1 :
暇人 :
2006/03/26(日) 17:40:27 ID:rw9njnsy
>>1 z PS キリスト教関連を構うのはほどほどに。
3 :
髪ダイリ :2006/03/26(日) 18:35:27 ID:0Cws0ogh
ヽ(´∇`)ノズラですが何か?
4様 フォーおまんこしたい!!
5 :
一在家 :2006/03/26(日) 22:13:52 ID:6Y2xLXS5
暇人さんは本スレの管理人さんだったのですか? 常住論者の説か、世尊の説かは、真理を追う人達にとっては とても大切だと直感します。 カルマにて本スレを訪問した甲斐がありましたよ。
6 :
暇人 :2006/03/26(日) 22:27:52 ID:4yn4W1r4
7 :
暇人 :2006/03/26(日) 22:28:24 ID:4yn4W1r4
■相応部 筑摩書房 阿含経典 増谷文雄著 相応部経典 『第一巻』-パーリ第二巻12-16,19, 20章、抄訳 『第二巻』-パーリ第三巻21-23,26,32章,第四巻34,35,37 ,41-43章の抄訳 『第三巻』-パーリ第五巻44-50,54,55章の抄訳 『第四巻』-パーリ第一巻1-11章の抄訳←古層と言われる部分 ■小部 岩波文庫 中村元シリーズ 『ブッダの真理のことば/感興のことば』-『ダンマパダ』『ウダーナヴァルガ』の訳 『ブッダのことば』-スッタニパータの訳 『仏弟子の告白』-テーラガーター(長老偈)の訳 『尼僧の告白』-テーリーガーター(長老尼偈)の訳 『ブッダ最後の旅』-長部第二巻16経『大般涅槃経』の訳 『ブッダ神々との対話』相応部第一巻第一章から第三章の訳 『ブッダ悪魔との対話』相応部第一巻第四章から第十一章の訳
8 :
暇人 :2006/03/26(日) 22:35:49 ID:4yn4W1r4
>>5 いえ管理人というたいそうなものではなく 参加者の一人です。
原始仏教関連は、もう一つスレッドがあるのですが、
そちらはアホダラ経さんという方が管理されております。
スレッドとしてはそちらが古く、こちらは派生スレッドですので
スレッド<原始佛教17>が「本スレッド」と通称されることがあります。
難しい話や議論は<原始佛教17>で、
こちらは参学途上の者同士がまったり学びあう談話室であれば
と思っております。
9 :
一在家 :2006/03/26(日) 22:45:25 ID:6Y2xLXS5
>カラスの唄さんへ >俺が言いたかったことは、釈迦も神に祈ったのは間違いないと >言うことを言いたかったわけ。 >あの時代に生きた釈迦が神を信じていなかったとは考えにくい。 私は仏教徒でもクリスチャンでもないですが、原始仏典、法華経、 聖書、コーランを適時読み比べております。 本スレでもアップしましたが、日蓮大聖人の天照大神への敬神は 強烈でした。(出典:真筆) シナ仏教と比較にならないほど、スパニターヤでもディーガニカーヤ でも釈尊と神、梵天、大梵天との対話が度々登場します。 でも誤解があるようですが、原始仏典での神は山の霊、夜叉等の自然霊 クラスであり、聖書での悪霊も一部含まれているようです。 大梵天クラスでやっと神道の天照大神クラスのようです。
10 :
一在家 :2006/03/26(日) 22:47:07 ID:6Y2xLXS5
中村元氏もコメントされてましたが、仏陀でも少なくとも2回は心変わり させられたことがあるそうです。 スジャータの乳粥を食した時と、釈尊を超える大梵天の天眼通に説得されて 説法に立ち上がった時です。 世尊が神に祈ったかどうかは分かりませんが、少なくとも大梵天を認めていたと 言えるのではないでしょうか? 近年の仏教徒は梵天勧請といって梵天を馬鹿にしますが、私は衆生救済の為に 根気よく釈尊を説得した大梵天の中の一方にこそ、イエス様にも相通じる 人類愛を感じた次第です。
>>8 前スレにチラシの裏しました。
こちらだって喧嘩のつもりはありませんよ(爆
>>5 前スレの俺のレスは無視かw
《他説、他説、他説、他説、・・・、如来の説》という構図は、仏典ではよく使われる手法だと思うが?
先の例で言えば、
「三つの常住論についての分析も素晴らしいものです。」
→他の行者の説も熟知している如来。
という構図以外に何が見えてくるの?
13 :
名無しさん@3周年 :2006/03/26(日) 23:59:53 ID:+K4AZVQy
RKCHraRGさん、貴方いい方ですね。自分で負けを認めるなんて、初めて見た。 片山さんの仕事、私も好きです。完成を願ってます。 我が儘を言わせてもらえば、ペータコーパデーサやネッテパカラナのような 南伝にないものを先ず訳して欲しい。次にヴィシュッディマッガ。 片山さんは、水野先生のお弟子さんですか?
>>13 ありがとう。(^^;
>片山さんは、水野先生のお弟子さんですか?
そこまで突っ込んだ話はしてないから知らないけど、
世代的にはそのように見れるかも。実際影響はあるだろうし。
ゼミも含めて、一対一に近い形で(→水野さんの仕事を手伝ったり、が)あったかどうかは、
もっと詳しい人に聞いて下さい。私は落ちこぼれなので・・・ (;´ー`)y━~~
おやすみなさい m(_ _)m
15 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/03/27(月) 09:31:56 ID:cN5XjuzF
[カトマンズ 11日 ロイター] ネパール南部のバラで10ヶ月にわた り、瞑想を続け「釈迦(しゃか)の生まれ変わり」などと話題になっていた 15歳の少年が11日未明から行方不明となり、警察当局による捜索活動が 行われている。バラ郡の地方政府関係者が明らかにした。 姿が見えなくなったのは、ラム・バハドゥール・バムジョン君(15)で、 昨年5月から食べ物や飲み物を一切口にせず、瞑想を続けていた。ヒンズー 教で神聖視されているテンジクボダイジュの木の下で瞑想をするバムジョン 君を一目見ようと、これまで10万人近くの人々が巡礼に訪れていた。バム ジョン君には数名の信者がついていたが、信者も姿を消しているという。 (ロイター) - 3月13日13時59分更新 お釈迦様は輪廻の輪を脱して、2度とこの世に生を受けないはずなのだけれど。
16 :
名無しさん@3周年 :2006/03/27(月) 10:59:51 ID:ah1I4lHV
正確に言うと少年自身は「自分はブッダの生まれ変わりではない。 ブッダから瞑想するように言われただけである」と言っているそうな・・・ でも信者からすればブッダの生まれ変わりなんだろね
17 :
名無しさん@3周年 :2006/03/27(月) 11:01:47 ID:ah1I4lHV
1月5日水野先生の密葬に参列してまいりました 森先生も歳を取られましたね・・・・
>>16 輪廻転生から逃亡した人がブッダなのに、それが生まれ変わるはずないわな。
19 :
名無しさん@3周年 :2006/03/27(月) 11:54:34 ID:UEA5yu8e
このスレタイトルに異議あり!原始仏教という言葉は無意味では?本流はヴェーダだろ?
20 :
中観派 :2006/03/27(月) 11:59:33 ID:PLM0sFtH
>>19 ヴェーダを批判して作られたのが原始仏教だろ。
21 :
名無しさん@3周年 :2006/03/27(月) 12:25:56 ID:UEA5yu8e
本流、ヴェーダの伝統から現れた釈迦の死後、当時の弟子達が書き残した記述をかなりの年月を経た後にまとめたものが仏教なのでは? そういう意味ではヴェーダの伝統という本流から外れ歪曲したものが仏教といえるのではないのか? ちなみに釈迦の後、ヴェーダの伝統的流れから現れた シャンカラチャーリヤなる人物がいる
22 :
電波男Ψ(´д`)Ψ :2006/03/27(月) 17:40:59 ID:qfmGt6SY
アゴン宗サイコーですぅ けっけっけっ くそDrめ!!
23 :
名無しさん@3周年 :2006/03/27(月) 18:27:05 ID:RhffONKX
24 :
髪ダイリ :2006/03/27(月) 19:30:24 ID:YE731rPP
マネキンに見えたのはオイラだけ?
25 :
名無しさん@3周年 :2006/03/27(月) 19:56:38 ID:H2fQ+wGO
>>15 どうして仏教徒は瞑想をしなくなったんだろう。お釈迦様の教えは、弟子が
言葉のうえだけのことで伝えてよいと許しただけ。
聞いたことは聞いただけのことであると知るまで、苦しみの止滅はありえない
と仏典には書いてあった。
至言だな。 別の言い方をすれば、文献さえ残っていれば、仏教が存続していると言えるかどうか。
27 :
一在家の正体@ :2006/03/27(月) 21:37:15 ID:Gpm3DBPF
>>12 そんなやつのレス期待しないほうがいいよw
本音はこうだからw
88 :源伸(関西):2006/03/05(日) 23:15:23 ID:fRrEbbtJ
真光は啓示宗教であり、仏教とは全く異なるとおっしゃられた
方が本スレにおられました。中国から渡来した日本の仏典ではそうかもしれませんが、
原始仏典(スッパニターヤ、ディーガニカーヤ等)を読みますと、釈尊は梵天(大天津神クラス)
や神々(自然霊、高級霊クラス)と非常にしばしば対話をされております。
更に読心通(テレパシー)等の神通力を極自然に対機説法時に利用しておられます。
また日蓮大聖人御書全集を読みますと、天照大神、八幡大神を敬い、守護霊(同名天他)の存在を
真筆で説かれておりますので、真光と根本的に異なるというよりも、万教の元は一つという感があります。
97 :源伸(関西):2006/03/05(日) 23:37:35 ID:fRrEbbtJ
>法華経の如来神力品をご存じですか?
>手からの光どころか、如来は全身からの光(オーラ)を可視化できた
>そうです。
本来は如来が全身から発する光(オーラ)は見えません。聖書の中で、イエスやパウロが大勢の人達を
聖霊の洗礼で癒した話が説かれておりますが、如来の光もまた衆生を癒す力があったとしても不思議では
ないかと存じます。如来の光で癒されながら、如来の説法で教化された当時の人達はどれ程幸福だったので
しょうか。また原始仏典での釈尊の読心通(テレパシー)の話も興味深いです。一応問答なのですが、質問者の心の中を読んで、
釈尊だけが一方的に回答しているシーンが沢山出て参ります。
28 :
一在家の正体A :2006/03/27(月) 21:38:43 ID:Gpm3DBPF
102 :源伸(関西):2006/03/06(月) 00:50:43 ID:F0mPeOtA >原始仏典の"全知全能の神"は、脇役、添え物、悪く言えば、ブッダの踏み台 >である。 私が参照したのは正確には「長阿含経」ではなく、「長部経典」の方です。 漢訳仏典とパーリ語仏典とを比較すれば明白ですが、前者は3割ほどカットされていることが分かります。 長部経典(中村元監修、春秋社)「大本経」での重要ポイント ・最高神としての1体ではなく、経典には複数の梵天が登場する ・更に釈尊に説法を勧めたのは、「大梵天の中の一人」と説かれている ・悟った仏は「他の人々は私を理解してくれないだろう」と意欲を失う ・大梵天は仏の心の審理判断する動きを心で理解して、仏の前に出現した ・大梵天は仏に「生き物の中には塵埃の少ない性質の者もいる」と説いた ・仏は3回説得されて、世界中を天眼通(目覚めた人の視力)でスキャンした ・そしてわずかに可能性がある者たちを見つけて、仏は心を変えた ・大梵天は仏の心変わりを心で理解して、その場から消えた 仏が見えなかったことを大梵天は知っていたと長部経典には明記されて おります。もし梵天は一体で、ブッダの踏み台という理解が現代の仏教徒に あるとしたら、シナ仏教における改竄(因)の果でしょうか。 103 :源伸(関西):2006/03/06(月) 00:51:30 ID:F0mPeOtA 仏教徒には非常にショッキングで認め難い事かも知れませんが、 読心通を得意とした仏の心を読みながら説法をして、ついには 改心させたという大梵天の逸話を、釈尊自身が原始仏典の中で 懐かしそうに説いておられるということです。 まさに「大本経(大アパダーナ)」でしょうか。
29 :
名無しさん@3周年 :2006/03/27(月) 23:15:26 ID:RhffONKX
>>28 >仏教徒には非常にショッキングで認め難い事かも知れませんが
そんな事は無いよ、失当だから。
30 :
名無しさん@3周年 :2006/03/27(月) 23:22:11 ID:ah1I4lHV
梵天がブッタに話しかける動詞はアオリストだったような気がする。 アオリストは請願の意味があるが、だいたい自分より 目上の者に対して使われている気がする。 そうするとブッダのほうが梵天よりも上位じゃないの
31 :
名無しさん@3周年 :2006/03/27(月) 23:45:53 ID:RhffONKX
釈尊が究極の境地を説くまでは神々が最上の存在であったのだ。 彼らはこの世で善行をしその結果として神々の境地を得たのであった。 釈尊から見れば、六師外道達は神々の階位であったろうと思う。彼等は空諦を知らなかったからだ。 しかし彼らも真実を求めて居る事は違いなかった。その真実とは空諦である。 梵天が釈尊の様子を見て、その安らかな様子から、悟りを得たものと判断した事、又はその安らかさこそ、 望ましいものであると見たこと、ここにおいて梵天がその訳その・平安に至る方便を説いてくれるように請願する事、 梵天自身究極の境地即ち聖者の境地に入っていない以上、そして梵天自身聖者の境地を梵天の階位に居ながらも欠いていて それを求めている以上、聖者である釈尊に自分を始め他の者に教えを説くよう求めるのは自然である。 そして梵天は自分でそれを説けないのであるから、目上の釈尊に説く様求めたのであり、梵天自身のためばかりでなく 他のものの為にもなることの縁起をもたらす事が出来た事を知って、喜んだのである。それは大きな善行であるから。
PTS: atha kho Brahuma^ Sahampati 〜 etad avoca desetu bhante bhagava^ dhammam desetu sugato dhammam 〜 idam avoca Brahuma^ Sahampati idam vatva^ atha^param etad avoca
33 :
名無しさん@3周年 :2006/03/28(火) 00:00:36 ID:RhffONKX
仏教とは真理を説く教えの事であり、ある特定の団体にのみ通用するような教えを言わないのだ。
34 :
名無しさん@3周年 :2006/03/28(火) 00:26:37 ID:4pzwusuy
Sahampati
35 :
名無しさん@3周年 :2006/03/28(火) 00:38:53 ID:7ciV7FNr
>>17 水野先生は本当に立派な仏教徒ですよね。
パーリ語辞典も改訂されるし、『仏教要語の基礎知識』も改訂されたみたいだし。
どなたか読まれた方、どのような改訂がされているか教えてください。
論文はどれも素晴らしいし、しかも利他で書かれている。
謙虚だし、信も行もあって、あんな仏教学者、日本にもういないだろうな。
水野先生はどのような最後だったのでしょうか?
>>30 そうとも限らんだろ
evam vutte bhagava^ pan~chavaggiye bhikkhu^ etad avoca
evam vutte pan~chavaggiya^ bhikkhu^ bhagavantam etad avocum
37 :
名無しさん@3周年 :2006/03/28(火) 00:44:50 ID:7ciV7FNr
>>25 してる人はしてますよ。昔からちゃんとした人は少ないみたいですよ。
また一人、成就者がでると、その影響で行、修習する人が増えます。
江戸時代の白隠さんや慈雲さんがそう。
現代もあなたがそうなればいいじゃないですか
私もちょっとがんばってます。
原始佛教 ?� より 750 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss 投稿日: 02/10/13 12:06 私が日本テーラワーダ佛教協会の考え方に批判的なのは、 1 ヴィパッサナーを重要視するあまりサマタを軽んじること 2 それによって精神障害者をだしていること 3 その考えでドグマに陥り、他の修行法を否定すること 4 オウムの隠れ蓑になっている部分もあること 5 当然ながらの金銭感覚麻痺 などが上げられます。 751 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss 投稿日: 02/10/13 12:15 sというスリランカで指導的立場のご僧侶がいました。多くの弟子に戒律を授け、 それを犯したものには厳しく処罰をしていました。その人が大阪のとあるスト リップ小屋から出てくるのを目撃したのは二回や三回ではありません。そのた 石鹸王国からも。。。。。。 この人が某会で瞑想を指導する立場で特別客員なんとかをしています。各国の 大学でも色々強弁を取られておりマスル。 個人的な中傷はこのぐらいにして、彼の思想内容を紹介しましょうか。ヤメトコ。
39 :
名無しさん@3周年 :2006/03/28(火) 20:06:32 ID:7ciV7FNr
ウソっぽいな。なんでそんなに偶然に目撃できるんだ。 店員じゃないだろ。目撃というからには伝聞でもないわけだし。 それとも頻繁に彼が通い詰めていて、それが業界で噂になっていた とでも言うのだろうか? もしウソだとしたら聖なることに関わるだけに重いな。
40 :
名無しさん@3周年 :2006/03/28(火) 20:18:29 ID:B8m3LJsc
41 :
名無しさん@3周年 :2006/03/28(火) 20:59:02 ID:4pzwusuy
>36 ありがとね、アオリストばっかりじゃないね。
42 :
名無しさん@3周年 :2006/03/28(火) 21:10:14 ID:4pzwusuy
小さい時より水野先生にはかわいがってもらいました。 先生はたしか100歳くらいまでご自身の論文を整理されておりました その頃は既に耳が悪くなりほとんど筆談でしたが 記憶力は確かなものでした。 毎日、駒沢公園を散歩されるのが日課で、足を悪くされてからも 杖をつきつつ、最後は車椅子でしたが散歩されていました。 先生の専門は初期仏教でしたが専門に囚われず 仏教全般に深い知識がありました。 そしてよく「仏教の根本は利他だよ・・」とおっしゃっていました。 これはほんとに耳に痛い言葉でした。
43 :
ゴータマさん@2503周年 :2006/03/28(火) 21:52:16 ID:C8lhhNZX
なんかこのスレ、駒沢系の人が多いからなのかもしれないけど、水野氏は本当に そんな人格者だったの?雲井のパーリ語辞典をちょっと見下したような コメントを読んだことがあるもんで。もちろん業績と人格が伴ってる必要が あるとは思わないけど。 追伸 仏教学者とか僧侶に長寿で死ぬ間際まで活躍していた人が多いのは、 やはり仏教のおかげなんだろか。
44 :
名無しさん@3周年 :2006/03/28(火) 22:11:46 ID:7ciV7FNr
私は駒沢じゃないし、面識もないけど、有名な諸先生の悪い噂は沢山耳にするが、水野先生は全く聞いたことがない。 また論文や著書を読めば分かる利他に満ちた書法。 衒いのない淡々として正確な論旨。論争しないこと。 先生が論争すれば原始仏教では無敵だったろう。 もちろん完全とはいわないが
45 :
一在家 :2006/03/29(水) 01:05:11 ID:RkF2GSK1
>>30 >そうするとブッダのほうが梵天よりも上位じゃないの
いずれが上位かということではなく、少なくとも天眼通では大梵天の
中の一方が仏陀より上位だったことが記載されております。
仏陀「人々は私を理解しないだろう。それは私の疲労、煩いとなろう。」
尊師の心は法を説く方ではないほうへ傾いた。
すると、大梵天の中の一人が姿を現した。(→大梵天は唯一神でない)
大梵天「あなたの悟った真理を少しでも分かる生き物がわずかにいますよ。」
仏陀「人々は私を理解しないだろう。それは私の疲労、煩いとなろう。」
大梵天「あなたの悟った真理を少しでも分かる生き物がわずかにいますよ。」
仏陀「人々は私を理解しないだろう。それは私の疲労、煩いとなろう。」
大梵天「あなたの悟った真理を少しでも分かる生き物がわずかにいますよ。」
仏陀「(天眼通を使って)本当だ。わずかにいるようですね。」
大梵天はその場で消えうせた。
上記の文章は意訳ですが、暇人さんが取り寄せ中の中村元氏監修「長部経典U」
の「大本経(大アパダーナ経)」に記載されております。本経では仏陀の弟子達の
前世話を仏陀が天耳通でお聞きになられて話を始められます。
なお正確には大梵天と対話されたのは仏陀ではなくヴィパッシン仏(釈尊の前世)
です。
46 :
一在家 :2006/03/29(水) 01:11:44 ID:RkF2GSK1
>>27-28 私のハンドル名ばかり追って強く固執すると、貴方の苦しみ、不安の原因に
なるかも知れませんよ。
私は常住でも、ハンドルは生まれ出る世界(スレ)では不変ではないからです。
47 :
一在家 :2006/03/29(水) 01:27:25 ID:RkF2GSK1
「大本経(大アパダーナ経)」のエピソードも面白いです。 ゴータマ仏はある時天界を訪れて、神々から過去六仏のことを聞き、 自ら知る過去六仏の知識を再確認します。 輪廻を超えた仏陀が何度も生まれ変わり、初めは前世の記憶を忘れておりますが ある時が来ると思い出されます。 人々の塵垢が年々増えているようで、仏の寿命も生まれ変わる度に短くなって しまったとのことです。
48 :
名無しさん@3周年 :2006/03/29(水) 03:50:24 ID:QLYYiNEU
今、わが国の仏教学は文献学を主な内容とし、しかも文献批評ではなく、基礎的な研究である。 テキストを確定しなければ批評ができないから、それはもっともなのであるけれども、文献学者が 社会現象に無関心というか、宗教学、社会学に疎く、宗教社会現象を批評しないのは困り者だ。 教義に精通しているのは文献学者以外にない。カルトの批評には教義の知識が必要である。 もう最近は「仏教」とは創価学会なんてものではなく、はアーレフ、阿含宗、真如苑、幸福の科学、 ラジニーシ、…、そういうものに実際はなっているのだから。
49 :
名無しさん@3周年 :2006/03/29(水) 07:14:53 ID:DJj9RZ/a
>>28 >読心通を得意とした仏の心を読みながら説法をして、ついには
改心させたという大梵天の逸話を、釈尊自身が原始仏典の中で
懐かしそうに説いておられるということです。
まさに「大本経(大アパダーナ)」でしょうか。
なんかいやらしいあの「太刀山の土俵入り」を思い出させるな。
この人は仏教の教えが何であるか理解していないと思うね。
>>45 > 仏陀「人々は私を理解しないだろう。それは私の疲労、煩いとなろう。」
仏陀の躊躇は、「疲労、煩い」が原因ではなく、むしろ、癌告知のように、
それなりの受け入れる素養を持っていない人を傷つけることをおそれた
ためではないかと思っています。
その辺のニュアンスは原文だとどうなっているのでしょうか?
51 :
名無しさん@3周年 :2006/03/29(水) 09:07:26 ID:wAgXTWbq
水野先生は学生時代(明治大正の話ですね)、 ご自身も決して裕福ではなかったのですが 他の貧しい学生に学費や生活費を用立ててたり 本をあげてたりしてたそうです。 そのとき世話になったと言う方が、もうなくなられましたが いらっしゃいました。
52 :
水野さん@103周年 :2006/03/29(水) 10:47:39 ID:InBZZ7NN
>>51 仏伝同様、その場に居合わせたわけではないので、私には真偽の程はわかりませんが、
本当なら凄い方ですね。その場合、そういう利他行為も、頭蛇「行」などのような
修「行」としてではなく、本心から自然にされていたんでしょうなあ。そういう人物と
出会われた方は幸せですね。
利他を勧める人がいますが、私に言わせれば、そうすべきだと自分に言い聞かせて
やるようだと、いつかは行き詰まるかひょんなことで馬脚を現して偽善者だと
人格を疑われてしまうことがありそうに思えるんですよ。だから利他とは
そういう教条的にやるよりも、本心から自然にやる方が望ましいと。で、それが
できるのは、普段から自他不二を理屈でなく実感として体得されている人だろうと
思うんです。こうわかっていても、私には自他不二が根付いていないせいか、とても
その先生のように利他を実践できませんがね。
大本経については現存パーリより遙に時代がさかのぼる写本がある。 その校訂作業は確か日本とドイツを往復しながら完成されたらしい。 入手可能であるから調べるべきだね。
>>47 >輪廻を超えた仏陀が何度も生まれ変わり、
輪廻の超克と、反復説は明らかに矛盾してると思うが。
55 :
名無しさん@3周年 :2006/03/29(水) 22:33:11 ID:DJj9RZ/a
>>54 空諦と言うのは道理により導かれる真実なのだ。この道理を真理と言う。
この真実は菩薩仏がこの世に出現し様がしまいが永遠不生不滅なものとしてあるのだ。
菩薩仏はこの真実を道理により見出し、それを体得し様として体得した人なのだ。
体得するとその人は不生不滅な存在となるのだ。空諦を体得したので、仏と言うのだ。
人を救うための働きを菩薩と言うのだ。
空諦を体得しそれから離れない人は滅することが無いのだ。詰まり輪廻することはあり得ない。
死に様を見せるのはどうしてであるかと言う質問であろうが、それは空諦を体得していないもの
にとってその様に見えるだけなのだ。この点に付いて、法華経の老医の喩えがある。
あくまでも空諦を悟らず知らないものにとってのみ死と言うものが有るのだ。仏には死も生もないのだ。
輪廻の話が経典にあってもそれは上の道理から解釈しなければならない。詰まりそれは修行者を仏の知恵に導くため、
仏の知恵から離れさせ無い様にするため、と解釈しなければならない。
仏とは一人とは限らない。空諦を体得している人が仏なのであり、そのような人が小数であると限らないのだ。
そして仏と仏は一つなのだ。混じって一つなのではなく別々でありながら一つなのだ。
自分の前生を見出したと言ってもそれは全て教えの方便であると解釈しなければならないのだ。
56 :
名無しさん@3周年 :2006/03/29(水) 22:47:00 ID:DJj9RZ/a
>>55 大日如来に付いては良く知らないが、知っている範囲で、不生不滅なものとしてある真実
これを大日如来としているのではないのか?釈尊が世に出様と出まいと真実はあるのだから、それを如来と言うのは正当である。
しかしそれに固有名詞をつけるのは、空諦を理解していない人を誤解させるとは思うが。
57 :
名無しさん@3周年 :2006/03/29(水) 23:44:29 ID:DJj9RZ/a
>>56 少し断定的に言いすぎた感がある。反論疑問をどうぞ。
58 :
一在家 :2006/03/29(水) 23:47:23 ID:2FJ5aNmf
>>49 >この人は仏教の教えが何であるか理解していないと思うね。
仏教らしい考え方に固執しなければ、色々な見方も生じて参ります。
>>54 >輪廻の超克と、反復説は明らかに矛盾してると思うが。
輪廻を超克した存在が、何度も生まれ変わってくることは矛盾してますか?
もしその存在が、衆生済度の発願を持つ慈悲深い如来ならば、矛盾しない
ようにも思います。
59 :
暇人 :2006/03/30(木) 03:20:34 ID:Q2P85cOt
>>45 取り寄せ中は長部V 長部Uは手元にあります 前スレ884で
・・・・
>長部経典T(中村元監修)P508「堅固経」
ここの文脈を読んでいただければ、p509に
<ケーヴァッタよ 再び、マハーブラフマーは次ぎのように言った
「比丘よ、わたしは、ブラフマー、マハー・ブラフマー、勝利者、征服されないもの、
すべてをみるもの、支配者、自在者、制作者、創造主、優越者、創造者、主宰者、
過去と未来にあるもろもろのものの父である」と>
とあるようにブラフマー、マハー・ブラフマーは併記された尊称ですので 一人を
さしています。
>長部経典U(中村元監修)P47「大本経」
>「すると、比丘らよ、大ブラフマー神(大梵天)のなかの一人が、」
ここの原文はaNNaratassa mahAbrahmunoですが、
このaNNaratassaをaNNaの比較級ととり「随一/二者の一/ある」という意味で
「複数の中のひとり」と訳されているようですが、
続く文章に「ブラフマンがブラフマン界から姿を現し」に対応しており
aNNatra「他所で」と訳したほうが文脈は通ります。
「すると、比丘らよ、他所にいた大ブラフマー神(大梵天)が、」
この二箇所ともパーリテキスト事態からはブラフマンが複数いるとは言えません。
但し、注記では五世紀の倶舎論に依拠し複数のブラフマンがいることを紹介されて
います。大本経の訳者岡野潔はその世界観から
「大ブラフマー神(大梵天)のなかの一人」と訳したのでしょう。
大本経については言及済みなのにパーリを使うバカ登場。
61 :
名無しさん@3周年 :2006/03/30(木) 11:34:28 ID:gy70/mus
仏教大学の人はいつもながら自慢したいだけなのだろうか、 入手可能なら、書誌情報を提示すればいいでしょう。 意図は、 >その校訂作業は確か日本とドイツを往復しながら完成されたらしい。 こんなこといって、凄いだろうって言いたいのね。凄い、凄い、 一体、和訳、漢訳、パーリを使用してちゃんと質問に答えている人と、 それにただ梵本があるとって、内容について何も言わないで 非難する人のどちらが無益であるかは、本人以外には自明でしょう。 異論があるなら自分が梵本とその訳を提示すること! 書誌情報も出さずに何、勘違いしてるのか?
>>61 仏教大学?ああ、あれね。あんな粗いのもう一度やり直してるよ。(w
その粗いのでさえ漢訳パーリはちゃんと校合してるけどね。
>>62 そいつの成果なんか使うのは恥だというのが暗黙の了解だ。それに限らずだ。
かといって、そんな噂話が出来るレベルのスレッドでもない。
どんな話のできるレベルのスレッドなんですか?
65 :
名無しさん@3周年 :2006/03/30(木) 17:44:17 ID:gy70/mus
>>62-63 吹かずにテキストと読みを見せれば。
それができずに吹くのは.....
>>65 吹かずにってなんですか?
あ、田んぼに風が吹くのですね?
テキスト読みって、まさかあの程度でのお話をしているわけじゃなさそうだし。
67 :
名無しさん@3周年 :2006/03/30(木) 18:00:13 ID:gy70/mus
偉そうに大口叩かずに、テキストと読みを示せってこと。 争点に関係ない異読や、ひけらかしの apparatus は天愛の徴ってことです。
>>67 キ印さんでしたか。では退散いたします。
妙に象徴的でした。
キ印ってなに?
70 :
名無しさん@3周年 :2006/03/30(木) 20:03:05 ID:gy70/mus
正論で言い返せない時、幼い人が用いる言葉。いわゆる罵倒語ですね。
>>58 >輪廻を超克した存在が、何度も生まれ変わってくることは矛盾してますか?
「何度も生まれ変わってくる」というのは、同一仏陀の顕現が繰り返されてきた、、
ということを指しているのでしょう?
だとしたら、それは輪廻の構造と変わらないのではありませんか?
輪廻を克服するというのは、そのような循環から離れることを意味している
のですから、あなたの文章の「輪廻を超克した存在が、何度も生まれ変わって
くること・・」は、原理的に無理なことを説明していると思ったわけです。
>もしその存在が、衆生済度の発願を持つ慈悲深い如来ならば、矛盾しない
>ようにも思います。
慈悲深いから衆生済度のためにブッダは回帰し続けるといった説と、輪廻の超克
は無関係だと思います。
72 :
暇人 :2006/03/30(木) 21:37:42 ID:1KOXB1cd
>>60 ん? なんでだ(笑)
校訂済の奴がいいとキミが思うならば キミが提出すればよいじゃない。
でPTSと比較し、ここがこう違うので この訳がよい、と。
そっちが建設的だよ 中身のない罵倒するよりはね
ド素人の俺も自分で訳してみたいんですが、パーリ語の辞書と文法書はなにを使えばいいんでしょうか?
74 :
暇人 :2006/03/30(木) 21:58:59 ID:1KOXB1cd
>>74 さっそくトライしてみます。
ありがとうございました。
76 :
一在家 :2006/03/31(金) 06:39:50 ID:QKuC6MuZ
>います。大本経の訳者岡野潔はその世界観から >「大ブラフマー神(大梵天)のなかの一人」と訳したのでしょう。 長部経典(中村元監修)「大本経」の取り寄せ、紹介を有難う ございます。>暇人様 T、U、Vを読みますと、あちこちで複数の梵天、大梵天が登場する ような訳がございますので、またご確認下さい。
77 :
名無しさん@3周年 :2006/03/32(土) 01:00:49 ID:AmxeoGwC
この故に、舎利弗よ、私は方便を設けて、諸々の苦しみをなくす道を説き、永遠の平安を示す。
私は永遠の平安を説くが、これは真の悟りではない。
存在するものは、本来、常に自ら寂滅する性質のものだからである。
仏の子は道を修行し終れば、来世に仏となるであろう。
法華経方便品
http://www.jng.co.jp/hou.htm 別訳
人々が苦悩にさいなまれているのを見て、その場合でも平安の境地を約束するのだ。
この様に、余は「この世に存在するものは、全て最初から常に平安で、静かである、修行を完了した
仏の息子は未来において仏となるであろう」というのである。
岩波文庫法華経方便品
78 :
名無しさん@3周年 :2006/03/32(土) 11:12:39 ID:AmxeoGwC
79 :
一在家 :2006/03/32(土) 15:29:44 ID:Y+G14Npv
>暇人様 中村元監修の最新の長部経典を入手されましたら、これまでの原始仏典訳 と比較して、大きな相違点かつ重要な教えがございましたら、またご教示 願います。 また常住論はバラモンの説でしたか、それとも世尊の説でしたか?
80 :
名無しさん@3周年 :2006/03/32(土) 16:09:14 ID:W4HfhtnU
>>79 俺のカキコは完全無視かよw
てか、南伝大蔵経自体を無視か・・
たいしたもんだな・・・ (-。-;
81 :
名無しさん@3周年 :2006/03/32(土) 22:29:46 ID:AmxeoGwC
大体俺は在家さんが日蓮に敬意を表すると言うのが気に入らないよ。
82 :
名無しさん@3周年 :2006/04/02(日) 00:08:41 ID:PlGgVf6m
くさい
83 :
名無しさん@3周年 :2006/04/02(日) 10:28:46 ID:ouFyw2aG
くさいw
84 :
一在家 :2006/04/02(日) 21:18:11 ID:L+Cm5ZNH
>>80 >てか、南伝大蔵経自体を無視か・・
済みません。読む時間もなく、高価な仏典を買い揃えることもできないので
まったくコメントできないだけです。
北伝?の長阿含経(平河出版社)は一冊買って、春秋社の長部経典との
比較を行った程度に留まっております。
現在はコーランを一通り読みまして、聖書を再読している状況です。
因って、暇人様に南伝大蔵経等と中村元監修・長部経典との比較をお願い
した次第です。
85 :
名無しさん@3周年 :2006/04/02(日) 21:19:19 ID:c3Pz3RfH
暇人はキリスト教徒です。 こんなとこで油を売ってる場合ではありません。 あ、伝道してるのか。それなら結構結構。
86 :
一在家 :2006/04/02(日) 21:23:22 ID:L+Cm5ZNH
>>81 >大体俺は在家さんが日蓮に敬意を表すると言うのが気に入らないよ。
元々、天照大神、エホバ神、アラー神、大梵天の実在を信じておりますので、
仏教指導者の中でも、天照大神を敬い、守護霊(同名天)の存在も真筆で
伝えた日蓮に大聖人と敬意を表したのもごく自然だと思います。
87 :
一在家 :2006/04/02(日) 22:44:27 ID:KaZ1tf1z
原始仏典と聖書にたびたび登場する悪魔 原始仏典の中でも最古層といわれるスッタニパータにも 長部経典にも実に多くの悪魔が登場します。 悪魔:ナムチ、パーピマン、他 夜叉:七岳、アーラヴォカ、カラ、スーチローマ、他 「大いなる章」では、7年間も仏陀に一歩一歩ごとにつきまとい つけこむ隙を見つけられずに消え去った悪魔もいました。 逆を言えば、仏陀でない凡夫はすぐに悪魔の侵入を許してしまうかも 知れません。 聖書でもイエスと人にかかった悪魔(憑依霊、邪霊)との戦いが随所で 記載されております。 マタイ伝(17章:18節) 「イエスがお叱りになると悪魔はてんかんの子から出て行った。」 マルコ伝(3:11) 「また汚れた霊たちはイエスを見るとひれ伏し、」 ルカ伝(4:41) 「悪魔も「あなたは神の子です」と叫びながら、多くの人々から 出ていった。」 仏陀は教えを説く際の方便にて悪魔を仮設定したのだろうと言う仏教徒 に以前あったことがありますが、これだけ度々登場しますと、そうかな? と疑問に思います。 兎に角、原始仏典に登場する神霊のレベルは夜叉も含めて自然霊クラスで、 まったく仏陀に比べて低いことには同感です。
88 :
一在家 :2006/04/02(日) 23:02:44 ID:KaZ1tf1z
同様に、クリスチャンの多くはイエスが水上を歩いたという奇跡を信じて おります。(聖書に帰依しております。) 他方、仏教徒は長部経典の31経のうちの14経に神通力のことが記載 されていても信じていない方も多いようです。 沙門果経 「水上においても、まるで大地におけるがごとく、沈むことなく行き、」 堅固経 「あたかも地上のごとく、水上を歩む」 所謂、六神通の中の「水上不沈神変」です。 如来神通力ではなく、当時の修行完成者ならばできたそうですが、この経に 帰依しますか。
なんとなく正体見えてきたなw
90 :
一在家 :2006/04/02(日) 23:40:47 ID:KaZ1tf1z
仏陀がまだ菩薩だった頃の話(大本経、中村元監修・春秋社) 尊師は話しかけられた。 「さて、比丘らよ、(私の過去世の)ヴィッパシン菩薩は兜率天 (六欲天の第四天)から下生して、明瞭な意識を保った状態で、 母の胎内に入った。」 この後に、仏陀となられ、大梵天に励まされて心を変えて説法を 開始されます。 法華経の如来寿量品にも、「ずっと昔から私は仏だった」という一説は ありましたが、「私は最初から仏だった」という説法はまだ見かけて おりません。 大本経の説法を信受できますでしょうか。
91 :
一在家 :2006/04/02(日) 23:50:01 ID:KaZ1tf1z
>>89 最初から仏教徒ではないと申しております。
「万教の元一つ」であるか否かを探求している一人に過ぎません。
ただし、シナ仏教、北伝仏教よりも、パーリ語の原始仏典にこそ釈尊の
真の説法が多く残っているのではという仮説を持って調べております。
92 :
名無しさん@3周年 :2006/04/03(月) 00:19:09 ID:Esx3WOL6
>>90 >私は最初から仏だった」という説法はまだ見かけて
おりません。
仏教では始め終わりと言うものが無いと教える。昔から仏であったとは永遠に仏であると言う意味。
93 :
一在家 :2006/04/03(月) 00:26:15 ID:j0uHy4VY
>>92 >仏教では始め終わりと言うものが無いと教える。昔から仏であったとは永遠に仏であると言う意味。
ということは、大本経の「私が菩薩だった頃」という説法は信受しないという
ことですね。
94 :
名無しさん@3周年 :2006/04/03(月) 20:52:28 ID:Esx3WOL6
>>93 >大本経の「私が菩薩だった頃
菩薩と言うのは空諦を修行する人のことである。空諦を修行するとは
空諦にあらぬものを排除していくことである。空諦にあらぬものは始めからないものである。
この妄想(無いものをあると思っていること)を排除するのである。
従って真実は、菩薩の修行時代と言うものはないのである。しかし迷っているものはこの虚妄が排除できないので、
菩薩時代があり、地獄時代があると思うのである。
「「私が菩薩だった頃」という言葉は、仏様が衆生を仏道に導くための方便である。
仏教の説く真実を明らかに知るならば、それへの修行がどうあるべきか、解るだろうし、釈尊の教えも理解できると思うのですが。
それに同意できれば、その真実を鏡とて他の宗教の教えおも判断できると思います。
一在家氏は、「空」や「縁起」の思想について、どのような意見を持っているのか?
96 :
名無しさん@3周年 :2006/04/03(月) 23:27:54 ID:Esx3WOL6
俺もそこを聞きたい。
97 :
一在家 :2006/04/03(月) 23:54:23 ID:vSsMnf5B
四諦とは、無いものをあると思うから、固執、執着が生じて、苦しみを生じる という教えと認識しております。 逆に常住不滅のアートマンと世界を無いとおもうことも、妄想かも知れないと いうことでしょう。 「私が菩薩だった頃」という言葉は、仏様が衆生を仏道に導くための方便 だと思うこともまた現代仏教的な固執でしょうか。 本当に釈尊がそう思って言ったかも知れないと、考えることもできないから です。 目に見える世界を色とし、見えない世界を空としても、現代物理学の世界では、 我々の五感で感じらる世界よりも、感じられない世界の方が多いことも分かって おりますから、完全なる空は無く、少なくとも素粒子レベルでは常住不滅の存在 が様相を変化させているだけかも知れませんね。
98 :
名無しさん@3周年 :2006/04/04(火) 00:21:36 ID:ex5hfJ0f
>>97 一在家さん、12支縁起のくだりの前に、『これ有れば彼有り、これなければ彼なし・・・』の文があるでしょう?
これが縁起とか相対的存在を説いたものであると思うのです。自分と言う男が絶対的に存在するから、女と言うもんは
自分に必要である、と言うのは、自己中心的です。仮にそのような人が結婚しても
奥さんは自分の利益になる範囲以内のものでしか有りません。利益にならないと直ぐに捨てる事になるでしょう。二人ともそうであれば
自分の利益を求めて争いが絶えないのではないでしょうか?一方自己というものは相手が有って存在していると知っているものは
実体としての自己なるものを意識していませんから、自己の利益のみを求めないのではないでしょうか?
なんかうまく言えませんがここに考えるべきところが有るように思います。
要するに、やはり空という実相は認めなければならないと思うのですよ。
>>97 いろんな意見があるのでしょうが、仏教の「空」は、少なくとも、目に見えるとか見えないとか、
感じらる世界とか感じられない世界とか、完全であるとか完全でない、などといった言葉を駆使して
説明できるような概念ではないと思っています。
100 :
名無しさん@3周年 :2006/04/04(火) 22:15:09 ID:ex5hfJ0f
一在家さんは沢山の種類の教本を読んでおられるようで、仏教の真実真理を理解した上で、 他の教本を読むなら、他の教えをも良く理解するだろうと思います。他の宗教に付いてはこちらがお聞きしたいところです。 真実真理は一つです。この証明はそんなに難しくない。仏教は真実真理です。空は真理真実です。
>>98 >自分の利益を求めて争いが絶えないのではないでしょうか?一方自己と
>いうものは相手が有って存在していると知っているものは
>実体としての自己なるものを意識していませんから、自己の利益のみを
>求めないのではないでしょうか?
>なんかうまく言えませんがここに考えるべきところが有るように思います。
>要するに、やはり空という実相は認めなければならないと思うのですよ。
倫理的・規範的な行為の主体としての「自己(アートマン)」は、むしろ
初期仏典においては積極的に説かれていますが、これは形而上学的「自己(アートマン)」
に関する問題とはまったく別次元の問題だと思ってます。
すなわち、「空」の思想を説明するとき、倫理的意義を有する「自己(アートマン)」の問題を
を援用するのはあまり適切ではないように思います。
ものは相依関係によって成立(存在)しているのであって、ものに内在する不変的本質の
ようなものによって自存しているのではない。「空」とは自性がないこと・・このあたりの
説明で、十分だと思います。
102 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 00:12:37 ID:R5ifp0H/
>>101 >初期仏典においては積極的に説かれていますが、これは形而上学的「自己(アートマン)」
に関する問題とはまったく別次元の問題だと思ってます。
すなわち、「空」の思想を説明するとき、倫理的意義を有する「自己(アートマン)」の問題を
を援用するのはあまり適切ではないように思います。
大変重要なところを指摘してくださいました。空と自己の関係ですね。
私も考え無ければならない問題でした。いささか賛成し難いところが有ります。
明日回答しますので、是非御意見をお聞きしたいです。
104 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 21:35:11 ID:R5ifp0H/
いざとなると気が重く感じましたが、なんてことはない、真実に基づき話を展開するだけだと思います。 自己こそ空なのであって、空でない自己は自己ではないのですよ。詰まり何かに執着している自己というものは その人の本来の有り方ではないのです。執着している限り苦しみであり、その人はその苦しみから逃れたいと思っているのですから。 何物にも執着していない自己、このありさまを初期経典は繰り返し説いていますね。バラモン(修行者・菩薩)として。 いかがでしょうか?
105 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 21:41:56 ID:R5ifp0H/
大乗の三昧王経典は人間などいないといっています。
お釈迦様の立派なチンポには私の乳粥が良く似合う。 byスジャータ
107 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 21:49:24 ID:R5ifp0H/
空が真実としてある、一相が真実としてある、無相が真実としてある、無我が真実としてある、 無起、無作が真実としてある、無願が真実としてある。単に空であると言うのは真実としての実在を見誤り、 実益のないものにならないでしょうか?
108 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 21:50:52 ID:R5ifp0H/
キチガイなどいない。
109 :
一在家 :2006/04/05(水) 23:09:38 ID:YAmz497N
>>98 ,99,100
批判地獄の2chとは思えないほど、ここの住人は皆大らかなので安心しました。
仏典を読んでいて感じたことですが、仏教ではあまりに有名な「空」の教え
は原始仏典に記載されておりますか?
後世の仏教哲学者が理屈を作っておりませんか?
例えば、スッタニパータのこの章に「空」の教えが説かれていますよと
ご存じの方はご教示願います。
ディーガニカーヤでも結構ですが、それ以外の仏典は持っていないので
済みません。
110 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 23:12:10 ID:R5ifp0H/
執着が悪とされているんです。吝嗇(貪)・怒り・痴の三毒は執着の別名若しくは 別の見方。十悪は三毒の具体的態様。
111 :
一在家 :2006/04/05(水) 23:23:57 ID:YAmz497N
>>101 >倫理的・規範的な行為の主体としての「自己(アートマン)」は、
>むしろ初期仏典においては積極的に説かれていますが、これは形而上学的
>「自己(アートマン)」 に関する問題とはまったく別次元の問題だと思ってます。
形而上学的「自己(アートマン)」 に関する話題ですが、スッタニパータや
ディーガニカーヤに度々下記文章が登場します。
「貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることはない」と。
アートマンが不滅だとは言いませんが、繰り返し繰り返し母胎に宿る行為の主体
としての「自己(アートマン)」を世尊は説かれているようです。
原始仏典を深く考えずに素直に読めばそのように読めます。当時の衆生もまた
そのように理解したのではないでしょうか。
112 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 23:26:22 ID:R5ifp0H/
1068 世尊は〔言った〕「ドータカさん、何であれ、上に、下に、さらにまた、横に、〔その〕中間において、 〔あなたが〕正しく知るもの――これを、『世における執着〔の対象〕である』と知って、 種々なる生存にたいし、渇愛〔の思い〕を為してはなりません」と。 上に戻る↑ 第七経 学生ウパシーヴァの問い(六) 1069 尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕「サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)よ、わたしは、独りで、大いなる激流を、依り所なく、〔独力で〕超えることができません。一切に眼[まなこ]ある方よ、 〔依存の〕対象(所縁)を説いてください。それを依り所にして、この激流を超えるであろう〔依存の対象を〕」と。 1070 世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、無所有〔の境地〕を見る、気づきの者となり、 『〔何ものも〕存在しない』という〔思い、すなわち、無一物の境地を〕依り所にして、激流を超えなさい。 諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、諸々の言葉(論説)から離れた者となり、渇愛の滅尽を昼夜に観なさい」と。 1098 世尊は〔答えた〕「ジャトゥカンニさん、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を取り除きなさい。 出離〔の境地〕を『平安である』と見て、〔執着の対象として〕執持されたものが、 あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、あなたにとって、何ものも見出されてはなりません。 1099 過去にあるもの――それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。 もし、〔その〕中間(現在)において、〔何ものも〕掴み取らないなら、 〔あなたは〕寂静の者として、行じおこなうでありましょう。 1100 婆羅門よ、名前と形態(名色:現象世界)にたいする貪り〔の思い〕を離れた者には、 彼には、諸々の煩悩は、全く見出されません――それら(煩悩)によって、 死の支配は〔世の人々に〕行き渡るのですが」と。 上に戻る↑
113 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 23:26:59 ID:R5ifp0H/
第十三経 学生バドラーヴダの問い(十二) 1101 尊者バドラーヴダが〔言った〕「家を捨て渇愛を断った動揺なき方、喜びを捨て激流を超えた解脱者、 〔計測され概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)を捨てた思慮深き方に、 〔わたしは〕乞い願います。龍(ブッダ)の〔言葉を〕聞いて、 〔ここに集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう。 1102 勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる種々の人たちが、諸々の地方から〔ここにこうして〕集いあつまったのです。 あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕説き示してください。この法(もの・こと)は、まさに、 あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」と。 1103 世尊は〔答えた〕「バドラーヴダさん、一切の執取と渇愛を取り除くように。上に、下に、さらにまた、横に、〔その〕中間において、 まさに、〔一切〕世〔界〕において、〔世の人々が、それぞれに〕執取するものともの―― まさしく、その〔執取の対象〕によって、人に、悪魔が従い行くのです。
114 :
一在家 :2006/04/05(水) 23:29:07 ID:YAmz497N
>執着が悪とされているんです。 譬え話ですが、あるアートマンが衆生救済を強く願いました。 彼は悪だと言えますか? 別のアートマンがオリンピックで金メダルをとることを強く願い ました。 彼は悪だと言えますか?
115 :
一在家 :2006/04/05(水) 23:35:08 ID:YAmz497N
>>112 早速のご教示を有難うございます。
人が認識する全てに対して執着するな、という教えが原始仏典での
「空」ということですか。
これならば当時の衆生にも「空」が理解できたことと思います。
116 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 23:44:25 ID:R5ifp0H/
>>114 > あるアートマンが衆生救済を強く願いました。
彼は悪だと言えますか?
衆生救済を強く願うものはそれを成功させる為には救済という執着をしない様にしなければならない。
菩薩(修行者:バラモン)は空諦を体得すること即ち智慧の完成と達成することによって全てを成し遂げる。
と言われている(般若経典)。私見であるが、自分が正しくあればその他の周囲のものも正しく接する事にならざるを得ない。
こう言うことではないかと思う。自らに厳しくすればおのずからそれに相応するものが出来る詰まり周囲もそれに相応するようになると言う訳ではないかと思う。
全ては空諦の現実化に有るのだから、それに添って判断すべきである。
117 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 23:47:26 ID:R5ifp0H/
>>115 > これならば当時の衆生にも「空」が理解できたことと思います。
当然。だから釈尊に従い修行した人が沢山いたのであるというべきでしょう。
118 :
名無しさん@3周年 :2006/04/05(水) 23:52:53 ID:R5ifp0H/
>>111 アートマンが不滅だとは言いませんが、繰り返し繰り返し母胎に宿る行為の主体
としての「自己(アートマン)」を世尊は説かれているようです。
この自己なるものは、執着を言うと思います。詰まり業で有りその業が輪廻する様を言ったものと思います。
『自己を整える』とも言われますが、真実の自己即ち空諦の体得の為に、執着を排除することが『整える』に当たると思います。
119 :
一在家 :2006/04/06(木) 00:04:48 ID:mHZkiPLz
シナ仏教の常識というものがあります。 無意識の内にシナ仏教常識で原始仏典を読む方もいるかと思います。 クリスチャンがスッタニパータを読んだら、どう理解するでしょうか? 神主さんがスッタニパータを読んだら、どう理解するでしょうか? 私の師が30年以上前に、「シナの坊さん達が釈尊の教えを分からない ようにしてしまった。釈尊の教えを知るには原始仏典を読みなさい。」 と言われました。
120 :
一在家 :2006/04/06(木) 00:07:32 ID:mHZkiPLz
仏教徒の家庭でない、普通の中学生がスッタニパータを読んだら、どう理解する でしょうか? 当時の衆生に近いかも知れません。
>>104 話がかみ合うかどうか心配ですが、わたしはこう考えます。
生理的な苦痛は別にして、ここで問題となる苦しみというのは、自己の欲求や希望に
そわないことを指しています。つまり、この苦しみの原因は、われわれが事物をすべて
おのれのものであると考えて固執しているからです。そしてこれら煩悩や欲望を
捨てれば苦しみはなくなると原始仏教は教えます。しかし、「欲望を捨てよ」と繰り返し
説かれても、実際問題として人はその通りに実行することは困難です。
そこで、その教えに説得力を持たせるために、「空」や「無我」の考察が利用されたの
だろうとわたしは考えています。「空」の理解は、苦しみ(欲望)を乗り越えるための一つ
の方法論に過ぎないということです。
>>115 スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば死をのりこえることができるであろう。
123 :
名無しさん@3周年 :2006/04/06(木) 00:27:50 ID:NOgEFwEC
>>119 その先生は良く仏教を理解しておられたのではないかと推察します。天台は法華経を誤解していたと思います。
その誤解を日蓮が強力に推進して、仏教を未開人の宗教以下にしてしまったと思います。
私見ですが、新約聖書のイエスの世界をよく理解すれば、その世界は仏教のニルバーナであると解るのではないかと思います。
釈迦仏も正覚の当初『南仏』といわれております。
>>121 >その教えに説得力を持たせるために、「空」や「無我」の考察が利用されたの
だろうとわたしは考えています。「空」の理解は、苦しみ(欲望)を乗り越えるための一つ
の方法論に過ぎないということです。
両輪相俟っていると言うのが本当ではないでしょうか?あなたの所説はどちらかと言うと
空対は方便であると言う方に傾きかけている様で、私は危険で有ると思い心配です。
124 :
名無しさん@3周年 :2006/04/06(木) 00:30:03 ID:NOgEFwEC
>>111 >「貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることはない」と。
>アートマンが不滅だとは言いませんが、繰り返し繰り返し母胎に宿る行為の主体
>としての「自己(アートマン)」を世尊は説かれているようです。
>原始仏典を深く考えずに素直に読めばそのように読めます。
あなたはこの言葉を読んで、本当に、ひとが母胎回帰すると考えるのですか?
考えないでしょう? そのように書かれているが、実際この言葉が示している
ものは輪廻であると考えてるはずです。
つまり、実際にそのように書かれているが、実際はそうではない、という考え方
を、われわれはもつことができるのです。
輪廻、霊魂の不滅を否定する仏教徒は強盗と同じである ラーマーヤナ
127 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/06(木) 02:36:06 ID:yz1qEB1z
現世の業を来世に伝える媒体(アートマンのようなもの)がなくて、どう して輪廻が可能なのだろう。
>>127 識の転変。アートマンなんていう、固定的「我」は必要ない。
輪廻と輪廻転生は区別して話そうぜ。
130 :
名無しさん@3周年 :2006/04/06(木) 07:32:00 ID:NOgEFwEC
>>125 >本当に、ひとが母胎回帰すると考えるのですか?
輪廻の事を言っていると言うのは賛成ですが、母体回帰と言うのは具体的な表現だと思います。
詰まり、母胎回帰とは、男が情欲に導かれて女を求め性交する行為を指し、精子が子宮に入ることだと思います。
それは子孫を残すと言う本能的な欲望であり、それは畢竟自分が再び母胎から生まれることを求めていると解すべきだと
思います。
この様な欲望は12支縁起の取・愛・生であり、もとは無明の導くものです。こうして当人は
無明に支配された自分を存続させるわけです、これを輪廻と言うのだと思います。どう思われますか?
131 :
お世話します :2006/04/06(木) 07:40:53 ID:4hIVfUFc
だがそのアラーヤ識なるものは釈迦の死後かなり経ってから登場した概念だ。
はやり初期仏教に対し
>>127 のような疑問が出てきたから、後世の仏教徒が
魂を肯定せずにすむ識というものでなんとか論理的整合性をつけようとしたと
みるべきだろう。つまり、そもそも対機説法で説かれた前世や来世と業の関連性を
真面目に結びつけようとするから無理があった。
132 :
名無しさん@3周年 :2006/04/06(木) 09:19:17 ID:6Rh/0muP
133 :
名無しさん@3周年 :2006/04/06(木) 18:16:05 ID:cmcny4Hx
輪廻説と仏教についての理論はいつもかみ合わない。 まず仏教と非仏教ではアートマンの定義も異なるし・・・ 非仏教はアートマンは常住不変であるから輪廻すると考えるが 仏教はアートマンのごときもの(仏教にとってはあくまで仮説だが)が常住不変ではないからこそ 輪廻すると考える。つまり非仏教が定義するアートマンは存在しないからこそ輪廻する。
問う者 としての投稿者
>>132 圧倒的論理によって間違っていますね。
135 :
名無しさん@3周年 :2006/04/06(木) 20:05:28 ID:6Rh/0muP
>>133 そうそう空だから全て縁起する、縁起するから空。
>>134 それなら根拠を示して論証してみてください。
無理だと思いますが。逆に輪廻否定論者の論理は必ず破綻してるか、
飛躍があることは断言できる。心理の投影説や方便説は、その良い見本。
問う者 としての投稿者
>>135 あなたは釈尊の説く教えに、何を求めているのですか?
圧倒的論理の証明に因る輪廻説の正しさですか?
137 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 08:51:44 ID:cqJnh+7B
苦からの解放です。 輪廻は苦の状況認識です。輪廻は思想でなく我々が苦の円環にいるという 現状認識です。その苦の認識なしには仏教という苦から解放する道に入れません。 輪廻という前提がなければ道はなりたちません。 例えば一切皆苦なら死ねば終わりでしょ。輪廻しないならば。 しかし、輪廻するから自殺しても苦はなくなるどころか、ますばかり。 苦をなくすには道にしたがって行じ輪廻から解脱しなければならない。 それは輪廻を認めることから始まる ところで貴方は石飛さんの論が間違っていると仰ったと思うのですが、 その根拠はなんですか? これに答えていただけなければ私も以後、捨置させていただきます。
138 :
133 :2006/04/07(金) 15:42:43 ID:4vI4ILcp
四聖諦において苦の正しい認識が無ければ解脱はありえない。 なぜなら縁起しているから 火がなければ消火はありえないように アートマンを否定した仏教は、インド論理学の歴史において 仏教がインドから消滅した後も仮想の論敵として批判され続ける。 それだけ仏教論師のアートマン否定論が脅威だったと言うわけだ しかし、無我だからと言って「仏教は輪廻説を否定している」なんて 議論は近代まで一つも無い。たぶん近代科学に洗脳された脳が近代科学 によっては証明できない輪廻説を無意識のうちに拒絶しているのだろう。
>>137 > それは輪廻を認めることから始まる
確認も検証もできないものを、まずあると認めないといけないの?
140 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/07(金) 16:51:37 ID:ZWthx4ZN
> それは輪廻を認めることから始まる でも仏教は輪廻を認めているし、修行の目的は輪廻の輪をはずれて 今生の生で終わりにし、来世に再び生を受けないことだと思うけど。 老・病・死をはじめすべての苦は生きていることから始まるので、 苦からの脱却は新たに生を受けないようにすることだと思っている。
141 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 20:02:49 ID:5qCPQ5pt
>>140 > 新たに生を受けないようにすることだと
この意味は,新たな行動を出来るだけ控えると言う事ニなるのですか?
142 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 20:07:57 ID:nTwCGKKe
>>138 アートマン否定なんてしてないって言ってるのに。
無我なんて言ってる奴は誰だ?
問う者 としての投稿者
>>137 あなたが納得できる根拠になるかはわかりませんが、
石飛さんの論理は、キツイ言い方をすれば 言葉遊び に過ぎません。
私達は、苦の円環に生きているのではなく、迷いの円環 に存在しているのですよ。
この 円環 からの跳躍を求めるべきなのです。
苦からの解放ではありません。あしからず
捨置にして結構です、問う投稿に答えるのも答えないのもどうぞ御自由に、
投稿するのに制約はないと思われますので。
圧倒的な論理の中に、答えは得られないですよ。
144 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 20:14:31 ID:5qCPQ5pt
>>142 無我が我じゃないの?それは,存在が空そのものである様に。空そのものが存在である様に。
だから,空・無我=我であるということになる。
145 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 20:23:32 ID:5qCPQ5pt
>>143 >迷いの円環 に存在しているのですよ。
この 円環 からの跳躍を求めるべきなのです。
苦からの解放ではありません。あしからず
迷いと言うのは闇を言うと思います。明知の反対です。闇ですとどうしたら良いかわからないです。
どの様に考えたら良いのかも解りません。ただ苦しみに耐えるだけです。肉体的にも
精神的にも。自分が善い事をしているのか悪いことをしているのかもわからず,お先真っ暗なんです。
やはり迷いは苦しみではないでしょうか?
146 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 21:03:35 ID:zMOwkKzV
147 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 21:12:51 ID:JY/6zeqq
われ(アートマン)というものはない。 また、わがものというものもない。 すでにわれなしと知らば、何によってか、 わがものがあろうか。 (相応部経典22.55)
148 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 21:27:27 ID:swBf0nOU
その「相応部」というものを調べてみたが、 良いことをすると裕福な家に生まれ、 悪いことをすると貧乏な家に生まれるとか書いてある。 我(主体)を持っているから来世があるのであるから、 その文の前後関係を見てほしい。 以下のように訳すべきではないかということが言われているようだ。 (色受想行識には)われというものはない。 また、(色受想行識には)わがものというものもない。 すでに(色受想行識には)われなしと知らば、 何によってか、わがものがあろうか。 と知ることができるのである。
149 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 22:38:46 ID:JY/6zeqq
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。 彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、覚者の法に順い、 あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、 善知識の法に順い、したがって、彼は、色(肉身)は 我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、 我が中に色有りとも、色の中に我有りとも、見ることはない。 一切は因縁の結ぶがままに有り、一切は因縁の結ぶがままに 壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。 かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて 壊するものであるがゆえに、彼は、 われ というものはない。 また、わがものというものもない。 すでにわれなしと知らば、 何によってか、わがものがあろうか。 と知ることができるのである。 ---------------------------------------------------------------- 人のもってる認識能力のどれをとっても、アートンマンのようなものを 発見することはできない、とブッダは言い切ってる。 世界や自己の観察を通して、人が知りうることができるのは、いわゆる<縁起>だけ。
150 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 22:51:56 ID:uunvLphh
このようにして彼において「色」・「受」・「想」・「行」・「識」はすべて「壊れるもの」であるであるがゆえに彼は 「これらの内に我というものはない」・「これらの内に我がものというものもない」・「これらの内に我がなければ これらの内に我がものがあるはずがない」と知ることができる
151 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 23:01:24 ID:Wh8Y+Crc
肉身は「我」ではない また、「我」は肉身を有するとも、 「我」の中に肉身があるとも、肉身の中に「我」があるとも見ることがない。 色・受・想・行・識は因縁によって現れて消滅しているのみ。
152 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 23:07:41 ID:JY/6zeqq
弟子たちよ、<我(アートマン)>や<我がもの>などは、真実として捉えられるものでは ないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、<我と世界は一つである>とか、 <我は、死後、永遠不変に存続して生き続ける>というような教えは、まったく愚かな 教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えである と言わねばなりませぬ。
153 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 23:11:37 ID:5qCPQ5pt
>>147-151 これらは正見であると思います、御紹介を有り難く思います。
>150 これらの内に我というものはない」・「これらの内に我がものというものもない」・「これらの内に我がなければ
これらの内に我がものがあるはずがない」と知ることができる
五蘊にがというものが無いといって、それじゃ五蘊じゃないところに我があるといってるわけではないんですよね。
むしろ、五蘊こそ我であると思っている邪見に対しての教えなんですよね?
ここに既に般若心経が有りますね。
154 :
133 :2006/04/07(金) 23:12:22 ID:4vI4ILcp
>142 たとえばインド六派哲学におけるアートマンの定義をご存知でしょうか? SDSなど見ればすぐに分かりますが・・・ 仏教はそのようなアートマンを否定している。 分かります?
ごめん!一つ聞いていい?アートマンって ロックマンに出て来たキャラ かな?
156 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 23:35:51 ID:ycPaI0x1
>弟子たちよ、我や我がものなどは、真実として捉えられるものでは ないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、我と世界は一つであるとか、 我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるというような教えは、まったく愚かな 教えであると言えないだろうか。まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えである と言わねばなりませぬ。 我、我のものに関する教え、というのは真実に立脚した教えではなく、 真実でないものに立脚した教えなので、 我や我がものに立脚した教えを説くことなど出来る筈がない。 このようなものに関して語れないし、語らないことが真実に対する真摯な追究の態度である。 これは別に、我があるとか、ないとか、言ってるんじゃなくて。そういうこと。
157 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 23:39:18 ID:5qCPQ5pt
>>150 感覚などの五蘊を否定するのではなく、詰まり、針で刺した痛みと、羊毛でなでた感覚
の相違を否定するのではなく、それらの感覚が縁起したものであること、換言して相対的に存在しているものであると
客観的に観ること、更に全ての感覚が相対的存在であると信じること、それにより、それらの感覚の相違に執着しないんですよね?
158 :
名無しさん@3周年 :2006/04/07(金) 23:55:23 ID:JY/6zeqq
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。 「一切」とは、みなさん、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、 耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体 に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。 誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、 それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、 その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、 彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(サンユッタ・ニカーヤ) ------------------------------------------------------------------- <梵我一如><転生輪廻>などのような認知領域(一切)以外の主張は、しょせん 「言葉遊び」に過ぎないと言ってる。 それとは別に、ブッダが無我の真理を示すために「五蘊」を教えてるのに 愚かな弟子は、無我を見ないで五蘊に関心を払った愚か者がいた。 ブッダがせっかく月を指してるのに、指を見てる愚か者、唯識のヴァスバンドゥ。
>>158 五蘊は我じゃないっていうのがブッダの言ってることだよ。わかる?
無我の真理とか言うと、創価やオウムの説と同じレベルなんだよ。
160 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:13:53 ID:HYvgQXYA
>>159 >無我の真理とか言うと、創価やオウムの説と同じレベルなんだよ。
層化はこんな高級なレベルじゃ有りませんよ。オウムはこれに非常に近いと思いますが。
>>158 >無我を見ないで五蘊に関心を払った愚か者がいた。
世親はどのようなことを具体的に言っているのでしょうか?
>層化はこんな高級なレベルじゃ有りませんよ。オウムはこれに非常に近いと思いますが。 笑わすな。同じレベルか、むしろ創価のほうがまともだ。
162 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:26:23 ID:6ZEFqalp
>>161 偉そうだな〜 そういった物言いは全く仏教と相容れないと思うよ。
貴方よりオウムがまだまともだという可能性もあると思うけどね。
163 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:26:24 ID:HYvgQXYA
>>161 日蓮層化は仏教を否定していますよ。オウムは仏教を否定していないでしょう。
164 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:27:59 ID:6ZEFqalp
>>163 え〜ほんと! いくら日蓮さんでも仏教否定しないでしょう。
無意識に別のものになってることはあっても
165 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:28:25 ID:vpH1PGIO
166 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:32:31 ID:vpH1PGIO
なんか、仏教徒ってオウム外護者が多いんだよね。相手するだけで疲れちゃうよ。
167 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:34:01 ID:HYvgQXYA
168 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:35:43 ID:HYvgQXYA
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P70 「(創価学会の)この大御本尊を拝む以外に末法の 衆生は基本的に幸福になれないのである。」 池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P303 「釈迦仏法など立てるのは去年の暦と同様で役に立た ないしろものである。これを使用するから生活に破錠 をきたすのは とうぜんである。」 池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P321 「俗にいう日蓮宗を代々やっていると家族に不具者が できたり、知能の足りない子供が生まれたり、はては 発狂する者ができたりして〜」 上は日蓮の経説に基づいたものです。
169 :
暇人 :2006/04/08(土) 00:37:24 ID:Zsf9zvH4
いやだから 創価は別スレッドで。。。
170 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:38:23 ID:BCL2SvVC
>世親はどのようなことを具体的に言っているのでしょうか? 外界否定論者にとって、痛いのが他人の存在である。 独り言か、対話なのか 外界否定論者のヴァスバンドゥは、論敵から「友人との交遊や他人からの教化 が不可能になる」と突っ込まれれると、「"交互"に影響を及ぼすことによって "相互"に認識を限定し合う・・」などと馬鹿なことを言ってる。 "交互"や"相互"だと・・自と他、実質的に外界を認めてしまった失態である。
171 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:39:22 ID:6ZEFqalp
>>165-166 オウムとかナチスとか持ち出して絶対悪のように語る人は
全く信じられないんだな。
オウムは間違ってるが、案外変な仏教学者より仏教的なんだな。
変な仏教学者は、外道の域にも達してないからね。
凡夫の意識そのままんまでいいとか、輪廻も出離の意識も、
釈尊への信さえなかったりするから。
172 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:40:36 ID:vpH1PGIO
それでも日蓮は釈迦を踏襲しているから、それほど非仏教的ことはしないわけだが、 オウムは単なるトンデモですから。いくらオウムが仏教やってると言っても、 内容を知らずにオウムマンセーしてる奴って馬鹿じゃないかと思う。
173 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:43:07 ID:6ZEFqalp
>>167-168 うわ〜 すごいね。暇人さん、悪いけど、
日蓮さんの出典だけ質問させてください。
ということで、 その日蓮さんの出典を教えてください。
174 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:48:18 ID:HYvgQXYA
>>173 仏教徒の衣を着た狼日蓮は放置しておけ。それでも知りたければ創価にきく。
175 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 00:53:24 ID:HYvgQXYA
176 :
一在家 :2006/04/08(土) 01:03:01 ID:DAkqlYio
>>125 >あなたはこの言葉を読んで、本当に、ひとが母胎回帰すると考えるのですか?
>考えないでしょう? そのように書かれているが、実際この言葉が示している
>ものは輪廻であると考えてるはずです。
100年以上前から欧米で研究が始まった心霊科学でも母胎回帰は矛盾して
いないと思いますよ。
精子と卵子とが結合し、母胎(子宮)の中で育っていく過程で、アートマン
(霊魂のようなもの)が胎児に宿るという仮説になります。
皆さんもご存知かと思いますが、この分野は世界中の精神科医の多くが研究して
おります。
退行催眠を行い、年齢を段々と遡っていき、その時に見えたり感じたりする内容を
ヒヤリングして記録していきます。どこの国でも共通に、生まれる以前の記憶や
前世の記憶を語る訳で、後でそんな場所や出来事があったのか事実関係の裏を取る
訳です。
精神科医や心霊科学者がスッパニターヤを読めば、中学生と同様に世尊の言葉を
そのまま信受することになるでしょう。
このような混乱を予見して、本スレに常住の暇人様には、ディーガニカーヤでの
常住論は世尊の説かバラモンの説かを問いました。
まだご返事が無いのは、何か理由があるからでしょうか?
177 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 01:29:33 ID:vpH1PGIO
>>171 ニヒリズムと仏教は違う。
「無我」とか、「空」とか、そういったニヒリズムで
格好つけたいという欲を持っているから、オウムや創価に騙される。
オウムの真の目的を見抜けないのは愚かというほかない。
その意図が見えないほどに、欲めいた目をしているということだ。
178 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 01:34:55 ID:6ZEFqalp
>>177 何が言いたいの? ニヒリズムでオウムや創価に走るとでも?
確かにオウムには破壊欲求があるかもしれないが、
それより彼らには出離とシャクティ・パットのプラーナ体験が根本的だと思う
179 :
一在家 :2006/04/08(土) 01:36:30 ID:DAkqlYio
母胎(子宮)の中の胎児に宿る時に、ほとんどのアートマンは過去世の記憶を 忘れてしまいます。これも真実真理の一つでしょう。 ディーガニカーヤの等誦経に「四つの入胎」について詳しく説かれております。 註では、入胎・住胎・出胎の三時に意識(記憶)を持っていたのは仏陀のみで、 入胎時に意識を持っていたのは80人の偉大な弟子のみだったそうです。 大本経でも、「ヴィッパシン菩薩は、明瞭な意識を保った状態で、母の胎内に 入った。」と世尊が明言されてます。 宜しいですね。>暇人様(他の住人は最新の長部経典が手元に無いからです)
180 :
一在家 :2006/04/08(土) 01:37:45 ID:DAkqlYio
本スレではあまり評判の宜しくない日蓮大聖人の御書全集よりご紹介。 【四条金吾殿女房御返事】(文永十二年、54歳) 「人の身には左右のかた(肩)あり。このかたに二つの神をはします。 一をば同名二をば同生と申す。 此の二つの神は梵天・帝釈・日月の人をまほらせんがために、 母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで、影のごとく 眼のごとくつき随て候が、人の悪をつくり善をなしなむどし 候をば、つゆちりばかりものこさず、天にうたヘまいらせ候なるぞ。」 つまり「母の腹の内に入りしより」と、真筆にもあるようですね。
181 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 01:42:12 ID:vpH1PGIO
>>178 いかにも、覚者の境地であるかのように「無我」と言ってみたり、
あるいは人に善いことを行うように説いてみたり、そういう「いかにも」すばらしい境地
を思わせる部分があるものは危ない。
そんなこの世的な感情に引かれるものがある人は、いかにもすばらしく、いかにも格好いいとか
いかにも優秀な修行者であるかのようなフリをしている団体にコロリと騙される。
その真の意図も知らないで、作られた表面の皮にコロリと騙される。
>>176 > 皆さんもご存知かと思いますが、この分野は世界中の精神科医の多くが研究して
> おります。
その結果、生まれ変わりが科学的に証明されたのですか?
183 :
一在家 :2006/04/08(土) 01:57:09 ID:DAkqlYio
暇人様と私の手元にあるのは長部経典の最新の現代語訳です。 中高生でも楽に読める平易な文章です。 全3巻で一冊8千円前後ですので、将来文庫になれば日本中に 長部経典が拡まることと予見致します。 監修:中村元 編集:森祖道、浪花宣明 出版:春秋社
184 :
一在家 :2006/04/08(土) 02:00:23 ID:DAkqlYio
>その結果、生まれ変わりが科学的に証明されたのですか? 精神科医のアプローチで生まれ変わりに迫っているということです。 万人に理解できるまでに、証明されたとはまだ言えないかも。 少なくとも「母胎に宿る」という世尊の説法を馬鹿にしたり、否定 したりはしないでしょうね、彼らは。
>>184 > 精神科医のアプローチで生まれ変わりに迫っているということです。
> 万人に理解できるまでに、証明されたとはまだ言えないかも。
では、生まれ変わりの科学的証明はされていないということでよろしいですか?
> 少なくとも「母胎に宿る」という世尊の説法を馬鹿にしたり、否定
> したりはしないでしょうね、彼らは。
一在家さんは、証明されてない生まれ変わりをどうお考えですか?
肯定、否定、肯定も否定もしない、のいずれでしょう?
186 :
一在家 :2006/04/08(土) 02:38:15 ID:DAkqlYio
>一在家さんは、証明されてない生まれ変わりをどうお考えですか? >肯定、否定、肯定も否定もしない、のいずれでしょう? 直感的に生まれ変わりに賛同します。 六神通の中の宿世通を使える訳ではないですが。
>>186 > 直感的に生まれ変わりに賛同します。
なるほど…。
一在家さんは、毒矢で射られても、それをすぐに抜かない人なんですね。
188 :
一在家 :2006/04/08(土) 06:55:13 ID:4H05M9En
>>187 原始仏典に記載の「母胎に宿る」という世尊の説法をどうお考えですか?
肯定、否定、肯定も否定もしない、のいずれでしょう?
189 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/08(土) 10:34:29 ID:o/1AiKEJ
我がないのならお釈迦様の最後の言葉 自燈明 法燈明 の「自」はいったい何のことを指しているのだろう。
190 :
一在家 :2006/04/08(土) 11:13:15 ID:yJPA0L/2
>>189 中村元氏は、臨終の説法の一つを紹介されてます。
「自己(アートマン)に頼れ。法に頼れ。
自己を燈明とせよ。法を燈明とせよ。」と。
ただアートマンは不変であるという前提を認めなかった
だけだそうです。
しかし無我説はやがて無霊魂説と誤解されていったようです。
191 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 11:25:17 ID:HYvgQXYA
>>180 >日蓮大聖人
ここにいるみんなが日蓮を有益な人と認めているなら大聖人と敬称を使用するのは問題ないかもしれないが、
問題になっているときに、公然と使用するんは、暴力です。日蓮を尊敬していない人は、大聖人と言われても
それを認める訳ではなく、大聖人と認めよと抑圧してくるものとしか取れません。
日蓮が両肩の神に付いていったとしても、日蓮の発見ではナク、日蓮がシナ仏教やインド仏教から得た知識です。
日蓮が『母の胎に』といっても既に大乗経典にあることです。
執着とは妄想を言い、妄想とは、無いものをあるものと固定化することであり、
固定化されるものは、六根六境であり、六根六境とは色心(肉体と心)であり、これらがあるとするのは
六識であり、六識の中に神々と言うものが妄想としてあるのであり、神々は固定化された妄想象
としてあるのであり、その神に付いて更に妄想が無限に拡大されて一つの世界を形成するのだと思います。
母体に入ると言うのも色心に基づく妄想であるのだと思います。この妄想が、あたかも
真実であるかのようにみんなに認められ同意を得させるのは、同じ程度の又は同じような
色心を固定化すると言う迷いを共有しているからだと思います。
だから神々の世界、人間の世界、要するに六道と言われるものは、妄想の世界であり、真実にはないのです。
故に真実を知りその修行をするものは、神々の上の境涯である声門・縁覚・菩薩:仏の四聖と言われるのです。
四聖は六道に付いて話すことが有りますが、それは避けるべきものとしてであって、有るものとしてまして推奨するもの
としてでは有りません。だから教えの方便『方法』としてはなすものといわなければなりませン。
>>190 アートマンが変化するっていうのは、
どう考えてもおかしいと思うんですけど。
そういうものはアートマンではないですし。
193 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 12:03:58 ID:Asm2Ww/g
だから外道と仏教ではアートマンの定義が違う。 仏教が外道の定義を認めることは無い。 >170さん あなたは世親よりも仏教の理解が優れているのですか? 自分を疑わないのですか? それは我慢ではありませんか?
194 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 12:05:15 ID:PfmH+Q0q
>>193 仏教では、変化するものはアートマンでないと再三言ってますでしょう
195 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 12:06:30 ID:Asm2Ww/g
やぱりというか我(アートマン)と自我意識(アハンカーラ)を混同する 議論が多い。 仏教はアハンカーラを否定していない。
196 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 12:22:18 ID:Asm2Ww/g
194 あなたは非我説ね わたしはanatman説です
197 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 12:25:56 ID:TeWpIDTj
初転法輪の五蘊無我、 全く相反する記述のテキストが存在することを知ってますか?
198 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 12:33:55 ID:tB/AHX6X
仏教は我慢(名色)は否定的にとらえられます。 無知から来るものと言ってます。
199 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 12:34:21 ID:Asm2Ww/g
>変化するものはアートマンでない これが成り立つためには「変化するもの」と「アートマン」が前提として 存在しなければならない。 仏教が「アートマン」と言う時はあくまで仮立である。
200 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 12:39:19 ID:tB/AHX6X
>仏教が「アートマン」と言う時はあくまで仮立である。 そうですね。 アートマンでないもの、を否定するのが仏教のような気がします。
>>197 :名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 12:25:56 ID:TeWpIDTj
> 初転法輪の五蘊無我、
> 全く相反する記述のテキストが存在することを知ってますか?
原始仏教 サーラ叢書 4 水野 弘元 (著)
出版社: 平楽寺書店 ; ISBN: 4831300047 ; (1994/03)
p121-125の記述のこと?
p125の記述を見ると、
雑阿含巻13(318経):世俗的立場
雑阿含巻2(34経):第一義的(本来の意味)
ってことになるのかな?
202 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 13:15:09 ID:HYvgQXYA
真実はなんかと問われて、真実は空であるといえば、真実がないと言う意味ではないでしょう。 真実は空として存在しているといわねばならないでしょう。 真実は空であるの証明は以下のように出来る。 アートマンは有ると言うのなら、無い場合が考えられるのかそれとも全てがアートマンなのか? 全てがアートマンなら、殊更にアートマンと言う意味はなくなる、意味がなくなれば アートマンはないといわなければならない。 次にアートマンはある場合とない場合があると言うなら、アートマンと非アートマンが存在しているものであり、 これはアートマンである、一方これはアートマンでない、と言い得る。その時、 アートマンと非アートマンは相対的に存在しているのだ。詰まりアートマンなるものがなければ 非アートマンなるものもなくなるのだ。非アートマンがアートマンと同じなら区別する意味が無いからである。 この様に相互依存関係により存在しているアートマンと非アートマンは実体『自性』有るものではない、幻である。 だからアートマンが全てであると考えるときも、アートマンが相対的に存在していると考えるときも ともにアートマンは実体あるものとはならないのである。とすれば、アートマンはないのだ。 真実は空としてある事になる。
君は我を相対的に語っているが、相対的なものは我ではないと 何貝も言ってるだろ。見てないのか。
204 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 13:22:20 ID:HYvgQXYA
>>203 アートマンが絶対的存在である場合の説明もしていますが。
>全てがアートマンなら、殊更にアートマンと言う意味はなくなる、意味がなくなれば
アートマンはないといわなければならない。
>全てがアートマンなら、殊更にアートマンと言う意味はなくなる、意味がなくなれば >アートマンはないといわなければならない。 全てがアートマンだから、むろん、殊更にアートマンと言う意味はないが、 あるとかないということも、もはや意味がない。その範囲の話でない。
206 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 13:34:25 ID:HYvgQXYA
>>189 :お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/08(土) 10:34:29 ID:o/1AiKEJ
我がないのならお釈迦様の最後の言葉 自燈明 法燈明
の「自」はいったい何のことを指しているのだろう。
真実は空であると言うのは『法灯明』に当たる。
そこで、人は、空であるから何物にも執着しない様になろうとして修行する事になる。
その執着は自分に属するものである。他人の執着を知ってそれを解消してあげようとする行為
も自分に属するもんである、畢竟一切は自分に属しているのである。自分に属している執着を
除くほかないのであるから、自灯明と言う事になるのではないでしょうか?
法灯明なく時灯明はないでしょうね。両輪でしょう。
207 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 13:49:46 ID:HYvgQXYA
>>205 .その範囲の話でない。
どの範囲の話ですか?
アートマンについては語り得るものではないということ。これが前提。
209 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 14:12:45 ID:HYvgQXYA
>>208 語り得るもので無いものを伝達するための言葉としては、空とか無とか無相とか無我と
か平安とか言う表現は不適当ですか?
>>209 空とか無とか、無相、非我、平安については、ある程度
語ることができるんじゃないですかね。仏教はそういうのを語っていると思いますけど。我、無我は無謀かと。
211 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 15:02:21 ID:HYvgQXYA
一切の仏と菩薩に礼拝する。十方の果てしなく極まりない世界におられる過去、未来、現在のあらゆる仏と菩薩に礼拝する。尊い神聖な(知恵の完成)に礼拝する。 一 妄想無く、計り知れない(知恵の完成)よ、貴方に礼拝する。完全無欠な者よ、完璧なものが貴方を見る。 二 汚れなく、言葉も文字も離れている虚空のような貴方を見てこそ、まことに人は如来を見る。 三 正しい者達は、月と月の光に違いを認めないように、師徳高い貴方と世間の師である仏との間に違いを認めない。 四 慈悲にあふれた者達は、仏の教えの先頭を行く貴方を、(自らに)踏み行い、比べ物も無い偉大な存在を容易に得る。信を愛するものよ。 五 ひとたび心が清らかとなり、規則に従って貴方を見るとき、その見ることはむなしからず、その人は必ず完成を得る。 六 貴方は他の者の為に身をささげる雄雄しいものを皆、生み育てるやさしい母である。 七 慈悲に満ち世間の師である仏達も、あなたの子供であるゆえ、貴方はあらゆる者の祖母である。幸あるものよ。 八 非難の無いものよ、星を従える新月のように、あなたは常に、汚れの無い全てのパーラミターを従える。 九 至るところで如来達は、導かれる人々の(違い)によって、一人の貴方を、異なった名称で、いろいろの姿として賞賛する。 一〇 露のしずくが太陽の光に当たって消えるように、貴方に会えば、論者達の議論も誤りも消滅する。 一一 同じ貴方が、愚かな者には恐怖を起こして、恐ろしく見え、賢いものには慰安を与えて、親しいものに見える。
212 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 15:02:57 ID:HYvgQXYA
一二 貴方を寄る辺としながらも、貴方に対して愛着さえしないようなものに、どうして他のものに対する貪りや怒りなどがあるであろうか。 一三 貴方はどこからも来ないし、どこにも行かない。全ての場所において、知者も貴方を捕らえない。 一四 まさに貴方を見ないようなもの達こそ、まことの意味で(貴方を自らに)踏み行うのである。行なって彼等は解脱する。之こそ大きな不思議である。 一五 まさに貴方を見る者は縛される。見ない者も駁される。まさに貴方を見る者は解脱し、見ない者も解脱する。 一六 ああ、誉れ高いものよ、貴方はすばらしい。貴方は深遠である。貴方は量りがたいこと、幻のごとく、且つは現れ、且つは現れない。 一七 諸々の仏や独覚や声門に仕えられた貴方こそ、ただひとつの解脱の道である。他に道の無いことは、決定的である。 一八 世の守護者(である仏達)は、身体を持つものの言葉や概念に合うように、慈悲によって貴方を語り、そして又語らない。 一九 この世の誰が貴方を称えることができようか――無相無垢であり、いかなる者にも依存せず、あらゆる言葉の境を越えている貴方を。 二〇 そうであるけれども我々は、ほとんど称えることもできないほどの貴方を、世の習いに従い、このような言葉を使って、賛嘆しようと望み、心安らかである。
213 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 15:44:32 ID:Asm2Ww/g
今日は花祭り お釈迦様の降誕をお祝いしましょう。
214 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 16:35:10 ID:HYvgQXYA
>>211 この祈りは宝積経と言われる経典集の何処かにあったものです。
215 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/08(土) 19:42:34 ID:Yvii/1w2
>>206 さんへ
私は聖と俗を考えていました。無我は聖や彼岸の世界に属していて、日常生
活の場(俗)では無我状態の維持は難しいと思っています。お釈迦様は理想とし
ての無我を説く反面、俗世間における我(自己意識)の向上を図ったのではない
でしょうか。
216 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 20:12:46 ID:J3vEqyue
アハンカーラをよりどころにせよ、なんて言ってなかっただろ。
217 :
名無しさん@3周年 :2006/04/08(土) 21:48:43 ID:HYvgQXYA
初期経典にも大乗経典にも修行者『菩薩・バラモン・』のあるべき姿が 常に説かれていますが、彼らの姿こそ法に従っている姿であり、自灯明の姿ではないでしょうか?
218 :
一在家 :2006/04/09(日) 01:21:09 ID:Dw998/PQ
原始仏典の中では度々、釈尊は多くの神、梵天と対話をした内容を 説かれております。 法話の為であれば、別にバラモンとの対話でもよかった筈です。 神が六識の妄想であれば、釈尊は妄想を語ったのか、方便の為に 比丘らに真実を語らなかったことになるのではないでしょうか。 アートマン(霊魂のようなもの)が不滅か否かの論議にも形而上 のことは人格の完成に意味が無いので、不問を釈尊は通したように 読めます。 ただし、仏陀にとってアートマンのことは形而上でもなく、一目瞭然 だったようで、自歓喜経では舎利佛の浄信として、法華経如来寿量品 では弥勒菩薩への説法として、不問の立場から離れてこっそりと真実を 伝えているようです。 長部経典と法華経を素直にそのまま読めば、そのように読めます。 シナ仏教の仏教観という固執、執着に囚われている限り、現世でも 来世でもストレートに入ることもないでしょう。 大体、当時の衆生に語ったのはひねった内容ではなく、分かり易い 法話だったことと存じます。
219 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/09(日) 02:50:17 ID:8KOXCyDd
「十難無記」 (一)世界は常住である。(二)世界は無常である。(時間的に限定されていないか、いるか) (三)世界は有辺である。(四)世界は無辺である。(空間的に限定されているか、いないか) (五)身体と霊魂とは一つである。(六)身体と霊魂とは別である。 (七)人格的完成者(如来)は死後に生存する。(八)生存しない。 (九)生存し且つ生存しない。 (十)生存しないし且つ生存しないのでもない。 三枝充悳著レグルス文庫「初期仏教の思想(上)」85ページ この「十難無記」をよくよく見れば、「霊魂が存在するか、しないか」や「人が死後も生存す るか、しないか」といった問いはありません。これは初期仏教徒は霊魂の存在(我)も死後の生 命(輪廻)も受け入れていたことならないかな。
>>219 16 名前:お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 投稿日:03/10/31 23:54 ID:ODUKPvte
>「釈迦の真意はきっとこうだ」と思っちゃってるってことだよね。
そして、自分流の教えを信じている。
釈迦の「我が教えは難解難入なり」としたのは、輪廻転生を信じている
中で、輪廻転生を否定する考えが受け入れられない、と考えたのじゃな
いかな。
2500年後の今でも、この考えを受け入れない人がいるものね。当時
のインドでは大変だったと思うよ。
38 名前:お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 投稿日:03/11/01 21:52 ID:AmN15ZNH
悟ったかどうか、外部から確認できるかどうかについては、悟りを得た人なら
あの人が悟っているかどうか、判別できると思う。
そうでなかったら禅宗は成り立たないことになる。
前の板から引きずって居る輪廻転生問題について、釈迦が輪廻転生を唱えるのなら、
バラモン教の祭司(バラモン)になればよいのであって、新しく仏教を興す必要はない
と思うのだが、どうだろう。
221 :
一在家 :2006/04/09(日) 06:49:05 ID:tbpcqAbU
>>220 >前の板から引きずって居る輪廻転生問題について、釈迦が輪廻転生を唱えるのなら、
>バラモン教の祭司(バラモン)になればよいのであって、新しく仏教を興す必要はない
>と思うのだが、どうだろう。
輪廻転生を信じる衆生の多くが、それに固執、執着して苦しみから逃れられない
ならば、否定するか不問の方便で救済するのが慈悲だったかも知れませんね。
ただし、一部の高弟にのみ、方便ではなく真実真理を伝えたという可能性も
あるのではないでしょうか。
兎に角、そのような経典がいくつか存在しておりますので。
最近、本スレの暇人様は不問になられておられませんか?
222 :
一在家 :2006/04/09(日) 06:55:55 ID:tbpcqAbU
なにぶん、長部経典の34経の中の18経に再生、生まれ変わりの説法が ございます。 半分強です。 四諦の教えの出現回数に匹敵しております。 本スレの看板は「大乗仏教談話室」ではなく「原始仏教談話室」なので 紹介しました次第です。
223 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 08:46:54 ID:GrVIlKaq
>>220 > 2500年後の今でも、この考えを受け入れない人がいるものね。当時
のインドでは大変だったと思うよ。
輪廻とは地獄のことと去れている。地獄に落ちることを輪廻すると言っているのを知らないの?
六道輪廻と言われてる。一番良い境涯である天上界の神々でも必ず地獄に落ちる運命であり、
畢竟地獄に変わりはない様なのです。輪廻が避けられないとしても責めて神々の境涯の方が良いと考えますよね。
輪廻を当時のインド人が教えられたとしても、やはり輪廻を繰り返すことを推奨された訳ではなかったでしょう。
むしろ輪廻ではなく、ニルバーナを推奨されたのでしょう?バラモン経においても。
輪廻と言う地獄に落ちるのが良いか、それともニルバーナに入るのが良いか?と言う事に違いなかったと信じます。
このことは今でも完全に通用していると信じますが。
224 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 08:50:01 ID:PlwZZ8pT
>>219 経験領域を逸脱したすべての形而上学的問いは、本来、原理的に返答できない問いである。
三枝も、<「答えられない問いに対しては沈黙を守る」ということが、ゴータマ・ブッダの
示した真の勇気ある、また深い知恵を持つ態度である> と紹介してる。
つまり、ブッダの沈黙は、形而上学的判断そのものに対する批判なのだから、十難無記に
とりあげられていないことが、<死後の生命(輪廻)も受け入れていたことなる>といった
抜け道にはならないと思う。
225 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 10:23:28 ID:IG9ez/En
>>143 全く論理なしの断定ですか、貴方の言葉から悟ってるようにも思えないんですが?
「言葉遊び」とは何を根拠にいってるんでしょうか?
まさか
>>158 の『サンユッタ・ニカーヤ』33.1.3に説かれるようなことで
>>224 はないでしょう。
http://www.metta.lk/tipitaka/2Sutta-Pitaka/3Samyutta-Nikaya/Samyutta4/34-Salayatana-Samyutta/03-Sabbavaggo-p.htm 増谷訳で「心と心の作用」とされるのは mano ca dhamm? ca で逐語訳すれば「意と諸法 」です。
この諸法は心的現象と言って良いでしょう。
それに過去世の知が含まれることは明かですよ。釈尊が「私は望むかぎりそのかぎり種々なる
前世の宿住を思い起こすことができるのである」『マッジマ・ニカーヤ』I, PTS483 と説かないでしょう。
「一切」は石飛さんがより詳細に『ブッダ論理学』108-127で現代版一切智の論証をみごとに成し遂げています。
「迷い」もも同じことですよ。 「迷い」は因、「苦」は果。
現在の状況である果から説明する方が共通の体験だから分かりやすいでしょう。
「苦」ではなく「迷い」だみたいな貴方のものいいが全く幼い「言葉遊び」
輪廻にないのなら、生まれ変わらないのなら一切皆苦なら死ねば終わりですよ。
なぜこの単純な論理も認めようとしないのか?
そして輪廻には苦しかないことを認めることで、出離の心が生じ行に専心するわけです。
226 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 10:24:05 ID:IG9ez/En
227 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 10:24:57 ID:IG9ez/En
228 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 10:34:55 ID:IG9ez/En
>>140 お邪魔しますさん、あの同趣意なんですが?
日本の近代仏教学者の一部に限って輪廻を認めない仏教を説く人がいるんです、
>>137 と書いたのは、その信奉者に対してのものだからです。
>>189 自、私というのは日常言語として仮設
>>199 としてです。その場合、恒常な我ではありません。
>>215 ほぼ同じなんですが日常言語がそう呼ぶから「自、私」「ある」と使うだけだと思います。
>>195 アハンカーラは我慢
>>198 で空でしょう。むしろ諸悪の根元に近い。
>>202 真実は「〜である」「〜でない」と自性・本質として言葉で示せないものでしょう。
逆に「〜である」「〜でない」と自性・本質を規定することが我・有論という常識的迷いの立場と思います。
229 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 11:15:53 ID:PlwZZ8pT
五蘊において、心は縁起し恒常不変でないと教えてる。 だから、これを担保に「我」を「心」という言葉に焼きなおして、 憚らず形而上学の領域に踏み込んでいけるわけだ。 我と心の同意が問われねばならないのにもかかわらずだ。 連中はこういう。心は能取(主観)と所取(客観)に分別され、 前者が後者を見たりするんだと。 なんてことはない、大我の中に自他が生じていると主張しているに過ぎない。 つまり、心と我はほとんど区別のつかない概念なのだ。
>>228 >
>>140 お邪魔しますさん、あの同趣意なんですが?
85 名前:お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 投稿日:03/11/03 06:16 ID:BT6wa80i
>>84 さんへ
まず番号でも何でも良いから、ネームを固定してくれないか。
73.75.76と同じ人だと思うので、まとめて答えておきます。
輪廻転生は当時のインドでは、一般に強く信じられ、この考えを否定しきれ
ないことは確かです。反対にブッタの考えに引き入れるきっかけとして、また
は善行を勧め、悪行を退ける考えとして、在家の人に説くこともある。でも
苦からの解脱する手段として、輪廻転生の思想を説いていない。
この世で生きていることが苦であるならば、来世に生まれ変わり苦のない人
生を送ることが、今現在の苦しみの解決になるだろうか。
知っていると思うがブッダには、四門出遊の伝説がある。東の門から出よう
として老人に出会い、南の門では病人、西の門では死人に出会い、人は生きて
いる限り老・病・死の苦しみからは逃れられないと考え、北の門で出会った修
業者に刺激され、苦からの解脱を求めて、出家しました。
>しかし仏教(原始仏教)は何も答えられない。これっておかしくない。
ブッダは人生の苦悩に対して、業や輪廻転生の考えで誤魔化さず、真っ正面から
むかっていきました。
>>230 ここのスレ住人は輪廻転生肯定派だから、あまり労力を使わないほうがいいと思います。
「肯定や否定の断定は出来ない」と主張する人を否定派と非難するのですから徒労だと
思っていただくのがいいですね。「輪廻思想からの開放だ」と部分説明しても理解及ばず
です。
232 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 12:10:32 ID:GrVIlKaq
>>218 > 神が六識の妄想であれば、釈尊は妄想を語ったのか、方便の為に
比丘らに真実を語らなかったことになるのではないでしょうか。
正覚を得た釈尊は常に人々の妄想に取り囲まれていたと言うべきでしよう。
釈尊が一人でおられる時は釈尊は人々の妄想を思い起こしたりする事になったと思います。
その妄想の中でも悟りに向かう善意の妄想も有ったでしょう。
悟りに向かう妄想は神々「天上界の人達』のものと考えて良いと思います。
妄想は名色に渡るものですから、ヒントとなる声や姿をを神々の声や姿と見なすのは問題ないと思います。
そして、悪魔の声姿もまた同じように考えるべきであろうと思います。
実在する弟子やバラモンに対するのと少しも変わらずに対話されたのです。少しも問題ないと思いますが。
ですから神々や悪魔との対話と同じように同じ内容を弟子達と話してもいるでしょう?
>ただし、仏陀にとってアートマンのことは形而上でもなく、一目瞭然
だったようで、自歓喜経では舎利佛の浄信として、法華経如来寿量品
では弥勒菩薩への説法として、不問の立場から離れてこっそりと真実を
伝えているようです。
何を何と伝えていますか?
233 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/09(日) 15:35:38 ID:nKg2iEC/
>この世で生きていることが苦であるならば、来世に生まれ変わり苦のない人 生を送ることが、今現在の苦しみの解決になるだろうか。 たとえどんなによい境涯に生まれ変わっても、老・病・死の苦はついて回り、 苦のない人生を送ることは出来ない。だから輪廻の輪からの脱出を説いたので はないかな。
234 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 16:04:28 ID:GrVIlKaq
>>233 間違いないと思う。
しかし賢明に生きた賢者も死ぬ。しかし彼は輪廻することがないのだ。
釈迦仏は輪廻していないよね。
235 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/09(日) 16:29:45 ID:nKg2iEC/
同じ梵天でもバラモン教と仏教では扱い方が違っている。
バラモン教のプラフマー(梵天)は、ブラーフマナ文献やウパニシャッドに説かれる宇宙の最高
原理ブラフマンに由来する神である。ブラフマンは、祭式を万能とみなしたブラーフマナ文献の
時代に宇宙の最高原理とされ、さらにはプラジャーパティにとって代わって宇宙万物の創造神と
しても位置づけられるようになった。
・・インド思想史概略
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/b/brahma.htmからの引用です ・・
仏教の場合は
>>223 の人が書いている
>六道輪廻と言われてる。一番良い境涯である天上界の神々
のなかでも最高ランクの神(天)が梵天と呼ばれているものです。神であっても輪廻の輪に入っ
ているので死は免れないので、やはり苦しみはあるのです。
あとおもしろいのが、ふつう神様というと私たちの願望を叶えてくれるものとして、こちらか
ら呼び出してお願いするという形で現れるのだけど、初期仏典に出てくる神々や悪魔は梵天勧請
みたいに、こちらから呼び出さないのに向こうから勝手に出てくるんだよね。悪魔なんて出てこ
なくてもいいのに。
236 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 17:14:11 ID:XGkfe8xg
インドの宗教において解脱をとかない宗教は無い。 仏教然り、バラモン教もジャイナ教も。 みなサンサーラからの解脱が目的である。 ここで「輪廻は無い」と信じる断見の人たちに問いたい。 死んだらどうなると思ってる? 無になる? もし死によって直前の行為の果報を受けないので済むのであれば 死こそがもっとも手っ取り早い解脱の手段となろう。 もしそうであれば世尊は衆生に自殺を勧めていたであろう。
237 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 17:19:30 ID:GrVIlKaq
>>235 > 梵天勧請
ブラフマンが最高原理であると言ってもそれを現実に証明すると言うか、
体得したものが以内場合、あるいは最高原理であると言うだけでその説明が不充分である場合
それは釈尊にとって決して尊重すべきものではなかったのだと思います。釈尊は原理を充分に
説明できるばかりかそれを実行して証明したと言う自信があったので、自らを聖なる者とし
梵天等の従前の神々に対する信仰を捨てるように教えられたのだと思います。
238 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/09(日) 17:20:23 ID:FUP4Ngem
あらゆる苦しみは、欲望から生じる、というのが仏教の基本的な考 え方だと思う。その欲望は我があることから生じる。だから我を滅す る無我を説いた。 でもその無我を実現しようとするのも、我の働きなんだよね。この 辺が話がややこしくなっている基だと思う。
>>238 「自己」にも階層があることを忘れないように。
その辺の使い分けが(原始)仏典では曖昧だったりするのでは?
240 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 17:27:58 ID:GrVIlKaq
>>236 >ここで「輪廻は無い」と信じる断見の人たちに問いたい。
死んだらどうなると思ってる?
無になる?
真理真実が現れれば虚妄なるものは消滅する。輪廻は虚妄なるものとしてあるのだ。
虚妄であるが故に真実としてあるのではない、と言う主張ではないの、?私はその様に理解しているが。
虚妄なるものから離れ真実に付くという事だ。
241 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 17:32:38 ID:GrVIlKaq
>>239 > 「自己」にも階層があることを
どんな階層?
>>238 >でもその無我を実現しようとするのも、我の働きなんだよね。
執着を離れる事は我の働きか?
242 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 17:42:31 ID:XGkfe8xg
>真理真実が現れれば虚妄なるものは消滅する。 >輪廻は虚妄なるものとしてあるのだ。 それは如来が語るべき言葉であって、凡夫が語るべきではない。 解脱を得てはじめて語るべきではないかと。 虚妄のなかに身をおいて「夢、幻だ」と叫んでも意味がない。 夢の中で「これは夢に違いない」と思ってもまだ夢の中。 同じく「輪廻は虚妄であり真実ではない」と深く信じても、 輪廻が消滅するわけでもなく、解脱があるのではない。 だから世尊は道(マールガ)をお示しになられた。 信解脱といっても信じても救われません。
243 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 17:57:50 ID:GrVIlKaq
>>242 それは如来が語るべき言葉であって、凡夫が語るべきではない。
解脱を得てはじめて語るべきではないかと。
そんな事はないと思う。理解が先である、仏教では。
理解しないで修行することはないのだ。
一切が空であれば執着による妄想は明らかである、と理解できる。
執着の度合いにより六道の階層が出来るのだろう。
問う者 としての投稿者
>>225 なぜ、西洋文化が唯一畏れたのが、仏教か?
それは、答え があるからです。その、 答え を理解できるからですよ。
捨置にして結構です。
良いか悪いかを問わず、ただ相手を言い負かすだけという知恵がある
使用人の知恵といいますが。
245 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 20:04:26 ID:IG9ez/En
>>236 もしそうであれば世尊は衆生に自殺を勧めていたであろう。
ずーと、言い続けてるんですが....
>> 240 そうゆうふうに世俗諦の問いを勝義諦で答えていては何も分からないと思いますよ。
それにその答えはまさに如来の死後についてでしょう。
>>242 共感しますが、諸法を幻と見続ける、念じ続けるのが法念住等の四念住ではないでしょうか?
そうゆう風に無我・空・無常に慣れていき常見・我が恒常だと見る習慣を壊していくのが、
修習・行の重要な一つと思いますが、違いますか?
246 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 20:05:48 ID:IG9ez/En
>>230 > 苦からの解脱する手段として、輪廻転生の思想を説いていない。
> この世で生きていることが苦であるならば、来世に生まれ変わり苦のない人
> 生を送ることが、今現在の苦しみの解決になるだろうか。
どの説をどう解釈したか、引用が重なってるので不明ですが、上引に関しては
誰もそんなこと言ってませんよ。セム系宗教じゃあるまいし。
文章を正確に読む、分かりやすく書く工夫をされてはいかがですか?
浄土教学の影響なのか、並川『ゴータマ・ブッダ考』が似た理解です。
ただし、少しでもよい行為を行って、今生で完全に抜け出せなくても、
一歩前進し後世で完全に抜け出すという考えがあることも事実です。
仏教はおろかインドの教え・見解で、生まれ変わることが苦の解放なんてことを説く宗教はないと思います。
少なくともマーダヴァの『インドの哲学体系』には出てきません。
生まれ変りは思想でなく現状であり、それこそ苦で抜け出さなくてはならない状況です。
>>233 そのとうりです。
>>231 「輪廻思想からの開放だ」という主張は、なんの根拠もない妄説あるいは、
単なる現代思想に阿った詭弁にすぎませんよ。和辻さんが最も巧妙に展開したけれど、
今となってはちょっと知的な人は見向きもしないでしょう。
宮崎哲哉みたいな人は、始めに自分の主張があって仏教をその根拠づけに用いてるだけでしょう。
そしてそこに輪廻が説かれていては自説に合わないので排除したがる。それだけです。
それで並川『ゴータマ・ブッダ考』を持ち上げた。
輪廻思想からではなく、輪廻からの開放を説くのが仏教を始めとするインドの教え・見解です。
247 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 20:06:53 ID:IG9ez/En
>>232 実在する弟子やバラモン
今、我々が見ている人や物が実在するとは仏教はいわないでしょう。
神々や魔も、人や物も縁起しているだけ。同一の地平です。
よく「現実を見なくちゃだめだ」とかいいますが、仏教的には因果の中で縁起してるだけで
神々や魔も同じ。精神病者の妄想も、凡人の現実も、聖者の知覚に神々や魔、過去や未来が
縁起するのも法であって同じことです。そこには業による縁起・法・現れの違いがあるだけで、
本質・自性は、空であり無常であるだけです。
凡人の現実が唯一無二の真実の実在と捉えるのは素朴実在論で、インドでは全くローカーヤタ
邪命外道です。ご存じと思いますが、念のため。
248 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 20:15:27 ID:IG9ez/En
>>238 ですから恒常な我・本質と日常言語で使う「私」は別です。
その日常言語で使う「私」が恒常不変で無二の自己同一性を持っていると
思うのが倒錯で、無明なわけです。
つまり日常言語・世俗諦として「私」という言葉は使用せざる得ないが、
それが実体を持って連続して存在すると思うのが誤りです。
例えば、自分の肉体が死の瞬間から死体という別の物体になるのではなく、
常に無常で空なのにそれを実体視するのが誤りなのです。
249 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 22:23:21 ID:GrVIlKaq
>>248 > ですから恒常な我・本質と日常言語で使う「私」は別です。
その日常言語で使う「私」が恒常不変で無二の自己同一性を持っていると
思うのが倒錯で、無明なわけです。
これは今まで引用されてきた経典の説くところから言えば反対ではないか?
六根六境六識は自分ではないと経典は言っていた。縁起しているだけのものであるといので。
しかし私とかあなたは言葉こそ違え、六根六境六識を持つものとして平等である。同じ環境にあれば両者とも同じ
感覚をもつのである。しかもその感覚は自分でないことは両者に共通し、両者とも無所有なのである。
詰まりあなた私こそ本当のものであり、感覚は偽りであったのだ。
>日常言語で使う「私」が恒常不変で無二の自己同一性を持っていると
思う(のが倒錯で、無明なわけです。)
このほうが正しいのではないのか?
250 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 22:29:03 ID:GrVIlKaq
>>249 つづき
ただしこの「私・あなた」はなにも認める対象を持たないので両者ともに空に他ならない。
251 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 22:37:01 ID:YFQI7omx
仏教用語の定義からやり直したほうがいいかな 2ちゃんだし
252 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 22:50:16 ID:PlwZZ8pT
>>249 鋭い。われわれ凡夫は何も詮索せずに生きている。
凡夫は問われれば、「自己」について考えるだろうが
大事なのは問われないときのわれわれの意識だろう。
<人は日常において、無二の自己同一性を持っていると
思いこんでいる>などといった主張は、謬見である。
253 :
名無しさん@3周年 :2006/04/09(日) 22:50:46 ID:IG9ez/En
>>249 六根六境六識は自分ではないと経典は言っていた。縁起しているだけのものであるといので。
この部分は同じです。六根六境六識あるいは五蘊が縁起しているものを我だと思っているのが凡夫。
それが誤りで六根六境六識あるいは五蘊に分析して我がないこと、無我だと修習する。
それ以外の以下は、申し訳ないのですが理解できないので漢訳仏教用語に直して説明していただけますか?
> しかし私とかあなたは言葉こそ違え、六根六境六識を持つものとして平等である。同じ環境にあれば両者とも同じ
> 感覚をもつのである。しかもその感覚は自分でないことは両者に共通し、両者とも無所有なのである。
> 詰まりあなた私こそ本当のものであり、感覚は偽りであったのだ。
>
> ただしこの「私・あなた」はなにも認める対象を持たないので両者ともに空に他ならない。
>>246 >>220 と
>>230 はお邪魔しますさんの過去レスに編集をくわえずそのままコピペしたものです。
思いっきり輪廻転生を否定しています。
だからIG9ez/Enさんとは同趣意じゃない。
>>233 自分の過去レスに説教かよ。
255 :
一在家 :2006/04/09(日) 23:54:11 ID:Es9laxe3
>>219 >この「十難無記」をよくよく見れば、「霊魂が存在するか、しないか」や「人が死後も生存す
>るか、しないか」といった問いはありません。これは初期仏教徒は霊魂の存在(我)も死後の生
>命(輪廻)も受け入れていたことならないかな。
スッパニターヤ、ディーガニカーヤの半分以上の経典で、釈尊自身が霊魂の存在も
輪廻も比丘ら(初期仏教徒)に説かれておりますから当然ですね
256 :
一在家 :2006/04/10(月) 00:05:49 ID:A30zzO1n
>>223 >輪廻とは地獄のことと去れている。地獄に落ちることを輪廻すると言っているのを
>知らないの? 六道輪廻と言われてる。
大変失礼ですが、長部経典を一通り読まれましたか?
輪廻は単に生まれ変わりであり、その中には豊かな家庭に生まれたり、
楽しい人生も含まれております。
でも大きな財産、愛する人々、大切な思い出等々に固執、執着していると
またアートマン(霊魂のようなもの)は「母胎に宿る」ことになります。
また仏陀自身も懐かしそうに過去6回の生まれ変わりを語っておられます。
輪廻を超え、一度涅槃に入った菩薩たちの多くも、衆生救済の発願がある
限り何度でも生まれ変わってきます。有り難いことです。
ただし、入胎した瞬間、如来以外は皆過去世の記憶も意識も消えてしまいます。
案外、本スレの住人の中にも忘れてしまった元菩薩がおられるかも知れません。
257 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 00:07:56 ID:ICbSSdm2
>>253 自己と他者を認める言い方をしたから誤解を招くと思うが、他者は自己の六識の中に入る。
相すると一切は自己に属する六識に入り、その六識は縁起して居るものであるから空である。
なれば自己は無所有となる。主体は客体を持たないなら、主体の存在はないのだ。
そこで現実は私あなたと言う事になるが、私なるものの実体は絶対にないのだ。
私なる者の実体がない存在とは空に他ならない。私と言う時自分が空である事を認識しなければならない。
相手方も自分の六識の中にあるものであるから、相手方にも実体を認めることは出来ない。空が空を相手にする事になる。
詰まり一切は平等の観念を実行する事になる。一切は平等であるとは経典の良く説くところであるが、
一切とは、無数の個々の物を指していると解すべきであり、一旦はこの様に認めた上、その上で、
無数の個々のものは平等に空である、という事であろう。自分と同じものとしてあいて方を遇するなら、
平等の真理に合致して行動しているのでないだろうか?
258 :
一在家 :2006/04/10(月) 00:14:57 ID:A30zzO1n
同じ長部経典が手元にある暇人様は後でご確認下さい。 漢訳にはない「マハーリ経」、「ジャーリャ経」では、霊魂が身体と同一か否かという 議論(形而学上)は仏教の修行や解脱の為にならないと釈尊は説いておられます。 この辺りを根拠にして、後世の分派では、霊魂や再生には否定的な見解が多いのかも 知れません。 修行完成者の6種の神通力の中の「宿住通」では、前世、前々世での姓名、職業、一生 などを見ることができます。 また「死生通」では、生ける物たちがその行為に応じて転生するのを洞察できると釈尊 が説いておられます。(参照:原始仏典「ディーガニカーヤ(長部経典)」中村元監修) つまり、再生、転生は実在するけれども、修行や解脱には関係ないので、固執したり 執着するなというのが釈尊のスタンスだったように存じます。 また「死後有我有想論」と同様に、「現法涅槃論」(生ける者が現世で最上の涅槃に いたることを主張)にも固執するなとの教えです。(梵網経) 原始仏典の中で最も古いと言われている「スッタニパータ」の複数の章でも、高名な バラモンが仏教に帰依して聖人となり、「再び母胎に宿ることはない」という話が 説かれております。 この肉体を離れて、通常の凡夫では再び母胎に宿る主体こそ「霊魂」ということに なります。 以上は一部の経典の紹介ですが、前世は地獄だったというような記述は 見受けられません。
259 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 00:15:22 ID:OdB4gSCO
>>254 そうゆうことでしたか。分かりましたレスありがとうございます。
260 :
一在家 :2006/04/10(月) 00:18:16 ID:A30zzO1n
紀元前2世紀頃成立の原始仏典「ディーガニカーヤ(長部経典)」(中村元監修) の中には、修行の成果としての神通力の記述が度々登場します。 (沙門果経、種徳経、三明経、マハーリ経、スバ経、堅固経、他多数) 「堅固経」では、「奇跡には、神通力、読心術、説法の三種類があるが、人格の完成が 伴わない前の二つの奇跡は魔術との区別ができない。」という一説があります。 しかし説法による奇跡でも、戒めを守り、修行の成果として、四禅定(精神集中)、 十智慧、六神通力が現れるとあります。 六神通力は、「神変」、「天耳通」、「他心通(智)」、「宿住通」、「死生通(智)」、 「漏尽通」のことです。 更に「神変」は細部化されており、肉体を持ったまま梵天の世界へ行ったり、水の上を 歩いたり(聖書の中でイエス様もされた)、自分の分身を作ったりなど多数あります。 「種徳経」では、釈尊が「他心通」を用いて、ソーナダンダ・バラモンの心の中を読んで 彼の欲する質問をしたという話が詳しく述べられております。他の経典にも、バラモン達 の心の中を読んで説法された逸話が多く登場します。 修行完成者は、自然に相手の前世、カルマや心の中も見えてしまうので、対機説法にも 役立ったように存じます。 原始仏典の中で最も古いと言われている「スッタニパータ」の第5章でも、高名な バラモンであるバーヴァリの弟子が心の中で釈尊に質問をすると、釈尊が「他心通」 で次々に回答してその場にいた大勢の人々を歓喜させたという話が説かれております。 そして、ずっと後世の法華経にも「如来神通力」の記載がございますが、神通力の 中身が原始仏典に記載の神通力と全く異なっていることがすぐに分かります。
261 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 00:19:13 ID:OdB4gSCO
>>257 ご説明ありがとうございます。分かりました。
その説ですと
>>248 の私の説明とどう違うのでしょうか?
262 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 00:28:22 ID:VJxz/meB
>主体は客体を持たないなら、主体の存在はないのだ。 この世に客体というものを伴って存在するということが真に存在していることでは ないのであって、主体というものは相対的に存在するのとは違う。
263 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 00:30:39 ID:OdB4gSCO
>>258 > 漢訳にはない「マハーリ経」、「ジャーリャ経」では、霊魂が身体と同一か否かという
> 議論(形而学上)は仏教の修行や解脱の為にならないと釈尊は説いておられます。
> この辺りを根拠にして、後世の分派では、霊魂や再生には否定的な見解が多いのかも
> 知れません。
ここが重要なところです。仏教も釈尊も再生や霊魂を否定したのではないんです。
霊魂が恒常な主体だと説くことを否定したんです。
霊魂=識は説かれますが、それが主体だということは否定されます。
それと同じく、現在の自分が主体だということが否定されます。
これが無我であり、空であり、無常であり、縁起です。
264 :
一在家 :2006/04/10(月) 00:31:38 ID:A30zzO1n
>つまり、再生、転生は実在するけれども、修行や解脱には関係ないので、固執したり >執着するなというのが釈尊のスタンスだったように存じます。 入胎した際に過去世のことを全て忘れてしまわなかったら、過去世のことが 固執、執着となって修行の妨げになるでしょうね。 顕在意識では忘れておりますが、潜在意識(アートマン?)には記憶されて おり、前述の退行催眠で紐解くことができるというのも一モデル(仮説) でしょう。
265 :
一在家 :2006/04/10(月) 00:36:26 ID:A30zzO1n
>霊魂が恒常な主体だと説くことを否定したんです。 霊魂、アートマンは潜在意識のようなもので、主体(識)は顕在意識の ようなものであれば、後者は常住でなく絶えず変化しますね。
266 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 00:42:03 ID:oSdpjSDZ
>>256 菩薩はニルヴァーナには入っていません。
涅槃に入ったら生まれ変わり、輪廻などしません。
失礼だが根本的にやり直しですね。
>>255 123 名前:お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 投稿日:03/11/04 17:33 ID:pIlycxcf
初期仏典が、全て釈迦の説いたそのままを記しているかというと、文字化
されたのは早いもので紀元前一世紀ごろと考えられている。その間には伝統
的に信じられていたバラモン教の教義が混じり込んだと考えても、おかしく
ない。
しかし初期仏典は釈迦が説いた教えに一番近いものだし、その中に釈迦本
来の教えも入っているとして、バラモン教や当時の民間信仰の教えとは違う
教義、四諦・八正道・一二縁起・無我などを掘り出して釈迦が説いた教えと
している。
釈迦が輪廻転生を否定していない、初期仏典の中に輪廻転生を説いた箇所
がある、としてこれらの教えを認めることは、今まで初期仏典の中から釈迦
本来の教えを導き出した多くの先人たちの苦労を無にするものだと思うんで
すが、ハイ。
268 :
一在家 :2006/04/10(月) 00:54:48 ID:A30zzO1n
>涅槃に入ったら生まれ変わり、輪廻などしません。 仏陀は涅槃に入っても何度も生まれ変わりました、とご自身で説かれて おります。 多分、涅槃が究極の目標ではないのでしょう。 今、地球が温暖化して海面が上昇し、異常気象、天変地異で万生が共滅する 危機が年々増大しております。 涅槃に入り、何もせずに万物万生が滅びることも一切感知しないような、慈悲の かけらもない存在が仏だと思いますか?
269 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 00:55:03 ID:OdB4gSCO
>>265 霊魂、アートマンは潜在意識のようなもので、
これら「霊魂、アートマン」を恒常とする説を少なくともパーリ仏教は否定しています。
ナーガールジュナも否定しています。如来蔵をそれと考えるかどうかは解釈の分かれるところですが、
私は密教も恒常なアートマンではないように思えます。自信はないです。
270 :
一在家 :2006/04/10(月) 01:01:43 ID:A30zzO1n
>バラモン教や当時の民間信仰の教えとは違う >教義、四諦・八正道・一二縁起・無我などを掘り出して釈迦が説いた教えと している。 長部経典の中で、当時のバラモン教を痛切に釈尊が批判している箇所も 結構多いですよ。 私が改竄者であれば、真っ先にカットしていきます。ロジカルです。
271 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 01:15:59 ID:ICbSSdm2
>>270 在家さんできるだけ出典を引用してください。
272 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/10(月) 01:51:51 ID:/rnM1/dV
>>267 さんへ
3年前にそんなことを書いていましたか。あれから色々経験を積んで今では
輪廻なしには今の私は存在しないと考えるようになっています。
273 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/10(月) 02:16:22 ID:/rnM1/dV
ついでに書くと翌年から始まったNHKスペシャル 「地球大進化 46億年 ・人類への旅」が輪廻肯定を固めるきっかけでする
>>272 ,273
そうですか、諸行無常ですものね…。
3年前は層化が輪廻転生を認めているという理由で、あなたは散々攻撃していましたが、
層化もいい迷惑ですな。
275 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/10(月) 02:42:24 ID:/rnM1/dV
六道輪廻は述べているけど、浄土系のような来世の幸福は否定して いなかったっけ。どちらかというと、現世の幸福を求めているよう な気がするけど。
>>275 ほらよっ。
スレ違いになるので、あとは自分で調べてくれ。
209 名前:お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 投稿日:03/11/08 17:02 ID:PqnYwUtK
輪廻転生をブッダが説いたかどうかは別にして、輪廻転生の思想は仏教成立
以前からあったバラモン教の教義ですよね。
そうすると、学会の教える「五重の相対」の一番目「内外相対(内外相対と
は、内道と外道を比較相対して、内道が優れていることを明かすものです。
内道とは仏教のことです。外道とは、元来は古代仏教以外の諸宗教を指す
言葉ですが・・・云々)」からすると、学会は外道の教えである輪廻転生
を教えていることになりますね。
277 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/10(月) 03:40:15 ID:/rnM1/dV
おっほっほそう来ましたか。スレ違いになるので創価版で適当なスレ を紹介してください。教義面でいくらでもやってあげましょう。当方は 正本堂建設時からのアンチですから。 結局あなた方には個人に対する人格攻撃しか方法がないのでしょうから。 でもよく調べて嫌がらせをするものですね。以下創価版で。
278 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 03:41:30 ID:1fbb56Uf
>>277 輪廻転生に関するあなたの過去の主張と現在の主張の違いを指摘しただけ。
それを個人攻撃とか嫌がらせとかよくいうよな。
相当層化を憎んでいるようですね。
アハハ…。
俺は層化じゃね〜よ。
層化を憎むあまり、自分に意見するものはだれでも層化だと思ってやがる。
280 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 07:31:39 ID:ICbSSdm2
なんだかな〜。
281 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 07:45:06 ID:ICbSSdm2
12時以降はやはり休む様にしないと長続きしないじゃないか?修行が。
282 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 08:44:21 ID:QIPfrkzx
パーリ仏典もスッタニパータやダーマパダの一部以外は後の追加と聞きました。 これは疑問に思っていたんですが阿含経やパーリ仏典から後日の創作を取り除くと 仏教の基礎と言われている「縁起」「四諦」などの用語の記述は確認できるんですか。 それともこれらの用語は後日の「論」による創作ですか。
283 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 09:28:26 ID:YVjsVSkC
苦の正しい認識があるからこそ、菩提を求める心が生じる。
284 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 12:34:07 ID:oSdpjSDZ
>>268 涅槃、ニルヴァーナが最終目的ではない・・・
貴方は一体何教徒ですか?釈尊が解脱されてから何度も生まれ変わった。と言うのは
どの経典に書かれているのですか?教えて下さい。
ここは原始仏教スレです。大乗の方はそれなりのスレへどうぞ。
285 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 13:19:18 ID:YVjsVSkC
それは大乗でもないね >大乗の方はそれなりのスレへどうぞ あなたは大乗仏教をバカにしてる?それとも単なる無知?
286 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 13:28:19 ID:YVjsVSkC
でも確かに大乗ではニルバーナが最終目的ではないね。 この世に苦しむ衆生がいる限りはね。 よく解釈すれば268さんはブッダのトゥリカーヤのことが 言いたいんだね。
287 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 13:57:55 ID:304P9XP1
ま釈迦とか日蓮は下痢で死んだんだから、 涅槃なんて言われてるほど大事じゃなくて 苦が大きなテーマなんだろう
288 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 14:06:32 ID:oSdpjSDZ
>>285 どちらでもないよ。言葉通り。
>>286 では貴方の理屈では大乗は仏教では
ないね。
>>287 苦の究極的解決は涅槃しかないよ。
で、284 解脱した釈尊が転生したってどこに書いてるの?
それは解脱する前の過去世でしょ。
289 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 18:59:17 ID:ICbSSdm2
>>261 :名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 00:19:13 ID:OdB4gSCO
>
>>257 ご説明ありがとうございます。分かりました。
その説ですと
>>248 の私の説明とどう違うのでしょうか?
空諦の智慧を完成させた人は、一切は空であるとの自意識を持っているだろう。
そう言う自意識を完成させたんであるから。彼の「私」と言う措辞はこの自意識そのものである。
彼は私心なく私と言うのである。
所で空こそ自性あるものである。不正不滅である。清浄であって汚れる事がない。
空こそ固定的存在なのである。この様な固定的存在を表す私であるから、以下のように言うのは間違いではないだろうか?
>「私」という言葉は使用せざる得ないが、
それが実体を持って連続して存在すると思うのが誤りです。
290 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 19:13:37 ID:ICbSSdm2
>>282 大乗経典の内容と初期経典の内容に相違はありません。大乗経典は初期経典(原始経典)
を少しもはみ出していません。初期経典に無い物が大乗経典にあると言うことは出来ません。
反対にどちらかの経典にないものが他方の経典にあるとすると、それを解明するのは誰にでも
出来ることではありません。
その心配はないと言えます。
291 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 19:24:55 ID:V3O4abB1
>>284 >貴方は一体何教徒ですか?釈尊が解脱されてから何度も生まれ変わった。と言うのは
>どの経典に書かれているのですか?教えて下さい。
彼は長部経典の「大本経」に記載と何日か前に伝えている。
過去ログ読まずにレスした君こそ落ち付きたまえ。
過去世の6回のうち、最初だけ生まれた時は菩薩だったが
後は皆仏だったようだな。「大本経」では。
その中に涅槃を経験していない仏がいると君は思うのかな。
292 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 19:35:31 ID:V3O4abB1
本スレを起こした暇人さんから一在家さんと同じ長部経典を入手したと かきこがあった。 暇人さんが沈黙しているのは、本意?ではないが、内容に相違ないから だろう、多分な。 俺も現代語訳版を購入することにする。
293 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 19:37:10 ID:ICbSSdm2
ここに引用しない事には話にならないと思うけど。
294 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 20:27:44 ID:oSdpjSDZ
>>291 「涅槃を経験ー」?ニルヴァーナとは経験ですか。。。
益々どんな宗教か興味がでてきたww
「涅槃を経験していない仏」?笑うのみww
バカスレとは思っていたが、まさかここまでとはなあ。。。
295 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 20:51:52 ID:OdB4gSCO
>>282 そういった文献学的過剰な分析は意味ないですよ。
仏教文献学は200年ぐらいの歴史がありますが悟ったとか解脱した人は聞いたことありません。
反対に文献批判など知らずに過去の聖者たちはたくさん悟ったり解脱したりしてますよ。
文献学で利用すべきものはテクスト、訳、辞書などで、これらはとても有用です。
一応答えときますと、
四諦『ダンマパダ』190-1, 273, 277-9
『スッタニパータ』724-765 は四諦から始まって十二縁起を説いています。
ただし十二縁起は、後に固定したものと若干異同があります。
296 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 21:36:03 ID:ICbSSdm2
297 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 21:54:48 ID:is2x9N1+
>「涅槃を経験していない仏」?笑うのみww 涅槃に至っていない仏陀の意味でしょうね。 言葉じりを捉えて馬鹿笑いする貴方は誰ですか?
298 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 22:09:03 ID:ICbSSdm2
>>286 >ブッダのトゥリカーヤのことが
上はどう言う意味ですか?
299 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 22:16:49 ID:ICbSSdm2
>>260 >そして、ずっと後世の法華経にも「如来神通力」の記載がございますが、神通力の
中身が原始仏典に記載の神通力と全く異なっていることがすぐに分かります。
そこのところを引用して説明してください。
300 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 22:33:45 ID:oSdpjSDZ
だって経験した、あるいは経験する主体が残っていたらそれは 涅槃でも仏でもないでしょ?291は仏教最大の眼目である涅槃、解脱の定義 すら知らずに語っているんです。 当然仏、覚者のなんたるかをわかっているはずが、ありません。 そういう人から「−君は思うのかな?」などと言われたから笑ったのです。
301 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 22:41:41 ID:oSdpjSDZ
>>297 涅槃に至っていないブッダ???!涅槃に至っていないのは凡夫と呼びます。
一般的には。。。
ダメダ、熱が出てきた・・・凄いスレだ。こんなの初めてだ・・・!
302 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 22:43:06 ID:OdB4gSCO
>>300 経験する主体は仏でなくてもないじゃないでしょうか?
仏教では。日常生活で主体とか私というのはありだとしても、
法・教えに関する場合、主体とか言っては仏教ではないと思いますが。
303 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 22:50:43 ID:oSdpjSDZ
>>297 言葉ジリをとらえてーと言うが、涅槃の定義を知っている者が
「経験」などという言葉を使うことは絶対に有得ない。
涅槃を知らないんだよ。さようなら。。。
304 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 22:53:27 ID:ICbSSdm2
戒・定・慧・解脱・解脱知見 解脱知見が無いとだめなんじゃ?
305 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 22:53:27 ID:OdB4gSCO
>>289 空こそ固定的存在なのである。この様な固定的存在を表す私であるから、
それだと空は恒常なアートマンになりませんか?
津田真一先生説やチベットのチョナン派他空説ですね。
それでも成就できるようなので、完全に否定しませんが、
すくなくとも釈尊はそれを否定したようです。
それが十二縁起を恒常な識で解釈したサーティ説です
それを釈尊は否定しています。
『中アゴン経』「[口*荼]帝經」水野弘元『釈尊の生涯』120頁
306 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 22:53:45 ID:oSdpjSDZ
308 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 23:00:37 ID:ICbSSdm2
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/kai/kmemo/khiro2.htm 要するに,まず身体的な修業として戒律を守ること,そして心的な修業として禅,
つまり瞑想を修学すること,これら二つをあわせて実践するときに三法印や四聖諦
を観察し,世間の真実を理解することが求められる。これが完成したときにいわゆ
る慧(さとり)が得られるという。慧を得た後,この慧をもとにさらに内面的な修
業を突き詰めていった結果解脱が得られるといわれ,これを自覚する段階(解脱知
見)までいかないと本当の解脱はないともいわれる。このように解脱とさとりは似
ているが,正確にいうと異なる。
309 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 23:16:48 ID:ICbSSdm2
>>305 >それだと空は恒常なアートマンになりませんか?
空と言う言葉はどのようなものの表現であるかも言う一度考えてみて欲しい。
ついでに『無』という言葉もどのようなものの表現であるかをも。
あるものに名前をつけるなら、それは必ず相対的存在であると思う。先に言った空・無
は絶対空・無であるとして欲しい。若しアートマンが絶対的存在であるとするなら、
アートマン以外なにもない事になる。それならアートマンというものはないのである。
空とか無とかの表現は、この様に場合に用いる表現なのだが。
310 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 23:42:44 ID:OdB4gSCO
>尊者モーリア・パッグナは尊師にこのように言った。 a >「尊師よ、誰が識別作用という食べ物を食べるのですか。」 >「正しい問いではない」と尊師は言った。 a >「『(誰かが)食べる』とわたし(アハン)は言わない。 a >『(誰かが)食べる』とわたし(アハン)は言うような場合には、 a >これは正しい問いである。『尊師よ、誰が食べるのですか』と(いうのは)。 >しかし、わたし(アハン)はこのように言わない。 >このようにのべていないわたしに対しては b >『尊師よ、何にとって識別作用という食べ物があるのですか』 >とこのように尋ねるとよい。これが正しい問いである。......」 『サンユッタ・ニカーヤ』12.12.2-3 石飛道子『ブッダ論理学』155-6頁 尊師は当然、釈尊です。a「」内 が日常話法、普通の会話。b が法話語法、説法時の話し方。 法を説くときは、主体・我を主格に用いない。 縁起するものは、主体など持ち得ないからです。無常な諸行が、縁起してある法として 相を取るだけ、当然、その法は無我で空。 ということで、あの場合、主体などというのは仏教的におかしいんです。
311 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 23:45:15 ID:OdB4gSCO
>>309 名づけられない基体がある。それを空という。
ということでしょうか?
312 :
名無しさん@3周年 :2006/04/10(月) 23:54:59 ID:ICbSSdm2
313 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 00:01:26 ID:oSdpjSDZ
>>310 貴方消化不良起こしてるよ。
貴方の論で言えば「涅槃を経験したブッダ」という「日常話法」が出たので
私も応じただけです。しかも私の使った主体と言う言葉には自我という意味
も含ませています。これからは貴方は法話語法でレスしなさい。
会話になんないから。。。
314 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 00:05:18 ID:OdB4gSCO
>>312 それは釈尊やナーガールジュナの空とは違いますね。
やっぱり津田説か、唯識説、チョナン派他空説、ゲルク派諦空説の
どれかになっちゃいます。
315 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 00:12:18 ID:qiUmWRhq
そうですか?知らないので違いを言えません。
316 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 00:13:52 ID:GBzFLTqt
>>313 いや、貴方の真似して揚げ足とっただけ。
偉そうだったからね。命令はしないでくださいね。
偉くないんだから。
317 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 08:26:35 ID:v33n6cvm
縁にしたがって五蘊がつくりだした妄想だから、空なんですね。 空とは、執着に値しないむなしいものだということ。 世界はすべて空である。
318 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 08:28:27 ID:v33n6cvm
法(意識が認識することがらすべて)は、 妄想にすぎず、空であり、よって執着に値しない。
319 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 09:54:23 ID:rdeUPn8F
>>316 卑屈でつまらん人だねww
悔しいのはわかるがもっと勉強したら?
320 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 10:15:48 ID:rdeUPn8F
揚げ足取りではない、と説明してるのに読んでない。 求道心がないから悔しいだけで人の言葉を聞こうとしないんだよ。 ところで「輪廻するブッダ!」の話はどうしたの? 論点をずらさないようにね。
321 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/11(火) 10:23:58 ID:ZwdzdBo7
十難無記の最後の四つに (七)人格的完成者(如来)は死後に生存する。(八)生存しない。 (九)生存し且つ生存しない。 (十)生存しないし且つ生存しないのでもない。 に述べているとおり、いくら論じても実証できるものではないとしている。
322 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/11(火) 10:47:37 ID:1OcZwuuB
- 前に誰かが書いているように、私は輪廻否定と輪廻肯定の両方を経験し ているから分かるんだけど 輪廻否定の場合 仏教では霊魂のような恒常不変な存在を否定しているから、世代間に わたって何か同一なものが受け継がれるはずがない。 輪廻肯定の場合 無から有は生じない。私がこの世にあるのは、この世に生まれる原因 があり、その結果としてこの世に生を受けた。この原因と結果のつなが りにより、現在の私が存在している。この原因と結果が連続することに より、輪廻が生ずる。
323 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 12:23:45 ID:rdeUPn8F
恒常不変な存在がある。と言う見方が無明であって、それによって輪廻する。 恒常不変な存在など無い。と気付く事で輪廻から脱出する、と考えている。 「仏教で否定しているから」というのではなく、自分が気付くこと。
324 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 12:37:58 ID:v33n6cvm
>>189 自灯明の自は、五蘊のことでは?
妄想に意識がもってかれて気付きの連続が断たれないように、
つまり激流にのみこまれないように、
五蘊の観察というよりどころに意識をつかまらせておく。
島につかまってれば激流に流されずにすむように、
観察によりかかりつかまっていれば妄念に気付きを倒されなくてすむ。
刺激に対する反射的で無意識な妄想に心身をまかせるのではなく、
自分の気付きによって常に意識的に心身を制御しつづける。
325 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 12:41:23 ID:v33n6cvm
>>202 「真実だ」と分別判断されたことは、
その時点で空なる妄想では?
326 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 12:49:10 ID:v33n6cvm
>>202 「アートマン」は空なる妄想であり実体がなく、
ただの名前(言葉)ではないでしょうか?
名前(言葉)によって分別判断されたことがらは、
真如ではなく、空なる妄想でしょう。
だから執着に値しない。
327 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 12:57:05 ID:v33n6cvm
>>308 戒・定・慧の三学といいますね。
定は、禅定、サマタ、止、三昧。
慧は、智慧、ヴィパッサナー、観察ですね。
智慧の完成とは、観察がとだえなくなることでは?
>>326 仏の語る言葉も妄想。仏も妄想。これで満足か?
329 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 17:30:47 ID:v33n6cvm
>>328 そのとおり。
そして、結局妄想の中で暮らすしかないと、
世界を肯定し、許し赦されるのです!
330 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 19:52:21 ID:p1u1dXXH
>>284 >貴方は一体何教徒ですか?釈尊が解脱されてから何度も生まれ変わった。
>と言うのはどの経典に書かれているのですか?教えて下さい。
過去ログよりコピペします。
47 :一在家 :2006/03/29(水) 01:27:25 ID:RkF2GSK1
「大本経(大アパダーナ経)」のエピソードも面白いです。
ゴータマ仏はある時天界を訪れて、神々から過去六仏のことを聞き、
自ら知る過去六仏の知識を再確認します。
輪廻を超えた仏陀が何度も生まれ変わり、初めは前世の記憶を忘れておりますが
ある時が来ると思い出されます。
人々の塵垢が年々増えているようで、仏の寿命も生まれ変わる度に短くなって
しまったとのことです。
331 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 19:55:27 ID:p1u1dXXH
>輪廻を超えた仏陀が何度も生まれ変わり、初めは前世の記憶を忘れておりますが >ある時が来ると思い出されます。 そうでないと、悟りの前の壮絶な苦行が恣意的になってしまいますか。
332 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 20:04:39 ID:qiUmWRhq
333 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 20:49:52 ID:GBzFLTqt
>>319-320 誤読して中傷するのは止めましょうね。貴方は「求道心」があるんですから。
それとも意図的ですか?
>>268 「仏陀は涅槃に入っても何度も生まれ変わりました」と言ったのは一在家さんです。
oSdpjSDZさんは、揚げ足取りでしょう。あら探しするだけで根拠を示して訂正しないのですから。
しかも揚げ足取とられても
>>310 と無慚無愧じゃないですか?
>>323 既に指摘してますよ。
>>248 「求道心がないから」「人の言葉を聞こうとしないん」ですか? 笑
> 恒常不変な存在など無い。と気付く事で輪廻から脱出する、と考えている。
> 「仏教で否定しているから」というのではなく、自分が気付くこと。
上引の「と考えている」というのは rdeUPn8F さんがと解釈しているということでしょう。
つまり、確信はない。体験がない。それなら「自分が気付くこと」なんていうのは
不遜で傲慢ですよ。そうゆう物言いは、慢心以外のなにものでもないと思いますよ。
もっとも貴方が完全に悟っているというなら、謝りますが、そうは感じられない。
もっともこんなこと書いてる自分自身こそ無慚だが。 笑 まったく修行たりない。
334 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 20:55:42 ID:GBzFLTqt
329 それじゃ、仏教はいりませんね。 普通に暮らせばいいじゃいですか。しかし釈尊は普通の暮らしを捨てられた。
335 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 21:56:37 ID:qiUmWRhq
>>317 :名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 08:26:35 ID:v33n6cvm
縁にしたがって五蘊がつくりだした妄想だから、空なんですね。
空とは、執着に値しないむなしいものだということ。
世界はすべて空である。
真実は空であるところ、自分と言う固定したものがあると妄想している人は、五蘊を自分と考えているから、
五蘊に引っ張りまわされて、妄想の世界にいるのである。彼の妄想は実体のない幻であるから、
それらを追及することは気の狂った人のやる事であり、いかなるものをも得ることが出来ないで要る。
実態であると勘違いしている人の幻は、当然に空しいものであるから、それを『空』と表現しても
間違いではないのであるが、一切は幻であるから一切は空であると言うことに繋がるが、
それでは、実に救いのない惨めを容認するように強要されていることになるが、そしてこれこそニヒリズム「虚無主義」
に他ならないのであり、仏教の言う真理とは上の虚無を言うものではないと思う。同じ『空』を使用するから間違いやすいのだ。
仏教の空とは、科学的見地から真実は『空』『無そう』『一相』『無我』などと言わざるを得ないのである。
その説明は今までにも何回か説明してきてるが、相対的存在は自性が無いとか実体がないとかと説明される通りであり、それ故に
空・無相・無がなのである。
何故ものに変化がありそれに引きずられるのかと言う質問には、それは真理を知らず、有身見と言われる肉体を自分である年、それを基本にして考える事が
間違いの源であると思うのだ。全て自己保存の分別をするのだ。いわば人間を作り上げているんである。
古代の神話では神が人間その他を創造したとしているが、それは仏教から見ると実に悪魔の妄想であると言えまいか?
空を称える話をこそ必要なのだが、私は前に、仏の知恵を称える賛歌を引用した。これを良く理解するべきであると思う。
318 :名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 08:28:27 ID:v33n6cvm
法(意識が認識することがらすべて)は、
妄想にすぎず、空であり、よって執着に値しない。
336 :
名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 22:01:13 ID:qiUmWRhq
>>335 つづき
>>211-212 仏の智慧への賛歌。
>>318 :名無しさん@3周年 :2006/04/11(火) 08:28:27 ID:v33n6cvm
法(意識が認識することがらすべて)は、
妄想にすぎず、空であり、よって執着に値しない。
妄想であるが故に執着に値しないが、真実は空であるから真実に執着すべきである、
と言えば逆説的であるが、正当ではなかろうか?
「執着する」と、「知る」ことは違うでしょう。
また「執着する」と、「観ずる」ことも違うでしょう。
339 :
一在家 :2006/04/11(火) 23:54:59 ID:uKBNQzwH
>>284 長部経典Uの「大本経」の紹介
・尊師のサーヴァッティー(舎衛城、当時のコーサラ国の首都)での比丘らへの法話
・最初にヴィパッシン菩薩が現れ、後に悟りをひらき仏となる
・2番目はシキン仏が世界に現われた
・3番目はヴェッサブー仏が世界に現われた
・4番目はカクサンダ仏が世界に現われた
・5番目はコーナーガマナ仏が世界に現われた
・6番目はカッサパ仏が世界に現われた
・7番目はゴータマシッダルタ仏が世界に現われた
・ヴィパッシンは32の大偉人相を備えていた」
・悟りを開いたヴィパッシンは大梵天の一人に説得されて教えを説き始めた
340 :
一在家 :2006/04/11(火) 23:56:35 ID:uKBNQzwH
長部経典Uの「大善見王経」の紹介 ・尊師のクシナーラー(入滅の地)での尊者アーナンダへの法話 ・この土地は昔都でマハースダッサという名のクシャトリア王がいた ・やがて彼は七宝と4つの神通力を具え転輪聖王となった ・王妃の名前はスバッダーであった ・王は栄耀栄華を極めて長く生きたが最期を迎えた ・肉体が滅びた後、王はブラフマンの世界に生まれた 最後に釈尊はアーナンダに「そなたはその王が誰か別の人であったと 理解してはいけない。」、「私がその時のマハースダッサ王であった。」 と告げた。 「遺体を捨て置くのはこの度で7回目になる。如来が8回目に遺体を捨て 置くことはない。」と。
341 :
一在家 :2006/04/11(火) 23:57:36 ID:uKBNQzwH
スッタニパータの「小なる章」でも、弁舌第一と評された仏弟子の ヴァンギーサは釈尊にこう呼びかけております。 「第七の仙人(仏陀)さま。」と。
342 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 00:11:06 ID:bOYp8TfI
>>341 七人の仏が出たことと、仏になる前にその仏が、仏になるまでに何回も輪廻して居る事と混同していない?
このことは大乗経典においても顕著だよ。
343 :
一在家 :2006/04/12(水) 00:15:29 ID:3RwYxzbg
紀元前2世紀頃成立の原始仏典「ディーガニカーヤ(長部経典)」(中村元監修) の中には、修行の成果としての神通力の記述が34の経典中の18の経典に 登場します。 (沙門果経、種徳経、三明経、マハーリ経、スバ経、堅固経、他多数) 六神通力は、「神変」、「天耳通」、「他心通(智)」、「宿住通」、「死生通(智)」、 「漏尽通」のことです。 原始仏典の中で最も古いと言われている「スッタニパータ」の第5章でも、高名な バラモンであるバーヴァリの弟子が心の中で釈尊に質問をすると、釈尊が「他心通」 で次々に回答してその場にいた大勢の人々を歓喜させたという話が説かれております。 また、長部経典の中の「三十二相経」、「大本経」等には、仏陀や転輪聖王の具える 32の偉人相が説かれております。 さて、大乗仏典の法華経にも「如来神通力品」に神通力の記載がございます。 最初の神通力の「広長舌」は原始仏典での偉人相の一つであり、残りの神通力は 長部経典の神通力とは一つも一致しないのです。
344 :
一在家 :2006/04/12(水) 00:19:55 ID:3RwYxzbg
>七人の仏が出たことと、仏になる前にその仏が、仏になるまでに何回も輪廻して >居る事と混同していない? 過去6仏が釈尊の過去世だと記載されておりました。 あなたの説を、仏が仏のまま何回も生まれ変わってきたと解釈すれば、 そうかも知れませんね。
345 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 00:20:08 ID:bOYp8TfI
>>343 最初の神通力の「広長舌」は原始仏典での偉人相の一つであり、残りの神通力は
長部経典の神通力とは一つも一致しないのです。
上を具体的に引用してください。
346 :
一在家 :2006/04/12(水) 00:25:38 ID:3RwYxzbg
なぜ涅槃の境地に達した仏が何度も生まれ変わってくるのでしょうか? 多分、衆生救済の発願(慈悲、愛)からだと思います。 または、仏には天耳通と他心通という神通力がありますので、 衆生の苦しみや、万物万世の嘆きや祈りが、びんびんと伝わってきた ことと拝します。これは原始仏典には無い私見です。
347 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 00:34:39 ID:bOYp8TfI
>>344 >仏が仏のまま何回も生まれ変わってきたと
仏は智慧の完成として常住であるところ、それが極たまに姿を現すのである。
七人の仏が世に現れたとは、仏が世に七回現れたと言うことである。
仏は同一である。空において差別が無いからである。
だから生まれ変わると言うと言うのではないと思う。仏が生まれ変わって仏になるのであれば、
生まれ変わってないのである。
所が物に執着している凡人が死ぬと、やはり仏になるのではなくて、六道のどれかになるのである。
天上界にいたものは何時か必ず地獄界の住人になるといわれている。六道を行き来するのであると思う。
仏は仏になるのだから変わるのではないと言うべきだろう。
348 :
一在家 :2006/04/12(水) 00:37:24 ID:3RwYxzbg
>>345 長部経典の紹介だけでも、キーを多数たたいてやっと紹介しております。
法華経の如来神力品に記載の神通力の箇条書きはどなたか助けて下さい。
1.広長舌←長部経典での偉人相の一つ
2.毛穴から光を発す←長部経典での六神通に該当無し
3.○○○← 同上
10.○○○← 同上
法華経の方は神通力ではなく、比喩かも知れませんね。
349 :
一在家 :2006/04/12(水) 00:43:03 ID:3RwYxzbg
>>347 >仏は仏になるのだから変わるのではないと言うべきだろう。
素朴な疑問ですが、釈尊が苦行の末に悟ったということはなんですか?
最初から仏が苦行僧を演じていたということでしょうか?
何回も母胎に宿ったので、生まれ変わったと表現しましたが、貴方の
話ですと、仏は仏のまま母胎に宿ったということで宜しいのでしょう。
350 :
一在家 :2006/04/12(水) 00:47:35 ID:3RwYxzbg
母胎(子宮)の中の胎児に宿る時に、ほとんどのアートマンは過去世の記憶を 忘れてしまいます。これも真実真理の一つでしょう。 ディーガニカーヤの等誦経に「四つの入胎」について詳しく説かれております。 註では、入胎・住胎・出胎の三時に意識(記憶)を持っていたのは仏陀のみで、 入胎時に意識を持っていたのは80人の偉大な弟子のみだったそうです。 大本経でも、「ヴィッパシン菩薩は、明瞭な意識を保った状態で、母の胎内に 入った。」と世尊が明言されてます。 原始仏典でも仏のみが仏の意識を持ったまま母胎に宿ると説かれてます ので、言葉上での表現次第だと思います。
351 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 00:51:47 ID:bOYp8TfI
352 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 00:53:49 ID:bOYp8TfI
又明日、出来れば。
353 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 01:01:07 ID:bOYp8TfI
354 :
一在家 :2006/04/12(水) 01:30:02 ID:3RwYxzbg
如来神力品二十一と原始仏典との比較 1.出広長舌 ←長部経典での偉人相の一つ 2.放無量光 ←長部経典での六神通に該当無し 3.一時謦咳 ← 同上 4.一時弾指 ← 同上 5.地皆六種震動 ← 同上 6.普見大会 ← 同上(逆に宇宙のどこでも見るならば天眼通) 7.空中唱声 ← 同上 8.皆帰妙 ← 同上 9.遥散書物 ← 同上 10.通一仏土 ← 同上
355 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 01:41:10 ID:YlTsd1lC
>>336 執着と呼ばれる現象も、空なる妄念であり妄想では?
忘れられない、あるいは、反射的に同じ思考をくりかえしてしまう状態が、
執着では?
心身の司令塔に、ある特定の信号が点灯したままになり、
信号が消えるまで落ち着かないのです。
たとえばないものねだりの時など、
思考が堂々めぐりになってしまいます。
そんな時は、それを執着と知りましょう。
これは空だから執着しなくていいのだ、
つまり、今このことを考える必要などないのだと、
意識から執着の対象をとりあげてやるのです。
子供から「さぁ、お昼寝しましょうね」と、
やさしくおもちゃをとりあげるように。
356 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 10:07:38 ID:hfx172aE
仏典のなかで 「過去世は存在しない」「来世は存在しない」と 三時を明確に否定したものってある?
357 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 12:15:54 ID:wirzHkLy
「輪廻するブッダ」説を取る方へ。「私は幾多の生涯にわたって生死の流れを
無益に経めぐってきた。家屋(この五執蘊と言う身体の)の作者を探し求めて。
この生涯あの生涯と繰り返すのは苦しいことである。
家屋の作者よ。汝の正体は見られてしまった。汝は最早家屋を作ることは
無いであろう。汝の梁(煩悩)は全て折れ、家の屋根は(無明)壊れてしまった。
心は形成作用を離れて渇愛を滅ぼし尽した。」ダンマパダ
どう読みこなしますか?釈尊は「幾多の生涯に渡ってー無益に経めぐってきた。」
「汝はもはや家屋を作ることはできない。」と仰せだ。
これは釈尊が解脱した時、初めに言われた歓喜の言葉とされる。
釈尊が生まれ変わるには、もう一度煩悩に沈み無明に戻り形成作用で肉体を
持たねばならない・・・不可能です。見抜いたら終わりです。
この世を救いに仏が生まれ変わるなど、有得ないことです。
「原始仏教」ではー
大乗ではわかりませんが。
>>333 釈尊は「私が悟らせてやる。」などとは言っていない。ならば自分で気付くしか
ないでしょう?「考えている」に関しては、煩悩を絶つ、阿羅漢になる、
副次的に輪廻を解脱する。ーアゴン
に訂正させていただきます。
358 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 12:43:02 ID:52qN5NFv
>>357 >釈尊が生まれ変わるには、もう一度煩悩に沈み無明に戻り形成作用で
>肉体を持たねばならない・・・不可能です。
仏は入胎・住胎・出胎の時も意識があると長部経典の等誦経に記載と
紹介済みです。
「無明に戻り」とは貴方の固執した考えではないでしょうか。
359 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 12:45:00 ID:52qN5NFv
シナの坊さん達のマイコンの束縛を離れて、正しく原始仏典を見ましょう。
360 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 12:50:04 ID:wirzHkLy
私はダンマパダを引用しただけです。 「仏」の定義が違うようです。貴方の解釈でお進みください。
362 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 13:07:44 ID:wirzHkLy
>>358 私は大バカ者でした。貴方は「大乗思想」。私は原始仏教。
噛み合わないのは当たり前だったんですよ!
363 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 19:21:30 ID:52qN5NFv
自称小乗も大乗も仲良く、シナの坊さん達のマイコンの束縛を離れて、 正しく原始仏典を見ましょう。 長阿含はシナのマイコンがあるから、パーリ聖典を正見しましょう。
364 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 19:41:45 ID:bOYp8TfI
>>356 :名無しさん@3周年:2006/04/12(水) 10:07:38 ID:hfx172aE
仏典のなかで
「過去世は存在しない」「来世は存在しない」と
三時を明確に否定したものってある?
ありますよ!何ヶ所もありますよ!探して欲しいですか?
365 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 19:54:31 ID:52qN5NFv
>>364 >ありますよ!何ヶ所もありますよ!探して欲しいですか?
それでは、原始仏教談話室ですので、原始仏典の中からご紹介下さい。
366 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 19:57:21 ID:bOYp8TfI
>>365 どうしてそれを知りたいですか?
有るはずないと思いますか?
367 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 20:19:01 ID:wirzHkLy
いいから書けよ。
368 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 23:13:58 ID:bOYp8TfI
13前にはあったが、その時はなかった。前にはなかったが、その時はあった。 前にもなかったし、後にもないであろう。又今も存在しない。 24そこには既にあったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、 つきも存在しないところのその境地を私は良く知っている。 感興の言葉第26章 中村元訳 10既に得たものと、これから得られるはずのものーーーーこの二つは塵埃りであり 病であると知って、心を安定統一した知者はそれを捨てよ。 感興の言葉第27章 中村元訳
369 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 23:23:49 ID:bOYp8TfI
851 未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触(触:感覚・経験)や見解について遠離を見る者は、〔もはや、何ものにも〕導かれませ 849 世尊は〔答えた〕「〔身の〕変壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ、過去〔の記憶〕に依存せず、〔過去と未来の〕中間(現在)において〔虚妄の思いで〕形成されない者――彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません。 949 過去にあるもの――それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何ものも〕掴み取らないなら、〔あなたは〕寂静の者として、行じおこなうでありましょう。
370 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 23:25:44 ID:PRqsY4zK
371 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 23:31:03 ID:bOYp8TfI
372 :
名無しさん@3周年 :2006/04/12(水) 23:54:02 ID:bOYp8TfI
373 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 00:02:18 ID:mv1D9zV/
374 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 00:09:24 ID:mv1D9zV/
>>327 >智慧の完成とは、観察がとだえなくなることでは?
この智慧とは空諦のことであるから、無執着になることにおいて完全になることである
、と言うべきではないかな?
375 :
一在家 :2006/04/13(木) 00:50:32 ID:vbDNcJ5g
長部経典と長阿含経との比較「沙門果経」 出典:パーリ仏典「長部経典」現代語訳:春秋社、中村元監修 漢訳仏典「長阿含経」現代語訳:平河出版社、丘山新、他 「沙門果経」を読み比べますと、前半は類似として、後半の仏道修行者 の現世における成果(果報)についての阿闍世王の質問に対する釈尊の答 が全く異なります。 「長部経典」では現代訳50頁中の27頁(約54%)に渡って果報が詳細に 説かれております。 小中大の持戒の成果、正念正知、四種の禅定、六種の神通力、十種の智慧、 八種の聖道の実践による阿羅漢の果報の完成などです。 一方、「長阿含経」では現代訳21頁中のわずか6行(約1.5%)にしか過ぎません。 三つの明智(宿命智、天眼智、漏尽智)に到達すると答えただけで、釈尊からなんの 解説もありません。 沙門の果(成果、果報)という名前の経としては、一番大切な箇所がほとんど 説かれていない不自然な長阿含経です。 シナの僧侶がなんらかの理由で大幅に法話をカットしたように思えます。 長部経典と長阿含経とを比較しますと、他の経典でも後者にカットが散見されますが またの機会に紹介致します。
376 :
一在家 :2006/04/13(木) 01:26:10 ID:vbDNcJ5g
「弊宿経」のことが話題になっておりますので、長部経典から一部紹介します。 ・パーヤーシ王は来世は存在しないと強く主張した。 ・でも尊者クマーラ・カッサパの説法により帰依して在俗信者になった。 ・その後、王は自分は食べないような粗末な食物やボロ着で布施をした。 ・王は身体が破壊されたあと、死んでから、四大王天の神々の仲間になった。 ・王と同じ時に尊敬心のある布施をした若者ウッタラは、死んで三十三天の神として再生した。 以上、生前の行為により死後の再生の仕方が変わるということが説かれております。 尚、出典が現代語訳なので、私レベルでの誤訳、誤転記はないと思います。
377 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 08:22:07 ID:0gBzCkcw
>>374 仏教の「智慧」はどういう意味なのか、
意外にあいまいな理解しかしてませんでした。
智慧ってズバリ、何?
378 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 08:32:19 ID:mv1D9zV/
379 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 08:38:31 ID:mv1D9zV/
>>377 空諦のことだと思う世。この空諦は無相・一相・無が・無願・無起・無作・無常・平等・
無量・無限・無辺・不動などと換言されて言われもする。
>>378 :名無しさん@3周年:2006/04/13(木) 08:32:19 ID:mv1D9zV/
>
http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm > 在家さん、こちらはちょうアゴンとか色々な名前の経典を挙げられてもさっぱり解らないのだ。
> 上のサイトでも共通項にしないと議論できないと思う。
> そもそも阿含経と長部経典とどう違うんだ?そこのところを説明して欲しいな。
とりあえず、
>>1 で紹介されている
> 原始仏教の定義 森ゼミの「原始仏教ってなーに」
> www2.toyo.ac.jp/~morimori/naani.html
にあるコンテンツ読んで、南伝、北伝、すなわち、パーリ語仏典(南方上座部)と漢訳仏典のあることは、基礎知識としてみにつけておいた方がよいかも。
381 :
356 :2006/04/13(木) 09:39:43 ID:6h0Ehrjg
結局仏典の中で明確に三時そのものを否定したものは無いわけね。 368、369はどう読んでも三時において我というものは存在しない としか読めない。 これが三時そのものの否定と言うのは誤読では? 「弊宿経」も過去世、来世が前提ですよね。 どうも輪廻の存在否定派(仏教が輪廻を否定的に見ているのは自明)は 「アートマンが存在し無ければ輪廻は絶対存在しない」と外道説を主張し 断見に陥っているように思われます。 仏教における輪廻は常見ではありません。 断見であれば「あらゆる執着を絶ち殺人そのものにも執着せず、殺すものと 殺されるものの二つから開放されて人を殺す時、もはや来世は無いのであるから 悪い果報は存在しない」 こんなオーム真理狂みたいな外道の説がまかりとおってしまいます。
382 :
356 :2006/04/13(木) 10:11:42 ID:6h0Ehrjg
来世過去世がそもそも存在しないのであれば 輪廻に浮沈して苦しむ衆生は存在しないことになる。 三界も存在しない そうなれば ジャータカも嘘になる 四向四果も無い
383 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 10:24:28 ID:FUkM0bMd
>>373 どうも三時の否定とは離れてると思うが・・・?
前にもダンマパダを引用したが、釈尊御自身「無益に幾多の生を経めぐってきた。」
と仰せだ。
384 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 10:25:04 ID:+/04xXcK
同じ人間であったという視点から、 切って捨てるのでなく、お釈迦さんが当時の文化を、 どの程度その身に受け入れ、信じ、活用したのか? を考えてもいいんじゃないかい? 輪廻や三世を、完全に信じていたのか? それとも、菩提樹下の思惟の中、 「実際ありえねーだろうなwww」「けど、それじゃ通用しないだろうしな・・・」「さて、どうしたものか・・・」 という流れだったのか? 六神通はありうるのか? 河を飛び越えたなんて記述もある。 聖典の記載をどこまで文言通り捉えるか。 もちろん、全てを文言通りとして受け止めるのが、本来の、信仰という態度かもしれんが・・・。
乳粥よりもスジャータの乳を味わいたい。 売春婦のマンゴー園でマンコを味わいたい。
386 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/13(木) 10:46:47 ID:sY2HEnPX
どうしても教典の文字からの理解になってしまう。そうではなくて、 お釈迦様が輪廻を述べているのは、瞑想などで実際の現象として確信し たからではないかな。 もし現在もお釈迦様が生きているというのなら、どの様なときにお釈 迦様に会えるか、またはお釈迦様が生きていると確信するのは、どうい う状態の時か、書いてみたらどうだろう。
387 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 10:49:03 ID:6h0Ehrjg
お釈迦様の生きた時代は六師外道など多様な思想が花開いた時代でした。 けして一元的な考えが横行していたわけではありません。 邪命派のアジタような三時を否定した現実主義もいました。 しかしお釈迦様は順世派の思想を取り入れていません。 それはなぜか、深く考える必要があります。
オレがインポでセックスできないのに、オマエラはセックスの快楽を味わうのは許さん。 byゴータマ・シッタルダ
日本には仏教徒はいないそうです。 646 名前:名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 10:52:19 ID:6h0Ehrjg また同じ過ちを繰り返すね・・・ 日本に仏教徒はイネーって言ってるだろ? わざと仏教徒って曖昧にして逃げてるだろ? 具体的に教団名を挙げてみな12サン
390 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 12:21:41 ID:0gBzCkcw
>>379 悟ったあとは識が智慧に転じると聞いたことあります。
空諦を観じる能力は智慧だと思いますが、
智慧が空諦だというのは、よくわからないです。
391 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 12:45:02 ID:da2c2er3
>>378 パーリ語仏典(南方上座部)の長部経典と、漢訳仏典(北伝)の長阿含経と、
区別して私は混乱はないです。
392 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 18:00:53 ID:mv1D9zV/
>>381-383 >「無益に幾多の生を経めぐってきた。」
心=五蘊を自分であると誤認して、それに従い幸せを追求してきたが、
その努力は無益であった、と言う意味だろう。五蘊のもたらすものは幻であるからだ。
五蘊=心が三世を形成しているのである。三世は幻なのだ。
これが三世を否定していないのか?幻は妄想である。妄想を実体であると思っているから
幻=妄想=三世が無いのに有ると考えるのではないであろうか?
393 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 18:19:47 ID:mv1D9zV/
>>390 :名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 12:21:41 ID:0gBzCkcw
>
>>379 悟ったあとは識が智慧に転じると聞いたことあります。
空諦を観じる能力は智慧だと思いますが、
智慧が空諦だというのは、よくわからないです。
真実が何であるか知っている人は、真実に反する様に見えても、あるいは、真実に反することを言っている人がいても
それに騙されることはないだろう。騙されてひどい目にあわないのは、真実を知っていることの効果であろう。
この効果を真実を知ることに拠る恵みと言うのであると思う。智慧と言うのは妥当な表現ではないか?
そこで、今空諦と言う真実があるといわれているのであるが、それは個々のものには実体がなく幻であると言うものあでる。
そして全ては平等な無なるもの空なるものであると言うのである。人はこの真実を知ってどのような恵みを得るのであろうか?
願い求めるということが間違いであることを知るだろう。何欠ける事無く全て満たされていることを知る事になるであろう。
あれかこれかで迷うことがこの真実に反することを知るであろう。一切が不変の義なるものであることを知るであろう。
これに反するならば、まさに上の恵みに反してしまうのである。それは迷いの世界・苦しみの世界である。
今挙げた真実の世界は永遠無量であると同様に迷い苦しみの世界も永遠無量であろう。
何故空が真実であるかは何度も経典・論が説明している。解らない人は人に聴くことを躊躇してはならない。
394 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 18:32:38 ID:6h0Ehrjg
392さん あなたは唯心論みたいですが もっと素直に読んでみてはどうですか それに 五蘊=心が三世を形成しているのである ?????
396 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 19:31:49 ID:mv1D9zV/
相依関係にあるものは個我・命・自我というものがないのであり、そこには何かあるのではないのである。 空と表現しているのは、人が空中に腕を振りまわして何の性が遺物にも合わないのは、その空中に何もないからである、 という意味で、空と命名しているのであると思う。それを「無」と表現しても間違いではないのであり、異なる概念ではないと 言わなければならないと思う。経典にも同意義の表現としている。 1070 世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、無所有〔の境地〕を見る、気づきの者となり、 『〔何ものも〕存在しない』という〔思い、すなわち、無一物の境地を〕依り所にして、激流を超えなさい。諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、諸々の言葉(論説)から離れた者となり、渇愛の滅尽を昼夜に観なさい」と。 スッタニパータ 又空のことを『無相』とも『一相』とも言うが、これらは『無』のことである。
397 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 19:33:38 ID:mv1D9zV/
>>396 「輪廻の否定」と言うのは、
通常は今現実に「自分」が生きているのを肯定した上で、
前世、来世を否定するものだと思うのだが、
あなたの場合には、
今現在「自分が生きている」のも妄想であると考えるのね?
399 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 20:04:17 ID:6h0Ehrjg
無と空は別概念ですよ 無は有の対立概念ですから・・・ もっとも禅では空の意味で使っているみたいですが。 >そこには何かあるのではないのである。 またこの喩えですと「そこ」は存在するわけでしょ? それとも「そこ」も存在しない?
400 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 20:48:14 ID:s/MgaD4q
遅レスながら130さんの行ってることが輪廻転生説では全く正しいと思いますが どうしてみんなスルーなのでしょうか?
401 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 21:08:11 ID:s/MgaD4q
×行ってること ○言ってること
402 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 21:23:38 ID:FUkM0bMd
>>392 論理が飛躍し過ぎ。屁理屈はやめた方がいい。
解脱したら三世は幻想かも知れんが、現実に我々が輪廻してるのは事実。
何故そこまで三世を否定したいのか。自分の論が否定されたのが悔しいのだろうか?
394が言うとおり素直に読んだ方がいいと思う。
どうせまた反論してくるんだろうがね。
確証が得られない以上、 どちらのスタンスをとる人がいてもいいじゃないか。 なぜ、どちらかに統一しようとする? 同じグループでもあるまいにw
「恒常不変でない(もの)」とは、「絶えず変化している(もの)」という 意味にとどまり、等質・同質性を否定する。したがって再生とか輪廻転生と いった言葉に結びつけるのは無理がある。
405 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 21:51:07 ID:FUkM0bMd
>>403 ちがうな。三世、輪廻が存在しないなら俺は仏教なんてやらない。
やりたい放題やってハイサヨウナラだよ。
これは仏教の根幹に関わる問題だよ。
大乗ではあるが道元禅師はまず三時の理を知ることから修行が始まる、
と仰ってる。
>>405 マリアの処女懐胎と同じ問題をはらんでいたとしても?
407 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 21:57:03 ID:FUkM0bMd
「彼らは心の解脱を欠き、また知恵の解脱を欠く。彼らは(輪廻を)消滅 させる事が出来ない。かれらは実に生と老いとを受ける。」スッタニパータ(725)
408 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 22:04:57 ID:FUkM0bMd
当時のインド思想界では輪廻解脱が一つのテーマだった。 ただ釈尊の力点は現実の苦、デゥッカをどうするか、と言うところに置かれていた。 結論は煩悩を断つということだった。副時的に輪廻解脱も為された。 輪廻が存在しない、ということではない。
>>408 私も、本スレのスタンスを支持するものではない。
が、現代日本において仏教を理解し受け止めるということはどういうことか?
という視点が2chにはないw
語句をいじるだけでなく、自分の仏教でなければならないのだから。
その点で、君の
>>405 はすばらしいレスだと思う。
410 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 22:54:28 ID:mv1D9zV/
>>398 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/04/13(木) 19:58:24 ID:S4D6v8TX
>
>>396 「輪廻の否定」と言うのは、
通常は今現実に「自分」が生きているのを肯定した上で、
前世、来世を否定するものだと思うのだが、
過去現在未来と言うのを三世と言う。過去は現在未来なくしてなく、現在未来は過去なくしてない。
三世はお互いに相依関係により存在するものである。しかれば、過去も現在未来は実体としてないのである。
所が過去があると考えるものは、その固定観念を本に現在未来を形成する。そしてここに止まる。しかし過去と現在未来が
相依関係により存在するものでジッタとして存在しないと言う仏教を知れば、そしてそれを信じるならば、過去及び現在未来に拘束
されないでいることが出来る。このように拘束され無い様に修養することが修行である。
過去が無いのであるから当然現在もないのであるから、現在生きていると意識することは間違いと言うことになる。
>>399 :名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 20:04:17 ID:6h0Ehrjg
無と空は別概念ですよ
無は有の対立概念ですから・・・
もっとも禅では空の意味で使っているみたいですが。
411 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 22:55:16 ID:mv1D9zV/
>>410 つづき
対立概念としての「無」ならば、それは「有」なのだ。何故なら、その無は有に依存して無であり、有は無に依存して有であるから。
しかし、この様な有としての「無と有」の無いのを『無』といっているのだ。究極の「無)である。
>>そこには何かあるのではないのである。
またこの喩えですと「そこ」は存在するわけでしょ?
それとも「そこ」も存在しない?
空間的に観るならば、りんごとテーブルの相依関係を例に取れば、りんごとテーブルの場所が
空又は無として存在しているのである。一切(全宇宙)はこの様な縁起関係にあるから、全宇宙が無限に場所を持っているのだ。
それから時間的相依関係を見るなら、あることに悩んでいた時間が長ければ、時間は部分をもつと考えるほかないのであるから
(詰まり、その時間は人を拘束していたのであるから)悩んでいた時間は場所をもっているといわざるを得ないのだ。
原因となる時間、結果となる時間、この様な縁起関係が永遠無限にこの宇宙にはあるのであるから、それらが実体が無いとする
空諦も無限永遠なのである。阿弥陀仏はこの意味の仏である。無量光及び無量寿の意味である。
412 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 23:12:14 ID:mv1D9zV/
一つのものが無量ということは、空と言うことである。一相である。
413 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 23:34:17 ID:sGMMqpQg
>>410-412 確かに大乗で勝義を説くときはそのようなことを述べます。
ですが、ここでは原始仏教について話してるのです。
しかも輪廻・三時については明らかに世俗についてであって、
勝義ではありません。テーマにあったことを述べないと困りますよ。
それと世俗と勝義をぐちゃぐちゃに述べることは問題が多いと思います。
勝義を体験できない人に、たとえ貴方が常に勝義の状態であるとしても
語るのは、機を見ないと全く逆の効果を生むと思います。
例えば、世俗において善悪も因果もないといった勘違いを生むでしょう。
414 :
名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 23:49:46 ID:mv1D9zV/
>>413 > ここでは原始仏教について話してるのです
大乗経典は原始経典を解説したもんです。
世俗体が真実でなく、勝義諦があることを知るが故に、修行が出来るんです。
原始経典もそのことを説いています。 善因悪果に付いては、勝義を追求する
事に他ならないのです。
415 :
暇人 :2006/04/13(木) 23:53:03 ID:J1xUcTGW
ここは漢訳阿含経やパーリ仏典に説かれている教えについての談話室ですね 大乗経典から原始仏典を見ていく立場もあるでしょうけども それはここより むしろ本スレッドが得意としているかもですね
416 :
暇人 :2006/04/13(木) 23:56:10 ID:J1xUcTGW
原始仏典第三巻「長部V」の第28経を確認しました。 なるほどここでは釈尊が「常住論」を説いた事になってますね。 三つの常住論があるが釈尊は最高の常住論を説いたと。。。 うむぅ。。
417 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 00:11:24 ID:vvf3O3rA
>>414 世俗体が真実でなく、勝義諦があることを知るが故に、修行が出来るんです。
高度な修行はそうかもしれないが、修行をするためには、輪廻を信じ、
苦諦を実感すれば深い出離・厭離の思いが湧き起こり、
三学に従って行できるでしょう。
因果や輪廻なしに勝義諦ってのは危険だと思います。
貴方はどんな行をしてるんですか?
前世の記憶をもつ者がいないことについて、古ウパニシャドの文献では、 ひとは母親の産道を通るときに頭を締め付けられるので記憶を失うのだと説明する。 こんな幼稚な説明はない。われわれの記憶しない前世など無意味であり、前世の自分はまるで 他人である。仏教から学ぶべきものとして、輪廻の思想は除外すべきである。 アクロバットな解釈は、見苦しい。矛盾は矛盾なのである。 ブッダ滅後の数百年間の弟子たちは凡庸で無我の思想をつまらないものにしてしまったように 思える。もっとわれわれは批判精神を発揮して、とるべきものだけをとる捨てるべきものすてる べきだ。
419 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 00:19:57 ID:Iaeaz1q2
>>417 >どんな行をしてるんですか?
以下の様な行・
>諦を実感すれば深い出離・厭離の思いが湧き起こり、三学に従って行できるでしょう
420 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 00:26:59 ID:vvf3O3rA
>>418 批判精神と言う名の常識への盲信ですね。
和辻から並川・宮崎まで。それはウパニシャッドの説明が詭弁なだけ。
アビダルマの宇宙論が可笑しいから仏教は可笑しいというのと一緒。
輪廻がないなら、自殺しなくちゃならないよ。一切皆苦なんだから。
輪廻を信じないのに自殺しないのは、一切皆苦を実感してない証拠。
そういった文献学的机上空論は、やめれ。
421 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 00:31:37 ID:vvf3O3rA
>>419 その行をおこなうのに勝義の理解は必要ないでしょう。
それより、その行には輪廻や因果が重要だと思いますよ。
422 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 00:33:42 ID:Iaeaz1q2
>>420 >輪廻がないなら、自殺しなくちゃならないよ。一切皆苦なんだから
ここんところの意味がわからないな?
423 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 00:38:31 ID:Iaeaz1q2
>>421 勝義は輪廻や因果を一旦は認めるところから生じる智慧だと思います。因果なくして勝義
はないと思います。
424 :
暇人 :2006/04/14(金) 00:38:49 ID:7JCMEwx4
文献学的に言えば 経典には輪廻が説かれている。 私たちの時代ジョーシキから言えば 輪廻を実体化せず 比喩として解釈するのが しっくりくる。 最近は 事実をやっぱきちんと見ようよ 古代人が書いたのだし こんな感じかな
425 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 00:41:55 ID:qTEwrqBl
>>416 俺の書き込んだ南伝のダイジェストを読んでくれ。
頼むw
426 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/14(金) 00:45:50 ID:t/HyRsI7
427 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 00:46:09 ID:qTEwrqBl
しまったw 前スレだったか・・・ orz
428 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 00:52:51 ID:vvf3O3rA
>>422 経験するものは全て苦であるなら、死んで終わるなら簡単だ。
私は、現代で自殺が多いのは納得できる。
輪廻を信じないなら、実に合理的な選択だからだ。
ところが輪廻があるから、それでは解決にはならない。
よい行為をするしかない、行をするしかない。
これが仏教を始めとするインドの共通見解でしょう。
>>425 読みましたよ〜
ここは、基本的に人の話は聞かない所ですから、
最初からそうゆう期待はしない方がいいです。
貴方に弊宿経も解説してもらいたいです。
片山さんのお弟子さんですよね。
>>428 > ここは、基本的に人の話は聞かない所ですから、
> 最初からそうゆう期待はしない方がいいです。
わかってるつもりだが、暇人があんな台詞を吐くとは唖然としたもんで・・(^^;
> 片山さんのお弟子さんですよね。
違いますよw
授業受けてて、ちょこっとお話したことがあるだけです。
もう17・8年前の話だ・・・w (-_-;)
>>428 > 貴方に弊宿経も解説してもらいたいです。
南伝をコピーしてあったかどうか・・・。
もしコピー持ってたらダイジェストした方がいい?w
431 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 01:26:31 ID:vvf3O3rA
>>430 それはありがたい。無理のない範囲でお願いします。
>>370 こちらにパーリと漢訳を示しておきましたので、ご参考にしてください。
>>431 コピーあったw
けど、こりゃ・・・
文章が硬すぎる(^^;
訳文が妥当かどうかも微妙な気がするw
片山訳を参照されることを薦める。
(金があればおいらも片山訳揃えるんだけどなぁ・・・)
もし、それでもと言うならまとめてみるが、気長に待ってくれw
それから暇人さん、
あなたがそんな(
>>416 )仏典の読み方をするとは思いませんでしたよw
おやすみ〜 ノシ
すまん orz P.366〜379をコピーしてなかった・・・。 ま、それは、当時私の興味が今語られているようなことにはなかった、 及び、この経の重要部分ではないと判断したからかもしれない。 いずれにしろ、無理だ。ごめんm(_ _)m
門外漢なのですが、質問させてください。 輪廻転生があるとしたら十二支縁起の老死の後には無明が来るということなんでしょうか? 十二支縁起の説明で、そういった円環構造を示している資料があれば教えてください。
435 :
暇人 :2006/04/14(金) 07:52:01 ID:jr6V7LBf
>>432 あなたが前すれ962で書いてたとおり
1)『一生〜多百千生』 の常住論
2)『一成壊〜二十成壊の生』の常住論
3)『十成壊〜四十成壊の生』の常住論
この三つがあり、釈尊は一番優れた三番目の常住論を説いたと経典に
書かれているのですよ
436 :
暇人 :2006/04/14(金) 07:53:26 ID:jr6V7LBf
原文と訳は前スレの紹介のとおり Sassato attA ca loko ca vaNjho kUTaTTho esikaTThAyiTThito. Te ca sattA sandhAvanti saMsaranti cavanti upapajjanti, atthitveva sassatisaman’ti. AyaM tatiyo sassatavAdo, etadAnuttariyaM, bhante, sassatavAdesu. Sassato常住の attAアートマン caと loko世界 caとは vaNjho不毛・空しい kUTaTtho不動の Esika石柱TthAyi状態にあるTthito立った. Teその caと sattA衆生 sandhAvanti 走り回る・流転する saMsaranti動き回り・輪廻する cavanti死す upapajjanti再生する, Atthiある・存在するtvevaしかしながら sassati常住saman同じ’ti. AyaMこれ tatiyo第三の sassatavAdo常住論, etadそれAnuttariyaM無上・最高, bhante尊師よ, sassatavAdesu常住論において. 「アートマン(個我)と世界は常住であり、なにものも生み出さず、 不動であり、石柱のように固定していて、 かの生けるものたちは生死流転し、輪廻しているけれども、 まさに常住不変に存在している。」(岡田訳) 「常住のアートマンと世界とは、不毛で不動であり、 石柱のように(変化しないで)存在している。 その有情らは、流転し、輪廻し、死し、再生しているが、 しかしながら常住不変に存在する。 これが第三の常住論であり、常住論において最高の常住論です、尊師よ」(私訳)
437 :
暇人 :2006/04/14(金) 07:56:05 ID:jr6V7LBf
>上記の骨格は、[(他の宿命通)常住論1・常住論2・常住論3、(世尊の)宿命通]が、 >併記されているだけではなかろうか。 骨格というかポイントは常住論にはなく、 釈尊の宿命通が とてもすごいというゴマすりだけどもね
>>437 この件に関し、別なところで質問して、以下の回答を貰ったのですが、
以下のように解釈することはできないのでしょうか?
> 要するに、ブッダは
> 「他人の説だけどね、常住論はこんな教えですよ」と説明したのですが、
> その説明の仕方が、最高だったと、サーリプッタは歓喜しているのです。
>>435 >この三つがあり、釈尊は一番優れた三番目の常住論を説いたと経典に
>書かれているのですよ
前三つは外道のもの(つまり紹介)、次の四つ目が釈尊のもの。
と読むのが自然でないかいw
勿論、「宿命通がある」ということが前提ではあるが、
その宿命通にもレベルがあり、「常住論」と関連するものについては三つ目が最上であり、
世尊の説(及宿命通)はそれよりも素晴らしい。
という構造にしか見えないが?
>>440 今、過去ログはみれないのだが、
> 少なくともここでは、最上なのは「説明の〈仕方〉」でなく、
>
>>12 のようなことだとおも。
つまり、暇人さんが、
>>436 > etadAnuttariyaM, bhante, sassatavAdesu.
etadそれAnuttariyaM無上・最高,
bhante尊師よ, sassatavAdesu常住論において.
と書いてくれたけど、あなたは、
sassatavAdesuを
「常住論の分析(もしくは熟知)において」 と解釈し、
「常住論の説明の仕方において」とは解釈しがたい
といっているの?
442 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 12:36:41 ID:MmICLDC/
>416 :暇人:2006/04/13(木) 23:56:10 ID:J1xUcTGW >原始仏典第三巻「長部V」の第28経を確認しました。 > >なるほどここでは釈尊が「常住論」を説いた事になってますね。 >三つの常住論があるが釈尊は最高の常住論を説いたと。。。 おー、そのような重大事をさらっと言うとは、一切の固執がないね。>暇人さん 済みませんが、釈尊が説かれた最高の常住論はどのような内容ですか?
444 :
442 :2006/04/14(金) 12:44:42 ID:MmICLDC/
>済みませんが、釈尊が説かれた最高の常住論はどのような内容ですか? 本当に済みません、既に解説済み(436)でしたね。>暇人様
>>441 原文は於格?
だとしたら、表面上は
「(諸々の)常住論」【に於いて→の中で】最上のものです。
という読みにしかならんだろ。
三つの常住論が説かれたが、それらの中で・・・、と。
で、解釈として、常住論そのものについての意味合いを採るならば
前者かな・・と。
「仏説の中で最上」という記述にはならないと思う。
>>445 :名無しさん@3周年:2006/04/14(金) 13:05:57 ID:xxSLsKRl
> で、解釈として、常住論そのものについての意味合いを採るならば
> 前者かな・・と。
なるほど。サンクス。
<−−
436 :暇人:2006/04/14(金) 07:53:26 ID:jr6V7LBf
「常住のアートマンと世界とは、不毛で不動であり、
石柱のように(変化しないで)存在している。
その有情らは、流転し、輪廻し、死し、再生しているが、
しかしながら常住不変に存在する。
これが第三の常住論であり、常住論において最高の常住論です、尊師よ」(私訳)
−−>
ここを見る限りでは、
常住論は三つあり、三番目の常住論が一番優れている。
と言っているだけで、
>>435 > この三つがあり、釈尊は一番優れた三番目の常住論を説いた
とは言っていない、
つまり、「釈尊は(一番優れた三番目の)常住論を説いた」とは
言っていないのではないでしょうか?
一番目、二番目同様、ただ紹介しただけなのではありませんか?
448 :
442 :2006/04/14(金) 18:06:04 ID:MmICLDC/
>「常住論において最高の常住論です、尊師よ」(私訳) 前後の説法がなんだったのかな? それが分かれば全てが分かるのですが。>暇人さん
449 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 18:35:09 ID:Iaeaz1q2
>>434 :名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 07:34:39 ID:wu+waIl8
>輪廻転生があるとしたら十二支縁起の老死の後には無明が来るということなんでしょうか?
十二支縁起の説明で、そういった円環構造を示している資料があれば教えてください。
良い質問であるが答えは難しいので、その回答は余り見かけない。
無明の支配しているもの、又は無明が生み出したものは苦しみでしかない。
老死の後に来るものは無明である。無明が消滅しない限り苦しみの人生はなくならない。
相対的な生死は無明の生み出したものである。無明から誕生した人は生死に執着するが故に
更に生死を形成する。老死の後に来る無明を受けるのは、新たに形成した生死の人である。
450 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 18:51:15 ID:Iaeaz1q2
>>443 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/04/14(金) 12:37:55 ID:Cwx22e09
>
>>410 ttp://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html 例えばナーガールジュナは、空が、何もないことを意味しているのではないことを表現して、
反論者は言う。--- ではいったいただ無のみなのか、それともなんらかのものがあるのか。
これに対して答えて言う。「ある」と。
、断言しています。
佐倉氏のものを読んでみましたが、なにあがあるかに付いて名答が無いようです。
しかし、空が自性あるものとしてあると言うのが仏教ではないでしょうか?
実に空のみが自性あるものといわなければならないとおもます。自性あるが故に
不生不滅であり常住なんです。仏典も自存者と仏の事を言ってます。
自性あるものは必ず空でなければならないのです。それは相対的存在ではないからです。
存在して見える一切の個物は相対的存在であるが故に、外見の個性・自性はありません。
しかし一切のものには、空と言う自性があるといわなければならないと思います。
一切の空を合算しても同じ空です。一切は空とはこの意味だと思います。一相、無相、無我、です。
>>450 あなたは、悪因苦果、善因楽果については、どう考えているのですか?
苦果も楽果も、空であり妄想だとすれば、
悪業の限りをつくしても、善業に努めても結果は同じことになりませんか?
悪いことはせず、良いことをする意味はあるのでしょうか?ないのでしょうか?
452 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 20:46:18 ID:Iaeaz1q2
>>451 39
心から〔煩悩が〕漏れ出ない者に、心に混乱なき者に、〔規範化した〕善と悪を捨て去った者に、〔眠らずに〕起きている者(惰眠を貪らない者)に、恐怖は存在しない。
善悪に縛られることが悪であり、善悪に縛られないことが善である。執着しないことが自分にも他人にも善なのである。
執着しないのは一切が空であるからである。この様な善は楽をもたらすと思いますが。
453 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 21:06:33 ID:Iaeaz1q2
454 :
442 :2006/04/14(金) 21:20:33 ID:MmICLDC/
長部経典と法華経との共通の究極真理は、 「アートマンと世界は常住不滅」ですか?? for 菩薩クラス限定 こんなことを当時の比丘や衆生に説いても、固執が強まるだけで救いには 全くならなかったでしょう。おそらく。 「すべては無常(空)である」という説法こそ最大の方便だったのかも 知れません。 この方便によって、四諦を説き、多くの衆生が救われたのですから。
455 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 21:35:55 ID:Iaeaz1q2
>>454 >長部経典と法華経との共通の究極真理は、
「アートマンと世界は常住不滅」ですか??
常住不変と言うのはニルバーナのことと釈尊により説かれていたのじゃない?
原始経典も大乗経典もおんなじだよ。法華経だけが大乗ではないね。
>すべては無常(空)である」という説法こそ最大の方便だったのかも
無常(空)は真実であり、真実は方便ではない。方便は技術方法と言う意味である。
修行方法を方便と言ったものではないでしょうか?八正道は修行方法でしょう。
456 :
434 :2006/04/14(金) 21:42:00 ID:eO/e2YoB
>>449 >老死の後に来る無明を受けるのは、新たに形成した生死の人である。
回答、ありがとうございます。
老死の後に無明が来るのであれば、無明を消滅させようとした場合、ずっと極限にまで遡った
過去世の無明を滅する必要があるのではないかと危惧しましたが、宿命通を持たない凡夫でも
現世の無明だけを考えればよいという理解に達しました。
457 :
暇人 :2006/04/14(金) 23:01:10 ID:NflxxEMP
>>438 私がPTSを見る限り その可能性はゼロですね
過去ログ 前スレの下書きです
・・・・・・
>>944 >>923 と
>>929 の引用でパーリ文は特定できました。有難うございます。
http://www.tipitaka.org/tipitaka/s0103m/s0103m-frm.html このページのchapter5「SampasAdanIyasuttaM」のsection12「SassatavAdadesanA」156です。
冒頭のAparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti sassatavAdesu.を
「また尊い方よ、世尊が常住論について教えを説かれたやり方は 最高のものです。」(岡田訳)
のことですが、
AparaM次の panaしかし, bhante尊師よ, etadそれAnuttariyaM無上の・最高の,
yathA〜のごとく bhagavA尊師 dhammaM教法 deseti教示する sassatavAdesu常住論
ですので違和感のない訳です。
・・・・
釈尊が常住論を説いたと書かれています
458 :
暇人 :2006/04/14(金) 23:04:11 ID:NflxxEMP
>>439 >次の四つ目が釈尊のもの
PTSに目を通してから 持論を展開されてください。
原文に四つ目はありません。
460 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 23:18:03 ID:qTEwrqBl
あ、そうか。 常住論は三つ。 宿命通は四つ。 だなw
ごめん。 460は撤回。 確認せずに発言するのはよくないな(^^; (たぶん合ってるとは思うけどw)
462 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 23:33:50 ID:GUxCL8jF
>>428 同意である。輪廻と言うものがないのであれば、
自殺は最高の知性であり、極めて合理的だ。更にいうなら
輪廻を否定してなお生きている、生きようとしている、そのような生物には
知性など無い。輪廻を否定した仏教は、実存主義になる。よって輪廻否定論者は
ニーチェのように発狂してこそ本物である。あるいはアーサーケストラーのように
完全なる絶望の内に自決してこそ本物である。
463 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 23:45:06 ID:GUxCL8jF
>>422 いかに貴方が生ぬるいか、よおくわかるレスです。ハッキリいわせて頂きます。
仏教なんてやめなさい。
きっかけ(動機)としての有効性は大だが、 悟りに関しては輪廻の意味はあまりない。 再び生えお受けることはないのだから。
うお! タイプミス・・・orz
466 :
名無しさん@3周年 :2006/04/14(金) 23:53:29 ID:GUxCL8jF
論点がズレてます。
>>466 俺のことだろw
わかってるよ。茶々入れただけだよ(´ー`)y-~
468 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 00:06:23 ID:yeF2nnEg
「俺のことだろ」ってお前しかおらんだろうが。
アンカーなかったからね。 過疎スレ過疎板では数ヶ月前のレスへ返信がある、 ってこともザラだし、ハレー彗星のような登場をする住人もいるしw
470 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 00:15:17 ID:x0xWfb7U
>>462-463 ご同意いただきありがとうございます。
私としては四諦を学んだなら、即時に分かる明解な論理だと思ってたんですが、
なかなか同意してくれる人がいなくて、ちょっと寂しいものがありました。
ですが、分からないからといって仏教はやめないでほしいです。
いつか分かる時がくるかもしれないし、(それこそ 何世か後に)
それを分からなくても実践できることをすれば確実によくなるのが
仏教だと思うからです。もちろん実践が倒錯してないことが前提ですが。
471 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 00:23:17 ID:yeF2nnEg
>>470 明解な論理ですよ。まともな人がたまたま来なかっただけでしょう。
貴方がそういうなら、「仏教やめろ」は撤回しましょう。今日はこの辺で。
またお会いしましょう。
472 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 00:23:52 ID:x0xWfb7U
473 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 00:29:54 ID:VENDe+1X
>>463 仏教を正しく理解していない人と思いますが、仏教の初歩でしょう?。
474 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 00:31:46 ID:x0xWfb7U
>>471 撤回ありがとうございます。おやすみなさい。
またお会いしましょう。
475 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 00:32:59 ID:VENDe+1X
>>463 仏教の初歩を理解していない人のいうことであると思うけど。
476 :
一在家 :2006/04/15(土) 00:47:31 ID:tHqtgaLz
老死の後は無明だと固執している方へ。 「弊宿経」では、パーヤーシ王は尊者クマーラ・カッサパの説法により帰依して 在俗信者になり、布施をして、死んでから、四大王天の神々の仲間になった。 また尊敬心のある布施をした若者ウッタラは、死んで三十三天の神として 再生した。 善因をつめば、無明どころか、明るく暖かく平安な天界に生まれると説かれて おりますよ。 でも残念ながら、地獄(無明)に往く人の方が多いですね。
477 :
一在家 :2006/04/15(土) 00:49:39 ID:tHqtgaLz
スッタニパータにおける再生の法話の事例 出典:「ブッダのことば」中村元訳(岩波文庫) 【蛇の章】 29 わたし(師)はもはや母胎に入ることはないであろう。 152 諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 【小なる章】 278 実にこのような修行僧は、苦難の場所に陥り、母胎から母胎へ生まれ変わり、 404 つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は死後にみずから光を放つという名の神々のもとに赴く。 【大いなる章】 486 もはや再びこのような生存を受けることはない。スンダリカ・バーラドヴァージャは聖者の一人となった。 509 施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる。 535 諸々の汚れと執着のよりどころを絶ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。 547 もはや再びこのような生存を受けることはない。サビヤ老人は聖者の一人となった。 続く2章にも沢山関連する法話はあります。
478 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 01:06:31 ID:x0xWfb7U
>>476 無明は地獄のことじゃないですよ。天界に行こうと無明の支配下。
一在家さんは、水野弘元先生の『仏教要語の基礎知識』を読まれることをお勧めします。
これは名著で、分かりやすく正確で仏教の体系が俯瞰できるコンパクトは本です。
それを読んだ上で平川彰先生の『インド仏教史』上巻57-81頁に原始仏教の教理が
短く且つ高度に纏められています。
以上の予備知識がないとお経を直接独習するのは難しいでしょう。
伝統的な先生から習うなら別ですが
479 :
暇人 :2006/04/15(土) 02:57:05 ID:LJLIUEcu
余談ですが対応する漢訳長阿含第18経の平行箇所は たぶんここ 復次我佛世尊有最勝法。 謂佛世尊能以正智現大神通。其神通者。謂從一現多。 攝多爲一。或現空無所有。或現城隍山石隨身而去。 或現從地以手捫摸虚空乃至梵界。 或現履水如地。或現空中跏趺而坐。或現行相。 譬如日月行於虚空。如是神通。 若有沙門婆羅門等。見此通力。生不信者。 我説彼等皆是愚迷凡夫。彼非聖者。彼不具通。不求正覺。 亦不樂求寂靜涅槃。而此通力。 是即名爲佛最勝法 ・・・・ 「現空無所有」とありますね。 白文を読めないのだが「空・無所有を現ずる」だとすると パーリ長部の常住論と180度逆ですね
480 :
暇人 :2006/04/15(土) 03:06:54 ID:LJLIUEcu
白文読めないのだが テキトーに読むと 「また次に我、佛世尊は最も優れた法を有する 佛世尊 よく正智をもって大神通を現ず その神通は 一より多を現じ 多を摂して一となす あるいは空・無所有を現じ・・・」 どなたか詳しい方 訂正及びご指導願います
481 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 03:34:10 ID:91coE7SV
復タ次ニ我ガ佛世尊ニハ最勝法有(マシマ)ス。 謂ク佛世尊ハ能ク正智ヲ以テ大神通ヲ現ズ。其ノ神通トハ・・・
482 :
霊体天使 :2006/04/15(土) 04:07:20 ID:jAP+7IMY
「スッタ二パータ」を保有しているが、仏教最古の本と書いてある。 その中に、「子を欲するな」と書いてある。(犀の角) SEXをすると、名誉も名声も失う、とも書いてある。(ティッサ・メッテイヤ) 美食をするな、と書いてある。(なまぐさ) 無一文になれ、と書いてある。つまり、資産0だ。(ヴァーセッタ) 親族が死んでも、泣き悲しんではいけない、と書いてある。(矢) 自分を偉い人と思い、他人を軽蔑してはいけない、とある。(勝利) などなど、現代人の教訓がたくさん書いてある。
483 :
暇人 :2006/04/15(土) 06:42:39 ID:NLvG4ZGv
484 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 08:18:08 ID:VENDe+1X
しかし、サンユッタニカーヤも良い経典(大事な真理を説いていると言う意味)だな〜。
>>457 暇人さん、レスありがとうございます。
> 私がPTSを見る限り その可能性はゼロですね
私に先入観(釈尊が常住論を説くはずがない。釈尊が説くのは縁起である)が
有るせいかもしれませんが、
<−−
http://www.tipitaka.org/tipitaka/s0103m/s0103m-frm.html このページのchapter5「SampasAdanIyasuttaM」のsection12「SassatavAdadesanA」156です。
冒頭のAparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti sassatavAdesu.を
「また尊い方よ、世尊が常住論について教えを説かれたやり方は 最高のものです。」(岡田訳)
のことですが、
AparaM次の panaしかし, bhante尊師よ, etadそれAnuttariyaM無上の・最高の,
yathA〜のごとく bhagavA尊師 dhammaM教法 deseti教示する sassatavAdesu常住論
ですので違和感のない訳です。
・・・・
釈尊が常住論を説いたと書かれています
−−>
また尊い方よ、世尊が(他説として)常住論について教示されたやり方は 最高のものです。
との解釈も可能ではないでしょうか?
釈尊が自説として常住論を説いた
と主張するためには、もう一押し欲しいのですけど。
486 :
一在家 :2006/04/15(土) 08:47:02 ID:bnsZmIpB
>>479 >パーリ長部の常住論と180度逆ですね
今から40年ほど前のことでしょうか、私の師が黄檗宗の
大本山万福寺の岡崎大僧正からこのように伺ったそうです。
「釈尊の教えの本体を知る為には、いちおう哲学化してしまった
支那仏教を除いて、インド仏教を勉強しなければだめだ。」と。
そういう意味では、支那仏教の解説書は読まずに、パーリ語聖典
をまずそのまま読むことにしております。
(その後に皆様にご紹介いただいた解説書も読むことに致します。)
漢訳の長阿含経も並行して読み、説法の比較もしておりますが、
こちらは2割から5割がカットされており、中には暇人さんの
ご指摘の通り180度内容が替わっている経典もございました。
(まったく信じられないことですが、長阿含経の実状です。)
師の直弟子から上述を聞いて30年以上経ちますが、やっと岡崎大僧正
のおっしゃられたことの意味を悟った次第です。
487 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 08:54:54 ID:VENDe+1X
>>485 暇人さんは頑固だからなぁ・・・(^^;
489 :
一在家 :2006/04/15(土) 09:20:12 ID:iSC0Mj9D
ディーガニカーヤの「自歓喜経」の紹介 マガダ国の都ナーランダーにて、舎利佛がブッダの教えが いかに最高であるかを順に語っていきます。 これを聴いた仏陀はサーリプッタの表明が正確であると保証 しました。 以下がサーリプッタの語った順番です。 ブッダの善法、十二処、入胎、読心術、観察の段階、七聖、 七覚支、実践の進展、正しい話し方、正しい戒行、教育の方法、 解脱知、常住論(※本スレで紹介)、前世の境遇を想起する知、 生類の生死を知ること、神通、四種の瞑想。 釈尊「あなたは確かに私が説いたとおりに説明しました。」 尊者サーリプッタは世尊の面前で信仰の喜びを表明しましたので 歓喜すべき経と命名されました。
>>434 :名無しさん@3周年:2006/04/14(金) 07:34:39 ID:wu+waIl8
> 十二支縁起の説明で、そういった円環構造を示している資料があれば教えてください。
<−−
十二種類の支分は依存関係によって生じたもの(縁生)である、と牟尼(仏陀)
によって説かれたが、それらは煩悩と業と苦との三者にことごとく収まる。(1)
第一と第八と第九が煩悩である。第二と第十が業である。残りの七つが苦である。
十二のもの(法)は、ただ三者に収まる。(2)
三から二が生じる。二から七が生じる。七から三が生じる。
このようにまさしく生存の輪は、つぎからつぎへと転ずる。(3)
−−>
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122044375/250-4883026-4051461#product-details 大乗仏典〈14〉龍樹論集 中公文庫
因縁心論 より
大乗になってしまいますが、上記(3)のような記述はあります。
無明-行-識-名色-六処-触-受-愛-取-有-生-老死
において、
煩悩:無明、愛、取
業 :行、有
苦 :識、名色、六処、触、受、生、老死
(煩悩)→(業)→(苦)→(煩悩)→(業)→(苦)→(煩悩)→
>>489 :一在家 :2006/04/15(土) 09:20:12 ID:iSC0Mj9D
> 解脱知、常住論(※本スレで紹介)、前世の境遇を想起する知、
原典にあたらず、質問ばかりすみません。
・解脱知
・常住論(※本スレで紹介)
の2つは矛盾しないのですか?
常住であれば、解脱などありえないように私には思われます。
0001_,01,0077c23(02):餘者虚妄。是爲三常存法。此法無上。智慧無餘。 0001_,01,0077c24(06):神通無餘。諸世間沙門婆羅門。 0001_,01,0077c25(01):無有能與如來等者。況欲出其上。如來説法復有上者。 ここが > これが第三の常住論であり、常住論において最高の常住論です、尊師よ」(私訳) となんとなく、対応するような気が。 『これが第三の常住論であり』と『是爲三常存法』 『常住論において最高の常住論です』と『此法無上』
0001.txt(6586): 0001_,01,0076b23(00):<com>(一八)</com>佛説長阿含第二分自歡喜經第十四
494 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 13:05:26 ID:V6/K2J3d
釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた
495 :
暇人 :2006/04/15(土) 13:59:32 ID:NLvG4ZGv
>>485 5. Sampas±dan²yasutta½歓喜すべき-経/自歓喜経
141-144 S±riputtas²han±doシャーリプッタ獅子吼/サ−リプッタの表明
→釈尊は素晴らしいと舎利弗がアジテーション。
143→Api ca, me [me bhante (s². p². ka.)] dhammanvayo vidito.
なんで釈尊を素晴らしいといえるのかと問われて舎利弗は
「さらにまた 私は 尊師よ 教えのさまざまな系統を 知っている」と応えて
以下の「desan±」(教示すること)の一々について釈尊は最高だから、
釈尊が一番素晴らしいと論旨が展開されています。
その一つが常住論です。
他説ではなく、釈尊の教えですね。
496 :
中観派 :2006/04/15(土) 14:01:03 ID:euO1ANhJ
自分でも理解できるでしょ。
キリスト教の神は俺あったことないし。しかも、神の声が聞こえたやつは自分の
心の声を聞いただけかもしれない。
しかし、諸法無我で自分が宇宙であることは理解できる。
なぜ、自分が宇宙であるかの証明は簡単だから、下のサイトにいって理解してくださいな。
http://www.hannya.net/index.htm 俺の肉体はテレビゲームのキャラクターみたいなものだな。そして、本当の自分はそのキャラクターを
動かすプレイヤーみたいだな。ゲームでもやれば、その実感はわくんじゃないですかね。
今のゲームは現実世界みたいに忠実にできていますよ。
497 :
暇人 :2006/04/15(土) 14:04:11 ID:NLvG4ZGv
5. SampasAdanIyasuttaM歓喜すべき-経/自歓喜経 141-144 SAriputtasIhanAdoシャーリプッタ獅子吼/サ−リプッタの表明 →釈尊は素晴らしいと舎利弗がアジテーション。 143→Api ca, me [me bhante (sI. pI. ka.)] dhammanvayo vidito. なんで釈尊を素晴らしいといえるのかと問われて舎利弗は 「さらにまた 私は 尊師よ 教えのさまざまな系統を 知っている」と応えて 以下の「desanA」(教示すること)の一々について釈尊は最高だから、 釈尊が一番素晴らしいと論旨が展開されています。 その一つが常住論です。 他説ではなく、釈尊の教えですね。 再投稿
498 :
中観派 :2006/04/15(土) 14:05:26 ID:euO1ANhJ
無我が理解できたら、宇宙を最高にもっていくための道徳を考えようぜ。 無我とかよりそっちの方が難しいんだよ。 中道は最高だぜ。
499 :
暇人 :2006/04/15(土) 14:06:36 ID:NLvG4ZGv
145 KusaladhammadesanA善法の教え/ブッダの善法 AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti kusalesu dhammesu. 146 AyatanapaNNattidesanA 「処」に関する智慧の教え/十二処 AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti AyatanapaNNattIsu. 147 GabbhAvakkantidesanA入胎の教え/入胎 AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti gabbhAvakkantIsu. 148 AdesanavidhAdesanA 読心の類の教え/読心術 AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti AdesanavidhAsu. 149 DassanasamApattidesanA見定の教え/観察 AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti dassanasamApattIsu. 150 PuggalapaNNattidesanA人施設についての教え/七聖 AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti puggalapaNNattIsu. 151 PadhAnadesanA努力についての教え/七覚支 AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti padhAnesu.
500 :
暇人 :2006/04/15(土) 14:07:12 ID:NLvG4ZGv
152 PaTipadAdesanA行道の教え/実践の進展 AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti paTipadAsu. 153 BhassasamAcArAdidesanA言正行の教え/正しい話し方 AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti bhassasamAcAre. 154 AnusAsanavidhAdesanA訓戒類の教え/正しい戒行 AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti anusAsanavidhAsu. 155 ParapuggalavimuttiNANadesanA他人の解脱に関する智についての教え AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti parapuggalavimuttiNANe. 156 SassatavAdadesanA常住論の教え AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti sassatavAdesu. 157 PubbenivAsAnussatiNANadesanA宿住随念智の教え/前世の境遇を想起する知 158 CutUpapAtaNANadesanA死生智の教え/生類の生死を知ること 159 IddhividhadesanA神通類の教え/神通 160 ANNathAsatthuguNadassanaM他の方法で師の功徳を見ること/四種の瞑想 161 AnuyogadAnappakAro 実践??? /ブッダの応答 162-163 Acchariya-abbhutaM 稀有−未曾有 /ウダ−イとブッダ
501 :
暇人 :2006/04/15(土) 14:10:14 ID:NiI+3qME
AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti このすべてに また尊い方よ、世尊が(他説として)■■■■について教示されたやり方は 最高のものです。 と、(他説として)を補われますか? 私は不自然だと思います
502 :
暇人 :2006/04/15(土) 14:22:54 ID:NiI+3qME
>>501 156と157はセットで読むべきではないか?
156を踏まえなければ157はない。
外道は、その神通により幾多の生を見、その範囲内だけで我を常住と見るが、
如来はそれよりも多くの生を見ることができ、それを宿住随念智という、と。
なぜ、三種並べねばならなかったのか?
なぜ、157が156と同じ文型・用語で述べられているのか?
なぜ、同様の内容なのに157において「石柱云々」の記述がないのか?
外道にも素晴らしい神通はあるが、如来の神通はそれよりも優れていて、
それが宿住随念智と呼ばれる、と読むことは不自然ですか?
暇人さんは、梵網経の記述とここと、どちらを肯いますか?
また、真の原典にも、チャプターごとの標題があるんですか?
504 :
暇人 :2006/04/15(土) 15:40:20 ID:4OzNCCwl
>どちらを肯いますか? 何も確認せずに 予断と偏見で言えば、 漢訳に常住論がなく、パーリに有るのはパーリが挿入したからでは、と 思っているのだけどもね 但し、私たちが目にするパーリにはあるという事実は認めなきゃ、と。 >真の原典にも てか長部経典は 遅い成立でしょ。 >宿住随念智 宿住随念智と常住論は、別のテーマだね経典の構成からは。 読んだら 一目瞭然よ
外道にも幾種かあって、そのなかでも素晴らしい神通・智恵・行はあるけれども 如来のそれは、それらをはるかに凌駕する。 という記述は数多く見られるので、ここもそのパターンの一つだと思っていた。 てか、俺もいいかげんくどいなw 記述の不整合はよくあること。 私個人はこう読む、という表明に止めておくべきだな。 お騒がせしました m(_ _)m
506 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 17:47:26 ID:VENDe+1X
大体石柱と言う具体的で印象深い比喩を用いて常住を説いているのに、 それを欠いている翻訳など考えられない。
>>501 :暇人:2006/04/15(土) 14:10:14 ID:NiI+3qME
> AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti
>
> このすべてに
> また尊い方よ、世尊が(他説として)■■■■について教示されたやり方は 最高のものです。
>
> と、(他説として)を補われますか?
> 私は不自然だと思います
いろいろ、丁寧にご教授ありがとうございます。
まだ、納得いかないところもありますが、訳もわからずこの調子で質問しても仕方ないので、
私もなんとか、長部経典3を入手して、第二八経 信仰の喜び―自歓喜経を読んでみることにします。
読み終わったらまた、書き込むと思いますので、その時にはまた遊んでやってください。
よろしく、お願いいたします。
508 :
1/2 :2006/04/15(土) 19:24:55 ID:kYeTQHBK
しつこくなるが
>>507 のために。
これかなぁ?
0018_,01,0255a12(00):佛説信佛功徳經
0018_,01,0255a13(14):
0018_,01,0255a14(00):西天譯經三藏朝奉大夫試光祿卿明教大師臣法賢奉詔譯
0018_,01,0256c14(00):復次我佛世尊有最勝法。謂沙門婆羅門等。
0018_,01,0256c15(17):
0018_,01,0256c16(01):所有過去一生多生所作因縁果報思念等事。乃至壽量。我於倶胝歳數而不能知。
0018_,01,0256c17(14):唯佛世尊。
0018_,01,0256c18(01):知彼沙門婆羅門於過去時中處處所止。或色界中。或無色界中。或有想處。
0018_,01,0256c19(05):或無想處。或非有想非無想處。
0018_,01,0256c20(07):彼種種所作因縁果報等事。悉能了知。
0018_,01,0256c21(00):是即名爲佛最勝法
509 :
2/2 :2006/04/15(土) 19:31:38 ID:kYeTQHBK
>>505 > あるという事実は認めなきゃ、と。
認めますよ。ただ、編纂者の意図がどこにあったのか?
→我の常住を仏説とみなして挿入したのか?それとも
如来の神通が外道のものより優れていることを示す為だったのか?
は、微妙じゃないかなぁ・・・と。
勿論、全体を通しての並記の仕方(
>>501 )から言えば、
常住論(我は永遠である)も仏説であると見なければならないかもしれない。
けど、↓
> てか長部経典は 遅い成立でしょ。
そういう意味じゃないw
今でも東南アジアで暗誦するときに、
それら標題が付いているのか?ということです。
(自歓喜経ではないが)片山さんは、(季刊原始仏教の)凡例で
「本文におけるゴチック体の小見出しは全て便宜上のものである――」としている。
つまり、底本には各節に見出しは無い、ということじゃないのかな?
切り方は恣意的にならざるを得ない、と。
156と157をセットで読むことも可能かな・・・と。
リンク先のパーリには、どちらにもpubbe-niva^sana^nussatiの語があるようだし。
文献学的には、完全に後代の挿入と見るべきなのだろうが・・・。
510 :
434 :2006/04/15(土) 20:30:24 ID:FnmEfOMT
>>490 >三から二が生じる。二から七が生じる。七から三が生じる。
このようにまさしく生存の輪は、つぎからつぎへと転ずる。(3)
なるほど! 七から三、苦から煩悩が生じるというわけですね。
十二支縁起を煩悩、業、苦に分けて考えるというのは寡聞にして存じませんでした。
これは美しいですね。 さすがはナーガールジュナ。
ありがとうございました。
511 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 21:03:27 ID:yeF2nnEg
ムカつくスレもあるが、それも含めてここは良いスレだと思う。 仏教についてこれほどケンカできるってのも、ある意味素晴らしいと思う。 さて、輪廻否定論者よ、語れ。反論する為に俺も勉強せにゃならん。
512 :
名無しさん@3周年 :2006/04/15(土) 21:58:51 ID:V6/K2J3d
釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた 釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた釈尊が自説として常住論を説いた
513 :
暇人 :2006/04/16(日) 00:18:59 ID:okLmt1JF
>>509 見出し語が便宜上でもそれぞれの出だしが、
AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti ■■■■
なのですよ。
「また尊い方よ、世尊が(他説として)■■■■について教示されたやり方は
最高のものです」
これが各部分の出だしなので『意味的』にも156と157は別テーマですね。
514 :
一在家 :2006/04/16(日) 06:43:19 ID:l29HiBL8
>>491 >・解脱知
>・常住論(※本スレで紹介)
>の2つは矛盾しないのですか?
>常住であれば、解脱などありえないように私には思われます。
本経の「解脱知」の段落では、このような記述があります。
1)三つの束縛を断ち切って悟りに到達する
2)更に一度だけこの世界に戻ってきて苦しみを終わらせる
3)更に化生者となり、その世界から戻らなくなる
4)心の解脱と智慧の解脱を現世で理解し、円満に暮らす
この中では4)が最高と舎利佛は表明し、釈尊は保証しました。
三つの束縛(有身見、戒禁取、疑)を断ち切って、かつ常住する存在
があるとすれば2つは矛盾しないように思います。
何分、文献の紹介はできても、解説をできるレベルでないので
補足願います。>暇人さん
515 :
一在家 :2006/04/16(日) 06:51:02 ID:l29HiBL8
>>494 >釈尊が自説として常住論を説いた
菩薩達にこっそりと説いたのであり、比丘や衆生には説いていないですよ。
因って、シナや日本の坊さん、学者達、皆さんもご存じなくて当然でしょう。
当時と違って、あまり無常(空)を説きすぎると、悪因悪果の教えも消滅し
警察につかまらなければ何をしても良いとか、経済のためなら環境(万物万世)
を破壊しても構わない輩が増えてきております。
釈尊も天眼通、読心通で昨今の状況を一番ご存じだと思います。
516 :
一在家 :2006/04/16(日) 07:31:38 ID:l29HiBL8
長部経典と長阿含経との比較「三明経」 出典:パーリ仏典「長部経典」現代語訳:春秋社、中村元監修 漢訳仏典「長阿含経」現代語訳:平河出版社、丘山新、他 コーサラ国の遊説中に、バラモンの二人の青年、ヴァーセッタと バーラドヴァージャとが互いの師の教えが合わない梵天との共生に ついて釈尊に尋ねる。 正確には聞こうと心に思っただけで、仏が先に答えたので二人は驚愕する。 「沙門果経」とは異なり、「三明経」を読み比べますと、全体が類似して おります。 「長部経典」では現代語訳で31頁になります。 ・梵天と共通する比丘は身体が滅びた後、梵天と親しく交際し共生するであろう ・梵天は妻帯してない ・梵天は心に恨む気持がない ・梵天は心に悪意がない ・梵天は心が汚れてない ・梵天は自制心がある
517 :
一在家 :2006/04/16(日) 07:32:09 ID:l29HiBL8
「長阿含経」では現代語訳で19頁になり、大幅な説法の減少は見られません。 ・仏はいつもしばしば、その梵天への道を説いていた ・梵天には恚心がない ・梵天には瞋心がない ・梵天には恨心がない ・梵天には家族と財産がない ・梵天は思いのままである 梵天と共生する5つの条件の内、大半は一致しているように思います。 釈尊の教えが北伝し、南伝して、21世紀に日本で遭遇した時にこの程度 の差異は止むを得ないかも知れません。
518 :
一在家 :2006/04/16(日) 07:36:39 ID:l29HiBL8
>三つの束縛(有身見、戒禁取、疑)を断ち切って、かつ常住する存在 >があるとすれば2つは矛盾しないように思います。 少なくとも仏陀はこの条件を満たしております。 菩薩達、梵天達も同様でしょう。
519 :
一在家 :2006/04/16(日) 08:55:01 ID:1mjMqd+U
「末法の世」の意味 釈尊が正法、像法、末法の世の到来を予言されたという話を数十年前に 聞きました。 これまで、ずーっと末法の世は人心が荒廃し仏法が正しく実践されないの だろうと思っておりました。 この数日、別の仮説が浮かんできました。 当時の比丘や衆生と比べて、21世紀の比丘や衆生は荒廃しているだろうか? むしろ豊かになり、生活苦で人殺しや盗みをすることは減っているでしょう。 それでは、なぜ仏法が正しく実践されないのでしょうか? もし時代が経つにつれて、釈尊の教えの重要な箇所がカットされたり、90度 または180度改竄されていたら、いかに心正しい比丘や衆生であっても実践 できないと思います。 むしろ正しい心で真面目に実践すればするほど、不幸な果を生じるかも知れません。 以上のシナリオを釈尊は予告しておられたのかも知れません。 これまで一部紹介しましたように、少なくとも長部経典と長阿含経レベルでも かなりの箇所で差異が生じております。 まして後世の大乗経典では更に差異が拡大していると見ても自然でしょう。
520 :
名無しさん@3周年 :2006/04/16(日) 09:56:43 ID:UviezUaA
末法思想は原始仏教の教義ではなく、中国で生まれたものだったんでは?
521 :
天蓋真鏡 :2006/04/16(日) 10:51:16 ID:3NJGo76b
四諦八正道は自身の在所から始められる教えか
522 :
名無しさん@3周年 :2006/04/16(日) 18:46:01 ID:F8Cnk4+X
>>522 一箇所間違いあるね。
(他説として)を省いてくださいな。
それでパーリ原文に目を通す。
ならば わかります。
524 :
名無しさん@3周年 :2006/04/16(日) 20:36:21 ID:JKo4u75E
輪廻転生を信じようとしない人は、この世の苦が老死しかないと 考えている幸せな人なのかもしれません。 お釈迦さんは、少なくとも死の一歩手前まで行った苦行の際には、 輪廻転生を信じていたはずだと思います。 輪廻転生を信じていなかった としたら、あともう一歩で死という苦行の最中、その「あと一歩」を踏み出す ことですべての苦を滅していたはずですから。 それをしなかったのは、苦行によって答は出ない、、、 「苦行を極めること=自らの死」になるが、それでは来世に問題を先送り するだけだと考えたんだと思う。 そして、この後アプローチを変えたということ自体も輪廻転生を信じていた という根拠になると思います。 さらに言えば、お釈迦さんが悟られた後の説法で、「輪廻転生は間違っていた」と 言及してない以上、(自らは悟りによって超越したものの)輪廻転生があるという 考えに変わりはなかったのだと思います。
525 :
一在家 :2006/04/16(日) 21:33:39 ID:bFC2E0XF
>>504 :暇人:2006/04/15(土) 15:40:20 ID:4OzNCCwl
>何も確認せずに 予断と偏見で言えば、
>漢訳に常住論がなく、パーリに有るのはパーリが挿入したからでは、と
>思っているのだけどもね
>但し、私たちが目にするパーリにはあるという事実は認めなきゃ、と。
釈尊の常住論を漢訳(北伝)で削除したのか、それともパーリ(南伝)で追加
したのか、暇人さんは迷い、後者に心が傾いているようです。
背理法になりますが、漢訳(北伝)では釈尊の常住論は無かったと仮定します。
しかし、漢訳(北伝)の法華経の如来寿量品第十六にはかのような説法があり
ます。
「仏の目から見た本当の世界は、このように常住不滅である」と、また
「仏は実際は滅度しない生き通しの存在である」と。
更に法華経の方便品第二には、「全ての人は仏になりうるという最高の真実」が
説かれております。
これより北伝の法華経の作者は原始仏典の中に常住論があったことを明らかに
知っておりました。
因って、北伝仏教では釈尊の常住論は無かったと仮定することに矛盾が生じて
くることが分かります。
以上の背理法により、中国の坊さんか学者が釈尊の常住論を削除したという
可能性が高いことが分かります。
526 :
暇人 :2006/04/16(日) 23:04:23 ID:1Q0yDZBX
>>525 北伝大乗が常住論に親和的なのですね。
(法華の如来常住や中期大乗の涅槃経の「常」や・・・)
その派が削除することは非論理的ではないでしょうか。
事実を丹念に見ず、予断で言えば、パーリの挿入が自然と
私は思います。
527 :
暇人 :2006/04/16(日) 23:15:02 ID:1Q0yDZBX
それと竜樹は中論で 「諸佛依二諦 為衆生説法 一以世俗諦 二第一義諦 若人不能知 分別於二諦 則於深佛法 不知真實義」 諸仏は、衆生にあわせて世俗の言葉で説法する場合と 深い真実の言葉で語る場合があると言ってますね。 経典に矛盾があるのは知っていたのではないでしょうか。
528 :
名無しさん@3周年 :2006/04/16(日) 23:18:43 ID:ex0uEs4y
釈迦は一日米一粒胡麻一粒の荒業を四年間も続けたそうですが本当なのですか?
529 :
暇人 :2006/04/16(日) 23:21:08 ID:1Q0yDZBX
530 :
名無しさん@3周年 :2006/04/16(日) 23:28:48 ID:lOCEEEw5
では、摩耶夫人の右脇から生まれて、そしてただちに七歩歩いて 「天上天下唯我独尊」と言ったってのは本当でしょうか?
531 :
暇人 :2006/04/16(日) 23:30:38 ID:1Q0yDZBX
右脇からって その当時の偉人誕生の定型的賛美と聞いたことありますけど。 七歩と唯我独尊は仏教独自なのかな よくしらんけど
532 :
名無しさん@3周年 :2006/04/16(日) 23:36:33 ID:lOCEEEw5
じゃあ、ブッダに「超人的な眼」や「超人的な耳」や「超人的な舌」や「超人的な手足」 を持ってるってことについては?
533 :
暇人 :2006/04/16(日) 23:43:42 ID:1Q0yDZBX
>>532 このあたりも所謂「神格化」の一つだろうね。
三十二相とかと同じく。
豚肉スープを振舞われて 美味しい美味しいと食べて
下痢して死んだ普通のおじさんでしょ
534 :
名無しさん@3周年 :2006/04/16(日) 23:50:48 ID:lOCEEEw5
わたしもそう思います。信者は教祖に過大な思いを抱くものです。 超越的伝承をそのまま無批判に事実と受け入れることはできないと思います。
535 :
暇人 :2006/04/16(日) 23:56:59 ID:1Q0yDZBX
無根拠な暴論をついでに言っておくと 私は初期仏教集団の実質的なリーダーは、舎利弗だったのではないかと 思っています。 都会派教団「懐疑論者サンジャ」のナンバー2だった舎利弗は、 おのぼりさんだが、修行者のメッカ「ベレナス流域」で頭角を現しだした 釈尊に目をつけプロデュースした。 釈尊は名目上のリーダーだったが実験は舎利弗が掌握しており、 途中から釈尊は先代/ご隠居さんだった。 しかし舎利弗が早死にしたため釈尊を中心に再度まとまった。 だが、大迦葉やアヌルッダは釈尊と同格のリーダーだった。 釈尊死後、釈迦集団の実権を握ったのが、釈尊在世の頃は、 ペーペーだった付き人の阿難。この人が釈尊神格化の中心になった。 妄想しすぎだな。。。
536 :
名無しさん@3周年 :2006/04/17(月) 00:35:18 ID:FPKLa9vS
>>486 「釈尊の教えの本体を知る為には、いちおう哲学化してしまった
> 支那仏教を除いて、インド仏教を勉強しなければだめだ。」と。
文献学的に普通のことで、明治以降インド仏教学者はそう研究してきました。
> 支那仏教の解説書は読まずに、パーリ語聖典をまずそのまま読むことにしております。
それを19世紀から西洋人がやりました。日本ではそれに漢訳を加えて研究されてきました。
その伝統を受けパーリ仏教研究を最も徹底的且つ正確に行った方が、水野弘元先生です。
これは世界的に認められています。仏教学をやった者で否定するものはまずいないでしょう。
紹介した『仏教要語の基礎知識』は1972に初版が出版されて以降、ずっと支持されてきた名著で、
2006に改訂版が出たようです。未見。これは先生の100年以上に渡る仏教人生の総括ですよ。
これを認めずに、和訳から妄想を展開するのには絶句です。
>>525 名そういった文献的分析は、推測でなく実証によって遙かに緻密になされていますよ。
それも前に紹介した『インド仏教史』上下に非常に高度に纏められ、諸研究が註に示されています。
ただしこちらは、対象が広汎なため訂正すべき箇所もありますが、非常に優れたものです。
如来蔵や自性清浄心という言葉を知っていれば『法華経』の思想系譜は明かです。
だから、この二つに書かれているようなことを知ってないと話にならないんです。
というか一在家さんの意図は日蓮説が釈説と矛盾しないことを論証したいだけだとも思えてしまう。
といってインド仏教を勉強したいんだったら文献学より、厳密にはインド仏教になりませんが、
パーリ仏教なら上座の、大乗ならチベットの優れたお坊さんに直接ならうのが一番いいと思います。
どちらもインドの伝統を引き継いで現在まで伝えてるので。アムベードカルは問題外、
バルア仏教やネパール仏教も日本仏教とあまり変わらない状況のようだし、それ以外ないでしょう。タイトル
537 :
一在家 :2006/04/17(月) 05:49:07 ID:hEhW5jg4
>その伝統を受けパーリ仏教研究を最も徹底的且つ正確に行った方が、水野弘元先生です。 >これは世界的に認められています。仏教学をやった者で否定するものはまずいないでしょう。 >紹介した『仏教要語の基礎知識』は1972に初版が出版されて以降、ずっと支持されてきた名著で、 >2006に改訂版が出たようです。未見。これは先生の100年以上に渡る仏教人生の総括ですよ。 >これを認めずに、和訳から妄想を展開するのには絶句です。 パーリ仏典の永年の研究からなる「仏教要語」 ならば、中国の坊さん達の マイコンも少ないと思いますので、ご紹介有難うございます。 >一在家さんの意図は日蓮説が釈説と矛盾しないことを論証したいだけだとも >思えてしまう。 それは貴方の妄想です。 私は仏教徒ではないと自己紹介しましたので、日蓮の信者でもございません。
538 :
一在家 :2006/04/17(月) 05:50:23 ID:hEhW5jg4
北伝大乗が常住論に親和的だということは、常住論を彼らが知っていたことに なります。 もし後世の南伝がパーリ語で追加したと仮定したら、中国の坊さんがパーリ語 の聖典も読んだことになるのではないでしょうか? これが論理です。 逆に漢訳の大乗仏典を南の人達が読んで、慌ててパーリ語で常住論を追加した と考えることも滑稽でしょう。 これも次の論理です。 当然、水野弘元先生は長部経典の自歓喜経を読まれておりますから、彼の訳 が最新の中村元監修の訳と比べて異なるのか否かを調べることが先決です。 これも第3の論理です。 残念ながら水野弘元先生の自歓喜経の訳は手元にございませんので、よく ご存じのあなた方からご教示願います。
539 :
一在家 :2006/04/17(月) 05:55:13 ID:hEhW5jg4
>>538 の文章を修正します。
北伝大乗が常住論に親和的だということは、常住論を彼らが知っていたことに
なります。
もし後世の大乗が漢語で追加したと仮定したら、中国の坊さんがパーリ語
の聖典も読んだことになるのではないでしょうか? これが論理です。
逆に漢訳の大乗仏典を南の人達が読んで、慌ててパーリ語で常住論を追加した
と考えることも滑稽でしょう。 これも次の論理です。
540 :
暇人 :2006/04/17(月) 07:47:40 ID:FKpsqH1l
>>538 ん?北伝大乗は教相判釈して諸経典のなかで法華が最高とか華厳がとか
したわけですが、阿含は低位置に格付けし、実質無視したでしょ。
で、大事にした大乗経典や論書に常住教理があった。
元々の写本は部派が伝承していたわけで、伝持部派により若干の違いが
あったと考えたらどうですか?
例えば常識なのですが、パーリ伝持のディーがニカーヤは34経ですが、
漢訳の「長阿含経」は、30経です。パーリのほうが多い。
パーリは地方分派であるスリランカ分別説部が持ち、
色々議論の割れるところですが一説には長阿含経は法蔵部所伝と推定されて
います。(413年訳出)
ちなみにパーリは一旦シンハラ語訳された注釈類をブッダゴーサが
パーリに再度直したと伝承されているのですが、その時に経類も整理された
可能性があるかもと思いますがブッダゴーサがスリランカに渡ったのが
420〜430年ごろだといわれてます。
確か水野さんは法蔵部・化他部が大乗に近いと言われてたと思います。
541 :
暇人 :2006/04/17(月) 07:53:40 ID:FKpsqH1l
>>539 常住論は インド伝統の思想ですね。
漢訳など読ますとも 空気のように吸っているわけです。
釈尊はそれを批判したと考えられています。
>>541 釈尊は、在家には常住論を、出家には無我論を説いた。
という単純な話ではなさそうですね。
543 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/17(月) 09:02:30 ID:5Lo1Vbku
このところ読んでいて疑問に思うのだけど 釈尊の常住論と諸行無常とは矛盾していないのか。 >菩薩達にこっそりと説いたのであり、比丘や衆生には説いていないですよ。 因って、シナや日本の坊さん、学者達、皆さんもご存じなくて当然でしょう。 仏教にはバラモン教のように、ごく限られた人だけに伝える秘密の教えは ないはずではないか。 釈尊の常住論は実際に苦の滅に役立つのだろうか。十難無記は苦を消すの に役に立たないから、議論をしても無駄だとしたのではないか。
544 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/04/17(月) 09:11:47 ID:5Lo1Vbku
法華経の場合、日蓮が死んで七百五十年たった現代において、いままで 世にででいなかったけど、日蓮が本当に説きたかった文書が新しく見つ かったので、今までの教えは仮の教えであり、今日見つかった新しい教え が本当の教えである、といっているのと同じではないか。
口承用の教義をまんま文字に書き起こした仏教徒はただのアホ。
>>514 > 本経の「解脱知」の段落では、このような記述があります。
>
> 1)三つの束縛を断ち切って悟りに到達する
> 2)更に一度だけこの世界に戻ってきて苦しみを終わらせる
> 3)更に化生者となり、その世界から戻らなくなる
> 4)心の解脱と智慧の解脱を現世で理解し、円満に暮らす
>
> この中では4)が最高と舎利佛は表明し、釈尊は保証しました。
一在家さん、レスありがとうございます。
まだ、第二八経 自歓喜経を読んではいないのですが、
この内容だけみますと、単に悟りの四段階を示しているだけという印象をうけます。
ttp://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta2.html 段階の違いはあっても、これらは全て自説。
つまり、1,2,3の他説に対して、自説4が最高と言ったのではなく、
4段階の順を追った解脱のプロセスの教え方が最高といった可能性もあるのかなと。
ひょっとしたら、これら全てに関して
説いた内容ではなく、説き方が最高といっているのではないかと。
もちろん、4段階の内で、4段階目が最高と言った可能性も当然あります。
やっぱり、自分で第二八経 自歓喜経を読んでみますね。
547 :
名無しさん@3周年 :2006/04/17(月) 16:15:02 ID:gHh0oZLR
>>539 パクリカルト教団 真光の矛盾!
世界真光文明教団の、み教え中に「教え主を絶対にせよ」とあるのに、教え主が何人も居る
当たり論理矛盾じゃないですか?
絶対とするなら、ジーザスだってそう言ってるし、二代目キリストっていたかんじゃない?
まー違う宗教でもいいが、例えば二代目マホメットっていたかな?
岡田光玉〜関口栄〜勝利などがその程度の頭もなくて、自分が教え主だって名乗った時点で間違い、
それに対抗し、裁判争いに負けた「正統継承を謳う崇教真光」も間違い。
548 :
名無しさん@3周年 :2006/04/17(月) 16:31:04 ID:gHh0oZLR
>>538 一在家=天邪鬼=源伸(真光信者)だろw
1152.(untitled) 名前:天邪鬼 日付:4月16日(日) 15時59分
批判派は、法華経の如来神力品をご存じですか?
手からの光どころか、如来は全身からの光(オーラ)を可視化できたそうです。
本来は如来が全身から発する光(オーラ)は見えません。
聖書の中で、イエスやパウロが大勢の人達を聖霊の洗礼で癒した話が説かれており
ますが、如来の光もまた衆生を癒す力があったとしても不思議ではないかと存じます。
如来の光で癒されながら、如来の説法で教化された当時の人達はどれ程幸福だったのでしょうか。
また原始仏典での釈尊の読心通(テレパシー)の話も興味深いです。
一応問答なのですが、質問者の心の中を読んで、釈尊だけが一方的に
回答しているシーンが沢山出て参ります。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような全知全能の神が出てくる一神教と 原始仏教ってまったく前提が違ってるから、相容れないような気がするんだが。
550 :
一在家 :2006/04/17(月) 22:31:22 ID:/nPZo0BJ
>>504 :暇人:2006/04/15(土) 15:40:20 ID:4OzNCCwl
>何も確認せずに 予断と偏見で言えば、
>漢訳に常住論がなく、パーリに有るのはパーリが挿入したからでは、と
>思っているのだけどもね
>但し、私たちが目にするパーリにはあるという事実は認めなきゃ、と。
出典:新国訳大蔵経「長阿含経U」菅野博史訳(大蔵出版)
本日、漢訳の【自歓喜経】にも常住論を確認しましたよ。>暇人さん
「如来の説法に復た上なる者有り。謂わく常法(常住論)を説く。
(中略、3種の常住論を舎利弗が語る。)
『世界は常に存す。唯だ此れのみ実と為し、余は虚妄なり』と言う。
是を三の常存法と為す。この法は無上なり。」
貴方の御蔭、対話の縁でここまで到達できました。深謝。
一在家さんは、駅前で手かざしやってる真光の信者なんですか? どうりで、神通力ばっかり出てくるわけで
552 :
一在家 :2006/04/17(月) 22:46:40 ID:/nPZo0BJ
>>536 >の伝統を受けパーリ仏教研究を最も徹底的且つ正確に行った方が、水野弘元先生です。
水野弘元先生の説く霊魂について
出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社)
「外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、
人格の主体として業を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、
これを認める。それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として、業や経験に
従って常に変化しつつ連続する有為法である。」と。
私も誕生も消滅も無く、悪因を積んでも汚れず、修行して善因を積んでも
成長、進歩のない不変の霊魂(アートマン)は想定しておりませんでしたので
水野弘元先生の説く霊魂説に全く同感です。
536氏の御蔭でここまで来ることができました。 合掌
553 :
名無しさん@3周年 :2006/04/17(月) 22:49:26 ID:xBTZCsUf
フーッ
554 :
一在家 :2006/04/17(月) 22:56:58 ID:/nPZo0BJ
>>551 >駅前で手かざしやってる真光の信者なんですか?
あれは救世教(正確には神慈秀明会)さんです。
私は真光の組み手(信者の意)で、真光関連スレでは「源伸」という
ハンドルを使っております。
岡田光玉師と万福寺の岡崎大僧正との40年近く前の対話が縁で、
釈尊の教えに近い原始仏典の勉強を2年ほど前から独学で始めており
ます。
本スレの大らかで親切な住人達との対話(縁)を通しまして、当初の
目的はほぼ達することができました。
なお水野先生の御著書にも、仏の神通力(宿命通、天眼通、漏尽通)
のことが記載されておりますので、ご確認下さい。
555 :
暇人 :2006/04/17(月) 23:01:19 ID:GdSR+4wq
>>550 ここですね
謂説常法 略 世間常存。唯此為實 餘者為虛。是為初常法。諸沙門。。
私の思い違いでしたね お教え有難うございました
556 :
一在家 :2006/04/17(月) 23:06:08 ID:/nPZo0BJ
>>555 :暇人
>謂説常法 略 世間常存。唯此為實 餘者為虛。是為初常法。諸沙門。。
貴方も同じ経典に到達され、大変嬉しく存じます。
この2年間、中村元先生の著書ばかり読んでおりましたが、これからは
水野弘元先生の著書も読むことに致します。
557 :
一在家 :2006/04/17(月) 23:11:36 ID:/nPZo0BJ
出典:パーリ仏典「ディーガニカーヤ」片山一良訳(大蔵出版) 【自歓喜経】より 「我と世界は常住であり、生み出すこともなく、山頂のように不動であり、 石柱のように直立している。これが第3の常住論です。」
558 :
名無しさん@3周年 :2006/04/17(月) 23:23:21 ID:FPKLa9vS
一在家 さん、立派ですね。お見それしました。また、私の言葉が過ぎたことをお詫びします。 私の『仏教要語の基礎知識』1972版 1995年23刷では149頁ですが、 貴方の本が2006改訂版でしたら、何頁でしょうか? すいません改訂内容に興味があるので、 よかったら教えてください。 片山一良訳は現在最も信頼できるものと思います。できれば、それを正確に引用して、 常住論についての註があったらそれも引用していただけないでしょうか?
>>557 だからどうしたw
同じ文章は、梵網経にもあるぞ。
そこでどのように使われているかをよく考えろ。
>>558 ご自身で確認されることをお薦めします。
ここは2chであるということを忘れないように。
560 :
名無しさん@3周年 :2006/04/17(月) 23:32:37 ID:dOgA23E0
>>557 崇教真光の、み教え中に「教え主を絶対にせよ」とあるのに、教え主が何人も居る当たり論理矛盾じゃないですか。
絶対とするなら、ジーザスだってそう言ってるけど、二代目キリストっていたかんじゃない?まー違う宗教でもい
いが、例えば二代目マホメットっていたかな?
岡田光玉〜関口栄〜勝利などがその程度の頭もなくて、自分が教え主だって名乗った時点で間違い、それに対抗
するよう裁判争いに負けた「正統継承を謳う崇教真光」も間違い。
561 :
一在家 :2006/04/17(月) 23:37:29 ID:/nPZo0BJ
本日、私が購入した『仏教要語の基礎知識』は2006年改定版で、 1月10日発行の新版第1刷です。 尚、水野先生の霊魂についての解説は、164頁です。 また片山先生の著書は大阪府の図書館で調べて手元には無いので注釈をお伝え できず、申し訳ございません。 1ヶ月以内にはまた行って調べたいと存じますが、本スレの住人で所有されて いる方は是非補完願います。
562 :
名無しさん@3周年 :2006/04/17(月) 23:38:39 ID:dOgA23E0
532 :源伸(兵庫):2006/04/03(月) 00:12:07 ID:qkALKKq5 30年程前、幹部でない一組み手の家で庭や畳にびっしりと金粉が輝いて いたので、タライ一杯くらいと表現した訳です。 3人ですくって封筒に入れましたが、しばらくして消えました。 こんな超常現象(奇跡)が起こったから、真光は面白いと感じた次第です。 他にもオリンピックの選手並みのあり得ない動きの霊動を体験及び目撃しております。 他の宗教で老婆(教祖)が正座したまま飛び上がったという逸話を聞いたことがあり ますが、似たような神秘体験でした。
563 :
名無しさん@3周年 :2006/04/17(月) 23:39:59 ID:dOgA23E0
崇教真光は、平成12年度以後に発行された祈言集(小型)の「神癒」(P54)において、 『三位一体』が正しいのに『三味一体』と誤植するという大失態を演じた。 平成15年夏になってやっと間違いに気づいて道場に掲示し、正誤表を配る措置を とっている。これは、言霊に影響を与える誤植であり、真光教団の想念の低さを 露呈している。まさに、世紀末の2000年におかした過ちを、21世紀を迎えて2年 以上経過して、始めて正したわけである。
564 :
一在家 :2006/04/17(月) 23:42:26 ID:/nPZo0BJ
>>559 ,560
あまり私のハンドルに固執、執着しないことです。
同じ批判を何十回も繰り返す輪廻から解脱できなくなりますよ。
565 :
名無しさん@3周年 :2006/04/17(月) 23:43:12 ID:dOgA23E0
教え主の絶対性を語るには、そもそものス神の絶対性を示さねばなりませんが どこから持ってきたんじゃ、『ス神』とは。 神の存在は否定しないが、 わけのわからない神様に絶対性などない。 よって、わかのわからん教え主にも絶対性などあるハズがない。 ってか、教え主の絶対性を語ってしまったら、まさしく人物信仰じゃん。 「人物信仰を否定してるくせに、全面肯定してる・・・」 ほんと、全く、ヘンテコな教団だね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜真光は。
>>564 ハンドルに固執しているのではない。
君の引用の仕方の粗雑さにイライラするだけだw
567 :
暇人 :2006/04/17(月) 23:51:13 ID:GdSR+4wq
>>565-566 真光の話は別スレで どうぞ。
それとレスの中味で説得力のある情報を提供しないと
キミらが荒らしにしかみえない
もうひとつ書いとこうか。 こうした問題のとき重要なのは、(勿論、訳文の正確さは高い方がいいが)、 どのような文脈でどのように用いられている文なのか? ということだ。 「Aという考え方は愚かだ」という文があったとする。 これだけを抜き出して引用したなら、話者が『Aは愚かである』と言ったように見える。 が、 [ 彼は言った、「Aという考え方は愚かだ」と。私は、到底それを認めることはできない。 ] という所から抜き出されたものだったらどうか? 今回の事例にあてはまるかどうかわからんし、 極端に過ぎるかもしらんが、往々にして2chはこういうところだ。
569 :
名無しさん@3周年 :2006/04/17(月) 23:57:20 ID:FPKLa9vS
>>559 ご忠告ありがとうございます。一応、漢訳とパーリは観て、
sassatavAd で検索かけたので『梵網経』でも説かれていることも了解してます。
もちろん予想はついているのですが、断定する前に片山一良訳、
特に註を確認したかったのです。
一在家さんは、立派だと思いますよ。なかなか自説に反するアドヴァイスを受け入れる人はいません。
それとお気持ちはよく分かりますが、一在家さんが文献学的に白紙に近いことをお忘れなきよう
私からもお願いいたします。
570 :
暇人 :2006/04/18(火) 00:00:48 ID:a1mNUGo2
>>568 ここまで話が進んで 一般論語ってどーするのだね。
当該テキストを出し 具体的に論じなければ
一般論が負け惜しみに堕落しているんだよ
>>569 大蔵出版のヴァージョンは
中部を一冊しか持ってないので確かなことは言えませんが、
片山訳の註は、その9割がアッタカター(及アッタカターの註)の引用に過ぎません。
片山さんの個人的見解は極力抑えられているだろうと思います。
>>570 > ここまで話が進んで 一般論語ってどーするのだね。
これは暇人の常套手段なのでは?
573 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 00:10:57 ID:XB0l4U4z
一在家 さん、『仏教要語の基礎知識』第六章四諦説、二 四諦各説、A 苦諦、(8)五取蘊苦に ちなみに五取蘊苦は旧訳では五盛陰苦とされているが、今日の日本ではこれを五陰盛苦と して用いる人があるが、これは誤りであって、このような訳語はどこにもない。 五盛陰苦と改められるべきである。 という記述は残ってるでしょうか?
574 :
暇人 :2006/04/18(火) 00:12:46 ID:a1mNUGo2
持論があるのはいいが 自分で確認する(裏をとる) 事実に基づきモノを言う。 こんなのは人としての基本ではないかと思うが
575 :
素人 :2006/04/18(火) 00:14:00 ID:H6fjDQmK
>>570 みんな忘れてんじゃないかと思ったからさw
それより、
>>509 の
ただ、編纂者の意図がどこにあったのか?
→我の常住を仏説とみなして挿入したのか?それとも
如来の神通が外道のものより優れていることを示す為だったのか?
は、微妙じゃないかなぁ・・・と。
に対する貴方の【個人的】見解に興味があるw
576 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 00:14:09 ID:XB0l4U4z
一在家 さん、『仏教要語の基礎知識』第六章四諦説、二 四諦各説、A 苦諦、(8)五取蘊苦に ちなみに五取蘊苦は旧訳では五盛陰苦とされているが、今日の日本ではこれを五陰盛苦と して用いる人があるが、これは誤りであって、このような訳語はどこにもない。 五盛陰苦と改められるべきである。 という記述は残ってるでしょうか?
577 :
一在家 :2006/04/18(火) 00:33:53 ID:dpDm/JAu
原始仏典の2つの経典における常住論について 手元にある長部経典の「梵網経」と「自歓喜経」との両方に常住論が 説かれており、その内容は180度違うように見えますね。 「梵網経」では、釈尊は500人の比丘とバラモンとその弟子に対して 説かれております。 一方、「自歓喜経」では釈尊と舎利弗との二人だけの対話です。 同席したのは仏弟子の長老ウダーイのみでした。 人を見て法を説かれた釈尊ですので、方便の可能性が高いのは何れだと 思いますか。文献学的には如何でしょうか。
578 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 00:36:22 ID:XB0l4U4z
>>571 ようするにアッタカターが見たいんです。
二重投稿ごめんなさい。ブラウザが調子悪いみたいで...
579 :
素人 :2006/04/18(火) 00:36:41 ID:H6fjDQmK
580 :
一在家 :2006/04/18(火) 00:37:54 ID:dpDm/JAu
>>573 >ちなみに五取蘊苦は旧訳では五盛陰苦とされているが、今日の日本ではこれを五陰盛苦と
>して用いる人があるが、これは誤りであって、このような訳語はどこにもない。
>五盛陰苦と改められるべきである。
全く同じ文章のまま残っております。
581 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 00:41:41 ID:XB0l4U4z
>>580 そうですか、それは残念です。ありがとうございました。
>>579 そうゆうこと言わないで、説明してくださいよ。
仏典を読む人がそうゆうこといっちゃ、悲しいですよ。
582 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 00:47:31 ID:qISpZrEA
>>577 両方に常住論が説かれているが、その内容が180度反対とは同言うことなんだ?
583 :
素人 :2006/04/18(火) 00:55:20 ID:H6fjDQmK
>>581 自歓喜経では、(その状況設定としては)、
・舎利弗は、(【ほぼ】)悟ったあとのこと。 (→ ここも結構問題ですねw)
・舎利弗が賞賛している仏説は、それ以前にすでに釈尊によって説かれ、
舎利弗が自分のものとしているということ。
文献学的には、
どちらの成立がより古いのか?
その内容の確立がどちらの方が古いのか?
経典の成立の課程においてどのような作用があったのか?
仏典に対する敬意を最大限に持つならば、
長部第一番目に梵網経、28番目に自歓喜経という位置付けをどう見るか。
そして何より、常住論を仏説とみるかどうか・・・?
一言で切り捨てられるもんじゃない。
夜更かしが過ぎるな おやすみ・・・zzz
585 :
一在家 :2006/04/18(火) 02:03:44 ID:dpDm/JAu
>手元にある長部経典の「梵網経」と「自歓喜経」との両方に常住論が >説かれており、その内容は180度違うように見えますね。 5回ほど「梵網経」と「自歓喜経」とを読み比べてみました。 正しい精神統一にて思い出す過去世の記憶を根拠にしてバラモン達は常住論 を主張するとあります。 「梵網経」でも、釈尊は常住論そのものは否定していないように読めます。 ただバラモン達と如来との違いは、前者は常住論に固執してまた再生を 繰り返すが、如来は過去世を知っても固執しないので再生しないと記載され ております。 常住論という「網」にひっかかってしまうことから、この経典名になった そうです。 出典:長部経典V、中村元監修(春秋社)
586 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 02:18:17 ID:qISpZrEA
>>571 それをここで言っちゃ片山信者たちの立場がないような。
最新の成果とか言ってますが、アッタカター及び複註などは片山約を読むよりも
解りやすいし意味がある。サルヴァア-ダルシャナ-サングラハの註と同じですね。
常住論が出た時点でここはもう終わってます。
588 :
一在家 :2006/04/18(火) 10:12:11 ID:ReVDBjCp
妙法蓮華経嘱累品第二十二 「釈迦牟尼仏は法座より起ちて、大神力を現し、右の手を以て無量の菩薩・摩訶薩 の頂(いただき)を摩(な)でて」を現代語訳しますと、 「釈迦牟尼仏はやおら説法の座からお立ちになり、大神力を現されました。 すなわち、右の手のみをもって、その場にいならぶ無数の菩薩の頭をあまねく おなでになられ」となります。 聖書の使徒行録の中でパウロが一度に12人の上に手を置いて癒したという話 と似ております。 真光の一斉手かざしと似ていると申しました所以です。
589 :
トラップ :2006/04/18(火) 10:13:33 ID:ReVDBjCp
あんたの言う通りだ。この点はマインドコントロールが間違っている。 宗教研究で小遣いをかせいでいるんだったらもっと勉強せんかい。 手かざし系、天理教、救世教などでは教祖や幹部以外にも霊的体験が起こっている。 まあ、自作自演説とヒステリー説はトーンダウンだな。
590 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 10:35:49 ID:4fNZ/fL2
>>588 >>589 同一トリップにもかかわらず、同一人物とは思えぬ書き込み。
自爆されましたか?w
591 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 10:37:07 ID:saBzdKaq
592 :
トラップ :2006/04/18(火) 11:03:16 ID:ReVDBjCp
僕は多重人格で、人格が交替するとハンドル名も変わるという信じ難い内容でした。 人格は沢山あるそうですが、唯一共通している点は「名無しさん」での発言行為が 大嫌いだとのことです。 みんな気に入ったハンドル名を使っているようですので「自作自演」という台詞で スレを無駄使いしないほうが良いと思います。
593 :
一在家 :2006/04/18(火) 11:07:48 ID:ReVDBjCp
私見ですが、釈尊は降誕したとき「再びわたしは現れない」と宣言しているが、大乗涅槃経では 「わたしはの入滅後、56億7000万年後に、わが正法を救うために弥勒菩薩を天上より下生 させ、一切衆生を救うであろう」と語っておられます。 釈尊が、涅槃に入られたとき、弥勒菩薩に対して「今より56億7000万年経ったのちの世に、 人間としてこの世に現れて、一切の衆生を救って欲しい」と誓願されていると語っておられます。 今は兜率天にて、正法が滅と変わる人類最大の危機まで、釈尊と共に待機しており、弥勒菩薩とは、 釈尊から56億7000万年の後に、竜華樹の下で悟りを得て、仏となるであろう授記を授けられ た菩薩で、弥勒菩薩は未来仏と感じた次第です。 釈尊は、「この世に生きる全ての生きものを、巻き添えにするような人類の大罪状を許すことはできないが、 必ずこれを救ってやりたい」として、弥勒と共に再び下生するかもしれない。そして、「やすらぎの世界」 を造ってくれるのであろうことを念願したい。 人類が破壊するのも、生き残れるのも全て人類が選択する道である。唯ひとつ言えることは、地球36億年 の生命の頂点に立っている人類が、自らの手を染めて地球環境を破壊し、人類終末兵器を作り使って世界最 終戦争を引き起こすという愚かなことを決してやってはならないし、地球上の罪のない全生物を、道連れにし てはならないことである。 それには、1999〜2030年の人類最大の危機を、全世界の人びとが協力して無事にクリアすることが必要 だと感じた次第です。
>>587 > 立場がないような。
そうでもないよw
彼の評価されるべき点は、まさにそこにあるだろうと思うから。
彼が、翻訳という作業においてストイックであるという点において・・・。
ひとつは、底本を最大限尊重していること。
ひとつは、現在伝えられている伝統解釈を重視するということ。
ひとつは、原典でさえ省略されている箇所を全て復活させているということ。
ひとつは、漢訳語の濫用をしないということ。
ひとつは、現代口語としての文体に気を使うということ。
つまり、仏陀の言葉は、聞いて(読んで)解るものでなければならない、
そして、翻訳は、あくまでも資料としての中立性がなければならない、と。
勿論、人間の作業であるから、
そこに恣意的な要素の混入を排除することは不可能だろうが、意識してそれを抑える。
「伝統的には、このように伝えられてきている」という、研究の礎となるように。
解釈や解説は、訳文に織り込むのでなく、その他著述(論文や寄稿)において行う、と。
岩波文庫のシリーズは読み易いけれども、実はこの部分において難があるのだ。
中村元(個人)の解釈が訳文の中に反映され過ぎのきらいがある、と。
伝統的解釈を離れすぎではないか、と。
(まあ、中村さんは自ら「そのように訳出した」と宣言しているから別に構わないだろうが。
それよりも、南伝を身近なものにした功績は大きいと思う。)
ちなみに、片山さんはスッタニパータについて、
文体は古いが、中村訳より水野訳の方が良いと言っていた。
ま、チラシの裏だ。ウザければスルーしてくれw
595 :
てけてけ :2006/04/18(火) 11:23:08 ID:fF8UMSGq
>>593 人類が地球上の全生命を殺すなんて無理だろ。
環境破壊しようが生命は勝手に適応するから無問題。
596 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 11:27:07 ID:saBzdKaq
597 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 12:05:50 ID:khyhOvR/
>>592 開きなおっちまったよ、、、見苦しいな。w
598 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 13:13:28 ID:saBzdKaq
>>597 多重人格者が、「僕は多重人格者」と言うかな??
別人の恣意的なコピーに見えますが。
599 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 13:39:35 ID:khyhOvR/
>>598 >多重人格者が、「僕は多重人格者」と言うかな??
>別人の恣意的なコピーに見えますが。
多重人格者が自ら多重人格者を主張するとは思えないが、
>>588 >>589 >>592 >>593 は
ID を見る限りすべて同一人物の発言ですよ。
だから多重人格者を装った(いや,多重人格障害であることを言い訳にした)開き直りと
言ってるわけです。
いずれにせよ、無我を語る前に多我をなんとかしないとなー。w
>>一在家さん あなたカッコワルいですよー。 ギャハハハ…。
601 :
天邪鬼 :2006/04/18(火) 15:53:07 ID:z9oVJ5eO
こんな所にマトモな事なんか書いてませんから〜〜!賢い組み手さん(?) あんま煽らない方がい〜よ(笑;)ここのバカ住人は、揚げ足取りして楽しむ だけさ!!アラシに加担するだけ損じゃね〜?!
602 :
兵庫菩薩 :2006/04/18(火) 15:56:34 ID:z9oVJ5eO
質問しておいて、それにマジレスで体験を語ると「神秘体験をねつ造や誇大広告している」って? オマエ、他人をバカにするのもエー加減にしとけよ、それなら始からどんな話でも信じないワケやろ、 どっちがゴーマンやねん。
まあまあオナニー
604 :
兵庫翁 :2006/04/18(火) 16:31:08 ID:z9oVJ5eO
「釈迦牟尼仏はやおら説法の座からお立ちになり、大神力を現されました。 すなわち、右の手のみをもって、その場にいならぶ無数の菩薩の頭をあまねく おなでになられ」となります。 片手で無数の頭を撫でたというよりも、片手を無数の頭にかざした (現代風に言うと非接触で撫でた)という方がロジカルだと思います。
605 :
兵庫翁 :2006/04/18(火) 16:32:33 ID:z9oVJ5eO
仏教徒には非常にショッキングで認め難い事かも知れませんが、読心通を得意とした 仏の心を読みながら説法をして、ついには改心させたという大梵天の逸話を、釈尊自 身が原始仏典の中で懐かしそうに説いておられるということです。 まさに「大本経(大アパダーナ)」でしょうか。
606 :
兵庫翁 :2006/04/18(火) 16:35:38 ID:z9oVJ5eO
「右の手のみをもって、その場にいならぶ無数の菩薩の頭をあまねくおなでになられ」と は、どのようなシーンだと皆さんは思いますか? A:釈尊は高速で移動しながら右手で頭を撫でた B:千手観音のように釈尊の右手が無数に分かれて頭を撫でた C:(非接触で)一斉手かざしをされた 正解は法華経の作者にお聞き下さい。私は真光で毎年一斉手かざしを受けていることと、 黄檗山万福寺の経文の中に釈尊の掌から放射された光が大勢の方にそそがれているシーン があったので答はCではないかと申した次第です。
607 :
陽光翁 :2006/04/18(火) 16:51:42 ID:z9oVJ5eO
仏教徒より「霊魂の実在や輪廻転生について、経典のどこに記載があるのか?」 という質問を受けます。 漢訳にはない「マハーリ経」、「ジャーリャ経」では、霊魂が身体と同一か否かという 議論(形而学上)は仏教の修行や解脱の為にならないと釈尊は説いておられます。 この辺りを根拠にして、後世の分派では、霊魂や再生には否定的な見解が多いのかも 知れません。 修行完成者の6種の神通力の中の「宿住通」では、前世、前々世での姓名、職業、一生 などを見ることができます。 また「死生通」では、生ける物たちがその行為に応じて転生するのを洞察できると釈尊 が説いておられます。(参照:原始仏典「ディーガニカーヤ(長部経典)」中村元監修) つまり、再生、転生は実在するけれども、修行や解脱には関係ないので、固執したり 執着するなというのが釈尊のスタンスだったように存じます。 また「死後有我有想論」と同様に、「現法涅槃論」(生ける者が現世で最上の涅槃に いたることを主張)にも固執するなとの教えです。(梵網経) 原始仏典の中で最も古いと言われている「スッタニパータ」の複数の章でも、高名な バラモンが仏教に帰依して聖人となり、「再び母胎に宿ることはない」という話が 説かれております。 この肉体を離れて、通常の凡夫では再び母胎に宿る主体こそ「霊魂」ということに なります。
608 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 18:26:18 ID:saBzdKaq
609 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 18:44:55 ID:qISpZrEA
釈迦やキリストの外見をまねて手かざしすれば、ある時ある場合なんらかの良い結果をもたらすことは考えらる。 しかし釈迦にしろイエスにしろ、まねをするなとは言っていないが、目的はそのようなことを教えることではなかった。 イエスさんにすれば、神のみ心を行うと言うことであり、それは造られざるものへの帰依であった。 造られざるものは絶対的に釈尊の言う『空』でなければならないのである。 キリスト教では神が万物を創造したとしているが、造られたものは、造った方に帰依することを教えるから、 創造された事物に執着してはならないのである。 仏教では、あるものは縁起して存在しているのであるから、自性があるのではない。だからそれらに執着してはならない、 それ故に事物『名称と形態』に執着してはならない、と教える。そしてこの存在する事物は、 人の妄想により存在しているだけのものであるとする。神が創造したのではなく、自分の妄想であると言う。 帰結するところは同一であるが、その過程はこの様に異なっている。
610 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 20:03:56 ID:JwSeLAbG
>>608 ID:ReVDBjCp も ID:z9oVJ5eO も ID:qISpZrEA も全部、誤爆を取り繕うための一在家ということでFA?
とりあえず面白いので放置プレイキボン。
611 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 20:19:09 ID:8GwRkmNt
>>610 このスレならではのアトラクションというべきか(藁
612 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 20:22:26 ID:saBzdKaq
>>610 本当にそうですか?
誤爆を取り繕うための偽一在家のように正しく見えます。
>>610 マジですか?
もしそうだとしたら、一在家さんサイコ〜ッ!!
614 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 21:03:28 ID:qISpZrEA
609だけど、なにか?w
615 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 21:04:36 ID:qISpZrEA
609は在家さんとは無関係です。
616 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 21:17:33 ID:DweZvJX1
>>612 君が一在家だってバレバレw
信仰宗教の信者は、ダブルバインドに気づけないのか?
617 :
名無しさん@3周年 :2006/04/18(火) 21:26:18 ID:6ioeO3Ce
>>593 貴方の言ってることは大乗プラス道徳であって、間違ってはいないが
ホントの仏教ではないな。真の仏教は個的なものだよ。
釈尊は人類の平和なんて考えて修行したんじゃない。あくまで釈尊ご自身の苦
を解決するために修行された。それが「結果として」人を救う教えとなったんだ。
>>612 君が一在家だってバレバレw >源伸
608 :名無しさん@3周年:2006/04/18(火) 18:26:18 ID:saBzdKaq
>601-607
コンテキストがバラバラなので、嫌がらせ目的のコピーのようですね。
612 :名無しさん@3周年:2006/04/18(火) 20:22:26 ID:saBzdKaq
>610
本当にそうですか?
誤爆を取り繕うための偽一在家のように正しく見えます。
619 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/18(火) 23:20:22 ID:Wt4ULsCG
私に成り済ます方がおられるようですね。 ファン倶楽部(追っかけ)の数人でしょうか。 そこでトリップを付けることにします。
620 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/18(火) 23:45:05 ID:Wt4ULsCG
>>586 http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm 長部経典と阿含経との「梵網経」比較
【阿含経】
「このようにとらわれ、このように執着している状態は、
これこれの六趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り挙げるであろう」
また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことを
知るのである。しかも、その知に執着するということはない。
【長部経典】
(バラモン達は)過去の限界と未来の限界とに関して種々の浮説を主張するが、
その全てはこれら六十二の根拠により網の中に入っており、捕われて、跳ね
まわっている。
如来の身体は生存への導くものを切断している。
やはりバラモンと釈尊との常住論の差異よりも、接するスタンスにこそ
大きな差異があり、バラモンは輪廻を超えられないようです。
>>620 確認もせずに言うが、
逆じゃねーか?w
しまった! (゚д゚;) ID変わってねぇwwwww
(;゚д゚)ノシ
さて、IDも変わったことだし 寝るかw ノシ
一在家は、ピエロぶりを露呈したね。 ID変わったのが残念!
トリップやID変わっても狂信者の猛毒な文体は変えられない。 仏教徒には、すぐバレルからな、まあ少し泳がせてやろうw
608 :名無しさん@3周年:2006/04/18(火) 18:26:18 ID:saBzdKaq >601-607 コンテキストがバラバラなので、 嫌がらせ目的のコピーのようですね。 619 :一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/18(火) 23:20:22 ID:Wt4ULsCG 私に成り済ます方がおられるようですね。
崇教現役組み手「陽光子統一板住人」で、いろいろな掲示板で批判者に論破された、 議論のすり替えが得意で、自作自演もバレて今やマトモに相手にされない方です。 無視する方が賢明でしょう。 彼の特徴がよく出ている2CHのカキコを参考までにコピペしておきます。 ----------------------------------------------------------------------------------- 144 :源伸:2006/03/07(火) 岡田光玉師は、釈尊の預言のとおりにこの世に誕生されましたがが、文明教団立教当初にも 岡田氏はインチキではないかという批判があり、(皆さんと違うところは)当時の宗教界の 権威達は「真の道」の神託である天杖(自動書記の一種、審神者は中田両先生)にて、みた ま伺いを行いました。(狐、狸、竜神であれば、すぐに看破されます。) そして神託の結果は「ヨのみたま」であったため、神道界の大御所達は腰を抜かして、批判派、 懐疑派から一転して支援派に替わったそうです。この辺りの経緯は旺文社「現代の宗教 崇教 真光」の中で、詩人の加藤郁○氏が述べておられます。 当然、この噂は大本教や救世教を初めとする宗教界にも広まりましたので、各教団の上級幹部 クラスは「岡田はパクりだ」とは言わなかった筈です。 御聖言 P3 この時以後、私は以前にも増して、しばしば神の啓示をいただくようになった。」 つまりそれ以前から啓示はあったわけです。 ☆組み手であれば皆知っている有名な神示ですね。 ご存じでない方は、未組み手さんか他教団の方だとすぐに分かりましたよ。 冷静に少しロジカル・シンキングを致しましょう。擁護派(現役組み手)は真光の正当性を証明 できないから、批判派の勝ちという文章がよく出てきますが、論理的ですか。 霊魂の存在を証明することと同等以上に存在を否定することも難しい訳です。 例えば、批判派が「霊魂が存在しないことを証明できない」から擁護派の勝ちだと言えば、可笑 しいことが分かるでしょう。
629 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 01:20:13 ID:dETjdPP4
いやしくも仏教にたずさわる人なら、不害をできるだけ実践するでしょう。
>>578 テキストの話じゃなく、訳の話なんですけど。
終わってるとか言わずに、説明してくださいよお。
>>607 再生、転生、霊魂はもちろん、今この私たちも実在するとは原始仏教では言いません。
再生、転生、霊魂、今この私たちも縁起する法であり、
日常言語で「ある」「存在する」と言われるだけです。
実在といわれるような恒常な実体を認めないのが、原始仏教です。
常住「論」と言われていることからも、常住論を真実として説いてないことが
示されていると思うんですが、論証するには時間がないので、いずれまた。
630 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 08:45:31 ID:trARaqeZ
>>618 :名無しさんID:DweZvJX1
>608 :名無しさん@3周年:2006/04/18(火) 18:26:18 ID:saBzdKaq
>612 :名無しさん@3周年:2006/04/18(火) 20:22:26 ID:saBzdKaq
ID:saBzdKaq は一在家でよいのだな?
残りは全て、偽者で、虚妄の輩となるが。。
631 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 08:54:04 ID:trARaqeZ
>再生、転生、霊魂、今この私たちも縁起する法であり、 >日常言語で「ある」「存在する」と言われるだけです。 君に同感だ。 同じことを考えながら、言葉の違い「実在」、「常住」等で争う のは愚かなり。
632 :
埼玉千鳥(ベイシティーローラーズファン) :2006/04/19(水) 12:40:55 ID:M+xoj5dT
真の道のフーチ(筆)に降りてくる大峰老仙(筆仙人)様は、いろいろな宗教家に神示を与えたりしているそうです。 真の道以外にも、岡田光玉氏(ヨはいつきなり・ヨニマス大津神様)、福田くら氏、五井昌久氏(白光真宏会)と 真の道から分派した真の道協会にも神示であったそうです。 神霊界には宗門宗派はなく「万教帰一」という言霊があります。また、五井師が指導を受けた空中談話で、大峰老仙様 が萩原氏(真の道)のエクトプラズムで物質化現象を起こしてメガホン内部に声帯をつくりだして声を出して指導を受 けます。
633 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 12:48:52 ID:c/0KGFqm
春になると蟲が蠢くな・・・万教帰一って万法帰一のパクリだね 一字だけ変えるなんてなんと低レベルな霊言・・・
>>583 :素人:2006/04/18(火) 00:55:20 ID:H6fjDQmK
>
> 文献学的には、
> どちらの成立がより古いのか?
> その内容の確立がどちらの方が古いのか?
> 経典の成立の課程においてどのような作用があったのか?
この辺のアマチュア向けの知識はどうやって得ればいいでしょうか?
現在の私の認識だと
・原始仏典は基本的に釈尊の言行録
・ただし、ジャータカは民間説話を仏教用にアレンジしたもの。
・大乗仏典は、創作仏典であり、釈尊の言行録ではない。
といった程度なんですけど。
原始仏典に関し、もうチョイ、詳しく正確な情報があればうれしいんですけど。
>>577 :一在家 :2006/04/18(火) 00:33:53 ID:dpDm/JAu
> 一方、「自歓喜経」では釈尊と舎利弗との二人だけの対話です。
> 同席したのは仏弟子の長老ウダーイのみでした。
さて、その内容がどうして仏典として伝わっているのでしょうか?
神通力で過去の会話を誰かが盗聴でもして書き残したのでしょうか?
とても不思議です。
636 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 13:44:07 ID:Wpq7D0S2
形 態:紙本墨書、掛幅装 時 代:室町時代 説 明:霊仲禅英墨蹟 万法帰一之法語 1幅 万法帰一之法語は、応永14年に室町幕府第四代将軍足利義持のもとめ に応じて書いたもの。 「万法帰一」とは、森羅万象は一つの根元的な原理に立ち返るという意。 その墨跡は室町時代禅僧のものとしてまとまっており、本県の 仏教史、文化史上価値が高い。 (平成12年3月10日:重要文化財:滋賀県指定)
637 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 17:02:25 ID:+WBN9rTk
>>620 引用されているものは、常住論を説いているとは言えないよ。
先の『石柱のように常住である』と言う様な表現のものこそ常住を説いていると言えますが。
638 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 20:09:51 ID:+WBN9rTk
霊とはそれは人の気持ちを言うと思う。殺気を感じるとか、歓喜の気持ちを感じるとか は実生活で経験するところだろう。それは一つの相としてとら得ることが出来る。物質や 思いと同様に。むしろ思いに属するもんと言うべきだと思う。全体的雰囲気としてはオーラと言われるものが よく言われる。 しかし仏教では、この様な霊も実体が無いと判断する。何故なら相対的に存在してることは明らかだから。
639 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 20:14:41 ID:+WBN9rTk
>>636 万教帰一じゃなくて万法帰一なんですね。
誰が言ったのでしょうか?
640 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 20:34:08 ID:4UTC+Ptn
今まで気が付かなかったけれど、新興宗教談話室があったのですね。
641 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 20:41:26 ID:+WBN9rTk
在家さんの言いたいことは畢竟霊と言うもんがあるということじゃないのか?
642 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 21:50:31 ID:+WBN9rTk
>>641 そして、手をかざすことによって、悪い霊を払えるのである、とこういうことなんじゃない?
それならそのようなことをする人は相当に悪い霊を自分が出さない様に修行していなければ成らないと言う事になる。
643 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 22:40:41 ID:dETjdPP4
>>634 無宗ださん、その手の歴史的文献学分析はあまり意味を感じませんが、
ここなんか巧く纏まってると思います。
http://panna.zive.net/bukkyo/bukkyo_bk03.html そこに挙げられた参考書以外では、
平川彰『インド仏教史』上
岩波講座東洋思想、インド仏教
原始仏教については:
中村元『ブッダのことば』の解説が簡潔です。
和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』
これは入手困難だと思いますが、原始仏教研究を変えたものです。
恐らく中村先生は、この影響で原始仏教関連の諸著書を改訂しています。ただし黙殺。
荒牧典俊『仏教及びサーンキヤ・ヨーガに共通の源流に関する研究』大阪大学, 1983-1984
これも優れた研究で、確かソーナがアッタカ・ヴァッガを釈尊在世に暗唱していたことなどが
論証されていたと思います。明確な記憶ではないのですが...
村上真完,及川真介『仏と聖典の伝承 : 仏のことば註ーパラマッタ・ジョーティカーー研究』春秋社, 1990
これも優れた研究です
中谷英明『スバシ写本の研究 』人文書院, 1988
644 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 23:04:51 ID:+WBN9rTk
643さんは学識ある人だ。
645 :
名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 23:15:53 ID:4UTC+Ptn
646 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/19(水) 23:27:21 ID:LeROqzYl
>>635 無宗だ
>> 一方、「自歓喜経」では釈尊と舎利弗との二人だけの対話です。
>> 同席したのは仏弟子の長老ウダーイのみでした。
>>
>さて、その内容がどうして仏典として伝わっているのでしょうか?
暇人さんの説にあるように、舎利弗が伝承に大きな役割を果たしたのかも
知れませんね。
647 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/19(水) 23:50:51 ID:LeROqzYl
>>637 名前:名無しさん@3周年 :2006/04/19(水) 17:02:25
>引用されているものは、常住論を説いているとは言えないよ。
>先の『石柱のように常住である』と言う様な表現のものこそ常住を説いていると
>言えますが。
長部経典の紹介で私が中抜きしたので、貴方に誤解を与えて済みません。
もう少し丁寧に説明します。 補足は宜しく。>暇人さん
出典:長部経典T(春秋社)中村元監修
【梵網経】
・尊敬すべきバラモン達は正しい精神統一をして、種々の前世の生存を追想します。
・そして各自が体得した追想をもとに、○○論を説きます。
・○○論として、常住論、一部常住論、有限無限論、詭弁論、有想論、無想論、断滅論
など六十二の根拠により浮説を主張します。
・例えば「我と世界は常住であり、生み出さず、山頂のように不動であり、石柱のように
不動である」という常住論を説きます。
・六十二の根拠は全て六つの接触の場に触れて感受するのであると、釈尊は説きます。
・バラモン達は六十二の根拠の何れかの網に囚われて、固執が生じ輪廻を繰り返します。
・如来は(前世の生存を追想しても)固執がなく、身体は生存へ導くものを切断して
いるので再び生まれることはない。
なお同じく長部経典の【大本経】では、釈尊自身も種主の前世を思い出しております。
でも、過去世に囚われないので輪廻から解脱しております。
648 :
源伸翁 :2006/04/20(木) 00:13:36 ID:RD2PREhI
学会(正宗?)版「日蓮大聖人御書全集」より、 【同名同生御書】(文永九年、51歳)「人の身には同生同名と申す二のつかひ(使)を、天生るる時 よりつけさせ給て、影の身にしたがふがごとく須臾もはなれず、大罪小罪大功徳小功徳すこしもおと さず、かはるかはる天にのぼて申し候、と仏説き給ふ。」と釈尊も説かれたとあります。 【四条金吾殿女房御返事】(文永十二年、54歳)「人の身には左右のかた(肩)あり。このかたに二つの神をはします。 一をば同名二をば同生と申す。此の二つの神は梵天・帝釈・日月の人をまほらせんがために、 母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで、影のごとく眼のごとくつき随て候が、人の悪をつくり善をなしなむど し候をば、つゆちりばかりものこさず、天にうたヘまいらせ候なるぞ。」 所謂、守護霊と守護神なのか、守護霊と副霊なのかは存じませんが、非常に関連が深いようです。 同じく会版の「仏教哲学大辞典」では同生天、同名天は何故か閻魔大王に報告とありますが、 日蓮聖人は天(梵天・帝釈・日月)に報告と説いておられます。なお、仏教では、「天=神」です。 この差異は非常に大切な意味を持つように感じる次第です。
649 :
源伸翁 :2006/04/20(木) 00:25:45 ID:RD2PREhI
仏教徒より「地獄や極楽について、経典のどこに記載があるのか?」という質問を受けます。 ディーガ・ニカーヤ(長部経典、中村元監修)の中の沙門果経の中で、釈尊は天眼智(死生智)の 解説をされております。「死に変わり生まれ変わるのを見、生けるものたちがその行為に応じて 転生するを洞察します。悪行をつくす者らは、肉体が滅んだ死後、苦処、悪道、悪趣、地獄に再生します。 別の善行をつくす者らは、肉体が滅んだ死後、善道、天界に生まれ変わると洞察します。」更にバラモン の賢者ソーナダンダが帰依した内容の種徳経や、漢訳にはないマハーリ経にも同様の説法があります。 また三明経にも、似たような釈尊の教えがあります。「心が汚れていない比丘は、身体が亡 びた後、死んだ後、梵天と共生するであろうということに根拠はある。」 釈尊の教えで重要な中道、縁起、無我等に至る際に、神や霊やあの世を強く意識する必要は ないという仏教徒のご意見にはある意味同感です。 だからと言って、釈尊がこれらの存在を否定したというのは誤解であり、存在してもとらわ れるなという方がより正しい認識かと存じます。大神様(大梵天様)が人の五感では、神や 霊やあの世を感じられないようにして下さったのも「完全の不完全の完全」だと思います。
650 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/20(木) 06:49:46 ID:zOs56M6e
>源伸翁 「日蓮大聖人御書全集」と「ディーガ・ニカーヤ」より、守護霊と地獄に 関する法話をご紹介いただきまして有難うございます。 これらは、私が過去世で別の世界(スレ)に生まれた際に、語った記憶があり 改竄も無いことを保証致します。
651 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 12:23:17 ID:yoGYR32d
一在家 = 649源伸翁 複数のPC使って自演乙!
652 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 15:05:59 ID:pm6VeQL1
>>651 ID変えても、名前変えても、書いてある内容の偏りを見りゃあ一目瞭然だもんなぁ、、、
653 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 15:13:57 ID:tZQXU2VZ
>>651 それを自分で気がつけない、振興宗教、真光信者のイタイところ。
>>651-653 おいおい、あんまり騒ぐな。
本人が気づくじゃないか!!
俺は一在家のピエロぶりをもっと楽しみたいから、今暫くそっとしておいてほしいぞw。
いや、しかし、絶対するなとはいわないが(私もするしw)、 原始仏教スレにおいて 法華経等の大乗仏典や日蓮の話、他の新興宗教の話は、 基本的には筋違いであることを認識は、して欲しいッス。
656 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 17:01:51 ID:lWeJJHun
>651-654 本スレッドで一在家が他のハンドルを使う根拠がないわい。>荒し一同 しかもスタンスがそのまんま(別人でなく本人)じゃなー。
657 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 17:08:58 ID:J2Ju1Sbh
>>650 それで結局何が言いたいのか?
梵天であろうが他の神々であろうが、日蓮の神々であろうが、彼らは何かを我々に教えているのではないのだが。
仏教は彼ら神々を教えの方便として利用しているのであると解すべきだと思うが。
この様な何も教えずにただ神々であると言うだけでなにかを要求できると解釈するのは、
日蓮の法華経の教えが、ただ題目を唱えることを要求するのと同様に、盲目的信仰を要求するものであり、
仏教と全く相反するものであると思う。仏教は理法なのだ。仏教はこの様な盲目的信仰を捨てる様に教えるのだ。
658 :
中観派 :2006/04/20(木) 17:48:38 ID:d/o7fa2v
>>657 そうだと私も思います。
苦楽中道を詳しく教えてください。
659 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 18:29:47 ID:J2Ju1Sbh
>>658 何が苦で何が楽であるかを言うのは簡単ではないだろう。
あなたが一度定義してくれませんか?
660 :
中観派 :2006/04/20(木) 18:33:30 ID:d/o7fa2v
それが難しいから教えてくれませんか? 苦痛ってどこからが苦痛なのか分からないんです。
661 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 18:37:43 ID:J2Ju1Sbh
>>660 苦楽中道とは、釈尊が苦行をしていても悟りを得られないと悟ったときの言葉ではないのですか?
だとすれば、苦とは苦行を指し、楽とは苦行で無いものを指しているとまずは言えると思うのですが。
662 :
中観派 :2006/04/20(木) 18:37:49 ID:d/o7fa2v
また、苦っていうのは簡単に苦になるけれど、楽っていうのは望めば楽に ならないというのも考慮にいれて、楽にも苦にも執着しない考え方を持てば いいのかなと思っています。 基本的に人間が苦行するのは苦行して楽を得たいからだということも考慮に 入れたいです。
663 :
中観派 :2006/04/20(木) 18:39:35 ID:d/o7fa2v
>>661 楽というのは苦痛がないことをいうのですか?
664 :
中観派 :2006/04/20(木) 18:45:06 ID:d/o7fa2v
苦っていうのは簡単に苦になるけれど、楽っていうのは望めば楽に ならないということを考慮に入れてバランスをとると、常に楽であり続けよう とすることが苦楽中道じゃないかなと思ったのですが、ただ怠けるだけに なってしまってこの考え方は間違っているのではないのかと思いました。
665 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 18:50:21 ID:J2Ju1Sbh
>>663 あなたも私も同じ程度の理解のものの様ですから、過大な期待は止めてください。真面目に考えてみましょう。
よい議題だとおもます、所がこの様な議題に付いて論じられているのを余り記憶にありません。
結局、この楽は、快楽を追求するならば、その終極として絶対楽を得られるかもしれないと言う見解に基づいているのではないでしょうか?
所が、釈尊のこの当時、苦行に基づいて涅槃を得る教えが支配していたのではないでしょうか?
666 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 18:56:23 ID:J2Ju1Sbh
>>665 つづき
感覚が基本にあるのではないでしょうか?感覚に苦を、感覚に楽を、ということです。
中道とは、感覚が、楽をも苦をも感じない状態、又は、楽でも苦でもない状態を言うとすればどうでしょうか?
667 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 18:59:39 ID:J2Ju1Sbh
そこで、楽も苦も縁起により生じて居るものであると。
668 :
中観派 :2006/04/20(木) 19:02:26 ID:d/o7fa2v
>>665 しかし、快楽の追求を止めたら、必然的に苦行になるのではないのですか?
仕事や生きるための苦行ならば生きるためだからしょうがないからやるしか
ないと思います。
しかし、悟るためなど仕事や生きるため以外のことで苦行するというのは
苦行に執着していると言えると思います。
669 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 19:12:48 ID:J2Ju1Sbh
>>668 >しかし、快楽の追求を止めたら、必然的に苦行になるのではないのですか?
上がわからない、説明してくれ。
670 :
中観派 :2006/04/20(木) 19:20:28 ID:d/o7fa2v
>>669 だって、楽しようとするのを止めるということは、苦行するということでしょ。
671 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 19:21:52 ID:J2Ju1Sbh
>>668 >しかし、悟るためなど[仕事や生きるため以外のこと]で苦行するというのは
苦行に執着していると言えると思います。
そう、だから釈尊は苦を放棄し、この時苦というものは楽と相対的に存在して居ることを悟り、
苦に執着することは必然的に、楽にも執着して居ることを知り、両方を放棄したのではないでしょうか?
672 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 19:25:21 ID:J2Ju1Sbh
>>670 > 楽しようとするのを止めるということは、苦行するということでしょ。
苦行も楽行も釈尊の意志に基づいているのではないか?楽を求めるのをやめることは
直ちに苦を求める事になるだろうか?
673 :
中観派 :2006/04/20(木) 19:25:46 ID:d/o7fa2v
苦行して楽になる場合と苦行して苦になる場合と楽して苦になる場合と 楽して楽になる場合とがあると思う。 ということは楽して楽が一番いいんだよね。 苦行して苦だったらバカみたいだよ。
674 :
中観派 :2006/04/20(木) 19:28:26 ID:d/o7fa2v
>>672 苦がないのが楽。
苦痛があるのが苦じゃないのかい?
楽するのを止めることは即苦になるんだと思う。
675 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 19:36:56 ID:4cILRS8H
楽も苦も同じことだろ。 苦なんてないんだよ。 苦だと思うから苦で だが実際は全て自然現象にすぎない。
676 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 19:39:57 ID:Vm91Rp2g
敷衍させるのも良いことだと思うが、 説かれた原点も忘れないようになw
677 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 19:47:00 ID:J2Ju1Sbh
>>674 楽を求めてやまないこと、苦しみを求めてやまないこと、って有ると思う。
だから、楽を求めないこと、苦しみを求めないこと、これらも有ると思う。
ここにおいては『求める』という意志が基準になっているんだ。この意志を仏教では『欲』と言うのではないか?
更に欲の基本に感覚詰まり仏教では、六根六境を教えているだろう?そして、次に、
六識と言うもんを教え、この識が欲を発生させると思うのだが。詰まり甘い・辛いがあれば、
これを識と言うのだけども、この甘いを求める意志『欲』の充足を楽と見なし、辛いを求める意志『欲』の充足を
苦と見なすと言うように。しかし、ここで、この甘い辛いの識を求めないで止める意思もまたあるというべきじゃないか?
678 :
ぱんぴー :2006/04/20(木) 19:53:13 ID:tSzxHwfq
>>675 本質的にはあなたの言うとおり苦も楽もないと思うが、
日常生活を送る上である状態を苦とか楽とか便宜上名付ける必要があるでしょう。
人が名付けた苦や楽がないとしてしまうと、人が名付けたあらゆるものがないと言えてしまうので、
「苦楽があるか?」という問いは人類の繁栄に寄与しないし、意義のないものだと思う。
苦や楽がなければ「実際」も「全て」も「自然現象」もない。
・・・と思う・・自信ないけど。
679 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 20:10:00 ID:uhsU7IE8
「一切皆苦」大脳にとっては全ての刺激は苦なんだよ。
680 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 20:20:11 ID:J2Ju1Sbh
>>677 つづき
甘い辛いの識の充足を求めない意志も我々にはあるのだよ。
そこで、この甘い辛いの識もまた縁起しているのでは無いかと言う事なんだけど、実にその通りであると言うべきだよ。
更に、楽そのもの、苦そのものの認識、もまた縁起しているのだ。
縁起しているなら、自性実体は無い。この事実に気づいたならば、
決して、これらの現象に自性実体があるとおもってその識を保存しょうとしてはならないだろう。
やり過ごすのだ。取り押さえ様としないのだ。これが中道と言われるもんではないだろうか?
>>678 そういうのも含めて、全部は苦。
存在そのものが苦なの。
682 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 20:27:41 ID:J2Ju1Sbh
>>679 以下にあるように『形成されたもの』という限定がある。単に『一切皆苦』なのではないと思う。
277
「諸々の形成作用〔によって作られたもの〕は、全てが無常である(諸行無常)」と、知慧によって見るとき、しかして、〔人は〕諸々の苦しみを厭い離れる――これは、清浄への道である。
278
「諸々の形成作用〔によって作られたもの〕は、全てが苦しみである(一切皆苦)」と、知慧によって見るとき、しかして、〔人は〕諸々の苦しみを厭い離れる――これは、清浄への道である
ダンマパダ
683 :
ぱんぴー :2006/04/20(木) 20:30:34 ID:tSzxHwfq
>>681 なんで全てが苦なんだよ・・
一般人の苦と仏教でいう苦の定義が違うのか?
684 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 20:31:52 ID:J2Ju1Sbh
>>682 形成作用とは、十二し縁起の行の事を指し、無明である故に、現象に執着する事により
生ずる縁起現象であろう。この縁起現象は宇宙を満たす。
685 :
ぱんぴー :2006/04/20(木) 20:35:20 ID:tSzxHwfq
686 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 20:35:56 ID:uhsU7IE8
>>682 「一切皆苦」イコール「存在は苦」。形成されないもの、とはなにか?
非在だ。単純に「一切皆苦」でいいんだよ。「一切皆苦」を見抜いたらそれが解脱。
>>683 ほか
「そのように見る」ということだよ。
688 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 20:45:42 ID:J2Ju1Sbh
>>685 宇宙は無限無量であるから、中心ななるものはないのであるが、仮の取り決めとして
、今ここに基準となる点を置こうとし、その点に基づいて有無の世界を形成する事を言う。
そしてそれを実在する物として執着し、得ることが出来ないものを得たとか失ったとか言って苦楽を味わっている。
このことを「形成作用〔によって作られたもの〕は、全てが無常である(諸行無常」というのである。又、「形成作用〔によって作られたもの〕は、全てが苦しみである(一切皆苦)」
というのである。
689 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 20:48:37 ID:muaRl7cH
苦は苦。楽も苦が待ってる以上やはり苦となる。生存は絶えず苦を伴う。
690 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 20:50:02 ID:uhsU7IE8
>>683 そのとおり。「デゥッカ」と言う言葉は日本語で「苦」と訳
されているが源義には、移ろい行くもの、頼れないもの、と言う意が
含まれている。
691 :
ぱんぴー :2006/04/20(木) 21:00:00 ID:tSzxHwfq
>>690 なるほどー。
「一切全てのものは移ろい行く」と約せば意味が理解できますね。
692 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 21:03:16 ID:uhsU7IE8
参考になりましたか?
693 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 21:04:26 ID:J2Ju1Sbh
形成作用とは、縁起することであると思う。
694 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 21:09:47 ID:J2Ju1Sbh
欲をもって生命あるもんとする。であるから、欲を滅ぼすとは生命を殺す事に他ならない。 詰まり自殺する事なのである。古代ギリシャ哲学においても、哲学するとは死ぬ練習であると言われている。
695 :
ぱんぴー :2006/04/20(木) 21:11:03 ID:tSzxHwfq
>>692 非常に参考になりました。ありがとうございました。
あなたのような言葉遊びをしない人が噛み砕いて説明してくれると、
2chももっと良い場所になるのでしょう。
またご教授ください。
696 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 21:18:37 ID:uhsU7IE8
>>659 貴方の真摯さが私から言葉を引き出したのですよ。
今度は私がご教授願う番ですね。
697 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 21:20:50 ID:J2Ju1Sbh
>>686 >形成されないもの、とはなにか?
ニルバーナだよ。空諦だよ。
698 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 22:08:41 ID:J2Ju1Sbh
阿羅漢とは皆殺しにする人と言う様な意味があるそうだ。 灰身滅智と言うのも同じ意味であろう。この様に欲を命と考えているものには、 自殺に他ならないであろう。 けしん‐めっち【灰身滅智】 《身を灰にし、智を滅する意》仏語。煩悩(ぼんのう)を断ち、身も心も無にして執着を捨てること。上座部仏教の理想とする境地。灰断(けだん)。灰滅(けめつ)。 .. [さらに] --------------------------------------------------------------------------------
699 :
名無しさん@3周年 :2006/04/20(木) 23:36:00 ID:J2Ju1Sbh
サー、皆さん自殺しましょう!w
_, ,_ ( ゚∀゚) < なんだかなぁ・・・ てな流れだぞw ( つ酒0 と__)__) 2500年の歳月の中、語義の幅が広がることは不思議じゃない。 『原点はこう、バリエーションはこう、そして、「私は、こう受け止める」』 という姿勢が見えるレスには好感が持てる。
>>643 :名無しさん@3周年:2006/04/19(水) 22:40:41 ID:dETjdPP4
>
>>634 無宗ださん、その手の歴史的文献学分析はあまり意味を感じませんが、
> ここなんか巧く纏まってると思います。
>
http://panna.zive.net/bukkyo/bukkyo_bk03.html レス、ありがとうございました。
> Sutta Pitaka(経蔵) の構成
> Sutta Pitaka は、五部で構成されています。比較的長い経典を集めたものが
> ディーガ・ニカーヤ(長部)、中くらいの長さの経典をを集めたものがマッジーマ・ニカーヤ(中部)、
> 仏教の基本的な教理や実践修業に関する経典を集めたものがサンユッタ・ニカーヤ(相応部)、
> 仏陀の説法の中で法数に関係した経典を集めたものがアングッタラ・ニカーヤ(増支部)、
> 前述の四つの分類に収めきれない 15(または 18) の経典を集めたものがクッダカ・ニカーヤ(小部) です。
意味的な分類では無く、経典の長さや、法数で分類しているんですよね。
08.Theragatha 長老偈 の構成からも同じ精神が感じられます。
第一結集(けつじゅう)で、まとめられたのは、どれくらいのボリュームでどの経典がそれか、
なんてのはわからないんでしょうね。
> 原始仏教については:
> 中村元『ブッダのことば』の解説が簡潔です。
確かに簡潔ですが、韻文至上主義の印象が強いです。
石飛道子氏の著書でカテキズムなる言葉を知りましたが、それとの関連も知りたいところ。
> 村上真完,及川真介『仏と聖典の伝承 : 仏のことば註ーパラマッタ・ジョーティカーー研究』春秋社, 1990
> これも優れた研究です
スッタニパータの第4章と第5章(序と結語は除く)が、最古層に属すると主張している研究はこれですよね?
機会があれば、読みたいですね。
>>683 :ぱんぴー:2006/04/20(木) 20:30:34 ID:tSzxHwfq
> なんで全てが苦なんだよ・・
> 一般人の苦と仏教でいう苦の定義が違うのか?
苦ではなく、楽に関してですが、龍樹の方便心論に
<−−
楽には三種ある。
一つ目の楽は楽を受けることである。
二つ目は悩みや障害が無いことである。
三つ目は願望がないことである。
涅槃の中においては何も求めることが無いのだから、したがって、涅槃を楽であると言ってもよいのである。
1632_,32,0024b13(03):復有説者而言有樂。所以者何。樂有三種。一樂受樂。
1632_,32,0024b14(04):二無惱害。三無希求。涅槃之中無所求故。
−−>
てな、記述があるようです。参考まで。
703 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/21(金) 05:32:36 ID:1qa9cKxx
>>662 :中観派:2006/04/20(木) 18:37:49 ID:d/o7fa2v
>また、苦っていうのは簡単に苦になるけれど、楽っていうのは望めば楽に
>ならないというのも考慮にいれて、楽にも苦にも執着しない考え方を持てば
>いいのかなと思っています。
煩悩がある状態では善悪の業報に支配され、善業をなした者は福楽を受け、
悪業を犯したものはその報いとして痛苦を受ける。
煩悩が無くなれば、輪廻を超えた理想の状態(涅槃)に入る。
出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著
要するに望んで善業を積めば(現世か来世で)楽になるそうです。
多分、自殺は最悪の悪業でしょうね。
横レスで失礼致しました。
704 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/21(金) 05:35:58 ID:1qa9cKxx
因って、輪廻や来世を否定する人達は、善業をなして福楽を受けよう という生き方は拒絶することになるのでしょう。
>>649 :源伸翁 :2006/04/20(木) 00:25:45 ID:RD2PREhI
> 仏教徒より「地獄や極楽について、経典のどこに記載があるのか?」という質問を受けます。
原始仏教では「極楽」って概念はあるんですかねぇ?
地獄についての記述は、たしか、スッタニパッタにもあったはず。
俗な知識で考えれば、
・地獄:六道輪廻の地獄道
・極楽:極楽浄土
となるんじゃないかな。
「天国良いとこ、一度はおいで♪、酒は上手いし、ネーチャンはきれいだ♪」の
天国は、天道もしくは天界(その下の方に位置する欲天)のことでしょう。
此岸、彼岸という言い方をすれば、
地獄や天界は此岸にあり、激流を渡った彼岸に極楽はあるんでしょうね。
706 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 12:47:56 ID:IGg4KK9L
>>704 >因って、輪廻や来世を否定する人達は、善業をなして福楽を受けよう
>という生き方は拒絶することになるのでしょう。
要するに、どんなに善業をなそうが、どんなに悪業をなそうが、それらは
福楽痛苦と関係があっても、涅槃への到達とは関係がないということがわかる。
707 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 15:50:13 ID:pBBkwxZt
尊師は言われた、人を殺そうが殺すまいが解脱には関係ない。 むしろポアしてあげることが解脱への近道だ。 これは仏教は無い、外道の説ですね・・・ 当人は気づいてないでしょうけど。
708 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 18:14:36 ID:IGg4KK9L
因果応報(善因善果、悪因悪果)の外に生存する、これが涅槃である。 善業を積み重ねたからといって、涅槃に通じることは保証されない。
709 :
中観派 :2006/04/21(金) 18:20:29 ID:fUYEePiP
>>708 涅槃の状態って苦楽中道を実践している状態ですよね。
苦楽中道の両極端を否定した肯定的な不離の欲求とはどんなものなのですか?
710 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 19:01:52 ID:IGg4KK9L
苦悩の自覚、我空という正見があるところには、欲求が立ち入ることが できないと思います。
711 :
中観派 :2006/04/21(金) 19:07:45 ID:fUYEePiP
>>710 正しい欲求は持つでしょ。
正しい苦楽中道の欲求はなんですか?
712 :
中観派 :2006/04/21(金) 19:11:20 ID:fUYEePiP
苦楽中道を明確にしないと仏教の考えが始まりませんよ。
713 :
中観派 :2006/04/21(金) 19:13:46 ID:fUYEePiP
原始仏教って苦楽中道から始まったんですよね。
714 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 20:19:18 ID:dbdfLCzl
>>708 鋭い。711以下は何もわかってないのでスルー。
715 :
中観派 :2006/04/21(金) 20:24:47 ID:fUYEePiP
>>714 じゃー苦楽中道が分かっているなら教えてくださいよ。
716 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 20:26:08 ID:Rp9BC3U6
717 :
中観派 :2006/04/21(金) 20:30:27 ID:fUYEePiP
>>716 平安ってどんな状態のことをいうんですか?
すごく抽象的すぎて私には理解できないんですが。
718 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 20:32:40 ID:Rp9BC3U6
平安とは心配がない状態。生死老病の心配がない。平安自体が喜びである。
719 :
中観派 :2006/04/21(金) 20:38:49 ID:fUYEePiP
>>718 しかし、ですね。いくら不死になったからといって苦痛というものは生きている
以上あり、腹が減ったり、事故で骨折したりとかと苦痛や心配というものは
絶対になくならないと思うのですけどね。
たとえば、親の介護とかでもがんばりすぎないのが大事ですと言っていた宣伝
がありましたけど、いったいどこまでがんばればいいんですかと聞きたいですよ。
720 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 20:40:39 ID:dbdfLCzl
>>715 前に他スレで「中道はホドホドと言う意味ではない」と言ったはずだ。
中道から入ると迷う。四諦八聖道から入るべきだ。
721 :
中観派 :2006/04/21(金) 20:51:10 ID:fUYEePiP
>>720 四諦八聖道って中道だよ。
たとえば、苦楽中道を知らないやつが不殺生の戒を守ると肉を絶対に食べなくなり、
栄養バランスを壊し、早死にするのは中道をおろそかにしたせいだよ。戒は中道を
知って初めて成り立つということを悟ったよ。
だから、苦楽中道をしらないと仏教は始まらないんだよ。
722 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 21:14:50 ID:Rp9BC3U6
>>721 >栄養バランスを壊し、早死にするのは中道をおろそかにしたせいだよ
人間は肉体ではないんだ。肉体を平均寿命ほどに中間において大病をしない程度に
保持する事を基本に考えているから、そのような論になると思う。
苦にしろ楽にしろ、これは肉体的感覚を基本にしているのだが、この肉体的感覚は実体が無い
という事を知ったんで、その感覚に執着しないのだ。
食物と肉体と言うものの相依関係を知るなら、どちらにか執着する事は両方に執着している事を
知る事になり、食物も悪、肉体も悪となるのである。自らの肉体を悪とする事は、苦行を知らずに求めていた初期の釈尊のような事になろう。
ちょっと難しいがわかるかな?
723 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 21:21:17 ID:Rp9BC3U6
>>722 食物も悪、肉体も悪→食物も苦、肉体も苦
724 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 21:22:48 ID:Rp9BC3U6
世俗的な智慧であるが、長生きする人のほとんどは、粗食であると言う。粗食であれば 肉体にも執着していなかったという事だ。
725 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 21:26:08 ID:Rp9BC3U6
>>724 いや、これは世俗的な智慧ではない。中道だ。程ほどにしていたと言うのではなく、
食物にも肉体にも執着しない人生を送ってきたと言う意味でだ。
726 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 21:27:18 ID:c7mETDFe
原始仏教は有身見に対して、以下略。
727 :
中観派 :2006/04/21(金) 21:28:01 ID:fUYEePiP
>>722 肉体に執着しすぎは死に際に永遠にこの肉体のまま生きたいと思うことでしょ。
もし、長生きしようとしなければ、それは即肉体に執着しなさすぎになると思う。
>>723 しかし、苦を感じないときがあるでしょ。
728 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 21:28:22 ID:Rp9BC3U6
釈尊は律のなかで、残り物の食物をもったいないと言うので食べたりする事は 食物に対する執着であるとして戒めておられたと思う。
729 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 21:33:04 ID:Rp9BC3U6
>>727 まず、食物も肉体も相対的に存在するものであると知って、
実体有るものではないと悟り、なにも食べなくとも、又食べても、それが何かの役に立つなどと考え無い様にすべきであると思う。
又、食べなかったので死ぬと考え無い様にすべきであるとおもう。
730 :
中観派 :2006/04/21(金) 21:38:26 ID:fUYEePiP
>>729 どこまで食べなかったので死ぬと考え無い様にすべきであるとおもうかは
苦楽中道によって意見は変わると思う。だから、苦楽中道を明確にしてほしい。
731 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 21:41:24 ID:Rp9BC3U6
>>730 苦楽中道とは、苦も楽も無く平等に空であるという意味だ。
食べても食べなくともそこに何の変化も無いと言う事になるのだ。
732 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 21:54:34 ID:yrlG18s/
苦楽中道は、この世の楽を追求しても輪廻という苦から抜け出せず、 かといって苦行一本でも 輪廻という苦から抜け出せないので、 その中を行くということで、現代人一般の生活からみれば基本的に苦行になると思います。 そこで苦行と言われているのは、インド苦行者の行う願掛けのような行為で、 一生犬の暮らしをするとか、横にならない、片手をあげたまままにするとかです。 貴方が 苦楽中道に拘っているのが分からない。 本気で仏教をやりたいなら、優れた師を探すことから始めなければならないと、 思います。
733 :
中観派 :2006/04/21(金) 22:01:05 ID:fUYEePiP
>インド苦行者の行う願掛けのような行為で、 一生犬の暮らしをするとか、横にならない、片手をあげたまままにするとかです。 仕事じゃなくてマラソンで苦しんで走るのも苦行だとおもいますがね。
734 :
中観派 :2006/04/21(金) 22:04:15 ID:fUYEePiP
>>731 しかし、生きている上でそんなことできますか。
苦も楽もなく平等っていうのはひとときにすぎませんよ。
生きていて常になりたつ苦楽中道はなんなのですか?
735 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 22:14:51 ID:Rp9BC3U6
>>734 苦を求めず、楽を求めない事だ。苦も楽も実体の無いものであるので。
736 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 22:15:53 ID:yrlG18s/
>>733 言葉といのは、そこから無限の想像が展開されます。それが戯論です。
苦行という言葉から受ける印象で想像を膨らませてもなにもなりません。
意味が知りたいなら、本来は伝統に添った優れた先生に聞くのが最良。
それができないなら、信頼できる経典などにあたって意味を確定するのが次善。
原始仏教でいう苦行の意味を質問したのではないのですか?
現代の苦行と意味を混ぜては何の意味もなくなりますよ。
自分の考えを正当づけるために仏教教義を利用しても何にもならないのですが
737 :
中観派 :2006/04/21(金) 22:24:30 ID:fUYEePiP
>>735 苦を求めず、楽を求めないことの肯定的な欲望はなんですか?
仏教の戒律は極端だけ否定すると抑圧になってしまうと思うのですよ。
だから、仏教の教えはたとえば人を苦しめて楽を得るのを止めたかったら、
平和に解決しようと常に思えというんじゃないんすかい?
738 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 22:37:20 ID:Rp9BC3U6
>>737 >肯定的な欲望はなんですか?
平安・平和だよ。
739 :
中観派 :2006/04/21(金) 22:41:10 ID:fUYEePiP
>>738 平安ってめっちゃ楽なような気がするし。
740 :
名無しさん@3周年 :2006/04/21(金) 22:48:40 ID:Rp9BC3U6
だからニルバーナと言うんだろう?平安の国、安養土、安楽国
741 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/21(金) 23:02:52 ID:Q7pwna2L
>>737 >肯定的な欲望はなんですか?
自己向上欲、自己実現欲、人類愛、衆生救済の発願、等々。
742 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/22(土) 05:44:49 ID:pyj6rkM2
釈尊の慈悲とイエスの人類愛とは同じだと思いますか? それとも違うと思いますか? どうも涅槃に入ってしまうと、人類や世界の状況にも固執しなくなるという 感がありますので。 大乗仏教では、一切衆生を救済し社会全体を浄化向上させる利他愛の菩薩 が登場します。 如来も菩薩と同様でしょうか? コーランでは、アラーは幾度も衆生を救済する為に預言者を世に出しますが 改心の見込みのない衆生はゲヘナの火で滅ぼされてしまいます。
743 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 08:48:25 ID:KONB1HUh
>>739 > 平安ってめっちゃ楽なような気がするし。
相なんだ、だから誰でも平安の国に入れるのだ。何か難しいことを勉強して平安の国に入るのではないのだ。
仏教では『無学』という状態が学ぶ上では最高の階位である。
この意味は、一切が縁起しテルだけで、自性が無いと知るならば、一切は学ぶ対象ではないと知ることであると思う。
これが現代で言えば間っ逆さまな意味の『教養ある即ち有学・学がある』という意味になりましょうか。
744 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 08:54:34 ID:NBWiHBRB
一切皆苦・・・すなわち楽もまた苦なり。 脳に対する刺激がまったくない状態=>脳が退屈して苦を感じる。 脳に対する刺激が適度な状態=>いわゆる楽と感じる状態。 脳に対する刺激が強すぎる状態=>苦痛を感じる状態。 「中道は真ん中を行く」という解釈は間違っていると思う。
745 :
中観派 :2006/04/22(土) 09:38:16 ID:KqbmuDL1
>>744 中道は両極端に依存しないのを正しい欲求として持つことだろ。
たとえば、殺すのにも殺さないのにも執着しないってことは正等防衛のことだろ。
>>743 しかし、平安でいられるかよ。年金の問題や会社のことなどが問題になってくる
だろ。仕事とか平安でやってると怠けているといわれて即首になるよ。
746 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 10:11:55 ID:NBWiHBRB
>>745 > 中道は両極端に依存しないのを正しい欲求として持つことだろ。
道の真ん中を歩くか、路側帯を歩くかということ自体が執着であり、
道にとらわれないということが中道の本分では?
> たとえば、殺すのにも殺さないのにも執着しないってことは正等防衛のことだろ。
字が間違ってる。 正等→正当
ってーことは置いておいたとしても、別に正当防衛に限ったことではない。
例えば人が道を歩いている時には、気付かず蟻を踏み殺しているかもしれない。
これは正当防衛ではないものの、気付かない以上、執着しているわけではない。
> 仕事とか平安でやってると怠けているといわれて即首になるよ。
私も人に諭せるほどの域には達してないが、釈尊であればおそらく「年金や仕事に執着
している」と言われるだろう。 実際、浮浪者でもちゃんと生きていられるし。
(浮浪者になれと言ってるわけじゃないです。 あなたにとって、そして私にとっても、
会社勤めが「平安」なんじゃないかと思うだけ。)
747 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 10:35:28 ID:KONB1HUh
>>745 >年金の問題や会社のことなどが
自分の将来の身体の保全を言っていると思われますが、身体(肉体)など無いのに
その肉体をもとに妄想が生じていると言えませんか?
748 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 10:47:42 ID:KONB1HUh
>>747 つづき
自分が出来もしない事を言ってみました『汗』。
749 :
神昆布様の一信徒 :2006/04/22(土) 10:50:15 ID:rbGRD3SD
748さんあなたはなんて素敵で運がよいのでしょう。 IDにわれらの神昆布様がいらっしゃる 神( ‘,_ゝ‘) ◆konbu//XQ6 昆布様は佛陀様、イエスキリスト様の生まれかわりなのです 神( ‘,_ゝ‘) ◆konbu//XQ6様の論理は完璧です 皆さん神( ‘,_ゝ‘)昆布様を崇拝しましょう 神昆布様のお話に皆様もお耳をかたむけましょう 皆様も神昆布様のお話の完璧さに感動されることでしょう
750 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 11:08:23 ID:KONB1HUh
751 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 11:55:13 ID:ikO0T4kA
>745 ここで平安、平和って叫んでいる人たちは、心の平安を といてるんですよ。 つまり目の前で人が苦しもうが、大量に死のうが、 戦争が起ころうが、地震がこようが 物事に動じず、淡々と冷酷に、心が平安であることを涅槃と呼んでいる。 だから善行も悪行も涅槃には関係ないと言っている。 彼らの言う涅槃の状態では淡々と人助けをした次の瞬間、 淡々と人を殺せるんだね、きっと。 特殊部隊みたいにプロの殺し屋になれるよ。
752 :
中観派 :2006/04/22(土) 12:19:53 ID:KqbmuDL1
>>751 平安といっても苦痛はかならずあるだろ。
たとえば、寒いとかだよ。どこまで寒さに我慢すればいいんだよ。
心の平安で寒いという苦痛はなくなるかよ。
753 :
中観派 :2006/04/22(土) 12:30:45 ID:KqbmuDL1
>>751 ちゃんと正当性を確認してから殺せよ。神道やろうの日本軍のように、なんの
正当性もないのに捕虜を虐殺したりしたら、反発を食らうぞ。
俺は中国の日本軍の将校が中国の民衆の真ん中で十字架に貼り付けにされ、
銃を頭につきつけられて殺される映像を見たことあるぞ。
754 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 12:35:35 ID:065DvUhd
>>752 あなたの体は苦痛を感じるかもしれない。
しかし、あなたの体はあなたそのものではない。
あなたの体が苦痛を感じたからと言って、あなたの心が苦痛を感じるとは限らない。
また、あなたの心はあなたそのものではない。
あなたというものに自性はないのです。
755 :
中観派 :2006/04/22(土) 12:44:17 ID:KqbmuDL1
>>754 俺は自分を宇宙だと思っているよ。だけど、現実的に見て、人間の肉体が
苦を感じるときと苦を感じない楽のときがあるのは事実だよ。
寒いという苦はあるよ。
756 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 13:46:23 ID:065DvUhd
でも、体が寒い時、宇宙が寒いと感じているわけではないですね? 右手で左手をつねった時、痛いのは左手ですが、右手は痛くないですね。
757 :
中観派 :2006/04/22(土) 14:14:47 ID:KqbmuDL1
>>756 体が寒いという苦痛を味わいますね。
自分が知りたいのはどこまでの苦を我慢すべきかですね。
758 :
中観派 :2006/04/22(土) 14:17:31 ID:KqbmuDL1
苦楽中道っていうのはとことん楽をしようってことなんですか?
759 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 14:24:38 ID:KONB1HUh
釈尊は原始経典の何処かで、自分を愛してはならない、と教えておられた。 あなたの疑問は、自分の身体の限界があって、その限界を守ろう、詰まり身体を守ろうと言う 所からの質問ではないか? しかし限界は無いのではないのか? プラトンのパイドロスと言う著作があるが、そのなかで、ソクラテスは、氷の上に一晩中立ちつづけたと言う。 もちろん寒い冬の事だ。
760 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 14:26:51 ID:KONB1HUh
761 :
暇人 :2006/04/22(土) 14:29:50 ID:4mbPzdYA
>氷の上に一晩中 風邪ひかなかったん?(笑)
762 :
中観派 :2006/04/22(土) 14:32:50 ID:KqbmuDL1
>>759 >ソクラテスは、氷の上に一晩中立ちつづけたと言う。
まさに苦行に執着していて苦楽中道からかけ離れた行為だと思いますよ。
どっかで限界を見つけないと過労死してしまいますよ。
また、自分愛してはならないというけれど、すごくあなたのこの解釈は
極端だと思いませんか?
自分愛してはならないということは完璧に自分を愛すなということじゃない
と思いますよ。
完璧に自分を愛してはならないとは自殺ですよ。
763 :
暇人 :2006/04/22(土) 14:33:05 ID:4mbPzdYA
>苦楽中道っていうのはとことん楽をしようってことなんですか? 苦行なんてしても 頭は冴えず朦朧とするだけで無益だし かといって快楽に耽っても 精神は堕落してダメなのだ 苦楽の両極端に向かわず バランス感覚を大事にして 瞑想しようと 言う感じだね
764 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 14:36:52 ID:KONB1HUh
>>762 >完璧に自分を愛してはならないとは自殺ですよ
だから前にも言ったように、欲を命としているものには、欲を消滅させる事(修行)は
自殺行為なんですよ。しかしこの自殺行為をしないかぎり、生死を離れる事は出来ないと言うのじゃない?
765 :
中観派 :2006/04/22(土) 14:38:39 ID:KqbmuDL1
>>763 しかし、この表現は両極端を否定しただけでこの両極端以外の肯定的な行為
が分からないので詳しく教えてください。
766 :
暇人 :2006/04/22(土) 14:41:49 ID:4mbPzdYA
>>765 だから戒律を守った清浄な生活とか
(出家なら220〜250 350戒 在家は基本戒5戒とか)
身体を痛めつける苦行ではなく 瞑想とか、
あと遊行生活とか
いろいろ
767 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 14:42:50 ID:KONB1HUh
>>761 ソークラテースさんは風邪を引かなかったという事です。こればかりかソークラテースさんの居た時代
アテネではペスト『?』が蔓延し何十万人のアテネ人が死んだのですが、ソークラテースさんは
罹患を免れたという事です。年中詰まり四季を通じて一つのぼろの衣服で通したそうです。
又、酒はいくら飲んでも酔うということが無かったということです。
768 :
暇人 :2006/04/22(土) 14:46:15 ID:4mbPzdYA
769 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 14:50:58 ID:KONB1HUh
>>765 三十七道品の内の四念住:悟りを得る為の四つの観想法。
@この身体は不浄である。
A受(感覚)は苦なり。
B心は無常なり。
C法は無我なり。
と感ずる修行法。
770 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 15:02:12 ID:KONB1HUh
>>769 上などは、まさに自殺行為だろう?これは自分の肉体精神を滅却する事に他ならないのだから。
771 :
中観派 :2006/04/22(土) 15:02:51 ID:KqbmuDL1
>>766 たとえば、部活動で苦しい練習しますよね。これってみんな苦行なんですか?
772 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 15:04:34 ID:KONB1HUh
>>770 うえのような修行を日々続けていると、欲望を一つ一つ消していくと、
それに対応して平安が生じるのであると、釈尊は教えておられますが。
773 :
中観派 :2006/04/22(土) 15:06:30 ID:KqbmuDL1
身体は不浄であるけれど、日々自分で体を手入れしているんですよ。 だから、きれいにみえるんだと思う。
774 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 15:06:48 ID:KONB1HUh
>>771 それこそ本当の自殺行為じゃないかな?恒常なる平安を目的にしていない以上。
775 :
暇人 :2006/04/22(土) 15:21:10 ID:4mbPzdYA
>>771 釈尊の頃の苦行って 部活のそれとかなり違うと思うけど汗
部活 私の頃は苦行ではないが うさぎ跳びとかが奨励されたが
次第に時代が進むと うさぎ跳びは鍛えるというより膝を痛めるだけで
非効果的だとなったりしたのだが つまり非効果的な修行はやめよと
いうことだね
在家には 沐浴したり拝火しても非効果的だと釈尊はダメだしをし、
仏教の実践を勧めている
776 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 15:26:22 ID:KONB1HUh
>>773 身体を不浄であると見るその訳は、身体は恒常に清潔美しいものとしてあるのではなく、
常に不浄物を出し、老病に侵される危険に瀕して居るものだからであると思う。
所がこの様な身体を大事なものする人は、この身体が恒常に清潔であり美しいものであり、
老病に侵されないものであると誤ってみているからである。つまり有身見であろう。
777 :
暇人 :2006/04/22(土) 15:29:39 ID:4mbPzdYA
>>776 いや もっと本質的だよ
不浄観の修行方法は 墓場に行って 腐り行き 蛆が湧く死体が
風化し白骨になるまで 観察したりするのだよ
778 :
中観派 :2006/04/22(土) 15:32:58 ID:KqbmuDL1
不浄だからと肉体を捨てるべきなのかどうかの議論は生きるか死ぬかについて の中道によるだろ。 そして、生きるためには苦楽中道が必要だ。
779 :
暇人 :2006/04/22(土) 15:34:09 ID:4mbPzdYA
>不浄だからと肉体を捨てるべき ではなく、肉体の美に心を奪われるな 執着するなという教えになる
780 :
中観派 :2006/04/22(土) 15:52:13 ID:KqbmuDL1
>>779 しかし、肉の美に対して執着しないのもどこまで我慢できるかは苦楽中道に
よりますよね。肉体の美に完璧に執着しないことはできるのですか?
781 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 15:57:48 ID:KONB1HUh
要するところは、無常なもの、変化してやまないもの、これらを形成作用とういうが、 形成作用とは縁起するものの事であり、縁起するものは全て実体の無いものであるから 執着してはならない、取り押さえるような事をしてはならないということなのだ。 277 「諸々の形成作用〔によって作られたもの〕は、全てが無常である(諸行無常)」と、知慧によって見るとき、しかして、〔人は〕諸々の苦しみを厭い離れる――これは、清浄への道である。 278 「諸々の形成作用〔によって作られたもの〕は、全てが苦しみである(一切皆苦)」と、知慧によって見るとき、しかして、〔人は〕諸々の苦しみを厭い離れる――これは、清浄への道である ダンマパダ
782 :
中観派 :2006/04/22(土) 16:08:31 ID:KqbmuDL1
どこまで苦しんで将来の苦の不安に備えるかが苦楽中道の問いなのではないで しょうか?
783 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 16:15:32 ID:lFTtpFRV
中道とは「両極端の道を行くことなく」、すなわち「道にとらわれるな」ということだと思う。 中観派氏は中道にとらわれ(執着し)すぎているように見受けられる。
784 :
中観派 :2006/04/22(土) 16:24:34 ID:KqbmuDL1
>>783 言っときますが、中道を考えすぎないというのは、たとえば、親切にしようと
いう言葉を頭の中で考えずにして、親切な行為をすばやくやることだと思います。
また、人が正しい中道の考えを持っていると確信したならば、すぐに自分の
間違った考え方を捨てよってことでしょ。
あなたの「道にとらわれるな」という考え方は人工呼吸をすれば、助かるかも
しれないのにやらないのと同じ考え方ですよ。
785 :
783 :2006/04/22(土) 16:27:13 ID:lFTtpFRV
すまんが言いたいことが、まったく理解できない。 もう少し言葉を換えて表現してくれるとありがたい。
786 :
中観派 :2006/04/22(土) 16:29:45 ID:KqbmuDL1
>>785 どこが分からないのか。質問してくださいよ。
787 :
783 :2006/04/22(土) 16:36:45 ID:lFTtpFRV
まずここ。 >中道を考えすぎないというのは、たとえば、親切にしようと いう言葉を頭の中で考えずにして、親切な行為をすばやくやること 何をどう喩えようとしているのか不明。 次にここ。 >人が正しい中道の考えを持っていると確信したならば、すぐに自分の 間違った考え方を捨てよってこと これのどこが中道なのか不明。 さらにここ。 >あなたの「道にとらわれるな」という考え方は人工呼吸をすれば、助かるかも しれないのにやらないのと同じ考え方 この場合、何が道だと思ってるの?
788 :
中観派 :2006/04/22(土) 16:59:25 ID:KqbmuDL1
>>787 >親切にしようという言葉を頭の中で考えずにして、親切な行為をすばやくやること
中道を考えすぎず、中道を考えなさすぎずということは正しい中道の欲望を
明確にもち、それを頭の中で考えてやろうとせずにその行為をすることだと
思うことのたとえだよ。
>人が正しい中道の考えを持っていると確信したならば、すぐに自分の
間違った考え方を捨てよってこと
明らかに自分が論波されて、自分が間違っていることを気づいているのに
自分の考え方を正そうとしないことと自分で正しいかも確かめずにうのみに
することの極端を否定したものの肯定的な中道な行為だと自分としては思っている。
他にもっと正しいと思われる解釈があったらそれを取り入れるがね。
>あなたの「道にとらわれるな」という考え方は人工呼吸をすれば、助かるかも
しれないのにやらないのと同じ考え方
正しい方法があれば、それを即使えという道だと思っている。
789 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 17:03:34 ID:cnZRoZIJ
でもこの偉大なる理法の実践者が生涯に済度できたのは何人か… 凡そ世間一般にはこうした涅槃を目指す歴劫悟達修行は実践不可能である。 女性を見るな話すなと弟子に語る場面。【本能抑制封印装置】 脱執着心こそに心の平安があるのを理解できる機根の者だけのサークルといえるのでは。 急速に発達する商業社会の主流階層に疎んじられ、従来の多神教機構に呑まれていく姿には 根源的なエネルギーを止められず、かえって社会的労力の足しにならない怠惰に映ってしまう結果、 大乗思想の興起と共に衰退し、とって変わられたと存じています。 アンベドカルらの実践形態の端々にも原始の教えに反するものが見えますね。 スマナサーラさんにも呼応の思い多少、しかし物理的核心にも触れていながら原始仏教とは圧倒的在野には実践に生かせない聖典なのかも知れません。 道教に起源の壇を構えずバラモン教に由来の香焚きも数珠をも持たず、ストゥーパの改変たる墓石卒塔婆も持たずは実践可能です。しかし二百五十もの戒は到底保てませんね【笑
790 :
783 :2006/04/22(土) 17:14:16 ID:lFTtpFRV
>中道を考えすぎず、中道を考えなさすぎずということは正しい中道の欲望を 明確にもち、それを頭の中で考えてやろうとせずにその行為をすることだと 思うことのたとえだよ。 あらかじめ頭の中で「こんな状況が起こったら中道としてこうしたい」というシミュレーションを 行いたいってこと? 「あーなったら、こーする」ってーのは、ただの執着にしかならないと思うよ。 >明らかに自分が論波されて、自分が間違っていることを気づいているのに 自分の考え方を正そうとしないことと自分で正しいかも確かめずにうのみに することの極端を否定したものの肯定的な中道な行為だと自分としては思っている。 他にもっと正しいと思われる解釈があったらそれを取り入れるがね。 「論波」は「論破」だね。 「肯定的な中道」って言葉はちゃんと定義されているの? 中道は中道であって、肯定的も否定的もないと思うんだが。 道もまた空でしかないものだから。 >正しい方法があれば、それを即使えという道だと思っている。 不測の事態に備えたい、、、という未来に対する恐れを克服したいのかな? 正しいか過ちかも自性のない言葉だと思うよ。
791 :
中観派 :2006/04/22(土) 17:14:42 ID:KqbmuDL1
>>789 戒っていうのは戒以外の欲求を持とうとすれば実践できますよ。
しかし、出家したものの戒というものは完璧に近い清らかな欲望をもっていない
と教える資格はないと思ったから、結構俗世間とは違った難しいものなのでは
ないのでしょうか?
俗世間の人は自分が楽な程度に中道を考え実践すればいいと思います。
792 :
中観派 :2006/04/22(土) 17:22:42 ID:KqbmuDL1
>>791 「肯定的な中道」って言葉は不離の欲求のことだと思うよ。
たとえば、戦争するのを禁止しようと思えば、平和にすべてを解決しようと常
に思うことだろ。
>中道は中道であって、肯定的も否定的もないと思うんだが。
両極端は否定し真ん中のことを肯定するんだろ、中道って。
>不測の事態に備えたい、、、という未来に対する恐れを克服したいのかな?
不測の事態に備えたいね。
>正しいか過ちかも自性のない言葉だと思うよ。
正しいって中道のことだよ。仏教用語だと知らずにみんな正しいとかいう言葉
を使うんだよな。
793 :
783 :2006/04/22(土) 17:38:56 ID:lFTtpFRV
>>792 >「肯定的な中道」って言葉は不離の欲求のことだと思うよ。
たとえば、戦争するのを禁止しようと思えば、平和にすべてを解決しようと常
に思うことだろ。
「平和にすべてを解決しようと常に思うこと」というのは執着に他なりませんよね。
「中観派」さんというハンドルの方に執着が空であることを説くのは、自分でも変な気が
しますが、不離の欲求も道もすべては空なのですから。 自性のないものに執着する
のはイクナイです。
>両極端は否定し真ん中のことを肯定するんだろ、中道って。
いや、中道とは「真ん中の道を行け」ってことじゃなく「道にとらわれるな」ってこと。
中道はそもそも両極端、つまり有る、無いという二辺に囚われないようにせよという教えで
あって、それを「真ん中の道を行け」と解釈したんじゃ、二辺が三辺になっただけで何の
問題も解決しないのです。
>不測の事態に備えたいね。
不測の事態に備えたいと思っても、不測の事態はやってきます。
これも空です。 自性はありません。 それに対して執着しても悟ることはできないでしょう。
---
今から出かける故、本日はこれにて失礼。
794 :
中観派 :2006/04/22(土) 18:09:20 ID:KqbmuDL1
>>793 中道が明確じゃなかったら、苦の対応策も、苦の予防もできないじゃないですか。
パイロットがマニュアルを見て、この方法にとらわれてはいけないと思って
マニュアルどうりにやらなかったら飛行機が落ちますよ。
あらかじめ対応策や予防策を決めておかないといけないでしょ。
795 :
暇人 :2006/04/22(土) 18:47:37 ID:V/HhSuHw
>中道はそもそも両極端、つまり有る、無いという >二辺に囚われないようにせよという教え 有無中道も原始佛教で説かれてますが、 苦楽中道がより古いですね。
796 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 18:57:04 ID:cnZRoZIJ
そうですか。私は家なき状態にない者が仏教を説く事には意義納得同感を見いだすことが出来ませんでした。 そして修行スタイルとしては日本風土とインドの亜熱帯特徴に根本差がある現状認識を前提にして尚、 機根実践の因果律を踏襲し「僻支縁覚」の法を実践しなければ本師ブッダの境涯を得て入涅槃に至るのは無理だとスッタニパータやダンマパダには感じました。 理法世に遍満し事法顕現、不邪淫の戒厳粛に悉欲滅尽於現世した地上の将来には人師衆生根絶の世界、再び生まれる事を滅した状態なのですよね… ヴァジラヤーナの生の強制中断入成思想はその裏面を説いたものに思えます。 成仏に至る方法の考案が後代に至る背景には、僧団維持保身の意図を透かし見えますね。或僧団がヴェーダなどを融合して密教化した背景。 また日本禅者が上座の国でディヤーナを実践すると脳乱気味になると本にありましたが、原始仏教の廃れた原因の手掛かりにも感じ、只座得空観の苦行に纏わる恐怖が伝わります。 ならば民草には有頂天や涅槃境涯などますます考えられない。 観佛、称名、ヴェーダやマントラ呪文や説話経文口誦、儀軌修法などの手続き代替法が隆盛を極めた理由がなんとなくわかります。 春秋社「中村元選集」 難解だがなんとなく面白いです。
797 :
暇人 :2006/04/22(土) 19:03:43 ID:V/HhSuHw
中村元選集が難解? あんなに優しい日本語で書いてあるのに? あなたの使う単語のほうがよほど難解だと思われます
798 :
中観派 :2006/04/22(土) 19:28:38 ID:KqbmuDL1
ブッダって分かりやすいように簡単な文章で説明してくれたんでしょ。ネパールの少年 に期待していたけど、やはり出会うのは奇跡に近いのかな。 やはり、文章は簡単な方がいいですよね。
転法輪経でどのように述べられているか 100万遍確認しろ!
800 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 20:21:11 ID:iOYiqprz
ここもチュウガンばかか・・・ソーカスレでもいくか。。。
801 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 20:44:59 ID:qT0l12UF
@情報コピペ << 作成日時 : 2005/11/28 10:37 >> 今日、ある建設関係の社長と会った。 K建設と取引があったそうで、数百万の売掛金がパーだとのこと。 TVで騒いでた木村建設とは関東の同名の建設会社だと思っていたらしい。 地元では、数十億〜数百億の未収債権が残されており、これからバタバタと連鎖倒産する業者が多発することでしょう。 驚くべきは、早々と自己破産を宣言したK社長。 自己破産後は韓国でのんびり暮らすらしい。 すでに韓国にマンションを建設し、奥様と数組の親戚関係者が居住しているとのこと。 預金も韓国内の銀行に移動されており、その額200億! 彼の計画に手を貸したのが、地元最大手の銀行だそうな。 マスコミよ!ヤツを逃がすな! 今回の一連の登場人物、会社は殆ど民団系ですから・・木村建設(株)代 表:木村 盛好 氏の本名は李さんです。 公明党・山口 那津男参議院議員が国土交通省にヒューザーを口利きって、当たり前の事。 せこいのは、彼のホームページが今見れない。 もう、某団体を、オームと同じように、公安の監視団体に指定しないと、本当に、このままでは、この国は滅びるよ。 . もう、日本ERIは社会の癌である。 この会社に営業停止位では、あまりにも生ぬる過ぎる。 ところで、ここが扱っている提携住宅ローンと言うのがあるのだが、 千葉銀行 ちばぎん住宅ローン『職人技』 スルガ銀行 〈スルガ〉 八十二銀行 八十二の住宅ローン ソニー銀行 ソニーバンクすまいとローン ソニー銀行 何故か一番上に千葉銀行がある。 また、千葉である・・・・・。 北川国土交通大臣と住民との会合。 もう、週刊誌にでたから、書いても良いだろうけれども、姉歯氏は創価学会。 そして、北川国土交通大臣は公明党。 そして、公明党の支持母体は創価学会。 今回の住民代表もたぶん・・・・・。 創価学会員以外の住民は、騙されても知らないよ。 結局は、そうゆう事なの。
802 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 20:45:18 ID:oayHYnXi
>>798 簡単な文章でか?
では、、、
(1).死なない程度に苦行しなされ(程度は人それぞれ。死にそうと思ったら止めればよい)。
(2).それに飽いたら、楽に走りなされ。
(3).それに飽いたら、(1)に戻りなされ。
これも一つの中道ぢゃ。
803 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 20:50:41 ID:iOYiqprz
804 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 20:54:21 ID:iOYiqprz
>>802 これが中道だと思ってるんだからいいじゃん。ほっとけば。。。
805 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 20:56:25 ID:oayHYnXi
806 :
中観派 :2006/04/22(土) 20:56:50 ID:KqbmuDL1
>>801 創価って相当日本に浸透してるんだな。真実を知ると怖くなるもんだな。
807 :
中観派 :2006/04/22(土) 21:02:12 ID:KqbmuDL1
>>802 しかし、死にそうな苦をしたくないと思うのが苦楽中道なんじゃないかい。
だって、ブッダは死にそうな苦行をして、こんなの無意味だと思い、苦楽
中道を悟ったんだろう。
808 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 21:06:42 ID:iOYiqprz
>>805 逝ってよし。おまえはなにを勉強してきたんだ?情けないよ、ホント・・・
809 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 21:08:04 ID:0Jj48Z1t
だから! 転法輪経を100億回読め!
810 :
中観派 :2006/04/22(土) 21:12:39 ID:KqbmuDL1
>>809 苦楽中道はそんなに難しい表現なんだな。
811 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 21:12:54 ID:oayHYnXi
>>807 「死にそうな苦をしたくないと思うのが・・・」ブッダはそんなあかんたれやない。
苦を滅するために、究極の苦を経験してみたものの、本当の悟りは苦と楽という二次元上の
どこかにはないと理解しただけぢゃ。
812 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 21:15:00 ID:iOYiqprz
813 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 21:17:28 ID:0Jj48Z1t
>>810 転法輪経の記述が難しい?
あんなに解り易いのに?
814 :
中観派 :2006/04/22(土) 21:24:31 ID:KqbmuDL1
>>812 発狂するほどの修行をしても無意味だから、苦楽中道を釈迦は苦楽中道を
説いたんでしょ。間違っていると分かっているものをやるかよ。
815 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 21:25:58 ID:Vwo7K0eR
フォー南無大師遍照金剛 観音様とアナルSEXしたい!!
816 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 21:26:14 ID:iOYiqprz
817 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 21:28:07 ID:oayHYnXi
>>814 だから、あんたの中道は間違っとる。
>>802 の修行を行いなされ。
そしてブッダと同じ経験を積みなされ。
818 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 21:29:31 ID:oayHYnXi
>>816 確かに無駄なようなのう。
これ以上はスレ汚しかもな。
819 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 21:29:38 ID:iOYiqprz
>>814 釈尊はわかったがおのれは理解しとらんだろうが!
もう相手にしない。
820 :
中観派 :2006/04/22(土) 21:48:17 ID:KqbmuDL1
>>817 なぜ死にそうなくらい修行すれば悟れると断定しているんですか。
証拠もないでしょ。また、ブッダは自分と同じ道を歩めといったんですか?
そんなことはいうわけはない。
また、私の中道が間違っていると証明するなら、みなが納得する正しい中道を
言ってからにしてくださいよ。
821 :
中観派 :2006/04/22(土) 21:53:08 ID:KqbmuDL1
>>818 明確な苦楽中道を悟らずして、これから発展した教えを勉強しても基本ができて
いないからすべて生半可なものとなって混乱するでしょうね。
822 :
名無しさん@3周年 :2006/04/22(土) 22:13:39 ID:0Jj48Z1t
>>821 だから!だから!だから!
転法輪経を100億回読め!
823 :
中観派 :2006/04/22(土) 23:11:34 ID:KqbmuDL1
苦楽中道ってどこまで苦しんで将来の苦の不安に備えるかが苦楽中道 らしいと俺の師に教えてもろうた。 ようは最適化らしい。
中観派という人は荒らしではないか?
825 :
名無しさん@3周年 :2006/04/23(日) 00:51:08 ID:C4smHgT0
苦の原因が欲望とする説は、釈尊以前のものである。 釈尊がおこなった苦行は、リグ・ヴェーダの<欲望を制御する>ことを目的としたものである。 そして釈尊は、苦行によって苦の原因である欲望を克服できないことを知る。
826 :
ぱんぴー :2006/04/23(日) 02:27:33 ID:098WcFOx
>>823 だから今どんなに苦しんで頑張って備えても、将来はどうなるか判らないってば。
あなたの師は間違ってるよ。
未来がどうなるかわからないんだから、現在の備えの最適化なんてできるわけないでしょ・・。
ほんとにもう・・ひょっとして釣りかな?
それとも苦楽中道って未来を予言できるのか?だったらすげーなw
827 :
ぱんぴー :2006/04/23(日) 02:41:07 ID:098WcFOx
>>824 そうかもね。苦楽中道思想を何度批判しても同じような事どっかに書き込むんだよ。
俺のレスに全て反論してから書けばいいのに・・
自分が信じてやまない苦楽中道に不備があることを認めたくない気持ちはわかるけどね。
828 :
襤褸 :2006/04/23(日) 17:17:09 ID:XTZay0gW
でも、原始経典には弟子からの死後観の問いに対しゴータマは応説していない。 未知をして語らずの姿勢を貫く姿がそこにあるように思います。 在世のゴータマの法が遍満せずに衰退をする背景の一には 民衆最大の関心を示さない仏教に対する咀嚼消化不良があったのではないか。 スレ外ながら、 そうして上座と袂を分かった勢力が大乗興起の過渡期に法華経を編集、依拠の方にして所謂、これを霊鷲山会て三世久遠の命と明かす為に爾前の昔には秘して黙すと繋げているのがありますが…
829 :
名無しさん@3周年 :2006/04/23(日) 20:03:02 ID:Tgb0KwPV
>>820 中道はパーリ語で「マッジマー・パティパダー」
真ん中と言う意味ではなく、何にも頼らない、超越した道、生き方と言う意味だ。
この超越した生き方というのは正見が出来なければ無理。
821の君のレスは君自身への言葉なんだよ。
前にも教えてやったが聞く耳がないらしい。これが最期だ。
830 :
名無しさん@3周年 :2006/04/23(日) 21:06:39 ID:HmUV1sD8
荒らしか構って君かは判らなかったけど、レスのほとんどが八正道に照らし合わせて 恥ずかしくない行動に立っているようなので、見てて清々しさを感じるなぁ。
831 :
暇人 :2006/04/23(日) 21:14:45 ID:o5EPLthl
>>829 >真ん中と言う意味ではなく
ん? majjhimaは、「中の 中間の 中位の」という意味だが。。。
paTipadAは、「道」だね。
超越した道という感じではなく、
目的に向かって (極端な行動を避け) 淡々と歩むべき道を歩む
という意味だと思われるが。。。
ブッダゴーサはどう解釈してるのかな?(´・ω・`)
833 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/23(日) 22:53:02 ID:ularaUUC
>>828 :襤褸 :2006/04/23(日) 17:17:09 ID:XTZay0gW
>でも、原始経典には弟子からの死後観の問いに対しゴータマは応説していない。
>未知をして語らずの姿勢を貫く姿がそこにあるように思います。
でも、自らは死後のことは沢山語っておられますよ。
スッタニパータ、ディーガニカーヤを読むと、輪廻、再生、地獄、神、
宿世通、読心通などの神通力の話、等々が一杯登場します。
むしろ、これらの教えを直受しないで、勝手に譬え話だとか言って、
哲学化していった宗派に衰退の因があるのではないでしょうか?
834 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/23(日) 22:54:35 ID:ularaUUC
私はあまり「理法」という言葉は好きではありません。 知能指数が200に満たない人知での論理性を満たすことは重要視しません。 宇宙の真理は論理を超えている場合も多いように直感するからです。 例えば、ある修行者が正しい精神統一にて過去世を思い出したとします。 彼の話は理論的に証明できないと比丘や凡夫達から非難されるでしょう。 でも、実際にその土地に行って、数百年前にそのような人物がいたことが 分かれば、ある程度実証できたとみなしても良いと思います。
835 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/23(日) 23:04:08 ID:ularaUUC
また別の修行者が正しい精神統一にて、相手の苦しみの原因を見通した とします。 実際にそのような出来事が十数年前にあったことを、相手が保証すれば ある程度実証できたとみなしても良いと思います。 イエスが水の上を歩いた話をクリスチャンの多くは信受できても、 仏の水上不沈の神通を仏教徒は信受できないというのが現実の差で しょうか。 所謂、前者は信仰者で、後者は哲学者だからです。
836 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/23(日) 23:21:23 ID:ularaUUC
>所謂、前者は信仰者で、後者は哲学だからです。 哲学者は論争が好きですから、すぐに分かります。 また信仰者はあまり論理的でないことが多いようです。
>>836 あなたは、
記述全てを、一字一句文言通り信じ受け止める姿勢の方ですか?
838 :
暇人 :2006/04/23(日) 23:31:11 ID:o5EPLthl
>>835 信仰というモノに対する考え方が違うかもですね
仏教の信の古いタイプの一つにプラサーダがありますが、
心が澄むことですね。
教法を聞き、疑問が晴れ 喜びが全身を包み心が澄み渡る。
一方キリスト教の信の一つにπιστιςがありますが、
これは「説得する」という動詞から派生して、
「説得されて頼みきること」「説得されてよいだけの確かなこと」という
意味から、信じること、信頼すること、信頼に耐えうること、信頼できること
を経て信仰になりました。
キリスト教は奇跡を自分目で見て体験して 確かな事実との確証を得て
信じる。
仏教は、奇跡自体よりも、・・・以下略。
(尚、これは仏教側の視点であり キリスト教側からは以下略)
839 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/23(日) 23:38:09 ID:ularaUUC
他人になりすましてのかきこは妄語の一種かも知れませんね。 更に、悪口・中傷・むだ口に至っては、もはや正語とは言えない でしょう。 正語すらある程度実践できない人は、正見、正思惟を実践できては いないだろうと判断するのは論理的でしょうか。 水野弘元先生の著書は色々と教えて下さります。
840 :
暇人 :2006/04/23(日) 23:40:08 ID:o5EPLthl
>>839 たぶん経典・論書は 客観的には「他人成りすまし」含有率が
かなり高いと思われます
紀元前2世紀頃成立の原始仏典「ディーガニカーヤ(長部経典)」(中村元監修) の中には、修行の成果としての神通力の記述が度々登場します。 (沙門果経、種徳経、三明経、マハーリ経、スバ経、堅固経、他多数) 「堅固経」では、「奇跡には、神通力、読心術、説法の三種類があるが、人格の完成が 伴わない前の二つの奇跡は魔術との区別ができない。」という一説があります。 しかし説法による奇跡でも、戒めを守り、修行の成果として、四禅定(精神集中)、 十智慧、六神通力が現れるとあります。 六神通力は、「神変」、「天耳通」、「他心通(智)」、「宿住通」、「死生通(智)」、 「漏尽通」のことです。 更に「神変」は細部化されており、肉体を持ったまま梵天の世界へ行ったり、水の上を 歩いたり(聖書の中でイエス様もされた)、自分の分身を作ったりなど多数あります。 「種徳経」では、釈尊が「他心通」を用いて、ソーナダンダ・バラモンの心の中を読んで 彼の欲する質問をしたという話が詳しく述べられております。他の経典にも、バラモン達 の心の中を読んで説法された逸話が多く登場します。 修行完成者は、自然に相手の前世、カルマや心の中も見えてしまうので、対機説法にも 役立ったように存じます。
842 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/23(日) 23:43:20 ID:ularaUUC
>>837 >>836 >あなたは、記述全てを、一字一句文言通り信じ受け止める姿勢の方
>ですか?
そうですね、真筆であれば、そうだと思います。
歴史が経って改竄の可能性がある場合でも、最初から理屈に合わない
ので比喩に違いないと判断するタイプではないです。
843 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/23(日) 23:47:02 ID:ularaUUC
長部経典の「大本経」で、最初の仏のヴィパンシンが真理を悟った際に 説法を諦めております。 論理とか常識とか科学的な証明を超えたところに、真実真理があったのでは ないかと推測する次第です。
み教え集に崇教真光の 「岡田光玉師は、お釈迦様と一緒にあの世で修行したと」 まことしやかに書いてありましたと感心した次第です。
845 :
暇人 :2006/04/23(日) 23:54:37 ID:o5EPLthl
>一字一句文言通り これは現代ではキリスト教のファンダの人たちに見られる篤信ですね。 日蓮さんは経典の一字一字が佛なんだと言われたし 昔の仏教者や信仰者にこういう人は多かったのかも。 ある時 近所の寺で 選択集かなにかの輪読会で、 経典を分析していますと 一人の仏壇屋さんが、 「経典ですぞ。。。」とうめき声を挙げられた。 場が一瞬 凍りました。 私たちは経典をバカにしているわけではないが、 経典に色々な加上があることを自明の前提にして いる。それが篤信の人には耐え難い不敬に感じた ようだ。。。
崇教真光岡田光玉、救い主は。「仏教は真如(=偽の教え)、完璧な教えではないと言っていたが。 完璧でない教えを、釈迦と一緒に修行とはこれまた仮(偽)の救い主ということだと感じた次第です。
847 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/23(日) 23:56:56 ID:ularaUUC
「大本経」では、ヴィパンシン菩薩は天から下生したと説かれており ますので、天界でお会いした方々もおられたかも知れませんね。 案外、イエス、モーゼなどの聖者達ともお会いしていたかも。 また、ゴータマ仏はどこから下生されたと皆様は思いますか? その世界でお会いしたことのある梵天、神々も多いでしょう。 譬え話をしましょう。 「僕はあのイチローと一緒にバットの素振りをしたことがある」と 言った人がいて、それは嘘だと決めつけるのは正しい判断ではない と思います。
848 :
暇人 :2006/04/23(日) 23:57:19 ID:o5EPLthl
>>847 一在家 = 源伸君、貴方はずいぶん長くそのキャラ続けているけど、真光で救われたの?
ピエロぶりを暴かれ、幸せになれないんじゃ、そんな宗教続けても意味ないと存じます。
入信してからいろんな人がいて、辞めていった人も何人もいたけど不幸になった人がずい
ぶんいました、いかげん目を覚ました方がいいと実感した次第です。昔のスレ仲間より。
850 :
暇人 :2006/04/24(月) 00:05:48 ID:yu0CDQzy
ウソだと決め付けるのは よくないが かといって 到底信じれないこと ありえないと思えることを 信じれない ありえないと私は思う ということは正直でよいと思う いまここで生きている私が どう歩むか 問題はこれだけではないかと
面白い流れになってるなw
>>842 あなたには関係ないかもしれないが、
マリアの処女懐胎も、その通り信ずべきであるとの立場ですか?
ついでに、次の展開への文章も書いておこう。
もし、
>>851 を
「ありうる」と受け止めるなら、それもまた一つのスタンスであり
非難されるものではない。
「それはありえない」とするならば、
ありうる事と、ありえない事との間の『あなたの中での』線引きの基準は
いかなるものになるのですか?
仏典の記述に戻るならば、どこまでがありうるものと受け止めることができ、
どこからが、誇張・虚飾であると判別できるのか?
(仏典に於いて、真筆かどうかなんて意味がないですよ (´∀`)b )
おやすみ〜 ノシ
おっと、もう一言。
>>845 は、暇人さんにしては珍しく(?w)
現実に立脚した、重く、そして痛烈な一文だね。
>>850 に禿しく同意する。
一在家さんて、真光の人なん?
855 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 06:36:26 ID:v8MaFzzA
親と子というのは、一緒に暮らす時間も長く、何かと互いに思い合う。 また速く離れれば離れたで、念波(今日の科学でいえば脳波と考えてよい)を交流するといった具合で、親子をつなぐ霊波線 というのは、太くて強いし、また本数も非常に多く濃いものとされているのである。次には兄弟姉妹の霊波線、それから夫婦 の関係ということになるが、夫婦の場合は最初は他人だから(再生・転生中の因縁は別として)霊波線はうすいけれど、一緒に 暮らすあいだに、しだいに太く濃くなって、しまいには親子以上にもなるのである。そして、知人、友人などの他人と交わることで、 引かれる霊波線は、切ることもできし、正神もそれを許しておられるが親子、兄弟、夫婦の場合は許されていない。 したがって、本来は夫婦というのは縁を切るべきではなく、正法のミチでは互いに霊を浄め合い、よく交流し、しだいに霊波線が太 く濃くなるよう、み魂磨きするのが大切な修行となるのである。
856 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 06:39:18 ID:v8MaFzzA
真光は啓示宗教であり、仏教とは全く異なるとおっしゃられた方が本スレにおられました。 中国から渡来した日本の仏典ではそうかもしれませんが、原始仏典(スッパニターヤ、 ディーガニカーヤ等)を読みますと、釈尊は梵天(大天津神クラス)や神々(自然霊、 高級霊クラス)と非常にしばしば対話をされております。 更に読心通(テレパシー)等の神通力を極自然に対機説法時に利用しておられます。 また日蓮大聖人御書全集を読みますと、天照大神、八幡大神を敬い、守護霊(同名 天他)の存在を真筆で説かれておりますので、真光と根本的に異なるというよりも、 万教の元は一つという感があります。
857 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 07:23:21 ID:zg28JR0r
>>853 現実って何んですか?
凡夫の認識が倒錯した誤認だとするが通仏教的立場じゃない?
空や無我を受け入れるなら現実なんて言わないのではないですか。
もちろん空・無我・無常であっても縁起するから因果はありますが。
世間仮虚唯仏是真ということを念頭に置かずに仏典を読んでも、
あまり意味はないでしょう。単なる古典的教養以上のものではなくなってしまう。
なぜなら、その倒錯した認識自体を修正することができなくなるからです。
その 倒錯した認識自体を現実としてしまうのだから、病人が正常だと思うようなもの。
凡夫の倒錯した認識、無明を正しい認識、明を持つ師に従って断じるのが仏教の
伝統的立場。あるいは自分を病人だと、無明を病と、師を医師と認識すること。
現実主義は、正に和辻が行ったように仏教を倫理に引き下ろすことになってしまう。
だから、彼らは無理に輪廻や神通など常識に反することを排除しようとする。
倫理だけでもあった方がいいという意味で、それもありかもしれないが、
他人に強要するのはやめてほしいです。
858 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 07:35:55 ID:Zv3UZyx2
>>「真ん中」と解釈すると「仏教はホドホドに生きろ」と言っている、と勘違い する人が出てくる。(もうここにも来てるが・・・)だから正見を土台とした 超越的生き方と解釈したほうが原意に近い。 正見は自分=自我の判断、識別は常に誤っている、と言う厳しい自覚の上に成り立つ。
859 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 07:37:30 ID:Zv3UZyx2
860 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 09:15:54 ID:R7Bk1G5U
>>857 >現実主義は、正に和辻が行ったように仏教を倫理に引き下ろすことになってしまう。
>だから、彼らは無理に輪廻や神通など常識に反することを排除しようとする。
>
>倫理だけでもあった方がいいという意味で、それもありかもしれないが、
>他人に強要するのはやめてほしいです。
禿げしく、同意するぞ。
861 :
暇人 :2006/04/24(月) 09:30:56 ID:7XqV/z3g
>>858 中道を ホドホドに生きろ ですか? 唖然
それはマズイな。。。。
>自我の判断、識別は常に誤っている
私はね ここが解らなかったの、学生の頃ね
「自灯 法灯」って言うが、
常に自分の判断が過つ私ら凡人が「自灯」だつたら
間違ってしまうだろう。
なぜ釈尊は凡人の代表である阿難に「自灯」と遺言したのだ
天才、舎利弗に言うならわかるが(この時舎利弗は没しているが(笑)、と
あなたも「自我の判断、識別は常に誤っている」私ら凡夫にとって
「自灯 法灯」は どういう意味を持つのか 考えてみてください
862 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 10:23:28 ID:qZ/uilzd
初期仏教(おれは敢えて原始仏教とは言わない)の伝統が 世界中どこを探しても存在しないという現実を理解すべきでしょう。 上座部には残っている・・と言うのは信仰でしかない。 諸行無常ですから・・・・ みんなサンスカーラの意味を良く理解してね。
863 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 10:42:04 ID:Zv3UZyx2
>>861 今現在の私にとっては、「自灯明、法灯明」を考える事に意味はありません。
如何に自分の苦を解決するか、が私の目下のテーマです。
仏教哲学に興味はありません。「自我の判断は常に誤っている」
これは実践的に使えます。
>>862 それが事実としてもヴィパサナーと言う技法は、変わってはいないでしょう。
私はラーマクリシュナ、ラマナ・マハリシ、禅師達の言葉を読みながら
初期仏教を探っています。
864 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 11:40:06 ID:uQL3r/VR
atta-(d)vīpa、dhamma-(d)vīpa というのは、何事も徹底して吟味することなしに信じてはいけない、
だから頼りになるのは吟味する自己以外に存在しないという事実でしょう。
219 :名無しさん@3周年:2006/02/14(火) 15:43:21 ID:1BZ1NkXe
Do not believe in anything simply because you have heard it. Do not believe in anything
simply because it is spoken and rumored by many. Do not believe in anything simply
because it is found written in your religious books. Do not believe in anything merely on
the authority of your teachers and elders. Do not believe in traditions because they
have been handed down for many generations. But after observation and analysis, when
you find that anything agrees with reason and is conducive to the good and benefit of
one and all, then accept it and live up to it.
From Kalama Sutta
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1093764551/
865 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 11:46:38 ID:uQL3r/VR
訂正 atta-d(v)īpa、dhamma-d(v)īpa
ブッダは弟子が遊行に出る時の問いで、女を見るなとか話すなとかいうのがあります。情念発生が妨げになるからだけでしょうか。退転の恐れを確認してるのでしょうか。 あと戦の集団の中に分け入ったときは打たれるやら殺されるやらかも知れないけれど、そんなときはどうか訪ねられる場面ありますね。 まるで鎌倉時代の日蓮みたいに笈加刀杖みたいので遣られた釈迦弟子もあったんでしょうか。 仏入涅槃のあとバラモン教の僧とか王族に対抗出来た弟子檀那っているのですか。
867 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 13:12:25 ID:uQL3r/VR
殉教者 モッガーラナ(目連) パトロン マガダ国王・アジャータシャトル(阿闍世)
868 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 14:46:09 ID:snw9wc+Y
私は日本心霊科学協会、世界真光文明教団、崇教真光で学んだ者です。板谷博士や谷口氏の著書も何冊か読みました。 馬場氏と仲村氏が入手された情報とほぼ同じ情報を持っておりまが、視点と解釈が多少異なっておりますので、おい おい述べてまいります。 天皇家 むしろ生長の家に続く擁護派のようにすら真光を感じます。すめらみことに関するみ教えは多く、尊びプラス の存在として述べられております。建国記念日には神宮にも組み手が多数参拝しております。 これは現代に布教する際には大変不利な要素になります。ですから真光誌の一部の掲載内容をとらえて 「皇室に不敬なり」とインターネットで世界中に発信されるのは如何でしょうか。 敵だと思って切り捨てた後に実は味方だったという逸話も昔から多くあります。 釈尊の予言どおり、入滅後3000年後の昭和34年、岡田光玉師に神より「手をかざせ!」 との「ご神示」があり、真の道教団のフーチという自動筆記により大峰老仙様より 「ヨのみたま」とだされ、地上代行者として世界真光文明教団を立教したのと存じ上げます。
869 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 16:58:34 ID:Zv3UZyx2
ナマスサルヴァルジュニャーヤってゴータマブッダを特定しているものだとしたら、アテネだとゼウスと同じっていう存在ですね。 仏教研究者がそんなブッダの内証を探る作業が私達市井の精神的啓蒙効果として還元される見通しはありそうでしょうか。 中村博士は「おおいなる慈悲」をつきとめましたね。 現象考究示唆と思惟方法、受能隔絶一元的脳内究境授法 いずれにしても五十年間の振る舞いと語録が不確かな事が思惟の乱立を許しているのだとは思います。 教説口誦の行は誰がやり始めたのか。 「ブッダはこう言ったのだ」を壇や死者の棺に向かってこの時代に「漢文読誦」する儀式の意義とは何か。ブッダの教説のどこかにあるのかないのか。 密教も仏教なのかバラモン教の変質なのか。マハーヴァイローチャナの本質はバラモン教系の神なのか、ゴータマブッダとどう関連しているのか。 教判ではない古代習俗起源的見地を知りたい。 典籍に後世の恣意性質を疑われる日本仏教の依経は実は偽経かも知れない話を聞くと。 原初期の学績証拠出現の頃には、紙切れになるかも知れない祖師仏教の危惧。所詮はダルマを得るために座り続けるしかないのでしょうか。 最期の言葉、 私に頼ってはいけないとか 私の葬儀に関わらず修行をしなさいとか 自らにしたがい、法にしたがいなさいとか ブッダと云うきっかけに依存しないで、あとは自裁の問題だとの解釈でよいのでしょうか。 有るのに無いが如しの頭でもうしわけありませんが教えてください。
871 :
一宗教研究者 :2006/04/24(月) 17:28:37 ID:ZU+XwNI/
ブッタの予言が的中いたしました事を仏教徒にもお伝えしようと存じます。 −天杖が示すメシアとしての使命− <魁のメシア>というような重大なお役を神様から頂くような方は、やはり誕生の時点から普通の人との違いを 感じさせられますが、しかしそういう大きなみ魂というのは、とかく同じ分野の人たちから疑いの眼差しで見ら れ勝ちでもあります。(中略) 神から与えられたお役目を<天杖>という方法で調べてくれる<真の道>というところがあり、師はそこへ案内 を受けてお出かけになりました。昭和35年6月のことでした。<天杖>というのは神前で横にした一本の棒の 両端を二人の人がそれぞれ軽く支え、棒の中央に吊した筆が神霊(大峰老仙 霊)によって操られて、自動的に 文字が書き出される方法のことです。<審神者>といって、神様に対して来場者がどのようなお役目の方かを 神伺いする人がいます。 天杖の筆がひとりでに動き、下の紙に文字を書き出しますと、これを読みとりその意味を来場者に伝えてくれます。 (中略)この<真の道>の天杖のときは私も師のお供をして参加させていただきましたが、<真の道>の方々は 師が<ヨのみ役>と知って大いにおどろき、深い敬意を表されたのを覚えています。<真の道>でずっと以前行われた 天杖によって、いずれ<ヨのみ役>の方が現れると予告されており、ヨのみ役とは「世の立てかえ、立てなおす大い なる使命の方」と神から教えられていたのです。(以下略)
872 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 17:35:17 ID:Zv3UZyx2
では、一時避難いたします。。。
873 :
1/48 :2006/04/24(月) 18:15:22 ID:ZU+XwNI/
s真の道では、信者一人一人に48音のうちの一つの音が真の道の神示によって割り当てられ、その音で表される 働きを持っているとされます。それは霊系と呼ばれ、特定の人だけが持っているというものではないそうです。 岡田光玉氏の場合、それが「ヨ」だったようです。 「真光呂」というグループ名も大峰老仙という架空の神霊の神示によって授けられたといいます。
874 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 19:16:17 ID:R7Bk1G5U
支離滅裂な「真光」関連のゴミかきこが増えておるなー。 無視、無視、シカト哉。
875 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 21:04:15 ID:zg28JR0r
>>860 ご同意、ありがとうございます。私も
>>858 さんに同意します。
>>864 だから頼りになるのは吟味する自己以外に存在しないという事実でしょう
というのは誤解でしょう。なぜなら仏教は自己を認めない無我だから。理由は
>>310 だからそこでいうアッタン(自)とは
>>310 の b 日常話法としての用例でしょう。
>>861 暇人さん、「アッタン・ディーパ」は「自州」と読むべきでしょう。
これは日常話法としての自を州とせよ、という意味と思われます。
どういう意味かというと、後に大乗で言われる「有暇の拠り所としての身体」という意味。
これは輪廻を暴流と譬えて説かれる苦行者文学の中で次のように説かれる
はてしなく広大な輪廻の洪水に漂流している生物達にとって....何が島であるのでしょうか。
荒牧 典俊訳、岩波講座東洋思想、インド仏教1、66頁
この中の「島」が正しく「ディーパ」「州」に他ならない。
つまり輪廻の暴流の中で中洲に譬えられるべき修行できる身体という自己によって
向こう岸の涅槃へ渡れという意味としか思えません。
日常話法としての自を州とせよという解釈は、石飛道子『ブッダ論理学』206頁に明解であり、
水野弘元『仏教要語の基礎知識』初版149頁でも同じことが、つつましく表現されています。
また苦行者文学という観点から解き明かす荒牧典俊前掲論文は、諸用語の意味を解釈するのに
非常に示唆的で有用です。
『仏教要語の基礎知識』で基本的体系をおさえ、
『ブッダ論理学』の論理によって体系をスッキリ整理させた後で、
平川彰『インド仏教史』で四諦、法、行、縁起を理解してから
経典を読まれることを、中観派さん、一在家さん、お邪魔しますさん、無宗ださんにお勧めします。
876 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 21:07:26 ID:zg28JR0r
877 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 21:12:28 ID:zg28JR0r
またまた失礼しました
×
>>310 の b 日常話法
○
>>310 の a 日常話法
ついでに
× >『(誰かが)食べる』とわたし(アハン)は言うような場合には、
○ >『(誰かが)食べる』とわたし(アハン)が言うような場合には、
878 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 21:15:07 ID:77ijx7px
学者の紹介の仕方にも個人差・嗜好が出るなぁw おいらも偏った紹介をしよう。 ある程度予備知識があるなら、 田上、松本、袴谷にも目を通すべきだ。 特に史朗ちゃんのストイックさには触れておいた方がいい。 で、ベースキャンプとして、やや中立的な位置づけとして 前田恵学、渡辺照宏、増谷文雄、 広くインドという視点を抑えながらなら 奈良康明、田上太秀 ってとこかな。 (田上はちょっと癖があるが・・・w)けど、おもろい論文書いてるよ。 奈良さんは、万人向けだと思うけどなぁ。
880 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 22:36:11 ID:qZ/uilzd
袴やさんの昔の論文は良かったけどね でも人間的には好きになれないね
881 :
名無しさん@3周年 :2006/04/24(月) 23:58:12 ID:zg28JR0r
>>879 石飛さんは、ともかく水野・平川の両先生は誰もが認める方でしょう。
石飛さんの論理を経た後に平川先生の四諦、法、行、縁起の解説を読むと理解できるんです。
読めば分かると思う。ぜひやってみて欲しい、文献学的仏教入門法なんですが。
駒沢の方でしょうが、田上、松本、袴谷、増谷の四名は全くいただけないですね。
和辻を希薄したような現実主義ですね。凡夫の境地に引きずり落とした文献学。
文献学としても上記御三方と大きな開きを感じます。
松本さんが「ストイック」とは首を傾げるばかりですよ。
論証はトリッキーで信用できないし、彼がやったことは、
曹洞宗で言われていた本覚批判にゲルク派の他空説批判理論を付け加えただけではないですか?
トリッキーの例は以前どなたかが、彼の十二縁起説の根拠である『マハーヴァッガ』の読みが
彼の結論に導くために意味をずらして訳し変えていることを指摘していました。
私も一例を挙げましょう、松本さんが一郷正道先生の『中観荘厳論』研究に対する書評で、
「後期中観思想の解明にむけて」『東洋学術研究』1986
校訂本の読みを批判しているのですが、実は『中観荘厳論』の根本偈、自注、カマラシーラ註、
の現存全テンギュル版本が校訂本の読みを支持していて異読はないのです。校訂本が正しい。
松本さんは、普段悪くいう19世紀のチベット註の異読を根拠にこれを批判しているのです。
これはクリティックではなく、ただの非難のために適当に資料を使ってるだけでしょう。
目的のためになんでもやるのは「ストイック」とは全く逆です。
逆に校訂作業こそ「ストイック」な文献学の極みでしょう。
松本さんが論争を仕掛けた津田先生が見事に「ストイック」な校訂本を作られています。
あの時機に津田先生に論争を仕掛けるというのも政治的で非常にずるい。
問う者 としての投稿者
>>875 同意します。
輪廻の暴流の中で中州に譬えられるべき修行できる身体という自己によって
向こう岸の涅槃に渡れ という教えです。
捨置で結構です。
883 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 08:40:41 ID:2lCZSheZ
>>875 >というのは誤解でしょう。なぜなら仏教は自己を認めない無我だから。
水野先生も中村先生も「思考の主体としての我(自己)」を認めている
ようだが。 俺の誤解か、君の誤解かな?
「仏教要語の基礎知識」でも確認済み。
884 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 08:51:00 ID:2lCZSheZ
空とか無我というのは、我にとらわれないということかな。 いつの間にか、我が無いと、文字にとらわれてしまっておる。 やはり、真理の文字化は難しいぞ。
885 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 20:15:04 ID:hW8JcVlI
>>884 > 真理の文字化は難しいぞ。
真理とは真実を目的にした説明を言うのではないか?従って真理は常に文字言語である。
しかし、真実は文字言語ではあり得ない。真実は空であると言う。
この空と言う表現は、あらゆるものを否定している表現である。真実そのものは
空と言う表現をも許さないものであろう。
887 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 21:54:42 ID:UAltigb4
>>882 ご同意、ありがとうございます。私こそ貴方の立場が知りたいです。
>>883 水野先生も中村先生も「思考の主体としての我(自己)」を認めている
中村『ブッダ最後の旅』231頁で
>>875 とほとんど同じ解釈
『仏教要語の基礎知識』初版149頁で「常識的な我」「人格の主体となる自我」としてます。
これこそ日常話法での「私」です。これは当然、施設、仮法で nissatta-nijjivatA です。
nissatta-nijjivatA :101頁以下、施設、仮法:134頁
つまり日常話法として仮法の「人格の主体となる自我」を認めているわけです。
>>884 空とか無我というのは、我にとらわれないということかな。
そうゆうレヴェルの話も許されると思いますが、 本質的には我がないんです。
縁起してるもので無常で空なので本来、主体となりえないんです。
無常な諸行(カオス的潜在力)が、縁起して諸法として顕現しているだけ、
それを我、主体を勘違いすることが無明。この無明解釈は大乗ですが。
「我にとらわれないということ」といった凡夫が認識できる平凡なことが真理なら、
言語表現は全く容易で、理解し難いなどと言わないでしょう。
>>876 別に笑うところじゃないんですけど。仏教は、そんな簡単じゃないんです。
なぜなら、我々の認識の誤り、無明を指摘しているからです。
縁起、空、無常、行、四諦いずれも難しい。もちろん私も完全に理解できているとは思いません。
888 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 22:01:33 ID:hW8JcVlI
??
889 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 22:11:37 ID:itc83TVB
>>885 真理も真実も常に文字言語の中にあると思います。
なぜなら「真」はそもそも、「(それは)真なのか、誤なのか」といった
問いがあってこそ意味をもつのであって、これは言語の中にある
関係性です。
890 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 22:19:13 ID:hW8JcVlI
>>889 真にも色々あるんだ。仏教で言う真実とは、諸法の実相の意味だ。
諸法とはあらゆる現象、実相とはその真実。
縁起、四諦、八正道は真(真理)じゃないの? それとも、認識・解釈の問題? ある人にとっては真理だが、ある人にとってはそうではないと・・・。
無分別智
893 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 23:00:49 ID:itc83TVB
>>890 「諸法の実相」はまさに「ありのまま」ではないでしょうか。
これは、「ありのまま」に観察することこそ「真」であり、現象の背後に
見えないある不変な何ものかがいるとか、輪廻のような原理などの働きを
想定することが「誤」である、といった関係性だと思います。
つまり、真誤の詮索が前提にあるからこそ、あれが真であり、これは真でない(誤)
といった言葉が導かれるのだと思います。
894 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 23:24:42 ID:hW8JcVlI
。>>891-
>>893 >>885 >真理とは真実を目的にした説明を言うのではないか?従って真理は常に文字言語である。
しかし、真実は文字言語ではあり得ない。真実は空であると言う。
上のように真実と真理を区別する事が大事であるといいたいのだ。単に「真」というのでは
真理なのか真実なのか故意に曖昧にして居ないだろうか?真理と真実は違うと言ってるのだ。
>>891 の言う様に真理であるというべきであって真実ではない、と私も言う。
>>893 真とは真理のことか真実のことかに認識して居ないと思う。
895 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/25(火) 23:32:28 ID:ovrnjtjB
説法1:仏は不滅である 説法2:人は仏子であり、やがては仏になりうる(法華経) 説法1+説法2→人もまた不滅である 無常で変化しているものは主体ではないという意見が仏教では常識的な ようですね。 変化しながら輪廻し生まれ変わる主体は仏教では否定してはいないよう ですが、それを我(アートマン)とは呼ばないと理解しております。 何故なら、変化しないで生まれ変わる主体は仏にはなり得ないからです。 変化する主体であるからこそ、仏にも獣にもなる可能性があります。
896 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 23:34:03 ID:itc83TVB
>>894 真理も真実もそれほど境界はないと思ってます。
ただ、それが真であると言うとき、それに対するアンチテーゼが必ず含意
されているのが、「真」だと言いたいだけです。
897 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/25(火) 23:42:19 ID:ovrnjtjB
変化しながら輪廻し生まれ変わる人格の主体、業を保持して三世に存在する 主体を外教では「霊魂」と読んでいるだけです。 「霊魂」は変化しますから、仏にも獣にもなりますし、解脱して輪廻を抜ける こともあります。 そして「霊魂」の中にも、執着がなく、自由自在なものもいるようです。
898 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 23:43:43 ID:hW8JcVlI
>>895 > 変化しながら輪廻し生まれ変わる主体は仏教では否定してはいないよう
ですが、それを我(アートマン)とは呼ばないと理解しております。
逆さまだと思う。変化し生まれ変わる主体を我といい、それをアートマン「我」というのだよ。
>何故なら、変化しないで生まれ変わる主体は仏にはなり得ないからです。
変化する主体であるからこそ、仏にも獣にもなる可能性があります。
何言ってるのか自分で解っているのか?
むしろ変化しないで生まれ変わる主体は仏である可能性のほう大きいと言うべきだ。
899 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 23:46:27 ID:hW8JcVlI
>>897 もっと理法と言うか道理と言うか理屈を語ってくれよ。
900 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 23:54:21 ID:gBDrqvAz
今日はヘロヘロに飲ってるからハッキリ言うたる。 ここの住人は切った張ったの実践がないヤツばかりじゃねーか。 本ばっか読んでテメーが発狂の一歩手前まで行ったヤツなんて いないじゃねーか。何が無我だ。無我の恐さなんて知らないやつばかりだ。
>>900 たしかになぁw
僧堂だって体育会系の合宿に毛が生えたようなもんだからなぁ(^^;
902 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/25(火) 23:57:48 ID:ovrnjtjB
>むしろ変化しないで生まれ変わる主体は仏である可能性のほう大きいと >言うべきだ。 人は皆仏となりうるのであれば、人は変化しないで生まれ変わることに なり、道理に合わなくなりそうです。 どなたか、私たちの対話を整理してみて下さい。
903 :
名無しさん@3周年 :2006/04/25(火) 23:59:56 ID:hW8JcVlI
>>897 なんだ在家さんは日蓮天台の十界互具を言ってるんだ。こんなゴミのたわけごとは捨ててしまえよ。
全然理法ではないんだ。
904 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 00:05:08 ID:7EQ2oCs7
>>902 >人は皆仏となりうるのであれば、人は変化しないで生まれ変わることに
なり、道理に合わなくなりそうです。
「仏になりうること」が何故即「変化しないで生まれ変わる事」になるんだ?
そしてどう言う「道理に合わなくなる」んだ?
905 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 00:06:38 ID:hW8JcVlI
906 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 00:15:42 ID:TB+TZLm9
>>902 テメーは前から気に食わんやつだった。オメーのカキコなんて
整理する必要なんてあるか!何綺麗ごと言ってんだよ。
ほんとうに道を求めてるヤツがどれほど苦しんでるか貴様には
想像もつくまい。死より発狂の方が恐い。おのれにはわかるまい!
907 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 00:23:18 ID:7EQ2oCs7
>>906 > おのれにはわかるまい!
解りますよ。
908 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 00:40:24 ID:TB+TZLm9
>>907 法友になれるかな・・・発狂は恐いよね。
909 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/26(水) 06:38:15 ID:CMWkKSwB
>変化し生まれ変わる主体を我といい、それをアートマン「我」というのだよ。 >変化しないで生まれ変わる主体は仏である可能性のほう大きいと言うべきだ。 人(我)は仏になりうる。(人は変化する) 仏は不滅である。(仏は変化しない) よって変化する人が変化しない仏になりうるというのは 道理に合わないのではと言ったのですが、仏になった後は 変化しないのであれば道理にかなうかも知れません。 自力のみで道を求めると発狂するようですので、先達(他力) の文献をまた調べることに致します。
910 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 08:45:08 ID:8urM9yRz
>自力のみで道を求めると発狂するようですので、先達(他力) >の文献をまた調べることに致します。 自力と他力とのバランスをとり、真ん中を行くということか。 まあ、それも自由自在でよかろう。
911 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 18:29:03 ID:7EQ2oCs7
>>908 発狂と言うのは自分の理性を疑うに至る事であると思う。理性とは縁起を見る能力である。
これ故に恐ろしいと思うのであると思う。
何故理性を疑うに至るのであるか、それは当面の事件が理性の範囲を超えていると思うからである。
ここにその人今までの習性により築き上げられてきた我慢があると思う。大変厳しい言い方になるが、
自分が正しいだけではいけないのである。世には悪魔の様に人に気づかれないで悪行を企んでいるものが潜んでいるのだ。
この様な悪魔たちがどのような行動を取るかに付いても考えていなければならないのだと思う。
その悪魔に対して今仏典から例を挙げれば、ブッダの最後の旅「大パリニッバーナ教」「7商業都市ヴェーサリー」にあるような修行を心がけているべきであると思う。
912 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 18:31:38 ID:7EQ2oCs7
以下は該当個所を他から引用します。
http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm 大般涅槃経 第二誦品(十〜十三)について述べよ
十 またここで、覚者はナーディカのレンガの家にとどまり、
比丘達に対して、この数々の法話をなさったのだ。
「戒とはこうである。三昧とはこうである。智慧とはこうである。
戒に熟達させられた三昧には、大いなる果報と大いなる功徳がある。
三昧に熟達させられた智慧には、大いなる果報と大いなる功徳がある。
智慧に熟達させられた心は、諸々の漏から完全に離解脱する。
すなわちそれは、欲漏・有漏・謬見漏・無明漏からである」と。
十一 さて、覚者はナーディカに心ゆくまで止まられた後、長老アーナンダにこうお告げになった。
「さあ、アーナンダよ、ヴェーサーリーを訪れよう。」
「かしこまりました、尊師よ。」と、長老アーナンダは覚者にお応え申し上げた。
そして、覚者は大きな比丘出家教団と共に、ヴェーサーリーに入られた。
そこで、覚者はヴェーサーリーのアンバパーリーの林にとどまられたのである。
十二 そのとき、覚者は比丘たちに、次のようにお説きになった。
「比丘達よ、比丘達は正念し正智してとどまりなさい。
これは、君達に対する私達の教戒である。
比丘達よ、それではどのようにして、比丘は正念をするのであろうか。
913 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 18:32:32 ID:7EQ2oCs7
つづき 比丘達よ、ここで比丘は、 身において身を観察してとどまり、 熱心に正智し正念して、この世における渇望と憂いを調伏しなさい。 受において受を観察してとどまり、 熱心に正智し正念して、この世における渇望と憂いを調伏しなさい。 心において心を観察してとどまり、 熱心に正智し正念して、この世における渇望と憂いを調伏しなさい。 法において法を観察してとどまり、 熱心に正智し正念して、この世における渇望と憂いを調伏しなさい。 比丘達よ、このようにして、比丘達は正念するのである。 十三 比丘達よ、それではどのようにして、比丘達は正智するのであろうか。 比丘達よ、ここで比丘は、進むにも退くにも正智してなし、 前を見るにも後を見るにも正智してなし、曲げるにも伸ばすにも正智してなし、 正装衣や衣鉢を身に付けるにも正智してなし、 食べるにも飲むにも正智してなし、大便や小便をするにも正智してなし、 行くにも止まるにも座るにも眠るにも起きるにも話すにも黙っているにも正智してなす。 比丘達よ、このようにして、比丘は記憶修習し正智してとどまりなさい。 これは、君達に対する私達の教戒である。」
914 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 18:41:41 ID:7EQ2oCs7
>>911 のつづき
悪魔はあなたの気づかない隙をついて、悪巧みをする。あなたは気づかないので
事態を理解できない。あなたは自分の理性を疑うに至るのだ。もちろんあなたが悪いのではない。
しかし悪いものに気づかないでその支配下に入ると言うのは、その時点であなたの負けではないだろうか?
我々は全ての事、即ち、全ての縁起を覚智できないが、全てが縁起している事を信じる事が出来る。
この信仰が勝っておれば、悪魔の企みをも乗り越える事が出来るのでは無いだろうか?
915 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 18:52:46 ID:8urM9yRz
>>914 >悪魔はあなたの気づかない隙をついて、悪巧みをする。
悪魔がとりつく因を作らぬことだ。
悪魔が好む、悪い言葉、強欲、執着、嫉妬、慢心などを生じぬことだ。
まあ、虫歯が悪いのではなく、虫歯の因を作る君が悪いということさ。
916 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 19:16:03 ID:7EQ2oCs7
釈尊はアンババリーの園に留まっておられた。アンババリーとは高級娼婦であった。 娼婦として人気のあった女だったのだ。女の誘惑色香に心が動かされ無い様に 弟子達に戒められたのであると言えないだろうか? 女と言うのは隙をついて大変恐ろしい自体を引き起こすとも経典で言われている。 女の人はその弱さの故に罪を犯すことがあるのだろうか?
917 :
名無しさん@3周年 :2006/04/26(水) 19:27:57 ID:8urM9yRz
一般的には女は情念が強く、男は理性が強いと言われておるわ。 勿論、逆のケースも多いが。 子宮に関係するのかも知れんが、情念は固執や執着を生み易いから 修行には不利かもな。 でも、子宮に世話になっておらん男はおらんから、威張るなよ。 よく言えば女は愛が深いということさ。 男と女もバランスがとれておるからよい。
>>917 自分の身体を、自分のものじゃないと考える方向性は
女性の方が容易いと思う。
第二次性徴で衝撃を受け、
セックスは愛撫され挿入され、
体内に2・3キロの異物(?w)を抱え込み、
それを今度は外へ出す。
女性が感じる自己の身体の変化は、
男性のそれよりはるかに劇的でダイナミックでリアルであろう。
無常を実感しやすいのは女性かと思ったりしないでもない。
919 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/27(木) 05:31:42 ID:vsvV5syx
女性の話題なので、一つ紹介をば。 釈尊の母親はマーヤで、イエスの母親はマリアです。 神道の重視する言霊では、極似しております。 まあ、偶然と言えばそれまででしょうが。
920 :
名無しさん@3周年 :2006/04/27(木) 08:44:20 ID:TNtCvPGp
>>916 何も女性が悪魔であるといってるわけじゃないのです。人を無闇に信用し
その人が悪い事をしないと信じてはいけないということだ。世に陰謀裏切りなんて言うのがあるでしょう?
そう言うことが起きているのに、信じていることのほうが強いと、自分の理性を疑う羽目になるのだ。
921 :
名無しさん@3周年 :2006/04/27(木) 08:54:04 ID:TNtCvPGp
だから理法のみを信じるべきであろう。
922 :
中観派 :2006/04/27(木) 10:17:25 ID:jFdObJDZ
宇宙の目的って何だ? キリスト教の人類の最終目的だと、不安だらけで生きづらいだろうと俺は思う。 宇宙は永遠に動き続けて何を求めているのだろうか? 宇宙が最高に求めているものとはいったいなんなんだよ。
923 :
中観派 :2006/04/27(木) 10:27:19 ID:jFdObJDZ
すんません。いつも難解そうな質問をして。もし、答えられなかったら、無視 して次の議論に行ってください。
物質世界(五感)の世界観みれば、たしかに不安でしょうね。
925 :
名無しさん@3周年 :2006/04/27(木) 12:45:40 ID:Qc5PjCz2
>>922 ただただ存在し続ける事、何の意味も無いのに存在し続けよう、これが宇宙だよ。
だから釈尊は「ふざけんな!」って解脱しちゃった。
茶碗は液体があって始めて意味を持つ。宇宙の他に宇宙が指し示す何物も存在しないのだから
宇宙には意味はないんだよ。
926 :
中観派 :2006/04/27(木) 21:26:22 ID:jFdObJDZ
>だから釈尊は「ふざけんな!」って解脱しちゃった。 釈尊は自分が宇宙であるっていって解脱したんでしょ。
927 :
名無しさん@3周年 :2006/04/27(木) 21:34:59 ID:TNtCvPGp
以下は大無量寿経の法蔵菩薩の48願の27番目の請願であるが、浄土と言われる世界は空の世界であるが、 空の世界がどのようなものかに付いて我々は憧れをもつ価値があるのか、単に空しい世界なのか 凡そでも知る必要が有ると思う。48願の内の一つに過ぎないが、良く吟味して考えるべきではないか? (二十七) わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の用いるも のがすべて清らかで美しく、形も色も並ぶものがなく、きわめてす ぐれていることは、とうていはかり知れないほどでしょう。かりに 多くの人々が天眼通を得たとして、そのありさまを明らかに知り尽 すことができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
928 :
名無しさん@3周年 :2006/04/27(木) 21:53:04 ID:Qc5PjCz2
>>926 たまに良い質問するな、と思ったがやっぱり君は中道バカだったww
929 :
名無しさん@3周年 :2006/04/27(木) 21:53:44 ID:TNtCvPGp
>>927 上の和訳は多分に法蔵菩薩の主観的な世界の様に訳されているが、
空の世界は人の主観といささかも関係が無いはずである。
岩波文庫の浄土三部教の「上」の和訳はこれよりも適当であると思う。
930 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/04/28(金) 05:35:37 ID:OWunXxHk
>>922 宇宙の目的は分からないですね?>中観派さん
でも、神(大梵天)の目的は師より伺っております。
「物質により神界写し絵エデンの園、地上天国、極楽浄土を
この土に顕現する」と。
大梵天は芸術家だそうで、崇高な精神を持った神の子(仏子)
が高度の科学を駆使して豊かで幸せに暮らす様を見ていたい
そうです。
まあ、涅槃に入った仏たちもまた人類を慈悲深い天眼通で
見守っておられることでしょう。
931 :
名無しさん@3周年 :2006/04/28(金) 07:49:00 ID:EuGoV74+
>>759 訂正
プラトンのパイドロス→プラトンの饗宴「シンポシオン」
932 :
名無しさん@3周年 :2006/04/28(金) 12:39:15 ID:p0jtFoVL
>>739 中道で否定される楽のは、一時的な快楽を求めることでは?
おなじく中道で否定される苦行は、
来世の快楽のために、今苦行する、快楽の貯金みたいな修行だから、
結局は快楽を求めてるのと同じ。
涅槃に入ると、何も求めない(無願)ようになる。
中道は、無願。
933 :
名無しさん@3周年 :2006/04/28(金) 12:42:00 ID:p0jtFoVL
>>752 寒いなら、寒いままでべつにいいじゃないか…
って思えるようになるのでは?
935 :
名無しさん@3周年 :2006/04/28(金) 18:31:49 ID://N7vS0c
そろそろ次の「新興宗教談話室」、新スレ立てないと。 その際、話題関連のリンクも貼ってくれると参考になる。
936 :
中観派 :2006/04/28(金) 18:56:26 ID:KwCRx6nT
>>933 寒いなら、それでいいじゃないかっていわれても、真冬の海に投げ出されて助けを
求めない人はあまりいないだろ。
>>932 苦楽中道ってそういうことだと思いますよ。
自分は楽のために苦行するのではなく、未来の苦をできるだけ最小限にする
ために未来の苦よりうわまらない苦行をします。
巨人の星みたいにつらくても夢をかなえようとはせず、できるだけ
楽な夢を持つことにしますかな。
937 :
名無しさん@3周年 :2006/04/28(金) 21:42:02 ID:EuGoV74+
心頭滅却すれば火もまた涼し この心は、熱い冷たいの感覚に実体はないというところであると思う。 一方感覚に実体があると考えるならば、感覚に引っ張りまわされる事になる。 これは蝶々の幻視を追い駆ける狂女である。いかなる感覚も相対的にのみ存在していて、 実体が無いからである。
938 :
名無しさん@3周年 :2006/04/28(金) 21:52:25 ID:EuGoV74+
心頭滅却すれば火もまた涼し この心は、熱い冷たいの感覚に実体はないというところであると思う。 一方感覚に実体があると考えるならば、感覚に引っ張りまわされる事になる。 これは蝶々の幻視を追い駆ける狂女である。いかなる感覚も相対的にのみ存在していて、 実体が無いからである。
939 :
名無しさん@3周年 :2006/04/28(金) 22:25:24 ID:9tZy2vqE
>>938 「熱い冷たいの感覚に実体はない」と考えたって、痛いもんは痛いだろう。
ふだん「車には実体がない」と考えてたって、身体は突進してくる車をよけるだろう。
「実体が無い」と考えることで、感覚的痛苦が解消できるとは思えんのよ。
940 :
名無しさん@3周年 :2006/04/28(金) 23:11:24 ID:EuGoV74+
>>939 あなたの言ってることは妄想ではないか?自分の体が有り車があり、それが衝突する事を想像している。
その想像の基本は有身見ではないか?
まず坐禅し自身が空であることを知ることであるとおもう。
象徴、方向性としての言説を日常に下ろしてくるなよw
942 :
名無しさん@3周年 :2006/04/28(金) 23:45:08 ID:9tZy2vqE
>>940 アンタが普段からおのれが「空」であることを認容しているんだったら、
満員電車の中でおもいっきし足踏まれても、頭上から荷物落っこちて
きても「痛ええ」なんて感じねーはずだよな?
アンタが頭ん中で理解してる「空」が、アンタの普段の生活の中で
肉体的痛苦を回避させてるのかい?
やっぱり「痛い」ってーなら、
「実体があると考えなければ、感覚に引っ張りまわされない」説こそ
妄想だわ。
943 :
名無しさん@3周年 :2006/04/28(金) 23:56:20 ID:EuGoV74+
>>942 目をくりぬかれても平気なんだよ、空を修行している人にとっては。俺の事か?
ン、まだだ。
944 :
名無しさん@3周年 :2006/04/29(土) 00:36:19 ID:O+AlbZS0
>>943 相対的存在=> 実体が無い =>空 だから「痛い」もしょせん空である。
これ、理解してれば痛みを感じないって言ってたじゃんか?w
だからアンタは完成されてると思ってたんだが、理解のほかに
いったい何を修行するんだい?
945 :
名無しさん@3周年 :2006/04/29(土) 01:40:53 ID:q2RXkFhT
中道バカ。お前はもう来るな。頼むからもうこないでくれ。 こいつを相手にしてるやつも来るな。来ないでくれ。 限度というものがある。
946 :
名無しさん@3周年 :2006/04/29(土) 10:12:19 ID:FQFS5nt3
どいつもこいつも、口ばっかり。
947 :
中観派 :2006/04/29(土) 12:23:32 ID:NNKMZCPN
>>945 誰か無駄な論議をしすぎないようにするための中道を考えれば、結構スムーズに行くかもな。
948 :
中観派 :2006/04/29(土) 12:30:34 ID:NNKMZCPN
>>945 あと、中道を使ってどんな断り方が最適なのかを考えた方がいいよ。
ますます、こういう断り方すると来たくなって逆効果だよ。
949 :
名無しさん@3周年 :2006/04/29(土) 12:43:21 ID:tbfFIKYU
>>944 >理解のほかいったい何を修行するんだい?
理解「気づく」の時点で行動に移さなければならない。今までの間違った行動は
正しい行動により消滅する事になる。これが完全になるまで、智慧の完成と言うもんはないのだ。
釈尊も中道を悟ってから、それを修行して智慧の完成を果たされたのである。理解が生じたときが
完成ではないのである。
有身見というものがないならば、苦痛が意味あるだろうか?この苦痛はこの肉対を
損傷するであろうと心配して、その肉体の世話としてその苦痛から逃げなければならないと考えるのだろう?
950 :
名無しさん@3周年 :2006/04/29(土) 12:56:11 ID:tbfFIKYU
>>949 つづき
色身は相対的にのみ存在する。相対的存在は実体がない。一切は相対的存在だから、
一切に実体はない。一切は空である。
この真理真実を実現させる為に様々な教えが生ずるのだ。この教えに反する事象は全て捨てる。
この教えに合致する事象は受容する。
救世教幹部時代からの光玉先生を慕って世界真光文明教団に移籍してきた 神組み手(元救世信者)達(恵珠含む)は、 「浄霊を真光の業」「おひかりをおみたま」「信仰を神向き」「教祖を教え主」 「信者を組み手」と呼び名を変え、信者に目眩ましさせる作戦だと疑問を持たないだろうか?
952 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 00:29:55 ID:JD1Dd+Wq
>>949 >有身見というものがないならば、苦痛が意味あるだろうか?
>この苦痛はこの肉対を損傷するであろうと心配して、その肉体の
>世話としてその苦痛から逃げなければならないと考えるのだろう
有身見の否定は、無我説を支持する観察方法のひとつである。
それはアートマンではない、それはわがものではない、と教えて
いるだけであって、肉体とアートマンの同意を否定すれば、肉体的痛苦を
否定できるという律は成り立たん。そういった意味では有身見の否定は、
世人が誤って想定するかもしれないところの対象的・客体的などのような
原理(たとえば痛覚)もアートマンではない、という人間観にとどまってる
と思うがね。
953 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 10:25:11 ID:7QNPOHhQ
いくら頭で否定しても、実際に有るものはあるんではないの。
954 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 15:23:28 ID:8KIgpCMZ
>>593-592 『国訳一切経阿含部一 第一義空経』p257に収録される書き下しです。
是の如く我れ聞きぬ。一時、佛、拘留搜の調牛聚落に住まりたまへり。
爾の時世尊、諸の比丘に告げたまはく、
「我れ今汝等が爲に法を説くべし。初・中・後・善く、
善義善味、純一滿淨にして梵行清白なり。所謂第一義空經なり。
諦に聽き善く思へ。當に汝が爲に説くべし。云何が第一義空經と爲す。
諸の比丘、眼生ずる時來處有ること無く、滅する時去處有ること無し。
是の如く眼は實には而かも生ぜず、生じ已らば盡く滅す。
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す。
俗數法をば除く。耳・鼻・舌・身・意も亦是の如く説き俗數法をば除く。
俗數法とは謂ゆる此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起る。
無明に縁りて行、行に縁りて識、廣説乃至純大苦聚集起るが如く、
又復た此れ無きが故に彼れ無く、此れ滅するが故に彼れ滅す。
無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に識滅す。
是の如く廣説し乃至純大苦聚滅す。比丘、是を第一義空法經と名づく」と。
佛此の經を説き已りたまひしに諸の比丘、佛の説かせたまふ所を聞きて、
歡喜し奉行しき。
955 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 15:31:30 ID:8KIgpCMZ
>>594 >諸の比丘、眼生ずる時來處有ること無く、滅する時去處有ること無し。
是の如く眼は實には而かも生ぜず、生じ已らば盡く滅す。
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す。
感覚「六根 六境」は本来上の如きものである。これはまさに無自性無実体空
を言うものである。所が、これに識が加わるのだ。
>無明に縁りて行、行に縁りて識、廣説乃至純大苦聚集起るが如く、
又復た此れ無きが故に彼れ無く、此れ滅するが故に彼れ滅す。
ここにおける識が六根六境に続く六識である。この識は無明より起きているものであるから、
自性のない苦痛を自性あるものと認識してしまうんである。
956 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 15:50:37 ID:8KIgpCMZ
>953 三世はない(過去未来現在)。なぜないのか解ります? これを徹底しなければならないところ、そうじゃない。 過去の遺物を現在に引きずり未来に持ち越している。それらは縁起しているもの にも拘わらず、縁起しているものは実体がないと言う般若の智慧を理解せず信ぜず、 縁起している幻に引っ張りまわされているのである。 しかし、般若の智慧を理解し信じたならば、過去の遺物を受け保つ事無く、未来にも送り届ける事もない。 本当は現在なるものもないのであるから、時間の経過を感じる事無く空の世界・無自性の世界に生きる事になる。
957 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 16:05:16 ID:LE9CpIBD
三世がないなんて言うのは彼岸に逝ってからにしようね。
958 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 16:45:33 ID:c99Mk75y
そうそう 三世は無いと言いながら時間は過ぎ去り老いていく・・・ 「三世は無いから俺は老いない、死なんぞー」と言いつつ死んでいく。
959 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 17:24:45 ID:8KIgpCMZ
自分を有身見の支配下においているならね。
三世があるということは、すでに自分が狂ってるのであって、 三世がないというのは、 狂ってるのに狂ってないと主張すること。
961 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 19:41:19 ID:8KIgpCMZ
三世に付いての議論は以前にも出てきてたよね。
962 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 20:14:25 ID:8KIgpCMZ
>>908 >法友になれるかな・・・発狂は恐いよね。
発狂は怖いです。
ところでここにあなたの法友這いませんか?
963 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 20:52:41 ID:XJFE4tmY
水野弘元先生の説く霊魂と三世について 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 「外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、 人格の主体として業を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、 これを認める。それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として、業や経験に 従って常に変化しつつ連続する有為法である。」と。
964 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 22:10:13 ID:8KIgpCMZ
>>963 有身見が人格の主体である。有身見は五蘊に執着するところに生じる妄想である。
965 :
名無しさん@3周年 :2006/04/30(日) 22:16:32 ID:8KIgpCMZ
966 :
名無しさん@3周年 :2006/05/01(月) 22:20:14 ID:7DpL0/Dd
仏教を学ぶ人達も連休の誘惑には勝てなくて、お休みか?
967 :
名無しさん@3周年 :2006/05/01(月) 22:23:23 ID:7DpL0/Dd
頭髪に火がついてそれを急いで振り払う様に、その様に仏教を学ぶべきものを。 睡眠は悪。食物は悪。解脱する以外に何の楽しみあがろうか?・・・・言うことだけは自由か
連休嬉しいんだが 最初の日に散々寝て、好きなもん食って、やること無いとやっぱり2日くらいで飽きる。
969 :
名無しさん@3周年 :2006/05/01(月) 23:52:31 ID:+LTA28s7
俺は3,4,5しか休みない。全然嬉しくないぞ・・・
原始仏教に興味もってるひとって職業何? ちなみに俺はふつうのリーマン。経済学部出身。
971 :
名無しさん@3周年 :2006/05/02(火) 12:53:22 ID:yU3xXP+o
>>942 痛みを感じている肉体は我ではない。
私の足が踏まれて痛かったら、怒りを感じる。
足も痛みも自分のものではない。
972 :
名無しさん@3周年 :2006/05/02(火) 13:46:46 ID:aQbJn+Ep
凡夫は汗水流して働くのが恒である。 徳有る者にのみ、有閑は約束される。
973 :
名無しさん@3周年 :2006/05/02(火) 19:50:07 ID:5WrH5l9H
>>972 > 徳有る者にのみ
徳とはどんなものでしょうか?
974 :
名無しさん@3周年 :2006/05/02(火) 21:10:56 ID:kIkqF2+O
>徳とはどんなものでしょうか? 仏法を学ぶことに絶えず意識が向かうような境地にあること。 例えば、世間的価値において、あの人は働き者だと寸暇を惜し んで働くような評判の良い人がいたとしても、くたくたに疲れ 果てるまで働いて、あとは石の如く眠るだけという人生では、 仏法を学ぶことに意識は向かうべくもありません。
975 :
中観派 :2006/05/02(火) 21:23:45 ID:NivN2MJc
>>971 もっと、現実的に考えましょうよ。病気のときや事故にあって骨折するとき痛み
があることは事実です。無我だから、私には痛みがないなんて通用しませんよ。
976 :
名無しさん@3周年 :2006/05/02(火) 23:17:40 ID:5WrH5l9H
>>975 大乗経典(般若、法華、涅槃等)においては、空諦を実行する人は、戦場においても、
いかなる刃物・矢の被害を受けない、といってる。
俺も何度も殺されているが、何とかやり過ごしていると思っているのだがなW。
977 :
名無しさん@3周年 :2006/05/02(火) 23:31:26 ID:5WrH5l9H
>>974 あなたは仏教に心が向いていると思います。
978 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/02(火) 23:58:56 ID:BnVKdBXK
仏の四つの説き方について 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 「仏が人々に法を説かれる場合には、相手の智慧経験の 高下浅深によって、同じ教理を示すにしても、その説き方を 違えられた。(四悉檀、中略)最後の第一義悉檀とは、右の ような方便施設を用いず、高い智慧や能力のある者に対して、 仏法の第一義的な真実義をそのまま説かれることである。」 長部経典の中でも、「自歓喜経」は舎利弗の為に説かれたという 設定になっております。 真実義の可能性が高いように思いますが如何でしょうか。 他の経典の多くは、最初から比丘やバラモンや神(夜叉含む)に 説かれたという設定ですので、方便の悉檀とみなして宜しいのでは ないでしょうか。
目の前の仕事に集中して働く事そのものが禅です。
>>978 > 舎利弗の為に説かれたという設定
どう読んでも違うだろw
981 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 00:12:46 ID:Gb9gfcfC
体験のない者には理解されない 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 「仏教は一般の学問のようにたんなる知識の面だけでなく、 信仰の実践という体験とか悟りとかの面があり、(中略) いかにやさしい言葉で表現しても、体験のない者には理解 されないことになる。」 長部経典の中でも、過去世を正確に読む「宿世通」という 神通力が説かれており、正しい精神統一を行えた修行者は 過去世を思い出すと易しい言葉で表現されております。 でも体験のない者や、現実主義者には理解されないのかも 知れません。 釈尊自身が成道直後に、説いても徒労に終わるであろうとて、 説法を躊躇されたのも、常識とは違っていたからのようです。
>>981 > 釈尊自身が成道直後に、説いても徒労に終わるであろうとて、
> 説法を躊躇されたのも、常識とは違っていたからのようです。
神通力が理解し難いからじゃねーだろw
縁起・無常・無我が理解しがたいもの、
当時の常識と異質なものだったからだろw
983 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 00:17:53 ID:Gb9gfcfC
>長部経典の中でも、「自歓喜経」は舎利弗の為に説かれたという >設定になっております。 より正確には、「自歓喜経」では舎利弗に説かれた説法を、舎利弗が リピートし、釈尊が保証したという設定になっております。
984 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 00:26:52 ID:Gb9gfcfC
>神通力が理解し難いからじゃねーだろw >縁起・無常・無我が理解しがたいもの、 >当時の常識と異質なものだったからだろw さて、三世は現代の常識とは異質でしょうか? 当時は常識だったようですので、因果応報、縁起も理解し易かったのでは ないでしょうか。 それでも、体験が無ければ「三世」すら真の理解が難しかったのでしょう。
985 :
名無しさん@3周年 :2006/05/03(水) 12:15:17 ID:cp8ETh3p
>目の前の仕事に集中して働く事そのものが禅です。 戦争で目の前の敵を集中して殺戮することも、集中した任務遂行です。
986 :
名無しさん@3周年 :2006/05/03(水) 12:18:46 ID:Z1InOhu1
空・無常・無が、が理解しがたいのではなく、それを実行し難いのであるとおもます。 いや、実行し難いと言う事は、理解しがたいと言う事になろうか? 「私の悟ったこの真理は、見難く,難解であり、静まり,絶妙であり,思考の域を超え ,微妙であり,賢者のみ良く知るところである。所がこの世の人々は,執着のこだわりを楽しみ 執着のこだわりにふけり,執着のこだわりをうれしがっている。さて執着のこだわりを楽しみ, 執着のこだわりにふけり,執着のこだわりを嬉しがっている人々には,(これを条件として彼があると言うこと) 即ち縁起と言う道理は見がたい。又全ての形成さ用の静まること,すべての執着を捨て去る事,妄執の消滅 貪欲を離れる事,止滅,安らぎ(ニルバーナ)というこの道理もまた見がたい。だから私が理法(教え)を説いたとしても もし他の人が私の言うことを理解してくれなければ,私には疲労が残るだけだ。私には憂慮があるだけだ)と。 サンユッタニカーヤ 梵天に間する集成
987 :
暇人 :2006/05/03(水) 17:01:26 ID:/V2lSPQc
_, ,_ ( ゚∀゚) < 乙 ( つ旦0 と__)__)
990 :
名無しさん@3周年 :2006/05/04(木) 12:50:43 ID:nRhkMOUS
>>975 怪我して痛いのはあたりまえ。
痛みを消したければ治療すればよい。
治療してもすぐに痛みが消えない場合には、
痛みを受け入れるしかない。
消せない痛みを消したいと嘆くなら、中道ではない。
991 :
中観派 :2006/05/04(木) 13:10:25 ID:r0jgwmoE
すべて楽で痛みをなくす方に行こうとするととても苦に敏感になってしまい、 さらに大きい苦を味わうことになることを身をもって知りました。 自分の敏感症を治す方法として、ヴィッパサーナ瞑想のように痛みを感じたら、 「痛み」とラベリングし、それでも苦痛を感じ、痛みをなくしたいと思うなら、 痛みを治すことに集中する方法がいいのではないかと思いました。 この方法は小さな痛みをあまり気にしないので集中力が付くと思いました。 果たしてこの方法は集中力を付けるのにもっとも適した方法なのですか? 教えてください。
993 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 02:13:59 ID:hxARJZ0G
>>991 ヴィパッサナー(観察)ために集中力をつけるのであって、
集中力をつけるのが目的ではないでしょう。
994 :
中観派 :
2006/05/05(金) 15:18:15 ID:zzNMB+Gi