1 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :
2005/05/26(木) 12:57:31 ID:GMVQZXA/ 前スレが容量超過のようですので新スレを立てます。
ここではアーガマ(漢訳阿含經典など)やニカーヤ(パーリ佛典)に説かれている教法や教理
を中心に、様々な議論を重ねていけたらと思います。佛教の原点を闡明できる良スレになる
こと期待して・・・。引き続きよろしくお引き立てのほどを。
自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されるようお願い申し上げます。
原始佛教関連以外の話題は当該スレッドか新たなスレッドを建ててお願いいたします。
スレ違いの妄想デムパ発言には終始默殺・完全無視が吉と思われます。
http://etc3.2ch.net/denpa/あたりへ誘導して指し上げれば宜しいかと存じます 。
立論議論に際しては首尾一貫・理路整然を心がけて頂きたく存じます。
2 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/26(木) 13:05:44 ID:GMVQZXA/
3 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/26(木) 13:06:43 ID:GMVQZXA/
>>4 伝わりにくいかな。
お釈迦様の時代には、集合論も、概念の階層化って概念も、無限数列の収束も、
知られてなかったわけだ。
概念も言葉も無い時代に頑張ったとは思うけど、
間違えちゃったりしてる訳で、今の時代を生きる
我々が、これら新たな時代の手段を持って切り分けようとしても、
それは無理な話だったり、間違うわけだし、でも、お釈迦様が悟りを得たと
思ったのは、所謂「事」で有り、その時代で精一杯に悟ったのを事実として
認めて挙げたとしても、やっぱりそれは、お釈迦様がSEXしたり、うんこ
した時にどれだけ気持ち良かったのかを議論するようなもんであり、
それはちょっち、現代人の感覚からするとはしたないというか、気持ち悪い
行為だなぁ・・・って達磨和尚思ったんだろうね・・・
まぁ、だからといって、だから「こそ」なのかもだけど、仏教に執着してしまった
達磨さんは、ころんじゃって、禅宗なんてものを開いてしまった訳だ。
原始仏教を分析するなら、何を間違ったかと言う観点も持った方が良いと
思うけどな。
6 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/05/26(木) 14:03:40 ID:hwZNJvCP
>>4 >右左が有って真中が有る。それが仏教の言う中道だとは思うけど、
>右左は方向なんだよ。
???左右と判断する理由は?そして方向とは?何を頓珍漢な。
>お釈迦様の時代には、集合論も、概念の階層化って概念も、無限数列の収束も、
>知られてなかったわけだ。
なぜそう断言できる? 「無限数列の収束」はどういう文脈で出てくるんだ?頭おかしくないか?
なにをどう間違ったんだ????
>>6 殆ど禅問答だが、ベジタリアンでSEXするなよてな、
戒律すら、現代知識では解釈しまくって、肉食う坊主
まで現れるんだから。
間違ったという言葉に囚われない事だよ。
8 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/05/26(木) 14:29:05 ID:hwZNJvCP
>>7 あんたはこのスレには不向きだ。適正に欠ける。
つまり、あんたは能無しだ。
ところで、釈尊以前から四句分別があったって知ってた?
9 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/26(木) 15:16:37 ID:loyoclcD
10 :
樹意 ◆N5RiFeqAFU :2005/05/26(木) 20:37:21 ID:mRYWAsk9
前スレより
>>894 > その「生天」だと、その段階で、すでに相手は本真の教え「四諦」を
> 理解していることになっちゃうように感じます。
生天は 五蘊無我からみると生天が涅槃界に至る事を指しますから
我見の煩悩が薄らいだ境地といえます、〈十結煩悩の身見他〉
従って 四諦の滅道の過程にあたります。四諦の内容であるとの解釈もできます。
整合性が取れたものです。 輪廻に対しても常見を前提にする必要もまったくないというのが
私の意見です。 「方便というよりも四諦の中身 というのが私の意見になります。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>>741 > これを呼んで、〈この身という考え方の成立に至る道だ、この身という考え方の成立に
> 至る道だ〉というのである。だからして、比丘たちよ、そのいう意味は、これこそ
> 〈苦の成立に至る道だ〉というのである。
此れは〈道〉という題の付いている経典です、四諦の理を五蘊の側から説明しています。
漢訳は有身集起道 滅尽に至る道を有身集滅道というそうです。
つまりは 五蘊の側からの四諦 四向四果〈天〉〈煩悩の消滅過程〉の説法があるわけです。
輪廻は五蘊で括ってしまうことができます。〈無我〉
11 :
樹意 ◆N5RiFeqAFU :2005/05/26(木) 20:40:36 ID:mRYWAsk9
輪廻に関しては何度か書きましたが、 仏陀は過去世を説く場合でも五蘊の何れかを記憶しているのであると 説いております、 「比丘たちよ、たとえば、〈わたしは、過去世において、このような色〈肉体〉をもっていた〉 というのは、色を記憶しているのである。−−− 相応部経典 22 79 雑阿含経 2、14 五蘊は過去世のものであれ未来であれ現在であれ 遠近を問わず 無我であり泡沫のごとくで あるというのが仏陀の説くところですから無我であるものが 転生しようがなにしようが 無我であるという事です。 この無我を悟り煩悩を解脱する階梯が四向四果であり 安楽に至る過程を天と表現するのだと いう事だと思います。〈涅槃界〉 前にマトリックスの喩を出しました、顰蹙を買うかもしれませんがもう一度かきますと、 マトリックス〈仮想現実〉の中で来世だの死後であるだのといったところでその情報は 他にある本体の悩にコンピュータが情報を送りこんでいるだけですから 〈無我〉になります。 マトリックスの中であ〜だこ〜だいったところでそれは仮想現実であり 〈識〉もそれを 認識しているだけです。 五根からの情報を元に我アリと考えるのは現実の世界であっても同じですが マトリックスと違うのは、「苦」は縁生ではあるが 〈在る〉と説いていることです。
>>11 マトリックスシステムの中で、あーだ、こーだ、言うのは、
所詮じゃないよ。
ザイオンとマトリックスシステムの中、どちらか選べと言われても、
困ってしまう。
>>6 >なぜそう断言できる? 「無限数列の収束」はどういう文脈で出てくるんだ?頭おかしくないか?
愚痴を正当化されても・・・
14 :
樹意 :2005/05/27(金) 04:03:33 ID:yL79S2xx
>>12 > ザイオンとマトリックスシステムの中、どちらか選べと言われても、
> 困ってしまう。
やはり短絡思考する人がでてきました。
喩えが悪くてすみません。
そういう事を喩たのではありません、 喩えたのは無我です。
マトリックスから抜け出したが 現実世界の方が厳しい状況の
為 裏取引をする人格があります。〈記憶を抜いてマトリックスに返してくれと 取引しております〉
これなどは転生の喩えに使えるのではないかと思ったりしました。
これも仮想現実の中においては転生しようが 仮想現実であり我ではないという事です。
この場合は仮想現実の方が魅力的に描かれます。
諸法無我を観察し気づきを得て 心は上昇するというのが仏陀の説くところです。
涅槃を得るのが仏陀の説くところの目的であるのは別段説明するまでも無いことだと思います。
>>14 うーん短絡してるのは、君の方で、
仮想現実に我が生起しえないという部分を、ご自身我見によって
説いてるわけで・・・
お釈迦様も同じ間違いをしてるだけに、可哀想だなとしか言えない・・・
16 :
暇人 :2005/05/27(金) 04:33:45 ID:OibxVkVv
>>776 をよく確認して ご覧。
私の論点は「如来」を「超人的な存在」とイメージするので、
「如来」をおかしいと考え、
5cの人の解釈の「衆生説」を採用するのであろうが、
「本来の如来の意味」は「超人的な存在」ではなく、
「かくのごとく行く人」「向上に努めた人」というものだと書いているのね。
■「如来」解釈において
「超人的な存在」より「かくのごとく行く人」「向上に努めた人」が
本来的という主張に異論があるのかい?
17 :
暇人 :2005/05/27(金) 04:40:40 ID:OibxVkVv
>>904 >記憶だけで列挙すると
記憶違いでしょうね。きっちり文献のページ数をご確認されてください。
後、語るのも馬鹿馬鹿しいが、一回生用「概説書」の「仏教学序説」p62
(山口益 横超慧日 安藤俊雄 舟橋一哉)も「如来」説です。
有力説かどうかは見解、見方で割れるかもだが、「従来説」なのは明瞭ですよ。
(
>>911 で(1)そのまま如来と読む )と書いておられるじゃん
>水野弘元は積極的な衆生説ですよ。
積極的とまで言われるのですから、論拠あるのでしょうが、
ところが実際の著作「原始仏教」 平楽寺書店 p94で
「如来(悟った人)」は死後に9生存する 10生存しない
と十無記を解説してられますね。ご確認願います。
「衆生説」仮説を積極的に展開しつつも
メジャー説の「如来説」を無視できないというのが実際のバランス感覚では?
さて記憶ではなく列挙された方々がどの著作のどのページで「衆生説」を
展開されているのかを明示ください。
されない場合は判断留保させて頂きます。
18 :
暇人 :2005/05/27(金) 04:42:53 ID:OibxVkVv
>「5cの人の解釈に過ぎない」 推定の根拠になるのと「断定」「決定」の根拠はちゃいます。 >伝わっているものすべての部派において同じ解釈をします たぶん書籍の頁を具体的に挙げて論じられますと、別な解釈が出ると予想します。 今は抽象的なので説得力に欠けますのと同時にそちらの根拠が不明です。 >無関係ではありません 「部派仏教がそのまま原始仏教ではない」 これはその通りですね。承認します。 「原始仏典からの援用」があるのは、竜樹でもそうです。 本人たちは原始仏教を私こそが正当に継承しているという意識でやっているのですから。 ところが我々はそういう往昔の仏教者たちの信仰上の主体的な作業を尊重しつつも、 客観的批判的に「経典製作者」と「解釈者」のズレを見極めていくわけです。
19 :
暇人 :2005/05/27(金) 04:45:56 ID:5f8vHPbb
>>907 かけらも摩り替えていませんね。
>>836 の
「原始経典を見ると釈尊は、「御伽噺」などと斬り捨てはしません。」
は、主語はありませんので、「ジャータカ」でも同じです。
まあ あなたはジャータカは苦手でしょうだから 突っ込むのを躊躇しますが
「ジャータカ」も仏典上の釈尊は斬り捨てていません。
「無我を説いている仏教者」が積極的に民間説話を仏教の訓話に取り入れたのですね。
とりいれた当時の仏教者から現代まで連綿と続いており、まったく馬鹿にしていず、
真面目な一教説なのだけどもね。。。
「生天の法」が「輪廻を前提」しているとしたら「馬鹿にした話」になってしまうので、
輪廻を前提にしない「意識内での現象」と読むべきというご主張なわけですね。
私は「生天の法」は明白に「輪廻」を前提している、
2ちゃんでエキセントリックな幾人か特殊な主張をされているが、
おそらく世間の学者は殆どが「輪廻」を前提していると考えているのではないかと
思ってますので、私からすると「斬り捨てている」と読めますね。
20 :
暇人 :2005/05/27(金) 05:07:34 ID:5f8vHPbb
でだ。
私は前スレ665で、
>長尾さんの訳語に「人間は死後も・・・」とあり、
>この訳語については議論の分かれるところだろうと思われます。
と書いたところ、
666で、
>「十乃至十四難無記におけるタターガタ」については以前からこのスレで論題に上がって>おり 議論は一応収束していると思います
とあったので、
色々と「議論は決着してないぞ」との意見を書いていたのですね。
つまり私は元々「色々意見が分かれている」という立場だな。
>>912 私からすると
(1)そのまま如来と読む(従来説 有力説)
(2)無理矢理、衆生と読む(新説 仮説)
(3)「衆生」説を積極的に肯定、主張する人がいる(このスレッドだけ)
んで(1)を支持する立場から(3)を批判しているのだけどね。
すると、このスレッドの方からは、私は(1)ではなく、独自説に思われるわけね。
21 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/27(金) 05:25:37 ID:vlg8bUrb
>>10 樹意さん、おはようございます。
> 生天は 五蘊無我からみると生天が涅槃界に至る事を指しますから
> 我見の煩悩が薄らいだ境地といえます、〈十結煩悩の身見他〉
> 従って 四諦の滅道の過程にあたります。四諦の内容であるとの解釈もできます。
> 整合性が取れたものです。 輪廻に対しても常見を前提にする必要もまったくないというのが
> 私の意見です。 「方便というよりも四諦の中身 というのが私の意見になります。」
すみません。次の問いにyesかnoかで答えるとどうなるのですか?
次第説法において、生天の法が説かれた段階で、
説かれた相手は、四諦を理解し、受け入れ可能な状態になっているのか?
22 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/27(金) 05:30:53 ID:vlg8bUrb
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1112182864/700 > 「順を追うての学」が四向四果のことであっても、
> 四向四果は「出家に対するカリキュラム」とはいえません。
阿呆陀羅經さん、おはようございます。
「順を追うての学」が四向四果のことかどうかは私にはわかりません。
しかし、それが比丘のためのカリキュラムであることは、以下の引用より明らかです。
「比丘たちの ふむべき道」とあり、丸1日、経行と座禅をするわけですから。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1112182864/590 > だいたい「出家に対するカリキュラム」が確立するのも後世の話です。
そして、世尊と目ノの会話なので、世尊の在世時にすでに、
カリキュラムはできあがっていたと考えました。
---------
http://religion.dot.thebbs.jp/1077270153.html 阿含宗と桐山氏について―第四章―続・阿含宗の研究―
中阿含経144 「如来は道を教えるのみ」
「友よ、私の教えにも、むろん順序をおうて学ぶみちがある。例えば巧みなる調教師は
良い馬を手に入れるとまず、頭を正しゅうする調教を為してそれからさまざまの訓練を加える。
私も、また、まさに御すべき人を得るとつぎのような調教を行って、次第に無上安穏の
境地にいたらしめる。」そして仏陀は、比丘たちの ふむべき道を順序に従って、詳細に説明した。」
---------
なんじ比丘よ、〜
昼は経行(きんひん)と座禅〜
夜のはじめには、また、経行と座禅〜
夜のなかごろには、〜、獅子のごとく臥し、〜
夜のおわりには、また、起きいでて経行と座禅〜
(増谷文雄「仏教の根本聖典」p191)
南伝 中部経典 一〇七 算数家目ノ連経 / 漢訳 中阿含経 一四四 算数目ノ連経
23 :
名無しさん@3周年 :2005/05/27(金) 05:47:32 ID:6hKmbVVc
積み残し
>>16 必ずや一発で歯切れのいい回答があることと考えます。
「2500年前の常識」であったタターガタの「本来の意味」を当時の明確な典拠を用いて
論証説明してください。「2500年前」というのは「釈尊時代」を指さないのですか?ここ
まで言い切るのであれば「2500年前の常識」たる「本来の意味」の文献的証明があな
たには可能なはずです。
>ちゃうな。 (以下くどくどしいので略)
>>835 でのあなたの発言です。
その中村さんが自説に有利な証拠の根拠とされているブッダゴーサですが、
自説に都合悪ければ、ブッダゴーサを斬り、都合いいと、持ち上げ採用ということですね。
一体誰がどこで「衆生説で決着している」と主張しましたか?
24 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/27(金) 05:53:49 ID:vlg8bUrb
>>10 > 輪廻に対しても常見を前提にする必要もまったくないというのが私の意見です。
まず、あなたの考える輪廻がどのような現象か、説明下さい。
たとえば、
『ある人間が、過去に生存した人物のなんらかの記憶を持つこと』
ぐらいの意味で、
『自分の記憶が、未来の誰かに保有されることは保証の限りではない』
といったものでしょうか?
25 :
暇人 :2005/05/27(金) 06:08:03 ID:5f8vHPbb
>>23 >論証説明してください
そのまえに>>
>>776 を読めって。
@どういう如来解釈と対比して「本来は・・」と表現しているのだね。
これがポイント。
>一体誰がどこで「衆生説で決着している」と主張しましたか
前スレ666で
>「十乃至十四難無記におけるタターガタ」については以前からこのスレで
>論題に上がっており 議論は一応収束していると思います
と書かれている人がいたのね。
これだけだと どう決着したか書かれてないのだけども
ネットを確認すると この同じ方が曽我さんの頁で、
<「如来(タターガタ)の死後に関する問題」について、
従来「如来(タターガタ)=ブッダ」とされ、
衆生に関しては死後の存在を認めたという見解が一般的であったと思います。>
と述べられ、更に
<無記の文脈での「タターガタ」の原意を探ると、パーリ・漢訳ともに、
本来は衆生を意味していたことはほぼ明確であると思われます。>
と論じられていますね。
あなたはご存知ないかもですが、このスレッドはよく書かれている方です。
26 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/27(金) 06:13:11 ID:vlg8bUrb
釈尊は無我を説いたということに執着せずに、
次第説法をあるがままに見ることが大切なのではないでしょうか?
布施もしない、
持戒もない、
来世を信じている
という人が、布施だけでもするようになれば、それはすごいことなのよ。
実際に今生で、布施と持戒をするようになれば、
来世を信じているかどうかなんてささいな問題ではありませんか。
そのあたりの優先順位付けが釈尊にはあったのでしょう。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~budda/tetra/budda/ooishi.htm 大石は水に浮かばず
この話にしても、
祈祷合掌の力で業が変わると信じ、
来世を信じている
という人が、祈祷合掌の力では業は変わらないと、まずはひとつわかること、
それが大事だといっているんですよ。
この段階では『来世を信じている』かはささいな問題ではないですか。
まず、大切なのは、
×死後に関してどういうアイデアを持っているかではなく
○現世で、布施や持戒を行い、祈祷合掌の力に頼らず実際に良く生きる
ことなのです。
27 :
名無しさん@3周年 :2005/05/27(金) 06:15:22 ID:6hKmbVVc
確認までに、ここでの「タターガタ」語釈は無記限定です。
>>16 > 私の論点は「如来」を「超人的な存在」とイメージするので、
> 「如来」をおかしいと考え、
> 5cの人の解釈の「衆生説」を採用するのであろうが、
「イメージ」などという曖昧なものを問題にしたことは無いし、 「5cの人」である
ブッダゴーサの註釈と漢訳諸本との解釈の一致はどう説明なさる。
> ■「如来」解釈において
> 「超人的な存在」より「かくのごとく行く人」「向上に努めた人」が
> 本来的という主張に異論があるのかい?
「2500年前の常識」であったタターガタの「本来の意味」を当時の明確な典拠を用いて
論証説明してください。「2500年前」というのは「釈尊時代」を指さないのですか?ここ
まで言い切るのであれば「2500年前の常識」たる「本来の意味」の文献的証明があな
たには可能なはずです
28 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 06:17:07 ID:6hKmbVVc
29 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 06:29:56 ID:6hKmbVVc
30 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 06:41:35 ID:6hKmbVVc
31 :
暇人 :2005/05/27(金) 06:54:26 ID:5f8vHPbb
>ブッダゴーサの註釈と漢訳諸本との解釈の一致はどう説明なさる。 一致はしてないでしょ。 強いて言えば類似している。 それと漢訳諸本のスタンダードは「如来」。漢訳のごく稀な例に 一部に「衆生神我」があるわけね。 これだけでは @本来、「タタガータの死後」文脈※では「衆生」が古く後に「如来」と転化した のか A元々は「如来」の意味だったが、紀元後の思索上(衆生)になった のか決定できないじゃん。 ブッダゴーサを信用してもシンハリ古註の成立は紀元後だしね。
32 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 06:56:22 ID:6hKmbVVc
ささ、
>>31 の質問にご回答を。いとももたやすい、それこそ「朝飯前」のことでしょう。
33 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 06:58:28 ID:6hKmbVVc
34 :
暇人 :2005/05/27(金) 07:00:23 ID:5f8vHPbb
>>29 論旨を説明・解説しているが、それについて無視し
言葉遊びしたいわけなん?
スレッドを荒らしたわけね
35 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 07:03:05 ID:6hKmbVVc
>>31 >一致はしてないでしょ。
アッタカター=「衆生・我」
漢訳=「衆生神我」
同義です。
>>34 言明の論証責任を。それだけ。
36 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 07:12:01 ID:6hKmbVVc
>>34 > 論旨を説明・解説しているが、それについて無視し
> 言葉遊びしたいわけなん?
逃げないように。大体明確な典拠根拠なしに「本来の」とか「常識」などという言明は不
可能な筈。
> スレッドを荒らしたわけね
不必要なことは言いませんので、悪しからず。
37 :
暇人 :2005/05/27(金) 07:22:50 ID:idyCUdNA
>>35 当方の認識では
>>16 で説明済み
16に対しキミは論旨に立ち入っての有効な反証をできないので、
荒らしのごとく「言葉遊び」に終始していると受け止めてます。
>アッタカター=「衆生・我」
>漢訳=「衆生神我」
ところが、「衆生」は「有情」のことだし、「我」はアートマンだが
「衆生神我」 の「神我」は、「我」(アートマン)でない。
だから一致ではなく「類似」。
38 :
暇人 :2005/05/27(金) 07:27:03 ID:idyCUdNA
>>36 どうもキミはまだ若いのだろうね。つきあってあげよう。
論旨に立ち入らず逃げているのは
キミだと私は考えているのだがね。
■「如来」解釈において
「超人的な存在」より「かくのごとく行く人」「向上に努めた人」が
本来的という主張に異論があるのかい?
答えれるものだったら答えてみよ。無理だろうが。。。
この16の反問から逃亡しているのはキミだね
39 :
暇人 :2005/05/27(金) 07:28:25 ID:idyCUdNA
それとご存じないようだから 教えとくが 私は楽しくなくつたなら、いつも逃げますよ。 そこまで つきあいよくない。
40 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 07:39:22 ID:6hKmbVVc
>>37 > 当方の認識では
>>16 で説明済み
こちらは過去スレにおける言明に特に付け加えることはありません。そちらの認識に関しても
前スレからのコメントに付け加えることは特にありません。
>「衆生神我」 の「神我」は、「我」(アートマン)でない。
説明責任が生じましたね。
> だから一致ではなく「類似」。
余程「言葉遊び」がお好きなようで・・・。
41 :
暇人 :2005/05/27(金) 07:40:45 ID:idyCUdNA
>>29 過去ログありがとうね
『原始仏教の思想T』p234 中村元著作集 が一つの根拠ね
一つ教えといてあげよう。ここで中村さんの言う「コンテキスト」とは
キミたちがいう「無記文脈のタタガータ」ではなく、
「タタガータの死後論議文脈」ね。原始仏典にたくさんあるらしいよ。
パーリの毒矢の比喩は無記文脈でいいが、
別訳雑阿含は「タタガータの死後論議文脈」のひとつ。
くくる標語がおかしいのだ この辺はわかっている人からすると。。略
42 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 07:45:10 ID:6hKmbVVc
>>38 >どうもキミはまだ若いのだろうね。つきあってあげよう。
今度は「人格攻撃」ですか(嗤笑)。
>■「如来」解釈において
「超人的な存在」より「かくのごとく行く人」「向上に努めた人」が
本来的という主張に異論があるのかい?
「本来の意味」からずらしましたね。今度は質問返しの虚偽ですか。コソコソ逃げずに
「2500年前の常識たるタターガタの本来の意味を」当時の典拠を根拠として論証してください。
当然それを絶対前提としての一連の発言なのでしょう?言葉遊びでも何でもありませんよ。
遁走宣言をとめる権利はありませんが、お目にかかる度に上記の質問は繰り返します。
43 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 07:46:35 ID:6hKmbVVc
44 :
暇人 :2005/05/27(金) 07:46:45 ID:idyCUdNA
>>40 意味不明なのだが
16の私の説明に異論はないということでいいわけね。
だったら くだらん絡みするなって
>説明責任が生じましたね
じゃあ確認しておくが、「神我」は「我」と
「全同」で「完全一致」しており、「類似」でないとキミは主張するのね。
時間あげるから 調べてご覧なさい
45 :
暇人 :2005/05/27(金) 07:50:33 ID:idyCUdNA
>>42 ずらしとらんでしょうが。キミが絡んだ元々の私の文章の文意を
懇切丁寧に実際に使った言葉を用いて解説しているだけだね。
46 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/27(金) 07:52:51 ID:MrizJxkI
>>38 >どうもキミはまだ若いのだろうね。つきあってあげよう。
片岡千恵蔵主演の「大菩薩峠」をご存知の御仁です。
ゆうに、60歳は楽に越しています(推定)
まあ、人生の大先輩ってことですね。
47 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 07:54:27 ID:6hKmbVVc
48 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/27(金) 07:55:23 ID:MrizJxkI
>>42 >>どうもキミはまだ若いのだろうね。つきあってあげよう。
>今度は「人格攻撃」ですか(嗤笑)。
随分、若く見られたね(^o^)丿
49 :
暇人 :2005/05/27(金) 07:56:46 ID:idyCUdNA
452 名前: 阿呆陀羅經 ◆MGPuxvZ3xQ 投稿日: 02/12/02 21:06 >>荒らしさん もう少し垢抜けた嵐は出来ないもんでしょうか(笑) 最近気付いたことを少々・・・。 出先での徒然に本など買い込んで寝る前に拾い読みをしていたのですが、アーガマ の無記説についての面白い語釈を見つけました。 「タターガタは死後に存在するか、存在しないか、存在しかつ存在しない か、存在しかつ存在しないのでもないか」 という設問で言及される「タターガタ」とは、「修行完成者」といった意味に限定され ず「衆生」や「自我」といった意味も含んでいるということです。また、 「佛教でもジャイナ教でも説くところの、このコンテクストにおけるタター ガタとは『如来さま』のことではなくて、『たましい』のことである。タ ターガタは『衆生神我』と訳されていることがある。」 『原始仏教の思想T』p234 中村元著作集 「たましい」という訳語の是非はともかく興味深い記述でした。
50 :
暇人 :2005/05/27(金) 08:01:32 ID:kQG9dFkW
「タターガタ」とは、「修行完成者」といった意味に限定され ず「衆生」や「自我」といった意味も含んでいるということです。 中村さんの「衆生説」仮説は、「如来」ではなく「衆生」というのではなくて 「如来(修行完成者)」に加えて「衆生」「自我」というニュアンスを 含んでるというものね
51 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 08:02:45 ID:6hKmbVVc
>>45 あなたが実際に使った言葉
「本来の如来の意味」
「本来の意味を忘れ」
「2500年前の常識」
これらを根拠にタターガタを「かくのごとく行く人」「向上に努めた人」と規定していますが、
その「本来」や「常識」を「2500年前」当時の典拠を前提にせずに主張したということでいい
のですね?
52 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 08:03:37 ID:6hKmbVVc
53 :
暇人 :2005/05/27(金) 08:08:37 ID:kQG9dFkW
>古い漢譯仏典に神とあるはすべて我の意味であり、後には神我の熟字も用いらるる 根拠となる古い仏典 例えば那先経にはアートマンを神と訳している部分も あるが すべてではない。「其樹大有神」が那先経にあり、この部分の 神は「我」のいみはなく、「神」。 宇井さん偉大な学者でスタンダードだが古すぎかもよ
54 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 08:09:48 ID:6hKmbVVc
「識神」てのもあったがウパニシャッドなどの影響かな。
55 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 09:18:09 ID:Xlw2XRf9
>神は「我」のいみはなく、「神」。 目下の問題は「神我」の語義の筈です。
56 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 09:20:44 ID:Xlw2XRf9
>>49 ほう、随分前の書き込みですな。これをきっかけにその後の探究やそれに伴う議論が発生するのですが。
ところで何のための引用?
57 :
樹意 :2005/05/27(金) 12:07:09 ID:UEDTjyWw
>>15 > お釈迦様も同じ間違いをしてるだけに、可哀想だなとしか言えない・・・
引用部分には触れず比喩の部分だけを突っ込むというのも いかがなものでしょう。
なによりも仏陀はこの現実世界の身体を構成する五蘊と無我を説くのです。
仮想現実にいたっては言わずもがなというところでしょう。
お釈迦様が間違いを犯しているというのなら 経典を引用した上でご指摘ください。
58 :
樹意 :2005/05/27(金) 12:16:39 ID:UEDTjyWw
>>21 まいど 、
yesかno といわれても 説明はしています。
漢訳は有身集起道 滅尽に至る道を有身集滅道 五蘊無我の側から生天を説明できる
のですから、生天を常見を前提に説く必要もないというのが 私の意見です。
それほど難しい説明でもないと思います。 それしか言えません。
59 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/27(金) 12:43:11 ID:OYaf9we0
60 :
樹意 :2005/05/27(金) 12:43:38 ID:uvw5/ZXm
>>24 議論の前提にあるのが五蘊 と 無我ですから 一旦輪廻を離れたいと思います。
輪廻の議論をする前に蘊処界の法門についての説明と議論がいると思われます。
ただしここのお歴々にとっては そういう基本的な事は承知事項なので苦情が発生する
かもしれません。
逆にお聞きしますが無宗だ、さんは五蘊をどのように説明或いは引用できますか。?
私のスタンスは引用経典にあるように過去世、未来世 現在すべての五蘊は無我である
との事ですので 輪廻しようがなにしようがそこには我は認められない、従ってこの観点に
立てば仏陀の説法になんら矛盾が生じる事がないし
説法においても中道を離れて説くこともないし、中道を離れた説法は比喩であっても
仏陀の説法から外れるというのが私の意見なのです。
61 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/27(金) 12:44:22 ID:OYaf9we0
>>58 樹意さんへ
> それほど難しい説明でもないと思います。 それしか言えません。
あなたの説明は、結局、何を具体的に言っているのか私に理解不能です。
また、何故、yesかnoで答えれないのかも理解不能です。
生天の法の「生天」は、
(1)来世に、天界に生まれること
----私、他
(2)禅定により得られる境地のこと
----ベロさん、他
となっています。
あなたの立場を、ご説明ください。
62 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/27(金) 12:57:05 ID:OYaf9we0
>>60 > 議論の前提にあるのが五蘊 と 無我ですから 一旦輪廻を離れたいと思います。
生天と関係がないのであれば、棚上げにしましょう。
> 逆にお聞きしますが無宗だ、さんは五蘊をどのように説明或いは引用できますか。?
ほとんど、何も説明できませんし、引用もできません。
増谷文雄「仏教の根本聖典」
水野弘元著 サーラ叢書4 原始仏教
水野弘元『仏教要語の基礎知識』
〔岩波文庫〕ブッダのことば 中村 元 訳 (?)
〔岩波文庫〕ブッダの真理のことば 感興のことば 中村 元 訳
これらは、参照可能です.
63 :
樹意 :2005/05/27(金) 12:58:14 ID:I9rCg1og
>>59 > > しゅつり 【出離】
出離は煩悩だとか 五蘊からの出離が本来の意味です。
64 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 12:58:26 ID:Xlw2XRf9
>>59 「出離」は輪廻的生存からの脱却を意味します。別段出家が前提ではありません。樹意さんの引用されている
經文を参照すればただちに理解できると思いますが。
>「仏門に入ること=出家」と考えられます。
なんか勘違いされていませんか。ブッダの教説等への帰依は在家でも充分可能です。
65 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 13:02:59 ID:Xlw2XRf9
「バカ梵天は無明 のうちにとらわれている。バカ梵天は無明のうちにとらわれている。なんとなれば、無常で あるものを常住であると言い、永遠でないものを永遠であると言い、常恒でないものを常恒 であると言い、純 一でないものを純一であると言い、滅びる性のものであるものを不滅の性 あるものであると言うからである。 生まれ、老い、死に、滅び、生起するもののことを『こ れは生まれず、老いず、死なず、滅びず、生起しない』 と言い、これよりも以上に他の出離 があるのに、『これよりも以上に他の出離は存在しない』と言うからである。」 『サンユッタニカーヤ』6 「梵天相応」 なお、「バカ梵天」を「バカバラモン」と訳しているものもあります。
66 :
樹意 :2005/05/27(金) 13:07:50 ID:I9rCg1og
>>62 >
>>60 > > 議論の前提にあるのが五蘊 と 無我ですから 一旦輪廻を離れたいと思います。
> 生天と関係がないのであれば、棚上げにしましょう。
全部関連がありますがまずは 蘊処界の法門の理解が必要であると思います。
67 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/27(金) 13:26:46 ID:MrizJxkI
ROM記念 涅槃寂静は、今ここにしかない。 過去も未来も輪廻思想も、今ここを離れてはない。 (縁生・縁滅) 逝くものは逝かず。 去るものは去らず。 いうに、心作用(色)にほかならない。 色は空 色即是空。
結局お釈迦様の言いたかった事は、 みんな死んじゃえば良いんだーー って事? 生きるのなら死んだように生きろと。
69 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/27(金) 21:07:45 ID:MrizJxkI
>>68 まあ、そういうことなんですね。
死んでしまえば、輪廻に思い煩うこともない。
仏教とは、死にきることなり。
よくぞ開眼なされました。
>>69 わーい。誉めてもらっちゃった。
でだ、こんなもん、小学校の時から会得してたけど、
なんで皆わざわざ知ろうとするんだろ?
知ろうとするから迷うってまで言われてるのに。
仏教徒なら、仏教徒こそ、釈迦の教えを思想にまで落とし込んで、
宗教から脱皮しなきゃならんのに、2600年もかけてまだやってる。
そりゃあ、300年くらい前までは施政者の道具として使い勝手が
良かったのだろうとは思うんだけど、こうやって情報の入手コストが
下がった現在ならもう、仏教っていらないでしょ。
生まれながらに悟ってる人って、たーーーーーーーーーくさん
いるよ。
>>70 >知ろうとするから迷うってまで言われてるのに。
そうそう。
だから私は何度も”知”は法から離れる。と言うています。
眼横鼻直(がんおうびちょく)by道元
眼は横についてて、鼻は縦についてる。
なんでこんなことに気が付かないんだろう?
まあ、気が付けば・・・なんてことはない(^o^)丿
>>71 なんて事無いなんて事無いぞー。
2600年前の鬱病患者のせいで、そもそも気が付いてる事を
否定され惑わされてきた俺の人生返せ―って感じ。
生まれたときから悟ってるのに、悟れ!!、悟れ!!と
迷ってる奴に言われて育てられたどんなに戸惑うか・・・
宗教ってほんと邪悪。
>>71 >>72 だと分かりにくいだろうから書いておくと
お釈迦様の理論は、核融合や核分裂の理論を発見したような部分と、
それを使って核兵器つくり人類滅ぼせの部分に分かれるのね。
で、核の理論には見るべきこと聞くべき事がいっぱい有るから、
みんな惑わされちゃうの。最後の理論使って核兵器作れ
の部分が大間違いなんで、みんな戸惑ったのね。
>>71 の机さんなんか
核の理論は理解してないのに、結論の核兵器で人類滅ぼせの部分だけ
会得しちゃってる。
現代風に言うなら、すげー頭のいい鬱病患者がお釈迦様なのねー。
で、そのお釈迦様に惑わされてるのが、仏教の全関係者。
自覚もってねー。
74 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/05/28(土) 00:51:28 ID:GypHGEW8
>>68 >>70 >>72 >>73 の方は同じ方だと思いますが、
釈尊に対する敬意のない感想文の羅列はこのスレでは無視されるか罵倒される
だけだと思いますので、出来ればお引取り下さいますようお願い申し上げます。
あなたが生まれた時から悟っていたのは、大変結構な事でございますね。
75 :
樹意 :2005/05/28(土) 02:23:47 ID:xE2DBLTO
>>61 > あなたの立場を、ご説明ください。
「ーーー狂奔する馬に遭い、あるいは、揺れ動く乗り物にあい、車に遭い、また人々に出遭います。
大徳よ、その時には、世尊を念ずることを忘れ、教法を念ずる事を忘れ、また、僧伽を念ずることを
忘れます。大徳よ、私は思います。もし、其の時、私が命を終わりましたならば、いったい、
私は、いずれかの処に生を享けるのでありましょうか」
「長きにわたって、信をもって充し、戒をもって充たし、聞くところをもって充たし、施捨をもって充たし、
また、智慧をもって充たされる心は、必ず上昇して、かならず最高処に至るであろう。
ーーー中略ーーーー そなたには、決して、善からぬ死、恥おおき命終はないであろう」
南伝相応部経典 55 21 雑阿含経 33 12 マハナーマ
在家の方が質問したことに対する答えです。
不慮の死に遭うことを心配して 仏陀に尋ねています。
そういう不慮の事故にあった場合死後どうなるのでしょう。 いつもは念じている三帰依とかが
念頭から消えてしまうからと 心配しているわけです。
智慧をもって充たされるというのは 生滅を見抜く智慧ですから常見を前提にしてはいません。
まったく逆です。 また 心という表現がありますがこれは 五蘊に含まれる 意であるとか識である
とかの説明にも心と出てきますがそれとは文脈上意味合いが違うように感じます。
諸法無我を観察し、気づきを得て こころは上昇する。 そういう事だと思います。
76 :
樹意 :2005/05/28(土) 02:28:13 ID:xE2DBLTO
>>59 ラーダよ、比丘たちは、この五取蘊なるものの生起と、滅尽と、その味わいと、
その禍いとを知り、さらに、そこから出離することをはっきりと知って、もはや
取著するところなくして解脱するがゆえに、ラーダよ、この比丘を名づけて、
阿羅漢なり、煩悩を滅尽したるものなりしとなし、彼は修行をおわり、なすべきこと
をなしおわって、重き担いを物を捨て、おのれの利を手に入れ決縛を断じて、
正知にして解脱したというのである。」
相応部経典 23 8 阿羅漢
いちおう引用しておきます、 その他の経典にも煩悩からの出離であるとか
いろいろあります。 よりどりみどり でやんす。
ごめんなさい!!!! 大事なお話中に大変申し訳ないのですが、皆さんに 一言だけアドバイス願いたいです。 今日TVで高瀬広居という人の話を聞きまして この方(お爺さんなんですが)「日本仏教の再生を求めて」という 本を出したらしいんですが この人はどうい方かと言う事を客観的にと個人的見解を 教えてください。 一般人向けの本とは思うのですが、著者がどういう背景の方か まったく知識が無いので 少しでいいから教えてください。
78 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/05/28(土) 03:19:10 ID:GypHGEW8
高瀬さんはテレビ東京系のレディス4の月末対談で仏教の宣伝してる人ですね。 浄土宗の寺に生まれて、元NHKの番組製作者だったかな?現状の日本仏教の あり方にはかなり批判的ですね。仏教関連の著書は一般人向けの紹介・入門書が ほとんどです。テレビでのコメントは毒舌満開で私は面白いと思います。 一昔前の仏教者との対談集は読んだ事あって、その中の興福寺の橋本凝胤師と の対談はとても興味深かったです。橋本長老のキャラは好きですね。
79 :
名無しさん@3周年 :2005/05/28(土) 03:22:00 ID:tm5jhnld
原始仏教は、何故カルトに利用されやすいのか。このスレでも、その原因を究明して 欲しい。
>>72 >生まれたときから悟ってるのに、悟れ!!、悟れ!!と
>迷ってる奴に言われて育てられたどんなに戸惑うか・・・
生まれたばかり、迷いがないから悟りもないですね。
いわゆる自我がありませんから、仏教にいう無我ということです。
しかしながら、幼児は自我が芽生えるころから〜それが迷いの芽生えでもあります。
何故に人は迷うのか?
ってことが仏教の肝心なとこです。
十二支縁起は、そういった親のセクスから卵子の着床、妊娠→出産→誕生・・・・
それから生きて〜死ぬまでのプロセスのことですね。
縁により、また人は迷いが生起する。
仏教とは、これを尽滅する法門なりや。
>>80 ハイハイ、普段理屈じゃないとか言ってるくせに、
悟った人が現れると、理屈で惑わすんだよね。
迷惑してる人いっぱいいるよー。
辞めた方が良いよぉおおおおお。
お釈迦様も机さんも同じなんだけど、悟った自分に自身をもてなかったから、 説法してるんだろうなぁ。 じゃあお前は何で書いてるんだって言われたら、 棒もって人を打つ人いたら、止めたいなぁって気分だから。
>>82 >お釈迦様も机さんも同じなんだけど、悟った自分に自身をもてなかったから、
>説法してるんだろうなぁ。
いいお題です。
私か書き込みしてるのは、心象を書くことにより己に学ぶわけです。
いうならば、己への問いでもある。
毎度、毎度、私は問うておるんですよ。
自分に自信をもつものでもなく、
説法するのでもなく、
自他不二で調へばよろしいかと思ふ。
84 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 08:05:59 ID:eR3KxfFr
>>63 ,
>>64-65 ,
>>76 樹意さん、阿呆陀羅經さん、レスありがとうございます。
さて、
>>59 での辞書の引用によれば、『しゅつり 【出離】』には、
・煩悩(ぼんのう)を断ち、迷いの境地を離れること。
・仏門に入ること。
のふたつの意味のあることがわかります。
わたしは、次第説法における「出離の功徳」を、この後半の意味に取り
「出家により得られる利点」といった内容と考えました。
これに対する御二方のレスは、次の2つのケースのうちの後半と受取ってよろしいでしょうか?
【ケース1】
原始仏教の文脈で「出離」には、「輪廻的生存からの脱却」といった意味しかなく、
「出家」と解釈するのは間違いである。
【ケース2】
「出離」には「出家」の意味もあるが、
次第説法における「出離の功徳」の「出離」を「出家」と解釈するのは間違いである。
なぜなら、次第説法は別段出家が前提ではなく、
ブッダの教説等への帰依は在家でも充分可能であるから。
=======
【ケース2】と解釈して、反論いたします。
別段出家が前提ではなくとも、「出家の功徳」について語ることは何の問題も無い。
たとえ、本人が出家しなかったとしても、出家への理解は、僧への帰依に関して、
プラスに働きこそすれ、マイナスに働くことはないからである。
さらにいえば、釈尊は次第説法による一連の行為に、出家への誘いの要素のあることを認めていたと考えられる。
『如来は真理をもって誘いたもう。
真理に来るものを妬むは誰であるか。』
(増谷文雄「仏教の根本聖典」 p60 漢訳 四分律 32)
85 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 08:13:48 ID:aOZzSYHU
>>84 無宗ださん、
出離の意味は上に書いたようにそれだけでは出家を意味しません。
次第説法の過程で「出家への誘い」を行なっている言説はありますか?
>>83 だから、あんたが自分に問うのは良いけど、
その過程で他人を惑わしてる事に気が付いてないのが
問題だし、迷惑だって言ってるんだけど。
まぁ、最初にやったのがお釈迦様なんで、お釈迦様信じてる以上
そうしちゃうのは仕方ないのは分かるんだけどねー。
迷惑な話だプンプン!!
87 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 08:25:17 ID:eR3KxfFr
>>75 樹意さん、レスありがとうございます。
> 智慧をもって充たされる心は、必ず上昇して、かならず最高処に至るであろう。
これは、存命中のことですか?不慮の死に遭った場合のことですか?
>>61 > 生天の法の「生天」は、
>
> (1)来世に、天界に生まれること
> ----私、他
>
> (2)禅定により得られる境地のこと
> ----ベロさん、他
>
> となっています。
> あなたの立場を、ご説明ください。
樹意さんの立場は、(1)でも、(2)でも無いようですが、
「生天」を(1)(2)のように簡単に記述することは不可能なのでしょうか?
88 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 08:43:16 ID:eR3KxfFr
>>85 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 08:13:48 ID:aOZzSYHU
> 出離の意味は上に書いたようにそれだけでは出家を意味しません。
> さて、
>>59 での辞書の引用によれば、『しゅつり 【出離】』には、
> ・煩悩(ぼんのう)を断ち、迷いの境地を離れること。
> ・仏門に入ること。
> のふたつの意味のあることがわかります。
そして、
> 「仏門に入ること=出家」と考えられます。
> それだけでは出家を意味しません。
阿呆陀羅經さんは、『「出離」は輪廻的生存からの脱却を意味します。』といっていますが、
これよりも以上に他の出離は存在しないという説明は行っていないと思います。
阿呆陀羅經さんの立場は、【ケース1】なのですか?
> 次第説法の過程で「出家への誘い」を行なっている言説はありますか?
在家であるよりも、出家した方が、解脱するためには良い環境であることは論を待たないでしょう。
まして、
>>22 で述べたように、比丘に対する「順を追うての学」があったと考えられます。
そういう状況において、 解脱のすばらしさが伝えられたとすれば、
それは、実質的に「出家への誘い」となることでしょう。
たとえば、「オーストラリア」の店や観光地の宣伝をすれば、
あからさまな勧誘をせずとも、
それは旅行会社のオーストラリア・ツアーへのプロモーション番組だと解釈できます。
89 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 08:56:51 ID:aOZzSYHU
>>88 お手許の岩波本『スッタニパータ』にも出離の語は散見されると思います。それらの意味を前後
の文脈を勘案検証しながら吟味してください。
出家は出離へ向かうための選択肢の一つではあるでしょう。それより
>釈尊は次第説法による一連の行為に、出家への誘いの要素のあることを認めていたと考えられる。
と主張するのはあなたなのですから、 以下の質問に答えられるはずです。
次第説法の過程で「出家への誘い」を行なっている言説はありますか?
>阿呆陀羅經さんの立場は、【ケース1】なのですか?
どちらでもありませんしそのような形で「立場」を規定される謂れもありません。
90 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:10:48 ID:aOZzSYHU
>>88 >在家であるよりも、出家した方が、解脱するためには良い環境であることは論を待たないでしょう(・・・)。
論点先取&拡張に陥ってますが。
91 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 09:20:40 ID:eR3KxfFr
>>89 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 08:56:51 ID:aOZzSYHU
> お手許の岩波本『スッタニパータ』にも出離の語は散見されると思います。
> それらの意味を前後の文脈を勘案検証しながら吟味してください。
私は、辞書によれば、『しゅつり 【出離】』には、
「仏門に入ること=出家」という意味のあることを既に述べました。
『スッタニパータ』において出離が、「出家」という意味で一度も使用されていないとしても、
それは、『しゅつり 【出離】』に「出家」という意味が無いという証明にはなりません。
92 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:26:51 ID:aOZzSYHU
なんで「仏門に入ること=出家」になるのですか?三宝帰依の在家でも佛門に入っていますよ。 辞書記述の拡大解釈に過ぎないでしょう。
93 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:28:22 ID:aOZzSYHU
最低佛教辞典くらい使ってその語義を調べてください。
94 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:40:08 ID:aOZzSYHU
無宗ださん、 ここが「原始佛教スレッド」であることをお忘れなく。
95 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 09:55:52 ID:eR3KxfFr
>>94 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:40:08 ID:aOZzSYHU
> ここが「原始佛教スレッド」であることをお忘れなく。
だから何? 玉石混合、有象無象の集う2chの一スレッドに過ぎんでしょう。
>>93 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:28:22 ID:aOZzSYHU
> 最低佛教辞典くらい使ってその語義を調べてください。
こうやって、無意味に敷居を高くするのは止めませんか?
>>92 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:26:51 ID:aOZzSYHU
> なんで「仏門に入ること=出家」になるのですか?三宝帰依の在家でも佛門に入っていますよ。
失礼しました。認識不足でした。
> 辞書記述の拡大解釈に過ぎないでしょう。
しかし、
「仏門に入ること」のひとつの形が「出家すること」であることは否定できないでしょう?
こういうのは、「拡大解釈」とは言わないと思いますよ。
96 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 10:01:41 ID:aOZzSYHU
>>95 >こういうのは、「拡大解釈」とは言わないと思いますよ。
「仏門に入ること=出家」と主張したのはあなたです。
>だから何?
スレ違いになるような論点拡張はご遠慮願いたいということ。
>玉石混合、有象無象の集う2chの一スレッドに過ぎんでしょう。
厭なら無理にお越しにならなくても結構。
>こうやって、無意味に敷居を高くするのは止めませんか?
調査学習は端折らずにしましょうね 。なお、チャート式参考書風の回答を行なうつもりは
毛頭ありません(蛇足失礼)。
97 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 10:09:57 ID:eR3KxfFr
>>96 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 10:01:41 ID:aOZzSYHU
> >こういうのは、「拡大解釈」とは言わないと思いますよ。
> 「仏門に入ること=出家」と主張したのはあなたです。
揚げ足とりは、やめましょうよ。
私が主張している(主張していた)のは、
●次第説法における「出離の功徳」は、「出家の功徳」と解釈できる
ということです。
この主張を否定するためには、
出離には出家の意味は無いことを証明するしかないと思うのですが、
あなたはその証明をしていません。
98 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 10:11:37 ID:aOZzSYHU
>>97 >あなたはその証明をしていません。
出家は出離へ向かうための選択肢の一つではあるでしょう。
↑仁付け加えることは特にありません。当該資料は精査しました?
99 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 10:17:55 ID:eR3KxfFr
>>92 > > なんで「仏門に入ること=出家」になるのですか?
> 三宝帰依の在家でも佛門に入っていますよ。
この指摘は、ありがとうございました。
「出離の功徳」は、
「仏門に入ることの功徳」と解釈し、
その結果、
ヤサは出家し
その親の長者は、三帰依し、
ヤサの母も妻も三帰依した
と考えると、私的には非常にすっきりします。
100 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 10:22:53 ID:aOZzSYHU
>>99 「出離の功徳」とは、輪廻的生存から離脱することによって得られる果報といった意味です。
101 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 10:29:43 ID:eR3KxfFr
>>100 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 10:22:53 ID:aOZzSYHU
> 「出離の功徳」とは、輪廻的生存から離脱することによって得られる果報といった意味です。
情報ありがとうございます。出典は阿呆陀羅經さんがお持ちの「佛教辞典」でしょうか?
今後、『スッタニパータ』を読み返したり、他の仏典を読んだりする際には参考にしたいと思います。
102 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 10:34:24 ID:aOZzSYHU
>>101 一応岩波版の「仏教辞典」を参考にしました。周囲では余り評判がよくありませんが・・・。
經典を丁寧に読み込めば文脈等から内容が理解できますし、その方がしっかり身につく
と考えます。
103 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 10:48:54 ID:eR3KxfFr
>>89 > それより
> >釈尊は次第説法による一連の行為に、出家への誘いの要素のあることを認めていたと考えられる。
> と主張するのはあなたなのですから、 以下の質問に答えられるはずです。
> 次第説法の過程で「出家への誘い」を行なっている言説はありますか?
さて、物凄く堅苦しいことを言われているように感じます。
増谷文雄「仏教の根本聖典」を読んで、素人が感想を述べているだけなのですから、
むきになられても困ります。
まあ、何を言うのもあなたの自由ではありますけど。
増谷文雄「仏教の根本聖典」第9章 真理に来るもの 漢訳 四分律 32 p59-60
において、
マガダの国の良家の子弟が、あいついで世尊のもとに行き、出家の行者となった。
と記載されています。
単純にその原因は、次第説法であろうと考えただけです。
そして、
『如来は真理をもって誘いたもう。
真理に来るものを妬むは誰であるか。』
と「真理をもって誘いたもう」と言っているのであるから、
勧誘しているという自覚はあったと考えました。
104 :
樹意 :2005/05/28(土) 11:00:18 ID:bckyDWxB
>>87 > > 智慧をもって充たされる心は、必ず上昇して、かならず最高処に至るであろう。
> これは、存命中のことですか?不慮の死に遭った場合のことですか?
マハナーマという方が在家の徳目である 三帰依 戒具足 信具足 施具足
慧具足をいつも念じているのであるが、アクシデントに遭うと忘れてしまうから
そういうアクシデントに
遭って死んだ場合は、私の死後はどうなるのでしょう?と尋ねる教典です。
> 大徳よ、その時には、世尊を念ずることを忘れ、教法を念ずる事を忘れ、また、僧伽を念ずることを
> 忘れます。大徳よ、私は思います。もし、其の時、私が命を終わりましたならば、いったい、
> 私は、いずれかの処に生を享けるのでありましょうか」
ただし 短絡してはいけないのは、長年にわたりこれらの徳目をもって充たされたこころは上昇し
最高処に至るとしています、心をこれらの徳目で充満させる必要があります。
105 :
樹意 :2005/05/28(土) 11:14:09 ID:Kjn0GVVl
>>87 > 樹意さんの立場は、(1)でも、(2)でも無いようですが、
> 「生天」を(1)(2)のように簡単に記述することは不可能なのでしょうか?
引用した経典をどのように解釈するかは、読まれる方が決めることです。 そういう風に書いてある
からそれに沿った形で意見を述べるだけですし、私は勉強不足であり、立場云々を述べるほどの
読み比べもできていません。
在家は在家としての徳目があり、その実践としてものの生滅を見抜く智慧を
得る必要があります。
涅槃には至らないが 涅槃界に至ることを天界と表現したものであると思われますから
五蘊を消滅させる為の十結煩悩を一つ一つ解脱する必要があります。
五蘊無我を語らず 単に天界を語るのは 間違いの元であると思います。
在家の四つの預流支を説く教典もあります。
>>86 >その過程で他人を惑わしてる事に気が付いてないのが
私の書き込みは、社会通念上あまり日常的ではない。
ってことですね。
そんなことは充分わかってる。
しかしながらここはスレ違いなので、これ以上の書き込みは遠慮する。
107 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 11:21:55 ID:aOZzSYHU
>>103 堅苦しいも何も単純明快な問いを発しているだけですよ。つまり、あなたは次第説法中のいかなる言説
を根拠に
>釈尊は次第説法による一連の行為に、出家への誘いの要素のあることを認めていたと考えられる。
と主張されているのかを聞いているだけ。
>単純にその原因は、次第説法であろうと考えただけです。
説法を聞いた「マガダの国の良家の子弟」が出家という選択を行なったまでの話でしょう。
出来るだけテクストの文脈・論法を用いて所説を述べていただきたいものです。
余談ですが、当時の出家沙門という社会現象に関してもご一考ください。
>>106 日常的じゃないとかそんな問題じゃないよ。
迷惑だと書いてる。
何故日本語読めないのかな?
109 :
樹意 :2005/05/28(土) 12:28:45 ID:Dax14SNF
>>87 人をこの世に結びつける束縛 人々を下界に結び付けて解脱せしめぬ五つの煩悩は
身見 戒取 疑 貪 瞋 といいます。 我見の煩悩が全ての煩悩の元になります。
故に一番先に身見が来ます。
「我ちょうのもののなかりせば
我がものとてはなかるべし
我ちょうものはなかるべし
我がものとてはなかるらん
比丘がもしそのように確信するならば、彼はよく、
人をこの世に結びつける束縛を断つことができるであろう。」
比丘に対して説いていますが、これは感興語という表題のついた経ですから
釈尊が問う人もなしに胸中からおのずと充ちて 語ったものに対して比丘がつっこみを
入れたものです。 仏陀の弟子と凡夫の違いを説いています。 仏陀の弟子は当然在家も
含まれます。先に引用した在家の四つの預流支はこの煩悩にも当然対応します。
逆を言えば五蘊に対する我見の煩悩を完全に解脱するなら他の煩悩も自動的に解脱します。
下界に結びつける煩悩を解脱し 涅槃界に入る事を天界と表現したのでしょうから
天界を語る前にこの煩悩の意味を理解することが必要であると考えます。
110 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 16:24:46 ID:eR3KxfFr
>>100 > 「出離の功徳」とは、輪廻的生存から離脱することによって得られる果報といった意味です。
ずぶの素人の私には、これがよくわからないのですよ。
具体的にどんな『果報』があるのでしょうか?
どんなことが実際に説かれたのでしょうか?
阿呆陀羅經さんは、輪廻的生存から離脱したいと思っていますか?
ごくごく一般の人が来世、生天を願うとか、
ぶりっ子アイドルが、「来世は結ばれるといいね」と、男性タレントにいうとか
そういうのならわかります。
某カルトのように、解脱すれば神通力が身につき、
過去・現在・未来の三世が見通せるようになり、
意識を宇宙の果てまで飛ばせるようになる
なんて言えば、『「解脱」っていいな。』と思う人もいるでしょう。
仏教を勉強して「一切皆苦」がわかれば、「涅槃寂静」も意味を持つと思うのですが、
当時のインドの大衆、つまり次第説法の対象となるような人たちは、
『輪廻的生存から離脱することによって得られる果報』に
どんな価値を認めたのでしょうか?
何かご存知ですか?
111 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 16:51:31 ID:eR3KxfFr
>>58 > 漢訳は有身集起道 滅尽に至る道を有身集滅道 五蘊無我の側から生天を説明できる
> のですから、生天を常見を前提に説く必要もないというのが 私の意見です。
>>60 > 私のスタンスは引用経典にあるように過去世、未来世 現在すべての五蘊は無我である
> との事ですので 輪廻しようがなにしようがそこには我は認められない、従ってこの観点に
> 立てば仏陀の説法になんら矛盾が生じる事がないし
> 説法においても中道を離れて説くこともないし、中道を離れた説法は比喩であっても
> 仏陀の説法から外れるというのが私の意見なのです。
ちょっと私が勘違いしていたかもしれません。樹意さんの考えによれば、
(1)来世に、天界に生まれること
を説くのに常見を前提にする必要は無い。
--------------------
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/kokoro/shinjin/fuse_04_1.html 「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、
もの惜しみをしない人々が、
ブッダと真理の教えとに対して信仰心あり、
修行者の集いに対して熱烈な尊敬心を持っているならば、
彼らは天界に生まれて、そこで輝く。
もしも人間の状態になっても、富貴な家に生まれる。
そこでは、衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。
また〔来世には〕他人の蓄えた財物を、
他化自在天のように、喜び楽しむ。
現世ではこの報いがあり、死後には善いところに生まれる」
(相応部経典1-59『もの惜しみ』)
(以上、中村元訳『ブッダ神々との対話』岩波書店より)
---------------
この解釈にも、常見は全く必要無いということですか?
112 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 17:39:02 ID:Gkj5WQxA
113 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/28(土) 18:03:52 ID:N1KYcsxb
>>112 >今更こんな質問が飛び出すとは・・・(長嘆息)。
経典からの転用もいいけど、なんで貴殿は「自分の言葉」で語ろうとしないのか?
>あなたとのやりとりはこれまでとさせていただきます。
そんなことを言わんで、無宗だ殿に答えてあげてください。
114 :
樹意 :2005/05/28(土) 18:39:39 ID:QLz1QteY
>>110 > 某カルトのように、解脱すれば神通力が身につき、
> 過去・現在・未来の三世が見通せるようになり、
> 意識を宇宙の果てまで飛ばせるようになる
> なんて言えば、『「解脱」っていいな。』と思う人もいるでしょう。
これには殆どの人が引っかかるトリックです、
以前スシーマの問答を引用したことがあります、
釈尊は逆に相手に対して質問し 相手に考えさせて答えさせる説法をします。
色受想行識 無常で移り変わるものが 我ですか?
そういう事はありませんと答えると そのように観て あなたは神通力を享受しますか?
と相手に対して答えを出させます。 そういうやり方です。
神通力を享受する主体というものを 相手に考えさせるのです。
つまりは カルトというのは神通力という餌で信者を獲得するのに対して
仏陀は神通力を享受する主体というものが無我であると相手に考えさせるのです。
また、神通力であっても我見の煩悩 執着が増すものは、結局下界に
結びつけるものでしかないとするわけです。
カルトは仏陀の中道を常見に変換するのです。
115 :
樹意 :2005/05/28(土) 18:57:29 ID:qVv01cr/
>>111 > この解釈にも、常見は全く必要無いということですか?
三帰依 戒具足 信具足 施具足 慧具足 は在家の徳目であることは引用しました。
また 人を下界に結びつける煩悩も引用しました。
貪も瞋恚も痴〈変換略〉 も人間を構成する五蘊に対する我見執着から生じます。
仏陀は五蘊は汝らのものではないと さまざまな比喩をもって語ります。
下界に結びつける煩悩は我見になりますから、上昇しようと思うなら 我見執着を減らす
必要があります。 常見ではそうはいきません。
常見という見方を使ったら逆に下界に結びつける煩悩が切れないことになります。
煩悩の見地から 考えてみて下さい。 別段天界を説いたからといって、矛盾することは
ありません。
116 :
樹意 :2005/05/28(土) 19:02:09 ID:qVv01cr/
主体と書くと阿呆陀羅經氏からお叱りを受けるかと思いますが 其の点は 無我の説明ですので 主体という常見を前提にするものではありません。 一応断っときます
117 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/28(土) 19:18:33 ID:N1KYcsxb
飯を喰うて、糞して、寝て、なんの迷いもないのを解脱という。
118 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 19:52:50 ID:eR3KxfFr
>>112 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 17:39:02 ID:Gkj5WQxA
> 今更こんな質問が飛び出すとは・・・(長嘆息)。
聞くは=一時(いつとき)(=一旦(いつたん))の恥(はじ)、聞かぬは=末代(まつだい)(=一生)の恥
聞くだけなら、只(笑)
> あなたとのやりとりはこれまでとさせていただきます。
何回目の宣言でしたっけ?
> 最後になりましたが、經典に向かう時の心構えについての手引きが
> ↓にうまくまとめられていると思いますのでご紹介しておきます。
>
http://page.freett.com/Libra0000/084.htm すばらしいサイトの紹介ありがとうございます。
http://page.freett.com/Libra0000/ > 「日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、
> これから先の問題が残されているというけじめが
> いっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。
> そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まると、
> 前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。」
> (丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)
> では、ごきげんよう。
see you!!
119 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 19:53:47 ID:eR3KxfFr
>>115 樹意さん、レスありがとうございます。
私が主張したかったのは、次のことです。
次第説法における「生天の法」は、
『その人の生物的死後、その人が人界(現世)ではなく、
天界(天国?、極楽?、ユートピア?、「酒は旨いし、ネーチャンはきれい」な所w)に
転生することを説いている』
------------
私の乏しい仏教知識では、これを常見を前提とせずには説明できないのですが、
常見を前提とするか否かは私にとってはどちらでもいいことです。
むしろ、中道で説明できるのであれば、
> 理解に苦しむのは勉強不足だからでしょう。
> 原始仏教の文脈で「天界」に「生まれ変わる」のはあくまで修行者の禅定体験の中
> で行なわれるのですから。でないと「無我説」から離反してしまうでしょ?
> 無我を主張する原始仏教がたとえ方便説としても実体的な「来世」や「天界」や
> 「生まれ変わり」を認める訳にはいかないでしょうに。
と絡まれなくても済むので、むしろ大歓迎です。
私には、樹意さんの言わんとする所がまだ理解できておりませんが、
今後、生物学的死後の「生天」は常見だから、仏教的では無いとのたまう輩が
現れましたら、樹意さんに対応をお願いいたします。
勉強不足の私の及びもつかない有意義な議論になると思います。
よろしく、お願いいたします。
120 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 20:25:36 ID:eR3KxfFr
>>107 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 11:21:55 ID:aOZzSYHU
> >単純にその原因は、次第説法であろうと考えただけです。
> 説法を聞いた「マガダの国の良家の子弟」が出家という選択を行なったまでの話でしょう。
私はね、前日まで卵を抱えていなかった小鳥さんが今日になって卵を抱えていたら
その小鳥さんが卵を生んだんだと信じます。
誰かが夜の間に卵を忍び込ませたとは考えませんし、
『小鳥さんの中での生化学反応を全て明らかにして、
何が卵に化けたのかを解明するまでは
小鳥さんが卵を生んだんだとは認めないぞ!』
というスタンスも取りません。
・出家する気などさらさらない良家の子弟がいた。
・釈迦が説法した。
・我も我もと、それらの子弟たちが出家した。
という事実が示されたら、それは、
『釈迦が良家の子弟に出家するよう誘った』と解釈します。
> 余談ですが、当時の出家沙門という社会現象に関してもご一考ください。
余談ですが、
『如来は真理をもって誘いたもう。 真理に来るものを妬むは誰であるか。』
の「真理をもって誘いたもう」と言っている内容が
具体的に何を意味しているのかに関してもご一考ください。
と言われたら、どんな気分ですか?
121 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 20:40:32 ID:Gkj5WQxA
>>116 ブッダ以来、佛教が問うてきたのは「誰が?」もしくは「何が?」ではなく、「何故に?」や「どのように?」であったと
あったと考えます。
122 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/05/28(土) 22:58:55 ID:GypHGEW8
無宗ださんのおっしゃる以下の論旨では >私が主張したかったのは、次のことです。 >次第説法における「生天の法」は、 >『その人の生物的死後、その人が人界(現世)ではなく、 >天界(天国?、極楽?、ユートピア?、「酒は旨いし、 >ネーチャンはきれい」な所w)に転生することを説いている』 これなら別段「仏教」でなくともインド古来のバラモン教を基礎とする 輪廻転生思想でも事足りると思うんですが。釈尊が次第説法という手法でこういう 思想を取り入れた可能性はあるでしょう。 ただ私は釈尊が善行を基礎とする「生天の法」を勧めるのは、それによって 「後生の世界で楽を享受する事」がメインなのではなく、「現世における心の安穏」 と「真正の法を受け入れる準備を整える」が主論だと考えます。
123 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 23:37:25 ID:eR3KxfFr
>>122 ベロさん、こんばんは
>(1)これなら別段「仏教」でなくともインド古来のバラモン教を基礎とする
輪廻転生思想でも事足りると思うんですが。
>(3)「後生の世界で楽を享受する事」がメインなのではなく、
>(2)「真正の法を受け入れる準備を整える」が主論だと考えます。
そうですね。
前スレ 654 より (
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1112182864/654 )
次第説法の意味付けに関しては、次のURLの内容に同意します。
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/kokoro/shinjin/fuse_04_1.html > 次第説法で説かれる内容を見れば、このことがよく了解されると思います。つまり、
> (1)出離(出家)の功徳までの内容は仏教に限らず、一般的に是認されていた内容だと考えられる、
> (2)これらの内容は、否定されているわけではないが、あくまで「本真の教え」を説く前段階である、
> (3)つまり、来世において安楽な世界に生まれるというのは、仏教本来の目的ではない、
> ということです。
次ページに
> ですから、「善因善果(楽果)・悪因悪果(苦果)の因果応報の法則に従った、
> 善行を積んで善い果報を得ることを目的とする布施」を基盤として、
> 「貪り・物惜しみの心を抑え、自分が仏に近づいていくことを目的とする布施」に
> レベルアップしていくというのが望ましいあり方だと思うのです
とあります。
生天の法を説くのは、
・すんなり受け入れてもらえるから
・業報思想の積極的肯定
・現世において、善行を積むための動機付け
にあったと私は考えます。
124 :
樹意 :2005/05/28(土) 23:45:31 ID:efHsVZBI
>>121 阿呆陀羅經さんの指摘を受けて思い出しました。
「大徳よ、誰がその意識という食物を食するのでありましょうか」
すると釈尊は仰せられた
「それは適当な問いではない。私は誰かが〈食する〉とはいわない。もしわたしがそういったならば
〈大徳よ、誰が食するか〉との問いは正しいであろう。だが、わたしはそうはいわない。だから
そうはいわないわたしには、ただ、〈大徳よ、どうして意識という食物があるか〉と問うべきである。
それが適当な問いというものである。そうすれば、適当な答えもありうる。
〈意識という食物は、未来の新しい存在: 新しい生の条件である。それがあるゆえに
六処があり、また六処があるゆえに触があるのだ〉と」
相応部経典 12 12 雑阿含経 15 10 パッグナ
縁生 縁起 五蘊無我を説くにあたり、誰がという言い方をすると常見 断見の間違いに誘導する
ものでありました。 確かに仏陀も適当ではないと 仰っています。
無我を説明するのに主体であるとか書きましたが、これはやはり 常見に誘導する可能性があります。
注釈をつけて事足りると思っていましたが やはりよくありません。 反省です。
まあ 3分経つと大概のことは忘れる脳みそですから ご勘弁の程を。
125 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/29(日) 06:45:53 ID:bqGxQY8u
ROM記念 生起する。というのは滅寂しているわけですから、過去もありませんし未来もありません。 過去と未来は「今生起している」わけです。 世界が生起(つまり我が生起)しているわけですから、 縁なくば世界は滅寂します。 つまり、己から離れた世界はありませんし、 ましてや来世という常住なものがありようがない。 今ここにある自分こそが全てです。 過去も未来も来世も、今ここにあるではないか!
126 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/29(日) 08:28:42 ID:6/W7J6Ho
>>124 樹意さん、いつも適宜教証をありがとうございます。「有業報而無作者」(雜阿含經卷第十三)などと
説かれるように、ブッダは「主体・本体」を説くことなく、「苦」の様態・様相や、その依って来る原因・
理由を徹底的に探究・追究しました。
127 :
栗花 馨 :2005/05/29(日) 09:10:09 ID:0FjEavHk
生天の法の「生天」は、 禅定により得られた境地で天界と同調 で、来世に、天界に生まれること
128 :
栗花 馨 :2005/05/29(日) 09:12:45 ID:0FjEavHk
桐山靖雄(堤ますお)氏のモト弟子 ↓ 124 名前:樹意 :2005/05/28(土) 23:45:31 ID:efHsVZBI 126 名前:阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/29(日) 08:28:42 ID:6/W7J6Ho
129 :
栗花 馨 :2005/05/29(日) 09:19:40 ID:0FjEavHk
カルトカルトと喚くのは 自分がおちこぼれてはぐれた宗教法人を誹謗中傷し 慢心を満たすことと脱落の言訳としている。 真理をもって誘うシャク尊も、やつの言い分ではカルトとなる。
130 :
栗花 馨 :2005/05/29(日) 09:25:16 ID:0FjEavHk
YOUですよ あえて呼称で固定表現しない ってか ばかかおまえら
131 :
栗花 馨 :2005/05/29(日) 09:28:04 ID:0FjEavHk
こいつには説明責任があります ↓ 阿呆陀羅經=電波男
132 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/29(日) 09:32:32 ID:6/W7J6Ho
NGワードあぼ〜んの行列が・・・。 癡膿あぼ〜んの栗が小屋から這い出して吠えてるのかな。
133 :
栗花 馨 :2005/05/29(日) 09:40:44 ID:ZZcbbrN5
こいつ桐山靖雄(堤ますお)氏のモト弟子 には説明責任があります ↓ 132 名前:阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/29(日) 09:32:32 ID:6/W7J6Ho NGワードあぼ〜んの行列が・・・。 癡膿あぼ〜んの栗が小屋から這い出して吠えてるのかな。
134 :
栗花 馨 :2005/05/29(日) 09:43:20 ID:ZZcbbrN5
アゴンで 脳障害の因縁中途挫折の因縁っていわれましたか? ↓ 132 名前:阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/29(日) 09:32:32 ID:6/W7J6Ho NGワードあぼ〜んの行列が・・・。 癡膿あぼ〜んの栗が小屋から這い出して吠えてるのかな。
「日本仏教の再生を求めて」という本について質問した者です。 ベロさん、お答えありがとうございました。 そうなんでです、まさしく自分が見たというTVというのは レディース4と言う番組なんです。 ベロさんよくこんなことまで知ってますねー。。。 難しい本にばかり目が言ってるのかと思いましたが いろいろ視野が広いんですね。 ベロさんはいつも あまり仏教に詳しくない素人のくだらない質問にも 答えてくださって有難うございます。 優しい方ですね。 (他の方が優しくないと言ってる訳ではないのですが あしからず)
137 :
サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2005/05/29(日) 13:36:42 ID:/IrB3y2B
>>136 せっかくですからスマトラ津波ボランティアの感想を聞いたらどうですか?
アホダラ経様
いつぞやは失礼いたしました
とても勉強になります
138 :
栗花 馨 :2005/05/29(日) 14:24:04 ID:ZZcbbrN5
雑誌ムーで魔法使い修行してたクソがき
すぐにげる
↓
136 :ハルカ ◆0tZOcyVq86 :2005/05/29(日) 10:03:59 ID:TH8jcG5P
>>132 > NGワードあぼ〜んの行列が・・・。
> 癡膿あぼ〜んの栗が小屋から這い出して吠えてるのかな。
だね。
私の環境でも
>>125 、
>>127-131 、
>>133-134 が『あぼ〜ん』だ…
139 :
栗花 馨 :2005/05/29(日) 14:26:31 ID:ZZcbbrN5
理解すらできないほど矛盾だらけのものをどう勉強するんだ? さいしょから馬鹿サンプル
140 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/29(日) 16:18:35 ID:IJBVtPWn
http://www.komazawa-u.ac.jp/gr/research/in-bukkyoken-home/hokoku/other/syukke2.txt 1998/12/17 舘盛氏の問いに対するコメント〜「出家」とは何か?を中心として〜 古山健一
パーリ仏教で、在家者が阿羅漢果を保持しつづけることが不可能であるとする理由は、
在家者の「固有の特徴(linga)」が阿羅漢のそれに合致しない(visama)からであるとする。
つまり、それぞれの立場の本質において矛盾を起こすからである。
「在家者」とは、世俗の結縛に縛されている者のことを言うはずであり、
「阿羅漢」とは、一切の結縛を断ち切った者のことを言うはずである。
髪の毛があるか否か、衣の色が白か黄か云々という形式上の問題が、
基準として先行することはないはずである。
「出家」とは、世俗の結縛という、多くの結縛の中の一類を断ずる行為であり、
一切の結縛を断ずるための1つの関門であると言える。
同時に、「在家者」が「阿羅漢」(あるいは生死を出離した者)に成り得るのであれば、
現実的に家族があり、財産があり、社会的立場があり、稼業があるままの人間が、
一切の結縛を断ち切り得るのかを問いたい。
勘違いしてはならない点は、在家阿羅漢が否定されるならば、在家仏教徒の実践は無意味であると
短絡的に断ずることである。
先の預流・一来・不還・阿羅漢という型で言えば、不還までは到達できるわけである。
不還と言うのは次生において「生死」を出離する者である。
141 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/29(日) 16:24:50 ID:SV3AvQAy
142 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/29(日) 16:55:14 ID:IJBVtPWn
原始仏典の天界往生
http://www.rose.sannet.ne.jp/yukakosansuian/com/comp5.html 一般に仏教の救いは、死後に天界に生まれることではなく、そのような再生を含んだ輪廻転生の止滅をこそ説くはずである。
それに対して欲望を断ち切った出家者の目指す所は、いかなる彼岸性も跡をとどめていない。
「人間のきずなを捨て、天界のきずなを超え、すべてのきずなを離れた人」18。
「前世の生涯を知り、また天国と地獄とを見、生存を滅しつくすに至った人」19。
死後の彼岸(天界)ではなく「現世において涅槃に入る」20ことのみが要請されるのである。
たとえば、在家者が、眼耳鼻舌身の五欲の楽しみのため生天を願うことは、次のように疑念もなく肯定されている。
「愛念可意を施せば、生天して所欲に随わん」40。
「善趣・天上に生じて、長夜、安楽を受けん」41。
つまり楽欲を捨て得ない在家者は、この世でもかの世でもその楽欲をあるがまま認められているのである。
「自らの所行において、一切諸の受覚を観察し、皆已に滅せり。もしまた婆羅門、自らの法もて彼岸に渡れば、
一切諸の因縁、皆悉く已に滅尽せり」59。
自らの所行において滅度を得ることのできない者は、覚者であるゴータマも、彼を救うことはできない。
この峻厳な事実を踏まえて、冒頭のダンミカ品を見るとき、決して妥協ではないゴータマの深い配慮が見えてくる。
在家信者ダンミカは出家者たちと在家信者を前にゴータマに問う。
「教えを聞いて、人は家から出家するのと、また在家の信徒であるのと、どちらを行うほうがよいのですか」60。
これに対しゴータマは出家の方がいい、とは答えない。
出家者に向かっては托鉢と説法と所持品についての訓戒が、
在家者には殺・盗・淫・妄・飲酒・装飾の禁止および食事時間と寝所についての戒め、
いわゆる八斎戒が語られるのみである。
在家と出家の優劣については何も触れられていない。
目の前にいる限界をもったその一人一人に、今、具体的にどう生きたらよいか、
という静慮に満ちた指示が為されているのである。
143 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/29(日) 17:59:16 ID:IJBVtPWn
次第説法に関しては、
ヤサと長者に同じ日に説法し、翌日、ヤサの母と妻に説いたと考えています。
ですから、せいぜい、半日(4時間程度?)で語り終われるくらいの分量だろうと。
具体的に、どんな経典が語られたのか、ネットでいろいろ探していますが、
なかなか、ピンと来るのが見つかりません。
>>140 >>142 は、その過程で見つけたもので、興味深かったので、抜粋引用いたしました。
>>140 > 同時に、「在家者」が「阿羅漢」(あるいは生死を出離した者)に成り得るのであれば、
> 現実的に家族があり、財産があり、社会的立場があり、稼業があるままの人間が、
> 一切の結縛を断ち切り得るのかを問いたい。
在家では解脱できないという主張は、説得力があります。
> しかしながら、浪花宣明氏も既に指摘している通り、では如何なる修行方法によって、在家者が仏教の掲げる最終目標へ
> 至れるのか?というと、その具体的な方法は原始仏典による限りでは全く不明であり、多分出家者と同じ方法であろうと類
> 推する以外には何も言えない。
在家の修行方法の記載があるかは、疑問だったので、これは収穫でした。
>>142 では、書きませんでしたが
> では、右のダンミカ品のような生天話は、何故、いつごろ、だれによって、だれに対して説かれたのであろうか。
> それは仏教の主調音とどう関係するのだろうか。
> 1期経典2では、その対告衆(説教の相手)はすべて出家者となっており、生天話はひとつも存在しない。
> 2期経典3にはじめて生天話が現れる(二百余経のうち二十二経)が、そのほぼすべてが在家者に向かって説かれている。
といった内容は私には、なかなか新鮮でした。
144 :
樹意 :2005/05/29(日) 18:19:37 ID:wK/KKW5T
>>129 栗君 なんでもいいが他人のネームを 男性や女性の秘部に変換するのは辞めたたまえ。
それぐらいの公序良俗の神経は持つべきだろう。
あ、恥という概念が無かったのか、それじゃあしょうがないね。
145 :
樹意 :2005/05/29(日) 18:28:49 ID:wK/KKW5T
>>126 > 説かれるように、ブッダは「主体・本体」を説くことなく、「苦」の様態・様相や、その依って来る原因・
> 理由を徹底的に探究・追究しました。
自分が比喩にしても常見を前提にした喩えをするはずが無いなどと 書いておきながら、
まったくおんなじ事をやっていたようです。 浅い理解です。
縁りて起こることを説明する 表現とはいえません。
いけません まったくいけません 骨董でいえば 猫またぎです。 あ〜 恥ずかしい。
主体という表現は 奇しくも中論で竜樹さんも批判の対象にされていましたね。
そうすると 竜樹さんの議論の相手である、説一切有部もそういう表現をつかったのかも
しれませんね。
146 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/29(日) 19:31:09 ID:IJBVtPWn
>>124 樹意さん、こんにちは。
> 「大徳よ、誰がその意識という食物を食するのでありましょうか」
> すると釈尊は仰せられた
> 「それは適当な問いではない。私は誰かが〈食する〉とはいわない。もしわたしがそういったならば
> 〈大徳よ、誰が食するか〉との問いは正しいであろう。だが、わたしはそうはいわない。だから
> そうはいわないわたしには、ただ、〈大徳よ、どうして意識という食物があるか〉と問うべきである。
> それが適当な問いというものである。そうすれば、適当な答えもありうる。
> 〈意識という食物は、未来の新しい存在: 新しい生の条件である。それがあるゆえに
> 六処があり、また六処があるゆえに触があるのだ〉と」
> 相応部経典 12 12 雑阿含経 15 10 パッグナ
十二支縁起ですと、「識 - 名色 - 六処 - 触」ですけど、
これだと、「意識 - 六処 - 触」なんですね。
種々の支縁起があることはなんとなく知ってはいましたが、面白いですね。
(
http://www.geocities.jp/bukkyoucouncelling/fl-rinbutu2/shoki-rin2/engisetu-shoki.htm )
しかし、釈尊は親切な人だったのですね。
> 「それは適当な問いではない。私は誰かが〈食する〉とはいわない。もしわたしがそういったならば
> 〈大徳よ、誰が食するか〉との問いは正しいであろう。だが、わたしはそうはいわない。」
ここで、回答を止めて、相手に正しい質問を発する機会を与えることが、
本当の親切だと信じ込んでいる人もいるようです。
何を親切と考えるかは人それぞれですが、
できれば、 釈尊のような人と付き合いたいものです。
迷える衆生にそれを求めるのは無理なことはわかっていますが…
147 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/29(日) 20:29:37 ID:SV3AvQAy
>>145 樹意さん
提出された教証に説かれる「四食」は、名色の内容説明の一説のようですね。
それと、方々で頻りに見かけて不審に思うのは、「生天」等が説かれていれば常見を
暗黙の前提としてしまう傾向です。加えて「輪廻=転生」という前提を無条件に設定し、
それを肯定否定して議論する相も変らぬ風潮も古臭くて付き合いきれません。こうし
た不毛の論争はもうそろそろ卒業すべきでしょう。
今更ですが、スレ立て乙です>阿呆陀羅經さん ということでしたので補完サイト / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | 更新しますた! \  ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧_∧ ( ´Д` ) < 更新しますた! ( ´Д` ) /⌒ ⌒ヽ \_______ /, / /_/| へ \ (ぃ9 | (ぃ9 ./ / \ \.∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / /、 / ./ ヽ ( ´Д` )< 更新しますた! / ∧_二つ ( / ∪ , / \_______ / / \ .\\ (ぃ9 | / \ \ .\\ / / ,、 ((( ))) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / /~\ \ > ) ) ./ ∧_二∃ ( ´Д` ) < 更新しますた! / / > ) / // ./  ̄ ̄ ヽ (ぃ9 ) \_______ / ノ / / / / / ._/ /~ ̄ ̄/ / / ∧つ / / . / ./. / / / )⌒ _ ノ / ./ / \ (゚д゚)シマスタ! / ./ ( ヽ、 ( ヽ ヽ | / ( ヽ、 / /⌒> ) ゚( )− ( _) \__つ \__つ).し \__つ (_) \_つ / >
149 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/29(日) 21:16:09 ID:bqGxQY8u
_、_ ( ,_ノ` ) 「ROM記念」は ζ [ ̄]'E  ̄ _、_ ( ,_ノ` ) [ ̄]'E ズズ 私がロムった証である  ̄ _、_ ・・・・・ ( ◎E _、_ ( ; Д`) .・;'∴ ブハッ!? [ ̄]'E _、_ ( д` ; ) [ ̄]'E ROM記念
150 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/29(日) 22:27:27 ID:SV3AvQAy
>>148 148 独り言 ◆ZZW30U26joさん毎度です。更新ありがとうございますです。
151 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/05/30(月) 00:07:37 ID:4hTYZ4aB
>>135 私は仏教オタなんで広く浅く仏教の知識は仕入れてます。それに私はお参り坊主と
言う職業柄、一般家庭の主婦のおばさんやおばあさんたちとお話する機会が多く、
その方々に専門的な話は通用しませんから、なるべく一般的な事象を交えて仏教の
宣伝をしているつもりです。その為に日頃から入門書や概説書等の情報を読んで、
何か盗めそうなものがあれば法話のネタにしていますね。高瀬さんの番組やNHK教育の
こころの時代、ラジオの宗教の時間等もそう言う意味でいろいろ参考にしています。
私は仏教の専門的な事はここでの皆さんに勉強させてもらっている立場ですね。
私の書庫には研究書よりもひろさちやさんや紀野一義さんなどの著書や、中村先生
などの仏教学者が書いたものでも一般向け入門書の方が断然多いですね。
152 :
樹意 :2005/05/30(月) 05:51:19 ID:8aQfE1rI
>>146 あ、どうも
> 十二支縁起ですと、「識 - 名色 - 六処 - 触」ですけど、
> これだと、「意識 - 六処 - 触」なんですね。
苦の縁起ですから一番短いやつだと、三支縁起だったと思います。 其の時々の説法の内容に
よって使い分けているようです。
この場合の趣旨は
「比丘たちよ、これらの四つの食物がある。それらが生きとしいける者を養い、その生を維持せしめる
のである。
その四つの生は何であろうか。−ー中略ーー食物ー接触ー意思ー意識ーー」
それで、パッグナという方が見当違いの質問をして 正しい問い方と 正しい答えを教えられたのであるが
それが縁起についての正しい考え方であると 注釈にありますから 私が阿呆陀羅經氏に指摘を受けた
事や竜樹さんが批判したことと いうのは仏陀の縁起について考える際には大事な事だという事です。
この場合は 私が縁起を説明していながら常見の表現を使ったわけですから、
バッグナという方と同じ考え方における間違いをしていたわけです。
つまり 〈誰が〉ではなく 〈どうして〉という 縁〈条件〜〉という考え方でないと いけないのです。
153 :
樹意 :2005/05/30(月) 06:28:49 ID:06wKHvNx
>>147 今のところ阿呆陀羅さんとは輪廻転生に関しては意見が違いますので なんとも言えませんが
現時点での理解は輪廻転生も五蘊無我に集約されるというのが私の意見です。
生天にしても五蘊の執着要素と仏陀が呼んでいるものをイメージした天界は
仏陀が説く天界ではありえないと 思います。
154 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/30(月) 07:18:13 ID:jxDWZJTD
ROM記念 12支縁起というのは、生老病死を縁起の法により説いたものです。 四苦は条件によって(大事なのは時系列ではない)生起しますから、 その条件さえなければ生起はしない。 では、その生起する因とは何だろう? ってところが肝要です。 過去も未来も来世も、つまりは縁生しているわけですね。 何故このことが生起するのか?と、いうたら迷いです。 ですから、 最終的には 【では、その生起する因とは何だろう?】 これ↑しかないですね。 論じても意味はない。ってことです。
155 :
暇人 :2005/05/30(月) 07:33:04 ID:iAZ3Y22S
>>75 >かならず最高処に至るであろう
この説法を語ったほうが「最高処」をどういう意味で使ったのかは
ともかく、聞き手は「天界」と聞くことは容易に予想できただろうし、
実際、仏教は「天界」と読み解いてきた歴史がある。
>>84 ■「出離」パーリnekkhamma
原語的には、五官的欲望の遠離。
つまり五欲を捨て去っていることからはじまり、
五欲に縛られて生きている現状からの離脱を暗黙裡に意味しているので
実質的には「出家」を意味する。
歴史的にもこういう理解に基づいて「出家」を意味する語として
機能している。
在家と出家の差異は、この「五欲」のコントロールの仕方にあるのでは
と私は考えます
156 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/30(月) 12:40:20 ID:8Zaj3szs
>>152 樹意さん、こんにちは。
> > 十二支縁起ですと、「識 - 名色 - 六処 - 触」ですけど、
> > これだと、「意識 - 六処 - 触」なんですね。
> 苦の縁起ですから一番短いやつだと、三支縁起だったと思います。
> 其の時々の説法の内容によって使い分けているようです。
私にとって、最初に十二支縁起で引っかかったのが、
◆名色
名 受、想、思、触、作意
色 地、水、火、風の四大およびそれらによってなるもの
と
◆有
・欲界における生存/ ・色界における生存/ ・無色界における生存
だったんです。
「六処 名色 識」は、同時発生で特に序列は無いという考え方もあるようですが、
何かを滅すれば、「名色」が滅するというのが、どうしても納得いかないのです。
たとえば薔薇の花が咲いているとします。これを目で見て、色や大きさなどの情報が
脳の中で再構築されて、その脳内のモデルに対して、脳がそれは薔薇だと認識するわけです。
この場合、次のように考えられ、
・識:薔薇の花がさいているという認識
・名色:薔薇の花がさいているという客観的事実
・六処:視覚(六処、触、受とあわせて視覚機能)
識と六処は、人間存在に従属するので滅することが可能であるが、
名色は客観的事実であるから滅しようがないので困っていました。
ですから、こういう経典は「名色は六処の説明のために補足的に導入されただけである」という
私のトンでも仮説にとって、とても心強い味方になってくれるのです。
157 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/30(月) 19:34:36 ID:jxDWZJTD
「臭いものは元から断たなきゃ駄目!」って、CMのフレーズがありますが、 どんどんと腐敗して悪臭が充満すると、ド〇ストだけでは駄目です。 一番いいのは、腐敗物を土に埋める。
159 :
樹意 :2005/05/31(火) 00:12:57 ID:/TCJpQHe
>>156 とんでもだろうと なんだろうと原始仏教に関心を寄せるのは凄いことだと個人的には思います。
以前 名色は阿呆陀羅經氏によると 認識判断の対象というふうに理解するのが適切であると
指摘してもらったことがあります。
自分の持つ 増谷氏の阿含経典によると
「比丘達よ、繋縛するものをじっと味わい観ていると、その人には名色(五蘊)が現われてくる。
その名色によって六処があるーーーー」
南伝相応部経典 12 58 名色
注釈「名色」 とは五蘊(色 受 想 行 識)の総称であって、なお心身というがごとくである。
いま それを分析していえば、名とは、ただ名をもって知られる精神的要素即ち受 想 行 識
をいい、色とは、色蘊即ち物質的要素をいう。
この経では、名色 六処 触 受 愛 取 有 生 老死 の九支縁起をもって語られる。
とあります、ただしこの経典は古いものである為、近年の増谷氏の研究は別のようですが
中村博士の著作の中にも 名色を五蘊 身心と括弧書きしている部分があります。
現実世界に展開する事を名称と形態による展開という考えもあるようです。
160 :
樹意 :2005/05/31(火) 00:18:07 ID:/TCJpQHe
>>156 > ですから、こういう経典は「名色は六処の説明のために補足的に導入されただけである」という
> 私のトンでも仮説にとって、とても心強い味方になってくれるのです。
補足的という考えは どんなものでしょう、
苦の縁起ですし、〈心身 五蘊 認識判断の対象 名称と形態による展開〉 いずれの考えをとるにせよ
重要な項目を示すと思います。
162 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/31(火) 06:42:15 ID:Itz8F8/d
>>160 樹意さん、おはようございます。
> 補足的という考えは どんなものでしょう、
前にちらっと触れましたが、ブレードランナーのような、
非常に人間に近いアンドロイドが登場すれば、多分彼らも
人間と同様なメカニズムで苦を感じることになるだろうと。
まだ良く練れていませんが、以下のように考えると、
名色は、アンドロイドの構成には直接関係はないが、
認識対象であるので六処の機能説明のために
補足的に導入されたということです。
■基礎システム
◆無明:CPU
◆行:マザーボード、クロック、電源
◆識:メモリー、OS
■外部装置(『◆名色:認識対象』を認識するための装置)
◆六処:センサー
◆触:インターフェイス
◆受:デバイスドライバー
■応用プログラム(信号評価、行動選択)
◆愛
◆取
◆有
■梱包された状態だったアンドロイドが実際に活動を開始すること
◆生
■経年変化、致命的な故障
◆老死
163 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/31(火) 09:00:26 ID:T5Zj0G5e
>>147 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/29(日) 20:29:37 ID:SV3AvQAy
> それと、方々で頻りに見かけて不審に思うのは、「生天」等が説かれていれば常見を
> 暗黙の前提としてしまう傾向です。加えて「輪廻=転生」という前提を無条件に設定し、
> それを肯定否定して議論する相も変らぬ風潮も古臭くて付き合いきれません。こうし
> た不毛の論争はもうそろそろ卒業すべきでしょう。
「不毛の論争」に付き合うのは『苦』です。
その原因は何でしょうか?
滅することができるのか?
滅する道はあるのか?
たとえば、今テンプレートは1コマ(
>>1 )しかありませんが、
まじめにテンプレートを作成されてはいかがでしょうか?
・原始仏教とはなにか?
ex.
http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/1.html ・原始仏教を論じるための最低レベルの知識
・来世の解釈や、輪廻思想からの離脱といった、本スレの成果
・リンク集
・参考図書
見たいな感じで
10コマ以内に収まる程度を目途に
164 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/31(火) 09:03:28 ID:XyeZMQYD
>(『◆名色:認識対象』を認識するための装置) 論理的矛盾性がある。 認識というのは、対象化しないと認識できない。 というシステム構造になっているが、 それはあくまでも構造上においての論理である。 ハードでは、やはり限界がある。
考えてみれば
>>158 や
>>161 のリンク先の立場だと、
仏教とは正反対のものが仏教となってしまうわけだ。
酷い話だな。
縁起と空は同じものだが、縁起として空を理解している間は絶対に無我にならない。 松本氏がアートマンとして否定しているものこそ無我であり空なのに。。
167 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/31(火) 09:41:01 ID:XyeZMQYD
168 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/31(火) 12:43:40 ID:T5Zj0G5e
阿呆陀羅經氏の議論に対する態度というのは私には非常に不可思議に移る。
------------
>>59 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/27(金) 12:43:11 ID:OYaf9we0
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1112182864/701 > 701 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/22(日) 14:57:00 ID:pAIUoEf+
> 補遺
> 以前に「出離」のことが少し出ましたが、この語は別段出家を意味しません。
根拠も示さず、「出離は別段出家を意味しません」と主張されても困ります。
自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されるようお願い申し上げます。
------------
>>64 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/27(金) 12:58:26 ID:Xlw2XRf9
「出離」は輪廻的生存からの脱却を意味します。別段出家が前提ではありません。
------------
・根拠を示さず、主張のみを行う。
>>65 の引用が、『「出離」は輪廻的生存からの脱却を意味すること』の例だとしても
それは、直接「出離は別段出家を意味しません」の根拠にはなりえない。
------------
>>84 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 08:05:59 ID:eR3KxfFr
別段出家が前提ではなくとも、「出家の功徳」について語ることは何の問題も無い。
たとえ、本人が出家しなかったとしても、出家への理解は、僧への帰依に関して、
プラスに働きこそすれ、マイナスに働くことはないからである。
------------
>>85 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 08:13:48 ID:aOZzSYHU
出離の意味は上に書いたようにそれだけでは出家を意味しません。
------------
・論拠は示さず、同じ主張を繰り返すのみ。
169 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/31(火) 12:44:40 ID:T5Zj0G5e
>>88 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 08:43:16 ID:eR3KxfFr
> それだけでは出家を意味しません。
阿呆陀羅經さんは、『「出離」は輪廻的生存からの脱却を意味します。』といっていますが、
これよりも以上に他の出離は存在しないという説明は行っていないと思います。
------------
>>89 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 08:56:51 ID:aOZzSYHU
お手許の岩波本『スッタニパータ』にも出離の語は散見されると思います。それらの意味を前後
の文脈を勘案検証しながら吟味してください。
出家は出離へ向かうための選択肢の一つではあるでしょう。
------------
>>91 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 09:20:40 ID:eR3KxfFr
私は、辞書によれば、『しゅつり 【出離】』には、
「仏門に入ること=出家」という意味のあることを既に述べました。
『スッタニパータ』において出離が、「出家」という意味で一度も使用されていないとしても、
それは、『しゅつり 【出離】』に「出家」という意味が無いという証明にはなりません。
------------
>>92 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:26:51 ID:aOZzSYHU
なんで「仏門に入ること=出家」になるのですか?三宝帰依の在家でも佛門に入っていますよ。
辞書記述の拡大解釈に過ぎないでしょう。
>>93 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:28:22 ID:aOZzSYHU
最低佛教辞典くらい使ってその語義を調べてください。
>>94 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:40:08 ID:aOZzSYHU
無宗ださん、
ここが「原始佛教スレッド」であることをお忘れなく。
------------
・このあたりのレスは、議論放棄の言い掛かりとしか私には思えない。
■結論として、阿呆陀羅經氏は、
>「出離」のことが少し出ましたが、この語は別段出家を意味しません。
という命題の論拠を一度も示していない
170 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/31(火) 12:58:08 ID:T5Zj0G5e
自由参加の公開の掲示板である以上、
同じテーマが繰り返し、提案されることは避け得ないと思われる。
そのテーマに関し、不毛な議論を繰り返さないためには、
・前回の議論における到達点の明確化
・到達点に到るまでの議論の流れの明確化
という、2つの作業を地道に行い、
同一テーマが浮上した場合に、直ちに参照可能な状態を
作る以外に、手は無いように私は思う.
その手間を惜しむのであれば、
不毛な議論の繰り返しは、
必然であり、不可避といえるだろう。
------------
結局、「出離の功徳」において、具体的に何が語られたのか?
>>110 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 16:24:46 ID:eR3KxfFr
> 当時のインドの大衆、つまり次第説法の対象となるような人たちは、
> 『輪廻的生存から離脱することによって得られる果報』に
> どんな価値を認めたのでしょうか?
の問いは、阿呆陀羅經さんをあきれさせてしまったようだが、
私としてはおかしな質問をしたとの自覚は全く無い。
どなたか、質問の回答、もしくは、この質問のおかしな点の指摘を
よろしく、おねがいいたします。
要するに、 自分が理解できないこと、もしくは認めたくないことは 相手が説明責任を果たしていない。 相手が自分の主張を認めなければ勉強不足。 どっちにしても自分は正しい、ということになってるね。 同じ理論を自分に向ければ、実際には 相手のことが理解できない場合、自分が勉強不足。 相手が理解してくれない場合、自分が説明責任を果たしていない。 ということになるわな。 ま、一言で言えば自覚が足りない。
172 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/31(火) 14:17:30 ID:XyeZMQYD
もともとが、こういったテーマというのは議論は不毛です。 しかしながら、こういう不毛においてもなにかしか気づいてくれればいいわけです。 十二支縁起にしても、最後が「死」で終了している訳ですから、縁起は「死」で終了です。 つまり仏教は、四苦で始まり四苦で終了です。 他には全くなにもない。 四苦など全く眼中にもない人は沢山います。 そういう人は仏教は無縁ですし、 かえってその方がいいのかもしれません。 仏教とは、つまりは不毛であることを気づくことに意味があります。 簡単なようですが、これがなかなか凡人には至難です。
173 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/31(火) 16:11:44 ID:s9JtFPnv
>>171 「唐人の寝言」の相手をするほど暇を持て余していないのでね。立論
不能の上に調査・学習も碌に出来ない者の守までする義務も無い。
当方は啓蒙屋でも宣教師でも保育師でもありませんのでね。
174 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/31(火) 16:14:41 ID:s9JtFPnv
175 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/31(火) 16:53:53 ID:s9JtFPnv
>>159 樹意さん
パーリ長部經典所収の『大譬喩經』では、無明と行とを除く十支縁起が説かれ、識と
名色との、いわば「相依性」を到達点としています。つまり認識判断作用とその対象の
相関関係を起点とした縁起説です。興味深いことに流転縁起が十支で還滅縁起が十
二支のものも存在します(雜阿含經卷第十二等、梵本『城喩經』類)。
「名色(namarupa名称と形態)」は『スッタニパータ』の古層にも度々使用される重要語です。
176 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/31(火) 17:08:31 ID:s9JtFPnv
>樹意さん 識と名色との相依関係を二つの蘆束が相依って立つという譬喩を用いて説明した 經(十支縁起を説くもの)もあったと思います。この二支の関係を敷衍すれば興味 深い思想に行き着くと考えますが、スレ違いですね。
177 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/31(火) 20:59:10 ID:XyeZMQYD
認識判断作用と、対象という二項ではない。 「縁起しかない」わけで、縁起ゆえ、認識主体と対象という二項が分別できる。 つまり、認識主体と対象は不二。
縁起の文脈の中にいる限り、それがどうしても不二にならない。 だからみんな間違えてしまう。
180 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/31(火) 22:22:38 ID:Itz8F8/d
>>173 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/31(火) 16:11:44 ID:s9JtFPnv
> 「唐人の寝言」の相手をするほど暇を持て余していないのでね。立論
> 不能の上に調査・学習も碌に出来ない者の守までする義務も無い。
ふーむ。やり取りの具体的な内容には触れずに、人格批判に終始しますか。
やれやれ。
>>155 :暇人:2005/05/30(月) 07:33:04 ID:iAZ3Y22S
> ■「出離」パーリnekkhamma
>
> 原語的には、五官的欲望の遠離。
> つまり五欲を捨て去っていることからはじまり、
> 五欲に縛られて生きている現状からの離脱を暗黙裡に意味しているので
> 実質的には「出家」を意味する。
> 歴史的にもこういう理解に基づいて「出家」を意味する語として
> 機能している。
> 在家と出家の差異は、この「五欲」のコントロールの仕方にあるのでは
> と私は考えます
へのレスは期待していたんだけど、
まともな反論は、無理そうですね。
残念。
181 :
樹意 :2005/06/01(水) 01:10:02 ID:c0utCTM4
>>175 確かに五蘊だと識がダブったりしますので ? と思ってはいました。
ただ今後とも引用は引用ですので そのまま引用させてもらい、注釈として認識判断の
対象と書くことになるかと思いますので あらかじめご了承ください。
前スレで尺取虫の十支縁起を書かせてもらいました。 前回は輪廻の議論であったのと
私が主体という表現を使いましたので、誤解があったようですが それは横に置いといて、
現在の理解を書かせてもらうと 前スレで引用したように 凡夫の場合は縁起によらない
人間の意志的な考え方 〈行〉 つまり 縁起の法によらない考え方 生滅の観察によらない
考え方 諸法の実相によらないものを 実相と思い込む 〈断見 常見〉
を超えることができないため、識までという事になります。
〈この識はここより退く。名色を超えて進むことはない。人はその限りにおいて、
老いてはまた生まれ、衰えては死し、死してはまた再生するのである。−−−」
相応部経典 12、65 城邑 雑阿含経 12 5
182 :
樹意 :2005/06/01(水) 01:33:06 ID:dkOzmGeJ
原始仏教スレッドに書いたことでもあるが、 凡夫の場合は10支縁起まで、 別名尺取虫の十支縁起といいます。 それから先へはいけません。 凡夫の場合は縁起によらない 人間の意志的な考え方 〈行〉 つまり 縁起の法によらない考え方 生滅の観察によらない 考え方 諸法の実相によらないものを 実相と思い込む 〈断見 常見〉 を超えることができないため、識までという事になります。 〈この識はここより退く。名色を超えて進むことはない。人はその限りにおいて、 老いてはまた生まれ、衰えては死し、死してはまた再生するのである。−−−」 相応部経典 12、65 城邑 雑阿含経 12 5 下の方の執着煩悩から 解脱することになります。 というか縁起ですので 12縁起の何れかを消滅させれば 必然的に無明もありません。
183 :
樹意 :2005/06/01(水) 01:38:56 ID:dkOzmGeJ
>>182 すみません 他のスレッドに書くつもりが このスレッドに書いてしまいました 。
お詫びです。
184 :
樹意 :2005/06/01(水) 02:27:57 ID:+K6cGhMZ
>>181 > 〈この識はここより退く。名色を超えて進むことはない。人はその限りにおいて、
> 老いてはまた生まれ、衰えては死し、死してはまた再生するのである。−−−」
> 相応部経典 12、65 城邑 雑阿含経 12 5
> 〈意識という食物は、未来の新しい存在: 新しい生の条件である。それがあるゆえに
> 六処があり、また六処があるゆえに触があるのだ〉と」
> 相応部経典 12 12 雑阿含経 15 10 パッグナ
死してはまた再生するとあります この〈識〉を次なる〈名色〉〈心身〉〈認識判断の対象〉の縁と
し、所謂〈霊〉と 仮に捉えたとしても、此れも五蘊の範疇になりますから〈無我〉という事になります。
つまり 無記としたことになんら矛盾は無いことになります。 無我なるものは 無我。
一般宗教のように 先祖の誰がという表現は仏陀の中道から言ってこれはありえません。
つまり 過去世 未来世 現世 すべては五蘊無我に集約されるというのが 今現在の
理解になります。
185 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 06:44:05 ID:o6SVLdd1
>>184 樹意さん、
> 死してはまた再生するとあります
とはいえ、生理的身心が前提されているわけではありません。後世に名色を胎生学的に
解釈した見解も生じますが、これは発達したアビダルマによる解釈です。
186 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 06:54:32 ID:o6SVLdd1
> ■「出離」パーリnekkhamma > 原語的には、五官的欲望の遠離。 ほぼ同意。「離貪」とか「離欲」ともいわれるし、次第説法でも欲貪の禍患が説かれます。 > つまり五欲を捨て去っていることからはじまり、 欲望の対象とそれに基づく欲求からの離脱を意志することでは。 > 五欲に縛られて生きている現状からの離脱を暗黙裡に意味しているので その離脱の手段として出家もあり得るということ。 > 実質的には「出家」を意味する。 論理の飛躍では。 > 歴史的にもこういう理解に基づいて「出家」を意味する語として > 機能している。 佛教興起時代の意味を問う方に興味を惹かれる。 > 在家と出家の差異は、この「五欲」のコントロールの仕方にあるのでは > と私は考えます 八正道の正思にも「出離の思惟」がありますな。
187 :
暇人 :2005/06/01(水) 07:18:29 ID:nlTxjAG/
>>186 八正道と整理された形は 果たして釈尊に遡れるのかと疑問だが、
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/hatishoudou-shounen.htm によると
「友よ、正思惟とは何であろうか。出離の思惟、無恚の思惟、無害の思惟、
これが、友よ、正思惟と言われる。
友よ、正語とは何であろうか。妄語からの離、二枚舌からの離、
悪口からの離、綺語からの離、これが、友よ、正語と言われる。
友よ、正業とは何であろうか。殺生からの離、不与取からの離、
欲邪行からの離、これが、友よ、正業と言われる。
友よ、正命とは何であろうか。友よ、ここにおいて聖なる声聞は、
邪命を捨てて、正命によって、生活を営なんでいる。これが、友よ、
正命と言われる。」(1)
と、続くそうです。
「出離の思惟」はどういう文脈上で説かれているかというと、
「正命」に至って「聖なる声聞」が説かれていることからも
「出家」でることは容易に推察できると私は考えます
188 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 07:53:05 ID:o6SVLdd1
>>187 >「出家」で(あ)ることは容易に推察できると私は考えます
出家比丘に対しての説法であるから当然でしょう。
189 :
暇人 :2005/06/01(水) 08:00:32 ID:0ucV85ET
そだね。 在家に在家のままで「出離の思惟」をせよと 奨励している初期経典を、 私は、しらない。
190 :
暇人 :2005/06/01(水) 08:04:47 ID:0ucV85ET
釈尊じたいがどう考えてたか「なぞ」だし、 釈尊は「出家在家」を分けなかったという 推定あるいは主張する立場があってもいいが、 実証的に知りうる限りの「初期経典」の範囲に限定すれば、 「出家重視」主義といわざるえないと私は考えます
191 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 08:15:06 ID:o6SVLdd1
>>189 佛・法・僧に対する不壊の浄信、聖なる戒、聖なる智、聖なる解脱の六法を成就した者は、
タターガタに対して究竟し、不死を見、不死を現に証して行動する。
『アングッタラニカーヤ』第三巻
比丘たちよ、わたくしは在家者であっても出家者であっても、正しい実践を称賛する。比丘
たちよ、在家者であっても出家者であっても正しく実践するものは、正しい実践の理由によ
って、正理の善法を成就する。『アングッタラニカーヤ』第一巻&『サンユッタニカーヤ』第三巻、
『マッジマニカーヤ』第二巻
192 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 09:28:44 ID:wxdWyQyu
>>189 > 在家に在家のままで「出離の思惟」をせよと
誰も上記のような主張を行なっていませんが。
>>190 >「出家重視」主義といわざるえないと私は考えます
三藏を編纂したのは他ならぬ比丘僧伽ですから当然でしょう。
193 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 09:46:32 ID:wxdWyQyu
実におん身ゴータマよ、おん身ゴータマよ、おん身ゴータマは、この法を成就し、比丘たちも成就し、 比丘尼たちも成就し、優婆塞にして在家・白衣の梵行者たちも成就し、優婆塞にして在家・白衣の 受欲者たちも成就し、優婆夷にして在家・白衣の梵行者たちも成就し、優婆夷にして在家・白衣の 受欲者たちも成就しているから、その故にかくの如くこの梵行は完全なのである。おん身ゴータマ よ、譬えば、ガンジス河は、大海に向かい、大海に赴き、大海に傾き、大海に触れてあるように、こ のおん身ゴータマの在家と出家を含む集まりは、涅槃に向かい、涅槃に赴き、涅槃に傾き、涅槃に 触れてあるのである。 『マッジマニカーヤ』第一巻 もしかれがこのように「わたくしの心は梵界より離れ、心は有身の滅尽に確立してある」と言うならば、 マハーナーマよ、このように解脱した心を持つ優婆塞と、百年の間解脱した心を持っている比丘とに 差異が何もない。すなわち解脱したもの(について)解脱による(差異が何もない)とわたくしは説くので ある。 『サンユッタニカーヤ』第五巻
195 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/01(水) 12:50:58 ID:tFEeN4iD
>>193 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 09:46:32 ID:wxdWyQyu
> もしかれがこのように「わたくしの心は梵界より離れ、心は有身の滅尽に確立してある」と言うならば、
> マハーナーマよ、このように解脱した心を持つ優婆塞と、百年の間解脱した心を持っている比丘とに
> 差異が何もない。すなわち解脱したもの(について)解脱による(差異が何もない)とわたくしは説くので
> ある。 『サンユッタニカーヤ』第五巻
さて、このマハーナーマさんというのは、どういう人なのでしょうか?
初転法輪の時のひとりなのか、突然死を恐れていた在家信者なのか、
サッカー族の滅亡の因を作った張本人なのか、私にはわかりませんが、
経典の引用された部分の主題は「解脱には差異が何もないこと」であって、
「優婆塞の解脱」がメインテーマではありません。
むしろ、単に
「解脱した心を持っている比丘」と「解脱した心を持つ優婆塞」との比較ではなく、
「百年の間解脱した心を持っている比丘」という極端な例との比較であるということは、
「優婆塞の解脱」は、それに対する対極として示されたと考えることができ、
解脱においては
「優婆塞の解脱」は非常に稀であり、
「比丘(出家者)の解脱」が一般的であることの傍証であるともいえるでしょう。
■閑話:凡夫の妄想
もしも、このマハーナーマさんが初転法輪の時のひとりなのだとすれば、
「早くに解脱したからといってなんも偉いことあらへん。
そんなことで、先輩風ふかすんじゃない。」
と釈迦に説教されている図を思い浮かべ、思わず微笑んでしまいますが、
解脱は、人格的な成熟も意味していると思いたいので、そんなことはないんだろうな(笑)
あるとき釈迦族の在家の弟子マハーナーマ(アヌルッダの弟と言われる)が釈尊に尋ねた。 「わて、これまで釈尊のお話を親しく聞き、貪瞋痴が心の汚れであると理解して参りましてん。 自分でもしっかり理解しているはずやと思います。そうやのに、ときどき貪瞋痴に心が負けてしまいますねん。 なんででっしゃろなあ・・」 「あんさんは一来果を得とるけれども、そやかて貪瞋痴がすべて断たれているわけやあらへんで。 だから貪瞋痴に心が負けてしまうねん。もし貪瞋痴すべて断てとったら、あんさんみたいに家にとどまって いろんなイイ思いしてるはずないやろ。出家しとらなおかしいやろ。 わしも出家する前、王宮にいてた頃は、欲望は苦しみの元となる危ういもんやと理解しながら、それを断つことは できへんかったんや。あんさんみたいに家にいながら貪瞋痴をすっかり断とうなんて、こら無理はな話しやでえ」
197 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 15:03:18 ID:wxdWyQyu
>>196 出典は何処?パーリ五部のどのあたりとか、漢訳四阿含のどことか・・・。
Pali MN14
199 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 19:23:47 ID:eSAo3bRj
「ゴータマさん、バラモンたちはこのようにいいます。『在家者は真理・善法に熟達しているが出家者は 真理・善法には熟達していない』と。これについてゴータマさんはどう思いますか。」 「青年よ、これについてわたしは個別的に考えるべきであって〔一方的に〕決めつけるべきでないと思っ ています。青年よ、わたしは在家者であっても出家者であってもよこしまな行ないを称賛しません。青 年よ、在家者であっても出家者であってもよこしまな行ないをするならば、よこしまな行ないのゆえに、 その人は真理・善法に熟達していないのです。青年よ、わたしは、在家者であっても出家者であっても 正しい行ないを称賛します。青年よ、在家者であっても出家者であっても正しい行ないをするならば、 正しい行ないのゆえに、その人は真理・善法に熟達しているのです。」 「青年よ、たとえば大きな意義があり(意義は小さく)、多くの義務があり(義務も少なく)、多く(少し)のこと を取り扱い、多くの労力を必要とする(少しの労力で足りる)在家(出家)の仕事であっても、それを正しく 行なう(行なわない)ならばその果報は大きい(少ない)のです。」 『マッジマニカーヤ』・99
200 :
樹意 :2005/06/01(水) 19:56:36 ID:xrsxZgr7
>>185 五蘊は聚末 水泡 陽炎 芭蕉 魔術の如きと喩えられ、そこには本質はなにも無いと
説かれています。〈無我〉
〈それは見かけだけであり、実体はなく また本質もない事をしるのである。比丘たちよ
どうして 色に本質があろうぞ〉〈過去現在未来 内外 精粗 勝劣 遠近の別を問わず〉
相応部経典22 95 雑阿含経 10 10 泡沫
泡沫のごとくであり本質も無いと説かれるものに対して 生理的であるとか 胎生的であるとか
の種別の議論に今は 意味があるとは思っていませんが 阿呆陀羅經氏が それに
こだわるのはおそらく、五蘊無我に対する認識の無い方に対する、誤解が生じないよう
配慮されての事であると 思っています。
また、死後がどうであるとか 世界はどうであるとか そういう事を思惟するより
四聖諦を思惟しなさいと 説く教典や シンパサーの葉の喩えのごとく、承知はして
いるが 解脱に関係ないのは説かないとする経典もあります。
201 :
樹意 :2005/06/01(水) 20:06:37 ID:xrsxZgr7
出家は大空のごとくであり 在家は塵芥のごとくであると 述べている経典もあります。 ただし、出家の場合は生活としては 下端であると説くものもあります。 〈比丘たちよ これは 世のもろもろの生き方の中の下端である。 すなわち これは 乞食であるーーー〉 苦を解脱する事の方が 大事という事ですね。 出家の方が解脱しやすいというのは ありますが 在家であっても 八賢聖の一翼を 担うのであり、 預流には至るのですから。出家主義ともいえません。
202 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/01(水) 20:29:47 ID:tFEeN4iD
>>201 仏教の掲げる最終目標は、四向四果という型の中で言えば、
阿羅漢果に到達した者になることです。
そうであるならば、
>出家主義ともいえません。
を主張するためには、
「在家であっても阿羅漢果に至る」必要があります。
>預流には至るのですから。出家主義ともいえません。
では、説得力がありません。
age
204 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 21:31:12 ID:eSAo3bRj
「『もろもろの欲望は快味がすくなく、苦しみが多く、ここには苦患がより多い』とこのように、
マハーナーマよ。たとえ聖なる声聞弟子が如実に正しい智慧をもってよく見ても、彼がもろ
もろの欲望以外の、不善のものども以外の喜びと安らぎを、あるいは、それよりももっと静
寂な別のものを証得しないかぎり、たしかにかれはもろもろの欲望のなかでのたうち廻るま
までいる。」 『マッジマニカーヤ』・14
>>201 樹意さん
ちなみに当方は出家主義・在家主義のいずれにも与しません。
205 :
暇人 :2005/06/01(水) 22:13:45 ID:lXoIGy41
>>191 引用御苦労様だが、
それらの「引用経典」は、
<在家に在家のままで「出離の思惟」をせよ>と言っている訳ではない。
違う経典の異なった文脈で説かれた経文同士を切り貼りして、
自分好みの「ご主張」されたいのは了解したが、いかがなものであろうか。
>>192 <在家に在家のままで「出離の思惟」をせよ>との主張はしてないとのこと
了解した。
初期経典における「出離の思惟」は「出家」を前提とした比丘衆向け教説との
認識に従うとでよろしいね。
そですね。比丘衆が三蔵を編集管理、継承しましたね。
>> 186で「八正道の正思」に注目されて、
初期経典に説かれている現実的身体的意味の「出離」ではなく、
「出離の思惟」を 観念的な「出離の思惟」と読み込めば、在家にも可能と読み込まれた
ようでしたが、比丘衆はもっと現実的な思考をされていたようですね。
206 :
暇人 :2005/06/01(水) 22:15:20 ID:lXoIGy41
>>193 『マッジマニカーヤ』第一巻
うむぅ。これは興味深い。中部経典のほとんどが、出家主義なのに、
これはこの部分だけだと、特異ですね。
@中部第何経典ですか? 他現代語訳。漢訳などと比較したいと思います。
Aお使いの訳は片山さんでしょうか? ビルマ第六結集本が底本でPTSとの偏差は
どの程度なのでしょうか?
B漢訳で「受欲人」というと、会議欠席比丘の代理で会議出席する比丘を指したり、
するようですが、「受欲者」のパーリ原語は何でしょうか? 一般語として「受欲者」と
いう概念はなく訳者の造語でしょうが 意味不明です。
C在家梵行者は、当時の慣習からすると一時的な「禁欲的修行」のことでしょうし、
現代南伝でもタイかどこかは、休暇を取り一時的に修行に入ったりしますね。
D「受欲者」は、この「梵行者」と対に なっていますので
「受戒者」ではなく欲望を断ずる修行する在家梵行者と対をなすところから推定して
欲望のままに生きる在家者という意味でしょうか?
Eとすると「梵行は完全」の「梵行」の意味と矛盾します。
>『サンユッタニカーヤ』第五巻
「有身の滅尽」は、「我がもの」という執着する心を滅し尽くしているわけですから、
悟りとイコールですね。
伝説では釈迦族の最期の王もマハーナーマですが、彼は釈迦国滅亡時に、民衆を一人でも
多く侵略者の手から逃がすために、自分の命すら捧げたそうですね。
しかしながら在家信者の誰某が、と具体名を挙げて、「有身滅尽」したと説かれている
わけではないのでここは一種の比喩でしょうね。
207 :
樹意 :2005/06/02(木) 00:29:06 ID:FSudkwN2
出離に関してですが 出離というのは 五取蘊からの出離というのが本来の趣旨であり、 これに関しては在家であるとか出家であるとかの種別は関係ありません。 「ラーダよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子達は、この五取蘊なるものの生起と、滅尽と、 その味わいと、その禍いと、そこから出離することとを、はっきり知っているが故に、ラーダよ、 この聖なる弟子達を名づけて、彼らは、すでに流れに入れるもの、すでに破滅に堕すことなき もの、或いは、すでに 悟りに至るに決まっているものというのである。」 相応部経典 23 7 預流
208 :
樹意 :2005/06/02(木) 00:38:26 ID:FSudkwN2
>>202 > 「在家であっても阿羅漢果に至る」必要があります。
在家で阿羅漢は殆ど無理と考えますが 預流になれば、涅槃はほぼターゲットに
至るのですから〈涅槃界〉 それで十分と考えます。
凡夫の場合は分断生死ですが 預流になれば 変易生死になると
思いました。 先に説明した〈生天〉〈中道縁起の生天であり 五蘊の執着要素では
ない 生天〉です。
209 :
暇人 :2005/06/02(木) 01:26:58 ID:9AHEAd9B
>五取蘊からの出離というのが本来の趣旨 なんで「相応部経典23」が本来と言いうるの? 四向四果で言えば、 「預流」が古く、 発達して「預流」は初果に置かれているが、 元々は阿羅漢果と同じという意味で使用されていたので、 ここの「預流」は古いかもだが。。。 本来的に「五取蘊出離」が「出離」というのどうかな。 疑問がある。 まあそれをさし措いても、 ラーダは比丘衆の中でも長老であり、「聖なる弟子達」に 「在家」が含まれていると言いえません。
210 :
暇人 :2005/06/02(木) 01:27:29 ID:9AHEAd9B
仮に「豫流」をもって後世の解釈で「不還」まで在家も可能という ところからの見解でしたら、 相応部の流れでは23 4 で阿羅漢が以下のように説かれており ここの「豫流」は後代成立と思われます。 「ラーダよ、では、あまねく知るとは、どういうことであろうか。 ラーダよ、貪欲を滅しつくすことと、瞋恚を滅しつくすことと、 愚痴を滅しつくすことである。 ラーダよ、そういうことを、あまねく知るというのである。 では、あまねく知れる人とは、どういう人であろうか。それは、 阿羅漢を指していう言葉である。その名をこれこれといい、そ の姓をこれこれという長老がそれなのである。ラーダよ、その ような人を呼んで、あまねく知れる人とはいうのである」 この阿羅漢とイコールの豫流なら古い成立かもだが、 その場合、比丘をさし、 スコールではないなら新層なので 「五取蘊出離」も新しい成立
211 :
樹意 :2005/06/02(木) 05:30:42 ID:SIhU79Yl
>>209 >>210 「ラーダよ、比丘たちは、この五取蘊なるものの生起と、滅尽と、その味わいと、その禍いとを
知り、さらに、そこから出離することをはっきり知って、もはや取著するところなくして解脱する
がゆえに、ラーダよ、この比丘を名づけて、阿羅漢なり。ーーーー」
相応部経典 23 8 阿羅漢
阿羅漢は阿羅漢でちゃんと説かれております。
というか、阿羅漢は五取蘊から出離することを知るだけではなく よくそれから解脱した者と
されています。
五取蘊を理解し知る段階とそれが終わったのとは区別されるようです。
出離は 出家とか在家とかの区分けではなく その五取蘊の禍いの構造を理解し
判然と知るものという意味だと思われます。〈その他の実践項目は当然ありますが〉
212 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/02(木) 06:12:08 ID:HkuccfnN
>>205 失礼、アンカーを付け間違えた。
>自分好みの「ご主張」されたいのは了解したが
邪推はご自由に(笑)。
そのとき手許にあった書籍で見つけた記述の単なる紹介。
>「出離の思惟」は「出家」を前提とした比丘衆向け教説
出家比丘へ向けての教説での文脈ではその通り。
>現実的身体的意味の「出離」ではなく、
佛教で最重要視されるのは身業よりも意業。
>比丘衆はもっと現実的な思考をされていたようですね。
ええ、比丘僧伽のレゾンデトルの正当性を主張するという現実的な選択を
行なったわけ。それと観念的なものという主張もしていないが。
尚、一連の經典和訳は『原始仏教の世界』(東京書籍)第八章から。手許の資料に乏しく
引用元は簡略化させていただきました。(巻番号はPTSとのこと)
>>191 の下段の經は
>>199 で引用し直しています。
213 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/02(木) 06:12:32 ID:HkuccfnN
>
>>206 のMNも引用できる環境に戻れたので・・・。
「友ゴータマよ、もし友ゴータマがこの教えを完遂しても、比丘たち、比丘尼たち、男性在家信者で、
家に住み、白い衣服を用い、清らかな行ないを実行する者、男性在家信者で、家に住み、白い衣服
を用い、欲を享受する者、女性在家信者で、家に住み、白い衣服を用い、清らかな行ないを実行する
者、女性在家信者で、家に住み、白い衣服を用い、欲を享受する者(のいずれかでも完遂しないのな
らば)、そのため、この清らかな行ないは完全とならないでしょう。友ゴータマよ、しかし友ゴータマはこ
の教えを完遂し、比丘たちは完遂し、比丘尼たちは完遂し、男性在家信者で、家に住み、白い衣服を用
い、清らかな行ないを実行する者が完遂し、男性在家信者で家に住み、白い衣服を用い、欲を享受す
る者が完遂し、女性在家信者で、家に住み、白い衣服を用い、清らかな行ないを実行する者が完遂し、
女性在家信者で、家に住み白い衣服を用い、欲を享受する者が完遂するから、そのために、この清ら
かな行ないは完全となります。友ゴータマよ、あたかもガンジス川が大海に向い、大海に傾き、大海に触
れて安住するように、友ゴータマの、この家に留まる者と出家した者からなる集まりは涅槃に向い、涅槃
に傾き、涅槃に傾斜し、涅槃に触れて安住します。」 『マッジマニカーヤ』・73 『雜阿含經』・964
尚、パーリからの和訳は春秋社版『原始佛典』のものを引用。
SNはPTSの第五巻p408−410からの引用のようです。
http://www.metta.lk/tipitaka/2Sutta-Pitaka/3Samyutta-Nikaya/Samyutta5/54%20Sotapatti%20Samyutta/06-Sappannavaggo-p.htm あたりと思いますが、フォントもDLして下さい。
内容は「智慧ある優婆塞が重病のとき、他の智慧ある優婆塞が教誡すべき事柄」とのこと。
214 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/02(木) 06:16:30 ID:REtdZ9u9
>>180 > レスは期待していたんだけど、
> まともな反論は、無理そうですね。
結局、論拠や根拠の提示なしのほのめかしと、
意味不明の寝言か。
>>186 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/01(水) 06:54:32 ID:o6SVLdd1
> > 実質的には「出家」を意味する。
> 論理の飛躍では。
> > 歴史的にもこういう理解に基づいて「出家」を意味する語として
> > 機能している。
> 佛教興起時代の意味を問う方に興味を惹かれる。
多分、次のように主張したいのでしょうけど、根拠は無しです。
『佛教興起時代には、「出離」に「出家」の意味はなかった。
「出家」を意味する語として機能しはじめるのは、後の時代だ。』
単なるほのめかしに過ぎません。現状は、
『当時、「出離」には「出家」の意味はなかった可能性もある』
という非常にあいまいな指摘に過ぎません。
まあ、阿呆陀羅經さんのことですから、調査・学習の上、
近い将来にまともな報告があることでしょう。
さて、
> 八正道の正思にも「出離の思惟」がありますな。
これは、私には何を言いたいのかさっぱりわからない、
意味不明の寝言でしかなかったのです。
結局のところ、この意味不明の文章のこの時点での真意は、
>>205 :暇人:2005/06/01(水) 22:13:45 ID:lXoIGy41
> 観念的な「出離の思惟」と読み込めば、在家にも可能
との理解でいいのかな?
215 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/02(木) 06:35:54 ID:REtdZ9u9
>>212 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/02(木) 06:12:08 ID:HkuccfnN
> >現実的身体的意味の「出離」ではなく、
> 佛教で最重要視されるのは身業よりも意業。
身口意のどれもおろそかにできないと思うのだが、
『佛教で最重要視されるのは身業よりも意業。』
という主張の根拠、論拠の提示は無しか。
布施、持戒においては「身業よりも意業」ということはないと思うのだが、
「出離の功徳」においては「身業よりも意業」ということなのかな?
わからん。
216 :
暇人 :2005/06/02(木) 07:14:56 ID:H0/1B67l
>>213 ご紹介ありがとう。
このスレッドからずれる個人的関心から
興味深い部分です。
217 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/02(木) 08:00:27 ID:HkuccfnN
>樹意さん、 「五取蘊の禍い」という観点に加えて、『スッタニパータ』の168偈以降を一度参照してみてください。
218 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/02(木) 08:51:08 ID:H092dwvV
さて、「出離」に関する、阿呆陀羅經氏に対する文句はこれで最後にしたい。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1112182864/701 > 701 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/22(日) 14:57:00 ID:pAIUoEf+
> 補遺
> 以前に「出離」のことが少し出ましたが、この語は別段出家を意味しません。
阿呆陀羅經氏はこのような書込みよりは、
次のような書込みをすべきであったと私は考える。
-------------------
「出離」は輪廻的生存からの脱却を意味します。
原始仏教の文脈において「出離」に「出家」という意味はなかったと考えます。
したがって、
「出離の功徳」とは、輪廻的生存から離脱することによって得られる果報といった意味に解釈すべきです。
------------------
ようするに、
●客観的事実と
・「出離」は輪廻的生存からの脱却を意味します。
●自分の考えが、
・原始仏教の文脈において「出離」に「出家」という意味はなかったと考えます。
・「出離の功徳」とは、輪廻的生存から離脱することによって得られる果報といった意味に解釈すべきです。
読む人に明確になるように発言しろということです。
219 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/02(木) 08:56:12 ID:o5EPOLnd
>「出離の功徳」 「クレクレ」と言ってるのを乞食信心と言います。 なんにも貰うものはない。 柳は緑で、花は紅。 それだけのことです。 なんも案ずることもなし。
220 :
名無しさん@3周年 :2005/06/02(木) 11:41:02 ID:6CU2ZWiJ
>>218 あんた、論破されたことを認めたくないのね。
みっともない。
221 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/02(木) 12:42:02 ID:H092dwvV
>>220 :名無しさん@3周年:2005/06/02(木) 11:41:02 ID:6CU2ZWiJ
> あんた、論破されたことを認めたくないのね。
> みっともない。
「認めたくない」というのは、正しくない。
あなたが「私が論破された」と思っているのならば、
私は、論破されたことに気付いていない。
というべきである。
■現在の私の主張。
・「出離の功徳」は、「仏門に入ることの功徳」と解釈できる。
■阿呆陀羅經氏の主張
・「出離の功徳」とは、輪廻的生存から離脱することによって得られる果報といった意味
どのレスで、論破されたんだろう?
阿呆陀羅經氏の主張が私の主張より妥当であるとの主張はどこでなされているのか?
現状では、実際に「出離の功徳」において具体的に何が述べられたのかに関して問うても
阿呆陀羅經氏が回答を避けている状況である。
222 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/02(木) 12:53:30 ID:o5EPOLnd
廓然無聖
■現在の私の主張。 ・「出離の功徳」は、「仏門に入ることの功徳」と解釈できる。 ■阿呆陀羅經氏の主張 ・「出離の功徳」とは、輪廻的生存から離脱することによって得られる果報といった意味 どのレスで、論破されたんだろう? 阿呆陀羅經氏の主張が私の主張より妥当であるとの主張はどこでなされているのか? 現状では、実際に「出離の功徳」において具体的に何が述べられたのかに関して問うても 阿呆陀羅經氏が回答を避けている状況である。
「茶の湯とは、ただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなるものとしるべし」。by利休
戯論とは、迷わすだけのものとしるべし
226 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/06/03(金) 02:41:05 ID:oy8hbscF
「出離」は五取蘊や輪廻的生存からの解放が第一義だと思います。 第一義では出家や在家という事には触れない。しかし、五取蘊や輪廻的生存からの 解放を真剣に願うのなら出家と言うライフスタイルを取った方が有利である。 だから比丘サンガが第二義的に、出離したいなら出家すべきと解釈するようになった。 ただし比丘サンガで出家したからと言って、それだけで出離できる訳ではない。 だから出家=出離ではなく、出家は出離するための有効な一手段である。 また在家でも阿羅漢は無理でも、預流(聖者の流れ)〜不還には至る場合はあるので 在家においても出離の一部は味わえる可能性もある。 なんとなくこんな感じじゃないでしょうか。 身口意の三業では仏教では意業が重要視されますね。ジャイナ教は身業が重要視された と思います。典拠や根拠は私にはすぐには出せません(笑)ので、誰かが… 理由は意業によって身業や口業が決定されるからだと思います。心の中で考えた事 全てが行動や言葉に現われる訳ではありませんが、行動や言葉に現われた事は必ず 心の中で考えていた事だと思います。
227 :
暇人 :2005/06/03(金) 05:45:58 ID:TYblNBOA
■出離 「輪廻的生存からの解放」というのは現代人の物言いであり、 例えば「苦からの出離」「老死からの出離」という出離が説かれているらしいですね (サンユッタ・ニカーヤ 12:10 増谷文雄訳) それと「輪廻的生存からの解放」は、当時の伝統宗教も宗教的に優れた者は到達可能と していたわけですね。 その伝統権威に疑問を抱き、自分たち独自の「輪廻的生存からの解放」を模索した一群の 人たちの中に釈尊やジャイナ教の開祖もいたわけですね。 その模索法の具体的な生き様、ライフスタイルとして、釈尊その他修行者たちは、 まず出家したのですね。 一義二義というより、そもそも「出離を目指す」と「出家する」という発想はセット だったのではなかろうか。 在家は解脱ではなく天界を目指したし、預流を初位に置き、四段階に整理し、 三段階目までは在家も可能よと言い出したのはかなり後代。 第一これの主旨は、最後段階まで在家では行けないよという差別にある。
228 :
暇人 :2005/06/03(金) 05:46:12 ID:TYblNBOA
■身業 ジャイナ教は、苦行を重視したことで有名で、その後の仏教はジャイナ教を意識してか、 苦行主義を忘れていくのだが、スッタニパータでは「苦行は心身を清澄にする効能がある」 とし、孤独行 慈悲行 常乞食行 塚間坐行という苦行を仏教は継承したし、 最初期の弟子に頭陀行をしている人は多かった。 苦行をもって身業を論じるのはどうかとも思うが、仮にジャイナ教とかと比較するならば、 後代になるほど、「身業」は軽視され、僧院に閉じ篭るようになったのが実情ではない だろうか。
うん、正解がどうかより、 正解を探そうと努力して知恵を絞るのはいいね。 少なくとも問答無用でこれが正解と言って知識でいっぱいになって 脳死するよりはね。。
230 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 06:29:20 ID:gg2jFIQ+
231 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 06:49:43 ID:gg2jFIQ+
>>227 >在家は解脱ではなく天界を目指したし、
そのように教説が整理されたのも同じく後代でしょう。
大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(預流果)
のほうがすぐれている。『ダンマパダ』・178
ここでは「天界」は目標には設定されていないでしょう。「餘流果」−遠塵離垢の法眼を得た状態−を得た人々
ならば在家でも枚挙に暇なくいましたし。
>>209 で
>四向四果で言えば、 「預流」が古く、発達して「預流」は初果に置かれているが、
>元々は阿羅漢果と同じという意味で使用されていたので、
と主張されていますが、それの根拠が知りたいです。典拠などあれば。
232 :
暇人 :2005/06/03(金) 07:48:40 ID:TYblNBOA
ダンマパダは「身体」は「壊れやすい水瓶のようなもの」だから、 「こころ」を「城郭」のようにしっかりと確立しようという調子ですね。 だから誤解・混同されたのかもだが、 身業・意業は、単なる「からだ」「こころ」ではなく、「行為」にポイントを 置いた表現ですね。特別に「意業」だけを重視して「身業」に配慮しない わけではないでしょう。 「自浄其意」は、七佛通戒偈の一節だが、全文は 「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教」ですね。 「心を清くせよ」だけを言われているだけではなく 「様々な悪を為すことなく(身業)、あらゆる善をなして(身業)、 心を清くせよ(意業)、これがあらゆる仏の教えであるけ 「出離を望む(意業)」→「出家(身業)」という順序ですね。 ここのポイントは「出離を望んで、在家のままいる」というのは いなかったのでは? ですね。
233 :
暇人 :2005/06/03(金) 07:50:48 ID:TYblNBOA
169で、善い行いしたらこの世でもあの世でも安楽に住めるよ。 176で、来世を否定する奴は 悪いことして平気なんだよ。 177ケチじゃ天界に行けない。アホは布施を嫌う。でも賢い者は 布施を喜んでするから天界に行くのだよ。 −天界は賞賛されているよね。目標とされていますよね。− 178で、でもその素晴らしい天上に行くことよりも、素晴らしいことが あるよ。それは出家して聖者の列にはいることよ そして179以下で聖者の代表としての「覚者」が説かれ、 生天より優れた出家仏教が説かれているのね。 >それの根拠が知りたいです 預流=第一段階という先入観で読まないならば、 お示しのダンマパダの当該箇所が既に、「聖者の第一階梯」という意味はなく、 「聖者の流れ」に入るという意味です。 「生天より素晴らしいことがあるよ。 聖者の流れに入ることだよ。 (だから出家しようね)」ですよ。 181参照。 「聖者の流れに入ること」という段階を経て「覚者」という次の段階に移行する なんて書かれていません。 >遠塵離垢の法眼を得た状態 んな意味はダンマパダの預流にはない。
234 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 07:50:52 ID:gg2jFIQ+
>>232 身業と口業は意業に随って行なわれますが。
235 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 07:52:11 ID:gg2jFIQ+
>>233 >んな意味はダンマパダの預流にはない
文献学的根拠は?
236 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 07:54:28 ID:gg2jFIQ+
>預流=第一段階という先入観で読まないならば、云々 >>四向四果で言えば、 「預流」が古く、発達して「預流」は初果に置かれているが、 >>元々は阿羅漢果と同じという意味で使用されていたので、 の根拠になるのですか?質問を逸らさないで下さい。
237 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 08:07:51 ID:gg2jFIQ+
>「預流」が古く、発達して「預流」は初果に置かれているが、元々は阿羅漢果と同じという意味 その「元々は」の根拠典拠とは一体どのようなものなのですか?
238 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 08:09:52 ID:gg2jFIQ+
「生天より素晴らしいことがあるよ。 聖者の流れに入ることだよ。 -論理の飛躍-(だから出家しようね)」
240 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/03(金) 08:53:11 ID:hQIt5FYw
>>226 ベロさんおはようございます.
> 身口意の三業では仏教では意業が重要視されますね。
これには、同意します。
私が同意できないのは、
> 佛教で最重要視されるのは身業よりも意業。
この「最」という表現です。
「よりも」という表現です。
この表現は、意業、身業、口業を比較する態度から発生します.
意業、身業、口業は、互いに比較するようなものではないと考えます。
241 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 08:53:51 ID:gg2jFIQ+
次第説法のプロセス。和訳は前田恵学師のものから引用。 世尊はかれら(かの女ら)のために、順次次第をそなえた訓えを説かれた。すなわち、施しの訓え・生天の 訓え・もろもろの欲情の苦痛と罪悪と汚れおよび出離の利益を説かれた。世尊はかれら(かの女ら)が道 理に従う心・柔軟な心・偏見のない心・喜びの心・信ずる心となったのを知って、そのとき〈さとった人々〉の 本真の法説なるものを説かれた。苦と起因と滅尽と道と〔の四つの真理の説〕である。あたかも、清らかで 黒点のない布が正しく染め上がるように、かれら(かの女ら)にはその場において塵なく汚れを離れた真理 を見る眼が生じた。 「凡そ集起する性あるものはみな滅する性あるものである」と。 かれら(かの女ら)はすでに真理を見、真理を得、真理を知り、真理に没入し、疑いを超え、惑いを除き、確信 を得て、師の教えを措いて他に縁ることなく世尊にこう述べた。 【ここから在家と出家に分岐】 「すばらしいことです尊師よ。すばらしいことです尊師よ。あたかも倒れたものを起し、覆われたものを顕わし、 迷ったものに道を示し、『眼あるものは見るであろう』と暗闇の中に油の燈火をかかげるように、世尊によって 様々な仕方で教法が説かれました。尊師よ、わたくしはここに世尊と教法と修行僧の教団とに帰依いたしま す。尊師よ、世尊はわたくしを在家信者としてお許し下さい。今日より命終わるまで帰依いたします。」 以下出家の場合 「尊師よ、わたくしは世尊の許で出家を得たく、受戒を得たく存じます。」世尊は言った。「来たれ、修行僧らよ、 教法はよく説かれた。正しく苦を滅尽するために修行を行なえ。」
242 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 10:10:16 ID:gg2jFIQ+
>特別に「意業」だけを重視して「身業」に配慮しないわけではないでしょう。 誰がそんな主張をしましたか?
243 :
名無しさん@3周年 :2005/06/03(金) 10:57:34 ID:nTRYbivt
>>242 身口意の三業
意→→→→思業
身口→→→思已業
いつも誰かが指摘しているように、暇人さんは認識を離れた外界を肯定するという
前提にある。だから三業分離として考えてから行為というくくりで統一してしまうの
でしょうね。身業の善を成すのは意業(思業)であるという仏教入門も理解できて
いないのでしょう。
ROM記念 演繹法でもなく、帰納法でもなく、 これを大死というわけです。 梅雨空に、一瞬晴れ間が射すようなもんです。 つまり、我と離れまして光は射してくるものです。
245 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/03(金) 12:11:58 ID:hQIt5FYw
>>226 :ベロ ◆eOod7XM/js :2005/06/03(金) 02:41:05 ID:oy8hbscF
> 理由は意業によって身業や口業が決定されるからだと思います。心の中で考えた事
> 全てが行動や言葉に現われる訳ではありませんが、行動や言葉に現われた事は必ず
> 心の中で考えていた事だと思います。
基本的には同意します。
ただ、身業が意業に影響を及ぼすこともあります。
ミクロで考えるか、マクロで考えるかの視点の移動は必要ですが。
http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/ko_tame23.html 「周利盤特(シュリハンドク)」
周利盤特(チューラパンタカ)という人物は、『日本仏教語大辞典』(平凡社刊)によれば、
佛弟子の一人で、愚鈍な男であって、四ヶ月に一偈も暗誦できないほどであったが、
佛の命に依り人々の履物の汚れを取り去っていたとき、汚れをおとすことの困難なことから、
煩悩の除きがたいことを知って、阿羅漢果を得たという。<422-3>
246 :
暇人 :2005/06/03(金) 12:23:54 ID:PW+QbHSb
>>237 失念した。中村、平川あたりと思うが 確認しても見当たらない。
留保されたし。
記述をあやふやな記憶から思い出すと、
「一来」あるいは「不還」(どっちか忘れた)→「豫流」という経典があるそうです。
なにかの典籍の韻文部分だったと思います。
>>238 七佛通戒偈の全体を見ず、「自浄其意」だけを取り出して自説を展開するタイプの人には、
論理の飛躍に感じるでしょうね。
流れをみれば自明です。
「生天より素晴らしいことがあるよ。 聖者の流れに入ることだよ。」
に続いて説かれるのは出家的生き方であり、在家的修行ではないですからね。
247 :
暇人 :2005/06/03(金) 12:25:04 ID:PW+QbHSb
>>242 笑止。
>>212 >佛教で最重要視されるのは身業よりも意業
>>243 キミは意味不明。
@「認識を離れた外界を肯定」とするとなぜ「三業分離」に必然するん?
A「三業分離」はキミの思い込み。
B私の念頭にあるのは「身・口」を含めた「身体的外的行為」と「内的な行為」の二。
C「業」を「行為」と理解してるので、「行為」というくくりで「身業」「意業」を
考察するのは当然。
D言葉として「身業」と「意業」は別れているので その差に注目するのも当然。
E善を成そうと意志するのを心のハタラキを意業と呼び、善を成す行為自体は身業。
増支部6:63に
「諸比丘 我說思是業 思已 以身、語、意而造業」とあるそうですよ。
これによると「思業」(意業)と「思已業」(身口業)という理解は後代の解釈で、
初期経典そのままの理解では、「思已業」は、「身口意」共ですね。
倶舎論あたりの教養で「知ったか」すると恥をかくことになる。
248 :
名無しさん@3周年 :2005/06/03(金) 13:06:43 ID:nTRYbivt
>>247 笑止。
>@「認識を離れた外界を肯定」とするとなぜ「三業分離」に必然するん?
それはあなたが何もわかっていないから。
>C「業」を「行為」と理解してるので、「行為」というくくりで「身業」「意業」を
考察するのは当然。
違います。「業」とはおこないとその報い・結果の総称であって、行為だけを示すものではない
というのが定説。
>D言葉として「身業」と「意業」は別れているので その差に注目するのも当然。
システムとしては思已業であるからその差異については次の問題。だから、
>E善を成そうと意志するのを心のハタラキを意業と呼び、善を成す行為自体は身業。
こんな片手落ちが生じるのです。善を成すおこないは表業として身口の二業です。
この私の説明にも片手落ち部分があるのですが、あなたのしめした
>増支部6:63
は三業を語る上では古典的な典拠ですね。これは『中阿含経』巻27「達梵行経」、「漏分布経」
の三つで代表されますが、その立場を取らない原始仏典もあるのですよ。
>倶舎論あたりの教養で「知ったか」すると恥をかくことになる。
ぶぶー。
有部の業論では「思業」(意業)と「思已業」(身口業)という理解です。倶舎論はこの立場を
踏襲しません。あくまでも思業・思已業の二業とし、思已業に三業を当てます。それが、有部
を批判する書物である倶舎論の眼目なのですから。
原始仏教でも、この2つについては決着をみておりません。
「知ったか」すると恥をかくことになる。
249 :
暇人 :2005/06/03(金) 13:46:40 ID:PW+QbHSb
>>248 >それはあなたが何もわかっていないから
キミはなぜわかっていないか論じれてない。
>「業」とはおこないとその報い・結果の総称
それは後代の教養。
語義的意味の一は、「作用」。二は「行為」。
三に君の言う発達した解釈(定説)だね。
>表業
(爆) 電波さん なにあそんどるねん(笑)
倶舎論用語まんまだからバレバレだって。
原典しめせんが初期仏教の段階に「身口」を分けん部分あると
思うよ。少なくともシステムとして分ける必要はない。
>その立場を取らない原始仏典もある
@だったら具体名を出せばよい
あったところで
A初期仏教の中には「思已業」は、「身口意」共という理解もあるので
>>243 は浅墓なのに変わりはない。
>ぶぶー
ギャクで遊ぶな。倶舎論分別業品に
「世別由業生 思及思所作 思即是意業 所作謂身語」
この「思所作」が君の言う「思已業」だ。
倶舎論もまた「思業」(意業)と「思已業<思所作>」(身口業)
という理解だね。
恥を重ねられるな。
250 :
暇人 :2005/06/03(金) 13:49:58 ID:PW+QbHSb
いつも解釈が 倶舎論まんまなんだって。 そこをスタンダードにして 初期を解釈しちゃうから おかしいのが目立つのだって。 一度 倶舎論的教養を捨てて、 あるがままに経文みようよ。
251 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 13:55:03 ID:8mLXQWEI
>>247 >佛教で最重要視されるのは身業よりも意業
なんでこれが
「特別に「意業」だけを重視して「身業」に配慮しない」
仁歪曲される?揚げ足取りにすらなっていない。
252 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 14:04:33 ID:8mLXQWEI
このあたりで電波男さんご専門の一つ「戒体論」などお伺いしたいところです。
ここに象がいる。 盲人がその象に触れてどのようであるかを説明する。 あるものは尻尾に触れ、蛇のようだ、と言う。 あるものは足に触れ、大木のようだ、と言う。 あるものは胴体に触れ、大きな樽のようだ、と言う。。。 象はもちろん「法」の象徴である。 ただしここでは仮に経典としてもいい。 この言葉の意味はこうだ、ああだ、、、
254 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/06/03(金) 15:46:50 ID:oy8hbscF
>>253 >この言葉の意味はこうだ、ああだ、、、
いやまぁ、その「こうだ、ああだ、、、」が仏教の歴史とも言えるんですよね。
きっと象の比喩なんて百も承知の上で、「こうだ、ああだ」をやってるんですよ。
生死大海とは、つまりは大死のことですね。 亡くなった方を「彼岸へ逝く」と言いますけど、 これは意味が違けれど、うまく語呂合わせしたのかと思う。 あくまでも私の自説ですが。 もともと「彼岸」というのは便宜上において使われる概念ではあるが、 人の欲望はリアル性へと実体化してくる。
256 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 18:06:27 ID:8mLXQWEI
一休宗純は、最後の最後まで女を愛した。 これにはいろいろな解釈があるようですが、私の自論を述べます。 つまり、彼岸があってこそ俗に生きられる。ってことの見本かとおもう。 釈尊は死ぬ間際に世界を賛美しましたが、これも同じことです。
ここに象がいる。 盲人がその象に触れてどのようであるかを説明する。 あるものは尻尾に触れ、蛇のようだ、と言う。 あるものは足に触れ、大木のようだ、と言う。 あるものは胴体に触れ、大きな樽のようだ、と言う。。。 象はもちろん「法」の象徴である。 これを現われとしての世俗(関係性)として説明した場合、縁起として説明できる。 これを隠れた原理としての勝義として説明した場合、空として説明できる。 凡夫(盲人)にはこれが同じものと理解しがたいが、 竜樹のようなものはそれが同じものであると説明する。 しかし、やはりそれでも、凡夫には理解しがたく 結局誤って理解してしまう。 しかし理を追って理解していくのでその誤りには気が付けない。 (空は認識できないが、縁起は順を追えば理解できるので、 自分は確かに象に触れているという感触がある)。 気が付かないまま、空とは縁起であり、 仏教とは縁起であると言う。 本当は「法」は縁起でもなく空でもない。 言葉に出来ない「あるそのもの」が「法」である。 百尺竿頭進一歩、 一如の法門と沈黙の本覚こそ仏教の本質である。
259 :
暇人 :2005/06/03(金) 21:50:05 ID:aWtVRm7D
>>251 「特別に「意業」だけを重視して「身業」に配慮しない」
例えば、もう一ネタ提供すると、
「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教」から、恣意的に、
「意業」に相当する「自浄其意」だけを取り出し、
「諸悪莫作 諸善奉行」に配慮せず、切捨て、
仏教は意業最重視という極論の根拠の一にされてましたからね
他人様に言われてもきづけないものだって。
自分で気づかないとね。 仏教は自覚よ。
>>256 ほう。それで?
(と、突っ込まれたら、読んでないことがばれるだけだよ)
260 :
樹意 :2005/06/04(土) 00:21:04 ID:RfP7pzI6
>>121 > ブッダ以来、佛教が問うてきたのは「誰が?」もしくは「何が?」ではなく、「何故に?」や「どのように?」であったと
> あったと考えます。
さかのぼりますが阿呆陀羅經さんのおかげで 常見外○を批判する決定的な説明がまた一つ増えました。
ありがとうございます。
今後とも 指摘してもらえますようお願いします。
261 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/06/04(土) 02:20:45 ID:ZMI+Gqqc
>>259 こら、暇人。勝手によそ様を俺だと同定するな。失礼じゃないか。
業品第一偈は主に毘婆裟師の説を紹介するための口火。成業論も同じ。
倶舎論の論主が積極的に”cetaA”についての自説は述べていないが、業道倶生や
表と表業について経量部の説から毘婆裟師を批判している。
倶舎論では口ごもっていた経量部の業論が成業論では積極的に説かれ、
身口意の三業の体が思であ〔り発言されたときには思已業であ〕る。そうでなければ
アーガマに背くではないか。
とかれている。
忙しいのでしばらく発言できません。あしからず。
262 :
暇人 :2005/06/04(土) 03:08:30 ID:cLfPhY7H
>>261 いづれにせよ 大差ないのことしか言えてない。
まあ多忙故と大目にみてあげよう。
@「此身語二業 倶表無表性」以下は、「表業」という新概念を出し
随分発達した業論を展開している(三業ではなく五業)なので
また別の話。
A「然心所思即是意業 思所作業分為身語二業 是思所等起故」
三業の説明箇所では中阿含を根拠に第一偈と同趣旨を説明してる。
以下五業だが おつきあいすると、
B「アーガマに背くではないか」の発言は有部。
経に思已業とあるではないか。
既に思い終わっているのだから、その体は「思」であるはずないではないか、と。
C経部宗が「身口意の三業の体が思」と主張したのでなく、批判されて
いるのである。
それに対して経部答えて
「我當應為如是如是所應作事名為思業」
「既思惟已起作事思 隨前所思作所作事。動身發語名思已業」ですね。
経部もまた「我まさになすべし」が「思業」
「身を動かし語を発する」のは「思已業」
暇な折にきちんと確認されよ。
263 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/06/04(土) 09:25:31 ID:ZMI+Gqqc
>>262 どこ読んでるの?「業心等起」の有部との話ではない。ぜんぜん違うところだよ。
>>261 で簡潔に言ってるからもう一度読んでみたら?ひょっとして倶舎論しか
読んでいない?
それでは出かける。
264 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/04(土) 09:31:42 ID:JSDJ9xTb
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったり するならば、苦しみはその人につき従う。──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 心為法本 心尊心使 中心念惡 即言即行 罪苦自追 車轢于轍 2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なった りするならば、福楽はその人につき従う。──影がそのからだから離れないように。 心為法本 心尊心使 中心念善 即言即行 福樂自追 如影隨形 世間は心によって導かれる。世間は心によって悩まされる。心という一つのものに一切のものが従属し た。 『サンユッタニカーヤ』T・7・2 心持世間去 心拘引世間 其心為一法 能制御世間 『雜阿含経』卷第三十六 意業にもとづかない身業口業はあり得ないし、離貪・離欲・四悪・修禅や解脱涅槃もそれが意志されない 限り、それに向けたおこないも発現され得ない。
265 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/04(土) 09:38:35 ID:JSDJ9xTb
皆さんご存知でしょうが念のため。
>>264 の上二偈は『ダンマパダ』冒頭のものと対応漢訳。
当方これより会合。
266 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/04(土) 09:52:28 ID:JSDJ9xTb
>>264 の訂正
×四悪・修禅→止悪・修善
遅刻する〜
267 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 11:53:48 ID:A2S9P/0A
親から子が生まれるからといって、親が子より重要視される必要はあるまい。
『青は藍(あい)より出でて藍より青し』の例えもある。
> 身口意の三業では仏教では意業が重要視されますね。
これには、同意します。
> 佛教で最重要視されるのは身業よりも意業。
これが、変だと言っているだけです(
>>240 )。
十三難十遮に黄門(不能男)や六種病が含まれ、比丘にはなれなかったと聞きます。
佛教で意業が最重要視されたのであれば、身体の不具合が何故問題とされたのか?
余談ですが、私はキリスト教の次の部分が大嫌いです。
------
http://www.ne.jp/asahi/village/good/Bible.html 「姦淫」については、『マタイ』第5章のイエスの言葉、
「あなたたちも聞いているように『姦淫するな』と命じられている。
しかし、わたしは言っておくが、みだらな思いで女を見る者はだれでも、
すでに心の中でその女を犯したのである。」
------
みだらな思いが起こっても、それを実行に移さないところに人の価値があると思います。
修行が進めば、みだらな思いも起こらなくなるのかもしれませんが。
268 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 11:54:30 ID:A2S9P/0A
佐倉哲エッセイ集
無我の思想--- 第三章 ブッダの主張 ---
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html に次の引用がある。
-------------------
初期の仏教教団では、教えの中心はニルヴァーナに達することであったが、
在家の信者に対しては主として「生天」の教えが説かれた。
道徳的に善い生活をしたら天に生まれるという教えである。
施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本柱であった。
この天の原語はいろいろあるが、いずれも単数形でのみ用いられている。
すなわち、天は一つであって、[後代に現れたような]天の細かな内容規定や、
階層的な区別はなかったのである。誰でも能力に応じて布施を行い、道徳的に善であれば、
死後に天におもむくとされたのである。
この天の思想は、仏教独自のものではなく、当時のインドの一般民衆の信仰であって、
仏教はそれを教義の中に取り入れたのである。
ただ、仏教では、この世界に対してどこかに空間的に存在する天を考えたのではなく、
あくまで、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、
一般民衆は俗信のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていたのであろう。
・・・後世の大乗仏教における浄土の信仰は、この天の思想の発達した形である。
浄土もまた、絶対的な境地を表現したものであり、彼岸とは完成を意味することばであったが、
天の場合と同じく、一般民衆には、死後の理想郷と受け取られたのである。
(『仏教語大辞典』、東京書籍、昭和58年発行、979頁)
---------------------
>すなわち、天は一つであって、
もし、これが正しいのであれば、天を禅定の境地と対応させるのはナンセンスであろう。
また、どうしても、天を禅定の境地と対応させるのであれば、
六欲天もまた天として認めざるを得ないであろう。
(つづく)
269 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 11:56:12 ID:A2S9P/0A
(つづき)
>ただ、仏教では、この世界に対してどこかに空間的に存在する天を考えたのではなく、
>あくまで、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、
>一般民衆は俗信のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていたのであろう。
こういう「ボクは正しいこといったもんね。一般民衆が俗信を信じるのには責任ないもん。」という
態度には違和感を覚えます。
たとえば、「不殺生」にしても、ただ「殺すな」ではなく、
スッタニパータ394にあるように
生きものを(みずから)殺してはならぬ。
また(他人をして)殺さしめてはならぬ。
また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。
というのが仏教的態度のように感じます。
「生天」の教えに関し、「一般民衆が死後の理想郷に行かれると信じた」のであれば、
それは説法者の責任であり、説法者はそれを認めていたと考えます。
>あくまで、絶対の境地を天ということばを借りて表した
というのには、納得できません。
人界、天界は、輪廻の世界であり、
「生天」の天と、彼岸とは別物と考えるべきでしょう。
『「生天」の天』が『輪廻の世界の天界』ではないという根拠は、
仏陀がたとえ方便であっても
「欲楽の世界である天界への輪廻転生を説くはずがない」という思いこみだけであろう。
その立場では、
>>231 > 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、
> 聖者の第一階梯(預流果) のほうがすぐれている。『ダンマパダ』・178
をどう解釈するのだろうか?
世界は理路整然とあるのではなく、流動的なダイナミズムにある。 これを諸行無常という。 日光の東照宮には8本だったか?柱がありますが、 このうちの一本の文様が渦巻きが逆流している。 これは世界を顕しているのかと想像する。 (ガイドの説明では、祟りを避けるためらしいが) 車のハンドルの「あそび」のようなもので、 また「ゆらぎ」と言ってもいい。
>>1 にある通り、
妄想デムパ発言には終始默殺・完全無視が吉と思われます。
例えば経典を紐解けば仏教が理解できると思っている類の発言とか。
お前の言っていることは妄想だ、ということを相手に理解してもらうには、
反対意見は完全黙殺するべきでしょう。
272 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 14:41:44 ID:A2S9P/0A
>>238 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/03(金) 08:09:52 ID:gg2jFIQ+
> 「生天より素晴らしいことがあるよ。 聖者の流れに入ることだよ。 -論理の飛躍-(だから出家しようね)」
伝道の開始の部分をみると、聖者の数が
6人―>11人―>61人
増えて行く。
受戒と同時に聖者にカウントされているようだが、
ヤサの父の長者や、母や妻はカウントされていないようである。
聖者と呼ばれるためには、出家する必要があったのではないだろうか?
ところで、
------------
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html すなわち、サーリプッタはあるとき、托鉢をするブッダの弟子アッサジに出会い、
「あなたの師は、いかなる説を有し、何を説かれるのか」と訪ねます。
アッサジは「わたしは出家してまだ日が浅く、新参であるから、その教えを深く説くことはできない。」
と答えますが、サーリプッタは、少しでもいいから、その教えとするところを語ってくれと求めます。
そこで、アッサジは次のように、たどたどしく語ったと言います。
もろもろの法は因によって生ずる。
如来はその因を説きたもう。
もろもろの法の滅についても、
如来はそのように説きたもう。
(増谷文雄訳、『仏教の根本聖典』、57頁)
------------
この「ブッダの弟子アッサジ」というのは、初転法輪の時のひとりなのでしょうか?
別人なのでしょうか?
「わたしは出家してまだ日が浅く」との言から考えると別人と言う気がしますが。
273 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 14:42:22 ID:A2S9P/0A
しんげ 1 【信解】 〔仏〕 教法をまず信じて、のちに理解すること。 けんどう ―だう 0 1 【見道】 〔仏〕 真理を知るための、煩悩(ぼんのう)に汚されることのない智慧(ちえ)を起こして、 仏教の基本的真理である四諦(したい)を、知性的な理解ではなく、直観的に明瞭に見る位。 この位に入ると、凡夫から聖者に変わる。 しょうじゃ しやう― 1 【▽聖者】 〔仏〕 四諦の真理を悟った見道以上の人。小乗では預流向(よるこう)以上、 大乗では初地の菩薩以上をいう。 ⇔凡夫 しこう ―かう 0 【四向】 〔仏〕 四果に至るための修行の段階。預流(よる)向・一来向・不還(ふげん)向・無学向の総称。 しか ―くわ 1 2 【四果】 〔仏〕 小乗仏教において、修行によって得られる結果を分類したもの。 聖者の位に入った預流(よる)果、天界と人間界を往復する一来果、 流転することのなくなる不還(ふげん)果、完全な悟りを開く無学果(阿羅漢果)の総称。 しゅっけ 0 【出家】 (名)スル 〔仏〕 家庭などとの関係を切り、世俗を離れ、戒を受けて僧になること。また、その人。 現代では、各宗派の定めにしたがって、僧としての資格を得ること。僧侶。僧。 ⇔在家 じゅかい 0 【受戒】 (名)スル 〔仏〕 仏教徒が出家や在家などのそれぞれの立場で、守るべき戒を受けること。納戒。
274 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 15:07:44 ID:A2S9P/0A
>>273 > けんどう ―だう 0 1 【見道】
> この位に入ると、凡夫から聖者に変わる。
と辞書的には書かれている。
「汚れなき真理(法)への眼」を開いたことは、
ヤサ、ヤサの父の長者、ヤサの母と妻、ヤサの4人の友、50人の友
皆同じである。
うーむ。
「出家」と「見道」と「聖者」の関係はどうなっているのだろうか?
>>274 当時の、まさにその時のことを誠実に記録したものが残っていない以上
現存資料から類推するしかないでしょうねw
しかもそうした資料は良くも悪くも
((サンガの維持も目的として含めた視点を持つ)出家教団という)フィルターを通っている。
別に修行する必要はなくとも、誠実に自分自身に引き当ててみて、
当時、釈尊なら舎利弗なら仏音ならどう考え、どう法を説いたであろうか?と
拈提するしか・・・
当然参考にする資料(聖典だけでなく、文化的背景や習俗・生活環境等も)は多い方が良いだろうが・・・
それともやはり、自らが涅槃を見るしかないのかも・・・(^^;)
「来たれ見よ」と言われるらしいし・・・ orz
お釈迦さん自身、幅を持たせて使用してたかもね
円が一部分ずつ重なった図のように・・・
276 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 17:06:56 ID:A2S9P/0A
>>271 :名無しさん@3周年:2005/06/04(土) 14:09:43 ID:u3dJIR+Z
> 妄想デムパ発言
> 例えば経典を紐解けば仏教が理解できると思っている類の発言とか。
そうですね。「文証」だけでは、片手落ちです。
皮肉なことに、経典自体が言葉だけでは人を説得できないことを、
ぶちかましています。初転法輪の時の様子です。
---------------
わたしは三たび言ったが、彼らは三たび拒んだ。
そこで、わたしはさらに言った。
『では、なんじは、かつてわたしの顔光の今のように輝くのを見たことがあるか。』
かく説いて、わたしは彼らを説得した。
(増谷文雄訳、『仏教の根本聖典』、p37)
---------------
http://page.freett.com/Libra0000/ronbun01.html (9) 日蓮は「文証・理証・現証」の「三証」を言う。
「文証」とは「信頼すべき経典による文献的証明」
(伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p.122)であり、
「理証」とは「思惟や論理を媒介とする合理的証明」(p.123)であり、
現証とは「客観的事実における実践的追認による具体的経験」(p.123)のことである。
277 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 17:21:05 ID:A2S9P/0A
>>275 :名無しさん@3周年:2005/06/04(土) 15:33:08 ID:V7So4qCA
> 当時の、まさにその時のことを誠実に記録したものが残っていない以上
> 現存資料から類推するしかないでしょうねw
そうですね。
最初は五里霧中でしたが、最近はなんとなく何が仏教的なのかということが
少しずつ見えてきたような気がします。
> 別に修行する必要はなくとも、誠実に自分自身に引き当ててみて、
> 当時、釈尊なら舎利弗なら仏音ならどう考え、どう法を説いたであろうか?と
> 拈提するしか・・・
そうですね。
そして、万人共通の真理というものは存在せず、
自分のための真理を個人個人が見出すしかないのかもしれませんね。
(スッタニパータ 907,908)
法は、迷いのなかにあり。 迷わざるは法もなし。
279 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 18:17:47 ID:A2S9P/0A
>>277 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 17:21:05 ID:A2S9P/0A
> (スッタニパータ 907,908)
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta.htm#4-13 907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。
また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。
それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
908 「われは知る。われは見る。これはそのとうりである」という見解によって
清浄になることができる、と或る人々は理解している。
たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。
かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
280 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/04(土) 20:55:01 ID:A2S9P/0A
650 生まれによって(バラモン)となるのではない。 生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。 行為によって(バラモンならざる者)なのである。 651 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。 行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。 652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。 行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。 653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。 かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。 654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。 生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。−−進み行く車が轄に結ばれているように。 655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによって<バラモン>となる。 これが最上のバラモンの境地である。 (スッタニパータ)
281 :
樹意 :2005/06/04(土) 23:39:32 ID:AXJlZISi
>>269 > > 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、
> > 聖者の第一階梯(預流果) のほうがすぐれている。『ダンマパダ』・178
> をどう解釈するのだろうか?
仏陀は涅槃に至る障害を 川を流れる丸太に喩えて説いてます。
その中に〈人ならぬものに取られる〉というのがあります。
「また比丘よ、〈人ならぬものに取られる〉というのは、こうである。
ここに比丘があって、ある者は、しかじかの天界を願うて梵行を修する。
〈この戒行により、あるいは勤行により、或いは苦行により、或いは
梵行によって、我は天神となり、或いは天界の一人となることをうるように〉と。
比丘よ、これを称して、〈人ならぬものに取られる〉とは言うのである。
相応部経典 35 200 木塊 雑阿含経 43 11 樹
仏陀が五蘊の終着要素と呼ぶものが並ぶ 概念の天は説きようがありません。
何故この天界を願ってする梵行が涅槃の障害なのかと言うと 常見や執着を
増すからだと思われます。
282 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/05(日) 03:27:06 ID:BwWplViF
>>89 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 08:56:51 ID:aOZzSYHU
> お手許の岩波本『スッタニパータ』にも出離の語は散見されると思います。
> それらの意味を前後の文脈を勘案検証しながら吟味してください。
■結論
『スッタニパータ』における「出離」の語に、
「輪廻的生存からの脱却」という意味は認められない。
「出家」という意味も認められない。
■結果
・出離の語は、4箇所で出てくる。
○一箇所目:170-172、p41
「それからの出離」「世間の出離」といった用法で、単に「離脱、離れること」といった意味で使用。
○二箇所目:424、p87
> 諸々の欲望に憂いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、
「欲望から離れること」といった意味で使用。
○三箇所目:12、二種の観察、p156
> 修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。
これは、次に対応すると考えられる。
> 727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
> かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
すなわち、「(出離を得させ)=(心の解脱を具現)」、「(さとりにみちびく)=(智慧の解脱を具現)」
○四箇所目:1098、p232
> 諸々の欲望に対する貪りを制せよ。──出離を安穏であると見て。
二箇所目と同様、「欲望から離れること」といった意味で使用と考えられる。
■余談:725の註を独断と偏見で編集
「心の解脱(cetovimutti)」:心が解脱して静まり安定している境地
「智慧の解脱(pannavimutti)」:人間の本来持っている智慧が迷いから解脱した境地
283 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/05(日) 03:33:28 ID:BwWplViF
>>281 :樹意 :2005/06/04(土) 23:39:32 ID:AXJlZISi
> 仏陀が五蘊の終着要素と呼ぶものが並ぶ 概念の天は説きようがありません。
「五蘊の終着要素と呼ぶもの」と「概念の天」との関連に関しては
どこかで、説かれているのですか?
その「概念の天」は、
>あくまで、絶対の境地を天ということばを借りて表した
の「絶対の境地としての天」として考えれるのでしょうか?
天は抽象、地は具象という以上の意味はないと思うよ
285 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/06/05(日) 09:21:45 ID:+24VFEhL
三界や輪廻的生存は欲望や渇愛を元にした業によって造られているので、 欲望からの離脱は輪廻的生存からの離脱と同意でしょう。
絶対の境地であるにしても、人は俗(此岸)に生きねばならん。 霞を食うて生きるわけにはいかんし。 天に留まることが本義ではなく、 大地にしっかりと足をふんばって逝きてこそ、天の意味もある。 これを般若では、空即是色といふ。 出家など考えず、ケコンして子供を作って大切に育てる方のが重要。 人には、それぞれに器というのがある。 敵を知り 己を知れば 百戦あやうからず <孫子の兵法>
287 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/05(日) 11:11:56 ID:o7Rcl9iu
>>285 :ベロ ◆eOod7XM/js :2005/06/05(日) 09:21:45 ID:+24VFEhL
> 三界や輪廻的生存は欲望や渇愛を元にした業によって造られているので、
> 欲望からの離脱は輪廻的生存からの離脱と同意でしょう。
それを認めるとすれば、
衣食住の欲望からの離脱は在家では不可能なので、
欲望からの離脱は出家と同意であるともいえます。
>>155 :暇人:2005/05/30(月) 07:33:04 ID:iAZ3Y22S
> ■「出離」パーリnekkhamma
>
> 原語的には、五官的欲望の遠離。
> つまり五欲を捨て去っていることからはじまり、
> 五欲に縛られて生きている現状からの離脱を暗黙裡に意味しているので
> 実質的には「出家」を意味する。
> 歴史的にもこういう理解に基づいて「出家」を意味する語として
> 機能している。
http://user.komazawa.com/~inseikai/sukke2.htm 「在家者」が「阿羅漢」(あるいは生死を出離した者)に成り得ると主張するのであれば,
現実的に,家族があり,財産があり,社会的立場があり,稼業があるままの人間が,
一切の結縛を断ち切り得るのかを問いたい。
自分の家族や財産が他者によって危険にさらされれば,法的にも実力的にもこれと対峙することこそが
世法の正義であり,社会的立場にしがみつき,稼業にエネルギーを費やし,自己と家族の安泰をはかることこそが
世俗の生き方であるはずである。
仏教の覚りにおいて否定される「貪り」や「瞋り」は,一般社会では,むしろ必要なのである。
そのような立場にいて,はたして一切の結縛を断つことなどできようものか?。
288 :
樹意 :2005/06/05(日) 11:47:45 ID:nK4ww+Nx
>>283 >>287 無宗だ、さんの見解は いつも思うのだが、極端だね。
ものには段階が あるわけで 五取蘊からの出離といっても一足飛びに阿羅漢に至るわけでは
ない。 四向四果であってもこれは段階を示しているわけだし、当然の事ながら
十結煩悩を切りやすい順番から並んでいて、境涯も煩悩の切れた順番になる。
在家でも
預流にはなると説かれているわけだし、この境涯に至れば涅槃は完全に
ターゲットに入るわけだから〈涅槃界〉 まずは此れを目指せばいいだけでしょう。
個人的には 預流から先は時間の問題であるから、そんな議論するような問題でも
ないと思っています。
289 :
樹意 :2005/06/05(日) 12:12:20 ID:yp9pUnj4
十結煩悩で 五の五下分桔と言われる、身見 戒取 疑惑 貪 瞋恚のうち 身見 戒取 疑惑を切れば、預流になるのであるから、別段一足飛びに 貪や瞋恚を 断ち切る事を考えなくてもいいのではないかと考えます。 だいいち諸々の煩悩は 我見 我執の煩悩から生じますから、この五取蘊の構造を理解する だけで、かなりの煩悩を制御できるのではと考えます。 完全な理解の為の議論が大事なのではないでしょうか。
290 :
樹意 :2005/06/05(日) 12:31:25 ID:KjLJRnYN
「大徳よ、、現生的なる法、現生的なる法と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなるが 現生的なる法であり、また、即時的にして、〈来たり見よ〉と示され、涅槃に導き、智者のそれぞれ みずから知るべき法というものでありましょうか」 「ウパバーナよ、ここに一人の比丘があって、彼は、眼をもって色〈物体〉を見ると、色を感知し、 かつ、色に対する貪りを経験する。また、わが内に色に対する貪りがあると、〈おお、わたしは、 我が内に、色に対する貪りを抱いている〉とみずから気がつくであろう。 そこで、ウパバーナよ、そのようにして、比丘は、眼をもって色を見ると、色を感知し、かつ、色 に対する貪りを経験し、また、我が内に色に対する貪りがあれば、〈ああ、私は、我がうちに、 色に対する貪りを抱いている〉と自分で気づくのであるから、わたしはまた、ウパバーナよ、この 現生的なる法は、また、即時的にして、〈来たってみよ〉と示され、よく涅槃に導き、智者の それぞれみずから知るべき法である、というのである。 ーー中略ーー耳ーー鼻ーー舌ーー身〈触〉−−意〈法〉−−同文の為 略〉 南伝相応部経典 35 70 ウパバーナ 四念処一乗道の事です。 即時的にして効果的であると説かれます。 五蘊無我の構造を理解し、観察を深めれば、必然的に煩悩も薄くなるという事なのでしょう。 自然に自分で気づいていくことであると思われます。
「貪り」や「瞋り」は一般社会の中にあるのだろうか? それとも自分の心の中にあるのだろうか? 一般社会の中にあって煩悩に悩まされないでいることは可能だし かたちだけ出家して煩悩の中にあることも可能。 蓮の花は泥の中にあって泥に触れない。
292 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/05(日) 14:01:01 ID:o7Rcl9iu
>>291 :名無しさん@3周年:2005/06/05(日) 13:00:49 ID:C+y88asi
> 一般社会の中にあって煩悩に悩まされないでいることは可能だし
私は不可能だと思います.
>>287 http://user.komazawa.com/~inseikai/sukke2.htm の主張に同意します。
これ以外に、
>>289 :樹意 :2005/06/05(日) 12:12:20 ID:yp9pUnj4
> 十結煩悩で 五の五下分桔と言われる、身見 戒取 疑惑 貪 瞋恚のうち
> 身見 戒取 疑惑を切れば、預流になるのであるから、別段一足飛びに 貪や瞋恚を
> 断ち切る事を考えなくてもいいのではないかと考えます。
こういう意見もあります。
すなわち、
一般社会の中にあってすべての煩悩に悩まされないでいることは不可能だが、
十結煩悩で 五の五下分桔と言われる、身見 戒取 疑惑 貪 瞋恚のうち
身見 戒取 疑惑に悩まされないでいることは可能である。
これだけでも、かなりの煩悩を制御できるのではと考えます。
(以下捏造w)
したがって、
一般社会の中にあって煩悩に悩まされないでいることは可能だと
言っても、実質的に問題はない。
ものすごく基本的な部分、初歩的な認識の部分で間違っているね。 境がなければ自我もないのはあたりまえ。 夜寝ている間は自分という意識もない。 問題は境があってもそれに惑わされないでいることが可能かどうか。 可能でないなら一生眠っているしかないなぁ。
294 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/05(日) 15:12:18 ID:o7Rcl9iu
>>293 :名無しさん@3周年:2005/06/05(日) 14:08:21 ID:C+y88asi
> ものすごく基本的な部分、初歩的な認識の部分で間違っているね。
>
> 境がなければ自我もないのはあたりまえ。
> 夜寝ている間は自分という意識もない。
>
> 問題は境があってもそれに惑わされないでいることが可能かどうか。
『在家であっても阿羅漢果を得て、在家のままそれを保持できる』と主張しているのですか?
それとも、あくまでも、煩悩に限定して、
『一般社会の中にあってあらゆる煩悩に悩まされないでいることは可能だ』
ということですか?
295 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/05(日) 19:08:57 ID:d47utfz0
煩悩というのは、生きている証でありますから、 非常に仏教においては要諦です。 証を直覚するのを涅槃といいますから、いうなれば煩悩は涅槃のことです。 私は、除夜の鐘を聞いてこのことが解せました。
296 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/06(月) 06:05:00 ID:16YAYgLq
すべての人が出家すれば、不邪婬戒により、人類は滅びてしまうだろう。 野生の動物は、煩悩に悩まされるということはないだろう。 在家には在家の道があり、出家とは目的地が違うのかもしれないですね。 自然の摂理は場合によっては非情な生き方を人に要求するのではなかろうか? 一般社会の中にあっても第二の矢を受けない生き方は可能なのかも知れない。 が、出家とはまた別の覚悟が要求されるのだろう。 戯言ですけどね(笑)
297 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/06(月) 06:16:02 ID:16YAYgLq
>>289 :樹意 :2005/06/05(日) 12:12:20 ID:yp9pUnj4
> 十結煩悩で 五の五下分桔と言われる、身見 戒取 疑惑 貪 瞋恚のうち
> 身見 戒取 疑惑を切れば、預流になるのであるから、別段一足飛びに 貪や瞋恚を
> 断ち切る事を考えなくてもいいのではないかと考えます。
樹意さんは、
身見 戒取 疑惑を在家でも切ることができ、
残りの煩悩を在家では切れない、
その理由を理解できているのですか?
298 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/06(月) 06:37:08 ID:16YAYgLq
64 葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除き去って、 出家して袈裟の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。 207 親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵が生ずる。 親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者のさとりである。 220 両者は住所も生活も隔たって、等しくない。在家者は妻を養うが、 善く誓戒を守る者(出家者)は何ものをもわがものとみなす執著がない。 在家者は、他のものの生命を害って、節制することがないが、 聖者は自制していて、常に生命ある者を守る。 221 譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときは、どうしても白鳥の速さに及ばないように、 在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。 (スッタニパータ) ------------------ 仏法を心から信じ、かつ、在家のままとどまることは、本当に可能なのでしょうか?
299 :
樹意 :2005/06/06(月) 06:39:15 ID:Ap8TOLCT
>>297 在家でも五の下分桔までは切れると思いました。 〈典拠は示せませんが〉
ただ預流になれば 後は時間の問題でしょうから別段それから先のことは
対して価値を置いていません。 〈自分で自分でバカだと思います〉
五種蘊とその禍 その構造をしっかり理解するだけでも価値が
あるし、極端に言えば完全にこの 五蘊に対する〈我アリ〉を 解脱すれば
他の煩悩は消滅するという事です。
在家の徳目もこの 身見 戒取 疑惑に対応したものになっていると感じました。
五蘊に〈我アリ〉と認識することから 他の煩悩は出てきます。
ですから この五蘊の構造の理解なしにいきなり 貪 瞋恚の議論をやれば
必ず常見の間違いの 前提の元に議論が走る事になります。
基礎部分を抜きにして 上層階の 話をするようなちぐはぐなものになると
思います。
300 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/06(月) 07:51:50 ID:16YAYgLq
>>281 :樹意 :2005/06/04(土) 23:39:32 ID:AXJlZISi
> 仏陀が五蘊の終着要素と呼ぶものが並ぶ 概念の天は説きようがありません。
> 何故この天界を願ってする梵行が涅槃の障害なのかと言うと 常見や執着を
> 増すからだと思われます。
次第説法における「生天の法」は、まさに、
「天界を願ってする梵行」だとわたしは思うのですが、
樹意さんは、別物だとお考えなのですよね?
301 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/06(月) 16:26:19 ID:ztVS+E4m
302 :
樹意 :2005/06/07(火) 02:42:52 ID:WdBHbn7D
>>300 > 次第説法における「生天の法」は、まさに、
> 「天界を願ってする梵行」だとわたしは思うのですが、
> 樹意さんは、別物だとお考えなのですよね?
五蘊を〈我〉と思い 認識するから 腹が立つ
五蘊を〈我〉と想い 執着するから 貪が沸く
仏陀は正しく見ろと言っていますから、構造を理解すること無しに
〈じゃあお前は理解しているのか?という突っ込みは無し。〉〈実はよく理解していません〉
〈地下や一階部分を無しに 4階 5階を論じても意味が無い〉と考えます。
いきなり 貪やら瞋恚に話がいくから 誤解やら反発〈常見 断見〉があるのだと思います。
逆に構造を理解し、修行が進めば、手斧の柄の経にあるごとく 別段煩悩より解脱したいと
願わなくても 解脱するとあります。
303 :
樹意 :2005/06/07(火) 03:04:43 ID:aHKJG7GV
>>300 在家に説くのであっても 根本のところをひん曲げては仏教にならないと
思います。 〈構造を理解してもらうのが 一番先に来るからです〉
図面やら階段を示せば 後は時間の問題ですが それ無しに
ただ 4階やら5階やらの話をしたところで意味がなく、構造が
解っていないと 間違った解釈の元〈常見 断見〉になるかと思われます。
ですから、在家に喩で説くにしても 常見を前提にした喩というのは考えられない。
構造〈五蘊無我〉を理解させた上で 心が上昇すると表現したのを 〈天界〉と
表現したのだと思います。
304 :
樹意 :2005/06/07(火) 03:21:45 ID:w7Fl8gWD
「大徳よ、いかに知り、いかに見るならば、もろもろの煩悩は消滅するでありましょうか」 「比丘よ、眼は無常であると、知り、見るものにおいては、もろもろの煩悩は消え去る。 色〈肉体〉−−−− 略 同文ーー 相応部経典 35 56 雑阿含経 8 19 まったく無理がない。
305 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/07(火) 06:32:25 ID:fBDkv2jL
>>302 :樹意 :2005/06/07(火) 02:42:52 ID:WdBHbn7D
> 〈地下や一階部分を無しに 4階 5階を論じても意味が無い〉と考えます。
まったく、その通りです。
仏教を何も知らない人間に対して、本真の教え「四諦」をいきなり説いても
理解できないから、次第説法において、
・布施
・持戒
・生天の法
・欲楽のわざわい
・出離の功徳
をまず説いたわけです。
>>303 :樹意 :2005/06/07(火) 03:04:43 ID:aHKJG7GV
> 構造〈五蘊無我〉を理解させた上で 心が上昇すると表現したのを 〈天界〉と
> 表現したのだと思います。
樹意さんは、相手に「構造〈五蘊無我〉を理解させた」のは、
説法のどの段階だと考えているのでしょうか?
306 :
暇人 :2005/06/07(火) 07:56:16 ID:rPt2b5fw
>>263 >>243 で
「意→→→→思業 身口→→→思已業」という理解を元に
「身業の善を成すのは意業(思業)であるという仏教入門も理解できて
いないのでしょう」と論難される方がいたのですね。
「仏教の入門」であると。
>>247 で私は
増支部6:63を元に、「思已業は、身口意共」と反論したのですね
>>248 「原始仏教でも、この2つについては決着をみておりません。」と
243の「仏教の入門」を無責任に捨て、未決着と逃げられたのですね。
それと私の倶舎論をネタ本にしたという批判に焦り248では、
「意→思業 身口→思已業」は有部の理解であり、倶舎論はこれを批判し、
「思已業は、身口意共」の立場だと逃げられていましたので、
>>249 で「倶舎論分別業品」を引用して
倶舎論の理解も「意→思業 身口→思已業」であるととどめをさすと、
>>261 で突然、成業論を持ち出されるわけです。
しかも急ぐと碌なことはなく「cetanA(思)」を”cetaA”と誤記され、
倶舎論では口ごもっていたとまた248の主張「倶舎論はこれを批判」を
一方的に反故にして明後日の話題をされているのですね。
「ひょっとして倶舎論しか読んでいない」というより、
倶舎論をきちんと読もうね、ということですね。
248さんのご主張の主語は「世親は」ではなく「倶舎論は」ですからね。
暇な折に ゆるりと再読されて下され。
307 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/07(火) 08:55:18 ID:eIKwdIVP
・出離の功徳
の出離を、他の方が述べられていたように(
>>155 参照)、
> 原語的には、五官的欲望の遠離。
> つまり五欲を捨て去っていることからはじまり、
> 五欲に縛られて生きている現状からの離脱を暗黙裡に意味している
と解釈した場合、
http://www.j-world.com/usr/sakura/words/w025.html > 子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。
> 人間の憂いは、執着する依りどころによって起こる。
> 執着する依りどころのない人は、憂うることがない。
こんな内容が説かれたのかもしれません。
しかし、これに共感するためには、
・欲楽のわざわい
(子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。)
に納得している必要があったと思われます。
実際、私がはじめてその文をみた時には、
「尊師というのはなんという悲観主義者なんだ。
できれば、お付き合いしたくないな」と思ってしまいました(汗)
さて、では無我に納得するためには何が必要でしょうか?
諸行無常と
「これがあるからあれがある、これがなければあれがない」という縁起の法の
2つの理解が前提になると考えます。
308 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/06/07(火) 09:07:53 ID:8LC31/66
暇人さん。オカバンで遊んでるけど、本当に忙しいので少しだけ。落ち対たらまとめてコメントするよ。
>
>>243 で
><中略>
>
>>247 で私は
>増支部6:63を元に、「思已業は、身口意共」と反論したのですね
>>243 を援護しているわけではないが、「仏教の入門」としてそう捉えるのは間違いではありません。
その反論としてどの部派でも契経典としてよく使う増支部を引用されていますが、これは原始仏教の
文脈でお話されたようです。ですが、これを根拠に原始仏教、根本仏教すべてが増支部当該部分と
同じであるとは結論付けられません。三業そのものの成立(仏教以外ではあったが、釈尊が積極的に
踏襲したと結論付けるものはない)時期には未決着のだと考えた方がいいのです。ただし、思業・思已業
の二業分類はかなりさかのぼれるでしょう。思業とは只の「おもい」ではなく、意志です。意思との違い
で考えればわかりやすいのかもしれない。成業論ではそのような意図で著作されているようです。
>
>>248 >「原始仏教でも、この2つについては決着をみておりません。」と
>243の「仏教の入門」を無責任に捨て、未決着と逃げられたのですね。
248の言いたいことは解ります。暇人さんの言いたいことも解りますが、曖昧です。論理構造を見直してください。
原始仏教=「仏教の入門」という前提で逃げたというのなら性格の悪さが見えてしまっていますよ。
309 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/06/07(火) 09:08:19 ID:8LC31/66
>それと私の倶舎論をネタ本にしたという批判に焦り248では、
><中略>
>倶舎論の理解も「意→思業 身口→思已業」であるととどめをさすと、
え?とどめになってませんよ。読めば解るように、毘婆裟師批判の文脈です。もう少し読み進めてください。
>
>>261 で突然、成業論を持ち出されるわけです。
>しかも急ぐと碌なことはなく「cetanA(思)」を”cetaA”と誤記され、
>倶舎論では口ごもっていたとまた248の主張「倶舎論はこれを批判」を
>一方的に反故にして明後日の話題をされているのですね。
これは私の文責です。倶舎論と成業論は同主張の延長線上です。倶舎論では口ごもったというのは
当たり前ですが?
>248さんのご主張の主語は「世親は」ではなく「倶舎論は」ですからね。
私の主張は「世親は」です。また、さきほと言ったように、倶舎論も成業論も同列です。主張の差異は
ありません。
310 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/07(火) 12:32:33 ID:eIKwdIVP
>>260 :樹意 :2005/06/04(土) 00:21:04 ID:RfP7pzI6
> さかのぼりますが阿呆陀羅經さんのおかげで 常見外○を批判する決定的な説明がまた一つ増えました。
余計なお世話とは思いますが、気になったのひとこと。
自戒を込めて書かせて頂きますので、樹意さんに当てはまらないのであれば、
そのまま読み流していただければと存じます。
このスレは、「佛教の原点を闡明できる良スレ」を目指したスレです。
常見外○を批判するグループのメンバーが、理論武装を行うためのスレではありません。
「常見外○を批判」することは、手段であって目的ではないと考えます。
別にある崇高な目的を常に念頭に置いていれば、
批判するその行為は、因果応報における善因善果の善因となりましょう。
しかし、批判すること自体が目的となった場合には、
「相手を卑しめたい。自分の正しいことを証明したい。」という魔の思いに支配され、
一転して、悪因悪果の悪因になってしまいます。
きれいな思いで種を蒔きましょう。
きれいな花が咲き、素敵な実のなる種を蒔きましょう。
善因善果、悪因悪果の因果応報の法則は、
自然界においても、意識界においても、動かしようの無い絶対的な法則です。
PS:
『「原因」と「結果」の法則』という本を読み、
ちょっと気分がハイになっており暴走気味です(笑)。
311 :
樹意 :2005/06/07(火) 14:56:36 ID:vN33O817
>>310 > このスレは、「佛教の原点を闡明できる良スレ」を目指したスレです。
> 常見外○を批判するグループのメンバーが、理論武装を行うためのスレではありません。
当てはまるも当てはまらないも文責は樹意にあります。そのためのネームです。
ですから私に対する批判は謹んでお受けします。〈騙りがある場合は その旨書きます。〉
グループ云々という批判の根拠を示して戴きたいものです、私は個人です。
根拠の無い批判は 批判とはいいません。
理論武装という表現はどこから出てきたのでしょう。 ?
私は無宗だ、氏に無我を説明するにあたり主体をいう表現を使いましたがこれは無我を
説明するに適切な表現ではありませんし、縁起を説明するにも適切ではありません。
その間違いを指摘してもらったことに対するものであり、それは外道の批判材料となり
説明にも使えるものであるから 感謝しただけです。
本来外道というのは仏陀の縁起によらない〈常見 断見〉を根拠にするもの一切をさすわけ
ですから、このスレッドの趣旨にもなんら 矛盾しないと考えます。
312 :
樹意 :2005/06/07(火) 15:13:13 ID:vN33O817
>>310 > 「常見外○を批判」することは、手段であって目的ではないと考えます。
> しかし、批判すること自体が目的となった場合には、
外道を批判するのは経典の中で仏陀が沢山批判している事です。
批判しつつ 仏陀の縁起を説明するパターンは随所に見られます。
仏陀の宗教は中道といいます。
生天の法にしても 外道の考え方をもって中道を示す道理は無いと 議論 説明を
したまでです。
> 「相手を卑しめたい。自分の正しいことを証明したい。」という魔の思いに支配され、
これの根拠は ?
再度書きますが 外道の意味は仏陀の縁起によらない 宗教考え方〈常見 断見〉
を指すのですから
「佛教の原点を闡明できる良スレ」を目指したスレというのは 私個人の考えでは
中道の闡明でもあります。
中道の意味を再度 お考え下さい。
313 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/08(水) 06:16:31 ID:91FOVb93
結局といえばいいのか、やはりというべきなのか、
阿呆陀羅經氏は
> 身口意の三業では仏教では意業が重要視されますね。
に関しては、根拠を挙げることができたようですが、
> 佛教で最重要視されるのは身業よりも意業。
肝心のこちらに関しては、
全く根拠を挙げることができないまま、
だんまりを決め込んだようですね。
ベロさんからも、
>>240 >>245 に関するレスはないわけですが、
納得したのでしょうか?していないのでしょうか?
できれば、レスをいただけたらうれしいのですが。
(
>>287 に関しても )
314 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/08(水) 06:21:40 ID:91FOVb93
>>311-312 樹意さん、おはようございます。
どうやら私は、また余計なことを書いてしまったようですね。
> 理論武装という表現はどこから出てきたのでしょう。 ?
掲示板のカキコでは、私は普通に使用しています。
『常見外○を批判する決定的な説明』とありましたが、このように、
論敵に対し批判(理論による攻撃)を行うために知識を蓄えたり、
反論が予想される案件に関し、それに対応するための情報収集行為を理論武装と呼んでいます。
> グループ云々という批判の根拠を示して戴きたいものです、私は個人です。
> 根拠の無い批判は 批判とはいいません。
さて、あなたが書いた、
> さかのぼりますが阿呆陀羅經さんのおかげで 常見外○を批判する決定的な説明がまた一つ増えました。
この文章に私は違和感を覚えました。単純に
「阿呆陀羅經さんのおかげで、またひとつ仏教に対する理解を深めることができました。」
でいいと思うのに、「常見外○を批判する」ってなんなの?
原始仏教の理解、原点を闡明にすることには無関係な話題だと考えます。
阿呆陀羅經氏にそのことを伝える動機というのであれば、なんとなく想像できますが、
それを原始仏教スレで行う必然性が私には全く理解できないということです。
> 本来外道というのは仏陀の縁起によらない〈常見 断見〉を根拠にするもの一切をさすわけ
> ですから、このスレッドの趣旨にもなんら 矛盾しないと考えます。
といってますが、
>>260 では、ある特定の対象を想定していたわけですよね?
「常見外○を批判する」ことが、仏教の原点を闡明にすることになるとお考えなわけですか?
「常見外○を批判する」という共通の意思を持つ人同士が情報伝達を行っているという
印象を受けたのでグループ、メンバーという表現を使いました。
別に「常見外○を批判する」のための秘密結社があるなどと考えているわけではありません。
なかよしグループとか、『「生天の法」は死後、天界に輪廻転生すること』だと思っている人のグループ
というのと同じことです。
315 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/08(水) 06:45:53 ID:91FOVb93
あなたたちの言いまわしを使わせてもらえばw、 なぜ、 「常見外道」と書かずに、「常見外○」という表現を使用したのか その理由に関し、じっくり考えてみてください。
316 :
名無しさん@3周年 :2005/06/08(水) 07:17:28 ID:ZlvAuBB2
> このスレは、「佛教の原点を闡明できる良スレ」を目指したスレです。
> 常見外○を批判するグループのメンバーが、理論武装を行うためのスレではありません。
95 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/05/28(土) 09:55:52 ID:eR3KxfFr
>>94 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/28(土) 09:40:08 ID:aOZzSYHU
> ここが「原始佛教スレッド」であることをお忘れなく。
だから何? 玉石混合、有象無象の集う2chの一スレッドに過ぎんでしょう。
317 :
樹意 :2005/06/08(水) 07:22:13 ID:acYhmo5w
批判というのは 物事を進歩させるのに必要なものであり、進歩発展しようとおもうなら
必ず厳しい批判を受けてそれを考え、是正する必要があります。
仏陀も当時のバラモン等の教え 考えを批判し、それを 〈断見と常見〉にわけております。
阿含経典は批判だらけです。
私は某カルト批判スレの方で阿呆陀羅經氏に薫陶を受けた経緯があり、こちらにも顔を出すように
なった経緯がありますが こちらでは それは前面に出しているわけではありません。
無宗だ、氏が
>>110 で
> 某カルトのように、解脱すれば神通力が身につき、
云々と書かれ それに対して私が スシーマの経典を紹介し 神通力を享受する
のは五蘊であるから 神通力を享受しますかという 仏陀の言葉を紹介し、 無宗だ、氏が
先に書かれた事であるから >カルトは仏陀の中道を常見に変換するのです。
と 答えた経緯があります。 〈覚えていますか?〉
外道を批判する決定的な 説明を 無宗だ、氏に対してちゃんとしているわけです。
ですがその説明の中でも〈主体〉という字を使っていますから これも 常見をもって
中道を表現するという間違いを阿呆陀羅經氏に指摘された わけです。
間違いを指摘していただいたのであるから 感謝するのは当然です。
318 :
樹意 :2005/06/08(水) 07:32:24 ID:mNSEtvmm
>>317 > 外道を批判する決定的な 説明を 無宗だ、氏に対してちゃんとしているわけです。
この説明にあたり 画竜点睛を欠いていた、そういう事です。
無宗だ、氏に五蘊無我を説明するにあたり 〈主体〉という表現を使いました、これは無我を
説明するに適当ではありませんから 自己反省したわけです。
このスシーマの問答は五蘊無我と神通力の扱いを理解するのによい教典です。
ですが画竜点睛を欠いてはいけません。
いずれにしろ 外道を批判する決定的な説明の恩恵をすでに 無宗だ、氏は受けているという事
です。〈恩恵かどうかはわかりませんが 〉
あと こういう後ろ向きの議論はいただけませんね。 仏陀の経典を引用して前面から
議論するべきだと思いますよ。
319 :
樹意 :2005/06/08(水) 07:59:42 ID:jBc50fZm
>>318 > いずれにしろ 外道を批判する決定的な説明の恩恵をすでに 無宗だ、氏は受けているという事
> です。〈恩恵かどうかはわかりませんが 〉
スシーマの問答も外道を批判する過程で出てきたものです
この一連の無宗だ、氏との問答の多くはその中からのものが 大半です。
カルトが常見に変換すると 書いたときも 無宗だ、氏からはクレームがついては
いません。
常見を批判するというのは 結局中道とは何か?を説明する必要があります。
決定的な説明は〈自分がいうのもおこがましいが〉 この一連の生天の議論の
中で説明してきた事に他なりません。
その中で 画竜点睛を欠いていた ということです。
320 :
暇人 :2005/06/08(水) 08:12:15 ID:UM9bvppw
>外道の意味は仏陀の縁起によらない 宗教考え方〈常見 断見〉 >を指すのですから この見解がカルトぽいね。 「外道」に対応するのは「内道」だが、 外道は、他教という意味なのだが、後代になるほど「邪」という イメージがこびりついてくる。 常断見が<宗教考え方>と言うのも解らん。 断見を、「死後の世界はない」と理解するならば、 現代では科学的な見方だ。 それと仏教の中道の最初は「苦楽中道」であり、 雑阿含に見られる「有無中道」は傍系であり、後代では、と思うが。 いづれにせよ、「縁起」云々と、「外道」との関連は不明。 仏教だけが真実というカルトぽい宗教的情熱からの偏見的立場ではないか と私は感じるな
321 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/08(水) 10:29:46 ID:7evYfXcX
322 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/08(水) 12:42:09 ID:7evYfXcX
>>318 :樹意 :2005/06/08(水) 07:32:24 ID:mNSEtvmm
> あと こういう後ろ向きの議論はいただけませんね。
全くです。
> このスレは、「佛教の原点を闡明できる良スレ」を目指したスレです。
> 常見外○を批判するグループのメンバーが、理論武装を行うためのスレではありません。
これには、問題なく同意いただけるものと考えておりましたが、私のひとりよがりだったようです。
このスレにふさわしい書込みをしているとの信念を樹意さんが持たれているのであれば、
もうこれ以上、それに関しとやかく言う気は私にはありません。
>>310 > 余計なお世話とは思いますが、気になったのひとこと。
と書きましたが、本当に余計なお世話だったようですね。
ご迷惑をお掛けし、申し訳ありませんでした。
>>312 :樹意 :2005/06/07(火) 15:13:13 ID:vN33O817
> > 「相手を卑しめたい。自分の正しいことを証明したい。」という魔の思いに支配され、
> これの根拠は ?
これに関しましては、これは私のことです。
>>310 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/07(火) 12:32:33 ID:eIKwdIVP
> 自戒を込めて書かせて頂きますので、樹意さんに当てはまらないのであれば、
> そのまま読み流していただければと存じます。
ですので、
樹意さんが私とはタイプの違う人間であれば、読み流していただければと存じます。
323 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/08(水) 12:43:39 ID:7evYfXcX
さて、本題に戻ります。
「生天の法」に関してですが、
死後の世界に天界と悪趣地獄があることを信じている人に対して、
それを否定するのは、中道ではなく、断見です。
========
もしも、死後の世界に天界と悪趣地獄があったとして、
あらゆる邪悪の業をつんできたものが、いかに祈祷し合掌したからとて、
死後、天界におもむく道理はない。
その人は、身壊れ、命終わりて後は、悪趣地獄に生まれるほかはないのである。
反対に善業を積んでおれば、死後、天界におもむくであろう。
(
http://www5f.biglobe.ne.jp/~budda/tetra/budda/ooishi.htm を一部編集)
========
という内容であれば、中道の立場で、
死後、天界に輪廻転生することをといたことになり、
説かれた人にもわかりやすい内容だと思いませんか?
この段階では、まだ、死後の世界に関して論ずることがアホらしいことに
同意させる必要はないのではないでしょうか?
324 :
樹意 :2005/06/08(水) 12:45:07 ID:dCvtzRTn
>>320 > 常断見が<宗教考え方>と言うのも解らん。
カッサパよ、また作すものと受くるものと同じであるという考え方は、さきにそなたが
苦は自作であるといった考え方と同じである。それは、いうところの常見に堕する
ものである。
カッサパよ、また、作すものと受くるものとは別であるというのは、、苦を受けて
それに重圧されたものが、苦は他作であるというのと同じである。それはいうところの
断見に堕するものである。」
相応部経典 12 17 阿支羅 雑阿含経 12 20 阿支羅
此れをみてもわかる通り 〈誰が〉〈主体〉という表現を使った場合は中道を説明するには
不適説であります。 これは仏陀の中道の根幹に関わることです。
従って 的を得た指摘 或いは批判というの感謝するべきであると考えます。
325 :
樹意 :2005/06/08(水) 12:54:04 ID:dCvtzRTn
>>320 > いづれにせよ、「縁起」云々と、「外道」との関連は不明。
縁起の四つの公式をもって中道となります。
> 仏教だけが真実というカルトぽい宗教的情熱からの偏見的立場ではないか
> と私は感じるな
カルトは批判する対象ですが、当方をカルトと断定されるのは遺憾です。
このスレッドでの一連の書き込みは多くが経典引用をもって占められるものです。
326 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/08(水) 12:59:26 ID:7evYfXcX
>>325 :樹意 :2005/06/08(水) 12:54:04 ID:dCvtzRTn
> > いづれにせよ、「縁起」云々と、「外道」との関連は不明。
> 縁起の四つの公式をもって中道となります。
根本的に勘違いされていませんか?
「縁起の四つの公式」は、経験・観察できる世界のことです。
仏教で扱う一切に含まれます。
形而下の問題です。
中道(無記)は、経験・観察できない世界のことです。
仏教では扱わないから、無記なのです。
形而上の問題です。
327 :
樹意 :2005/06/08(水) 13:18:42 ID:kAl6PWcf
>>326 > 「縁起の四つの公式」は、経験・観察できる世界のことです。
「カッサパよ、わたしは、これら二つの極端を離れて法を説くのである、
いわく、無明によってーー」
>324引用経典と同じ で中道を説く教典になります
「−−相依るもの、比丘たちよ、此れを縁起というのである」
相応部経典 12 20 雑阿含経12 14 因縁法
12縁起の場合も 先に〈此れ在るによりて〜 〉で始まり 次いで12縁起を
説く場面が多々あります また注釈にも縁起は存在の法則であるとあります。
存在の法則を人間の苦に当てはめれば 12縁起に代表されるものになるわけです。
縁起の公式を人間の苦に当てはめれて法を説けば 中道という事になります。
ですが この公式は仏陀によって開示された仏教の根幹ですから
この公式をもって中道と理解しております。
中道とは、、うーんムズイね。 中道は空としても説明できるし 縁起としても説明できるからね。 常見はカルトだが断見もカルト。 これは二元性を離れないと見えないねぇ。
相対(二元性、世俗)から絶対(中道、涅槃)、これが仏道。
330 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/08(水) 19:05:52 ID:7evYfXcX
331 :
暇人 :2005/06/08(水) 21:09:15 ID:CBUu0TkY
■「この見解がカルトぽいね」 誰かをカルトと言っているのではなく、 ある種の「考え方」(見解)を私はカルトぽいと書いているのです。 この微妙な差異をじっくりと味わってくだされ。 ■権威主義と経典引用 カルト信者は教祖が言っているから正しいと言い、 ある人は経典引用しているだけだから問題ないと言う。 @何かの権威に寄り縋って、一つの立場に過ぎないものを 恰も真実視するところが変です。 A経典引用の場合、a特定の意図・主張をもってbある部分をc一つの解釈をし、 引用提示するわけです。 Ba主張b切り取り方c解釈の中味は、人によって割れますので、 自説の根拠提示にはなりますが、万人がそれを支持するわけではありません。 ■他郷を尊重する釈尊 仏教では一般に比丘サンガに入った年数が古いと尊重するわけですが、 伝承に拠れば釈尊は、仏教以外の修行経験を尊重しています。 「外道」経験など無意味だと無視したりはせず、 あなたは修行者としては私より長い経験をお持ちだ、と半座を分けたりさえ しています。同格であると。
332 :
暇人 :2005/06/08(水) 21:10:00 ID:CBUu0TkY
■
>>324 なにをおっしゃりたいか 当方には意味不明です。
この雑阿含12巻では、「常見=苦の自作 断見=苦の他作」とあります。
引用訳を わかりやすく意訳しますと、(私はこう読んでます)
「カッサパよ。(前世で)善悪の行為を為した苦楽の果報を、今、為した本人が受けるという
考え方は、苦を受けるのは過去の自分の行為の結果であると、キミがさっき
言ったのと同じ考え方である。これが、常見である。
これに対して(前世の)善悪の行為と現世の苦楽の結果に因果関係などないとするのは、
苦の果報を受けて、その重圧に喘ぐものが、俺の責任ではない、
この苦の原因は私の行為以外の原因があるのだと同じだ。これが断見である」ですね
「前世」をはずと、一見すると解るように仏教が初等倫理として採用し、
教団入門者の必須条件とした自因自果がここでは「常見」です。
本文にない「前世」を補うと、「前世で自分が為した行為の結果を、この世で受ける」と
いう意味になりますので「自作」はまさしく「常見」になり、意味がよく通ります。
あなたの読みは私には不可解です。
333 :
暇人 :2005/06/08(水) 21:11:05 ID:CBUu0TkY
■中道 何度となく書きましたが元々は「苦楽中道」だそうです。 一般的には、 @苦楽中道-中阿含 五分律 四分律 「一曰著欲樂下賤業凡人所行。二曰自煩自苦。非賢聖求法。 無義相應。五比丘。捨此二邊。有取中道。」(中阿含56) 「比丘出家者。不得親近二邊。樂習愛欲。或自苦行。非賢聖法 勞疲形神不能有所辦。比丘除此二邊已。更有中道」(四分律32) 「佛復告曰。世有二邊不應親近。一者貪著愛欲說欲無過。二者邪見苦形無有道跡 捨此二邊便得中道。生眼智明覺向於泥洹。何謂中道。所謂八正。」(五分律15) A断常・有無中道-雑阿含巻12 B断常中道-部派仏教(大毘婆沙論) C八不中道-大乗(中論) このC竜樹の中道は積極的に縁起をもって中道の根拠、根幹としますが、 初期仏教は積極的に「縁起の四つの公式をもって中道」と主張してないと思われます。
334 :
樹意 :2005/06/08(水) 21:55:45 ID:wRGh5diV
>>331 > 誰かをカルトと言っているのではなく、
> ある種の「考え方」(見解)を私はカルトぽいと書いているのです。
> この微妙な差異をじっくりと味わってくだされ。
具体的に 指摘してください。
考え方に関しては経典を引用してあります。
> ■権威主義と経典引用
> ある人は経典引用しているだけだから問題ないと言う。
問題ないと 書いた文章を示してください、
それと 経典引用に関しては、引用した後 経典をどう解釈するかは読む人が決めるので
あると 無宗だ、氏にも書いた事があります。
> 自説の根拠提示にはなりますが、万人がそれを支持するわけではありません。
経典を引用せず カルトぽい と>320で 暇人氏は批判されています。〈w
それに対して経典引用で答えた事に対する反論でしょうか ?
335 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/08(水) 22:02:09 ID:EE3gz8Ua
>ある種の「考え方」(見解)を私はカルトぽいと書いているのです。 正見(samma dtthi /samyag dRSTi)は基礎。 21 名前:阿呆陀羅經 ◆A91q4BsXNQ :04/10/15 23:55:11 ID:DLqOcMV8 別スレでの277男さんの発言ですが、重要且つ有益と思われますのでコピペします。 "dRSTi"見解には大きく二種類ある。 ・執着された見解(認識を超えたものを想定したり、信じたりすること) ・客観的合理性(法)を優先する論理的見解 釈尊が遠ざけるのは前者であり、後者は「信解」として尊ばれる。 これが原始仏教で言うところの「信」 iyam atra dharmatA このようなあり方は〔世尊がこの世に現れようが現れまいが〕現としてみとめられる。
336 :
暇人 :2005/06/08(水) 22:05:54 ID:CBUu0TkY
>>334 >具体的に 指摘してください。
>>320 で具体的に書いてますね。
>考え方に関しては経典を引用してあります
うん。経典引用を支持しない理由の一例は
>>332 を参照されてください。
以下のご主張は、意味不明ですので答えようがありません。
337 :
樹意 :2005/06/08(水) 22:14:43 ID:wRGh5diV
332 暇人 New! 2005/06/08(水) 21:10:00 ID:CBUu0TkY 前世がどうのこうのという表現は私が持つ阿含経典にはありません。 この経典の流れは12縁起に至ります、つまり縁起の説明です。 長くなりますが引用しましょう。 「カッサパよ、私は苦を知らないのではない、見ないのではない。カッサパよ わたしは 苦を知っている 苦を見ているのである。」 「だが ゴータマよ、あなたは 苦は自作であるとと問えば、しからずといった。 また、 苦は他作であろうかと問えば、そうでもないという。では、苦は自作にして 同時にまた他作であろうかと問えば、そうでもないという。では、苦は自作ではなく、 他作でなく、因なくして生ずるものであろうかと問えば、そうでもないという。 では、苦はないのであろうかと問えば、苦は無いわけではない、苦はあるのだという。 さらば、あなたは、苦を知らず、見ないのであろうかと問えば、いや カッサパよ、 私は苦を知っている、見ているのだという。では、大徳よ、あなたは、わたしに苦 を示したまえ 大徳よ、あなたは、私に苦を説きたまえ」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「カッサパよ、また作すものと受くるものと同じであるという考え方は、さきにそなたが 苦は自作であるといった考え方と同じである。それは、いうところの常見に堕する ものである。 カッサパよ、また、作すものと受くるものとは別であるというのは、、苦を受けて それに重圧されたものが、苦は他作であるというのと同じである。それはいうところの 断見に堕するものである。」 カッサパよ、わたしは、これら二つの極端を離れて法を説くのである。 ーーーーーーーー以下12縁起 −−
338 :
暇人 :2005/06/08(水) 22:22:21 ID:CBUu0TkY
わからんなりに、推測しつつ。。。 >経典を引用せず カルトぽい 経典に「カルト」規定はないと思います。 <何々をカルトぽい>と意見を述べるにあたって 私が根拠するのは、 経典的根拠ではなく、むしろ 「マインドコントロールの恐怖」「影響力の武器」などの アンチカルト書籍らです。 >それに対して経典引用で答えた事に対する反論でしょうか? 経典引用で答えた気になられているだろうが、 経典を誤読されているから 応えた気になれるのだと 思っています。 (もっと過激に言うと、無茶苦茶読むな) あるいは穏当な表現でいけば、 あなたの読みと私の読みは違う。 私にはその経典部分をどう読めば、あなたの応えの根拠となりうるのか 想像もつかない、と。
339 :
樹意 :2005/06/08(水) 22:22:44 ID:wRGh5diV
>>332 この経典の眼目は12縁起の説明です 苦を説きたまえと問われて 二つの
極端を離れて法を説くとありますから 中道の説明でもあり 12縁起の説明でもあります。
同様の趣旨の経典は他にもあります。 仏陀の宗教の根本的考え方になります。
これをどう読むかは ROMされる方が決めることでしょう。
340 :
暇人 :2005/06/08(水) 22:31:30 ID:CBUu0TkY
勿論ロム者一人ひとりが自分の判断をすればよいのだが、
君の説明ではにぜ「苦は自作であるといった考え方」が「常見に堕する 」
のか解らん。
キミがここをどう理解しているのかを聞きたいものだ。
>>324 で
>〈誰が〉〈主体〉という表現を使った場合は中道を説明するには
>不適説であります。
と、意味不明なことをおつしゃられていたが、
この<誰が><主体>と<自作><多作>のキミのつならりを
ご展開いただきたいのだが
341 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/08(水) 22:37:08 ID:EE3gz8Ua
>>331 >カルト信者は教祖が言っているから正しいと言い(以下略)
原始佛教の文脈で原始佛典を教証として用いるのは当然。誰も「万人の支持」とやらを
意図していないでありましょう。
摩訶迦葉の半座説話は摩訶迦葉が仏陀の教法を体現していることが大前提となってい
ます。(雜阿含經卷第四十一)
「苦」は因縁生起したものであるという教説です。
「ゴータマよ、苦は自作なりや。」「カッサパよ、然らず。」「ゴータマよ、苦は他作なりや。」
「カッサパよ、然らず。」「ゴータマよ、苦は自作にして他作なりや。」「カッサパよ然らず。」
「ゴータマよ、苦は自作にあらず、他作にあらず、無因生なりや。」「カッサパよ然らず。」
「ゴータマよ苦は無なりや。」「カッサパよ、然らず。」「苦は無に非ず。苦は有なり。」(中略)
「カッサパよ、作す者と、受くる者とが同なりとする。さきより有るものには、「苦は自作で
ある」との説は、「常見」に陥る。カッサパよ、作者と受者とが異なるという受に征服せられ
てあるものには、「苦は他作である」との説は、「断見」に陥る。カッサパよ、タターガタはこ
れらの二辺を承認せずして、中によりて法を説くのである。即ち無明を縁として行あり。
行を縁として識あり。……乃至……かくのごとくにしてこの純大苦蘊の集起がある。しか
るに無明が残りなく離貪し滅することより、行の滅がある。行の滅より識の滅がある。…
…乃至……かくのごとくにして、この純大苦蘊の滅がある『サンユッタニカーヤ』12・17・2
『雜阿含經卷第十二』
342 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/08(水) 22:47:35 ID:EE3gz8Ua
興味深いのは件の相応部・雜阿含記載の經に四句分別が現れることです。
343 :
樹意 :2005/06/08(水) 22:53:18 ID:wRGh5diV
>>332 外道という題の経典もあります、 これも最後には 12縁起の説明に至ります。
苦は縁りて起こる 因縁生起を人間に当てはめ 12縁起の説明になります その違いを
説いております。 中道のことですね。
「友よ、私は、〈苦は縁生である〉という。それは いかなる条件によってであろうか。
それは触によってである。そのようにわたしの諸説を説くならば、わたしを 誣いる
ものではなく、わたしの説いたままを語るのであって、私の教法を奉じ、わたしの見解に
従うものは、誰も 難詰するようなことはないであろう、」
ーー中略ーー
「だが、友よ、業を論じて、〈苦は自作である〉と説くシャモンやバラモンは、実は
触がないときにも、そういう事になることを説くことはできない。
或いは、−−〈苦は自作でもなく、他作でもなく、因なくして生ずるものである〉と
語るシャモンやバラモンも、実は、触がない時にも、そういう事になることを説くことが
できないのである」 と
ーー中略 その後12縁起の説明ーーー
相応部経典 12 24
これも 12縁起に至ります。 縁起を外道と比較しております。
内容的に
>>227 と同様です。
344 :
暇人 :2005/06/08(水) 23:07:30 ID:CBUu0TkY
>>341 >半座説話
伝承によると、八日で悟りを得た大迦葉ですが、
ここでは、彼の優れた様を根拠に半座を勧めたのではなく
「我今竟知誰先出家。汝耶。我耶。」です。
出家したのは誰が早いか。
先に出家した先輩は尊重する、ということです。
この出家に仏教も他教も区別はありません。
345 :
樹意 :2005/06/08(水) 23:11:20 ID:wRGh5diV
>>340 >>121 >
>>116 > ブッダ以来、佛教が問うてきたのは「誰が?」もしくは「何が?」ではなく、「何故に?」や「どのように?」であったと
> あったと考えます。
>>124 > 阿呆陀羅經さんの指摘を受けて思い出しました。
> 「大徳よ、誰がその意識という食物を食するのでありましょうか」
> すると釈尊は仰せられた
> 「それは適当な問いではない。私は誰かが〈食する〉とはいわない。もしわたしがそういったならば
> 〈大徳よ、誰が食するか〉との問いは正しいであろう。だが、わたしはそうはいわない。だから
> そうはいわないわたしには、ただ、〈大徳よ、どうして意識という食物があるか〉と問うべきである。
> それが適当な問いというものである。そうすれば、適当な答えもありうる。
> 〈意識という食物は、未来の新しい存在: 新しい生の条件である。それがあるゆえに
> 六処があり、また六処があるゆえに触があるのだ〉と」
> 相応部経典 12 12 雑阿含経 15 10 パッグナ
> 縁生 縁起 五蘊無我を説くにあたり、誰がという言い方をすると常見 断見の間違いに誘導する
> ものでありました。 確かに仏陀も適当ではないと 仰っています。
> 無我を説明するのに主体であるとか書きましたが、これはやはり 常見に誘導する可能性があります。
> 注釈をつけて事足りると思っていましたが やはりよくありません。 反省です。
> まあ 3分経つと大概のことは忘れる脳みそですから ご勘弁の程を。
縁生 縁起 中道 12縁起を説明するのに 誰がという問いを仏陀が経典で批判されています、
同様に私もその不適切を
阿呆陀羅經に指摘してもらったのです。 縁起 中道を理解するのには妨げになるものです。
この点に対して 逆に暇人さんの考えをお聞かせ下さい。
346 :
樹意 :2005/06/08(水) 23:15:56 ID:wRGh5diV
>>345 > 縁生 縁起 中道 12縁起を説明するのに 誰がという問いを仏陀が経典で批判されています、
この場合は 四食 のうちの識に関してです。
347 :
暇人 :2005/06/08(水) 23:45:46 ID:CBUu0TkY
>>345 346
その<誰が>と、
>>337 が どう関わっているのかが不明です。
まったくわからない。
@「苦は自作であるといった考え方」が「常見に堕する 」 を
理解するうえで<<誰が>>はまったく無関係だと思う。
A<五蘊無我を説くにあたり、誰がという言い方をすると常見
断見の間違いに誘導する >も私にはわからない。
私の理解では、
<五蘊無我>は、「私がない」でも「主体がない」でもなく、
「わがものという執着」からの脱却です。
<常見>は、死後もアートマンは不滅であるという見解です。
釈尊時代のインドの正統見解です。
<断見>は、死後否定です。現代の科学的な見解はこれです。
仏教は<断見>だと、自因自果が否定され、仏教の初等倫理が排斥されるので
これを積極的に警戒したみたいですね。
<五蘊>は、人間を分析したら、「体と心」に行き当たる。
「体と心」共に、変化しつつ現象しているから、
永遠不滅の実体などどこにもない<無我>という見解でしょうし、
そもそも<誰が>はいらんが あっても説明可能ですし、
なぜ<常・断見>になるのかがわからん。
348 :
樹意 :2005/06/09(木) 00:31:52 ID:SSgu41/L
>>347 はい なぞが解けました。
> A<五蘊無我を説くにあたり、誰がという言い方をすると常見
> 断見の間違いに誘導する >も私にはわからない。
>>124 引用経典は 五蘊の識に対しての 仏陀の問答ですが これは 未来の
新しい存在の条件である識を説明しており、それが在る故に六処があり触があり
受ーー愛ーー と続く一連の縁起の説法になります。
識は五蘊に分類されるものです。
また この一連の引用にあるように 仏陀は12縁起を説明する前に
「二つの極端を離れて法を説く」とも 言っております。
「〈大徳よ、どうして意識という食物があるか〉と問うべきである。」
識も条件〈縁〉により生じるという事を示しています。
この点に立てば確かに 誰がという問いは 縁起せるものであり無我なる
ものを問うのに「 誰が」という問いはどちらか極端に偏るものであると
考えます。
349 :
暇人 :2005/06/09(木) 00:57:59 ID:vnVqM/TV
>>348 そですか。私のナゾは深まるばかりですね。
言い方を代えましょう。
釈尊(経典)が言っているのは何度もカキコ頂いてるので、
解ります。
解らないのは論理です。
「〈大徳よ、どうして意識という食物があるか〉と問うべきである。」
とありますが、
「誰が」と問うと、「断見」ですか? 「常見」ですか?
どちらでしょうか? 特定してください。
それはなぜ「断見」なり「常見」と見なせるのですか?
「苦は自作」の話に<誰が><主体>に言及されたのは、
「苦は自分が作った」「苦は自分以外の誰かが作った」と
<誰か>を問題にしている点がマチガイという立場ではないのでしょうか?
「苦の原因は、自分なん?」「自分以外なん?」「自分でもあり、他の要因
も作用しているものなん?」「そもそも原因なんてないん?」
これに全部「ちゃうよ」と釈尊が応えたので、「んじゃ、そもそも苦はないんだ」
釈尊は「いや、苦はあるよん」
「苦の原因を作った人が苦るしみ受けるんだったら、苦の原因は自分になる。
これは常見だね。以下略・・・」
こうなるわけだが、なんで「自作」が「常見」なのか、
この訳では不明なのね、私は。
「自作」をどう訳しているか どう自分なりに読んでるか
それぞれの方の見解を聞きたいのだけどもね
350 :
暇人 :2005/06/09(木) 01:04:02 ID:vnVqM/TV
「苦は縁生」を真実として、類推すると、 「自作」は、むしろ「それ自体から起こる」 「他作」は、「それ自体と無関係に起こる」 「共作」は「それ自体+その他の要因が共に作用して起こる」 「無因作」は「原因なんてなく起こる」 かもね。 うむぅ 寝よ。
351 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/09(木) 05:32:50 ID:8kit8UN3
「誰が」やもしくは「自作・他作」を問うことそのものが、既に循環論法、 論点先取の誤謬に陥っているといえます。
352 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/09(木) 05:44:22 ID:8kit8UN3
ブッダはカッサパの問いの前提を否定して、苦が因縁生起するものであることを説い たと考えます。
353 :
暇人 :2005/06/09(木) 06:21:50 ID:LOcGKcDz
>>351-352 意味不明です。
「苦は自作」がどーして「常見」なのか説明できてません。
354 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/09(木) 06:35:48 ID:8kit8UN3
「誰が」や「それ自体」という前提の設定そのものが常見もしくは断見という両極端の見解に 向う原因となります。ブッダはこうした前提設定の誤謬性や危険性を看破したのでしょう。
355 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/09(木) 06:36:29 ID:xuNw9D/t
>>341 > 「苦」は因縁生起したものであるという教説です。
なるほどねぇ。
花(苦)が咲いていた場合に、その花の種(因)を蒔いたのが、
「自分」なのか「他人」なのかを問うても意味はない。
(苦の滅の役にはたたない)
種という因があり、土壌があり、日照・水撒きその他の多くの縁があって
花(苦)があるということを理解するのが重要なのだ。
(そうすれば、苦の滅を得ることができよう)
ということかな?
356 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/09(木) 06:45:26 ID:xuNw9D/t
>>353 :暇人:2005/06/09(木) 06:21:50 ID:LOcGKcDz
>
>>351-352 > 意味不明です。
> 「苦は自作」がどーして「常見」なのか説明できてません。
意味不明なことしかいえない説明能力の不自由な人に、
理路整然とした説明を期待するのはむなしいことです。
>>332 :暇人:2005/06/08(水) 21:10:00 ID:CBUu0TkY
以上にわかりやすい説明が、
どこかから出てくるとは考えがたいです。
357 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/09(木) 06:48:47 ID:8kit8UN3
漢訳の場合はこれらの設問に対し悉く無記の対応が採られています。 T02n0099_p0086a14(05)? 阿支羅迦葉白佛言。云何。瞿曇。苦自作耶。 佛告迦葉。 T02n0099_p0086a15(01)?苦自作者。此是無記。 迦葉復問。云何。瞿曇。 T02n0099_p0086a16(01)?苦他作耶。 佛告迦葉。苦他作者。此亦無記。 T02n0099_p0086a17(02)? 迦葉復問。苦自他作耶。 佛告迦葉。苦自他作。 T02n0099_p0086a18(01)?此亦無記。 迦葉復問。云何。瞿曇。 T02n0099_p0086a19(05)?苦非自非他無因作耶。 佛告迦葉。苦非自非他。 T02n0099_p0086a20(02)?此亦無記。 迦葉復問。云何無因作者。瞿曇。 T02n0099_p0086a21(02)?所問苦自作耶。答言無記。他作耶。自他作耶。 T02n0099_p0086a22(01)?非自非他無因作耶。答言無記。今無此苦耶。 T02n0099_p0086a23(00)?佛告迦葉。非無此苦。然有此苦。 T02n0099_p0086a24(04)? 迦葉白佛言。善哉。瞿曇。説有此苦。為我説法。 T02n0099_p0086a25(02)?令我知苦見苦。 佛告迦葉。若受即自受者。 T02n0099_p0086a26(02)?我應説苦自作。若他受他即受者。是則他作。 T02n0099_p0086a27(01)?若受自受他受。復與苦者。如是者自他作。 T02n0099_p0086a28(01)?我亦不説。若不因自他。無因而生苦者。 T02n0099_p0086a29(02)?我亦不説。離此諸邊。説其中道。如來説法。
358 :
樹意 :2005/06/09(木) 07:18:30 ID:TMAmOroL
>>352 > ブッダはカッサパの問いの前提を否定して、苦が因縁生起するものであることを説い
> たと考えます。
説明不足を補填していただきありがとうございます。
>>350 > 「苦は縁生」を真実として、類推すると、
>
> 「自作」は、むしろ「それ自体から起こる」
> 「他作」は、「それ自体と無関係に起こる」
> 「共作」は「それ自体+その他の要因が共に作用して起こる」
> 「無因作」は「原因なんてなく起こる」
経典が12縁起の説明に至っています から苦の縁起というのは12縁起に代表される
支縁起になります。 苦は縁生という事です。
また 触がなければそういう事は説けないと 述べた経典も引用してあります。
「誰が」と 問うことは 我とか主体 というものが前提になると考えます。
359 :
暇人 :2005/06/09(木) 07:23:12 ID:LOcGKcDz
>>357 知っています。今更・・・。
経文を挙げなくても水野さんの「原始仏教」p94に、
代表的な十・十四無記※とははずれる傍系の無記説として、
(※A自我及び世界は無限(常見)?・有限(断見)・
有限且無限(折衷説)・非有限非無限(懐疑説)
B世界は空間的に無限・有限
C霊魂と肉体は同一(断見)、別異(常見)
D如来の死後に生存する、しない
BDに折衷説と懐疑説を加えると十四無記)
E我及び世界が自作・多作・共作・無因作
F苦楽・我・世界の常・無常・常無常・非常非無常
G苦楽・我・世界の自作・多作・共作・無因作
を挙げられています。
この分類からすると傍系のGです。
ちなみにAでは、四句分別の最初=常見 二番目=断見ですが
Cでは、逆に四句分別の最初が断見 二番目は常見です
360 :
樹意 :2005/06/09(木) 07:25:12 ID:TMAmOroL
>>350 苦は縁生という事ですので 自作 他作にも同様のことが言えます。
>342 引用経典もご参照ください。
361 :
暇人 :2005/06/09(木) 07:34:32 ID:LOcGKcDz
>>355 >花(苦)が咲いていた場合
花自身の内的な力で咲いたと考える立場が「自作」です。
太陽・水・温度とか環境が花以外の他の要因が作用して咲いたとするのが「他作」です
その両者、内的な力も外的要因も共にというのが「共作」です。
「無因作」は、原因はないとか原因を特定できないという懐疑説です。
樹意さんの引用訳は、パーリなのに、「常断見」が入っていますが、
これは訳者が補っていて原文にはない可能性があります。
うろ覚えですが、この箇所 漢訳において「常断見」が挿入されたと
聞いた記憶があります。
種の内的な力で花は咲いたというのをどうして、
つまり「自作」を経典が「常見」と判定したのか、
いづれにせよ 「輪廻」を前提にしないと 私には不明です。
362 :
暇人 :2005/06/09(木) 08:01:23 ID:LOcGKcDz
>>360 では、「縁生」と「自作」「他作」「共作」「無因作」の差異を論じてくだされ。
>>343 ですね
「触がないとき」って具体的にどういう時なん?
六感が共に対象と接触しないとき?
鼻は嫌な臭いを嗅ぐと「苦」を感じるわけですから、
「触」がなければ、「縁生」だって説明できないのだが。
恐らくこの経典の著者の頭にあるのは、苦が生起するのは、
感覚器官がわ(自)にあるのでもなく、対象側(他)にあるのでもなく
「対象と感覚器官の接触」にあるのだといいたいのだろうね。
それと常見 断見と どう関係があるのか不明。
363 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/06/09(木) 09:08:18 ID:7brxrliG
多忙につき一言。 暇人さん。何を言いたいの?論点は何?主張は? 言葉尻について長々議論するのは無意味だよ。 たとえば、「縁生」と「自作」「他作」「共作」「無因作」と常見・断見との関係性(無関係も含む。念為)を 考えるとき、どのような意味があって、暇人さんの主張とどう結びついていくの? ><五蘊無我>は、「私がない」でも「主体がない」でもなく、 >「わがものという執着」からの脱却です。 これだけどさ、いい加減古臭い解釈から抜け出せないかい?存在否定ではないことは近代仏教 から周知されてるけど、法相などの性相学では当初から当たり前として教育されている。また、 「執着からの脱却」ってなにそれ?あんたの好きな安物の入門書や概説書のまんまじゃん。 それじゃ、まだ「我」にとらわれた観念のまんま。【我を前提としない】と読むのが正解。 それと、聞くけどさ。常見断見って死後解釈に限定してない?
364 :
暇人 :2005/06/09(木) 10:47:29 ID:tDqSj71n
>>363 >法相などの
だから、ここは原始仏教の部屋で
中期大乗の部屋ではない。
ええかげん、きづかれよ。
365 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/09(木) 10:50:40 ID:cXMQexe/
そもそもの混乱の原因は、 樹意さんが何をベースに何を言いたいのか? が不明確であることです。 原因(種)―縁(日照、水、肥料、他)―結果(花) と考えてみる時、 私: 原因が結果を作っていると考え、 原因の責任が自分にある(自分で蒔いた種)と考えるのが「自作」 原因の責任が他人にある(他人が蒔いた種)と考えるのが「他作」 様々な縁により、結果が作られると考えるのが「縁生」 (「縁生」を考える場合には、原因すら一つの縁と考えるのが妥当) 暇人さん: 内的な力(種)―外的要因(日照、水、肥料、他)―結果(花) と捉え 内的な力が結果を作っていると考えるのが「自作」 外的要因により結果が作られたと考えるのが「他作」 それじゃ、「縁生」って何? 阿呆陀羅經さん:(予想回答w) > 原因(種)―縁(日照、水、肥料、他)―結果(花) こんな前提を受け入れた覚えはありません。 「自作」、「他作」、「縁生」に関する考えは既に述べており付け加えることはありません。
366 :
暇人 :2005/06/09(木) 10:52:19 ID:tDqSj71n
>言葉尻について長々議論するのは無意味だよ んとね。なぜ「自作が常見」なのか みんなわかってないのよ。 あるいは わかるように説明できない。しない。 イラツカセタようなので 私の反対論者の読みを解説しとくね。 私なら こう読む 「触」概念を参考して、 「自作」は「前世」を前提せずに、「常見」だと論ずる場合 「鼻」(自作) 「腐ったバナナ」(他作) 「悪臭」(苦)というキャストで意訳すると 「悪臭を作っているのは鼻なん?」「腐ったバナナなん?」 「鼻でもあり、腐ったバナナでもあるん?」「どちらでもない?」 「ぜんぶ ちゃうよ」 「悪臭を作ったモノと悪臭を感じるものが、共に鼻だったら、 鼻のアートマンが、外界と独立自存して機能していることになり、 臭いものなしに鼻だけで悪臭を感じれるという常見となる」 「悪臭が、悪臭を感受する鼻と独立に存在しているとするならば、 感じる主体がないのに悪臭が客観的に存在しているという唯物論になり、断見である」 「そうではなく、腐ったバナナと感受する主体が接触したところで、これは臭いという 苦しみが生じるのである。あらゆることはこのように、関係して生じるのである」
367 :
暇人 :2005/06/09(木) 11:14:34 ID:tDqSj71n
<どのように>問わず<誰が>と問うたからダメなのでも 循環論法に陥るからダメなのでもないですね。 この場合においては、緻密精緻な阿毘達磨教学の世界を 反映して発達した思想的な意味で「常見」「断見」は使用されていますね。 阿毘達磨的意味として機能だから、遠く原始仏教を遊離しています。
368 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/09(木) 11:23:44 ID:TkmCnBzk
ROM記念 >「そうではなく、腐ったバナナと感受する主体が接触したところで、これは臭いという >苦しみが生じるのである。あらゆることはこのように、関係して生じるのである」 バナナも、感受する主体もないわけでして、臭いという縁起があるだけです。→空 バナナと感受する主体、という分別を→色
369 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/09(木) 11:30:13 ID:895hShVd
鼻(感官・感覚機能)と香(その対象)を縁として鼻識(認識判断作用)が生じる。根境識の和合によって触が起る。
370 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/09(木) 11:37:36 ID:TkmCnBzk
>鼻(感官・感覚機能)と香(その対象)を縁として鼻識(認識判断作用)が生じる 縁というのは、対象がないから縁というわけで、 縁起というでしょう。 つまり縁が生起するわけ。
371 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/06/09(木) 11:38:09 ID:7brxrliG
>>364 あのね、法相学は中期大乗だという自覚は無いのよ。
釈迦仏教として阿含経典を最大の典拠として語っているんだ。
動機としてはこのスレッドにおける「原始仏教」と同じなんだ。
中観派も経量部も同じ。彼らは現代で言うところの「原始仏教」
あるいは、「根本仏教」を語っているのだ。
ええかげん、きづかれよ。それと、「無我」については了解なの?
それと、
>>366 の理解はへんだぞ。
対象と感官が接触するときに生じるのは苦・楽・不苦不楽などの感受であって、
四苦八苦の「苦」ではない。縁起は後者の苦について語られたものである。
なんか、整理つけないで話して内科医?
#今多忙なんだけど、暇人さんも本業持ってるんでしょ?
372 :
樹意 :2005/06/09(木) 12:34:08 ID:h2TvbYlI
>>366 > んとね。なぜ「自作が常見」なのか みんなわかってないのよ。
中村 元先生の 書いたものを引用してみます。
縁起と中道を同義にする最初期の仏教
中道の思想はすでに原始仏教経典のうちにれを見出すことができる。論理的な意味において八正道が
中道であると説かれている箇所もかなり多いが、これとは別に純粋に論理的な、意味において「中」または
「中道」を説いている箇所がある。「如来は二辺をはなれて中によって法を説く」といわれている。
そうしてここに注目すべきは、中道の説明が常に縁起の説明に関連してなされていることである
では縁起説が何故に中道を説くことになるのであろうか。
あまねく知られているように、縁起説は、〈苦しみなどが自から作られたものでもなく、他のものによって
作られてたものでもなく、両者〈それ自体[自性]と他のものとによって作られてものでもなく
無因にして作られたものでもない〉ということを主張し、「縁起」とは「これらのもろもろの一方的な
見解を離れていること」であるから中道であると説かれている。すなわち たとえば苦しみについて
いうならば、苦しみが〈自から作られものであること〉を説くのは、苦しみを作ったものとそれを感受
するものとが同一であることを意味するから常住を執する見解〈常見〉であり、苦しみが〈他のものに
よって作られたこと〉を説くのは、これに反して、苦しみを作ったものとそれを感受するものとが
別異であることを意味するから断滅を執する見解〈断見〉であり両者は二つの一方的な見解〈二辺 〉
であるとされている。これに対して縁起はそのいずれでもなく、いわんやそれが〈両者〉によって
作られた〉とか〈無因によって作られた〉とかを説くのではないから、中道であると説明されている。
中村 元 竜樹 講談社文庫
その他 常住を執する見解は 一切は有である等々 引用されtいます。
>>372 :樹意 :2005/06/09(木) 12:34:08 ID:h2TvbYlI
> 中村 元先生の 書いたものを引用してみます。
樹意さんは、中村 元先生の言っている内容を理解し、納得した上で引用されているのですか?
私にはむずかしくて理解できません。
できれば、
>>366 で、暇人さんが示されたように、
適当にキャストを割り振り、具体的に喩えて解説して頂けないでしょうか?
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/mahavagga.html 心にしみる原始仏典
『アングッタラ・ニカーヤ』V.67(PTS Text,Vol.1,pp.197-8)
三の集まり 大なる章 67
6.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
比丘たちよ、傾聴に値しない人は、喩えて言えない人※である。
傾聴してよい人は、喩えて言える人である。
喩えて言える人であるならば、ただひとつの法をみずから知り、ただひとつの法をあまねく知り、
ただひとつの法を捨て去り、ただひとつの法を直観する。
ただひとつの法をみずから知り、ただひとつの法をあまねく知り、ただひとつの法を捨て去り、
ただひとつの法を直観する人であるならば、正しい解脱に触れるのである。
比丘たちよ、このために、討論がある。このために、熟考がある、このために喩えがある。
このために、耳あるものを保つのである。こうであれば、執着を離れ心の解脱がある。
374 :
暇人 :2005/06/09(木) 22:05:00 ID:MTAAxN7w
>>371 忙しいのなら、ちょろちょろ出てこなくても汗。
墓穴掘って宿題増やされているだけなのだが。
阿含宗だって新興宗教という自覚なしに、動機としては
自分たちが「本来の仏教」に近いと思っているだろうが、
私は、阿含宗にせよ、法相にせよ、その主張を鵜呑みにしないわけだ。
こういう基本的なことを言わせるな。
無我についての君の見解は論ずるまでもなく却下なので
無視しています。 これをネタに遊びたいのでしょうか?
あなたは中期大乗によって整理され緻密精緻になった概念規定を、
「正」とされる立場から、モノゴトを判断されるので、
よく言えば「専門馬鹿」。
正直な感想を言えば結果的にせよトモデモ系になっているのだ。
>>366 が変と言うならば、まずキミの意訳を展開してくだされ。
その上で、当該箇所を理解する場合、
「苦・楽・不苦不楽などの感受としての苦」と
「四苦八苦の苦」を
@私がどう混同しているか、
A更にその混同があるとどういう誤謬に陥るからまずいと、
その二点を<具体性>をもって語られたし。
たぶん反論するよ。
キミの指摘が的外れなことを論じちゃうと思われます。
それまで留保しておいてあげよう。
375 :
暇人 :2005/06/09(木) 22:06:52 ID:MTAAxN7w
>>372 竜樹ね。悩ましいぃ汗。
私も中論観因縁品の有名な「諸法不自生 亦不從他生 不共不無因 是故知無生」を
意識しつつ
>>366 を書いていたのだが、中村さんの解説では、
「苦しみが〈自から作られものであること〉を説く」ことが、
@なぜ「苦しみを作ったものとそれを感受するものとが同一であること」を意味するのか、
A更に「常住を執する見解〈常見〉」になっていしまうのか意味不明瞭です。
経典にそう書いてあるのはわかるのですが、「なぜそうなのか」説明できていません。
しかも竜樹は大乗だ。
平川彰は、著作集T「法と縁起」P355以下で、この雑阿含12に言及しているが、
「苦は自作」の意味を、「いま自己の受けている苦は、過去の自己が作ったもの」とし、
「自業自得」と解釈し、「原因と結果を連続的に結合する見方」と分析している。
「苦は他作」は、「他人が作った苦の原因を自分が受ける」という意味とし、
「他作自受」と解釈し、「原因と結果の断絶」と判断されている。
自作は原因と結果の「連続」だから常見。
他作は原因と結果の「断絶」だから断見。
まあ謙虚に言えば 色んな味方があり、一人ひとり「自分が良し」とするのを
選べばよい。
376 :
暇人 :2005/06/09(木) 22:27:09 ID:MTAAxN7w
ちなみに中村元「竜樹」をお持ちならば、p349 「苦しみの考察」も読んでくれたまえ。 「自作 他作 共作 無因作」の箇所の現代語訳があります。 「次の生涯」という表現で、「来世」を前提した訳になっています。
377 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/06/09(木) 22:33:44 ID:7brxrliG
>>374 なにを発作おこしてるのですか。
まとめて撃破してあげるから楽しみにしてまってなさい。
原始仏教にはabhisamayaがないと言わせるような程度の低い入門書や
概説書を鵜呑みにしてウロしかいえないじゃないですか。
だれが、法相や中期大乗を鵜呑みにした?勝手に先取りしなさんな。
そんな学問的手続きを無視するような人だと思い込んでしまうあんたは
かなりあほだ。
倶舎論や成業論についてはどうなった?読んでみましたか?
あんたには原始仏教を語るのは無理だ。書物で納得していればいい。
後のものを足がかりにするという文献学的な手法にはついて来れないし、
(たとえば、大乘興起は仏塔信仰から始まったとか視野が狭いんだもん)
大乘興起の4視点なんて、まったく知らなかったでしょ?
「五蘊を考えるときには「我」を前提としない」に異論があるというのなら、
「ジャータカのレリーフが経蔵だ」と主張したのと同じくらい愚劣なことに
なるよ?あるいは「部派仏教、特に説一切有部には「自性」という概念
があるはずがない。それは世親を専門とする人が三性説を念頭に置く
からそう思い込んでしまう」と言ったすかたんと同じことだよ。
あのね、大乗で引用している阿含経を文献学的に抽出して、現存の
阿含経よりも古層部分を探るという手法があるのも知らないの?
そしてその部分に対する注釈などを考察するのも十分な価値がある。
また、阿含経の最古層といえども、部派仏教の洗練を受けていないも
のはない。サンミティーヤなどの新資料の検討なしには判断できない
ものもあるんだ。研究領域のこと、ぜんぜん知らないジャンカ。
諸部派によって改編されたものをどうして部派の知識なしに読むんだ?
それより何より、思い込みは止めてくれる?
正直な感想を言えば、あんたのは概説書の継接ぎのシッタカ。
378 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/06/09(木) 23:34:54 ID:7brxrliG
んん、、、ちょっと語弊があるので訂正します。 誤 「五蘊を考えるときには「我」を前提としない」に異論があるというのなら、 正 「五蘊〔を考えるときに〕は「我」を前提としない」あるいは 「「我」を前提としないものが五蘊である」に異論があるというのなら、 ということになります。諸法無我も含めて、「無我諸法」などの言い換えがあります。 「我がある、ない」とか「我である、でない」とかいう捉われ(これこそが我)から離れる ことこそが「無我」と呼ばれます。そして「我」を前提としないと言う意味につながるのです。 そのように考えると、五蘊や諸法がありのままに観察されると言うのが原始仏教の 正しい理解だと思います。
主体を設定すると常見、断見の極端に陥る、というのはその通りだが、 なぜ主体を設定すると常見や断見の極端に陥るのか? それは主体について思いをめぐらすとき、 それを対象として捉えてしまい、 その対象としての主体を、 「ある」か「ない」かの問題として捉えるという 二元的概念から抜け出すことが出来なくなるから。 これに対して最初から「主体」を設定しないなら (主体が)「ある」とか「ない」という 質問の前提そのものが不適切になり、答えようがなくなるので すべての答えが否になる。 縁起で説かれているのはあくまでも二辺(相対的二元論)を離れること。 主体を立てると、これが出来なくなる(より正確には、主体により二元性が生じる)。 ナーガルジュナが縁起を空として自性がないと説明するのはこのため。 どこまでいっても縁起で問題にされていることの本質は二元性。 人間の思推はこの二元性の上に立てられているため、 通常の思考作用では、ものごとをあるがままに観ることが出来ない。 ここを外して中道は語れない。
380 :
名無しさん@3周年 :2005/06/10(金) 04:34:50 ID:XWIfiCzC
確かに暇人は仏教学部の初等段階で習うオーソドックスな仏教教理を身に付けて はいるが、それを身に付けた後に、個々人が挑む柔軟な冒険的試論には批判的・ 否定的なスタンスだね。電波や阿呆陀羅とはこの辺が違う。ここは学界の発表の場 では無いんだから、私などは冒険的なスタンスの方が見てて面白いよ。 暇人は権威主義や何かの見解を絶対視しない事を主張しているが、暇人自身が 古典的仏教学そのものの権威主義に執り付かれているんだよな。本人にその 自覚があればまだまだ見込みはあると思うけど、全然自覚はないみたいだ。
381 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/10(金) 05:37:02 ID:IUEbTIaL
>>366 :暇人:2005/06/09(木) 10:52:19 ID:tDqSj71n
> 「鼻」(自作) 「腐ったバナナ」(他作) 「悪臭」(苦)というキャストで意訳すると
うーん、こうきたか。これだと、
「腐ったバナナ」(原因) ―「悪臭」(結果)―「鼻」(縁) かな?
十二縁起でいえば、
「腐ったバナナ」のふりまいている匂いの粒子が、『名色』
鼻が『六処』
鼻の粘膜に匂いの粒子が接触することが、『触』
これが神経を伝わり脳で認識可能な形になるのが『受』
こうしてできた脳内の匂いのモデルの認識が『識』で、
これを悪臭と判断するのが『愛』かな?
382 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/10(金) 05:37:38 ID:IUEbTIaL
「師よ、人間の価値って自分で決めるものですか。」 「弟子よ、然らず。」 「師よ、それでは他人が決めるのですか。」 「弟子よ、然らず。」 「師よ、じゃ自分と他人との談合で決まるんだ。」 「弟子よ然らず。」 「師よ、えー、じゃあ、誰かが決めるのではなく、勝手に決まっちゃうの?」 「弟子よ然らず。」 「師よ、ひょっとして人間に価値なんか無いとか。」 「弟子よ、然らず。人間の価値は無に非ず。人間に価値はちゃんと有るよん。」 「師よ、もしかして、あなたは人間の価値とは何かがわかってないんじゃないの?」 「弟子よ、そんなことはない。ちゃんとわかっておるわい。」 「師よ、あんたのいうことさっぱりわからんよ。人間の価値に関して説いてみれや、ゴラァ」 「弟子よ、自分で価値をきめたら独断になるし、他人が決めたら偏見になろうが。 たとえばおぬしが信号のない横断歩道を渡っていたときに、 物凄い勢いで走ってきた車が、おぬしの姿を見て急停車したとしよう。 その時、子供が飛び出していたとすれば、その子は、おぬしが道を渡っていなければ、 その車にはねられ死んでいたことになろう。 おぬしがそこに存在しなければ、その子供と、ドライバーの運命はおおいに代わっていたであろう。 その子供が将来、救世主になるのか極悪人になるかはわからん。 しかし、弟子よ、おぬしの物理的な存在自体が何らかの価値を持ったことは理解できるであろう。 職場ではいっぱしの仕事をこなしているかもしれんが、 自宅では粗大ゴミ程度の価値しか無いじゃろう。人間の価値とは流動的なものじゃ。 弟子よ、おまえが何を思い、何をなすかで、おぬしの価値は当然変わってくるが、 他のもろもろとの関係において、常に変化しておる。 人の価値をこれと決めることはできんものなのじゃ。」 (原始仏教にはあまり関係ないか?w)
383 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/10(金) 06:20:10 ID:IUEbTIaL
>>379 > 縁起で説かれているのはあくまでも二辺(相対的二元論)を離れること。
あらら、縁起って二元性の上に立てられているんとちゃうの?
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html 「一」がなければ「多」はなく、「多」がなければ「一」はない。
したがって、ものは依って起こる(縁起)のであって、自立しているのではない。(空七十論 7)
認識方法と認識対象との二つは混じり合っていて、二つは自立的には存在しない。(ヴァイダルヤ論 1)
行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。
その他の成立の原因をわれわれは見ない。(中論 8:12)
384 :
暇人 :2005/06/10(金) 07:03:33 ID:MFpOA+Rc
>>377 いつもながら ぶっ壊れているね(笑)
キミはいつもだが既に私に撃破されたことにさえきづけていない。
んで、私は一々、手取り足取り教えてあげるほどには優しくない。
自分できづかれよ。
>原始仏教にはabhisamayaがないと言わせるような程度の低い入門書
@どこで、私が「abhisamayaがない」と書いたか、番号を挙げよ。
Aそんな入門書があるならば列挙せよ。
>入門書や概説書を鵜呑みにしてウロしかいえないじゃないですか
375で挙げている平川彰著作集は、専門書だ。むしろ、
入門書・概説書に該当するのは、キミが学習会用文献でお勧めさ
れている 「存在の分析<アビダルマ>」だな。
仏教の思想シリーズは一般教養として高校生で読み終えているよん。
そのへんの差すらつかないキミやここの住人が、概説書ということ自体
おかしいのだ。
385 :
暇人 :2005/06/10(金) 07:04:13 ID:MFpOA+Rc
>あんたには原始仏教を語るのは無理だ Bなぜ無理か論ぜよ。というかきちんと語っているぞ。 「文献学的手法」なら、普通はまず a)現存写本を比較して、本来の語句を推定して本文を製定する作業 b)写本群を共通性で整理分類し、系統を定めること だな。 君のしていることは、原始経典の文を挙げずに、「いきなり」中期大乗時代成立の 論書の解釈を「正当」とした上での中傷だね。 創価学会の子が、「法華の智慧」にこう書いてあるから「法華経」の意味はこうだ というぐらい馬鹿馬鹿しいのだ。 それを文献学とかご大層に専門家ぶるので、トンデモ度が深まるばかりだ。
386 :
暇人 :2005/06/10(金) 07:04:39 ID:MFpOA+Rc
>大乘興起は仏塔信仰から始まったとか ■過去撃破済話題@■ キミが平川彰説を「御伽噺」と誹謗中傷していたので、批判根拠を尋ねたところ、 右往左往して逃げ捲った時の話ね。 あの時も世親の「釈軌論」が根拠と言って終わったのね。創価並みだ。 杉本卓洲さんの「仏塔の実証的研究」とか、佐々木閑さんの論稿を揚げるなら わかるが、キミがええかげんな奴とわかった一コマだったね。 私が「大乘興起は仏塔信仰から始まった」と主張したのではなく、 平川説の批判根拠をお尋ねしたのだね。キミの記憶はいつもご都合よく変化する。 ■過去撃破済話題A■ キミがジャータカに詳しいと自称したが、杉本卓洲さんすら、知らない事がばれたときの 話題ね。 「ジャータカのレリーフが経蔵だ」などと主張したりしてないな。 キミが「仏教の根本三法印・四法印について」スレッド68でね <ジャータカはおとぎ話ゆえに三蔵には編纂されなかったんだ>とアホを言われて いたのだ(笑)。そこでだ、 a)現存しない一番古い分類法に「九部経・十二部経」があり、中味はわからんが、 分類名は残っており、その一分類として「ジャータカ」はあった、と教えてあげたのだ。 b)更に、「大天王本生」は、中阿含経(大正1,513b)や増一阿含経(大正2,551c) にあるし、「獺本生」は、十誦律(大正23,199c)にある。 と、具体名をあげて、キミの思い違いを訂正してあげたのだね。
387 :
暇人 :2005/06/10(金) 07:05:31 ID:C7TxAheT
■過去撃破済話題B■ >「部派仏教、特に説一切有部には「自性」という概念 >があるはずがない。それは世親を専門とする人が三性説を念頭に置く >からそう思い込んでしまう うはは。キミの記憶は都合よくできているね。 あのね、キミは佐倉さんの竜樹に関する論稿の評価を求められて、 「取りあえず問題なしとした上で、<自性の多義性>には注意せよ」と 言われていたのだ。 私の立場はだ、佐倉論文を読むにあたって留意すべき<自性の多義性>など ない。<多義性>などと、つい言ってしまうのは、唯識派の<三性説>が 頭から離れてないからだというのがバレバレだという話だったね。 キミはついに竜樹を読むにあたって注意すべき<自性の多義性>を片句すら あげられなかったね。 んでさどこをどう叩けば、「説一切有部には「自性」という概念ない」と 私が言ったなどというウソがつけるのだ。(笑) 過去ログアップしておく。(笑)
388 :
暇人 :2005/06/10(金) 07:07:39 ID:C7TxAheT
837 名前:暇人 投稿日:2001/06/16(土) 12:05 余談ですが、<自性svabha~va>について多義的とのことですが、この語はぱ ーり・ニカーヤでは、Apada~ma、Milindapan~haなど比較的新層でしかみられ、 元々この語が、仏教で思想的に語られる以前は「正体」「本性」という意味の一 般語であった。(Vinaya v.1,p.87)(str~svabha~vaなど)この語に注目したのは 説一切有部ですが、1.論書の古層「法蘊足論」では、<自性svabha~va>の 語はない。「集異門足論」には2例あるが、「此法自性不可愛」と「求彼自性毘 奈耶」であるが、後者は比丘の性格を調査するという意味だから一般用法で、 前者は「匱戒、匱見、具戒、具見」という<法の持つ可愛・不可愛の性質>を 意味にする例で使われているが、ここでは一例のみで中心的になっていな い。 2.「識身足論」「界身足論」「品類足論」での<自性svabha~va>は、<法それ 自身>という用法である。
389 :
暇人 :2005/06/10(金) 07:08:21 ID:C7TxAheT
838 名前:暇人 投稿日:2001/06/16(土) 12:06 3.ただ「識身足論」の「性」は、「諸法性有等有」が三ヶ所あり、輪廻する主体 である「プドガラ」を「五趣確定」の「経証」から否定した上で「諸法の性は存在 し、実在する」とある。思想的には「人空法有」の立場であるが、ここではそれ を説明するのにまだ、<自性svabha~va>は使ってない。4.「発智論」でよう やく、「諸法の性相は決定して混乱がなく、諸法は常に<自性svabha~va>の もとに住し、<自性svabha~va>を離れない。涅槃は常住であり変易がなく、た だ非学非無学である」と、独自の法理論がでる。しかしこれは「発智論」の新訳 玄奘訳(7世紀)を根拠にした話し。270年古い旧訳(4世紀)では、<自性 svabha~va>は、<法それ自身>という用法なので、玄奘の付加と見るのが論 理的かもしれない
390 :
暇人 :2005/06/10(金) 07:09:58 ID:VoLCEAVf
839 名前:暇人 投稿日:2001/06/16(土) 12:06 5.「尊婆須蜜菩薩所集論」は、自性の古い訳と推定される「自相」「自然」の語 が見られ、「有為法は三世において自相あり」と三世実有で、玄奘訳につなが る先行例ともくされているが、訳語が悪いので検討は困難らしい。6「婆沙論」 では<自性svabha~va>は多用され、「阿毘達磨の<自性svabha~va>は、無 漏の慧である」と論じられている。 さて、この説一切有部の「識身足論」に萌芽が見られ「婆沙論」に結実する< 自性svabha~va>は、「未来の形態も過去の形態も現在の形態も、それはい つでも性(bha~va)を持っているからそれはいつでも認識を持つことができる。 そこに形態の自己同一性があり、その同一性を「識身足論」は、「諸法の性は 存在する」と語り、諸法の同一性を対象的に研究する阿毘達磨が生まれ発展 し、「婆沙論」の<自性svabha~va>の思想へと結実する。 840 名前:暇人 投稿日:2001/06/16(土) 12:07 道行般若経にはじめ、般若経典はこの有部の<自性svabha~va>を<空>と 批判したのであり、説一切有部が「認識される対象はすべて存在する」と主張 したのに対し、大乗は、「いかなる法も認識されない」「すべての法は空である」 と批判せねばならなかったのです。 電波男さんの言われる<「自性」の解釈は多義的>とは如何なるおはなしで あろか。。。 サーンキヤ学派の根本質料因であろうか、それともその後の大乗の、例えば 大日経の自性身のことであろうか。。。佐倉さんの縁起説・無我説の解釈に直 接影響はないように思いますが。。 しかも佐倉さんはオーソドックスではなく、異端説、独自説だったように記憶す るが。。彼の主張は竜樹イコール大乗ではなく、原始仏教の復興者というお立 場ではなかったかしらん。
391 :
過去ログ :2005/06/10(金) 07:39:49 ID:0ZBFA6TK
392 :
過去ログ :2005/06/10(金) 07:43:55 ID:0ZBFA6TK
393 :
暇人 :2005/06/10(金) 07:46:21 ID:VoLCEAVf
>>380 「仏教学部の初等段階で習うオーソドックスな仏教教理」を
私は身につけてないよ。私はそういう系統だったきちんとした教育を
受けてない 聞きかじりの素人だよ。
やきとり屋でうだうだ言っているそこいらのオヤジの一人だね。
むしろその訓練は電波男さんがされているはずなのだが、
身にはついてないな。
彼は思い込みで記憶を都合よく改変される傾向が どうやら強すぎるみたいだ。
「柔軟な冒険的試論」は嫌いではないのだ。だから関心があるから
その根拠を尋ねる。その根拠を聞かれて、きちんと応えられないなら、
それなりの評価をする。それだけのことだ。
んでさ、「柔軟な冒険的試論」の試金石として「従来説」を対置するのは
オーソドックスな手法だと思うのだがね。
394 :
樹意 :2005/06/10(金) 13:57:59 ID:XvR3aDPU
>>375 >
>>372 > 竜樹ね。悩ましいぃ汗。
引用著作が 竜樹だから それは根本仏教の論説では無いと 仰りたいわけですね。
>縁起と中道を同義にする最初期の仏教
>中道の思想はすでに原始仏教経典のうちにれを見出すことができる。
このように書いておりますから 引用する価値があると判断いたしました。
あとは ROMされる方が判断されるでしょう。
395 :
樹意 :2005/06/10(金) 14:02:16 ID:XvR3aDPU
>>374 > 阿含宗だって新興宗教という自覚なしに、動機としては
> 自分たちが「本来の仏教」に近いと思っているだろうが、
> 私は、阿含宗にせよ、法相にせよ、その主張を鵜呑みにしないわけだ。
彼の宗教は 経典改竄 学者の剽窃を平気でやるところですから、自覚 主張云々以前に
宗教として論ずるに値しません。
スレ汚し致しました、 平にお詫びいたします。
396 :
樹意 :2005/06/10(金) 14:41:10 ID:XvR3aDPU
>>379 > どこまでいっても縁起で問題にされていることの本質は二元性。
> 人間の思推はこの二元性の上に立てられているため、
> 通常の思考作用では、ものごとをあるがままに観ることが出来ない。
>
> ここを外して中道は語れない。
同意見です。
397 :
樹意 :2005/06/10(金) 15:03:26 ID:XvR3aDPU
>>373 先にマトリックスの喩を出しましたが 喩として適切でなかったと反省しております。
阿含経典には仏陀自身が多くの喩を出されていますので、引用経典を通読
していただくのが 一番いいのではと思います。
>>383 >あらら、縁起って二元性の上に立てられているんとちゃうの?
あなたが引用した
>認識方法と認識対象との二つは混じり合っていて、
>二つは自立的には存在しない。(ヴァイダルヤ論 1)
というのは、
「認識方法」と「認識対象」が別々に独立して存在していて、
両者が二元性を形成してその間に関係性がある、と主張しているのですか?
それとも、二つのものは最初から存在しない、一如である、
と言っているのでしょうか?
答えは両方とも否ですね。
認識方法と認識対象があると考えても、逆に無いと考えても、
あるいは、有るけど無いとか、無いけど有るとか考えてみても、
有るー無い
という相対的な二辺から逃れることが出来ない。
こういう相対的な見方を離れることを中道と言っているわけです。
399 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 08:28:31 ID:96d1E+Pk
>>398 さん、おはようございます。
どうやら私は、二元論というものが、よくわかっていないようです。
善と悪、意業と身業、形而上と形而下、彼岸と此岸といったように
諸概念・諸事象を相対立する二つの観念領域に区分して位置づけることによって
論じることを二元論と呼び、二つに区分して何かを語る姿勢をもって
「二元性の上に立てられている」と考えていました。
代表的な二元論のひとつとして、デカルトの心身二元論がありました。
しんしん-にげんろん 6 【心身二元論】
物(身体)は延長を本質とし、心(精神)は非延長的な思考を本質とするから、
両者は異質な二実体であるとするデカルトの説。
物・心の間の依存関係や相互作用が説明できないという難点がある。物心二元論。
えんちょう ―ちやう 0 【延長】
(5)〔哲〕〔(ラテン) extensio〕物体が存在する有り様として、
空間の一定部分を占有していること。
デカルトは、物体の属性を延長とし、精神の属性を思惟(しい)とした。広がり。
--------
相対する二極に依存関係、相互作用を認めないのが二元論
相対する二極になんらかの関係の存在を認めるのが縁起
という理解でよろしいでしょうか?
だとすれば、私の発言、
>>383 >あらら、縁起って二元性の上に立てられているんとちゃうの?
は、完全に勘違いに基づいておりました。申し訳ありません。
しかし、そうだとしても、
> 縁起で説かれているのはあくまでも二辺(相対的二元論)を離れること。
が何を言っているのか私には理解できません。
400 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 08:29:07 ID:96d1E+Pk
> 相対する二極に依存関係、相互作用を認めないのが二元論 > 相対する二極になんらかの関係の存在を認めるのが縁起 だとすれば、結局、どちらも、「相対する二極」をベースにものを 考えるわけですから、相対的な二辺から逃れ、相対的な見方を離れることには、 つながらないと思うのです。 つまり、相対的な二辺によって、全体を語ろうとする姿勢は、 どちらも同じなのではないでしょうか? > >認識方法と認識対象との二つは混じり合っていて、 > >二つは自立的には存在しない。(ヴァイダルヤ論 1) 人間において、認識は脳内のひとつの活動と考えられ、この場合、 認識方法と認識対象は相互依存しています。 しかし、物理的には、認識方法と認識対象は独立に存在すると考えることが可能です。 たとえば、 認識対象として、電磁波強度の変化、 認識方法としてラジオを考えます。 ラジオは、ご存知のように、音声信号により変調された電磁波を検出し、 その強度変化を音声信号に変換する装置です。 リスナーが居ようが居まいが、物理的に電磁波(認識対象)は存在します。 また、すべてのラジオ放送局が無くなったからと言って、瞬時にラジオが 物理的に消滅することはありません。 認識対象があれば、認識方法を設計できますし、(形而上的存在のように) 認識方法がないのであれば、認識対象は無いと考えざるを得ません。 認識方法と認識対象という相対する二極を想定した段階で、 「有るー無い」という考え方から逃れることはできなくなっているのではないでしょうか?
401 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 09:36:31 ID:96d1E+Pk
>>397 > 阿含経典には仏陀自身が多くの喩を出されていますので、引用経典を通読
> していただくのが 一番いいのではと思います。
樹意さん、おはようございます。
まず、最初に「自作」「他作」といった場合に、その作られた対象は
『苦』自体を指すのか、『苦の因』を指すのかはっきりさせたいのですが、
それに関しては、どの引用経典を通読すればいいのでしょうか?
レス番号に関し、ご指示のほど、よろしくお願いいたします。
402 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 10:51:01 ID:96d1E+Pk
■四苦八苦
四苦八苦に関してこんな記事がありましたが、この記事の内容は信頼がおけるのでしょうか?
つまり、経典には
> 心配・悲泣・苦しみ・憂い・苦悩も苦である。
と書かれているのでしょうか?
http://totsuka-yacht.com/seiron7.htm 仏教は人間の「苦」をなくすために始まったものですから、まず「苦」の正体を知ることが必要です。
お釈迦様は、それを「四苦八苦」として八つにまとめました。
@生苦A老苦B病苦C死苦D愛別離苦E怨憎会苦F雖復希求而不得苦G略説五取蘊苦の
八つとされていますが、@〜Fは非常に具体的なのに、Gだけ総論的でよくわかりません。
そこで基本に帰り、お釈迦さまの最初の説法である「転法輪経」を読むと、次のように書いてありました。
「生も苦である。老も苦である。病も苦である。死も苦である。
心配・悲泣・苦しみ・憂い・苦悩も苦である。嫌いな者と結ばれるのも苦である。
愛する者と結ばれないのも苦である。求めて得られないのも苦である。
要するに、五つの固執される集まりは苦である」
つまり、漢訳は五苦目の「心配…」を抜かし、全体のまとめとなる「要するに…」を八苦目にする
という誤りを犯していたわけです。たったそれだけのことです。
それなのに、大昔の日本の「インテリ」はそれをそのまま信用し、後に続く「インテリ」達も、
よく分からないままにずっと正しいとしてきました。
これが、千年以上も続いてしまったのです。
403 :
暇人 :2005/06/11(土) 12:14:43 ID:wmCXdcWo
>>402 漢訳ですと「転法輪経」は、「雑阿含」巻15にあるのですが、
そこには
「縁生老.病.死.憂.悲.惱苦」とあるね。
1)ここでは四苦八苦は説かれていない。
2)四苦が古く、四苦八苦は発展した教説(大乗の涅槃経では?)
3)漢訳も別に抜かしているわけではなく、違う教説です
404 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/11(土) 15:01:29 ID:YyR6aqrd
↓は「死苦」が抜けてたりします。 佛説轉法輪經 後漢安息三藏安世高譯 T02n0109_p0503b23(01)?如是盡真諦。何謂為苦。 T02n0109_p0503b24(09)?謂生老苦病苦憂悲惱苦怨憎會苦所愛別苦求不得苦。 T02n0109_p0503b25(04)?要從五陰受盛為苦。何謂苦習。
405 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 16:12:45 ID:E6Y793Hn
>>402 デカルト持ち出すまでもない。
天上位階論と似てる。
406 :
ありがとう宗教 :2005/06/11(土) 16:17:22 ID:zD/ZGCJL
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。 ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。 ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。 ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。 ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
407 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/11(土) 17:13:01 ID:YyR6aqrd
↓には「死苦」は記されますが・・・。訳が難解。 佛?四諦經 後漢安息國三藏安世高譯 T01n0032_p0814c06(04)?四諦受行令滅苦。何等為賢者苦諦。從生苦。從老苦。 T01n0032_p0814c07(01)?為病苦。為死苦。不哀相逢苦離哀苦。 T01n0032_p0814c08(04)?所求不得是亦苦。倉卒五種苦生。賢者苦生為何等。
408 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 17:26:55 ID:H6d7cbO1
>>383 >> 認識方法と認識対象との二つは混じり合っていて、二つは自立的には存在しない。(ヴァイダルヤ論 1)
これは物理学で実験済みだよね。人間が観察するかしないかで、
粒子の分布が違ってくるってやつ。解釈は他にあるみたいだけど。
409 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 17:27:11 ID:96d1E+Pk
>>403 暇人さん
>>404 ,
>>407 阿呆陀羅經さん、
レスありがとうございました。
保管サイトでも紹介されている「大正新脩大藏經テキストデータベース」の
使い道が今回ようやくわかりました。
ダウンロード、解凍し、「老苦病苦」で検索をかけたところ以下のものが見つかりました。
0006_,01,0176a03(00):般泥&M017421;經卷上
0006_,01,0177b14(01):苦者謂生苦老苦病苦死苦。憂悲惱苦。愛別離苦。
0006_,01,0177b15(00):所求不得苦。以要言之。五盛陰苦。已覺斯苦。
0026_,01,0421a04(00):中阿含經卷第一
0026_,01,0435a24(00):<com>(一三)</com>中阿含業相應品度經第三初一日誦
0026_,01,0435c27(03):云何知苦如眞。謂生苦老苦病苦死苦。怨憎會苦。
0026_,01,0435c28(05):愛別離苦。所求不得苦。略五盛陰苦。
0026_,01,0461b23(00):<com>(二九)</com>舍梨子相應品大拘&M027471;羅經第九初一日誦
0026_,01,0462a28(02):謂生苦老苦病苦死苦。怨憎會苦。愛別離苦。所求不得苦。
0026_,01,0462a29(00):略五盛陰苦。是謂知苦如眞。云何知苦習如眞。
0026_,01,0464b18(00):<com>(三〇)</com>中阿含舍梨子相應品象迹喩經第十初一日誦
0026_,01,0464b29(02):云何苦聖諦。謂生苦老苦病苦死苦。怨憎會苦。
0026_,01,0464c01(01):愛別離苦。所求不得苦。略五盛陰苦。諸賢。
0026_,01,0467a29(00):<com>(三一)</com>中阿含舍梨子相應品分別聖諦經第十一初一日誦
0026_,01,0467b29(00):謂生苦老苦病苦死苦。怨憎會苦。愛別離苦。
0026_,01,0467c01(00):所求不得苦。略五盛陰苦。諸賢。説生苦者。
410 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 17:27:39 ID:96d1E+Pk
0026_,01,0599b09(00):<com>(一一一)</com>中阿含林品達梵行經第五第二小土城誦 0026_,01,0600b09(02):謂生苦老苦病苦死苦。怨憎會苦。愛別離苦。所求不得苦。 0026_,01,0600b10(08):略五盛陰苦。是謂知苦。 0026_,01,0670a27(00):<com>(一五三)</com>中阿含梵志品鬚閑提經第二<com>閑音呼&M006218;反</com>第四分別誦 0026_,01,0673a07(01):謂生苦老苦病苦死苦。怨憎會苦愛別離苦。 0026_,01,0673a08(01):所求不得苦。略五盛陰苦。如是知苦如眞。 0046_,01,0835c13(00):佛説阿那律八念經 0046_,01,0836b02(01):生苦老苦病苦死苦。憂悲惱苦。恩愛別苦。 0046_,01,0836b03(00):怨憎會苦。所欲不得苦。合五盛陰苦。生苦者。 0099_,02,0001a04(00):雜阿含經卷第一 0099_,02,0095a03(00):謂生苦老苦病苦死苦恩愛別苦怨憎會苦所欲不得苦。如是略説五受陰苦。 0099_,02,0126c27(03):舍利弗言。苦者謂生苦老苦病苦死苦。 0099_,02,0126c28(00):恩愛別離苦。怨憎會苦。所求不得苦。略説五受陰苦。 0109_,02,0503b03(00):佛説轉法輪經 0109_,02,0503b24(04):謂生老苦病苦憂悲惱苦怨憎會苦所愛別苦求不得苦。 0109_,02,0503b25(09):要從五陰受盛爲苦。何謂苦習。 0125_,02,0549a03(00):増壹阿含經序 0125_,02,0619a12(09):所謂生苦老苦病苦死苦憂悲惱苦愁憂苦痛不可稱記。 0125_,02,0619a13(10):怨憎會苦恩愛別苦所欲不得亦復是苦。 0125_,02,0750c02(01):比丘尼白佛言。生苦老苦病苦死苦憂悲惱苦。 0125_,02,0750c03(00):怨憎會苦。恩愛別離苦。取要言之。五盛陰苦。 0125_,02,0779a15(04):所謂生苦老苦病苦死苦憂悲惱苦怨憎會苦恩愛別苦所欲不得苦。彼云何名爲習諦。
411 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 17:28:25 ID:96d1E+Pk
412 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 17:30:32 ID:qAn/b1dh
八苦目は 全体のマトメというのはその通りですよ。
>>399 >> 縁起で説かれているのはあくまでも二辺(相対的二元論)を離れること。
>が何を言っているのか私には理解できません。
二元性を作り出しているは人の概念。
概念を離れてあるがままを観る、ということです。
>>400 >しかし、物理的には、認識方法と認識対象は独立に存在すると考えることが可能です。
>たとえば、認識対象として、電磁波強度の変化、認識方法としてラジオを考えます。
>ラジオは、ご存知のように、音声信号により変調された電磁波を検出し、
>その強度変化を音声信号に変換する装置です。
「観察者問題」って聞いたことがありますか?
例えばコップの中の水の温度を測ろうとすると、
一番手っ取り早いのはコップの中に温度計を入れて水の温度を測ることですが、
この方法だと、温度計自体がもっている温度がコップ内の水の温度に影響してしまい
コップの中の水の温度そのものではなく、
コップ内の水の温度+温度計の温度
を測っていることになります。
では、コップの水に全く全然、これっぽっちも何の影響を与えることなく、
純粋にコップの中の水の温度を測る方法があるかというと、、、ないんですね。
おおざっぱな説明ですが、 原子とか素粒子というミクロの世界を観察しようとすると、 原子に光をあてて見るという方法は、原子に光子をあててその反応を見る、 というようなことになってしまい、あるそのものである原子を観ていることになりません。 観察という行為は、 観察するものと、されるものの二元性がないと成立しません。 しかし「あるそのもの」にまったく影響を与えず観察する方法がないこと、 これが観察者問題です。 これを、観察者の意識が観察物に影響を与える、 という風に解釈するむきもあるようですが、誤りでしょう。 この問題の本質は、 何一つ独立して存在していない(自性が無い) のに、観察するものとされるものが別であると仮定する人間の概念にあるんですよ。
415 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 18:05:03 ID:E6Y793Hn
416 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 18:58:29 ID:96d1E+Pk
>>413-414 > 観察という行為は、
> 観察するものと、されるものの二元性がないと成立しません。
> しかし「あるそのもの」にまったく影響を与えず観察する方法がないこと、
> これが観察者問題です。
いや、それは単なる測定誤差の問題に過ぎません。
測定に誤差はつきものです。
われわれの生活空間においては、測定誤差は無視できます。
風呂の温度を40℃くらいにしようとして、測定したら、
風呂の温度に影響を与えてしまい、風呂が煮立ったなどということはありません。
観察対象の素粒子のサイズが、観察に使用する光子のサイズに近いために
不確定性原理が問題となるのです。
> この問題の本質は、
> 何一つ独立して存在していない(自性が無い)
そうだとしても、『ものは依存関係によって存在している』のです。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html > まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)
「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教」
諸悪および諸善は、現実に存在します。
つまり、相対的な二辺によって、全体を語ろうとする姿勢を
縁起は否定していません。
417 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 19:09:14 ID:E6Y793Hn
>>416 統一しきれなかったから、分裂したんじゃない。
418 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 19:19:01 ID:96d1E+Pk
>>417 結局のところ、仏陀はいろいろ悩んだ末に、
×たったひとつの冴えた方法
に行きついたわけではなく、
○四諦八正道
という
・4つの真理、
・8つの実践方法
に行きついたわけです。
>>416 >いや、それは単なる測定誤差の問題に過ぎません。
>測定に誤差はつきものです。
うーん、本気で言ってるんですかね。。。
コップの中の水の温度を純粋に測れないのは、
「コップの中の水の温度」というものが、
単に人間の頭の中で設定された概念に過ぎないからですよ。
実際にはコップの中に入っている時点で、
その水はコップに接しているから、コップの温度の影響を受けているし、
コップを通じて周囲の温度の影響も受けています。
なので純粋なコップの中の水の温度だけ測るなんて
最初から「絶対に無理」な相談なんですね。
>つまり、相対的な二辺によって、全体を語ろうとする姿勢を
>縁起は否定していません。
人は無理なことをやろうとして迷います。
死んだ息子を生き返らそうとしたりとかね。。
420 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 20:54:45 ID:E6Y793Hn
>>418 それがわかったてたら、こんなとこでギコギコしてない。
>>419 仏教スレなら、物理でなく生物を例えとすべきだったな。
421 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 21:06:17 ID:96d1E+Pk
422 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 21:21:36 ID:96d1E+Pk
仏陀は、人としての理想的な状況を追求したのではなく、 現実的に苦を滅する方法を考案したのだと考えています。
423 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 21:33:37 ID:E6Y793Hn
>>422 本人は追求したが、他人には強制できなかった。
苦を滅する方法の糸口は掴んだが、考案するまでには至らなかった。
苦を滅する方法が現実的かどうかは、未だわからない。
仏陀が現代に生まれたら、自殺幇助で拘留されるだろ。
424 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 21:40:45 ID:/oQ46t/X
>10秒ごとに、お互いの距離の半分まで近寄ることにする。 10秒後にぶつかるような気がする。
425 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 22:06:17 ID:E6Y793Hn
>>424 昔、親鸞会と幸福の科学の信者が討論してたんだよ。
死後の世界の存在では一致したが、一点相違が生じた。
死後の世界に芸術は持ち越せるか?
苦を滅する方法の必要性を痛感したね。
人間が現実と思っていることの多くは単なる概念に過ぎない。 苦を滅する、と言っても現実に死が無くなるわけではない。 概念にとらわれて幻想を現実と固く信じている愚を指摘すると 形而上のジョークと思われるのか。 やれやれ。。
427 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 23:19:24 ID:/oQ46t/X
苦を滅する方法が幻想でないという保証は?
428 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 23:22:47 ID:vP3pFQmW
429 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 23:24:02 ID:96d1E+Pk
>>426 :名無しさん@3周年:2005/06/11(土) 22:23:33 ID:eHCxl+Am
> 苦を滅する、と言っても現実に死が無くなるわけではない。
そうだよ。
現実に、生と死がある。
生と死という二辺から逃れることは、不可能だと私は思うよ。
430 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 23:30:14 ID:/oQ46t/X
災難に遭うときは 災難に遭うがよろしく 死ぬるときは 死ぬるがよろしく候(そうろう) これはこれ 災難をのがるる 妙法にて候
432 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/11(土) 23:35:52 ID:96d1E+Pk
>>427 :名無しさん@3周年:2005/06/11(土) 23:19:24 ID:/oQ46t/X
> 苦を滅する方法が幻想でないという保証は?
すべてが、幻想である可能性は否定できないよね。
確実な保証なんて、保険会社のパンフレットの中にしかないよw
http://www.geocities.jp/jfcps873/gb/gb10.html 558 名前:無宗だ ◆4eP.G3wMrs :04/11/20 10:42:45 ID:YZ823Edu
>見えない物に対して固定観念を持つことは好ましくないが、
>見えない物が存在しないわけではないと思う。
人間が五感からの刺激を脳で処理して、筋肉を動かす動物に過ぎないとすれば、
個人の営みは最終的に脳の電気信号に還元できるだろう。
だとすれば、
自分が五体満足な人間であるのか、
どこかの培養液の中の電極付きの脳なのか
判別は不可能なのではないだろうか?
433 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 23:36:21 ID:E6Y793Hn
>>429 これも仮説だが。
人も生物の一種だと考えれば不可能ではない。
極論すれば植物に苦はあるかということ。
だが、人は植物ではない。
方法を追求すれば、あなたの思いに反するかもしれない。
434 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 23:42:57 ID:vP3pFQmW
>>430 わたしのレスは幻想です。本人がいうから間違いありません。
ですから、あなたは生きていないことになります。
どうします?わたしのレスが幻想なら、私の存在も幻想ということ
になり、あなたも幻想です。幻想同士、夜な夜なはいかいして、
幻を振りまきましょうか?
435 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 23:50:35 ID:/oQ46t/X
死は現実だが苦は幻想。
苦は幻想から生まれる。 その幻想が生まれるのは主客の二辺があることによる。 その二辺が生じ、また滅する理法を示したのが縁起の理法。 したがって縁起とは相対の二辺を離れ 唯一絶対、一如の法門への転換を指し示している。
438 :
名無しさん@3周年 :2005/06/12(日) 00:19:03 ID:M0L8nYvF
苦から幻想が生まれる。 主客は二辺ではない。 主の作用が客である。 二辺とは作用の転倒である。 この流転を示したものが縁起である。 唯一絶対はバラモン教の言葉。 一如も同じ。 縁起は一如ではない。 このように転倒しているものが如何に多いか。
439 :
名無しさん@3周年 :2005/06/12(日) 00:26:40 ID:aSL4iebr
>>438 >この流転を示したものが縁起である。
ここは文脈に合わない気がする。
人の概念は必ず対立する二元性を必要とする。 「唯一絶対」は、本来この二元性を断絶させんがための方便で 「一つのものがある」という「概念」ではなかった。 しかし時代が下るにつれ、本来の意味が失われ 一元性という概念となってしまった。 この概念化された一なるものを、無我や空で打ち壊そうとしたのが釈尊。 しかし時代が下り、次第に「無我」や「空」という言葉が 「有」や「主」に対峙する概念となってしまった。 この「空」にとらわれるという間違いを正すために 時代が下ると「不空」ということが言われるようになる。 どこまでいっても仏教で問題にされているのはこの「概念化」という幻想。 言葉を使う限り、 この概念化の罠から決して逃れることが出来ない。
>苦から幻想が生まれる。 無明により苦が有る、だよ。
442 :
名無しさん@3周年 :2005/06/12(日) 00:49:27 ID:aSL4iebr
>>440 虎と猫みたいに、対立するとは限らない「二元性」もあるような気がする。
人間の概念が対立しているだけですからね。
444 :
名無しさん@3周年 :2005/06/12(日) 00:58:43 ID:aSL4iebr
そろそろ苦しくなってきますたので、オチ。 覚者といわれただけのことはあった。 これだけは認める。
445 :
名無しさん@3周年 :2005/06/12(日) 07:05:45 ID:M0L8nYvF
>>441 ちがう。無明によって、苦という状態が導き出されるととらえるべき。
苦であるから、そこから逃れようとして幻想が生じる。そして間違った見解に陥っていく。
あんたはなにもわかってない。
446 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/12(日) 07:06:32 ID:YDADmfOf
> 認識方法と認識対象との二つは混じり合っていて、二つは自立的には存在しない。(ヴァイダルヤ論 1)
『主体と客体の間には、依存関係、相互作用があるから、
主体と客体とを2辺とした2元論は成立しない。』
という意見には同意する。
しかし、このことは、
『依存関係、相互作用がある主体と客体とを2辺としてとらえること』
を否定はしていない。
縁起は一切のものには自性がないことを示す。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html > ものはすべて元素を因として成立しているが、そのことが縁起によって成立しているということであり、
> もしものがこのように、あるものに依存して成立しているならば、それ自体(自性)としては空である。
> したがって、ものはすべて空である。(空七十論 53自注)
> 眼[見る作用]は依存関係から生じたものであるから空である。
> なぜなら、眼[見る作用]というものは[見られる対象との]依存関係によって成立しているからである。
> 依存関係によって成立しているならば自体[自性]として成立していないから、
> したがって眼[見る作用]は自体[自性]が空である。(空七十論 同上)
したがって、観察するという行為、そのものは存在する。
単に、観察するという行為には自性がないだけの話である。
縁起は「一切のものには自性がないことを示す。」ということは、
「ものは依存関係によって存在している」ということを意味している。
447 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/12(日) 07:07:08 ID:YDADmfOf
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html > (ものが)存在し、かつ無であるということは同時に成立しない。
> (しかし)無ということがなければ有ということもない。つねに、有と無の両方がある。
> (そして)有なくして無もない。(空七十論19)
> もしも、本性上、あるものが有であるならば、そのものの無はあり得ないであろう。
> 何となれば、本性の変化することはけっして成立しないからである。
> 本性が無であるとき何ものの変化することがあろうか。
> また本性が有なるとき何ものの変化することがあり得るであろうか。
> 「有り」というのは常住に執着する偏見であり、「無し」というのは断滅を執する偏見である。
> 故に賢者は「有りということ」と「無しということ」に執着してはならない。(中論 15:8〜10)
つまり、有に自性はない。無にも自性はない。
無ということがなければ有ということもない。つねに、有と無の両方がある。
「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教」
悪いことはしない、そしてよいことを行なう主体としての自我は存在する。
しかし、その自我に自性はない。だから諸法無我。
五蘊の依存関係の上に自我は存在している。
> 「有」と「無」のいずれかに執着する立場を偏見として否定するのがナーガールジュナの存在論
こう考えると、「常見」「断見」に対する中道と、縁起は同じものかもしれません。
しかし、「苦行」「欲楽」に対する中道と、「常見」「断見」に対する中道は、
全く別な概念だと私は考えます。
縁起は、「有に自性はない。無にも自性はない。」ということを主張するだけで、
「有」「無」という見方自体を否定しているわけではありません。
縁起が依存関係の上に成り立っているということは、関係を考える上で、
二辺を想定しなければならないのは必然です。
448 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/12(日) 08:39:18 ID:YDADmfOf
もし、縁起に関して理解したければ、
佐倉哲エッセイ集
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html 空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第二章 縁起論
の理解は必須ではなかろうか。
私が、最初十二支縁起を理解できなかった最大の理由は、
○縁起を「相依関係」と
とらえずに
×縁起を「因果関係」としてとらえてしまったからである。
苦を滅する過程において、名色を滅する必要があることを十二支縁起は示唆している。
名色というのは、われわれを取り巻く全環境を指すことになる。
とすれば、個人的な苦を滅するために、全世界を滅ぼしてしまえというのはめちゃくちゃだろう。
そして、途中で全世界を滅ぼしちゃったら、もう滅すべき識も行も無くなってしまうじゃないか。
なんてことを考えていました(汗)。これでは理解できるはずがない。
縁起を「相依関係」としてとらえれば、
>悪い行いがなければ、善い行ないもない。悪い行いを滅すれば、善い行いも滅する
というのは正しい。そしてこれは、
「悪い行いはせずに、善い行いをしましょう」というスローガンと全く矛盾しない。
「悪い行いを滅する」というのは、
「殺生や悪口にそれは悪い行為であるというレッテルを張ることを止める」
ということである。その行為自体が無くなってしまうわけではない。
どんな行為が悪い行為であるかの定義付けをやめれば、
何が善い行為かもわからなくなるので、
それを「善い行いも滅する」と表現しているに過ぎない。
449 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/12(日) 08:50:45 ID:YDADmfOf
>>426 :名無しさん@3周年:2005/06/11(土) 22:23:33 ID:eHCxl+Am
> 人間が現実と思っていることの多くは単なる概念に過ぎない。
> 苦を滅する、と言っても現実に死が無くなるわけではない。
> 概念にとらわれて幻想を現実と固く信じている愚を指摘すると
> 形而上のジョークと思われるのか。
> やれやれ。。
さて、
>悪い行いがなければ、善い行ないもない。悪い行いを滅すれば、善い行いも滅する
であるから、悪い行い、善い行い、というのは幻想だろうか?
わたしにとっては
・苦も
・生も死も
・善悪も
・自分も
すべて現実に存在しています。
しかし、あなたがそれら全てを幻想と信じるのであれば、
それはあなたの自由です。
450 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/12(日) 09:59:40 ID:YDADmfOf
>>403 >1)ここでは四苦八苦は説かれていない。
>2)四苦が古く、四苦八苦は発展した教説(大乗の涅槃経では?)
暇人さん、おはようございます。
「八苦」で検索をかけたら、こんなのがでてきました。
八苦目は五受陰苦で間違いないようですね。(変なの。ボソッ)
0007_,01,0191b01(00):
0007_,01,0191b02(00):No.7[No.1(2),Nos.5,6]
0007_,01,0191b03(00):大般涅槃經卷上
0007_,01,0191b04(00):東晉平陽沙門釋法顯譯
0007_,01,0195b19(00):所謂八苦。一生苦。二老苦。三病苦。四死苦。
0007_,01,0195b20(00):五所求不得苦。六怨憎會苦。七愛別離苦。
0007_,01,0195b21(03):八五受陰苦。汝等當知。此八種苦。
451 :
電波男の嘆き :2005/06/12(日) 12:39:14 ID:DJJGX6at
452 :
電波男の嘆き :2005/06/12(日) 12:45:16 ID:DJJGX6at
453 :
暇人 :2005/06/12(日) 13:00:00 ID:qh0W5CUH
『行為主体と客体の間には、依存関係、相互影響作用があるから、
行為主体と客体とを独立にあるとする考えは成立しない。』
と竜樹は言っていると思います。
二元論云々は、私は後代の解釈だと思います。
中でも
>>437 「したがって縁起とは相対の二辺を離れ
唯一絶対、一如の法門への転換を指し示している」の、
「唯一絶対」「一如の法門」は、カルト的な発想にあると思います。
初期仏教には「二辺を廃する」という表現は多く、
一、苦楽中道を説く時。こちらが古い成立。
二、有無中道を説く時。これには行く段階かあるように思います。
後代は、苦楽中道より、有無中道がよく使われるようになり、部派も
竜樹も語るわけですが、
竜樹の解釈は、「主」と「客」の相互影響作用性に注目した展開になって
いると思います。それが上記です。
初期仏教では「主」と「客」の相互影響作用に論点があるのではなく、
「二辺を避けよ」は、「極論を避けよ」ではないかと私は考えます。
454 :
暇人 :2005/06/12(日) 13:00:38 ID:qh0W5CUH
佐倉さんは仏教の専門家ではなく、エッセイストが自分の見解を発表して
いるだけで、ユニークではあるが、基本的な誤りが多すぎと私は思います。
十二支縁起の「順観・逆観」に注目して初期と竜樹と論理構造が同じと
論証されていますが、初期には、「順観」だけの十二支縁起もあります。
初期では「順観」「逆観」も、それぞれ独立して説かれています。
「相互影響作用」ではなく「一方的影響作用」が説かれ、
「迷いの生存」の分析がまず説かれ、
その「迷いの生存からの脱却」方法が次に説かれています。
「一方的影響作用」だから、順番にひとつづづ滅していくのではないかと。
>>448 「名色」は仏教以前からある古く大事な概念ですが、「環境」ではないです。
原初的な意味は、現象世界の名称と形態ですので、「環境」に近いですが、
仏教に入り、個人存在の精神的な方面を「名」、物質方面を「色」と解釈される
ようになりました。
十二支縁起の一としての「名色」は、「五蘊」に対応します。
名付けてはじめて把握できる精神作用「四蘊」が「名」で、色蘊を「色」です。
455 :
暇人 :2005/06/12(日) 13:01:20 ID:qh0W5CUH
>>450 四苦八苦は
>>404 以下、 初期経典に説かれていますので、
大乗からでは?というのはマチガイでしたね。
大乗の涅槃経は、はっきりと「此八種苦」と言っているだけですね。
後代になると整理され体系付けられ四苦八苦が有名になりましたが、
ただ最初から四苦八苦と整理されたのではなく、四苦や四苦に「憂」や
何かをプラスした教説とか雑多なものもあったのですね。
456 :
阿含宗ネット対策委員長 :2005/06/12(日) 16:18:04 ID:tEM11lLv
パトロール中です。
457 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/13(月) 06:46:03 ID:NfEfUBDm
454 :暇人:2005/06/12(日) 13:00:38 ID:qh0W5CUH > 「名色」は仏教以前からある古く大事な概念ですが、「環境」ではないです。 > 原初的な意味は、現象世界の名称と形態ですので、「環境」に近いですが、 > 十二支縁起の一としての「名色」は、「五蘊」に対応します。 ----- ダンマパダ【 第十七章 怒 り 】 221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。 名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。 ----- これだと「名称と形態」を 原初的な意味(?)でとらえ、「地位や名誉、財産」と解釈すると納得がいく。 水野弘元著 仏教要語の基礎知識 によれば、 五蘊の説明の中に「つまり五蘊は名色の二つで呼ぶこともできる。」(p123)との 記述もあるが、[C 一二支の解釈]においては、 (4)名色(nama-rupa) 識の所縁(対象)としての六境(色、声、香、味、触、法)を指す。(p171) との記述があり、こちらを使用したい。 増谷文雄訳、『仏教の根本聖典』、分別縁起 p79には、 …名色とは何であろうか。受と、想と、思と、触と、作意と、これを名といい、… とあり、五蘊の名とは微妙に違うように思われる。 > 「一方的影響作用」だから、順番にひとつづづ滅していくのではないかと。 十二支縁起の一としての「名色」を、「五蘊」と解釈したとしても、 途中で「五蘊」を滅してしまったら、後が続かないのでは? それとも、無明に基づいて生起した「五蘊」の部分のみを滅すると考えるのでしょうか?
>>457 例えば十支縁起が長部14の大本経に説かれているが、
「この識は名色より還帰する これ以上進まず」と
名色で終わっている経典もあるね
ここでは相互作用だが
四苦八苦 生きてることで人が苦しむ仕組みは大雑把に分けて このようになるという事かな。 でも、考え方や、生活の仕方を変えていくと苦じゃなくなるんかな。 特に死は、とても嫌な事だし、怖いことだし 不安だし、現世にいつまでもいたいし いろいろと死から逃げる気持ちが生まれるもの。 死んだら、こうなりますよと言われて安心しても それもまた、逃げているのと変わらないんよね。 そういえば、なんで、分からないと怖いことなのか 不安にならなきゃいけないのか、なんで現世にいる方がいいのか なんで、死後の話を聞いて安心しちゃうのか 考えた事無かったな。
460 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/14(火) 06:51:06 ID:xPh72/lO
たとえば、きれいな女の人をみて、欲情するというのは、 ◆名色 女の人を ◆六処 眼で ◆触 みて ◆受 好感をいだき ◆愛 欲情する だとすれば、それぞれを滅するというのは、 具体的にどう解釈すればいいのだろう?
461 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/14(火) 07:00:55 ID:fhuxPLIU
ROM記念 欲情を滅しますと、いわゆるインポテンツになるかと思ふ。
462 :
暇人 :2005/06/14(火) 07:01:34 ID:a5YgT84l
墓場に行ってね 死体が腐って朽ちて骨になる様を観じたみたいね
463 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/14(火) 07:07:39 ID:fhuxPLIU
九相であっても、やはり娑婆で生きねば。 たったひとりしかない自分を, たった一度しかない一生を, ほんとうに生かさなかったら, 人間,生まれてきたかいがないじゃないか。 <吾一>
465 :
阿呆陀羅經@発病一周年 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/14(火) 21:06:38 ID:0YqBFPrs
てな調子で一応元気です(笑)。
466 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/14(火) 21:16:17 ID:0YqBFPrs
電波男さんもご無理をなさらずご養生下さいね。
467 :
名無しさん@3周年 :2005/06/14(火) 21:21:14 ID:Z5Ut+bCf
>>460 それらを滅しようとすれば逆に強まるよ。
468 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/15(水) 05:37:57 ID:Cj6OyS8W
>>454 :暇人:2005/06/12(日) 13:00:38 ID:qh0W5CUH
> 佐倉さんは仏教の専門家ではなく、エッセイストが自分の見解を発表して
> いるだけで、ユニークではあるが、基本的な誤りが多すぎと私は思います。
そうかも、しれませんが、逆に素人の説明だからわかるといった面もあります。
100%正しい見解であっても、0%しか理解できなければ、得るものは0です。
佐倉氏のページは、次第説法における「生天の法」みたいなものかもしれませんね。
たとえば、「常見・断見」に関しても、
-----------
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html ブッダは「死後にも魂のようなものとして自我が永遠に生残る」という宗教の独断も、
「死後は自我は生残らない」という唯物論者の独断も、どちらも沈黙をもって否定しました。
このような二つの独断的見解をそれぞれ「常見」「断見」と言います。
-----------
との理解で最初はいいのではないでしょうか?(正確には違う気もします)
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism34.html このやり取りをみると、
「常見」:自性の存在をみとめること
「断見」:因果関係を認めないこと
という解釈もあるのかな?という気になりますが、どうなんでしょう?
469 :
暇人 :2005/06/15(水) 07:56:51 ID:/hKa5yY/
常見というのは、絶えず変化し生成する現象的な世界を、「恒常」と見る 見方です。断見は反対に「断絶」と見るわけです。 釈尊は、固定的な立場を批判したのだと思います。 さて竜樹。 モノに恒常不滅のアートマンが存在するとみなすと、 「出来立ての熱々ラーメン」と 「麺が延びきった冷えたラーメン」の説明ができません。 つまり恒常不変だったら、「変化」などありえないからです。 現実には 「出来立ての熱々ラーメン」と 「麺が延びきった冷えたラーメン」があるわけですから 恒常不滅のアートマンはありえないのですね。 竜樹は論理的にアートマン説を批判しているのだと思います。
470 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/15(水) 11:50:35 ID:4JbL+xmH
生起する。というのはいわゆる滅尽しているわわけですね。 条件がなくば滅尽しないわけですから。 つまり滅尽は生起でもある。 滅尽は断見となれば、同時に生起は常見ともいえる。 同時にあるものは分別はできない。
471 :
名無しさん@3周年 :2005/06/15(水) 12:14:33 ID:hOY0QWk/
生起するのは、いわゆる滅尽していないのですね。 条件が滅尽していれば生起しないわけですから。 つまり滅尽すれば生起しない。 滅するということは生起したのであり、同時に生起すれば滅するといえる。 同時にあるものは下の<>で括った部分である。 Aの生起→<Aの消滅とBの生起>→B消滅 これを分別し滅尽してしまえば生起しない。
472 :
名無しさん@3周年 :2005/06/15(水) 12:33:06 ID:hOY0QWk/
直します。 生起と消滅が同時に行われれて、完全に消滅するわけです。 したがって、Aの生起とAの消滅とは同時です。 そのときそこにBとなるような原因を残してはなりません。 「生起したら消えている」と見るわけです。 そのためには、Aが生起する原因CがあったからAとなったのであり、 Aという現象そのものを止めようとしないこと。発生した現象を見て心を 動じさせないことです。全部その前提があってのことなので、それが現象として 出れば要因となるものはなくなっていきます。
473 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/15(水) 12:36:27 ID:4JbL+xmH
>Aの生起→<Aの消滅とBの生起>→B消滅 これをラーメンに喩えると、 A消滅して、Bが消滅して、Cが消滅して・・・と、つまりその都度切断があるわけです。 連続性はない。→断見 このふたつ(断と常)が同時にある。 しかしながら、それがあたかも変化するように認識して、 徐々にラーメンが冷えるように捉える。→常見
474 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/15(水) 12:45:27 ID:4JbL+xmH
>そのときそこにBとなるような原因を残してはなりません。 ラーメンは、空気が冷えていれば(条件)でBとなる。 (Bと生起する。ということになる) <諸行無常>
475 :
名無しさん@3周年 :2005/06/15(水) 12:54:20 ID:hOY0QWk/
再び直します。 生起と消滅が同時に行われれて完全に消滅します。 したがってAの生起とAの原因=A’の消滅は同時です。 Aの発生を見て心にB’という原因の想いを刻むのをやめる。 生起したら消える。 Aが生起する原因A’があっただけであり、 Aという現象が出たらただ通過させれば原因のA’が消えます。
自性(スヴァバーヴァ)という言葉の意味について。 自性はなにやら「恒常不滅の実体」という意味に使われているようだが 本当にそれが本義だろうか? やはり「依って立つものが無くて存在しているもの」 あるいは「それ自身で存在しているもの」というのが本義ではないだろうか。 例えばコインの裏と表の場合に、 「裏」は自性があるとは言えない 「表」にも自性があるとも言えない というように使う。 なぜなら「裏」は必ず「表」が無ければならず、 「表」の場合も「裏」が無ければ存在できず、 お互いに依って立つから。 この場合、裏も表も同じコインの一部であり、 表だけ存在し、裏返しにしたとたんに存在が消え去るような、 そんな裏の無いコインというのは存在できない。 「男」と「女」の場合も、 同じ生物種の片方であり、 男だけ、あるいは女だけでは絶滅するから お互いに依って立つので自性がない。
ラーメンも「出来たてのもの」が無ければ それが「麺が延びきったもの」になることがないので 片方がそれ自身で存在しているとは言えず、自性が無い。 こうしてみると、「自性がない」とは、 あるものがそれだけで存在していない、ということを説明していて、 つまり一如である、と言っていることがわかるのである。 もちろん2本の腕を見て、ちゃんと2本あるじゃないか、 一如ってことは1本しかないってことか? という反論はばかげている。 ここで言う一如は、2本の腕は2本あるが、 同じ体の一部である、という意味だから。
478 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/16(木) 05:34:43 ID:pZW3pGZF
>>469 > 常見というのは、絶えず変化し生成する現象的な世界を、
> 「恒常」と見る見方です。断見は反対に「断絶」と見るわけです。
暇人さん、おはようございます。
もし、それが正しいとすれば、
-----------
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html ブッダは「死後にも魂のようなものとして自我が永遠に生残る」という宗教の独断も、
「死後は自我は生残らない」という唯物論者の独断も、どちらも沈黙をもって否定しました。
このような二つの独断的見解をそれぞれ「常見」「断見」と言います。
-----------
は、π=3と考えるのと同様に正確ではない といえるでしょう。
しかし、これは仏陀がアートマンに関し、
ある時は無我を主張し、またある時は無記で応えたことを
矛盾なく解釈する上で、とてつもなくわかり易い説明だと考えます。
そして、佐倉氏に関し、何より好ましいのは、結果を全て公開していることです。
つまり、いわゆる「教師の握りこぶし」が全くないことです。
結果は比較的簡単に検証できますし、
そこからどうしてそのような結論に至ったのかがトレース可能です。
「教師の握りこぶし」が全くないというのは、なかなか得がたいことです。
479 :
暇人 :2005/06/16(木) 07:17:25 ID:LtW+vifE
私の意見も私の独断にすぎませんので 正しいわけではありませんが、 私は「常見=宗教」「断見=唯物論」とし、釈尊を両者(宗教と唯物論)を 否定したという見解を乱暴すぎと思います
どちらか一方では片手落ちだから正見せよ、中道を行け、ということじゃないのかな?
481 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/17(金) 06:28:31 ID:BN6BOazV
>>479 > 私は「常見=宗教」「断見=唯物論」とし、釈尊を両者(宗教と唯物論)を
> 否定したという見解を乱暴すぎと思います
「常見=宗教」「断見=唯物論」というよりは、
形而上のことがらにも、常見、断見という見方を適用すると、
具体的には、
「常見->宗教(における神や輪廻する魂)」「断見->唯物論」
という例が導き出される。
と考えた方がいいのかな。
私は次の2つは若干ニュアンスが異なると考えます。
> 釈尊を両者(宗教と唯物論)を否定した
> 釈尊を両者(宗教と唯物論)を沈黙を持って否定した
そして、後者の「沈黙を持って否定」という主張に同意します。
釈尊が何をどうやって否定したかに関しては、
いつか六外道を批判する経典を読む機会がありましたら、
じっくり考えてみたいと思います。
482 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/17(金) 23:08:03 ID:BN6BOazV
今、悪魔との対話 (岩波文庫 サンユッタ・ニカーヤ2)中村 元訳を読んでいます。 これに、前スレで紹介されていた > 345 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/07(土) 11:11:42 ID:VYwFqZtq 「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。 (おのが)信仰を捨てよ。 梵天よ。人々を害するであろうかと思って、 わたくしはいみじくも絶妙な真理を人々には説かなかったのだ。」 --------- が載っていましたが、 増谷文雄氏の「仏教の根本聖典」pp29-31 「梵天勧請」のくだりとは 詳しさが全然違うのですね。こちらは漢訳が底本だったのかなあ? >(おのが)信仰を捨てよ。 は、梵天の次の台詞を受けてのものと考えられます。 >汚れある者どもの考えた不浄な教えがかつてマガダ国に出現しました。 また、こちらを読むと >人々を害するであろうかと思って、 このニュアンスもわかります。 例えは悪いですが、旦那さんが浮気をしていることを、何も知らない奥さんに 教えてあげたら、その奥さんが傷つくのではないか心配するようなものですねw アートマンを信じ、天界往生で欲楽の世界に来世生まれることを夢見ている人に、 諸法無我を説き、その夢を否定することは、 そのような人々を害するのではないかと心配したわけです。 たしかにこの解釈の方が、 >法を説くことに関し「疲労困憊するから、嫌だ」と言っていた世尊 より、腑に落ちます。 そしてこれは、本真の教えを説く前に、 次第説法において「欲楽のわざわい」を説くのに通じますね。
釈尊は、成道した時に、菩提樹と言われる木と対面していたのでしょうか? それとも木を背にしていたのでしょうか? とある方が、木が地中より水分を猛烈な勢いで引き上げている音を 聞いて、これが悟りなんだと思ったといってました。 釈尊の成道は別にどこでも良かったのでしょうか? インド人はガンジス河が死生観に関わっているのなら、 河を現前にしておいた方が理に適っていると思ったのですが 何故、木なのでしょうか。 落ち葉とか、太陽とか、目に見える虫や見えない生物や 風や、さまざまな生き物やさまざまな音とか それらの存在が必要だったのかなあ。おしゃかさまあ。
484 :
名無しさん@3周年 :2005/06/18(土) 07:13:13 ID:GhAkLsZ3
>>483 釈迦の息子は枕に頭を沈める刹那に悟ったらしいよ
485 :
暇人 :2005/06/18(土) 07:15:39 ID:+7f9g/zW
486 :
名無しさん@3周年 :2005/06/18(土) 07:15:59 ID:GhAkLsZ3
虚無僧の元祖となった禅の坊さんは蹴った小石が竹に当たる音を聞いた瞬間に悟ったそうだよ
487 :
暇人 :2005/06/18(土) 07:17:32 ID:+7f9g/zW
私が学生の頃は、 釈尊が悟ったのは スジャータとのセックス中に違いないと たちの悪いジョークばかり いいあってました お恥ずかしいことです
488 :
名無しさん@3周年 :2005/06/18(土) 07:18:51 ID:GhAkLsZ3
名前は忘れたけど日本の有名な禅僧で柵に背中をもたれ掛けてそのままひっくり返ってしまった瞬間に悟ったそうだ
489 :
暇人 :2005/06/18(土) 07:56:12 ID:+7f9g/zW
私は 柵にに背中をもたれ掛けてそのままひっくり返ってしまったことあるが。。。 痛かっただけだな ぼそっ
490 :
名無しさん@3周年 :2005/06/18(土) 13:50:54 ID:V7WmEDMZ
大事なのは瞑想の末悟ったということで木の下か河の側かとか、前か背かといったことではないでしょ。
陽射し・雨等をよける為の木陰でそ
493 :
名無しさん@3周年 :2005/06/18(土) 15:04:13 ID:OIMQRPT4
>>486 &
>>488 禅宗的な悟りの表現なんでしょうね。
一即多 多即一
重重無尽の法界縁起
に照らし返せば、瞬間瞬間 刹那刹那がすべて悟りである。
何かの拍子に、それを五臓六腑で体認した。
494 :
名無しさん@3周年 :2005/06/18(土) 16:52:57 ID:mi4R4azO
電車男は絶好調なのに、電波男はさえないね。
495 :
暇人 :2005/06/18(土) 16:53:53 ID:R1Q4szm3
忙しいみたいよ しかも病み上がりだから ゅっくり 養生されたほうがいい
496 :
栗花 馨 :2005/06/18(土) 18:27:12 ID:mi4R4azO
820 :名無しさん@3周年 :04/05/31 00:45 ID:FvxbTQDN
>>789 アホダラさん(=電波男) MLは、遠慮しますよ。
>>788 さんが言うとおりの人の主催する MLなんて参加したくないですよ。
私は788 さんの文の筋道も「て・に・を・は」も理路整然としていているように感じます。
たぶん、サンスクリット文法で考える方だと思います。しかもかなり切れそう。
意味は検証可能な証拠を提示せずに主張する人が、
文献学を学んだとは思えないということで明解じゃないですか。私も全く同感です。
例えばこれは
>>798 まったく検証不可能ですね。これを堂々と述べるあたりが信じられない。
彼は検証可能な証拠どころが、根拠を述べていることも滅多にないのですが。
しかも電波小僧なんで自作自演にしか見えない。いつものパターンじゃないですか。
窮地に追い込まれると、突然彼を弁護する権威者が現れて称賛し、去っていく。
しかも一様に彼について詳しく知っている。それ以降は登場しない。
弁解してますが、
>>800 これなんか証拠にしか思えないです。
497 :
栗花 馨 :2005/06/18(土) 18:28:52 ID:mi4R4azO
800 :名無しさん@3周年 :04/05/30 17:56 ID:VZ/ooIND
>>792 名前:電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :04/05/30 17:13 ID:rbWVpshi
>>795 名前:672 :04/05/30 17:22 ID:rbWVpshi
ID:rbWVpshiキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
820 :名無しさん@3周年 :04/05/31 00:45 ID:FvxbTQDN
>>789 アホダラさん(=電波男) MLは、遠慮しますよ。
>>788 さんが言うとおりの人の主催する MLなんて参加したくないですよ。
私は788 さんの文の筋道も「て・に・を・は」も理路整然としていているように感じます。
たぶん、サンスクリット文法で考える方だと思います。しかもかなり切れそう。
意味は検証可能な証拠を提示せずに主張する人が、
文献学を学んだとは思えないということで明解じゃないですか。私も全く同感です。
例えばこれは
>>798 まったく検証不可能ですね。これを堂々と述べるあたりが信じられない。
彼は検証可能な証拠どころが、根拠を述べていることも滅多にないのですが。
しかも電波小僧なんで自作自演にしか見えない。いつものパターンじゃないですか。
窮地に追い込まれると、突然彼を弁護する権威者が現れて称賛し、去っていく。
しかも一様に彼について詳しく知っている。それ以降は登場しない。
弁解してますが、
>>800 これなんか証拠にしか思えないです。
498 :
栗花 馨 :2005/06/18(土) 18:30:01 ID:mi4R4azO
788 :名無しさん@3周年 :04/05/30 16:28 ID:HQztRNlH
>>電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k
言説空間で自分の発言を、他の参加者には分からない方法で
説明をしようとする人には公開の場には参加する資格はないですよ。
817 :名無しさん@3周年 :04/05/30 23:43 ID:pp5Zkz3y
>>812 密教の修行
「三明六通(宿命通、死生智通、漏尽智通、・神変通、他心智通、天耳通)」
「空中浮揚。テレバシー。過去世に渡る他人のプロフィールを見る。地震を起こす。
落雷させる。手は印を組んだまま諸尊供養する。」
819 :名無しさん@3周年 :04/05/31 00:07 ID:SHHiB61V
ああ、だから「電波男」なのか。
↓
かつて密教の修行をしていた時、想像を絶する神秘体験をしました。三明六通
当たり前、空中浮揚当たり前、テレバシー当たり前、他人のプロフィールなんざ
すぐ見える。それも過去世に渡って。それ以外にも地震を起こしたり落雷させた
り手は印を組んだまま諸尊供養したりもう何でもありでした。
あなた、博士号持ってるの?
説明責任を求めてる相手に何の説明もせずに逆に情報を求めるのも面白いです。
学問を学んだとはとても思えません。
499 :
栗花 馨 :2005/06/18(土) 18:32:13 ID:mi4R4azO
700 :名無しさん@3周年 :04/05/29 00:31 ID:IZqyINhR おいおい、自分の読解力の未熟さを棚にあげて。なんだよ。 「誰がいってんの」って聞いてのに「これは多くの文献学者が指摘するところ」以外を想定しちゃうのが、その証拠だよ。 文章を「キチンと読み込めていないことがこの発言で証明されております」アハハ。 結局松本以外だれも言ってないってことね。そういえよ。 いつもながら、主張だけで根拠なし。間違ってもジャーゴンで強弁と。 あんたが非難する相手との差は、ジャーゴンだけですな。 そのパラレルはあんたに聞いたんじゃなくて、アホダラさん(=電波男?)に聞いたんですけど。 「ジャイナ教が混入した」というのとパラレルは全く意味が違う。ごまかすな、ちゅうの。 パラレルな記述があるのは単なる文献上の事実だが、 「ジャイナ教が混入した」というのはどのような方法で確認できるのだろう。 アルダ・マガーディーが混入したってんじゃ、そうは言えないよ。 「ジャイナ教が混入した」というのはあくまでジャイナ思想が混入したって意味だからね。 中村先生はあんたと逆のこと言ってるよ。榎本さん、荒巻さんと同じ。 ジャイナと仏教以前の時代から伝承を両宗教とも継承しそれぞれ発展させたと。 ブッダのことば、265頁 まあ、どうせ強弁するんでしょうが。 ほんと松本同様、自分の思いこみ仏教以外は、仏教じゃないでしょうから。 あんたが説くような仏教はあんたや松本みたいな現代人の頭以外には存在しないよ。 637 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :04/05/28 16:04 ID:c75jkBig 【スッタニパータについて】 ジャイナ教が混入している経典をありがたく思ってその通り受けとりたいのならそれでもいい。しかし、再度汚染する ことはまかりならん。現在存在する仏教教団のすべてはこの汚染されきった仏教であることに変わりありません。 642 :名無しさん@3周年 :04/05/28 16:25 ID:aozs94MT ジャイナ教がどうこうより ちみの態度が汚染されてるよ。
500 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/19(日) 11:05:53 ID:5N4tFTAj
興味深いページがあったので、一部抜粋してご紹介。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/book_review_miyamoto5_1.html しかし、宮元啓一氏の主張にも(玉城氏とはその方向が逆の)本質的欠陥があるように私には思えます。
宮元啓一氏の主張は簡単にいえば
「『経験的な事実を徹底的に観察し』『「徹底的に思考する瞑想』によって完全な智慧を獲得することができる」---(主張 A)
「経験的な事実と哲学的思考によって完全な智慧が獲得できる」---(主張 B)
「経験的事実と哲学的思考によって縁起の法(一二支縁起)の発見と確認ができる」---(主張 C)
ということになります。
ところが、この主張 C は以下の理由で成立しません。
(反証 1) 成道時の悟りについての釈迦本人の発言が、まさに主張 C を否定していること。
たとえば、
> 「わたし(ブッダ)によってたいとくされたこのダンマは、甚だ深くて、理解しがたく、
> 悟りがたく、寂静であり、分別を超えて微妙であり、賢者によって知らるべきものである」
の「分別を超えて」という言葉、あるいは
> 『わたくしが知ったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、
> 思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。』
(『ブッダが考えたこと ─これが最初の仏教だ』 108ページ)
の「思考の域を超え」という言葉が主張 C の「思考によって」とか、
分析知であることをあからさまに否定しています。
501 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/06/19(日) 11:06:47 ID:5N4tFTAj
(反証 4) 宮元啓一氏がご自身の主張の根拠と見なしている釈迦の言葉が、 逆に氏の主張を否定しています。 先の引用のとおり、宮元啓一氏は > 517 あらゆる宇宙時期と輪廻と生ある者の生と死とを、2つながらに思惟弁別して、 > 塵を離れ、汚点なく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、―――かれを目覚めた人(仏)という』」 (『ブッダが考えたこと ─これが最初の仏教だ』 115ページ) の『第517節の「2つながらに思惟弁別して」というくだりは、目覚めた人(ブッダ)の智慧が、 「分析的な知識(分別知)ではなく、総合的な直感である」 (平川彰博士などがことあるごとに強調する)という考え方、 また、「智慧は無分別知である」とする大乗仏教の経典でひんぱんに見られる考え方、 また、雑多な人々が雑多に主張するような、 智慧を何かしら超常的な洞察力などとする神秘主義的な考え方に、 直接の打撃を加えるものであるといえる』(115ページ)と主張しています。 ですがこれは氏の論旨の自壊を含んでいます。 宮元啓一氏は517節に「思惟弁別」という言葉が含まれていることから 「分析知や経験的事実」だと即断したようですが、 「あらゆる宇宙時期と輪廻と生ある者の生と死」という重要な箇所を見逃しています。 「あらゆる宇宙時期と輪廻と生ある者の生と死」は 分析知や経験的事実などで捉えられるものではありません。
「あらゆる宇宙時期と輪廻と生ある者の生と死とを、2つながらに思惟弁別して」というのが具体的に何なのか。 それを把握しないと「分析知や経験的事実などで捉えられるものではありません」とは即断できないでしょう。 スッタニパータ517節の箇所は遍歴行者サビヤの質問にブッダが答えるところだけど、前後の解答は心を落ち着け 感官を修養することが説かれており、神秘的な印象を受けない。
「思考の域を超え」も原文ではどうなのか。atakkAvacara推論によって入ることができない。
504 :
名無しさん@3周年 :2005/06/19(日) 16:30:04 ID:ZGLjxnP3
ラマヌジャン【らまぬじゃん】 「信じられないかもしれないが、すべて毎日お祈りしているナマギーリ女神のおかげなんだ」
505 :
チラシ配布 :2005/06/22(水) 02:15:52 ID:B1rmF4Og
「尊い方よ。私たちは婦人に対してどうしたらよいのでしょうか?」 「アーナンダよ。見るな。」 「尊氏よ。しかし、見てしまったときには、どうしたらよいのでしょうか?」 「アーナンダよ。話しかけるな。」 「尊い方よ。しかし、話しかけてしまったときには、どうしたらよいのでしょうか?」 「アーナンダよ。そういうときには、つつしんでおれ。」 ブッダ最後の旅--大バリニッバーナ経-- p131 第五章 9 アーナンダさんが、好い味を出しています。 釈尊最後の日という設定も忘れ、思わずニヤリとしてしまいます。
507 :
質問 :2005/06/23(木) 13:15:15 ID:0YMRlyuI
508 :
名無しさん@3周年 :2005/06/23(木) 14:27:13 ID:dc8A4RwU
>尊氏よ なにげに「たかうじ」と読んでしまう習気は強力です。 また、ぜんぜん脈絡を無視して、アーナンダは「歓喜」を意味します。 サット・チット・アーナンダ!!
509 :
暇人 :2005/06/24(金) 00:27:11 ID:YxzWmAJy
パーリ聖典の源流批判
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta1.html 私は専門家ではなく素人ですが、少しばかり。
その頁は、南伝派の支持者の作成ですね。
客観を装われていますが、南伝は、信仰仏教です。
彼らの主体的な信仰としてのお話であれば結構なことです。
お好きに、というところですが客観的な学問からすれば、お寒い限りでしょう。
例えば
■パーリ語
パーリというインド語にそもそもは「聖典」という意味はない。
「外耳 縁 端 線 列」という意味です。
仏典をパーリと呼んだ最初は、4末から5c成立のスリランカ史書に依ると、
前1cとされ、その言語をパーリ語とするようになったとのことである。
釈尊の語った言葉は何か確定していないが、その活動地域は、マガダ国とコーサラ国の
間であり、マガダ語 コーサラ語 釈迦国語その他であろうと推定されている。
文語体として、サンスクリットがあるのだが、釈尊はそれぞれの俗語を重視したと推定
されている。釈滅後、釈尊活動地域では、マガダ国がコーサラ国を滅ぼし、一大帝国化
したので、仏教教団はマガダ語を重視したのではないかと思う。
伝説によるとパーリ語は、スリランカ布教したマヒンダの母の生地の言葉とされる。
南西インド語とパーリが若干ずれるから証拠にならんと言われているが、逆で
パーリはあくまで文語で話し言葉ではなくも話し言葉の現地語と少しずれるのは当たり前
(春秋社 「パーリ語辞典」 水野弘元 序文参照)
510 :
暇人 :2005/06/24(金) 00:27:25 ID:YxzWmAJy
■第一結集 パーリ蔵にも最初期の聖典分類法としての九部教という聖典分類法が名前だけ残っており、 最初から五ニカーヤ・四阿含の分類でなかったことがしられている。 五ニカーヤ・四阿含が文章化されたのは、部派成立後されているが、パーリについては、 前1cにスリランカに伝わり、ブッダゴーサの時代に4c末〜5cに再度整理されたのでは と私は思う。(注釈については、前1cにシンハリー語訳されたものをブッダゴーサが再パー リ化したと記録されている。注釈と経典は実は一体だったのではないかと私は想像) 漢訳四阿含は4c〜5c漢訳と知られている。 仏教資料としては、アショカ王碑文がその意味で改変を蒙っていない一番の原資料です。 「根本仏教」の著者 増谷文雄も能天気に、インド僧の驚異的な暗記能力を根拠に、 口頭伝承でも何も聖典は改変されなかったとされるが非科学的で一種の信仰ある。 経典自体が増広されているし、経文の改変も沢山ある。 ■律の改変 律の改変されている証拠がある。 アショカ王碑文は教団の分裂を諌めているのだが、各派の律の「破和合僧」規定は 大きくツータイプある。 一つは、「誤った見解の主張」を持って「破和合僧」とする見解。 これはとても厳格で元々のタイプと推定される。 次にアショカ王の支持に迎合するタイプで、「別々の儀式執行」をもって「破和合僧」とし 「別見解」を持っても儀式さえいっしょに参加すれば、分裂ではないとみる温厚な考えで 教団の分裂を危惧した新タイプと推定されている。 大衆部はこの新タイプに属し、上座部系の説一切有部が厳格タイプと知られている。 南伝分別説部は、この両者の折衷型で、前者より後者を重視しており、 元々前者であったのに、後者を追加したことがしられている。 (大蔵出版「インド仏教変移論」 佐々木閑)
511 :
暇人 :2005/06/24(金) 00:27:46 ID:YxzWmAJy
■経蔵の改変 「長、中、相応、増支の四グループには、第一結集以後新たな経典は加わっていません」 というのはウソである。 パーリと漢訳を比較すると パーリ長部34経 漢訳長阿含 30経と、パーリ4経増やしている 相応部に至っては2872経に対し漢訳雑阿含は、半数の1362経 増支部も2198経に対し、漢訳増一阿含は1/4の471経しかありません。 中部のみが152経に対し漢訳中阿含221経と漢訳が増広しています。 (春秋社 「インド仏教上巻」平川彰 p94原始仏典の成立を参照 ) ■第二結集 ヴェーサーリは元々 釈尊の活動地域で、穏健派アナンダと関係の深い地域。 そこに釈滅後、教勢を伸ばした新興布教地域からやったきたヤサという修行僧が、 ヴェーサーリの比丘たちにイチャモンをつけたのがはじまり。 ヤサの幼稚な指摘は会議で無視されたので、ヤサは怒り新興布教地域の長老を ひっぱりだし大問題化した。新興地域の長老と従来地域の長老が四人づづ代表だし 検討した結果、長老たちは保守的に律の自由適用は不可で一致した。 多数派はこの結論に納得できずに分裂。
512 :
暇人 :2005/06/24(金) 00:32:12 ID:4WyzHikS
■第三結集 これは南伝のスリランカ島史の創作。 この結集は、モガリプッタがパータリプトラに招かれ、異端者を還俗さし、 分別説によつてサンガを浄化した。分別説こそが仏教だという自画自賛の伝承であり、 これを鵜呑みにするのは、南伝の信奉者だけでしょう。 千人を集めて結集したとあるが、他部派の僧までが集まって分別説を支持した形跡は 他派には皆無。 しかし「論事」は編集されたのだから 分別説部だけの小さな結集はあったかもと 言われています。 私みたいな素人が少し調べれば、ボロボロ穴がでることを 博士号をもたれている方が書かれているところは、 テラワーダのカルト性を示しているのかもですね。 自分たちだけが「正しい」とするのはカルトです。 少なくとも主体的信仰の世界の「正しい」と 客観世界の「正しい」と穿き違えることは、 世間に害毒を流すことではきないかと危惧します。
>自分たちだけが「正しい」とするのはカルトです。 >少なくとも主体的信仰の世界の「正しい」と >客観世界の「正しい」と穿き違えることは、 >世間に害毒を流すことではきないかと危惧します。 概ね同意します。 このスレでも何度か言われてきたことですが、この事は何度書いても 「書き過ぎ」「見飽きた」、という事はないと思われます。 未だに履き違えている人達が散見されますので。
514 :
フレッド :2005/06/24(金) 19:18:16 ID:J1jWieFq
だけど、世間に害毒を流さない教えなんてあるんですか? 例えば、釈迦の説法だって害毒になることもありうる。 一家の主が出家して、家族離散になるとか。 それは世間にとっては十分に害毒ではないですか?
515 :
名無しさん@3周年 :2005/06/24(金) 19:30:11 ID:bAN6dflm
>>502 :名無しさん@3周年:2005/06/19(日) 13:59:58 ID:uIzQounx
> スッタニパータ517節の箇所は遍歴行者サビヤの質問にブッダが答えるところだけど、
> 前後の解答は心を落ち着け感官を修養することが説かれており、神秘的な印象を受けない。
しかし、導入部分には
> そのとき遍歴の行者サビヤに、昔の血縁者であるが(今は神となっている)一人の神が質問を発した
> かれは大神通があり、大威力がある。
といった記述があり、神秘を肯定している印象を受ける。
> 524 天の田・人の田・梵天の田という一切の田を弁別して、
> 525 天の蔵・人の蔵・梵天の蔵なる一切の蔵を弁別して、
ちょっと話はずれるが、この、天、人、梵天という3区分が何を意味するのか不明。
>>503 :名無しさん@3周年:2005/06/19(日) 14:09:50 ID:uIzQounx
> 「思考の域を超え」も原文ではどうなのか。atakkAvacara推論によって入ることができない。
atakkAvacara推論って、何?
「仏弟子の告白」テーラガーターを読むと、
>55 三つの明知
という表現が頻繁にでてくる。
三明(天眼通と宿命通、漏尽通)は、実際にどんな扱いだったのだろうか?
参考
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/theravad.html 釈尊の悟りの三本柱を知っているか? 御自身の過去生を如実に見られたことが、まずひとつ。
次が、生きとし生けるものが業によって輪廻していく様を見られたこと。
最後が、苦と煩悩の生滅だ。(曽我注記:例えば大蔵出版 片山一良訳「パーリ仏典 中部(マッジマ ニカーヤ)根本五十経篇I」第4 恐怖経を参照)
初学の者が釈尊のおっしゃっている事をあれこれと詮索すべきではない。
それは妄想にしかならない。そのまま受け入れるべきだ。
509-暇人さま カルトうんぬんはともかく、 協会HP掲示板にて 直接お考えをぶつけてみてはいかがでしょう。 批評に対する回答を聞いてみたいとおもいます。
518 :
暇人 :2005/06/26(日) 04:12:48 ID:j8cYT8Ri
519 :
名無しさん@3周年 :2005/06/26(日) 09:35:21 ID:hr7B4QUn
>>517 2ch的には「協会=カルト」であると認定済みですよ。
考えをぶつけるとはどういう意味でしょうか?わざわざ行っちゃってる人と
お話しする知恵なしはいないと思います。そのような発想に傲慢さと身の
程知らずな組織の体制が見え隠れします。スマ氏自体、ものすごく切れ
やすい傲慢な強欲魔、身の程知らずですから感染するのでしょうね。
文句があるのなら、ここに来ればいいでしょう。
520 :
暇人 :2005/06/26(日) 11:57:43 ID:9S4omjRM
私は「認定済」とは思わないけどね。 単純な事実として、現代の学問的知見 特に文献学を巡って 二つの立場があるのね。 仏教で言えば 創価学会をはじめ新興宗教は学問情報に批判的な立場を取り 伝統的な信仰を「正」とするのね。 北伝伝統仏教は、学問情報を受け入れた上で信仰を展開するのね。 南伝は北伝の新興宗教並みに学問情報に背を向けるので、 創価学会らとさして変わらないレベルに見えますね。 キリスト教で言えば、メインライン(伝統派 カトリック 聖公会 教団など)は 文献学を受け入れ、 福音派が拒絶し、伝統的な信仰の世界に閉じ篭る。 どちらがいい悪いというより まず事実として、 学問情報に対する「受容」「拒絶」の二パターンがありますね。 個々人は、それぞれ好きなほうをご自分で選択されればよい。
521 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/26(日) 12:00:16 ID:A6P0cJv7
>>519 >2ch的には「協会=カルト」であると認定済みですよ。
そうでしたか。
私は、電波先生が一人で「カルト認定」しているのかと思ってましたよ(^^ゞ
しかし皆さまは、いろいろな団体の情報に詳しいですね。
ちなみに、私は統一教会だけ詳しいです。
40日間だけ洗脳されましたから。
他の団体はよく知らない。
( ゚∀゚)アーーッハッハッ八ッ八ノヽノヽノヽノ \ / \
522 :
暇人 :2005/06/26(日) 12:07:30 ID:9S4omjRM
統一教会ねぇ。 オレは脱会させてた方だな。 写真撮られちゃった汗
523 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/26(日) 13:49:05 ID:A6P0cJv7
統一教会には、いろいろご馳走になったし、泊めてももらった。 すべて金はロハ。 そのころは、たぶん金はあったのかとおもう。 (どこかの援助とかあったのかな?) 大学のオネェチャン(食口)に「入教しないか?」って言われたけど、 私が断わったら、それ以上は誘わなかった。 (家出はできないからね) それで終わり(^^ゞ
524 :
名無しさん@3周年 :2005/06/26(日) 16:17:45 ID:hr7B4QUn
>>520 2ch的には認定済みです。教義とか学問とか関係ありません。
組織の金満体質と、その体制について宗教板ではなく認定
されてきた経緯があります。一度、協会本部へ行けばわかる
と思いますよ。
525 :
暇人 :2005/06/26(日) 16:23:47 ID:IVaM1hCj
>2ch的には認定済みです じゃあ 簡単に経緯と論点(事実と事実認定の論拠)を かいつまんで 再掲してよ。 そういうことをせず認定済みと言われても わたし的には説得力ない。
526 :
名無しさん@3周年 :2005/06/26(日) 16:37:53 ID:hr7B4QUn
>>525 あなたに納得していただかなくてもいいのですよ。
実際に被害者の会も立ち上がって活動開始しているわけですし、
あなた一人ぐらいの不賛同があっても影響はありません。
以上です。
527 :
暇人 :2005/06/26(日) 16:50:31 ID:x6GxzkpL
賛同 不賛同以前でしょう。 情報を提供されないのですからね。 立ち上がった被害者の会って 正規のまともな会なん? 聞いたことないけどねー。 きちんと情報提供できないということは 怪しいと感じるねー。 なんで隠す必要あるのかな。不思議だね 普通の人は 情報を得て、それから判断するだと思うね
528 :
名無しさん@3周年 :2005/06/26(日) 16:59:30 ID:eT1vo0K+
「協会」って、「テーラワーダ仏教協会」のこと? おれも気になる。 どういうことか説明希望。
529 :
名無しさん@3周年 :2005/06/26(日) 18:28:40 ID:hr7B4QUn
>>527 情報を提供する意思はありません。
正規のまともな会ってなんですか?意味不明ですよ。
これは普通の人にはわかってもらえなくても結構ですよ。
被害を受けた人たちが集まって、返還訴訟の準備をして
いるだけですからね。
なんというか、あなた阿呆ですね。
>>1 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/26(木) 12:57:31 ID:GMVQZXA/
> 自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されるようお願い申し上げます。
> 原始佛教関連以外の話題は当該スレッドか新たなスレッドを建ててお願いいたします。
> スレ違いの妄想デムパ発言には終始默殺・完全無視が吉と思われます。
531 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/06/26(日) 19:15:04 ID:oEkVjLQn
532 :
名無しさん@3周年 :2005/06/26(日) 19:23:18 ID:1cavdKUy
暇人さま 517ですが、 わたしは、あなたの指摘されたことが、今の時点では、的を得た内容と 思ったので そのことに対し、F本さんとかが、どう反論されるのだろうか?と ただ、知りたいと思いました。 あのあとF本さんの文章を少し読み直しましたが、 特に、学問、学会向けの文章ではないようですね。
533 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/26(日) 19:43:21 ID:A6P0cJv7
>>529 >被害を受けた人たちが集まって、返還訴訟の準備をして
>いるだけですからね。
そうでしたか。
やはり”金”は付きまとうものですね。
返還訴訟というくらいですから、最低でも〇百万両。
普通に考えて〇千万両の単位ですね。
しかし皆さまは何でそんなに金持ちなんでしょ?
汗水たらして稼いだ金は、そう簡単に人にやるもんじゃないです。
534 :
名無しさん@3周年 :2005/06/26(日) 20:51:26 ID:zf2KQ/jz
535 :
名無しさん@3周年 :2005/06/26(日) 22:13:11 ID:IF59wLdU
>>526 結構長い間覗いていたつもりだけど、2chで認定?聞いたこと無いな。
電波氏のハクチ認定と同レベルの話かな?
説明できないのならどうぞ失せてください。
536 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 01:55:07 ID:fAc810qM
独り言さん、守備範囲広いですね。
537 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/06/27(月) 02:08:25 ID:3mF3eMIE
538 :
暇人 :2005/06/27(月) 07:55:54 ID:tYSWWrvX
>>532 協会信者や関心のある方に向けて、
テーラワーダは、唯一正統な仏教を継承しているのだ
という自画自賛を、客観的、学問的な偽装して書かれている
文章だと私は思いますけど、感じ方は人それぞれですね。
>>529 返還訴訟の準備をされているのが
なぜ直ちに2ちゃんで認定になるのか不明ですね。
裁判所に却下されるかもしれないし、
裁判前に調停をし和解が成立するかもしれない。
そもそも返還訴訟準備自体がネタかもしれない。
>>537 ご苦労。
別にどなたも認定してないし、
被害者の会云々もこの時点ではないみたいね。
「寺」建設を巡って、
推進派が協会の指導権を掌握し、
慎重派が懸念しつつ見守っているという感じね。
この後 慎重派で辞めた方がいて
布施した金返せと騒いでるのかな。うむぅ。
539 :
暇人 :2005/06/27(月) 08:01:43 ID:tYSWWrvX
何点か 興味深いところがあるね。 @喜捨について サンガに対する布施が一番効果あると説いている点。 これは部派成立後に出てくるね。 古層では、まず自分の周りに布施、貧しい人に布施を説き、 功徳に関して、布施する相手によって功徳の多寡に差が出ると説かないの だけどもね。 創価なども創価に対する布施が一番功徳あると説くね。 やはりこの点からしてもテーラワーダは、日本仏教でいえば、 創価なみの感覚ね。
540 :
暇人 :2005/06/27(月) 08:04:46 ID:tYSWWrvX
Aスマ氏が100万寄付したとあるね。 根本分裂の分裂理由(南伝)に「金銭浄」があるのだけどね(笑) 戒律は実際的に破綻している例だね。
541 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 08:09:37 ID:XoXnFgKF
喜捨も如来の身元において行わなければ意味がない。 阿含宗は真正仏舎利がある。 だからこそ、奇跡が起きる。
542 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 08:27:04 ID:QlIQNowk
奇跡を期待するのは釈迦の教えじゃないっすよ とっととあぼーんカルトスレに帰ってください
543 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 08:34:52 ID:fAc810qM
奇跡ねぇ。 まぁ、それを言って理解できるような人は、阿含宗なんかにいないだろうけどさ。
544 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 08:38:35 ID:QlIQNowk
上座部僧侶も上の方にいくと金持ちですよ。 彼らの使う衣の帯の中には隠しポケットのようになっていて、 米ドルの札束が入っていたのを某外国で見たことがあるw
545 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 09:03:46 ID:VlzugMJ9
546 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 13:44:15 ID:VlzugMJ9
教会って、統一教会じゃなくて、テーラワーダ協会の方ですか?
こりゃ失礼致しました(恥
>>522 だけみて統一教会の話かな?と思い込んでました。
テーラワーダに関しては、過去スレで何度か話題に挙がりましたね。
「原始佛教シリーズに限定して」の認定ならばともかく、「掲示板レベル
で」「認定」までいってるかどうかは私では判断致しかねます・・・
幸いベロさんが
>>537 でリンク張ってくださっているようですので、
ちょっと読んでみますね。
※読んだ挙句にやっぱりコメントできない可能性大
548 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 18:40:33 ID:vcQ7WkB/
いや、別にいいんだけど。 学習型と成長型があり、どちらも理がある。 どーせ次は三世、三宝だし。 催奇性の強さと、論証の困難さで先は見えんし、 自殺幇助になりかねんが。
549 :
フレッド :2005/06/27(月) 20:34:03 ID:t3tyNqcy
お布施を要求する方もする方だけど、一旦布施した カネを返せという人の感性も変だよな。 スマ氏自身が、「信じる者は騙される」って、確か 言っていたような気がするんだが。 そこへもって、功徳を信じてお布施をしてくださいと いうのも変な話だなって、普通は思うだろうけど・・。 人間の弱さもあるんだろう。
550 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 21:32:58 ID:vcQ7WkB/
倒すにしろ、越えるにしろ、壁は高い。 旧共産圏じゃないが、何億集まっても途中でへたれることもある。 匿名掲示板で遊んでる奴のいうことでもないけどな。
551 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/29(水) 11:21:27 ID:RV2Ot8V6
知人のスリランカ人留学生氏(在家)、同郷人コミュニティでいつも供養しているスリランカ人比丘と電車 の中で鉢合わせしたそうだが、その比丘は壊色の法衣ならぬTシャツ・ジーンズにキャップという姿で、 その上彼女(日本人)と手をつなぎ片手で幼児を抱いていたそうな(藁)。気まずく思った件の留学生氏、 隠れようにも間に合わず、目が合ってしまったそうな。比丘のほうも居たたまれなくなってか、慌ててキ ャップを目深に被って目を逸らし続けていたらしい。「厭なものを目撃しました」と留學生氏は嘆いていま した。 「(妻帯を)隠すは上人、せぬは佛」(後白河院)
上座仏教現地スリランカ、ミャンマー、タイといったところでも比丘の愛人、隠し子問題というのはけっこうあるんでしょうか? 日本では中世から半ば公然の事実として僧侶が内室を囲って子供をもうけることもあったようですが。
553 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/29(水) 14:00:14 ID:RV2Ot8V6
これってスレも立ってるタイのタンマガーイ寺院の話しじゃないですか?
>>551 もそこの坊さんの話ということでしょうか。
555 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/29(水) 15:18:35 ID:RV2Ot8V6
556 :
名無しさん@3周年 :2005/06/30(木) 13:30:57 ID:9dTgCb60
>>520 こんにちは。
> 南伝は北伝の新興宗教並みに学問情報に背を向けるので、
とありますけど、暇人さんが反論されているF氏はINDUSで調べるとけっこう論文出してるみたいです。
http://www.inbuds.net/ それ以外にも学会発表はあちこちでやってるみたい。事実を見ると、南伝も、少なくとも、自分たちの教義に合致する学問情報には耳を傾けているのではないでしょうか? 上座部の坊さんや信者さんで高名な佛教学者だっていくらでもいるでしょうし。
よく議論になる輪廻説にしても、宮元啓一氏とかの主張には好意的な反応をするでしょう。
おそらく北伝の人々(日本のこと?)にしても、やはり自分たちの教義を正当化するのに都合のいい学問情報を集めているのではないですか? 大乗佛教の立場が悪くなるような研究はシカトするとか。
日本語になってる著者でも、ゴンブリッチとか読むと上座部が正統派なのは当たり前。大乗佛教なんかまるで相手にされてなくて「ええ??」という感じになります。なんか、そのへんは欧米とは違う日本の学界の独特のノリとか、偏向とかあるんじゃないでしょうか。
また、日本大乗の場合、釈尊の教えについては、「パーリにはこうある」「漢訳阿含にはこうある」という議論をするよりは、
「後からいろいろくっついてしまったから、釈尊の直説はよくわかんない。結局ジャイナやウパニシャッドと大差なし。まぁ、釈尊は人格者だってけどね」っていう結論になったほうが都合がいいんじゃないでしょうか?
かなーり解釈のはばをつくっておかないと「釈尊の弟子」は名乗りづらいような(笑)。そもそも大して尊敬もしてない釈尊だけ「人間宣言」してもらえば、祖師さんの立場と自分たちの信仰の小箱は守れますからね。
佛教にまつわる日本の言説事情を観察してみると、そういうややこしい事情が透けてみえますので、単純な図式化はちょっと早いような気がします。
557 :
暇人 :2005/06/30(木) 14:49:12 ID:PfZB59rx
>>556 うん。
Fさんは博士号持たれるのですから、論文出されているのは当然でしょう。
(論文書かないと博士号は貰えない)
Namazu による全文検索システムのヒットは12本ですね。
問題はそういう博士号をもたれている方が、
「釈尊の教えがそのまま、テープレコーダーに吹き込まれたように
一語一句も漏らさず加えず間違わず、聖典(パーリ)としてまと
められた」とパーリ聖典無謬性をご自身の主体的な信仰の裡の事柄ではなく
客観的事実として語られているところが痛いのです。
南伝ベタベタのゴンブリッチですら、
(中国語を読めないので漢訳を直接確認できないと自らの限界を語っている。
大乗を無視というより、触れることができないのですね 西洋人的限界です)
その翻訳された著作「インド・スリランカ上座仏教史」p36で、
「パーリ語の原典は明らかにブッダの時代より遥かに後代のものである。
それらは最初、長い間口誦によってのみ伝えられ、紀元後1世紀にいたるまで
書写されることはなかった。その上、使われている言語はかなり後代になって
からも変遷したかもしれない」
ゴンブリッチがまだまともなのは、
「興味の対象となる点は、ただブッダが何を説いたかではなく、
彼の聴衆が何を聴いたかなのである。
ブッダが自分のメッセージを保持するために創設した組織、サンガを通して
彼のメッセージはいかに濾過されてきたことか」
558 :
暇人 :2005/06/30(木) 14:49:43 ID:PfZB59rx
>大乗佛教の立場が悪くなるような研究はシカトするとか だからそーいうのは北伝伝統派では明治維新の頃の話。 大乗が釈尊直説ではなく、後代成立説を発表した学者さんは、 僧籍剥奪。 現代では、そんなアホなことはしない。 南伝は、文献学的な成果を無視し、パーリ聖典無謬説のままですね。 この態度は、創価とか福音派と同レベル。 但し、当然のこととはいえ誰しも自派有利な証拠収集しちゃう傾向は あるよね。無意識に。 単純な図式化は、漏れも多く すぐ有害化しちやいますが ただそれでも度合いに差がありすぎているのが現状でしょう。
559 :
名無しさん@3周年 :2005/06/30(木) 15:01:34 ID:Lp1IGOPK
暇人は本当に暇人なんだな。 霞食って生きてるのか? それとも土地成金なのか?
560 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/30(木) 15:34:55 ID:1jZz8lLR
いずれにせよ、どこの宗派教理やイデオロギーがどうなろうがこうなろうが一切関知しませんし、 「主体的な信仰」など存しない者としては月の裏側の事柄のようなものです。
561 :
556 :2005/06/30(木) 15:35:15 ID:9dTgCb60
>>557 >>558 レスありがとうございます。
うんうん。ゴンブリッチさん、書き方がいちいち意地悪なんで好きです。
ただ、作業仮説として、パーリ聖典をひとつの体系として一貫したものと捉える、というのはアリでしょ? 現代人の思考であれこれ勝手な推測入れたり、大乗仏教の流れと無理やりくっつけたりするより、そっちのほうが分かりやすいもの。
あと、大乗のいろんな考え方にしても、ティピタカずっと読んでると、「パーリのこのへんからこれ取ってきて、飴みたいに伸ばしたんだな」というのはよく見えるし。逆の立場から見れば、「大乗的な思想の混入・導入」ということになるんだろうけど。
たしかに、それが釈尊の教え「そのもの」だと、絶対無謬だと言い切っちゃうのは信仰入ってるだろうけど、文献学的成果ってのも変わるものだし、日本の場合は特に、そこかしこに護教的な意図が働いているから。客観的になるためには、「身内」には点を厳しくしないとね。
大乗の場合はやはり「自分の体験に基づいて新しく経典つくっちゃう」ってことがひとつの共通項になってるから、釈尊直説ではないってのは、よく考えるとどーでもいいんだ、というふうに意識を変えてるでしょ?
意識してるかしてないか知らんけど、日本の仏教学印度哲学はおおむね、お寺の次男三男の食い扶持なんだからさ、学問に干渉してくるDNAのはたらきは無視できないと思いますよ。
そんで、実態としても完全に世俗化してるし。ただの家業だし。
だから世俗の学問があーだこーだ言っても、別にムキになって守るほどのものはない。
一般の人と同じく、自分の家(寺)でこそこそ隠れて「信仰」すればいいんだし。
しかし外向けには日本は「仏教国」だから、正統意識もちだしてくる上座部に対して、「オレたちは経典つくっちゃったけど、そっちだってどんどん変形してるじゃんかよー。うっせーんだよー」と居直れる。
そういう巧みな自己防衛フォームをつくった近代の日本大乗って、それなりの試行錯誤の結果なんだろうけど、えらいカッコ悪いなぁと、僕は思うよ。つきあってられん。家業守りたければ、勝手にやってろと。
562 :
556 :2005/06/30(木) 15:36:18 ID:9dTgCb60
まぁ、それは余談だけど、 大乗にとっては、 ・釈尊の教えがなんだか分からなければ分からないほど都合がいい。 ・釈尊の教えを批判的に切り刻むことが、すなわち護教的な意味を持つ。 ということはあると思います。 だから北伝伝統派の方が意識が進んでるってのは、ちょっと眉唾。 自分のためにやってることだからね。 繰り返しになるけど、やっぱり上座部と大乗では、釈尊の占める重みがぜんぜん違うんじゃないかな? 同じ土俵で「原始佛教とは何か?」を語っているように見えて、実は土俵がぜんぜん違うんじゃないか、ってのが僕の疑いです。 暇人さんの図式化の意図も、それはそれで分かります。話は微妙ですけど、微妙なところ無視して単純な図式化しちゃうと、そこでホッと胸をなでおろしちゃう人が佛教界には多そうで、それが癪でもあるんですよね(笑)。
563 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/30(木) 15:44:39 ID:1jZz8lLR
>>561 >パーリのこのへんからこれ取ってきて、飴みたいに伸ばしたんだな
漢訳された諸阿含を読んでみても同様。
>文献学的成果ってのも変わるものだし、
その成果によって、少なくともパーリ最古説は否定されていたと考えますが。
>そこかしこに護教的な意図が働いているから。
少なくともこのスレには「護教的な意図」を以って考えを述べる人は殆どいないものと考えます。
564 :
名無しさん@3周年 :2005/06/30(木) 16:27:44 ID:lW6atWGo
不浄の概念って、初期の仏教の教えからあったのでしょうか。 三不浄(死・産・血)っていつ頃から言われ始めたか知りたいのです。 神道で説かれたように書かれているものもある。 たしかに延喜式では明確に定められていますよね。 あと、穢れと不浄って概念的に異なるものなのでしょうか。
565 :
暇人 :2005/07/01(金) 07:54:03 ID:YXmvrPkW
作業仮説って 仮説を実証的に検証する為に立てるのだと思いますが。。。 アンチ仮説が成立する余地がないことを諸資料より論じないとね。 「パーリ聖典はひとつの体系」ですね。 大正大蔵経や旧新約聖書も同じく一つの偉大なる体系ですね。 但し、パーリ三蔵にせよ漢訳大蔵経あるいは旧新訳聖書にせよ、 その体系を「一貫したもの」と見なすのは、客観的な判断というより、 主体的な信仰ではないでしょうか。 「それぞれの体系が実は一貫していず、裡に諸々の矛盾がある」ことを、 簡単に論証できますから。 我々は無意識に現代人の思考で、古代資料を切り捨ててしまう過ちを犯して いますね。そのことを指摘し注意を促すことはとても大事だと思います。 だからといってパーリを無謬のものとして神聖視する姿勢のほうがましという ことにはならないでしょう。 文献学的成果は次々に変わりますね。 無意識な護教的な姿勢も免れないでしょう。 ただそれでもなお現状で比較すると、大差かあります。 「自分の体験に基づいて新しく経典つくっちゃう」は、北伝大乗の特徴ではない ですね。仏像や呪文も北伝大乗だけに特有されるものではないです。 南伝もまた経典をどしどし作っちゃたのですね。 キリスト教もどしどし聖典を創作しましたね。別段珍しいことではないですね。 (「長、中、相応、増支」を乱暴かつ単純に比較すると 南伝5256経に対し漢訳2084経で差し引き計3172経です。 部派分裂後 倍以上の経典を創作したかもです。 新約のパウロの名による手紙の中には明らかにパウロ以外の作があります)
566 :
暇人 :2005/07/01(金) 07:54:59 ID:YXmvrPkW
史的釈尊の直説は何だろうかという真の意味での関心は南伝にこそないかも です。あるのは南伝も北伝も「信仰上の釈尊」への関心ではないでしょうか。 でも日本の大乗は文献批判からの成果を100年かけて受け入れたところで 信仰を形成してきたが、北伝の新興宗教や南伝は入り口で拒否していると思います。 私はどっちかというと事実をありのままに見ない態度を かっこ悪いと思います。 現代的な学問情報に背を向けることでしか信仰を守れない南伝の 古い伝統に固執す る弊。 自己を必要以上に正統化することでしかアイデンティティを示せない「弱さ」。 これは傍から見るとピエロですね
567 :
暇人 :2005/07/01(金) 07:56:31 ID:YXmvrPkW
>釈尊の教えが分からないほど都合がいい ならば北伝仏教からこれほど史的釈尊の研究が出ないでしょう。 むしろ南伝が学問情報を拒否することに「わからないほうが都合いい」という 護教があるのではと私は思いますね。 >釈尊の教えを批判的に切り刻むことが、すなわち護教的な意味を持つ これはどういう事実を踏まえて言われているのか不明です。 私、個人的は釈尊それ自身の思想性より、後代の仏教が遥かに思想性を 深めたと見ていますので釈尊を切り刻むのに躊躇いは少ないですが、 こんな姿勢などは北伝大乗では毛嫌いされますね。 皆さん、釈尊を深く尊敬してられる。 >釈尊の占める重み これはあなたの想定とズレタ意味で違うでしょうね。 土俵はちゃうでしょうね。それぞれの信仰的立場がまず違いますし、 中心的に拠って立つ経典すら別です。 ただ釈尊に対するピュアな敬愛が32相などの神格化を育んだり、 大乗の法華に至っては、「永遠の釈尊」まで行き着いた。 キリスト教もイエスを神の右に座すと天にまで上げることから始まり、 ヨハネ書に至っては、元々神であったイエスがマリアの腹を借り 人間となったとまで神格化は進んだ。 重みがあるほど ありのままに見ているわけでもないかもですね。 北伝のバイアスのかかった私は以上の感想をもちます 雑談失礼しました
568 :
名無しさん@3周年 :2005/07/01(金) 20:52:17 ID:v4LwOUjs
相変わらず蛇足ばっかり。。。 三界を擬人化するとこうなる。 A=普賢、河童、綾波 B=文殊、猿、シンジ C=観音、豚、アスカ 誰もが知ってるが、2年前に知られた。 これがわかれば、始められる。
569 :
名無しさん@3周年 :2005/07/02(土) 10:42:42 ID:i0BAdBdA
自分の知識欲を満たすために仏教勉強してる奴見るとむかつく 仏教を知り尽くした奴よりたとえ文字が読めなくてもたった一秒satiした奴の方が優れてると思うのだが
>>569 :名無しさん@3周年:2005/07/02(土) 10:42:42 ID:i0BAdBdA
> 自分の知識欲を満たすために仏教勉強してる奴見るとむかつく
「むかつく」?
こんな言葉を使うと、悪業を積むことになりませんか?
まさに一法を断つがよい。
その一法とはなんであろうか?
いわゆる瞋恚(怒り)がそれである。
571 :
名無しさん@3周年 :2005/07/02(土) 11:04:32 ID:5XQm6qlk
>>569 見なければいい。
来なければいい。
知ろうとしなければいい。
勉強しなければいい。
議論しなければいい。
発言しなければいい。
相対という輪廻におぼれてしまっている。→「奴の方が優れてると思うのだが」
あなたにとって一番大切なもの。それは人に構わず一点を見据えること。
572 :
暇人 :2005/07/03(日) 03:29:38 ID:eoJo+cyf
>>589 satiって何かしらんが
ムカついて良いんじゃない。
オレはそんな風にはしないと決めたらよい。
573 :
名無しさん@3周年 :2005/07/03(日) 03:44:57 ID:5B0qXiQY
574 :
栗花 馨 :2005/07/03(日) 10:24:59 ID:lImwrFEF
アホウダラは桐山氏の元弟子とはわらいますね
575 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/03(日) 11:15:20 ID:GfssjU5N
>>569 そのsatiとやらで解脱涅槃に到達されたその時は、大徳よ、どうぞここへ来たって無知蒙昧の輩を
教導し給え。
577 :
栗花 馨 :2005/07/04(月) 01:58:54 ID:4FjfN+wL
阿呆陀羅は自作自演常習者。桐山アゴンの元会員とはおわらいです。
578 :
名無しさん@3周年 :2005/07/04(月) 03:12:29 ID:sQOlRGDo
>>577 栗鳥巣は臭気女。実行委員長におめこばこばこ抜かれて臭さが増しました。
579 :
素人 :2005/07/04(月) 03:15:47 ID:qAnHI/Dd
>>576 後半、現実的な、いい視点だね (ゝ_ )b
580 :
名無しさん@3周年 :2005/07/04(月) 19:47:48 ID:iWMX1qnN
遺伝子をアートマンとみなすことは出来ないかな?子孫が続く限り不滅・不壊だよ。 もしこの考えが合理的とすれば、遺伝子の要求に適った生き方(つまりは世俗的な生き方)の方が正しいという事にならないか。利己的な遺伝子論によれば遺伝子こそが主体であり、身体はその一時的な乗り物に過ぎないからね。 宗教も自然科学的観点から批判されて然るべきだ。
581 :
名無しさん@3周年 :2005/07/04(月) 20:27:02 ID:8qehHmwF
新参者です。 大乗経典よりも、原始経典のほうが、ためになると思うようになった。 ただし、空と言う真理を理解していることが絶対的に必要だが。 原始経典では、空と言う真理が理解されにくいので、大乗経典が生まれたのかなと思うが、 どうでしょうか?
582 :
名無しさん@3周年 :2005/07/05(火) 10:03:27 ID:r5eDc3Qa
>>580 しかし、遺伝子は恒常普遍だろうか。
それとも変化するだろうか。
>遺伝子をアートマンとみなすことは出来ないかな?子孫が続く限り不滅・不壊だよ。 遺伝子は相続して子子孫孫に伝わっていくから遺伝子であろう。 もしも遺伝子が恒常不変のものであるなら、仮の身体を要求するという 変化的有り方になった時点で恒常不変ではなくなる。 遺伝子が刹那滅的存在であっても、また相続は不可能である。 滅したものが生じることはないのだから。 遺伝子をアートマンとみなし、子孫をとおして不滅・不壊の条件を満たす為には、 遺伝子を無明に由る渇愛とし、渇愛に因る世俗縁起展開とみれば、その条件は合理的 に証明できるようになる。無明→渇愛→無常変化する縁起継続体としての色身。 大乗の大般涅槃経では、アートマンの語をもって仏性を説明しようと試みているけれ ども、この場合のアートマンは、恒常不変のブラフマンの分身とか、死後にも続く固定 的な霊魂の意味ではなく、あくまでも釈尊の縁起の法に則ったアートマンです。
584 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/05(火) 14:12:27 ID:ZV2ESv+O
>>580 >>583 ここは原始佛教スレです。その種の話題は別スレや別板にて心ゆくまでおやり下さい。
585 :
名無しさん@3周年 :2005/07/05(火) 14:24:49 ID:VV+4hJHB
アートマンを解明しなけりゃ原始仏教もなにも ないでしょう。ただ釈迦がアートマンを否定したから と、そのまんま鵜呑みにするのがいいのか?
586 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/05(火) 14:54:17 ID:ZV2ESv+O
>>585 ブッダは「アートマン」を肯定も否定もしておりませんが。
587 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/05(火) 14:56:32 ID:ZV2ESv+O
いずれにせよここへ遺伝子などを持ち込むのは血圧や体温をCTで測定しようというような 類の話です。
588 :
名無しさん@3周年 :2005/07/05(火) 16:42:28 ID:0iNnZboe
>>581 小乗大乗の区別は大乗側が小乗側を卑下するイメージ操作に過ぎない。大乗の元祖はきっとそれまでの教団から
なかなか認められなかったインチキな奴で、それで大乗仏教なるものをでっち上げたんだと思う。その末裔が現在の
檀家、信者、会員を集められるだけ集めて金儲けをする葬式仏教だ。
589 :
名無しさん@3周年 :2005/07/05(火) 17:24:43 ID:BwTLOeaT
>>588 君は阿含宗信徒かね?あまりに単純な帰結だが・・・。
590 :
名無しさん@3周年 :2005/07/05(火) 17:30:53 ID:QH3Ca3a/
>586、 だったら、なおさらアートマンを学ぶ必要あるでしょう。 学識を誇って何でも知っているからって威張るな。 肯定も否定もしていない、じゃあ何なんだよアートマン は答えられるのか学識で?
591 :
名無しさん@3周年 :2005/07/05(火) 17:33:40 ID:lvmzwkeB
>>588 >小乗大乗の区別は大乗側が小乗側を卑下するイメージ操作に過ぎない。
論理矛盾を起こしていますよ。ま、あぽーん宗のバグ脳だから仕方ありませんがね。
592 :
栗花 馨 7 :2005/07/05(火) 18:02:32 ID:3b40n+VP
>樹意キイ あごん経をちゃんと読め シャク尊の教えがわからないのか あんたは似非者でひとのことはとやかくいえない。 糞掃衣.乞食はシャク尊のおしえ 粘着しないで 今着ているあんたの服をウンチ溜にどっぷりつけて 自分で川で洗え(洗剤なし) 阿含経にかいてあります。自分で探せ、似非者よ
593 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/05(火) 18:45:42 ID:CXd+V+38
>>586 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/05(火) 14:54:17 ID:ZV2ESv+O
> ブッダは「アートマン」を肯定も否定もしておりませんが。
これは、不正確なんじゃないですか?
無記を拡大解釈していませんか?
ブッダは、諸行無常、諸法無我を説きました。
諸法無我は、ずばり、「アートマン」の否定です。
したがって、
ブッダは「アートマン」を否定しています。
594 :
名無しさん@3周年 :2005/07/05(火) 19:26:44 ID:0iNnZboe
595 :
名無しさん@3周年 :2005/07/05(火) 22:18:00 ID:7VdDxlFW
>>591 原始経典といっても、私の場合、中村元訳の、原始経典なんですが、その思想と、
大乗経典の思想は全く同じです。原始経典の思想が小乗と言うことはいえないといわねばなりません。
大乗経典は、小乗の教えをさげすんでいますが、その理由は、小乗には、
利他行がないからだ、と言うものです。しかし原始経典には利他行の教えが充分にあります。
だから、私は、大乗小乗の違いは、その修行のやり方に有ったのではないかと
思うのです。小乗はどちらかと言うと、孤独に世間との交わりを離れるもの、大乗は、
世間の中に入り、すべてを与えようとするもの、ト。
596 :
名無しさん@3周年 :2005/07/05(火) 22:33:30 ID:7VdDxlFW
595続き 原始経典を読むときは、空の真理をよく理解していないと、ほとんど、有益な読書とはならないと思います。 ただ、その言葉の魅惑的なのに幻惑されますが。 例えば、「怨んでいたのでは何時までたっても怨みのやむことがない、怨まない事によってのみ、 怨みはやむ。」という意味の教えがありますが、これだけを聞いては誰が理解し、修行できるでしょうか? 理論的には、怨む対象が自性のない「空」である、故に、自性があると妄想して、 其れに執着して、(そのことを「怨む」というのですが)いてはいけない。空という真理を信じなさい。其れに従いなさい、 と言うのが、理解し、信じられ、実行できる教えになると思うのです。 この(空の真理)を理解し、信じられないなら、どうして、怨まない、と言うことが 実行できるでしょう?
597 :
名無しさん@3周年 :2005/07/05(火) 22:41:50 ID:7VdDxlFW
更に「空」という真理はどうして「空」になるのかということも理解しておかねば、修行できないと思います。 すべては縁起しているだけのものであるから、自性なるものはない、この自性がないということを、無我と言い、 無常と言い、苦しみと言い、空というのだと理解しています。 ですから、命なるものはなく、したがって、日々の食物の心配することは、 命なるものを妄想しているものであり、空の真理により打破されるべきものではないでしょうか?
598 :
名無しさん@3周年 :2005/07/06(水) 00:31:21 ID:sPcHhnWq
599 :
暇人 :2005/07/06(水) 07:51:08 ID:HJPRXK4n
小乗」というのは大乗側から一方的な貶称なので
無闇に使わないほうがよい。
大乗と原始経典の思想が全同であると「個人の信仰」として
考えられるのならば全く問題はない。
大乗が部派を「小乗」と貶したのは、「利他行がない」と判断した
だけではない。(教・理・行・果及び修する人が劣ると蔑称した)
例えば、維摩経。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/sanskrit/yuima.htm 130〜139を参照されてください。
釈尊は如来だから病気などしないという仏陀観が書かれています。
釈尊の生身が病気するなどと勘違いするのは、
「五濁の時に出られたので、それが爲に衆生等に劣小で、貧弱なる行」
で教化されたからだと。
「小乗は孤独に世間との交わりを離れるもの、大乗は世間の中に入り…」
この単純化はオウム真理教の発想に似ていますね。
http://www.aleph.to/doctrine/attain/7-002.html 実際には南伝も北伝も世間と交わっていますし、
仏教が社会に根付いているという点ではタイの
サラリマーンが一時出家修行するために長期休暇したりするなど
からも観念的な見方だと思われます。
600 :
暇人 :2005/07/06(水) 07:51:32 ID:HJPRXK4n
あなたの場合は初期大乗「空」を根底に置き、初期仏教経典を判断 されようとされるのですね。 あなたがそうしたいならば それもありでしょう。 ただ、誰もがそうすべきだ そうしないと初期経典は有益では ないというのは、行きすぎでありましょう。 「怨み」の教説についても誰かと喧嘩したとする。 互いが意地を張り合っていたら いつまで経っても 仲違いしたままだ。 大人な方から折れようね というのは「空」思想がなくても 世間で普通に見られる 生活の知恵ではないでしょうか。
601 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 08:55:39 ID:5l44MPd7
電波男さんの過去レスより、 「大乘」については仰るようにこのスレッドでは (1)大乗経典 (小乘という対立概念を持つ) (2)釈尊の大乘傾向 (3)釈尊原理主義としての大乘 (小乘という対立概念を持たないとは断言できない。すべて読んだわけじゃないから) (4)在家主義としての大乘 (小乘という対立概念を持つ) という最低でも4つの視点を持たないといけないのに、「大乘」ということで原始仏教から遠ざけるの は無理がありますね。また、原始仏典に登場する「大乘」というのは釈尊の教えを示しているのは 言うまでもありません。ただし、そこには「小乘」という対立概念はありませんが。 さて、論書が経典に変身してしまう例もありますから、仏典は奇奇怪怪です。
602 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 08:57:37 ID:5l44MPd7
同じくその続き 上記、大乘の捕らえ方ですが、この4つが別脈を保って存続していくわけではなく、 時代に沿って分かれて行き、スパゲッティのように絡んでいきます。その絡みは 大乘内部だけではなく、部派仏教からの干渉も含め、非常に複雑になるのです。 そこで大きく二つの系譜に分かれてくるのですが、「成仏の系譜・非成仏の系譜」と 題して以前説明いたしました。これは(2)釈尊の大乘傾向を基点とするものであり、 大乘と名乗っている中にも五性客別のように非成仏をとく流れが出来てしまいます。 部派仏教からの干渉としては三世両重の因果に影響されたものなどがあります。 また、この非成仏の系譜の中からも原理主義運動が目覚め、歴史的にはグチャグチャ になってしまっています。ですから、大乘興起より一筋縄だと考えることは歴史や思想 を無視したものである事が見て取れます。 原始仏典とされる経典群がこれらの歴史的背景を背負って変遷してきていることは すでに文献学研究の成果を視点として推測可能です。『瑜伽師地論』「菩薩地」の 部分で(瑜伽師地論がそのまま部派仏教ではないと断言できない)ほぼ同じと見られる 『菩薩善戒経』と言うものがあり、内容的には五性について深入りしている感があります。 両者の引用阿含経典を精査すのも面白のかもしれませんね。
603 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 10:14:31 ID:5l44MPd7
604 :
名無しさん@3周年 :2005/07/06(水) 10:23:32 ID:a1Qnfybh
仏教は釈迦に始まり、親鸞で完結する。 原始仏教は文字どおり、原始なのだ。
605 :
名無しさん@3周年 :2005/07/06(水) 10:24:53 ID:A1CiXPTH
原始仏教の考えをそのまま現代という複雑な社会に適応できない
606 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 10:30:52 ID:5l44MPd7
>>604 何?そっち系カルトの人?それならどうぞ当該スレへ。
607 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 13:32:39 ID:5l44MPd7
608 :
名無しさん@3周年 :2005/07/06(水) 15:05:49 ID:Luf9gCj2
>>604-605 そういう独断的な判断を下す前に、ご自分で原始仏教の思想を
理解するというステップを踏みましたか?
あなたのそのひと言を見ただけで、原始仏教を知らないことがよく
わかってしまうんですが。
知らないものをどうやって判定するんでしょうか。
609 :
名無しさん@3周年 :2005/07/06(水) 15:14:47 ID:wTlgOxpH
阿呆陀羅經はあのトンデモカルト阿含宗の出身だからね。仕方ないさ。 勘弁してやってチョ
610 :
栗花 馨 8 :2005/07/06(水) 19:44:51 ID:ecPwsYy2
ここで初心者に解説いたします。 同一です。ひとりのおっさん 多重自演で自画自賛 阿呆陀羅經=電波男 ↓ 阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 08:55:39 ID:5l44MPd7 電波男さんの過去レスより、 阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 08:55:39 ID:5l44MPd7 電波男さんの過去レスより、
611 :
栗花 馨 8 :2005/07/06(水) 19:47:53 ID:ecPwsYy2
>樹意キイ あごん経をちゃんと読め シャク尊の教えがわからないのか あんたは似非者でひとのことはとやかくいえない。 糞掃衣.乞食はシャク尊のおしえ 粘着しないで 今着ているあんたの服をウンチ溜にどっぷりつけて 自分で川で洗え(洗剤なし) はよやれ、はよ 阿含経にかいてあります。自分で探せ、似非者よ
612 :
名無しさん@3周年 :2005/07/06(水) 21:07:41 ID:9eM1kS8O
小乗に付いては、説一切有部を調べる必要があるのではないですか?よく知らないのですが、これが、 大乗教徒に不満なようです。 誰か論述して下さったらいいです。 勝手なことばかり言いますが、私はこのことを特にいいたいのです。 其れは、釈迦の空の真理と同じ真理を唱えたものがもう一人、歴史上にいると言うことです。
613 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 21:48:24 ID:5l44MPd7
>>612 有部は別に統一見解を持った一枚岩ではありません。多様な教説が満載の総合大学、あるいは
デパートみたいなもんです。「一切合財なんでも有ります部派」てな状態でしょうね。分派を繰り返
すうちに終いには「根本説一切有部」などと自称する一派まで登場します。「小乗」とはその中
部の独善的傾向を批判して述べられた言辞でしょう。
614 :
名無しさん@3周年 :2005/07/06(水) 22:00:52 ID:9eM1kS8O
>>613 大乗経典に、小乗経典を受け保つな、というような助言があったと記憶するのですが、
この小乗経典とは、我々が今まであげている原始経典ではなく、他に有ったというべきですが、
アビダルマ哲学を書いた論書ででも有ったのでしょうか?
615 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 22:01:06 ID:5l44MPd7
616 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 22:11:03 ID:5l44MPd7
>>614 >大乗経典に、小乗経典を受け保つな
漢訳時のバイアスも考慮に入れる必要があるでしょうね。そうなれば中国佛教の問題になり
ます。
617 :
名無しさん@3周年 :2005/07/06(水) 22:42:59 ID:9eM1kS8O
>>615 一度勉強してみたいと思います。
とにかく、大乗が小乗を不完全な教えとして貶めています。声門の教えであると。
釈迦と同時代のギリシャ人パルメニデスが、釈迦と同じ空の理論を展開していると会しています。
プラトンの「パルメニデス」が其れを知るに有益です。プラトンやソクラテスは、パルメニデスに至っていません。
つまり、彼らは今だ迷いの中にいると思います。ソクラテスの「無知の知」も、
ソクラテス自身が、悟ったものではなく、他人からソクラテス以上の知者はいないといわれて、其れが縁となって、
たどり着いた境地であって、空の真理又は、パルメニデスの「一」の真理からきたものではないのです。
618 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 22:53:53 ID:5l44MPd7
>>617 >パルメニデスが、釈迦と同じ空の理論を展開していると会しています。
以下、意味不明です。
619 :
名無しさん@3周年 :2005/07/06(水) 23:17:44 ID:9eM1kS8O
一度本腰を入れて話してみたいと思います。 しかし今は、単に少しの事にとどめます。 「空」「無相」「一相」といいますね。これと同じ意味で「一」というのです。 不去来、といいますね。其れと同じ意味で、「無変化」というのです。
620 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 23:28:30 ID:5l44MPd7
>>619 『パルメニデス』は、そこへ登場するソクラテスも含めてプラトンの創作であることをお忘れなく。
>「空」「無相」「一相」といいますね。これと同じ意味で「一」というのです。
生憎それを裏付ける教証も根拠も提出されておりませんね。いずれにせよ原始佛教の思想的
文脈とは類縁性を見出せないでしょう。トンデモ説に限りなく近づいていますよ。
621 :
暇人 :2005/07/06(水) 23:30:46 ID:q53UVoi3
>>615 ウイットに富んでるし とてもわかり易くて
よいベージだと 私は思うけどね
少なくとも電波男・阿呆陀羅經さんのトンデモ説とは違って
きちんと具体的な論拠を示しつつ、展開されているね
って、2ちゃんと比べたら 失礼だが。
622 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 23:37:23 ID:5l44MPd7
>>621 専門家と素人の私を並列するのは電波男さんに失礼です。
623 :
暇人 :2005/07/06(水) 23:58:49 ID:q53UVoi3
いい加減。電波さんのトンデモ説の裏を取って卒業されればと 思うが、鵜呑みにされたままですね。 それと電波男さんはその道で現在メシを食べている専門家ではない。 昔専門教育を受けられたのであろうが、今はもう家業に忙しく、 最近の学術情報には疎い普通のおじさんのひとりですね。 原始仏典に「大乗」という語はあるが、(例えば増一阿含経)、 それは大乗仏教という意味ではなく、 @釈尊の教えが「大いなる教え」という意味ですね。 (中村元 仏教語大辞典/法蔵館 仏教学辞典) A平川彰さんだと、増一の「大乗」は、法蔵部制作→大乗教徒伝持 大乗教徒が「大乗」の語など大乗教理を挿入という説ですね。
624 :
暇人 :2005/07/06(水) 23:59:40 ID:q53UVoi3
かつて 852 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ 投稿日: 2001/06/16(土) 22:01 阿含経典に、こういうものがあることを指摘して今日は寝ます。 佛説長阿含經卷第一 後秦弘始年佛陀耶舍共竺佛念譯 第1巻12.c.27 佛爲海船師法橋渡河津 大乘道之輿一切渡天人 亦爲自解結渡岸得昇仙 都使諸弟子縛解得涅槃 と、言われてたが、 彼はいつもコンビニ検索して「あるある」と子供みたいに騒ぐだけ。 長阿含の「大乗」が、大乗教徒あるいは漢訳時の挿入でないと論じる 為にはパーリ長部の当該箇所をチェックしなくてはいけない。 更にその上でそれが@的意味で使用されているならば、 原始経典の「大乗」という語は、大乗教徒の「大乗」と別概念だね。 A)原始経典の「大乗」 釈尊の教えが優れているという意味で使用 B)大乗教徒による初期経典への「大乗」挿入 C)大乗経典の最初期の「大乗」 D)大乗経典の発展した意味での「大乗」使用 せめてこの程度の区別をつけないと、スパゲッティのように混乱して見えるわけだ。
625 :
暇人 :2005/07/07(木) 00:01:12 ID:q53UVoi3
『菩薩善戒経』が『瑜伽師地論』「菩薩地」とほぼ同じだということは 常識であるが、中期大乗時代の中期大乗を代表する論者によって制作された 論書を原始仏典と混同する点が彼らしくトンデモ系だね。 『菩薩善戒経』は大乗戒を説いているから重視された教典だね。 「論書が経典に変身」するのが奇奇怪怪とのことであるが、 普通に考えれば中期大乗時代はどしどし経典を制作しているのだから、 何の不思議があるのか不明。 南伝パーリだって半分以上の経典は部派分裂後に新しく作ったのでしょう。
626 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/07(木) 00:07:00 ID:KdfoIjjP
>>623 電波男さんらの主張は実に興味深い論点ですので心ゆくまで楽しむつもり
ですよ。あなたの所説なら市販本もしくは概説書で読めますしね。
T01n0001_p0011a04(00)?佛説長阿含經卷第二
T01n0001_p0011a05(00)?
T01n0001_p0011a06(00)? 後秦弘始年佛陀耶舍共竺佛念譯
T01n0001_p0011a07(00)? (二)第一分遊行經第二初
T01n0001_p0012c27(00)? 佛為海船師 法橋渡河津
T01n0001_p0012c28(00)? 大乘道之輿 一切渡天人
T01n0001_p0012c29(00)? 亦為自解結 渡岸得昇仙
T01n0001_p0013a01(00)? 都使諸弟子 縛解得涅槃
T01n0006_p0176a02(00)?般泥オン經卷上
T01n0006_p0176a03(00)?
T01n0006_p0176a04(00)? 不載譯人附東晉録
T01n0006_p0178a29(00)? 佛為海船師 法橋渡河津
T01n0006_p0178b01(00)? 大乘道之典 一切渡天人
T01n0006_p0178b02(00)? 亦為自解? 度岸得昇仙
T01n0006_p0178b03(00)? 都使諸弟子 縛解致泥オン
627 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/07(木) 00:10:06 ID:KdfoIjjP
>>625 つまりあなたは『瑜伽師地論』中期大乘期に一括成立したものとお考えですか?
628 :
暇人 :2005/07/07(木) 00:13:08 ID:7kCNhQB7
>>626 相変わらず 間抜けに コンビニ検索して終わり。
四年経っても そこから一歩も出ないのに
どのへんに 説があるのか ナゾだが
好きにされてください。
それと「市販本もしくは概説書」と言っている時点で
間抜けなのをそろそろ気づかれてください。
629 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/07(木) 00:16:34 ID:KdfoIjjP
少し修正。典は輿の誤字ではないかとの指摘があります。(中村元氏)T 01n0006_p0178b01(00)? 大乘道之典(輿?) 一切渡天人 T01n0006_p0178b02(00)? 亦為自解脱 度岸得昇仙 T01n0006_p0178b03(00)? 都使諸弟子 縛解致泥オン
630 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/07(木) 00:20:21 ID:KdfoIjjP
>>628 つまりは何の示唆も刺激も齎さないということです。まだ市販本や概説書の方が思考実験の
叩き台になってくれるだけ有用ですね。
631 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 00:29:03 ID:qW83JU02
アホダラ氏と、電波氏は同一人物です。 キャラクターで分かりそうなものだが。 ビョ‐気も同時期になったし。 暇人氏は、まだ気づいていないですか?
632 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/07(木) 00:32:23 ID:KdfoIjjP
>>631 提灯と釣鐘の区別もつかないあなたが「ビョ‐気」でしょう(苦笑)。
633 :
暇人 :2005/07/07(木) 01:21:05 ID:7kCNhQB7
>>627 『瑜伽師地論』の全体が成立したのが中期大乗時代ね。
細かい話をすると、宇井さん「瑜伽論研究」が既に、
『瑜伽師地論』は100巻の大部であるから、論書の中で
教理の発展が見られ、一時に成立したのではない、と論じられています。
『瑜伽師地論』菩薩品は『菩薩善戒経』など独立経典として流通してた
わけですから、『瑜伽師地論』の中では古い層ですね。
説一切有部は大乗中観派によって徹底的に批判された。
有部の中から瑜伽派に転じる者らが中期大乗を形成する一つの核になった。
中期大乗は、中観派を 表向きは継承しつつ、実は骨抜きにし、
中観教理を発展した有部教理に接合するように歪めた と私は考えてます
けどね。
その最初期に出たのが『瑜伽師地論』でしょうね
634 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/07(木) 08:22:52 ID:HDpY99be
>>621 暇人さん。
あんなHPで感心してるようじゃ、ものすごく程度が低いね。
私はあんたを買いかぶっていた。実像は1%ぐらいだな。
もっとこゆい話が出来るかと思ったが、下らん人間である
ことが判明したよ。「根本ー説一切有部」の合成語については
関西にいたなら榎本兄の「本家かまどや」論議で知らない
人はいない。あのHPなんて学部2回生でかける内容じゃないか。
下らん、下らん。。(HPの著者ではなく、感心しているお前が)
学問的な論述と、2chにおける発言との精度とボリュームの違いも
推測できないのか?あんた本当に大学出たのか?文献学の手法
についても、こんなところでその作業内容を述べる必要があると
考えているてんで、あんたはすべてを見失っている。
あんたが言った方法など、作業以前の当たりまえのこと。下らん
を通り越して、なんか汚らわしい。
#今は超多忙だ。
635 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 08:27:48 ID:CftgfPaG
2chで学術やって自慢するほうがどうかしている。
636 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/07(木) 08:36:14 ID:HDpY99be
>>635 2chで括らないで、板やスレッドで判断したらどうですか?
でも、確かに学術するのはおかしいですね。結論を述べればいいのですから。
637 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 09:19:25 ID:1ROdgc+x
暇人氏のいうことがもっともだと思う。
電波男は、反論するなら長阿含の「大乗」についての主張の正当性を
証拠を出して説明するしかないだろう。ところが例によって検証不能な
<「本家かまどや」論議>なる逸話を持ち出して通ぶるばかり。
はては学術するのがおかしく結論を述べればいいという腐りきった逃げ口上。
結論ではなく、たんなる思い込みだけ述べてたら「オレの話を聞け!」(T&D)合戦しかならない、
根拠を出し、解釈を示して。正誤を判定しあうことに議論の意味があるのではないのか?
板やスレッドをみたらこんなのが出てきた。
>545 名前:電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k メール: 投稿日:2005/06/15(水) 16:36:54 ID:U6oD+K3c
>
>>539 > 現在のサンスクリット原本における校合作業、テキストクリティークではそうですが、それが何か?
> でも、創価学会がしているという点で気に食わない。チベット、ウイグル、モンゴル訳の隅々まで参照
> 出来ているのかどうか疑問。
>
>551 名前:名無しさん@3周年 メール: 投稿日:2005/06/15(水) 22:29:59 ID:Kdas9oSn
>
>>545 「チベット、ウイグル、モンゴル訳の隅々まで参照」してたら土田本の方法に戻っちゃうでしょう。
> そうゆう恣意的方法は文献学的ではないと辻直四郎先生が指摘し、さらに方法まで示した。
> そのとおりに諸写本のローマ字転写という地道で堅実な研究を続けておられるのが、戸田さんじゃないですか。
電波男は、いいかげん間違いを認める態度を身につけないといけない。
638 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/07(木) 11:16:33 ID:LRJQS6n1
639 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/07(木) 13:23:39 ID:LRJQS6n1
一昨年の電波男さんのレスです。 855 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY 03/06/13 10:09 タブを使ったので、パラグラフが丸められてしまいました。(笑) その部分だけ訂正します。 1 大乗仏教と大乗経典とは別物として考えるべき(全ての学者が勘違い) 2 大乗経典の中に実は部派仏教とほぼ同じ要素が見出せる 3 大乗仏教を宣揚する論書では積極的に阿含経典を引用して大乗非仏説を説く 3. 1 それらの論書は大乗経典ではなく、阿含経典のなかに大乗を見出そうとする 3. 2 大乗の定義が様々 3. 2. 1 全てのものが成仏できる ←→ 唯一釈尊 3. 2. 2 皆お手手をつないで到彼岸 ←→ 一人だけの到彼岸 と言うのが私のガイドラインです。ポイントの一つは 2 大乗の定義が様々 2. 1 全てのものが成仏できる ←→ 唯一釈尊 2. 2 皆お手手をつないで到彼岸 ←→ 一人だけの到彼岸 の2.1であり、それが世親の言う大乗です。世親が批判する「唯一釈尊」は五性客別という大乗経典 に変質していきます。このように考えていくと、従来の大小の区別は何の意味も持たないばかりか、 差別の道具として作り出されてきたものとも考えられます。仏教内部で「生れ変り」を肯定するのも その間違った流であって、罪業論や五性客別へと橋渡しするのです。
640 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 16:21:21 ID:fuVj7uIv
>>637 暇人さんの方が果てしなく素人ヲタクに見えるんですけど。
長阿含経の主張?なんかずれてますよ。大乘が出てくるのは漢訳のみならず、パーリを言い
出したらそれこそワンサカでてきます。
あなたが引用している
> そうゆう恣意的方法は文献学的ではないと辻直四郎先生が指摘し、さらに方法まで示した。
> そのとおりに諸写本のローマ字転写という地道で堅実な研究を続けておられるのが、戸田さんじゃないですか。
これらの発言は全く見当が外れです。辻先生が仏典研究でそんなこと言った書物など知りま
せんし、聞いたこともありません。
諸写本のローマ字転写のことですね。それは一番最初にする作業です。諸写本諸本を訳し、
パラレルを求め、言語学的に時代を特定し、タームの特性を見当してから本当の意味のテキ
ストクリテックが始まるのです。文献学はそこがスタートです。ベテランは訳さずにそのま
ま使います。
電波男さんが言う古層の経典を探る方法なんかは暇人さんには一生わからないでしょう。だ
って、入門書、概説書、専門書?の域を出ていないし、人の話を聞かないんだから。
641 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 16:22:08 ID:fuVj7uIv
アホダラさん。暇人さんのいう >『菩薩善戒経』が『瑜伽師地論』「菩薩地」とほぼ同じだということは >常識であるが、中期大乗時代の中期大乗を代表する論者によって制作された >論書を原始仏典と混同する点が彼らしくトンデモ系だね。 これらは文献学をしていないから、あるいは厳格な意味での学問をしていないから学問事情 を理解できていないのです。聖書学でもプラトン学でも同じです。文献そのものがかなり後 期であっても、その中で引用されている(或いはパラレルとして存在している)ものの中に 現在伝わっていない原始仏典や大乗経典の成立過程段階が見て取れます。瑜伽師地論などは その宝庫です。漢訳、チベット訳、ウイグル語訳、声聞地サンスクリット、そのた断片など があり、それぞれ訳出年代が違うので成立過程に差異が見られます。これは先ほど辻さんは そんなこと言っていないはずといった根拠にもなりますが、大切なことです。その中でも引 用経典の変遷が見られるから大変興味深いものになっています。 原始仏教研究者が倶舎論や瑜伽師地論、法華経その他を研究し、写本発掘の旅に出かけるの はそのためなのです。瑜伽行唯識派の研究をするのが目的ではないのです。暇人さんなどの 仏教ヲタクにはその辺の事情を知らないし、知ろうとはしませんが、アホダラさんは覚えて くださいね。でも文献学をしている人にとっては至極当り前なんですけどね。確かにその昔 、学部生のころ本庄先生がなぜ大乘関係仏典のマヌスクリプトの研究に明け暮れていること を不思議に思いました。本人は原始仏教研究だといいながら倶舎論の研究を続けていること にも訝りましたが、その疑問はすぐに氷解しました。
642 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/07(木) 16:44:20 ID:LRJQS6n1
643 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/07(木) 16:51:34 ID:LRJQS6n1
>>639 の修正
3 大乗仏教を宣揚する論書では積極的に阿含経典を引用して大乗非仏説を説く
↓ ↓ ↓ ↓
3 大乗仏教を宣揚する論書では積極的に阿含経典を引用して大乗仏説を説く
644 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 17:34:43 ID:Wm2Ss9FO
ここは知識をひけらかす場所ですか?
645 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 18:04:59 ID:4QZbA8YZ
>>644 知識をひけらかす場所で有ってもらいたい。そうでなければ値打ちがない。
法布施は布施の中で最も優れているといわれている。その法布施に当たるでしょう。
646 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 18:22:08 ID:1ROdgc+x
>>640 あなたと電波、論法がそっくりですね。
証拠は出さずに小賢しげな論だけ立てて本質を外してるとこなんか、クリソツ!
「法華経の言語」金倉円照 編『法華経の成立と発展』1970
『辻直四郎著作集 第4巻』法蔵館、1982、215-228 所収がありますけど!
岩本裕、解題 427 が簡明なんで引用します。
a 「既刊本との詳細な比較を注記するために多くの時間をさくよりも、
ありのままに諸伝本の全貌を学会に紹介するのがよい」とし
b 「正確なローマ字転写による諸本の出版が切に望まれる」とした。
そして、博士のこの切望は博士の御生前に満たされ、その結果に非常に満足されたという。
a が土田本の方法、とにかく現在入手できるものの異同をできるだけ取って、
自分の読みに添った恣意的な本文を提示する。(努力は敬います)
b が戸田さんの方法。つまり、諸本の全貌を学会で共有し、多くの学者で法華経の原典を
再構成するための準備的手順です。この手順を踏まずに土田本の方法を採ろうというのが
電波であり、あなたも同じ。私は何も諸訳を参照すべきでないと言っているのではありません。
さらに言えば現在は、写本をPDF化してCD-ROM/DVD 等で配布する方がローマ字転写による
諸本の出版よりいいと思います。あるいはサーヴァーに置き、ローマ字転写も蓄積すると。
法華経に限らず全般的にやってほしいですね。
モンゴル訳はチベット訳の重訳ですから校訂作業にはまったく役に立ちません。基本でしょ。
これだけでも彼とあなたが校訂作業に通じていないことが示されます。
また、あなたのいう「諸写本諸本を訳し」というのが理解できません。
言語的形態が失われた訳、つまり意味だけから「パラレルを求め、
言語学的に時代を特定し、タームの特性を見当」できないでしょう。
もしそんな方法で作られた校訂本があったら恐ろしい!
647 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 18:43:01 ID:4QZbA8YZ
仏教の真理を知ることが大事。そのために正しい翻訳をしたいと骨折っておられるよう。 しかし、今までの訳で、仏教の正しい真理を知り得ないのか?知り得てると思うけど。 今だ初心者なのかな?
648 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 18:44:53 ID:fuVj7uIv
>>646 おそらく文献学をしているのだから同じ論法になるのでしょうね。
証拠とは何でしょうか?あなたも何の証拠も出していないですね?
なんか言ってることが滅茶苦茶ですよ。まず、電波氏はaの土田本
の方法は採用していないことは明らかです。
あなたも研究者でないことがすぐわかるのですが、
>b 「正確なローマ字転写による諸本の出版が切に望まれる」とした。
> そして、博士のこの切望は博士の御生前に満たされ、その結果に非常に満足されたという。
この意味も理解できていないでしょう。出来ていれば以下の発言は無いはずですから。
文献学者であれば、その進行手順を理解して議論できるのですがあなたにはそれがない。
モンゴル語訳がチベット訳の重訳だから校訂作業には全く役に立たない?その元本
であるチベット訳が現存のものである根拠はどこにもない。翻訳名義大集の前後いつにあたるのか
解りますか?
>また、あなたのいう「諸写本諸本を訳し」というのが理解できません。
>略
これは法華経の話じゃありませんよ。笑ってしまいます。あなたには話の筋を見る能力が無いようです。
649 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 20:47:48 ID:1ROdgc+x
>>648 ブッッハー(T&D)「〜明らかです。〜すぐわかるのです」と言って理由を示さないのが文献学なんですか? (笑い)
はて、辻先生の論文の所在と岩本さんの解題の引用が証拠以外の何なのでしょうか?
あの〜モンゴル語訳は、1772-79年に有名なチャンキャ・ルルペー・ドルジェが行ったもの
なんですけど。翻訳名義大集 は9世紀ですよ。なんか関係あるの?
もしかして9世紀前後にモンゴル語訳ができたとおもってた?
「諸写本諸本を訳」を用いたら別に法華経じゃなくても、校訂作業にならないでしょう。
まったく学生でもそんな手法は採らないと思うけど。(いったい誰に習ったんだ?)
まさかあなた研究者じゃないですよね。(そんなすごいオチは...)
650 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 21:33:51 ID:fuVj7uIv
>>649 >はて、辻先生の論文の所在と岩本さんの解題の引用が証拠以外の何なのでしょうか?
あなたの提示の仕方では、証拠能力に欠けますね。なぜなら、内容が吟味できていないから。
ローマナイズの意味も解ってないから。
>あの〜モンゴル語訳は、1772-79年に有名なチャンキャ・ルルペー・ドルジェが行ったもの
>なんですけど。翻訳名義大集 は9世紀ですよ。なんか関係あるの?
>もしかして9世紀前後にモンゴル語訳ができたとおもってた?
あのですね。それが翻訳もとが現在手に出来るものだと言う確証があるのですか?
また、イェーシェーデェー監修の物であったかどうか証明できるのですか?モンゴル語
訳やウイグル語訳が大切なのは、法華経の場合は近親経典から多くの切込みを
入れることが出来るからです。
>「諸写本諸本を訳」を用いたら別に法華経じゃなくても、校訂作業にならないでしょう。
>まったく学生でもそんな手法は採らないと思うけど。(いったい誰に習ったんだ?)
だれもそんなこと言ってないですよ。もと発言をきちんと読んでからコメントしてくださいね。
全く読めていないからお話になりませんね。何を指し示しているかも解らないでしょうね。
>まさかあなた研究者じゃないですよね。(そんなすごいオチは...)
いいえ、研究している端くれ卵ですよ。湯○先生を通して第三文明から依頼がありますが断っていますよ。
>649 わざとボケをかましているの? >諸写本のローマ字転写のことですね。それは一番最初にする作業です。諸写本諸本を訳し、 >パラレルを求め、言語学的に時代を特定し、タームの特性を見当してから本当の意味のテキ >ストクリテックが始まるのです。文献学はそこがスタートです。ベテランは訳さずにそのま >ま使います。 の文脈なら「訳す」=「読む」だろ。諸本対照はテキスト読まずにできちゃうわけ?
652 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 21:55:23 ID:4QZbA8YZ
>>619 >>620 パルメニデスの思想を釈迦の思想とダブらせて説明するのは、知的遊戯に過ぎないといえる。
だから、パルメニデスの紹介は止める事にします。
653 :
暇人 :2005/07/07(木) 22:01:28 ID:mP+mqUQS
>>640 いやキミが他人の話を 把握できてないなぁ。
私は間違いなく「素人」だよ。 キミは流行の「自称プロ」?
どーして「自称プロ」は皆 読解力がないのか不思議だな。
もしかして最近は 実社会に通用しないから大学に
残る人がふえているのかな。 就職難だし。
大乗の語が阿含に出てくるのは、
>>623 できちんと述べている。
阿含に「ある」くらい ジョーシキだね。頓珍漢すぎますよ。
問題は 「あるか ないか」ではない。
<長阿含経の主張?>ってなに? 読めてないですねぇ(呆れ)。
637さんのカキコは、<長阿含の「大乗」についての主張の正当性>だね
電波さんは、長阿含に「大乗」の語があるのをもって、トンデモ説の
論拠とされているが、あるだけでは論拠にならんでしょう。
きちんと諸異本をテキストクリークして 論の展開をしろと促しているの
だが放擲されているのだ。
654 :
暇人 :2005/07/07(木) 22:01:53 ID:mP+mqUQS
電波さんの主張は、長阿含に「大乗」の語があることをもって、
「大乗」という概念は、釈尊の直説であり(
>>601 (2)釈尊に大乘傾向あり)、
大乗仏教に限定されるものではない、ですね。
そこで私は二点623で問題視していたのですね。
@漢訳阿含にあっても、後代挿入の可能性があるので、長阿含の該当部分の
パーリ訳を確認しているのかどうか。
Aパーリにあり、部派分裂以前の部分の可能性が増しても、
通説では、阿含にある「大乗」は、釈尊の教法を讃える意味で
単に「大いなる教え」として使われているとある。
つまり阿含に「大乗」の語があっても
阿含の「大乗」は、大乗の経典という意味でも大乗仏教という意味であると
も言えない。
電波・あほだらさんも640さんも、「ある! ある!」と
騒がれているのだけだね 「ぼくちゃん だから何?」だね
というかキミたちが素人の水準にすら達せず、トンデモ系なのは、
当該の長阿含は有名な「遊行経」であるのすら ご存知なさげだね。
諸異本が多く比較検討するのは最適なのに 一向にされない。
パーリや梵本 チベット訳 漢訳諸異本 いっぱいあるじゃん。
655 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/07(木) 22:02:46 ID:HDpY99be
なんか、すごくいきがっているのが一匹いますね。
相手の実力を読めずに喧嘩売っている。
すごく面白いです。
>>650 さんも原典出してきて話してやればいいのです。
尻尾巻いて逃げますから。(笑)
それでは電車男を見ながら作業(仕事ね)開始します。
656 :
暇人 :2005/07/07(木) 22:07:43 ID:mP+mqUQS
>>655 650さんはキミと同じく 読解力なしだって。
どこまで恥を晒されるか 興味深いね
657 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/07(木) 22:11:56 ID:HDpY99be
暇人さん、ついでに言っておくけど、それ外してるよ。だれが長阿含に限定してるといった? 中村先生の事典と平川先生の記述を根拠にするの?へぇ。。オモロイねあんた。 で、人の命題を把握してる?人の考えを勝手に曲解しないでくれるかな? 終いには「ぼくちゃん言ってない」なんて嘘つくんだから処置なしだ。 すべて撃破されているのにぜんぜん認めないあんたには進歩がないよ。 あんたの勘違いに一々コメントをつけて教えてやろうと思ったが、意味が無いことに 気づいた。ギャラリーに益することも無いしね。 というか、もうあんた、汚らわしいんだけど?
658 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/07(木) 22:14:39 ID:HDpY99be
>>656 あんた、恥を晒してるのがまだわからないの?
瑜伽論関係を研究することは原始仏教とは関係ない、て馬鹿なこと言って恥かいてるじゃんか。
まだまだ歩けど、すべて詭弁で逃げている。
>>650 さんにあんたはまともな反論できないと思うよ。
659 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/07(木) 22:24:50 ID:HDpY99be
>>656 >650さんはキミと同じく 読解力なしだって。
読解力がない?それはあんたの方。彼はまっとうな文献学者だよ。読解力がないというのなら
説明してみ。650さんが相手にしている奴はチョイかじりの創価学会の増上慢に似てる。
解ったつもりで何も理解できていない。
じゃ、仕事に戻る。ばい。
660 :
暇人 :2005/07/07(木) 22:34:43 ID:mP+mqUQS
電波男さん 負け犬の遠吠えせずに
まず、
>>386-390 の一々について「具体的」に弁明しなされ。
キミの口惜しさは伝わるが、なんともコメントのつけようがない汗
まあ お仕事 健康 そちらをまず大事にされてください。
661 :
暇人 :2005/07/07(木) 22:39:06 ID:mP+mqUQS
長阿含に限定というかさぁー キミは単に 検索して「大乗」の語が阿含にあったから わぁいヽ(∇⌒ヽ)(ノ⌒∇)ノわぁい♪と喜んでるだけの幼稚園児じゃん。 「自性」がいっぱいあるぞの時もそうだったねぇー。 きちんと私が前もって、論じている意味をまつたく読み取れてなかったね。 まあそんなことはどうでもいいから あまり根つめず 無理せず 健康第一ですごされてください
662 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/07(木) 22:51:44 ID:HDpY99be
>>660 負け犬の遠吠え。。。。
あんたの方だよ。これはすでに説明済み。"svabhAva"について、漢訳で定着している
狭義の「自性」でしか物事を捉えてないじゃないか。ギルギット写本”法蘊足論”では"svabhAva"なる語
が出てきている。また、サンスクリットの感覚では本質、性質、本来なるもの、偶有性を配するもの、それ自体
を成立させる要素と言う意味で用いられ、それが何であるかが議論になるのである。
そのように自性の多義性を考えないと、中観が遡上にあげる自性も読み取れないといったのだ。
そういうと、世親に親近しているから「唯識の三性説が念頭にあるからそんなトンデモ説がでる」
とかわけのワカラン戯言を言い出したんじゃないか。それは現觀とかレリーフが経蔵だとか頭の
逝かれたことにつながっていく。
暇が出来たら、もう一度頭の弱いあんたに懇切意丁寧に説明してあげようかと
思ってた。でも、それは無駄だとこの数日で解ったよ。あんたは汚らわしい。
口惜しい?何が?しょうもないね、あんた。
>キミは単に 検索して「大乗」の語が阿含にあったから
>わぁいヽ(∇⌒ヽ)(ノ⌒∇)ノわぁい♪と喜んでるだけの幼稚園児じゃん。
この読解力なら小学生以下ジャンカ。あんた、無駄に大学逝ったね。
663 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/07(木) 22:59:55 ID:HDpY99be
>>661 なんかウロきてるね。
検索してなに?
自性も検索して?
現在の検索、グレップ環境がある以前からそれはまとめ終わってるんだけどな。
そんな学問水準の知らない世界にあんたはいたんだね。昔の話じゃなくて、
瑜伽論関係から先ず反論して見なさい。出来ないはずだから。概説書や専門書など
では見つかりにくいからね。それ以前に何を問題にしているのかあんたには理解できて
いないでしょ?
そして子飼の増上慢創価学会員の能タリン(*)にこれ以上恥をかかさないようにしなさい。
(*)これは憶測ね。(笑)
#さあて、今日は徹夜かな???
664 :
素人 :2005/07/07(木) 23:03:13 ID:c5PnGBS5
みんなすごい勉強してるね・・(^^;) けど、このスレ見てて思った。 片山センセが、いかに謙虚で誠実なアプローチをしていたか・・・ 学生時代が懐かしい・・・ (´ー`)y━~~
665 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/07(木) 23:15:55 ID:HDpY99be
以前、何回か暇人さんの非論理性をまとめたが、彼にはある詭弁類型がある。 彼にだまされる人は649などの一部ごく少数の知恵足らずですが、そのような ハクチ発生を防ぐために、その詭弁内容を分解説明する必要がありそうですね。 仏典を読み解くには文理解釈と論理解釈という最低2つの解釈視点が必要となり ますが、それぞれに異なった目的と指標と方法があります。暇人さんにはそれがなく、 論点拡張していて、その補強に概説書や専門書を使うのでご都合解釈になります。 思い込みも激しくなります。三性説や現觀、レリーフ、自性などなど数限りありません。 汚らわしい奴ですが、暇があれば、詭弁論理学の手法も解説していきましょう。 彼の増上慢に感染されることの無いようにするために。
666 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/07/07(木) 23:26:02 ID:OX080kkI
ま、私は最初に暇人さんの発言を見た時から胡散臭い素人だと断定しましたが。 ところで電波男さんの主張で興味深いのは「釈尊の大乗的傾向」という部分です。 この意味での大乗と言うのは、一体どう言う意味での大乗なのでしょうか? 釈尊が「一切衆生の成仏の可能性を主張した」と考えるものですか?
>>664 :素人:2005/07/07(木) 23:03:13 ID:c5PnGBS5
> みんなすごい勉強してるね・・(^^;)
秀同
誰が誰を誹謗しているかは、すごくよくわかるのだが、
どういう論拠で誹謗しているのかが、
勉強不足の私には、訳わかめ(笑)。
>↓もう、訳わかめ(笑)。
>
http://www.eonet.ne.jp/~indology/muula.htm これは単に、
>「根本説一切有部」=「説一切有部」という公式によって諸事実の矛盾解消。
について語っているだけだと思うのだが、どこが、
訳わかめなのか、訳わかめ。
668 :
霊波之光ヤバスギ :2005/07/07(木) 23:37:25 ID:kT2McwQl
霊波之光で使われてるコップの意味は?
669 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 23:40:25 ID:1ROdgc+x
えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ 学者なの、 ほんとにそうゆうオチか! たとえばあのローマ字転写を沢山やってる有名だが無能なことは周知の人だったりして... たしかに「諸写本諸本を訳し」が「諸写本諸本を読み」なら分かるんですけど。 それはありえない。なぜなら「ベテランは訳さずにそのまま使います」と言ってるから。 ベテランもなにも訳したら校訂に使えない。(ときっちり読んでたりする) 二回答えを出した。それでも、これじゃ何を言っても、無駄ですね。もうやめときますよ。 >あなたの提示の仕方では、証拠能力に欠けますね。なぜなら、内容が吟味できていないから。 >ローマナイズの意味も解ってないから。 無知を棚にあげて強弁する所までよくにてますよ。あの大学の伝統なんでしょうか? 15世紀のカンギュル初の木版本永楽版の現存が確認された今、 これをリタン版とロンドン写本、東洋文庫写本、トク宮写本等テンパンマ系写本で補い、 それ以外は孫子本でしかなく、当然モンゴル版大蔵経も下位本で 原典の復元を目指す場合、参照する価値はない。 可能性としては古ナルタン写本、チンワ・タクツェ写本、テンパンマ写本をモンゴル版大蔵経が 利用することがあるが、それはありえないだろう。北京、チョーネ、デルゲ、ナルタン版等の モンゴル版大蔵経より半世紀前に彫られた諸版も、それらを参照できなかったのだから。
670 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 23:40:33 ID:4QZbA8YZ
いずれにしても人格攻撃はできるだけ止めるようにし様。 釈迦の教えだからね。又攻撃されても、反撃しないようにしよう。 反撃すれば、自分も人格攻撃してる事になるからな。 とにかく、相手がどうのこうのじゃないのだ、自分が、悪とされていることをしないようにすることが 戒めを守ることなんだ。ここには正当防衛というものもない。一切が「空」なんだから、 自分が悪い事をしないことに尽きるのだ。
671 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 23:44:53 ID:1ROdgc+x
>>667 というか電波や650は、根拠を示さないので誹謗にほかならず、
暇人氏や私は、誹謗ではなく何がどう可笑しいか根拠を示しているだけです。
いずれにしろ無意味なんだけど。ショボーン
672 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 23:45:40 ID:4QZbA8YZ
しかし、悪は止める様にしなければならないとも言ってたな。
673 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 23:47:06 ID:fuVj7uIv
ありゃりゃ。
暇人さんとやら。私に読解力がないと?読解力が無いのは生まれつきなのは自覚しています。
でも、
>>649 さんやあなたには負けてしまいますよ。
>>651 さんの一言で死にましたし、あなたの
言うことは私には理解できません。テキストクリークなる語も理解できませんよ。文献学用語ではあり
ませんよね?(W
大乘については暇人さんが筋を読んでいないのでわ?「成仏の系譜、非成仏の系譜」から読み解く
上での補強であるのは文脈から明らか。そのことは別途で「阿含経典に現れる大乘義」については
昔論証済みだとも発言されています。おそらく暇人さんの「大乘」の定義自体、狂っているのでわ?
小乘と蔑称する文脈での腐りきった大乘が大乘だとお考えなのでは?仏塔崇拝の在家主義仏教
から生まれた大乘が唯一の大乘義だと勘違いしているのでわ?そんなんじゃ、釈尊の大乘思想
を読み解くことはできません。
因みにgrepかけましたが、雑阿含などにも出てきますよ。増一や長などだけで考えるのは不十分
です。遊行経?電波氏は自分からは言わないでしょうね。(W ガンダーラ語の原典資料を整理の
一部を担当したのは彼のはずですから。(W 少し厄介なカローシティだったらしいですよ。
この世界は狭いのです。電波氏が誰だかすぐわかります。素人相手に遊ぶのもほどほどにしないと
時間の無駄ですよ。
674 :
暇人 :2005/07/07(木) 23:47:28 ID:mP+mqUQS
>>662 アホだな。
「ギルギット写本”法蘊足論”に"svabhAva"なる語」があったとしてだ、
どういう文脈で 如何なる意味で使われているかを考究しないと話に
ならんのもわからんのか。
漢訳「法蘊足論」にはsvabhAvaは皆無なのだ。
「集異門足論」の用法も「識身足論」「界身足論」「品類足論」の用法も
一般的用法であり、竜樹が批判する意味での「自性」ではないので、
無視していいのだ。
竜樹が批判したsvabhAvaは、
「識身足論」に萌芽が見られ「婆沙論」に結実するsvabhAvaという
私の論に それだけではなんら影響を与えてないじゃないか。
キミは竜樹の無自性・空がなぜsvabhAvaを批判したのか理解してないから
そういう頓珍漢な煙幕をはって平気なんだって。
675 :
訂正 スマソ :2005/07/07(木) 23:47:38 ID:1ROdgc+x
これをリタン版とロンドン写本、東洋文庫写本、トク宮写本等テンパンマ系写本で補い、 ↓ これをリタン版とロンドン写本、東洋文庫写本、トク宮写本等テンパンマ系写本で補えば、
676 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 23:47:51 ID:LGHOjTYL
空=関係性(relativity)による成り立ち 空≠実体がない 「空」って、よく「実体がないこと」と表記されてる書物が多いけど、 「恒常普遍性をもった不滅のものがない」という意味なんだよね。
677 :
暇人 :2005/07/07(木) 23:51:50 ID:mP+mqUQS
>>673 「成仏の系譜、非成仏の系譜」?
論点ずらしの遁走ですか。(呆れ)
こういう戯言を言うのは電波さんかカルトだけでしょう。
678 :
暇人 :2005/07/07(木) 23:55:01 ID:mP+mqUQS
>雑阿含などにも出てきますよ あのね 出てたらどうなん? そこが大事ね。 阿含に「大乗」とあっても なんていう意味で使われているか 考究するところから はじまるのですよ。 あなたは はじまつてもいないですね
>>671 :名無しさん@3周年:2005/07/07(木) 23:44:53 ID:1ROdgc+x
> というか電波や650は、根拠を示さないので誹謗にほかならず、
> 暇人氏や私は、誹謗ではなく何がどう可笑しいか根拠を示しているだけです。
>
> いずれにしろ無意味なんだけど。ショボーン
レスありがとう。
私は、
誹謗:単なる悪口(根拠はあっても、なくても良い)
中傷:根拠のない悪口
という意味で使っています。
「誹謗」の使い方、間違っていますでしょうか?
680 :
暇人 :2005/07/07(木) 23:57:34 ID:mP+mqUQS
>>674 私の論ではなく 本当は宮下論文のぱくりだが(笑)
681 :
暇人 :2005/07/07(木) 23:59:55 ID:mP+mqUQS
>>679 うっ汗
人間ができてないもので
見苦しいところを 見せて 申し訳ない
682 :
名無しさん@3周年 :2005/07/07(木) 23:59:57 ID:fuVj7uIv
>>669 なにをがてにをは言いたい?
もしかして、もしかして、「蒙古カンジュル大蔵経」と称されたものしか存在しないと本気で思ってるの?
敦煌文書については概説書読んでみた?
悪かった。私が悪かった。もうあなたとはお話いたしません。(プWラ
683 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 00:05:04 ID:fuVj7uIv
>>678 >「成仏の系譜、非成仏の系譜」?
>論点ずらしの遁走ですか。(呆れ)
これ、かなり前から論述されていますよ。論点ずらし?どこが?遁走?どこが?
もうかなり狼狽入っているからその辺でおやめなさい。
>あのね 出てたらどうなん?
>そこが大事ね。
すごい居直りですね。立派です。電波氏の言う虚偽論に加えたらいいですよね。
684 :
暇人 :2005/07/08(金) 00:08:35 ID:mP+mqUQS
>>673 で あなたは
>あなたの 言うことは私には理解できません
と、人の論を無視して 別の話題をされているでしょう。
こちら提示の論点から逃げてられてますね
どこがどうわからないかも
不明ですし 返事できんでしょう。
685 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 00:09:50 ID:zKY/IGQc
>>676 です
676の発言の趣旨は「質問」です。
語尾を「?」で終わらせとくべきでした。
>「空」って、よく「実体がないこと」と表記されてる書物が多いけど
>「恒常普遍性をもった不滅のものはない」という意味なんだよね?
どうなんでしょう?
686 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 00:11:07 ID:/XTxlhVs
>>682 敦煌文書にモンゴル語訳はないでしょう。モンゴル文字が成立してないんだから。
ソグド語とかウイグル語をモンゴル語にすり替えないでね。
>>673 > です。遊行経?電波氏は自分からは言わないでしょうね。(W ガンダーラ語の原典資料を整理の
> 一部を担当したのは彼のはずですから。(W 少し厄介なカローシティだったらしいですよ。
>
> この世界は狭いのです。電波氏が誰だかすぐわかります。素人相手に遊ぶのもほどほどにしないと
> 時間の無駄ですよ。
つうか、同じ大学の同胞愛ですか? まあ、あそこじゃそんなものか。
687 :
暇人 :2005/07/08(金) 00:11:15 ID:vBTOb3bQ
電場さんさ 多重ハンドル遊び 昔から楽しまれてましたが、 ほどほどにね では おやすみ
688 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 00:13:04 ID:5a9khswl
>>676 空=実体がないので執着すべきものではない、だから、すべては虚妄である、ということになる。
虚妄であるから、そのことを知った今、執着から開放されるべきである。自己の関係付け、自己を開放するように解釈すべき。
どうよ?
689 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/07/08(金) 00:21:05 ID:9iW9tqHG
>>685 さん、
あなたのお考えになる「実体」とはどういう概念でしょうか?
仏教の文脈では「実体=恒常普遍性をもった不滅のアートマン」と
言えるんじゃないでしょうか?
690 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 00:25:35 ID:zKY/IGQc
>>689 わたしもそう思っています。実体=アートマン。
ところが、「空」を語る人の中には、この現実そのものがただの幻なのだと
言う人がいます。
比喩(メタファー)として、「うつろうものだから、幻”のようなもの”」という意味
で言っているのならわかるんですが、「本当に幻」だという考え方には賛同
できないのです。
博識な方は、いったいどのように考えているのか、興味を持ちました。
691 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/08(金) 00:27:45 ID:8dRCGpwh
>>680 もういい加減にしてくれよ。"svabhAva"「自性」なる語につてい話しているのに、どういう文脈かだって?
どういう意味かだって?竜樹が対象にしているのはそんなんじゃないってか?説一切有部を含めた
"自性"という実体概念を弄する執着体系を批判してるんだよ?あんたの脳みそでは解るはずもない。
ま、法蘊足にしても内容は確認済みだよ。あれを放っておく手があるかい。
基本的には能持自性だよ。あんたの品性下劣さは
>私の論ではなく 本当は宮下論文のぱくりだが(笑)
というところにそのまま現れている。
それとさ、私は電場じゃないよ。そんな奴に多重ハンドル疑惑かけられても名ぁ。
>>685 あんた、絶対になにか勘違いしている。私の方は
>>682 さんが誰だかわからない。それに
ローマナイズのばら撒きなどしていないよ。それしている奴、約一名知っているが、彼は
サンスクリット読めないジャン。勿論チベットも。私の方はウイグル語訳の方を主に言って
いたのだが、敦煌文書研究の流れで、モンゴルは無視できないという語を補って読む
べきだろうな。で、諸本を読む→訳すはそんなに違うか?あんたの感覚がわからない。
もう仕事にもどるど。今日が一番忙しいのにぃ。って、自分が悪いのだな。
692 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 00:30:26 ID:zKY/IGQc
>>691 あ、すいません。
そちらで展開中の議論の文脈とは「別」で、単なる質問レスを
投稿しただけです。
勘ちがい以前に、関係していませんでした。
ところで暇人さんは確か奥さんもこの分野詳しいのでしたな。
694 :
暇人 :2005/07/08(金) 00:58:33 ID:vBTOb3bQ
>>691 当たり前じゃん こつちは既に四年前に論書における「自性」の
使用例を具体的に買いてるじゃん。
この書の自性はこういう用法 これはこう、と。
「ある」だけでは話ならんのも読解できないのか。
一般用法だったら その自性は竜樹の批判する意味での「自性」ではない
ので無視してよいじゃん。
乱暴に言えば「婆沙論」の「自性」とそれに帰結する用法だけしか
批判対象として
竜樹は注目してないので、多義性などに注意する必要性は皆無じゃん。
>>693 キミだれ? 誰かと勘違いしているぽいね
695 :
暇人 :2005/07/08(金) 01:00:47 ID:vBTOb3bQ
>基本的には能持自性 これは何の話だ? 「ギルギット写本”法蘊足論”の"svabhAva"なる語」が「能持自性」との 主張なのかね? きちんと梵語と和訳だして 論じてみよ
696 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/07/08(金) 01:03:15 ID:9iW9tqHG
>>690 以前に読んだ梶山先生の本に初期般若経典類の作者達は比喩ではなく、
本当にこの世界は幻だと考えていたんだと書いてあった事を思い出しました。
697 :
文鮮明、情けね〜〜〜 :2005/07/08(金) 01:03:36 ID:c6vD1Xwg
510 :名無しさん@3周年:2005/07/07(木) 22:27:36 ID:D9V574FN
文鮮明、情けね〜〜〜
アルカイダにビビッテ一切コメントを発表できないと言うんだね。
臆病者の、血分け大先生なんだね。
下手にコメントを発表すると狙われちゃうんだね。
先生は、とっても怖いんだね。
511 :名無しさん@3周年:2005/07/08(金) 00:08:35 ID:JEIgCHkf
>>510 今こそアルカイダのメンバーに原理を伝え世界平和を実現しよう!
698 :
暇人 :2005/07/08(金) 01:08:27 ID:vBTOb3bQ
>サンスクリットの感覚では本質、性質、本来なるもの、 >偶有性を配するもの、それ自体 を成立させる要素と言う >意味で用いられ、それが何であるかが議論になるのである。 具体的に「有部論書」から論じてご覧。 1「本質」の箇所(論書名 当該箇所) 2「性質」の箇所(論書名 当該箇所) 3「本来なるもの」の箇所(論書名 当該箇所) 4「偶有性を配するもの」の箇所(論書名 当該箇所) 5「それ自体 を成立させる要素」の箇所(論書名 当該箇所) 6それぞれの意味がなにであるか議論している箇所(論書名 当該箇所) 竜樹以前の有部成立論書で以上を具体的に書いてご覧。 それからだな、話は。
699 :
暇人 :2005/07/08(金) 01:11:05 ID:vBTOb3bQ
まあ書けば書くほどに 私から つつかれて 墓穴を掘るだけだろうけどね
700 :
暇人 :2005/07/08(金) 07:00:51 ID:6cdGfMlX
742 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ 投稿日: 2001/05/30(水) 18:36 斜め読みしましたが、要点はしっかり抑えられているようです。 最低必要条件は満たしておられます。あれ以上踏み込むとなれば、 専門的になります。 また、間違った解釈もしておられないようなので安心して読める ものですね。 ただ、「自性」の解釈は多義的であることを留意されたほうがよ いかとは思います。本来的には「本質」(偶有属性を取り払って 残され抽出される性質)を意味しますが個物ないし対象にその実体 と実体保持作用を含めて自性とする意味もあり、仏教では後者を 否定します。前者も論書の中に頻出するのですが、文脈を読む必要が あります。
701 :
暇人 :2005/07/08(金) 07:03:33 ID:6cdGfMlX
キミがアホなのは キミはかつて、 竜樹は「自性」批判をしているが、 それは「個物ないし対象にその実体と実体保持作用を含めて自性」としている 場合だけであり、論書には「本質」という本来的で意味での使用例も 頻出する。この自性を竜樹は否定してないので、 「文脈を読む必要が あります」 といっておったのだ。 今になって「どういう文脈かだって? 」って笑わしてくれるよ。 頻出するとの主張なのだから、「だんまり」を決めないで、 ちゃんと具体例を出しなされ。 スレッドルールには、以下とあるぞ >自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されるようお願い申し上げます。
702 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 07:05:45 ID:gcem4DYm
>>691 この人、2ちゃんねるでしか自分の頭を誇示できない人ですか?
703 :
暇人 :2005/07/08(金) 07:13:48 ID:6cdGfMlX
どーせ 竜樹以降に書かれた世親の著作。 倶舎論あたりしか出せないだろうけどね。 竜樹より、後代に書かれた著作の自性解釈を重視しちゃうのは、 何故だ? そこがキミのトンデモ性なのですよ
704 :
暇人 :2005/07/08(金) 07:29:48 ID:6cdGfMlX
>>657 >終いには「ぼくちゃん言ってない」なんて嘘つくんだから処置なしだ。
私が言っているのに「言っていない」と発言した箇所を過去ログで
きちんと提示しろ。
@言っている過去ログ
A言ってないといった過去ログ
きちんと読み比べると
キミの読解力不足だと きちんと証明できるよ
だからキミはまずこれをできないと断言しておく。
キミはいつも勘違いから曲解して中傷しているだけ。
悪気なく アホだからかもしんない。
>レリーフが経蔵
これ 典型的なキミの誤読
>現観
大笑いさして頂いた奴ね。
みんな原始仏教の話をしてたのにキミはひとり修験道の話してたときね
705 :
暇人 :2005/07/08(金) 07:51:57 ID:6cdGfMlX
>>634 そうそう ここでも、キミの間抜けぶりは炸裂している
>あのHPなんて学部2回生でかける内容じゃないか
あのね。あれは教授の論文の論旨を初心の者用に
わかりやすく、おもしろおかしく解説した文章だ。
@論旨は教授
Aそれをご解釈せず わかりやすく展開している点が秀逸
キミはアホだから 結論だけを知っていたら 全部わかった気になれる
ようだが、一つの論を立てるためのプロセスが大事なのだ。
あのホムペは、論を立てるためにどういうプロセスを当研究室はするのか
その醍醐味と知的な興奮を見事に伝えてるのだ。
まあプロセスがないどころか
持論の根拠を具体的に示せないキミにはわからん世界だ
706 :
机龍介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/08(金) 09:50:36 ID:9FP0OTSf
>>690 >ところが、「空」を語る人の中には、この現実そのものがただの幻なのだと
>言う人がいます。
腹を切ったら痛い(五感)ですし、
こんなことになってしもた。と、後悔する(五蘊)こともあるかもしれません。
アートマンは、どしたいなぁ〜(観念)と思い煩うこともあるかとおもいます。
(現実は幻ではない)
この上記↑(五感・五蘊・観念)が「色」です。
色の理(ことわり)が空。
ですから、空そのそものには意味はない。
これを色即是空。と言ふ。
アートマンといふのは仏教にはない。
大自然(だいじねん)とか、自然法爾がアートマンに近い概念。
これを大慈・大悲という言い方をする。
707 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/08(金) 10:02:07 ID:qDPngDKK
http://www.geocities.jp/jfcps873/kanren2/gendai.htmlから要点を抜粋 。
449 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss 投稿日: 02/07/18 21:32
不成仏の系譜(初期)
1 原始仏教において、誰でも仏になれるとされていた
2 釈尊滅後、仏そのものに対する神格化が始まる
3 その流れの中、仏は釈尊一佛に限定されていく
成仏の系譜(初期)
1 原始仏教での皆成仏
2 釈尊一佛に限定する事への批判と原理主義運動
3 この段階では大乗や佛性、如来藏というタームは無い
4 ただ、誰でも成仏できるとする原始仏教への回帰
この後、両者の系譜は部派、大乗の境目なくチリジリになって展開されます。部派の中で
も成仏を説き、大乗の中でも不成仏を説く集団や人がいたということです。これからは大
乗、小乗の区別だけで佛性を語りきる事は出来ません。一例として絶対不成仏を説く護法
や玄奘三蔵を開祖とする法相宗の流もあります。さらに「説一切有部の中に大乗の要素が
流れ込んだ多くの形跡(経典と論書)」と言うことを私は修士論文で論じました。機会が
あればご紹介いたしましょう。
また、インドにおける両者の発展と変遷、中国、朝鮮、日本での受容と変形と展開につい
てはご要望があれば論じましょう
450 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 02/07/18 21:46
>>449 (不)成仏の系譜の1は、初転法輪に関する阿含・律蔵の記述を根拠となさっていると思います。
そしてこの「六人の阿羅漢」という言及は、釈尊伝を述べる近代の研究者で触れない人はいない
ものでもありますね。ところがどういうわけか、初期仏教〜部派の研究者はこの記述を知りながら
あえて「大乗の特異性」という面からしか釈迦一仏しかみとめないということを触れない。
どうしてこのようないびつな対応がこれまでなされてきたとお考えでしょうか?
なんとなくなんですが、この曲解は、如来蔵思想を有我論や悪しき本覚思想と同列に理解する系譜に
連なるように感じます。
708 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/08(金) 10:04:08 ID:qDPngDKK
続き。
451 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss 投稿日: 02/07/18 22:16
>>450 その「いびつな対応」については本当に摩訶不思議です。色んな原因が考えられますが、
以下(笑)マークをつけてお読みください。
1 大小区別という思弁執着による転倒
2 多佛論の言い逃れを準備していない
3 菩提心の解釈に結論が出し切れていない日本仏教において、言及するのが怖いから
4 原始仏教と部派仏教との境界線について結論を出すべく思考したことが無いから
5 如来藏思想と本覚思想との区別がついておらず、佛性思想とは偏に成仏の因位をといたものと理解していない
6 大乗仏教興起運動が在家主義とか仏塔崇拝などと思い込み、実は原理主義運動であったことなど重いもつかなかった
7 あいつら皆あほんだらだから
453 名前: P-たん ◆ymQETSmk 投稿日: 02/07/18 22:22
450 改め、です。
3ぐらいはまともかな(w
結論は 7 ですかな。
454 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss 投稿日: 02/07/18 22:28
ところで、大乗仏典を眺める際に「釈尊一佛」を強調する傾向を捉えながら
読むと結構楽しいですよ。2つの系譜があることに気付きます。
「法華経」如来寿量品での久遠実成の釈尊はどちらかというと「釈尊一佛」の傾向があり、
悉皆成仏や一乗思想ともセットになりつつ、久遠実成と衆生の最終形態とでは明らかな線引き
があります。これは
1 釈尊一佛と原理主義との止揚
2 釈尊一佛の原理主義を摂取したのちに変形した
3 原理主義の発展、変形形態として神秘主義に移行した
など多くの組み合わせが考えられます。
709 :
無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/08(金) 12:43:07 ID:8YTDUXft
>>612-615 613 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 21:48:24 ID:5l44MPd7
有部は別に統一見解を持った一枚岩ではありません。
「一切合財なんでも有ります部派」てな状態でしょうね。
「根本説一切有部」などと自称する一派まで登場します。
615 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/06(水) 22:01:06 ID:5l44MPd7
↓もう、訳わかめ(笑)。
http://www.eonet.ne.jp/~indology/muula.htm ------------
>>621-634 621 :暇人:2005/07/06(水) 23:30:46 ID:q53UVoi3
ウイットに富んでるし とてもわかり易くて
よいベージだと 私は思うけどね
634 :電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/07(木) 08:22:52 ID:HDpY99be
>>621 暇人さん。
あんなHPで感心してるようじゃ、ものすごく程度が低いね。
あのHPなんて学部2回生でかける内容じゃないか。
下らん、下らん。。(HPの著者ではなく、感心しているお前が)
------------
結局、
●阿呆陀羅經氏は、
> 「根本説一切有部」などと自称する一派まで登場します。
と述べているが、根拠は示していない。
●HPでは、論拠を示した上で、
> 「根本説一切有部」と「説一切有部」とは同一のものに他ならず、前者は自部派の尊称に過ぎないと考えられる。
と主張している。
●電波男氏は、この内容には否定も肯定もせず、ただ暇人氏を誹謗している。
こういった状況かな?
710 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 21:22:32 ID:5a9khswl
釈迦の説いた「空」の意味の解釈の相違が、大乗と説一切有部の相違になっていると思う。
この相違は、今の我々の間においても感じられているのを認めることができる。以下のように。
685 :名無しさん@3周年:2005/07/08(金) 00:09:50 ID:zKY/IGQc
>>676 です
676の発言の趣旨は「質問」です。
語尾を「?」で終わらせとくべきでした。
>「空」って、よく「実体がないこと」と表記されてる書物が多いけど
>「恒常普遍性をもった不滅のものはない」という意味なんだよね?
どうなんでしょう?
690 :名無しさん@3周年:2005/07/08(金) 00:25:35 ID:zKY/IGQc
>>689 わたしもそう思っています。実体=アートマン。
ところが、「空」を語る人の中には、この現実そのものがただの幻なのだと
言う人がいます。
比喩(メタファー)として、「うつろうものだから、幻”のようなもの”」という意味
で言っているのならわかるんですが、「本当に幻」だという考え方には賛同
できないのです。
博識な方は、いったいどのように考えているのか、興味を持ちました。
______________
まず「スッタニパータ」から引用したい。
711 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 21:25:05 ID:5a9khswl
1064「ドーダカよ、私は世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないだろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、其れによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」 1068「ドーダカよ、上としたと横と中央とにおいて、そなたがよく気づいて知っているものは何であろうと、 _____其れは世の中における執着の対象であると知って、移り変わる生存ヘの妄執を抱いてはなら ない。」と。 1070仏陀は言われた、「ウパシーバよ、よく気をつけて、無所有を目指しつつ、「何も存在しない」と 思うことによって、煩悩の激流を渡れ。もろもろの欲望を捨てて、もろもろの疑惑をはなれ、妄想の消滅を昼夜に観ぜよ。」 有る絵画が美しいと観じているとき、個々の色だとか形を全く意識していない。 そのようなものを意識しているときは、美しいと感じ入っているときではない。 「モナリサ」でも想像してほしい。この個々のものに囚われていない時の事を、執着していないといのではないでしょうか? これと同様に、全世界を観じているときに、何もないと観じているときは、平安である。 しかし何か有ると考えているときは、まさに個々のものにとらわれているときで、平安ではないと思う。 上のスッタニパータからの引用文は、大乗の「空」であり、有部の空ではないと思う。 幻のごとくに思え、というのは、何か有ると思うな、という意味だ。 幻とわかっておれば、其れに執着することはないからだ。狂女が蝶々を追いかけるようなことをしてはならないのだ。 以上の様に思いますが。
712 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 22:03:27 ID:5a9khswl
>>711 >上のスッタニパータからの引用文は、大乗の「空」であり、有部の空ではないと思う。
「空」が完成であり、そこからもとに戻って、70幾つの法有を感じることが有ってはならないと思う。
713 :
名無しさん@3周年 :2005/07/08(金) 23:19:46 ID:5a9khswl
>>694 今晩は不思議にカキコする人が少ないな。俺のようなものでもカキコしたくなる。
大乗経典に「三昧王経」というのが有る。そのサンスクリット名は、「サルヴァダルマ"svabhAva
サマターヴィパンチタ」で「ものは自体としてすべて平等である」というものである。
この自体とは、実相の意味だと思う。すべてのものは実相としては「空」であり、したがって、
者と者との間に、差別はなく平等である。これを「一相」であるとか、「無相である」とか、そのようにも言う。
なんかこのような事に関係の有ることをいわれているのかな、と思ったりしました。
714 :
暇人 :2005/07/09(土) 00:35:56 ID:ndtNIhAZ
>>713 論旨がわからないが、
「三昧王経」の サンスクリットは普通Samadhirajasutra
「Samadhiサマディ(三昧)」+「rajaラジャ(王)」+「sutraスートラ経典」
別名有名なのは Candrapuradipasutra
これはチャンドラプラバという対論者の名前を採った呼称。
715 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 08:43:53 ID:9YsQeBdD
>>714 >「サルヴァダルマsvabhAvaサマターヴィパンチタ」で「ものは自体としてすべて平等である」というものである。
上は三昧の説明であって副題でしょうと思います。
716 :
暇人 :2005/07/09(土) 09:37:35 ID:zuXTO5iq
うん 漢訳だと「月灯三昧経」が対応するが、 「一切法體性平等無戲論三昧」とかと漢訳してるみたいね
717 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 15:16:02 ID:XTgOyS9L
>>698 暇人。なにを調子にのっとるんだ?このきちがい。
>まあ書けば書くほどに 私から つつかれて
>墓穴を掘るだけだろうけどね
なにをつついたつもりでいるんだか。。。。かわいそうな人だね。
>この自性を竜樹は否定してないので、
こんなトンでもは原典を読んでいたら普通はしないんだけどな。読解力がゼロなのは
>竜樹より、後代に書かれた著作の自性解釈を重視しちゃうのは、 何故だ?
こんなところにも盛りだくさん。
>>レリーフが経蔵
>これ 典型的なキミの誤読
>>現観
>大笑いさして頂いた奴ね。
>みんな原始仏教の話をしてたのにキミはひとり修験道の話してたときね
非常に醜いね。汚らわしいね。原始仏教には現觀など無いと言い切ったチミは別の大乘論書を
念頭においていたんだろ?
>あのね。あれは教授の論文の論旨を初心の者用に
>わかりやすく、おもしろおかしく解説した文章だ。
だからハクチは困るのだ。あれは榎本兄の講義や演習に関して大学院生(?)が述べたもの。
なにがプロセスだ。論文や書物で著述する論理展開はあんなもんじゃないぞ。それを2ch
の発言で求めるのか?概説書の写しをするお前らしいな。
だから、学問的にもお前とは住む世界がぜんぜん違うんだ。
718 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 15:18:56 ID:XTgOyS9L
>>714 証拠がこれだ。いいカッコしているが、サンスクリットを出すのであれば、きちんと調べてからにしろ。
サンスクリットが読めないのなら。最低、表記方法ぐらい勉強しろ。薄ら馬鹿目。
以降、汚らわしいのでコメントつけるな。もしつけたらお前の発言すべてことごとく叩き潰す。
719 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 15:30:20 ID:Dr5gqOO0
>714 暇人氏は墓穴をほったね。 プラサンナパダーなどへの引用で有名な別名は CandrapradIpa-sUtra で 漢訳すれば月灯三昧経。 対告者は Candraprabha (月光)だ。 これを混同するということは、サンスクリット知らないといわれてもしかたがない。
720 :
719 :2005/07/09(土) 15:34:33 ID:Dr5gqOO0
わても人のこといえへんな。 CandrapradIpa だけなら 月灯だね。 「がっとう」で辞書登録してたもんでいきなり月灯三昧経と変換してもうた。
>>644 :名無しさん@3周年:2005/07/07(木) 17:34:43 ID:Wm2Ss9FO
ここは知識をひけらかす場所ですか?
>>645 :名無しさん@3周年:2005/07/07(木) 18:04:59 ID:4QZbA8YZ
知識をひけらかす場所で有ってもらいたい。そうでなければ値打ちがない。
法布施は布施の中で最も優れているといわれている。その法布施に当たるでしょう。
----------
そうですね。
知識自体をひけらかして欲しい。
「俺は知識を持っているんだぞー」などと、自己申告してもらってもうれしくもなんともない。
相手の無知をけなすことだけを、生甲斐にしている人にはご遠慮願いたいですね。
--------------
http://bio-diversity.hp.infoseek.co.jp/kiben.html 詭弁の特徴のガイドライン
?? 14:細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
722 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 15:57:39 ID:XTgOyS9L
創価学会が出版している法華経写本について、情報を入手した。 読む必要がないと言われて、見せてくれなかったものを見てきた。 一言。しょーもなー!! 校訂本じゃないじゃないか。写本にローマナイズしているだけのアホ本じゃないか。 渡辺照宏の業績から一歩も踏み出していないじゃなか。あほらし。
723 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/09(土) 16:00:44 ID:vRsFtq8i
724 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 16:03:16 ID:XTgOyS9L
>>719 暇人は
>サンマイオウキョウ
>三昧王経 / 田村智淳訳
>(中公文庫 ; . 大乗仏典 ; 10,11)
>
>出版者 東京 : 中央公論新社
>出版年 2003.12-2004.1
>大きさ 2冊 ; 16cm
>別書名 OR:Samadhirajasutram
>一般注記 2の訳者: 田村智淳, 一郷正道
>著者標目 田村, 智淳(1941-) <タムラ, チジュン>
> 一郷, 正道(1941-) <イチゴウ, マサミチ>
>コード類 書誌ID=21243203 NCID=BA65134720
の別書名をみて「サンスクリットだぁ」と言ってるんでしょうね。
馬鹿みたい。
725 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 16:11:12 ID:XTgOyS9L
>>723 その昔、シュミットハウゼン関係でお世話になった先生が東洋哲学研究所にいたので、電話してみた。
対応してくれた研究所員はものすごく腰が低く、出版の経緯や、その内容について細かく説明して下さ
いました。
「写本の写真と、一部それにローマナイズを付したものであって、校訂作業などしておりません。
渡辺照宏先生の研究から何一つ出ているものではなく、それを踏襲して校訂作業を始めるとしても、
準備に10年掛かります。そのような心意気を示そうとしたのがあの出版です」
といった本当に謙虚な人でした。あれこそ研究者です。名前を聞き忘れたのが悔やまれます。
ここで噛み付いてきた奴はその出版作業には係わっていない、ただのパシリでしょう。
726 :
719 :2005/07/09(土) 16:14:40 ID:Dr5gqOO0
>724 対告者名の Candraprabha と 月灯(三昧) CandrapradIpa は関係があるかもしれないぐらいしか いうことができないだろうし、実際にこれ以上踏みこんだ発言はしらない。 暇人氏の釣りでなんかネタがあるんなら大いにつってやってください(爆)
727 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 16:15:32 ID:FyNtWOpN
>>700 :暇人:2005/07/08(金) 07:00:51 ID:6cdGfMlX
> 742 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ 投稿日: 2001/05/30(水) 18:36
>
> 斜め読みしましたが、要点はしっかり抑えられているようです。
しかし、電波男氏も昔は、斜め読みでコメントするということをしておられたのですね。
人間変わるものですね。
それとも、レスは斜め読みでコメントしないが、
HPは斜め読みでコメントするということかな?
まっ、いいか。
ところで、創価学会の「法華経写本シリーズ5」は原始仏教とどういう関係があるのだろう?
------------
727 :電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/05/22(日) 20:42:00 ID:/LJAVCPM
>あなたも「スレ途中からざっと斜め読み」してレスをつけることが、あるのではありませんか?
いいえ、あなたと違い斜め読みなどしていませんよ。
729 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 18:48:40 ID:XTgOyS9L
〔第八偈〕 先ず魏本の第三句「依前人受法」は、他の諸本と異なって、釈文からの負荷であると思われる。また陳本の釈文中に「次仏説」として、それに引き続く引用経典を 無衆生及我 但法有因果 というように偈文として訳している。これに相応するチベット訳においても 'di na bdag gam sems can med / chos 'di rgyu daN bcas las byuN / として、やはり偈として訳されている。これに対してレヴィ本は nAstIha satva AtmA vA dharmAs tv ete shetukAH というように散文として校訂しているので、あるが、この部分を nAastIha satva AtmA vA / dharmAs tv ete sahetukAH / と考えると、韻律上、Slokaよりなる半偈であると考えられる。 さて、この偈の出展に関しては玄奘訳の『倶舎論』破我品に 無有情無我 唯有有因法 として、パラフレイズが見出される。また『倶舎論』梵本にも、同一のものが偈として説かれている。この偈を引用する箇所で、『倶舎論』梵本には kSudrake'pi cAgame bAdariM brAhmaNam adhIkRtyoktam と記されており、また漢訳にも 世尊於雑阿笈摩中為婆羅門婆打?梨説 として「クシュドラカ・アーガマ」からの引用であることが示されている。しかし、この引用経典を現存資料から否定することは困難であり、唯一シャマタデーヴァの"AbhidharamakoSopAyikA"の中に、この要件が詳細に示されているだけである。
730 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 18:51:07 ID:Te1H6W38
>>729 自分の頭の良いところをひからす為チベット語を引用しているが、
ここは2ちゃんえるだぞ。場所を考えて学をひけらすんだな。
731 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 18:54:02 ID:XTgOyS9L
いきなり桁折れもしないで、前置きなしに私の卒論のほんの一部をご紹介しました。 テキスト化する祭の校正も推敲もなにもしていません。注記も沢山あるのですが、 割愛いたしました。魏本とか唐突な言葉もありますが、その説明は最初から読めば わかります。ここではどうしようか迷っていますが。。。 これは唯識二十論の第八偈周辺に関する記述です。唯識論書を研究すること 原始仏典を研究することの関連性を述べています。 詳しいことは場所を変えようと思っています。
732 :
暇人 :2005/07/09(土) 19:06:18 ID:KdSjLQeC
>>717 アホアホ合戦に持ち込みたいみたいだが 乗りたくないな(笑)
ちゃんとログを出せ。
出せないで中傷するならば、ここのスレッドルールに抵触する荒らしだな。
キミは記憶を自分の都合の良いように改変する「特殊自己チュータイプ」なのだ(笑)
私が言ってないことを言ったとして中傷しているのだが(笑)、
私はログを保有している(爆)
んで、私からログを出されて恥をかき捲くりなのだ(笑)
たまにはキミからログ出せ 自分で再確認してみろ。
「原始仏教には現觀など無い」などと一言も言ってないぞ(爆)
まあキミは底抜けのアホみたいなので 悪気なく本気なのだろうが、
世間水準では「トンデモ系」だ。
しかも何故 昔から多重ハンドル遊びが好きなんだ? そろそろ卒業したらどう?
「ジャータカのレリーフが経蔵だ」と私が言ったと言うキミのウソは
>>386 で論破した 反論せず 謝罪もせず 逃げている
「「部派仏教、特に説一切有部には「自性」という概念 があるはずがない」と
私が言ったと言うウソも
>>387 以下で過去ログを出して 論破した。
>>384 で
>原始仏教にはabhisamayaがないと言わせるような程度の低い入門書
@どこで、私が「abhisamayaがない」と書いたか、番号を挙げよ。
Aそんな入門書があるならば列挙せよ。
といっているのに まだログなしで暴走だな(笑)
733 :
暇人 :2005/07/09(土) 19:07:45 ID:KdSjLQeC
>>718 なに とち狂ってる(爆)
「三昧王経」の サンスクリットは普通Samadhirajasutra
と違うという主張なのか?
>>713 のカキコは君だったのか(笑)
あいかわらずアホだな
>>719 714で別名有名なのは Candrapuradipasutraと書き、
これはチャンドラプラバという対論者の名前を採った呼称。と述べ
716で漢訳だと「月灯三昧経」と書いているぞ、
ホケているな
ちゃんと読んでから書けって 相変わらず早とちりだね。
734 :
暇人 :2005/07/09(土) 19:10:59 ID:KdSjLQeC
>>730 いや電波さんは底抜けのアホだから
専門家ぶりたいので 過去の栄光だして
「ほら オレはこんなに勉強してたんだぞ」と
スレッドと無関係に 誇りたいみたいのね 昔から
それは まあ可愛い部分だから 許してあげて
できたら 「電波男せんせー 素敵ぃぃ」といってあげて
735 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 19:11:16 ID:WYi8nYKO
つまり、あれですか。 「アホ」とか「バカ」とか「狂ってる」とか。あるいは「あなたの頭脳では 理解不可能でしょうね」と言い合うことが、仏道修行なのでしょうか?
736 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 19:12:30 ID:WYi8nYKO
それとも、「文献学上の議論」だから、その批判はあたあないという 言い訳、ここでも再利用するのかな?
737 :
暇人 :2005/07/09(土) 19:17:46 ID:KdSjLQeC
>>735 ごめんなさいね 電波さんと
じゃれあって スレッドを汚して。
夏祭りしていると 見逃して いただければ 幸いです
738 :
机龍介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/09(土) 19:20:00 ID:fdWZA1ay
「論文における論理展開が、2chでは通用しないということ」は 実際あるのかもしれませんが、 『 自 分 は 2 c h に お い て は 無 能 だ !! 』 と自己申告したいのでなければ、「2chに適した論理展開」を望みたいところ。 智慧があれば、簡単なことだと思いますけど。 それがないのなら、どうぞ、自分の論理展開の通用する世界にお戻り下さい。
740 :
719 :2005/07/09(土) 19:58:31 ID:Dr5gqOO0
おいおい、 Candrapuradipa ってチャンドラプラバという音になっちゃうわけ? 暇人って、小学生程度の羅馬字も讀めないん?
741 :
719 :2005/07/09(土) 20:01:27 ID:Dr5gqOO0
Candrapuradipa という羅馬字表記は、暇人ってひょっとしてS? それともSのページからコピペ?
742 :
719 :2005/07/09(土) 20:15:45 ID:Dr5gqOO0
暇人さん、Candrapuradipa を Candraprabha とみなしていい根拠教えてよ。 ↑(ママ) きっと電波さんに対する釣りだろ?彼は引っかからないとおもうけど。 私の立場は>726だから (w
743 :
暇人 :2005/07/09(土) 20:49:27 ID:8UvsCGKI
>>740-740 英語表記だとChandraprabhaなのね
それをカタカナ表記にすれば、チャンドラプラバ
ロマ字は読めないぞ(笑) かな変換だし(笑)
指摘されてみると さして根拠はないが
Candrapuradipa→「Candra月+pura城+dipa灯」
Candraprabha→「Candra月+prabha光」
漢訳経典なら「月灯三昧経」だが 下らん細部にこだわるなら
直訳はキミの言う「月灯三昧経」ではなく「月城灯三昧経」だな。
私は対論者の月光童子の名前をとって月灯三昧経と思っているが、
「光」と「灯り」と どういう意味の違いがあるのだね?
744 :
719 :2005/07/09(土) 20:55:44 ID:Dr5gqOO0
>743 暇人よ、光子と輝子とは同じ名前か? pradIpa と prabha は別の単語。しかもインド系言語を考える場合は常に語根に立ち戻って 考察するのが原則かつ常識。語根もちがうよ。 わての知らぬことを根拠に同一視しているとおもってたけど、違うの? 単純に漢字の語義の類似性だけから同一視しているんだったら、文献学のイロハも知らないのね。 買いかぶって損したわ。 ちなみに「城」はどこからでてきたわけ?教えてよ。
745 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 20:58:09 ID:XTgOyS9L
>>733 暇人よ。
なに狂ってるの?勝手に人様を私と同定するな。
そんな頭で何言っても無駄だ。
なにが論破だきちがいは早く氏ね。
そして何?過去の栄光?あんな卒論程度の論文、一日で一本書けるぞ。
あの内容も絶対にわからないだろうね。厳密な学問をしたことのない
ハクチ脳にはね。原始仏教研究そのママの論文なんだけどな。(笑)
746 :
719 :2005/07/09(土) 21:03:31 ID:Dr5gqOO0
暇人殿。君は Candra pura dipa(スペースは719) と表記しているが、pradIpa ではなく、 puradIpa となるのはどの校訂・写本によるわけですか? これをはっきりさせないと、>743で君が言っている「城」という釈はなりたちませんよ。
747 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 21:10:07 ID:XTgOyS9L
>>744 719さん。暇人には何言っても無駄だと思うよ。「語根」とか言うとまた概説書や専門書を
かじってきて、「語幹」と混同したことをべらべらしゃべると予測します。(笑)
pra と pura を取り違える音韻学的な現象は見たことがありませんし、写本からだとその
可能性はもっと低くなります。現代日本人ならありそうですね。
でも dIpa と bha(あるいはprabha, or purabha) を取り違えることは絶対にありえませんね。
またdIpa をdipa と表記するのは許せないものがあります。さらに、ディーパバンサの意味
も彼には確認して欲しいものですね。
748 :
719 :2005/07/09(土) 21:22:27 ID:Dr5gqOO0
暇人殿。746と741に対する補足説明です。 某Sという人のページで三昧王経の経題に関して puradipa という表記が見られます。 そのままコピペなら、誤入力ということも考えられますよ。pura と pra は大違いですから、お気をつけになるように。 某Sなる人物は三昧王経を修論で取扱ったらしいので、誤入力と考えるべきなんですがねぇ。
749 :
暇人 :2005/07/09(土) 21:28:19 ID:8UvsCGKI
「暇人よ」ってその口調は電波さんか? 本論に反論できないので なんでもよいから 揚げ足が取りたくて 得意のサンスクリットでかんばられているのね ご苦労様 別の単語だが意味はいっしょと言っているのだね。 キミは中味読まず 暴論はいてるだけ 例えば月燈三昧を説明して 「菩薩摩訶薩應當如實觀一切法猶如幻化如夢如野馬如響如光影如水中月如虚空性。 應如是知。童子」 とあるのね。 「菩薩よ 一切の法を、光影のごとく、水中の月のごとく 虚空性のごとく 観ぜよ」と 経典自身が灯りと光りをさして区別しとらんのだが
750 :
暇人 :2005/07/09(土) 21:30:55 ID:8UvsCGKI
あっ やぱり 電波さん 出てきてるのね(笑) 暇あるなら 早く @どこで、私が「abhisamayaがない」と書いたか、番号を挙げよ。 Aそんな入門書があるならば列挙せよ。
751 :
749 :2005/07/09(土) 21:34:41 ID:Dr5gqOO0
>749 それで、漢訳に逃げるわけ? pura と pra を取り違えていることの正当化にはならないよ。 この引用例は八千頌以降、大乗経典には星の数ほど類似の表現はある。 光影=pradIpa=prabha なの?電波男の無知を指摘するための君の立論が発端でしょ? どうせならVaidya本でいいから、梵文を引用して欲しいなぁ。漢訳ひっぱったって役に立たないよ。 >経典自身が灯りと光りをさして区別しとらんのだが というのなら、対応する梵本で使用されている単語が何か明示しなきゃ論は成り立たないよ。
752 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 21:37:58 ID:9YsQeBdD
岩波の大乗経典や原始経典を読んでいて、校正が忘れられているのじゃないか、と疑うほどの ぎこちない文が散見する。果ては、日蓮系の訳者が、浄土軽の経典を故意にいじっているのじゃないかと思ったりもした。 翻訳専門家は大変なんですね。
753 :
719 :2005/07/09(土) 21:38:52 ID:Dr5gqOO0
751は719です。入力ミスです。
754 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 21:44:28 ID:XTgOyS9L
>>750 なんかすごく狼狽してるね。完全に叩き潰されて、あんたを信奉している人たちが
動揺するのが怖いのか?哀れだね。本論ってなんだ?すべて撃破済みだよ。
論に服せないって哀れだね。
>>749 だけどね、いい加減にしたらどう?人様を勝手に他人と同定するなって。
信用なくすよ。本当に馬鹿なんだから。それと内容だけど、経典内容をみて、
題名を勝手に変えるというのはあんたの主張なわけ?小学生でもそんなこと
しないよ。もしかして釣り?それとも突っ込んで欲しいからボケてるの?
さらに、灯りと光とを区別しておらんだなど、文献学以前の問題です。仏教じだい
語る資格は無い。汚らわしい。
>@どこで、私が「abhisamayaがない」と書いたか、番号を挙げよ。
>Aそんな入門書があるならば列挙せよ。
A(出来るだけ、機種依存文字は止めたいですね)は答える必要はありませんね。
あんたはホンマモノ馬鹿ですよ。
@については「原始仏教では現觀はとかない」と言ってましたよ。そして、abhisamayaについては
現觀という意味で使われているのではなく、文脈上いろいろ変わると言ってたでしょ?サルベージ
するのが面倒だ。
755 :
暇人 :2005/07/09(土) 21:48:25 ID:8UvsCGKI
>>751 >pura と pra を取り違えていることの正当化にはならないよ。
これは私のミスだね 失礼した
756 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 21:49:02 ID:XTgOyS9L
>>750 あ、言っとくけど暇はないよ。都市開発に係わる法律的な運用経験があれば手伝ってくれ。(笑)
それよりも、今のあんたの立論が揺らいでるんだけどな。早く根拠を示して反論せよ。
757 :
暇人 :2005/07/09(土) 21:51:31 ID:8UvsCGKI
>>751 >電波男の無知を指摘するための君の立論が発端でしょ?
は?
>>713 はやっぱ電波なのか?
で、キミもやっぱ電波なのか?
電波でないなら 私に絡んできたのは君からだが
758 :
719 :2005/07/09(土) 21:54:39 ID:Dr5gqOO0
>755 最初はタイプミス程度のものだろうと思っていたからあえて追求はしなかった。 だが、「城」という解釈を持ち出すに至って確信的なものだと理解したのだよ。 某S君には失礼なことをした。 もはや「ミス」ではすまないよ。
759 :
719 :2005/07/09(土) 21:55:58 ID:Dr5gqOO0
暇人殿 >758への補足。>751に対するお答えをお願いします。
760 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 21:58:10 ID:XTgOyS9L
>>755 こら、
>これは私のミスだね 失礼した
これであんたの立論は完全に消えたわけだね。漢訳からのこじつけなんて
お笑いにもならない。ばからし。
>>757 いい加減にしろって。失礼な奴だな。そんな被害妄想しか出来ないから、君の
立論はすべて狂ってるんだよ。それに何が言いたいんだ?このアホ。
761 :
暇人 :2005/07/09(土) 22:02:17 ID:8UvsCGKI
>>754 オイオイ ど素人の私が論拠として「漢文」挙げているのに
あいかわらずキミは論拠なしの罵詈雑言だけかい 暇だね。
「都市開発に係わる法律的な運用経験」などないな 相すまぬ。
「原始仏教では現觀はとかない」と言ってない。
それはキミが自分に都合よく記憶改変したのですね
いつものことだ。
キミがだな「ヴィパサナー瞑想は釈尊が示す要ではありません。
まだまだ前段階的なもの」「止観は四禅すべてにわたります。
現観はその次の段階です」と
また馬鹿を言っておつたのだ。
私は「止観を超えた高い現観など 原始仏教では説かれてない」と
言ったのだね
すると雑阿含にabhisamayaがあるんだ どーだ どーだ
とキミが騒いだので 君を無視してPたんに質問したのさ
「止観を超えた高い瞑想法という文脈で現観もしくはAbhisamayaは、
阿含にとかれているのか?」
少し思い出してごらん
762 :
暇人 :2005/07/09(土) 22:09:59 ID:8UvsCGKI
>>758 >もはや「ミス」ではすまないよ。
なぜだ?
751の何に答えてほしいの?
>>757 で応えているがね
私はキミが月光と月燈同じと見なす根拠を問われて
漢訳を出しているのだかね。
763 :
719 :2005/07/09(土) 22:16:00 ID:Dr5gqOO0
prabha と pradIpa (puradIpa(sic.))を同一視するのに漢訳は補助資料にしかならないよ。 電波男を批難していたくせに、自分がやり込められると開き直るわけ?
764 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 22:17:53 ID:XTgOyS9L
>>761 論拠なし?あほかテメ。そこまで腐ってるのか?
あの漢文は論拠にはならないと言うの論拠を示してるんだよ。
それが理解できないのなら、大学へ行った価値ないですね。あほらし。
>>747 嫁。
おまえが目いっぱい人を罵倒しておいて、罵倒を責めるなくそったれ。
現觀についてはチミは言い訳できないよ。そのうちサルベージしてやるから待っておけ。
おそらくチミが遁走したことも掘り起こすことになるから。
765 :
719 :2005/07/09(土) 22:19:02 ID:Dr5gqOO0
>768 >743で、pura を「城」と解釈し、>740に反論した以上、pura- であるとの立場で立論していることになる。 だから、pura が pra のミスであるという主張は成り立たない。 暇人殿、君って、こういうことまで説明してあげないといけないの?
766 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 22:21:17 ID:XTgOyS9L
>>762 >私はキミが月光と月燈同じと見なす根拠を問われて
>漢訳を出しているのだかね。
読めないのに漢訳だしてきて。。。必死だね。
題名の話をしているのに、あんたが内容を持ち出して屁理屈をこねただけ。
その方法だと、どんな経典でも改名できるよ。(笑)
767 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 22:24:52 ID:XTgOyS9L
暇人よ。あんたの言う論拠とは、そんな小学生程度の間違い勘違い、分裂回答だったのねん。
例のHPが輝かしく見えるわけだ。
それと、あったよ。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1031764449/l50 690 名前: 暇人@脱走中(笑) 投稿日: 02/10/12 23:30
観は以上の「止」を修した後にヴィパッサナー(四念住)を修するとあ
る。「浄楽常我」を「身の不浄。受の苦。心の無常。法の無我」と観
ずるのだが、これを別相念住としている。
次に総相念住といって、4つを順次にではなく、いっしょにという段階
がある。更に四善根(煖法→頂法→忍法→世第一法)を経て、世第一法
で、無間見道に入り、苦法智忍を起して初無漏の聖者の位に入るのだ
が、その後に「聖諦現観」に入る。
「概念を超えた縁起の現観」とは、倶舎論かせいぜい部派でしか説か
ない。【原始仏教では現観は説かない。】大衆部は「一刹那のうちに四諦
を観ずる」と頓現観を唱え、説一切有部は「16心を立てて之を観じ」
漸現観であるが更に、現観を三種に分けるという差はある。更に中期
大乗の唯識説によると六現観を説くに至る。(成唯識論)。
さて、どんな言い訳が飛び出すのだろ。あほらし。
768 :
暇人 :2005/07/09(土) 22:28:47 ID:8UvsCGKI
そもそも713さんが 大乗経典に「三昧王経」のサンスクリット名は 「サルヴァダルマ"svabhAvaサマターヴィパンチタ」と言われてので 私は @「三昧王経」の サンスクリットは普通Samadhirajasutra 「Samadhiサマディ(三昧)」+「rajaラジャ(王)」+「sutraスートラ経典」 A別名有名なのは Candrapuradipasutra これはチャンドラプラバという対論者の名前を採った呼称。 と言っただけだね すると電波さんが「薄ら馬鹿目」と言い、 719さんが突然 登場して「墓穴をほったね」と 初対面に絡んできたのだけどね 有名な別名は CandrapradIpa-sUtra で 漢訳すれば月灯三昧経。 対告者は Candraprabha (月光)だ。 と言われているのね。 一ついうておくとCandrapradIpa-sUtra は聞いたことないな。 ほんまにあるん? 私が知っているのはCandrapradIpa-samAdhI-sUtra だな 電波さんが良く間違えてた「五性客別」も恥ずかしいが (ふつー 五姓各別か五性各別) そんな単純ミスで すまないことって何だね 不思議な人だ
769 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 22:34:10 ID:XTgOyS9L
さて、思考弱者の暇人さんの勘違いを順次指摘してあげよう。
あんたの主張では竜樹が 説一切有部の言う自性という意味以外での svabhAva を否定していないわけだね?
残念でしたね。大間違い。自性の多義性というのはここに絡んだお話だったのですよ。
>>729 に示した内容を読みきれずに暇人はただ「過去の栄光」とか罵倒、非難中傷しか出来なかったんだね。
あれ、学部の卒論だよ?あの部分を読んで原始仏教を志していないと考える人はいないと思うな。そんな了見
な人からは離れるべきだよ。暇人の仏教に関する知識はすべて出鱈目だから信じてはならない。
770 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 22:34:22 ID:JQr7qM64
719は、電波のツレ?
>>755 で暇人は誤りを認めてるでしょ。それで終わりだよ。
そして誤りを認められるとこが、暇人が電波より優れてる証拠。
電波なんか誤りだらけでも、一つも認めない。間違い指摘されてもゴネゴネゴネ、ゴネだして、
今みたいに相手がつまんないケアレスすると、それが大問題のように騒ぎ立てて、相手の評価を
下げるためにあることないこと言うだけ。
それに何
>>729 は、バカまるだしじゃない。論にもなんにもなってない。
なんですか、私は梵蔵漢が読めるって叫んでるわけ? ほんと精神病を感じるよ。
771 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 22:37:19 ID:XTgOyS9L
>>768 こら、いい加減にしろみっともない。
知らないのならサンスクリットを引くな。みっともない。
「薄ら馬鹿目」と言ったのはあんたの罵倒返しだよ?そんなに気になる?
>電波さんが良く間違えてた「五性客別」も恥ずかしいが
>(ふつー 五姓各別か五性各別)
>そんな単純ミスで すまないことって何だね 不思議な人だ
そうだよ。単純ミスだよ。でもあんたのは致命的なミス。それが解らないのなら、
もう発言するな。みっともない。
772 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 22:39:41 ID:XTgOyS9L
>>770 馬鹿は引っ込んでろ。何か立論して見せたら?あれはほんの一部。
それを示したらお前がヒステリーを起こしているだけ。
言ってやろうか?暇人信者さんよ。
773 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 22:39:41 ID:JQr7qM64
みっともないのは、電波にしかみえんがな〜 ウソとしったかはもうやめとけよ
774 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 22:40:58 ID:XTgOyS9L
>>773 そういうのなら、ウソとしったかを指摘してミロや。
このキチガイ。暇人信者。おまい、例の法華経馬鹿か?
775 :
暇人 :2005/07/09(土) 22:43:27 ID:8UvsCGKI
>>769 ごめん 意味不明だ 寝なされ。キミはどうも疲れているようだ。
私の言説はキミの言う「竜樹を読むにあたっての注意すべき
自性の多義性とはなにか」との質問だ。
>>729 なんて読んでないよ(笑)
このスレッドになんの関係があるのか私には解らん。
776 :
暇人 :2005/07/09(土) 22:46:41 ID:8UvsCGKI
あらあら 罵倒合戦で逃亡パターンがはじまったね汗 さて妻に マッサージしてもらう時間だ。 キミも身体 休めろ。 無理は禁物だよ 身体を大事にしてくれ
777 :
素人 :2005/07/09(土) 22:46:45 ID:7nl8llkr
このスレお気に入りから外します さよなら ノシ あ、もしお手数でなければ 電波さんから、片山一良に対しての電波さんの評価をお聞きできれば幸いに存じます。
778 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 22:47:43 ID:XTgOyS9L
>>768 一つ言っておく
>一ついうておくとCandrapradIpa-sUtra は聞いたことないな。
>ほんまにあるん?
>私が知っているのはCandrapradIpa-samAdhI-sUtra だな
こんなシッタカ恥さらしで、お前には仏教を語る資格は無いことが昔から周知されてるんだよ。
知らないのならいうな。
Gampopa
[1079 - 1153] He was the first monk of the Karma-Kagyu lineage. It is said that Gampopa in his former lives
was a disciple of Buddha Kasyapa and Buddha Shakyamuni. In the days of Buddha Shakyamuni his name was
Candraprabha Kumara. When the Buddha asked who of his students will teach the Samadhiraja and
Candrapradipa-Sutra
in the future when times will get harder, Gampopa said that he will do that.
ここら辺からたどって勉強したら?
779 :
719 :2005/07/09(土) 22:48:41 ID:Dr5gqOO0
>768 暇人殿、>719でプラサンナパダーなどの引用で有名だといってるんですがね。 >一ついうておくとCandrapradIpa-sUtra は聞いたことないな。 >ほんまにあるん? >私が知っているのはCandrapradIpa-samAdhI-sUtra だな CandraporadIpa-samAdhi-sUtra はどこにある用例ですか?漢訳『月灯三昧経』はなしですよ。
780 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 22:51:11 ID:XTgOyS9L
>>776 >あらあら 罵倒合戦で逃亡パターンがはじまったね汗
あほか?お前が逃亡したいんじゃないのか?誰がそう読むのかな?
ちゃんと答えろよ。
781 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 22:56:26 ID:XTgOyS9L
>>777 片山氏の評価ですか?
精力的に翻訳されていますね。どういった点に関してですか?
ブッダ・ダーサは好きですよ。
782 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 22:59:31 ID:9YsQeBdD
>>768 713は私です。「サルヴァダルマsvabhAvaサマターヴィパンチタ」はsvabhAvaの意味の問題に参考になるかと思って、
出したのです。
有らぬ方向に発展しているようですか?、私はほとんど中にはいれません。
勝手かもしれませんが、ここで一つ質問したいことがあります。
アバーバか、アヴァーバもしくは、アヴァーヴァという「無」を意味する言葉がありませんか?
私はキリスト教にも関心がりまして、キリスト教に、「アバか若しくはアヴァ」と言う言葉があって、
その意味は「父よ」という意味か若しくは「父よ」の接頭語(?)であるようです。其れから、「エホバ若しくはエホヴァ」
もあります。キリスト教の神も「造った方であって造られた(受動)もの」ではないから、ニルバーナ「空:作られざるもの」
と同じものではないかと考えたいところなんです。
「アヴァーヴァ」は「無」であって、「空」という意味はないのでしょうか?
もしあれば、一そうあの神は仏と同一であるという根拠になります。(確か般若経典のうちのあるものの中に、
「無から生まれた仏」として、「無生起佛」というような名前の仏のことを書いた部分があったのです。)
783 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 23:06:25 ID:JQr7qM64
いろいろあってどこから言えばいいのか迷うが、まずは最近の > (法華経の校訂に)チベット、ウイグル、モンゴル訳の隅々まで参照出来ているのかどうか疑問。 と言っていたが、校訂作業にチベット重訳のモンゴル訳は必要ないことを 論証され、以下のようにやんわりと訂正。 > 私の方はウイグル語訳の方を主に言っていたのだが、敦煌文書研究の流れで、 > モンゴルは無視できないという語を補って読むべきだろうな。 これならなんとか言い逃れができると考えたんだろうが、こうゆうのが虚偽論以外のなんなの。 敦煌文書研究の流れでモンゴルってどう使うんだろう? 電波支持の自称研究者は、敦煌文書にモンゴル訳法華経があるという凄いことまで言ってたな。
784 :
暇人 :2005/07/09(土) 23:07:56 ID:8UvsCGKI
>>719 >CandraporadIpa-samAdhi-sUtra はどこにある用例ですか?
>漢訳『月灯三昧経』はなしですよ。
春秋社「仏教解題辞典」p96 「月灯三昧経」の項にあります
ご確認されてください
>>780 キミは具体的に論じないじゃん 罵倒だけ
ほれ 過去ログのどこで「現観ない」と私がいうてるねん
出してみそ。
785 :
719 :2005/07/09(土) 23:11:09 ID:Dr5gqOO0
>784 確認しました。この梵文タイトルは何を根拠にしているんでしょうね。 私が知っている範囲では、プラサンナパダーでもシクシャーサムッチャヤでも CandrapradIpasUtra であって、samAdhi という語は ないのですが。私の記憶違い?
786 :
素人 :2005/07/09(土) 23:11:32 ID:7nl8llkr
卒業以来殆ど遠ざかったままだけど
なんか面白い話題が話されてるかなぁ・・
と暫く覗いていたけど、2ch上では限界あるね・・・
>>781 どういった点かと問われると答えに窮するがw
研究素材の選択の仕方
対象文献へのアプローチの仕方
自説の主張の仕方
自分の研究に関する部分での他者への批判・反論
って感じかな・・
ま、挫折した人間の懐古レスなんでこれ以上のレスはいいですよ。
暫くROMはするかもしれませnが
やっぱり、自分で読むのが一番かなw と思ったので・・
では (´ー`)ノシ
787 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 23:15:03 ID:9YsQeBdD
真理はひとつというのは認めざるを得ないでしょう。だとすると、キリストの言う真理、釈迦の言う真理、 パルメニデスの言う真理、これらは同一のものでなければなりません。
788 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 23:29:02 ID:XTgOyS9L
>>784 なにいってるの?具体的に論じてるジャン。
>>747 見てみ。そんなことだからあんたの好きな専門書は役に立ってないというんだよ。
私の卒論が読んで解らないのなら、あんたの読んだ専門書はすべて無駄だったということですよ。
それと、あんた文章読めないのか?現觀の件、出しておいたよ。へんな奴だな。
もう完全にウロ来てるよ。しょうもな。
789 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 23:30:07 ID:XTgOyS9L
>>783 あほ登場だな。あんた、東洋哲学研究所のシリーズが校訂作業だといってなかったか?
あれ、ただの写真とローマナイズだけだったじゃん。
790 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 23:32:26 ID:XTgOyS9L
>>784 仏典解題事典でとまってるようですね。(笑)
漢訳の題名や訳者で原語が見出せないものについては、望月大先生が仮の作業としてサンスクリットを
当てたというのは有名な話で、解題事典もそれを引きずっています。その仮の作業が後には段々いい迷惑
になってきてるんですけどね。
791 :
暇人 :2005/07/09(土) 23:41:11 ID:8UvsCGKI
>>767 ダットおちでキミの紹介ページは読めないが、
>「概念を超えた縁起の現観」とは、倶舎論かせいぜい部派でしか説か
>ない。【原始仏教では現観は説かない。】
この【原始仏教では現観は説かない。】の現観はただの現観ではなく
論旨よりも明らかのように、
545(02/10/08 22:31)でキミが言っていた
<ヴィパサナー瞑想は釈尊が示す要ではありません。
まだまだ前段階的なものです。
内容的には「概念を超えた縁起の現観」です>
のことだ。
@ヴィパサナー瞑想を前段階とする
A「概念を超えた縁起の現観」
という「現観」を原始仏教では説かないと書いておるのだ。
これをキミは618で
「止観は四禅すべてにわたります。現観はその次の段階です」
とも言っており
B四禅の次の段階と位置づけた現観 だね
792 :
暇人 :2005/07/09(土) 23:41:29 ID:8UvsCGKI
こんな高次の現観は原始仏教では説かない。 せいぜい倶舎論からだとろうと論じ、キミ引用の690の次の691で 「倶舎論的立場あるいは唯識立場(論じてないが密教や修験道 も予想されるのだが、それについて私は論じられない)を原始仏教にま で敷衍する立場と予想される。」と書いたね。 そしたらキミは693で 慌てて 「修験道と密教の伝承にかかわるもの」と応えられたのね 皆が原始仏教のスレッドで原始仏教の話をしているのに、 一人 修験道の話をされていたのだねぇ。 ゆっくり身体を休めて 落ち着いてから 過去ログ きちっり読み為され。
793 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/09(土) 23:51:11 ID:XTgOyS9L
>>791 完全に逃げに入ってるね。「原始仏教では現觀は説かない」といってるジャン。
四禅とは原始仏教にとかれた成道するまでの瞑想方法。なんの限定も加えていないジャン。
うそつくな、ウソを。
それを超えたものであり、釈尊が縁起の現觀(abhisamaya)であることはあることは明白。
それではそれ以外のabhisamayaがあるというんだから説明して暮れや。唯の現觀って
なにか説明して暮れや。。。。。。。。
ぼちぼち無知を自覚したらどうなんだ?svabhAva説明してもワカランというし。。。。。。
794 :
暇人 :2005/07/09(土) 23:57:08 ID:8UvsCGKI
<ヴィパサナー瞑想は釈尊が示す要ではありません。 まだまだ前段階的なものです。 内容的には「概念を超えた縁起の現観」です> この発言を 当時 みんなは原始仏教の釈尊の示す最高の瞑想を 電波さんは「概念を超えた縁起の現観」と論じていると読んだわけだ(笑) 原始仏教スレで 突然 修験道の釈尊を語るから キミはトンデモ系なんだって(笑) 過去の痴態を自分から暴露するのだから 物好きというか 本当にわかつてないのだろうね キミはホント 底抜けだよ。 無駄に恥を重ねず すこし落ち着かれよ。 興奮すると 血圧にも 脳にもよくない。
795 :
名無しさん@3周年 :2005/07/09(土) 23:57:13 ID:JQr7qM64
>>789 ほら、誤り指摘されると話題変える。
だが、そっちでも同じこと。さて貴方の対論者が何時、「東洋哲学研究所のシリーズが校訂作業だといっ」たか? 相手の主張が正確に把握できないんだからしょうがない。
勝手に早のみこみして、自分の狭い誤った知識を、広く正確な知識と思ってるから手におえない。
そして
>>722 >>725 がまさにしったかの証拠!
>>646 で紹介された校訂作業の意味がまったく分かってない証拠なんだな。
辻先生は法華経の諸系統の写本を参照してキメラのような別のテキストを作ってもしょうがない
と言ってるわけ。それは例えば正法華、妙法華、添品法華から
新たに別の漢訳本を作るようなものだということですよ。
その前に各写本の正確なローマ字本を作って、系統を確認してから、
諸復元本を作らなければならないわけ。
そのプロセスを省いて、諸写本と諸訳からキメラを作れって言ってるのが貴方!
たぶん、モンゴル訳が18世紀のチベット訳からの重訳ってことも知らずに、
ただもう、数だけ見ればいいみたいな全然、文献学じゃないオタクの方法ね。
796 :
暇人 :2005/07/10(日) 00:07:25 ID:wHjQZq2q
>>793 逃げとらん(笑)
キミが読解力ゼロなので 三年前もp-たんに振ったのだって。
「原始仏教では「概念を超えた縁起の現觀」という瞑想は説かない」
と書いてるのだ
そこがキミは本当に読めないのだね。
>それではそれ以外のabhisamaya
ほんましらんのか?
水野さんの「パーリ語辞典」p41
@現観 領解 理論的理解
A止滅 止息
797 :
暇人 :2005/07/10(日) 00:11:37 ID:7fWWWd0O
545 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss :02/10/08 22:31
>>544 ヴィパサナー瞑想は釈尊が示す要ではありません。まだまだ前段階的なものです。
内容的には「概念を超えた縁起の現観」です。ヴィパサナーでよく似たことをいう場合
もありますが、全く異なるものです。
ところで、テーラワーダ仏教協会の会員さんですか?
618 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss :02/10/11 13:56
止観は四禅すべてにわたります。現観はその次の段階です。書物には色々説明があり
ますが、実践と照らし合わせて合致する点を見出せないのです。当たり前かもしれま
せんね。これは方法の手ほどきになりますから手取り足取りという事です。
798 :
暇人 :2005/07/10(日) 00:13:31 ID:7fWWWd0O
693 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss :02/10/13 01:20
>>暇人
逃走してるのなら出て来るな。
>>688-692 憶測に基づく推論とついでに失笑論述、ご苦労様。
これからは、その領域をでれるように頑張りましょうね。
今回のヴィパッサナーに係わるものは学問的なものじゃなく修習に関するもの。ただ問われたから答
えたまで。
これは修習なので学問的に話すつもりはまったく無い。また暇人が考えるような世親に基づくもので
はなく修験道と密教の伝承にかかわるもの。それは過去ログ参照してくれ。
(以下略)
799 :
暇人 :2005/07/10(日) 00:20:11 ID:7fWWWd0O
>>793 キミは修験道の釈尊ではなく 原始仏教の釈尊が
「四禅を超えた<縁起の現観>を説いている。それ以外の現観など
ない」と 新たに主張するのかね。
落ち着かれてからでいいので
その経典箇所を出してくれ
800 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/10(日) 00:21:07 ID:VrOFm7tl
801 :
暇人 :2005/07/10(日) 00:30:25 ID:7fWWWd0O
>>800 ありがと
現観ネタに関心ある人は
537 540 544 545 546 548 550 551
578 581 602 603 604 605 617 618 619
620 621 622 625 633 646 667 670
688-691 698暇人 693 694電波
で 大体の流れがわかります
802 :
名無しさん@3周年 :2005/07/10(日) 00:34:37 ID:XNXizCz8
>>796 > 「原始仏教では「概念を超えた縁起の現觀」という瞑想は説かない」
> と書いてるのだ
>>767 > 「概念を超えた縁起の現観」とは、倶舎論かせいぜい部派でしか説か
> ない。【原始仏教では現観は説かない。】大衆部は「一刹那のうちに四諦
この書き方だと 原始仏教では現観そのものを説かないと書いているように
取れる。
こういう場合は 「原始仏教では概念を超えた縁起の現観なるものは説かない」
と書くべきだろうな。
803 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/10(日) 00:48:50 ID:cDrWExRB
>>794 暇人よ。なにが修験道だ?ついでの話を本論と読んでしまうところが痛すぎ。
というかアホ丸出しなんだけど。それ以上話さないほうがいいって。
>水野さんの「パーリ語辞典」p41
>@現観 領解 理論的理解
>A止滅 止息
ほんとうに頭大丈夫か?おなじ過ちを犯そうとしてるんだぞ?現觀と訳されるabhisamayaだぞ。
縁起現觀だぞ?翻訳というものを知らないのか?へんなやつだ。
第一、「原始仏教には現觀がない」と言っていないと暇人は言った。
それを指摘したらずるずる言い訳が始まった。それが事実だね。
>キミは修験道の釈尊ではなく 原始仏教の釈尊が
>「四禅を超えた<縁起の現観>を説いている。それ以外の現観など
>ない」と 新たに主張するのかね。
それ以外の現觀などないって誰が言った?本当に信じられんほど馬鹿だな。
もうそれ以上、恥を晒すなよ。
804 :
暇人 :2005/07/10(日) 00:58:34 ID:7fWWWd0O
805 :
暇人 :2005/07/10(日) 01:03:23 ID:7fWWWd0O
>>803 私の過去ログ698は、
1.Abhisamayaは文脈上、いろいろ訳される。
2.漢訳阿含に「現観」という語はあって、古層と確定しているのか?
3.で、確定した現観は、電波男さんが止観を超えた高い瞑想法として修習され
ているのだが、止観を超えた高い瞑想法という文脈で現観もしくはAbhisamayaは、
阿含にとかれているのか?
704 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss 投稿日: 02/10/13 03:41
>>702 逃げてないで、ちゃんと答えたら?一つずついくかい?まず
(1) 1.Abhisamayaは文脈上、いろいろ訳される。
どういろいろ訳されるんだい?まさか訳語の違いなんて言い出すのじゃないだろうな。
今度は「現觀と訳されるabhisamayaだぞ」に摩り替わっているぞ(笑)
806 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/07/10(日) 01:13:38 ID:cDrWExRB
>>805 ない脳みそを酷使するな。文章がおかしいぞ。お前の信者(?)はもっとおかしいが。(笑)
四禅を修して、ものことのあり方をつぶさに観察していった結果の縁起観だ。
これがないと、仏教は成立しないぞ。
説かれているぞ。もうあんまりアホ相手にしたくないんだけど?潰されているのに
解らないのか?
とりあえず、「阿含経には現觀は説かれていない」とあんたは言ったんだ。
それを否定は出来ない。なんど言わすのだ?この間抜け。
807 :
暇人 :2005/07/10(日) 01:14:01 ID:7fWWWd0O
>>803 >なにが修験道だ?
キミの発言だよ(笑)
高度な瞑想としての現観って どーせ倶舎論あたりで原始仏教ちゃう
だろうと言ったら
「馬鹿 世親じゃないわーい 修験道と密教だぞ まいったか」と
言っておったじゃん(笑) 笑わせるね。
「原始仏教には現觀がない」と書いてないね。一部分を切り抜くな。
「「概念を超えた縁起の現観」とは、倶舎論かせいぜい部派でしか説か
ない。原始仏教では現観は説かない。」と書いておる。
「概念を超えた縁起の現観」を受けての「現観」は、語法上、
「概念を超えた縁起の」を省略しているのは一目瞭然だろ。
日本語 勉強しろって。
808 :
暇人 :2005/07/10(日) 01:19:06 ID:7fWWWd0O
>>806 キミは、自性の時もだ こちらが二例と予め書いてるのを
同じ例が繰り返しあるのをもって いっぱいあるじゃん まいったか
と騒ぎ、
阿含の「大乗」も 中味に触れず 「あるあるあるある」と大騒ぎし
「現観」も論旨を無視して 一部を切り抜いてるだけで
なんの反論もできてないじゃん。
「四禅の次の段階の高度な瞑想として現観」を説いてる仏典の箇所を
具体的に示せ と言っている
ど素人の私は、問われたらきちんと 自分の論拠を出しているが
キミは出せんで 逃げてばかりだぞ。
809 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :
2005/07/10(日) 01:25:59 ID:VrOFm7tl 何だかな〜(苦笑)。 698 名前: 暇人@脱走中(笑) 投稿日: 02/10/13 02:34 国語力のない電波男さんには話しかけてないのだが(笑) 「修験道と密教の伝承にかかわるもの」との言葉を聴きたかったのだ(笑) 狙い通りだね、論じてないが口伝はこれだと予想済みだ(爆)。 でだ、「修験道と密教の伝承」から、君は原始仏教を語っているのであって、 原始仏教の釈尊に直参して瞑想法を語っていない。語ったら笑われるからだ(爆)。 特定立場とわかれば、部派、唯識、密教、修験道などたいした差ではない。 私の論旨を読めてない(笑)。 Abhisamayaは雑阿含に説かれていて、現観は原始仏教というお笑い説を 説かれるが、P-たんは支持するかね?(笑) 1.Abhisamayaは文脈上、いろいろ訳される。 2.漢訳阿含に「現観」という語はあって、古層と確定しているのか? 3.で、確定した現観は、電波男さんが止観を超えた高い瞑想法として修習され ているのだが、止観を超えた高い瞑想法という文脈で現観もしくはAbhisamayaは、 阿含にとかれているのか? <いま、日本テーラワーダ仏教協会を攻撃しているのは被害者を 出してるからなんだよ> そか、それについてはまったく知らない。なんだか公ぽっい感じがするのだが、 南伝派のきちんとした比丘が指導してないのかい?