【】日本仏教改革しよう!【】

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527名無しさん@3周年
本来仏教では「無常」や「無我」など説いていない。
三法印にある「無」とはノットイコールのことであり、無い事を意味してはいない。
文脈の前後が相補的であるということを意味するものである。
これが理解できなければ単純明快な教えが全く意味不明になってしまうのである。
我思う故に我ありの「我」がなければ悟る主体が無いことになってしまうではないか。

諸行無常とは、常なるもの、永久不変なものと流転するものがあるということである。
数学でいえば公理と背理にあたる。背理こそがダイナミズム、生命、変化、時間を生む。
異なるものを等しくするには変化と時間が必要だからである。背理の中に否定あり。

諸法無我とは、裏を返せば法と法の境界こそが「我」だということである。空の境界が「我」である。
あれとこれの間にあってあれはこれではないというのが「我」の機能である。
すなわち「我」とは否定である。また前出の法印にある「行」にも通ずる。
あの否定とこの否定に差異などなく、よって梵我一如、唯我独尊が導かれる。

涅槃寂静は特に解説は不要であろう。空である。

結局のところ悟りとは自己認識である。「否」であるところの「我」による自己認識である。
否定こそが般若である。仏法を解く鍵である。否定を否定してみよ。


ただ無の境地を有難がるなど単なる飛躍でしかない。
悟れない坊主はただのハゲである。涅槃にいってよし。