というような意味のことを言い、人々はそのように信じている。これでは心許ない。確かに、法
然上人の流れを汲んでいる浄土宗一門の中でそのようなことを言っている人もいる。そういう人
とは特に議論すべきではない。
これはわが一宗の開山のすすめたまえるところの、一流の安心の通りを申すばかりなり。
親鸞聖人の開いた浄土真宗が推進する浄土真宗の教えは以上の通りである。
宿縁のあらんひとは、これをききて、すみやかに今度の極楽往生をとぐべし。
たまたま浄土真宗に興味を持った人は、この話で速やかに今の生き方の中で、回り道無く極楽
往生を遂げるべきである。
かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなえて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまえ
る御恩を、雨山にこうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。
このように分かれば、南無阿弥陀仏を称えようではありませんか。阿弥陀如来は、本願に基づ
き、阿弥陀仏を水先案内として念仏を称えようとそう思う者を簡単にお救い下さる。このご恩に
報いるために、持続的に称名念仏をつづけるべきである。
あなかしこ、あなかしこ。 文明六年八月五日書之
渡海難のカキコパターン
1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
もう渡海難の話題はうんざりだろうけど、まだまだ出現するかもしれないので、
特定するためプロファイリングしてみますね。
渡海 難 とはこんな人物
●年齢は60歳くらい
●浄土真宗、真宗の僧侶、親鸞会に深く怨みを持っている
●来世を否定して、現世を肯定
●阿弥陀仏は架空の存在と主張
●親鸞聖人が問題を解決したから、我々は世間のことに努力すれば良いと
「十劫安心」まがいのことを言う
●カウンセリング、自律訓練法など、いろいろな事を経験したらしい
●正規の宗教教育は受けておらず、すべて独学のようだ
●座禅して念仏せよと主張するが、その目的は不明
ココロが癒されて身体に良いのかな?
235 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 11:58:39 ID:uH1T15bS
>223
>渡海様は、ご自分のスレでお説を発表してくださいませ。
六字のいわれは秘密でない。浄土真宗に秘密があると言われては
黙っていられないんですよ。 (苦笑)
>>235 ∧_∧
◎ へ (´<_` )
\ ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒ \
彡____人 )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ) 異安心キモオタ親父は自分の巣へ戻れって言ってるだろ!邪魔なんだよ!
◎-●一( * * ヽミ |. |
((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉 | |
‘,'.∴・,‘・(ε (( ヽ-=_二__ ̄ \ | |
,'.・∵ ヽ_____ ノ  ̄\ / /
(__)) ヽ .\__/_丿
| | ヽ .| |
| |______) | |
| 〉三三三[□]三) | |
ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/ \ ヽ
~~~|::::::::::::::::::/:::::::/ \ |
|;;;;;;;;;;;;;;;/;;;;;;;/ / ノ
(___|)_|) `-
237 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 12:25:32 ID:uH1T15bS
>219
誤 宗教では看板嘘にまみれたものはない。
正 宗教では看板ほど嘘にまみれたものはない。
渡海難も298も嘘まみれ
2人とも信心獲得したつもりのニセ妙好人だから
239 :
298:2008/02/23(土) 12:57:14 ID:+h1idzFf
>>214 「聞いてみなんせ まことの道を
無理なおしえじゃないわいな
まこと聞くのが お前はいやか
なにがのぞみであるぞいな」
私の領解は、よく合うわけです。
このおうたには、すみからすみまで、同感です。
>>209 >信前に機の深信が必要だなんて誰も書いていないのに
では、自己観察して、何を知ろうとしているのですか。
「機の浅信」でも、かまわないですが、その種のものを
求めているのでは、ないのですか?
単なる自己観察ではなく、はじめから、知ろうとするものを
設定しているはずで、それは、はじめに教えを教わっているからです。
>そしてそれは、浄土真宗ではありません。
手順は、
>>127に書いた通りです。
「それは、浄土真宗ではありません」で、止まるのではなく、
では、一体どうしてそう思うのか、自身の考える「浄土真宗」とは、
何が矛盾していると思うのか、
それは、お聖教のどこと矛盾しているのか、あるいは、
いまいるところで教わったことと矛盾しているのか、
自己観察してみていただけたら、うれしいです。
そして、思い当たるお聖教がありましたら、紹介してほしいのです。
240 :
298:2008/02/23(土) 12:58:59 ID:+h1idzFf
「お聖教を重視する」と言いながら、「それは、浄土真宗でありません」のような
主張を、いくたびもされる方です。
それでいながら、自己観察をとなえています。
信を獲ていないのに、「それは、浄土真宗でありません」と言う。
なぜ、そのようなことが、言えるのでしょうか。
私が獲信者に見えなくて、構いませんが、
そこまで断言できるのは、自己観察ができていないからだと思います。
そして、自己観察ができていなくても、阿弥陀さまは、救ってくださいます。
241 :
298:2008/02/23(土) 13:01:20 ID:+h1idzFf
>>283 嘘まみれは、仕方がありません。
嘘をまったくつかないのは、かなりの方です。
しかし、283様の言う「嘘」は、そのような意味ではありませんね。
気楽に批難をなさって、何とも思わないのは、
お釈迦さまのおっしゃっていることの、
価値をまだ感じることができていないのです。
242 :
298:2008/02/23(土) 13:08:53 ID:+h1idzFf
>>215 >それは、秘事法門の流れをくむ、「わからないもの」を、自分でわかる手段(人造的なもの)で
>「わかったことにする」というもので、真宗の信心ではないと思います。
まず、秘事法門が何かも、知らないわけでしょう?
それで、「流れをくむ」も何も、どうやってわかっているのでしょうか?
しかも、私が繰り返し書いていることは、
弥陀が信心くださる
ということ。
何度も書いていますが、わからないようですね。
これまで教わった、異安心のパターンにあてはめて、今の自分はただしいと、
安心しているだけなのです。
それを、「読めども読めず」と言うのです。
読めない方も、いますけれども、読める方もいらっしゃいます。
読める方が、信心いただけば、さらに読める様になり、
お聖教も、妙好人の言っていることも、よくわかるようになるのです。
(同時に、「この方は、違うのでは?」ということも、わかるようになります。)
真実信心そのものはわからなくても、何もわからないわけではありません。
このような(信前の方にとっては)微妙な話を、
わかろうとせず、いい加減に読んでいるから、わかるものもわかりません。
禅問答のような言い方ではわかりにくと思い、
これは私なりに、わかりやすく書いてきているのです。
243 :
298:2008/02/23(土) 13:10:54 ID:+h1idzFf
真実信心をいただく方は、これから増えて行くと思います。
否定する方が、否定することも構いません。
それでも、易行により、弥陀から信心いただいて、
極楽往生を治定する方は、これから増えて参ります。
内心に秘める信心です。
気付かぬ方が気付かぬ間に、ちゃくちゃくと、
弥陀に救われる方々が、救い上げられて行くと思います。
南无阿彌陀佛
244 :
298:2008/02/23(土) 13:18:16 ID:+h1idzFf
わかりにくく言えば、ありがたがって、それでおわり。
わかりやすく言えば、思う所と違うと批難する。
それでも、わかる方にはわかります。
その方には、わかりにくく言えば、「では、何なのだ?」とお求めになり、
わかりやすく言えば、「なるほど」とわかるのです。
弥陀を求める方は、カンタンに弥陀をたのみ、
カンタンに信心決定し、「仏説に虚妄無し」とわかるのです。
なにが真実かは、人数ではないのです。
245 :
298:2008/02/23(土) 13:22:33 ID:+h1idzFf
弥陀の救いを説いても、「違う」というのは、
それまで、その方が教わってきたことと「違う」ということです。
では、何を基準とするかと言えば、お聖教だと私は思います。
お聖教を、ただ読んでゆけば、わかる日が来るかもしれません。
それが、「聴聞を心に入れる」ということです。
おなじ聴聞するなら、ぜひ、蓮師の説法である、
御文を聞いてほしいのです。
身近な方にお手引きされたなら、
その方とのそれまでのおつきあいにより、
その方の印象も、基準になるのでしょう。
弥陀の救いが隠されているのではなく、
衆生が逃げているだけ。
私も、逃げてきたのです。しかも、ずっと。
このスレを見ているだけでも、逃げるすがたが、よくわかります。
救われるのが、こわいから、通常の批難とは、
異なるような批難もなします。それも、無理のないことです。
南无阿彌陀佛、南无阿彌陀佛。すべて、弥陀のお導きです。
246 :
298:2008/02/23(土) 13:26:46 ID:+h1idzFf
弥陀をあがめて、弥陀から逃げる。
自力の心は、にげ心。
逃げる心があきらめて、
弥陀をたのめば南無阿弥陀仏。
247 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 13:31:35 ID:uH1T15bS
>243
298の主張は滑らかだが、聖教に根拠がない。
昔の人は、ほとんどが文字を知らなかった。古い時代になればなるほど、
多くの人が文字を知らなかった。書物が読めなかった。数十年、数百年に一度、
都から高僧が訪れても、その後の伝承は口伝えだった。口伝えは歪んでいく。
298の口伝の教えもそんな一つだ。298が主張した内容で、少なくとも、聖教
の文字と合致するものは、少なくともいままでのところ何もなかった。
無宿善の機と正雑二行の沙汰をするな、などという教えは存在しない。
六字のいわれは口伝ででしか語れない、などとそんな教え存在しない。
浄土真宗は口授口訣であるという、そんな教えは存在しない。
298の主張は限りないが、何一つ聖教に根拠のあるものはなかった。
私はどうも、このスレに書き込みされておられる方の中で、いちばん根拠として御聖教を
指し示していらっしゃるのは298様のように思えるのですが。
298様を否定する方は、その根拠として「秘事法門だから」という理由からのようですが。
そもそも真宗には、なぜいろいろな秘事法門なるものが根強く存在しているんでしょうね。
昔、「日本的霊性」を読んだときに、そのなかで鈴木博士が、
『禅の悟りにも似た境地に至る真宗の妙好人の中には、秘事法門的な信心を得た人が
多くいるようだ』というような意のことを書かれていたのを思い出しました。
ひとくくりに「秘事法門」で片付けるのはいかがなものでしょうか。
298さんの言うように、御聖教と少しも違わないのであれば、一考する余地があるのではないでしょうか。
249 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 15:10:20 ID:uH1T15bS
>248
最初に結論ありという議論をするのはやめたいものです。鈴木大拙さんが何を言っていたか知
りません。あの方がどのような人と出会ったきたか知りません。しかしだからと言って、黒を白、
白を黒というような議論を話の枕にすることは感心しません。
298さんの話で、聖教に合致していた内容が一つでもありましたか?。正雑二行を無宿善と
議論してはいけないと、明確に書いてあるところがありましたか?。六字のいわれは口伝がある
などという主張がどこかにありましたか?。三業を整えて極楽に往生するという話がありました
か?。悔いる心を原因とするという教えがありましたか?
話をややこしくすることは控えましょう。
298さんは言う。正雑二行を無宿善と議論してはいけないと。これはどういいうことか。2
98さんのグループの教義では、正雑二行の議論をまともにおこなって火だるまになった過去の
歴史があるんでしょう。つまり、298さんの教えは、雑行の教えである。他の宗学者とまとも
に論争したら必ず論破される。だから、他の人と議論してはいけない。おそらくそのようなタブ
ーがあるんだろうと思います。
・・いえ、ここまで読んでみて、論破されまくってるのは渡海さんのほうだと思うのは
私の素人考えなのでしょうか。
暴言失礼しました。
以後慎むことにいたします。
252 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 16:20:48 ID:T6fkde9B
253 :
298:2008/02/23(土) 16:40:24 ID:+h1idzFf
>>247 >無宿善の機と正雑二行の沙汰をするな、などという教えは存在しない。
◎しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり(御文4-1)
◎あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、
この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、
一流真実の法義を沙汰すべからざるところ(御文4-5)
>六字のいわれは口伝ででしか語れない、などとそんな教え存在しない。
◎善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、
かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)
どうして、御文を聞くだけでは足りなくて、善知識にあわねば
ならないのでしょうか。
なぜ、御文を聞くだけでは足りなくて、さらに教えを受けなければ
ならないのでしょう?
◎そもそも、当流において、その名ばかりをかけん輩も、
またもとより門徒たらん人も、安心のとほりをよくこころえずは、
あひかまへて、今日よりして、
他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、
報土往生を決定せしむべきなり。(御文3-1)
なぜ、「御文をよく読み聞かせてもらいなさい」ではなく、
「ねんごろに人にあひたづねて」なのでしょうか?
254 :
298:2008/02/23(土) 16:40:48 ID:+h1idzFf
>>247 ◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、
善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)
「六つの字のいはれ」とは、善知識にあって、
「きく」ものです。
そして、「ひらく」ものでもあります。
255 :
298:2008/02/23(土) 16:43:32 ID:+h1idzFf
>>249 >三業を整えて極楽に往生するという話がありましたか?
◎これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、
善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。
されば一念帰命の信心決定せしめたらん人は、かならずみな報土に往生すべきこと、
さらにもつてその疑あるべからず。(御文3-7)
256 :
298:2008/02/23(土) 16:45:57 ID:+h1idzFf
>>247 >無宿善の機と正雑二行の沙汰をするな、などという教えは存在しない。
◎されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、
かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を
分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、
もつてのほかの当流の掟にあひそむけり(御文3-12)
257 :
298:2008/02/23(土) 17:14:22 ID:+h1idzFf
>>249 >悔いる心を原因とするという教えがありましたか?
◎また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懺悔して、
ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、
ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにして
わすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり(御文1-2)
◎それ、当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、
なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、
弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、
かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり(御文2-8)
258 :
298:2008/02/23(土) 17:17:54 ID:+h1idzFf
たのむ如来は弥陀如来。
衆生を救ふと成したまふ。
六字に御名を表して
我をたのめと告げたまふ。
259 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 17:22:17 ID:UEnBd2Ph
これ、面白すぎて感動した。
しかし巻末補で、著者の母親の臨終の場面で、著者の姉妹がエルカンターレに帰依していたのでびびっだ。
わがかくし念仏
阿伊染徳美=画家
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柳田國男の『遠野物語』で知られた岩手県の遠野から山ひとつへだたったところに、著者の生まれた和賀の谷間がある。
二百数十年前から先祖代々、和賀に伝わるクロボトケ信仰とムラの習俗を語りつくす。地方のほんとうの風景がここにある。
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2004年7月15日
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46判★288頁★2200円+税
ISBN4-7845-1441-4
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わがへらめき 文字をつくる クロポトゲの人びと 北上川 切支丹・クロポドゲ派 神さま送り はなしのはきご
なるこけずり お歯黒 医者殿のヒサがが 鉱山衆 ながらぺっちょ 父さん 東山金次郎 くで、くで山 くらご
はきごたなき おなごだぢのあさ おふくでん 念仏御用開き 新東歌 縄をないながら とりがなく 新東歌 念仏申し
あざっこ物語 生み落おとされる 紅骨記 信仰の底にあるもの……鶴見俊輔 痛快で弾力に満ちた文体は……井上ひさし
阿伊染さんの生家を訪ねて……五木寛之
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[あいぜん・とくみ]
1935年岩手県北上市生まれ。画家。1954年より福沢一郎画伯に師事。武蔵野美術大学講師をつとめ、
国画会会員、審査員等をへて、現在無所属。1990年に英国移住。銅版画家ピーター・ドブソン画伯に師事するとともに、
カサリン・バスフォード教授の弟子となり英国の中世美術・神話(グリーンマン)の研究を続ける。
著書:『阿伊染徳美画集――絵画のかたりべ』(透土社)
260 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 17:22:22 ID:pTSwo421
親鸞聖人や蓮如上人の時代を考慮しなければならないのではないでしょうか?
現代は、紙も日常品ですし、出版物があふれていますし、教育が行き届いて識字率も高いでしょう。
紙がとても高価で出版が行われていなかった時代、また聖典があっても多くの人が読めなかった時代、
その時代に、庶民に向かって聖典を読めと言うのは現実的ではなかったのではないですか?
だから、善知識に聞けという言葉が多いのではないかと思います。
歴史家ではないので、間違っているかもしれませんが、
私は善知識に聞けという言葉が、すなわち口伝でしか伝えられない秘伝であるという証拠にはならないと思います。
261 :
298:2008/02/23(土) 17:32:04 ID:+h1idzFf
>>260 証拠には、なりません。
どうしてそこまで強く否定できるのかが、わからないということです。
少なくとも、多義性として、許容される範囲なのではないでしょうか。
それに、否定している方々は、あまりお聖教を引きませんし、
獲信もしていないのです。
「よく存知したらんひとにあひたづね」文字通りで、良いと思います。
他力信心のおもむきを、よく知っている人であるならば、
もちろんそれは、他力信心獲ている方ではないのでしょうか。
無理して説得しようと思っているわけではありません。
想定しているのは、迷っている方に、根拠を出そうということです。
否定的な方が、意見を変えることは、めったにありませんが、
そのやり取りを、見ている方がいらっしゃいます。
質問があるおかげで、さまざまなことが、あきらかになりますし、
それもまた、弥陀のお導きであると、感謝しております。
南無阿弥陀仏
262 :
298:2008/02/23(土) 17:40:06 ID:+h1idzFf
>>261 「迷っている方に、根拠を出す」というのは、
その方が、ご自身の判断をされるときに、
参考となる材料を、いろいろな意味で、
提供したいということです。
263 :
めずらしき法もなし:2008/02/23(土) 18:21:57 ID:4rMO9MLx
298さんはお聖教を引用してても、
298さんの解釈はその引用文の通りなのかなあ?
たとえば、無宿善の機と言っても、具体的にどのような人が無宿善なのか、
蓮如さんは言われていますか?さらに、親鸞聖人は無宿善の沙汰をせよと言われていますか?
恐いのは、自分の回心体験を絶対的なものとし、それをよりどころとする事。
それによるかよらないかで、宿善の有無を選別し、他者を裁く事。
また自分にそれが可能であると錯覚する事です。
それって、究極的には、絶対的自己肯定でしょう。
自分は獲信している、彼は獲信していないと、凡夫の身にして判断できるのでしょうか?
自分達の信念を批判したり、従わない者に対して
「無宿善」のレッテルを貼って、自己防衛をはかる。
意識的か無意識かは別として、宿善が自己肯定の便利な道具として
使われてしまう。それって、裸の王さまになることに等しい事なんじゃないかな?
私はね、聞其名号=信心であって、
確かに聞其名号いたしましたと言う自覚は信心じゃないと思うのね。
弥陀たのむ=信心であって、弥陀たのみましたは信心じゃないと思うのね。
同様に、仏凡一体になりました、も信心じゃない。
仏凡一体は、機法一体の南無阿弥陀仏のおかげさま。
信心の体は南無阿弥陀仏だからね、私の拵えたガラクタじゃないよね。
これは機の深信から導きだされる事なんですけど、
複数のリクエストがあれば詳しく書きますね。
264 :
常没常流転:2008/02/23(土) 18:37:49 ID:4rMO9MLx
もうこれで間違いない。もう揺るぎないなんてことを常没流転の凡愚が思っても、
所詮、常没流転の凡愚の戯言なんだから、仏果を獲る因にはならないよね。
私は信心決定しましたとか、地獄行きだと知らせていただきましたなんてのも、
一体、何をたのみとしているのって感じ。知らせてもらったのが、そんな偉いのか?
信心決定したと意識することが、そんな大したことなのか?
結局、我が身我が心をたのんでいるだけじゃん。
所詮、常没流転の身の上。その身の上で何を言ったところで、嘘・偽り・胡散臭さがつきまとう。
凡愚に殊勝なる事、一微塵もなし。だから立ち上がってくださった仏さまが、
南無阿弥陀仏。若不生者は悟りのおことば。凡愚のことばでないからなー。
千金万金の値有り。有り難いなー。南無阿弥陀仏
265 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 18:45:02 ID:uH1T15bS
>>253 > どうして、御文を聞くだけでは足りなくて、善知識にあわねばならないのでしょうか。
僕を家庭教師にしないでくれ。他人に懇ろに聞かないと分からない人もいるからでしょう。
一を聞けば十を知るという人ばかりじゃない。話は聞き手の底辺に合わせるのが常識だ。
十を聞けば十分かる人もいる。六字のいわれには秘密はない。聖教をよんでどんどん分かる人
は、親鸞・蓮如が直接の善知識になる。その途中にはなにもいらない。
親鸞などは、阿弥陀仏を直接の善知識にして物事を理解している。観無量寿経は不定聚の教え
であるなどというのは、法然が聞けばびっくりするだろう。
僕の場合は、阿弥陀仏が直接の善知識になるなんてことはないけど、親鸞・蓮如が直接の善知
識になっている。親鸞・蓮如にねんごろにたずねているよ。秘密など何もない。六字のいわれは、
>>219以下の内容で十分だろう?。
266 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 18:47:26 ID:uH1T15bS
>>254 馬鹿馬鹿しい。真宗を私物化するな。 (⌒▽⌒)アハハ!
>>255 話を蒸し返すのかい。迷惑だね。
蓮如のその記載は百も承知だよ。三業を整えるといいうのは、「化身土巻」の話だ。蓮如が
「整える」と言っているか。整えるとは、貴方が出した言葉で、そのとき貴方は化身土巻で話を
していただろう。三業を整えるというのは、「化身土巻」では否定しているんだ。
蓮如の「三業と弥陀の三業と一体になるというの」は、信の巻を背景にしている別の議論だ。
それは、貴方が指定した「化身土巻」の三業を整えるという問題ではない。
僕は貴方の家庭教師じゃ無いんだ。少しは自分で考えろ。
>>256 まあ、確かに「無宿善の機と正雑二行の沙汰をするな、などという教えは存在しない」という
僕の
>>247は、勇み足だったね(
>>256)。貴方が土俵として設定していたのは、御文4の5だっ
た。御文4の5にはないということだった。
「無宿善の機と正雑二行の沙汰をするな、などという教えは存在しない」というこの
>>247の
主張は調子に乗りすぎた。もともとは、お文4−5を引用して「無宿善の機と正雑二行の沙汰を
するな」と書いてあるかどうかという問題だった。反省する。
267 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 18:48:52 ID:uH1T15bS
>>257 悔いる心を旨とするとは、悔いる心は関係ないということではないんだ。
蓮如は、悔いる心を原因として、仏智の不思議をたのむべし(結果)と言っているか?。 信
知してとは原因という意味か?。信知してが「旨とする」ということなんだよ。罪ふかき身ぞと
おもひてが、「旨とする」という意味なんだ。原因となってじゃないんだ。
げん‐いん【原因】(広辞苑)
事物の変化を引き起すもの。
むね【宗・旨】(広辞苑)
主とすること。中心とすること。また、そのもの。
二種深信が仏智の不思議をたのむ信心そのものなんだ。これが本質なんだ。機の深信はたのむ
信心の原因ではない。仏智の不思議をたのむこころを二つに切れば機の深信と法の深信なんだ。
悔いる心は機の深信だ。
数日間カキコ不能。
268 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 18:51:16 ID:pTSwo421
そもそも仏教の経典は、釈尊の入滅後4〜500年の間は、暗記で伝承されました。
つまり、文字にせず口伝で伝えられました。
しかし、それは秘伝という理由ではありません。
その時代の文化環境がその原因です。
浄土教に限らず、根本的に仏教は、特定のものの専売特許という性格のものではありません。
大衆もろともにという願いの下に派生した大乗仏教においては尚更です。
その中でも、すべての衆生を救いとろうという阿弥陀如来の願いを信じる浄土教、
そこに秘伝なんて公開されていない要素があるってお聖典をひくまでもなくあり得ないことでしょう。
何もしなくてもよいなんてあり得ない、凡夫が自分が達成した、自分が頑張ったと思いたい、それが普通の人の普通の感覚でしょう。
しかし、仏教の考え方は世間的な常識とは逆さまの逆転の発想、悪人正機の教えもそうでしょう?
世間の常識的には、「弥陀をたのまねば・・・」「自力を捨てなければ・・・」「念仏をせねば・・・」と考えるのが当たり前だと思いますが、
それは、世間の常識であって、阿弥陀仏〜親鸞の教えではありません。
298さんの書き方、だんだん渡海氏に似てきてますね。相手をしすぎて似てきたのか、
最初からそうだったのか。
・機の深信、法の深信がなければ、阿弥陀仏からたまわる他力の信心、つまり
浄土真宗の真実信心ではありません。
・阿弥陀仏からいただく他力の信心は、特定の人から特定の内容を聞かなければ
得られないものではありませんし、特定の人から特定の内容を聞けば
得られるというものではありません。
おそらく298さんは、真宗秘密講のかたなのでしょうね。
ご参考:
「新しく加入を希望する候補者が講に紹介される第一の段階は「前弁」と呼ばれる。
この日、儀式に与ろうという者は蓮如の『御文』と『御書』の講義を受ける。」
「裏の寺は広く改宗者を募っているわけではないので、表札や広告を出すことはない。
興味を抱いた者はみな、個人的に「手引き」によって寺へと連れられてくるのである。」
「前弁のあと、「一念帰命」と呼ばれる儀式によって信心が授けられる。」
「新加入者は阿弥陀如来の絵像を前に正座し、善知識が「よし」と言うまで、
「たすけたまえ」と唱えながら打ち敷に額を打ち付けるまで何度となく頭を下げるのである。」
「一念帰命に引き続いて、加入儀礼を完了するまではおよそ十を超える「お益」と
呼ばれる段階がある。」
270 :
7:2008/02/23(土) 19:16:33 ID:nIZotPlC
偽物は、本物に似せてあるんじゃないでしょうか。
271 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 20:04:01 ID:UEnBd2Ph
宗教は元来オカルトなんだから、秘事法門も多いに結構じゃないか。
現代の唯物主義の仏教よりは、よっぽどましだと思うよ。
キリスト教はニューエイジと融和しているし、仏教も変わらないといけないよ。
272 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 21:03:36 ID:skWO+pu7
298さんの書き込みをみていて浄土真宗から離れようと思いました。
こんな難解なゲームは私にはクリアできません。
しかし、なぜ農民に浄土真宗が広まったのか。このスレをみていて理解できません。
273 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 21:09:00 ID:Y0Gbp+IZ
このスレは渡海と298のどちらが基地外かを決めるスレですね。
ま、五分五分みたいだけど。
で、ギャラリーは親鸞会というカルト教団に騙されたアホたち
>>272 農民に広まったというけれど
みんながみんな信心を得たわけじゃないでしょ
村のリーダーに布教すれば村ごと信者になる、っていう話だからさ。
276 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 22:12:17 ID:UEnBd2Ph
宗教は哲学じゃないのですぜ。
蓮如はつぎつぎに自分の子供たち合計27名を
お寺に送り込んだと聞いている。
子供たちは口伝を相承しなかったのかな。
278 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 22:31:22 ID:UEnBd2Ph
廃仏毀釈は強烈であった。明治政府は、加持祈祷オカルトを取りしまった。
その後の日本仏教は、新カント派の亜流に落ちぶれたのだよ。アホ坊主は、未だに洗脳されたまま。
279 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 23:45:52 ID:Cxj1txZf
そもそも浄土三部経は仏説じゃないから…
280 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 23:52:34 ID:hUEg4Ugc
281 :
これぞオカルト最高峰:2008/02/23(土) 23:57:00 ID:4rMO9MLx
オカルト寛平さんも、秘事法門さんも、唯物論者も皆おいで。
ようこそ、ようこそ。機は問わないよ。若不生者の誓い故。
我が心あてならず、弥陀の必ず救うのお呼び声、
このおはからいにまかせましょ。虚仮不実、私が何を言っても思っても、
嘘偽りが出るばかり。諸仏も嫌がる妄語の固まり。悪因苦果・自業自得。
ただ我らの親さまは、見ちゃおれん、不憫でならんと立ち上がり、
何があろうと落としゃせぬ。我が身は苦毒に沈むとも、
決して後悔いたしません。一子地の悟り故、護って護って護りづめ。
救って救って救いづめ。わかっちゃおるのに、また今日も、
煩悩の火がめらめらと。
悪因苦果。その炎に飛び込んで、焼かさんぞ、焼かさんぞ、
お前を決して焼かさんぞ、一子地悟った親だもの。
なんて親さま持ったのか。無始以来、私をひとり子と思いづめ。
護って護って護りづめ。こんな親さまあるものか。親不知のこの俺に、
親鸞さま、蓮如さま、数限りない弥陀の化身、善知識の方々はねんごろに、
御たすけ治定とお教えくださる。この度、恥ずかしながらこの俺も、
お浄土に参らせていただくことよ。
凡愚の約束あてならぬ。弥陀の約束なればこそ、
必ず往生治定なり。さあれば、わずか残りの人生は
精一杯有効に遣わさせていただこう。
弥陀の名号称えつつ。ご恩報じて死んでいこう。
往生は投げた投げた。
282 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:04:29 ID:7fGXVsPd
>>280 ゾロアスター教の影響を受けた仏教徒が、
阿弥陀仏という架空の仏を創りだした。
ゾロアスター教を国教とする国で、
仏教徒が生き残るためにやった苦肉の策だったのかも。
283 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:07:57 ID:Kn92hi8Z
>282
きみの説?
284 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:18:00 ID:ULyd0QwH
妙好人おたくさんも、秘事法門さんも、唯物論者も皆おいで。
ようこそ、ようこそ。機は問わないよ。主の誓い故。
我が心あてならず、神の必ず救うのお呼び声、
このおはからいにまかせましょ。虚仮不実、私が何を言っても思っても、
嘘偽りが出るばかり。天使も嫌がる妄語の固まり。悪因苦果・自業自得。
ただ我らの神さまは、見ちゃおれん、不憫でならんと立ち上がり、
何があろうと落としゃせぬ。我が身は苦毒に沈むとも、
決して後悔いたしません。十字架上の愛故に、護って護って護りづめ。
救って救って救いづめ。わかっちゃおるのに、また今日も、
煩悩の火がめらめらと。
悪因苦果。その炎に飛び込んで、焼かさんぞ、焼かさんぞ、
お前を決して焼かさんぞ、みんな神のひとり子だもの。
なんて神さま持ったのか。無始以来、私をひとり子と思いづめ。
護って護って護りづめ。こんな神さまあるものか。親不知のこの俺に、
親鸞さま、蓮如さま、数限りない神の化身、七大天使の方々はねんごろに、
主は来ませりとお教えくださる。この度、恥ずかしながらこの俺も、
天国に参らせていただくことよ。
子羊の約束あてならぬ。神の約束なればこそ、
必ず天国我が国なり。さあれば、わずか残りの人生は
精一杯有効に使わさせていただこう。
神のみ名を称えつつ。ご恩報じて死んでいこう。
天国は投げた投げた。
285 :
298:2008/02/24(日) 00:18:15 ID:+4mEf2uY
>>263 >298さんはお聖教を引用してても、
>298さんの解釈はその引用文の通りなのかなあ?
私の解釈が、引用文の通りかどうかというよりも、
私の解釈が、あなた様の解釈と合うかどうか、ということだと思います。
そして、私の解釈にうなずいてくださる方は、
おそらくめったにいないことでしょう。
263様は、263様の信じる道を歩まれることが、良いのだと思います。
あくまでも、「私は、このようなことを根拠に思っていますよ」というご紹介であって、
似たような感じ方をお持ちの方の参考になればうれしいのです。
それにしても、あくまでもご参考であって、
「すべてうなずける」ということは、無いのではないかと思います。
解釈とは、そもそもそのようなものなのです。
一方、弥陀の法は、例外無く、たのむ衆生を、すべて救ってくださいます。
286 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:20:31 ID:HGSvgBZ9
こいつ、マジでキモイんだけど。団塊の世代のくせに顔文字なんか使ってるし。
↓
266 :渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/23(土) 18:47:26 ID:uH1T15bS
>>254 馬鹿馬鹿しい。真宗を私物化するな。 (⌒▽⌒)アハハ!
287 :
298:2008/02/24(日) 00:29:04 ID:+4mEf2uY
>>267 >悔いる心を旨とするとは、悔いる心は関係ないということではないんだ。
>蓮如は、悔いる心を原因として、仏智の不思議をたのむべし(結果)と言っているか?。
>信知してとは原因という意味か?。信知してが「旨とする」ということなんだよ。罪ふかき身ぞと
>おもひてが、「旨とする」という意味なんだ。原因となってじゃないんだ。
信前に、「機の深信」を得ることは、もちろんできません。
弥陀からいただくものですから。
信前に形成できるのは、あくまでも、凡夫の妄念の範囲内の、
「機の深信のようなもの」です。
>>257では、私の解釈を書いていませんので、補いたいと思います。
御文1-2の「回心懺悔」は、一念帰命を指すと読めると思います。
信前の部分は、「罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども」だと思います。
「ふかく」は、信後を指すでしょう。
一方、御文2-8の「おもひて」は、信前の「機の深信のようなもの」だと、
私は思っています。
288 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:31:22 ID:7fGXVsPd
>>283 以下のニュースを検索してみてください。
仏像に「拝火教の象徴」 中央アジアで粘土型発掘
龍谷大は1日、中央アジア・タジキスタン西部の遺跡調査で、
仏像にゾロアスター教(拝火教)の象徴「拝火壇」が描かれた像を制作するための
粘土製の型を発掘したと発表した。
仏教とゾロアスター教の両方の特徴を備えた像は珍しいといい、
調査した蓮池利隆客員研究員(西域仏教学)は
「阿弥陀如来を信じれば救われる、という浄土信仰は、
ゾロアスター教の終末思想に影響されたという説もあり、貴重な資料だ
」と話している。
蓮池研究員らは9月から10月にかけて、首都ドゥシャンベの南西約70キロ
にあるペルシャ系「トカラ人」が築いた町の遺跡「カレ・コファルニホン」を調査。
7−8世紀ごろの素焼き工房の跡で粘土製の型を見つけた。
型は縦約10センチ、横約4センチ。
仏陀とみられる人物が、ゾロアスター教で火の崇拝に使われる「拝火壇」に
手を添えている形が描かれている。
※写真=中央アジア・タジキスタン西部の遺跡調査で発掘された粘土製の型
(龍谷大提供)
289 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:34:54 ID:7fGXVsPd
>>288 龍谷大だけでなく、仏教系大学で学問として仏教を教える場合には、
浄土三部経などの大乗経典がブッダの直説でないことは、常識となっている。
290 :
298:2008/02/24(日) 00:39:04 ID:+4mEf2uY
>>266 >馬鹿馬鹿しい。
蓮師の御文の、ほぼ直訳に近い内容と思われるのですが・・・
それを、「馬鹿馬鹿しい」とおっしゃるのですから、
あなた様の信心のタイプがわかります。
ご自身の、現在思われているところを、
お聖教よりも、はるかに優先されるタイプの方だと思います。
>話を蒸し返すのかい。迷惑だね。
そもそも、なぜ私が、化身土巻を指定したのか、その意図がわからないということだと
思っています。
291 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:41:08 ID:ULyd0QwH
阿弥陀仏とは一体何なのだろうか?獲信者のみ知る。
C.Gユング「私は神を信じているのではない、知っているのです。」
292 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:41:57 ID:Kn92hi8Z
298さん、
似たような感じ方をする人がいればうれしいのは、自力だから。
そんなこと必要ないと思うよ。シンパシーを求めること自体、
凡愚の迷妄じゃん。往生はひとりのしのぎ。必要ないし、
他力にとっては邪魔なだけ。
弥陀の本願まことであって、あなたの思い、私の思いを主人としてしまうなら、
他力でも何でもないんじゃないかな?
自分に同意する人間が可愛く思えるのは、我執が働いているから。
その我執の固まりを必ずほとけとなすのが、弥陀の本願。
偉いのは私じゃない、善知識でもない、阿弥陀さまだよ。
293 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:43:59 ID:Kn92hi8Z
>284
キリスト教は厳格だよ。
294 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:44:32 ID:7fGXVsPd
>>291 ただの概念上の存在だから、「知った気になってる」だけ。
阿弥陀仏は一部の仏教徒が考えついた架空のヒーローだねと、
素直に受け入れることこそが、阿弥陀仏を知ることである。
仏教徒ならば、そろそろお釈迦様の教えに帰りましょう。
295 :
298:2008/02/24(日) 00:45:43 ID:+4mEf2uY
>>292 >似たような感じ方をする人がいればうれしいのは、自力だから。
>そんなこと必要ないと思うよ。シンパシーを求めること自体、
>凡愚の迷妄じゃん。往生はひとりのしのぎ。必要ないし、
>他力にとっては邪魔なだけ。
弥陀の真実信心に、邪魔になるものなど、何もないと思います。
すべての障りを超えて、凡夫の心に届く南無阿弥陀仏です。
必要だからうれしいのではなくて、
似たような感じ方をお持ちであれば、
弥陀をたのんでくれるかもしれないから、うれしいのです。
>弥陀の本願まことであって、あなたの思い、私の思いを主人としてしまうなら、
>他力でも何でもないんじゃないかな?
これは、全くその通りであると思います。
あくまでも、弥陀をたのまねば、いたずら事だと思います。
>自分に同意する人間が可愛く思えるのは、我執が働いているから。
>その我執の固まりを必ずほとけとなすのが、弥陀の本願。
>偉いのは私じゃない、善知識でもない、阿弥陀さまだよ。
これも、本当にその通りだと思います。
弥陀は真実尊い、本師本佛であると思っています。
南無阿弥陀仏
296 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:46:32 ID:Kn92hi8Z
はからいが邪魔だね。
297 :
298:2008/02/24(日) 00:48:00 ID:+4mEf2uY
>>269 >阿弥陀仏からいただく他力の信心は、特定の人から特定の内容を聞かなければ
>得られないものではありませんし、特定の人から特定の内容を聞けば
>得られるというものではありません。
◎されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。
宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり(御文2-11)
◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、
善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)
298 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:48:15 ID:ULyd0QwH
>>293 最近のキリスト教は優しくなって、あの世での栄光だけでなく、この世での成功理論も説いてるよ。
299 :
298:2008/02/24(日) 00:48:26 ID:+4mEf2uY
>>296 はからいも、邪魔にはなりません。
はからいあるままで、弥陀をたのめば良いのです。
300 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:51:25 ID:Kn92hi8Z
お釈迦さまの言い付け護れない、末法五濁が相手だからね、真宗は。
その点は、ユダヤの律法護れない相手を正しく救うべき者とする
キリストさんに似てるかも。
301 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:52:31 ID:Kn92hi8Z
>299
甘いね。自力に。
302 :
298:2008/02/24(日) 00:53:11 ID:+4mEf2uY
>>301 弥陀をたのむときには、自力はすたれるのですから、
自力は一切さわりには、ならないのです。
303 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:55:23 ID:Kn92hi8Z
よいのですなんて、言えるのか?十悪五逆の罪人の癖に。
偉そうにふるまうなよ、地獄種しか造れない凡愚の固まりが。
304 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:55:53 ID:7fGXVsPd
>>300 守りきれなくても、「守ろう」「守ったほうがいいな」
…という気持ちや理解が生じただけでも、
人生は改善していきます。
305 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 00:59:59 ID:Kn92hi8Z
>302
あのね、障りにならないのは弥陀の本願であって、
凡夫の思いは障りしかないんだよ。
勝手に納得しようがしまいが、元来、障りの固まりですね、我々凡愚は。
やはり、機の深信が欠けてるんじゃないかなー。
306 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 01:01:54 ID:Kn92hi8Z
>304
末通らないね、適当すぎるし、用事なし。
307 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 01:02:09 ID:ULyd0QwH
>>294 お釈迦様は、神(deva,devataa)、大梵天(宇宙創造神)、帝釈天(インドラ神)、
悪魔(maara), 神霊(yakkha)、餓鬼(幽霊)、卵子精子に入る魂(ガンダッパ)、仮生のいけるもの(霊的存在)を説いてるよ。
308 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 01:03:56 ID:Kn92hi8Z
>307
皆、迷いの生存だよね。悟りには不必要。
309 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 01:06:26 ID:7fGXVsPd
>>307 それら存在や人間が
幸せになるためにどうすればよいかも、説いている。
310 :
298:2008/02/24(日) 01:07:30 ID:+4mEf2uY
>>303 >地獄種しか造れない凡愚の固まりが。
地獄種しか造れない凡愚の固まりに、よろこんで、
修行の成果たる南無阿弥陀仏を与えてくださる、
阿弥陀さまです。
そして、真実信心までくださり、
その上、極楽往生まで、お守りくださいます。
諸神の守りまで、つけてくださいます。
地獄種は、地獄に行くのが通常です。
それを、極楽に迎えてくださる。
阿弥陀さまの救いは、素晴しいと思っています。
311 :
298:2008/02/24(日) 01:09:25 ID:+4mEf2uY
>>305 >あのね、障りにならないのは弥陀の本願であって、
>凡夫の思いは障りしかないんだよ。
凡夫の思いだけであれば、障りになるでしょう。
しかし、弥陀の真実信心の前では、
極楽往生の触りになることは、できないのだと思います。
凡夫の妄心が、どれほどひどいものであっても、
弥陀は決して捨て置かず、
極楽に迎えてくださいます。
312 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 01:12:01 ID:ULyd0QwH
>>309 釈尊は、憑依霊や悪霊とも対話をして、説法によって成仏させているよ。
みんな、比喩表現だとか神格化だとかいうけど、事実だよ。
313 :
298:2008/02/24(日) 01:13:00 ID:+4mEf2uY
>>312 釈尊は、大慈悲のお方だと、常々尊敬申し上げています。
314 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 01:13:52 ID:Kn92hi8Z
>310
喜んだところで、有り難いと思ったところで、地獄逝きには変わりなし。
自因自果故、当然の結果。もう止めよう、私の心は胡散臭さの固まり。
そんな奴を相手にしても、胡散臭い誤魔化しばかり。
弥陀の本願だけ、清浄なり、真なり。
315 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 01:17:03 ID:Kn92hi8Z
298さんは我が聞いた事をたのみ、我が経験した事をたのむので、
駄目なんじゃないかなー。高森顕哲とそう変わらんと思ってしまう、ごめんね。
316 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 01:19:43 ID:ULyd0QwH
>>308 宇宙創造神から、法を説くように要請を受けたんだよ。
317 :
298:2008/02/24(日) 01:21:41 ID:+4mEf2uY
>>314 >喜んだところで、有り難いと思ったところで、地獄逝きには変わりなし。
本当でしょうか?
私は、弥陀をたのんだ衆生はみな、ひとりのこらず、
極楽往生すると思います。
自分自身の方向性としては、地獄を向いた性質が変わるわけでは無いにしても、
尊いのは、弥陀の真実信心です。
私の性質をすべて差置いて、極楽へと連れていってくださいます。
それにしても、「弥陀の本願が真」との関連性がよくわかりません。
あなたは、本願信じていながら、地獄に行くのですか?
何のための、本願でしょうか?
文脈から言って、済度に参るという意味ではないように思います。
地獄行き間違いない、三毒まみれの惑染凡夫を、
助けてくださるのが、他ならぬ、阿弥陀如来であると思っています。
早く、弥陀をたのんで、救われてほしいと思います。
318 :
298:2008/02/24(日) 01:24:52 ID:+4mEf2uY
>>315 ご自身の信じる道をゆかれるのが、良いことです。
私が駄目な凡夫であることも、もちろんのこと、
つい忘れてしまいがちですので、思い出させてくださいましたことに、
感謝申し上げます。
尊いのは、私ではなく、弥陀にいただいた真実信心や、
弥陀の法が尊いのです。
私自身は、哀れな泥凡夫です。
この泥の固まりから、華を咲かせてくださるのは、あくまでも、
阿弥陀様であって、私の功ではありません。
319 :
298:2008/02/24(日) 01:33:21 ID:+4mEf2uY
>>303 >よいのですなんて、言えるのか?十悪五逆の罪人の癖に。
>偉そうにふるまうなよ、地獄種しか造れない凡愚の固まりが。
「十悪五逆の罪人の癖に」というのは、弥陀の考え方とは、
違うと思います。
阿弥陀さまは、十悪五逆の罪人だからこそ、
よろこんで、救ってくださるのです。
これは、私には、できません。
303様にも、できないことだと思います。
ですから、私たちは、弥陀をたのむのです。
十悪五逆の罪人の御自覚があるのであれば、
どうか遠慮なさらずに、弥陀をたのんで、
救われてください。
罪の意識に遠慮することを、弥陀は望んでいないと思います。
弥陀は、衆生を救いたいと思っていると思います。
298さん、阿弥陀様が救ってくださると繰り返し言われますが、
機の深信がなければ、真実信心頂いていないのだから地獄行きですよ…
薬があるからといって毒を好めとは言わないと、親鸞聖人も言われているのにね。
何ものもさわりとならないと開き直っている風なのが、なんとも。
321 :
298:2008/02/24(日) 01:37:40 ID:+4mEf2uY
阿弥陀さまは、その身、その心のままで、救ってくださいます。
その身、その心のままで、弥陀をたのめば、
身も変わり、心も変わり、真実信心をいただき、
凡夫のままにて、極楽往生治定、その後は、命尽きるまで、御恩報謝のお念仏です。
弥陀の救いは、完成されていると思います。
すべての功徳は、六字におさまり、信後の相続も、
要は、南無阿弥陀仏、
信前の助業も、要は、南無阿弥陀仏です。
南無阿弥陀仏
>私自身は、哀れな泥凡夫です。
機の深信がなければ、慚愧なし…
卑下慢、にしかなりません。
「十悪五逆の罪人のこのわたしめあての、本願だった」
という思いは、ないんでしたよね。298さんは。
つまりそれは十八願のめあてになっていないということで、
貴方が受け取っていないということなので、阿弥陀様の救いは
完成していないのでしょう。
「南無」の部分が欠けていますから…
323 :
298:2008/02/24(日) 01:43:12 ID:+4mEf2uY
>>320 誤解のある書き方、誠に申し訳ありません。
私は、悪行をすすめているのでは、ありません。
できないなりに、善行を為そうとするのは、
仏法である以上、もちろんのことであると思います。
善行なそうとしても、悪行為してしまうのが凡夫の性質であり、
善行なそうとしたつもりが、そんな気持ちが、ふっ飛ぶときもあるのが、
凡夫の性質であると思います。
それでも、弥陀にいただいた真実信心は、
極楽に連れていってくださいます。
悪行を好む性質を持つのが私の心ですから、
そのような心によって、通常であれば、地獄行き間違いないのに、
何の苦労もせず、命終われば極楽にいます。
こんな救いは、(私にとっては)他には無いと、
よろこんでいるのです。
悪行すすめているのではありません。
弥陀の救いの前には、さわりにならないだけのことで、
さわりにならないからと言って、悪行なすのは、良くないことです。
同様に、極楽往生が治定しているからと言って、
御恩報謝のお念仏を為さないのも、良くないことだと思います。
弥陀の救いは無上善、凡夫の側から足す善などありませんが、
それでも、そんな凡夫を救ってくださったのですから、
本来だったら、はるかに多くの善行を積み重ねばならないのですから、
その御恩に、善行為そうとするべきであると思います。
南無阿弥陀仏
324 :
298:2008/02/24(日) 01:44:49 ID:+4mEf2uY
>>322 >「十悪五逆の罪人のこのわたしめあての、本願だった」
>という思いは、ないんでしたよね。298さんは。
ありますよ。弥陀に救いとられた奇跡に、よろこんでおります。
南無とは帰命、弥陀の召還に従いまして、
真実信心をいただいたと思っております。
325 :
298:2008/02/24(日) 01:51:11 ID:+4mEf2uY
>>322 >「十悪五逆の罪人のこのわたしめあての、本願だった」
>という思いは、ないんでしたよね。298さんは。
教義の面から考えて、私に信心無いと示したい方々の言い換えに、
影響を受けられているのではないかと思います。
信心獲た方が出て来ると、都合の悪い方々がいらっしゃるのです。
しかし、それらの方々の都合をよそに、
弥陀は、たのむ凡夫を救ってくださいます。
きっと、今日も、どこかで凡夫が弥陀に救われていることでしょう。
論戦で、信心獲るわけではありません。
信心いただくのも、南無阿弥陀仏です。
弥陀をたのめば極楽往生治定、
弥陀をたのまなければ、何を言っても往生治定致しません。
326 :
298:2008/02/24(日) 01:55:20 ID:+4mEf2uY
>>270 私も、そう思います。
それによって、ますます真実信心が、求めにくくなっているのでしょう。
それでも宿善の機は、宿善のもよおしにより、
正法ある場所に、辿り着くのだと思います。
不思議なことです。
298さんが真宗秘密講とやらなら、なるほどと思う。
上に書いてあるような儀式を通して得る自力の信心では、二種深信がともなわなくても無理はないから。
その信心の上に安心して座り込んで、ほかの人にもすすめているのがどうもなあ。
早く救われて頂きたい、ってよく書かれるけど、自分がまず救われないといけないんじゃないかと。
328 :
298:2008/02/24(日) 01:58:21 ID:+4mEf2uY
>>327 自身がまず救われねばならないのは、その通りですね。
私は、弥陀に救われたと思い、よろこんでいるのです。
これが、「違かった」と思ったら、また新たに探し始めると思います。
そして、自力の信心であれば、二種深信があるはずもないのも、
その通りであると思います。
私は、他力によって信をいただけたと思い、
このようなことがあることに驚き、感謝して、
おすすめしています。
南無阿弥陀仏
329 :
298:2008/02/24(日) 02:01:01 ID:+4mEf2uY
>>327 真宗のお話を聞いたことがあっても、真実信心などどこにもないのではないかと、
あきらめている方もいるのです。
南無阿弥陀仏を聞いたことがあっても、それでは救われないではないかと、
不思議に思っている方もいるのです。
そのような方に、凡夫が生涯一度で信心決定する、真実行である南無阿弥陀仏が
あることを知っていただき、宿善開発の助けとなり、
ひとりでも多くの方が、弥陀をたのんで、信心決定されることを、願っております。
330 :
298:2008/02/24(日) 02:17:48 ID:+4mEf2uY
>>304 同感です。
真宗では、罪人のまま弥陀に救われたかたじけなさに、
御恩報謝の南無阿弥陀仏、
地獄行きが生かされたと、地獄よりも尊い人間界、
命終われば極楽浄土、
感謝して日暮ししてゆきます。
331 :
298:2008/02/24(日) 02:21:23 ID:+4mEf2uY
>>304 私は、「ひとり歩め」と説かれた釈尊を、尊敬しております。
犀の角のように、ひとり歩めと。
幸い私は善友をいただいております。
「善友は、道のすべてである」と、私は教わりました。
私がその教えを理解したのは、
易行である、真宗の教えによってなのです。
善友あるならば、それをよろこんで、善友にむつび、
それでも、もとはひとりなのですから、
あくまでも、ひとり歩む気持ちにて、
みながひとりの道を行くのだと、
一味同心をよろこびながら、
歩ませていただいております。
南無阿弥陀仏
332 :
298:2008/02/24(日) 02:29:46 ID:+4mEf2uY
>>303 >よいのですなんて、言えるのか?十悪五逆の罪人の癖に。
>偉そうにふるまうなよ、地獄種しか造れない凡愚の固まりが。
本願を信じていらっしゃるとのことですのに、このような御発言ですので、
苦しまれているのではないかと、気になります。
本願をさまたげる悪は、無いのではないでしょうか。
それでこその、安心だと思います。
私は、有縁の方には、弥陀の本願をさまたげる悪は無いと、
知ってほしいです。
同時に、これは、悪をすすめているのではありません。
善行したくても、善行できない凡夫でも、
救いをあきらめる必要は無い、弥陀は救ってくださるということを、
お伝えしたいのです。
333 :
298:2008/02/24(日) 02:33:23 ID:+4mEf2uY
念仏成仏、これ真宗。
弥陀の本願、さわりなし。
凡夫がたのめば、佛となる。
334 :
298:2008/02/24(日) 02:34:53 ID:+4mEf2uY
阿弥陀如来は、私の如来。
ひとりのときでも、およろこび。
如来が笑うと私も笑う。
私が笑えば如来も笑う。
335 :
298:2008/02/24(日) 02:36:17 ID:+4mEf2uY
如来の救いは、南無阿弥陀仏。
すべての修行は阿弥陀の中に。
たのむ凡夫を佛とする、
無上方便南無阿弥陀仏。
336 :
298:2008/02/24(日) 02:37:48 ID:+4mEf2uY
弥陀を信じぬ人が言う。
弥陀などいないと人が言う。
私は弥陀に救われた。
無いなら不思議がさらに増す。
337 :
298:2008/02/24(日) 02:39:26 ID:+4mEf2uY
弥陀はいないと人が言う。
南無阿弥陀仏は嘘と言う。
嘘に救われ南無阿弥陀仏。
私のよろこび南無阿弥陀仏。
338 :
298:2008/02/24(日) 02:40:18 ID:+4mEf2uY
嘘の救いが南無阿弥陀仏。
この世に証拠は何も無し。
無い証拠を探すも無意味、
救われ私が南無阿弥陀仏。
339 :
298:2008/02/24(日) 02:41:11 ID:+4mEf2uY
証拠は唯一南無阿弥陀仏。
阿弥陀の法に救われる。
たのめばわかる南無阿弥陀仏。
弥陀はあなたをただ救う。
340 :
298:2008/02/24(日) 02:41:56 ID:+4mEf2uY
凡夫が心をなげすてる。
南無阿弥陀仏となげすてる。
念仏三昧南無阿弥陀仏。
弥陀がおん手をさしのべる。
341 :
298:2008/02/24(日) 02:45:28 ID:+4mEf2uY
弥陀と一緒の南無阿弥陀仏。
佛となりての阿弥陀をたのむ。
信ずる機の南無およろこび。
感謝にとなえる南無阿弥陀仏。
342 :
298:2008/02/24(日) 02:47:38 ID:+4mEf2uY
救い救われ南無阿弥陀仏。
弥陀をたのむが南無阿弥陀仏。
阿の字、無の意味何も無し。
自力ふりすて南無阿弥陀仏。
343 :
298:2008/02/24(日) 03:05:19 ID:+4mEf2uY
>>301 >甘いね。自力に。
一般の方が、「こんな自力ではいけない」と悩まれるのはわかるのですが、
我らがたのむのは、十方衆生をおめあてとした、阿弥陀さまです。
自力に甘かろうと、辛かろうと、そんなことは関係ありません。
弥陀をたのめば、皆救われます。
どうか、弥陀からお逃げにならずに、弥陀をたのんでください。
344 :
298:2008/02/24(日) 03:09:01 ID:+4mEf2uY
>>306 >末通らないね、適当すぎるし、用事なし。
善行しようと、凡夫にとっては、はなはだめずらしいことを、
なんとか為そうとしている方の気をくじくようなことは、
誤解を生む可能性がありますから、良くないことだと思います。
善行は、奨励されるべきです。
それでも善行できない私たちだから、弥陀をたのむのです。
私は、
>>304様を、応援します。できる範囲で、
善行なそうとすることを、続けてください。
因果の道理は、むなしいことではありません。
必ず、304様を、しあわせにして行くことでしょう。
345 :
298:2008/02/24(日) 03:17:07 ID:+4mEf2uY
>>303 弥陀は、地獄種しか造れない凡愚の固まりを、
本当に、心からよろこんで、大歓迎して、
御身から八万四千の光明をお出しになって、
救ってくださいます。
本当にありがたい、阿弥陀さまです。
346 :
298:2008/02/24(日) 03:18:58 ID:+4mEf2uY
>>292 >我執の固まりを必ずほとけとなすのが、弥陀の本願
良いことばですね。阿弥陀さまは、本当に尊いです。
南無阿弥陀仏
347 :
298:2008/02/24(日) 03:27:00 ID:+4mEf2uY
>>268 何もしなくて良いならば、教えが要らないではないですか。
釈尊の出世の必要も、法を説く必要も、無いのではないですか。
348 :
298:2008/02/24(日) 03:32:44 ID:+4mEf2uY
>>248 一考していただけるならば、心から、うれしいことです。
弥陀をたのめば、易行にて、信心決定致します。
そのような救いがあることこそ、真宗が、真宗たる由縁であると思っております。
真宗の教えは、とても受け入れがたいのだと思います。
◎善知識にあふことも
をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなほかたし(浄土和讃)
あくまでも、易行ですから、この「信ずる」というのは、
信前において、弥陀の救いを信じ、たのもうと思うことを
指すと思っています。
349 :
はからい=自力:2008/02/24(日) 05:02:30 ID:Kn92hi8Z
>347
生きてる者が何かしない時などないでしょ。いつでも何かしてる。煩悩の車に回されて。
火炎放射機のように。領解も煩悩だらけ、求道も煩悩だらけ、
そんなものは浄土の因にはならないよね。
ひとり若不生者の誓いは煩悩で造られたものではない。
因浄なる故に、果もまた浄です。
あてにならないものをあてにするより、弥陀の本願をたのみなされや。
350 :
298:2008/02/24(日) 05:07:21 ID:+4mEf2uY
>>349 では何もしないのではなくて、やはり弥陀をたのむのではないですか。
>生きてる者が何かしない時などないでしょ。
だからこそ、前念命終であり、娑婆の臨終、自力すたるのでは
ないでしょうか。
つまり、弥陀をたのむには、一度死なねばなりません。
伸びた命も、もらった命。南無阿弥陀仏。
351 :
298:2008/02/24(日) 05:10:35 ID:+4mEf2uY
◎ひとたびもほとけをたのむこころこそ まことののりにかなふみちなれ(蓮如聖人)
352 :
298:2008/02/24(日) 05:18:38 ID:+4mEf2uY
>>105 4様にとって、私の言うことは、納得いかないことでしょう。
そして、私が、4様の言うところを、理解していないと思われていると
思います。
私は、決していじわるで、このようなことをしているのではありません。
4様が、私の機の深信を問うているのは、私が信後だと申しているから、
4様なりに、その信心を沙汰したく、こころみているのだと思っております。
それこそまさに、信心の沙汰であり、望ましいことです。
もうひとつ。私が、信前の機の深信について、4様について言っていることです。
4様からすれば、信後と言っている私のことを言っているのに、
なぜ、信前の話をするのかと、疑問に思われると思います。
これは、4様の発言に明示されているのではなく、
時折示される、()の中の自問自答に現れていると思い、
申し上げております。
いずれ、まとめまして、書き込みたいと思っております。
対話の履歴が残りますのが、掲示板の良いところです。
互いに、表した信心が、自然とつむがれてゆきます。
信後も信心の沙汰をせよ、と蓮師はおっしゃいます。
◎信心決定のひとも、細々に同行に会合のときは、
あひたがひに信心の沙汰あらば、これすなはち真宗繁昌の根元なり(御文4-8)
353 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 05:22:03 ID:Kn92hi8Z
>344
よしあしの文字をも知らぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字知り顔は
おおそらごとのかたちなり
善行って一体何が善行なんでしょう?あなたは何を奨めているのかわかってる?
自分の善悪価値を基準として、弥陀の本願をはからっているのでは?
悟りの智恵によって選択された本願以外用事なし。
蛇蠍奸詐のこころにて、
自力修善はかなふまじ、
如来の回向をたのまでは、
無慚無ギにてはてぞせん
何をたのみとしているのかな?
どなたかが言われてましたが、やはり、機の深信が無い。
我が身我が善行をたのみとしてるんじゃないかなー。
354 :
298:2008/02/24(日) 05:22:30 ID:+4mEf2uY
>>105 「あひたがひに」ですので、
信前の方 → 信後の方
信後の方 → 信前の方
信後の方 → 信後の方
これらの方向性が、考えられます。
信後の方に向けても、信心の沙汰がなされる。
これが、蓮師の考え方の、素晴しいところであると、私は考えております。
なんと、すばらしい真宗であろうと思っております。
4様からは、私の態度は至らぬと見えるでありましょうし、
実際、至らぬと私も考えております。
このような場で、学ばさせていただけることを、よろこんでおります。
4様の書き込みを読むことにより、気付かされたことも、多々ございます。
おつきあいいただけることに、深く感謝申し上げる次第です。
南無阿弥陀仏
355 :
298:2008/02/24(日) 05:28:42 ID:+4mEf2uY
>>353 他力には、我が身我が善行は有りません。
それらを捨てたところに、他力があるからです。
善行で、極楽往生治定すると申しているのでもありません。
善行なさろうとしている方の、その意図を、私は尊重致しますし、
弥陀に信心いただいた後も、なるべく善行なすように、
心がけることが望ましいと考えております。
悪人正機というのは、悪人になれということではないと思います。
善行なそうとしても、なかなかできないとわかってきたとき、
自らが悪機であると、見えて来るだけです。
あの方は、いわゆる善行をなそうとしているのではなく、
仏説に基づこうとされているのでは、ありませんか?
聖なる道を歩もうとされている方を、
それがどんなに小さな一歩であろうとも、
私は応援致します。
356 :
そらごとたわごと:2008/02/24(日) 05:32:13 ID:Kn92hi8Z
>350
うーん、結局「自分が弥陀をたのんだ」って事をあてにされているんだよね。
自力無効ならば、たのんだ事はあてにはならないでしょう。
357 :
298:2008/02/24(日) 05:35:56 ID:+4mEf2uY
八聖道を歩まれませば、いずれ滅度に至りますこと、
仏説であります以上、疑い無しと私は信じております。
流転を重ね、それでも修行を続け、退転ありましても、
いずれは滅度に至る道です。
釈尊は、多くの法門を説かれました。
機に応じた道が説かれているはずであると思います。
私は、聖道至らぬ凡夫でありますから、横超の道を辿らせていただいたのです。
358 :
専修賢善のはからい:2008/02/24(日) 05:42:33 ID:Kn92hi8Z
>355
それって親鸞さまの教えじゃないよね。
善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、
ひとへに本願をたのみまいらすればこそ、他力にては侯へ。歎異抄(13)
内に虚仮を抱いているのに、善悪の事知り顔に人に奨め、
賢善精進のすがたを外に示す、おおそらごとのかたちじゃん。
それって、ひとえに弥陀をたのむ心が欠けているんだよ、きっと。
359 :
298:2008/02/24(日) 05:43:29 ID:+4mEf2uY
>>356 これは、わかりにくいことだと思います。
「弥陀をたのんだ」ということを、厳密に狭い範囲で捉えた場合、
そこに自力はありません。
しかし、それだけでは、凡夫に実行ができなくなってしまいます。
そこで、無上方便たる南無阿弥陀仏が存在し、
これは、他力に至る自力の行なのです。
肝心なことなので、もう一度書きたいと思います。
真実信心いただくその時には、自力はすたっています。
言い換えれば、死んでいます。
しかし、ふつうに死んだら、死にっぱなしで、還ってこれません。
では、どう死ぬか。それが、南無阿弥陀仏です。
他力に至る自力の修行は、凡夫が自分で為すのです。
そして、これは、易行です。
これにより、自力がすたり、他力によって信心いただきます。
すたっているとき、念仏三昧です。
信をいただき、自力が戻ります。
そこから先は、御恩報謝の南無阿弥陀仏。
「自力→他力→自力」これを、全部含めて、「弥陀をたのむ」と、
私はよく書いています。
わかりにくければ、申し訳ありません。そもそもいろいろと、
わかりにくいことが多いのが、真宗です。
360 :
298:2008/02/24(日) 05:51:40 ID:+4mEf2uY
>>358 選択の教えは、選択を強いるものではないと思います。
まずは、弥陀の教えについて、概要をお伝えします。
そこで、拒否される方に、無理に進めるものでもないと思います。
その機に応じた道があるのではないでしょうか。
弥陀の救いを聞いたときに、その救いに興味を示す方がいます。
そのような方に、易行が準備されていると思います。
いきなり弥陀をたのむことをすすめても、受け入れてもらえるものでは
ないからこそ、このような伝え方になっているのではないでしょうか。
もちろん、このあたりは、臨機応変だと思います。
私なりに、あの方の機を見た判断ですが、所詮凡夫の判断ですから、
間違っているかもしれません。
私が弥陀をたのむことと、あの方があの方の道を進むことは、
また、違うのではないかと思います。
誰にでも、(いきなり)一律に真宗をおすすめするのが良いのであれば、
三部経における釈尊の説き方も、望ましくないことに
なってしまうのではないでしょうか。
あくまでも、対機であると思っていますが、みなさまのご意見も、
お伺いしたいと思っています。
361 :
298:2008/02/24(日) 06:05:46 ID:+4mEf2uY
自分が信をいただくことよりも、他の方に説明する方が難しいとのことですが、
私はこちらのスレで、それを勉強させて頂いていると思っています。
自分が信をいただくだけなら、易行で簡単ですが、
他の方に伝えるには、そこは易行なのではなく、
むしろ、難関です。
しかし、私に信をつたえようとしてくださった方々にとっては、
難しかったはずです。
おそらく、過去生においては、相当私は頑固に拒否していただろうと想像しています。
他の方にお伝えすることは、難しいことかもしれませんが、練習しているうちに、
次第に上達するのではと思っています。
これは、伝え方というよりも、お伝えするときの、
私の心が、次第に御恩報謝になってくることを望んでいます。
ですから、ひとりもお手引きできない方が、
御恩報謝になって良いのではないかと思うくらいです。
2chにおいても上達するために、他のスレなども参考にしまして、
文体等も練習しています。
362 :
末代の道俗:2008/02/24(日) 06:13:23 ID:Kn92hi8Z
>359
凡夫が実行できたことって、とどのつまり、悉く流転の因だよね。
自力で実行し、自分の実行したことをたのんでいるのだから、
因不浄にして、果もまた不浄でしょ。
弥陀のおはからいをはからっている、弥陀のお仕事を
自分は出来ていると我が身をたのんでいる。
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
親鸞さまのお薦めのまんまだよ。
八聖道は確かに尊いけれど、それをお薦めかな?
あなたのことばを聞いた人が、機根にあわぬ八聖道を修行して、
また流転しちゃったらどう責任とるの?親鸞さまのお薦めを薦めましょ。
言い訳や思い込みは通用しないよ。
363 :
298:2008/02/24(日) 06:27:25 ID:+4mEf2uY
>>362 >あなたのことばを聞いた人が、機根にあわぬ八聖道を修行して、
>また流転しちゃったらどう責任とるの?親鸞さまのお薦めを薦めましょ。
八聖道を歩む方の多くは、さらに流転を続けながら、
仏道を歩もうとされているのだろうと思っています。
◎三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
この通りであって、おそらくあの方も、流転されるでしょう。
私の深意は、弥陀をたのんでほしいということです。
だからこそ、あのようにもうしました。
私が至らぬばかりに、あの方を弥陀の救いから遠ざけたならば、
申し訳がないことです。
次に、お話するときがあれば、深意もわかりやすく、
書き込んでゆこうと思います。
間違いばかりの私です。今後とも、何かお気づきの点がありましたら、
いろいろと教えてください。
364 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 06:32:22 ID:Kn92hi8Z
>361
余計なはからいはいらんよー。
一文不知の尼入道のたぐいのとうとやありがたやと申され侯ふを聞きては、
人が信をとると、蓮如さまは仰った。
なにもしらねど、仏の加備力の故だからだよ。今日も尊や、南無阿弥陀仏
さて、お正信ゲさまを読もうかねー。
365 :
298:2008/02/24(日) 06:37:51 ID:+4mEf2uY
>>364 本当に、そうですね。
そのような姿に、真実がこもり、人のこころを打つのでしょう。
ありがたや、南無阿弥陀仏。
366 :
298:2008/02/24(日) 06:39:29 ID:+4mEf2uY
私なんかは、はからい心の固まりですからね・・・
>>359 > これにより、自力がすたり、他力によって信心いただきます。
>
> すたっているとき、念仏三昧です。
>
> 信をいただき、自力が戻ります。
こんなこと、真宗聖典の何処に書いてあるのですか。
たのんだつもりの自力信心ですよ、これ。
御文に「そのうへの」「かくのごとくこころへのうへには」とあるのは、
「そう心得た(時間的な)後は」、じゃないですよ。
「そのこころえのある状態で」ということです。
阿弥陀仏に帰命するときにすたる自力は、戻ってきません。死にっぱなしです。
他力は一瞬だけ、なんてとんでもないことをいいながら妙好人を自称しないで頂きたい。
>>305 >あのね、障りにならないのは弥陀の本願であって、
>勝手に納得しようがしまいが、元来、障りの固まりですね、我々凡愚は。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
369 :
298:2008/02/24(日) 12:07:56 ID:lj/4H269
>>367 たしかに、よくない書き方かもしれませんが、
私はこれまでも、自力と他力の共存とか、
なんとかわかりやすく書こうと思って、
あれこれ書いています。
すたる自力は戻りませんが、すたらぬ自力もあるでしょう。
信を得て、すたらぬ自力に隠されて、
他力信心がそのまま存分に機能していないのが、
身体捨てて顕われる。
信後の命終に至るまで、信心無いようで、無いのではない。
きっちり相続金剛心。
自力がすたるその時に、これはまとめてすたりますけれども、
戻る自力もあるのです。
前々段落の「すたらぬ自力」とは、
前段落の「戻る自力」を指しています。
ここでこう書いたのは、わかりやすく書こうとしたときに、
言葉上の矛盾が出て来ることを書く為です。
それと、教学うんぬんは、妙好人とは関係ありません。
信を獲ているかどうかです。
そこで妙好人かどうかを見ようとするのはおかしいです。
自力が完全にすたりっぱなしでそれが継続するなら、
そこが滅度になりませんか。
370 :
298:2008/02/24(日) 12:15:52 ID:lj/4H269
>>367 「自力→他力→自力」
前の自力には、根源無明がありますが、後ろの自力には、ありません。
「自力→(他力)→自力(他力)」
とでも書いたほうが、正確かもしれません。
>>369 >すたる自力は戻りませんが、すたらぬ自力もあるでしょう。
すたらぬ自力というのは浄土真宗では聞いたことがないのですが、
298さんの信じておられる宗教では、そう言われているんですか?
298さんがよくお読みの御文章の中で、あるいは真宗聖典のほかのところででも
すたらぬものを自力と呼ばれているところがあれば、ぜひ、教えてください。
>自力が完全にすたりっぱなしでそれが継続するなら、
>そこが滅度になりませんか。
「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆の終わり臨終と
おもうべし。」
他力、自力は真宗のいちばん大切なところです。
298さんの判断で、何かを勝手に「自力」と呼ばないでください。
そのように、298さんの善知識が教えられたのなら別ですが。
373 :
298:2008/02/24(日) 13:38:48 ID:lj/4H269
>>372 このスレでも、自力、他力という用語は、日常用語のように、
広く用いられていると思います。
確かに大切なところです。
またレスします。
私も、誤解があるかもしれません。
「勝手に」というよりも、補足解説をしていただけたら、うれしいです。
また、やり取りによって、私自身の理解も進展し、
有縁の方の理解も進展するなら、うれしいことです。
深信についても、似たような理解のすれ違いがあると感じていますので、
これは、私の表現不足と、理解不足によるものだと思います。
374 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 14:01:57 ID:rHdR+wsY
横レスすみませn
親鸞会だろ?
自力=疑情だけ、と教えているのは。ふつう一般に、「自力」といったら、自分の力のことを言うだろう。
298さんは「人間の力=自力」くらいに定義してるんじゃないかな(違ってたらスマソ)
だから、さっきの一念帰命でいうなら
「自力(疑情つき) → 他力(疑情が死ぬ。信の一念) → 自力(他力つき)」
という感じですか?
信前は、念仏してても疑情がすたれてないし、
信後は、阿弥陀仏が憑依するから、弥陀に守られながらの念仏となる。
だれかさらに詳しい解説キボン
>>374 え、普通に浄土真宗本願寺派のお寺で教えてるよ。
世間一般、またはほかの宗教で使う自力他力と、浄土真宗の自力他力を
まぜこぜにしてない?
浄土真宗で信心について話すとき、これをまぜこぜにしたら話がなりたたない。
…と思ったら、ネットで見たらそうでもないのか。
お寺でもまぜこぜにしてるところがあるんですね。なんじゃこりゃ。
機の深信、ってのも微妙です。
私にはどうもよくわからない。
法の深信はたぶん如来のほうだと思うけど、
「機」はやっぱり自分で深めるものなのでしょうか?
どうせなら、これも阿弥陀さまに丸投げしたい、って思うのは虫がよすぎるかなあ。
377 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 15:36:46 ID:+Gky2pSW
>>376 自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、
悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
「機」を自分で深める行為は、自力作善ではないでしょうか?
阿弥陀さまに丸投げするしかないものを救おうというのが、
阿弥陀如来が願をおこされた本意だと言われるのではないでしょうか?
ところが、なかなか自分がどうしようもないダメ人間だとは思えないから丸投げができない、
何も努力をせずとも救われるなんて都合のいい教えが信じられないのではないでしょうか?
378 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 15:38:56 ID:rHdR+wsY
>どうせなら、これも阿弥陀さまに丸投げしたい、って思うのは虫がよすぎるかなあ。
いや、よすぎることはないはず。
「機の深信」というのは、「凡夫(わたし)は罪のかたまり、1つもいいとこはない」だと見抜くことでしょう?
でも「わたしは罪のかたまり、1つもいいとこはない」なんて、本当の意味で、思えるかなあ?
そんなこと思えたら、「こんなダメなやつは今すぐ死んだ方がいい。もう死のう」という自己嫌悪におちいるはず。
どこか「おれってダメなとこもあるけど、いいとこも少しはあるよなー」っていうのが凡夫でしょう。
ただ、その、「凡夫(わたし)は罪のかたまり、1つもいいとこはない」と見抜いたのが阿弥陀様だってことのはず。
「わたしは自分が悪いやつだとはあんまり思えないけど、阿弥陀様から見たら罪悪深重だそうな」
「そしてその私が落ちる後生(地獄)を阿弥陀様に救われてしまう。いやでも救われてしまう」
という状態がおまかせ(信後)というところか。
だから「機の深信そのものをまるごと、凡夫が知ることができる」というのは矛盾してると思う。
「機の深信の一部分を、阿弥陀仏から知らせて(聞かせて)もらう」ことならあり得る、というところか。
もっとうまく説明できる人キボンm(_ _)m
379 :
機法二種深信@:2008/02/24(日) 16:20:08 ID:Kn92hi8Z
>378
本当の意味で思えたら、自力でしょう。本当の意味で思う主体はこの「私」、
その「私」自体が、常没流転、出離の縁無き者ならば、
「私」=虚仮・偽りの本体が、本当の意味で思えたと
認識しているだけと言えますよね。
「他力と言うは本願力なり」と親鸞さまは仰っておられますから、
凡夫が本当だと確信したことは他力ではないことは明白です。
380 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 16:32:00 ID:rHdR+wsY
「機の深信」をもっとうまく説明できる人キボンm(_ _)m
381 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 16:34:30 ID:rHdR+wsY
×誤:「機の深信」をもっとうまく説明できる人キボンm(_ _)m
〇正:「機の深信は自分で深めるものかどうか」について、もっとうまく説明できる人キボンm(_ _)m
382 :
機法二種深信A:2008/02/24(日) 17:07:21 ID:Kn92hi8Z
機の深信というも、法の深信というも、一信心を二方向から見た言い方ですよ。
もし、機の深信を凡夫の罪悪感やそれを深めたものとするならば、
それは凡夫が作為した心であるから、弥陀より賜りたる信心とは言われない。
また法の深信の他に、自身でふかめた信が存する事となり、
一心・無二心が成立しない。一心欠けたる他力信心はないから、
機の深信とは凡夫が罪悪感を深めることを意味しないこととなる。
383 :
7:2008/02/24(日) 17:55:24 ID:uiDhbtTB
>>379 > 「他力と言うは本願力なり」と親鸞さまは仰っておられますから、
>凡夫が本当だと確信したことは他力ではないことは明白です。
心惹かれました。 機の深信を自分で深めていって、地獄一定と絶望する、その時弥陀の声が聞こえて往生治定というのでは、
どうにも自力くさい、どこが易行なのか、御文様は「我が身のわろきことは打ち捨てて」と仰っているし、どうも違う気がしているのです。
実際、自身を見つめて絶望に至り、驚くような心の大転換を経験したこともありますが、そんな自分の経験は役に立たないと思ったのです。
>>383 自分を見つめるのではなく如来様をみつめて、お話をきいてください。
機の深信は私がはからって作るものではありません。
おみのりを聞くことによって現れてくる心相です。
自分をみつめて自分の存在に絶望するのではなく、
如来様のお心を聞いてください。
仏教の目標はお悟りを開くことでしょう。
お浄土でお悟りを開くこと。
自分で悟りを開けない。
悟りを開くことのできない私、ということです。
自分の存在を自分で全否定するのとは違います。
それは機の深信ではありません。
>>383 >御文様は「我が身のわろきことは打ち捨てて」と仰っているし
「ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて」
「ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、
地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを」
ともあります。両方のことをおっしゃってます。
なんかエラソーなこと書いちまったわ。堪忍してちょ。
388 :
7:2008/02/24(日) 21:09:09 ID:uiDhbtTB
>>386 そうですね。先ずは信心頂きまして、まだ寿命が残っておりましたら教学も深めていきたいと思います。
ありがとうございます。
389 :
298:2008/02/24(日) 21:26:28 ID:mxGKf/Vj
>>387 とりあえず、エラソーになるのも凡夫の性なので、
そこはある程度割り切って表現して行くことによって、
思うところが明らかになってゆくのだと思います。
間違いがあるのも当たり前。
信心いただいても間違いだらけなのが、この泥凡夫。
それでも良いのが真宗のすごいところです。
390 :
298:2008/02/24(日) 21:28:25 ID:mxGKf/Vj
>>376 機の深心も、法の深心も、如来がくださる信心を、
なんとか表現しようとしたもので、結局は、一心だと思います。
虫がよすぎるのが真宗です。
391 :
298:2008/02/24(日) 21:34:27 ID:mxGKf/Vj
弥陀をたのめばそれで良し。
他に要るのは何にも要らぬ。
あら心得やすの安心や。
これで浄土に往けるとは、
自力の流転はもはや無し。
392 :
機法二種深信B:2008/02/24(日) 23:35:12 ID:Kn92hi8Z
機の深信も法の深信も一信心であるならば、
弥陀をたのむと言うことも、機の深信であり、法の深信ですね。
廣劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あることなしとは、
全く自身には、無始以来、仏果を得る因の欠片もない、
故に、何をしようが、迷いの輪廻からは逃れられない事を表しています。
それは自力には何一つ悟りを開く因となるものがない、
即ち、弥陀の必ず成仏させんと言う願行によらなければ
解脱不可能と言うこととなり、機の深信=弥陀をたのむと言えるわけです。
法の深信もまた、無有出離之縁の機をも必ず救うという弥陀の願行によるのですから、
(縁無き衆生は度し難し、というのは、正に仏の言でなく、
凡夫の戯言と言うことがわかりますね。
無有出離之縁の衆生を必ず出離させるの勅命です)
即ち、法の深信=弥陀たのむということになります。
易行の至極は、龍樹菩薩も「菩薩の死」と
言われるように、誉められた事ではありません。仏弟子の恥です。
恥を恥とも思わず、悪因苦果を繰り返し、毎日毎時とどまることを知らない私を、
真実心をもって、必ず救うと誓われた阿弥陀さま。故に、往生治定間違いなし。
無有出離の私が間違いないと納得しても全く値打はありませんが、
釈迦・弥陀が間違いないと言われるから、
無上覚の値打があると言わねばならないでしょう。
有り難いね、南無阿弥陀仏
393 :
298:2008/02/25(月) 00:02:40 ID:mxGKf/Vj
>>392 >無有出離の私が間違いないと納得しても全く値打はありませんが、
>釈迦・弥陀が間違いないと言われるから、
>無上覚の値打があると言わねばならないでしょう。
ここが微妙なところで、
◎まつたくわが我執をもつて随分に是非をおもひかたむるを他力に帰すとは
ならはず。これを金剛心ともいはざるところなり(改邪鈔19)
と、どう違うのか、ということになると思います。
何が違うかと言えば、
◎知識伝持の仏語に帰属する(改邪鈔19)
であると思います。
394 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 00:03:21 ID:rHdR+wsY
>392=十劫安心?
395 :
298:2008/02/25(月) 00:05:13 ID:mxGKf/Vj
>>394 弥陀をたのんでいなければ、そうでしょう。
◎そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて
凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて
沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめより
われらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬが
すなはち信心のすがたなり」といへり。これさらに、弥陀に帰命して
他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめより
われらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、
われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、
極楽には往生すべからざるなり(御文2-11)
396 :
376:2008/02/25(月) 00:06:38 ID:tqfHeVT7
みなさま、ご説明や解説、ありがとうございます。
でも、機の深信、やっぱりいまだにピンとこないというのが本音です。
しかし、なんとなくですが
>>378さんのお話なんかは、共感もてました。
って、私が共感もったからってどうなるものでもないんだけど。。。
それと、私バカだから、難しい言葉を並べられると、それだけで拒否反応を
おこしたりしてしまうんですよね。だって、何言ってるか理解できないんですもん。
どこが有り難いのか分からない自分が悲しい。。。
397 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 00:10:38 ID:dGZYn93z
機の深信って、ただの妄想に思える。
今までまともな仏教に出会えなかったから迷ってただけでしょう。
仏教に出会えて仏教を好きになれたなら、
もう心は成長してゆく。
仏教を見くびってはいけない。
今の日本には上座部仏教が上陸している。
800年前の日本にはなかった、まともな仏教が、
現在にはある。
398 :
298:2008/02/25(月) 00:11:07 ID:Ge4gdwzT
>>396 わからないままで、弥陀をたのめば、それでいいんです。
弥陀をたのめば、凡夫が佛になる。
ものすごい修行をされている方々を、ひょいっと追い抜いて、
凡夫が先に佛になるのです。
それが、ありえないですし、かたじけないですし、
ありがたいのです。
南無阿弥陀仏
399 :
298:2008/02/25(月) 00:17:28 ID:Ge4gdwzT
>>397 私たちにとっては、親鸞さまの真宗が、
釈尊の伝えたかった事を、ここ日本に伝えてくださっているものなのです。
上座部仏教をならっているなら、回向もならっているでしょう。
さまざまな生命のことも、ご存知でしょう。
阿弥陀如来が、凡夫に自身の徳をふりむけてくださるのです。
自力修行を為す方は、実に尊い方ですが、
弥陀の修行が成就していますので、
自ら修行をなさずとも、凡夫も簡単に、信をいただけます。
私は、弥陀から信をいただく道を選びました。
そして、それをよろこんでおります。
私のようなものが修行したところで、弥陀にいただく信を超えることなど、
全くできません。
あなたは回向を修していますか? それをむなしいことと思うのですか?
それがわかれば、弥陀の御修行の価値も、わかるのではないかと思います。
南無阿弥陀仏
400 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 00:17:42 ID:knteEHK5
>でも、機の深信、やっぱりいまだにピンとこないというのが本音です。
獲信者だってピンときてないだろ。
阿弥陀仏が見たわれわれの機の実相なんて、その一部分を知らせてもらうくらいだよ。
機の深信がハッキリ全部知らされでもしたら、頭狂うんちゃう?むごすぎて。
機の深信がわかってもわからんでもたのめばいい、というのは正しい・・・
401 :
298:2008/02/25(月) 00:22:21 ID:Ge4gdwzT
>>396 弥陀の信をいただく上で、
むずかしい言葉を理解する必要など、
まったく必要ありません。
ここは言葉でやり取りする場所だから、
ついそう見えてしまうと思いますが、
本来、真宗とは、「漢字を一文字を知らない方でも」信をいただけるばかりか、
むしろ、経文を学習して来た方こそ、あえて、自らを、
「漢字を一文字を知らない方」と同じ様にして、
弥陀をたのんで、はじめて信心いただけるのです。
ですから、むずかしい話に拒否反応を示す方の法が、
信に近いと私は思います。
親鸞さまも、法然さまがそのようなことをおっしゃっていたことを、
伝えてくださっていますよ。
悲しく思うこともありません。弥陀をたのんで、
真実信心をいただきましょう。それで極楽往生治定です。
本当は、真宗は、何もむずかしくありません。
◎故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、
たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとの
まゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしを
みまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、
「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき(御消息)
402 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 00:25:17 ID:dGZYn93z
>>399 「私達にとっては」などと簡単に片付けてよいのでしょうか?
あなたがどう思っていようと、
お釈迦様は阿弥陀仏なんて説いてないでしょう。
だって、本当にお釈迦様が阿弥陀仏を説いていたなら、
上座部仏教の国に阿弥陀のアの字も出てこないのは不自然です。
403 :
298:2008/02/25(月) 00:25:34 ID:Ge4gdwzT
>>396 善知識というのは、南無阿弥陀仏の六字のおいわれを、
どんな方にでもわかるように、やさしくやさしく、
噛み砕いて説明してくださる方なのです。
それさえわかれば、弥陀をたのんで、極楽往生が治定できます。
結局、むずかしい話は、全部捨てねばなりません。
むずかしい話は、一生懸命勉強して行くと、
全部それが必要ないとわかるためのものです。
お聖教には、「六字だけでいいんですよ」という道理が書いてあるのです。
難しいことを学ぶのは、諸善の一種ですので、必要有りません。
404 :
298:2008/02/25(月) 00:27:03 ID:Ge4gdwzT
>>402 >あなたがどう思っていようと、
>お釈迦様は阿弥陀仏なんて説いてないでしょう。
それを、あなたは、どうやって知ったのですか。
智慧を開き、開いたと知った方なのですか。
聖道成就して、一切智者となられたのですか。
405 :
298:2008/02/25(月) 00:28:32 ID:Ge4gdwzT
>>402 そもそも、在家五戒を守れていますか。
正語の実践は、どうなさっているのですか。
今日は殺生なさいましたか。
あなたには実行できても、とても私には、無理な道です。
406 :
298:2008/02/25(月) 00:32:05 ID:Ge4gdwzT
>>402 私のような愚かな機には、
戒を守ろうと為すならば、自分には無理と知れるのです。
ですから、守れる方は、私など足下にも及ばぬ、
本当に尊い方であると思います。
釈尊は、さまざまな法門を説かれました。
それぞれの方が、ご自分に合う道を行かれれば、
それで良いのだと思います。
仏説である以上、どちらの法門でも、如説に修行を為すならば、
必ず滅度に至ると信じております。
407 :
298:2008/02/25(月) 00:33:09 ID:Ge4gdwzT
>>402 >だって、本当にお釈迦様が阿弥陀仏を説いていたなら、
>上座部仏教の国に阿弥陀のアの字も出てこないのは不自然です。
釈尊が対機で説かれたことは、知っていますか。
408 :
298:2008/02/25(月) 00:36:24 ID:Ge4gdwzT
>>403 >むずかしい話は、一生懸命勉強して行くと、
>全部それが必要ないとわかるためのものです。
ですから、むずかしい話で獲信しようとしている方は、
いずれ、そのむずかしい話を捨てることによって、
その望みがかなうのです。
「なるほど、確かに易行だ」とわかります。
409 :
298:2008/02/25(月) 00:38:05 ID:Ge4gdwzT
>>400 凡夫には、何もわからなくていいんです。
語弊があることを言います。
信をいただいたら、そう信じて、御恩報謝のお念仏をとなえる。
それだけです。
410 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 00:39:51 ID:dGZYn93z
>>407 対機説法であろうと、その記録が伝承されているはず。
阿弥陀仏の教えがそんなに大事なら、
なんで上座部仏教の長老達は伝承していないんでしょうか?
私も、もちろん戒を破ってしまうことがあります。
しかし、それでも戒の効果は皆無になりません。
たとえば、健康のために毎日ジョギングしようと決めた人がいて、
実際には週1しかジョギングできなかったとしても、
週1ジョギングできたらその効果はゼロじゃありません。
411 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 00:42:11 ID:dGZYn93z
>>405 仏教の実践が無理なら無理でいいけど、
仏教じゃないものを仏教だと、
嘘の教えを広めるのは良くないと思いますよ。
412 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 00:46:43 ID:dGZYn93z
>>404 仏教のことを知れば知るほど、
浄土教はお釈迦様の教えじゃないと思えます。
413 :
298:2008/02/25(月) 00:49:06 ID:Ge4gdwzT
>>410 私なんかは、戒を破ってばかりですよ。
>阿弥陀仏の教えがそんなに大事なら、
>なんで上座部仏教の長老達は伝承していないんでしょうか?
教わっていなかったのではないでしょうか。
あなたが聖道を歩まれるのは、尊いことだと思いますが、
釈尊は、自力聖道だけでなく、他力横超の道も説いてくださったのです。
あなたは、誰に教わったか知りませんが、
聞いて信じているだけでしょう。
それが、そもそも聖道的ではないのではないですか。
聖道を進まれている方なら、神通がありますから、
釈尊の時代のことも、何の苦労もなく、
そのままスラスラわかるはずです。
あなたの先生は、そのような方ですか。
もしそうでないなら、聖道も、あまり進んでいない方でしょう。
その道が、確かなものなのかどうか、
まず、あなた自身で歩み、約束されている成果を得てから、
確信を得るのが、順序ではありませんか。
414 :
298:2008/02/25(月) 00:53:22 ID:Ge4gdwzT
>>411 >仏教じゃないものを仏教だと、
>嘘の教えを広めるのは良くないと思いますよ。
確かに、嘘はよくありませんね。
では、あなたは、どのようにして、「仏教ではない」と知ったのですか。
聞いたか、読んだかして、それを信じているのではないのですか。
聖道を歩む方であれば、正定をつづけ、
無知を遠ざけ、知っていることをだけ知るとするのでは
ないですか。
私たちのことを妄想と批判する前に、
自らの概念が妄想かどうか、観察されたら、いかがですか。
「浄土の教えが御釈迦様の教えでない」というのは、
確かな知識ですか。
現在の学問の知見ではなく、仏教に基づき、問うています。
あなたは、何に基づき、嘘の教えだと主張しているのですか。
伝聞を信じ、それに基づいて他を批判するのが、
あなたの信じる仏教なのですか。
415 :
298:2008/02/25(月) 01:00:23 ID:Ge4gdwzT
>>404 もし、整理できるなら、浄土教のどこが、
仏教ではないのか、あなたがポイントだと思う点を、
まとめてみて、ご紹介下さい。
つまり、浄土教の教えと、あなたが仏教と信じる教えとで、
矛盾すると思われる点です。
「知れば知る程」ということは、かなり知っているということでしょう?
416 :
298:2008/02/25(月) 01:16:15 ID:Ge4gdwzT
>>411 妄想に基づいて、妄想と批判するのが、
あなたの信じる仏教なのでしょうか。
そのような教えを広めることは、
嘘の教えを広めることには、ならないのですか。
釈尊は、六十二の邪見を説かれているでしょう。
浄土教が、どれに属するということでしょうか?
417 :
298:2008/02/25(月) 01:57:10 ID:Ge4gdwzT
凡夫の妄念つゆ要らぬ。
要らぬが捨てれぬ泥凡夫。
捨てれぬ凡夫が一心に
自力ふりすて弥陀たのむ。
418 :
298:2008/02/25(月) 01:58:11 ID:Ge4gdwzT
たのめば弥陀はよろこんで
光明摂取で救ひたまふ。
凡夫の自力は消し飛んで
歓ぶ念仏みな他力。
419 :
298:2008/02/25(月) 01:59:42 ID:Ge4gdwzT
要らぬをたよって苦しんだ。
苦しむ衆生を導いて
たのませ救う阿弥陀如来。
他力の信心廻向して、
浄土に引接救ひたまふ。
420 :
298:2008/02/25(月) 02:01:47 ID:Ge4gdwzT
不思議な佛智によろこんで
彌陀をたのんで真を知る。
証拠は何も無けれども、
よろこぶ念仏南無阿弥陀仏。
421 :
298:2008/02/25(月) 02:03:21 ID:Ge4gdwzT
苦しむ凡夫は皆来いと
易行を作ってお待ち受け。
凡夫の心に功徳満ち、
我が身も弥陀に、染まりけり。
422 :
298:2008/02/25(月) 02:05:48 ID:Ge4gdwzT
あふれる功徳は大悲の廻向。
弥陀の救いを伝えたく
阿弥陀如来を讃え行く。
南無阿弥陀仏がこだまして
聞いてほしいは弥陀の声。
423 :
298:2008/02/25(月) 02:06:47 ID:Ge4gdwzT
弥陀をたのむが南無阿弥陀仏。
自力の念仏お導き。
真宗念仏一度の廻向、
凡夫の往生定まりき。
424 :
298:2008/02/25(月) 02:10:25 ID:Ge4gdwzT
弥陀をたのんで我を知る。
我心執着娑婆愛著。
そんな心も薄れゆき
心は浄土に遊び知る。
他力成仏これ真宗。
凡夫が佛に定まりき。
425 :
298:2008/02/25(月) 02:11:45 ID:Ge4gdwzT
浄土に往くのがお楽しみ。
死ぬのが恐くてお楽しみ。
娑婆の生活まだあれど
南無阿弥陀仏のしあわせよ。
426 :
298:2008/02/25(月) 02:14:47 ID:Ge4gdwzT
南無とよろこぶ凡夫の信は、
阿弥陀の法に、救われり。
凡夫が佛に定まって、
南無阿弥陀仏を知るがよろこび。
427 :
298:2008/02/25(月) 02:16:35 ID:Ge4gdwzT
他力の信は、弥陀の信。
自分で作るは、至らぬ信。
弥陀のくださる信心は、
我が身に沁みて、救ひたまふ。
428 :
298:2008/02/25(月) 02:17:58 ID:Ge4gdwzT
弥陀が救ふが南無阿弥陀仏。
凡夫が救ふじゃないと言う。
凡夫は救われただもらい。
こんな救いはありゃしない。
429 :
298:2008/02/25(月) 02:20:04 ID:Ge4gdwzT
他力の信を獲たければ
次第相承善知識、
同行さがして弥陀たのめ。
弥陀はどこにもいるけれど
わからぬ見えぬ、凡夫の迷い。
430 :
298:2008/02/25(月) 02:21:55 ID:Ge4gdwzT
尽十方無碍光如来。
どんな場所にも佛います。
光を受けぬは泥凡夫。
心を決めて、彌陀たのめ。
431 :
298:2008/02/25(月) 02:23:13 ID:Ge4gdwzT
あきらめつかぬが凡夫の心。
だめだと言いつつ我が道を、
進んで苦しみ、文句言う。
救われ強がり自力信。
弥陀をたのめば他力信。
432 :
298:2008/02/25(月) 02:24:15 ID:Ge4gdwzT
他力の信心純他力。
自力のまざりは無き故に、
凡夫を佛と、させたまふ。
こんな救ひがあったかと
たのんでおどろく南無阿弥陀仏。
433 :
298:2008/02/25(月) 02:26:28 ID:Ge4gdwzT
我が身を見れば、佛がいる。
機法一体南無阿弥陀仏。
弥陀の救いにつつまれて、
楽しい日暮らし南無阿弥陀仏。
434 :
298:2008/02/25(月) 02:30:07 ID:Ge4gdwzT
ここにも菩薩の御同行。
尊い方と仰ぎ見る。
菩薩が増えるが菩薩行。
皆尊い南無阿弥陀仏。
435 :
298:2008/02/25(月) 02:33:08 ID:Ge4gdwzT
弥陀を仰いで大歓喜。
釈尊親友と褒めたもう。
応現如来に感謝して
南無阿弥陀仏と言いささぐ。
436 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 08:01:09 ID:dGZYn93z
>>415 まず、念仏して往生できるという教えが仏教じゃない。
仏教は、悩み苦しみの原因である煩悩を克服する教えです。
お釈迦様の教えは、知識がなくても実践できます。
これに反して、浄土教は、
たくさんの仏教的概念を知る必要がある。
「南無阿弥陀仏」とか「本願」とかの意味を理解するには、
たくさんの仏教知識が必要になる。
お釈迦様の説く戒や瞑想は、そんな知識などなくても実践できるものです。
437 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 09:35:35 ID:hp7WD710
298の渡海難化が加速してるな。
しかも4行レスの連投でごまかしてる。
438 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 09:51:27 ID:s71HzI4T
流れ的にいうと、ここからは 上座部仏教 vs 298 だね
439 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 09:55:13 ID:s71HzI4T
大乗非仏説、浄土教非仏説、浄土教は簡単ではない、
むしろ簡単明快即効を求めるならば上座部のほうが
近みちである、などなど、由来・正統性・効用などが争点になると予想する
440 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 09:56:00 ID:s71HzI4T
渡海難はご自分のスレに帰ったようだ。
しかし上座部仏教の方も、浄土教をまったく知ろうとしないままに
批判しているみたいなので、いまのところは争点以前の問題かもしれません。
442 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 10:05:44 ID:WOe4dfEE
リアル大原問答は、どのようなものだったのだろうか?
両方勉強してないと議論にならないんだ。
これまでの議論も「自力」「他力」「獲信」など肝心な言葉の定義が
あってなかったしな。最初から言葉の意味が違うんだからな。
もっと定義を詰めてから話すりゃいいのにな。
444 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 12:21:50 ID:dGZYn93z
>>442 当時は、浄土三部経も仏説だと信じられていました。
浄土三部経の内容が歴史的事実であるなら、
法然さんの論は正しいでしょう。
>>444 444さんのお話には、激しく興味を持たれる方も多いと思います。
けど、ここは真宗の信心決定についてのスレですのでねえ。
そっちのお話を聞きたいわけなんですよ。
大乗仏教を仏説だと信じている我々は、444さんから見たらすべて幽霊みたいになりますもんね。
私としたら、どこかよそにスレを立てて浄土の教えは仏説か否か、を議論していただきたいと思いますが。
446 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 12:44:38 ID:WOe4dfEE
大乗仏説論
・現存阿含以外にもテキスト化されなかったが、在家に随時説かれた教えも数多くあった。
・口伝による伝承方法にて後世まで残された教えが、後に、成文化された 。不妄語戒がある故、嘘はつけず、厳密なはずである。
・三昧による見仏により、自らの思索の結果を、仏弟子が久遠実成の仏陀に確かめて作成された。
・仏弟子が、定中において、仏の説法を受けて作成された。
・仏弟子が、釈尊の証悟の核にせまり、その結果を成文化した。
・阿含経の中に、「仏の境界や不可思議などのことは、小乗の知るところではない」とあり、
「大乗経は遠大な菩薩たちが用いるものであるから、これらは雑蔵しておこう」となり、
大乗小乗の区別は原始仏教時代から存在していた。「雑蔵」の言葉のとおり、時至って世に出現したもの。
・小乗経典には、大乗が内包されている。 同じ説法を聞いても機根によって、受け取る内容が異なる場合がある。
機根の熟した者は小乗の教えを聞いて、そこから大乗の悟りを得、それをそのまま仏の教えとして経典に残した。
・教主の優劣により判断。
優れた大乗の教えを説いた人は仏といわないのか。
小乗経が仏説ならば、それより高度な大乗経を説いた方も仏である。
・大乗という邪説がおきるという釈迦の予言なし。
447 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 13:40:16 ID:s71HzI4T
一遍さんの念仏が究極の易行だと思う。
南無阿弥陀仏と一たび唱えれば、信不信、清浄か否かを問わず極楽に往生する。
難しい学問も理解もいらないし「善知識にあう宿善」も不要です。
お寺もお坊さんもなくていい在家仏教ですし。
449 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 13:49:34 ID:s71HzI4T
450 :
298:2008/02/25(月) 13:57:52 ID:ZFSkeNPe
>>436 >まず、念仏して往生できるという教えが仏教じゃない。
>仏教は、悩み苦しみの原因である煩悩を克服する教えです。
このようなことをおっしゃるということは、
浄土教そのものの学習が、ほとんどなされていないと思います。
浄土教でも、菩提心は説かれています。
どなたに浄土教を教わったのでしょうか。そもそも、三部経は読みましたか。
>まず、念仏して往生できるという教えが仏教じゃない。
もし、これが正しいなら、
「電車に乗って瞑想に行けるという教えが仏教じゃない」
のようなことも成立すると思います。
世界は、娑婆がすべてであると為す方の意見であると思います。
私が考える上座部仏教とも、違うことをおっしゃる方であると思います。
私は、如説に修行すれば、どの法門でも滅度に至ると思いますが、
如説である事が重要だと思います。
私は、個人的には、小乗であれば、大念処経を重視するものですが、
あなた様は、何を典拠とされているのでしょうか?
仏説に基づいて批判しているようにも、見えません。
六十二の邪見についても、無視されています。
451 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 14:45:14 ID:er9ToMyR
298さんにお聞きしたいことがあります、よければ回答お願いいたします。
獲信の一念の瞬間の「聞」と、
信後の「本願をそのまま聞く」の「聞」とは、
どのように違うのでしょうか?
あいまいな質問ですみませんが、298さんの思うところをお聞きしたいです。
452 :
298:2008/02/25(月) 14:53:25 ID:ZFSkeNPe
>>451 >信後の「本願をそのまま聞く」の「聞」
について、どのような意味でおっしゃっているのか、
もう少し詳しく教えていただけると、うれしいです。
獲信の聞というのは、選択本願相応の念仏を為し、
自力が死に、他力となるものです。
信後の聞については、「現益は、本当だったんだ」という
味わいを得ることができます。
また、本願をそのままいただき、信じて、
御恩報謝の南無阿弥陀仏(乃至十念)をすることでもあります。
信後においては、本願相応のお念仏(聞其名号)を為していますので、
その体験を含め、本願といただいてゆくことができると思います。
453 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 15:49:21 ID:WOe4dfEE
298さんが、
現代の唯物論の真宗坊主よりも、
よっぽど念仏者であることに感心する。
454 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 17:33:10 ID:2OkCr1/q
自称妙好人の妄想オナニースレでよく盛り上がれるな。
455 :
善知識考:2008/02/25(月) 18:17:50 ID:W/O+EnlZ
>393
ちょっと意味がわからないんですが。
私で思い固める信ならば、他力ではなく自力でしょう。
また、善知識が印可するとても同じ事。善知識に印可されたと思い、
信ずるのは言うまでもなく私ですから、他力でなくて自力になりますね。
これは何も、自分の善知識を軽視している訳ではないですよ。
弥陀を一向一心にたのめと教えてくださるのが、善知識のお役目でありますから、
それを教えてくださった方のご恩は、海よりも深い、尊い。正に弥陀の代官と言うべきです。
けれども、私は善知識を本として、弥陀をたのんでいるのではありません。
もし、善知識を本としてしまえば、
なにのようもなく一向一心に弥陀をたのめという
善知識が仰るところのお薦めに反してしまうことになるからです。
善知識からすれば、善知識も私も共々に弥陀をたのむ常没流転の凡夫ならくのみですから。
親鸞聖人は弟子一人も持たず、めずらしき法もひろめずと言われた所も、
私は有り難いなーと思ってます。
>>454 そもそも、私は獲信者です。獲信者=妙好人です。
私は妙好人です。というのがね。
妙好人って自称するものじゃなくて、
その人の言動をみとって他人が呼ぶものではないだろうか。
自力他力のこと、なんかすごく哲学的ですが、ほんとうはもっと簡単明瞭なんじゃないかな。
そうじゃないと機根最劣の人(俺だけどね)には、とうてい向かない。
俺がやること考えること、他力みたいに見えても全部自力。他力は阿弥陀さんだけ。
その阿弥陀如来の他力と俺をつないでくれるパイプが善知識なんじゃない?
だから、言葉は悪いけど、阿弥陀如来への通路としての次第相承の善知識を
うやまっているのであって、凡夫である個人を崇拝しているのではないということかな。
>>400 >機の深信がハッキリ全部知らされでもしたら、頭狂うんちゃう?むごすぎて。
私もそう思います。でも、阿弥陀仏がいるから狂わないんだと思う。
昔、神様に、本当の私を見せてください、とお願いした人がいて、神様が
それはやめたほうがいいと言うのを無理に見せてもらったら、発狂したという話を
聞いたことがあります。
でも、真宗では阿弥陀様がいるから、狂わずにすむ。
だから、(ほかの神や仏がどうしようもないものを救うから)
阿弥陀仏はすごいんじゃないでしょうか。
仏智を頂いたら、本当の自分が見えて、堕ちると決まる。
でもそこに同時に、堕ちるものを助けるぞという阿弥陀仏の呼び声があって、助かると決まる。
これで、南無(機)阿弥陀仏(法)が成立するのであって、どちらが欠けても
だめなんじゃないかな。
それが成ってこそ、私一人のための本願であった、となるんだと思う。
つくづく、すごい教えですよね…
妙好人の強さ、「無碍の一道」、というのは、「私ほど恐ろしいものはいない」という
自覚から来てるんじゃないでしょうか。
その私を、阿弥陀仏にお任せできた。だからもう、怖いものは何もないということ。
確かに、こんな安心なことはほかにないだろうな、。
460 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 21:52:39 ID:WOe4dfEE
内信心、民衆真宗、御内法、秘事法門、かくし念仏、真宗系新宗教、講社。
今でも、たくさんあるのにはビックリ。
461 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 22:19:57 ID:dGZYn93z
>>450 阿弥陀仏も浄土も仏教じゃないのだから、
菩提心を説いてたって浄土教を説いたらアウトです。
462 :
善知識考A:2008/02/25(月) 22:41:36 ID:W/O+EnlZ
>457
ごめん、書き方悪かったかなー。
簡単に言うならば、私の後生の主人公は「私」に他ならないのであって、
たとえ、善知識であっても介入することはできないってこと。
「往生は一人のしのぎ」と、私の善知識のお一人でもあられる蓮如さまが仰る通りですね。
象のように一人歩むことは正直怖いけど、誰にも代わりはつとまらない。
劣悪な我が身、我が心もあてならず、お悟りを開いていない、
知識もまた同じ身の上。よりどころとさせていただくには、役不足。
役不足でないのは、明らかにお悟り開き、必ず浄土に参らせると呼び詰めのお方。
その、必ず助けると名乗られた仏さまに、よりかかれよ、よりたのめよと、
私に伝えて下さった方は、その方がどんな方であれ、私にとって善知識さまですねー。
例をあげれば、このスレでよく発言される298さんの自力他力、
はからいについての見解や、善知識を特定の人物とされているような所は、
とても肯定できないけど、有り難いこと言うなーと言う箇所もあり、
そーゆー所読むと、善知識はどこにござるかわからんもんだなー、
南無阿弥陀仏となりますね。
298さんは私にとって善知識でもあると言える訳です。
>>461 まったく周囲が見えてないんだから。
もっと修行に励みなさいね。
464 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 00:02:19 ID:T4uaH1Fi
名著『かくし念仏考』の著者、高橋梵仙氏は、実は、
かくし念仏の総本家、鍵屋二十八代善知識だったというのは、本当?
465 :
アラハート:2008/02/26(火) 01:03:43 ID:6kZ6pJe6
>461
あなたが預流果・阿羅漢果を得て、書き込みすれば、
みんな上座部は正しく証果を得ることが出来る法門だって納得せざるをえないと思うよ。
浄土教は仏教でない、自分の信奉しているものこそ、仏教だ、
と主張したいという欲、我執を相手にしているあなたが、
阿羅漢果を悟るのは何時になるんでしょう。
大乗が真実などと言う余言を相手にしたいってのは、
自分が間違っていないと言う信念、すなわち我執の起こさしめる事象に過ぎない。
理を究め、諸煩悩から離脱して私たちを導く師にぜひともなってほしい。
供養に値する者となって、どうぞ私どもをお導きくださいますよう。
いつの日かわからないけど、お待ちしております。
466 :
298:2008/02/26(火) 01:06:35 ID:IO/k35qA
>>465 つくづく同感ですね。末法の世にも、そのような素晴しい方が出たとしたら、
感動します。
467 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 01:09:48 ID:T4uaH1Fi
民衆真宗の善知識といわれる導師は、高学歴、インテリが多いらしい。
ただし、霊的世界も知っていなければならないらしい。
468 :
298:2008/02/26(火) 01:15:39 ID:IO/k35qA
>>455 私も、善知識も凡夫だと思います。
法の観点からすれば、真に得難い、尊い方ですけれども、
それでも、あくまでも凡夫であることに、変わりはないと思います。
信ずるのが、自力(自分で意識的に行うように感じること)であることももちろんであって、
それでも、信後の自力は、他力として、尊むべきものに変わるのだと思います。
ですので、信後のお念仏を、自力として批難するのは、
あたらないのだと思うのです。
信じるのも、意識的に感じるものだけでなく、無意識的な何かがあるように
感じる。
そのようにして、我が身に働く真実信心を感じ、
感謝してゆくことができると思います。
南无阿彌陀佛
469 :
298:2008/02/26(火) 01:26:31 ID:IO/k35qA
阿弥陀様では、どんな方でも救う本願を立てられた。
「どんな方でも・・・」ということを思います。
私は、腹が立ったとき、やはり阿弥陀様を思い出します。
阿弥陀さまは、もちろん腹など立てることがないお方だし、
阿弥陀さまだったら、この方のために、命をかけて、
永劫の修行をなさるはず。
そして、それを既に、実際に成し遂げたお方。
そういうことを考えると、怒る自分が、小さく、
無意味に思えます。
そして、こうして腹を立ててしまう、できていない私も、
実際に救ってくださいました。
かけがえのない、極楽浄土に迎え入れてくださいます。
ありがたいことです。南无阿彌陀佛。
470 :
298:2008/02/26(火) 03:32:34 ID:IO/k35qA
>>462 そうですね、「往生はひとりのしのぎ」であると、私も、もちろん思います。
この自分がしのいでゆくことです。
そして、みなが、ひとりひとり、自分でしのいでゆくことであると思います。
ですから、「自分が往生する」ことが大切だと思います。
それについての方法については、いろいろな考えがあるのでしょうけれども、
少なくとも、平生業成を受け入れている真宗門徒にとっては、
「自らの往生」を為しとげ、現証を得ようとすることは、
何よりも大切だと思います。
すべてのことは、「そのうえ」のことに、なると思うのです。
往生は、あくまでも、自分ひとりのしのぎ。自分と弥陀の、関係です。
そして、それを皆が行えば、弥陀の救いは広まって行く。
弥陀は真実、弥陀のみが真実であると、私は思います。
私は凡夫ですから、私に真実はありません。
いただいた信心に真実はありますが、そこは、本来私ではありません。
弥陀の信心だから尊いので、私ではありません。
ですから、私も、自らの中の弥陀の信心を尊ぶのです。
弥陀の信心は、どなたでもいただけます。
確かに善知識は尊いですが、弥陀が尊いのとは、意味が違います。
何よりも尊いのは、阿弥陀如来です。
南无阿彌陀佛
471 :
298:2008/02/26(火) 03:42:42 ID:IO/k35qA
「広める」というのも、我執と強いつながりがあるのであって、
よりきちんというならば、「広めたい」という自らの気持ちが廻向されている
ということが重要なことだと思います。
相手の方が、どうされるかは、あくまでも、その方の宿善であり、
ひとりお手引きした方が、誰もお手引きしない方より偉いということは、
無いと思います。
もし、たくさんお手引きした方が偉いなら、お手引きした人数で、
表彰でもされるのでしょうか?
それは、おかしいことだと、私は思います。
弥陀は決して捨てないのですから。
「オナニー」とどなたかが書いていましたが、讃嘆とは、
それで良いのです。説得ではありませんからね。
救われたよろこびを、自らが表し、「こんな凡夫が救われた」とうれしい。
「表す」と言っても、ひとりのときでもよろこんでいる。
電車に乗ってもよろこんでいる。
ひとりのときの方が、ヘンな刺激がないから楽しい。
もちろん、疑心は解くわけですし、信を獲ってほしいと思いますが、
私にとっては、私がよろこべていることが大切です。
南无阿彌陀佛
472 :
298:2008/02/26(火) 04:05:17 ID:IO/k35qA
>>456 確かに、わざわざ言うことは、はしたないことですね。
真宗では、凡夫ですから、「我」も残っていますので、
「獲信しました」ということができるのです。
ですけれど、確かにそれは個人的なことですから、
他に対して価値があることかも、わかりませんね。
自信教人信ということが言われます。
ですけれど、「それは、獲信すること以上に、むずかしいよ」と。
私は、今、こうしてあれこれ書く事になりました。
それは、さまざまなご縁が、こうして結実しているからだけのことで、
今後どうなるのかは、さっぱりわからないのです。
10年書いているのかもしれないし、ある日やめてしまうのかもしれない。
今はこうして言っていますが、ある日、「あれは嘘だった」と言い始めるのかも
しれない。
そういうことは、凡夫である私には、わからないことです。
「真成報仏恩」私の解釈が適切なのかもわかりませんが、
このスレを見たどなたかが、その方の善知識を見つけ、
獲信されたら、うれしく思います。
473 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 08:21:54 ID:ySRkhH4Q
>>465 例え本当の教えで悟れなくとも、
嘘の教えを広めるのは良くないでしょう。
474 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 08:29:37 ID:ySRkhH4Q
>>465 いつの日か…という前に、
今、嘘の仏教を言いふらすのを辞めてはどうですか?
いつの日かあなた自身が往生する日まで、
念仏往生を説くのをやめたらいいでしょう。
475 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/26(火) 10:54:12 ID:N371KKDu
ここのスレを見ていると、機の深信が分からないという声があった。
機の深信が分からないという。機の深信が分からないということは、法の深信も分からないと
いうことだろう。私は機の深信が分からんが、法の深信は分かりますなどと言えば、噴飯物だ。
法の深信と機の深信とは一心の裏表であり、一体のものだ。機の深信が分からないという人は機
法の信心がないということだ。一体自分は何のために、何を目的に仏教を聞いているのか、その
意味が分からないということだろう。機の深信が分からないという人は、試しに自分の胸に手を
当てて考えてみるといい。自分は一体何のために仏教を聞こうとしているんだろうか。自分が仏
教を聞く目的は、自分にとって何だろうか。恐らく答えが出ないだろう。意味もなく、ただ漫然
と、訳もなく聞いているだけ。そこに仏教を聞く意味・目的は存在しない。
親鸞は言う。南無は勅命である。発願回向とは、発願して衆生の行を回施するという心である。
即是其行は選択本願である。必得往生は不退の位に至ることを獲るという意味である。必得は経
典の言葉、善導はこれを必定と言い換えた。即は時剋の極促を光闡する。必はあきらかという意
味である。然らしむ。金剛心成就という意味である(行の巻)。
こどもが駄々こねてるのと一緒ですね。
放置決定
477 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/26(火) 10:55:38 ID:N371KKDu
勅命とは天皇の発する命令である。これには誰も逆らうことができない。我々人民に、これを
行えと、意思を選択し、給付してきたものが称名念仏である。称名念仏を選択的に給付してくれ
た。これを称えると、直ちに不退の位に至るという。ダイヤモンドのように強固な心が完成する。
こんなことをどれだけ言われても、何のことだかさっぱり分からん。ちんぷんかんぷん。言葉
が難しくて分からんと言うだけではない。心が分からんだろう。
仏教を聞く目的、念仏を称える意義、目的が分からんという人には、機の深信・法の深信など
分かるはずがない。機の深信・法の深信は、仏教を聞く意味・目的をその本質にしている。念仏
を称える意味・目的をその本質にしているものだ。
生活が安定し、ほとんど不安もない。あれも心配だ、これも不安だと思いながらも、どこかノ
ンベンダラリン、精神の大半は弛緩しきっている。そんな人には分からん世界だ。だからといっ
て、ノンベンダラリンはいかんとか、弛緩しきっている精神はたたき直せなどと、僕はそんなこ
と言うつもりはない。仏教を聞く意味・目的が分からんという人は、仏教を聞く必要がないと言
うことだ。その人生が今、幸福に満ち満ちているということだ。人生が幸福に満ち満ちていると
いうことは素晴らしいことだ。人生が幸福に満ち満ちていれば、仏教を聞く意味・目的など分か
るはずがない。それは何ら責められることではなく、むしろ喜ばしいことであると言うべきだろ
う。
478 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/26(火) 10:57:08 ID:N371KKDu
幸福に満ち満ちている人は、見たくない物は見なければいい。聞きたくない話は聞かなければ
いい。行きたくないところにはいかなければいい。幸福であることは、むしろ祝福されるべきであ
っても、少なくとも誰からも何ら責められるような話ではない。しかし、見たくない物でも見てみよ
う、聞きたくない話も聞いてみようという思いが少しでもあれば、我が身かわいさで自分を守っ
ている防衛本能の城壁から、一歩外に出てみるといいだろう。
かつて釈尊が我が身を守るカピラの城を抜け出し、城外で世の現実を見た。我々自身も、自分
を守る防衛本能の城壁から一歩外に出て見ることは必要だろうと思う。そこにはどんな現実が待
ち受けているのか。
林立する木立群の中、隣で巨木が老いて倒壊していく現実を目の当たりにしながら、横の木は
我関せずで広大な枝葉を広げている。その先には、病んで今なお倒れそうな木もある。小さな双
葉が開いてきた生まれたばかりの木もある。我が身が安全な世界から一歩現実に目を向ければ、
そこは生老病死で溢れている。生老病死で溢れながら、それぞれの木立は、そんなことに全く我
関せず生活をしているのだ。これは放置しておいていいのだろうか、放置できないことなのだろ
うか。
かつて釈迦はこれを我が身にたずねた。仏教は我々に同じ問題を問うてくる。機の深信・法の
深信とは、まさにこの問いをその本質とするものだ。
渾身の一筆ですね。
480 :
298:2008/02/26(火) 11:36:17 ID:v9U8oLNl
>>473 「悟れない本当の教え」というものは、無いのではないでしょうか。
たとえどんなに小さな一歩でも、転生をつづけ、
永いときをかけて、前進してゆくのだと思います。
481 :
298:2008/02/26(火) 11:37:33 ID:v9U8oLNl
>>473,474
「嘘の教え」とのことですが、
私は、そうは思いません。
482 :
298:2008/02/26(火) 11:48:39 ID:v9U8oLNl
>>474 念仏往生これ真宗。
念仏往生は、真宗の根幹です。
念仏こそが、弥陀の無上方便であり、
凡夫の救いを、現実的に可能にします。
真宗の念仏は、凡夫が生涯一度で満足の行く、
すばらしい真実の行です。
483 :
473:2008/02/26(火) 12:37:46 ID:ySRkhH4Q
>>480 おっしゃるとおりです。
ですから、末法だろうが凡夫だろうが、
釈尊の説かれた聖道門に触れてさえいれば、
必ず悟りに向かって前進するでしょう。
せっかく聖道門に触れるチャンスがある国に生まれたのだから、
偽物の浄土門に明け暮れて無駄な足踏みをすることはありません。
聖道門に触れて、小さな小さな一歩でもいいから踏み出しましょう。
>>483 それじゃあなたは出家得道の道を歩むんですか?
485 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 12:49:16 ID:ySRkhH4Q
>>482 念仏を信じることで、
怒り・悲しみ・後悔・嫉妬・激しい欲望などの
煩悩が弱くなることもあるでしょう。
ですから、間接的には、少しは聖道門的効果もあるでしょう。
486 :
298:2008/02/26(火) 13:14:26 ID:v9U8oLNl
>>485 あなたは、十方衆生に、みずからの善行を廻向されていないのですか?
阿弥陀仏は、我らに、自らの徳を廻向してくださり、
南無阿弥陀仏には、その徳行が具足されているのです。
あなたにも、まだ今生が残っているでしょう。
信を獲た私たちは、そんなあなたが、いつ、苦しまれ、
自らに絶望するかわからないと思っています。
そんなときに、弥陀をたのんでくださればと、
御恩報謝のお念仏を称えています。
自分の往生は定めていただいたのですから、
その後のお念仏は、廻向ともなるのです。なぜなら、
信後のお念仏は、もはや他力であるからです。
487 :
298:2008/02/26(火) 13:18:25 ID:v9U8oLNl
>>485 転生を重ねながら、聖道の道を歩み、
自力では流転を抜けることができず、
ついに、あきらめ、弥陀をたのんだのが私たちなのです。
弥陀はずっと待ってくださったのであって、
「いざとなれば、我をたのめよ」と、見守ってくださっていたのですが、
それを拒んでいたのです。
私も以前歩んだ道ですから、あなたを否定する気にはなれません。
いずれ、成就なさる方かもしれません。
私たちは、聖道の落ちこぼれであって、
それをよろこび、弥陀をたたえているのです。
南无阿彌陀佛
488 :
298:2008/02/26(火) 13:21:49 ID:v9U8oLNl
>>485 あなたはサンガを知っているでしょう。
私たちは、いわゆる娑婆での出家ではなく、
いわば、浄土に出家するのです。
そちらでは、弥陀の説法を直接いただき、
修行することができるのです。
家族を捨て、財産を捨て、
浄土に参るのです。
共に参る方々が、御同行です。
私は、教義に矛盾を感じていません。
南无阿彌陀佛
489 :
298:2008/02/26(火) 13:55:33 ID:v9U8oLNl
口伝ということが、問題にされていますが、
大切なことでは、口伝だけではないことです。
真宗では、御同行も凡夫、善知識も凡夫です。
欲心残したままで、信心決定します。
救われた御恩を、つねに思い出すようにしていないと、
いえ、仮に思い出したところで、
間違いも生じることでしょう。
それどころが、「間違いばかり」というのが、現実であると思います。
そんな自分が救われるありがたさに、口に出るのは
南无阿彌陀佛、であるのですから。南无阿彌陀佛。
公開され、伝わっているお聖教の存在は、
とても大切なものであると考えます。
自分の心では逸脱してしまうのが凡夫なのですから、
幾度でもお聖教に帰って、方針を確認してゆくことも
役に立つことがあるだろうと思います。
そのためにこそ、学文のかいがあるのではと思います。
ですけれども、学文は必須ではありません。
興味のある方だけが、やればよいことです。
そして、逸脱したところで、弥陀は捨てません。
本当に不可思議な、弥陀の救いです。
凡夫のはからいを、超えています。
490 :
298:2008/02/26(火) 14:04:33 ID:v9U8oLNl
>>483 私は、聖道の証果を疑うものではありませんが、
共に滅度を目指す、広い意味での同行でありますのに、
どうして、浄土門を否定されるのでしょうか。
仏門多々あれど、どれも仏説であるのですから、
否定しなくても、良いと思います。
自らの機に合った道を、その方が選べば良いだけでは
ないでしょうか。
浄土門は、無駄な足踏みではなく、
一気に飛び抜けるためのものです。むしろ逆です。
小さな一歩を積み重ねるのではなく、ワープして、進むのです。
どちらを選択するかは、好みの問題であると思います。
積み重ねが好きな方は、積み重ねれば良いのです。
怠惰な凡夫には、それは大変なことですので、
我らは、弥陀をたのんで横超するのです。
491 :
298:2008/02/26(火) 14:10:54 ID:v9U8oLNl
>>483 「偽物の浄土門」と主張される方であることもわかりましたが、
せめて、典拠はないのでしょうか?
あなたが仏説だろうと考えている経典は、何も無いのですか?
すべてが口伝の宗派ですか?
492 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 16:11:13 ID:6kZ6pJe6
>472
「獲信しました」と言うのは他力ではないですよね。
「しました」と過去形で表現されていると言う事は、
過去、私にあった獲信と言う出来事を記憶していて、
その記憶が意業となり、今、口業にあらわれ、獲信しました、
と言う言葉となって出てきたと説明できると思われます。
記憶は私の業であり、仏の行ではありませんよね。
機の深信に基づけば、第一、記憶装置である私自体が、
欠陥装置・妄想転倒の固まり。たのみとならないのですから、
体験も記憶もそれに基づく判断も皆、妄想転倒が造り出すものと言えましょう。
元来「私は獲信しました」という表現自体、他力真宗にはありえない事だと言うことです。
もし、そうした思いがあるとしても、妄想転倒の思いと言うべきものであって、
それを本としては本末転倒と言わねばなりません。
必ず助ける本願力は真であって、純一無垢です。それは仏の願であるからです。
それをたのみとするのみなのに、たのんだ事や合点がいったと言う
過去の体験・経験を差し挟むならば、
それは純一無垢の仏心をたのみにしているのではなく、
実は雑毒の体験に過ぎないものを信心と確信し、
たのんでいる姿と言えるでしょう。
親鸞聖人も蓮如上人も私は信決定しましたと仰っておられません。
真宗は「信決定しました」と我が身・我が心をたのむのではない、
ひとえに弥陀をたのめと勧められる、誓願一仏乗であるからです。
信心は全く仏心であるが故に、真実報土の因となると言われる所以です。
493 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 16:14:51 ID:T4uaH1Fi
民衆真宗では、霊言現象や、
「口中開き」とよばれる、新仏のあの世の様子を見て、みんなに知らせるという現象や、
無学に近い人が、むずかしい仏教用語を使って、小一時間も語る「ヒデル」といわれる現象があるらしい。
まさに、大昔から、スピリチュアルなのである。
494 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 16:41:06 ID:Ty/iGgRQ
>>493 ちょwそれキリスト教ペンテコステ派の「異言」みたいやん。
>>492 それでは、信心獲得ということを考えるべきではなくて
弥陀の本願が成就したことを感謝する、それだけでいいということかな。
496 :
7:2008/02/26(火) 17:53:54 ID:DZLxRrfv
>>492 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏(中
国)・日域(日本)の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞き
がたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、こと
に如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲る
ところを嘆ずるなりと。
497 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 17:56:05 ID:ySRkhH4Q
>>491 どの経典も完全無決ではないでしょう。
しかし、パーリ語三蔵経典は、まだマシなのではないでしょうか。
パーリ語三蔵には、阿弥陀仏は登場しません。
499 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 18:14:44 ID:dMvhXIN/
>492
>必ず助ける本願力は真であって、純一無垢です。それは仏の願であるからです。
>それをたのみとするのみなのに、たのんだ事や合点がいったと言う
>過去の体験・経験を差し挟むならば、
>それは純一無垢の仏心をたのみにしているのではなく、
>実は雑毒の体験に過ぎないものを信心と確信し、
>たのんでいる姿と言えるでしょう。
あほか。べつに
「私は獲信しました」っていう単なる表明が、
「私は自分の獲信体験にしがみついてます」っていうことには、ならないっつの。
ただ、獲信を通過しないことには、
「>必ず助ける本願力は真であって、純一無垢です。それは仏の願であるからです。
>それをたのみとするのみ」になれない。
逆に、今たのみにできてる、ってことは、過去に獲信を通過した人ってことだよ。
獲信は大事だっつの。
500 :
7:2008/02/26(火) 18:17:26 ID:DZLxRrfv
>>492 あきらかに知んぬ、二尊の大悲によりて、一心の仏因を獲たり。まさに
知るべし、この人は希有人なり、最勝人なりと。
(浄土文類聚鈔)
501 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 20:24:57 ID:dMvhXIN/
>逆に、今たのみにできてる、ってことは、過去に獲信を通過した人ってことだよ。
「たのみにできてる」=本願が憶念できる、ってことね。
かといって秘密の善知識さまが儀式を通じて授けてくれるわけではないけどね。
あ、書き込みが入っていた。
504 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 20:26:47 ID:3N3Xiywq
もう宇宙語はやめてください。
しかし「海」のイメージは素晴らしいなぁ
阿弥陀さんはアチラにいて、オレがコチラからアチラに参る
っていうんじゃないのよ。
508 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 21:02:30 ID:ySRkhH4Q
>>508 聖道門といっても出家ではないんですよね
としたら、在家居士として六ぱら蜜を行ずるということですか。
510 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 21:17:01 ID:ySRkhH4Q
>>509 戒も不完全ですが意識して生活し、
サマタ瞑想(止)とヴィパッサナー瞑想(観)を少しずつ行っています。
511 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 21:17:39 ID:l+wZPPyD
>>505 >しかし「海」のイメージは素晴らしいなぁ
渡「海」難以外はな
しかし、どうして「難」を選ぶんだろうね。
弘誓の船に乗れば易々と海を渡れると思うんだけど。
あ、こんなこと書くと、また喜んでやってきてカキコしまくるかも。
>>510 なるほど!王道ですね。
自分の意識が動くようすみたいなものがチラっと
みえたりするんですかね〜。目をつぶってると
自分の内側にすごーく深い
意識のキャパシティーみたいなもんが
あるっぽいなーって感じます。
>>495 素直におまかせできちゃえばね〜
何かしてもらうときって相手が信頼できるかどうかってあるよねー
この人なら大丈夫!みたいな。
100%信じてると「信じてる」ことすら意識しないもんね。
515 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 21:43:05 ID:ySRkhH4Q
>>513 念仏も、一定時間やってると次々と妄想が生じては消えていきますね。
妄想は放っておいて、速やかに意識を念仏にもせばよいでしょう。
本願とか浄土とか知らなくてもいいんです。
>>514 よくわからん。
>100%信じてると「信じてる」ことすら意識しないもんね。
↑
これって他力なのかなあ。意識するしないは関係ないような気もするし。
517 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 22:04:53 ID:T4uaH1Fi
正当派(権力寄り)真宗以外は、ほとんどオカルトなのだ。
「正しい化生(霊)の世界は、ヨガの観法によらなければ認識できないが、
この観法に習熟しないわれわれは、まず精神生活を化生とみて、
その背後につらなる心霊界のあることを推定しよう。」
伊藤康善『化生の世界』より
>>517 ちょw いろんな本、手に入れてるなぁ マニアだな。
それどんなことが書いてあるのか一度読んでみたい本だわ。
その趣旨はつまりヨーガの観法に習熟すると心霊界を
認識できるということだ!
真宗スレのオカルトマニア氏には
ぜひヨーガに習熟して心霊界を飛び回ってほしい。
帰ってきたらレポよろw 21世紀のスウェーデンボルグはあなただ!
521 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 22:35:30 ID:6kZ6pJe6
>510
浄土教は仏教でないと判別した時、何がそれを判別したのか、
また何故、このスレッドを選択して書き込もうと言う意志を持ったのか、
その行為が何から生じたものか観察してみるのもいいんじゃない?
>499
薬有りとて毒好むべからず。
蛇に足を書くような無駄なものを張りつけるのは正に邪魔。
=7さん
それは、親鸞聖人が「私は信心決定しました」と表明されている
文章だと思われますか?例えば、化土巻・後序に、
「建仁辛酉の暦、雑行を棄て本願に帰す」と仰った親鸞聖人が、
その13年後、三部経千部読ジュを発願しておられる。
親鸞聖人のご一生を貫いていた他力の信心とは、過去の体験をして、
信心決定しました、もう浄土往生間違いない、もう自力は捨たりきったと、
表明できるような信心だったのでしょうか?
522 :
298:2008/02/26(火) 22:59:52 ID:v9U8oLNl
>>497 パーリ語経典によれば、「修行者の境地を得ていないのに、
『これはあなた方の利益になることだ』と説く師は、批難されるべき
師である。その師を批難するものがあれば、その批難は、正しく、
真実であり、正義にかなっており、無罪である」という内容が
ありますよね?
あなたの師は、修行者の境地を得ているのですか?
また、なぜあなたは、境地を得ていないにもかかわらず、
師としてのふるまいを為すのですか?
それに、六十二の邪見については、パーリ語経典に
出てきますよね? 浄土宗は、どの邪見に該当すると
お考えなのですか?
523 :
298:2008/02/26(火) 23:04:05 ID:v9U8oLNl
>>521 「自力廃る」の意味を誤解していませんか?
他力信心を得たときに、自力は廃るのです。
しかし、その後でも、どのようなことでも為す可能性があります。
524 :
298:2008/02/26(火) 23:42:16 ID:v9U8oLNl
>>492 ◎自力のこころにて、わが身は如来とひとしと候ふらんは、
まことにあしう候ふべし。他力の信心のゆゑに、
浄信房のよろこばせたまひ候ふらんは、なにかは自力にて候ふべき(御消息)
527 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/26(火) 23:51:49 ID:ySRkhH4Q
>>522 六十二見の項目を詳しく知りませんが、
それをおおまかに分けた場合に、
浄土宗は、戒禁取見に分類される誤った見解ではないでしょうか。
簡単に言うと、「迷信に執着している」のです。
浄土宗教師のけちゃっふ゜と申します。
浄土宗の教師資格を持ちながらも、
浄土三部経は仏説じゃないと考えいる者です。
528 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/26(火) 23:55:55 ID:ySRkhH4Q
>>522 師としてふるまってるとか、そんなつもりではありませんでした。
ただ単に、浄土三部経は仏説じゃないということを、
浄土教しか知らずに浄土門を仏教だと教えこまれてる人に、
知ってもらいたかったのです。
529 :
298:2008/02/27(水) 00:03:29 ID:ZmK0zgAh
>>527 六十二見の項目を覚える必要は無いと思いますが、
知らないということは、パーリ仏典を読んでいないのでは
無いですか?
現代語訳も出ているのですから、そこまでの御主張をなさるのであれば、
現代語訳が出ている部分だけでも、読むべきではないでしょうか?
パーリ仏典も読まず、浄土三部経も読まず、
けちゃっぷさんは、一体何を判断しているのですか?
けちゃっぷさんは、「浄土教を知らずに、浄土教を仏教では無いと
教えこまれている人」なのではありませんか?
浄土宗教師なのに、浄土宗のことを知らないのも、不自然です。
530 :
298:2008/02/27(水) 00:05:34 ID:ZmK0zgAh
>>527 特に、自らを紹介するときに、「浄土宗の教師資格を持ちながらも」と
わざわざおっしゃっているわけですから、
それは、権威付けでしょう?
肩書きに権威があるとするのが、上座部の教えなのですか?
教師資格を持ちながら、浄土教のことを知らないのであれば、
「批難されるべき教師」であると思いますよ。
531 :
298:2008/02/27(水) 00:08:51 ID:ZmK0zgAh
>>527 浄土宗教師であれば、法然聖人の選択について、
概要だけでも教えていただけませんか?
532 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 00:09:49 ID:vZWEODQB
>>529 本気で言ってるんでしょうか?
意地になってるのでしょうか?
浄土系各宗門の大学でも、仏教学・浄土学の授業では、
浄土三部経が仏説でない可能性が極めて高いように教えています。
教壇に立っている先生方は、浄土門の僧侶ですけど。
533 :
298:2008/02/27(水) 00:11:49 ID:ZmK0zgAh
>>532 議論の方向性がおかしいと思います。
パーリ仏典は、仏説であるとお考えなのでしょう?
あなたは、何を典拠にしているのですか?
混乱していませんか?
パーリ仏典よりも、大学の授業を優先されているのですか?
大学の授業の主張というのは、50年程度のスパンでも、
内容が変わることを知っていますか?
534 :
298:2008/02/27(水) 00:16:14 ID:ZmK0zgAh
>>532 結局、あなたには依り所が無いのではないですか?
それであれば、仏説ではなく、けちゃっぷ説に過ぎないでしょう。
あなた様が、これまで聞いたことのある話を切り貼りして、
自説を構築しているだけのように見えるのですが。
パーリ仏典に基づくとおっしゃりながら、
大学の授業を根拠にするというのは、何とも・・・
「浄土三部経が仏説でないと主張する浄土門の僧侶」って、何ですか?
あなたは、それがあるべき姿と思っているのですか?
真理は人数ではありませんよ。
パーリ仏典では、何を権威とせよと教えているのですか?
教師の肩書きですか? 大学の先生という肩書きですか?
一体、あなたは何に基づいているのですか?
大学に権威を感じながら、その宗派でもなく、
上座部なのでしょう?
535 :
298:2008/02/27(水) 00:16:50 ID:ZmK0zgAh
>>532 私が531で問うているのは、
それであれば、「浄土宗の教師」としての自己紹介になると
考えるからです。
536 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 00:17:46 ID:vZWEODQB
>>531 仏教の基礎は戒定慧の三学ですが、
末法の凡夫には三学は難しいという前提で、
そんな凡夫でも救われる易しい道として、
浄土門にたどりついたのです。
法然さんの明晰さと慈悲の心は、ピカイチでした。
しかし、残念ながら当時は、
浄土三部経をはじめとする大乗経典もブッダが説いた教えだと信じられていた。
大学ならパーリ語聖典も釈迦の直説でない可能性が高いと教えているだろ
538 :
298:2008/02/27(水) 00:19:07 ID:ZmK0zgAh
>>536 それで、教師資格なのですか?
選択集、読んでます?
539 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 00:22:23 ID:vZWEODQB
>>538 選択集は、以前は枕元にも置いてました。
しかし、阿弥陀仏は架空の仏ですから、
選択集の論の大前提が崩れてしまいます。
アンパンマンよりは阿弥陀仏のほうが好き、という程度です。
>>539 そういうあんたは実体のある存在か?架空の存在か?
541 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 00:25:25 ID:rnrp1BxB
瞑想やヨガ、ヒーリング、気功、オーラ視、プチ修行など、ファッション感覚でする時代。
スピリチュアルや、精神世界の支持者は、伝統宗教を信仰しないのが特徴。
伝統宗教は、経済倫理発展創造性の欠如、地獄往きや罪の意識の強調、使用言語が不明瞭、儀礼の煩雑さ、暗い
というイメージを持たれているのではないか。
542 :
298:2008/02/27(水) 00:26:47 ID:ZmK0zgAh
>>539 枕元に置いたかではなく、熟読したかどうかです。
アンパンマンよりは阿弥陀仏のほうが好き、というあなたが、
「浄土宗の教師」と名乗るのは、おかしい。
(アンパンマンがものすごく好きな方であれば、別ですが。)
そんな肩書きは、返上すべきだと思います。
正に、批難されるべき教師です。
上座部の資格があるなら、そちらをお取りになるべきではありませんか。
何の意味があって「教師資格がある」など言っているのですか。
浄土の教えを説かない教師に、教師の資格なんか、
あるはずがありません。
あなたは、世間の基準と、出世間の基準と、
どちらを優先しているのですか?
全く、混乱していると思います。フラフラではありませんか。
543 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 00:27:47 ID:vZWEODQB
>>537 そのとおり。
ですから、パーリ語経典が完全だとは思いません。
しいて言うなら、戒・定・慧の三学は
上座部にも大乗にもあるから、
戒・定・慧の修行はブッダの時代からあった可能性が高い。
「どの経典」が一番かというような「教相判釈」の考え方ではなく、
各経典に共通する内容が仏教じゃないかと。
「どの経典が?」ではなく、「どの内容(どの教え)が?」
544 :
298:2008/02/27(水) 00:28:43 ID:ZmK0zgAh
>>539 サマタだヴィパッサナーだと言っても、
それも、「枕元に置く」程度のもので、
たいして修していないのではありませんか?
それでよく、法然聖人を否定するようなことを言いながら、
教師資格を名乗るものです。あきれます。
545 :
298:2008/02/27(水) 00:31:20 ID:ZmK0zgAh
>>543 完全云々以前に、あなたはパーリ仏典を読んでいないでしょう?
読まずに、「完全とは思いません」とは、
一体あなたは誰ですか。
もし、読んでいるなら、パーリ仏典を引きながら、
論じてみて下さい。
「各経典に共通する内容が仏教じゃないかと」これは、
あなたが判断するのでしょう?
法然聖人よりも、あなたはあなたの判断を取るということですよね?
聖人の方が、あなたよりも、学んでいると、
私は信じます。
546 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 00:32:37 ID:vZWEODQB
>>542 法然さんの時代に聖道門が「難行」に思えたねは、
当時の聖道門があまりにもぐちゃぐちゃだったから。
現代では、日本にも上座部仏教が上陸しています。
我々が教えこまれてるほど「難行」でもないし、
難しい仏教知識がないと実践できないものでもない。
547 :
298:2008/02/27(水) 00:35:39 ID:ZmK0zgAh
>>546 じゃあ、在家五戒を守ってみてください。
難行かどうかは、開悟してから、わかるのではないでしょうか。
申し訳ないですが、求めているものが違い過ぎます。
気楽に「難行では無い」と言う前に、
開悟しようと思って、真剣に行じてみたらいかがですか。
たいしてやっていないのだから、
簡単に思えて当然でしょう。
あなたの五戒なんて、「あ、やぶっちゃった。だけど、
やぶろうとして自分の心が見えたぞ」とか、
こんな感じでよろこんでいるだけなのではないですか?
聖人が、そんなのを難行と呼ぶはずがないでしょう。
548 :
298:2008/02/27(水) 00:37:49 ID:ZmK0zgAh
>>546 尊い選択集を枕にしながら、前提がくずれたと言い、
それでいながら教師資格があると言い、
上座部と進めると言いながら、
パーリ仏典を否定し、
行もたいして修していない、
というのが、あなたの姿ではありませんか?
「前提がくずれた」なんて、勉強から逃げるための
言い訳でしょう?
別に、浄土門でなくてもいいですが、
上座部を信じるなら、そこで真剣にやられたらいかがですか?
法然さんの広く深い知識と明晰さは尊敬しています。
しかし、当時与えられていた情報が間違っていたのだから仕方ない。
もし、法然さんのような方が現代にいらしたら、
明らかに仏説ではない浄土門を説くとは思いません。
浄土門を使わずに、ブッダの教えを万人救済のために説くと思います。
たしかに、僕はパーリ語経典を充分読んでいると言えません。
わずかに読んだ部分でも、
もちろん日本語訳でしか読んでないし。
550 :
298:2008/02/27(水) 00:40:16 ID:ZmK0zgAh
>>549 わずかに読んだのは、どこを読んだのですか?
長部ですか? 中部ですか?
551 :
298:2008/02/27(水) 00:41:05 ID:ZmK0zgAh
>>549 わずかにしか読まずして、
法然聖人を間違いと呼び、
上座部は素晴しいとあなたに思わせたものは、
何なのですか?
552 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 00:42:16 ID:vZWEODQB
>>548 浄土門は戒禁取見だとお答えしました。
つまり迷信だと。
迷信は、いくら学んでもやはり迷信でしょう。
553 :
298:2008/02/27(水) 00:43:27 ID:ZmK0zgAh
>>552 >浄土門は戒禁取見だとお答えしました。
その根拠を聞いています。
それを、どうやって知ったのですか?
554 :
298:2008/02/27(水) 00:44:27 ID:ZmK0zgAh
>>552 単に誰かに言われて、信じているだけじゃないですか?
スマラサーナさんとか。
555 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 00:48:30 ID:vZWEODQB
>>551 心のどこかで、
仏説ではないと知りながら浄土門を信じていることにうしろめたさを感じつつ、
しかし一応、自分でも念仏往生は強く信じていたつもりでした。
しかし、日本テーラワーダ仏教協会の、スマナサーラ長老の瞑想指導を受けて、
やはり聖道門こそ仏教だなと、納得がいきました。
>>543 >各経典に共通する内容が仏教じゃないかと。
そのテーマで共通すると語られるのは三法印ではないだろうか?
戒も定も仏教にのみにあるものではない。
ただ慧の内容である三法印は仏教独自であり、それを目標とし、
それを価値の中心とするように導くものは仏教といえる、のではないだろうか?
>>549 仏説、というより仏の定義が揺らいでいないか?
>各経典に共通する内容
その内容を示す教典が仏典であり、説いた者が仏だろう。
557 :
298:2008/02/27(水) 00:50:02 ID:ZmK0zgAh
>>549 >もし、法然さんのような方が現代にいらしたら、
>明らかに仏説ではない浄土門を説くとは思いません。
>浄土門を使わずに、ブッダの教えを万人救済のために説くと思います。
これは、けちゃっぷ説ですよね?
それとも、大学の授業で教わったのですか?
あるいは、学者さんの説ですか?
558 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 00:52:15 ID:vZWEODQB
>>554 戒禁取見については、大学時代のテキストにも載っていました。
しかし、浄土門がそれだということに対しては、
「立場上」、目をそらしていたのです。
スマナサーラ長老から直接、浄土門を名指しで「戒禁取見だ」と聞いたわけではありません。
あくまで、あなたの質問に対して僕の考えを申し上げただけです。
559 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 00:55:01 ID:vZWEODQB
>>557 けちゃっふ゜説です。
法然さんの論理的で明晰な部分については、尊敬しています。
>>558 まず、パーリ語聖典において、仏が「迷信」と名指しした文を引き
釈迦の言う「迷信」の定義を調べてみたら?
561 :
298:2008/02/27(水) 00:56:07 ID:ZmK0zgAh
>>555 >しかし一応、自分でも念仏往生は強く信じていたつもりでした。
「つもり」では獲信できないから、こうしたスレがあるのです。
別に、あなたがスマナサーラ長老の瞑想指導を受けて、
聖道門こそ仏教だなと思い、そこで修行なさることは尊いと思います。
それを否定するつもりはないどころか、
存分に追求してほしいと、心から思います。
智慧が開けるまで修したら、たいしたものだと思います。
そして、
>やはり聖道門こそ仏教だなと、納得がいきました。
これは、今のところ、個人的な感想にとどまるものでしょう。
そのよろこびを伝えたいというのは、素直な心かもしれませんが、
他を否定するのは、行き過ぎではありませんか。
562 :
298:2008/02/27(水) 00:56:47 ID:ZmK0zgAh
>>558 >僕の考え
で、もちろん構いません。その根拠は?
563 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 01:00:55 ID:vZWEODQB
>>556 いや、それだったら、
説いた者(新たなブッダ)の名前で素直に書けばいいはず。
釈迦仏が説いたという形式にしていることが、
かえって「偽装」の印象を与えてしまう。
長い年月の伝承過程で内容に誤りが生じるのは仕方ない。
しかし、釈尊が言ったわけではない内容を釈尊が説いたことにしたなら、
不妄語戒を堂々と破ったことになる。
そんな人がブッダだとは思えない。
564 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 01:04:24 ID:vZWEODQB
>>562 根拠は、仏説じゃないものを仏説だと信じているから、
迷信だと思った…です。
拝火教の神様を仏教に取り入れて阿弥陀仏が考えられた
という学説について、どう思いますか?
565 :
298:2008/02/27(水) 01:07:18 ID:ZmK0zgAh
>>564 拝火教については詳しくありませんので、よくわかりません。
その上で申し上げることとして聞いていただきたいのですが、
教義をちょっと聞いた限りでは、無量寿佛ではなく、
善悪二元神による創造を説いているように感じました。
学者さんの説はともかくとして、
信仰の立場から申せば、かなり違う内容だと思います。
566 :
298:2008/02/27(水) 01:09:13 ID:ZmK0zgAh
>>564 しかし、どの宗教でも、「ちらっと聞く教義」と、「その真実」は、
おそらく異なるだろうと思います。
ですから、拝火教を信仰している方がいれば、
まずはその方の説を聞いてみたいと思います。
567 :
298:2008/02/27(水) 01:11:33 ID:ZmK0zgAh
>>564 誰かが考え出した(想像した)のが阿弥陀仏であれば、
たのめば救う、摂取の心光のはたらきが存在するのは、
おかしくありませんか?
現証があるからこそ、真宗はすばらしいのです。
ただし、私がここに書いている主張は、
私はお聖教に書いてあると思いますが、
このスレの方の共通意見ではありません。
過去スレまで読んでいただければ、よくわかると思います。
568 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 01:12:23 ID:vZWEODQB
>>565 あくまでアイデアを取り入れただけであり、
拝火教の神様と阿弥陀仏はもはや別物でしょうね。
余談になりますが、
地蔵菩薩も、もとはインドの大地の神様がルーツだとか。
569 :
298:2008/02/27(水) 01:15:38 ID:ZmK0zgAh
>>563 釈迦牟尼佛が説いたのではないものを、
釈迦牟尼佛が説いたと書くのは、それこそ、
逸脱した権威付けであると、私は思います。
ですから、私は、釈尊の説であると思い、
本当にありがたく、いただいています。
570 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 01:16:49 ID:vZWEODQB
>>567 たのめば救う、摂取の光明とかは、
「鰯の頭も信心から」みたいなもんでしょう。
禅を欧米に広めた鈴木大拙さんは、著書『日本的霊性』の中で、
念仏者(妙好人)の得た心境を禅の心境と重ねて見ているようです。
571 :
298:2008/02/27(水) 01:20:43 ID:ZmK0zgAh
>>568 ルーツ話が好きなだけではありませんか?
(あるいは、ルーツ話に弱く、揺らいでしまう。)
聖道を行くなら、感応道交して、
直接聞いたらよろしいではないですか?
自ら体験する道を行かれる方が、
伝聞に揺り動かされている場合ではないと思います。
それでは、世間のゴシップ好きに近いものがあると
思いますよ。
聖なる道を進み、認識力を高めるべきではありませんか。
揺らぐのは、自ら認識していないからでしょう。
>>563 教典は「如是我聞〜」という形式をとるのが通例であり、大乗経典もその形式を踏襲したと聞いた
>長い年月の伝承過程で内容に誤りが生じるのは仕方ない。
当時から大乗は釈迦の直説でないと批判されていた。
しかし批判する側の有部の教義を釈迦は実際に説いたのだろうか?
大乗側は有部こそ非仏説であると確信し、これこそ釈迦の直説であるとして教典を編纂した
とか聞いたな
573 :
298:2008/02/27(水) 01:23:32 ID:ZmK0zgAh
>>570 >たのめば救う、摂取の光明とかは、
>「鰯の頭も信心から」みたいなもんでしょう。
それで、法然聖人を智慧の方と、尊敬しているとは・・・
真宗スレだから、挨拶で言っているだけではないかと思ってしまいます。
凡夫である衆生を救うために、「鰯の頭も信心から」という「方便」を、
仏説として、生涯をかけてお広めになった方だということですか?
泣けてきますね・・・
嘘と知りつつ、衆生を救うために、死ぬまで嘘を突き通した方が
聖人ということですか・・・
574 :
298:2008/02/27(水) 01:24:25 ID:ZmK0zgAh
>>572 「如是」は、とても大切なことであると思います。
575 :
298:2008/02/27(水) 01:25:54 ID:ZmK0zgAh
>>570 一切経を読了しながら、真剣に求められた聖人の結論が、
本当にそれだと思っていらっしゃるのですか?
>>574 如是=真如は中国からで、インド語では「かくのごとく」以上の意味はないそうです
577 :
298:2008/02/27(水) 01:31:25 ID:ZmK0zgAh
>>564 >根拠は、仏説じゃないものを仏説だと信じているから、
>迷信だと思った…です。
これは、「根拠」には、あまりならないように感じます。
要は、けちゃっぷさんが、「そう思った」ということですよね。
もちろん、個人的な確信の根拠にはなると思いますが、
他を否定する根拠には、あまりならないような気がします。
「仏説じゃない」の根拠が強いなら、また別ですが。
どのような説でおそわっているのですか?
文献学的なものですか? 言語学的なものでしょうか?
物証は、文献から考えて行っているのでしょうか?
578 :
298:2008/02/27(水) 01:32:40 ID:ZmK0zgAh
>>576 仏説であるから、「かくのごとく」が大事なのです。
南無阿弥陀仏も、「かくのごとく」に修することが大切だと思います。
579 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 01:50:42 ID:wNAL0iy6
けちゃっぷさんは今頃、何を言ってるんだろうと思うよ。
パーリー語仏典も、それが本当にゴータマ・ブッダによって説かれたものかは
厳密にはわからない。お釈迦さまの時代には、それを記録すべき
文字が確立していなかったのですから。上座部も、お釈迦さまのみ教えを
あますところなく伝えていると言う確証も得ることは不可能です。
仏滅百年後には、すでに「十事の非法」が問題化され、
大衆部と上座部に分裂をきたす兆候も見られていた。
アショーカ王滅後には、根本分裂、枝末分裂し、小乗二十部が成立すると言われる。
それより、どれだけの年月が経ったのでしょうね。
悟りへの道は、口伝によって完璧に伝えられたのでしょうか?
ある方によって、極めて正確に伝えられたのだと思うのならば、
その方を師として、阿羅漢となりなさい。供養に値する方と
呼ばれるまで、修行をつみかさねるべきです。
それまでは弱音を吐くな、惑うな、怠りなく勤め励めと言うことです。
パソコンを持ち、不安な心の吐露を書き込みしている暇などない。
煩悩を生じさせるものを遠離し、修行に励むべきだと思いますよ。
580 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 01:54:02 ID:wNAL0iy6
>523
ちゃんと読んでないでしょ。千部読ジュを問題としてるんですよ。
581 :
298:2008/02/27(水) 01:57:56 ID:ZmK0zgAh
>>580 信心獲た後に、千部読誦をしようとした、ということでは無いのですか?
信後でも、何でも為す可能性があるのですから、
もちろん、千部読誦を為す可能性も、あるのではないでしょうか。
誤解があったら、教えてください。
582 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 02:03:45 ID:wNAL0iy6
>581
『恵信尼文書』(三)を読んでみてください。
「げにげにしく」読もうと思われた因は、
何だと親鸞聖人は述懐されておられます?
583 :
298:2008/02/27(水) 02:03:46 ID:ZmK0zgAh
>>579 >その方を師として、阿羅漢となりなさい。供養に値する方と
>呼ばれるまで、修行をつみかさねるべきです。
ほんとうに阿羅漢となられるなら、本当に尊いのですが・・・
そういう方がいらっしゃるなら、どれほどうれしく、ありがたいかと思います。
釈尊に、お会いしてみたいです。
それはともかく、けちゃっぷさんが「知る」のは、今のところは、ものすごく遠そうで、
けちゃっぷさんを見ていると、「易行門向きなのでは?」と思ってしまいます。
ひとまず、聖道をがんばってほしいですね。正精進です。
584 :
298:2008/02/27(水) 02:14:47 ID:ZmK0zgAh
>>582 その箇所の付近は、以前このスレで、「自力」について問われたときに、
真宗聖典で信後の「自力」という用例がある例として、
引こうかどうか考えたところなのです。
ただ、恵信尼さまの御消息なので、恵信尼さまを否定されるのも嫌ですから、
思いとどまりました。
信を獲ても、煩悩残るわけですから、その煩悩を「自力」と呼ぶこともできると
思います。
「自信教人信」であるのですから、その時点において、「自信」との認識であったと、
私は読みます。
他力の信を獲ても、それからも、憶念し、御恩報謝のお念仏が大切であり、
これによって、親鸞聖人は、自然法爾の体得へとすすまれていったのでは
ないかと思います。
他力信を獲て、いきなり変わる面も、もちろんありますが、
憶念しながら、念仏申しているうちに、また変えられてゆくのです。
これは、異時因果がありますので、根源無明が無くなりましても、
まだ、以前の因が果となって展開してゆくのだと思っております。
しかし、根源の迷いが無くなった以上、今度はそこからの展開がありますので、
しまいには、滅度にまで至るのであると解しております。
何かまた私が誤解しておりましたら、教えてください。
南无阿彌陀佛
585 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 02:18:22 ID:wNAL0iy6
>579
この話とて、「今の段階で」発見され現存している 経典を根拠に立てられた
学説のひとつに過ぎません。また、新たな発見があれば、塗り替えられていく、
そういう事象に過ぎないことを付け加えておきます。
586 :
298:2008/02/27(水) 02:24:50 ID:ZmK0zgAh
>>585 私も、もちろん、学問研究を否定しているのでは、ありません。
学問も、娑婆の生活を送る上では、とても有用な面があります。
信仰においても、安全弁のような役割を果たすでしょうから、
研究をしてくださる方々の存在は、ありがたいことであると
思っております。
ただ、それが、(私にとっては)信仰の根拠には、なりにくいというだけなのです。
学問と矛盾する信仰はおかしいと思いますが、
自身の考えにおいて、矛盾していないと感じるなら、問題は無いだろうと考えています。
587 :
298:2008/02/27(水) 03:10:48 ID:ZmK0zgAh
他力信を獲ても、その御恩を思い、お念仏してゆくので
あると思います。
◎時々懈怠することあるとき、往生すまじきかと疑い嘆くものあるべし、
しかれども、阿弥陀如来をひとたびたのみまいらせて往生決定の後なれば、
懈怠多くなることのあさましや、かかる懈怠多くなるものなれども、
御助けは冶定なり、ありがたやありがたやと喜ぶこころを
他力大行の催促なりと申すなりとおおせられ候なり(聞書)
往生決定の後でも、「往生すまじきかと疑い嘆く」こともあります。
似たようなことが、歎異抄にも書いてあると思います。
それでも、不思議な事に、他力信のもよおしもあるのです。
佛凡一体です。
南无阿彌陀佛
588 :
298:2008/02/27(水) 03:12:19 ID:ZmK0zgAh
◎さればこの流に帰して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるべし(真要抄)
御文様にも、「十人が十人」のようなことが、書いてあると思います。
589 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 07:55:46 ID:vZWEODQB
>>573 法然さんの時代には、嘘だと知らなかったので、
法然さんは三部経を真実だと信じて説いたのでしょう。
590 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 08:01:16 ID:vZWEODQB
>>579 ですから、パーリ語経典にも誤りはあるだろうと、
何度か言いました。
でも、本当にブッダが阿弥陀仏を説いて、
しかもそれが重要な教えなら、
上座部の教えに阿弥陀仏のアの字も出てこないのは、
不自然じゃないですか?
今言ってるのは、上座部がどれだけ正しいかではなく、
浄土門が間違いではないかという話です。
591 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 08:25:04 ID:vZWEODQB
>>579 そうやって、浄土門の人は、
聖道門は難行だという印象を与えられているのです。
上座部仏教にだって在家信者はいます。
在家信者は、日常生活の中で、
できる修行をできる分だけやっていけばいいと思います。
それが小さな小さな一歩であっても、悟りに向かって前進します。
592 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 09:21:51 ID:rnrp1BxB
覚者はゴータマだけではないだろう。
歴史上にも、他にもいろいろいるだろう。キリストやモーゼ、プラトン、孔子、ゾロアスター、マニは覚者だろう。
シュタイナーや、ゲーテ、アクイナスも覚者だろう。
何より、現代には、仏陀が再誕している。
593 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 09:45:17 ID:+4toOauf
マイスターエックハルトも覚者かも
私は、法然さんはお浄土の大勢至菩薩が我々のために、この娑婆にお出ましになったお姿だと
思ってますが。
そんな具合ですから、法然さんが善導大師から南无阿弥陀仏を受け継がれたことも、
浄土三部経が仏説だということも素直に信じてます。
私なんか、けちゃっぷさんから見たら、哀れな馬鹿に見えるんだろなあ。
ま、馬鹿には違いないけど。
595 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/27(水) 11:55:30 ID:2RtPhuw5
けちゃっぷさんの話を冷静に聞けないというのは、どうしたものだろうね。けちゃっぷさんは
決しておかしなことはいってない。けちゃっぷさんは自分でもかなり考え、いろいろさがして一
つの考えに到達しているようだ。おかしな話でなく、むしろ僕はそれなりに、まあまあ、筋の通
ったことだろうと思うが、こういう話になると琴線に触れたように異常反応する人がいる。おか
しな宗教に感化されるとこういう人物になる。
「浄土三部経は仏説じゃない」。こんな話は昔から言われている。著名な学者も繰り返しいって
いると言うことは、それなりに根拠があることだろう。「浄土三部経は仏説じゃない」と言う話
に謙虚に耳が傾けられないでどうする?。
浄土三部経が仏説じゃなければどうなるんだ?。信心は根拠を失うのか。愚かなことだ。「浄
土三部経は仏説じゃない」と言う説にもきちんと耳を傾けることができるようになりたいものだ。
「浄土三部経は仏説じゃない」と言う説に正しい根拠があれば、なるほどそうだったのかと心か
ら頷ける心の幅を持ちたいものだ。
浄土宗教師の資格を持っていれば、「浄土門は仏教ではない」といったらいかんのか。そんな
馬鹿な話はないだろう。相手が「仏教ではない」と言っている根拠は何なのか。自分が、「真の
仏教である」と言いたい根拠は何なのか。自分の考えと相手の主張とを、謙虚に付き合わせてい
く作業がどうしてできないんだろうね?。
相手の根拠が正しければ、「なるほど貴方の説は正しいですね。なるほど。うん。うん。全く
その通りだった。自分の方は間違っていた」と。そう言えるくらいの幅の広さを持ちたいものだ。
狼狽して相手に罵声を浴びせることが金剛の信心と思ったら大間違いだ。
596 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/27(水) 11:56:02 ID:2RtPhuw5
>>529 >知らないということは、パーリ仏典を読んでいないのでは無いですか? (憶測)
>現代語訳も出ているのですから、そこまでの御主張をなさるのであれば、現代語訳が出ている
部分だけでも、読むべきではないでしょうか? (憶測 我田引水)
>パーリ仏典も読まず、浄土三部経も読まず、 (憶測)
>けちゃっぷさんは、一体何を判断しているのですか? (罵声)
>けちゃっぷさんは、「浄土教を知らずに、浄土教を仏教では無いと教えこまれている人」なの
ではありませんか? (憶測 偏見)
>浄土宗教師なのに、浄土宗のことを知らない (即断 偏見)
>>530 >それは、権威付けでしょう? (憶測 偏見 逆権威主義)
>肩書きに権威があるとするのが、上座部の教えなのですか? (憶測 論理のすり替え
逆権威主義)
>教師資格を持ちながら、浄土教のことを知らないのであれば、 (即断 憶測)
>「批難されるべき教師」であると思いますよ。 (即断 罵声)
>>531 >浄土宗教師であれば、法然聖人の選択について、概要だけでも教えていただけませんか?
(論点すり替え)
>>533 >議論の方向性がおかしいと思います。 (論理撹乱 罵声 我田引水)
>パーリ仏典は、仏説であるとお考えなのでしょう? (即断 論理すり替え)
>あなたは、何を典拠にしているのですか? (論理すり替え)
>混乱していませんか? (憶測)
>パーリ仏典よりも、大学の授業を優先されているのですか? (論理すり替え)
>大学の授業の主張というのは、50年程度のスパンでも、内容が変わることを知っています
か? (論理すり替え)
597 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/27(水) 11:58:01 ID:2RtPhuw5
>>534 >結局、あなたには依り所が無いのではないですか? (憶測 論理すり替え)
>それであれば、仏説ではなく、けちゃっぷ説に過ぎないでしょう。 (無知 論理すり替
え)
>あなた様が、これまで聞いたことのある話を切り貼りして、自説を構築しているだけのように
見えるのですが。 (即断 憶測 論理すり替え)
>パーリ仏典に基づくとおっしゃりながら、大学の授業を根拠にするというのは、何とも・・・ (罵声)
>「浄土三部経が仏説でないと主張する浄土門の僧侶」って、何ですか? (論理すり替え)
>あなたは、それがあるべき姿と思っているのですか? (罵声 論理すり替え)
>真理は人数ではありませんよ。 (罵声 論理すり替え)
>パーリ仏典では、何を権威とせよと教えているのですか? (論理すり替え)
>教師の肩書きですか? 大学の先生という肩書きですか? (論理すり替え)
>一体、あなたは何に基づいているのですか? (論理すり替え)
>大学に権威を感じながら、その宗派でもなく、上座部なのでしょう? (論理すり替え)
>>547 信心を語るときに使う専門用語を、相手への罵声に使うということはいかがなものか。先人が
泣くだろう。
298は何を慌てているんだろうね。相手に質問を浴びせるだけで、相手の話を謙虚に聞こう
という姿勢がない。ゆっくり相手の言い分に耳を傾け、相手の主張で正しいところは同意すると
言うことは大事なことだ。釈迦は自分を保護するカピラ城を抜け出し城の外に出、そこで生老病
死を目撃する。自我のカピラ城の中にしがみついてるだけでどうするの?。自分の理屈だけを金
科玉条に固守すると言うことは愚かなことだ。けちゃっぷさんの言い分を正しいと認めると、自
分の信心と人格が否定されるんだろう(「他を否定」
>>561)。妙好人を自称し、獲信者を自称
しながら、浄土門とは縁もゆかりもなく、場外乱闘するだけの能しかない浄土教の私設応援団と
いうことでは残念なことだ。
598 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 13:08:34 ID:wNAL0iy6
>590
例えば、お釈迦さまの入滅後、結集が行われていますが、
そこで漏れてしまった仏説は非仏説とされ、上座部には伝わらないですよね。
また、上座部内においても確実な伝承があったかと言われれば、
自覚無自覚を問わず、変遷している可能性があります。
現に、お釈迦さまは「諸仏の教え」として、法を説かれていますが、
これはお釈迦さま自身が自分以外にも仏陀がいる、
と認めておられている証拠と言えるでしょう。
ところが「ブッダ最後の旅」あたりになると、
お釈迦さまの神格化が早くも始まっている形跡が認められると言う
(中村元先生の「ブッダ最後の旅」訳注参照)。
仮説はいくらでも立てられます。
私も現在の文献学・歴史学・言語学の成果として、
大乗経典群がお釈迦さまが直接説かれたものとは考えにくい、
と言う説は、その通りだと現時点では思っています。
しかし、龍樹菩薩や世親論主が部派を論破しておられることも看過できないし、
法然聖人が、律・華厳の高僧方に対して、選択本願念仏を高揚された事に
(大原問答が実際にあったかなかったかは別にして)、
衆生成仏の証果がなかったかと言えば、そうは思えません。
仏陀と成ると言う事を歴史上の方々が智恵をきわめて真剣にお考えになられた
行程も見過ごすわけにはいかないと思います。
599 :
298:2008/02/27(水) 13:12:44 ID:C20YIPP8
>>590 私たちにとっては、弥陀の第十八願はとても大切な教えですが、
それが三部経の中で、どのように説かれているか、
けちゃっぷさんは、ご存知ですか?
浄土宗の教師といいながら、そのようなことも知らないようですので、
とても不自然だと思っています。
しかも、上座部を強く勧めながら、パーリ語経典の日本語訳も、
ほとんど読んでおられないわけでしょう?
浄土門が間違いかどうかを論ずる前に、
けちゃっぷさんには、やることがあるのではないかと思います。
けちゃっぷさんは、サマタとビパッサナーを重視していらっしゃるとの
ことですよね。
では、それらの修法が、パーリ語経典に、どれくらいの
割合で出て来るか、ご存知ですか?
行住坐臥のビパッサナーがあると思いますが、けちゃっぷさんが
修しているのは、どれですか? 典拠はあるのですか?
ご自身の論が、矛盾しているように、感じるのです。
上座部では、論理性も説くのでしょう?
言われてただ信じ込むのではなく、ご自身でも、
確認してみてはいかがでしょうか。
600 :
298:2008/02/27(水) 13:16:54 ID:C20YIPP8
>>591 >そうやって、浄土門の人は、
>聖道門は難行だという印象を与えられているのです。
そうでしょうか。「浄土門は間違い」という印象を、
あなたが与えられているのではないでしょうか。
浄土宗の教師でありながら、何を学んでいたのかと思います。
聖道門が易行であるならば、
あなたが属している集団に、
幾人の覚者がいらっしゃるのですか?
看板に偽りありではありませんか?
みなさん、六つの門を守れるようになっていますか?
怒らない方が、どれくらいいらっしゃいますか?
指導者の方も、怒りを簡単に出したりは、していませんか?
盗賊に腕を切り落とされても、心平静なのが覚者でしょう。
あなたの先生は、心落ち着いていますか?
601 :
298:2008/02/27(水) 13:23:12 ID:C20YIPP8
>>591 そもそもけちゃっぷさんのこの行動は、
どのような教えに基づいてのことですか?
上座部関係なしに、ご自身の判断で、
浄土宗を批難しているのですか?
パーリ語経典には、如来にどのような質問をすれば、
如来であるかどうか答えていただけるかも説いてあります。
ご存知ですか? 師に問うてみたらよいでしょう。
602 :
298:2008/02/27(水) 13:38:07 ID:C20YIPP8
>>591, 598
中部教典に説かれている、良き在家信者の転生先です。
兜率天
楽変化天
他化自在天
梵身天
光天
少光天
無量光天
光音天
浄天
少浄天
無量浄天
遍浄天
広果天
無煩天
無熱天
善現天
善見天
無劣天
そして、これらの天の後に、報土往生が説かれていると、私は読んでいます。
さらにわたしは、当現の二益が説かれていると解します。
603 :
298:2008/02/27(水) 13:39:07 ID:C20YIPP8
>>591 けちゃっぷさんは、私が引いたお経がどれだか、わかりますか?
言われて鵜呑みにし、他を批判するのではなく、
自ら、確かめてみてください。
604 :
298:2008/02/27(水) 13:50:08 ID:C20YIPP8
>>591 浄土門でも、三毒を意識しないのではありません。
善をこころがけますが、それだけでは足りないので、
弥陀をたのむのです。
605 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 14:27:59 ID:3YFdXp5i
また一人自称妙好人が参戦か。
これでこのスレは
298 VS 渡海 難 ◆Fe19/y1.mI VS けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU
のキモオタオナニー合戦になったな。
606 :
298:2008/02/27(水) 14:47:42 ID:C20YIPP8
>>594 素晴しく尊いことだと思います。
六字は、素晴しいです。
弥陀のお約束に、間違いないと思います。
お念仏では足りないと思う方は、
たとえば、けちゃっぷさんのお仲間になれば良いのだと思います。
607 :
298:2008/02/27(水) 16:38:48 ID:C20YIPP8
>>605 VSと言っても、悲観的になることは、無いと思いますよ。
ご覧の方の参考にもなりますし、
私にとりましても、実際に疑問が出された点をきっかけに、
お聖教をひもとけるというのは、ひとりで読み続けるのに比べ、
実際的に読むことができるのではないかと思っています。
ここは、飾らぬ発言がなされる場と聞いております。
そのような場において出される疑問は、
多くの方に参考になるのではと思っています。
批難の為の批難ですら、誹謗もご縁になるかもしれないのです。
そのような方に救われてほしい、南无阿彌陀佛です。
多くの方の参考になると思うのは、同じ時代、狭い範囲に生きている以上、
共通するインプットもなされていると思うからです。
608 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 17:53:25 ID:vZWEODQB
>>598 法然さんをはじめとする日本の僧侶が、
真剣に一切衆生救済の道を求められたことには、
尊敬の念をもっております。
だからこそ、「本当に念仏で往生できるか否か」
が重要だと思います。
浄土三部経の内容が事実でないとしたら、
念仏者を往生させる他力は存在しないことになります。
そうであるならば、もういちど仏教を見直して、
より多くの方々が本当に幸せになれる道を求めることが、
過去の聖人達の意志を継ぐことにもなるのではないかと思います。
609 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 18:01:07 ID:vZWEODQB
>>599 第十八願がどのように説かれているかを知ったからと言って、
浄土三部経が仏説になるわけじゃないでしょう。
あなたが僕よりも仏教知識に精通しているとしても、
浄土三部経が仏説になるわけじゃないでしょう。
無量寿経の解釈は、我々浄土門では、
念仏往生にスポットをあてているから、偏った理解をしがちです。
いったん、浄土宗的な読み方から離れて
無量寿経の文面のままに読むなら、
無量寿経も、自力聖道門に精進することを勧めるために、
浄土の優等生菩薩達を紹介しているようにも読めます。
浄土に比べてこの世での善行は難しいけれど、
お前達も浄土の菩薩達のように精進しなさい
という内容にもとれます。
610 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/27(水) 20:15:57 ID:2RtPhuw5
けちゃっぷさんの発言はそれなりに筋が通っている。このつぎは
298さんがレスをする番だろう。
自分は妙好人だ、信心獲得者だと大見得を切るなら、298は、相
手の主張に謙虚に耳を傾け、冷静で、しかも十分に相手の胸に届く
合理的で筋が通ったレスをしてほしいものだ。
場外乱闘しか能のない私設応援団というのは困ったものだ。
611 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/27(水) 20:40:33 ID:vZWEODQB
>>602 質問の意図がよくわかりません。
お経のどこに載っているかを答えられるほど、
僕は熟知していません。
在家信者が天に生まれるという内容はありますよね。
しかし、それは「浄土」とは違うでしょう。
意図といえば・・
けちゃっぷさんがここに書き込みする意図ってなんでしょう。
浄土を議論するのは無駄だからやめなさい、ってことなんでしょうか。
>>598さんに賛成。
それから、浄土宗、浄土真宗も、善を勧めていて(十九願)、その先に、
それをできない者も救うと言われているから尊いんだと思います。
三願転入は、聞けば聞くほどすごい教えだなと思わされます。
最初から、どうせできないんだから阿弥陀様に助けてもらうんだと開き直るものは、
なかなか三願転入は成らないと思いますが…。
このスレは浄土真宗の教えを信じた上で話をする場と認識していますが、
そういうスレにわざわざ来て、けちゃっぷさんが警鐘を鳴らしてくださるのは、
その意味でとても有難いことだと思います。
614 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/27(水) 21:36:45 ID:2RtPhuw5
>612
けちゃぷさんの提起問題は、浄土真宗にとって、重要な論点だと思うぞ。
けちゃっぷさんの書きこみ意図は何かを議論したいなら、298さんがいま提起し
ている問題に区切りがついてからにするといいだろう。
いま、議論を枝に分岐するときじゃない。
615 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/27(水) 21:39:06 ID:2RtPhuw5
>614
誤 298さんが
正 けちゃぷさんが
616 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 21:46:17 ID:UTI0Ekko
ニート海のおっさんも秘事法門屋298もケチャップもうざい
以上
617 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 21:47:32 ID:rnrp1BxB
面白い図式である。
このスレ(いささか時代遅れな妙好人スレ)の住人達。
@298氏(民間真宗獲信者)
A海渡難氏(坐禅念仏支持者、親鸞主義者)
Bけちゃっぷ氏(浄土宗僧侶、自宗の教義に疑問を持ちつつ上座部仏教支持者)
C自称妙好人たち(真宗の僧侶か?)
D妙好人予備軍(妙好人マニア)
Eオカルトおたく(私)
618 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 21:51:44 ID:UTI0Ekko
>>617 >@298氏(民間真宗獲信者)
>A海渡難氏(坐禅念仏支持者、親鸞主義者)
>Bけちゃっぷ氏(浄土宗僧侶、自宗の教義に疑問を持ちつつ上座部仏教支持者)
>C自称妙好人たち(真宗の僧侶か?)
Cの「自称妙好人たち」というのが上の@〜Bの3人のことじゃないのか?
彼らの他に妙好人を名乗る人がいないみたいだし。
619 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 22:13:08 ID:mlhwomAh
歴史的な事実として大乗仏典が仏陀の直言ではないというのは常識でしょう。
しかし、だからといって思想的に“ウソ”かどうかは別問題です。
大乗仏典(浄土三部教)によって救われる人がいるなら、それは真実を説くものであり、仏典でしょう。
>>608 念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもつて存知せざるなり。
621 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 23:31:33 ID:wNAL0iy6
>608
『浄土三部経』が仏説でないと断定したり、
仏説であると断定したりする事自体、今のところは不可能でしょう。
また、浄土の教えを拠り所として、生き死んでいった方々が確かに
いらっしゃった事は歴史として残っているわけで、
私はそれを単純明快に非仏説と斬り捨てる事はできません。
同様に上座部の方々が、間違いない仏説を継承しているのかいないのか
どうかも判断できません。私は阿弥陀さまのご本願を本として、
生き死んでいく、たとえ法然聖人に騙されて地獄に落ちようとも、
それはそれ業縁のしからしむところであるのですから、
それ相当の果を受けざるを得ないと言うことです。
止観行もまかり間違えば、魔に堕ち、それ相当の果報を受けなければならない。
良師を判別する能もなく、
その証果が、本当に仏説にかなったことかどうかさえも
知ることができず、阿羅漢果を得られる保障もなく、
絶えず煩悩に汚され続け、業縁のもよおしによって、
今日は、自分の意見が確実なものだと執着し、
かと思えば、昨日確信したことも、明日には変わってしまうような身の上。
やはり、私にとってはご本願はありがたいことです。
622 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 23:47:15 ID:wNAL0iy6
不遜かな。お釈迦さまごめんなさい。
「浄土教が仏説ではないと断定されるまでは、この矢を抜き取るまい。
上座部が仏説であると断定されるまでは、この矢を抜き取るまい。
この者によってそのことが知られなければ、そこで彼は命終わるであろう。」
南無阿弥陀仏
623 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 23:50:44 ID:rnrp1BxB
地球人類の歴史は、現代人の常識以上に長い。
ダーウィニズムや考古学の主張する何万年レベルの話ではなく、何億年レベル。
人類は栄枯盛衰を繰り返し、輪廻転生しながら文明を形成する。
アトランティス文明では、現代科学を超えている部分もあった。
知能が評価されるのは現代文明の特徴。
文明により尺度が変わる。
知能偏重文明ももうすぐ終り。
まあ、我々は法然さんや親鸞さんが出してくれた御馳走を、有り難くいただくわけだけれど、
けちゃっぷ氏にはそれが毒入りギョーザの見えるわけだね。
人それぞれですなあ。
625 :
298:2008/02/28(木) 01:01:57 ID:lOofTRFY
>>624 人それぞれですねぇ。
わたしは、ひとりひとり、その方の道を歩めばいいと思ってます。
けちゃっぷさんが、浄土門を否定したいなら、それも、けちゃっぷさんの道ですし。
浄土門が仏教にあらず、というのは、はるか昔から言われていること。
けちゃっぷさんがそう思って、けちゃっぷさんの道を歩むことには、
異論はないです。
わたしには、本願はとてもありがたいというだけですから・・・
626 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 01:08:41 ID:tH1Vq7nt
だれか横田慶哉師についてくわしい人いますか?
この人の下で獲信・廻心体験をした人がいる、と下記のHPに書いてあったんですが、
298さんのような善知識が必ず直接指導すればイッパツ、というのでなく、
法話や示談による求道期間を経て獲信するタイプのようです(ただ、信後の味わいは298さんと異様に似ている)
「思い出深き念仏者」千葉乗隆 より
ttp://www.anrakuji.net/tyosaku/omoide1.html 横田師のもとで獲信・・・花田正夫・宮地廓慧・千葉隆範
横田師の友人?・・・西本誠哉・甚野諦観・和田義龍
627 :
298:2008/02/28(木) 01:12:21 ID:lOofTRFY
>>611 とりあえず、パーリ仏典の内容も確認してほしいという意図です。
パーリ仏典を読むのは、けちゃっぷさんにも勉強になって、
良いことかと思いました。
仏典を基礎とするのではなく、スマラサーナさんの話を基礎とするということであれば、
共通の基盤が無いですから、お話しすることが、私にとっては難しいです。
大学の大乗非仏説にしても、どのような論旨で、
それがどうしてけちゃっぷさんにとって説得力があったのか、
それをお話してもらわないと、何を話して良いかも、よくわからないです。
私のことを気にかけてもらえることは、うれしいですが、
浄土門は、聖道の方から見れば、おかしく、きたなき宗なのでしょうから、
けちゃっぷさんから見たら、愚かに見えると思いますが、
私には、これがいいんですよね・・・
「弥陀をたのめば救われる」とてもシンプルですし、
気に入っています。
けちゃっぷさんは、けちゃっぷさんの信じる道を行かれたら、良いと思いますよ・・・
浄土門を否定なさりたいなら、それもまた仕方ないと思いますが、
できることなら、否定は避けて欲しいところです。
けちゃっぷさんにとっては、聖道を歩む上で、
浄土門の否定が(理由はともあれ)必要になってくる、
ということなのでしょうか? たとえば、浄土宗を学んだ個人的経験が
理由になっているですとか。
628 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 01:16:59 ID:nGW+sjGy
>>625 まぁ結局は「人それぞれ」なんですが。
「非仏説だ」ということを知らなければ、
「それぞれ」の判断材料がありませんからね。
僕としては、とりあえずそういう学説もあることを、
浄土門の信者の方々に知らせるべきだと思っています。
知った上で、「人それぞれ」に受け止めるのは、仕方ないですね。
629 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 01:22:50 ID:nGW+sjGy
宗教じゃなくて、何かの商品を売る場合に、
それが不良品である確率がけっこう高かったら、
売る側は、お客にそのことをあらかじめ説明するでしょう。
しかし、浄土門の能化(僧侶などの教えを広める人)は、
浄土門が仏説じゃないかもしれないというリスクを
隠したままで平気で説いてきました。
それって、普通に考えたら、めちゃくちゃ不親切じゃないでしょうか。
630 :
298:2008/02/28(木) 01:23:45 ID:lOofTRFY
>>628 学説があることを、知らない方もいるでしょうが、
多くの方は、知っているのではと思いますよ。
告知をしたいということであれば、そのような概説を述べたHPを作り、
リンクを紹介するのが、現実的ではないかと思います。
631 :
298:2008/02/28(木) 01:27:46 ID:lOofTRFY
>>629 本来、自信教人信ですからね。
自分が実際、信を獲てから教えるわけですから、
そこまでひどいものにはならないと思いますよ。
リスクということであれば、そろって同じ場所(たとえば、地獄など)に
行くかもしれない、ということですね。
仏説でないリスクがあるということであれば、上座部も同じでしょう。
だからこそ、ひとりひとり、選んでゆけばよいのではないでしょうか。
自分が信じる道を歩むしか、無いと思いますよ。
私は、釈尊はさまざまな法門を説いたと思いますが、
それぞれの宗派の中において、その法門をきちんと継いでいるところと、
新興宗教化しているところがあると思っています。
632 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 01:27:48 ID:nGW+sjGy
>>627 僕は学者じゃないし、一般の念仏信者の人々だって学者じゃないから、
そんな専門的な話をする必要ないでしょう。
南伝仏教の国では阿弥陀仏も観音様も説かれていないから、
北伝仏教で創作された教えである可能性が高いという、
単純な話です。
633 :
298:2008/02/28(木) 01:29:20 ID:lOofTRFY
>>632 南伝を基礎とする根拠は、何なのですか?
スリランカに、大挙して布教に行ったのではないのですから、
仏説がすべて伝わったのでは無いと考えるのが、
私にとっては自然なのですが。
たくさんある法門のうち、布教に行かれた方が奉じていた法門が
伝わったのではないでしょうか。
634 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 01:31:13 ID:nGW+sjGy
>>631 浄土門は、新興宗教化した宗派の代表だと思います。
635 :
298:2008/02/28(木) 01:33:27 ID:lOofTRFY
>>632 パーリ仏典と言っても、とりあえずは、現代語訳を読めばよいだけの話です。
それもほとんど読まずして、「パーリ仏典を基礎」は、おかしいでしょう?
それであるならば、「スマラサーナさんの仏教は素晴しい」というのが適切では
ないでしょうか。
けちゃっぷさんが、スマラサーナさんについて行くことは、もちろん自由ですけれども、
それを「仏説」と語るには、また根拠が必要であると思います。
私には、仏典は、根拠になります。
スマラサーナさんの個人的な主張は、
あくまでも、スマラサーナさんの、個人的な意見に過ぎないと思います。
瞑想の方法にしても同じです。
私は、真宗をすばらしいと思っています。ですから、私に伝えたいのであれば、
仏典を共通の基盤にするのは、自然な考え方だと思いますが・・・
「スマラサーナさんがそう言うから」では、私にとっては、根拠として弱いのです。
636 :
298:2008/02/28(木) 01:33:52 ID:lOofTRFY
>>634 その根拠を、繰り返しお聞きしているのですが・・・
637 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 01:52:34 ID:2gwjoR8H
新興宗教、必ずしも邪教にあらず。
仏教も、古代インドのヴェーダを奉じる人々からすれば新興宗教だった。
キリスト教も、モーゼの律法を重んじ人々からすれば新興宗教だった。
そして、歴史は繰り返される。
638 :
298:2008/02/28(木) 02:02:21 ID:lOofTRFY
>>637 確かに、新興宗教が、邪教であるとは、限らないと思います。
仏説かどうかということであれば、新興宗教は、仏説には、
ならないでしょう。
釈尊在世当時であれば、仏教も、また新興宗教であったと思います。
また、仏説を指し示す入り口の方便として、
垂迹としての、新興宗教が登場する可能性はあると思います。
639 :
298:2008/02/28(木) 02:08:46 ID:lOofTRFY
>>635 >けちゃっぷさんが、スマラサーナさんについて行くことは、もちろん自由ですけれども、
>それを「仏説」と語るには、また根拠が必要であると思います。
この「それ」というのは、「浄土門は仏説では無い」という主張です。
なにかしらを「仏説」とご自身で選択して、進まれるにしても、
あえて他を否定することが、よくわかりません。
もちろん、間違いを、正すことは、良いことだと思います。
つまり、単なる否定ではなく、正当性があるということです。
ですから、六十二の邪見の何に該当するかを聞いたのです。
お答えとしては、けちゃっぷさんは、「パーリ仏典をあまり読んでいないから、
わからない」ということでしょう?
「本当のことを伝えねばならない」という動機でおっしゃっているのであれば、
経典も、もう少し読んで、ご自身でも確認してほしいと思います。
640 :
298:2008/02/28(木) 02:13:57 ID:lOofTRFY
>>630 これは、「このスレ」において、ということです。
「浄土門は仏説か否かを語るスレ」という趣旨であれば、
大いにやるべきことだと思います。
641 :
298:2008/02/28(木) 02:41:43 ID:lOofTRFY
>>621 同感です。弥陀の本願ありがたく、法然聖人の数々のおことばも、
ありがたいことです。
642 :
298:2008/02/28(木) 03:48:54 ID:lOofTRFY
>>628 「いろいろ知った上で」というのは、確かにその通りで、
いろいろ知ったり、いろいろ体験されることによって、
その方にとっては、「枯れた」落ち着きどころになってきて、
それが、安心にもつながるのではないかと思います。
ですから、けちゃっぷさんも、いろいろされてみたら、
良いと思うのです。
たとえば、私に浄土門を否定すれば、私はこのスレに書いたような
ことを言います。
これは、あえて議論しているんですね。ただ、受け流してもいいんですが、
それでは、けちゃっぷさんも、納得しないでしょう。
いろいろ知れば、世間には、いろんなことを言う人がいることもわかりますし、
それらが相互に矛盾する内容を含んでいることもわかります。
では、どうするか? 自分はどう思うのか?
と言えば、感覚的な親和性によって、居心地の良い場所に
動いてゆくことにより、落ち着くのではないかと思います。
そして、「本当にここはラクだなあ」という場所で、過ごせば安心するのではないかと
思うのです。
摂取不捨だし、もう救われたし、守られているということだし、
私には、真宗は、とても合っているのです。
南无阿彌陀佛
643 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 04:14:27 ID:tH1Vq7nt
298さんに素朴な質問です。
298さんが臨終のときに(「臨終」なんて失礼ですみませんが、聞きたいことをクリアにするために使わせてください)
298さんの善知識から
「すまん、私はあんたを獲信に導いて『あなたは獲信しました、救われましたよ』と告げたけど、あれはウソだったんです」
と言われたとします、
298さんはどうなさいますか?
(といっても臨終なので、どうしようもないのですが)
私が聞きたいのは、そういう最悪の臨終を迎えた場合でも、後生の救いに間違いはないといえるかどうか、ということです。
(私がこの質問をするのは、「死と獲信との関係」に強い関心があるからです。)
644 :
298:2008/02/28(木) 04:31:39 ID:lOofTRFY
>>643 言われたら、とのことですが、おそらく、そういうことは無いだろうと思います。
ですから、イメージしにくいことですね・・・
しかし、信後でも、人はいかなるふるまいも為すとのことですので、
絶対に無いとは、言いきれません。先のことはわかりませんから。
そのとき、私がどうなるかも、私には、わからないです。
そのときまで、そういう、そぶりを見せていないとすれば、ビックリするかもしれませんが、
やはり、それは、そのときの私の状態によるでしょう。
私が平静な状態であれば、おそらく、あんまり気にしないと思います。
信が揺らぐことも、あまり無いような気がします。幻覚かも、しれませんしね。
娑婆への執着が吹き出していたとしても、
真宗の教えを恨むことはあまりないような気がします。
ずっとよろこべたわけですから、うれしいことだと思います。
会話ができるならば、とりあえず、質問はしてみると思います。
質問できないような、最期のタイミングだとしても、
自分で選んだ道ですからね。
善知識が信心なくても、私は信心があるような気がしますね。
凡夫の自力の信は揺らぐのですから、
そのタイミングで、善知識の信が揺らいでいたのかもしれませんし。
私は、目のあたりにはしていないのですが、
古くからお講にいる方々は、同行の命終を看取ったりしているわけです。
私はあまり興味がなくて、そういう話を、全然質問してきませんでした。
かなり確率が低い仮定のお話と思いますので、
どうお答えしたら良いのかわかりませんが、
643様のお気持ちも考えまして、このようにお答してみました。
意図を上手くつかめていないかもしれません。またご質問いただけたら、うれしいです。
645 :
298:2008/02/28(木) 04:37:22 ID:lOofTRFY
>>643 たとえば、私が死ぬときにギャアギャア言って、「死にたくない!」ともがいたとします。
あるいは、偉く苦しんで、もがき苦しんで死んだとします。
仕方ないのです。それまでの私の行為の結果が出たのですから。
そんな私も、阿弥陀仏は救いとってくださる。
今の私は、そう思っています。
そうでないと、カッコつけてしまって、死ぬ間際にガマンしなくちゃならない。
そんなの、私はイヤです。苦しみたいなら、さんざ苦しんで「どうだ!」と死にたい。
それでも、弥陀は捨てないと、信じているからです。
646 :
298:2008/02/28(木) 04:38:52 ID:lOofTRFY
>>643 同行へのお手本になんか、なりたくないんです。
こんな凡夫を手本になんかしたら、そんなの間違ってます。
手本になるのは、法蔵菩薩様であったり、お釈迦さまなんです。
647 :
298:2008/02/28(木) 04:49:35 ID:lOofTRFY
>>643 信の体は南无阿彌陀佛である以上、
自分がどう思うかですとか、人がどういうかとか、
そういうことは、基本的に関係のないことだと思っています。
「自分がどう思うか関係ない」とか、
この自分が言っているのもヘンなものですが。
648 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 07:58:27 ID:nGW+sjGy
>>635 「そういう学説がある」というのが根拠です。
大学で仏教を学んだら、嫌でもそのような知識に触れます。
スマナサーラ長老を知る前から、知識としては、
「仏説ではない」と教わっていました。
宗門の大学で学んだので、広い意味では、
浄土宗の教団から「仏説ではないという学説がある」
と教わったと言えます。
大谷大学とか龍谷大学とかの真宗系大学でも、
仏教を専攻すればそのことを教えられるでしょう。
宗門系大学では仏説じゃない可能性を教えるのに、
一般信徒にはそれを説明しない僧侶が多い。
僕は、そのことに疑問を持っているのです。
649 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 08:27:04 ID:nGW+sjGy
650 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 08:45:33 ID:64vACqgA
僕は神経難病を患い、声にも手にも足にも襲ってくる「動かなくなる」という恐怖と闘いながら、前を向くことができず、しかたなく上を見ながら2人の子ども達と悪戦苦闘している30代の父親の1人です。
どんな”ハンディキャップ”でも、一人よりもみんなで抱えあった方がきっと楽なはず?
だから、”生きる勇気”のお裾分け。
エッセイ風の、少しだけ面白いやつ!?
以下のホームページ、今日、更新しましたので、よかったら、見てくださいね(^_^)v
http://www1.cncm.ne.jp/~izumtjk/
651 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 09:08:36 ID:2gwjoR8H
隠し念仏研究の集大成『かくし念仏考』(入手困難)の著者、
高橋梵仙氏は、鍵屋第二十八代善知識であり、大正大学の先生だったそうだ。
652 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 09:18:59 ID:ftG1RJCZ
『かくし念仏考』2冊揃いで75000円という値段がついとる(神田の某古書店)
>そんな私も、阿弥陀仏は救いとってくださる。
>今の私は、そう思っています。
やはり、298さんは二十願におられるように見えます。
もちろん二十願も阿弥陀仏のお誓いくださったことですから、
それはそれでものすごく尊いことです。
ですが、親鸞聖人がすすめてくださるように、そこにとどまらず、
十八願に進まなければならないと思います。
そのためには、「助かっているのだ」と自分で思って安心していてはいけないと思います。
298さん自身がよく他人に言われていますように、
先入観や思い込みをひとまず横において、もう一度、いえ何度でも、
御文だけでなく真宗聖典全体を、よくよく読み返して頂ければと願わずにいられません。
654 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/28(木) 10:19:11 ID:27IZJ/dz
けちゃっぷさんは非常にいい問題点を出してくれているのでこの問題を大事にしたい。
298はけちゃっぷさんに「パーリ仏典をもっとよめ」という(
>>638等)。この主張は、何
を意味しているのか。
1 パーリ仏典を読めば大乗仏典は仏説であるということがわかる。
2 パーリ仏典も仏説でないことが分かる。
1か2の議論のなのだろう。しかし、パーリ仏典を読めば大乗仏典は仏説であるということが
わかるというのは詭弁だろう。書かれた言語も、地域も時代も、両者は全く違う。パーリ仏典は
紀元前3世紀頃、西インド(?)でパーリ語で書かれた仏典であり、スリランカ、カンボジア、
タイなどに流れている。
大乗仏典は、紀元前1世紀頃、パキスタン・アフガニスタンなどで、サンスクリット語で書か
れ、紀元後1,2世紀頃中国に伝搬して漢訳されている。パーリ仏典とは、成立の時代・地域・
言語など大きく異なっている。パーリ仏典を読めば大乗仏典は仏説であるということがわかるな
どということはありえない。
655 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/28(木) 10:21:02 ID:27IZJ/dz
パーリ仏典を読めば、パーリ仏典も仏説でないことが分かるか。まあ、それは分かるかも知れ
ないし、分からないかも知れない。仮にパーリ仏典も仏説でないと分かればどうなるのか。パー
リ仏典も仏説でないと分かれば、大乗仏典は仏説となるのか。そんな馬鹿な話はない。パーリ仏
典が仏説であるか否かと大乗仏典が仏説であるか否かとは全く関係が無い。
パーリ仏典をもっと読めという298の主張は情けない。まさに場外乱闘だ。大乗仏典は仏説
か否かという議論をしたくないから、自称信心獲得者・自称妙好人は、パーリ仏典が仏説か否か
という議論にすり替え、相手を追い払おうとしているだけだ。自称信心獲得者・自称妙好人には、
大乗仏典は非仏説であるという主張の前に満足に立つことができない。念仏者は金剛(ダイヤモ
ンドのような)信心を得る。自称信心獲得者は、大乗仏典非仏説説の前に立つと、とたんに付け
焼き刃が剥がれる。真理と真正面で向き合おうと言う姿勢がない。虚偽・詭弁でその場を取り繕
う。所詮は嘘信心の妙好人役者だからまともな議論をしてみろと言うのは無理な注文なんだろう。
パーリ仏典が仏説か否かなどと言うことは、それこそよそで議論してほしい。「スレ違い」とい
うことだ。
298は、浄土教経典をもっと読めと言っているが、浄土教経典だけでなく、大乗仏典全体を
深く研究した多くの学者・専門家が大乗仏典は仏説ではないといっている。この事実を無視して
はいけない。浄土教経典をもっと読めと言う議論も場外乱闘だ。
ただ、298さんは阿弥陀仏の救いが本当にあることを繰り返し教えて下さる。
とてもとても有難いことと思います。
けちゃっぷさんは、ご油断めさるなと警鐘を鳴らしてくださる。
これも、尊いことだと思います。
こういうスレを今自分が見ていること自体、仏縁を不思議と思わされます。
とかく、この眼は他人を見てああだこうだと判じがちですが、その眼を自分に向けよ
と言われているのが仏の教えですから、それぞれ我が身のことと振り返りながら、
共に真実への道を歩んでいけたらいいですね。
657 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/28(木) 10:24:25 ID:27IZJ/dz
いま問題なのは、大乗仏典は仏説ではないという学者専門家のほぼ一致した指摘があると言う
ことだ。パーリ仏典が仏説であるかどうかなどは関係がない。パーリ仏典こそが仏説であると分
かれば自分は上座部仏教に宗旨替えするという人がいれば、それは勝手にすればいいのであり、
いまここの議論とは関係がない。大事なことは、浄土真宗が根拠としている仏典が仏説ではない
ということだ。ここが問題なのだ。自称信心獲得者・自称妙好人・場外乱闘私設応援団の乱闘論
は見苦しい。
大乗仏典が非仏説であるというのは歴史家・仏教学者のほぼ一致した議論だ。この考えを覆す
ことは、現代並びに、将来に向かってほとんど不可能だろう。僕はそう思う。大乗仏典が非仏説
であれば、大無量寿経・観無量寿経などが仏説であるということを唯一の根拠にしている教義は
全てインチキということである。けちゃっぷさんの主張は非常に興味深い。けちゃっぷさんの主
張には少なくとも一片の真実はある。傾聴に値する。ここが妙好人スレッドであれば、頭を垂れ
てけちゃっぷさんの主張を心から謙虚に聞いてみようじゃないか。
現在来日している南伝仏教の高僧の話は、必ずしも仏説とは言えない。だから浄土真宗は真実
の教えである(
>>635)。詭弁を弄する付け焼き刃の仮装信心獲得者・自称妙好人・場外乱闘応
援団の主張は聞くに堪えない。議論するなら、もっと正々堂々と行ったらどう?(苦笑)。
結局は「仏智の不思議」を各人がどうとらえるか、ですね。
それだけ。
議論の余地はないと思う。
659 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 10:47:23 ID:KXaso2IV
また渡海のニート親父が来たのか。仕事もしないでヒマそうだな。
これに対して298とけちゃっぷはどう反応するのか。
660 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/28(木) 10:56:21 ID:27IZJ/dz
>656
>ただ、298さんは阿弥陀仏の救いが本当にあることを繰り返し教えて下さる。
>とてもとても有難いことと思います。
298は、私設応援団として場外乱闘しているだけで、僕は有難みを感じないけどね。
>けちゃっぷさんは、ご油断めさるなと警鐘を鳴らしてくださる。
警鐘なんていう生やさしいものじゃないだろう。明らかに間違いだと言っているんだろう。
ただ単に、浄土三部経は仏説じゃないということを、浄土教しか知らずに浄土門を仏教だと
教えこまれてる人に、知ってもらいたかったのです。(
>>528)
>> 548 浄土門は戒禁取見だとお答えしました。つまり迷信だと。迷信は、いくら学んでもや
はり迷信でしょう。(>552)
釈尊が言ったわけではない内容を釈尊が説いたことにしたなら、不妄語戒を堂々と破ったこ
とになる。(>563)
迷信だと思った…です。(
>>564)
>> 567 たのめば救う、摂取の光明とかは、「鰯の頭も信心から」みたいなもんでしょう(
>>570)。
浄土門が間違いではないかという話(
>>590)
相手の話を聞くと言うことは、相手の話に百%同意し、何もかも貴方の仰ることが正しいです
ということじゃない。相手が示そうとしている真実を、自分も見ようと言うことだ。
けちゃっぷさんは、いわば現代浄土門をほとんど全否定しているわけだろう。警鐘というのは、
間違っているんじゃないという主張だ。警鐘と否定とは内容が正反対だ。
聞くと言うことは、相手の主張の核心を理解することが大事だ。その上で、物事は是々非々で
判断すればいい。
僕は、けちゃっぷさんの主張について、1%の正しさと、99%の誤解があると思っている。
しかし、1%の正しさは絶対に認めなければならないと考える。
661 :
298:2008/02/28(木) 11:01:46 ID:2fBcjwB3
>>648, 649
では、けちゃっぷさんは、大学で大乗非仏説を教わったことにより、
浄土宗は戒禁取見と判断し、一般信徒に、そのことを伝えたいと思っているのですね。
一般信徒につたえたいのは、
1)浄土宗は、仏説では無い可能性がある
2)浄土宗は、戒禁取見である
のどちらなのですか? 2)は、「1)だから、2)」ということかもしれませんけれども。
662 :
298:2008/02/28(木) 11:03:50 ID:2fBcjwB3
>>653 どう進んでほしいのですか?
653様の考える第二十願と、第十八願は、どう違うのですか?
>御文だけでなく真宗聖典全体を、よくよく読み返して頂ければと願わずにいられません。
願うのは良いですけれども、653様は、どれくらい読んでいるのでしょうか。
判断の根拠を、真宗聖典から、引けますか?
663 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 11:04:01 ID:vVAskISa
664 :
298:2008/02/28(木) 11:15:47 ID:2fBcjwB3
>>659 けちゃっぷさんの主張は、「南無阿弥陀仏は、『イワシの頭も信心から』のようなもの」
ということでしょう。
それで、浄土宗を位置づけて、納得している。
それは、世間に多い考え方であって、上座部を学んだ方の意見とは、
あまり私には、思えません。批判の方法も、他にあるのではと思います。
「念仏は、『イワシの頭も信心』」、「頭脳明晰な法然さん」この両者は、
同じ方の意見とは、思えません。
ですから、私は後者は単なるご挨拶と思っています。
法然聖人の選択について、ほとんど説明できないことも、
けちゃっぷさんが、さほど浄土宗を学んでいないことを示しています。
パーリ仏典を読んでほしいのは、真宗の教えと、パーリ仏典の整合性を
見てほしいからです。
「パーリ仏典の教えに反するから、非仏説である」という論の進め方であれば、
私には、納得がゆきます。
そこで、報土往生が説かれている可能性があるお経について述べようと思いましたが、
そもそもけちゃっぷさんは、パーリ仏典を重視していません。
パーリ仏典を読むのは、まずは、日本語訳(あるいは、英訳)を読めば、十分ではないでしょうか。
パーリの教えに基づきたい方が、聖典を読まないのは、いかにも不自然です。
また、けちゃっぷさんが「聖道門は易行である」という根拠は、
「修することができる」というだけで、
そこには、「如説に」もありませんし、証果もありません。
そのような観点であれば、すべて易行になるでしょう。
つまり、「難行」「易行」を、「取り組み方」だと思っていると思います。
仏教のお経は、お釈迦さんの言葉を記録したもの、という考えがあります。
しかし、実際にはどんなに古いお経でも、 お釈迦さんが亡くなられてから何百年も経っ
てから書き記されたものなのです。
古い時代、一般にインド人は、文字を使うことがありませんでした。
すべて、暗唱にたよっていたのです。
仏教も同じで、お経の編集は、お坊さんたちが集まって、あるお坊さんが暗唱するのを、
他のお坊さんたちが聞いてチェックすることでした。
最初の編集会議は、お釈迦さんが亡くなって間もない時に行われましたが、それにしても、
お経は、お釈迦さんの全く知らないところで編纂されたのです。
お釈迦さんの直接の弟子が暗唱したといいましても、あくまでも、それは、そのお弟子さ
んの耳と頭を経由したものですから、そのお弟子さんの考え、理解力によって、大なり
小なり、ゆがみが生じます。
お釈迦さんの語録としてのお経が、人から人へ口伝えに、時々編纂会議を経ては伝承され、
数百年もの間、代替わりを繰り返し、様々な地域へ伝えられていくと、ふくらませたり、
削ったりという手が加えられて、ゆがみが大きなものとなっていって、極端なものは内
容 が矛盾するお経、ほとんど同じだけれども一部が違うお経、一部は同じだけれどもほ
とん ど違うお経などが、さまざまあらわれるようになりました。
水野弘元博士『経典−その成立と展開』によれば、
「原始経典の中には、仏滅後になってから、仏の遺弟たちによって説かれたものもかなりあります。
これらは仏滅直後の第一結集では誦出されなかったものであるのに、どうしてそれらが現
存経典の中に含まれているかといえば、おそらく第二回以後の結集で、経典として誦出さ
れたものと思われます」と書かれています。
つまり、阿含経典のうちには、後世につくられた経典も多数あるのです。
確かに、阿含経典には、間違いなく釈尊その人が説かれたであろうと断定されていること
ばの数々が含まれていることは間違いないと思います。 しかし、阿含経典の全ての作者
が釈尊であるかといえば、そうとはいえない。
大乗のお経は、お釈迦さんの言葉ではない、という非難はずっと昔からあるようです。
お経が仏教にとって大切だというのは、それが、単に、お釈迦さんという一人の人物の教
えを記録しているということによるのではなく、「さとった人」が語った「さとった内
容」と「さとりにいたる方法」を盛り込んでいるということによるからです。
当たり前ですが、「さとった人」というのは、「仏」のことです。
お釈迦さんは、「仏」に違いありませんが、「仏」はお釈迦さんだけではありません。
お釈迦さんと同じ境地に達したと自他共に認める人は、すべて「仏」ということになります。
したがって、そういう仏の語った言葉は、お釈迦さんの教えの流れを汲むもの、お釈迦さ
んの教えの表現 (内容は同じ)を変えたものとして、じゅうぶんに「お経」の資格を持
つものといえます。
大乗のお経も、釈尊の教えを伝えるお経です。
669 :
298:2008/02/28(木) 11:30:49 ID:2fBcjwB3
>>659 それに、私がけちゃっぷさんにパーリ仏典に触れてほしいのは、
仏説に触れてほしいからです。
ひとりひとり、さまざまなご縁によって、その方のご意見に辿り着いて
ゆくのだと思います。
上座部を良いと思うなら、その修行をすれば良いと思うのですが、
まだ修行をはじめたてなのに、浄土宗を否定したいという気持ちが
強く出る。
真宗の獲信を学ぶ場にきて、浄土宗は非仏説だと主張するのも
ひとつの生き方ですけれども、やはり、それは、自障障他のはたらき
だと思います。
弥陀に救われることを望む方は、本当に少ない。
そして、それを外部から見ている方は、ひたすら否定します。
南無阿弥陀仏を信じ、弥陀に救われることが、
そんなに気に入らないことなのでしょうか。
阿弥陀仏は、とても優しい存在です。
自らが菩提心を起こすことに気をとられ、
菩提心を成就された方の存在を忘れていると思います。
南无阿彌陀佛
670 :
298:2008/02/28(木) 11:37:11 ID:2fBcjwB3
獲信に必要なのは、南无阿彌陀佛です。
これ以外の修行は、要らないのです。
一念にして信うまれ、その後は上一形に至まで、
お念仏をつづけます。
この実践に、すべてがこもります。
671 :
298:2008/02/28(木) 11:38:52 ID:2fBcjwB3
このような凡夫が救われたうれしさに、
南無阿弥陀仏をおとなえする。
浄土に生まれることが定まったうれしさを感じ取って、
南無阿弥陀仏をおとなえする。
672 :
298:2008/02/28(木) 11:41:32 ID:2fBcjwB3
◎問ていはく、攝取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかむ。
答ていはく、平生の時なり。そのゆへは、往生の心ま事にて、
わが身をうたがふ事なくて、來迎をまつ人は、これ三心具足の念佛申す人なり。
この三心具足しぬればかならず極樂にうまるといふ事は觀經の説なり。
かゝる心ざしある人を、阿彌陀佛は八萬四千の光明をはなちててらし給ふ也。
平生の時てらしはじめて、最後まですて給はぬなり。かるがゆへに不捨の誓約と申候也。
673 :
298:2008/02/28(木) 11:47:35 ID:2fBcjwB3
救われていないと人がいふ。
弥陀などいないと人がいふ。
それでもとなふは南無阿弥陀仏。
674 :
298:2008/02/28(木) 11:51:57 ID:2fBcjwB3
弥陀に救われたい方は、本当にカンタンに救われることができます。
罪悪感は、必要ではありません。
「罪悪感があっても、そのままで、救われる」ということです。
罪の気持ちに臆することはない、ということです。
なぜなら、弥陀は決して批難しないからです。
弥陀は、ただよろこんで、たのむ衆生を救ってくださいます。
675 :
298:2008/02/28(木) 11:53:54 ID:2fBcjwB3
弥陀は、四無量心を具している如来です。
衆生のしあわせを願っており、
衆生の苦しみにも、苦しむこともなく、
衆生を救ってくださいます。
676 :
298:2008/02/28(木) 11:59:33 ID:2fBcjwB3
阿弥陀のほとけがすくふのは、
衆生をすくふがそのために。
たのむ衆生を皆すくふ。
弥陀の願いがあるために。
弥陀がすくふは南无阿彌陀佛。
阿弥陀の法に、よるために。
677 :
298:2008/02/28(木) 12:00:48 ID:2fBcjwB3
来いよ来いよと弥陀が言う。
たのむ衆生は皆救う。
だから来いよと弥陀が言う。
救いに洩れぬ易行の法。
だから来いよと弥陀が言う。
あなたも救うと弥陀が言う。
だから来いよと弥陀が言う。
678 :
298:2008/02/28(木) 12:01:49 ID:2fBcjwB3
来るのは救いの場所に来る。
来るのは弥陀の浄土に来る。
浄土に参りて、私が守ると弥陀が言う。
679 :
298:2008/02/28(木) 12:02:46 ID:2fBcjwB3
前から呼んだと弥陀が言う。
呼び続けだよと弥陀が言う。
その声届いて南無阿弥陀仏。
流転の種は、消え去りき。
680 :
298:2008/02/28(木) 12:04:12 ID:2fBcjwB3
おもい頭を取り去って、
弥陀をたのめと弥陀が言う。
他の何にもいらんから、
弥陀をたのめと弥陀が言う。
六字にすべてを表して、
弥陀をたのめと弥陀が言う。
681 :
298:2008/02/28(木) 12:07:48 ID:2fBcjwB3
弥陀の救いが届くのは、
この私にただ届く。
弥陀から私にひといきに、
気付けば救いと救われて、
永い迷いの夜晴れる。
682 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 12:17:06 ID:ejy6BcXK
>662
>653さんの意見は、それが第20願なのか別にして、少しわかる気がします。
「このような私でも救って下さる」と言うのは、
お寺のご法話でもよく耳にしますが、私は果たして「このような私」と
限定し、くくれるような存在なんでしょうか?
業縁によれば、昨日は絶対にすまいと思っていた事も、
明日には平気な顔をしてやる。
第一、「このような私」と判断した私自身が業縁によってまた変化していくのですから、
凡夫の身で「私はこのような者」と判断する事自体、嘘偽りと言えましょう。
凡夫が、自分を指して、流転輪廻果てしなき者です、と言っても虚偽。
仏陀が、私を見て、流転輪廻果てしなき者と言われるなら、虚偽ではないでしょう。
自分で自分を規定できる程、凡夫は賢くないと言うことです。
683 :
298:2008/02/28(木) 12:18:40 ID:2fBcjwB3
>>682 弥陀の救いは、凡夫がどう判断していても、いいんですよ。
判断によって、救われるのではないからです。
物量作戦みたいな書き込み止めませんか?
685 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 12:39:35 ID:nGW+sjGy
>661 両方…かな。ただしまずは1)「仏説じゃない可能性がある」から。
2)は、条件つき(仏説じゃなかったら)で戒禁取見。
極楽も阿弥陀仏も存在しないなら、
念仏往生を願うことは「迷信」になってしまう。
>663
浄土経典をフィクションと認めた上でも、
思想として尊重するということは可能でしょうね。
阿弥陀仏の「物語(経ではなく。)」に表現されている
仏教の平等の慈悲に共感して、
「みんながもれなく救われたらいいのになぁ。
生きとし生けるものが皆幸せになれればいいなぁ。」
と願うことは、すばらしいです。
686 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 12:44:49 ID:ejy6BcXK
>683
>判断によって、救われるのではないからです。
本願他力なんだから、そうでしょう。
>弥陀の救いは、凡夫がどう判断していても、いいんですよ。
判断によって救われるのでないなら、判断自体必要ないのでは?
298さんが「こういう私」と判断し「救って下さる」と思っている判断は、
救われる事と何ら関係がない。
でも、どう判断してもかまわないからOKと言う意図のもと、
書き込まれたと言うことですか?なんだか煙にまかれるような話ですね。
687 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 12:47:51 ID:nGW+sjGy
仏教の慈悲は、まるで物語にでてくる阿弥陀仏の救いのように、
一切衆生を平等にいつくしみ、あわれむ。
…というなら同意します。
しかし、それなら、例えば
「物語にでてくるアンパンマンみたいにみんなを助けたいと願う」
と言ったってよい。
あくまで仏教思想をわかりやすく表現するための
「物語」だと言うなら同意します。
物語とわかってるならば、
「ではみなさんもアンパンマンを呼んでみましょう」
とか「ジャムおじさんのパン工場を探しに行きましょう」
なんて本気で言ったりしない。
688 :
298:2008/02/28(木) 12:54:13 ID:2fBcjwB3
>>686 第十八願は、煙にまかれるような話だと思います。
特に、お伝えしようとしたときに、
不可説のことを話さなければならないわけです。
ですから、救いそのものは、話すことが、そもそもできません。
689 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 12:54:22 ID:nGW+sjGy
無量寿物語・観無量寿物語・阿弥陀物語の、「浄土三部物語」は、
仏教の慈悲の思想を表現しています。
僕は、そのような平等の慈悲に共感しますし、
そのような慈悲を自分も身に付けたいし、
人にも伝えたい。
690 :
298:2008/02/28(木) 12:58:05 ID:2fBcjwB3
>>686 自分の心でありますけれども、意識されている場所だけではなく、
「無意識」という場所の影響を受けているらしい、
ということは、多くの方の共通認識となりつつあるのだと思います。
弥陀をたのむのは、ほんのわずかな時間です。
その易行によって、自分の心、自覚できる心にも、
違いを感じる。
ここに、現証があり、傍証がありますけれども、
個人的なものにとどまります。
しかも、それほどハッキリとわかるわけでもない。
「雲を超えてとどく光」のたとえの通りです。
信をいただく前、私の心は、暗かったです。夜でした。
これは、心の中を思うと、たとれば、宇宙空間のように、
暗かったのです。
今は、違います。暗くありません。
しかし、このようなことも、あくまでも個人的な経験であり、
そのままを、お伝えすることも、できません。
弥陀をたのんでいただければ、その方なりの経験があるのだろうと
思っています。
691 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 13:03:18 ID:ejy6BcXK
>688
結局自己満足ってことだよね。伝えられないなら、
余計な事を書く必要ないし、レスの無駄づかい。
692 :
298:2008/02/28(木) 13:03:38 ID:2fBcjwB3
>>689 それは、素晴しいことだと思います。
けちゃっぷさまの現在の意見としては、浄土三部経によって、衆生が苦しめられているから、
そこから解き放たねばならない、ということなのでしょうか?
慈悲を身につけようとすることは、本当に尊いことです。
そのような思いを起こす方も、少ないと思います。
スマラサーナ長老の、慈悲の瞑想も、とても素晴しいと思っています。
聖道を、わかりやすく現代日本語で紹介してくださった業績は、
日本の仏教にとっても、とても重要なことだと思っています。
その結果、仏教に興味を持たなかった方が、
たとえば、慈悲を心がけて生活し、人生を改善するようなことも
あるだろうと思います。素晴しいことです。
今のけちゃっぷさんにとって、浄土三部経が物語であるとしても、
十方衆生を救おうとした阿弥陀さまのことを想えば、
その観念が、慈悲の瞑想の助けにも、なるかもしれないと思います。
浄土三部経は、おっしゃる通り、浄土門として以外の読み方も
できると思います。
私は、広大なる仏説であると仰いでいます。
ひとりひとりが、そこから、その方のためになることを吸収し、
照らされて、慈悲の光を受けて行くのが、うれしいことだと思います。
693 :
298:2008/02/28(木) 13:07:31 ID:2fBcjwB3
>>691 ところが、そうとも限らないのが、さらに不思議なところです。
伝えられるはずのないものを書く。
書いていることは、あくまでも私の感想であり、判断にとどまるのですが、
では、無意味かというと、そんなこともない。
わかる方には、わかるのです。
「妙好人に獲信を学ぶ」というのは、そもそもそのようなものでは
ないでしょうか?
体系的に、知識体系を学んで、納得して獲信する、というものではないと
思います。
知的な納得が可能なのは、「だから、弥陀をたのめばよいのだな」というところまで
だと思いますが、それにしても、万人が、納得できるようなものではありません。
私の自己満足を、そこから、何かを感じ取る方もいらっしゃるわけです。
そのような方が希である以上、私の自己満足だけが要因ではなく、
その方の宿善もはたらいていると考えるわけです。
ですから、無駄ではないですよ。
ひとりでも、あらたに、弥陀をたのんでくださるなら、
万金の価値があると思っています。
694 :
298:2008/02/28(木) 13:15:31 ID:2fBcjwB3
>>686 煙にまかれるような第十八願を、(未安心の)凡夫がどうとらえるかと言えば、
それは、南無阿弥陀仏という真実の行を通してのことなのです。
これにより、南無阿弥陀仏とは、他力の行であり、非行の行であるということを
理解します。
しかし、これも以前書いたことなのですが、
具体的な道筋を書くと、否定される傾向があります。
この一連のスレにおいては、具体的な筋道に至るまで、
私は書いたと思っていますので、信後の状態についての記述に
重点を移しました。
(過去の妙好人のことばを見ても、同じような方針であると感じます。)
>>691 隠れた善知識が相承している儀式と口伝によって信心を得たい、
という志願者を探してるわけなんでしょ。
696 :
298:2008/02/28(木) 13:20:08 ID:2fBcjwB3
>>695 そのまとめ方は、私の感じ方と、大分違います。
「嘘ではないだろう」という言い換えによって、
ことばにならぬものを伝えようとしている私のこころみを、
無駄にしようとしているのだと思います。
まず、「隠れた」というのは、違います。
隠れているのではなく、探していないのです。
そして、「儀式」という言い方には、語弊があります。
弥陀をたのむのは、あくまでも行者だからです。
そして、「口伝によって信を獲る」というのは、間違いです。
あくまでも、弥陀をたのむことにより、弥陀から信心をいただくからです。
どの程度の人口密度かはわかりませんが、
善知識は、全国に散在しているはずです。
正信あることを知ったときに、探し出す方がいらっしゃるはずです。
そして、今ある場所に正信が無いにもかかわらず、
とらわれている方は、御文一帖第一通などを読み、
臆さずに、探しはじめてほしいのです。
信を獲れないのに、自分を責めるのは、間違いです。
弥陀は、十方衆生を救うと誓われています。
自分を責めるのではなく、法を探すべきです。
697 :
298:2008/02/28(木) 13:21:45 ID:2fBcjwB3
ことばというのは面白いもので、ある方が「口伝によって信を獲るのですね?」という場合、
それは嘘ではありません。
しかし、695様の言い方は、嘘であると言えるでしょう。
698 :
298:2008/02/28(木) 13:25:28 ID:2fBcjwB3
そして、読む方によっては、695様の言い方でも、嘘ではない。
そこから何かを感じて、善知識を探し、獲信する方も無いとは言えないからです。
やはり、いろいろとやり取りすることが最善だと思います。
そのような中から、彌陀をたのむ方は、彌陀をたのむでしょう。
699 :
298:2008/02/28(木) 13:27:49 ID:2fBcjwB3
たった一度の南无阿彌陀佛で獲信するはずなのに、
獲信しないのは、なぜなのか?
それは、お聖教によれば、本願相応ではないからです。
では、本願相応とは、どういうことなのか?
それを知らねばなりません。
700 :
298:2008/02/28(木) 13:32:04 ID:2fBcjwB3
>>695 たとえば、私がどれくらい凡夫かというと、
私を尋ねてきてくれた方がいるとします。
すると、うれしいと同時に、面倒でもあるのです。
ましてや、初対面の方であれば、不安もあるのです。
どのような方かも、わかりません。
ですから、「地元の善知識を探してほしい」というのは、
その方のためでもある(特に、後念相続のため)でもあると同時に、
私のためでもあります。
それでも、法の友に出会えれば、それはうれしい。
このように、とても未成熟で、未整理なのが私です。
そのようなままで、彌陀に救われ、よろこんでいるのです。
いつまで、ここに書くかもわかりません。
書いたり書かなかったりになるのかもしれないし、
書かなくなるのかもしれないし、書き続けるのかもしれないし、
自分でも、わかりません。
そのときの、自分の都合で動くでしょう。
701 :
298:2008/02/28(木) 13:34:03 ID:2fBcjwB3
あとは、責任逃れもありますね。
私が善知識を紹介すれば、私にも責任があるでしょう。
その方が自分でお探しして、その方なりに納得するなら、
それは、その方の責任であると思える。
702 :
298:2008/02/28(木) 13:38:50 ID:2fBcjwB3
そもそもこのスレは、「獲信したい」という方を対象としており、
それには、「獲信していない」という認識を含むわけです。
易行であり、信心為先である真宗で、それはおかしいと思う訳です。
私がこのような考えですから、けちゃっぷさんの行動を、
そのまま否定することは、私にはできないのです。
ましてや、慈悲の気持ちに基づこうとするなら、
それは、私からしても、仏説そのものであるからです。
703 :
298:2008/02/28(木) 13:42:56 ID:2fBcjwB3
善知識は、隠れているのではなく、ふつうに生活しています。
もし、身近に、彌陀の救いを探している方がいれば、
その救いを伝えてくださる。
文字どおり、彌陀の代官です。
704 :
298:2008/02/28(木) 13:46:22 ID:2fBcjwB3
たとえば、けちゃっぷさんは、パーリ経典には、
阿弥陀の「ア」の字もないと言う。
そして、先日公開された角筆では、「阿」の字が強調されていました。
私は、「そうか、阿弥陀の法に於いては、阿の字が大切であるのか」と受け取り、
深く感動致しました。
「阿」は「无」の意であるわけです。
南无阿彌陀佛には、「ム」に「无」が当てられて、
「ア」には、「阿」なのです。
わたしは、角筆の全体が公開されるのが、とても楽しみです。
それは、私が信じてきたことが、親鸞聖人の教えに基づいているのか、
そうでないのか、確かめるための根拠が増えるからです。
705 :
298:2008/02/28(木) 13:47:48 ID:2fBcjwB3
信じていない方にも、南无阿彌陀佛。
それは、いつか救われて欲しいからです。
自分が救われて、それで終わりではありません。
彌陀は、十方衆生が救われることを、
望んでおられるからです。
南无阿彌陀佛
706 :
298:2008/02/28(木) 13:51:21 ID:2fBcjwB3
私は、彌陀のご計画を、信じています。
そして、これは個人的な思いですが、
またこの片州において、獲信の人が多く出る時期が来ようと
していると思います。
そのために、いろいろな動きが、はじまっていると思っています。
707 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 13:53:20 ID:2gwjoR8H
708 :
298:2008/02/28(木) 13:55:26 ID:2fBcjwB3
>>707 具体的に「これ」と私が思うものは、いくつかありますが、
ここで書こうとは思いません。
書いたところで、否定されることもわかっています。
身近な方には、話したりもしています。
あくまで私が思っているだけですから、
単なる勘違いかもしれません。
20年くらいしたら、私にとっても、わかると思います。
709 :
298:2008/02/28(木) 14:00:19 ID:2fBcjwB3
法然聖人は、おのおの念仏して恩を報じよ、と。
なんと尊いお導きであろうかと思っています。
お講も、とても大切で、ありがたいことですけれども、
それは、おのおのが集まっているのでなければならないと思います。
集まりが優先されるなら、間違いが生じるでしょう。
南无阿彌陀佛
710 :
298:2008/02/28(木) 14:08:03 ID:2fBcjwB3
>>687 信前の方が、「物語では無い」というならば、むしろ嘘を言っていることになると思います。
「どうしても信じられない。荒唐無稽ではないか」というほうが、おそらく正直です。
信を獲て、はじめて物語では無くなるからです。
これによっても、信心為先です。
711 :
298:2008/02/28(木) 14:15:38 ID:2fBcjwB3
>>710 そして、信前でも、「どうしても、単なる物語とは思えない」という方も、
いらっしゃるわけです。
712 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 16:10:04 ID:Rqzaq8RX
いや〜、298さんは素晴らしい。
すごい熱意だと感服します。いま、親鸞聖人が298さん
の活躍を見たらこうおっしゃるでしょう。
親鸞「298!おまえのせいで浄土真宗が勘違いされるじゃねーか!
無量寿経は架空に決まってんだろ!頭大丈夫か?おれは念仏しようって
いってるだけだ。解説なんていらんのだ。ヴァカもんが!擯罰せん!」
713 :
298:2008/02/28(木) 16:27:15 ID:2fBcjwB3
>>712 解説がいらなければ、御本典も、御消息も、そして、御法話の必要も
無くなってしまいます。
彌陀のすくいを、そのまま理解していただくために、
そのまま受け取っていただくために、
とてもとても簡単なことを伝えるために、
あれこれ言葉を尽くしてゆかねばならないのだと思います。
714 :
298:2008/02/28(木) 16:33:38 ID:2fBcjwB3
>>712 南无阿彌陀佛は、あくまでも、方便法身であって、
為物身でもあるのです。
715 :
298:2008/02/28(木) 16:43:47 ID:2fBcjwB3
>>712 ◎それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。
この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、
凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施することをいたす。
釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯い、
恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。
ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。
すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり(教巻)
とおっしゃっているのですから、おそらく、そのようなことは、
おっしゃらないのではないかと思います・・・
716 :
712:2008/02/28(木) 16:54:03 ID:Rqzaq8RX
早速のリターンありがとうございます。
ほんとに298さんは大切になさってるものがおありなんですね。
>御法話の必要も無くなってしまいます
>あれこれ言葉を尽くしてゆかねば
なるほど。そうですよね。親鸞聖人ならこう言うでしょう。
親鸞「はぁ?法話?俺が励んで欲しいのは称名念仏だぜ。疑心
自力の298よ。称名念仏はげむべし。」
「あと、言葉を尽くす?俺は口べたなんだぜ。越後じゃ言葉は
通じないんだよ。念仏するだけだから伝えられたんだ。先入観
を抜いて考えてみろ!」
717 :
298:2008/02/28(木) 16:58:58 ID:2fBcjwB3
>>716 本当でしょうか?
「念仏しましょう」そのひとことで、通じた方も、もちろんいらっしゃったでしょう。
しかし、それだけで良いのなら、
「真実難信之法」のみ言葉が、むなしいものになってしまいます。
私には、716様が、先入観をお持ちであるように感じます。
たとえば、その説き方で、布教なさってみてください。
机上の空論を離れ、実践なされば、その体験から、
感じるものがあるのではないかと思います。
しかも、ご自身のことばとしてではなく、
聖人のことばとしてお説きになることは、どうでしょうか?
それこそ、異説ではありませんか?
まじめな意見として、聞いてもらえなくなってしまうと思います。
718 :
298:2008/02/28(木) 17:04:15 ID:2fBcjwB3
>>716 もちろん、戯曲的な効果を狙い、聖人のことばとして、
説くことも、時には有用であると思います。
しかし、その場合も、聞き手の方に、
聖人の言いたいことが通じるようにと、
願いをこめて、そのセリフを作ってゆくことが、
大切であると同時に、お聖教のことばそのもので無いことも、
わかるように示すことも、大切だと思います。
719 :
298:2008/02/28(木) 17:06:06 ID:2fBcjwB3
>>716 そして、「言葉を尽くす」というのは、単に文章を工夫するという
意味で言っているのではありません。
伝えたい気持ちをいだきながら、
相手の方にわかっていただくために、
単なる口業だけでなく、意業と身業を伴う、
伝え方のことを指そうと思って、書いています。
720 :
298:2008/02/28(木) 17:09:02 ID:2fBcjwB3
>>716 >ほんとに298さんは大切になさってるものがおありなんですね。
こういうことをおっしゃるのは、名利にこだわる気持ちが強いかどうかを、
試みようとしていらっしゃるのだと思います。
褒められて、よろこぶのも執着、
けなされて、落ち込むのも執着です。
ただ、自らの道を歩むのです。
そして、私は、名利にこだわる凡夫です。
南无阿彌陀佛
721 :
298:2008/02/28(木) 17:13:47 ID:2fBcjwB3
南无阿彌陀佛というのは、世間の価値観を超えています。
世間の価値観に、こだわらずを得ない凡夫、
しかし、口から出る南无阿彌陀佛とは、それらの価値観とは
異なることばなのです。
もちろん、そこに現世の祈りを込めて、凡夫の意業を混ぜることは
できましょう。
それでも、御名号そのものには、ひとかけらの濁りも与えることは
できない。
本当に尊い、南无阿彌陀佛であると思います。
722 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 18:06:40 ID:nGW+sjGy
>>721 名号は、一瞬にして浄土三部物語を思い出させてくれ、
一瞬にして慈悲の心を思い出させてくれる、記号だと思います。
怒りにカッとなって、「ぶっ殺すぞ」と刃物に手を伸ばした瞬間に、
もし名号を思いだすことができれば、
刃物を握った手も止まるかもしれません。
我々の日常の思考は、三毒煩悩に右往左往しています。
そういう我々の日常に、非日常的な慈悲の心を
無理矢理にでも挿入する「ワザ」として、
念仏は役に立ちますね。
普段の思考→普段の思考→念仏→普段の思考→念仏→普段の思考→念仏→念仏
ビデオのリモコンの、一時停止・コマ送りボタンみたいに、念仏を使う。
723 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 18:06:59 ID:ejy6BcXK
>721
それは違いますよね。「自力かなはで流転せり」と言われるのですから。
何を思っても、何をしても阿弥陀如来は救って下さるんだ
と理解することは、凡夫が自らの煩悩心の中に造り出した理解に過ぎません。
弥陀をたのんでいるようで、実は自分の煩悩心が造り出した理解を
たのんでいる。これは自力、それも造悪無碍の心。
弥陀がかならずたすけると言われる事が本。
それが喜びになったり、尊いと思えるようになったりするのは末。
また、何を思ってもかまわないなんて事は、勝手な各自のはからいですよ。
弥陀の本願が何のために起こされたのかを反古にする言い方です。
何を思ってもかまわないために起こされた本願か?逆に、
何か思わせるために起こされた本願か?
仏の大慈悲を自分の感情に従属させている間は、弥陀をたのむ生き方また、死に方とは
言えません。我が心にまかせず、我が心をせめよ。と言われる所以です。
724 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 18:18:28 ID:ejy6BcXK
あと、言葉にならないものを伝えようと言う試み自体、
凡夫の成せる業なのかなー。
龍樹菩薩の真俗二諦を、未だ悟せざる者が使えるのかなー。
やっぱり、誰かが言ってたように、298さんは機の深信が無いように思えちゃう。
末代の道俗が、己が分を思量したら、そんな偉そうな事言えないもん。
浄土真宗は仏教でないと、聖道門の方々に非難されるのは、
身の程もわきまえず、正定聚を得たとか、流転輪廻の因が消滅したとか、
思い込みだけで言っている人が多いからじゃないかな?
阿弥陀さまが偉いのであって、信心決定したことが偉いんじゃないのに、
自分は得た・わかった・知ったと言う心を本として、他を裁こうとする。
無有出離の凡夫が無有出離の凡夫に対して、何事か教え伝えても、
所詮無有出離には変わり無いでしょ。
無知と無知が真実について語り合っても、
ますます混迷を深めあうだけでしょ。何ら得るものはないよね。
それよりも、真の人の仰ることを伝えるべき、
真の人の願いを伝えるべきじゃないのかな?
縁によってどうとでも動く、虚偽に満ち溢れた
自分の体験伝えても真実には化けないし、
そんなもので他人さまを振り回すことで
真宗を伝えることにはならないし。
機の深信から言えば、私は根っこから、
虚偽の固まり。毒しか出ないと信知するならば、
言わなくても善いことを撒き散らすより、かならず救うの誠言を
いついつまでも伝えるべきじゃないかなー。
725 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 19:05:22 ID:ejy6BcXK
>722
鋭いですね。
才市さんに「腹が立ったら念仏申せ、念仏は火のての水となる」
だったかな、そんな歌がありますよね。罪悪深重の凡夫は治療してもらうものを
山ほど持っているけど、大抵意識上にはあがってこない。
でも、自分の感情があてにならず、仏心のみあてになるとすれば、
感情にまかせること自体、正しく弥陀に治療されるべき病原、
恥ずべきものとして認識されます。そうした生活を繰り返すうちに、
自然と、煩悩に意識的になっていくのではないかなー。
無明煩悩は苦果を生じる。自分の中で苦しみが生ずれば、
それは自分のおこないのせいであって言い訳できない。
しかし、それは同時に阿弥陀さんに助けられるものを沢山抱えている事でもあり、
常に阿弥陀さんの心がかけられているという喜びともなる。
歓喜とザンギの生活と言えるかな?
726 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 20:07:40 ID:ftG1RJCZ
赤山禅院で出会った女人は恵信尼公なのでしょうか
727 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/02/28(木) 20:15:17 ID:27IZJ/dz
>>722 人の生活に役に立つ教えが仏説仏教、役に立たん教えが非仏説仏教。
こんな考えでどうですか。
ところがなあ、まあ肝心なときには、なかなか役に立たんものよ。
いつもは忘れてないつもりでも、怒りにカッとなった瞬間にはきれいさっぱり忘れるものだ。
僕はまだカッとなって刃物を持った経験はないが、刃物に手を出す程にカッとなれば、その瞬
間にはきれいさっぱり念仏などは忘れてるだろうなと思う。
ビデオのリモコン?コマ送り?
けちゃっぷさんは、頭の固い阿呆の念仏者に妙に上辺で調子を合わせるよりも、むしろ徹底し
てアンチ浄土門・アンチ念仏で思考する方が似合ってると思う。叩けばいくらでも埃が出る欺瞞
の世界だ。思いっきり叩けば、埃にまみ、破れた穴からカビが生えた古い宝物がこぼれ落ちない
とも限らない。これは見つけた者勝ちだ。
本願寺も知恩院も増上寺も、思いっきり叩き壊すというのは、どう?。虚構の欺瞞をたたき壊
せば、縁の下にはみんなが忘れていた掘り出し物が、きっとまだ埋まっていると思うんだ。
>>722 > 念仏は役に立ちますね。
生活の中で役立つ道具として活用下さっていますか。
さぞ、阿弥陀様もお喜びでしょう。
729 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 20:21:06 ID:wlYw10T+
298よ、あんまり親鸞をナメるなよ。
いま、ふと思ったんだけど、もしかして、ここに書き込みしている人の大部分、
死んだ後の地獄極楽を信じてないのかな。
731 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 20:38:12 ID:ftG1RJCZ
>>731 何でって、みんなこの世の心の持ち方ばかりを気にしているみたいだから。
死んだ後のことは、あまり心配していないみたいに感じる。
私の勘違いかもしれないけどね。
>>732 > 何でって、みんなこの世の心の持ち方ばかりを気にしているみたいだから。
それは私は健全なことだと思いますけどね。
今をどう生きるかが大切で、今救われることが大切なのではないですか?
>>733 そうかなあ。なんとなく違うんじゃないかなと思うところもあるんですよね。
>今をどう生きるかが大切で、今救われることが大切なのではないですか?
そのとおりなんだけれども、その「救われる」という意味が文字通り「極楽往生」を指すのか
それとも、今現在の心の平安とか幸福とかを指すのか、が問題だと思うんです。
今はどうあれ、死後には極楽へいくぞ、というのが浄土真宗だと思うんです。
違うかなあ。
>>734 まあ、死後に極楽へいくためには、いま救われてなくちゃならないんだけど。
でも、あくまで、なにをさておいても極楽往生が第一、だと思います。
浄土真宗を信じていても、自力の信であれば「イワシの頭も信心から」その通り。
その意味で、けちゃっぷさんの言われることは、おかしくもなんともないと思うなあ。
>けちゃっぷさん
もともと歴史上の事実は、仏教に限らず、これと決まったものがあるわけではなくて、
新しい証拠が出るたびにコロコロと変わるものですよね。
もちろん、だからどうでもいいというわけではなく、正しいものを確かめて、
後世に伝えるべきなのは明らかです。
ただその一方で、今自分がこれと信じる道に向かって、生死の問題を解決しようとする
ことは、何にもまして大切だと思っています。
もし、釈尊が浄土門を説かれなかったとしても、「そうだとしたら私が、私を救ってくださる
阿弥陀仏のことを知っているのはどうしてだろう、どうしてこの教えが私に届いたのか、
本願力の不思議しかない」と思えて、ますます阿弥陀仏が頼もしくなります。
けちゃっぷさんのお考えはどうあれ、「浄土門は仏教ではない」というのは、私には
「仏教だから間違いないと信じるのは自力の信だから、頼りにするな」と
戒めてくださるのだと聞こえます。
おかしなものですね。
それから、釈尊が浄土門を説かれなかったとしても、浄土門の中に、釈尊の教えは確かに
ありますので、私はそれでいい…と思います。
>>662 >どう進んでほしいのですか?
これが自力たのむ心そのものなのですが…。ともかく、善知識の教えられるままに進むのみ。
逆に、進めと教えない方は、善知識ではないと思いますよ。
>653様の考える第二十願と、第十八願は、どう違うのですか?
私が考える二十願と十八願を引っ張り出さなくても、妙好人を名乗られる以上、
違いは、良くご存知だと思います。
電車にたとえてみましょうか。
阿弥陀仏の本願は、生死流転の世界から逃れ、浄土へ向かう超特急。
これがあることを知って、信じて喜び、ぜひ乗りたいと思って頑張っているのが、二十願。
乗ってしまったのが、十八願。乗ったからには中でいくら右往左往しても、おろせとわめいても
寝ていても起きていても、そのまま連れて行かれるということ。
一方、「信じているんだから乗っているんだ。乗ったか乗らないかなんて、凡夫だから
わからない、知らなくていい。阿弥陀様は、乗った乗らないで差別するような方ではない、
私は救われたんだ」と頑張るのは、おかしな話です。
乗っていない以上、自分の足で立っているわけで、それでは何処へも行きません。
>願うのは良いですけれども、653様は、どれくらい読んでいるのでしょうか。
そう、人の腹ばかり探らずに、たまにはご自分の腹を探ってみるのも良いのでは…
阿弥陀仏の本願が本当にはたらくのだということを、人に伝えようと、たくさんたくさん
書き込みをされる姿は、本当に尊いと思います。まれなことです。
阿弥陀仏のおはたらきを、ここでも見せていただく思いです。
阿弥陀仏の願船は、誰でも乗せて連れて行く。
「修行しなくてもいいなんて嘘っぽいなあ…」と言う人には、修行した人を連れて行くぞと呼び、
「せめて称えるくらい…。何もしないでいいなんて、そんなうまい話あるわけないよ」
と言う人には、称える人を連れて行くぞと呼んでくださる。
本当に出離の縁のない私たちに、重ねて誓ってくださる。
そして光明で照らして、育ててくださる。
これらすべて私に対してであり、298さんに、全ての人に対する、
阿弥陀仏の呼び声。どうか助けさせてくれよと呼んで下さるその声がいま、
ここを見ている人にかかっている、と言う不思議。
だから恐ろしい。
他人事として、「ふーん。ずいぶん奇特な教えもあるもんだな」とのんびり聞いていたら、
ある日、自分のことだったかと骨身に染みる時が、必ずあります。
これは「死」がいつか来るのと同じくらい、確かなこと。
そしてこれが阿弥陀仏の一人働きだと知らされれば、ますます恐ろしい。ものすごいことです。
また、そうでなければ、無限の時間を生死の大海にさまよってきた凡夫を救うことは
できないんだろうな、そう思えば、ますます阿弥陀仏が頼もしくなります。
阿弥陀仏の呼び声は、「私」を「私」たらしめている「そのもの」への働きかけだから、
今は「私には関係ない」と思っている人にも、必ず届きます。
本当に不思議なことですが…。
自分は願船に乗っているか乗っていないか、判断する方法がなにかありますか。
いや、変なことを聞くようですが、私なんかはそうじゃないと安心できないような気が。
740 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 22:52:03 ID:thwvrtv0
>>736 失礼かもしれませんが、同じようなことを考えていました。
浄土三部経がお経であるとかないとかなんて、どうでもいい。
浄土の教えが仏教であるとかないとかなんて、どうでもいい。
その教えで救われればそれでいいんだと。
741 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/02/28(木) 22:56:42 ID:nGW+sjGy
>>740 僕もそのように思ってた時期がありました。
結局、救いとは何なんでしょうね…。
>>741 答えにならないかもしれませんが、
人間の根元的苦悩からの解放、不自由な呪縛からの解放、満ちたりた喜びであり、
真に安らかな喜びであって、いかなる逆境にあっても変わることのない喜びではないでしょうか?
これによって、苦難に会おうとも、それを乗り越えて生きてゆく力が生まれ、
現実の自己の生活が生き生きとしたものであるように願い、
自他共々にすべての人たちの生活が安らかであるように願う生活を送ることに勤めることができるのではないでしょうか?
お念仏はその満ちたりた喜びに対する感謝であり、
また、どうしようもない自己であるという自覚の声ではないでしょうか?
なんか変ですね。
743 :
298:2008/02/29(金) 00:12:20 ID:dhvw2zdc
>>732 それがわかるのは、後生を気にかけていらっしゃるからです。
後生を救うのが、彌陀の救いであるのは、もちろんのこと。
彌陀の救いを自分の考えの枠内に閉じ込めて、
理解可能なものにまで、狭めている方が多いだけです。
あくまでも、彌陀の不可思議な願力によって救い摂られ、
死後に教主彌陀の極楽浄土に救いとられる教えであると、
私はいただいています。
744 :
298:2008/02/29(金) 00:29:01 ID:dhvw2zdc
>>732 相手にわかってもらうために、こびて、教えを曲げてしまうのは、
おかしいことだと私は思っています。
それは、わかっていただいているのではなくて、
教えを相手に合わせているだけです。
745 :
298:2008/02/29(金) 00:41:41 ID:dhvw2zdc
746 :
298:2008/02/29(金) 00:44:04 ID:dhvw2zdc
>>741 救いと聖道門は、(現在の自分の選択としては)基本的に、相容れないでしょう。
浄土門で救われようともしたが、それは無理だった。
それはもしかしたら、浄土門がそもそも嘘だからかもしれない。
だから、聖道門を進もうと思う、で良いと思いますよ。
747 :
298:2008/02/29(金) 00:48:03 ID:dhvw2zdc
>>742 >お念仏はその満ちたりた喜びに対する感謝であり、
>また、どうしようもない自己であるという自覚の声ではないでしょうか?
さまざまなお念仏があるとは思いますけれども、
御恩報謝のお念仏の基本は、
流転から抜けるはずのなかった泥凡夫が、
救っていただけたありがたさに称えるものであると思っています。
うまく言えませんが、喜びから感謝が出るというよりも、
感謝できるから、よろこびが出て来ると思います。
748 :
298:2008/02/29(金) 00:55:01 ID:dhvw2zdc
>>737 >>653様の考える第二十願と、第十八願は、どう違うのですか?
>私が考える二十願と十八願を引っ張り出さなくても、妙好人を名乗られる以上、
>違いは、良くご存知だと思います。
私は、その違いを、よくわかっていると思っています。
しかし、737様は、私がその違いをわかる者だということを、
認めていません。
おっしゃることが、矛盾していると思います。
737様は、私にお聖教を読むことを勧めていますが、
もちろん、そのお勧めは、ありがたくお受け致します。
しかし、737様は、ご自分の主張を、お聖教に照らし合わせる作業が、
とても不足していると思います。
>>願うのは良いですけれども、653様は、どれくらい読んでいるのでしょうか。
>そう、人の腹ばかり探らずに、たまにはご自分の腹を探ってみるのも良いのでは…
お聖教を読むことも、受け入れないというご自身の姿が、
自覚されませんか?
何を信じようとしているのか、ご自身の姿が、見えてくるのではないかと思います。
737様は、弥陀の救いを、本当に人ごととして捉えておいでです。
だから、そんなにのんびりとしているのです。
749 :
神も仏も名無しさん:2008/02/29(金) 01:16:11 ID:Ed9XS9Kt
横からスマソ
疑問があるだが、
「八万劫中 大苦悩 ひまなく受くとぞ 説きたもう」
「この信決定せずば無間地獄に堕して」
という言葉があったと思いますが、これはそのまま読むと
獲信せず死んだ人は、無間地獄に八万劫も落ちて苦しむってこと?
750 :
298:2008/02/29(金) 02:39:05 ID:dhvw2zdc
>>749 >八万劫中 大苦悩 ひまなく受く
のは、謗正法の方です。具体的には、『十往生経』です。
◎このゆゑに無智・無信の人のなかにして、この経を説くことなかれ(安楽集)
と説かれております。いわゆる「掟」につながるものでございます。
>この信決定せずば無間地獄に堕して
というのは、信心というものは、そのような凡夫が、いとも簡単に極楽浄土にゆくための
準備であるということです。
自らを、あさましき凡夫と思う方は、そのままでは、
自らは地獄行きだと感じますので、彌陀の易行にて、救われれば良いのです。
また、救われた方にとって、そのような自らが、照らし出されてくれば、
良いことです。
信前の方には、信の概要をお伝えし、信をいただけば、
なるほどそうだとよくわかるということです。
そして、大切なことは、
◎あひかまへて他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず(御文2-2)
とあることです。御文様二帖第二通には、念仏者のあるべき姿が、
とても短くまとめられていると思います。
南无阿彌陀佛
751 :
298:2008/02/29(金) 02:39:28 ID:dhvw2zdc
>>749 (参考)
◎念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまふ(和讃)
◎その信心といふはなにの用ぞといふに、無善造悪のわれらが
やうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための
出立なり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に
堕在すべきものなり(御文2-2)
◎是故無智人中莫?是經(十往生経)
752 :
神も仏も名無しさん:2008/02/29(金) 03:14:51 ID:Ed9XS9Kt
>念仏誹謗の有情は
> 阿鼻地獄に堕在して
>八万劫中大苦悩
念仏を謗る(誹謗正法)こと・・・
「念仏を耳にすると気持ち悪い」
「念仏って、人前でとなえたくないなあ」
「念仏をいただかんと極楽に行かれないって、ウソじゃないの」
「阿弥陀仏がいて念仏を成就して・・って、おとぎ話にしか聞こえん」
とか思っただけで正法誹謗の罪になるんですよね?
そんなら、わたしみたいなふつうの人はみんな地獄行きってこと?
753 :
298:2008/02/29(金) 03:32:52 ID:dhvw2zdc
>>752 あくまでも、「私見」ということで、お読み下さい。過去ログ含めて
お読みいただければ、私が「私見」と付け加える意味も、
わかっていただけるのではないかと思います。
ふつうの方が、気楽に誹謗されることは、前もってわかっておりますので、
「念仏」そのものは、広く明らかにされていないのです。
そこで、善導大師は、「誹謗正法」は、「未造業」と説かれております。
ふつうの方が多く罪を犯すのは、これは私も含めまして、
致し方のないことです。
一般の方が、「正法誹謗の罪」を気にしすぎるのは、よくないことだと思います。
罪の意識にしばられていては、のびのび生きることもできません。
あくまでも、念仏者の受け止め方ということで、捉えていただけたらと思います。
754 :
298:2008/02/29(金) 03:44:14 ID:dhvw2zdc
>>752 >念仏を耳にすると気持ち悪い
往来にて、これ見よがしにお念仏を称えることは、
よくないこととされていると思います。
私も、歩きながら、電車の中、お念仏致しますけれども、
小声にて行っております。
隣の方の耳に入りまして、不快でありましたら、誠に申し訳ないことです。
ますます気をつけたいと思います。
ですので、これは、念仏者のふるまいに問題があると思います。
>念仏って、人前でとなえたくないなあ
無理して、となえることは無いと思います。
やりたくないことをするのは、良くないと思います。
>念仏をいただかんと極楽に行かれないって、ウソじゃないの
この「極楽」が、阿弥陀様の極楽浄土を指すのであれば、
阿弥陀様の信心をいただかないと、報土には行けないだろうと思います。
諸天であったり、別の浄土であれば、また別の因があると思います。
755 :
298:2008/02/29(金) 03:45:37 ID:dhvw2zdc
>>752 >阿弥陀仏がいて念仏を成就して・・って、おとぎ話にしか聞こえん
これも、自然な感想であると思います。そうしか聞こえない方に、
それを批難するのは、おかしなことです。
これは、誹謗に相当するとも、思えません。
「自分にはわからない」ということを表明しているにとどまっていると思います。
智恵があればこそ、お経を信じられるのですぞ。
浄土三部経がファンタジーのように感じても、佛菩薩の言葉で語れば実際はもっと超絶的な
内容かもしれんじゃないか。理解力の乏しい我らに真実を伝えるための最適な表現で
やわらげてくれてるんだよ。
文字も知らず学問も無くても、真実を見極めて素直に信じられる人こそがすばらしい。
佛様のお考えを少々の勉強でああだこうだって言うのは兆載永劫早い。
「浄土三部物語」なんて言ってる人は、まだまだ甘いですぞ。
それに賛同する人なんか、もっとカッコわるいですぞ。
757 :
298:2008/02/29(金) 14:48:15 ID:tv+2f7rc
>>720 >褒められて、よろこぶのも執着、
>けなされて、落ち込むのも執着です。
褒められて、よろこぶのでもなければ、
おいしいものをたべて、よろこぶのでも無い。
では、味気ない人生になるかというと、
そうでもなくて、
南無阿弥陀仏をよろこんでゆきます。
おいしいものをたべてよろこばないかと言えば、
そうでもなくて、それもありがたくいただけます。
そのうえ、おいしくなくても、おいしいのです。
バカにされても、その通りのバカですし、
そんな凡夫が救われて、なお、うれしい。
手におえないバカが念仏者であると思う由縁です。
758 :
712:2008/02/29(金) 18:40:16 ID:B4z4O0lL
>>717先入観をお持ちであるように感じます
はい。私には先入観があります。298さんのおっしゃるとおりです。言い当てられました。
私も298さんのいってるように、空想チックなことを発し、最後に「私は凡夫でございます」
でおわることが親鸞の教えだと思っていました。先入観でした。
残念ですが、全然違うみたいです。
蓮如「ちかごろは不思議の名言をつかいて、信心をよくしりなやつがおる。
「阿弥陀さまにー出あってま〜す・・・パニッパニ、パニッパニ、パニパニクニッパ!」
298!大丈夫か?」
>>748 >私は、その違いを、よくわかっていると思っています。
それでは、298さんの思っておられる「違い」を教えて頂けますか?
信心獲得について話す際には、とてもとても大切なことだと思いますから。
でも、もし「次第相承の善知識から六字のいわれを聞きひらくか、そうでないかの違い」と
言われるのでしたら、それは誤りだと思います。
それはおそらく、ヘタなたとえで申し訳ないのですが、ある人から「この切符さえ持っていれば
阿弥陀仏の願船に乗せて頂けたことになるのだ、死んだらお浄土へいけると決まったのだ」と
言われて、切符をありがたく眺めて喜んでいるのと、同じことです。
>お聖教を読むことも、受け入れないというご自身の姿が、
>自覚されませんか?
お聖教を読むか読まないかということでいえば、毎日うれしく拝読しています。
言葉などわからないところもありますが、善知識に教えて頂き、人に聞き、自分で調べて、
読ませて頂いていますよ。
お聖教の中に私の姿が説かれているのを読んで、恐ろしく思えて、そして
こういう私を助けてくださる阿弥陀様なのだ、と頼もしくなります。尊く有難いご縁です。
出離の縁のさらさらない自分が、今こうしてお聖教を読んでいることそのものに、
阿弥陀仏のおはたらきを感じています。
>>745 >相変わらず、人ごとですね。
?
なぜ、738を読まれて、こう思われるのでしょう。不思議です。
お念仏を喜ばれている298さんなら、きっと同じお気持ちだろうと思っていたのですが…。
もしかして、298さんは、我が身にかかる阿弥陀仏のおはたらきを、
感じておられないのでしょうか?
>>748 >737様は、弥陀の救いを、本当に人ごととして捉えておいでです。
>だから、そんなにのんびりとしているのです。
私は、私なりにのんびりはしておりませんよ。
それと、ご自身には、機の深信がないと言われましたね。
自分のことがわからないと仰りながらなぜ、他人のことは、このように断言できると思って
おられるのでしょうか。
本当に、他人のことはよく観察できても、自分のこととなると全然見えていない目ですよね。
そう思われません?
それだからこそ、阿弥陀仏の呼び声を、自分のこととして聞くことができない。
他人事としか聞けないのだと思います。
呼び声が届いたとき、仏智を頂いて、その目で自分を見ますから、確かに私が
本願の目当てだったとわかり、おちると決まり、同時に助かると決まるのです。
繰り返しになりますが、信前に機の深信をつきつめなければならない、と言ってるのでは
ないですよ。信前に、いくら自分で自分を見ようとしても見えません。
自虐も卑下慢も、何の役にも立ちません。
なむなむ
>>752 このスレでこういうことを言うのもなんですが、ぶっちゃけてしまえば、
そもそも今の世の中、宗教に対して警戒心が強くなっていますから、ごく普通の感覚
だと思います。私も前はそう思っていましたし。
宗教って、科学と理性のこの時代では、時代遅れに見え…ませんか?
ただ、生死の問題は、科学も理性も解決できないので…
やはり、人間の本質を見ていくと、宗教がなければ本当の救いはないんじゃないかなあと
思う次第です。
それと地獄と言っても、誰かがそこに突き落とすわけではなく、自分で苦しみを作って、
その中に落ち込んでいくだけなので。
阿弥陀仏や念仏は自分に関係ない、と思っているときに、気にするものではない
と思いますよ。
それが何だか気になりだしてしょうがなかったら、ぜひ仏法を聞いてみて頂きたいです。
良いご縁だと思います。
763 :
神も仏も名無しさん:2008/02/29(金) 21:54:42 ID:OG1rPozo
>758
凡夫が「私は凡夫です」とどんなに感慨深げに言ったところで、
とどのつまり、嘘偽りの凡夫がそのように自覚してるだけだよね。
例えば、泥棒が「私は泥棒です、でも許されてますから」
って言いながら、飄々と盗みを繰り返してるような感じかな?
凡夫って言葉を言い訳や免罪符代わりに、我執を防衛するために使ってると言うか。
嘘偽りの固まりである凡夫が、私は凡夫ですと表明しても、
嘘つきが「私は嘘つきです」って告白するようなものだよね。
混乱するだけ。
764 :
298:2008/02/29(金) 21:58:44 ID:tv+2f7rc
>>763 では、実際に表明してみるといいですよ。
ひとりのときに、ひとりで自分に言ってみて下さい。
一般の方に言えば、誤解されるかもしれませんので、
自らに言ってみればいいと思います。
もうひとつ、観察できるのは、他人に否定的なことを
言われたときですね。
感情が動くということは、評価してほしいと望んでいるということです。
それで何がわかるかというと、
凡夫だと言うことがわかります。
>例えば、泥棒が「私は泥棒です、でも許されてますから」
>って言いながら、飄々と盗みを繰り返してるような感じかな?
「飄々と」が違うと思います。
悔恨しながらも、またも繰り返してしまう、
それでも、そんな自分がゆるされていることが、
かたじけなく、申し訳ないのだと思います。
南无阿彌陀佛
765 :
298:2008/02/29(金) 22:05:46 ID:tv+2f7rc
>>760 760様は、まじめですよね。
そういう方に、彌陀の本願を聞いてもらいたい。
そうなると、ただ褒めていてもいいですが、
やはり、「他人事ですね」「ゆっくりですね」と言う他はありません。
よくよくご自分の発言を、読み直してみてください。
「私はがんばっています。だから今はこれでいいんです」
という内容なんです。
自力からの抜け方は、今の760様には、わからないはずです。
どうもがいても自力。もがかなくても自力。
逃げ場がありませんね。だけど、それを「仕方ない」としています。
やはり、ゆっくりしていると思いますよ。
善知識様に、もっと質問なさった方がいいと思います。
昨日も質問し、今日も質問し、やはり獲信できない。
凡夫直入は、どうなったのか?
やっぱり、ゆっくりしていると思います。
なんで、食い下がらないんでしょうね。
「善知識たのみ」を、誤解しているからだと思います。
考えて、わかることではないのです。自力の味わいも、すべて自力。
どうにもならないから、ふりすてるしかないのです。
「信心為先」と言われても、聞き流しています。よくあるパターンに、はまっていると思いますよ。
766 :
298:2008/02/29(金) 22:13:20 ID:tv+2f7rc
>>759 お聖教を読むときには、わからなくて良いですから、
文字通りに読むことを、心がけると良いと思いますよ。
まずは、文字通りに読んで行く。
もちろん、意味を考えてよいのですが、
それは後回しにして、とりあえず読んで行くのです。
はじめから意味を考えてしまうと、
読んだことになりません。
お聖教(特に、三部経)には、凡夫の心とは違う心のはたらきが
書いてあるのです。
読誦正行には、もちろん意味があります。
南无阿彌陀佛にも、もちろん意味があります。
どうにもならない自分をなんとかするための道を、
残してくださっているのです。
自分以外のすべての人の意見は(私のものも含め)置いておいて、
自らが、お聖教と対峙することが重要だと思います。
「何が何でも、今生で獲信するんだ」という気持ちも、
とても大切だと思いますよ。
ふつうの執着であれば、救いがありませんが、
「獲信するぞ」という執着には、救いがある。
本当に彌陀の救いは、凡夫の救いを可能にしていると、私は思います。
767 :
298:2008/02/29(金) 22:49:09 ID:tv+2f7rc
>>759 >それでは、298さんの思っておられる「違い」を教えて頂けますか?
ことばで説明したところで、もう、聞いたことのあるようなお話になると思いますよ。
同じようなお話をすれば、聞き流され、違うような切り口から話せば、
「それは違う」と言うのが、いまのあなた様の状態であると思います。
自力/他力の切り口は、もう聞き飽きているでしょう。
どんなに弥陀をたのもうと、救われた気分になろうとも、他力を理論で理解したつもりに
なっていても、やはり、弥陀をたのんだ際には、「それらがすべて自力だった」と
知らされます。
南无阿彌陀佛が他力の行ともわかります。
わかりやすく言えば、以前私が紹介しましたチェックリストが、信後には、
すべてわかるようになるということです。
聞けば簡単な話を、自力に執着して、わざわざ流転してゆくのです。
768 :
298:2008/02/29(金) 23:06:10 ID:tv+2f7rc
やはり、弥陀の救いが実際にあるということが、
なかなかわかりにくいようですね。
確かに、厳密に議論するならば、
凡夫の意業であり、勘違いかもしれません。
それはその通りで、否定のしようがありません。
しかし、単なる想像と、昨日の経験と、
今思い返せば、どちらもイマジネーションに過ぎないかもしれませんが、
凡夫にとっても、その「確信度」が違うでしょう。
このあたりが、机上の空論と、救われる現実との、
違いだと思います。
もちろん、「信じる」の範疇を抜けることはできませんが、
それだけではないのです。
298さんが、なぜ、
阿弥陀仏のおはたらきを喜ばれないのか、
それがひたすらに不思議です。
自分で称える南無阿弥陀仏は、喜んでおられるようですのに。
やっぱり、二十願にとどまっておられるのでしょうか。
770 :
298:2008/02/29(金) 23:24:37 ID:tv+2f7rc
>>769 弥陀を仰いでいるつもりで、弥陀から離れていらっしゃるからです。
弥陀に近づくつもりで、弥陀に背を向けていらっしゃるからです。
>やっぱり、二十願にとどまっておられるのでしょうか。
このような発言を繰り返していらっしゃることは、自覚できますでしょう。
私は、信を獲ていると言っています。それを、「二十願にとどまる」とは、
言いません。
信前に人を導こうとするならば、期せずして、自障障他になるのです。
未安心の自覚がきちんとあれば、たとえ私が偽物だとしても、
あなた様のような言い方には、なりません。
信を獲ていないことを、もっと、よくよくわからねばなりません。
いつか、気付いてくださったらうれしいですが、
あなた様が私に向けて書いている描写の多くは、
すべて、ご自身にあてはまると思って読み返せば、
よくわかると思います。
理解可能な範囲で、私を理解しようとするからです。
弥陀の救いは、不可思議なもの。
南无阿彌陀佛
771 :
298:2008/02/29(金) 23:29:08 ID:tv+2f7rc
>>769 >298さんが、なぜ、
>阿弥陀仏のおはたらきを喜ばれないのか、
>それがひたすらに不思議です。
私は、弥陀のはたらきをよろこんでいますよ。
ですから、
769様は、私が弥陀のはたらきをよろこんでいることを感じることができず、
私が弥陀のはたらきをよろこんでいないと誤解し、
不思議に思っているということになるでしょう。
しかし、「不思議」という言い方は、正直なものなのでしょうか。
私から見れば、あなた様は信前なのですから、
私に聞けば、否定されます。
ですから、肯定されたいのであれば、
いまある場所で、善知識様や、身近な方に繰り返し尋ねれば良いでしょう。
私から見れば、今のあなた様の状態にあなた様がとどまれば、
弥陀の名前は聞いたけれども、というところで終わってしまうだろうと思います。
私に聞いても納得できないのですから、
もっとあなた様にとって信頼のおける身近な方に、
信・不信を尋ねてゆくことだと思います。
772 :
神も仏も名無しさん:2008/02/29(金) 23:32:54 ID:OG1rPozo
>764
帰結するところはやっぱり免罪なんですね。
それって、本願ぼこりと言うより、凡夫ぼこりなんじゃないかな?
773 :
298:2008/02/29(金) 23:33:50 ID:tv+2f7rc
>>769 それに、信後の自分で称えるお念仏を自力と批難することは、
良くない事だと、親鸞聖人も戒めていらっしゃるでしょう。
お聖教を読んでいるとのことですので、特に引きませんが、
本当に、よく読んでください。
774 :
298:2008/02/29(金) 23:35:22 ID:tv+2f7rc
>>772 772様は、自分の心を問題としていらっしゃるのです。
それは、一般の価値観では尊いことで、何の問題も無いと思います。
私が申しているのは、弥陀の救いについてのことです。
弥陀の救いをおかしいとおっしゃる方は、たくさんいらっしゃることと思います。
ところで、「本願ぼこり」の意味は、わかっていらっしゃいますか?
>>771 >私は、信を獲ていると言っています。それを、「二十願にとどまる」とは、
>言いません。
よくわかりました。298さんは、まだ信を獲ておられません。
浄土宗かもしれません。二十願かもしれません。
298さんの言われることすべて、信前でもその気になることができます。
機の深信もない。十八願と二十願との違いも、はっきりと示されない。
さらに、阿弥陀仏のおはたらきをみて喜ぶ心も、外に出るほどはない。
ただ、ご自分の称える南無阿弥陀仏だけが尊いと思っているご様子。
信心は阿弥陀仏と本人との間のこととは言え、これで信心決定しているとは、
浄土真宗では言いません。
298さんの宗教では、言うのかもしれませんけど、このスレは浄土真宗の妙好人の
スレですから…
>>773 >それに、信後の自分で称えるお念仏を自力と批難することは、
信後ならね。298さんは信前ですから。
776 :
298:2008/03/01(土) 00:01:06 ID:XXuSXo2d
>>775 未安心であるならば、そのようなことは、わからないはずなのですが・・・
つくづく、難信であると知らされます。
私を否定するのも、もちろん、自由なことです。
弥陀を仰いでいるようで、弥陀から離れる方も多いのです。
本当に、正信に辿り着くまでには、いろいろなことがあります。
すっと抜ける方は、簡単に辿りつきますし、紆余曲折する方は、
ものすごく苦しまれることもあります。
777 :
298:2008/03/01(土) 00:04:20 ID:tv+2f7rc
775さんは、何がしたいんでしょうね。
未安心であるのに、「それでいいですよ」と言ってもらいたいのでしょうか。
それなら、獲信を学ぶことには、ならないと思うのですが・・・
778 :
298:2008/03/01(土) 00:09:28 ID:XXuSXo2d
獲信というのは、弥陀をたのめば、獲信するのです。
そして、弥陀をたのむのも簡単なことで、
お約束のとおりの易行です。
その易行を知るには、次第相承の善知識に会い奉り、
六字のいわれを聞き開くことです。
そして、そのためには、獲信者に会うことです。
なぜなら、無宿善の機には話してはいけないことがあるために、
面と向かって聞かねばならぬことがあるからです。
このように、弥陀の救いは、とてもシンプルです。
信じない方と、信じる方がいるだけです。
>>776 >未安心であるならば、そのようなことは、わからないはずなのですが・・・
298さんは少なくともわかっておられないようですね。
誰でも、信を獲たと装うことはできます。
でも、真宗の教えをきちんと聞いていれば、機の深信がなかったり、
三願転入をわかっていない真実信心などいうものがありえない
ということは、わかります。
そもそも儀式で得る(それでしか得られないと言う)信心が、自力ということはわかりますしね。
聞けば聞くほど、298さんは妙好人をかたるだけの、信前のかたです。
780 :
298:2008/03/01(土) 00:12:51 ID:XXuSXo2d
信じない方は、見事に信じませんし、信じる方は、法に頭が下がります。
法に頭が下がるのは、自力ではどうにもならないと、
お手上げである気持ちがあるからです。
自力でなんとかなると思う間は、試みるのが凡夫の性質です。
同じ話を聞いて、信じる方と、信じない方が出てくるのですから、
やはり、そこには宿善のはたらきがあると思います。
真宗に近く見えて、遠い方もいれば、
真宗の話を聞いたことが無いようで、近い方もいます。
救われたい方は、いとも簡単に救われます。
なぜなら、易行だからです。
南无阿彌陀佛
妙好人のかたとならいろいろお話もさせて頂きたいですし、
同じように念仏を喜ばれる方なら、ともに喜ばせて頂きたいです。
けれど、浄土真宗の妙好人の振りをして、「こっそり伝えられる信心決定の方法」
(これ自体、嘘ですが)を広めようとするのは、間違ったことだと思うので、
ぜひやめていただきたい。
>信前に人を導こうとするならば、期せずして、自障障他になるのです。
まさにこれになるからです。
782 :
298:2008/03/01(土) 00:20:28 ID:XXuSXo2d
>>779 779様が信じないことを、私は不思議に思いません。
信じない方を、信じさせようとも思いません。
自障障他の方の存在も、お聖教の通りです。
779様から見れば、私の話を信じて下さった方は、
真宗の教えをきちんと聞いていなかった方ということになりますね。
私は、「儀式で得る」と書いた事はないと思います。(流れの中で、
書いたことはあるのかもしれません。確認していません。)
先方が、そのような言い方を好むだけです。
「儀式で得る」という言い方も、嘘ではないと言えます。
779様の聴聞を、儀式と呼ぶこともできるでしょう。
779様がお聖教をひもといている風景を、儀式と描写することも
できましょう。
779様が顔を洗っているのを、儀式と呼ぶこともできますね。
勤行を、儀式と呼ぶ事もできますね。
779様が善知識の法話を聴くのも、儀式ですね。
779様が口からお念仏を出しているのも、儀式ですね。
批難のための批難に踊らされているのか、
批難のための批難を為したいのかわかりませんが、
ご発言を追いかけていると、私の発言をよく読んでいるようにも思えません。
783 :
298:2008/03/01(土) 00:23:22 ID:XXuSXo2d
>>781 781様はご自分が間違っていないと、どうしてわかるのですか。
どのようなところから、確信を得ているのですか。
私は、お聖教から、かなり引いているでしょう。
781様は、読んでいるといいながら、全然引きませんね。
なぜ、お聖教を引かないのですか。
以前、お聖教を重視しているとおっしゃっていたと思いますが、
それが本当ならば、いかにも不自然ではありませんか。
おかしいと思われるならば、矛盾すると思われるお聖教を
探してみたら、いかがですか。
以前、手順も書きました。一度も実行していませんね。
784 :
298:2008/03/01(土) 00:26:39 ID:XXuSXo2d
>>781 私は、お聖教を、かなりの量引いています。
それに対するあなた様(?)の批判は、「解釈が適切とは限らない」という
ことでしょう。
一方、あなた様は、お聖教を全然引かずに、ただご自分の意見を並べるだけ。
しかも、信を獲ていないと言いながら、信後でないとわからないようなことを、
簡単に断言しますね。
それでどうして、あなた様は、あなた様の主張が浄土真宗の本流であると、
思えるのか、これは私には、実際に不思議です。
お聖教とご自分の信を、合わせようとなさらないのでしょうか?
このようなことがありますので、公開されているお聖教の存在を、
私はとてもありがたいと思っているのです。
求めている方がご自身でご確認すれば、すぐにわかることだからです。
785 :
298:2008/03/01(土) 00:30:37 ID:XXuSXo2d
>>781 信も獲ていないし、お聖教にも基づいていないのに、どうして確信を持っているのかと言えば、
その根拠は、おそらく「法話」ではありませんか。
お聖教に基づいているのであれば、お聖教が出てくるはずだと思います。
786 :
298:2008/03/01(土) 00:37:32 ID:XXuSXo2d
>>781 おそらく、781様は、どこかで法話を聴聞していて、ひょっとしたら781様の
聞き方が悪いのかもしれませんが、私のようなのを、異安心として、
教わっているのでしょうね。
もしそうだとしたら、聞き取り法門と、真の法門の違いがわからない方に
教わっているのだと思います。
そして、781様は、その法話を信じているけれども、獲信はできない。
私がお聖教を引いても、そこをきちんと読んでいないように思えます。
ご自身も、知らず知らずかもわかりませんが、お聖教よりも、法話を優先されているのでしょう。
本当にお聖教を毎日読んでいて、引用が全然ないというのは、
理解しにくいです。
私の書く事で「おかしいな」と思うことがあっても、それはお聖教に矛盾していると
思いあたるのではなくて、法話に矛盾していると思い当たるだけだから、
お聖教が引けないのでは、ありませんか?
>>782 自力の信心が凝り固まると、こうなるのですか。
もう阿弥陀仏の本願力不思議も、よそへおいてしまって、ご自分の体験と、
ご自分の念仏を、これひとつとすがっていらっしゃる…。
同じようにお育ての光明を頂いていながら、本当に哀しいことですが。
生まれ、育ち、出会った人間、出会う善知識、さまざまな縁が違うから、
同じように阿弥陀仏に向かっていても、共に喜ぶことができない境遇になるんですね。
往生はひとりしのぎとはいえ…
それでも私は、298さんが念仏を喜ばれ、人にも勧められるのを見ると、
仏縁の厚さがしのばれ、すばらしいことだと喜びます。
みんなすべて、阿弥陀仏のお育ての光りの中にあることを思います。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
>ご発言を追いかけていると、私の発言をよく読んでいるようにも思えません。
これってけっこう、お互い様ですよ。
788 :
298:2008/03/01(土) 00:50:08 ID:XXuSXo2d
>>787 お聖教を探してみて下さいと、繰り返し申し上げているのですが・・・
私は、私の主要な根拠については、お聖教を出しています。
これは、とてもありがたいことで、みなさまから疑問をいただいていますので、
それに答えているうちに、現代の日本の皆様が抱くであろう疑問を把握して、
それにある程度網羅的に答えることのできるコンテンツを作ることが
できると思っているからです。
私は、私なりに前進しています。
信をいただき、現在は、多くの方に信を獲て頂く為に、
お聖教を読み解くガイドを作成中で、こちらのやりとりが、
とても為になっています。
また、実際に私を尋ねている方もいますし、
これからも、現れることでしょう。
私には、私は進んでいると見えます。
疑心を解くことは重要ですので、繰り返し出される疑問については、
それを読むだけで、ある程度疑問が解けるコンテンツを準備し、
それはHPでも紹介しようと思っています。
789 :
298:2008/03/01(土) 00:56:30 ID:XXuSXo2d
>>787 >自力の信心が凝り固まると、こうなるのですか。
>もう阿弥陀仏の本願力不思議も、よそへおいてしまって、ご自分の体験と、
>ご自分の念仏を、これひとつとすがっていらっしゃる…。
見当違いだと思いますよ。
自障障他を試みても、弥陀の救いをさえぎることはできず、
あなた様が知らないだけで、弥陀に救われて行く方々が出ます。
実際に信を獲た方が見れば、私がこれまで書いてきたことも、
さらによくわかるのです。
(このスレを見る必要もありませんが・・・)
私が、以前あげたチェックリストも、信を獲てから見てみれば、
あるいは、説明を受けてみれば、とてもよくわかる。
お聖教を見ても、割符が合う。「なるほど」とわかるのです。
あなた様は、議論で信が獲れると思っているのですか。
弥陀をたのむかどうかの一点ですよ。
同じ様に阿弥陀仏に、向かっていますか。
弥陀に一向に向かうなら、間違いなく、信がいただけるのです。
790 :
298:2008/03/01(土) 01:03:44 ID:XXuSXo2d
弥陀を一向にたのむには、どうしたら良いのでしょうか。
有念でも無く、無念でも無い。
無念であれば、たのめません。
こう聞くと、まるで難行のようです。しかし、実際に易行です。
791 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 01:07:57 ID:Bj3OaYGw
>>790 善知識様に会うことが出来ない人の為に、
ここで、秘密の六字のいわれや秘密のたのみ方を教えてください。
792 :
298:2008/03/01(土) 01:16:32 ID:XXuSXo2d
>>790 宿善ある方で、善知識に会えない方はいません。
お話をお伺いしていると、紆余曲折している方は、数十年かかったりも
しています。
そのような方は、お金もたくさん使っています。
しかし、第十八願にお金がかかるのではありません。
出会う前にかかるのです。
既に、異安心もたくさんあります。
公開されれば、公開されている内容に基づいた異安心が発生します。
お聖教が公開されていれば、お聖教に基づいた異安心が出ます。
また、私のような説き方をすれば、791様のような依頼が来ることも
自然です。
秘密のように見えて秘密ではないのは、弥陀は衆生を救いたいからです。
善知識も、ひとりでも多くの方に伝えたいのです。
獲信者も、ひとりでも多くの方に救われて欲しいと思っていることでしょう。
ですから、探す方は、時間の長短はあっても、必ず救われます。
南无阿彌陀佛
793 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 01:18:09 ID:4KopclSP
すみません、教えてほしいことがあります。
「次第相承」「信心の血脈(法脈)」「生死の一大事」「信受」「相伝」「御書」
というキーワードでググッてみたら、日蓮宗の記事ばかり出てきて驚いています。
むっちゃくちゃに似ています。キーワードが。日蓮宗が御文章をパクッったのか!?というくらい似ていました。
これは、日蓮宗も、「獲信できる念仏」と同じような、生死の一大事を解決する相伝のようなものがある(あった)宗教なのでしょうか?
(「三世諸仏の能証の法である三大秘法の南無妙法蓮華経」というのが書いてありましたが、よくわからん)
日蓮宗のことは詳しくなかったのですが、真宗の相承の他力信のように、日蓮宗にも生死を解決する力があるのかしらん?
もし、そうだとしたら、興味があります。
また「地涌の菩薩」という言葉が書いてありましたが、日蓮宗にも、地元にひっそりとくらす善知識がいて、求道者をこっそり済度してたりして?
794 :
298:2008/03/01(土) 01:21:00 ID:XXuSXo2d
>>793 私は、日蓮宗のことは、よくわかりません。
日蓮宗のスレで、もし、そちらに実際に救われている方がいれば、
その方に聞くのが適切だと思います。
相承や血脈は、日蓮宗だけでなく、他宗でもあると思います。
仏門である以上、他宗においても、救いがあっても不思議ではないと思います。
795 :
298:2008/03/01(土) 03:39:46 ID:XXuSXo2d
>>772 772様のおかげで、また今日も歎異抄を味わうことができ、
感動しております。
私のような者が書く文章とは、格調も異なりますし、
説き方も違います。
信を獲ると言っても、その機により、ここまで違うのかと、
思い知った思いです。
どうか、この機会に772様も、歎異抄をご再読ください。
本願ぼこりは、第十三条です。
ますますありがたい、御本願であります。
南无阿彌陀佛
796 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 04:54:46 ID:CptQ5Q4V
>>792 ずばり、あなたはどこの宗派、どこの教団の善知識に教わったのですか?
秘密とか口伝を掲示板で説明する必要はありません。
宗派名・団体名さえ教えてくれれば、
興味ある人はその団体に教えを求めていけますからね。
あなたはどこの所属ですか?
797 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 04:59:37 ID:CptQ5Q4V
>>793 地湧の菩薩とは、文字どおり、
大地から湧(わ)いて出てきた菩薩様達のことです。
地湧の菩薩の代表選手が上行菩薩様で、
日蓮さんは、自分で自分を上行菩薩の生まれ変わりだと言ったらしいです。
798 :
298:2008/03/01(土) 05:07:29 ID:XXuSXo2d
>>796 今のところ、ここで明かすつもりはありません。
なぜなら、宗派を超えて広がっていると聞いているからです。
私に身近な宗派をあげれば、私がその宗派全体を肯定し、
その他の宗派を否定しているように響くでしょう。
そのようなつながりでは、無いのです。
それに、特定の名前を出せば、迷惑をかけてしまうかもしれません。
私がここに書いてきたようなこと(個人的な味わいを除き)と、
同じようなことを申す方々がいるはずです。
こちらの掲示板でも、また別の場所でも、私も御同行とおぼしき方に、
しばしばお会い致します。
あくまでも、法に基づいて、求めるべきです。
蓮師の御文にも、坊主分でも信を獲っていないことが、
度々書いてあります。
お聖教(特に御文)をたよりに探されるのが、一番だと思います。
そして、私がここに書いているようなことが知られてくれば、
今度はそれを基にした異安心が現れないとも限りません。
そのようなときでも、凡夫直入であるかどうか、易行であるかどうか、
財施の扱いはどうなっているか等、お聖教とよく照らし合わせてみてゆけば、
大きな間違いはないであろうと思います。
799 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 05:13:21 ID:CptQ5Q4V
>>798 間違った理解をしないためには、
善知識との出会いが重要なのではないでしょうか?
宗派を超えて広がっているならなおさら、
団体名を明かしたって害はないと思います。
掲示板でのやりとりには限度があります。
団体名がわかれば、貴方の説に興味をもった人が、
本なりホームページなどで学べます。
800 :
298:2008/03/01(土) 05:18:03 ID:XXuSXo2d
>>799 これは、私が知らないだけかもしれませんが、「団体名」というのが、
おそらく無いと思います。
「浄土真宗」あるいは、「御開山一流」のような捉え方なのではないでしょうか。
もちろん、それぞれのお講や、信徒組織には名前があると思います。
私もHPを運営しています。以前聞かれた方がいらっしゃいましたので、
過去スレにてURLもお答え致しました。
おそらく、今後、御同行のHPも増えて来るのではないでしょうか。
(今のところ、知りません。)
801 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 05:19:45 ID:CptQ5Q4V
>>792 を読むかぎり、
そこまで言うんだったらどこに行けば善知識に会えるのかを教えくるよ…
って思ってしまいました。
お金と時間をかけて探しだせっていうことでしょうか?
802 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 05:25:05 ID:CptQ5Q4V
>>800 同行の方との横のつながりとか、善知識同士のコンタクトはあるのですか?
互いに、どうやって同行だとわかるのですか?
寺や道場みたいな施設はあるのですか?
803 :
298:2008/03/01(土) 05:34:54 ID:XXuSXo2d
>>801 お金と時間がある程度かかるのは、やむを得ません。
たとえば、交通費程度は、仕方がないと思います。
私の手におえるのは、私を尋ねてきた方ですが、
私にも、身近な善知識しかわかりません。
たとえば、私のHPを探すにしても、こちらでURLを書かなくても、
探している方もいましたし、私に尋ねなくても、
身近に獲信者がいるかもしれないのです。
負担をかけたいわけではなく、私もそれなりに苦労して探してしまいましたので、
その負担をできるだけはぶいてほしいから、概要をお伝えしているのです。
より道や回り道が減ることを期待しています。
しかも、御文様は書店で購入できるのですから、ただ私の書く事を
鵜呑みにするのではなく、ご自身で確認も出来ます。
ただし、これは現状がそうであるだけで、私は、これから、
真宗再興の時期が来ると思っています。
ですけれども、それが具体的にどういう形になるのかは、わかりません。
ひょっとしたら、御同行の本が一般書店に並ぶような時代が来るのかもしれません。
相変わらず、表にはあまり出ていないのかもしれません。
しかし、蓮師は広く御文様を広めたわけですので、
どうなるかはわかりませんが、少なくとも現状よりは、探しやすくなってゆくのだろうと
思っています。
蓮師は、聴聞している人たちに向かって「尋ねるのですよ」と説いています。
ですから、私も踏襲しています。お会いして、宿善ある機と見れば、お手引きをします。
これは、おそらく他の方も同じだと思います。
804 :
298:2008/03/01(土) 05:40:00 ID:XXuSXo2d
>>802 横のつながりは、「ある程度ある」という感じだと思います。
しかし、私が知らないだけで、横のつながりがある大きな集まりが
あるかもしれません。
善知識同士のコンタクトも、つながっている部分と、つながっていない部分が
あるのだろうと思います。
次第相承によってつながっているわけですから、それを考えれば、
大体推測できるのではと思います。(私も、詳しくは知りません。)
寺や道場みたいな施設は、場所によると思います。
有る所も有りますし、無い所もあります。(私は、有る所も、無い所も知っています。)
弥陀をたのむかどうかが本質ですので、寺は方便だと私は思います。
横のつながりは、インターネット時代に入り、これから少しずつ、
復活してゆくのではないかと思っています。
805 :
298:2008/03/01(土) 05:44:11 ID:XXuSXo2d
>>802 >互いに、どうやって同行だとわかるのですか?
互いに同行だとわかるのは、南无阿弥陀仏によってです。
弥陀をたのんだかどうか、第十八願を知っているかどうか、
完璧にはわからないですけれども、ほぼわかります。
たとえば、御同行であれば、私が以前書いたチェックリストがわかります。
そして、御文様であれば、
◎信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。
この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。
このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし(御文5-5)
がわかります。御同行は、第十八願を具体的に理解しているのです。
南无阿彌陀佛
806 :
298:2008/03/01(土) 05:54:08 ID:XXuSXo2d
個人的には、在家組織は、維持費がかからないですから、
今後伸びるのではないかと思っています。
弥陀をたのむのが本質である以上、本来豪華な調度品は必要がありません。
現代人には、むしろこのことが理解できるのではないかと思います。
経済的な必要性が低ければ、弥陀の救いも広がりやすくなります。
さまざまな意味で、条件が整ってきたと、私は思っています。
しかし、難信之法である以上、「広がる」と言っても、
限りはあるだろうと思います。
807 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 09:21:43 ID:jsZccCws
阿弥陀仏を向こうにおいて、私がこちら側にいる。
そうすると、神社の神様に願い事をするように、
私と阿弥陀仏の関係は、ギブアンドテイクの関係と考えてしまう。
そうすると、私が「阿弥陀仏をたのむ」、「念仏をする」という、
私の阿弥陀仏に対する行為の見返りとして、
信心や往生が阿弥陀仏から与えられると考えてしまう。
そこに勘違いがあるように感じます。
「たのむ」というと、そういうふうにも考えがちですね。
「抱き取られる」とか「おさめられる」とか、そっちに近いほうの
受動態的な意味なんじゃないかな。
810 :
298:2008/03/01(土) 11:37:43 ID:qXV4i0P3
>>809 教義的にもそれが正しいし、実際にそうです。
ただ、実際に真実信心をいただく際には、
能動的にとらえて、「弥陀をたのもう」と思っていらっしゃって、
全く問題がないわけです。
未安心のままで、教義の理解を正確にしてゆくと、
教義にもとづいた安心を想像して、
その想像そのものを安心としようとする傾向があるように思っています。
文法的には、「弥陀をたのむ」の「たのむ」は、四段活用の方ではなくて、
下二段活用の方の意味です。
>>807 実際に信心をいただくには、自力の心もふりすてて、
弥陀をたのまねばなりません。
交換ではなく、すべていただくのみです。
そして、信後のお念仏は、そのありがたさに、
お礼申してよろこぶお念仏です。
南无阿彌陀佛
811 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 13:28:54 ID:9yxqZIUM
>810
>悔恨しながらも、またも繰り返してしまう、
>それでも、そんな自分がゆるされていることが、
>かたじけなく、申し訳ないのだと思います。
これが本当に信心なのかなー?ただの凡夫の言い訳だと思うんだけど。
本当に悔恨してるなら、もう二度と繰り返さないでしょ。
何度も同じ過ちをしてたら、お前口先だけで本当は反省してないだろーって、
非難されるのは当然。298さんの信心を真宗の信心とするならば、
真宗の信者は、不祥事働いて悔恨して頭は下げるけど、
直そうともしない人達、ポーズだけとる人達ってことになるんじゃないかな?
大体、「そんな自分」ってどんな自分?自分で自分の事を「そんな自分」
って範疇作って断定しても、本当は自分にも予想もつかない事を
業にまかせて次の刹那にはやってしまうような者が
末代の機なんじゃないかなー。とするなら、
「こんな自分だから」「それでも救われる」なんて事、
何のあてにもならないし、第一、そんなこと言える身分でさえないって事。
何にも言わぬがこっちの値打ち、機の深信は法の深信だよ。
812 :
298:2008/03/01(土) 13:41:41 ID:qXV4i0P3
>>811 本当の悔恨ができるなら、もはや凡夫ではないのです。
これは、どちらを重視して説くか、対機になるところだと思います。
しかし、あくまでも、「どちらを重視して」というのは、凡夫の自力の心に、
弥陀の信心の概要を理解していただくためのものであって、
真実信心そのものにはなりません。
弥陀をたのむかどうかだけ、そして、弥陀をたのめば極楽往生治定です。
凡夫の心に、用は無いのです。
813 :
298:2008/03/01(土) 13:44:04 ID:qXV4i0P3
>>811 それと、私がここに書いていることは、あくまでも私の「味わい」であって、
真実信心そのものではありません。
真実信心は、各自がいただきまして、そのおはたらきを
体験して行くものです。
814 :
298:2008/03/01(土) 13:49:53 ID:qXV4i0P3
>>811 同じ料理をいただいても、その味わいは、さまざまなようなものです。
味わいを真似しても、あまり意味がありませんね。
その料理をいただいて、自らの栄養とすることが、大切です。
「たいしておいしくなかったよ」と言う方の身体の栄養にもなるのと同じ、
信をいただいて、何もわからぬ人も、極楽往生治定であることには、
変わりがありません。
815 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 16:30:51 ID:9yxqZIUM
>812
>本当の悔恨ができるなら、もはや凡夫ではないのです。
もしそうなら、言い訳がましく、悔恨してるなんて何で書くの?
信心得ようが、どんな経験しようが、凡夫は化け物。
>これは、どちらを重視して説くか、対機になるところだと思います。
宇宙人の言葉みたいでよくわかんないし、
大体、自分のこと「説く事が出来る者」と勘違いしてない?
説法は悟者のお仕事じゃん。正体は、鬼・化け物の凡夫がそれに手をかけ、
知ったつもりで説くから、どんどん間違っていくんじゃないかなー。
816 :
298:2008/03/01(土) 16:33:13 ID:qXV4i0P3
>>815 >知ったつもりで説くから、どんどん間違っていくんじゃないかな
自己矛盾していませんか?
それに、三忍は、もちろんご存知なのでしょう?
817 :
298:2008/03/01(土) 16:35:20 ID:qXV4i0P3
否定したい方とは、いくら話しても、基本的に進展はないと思います。
疑心を解くというのは、あくまでも、求めている方に対してのもの。
きちんと実証できる類いのものではないのですから、「信じる」ことが
どうしても必要です。
818 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 16:53:39 ID:CptQ5Q4V
浄土門には、懺悔・反省はあっても、
じゃあどうしたら改善できるかという
具体的なコツやワザがないんですよね。
で、「大丈夫、大丈夫、仏は許してくれるから。」って言う。
んー、先生や上司や先輩がこんな感じだったら、
親切な指導者じゃない気がする。
ブッダは、煩悩を克服したプロ中のプロなわけです。
で、そのプロならではのワザやコツを惜し気もなく教えているのが聖道門です。
ですから、考えようによっては、聖道門のほうが親切な気がします。
819 :
298:2008/03/01(土) 16:55:08 ID:qXV4i0P3
>>818 まず、南无阿彌陀佛があり、念仏為先、信心為先です。
長く修行して、信心いただくのではなく、
まずはじめに、一念の念仏にて、信をいただいてしまいます。
>>818 具体的なコツやワザはあると思いますけど・・・。
諦めきるという。
821 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 17:03:47 ID:CptQ5Q4V
>>819 「聖道門は長く修行しなくてはならない」という、
「聖道門は大変で難しいんだぞ」いう発想は、
浄土門的な偏った見方かもしれません。
聖道門にだって、レベルに応じたワザやコツがあると思う。
「2たす2たす2たす2は…」ってやってる子供に、
「にしがはち(2×4=8)って憶えたら簡単だよ」
って教えてくれるのが聖道門。
浄土門は、「あー、なんてどんくさくて下手くそなんだ。
これが愚かな凡夫だ。でも大丈夫、安心しなさい。」
と慰めてくれるだけ。
822 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 17:08:20 ID:CptQ5Q4V
>>820 諦めきるためにはどのようなトレーニングをすればよいか、
具体的に教えている。
「根性だして速く走れ!」と言うだけの体育教師より、
「速く走るためには、腕のふりをこうして、足の運びはこうすればいいよ。
君はここが弱いから、こういう練習をすればいいよ。
君は食生活をこのように変えてみたらどうかな。」
って、具体的に細かく指導してくれるコーチのほうが、親切だと思う。
823 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 17:18:24 ID:CptQ5Q4V
戒にしても、たくさんの項目があると、
浄土門的発想では、
「あんなにたくさんの戒を練習しなきゃならないのか。
自力聖道門はやはり厳しくて難しくて嫌だなぁ。」
と思ってしまう。
しかし、考え方を変えてみると、
「こんなにもきめ細かくコツを教えてくれるなんて、
やはりブッダの教えはすばらしいなぁ。最高の指導者だなぁ。」
と思える。
824 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 17:21:45 ID:9yxqZIUM
>816
えーと、何処がですか?三忍って、説法主になれるって意味なの?
大体、298さんの言っている他力信心自体本物かどうかわからないし、
他力信心自体、誤ってるなら、三忍の利益を獲てると凡夫が勝手に言ってるだけになるよね。
本人に悪知識の自覚はなくても、間違ったことを人に教説すれば、悪知識だね。
>817
自力の確信があてにならないから、他力の信なんじゃないのかなー。
298さんの言うこと信じなければ、信心獲得できませんよって事なのかな?
それとも、自分の信心が批判されるのが恐い、防衛意識が働いてるのかな?
批判は何も恐くないよ、自分で造った信心じゃないなら。
怨憎会苦。ここに書き込むこと自体、その苦果を得ることは解ってるでしょ。
あと、批判に対するレス数も異常。もうちょっと落ちついたらどうかなー。
自己防衛欲求にまかせず、我が機をせめよ。なんて具合にさ。
825 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 17:29:40 ID:9yxqZIUM
>823
最初から、聖道門はダメと袈裟がけにバッサリ斬って、
私は戒が守れないから、厳しい修行嫌だから、あーだこーだと
自分に言い訳造って、それでも仏は救ってくれる、と確信する、
そんな、面倒な教えじゃないと思うんだけどね、浄土真宗は。
>>821-823 ここでの発言の意図が分からないんだけど、
あなたの信じる道を歩まれればよろしいのではないでしょうか?
827 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/01(土) 17:57:25 ID:PrLQp6Ho
>826
けちゃっぷさんの考えこそ、ここで嘘信心を垂れ流している誰よりも、
もっとも法然・親鸞さんの教えに沿っていると思うのは、僕だけか?
けちゃっぷさんの言っていることの正しさが分からなくて、どうして
親鸞・法然の教えが分かると言うんだい?。
828 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 18:12:25 ID:s7McTNp7
けちゃっぷさんは五念門の行もされてるんですか?
それともビパサナオンリー?
829 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 18:14:51 ID:gUN4uYZ1
嘘信心も垂れ流すことのできないものだけど、
他力の教えよりすばらしい道をご存じなら
そちらを歩んでみられるというのが正しいのではないですか?
それが浄土への近道かもしれませんし、
他力に気づく近道かもしれないじゃないですか。
830 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/01(土) 18:32:41 ID:PrLQp6Ho
>829
また言わく、我が所説の十二部経のごとし、あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは
随自他意説なり。(真仏土巻)
仏は、自分(仏)の心に合わせてに説法することもある。これを随自意説という。相手(聞き
手)の心に合わせてに説法することもある。これを随他意説という。自分の心と相手の心の両方
に合わせてに説法することもある。
仏は、常に聞き手の心に快いことばかり言ってくれると思ったら大間違いだ。ひょっとしたら、
けちゃっぷさんは、道教を明らかにするため、2ちゃんねるに出興してくださった還相の菩薩様か
も知れないだろう。仮に相手が還相の菩薩様でなくても、還相の菩薩様と思って、しっかり聞か
せて頂いたらどうだ。
831 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 18:44:43 ID:gUN4uYZ1
私は、ケチャップさんに真摯に答えたつもりです。
ケチャップさんを追い出そうとしたり、無視したつもりはありません。
私の書き込みが皆さんに比べて低レベルなものなのなら無視してください。
832 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 19:01:49 ID:CptQ5Q4V
>>828 五念門には「萌え〜」なんですが、
なにせ直接指導してくれる人がいないもので…。
世親菩薩の説では作願門はシャマタ(サマタ、止)、
観察門はビバシャナ(ヴィパッサナー、観)だと言われます。
しかし、上座部からみたらたぶん、観察門もサマタ瞑想だと思います。
個人的に、善導大師の二河白道の教えは、
シャマタ(サマタ)の修行としての作願門の説明のようにも思えます。
願往生心の白い道に心を集中するわけですが、
怒りや欲望の激流の波に心は簡単にさらわれてのみこまれる。
しかし、念仏をすれば、一瞬にして心は白い道の上にもどることができる。
怒りや欲望に、飲みこまれては念仏にもどり、
飲みこまれては念仏にもどる。
833 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 19:22:38 ID:Bj3OaYGw
自力心も他力心も、両方とも育む道もある。
834 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 22:56:42 ID:Bj3OaYGw
それよりも、こんなものが仏教だとされる日本の思想状況が問題だと思いませぬか?
「私は、霊魂を認めない。あの世も信じない。輪廻転生も否定する。
三世の因縁も信じない。
葬式だの法事だのいう、死者儀礼は本来の仏教とは関わりなかった。
仏教は、無神・無霊魂論なのだから、霊魂どころか、
『神も仏もあるものか』などというような、仏も認めない。」
鈴木大拙氏の後継者を自認する 秋月龍a「誤解だらけの仏教」より
一念と多念。
真宗は一念に救われて後、多念の御恩報謝となるわけですが
けちゃっぷさんは、専ら多念の念仏とお見受けします。
上座部へ関心が向かうのも、そういう意味では自然な流れでしょうか。
836 :
298:2008/03/01(土) 23:32:28 ID:qXV4i0P3
>>821 「慰めてくれるだけ」というのは、違います。
南无阿弥陀仏があるからです。
本願相応の南无阿弥陀仏は、一念にて、
弥陀の清浄の信心をいただけます。
これは、適切な指導者を得れば、誰にでも可能なことです。
五念門にも、正助があり、適切に行うことにより、
正定の業たる称名にて、信をいただきます。
「聖道門は長く修行しなくてはならない」というのは、
易行門から見たら、そうなります。
易行門では、わずか一念にて、ゴールに至るからです。
南无阿弥陀仏を為した方は、
無上善を為したのであり、もはや足す善も無く、
御恩報謝が残るのみです。
南无阿彌陀佛
837 :
298:2008/03/01(土) 23:36:49 ID:qXV4i0P3
>>835 けちゃっぷさんは、おそらく、南无阿彌陀佛を称えても、
本願相応でないことを、どこかで感じ取っているのだと思います。
自力で三心四修を試みるなら、むしろ聖道を選ぶというのも、
自然な選択だと思います。
>>834 私は、当たり前のことを述べておられると思いますが・・・。
839 :
笑いのマートル:2008/03/01(土) 23:38:31 ID:zpfDimMH
別に信じようが信じまいが関係ないんじゃないの?
宗教なんてもともとそう言うものでしょ。
後生が気になり他力の信心を求めたいなら求めれば良いし。
840 :
298:2008/03/01(土) 23:40:05 ID:qXV4i0P3
>>835 私が、けちゃっぷさんの書き込みを読んできた感想では、
上座部に向かうというよりも、指導者に縁を得るかどうかで
あるように思えます。
それもまた自然なことだと思います。
素晴しい教えでも、絵に描いた餅にとどまるならば、
机上の空論になってしまうからです。
宗派にも、指導者にも、相性がありますので、
そのときのその方に適した道を歩むのが、
最善であると信じます。
今の世でも、釈尊がいらっしゃるならば、
出家者が増えるだろうと私は思います。
就人信は、自然なことだと思います。
841 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 23:42:45 ID:Bj3OaYGw
>>838 当たり前というか、
戦後教育に洗脳されたお坊さんに多い主張です。
宗教者は、そのような考えはしませんよ。
842 :
298:2008/03/01(土) 23:43:49 ID:qXV4i0P3
弥陀の信心をいただいた方は、
「為すべき事を為した」という表現を、
聖道の方とは、また異なる味わいにて、
いただくのだと思います。
これまで、苦しんできた、永い永い流転から
解放される安楽を、味わうと思います。
843 :
298:2008/03/01(土) 23:47:47 ID:qXV4i0P3
救われたい方は、その思いにしたがって、救いを得、
向上したい方は、その思いにしたがって、向上を得、
救いを得ながらも、向上も求める方は、その双方を得る。
それで良いと思っています。
南无阿彌陀佛
844 :
298:2008/03/01(土) 23:51:09 ID:qXV4i0P3
>>824 批判を恐れるというよりも、弥陀の救いから離れてゆくことが、
とても残念です。
求めれば、皆救われるのに、背を向ける方がほとんどです。
弥陀を仰ぐというのは、保身ではありません。
これまでの自分のひがおもいをなげすてて、
それらを、すべて否定してしまうのが、弥陀の救いへと辿り着く道です。
845 :
298:2008/03/01(土) 23:53:35 ID:qXV4i0P3
>>824 私は、目の前のことを為すのです。
それは、ひとりの道を歩むということでもあります。
コミュニケーションは、ありますが、意思疎通も、幻想です。
あくまでも、ひとりの道を歩みます。
そのような世界にあって、御同心だけが、
心を通じていると、感じます。
南无阿彌陀佛
846 :
298:2008/03/01(土) 23:56:36 ID:qXV4i0P3
30年誹謗を為していた方が、
老年になり、弥陀をたのんだケースもあったと聞いています。
それでも、あっという間に救われる易行だからこそ、
それまでのすべてを超えて、救われます。
だからこそ、誰にでも救われる可能性があると、
私は信じています。
今すぐ求めなくても、命数多く残る方もいらっしゃるでしょう。
易行門の存在を知らせるだけでも、意味があると思います。
847 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/01(土) 23:58:32 ID:CptQ5Q4V
>>835 「無間修」が大事だと思います。
念仏と念仏の間に妄念を挿入しないように努める。
実際にやってみると、妄念はなくせません。
どんどん沸いてきます。
でも、それでも、とにかく念仏以外の思考に意識がそれてもすぐに念仏に意識をもどすようにする。
そうすることによって、心と体のことが少しわかってきます。
848 :
298:2008/03/01(土) 23:58:41 ID:qXV4i0P3
難信之法を否定するのは、当たり前です。
皆がすぐに受け入れるなら、お聖教が嘘になってしまいます。
それでも、私も、ながいお育てにあずかったからこそ
弥陀をたのめたのです。
御恩報謝を為したいと、思うのです。
849 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 23:58:51 ID:gUN4uYZ1
>>841 逆だろ。
霊魂だの、あの世だの、輪廻だのという言葉は、商売坊主ネタ。
僧侶が自分の名を語って葬式などの死者儀礼してるのを見たら、
こいつらはバラモンだと思うんじゃないか?
850 :
298:2008/03/02(日) 00:00:24 ID:6pprPk9G
>>847 けちゃっぷさんは、自分なりにお念仏を解釈しようとされているのですから、
まずはそれを試みなさって、ある程度の成果が出てきたところで、
お聖教を読んでゆけば、わかりやすくなると思っています。
おそらく、親鸞聖人よりも、法然聖人の文章の方が
わかりやすいのではないかと思います。
十八願の救いは一瞬です。
851 :
298:2008/03/02(日) 00:01:14 ID:6pprPk9G
>>847 中心によって、周辺と周辺と分かる。定善の一種だと思います。
852 :
神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 00:11:44 ID:OaE3XQ+c
>>849 権力に迎合したい坊さんは、唯物論者が多いね。
しかし、現代は霊性が科学の範疇に入りこんできてる。
それをまだ感じ取れない時代錯誤の坊さんは、オカルト批判に執着してる。
まあどうでもいいんだが、バラモンを馬鹿にしてるのは、
バラモン教と仏教の違いを強調する現代仏教学を学んだ人だけでしょ。
インドには、
サイババだけはなく、いろんな神通を持った聖者が、たくさんいるよ。
853 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/02(日) 00:17:59 ID:Rb3bV/9a
>>850 一瞬にして救われるのは、念仏に限ったことじゃありません。
仏教の修行は、本来は、一瞬一瞬に平安を感じられるものだと思います。
たとえば、人生が死にたいくらい辛いと言う人がいる。
これ以上もう生きてけない、とか。
でも、「じゃあこの1秒間の中に死にそうなくらいの苦しみがありましたか?」
と言われてみたら、まぁ1秒くらいは生きてけるわけです。
一瞬一瞬の「今・ここ」には、たいした苦しみはない。
まぁ、もし本当に死ぬほどの苦痛があれば、
人間はショック死しますから安心してください。
救いの概念自体が我々とけちゃっぷさんは違うようです。
それもしかたのないことではありますが。
他力の念仏では、弥陀の一声の下で信心をいただきます。
855 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 00:47:31 ID:txdCAaym
>821-823
いや違うんだよ。浄土教はそういう教えじゃないんだよ。けちゃっぷさんの言
う、そんな教えじゃないんだよ。まあ、そんな思いが心の中で湧いてきながら、
「でも、そうだよなぁ。けちゃっぷさんの言う通りだよなぁ」と、そんな気持ちも湧
いてくる。自分の中に、なんとも不思議な不安定感を感じるんだなぁ。
856 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/02(日) 00:49:14 ID:Rb3bV/9a
857 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 00:51:51 ID:txdCAaym
>834
> それよりも、こんなものが仏教だとされる日本の思想状況が問題だと思いませぬか?
無上仏と申すは形もなくまします。形のましまさぬゆえに、自然とは申すなり。形ましますと
示すときには、無上涅槃とはもうさず。形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて弥陀仏とぞ聞
き習いて候う。弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(親鸞 末燈鈔)。
無上仏は形而下(有形)の存在ではない。形而上(無形)の存在である。架空である。観念で
ある。形而下の存在ではないからこそ、自然という概念が導かれてくる。形があれば無上涅槃と
は言わない。観念的・抽象的あり方を明らかにするため、一番最初に比叡山で阿弥陀仏というも
のの講義を受けたとき、阿弥陀仏というのは、自然という概念を教えるための資料であり。道具
である。方法論であると教わりました。
858 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 00:53:43 ID:txdCAaym
>>857 のたまわく、南无の字は、聖人の御流儀に限りて、遊ばしけり。南無阿弥陀仏を泥にて写させ
られて、御座敷に掛けさせられて、仰せられけるは、不可思議光仏・無碍光仏も、この南無阿弥
陀仏をほめたもう徳号なり。しかれば、南無阿弥陀仏を本とすべしと、仰せ候なり(蓮如聞き書
き)。
蓮如上人は言われた。南无という字は親鸞聖人の流派だけが使用している。普通、阿弥陀仏の
号(名前)は阿弥陀仏である。名号を掛け軸に書いて飾る場合、阿弥陀仏と書く。しかし、親鸞
聖人の流派だけは南無阿弥陀仏と書いて飾る。蓮如上人は南無阿弥陀仏と名号を金泥で書写し、
それをお座敷に飾った。そしてこのように言った。
善導大師はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。法然上人はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。曇鸞大師はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。お釈迦様はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。
不可思議光仏・無碍光仏、いずれも「南無阿弥陀仏は尊いぞ」と称賛するための徳号(名前
〔道具〕)である。阿弥陀仏〔道具〕が尊いのではない。道具が示す南無阿弥陀仏が尊いのだ。
だから、もっとも尊い南無阿弥陀仏を掛け軸に書いて飾るのだ。
859 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 00:55:32 ID:txdCAaym
>856
> あなたも、なかなかの変態ですねぇ。
そうですか?。自分では、真っ当だと思っていますけどね。
860 :
笑いのマートル:2008/03/02(日) 00:56:06 ID:V7l0hlpP
この体も死ぬ時には、この世に置いていかなくてはならない。
基本は、魂と云う存在を肯定しての話である。
破邪顕正などもってのほか、どうしたら極楽参りが出来るかを問うスレッドだと思う。
861 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 01:00:02 ID:txdCAaym
>841
> 戦後教育に洗脳されたお坊さんに多い主張です。宗教者は、そのような考えはしませんよ。
親鸞も、戦後教育を受けて洗脳されているんでしょうかね?
『菩薩戒経』に言わく、出家の人の法は、国王に向かいて礼拝せず、父母に向かいて礼拝せず、
六親に務えず、鬼神を礼せず、と。已上
僧は鬼神を礼拝してはいけない。
大智律師(元照)の云わく、神は謂わく鬼神なり。すべて四趣・天・修・鬼・獄に収む、と。
いわゆる霊的なものというのは、所詮、六道の中の天・阿修羅・餓鬼・地獄のいずれかに収ま
る。いずれも迷いの世界を免れない。
度律師(戒度)の云わく、魔はすなわち悪道の所収なり、と。
霊的作用など、所詮は悪道の一つである。
論語に云わく、季路問わく、「鬼神に事えんか」と。子の曰わく、「事うることあたわず。人
いずくんぞ能く鬼神に事えんや」と。
季路が孔子に聞いた。霊的な鬼神につかえることはいかがでしょうか。孔子は答えた。そのよ
うなことは不可能である。人がどうして鬼神につかえることができるだろうか。
(化身土巻)
862 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/02(日) 01:06:45 ID:Rb3bV/9a
>>857 南無阿弥陀仏と阿弥陀仏は違うのですか?
無上仏は、南無阿弥陀仏か阿弥陀仏か、どちらでしょうか?
863 :
神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 01:19:21 ID:OaE3XQ+c
>>861 中世においては霊的存在など科学(常識)であったが故に、仏教者は鬼神を遠ざけた。
現代は霊的存在そのものを、非科学的だとして認めない。
そこには天と地ほどの差異があり、そこに霊的無知が生じている。
864 :
笑いのマートル:2008/03/02(日) 03:02:16 ID:V7l0hlpP
醜い言い争いはやめたらいかがですか?
南無は帰命なり、礼拝なり
普通に呼ぶ時は、阿弥陀さんでも良いと思いますよ。
正式には、南無阿弥陀仏です。
南無は、こちらからの問いかけではなく、阿弥陀仏より賜るものです。
科学が進歩して、魂を否定するのならそれも当たり前でしょう。
この浄土真宗は、眼に見えない魂や、益して、南無阿弥陀仏を信じられる人の為にあります。
ハタと気が付かれた方が、善友を探し。信心決定する事を願っての掲示板だと思います。
865 :
298:2008/03/02(日) 04:48:24 ID:6pprPk9G
>>853 けちゃっぷさんには、同じに思えるのですね。
それで救いになるのなら、聖道も否定していることになりそうです。
その一秒一秒に、死にそうなくらいの苦しみを感じている方が、
弥陀をたのむような気がします。
たいした苦しみの無い方が、救いを求めるはずもありません。
けちゃっぷさんは、苦集滅道ですら、否定されるようですね。
正見を離れようとする「本来の仏教」とは、とても不思議な感じがします。
南无阿彌陀佛
866 :
298:2008/03/02(日) 04:58:37 ID:6pprPk9G
この世のすべては、苦です。
生成明滅しているとしても、苦であることには変わりがありません。
私たちは、存在となり、苦となっています。
この苦から抜けるのが、仏道ですが、
南无阿弥陀仏は、易行です。
滅度を求める方は、私たちにとり、現実的な道である南无阿弥陀仏が
あることを知り、弥陀をたのんで、解決してほしいと思います。
むずかしいことがわからなくても、かんたんなことがわからなくても、
自分では無理だと悟り、あきらめて、弥陀をたのめば、
信心決定します。
それには、まずは獲信者を探し、善知識を紹介してもらうことです。
弥陀のたのみ方を教わらなければ、結局は我流であり、
自力から逃れることができません。
方法を教われば、簡単です。
易行ですから、誰にでもできます。
求めている方には、その価値がわかると思います。
正信あることを信じ、今生の間に、救われてほしいです。
南无阿弥陀仏は、目の前にまで、届いています。
867 :
298:2008/03/02(日) 05:09:16 ID:6pprPk9G
獲信について、あまり説明することがないのは、
その方法は、わかっているからです。
その方法とは、真実行である南无阿彌陀佛。
善知識に会い、南无阿弥陀仏とは何かを知り、
愚者になりて、弥陀をたのめば信心決定します。
信後の味わいではなく、
獲信の方法に絞るとなれば、
ここを説明してゆくことになります。
868 :
298:2008/03/02(日) 05:10:23 ID:6pprPk9G
誰でも簡単に信をいただける方法があることが、
ありがたい。
そう思える方は、易行を理解しています。
多くの方は、易行であるが故に、
信じられませんし、価値がわかりません。
しかし、易行であるからこそ、
価値があると感じる方がいます。
宿善のある方です。
869 :
298:2008/03/02(日) 05:34:46 ID:6pprPk9G
獲信と言っても、何もむずかしいことは無いのです。
なぜなら、易行であるからです。
「易行がむずかしい」というのは、矛盾です。
したがって、易行はむずかしくありません。
ただし、その易行を、知る方と、知らない方がいます。
知らない方は、あれこれ想像して、見当違いのことを言い、
知る人を批判します。
知らない方で、知りたい方がいます。宿善のある方です。
870 :
298:2008/03/02(日) 05:36:11 ID:6pprPk9G
知りたい方は、易行を知り、弥陀をたのみ、信心を得ます。
そして、同じように、知りたい方を導きます。
こうして、弥陀の信は保たれ、引き継がれてゆきます。
南无阿彌陀佛
871 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/02(日) 07:40:24 ID:Rb3bV/9a
872 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 09:29:24 ID:txdCAaym
>>862 >南無阿弥陀仏と阿弥陀仏は違うのですか?
浄土宗ではどのように教えているのか分かりませんが、「先生おはようございます」という言
葉と「先生」とは同じではありません。「やあ、先生」という言葉と「先生」とは同じ言葉では
ありません。違いは明らかでしょう。
まず「南無」という二字はいかなる心ぞといえば、様もなく、弥陀を一心一向に頼み奉りて、
後生助け給えと二心なく信じまいらする心を、すなわち「南無」とはもうすなり(本願寺八世
蓮如 手紙)。
南無とはどのような意味だろうか。飾ることなく阿弥陀仏を一心一向に信頼し、予測を超えた
将来の危機にあたって、どうか御援助くださいと、二心つまり疑いなく信じる心を南無という。
南無とは、梵語でナーマスという。挨拶のときの言葉である。朝、人々が顔を合わせばナーマ
スと挨拶をする。別れるときにもナーマスと挨拶する。おはようございます。こんにちは。さよ
うなら。すべてナーマスである。先生に学校で会えばナーマスという。ナーマスは感嘆詞である。
南無は感嘆詞である。「ああ」という意味である。
貴方を信頼します。飾ることなく相手にこう呼びかけるときに「ああ」という。南無という。
そこに信頼の維持がある。貴方には疑いも持っていません。互いに信頼関係を続けましょう。そ
ういう意味で人々は「こんにちは」「ああ」「南無」という。
873 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 09:30:30 ID:txdCAaym
つぎに「阿弥陀仏」という四字はいかなる心ぞといえば、今の如くに弥陀を一心に頼みまいら
せて、疑いの心のなき衆生をば、必ず、弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、その光
の内に納め置き給いて、さて、一期の命尽きぬれば、かの極楽淨土へ送り給える心を、すなわち
「阿弥陀仏」とは申し奉るなり。
阿弥陀仏とはどういう意味か。心を説明しよう。「南無」で説明したように、阿弥陀仏を一心
に信じ、疑いの心の無い人々は、その一生が尽きたとき、必ず極楽浄土に送るぞというそういう
意味である。疑いなく南無阿弥陀仏を称える者には、阿弥陀仏はその身から智慧の光を照らし、
その智慧の光の中に納める。これを阿弥陀仏という。
阿弥陀仏の阿は否定語である。インドヨーロッパ語で否定を表す。英語のun-という接頭語と
語源は通じる。untouchable,unbelievableなど、unのつく言葉は多い。
阿弥陀とは、インド語でアミターパ・アミターユスという。中国ではこれを限りない命、無量寿ある
いは限りない光、無量光と訳した。
かつて釈迦は、困難にぶつかって動きが取れなくなっていた人に、足下を照らす知恵を与えた。
足下を照らす知恵を貰った弟子達は、また再び動けるようになった。再起(生)・挫折(死)・
再起(生)・挫折(死)を繰り返していた人々は、挫折(死)のない歩み、持続的歩みが可能に
なった。釈迦は人々に限りない継続の命を与える人だった。釈迦から知恵を授かった人は、暗闇
を脱し、智慧が導く光の世界を歩いた。釈迦は、人々に限りない光を与えたのだ。
釈迦は、限りない命(無量寿)を与えてくれる人、限りない光(無量光)を与えてくれる人、
つまり先生と呼ばれた。
釈迦は、真理を悟っていた。仏とは仏陀の略称である。仏陀とは、真理を悟った先生という意
味である。つまり阿弥陀仏とは先生という意味である。
874 :
神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 09:31:02 ID:p2M+3Mnm
>>852 霊魂:身体の中にあり、そこから遊離すると信じられる不可視の存在。
仏教では無我説の立場から霊魂の存在を否定。
輪廻の主体として、深層の意識の一種としての心の作用が考えられたが、
一般に思われているようなおどろおどろしい霊魂ではないし、
今流行の江原啓之のいうスピリチュアルとは違う。
霊という同じ言葉を使ったとしても、内容が違うと思います。
私の職場の創価学会婆さんらは「集団的悪意」に満ちています。
創価学会は狂った犯罪者集団でしかないというのが素直な感想です。
日蓮系攻撃型新興宗教を長年続けていると最後はこの様なものか・・・。
悪意を楽しみ、あざけりに満ちた宗教。
こんな親達に育てられた新世代が哀れです。
http://www3.ezbbs.net/15/momo7/ 仏教開祖の釈迦の教えとは程遠い創価学会。
いや、仏教とは違う宗教です。
繰り返される人類の歴史の666組織。
そんな人間集団。
創価学会の魔界連鎖は続くのか?
創価新世代にも苦悩している者が多数います。
創価内部改善を誘導し、外部監査を続けます。
悪の絆を断ち切る為にも。