●●●ナーガールジュナ●●●

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330名無しさん@3周年:2005/08/09(火) 13:38:05 ID:RVdmx1Oa
わたしは、わたしが、わたしの、わたしに、、ここにはそれだけが語られている。
331名無しさん@3周年:2005/08/09(火) 19:43:15 ID:++nHPME+
竜樹は「空」と「無」をどのように使い分けていますか?
332名無しさん@3周年:2005/08/12(金) 03:31:15 ID:q6JnPcY4
>>331
↓ここが参考になります。
仏教について
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/
333名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 13:27:31 ID:V5V54wiw
>>332
ありがとうございます、でもよく判らない。
334名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 00:14:08 ID:YOH7oRF+
こちらに常駐の方に伺いたいんですが、
十住毘婆沙論の易行品というのは、ナーガールジュナの思想としてどのように位置づけられるんでしょうか?
浄土仏教の方々はここだけを選りすぐって語る風潮があるようですけど、
それは竜樹の空観と相容れるものなんでしょうか?
335名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 19:19:40 ID:fHHZ7Rqw
浄土というのは、汚れの無い状態を意味し、汚れの無い状態とは、執着の無い状態を意味する。
一切は空であるから、執着はその空としての真理を汚しているのである。執着とは、実体が無いのに
実体があると妄想することである。これを汚れとか「垢」とか言う。
 浄土とは「空の真理の世界」=「ニルバーナ」である。これを念ずることによって、
執着または垢を払い落としていくというのが易行道である。
 執着というものは、苦しみしかもたらさないものである。苦しみなるもの(心)を全て制止すること
、なぜなら、一切は空であるから、苦しみなるものは無いと断じなければならないのである。
 竜樹は、一切が空であることを論理的に説明したのである。これによって、人は一そう信仰し易くなった。
彼の信心は理解に基づくものとなったからである。
 一応こんな風にたたき台としての説明をします。
336机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/17(水) 21:30:30 ID:zaEHZmZH
>>318
>ここでは正位といっても、実はあくまでも偏位に対する正位であることを間逃れていないんですよ。

正位というのは、貴殿が
>偏位が相対で、正位が絶対。
というふうに書かれているように、絶対であって相対はないですね。
>偏位に対する正位
というのは、可笑しな話になりますね。

絶対というのは、いわゆる無のことでして。
この無は「相対がない」という意味において無と表記される。
だから「絶対無」という表記でもいい。

>この違いをはっきりさせるため、神秀と慧能の話が伝わっているのでしょう。

神秀は、心と明鏡台を対立させてるわけですね。→貴殿がいう偏位なわけです。
慧能は、この対立がないわけです。
対立がなければ相対しようがない。
>偏位に対する正位であることを
偏位と正位が対立しようがない。→八図は、このことですね。
337名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 00:10:23 ID:JbKJ4IpW
>>336

>>ここでは正位といっても、実はあくまでも偏位に対する正位であることを間逃れていないんですよ。

>正位というのは、貴殿が
>>偏位が相対で、正位が絶対。
>というふうに書かれているように、絶対であって相対はないですね。
>>偏位に対する正位
>というのは、可笑しな話になりますね。

論理的にどうかというのと、実際のところがどうかというのは、
論理を支える実態がどうかに依るのでそんなに単純ではないですね。

たとえば子供の心の発達などは、ピアジュが研究していましたが
一定の段階や共通性があります。
同じように、いきなり八図に悟入ということは私の知る限りないですね。

>絶対というのは、いわゆる無のことでして。
>この無は「相対がない」という意味において無と表記される。
>だから「絶対無」という表記でもいい。

概念の側から見たらそのとおりです。
「有」「無」というのは概念の世界にしかない。

もっと分りやすく書くと、
人間の理性的操作により、心の中に作り出された世界観、
その概念としての世界観の中にしか「有」「無」という相対は存在しません。
なので、最初に「空」を体験するとき、概念の世界を脱するとき、
それは必ず「絶対無」として経験されるのです。

しかし絶対無であっては同時に通常の日常生活を送れるわけが無い。
ここが「絶対無」(正位)と「日常生活」(偏位)が対立してしまうところ。
338名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 00:11:23 ID:JbKJ4IpW
>>この違いをはっきりさせるため、神秀と慧能の話が伝わっているのでしょう。
>神秀は、心と明鏡台を対立させてるわけですね。→貴殿がいう偏位なわけです。

「心は明鏡台のごとし」と言っているので喩えているだけで対立はしていませんね。

>慧能は、この対立がないわけです。
>対立がなければ相対しようがない。
>>偏位に対する正位であることを
>偏位と正位が対立しようがない。→八図は、このことですね。

慧能は日常生活にあっても八図、神秀は坐っている間だけ八図でしょうね。
339机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/18(木) 07:34:41 ID:CRKbuOqz
>>338
>「心は明鏡台のごとし」と言っているので喩えているだけで対立はしていませんね。

私は、この喩えに作為を感じるのです。
心は心でありますし、明鏡台は明鏡台である。
作為はなにも必要じゃない。
花は紅でありますし、柳は緑なだけです。

まさに住(とど)まるところなくして、その心を生ずべし。
心は喩えようがないわけです。

ここが北禅と大きく違うとこかとおもいます。

340机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/18(木) 07:45:15 ID:CRKbuOqz
>>337
>人間の理性的操作により、心の中に作り出された世界観、

この世界観を放棄したのが八図かとおもいます。
論理も、実際も、実態も、放棄していいわけです。

>しかし絶対無であっては同時に通常の日常生活を送れるわけが無い。

空は世界の相ですから、なにも日常にあてはめなくても、日常そのものが空になる。

>ここが「絶対無」(正位)と「日常生活」(偏位)が対立してしまうところ。

色即是空ですから、正位と偏位は対立しないかとおもいます。

341名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 08:41:23 ID:JbKJ4IpW

>>339
>>「心は明鏡台のごとし」と言っているので喩えているだけで対立はしていませんね。
>私は、この喩えに作為を感じるのです。
>心は心でありますし、明鏡台は明鏡台である。
>作為はなにも必要じゃない。

たしかに心は心ですし、明鏡台は明鏡台ですね。
しかし、同じように喩えは喩えです。
作為を感じるのは読む人の主観でしょう。

>花は紅でありますし、柳は緑なだけです。
>まさに住(とど)まるところなくして、その心を生ずべし。
>心は喩えようがないわけです。
>ここが北禅と大きく違うとこかとおもいます。

そうですね。北禅と南禅は大きく違いますね。
北禅的理解でよしとしてはいけないでしょう。
342名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 08:41:53 ID:JbKJ4IpW

>>340
>>人間の理性的操作により、心の中に作り出された世界観、
>この世界観を放棄したのが八図かとおもいます。
>論理も、実際も、実態も、放棄していいわけです。

もちろんすべて放棄するわけです。
空という概念も一緒に。

>>しかし絶対無であっては同時に通常の日常生活を送れるわけが無い。
>空は世界の相ですから、なにも日常にあてはめなくても、日常そのものが空になる。

それは動中の静ができて初めて言えることでしょう。

実は仏教的文脈における「絶対無」と
キリスト教的一神教における「唯一神」は表裏一体で、
同じ物の二つの側面です。
どちらの側を見るかの問題でしかありません。

八図においてはこの絶対無であるところの唯一神が空じるんですね。

>>ここが「絶対無」(正位)と「日常生活」(偏位)が対立してしまうところ。
>色即是空ですから、正位と偏位は対立しないかとおもいます。

八図においては対立しません。 同時に存在します。
343机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/18(木) 21:42:11 ID:CRKbuOqz
>>342
>実は仏教的文脈における「絶対無」と
>キリスト教的一神教における「唯一神」は表裏一体で、
>同じ物の二つの側面です。
>どちらの側を見るかの問題でしかありません。

そうですか?
私には意味がわかりません。

絶対無なら、表裏一体も、神仏も、有無も、全て意が消失するかとおもいますが。
表裏は言語の世界にしかありません。
世界は言語に依りてあるわけではないですし。
言語が世界を構築しているわけではない。

世界は、ただ世界でしかない。
ましてや、言語は言語でしかない。

花は紅であり、柳は緑でしかない。
344名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 22:51:47 ID:JbKJ4IpW
>>343
>絶対無なら、表裏一体も、神仏も、有無も、全て意が消失するかとおもいますが。
>表裏は言語の世界にしかありません。
>世界は言語に依りてあるわけではないですし。
>言語が世界を構築しているわけではない。

これは「意識」の成り立ちを理解していなければわからないでしょうね。
「すべて意が消失した」ということは、
その裏に「すべての意としての一なるもの」があることを意味します。

>世界は、ただ世界でしかない。

世界が世界として意に現れるのは言語としてです。
はじめに言葉ありき、ですから。

>ましてや、言語は言語でしかない。
>花は紅であり、柳は緑でしかない。

世界が意に現れる前の世界は通常の意味での認知は不能です。
ちなみに人間における言語活動は完全に本能的行為ですね。
345名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 22:56:27 ID:JbKJ4IpW
「実際のところ」とは別の観念論ではいけません。
346机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/19(金) 06:43:17 ID:c0Hb2GK/
>>344
>世界が世界として意に現れるのは言語としてです。
>はじめに言葉ありき、ですから。

人は、事象を認識するために、既存の言語を当てはめてるに過ぎないわけです。
例えばパンダを初めて発見した場合、熊と認識するか?猫と認識するか?
この時点で言語(思考)によって分別されているにすぎない。
よって言葉(言語)とは、認識するうえにおいての共通概念にすぎない。

>その裏に「すべての意としての一なるもの」があることを意味します。

不一不二かとおもいますが。

>ちなみに人間における言語活動は完全に本能的行為ですね。

言語というのは、本能における属性かとおもいます。

347名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 08:10:18 ID:2qaj3T5N
>>346
>>世界が世界として意に現れるのは言語としてです。
>>はじめに言葉ありき、ですから。

>人は、事象を認識するために、既存の言語を当てはめてるに過ぎないわけです。
>例えばパンダを初めて発見した場合、熊と認識するか?猫と認識するか?
>この時点で言語(思考)によって分別されているにすぎない。
>よって言葉(言語)とは、認識するうえにおいての共通概念にすぎない。

そこですね。
そこをもっと深く入っていきませんと実際のところが見えてこないと思います。

たとえば「りんごがある」というのは、
りんごとして識別される何かにたいして、記号として「りんご」と名づけている。
これが普通の理解ですね。
もちろん、これはこれで、それなりに正しいわけです。

しかし、より深く観るなら、
「存在がりんごとして(縁あって)現成している」
ということが分かるようになり、
本来なら、継ぎ目無しの存在が、個々の事象として文節している、
ということも分かってくるでしょう。

この「文節」こそが人間においてコトバとして知られるものなのです。
348名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 08:11:20 ID:2qaj3T5N
>>その裏に「すべての意としての一なるもの」があることを意味します。
>不一不二かとおもいますが。

そこで言いたかったのは、
要するに「一切」が心を離れて存在しない、ということです。
ですから「絶対無」として心を経験するなら、
それは実のところ「唯心」として経験するわけです。

これは依然として、事象を対象化して観ようとする識の働きが
止んでいないことを意味しています。
止んでいないからこそ、それを一なるものとして、
あるいは逆に絶対無として経験してしまうわけですね。
349机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/19(金) 08:50:44 ID:c0Hb2GK/
リンゴを識別する。というのは、
人がそう識別してきた。そう学習してきた。ということだけです。

また言語というのは、人が生きるために、自然発生的に発生し発展してきたにすぎない。
つまり、人が生きるため(生活)には非常に便利ではあるが、
反面、それは迷いの根源でもある。
二面性が内在しており、普段はそれを全く意識もしない。
それは、認識という一次的なことが優先され、この識において埋没してしまうのです。

このことを唯識派は、ここに阿頼耶識とか、なんたらかんたら論をぶちあげますが、
そんなに難しく考えることはない。
ようするに現観のことです。
350名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 15:54:57 ID:icblRgYU
【分節】を【文節】と表記してノーテンキなひと


こねくりまわすにも、正確に致しましょう
351名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 18:58:04 ID:2qaj3T5N
>>349
>リンゴを識別する。というのは、
>人がそう識別してきた。そう学習してきた。ということだけです。

人が学習する前から自然は存在しますね。

>また言語というのは、人が生きるために、
>自然発生的に発生し発展してきたにすぎない。

つまり言葉も自然現象ですね。

>つまり、人が生きるため(生活)には非常に便利ではあるが、
>反面、それは迷いの根源でもある。
>二面性が内在しており、普段はそれを全く意識もしない。

その二面性はどのように生じているのか?
そこが問題なんです。
そこが分からないから「絶対無」ということになる。
間違いです。

>このことを唯識派は、ここに阿頼耶識とか、なんたらかんたら論をぶちあげますが、
>そんなに難しく考えることはない。
>ようするに現観のことです。

絶対無では現観にならないから言っている。

>【分節】を【文節】と表記してノーテンキなひと

訂正ありがとう。
352机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/19(金) 19:29:21 ID:c0Hb2GK/
>>351
>人が学習する前から自然は存在しますね。

人が学習する前は、世界はないですから、よって自然も識別もありません。
無我であり、また世界が我でもある。
我が生起しているにすぎない。

>つまり言葉も自然現象ですね。

人は言葉に依り分別(認識)していきます。
また、分別は言葉に依る。この関係は切り離せない。

>その二面性はどのように生じているのか?

言葉における属性と、その属性に全く依らない、この二面性です。
絶対無とは、この後者にあたる。いわゆる空です。
ちなみに前者は色になる。
色即是空。

>絶対無では現観にならないから言っている。

そうでしたか?
ならば、いろいろとご教示くだされまし。

現観とは、読んで字の如しなり。
現を観る。
まぁ、かように御理解なされまし。
353名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 20:12:55 ID:2qaj3T5N
>>352
>>人が学習する前から自然は存在しますね。
>人が学習する前は、世界はないですから、よって自然も識別もありません。
>無我であり、また世界が我でもある。
>我が生起しているにすぎない。

そうすると学習により世界は発生するのでしょうか?
初耳ですが、学習は大事なことのようですね。

>>つまり言葉も自然現象ですね。
>人は言葉に依り分別(認識)していきます。
>また、分別は言葉に依る。この関係は切り離せない。

分別(分節)が言葉であるというのは正しいとして
認識はまた別の問題です。

>>その二面性はどのように生じているのか?
>言葉における属性と、その属性に全く依らない、この二面性です。
>絶対無とは、この後者にあたる。いわゆる空です。
>ちなみに前者は色になる。
>色即是空。

あなたの論法だと、その二面性がいつまでたっても
「即」にならず分離したままですね。
どこまでいっても色は色、空は空で即(すなわち同じ)にならない。
なんども言うように、
座っている間は空、日常生活では色を脱することができない。
354名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 20:13:36 ID:2qaj3T5N
>>絶対無では現観にならないから言っている。
>そうでしたか?
>ならば、いろいろとご教示くだされまし。

唯識派の人たちは瑜伽行唯識派とも言われますが、
瑜伽行とはヨーガ行の音訳で、すなわちヨーガの行者でもありました。
坐禅を実践してきた人たちですね。
彼らは難しい理屈を言っていたのではなく実際のところを
現象として説明していただけなんですよ。
>現観とは、読んで字の如しなり。
>現を観る。
>まぁ、かように御理解なされまし。

現観とは、要するにあるがままに観るということです。
しかし言葉でそういうのは簡単でだれでもできます。
355机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/19(金) 20:28:41 ID:c0Hb2GK/
>>353
>そうすると学習により世界は発生するのでしょうか?

我がいつ頃に生起するか?
母や他人を識別しないと、我という認識もない。
その頃が世界(我)の始まり(ただし連続ではない)なんでしょうね。

>「即」にならず分離したままですね。

相が違う。
例えば、ある事象を説明するる。→これは誰でもかんたん。
もし、その説明しようとする認識主体が、事象そのものでしたら、
ここで、いわゆる説明そのものが無効になる。

いわゆる、同じ事象であっても、相が違えば説明は困難。

同じ事象だから→則。
相が違うから→二面性。

この違いです。
まぁ、もう寝るから、後でゆっくり説明する。
356机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 06:27:18 ID:H50QmY5H
訂正>>355
×  同じ事象だから→則。
○  同じ事象だから→即。

説明を補足しますと、12支縁起が人生そのものであり。
これが世界(色)そのものになるわけです。
縁起の最後は「老死」で終了。
よって世界(色)も、これにて終了です。
縁起なる理が空でありますから、色即是空となる。
357机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 06:38:42 ID:H50QmY5H
>>354
>現観とは、要するにあるがままに観るということです。

例えば、日常というのはある方向性をもちます。
心は目的に向かいます。
この目的に埋没してしまう「現」。
刹那のことです。

日常に埋没してしまう「非日常」というてもいいかとおもう。
(これは、おいおい語りますが)
無明に覆われていますと、この日常という霧は晴れない。
晴れた瞬時が現観。
358暇人:2005/08/20(土) 07:27:22 ID:1TWt+pHR
>実は仏教的文脈における「絶対無」と
ギャグにつきあっておこう。

http://www.biz.ryukoku.ac.jp/%7Etakada/menu/ron-15.htm
<言説は、例えば次の如くである。「如来説世界非世界。是名世界」。
仏教学的文献解釈を考慮せず、それを仮に形式化し、且つ一つの可能な理解
に変えれば、「如来説A非A。是名A」とい、三とから、∧`Aは非AとしてA∨
と言うことも出来よう。世界はその場合、非世界として、非世界ということ
に於て、本当に世界する世界である、ということになる。>これの形式が
<無とは絶対矛盾的自己同一と云ふことである。略
かゝる立場からしては、すべて有るものは有であると共に無である。
絶対無とは、すべてに対し超越的なると共に、すべてが之によって成立する
ものでなければならない。>

つまり「絶対無」は、仏教学的文献解釈を考慮しない哲学解釈によって
近代に生まれたとも言える
359机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 07:35:25 ID:H50QmY5H
>つまり「絶対無」は、仏教学的文献解釈を考慮しない哲学解釈によって
>近代に生まれたとも言える

まあ、そうですね。

〇無、とか、☆無、とかの表記でもいい。
意味が通じればいい。
360名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 07:59:54 ID:fOv3SI0o
>>355
>我がいつ頃に生起するか?
>母や他人を識別しないと、我という認識もない。
>その頃が世界(我)の始まり(ただし連続ではない)なんでしょうね。

それは「個人の」観念としての世界観のことですね。
そのようなことでは唯識は理解できません。

>>356
>説明を補足しますと、12支縁起が人生そのものであり。
>これが世界(色)そのものになるわけです。
>縁起の最後は「老死」で終了。
>よって世界(色)も、これにて終了です。

それは時間によって色が空になって終わるといっているだけで
色がそのまま空ということではないですね。
361名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 08:00:27 ID:fOv3SI0o
>日常に埋没してしまう「非日常」というてもいいかとおもう。
>(これは、おいおい語りますが)
>無明に覆われていますと、この日常という霧は晴れない。
>晴れた瞬時が現観。

なので「時々これを払拭せよ」という神秀の北禅を脱していないわけです。

誤解のないように言っておくと、
私は、それが悪い、と言って非難するつもりはありません。
ひとつの過程として、それはどうしようもない一面があるので、
それが八図でない、と知っていればそれだけでも十分です。

しかし一部の勢力が、北禅とは限らないですが、
一歩間違えれば立ち枯れ禅ともいうべきこの魔禅を
正当な只管打坐だ、と主張しているのです。
本来の只管打坐はそのようなもので終わりません。

ちょうどイモムシがあるがままでいたら、自然とサナギになり、
時がくれば蝶として飛び立つように、
八図もまた人の変容になるのです。

しかし、イモムシに向かって、これを非難したり、
無理やり蝶になるように強制することはできません。
そんなことをすれば、そのイモムシを殺すことになる。
だからこその只管打坐で、自然の成長をまつよりありません。

しかし、この八図の変容を受け入れず、
君はイモムシなのだから、あるがままにイモムシでいつづけるよう、
そのイモムシであることを脱しようとするのは「心の病」だ、
『無努力』(努力の病を消し去る)でイモムシのままでいつづけなさい、
と教え、そのことを受け入れて自分の可能性を忘れたことを見性である
と教えているの勢力があるのです。
362机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 09:16:17 ID:H50QmY5H
>>360
>それは「個人の」観念としての世界観のことですね。
>そのようなことでは唯識は理解できません。

12支縁起(十縁起)の他に縁起はありますか?

縁起があるから、我(世界)があるわけですね。
縁起がなければ、我(世界)があるわけない。

それこそ貴殿がいう論は、観念論です。

>それは時間によって色が空になって終わるといっているだけで
>色がそのまま空ということではないですね。

色というのは縁起のことで、縁あるがゆえに貴殿は「今ある」んじゃないですか?
縁なくば、貴殿もなく世界もないわけです。
その理を空という。

363机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 09:23:33 ID:H50QmY5H
説明の補足

我と世界は別個のものじゃないですよ。
世界が単独(自性)としてある訳じゃない。
縁起において世界があり、同時に我がある。

縁なくば、我も世界も同時にない。
364名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 09:31:09 ID:fOv3SI0o
>>363
>縁なくば、我も世界も同時にない。

見えてませんね。
「唯識」というのはまさにその「世界(一切)」のことで、
禅で言うなら父母未生以前の本来の面目です。

>>355
>我がいつ頃に生起するか?
>母や他人を識別しないと、我という認識もない。

ここ↑であなたが説明しているのは、
この世に生まれてきてからの「自意識」のこと。
まったく意味が違います。
365机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 09:34:49 ID:H50QmY5H
>>361
只管打坐というのは、いわゆる無努力のことですね。

努力するなら、明鏡台を払拭するのが努力なんでしょうから。

「無努力」というのは、南禅は受け継いでますよね。
本来は受け継いでるわけですが、受け止めかたは北禅に近い人が多いとおもう。
366名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 09:40:48 ID:fOv3SI0o
>>365
>「無努力」というのは、南禅は受け継いでますよね。
>本来は受け継いでるわけですが、受け止めかたは北禅に近い人が多いとおもう。

どの伝統でも誤解されている部分はあるでしょうね。
367机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 09:44:29 ID:H50QmY5H
>>364
>禅で言うなら父母未生以前の本来の面目です。

これをいろいろ勘違いする人がいる。

本来の面目というのは、前世の意味とは違う。
縁の相依性、複合的な縁の摩訶不思議なことを意味する。
368机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 09:49:16 ID:H50QmY5H
>>364
>ここ↑であなたが説明しているのは、
>この世に生まれてきてからの「自意識」のこと。
>まったく意味が違います。

それを「我」というわけですね。
自意識。ですから無我になる。
意識が芽生えて自我の意識になる。
369名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 09:55:53 ID:fOv3SI0o
>>367
>>禅で言うなら父母未生以前の本来の面目です。
>これをいろいろ勘違いする人がいる。

そうですね。前生と勘違いするのは最悪ですね。

しかし観念論で解釈して満足するのもいただけない。

「朝に眉を結び夕に肩を交う。我れ何に似たるや」
370机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 10:01:04 ID:H50QmY5H
まぁ、禅というのは、飯を食うて寝て糞をすることが・・・・分かった。
ということになる。
371名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 10:01:22 ID:fOv3SI0o
「朝に眉を結び夕に肩を交う。我れ何に似たるや」

この意味がわからないと
唯識と自意識の違いも分からない。

これは観念論では届かない領域の話なので
ついてこれないならそれでいいです。
372机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 10:09:33 ID:H50QmY5H
自意識は表層意識であるから、本来の深層意識において覚醒せねば、
意味がわからない。
という事ですね?

では、その阿頼耶識において覚醒したことを書いてください。
373机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 10:24:54 ID:H50QmY5H
朝に眉を結ぶとは・・・
わかりませんね。

朝に髷を結ぶんじゃないでしょうか?
374名無しさん@3周年:2005/09/12(月) 22:24:14 ID:mffr8vXI
1 名前:hirohito 投稿日:02/12/15 00:03
髑髏仮面先生は宗教板おなじみのコテハン。
裸一貫、野菜売りから始めて地方議員となり、今は官休庵(武者小路千家)のお茶のセンセー。
毎日毎日、2chに出入りしては、周囲をキョトーン?とさせる摩訶不思議なカキコを繰り広げる。
ときに「職業柄、女性には困らない」と豪語し、自らのアナル体験を打ち明けたかと思えば
女々しいレスを返す若人には「三尺玉(の花火)をどーんとぶち上げんかぁ!」と叱咤激励。
話題が茶道、仏教関連となると、得意の自論(not持論)をふりまわし、快刀乱麻、変幻自在。
「そこのところを、もっと仔細に」と求める衆生の願いも虚しく
「平等一枚」←このことかと思う(プ とあまりに呆気ないレスに一同 ( ゚Д゚)ハァ? の連続。
手に負えなくなると、しばらくはROMをしている、専門家の自論を聞きたいと豚ずら。
ところがその数分後には、前言を翻して、カキコを始めている愛すべきキャラなのである。

これって、あなたのことだね。
375名無しさん@3周年:2005/09/12(月) 22:27:42 ID:mffr8vXI
124 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/10/28 09:56
>>120
>大声出さないとダメなん?泣かないとダメなん?ってね。

そうゆうとこで泣く女性は、アッチの方でも良いですよ。
一番泣きの良いのをマークしとくと、後々の参考になるんじゃないですか?

127 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/10/28 11:21
>>126
そうゆう女性は、潜在的M性の性癖がりますから、貴殿が何とか仕込んだら良い女にな
ますよ。
貴方の言うなりになります。まあ愛奴です。
そうゆう趣味はありませんか? 

132 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/10/28 13:51
>>130
私は、職業がら役得ちゅうもんがあるから、女は不自由してないよ。

134 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/10/28 17:59
>>133
私のレスは、一応内部崩壊を意図したレスですね。
いわゆる、神聖なるものそこに非ず。

290 名前:名無しさん@1周年 投稿日:02/11/02 15:10
:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/02 15:08
>>757
女性のアナルは良いですね。
「そーーっと入れて」なんて、あの猫なで声が良いですね。
「あんまり激しくやんないで」なんて哀願するとこなんかも良いし。
キュッキュッ締め付けるとこなんかもたまりませんね。
376名無しさん@3周年:2005/09/13(火) 20:07:36 ID:WBHjwecE

 どのスレでこのような発言を?
377名無しさん@3周年:2005/09/13(火) 23:13:47 ID:tV2r9RsT
362 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/11/04 16:38
>>361
う〜ん。男には興味がないなぁ。
女でも、美人だから良いちゅう訳でもないし。
美人は見飽きてるからね(ワラ
かといって、可愛い子ちゃんタイプはジェンジェン興味がないし。
つまりはフィーリングの問題だね。
これは、話しているうち段々タイプが分かってくる。

367 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/11/05 08:42
>>366
私は、もてるタイプじゃないんですよ。
だからそういう人間は、それなりの事を考えねばならんとゆう事です。
ただたんに女性のプライドを刺激しているだけです。
しかしながらまた反面、被虐的なもんを好む女性も居る。ちゅうことです。
その女性のタイプに、自分が合わせてるだけですよ。

シックの中でも、貴殿に犯されてみたい。ちゅう妄想を抱いている女は居るはずです。
それを見抜くか、見抜かないかの違いかと思う。
378名無しさん@3周年:2005/09/14(水) 12:16:07 ID:qUwaC9/T
w
379似我
ダルミン(我)無きダルマ(十二支の各支)の継時的継起がある、
という考え方があるようですが、これはどうなのだろうか。