浄土宗・念仏宗全般の教義について語ろう!

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1南無阿弥陀仏
浄土宗全般(浄土宗・浄土真宗とその系列・時宗など)の宗派や、念仏を
行じながらも、よりどころとする経典は華厳経・法華経としていた良忍
上人の融通念仏宗や、法然上人の著作と言われている「金剛宝戒秘決章」
など、念仏宗の教義の奥深い世界について語り合って下さい。
2名無しさん@1周年:02/02/22 16:35
2げと。
3名無しさん@1周年:02/02/22 20:06
「金剛宝戒秘決章」は偽作だろう。
確か念仏を低く見ているような個所があった。
4名無しさん@一周年:02/02/23 22:21
天台真盛宗は?
5名無しさん@1周年:02/02/24 21:57
さびしいスレだなあ。
往きやすくして人無し、てか。
6名無しさん@1周年:02/02/25 07:10
>>4
天台真盛宗って?
7あぼーん:あぼーん
あぼーん
8名無しさん@1周年:02/02/25 09:36
語ろうと言われても・・・
9名無しさん@1周年:02/02/25 19:36
深きは浅きなり、とも、法然上人が言われてますからなあ。
10名無しさん@1周年:02/02/25 20:58
>>1 よりどころとする経典は華厳経・法華経としていた良忍上人の融通念仏宗

融通念仏宗ってそうだったんですか?
華厳経や法華経に念仏について触れてある部分があるんですか?
すみません愚鈍で。
11名無しさん@1周年:02/02/25 21:37
まあ仏を念ずれば、念仏なわけで。
12名無しさん@1周年:02/02/26 21:34
ところで、>>1はどこへいった?
と訊いていいかな?
13南無阿弥陀仏:02/02/26 22:28
皆さん、忙しくてレス出来なくてすみません!南無阿弥陀仏!
では、早速ご返事させて頂きます!!!!!!!!!!!!!
>>3さん
そう言われてもいますよね。確か浄土宗ニ祖・弁長上人の「『金剛宝戒章』という法然上人の書物
があり、それが奥義だと言われているのは誠ですか?」という問いに対して、法然上人はきっぱり
とそれを否定された、と言われています。しかし、『金剛宝戒章』自体の内容は、非常に興味深い
と思っているのですが、どなたか教えて頂けませんか?また『金剛宝戒』の意味についても、
教えて頂ければ幸いです。
>>4さん
「天台真盛宗」とは初耳です。教義等を教えて頂けませんか?
>>9さん
良い言葉ですよね。このスレッド自体が、ただの煩悩深い私の道楽と思って下さい。
また、気軽に念仏に関する宗派の教義について語り合って頂ければ幸いです。
>>10さん
良忍上人は、念仏と観仏(仏を観想する行)を勧めていたそうですが、どうしてその
良忍上人が、浄土三部経を正依の経典とせずに、法華経と華厳経を宗派の正依の経典
として定めたのか、わかりません。ただし、浄土三部経は、融通念仏宗では傍依(捕捉)
とされています。これも他の念仏宗(浄土・真宗・時宗)とは違う、特異な点であると
思われます。
14名無しさん@1周年:02/02/26 23:01
親鸞会はどうですか?
15名無しさん@1周年:02/02/27 01:19
普段どんな所でどんな念仏してる?
ちなみに俺は便所で称名か、切れたときには職場でつぶやき念仏
16南無阿弥陀仏:02/02/27 11:30
>>10さん
華厳経では、念仏について説かれた事は無かったように思います。また、法華経においても、
「南無阿弥陀仏」もしくは阿弥陀如来の名をとなえる事で成仏出来る、と説かれている事は
無かったように思います。ただ、法華経「方便品」では、「もし、人心散乱にて、塔廟(遺骨堂)
の中に入りて、ひとたび「南無仏(なむぶつ)」と称えれば、みな既に仏道を成ぜり。」という
一節が説かれています。しかし、この部分を根拠として法華経を融通念仏宗の正依の経典
として良忍上人が定められたのかは不明です。しかし、どうして華厳経を融通念仏宗の正依
の経典としたのかは今もって不明ですね。
>>15さん
私は寝る前とか、朝起きた時に「南無阿弥陀仏」と称えます。たまに「南無仏」と称えたりもします。
これは全ての仏様に対して尊敬と感謝の念を捧げる意味でもあります。ホントは「南無阿弥陀仏」
だけでも良いんでしょうけどね。でも構わないでしょう。私は真宗や浄土宗の信者ではないので、
これで良いんだと思っています。自力とか雑業だ、と批判されるかも知れないですね。
17名無しさん@1周年:02/02/27 11:41
>>1さんへ

念仏宗渡海会の渡海難教祖には、くれぐれも注意してください。
スレッドが荒らされる恐れがあるので。

念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円(http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/one.htm参照
・HP http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
・根本聖典(?)親鸞の思想と教行信証(世界数ヶ国後に翻訳されると本人が称している)
「親鸞仏教の正当性を問う」http://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970632275.html
「親鸞仏教の正当性を問う(パート2)」http://mentai.2ch.net/psy/kako/975/975404451.html
「親鸞仏教を見直そう。」http://mentai.2ch.net/psy/kako/979/979297776.html
「親鸞仏教を問う(V)」http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1000165825/
「親鸞仏教論 W」http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1012997700/
・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思
想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊
さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決め
つける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 「浄土通信」のHPやメール、2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になっ
たという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されて
いる。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあった
ものではないが。
18名無しさん@1周年:02/02/27 11:42
>>17のつづき

改訂・渡海難のカキコパターン

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
194ですが:02/02/27 20:56
>>13

私も詳しくはないですが、天台真盛宗は天台三派の一つで
室町時代に真盛上人が祖。一派として独立したのは明治期
で宗号を称するようになったのは戦後のようです。比叡山
坂本に本山(円教寺?)がある。真盛上人は、真宗高田派
中興の祖・真慧上人と地理的な関係もあり親交があったよう
で真宗高田派と天台真盛宗は教学的に相互影響があった模様。
教義的には天台の円頓戒と善導流の口称念仏を一つとする戒称
一致を唱えているようです。江戸時代の初めに日蓮宗八品派から
転宗して日蓮聖人を批判した真ちょう上人も同派。
20修阿弥陀仏:02/02/27 21:13
ちとコテハンを使ってみる。

>>13
金剛宝戒というのは、天台宗の円頓菩薩戒のことで、一心金剛戒ともいうと聞いたことがあります。それは一度受ければ失われず、金剛のように堅固なのでそう言うと聞きました。

またおぼろげな記憶によると、華厳で言う、一即多、多即一、というのが、融通念仏の元になってるということらしいです。華厳経が正依の経典なのはそのためかと。

天台真盛宗と、天台宗真盛派との関係はどうなんでしょうか?
なんか二つあるみたいなんですが。

>>15
まあ人前ではしないです。一人の時にぼそぼそと。
21修阿弥陀仏:02/02/27 21:17
おや。
>>19
天台宗真盛派が、天台真盛宗になったということですか?
22南無阿弥陀仏:02/02/28 20:30
>>20さん
『金剛宝戒』の意味と華厳経が融通念仏宗の正依経典としての理由をお教え下さって
ありがとうございます。大変参考になりました。

融通念仏宗の良忍上人は、華厳経・法華経を研鑚し、阿弥陀経を読誦し、称名念仏を日課とし
続ける事ニ十年、ついに阿弥陀仏を見、阿弥陀仏が勅するに曰く
『一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行、是れ他力往生と名づく。』と。
更に『十界一年、融通念仏、億百万遍、功徳円満』の一句を授かったそうです。
>>19さん
なるほど、天台真盛宗にしろ融通念仏宗にしろ浄土宗にしろ、その根本には総合宗教的な
意味合いが強い天台宗がベースにあるみたいですね。だから色々な念仏に対する考え方の
違いが生まれるんでしょうね。参考になりました。
23南無阿弥陀仏:02/03/04 21:22
では、ここでこのスレに来て頂いてる念仏行者(推定)の皆様にお尋ねしたいと思います。
以下のテーマで語って頂ければ幸いです。

「念仏は、信心が伴わなければ無効か、それとも有効(何らかのはたらきがある)か?」

皆さんはどう思いますか?
24ベロ ◆od7XM/js :02/03/04 21:51
>>23
浄土教各宗派によって考え方はそれぞれでしょう。
僕の意見としては信心も念仏も弥陀廻向の手段、方便だと思いますので、
称名念仏する上で信心が伴うかどうかと言う問題はあまり気になりません。
いつ・どこで・どのように信心を得たか確認できるすべは無いと思います。
25名無しさん@1周年:02/03/05 13:29
「眠って一夜を明かすのも、仏に報じ、徳を修める中にあり、目を覚まして一日を
暮らすの弥陀に生かされる証しの内に暮らす。

時節が至らなくても、自分の素質が劣っていても卑下する必要はありません。なぜなら
ば阿弥陀如来はそういう人々を包みとって救う願いを起こされたからです。

良い行いや業が乏しくても仏の大願を疑う必要はありません。経に「十回念仏すれば(必ず
往生する)」の確約の文があるからです。

励んで念仏しても喜びの思いが湧いて来ます。それは本願に叶った正しい行を精進しているからです。
励まずに念仏してもまた喜びの思いが湧いて来ます。それは念仏が往生するための行とし
て完全円満であるからです。

いたずらに時節の至らぬ事を論じ合って、阿弥陀如来の強い働き掛けを忘れてはなりません。
阿弥陀如来のご本願を信じられなくても、そのような自分をお救いくださるためのご本願で
あるという思いをますます信じつつ、念仏を怠けていても、そういう自分をこそ、お救いく
ださるための阿弥陀如来の大慈悲であると思いつつ、慈悲を仰ぎ念仏する気持ちになるべき
です。」
(浄土宗西山派・証空上人の『鎮勧用心』と呼ばれる一章。)
26修阿弥陀仏:02/03/05 18:21
>>23
あえて書きましょう。
無効ですね。
27南無阿弥陀仏:02/03/05 20:38
>>26さん
おお、珍しくこのスレに書き込みが!あり難い。
どうしてなのか、先達の文章を引用されても、ご自身のお考えでも結構ですから、
その理由を詳しくお教え下さいませんか。よろしくお願いします。
28名無しさん@1周年:02/03/05 22:09
>>25
おいおい、誰の解釈だよ。
わかりやすく説明したようだが、大分怪しいぞ。
「機」は「時機」じゃない。「機」は「衆生」だぞ。
他にも怪しいところ満載だ。勉強し直してこい。
29名無しさん@1周年:02/03/06 00:38
あげ〜
30名無しさん@1周年:02/03/06 04:25
>>25
報仏=報身の仏=阿弥陀仏 修徳=(阿弥陀仏が主語)
内証=一切を具備した内徳の総称
機根=衆生の能力 疑うのは仏の大願ではなく、救われ、往生
喜ぶのは、大悲の心を領納するが故。その歓喜の心で振る舞う行いが
正行となる。(解は行を浄む)
正因円満=往生する因が阿弥陀仏によって(すでに)成就されている。
機=衆生 強縁=三縁
不信=正行に対する不信煩悩
懈怠=懈怠煩悩からくる堕落。念仏とは限らない。

西山義を知らずして、鎮勧用心を語るなかれ。

31名無しさん@1周年:02/03/06 13:37
>>30
西山義っちゅうか浄土の基本じゃねぇの?
32名無しさん@1周年:02/03/06 15:50
>25さん有り難うございます。
正統な浄土宗のお坊さんからは色々と間違いがある文章なのかも知れませんが、
ありがたくておもわず「なむあみだぶつ」ととなえてしまいました。

正しい訳の文章を拝読させて頂きたいと思いましたが、どなたかレスして下さら
ないでしょうか?
33名無しさん@1周年:02/03/06 20:32
>>31
さいきん(といってもここ数十年)これが歪んできている。
正しくは西方極楽浄土(有相の)に往生するために(報身の)阿弥陀仏に帰依し
(願往生の)お念仏を唱える、ということだと思うのですが、
宗派によっては、あるいは同宗派であっても、(無相の)浄土であったり、
(応身の)阿弥陀佛だったりする。
34名無しさん@1周年:02/03/06 21:43
>>33
すみません、無相と有相、応身と報身の違いを知って称えないと念仏の意義は無いんだと
法然上人さんはおっしゃっていたんですか?お答え頂きたいのですが…
35修阿弥陀仏:02/03/06 21:49
>>27
ではお答えして。

>>23の問いの前提には、往生極楽のためには、というのがあるとして、あえて無効であると思います。
(あえてと言うのは多少有効かなとも考えるからですが、たとえば潜在意識に蓄積されるとか。しかしこういうのは無視します。)
直接的な根拠としては、「必ず信心を以て能入となす」と正信念仏偈にあります。
愚見としては、もし有効だとすると、念仏が呪術になってしまうからです。もっとも呪術には呪術なりの信心があるでしょうから、そうするとやはり答は無効ということになるでしょう。
36修阿弥陀仏:02/03/06 21:54
>>34
私は>>33ではないが、
法然上人はそんなことは言われていないです。
もし言われていたら私にも教えて欲しい。
37名無しさん@1周年:02/03/06 22:21
>>34
念仏の意義は無いというふうにはおっしゃってません。ただ、自分が求めるのは
有相の西方極楽浄土であり、帰依するのは報身の阿弥陀仏であり、お念仏は
阿弥陀仏の本願のお念仏であると解釈できます(一紙小消息より)。
ただ、それ以外のお念仏に意義がないともおっしゃっていないと思います。
無量寿経の文面からすると(至心信楽・欲生我国)、往生できるとは言い切れ
ませんが、できないとも言い切れないと思います。すみません不勉強で。
38名無しさん@1周年:02/03/06 22:57
>>33
応身の阿弥陀っていうのは、救われの化身として阿弥陀を定義するのですか?
それとも釈迦=弥陀みたいなすごい論が最近はあるんですか?
39名無しさん@1周年:02/03/06 23:08
>>35の人にお聞きしたいのですが…

では、信心なき念仏、ただ口で称えるだけの念仏は、往生の直接の因にはならない、
という事なのでしょうか?
40名無しさん@1周年:02/03/06 23:41
念仏と往生のいみあいが宗派によって違うがそれを
どうやってまとめるのだ?
一つの質問に対して、全く違う返答が可能だ。
立場を明確にして、答えるべきだろう。
41名無しさん@1周年:02/03/07 08:07
>>38
いいえ、阿弥陀佛=宇宙といった大日如来的な阿弥陀佛が
おそらく鈴木大拙師以来だと思いますが、まかり通っています。
法然上人は報身の阿弥陀佛ということをしっかりおっしゃっています。
親鸞上人(誤字ではないです)も有相の(実在する)浄土であるとはっきり
おっしゃっています。
42名無しさん@1周年:02/03/07 10:56
>>35
信心の無い、口先だけの念仏は、ただの呪術でしかない、無効である、というお考
えの根拠は、仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経の浄土三部教の中にそ
の理由があったから、そのように言われるのでしょうか?

43名無しさん@1周年:02/03/07 11:10
>>42
三部経ね。
念仏を呪術とはまた飛躍してますね。
「行」ととらえるべきでしょう。
実際「虚仮の行」とかいう下りがどっかの
論に有った気がします。

真宗の教義自体が、信(心)を重要視します。
だから真宗の人に「信のない念仏」を聞けば
無効と答えるはずです。有効と答えたならば
真宗の教義に反しますから。

だから立場を明確に発言しなければ、あまり
実りのないやりとりになるのです。
ま、鎮西や西山の人に是非ともご意見伺いたい
所です。
44名無しさん@1周年:02/03/07 12:45
>>35
信じる能力のある人達はそれで救われるのであるから、それで良いのだろうが、
信じる能力の無い者達はどうすれば良いのか。そのような者達が口先だけでで
も「なむあみだぶつ」と口ずさむだけで救われない、となるのであれば、阿弥陀
の慈悲から外れてしまう事になってしまう。そのような信じる能力の無い者達
を阿弥陀の救いから締め出すような説が、本当に仏の直説であり、善導大師や
法然上人の直説なのだろうか。また、本当に信の無い念仏が完全に無効な念仏
であると、どうして凡夫の身で規定する事が出来るのであろうか。たとえそれ
が親鸞聖人であったとしても。

信の無い念仏で、たとえ往生は出来ないかもしれなくても、何らかの効力はあ
るのではないだろうか?

どなたかお答え下さい。
45浄土宗:02/03/07 13:27
法然上人は三心・四修ということをおっしゃっています。
つまりは深く信じて念仏を相続しなさい、ということですが、
その三心・四修は「往生するぞと思ううちに」自然に備わってくる、とも
おっしゃています。
とりあえず念仏しとけば往生できる、ともおっしゃっていませんし、
かといって信のないお念仏では往生できない、ともおっしゃっていません。
私個人の考えでは確固たる信を持ち得ないのも凡夫であると思うので、
とりあえずのお念仏でも往生できると考えます。それが臨終のお念仏に
ならないとも言い切れないし。でもこういうと一念義になってしまうのかな?
46名無しさん@1周年:02/03/07 16:59
>>23
「観無量寿経」には、五逆・十悪を具す愚人も、心に念じる事能わずんば、無量寿仏
と称すべし、との一節がある。どこにも「信心をもって称えよ」との文は見られない。

まして無信心の念仏は無効などという一文はどこにも見られ無い事は明白である。
よって無信心の念仏も、何らかの効力がある事を認めないわけにはいかない。
大体、有信心であろうと無信心であろうと念仏を称えられる事自体が凡夫の能力
で出来る事ではない。それ自体が弥陀のはからいによるものではないか。よって
無信心の念仏は有効であると私は考える。
47修阿弥陀仏:02/03/07 20:19
>>39
往生の因とか言うと、いろいろ難しいものがあるでしょうが、
信心があっても念仏は往生の因とはならないのではないでしょうか。
往生の因は本願にあると思います。

しかし、
>ただ口で称えるだけの念仏
が、信心がないとは思いません。

>>40
別にまとめなくてもよいのでは?
どこがどう違うか、というのがわかってくれば、面白いと思います。
48修阿弥陀仏:02/03/07 20:53
>>42
>口先だけの念仏
が、必ずしも信心がないとは思いません。
また>>35の呪術云々の意見は、三部経の中には根拠はないでしょう。だから愚見と書きました。

>>44
>信じる能力の無い者達
だからこそ、他力回向の信心と言われます。
また、信のない念仏が無効であるということと、
>信じる能力の無い者達を阿弥陀の救いから締め出す
というようなこととは、別のことです。
また信じる信じないは能力ではありません。
49ベロ ◆od7XM/js :02/03/07 21:06
>>44
信じる能力の無い者にお念仏を称えさせ浄土に往生させるのが阿弥陀仏の本願でしょう。
信じる能力の無い者達が阿弥陀の本願からもれることはないと思います。

また浄土三部経の説によれば信心を伴わない念仏でも浄土の端くれには往生すると言います。
仏智疑惑の罪で不見三宝の難がある疑城胎宮と呼ばれる場所に往生し、そこで長期間修行し
仏智疑惑が解ければ真の浄土に往生するんじゃないでしょうか?
50修阿弥陀仏:02/03/07 21:06
少し思いついたので補足。
基本的に念仏は、信が無い、というようなことはないかもしれないです。
それが念仏であるならば。

私が呪術というのは、魔法の呪文みたいなものをイメージしています。「開けゴマ」とか「マハリクマハリタ」とか。
51名無しさん@1周年:02/03/08 10:00
>>50
「念仏」の定義ですねぇ。称名念仏のことをさすと考え…

1◆ただ口に阿弥陀仏の御名を称える
2◆往生したいと思い…
3◆弥陀成仏のの因縁を知って…
4◆余りの嬉しさに…


他多数タイプはあるでしょうが、ただ口の端に名号をのせるのも
念仏だし、一心に弥陀を念ずるのも念仏だし、やはり色々でしょう
勿論「念仏は、信が無い、というようなことはないかもしれないです」
というのは分りますが、これは寺の側からの見方だと思うわけですよ。

>「開けゴマ」とか「マハリクマハリタ」
的な交換チケットのような考え方をする念仏宗もありますね。
念仏する→往生する
みたいな。(例:開けゴマ→扉開く)
52名無しさん@1周年:02/03/08 10:07
>>50
私もそう思います。田舎の老人の人達が何も思わずに「なむあみだぶつ、なんまんだぶつ、なまんだ〜ぶ」
ととなえる「空念仏」と呪文を同一視出来ないと思います。

空(から)の心でとなえる念仏って素晴らしいと思います。呪文や呪術はいっくらやっても
やってる最中は自分達や自分の欲望や願望を叶える思いで充満していると思うんです。
でも念仏はとなえているうちに自然と口ずさむようになってしまう。それってやっぱり
念仏の良い所でもあり、呪文や呪術と違う所なんじゃないかな、と。
53一念三千・真如実相・十界円満:02/03/08 10:35
念仏を称える事で得られる仏果は、浄土往生だけではない。
南無阿弥陀仏には仏教と全ての仏の奥義・功徳・悟り・・・などなどありとあらゆる
ものが詰まっている。

また、無量寿経の第十八願には、どこにも「死後、浄土に往生しなければ」という語句は
無い。「死後」とか「臨終時」という条件がそこには無いのだ。という事は、穢土に生きて
いながら、浄土に生まれ、生きているという「不可思議」が、名号をとなえる人には起きる
事になる。これこそ「煩悩即菩提・生死即涅槃」を示すものでなくてなんだろう。

生きながらにして、浄土に往生する。これぞ不可思議。まさに不可思議。

名号となうる人は、煩悩にいながら悟りを得、生死に迷いながら生死を越える。
これぞ名号の不可思議なり。
54南無阿弥陀仏:02/03/08 12:47
いやー皆さん沢山の意見を書き込んで下さってどうもありがとうございます!南無阿弥陀仏!!

>>51さん、念仏の「定義」という事なんですが、「心に何かを思いつつ(往生したい、とか?)、
もしくは何も思わずに「南無阿弥陀仏又はそれに類似したもの(例・ナマンダブ、ナモー)」」と
心の中で念じたり、口称したりする行為」というのはどうでしょうか?

あんまりレス出来なくてすいませ〜ん。
55名無しさん@1周年:02/03/08 13:09
>>52
たとえ念仏を称える者達がその心の中にどんな煩悩(感情や欲望)を抱えていても、
そしてそれらを叶えるために念仏を称え続けたとしても、いつの間にかそれらの
煩悩は消え失せてしまって、後には「なむあみだぶつ」だけが残るのである。

信から入る行(念仏)もあり、行(念仏)から生まれる信(信心)もあると思われる。

信・行ともに阿弥陀如来の光明遍照(あまねく照らす光)のもたらすものであるから。

法然上人は、臨終の際に次のように称えられた。
「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
(訳:弥陀の光明は十方世界を遍く照らし、念仏する衆生を摂取して捨てる事が無い。)
そして息を引き取られたとの事である。
56名無しさん@1周年:02/03/08 13:51
かつて、と言っても昭和30年代だと思ったけど、教科書裁判で有名な
家永三郎氏が「念仏は呪術か」という題で中外日報紙上で論争を繰り広げたこと
があったらしい。結局、呪術(magic)と宗教(religion)の厳密な定義ができない
ということで論争は終わったらしいが。数年前に読んだのでうろ覚えですみません。

>>55
>法然上人は、臨終の際に次のように称えられた。
>「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
そうでしたっけ?
5755:02/03/08 16:25
>>56
そうです。法然上人は建歴二年(1212)一月二十五日、師、叡空から受け継いだ
慈覚大師伝来の九条袈裟をつけ、『光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨』
と観無量寿経の一節を称えること九たび、頭北、面西、右脇という釈尊入滅の威儀
を保ったまま、入滅されたとの事です。享年八十歳と記憶しております。
出典は失念致しました。もしも間違いであったら、ご指摘下さい。
58修阿弥陀仏:02/03/08 21:31
>>51
>寺の側からの見方
むしろ逆かと思っていましたが。

>>「開けゴマ」とか「マハリクマハリタ」
>的な交換チケットのような考え方をする念仏宗もありますね。
それはあまり感心しませんね。

>>57
私の記憶もほぼその通りです。
確認は取れていませんが四十八巻伝にはあると思います。
59名無しさん@1周年:02/03/11 06:24
あげ
60名無しさん@1周年:02/03/11 16:38
>>修阿さん
いやこういった念仏信心に懐疑的なのは在家的な発想、と言った観点で
寺側と書きました。

>交換チケットのような考え方をする
と書きましたが、確かに初期の念仏は
名号を称えれば極楽往生できる、と言うところから
出発してますからね。
すべてがそうであるというわけでは勿論ありません。
61名無しさん@1周年:02/03/11 17:02
>>53
そゆ条件の付け方って強引じゃないスか?
だって観経なんかは、「臨終」っていう言葉たくさん
出てくるじゃないですか。
確かに死後とは書いてないけど、そこだけを逆手にとることは
少し考えてしまいます。

ちなみに観経には「三種の心を発さば即便ち往生す」と有りますが
ここに証空あたりは「穢土に往生」の発想を持ってきてますよね。
上品上生ってとこが「?」ですが。
62修阿弥陀仏:02/03/11 21:23
>>60
考えてみたらそうかもしれません。現実どうなのかは私にはわかりませんけども。

>初期の念仏
というのは、どの時代をさしておられますか?
できれば人物で教えてください。

>>61
>ちなみに観経には「三種の心を発さば即便ち往生す」と有りますが
>ここに証空あたりは「穢土に往生」の発想を持ってきてますよね。
>上品上生ってとこが「?」ですが。

できたらこのあたり詳しく教えていただけないですか?
「穢土に往生」というのが、私には?です。
63名無しさん@1周年:02/03/11 21:28
女子高生コンクリート殺人とか
麻原ショウコウあるいは、薬害エイズの安部
あいつらも南無阿弥陀仏と言っただけで往生できるんですかね?

地獄に落ちるべきじゃないかね?
間違った慈悲じゃないだろうか
64名無しさん@1周年:02/03/11 21:39
>>修阿さん
まさに法然の時代です。
念仏が往生の条件ともいえる様相をしていたと思います。
勿論法然自身は、そこまで特化した考えではなかった
ことは明白ですが、念仏普及の為その辺りの説明を
意図的に省き、簡略化して念仏門を展開していたと思いますね。
65名無しさん@1周年:02/03/11 21:41
改心すれば救われる

キリスト教でもそう説く(ハズ)
66名無しさん@1周年:02/03/11 23:08
>>63
そういった質問は法然の時代から有りましたね〜('Д`)
67名無しさん@1周年:02/03/12 09:12
>>62
>「穢土に往生」というのが、私には?
例に挙げた証空なんかは、

阿弥陀仏は衆生の救済を必須条件に成仏した。
その修行は凡夫の我々になりかわりすべての善を行じすべての悪を懺悔した。
ゆえに我々の往生は仏の方から決定(けつじょう)している。
その因縁を知り歓喜したとき、衆生は声に「南無阿弥陀仏」と称えるのである。
その心持ちは、現世に往生を得たがごときである。

とまぁ、決定往生を理由に現世においても浄土と同じ心持ちにさせていただける
と考えるのが、1つの「穢土に往生」タイプ。
(西山の人とはすこしちがうかなぁ)
ま、上品上生を?と思ったのはわれら下々品の衆生だと思ってるからですが、
最終的にすべての念仏者は須く三心を具すので関係ないかとも思ってみたり。

先の臨終前往生は往生のありかたが不明瞭なのが、なんですね〜。
確かに18願に書いてませんが、生きながらの往生とはどうゆうことってのが
全く触れられてないですね。
68修阿弥陀仏:02/03/12 17:38
>>64
わかりました。
ただその当時は諸行往生というのがまずあったわけで、
それに対して念仏往生ということを言ったために、
>念仏が往生の条件ともいえる様相
となったと思います。
念仏往生が広まってきて、そこであらためて、
信ということが問題になってきたのではないかと考えます。
69修阿弥陀仏:02/03/12 18:30
>>67
「穢土に往生」とあるので、穢土からまた穢土に往生するのか?
と思ってしまいました。
穢土において往生を決定するということですね。

しかし往生決定を、往生と呼んでいいのかな、
という疑問があります。
ややこしくなって何を言ってるのかわからなくなるんじゃないかと思います。
そういう決定と往生とを分けない考えはよくわからないです。
70渡海 難( p5207-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/12 18:33
>>63
>あいつらも南無阿弥陀仏と言っただけで往生できるんですかね?

 何か不都合ですか?
 南無阿弥陀仏を称えれば、南無阿弥陀仏を称える人になる。念仏を称えるという、そういう人になる。念仏を称えるという人は、仏道を行ずる人だ。あいつらも南無阿弥陀仏を称えれば、仏道を行ずる人の一人になる。それで何か不都合ですか。
 コンクリート殺人を犯しても、サリンを撒いても、薬害エイズを蔓延させても、南無阿弥陀仏を称えれば、その人は南無阿弥陀仏を称える人。南無阿弥陀仏を称える人は、仏道を行ずる人だ。仏道を行ずる一人だ。仏道を行ずる多くの人々の中の一人だ
 コンクリート殺人はとんでもなく悪いことだ。とんでもなく悪いことなら、国法で罰すればいい。サリンを撒くことが悪いことなら、それは国法が罰する。薬害エイズを蔓延させることが悪いことなら、国法で罰すればいいんだ。
 悪いことは国法が罰する。特定組織内の違反は、組織内の規則で罰する。国には国のルールがある。外務省内の規則違反は外務省内のルールで弾劾する。
 国法が罰し、省庁内ルールが罰するなら、重ねて宗教的に罰する必要があるのかい?。国法で罰せられ、省庁内ルールで罰せられ、マスコミからも弾劾を受けたなら、宗教的には重ねて罰する必要はないだろう。
 何か間違いを犯したとすれば、それはその人の無知が原因だ。無知はみんな持っている。自分だっていつ他人を傷つけないとも限らない。
 釈迦の法を聞こう。釈迦の法を学ぼう。釈迦の法を学ぶ限りは、全ての人は平等だ。釈迦の法は、サリンを撒いた人が聞いてもいい。コンクリート殺人を犯した人が聞いてもいい。薬害エイズを蔓延させた人が聞いてもいい。そういう人こそ、聞くべきだ。
 釈迦の法に耳を傾ける人は皆仲間だ。釈迦の法に耳を傾ける限りは、過去は問うまい。未来に目を向けよう。念仏すれば念仏する人の仲間に加わる。念仏する人の中には真実がある。だから念仏すれば真実の中に参加する。
 念仏すれば往生する。いささかも問題ないでしょう。念仏してても地獄に行ってくれというのは、念仏の考えじゃないな。
71(゚∀゚):02/03/12 18:46
デタ━━(゚∀゚)━━( ゚∀)━━(  ゚)━━(  )━━(  )━━(゚  )━━(∀゚ )━━(゚∀゚)━━━ !
72名無しさん@1周年:02/03/12 19:29
>>71
渡海さんが書き込んだぐらいで、なんでそんな過剰反応すんの?
普通にしてればいいんじゃないの
73ベロ ◆od7XM/js :02/03/13 01:09
>>63 の方は極々普通の感覚を持った人でしょう。ただし宗教、特に浄土教では
我々の普通の考え方はひっくり返されますね。人間世界の善悪など阿弥陀仏の
極楽浄土に往生する手段としては何の意味も持たない。阿弥陀仏の本願を信じ
南無阿弥陀仏と称える事だけが条件です。>>70の渡海さんの意見には同意します。
釈尊以来の自業自得という業の論理を阿弥陀仏の本願力廻向として打ち破ります。
人間世界のどんな悪よりもその人が称える一声の念仏の功徳の方が何億万倍も、
すぐれているというのが浄土教の根幹でしょう。悪人救済のための教えですから。
ただし注意しなければならないのは、決して悪を勧めているのではないと言う事。
人間は愚かですから悪人救済というと悪を犯してもいいんだとスグに勘違いする。
74名無しさん@1周年:02/03/13 12:53
>>73
「悪人」ってのは、衆生は善を修する力もない罪悪生死の凡夫である
我々全体を指すのではないの?
もちろん一般的な「悪人」の話ではなく。
7574:02/03/13 12:56
「衆生は」は余分でした。スマソ
7653:02/03/13 18:09
>>61
私がどうしてこのような事を言えるのか、その根拠は無量寿経で「臨終時に往生」という
条件が無い事もその一つであるが、覚如上人の「口伝抄」における法然上人ご自身のお言葉
にその根拠を持つのである。そこでは、法然上人在世の頃、当時、善信房と名乗られていた
親鸞聖人と善恵房と名乗られていた証空上人との論争があった事が記述されている。

それは、「念仏によって往生する者は、体が滅びなくても往生をとげる。」との善信房(親鸞)
の主張に対し、「体が滅びてこそ、往生をとげるのである。」と主張された善恵房(証空)の
論争でありました。そこで大勢の者達が、一体どちらが正しいのか法然上人の前に参上し、
その答えを伺うと、法然上人は、「どちらも正しい。」とお答えになられたと言う。そこで、
どちらが正しいのかわからぬので、一同が重ねて訊ねると、法然上人は次のようにお答えに
なられたと言う。>>つづく
7753:02/03/13 18:29
>>76法然上人のお答え。
「善恵房(証空)が体が滅びてこそ往生すると主張するのは、念仏以外の行も行って往生する器だから
である。善信房(親鸞)が体が滅びなくても往生すると主張するのは、念仏によって往生する器だから
である。弥陀の教えは元来同一であるが、教えを受け取る側の器量によって歴然とした相違がある。
自分の器量にしたがって教えを領解するのは、当人が前世において為した善行の厚薄によって決る
事柄である。念仏往生は、御仏の本願である。諸行往生は本願ではない。念仏によって往生するもの
は、自分の死にざまの善し悪しを問題としないのである。弥陀の本願の至心信楽(弥陀が真心を込めて
差し出す信心を受けとって喜べ)のおすすめに従い、それを信じる一心が弥陀のお力によって確定する
時に、即座に往生を得て、もはや退く事のない境地に住むのである。この道理を正しい教えの師に
会って聞き、心に保持する平生のあいだに、この信心が定まるのである。すなわち、この穢れた体が
滅びなくとも往生の原因が定まるがゆえに、体失しなくても往生すると(善信房は)言われるのであろう。
『これは本願のみ言葉に明かである。』これを参照するべきである。反対に、諸行往生の器は自分の
死にぎわを待って、そのときに弥陀やその弟子達のお迎えがある事を期待しなければ、胎生・辺地に
さえも生まれる事が出来ない。それゆえに、この穢れた体が滅び去る時でなければ往生の期待がかけ
られないので、このように主張するのであると思われる。>>つづく
7853:02/03/13 18:49
>>77の法然上人のお答えのつづき>・・・「これは第十九願に現れている教えである。どちらが優れて
いるかと言えば、念仏往生は弥陀の根本の誓願であって、いかなる衆生をも救う事が出来る。諸行往生
は弥陀の根本の誓願ではなく、救われるのは定善・散善の行を行いうる器に限られている。本願に従って
念仏する者の「不体失往生」と、本願にあらざる行を行なって往生する者の「体失往生」との優劣には、はな
はだしい隔たりがあるではないか。念仏往生が優れ、諸行往生が劣っている事は、経文や解釈などの言葉
を顧みるまでもなく、歴然としている。」以上のように法然上人は仰せられたとの事である。

以上、覚如上人筆である「口伝抄」より。
79渡海 難( p1114-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/14 08:38
 53さん。
 あなた自身は、念仏以外の行も行って往生する器なんですか?。念仏によって往生する器なんですか?。念仏往生は優れ、諸行往生は劣っているそうですね。53さんよ。
 あなたは親鸞聖人のように優れている器なんですか?。善恵房様のように劣っている器なんですか?。
 即座に往生を得て、もはや退く事のない境地に住む方ですか?。弥陀やその弟子達のお迎えがある事を期待しなければ、胎生・辺地にさえも生まれる事が出来ない方ですか?。
 貴方という方は、念仏以外の行も行って往生する器なんですか?。念仏によって往生する器なんですか?。あなたはどのようにお思いですか。
 念仏以外の行も行って往生する器か、念仏によって往生する器かは、本当は歴然としているそうですね。
80名無しさん@1周年:02/03/14 08:43
>ALL

念仏宗渡海会の渡海難教祖は無視してください。
むやみに相手をするとスレッドが荒れる恐れがあるので。

念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円(http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/one.htm参照
・HP http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
・根本聖典(?)親鸞の思想と教行信証(世界数ヶ国後に翻訳されると本人が称している)
「親鸞仏教の正当性を問う」http://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970632275.html
「親鸞仏教の正当性を問う(パート2)」http://mentai.2ch.net/psy/kako/975/975404451.html
「親鸞仏教を見直そう。」http://mentai.2ch.net/psy/kako/979/979297776.html
「親鸞仏教を問う(V)」http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1000165825/
「親鸞仏教論 W」http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1012997700/
・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思
想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊
さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決め
つける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 「浄土通信」のHPやメール、2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になっ
たという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されて
いる。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあった
ものではないが。
81名無しさん@1周年:02/03/14 08:44
>>80のつづき

改訂・渡海難のカキコパターン

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
8253:02/03/14 11:06
>>79
あなたの質問にお答えしよう。
私は、自分が念仏往生の身なのであるのか、善信房(後の親鸞聖人)のように優れて
いる身なのか、それとも諸行往生の身なのか、諸行往生が劣っていて、念仏往生が
優れているのか、「全くわからない。」しかし、私は法然上人と善信房が「口伝抄」で
説いておられている事を「ただ、仏意を明かに顕わして下さったものと」信じてる
だけなのである。しかし、これが本当に阿弥陀如来の真意であるのかどうか、私には
わからない。もしもこれが法然上人・親鸞聖人両者の虚妄の説であるならば、それを弥陀の真意と
信じた私はどこへ行くのかわからぬ身である。おそらく、法然上人・親鸞聖人両者が行くべき
ところへ、私も行くに違いない。そのように思っているだけである。しかし、法然上人と
親鸞聖人の御文章から感じられる両者のお人柄を考えてみる時、私は法然上人と親鸞聖人
が行くべき所がどのような所であったとしても、同じ所へ行き、そこで両者に教えを乞いたい
と思っている。それが私の信心である。私はただただ両者をお慕い申し上げ、その説を信じて
いるだけなのであるとしか言えぬ。であるから、私が引用した「口伝抄」での法然上人と善信房(親鸞)
のお言葉をどのように受け取られても、それはここをご覧の皆様が自分でお決めになられる事であり、
私はただただ法然上人と善信房(親鸞)の説はこのようであると紹介させて頂いただけである。

阿弥陀如来というが、弥陀の意を説く釈迦如来もこの世にはおらず、法然上人・親鸞聖人などの方々が
いらっしゃらなければ、一体残された私達は誰の説を信じて阿弥陀・釈迦両如来の意を汲み取って
ゆく事が出来るのであろうか?しかし、それは法然上人と親鸞聖人のみが正しい両如来の真意を
説いたものであると言っているのでは無い。それはそれぞれがご自身でお決めになられることである。
まして凡夫の私が「この説のみが正しい。」などと言う事は出来ない。それぞれ信じたい方々の説を
信じてゆかれるのがよろしかろうと思う。きっとその信じた人と同じ所へ、その方々はゆかれるに
違いないと思うからである。
83名無しさん@1周年:02/03/14 11:23
>>82
53さん、>>80-81をよく読んでくださいよ。
渡海の相手をしちゃダメだって書いてあるでしょ?
どうなっても知りませんよ。
84名無しさん@1周年:02/03/14 14:18
このスレも渡海嵐で終了か……
85名無しさん@1周年:02/03/14 14:19
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
86渡海 難( p0016-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/14 18:23
>>82
 誠実な御回答に感謝します。
 76〜78では貴方の心が見えなかった。79は、貴方に対しいささか不躾な質問だったかも知れません。失礼申し上げていればお詫びする。
 多少、板についてない、時代がかった借り物衣装を着ておられるような感じがしないでもありませんが、それはこちらの先入観かも知れない。こちらの勝手な印象としてお気になさいませんように。
 今後貴方のカキコと類推できそうなカキコが2CHの中で見つかれば、勝手に注目させていただきます。
87渡海 難( p0016-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/14 18:25
>>83
 貴方はいつもの「ペペ2号」さんですか?。 「DQN坊主を晒し上げるスレ」でも、今日はご活躍のようですね。「DQN坊主を晒し上げるスレ」の(1)は、渡海 難とでも思いましたか (苦笑) 
 2茶では珍しいことだ。53さんも精々あなたレベルかとこっちで高をくくったら、53さんはあなた(83)より上手だったよ。
 僕(渡海)からどういうつっこみがくるか、先方は予想していたのかも知れないなーぁ。僕は、相手の予想通りのカキコをしてしまったのか?。僕は誘いに乗ったのか?。自分から橋を渡して乗ってったのか。裏を書かれたのか?。
 僕は、裏を書かれるようなカキコはしてたんだ?。それでも、こういう人が2茶に出てくると、ペペ2号さんレベルにピントを合わせてある間の抜けた僕のつっこみは、そろそろ考え直さないといけない(笑)。
 53さんの発想は、いささか時代がかり、鼻につくかび臭さがある。読んですぐ分かるけど、82の返答は、あれはあれで浄土真宗的型通りの古典的返答法の一つだ。
 53さんは、古典的返答法を定石通りにこなしている。ああいう返答が来ることも予想の範囲内だったけど、型どおりこなす相手に僕は次の言葉がない(苦笑)。先行する僕のカキコも、浄土真宗的ワンパターンの一つを出てなかったからね(苦笑)。
 古典的返答法でも、平凡に定石通りにこなせるのは2茶では実力派だ。定石を定石通りにこなせる人は、2茶では少ないからね。定石通りだと、こっちが聞いてもないことも、定石に入ってれば型どおりに返答があるということだ。
88渡海 難( p0016-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/14 18:26
 僕には53さんの定石の裏が見えないけど、定石のかび臭さを払えば、裏側の本心は意外と味のある人かも知れない。坊さん臭を取れば、尊敬できる面白い人なんだろう。
 本当は、僕はその本心に触れたいと思ったんだけど、警戒して定石でガードを固められると味のある本心とは接触できない。
 僕も真宗の定石で育ってきた一人だから、かび臭いその定石は偽物だろうなどとは言えないんだ。お門違いなら大変なことになる。定石の持つ意味のすごさは多少知っているつもりだからね。
 定石を模倣した型通りの防護は、仮に本心に刃を突きつけてくる相手がいれば有効だ。裃(かみしも)を脱いだ裸の付き合いはやりにくいよね。
 53さんは、本心は尊敬できる面白い人かも知れない。でも、貴方(83)の相手じゃないだろう(笑)。相手の本心に迫ろうとすれば、僕も定石崩しを考えないといけないのか(苦笑)。 (^^ゞ ポリポリ
 僕の言うことは、貴方(83)には分からんかな(笑)。
89渡海 難( p0016-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/14 18:26
>>84
>このスレも渡海嵐で終了か…… 
  <そんなわけないだろう(苦笑)。82は、定石を踏んでるからアンタよりレベルは上だ(笑)。>

>>85
>(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル       <大袈裟だよー(爆)。>
90修阿弥陀仏:02/03/14 18:32
>53さん
>>76-78
口伝抄には注目すべきところもあるのですが、この不体失往生というのはどうでしょう?
>>67さんのカキコを読めば、
また私のおぼろげな記憶によっても、
この不体失往生はむしろ西山上人の特徴的な説ではなかったかと思うのですが。

またここ(口伝抄)でも、往生決定=往生、となっていて、どうも私には納得できかねます。
91渡海 難( p3132-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/14 18:57
>往生決定=往生、となっていて、どうも私には納得できかねます。

 単に定義概念の違いでしょう。
 どういう事実にどの専門用語を符号させるかという、概念と専門用語との組合せ方には、組み合わせた人それぞれの思いや、主張がある。
 専門用語は歴史を背負っている。概念と専門用語との組合せ方の変更は、概念に特定の歴史を意識的に結びつけることだから、そこには特別の主張が被さってくる。
92修阿弥陀仏:02/03/14 21:20
まあ私としては、
 往生→臨終時
 決定→平生もしくは臨終時
としておいてもらった方が分かりやすくていいのですが。
93gf:02/03/14 21:57
世の中、人間の思惑で教義を解釈している宗教団体が多すぎる。
人間の計らい事を排除した念仏に心温まる。
94名無しさん@1周年:02/03/15 08:10
>>93
俺はここで議論されていることも「智者のはからい」にすぎないんじゃないかなって
気がする。自力とか他力とか、平生とか臨終とか、それをすべて乗り越えたところ
にある念仏を目指したい都思う。
95名無しさん@1周年:02/03/15 16:41
>>94
「議論」が「智者のはからい」だというあなたの意見もわからなくはないが、少なくとも
全然無駄な事ではないと思うがどうか?
それぞれ皆さん少なからず何らかの疑問をお持ちみたいだし…そういう色んな事を
議論するのは、凡夫の習性って奴で、仕方がないんじゃないかな。あなたは何も議論
しなくても良い人なんだろうけれども、世間はそういう人ばっかりじゃないからね。

それに…あなたの書き込みで「それをすべて乗り越えたところにある念仏を目指したい」
と言っていたけど、これって、無心で称える念仏って事なんですか?詳しく説明キボンヌ
96名無しさん@1周年:02/03/15 20:07
>>94

>自力とか他力とか、平生とか臨終とか、それをすべて乗り越えたところ
にある念仏を目指したい都思う。

言ってることがよくわかりません。特に自力、他力を超えたっていうとこが。
前出の分別を超えたととらえるなら、既存の念仏とは
全く異なる性質のものですね。>>95さんの言う「無心の念仏」とも
異なりますし。
ぜひ>>95さんとともに、きちんとした説明をいただきたくお願いします。
97渡海 難( p0859-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/15 21:41
人間の計らい事を排除した念仏は、南無阿弥陀仏。
人間の計らい事を排除しない念仏も、南無阿弥陀仏。
心温まる念仏も、南無阿弥陀仏。
心温まらない念仏も、南無阿弥陀仏。
智者がはからって称える念仏も、南無阿弥陀仏。
智者がはからわないで称える念仏も、南無阿弥陀仏。
すべて乗り越えた念仏も、南無阿弥陀仏。
何も乗り越えない念仏も、南無阿弥陀仏。
乗り越えたところを目指した念仏も、南無阿弥陀仏。
乗り越えたところを目指せなかった念仏も、南無阿弥陀仏。
無駄な念仏も、南無阿弥陀仏。
無駄のない念仏も、南無阿弥陀仏。
議論を伴う念仏も、南無阿弥陀仏。
議論をしない念仏も、南無阿弥陀仏。
無心で称える念仏も、南無阿弥陀仏。
雑念で称える念仏も、南無阿弥陀仏。
自力、他力を超えた念仏も、南無阿弥陀仏。
自力の念仏も、南無阿弥陀仏。
他力の念仏も、南無阿弥陀仏。
説明がある念仏も、南無阿弥陀仏。
説明がない念仏も、南無阿弥陀仏。

 みんな南無阿弥陀仏。同一に念仏して別の道無しが故に。
 説明が必要ですか?
98名無しさん@1周年:02/03/15 22:47
何も考えるなって事か?
99名無しさん@1周年:02/03/15 22:50
「念仏」が、仏名を称えることだけならはるか昔のインドからやっている。
此処は、法然が善導の釈をもとに開いた念仏門の念仏の議論をする場なのでは?
ゆえにあまりにも極端な敷衍の仕方はどうかと思います。
100念仏:02/03/15 23:22
もともとが「不可称不可説不可思議」なるものを説明する以上、
人の頭数だけ解釈があって構わないということだと思います。
法然、親鸞でさえ、万人を納得させ得る理論は提唱できなかった訳ですから。
私などは、どちらかといえば、異端に近い解釈に興味があります。
たとえば、「一念義」なども簡単に片付けられない気がします。
皆さんの解釈はいかがですか?
101ベロ ◆od7XM/js :02/03/16 01:34
>>100 同意します。あなたの異端に近い念仏解釈とはどんなものですか?
まずそれをお聞かせして下さい。僕も念仏を基礎にした独自の仏道を模索
しています。
102念仏:02/03/16 02:51
たとえば、役者が舞台の上でセリフとして唱えた念仏によっても往生する。
それを耳にした観客も皆往生する。
さらには、その劇場の床を舞う塵芥にいたるまで往生する。
そのような念仏理解が、わたしの中の異端ということです。

103渡海 難( p0472-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/16 09:09
>>98
>何も考えるなって事か?

 子曰わく。学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し(論語)。
 信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。(化身土)
 考えると言うことは、非常に大事なことでしょう。
 下手な考えは休むに似たりとも言います。「説明してほしい」の、「説明」という言葉にひっかかるものを感じていました。
 詳しい説明やきちんとした説明を求めると、相手の生きた心を見失ってしまうこともあるでしょう。

>>100
>異端に近い解釈
    これは異端なんですか?。異端ではなく正統なんですか?。

>>102    (・_・? ??…
104名無しさん@1周年:02/03/16 09:11
>>102
念仏さんの言う「異端と思われている念仏理解の念仏」の意味とは、信仰の無い念仏と、更に
信仰の無い念仏を聞いた人は往生可能だ、という事ですよね。私の考えでは、信仰があろ
うと無かろうと、名号を称えた事、そしてそれを耳で聞く事は、どちらも名号を聞いた
事になりますから、阿弥陀様の四十八願の内の三十四願・・・「たとえ私が仏に成る事が
出来ても、全ての世界の衆生が私の名を聞いて無生法忍(真理にかない形相を越えた不生不滅の
真実をありのままに悟る事)と、教えを記憶して忘れない力を得られないのであれば、決して
仏にはならない。」に叶うと思いますので、往生は出来ませんが、無生法忍の境地と仏の教え
を忘れない力は、阿弥陀様の本願のお力によって、必ず得させて頂ける物と思います。
無生法忍の境地を得る事が出来たならば、それだけでも素晴らしい功徳だと思います。やはり
往生できなくても、信仰の無い念仏を称えたり、信仰の無い名号を聞くだけでも功徳が
あるのではないでしょうか。竜樹菩薩の「十住毘婆沙論」と「菩提資料論」の中に、「般舟三昧
は父であり、大いなる慈悲と無生法忍は母であり、全ての仏の方々はこの父母から生まれる。」
と説かれているくらい「無生法忍」というのは素晴らしい境地らしいです。
というわけで、皆さん称えましょう「南無阿弥陀仏」。
105疑心念仏:02/03/16 10:23
オレはよお、浄土真宗の人達に言いたいんだがよオ、何か?あんたらのとこじゃ、
信心が第一だそうじゃねーか。オレはあんたらの言う信心ってもんがちっとも
わからねーんだ。でもな、そんなオレにも少しは信じている事があってな、信心
なんかとても持てそうにないオレでもな、何度も何度もなむあみだぶつってとなえ
続けていればな、必ず阿弥陀さんはオレん事救ってくれるんじゃねーかなって思って
期待してとなえているんさ。それって浄土真宗的に見ればどうなんだ!?
106渡海 難( p0472-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/16 10:42
>>105
 あなたは浄土真宗にご不満をお持ちのようですね。
 残念ならば、今の本願寺の坊さんには信心がないようだ。特に2茶に来る坊さんは、インターネット上でキンタマを晒して殺人を教唆している。いくら不景気とはいえ、人が死ぬことばかり期待している。これじゃあ、檀家も泣くよ(笑)。
 あなたは、そういう現状に憤りを感じたようです。
 疑心念仏さん、あなたも「座禅念仏」をしてはいかがでしょうか?座禅念仏をしながら、一緒に親鸞仏教について語りましょう。会費は4000円で結構です。坊さんに支払うお布施よりも安いですよ(苦笑)。
 よかったら、僕のホームページにも遊びに来てください。
 http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
 また、2茶でも親鸞仏教のスレがありますので、ぜひ一度ご覧下さい。
 http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1012997700/
107疑心念仏:02/03/16 12:19
>>106
唐突すぎて、オレの方が何か面食らった感じになったが、お気持ちだけ頂いとくよ。
オレは「座禅念仏」はする気になれん。あんたは「黄檗宗」の人なのかい?
108名無しさん@1周年:02/03/16 13:20
>107
>あんたは「黄檗宗」の人なのかい?

渡海難は「黄檗宗」ではなく「念仏宗渡海会」の教祖らしい。
「座禅念仏」だとか「ああ先生」だとか言ってるのは渡海だけです。
109名無しさん@1周年:02/03/16 13:50
>>105
>信心なんかとても持てそうにないオレでもな、何度も何度もなむあみだぶつってとなえ
続けていればな、必ず阿弥陀さんはオレん事救ってくれるんじゃねーかなって思って
期待してとなえているんさ。

それは、少なからず阿弥陀仏におすがりしようと言う気持ちがありますね。
それもまた信心だと思います。あ、私は真宗の人ではありませんが。
110疑心念仏:02/03/16 14:58
>>109
>>それもまた信心だと思います。

そのおすがりする気持ち自体が、オレのような凡人から湧いたり、生まれたりする事なんて
考えられネーとオレは思うんだ。となるとよ、そういうおすがりする気持ちが出て来たり、
念仏したりする事自体、阿弥陀さんがさせてるって思うんだよ、オレはね。

たぶんなー、今まで長い間生まれ変って来て、その中でどんな罪を犯したかもしんねーオレ、
そしてこれからも生まれ変って罪を犯すかもしれないオレに対してよ、「もうそんな事しなくて
いいんだ、お前の罪は私が赦してやる。お前が生きてきた上で、食べたり殺したりして来た諸々の
生き物に対する罪も、なんもかんも、全部赦してやる。そして私の国に生まれ変ることを許可する。
その証しはお前が称えた「南無阿弥陀仏」なんだぞ。わかったか。」って阿弥陀さんはよー、
言ってくれてるような気がするんだわ。そしたら、オレがこれからどうなろうと、野田れ死のうと、
念仏を忘れようと、なんか関係無いような気がするんだわ。でもオレは念仏するんだよね。
なんで念仏するんだろなー。やっぱ心のどっかじゃ安心してねえ証拠だと思うんだ。でもそれって
しょうがねえ事なんだと思うし、それが往生の邪魔になるってんだったら、もうオレの力じゃ
どうしようもねえやな。そのまんまで念仏するしかねえと思っているよ。
111ベロ ◆od7XM/js :02/03/16 16:02
疑心念仏さんの>>110 の文章からは浄土真宗の信心に近いものを感じます。
>念仏したりする事自体、阿弥陀さんがさせてるって思うんだよ、
こう言う考え方を他力廻向の信心と言うのだと思います。

それとここにいる皆さんにお尋ねしたいのですが、生まれつきの障害などで
口称念仏が出来なかったり、幼くして念仏や信心に出遭う前に亡くなった
幼児などは往生できるのでしょうか?僕は阿弥陀仏の本願の中にはこういう
人々の存在をどう規定してるのかがよくわかりませんが、十方衆生を救済する
のが本願なら口称念仏が絶対条件にはならないのではないかと思うのですが
皆様はいかがお考えでしょうか?
112渡海 難( p0767-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/16 16:04
>>106
 名前を勝手に使われるのは不愉快です。
 107さん。偽物は相手にしないで下さい。
 p0472-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp部分が太字なのは、いたずら坊主のトリックです。
113 :02/03/16 16:19
>>112
>107さん。偽物は相手にしないで下さい。
誰もあんたの相手なんかまともにしてないよ。気にするな。

>p0472-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp部分が太字なのは、いたずら坊主のトリックです。
「いたずら坊主のトリック」の根拠を示せ。
114名無しさん@1周年:02/03/16 16:29
106は渡海の考えや気持ちを代弁したものと思われ>>112
115渡海 難( p1010-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/16 17:38
>>104
>無生法忍の境地と仏の教えを忘れない力は、阿弥陀様の本願のお力によって、必ず得させて頂ける物と思います。

 なるほど。無生法忍の境地が得られた暁には、2CHに御報告いただけると嬉しいですね。私も指折り数えてその日をお待ちいたしましょう。
 「おれは往生は出来なかった。でも無生法忍の境地は得た」。こういう方が出現すれば、親鸞に始まる浄土真宗も、考え方を根本から変えなければいけなくなりますね。

>往生できなくても、信仰の無い念仏を称えたり、信仰の無い名号を聞くだけでも功徳があるのではないでしょうか。

 どのような功徳があると考えられますか?。「往生できなかった。でも、功徳があった」。ハテ?。往生もできずどんな功徳があるんでしょう?(微笑)。

>>105
>期待してとなえているんさ。それって浄土真宗的に見ればどうなんだ!?
          <浄土真宗的に見れば、期待してとなえているということじゃありませんか?>
116渡海 難( p1010-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/16 17:39
>>106
 はて?あなたはどちらの渡海さんですか?。偽物は不愉快ですね。

>残念ならば、今の本願寺の坊さんには信心がないようだ。

「残念ならば」というのは「残念ながら」の誤記?。
 信心のある坊さんなら、他人の名前を騙ることなんてことはしないだろう。信心のない坊さんの典型は、まさにアンタのことだよ。
 「お釈迦様は出来損ない」「役立たず」。お釈迦様に対して坊主がこんな暴言を吐くのは、本願寺の坊主以外にないだろう。「残念ながら」などと、他人事でのんきなことを言っている場合じゃないぞ。

>これじゃあ、檀家も泣くよ(笑)。

 檀家の泣き声が聞こえれば、真宗教団にも革命が起こるんでしょう。目あっても見えず、耳あっても聞こえず、だな。これじゃあ、檀家も泣くよ(笑)

>疑心念仏さん、あなたも「座禅念仏」をしてはいかがでしょうか?

 まず、106の偽渡海さんよ。それは貴方から始めればいいんじゃないですか?

>坊さんに支払うお布施よりも安いですよ(苦笑)。

  お寺へのお布施は、一生涯、一族全員で総額4000円を上限とするという運動を2CHから開始しましょうか?。
117渡海 難( p1010-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/16 17:40
>>107
>オレは「座禅念仏」はする気になれん。     <どうぞご自由に。>

>あんたは「黄檗宗」の人なのかい?
  <座禅して念仏申すべし(教行信証 行の巻 「法事儀讃」ご引用 参照)。親鸞思想の核心です。>

>>111 :ベロ
>信心に出遭う前に亡くなった幼児などは往生できるのでしょうか?

 こういう人も往生できないといけませんか?。往生できないとどうなるんですか?往生なんかできなくても、支障無いでしょう。
 生老病死には共通しても、人の縁は千差万別です。往生できる人生もある。往生できない人生もある。往生なんてことは、取り立ててどうこう心配するような問題じゃない。
118ヘロ ◆wRDoh60M :02/03/16 17:40
お坊さんが多いね
119ベロ ◆od7XM/js :02/03/16 18:00
>>117
そうですか、渡海さんにとっては往生は心配するような問題じゃないのですね。
そりゃそうですね、クリスチャンやムスリムが往生するわけないか。
ただ浄土教的には往生浄土しないとまた輪廻して苦の三界から解脱できないと
思います。あっそうか!解脱できないんなら念仏が称えられる生を得るまで
輪廻すればいいだけか、なるほど。
120渡海 難( p2108-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/16 20:05
>>119
>渡海さんにとっては往生は心配するような問題じゃないのですね。
          <じたばたするような問題じゃないということでしょうか。>

>クリスチャンやムスリムが往生するわけないか。

 そういう方面からの説明的切り口もあったのかと、いま感心しました(笑)。往生と言っても、それ自体は、大それたことでも何でもない。単に枠組みの問題だ。
 念仏を称えられなければ、念仏を称える人にはなれない。野球する人が野球人。小説を書く人が文士。仏道を行じる人が仏道人。仏道を行じないひとは、仏道人の仲間とは言えない。ただそれだけのことですよ。

>また輪廻して苦の三界から解脱できないと思います。

 なるほど。
 苦の三界なんか存在しないのさ(笑)。苦の三界なんてのは、念仏を称える人の、念仏を称える上での説明的概念と考えればいい。

>念仏が称えられる生を得るまで輪廻すればいいだけか、なるほど。

 往生も空、三界も空、輪廻も空。みんな空。一切皆空。それだけの話さ。
 「仏法には無我」と、仰せられ候う(蓮如)。
 諸法の性は一切空無我なのさ。一切空無我だけど、なお専(もっぱ)ら浄仏土を求めようと決めたんだ(大無量寿経)。これが阿弥陀仏を仰ぐ僕らのスタンスなんだ。
 お坊さんなら、檀家の方から質問があったとき、相手が分かるよう応えられるように、よく考えておいてみてくださいな(笑)。
121修阿弥陀仏:02/03/16 20:44
>>100
多念を否定する一念義は異義であり邪義であろうと思います。
本来の一念義というのは、信の一念ということを強調したに過ぎないのではないかと想像しています。

>>102
こういうものは念仏ではないと私は否定します。

念仏は自発的なものであるべきです。つまりそこには、それがどのようなものであれ、信があるべきだと思います。

>>111
そのような問いは、自身の出離の問題が解決してから問うべきことです。
122名無しさん@1周年:02/03/16 22:13
>>121さん、質問させてください。
「念仏は自発的なものであるべきです。信があるべきです。」との事ですが、それは誰の
どのような説を根拠として、言われているのですか?また、どうして念仏は自発的で
なければならないのか、信があるべきなのか、その理由までお教え頂ければ幸いに存じます。
123疑心念仏:02/03/16 22:30
>>121

ちーとあんたに聞きたいんだがよオ、オレも念仏してるがな、オレの中にはちーっとも
信ってやつが見つからねえんだな、だからな、オレは「なむあみだぶつ」そのものが阿弥陀
さんの信心そのものだと、それを頂戴する思いでな、称えるしかねえわけだよ、これが。
何となくだが、わかるだろ?わかってもらえるだろ?オレはよ、阿弥陀さんの信心ってやつはよ、
「オレ(阿弥陀さん)は絶対にお前等を救う事が出来るぞ!」っていう阿弥陀さんが自分の
救いの力ってやつを信じてる心って事なんだよ。大体おれらがよオ、阿弥陀さんの慈悲
とか本願とか、信じたって、本当にそれが心から純粋なけがれのないものなのか、わかり切って
ることじゃねーか。だからよ、オレはオレの中にちーとも阿弥陀さんの事を信じるまことの心
なんてものはさらさら無い事をおもったわけよ。そんなおれは一体どうすりゃいいのよ?
念仏するしかねえじゃねーか。念仏することでよ、そこに込めて下さっている阿弥陀さんの
信と行を頂戴する思いで称えるしかねえんだよな。こんなオレだが、あんたの信じる念仏から
見ればどうなんだい?教えてくれよ。頼むぜ。
124疑心念仏:02/03/16 22:51
>>121

あと「一念義」と「多念義」についてはな、オレも思っていた事があるんだ。多分な、一念義を
言い出した人ってな、たった一回の念仏で、すげえ安心の境地って奴がえられたんだろうな。
だから、一念で良いんだと言うようになっちまったんじゃねえかなあ。
でもよ、一念でなければ駄目だ、とか多念でなければ駄目だとか、どうして阿弥陀さんでもねえのに
言えるんだテメエは、とオレなんかは思っちまうんだよなあ。一念で安心する人はそれでいいし、
多念してる人はそれはそれでまたいいんじゃねえかっていうのがオレの考えだな。
大事なのはなあ、みんな阿弥陀さんに救ってもらう存在なのに、どうして一念とか多念とか
であらそわなくちゃいけねえんだ、争う必要無えだろって事なんだよな。今更そんな事で争う奴は
いねえだろ、まさかな。いつの時代だよ!ってな感じよ。
125名無しさん@1周年:02/03/17 00:45
>>111
絶対条件ではありませんね。
阿弥陀仏は、十方の衆生救済を完成して仏になったのですから。
口称念仏の能力の有無は、過去数多の諸師が述べていますが、
最終的に、口に称えることができなくても心に念ずればよし、
だったと思います。
126名無しさん@1周年:02/03/17 00:57
>修阿弥陀仏さん 
「他力」という考え方は、疑心念仏さんの>>123に言うところの
完全に信心することもままならぬ下根の我々だが、阿弥陀仏の方から
信じさせていただく、そういうところまで突き詰めたら行くんじゃないでしょうか。

とどのつまり、念仏も仏の方から称えさせたまうもの、なのかもしれません。
「自分から念仏を称える」ことに自力の要素を見出しておられる方もいるでしょうし。
心ならずも、「嗚呼、南無阿弥陀仏」といってしまうような感じですか。
絶えず自身の能力に疑いを持ちつつも、阿弥陀仏にすがってみようと思う。
そんなのも一つの姿だと思います。
ちなみに疑心念仏さんの言うところの念仏は西山義くさい部分も見えますね。
127宇都御魂 ◆ZK38QLd. :02/03/17 01:31
>113
 自らIPまたはリモートホストを明かすキャップ「fusianasan」を使うと、
細字でIPまたはリモートホストが表示される。それをコピペした場合は
太字で表示される。

#「fusianasan」を使って表示されたIPまたはリモートホストは、
#削除対象になる「個人情報」とは見なされないことを付け加えておく。
128念仏:02/03/17 07:17
「念仏は自力にあらず」というのが、法然、親鸞の到達点だと考えます。
それは、同時に「信もまた自力にあらず」という意味だと解釈しています。
その信は、人間の信ではなく、阿弥陀の信です。
人は1日24時間阿弥陀を信じ続けるわけにはいきませんが、
阿弥陀は、1年365日念仏者を守護しています。
私は、それを「他力の信心」と呼んでいます。
そのあたり、疑心念仏さんと近いものがありますね。
129疑心念仏:02/03/17 11:04
オレはな、念仏ってのは、阿弥陀さんの長い長い菩薩時代の数々の行とな、その行を
なし終えた上に得た功徳とな、その間、阿弥陀さん(法蔵菩薩さんだな)が少しも汚い
思いを起こさずに、まことの心ときれいな心で修行されたっていうその心とな、念仏
する奴等は、オレが絶対に救ってやる、オレならば必ず救う事が出来るんだゾ!というな、
阿弥陀さんの絶対の自信の信心がな、念仏に全て込めてくれてるんだと思うんだな。

それにな、念仏ってのは、おれにとっちゃ、「オレの国へ生まれ変る事を許したぞ!その証明
がお前が一番始めに言った念仏なんだぞ。オレが許したから、お前はオレの名前をとなえられ
るんだぞ。だからなあ、自力の念仏とか、他力の念仏とか言いやがるやつがいるが、念仏は
オレが称えさせるから称えられるんであってな、自力も他力もねえんだよ。でもな、お前等は
凡夫で煩悩深けえくせに、そのくせ念仏に自力とか他力とかつけやがる。念仏にはそんなものはねえ!
念仏はオレ(阿弥陀さん)が称えさせてるんだよ。その上で称えたい奴は称えろよ。それはオレが
お前等を呼んでいるんだ。称えなくても安心してる奴等はそれでいいよ。その安心はオレが与えた
安心なんだ。称えたきゃ称えろ。称えたくなきゃ無理して称えんな。どっちにしても、お前等は
オレの国へ来る事は間違いねえんだよ!そしてそれまでは、みんなオレの腕の中にいるんだよ。
わかったか!!」っていう阿弥陀さんの声そのものなんだな。みんなオレの妄想よ。でも、
オレはそう思っている。あ〜なむあみだぶつ〜なむあみだぶつ
130jh:02/03/17 11:16
念仏は人間ごときの勝手な解釈を超越している。
131名無しさん@1周年:02/03/17 11:30
なんで?
132修阿弥陀仏:02/03/17 12:11
>>122
そもそも本願の文に「信楽」とあるのに、誰の説かと問われてもちと困りますが、まあここは法然上人の選擇集から挙げておきますと、
「涅槃之城には信を以て能入と爲す」
これです。

次に、どうして念仏は自発的で信が無ければならないのか。
以下私の考えです。
ちと極端な譬えかもしれませんが、たとえば憲法の第一条に、国民はすべて念仏を称えなければならない、と記されたとしてください。
このようにして称えられた念仏をも念仏として認めてしまうと、言葉が変かもしれませんが、信教の自由を侵し、宗教の尊厳を損ない、念仏の価値を下げることになってしまいます。
これはオウム真理教が政権を獲っていた場合を想像していただければ容易にお分かりになるかと思います。

法然上人は日に六万遍も称えておられましたが、弟子にそれを強要はされませんでした。
親鸞聖人は、命がけで訪ねて来た人々に、面々のおんはからいなり、と言われました。

ということで、よろしいでしょうか。
133名無しさん@1周年:02/03/17 12:26
>>130
しかし、念仏に様々な解釈をつけて称えないと称えられない人間がいる事も事実である。
何も考えないで念仏だけ称えたくても、出来ない人もいる。よって、念仏に対する解釈
はそれぞれであって良いと思う。それを人に説くのも自由。無視するのも自由。共感す
るのも自由。現に「座禅念仏が親鸞思想の核心です。」と説く>>117みたいな人もいる。
でもみんな念仏を称えている事は共通しているようだ。という事は、どのような解釈を
念仏に対して持っても持たなくても、念仏する事は大事みたいな気がする。念仏に解釈
を持っても持たなくても、お助け下さるのは阿弥陀佛ですよね。だったら、その人その人
が念仏を称えやすい解釈を自分で持つのは全然構わないと思う。このスレはそういう解釈
を自由に発表出来る場所じゃ無かったの?違ってたら、スマン。

あ、もちろん私の意見に対して皆さんが自由に批判するのもまた、自由って事ね。
私も批判したい時は批判させてもらうし、意見を述べますんで、よろしく。
134修阿弥陀仏:02/03/17 12:27
>>123
人をあんた呼ばわりするような無礼な人間からの問いには答えない。
しかしまあここは2ちゃんであるから、一回だけお答えしよう。

>こんなオレだが、あんたの信じる念仏から見ればどうなんだい?
あなたは最低に近い人間だ。
阿弥陀さまから信と行とをいただいてお念仏していながら、信の方はともかく、阿弥陀さまからいただいた行を同じくする者に対する口の利き方を知らないとは。

露悪趣味はあまりいい趣味ではない、と書いておこう。
135122です:02/03/17 12:50
>>132修阿弥陀仏さん、お答えありがとうございます。
それでは、重ねて質問させて下さい。では、信心の無い念仏、ただ役柄上、称えなければ
ならない「念仏」というものは、弥陀の回向の念仏では無いのでしょうか?もしも、弥陀の回向
の念仏ではないとすると、どうして罪悪深重の凡夫が、自分の力というか、自分の自由意思で
念仏する事が出来るのでしょうか?そもそも罪悪深重の凡夫が、自分で念仏を称える事など不可能
なんじゃないかなと思います。だから、称えた念仏は弥陀の回向の念仏なんだと私は理解していま
した。それは間違っているのでしょうか?どうかお教え下さい。
136名無しさん@1周年:02/03/17 13:03
>>134
疑心念仏さんのいうこともよくわかるけどなぁ。
言葉遣いはまぁおいといて。
二人称に普通に「あんた」を使う土地もあるんだし
あんまり過剰反応はよろしくないような。
「信」といっても思いこみの「信」だとて有るわけだし、
自分の信心への懐疑は認めるべきだと思います。
信有ってからの念仏はいいのは当たり前ですが、
法然上人も「いいからまず称えてみなさい」と言ってたのですから
そこまで毛嫌いすること無いと思います。
罪悪生死の凡夫なんですから、十把一絡げに「念仏は信だ」とのたまわっても
詮無きことでしょ。
137修阿弥陀仏:02/03/17 13:14
>>126
突き詰めたら行くというよりも、他力というのは、仏法は無我、というのと関係あると思います。もともとそういうものでしょう。

無意識に称えるようなものだけが他力だとは思いません。称えようと思って称える念仏も他力だと思いますよ。

>絶えず自身の能力に疑いを持ちつつも、阿弥陀仏にすがってみようと思う。
>そんなのも一つの姿だと思います。
いろんな姿があって当然です。
しかし念仏の信心は自身を見定めるものなので、自分に疑いを持つということはありません。
もし誤解があれば申し訳ありません。

しかし私、他力を話題にしていましたっけ。

>>133
同意。ただ、
>その人その人が念仏を称えやすい解釈を自分で持つのは全然構わないと思う。
これはどうだろうか。いいような気もするし、良くないような気もする。ちと疑問。
138疑心念仏:02/03/17 13:37
>>134

こんな無礼で無知なあたしのために、お答え下さいまして、どうもありがとうございます。
無礼のほど、どうかお許しくださいよ。こうやって、知らず知らずのうちに人に嫌な感じを
与えてしまうあたしだからこそ、念仏するしかないんですよ。すみませんでしたね。それじゃ
これでおいとまさせていただきます。皆さん、あとがとうございました。

なむあみだぶつ
139修阿弥陀仏:02/03/17 14:03
>>135
どういたしまして。またお答えします。

>信心の無い念仏、ただ役柄上、称えなければならない「念仏」というものは、弥陀の回向の念仏では無いのでしょうか?

>>102のような例で言えば、違います。台詞を読んでいるに過ぎないのに、どうして念仏と呼べましょうか。

>もしも、弥陀の回向の念仏ではないとすると、どうして罪悪深重の凡夫が、自分の力というか、自分の自由意思で念仏する事が出来るのでしょうか?

>>102のような例で言えば、それは言葉を発することができるなら、字を読むことができるなら、誰にでもできるでしょう。すでに念仏とは呼べないのに、罪悪深重の凡夫とかは関係ありません。

>そもそも罪悪深重の凡夫が、自分で念仏を称える事など不可能なんじゃないかなと思います。だから、称えた念仏は弥陀の回向の念仏なんだと私は理解していました。それは間違っているのでしょうか?

間違ってはいないと思いますよ。ただあなたは、>>102のような例を念仏だと誤解されているだけです。
140修阿弥陀仏:02/03/17 14:09
>>138
さようなら。お元気で。
なむあみだぶつ
141122です:02/03/17 15:16
>>135お答え頂いてありがとうございます。
それでは、重ねて質問させて下さい。
信心の無い、>>102のような「念仏」と、弥陀の回向の「念仏」では、何がどのように
違うのか、また、>>102の「念仏」を、弥陀の回向の「念仏」とするためには、一体
何が必要なのか、阿弥陀仏の事を知る事が必要なのか、本願の由来を知る事が必要
なのか、「阿弥陀仏様、救ってください、お助け下さい。」という思いが必要なのか、それ
とも、以上のような事を知らなくても「ナムアミダブツ」と称えれば往生出来る、
という思いさえあれば良いのか、それ以外にも「ナムアミダブツ」という発音自体を、
弥陀の回向による「念仏」とするものが他にもあるのならば、それは一体何なのか、
どうかお教え下さい。重ね重ねすみませんが、よろしくお願いします。
142名無しさん@一周年:02/03/17 16:45
122は親鸞会かも? 渡海といいウザイのが集まって来た。
143名無しさん@一周年:02/03/17 17:32
>>142
ウザイのはおまえ
144名無しさん@1周年:02/03/17 17:35
si
145名無しさん@1周年:02/03/17 17:46
ne?
146ベロ ◆od7XM/js :02/03/17 20:41
伝統的な解釈では法然さんも親鸞さんも、阿弥陀仏の念仏する衆生は必ず救う
という本願を信じて念仏申すのでしょう。ただそれも多々ある念仏解釈の一つ
にすぎないのと思いますが。一遍さんは信心があろうがなかろうが法蔵菩薩が
兆載永劫の修行を成し遂げ阿弥陀仏になったことにより我々の救済は約束された
のだと解釈しますね。真宗ではこの考え方は十劫安心と言って退けられますが。
147念仏:02/03/17 21:02
たとえば「南無阿弥陀仏」と書く。それも念仏です。
その名号を読む。それもまた念仏です。
そこには弥陀の計らいがあると信じられるからです。

脚本家に、六字の名号を書かしめたもの、
役者にそれを言わしめたもの、
観客にその舞台を観る事を強いるもの、
私は、そこにも阿弥陀の計らいを感じます。
ただ、一切衆生を救わんとするには、それでもまだ不十分だと思われます。
疑心念仏さんの解釈では、どうですか?

>132
弥陀の誓願と凡夫の憲法とはもちろん比較にならないので、
論旨がかえって解り難くなっているようです。
凡夫が自発的に信じるためには、凡夫の努力が必要ですか、
それとも、それも弥陀の力によりますか、その点はどうでしょう?
148渡海 難( p0058-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/17 22:05
>> 125
> 最終的に、口に称えることができなくても心に念ずればよし、だったと思います。

 はて。??  聞いたことがない(苦笑)。
 <観念の念にも非ず 〜 疑(うたがい)なく往生するぞと思とりて申す外には、別の子さい候わず≪一枚起請文≫>


>>126
>阿弥陀仏にすがってみようと思う。そんなのも一つの姿だと思います。

「『法に依る』とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。 ≪化身土≫」
 阿弥陀仏にすがるというのはいかがなものか。阿弥陀仏ではなく、南無阿弥陀仏を大事にしたい。ただし、南無阿弥陀仏を大事しなさいよ言っても、結局は阿弥陀仏にすがっているのと実体で変わりなければ、言うだけこっちが疲れるな(笑)。
149渡海 難( p0058-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/17 22:06
>>128
>「念仏は自力にあらず」というのが、法然、親鸞の到達点だと考えます。

 はて?聞いたことがない(笑)。
 念仏の行につきて自力・他力ということあり。これは極楽をねがいて弥陀の名号をとなうる人の中に、自力のこころにて念仏する人あり。<長楽寺 一念多念分別事 隆寛律師作>

>1日24時間阿弥陀を信じ続けるわけにはいきませんが、

 はて。そうなの?
 朝の7時から8時までは信じていたけど、8時半になったら信じなくなり、午後になったらちょっと信じ、アフターファイブは、信じなくなる。そんなことってあるの?。

>阿弥陀は、1年365日念仏者を守護しています。私は、それを「他力の信心」と呼んでいます。

 守護の主体は誰?。他力の信心の主体は誰?。阿弥陀さんが主体的に守護してくれると、自分が他力の信心の主体なるの?。阿弥陀さんは手品師か?(笑)。

>>129   ??

>>132    ??
150渡海 難( p0058-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/17 22:07
>>133
>「座禅念仏が親鸞思想の核心です。」と説くみたいな人

 はて、そんなことを説く人がおるんか?。
 僕は、座禅して念仏するとは書いたが、座禅念仏は知らんなー。
 浄土真宗では、「如来禅」という。浄土真宗教団から「如来禅」が消えたのは、恐らく江戸期からだろう。蓮如さんは「如来禅」を実行していたと思う。「如来禅」をしないとあれだけのパワーは出なかったろう。
 如来禅をあなたのように座禅念仏と言っても、やることは同じだから問題はないだろう。ただ、座禅念仏と言ってると、親鸞さんの文献を読むときに混乱する人がいる。宗祖の言葉は変えない方がいい。親鸞さんの文献は関係ないという人は、座禅念仏でも、ま、いいか?(笑)。
 鎌倉の大仏さんを見てごらんなさいよ。鎌倉の大仏さんは阿弥陀仏だ。ああいう姿勢で念仏を称えましょうというのが、親鸞さんの主張だよ。
 良寛さんを尊敬するというお坊さんが2CHにいた。曹洞宗でも念仏しながら行う座禅法はある。黄檗宗も念仏しながら座禅するのさ。親鸞仏教も同じだ。おかしいとこはどこにもない?。
 真宗教団は、坊さんも門徒も、基本が分かってないようだ。

>その人その人が念仏を称えやすい解釈を自分で持つのは全然構わないと思う。

 出発点はそれぞれ自由でいい。到達点(結論)も自由でいい。ただ、途中の経路では、先人の足跡を振り返ることが大事だ。
 座禅して念仏するなどということを、親鸞はどこで言っているんだというような話は、お寺を構えている坊さんが言い出せば、認識不足も甚だしい。
 如来禅という言葉が真宗の書物から欠落するようなことは、由々しき事態だ(笑)。
151渡海 難( p0058-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/17 22:07
>>135
>ただ役柄上、称えなければならない「念仏」と     <坊さんは役柄上で念仏を称えているのかな。>

>罪悪深重の凡夫が、自分の力というか、自分の自由意思で念仏する事が出来るのでしょうか? 

 自由意思で念仏できないなら、称えなければいいじゃないですか?。
 誰も貴方にそんなこと頼んでない。

>>137
>無意識に称えるようなものだけが他力だとは思いません。称えようと思って称える念仏も他力だと思いますよ。

 無意識に念仏を称えだしたら、僕なら医者に行くよ。夢遊病は恐いからね。僕は、常に自覚的に称えたいですね。

>>139
>台詞を読んでいるに過ぎないのに、どうして念仏と呼べましょうか。    <うんうん。>
   

>言葉を発することができるなら、字を読むことができるなら、誰にでもできるでしょう。すでに念仏とは呼べないのに、罪悪深重の凡夫とかは関係ありません。    <うんうん。>

>間違ってはいないと思いますよ。     なるほど。なるほど
152渡海 難( p0058-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/17 22:08
>>141
>信心の無い、>>102のような「念仏」と、弥陀の回向の「念仏」では、何がどのように違うのか、

 立場立場で、いろいろな見え方がある。貴方の場合、弥陀の回向とは脚本家が役者に渡す芝居のセリフなんでしょう。自分は、信者を演じて念仏を称えていますということだな。信者を演じていれば芯がつかれることだろうな。

>弥陀の回向の「念仏」とするためには、一体何が必要なのか、

 弥陀の回向とは芝居のセリフなんだと思っているなら、何も必要ないでしょう。
 貴方にとって、信心とはお芝居なんでしょうね。芝居の割には、檀家は高い観劇料を払いすぎているんだろう。詐偽みたいなもんだな(笑)。

>重ね重ねすみませんが、よろしくお願いします。

 「ナムアミダブツ」と称えれば往生出来る、という思いがなければ往生できん。思いがあれば往生する。思いがなくても往生する。思いがあっても往生できん。
 思いを離れて南無阿弥陀仏。

>「ナムアミダブツ」という発音自体を、弥陀の回向による「念仏」とするものが他にもあるのならば、それは一体何なのか、どうかお教え下さい。重ね重ねすみませんが、よろしくお願いします。

 おっしゃる意味が分かりませんね。
 「ナムアミダブツ」という発音以外、弥陀の回向による「念仏」とするものが他にもあるのならば、それは一体何なのか。そんなものはない。そう言いたいのですか?。
 「ナムアミダブツ」という発音以外には、脚本家の阿弥陀さんが役者に回向配布したセリフはないでしょう、と仰りたいのですか。貴方には念仏の心が見えないようだ。
153NB:02/03/17 22:09
さて、

喜ばんでも念仏すればお浄土に参れるんかのう。の問いに、庄松同行のたまわく。
「おお、参れるとも。参れるとも」
そしてやや間をおいてまたのたまわく。
「しかし喜ばんでお浄土に参らせてもろうたら、御阿弥陀様にあえた時にはずかしくは
ないかいの。」ってね。
154NB:02/03/17 22:13
ああ、またかぶった。まじでケコーンしましょか。渡海さん。
155渡海 難( p4182-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/17 22:29
>>154
>ああ、またかぶった。まじでケコーンしましょか。渡海さん。
      <コマッタナ。女房に相談してから返事するよ>

>>147 名前:念仏 :02/03/17 21:02
>たとえば「南無阿弥陀仏」と書く。それも念仏です。
        <書写念仏?。聞いたことがない(笑)。諸行雑修だな。>

>その名号を読む。それもまた念仏です。
        <読誦の念仏?聞いたことがない(笑)。諸行雑修だな。>

>そこには弥陀の計らいがあると信じられるからです。
     <「それも念仏です」という人の計らいが感じられるな(笑)。>

>そこにも阿弥陀の計らいを感じます。

 脚本家に六字の名号を書かしめたものは、原作者の計らい。役者にそれを言わしめたものは、脚本家の美意識。

>観客にその舞台を観る事を強いるものは、  <できそこないの三文芝居と暇つぶし>

>ただ、一切衆生を救わんとするには、それでもまだ不十分だと思われます。
     <一欠片もないと思うけどな(笑)。>

>それとも、それも弥陀の力によりますか、その点はどうでしょう?。
     <称えてみれば分かるでしょう(笑)。>
156念仏:02/03/17 22:32
念仏者が、転向して、たとえば熱心なキリスト教の信者になったとします。
かれは、往生できますか?
157渡海 難( p4182-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/17 22:44
>かれは、往生できますか?

 キリスト教でも仏教でも、幸せな一生を過ごせればそれでいいんじゃないですか。
 極楽往生できても、不幸な人生を過ごせば悲しいことだ。極楽往生できなくも、幸せな生涯を過ごせれば、それが一番いいでしょう。
 往生できるかどうかは、本質じゃない。他人の知るところでもないでしょう。
158名無しさん@1周年:02/03/17 23:01
>>148
言葉のあやの部分がありすまんこってす。
> 最終的に、口に称えることができなくても心に念ずればよし、だったと思います。
 はて。??  聞いたことがない(苦笑)。
私も聞いたこと無いです(苦笑
ただ称えることができなくても往生できる、と言いたかっただけです。

>観念の念にも非ず
は観想の話であってこの話とは筋が違います。

>阿弥陀仏をたよる
真宗では弥陀を「おや様」と呼ぶではないですか。
子が親を慕うが如く、我々が弥陀をたよることに不可解な部分は無いと思うのですが。

>この法に随うべし、人に随うべからず。
法(教え)とは阿弥陀仏の総体・慈悲そのものとらえてますが
この場合阿弥陀=人なのですか?
159念仏:02/03/18 06:42
>往生できるかどうかは、本質じゃない。
渡海氏は、浄土真宗とは無縁の方のようですね。
160念仏:02/03/18 07:04
>幸せな一生を過ごせればそれでいい
世の中には、「親鸞の人生が幸福だったのか」という問題より、
「親鸞の教説によって往生できるのか」という問題に興味を持つ人もおりますよ。
私は、渡海氏の人生の幸不幸には興味がありませんし、
渡海氏の幸せ教にも関心はありません。
161名無しさん@1周年:02/03/18 11:47
渡海さんに質問なんですが
念仏宗渡海会と
この2chにスレのある念仏宗無量寿会の
ちがいってなんですか?

162修阿弥陀仏:02/03/18 12:43
>>136
申し訳ないが、おっしゃりたいことがよくわからない。

>>141
またお答えします。
先にも書いたように、あれは念仏とは言えません。念仏でないものと念仏とがどう違うか。>>102の例で言えば、芝居と現実、嘘と真でしょう。
また、念仏でないものを念仏にすることはできません。
念仏は何かに何かを付け加えれば念仏になる、そういうものではありません。
念仏は始めから念仏です。加えるものなど一つもありません。
あえて言うなら、あなたのはからいを捨てることです。
163修阿弥陀仏:02/03/18 12:47
>>147
分かりやすいようにと思って憲法とテロ集団を出したのですがかえっておかしくなったでしょうか。
自発的でない・信の無い念仏を認めると、強制的に称えさせられる念仏のようなものでも肯定することにつながってしまうのではないか、ということなんですが。
たとえば念仏宗の独裁政権が誕生したとして、まさか独裁政権が押し付ける念仏も弥陀の計らいなどとは言われませんよね?

さて質問にお答えします。
努力は必要です。しかし阿弥陀さまのなさることですから、その努力は無効に終ります。

>>156
キリスト教信者になったのなら、キリスト教の天国へ逝かせてあげてください。
往生できると言っても、できないと言っても、すでにキリスト教徒なら意味がないです。
164名無しさん@1周年:02/03/18 15:03
いまさらだが
>渡海氏
>>128
>「念仏は自力にあらず」というのが、法然、親鸞の到達点だと考えます。
 はて?聞いたことがない(笑)。
そりゃ読んだことがなければ、聞くこともないだろう。
他力が自力の反対語で無いというなら、知らんが。
他力だからこその念仏宗だろう。
そうでないのであれば、渡海さんのいう念仏において親鸞・法然の引用を
することに全くの説得力を欠く。
しかし、意味のない引用が好きだね。
165念仏:02/03/18 22:22
>たとえば念仏宗の独裁政権が誕生したとして、
>まさか独裁政権が押し付ける念仏も弥陀の計らいなどとは言われませんよね?
私は、個人的には、その念仏も弥陀の計らいであると考えます。
法然、親鸞の念仏も、修阿弥陀仏さんの念仏も、渡海氏や親鸞会の念仏も、
同じ弥陀の計らいとしての念仏であると考えております。

>キリスト教信者になったのなら、キリスト教の天国へ逝かせてあげてください。
>往生できると言っても、できないと言っても、すでにキリスト教徒なら意味がないです。
人間の不信に、弥陀の本願を妨げる力があるとお考えですか?
166名無しさん@1周年:02/03/18 22:32
>念仏宗渡海会と
>この2chにスレのある念仏宗無量寿会の
>ちがいってなんですか?

基地害が悪徳かの違いです。
前者(渡海会)は教祖が基地害で、後者(無量壽会)は信者に大金を巻き上げる悪徳集団です。
ちなみに、いずれも教義・信念・雰囲気は異常なくらいカルト的です。
167渡海 難( p0729-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/18 22:56
>>158
>称えることができなくても往生できる、と言いたかっただけです。
  <称えない場合にはどのようにすると往生できるのでしょうか?。>

>観想の話であってこの話とは筋が違います。

 観想してもだめ。でも、心に念じれば往生できるということでしょうか?。あなたの言う観想は、心に念じないでどのように行うことでしょうか?

>子が親を慕うが如く、我々が弥陀をたよることに不可解な部分は無いと思うのですが。

 僕には、坊さん教の「おや様」という言葉感覚が昔からよく分からないんですよ。
 おや様というのは門徒が頼っていくところの何かということでしょうか?。
 「おや様」議論の原点は、多分、次の考え方にあると僕は思う。
 「徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。
 真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。」
 これは「頼ろう」ということじゃないでしょう。

>この場合阿弥陀=人なのですか?

 「  〜 にすがってみよう>>126」というのは、相手を人格として観念している言葉だと考えます。
 「こんどのロケットは、月の引力の法則におすがりして月の引力圏に到達させよう」などとは言いません。
 「鈴木宗男先生はロシヤに有力なコネがあるそうだ。北方禁漁区での漁獲許可について鈴木宗男先生に裏からおすがりしてみよう」
 こういう言い方をする。
 「すがる」というのは、かりそめにも人格として捉えている言葉でしょう。
168渡海 難( p0729-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/18 22:57
>>159
>渡海氏は、浄土真宗とは無縁の方のようですね。

 貴方の浄土真宗と僕の浄土真宗は、名前が同じで紛らわしいが、別の宗教なんでしょう。貴方の浄土真宗は、人の幸福を軽視し、血も涙もない教条主義なんでしょう。こういう宗教は世の中にたくさんある(笑)。

>>160
>渡海氏の人生の幸不幸には興味がありませんし、渡海氏の幸せ教にも関心はありません。

 渡海氏の人生の幸不幸に興味が無くても、全く困らないでしょう。でも、幸不幸に興味が無くなれば、体には血も涙も流れなくなる。宗教裁判の悪代官となって、宗教の奴隷になるのはこういうタイプだ(笑)。

>>161
>念仏宗渡海会とこの2chにスレのある念仏宗無量寿会のちがいってなんですか?

 申し訳ないが、僕は宗教学者ではないんだ。どっちも知らない。聞いたこともない。関心もない。
 あなたが坊さんなら、あなたの方が宗教の専門家として詳しいだろう。

>>162
>あえて言うなら、あなたのはからいを捨てることです。

 これができれば、日本中の真宗の坊さんは一人も困らない。日本中の真宗の坊さんが困ってるのは、だれもこれができないからなんじゃないのか(笑)。
169渡海 難( p0729-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/18 22:58
>>163
>しかし阿弥陀さまのなさることですから、その努力は無効に終ります。
   <?? 阿弥陀さまのなさること ?? 阿弥陀様が何をなさるの。手品でもするのかな(笑)>

>キリスト教の天国へ逝かせてあげてください。    <??誰が??  天国?どこ??> 

>>164
>他力だからこその念仏宗だろう。     < ? >

>>165
>同じ弥陀の計らいとしての念仏であると考えております。

 弥陀とはなにかという概念が問題になりそうですね。
 165の念仏さんが考える阿弥陀と、浄土教の先人の考えていた弥陀と同じである必要はないんだが、新たな概念を創設するなら、その違いを明確する必要がありそうだ。

>人間の不信に、弥陀の本願を妨げる力があるとお考えですか?    <何が言いたいのかな?>

>>166
>いずれも教義・信念・雰囲気は異常なくらいカルト的です。 <信謗ともにあるべし。>
170念仏:02/03/19 00:24
>何が言いたいのかな?
下記のような支離滅裂な文章を書かれる人にも解るように書くのは至難の技です。

>「ナムアミダブツ」と称えれば往生出来る、という思いがなければ往生できん。
>思いがあれば往生する。思いがなくても往生する。思いがあっても往生できん。
>思いを離れて南無阿弥陀仏。
野狐禅の類でしょうか。

>名前が同じで紛らわしいが、別の宗教なんでしょう。
私もそう思います。
幸福を切り売りして浄財を集める渡海氏のような新興宗教も
今の世の中には多すぎると思いますね。

>幸不幸に興味が無くなれば、体には血も涙も流れなくなる。
渡海氏が、私の幸不幸に興味をお持ちだとは思いませんでした。
渡海教勧誘の奥の手ですか?
171NB:02/03/19 01:30
夢に前々住(蓮如)上人仰せられ候ふ。
一大事にて候ふ。今の時分がよきときにて候ふ。ここをとりはづしては一大事と
仰せられ候ふ。畏まりたりと御うけ御申し候へば、ただその畏まりたるといふ
にてはなく候ふまじく候ふ。ただ一大事にて候ふよし仰せられ候ひしと云々。

名号のほかに領解なし。ってね。。…「聞」ね。浄土真宗だと。
我称え、我聞くなれど南無阿弥陀。必ず救うの親の喚び声。
172修阿弥陀仏:02/03/19 12:59
>>165
驚いていますが、あなたは念仏を押し付けていれば、それがヒトラーでも北朝鮮でも、その念仏は弥陀の計らいだとおっしゃるわけですか?
世界中に、念仏宗以外の仏教徒や、仏教以外の宗教の信者がたくさんおられますが、その人たちに無理矢理念仏を押し付けても、それは弥陀の計らいだとおっしゃいますか?
もしそうなら、私には念仏に対する冒涜としか思えない。
そういうものは念仏ではありません。

さて、ご質問にお答えします。
本願を妨げるほどのものはありませんが、本願を信じない人までを救う本願ではありません。「至心信楽」と、本願の文にあります。
光明遍照十方世界ではありますが、念仏衆生摂取不捨でもあるのです。
よろしいでしょうか。
「人間の不信」に、弥陀の本願を妨げる力はありません。
しかしその本願は、キリスト教徒を無理矢理極楽へ引っ張り込むようなものではありません。
そもそも世界観が違うのです。なぜキリスト教徒を往生させなければなりませんか。
173名無しさん@1周年:02/03/19 13:37
>>168
>>念仏宗渡海会とこの2chにスレのある念仏宗無量寿会のちがいってなんですか?

>申し訳ないが、僕は宗教学者ではないんだ。どっちも知らない。聞いたこともない。関心もない。


やっぱり渡海は宗教板の鈴木宗男だ!自分がやってきたことを全くわかっていないよ。
174名無しさん@1周年:02/03/19 16:06
>>172
光明遍照の文には2通り読み方があります。
一概に念仏申さぬ人を切り捨てるのではありませんよ。
175渡海 難( p4113-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/19 19:20
>>170
>支離滅裂な文章を書かれる人にも解るように書くのは至難の技です。

 そうですか。なるほど。僕の書き込みが支離滅裂に貴方には見えましたか。なるほど、なるほど。うん。うん。表現とは難しいものですね(微笑)。

>野狐禅の類でしょうか。    <苦笑>

>幸福を切り売りして浄財を集める

 私には他人様に切り売りできるような幸福などはありません。幸福は、自分だけで手一杯です。浄財を集めようにも商品がありません。
 「独裁政権が押し付ける念仏も弥陀の計らいである。法然、親鸞の念仏も、修阿弥陀仏さんの念仏も、渡海氏や親鸞会の念仏も、同じ弥陀の計らいとしての念仏であると考えております」。
 新たな阿弥陀さんの計らいを次々と発明生産できれば、それを売却して商売は繁盛するんでしょうけど。僕には商才がありませんよ(苦笑)。
176渡海 難( p4113-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/19 19:21
>渡海氏のような新興宗教も今の世の中には多すぎると思いますね。

 はて?。何十年後の夢物語をご想像ですか。
 来年の話をすれば鬼が笑うというのに。何十年も経てば僕は死んでますよ(笑)。

>渡海氏が、私の幸不幸に興味をお持ちだとは思いませんでした。

 僕はあなたご本人の個人的な幸不幸には興味がありません。
 相手の幸不幸に関心がない教条主義者から話を聞かされ、お布施まで払わないといけないとなると、貴方の回りの方の不幸に哀れさを感じます(笑)。

>渡海教勧誘の奥の手ですか?   <いやいや。同情心です。>
177渡海 難( p4113-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/19 19:22
>>171
>我称え、我聞くなれど南無阿弥陀。必ず救うの親の喚び声。

 これは僕の>>167に応える書き込みですか?。もしそうなら、ご配慮だけは有り難く頂戴しておこう。

>>173
>やっぱり渡海は宗教板の鈴木宗男だ!自分がやってきたことを全くわかっていないよ。

 そんな大物じゃないよ(笑)。

>>174
>光明遍照の文には2通り読み方があります。

 読み方が2通りあったらどうだって言うの?。貴方にとって阿弥陀の救いは言葉のパズルでしょうか?。
>>172の主張には心があると思いますよ。
178念仏:02/03/19 19:50
>僕はあなたご本人の個人的な幸不幸には興味がありません。
それでは、
>幸不幸に興味が無くなれば、体には血も涙も流れなくなる。
というのは、どなたの幸不幸のことですか?
渡海氏ご自身の幸不幸に限定されるわけですか?
「渡海氏の幸不幸に興味を示さない人の体には血も涙も流れなくなる。」
それが渡海教の幸福論いうことですか?
179名無しさん@1周年:02/03/19 20:00
>>177
パズルとは面妖な。
阿弥陀仏の救いは「衆生を差別する」といった観念を超越してますよ、
と言う意味です。
180名無しさん@1周年:02/03/19 20:49
>>178-179
渡海の相手をしないほうがいいです。疲れるだけです。
渡海は人の話をまともに聞こうとしていないので、何を言っても無駄です。無視しましょう。
181念仏:02/03/19 21:06
>172さんへ
もしも、ヒトラーが念仏申していれば、
彼は、その念仏のゆえに往生すると考えます。
もっとも、日蓮宗などと違って、
政治と念仏は相容れないものだとは思いますが。

>本願を信じない人までを救う本願ではありません
>「人間の不信」に、弥陀の本願を妨げる力はありません。
この矛盾を、もう少し説明していただけませんか?

>なぜキリスト教徒を往生させなければなりませんか。
キリスト教徒を持ち出したのは、あくまで例えです。
拝火教徒でも、いわしの頭教でも、無心論者でもかまいません。
「念仏者が念仏を捨てたら、弥陀の本願力は及ばないのか?」
という質問のほうが主体です。
つまり、人間が念仏を捨てるという行為によって、
往生を拒否することができるのであれば、
その行為は、弥陀の本願力に勝るということにならないか?
という問題提議なわけです。
182ベロ ◆od7XM/js :02/03/19 21:21
>>181 念仏さん、
設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚。唯除五逆誹謗正法。
というのが本願文です。という事は「私の国に生まれたいと思わない者」は往生できない
のは当然でしょう。念仏を取り入れようが、捨て去ろうが面々のおんはからいというものです。
人間が念仏を捨て去ればその人は往生できない。それだけです。
183念仏:02/03/19 21:31
>至心信楽、欲生我国、乃至十念
この三信は、人間の信ではなく、阿弥陀の信だと思いますが。
184念仏:02/03/19 22:36
信ではなく、心でした。
185NB:02/03/19 23:06
>>184
ちなみにつっこみどころはも一つあるけど、
そういうことなんか、基本的には忘れたいものだと思いますね。。
186名無しさん@1周年:02/03/20 12:32
これは宗教板の他のスレでもいえるけどさぁ、
だいたい、キティでも人権があるとかって感じで擁護するヴァカがいるのが
渡海のようなのを暴れさせている原因だろう。
オウムの時もいたじゃん。擁護するアフォな学者がさ。
キティの話を聞くのもいいが、それがほんとにまともなことなのかよく見極めろよな。
187修阿弥陀仏:02/03/20 12:37
>>174
その読み方を教えていただけないでしょうか?
考えてみましたがわかりません。
どう読んだところで、念仏衆生が摂取不捨されることに変りはないと思うのですが。

>>181
ちょっと誤解を招く書き方だったようですみません。
ヒトラーの方ではなくて、押し付けられる国民の方です。

さて、お答えします。
>本願を信じない人までを救う本願ではありません
というのは、至心信楽の本願だからです。>>182のベロさんの説明にほぼ同意します。
>「人間の不信」に、弥陀の本願を妨げる力はありません。
というのは、それはやがて信ずるに到るからですね。
すでに救われた人あり、今救われる人あり、まさに救われるべき人あり、というところでしょう。

>「念仏者が念仏を捨てたら、弥陀の本願力は及ばないのか?」
及びません。
念仏往生の本願ですから、念仏しないものを往生させるわけではありません。
ただ念仏者が念仏を捨てることはあり得ませんが。それができるのは、本願を信じていない場合だけでしょう。
本願を信じていないわけですから、当然、至心信楽の本願からは除外されるわけですね。

しかし念仏さんの問いはおかしなものとしか思えないです。
私は外国へ行くのをやめた。だから私は飛行機の力に勝っている。
これと同じようなことを言われているとしか思えないのですが。
188修阿弥陀仏:02/03/20 12:46
>>185
もし私のカキコに間違った引用があれば訂正して欲しいです。
如来や祖師に対して申し訳がないですから。
189名無しさん@1周年:02/03/20 16:33
いいスレ
190渡海 難( p3066-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/20 18:24
>>178
>どなたの幸不幸のことですか?

 たとえば、熱心なキリスト教の信者に転向した念仏者(>>156)などです。あるいは、貴方が坊さんなら、貴方の説教を聞かされるお宅のお檀家の方々の幸不幸です。
 「浄土真宗の教えは嫌い」。「念仏なんかは馬鹿らしい」。こういう人は少なくない。人にはそれぞれ生まれながらの好みがある。そういう人に対しては、往生がどうのこうのという議論は意味がない。浄土真宗などは嫌いでいい。念仏なんかは馬鹿らしいでいい。
 そう言う人はそう言う人なりに、自分が本当に幸福になっていく道を、念仏以外で見つけれてくれれば、共に喜んであげようじゃありませんか。
 念仏がどうのとか、往生がどうのとか言っても意味がない。幸福になれる道が見つからないで困っていれば、浄土真宗も念仏も外したところで、往生も外したところで、その人が幸福になれる道を共に模索してあげよう。
 往生するかどうかなどというのは、本質的な問題ではない。往生というのは、念仏する僕らが念仏する上で、念仏を説明するための説明的概念に過ぎない。
 「浄土真宗の教えは嫌い」「念仏なんかは馬鹿らしい」と言っている人も、御縁があれば、やがて浄土真宗の教えに振り返ってくる。念仏の素晴らしさに目覚めてくる。時間がかかる。かかる時間はだれにもどうしようもない。邪魔しなければいい。それが宿善開発だ。
 宿善無宿善の機を考えないと、話に無理が出る。頑固な教条主義になる。相手に対して血も涙もなくなるでしょう。
191渡海 難( p3066-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/20 18:25
 当流の他力信心の一通りを勧めんと思わんには、まず宿善無宿善の機を沙汰すべし。されば、いかに昔より当門徒にその名をかけたる人なりとも、無宿善の機は信心取り難し。誠に宿善開発の機は、自から信を決定すべし。
 されば無宿善の機の前においては、正雑二行の沙汰をするときは、却りて誹謗の因となるべきなり。この宿善無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間の人をも憚からず勧化をいたすこと、もってのほかの当流の掟にあい背けり。

 二つには、人を勧化せんに、宿善無宿善の二つを分別して勧化をいたすべし。この道理を心中に決定して保つべし。

 これによりて当流の心は、人を勧化せんと思うとも、宿善・無宿善の二つを分別せずは徒ごとなるべし。このゆえに、宿善の有無の根機をあい図りて、人をば勧化すべし。
192渡海 難( p3066-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/20 18:26
>>179
>阿弥陀仏の救いは「衆生を差別する」といった観念を超越してますよ、と言う意味です。
      <それならそれだけ言えばいい。変な理屈をつけるとおかしくなる。>

>>183
>この三信は、人間の信ではなく、阿弥陀の信だと思いますが。

 阿弥陀の心だ、人間の心だと言っても、みんなこれは説明的な概念に過ぎないでしょう。諸法の性は空無我。空無我と通達すれども、専ら浄仏土を求めようじゃありませんか。それじゃそう決心したとき、浄仏土を求めることはどう説明しようか。
 阿弥陀の信も人間の信も、説明のため文脈の途中を語る目的で考えられている途中概念に過ぎません。そうではありませんか?。違いますか?。


>>186
>渡海のようなのを暴れさせている原因だろう。

 渡海から目が離れない。考えることはいつも渡海の事で頭が一杯。186の貴方のような熱烈な渡海ファンが2茶にいらっしゃる限り、僕の2茶での発言は止めてはいけませんよね(微笑)。

>オウムの時もいたじゃん。擁護するアフォな学者がさ。キティの話を聞くのもいいが、それがほんとにまともなことなのかよく見極めろよな。

 186のような馬鹿は死ななきゃ治らない。
 186のような馬鹿につける薬はないということでしょう。
193必知本願:02/03/20 20:01
>>141
ただ単に「ナムアミダブツ」とか「なむあみだぶつ」とか「南無阿弥陀仏」という
文字だけを称えれば救われるんだ、と説いても、それでは全くその人本人は救われる
事など無いし、信心を頂く事も出来ない。なぜならば、それだけではただの文字の羅列
にすぎず、称えてもそれはただの発声にすぎない。名号を名号たらしめているのは、
文字そのものなのではなく、阿弥陀如来の本願が、名号を名号たらしめているのである。
だから、念仏を人に伝えるには、念仏の元となっている、念仏の救いの力の本源である、
阿弥陀如来の本願(の生起本末、由来、いわれ)を共に伝えなければ、念仏を伝えた事には
ならないのである。そしてその事を知った、伝えられた人が「なむあみだぶつ」と称えて
こそ、初めてそれは「念仏」となるのである。念仏が最初にあるのではなく、阿弥陀如来
の本願が初めにあって、その後に生まれたのが名号であるからである。本願のいわれを知らず、
ただ称える「なむあみだぶつ」など、何にもならない。本願を知って称えてこその念仏なので
ある。だから人に阿弥陀如来の本願を伝える事が必要になってくるのである。もしもそれが自力
の妄執なのであれば、「なむあみだぶつ」と称えれば救われると伝える事も自力ではないだろうか?
本願のいわれと共に、だから「南無阿弥陀仏」と称える事が大切なのだと説く事は、すべて仏恩報謝、
仏恩賛嘆の行為である。そこには自力はない。念仏より優れた善行などないからである。一遍智真が
ただ「南無阿弥陀仏」と書いた札を配るだけで、特に阿弥陀如来の本願を説かなかったのは、最大の
失敗であると言わねばならない。本願の由来を説き、名号を説く浄土真宗が栄えたのも、うなずける
気がするのである。
194NB:02/03/20 20:13
渡海氏は完璧自力っすから。
阿弥陀仏に帰命せよ。って教えられても聞かされても、
「ああその通りですね。」って答えるだけが関の山。

なんで「南無阿弥陀仏でございました。」っていえないかねぇ。
「おしえざれども自然に」ってとこに反抗してるよね。
ま、そんだけ坊さんに対して怒ってるんだ。

ああ、ちなみに「親」ってのは、ひそかに思うに「一子地」のゆえと思うよ。
って、真宗的すぎるんでやっぱsageです。

>>188
お聖教の一文字一文字を悲喜の涙で洗い清めたことのある方なんですね。きっと。
なんまんだぶなんまんだぶ。
195必知本願:02/03/20 20:16
ここにいる方々は、幾らかでも阿弥陀如来の本願を知っている方々がほとんどであろうと
思われる。大切なのは「阿弥陀如来の本願を信じる事」ではなく、『阿弥陀如来の本願を
知って、念仏する事』なのである。信心は、その後、阿弥陀如来がお与えになって下さる
のである。宗門も経文もその注釈書も僧侶の存在も『阿弥陀如来の本願を知って念仏する
事』を伝えるためにあるのであって、それ以外は付属にすぎない。阿弥陀如来はそれらを
縁として、信心をお与えになるのであって、宗門や経文や僧侶や書物が「信心」を与える
のではないからである。信心をお与えになられるのは、阿弥陀如来ご自身である。よって
信心には執着すべきではなく、説法を聞きたいときには聞き、念仏したければ念仏し、
経文やその注釈書等を読みたい時は、心のおもむくままに聞き、称え、読むが良いのである。
大切なのは「果」としての「信心」ではなく、『本願を知って念仏する事』なのである。
私はそのように思っている。
196NB:02/03/20 20:18
>>188
私の方こそ、訂正・ご指導よろしくお願いします。
197念仏:02/03/20 21:30
>182 ベロさんへ

>「仏の国に生まれたいと思わない者」は往生できないのは当然でしょう。
私などは、仏の国に生まれたいと思わない凡夫の口ですから、
往生は、阿弥陀次第と考えています。

>念仏を取り入れようが、捨て去ろうが面々のおんはからいというものです。
私の解釈では、それができないというのが、つらいところです。
半面、ベロさんをうらやましいとも感じています。

>人間が念仏を捨て去ればその人は往生できない。それだけです。
その人がしてきた念仏は、すべて無効ということですか?


>185 NBさんへ

>ちなみにつっこみどころはも一つあるけど、
>そういうことなんか、基本的には忘れたいものだと思いますね。。
是非つっこんでください。
間違っていれば訂正させていただきます。
誤りを正すに、はばかることなかれと言いますから。
198念仏:02/03/20 21:55
>187 修阿弥陀仏さんへ
>>「人間の不信」に、弥陀の本願を妨げる力はありません。
>というのは、それはやがて信ずるに到るからですね。
「押し付けられる国民の方」にも、その解釈は適用できませんか?

>私は外国へ行くのをやめた。だから私は飛行機の力に勝っている。
>これと同じようなことを言われているとしか思えないのですが。
飛行機ですか?
イメージとしては、念仏者は既に彼の国へと向かう飛行機の乗客です。
ただし、出口もなければ引き返すこともしない飛行機です。
しかも、乗客の多くは、その飛行機に搭乗していることにさえ気づかない。
199名無しさん@1周年:02/03/20 22:18
>>174
(如来の)光明は遍く十方の世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまわず。
(如来の)光明は遍く十方の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。
だったと思います。はて、どちらがどっちだったか(笑)
前者は、十方世界の衆生を念仏の衆生と捉え、後者は念仏の衆生を<差別>していたと
記憶していますが、なんせ大分前に聞いた話なので…

>>198
たくさんお念仏を称えると、飛行機が高く飛びますか?(謎笑
200渡海 難( p6074-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/20 22:31
>>194
>渡海氏は完璧自力っすから。

 まあ、別に反対はしないよ。
 完璧自力というんなら、その完璧の程度はNBさんと変わらんだろう。それとも何かえ?。「自分は絶対他力の念仏者だよ」と、あんたは僕に大見得切るんかい?。
 方向が違うだけの自分を棚に上げ、「完璧自力」と言われれば、それじゃアンタはどうなんよと、僕なんかは言いたくなるよね(笑)。どうですか?。

>「おしえざれども自然に」ってとこに反抗してるよね。 
    <何がどこまで分かったつもりで言っているんだか(笑)>

>そんだけ坊さんに対して怒ってるんだ。   <尊敬しているから、声援を送るんだよ。>

>ひそかに思うに「一子地」のゆえと思うよ。  <僕の問題提起はうまく通じてないのかな?。>

>お聖教の一文字一文字を悲喜の涙で洗い清めたことのある方なんですね。きっと。なんまんだぶなんまんだぶ。

 <抹香臭っ(笑)>
201念仏:02/03/20 23:00
>190 渡海氏へ
「渡海氏の幸不幸に興味が無い」と書くと、
「『転向した念仏者』や『お檀家の方々』の幸不幸に興味が無い」
という意味になりますか?
渡海氏はいつの間に『転向した念仏者』や『お檀家の方々』になられたんですか?

「説明的な概念」「途中概念」だから、語る価値が無いとは限りませんよ。
現に、渡海氏自身が「宿善無宿善の機」を論じているではありませんか?
それは「説明的な概念」そのものでしょう。

202名無しさん@1周年:02/03/20 23:18
>>198
大日如来を目指しても好いんでは。
それは冗談として如来とは本来、実相とか空では?
で、それを悟れないわしはいろいろ勉強したけど結局自分の直感で(正に頼りない
かぎり)なんとなく救われそうなこの教えを賜ったと仮定して(そのほうが挫折し
しにくそう)続けている。
非常に大事な教えだけど方便だということもおもいだされては?
203ベロ ◆od7XM/js :02/03/21 00:03
>>197
>私などは、仏の国に生まれたいと思わない凡夫の口ですから、
>往生は、阿弥陀次第と考えています。
お浄土に生まれたいと思わないなら、何で念仏するのか不思議です。
何かご利益でもあるとお考えでしょうか?それともお仕事でせざるを得ないのですか?

>>念仏を取り入れようが、捨て去ろうが面々のおんはからいというものです。
>私の解釈では、それができないというのが、つらいところです。
>半面、ベロさんをうらやましいとも感じています。
何で出来ないのか不思議です。
別に念仏を捨て去っても幸福に生きられる人はたくさんいるでしょう。

>その人がしてきた念仏は、すべて無効ということですか?
だから僕が引用した第18願の本願文から見れば、
お浄土に往生したいと思わない(欲生我国のない)念仏は無効でしょ?
何でもかんでも救うなんて、お経のどこにも書いてないと思います。
っていうか往生したいと思わないのに何で念仏するのか理解しかねます。
204名無しさん@1周年:02/03/21 00:57
>>203
ぼくもほんといえば無敵の肉体で敵を倒しまくり、女とやりまくりたいとの思い
の方が往生への思いより強い。
でもそんなことは無理だしそれより悟りの方がよさそうだ。
とこんなふうに僕の場合は往生したくないのに念仏するというのが成り立つんだけど
205ベロ ◆od7XM/js :02/03/21 01:28
>>204
「悟りの方がよさそうだ」と思ってる時点で仏法に縁があるのでしょう。
だから「往生したくない」というのは本音じゃないんじゃないですか?
悟りや往生なんて眼中にない人々も無数にいます。でもあなたは少なくとも
往生や悟りを意識してる。だから念仏を称える理由はあると思いますよ。
206NB:02/03/21 05:34
絶対他力の念仏者なんて知らんなあ。ぼくはただの念仏者です。
でもトカイさんは絶対自力の念仏者でしょ。

それから「親様」は喩えとしてのみ表現されていると理解されるのは
いかがなものか。って言いたかったんだけど、伝わってないかなあ。

>>197
至心、信楽、欲生の3つと書いてくれると、わかり易かったかな。っと…。


「往生したくない」が本音だと思うけどなあ。
なんなら私が今すぐ往生させて差し上げましょうか?
207渡海 難( p4089-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/21 10:25
>>201
>という意味になりますか?

 「渡海氏の幸不幸に興味が無い」というのは、渡海の個人の私生活上の幸不幸には貴方が興味は無いという意味だったんでしょうか。
 往生に優先するという幸不幸、渡海が主張する幸不幸論、そういうものには興味が無いという意味ではなかったんでしょうか。
 貴方は言う。「親鸞の人生が幸福だったのか」という問題より、「親鸞の教説によって往生できるのか」という問題に興味を持つ人もおりますよ、と。(>>160)
 興味を持つ人というのは201の念仏さんでしょう。そもそも人間は、幸不幸よりも、往生できるかどうかと言う問題の方が重要である。貴方はそういう立場を取るのではないでしょうか。
 そもそも人間と言った場合、その内実は何か。往生に優先させて幸不幸を考えてあげないといけない相手は誰か。>>178で貴方から問いがきましたのでその例を申し上げました。
 例えば156で貴方が例示したようなクリスチャン、あるいは貴方がお坊さんなら葬式の時に貴方から説教を聞かされるお檀家の方、こういう人が含まれると考えていますと申し上げました。
 こういう方々は、往生できるかどうかということは問題にならない。幸福な生活を過ごせるかどうかということが本当は大事なことでしょう、と。

>「説明的な概念」「途中概念」だから、語る価値が無いとは限りませんよ。
           <そうそう。非常に大切。>
208渡海 難( p4089-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/21 10:28
>渡海氏自身が「宿善無宿善の機」を論じているではありませんか?

 宿善無宿善というのも、説明的な概念と言っていいでしょう。
 僕が申し上げたかったことが通じてないようだ。
 往生できるかどうかは、人間にとって実は本質的な問題じゃないと申し上げたいんです。親鸞に学ぼう。仏教を学ぼうと決意した人にとって、往生は非常に大きな問題。往生という考えを通じて、僕らは先人の考え方を学ぶ。先人の知恵を学ぶ。
 しかし、親鸞に学ぼうとは考えない人もいる。仏教を学ぼうとは考えない人もいる。そういう人にとっては、往生できるかどうかなんてことは全くナンセンスなことでしょうと言いたいんです。
 キリスト教徒には全くナンセンス。ヒトラーにとっても全くナンセンスでしょう。全くナンセンスというのはおかしいことじゃない。そう言いたいんです。キリスト教徒なら、往生論をどう言いますか。多分次のように言うでしょう。
 「往生というのは、仏教者が幸福な日を過ごせるようになるための考え方の一つでしょう。キリスト教にはキリスト教なりに幸福な日を過ごせるようになるための考え方があります。ですから、あなた方のご心配はご無用ですよ」、と。
209渡海 難( p4089-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/21 10:29
 諸法は空無我。でも、人々は幸福を求めよう。幸福を求める道筋に、念仏があってもいい。キリスト教があってもいい。北朝鮮だって、政府の政策は知りませんが、国民レベルの私的な家族一つ一つには、往生とは関係がない様々な幸福と不幸があるでしょう。
 キリスト教徒にはキリスト教徒なりの幸福がある。様々な人が様々な人生をもっている。なかなか幸福が見つからないという人がいれば、一緒になって幸福探しをして上げるのも、本当はお坊さんの仕事ではないですか。
 おかしな言動をする子がいる。脅迫されて心的障害を負い、事実上監禁されているんじゃないか。そんな子がいれば見つけだしてやる。
 警察や保健所は法律がないと動けない。法の届かない市民レベルで社会運動をすることこそ、幸福探しのお寺の役割じゃないか。葬式だけが仕事じゃないだろう。
 一緒に幸福探しをしてもなかなか幸福が見つからない。そんな中で、親鸞さんの考えを学びたい、仏教を学びたいという人が出てくれば、往生はそこで始めて問題になる。
 説明的な概念、途中概念というのは、議論の出発点でもないし、終着点でもない。道の違う人に往生なんてことを持ち出せば、「それがどうしたの?」ということにもなる。往生は万民に開かれていても、万民がそれを選択しなければならないということではない。
 関係ない人には関係なくていい。途中の道はたくさん経路があっていい。往生はたくさんの経路の中の一つの話。そういうことを言いたかったんですよ。
210渡海 難( p4089-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/21 10:30
>>202
>非常に大事な教えだけど方便だということもおもいだされては?
        <方便?。そういうとまた新たな問題が出そうだな。>
211渡海 難( p4089-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/21 10:31
>>206
>だの念仏者です。  <ただの念仏者のくせに、他人(渡海)には失礼なことを言う(苦笑)。>

>でもトカイさんは絶対自力の念仏者でしょ。

 僕に同意を求めるんですか?。自力の念仏者と言われても、否定はしない。肯定もしない。自分には自分で見えない部分はたくさんある。
 「ただの念仏者です」と貴方がいうなら、「ただ」もつかない念仏者ですと、僕は申し上げましょうか。自力と言われても、他力と言われても、僕は否定しない。肯定もしない。僕の全てが僕に見えてる訳じゃない。
 貴方にも貴方に見えてない貴方がいるようだ。
 貴方に見えてない貴方も、果たして「ただの念仏者」であるのかどうか、それは誰にも分からない。「ただの念仏者」というのは、貴方に向けて演じ、貴方に見えている貴方の特定部分だけかもしない。ほかは、ただ臭いだけの念仏者かも知れません。
 ただの念仏者の念仏も、南無阿弥陀仏。
 抹香の色香をまぶしたただ臭いだけの念仏者の念仏も、南無阿弥陀仏。
 絶対自力の念仏者の念仏も、南無阿弥陀仏。
 同一念仏 無別道故

>伝わってないかなあ。  <伝わってないかも知れないね。ま、僕には大きな問題でもない。>

>なんなら私が今すぐ往生させて差し上げましょうか?
    <面白いことを言う。マンガ一休さんみたいだな(笑)。>
212渡海 難( p4089-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/21 10:32
多忙です。
 2,3日カキコできません。
213名無しさん@1周年:02/03/21 13:37
2,3日といわず、もう二度と来なくていいよ>>212
214南無阿弥陀仏:02/03/21 15:02
>>1です。皆さんのハイレヴェルな議論、ありがとうございます。
皆様のご意見を勉強させて頂きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
215修阿弥陀仏:02/03/21 18:48
>>194
とんでもないです、そんなたいそうな者ではありません、私は。
なむあみだぶつ。
よろしくお願いします。

>>198
できません。できないというより、してはいけません。
念仏は自発的・自省的・内省的なものであり、これを強制してしまうと、いたづらに念仏誹謗の罪を造らせることになります。
>>191で渡海さんが蓮如上人の御文から引用されているみたいですが、あの通りです。

飛行機の喩えはうまい喩えだとわれながら思ったのですが、うまくいかなかったようですね。
私としては、すでに乗った人、乗ろうとしている人、乗ろうか乗るまいか迷っている人、あんな飛行機なんか乗りたくもないと思っている人、などを想定します。
さらに世の中には、その飛行機とその行き先を誹謗する人たちもいらっしゃるわけです。

それで飛行機に乗るのをやめたからといって、人間が飛行機の力に勝っているというのは、おかしなことだと思うわけですね。
また私の喩えでは、飛行機に乗った人は乗ったことを知っています。
ここら辺が、念仏さんと考えが別れるところでしょうか。

しかし、
>出口もなければ引き返すこともしない飛行機です。
ということなら、念仏を捨てることはできないはずなので、念仏さんの問いは無意味になりますが。

>>199
ありがとうございます。しかしそれらの読みから、
>十方世界の衆生を念仏の衆生と捉え
という解釈を導き出すのは、そうとう無理があると思います。
今でもそういう解釈をされる人がいらっしゃるのでしょうか。
はっきりいって間違いだと思いますよ。
216NB:02/03/21 19:02
>>221
まあ、そうですね。抹香臭いって言われりゃそのとおりかもしんない。

ただ慎みて不断、そら恐ろしきことと…@蓮如上人。

ま、「同一念仏。無別道故」をひかれるならば、蓮如上人はそれを
「平座」とお釈し下さったんですけどね。
我ばかりと思いて独覚心なること、あさましき次第なり。
人はあがりあがりて、落ち場を知らぬものなり。ってね。

我が手でつかんだ念仏ほど、手放しにくいもんは無いですよ。
喜びを、昔は袖につつみけり。今宵は身にもあまりぬるかな。ってね。
217202:02/03/21 21:40
>>206
この世への未練が強すぎるんで、それまでは往生より念仏でかんべんしてください
>>210
ぼくのゆう方便は道具とか、方法とかの意味です。涅槃とか、空という本来たどり
つけそうもない境地に至るための大切な方法のひとつだと思ってます。
218念仏:02/03/21 21:46
>203 ベロさんへ
>お浄土に生まれたいと思わないなら、何で念仏するのか不思議です。
>何かご利益でもあるとお考えでしょうか?それともお仕事でせざるを得ないのですか?
浄土に生まれたいとは思いませんが、できうれば、もう一度この人の世に生まれて、
還相の回向を行じたいと願っております。
と書いてしまうと気障なので、内緒ということで。

>何で出来ないのか不思議です。
>別に念仏を捨て去っても幸福に生きられる人はたくさんいるでしょう。
自力で手に入れたものであれば、自力で捨てることもできるのですが。

>だから僕が引用した第18願の本願文から見れば、
>お浄土に往生したいと思わない(欲生我国のない)念仏は無効でしょ?
>何でもかんでも救うなんて、お経のどこにも書いてないと思います。
>っていうか往生したいと思わないのに何で念仏するのか理解しかねます。
往生したいとさえ思わない凡夫のための本願であると考えるからです。
219名無しさん@1周年:02/03/21 22:07
 
              ∧_∧  〔^^〕
               _,( ´Д`)⌒ i  |
          (⌒ ー  一 r.、!  〉
           ヽ弋 。 人 。 イ(` ー'
           〔勿\     ヽ
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     ドカ   ドカ  /   !  |'´
       ドカ    /   /|  |‖ ドカ
            (    く  !  ||‖  ドカ
           ドカ   \  i   | ‖|‖|
            ,__>  ヽヽ从/∧∧
            ⊂⌒ヽ从/ つ ゚д゚) ←>>1

220名無しさん@1周年:02/03/21 22:13
>212
暇です。でも、カキコしません。
221名無しさん@1周年:02/03/21 23:08
>>215
飛行機の譬えは、某人が浄土門の念仏の比較に引いていたからではないでしょうか?
面白い意見だと私は思って聞いた覚えがあります。

>>十方世界の衆生を念仏の衆生と捉え
>という解釈を導き出すのは、そうとう無理があると思います。
>今でもそういう解釈をされる人がいらっしゃるのでしょうか。

いますよ。たしか一部のセクトははこれに固執してたと思います。
諸師は本願文のみを以て立宗の根拠としたわけでは有りませんから。
222THE異安心:02/03/22 00:39
聖道門と浄土門という大乗二門を道綽禅師は「安楽集」で説いているが、結局はどちらも
『仏となるための道』に他ならない。浄土門は、阿弥陀仏の本願を信じ、称名する事で
浄土に往生した後、仏となる道であるとされている。しかし、私が思うに、
阿弥陀仏は南無阿弥陀仏となりて私達に働き掛けているという事であり、私達
はその働き掛けにお従いし、南無阿弥陀仏と称える事で、いずれは南無阿弥陀仏が私達を
南無阿弥陀仏と成さしめてくれるのだと思う。それは、この世でなるのか、あの世で
なるのかわからないが、そのような事は南無阿弥陀仏が成す事であるから、そのようなはか
らいがある内は、未だ仏となってはいないのだと安心して、南無阿弥陀仏と称えるが良い。
阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と成りて南無阿弥陀仏と称える衆生をば南無阿弥陀仏と成さむと誓う。
我は南無阿弥陀仏に従い南無阿弥陀仏と称えるのみ。
223修阿弥陀仏:02/03/22 19:20
>>221
飛行機の譬えはつい先日思いついただけで、「某人」という人を知りません。まあどこかで聞いた事があるかもしれませんが忘れています。

しかし、「某人」とか「一部のセクト」とか、何か怪しい響きがするんですが、ひょっとしてよからぬ人たちなのでしょうか?

またできれば、本願文以外の立宗の根拠とその諸師の名とを挙げていただきたいのですが。
224名無しさん@1周年:02/03/22 22:25
>>223
>しかし、「某人」とか「一部のセクト」とか、何か怪しい響きがするんですが
別に、怪しい人ではないですよ。
単に実名を挙げるのを憚っているだけです。

>本願文以外の立宗の根拠とその諸師の名
ほとんどの浄土門の祖師がそうですよ。
法然ならば、善導の『観経疏』の一部を立教の根拠としてます。
これがどこかというのは、いくつか説がありますが、
「一心専念弥陀名号…」が有力らしいですね〜。
225念仏:02/03/22 23:34
>214 南無阿弥陀仏さん
はじめまして。お留守の間に上がりこんですみません。
南無阿弥陀仏さんの立てられた「念仏に信は必要か?」というテーマに
いささかそそられる物がありまして、愚かしげな質疑応答をしております。
もっとも、はめをはずしたレスもありますので、
不快に思われた方々には、この場をお借りして謝罪いたしておきます。
私にも、疑心念仏さんほどの謙虚さがあればよかったのですが。
226念仏:02/03/23 00:16
>215 修阿弥陀仏さん
>また私の喩えでは、飛行機に乗った人は乗ったことを知っています。
>ここら辺が、念仏さんと考えが別れるところでしょうか。
そうですね。
正直に言えば、その喩えを理解しなかったという次第ではありません。
それで、私の解釈を書いてしまいました。

念仏と信心が自力、往生は他力という解釈はもちろん可能です。
念仏が自力、信心と往生は他力という解釈もあります。
念仏も信心も往生もすべて他力という私のような異安心もおります。
それで、皆さんは、自力と他力の境界線をどのあたりに引いておられるのか?
という点に、個人的な関心があったということです。

227ベロ ◆od7XM/js :02/03/23 00:29
>>218
>浄土に生まれたいとは思いませんが、できうれば、もう一度この人の世に生まれて、
>還相の回向を行じたいと願っております。
これは論理矛盾ですね。お浄土に生まれて仏果を得た後に大慈大悲を行ずる為に
この世に生まれてきて衆生利益する事を還相廻向というのではないでしょうか?
浄土に生まれず、再び人間界に生まれるのは輪廻というのでは?

>自力で手に入れたものであれば、自力で捨てることもできるのですが
あなたが手に入れたものでなければ、誰が手に入れたものなのでしょう?
自分を棚に上げた所に仏法はありえませんよ。
念仏の法に遭ってそれを捨て去った方もたくさんいますよ。
日蓮さん、道元さん、明恵さんなど。

>往生したいとさえ思わない凡夫のための本願であると考えるからです。
それは素晴らしい考え方だと思いますが、少なくとも浄土三部経に説かれる
阿弥陀仏(法蔵菩薩)の本願ではないですね。
古来、「縁なき衆生は度し難しと」いわれてますね。


228名無しさん@1周年:02/03/23 01:00
>>226
自力、他力で思うんだけど今こうして考えたり思ったりする際の良心とかいうもの
や思考パターンは、遠い昔に何かが(環境やその他の意思)僕たちにインプット
したものが反応しているだけで僕たちの意思そのものが自力ではありえず業とか
他力が働いているに過ぎないのかもしれませんね。
229名無しさん@1周年:02/03/23 01:09
>>224
>「一心専念弥陀名号…」
これは順彼仏願故で終わる文句。
結局は本願の文の内にある、とみえる。

しかしながら要は解釈、受け止め方。
例せば大経の細かい部分を取り上げれば、いろんな突っ込み所
がある。しかし弥陀の本願の目的を捉えれば、そこは重要視されない。
唯除五逆誹謗正法に対してもそう。
ここで除くと言い切っても、さらに弥陀は救うと、解釈する。
それは、三部経、更には善導の論釈を通しての理解であり、
一部分を挙げて、その可否を論ずる立場を取っていないのである。
230念仏:02/03/23 01:11
>206 NBさん
>至心、信楽、欲生の3つと書いてくれると、わかり易かったかな。っと…。
そうですね。ありがとうございます。

>227 ベロさん
>浄土に生まれず、再び人間界に生まれるのは輪廻というのでは?
人の世のことは、いささかなりとも経験がありますが、
往生は未だしたことがありません。
それがもし輪廻であろうとも、私にとっては、元々の話です。

>あなたが手に入れたものでなければ、誰が手に入れたものなのでしょう?
>自分を棚に上げた所に仏法はありえませんよ。
手に入れたのは勿論私です。
ただ、私が自力で手に入れたのではなく、弥陀のはからいとしてここにあるものです。
念仏は私のもののようで、じつは阿弥陀のものだと考えています。
それゆえ、私の意思や力では捨てられないと申し上げたのです。

>古来、「縁なき衆生は度し難しと」いわれてますね。
「一切衆生悉有仏性」ともいわれております。
231名無しさん@1周年:02/03/23 01:16
>223
飛行機の譬え−−

衆生は「念仏」と言う極楽逝きの切符を買う。
飛行機に搭乗し、一生懸命念仏する。
と、飛行機は動き始め極楽へ向けて飛び立つ。
さらに念仏し続けると高く飛び極楽に近くなる。
やがては極楽にたどり着く。
念仏の相続こそが往生の原動力。
232名無しさん@1周年:02/03/23 11:09
渡海難がいなくなると議論がまともに進行するなあ、このスレは。
233名無しさん@1周年:02/03/23 11:17
>>232

 だよね。でも、渡海難がいないと少しつまらないも事実。
カムバッーク 渡海!
234ベロ ◆od7XM/js :02/03/23 14:51
念仏さんは
>できうれば、もう一度この人の世に生まれて、還相の回向を行じたいと願っております。
↑のように言われるけれども、
>それがもし輪廻であろうとも、私にとっては、元々の話です。
>往生したいとさえ思わない凡夫のための本願であると考えるからです。
また↑のようにもおっしゃる。
もし還相廻向を行じたいのであれば、弥陀の本願を信じ念仏して
極楽浄土に往生して仏果を得るのが大前提ですね。
往生したいと思わない衆生を救う本願というのは仏典中のどこに根拠があるのか
示していただければありがたいです。

>念仏は私のもののようで、じつは阿弥陀のものだと考えています。
>それゆえ、私の意思や力では捨てられないと申し上げたのです。
日蓮さんが念仏の法を捨て去ったのも弥陀の意志なのでしょうか?

>「一切衆生悉有仏性」ともいわれております。
法然さんを筆頭に善導大師の系統の念仏者は自己の中に仏性や菩提心を認める
考えを持つ方はいないんじゃないでしょうか?
「罪悪生死の凡夫(中略)出離の縁あることなしと信ず」『観経疏』








235修阿弥陀仏:02/03/23 20:15
>>224
法然上人を挙げられるとは思いませんでした。しかし「一心専念弥陀名号…」なら、十方世界の衆生を念仏衆生とする解釈を導き出すのはやはり無理ではないかと。
いや、無理です。やはり、念仏衆生が摂取不捨されるんですよ。
それと『観経疏』であれば、「上来雖説定散両門之益望仏本願意在衆生一向専称弥陀仏名」、むしろこちらが立宗の根拠であると、どこかにありました。

>>226
いやあの、私もまた、念仏も信心も往生も他力、という解釈なんですが。
おそらく自力他力の解釈が念仏さんと私とで違うのでしょう。
念仏さんは、強制的に称えさせられる念仏も他力だと思ってらっしゃる?
私は、そんなものは自力の念仏でさえないと思ってます。
だいたいこんなところでしょうか。

>>228
ちと連想。
脳の活動を化学的電気信号の複雑なやり取りの集積に過ぎないとすると、歎異抄にいう善悪の宿業というものに近づいていかないだろうか。
徹底した物質主義は仏教になる、かな?

>>231
これは私の意図したものと少し違います。

>衆生は「念仏」と言う極楽逝きの切符を買う。
は同じですが、念仏は飛行機に乗る前から称えています。
実はこの飛行機は、できた時から飛んでいます。
こちらが念仏するから飛んでいるわけではないです。
むしろ、飛行機が飛んでいるから念仏する。
往生の原動力は弥陀の本願です。

>>230
>念仏は私のもののようで、じつは阿弥陀のものだと考えています。
>それゆえ、私の意思や力では捨てられない
同意します。

>>234
>法然さんを筆頭に善導大師の系統の念仏者は自己の中に仏性や菩提心を認める
>考えを持つ方はいないんじゃないでしょうか?
>「罪悪生死の凡夫(中略)出離の縁あることなしと信ず」『観経疏』
これにも同意します。
236名無しさん@1周年:02/03/23 22:26
>修阿弥陀仏さん
観経の中には「未来世一切衆生」のためにこの教えを説く
とありませんでしたか?これもひとつの説ではないでしょうか。
237NB:02/03/24 03:48
飛行機の喩えも、まあ、出拠のあることですけど、
たとえば無上宝珠の喩えで見るとどうなんでしょ。
親鸞聖人のご和讃の左訓にあるじゃないですか。
えーと、安楽仏国に至るには 無上宝珠の名号と 真実信心一つにて 無別道故とときたもう。
または、本願力にあいぬれば、空しくすぐる人ぞなき とか。
238念仏:02/03/24 10:59
>234 ベロさんへ
遅くなってすみません。

>もし還相廻向を行じたいのであれば、弥陀の本願を信じ念仏して
>極楽浄土に往生して仏果を得るのが大前提ですね。
確かに正論だと思います。
曇鸞なども、いくつかの門にわけて、還相を最後に位置づけていたようです。
ただ、阿弥陀の誓願自体は逆ですよね。自身の成仏を最後とした。
つまり、利他を先に、自利が後です。
私の愚考する往生の理想もそこにあるということです。

>日蓮さんが念仏の法を捨て去ったのも弥陀の意志なのでしょうか?
わかりませんが、そうであっても構わないとは思います。

>法然さんを筆頭に善導大師の系統の念仏者は自己の中に仏性や菩提心を認める
>考えを持つ方はいないんじゃないでしょうか?
あまり引用は好きではないのですが、
たとえば道綽『安楽集』には、「回向の義を釈すとは、
ただ一切衆生すでに仏性あるをもつて、人人みな成仏を願ふ心あり。」とあります。

>往生したいと思わない衆生を救う本願というのは仏典中のどこに根拠があるのか
>示していただければありがたいです。
仏典がお好きなんですね。
涅槃経では、「仏性」は、「大慈大悲」とも「大信心」とも解されます。
それ故私は、「仏性」を、弥陀の誓願そのものであると解釈しています。
一切衆生は弥陀の誓願によって既にして救われている。
というより、五劫もの思惟を要して念仏者限定ではすこし寂しい気がしますね。

>「罪悪生死の凡夫(中略)出離の縁あることなしと信ず」『観経疏』
たしか、機の深心のことですね。江戸時代に自力他力でもめたとか。
私はこれも他力だと考えますが、皆さんはどうですか?
239念仏:02/03/24 11:15
>235 修阿弥陀仏さん
>いやあの、私もまた、念仏も信心も往生も他力、という解釈なんですが。
>おそらく自力他力の解釈が念仏さんと私とで違うのでしょう。
>念仏さんは、強制的に称えさせられる念仏も他力だと思ってらっしゃる?
>私は、そんなものは自力の念仏でさえないと思ってます。
>だいたいこんなところでしょうか。
わかりました。すこし意味は違いますが、
私の念仏は、阿弥陀によって「強制的に称えさせられ」ております。
阿弥陀は、私を、よほど救いがたき凡夫と思われたようです。
240渡海 難( p7191-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 13:33
>>198 名前:念仏
 僕は、念仏さんの念仏に背筋の寒くなるものを感じているんですよ。
 「出口もなければ引き返すこともしない飛行機」とは、寺に生まれ、僧侶になることを運命付けられ、僧侶以外に生きる道の無い自分という意味でしょうか?。
 乗っている飛行機には安心ができない。そこは貴方にとって窮屈そのもので、楽しい世界じゃないようだ。不安がいっぱいな世界。それなのに、自分の意思を離れて飛行機は勝手に飛び続ける。停止させたら真っ逆様に墜落する。停止させることもできない。
 そんな哀れさが伝わってくるカキコでした。
 「乗客の多くは、その飛行機に搭乗していることにさえ気づかない」とは、本当はいつ墜落するか知れないのに、自分と一緒に人々はそれに乗っているという意味ですか。不安さだけが伝わってくる。
241渡海 難( p7191-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 13:34
>>215 :修阿弥陀仏
>これを強制してしまうと、いたづらに念仏誹謗の罪を造らせることになります。

 意味不明のことを言う人だ。念仏誹謗の罪を造らせるのは誰?。造らされるのは誰?。念仏誹謗の罪って造らされたり造らされなかったりするものなの?。

>>216 名前:NB
>抹香臭いって言われりゃそのとおりかもしんない。      <素直な坊やだね(笑)>      

>ただ慎みて不断、そら恐ろしきことと…@蓮如上人。     <何が言いたいのかな?>

>蓮如上人はそれを「平座」とお釈し下さったんですけどね。  <どうかしましたか?。>

>人はあがりあがりて、落ち場を知らぬものなり。ってね。

 渡海は小乗の聖者であるとおだてているのか。揶揄しているのか(笑)。

>つかんだ念仏ほど、手放しにくいもんは無いですよ。  <奥歯に挟んだ言い方をする人だ(笑)。>

>>217    <珍分漢分>
242渡海 難( p7191-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 13:34
>>218 名前:念仏
>もう一度この人の世に生まれて、還相の回向を行じたいと願っております。

 生まれとか、家に関係なく、お仕着せの人生でなく、役者として念仏を称えなくてもいい本当の自分の人生をもう一度一からやり直したい。そんなお気持ちなんでしょうか?。奥歯にものを挟んだ言い方でしか言えないところが、念仏さんの病巣が深刻なところだ。

>自力で手に入れたものであれば、自力で捨てることもできるのですが。

 自分の意思にかかわらず、たまたまお寺に生まれたためにお寺が捨てられない。自分の意思で仏教を選択できる人が羨ましい。そんなお気持ちなんでしょうか?。


>往生したいとさえ思わない凡夫のための本願であると考えるからです。

 こんな自分だけど、あるいはこんな自分だからこそ、本当に救われたい。そんなお気持ちですか?。
243渡海 難( p7191-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 13:35
>>222 名前:THE異安心
>結局はどちらも『仏となるための道』に他ならない。

 聖道の諸教は、在世正法のためにして、全く像末・法滅の時機にあらず。既に時を失し機に背けるなり。時を失し機に背けると言う言葉の意味を噛みしめたい。

>いずれは南無阿弥陀仏が私達を南無阿弥陀仏と成さしめてくれるのだと思う。

 南無阿弥陀仏と成さしめてくれる?。ハテ?南無阿弥陀仏って何?
 忍者は「ドロン」と称えて煙になる。坊さんは、南無阿弥陀仏と称えて南無阿弥陀仏になる?
 坊さん宇宙人の考えは常人の思考の域を越えている(笑)。

>この世でなるのか、あの世でなるのかわからないが、

 この世で念仏になる?。あの世で念仏になる?。生きながらに念仏になる?。死んだら念仏になる?。どういう頭の構造をしているんだか?。頭がおかしいのか、幼いのか。ま、幼いんだろう(笑)。

>南無阿弥陀仏が成す事

 南無阿弥陀仏が成す事?。はて?。南無阿弥陀仏が何をどのように成すのかな?。頭がおかしいのかな。ま、幼いんだろう(笑)。

>そのようなはからいがある内は、 〜 我は南無阿弥陀仏に従い南無阿弥陀仏と称えるのみ。

 地球に来襲した異星人が、夢遊病に罹り、恍惚状態で宇宙と意味不明の呪文を交信中?。地球のお寺を基地にして宇宙戦争ごっこでも始めますか(笑)
244渡海 難( p7191-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 13:36
>>224
>法然ならば、善導の『観経疏』の一部を立教の根拠としてます。

 立教ってどういうことでしょうか?。新セクトを立てるということでしょうか?。
 新セクトを立てるという意識は、覚如あたりの親鸞後継者から生まれてきた概念じゃないでしょうか?。
 法然に立教開宗の意識があったとは思えません。彼にはその必要もなかった。親鸞は、比叡山で堂僧という位置にしかなかった。その後、親鸞は僧籍が剥奪されている。無名の親鸞思想が、体制内で認知される可能性があるなどと誰にも考えられなかった。
 しかし、親鸞思想の後継者達は、親鸞没後、その考えを歴史の闇に消滅させることが耐えられなかったようだ。親鸞思想を社会的に認知させるにはどうするか。後継者は、既存の枠外の新セクトとして発言する外に選択肢はなかっただろう。
 新セクトとして体制仏教の枠外に出るという動きは、親鸞廟の墓守である覚如のあたりから出てきた。
 親鸞思想の後継者達は、既存体制の枠外で新セクトとして発言し、やがて民衆の大きな支持を受ける。民衆の大きな支持を受けると、それは体制仏教の中ではむしろ厄介者扱いになってきた。本願寺はしばしば焼き討ちに合う。
 親鸞仏教が名実共に体制仏教の中で認知されたのは明治からだ。幕末には恐らく多くの坊さんの血が流れた。勝ち馬に乗った宗門は、流血という大きな犠牲を払っても大成功を得た。
 本願寺はそれまで、天台宗青蓮院の末寺という地位に組み込まれ、封建国家制度的には腫れ物のようにして枠が嵌められていた。本来、仏教はセクト主義とは相容れない。
 明治以後、浄土真宗は一宗として認知されたと言っても、本願寺は青蓮院の末寺という封建体制の地位から独立してるんだろうか?。枠がはずされたとき、時既に遅く、腫れ物は既に事実上、呼吸を止めていた。
 蓮如没後、教団は如来禅という釈迦、善導、法照、宗祖以来の念仏の方法論を封印してしまっていた。それで宗教的な人材が育たなくなっていたのだろう。封印理由の一つには、徳川期、禅宗との確執があったんだろう。
245渡海 難( p7191-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 13:37
 今は本願寺と青蓮院との関係に法的な本寺、末寺関係は無いんだろうと思う。実体はよく知らない。しかし、戦前はまだ残ってたんじゃないか。戦後も、法主は青蓮院で得度する。精神的な末寺意識は、関係者の中で戦後も続いているんだろう。
 天台宗、律宗、浄土宗、禅宗、真言宗、日蓮宗、こういう日本仏教各宗派が、セクト的意識を持ち始めるのは、覚如、蓮如が指導する一向宗の動きに対抗するためだったと聞いている。
 ヨーロッパでカントはカント哲学を開き、ヘーゲルはヘーゲル哲学を確立する。しかし、カントはカント宗を立教したんじゃない。ヘーゲルはヘーゲル宗を立教したんじゃない。新たな哲学の提唱とセクトの創設とは別の問題だ。
 法然は選択本願念仏宗を興行した(歎異抄)。あくまで、称名念仏運動を提唱したのであり、称名念仏宗教を創設したのではない。
 今は亡き元東大総長の茅さんが、昔、小さな親切運動を起こした。茅さんは小さな親切運動宗教を創設したんじゃなく、進んで他人に小さな親切をしましょうと提唱していたのだ。
 大隈重信は早稲田大学を創建し、福沢諭吉は慶応大学を創建した。しかし、彼等は早稲田大学宗を立教したのではない。慶応大学宗を立教したのでもない。セクト・運動・思想を混同すると間違える。法然は選択本願念仏宗を興行した。
 法然はあくまで、称名念仏運動を提唱したという次元で捉えないと本質をはき違えるだろう。
246渡海 難( p7191-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 13:37
>>226 名前:念仏
>念仏も信心も往生もすべて他力という私のような異安心もおります。

 自分には信じられないのだ。念仏も称えられない。称えても念仏に心が入らない。称えても、念仏演技として称えているような感じなんでしょうね>>147。そのくせ、僧侶職から抜け出すことも出来ない。飛行機の出口はふさがっている。停止させれば人生が失速する。
 こんな自分だ。こんな自分だからこそ救われたい。こんな惨めな自分こそを救ってくれるはずの本願だったんじゃないか。どうして救ってくれないんだ。ああ、不安だ。心配だ。焦燥感があるんでしょうか?。


>>227 名前:ベロ
>これは論理矛盾ですね。お浄土に生まれて仏果を得た後に大慈大悲を行ずる為にこの世に生まれてきて衆生利益する事を還相廻向というのではないでしょうか?

 ベロさん。仏教というのはね、相手の論理を聞くんじゃない。相手の論理を聞くことも大事だけど、それ以上に、相手の生きた心の叫びに耳を傾けることが大事なんですよ。心に耳を傾けようね。

>念仏の法に遭ってそれを捨て去った方もたくさんいますよ。日蓮さん、道元さん、明恵さんなど。

 <昔の偉いお坊さんを引き合いに出しても意味がない(笑)。相手の心の叫びを聞きましょう>

>>234 名前:ベロ
>往生したいと思わない衆生を救う本願というのは仏典中のどこに根拠があるのか示していただければありがたいです。

 あなたはいつから仏典教におなり遊ばしたんじゃ?(笑)。
247渡海 難( p7191-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 13:38
>>233
>カムバッーク 渡海!   <ありがとう!> 

>>235:修阿弥陀仏
>念仏さんは、強制的に称えさせられる念仏も他力だと思ってらっしゃる?。

 心を聞こう。念仏さんは、称えさせられる念仏しか称えられないんじゃよ。しかも、飛行機は出口が塞がっている。坊さんという枠組みの中から出られなければ、救いは阿弥陀さんしかないじゃろ。
 阿弥陀さんが救ってくれなかったら、念仏さんはどうすればいいんじゃ?。
 称えさせられる念仏しか称えられない自分を早く救ってくれよ。念仏さんにはそんな思いがあるんじゃろう。

>同意します。
>これにも同意します。    <苦笑>


>>237 名前:NB
>または、本願力にあいぬれば、空しくすぐる人ぞなき とか。

 本願力にあえば、本当に「空しくすぐる人」はないんでしょうか?。念仏さんは空しくすぎているんじゃないでしょうか?。
 現実を忘れて効能書きに浮かれている時じゃないでしょう。本願力にあっても空しく過ぎている人は山ほどいる。それは念仏さんだけじゃない。本当はNBさん、貴方がその一人じゃないと言う保証はどこにもない。この現実をあなたはどう考えますか?。
248渡海 難( p7191-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 13:39
>>238 名前:念仏
>利他を先に、自利が後です。私の愚考する往生の理想もそこにあるということです。

 他人のお仕着せではない人生を出なおしてのびのびと生きたいということでしょうか?。
 貴方の場合、自分が何を感じ、何を考えているのか、仏教の言葉に振り回されずに自分の日常の言葉で考えることが大事だ。
 あなたは、坊さんに向かない。坊さんを辞めれば飛行機は落ちるが、落ちた先は地上だ。極楽ではないが、地獄でもない。貴方が自分の気持ちに正直になるなら、飛行機を落とすことも選択肢の一つだ。飛行機を落としたときに本当の救いが見えてくる。
 「信にまた二種あり 〜 。一つには道あることを信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて「信不具足」とす」。
 貴方の回りには、得道の人がいないようだ。これでは信が育たない。
 「いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じて未だ六部を信ぜず、このゆえに名づけて聞不具足とす。
 仏教も本質的には聞きかじりでしかないようだ。自分で納得できる信を得ることは並大抵のことじゃ不可能だろう。

>引用は好きではないのです。 <ここは貴方のいいところだ。貴方は自分で考えたいと思っている。> 

>仏典がお好きなんですね。

 ベロさんは頼るものが欲しいだけでしょう。信心に自信が持てないのは念仏さんと同じだ(笑)。ベロさんは自分に自信がないもんだから、経典の字句に頼ろうとする。念仏さんはなんとか自分で立とうとしている。自分で考えようとしている。
 その点ベロさんよりは救いが近そうだな(笑)。

>私はこれも他力だと考えますが、皆さんはどうですか?     <僕とは他力の定義が違うようだ。>
249渡海 難( p7191-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 13:42
>>239 名前:念仏
>私の念仏は、阿弥陀によって「強制的に称えさせられ」ております。阿弥陀は、私を、よほど救いがたき凡夫と思われたようです。

 強制的という。貴方には嘘いつわりなく見えている自分があるようだ。見えているところがあるということは大事なことだ。見えているところが袋小路の中だけというのが救いのなさだ。
 念仏さんはいう。幸不幸よりも、往生するかどうかということの方が大事だと。他人の幸不幸を心配する余裕は自分にはない。そうだろう。こう見えていると、坊さんとしての自分の問題だけで手一杯。他人の幸不幸を心配する余裕はないでしょう。
 坊さんなどは一日も早く辞めた方がいい。寺の権利の買い手は、現代では多いと聞く。売ったお金を元手にし、死ななくていいから還相回向の身となったつもりで一日も早く新たな人生を歩むことを勧めます。
250名無しさん@1周年:02/03/24 14:28
独演会?
251渡海 難( p2076-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/24 14:34
>独演会?
  聴衆は水を打ったような静けさか?。
  そんなことはあるまい(笑)。
252名無しさん@1周年:02/03/24 14:53
↑こいつホント自意識過剰だな
253こちらは、“とかい”と読むのですが:02/03/24 15:40
渡海紀三郎 衆議院議員(自民)  兵庫選挙区第10区(高砂市)

政治改革を求め、一度は離党し、今は無き「新党さきがけ」に入るも3年後の総選挙
で落選  
浪人中、自民党に復党し前回総選挙で返り咲く


254名無しさん@1周年 :02/03/24 15:55
>>253
 http://money.2ch.net/seiji/
 ↑ こちらがいいでしょう。
 http://kaba.2ch.net/giin/
 ↑ こちらでもいいでしょう。
255修阿弥陀仏:02/03/24 20:16
>>236
ありますね。
でもそれが一つの説になっているかどうかは知りませんし、「十方世界の衆生」を「念仏衆生」と解釈するにはそれだけでは足りないと思います。
念仏衆生が摂取不捨されるからこそ、「未来世一切衆生」のために念仏の教えを説くわけですね。
そもそも、「十方世界の衆生」がそのまま「念仏衆生」なら、念仏の教えを説く必要がなく、法然上人の立宗もあり得ないわけですね。

>>237
そのご和讃は、意味がわかりません。名号と信心とで一つなのか、二つなのか。
たぶん名号が信心で一つだと思うんですが。
ところで、左訓てなんですか?

>>239
>私の念仏は、阿弥陀によって「強制的に称えさせられ」ております。

言わんとされることはわかります。
それを言うなら何を隠そうこの私もそうですよ。
誰が好き好んで仏法など聞きますか。
嫌々ながら、嫌々ながら聞いてきたのに、この南無阿弥陀仏のありがたさ。
あなたも南無阿弥陀仏、こちらも南無阿弥陀仏。ありがたいですなあ。

>>238
機の深信も他力です。
ちなみにしつこいようですが、自由意志で称える念仏も他力です。
自由意志を抑圧して称えさせられるものは念仏とはいいません。
256ベロ ◆od7XM/js :02/03/24 23:41
渡海さん、 
>ベロさん。仏教というのはね、相手の論理を聞くんじゃない。
>相手の論理を聞くことも大事だけど、それ以上に、相手の生きた
>心の叫びに耳を傾けることが大事なんですよ。心に耳を傾けようね。
残念ながら僕は渡海さんほどのたくましい想像力は持っていません。
念仏さんの書き込みから寺族の人だと決めつけ、不安で、心配で、焦燥感があり
救いようのない袋小路の中にいる哀れな人だから、そう言う人の心の叫びに耳を
傾けようと言われても、念仏さんに失礼かなと思う遠慮もありますし。

>ベロさんは頼るものが欲しいだけでしょう。
>信心に自信が持てないのは念仏さんと同じだ(笑)。
>ベロさんは自分に自信がないもんだから、経典の字句に頼ろうとする。
>念仏さんはなんとか自分で立とうとしている。自分で考えようとしている。
>その点ベロさんよりは救いが近そうだな(笑)。
以前、僕のちっぽけな自信は仏教に出遭う事によって粉々に打ち砕かれてしまいました。
今は謙虚に仏典に説かれる教えに耳を傾け様と思っています。僕はまだそんな段階
なんですね。渡海さんのように自信満々という境地には程遠い段階です。でも自分の
信仰に自信が持てるようになれば、しっかり自分の考えを構築していこうと思います。
渡海さんのお言葉はありがたく頂戴いたします。
257名無しさん@1周年:02/03/25 00:08
法然に立宗の意識がない?
選択集に書いてあることは出鱈目?
それとも私の読み違い?
意識改革が必要ですか?
258NB:02/03/25 00:12
>>257
いーえ。単に渡海氏の読み足らずです。(断言
259名無しさん@1周年:02/03/25 00:19
>>255
月の光は雲や山に遮られたりしますが、常に分け隔て無く照らしてくれているもの。
弥陀のはからいに気づけば、誰もが弥陀の救いにあずかる衆生なのでは。
そういった大慈悲に対する感謝のあらわれが念仏という所もあります。

そういうふうでは念仏申す甲斐がありませんか?
260ベロ ◆od7XM/js :02/03/25 01:15
>>258 NBさん、
>いーえ。単に渡海氏の読み足らずです。(断言
いや、でも渡海さんほど、伝統的な解釈を無視(というか自己流に解釈)して
独創的(というか変てこりん)な仮説を打ち立ててる方も珍しいと思います。
それが良い悪いという問題じゃなく、
僕はこういう渡海さんの(思想ではなく)姿勢だけは見習う所もあるなと思います。
まあ、伝統宗派の方々には渡海さんのような人が増えるのは大迷惑でしょうが。
261NB:02/03/25 02:15
おやベロさん。こんばんわ。はげどうっすよ。

ただ、べつに迷惑ではないです。個人的には。
262渡海 難( p5034-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/25 18:26
>>255:修阿弥陀仏
>嫌々ながら聞いてきたのに、この南無阿弥陀仏のありがたさ。あなたも南無阿弥陀仏、こちらも南無阿弥陀仏。ありがたいですなあ。

 何がありがたいのかなーぁ?(笑)。マインドコントロールの術中に嵌(はま)ったというところか。下手な催眠術でも、小さいときからゆっくり時間をかければマインドコントロールがかかるということかな?(笑)。
 「嫌々ながら」に「ありがたいです」を接なぎ、木に竹を接いだ話を聞かされても、催眠術をかけられた覚えのない人にはチンプンカンプンだ。

>機の深信も他力です。ちなみにしつこいようですが、自由意志で称える念仏も他力です。
  <何が言いたいのだろう?>
263渡海 難( p5034-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/25 18:27
>>256 :ベロ
>残念ながら僕は渡海さんほどのたくましい想像力は持っていません。

 誰にとっては、残念なことなんですか?。想像力は持ってないということが、残念なことですか。

>念仏さんの書き込みから寺族の人だと決めつけ     <直感力の違いでしょう。(笑)>

>不安で、心配で、焦燥感があり救いようのない

 感受性の違いかな。「焦燥感があり」とは言ってないよね。「焦燥感があるんでしょうか」と言っている。相手に確認しないと分からないという思いです。貴方は想像力の逞しい方だ(笑)。  

>袋小路の中にいる哀れな人 〜 と言われても

 「袋小路の中にいる哀れな人」?。このようなことを言った覚えはない。言ってもないことを言ったという。貴方は実に想像力が豊かな人だ(笑)。
 袋小路の中にいれば哀れというのはベロさん、これは貴方の評価でしょう。僕の評価じゃないよ。僕は腹になくそんな失礼なことは言わない。
 出口のない飛行機の中にいれば哀れかどうか、そんなことは僕の知ったこっちゃない。袋小路であっても住めば都だ。住めば浄土になることもある(笑)

>念仏さんに失礼かなと思う遠慮もありますし。  <手加減することの方が失礼でしょう。>
264渡海 難( p5034-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/25 18:29
>僕のちっぽけな自信は仏教に出遭う事によって粉々に打ち砕かれてしまいました。

 「『打ち砕かれた』と自分(ベロさん)では思っています」と言う文脈で理解させていただきましょう。本当に思えているかどうかは別の問題だ。本当に出会っているのか、出会ったつもりになっているのか、他人には分からんもんな。
 湖水の影を本物の月と思うこともある。誤解・自尊心・つっぱり・ごまかし、そんなもんも時々はある(笑)

>今は謙虚に仏典に説かれる教えに耳を傾け様と思っています。

 「『耳を傾け様と思っています』と思っている」という文脈で理解させていただきましょう。本当に耳が傾いているかどうかは別の問題だもんな。勘違いもある。自尊心もある。つっぱりもある。自分に向けてのごまかしもある。いろいろあるだろう。他人には分からん(笑)

>僕はまだそんな段階        <なるほど。なるほど。「…と、いう思いがある」。うんうん>

>渡海さんのように自信満々

 自信は給わりたる信心の一部です。念仏にも方法論がある。仏教、親鸞思想に手応えを感じています。みんな親鸞流如来禅からの貰いもんと思っています。受けた器(うつわ)がいびつだから見格好は悪いが、中身は南無阿弥陀仏です。
 質(たち)が悪いのは僕の器の方だと思ってください。中身は本物でしょう。

>自分の信仰に自信が持てるようになれば、しっかり自分の考えを構築していこうと思います。

 信仰に自信が持てるようになることを待って、自分の考えを構築していこうとするんでしょうか。なるほど。なるほど。貴方の器にはまだ南無阿弥陀仏が入ってないんでしょうね。仏さんにも下さる順番があるんでしょう(笑)。
265渡海 難( p5034-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/25 18:30
>>257
いろいろな考えがあるでしょう。選択集に書いてあることは出鱈目と思ったことは一度もない(笑)。ま、人にはいろんな感じ方があっていい。

>>258 :NB
>いーえ。単に渡海氏の読み足らずです。   <苦笑>
266渡海 難( p5034-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/25 18:31
>>260 :ベロ
>というか変てこりん

 「相違するもの(非同一性)」、「劣等なもの(劣等性)」、「真偽不定なもの(異様性)」。印象としてこの三要素が絡んでいるということか(笑)。なんでもいいわぃ。詮索は止めとこう(笑)。

>良い悪いという問題じゃなく、 <どなたか良いとか悪いとかいう問題を提起なさってましたか?。> 

>僕はこういう渡海さんの(思想ではなく)姿勢だけは見習う所もあるなと思います。

 へんてこりんな仮説を立てる姿勢でも見習いますか。変てこりんと思っていれば、見習うような気になるというのもおかしなものだ。
 見習わんでいいでしょう。変てこりんと思えている限りは見習えない。変てこりんを見習われることは僕は期待していない。
 背筋を延ばし、呼吸を整え、一声一声南無阿弥陀仏を重ねれば、見えなかったものがやがて貴方にも見えてくる。座禅して念仏申すべし。
 南無阿弥陀仏を称えれば、称えた貴方の南無阿弥陀仏が命をかけ、大事なものを見させてくださるようになる。待たなくても信は向こうから飛び込んでくる(笑)。

>伝統宗派の方々には渡海さんのような人が増えるのは大迷惑でしょうが。

 仮説を提案し、議論のたたき台を提供し、感謝されることこそあっても、迷惑に思われることは身に覚えが全くない。それとも貴方が小迷惑なんでしょうかね?(笑)。

>>261 :NB
>べつに迷惑ではないです。個人的には。  <個人的には?。個人でなければ迷惑なのかな?(笑)。>
267257:02/03/25 18:49
>>265
日本語の読解力の問題であって、感じ方ではない。
そう解釈したいので有れば、第1章段の内容、擁護の使い方に対して
反証を示すべき。
韜晦はジョウユウを想起させられる。
268257:02/03/25 18:50
擁護→用語
スマソ
269渡海 難( p3022-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/25 18:51
>>263
誤 出口のない飛行機の中にいれば哀れかどうか、そんなことは僕の知ったこっちゃない。
正 出口のない飛行機の中にいれば、それだけで既に哀れかどうか、そこまでは僕の知ったこっちゃない。
270修阿弥陀仏:02/03/25 19:16
>>259
おや、何か誤解が?
感謝の念仏、大いにけっこうです。私も感謝しております。
・・・たまには。

まそれはさておいて。
>弥陀のはからいに気づけば、誰もが弥陀の救いにあずかる衆生なのでは。
>そういった大慈悲に対する感謝のあらわれが念仏という所もあります。

それなら、念仏衆生が摂取不捨される、で問題はないと思いますが。
光明遍照十方世界を否定はしていませんよ。

無視されたのでもう一度書きますが。
>>237
左訓てなんですか?
本文の左側に訓が施してあるから左訓というのでしょうが、私が所持している聖教にはありません。
271ベロ ◆od7XM/js :02/03/25 20:39
>>266 渡海さん、
>背筋を延ばし、呼吸を整え、一声一声南無阿弥陀仏を重ねれば、
>見えなかったものがやがて貴方にも見えてくる。座禅して念仏申すべし。
>南無阿弥陀仏を称えれば、称えた貴方の南無阿弥陀仏が命をかけ、大事なものを
>見させてくださるようになる。待たなくても信は向こうから飛び込んでくる(笑)。

渡海さんの如来禅のやり方をもっと詳しく教えて下さい。何時に行じるのか?何時間行じるのか、
何回行じるのか、座禅はどういう姿勢ですか?呼吸法は?など、よろしくお願いします。
272渡海 難( p6164-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/25 21:40
>>271
>何時に行じるのか?
  特に大きな問題やストレスを感じてない時などは、就寝前にやってます。仕事に行き詰まったり、生き方に進退窮まったときなどは、何時ということはありません。念仏に転げ込むという感じで、時間があれば、一寸を惜しんでやっています。
 進退窮まった時でも、やるべきことが腹で決まってると、念仏は5分と続きません。念仏しようと言う気持ちも起きながら、行動しようというもうひとつの感情がこみ上げてきます。これが念仏行を断ち切って体全体を行動の方に突き上げてきます。
 重要な人と会うというときなどは、南無阿弥陀仏と称えただけで脳は反射的に疑似禅定状態に入ります。条件反射です。

>何時間行じるのか、
 特に大きな問題やストレスを感じてない時などは、10分から20分ぐらいでしょうか。仕事などに行き詰まったり、進退窮まったときなどは、一日、7時間でも8時間でも続けます。そんなときは家族も分かっていて、邪魔しません。
 その状態で夜床に就くと、体は一気に深い眠りに入り、睡眠していても脳は盛んに禅定を継続して、盛んに活動しています。朝、夢を見てハッとし、一瞬にして解決がついているときがあります。
 「くよくよしていてもしょうがないじゃないか」。そんな声が聞こえて、飛び起きたということがありました。昔の人が、神の声とか、聖霊の声を聞いたというのはこういうことかなと勝手に想像しています。
 一日で足りず、翌日も朝からずっと念仏を続けることもあります。そんな折り、頭の中で脳漿が吹き出る感触を持ったことは一度や二度ではありません。
 脳漿を絞るという言葉がありますが、脳漿が吹き出ると、一瞬にして気分が変わります。事態は好転してないのに、気分が好転します。
 念仏は、脳全体を激しく活性化させる凄いパワーがあります。
273渡海 難( p6164-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/25 21:43
>何回行じる

 進退窮まり、目的があって称えるときは、最低、1時間から2時間くらいは続けるでしょう。回数を数えたことはありません。

>座禅はどういう姿勢ですか?

 学生時代、鎌倉の円覚寺(臨済宗)に行ったことがあります。学生向けの泊まりがけ接心会でした。ゴールデンウィーク中のキャンプでした。25年後、最近、横浜の総持寺(曹洞宗)の日曜座禅会に通いました。
 姿勢法、呼吸法は禅寺で教わった方法です。つい最近腰を痛めて手術をし、足が曲がりにくくなって日曜座禅会は敷居が高くなりました。10分、20分の念仏は正座で行いますが、長時間の念仏はイスで行っています。

>呼吸法は?
 腹式呼吸です。座禅をしたことの無い人は、一度は禅の坊さんに教わるといいでしょう。
274渡海 難( p0778-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/25 21:48
>>267
>第1章段の内容、擁護の使い方に対して反証を示すべき。
 <言葉ゲームは貴方がお得意のようだから、気が済むまで貴方がおやり遊ばして下さいまし。>
275名無しさん@1周年:02/03/25 22:48
はいはい、もうこないでね。   /
______ _____/
         ∨
   ------------- 、____    ウワァァン  ヽゝ     バカ
   /  ̄ ̄ ̄.// ̄ ̄|| |___/\ヽ(`Д´)ノ     ヽ(`Д´)ノ
  イッテヨシ!.∧//∧ ∧.|| |  \ .\(渡海)ヽ(`Д´)ノ  (渡海)
[/_________.(゚//[ ]Д゚#).|| |    \ \/ヽ  (渡海)   / ヽ   ノ
.||_    ___|_| ̄ ̄ ∪.|.| |___\ \   / ヽヽ(`Д´)ノ      ノ
.lO|--- |O゜.|______ |.|_|ニニニニニニl.|ヽ(`Д´)ノ(渡海)  ゴルァ
|_∈口∋ ̄_l______l⌒ l.|_____| l⌒l_||   (渡海) /ヽヽ(`Д´)ノ
──`--'───`ー'─── `--' `ー' ┐  /ヽヽ(`Д´)ノ(渡海)
                         │ヽ(`Д´)ノ(渡海) /ヽ     ノ
                         │  (渡海) /ヽヽ(`Д´)ノ
                         │ ミ / ヽヽ(`Д´)ノ  )ジャブーン
                         │  ;:   (渡海)’/ ヽ〃、、..
                     ボシャーン ミ ミ\ヽ(`Д´)ノ /ミ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~〜〜〜〜~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

276名無しさん@1周年:02/03/25 23:37
>>270
親鸞の直筆本である「坂東本」が残っているんですがこれが草稿状態で本文の
右側には読み方があって左側には意味をあらわす言葉があるそうです。
自信が無いんで詳しい人よろしく
277ベロ ◆od7XM/js :02/03/26 00:12
>>272 >>273 渡海さん、
どうもありがとうございます。姿勢は自分がやりやすい姿勢でいいのですね。
僕は結跏趺座するとすぐに足が痛くなるので、椅子でもいいのですね。
仏名を称える瞑想法は仏教のかなり初期の頃から実践されていたというのを
玉城康四郎さんがどこかで書いていた気がします。玉城先生も禅定の実践者
でしたものね。良い事を教えてもらったのでさっそく実践してみます。
278名無しさん@1周年:02/03/26 08:32
>渡海氏
>>266のあなたの文章から察するに、あなたの考え方は親鸞聖人の頂かれたご信心とは
同一でも一味でも何でも無く、「念仏さえ称えていれば、信は自ずから備わる。」などと
説いていた鎮西派白旗流の「単信愚直の大信説」に近い物を感じますね。念仏を称えながら
座禅して得られるものが何なのかわかりませんが、少なくとも親鸞聖人が説かれた「信心」
とは全く関係無いですね。
南無阿弥陀仏が大事なものを見させてくれる、と言ってますが、あなたが唱える物は
南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも南無釈迦牟尼世尊でも何でも良いんじゃないですか?
南無阿弥陀仏を何遍唱えようが、念じようが、何も見えませんよ。見えるのはただのその人
の隠れた意識が表面化したものだけです。もう一度言いますけど、南無阿弥陀仏を唱えて
何かを得ようとするなんて大きな間違いです。何も得られません。
279名無しさん@1周年:02/03/26 09:04
いつの間に渡海の「座禅念仏」スレに変わったんだ、ここは?
座禅は禅宗じゃないのか?ここは浄土系スレなんだぞ!

>>277ベロ ◆od7XM/jsさん、ご愁傷様。
渡海みたいな人生になるかもよ。
280名無しさん@1周年:02/03/26 09:12
>言葉ゲーム
(ぷ
自分では様々引用したりして、それらしく言うのにね。
姿勢は認めないでもないけど、内容がね
渡海氏の相手をした私が悪かったのか…
逝ってきます
281名無しさん@1周年:02/03/26 11:56
親鸞聖人は「如来禅」を御同朋に説いた事は一度も無い!
渡海殿は「如来禅」は渡海殿自身で作り上げた説にすぎない事を宣言していただきたい。
282名無しさん@1周年:02/03/26 15:54
渡海さんの言われている「如来禅」または「座禅しながら念仏」というものは、第十八願
の法ではありません。第二十願の『自力念仏の法』に過ぎません。座禅しながら念仏
する事で何がしかの効果を得ようとする態度からして、そのように言わざるを得ません。
そのような自力念仏とは比べ物にならないのが、『第十八願の真実報土の往生の法』
なのです。宗祖や蓮師は「自力念仏」や「如来禅」など絶対に御同朋には仰せられていません。
速やかに自力を離れて本願他力に帰せよと、一すじにお勧めくださっているのです。
283名無しさん@1周年:02/03/26 18:21
>>282,>>281,>>278激しく同意致します。
渡海さんは「教行信証」の行巻の中で親鸞聖人が引用された「浄土五会念仏略法事儀讃」
において釈尊が父である浄飯王に「王よ、いま座禅を行なって、ただ念仏をするのが
当然です。」と語った事を根拠として、「如来禅」=「座禅しながらの念仏」を説いている
のかどうかわからないが、親鸞聖人は「座禅しながら念仏する事」を説きたいがために
「五会法事讃」(略)の一節を引用されたのでは無い、という事を渡海氏は知らなければ
ならない。親鸞聖人は「(如来回向の)大行とは、無碍光如来の御名を称える事。」を明か
にするために行巻をしたためられたのであって、そのために「五会法事讃」など様々な
経典から語句を引用されたのである。「如来禅」を「大行」とするために「五会法事讃」そ
の他の経典を引用されたのでは決してない。「如来禅」を説くのは渡海氏の自由であるが、
「如来禅は親鸞聖人の教説である。」と軽はずみに説く事は自制された方が良いのではないだろうか。
ただし、あくまでも仮説であるとの前提として、「如来禅」を説いた親鸞聖人の書物等、
根拠となる物を提出されるのであれば、全く構わないと思いますが。
284名無しさん@1周年:02/03/26 18:43
渡海さんは>>117で、
<「座禅して念仏申すべし。」(教行信証、行の巻「法事儀讃」ご引用、参照)。親鸞思想の核心です。>
と説いているが、ではどうして釈尊は無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経において「座禅して念仏申すべし。」
と説かなかったのだろうか?また、法然上人、善導大師、親鸞聖人のどの方々も「座禅して念仏申すべし。」
とは一節も説いておられない。座禅しながら念仏申す事が、仏説でも浄土の高僧の方々の真意でもない事は
明白ではないだろうか。よって、渡海氏には、>>117における「座禅して念仏申すべし。」が親鸞思想の核心
である、という説を撤回して頂くよう、要請する。そして、もう一度、教行信証や末燈抄や御消息集などを
何度も読み直された方が良いのではないだろうか。
285名無しさん@1周年:02/03/26 18:45
渡海信者が一気に増えたな。。。
286名無しさん@1周年:02/03/26 19:15
>>285
渡海信者が増えたんじゃなくて、アンチ渡海が増えたんですよ!!
287名無しさん@1周年:02/03/26 20:00
>>278秀同。
「(座禅しながら、なおかつ)念仏しながら何かを見たり、聞こうとする」考えは、真宗二十邪義
の内の新二十邪義の中にも見られます。『現見摂取の邪義』というものですが、他力の信心
を得た人は、如来の摂取した光明の中に在るがゆえに、平生、もしくは臨終に感応あれば、光明
を見る事が出来るために、それを見たい者達は昼夜忘れる事無く称名念仏するように勧める、と
いうもので、これを信じた人達は光明をこの目に見ようとほとんど狂気の如く念仏し続けた、と
の事です。

もちろんこのような説は親鸞聖人の説とは全く相容れないものであり、念仏を自らの道具のように
扱う考え自体が、他力回向の信心と正反対の発想にすぎない事を渡海氏は知るべきだと思います。
288NB:02/03/26 20:31
名セリフ「あなたは坊さんか」発言爆発迫る!!(w

修阿弥陀仏さん。左訓については>>276さんのとおりです。
>>237の「安楽仏国に〜」の「無上宝珠」についてはご左訓に
「如意宝珠のたまなり。この宝珠は濁れる水に入るれば、水はすめども身さびいず。
水晶は濁り水に入るれば、身さびいる。
かるがゆえに水晶をば万行諸善にたとえ、宝珠をば名号にたとう。」
と示してくださってます。
他のとこにも違った無上宝珠の喩え方が出されてありますけど、
結構キーワードかな。なんてひとり考えてます。無上宝珠。
289NB:02/03/26 21:12
ベロさんは哲学板の住人さんですよね。たしか。
って訳でもないんですけど、西洋的な「真理」ってのは、いわば、誰にも抜けないエクスカリバー。
「この聖なる剣を引き抜く資格をもつものは一体いかなる人間であるのか?」
なんて、いまだにイデア論の呪縛から抜け出せてない気がする。
いや、気がするだけですけど。。素人なもんで。
でも、少なくとも我々の所与である民主主義はすでにイデア論の賜物なわけで。
「民主主義社会における主権者とは一体いかなる資格をもつものであるのか?」なんて。

で、思うんですけど、お念仏は「全ての人に引き抜くことを許された聖なる剣」って訳じゃない。
つまり、「信心をいただくには一体いかなる資格が必要か?」なんてことは、いわば、無記ですよね。
「宿善」なんてことを言いますしね。宿善は喜ぶものではあっても求めるものじゃない。
あ、本願寺派的にはね。

なんてったって、「真実」ですからね。うまく言えませんけど。
でも、お念仏は所持するもんじゃない。
どっちかといえば出会うもの。出会ってゆくものなんだと思います。
そういや磁石の喩えってのもありますね。
なんか結論が月並みな意見でアレなんですけど、どうでしょ。
290こき:02/03/26 21:24
>>282
第二十願の念仏を貶めるのはどうかと思うんだけど。
たしかに十八願は王願かもしれないけど阿弥陀仏も親鸞も二十願を勧めこそすれ
十八願と比べるための捨石とはしていないんでは?
291念仏:02/03/26 21:32
かつて祖師たちは南都北嶺の僧たちの背筋を凍らせてきました。
為に僧籍を剥奪され、あるいは死罪に、あるいは配流に処されました。

私も渡海氏の背筋を凍らせたおかげで
「坊さんなどは一日も早く辞めた方がいい」とか、
「寺を売って、新たな人生を歩むこと」を勧められておりますす。
先師の労苦とは比較になりませんが、
今昔を問わず、自力作善の人の体質や反応は同じもののようです。
また、あいにくと私の寺は売買に値する代物ではなく、
渡海氏のご要望にはそいかねる旨ご了承願いたいと思います。
292念仏:02/03/26 21:48
念仏三昧を「座禅して念仏」と解釈したのは法照ですが、
親鸞はその解釈をとらなかった。それだけのことです。
野狐禅渡海氏は、その「座禅」の二文字をみつけて、
親鸞の解釈だと思い込んでしまわれた。これも、それだけのことです。
293渡海 難( p7041-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 22:05
>>277
>椅子でもいいのですね。

 同意を求められても困る。僕は専門家じゃないんだ。イスでやると、足がむずずしてくることがある。結跏趺座、半跏趺座には、それなりの知恵があるんだろう。よく分からない。

>玉城先生も禅定の実践者でしたものね。良い事を教えてもらったのでさっそく実践してみます。

 あの方は駒沢大学の学長さんだったかしら?。釈迦に始まる仏教の教えって、実践方法論は右と左にそれほど大きく違うもんじゃない。どこを強調するか、どこを小さく説明するか、説明方法の重心に違いがあるようです。
294渡海 難( p7041-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 22:06
>>278
>鎮西派白旗流の「単信愚直の大信説」に近い物を感じますね。

 そうですか。そうですか。単信愚直の大信説に近い物を感じるんですね。なるほどなるほど。うんうん。それがどうかしましたか。?

>親鸞聖人の頂かれたご信心とは同一でも一味でも何でも無く

 僕らには生活があるんです。親鸞聖人の頂かれたご信心とは同一でも同一でなくても、基本的には僕はどうでもいいことなんですよ。生活が優先します。
 お坊様は、馬鹿でもちょんでも、お檀家さんがしっかりとお布施で支えてくださる。お寺さんは、二百年も三百年も、子々孫々、お幸せに暮らせます。
 馬鹿息子でもどら息子でも、お坊さんにさせますと言えば、宗門大学宗門学部宗門学科が喜んで入学を許してくださるそうです。
 私ども在家は、そうは行きません。死んだら地獄に堕ちるとしても、生きてるかぎりは自分の力で生活費を稼いでいかないと、どなたも助けてくださらないんです。
 生きていく上には様々な問題が起こる。欲しいものは手に入らん。嫌な奴とは会わなくちゃならん。愛する人とは分かれにゃならん。およそ世の中で苦の種にならんものはない。様々な制約の中で生きています。
 親鸞聖人の頂かれたご信心と同一か同一でないか、そんなことよりも、先立つことが山ほどある。
 本当にこの相手と契約を交わしていいのか。いけないのか。契約書を交わせば大変な義務と責任を負う。契約しなければ仕事が進まない。一瞬一瞬で、二度と訂正の利かない決断を迫られる。一歩間違えれば、全てを失う。相談する相手などはない。
 激しいストレスの中で、文字通り薄氷を踏む舵取りが迫られています。
295NB:02/03/26 22:07
おや、念仏さん。こんばんわです。
なんか荒れてますね。
うちの寺も売買に値するようなもんじゃないです。
思い込みだけで現実、というか実践を知らん人間はまあ、あんなもんでしょね。
296渡海 難( p7041-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 22:08
 イエスかノーか。動くか、止まるか。進むか、引くか。右折か、左折か。さあ、停止もできなければどうするのか。一瞬一瞬、そんな剣が峰にたっています。
 座禅して念仏称えてみなさいよ。腹式呼吸して禅定に入ると、全身の血液が頭に集中するんです。不思議なものです。腹筋の前後動がポンプになって全身の血液を脳に送ります。脳の血管は激しく、しかしゆっくりと脈動を開始します。持てる力を振り絞って脳は動きます。
 十の力が二十、三十になるとは思いませんよ。それでも、二か三に機能低下していた十の力が、七か八に回復すれば、従来の三倍、四倍の力を発揮します。
 親鸞聖人の頂かれたご信心と同一かどうかなどということはどうでもいい。頼ることのない状況下で、僕らは身に余る責任を負って重大な決断や行動を迫られる。そのときどうするのか。能力のない僕らは、Ichiroのようなホームランバッターである必要はない。
 三流打者の凡打でいい。力量の無い僕らは、最善の道の選択はできなくてもいい。ただ、少なくとも、最悪の選択肢だけは避けたい。最悪の選択肢だけは避けるという意味で、座禅して念仏称えるというのは極めて有効だったんですよ。僕はこれを教行信証から教わったんです。
 教行信証は、親鸞聖人が鎮西派白旗流の教義をお書き遊ばしたものかもしれません。日蓮聖人の法華経の教えを書いたものかも知れません。誰の教えでもいい。
 僕は決めたんです。僕は、自分の人生の重要な舵取りはこれに従う、と。親鸞聖人が書いた鎮西派白旗流の教義かも知れません。親鸞聖人が書いた日蓮聖人の教えかも知れません。御檀家から山のようなお布施を戴けるお幸せなお坊様には勧めません。
 山のようなお布施を戴けるお幸せなお坊様は、教行信証以外で、親鸞聖人と一味のご信心をお探し下さいな。僕の腹は「座禅して念仏申すべし」。この一言で決まったんですよ。
297渡海 難( p7041-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 22:09
>見えるのはただのその人の隠れた意識が表面化したものだけです。

 これがとても大事なんです。ストレスがかかると冷静な判断ができなくなります。見ても見えず、聞いても聞こえずという状況になります。脳裡の一角には残っていても、その情報が意識上で利用できないと宝の持ち腐れになります。
 見ても見えず、聞いても聞こえずという状況でも、お坊様はお困りになることは無いのでしょう。私ども在家にとっては命取りになる。死ねば極楽浄土に行けますよと仰られても、家族を残して一人浄土に行くことはできません。
 隠れた意識が表面化する。これが大事なんです。座禅して念仏申せば、隠れた意識が表面化する。なんと素晴らしいことでしょう。座禅して念仏申すということは、素晴らしい。僕は、これを教行信証から教わったんです。
 親鸞聖人が書いた鎮西派白旗流の教義かも知れません。それでもいいんです。僕の腹は「座禅して念仏申すべし」。この一言で決まりました。親鸞聖人の御信心と一味でなくても、痛くもかゆくもありません。

>南無妙法蓮華経でも南無釈迦牟尼世尊でも何でも良いんじゃないですか

 お好きなら、貴方がやればいいでしょう。僕は南無阿弥陀仏で十分なんですよ。

>何も得られません。
 決断、自信が得られます。これは、お坊様には無用でも、私ども在家にとっては非常に大事なものです。
298284:02/03/26 22:09
>>288NB様。
別に私は渡海さんが「如来禅」を説こうが「座禅しながら念仏する事」をどこの誰かに
勧めようが、一向に構わないんですよ。でも、渡海さんが座禅しながら念仏する事
で何らかの体験をする事によって、座禅しながら念仏する事に渡海さん自身の救い
を見出した事に対しては私は否定するつもりもないんです。でも、どうしてそこか
ら「座禅しながら念仏する事=親鸞思想の核心です」と結論づけてしまうのか、そこ
が疑問なんですよ。自分で体験した事を自分の説として説けば良いのに、どうして
親鸞聖人が一言も説いておられない「座禅しながら念仏」という事をまるで親鸞聖人
の思想の中心であり、親鸞聖人の本心であるかのように説くのか、そこが全くわか
らないんですね。少なくとも「座禅しながら念仏する事」なんて親鸞聖人は人々に対
して一言も説いておられないし、そういう証拠などないのだから、>>117での渡海氏
の「座禅しながら念仏する事が親鸞思想の核心である。」という根拠の無い説は撤回
して頂きたいんですよね。でも、「座禅しながら念仏する事は、私、渡海の自説に
すぎないのであって、親鸞の思想とは全く関係ありません。」と主張された上で、座禅
しながら念仏する事を説こうが如来禅を説こうが、全然構わないと言う事なんですね。
そうしないと座禅しながら念仏する事を親鸞聖人が説かれたように誤解する人もいると
思うし、出て来ないとも限らないんですよね。それってちょっと違うんじゃないかな、
間違ってるんじゃないかなって思いますね。事実じゃ無い事を事実と述べながら、座禅
しながら念仏する事を説いて欲しくないって思うんですね。座禅しながら念仏する事を
説く事も、仏法を説いている事なんだし、それが親鸞聖人の説でも何でもないのに、親鸞
思想の核心だ、という「虚偽」を交えながら説いて欲しくないんですよ。あくまでも渡海さん
ご自身の説として、ご自身の責任で述べて頂きたいだけなんです。そうしないと「座禅しながら
念仏する事」が親鸞聖人の責任になってしまうような気がしまして、ちょっと見過ごせない
気になりましたんで、意見をしました。
299渡海 難( p7041-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 22:09
>>280
>逝ってきます。     <どうぞごきげんよう。>

>>281
>渡海殿は「如来禅」は渡海殿自身で作り上げた説にすぎない事を宣言していただきたい。

 僕は教行信証を書くほどの力はありませんよ(笑)。

>>282
>速やかに自力を離れて本願他力に帰せよと、一すじにお勧めくださっているのです。

 在家の僕の生活の知恵です。本願他力に帰して今世で不幸になるより、自力念仏で今世で幸福になろう。僕はそう提案します(笑)。

>>283
>「如来禅」を説くのは渡海氏の自由である   <別に貴方に決めて頂く必要はないんですよ。>

>「如来禅は親鸞聖人の教説である。」と軽はずみに説く事は自制された方が良いのではないだろうか。

 躊躇していた腹が固まる。冷静になる。決断できるようになる。忘れていた事実を思い出す。生活の知恵です。これが親鸞聖人の教説でないなら、貴方が教行信証に墨でも塗ったらどうですか?。

>親鸞聖人の書物等、根拠となる物を提出されるのであれば、全く構わないと思いますが。
     <貴方の許可は不要です。>
300渡海 難( p7041-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 22:10
>>284
>ではどうして釈尊は 〜 説かなかったのだろうか?
 
 そんなことは、お経の著者に聞きんさい。ぼくはお経の著者ではありません。
 桃太郎はなぜ犬と猿とキジを連れていったのか。なぜ猫を連れていかなかったのか。そんなこたぁ僕の知ったこっちゃありません。作者の好きずきでしょ。

>一節も説いておられない。

 当たり前すぎれば書く人はいませんよ。
 平成時代の全ての小説を探したが、「朝起きたら歯を磨きました」という記述がない。平成時代の日本人は、歯を磨かなかった。千年後、こんな仮説を立てる人がいれば馬鹿でしょう。
 当たり前すぎることは、文字に残らないんですよ。

>親鸞思想の核心である、という説を撤回して頂くよう、要請する。

 大きなお世話です。僕には体験的な確信がある。体験的な確信をもって親鸞に感謝している。こんなことは、親鸞聖人以外には誰も教えてくれなかった。
 五会法事儀讃は、引用文書を正式名で掲げ「云わく」という動詞で引用しています。これは安楽集などと同列です。
301渡海 難( p7041-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 22:11
>>287
>念仏を自らの道具のように扱う考え自体が、他力回向の信心と正反対の発想にすぎない事を渡海氏は知るべきだと思います。

 幸せになれればそれでいいんですよ。
 他力回向の信心と正反対の発想をして危機を乗り切ったって?。渡海という奴はとんでもない奴だ。他力回向の信心と正反対の発想をするかぎり、危機を乗り切るなどということは許せん。
 他力回向の信心をもたねければいかんのじゃ。危機を乗り切るなどとんでもないことじゃ。親鸞聖人がこんなことを言いますかね?(笑)。
 他力回向の信心と正反対の発想をして人生の危機を乗り切れば、親鸞さんは喜んでくれるでしょう。
 お前は他力回向の信心と正反対の発想をしたから、死んだら地獄に落ちるけど、生きてるときは危機を乗り切れて本当によかったな。そう言って喜んでくれるでしょう(微笑)。
 生きてるときは危機を乗り切れて本当によかったなと喜んでくれる親鸞さんの笑顔を想像すると、僕は心が和むんですよ(微笑)。

>>288
>爆発迫る   <?爆発??>

>>289 :NB   <なんか、わかんないこと言ってるね(笑)。>

>>291 :念仏
>渡海氏のご要望にはそいかねる旨ご了承願いたいと思います。

 ご了承はいりません。どうぞ私にお気兼ねなく。貴方がお幸せになれれば、それでいいんですよ。>
302渡海 難( p7041-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 22:17
>>292 名前:念仏
>野狐禅渡海氏は、その「座禅」の二文字をみつけて、親鸞の解釈だと思い込んでしまわれた。これも、それだけのことです。

 野狐禅でも空念仏でもいいんですよ。
 ネズミをとる猫がいい猫、ネズミを捕らない猫が悪い猫。野狐禅でも空念仏でもいい。人生の危機に遭遇したとき、どうするか。念仏して座禅すると凄いパワーがでる。僕はそれを経験した。それが、野狐禅でも空念仏でもいい。僕は、経験して親鸞さんファンになった。
親鸞さんに感謝している。それだけのこと。
303284:02/03/26 22:28
>>294>>296
>親鸞聖人が説かれたご信心とは同一でも同一でなくても、基本的には僕はどうでも
いい事なんです。

≪でしたら「座禅しながら念仏する事」が親鸞思想の核心である、というあなたの>>117
でのご発言を撤回して下さい。そして今後は「座禅しながら念仏する事」を渡海さんご自身
の自説として、ご自身の責任で説かれて下さい。親鸞聖人を自説の裏付けに利用するよう
な事はしないで下さい。≫

渡海さんが「座禅しながら念仏する事」を教行信証から教わったと自分で勝手に思われるのは
渡海さんのご自由ですが、だからと言って「座禅しながら念仏する事」を親鸞思想の核心です、
などと何の根拠も無い事を出典も無しに軽々しく発言される事は、渡海さんご自身の信用を
下げる事にもなりますし、あなたの自説である「座禅しながら念仏する事」までも誤解されかね
ないと思いますので、親鸞聖人の説ではない「座禅しながら念仏する事」を親鸞聖人の思想と
何の根拠も無く発言される事は、お止め下さい。親鸞聖人までもが誤解されてしまいますので。
親鸞聖人は「座禅しながら念仏申すべし。」などと人々には一説も説いておられません。
304渡海 難( p0526-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 22:50
>>298
>「如来禅」を説こうが「座禅しながら念仏する事」をどこの誰かに勧めようが、一向に構わないんですよ。
       <そうそう。>

>でも、  <でも? 逆説の接続詞?>

>どうしてそこから「座禅しながら念仏する事=親鸞思想の核心です」と結論づけてしまうのか、

 「座禅して念仏申すべし」という記述は、行の巻、五会法事儀讃に書かれています。五会法事儀讃は「云わく」という動詞で引用されています。これは道綽、善導の文章と同様の扱いです。親鸞思想では、道綽、善導の文章と同様の重みを持っている。そう考えます。
 五会法事儀讃の前までは、念仏の意義を展開し、その意義論は南無釈で終わる。意義論に続く議論は何か。それは方法論でしょう。方法論の無い行は無い。
 念仏の方法論として親鸞は五会法事儀讃を引用している。それならば、「座禅して念仏申すべし」という記述は念仏の方法論として親鸞思想の核心だと考えるわけです。

>親鸞聖人が一言も説いておられない       <教行信証で一言説いています。>

>思想の中心であり、親鸞聖人の本心であるかのように説くのか、そこが全くわからないんですね。
   <方法論は意義論と並んで重要な議論です。>

>少なくとも「座禅しながら念仏する事」なんて親鸞聖人は人々に対して一言も説いておられない

 教行信証で一言説いています。
 座禅して念仏するなどということは、親鸞聖人がその姿勢をしてみせればわかることでしょう。殊更に文章で説明して議論しなければならないようなことではなかったのでしょう。
305渡海 難( p0526-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 22:51
>そういう証拠などない    <教行信証にあります>
   
>根拠の無い説   <意義論に続けて方法論として議論しています>

>撤回して頂きたいんですよね。    <貴方とは見解が違います>

>渡海の自説にすぎない     <仮説です>

>親鸞聖人が説かれたように誤解する人もいる    <教行信証で説いています>

>事実じゃ無い事を事実と述べ     <教行信証に書いてあるということは事実です>

>親鸞聖人の説でも何でもない      <教行信証の説です>

>思想の核心だ、という「虚偽」を交えながら説いて欲しくないん
      <「云わく」という動詞で、道綽、善導の文章と同様の扱いをしています>

>あくまでも渡海さんご自身の説として、ご自身の責任で述べて頂きたいだけなんです。
       <親鸞思想の核心というのが、僕自身の説です>

>そうしないと「座禅しながら念仏する事」が親鸞聖人の責任になってしまうような気がしまして、
      <教行信証は、親鸞聖人が親鸞聖人の責任で書きました>

>ちょっと見過ごせない気になりましたんで、意見をしました。
      <見過ごさないでください。しっかり読んでください>
306284:02/03/26 22:51
>>302
渡海さん、あなたは「座禅しながら念仏する事」に救いを見出したのであって、渡海
さんが感謝されている親鸞聖人の説かれた「お法り」に救いを見出したんじゃないんですよ。
だから、これからは「座禅しながら念仏する事」を親鸞聖人の説とは関係無い所で説けば
宜しいんじゃないですか?どうしてそこまで「座禅しながら念仏する事」を親鸞聖人の
説と説かなきゃいけないんですかね?渡海さんご自身の自説として述べられればいいじゃ
ないですか?親鸞聖人はただ引用しただけです。もしもどうしても感謝したいのであれば
親鸞聖人ではなくて、法照大師に感謝すればいいじゃないですか。そして法照大師に帰依
なさればよろしいと思います。引用したからと言ってそれが親鸞聖人の教説だとどうして
結論づけられるんですか?効果があったからと言ってそれがどうして親鸞聖人の教説だと
結論づけてしまうんですか?でも親鸞聖人は絶対に「座禅しながら念仏申すべし。」などと
少なくとも人々には説いていません!それは現在残っている親鸞聖人のお言葉に明らかです。
そこだけは絶対にはっきりさせておきたいと思います。
307渡海 難( p5054-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 23:01
>>303
>あなたのでのご発言を撤回して下さい。

 確信です。親鸞聖人が説かれたご信心とは同一でなくても僕は問題にしません。しかし、座禅して念仏するというのは親鸞思想の核心であると、僕は確信しています。
 貴方は僕に自分の良心を歪めることを要求しますか?

>ご自身の責任で説かれて下さい。    <僕は自分の仮説として提案します。>
 
>ご自身の責任で説かれて下さい。親鸞聖人を自説の裏付けに利用するような事はしないで下さい。
     <僕は自分の体験に裏付けています。>
 
>何の根拠も無い事を出典も無しに軽々しく発言される
      <教行信証を読みなさい>

>あなたの自説である「座禅しながら念仏する事」までも誤解されかねないと思いますので、
      <信謗ともにあるべし>

>親鸞聖人の説ではない「座禅しながら念仏する事」を親鸞聖人の思想と何の根拠も無く発言される事
      <教行信証の思想です>

>親鸞聖人までもが誤解されてしまいますので。
       <貴方は教行信証を誤解しています>

>親鸞聖人は「座禅しながら念仏申すべし。」などと人々には一説も説いておられません。
       <教行信証で説いています>
308NB:02/03/26 23:05
つーか。過去スレで逃げたくせになんで??「如来禅」
309渡海 難( p4055-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 23:15
>>306
>あなたは「座禅しながら念仏する事」に救いを見出したのであって、渡海さんが感謝されている親鸞聖人の説かれた「お法り」に救いを見出したんじゃないんですよ。

 僕は親鸞聖人が「座禅して念仏せよ」と法を説かれており、その通りにしたら凄いパワーがあると知ったんですよ。だから、親鸞聖人の法に喜んでいるんですよ。

>親鸞聖人の説とは関係無い所で説けば宜しいんじゃないですか?
     <教行信証の記述は、親鸞聖人の説と無関係に話すことはできません。>

>どうしてそこまで「座禅しながら念仏する事」を親鸞聖人の説と説かなきゃいけないんですかね?
      <教行信証が、凄いパワーの源泉について紹介しているからです>

>法照大師に感謝すればいいじゃないですか。

 僕は教行信証から教わったんです。「座禅して念仏せよ」と説いてないと、貴方は誰から教わりましたか?。

>親鸞聖人はただ引用しただけです。  <教行信証には、宗祖の血と汗と命がかかっています。>

>親鸞聖人の教説だとどうして結論づけられるんですか?   <教行信証で語っているからです>

>親鸞聖人は絶対に「座禅しながら念仏申すべし。」などと少なくとも人々には説いていません!
     <教行信証に墨でも塗りなさい。>

>現在残っている親鸞聖人のお言葉に明らかです。  <世界中の教行信証を焚書してから云いなさい。>

>そこだけは絶対にはっきりさせておきたいと思います。   <顔でも洗って出なおしなさい。>
310渡海 難( p4055-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 23:17
>>308
  ??
311284:02/03/26 23:27
渡海さんは教行信証で引用された「座禅しながら念仏申すべし。」の一言で腹が決った
そうですが、渡海さんご自身で「親鸞聖人のご信心と一味でなくても、痛くも痒くもありません。」
とのお言葉を頂けたんで、渡海さんのご信心と親鸞聖人のご信心は違うんだな、という事が理解
出来ました。

しかし、渡海さんが何と言おうとも、親鸞聖人は絶対に「如来禅」など人々に対して説いておられ
ないし、如来禅のために書かれた「教行信証」でもありません。また、「如来禅」などが念仏の方法
論などでも決してありません。それはただのあなたの独り善がりです。それだけははっきり申し
上げさせて頂きます。親鸞聖人のご信心と一味でなくても良いとするあなたの主張する「如来禅」
は、親鸞聖人のご信心でも、親鸞聖人の説かれた念仏の方法論でも何でも無い事を、ここで今一度
はっきりさせて頂きます。
312名無しさん@1周年:02/03/26 23:34
とりあえず教行信証のどこで親鸞が「座禅して念仏せよ」と説いているのか教えて欲しい。
313渡海 難( p2198-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/26 23:39
>>311 
 信謗ともにあるべし。
 この法をば信ずる衆生もあり、謗る衆生もあるべしと、仏説き置かせ給いたることなれば、我は既に信じ奉る。また人ありて謗るにて、仏説真なりけりと知られ候。

>>312
 行の巻。五会法事儀讃(南無釈の後)
314NB:02/03/26 23:43
>>313
そんなあなたに>>216
315こき:02/03/26 23:50
おもしろいんでいいんだけど、渡悔氏とアンチのやりとりみてると念仏宗がでた
頃とにてるね。当人は確かに仏説の念仏で救われたんだから仏弟子だと思って
いるんだけど周りからは仏弟子じゃないとかそれは仏教なのか?とかいわれて
たんだよね。
316NB:02/03/26 23:54
>>315
ああ、そうともいえるかも。
でも、ぼく個人としては日蓮師のような強引さ(DQnボソ
を感じるんだけど。
317NB:02/03/27 00:08
ああああ、>>316は酔っ払いのたわごとと聞き流してくださいな。

まあ、本音ですけど。念仏無間。だってさ。
318名無しさん@1周年:02/03/27 00:09
当時も念仏は座禅とかしながらでなければ駄目だとか何回以上唱えなければ駄目だとか
いわれたそうだけど、実際のとこ親鸞聖人はそこのところを詳しく説かれていないと思うんです。
私が浅学なせいかもしれませんが。
私なりの理解においては信、行ともに車輪の両輪であり、蓮如上人のお文にみるように
南無=帰命=たすけたまへともうす心、であってそれと同時に
阿弥陀仏=行、がなされるのが南無阿弥陀仏だと思うんですよね。
だからそんな助けてくださいという心からの阿弥陀仏への叫びだからこそ
聖人もこうでならなければならないみたいに記したり説かれていないのではと思うんですが・・
みなさんいかがでしょうか?
319284:02/03/27 00:12
>渡海さん
あなたは執拗に「座禅しながら念仏する事」をあくまでも親鸞聖人の直説だと主張され
たいようですが、親鸞聖人は同じ教行信証の行巻において、「『専念』と言っているのは
とりもなおさず一筋に行なう事で、他の行と一緒に行なわない事を表わしている。」と
仰せられており、また「一念はすなわち一行であり、一行はすなわち正行であり、正行は
すなわち正業であり、正業はすなわち正念であり、正念はすなわち念仏である。すなわち
南無阿弥陀仏である。」と仰せになっているじゃないですか。しかもそれは他の経典から
の引用でも何でも無く、親鸞聖人御自らの『直説』です。ここで親鸞聖人が言いたかった
本当の事は明々白々じゃないですか。親鸞聖人御自ら、他の行と一緒に行なわない事を専念
と仰られていますよ。しかし渡海さんは「座禅しながら念仏申すべし。」の他の経典の引用の
一説のみを以って、親鸞聖人の説であり、本心であり、親鸞聖人の思想の「核心」と結論づけ
られる。こんな乱暴な結論のつけ方はありません!あなたは全真宗門徒に対して心中に一点
の曇り無く、「座禅しながら念仏申すべし。」という事が親鸞聖人の教説の核心であります、と
述べる事が出来ますか?また、親鸞聖人に帰依されつつ、弾圧を受けながらもなお、親鸞聖人
の教えを信仰され続け、そして命を失われた方々に対して「座禅しながら念仏する事。」が親鸞聖人
の本心であったと述べる事が、本当に出来るのでしょうか?

お答え下さい。
320NB:02/03/27 00:14
タノムタスケタマエ
って、かの悪名高き安心論題にあるんですよね。
ってか、クルマの両輪って言葉に抵抗を感ずる、今日この頃。
321284:02/03/27 00:34
念仏に専念出来難いからこそ、他の行も交えてしまうのです、と素直に言われれば
こちらも「なるほど、人としてしょうがない事ですよね。」との一言も出るものなの
に、「座禅しながら念仏する事」を親鸞聖人の思想の核心なんだ、とどうして臆面も
なく言えるのだろうか、と思ってしまうんですよね。渡海さん。それに、あなたは
「信謗共にあるべし。」などと言っておられますが、あなたの主張する「如来禅」を
「誰が信じようが、誰が帰依しようが、渡海さんが説こうが、」全然私は構わないん
です。ただ、それを親鸞聖人の「思想の核心である」と教行信証の一節だけを以って
「何の歴史的、学術的考察もないままに」結論付けて欲しくない、と言う事を言いたい
し、単に自分にとって「如来禅」が何がしかの効果があったからと言って、「如来禅」即
「親鸞思想の核心」などと説いて欲しくないんですよね。でも、仮説としてならば全く
構いません。>>307はそう言う意味で<僕は自分の仮説として提案します。>と仰られ
たんですかね?

お答え下さい。
322ベロ ◆od7XM/js :02/03/27 00:39
単に渡海さんの親鸞観と284さんやNBさんなどお寺さん達の親鸞観が食い違って
いるだけでしょう。渡海さんが如来禅で幸福になれて、それを親鸞著の「教行信証」
から教えてもらえば、親鸞思想の核心だと渡海さんが確信しても何の問題もない。
都合が悪いのは宗学ではそんな事説かれないからと言ってるお寺さんだけでしょう?
それにお寺さん方のレス見てるとムキになりすぎていますね。もっと大らかにいきましょう。
別に伝統的な宗学的親鸞観のみが正しいなんて思っているのは、まさに寺族の視野の狭さです。
渡海さんの「私が幸福になれれば親鸞さんは喜んでくれると思う」と言う意見の方が僕は好きだ。
渡海さんの仮説が親鸞思想の核心では無い事ぐらい、親鸞さんに関心がある人ならすぐわかる。
あの文は御自釈ではなく引用ですから。お寺さん方は何をムキになってるんだろう?

渡海さんにお聞きしたいのですが、僕もさっそく如来禅に取り組んでみました。
15分程でしたが。渡海さんは一息で何回くらい念仏を称えているのですか?
それと発音方法は1「なむあみだぶつ」2「なもあみだぶつ」3「なんまんだぶ」
4「なーまーんだーぶー」5「なーむあーみだーぶーつなーむあーみだーぶーつ」
など、どういう発音か教えて下さい。
今回僕は正座して5の発音法で一息に14,5回称えてみました。
323こき:02/03/27 00:59
ぬがーー日蓮めーーー
でも僕の逝く先に日蓮が座って待っていてくれたらどうしよう(W
永遠の苦しみ、完全なる闇と孤独の中で保たれる自我というのはどうなるんだろう
寝よっと
324ベロ ◆od7XM/js :02/03/27 02:45
親鸞さんが「教行信証」を著わした。それを読んだ渡海さんが「座禅して念仏申すべし」
あるいは「如来禅」ともいう渡海さんが幸福になれる法を「教行信証」に見出した。
そして実際に座禅念仏を行じて見ると確かに渡海さんにとっては凄いパワーをもたらした。
だから渡海さんは「如来禅」が「親鸞思想の核心だ」と確信した。
渡海さんはそれを人々に伝えようとしている。ただそれだけの事だと思います。
皆さんそれぞれの仏教観、釈尊観、親鸞観があってもいいじゃないですか。
親鸞さんも仏教文献をかなり強引に読み替えをしている。親鸞さんの確信からはそう
読まなければならなかった、そう読むしか救われなかった。渡海さんの姿勢も
それに近いと思う。284さんの伝統的・歴史的・学術的な親鸞観とは明らかに違う
かもしれないが、渡海さんも親鸞ファンで称名念仏申す人なのですから。
325 :02/03/27 13:51
>>324
あなたはやっぱり渡海信者ですね。
そうやって渡海を擁護ばかりすると、不幸が起こりますよ。

おっと、ちなみに漏れは坊さんや寺の関係者じゃないからね。
326名無しさん@1周年:02/03/27 14:08
>ベロさん
親鸞は教行信証で多くの引用をつかってそれを読み替えたりしているけれども、それはあくまで自らの理論を証明
するためのものであって、引用した文の思想の核心が自らの教えだなどとはいってないと思うんですが。
それこそ284さんがいうように座禅念仏は教行信証を引用した渡海さんの思想だと述べるならいいと思いますが、
それを親鸞思想の核心だとすりかえるのはやっぱりおかしいと思いますよ。
それぞれの親鸞観があってもいいのは当然ですが、それではなんでもいいということになりませんか?
あくまで親鸞の教えを受ける立場ならば、親鸞自身の言葉をみるべきだと思います。
親鸞の言葉ではなく引用文と自分の体験だけで親鸞思想の核心だといい、それをそれぞれ好きに考えればいいと
肯定するのは自らの教えを正しく伝える為に息子とですら縁を切った親鸞への侮辱だと思います。
327284:02/03/27 14:58
>>326様。
言いたい事を代弁して頂いた気がしました。ありがとうございます。
328284:02/03/27 15:01
親鸞聖人は「座禅しながら念仏申すべし。」などとは一言も説いておられません。
まして「如来禅」などを人々にお勧めになられた事は一度も無いですし、歴代門主も
七高僧も「如来禅」など説いておられません。

「如来禅」「座禅しながら念仏申す事」は親鸞聖人の思想とは一切無関係ですし、親鸞聖人
の教説でもありません!これだけは絶対にはっきりさせたいと思います。
329284:02/03/27 15:29
>>324
それに、渡海さんが「教行信証」をどう言う風に拝読されたのかわかりませんが、本来
ならば「私は『座禅しながら念仏申す事』が親鸞聖人の本当に仰りたい事だったのか
どうかわからないが、少なくとも私には非常に良い影響がありました。」と渡海さんが
言われるのであれば、まだ、うなづけるし、納得も出来るんですよね。少なくとも
「末燈抄」や「御消息集」や「歎異抄」やその他親鸞聖人の御著書には「座禅しながら念仏
申すべし。」などと人々に勧める言葉や教説など「一言も見当たらない」ので、渡海さん
自身に効果があったからと言って「如来禅」即「親鸞聖人の思想の核心」などというように
親鸞聖人が本当に説きたかったのは実は「座禅しながら念仏する事だった」みたいに受け取られ
かねない言い方をして欲しくないんですよ。それぐらいの慎重さ、謙虚さはあっていいと
思うし、それは渡海さんが感謝されている親鸞聖人に対してふさわしい態度だと思います。
渡海さんには、そういう自分の説である「如来禅=親鸞思想の核心」という考えに対する
客観的に是非を判断する見方が欠けている気がするんです。自分に効果があったから、ただ
それだけの事で「座禅しながら念仏する事=親鸞思想の核心」と直結させている短絡的な乱暴
な結論のつけ方は、本当に親鸞聖人に感謝している人の態度なのかな〜?と思っちゃうんですね。
渡海さんが間違っている可能性は非常に大きいのですから。親鸞聖人が説いていない事を、さも
親鸞聖人が説いたようにいう事が、本当に感謝している人に対してふさわしい態度なんでしょうか?
渡海さんには、そういう事をもっと良く考えて、発言して頂きたいですね。
330名無しさん@1周年:02/03/27 17:31
渡海殿は親鸞を尊敬や感謝などしていない。「教行信証」に墨でも塗りなさい、とか、
世界中の教行信証を焚書してから云いなさい、などの発言から推測できる。要は
自分の「如来禅」を権威づけるために親鸞を利用出来れば、それで良いのだろう。
親鸞が「教行信証」で何を言いたかったのか、と言う事など渡海殿にはどうでもいいんだろう。
自分が幸せになるのは結構だが、親鸞が説いていたかはっきりしないものを親鸞が説いた、
親鸞の思想の中心だ、と説くような行為は、自分の体験だけを絶対視して、だから
親鸞の説も自分と同じだ、同じでないはずがない、同じであるべきだと言い張っている
ようにしか見えない。そういう一方的な観点しか出来ない渡海殿の説く「如来禅」の程度が
知れるというものだ。
331念仏:02/03/27 18:21
>278
往生の否定、現世の幸福、攻撃的性格、ああ先生。
確かに、「座禅して念仏」を「お題目」に換えればそのまま日蓮宗ですね。

>脳漿を絞るという言葉がありますが、脳漿が吹き出ると、一瞬にして気分が変わります。
>事態は好転してないのに、気分が好転します。
>念仏は、脳全体を激しく活性化させる凄いパワーがあります。
野狐禅にも至らない境地ですが、
新興宗教のパンフレットには、この手の体験談がごろごろしてます。
初期のオーム真理教も、この手で勧誘していました。
仏法ではなく、人間のコンプレックスにつけこむ商法です。
相場は知りませんが、渡海教は一口4000円です。

>ベロさん
念仏は、メンタルトレーニングの道具ではありません。
異安心の私が申し上げる筋合いではありませんが、
よく、よく、お考えになってみてください。
332NB:02/03/27 18:27
奥州に御一流のことを申しまぎらかし候ふ人をきこしめして、前々住(蓮如)上人
奥州の浄祐を御覧候ひて、もつてのほか御腹立候ひて、さてさて開山聖人
(親鸞)の御流を申しみだすことのあさましさよ、にくさよと仰せられ候ひて、
御歯をくひしめられて、さて切りきざみてもあくかよあくかよと仰せられ候ふ
と云々。仏法を申しみだすものをば、一段あさましきぞと仰せられ候ふと云々。
333名無しさん@1周年:02/03/27 18:36
>>332
私達にもわかりやすいように、現代語訳でお願いします。せっかく掲載されても、
読んだ私達にその意味がわからないのであればあんまり意味が無いと思います。
334NB:02/03/27 18:54
>>333
だぁーー。スンマソ。コピペで独り言だったもんで。

奥州に、浄土真宗のみ教えを乱すようなことを説いている人がいるということを
お聞きになって、蓮如上人はその人、浄祐を奥州から呼び寄せ、お会いになりました。
上人はひどくお腹立ちで、「さてもさても、ご開山聖人のみ教えを乱すとは。何と
腹立たしいことか」とお叱りになり、歯がみをしながら、「切りきざんでも足らないくらいだ」
と仰せになりました。ご法義を乱すもののことを「とりわけ嘆かわしい」と仰せになったのです。

ということらしいです。@本願寺出版社。なんか、、味気ない現代語訳っすね。
335名無しさん@1周年:02/03/27 19:22
>>334
わがままを聞いて頂き、ありがとうございました。失礼致しました。
336渡海 難( p4113-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/27 19:45
>>318
>当時も念仏は座禅とかしながらでなければ駄目だ 〜 とかいわれたそうだ
     <?? 聞いたことがないなー (笑)>

>私が浅学なせいかもしれませんが。    <うん。貴方が浅学なんだろう。>  

>心からの阿弥陀仏への叫びだ

 芝居でも、スポーツでも、心を込めた行為には自ずから型がある。「座禅して」というのは、念仏に心を籠めようということだろう。

>>319
>あなたは執拗に「座禅しながら念仏する事」をあくまでも親鸞聖人の直説だと主張されたいようです

 貴方は頭の悪い人だね。「座禅しながら念仏する」などと誰が言ってるって?。アンタは「座禅して念仏する」と言われると、「座禅しながら念仏する」と翻訳する。頭の悪い人だ。
 アンタの頭脳には、50年前の真空管でも入っているんか?。昔のラジオは時々ひっぱたいて音を大ききした。進駐軍が秋葉原に持ってきた中古の真空管は、半田のつきが悪かった。
 「名画は額をして鑑賞しよう」。こう言われると、アンタは「額を見ながら名画を見よう」と言っていると解釈するんか?バカダネ。「座禅して」と「座禅しながら」じゃ大きなちがいだ。アホタラのあんたには分からんだろう。
 「名画鑑賞に専念しよう」、「一筋に名画を見てみよう」。こう言われたら、あんたは額を外すのかい?。「額を見ながら名画を見よう」じゃないんだよ。額があると名画は納まりがいい。持ち運びにも、絵に直接手が触らなくていい。だから額を使う。
 「名画鑑賞に専念しよう」、「一筋に名画を見てみよう」。こう言われてもみんな額付きで鑑賞するんだよ。あんたらのチノーにはついて行けないね(笑)
337渡海様こそ諸行雑修です。:02/03/27 19:45
>渡海様
>>150浄土真宗では、「如来禅」という。
<如来禅?聞いた事がない(笑)諸行雑修だな。>

人の事を諸行雑修呼ばわりする前に、自分が諸行雑修の身である事を自覚出来ていない
凡夫そのものである事を省みた方が良いと思います。
338渡海 難( p4113-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/27 19:46
>他の経典の引用の一説のみを以って、親鸞聖人の説であり、本心であり、親鸞聖人の思想の「核心」と結論づけられる。

 親鸞聖人は教行信証に、嘘を書いたと言うのかい?。「核心」というのは、教行信証全体の構造論から結論付けているんだよ。あんたらのチノーじゃ、教行信証全体の構造論と言ってもチンプンカンプンだろうけどね。

>「座禅しながら念仏する事。」が親鸞聖人の本心であったと述べる事が、本当に出来るのでしょうか?。     <アホラシ(笑)>
 

>>321
>こちらも「なるほど、人としてしょうがない事ですよね。」との一言も出るものなのに、
    <貴方のチノーに合わせて書いてるんじゃないよ>

>どうして臆面もなく言えるのだろうか、と思ってしまうんですよね。
    <教行信証の読解力の相違でしょう。>

>全然私は構わないんです。    <貴方が信じなくても僕は全然構わないんですよ。>  

>学術的考察もないままに」結論付けて欲しくない、と言う事を言いたい
     <仮説を立てるのに遠慮はしませんよ。>

>欲しくないんですよね。    <アンタの好みでこちらは良心を変えることはできませんよ。> 

>仮説としてならば全く構いません。    <何度も仮説と言ってるでしょう。>
339名無しさん@1周年:02/03/27 19:48
>渡海さん
仮説なのに随分断定的ないいようですね。
340渡海 難( p4113-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/27 19:48
>>322
>御自釈ではなく引用ですから。

 自釈も引用も、親鸞は、心血と魂を注いで書いています。
 教行信証は、引用部と範囲の選択、引用の配列、リズム、これらに巧みな技法を導入し、極めて精密な哲学理論を展開しています。御自釈ではなく引用だからどうという単細胞的な見方をすると、全体の構造を見誤って大やけどする。
 研ぎ澄まされた技法を文章上に注いだ新古今和歌文化時代にふさわしい巧みな技巧に溢れ、空前絶後の独創的な哲学を語っていますよ。

>渡海さんは一息で何回くらい念仏を称えているのですか?

 余り参考にならないよ。一息で4,5回入るのかな。分からない。
 教行信証で、親鸞は安楽集を引用し、「始行の人の念は、数を記する、また好し」と言っている。
 回数の算定を交えた念仏は、念仏を称える意識の瞬間と、数を意識した瞬間とが交互にくる。「なむあみだぶつ」と称える。次いで「1回」と回数を意識する。「なむあみだぶつ」と称える。次いで「2回」と回数を意識する。回数を意識するときは多分指を折るんだろう。
 あの場合には最初の「な」から最後の「つ」まで、一回一回はっきり意識するんだろう。その場合には一息で一回となるんだろうか。
 法然さんがある坊さんに称名念仏を勧めたら、相手の坊さんは、称名念仏は舌を噛むからいやだと言ったという。内容は詳しく覚えてない。
 称名念仏でなぜ舌を噛むのか、長い間分からなかった。座禅して念仏するようになって分かったんだ(笑)。確かに舌を噛むことがある。深い禅定に入って称えていると、「イテテテ」ということがしばしばある。あの場合には、一息で十回くらい称えているんだろうか。
 「イテテテ」の件があってから、法然さんも座禅して念仏していたんだと合点がついたんだ。
 ま、このへんはあまりこだわらないでいいんじゃないか。身についてくれば、自然にできるようなる。回数や時間を気にしていると、却って神経の邪魔になる。
341渡海 難( p4113-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/27 19:48
>>324
>渡海さんの姿勢もそれに近いと思う。

 「座禅して念仏する」というのは、漢文で「謂父王曰王今座禅但当念仏」とある。これを「座禅しないで念仏せよ」とは僕には読めないね。

>>325
>漏れは坊さんや寺の関係者じゃないからね。

 寺族出身で坊さんになれず、お寺に出入りで営業している企業の社員さんですよね。何でもいいけど、どうせお寺のコネで就職したんでしょう(笑)。

>>328-335      信謗共にあるべし

>>334
 NBさん。貴方の蓮如上人に仰ってあげてくださいな。お怒りになるなら、教行信証に墨を塗ってからにしなさいと渡海は言ってます、ってね(笑)。
342修阿弥陀仏:02/03/27 19:49
盛り上がっているところを申し訳ない。

>>276
>>288
どうもありがとうございます。
ただ「草稿状態」のものをそのまま信用していいのかどうか、ちと疑問なのは置いといて。
おそらくこれは安心のところですね。微妙なところだと思います。
誤解しているかもしれませんが。
343渡海 難( p4113-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/27 19:57
>>337
>如来禅?聞いた事がない(笑)

 あれ?そうですか。貴方の勉強不足でしょう。ま、勉強しなくても、お坊さんは困りませんけどね。

>諸行雑修だな。

 諸行雑修でもいいんですよ。親鸞さんが、念仏は座禅して行いなさいよと仰っているんで、ぼくは「はいお言葉有り難うございます」と言ってやってるだけですから。
 それが諸行だろうが雑修だろうが、関係ないんですよ。あなたもひとつ、諸行雑修を行ったらいかがですか?。

>人の事を諸行雑修呼ばわりする
 何か失礼がありましたか。あなたがどこのどなたか分かりませんね(笑)。

>自分が諸行雑修の身である事を自覚出来ていない
 諸行だろうが、雑修だろうが、親鸞さんのお供をするだけです。自覚はそのあと(笑)

>凡夫そのものである事を省みた方が良いと思います。    <難しいご注文でござんすね。>
344渡海 難( p4113-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/27 20:00
>>339
>仮説なのに随分断定的ないいようですね。
     <自信があるからね。これも給わりたる信心かな。可笑しかったら笑ってくださいな(笑)。>
345ベロ ◆od7XM/js :02/03/27 20:05
言いたい事は良くわかりますが、皆さん増上慢になってますね。念仏申す人をここまで
けなす宗門関係者って何なんだろう?あなたたちにとって阿弥陀の誓願って何ですか?
組織を守るために生きた人間の苦悩を無視する、伝統仏教の堕落ここに極まれりって感じです。
僕は渡海信者じゃないよ、「ああ先生」なんて変てこりんな仮説が親鸞思想なわけない。
ただ伝統宗学にマインドコントロールされていない自由な発想は渡海さんにはある。
で渡海さんの勧める実践行を僕も試そうと思うだけ。
仏名を称える瞑想法は仏教の最初期の段階から説かれているしね。

浄土真宗本願寺派の宗祖は親鸞聖人で現門主は大谷光真です。
座禅念仏宗の宗祖は親鸞聖人で教祖は渡海難です。
渡海さんの親鸞と伝統宗門の親鸞は同一人物ではあるが根拠となる思想は全然違う。
と言う感じかな。宗門関係者の方々にはもうちょっと懐の深さがほしいね。
>>332
もし蓮如が本当にそんなことを言ったのなら、仏教者失格ですね。
浄祐と言う人のいのちよりご法義の方が大切なんですか。
人間のいのちを何とも思わないご法義って何なんでしょうね。
346NB:02/03/27 20:40
>>354
たはははは。「仏教者失格」って言葉、なかなかに奥が深いねえ〜。

浄土宗諸派の方はどうご覧になるんでしょね。このやりとり。
347284:02/03/27 23:27
渡海さん、私も信じています。それは親鸞聖人は「如来禅」など絶対に人々に対して
説いていない、という事をです。それだけは誰が何と言おうとも覆す事は出来ません。
そしてそれを主張する事が、私の良心です。

親鸞聖人は「座禅して念仏しなさい。」とは絶対に説いておられません。私はこれだけは
絶対に主張しますし、妥協致しません。
348 :02/03/27 23:32
くだらね〜な。
勉強不足、増上慢、仏教者失格...自分で自身のことを言い当ててるのは見事。
349名無しさん@1周年:02/03/27 23:52
ここは念仏宗渡海会のスレではありません。
座禅念仏に関する議論は、こちらの糞スレでやってください。

http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1012997700/
(注)sageでカキコすること!
350こき:02/03/28 00:14
>>284
揚げ足取りで悪いんだけど座禅の姿勢で念仏したらだめなんてことも説いてない
ですよね?それと二十願十九願を身をもって行じなければ凡夫はおそらく
深いところで自力を捨てきれないのでは?
親鸞が結論を出してるからといってその結論だけをとっとといただくことはでき
ないと思う。
351NB:02/03/28 00:37
18願に帰命しようとして、いつのまにやら気づかぬうちに20・19の「増上慢」
20・19を修めた後に、18が分かるんだ。って訳じゃないと思われ。
352こき:02/03/28 01:59
でもその20.19をすすめてるのは阿弥陀さんですよね。18をやってみて
どうしても20.19に行ってしまう者のための願なら自分なら18だなどと
いきごまなくてもありがたく20.19をいただいてもよいのでは。
353名無しさん@1周年:02/03/28 11:07
いきなり割り込みスレで申し訳ないのですが
最近、念仏宗のコトをよく聞くのですが、
浄土宗と念仏宗の具体的な違いってどこですか?
(宗教初心者には分かりづらいんで。スンマソ)
念仏宗は他にどんな団体があるのですか?
2chにあるのは渡海さんの念仏宗渡海会と念仏宗無量寿会
だけですよね?
354名無しさん@1周年:02/03/28 13:20
本心はQ。素直に受け取れないからRS用意してあるけれど根っこはQ。Qが本心。
355名無しさん@1周年:02/03/28 13:26
ムネムネ会 >> 念仏宗無量寿会 >>>> 念仏宗渡海会
356名無しさん@1周年:02/03/28 13:57
勉強不足、増上慢、仏教者失格とかいう言葉で間違ってるものも素直に間違ってると
いえないってのもおかしな話だな。
間違いを指摘すれば懐が深くないだのマインドコントロールだのいうし。
自力でいい、雑行でもいい、信心が一ならずともいいという人が親鸞の後をついていってますと
いえばそれは親鸞の教えとは違うに決まってるじゃない。
変な平等主義と理屈だけで事実を捻じ曲げるていることにどうして気がつかないんだろう?
357渡海 難( p5198-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/28 14:40
>>347
>>私も信じています。それは親鸞聖人は「如来禅」など絶対に人々に対して説いていない、という事をです。
       <あー、アホラシ。>

>それだけは誰が何と言おうとも覆す事は出来ません。   <バカは付き合いきれん>

>それを主張する事が、私の良心です。    <なんだってイイわい。バカにつける薬はない>

>親鸞聖人は「座禅して念仏しなさい。」とは絶対に説いておられません。
    <教行信証に勝手に墨を塗りなさい。片目をつぶって開くのもいいでしょう>

>私はこれだけは絶対に主張しますし、妥協致しません。  <勝手にすればいいでしょう。>

>>350 :こき
>二十願十九願を身をもって行じなければ凡夫はおそらく深いところで自力を捨てきれないのでは?

 二十願十九願を身をもって行じると、凡夫は深いところで自力を捨てきれるのですか?

>親鸞が結論を出してるから   <親鸞が出してる結論とは何でしょうか?>

>>351 :NB   うんうん。たまにはNBさんと意見が合う。でも、だから何?。(笑)
358渡海 難( p5198-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/28 14:41
>>352 :こき
>20.19をすすめてるのは阿弥陀さんですよね。

 阿弥陀さんは知らない。親鸞さんは19願往生は勧めない。親鸞は、20願往生を真門と名付け、20願往生を真仏土への真の入り口と言っている。
 僕らが自覚できるのは、入り口までだ。その意味でまず20願往生に立つべきだ。その先は浄土のご主人様に任せるしかない。浄土のご主人様の果遂の誓い任せる。それが他力だ。

>>353
>念仏宗は他にどんな団体があるのですか?
 ねんぶつ‐しゅう【念仏宗】<広辞苑>
 阿弥陀仏の救いを信じ、その仏名を称えて、浄土に往生することを願う仏教宗派。融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗など。念仏門。

 2CHでは、いたずら坊主の口車に担がれないのが生き残りの秘訣です。ご注意下さい。
359渡海 難( p5198-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/28 14:41
>>354
 Qホールが本命だけど、Rホール、Sホールも用意してあるって、ナンダイこれは?(笑)。

>>356
>勉強不足 〜 とかいう言葉で間違ってるものも素直に間違ってるといえないってのもおかしな話だな。

 坊さんの家庭教師のお世話にはつき合い切れないよということです。勉強不足と言われたら、自分で勉強してください。

>マインドコントロールだのいうし。

 「>255:修阿弥陀仏  嫌々ながら聞いてきたのに、この南無阿弥陀仏のありがたさ。あなたも南無阿弥陀仏、こちらも南無阿弥陀仏。ありがたいですなあ」
 「嫌々ながら」に「ありがたいです」を接なぎ、木に竹を接いだ話をカキコすれば、催眠術のかかったマインドコントロールじゃないかと揶揄されても文句は言えないだろう。
 マインドコントロールじゃないというなら、「嫌々ながら」が「ありがたいです」にどうつながるのか。嘘偽りなく発言者が説明すべきじゃないのか?。

>自力でいい、雑行でもいい、信心が一ならずともいいという。

 こちらにはあなた方に納得して貰える言葉の用意がありませんという意味です。説明する言葉の用意が無い以上、どのように思われても甘んじて受けましょうということです。自力と思われてもいいです。雑行と思われてもいいです。信心が一でないと思われてもいいです。
 全ての責任はこちららにあります。説明する言葉の用意が無いというのが全ての原因です。そういう意味です。
360渡海 難( p5198-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/28 14:42
>親鸞の後をついていってますという。
 座禅して念仏申すべしと言われたその言葉を守りますということです。
 「座禅して念仏申すべし」と言われ、「その言葉を守ります」と僕は申し上げました。「親鸞の教えと違う」と言われても、「座禅して念仏申すべし」と言われているそのことばを僕は守ります。親鸞の教えと同じか違うかということは、僕にとっては大きな問題じゃありません。
 僕は、ひたすら親鸞聖人の言葉を守るだけです。

>変な平等主義と理屈だけで事実を捻じ曲げるていることにどうして気がつかないんだろう?
  <信謗ともにあると教わっているからです。>
361念仏:02/03/28 18:36
>346
法然上人なら、「座禅しながらでないと念仏できない人は、
座禅しながら念仏すればよい。」で、済むんでしょうね。
ただ、座禅しながらではない、座禅して念仏だと言う人には手を焼かれると思いますが。
また、「法然上人も座禅して念仏していた」という渡海氏の珍説にたいしては、
浄土宗の人も、対岸の火事とばかり傍観しているわけにはいかないのでは?
362観仏:02/03/28 18:52
ここは2ちゃんねる。
傍観もまたよろし。
363渡海 難( p0243-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/28 19:13
>>361 :念仏
>座禅して念仏だと言う人には手を焼かれると思いますが。

 手を焼く?。面白い。あれだけ度量の大きい人の手を焼かせることができる人物は、相当の大物だ。 何?それが渡海?。そんな大物はどこの渡海だって? (笑)
 座禅して念仏しようというのは親鸞だよ。

 「選択本願念仏集」の内題に僕(渡海)の名前が書き込まれ、僕も親鸞さんのように図画の描き上げが依頼されるかな。コマッチャウナ(笑)。
364修阿弥陀仏:02/03/28 19:14
>>346
浄土宗諸派の者ではないけれども、一門外漢としての感想なら、どっちもどっちという気がしますね。
>>326さんや>>329さんの言われることももっともだと思いますが、ここは>>345ベロさんの方に分がありそうな。

親鸞聖人の思想を誤解する自由は誰にでもあるわけで、またその誤解した思想を表明する自由も誰にでもある。だから渡海さんのいう親鸞思想の核心が間違いだというなら、間違いでない親鸞思想の核心を出していただきたいです。
宗門の方々にとっては自明のことでしょうけれども、それをやらないと、やっぱりどっちもどっちだという気がしますよ。
たとえば「云」の字をどう見るかとか、「如来禅」なんてどこにもないじゃないかとか、細かく明確に根拠を挙げてつっこまないと駄目だと思います。まあ結局は、感じ方の違いとかいって逃げられると思いますが。

>>345
蓮如上人を仏教者失格というのは言い過ぎだと思いますよ。宗門内で見解を統一するのは当然でしょう。親鸞聖人も義絶ということをやっておられますし。

>>361
>対岸の火事
そんな大げさな。
ここは一つ、元祖法然上人のお言葉から。
「妄念おこさずして往生せんと思わん人は、生まれつきの目鼻を取り捨てて念仏申さんと思うがごとし。」
365修阿弥陀仏:02/03/28 20:05
もう一つ面白いご法語を見つけた。
「魚食うもの往生せんには、鵜ぞせんずる。魚食わぬものせんには猿ぞせんずる。食うにもよらず、食わぬにもよらず。ただ念仏申すもの往生はするとぞ、源空は知りたる。」
366渡海 難( p7096-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/28 21:18
>>364 :修阿弥陀仏
>細かく明確に根拠を挙げてつっこまないと駄目だと思います。

 経釈をよみ学すといえども、聖教の本意を心得ざる条、最も不便のことなり。
 諍論のところには諸の煩悩起こる、智者遠離すべきよしの証文候にこそ。
 あさまし。あさまし。
367渡海 難( p6138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/28 22:22
>>364
>蓮如上人を仏教者失格というのは言い過ぎだと思いますよ。

 仏教者失格というのは、「NB蓮如<偽蓮如>」を指すのでしょう。本物の蓮如さんの気持ちは十分に分かりますよ。
368ベロ ◆od7XM/js :02/03/28 23:49
渡海さんの「座禅して念仏申すべし」というのは念仏する時のスタイルの事でしょう?
今は正座してお念仏申すスタイルが多いが、昔は座禅のスタイルだったと思います。
高僧方の絵像や木像を見てもほとんどがあぐらの座禅スタイルでしょう。座禅というとスグ
雑行雑修というのは「座禅」という概念が渡海さんとお寺さん方に相違があるのでしょうね。
座禅といえば禅宗の専売特許みたいに思ってる人は仏教の修行法についてもっと調べた方が
いいんじゃないかな。時代や地域、宗派を問わず仏教の修行法として座禅と言うスタイルは
取り入れられてますよ。鎌倉時代当時、親鸞さんが座禅というスタイルでお念仏申していた
可能性は非常に高いと思います。
369こき:02/03/29 01:36
>>渡海
増上慢をつきつめると結局うまくいかず自力につかれきった後に他力が見えて
くるのかなあなどと思っていたけど、自力を突き進もうという根性など持って
いないぼくがいうのはナンセンスでしたね。
親鸞は十八願にこそ帰命すべし、回向は如来より来る、真実の教は大無量寿経
であるなどを結論としていると思っていたけどこれまた教行信証を自ら読解
してないのでナンセンスでした。
十九願往生を進めていないのも知りませんでした(W
ただ阿弥陀さんもしくは祖師たちが伝えたものを親鸞はそう受け止めたけど
どんなに親鸞がすきでも各人微妙にずれた受け取りをしてしまうんでは?とか
思ってます。
370326:02/03/29 02:26
これより渡海さんが根拠とする法照の文、そして親鸞の文を挙げ親鸞が本当に
座禅して念仏申すべしなどといったかどうか検証したい。

浄土五会念仏事儀賛を書いた法照は唐の代宗頃の人であり浄土真宗においては
七高僧の内に入らず、いってみれば傍系の人である。だが、親鸞は和賛において
「世世に善導出で給い法照小康としめしつつ」と書き重要視している。
さて問題の「座禅」がでてくるのは
「父王曰王今座禅但当念仏」という文である。
これは釈迦が父王に対し”父王、今、座禅をされるのならば、念仏を修しなさい”という
ところである。法照は釈迦が父王浄飯王に対し念仏三昧を勧めるところを例に出し、
念仏の行を勧めているのである。この文の主体はあくまで念仏であり
座禅して申す念仏などではない。父王が座禅して行をしようとしたところ釈迦が念仏を
勧めているものであり、座禅して念仏するべきということではないことが読み取れると思う。
つまりここの「座禅」ですら「座禅して念仏申すべし」などという意味はもっていない。
371326:02/03/29 02:27
その前文においても法照はあくまで念仏の賛嘆であり座禅については何も述べていない。
”如来の教えはさとりをえないもののためにある。なかでもこの念仏三昧はこの上なく深い
妙なるものである。”
そういったことを法照は述べているのである。
さらにいえば五会念仏とは五会の法事を行い、念仏を修するものであり、南無阿弥陀仏を
称えるのに緩より急へと五つに分けて称えるものである。つまり五会念仏というものもまた
座禅などということは全く関係がない。
以上の事から法照自身も座禅して念仏申すべしなどということはいってないことがわかると思う。

この法照の引文は教行信証のなかにおける師釈の引文が連なるところにある一つである。
この引文を含む多くの引文の最後に親鸞は自らの釈を記している。
「明知是非凡聖自力之行故名不回向行也大小聖人重軽悪人皆同斉応帰選択大海念仏成仏」
ここでも座禅して念仏申すべしなどとは親鸞は一言も書いていない。念仏一つで成仏することが
できるといっているのである。
372326:02/03/29 02:27
最後に歎異抄より引用したい。
関東の弟子たちが往生極楽の道を問う為に親鸞のもとを訪ねたときのことである。
「念仏より外に、往生の道を存知し、また法文等をも知りたらんと、心にくく思し召して侍らんは、
大きなる誤りなり。もししからば、南都、北嶺にも、ゆゆしき学生たち多く座せられて候ふなれば、
かの人々にも逢ひ奉りて往生の要、よくよく訊かるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、
弥陀に助けられ参らすべしと、よき人の仰せを被りて信ずる外に、別の子細なきなり」
念仏よりほかに親鸞が往生の道を知っているとお思いならば、南都、北嶺にも多くの学者、
知者がおいでになるのでその人たちに訊くべきでしょう。親鸞においては”ただ念仏して”
阿弥陀仏に助けられ参らすとよき人の教えを信ずるだけであります。
373326:02/03/29 02:27
ここにおいて”ただ念仏して”とあるように親鸞は座禅してとはいいません。
この「ただ」とは「唯」です。
『唯信鈔文意』の初めに「唯はただこのひとつといふ。ふたつならぶことをきらふことばなり」
とあります。「ただ念仏して」そう親鸞は説いています。

以上のことから親鸞が「座禅して念仏申すべし」などと説いていないことを述べさせていただきました。
374326:02/03/29 02:28
>修阿弥陀仏さん、どっちもどっちだといわれますので明確・・とまではいかないまでも根拠を
挙げさせてもらいました。
>ベロさん
ベロさんがおっしゃることは親鸞の考えを基にして自分の考えを創りあげることにおいては
全然問題はありません。むしろ、それは歓迎すべきことだと思います。ただ、渡海さんのように
「親鸞はおっしゃている」というのは完全に事実の捻じ曲げだと思います。
>最後に渡海さん
反論があるのならどうぞ。ただし、ちゃんとした根拠をもってお願いします。
法照の文からもどう考えても「座禅して念仏申すべし」などということは親鸞はいっていません。
あなたがそう言い張るのならばどこにそんなことが書いてあるのかまた法照の文を
どう解釈したのか、述べていただきたい。
375ベロ ◆od7XM/js :02/03/29 02:44
浄土真宗聖典(註釈版)、本願寺出版、P171、L2〜3には
「父の王にいうてのたまはく、<王いま座禅してただまさに念仏すべし。(後略)
とあります。326さんは座禅などという事は全く関係ないと言われるが、
僕は念仏する時のスタイルがいわゆる「座禅」のスタイルなのかなと思うのです。
禅宗で言う所の只管打座や公案禅ではなく、あぐらを組んだり、結跏趺座したり
して背筋を伸ばし下腹に力を入れ、腹式呼吸で念仏を称えるのではないかと思います。
376名無しさん@1周年:02/03/29 08:38
渡海信者が一気に増えたな。
浄土系も「座禅念仏」によって崩壊寸前だな。
377傍観者:02/03/29 09:11
>>284さんの考え。
「親鸞は『如来禅』など人に対して説いていない、という親鸞に対するイメージが、
親鸞に対する一番正しいイメージだ、と信じ込んでいる。」
>>渡海さんの考え。
「親鸞は『如来禅』を人々に説いて、なおかつ、『如来禅』は親鸞思想の核心である、
と信じ込んでいる。なぜならそこには自分の体験から裏打ちされた自信があるし、
何よりも親鸞自身が「教行信証」で「座禅して念仏もうすべし」と説いているから。」

というような見方が私には出来ました。オレからしたら、「どっちでもイインじゃないの。」
と思います。だってどちらもそれぞれ違った親鸞に対するイメージを持つ事で「救われ」
のようなものを感じているのであれば、親鸞が「如来禅」を説いたか説いてないかの是非を
論じても無駄なような気がする。どっちか一方のみを肯定する事になれば、一方が感じて
いた「救われ」を否定する事になってしまうと思う。だから、お互いがそれぞれ違った親鸞に
対するイメージに救われを感じている、親鸞ファンなのは共通しているわけだから、もっと
仲良くしたらいいんじゃないかと思います。「ああ〜あなたは親鸞さんに対してそのように
受け取られているんですね〜(ほほえみ)」みたいな会話が『お互いに』出来るといいですよね。
自説をぶつけ合うだけなのではなくてね。んでは。
378353 初心者:02/03/29 09:29
再び割り込みすみません。
>>358
>ねんぶつ‐しゅう【念仏宗】<広辞苑>
 阿弥陀仏の救いを信じ、その仏名を称えて、浄土に往生することを願う仏教宗派。
融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗など。念仏門。
と言うコトは 浄土真宗 = 念仏宗 になるのですか?
先日某念仏宗の方が「京都で仏教の話をききませんか。」
とお誘いにきて「ウチは浄土真宗だから結構ですわ。」と断ったら
「念仏宗も浄土真宗の一派ですよ。ちゃんと国にも認められているし。」と言われました。
教義に違いがないなら同じと考えても良いのでしょうか?
379四十八願:02/03/29 10:17
大体、法然や親鸞その他浄土宗の高僧だけが阿弥陀如来の真意を説いたわけでもあるまい。
十九願だけでも素晴らしい誓願だと私は思う。なぜなら、阿弥陀如来は様々な善根諸功徳
を修する人をば浄土に迎える、と誓われているからだ。こうなると、仏教諸宗派の様々な
行を行じている人達は、十九願の主旨に叶った人達であると言えるだろう。そうなると、
禅宗の人だろうと、日蓮宗の人であろうと、好きで経典を研究している人であろうと、全て
阿弥陀如来は浄土へお迎え下さる、という事になるのではないだろうか?色んな仏教書物が
現在のように自由に読めなかった鎌倉時代ならばいざ知らず、今ではほとんどの人が様々な
仏教の書物を読み、行きたいと思えば沢山の宗派のお寺へ行く事も出来る。一人で経典を
唱える事も出来る。念仏もそうだ。念仏だけが阿弥陀の救いの方法ではあるまい。今の人達は
念仏だけに心を集中する事が出来る人の方が珍しいかもしれない。多くの事に気が向きやすい
人にとっての救いの誓願は第十九願だ。第十九願こそ、宗教書物溢れる現代にとってはふさわ
しい誓願だと思うし、仏教諸宗派全てに開かれた阿弥陀如来の救いだと思う。
380326:02/03/29 10:26
うーん、わかってもらえないんでしょうか?

>ベロさん
何度も申しますように親鸞のいった言葉を受けて、あなた自身の考えを述べるのは問題ありません。
>僕は念仏する時のスタイルがいわゆる「座禅」のスタイルなのかなと思うのです。
というように。ただ、お持ちの真宗聖典のその文からして、親鸞が「座禅」ということを重要視し、
それが念仏に関係あるといってますか?そんなこと一言もいってないでしょう。
私が座禅が関係ないというのは親鸞がいったことにおいてです。親鸞が関係あるといったならば、
どこでいったか示してもらいたいです。


>傍観者さん
>370-373を読んでもらえたでしょうか?
>親鸞自身が「教行信証」で「座禅して念仏もうすべし」と説いているから。
親鸞自身は教行信証でそんなこと一言もいってないです。「如来禅」などという言葉もないです。
座禅ということばがでてくるのは法照の文のなかでの釈迦が父王にいったことばです。
381名無しさん@1周年:02/03/29 10:32
>>378
あなたに対して語った『某念仏宗の方』の団体の正式名称は何ですか?そこがわからないと
良くわかりませんよね。中には「自称、浄土真宗の一派」と名乗って信者を獲得しようとする
人達もいると思いますからね。ま、アヤシイと思ったら入信しなけりゃいいんじゃないでしょうか?
あとはその団体の事をネットで調べて見るとか?
382326:02/03/29 10:47
同じく教行信証からの渡海さんがいう浄土五会念仏事儀賛のすぐ後の文です。

念仏成仏これ真宗なり。  
<真宗においては念仏して成仏するより外にはない>

仏言をとらざるをば、外道と名づく。
<仏の言葉を信用しないのは外道という。>

因果を發無する見を、空とす。  
<それは因果の手をはらいのけ空にかたよった外道である。>

正法よく世間を超出す。
<正法はよく世間を超出する。>

禅律いかんぞこれ正法ならん。 
<座禅や持戒はいけない。方便の教えであり念仏からみればそれは正法ではない。>
 
念仏三昧これ真宗なり。
<念仏三昧こそが真宗の教えである>
383326:02/03/29 10:52
>382
念のために補足しておきます。

親鸞は教行信証においてその教えを真宗と呼んでいます。
ですから、ここでの「真宗」は現在の宗派の名前ではなく親鸞の教えそのものを示します。
384326:02/03/29 11:00
また教行信証にはこうもありますね。

「禅定を修する人、その自力に約してまず魔種あり」
385名無しさん@1周年:02/03/29 11:03
腹式呼吸さいこー
386お東さん紛争:02/03/29 11:53
どうして、あなたは種付けして、私たちに苦しみを共有させたのですかーーーーーーーーーー。
387名無しさん@1周年:02/03/29 13:15
>>326
渡海さんも、その他の人も、みんな「念仏」さえ忘れなければ、アミダ様はお救い下さるんでしょうか?
388疑問君:02/03/29 13:18
>>384
でも渡海さんは『座禅して』念仏してるんであって、禅定を求めているのとは
違うでしょ?念仏をしていれば魔はこないんじゃないの?それとも念仏しても
座禅の座り方をやっていたら魔は来ちゃうんですか?
389353 初心者 :02/03/29 13:21
>>381
詳しくは教えてもらえませんでした。だからネットで調べたら2chに辿り着いたんです。
誘われかたからして、たぶん念仏宗無○寿会だと思われます。
そこのスレを見たのですが、教義についてはあまり書き込みが無かったので
(怪しげな儀式のことが結構かいてあったのですが)教義の事はここで聞いてみようかと
思い書き込みしました。もう少し調べてみようと思います。ありがとうございました。
390ベロ ◆od7XM/js :02/03/29 16:56
326さんはどういうスタイルでお念仏してらっしゃいますか?正座ですか?
立ってですか?あぐらをかいてますか?念仏申す時の格好がいわゆる座禅という
格好なだけで、渡海さんも念仏を称える事が目的でしょう。渡海さんにとっては
いわゆる座禅と呼ばれている座り方が一番、念仏申しやすい格好なだけだと僕は
思いますよ。>>382には念仏三昧という言葉もありますね、どういう格好で念仏三昧
に入るんですか?スタイルの問題より要はお念仏申す事が重要なんじゃないでしょうか?
実際に渡海さんは毎日念仏申してると言われているし、それが座禅スタイルであろうと
正座であろうと大きな問題じゃない気がします。お寺さん方はそれが親鸞思想の核心だ
という事に反発なされているのでしょう?僕も親鸞思想の核心なんて思っていない。だから
渡海さん一人がための親鸞思想という意味では渡海さんの解釈も成立するんじゃないか
と思うだけです。それをムキになって「それは違う、譲れない、訂正しろ」と言っている
のはお寺方の皆さんでしょう。浄土真宗系伝統教団の解釈しか認めないって言うのは教団の
構成員だけに適用すればいいのであって、一般人にも我々が認める親鸞理解以外は禁止する
みたいな態度は思想・言論弾圧ですよ。渡海さんは真宗教団の構成員じゃないようですしね。

391彼岸:02/03/29 17:25
大丈夫!お互いに批判し合っても、正統性を主張して譲歩しなくても、理解しなくても、
「なむあみだぶつ」と唱えりゃそれでOKなんですよ。

だから私としては渡海さんと326さん達にもっと議論して欲しいですね。その議論の
先に何があるのかわからないけど、何もやらずにお互いに意見を内に燻らせているより
はずっとマシだと思う。あとは阿弥陀如来がなんとかして下さる。南無阿弥陀仏
392彼岸:02/03/29 17:50
だから「親鸞思想の核心が座禅して念仏する事だ」と主張するグループも、
「親鸞は座禅して念仏する事など説いていない」と主張するグループも、
互いに知識と体験談(w)と親鸞の言説を総動員して思う存分議論し尽くして欲しい。
闘って欲しい。そして互いに疲れ果てた時、真の平和がある(ような気がする)。
そこに阿弥陀如来と、既に浄土で仏になっている(と思われる)親鸞が現れる(かも知れないね)。
でも、本当にそうなるのかわしゃ知らネ。大切なのは、議論し合っていても「南無阿弥陀仏」と
唱える事、念じる事を忘れない事だ。そうすれば、互いに死んだ後、浄土で会える。その時が、
南無阿弥陀仏が議論を超えていたものだと本当に知る時だ。私達は凡夫だ。綺麗ごとなんて実行
出来ないんだ。結局エゴの固まりであって、自分の考えが一番正しい、などと心の奥底では思って
いるんだ。そういう思いを隠したまま、「こいつ間違ってやがんなー」と相手を見下げたまま、口では
御同朋などと説くよりは、互いに議論をし尽くした方が良いんだ。闘った方が良い!如来や仏や親鸞
自身でないくせに、自分が一番親鸞の思想を正しく解釈しているという思い上がりしか持てないのが
人間の本当の姿ってモンだ。でもそれでいいんだ。そのままで闘いつつ、念仏すれば良いんだ。中途半端で
偽善に満ちた相互理解なんて糞くらえだ!あとは死んだ後でわかる。仏さんが本当にいるんだったら、
念仏さえしていれば絶対に救ってくれる。
393名無しさん@1周年:02/03/29 18:09
『世間虚仮・唯仏是真』と聖徳太子は言った。私は思った。

『世間虚仮・南無阿弥陀仏是真』と・・・。(プロジェクトX調で)
394修阿弥陀仏:02/03/29 18:46
326さんへ。
ありがとうございます。そういうふうにやっていただけると勉強になります。
ただ二点ほど納得しがたいところがあります。
1。>”父王、今、座禅をされるのならば、念仏を修しなさい”
私が所持している聖教では、>>375ベロさんと同じく、「王いま座禅してただ当に念仏すべし」とあります。「座禅をされるのならば」とは読めません。「座禅というポーズをとって」と読めるのですが、ここの訓は確定していないのでしょうか。
2。念仏というときに、すでに座禅してというのが前提としてセットとしてあったら、その論では弱いと思います。念仏というのが、すでにして座禅して念仏するという意味であると解釈されれば、それを崩すにはまだ足りないと思います。
あと歎異抄を典拠とするのは、親鸞思想を問題にした場合は二次資料になるので、やはり弱いと思います。
395修阿弥陀仏:02/03/29 18:52
>>393
2ch虚仮、念仏是真。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、インターネット2ちゃんねるのスレは、よろずのことみなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。

なんてね。
396326:02/03/29 19:24
あらかじめいっておきますが私が述べたことは教行信証等の親鸞が遺した文献をそのまま述べてい
るに過ぎません。もちろん漢文などは現代風に訳させていただきましたが、それらも先輩方の言葉を
参考にさせていただいたものです。
>387さん
教行信証の序文において親鸞は
「斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まむと欲す。」
ひとしく救済すると述べてますね。「世雄の悲」とは釈迦のことです。そして逆謗とは五逆罪を犯した
人で、闡提とは解脱の因が絶えて絶対仏になることができない人のことです。つまりこの教えはそん
な度し難き衆生のためのものであるといっています。
397326:02/03/29 19:24
>388さん
これは私の抜き出し方が悪かったと思います。すいません。この文は親鸞があくまで念仏を賛嘆す
るために引用した文です。念仏においては他の行のように魔をもたない、なぜならば他力であるから
ということを述べています。禅定は自力の行であるから過去世において魔事の種をこしらえていたた
め禅定においてそれが表にでてくるという意味での魔です。
"ただ念仏して"とあるように親鸞は念仏にこうしなければならないという制約をつけていません。
これにおいては>361の念仏さんの言う通りだとおもいます。親鸞もその言葉をうけて嫁さんもらってますし。
中途半端な抜き出しをすると間違った伝わり方がしてしまういい例ですね。渡海さんの根拠とする文もただ抜き出すだけでは釈迦が父王に念仏を勧めたエピソードが"「座禅して申すべし」と親鸞がいっている"と変わってしまうんですから。
398326:02/03/29 19:25
>ベロさん
284さんや私のレスをちゃんと読んでいただいていますか?渡海さんがどんな格好でお念仏を称えよう
といいんです。ただ、"親鸞が「座禅して念仏申すべし」といっている"と渡海さんが断定していることにあ
ります。再三このことは申し上げています。渡海さんがそう考えたというならそれでいい、ただ、それを
親鸞の言葉にしてしまうのはおかしいと。だって親鸞はどこにも「座禅して念仏申すべし」なんて言葉は
残していませんよ。釈迦が父王に念仏を勧めたエピソードのなかでその父王が座禅をしていれば親鸞
が「座禅して念仏申すべし」といったことになるんですか?それもその文もまた引文であり、親鸞自身の
言葉では「座禅」ということ自体全くでてこなくても?解釈するということはなかったことを無理やり作り出
すことですか?解釈が成立するというならその根拠を述べてください。いったいこの釈迦のエピソードを
どう受け止めればそう成り立つのか、興味があります。
>スタイルの問題より要はお念仏申す事が重要
当然のことです。むしろ「座禅して」ということに固執してむきなっているのはあなた方のほうでしょう。
私が何度も訴えているのは親鸞が勧めた念仏とは「座禅して」とか、〜してといった堅苦しいものではな
く、"ただ念仏して"と制約などつけていないもっと自由なものだといっているんです。
399326:02/03/29 19:27
また大変な分量になってしまいました。これでもかなり省略しているんですが・・。
>387さんに388さん、最初にそのままと述べましたがやはりある程度私の意思もはいってしまいまし
た。また、訳においては先輩方の意思が入っています。もし、この解釈に疑問をお持ちでしたらどうぞ
教行信証や歎異抄をお読みください。省略している部分もありますし。前後を読んだ上で読めばより真
意に近づけると思います。もちろん、ちゃんと原文を踏まえた上で述べる反論なら大歓迎です。
ちなみにべろさん、私は真宗教団の構成員ではありませんよ。勝手に相手を坊さんと決め付けては渡
海さんと同じです。現実にないものをあるという人にないということは弾圧ですか?違うものを違うと言
えない状況こそ思想・言論弾圧でしょう。
400326:02/03/29 19:51
>修阿弥陀仏さん
1.ここの解釈は私のものではなく参考にさせていただいたものです。
ですから私も書き下し文としてはそう読むべきだと思います。これは省略したのですが、
父王浄飯王は普段より禅三昧にあったそうです。そのためこう訳されたのだと思います。しかし
これにおいては私も根拠がどこからくるのか分からず、不安なところです。
ですから釈迦が父王に「座禅というポーズをとって」といっているのが正しいのかもしれません。
ただ、私が問題としたのは”親鸞が「座禅して申すべし」と言っている”ということなので、釈迦が
父王にそういったかどうかではないのでそこのところをご了解していただきたい。
再三述べていますが、
この文は親鸞が念仏を明らかにするために出した一引文であるということ
「座禅して」という言葉はその他のどの引文にもでていないということ
この浄土五会念仏事儀賛もまた念仏三昧を説いたもので法照の引文である釈迦のエピソードでしか
座禅という言葉はでてきておらず法照自身も座禅してなどとはいっていない。
このエピソードもまた釈迦が念仏がどんなにすばらしい行かを語ったものであること。
親鸞が教行信証を含むその他のどの資料にも座禅して念仏もうすべしなどといっていないこと
これらのことから本当に親鸞が「座禅して念仏申すべし」といっているかどうかは充分分かると
思います。どうですか?
401名無しさん@1周年:02/03/29 19:55
このスレは渡海信者の集まりですか?
渡海さんに4000円払わないと参加できないんですか?
402渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:07
>>368 :ベロ
>念仏する時のスタイルの事でしょう?
         <そうですね。スタイルと言ってもいいでしょう。僕は方法論と言っています。>

>正座してお念仏申すスタイルが多いが、昔は座禅のスタイルだったと思います。
         <そうそう。座禅というのは、浄土教支持者の標準的スタイルだったと思う。>

 観無量寿経は言う。
 「西方極楽世界に生じて、蓮華の中において結跏趺座し、蓮華の合する想いを作し、蓮華の開くる想いを作すべし」。 結跏趺座のスタイルで称名念仏しよう。これが善導の提案でしょう。源信・法然・親鸞は、その善導流の念仏を継承している。僕はそう思う。
 観無量寿経は言う。
 「当に道場に坐して、諸仏の家に生ずべし。」
 一向宗寺院は一向衆念仏道場と言われた。道場の語源は多分、観無量寿経のこの言葉だろう。
 念仏道場と言われていた時代には、人々は道場に集まって座禅して念仏を称えていた。蓮如上人から時折送られてくるお文を、文字の読める同行が道場で読み上げた。ただそれだけで人々はすごいパワーを得た。
 「座禅して念仏を称えよう」と呼び掛けなければ、人々は結集するきっかっけがない。呼びかけの地盤には「講」があったんだろうが、「講」だけじゃ仏法の場にならない。仏法の場として呼び掛けるには、核となる共同行動が必要だ。
 学校のクラブが、文化部よりも運動部の方が活発で団結力もある。運動部には共同して行う核となる行動があるからだ。「座禅して念仏を称えよう」。一向衆はこれを共同行動として結集したんだろう。
403渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:08
 親鸞は、関東の大名が仏典に明るい僧を探しているということを、熊谷直実あたりから紹介されたんだろう。最初はその大名の元に居候しながら、傍らで親のいない子を集め、食事を分けてやりながら、文字や算術を教えた。
 親鸞の回りには、腹を空かせたたくさんの子供が集まってきたろう。歎異抄を書いた唯円もそんな一人だろう。晩年、親鸞や恵信尼の元に仕送りした関東の人は、親鸞にそんなふうに世話になった人達だろう。
 子供の世話をする親切なお坊さんということで、親鸞は村人に受け入れられ、あるとき太子堂の集会に招かれる。そんなところで文字を学びたいという人がいると文字を教え、算術を教えた。暦も教えた。薬草も教えた。
 雑談から仏法の話になる。念仏はどうやって称えたらいいんですかという話になる。
 「念仏なんかはどうやって称えてもいいんですよ」。こんなことを言うと、聞き手は雲をつかむような話になってついて来れない。「どうやって称えてもいいんですよ」とは言わなかったろうろう。
 「ちょっと見ていてごらんなさい」。そう言って親鸞は伝教大師から比叡山に伝わる正式の姿勢で結跏趺坐し、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えだす。
 「お、それでいいのか。そんなことならオラでもできるぜ。これでいいんかい。ちょっと見ていておくんさい。お坊さま」。先生の前で村人が先生の真似をする。先生は目を細めて「そうじゃ。そうじゃ。それでいいんじゃ」という。先生が誉めれば生徒は喜ぶ。
 そんなやりとりがあったんでしょう。
 人々は、定期的に親鸞の元に集まってきては座禅して念仏した。村人はそれで遠い都のハイカラな空気に触れたと思った。そんな動きが広がっていったんでしょう。
 座禅して念仏すると言うことは、昔の人にとって、極めて自然であり、疑問の余地の無い、当たり前の事だったんでしょうね。だから議論にもならなかった。
 「念仏なんか、どんな風に称えてもいいんですよ」。「座禅しながら念仏称えたら自力なるから、座禅して称えてはいけません」。「自力は止めましょうね」。こんな小賢しいことを言う頭でっかちのお馬鹿さんは、親鸞の回りに一人もいなかったでしょう(笑)。
404渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:08
>座禅といえば禅宗の専売特許みたいに思ってる人は仏教の修行法についてもっと調べた方がいいんじゃないかな。

 座禅というのは禅宗に限らない。例えば天台宗の修行方法の一つでもある。僕が大事にしている本に天台小止観という本がある。これは天台宗の座禅の入門書だ。
 延暦寺では曹洞宗の坊さんを招いて座禅の学習を行っているという話を、数年前、新聞で読んだ。天台の坊さんが座禅を忘れたことに危機感をもったということらしい。
 昔、座禅会の紹介本の中には、天台宗のお寺も入っていた。座禅は、真言宗でも重要なスタイルだ。護摩行は座禅して行う。
 釈迦が悟りを開いたときの姿勢が座禅だった。だから、禅宗では十二月八日を含む週は重要な期間として非常に厳しい座禅修行に打ち込む。結跏趺座して想念せよというのは、仏教として当然のことであり、結跏趺座して念仏を称えるというのも自然のことだ。

>鎌倉時代当時、親鸞さんが座禅というスタイルでお念仏申していた可能性は非常に高いと思います。

 そうそう。座禅して行うことを基本とし、座禅できないときは、歩きながらでも、立ち止まりながらでも、気が向くまま称えていたんだろう。
405渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:10
>>370 :326
>座禅して念仏申すべしなどといったかどうか検証したい。
     <勝手にしてね。僕はつき合いきれないからね>

>つまりここの「座禅」ですら「座禅して念仏申すべし」などという意味はもっていない。
     <バカとは付き合い切れんよ(アハハ)>

>>375 :ベロ
>禅宗で言う所の只管打座や公案禅ではなく、あぐらを組んだり、結跏趺座したりして背筋を伸ばし下腹に力を入れ、腹式呼吸で念仏を称えるのではないかと思います。

 あぐらは知らないが、基本的にはそうでしょうね。
 僕は親鸞から教わったが、「如来禅」という言葉は多分、法照さん起原の言葉なんだろう。善導か、道綽かも知れない。
 如来禅は、只管打座や公案禅でなく、結跏趺座か半跏趺座して背筋を伸ばし、下腹で腹式呼吸のリズムをとりながら念仏を称えて禅定に入っていく方法だ。
406渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:11
>>377 :傍観者
>何よりも親鸞自身が「教行信証」で「座禅して念仏もうすべし」と説いているから。

 親鸞自身が「教行信証」で「座禅して念仏もうすべし」と説いている。そこで、親鸞は『如来禅』を人々に説いた思っています。
 親鸞はこの文章を教行信証に正式のフルネームで引用し、かつ 「云わく」という漢字で引用している。安楽集などと並ぶ同じ比重で親鸞思想の核心の一部だと思っている。
 親鸞思想の核心の一部という確信は、体験に基づくパワーのすごさにも裏打ちされている。

>オレからしたら、「どっちでもイインじゃないの。」と思います。
     <道楽の一部としてとして仏教につき合っている人は、どっちでもいいだろう。>

>一方のみを肯定する事になれば、一方が感じていた「救われ」を否定する事になってしまうと思う。
      <僕の救いはいささかも否定されないよ。> 

>受け取られているんですね〜(ほほえみ)」みたいな会話が『お互いに』出来るといいですよね。

 そのときは腹でバカにしながら、上辺だけ愛想笑いしてつき合わせて貰うよ。昔から檀家はお寺とそういう風にしてつき合ってきた。お寺も檀家とそういう風につき合ってきた。
407渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:12
>>378 初心者
>教義に違いがないなら同じと考えても良いのでしょうか?

 先日「HONDA」のセールスマンが自動車を買いませんかと言ってきました。うちは昔から「トヨタ」だよと断ったら、「HONDA」も同じ製品を作る自動車メーカの一つですよ。ユーザーから広く支持されていますと言われました。
 教義が同じなら、「HONDA」も「トヨタ」と同じと考えていいのでしょうか。
 自分で考えたらいかがですか。外国には「HOMDA」や、「TOYOOTA」という自動車メーカもあると聞きます。MADE IN JARANというのもあるでしょう。「HOMDA」がどういう会社か、「TOYOOTA」がどういう会社か。自分で調べる外はない。

>>379
>仏教諸宗派全てに開かれた阿弥陀如来の救いだと思う。 <だから何がどうしたの?>

>>380
>それが念仏に関係あるといってますか?   <何でも好きなこと言えばいい(アハハ)。>

>親鸞自身は教行信証でそんなこと一言もいってないです。 <何でも好きなこと言えばいい(アハハ)>
408渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:12
>>382
>念仏成仏これ真宗なり。     <座禅して念仏しなさい>

>仏言をとらざるをば、外道と名づく。

 釈迦仏が、「座禅して念仏しなさいよ」と言っている言葉を、「座禅しないで念仏しなさいよ」と読むのを外道という。

>因果を發無する見を、空とす。  

 教行信証に、「座禅して念仏しなさいよ」と書いてあるのに、「座禅しないで念仏しなさいよ」と書いてあると主張するのは、因果の手をはらいのけ空にかたよった外道である。

>禅律いかんぞこれ正法ならん。 

 絵画本体が大事か、額が大事か考えなさいよ。座禅は額です。額屋さんでないかぎり、絵画本体のない額だけを規律正しく守っていても、正法とは言えません。額には絵本体を入れましょう。座禅して念仏しましょう。

>念仏三昧これ真宗なり。

 ひたすら念仏に励みなさいよ。座禅して念仏しましょう。念仏三昧こそが真宗の教えである。382:326さんのように、坊さんのくせに心を込めた念仏をろくすっぽしないで口先だけで薄っぺらな議論をふっかけるのは論外です。恥ずかしいお坊さんです。
409渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:13
>>384 :326
>禅定を修する人、その自力に約してまず魔種あり

 禅定は諸刃の剣です。我流でやると恐い面がある。浄土真宗の坊さんが自分勝手に座禅して念仏すると痛い目に合う可能性もある。だからこそ、昔は念仏道場というものがあった。今はその伝統が切れている。
 深い禅定を初めて経験すると、自己規制していた心理内奥のパンドラの箱が蓋を開ける。無意識下で押さえつけていた感情が意識に顕在化する。
 パンドラの箱の抑圧の蓋が開くことは、自由な感情を持つために避けて通れない非常に重要な関門だ。でも、出てきた化け物に幻惑されて人は我を忘れる。パンドラの箱が開くと、神様が見える。天使が見える。
 僕のときは鎌倉の大仏さん(阿弥陀如来)が全身をくねらせて大声で語りかけてきた。
 禅の坊さんが言っていた。二念を追ってはいけないと。禅定にはいると、様々な体験が起こる。大なり小なり奇跡を見る。これに振り回されたらやけどする。僕も3年くらい振り回された。
 二念を追ってはいけないと僕が教わったのはずっと後のことだった。浄土真宗教団は、禅定の伝統が完全に切れている。座禅して念仏することを安全に教えられる人は、教団には恐らくいないだろう。
 臨済宗は公案を渡す。曹洞宗は、無念無想を提案し、二念を追ってはいけないと教える。特別な感情を経験しても、禅定の中で幻を無闇に追っかけてはいけない。魔境幻覚は恐いものだ。欧米でも臨床心理学がしばしば事故を起こしていると聞く。
 親鸞は座禅して念仏せよという。口称の南無阿弥陀仏は、禅定で二念を追わせないで魔境から行者を守る働きがある。きちんと口称が伴わないと、恐い面がある。
410渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:14
>>388
>禅定を求めているのとは違うでしょ?   <座禅して念仏すれば自ずから深い禅定を体験する。>

>念仏をしていれば魔はこないんじゃないの?

 魔とは抑圧心理の中に存在していた自分の本心が意識に浮かび上がってくるときに見える幻覚現象だろうと、目下は考えています。詳しいことは、心理学者、生理学者、精神医学者に聞いてください。
 抑圧心理がある特定の感情・欲望を抑圧し、無意識下に自分に見えないようにさせていたのは、それはそれなりに人間の自己保存機能であり、社会的生命体として必要な行為であるようです。パンドラの蓋が開くというのは、生体にとって実は危機的状況であるようです。
 湧き起こった感情を禅定の中で興味本位に追っかけていくと、気持ちが暴走しはじめる。禅定から醒めたとき、日常生活の歯車が崩れかねない。神の声を聞いたとか、天使に会ったというおかしな話になる。
 称名をしていると、非常に重要な気付きだけが生じる。抑圧心理の蓋があいても問題は無いということでしょう。
 この辺はまだ、半分は想像の域を出ない。本当は霊的な疑似現象を体験しているのかもしれない。称名念仏の状態下では何がどうなっているのか、もし機会があれば僕は、医師や生理学者と組んで科学的に解明したいところです。

>>389 :353
>教義の事はここで聞いてみようかと思い書き込みしました。

 2CHは、口の減らないいたずら坊主がたくさんいます。担がれないよう用心しながら真面目に質問を書けば、数少ないまともな人が、いつかはまともな返事をくれます。気長に質問し続けるといいでしょう。
 いくつになってもいたずら坊主というバカは、真宗教団にはたくさんいます。
411渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:16
>>390 :ベロ
>僕も親鸞思想の核心なんて思っていない。
    <人によって見解がわかれるのは、極めて自然な現象だ。>

>渡海さん一人がための親鸞思想という意味では渡海さんの解釈も成立するんじゃないかと思うだけです。
   <うんうん。ベロさんは、お坊さんにしては珍しく、反対の意見にも耳が向く人のようだ。>

>浄土真宗系伝統教団の解釈しか認めないって言うのは教団の構成員だけに適用すればいい
     <教団の構成員だって信心は一人一人だ。教団が管理することじゃない。>

>>391 :彼岸
>「なむあみだぶつ」と唱えりゃそれでOKなんですよ
    <僕と見解は異にする。>

>あとは阿弥陀如来がなんとかして下さる。南無阿弥陀仏  <苦笑>
412326:02/03/29 20:16
>修阿弥陀仏さん
2.>座禅してというのが前提としてセットとしてあったら
その仮定ですが、すでに述べたようにあの部分でしかでてこない座禅をセットとしてあるとするのは
あまりに弱すぎるでしょう。またセットとするならば同じ文章の中に禅と念仏が別々の行として
でてくるはずがないでしょう。>382の文をみても座禅と念仏が別々のものであることは明らかでしょう。
またこれと同じ内容のものが『末灯鈔』にもあります。
「聖道といふは、すでに仏になりたまえるひとの、われらがこころをすすめんがために(略)
〜この世にひろまる禅宗これなり〜(略)これみな聖道門なり。」
禅を聖道門、つまり自力の行としているのにどうして他力の行である浄土門の念仏にセット
されますか?このことからもセットと考えるのは無理でしょう。また常識として伝えられたのなら
浄土真宗のどの宗派にもそんな座禅して念仏するなどという行は伝わっていませんからそれもないでしょう。
歎異抄を典拠としたのはこれが親鸞とあったことのない伝聞による資料ではなく著者の唯円が
間違いなく親鸞の側近として付き従っていたことからもかなりの信用性をもっているからです。
しかし”ただ念仏して”という意味ならば、教行信証においても
「専らこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ」とあります。この行とはもちろん念仏で座禅とセットで
ないことは上に述べたとおりです。
413渡海 難( p5138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 20:18
>>392 :彼岸
>そこに阿弥陀如来と、既に浄土で仏になっている(と思われる)親鸞が現れる(かも知れないね)
       <あなたは何教の信者なの?(苦笑)>

>そうすれば、互いに死んだ後、浄土で会える。

 「南無阿弥陀仏」と唱える事、念じる事を忘れなければ死んだ後、浄土で会える。唱える事、念じる事を忘れれば死んだ後、浄土で会えない。??。 あなたは何教の創設者なの?(苦笑)

>互いに議論をし尽くした方が良いんだ。
      <ま、そう言うことも言えるな。でも分からず屋と議論すると疲れるんだよなー。>

>そのままで闘いつつ、念仏すれば良いんだ。    <へんな宗教たてるなよな(笑)>

>あとは死んだ後でわかる。

 死ぬまで分からない。死ななければ分からない。死んだら分かるわけないから、永遠に絶対分からない。浄土真宗の坊さんの詭弁ロジックのからくりが分かるのに、数十年かかったよ。僕も昔はバカだった。

>仏さんが本当にいるんだったら、念仏さえしていれば絶対に救ってくれる。

 仏さんがいなければ救われない。仏さんなんかいないから、絶対に救われない。浄土真宗の坊さんの詭弁ロジックのからくりは巧妙だ。危ない。危ない(笑)。
414名無しさん@1周年:02/03/29 20:39

>僕も昔はバカだった。
君は今もバカだよ。アハハハ。
415名無しさん@1周年:02/03/29 20:40
   / ̄\
  .|    |
 /\_+_/\  渡海難が良スレを荒らしてしまい、
 |_l   |   l_|  ご利用の皆様には大変ご迷惑を
 ヽ.|=ロ=|/   おかけしております。
   .|  |  |
   .|_|_|
   (_|_)         (株)2ちゃんねる建設
416渡海 難( p3138-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 21:05
  五会法事儀讃について、宗祖が教行信証で省略されているところを紹介します。
 「五会法事讃略抄  出典 伊勢専修寺蔵 宗祖真蹟本 (高田学報)」

 観経に曰く。若し念仏するは、当(まさ)に此れ人中の芬陀利華(ふんだりけ)なり。名づけて希有(けう)となす。観世音・大勢至、勝友と為(な)り下(たま)ふ。当(まさ)に道場に坐し、諸仏の家に生ずべし。
 是(こ)れを以(も)って如来常に三昧海の中に於いて網綿の手を挙げて謂(いわ)く。父の王に曰く、王今座禅して但当(まさ)に念仏すべし。 … 
 百千三昧の所出生の処なり。亦諸三昧の母と名(なづ)く。諸三昧王と名づく。亦諸仏共所印可定と名づく。亦如来禅と名づく。二乗外道等の禅に非ず。信(まこと)に知るべし。

 一 観経で念仏するとは、座禅して念仏することである。
 二 座禅して念仏することは、三昧の母胎である。
 三 禅には二乗外道等の禅と、如来禅とがある。如来禅ととは、二乗外道等の禅と違うのである。

 宗祖はこのような論文を自ら書写され、真仏ら高弟に書き残して京に戻られたようです。
417阿弥陀如来は悪魔だ!:02/03/29 21:07
こんなツマラン事で言い争わせてしまって・・・みんなの心の平和を乱している。
いっその事、浄土の教えとか、宗教とか知らない方がみんな幸せなんじゃないか?
ここの人達はみんな少しも救われているようには見えない。相手に自分の説を押し
付ける人間しか生み出せないのが浄土の教えで、その本尊が阿弥陀如来であるならば、
そんな教えや仏なんて捨ててしまった方がいいんじゃないのか。増上慢を生み出し、
何時の間にか人達から譲り合いや思いやりの心を見失わせている阿弥陀如来こそ、大悪魔
なんじゃないのか。親鸞なんてその悪魔の格好の使いなんじゃないのか!!
418渡海 難( p6044-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 21:13
>こんなツマラン事で言い争わせてしまって
   <雨降って地固まる。雨が降らないと道は埃だらけになる>
419渡海 難( p3169-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 21:36
>>414
>君は今もバカだよ。アハハハ。

 アホ坊主と下手な掛け合い漫才してる僕は、今もバカということか(アハハ)。
420修阿弥陀仏:02/03/29 21:58
>>400
わかりました。
ただ326さんの挙げられている理由がちと消極的なんですね。消極的というか、状況証拠なんですね。だからこれだけでは「座禅して念仏」という解釈を許す余地がまだあると思います。

>>412
>その仮定ですが、すでに述べたようにあの部分でしかでてこない座禅をセットとしてあるとするのはあまりに弱すぎるでしょう。

まあ弱すぎるんですが、それでもまだ、「座禅念仏」という解釈の余地はあります。
というのは、座禅という形をもった念仏、という解釈をすれば通るからです。
座禅と念仏と二つの行ではなくて、座禅という形で申す念仏という、一つの行ととらえられるからです。
そういうことなので、座禅に関しては、ちょっと混乱しておられるように思います。
私の方も言葉足らずだったと思いますが、私がセットと書いたのは、座禅という一つの行ではなくて、念仏するときの一つの形を言ったのでした。ですから、座禅という一つの形で申す念仏、だと思ってください。

また伝わらなかったというのも、弟子がアフォぞろいだった、といえば、一応は通ります。

歎異抄については、繰り返しになりますが、親鸞思想を問題とする場合は、本人の、つまり親鸞聖人ご自身の著作に比べれば、やはり信用度は少し落ちると言わざるをえません。真宗思想ではなく、親鸞思想と言うところにご注意ください。

しかし326さんは宗門の方ではなかったのですか。私もてっきりお寺さんかと思っていました。すみません。
421名無しさん@1周年:02/03/29 22:07
>>417
増上慢で傲慢で自分達が一番正しいとうぬぼれている馬鹿どもだからこそ、仏にすがらなきゃ
地獄へ行くしかない奴らなんであって、心が優しさに満ちてて思いやりに溢れているなら
仏にすがる必要なんてないと思うよ。そういう人は仏にすがる前に、自分で優しさを実行して
いると思うね。そう出来ないし、出来ないくせに仏がどうの、親鸞がどうのと言うしかないから
仏にすがるしかしょうがない奴等なんだって事よ。俺は仏にもすがろうとは思わんけどね。優しくも
ないけど。
422傍観者:02/03/29 22:10
なぜそこまで理屈をこねて「信心」する必要があるのでしょうか?
まことにの「信」があれば、ありがたいと思えばそれでよいのではないですか。
第一、阿弥陀如来やお念仏は一部の専売特許ではないんだから、幅広い信仰形態
があってあたりまえです。
423渡海 難( p7173-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 22:35
>>422 :傍観者
>なぜそこまで理屈をこねて

全く仰せにて無きことをも、仰せとのみ申すこと、浅ましく、嘆き存じ候なるからです。

>まことにの「信」があれば、ありがたいと思えばそれでよいのではないですか。

 先師口伝の真信に異なることを歎き、後学の相続の疑惑有ることを思うからこそです。

>幅広い信仰形態があってあたりまえです。

幸いに有縁の知識親鸞に依らずば、易行の一門に入ることができないと考えるからです。
424名無しさん@1周年:02/03/29 22:49
渡海難のせいで、またひとつ有意義なスレが駄スレになりました。
ここをROMっているすべての者達よ、良心があるならば渡海難を罵倒しなさい。
425326:02/03/29 22:54
>渡海さん
根拠もなく馬鹿の相手をしていられないと無視されるとは・・・。
>408においてはあきれてものがいえません。あなたは自分の利になる文は連発し、
利にならない文はすべて墨でぬって改ざんまでするのでしょうか。親鸞をただ自分の考えを
正当化する道具としているようにしか思えません。
さて、あなたが根拠とした真蹟本ですが、高田派のだったんですね。如来禅がここに出ているとは
知りませんでした。不勉強をお詫びします。ですが、あなたの解釈は間違っていると思います。

>一 観経で念仏するとは、座禅して念仏することである。
>当(まさ)に道場に坐し、
ここから取ったようですが観経の”坐し”とは座禅を意味していません。座ってという意味です。
ですから続く
>二 座禅して念仏することは、三昧の母胎である。
も「座禅して念仏」することではなく「念仏」のみを示しいます。
また『華厳経』において
「この念仏三昧は即ちこれ一切三昧の中の王なるが故なり」とあります。
諸三昧王とは念仏のことです。つまり亦諸三昧の母=諸三昧王=念仏となります。
如来禅においてはこの座禅して念仏しているのが誰かお考えでしょうか。釈迦の父王です。
先の観経の文においても念仏する主体はだれか。観経を見て前文をみればそれは「善男子・善女人」
です。父王もまた善男子であります。上品上生の人です。彼らが行うから如来禅たりえるのです。
しかし、親鸞は自らを凡愚低下の下品下生の人間であるとし、その救いを念仏に見出されたました。
凡愚低下の人間ゆえの浄土門ということをよくよく考えていただきたい。
426NB:02/03/29 22:59
そういや、お念仏を唱えれば無病息災で長生きできる。って説く宗教団体があるんだってね。
名前は忘れましたが、「浄土真宗○○派」みたいな感じだったような…。

『教行信証』「信巻」に

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。
大信心はすなはちこれ長生不死の神方、

とあるのが根拠なんだそうです。   ため息出るね。これといい渡海といい…
427名無しさん@1周年:02/03/29 23:10
>渡海様へご質問させて下さい。

「親鸞思想の中心が、座禅して念仏する事」というあなたのご見解と、その根拠となる
>>416の出典を拝読させて頂きました。では、お尋ね致しますが、口で念仏を称える
口称念仏が出来ない方々(身体的に何らかの支障がある方々)、また、正座も座禅も
出来ない方々(身体的支障がある方々and忙しくて座禅や正座をして一定時間の念仏を
称える事が出来難い方々)などは、どのようにお念仏すれば良いのでしょうか?心で
念ずるだけで良いのでしょうか?そして一日一回でも「南無阿弥陀仏」と心で念じれば
それで良いのでしょうか?親鸞聖人はそういった「如来禅」が出来ない人達のための
「念仏の行法論」は説いておられなかったのでしょうか?どうかお教え下さい。
428326:02/03/29 23:17
>修阿弥陀仏さん
無理やりこじつけてません?いや、すいませんちょっとそんな気がしたんで。
ただ、「解釈において」というならそれなりのものをこちらも示して欲しいんですよ。
>座禅という形をもった念仏
まず、これがよくわからないんですよ。座禅というものをどうお考えでしょうか。ただ座るのとは
訳が違うんですが・・。禅においても様々な作法、様式がありますし。だからこそ座禅は一つの
行とされているんです。形とするなら念仏するときの儀式のようなものと受け取っていいのでしょうか?
念仏する前に座禅をしなさいといったものでしょうか?

>弟子がアフォぞろいだった、といえば、一応は通ります。
ならば、なぜ親鸞はその多くの著作の中に座禅のことを語ってないんですか?
親鸞がどれだけ細かく述べているか文献をみればわかると思います。それで書かないというのは
無理がありすぎます。また形ならば、親鸞やっているのを見ればどんなアフォでもこうやるんだ、
と伝わると思いませんか?それにそれを言い出したら終わりだと思います。なんでもそういえます。

疲れてきたためまともな返答になってないかも・・・すいません。
429渡海 難( p2211-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/29 23:18
>>425
是以如来常 〜 謂父王 〜
 「王今坐禅して但当に念仏すべし」となぜ謂うのか。理由は観経に「若し念仏するは、当(まさ)に此れ人中の芬陀利華(ふんだりけ)なり」とあるからです。
 これは法照の考えです。親鸞は法照を後善導と尊敬し、その考えを継承します。
 貴方の考えでは、「是以如来常 〜 」の「是」の解釈が詰められていません。 
 直接は経典レベルではありません。法照、親鸞の継承において、観経の念仏は原則として坐禅して念仏することであるという理解があったと考えます。
 善導、道綽にあったというのは、僕の推測です。親鸞はこれを観経に限定しないで大無量寿経にも適用したのでしょう。
430渡海 難( p3141-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/30 08:54
>>425
>自分の考えを正当化する道具としているようにしか思えません。   <信謗共にあるべし>   

>不勉強をお詫びします。  <詫びることではありません。お坊さんは勉強はいらないそうですね。> 

>「座禅して念仏」することではなく「念仏」のみを示しいます。

 貴方がそう仰るなら、あとは2CHの閲覧者お一人お一人の賢明な判断に任せましょう。お勉強嫌いの貴方を説得しようとは誰も思いません。

>父王もまた善男子であります。 〜 よく考えていただきたい。
  <貴方の御説がどこまで外の方々の心を打つか、やがて歴史が教えてくれるでしょう。>

>>426 :NB
>ため息出るね。これといい渡海といい…

 全く仰せにて無きことをも仰せとのみ申し、無理を通して道理を引っ込めさせようとすると、ため息がでますね。
431渡海 難( p3141-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/30 08:55
>>427
>親鸞聖人はそういった「如来禅」が出来ない人達のための「念仏の行法論」は説いておられなかったのでしょうか?どうかお教え下さい。

 親鸞は中心となる方法論を示してくれたと思います。中心となる方法論で間に合わない具体的事例では、本来の趣旨を出来るだけ生かす方向でひとつ一つ個別に検討すればいいんじゃないですか?。

>>428 :326
>なぜ親鸞はその多くの著作の中に座禅のことを語ってないんですか?

 こんなこと言いたいなら、もっと勉強したらどうですか?。教行信証の中でも語ってないというなら、貴方とは議論の余地がありませんよね。

>疲れてきたためまともな返答になってないかも・・・すいません。
     <お顔をお洗いになるのが先でしょう。>
432427:02/03/30 08:56
>>渡海さん、私の>>427の質問にもお答え下さい。どうぞよろしくお願い致します。
433渡海 難( p0070-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/30 09:06
>>432
 >431ではたりませんか?。私は親鸞ではありませんので、詳しいことは直接親鸞さんにお尋ねください。
 私は、親鸞さんの代理人ではありません。よろしいでしょうか?。
 
434427:02/03/30 09:16
>>431渡海さん、入れ違いでした。すみません。
お答え頂いてどうもありがとうございます。

親鸞聖人は、「如来禅」のみを唯一の念仏の行法論としてしか説いておられなかったのでしょうか?
それとも「如来禅」が不可能な方々に対しての様々な念仏の行法論は説いておられなかったので
しょうか?そこの所を親鸞聖人にお詳しい渡海さんにお聞きしたかったのです。もう少し詳しく
お教え頂けませんか?親鸞聖人は「如来禅」以外の念仏の行法論は説いておられなかったのでしょうか?

>具体的事例では、本来の趣旨を出来るだけ生かす方向で…

それは生活の中で念仏をどのように称えるかどうか、という事は、個人個人の自由意思に
任せると言う事でしょうか?たとえば仕事が忙しい人は、移動途中での車や電車の中でしか
念仏する事は出来ませんし、やたらに声に出して口称念仏してしまうと、人から奇異の目で
見られたりもすると思いますので、心の中で念仏を念じる事も一つの方法ですよね。
435渡海 難( p3141-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp) :02/03/30 09:53

        _
    ┌─┴┴─┐
    │ ああ先生 │
    └─┬┬─┘
        ││ _ε3
    / ̄ ̄ ̄ ̄\
   (  ノノノナノノノ)∈ヾ
    |ミ/  ー◎-◎-)  |
   (6     (_ _) )  |  / ぼくが宗教板中の嫌われ者、渡海で〜ちゅ
  _|/ ∴ ノ  3 ノ  )< ぼく「座禅念仏」で信者を獲得したら    
 (__/\_____ノ /  \ オナニー坊主に叩かれまちゅた
 / (__))      )))脳みそ入ってないけど痛いでちゅ。誰か助けてくだちゃい
[]__| | 座禅念仏 |そして「こんにちは会」に入って4000円お恵みを。
|]   | |_____)
 \_.(__)三三三[国]
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  |____|;;;;;;/;;;;;/
     (___|)__|)
436名無しさん@1周年:02/03/30 09:56

  ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ^∀^)<渡海よ、お前は座禅念仏理論で親鸞の顔に泥を塗る気か?
 ( つ ⊂ ) \_________
  .)  ) )
 (__)_)    ゲラゲラ
437あぼーん:あぼーん
あぼーん
438南無阿弥陀仏:02/03/30 11:08
>>437
>>1ですが、勝手に閉鎖宣言しないで下さいね。
ただの煽りだってのはわかっていますけど。
439名無しさん@1周年:02/03/30 11:43
>>438
だったらお前が何とかして流れを変えてみろ!
それができないから、このスレがなめられるんだYO!
440名無しさん@1周年:02/03/30 11:50
>>439さんが流れを変えろというので、新しい話題を。

時宗ってあまり見かけませんね。
「踊り念仏」ってどんなものでしょうか?
441326:02/03/30 11:59
>「王今坐禅して但当に念仏すべし」となぜ謂うのか。理由は観経に「若し念仏するは、当(まさ)に
>此れ人中の芬陀利華(ふんだりけ)なり」とあるからです。
この文をどう読んだのでしょう?”若し念仏するは”というのは座禅したらと読んだのですか?
念仏を称えれば「当(まさ)に>此れ人中の芬陀利華(ふんだりけ)なり」というのでしょう。
だから法照は念仏を勧め、親鸞はそれを引文としたんです。これのどこに座禅が出てくるのですか?

「是を以って」はそのまま前文でしょう。
”「念仏を称えればまさに芬陀利華となる 」このことを以って”
釈迦は父王に念仏を勧めたのである。

どこで座禅を勧めているんでしょう?

>観経の念仏は原則として坐禅して念仏することであるという
これについても一体どこからこの説は出てくるんですか?
観経を本当に読んでますか?坐という言葉がでてくるからそう思いましたか?
推測というからにはそれを成り立たせる根拠があるはずですよ。

>教行信証の中でも語ってないというなら、
といいますが語るというのはどこでですか?それを示して欲しいんですが。
それと>382の教行信証の文をどうやったら>408のようにいえるのか教えて欲しいですね。
>382と>408をみれば>426のNBさんの言うとおりだと誰もが思うでしょうが。
>無理を通して道理を引っ込めさせようとすると
まさに>408のあなたのことですね。
442渡海 難( p5049-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/30 13:23
>>434
>親鸞聖人は、「如来禅」のみを唯一の念仏の行法論としてしか説いておられなかったのでしょうか?

 「弥陀の名号を専念して、行住坐臥に時節の久近を問わず」
 僕は、これが称名方法の第二の方法論だと思っています。善導の言葉を宗祖は教行信証で引用されています。
 行とは動くということです。住とは止まっているという意味です。坐とは座っているという意味です。臥とは横になるという意味です。時とは時期という意味です。節とは期間という意味でしょう。久とは遠い以前という意味です。近とは、最近という意味です。
 どんな状態でもいい。いつでもいい。思い出したら折々に称えたらいかがですか?。

>心の中で念仏を念じる事も一つの方法ですよね。
  <僕には肯定する資格も否定する資格もありません。それ以上のことは、何とも申し上げかねます>
443渡海 難( p5049-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/30 13:26
>>435   <名前を騙るのはやめてください。不愉快です。>

>>436  <436よ、お前は別解・別行の邪義で親鸞の顔に泥を塗る気か?>

>>437
>このスレッドは、渡海難と渡海信者によってぶち壊されました。
    <親鸞仏教は、数百年に及ぶアホ坊主のお陰で、無茶苦茶にぶち壊されてきています。> 

>>439
>それができないから、このスレがなめられるんだYO!
    <別解・別行・異議・異端のマヌケ坊主がこのスレでバカにされているだけだろう> 

>>441 :326
>これのどこに座禅が出てくるのですか?

 僕は、ろくすっぽ勉強もしない勉強嫌いのアホ坊主を説得するつもりは全くないんだよ。
 顔でも洗って、おとといおいで。 (アハハ)

 NBさんよ。あんたは布教師らしいね。NBさんは326よりは多少ましだと思ってるが、326の同類項かね?。 あんたの責任で326にすこし説教してやって欲しいものだ。
444名無しさん@1周年:02/03/30 13:33
        / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  Λ_Λ  |  オラオラ、
 ( ・∀・)<   精神異常者は消えろ!
 (    )  \_____________
 | | \ \ グリグリ
 (__)  (__)
      (´Д`)ノ ←渡海難


         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  Λ_Λ   | 回線切って
 ( ・∀・) <    首つれやクソタッレ
 (    )ペッ\___________
 | | |  ヽ。
 (__)_) (´Д`)ノ
445名無しさん@1周年:02/03/30 13:46
渡海のバカは放置しましょ

                           ト-、___
                     _,,-‐‐‐‐‐‐t-:、_ `‐、、_
                __,,,-‐'´     .:. ,,:.:``‐、;:;:;ヽ_
  ,,,_____,,..、_,,,,,-‐‐‐-、、_,,-'´    ............:.:/: .:.     ````ヽ、_
 〈=__,,,,__,,,,,,,,,,,,..::::::::::...  ;.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:,;ノ::.            `‐、、
/ .._____.. .. . `````ヽ- '--‐‐'''''~~~'`::::ヽ:.:.:.....        、     ヽ、
ヒ;-'´  ````:‐:‐:-:-.:__,,、、、、、  ....:.:.:.:.:.:.`:.:.:.:,;,;,;,;.:.:.;,;...........ヽ、ヽT   ◎ ヽ、
                 ````‐--:-:‐:':´:`:`´:: :::``:..、_:.:.:.:.:.:.:.ヽ、__ ,-==,
                                 ````‐‐:-:-:-:-:‐"
446326:02/03/30 14:00
私は僧侶ではないと申しあげましたが。
たまたま、親鸞を学ぶ縁があっただけの人間ですよ。
しかし、どうして意見する人は皆、僧侶となるんでしょうね?
僧侶と決め付けるのも失礼ならば、滅茶苦茶な僧侶像を作り上げて罵倒してるのは
なにより多くの真面目なお坊さんに大変失礼だと思いますが。

なんにしても都合のいい文だけ取り出し、自分に都合の悪いものは墨を塗って改竄するんですね。
自分の根拠にしている教行信証でさえ、無視できるんですから。
なるほど、それでは渡海さんは勉強する必要もないですね。
無視と改竄で作り上げれば、自分の身勝手な考えだけでいいんですものね。
全部(アハハ)といって無視できるその神経にはあきれてしまいます。

それから親鸞を騙った次は蓮如ですか?講で座禅したなどどこで聞いたんですか?
講では座禅の行などいたしませんよ。そんなこと、北陸の人が聞いたらびっくりしますよ。
過去の歴史まで改竄するとはびっくりです。

○蓮如も座禅など勧めていません。
○講も座禅する集会などではありません。
447名無しさん@3週間:02/03/30 14:05
>>442
>行とは動くということです。住とは止まっているという意味です。
>坐とは座っているという意味です。臥とは横になるという意味です。

アホ渡海..
よくこの程度の浅い読解で親鸞教義を理解したとかぬかすなぁ
448渡海 難( p1193-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/30 15:26
>>446 :326
>私は僧侶ではないと申しあげましたが。

 そうでしたか。馬鹿なカキコと思えば、続いて読む気にはならなくなるものです。どこぞの大学の先生かも知れませんでしたね(笑)。

>多くの真面目なお坊さんに大変失礼だと思いますが。  <なるほど>

>都合のいい文だけ取り出し、自分に都合の悪いものは墨を塗って改竄するんですね。
     <貴方とは見解を異にしております。>

>講で座禅したなどどこで聞いたんですか?。    <僕の仮説的想像です。>

>北陸の人が聞いたらびっくりしますよ。

 非常に重要な伝承、伝統が数百年昔に途切れた可能性があると考えています。
 こんな話でビックリするのはどこのどなたですか。人は誰でもさまざまな仮説、予想、想像を立てるものですよ。こんな程度の考えが、ビックリするような空前絶後の独創的なものとも思えませんね(笑)。
 自由な民主主義社会で、人が立てた予想、想像でいちいちビックリしていたら、命は三日も持たないでしょう(笑)。貴方はどこの文化閉鎖社会にお住まいですか。情報途絶の象牙の塔の中ですか(笑)。

>過去の歴史まで改竄するとはびっくりです。

 歴史学は常に仮説の凝集体です。人は歴史に様々な仮説を投じます。仮説をいちいち改竄だなどといえば、分福茶釜が、へそで茶をわかすことでしょう。
449渡海 難( p1193-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/30 15:29
>蓮如も座禅など勧めていません。
       <蓮如は貴方ではありません。仮説は自由に様々に投じられなければなりません>

>講も座禅する集会などではありません。   <仮説を異にします。>



>>447
>よくこの程度の浅い読解で親鸞教義を理解したとかぬかすなぁ
            <信じる衆生もあり、謗る衆生もあり。>
450ベロ ◆od7XM/js :02/03/30 16:37
僕は七高僧の中にどうして道綽「禅師」がいるのか不思議だった。
禅は自力で念仏は他力だと思ってましたから。でもいろいろ修行法を調べると、
仏教の初期段階ではほとんどがいわゆる座禅スタイルで修行してるんですね。
そりゃ釈尊が成道した格好がまさに座禅スタイルなんですからあのスタイルで
念仏を称えていてもなんらおかしくないですよね。法照さんも「禅師」ですし。
326さんと「座禅」というものが意味する概念が僕や渡海さんとは異なるだけ
なのでしょうね。別に同意を求めてるわけではありませんが、押し付けも困ります。

渡海さんが座禅スタイルで口称念仏し、禅定が深まり凄いパワーが涌き出て、
口称することにより魔境におちる事もふせがれるという修行法を親鸞著の「教行信証」
から教えてもらい、それを渡海さんの中での親鸞思想の核心だと確信し、人々に伝えようと
して何が悪いんだろう?伝統教団と見解が異なるからと言って何が問題なのだろう?
伝統教団は伝統教団の教義をしっかり伝えていけばいいでしょう。後は見ている人が
どっちを取るか、どっちも取らないか、独自の見解を出すか、判断すればいいじゃないですか。
451326:02/03/30 17:41
今度は大学の先生ですか。いろんなものにされますね。
しかし大学の先生とは出世したなぁ。
しかしまぁ<僕の仮説的想像>ですか。
仮説をたてるからには基となる根拠がいるんですよ。
もちろん想像でなにをおっしゃろうと構いません。
それは何度も申し上げております。しかし仮説といいながら、
常に断定していますが。「親鸞は〜といっている」「蓮如は〜といっている」
これで仮説だ想像だのいわれても困ります。それが解釈におけるならまだしもあなたは
”親鸞は「座禅して念仏申すべし」といっている”とおっしゃってます。
どこでと尋ねたところそこは親鸞自身の言葉でもなく、引文であり、さらにその引文のなかの
一エピソードの中の釈迦の言葉でしかない。さらに意味にしても「座禅して念仏申すべし」と
受け取ることも懐疑的なものです。これでは事実の捏造でしょう。
また、それに対する意見も全て「馬鹿にはわからない」などと無視する始末。
仮説だというなら断定するのはやめなさい。そうえいば私にしてもこんな反論はいたしません。

>伝承が途切れている可能性がある
なにをもってそういうのでしょうか?そういう根拠は?それをいえばなんでもとおりますよ。
親鸞は実は念仏ではなく苦行をもって自力の道を選んだ。伝わっていないのは伝統が途切れたからだ。
これと同じです。あなたがいってることは。

それではあなたの”「座禅して念仏申すべし」と親鸞が言った”という論は
あくまであなたの想像による仮説であって事実そうであったかどうかは根拠もなく検証もしていない。
ということでよろしいですね。渡海さん、お答えください。
452326:02/03/30 17:49
>ベロさん
何度いったらわかってもらえますか?
見解の問題ではなく事実あるかどうかの問題なんですが、これは。
渡海さんがあくまで想像による仮定であることを認めてくれればそれでいいんです。

またベロさんにしても渡海さんにしても伝統教団とか今に伝わる説を軽視し侮蔑しているように思えますが、
そういった伝統教団の教義を理解した上でいっているのでしょうか?
わたしも教団の教義に詳しいわけではありませんのでなんともいえませんが、知りもせずに
伝統を悪者にしているのはどうかと思います。
私もいつのまにか伝統を守護する坊さんにさせられたり、権威ある大学の先生にさせられたり
してますから。あなた方のレスをみているとあまりに偏見をもっているように思えます。
453名無しさん@1周年:02/03/30 18:22
世界人類が平和でありますように。

http://www.yuiitsukai.net/peace/light.cgi
454名無しさん@1周年:02/03/30 18:55
>>450ベロ氏
いや、たとえ伝統宗教であろうと、こういう不特定多数の人が見る掲示板では、しっかり
自分達の考えを主張すべきだし、反論した方が良いと思うね。ひょっとしたら伝統宗教である真宗の方が、正しく
親鸞の考えを継承していない可能性もあるし、渡海氏の主張する親鸞への考え方が間違っている
かもしれないし、その可能性はやはりあると思うからね。ここは両者が批判し合った方が良いと
私は考える。どっちが正しいか判断するのはこのスレを見た人達が決めればいい。批判し合う事
は別に悪い事ではないだろうから。
455修阿弥陀仏:02/03/30 19:11
>>428
ええ、無理矢理こじつけています。
もう少しはっきりした証拠、というか、祖師の著作からの積極的な、直接的な証拠が不足していると思うんです。
それなりのものと言われますが、326さんはごっちゃにしてをられると思うんですよ。ここでいう「座禅」について。

「座禅して念仏」というのは、結跏趺坐もしくは半跏趺坐して申す念仏だと思います。
この肉体を持っている以上、何らかの形は常にとっているわけで、その形の一つとしての「座禅」という意味なんです、私が使っているのは。
ここで問題にしているのもそれでしょう?
すでに>>375ベロさんが言われていて、>>398で326さんも、
>渡海さんがどんな格好でお念仏を称えようといいんです。
と書いておられるので、ここでいう「座禅」についての共通理解は得られていると思ったのですが。

>禅においても様々な作法、様式がありますし。
この際、禅は関係ないんです。念仏するときの一つの形を言っているわけですから。
こういう格好で念仏しなさい、と釈尊が言われた。だからそれを引用した親鸞聖人もそう言ってるんだと、そしてそれこそが親鸞思想の核心なんだと、いうわけでしょう。
座禅という行法において念仏せよというのなら、それは座禅の問題であって、初めから論外です。
ここまでよろしいでしょうか。

>なんでもそういえます。
その通りです。だから「座禅して念仏」が親鸞思想の核心という解釈が成り立つわけです。
456326:02/03/30 19:47
>修阿弥陀仏

念仏をする際の格好のみをいうならばそれは既に禅でもなんでもないといえるでしょう。
ただの格好です。それならば「座禅して」という言葉自体が間違いですね。
座禅という行を誤解していることになると思います。
「座禅して」と自力の行を用いることに問題があると私は指摘してるんですから。
それならば「座して念仏すべし」となりますね。どちらにしても念仏に制約を課していますが。
>すでに>>375ベロさんが言われていて
このことになんの問題もありません。文句をつける気もありません。ベロさんの見解ですから。
何度もいいますが、あくまで「親鸞がいっている」と断定することを問題としているのです。

また格好だというのならば、親鸞は念仏に関しては格好にしても称える回数にしても制約を
課していないというのも再三述べました。こういう格好をすべきだと制約を課したというならどこで
そんなことをいったかを示してもらいたいのです。ただ、私の知る限り親鸞はそのような制約をつけていません。

ベロさんにしても修阿弥陀仏さんにしても私と論点が違うと思います。
当時、また釈迦の父王が座禅の格好をして念仏を称えていたかどうかかではなく、
親鸞が「座禅して念仏申すべし」と念仏に制約をかけていたかどうかということについてです。

>なんでもそういえます。
>無理矢理こじつけています
それならば教行信証は親鸞の著作ではなかった可能性もありますよね。
親鸞は実在の人物ではなかったかもしれない。
自由な発想もまた道理がなければただの妄想であることを考えてください。
457326:02/03/30 20:04
>修阿弥陀仏さん

座禅ではなくそれを格好だとするなら、それは座禅でもなんでもないですね。
ただ、「坐して念仏申すべし」ということになりますね。つまり言葉の使い方を間違っていることに
なると思います。そして座禅に関係ないのに「座禅して」などといったら
それは座禅という行に対して失礼だと思いますよ。座禅を行として見ていない
ことになるんですから。行ではなくただの格好だというのならば。どちらにしても念仏に制約を
課していることになりますけど。

ベロさんにしても修阿弥陀仏さんにしても私と論点がずれていると思います。
問題にしているのは親鸞在世当時、また釈迦が父王に念仏するときに座禅の格好をしていたか
どうかではなく親鸞が「座禅して」または「座禅の格好をして」念仏を称えよと念仏に制約を
課すように述べたかどうかです。

>なんでもそういえます。
>無理矢理こじつけています。
教行信証は実は親鸞の著作ではなかった。
親鸞は実在の人物ではなかった。
>426さんの話などもその類ですね。
そういった論ならば私はなにもいうことはありません。どうぞ自由に想像してこじつけて下さい。
ただ、それをあたかも事実のように親鸞の口をつかって述べるのはやめていただきたいのです。
458326:02/03/30 20:06
すいません連続投稿・・・エラーして消えたのでもっかい同じような文をと思い出しながら
書いたのに・・・・。ほんとすいません。
459ベロ ◆od7XM/js :02/03/30 20:09
>>455 修阿弥陀仏さん
あなたには僕の言いたい事が良く伝わっているようでうれしいです。

326さんには座禅について自分の見解を示してほしいです。>>452 僕も伝統教団
の教義は数年学んでいます。だからこそ僕は渡海さんの見解は親鸞思想の核心ではない
と思うと言ってるんですよ。ただ渡海さんの伝統的解釈にとらわれず、自由な発想で
親鸞さんにぶつかっていく姿勢はすごく良いと思うんですよ。それに比べお寺さん方
の反応はあまりにもケツの穴が小さいというか、石頭というか、「認めない、訂正しろ、
譲れない」じゃ、なんだかなぁって思うんです。渡海さんの座禅念仏の禅定による凄い
パワーの幸福感に嫉妬してるんじゃないかな?次は伝統教団の皆さんに「俺のところは
渡海の理解よりもこんなに幸福になれるんだぞ」という教えをお聞かせいただきたいですね。
326さんやNBさんの出番ですよ。ここで渡海さんを叩くのはもういいでしょう。
次はあなた方が伝統教義の素晴らしさを宣伝して僕達に選択肢を提示して下さい、お願いします。
あ、ちなみに渡海さんはご自身の親鸞理解を最初から「仮説」だと認めていますよ。
その根拠は教行信証の行巻の例の「座禅して念仏申すべし」という言葉らしいですね。
460ベロ ◆od7XM/js :02/03/30 20:26
326さんにお聞きしますが、渡海さんが、1親鸞さんの教行信証を読んで、
2座禅して念仏申すべしという言葉に出遭い、3それを実践する事によって
パワーが出てきて幸福感を感じ、4皆さんにもこの喜びを伝えたいと思って
掲示板で自分の解釈、親鸞理解を提示してどこが問題なのでしょうか?
お互いの親鸞理解の違いを浮き彫りにし、見てる人に親鸞思想の素晴らしさを
伝える事が出来れば念仏門に関心ある人にはとても有意義なスレになりますよ。
461修阿弥陀仏:02/03/30 20:34
>>456
分かりやすく書いているつもりですが、ちょっとしつこく書いてみます。
「座禅して」という言葉が間違いであろうとなかろうとですね、念仏する際の格好を言っているわけでしょう?
座禅という行を誤解していようといなかろうとですね、自力の行としての座禅を言っているわけではないのですよ。
326さんの言い方でいえば、早い話が誤解しているわけです。
その上で、その誤解した「座禅」で念仏する、と、「親鸞がいっている」と断定するわけですよ。

ここまで、よろしいでしょうか?
462渡海 難( p6084-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/30 20:50
>>450
>僕は七高僧の中にどうして道綽「禅師」がいるのか不思議だった。

 善導大師も、往生要集では善導禅師と書かれている。
 月輪兼実公は、教行信証に禅定博陸と教行信証にある。少なくとも、法然門下では盛んに禅定が行じられていた。僕はそんな風にも考えているんですよ。
 禅と念仏とは切っても切れない関係にある。禅門と念仏門とは、説明過程で重心の位置に相違があるということでしょう。
463渡海 難( p6084-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/30 20:51
>>451
>しかし大学の先生とは出世したなぁ。
     <今度は気に入って戴けましたか。よかった。良かった(微笑)>

>しかしまぁ<僕の仮説的想像>ですか。

 大学と言っても、一流から四流まである。宗門大学、宗門学部、宗門学科なら、貴方ほどのチノーであればなら、きっと名教授、一流教授と称讃されることでしょう。外の学部は知りません。2CH的口から出任せ、おべんちゃらです。(笑)。

>私にしてもこんな反論はいたしません。

 <そうそう。それがいい。議論が終息すれば、2CHの愛好者が賢明な判断をして下さるでしょう。>

>それをいえばなんでもとおりますよ。

  <そうですか。そうですか。僕は貴方を説得するつもりはありません(微笑)。>

>「座禅して念仏申すべし」と親鸞が言った”という論はあくまであなたの想像による仮説であって事実そうであったかどうかは根拠もなく検証もしていない。

 <バカは死ななきゃ治らないということでしょうか。>
464修阿弥陀仏:02/03/30 21:12
>>459
どういたしまして。
私も間違いでない親鸞思想の核心というのを聞いてみたいです。

326さんへ。
どうも私の、
>無理矢理こじつけています。
というのを誤解されたみたいですが、私も渡海さんの説は無理だと思っているのでそう書いたんですけど。

今ちょっと考えましたが、座禅を自力の行ととったとしても、念仏の中に含まれると解釈されれば、それで通るんじゃないでしょうか。
結局、渡海さんの説を否定するには、祖師はそんなことは言っておられない、というようなものよりも、ここの文義によれば、それは成り立たない、というような、より積極的なものでなければいけないと思います。
465名無しさん@1周年:02/03/30 21:56
渡海の場合は、座禅念仏以前に人格に問題がある。
人の迷惑を考えず勝手に自分の意見を滅茶苦茶言うし、(決して326さんの擁護するわけじゃないが)何の根拠もなく相手を勝手に「坊さん」だの「大学教授」と決めつけるなど、異常としかいえない性格だ。
こういう奴は実社会で相手にされないだろうな。

他の人も、こういう馬鹿に流されていいのだろうか?
466ベロ ◆od7XM/js :02/03/30 22:11
>>465
そこんとこは渡海さんのキャラいや芸風といったところと僕は見てますが。
このスレも最初はチマチマやってましたが渡海さんが来て急に盛り上がった事は事実でしょう。
僕も親鸞仏教スレで初めて渡海さんを知った時はアクの強い、キッツイ性格な人と思いました。
でも真面目にレスすると真面目にレスが返って来るし、最初から渡海を叩こうと思う人でないなら
マトモに話せると思います。しかし僕自身は渡海さんの仏教理解に同意してるわけではありません。
467名無しさん@1周年:02/03/31 00:02
最近このスレ読んでて思うのだが、
もう少し体系的に祖師の説を読んだらどうだろう。
あからさまに重箱の隅的論議をしてて、どうかと。
渡海氏と楽しいレスの付け合いをしてるなら知らんが。
468名無しさん@1周年:02/03/31 00:10
>そこんとこは渡海さんのキャラいや芸風といったところと僕は見てますが。
さすがは渡海信者。そうやって良い方向へ解釈するのがいかにも渡海難を擁護してるって感じだね。
>このスレも最初はチマチマやってましたが渡海さんが来て急に盛り上がった事は事実でしょう。
むしろ最初のチマチマした雰囲気の方がいいじゃないのか?荒れていなくてマターリしてたし。
>僕も親鸞仏教スレで初めて渡海さんを知った時はアクの強い、キッツイ性格な人と思いました。
>でも真面目にレスすると真面目にレスが返って来るし、最初から渡海を叩こうと思う人でないなら
>マトモに話せると思います。
君は渡海の本性を全くわかっていない。彼は信者獲得の為に最初のうちはそうやっているだけだ。度を越したらウザイくらい無差別的に攻撃をしてくるからね。
>しかし僕自身は渡海さんの仏教理解に同意してるわけではありません。
そうには見えない。
本当に同意しないのなら、まともに相手をする必要はないはずだ。
469ベロ ◆od7XM/js :02/03/31 00:23
善導系の念仏宗の肝心なところは、自力に対する絶望と、そんな自分を決して
見捨てない弥陀の本願の頼もしさだ僕は考えます。いわゆる「二種深信」という
考えです。念仏には天台系、真言系、禅宗系もあります。中世の中国では渡海さん
に近く禅と念仏は双修でした。しかし善導系の念仏は口称念仏だけを弥陀の選択本願
の正定業として認めて、他の行は雑行雑修として退けました。たぶん326さんの
座禅概念はこの余行にあるのでしょう。法然さん、親鸞さんも基本的に善導系の念仏
を受け継いでいると思います。法然さんは口称念仏を自分の修行として修していた
のに対し、親鸞さんは念仏は本願力廻向の大行として修したのではないでしょうか。
このあたりは専門家のお寺さん方の説明を待ちたいと思います。よろしくお願いします。


470名無しさん@1周年:02/03/31 00:25
>>464
>念仏の中に含まれると解釈されれば、それで通るんじゃないでしょうか。
通りません。自力他力の言葉をよく考えてください。

念仏するスタイルは問われていないのだから、座禅念仏を否定するのも
座禅念仏に固執するのも意味無いことです。
471ベロ ◆od7XM/js :02/03/31 00:32
>>468 468さん、
そう思うのなら親鸞仏教スレでの僕の発言を読んでみて下さい。
ま、あなたにどう思われようが僕は何とも思いませんが。
よければ哲学板の三法印スレでいっしょに勉強しませんか?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/philo/1016879190/
472NB:02/03/31 01:17
渡海氏がどんだけ大きな額縁を持っているのかなんて知ったこっちゃないけど。

果てしもなく大きな青空に、額をはめて眺める人間がいるだろうか。
眺めようとする人間がいるだろうか。

もし、それができると考えるのならば、それは、青空の大きさも知らず、
宇宙の果てしもない広大さも知らぬ証拠だ。

喜びを、昔は袖に包みけり、今宵は身にも、あまりぬるかな。@『御文章』

ありがたいお歌だと思うんだけどなあ。

袖に包む喜びは所持する喜び、
自分の胸の内だか頭の内だかに、お念仏をまるめこむことができた・できると考える喜び。
身にもあまりぬることを知ることは、仏の大慈大悲に出会う喜び。

善導大師はもとより法然聖人や親鸞聖人がお念仏を知り抜くことのできた人だと
考えるなら、それは大きな間違いでしょうね。
473渡海 難( p2147-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/31 08:30
>>472
>渡海氏がどんだけ大きな額縁を持っているのかなんて知ったこっちゃない
   <うんうん。そうそう。>

>果てしもなく大きな青空に、額をはめて眺める人間がいるだろうか。

 額は嵌めないけど、ガリレオ以来、専門家は管の孔から覗くという方法を取ってきた。ガリレオは、土星の輪を発見している。
 太陽を観測するときは、子供達はガラスに墨を塗って真っ黒にし、真っ黒なガラス板から覗くものだ。
 地下数百メートルに直径数十メートルの巨大な地下孔を造り、その地下孔から宇宙の極限の姿を観察するという方法も現代では取っている。日本はその方面の最先端技術国だ。

>それは、青空の大きさも知らず、宇宙の果てしもない広大さも知らぬ証拠だ。

 道具を使わずに青空を見上げ、「自分は宇宙の広大さ知った」などと思うのは勝手だが、井の中の蛙という謗りを免れない。

>善導大師もとより法然聖人や親鸞聖人がお念仏を知り抜くことのできた人だと考えるなら、それは大きな間違いでしょうね。

 善導禅師、
 後善導と言われた法照禅師、
 あるいは禅定博陸を指導し、禅定博陸の庇護も受けた法然上人、
 法照禅師を後善導と尊敬し、その著作を弟子に勧めていた親鸞聖人が、
 どのようにして念仏を称えていたかを考えないのは、大きな間違いでしょう。
 NBさんとは見解が相違する。
474名無しさん@1周年:02/03/31 11:51
>渡海さん
>ベロさん

座禅念仏について、こちらのサイトを見れば全てがわかります。
ぜひご覧ください。
(注)これらのサイトは、座禅念仏に詳しい渡海さん向けです。
  座禅念仏に興味のない人や、座禅念仏を否定する人、本願寺の教義を信じきっている人にはわからない内容です。
http://homepage3.nifty.com/girls_and_boys~/
http://projectgastro.com/NameThatOrgan/11001/NameThatOrgan.htm
http://www.chernobylchildlifeline.org/today.htm
http://savagewolf.tripod.com/
http://www.bme.freeq.com/people/subint.html
475NB:02/03/31 17:19
どうしようか迷ったけど、やっぱ>>472訂正

>善導大師はもとより→善導大師をはじめ
476渡海 難( p5233-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/31 18:50
 閲覧者に警告します。
 渡海 難を2CH以外に誘うリンク先は無闇に開かないでください。
 ブラウザクラッシュやコンピュータウイルスなどが仕掛けられていることがあります。
477修阿弥陀仏:02/03/31 19:31
>>470
通りませんか?
この手の話は一分の理さえ通れば、あとは何とでも言えるものなんですが。

>念仏するスタイル
が問われていたと思っていたんですけどね、ここのスレでは。
でもまあいいです。私も無意味な理屈をこねまわしているようですし。

しかし親鸞思想の核心を述べてくださる人もいらっしゃいませんか。

ところでまたありがたい法然上人のお言葉。
「称名念仏は様なきを様とす」
まあそういうことで。
478名無しさん@1周年:02/03/31 19:41
>>476
誰も>>474のブラクラになんか踏まないよ。興味ないし。

「坊さんの仕業だ」と言わなかっただけましだけど。
479渡海 難( p5022-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/03/31 19:58
>称名念仏は様なきを様とす

 空を見るのは様なきを様とす。望遠鏡などは使わなくても、土手の草むらに転がれば、目の中に空が飛び込んでくる。ゆっくり流れる雲だって見えてくる。
 望遠鏡を使わなくちゃいかんとか、使ってはいかんということはない。望遠鏡に固執するのは意味無いことです。
 でも、ちょっと詳しく見ようと思えば、望遠鏡を使ってみよう。
 欲しい者は手に入らん。嫌な奴とは会わねばならん。愛する人とは別れが来る。世の中で苦の種にならんものはない。
 人生にちょっと困ったときは、念仏に工夫を加えることも必要だろう。親鸞聖人に騙されたと思うことも必要だ。
 法然上人のお言葉じゃないけれど、渡海 難の提案です。
480名無しさん@1周年:02/03/31 20:02
>479
>法然上人のお言葉じゃないけれど、渡海 難の提案です。

やっぱり怪しいよ、あんた。
そうやって法然や親鸞の思想を全部自分で作りかえてるんだろ?
481修阿弥陀仏:02/03/31 20:35
>>440
>「踊り念仏」
念仏しながら踊る、または踊りながら念仏する。
今は形骸化したものが芸能として残っているようですが、もともとは、一遍上人の時衆の人たちが、念仏しているときに感極まって踊り出したのがその始めらしいです。
482 :02/03/31 21:47
>>479
すみませんがサッパリわかりません。
483念仏:02/03/31 21:58
親鸞思想の核心について、私の解釈を少し。
まず、「行巻」の構造から。
1、釈尊
2、一祖、龍樹
3、二祖、天親
4、三祖、曇鸞
5、四祖、道綽
6、五祖、善導
7、(諸宗の高僧)
8、六祖、源信
9、七祖、源空
10、親鸞の結論
11、その証明
12、正信念仏偈
ここで、(諸宗の高僧)部分は省略が可能です。
親鸞がそれを挿入した理由は2つあると考えますが、今は触れません。

さて、親鸞がこの構造から意図したことは明白です。
それは、釈尊の説かれた阿弥陀の真実教が、七祖の高僧の手を経て、
間違いなく親鸞の元に届けられたという事実と、
親鸞の手にした真実教が真実であることの証明です。

では、親鸞思想の核心はどこにあるか?
親鸞は、直接七祖源空(法然)に師事したわけですから、
法然に続いて親鸞自身が書いた言葉にそれがあると考えます。
「あきらかにしりぬ、これ凡聖自力の行にあらず。」
これが、その言葉です。
阿弥陀の説かれた念仏という大行は、実に自力の行ではなかった。

「念仏は自力にあらず」

それが私の理解する親鸞思想の核心です。
484お尋ねマン:02/03/31 23:20
>>483
要するに、「念仏を称える事で、往生させていただくんだ。」と「自分で」、信じて「自分で」念仏を
称えるものだと思っていたのが、実は阿弥陀如来が私に回向して下さっていた南無阿弥陀仏の
「名号」が、法然上人(善智識)を通じて親鸞聖人ご自身に届いた姿が「信心」であり、「称名念仏」であった、
それがすなわち「大行」であり、「大信」であり、金剛不壊(絶対に壊れる事のない)の信心である、
と言う事でしょうか?

もしもそうであれば、その信心を頂いた事への歓喜の思いの後の念仏は、全て信心をお与え下さり、
往生決定不退の位へと至らせて下さった阿弥陀如来への報恩と感謝の念仏を「意味する」念仏になってしまうという事ですね。
もはやここにおいては念仏は阿弥陀如来の恩徳を称賛するものになってしまうと思います。

私達が「自分で」念仏を称える事で「何かを得ようとする」のではなくて、
阿弥陀如来が回向して下さった「名号」に歓喜し、その後は阿弥陀如来の恩徳に報謝する(口称・称名)念仏
である、という事ですよね?聞く所によると、その称名念仏こそ、破闇満願(無明の闇を破る)の念仏であると
お聞きしました。そう理解しておりますが、それでよろしいでしょうか?
485お尋ねマン:02/03/31 23:33
>>483ではかなり固い文章だと思ったので、わかりやすく書き直しますと、親鸞聖人は、
法然上人と出会われて、専修念仏の道へ入られたわけですよね?という事は、法然上人
のご人徳とか、お人柄もそうですが、法然上人の言動や発せられるお言葉に、念仏によって
救われておられる法然上人のお姿、すなわち阿弥陀如来の慈悲に救われておられる法然上人
のお姿を親鸞聖人はご覧になられたからこそ、法然上人の説かれる念仏の教えに帰依されたのでは
ないかな、と思うんです。これがもしも法然上人が「念仏など称えても私は不幸だ、絶対に
救われるわけがない。」などと言われておれば、親鸞聖人は果して念仏の教えに帰依されただろうか?
決して帰依されなかったんじゃないかな、と思います。また、いくら口で正しい事を言っていても、
法然上人の常日頃の言動が人を馬鹿にしたり、下に見るような言い方、独善的な言動しか出来ない人
であれば、やはりその人の教えに従おうとは親鸞聖人は決してなさらなかったと思います。

法然上人は確かに親鸞聖人からご覧になられた時、阿弥陀の慈悲によって救われておられる尊いお姿
に感じられたのだと思います。だから法然上人の説く念仏の教えに帰依されたのだと思います。それが、
阿弥陀如来から善智識を通じて与えられた信心を頂く、という事なのだろうか、と思っています。
486NB:02/04/01 00:50
長文が続きすぎるとスレが死にますよ。ぼくも気をつけます。
487ベロ ◆od7XM/js :02/04/01 03:47
僕は法然さんも親鸞さんも、自分が死後に阿弥陀仏の極楽浄土に往生するなんて
本心では思ってなかったんじゃないかなと考えるんですが、皆さんはどうお考えですか?
488渡海 難( p4219-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/01 07:16
>>482
>すみませんがサッパリわかりません。

 さっぱり分かりませんか。そうでしたか。そうでしたか。ウンウン。いずれ貴方にもこう言うことが分かる時が来るといいですね。そういう時が一時も早く来ることを祈っております。
489渡海 難( p4219-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/01 07:17
>>483 :念仏
>「念仏は自力にあらず」それが私の理解する親鸞思想の核心です。

 これが親鸞思想の核心でしたか。私は、ちっとも知りませんでした。なるほど。なるほど。それで、念仏は自力でなかったらどうなるんですか?。
 念仏は自力でなかったら、欲しいものは手に入りますか?。念仏が自力でなかったら、愛する人とは分かれないでも済みますか?。念仏が自力でなかったら、嫌な奴とは会わないでも済みますか?。念仏が自力でなかったら、世の中は何一つ苦になりませんか?。
 阿弥陀様が、あ〜ら不思議とばかりに、奇跡を起こしてきてくれますか?。
 念仏が自力でなくても、欲しいものは手に入らないでしょう。愛する人とはいずれ分かれなければならないでしょう。嫌な奴とも会わなければならないでしょう。世の中に、苦の種にならんものは一つもありません。この現実はどうなるんでしょうか?。
 貴方はこういう問題は、何一つ解決しないでもいいんでしょうか?。
 人生の問題なんか何一つ解決しないでもいい。なぜなら、念仏は自力にあらず。あーぁ有り難い。親鸞思想の核心とは、そんな程度のものだったんでしょうか?。日々真剣勝負を挑まれている我々生活者から見ると、子供だましのおままごとみたいなものですね。
490渡海 難( p4219-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/01 07:22
>>487 名前:ベロ
>死後に阿弥陀仏の極楽浄土に往生する
       <死の概念が違うでしょう。>
491(・人・):02/04/01 07:44
>>489
>世の中に、苦の種にならんものは一つもありません。この現実はどうなるんでしょうか?
>貴方はこういう問題は、何一つ解決しないでもいいんでしょうか?。

俺は483ではないですが
あなたの言う「問題の解決」とは?
一切皆苦を悟る事は仏教の基本です。

親鸞聖人はその一切皆苦を前提として
自力ではとうてい救われない凡夫が救われんとする道をお示しくださった。

聖道修行に励む事のできない生活者である凡夫を救う為に
阿弥陀様があ〜ら不思議とばかりに手を差し伸べてくれる事を
教えて下さったのです。

あなたの念仏では願い事が適うのですか?
492名無しさん@1周年:02/04/01 09:05
 なるほど。なるほど。それで、念仏は他力でなかったらどうなるんですか?。
 念仏は他力でなかったら、欲しいものは手に入りますか?。念仏が他力でなかったら、愛する人とは分かれないでも済みますか?。念仏が他力でなかったら、嫌な奴とは会わないでも済みますか?。念仏が他力でなかったら、世の中は何一つ苦になりませんか?。
 阿弥陀様が、あ〜ら不思議とばかりに、奇跡を起こしてきてくれますか?。
 念仏が自力でなくても、欲しいものは手に入らないでしょう。愛する人とはいずれ分かれなければならないでしょう。嫌な奴とも会わなければならないでしょう。世の中に、苦の種にならんものは一つもありません。この現実はどうなるんでしょうか?。
 貴方はこういう問題は、何一つ解決しないでもいいんでしょうか?。
 人生の問題なんか何一つ解決しないでもいい。なぜなら、念仏は自力にあらず。あーぁ有り難い。渡海思想の核心とは、そんな程度のものだったんでしょうか?。日々茶番を挑まれている我々坊主から見ると、子供だましのおままごとみたいなものですね。


493名無しさん@1周年:02/04/01 09:07
>>489
あなたは今「座禅念仏」とか「如来禅」とか言っていますが、要するに普通の親鸞思想と
言われている考えや、真宗の考えでは「何ら自分の生活に役立たない」と思われたから、
念仏を何とかして現実生活に役立てようとご努力されているように思います。

しかし、真宗に伝わっている念仏の考え方で「心の救われ」を実感し、それで自分の生活
に良い影響が出ている人が全くいない、とは言い切れないと思います。

ただし、「念仏すれば、こういう現世利益がある」などという説き方は、非常に危険な方向
へ向かいかねない可能性がある事を私達は考えないといけないのではないか、と思います。

「生活者は「信心」なんてどうでもいいんだ、現実生活に役立つか役立たないかが問題なんだ。」
と思うのはその人の自由だし、勝手です。しかし、親鸞聖人という宗教者がそのような教えを
説いていた、と断言する事は軽率に行なうべき事ではないと思います。もちろん多くの人々が
自分で念仏に対して色んな考えを持つ事で「幸福になる事」に対しては、沢山の諸仏や親鸞聖人
もお喜びになられるかも、知れません。だからといって、親鸞聖人が説いていたかどうかはっきり
しないものを、さも、親鸞聖人が説いていたかのように言いふらす事に対して、親鸞聖人は
そんなにお喜びにはならないと思います。渡海さんが「本当に」座禅念仏によって救われていて、
その救われた姿が人の心を打つのであれば、自然と渡海さんを慕い、その教えを聞こうとする
人達も大勢出て来るはずです。しかし、残念ながら現在の渡海さんは、ちっとも救われている
ようなお姿には見えません。
494名無しさん@1周年:02/04/01 11:43
渡海氏は、ご自身のこの2ちゃんねるでの言動そのものが、ご自身の体験に裏付け
られた「親鸞思想の核心=座禅して念仏する」論を駄目にしてしまわれていることに
お気付きだろうか?

たとえ理論や説く教えが正しい物であったとしても、それを実行している本人の
人格や性格がその教えに劣らぬ立派なものでなかったら、その人の説く教えに耳
を貸す人は少ないだろう。それはその人が説く教えを実行する事で、将来その説
いた人のようになってしまいかねない危険性があるからだ。

私は渡海氏の今までの言動を見させて頂く限り、とても渡海氏が提唱する「座禅念仏」
を実行する気にはなれない。渡海氏のようになりたくないからだ。現世利益があるのか
ないのかわからないが、私は自分自身で親鸞聖人の教えと向き合って、学んでいきたいと思う。
そうすれば、将来、親鸞聖人のように、とまではいかなくても、親鸞聖人に近い境地に
まで至らせて頂く事が出きるのではないか、と思うからだ。
495傍観者:02/04/01 12:20
>>493〜494
ご名答!
496FGX8014E:02/04/01 13:48
渡海君のレスを見ていると矛盾がありますね。イヤ、別にいいんですけどね。
497宗教板ヲチャー:02/04/01 13:54
>>496
いつも矛盾だらけです。
矛盾を突かれると相手を真宗坊主だと決め付けて
人格攻撃を始めます(w
この後の反応もきっとそうでしょう
ま、でもT氏よりはマシかな
498名無しさん@3週間:02/04/01 16:44
>>497
決め付けでもなんでも、とにかく相手の言われた事に反応するだけはマシだな(藁
脳味噌の程度は同じだろけど(ニガワラ
499名無しさん@1周年:02/04/01 18:11
親鸞聖人の言動と渡海氏の言動を比較して見ても、明らかに違いがある事がわかります。
ここで推測できるのは、おそらく親鸞聖人はかなりの確率で「座禅念仏」など行なってい
なかったし、人に説いてもいなかった、という事です。渡海氏とは全く比較にならない
境地へと、「阿弥陀如来の本願力によって」到達されていた、と思われます。

やはり私達は、時に自見を交えて親鸞聖人の教えを理解してしまう事があったとしても、
「これで親鸞聖人の教えを全て理解した。」などと思う事無く、出来る限り「教行信証」
その他親鸞聖人の御著作を読んだり、自分が頂いている「信心」を語り合って、お互いに
間違った頂き方をしていないか確かめ合う事は、決して無駄ではないと思います。

渡海氏と326さん達のやり取りを見させて頂いて、自分自身で固めてしまった「信心」
を持ったままでは色んな意味で恐ろしい事になるな、と思い知らされた気持ちです。
それを知らせてもらっただけでも、このスレッドを読んだ甲斐があったと思っています。
500NB:02/04/01 18:16
なんまんだぶ。なんまんだぶ。
501念仏:02/04/01 18:37
>484 485 お尋ねマンさん
遅くなって、すみません。
親鸞について言えば、その通りだと思います。
502渡海 難( p3225-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/01 20:56
>>491 :(・人・)
>一切皆苦を悟る事は仏教の基本です。   <ちょっと見解を異にするようだけど、ま、いいだろう。>

>とうてい救われない凡夫が救われんとする道をお示しくださった。     <なるほど。>

>阿弥陀様があ〜ら不思議とばかりに手を差し伸べてくれる事を教えて下さったのです。
  <面白い夢物語ですね。誰もそんな迷信は信じないでしょう。貴方は信じてるんですね(笑)>

>あなたの念仏では願い事が適うのですか?

 人生最悪の選択肢だけは気をつけて、それはできるだけ選択しないような骨の折り方、苦労のしかたが見えてくるんでしょう。それが大事なんでしょう。
 人生、思うようにいかないときはいくらもある。それでも、選択肢が一つしかないということは珍しい。
複数あれば、仮に最善の道は選び損ねても、二善,三善の選択肢は手堅く選ぼうじゃないか。
 凡打でいいから、ヤケにならず少なくとも人生最悪の選択肢だけは気をつけよう。できるだけ避けよう。そういう知恵を持つ。判断力を持つ。地味だけど、そういうことは可能でしょう。

>>492
>なるほど。なるほど。それで、念仏は他力でなかったらどうなるんですか?。
     <あなたとは発想の原点が違うようです。>
503渡海 難( p3225-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/01 20:56
>>493
>要するに 〜 されているように思います。
      <勝手に誤解して要約しないでください(笑)。>

>それで自分の生活に良い影響が出ている人が全くいない、とは言い切れないと思います。
      <悪い影響が出ている人がいるんですか?>

>現世利益がある」などという説き方は、非常に危険な方向へ向かいかねない可能性がある事を私達は考えないといけないのではないか、と思います。 

 「現世利益和讃 十五首 親鸞作」
 危険な方向へ向かいかねない可能性がある事を考えないといけないのですね。

>思うのはその人の自由だし、勝手です。   <そうそう。>   

>断言する事は軽率に行なうべき事ではないと思います。

 自らの信念を語ることに、軽率も何もないでしょう。良心を歪めなさいとあなたは僕に言うんですか?。
504渡海 難( p3225-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/01 20:57
>親鸞聖人が説いていたかどうかはっきりしないもの
    <教行信証の内容は親鸞の説いたものかどうかはっきりしないと言うのですか?。>

>親鸞聖人はそんなにお喜びにはならないと思います。

 貴方は、八百年も前の人を喜ばせようというわけですか?。どうやって歴史を遡るんですか。タイムマシンでも乗りますか(笑)。

>渡海さんが「本当に」座禅念仏によって救われていない。
    <蓮如さんほどのありがたさは感じないけど、袖に隠して感謝してるんですよ。>    

>その救われた姿が人の心を打つ    <心の目は、めくら千人、めあき千人。>    

>自然と渡海さんを慕い、その教えを聞こうとする人達も大勢出て来るはずです。
   <貴方の見込み違いでしょう。>

>しかし、残念ながら現在の渡海さんは、ちっとも救われているようなお姿には見えません。

 人は自分を投影してみるものでしょう。僕が救われているかどうかを別にして、貴方が見ているつもりの僕(渡海)は僕(渡海)でなく、貴方が投影した貴方の姿なのでしょう。
505渡海 難( p3225-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/01 20:57
>>494
>駄目にしてしまわれている  <僕の言動でダメになるものなら、僕の言動がなくてもダメでしょう。>

>それを実行している本人の人格や性格がその教えに劣らぬ立派なものでなかったら、その人の説く教えに耳を貸す人は少ないだろう。

 聖人君子が好きならば、僕のことなど無視すればいい。世の中には黙殺という手がある。

>それはその人が説く教えを実行する事で、将来その説いた人のようになってしまいかねない危険性があるからだ。

 親鸞聖人の説く教えを実行することでなれるなら、説いた親鸞聖人のようになってしまってみてくださいな。僕は御免蒙りますよ(笑)。

>私は渡海氏の今までの言動を見させて頂く限り、とても渡海氏が提唱する「座禅念仏」を実行する気にはなれない。

 久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里は捨て難く、未だ生まれざる安養の浄土は恋いしからず候うのでしょう。真に、よくよく煩悩の興盛に候ふ。
506渡海 難( p3225-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/01 20:58
>私は自分自身で親鸞聖人の教えと向き合って、学んでいきたいと思う。

 真筆文書を黙殺し、教行信証は墨を塗り、本願寺御作成の教学テキストにしっかり向き合えば、本願寺のさんのよきマインドコントロールロボットにおなり遊ばすことでしょう。

>親鸞聖人に近い境地にまで至らせて頂く事が出きるのではないか、と思うからだ。

 お偉い御境地を目標にされていらっしゃるんですね。親鸞聖人も、草場の陰でさぞくしゃみをなさっていることでしょう。平成の親鸞聖人がご誕生したら、盛大にお祝いいたしましょう(笑)。
507渡海 難( p3225-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/01 20:59
>>495
>ご名答!  <お待ちかねの答えがでましたね。2CHをクイズ番組と思ってたのか(爆)。>

>>496
>矛盾がありますね。イヤ、別にいいんですけどね。

  何が言いたいの?渡海 難に矛盾を発見したという御報告ですか。矛盾発見報告は不要です。矛盾を発見されても、僕の自慢にならないからね。

>>497
>矛盾を突かれると相手を真宗坊主だと決め付けて人格攻撃を始めます(w

 「人格攻撃を始めます」という人格攻撃を始めています。この手の人格攻撃する497もやはり真宗坊主くさいな(笑)。

>でもT氏よりはマシかな   <それは知らんな。>


>>498
>相手の言われた事に反応するだけはマシだな
     <貴方のようなゴミに挨拶するのも、僕なりの尊敬の仕方さ>

>脳味噌の程度は同じだろけど(ニガワラ
     <ひょっとすると、クソに味噌の判断をされてるのかな?(苦笑)>
508渡海 難( p3225-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/01 21:00
>>499
>推測できるのは、おそらく親鸞聖人はかなりの確率で「座禅念仏」など行なっていなかったし、人に説いてもいなかった、という事です。

 面白い。確率というならその根拠を示して欲しい。
 人に説いていなかった可能性を支持する根拠は何ですか?。説いていた可能性を支持する根拠は何ですか?。根拠の中には、教行信証の行の巻、五会法事讃は入るのでしょうか?。無視するのでしょうか?。
 専修寺の資料は入るのでしょうか?。入らないのでしょうか?。 

>出来る限り「教行信証」その他親鸞聖人の御著作を読んだり、

 教行信証の行の巻、五会法事讃の一節には、墨を塗るのでしょうか?。その部分は片目をつぶって読むのでしょうか?。
 
>間違った頂き方をしていないか確かめ合う事は、決して無駄ではないと思います。
     <なるほど。なるほど。>

>自分自身で固めてしまった「信心」を持ったままでは色んな意味で恐ろしい事になるな、と思い知らされた気持ちです。
      <固めないで、語り合ってみましょう。>
509 :02/04/01 21:22

       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       | >>502-508渡海難はウザイ!!一人で1度に7レスも使うな!
       \
          ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         ∧_∧
         ( ´Д`)
       /⌒    ⌒ヽ
      /_/|     へ \
    (ぃ9 ./    /   \ \.∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       /    ./     ヽ ( ´Д` )< 今すぐこのスレから出て逝け!!
      (    /      ∪ ,  /   \_______
       \ .\\     (ぃ9  |
        .\ .\\    /    /  ,、
          >  ) )  ./   ∧_二∃
         / //   ./     ̄ ̄ ヽ
         / / /  ._/  /~ ̄ ̄/ /
         / / / )⌒ _ ノ     / ./
       ( ヽ ヽ | /       ( ヽ、
        \__つ).し          \__つ
510名無しさん@1周年:02/04/01 22:30
ちょっと思ったんですが・・・
渡海さんが、もしも、生きている内に、十八願のお心に触れた時、どういう心境に
なるか、楽しみでもありますね。

渡海さん、あなたも私も形は違うけど、共に「念仏」を称える者同士、一緒に念仏さ
せて頂きたいと望みます。お互い生きている内に「信心」を頂ければ良いと私は勝手
に思っています。
511(・人・):02/04/01 22:37
>渡海氏
>>一切皆苦を悟る事は仏教の基本です。   <ちょっと見解を異にするようだけど、ま、いいだろう。>
ここで見解を異にされると論議のしようがない
貴方の念仏は仏教ではないのですか?

#貴方の念仏の最終目標はなんですか?
最悪の選択肢を取らない事、
念仏を道具に自己催眠法を伝授する事が目標ですか?

「最悪の選択肢がどうこう・・」と言う時点で
私には一般的な仏教の定義から外れているようにしか見えないのですが..

っと言われる前に書いておきますが
私は真宗坊主ではありません。
512傍観者:02/04/01 23:02
もし渡海氏自身が座禅念仏で安心を得られたならそれでいいのではでしょうか?
真宗教団から異安心や異端の烙印を押されようとも、渡海氏自身がその「座禅念仏」
により弥陀のご本願をいただいておられるならそれでいいのではないですか。
しかし、理屈をこねまわし、正統性云々されるのはあなた自身が実は「救われていない」
「座禅念仏に確証が持てない」という証ではないのですか?

本当の「信」があればこのような醜態はさらさないものです。


513 :02/04/01 23:03
一切皆苦を悟ることは仏教の基本???
514ベロ ◆od7XM/js :02/04/01 23:19
ホントに渡海さんは人気がありますね〜。アンチもその人の事を気にかけてる証拠
ですからね。みんな渡海さんをほっとけないみたいですもの。渡海さんの思うツボだな。
親鸞さんという人気者をネタに使うところも用意周到な所ですね。そして渡海さんは
仏教的な知識もクレクレ坊主には足元にも及ばないほどのものをお持ちの様ですし。
きっとここのヤリトリを見てて、とっても楽しいんでしょうね。
515(・人・):02/04/01 23:23
>>513
ちゃいまっか?(汗
渡海氏以外からのレスでツッコミが入ると
自信なくなりまんがな
516こき:02/04/01 23:42
渡海(S)難先生ありがとう
おかげで盛り上がってるし他人を否定して自分を正しいと思う快感にひたれるし
善導の事を知らない自分にも気づきました。
そして闘ってください聞不具足たちと。念仏しとけばとりあえず安心だろう
などと自分をごまかしている我々に疑いとスパイスを回向してください。
517名無しさん@1周年:02/04/02 08:50
>>514
>ホントに渡海さんは人気がありますね〜。
>アンチもその人の事を気にかけてる証拠ですからね。
>みんな渡海さんをほっとけないみたいですもの。渡海さんの思うツボだな。
勘違いしてる。
お前みたいなアホな熱狂的信者が渡海にマジレスするから、渡海が調子に乗るんだよ。
だからアンチが反論して、渡海がそれに対して反撃して余計に荒れるんだよ。
>親鸞さんという人気者をネタに使うところも用意周到な所ですね。
ネタ?親鸞をネタ呼ばわりするとは失礼な野郎だ。
>そして渡海さんは仏教的な知識もクレクレ坊主には足元にも及ばないほどのものをお持ちの様ですし。
お前も、ここでやりとりしている人を坊主と決めつけていないか?
ここにカキコしている人は全員真宗教団の関係者だと思っていないか?
やっぱりお前は渡海信者だ。
>きっとここのヤリトリを見てて、とっても楽しいんでしょうね。
第三者的に見ると、全然楽しくない。むしろ渡海のレスを読むと、内容問わず渡海の表現技法だけでムカツク。
これほどまでに無差別的に攻撃するレスを見ると、誰だって腹が立つよ。人に伝えるような言葉じゃないし。
アンチにとっては渡海が早く消えてほしいと思っている。

>>516
ここでも渡海信者がいたか。。。
お前やばいよ。
518名無しさん@1周年:02/04/02 09:25
ジサクジエンキタ━━━(゜∀゜)━( ゜∀)━(  ゜)━(  )━(  )━(゜  )━(∀゜ )━(゜∀゜)━━━!!!!!! 
519名無しさん@1周年:02/04/02 09:46
>>513
>>515

諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静
520494:02/04/02 14:34
>>渡海氏へ。
私が言いたかったのは、渡海氏の2ちゃんねるでの言動が、渡海氏の持論である、
「親鸞思想の核心=座禅して念仏する」論に対する「信頼」と、渡海氏ご自身への
人間性への信頼と共に失わせている、という事を言いたかったのです。

別に渡海氏へ聖人君子的なものを要求しているわけではなくて、渡海氏と持論が
違っていても、渡海氏と親鸞聖人に対する考え方やイメージが違っている人に対
して、相手を馬鹿にした言い方や表現は改めるべきだ、と思ったのです。
渡海氏とは考えが違っていても、みんな何がしかの形で親鸞聖人を尊敬し、念仏を
称えている人達であると思います。たとえそういう人達でなかったとしても、独善
的な印象を与えないように気を付けた方が渡海氏のためにもなると思います。

渡海氏はご自身のお考えに自信を持っておられる事はわかりますが、悲しいかなそれが
現実の行動に現れているようには見えないのが私の印象です。渡海氏が今後、本当に
持論の「親鸞思想の核心=座禅して念仏する」論を広めてゆく覚悟と熱意があられるので
あれば、まずご自身の言動を、ご自身の思想にふさわしく、相手を心服させるほどの
謙虚さや礼節を重んじる態度をお持ちになるように、気を付けられた方がよろしいと思います。
これは、渡海氏に根拠を示さずに、一方的に渡海氏に対して持論を撤回するように要求
した人にも言える事です。

言う事がいくら立派な事を言っていても、言う人の人格がそれに伴わなかったら、誰も
ついて来ません。また、人格が教えに伴っていない、と思われる事は、そのまま、その
人物の説く教えは大した物ではない、と思われる事につながる、という事です。ただで
さえ渡海氏の説は、世間では少数派の少数派なのですから、それを主張し、広めてゆくには、
相当な困難があります。ところが渡海氏が自分でその持論への信頼を失わせるような言動
をしていては、何にもなりません。自分で自分の説を広めるのを邪魔しているのです。

また、その点では326さんはきちんと渡海氏に対して、相手を馬鹿にする事なく、根拠
を提示されながら、冷静に渡海氏と議論されている点は、私も大いに見習いたいと思っています。
521念仏:02/04/02 18:05
>489 渡海氏
>人生の問題なんか何一つ解決しないでもいい。
私は、他力の念仏に現世の利益は必要ないと考えております。
欲しい物を手に入れるために念仏したことも、
恋人と別れずにすむために念仏したことも、
嫌な奴と会わないために念仏したこともありません。
強いて挙げれば、他力の念仏と出会ったおかげで、
渡海教や、カルト系の宗教に引っかからずにこれたということですね。

>世の中は何一つ苦になりませんか?
人は苦しむと決まった生き物です。
あがきにあがいた果てにまだ苦しむ。
それが生きていることの証だと思います。
釈尊は、人間の存在を、幸不幸をこえた苦と断じ、
その苦を滅ぼす方法として八正道を完成されました。
しかし煩悩具足の私には八正道を行ずることができません。
まして末法の世にあっては八正道自体が存在しません。
自力の行法によっては苦を滅ぼすことができないということです。
ただ、他力の念仏だけがそれを可能とします。
念仏は自力によるのではなく阿弥陀の本願力によるからです。
それが、私の思い込んでいる法然、親鸞の説かれた仏道です。

この世で苦を滅ぼすことができるという人もおりますが、
体失不体失論争はこのスレの主旨ではないようですので、
別の機会にゆずりたいと思います。
522こき:02/04/02 21:22
>>517
うむ、すまんな。たしかにやばいな。でもほんの数年前までは自分ではまとも
だと思っていた。でもこんなぼくが自殺もせず、引きこもることなく仕事して
子作りまでしているのは念仏のおかげだと思っている。
大体僕は心から信じてはおらずただ親鸞がかっこいいからとなえている。
そしてこのやばい自分が念仏でどこまで逝くのか、実験しているようなものだ。
そしてこんなだめな者を生かしているからにはそれにおうじた副作用があるかも
しれない。
こんなにも至誠心、深心から遠くても念仏を称えている。
なんだか分からなくなったが、アンチな人(楽しんでるのは別)いくら他力
とはいえ摂取不捨を行じてみては?
523ベロ ◆od7XM/js :02/04/02 21:53
>>520 494さん、
あなたは渡海さんの魅力を誤解されているようですね。渡海さんの魅力は誰から
何を言われようとも決して自説を曲げない、まともな反論にも屁理屈で切り返す。
何度も同じ事を言わすヴァカには罵倒やあざけりで答える。ましてや座禅念仏を
みんなに広めようとしているのではなく、わかるヤツにはわかるというレベルで
自分の信仰体験を語っているのであって、普遍化しようとしているわけではない事
ぐらい渡海さんの書き込み読めばわかるでしょう?さらに494さんは宗教家に対し
謙虚さや礼節を求めておられるようですが大きな勘違いですね。大衆からは変人、
キチガイ扱いされ、少数意見を主張するのが宗教家ですよ。親鸞さんをネタ扱いされて
立腹してるヴァカもいますし、伝統仏教宗派のマインドコントロールも完璧ですね。
そりゃ4、500年かけて巧みに仕掛けて来たのですから無理もないですね。
物事を疑わない、権威に逆らわせない、見事な思考停止奴隷を作り上げている、
さらにそれが正しいと思い込んでいるから本人には救いようがないけどね。
524名無しさん@1周年:02/04/02 22:17
>523
>あなたは渡海さんの魅力を誤解されているようですね。
お前は渡海難の魔力にとり付かれた哀れな野郎だ。
>渡海さんの魅力は誰から何を言われようとも決して自説を曲げない、まともな反論にも屁理屈で切り返す。
>何度も同じ事を言わすヴァカには罵倒やあざけりで答える。
渡海が何度も同じ事を言うのは単に馬鹿だから。誰も理解してくれないだけの事。その繰り返し。
>ましてや座禅念仏をみんなに広めようとしているのではなく、
広めようとしていなくても、渡海のカキコは立派な布教行為です。
>わかるヤツにはわかるというレベルで自分の信仰体験を語っているのであって、
残念ならばそのわかるヤツというのは、あんたを含めてごく少数派。
>普遍化しようとしているわけではない事ぐらい渡海さんの書き込み読めばわかるでしょう?さらに494さんは宗教家に対し
将来的に普遍化を狙ってるんだよ、あいつは。
>さらに494さんは宗教家に対し謙虚さや礼節を求めておられるようですが大きな勘違いですね。
俺は494じゃないけど、宗教家に限らず、他人に対する謙虚さや礼節は人間として最低限のものじゃないのか?渡海にはそれが人一倍欠けているんだよ。
>大衆からは変人、キチガイ扱いされ、少数意見を主張するのが宗教家ですよ。
悪いけど、渡海には真の宗教家としての素質はないよ。所詮彼は親鸞や蓮如のような緒聖人には到底及ばない。
単なる宗教好きの怪しいオッサンだ。まるでオウムや法の華やライフスペースの教祖と同じ。
>親鸞さんをネタ扱いされて立腹してるヴァカもいますし、伝統仏教宗派のマインドコントロールも完璧ですね。
>そりゃ4、500年かけて巧みに仕掛けて来たのですから無理もないですね。
>物事を疑わない、権威に逆らわせない、見事な思考停止奴隷を作り上げている、さらにそれが正しいと思い込んでいるから本人には救いようがないけどね。
やっぱりお前は渡海信者だな。お前の思考回路は渡海とそっくり。「反論する人=お坊さん、寺の関係者」なのか?
お前はどうやってそういう決めつけができるのか、その根拠を示してもらいたいね。
お前もカルトにはまった哀れな奴だ。地獄に落ちても文句は言えないね。
525ベロ ◆od7XM/js :02/04/02 23:18
>>524
>俺は494じゃないけど、宗教家に限らず、他人に対する謙虚さや礼節は人間
>として最低限のものじゃないのか?渡海にはそれが人一倍欠けているんだよ。
あなたの僕に対するレスをみてると、渡海さん以上に謙虚さや礼節が欠けているようです。

伝統仏教宗派のマインドコントロールは何も寺院関係者だけがかかるわけじゃないですよ。
あなたのような方も立派に伝統仏教宗派の奴隷ですね。哀れな方です。
526名無しさん@1周年:02/04/03 00:21
何くだらねぇレスの付け合いしてんだよ。どっちもどっちだよw
527ベロ ◆od7XM/js :02/04/03 01:12
神社・仏閣板には伝統仏教教団の実体がよ〜くわかるスレがたくさんあるよ。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/985793132/
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/981296186/
528名無しさん@1周年:02/04/03 01:13
>>527
死に物狂いで探してきてあっぱれあっぱれ
529なかにし:02/04/03 01:19
ただ念仏のみぞまことにておわします 南無阿弥陀仏
530名無しさん@1周年:02/04/03 01:21
おまえつまんねーくせにウゼーんだよ。
そのウンコ文章はテメーの日記にでも書いて射精してな。
531ぱんぴー:02/04/03 01:22
2chてこうゆう真面目な場所もあるんですね。少し青すぎるけどね。
話題の渡海さんて仏教徒としての品格に書ける気がしますね。多分,本をたくさん読んで
勉強されたんでしょうが、具体的な人格に師事された経験がないのではないですか。
 こんなに独善的な言葉遣いを許す,お師匠さんはいないでしょう。独学で苦労されたんでしょうね
渡海さんには、どの宗派でもいいですから尊敬できる先生を見つけて,信心を検証される事をお勧めいたします。
「まちがってないよ」と言って下さる方は真宗にはいらっしゃらないとは思いますが。
そんな先生はいらないとか、見つからないのなら、あなたは仏教の伝統から遊離した新宗教を宣言すべきです。
様様な宗派が存在し,悟りが様様な形で表現されますが,其れは具体的人間の上で検証され、
私の先生,先生の先生等々,たどれば釈迦にたどり着くはずであり、
真宗では親鸞にたどり着き其れからは、法然等の七祖高僧に繋がってゆく筈です。
一人よがりでは思い込んデしまいますよ。
些細な事ですが真宗では 506 >「草場の陰」は存在しません。霊魂を認めてはいません。
伝統を持ち出すけど私は坊主ではありませんし、坊主の世襲制にはうんざりしてます。
本願寺派の普通の門徒であり、金儲け大好き経営者です。
532名無しさん@1周年:02/04/03 01:23
ジサクジエンキタキタキタキタ━━━(゜∀゜≡(゜∀゜≡゜∀゜)≡゜∀゜)━━━━!!!!!!!!!! 
533なかにし:02/04/03 01:24
帰命無量壽如来 南無不可思議光
534ベロ ◆od7XM/js :02/04/03 01:27
535名無しさん@1周年:02/04/03 01:27
あげとこう
536紀伊国屋本舗:02/04/03 01:45
坊主にはくされ、しね。故に我は正義。
537(・人・):02/04/03 01:48
>>534
面白いスレをありがとう(w
読み切れないからお気に入りへ登録ー
538名無しさん@1周年:02/04/03 01:53
傍らいたい (><”)
539名無しさん@1周年:02/04/03 08:25
今度は坊さん批判に変わってるね。
まあ、今のお坊さんは俗世間に染まっちゃってるから仕方ない部分はあるしね。
でも、ちゃんと信心をもって宗祖の教えを守ってもらいたいね。
そうしないと、渡海氏やベロ氏のような「アンチお坊さん」にコケにされるだけだからね。
NBさん、わかりましたか?
540524だけど:02/04/03 08:39
>525
早速レスがかえってきたな。
>あなたの僕に対するレスをみてると、渡海さん以上に謙虚さや礼節が欠けているようです。
渡海といっしょにされちゃ困りますな。自分だってそうじゃないのかな?
>あなたのような方も立派に伝統仏教宗派の奴隷ですね。哀れな方です。
また始まったよ。ここに来る人は全員本願寺の門徒なのか?
俺は伝統宗教宗派の門徒じゃないよ。
お前も渡海のように何の根拠も示さず他人のことを決めつけるとは。
やっぱり渡海擁護者は言動も渡海そっくりだ。

それから、ここは本来教義を語るスレなんだからね。
他人の言動や伝統宗教宗派を叩くスレじゃないんだよ。
渡海と同じような事をしてスレを汚さないでね。
541名無しさん@1周年:02/04/03 09:27
このスレはレベル低いな。本来の議論が全然出来ていない。「渡海難VS坊主」スレか?

あのなあ、そういう坊主批判なんて宗教板じゃなくてラウンジや廃墟口ビーでもできる次元じゃねーかよ。そんなくだらねえことやってるから「仏教は堕落してる」なんて言われるんだよ。別に渡海難や真宗教団の肩を持つわけじゃないけどさ。

渡海の「座禅念仏」なんてどうでもいいから、もっと高尚な話題にしろよ。例えば法然上人と親鸞聖人の教えは同じ「南無阿弥陀仏」をよりどころにしながら根本的にどう違うのかとか、融通念仏宗がどうしてよりどころとする経典を華厳経・法華経にしたのか、とか。
座禅念仏にこだわりまくってるから、渡海がうざいくらいに攻撃してスレの品位を落としてるだけじゃないのか?しまいには真宗教団の批判に変わってるし。完全にスレ違いだろ?

このスレを立てた>>1は、最後までこのスレに責任を持てよ。それができないんだったら削除依頼出しとけ。以上
542渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:04
>>510
>渡海さんが、もしも、生きている内に、十八願のお心に触れた時

 あんたも失礼な口の利き方をする人ですな(苦笑)。
 僕は、自分が十八願の心に触れているなんて、自分からは言いませんよ。親鸞聖人だって「難思議往生を遂げんと欲す」と言って、遂げたとは言ってない。難思議往生を遂げたか遂げて無いかは、本人の自覚の外なんでしょう。
 自覚できるのは、難思往生まで。真門まで。入り口までなんですよね。門の中は自分では自覚できない。親鸞聖人でさえそうなんだから、まして僕なんかは門の中は自覚できない。
 だからと言ってねーぇ。インターネットで「お前は十八願の心に触れてない」などと、見ず知らずの他人からそんなことを言われる筋合いは無いと思っているんですよ。僕が十八願の心に触れてなければ、あなたはどうなのさ。
 人には大きなお世話だろう。触れてるか触れてないか、どうして他人に分かるのさ?。ま、貴方みたいな人は、死んでも死んでも十八願は分からないでしょう。
543渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:05
>>511:(・人・)
>ここで見解を異にされると論議のしようがない

 悟るだけじゃものたりないんですよ。大乗仏教は、常楽我浄に転じていくというところまで考えていると思います。ただ、苦を悟る事、正確に言えば十二因縁論が出発点でしょうから、ここは特に問題にしたくないという配慮がありました。

>貴方の念仏は仏教ではないのですか?
   <苦を悟ること以上に、苦を越えて大乗仏教には、常楽我浄があると思っています。>
544渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:05
>念仏を道具に自己催眠法を伝授する事が目標ですか?

 僕らにとって宗教は生きる道具です。自分たち自身を幸せにしてくれる道具だと思っています。
 僕ら在家にとって、宗教は無用の用、人生の殆どの期間はなくても全く困らない。
 体が悪くなれば医者に相談する。法律問題で困れば弁護士に聞く。土地が欲しいと思えば不動産屋に聞く。水は市町村が供給してくれる。ガス・電気も普通の家ならきちんと供給がある。知識教育は学校がある。現代生活では、宗教など無くてもほとんど困らない。
 宗教が一生の中で本当に必要になる人は、百人に一人、千人に一人程度かと思っています。その百人、千人に一人でも、本当に必要になるのは、八十年の生涯の中で、精々一週間、二週間程度でしょう。それでも、実際には、その期間が半年も一年も続くことは多い。
 困った。困った、困った。相談相手もいない。相談できない。何をどうしたらいいのかわからない。これまでのやり方ではどうにもならない。自分の何かを変えなければいけない。何かが欠けている。どうしたらいいのか。人生には絶体絶命の危機というのがある。
 危機は誰に来るか、いつ来るか、それは全く分からない。でもそういう時はある。社会も整備され、都市も整備されたが、それでもそういう状況はある。
 こんなときどうするか。実は、あらゆるものが様々に教えてくれている。このことに気付かないといけない。
 花は、生物学者に生命の起源を教え、画家には美の神髄を教える。石は、物理学者に宇宙の起源を教えている。猿から人類の本質を学んでいる人類学者もいる。ネズミに病気の治療法を教わっている病理学者もいる。実に全てのものが様々に様々なことを教えてくれている。
 何でもいい、どんなものでもいい。嘘っこでいいから、必要な対象に仮に先生とあだ名をつけてみよう。明日、契約すべきか、しないでおくべきか分からなければ、相手に遠慮はいらないから、仮にその契約書を「先生」とあだ名を付けてみよう。
 刃物をもって親を追いかけ回す息子とどう接触していいか分からない。それなら、相手に遠慮はいらないから、仮にその息子に「先生」とあだ名を付けてみよう。
545渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:07
 かつて釈尊先生のお弟子さんは、先生の気持ちが分からなくなると、一人木陰に座り、姿勢を正し、呼吸を整えながら暫く釈尊先生のことを念じたことでしょう。すると、無意識下で忘れていた先生の実像に気づく。そういうことがあったんでしょう。
 かつて、阿難尊者、舎利弗尊者が釈尊先生を念じたように、「先生、ああ先生」と念じてみよう。姿勢を正し、呼吸を整え、念じてみよう。親鸞仏教は、このように僕に危機回避法を教えてくれました。
 阿弥陀経は例えば七日という数字を出しています。「一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、諸の聖衆と、現じてその前にましまさん。」といいます。
 進退極まって、これまでの方法ではにっちもさっちも行かなくなったら、一日、二日、三日、一心不乱に念仏を称えてごらん。必ず何かが見えてくる。
 名号とは仏の名前という意味です。名前は仏の名は「阿弥陀仏」です。僕らはその名前を「南無阿弥陀仏」と称えることを教わってきました。「阿弥陀」とは先生という意味です。「仏」とは先生と言う意味です。
 「南無」とは感嘆詞でしょう。「ああ」とか、「おお」とか、感極まった時に出る言葉でしょう。そう考えています。帰依とは、相手に全てを任せますという意味です。相手に全てを任せますということは、相手に感動した時の心の動きでしょう。
 「ああっ」と叫ぶ。だからこそ、「南無阿弥陀仏」とは「ああ先生」という意味だろうと考えています。
 契約書でもいい。ナイフを持った息子でもいい。仮に嘘っこでそれを「阿弥陀仏」とあだ名を付け、あだ名を付けた相手を「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念じてみよう。これまで見えなかったことが見えてくる。きっと見えてくる。僕は、宗教からそう教わってきた。
 宗教とは僕にとって、人生を生きていく上での大事な、大事な知恵です。道具です。

>私には一般的な仏教の定義から外れているようにしか見えないのですが..

 貴方の定義からは外れているかも知れませんが、仏教の定義から外れているとは思いません。
546渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:08
>>512 :傍観者
>真宗教団から異安心や異端の烙印を押され
    <教行信証に墨を塗るような真宗教団からこう言われれば、非常に名誉なことと思います。>

>それでいいのではないですか。   <誰かがいけないと言っていますか?>

>「救われていない」 〜 という証ではないのですか?

 救いの概念が貴方と違うのでしょう。僕にとって救いとは、この私が、仏道修行者の一人に加わらせて貰えたということです。貴方の救いとはどういう意味ですか?

>「座禅念仏に確証が持てない」という証ではないのですか?

 座禅念仏などは知りません。如来禅は、お釈迦様、法照禅師、親鸞聖人が勧めていますから十分でしょう。

>本当の「信」があればこのような醜態はさらさないものです。  <嘘の信がどこかにありますか?>
547渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:09
>>514:ベロ
>渡海さんは仏教的な知識もクレクレ坊主には足元にも及ばない

 いやいや。お恥ずかしい。親鸞聖人でさえ「善悪の二つ総じてもて存知せず」と言っているのに、僕如きの知識などはお恥ずかしい限りです。気にしないでください。

>きっとここのヤリトリを見てて、とっても楽しいんでしょうね。  <非常に勉強になっています。>


>>516 :こき
>渡海(S)難先生

 先生と呼ばれる相手じゃない。仮のあだ名なら貴方の世界の中だけで一時的につければいい。後は忘れるといいでしょう。

>善導の事を知らない自分にも気づきました。   <そうでしたか>

>回向してください。

 回向とは仏さんの仕事。僕は仏さんじゃない。僕は自信教人信。自分が勝手に信じていることを公表し、縁ある人が見知らぬところで参考にしてくれればそれが幸せ。
 僕の知らないところで、僕の名前も忘れて、誰かかが自分の人生の危機を凌いでくれれば、僕は異安心で地獄に堕ちても僕は幸だ(笑)。
548渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:20
>>517
>アンチが反論して、渡海がそれに対して反撃して余計に荒れるんだよ。

 <僕は荒れていると思わないけどね。見解の相違だな。> 

>ネタ?親鸞をネタ呼ばわりするとは失礼な野郎だ。  
   <ネタと言われても、親鸞さんは腹を立てるような人じゃないだろう。>

>ここにカキコしている人は全員真宗教団の関係者だと思っていないか?

     <全員?。そんなことはない(笑)。>

>第三者的に見ると、全然楽しくない。 <第三者的?。当事者としては楽しくないということだろう。>

>むしろ渡海のレスを読むと、内容問わず渡海の表現技法だけでムカツク。
         <煩悩の所為だな(笑)> 

>誰だって腹が立つよ。   <渡海のことに限らず、外にも腹が立つことはさぞ多いんだろう>

>人に伝えるような言葉じゃないし。   <貴方の耳に耳障りなんだな>

>アンチにとっては渡海が早く消えてほしいと思っている。
    <僕が消えても第二第三の渡海 難は登場するだろう。>
549渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:22
>>519 名前

>諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静

 ま、そうだろう。大乗仏教はここから更に常楽我浄という概念を展開してくる。常楽我浄は諸行無常などの四法と密接不可分だけど、諸行無常などの四法で終われば救いがない。
 常楽我浄は法の深信、諸行無常などの四法は機の深信と関係してくるんでしょうね。両者一体になったところが一心だろう。機法一体の南無阿弥陀仏だ。
550渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:32
>>520 :494
>渡海氏ご自身への人間性への信頼と共に失わせている、という事を言いたかったのです。

 なるほど。なるほど。お恥ずかしい限りです。所詮僕はこの程度の人間です。裏も表もありません。  

>相手を馬鹿にした言い方や表現は改めるべきだ、と思ったのです。
     <馬鹿にした言い方があれば、それは僕の不徳の至りでしょうね。>     

>独善的な印象を与えないように気を付け     <はいはい> 

>渡海氏のためにもなると思います。    <なるほど。なるほど>

>悲しいかな  <悲しいときは泣きましょう>
      
>それが現実の行動に現れているようには見えない   <貴方に見えなくても困らない>

>広めてゆく覚悟と熱意があられるのであれば、

 覚悟も熱意もありません。既に親鸞さんが広めているんだから、親鸞さんの考えを成る程と思った人が、人知れず勝手に実行すればいい。

>謙虚さや礼節を重んじる態度をお持ちになるように、気を付けられた方がよろしいと思います。

 人には器量に応じた得手不得手がある。僕は自らの器量の中で、自分が信じることを自分の良心に従って主張するだけです。
551渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:33
>これは、渡海氏に根拠を示さずに、一方的に渡海氏に対して持論を撤回するように要求した人にも言える事です。

 <なるほど。貴方はお偉いお方のようですね。>

>言う人の人格がそれに伴わなかったら、誰もついて来ません。

 人格者でなければ自由な発言をしてはいけない。自らの良心に従った発言をしてはいけない。そんなことはないでしょうね。

>渡海氏の説は、世間では少数派の少数派なのですから、 <何をもって多数、少数というのだか。> 

>それを主張し、広めてゆくには、相当な困難があります。

 親鸞聖人が言っていることを「このように言っている」というだけですよ。いけませんか?。

>渡海氏が自分でその持論への信頼を失わせるような言動をしていては、何にもなりません。

 あなたは僕の救い主にでもおなり遊ばしたいですか。

>自分で自分の説を広めるのを邪魔しているのです。

 親鸞が言ってると僕が思うことを、親鸞が言っていると僕は言うだけです。

>その点では326さんは きちんと渡海氏に対して、相手を馬鹿にする事なく、根拠を提示されながら、冷静に渡海氏と議論されている点は、私も大いに見習いたいと思っています。

 326さんと僕とは人格、器量が違うんでしょう。僕には話がちんぷんかんぷんですけどね。
552渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:35
>>521 :念仏
>私は、他力の念仏に現世の利益は必要ないと考えております。

 そうですか。なるほど。なるほど。親鸞聖人とは御見解が異なるようですね。

>他力の念仏と出会ったおかげで、渡海教や、カルト系の宗教に引っかからずにこれたということですね。

 <そうでしたか。良かったですねお幸せで。>

>釈尊は、人間の存在を、幸不幸をこえた苦と断じ、その苦を滅ぼす方法として八正道を完成されました。
しかし煩悩具足の私には八正道を行ずることができません。

 なるほど。お釈迦様の教えは、煩悩具足の私は救えない未完成な教えだったということですね。

>ただ、他力の念仏だけがそれを可能とします。念仏は自力によるのではなく阿弥陀の本願力によるからです。

 「それ」というのは何を指す代名詞ですか?苦を滅ぼすことを可能としてくれるということですか?。

>この世で苦を滅ぼすことができるという人もおりますが、

 ハテ?。苦を滅ぼすことはやはりできないのですね。
 「念仏だけがそれを可能とし」あなたは阿弥陀の本願力のお陰で苦が滅ぼされたんじゃなかったでんでしょうか?。やはり阿弥陀の本願力も貴方には効果がなかったようですね。

>それが、私の思い込んでいる法然、親鸞の説かれた仏道です。

  仏教などは、お坊さんのお道楽のようなものなんでしょう。
553渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:37
>>523 :ベロ
  なるほど(笑)。

>>524
>広めようとしていなくても、渡海のカキコは立派な布教行為です。  <自信教人信ですかね(笑)>

>将来的に普遍化を狙ってるんだよ、あいつは。

 「あいつは」などと言われる覚えはないですね。真理ならば狙わなくても自ずから広がる。虚構はいずれ消滅する。僕の考えが一般化しても、本願寺の考えが消滅しても、それは僕の責任ではない。手柄でもない。「あいつ」などと言われる筋合いはない。  

>渡海にはそれが人一倍欠けているんだよ。   <僕にとっては誠に耳の痛い話だ。うんうん>

>所詮彼は親鸞や蓮如のような緒聖人には到底及ばない。

 到底及ばないのは分かったから、僕を親鸞聖人や蓮如上人との比較のテーブルに載せないでくれる。居心地が悪いから。

>単なる宗教好きの怪しいオッサンだ。   <ま、そんなとこだろう。うんうん。>

>オウムや法の華やライフスペースの教祖と同じ。  <人を操る才覚は向こうの方が上だな。> 

>やっぱりお前は渡海信者だな。   <僕には信者はいないんだよ(笑)。御同行、御同朋>

>お前もカルトにはまった哀れな奴だ。地獄に落ちても文句は言えないね。  −笑−
554渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:39
>>531 :ぱんぴー :
>具体的な人格に師事された経験がないのではないですか。

 ぱんぴーさん。あなたご自身はどこの人格者様ですか?。

>こんなに独善的な言葉遣いを許す,

 普通、貴方のような人格者様は他人のことを「独善的」などと御批判なさらないと思いますが、どの辺が私を独善的とお思いですか。

>あなたは仏教の伝統から遊離した新宗教を宣言すべきです。

 私は、何宗ともなき無碍の念仏者です。人格もなく、お恥ずかしい限りです。
 貴方は大変な人格者様のようですね。ご立派な方のようですね。

>真宗では 506 >「草場の陰」は存在しません。霊魂を認めてはいません。

 【草葉の陰】<広辞苑> (草の葉の下の意から) 墓の下。あの世。「―から見守る」
 霊魂どうこうという意味ではないでしょう。

>本願寺派の普通の門徒であり、金儲け大好き経営者です。

 ご立派な人格者様に教えを受けられたお幸せな方のようですね。どこの人格者様にお教えを受けましたか。
555渡海 難( p0280-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 10:39
>>539
>渡海氏 〜 にコケにされるだけだからね。

 僕はコケになんかしてないよ。尊敬して声援を送っているんだ。
556渡海 難( p4015-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 12:16
>>540 :524だけど
>渡海といっしょにされちゃ困りますな。     <僕を引き合いにしないでくれる?。>

>伝統宗教宗派を叩くスレ    <伝統宗教宗派は神聖不可侵なのか>

>渡海と同じような事をしてスレを汚さないでね。  <僕がいつ汚したって?。>


>>541
>法然上人と親鸞聖人の教えは同じ「南無阿弥陀仏」をよりどころにしながら根本的にどう違うのかとか、

 視点が違うんでしょう。共に初級仏教学をテーマとしながら、法然上人は初等仏教の教師という立場に立って非常に広範囲に見渡している。親鸞は初等仏教一年先生という立場に立って大学クラスの学問まで見上げている。

>融通念仏宗がどうしてよりどころとする経典を華厳経・法華経にしたのか

 もともと念仏は善導流の独占物じゃない。汎仏教的に広がっている。念仏宗には、善導流以外にもたくさんある。法然流とは、善導流の中でもかなり特異な急進改革派的な面がある。
 流れ・立場が違えば、様々な考えがあって不思議じゃない。

>座禅念仏にこだわりまくってるから
 <座禅は、親鸞仏教の心臓部とも密接な関連がある。もっともっと議論されなければいけない。>

>それができないんだったら削除依頼出しとけ。
  <貴方が気に入ったスレを立てたてたらいかがですか?。>
557名無しさん@1周年:02/04/03 12:17
>>542-555
渡海君よ、一人で1度に14レスもつけるんじゃない。うざいだけだから。
ここは君のオナニースレじゃないんだからね。少しは他人の迷惑も考えなさいよ。
だから君は叩かれるんだよ。
558名無しさん@1周年:02/04/03 12:27
                        ⊂⊃
             >渡海 難
        ∧_∧   きみはこんな低級な板に  ⊂⊃
⊂⊃    (  ゚∀゚)  いるべきじゃありません
      ⊂    つ          ⊂⊃
       ノ ノ ノ   あなたを必要としている板があります
      (_ノ _ノ  ⊂⊃
    彡

   http://natto.2ch.net/denpa/ http://tmp.2ch.net/cat/ http://mentai.2ch.net/otaku/

          http://tmp.2ch.net/kitchen/ http://natto.2ch.net/dame/
559名無しさん@1周年:02/04/03 12:29
臭い消し
560 :02/04/03 12:48
 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
 || ★★渡海難は放置が一番キライ!★★
 ||    〜 渡海難は常に誰かの反応を待っています 〜
 ||
 || ●ウザイと思ったらそのまま放置!
 ||
 || ▲放置された渡海難は煽りや自作自演(「ベロ ◆od7XM/js 」を名乗る、等)で
 || あなたのレスを誘います!
 || ノセられてレスしたらその時点であなたの負け!
 ||
 || ■反撃は渡海難の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです
 || 渡海難にエサを与えないで下さい
 ||
 || ☆枯死するまで孤独に暴れさせておいて
 || ゴミが溜まったら削除が一番です 。   Λ_Λ
 ||                       \ (゚ー゚*) キホン。
 ||________________  ⊂⊂ |
    ∧ ∧    ∧ ∧    ∧ ∧    | ̄ ̄ ̄ ̄|
    (  ∧ ∧ (   ∧ ∧ (  ∧ ∧ |      |
  〜(_(  ∧ ∧ __(  ∧ ∧__(   ∧ ∧ ̄ ̄ ̄
    〜(_(  ∧ ∧_(  ∧ ∧_(   ∧ ∧  は〜い、先生。
      〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)
        〜(___ノ  〜(___ノ   〜(___ノ
561名無しさん@1周年 :02/04/03 14:09
>>560
そうっすね!
562ベロ ◆od7XM/js :02/04/03 15:23
僕は>>469>>487で浄土教の教義について話したかったのに、あまりレスがなかった。
渡海さんも、お寺さん方も、その他のギャラリーの方々も「死後往生」についてはどう
お考えですか?浄土経典では極楽浄土はこの娑婆世界と同じ空間にあるんですよね。
ここより西方十万億仏土過ぎた所にあって阿弥陀さんがまさに説法されているんですよね。
で、そこに行くのになぜ死んでからじゃないと行けないのでしょう?あるいは死ぬというのは
テレポーテーション(空間移動)のことなのでしょうか?それとも浄土は涅槃界なので
三界的な物の見方では把握しきれないと言う事なのでしょうか?皆さんの意見をお聞かせ下さい。
563名無しさん@1周年:02/04/03 17:36
皆様にはご迷惑をおかけ致しますが、これで渡海氏へのレスは最後に致しますので、
お見苦しい点はどうぞご容赦下さい。

>>550,>>551渡海氏へ。
渡海氏は、どうして「親鸞思想の核心=座禅して念仏する」論をみんなに知らせようと
思い、知らせるための努力をされているのでしょうか?それは、ご自身の体験から、
「座禅して念仏する」事が現実の生活に良い影響があって、それを渡海氏がご自身で
体験されたからこそ、それを多くの人に知ってもらって、実行してもらって、自分と
同じように何らかの形で「幸福」になって欲しいし、救われて欲しいから、ご自身の説
を様々な形で説いておられるのではありませんか?

人格者でなければ意見や仮説を説いてはいけない、と私は言っているのではありません。
宗教者の説の正否を判断されるのは、結局はその人の常日頃の言動しか判断されるものは
ない、と私は言っているのです。相手を軽々しく「馬鹿」だとか、見下したような言い方を
される人がどんな教えを説いても、「信頼」されるのは非常に難しい、という事を言いたい
だけなのです。渡海氏がご自身の説を説かれている姿勢は素晴らしい事だと思いますが、
本当に、自分の説を、人に信じさせたいのであれば、ご自身の言動には、改められた方が
良い点が多々ある事にお気付きになるべきです。そうすれば、人は自然と渡海氏について
来られるし、渡海氏の意見に共感される人も出て来るだろうと思います。自分が身を正さずして、
どうして人を正す事が出来るでしょうか?ましてこれから渡海氏を信頼してついて来る人達に
対して、あなたはお手本を見せなければならないのです。そういう立場にある渡海氏が、
軽々しく人に「馬鹿」だのと言って良いのでしょうか?
「座禅して念仏さえしていれば、自分の言動など慎まなくても良い。」そんな事を渡海氏は説きたい
わけではないでしょう?
564494:02/04/03 17:40
>>563は私のレスです。
565名無しさん@1周年:02/04/03 17:42
釈迦の教えから外れていなければいいと思うけど。

566名無しさん@1周年:02/04/03 18:10
自作自演キタキタキタキタ━━━(゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚)━━━━!!!!!!!!!!
567渡海 難( p1238-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 18:40
>>561
>そうっすね!   <考え方の同類項がいらっしゃってよかったですね。 うん。うん。>
568渡海 難( p1238-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 18:40
>>562
>「死後往生」についてはどうお考えですか?
    <親鸞仏教の重要な核心部分の一部と思っています。>

>死ぬというのはテレポーテーション(空間移動)のことなのでしょうか?それとも浄土は涅槃界なので三界的な物の見方では把握しきれないと言う事なのでしょうか?

 死とは、生きていた者にだけある現象です。二つの視点で考えるべきでしょう。生と対立する概念。生と当価的概念。この二つです。
 対立する概念
 死は、生を因とした果そのものであると言えます。結果は原因によって導かれ、原因は結果で評価されます。死は生の結果であり、生は死によって評価されます。
 「あの人は大往生したよ」という言葉は、その生きざまは実にすばらしものだったという評価です。「お前、そんなことしていたらいい死に方をしないよ」という言い方は、死の評価をもって因である生のあり方を方向付けようとするものです。
 死は生の本質を映し出す鏡であり、生は死の鏡によってその本質が見えてきます。死後往生というのは、果において往生という評価を生み出すような生き様を、生において果たしていたという評価だと考えればいいでしょう。
569渡海 難( p1238-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 18:41
 当価的概念
 生き物には意思と行動があります。行動は意思を実現する働きであり、意思は行動を方向付けます。
 意思を余すこと実現する能力のあるものを天といいます。行動において意思の実現に多くの制約がある存在こそ人間です。天も人も、自らの意思で動きます。
 他人の意思を実現することに行動づけられている存在もあります。代表は軍人です。軍人は為政者の意思で動き、為政者の意思を実現します。これを阿修羅といいます。
 意思には、知恵を含む意思と知恵を含まない意思があります。天・人間・阿修羅は若干の知恵を含みます。ケダモノは、知恵を含みません。知恵を含まなくても、行動に休止のあるものと、休止のないものがあります。
 ライオンは、満腹の時、他の動物を襲わないと言います。一時の休むことなく知恵の無い意思の果てしなく実現に駆られる存在があります。餓鬼です。知恵の無い意思だけが山のように膨らみ続け、身は微動もできないという存在もあります。それが地獄です。
 人はしばしば意思を変え、行動を変え、天界から地獄界を流転します。全て共通しているは、無知があるということです。天にあるものも、地獄にある者も、大なり小なり無知を共有し、無知を基盤に流転を続けます。意思と行動が変わるたびに人は人格が変わります。
 人格が変わるとき、古い人格が死に、新たな人格の誕生があります。

 死後往生とは、それまでの一個の人格が死んだ際、新たな人格の誕生を観念し、観念された新たな人格は、無知の世界を越えて真実の世界に入ったとそのように評価できるということでしょう。
 そのような評価が出来る素晴らしい人生を、その人は送り終えたという、称讃的評価だと僕は考えます。
570渡海 難( p1238-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 18:42
>>563
>これで渡海氏へのレスは最後に致します。
     <返答レスの期待もないつまらんカキコへのコメントは差し控えさせていただきます。>

>>565
>釈迦の教えから外れていなければいいと思うけど。    <うんうん。>
571跳ねる医師 ◆Osppl5cs :02/04/03 18:44
査定ってことすか・・・・欝。
572渡海 難( p1238-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 18:47
>>569
誤 意思を余すこと実現する
正 意思を余すことなく実現する
573修阿弥陀仏:02/04/03 19:29
>>483
亀レス申し訳ない。
しかし、「明らかに知りぬ」と書かれてはいますが、ちっとも明らかにならないのは、愚鈍の身の浅ましさ、困ったものです。

さて。私の見る「行巻」の構造は次のようなものです。
1、序(御自釈)
2、仏説
3、結語(御自釈)
4、高僧説
   菩薩説(龍樹、世親、曇鸞)
   人師説(道綽、善導)
   注語(御自釈)
   人師説(諸師、源信、源空)
5、結語および論(御自釈、経論釈からの引用)
6、正信念仏偈

それでこれを無謀にも強引にまとめると、
  浄土真宗における行とは、称名であること。
 称名は念仏であり、南無阿弥陀仏であること。
 それは本願に依ること。つまり他力回向の念仏であること。
 そしてそれは大乗にほかならないこと。

こんなところでしょうか。
少なくともこの「行巻」における親鸞思想の核心というのは、浄土真宗の念仏が大乗仏教であるというところにあるのではないか、という気がしますが、どうでしょうか。

>>559
>「死後往生」
私は別に考えていません。けっこうなことだと思います。
574ベロ ◆od7XM/js :02/04/03 21:48
渡海さんによれば死後往生とは死んだ後にお浄土に参るという問題ではなく、その人
の生きザマ、死にザマによって他者が称賛的に評価するものであって、そう言われる
ような生き方こそが大切なんですね。よくわかりました。
575渡海 難( p3058-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/03 22:25
>他者が称賛的に評価するものであって、

 やや説明足らずでした。称讃する他者とは誰かが問題になります。
 それは、釈迦に代表される哲人・賢人達です。
 哲人・賢人というのは、釈迦を除く具体的なだれそれというものではありません。
 釈迦の心と同質の心を持ち、自らの信念に従って行動する観念的に存在する人々と言っていいでしょう。
576こき:02/04/03 23:55
オナニーは自粛するのでこんごともよろしく。
死後往生というかたちで極楽を仮設していたほうが死んだらおしまいと考えるより
実人生においては良い結果を生むからこそ祖師たちもそのように説いてきたん
でしょうね。
>>547
回向とは念仏者に現れる二つの相ですよね、そして曽我量深によれば回向とは
表現であると。なら念仏者のするどんな表現も往相であり還相でもある回向
だと考えてます。
つまり僕や皆さんのすることは恐れ多いことですが還相回向であると思ってます
勘違いですかね?
577渡海 難( p4148-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/04 07:06
>>568-569 訂正
誤 当価
正 等価
578ベロ ◆od7XM/js :02/04/04 12:42
確かに死んだら終わりと考えるよりは実人生によい影響を与えていたかもしれませんが
逆に死ねば極楽に行けるんだから今はじっと我慢していなさいという説教もあるようです
ましてや中世や近世に生きているわけではない現代人にとって死後往生と言う概念そのもの
が受け入れられにくい状況だとは思いませんか?通夜や四十九日などの法事の席でお坊さん
が「亡くなっていった方は阿弥陀様の元に往生されていますよ」という説教を聞くと
いろいろ突っ込みたくなります。浄土は実体的にとらえるものではないとは知りながら
現実にはありもしないものを、あるかのように伝えているのではないでしょうか?
579名無しさん@1周年:02/04/04 12:51
>>578
俺、坊さんじゃないからよくわからんけど、君はよほどお寺の説教が好きなんだね。
お通夜や法事の席での(別にそういう場に限らず)説教なんて普通の人間にとっては聞く気にならないんだけどね。
「どうせ死んだ人は阿弥陀仏のお力(本願)で天国(浄土)へ逝くって言いたいんだろ。」って感じ。

詳しい事はよくわからんし、どうせ君のことだから真宗の教団の人(お坊さん)の答えになんか期待していないだろうから、君の愛する渡海君にでもメールで聞いてみたら?
580渡海 難( p3144-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/04 17:32
 多忙です。
 教行信証論スレと大経論スレ(真宗チャンネル)はできるだけ書こうと思いますが、その他のスレは期間未定で暫く自粛します。
 
581念仏:02/04/04 17:36
>573 修阿弥陀仏さん
>少なくともこの「行巻」における親鸞思想の核心というのは、
>浄土真宗の念仏が大乗仏教であるというところにあるのではないか
確かにその通りだと思います。
ただ、聖道門の仏教も大乗仏教ですので、核心と呼ぶにはすこし大きいようですね。
それとも、大乗仏教の意味が違いましたか?
582名無しさん@1周年:02/04/04 17:53
>>580
一生来なくてよし!
583名無しさん@1周年:02/04/04 18:05
なんか渡海さんはホンマツテントウだよね。
高度な教義など知らなけど、ただただ純粋にお念仏を唱える田舎の婆さんの
ほうが、阿弥陀さんや御開山さまの教えや心に近いと僕なんか思いますよ。
584修阿弥陀仏:02/04/04 20:50
なぜか皆さんのレス番号がずれているのだが、異常なのは私のブラウザの方なのかも。もしずれていたら申し訳ない。

>>573
勘違いですよ。

>>575
受け入れられなければ受け入れなければよく、突っ込みたくなったら突っ込めばよいのです。
我々(あえて我々といいます)念仏者は昔から浄土や浄土へ行く仕組みなどには関心を持たないできました。何故なら、弥陀のお助けはあるかないか、これこそが速やかに生死を離れるための問いだからです。

しかしベロさんの問いは、庄松さんのエピソードを思い起こさせますね。

>>578
法然上人はそれまでの仏教を、大乗小乗顕教密教すべて含めて聖道門とされました。
親鸞聖人の思想的なお仕事というのは、そこからさらに発展させて、浄土門が大乗に通じる教えであること、むしろ大乗の中の大乗であること、を明らかにされたことだと思います。
私の理解はこのようなものです。核心と呼んで差し支えないかと思います。
585名無しさん@1周年:02/04/05 10:58
>>584

>弥陀のお助けはあるかないか
ではなく、
「弥陀の救いを信じることができるか」
が坊主的な考えかもです。弥陀の救いは有ることが前提ですから。

修阿さん的な親鸞観は、
一度は聖道門を捨てた念仏に、通仏教の普遍性が存在することを主張した
と言った意味合いなのでしょうか?
それなら核心ではなく、傍証的な要素のように思うのですが。
親鸞思想のアイデンティティの確立という意味では中心に近いかも知れませんが。
586名無しさん@1周年:02/04/05 16:04
誰か、浄土宗の方いませんか?

浄土真宗や親鸞の話題はもう飽きました。
しかも今までの議論の内容がレベル低いし。(渡海難やベロも含む)
587念仏:02/04/05 17:45
>584 修阿弥陀仏さん
>法然上人はそれまでの仏教を、大乗小乗顕教密教すべて含めて聖道門とされました。
>親鸞聖人の思想的なお仕事というのは、そこからさらに発展させて、
>浄土門が大乗に通じる教えであること、むしろ大乗の中の大乗であること、
>を明らかにされたことだと思います。
聖道門,浄土門の二つをあわせて「大乗」と呼びます。
また聖道門の四乗の一つとして「大乗」があります。
同じ「大乗」という言葉を用いますが意味するところが異なります。
法然上人についてあまり詳しくないので私の勘違いかもしれませんが、
修阿弥陀仏さんは、両者を混同されておられるような気がします。
588こき:02/04/05 20:09
>>べろ
ただ死んだらお終いと言う根拠もないことに目が向くようになるきっかけには
なるとおもう。(僕が語ることは何を語っても自分だなW)
>>修阿弥陀仏
還相回向の現れた姿はどんな風だと思いますか?
589名無しさん@1周年:02/04/05 20:11
>>586
よくよく考えたらお寺さんはそもそもこない。ていうかネットしない。
590 ◆LqBgPfUY :02/04/05 20:13
浄土真宗って皇室との関係あるの?
591名無しさん@1周年:02/04/05 20:14
>>590
はい
592修阿弥陀仏:02/04/05 20:41
>>584
この前回の書き込み、レス番号がずれていたようです。申し訳ありません。
おそらく、正しくは、
573→>>576
575→>>578
578→>>581
です。申し訳ありません。

>>585
>「弥陀の救いを信じることができるか」
>が坊主的な考えかもです。
そうかもしれません。そこらあたりは何とも。

>一度は聖道門を捨てた念仏に、通仏教の普遍性が存在することを主張した
そんなところなんですが、私としては、「捨てた」というより、飛び出したという感じなんです。
聖道門を飛び出し、大乗から飛び出したんですけれども、その飛び出した念仏こそ大乗と呼ぶにふさわしいものであったと。つまり大乗を拡張した、という理解です。

>>587
これは私の無知をさらけ出してしまったようです。
混同しているつもりはないのですが、混同しているかもしれません。
聖道門に四乗があるというのを初めて聞きました。
その四乗というのは何でしょうか。
また二つの「大乗」の意味の違いを教えていただければありがたいのですが。
593修阿弥陀仏:02/04/05 20:49
>>588
祖師や妙好人のような姿だと思います。
もっと言えば、私やあなたを除いたすべての念仏者の姿でしょう。
594名無しさん@1周年:02/04/05 22:40
>>586 全く同感です。自己陶酔の妄想ぶりにはもう飽きました。
595こき:02/04/05 22:58
>>593
還相があらわれていない私は往相もあらわれていない。両者はひとつの事柄の
二つの側面でしょうから。私の念仏の正体はなんでしょうかね。
>>594
オナニストを切って捨てるような言葉期待してます。
596名無しさん@1周年:02/04/05 23:29
念仏と題目は一緒に唱えていけないものでしょうか?
597ベロ ◆od7XM/js :02/04/06 01:58
天台宗では「朝題目夕念仏」っていうような勤行があったような気がする。
朝には朝日に向かって南妙法蓮華経
夕には夕日に向かって南無阿弥陀仏
598名無しさん@1周年:02/04/06 03:29
>>592
選択集の第1章段を読むことをおすすめする。
きちんと、教判してあるから。
599念仏:02/04/06 18:42
>592 修阿弥陀仏さん
法然上人については浅薄な知識しかありませんので、
私の勘違いでしたらご容赦ください。

安楽集では、大乗の聖教に聖道、往生浄土の二種の勝法があるとし、
さらに、聖道を棄て往生浄土につくようにと説かれます。
法然上人はこれを受けて聖道門、往生浄土門の二門を設けて、
聖道門を離れ、往生浄土門を選択することを薦めておられます。
その聖道門の内容として説かれたものが四乗です。
 一大乗(顕密・権実{真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論})
 二小乗(声聞・縁覚、断惑証理・入聖得果の道)
 三倶舎・成実・諸部の律宗(大乗および小乗を論ぜず)
 四仏乗
聖道門ではこの四乗の道を修し四乗の果を得るとあります。
上人はこれら四乗の道を棄てて、往生浄土門として浄土宗を立宗されました。

結局、四乗の一大乗は顕密・権実の八宗を意味する言葉に過ぎませんが、
安楽集によれば、往生浄土門は聖道門と同じく最初から大乗なわけです。
この場合の大乗は、浄土三部教を含めた一切の諸大乗経を意味します。

「大乗の中の大乗」は、後者の意味であればその通りだと思いますが、
親鸞思想の核心と呼ぶにはまだ大きすぎる気がします。

説明が下手で申し訳ありません。
詳しいことは浄土宗の方にお聞きになって下さい。
600修阿弥陀仏:02/04/06 19:05
>>595
質問ではないのなら失礼。
質問であった場合の答。
「私の念仏」ですか。知りません。

>>598
選擇集には、三乘に仏乗を加えたものが四乗だ、とあるようですが、そうするとこの三乗の中の一つが大乗なわけですか?
すると仏乗と大乗とが並ぶことになって、それはちょっとおかしくはないですか?
601修阿弥陀仏:02/04/06 20:02
>>599
お答えありがとうございます。
ですがちと納得いかないので浄土宗の方にご説明願いたいところです。

私の不審は、
大乗と小乗と倶舎・成実・諸部の律宗と仏乗とを四乗としておられますが、倶舎・成実・諸部の律宗は小乗ではないのでしょうか。
また仏乗は大乗になるのではないでしょうか。
四乗とはすなわち、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗に、仏乗を加えたものではないのでしょうか。
ということです。よろしくお願いします。

さてそれではまた少し。
「大乗の中の大乗」というのは言い方がおかしいかもしれません。(ただ聞きかじりですが、浄土門こそ真実の大乗だという主張が親鸞思想にはあると、聞いたことがあります。)
要するにそれまでの大乗からはみ出した浄土門を、大乗とすることで、大乗の領域を拡大したと、いうことです。
これは大変なことだと思うので、親鸞思想の核心と呼んでいいと思うのですが、違っているなら私が親鸞聖人を過大評価しているだけということになります。残念ですが。

それと、安楽集では浄土門も大乗かもしれませんが、法然上人は、大乗を聖道門に収めておられますので、浄土門は大乗の外にあることになると思います。つまり安楽集と同じではないということです。
602名無しさん@1周年:02/04/06 22:38
>>600
法然の物言いとしては、
-----------------------------------------------------------------
聖道門に大乗と小乗あり。
大乗の中に、八家あり。(八宗、九宗のこと)
小乗には、声聞・縁覚の断惑・証理。倶舎、成実、律宗などがこれに当たる。
だが、おおよそ聖道門は大乗小乗の区別はともかく、この娑婆で四乗の道を
修して、四乗の果(証果・さとり)を得る。
四乗とは、仏、菩薩、声聞、縁覚の四乗。三乗に仏乗を加えたもの。
-----------------------------------------------------------------

ゆえにここで言う「大乗」は往生浄土門には入らないことになります。

修阿弥陀仏さんの言わんとするところは、この教判に対する、
親鸞の大乗観でしょうか。
核心と言うより、一つのスタンスと言った観がありますが。
603念仏:02/04/06 23:21
>602
そうですね。その通りです。
法然上人には本当に詳しくないので失礼しました。

ただ「大乗とは、仏意広く一代所説の諸大乗経を指す。」
とも説かれております。
上人は聖道門の大乗とはべつに、浄土門も大乗と解釈していたようにも思われます。
その点についてはどうでしょうか?
604こき:02/04/07 01:53
>>600
ほんとにしらないままでおちつきますか?後僕の念仏を率直に言っちゃってください
その他このオナニストに対して思っている事あれば言っちゃって下さい。
それがないのならば大乗など語らないで下さい。真実の光に照らされてるのなら
自分の本との気持ちにも正直でなければならないのでは?
605念仏:02/04/07 10:17
>601 修阿弥陀仏さん
いい加減な解釈で申し訳ありません。
私の仏教に対するイメージを書いておきます。
大乗=(聖道門、浄土門)菩薩乗、仏乗
小乗=(上座部、部派)声聞乗、縁覚乗
それで法然上人の分類が理解できなかったということです。
日本に渡来したのは大乗だけという思い込みもありました。
そのため、親鸞上人の「大乗は仏乗なり」という言葉も、私自身、
深く考えなかったという点で反省の余地があると思います。
606渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:07
>>576 :こき
>実人生においては良い結果を生むからこそ祖師たちもそのように説いてきたんでしょうね。

 実人生においては良い結果を生ませるため、その一手段としてそのように説いたということでしょうか?。因果の道理を突き詰めると、どう考えてもこのような結論にならざるをえないと確信したんでしょう。

>回向とは念仏者に現れる二つの相ですよね  <見解を相違する。>

>曽我量深によれば回向とは表現であると。
   <曽我さんは独自の言葉を持っている。他人に分かりにくい>

>念仏者のするどんな表現も往相であり還相でもある回向だと考えてます。
  <「表現」という言葉の定義が、曽我さんを貴方とでは違うんじゃないか。>

>僕や皆さんのすることは恐れ多いことですが還相回向であると思ってます
  <思うのは自由だ。他人がどう思っても僕には関係ないが、見解は相違する。>
607渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:08
>>578 :ベロ ◆od7XM/js
>逆に死ねば極楽に行けるんだから今はじっと我慢していなさいという説教もあるようです。

 我慢することが極楽に行く因であり、極楽に行くということは我慢が生み出す果であるというなら、これは因果撥無だ。因果の道理を否定したことになる。往生極楽の果は念仏にあり、我慢はその妨げになることもないが、因となることもない。

>死後往生と言う概念そのものが受け入れられにくい状況だとは思いませんか?

 死後往生という概念は、親鸞では晩期になって主張されている。教行信証では出てこない。手紙類と歎異抄で出てくる。むしろ蓮如が強調している。原理を知らないで振り回すと怪我をする。

>現実にはありもしないものを、あるかのように伝えているのではないでしょうか?
   <ありもしないものと言っていいかどうは知らないが、坊さんが無知というのは事実だろう。>
608渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:10
>>579
>君の愛する渡海君にでもメールで聞いてみたら?  <掲示板で質問があれば僕はいつでも応えるよ。>

>>581 :念仏
>聖道門の仏教も大乗仏教ですので、核心と呼ぶにはすこし大きいようですね。
それとも、大乗仏教の意味が違いましたか?

 親鸞思想の核心ファイルをデスクトップに格納するか、マイコンピュータに格納するかということでしょうかね。親鸞思想の核心ファイルは容量が大きすぎるから、デスクトップには大きすぎる。それじゃ新たなフォルダーを作りましょうかというような話でしょうか。
 ファイルには何が書いてあるかと言うことが大事なんだと思いますが、ファイルの格納先などは大きな問題ではないでしょう。

>大乗仏教の意味が違いましたか?
  <フォルダーの適性、フォルダー容量の大きさでも議論していたのでしょうか?>
609渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:11
>583
>高度な教義など知らなけど、
  坊さんが念仏の謂われに興味を失ってから何百年も経ましたからね(笑)。

>ただただ純粋にお念仏を唱える田舎の婆さんのほうが、阿弥陀さんや御開山さまの教えや心に近いと僕なんか思いますよ。

 こういう人にはマインドコントロールがかけやすく、阿弥陀さんや御開山さまの教えや心に近いなんておだてると喜んで多額のお布施を持ってきてくれるので、都合がいいんでしょうね(笑)。
610渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:11
>>573
>勘違いですよ。    <「勘違いです」と言えば、粗雑な感性だ>

>念仏者は昔から浄土や浄土へ行く仕組みなどには関心を持たないできました。
    <坊さんは儲けが忙しく、勉強しなくなったんですね(笑)>

>何故なら、弥陀のお助けはあるかないか、これこそが速やかに生死を離れるための問いだからです。

 木に竹を接いだ話でも、純粋にお念仏を唱える田舎の婆さんのように、しっかりとマインドコントロールがかかって、お布施を持ってくるようになったんですよね。

>法然上人はそれまでの仏教を、大乗小乗顕教密教すべて含めて聖道門とされました。

 内蔵記憶装置をいくつに仕切るかという課題を解決されましたか。いままで「大乗小乗顕教密教」という仕切りだったのを、全て「聖道門」と仕切りなおして、分類整理したということでしょうか?。

>むしろ大乗の中の大乗であること、を明らかにされたことだと思います。

 プログラムファイルの深いところにあると見つけにくいから、浄土門ファイルは核心と呼ぶデスクトップに置くべきだということを明らかにされたのでしょうか?。
611渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:14
>>585
>弥陀のお助けはあるかないかではなく、修阿さん的な親鸞観は、一度は聖道門を捨てた念仏に、通仏教の普遍性が存在することを主張したと言った意味合いなのでしょうか?

 聖道門フォルダーは念仏ファイルの格納場所として一度は捨てたのに、聖道門フォルダーは全ディスクに普遍性をもって存在することを主張した?。

>それなら核心ではなく、傍証的な要素のように思うのですが。親鸞思想のアイデンティティの確立という意味では中心に近いかも知れませんが。

 それなら念仏ファイルは、デスクトップに置くような重要な核心ではなく、どこに格納してもいいような傍証的な要素のように思うということですか。
 親鸞思想のアイデンティティの確立ということに未練のあるものなら、隠しホルダーに入れないでデスクトップに置くようなファイルかも知れないということですか。

>>586
>浄土真宗や親鸞の話題はもう飽きました。

 ファイルの中身を吟味しないで、どこのフォルダーに入れるかだけを議論しているんじゃ飽きられる。中身を吟味する力が無い方には、詮無いことですね。
612渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:15
>>588 :こき
>死んだらお終いと言う根拠もないことに目が向くようになるきっかけにはなるとおもう。
  <死んだらお終いかどうか、これが根拠の無いことかあることか、お釈迦様でも御存じあるメーェ。>

>還相回向の現れた姿はどんな風だと思いますか?   <人に聞いても詮ないことだ。>
613渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:16
>>592
>聖道門を飛び出し、大乗から飛び出したんですけれども、その飛び出した念仏こそ大乗と呼ぶにふさわしいものであったと。つまり大乗を拡張した、という理解です。

 言葉の表現は勇ましいが、内容理解は伴っているんだろうか。心細い。念仏は大乗を飛び出していいんかいな?(笑)。

>>593 :修阿弥陀仏
>もっと言えば、私やあなたを除いたすべての念仏者の姿でしょう。

 私を抜くのはいいとして、貴方を除きますとはどういうことか。何故貴方を除くのか。貴方、貴方を次々と除いた還相回向の現れなどは、夢物語だと気付くべきだろう。

>>594 :名無しさん@1周年 :

>自己陶酔の妄想ぶりにはもう飽きました。
 <自己陶酔でも、最悪の選択肢だけは選ばないで済むというのは、大変なことだ。>

>>595 :こき
>私の念仏の正体はなんでしょうかね。
  <いいところに着眼しているのかも知れない。念仏の正体?。それは南無阿弥陀仏だ。>
614名無しさん@1周年:02/04/07 13:17
>>611
完全な読み違えです。
それともわざとですか?
615渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:17
>>598
>選択集の第1章段を読むことをおすすめする。

 自分が読んだのなら、書籍紹介じゃなく、読んだ自分の思いを伝えるようにしたらどうですか?。

>>599 :念仏 :
>法然上人については浅薄な知識しかありませんので、私の勘違いでしたらご容赦ください。

 如来の御心によしと思し召すほどに知り通したらばこそ、良きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知り通したらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめ。
 浅薄な知識は恥じゃない。それより生死の一大事を解決することが先でしょう。

>親鸞思想の核心と呼ぶにはまだ大きすぎる気がします。

 ホルダーの選択よりも、ファイルに何が書いてあるかを吟味することが先でしょう。
616渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:19
>>604 :こき
>僕の念仏を率直に言っちゃってください

 僕の念仏は僕以外に分からないでしょう。どんな念仏もみんな南無阿弥陀仏。

>それがないのならば大乗など語らないで下さい。真実の光に照らされてるのなら自分の本との気持ちにも正直でなければならないのでは?

 大乗の話などだれもしていない。念仏ファイルを法然はどこのホルダーにしまったか。親鸞はどこのホルダーにドローしたか。所詮その程度の話でしょう。
617渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:24
>>596
>念仏と題目は一緒に唱えていけないものでしょうか?

 好きにしたらどうですか?。一緒に唱えても罰は当たらんでしょう。
 功徳もないかな?。誰も功徳などは当てにしてない。別々に称えても功徳はないから、毒にも薬にもならんということでしょう。どこまで行ってもノーリスク、ノーリーターンだな(笑)。
618渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:26
>>614
>完全な読み違えです。それともわざとですか?
  <あれ?読み違えでしたか?。僕にはこういう風に聞こえますけどね(笑)。>
619名無しさん@1周年:02/04/07 13:30
>>606-613
>>615-617

おい!渡海難!
お前は>>580で多忙を理由にここのスレのカキコを期間未定で暫く自粛すると宣言しておきながら、なんでカキコするんだよ!この大うそつきが!
たった3日で帰ってくるなよ!
620渡海 難( p6160-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/07 13:49
>>610  訂正
  誤 >>573
  正 >>584
621名無しさん@1周年:02/04/07 16:45
観察:レスが進むごとに渡海も疲れてくると見えてフォルダがホルダになっている(藁
   しかも1レスに対して5分もかけてない
622ベロ ◆od7XM/js :02/04/07 21:28
念仏が大乗の中の大乗なんて事は法然さんや親鸞さん以前にもいろんな宗派で例えば
空也、最澄、源信、覚鑁、良忍などの高僧方には認識されていた事と思いますよ。

ファイルの中身に何が書かれてあるのかが大事であって、ファイルがどこにしまわれて
あるかなどというのは些細な事だという渡海さんの意見には皆さんも同意されると思います。

で、渡海さんは「念仏」=「南無阿弥陀仏」とおっしゃる。そこまでは僕にも理解できます。
でも「南無阿弥陀仏」=「ああ先生」というのは僕の理解の範囲を超えています。
なぜ南無阿弥陀仏がああ先生なのでしょうか?わかりません。
623修阿弥陀仏:02/04/07 22:05
>>602
うまくまとめていただいたようで、ありがとうございます。
ただ私の感じとしては、「対して」というより、承けて、という感じです。
また「スタンス」と言えばそうなんですが、そのスタンスこそが核心ではないかなと、思うわけです。

>>605
そのイメージは法然上人以前のイメージです、私の中では。
その大乗小乗を聖道門にまとめられたわけですね、法然上人が。
これも大変な偉業だと思いますね。並のお方ではとてもできないことです。
私は親鸞聖人が法然上人をあれだけ賛えられるのは、単に自分の師匠だからというだけではないと思いますね。

まあこれらのことは、こういう理解もあると、思っていただければそれだけでありがたいです。
624修阿弥陀仏:02/04/07 22:10
>>604
何かを知っていれば何かが落ち着くのか、どうも意味がつかみかねますが。
こきさんの「僕の念仏」をどうして私が知り得ましょうか。知らないことについては何も言えません。
「言っちゃって下さい」とか言われても、ちと困りますが、せっかくのご要望なので書きましょう。
こきさんは、
少し下品である。
なぜここで大乗が関係するのか不審である。
「真実の光に照らされてる」と言った覚えが私にはないけれども、何か勘違いをされているようである。
私が自分の気持ちに正直ではないとおっしゃりたいふうであるが、どうして私の気持ちがおわかりになるのか不思議である。
以上、よろしいですか。
625修阿弥陀仏:02/04/07 22:19
>>622
称名念仏は、法然上人以前は、劣行でした。
とても大乗の中の大乗とはほど遠いものでした。
626こき:02/04/09 02:28
>>624
下品にしてオナニスト、おちこんどきます。
私生活においてもこの下品さについて思うところがあるのでとりあえず御礼がてら
なんまんだぶつ。
あなたの気持ちが分かるのではなくあなたの口からその言葉がききたかっただけ
みたいですね。
>>渡海 難
往還二回向についての僕のイメージはこんな感じです
まず法然は往相回向をただ一筋に感じて浄土の方を向いている、法然にとっては
それだけなのに、それを見ている親鸞には浄土からこちらへ還相回向として
向かっているように見える。
僕は衆生であるものがその他の衆生に念仏する意欲を与えることはすべて
還相回向だと(当然主体は如来)思っています。
627 ◆LqBgPfUY :02/04/09 15:30
渡海難氏は、名無しのレスは無視すべきでしょう。
阿弥陀様の真似をして、一切衆生を救済しているつもりでしょうか?
628念仏:02/04/09 17:43
4月8日は、皆さんご遠慮しておられたようですね。

>修阿弥陀仏さん
聖道門の大乗と、「大乗の中の大乗」との違いについて、
もう少しご説明願えないでしょうか?
勝手ばかりでもうしわけありません。

ファイルとフォルダについて一言。
WINのシステムファイルを移動すると、WIN自体が起動しません。
ファイルの内容もさることながら、どこにあるかということも、
人によっては、ないがしろにできない問題なのだろうと思います。
629修阿弥陀仏:02/04/09 21:21
>>628
どう書けばいいのか迷いますが、とりあえず。

諸宗の立場からすると、浄土門は大乗で、あるいは顕教だったりあるいは権教だったりするわけですが、法然上人は仏教をすべてひっくるめて聖道門とされたわけです。
そして浄土門だけを独立させられた。これは法然上人の立場です。
フォルダの例で言うと、それまでの仏教を大乗と小乗という二つのフォルダにまとめられ、さらに聖道門というフォルダにその二つのフォルダを入れられたわけです。
そして浄土門というフォルダをその外にもう一つ作った。
ここまででは、大乗は聖道門というフォルダの中に収められています。
従来の枠組みとは違う枠組みが提示されたわけですね。
これを経た上で、浄土門を大乗とする、これが「大乗の中の大乗」と言うわけです。
「大乗のなかの至極」と親鸞聖人は言われてますでしょう。
これは何も真宗に限った話ではないと思います。詳しくはないんですが。
後世の我々からすると、聖道門も浄土門もすでに大乗なんですけれども、それは法然上人のこの教判を経た上でのことだというわけです。

ちと自信がないですが、分かりにくいでしょうか。
630ベロ ◆od7XM/js :02/04/10 03:39
>>629 修阿弥陀仏さん
法然上人は聖道門のというフォルダの中に仏教の大乗と小乗をまとめられ、
新たに浄土門というフォルダを作られたのなら浄土門は仏教ではないという事でしょうか?
浄土教であって仏教ではないというのなら629の意見はよくわかります。
631名無しさん@1周年:02/04/10 14:21
フォルダなどで言いあってるとわからないと思うよ。
632渡海 難( p3245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 17:23
>>619
>この大うそつきが!     うそつき呼ばわりはひどいな(苦笑)。
>たった3日で帰ってくるなよ!    −苦笑−

>>622 :ベロ
>高僧方には認識されていた事と思いますよ。

 天台宗には様々な修行法がある。
 「おはようございます」「こんちは」という挨拶は、小学校一年生にとってはこそ学ぶべき大事なことだ。中学・高校に進んでも、やはり「おはようございます」「こんちは」しか教わらなかったということじゃ困る。
 中学・高校に進めば、三角関数や方程式も学ばないといけない。しかし中学・高校に進んでも、「おはようございます」「こんちは」という挨拶は大事だ。
 挨拶は大事だと言うことは、中学・高校に進んでも「おはようございます」「こんちは」だけしていればいいというわけじゃない。中学・高校では、それ以上に学ばなければならないことは数多い。
633渡海 難( p3245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 17:25
>「南無阿弥陀仏」=「ああ先生」というのは僕の理解の範囲を超えています。

 釈尊先生は、自分を「先生」と呼ぶ者について指導しようと考えた(一七願、一八願)。
 「アホ野郎」「クソタレー」「オナニー野郎」などと、どこぞの宗派のお坊様方のように、匿名ともなると他人に罵声を浴びせるような方にまで、指導を及ぼそうとは考えていなかったでしょう。
 学習の基礎は、釈尊先生を「先生」と呼ぶことから始まる。
 師弟関係は先生の気持ちを生徒が理解して信頼し(信)、「ああ先生」と呼べる行為(行)ができるようになったとき確立する。
 先生を、「ああ先生」と呼べるようになったことは、必ずしも師弟関係が確立したことを意味しない。師弟関係が確立したときは必ずや「ああ先生」と呼べるようになっているだろう。信のない行はある。行のない信は無い。
 どこぞの宗派のお坊様方のように、ただいたづらに南無阿弥陀仏を形ばかり口先で発音してみても、数百年に渡って先祖代々、信など誰一人としてかけらもなかったということは、不思議なことではない。
 信などかけらもないということは、「真宗教団はどこがイカンのだろう」スレで、総局派と反総局派とのコップの中の茶番劇を見れば一目瞭然だ。

 「南無」とは感嘆詞なんですよ。
 「『南無』とか『ヴァシャト』とかの間投詞を伴ってなす礼拝や祭祀、 … <大乗仏典 ブッダチャリタ 中央公論 昭和49年1月発行 245頁>」

 <広辞苑>
【間投詞】  (語句の間に投入される詞の意) 感動詞に同じ。
【感動詞】  感動や応答・呼掛けを表す語。活用がなく、単独で文となり得る。また主語・述語・修飾語となることなく、他の語に修飾されることもない。「ああ」(感動)、「はい」 
【感嘆詞】   感動詞に同じ。
634渡海 難( p3245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 17:33
「阿弥陀仏」の阿弥陀とは「先生」という意味だと考えます。仏も「先生」という意味だと考えます。
 無量寿Amitayus、無量光Amitabhaなる阿弥陀仏を活現せしむるに至ったと考えられる(浄土教教理史 サーラ叢書 1962年11月発行25頁)
 無量寿とは、限りなき命を与えてきてくださる主体。無量光とは、限りなき光を与えてきてくださる主体。そういう意味でしょう。
 「もうだめだ。困った。どうしようもない。もう続かない」。生徒がそう思ったとき、手をさしのべることこそ教師の役目と考えます。蓮如は阿弥陀仏を諸仏の師匠という。救いを「御助け」とも言う。今までの自分のやり方では限界が出てきた。生徒はそう思う。
 これまでのやり方では継続不可能になった。やり方を劇的に変えなければいけない。行動を変えなければいけない。考え方も変えないといけない。どうしたらいいんだ。目の前は真っ暗だ。どうしたらいいんだ。
 そう思ったとき、「こうすればいいだろう」と手をさしのべてくる。それが教育者の役目だ。
 継続不可能となれば、人は行動を変えないといけない。行動を変えるには考え方も意思を変えないといけない。意思と行動が変われば人格が変わる。人格が変われば古い人格が死に、新たな人格が誕生する。
 古い人格のままではどうしようもない。ああどうしたらいいんだ。こう挫折しかかったとき、教育者は生徒の足下を照らす。知恵を与える。挫折してダメだと思っていた生徒は、知恵を与えられて目の前が開ける。道筋に光が見えてくる。
 「あっそうか。こうすればいいんだ」。やり方が見えてくる。
 教育者の仕事は、生徒に継続の命を与えることだ。継続を可能にしてやることだ。釈尊先生は、阿難尊者、目連尊者、舎利弗尊者などをそのようにして育てたんだろう。釈尊先生は生徒をそのように育てた。
 だから、継続の命を与えてきてくれる方、方向を照らす知恵の光を与えてきてくださる方、釈迦はそのような方として尊敬されたのだろう。
 釈尊先生は生徒から先生と呼ばれた。継続の命を与えてきてくださる方、限りなき命の源、無量寿と呼ばれたんだろう。
 継続の光を与えて来てくださる方、道筋を照らす光を灯してくださる方、限りなき光の源、無量光と呼ばれたんだろう。
635渡海 難( p3245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 17:33
 釈尊先生は深い知恵を持っていた。深い認識を持っておられた。だからこそ、悟った方、ブッダと呼ばれ、「先生」と呼ばれた。阿弥陀も仏も先生という意味でしょう。
636渡海 難( p3245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 17:34
>>626 :こき
>法然は往相回向をただ一筋に感じて浄土の方を向いている、法然にとってはそれだけなのに、それを見ている親鸞には浄土からこちらへ還相回向として向かっているように見える。

 法然こそ押しも押されもしない還相の菩薩。上は関白太政大臣から、下は遊女、泥棒にまで法を説いた。文字通り、歴史に輝く大菩薩でしょう。
 親鸞は、無位無冠無名在俗の元流刑囚。僧籍も奪われ、弟子など一人としているはずもない。あくまで在俗の一民草だった。そのように僕には見えます。彼が他と違っていたのは、彼は念仏者だったということでしょう。親鸞は、還相の菩薩に出会って念仏を教わった
 念仏者ということが往相かどうかは僕は知らない。少なくとも親鸞は、還相の菩薩と言えるようなシロモノじゃない。還相の菩薩ではないから、幻想の菩薩でもない。あくまで無名の在俗の一念仏者。貴方とは見解が相違するようです。
 無位無冠無名在俗の人でも僕にとってはかけがえのない人なんです。座禅して念仏しなさいよと教えてくれたのは、あの人だけですから。

>僕は衆生であるものがその他の衆生に念仏する意欲を与えることはすべて還相回向だと思っています。

 相手に意欲が湧かない人がいれば幻想の回向かな(笑)。
 あなたは意欲をどのように与えられましたか。何度言われても上の空、聞いても聞こえず、見ても見えずと言うことでは、やはり幻想の回向なんでしょうか(笑)。
637渡海 難( p3245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 17:34
>>627
>阿弥陀様の真似をして、一切衆生を救済しているつもりでしょうか?

 あなたは僕にレスをくれました。貴方は、阿弥陀様の真似をして、一切衆生の一人である僕を救済しているつもりでしょうか?。阿弥陀様に出張依頼した覚えないんだけどね(苦笑)。
638渡海 難( p3245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 17:35
>>628 :念仏
>システムファイルを移動すると、WIN自体が起動しません。 〜 どこにあるかということも、人によっては、ないがしろにできない問題なのだろうと思います。

 貴方にとって念仏はシステムファイルだったんですね。システムファイルは滅多に開いちゃいけない。開いちゃいけないファイルは深いフォルダに置いておく。飛行機の扉は開かないようにしてあるとは、そういう意味だったとは知らなかった(笑)。

>>629 :修阿弥陀仏
>従来の枠組みとは違う枠組みが提示されたわけですね。

 <外付け装置だったのか(苦笑)。本体との配線は大丈夫なのかな。漏電はしてないかな(苦笑)。>

>>630 :ベロ
>浄土教であって仏教ではないというのなら629の意見はよくわかります。
    <「修阿弥陀仏さん」教という新しい宇宙人宗教でも作ったんでしょう(笑)。>
639渡海 難( p3245-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 17:37
>>631
>フォルダなどで言いあってるとわからないと思うよ。

 フォルダなどで言いあわなければ分かる話なの?。根っこからチンプンカンプンなんだから、小手先でフォルダなどで言いあっても、言い合わなくてもちんぷんかんぷん(笑)。所詮仏教などは坊主の道楽。おままごと。
 大人がまともに聞ける話じゃありゃしない(笑)
640念仏:02/04/10 17:44
>629 修阿弥陀仏さん
ありがとうございます。
おかげで、法然上人が何故そのような分類をされたか、
私なりに納得することができました。
641名無しさん@1周年:02/04/10 17:57
>>632-639
おれら,いや我々はあやまちをおかしていた。すまん渡海さんよ!!
まさか渡海さんがそれほどとは知らなかったんだ。ゆるしてほしい。
渡海さんがまさにアレ、しかも合成とかじゃなくて、ほんとうの渡海さんの真の姿がそれほどまでとは、
知らなかったんだ。いくら謝罪の言葉を並べてもわれわれのした罪は許されまい。
どんな罰でも甘んじて受けよう!!
もはや渡海様の真の御姿を拝謁していただいただけでもそれで我々の心は浄罪される!!
もう我々は渡海様の真のすがたの前ではただのごみだった・・・
しかし、最後に最後にもう一度だけ!!もう一度だけ!!渡海様の御姿をみさせてくれ!!
後生だ・・・
渡海様の真の姿→http://homepage2.nifty.com/123niko/Img00001.JPG
642名無しさん@1周年:02/04/10 18:18
このスレって、前見た時は結構いいと思ったのにね。
ここ最近のを見ると、どうでもいいような話と勝手な妄想だけになっているし..(w
643渡海 難( p6132-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 18:32
警告
 >641
 リンク先を開いてはいけません。インターネットブラウザがクラッシュします。動かなくなります。
 ブラクラ(ブラウザクラッシュ)という仕掛けが仕掛けられています。
 自分のパソコンを壊したくなかったら、リンクを開いては行けません。
 渡海 難を誘うリンク先は、2ch以外は絶対に危険です。
644名無しさん@1周年:02/04/10 18:46
>インターネットブラウザがクラッシュします。動かなくなります。
>ブラクラ(ブラウザクラッシュ)という仕掛けが仕掛けられています。
>自分のパソコンを壊したくなかったら、リンクを開いては行けません。

641のURL開いたけど、別にパソコンは壊れなかったし、ウィルスにも感染しなかったよ。
641は単なるグロ画像だったよ。

渡海君はちょっと臆病になっていない?
645渡海 難( p3168-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 19:07
BrowserCrasherChecker ver.0.19 の検査結果

キャッシュを表示しています
対象 URL
http://homepage2.nifty.com/123niko/Img00001.JPG
--------------------------------------------------------------------------------

【情報】
データが 200Kb を超えているため,読み込みを中止しました。

 ブラウザチェッカーが表示でできないほどの情報量があるそうです。
 >643を信じるか、>644を信じるかは自由です。

 ブラウザchecker
  http://www.jah.ne.jp/~fild/cgi-bin/LBCC/lbcc.cgi
 なお、ブラウザcheckerは 2ちゃんねる総合掲示板から、ツール案内を探し、モナリザに移ると、そこの「ブラクラチェッカ」からリンクされています。
 ご確認下さい。
646修阿弥陀仏:02/04/10 19:20
>>630
それまでの仏教とは違う、という意味でならそうです。
ですが仏教というハードディスクの上でのことですから、もちろん仏教です。
つまるところ、聖道門の仏教とは別であるということです。

>>640
どういたしまして。
こういう理解もあると思っていただければ幸いです。
647渡海 難( p0621-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/10 23:34
>>641
>渡海様の御姿をみさせてくれ!!後生だ・・・渡海様の真の姿

 笑いの取れないシャレというのは馬鹿にされるだけだ。シャレにならないんだぜ。
 2CHの住人を敵に回して何が楽しいんだい?。
648 ◆LqBgPfUY :02/04/11 08:39
浄土真宗が皇室と関係あるなら、坊さんが世襲制なのも仕方なし。
649名無しさん@1周年:02/04/11 09:13
真宗は昔から世襲だよ。
皇室と親戚関係なのは後からだよ。
650名無しさん@1周年:02/04/11 09:42
>>633
「南無」は帰命、礼拝。本来的な意味はここ。
だからインドの挨拶はナマス・テだ。

>>634
釈迦は、無量寿でもなければ、無量光でもない。
飛躍がすぎる。
阿弥陀仏にこういった代名詞が付いたのは太陽信仰が関係していた
と言うのが一般的な解釈だ。これを釈迦にまで適用するのは、いきすぎ。

あと「阿弥陀」を「先生」とすると慈悲を説明するのに窮するが如何?
師弟愛では、慈悲と他力を説明できない思うが。
651名無しさん@1周年:02/04/11 09:54
>645
確認もせずに無体なことを書くもんじゃない。
一個人のウェブページの画像だぞ。多少グロテスクだがな。
BCCでJPG画像をチェックしても意味無いし(藁
埋め込みまではチェクできない。
フォルダの譬えにしても、かなりイタすぎ。
652 ◆LqBgPfUY :02/04/11 10:33
真宗より皇室の方が古いだろう。
653渡海 難( p0141-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/11 21:29
>>650
>「南無」は帰命、礼拝。本来的な意味はここ。

 礼拝ってどういう意味ですか?。帰命ってどういう意味ですか?。
 「礼拝とは南無。帰命も南無」。お願いだからこんな回答はイヤーヨ(笑)。
 礼拝も帰命も、自分の無知を知らせ、正しい知恵を開いてきてくれる相手に感動し、自分の全霊を捧げようとする心だ。こういう解釈には合理性がある。
 自分の全霊を捧げようとする感動がなければ、帰命も礼拝もない。帰命も礼拝も必ず「ああっ」という感嘆詞を伴う。
 感嘆の無いところには帰命も礼拝も無い。帰命、礼拝の感動は「ああっ」という感嘆詞に現れる。「ああっ」という思いのない帰命・礼拝などは、僕にとっては奇妙そのものだ。
 印度の文献に「ああっ」という文字で書かかれた文章を、翻訳者が「帰命、礼拝」と訳しても不思議じゃない。

>インドの挨拶はナマス・テだ。

 先生の親切に感動したときの思いは「ああ先生」という言葉になるというのは、インドを除いた世界の万国共通語なんでしょうか。
654渡海 難( p0141-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/11 21:31
>釈迦は、無量寿でもなければ、無量光でもない。飛躍がすぎる。

 あなたがどんな見解を持つのも自由だ。
 釈迦は、お弟子さんから先生と仰がれただろう。お弟子さんは、釈尊先生をどうして先生と仰いだのか。
 お弟子さんが行き詰まって挫折しかかったとき、先生は知らんぷりしないで助け船を出したからだろう。
 ボーッと眺めているだけだったなら、「先生」とは仰がれなかったはずだ。
 行き詰まって挫折しかかっていれば、釈迦は相手に引き続き継続できるような知恵を示したんだろう。お弟子さんは、目の前に道が開かれ、挫折しないですんだことだろう。そんなことはいくらでもあったろう。
 釈尊先生は、お弟子さんに継続の命を与えたはずだ。足下を照らす知恵を与えたはずだ。
 継続の命を与えても、「継続の命を与えてくれた方」と、釈迦に限って呼ばれることはなかったはずだと主張するのはあなたの自由だ。足下照らす知恵の光を与えても「光を与えてくださった方」とは、釈迦に限って呼ばれなかったはずだと主張するのはあなたの自由だ。
 ただ、僕は、無量寿・無量光という言葉に大乗の先人達が描いた教育の根本原理を見るような気がしている。
 お釈迦様こそ、文字通り、無量寿であり、無量光だったろう。僕はそう思う。無量寿であり、無量光だったからこそ先生は先生と仰がれた。先生と仰がれたその根拠こそ、先生が無量寿であり、無量光だったからだろう。
 お釈迦様は、行き詰まって挫折しかかっている人を見ても、どこぞのお坊様のように「ぼーぅ」としてるだけで見て見ぬ振りし、お布施だけはしっかりいただいていたとは思えない。
655渡海 難( p0141-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/11 21:32
>阿弥陀仏にこういった代名詞が付いたのは太陽信仰が関係していたと言うのが一般的な解釈だ。これを釈迦にまで適用するのは、いきすぎ。

 阿弥陀様は、アマテラスオオミカミの夫か兄貴分なんでしょうか。弟かも知れませんね。そういう見解には僕はついて行けないんですよ(笑)。
 極楽浄土はインドの西のイランかイラクだという説がある。薬師如来の瑠璃浄土は東にあるからそれは黄金の国ジパングということになるのかしら。ま、主張は自由だ(笑)。

>「阿弥陀」を「先生」とすると慈悲を説明するのに窮するが如何?

 教育は生徒に知識を与え、経験を伝えて無知を打破する。
 苦しみの源泉は無知にある。2×2を知らなければ、一日にリンゴを二つづつ、二日かけて食べればいくつ減ったことになるか分からないかも知れない。いくつ減ったことになるか分からないと困るときもある。それでも、ににんが四と教わると、四箇減ったことが分かる。
 慈悲とは苦しみを抜き、楽を与えることだ。正しい知恵が与えられれば多くの苦しみが解決される。四箇減ったことが分かれば、大いに喜べる。人は正しい知識を得れば苦が打破され、喜びを知る。慈悲行とは教育活動そのものなんじゃないですか?。

>師弟愛では、慈悲と他力を説明できない思うが。

 師弟愛なんてもんじゃない。教育活動そのものだろう。
656名無しさん@1周年:02/04/11 21:45
はじめまして
創価公明板の波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 という方が
「創価の方々は平和とよくおっしゃいますが・・・」というスレで
>四箇格言はもう古い。もう他宗は日蓮宗の批判で指摘された部分を直した。
>750年前の批判は現在の他宗批判には通用しない。
と言われております。
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1017844447/520

四箇格言というのは、
『而るを日蓮一人・阿弥陀仏は無間の業・禅宗は天魔の所為・真言は某国の悪法・
律宗・持斉等は国賊なりと申す云々』とのことですので、 上記レスの「他宗」は浄土宗
、禅宗、真言宗、律宗等を指すと思われます。

そこで、お願いです。どなたか日蓮宗が浄土宗・念仏宗に対してどのような批判を行い、
その宗派がどのように教義を直されたのかご存じの方、教えていただけないでしょうか?
この書きこみをされたご本人は、なぜか沈黙されておられますので。

657渡海 難( p6206-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/11 22:49
>阿弥陀仏は無間の業

 禅・真言・律は知りません。「念仏無間」という言葉は、少なくとも日蓮さんの気迫の中では未来まで見通した非常に深いところから発せられているものを感じ、僕などは慄然とするものを感じます。
 「●▲×真宗教団はどこがイカンのだろう×▲●」というスレを見れば極めてよく分かります。坊さん達は、見るも聞くも恥ずかしい低次元の問題でいがみ合い、罵りあっています。
 ここに親鸞はいません。蓮如もいません。坊主の念仏に本当に救いがあるのか。救いがあるとすればどこにあるのか。
 「真宗教団はどこがイカンのだろう」スレでは、無間地獄に転落する教団坊主の念仏そのものが、インターネットというガラス張りの世界で糾弾されています。
 念仏無間という日蓮さんの激烈な批判は、鎌倉時代の問題でなく、現代真宗人の普遍的な大きな課題でしょう。
658名無しさん@1週間:02/04/12 00:32
>>渡海 難
なんでもいいからもうちょっと日本語勉強して
読みやすくまとめて書き込みしてくれぃ

あんたのレスは読みにくくて仕方がない
それとレス消費し過ぎ
あんただけのスレじゃないねんからね
659名無しさん@1周年:02/04/12 00:38
>>654
あなたが釈迦に対してどんな見解を持つのも自由だ。
が、しかし言葉の曲解だけは度し難い。

無量寿とは「弥陀」が命長く存在する言葉であり、
釈迦の(あなたの言う)命の継続とは言えない。

無量光とは「弥陀」の慈悲が光のごとく、十方の
世界を照らし、満たすことを言うのであり、釈迦が
弟子の無明を照らす光ではない。

>>655
太陽がモデルであることは、先の無量寿・光が一つ。
「西方に」極楽があることも、西に沈む太陽から想起された
と考えれば納得がいく観念だと思いますが。日想観も強ち
無関係ではないと思います。

660名無しさん@1周年:02/04/12 00:51
>>655
それは易行では無いですね。陸をてくてく歩かされるのはごめんです。
661渡海 難( p7107-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/12 21:04
>>659
>あなたが釈迦に対してどんな見解を持つのも自由だ。     <そうそう。>

>言葉の曲解だけは度し難い。   <貴方は僕を度そうとでもお思いですか?。>

>無量寿とは「弥陀」が命長く存在する

 命長く存在するとはどういうことか。ここは重要なところでしょう。
 命長く存在するとは、仏陀は永遠に教え続けるという意味です。命を与え続け、光を与え続けるという意味でしょう。
 間断なく生死生死をくり返すことを迷いという。再起(生)・挫折(死)・再起(生)・挫折(死)をくり返すのは、無知(無明)が原因だ。無明を破るのが知恵の光。知恵の光は、意思と行動の永続性・持続性をもたらしてくる。
 命とは、意思と行動の継続的、連続的、機能的一体性を表現する概念だろう。親鸞は教行信証で涅槃経を引用する。
662渡海 難( p7107-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/12 21:05
 また言わく、善男子、我が言うところのごとし、阿闍世王の為に涅槃に入らず。<自分は阿闍世王の為に、今後もずっと生き続けるという選択をした。活動を停止しない。>
 かくのごときの密義、汝未だ解することあたわず。<釈迦のこの言葉の意味は貴方にはなかなか分からないだろう>
 何をもってのゆえに、我、為と言う<なぜ、私釈迦は「為」と言うのか。ここが分かりにくいだろう。>
 一切凡夫、「阿闍世」は普くおよび一切、五逆を造る者なり<つまり、一切凡夫を念頭に置いている。「阿闍世」は一つの例である。五逆罪を作る全ての人の一例に過ぎない>
 我ついに無為の衆生のためにして世に住せず。<自分は、行為の無い人のためにこの世にずっと留まるという選択をしたのではない。>
 それ無為は衆生にあらざるなり。<行為の無い人は生きている人ではない。死んだ人は生きていない。>
 阿闍世は、すなわちこれ煩悩等を具足せる者なり。<阿闍世というのは煩悩を引きずりながら現に生きている人である。自分は生きている人のために生き続けるという選択をした。>
 また為は、すなわちこれ仏性を見ざる衆生なり。<「為」と言うのは、仏性が見えない人のためという意味である。>
 もし仏性を見んものには、我ついにために久しく世に住せず。<仏性がきちんと見える人にとっては自分は用がない。仏性がきちんと見える人のために生き続けるという選択をしたわけではない。> 
 阿闍世は、すなわちこれ一切、未だ阿耨多羅三藐三菩提心を発せざる者なり。<阿闍世とは何か。それは、真剣に真実を求めようと言うそういう心を起こすことのできない人の一例である。>
 為は、名づけて仏性とす。<阿闍世王の為という。自分は為という。為というところに、仏性すなわち、教え導く働きという意味がある。>
 阿闍は、名づけて不生とす。世は、怨に名づく。<思い出して欲しい。阿闍世の阿闍は生まれないという意味である。世とは怨みという意味だ。>
663渡海 難( p7107-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/12 21:07
 仏性を生ぜざるをもってのゆえに、すなわち煩悩の怨生ず。<阿闍世は自らは真実を求めようと言う心を起こせない。いつまでもいつまでも煩い悩みの怨みをひきずっている。>
 煩悩の怨生ずるがゆえに、仏性を見ざるなり。<煩い悩みの怨みを起こしているからこそ、自らは真実を求めようと言う心を起こせない。>
 煩悩を生ぜざるをもってのゆえに、すなわち仏性を見る。<煩い悩みが起きなければ、真実を求めようと言う心を発見できるだろう。>
 仏性を見るをもってのゆえに、すなわち大般涅槃に安住することを得。これを「不生」と名づく。<真実を求めようと言う心を発見できれば、永久不変の真実に安住できるだろう。そうすれば煩い悩みも生じない。これを不生という。>
 このゆえに名づけて阿闍世とす。<名前に由来する不生のもう一つの意味である。>
 善男子、阿闍は不生に名づく、不生は涅槃と名づく。世は世法に名づく<みなさんよく考えて欲しい。阿闍は不生という意味だった。そのもう一つの意味は永遠不変の真実性を意味する。「世」とは、世界の真実法と言う意味である。>
 為は不汚に名づく。<自分は「為に」という。そこにはいかなる穢れもない。>
 世の八法をもって汚さざるところなるがゆえに、無量・無辺・阿僧祇劫に涅槃に入らずと。
 <自分が阿闍世に働きかけていく働きは、世界中のどのようなものもこれを穢すことができない。世の中に、第二第三の阿闍世がいるかぎり、自分は決して死ぬことはない。行動を止めることはない。>
 このゆえに我阿闍世の為に無量億劫に涅槃に入らずと言えり。<だからこそ、自分は阿闍世の為にいつまでもいつまでも生き続け、決して行動を止めないと言うのだ。>
 善男子、如来の密語、不可思議なり。<みなさん。よく考えて欲しい。悟った人の言葉は難しいかも知れない。>
 仏・法・衆僧、また不可思議なり。<難しいと言えば、仏・法・僧の存在全て、非常に意味深く難しい。>
664渡海 難( p7107-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/12 21:08
 菩薩摩訶薩また不可思議なり。<修行者の存在も、非常に難しい。>
 大涅槃経また不可思議なり。<大涅槃経もまた、非常に難しいことを言おうとしているのである。>

>十方の世界を照らし、満たすことを言うのであり、釈迦が弟子の無明を照らす光ではない。
 <釈迦は全ての阿闍世に真実を説いている。阿闍世は一例に過ぎない>

>「西方に」極楽があることも、西に沈む太陽から想起されたと考えれば納得がいく観念だと思いますが。

 太陽信仰のつもりで念仏信仰している人とは、僕は話が合わないな(笑)。
 西は未来を象徴する。太陽は東から西に向かって運行する。古代印度には時計がない。昔は、時間は太陽の位置で知った。東は過去、西は未来を象徴する。
 薬師如来は医師を象徴する。だから薬師如来は東に住む。病人の治療には、原因を突き詰めることが大事だ。原因は過去にある。だからこそ薬師如来は、東つまり過去にこそ求めるべき真実があるという。
 阿弥陀は教育者を象徴する。阿弥陀は諸仏の師匠だ。教育者は、未来を信じて教え導く。生徒には、未来を信じて未来に方向を定めよという。
 太陽は大日如来が象徴する。


>>660
>それは易行では無いですね。陸をてくてく歩かされるのはごめんです。
    <こんなところで易行が引き合いに出されてくるところを見ると、貴方とは易行観が相違する。>
665名無しさん@1周年:02/04/12 21:16
>661-664
ここは渡海難だけのスレじゃない!だから独演会はやめろ。非常に迷惑だ。
666渡海 難( p0004-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/12 22:05
>ここは渡海難だけのスレじゃない!だから独演会はやめろ。非常に迷惑だ。

 四月九日に、仰せられ候う。
 安心を取りて、ものを言わば、善し。用無いところをば、言うまじきなり。
 一心の所をば、善く、人にも言えと、空善に御掟なり。  蓮如

 665さんよ。貴方も安心を取りて、ものを言ってみなさいよ。
667変態志願:02/04/13 01:11
渡海さんの意見は大変参考になるし、感じ入るものもある。
しかし皮肉っぽいのと嫌味ったらしいのが「玉に瑕」ですよ。
人を不愉快にさせない技術も身につけたほうがいいですよ。
読んでてそう思います。
668ベロ ◆od7XM/js :02/04/13 02:15
>>667
でも僕なんかはそういう嫌味ったらしい渡海さんの言い方が面白いんですけどね。
669渡海 難( p0508-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/13 09:30
>>667 :変態志願
>渡海さんの意見は大変参考になるし、感じ入るものもある。
    <すぐに結論を出さないで、じっくり考えてみるといいでしょう。>

>しかし皮肉っぽいのと嫌味ったらしいのが「玉に瑕」ですよ。

 急いで結論は出しなさんな。「感じ入るものがある」と思ったら、その思いだけ貴方の中で時間をかけてじっくり発酵させなさい。もし僕に玉があれば、それは「玉に瑕」ではなく、実体は「瑕に玉」が見つかっただけだ。
 僕の言葉など、所詮口から出任せ、言い放し。天下の大嘘つき。千三つどころか、千一つ、万一つ。「感じ入るものがある」と貴方が思ったら、もともとそれは僕のものじゃない。
 由来本籍は弥陀・釈迦・親鸞にある。他人の物を貴方が勝手に持っていても、僕にとっては痛くもかゆくもありゃしない。
 弥陀・釈迦・親鸞のものがあれば、それは向こうさんが通りがかりに勝手に置いていったもの。あなたが欲しけりゃ勝手に持っていきなさい。外にはめぼしい物などあるはずがない。残りは全て傷物・腐り物。そんなものには目も呉れなさんな。
 渡海 難は口から出任せ、大嘘つきだ。クソッタレ。アホッタレ。そんなアホッタレでも、珍しくいいこと言っておるわいと思ったら、それだけが渡海 難たったひとつの真実だ。外にめぼしい物があるわけもない。
 「玉に瑕」などと幻想を抱かずに、瑕に玉が見つかれば、余計なことは考えず、見つけた玉だけ黙って持って行けばいい。あんたの中で好きなだけ発酵させればいいでしょう。いずか貴方の宝になるでしょう。

>>668
>でも僕なんかはそういう嫌味ったらしい渡海さんの言い方が面白いんですけどね。
       
 アホタレ宗のアホタレ坊主がガンクビ揃え、コップの中でのオナニーの引っ掛けあいや、呪文を飛ばし合う宇宙人ごっこしている中に割って入り、2CHで泳ぐには処世術も必要なのさ(笑)。
670名無しさん@1周年:02/04/13 10:03
 ` ‐ 、!        l.  l、           /
           l  l、         /          00
. ヽ、        l.   l        ∠ _       「二^^l
.\ `ヽ.  .  |`ヽ、.!.  l.   ,、,ヘ   __ ~`` ‐ 、_    | | ;‐i
  \ ,へ|\.l    ヽ.   l / | |''"´  _,二ニ=-  > 「二__lニ ニl
   /  ,l  .l   |ミミ`ゝ、//! ! l,, ‐'"´   , ‐'"´      〈/!_| ;‐i
___/  .,l  ,l  l   ゙〃 ::::l. |_. L_ ,, ‐'´              lニ ニl
_  ._/ / ,/       ::::l__ ``‐、、ヽ>               〈/!_|
/⌒ヽ./ ./ .∠、 _\     ::::∠-‐`` ‐、!、`\     >渡海 難
l./゙ヽ.,| | |、 !、_ノ `i、  ::/!_ノ //./ `\ \   楽しいかよ…
ヽゝ( ,| | |ヽー─-    、ー'''"l`/
 `ヽ、| | |         /  :!/       スレッドを汚す煽り合いが…
\  | l |.     ∈ニ'   :i          楽しいかって聞いてるんだよ!
.  \ !. l|. |`‐、       /        腐ってるぜ!  厨房!
   `| l ! |`‐、.`‐.、.  /
   _,l ! l | //`` 7`''´‐-、_       ならオレが教えてやる……
,,. ‐'´ !|. l.|`‐-ニ=〈ヽ    i `ヽ      極限までの煽りってヤツをな!!
671修阿弥陀仏:02/04/13 12:57
>>656
>どなたか日蓮宗が浄土宗・念仏宗に対してどのような批判を行い、
>その宗派がどのように教義を直されたのかご存じの方、教えていただけないでしょうか?

これは私も聞いてみたい。
おそらく念仏に対する批判ではなく、念仏者に対する批判だと思うのだが、それでも一見した限りでは単なるレッテル張りの悪口としか思えない。
本当にきちんと批判されているのか。またその批判を受けて教義を直したなどという話を聞いたことがないのだが。
672名無しさん@1周年:02/04/13 13:21
>>669渡海難さんへ
>アホタレ宗のアホタレ坊主がガンクビ揃え、コップの中でのオナニーの引っ掛けあいや、呪文を飛ばし合う宇宙人ごっこしている中に割って入り、2CHで泳ぐには処世術も必要なのさ(笑)。
これはあなたへの煽りのことを指していると思います。
しかしながら、その煽りがなぜお坊さんのしわざなのか、よくわかりません。
あなたは、根拠も何もない勝手な決めつけでそういうふうにしていませんか?
もし、本当にお坊さんがやったというならば、その根拠を示してください。
はっきり言って、これは全部あなたの妄想だと思います。
673渡海 難( p6104-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/13 18:10
>>672
>これはあなたへの煽りのことを指していると思います。
     <誰かが僕を煽っていますか?。全国からファンレターはよくきますね。>

>なぜお坊さんのしわざなのか、よくわかりません。
   <はて?。 2茶ではお坊様らしい方の御発言が目立ってるように感じてますよ。違いますか?。>

>本当にお坊さんがやったというならば、     <何を?>

>その根拠を示してください。     <煽りについての根拠ですか?。>

>これは全部あなたの妄想だと思います。
   <妄想かもしれませんね。直感も、鈍感もあるでしょう(笑)。>

 オナニーの引っ掛けあいか、真剣勝負か?。呪文か、論争か?。宇宙人ごっこか、研鑽か。見る人の角度で見え方は様々。坊さんか坊さんでないのかもそういう類の話だったかも知れませんね。
 善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人おや。
 これはいかん。あれもいかん。僕がそんな風に一律に言うようとは、間違いかも知れません。オナニーの引っ掛けあいもいい。宇宙人ごっこもいい。みんないい。同一念仏無別道故。目くら千人、目あき千人。心の目が開くのは難しい。
674渡海 難( p6104-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):02/04/13 18:11
>>670
 貴方は素晴らしい才能をお持ちだ。いずれ貴方は、お坊様達の文字通り救い主になられるかも知れません。
 真宗教団は、数百年に渡り、自力という烙印の名の下で人造りを事実上封印してきたようだ。馬鹿なことだ。お陰で、教団は全くの人不足、リーダー不足に陥った。人材の無い組織は存続不可能。真宗教団の崩壊は秒読みだ。教団が崩壊すれば、坊さん達は職に困る。
 貴方ほどのアートの才能は、坊さん達の第二の人生に大変役立つことでしょう。今の内は勉強に大いに励み、将来にしっかり備えてください。厚生労働大臣が知れば、泣いて喜ぶことでしょう。
 勉強中のアートは、貴方のパソコンの中だけやるといいでしょう。心と宗教板は板違いです。
675渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/13 21:33
 今後、渡海 難はトリップを使用し、
 渡海 難  ◆0AE5SZ4でカキコしてみます。
676名無しさん@1周年:02/04/13 23:14
>>675
あれれ、トリップは懲りたんじゃないの
677渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/15 14:03
 浄土真宗の教義上の争点が一つ一つ出てくる感じです。面白いですね。

 ベロさん。「ああ先生」という意味だという僕の主張のところは多少ご理解いただけましたか。
 僕の考えに賛成する必要は全くありません。貴方の思考のたたき台にしていただけると幸いです。

 今後、このスレでどんなことが問題になるのでしょう。楽しみですね。
「還相の菩薩とは何か。」 「往還の回向とは何か。」 「他力とは・自然法爾とは。」
「歎異抄の誤解」 「悪人正機説と親鸞の本音。」 「体失往生・不体失往生。」 「現世利益の意味。」
「布施とは何か。」 「回忌法要の真宗的意味。」 「葬儀執行は異安心か。」
「親鸞の考えは流罪体験で何がどのように変わったか。」 「十八願往生とは何か。」
「双樹林下往生・難思往生・難思議往生」 「真実の教とは何か。」
「阿弥陀経は真実経か方便経か(親鸞の立場)。」
「要門・真門・選択の願海。」 「化身土巻の現代的意味。」 「還相の法然・往相の親鸞」

 お尋ねがあれば、可能な範囲で私の考えを述べさせて頂きたいと思います。議論の途中で立ち往生するかも知れません。そのときは、ま、ご勘弁ください。
 それ以外は教行信証論を続けます。

>>676
>あれれ、トリップは懲りたんじゃないの  <試行錯誤さ。>
678名無しさん@1周年:02/04/15 14:11
>>677
渡海よ。お前は迷惑だから来なくていいよ。
お前が来ると必ずスレが荒れるんだよ。
議論の途中で立ち往生するのは全部お前が原因じゃないのか?

>それ以外は教行信証論を続けます。
ハァ?ここは渡海だけのスレじゃないぞ。浄土真宗だけじゃなくて浄土宗のスレでもあることを忘れてるのか?
勝手にスレを私物化するな!
679名無しさん@1周年:02/04/15 15:54
>>648,649,652
皇室の方々は念仏宗無量寿会だと《念仏宗無量寿会》の人達が言ってましたが・・・
実際のところどうなんでしょうか? 
そういう事って皇室サイドから正式に発表されているんですか?
680初学ノ者:02/04/15 15:57
「悪人正機は法然の説」という話を聞きました。
本当ですか?
この説を鼓舞すること自体が近代の話とも聞きましたが、
これもどうなのでしょうか?
681ベロ ◆od7XM/js :02/04/16 00:30
渡海さんのいう釈尊の弟子に対しての態度をもって「先生」と言うのはよくわかりした。
釈尊という具体的な人物が目の前にいる時にはお弟子さんのそういう気持ちもわかります。
でも阿弥陀仏というのは釈尊の様に具体的な姿・形をもっているのではないと
僕は思います。「いのちとひかり」の象徴であり、法性法身と呼ばれ、
言語の認識範囲を超越しているものだと考えています。
たぶん僕の「先生観」と渡海さんの「先生観」の認識の違いもあると思いますね。

>>680
浄土宗の梶村昇さんが悪人正機は法然さんがオリジナルだと言ってますね。
大正時代に醍醐寺で見つかった法然上人の伝記に
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というのが
法然上人の言葉として記されていると言う事です。
682名無しさん@1周年:02/04/16 01:16
浄土三部経だったかなあ
阿弥陀仏は母殺しかなんかした人は救ってくれないとかいう話しがあるとか
聞いたんですがどうなんでしょうか
683ベロ ◆od7XM/js :02/04/16 01:29
>>682
間違いです。阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す者は必ず往生できるといわれます。
唯除五逆誹謗正法は法蔵菩薩の真意ではなく戒めとして受け取るのが良いと思います。
684渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/16 09:02
>>678
>渡海よ。お前は迷惑だから来なくていいよ。
     <−笑− そんなこと言いなさんな。みなさん御同朋、御同行。>

>お前が来ると必ずスレが荒れるんだよ。   <山あり。谷あり(笑)。>

>議論の途中で立ち往生するのは全部お前が原因じゃないのか?
    <立ち往生は歌舞伎の十八番。 義経千本桜なら佳境だ>

>ハァ?ここは渡海だけのスレじゃないぞ。
    <どうぞ。どうぞ。貴方もご遠慮なさらず御参加ください。>

>浄土真宗だけじゃなくて浄土宗のスレでもあることを忘れてるのか?
    <法然様は親鸞様の御師匠様。浄土真宗も浄土宗もお仲間じゃありませんか。>

>勝手にスレを私物化するな!      <それぞれが楽しめば宜しいじゃありませんか?>
685渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/16 09:06
>>679
>実際のところどうなんでしょうか?
 香淳皇后(故皇太后)の妹の嫁ぎ先が大谷家(大谷派)という話を聞いたことがある。真偽は知らない。政略結婚の一つだったんでしょう。
 美智子皇后はカトリックだと聞いてます。常陸の宮様もカトリックだと、これは2茶で聞いた話。当てにはならない。念仏宗無量寿会に騙されて利用されているアホ皇族はいるかも知れません。
686渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/16 09:08
>>680
>この説を鼓舞すること自体が近代の話とも聞きましたが、

 −??− 聞いたことがないなー(笑)。
 法然の主張を紹介します。
 阿弥陀(あみだ)仏(ほとけ)の本願は、末代の我等が為(ため)に起こし給へる願なれば、利益(りやく)今の時に決定(けつじょう)往生すべき也。我が身は女人なればと思う事なく、我が身は煩悩悪業の身なればと言ふことなかれ。
 もとより阿弥陀仏は、罪悪深重の衆生の、三世の諸仏も、十方の如来も、捨てさせ給ひたる我等を迎えんと誓ひ給ひける願にあひ奉れり。   黒谷上人御灯録 和語灯録

 まづ何処(いづれ)のところにか、阿弥陀は罪作れと勧め給ひける。
 一重に我が身に悪をも止め得ず、罪のみ作り居(ゐ)たる儘(まま)に、かかる行方(ゆくえ)辺(ほとり)も無き虚言を工(たく)み出(いだ)して、
 物も知らぬ男女の輩(やから)を、賺(すか)し騙(ほら)かして罪業を勧め煩悩を起こさしむる事、返返(かえすがえす)も天魔の類なり、外道のしわざ也、往生極楽の仇敵(あだかたき)なりと思うべし。
   黒谷上人御灯録 和語灯録

 男女貴賤をも選ばず、善人・悪人をも分かたず、心を至して弥陀を念ずるに、生まれずと言ふ事なし。
   黒谷上人御灯録 和語灯録
687渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/16 09:08
 歎異抄三章は 「おおせそうらいき」で終わっている。歎異抄二章、四章などは「云々」で終っている。つまり、三章の悪人正機説は、親鸞を経由した又聞きだというのが、歎異抄著者の見解です。
 法然上人はいろいろなことを言っています。ある一部だけを抜き出して強調すると、原点の思想は変容します。悪人正機説は一部だけを極端に抜き出したものだから、法然の説と言えば変容した法然説だ。
 確かに法然の説と言うのも正しいかも知れない。親鸞の説というのも正しい。ところが、悪人正機説は、親鸞本人の書き物には記載がない。有名なのは歎異抄に載っているという事実だ。だから親鸞ではなく、本当は親鸞のお弟子さんの創作説とも言えるでしょう。
 極端に抜き出したところは、親鸞の身内だけの非公式身内説ともいえる。誤解される心配のない気心の知れた相手に、裸の親鸞が陰のある肉声で語った屈折した彼の本音説だと僕は理解している。
688渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/16 09:09
>>681 :ベロ
>阿弥陀仏というのは釈尊の様に具体的な姿・形をもっているのではないと僕は思います。

 具体的な姿・形とは肉体という意味でしょうか?。僕ら念仏者は、意思と行動があればそこに人格の存在を観念します。意思を「願」と言います。行動を「力」と言います。「願」と「力」で願力といい、そこに人格の存在を観念します。
 「映画は僕の先生だった」。昔、こんなタイトルの本がありました。映画監督か映画俳優が書いた半生記だったと思います。タイトルだけ覚えています。岩波文庫の岩波茂雄は言います。
 「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む」。真理は万人によって求められることを自ら欲し、真理に向って人々を駆り立てます。
 人類学者は、猿を先生と仰いで猿から人類の本質を学んでいます。薬理学者はネズミから病気の治療法を学んでいます。画家は花から美の神髄を学び、生化学者は生命の起源を学んでいます。
 包丁を持ってバスに乗り込み、乗客を殺してバスの運転手を脅迫する少年の言葉の一つ一つに、心理学者は少年期の不安心理を学び、検察官は犯罪の動機を学ぼうとします。
 様々なものが様々に潜んでいる真理を教えてくれています。そこに、釈尊先生の意思と同質の意思の存在を観念し、その同質の意思が発動する真理実現の行動の存在を観念することはおかしな事ではないでしょう。
 僕は、そうしたものを仮に先生とあだ名を付け、阿弥陀仏とあだ名を付け、かつて釈尊先生のお弟子さんが釈尊先生を「先生、ああ先生」と念じたように「阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念じてみようと提案します。
 
>法性法身と呼ばれ、言語の認識範囲を超越しているものだと考えています。
     <法性法身とは、意思と行動の存在に人格の存在を観念した言葉でしょう。>

>僕の「先生観」と渡海さんの「先生観」の認識の違いもあると思いますね。
     <一人一人には独自の価値観があるものです。>
689渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/16 09:10
>>683 :ベロ
>唯除五逆誹謗正法は法蔵菩薩の真意ではなく戒めとして受け取るのが良いと思います。

 これは現代真宗学の通説的な考え方でしょう。通説に縛られることは柔軟な思考を妨げます。
 僕は次のように視点を整理し、それぞれの立場でそれぞれの人がどう考えたかを探ります。全て一律に解釈することは、思考の幅を狭めると思います。
 梵文(古代の経典の原著者の発想)、漢文(中国漢訳者の主張)、曇鸞(教育者の育成教育者)の視点、善導(初等教育者)の視点、法然(改革的初等教育者)の視点、親鸞(初等入門者)の視点。
690名無しさん@1周年:02/04/16 11:26
       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
:Λ_Λ  |  >>684-689渡海君さぁ 一度にこんなにたくさん書き込むから
( ´∀`)<  オタクなんて呼ばれて馬鹿にされるんだよ
( ΛΛ つ >―――――――――――――――――――
 ( ゚Д゚) <  全ての人間がおまえのことを必要としてないんだから
 /つつ  |  さっさと回線切って氏ねよマジでうざすぎ邪魔すぎ
       \__________________
691壱門徒:02/04/16 17:06
>>688
いつもの事なんでしょうけれど強引ですねぇ..
ま、どのように考えようと人の勝手ですけれど..
692名無しさん@1週間:02/04/16 18:55
>>渡海 難
だーかーらーーー
1人でスレをたくさん消費するのは基本的なマナー違反だと
何度言われたら判るんだゴルァ!

読みたくもないレスでスレッドが埋まるのがうざいんだよ
693渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/16 21:16
>>687 悪人正機に追加
追加前 「創作説とも言えるでしょう。」
追加後 「創作説とも言えるでしょう。これまでのいずれでもなく、明治になって歎異抄を再発見した清沢満之らの創作説という主張も可能だ。解釈はいろいろできる。」

>>691
>強引ですねぇ..

 百花繚乱。自由な考えが様々に出てくるのがいいんですよ。色んな考えが登場すれば、人は選択肢が増える。自分に一番ぴったりな考えも見つけやすくなる。

>どのように考えようと人の勝手ですけれど..

 ちなみに、強引でなく理にかなった貴方の考えはどのようなものでしょうか?。理にかなった考えを公開するのは恥ずかしいですか?。公開すると恥ずかしくなるような正しい考えですか?

>>692
>1人でスレをたくさん消費するのは基本的なマナー違反だ

 基本的なマナー違反は用無いところをば言う発言。安心を取りてものを言ってればいい(笑)。(蓮如)

>読みたくもないレスでスレッドが埋まるのがうざいんだよ

 それもこれも一宗繁昌。仏法繁昌。
 誠にもって坊主分の人に限りて、信心の姿一向に無沙汰なりと聞こえたり。もっての外に嘆かしき次第なり(笑)。
694名無しさん@1周年:02/04/16 21:29
雅子さまの母親 三姉妹カトリックなのに
なんで雅子さまだけ 浄土宗なんだろ。
695宇都御魂 ◆ZK38QLd. :02/04/16 21:30
>693
 2ちゃんねるは、あなたの自己満足のためにあるんじゃない。

#人に読んでもらえる様なレスを書くことを心がけてくれ。
696名無しさん@1週間:02/04/16 21:40
>>693
>ちなみに、強引でなく理にかなった貴方の考えはどのようなものでしょうか?。理にかなった考えを公開するのは恥ずかしいですか?。公開すると恥ずかしくなるような正しい考えですか?

恥知らず
ちっとは自覚しろよ(呆
697名無しさん@1周年:02/04/16 21:49
>渡海難

これを100万回ぐらい読め!

http://www.2ch.net/guide/faq.html#B2

お約束・最低限のルールって?

他人に迷惑をかけるのはやめようということです。。。

必要以上の馴れ合いは慎しむとか、暴言や第三者を不快にする書き込みはしないとか、
悪質な削除要請や自己中心的な発言はひかえるとか、どれもむずかしくないことなんだけどなぁ。
698修阿弥陀仏:02/04/17 01:01
>>680
>「悪人正機は法然の説」という話を聞きました。
>本当ですか?
本当です。>>681ベロさんご紹介の通りです。
また、真宗の聖教の一つ、口伝抄にも、法然上人から伝えられたというふうに書いてあります。
じつは法然上人には全く逆のご法語もあるのですが、全体的に見て、法然上人の所説がそういう方向性を持っていることは確かだと思われるので、間違いないことだと思います。

>この説を鼓舞すること自体が近代の話とも聞きましたが、
>これもどうなのでしょうか?
これについてはわかりません。確かに一般に公開されたのは明治になってからだということらしいですが。
ただ、ちょっと思いつきなんですが、近代化を肯定する思想にはなりそうな気がします。
699ベロ ◆od7XM/js :02/04/17 01:31
>>689 渡海さん、
確かに現代真宗教学に通説的なものです。渡海さんの梵文、漢訳、曇鸞、善導、法然、親鸞
等の視点で考えてみるといのは大切だと思います。岩波文庫、浄土三部経(上)の
P256やP312に詳しいですね。僕の意見はやはりこの唯除の文は五逆や誹謗の抑止を
語るもので、法蔵菩薩の真意ではないと受け取りたいと思います。
700ベロ ◆od7XM/js :02/04/17 02:03
確か初期の漢訳には唯除の文は無いんですよね。後漢訳、呉訳、宋訳には無く、
魏訳、唐訳、梵本、西蔵本にはある。でも初期大乗経典の複雑な所は漢訳の元に
なったと思われる現代に伝わっている梵本が漢訳より古いと一概に言えないのです。
漢訳経典の方が古く、梵本の方が新しい場合もある。それは漢訳の元になった梵本は
一旦漢訳されると廃棄され、残っていない事がある。
701名無しさん@1周年:02/04/17 04:01
浄土真宗か
日本テレビの「あんちゃん」思い出すなー
南無阿弥陀仏
702名無しさん@1周年:02/04/17 11:46
>>700
>一旦漢訳されると廃棄され、残っていない事がある。
ほとんど残っていませんね。
一度玄奘が翻訳した元の梵本が読みたいものです。
703壱門徒:02/04/17 12:39
>>693
百花繚乱ですか? それはよかったですねぇ。

>>696
>>ちなみに、強引でなく理にかなった貴方の考えは・・恥ずかしくなるような正しい考えですか?
>恥知らず
>ちっとは自覚しろよ(呆
無理でしょうね..それが凡夫の哀しさです..
704渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/17 18:07
>>695 :宇都御魂
>2ちゃんねるは、あなたの自己満足のためにあるんじゃない。
       <宇都御魂さんにとっては僕の発言が自己不満のようだ(笑)。>

>人に読んでもらえる様なレスを書くことを心がけてくれ。

 先方の宇都御魂さんなどは何処の誰だか僕が知るはずもない。その宇都御魂さんに読んでもらえて宇都御魂さんに自己満足してもらえる様なレスを書けという。宇都御魂さんからの突然のリクエストは無茶な話だ(笑)。


>>696
 匿名で闇雲に「恥知らず」などと暴言を吐いてくる貴方はどこのどなた?。随分と恥しらずで失礼なお方ですね(苦笑)。


>>697
 「100万回ぐらい読め」などと不可能なことを命令してくる貴方はどこのどなた?。
 暴言や第三者を不快にする書き込みはしない。これがお約束・最低限のルールです。ぶしつけに不可能な命令をしてくるあなたは2茶に参加する資格が無い人だ(苦笑)。
705渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/17 18:08
>>698 :修阿弥陀仏 :02/04/17 01:01
>口伝抄にも、法然上人から伝えられたというふうに書いてあります。

 そうそう。書いてある。
 「黒谷の先徳より御相承とて、如信上人、仰せられて云わく。世の人、常に思えらく、悪人なおもて往生す。況や善人をやと。この事、遠くは弥陀の本願に背き、近くは釈尊出世の金言に違せり。」
 これは、親鸞から直接ではなく、如信が歎異抄を読んだ結果で言っている可能性がある。
 高田派の伝承に悪人正機説は伝わってないようだから、悪人正機説は京都歎異抄系の特殊な見解なんだろうと僕は思う。高田派の伝承になければ、広言するような主張ではないということだ。悪人正機なんてのは、裃を脱いだあるときの親鸞のその場限りの雑談だろう。
 明治の学者が膨らましものだ。生の親鸞の本音に近いところでもあるんだろう(笑)。

>全体的に見て、法然上人の所説がそういう方向性を持っていることは確かだと思われるので、間違いないことだと思います。

 「確か」(?)。難しいところだな。こういう主張も一応は肯ける。立場立場で議論は分かれるだろう。

>近代化を肯定する思想   (?)


>>699 :ベロ
>法蔵菩薩の真意

 法蔵菩薩の真意?。貴方がいう法蔵菩薩さんっていつ頃の人?。どの辺で活動されていた方ですか?。今もご健在でいらっしゃるんですか?。
 僕は、こういう迷信についていない人間なんだ(苦笑)。
706渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/17 18:09
>>702
>一度玄奘が翻訳した元の梵本が読みたいものです。

 探すとすれば、チベット・パキスタン・アフガニスタンだな。アルカイダやアメリカが破壊したアフガニスタンの洞穴で、土の中を丹念に探すと今でも破片ぐらい出てくるかもしれない。



>>703 :壱門徒
>百花繚乱ですか? それはよかったですねぇ。
     <お気に召していただけたようですね。よかった。よかった。うん。うん。> 

>それが凡夫の哀しさです..

 壱門徒さんは、2ちゃんねるで自分を自慢したくなるほどご立派なお方のようですね。私どもとは住む世界が違うようだ。さぞかし大きなお寺様なんでしょう。嬉しいときも南無阿弥陀仏。哀しいときも南無阿弥陀仏。貴賤を問わず、南無阿弥陀仏。よかった。よかった。
707宇都御魂 ◆ZK38QLd. :02/04/17 18:46
>704
 寝言は寝て言え。俺の知る限り、複数(であることは間違いなかろう)の人物から
既に、あんたのレスは読む気がしないという趣旨の書き込みがなされている。
ただ書きっぱなしにするのなら、2ちゃんねるでする必要はないだろう?

 あんた、何故ボロクソに言われるか考えたことはあるのか?

#なお、この程度のレスは「ボロクソ」ではない。
708壱門徒:02/04/17 18:46
>私どもとは住む世界が違うようだ。
706さんは違う世界に住んでらっしゃる方だったのですね。それは知りませんでした。

>さぞかし大きなお寺様なんでしょう。
何が大きいのかは不明ですが、今までお寺様と言われたことはありませんねぇ。
違う世界にいらっしゃる貴方には、やはり何か見えるのでしょうか? 凄いお方ですねぇ。
709渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/17 20:42
>>707 :宇都御魂
>複数(であることは間違いなかろう)の人物から <千里眼のようなお方だ(笑)。> 

>あんたのレスは読む気がしないという趣旨の書き込みがなされている。

 私のところには、2茶の掲示板に毎日山のようにファンレターが寄せられてますよ(笑)。

>書きっぱなしにするのなら、2ちゃんねるでする必要はないだろう?

 レスどころか、2茶には、私など見る気もしないスレが山ほどある。私が見ているスレは2つか3つ。他は、レスどころか、スレッドさえ開く気もしない。
 スレッドさえ開く気もしないのに、そのスレッドの常連に、「2ちゃんねるでする必要はないだろう」などと、僕は言ったりしませんね。失礼でしょう。
 自分が見る気もしないから2ちゃんねるに書き込むななどと、貴方は自分を何様だとお思いですか?。

>この程度のレスは「ボロクソ」ではない。
      <はいはい。これも愛する僕へのファンレターでしょう(笑)。>
710渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/17 20:44
>>708 :壱門徒
>それは知りませんでした。  <そうでございまいしたか。これは大変失礼しました。>
   
>今までお寺様と言われたことはありませんねぇ。  <お寺様は御尊敬申し上げているんですよ。>

>何か見えるのでしょうか?   <大したことはありません。当てずっぽう、山勘ですよ。>

>凄いお方ですねぇ。 
 <恐れ入ります。下手な鉄砲でも心当たりされる方がいらっしゃったようですね(笑)。>
711名無しさん@1周年:02/04/17 20:51
 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
 || ★★渡海難は放置が一番キライ!★★
 ||    〜 渡海難は常に誰かの反応を待っています 〜
 ||
 || ●ウザイと思ったらそのまま放置!
 || 渡海難にレスをすると、煽りや叩きでも「ファンレター」と勘違いして
 || 渡海難が喜ぶだけです
 ||
 || ▲放置された渡海難は煽りや自作自演(「ベロ ◆od7XM/js 」を名乗る、等)で
 || あなたのレスを誘います!
 || ノセられてレスしたらその時点であなたの負け!
 ||
 || ■反撃は渡海難の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです
 || 渡海難にエサを与えないで下さい
 ||
 || ☆枯死するまで孤独に暴れさせておいて
 || ゴミが溜まったら削除が一番です 。   Λ_Λ
 ||                       \ (゚ー゚*) キホン。
 ||________________  ⊂⊂ |
    ∧ ∧    ∧ ∧    ∧ ∧    | ̄ ̄ ̄ ̄|
    (  ∧ ∧ (   ∧ ∧ (  ∧ ∧ |      |
  〜(_(  ∧ ∧ __(  ∧ ∧__(   ∧ ∧ ̄ ̄ ̄
    〜(_(  ∧ ∧_(  ∧ ∧_(   ∧ ∧  は〜い、先生。
      〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)
        〜(___ノ  〜(___ノ   〜(___ノ
712名無しさん@1周年:02/04/17 21:08
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1006573323/961

961 名前:渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/17 18:05
 いたずら坊主に騙されている人へ
 いたずら坊主に騙されて書き込みの名前の欄に「ttp://fusianasan.2ch.net/」と書いている人がいます。
 名前欄に「fusianasan」又は「mokorikomo」と書くとどうなるか。 

 「他の人のホスト名・IPを見ることはできませんが、自分のを表示することはできます。名前欄に「fusianasan」「mokorikomo」といれるだけです。<ttp://www.2ch.net/guide/faq.html#C0>」

 つまり、IPというインターネト上の記号が、名前欄に入ります。IPはどいうものか。「IPアドレスまたはドメイン名から企業名や団体名等を検索します。<ttp://www.mse.co.jp/ip_domain/>」

 自分の所属する企業名が分かります。匿名の掲示板でカキコ者の所属が判明します。

 いたずら坊主を信じるか、渡海 難を信じるか。それは自由ですが、いたずら坊主を信じると痛い目に遭うことがあります。

     ____
    /∵∴∵∴\
   /∵∴∵∴∵∴\
  /∵∴∴,(・)(・)∴|
  |∵∵/   ○ \|
  |∵ /  三 | 三 |  / ̄ ̄ ̄ ̄
  |∵ |   __|__  | < >>渡海 インターネトって何
   \|   \_/ /  \____
     \____/
   ______.ノ       (⌒)
  //::::::::|-、 ,-/::::::ノ ~.レ-r┐
/ /:::::::::::|  /:::::ノ__ | .| ト、
| /:::::::::::::::| 〈 ̄   `-Lλ_レ′
レ::::::::::::::::::|/::: ̄`ー‐---‐′
713宇都御魂 ◆ZK38QLd. :02/04/17 21:25
>709
 要するに、あんたは他人の話をまともに聞くつもりのない馬鹿と言うことか。
714名無しさん@1周年:02/04/17 22:09
age age age age age age age age age age age age age age age age age
age age age age age age age age age age age age age age age age age
age age age age age age age age age age age age age age age age age
age age age age age age age age age age age age age age age age age
age age age age age age age age age age age age age age age age age
age age age age age age age age age age age age age age age age age
age age age age age age age age age age age age age age age age age
715名無しさん@1周年:02/04/17 22:30
浄土宗・念仏宗全般の教義に語ろう!って何処かへ逝っちゃったね・・・
716渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/18 08:20
>>711
>常に誰かの反応を待っています  <僕に限らない。掲示板というものがまさにそういうもの。>

>「ファンレター」と勘違いして   <勘違いでなく、真正面から受け取らせていただいています。>
    

>あなたの負け!   <どっかに勝者がいるの?。勝者なき敗者。不戦敗と言いたいのかな?。>

>渡海難にエサを与えないで下さい。  <エサ?。僕も711の名無しと同類?。ネコか?。(苦笑)>

>枯死するまで     <今後なお、数十年は生きるつもりだよ。>

>>712     (苦笑)

>>713 :宇都御魂
>要するに、   <勝手に要約しなさんな(笑)。>

>あんたは他人の話をまともに聞くつもりのない
    <まともに話を聞いて貰えてないという不快感をお感じなんですね>

>馬鹿と言うことか。
 
 相手を馬鹿という馬鹿よりも、馬鹿と言われる馬鹿が上等。目クソに笑われた鼻クソの気分だな(笑)。

>>715    何処かへいっちゃった感じが、あなたはするんですね。
717渡海 難  ◇0AE5SZ4.:02/04/18 09:36

        _
    ┌─┴┴─┐
    │ ああ先生 │
    └─┬┬─┘
        ││ _ε3
    / ̄ ̄ ̄ ̄\
   (  ノノノナノノノ)∈ヾ
    |ミ/  ー◎-◎-)  |
   (6     (_ _) )  |  / ぼくが宗教板中の嫌われ者、渡海で〜ちゅ
  _|/ ∴ ノ  3 ノ  )< ぼく「念仏宗渡海会」を結成したら    
 (__/\_____ノ /  \ インターネト上でオナニー坊主に叩かれまちゅた
 / (__))      )))脳みそ入ってないけど痛いでちゅ。誰か助けてくだちゃい
[]__| | 座禅念仏 |そして4000円お恵みを。
|]   | |_____)
 \_.(__)三三三[国]
  /(_)\:::::::::::::::::::|
 |     |:::::::::/::::::/
  |____|;;;;;;/;;;;;/
     (___|)__|)
718宇都御魂 ◆ZK38QLd. :02/04/18 12:57
 まあ、俺は先日のやりとりで渡海氏が嫌いになったのだが、
717のような偽者や粘着するような馬鹿はもっと嫌いだ。
719名無しさん@1周年:02/04/18 14:47
>浄土宗・念仏宗全般の教義に語ろう!って何処かへ逝っちゃったね・・・

「このスレだよ!」と一瞬ツッコミ入れたくなったのは俺だけ?
ともかくスレッドの容量が少なくなってきたので、まともな議論に戻りたいね。
720名無しさん@1周年:02/04/18 15:40
>>718
>まあ、俺は先日のやりとりで渡海氏が嫌いになったのだが、
私は元から好きではないのであまり関わらないようにします。
>>711参照)
>717のような偽者や粘着するような馬鹿はもっと嫌いだ。
それも相手にしなくていいと思われ。

>>719
>ともかくスレッドの容量が少なくなってきたので、まともな議論に戻りたいね。
それならば、何か話題を。
ところで、次スレ立てた方がいいのかな?
また渡海が来て荒れる可能性が高いからこのスレで終わったほうがいいかも。
721宇都御魂 ◆ZK38QLd. :02/04/18 18:19
>718
 単なる宣言ですがな。
722渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/18 23:40
>>720
>渡海が来て荒れる可能性が高いからこのスレで終わったほうがいいかも。

 あんたらの本当の関心は教義じゃなく、お布施の金額なんだろう。教義どうこうというのは、お布施を誘導するための方法論。檀家を煙に巻く催眠術みたいなもんだ。
 「浄土宗・念仏宗全般のお布施の金額について語ろう!」というスレを立てるといいだろう。常連が増えそうだ。ただ、僕は多分参加しないと思う。お寺さんのお布施なんかは興味がないからね。
723渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/18 23:42
>>717
 717の偽渡海さんよ。あんたも722の意見に賛成だろう。
724名無しさん@1周年:02/04/19 11:02
最近スレのタイトルに関連した書き込み出来る人っていないね〜。
725名無しさん@1周年:02/04/19 11:05
いやね、個人的に法然や親鸞っていろんな意味で魅力のある人物だと思って
たんで読んでたけど、、、ま〜無理かw
726名無しさん@1周年:02/04/19 15:03
>>722
しょうもな..
自分に否定的な相手は全て坊主だと思ってるらしい
なぜにそんなに被害妄想なん?
自分を否定する相手を限定しないと自信がなくなるからかい?

坊主と聞くと批判しか書かないが
#渡海より立派な坊さんもたくさん知ってるよ
↑この行に反論したくなったら
その言葉は自分に向けて言ってみるんだ
「私の事を知らない貴方に比べられる理由はない」ってね(w

渡海は全ての坊主を知ってるわけじゃないし
ここのスレの皆だって渡海の全てを知ってるわけじゃない
渡海が腐った坊主を知ってるように
ここの皆は渡海の軽佻浮薄な主張や議論(と言うより罵るのみ)は知っている
それだけのこったす

さ、俺も坊主呼ばわりされるんだろな(笑)

>>ALL
渡海をかまってしまいました。スマソ
なのでsage
しかし渡海に長文が理解できるのだろうか..
どうせ字面だけの罵倒が返答だろうな
うーん..レスを想像してたら書いたのが虚しくなってきた
727渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/19 18:58
>>726
>自分に否定的

 はて?。僕に否定的?。どなたが?。否定的な方も肯定的な方。肯定的な方も肯定的な方。みんな一緒に南無阿弥陀仏。

>相手は全て

 僕は720,717の名無しさんに申し上げたつもりなんだけどね。あなたはそのどちらかですか。

>坊さんと <お心当たりがある?。720や717と一心同体のお坊さんグループの方ですか?。> 

>思ってるらしい     <妄想でものを言いなさんな>

>なぜにそんなに被害妄想なん? <はて?。どなたが被害?。どこに被害?。どんな被害?。はて?>

>相手を限定しないと自信がなくなるからかい?

 僕は720,717さんに言ったつもりなんですよ。話で相手を限定してはいけませんか?。

>坊主と聞くと批判しか書かないが  <そんなことは無いでしょう。貴方の被害妄想ですか?。>

>渡海より立派な坊さん   <そういう方はゴマンといるでしょう。目立たないようですけどね。>

>たくさん知ってるよ  <そうですか。うんうん>

>この行に反論したくなったら  <反論などはありません。あなたの仰るとおりと思いますよ。>
728渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/19 18:59
>自分に向けて言ってみるんだ「私の事を知らない貴方に比べられる理由はない」ってね   <??>

>渡海は全ての坊主を知ってるわけじゃないし   <無論>

>ここのスレの皆だって渡海の全てを知ってるわけじゃない  <うんうん>

>渡海が腐った坊主を知ってるように  <そんな方は一人も存じません。皆さんいい方ばかりだ。>

>渡海の軽佻浮薄な主張や議論     <御批判があるというのは僕の不徳の至りだ。>

>は知っている    <なるほど。なるほど>

>俺も坊主呼ばわりされるんだろな(笑)   <そういうからにはやはりお坊さんでしょう>

>スマソ         <どなたに謝っていますか?。妄想の中にいらっしゃるようですね。>

>渡海に長文が理解できるのだろうか..  <理解できなかったところもありましたね>

>どうせ字面だけの罵倒が返答だろうな   <どのような罵倒をお待ちでしたか>

>想像してたら書いたのが虚しくなってきた <想像妄想の中で虚しく自縄自縛されてるようですね>

「まともな議論に戻りたい」という意見もある。「まともな議論」「まともでない議論」の違いが僕にはよく分からんが、教義論が好きならあなたがたたき台を出してみたらどうですか?。
729 :02/04/19 19:56
>>727-728
だからどうして>>717>>720がお坊さんなんだよ?
渡海の偽者や渡海が嫌いな奴は全員お坊さんなのか?
自分にとって都合の悪い人間は全員「お坊さん」という名の敵なのか?
>>726さんはそのことに疑問を持ってるんじゃないのか?
お前は日本語の文章読解能力がないのか?
730ベロ ◆od7XM/js :02/04/19 20:03
唯除の文について>>689 で渡海さんのいう様々な視点をお聞かせ下さい。
731ベロ ◆od7XM/js :02/04/19 20:07
もう渡海さんの坊主評価は置いといて、
皆さんも「唯除の文」について意見をお聞かせ下さい。
僕は抑止の意味で受け取ってますが。
732名無しさん@1周年:02/04/19 20:09
日本の腐った葬式仏教を信仰している時点で糞。
733名無しさん@1周年:02/04/19 20:26
論争する必要がそもそも全然ないじゃない。
念仏をただ唱えてればそれでいいんだから。
734名無しさん@1周年:02/04/19 21:51
>>731
そう受け取ることができればそれでよいかと思います。<ALL
735渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/20 08:54
>>729
>どうして717と720がお坊さんなんだよ?

 そんなこたーぁ、僕に聞くんじゃ無く、717と720に直接聞けばいいんじゃないですか?。僕は回答マシーンじゃない。
 誰がお坊さんでも、そんなこたぁ宜しいんじゃないですか?。717、720がお坊さんと思われると、貴方の場合、不愉快ですか?。717、720がもし坊さんなら、坊さんとしては風上にもおけない奴だ。あんなやつが坊さんであるわけない。そういうことを言いたいのでしょうか?。
 717、720がお坊さんだったら、貴方は大変失礼なお気持ちをお二人にお持ちだという話になる。717、720さんがお坊さんであってはどうしていけないんでしょうか?。

>渡海が嫌いな奴は全員お坊さんなのか?  <僕はお坊さんを尊敬しているんだ。>

>自分にとって都合の悪い人間    <勝手に決めつけなさんな>

>そのことに疑問を持ってるんじゃないのか。 <貴方は726の代弁者?代理人?。生き霊?(苦笑)。>

>お前は日本語の文章読解能力がないのか?。
     <勝手に想像しなさいな。お前から「お前」と言われる筋はない。>
736渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/20 08:57
>>730 :ベロ
>唯除の文について>>689 で渡海さんのいう様々な視点をお聞かせ下さい。

 今、大無量寿経論は別のところでやってます。
 <http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/daimu.htm
 この問題だけ議論するとしても、僕の立場は前置も含めて議論は少し長くなりそうです。先人達は大無量寿経をどう読んだかという問題は、唯除文に限らず、非常に面白い議論を含んでいます。腰を据えてむしろそっちでじっくり議論したいと思います。

>>731 :ベロ
>僕は抑止の意味で受け取ってますが。

 いろいろな考えがあっていい。抑止は、いろいろな考えの中の一つだ。抑止論は見当はずれな考えでは決してない。親鸞も抑止という考えを採っている。でも、阿弥陀仏の真意どうこうという話しを入れるなら、少し丁寧に議論してほしい。
 もしそうでないとどこまで分かって言っているんだろうと僕の場合には不安になる。抑止という言葉自体が日常語でない。定義が心配なる。この件では、親鸞の考え方は非常にいいたたき台になる。
737渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/20 08:58
>>732
>腐った葬式仏教を信仰している時点で糞。

 糞とは誰のことを言ってるの?。僕は葬式仏教を信仰してるんじゃない。教行証を敬信してるんだ。

>>733
>論争する必要がそもそも全然ないじゃない。

 論争する必要は無いけど、聞くという作業と考えるという作業は大事だ。論争する必要は無いと言うことで考えることも忘れたら本末転倒になる。正しい論争は、両方の作業を同時に提供してくれる非常にいい機会だ。

>念仏をただ唱えてればそれでいいんだから。

 唯称えては助からざるなり。されば、経には、聞其名号 信心歓喜と説けり。 一帳目
 唯口にだにも南無阿弥陀仏と称うれば、助かるように皆人の思えり。それは覚(おぼ)つかなきことなり。 三帳目
 唯声に出して念仏ばかりを称うる人は、鷹揚(おおよう)なり。それは極楽には往生せず。この念仏のいわれをよく知りたる人こそ、仏には成るべけれ。 三帳目
738渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/20 09:02
>>734
>そう受け取ることができればそれでよいかと思います。
     <貴方は何かの解答者?。判定員ですか?。>
739名無しさん@1周年:02/04/21 22:39
ま、お話にならないから渡海のレスなんてどうでもいいや(´ー`)┌

渡海が2ちゃんでムキになってる時間だけ
リアルの人にかかる迷惑が少なくなると思えばこれまた善行?(w
740渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/22 08:40
>お話にならないから渡海のレスなんてどうでもいいや

 僕のカキコを見て、理屈を越えたいろいろな経験をしていただけているようです。嬉しいです。
 この中には、大量の不要な経験に混じって、数としては極めてわずかだけど、他にかけがえのない非常に大切な経験も含まれていることを祈っています。
 不要な経験と大切な経験との区別は、時間という素晴らしいフィルターがやがて振り分けてくれるでしょう。不要な経験の伴わないところでは、大切な経験もできないでしょうからね。

>渡海が2ちゃんでムキになってる

 渡海が2ちゃんでムキになってる?。ム?。はいはい。いいですよ。渡海はムキになっている。はいはい。決して否定しませんよ(微笑)。

>リアルの人   <リアルの人?>

>かかる迷惑が少なくなると思えば

 <回りのいろいろな人を見ようとすることは大事だ。見えた内容は結果的にはお門違いの我流の想像だったとしても、見ようする事は大事なことだ。>

>これまた善行?(w     <善行といいながら笑っているんなら、まだまだ中途半端だな(笑)>
741こき:02/04/23 02:06
「悪人正機説」だけど平雅行(日本中世の社会と仏教)という本なかで
「興福寺奏状」の貞慶にも悪人こそが第一義的な救済対象であるというような
文言はいくらでもあるとしょうかいされているそうです(コピペ)
浄土教系の独創ではないかも。
アンチ渡海の方々、気に食わないものは傍らに置いて・・・・・
742ベロ ◆od7XM/js :02/04/23 02:27
「悪人」の定義が大事だと思います。悪人正機の悪人とはどういう人の事なのか?
唯除の文とも関わってきますし。単純に考えて父殺しや仏法誹謗するような人が
「悪人」ならば、そのような人こそが救いの目当てになるというのは唯除の文を
素直に受け取るとすると矛盾ですね。唯除の文はそういう「悪人」を救いの対象
から除くと言ってるのですから。だから唯除の文の真意も重要になってくるのでは?
743渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/23 18:05
741 :こき
>文言はいくらでもあるとしょうかいされているそうです

 悪人正機説的な発想はどこにでもある。古来普遍的にある。ありふれた発想だ。無論聖書にだって書かれている。
 幸福なるかな、心の貧しき者天国はその人のものなり。幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。 〜 幸福なるかな、義のために責められたる者。天国はそのひとのものなり(マタイ書)。

 善人こそ救われるともいう。悪人こそ救われるともいう。善人も悪人も全て救われるともいう。仏教は時と場所に応じ、人を見て法を説く。
 相手の器が異なれば言うことも変わってくる。たくさんの文脈の中で、第二文だけを切りだしてきて「悪人こそ救われる」と強調し、意識的に他との間で普遍的な軽重をつければ意味が変わる。
 悪人こそ救われると言う主張は、「善人こそ救われる。あるいは、善人も悪人も全て救われる」という主張との間で軽重があるのか。僕はここを問題にする。
 薬あればとて、毒を好むべからずとも親鸞は言っている。悪を好まん人には、謹みて遠ざかれ、近づくことなかれとも言う。これと、「悪人こそ救われる」とはどういう関係があるのでしょうか。
 悪人こそ救われるという文脈だけを強調すると、善だ悪だという価値観にこだわりがあることになる。善悪の二つ総じてもって存知しないなら、悪人こそ救われるというのはおかしくないか。ぼくはおかしいと思う。
 善だ悪だという価値観に親鸞はこだわりがあった。歎異抄3章はそういう。
 善だ悪だという価値観にこだわりがあったということは、人間として自然なことだ。その上であるとき親鸞は突然、「悪人こそ救われる」と言ったという。僕はここに一生癒されなかった元流刑囚親鸞の深い心の傷を感じる。
744渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/23 18:10
>>742 :ベロ
>唯除の文の真意も重要になってくるのでは

 文の真意と言えば話は分かる。文の真意とは著者の真意。経典を書いた人の真意だろう。文の真意とは、登場人物の真意ではない。登場人物は人形だ。人形に真意はない。むしろ著者の真意が大事なんでしょう。
 「桃太郎は犬を家来にした。犬を家来にすることは桃太郎の真意ではなかった。桃太郎の真意はネコを家来にすることにあった。やむなく犬を家来にした」。もしこういう主張があれば、それはおかしい。劇中劇でもなければ桃太郎の真意などは意味がない。
 真意も仮の思いも、本来は作者に帰属する。語り物は作者の真意が大事なんだでしょ。
 「桃太郎が犬を家来にしたという作者の真意は何か」。こういう文脈なら話は分かる。唯除文も、経典作者の真意は何かということなら分かる。阿弥陀仏の真意は何かとなると、僕には話が見えなくなる。
 大無量寿経は阿弥陀仏が書いたものじゃない。釈迦教団浄土教派のいずれかの継承者が西暦紀元前後に書いたものです。龍樹あたりは一枚噛んでるかもしれない。
 天の神である阿弥陀仏が神がかりして書いたものではない。経典は神託じゃない。大無量寿経を書いた人は、あくまで自分の信念を綴っている。だから、阿弥陀仏の真意どうこうというのはおかしい。経典の著者の真意を探りたいと僕は思う。
745名無しさん@1周年:02/04/23 18:22
>>743-744
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 電波を 感知しました。 危険なので、避難して下さい。 |  
|_______________________| ̄//∨     ☆                   
              / /        \_     _/ _/  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
              /            \  / /  < 電波発信中・・・・
      _         ビビビ           ξ      \_____
     /||__|∧    /               Λ⊥Λ
  。.|.(O´∀`) /                (゜∀゜ ) アーヒャヒャヒャ
  |≡( ))  ))つ                  (渡海)
  `ー| | |                    | | |
    (__)_)                   (_(__)                
                          /      ̄ ̄ ̄ ̄\  
746こき:02/04/23 22:06
悪人の自覚のある人も、自覚をもてない人もひっくるめて悪人であり、すべての
凡夫が悪人だと思ってます。自分を救いうるものが自分の中に無いものをこそ
救うべきでしょう。
唯除の文は自分が除かれる存在であるかもしれないと自分を振り返り自分がまさに
除かれる極悪人であると自覚するためにあると思う。これも二種深心でしょう。
747ベロ ◆od7XM/js :02/04/23 22:36
>>744
渡海さんの考える唯除の文における経典製作者の真意とはいかなるもので御座いましょうか?

>>746
一切善悪凡夫人というのは善人も悪人も凡夫にすぎないと言う意味でしょう。
全ての凡夫が悪人だというのは、ちょっとニュアンスが違うのでは?
全ての凡夫の中には善人も悪人も含まれるんじゃないでしょうか?また全ての凡夫が
悪人であるとこきさんが思うのは自由でしょうが、浄土教以外の仏教には如来蔵思想や
仏性思想などの全ての衆生が本来「自性清浄心」をもっているという思想もありますね。
748ベロ ◆od7XM/js :02/04/23 22:45
2chでも仏教系の実力コテハンとして有名な電波男=ヒロへロさんが
独自の宗教学掲示板を開設されたようです。
宗教学     http://jbbs.shitaraba.com/study/951/fshiso14.html
総合案内    http://jbbs.shitaraba.com/study/912/FSHISO.html
フリートーク  http://jbbs.shitaraba.com/business/28/
749こき:02/04/23 23:06
>>747
自分が悪人だからあの人も、というのは確かに妄想でしたね。突き詰めて
いけば凡夫は全員悪人であり、突き詰めていっても善人だとしたら凡夫
じゃないと思ってます。
そんな悪凡夫に清浄心があるとしてもそれは外から来たものだと。
もしほんの少しでも自分自身に真実を見てしまったらむしろそれを磨きたく
なりそうです。そしてその輝きに目がくらんで僕は念仏をはなれてしまい
そうです。


750ベロ ◆od7XM/js :02/04/23 23:34
僕はそんな真宗優等生的な考え方より自分の中に真実を見つけたならそれを大切に
する方がいいと思いますし、善人を救わないなんていうご本願はないと思いますよ。
老少善悪男女貴賎を問わず一切平等に弥陀の慈悲はかけられていると考えます。
751こき:02/04/24 01:45
僕には救っていただくという気持ちとともに自らの力では救えないという負い目が
あります。そして船も良いけどできたらバイクぐらいのサポートでいいんだけど、
とも思ってます。そして還相と言う口実でこの世を見続けたいともおもってます。
僕はずっと自分はいい奴だという思いと本当は嘘つきだという思いをもっていま
した、そしてそういう自己嫌悪を持つこと自体に負い目を感じていました。
しかし親鸞関係の本を読んで自分の汚さに開き直り、開き直るような自分だから
こそ念仏に賭けてみるかと思いました。
ぼくにとって真実はいつも本とか人とか外からやって来るという感じです。
それと善人の凡夫というのを僕は信じれません、嘘をつかない、人を傷つけない、
自分勝手でない凡夫はもう凡夫じゃないとおもいます。つまりぼくは人を信じて
ない哀れな人間です。
かなりおなにーになってしまいすいませんm(..)m
752ベロ ◆od7XM/js :02/04/24 02:28
あんまり自分を卑下することは卑下慢といって増上慢と同じです。人に優しくできる
時もあれば、横柄な態度を取る時もあるし、自分勝手な時もあれば、他人を思いやる時
もあるでしょう?そんなこんなも全部ひっくるめて凡夫というのだと思いますよ。
釈尊でも阿難に小言を言ったり文句を付けたり、愚痴をこぼした事もあると思いますね。
753渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/04/24 17:19
>>746 :こき
>自分を救いうるものが自分の中に無いものをこそ救う

 僕には意味不明です。私の理解を超えています。
 主語 「自分を救いうるもの」
 目的語「自分の中に無いもの」
 述語「救う」
 「自分を救いうるものが自分の中に無いものを救う」 主語・述語・目的語、どれも言いたいことが僕には伝わってきません。

>べきでしょう。

 べし【可し】助動詞 当然の意。確実な推量の意。可能の意。命令の意。(広辞苑)
 救って当然である。 確実に救うであろう。 救うことが可能である。 救え。
 「べし」の主体は何ですか。「自分を救いうるもの」というのが主体のようですが、当然・推量・可能・命令のいずれであっても、根拠付ける基盤が見えません。

>唯除の文は  〜 自分がまさに除かれる極悪人であると自覚するためにあると思う。
             <私は見解が相違します。>

>これも二種深心でしょう。     <私は見解が相違します。>


>>747
>経典製作者の真意とはいかなるもので御座いましょうか?

 学校運営者は、多くの者に門戸を開くが、重大なルールを犯したり、折角教えようとしていることを非難する様な馬鹿な奴まで入学を許すという趣旨ではない。
754こき:02/04/25 01:11
俺は自分の増上慢に気づいたー>>そして気づいた自分にまた増上慢>>>
以上を繰り返してしまうのでリセット(思考の放棄)念仏
どうも昔からさらっと自然になれない、ひそかに自信満々か自己嫌悪、人にやさし
くしてもすぐ俺っていい奴だなーとか一人で舞い上がってる俺はどんなに間抜けに
見えてるんだろうとか考えてしまいます。
>>自分を・・・
このままじゃ僕はダメだなー、でももうやる気も無いや、他のしっかりした人は
ほっといてこんな僕をこそ救う・・・・
>>べき
親鸞が言うようにそんだけ慈悲深いんなら当然救うだろうしできるはずだ、いや
むしろ救え。
ルール違反もするし文句ばっかりいうくせに救って欲しいなどというやつなど
知らん、いやむしろ永遠に苦しめ。
学校に入れずただ一人自宅で勉強風漫画を読んでるやもしれない自分が見える(W
755ベロ ◆od7XM/js :02/04/25 03:35
754のこきさんはおっしゃりたい事がよくわかりません。
756こき:02/04/26 00:06
すみません、暴走してしまいました。>>自分を・・・以降は渡海氏あてです
卑下することによって自分のプライドを保とうとする癖はなかなかなおりません
そのことに気づいたとしても今度は気づくことのできた自分を優れていると考えて
しまう。やさしい気持ちになっていても振り返れば自分より劣るものを見てきもち
よかっただけ。おそらく自分を肯定する素直さは子供の頃に壊れてしまったように
おもいます。
自分を誇りたいにもかかわらず、そのことに罪悪感を感じるもしくは本との哀れ
な自分が見える。
自然法爾に生きたい、でもこのひねくれた状態が自然なのかかもしれない、自分
の思考に信頼がもてない僕は親鸞のこの教えを試しています。
また支離滅裂になってしまいましたすみません(W
757ノナカヒロム:02/04/26 00:30
心配するな!  こいずみあきお参議院議員という反面教師がいるかぎり。浄土宗の僧侶よ〜ん。
758名無しさん@1周年:02/04/27 20:11
次スレはどうしましょうか?
>>1さんにお任せしますけど。

今回は渡海難のせいで荒れたので、次こそは最初から最後まで有意義な議論をしたいですね。
759名無しさん@1周年:02/04/30 14:16

  ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ
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│   ( ゚ ∀゚ )               最大級キチガイ警報!!!!!!      (  へ    |
|           ( ゚ ∀゚ )           ( ゚ ∀゚ )        ( ゚ ∀゚ )      く      |
└―――──――――――――――――――――――――──―――――――――――――┘
  ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ ヽ(゚ ∀゚ )ノ
   へ  )   へ  )   へ  )    へ  )   へ  )   へ  )   へ  )   へ  )   へ  )
      >      >      >       >      >       >       >      >       >


浄土スレは荒れ果てた砂漠となります。次擦れでは方向性に十分注意を。。。
760名無しさん@1周年:02/05/02 15:17
次スレは浄土宗に限定したほうがいいと思われ。
浄土宗や法然の話題に限定したほうがいい。

真宗や親鸞・蓮如の話題になると、必ず誰かさんが来て荒れるから。
761名無しさん@1周年:02/05/03 23:10
一人のキチガイのために真宗が迫害されているYO!
762名無しさん@1周年:02/05/03 23:14
渡海とその信者ベロは次スレにこないでほしい。
763 ◆SN8T65kQ :02/05/04 05:46
禿同
764名無しさん@1周年:02/05/04 15:21
次スレはこんな感じでどうよ?

浄土宗全般(浄土宗・浄土真宗とその系列・時宗など)の宗派や、念仏を
行じながらも、よりどころとする経典は華厳経・法華経としていた良忍
上人の融通念仏宗や、法然上人の著作と言われている「金剛宝戒秘決章」
など、念仏宗の教義の奥深い世界について語り合って下さい。
なお、前スレでは浄土真宗の話題が多かったみたいなので、今回は浄土
宗の話題を中心にしたいと思っています。

<注意>
・このスレは教義についてのスレであり、既存の宗教団体や寺院・僧侶を叩くスレではありません。
 従って、教団批判や寺院批判などの叩き発言はご遠慮ください。
・渡海難が来ると、議論が正常に進まなくなるどころか荒れ果ててしまいます。
 渡海難とその信者ベロはこのスレに来ないで下さい。
 (前スレは渡海難のせいで一時荒れました。)

前スレ:http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1014353904/
765ベロ ◆od7XM/js :02/05/05 02:35
まだ230もレスができるのにもう新スレ立てちゃうの?
ついでに僕も排除されちゃった。言っとくけど、僕は渡海信者じゃないよ。
法然さんや親鸞さんはどんな人間も拒否したりしなかったと思うよ。
ま、ここも渡海さんや僕が発言しなくなったら随分盛り下がってしまったけどね。
766名無しさん@1周年:02/05/05 10:57
>>765
>まだ230もレスができるのにもう新スレ立てちゃうの?
スレッドの容量が残りわずかになったからね。
現在495KBで、500KBになるとやばいんだよ。
512KBになったらカキコできなくなるから。

>ついでに僕も排除されちゃった。言っとくけど、僕は渡海信者じゃないよ。
それはあなたが渡海難と同じような発言をしたから。
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1014353904/322
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1014353904/345
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1014353904/390
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1014353904/459
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1014353904/514
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1014353904/523
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1014353904/525
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1014353904/527
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1014353904/534
他にも渡海難を擁護する発言があるみたいだけど、このくらいにしておこう。
そうやって相手を「お坊さん」だの「伝統仏教宗派の奴隷」だのと勝手に決めつけてその人を不快にするのは、渡海といっしょだよ。
だから排除されても仕方ないよね。

>ま、ここも渡海さんや僕が発言しなくなったら随分盛り下がってしまったけどね。
それはみんな逃げちゃったから。ここではまともな議論ができないとわかった途端に、最初の頃に来たコテハンが来なくなった。
そして議論を仕切るはずの>>1も逃げてしまった。
もし渡海が本当にいなかったら、もっと有意義なスレになったかもしれないけど。
767名無しさん@1周年:02/05/05 16:52
トラディショナルな立場に対する敵意のようなモノを感じるねぇ。
768名無しさん@1周年:02/05/05 23:07
荒れてレス数が増えるのを自分のおかげで盛り上がったなどといわれもな・・・。
渡海は誰が見てもキティってわかるからいいけど、良識ぶったベロみたいなのが
一番危険でしょ。オウムのときにもいたじゃん。良識ぶってオウム擁護するアフォ。
まさにあれだね。
769名無しさん@1周年:02/05/06 00:07
>768
確かにそれいえてる。
↓みたいな言い方なんてオウムを擁護してた某宗教学者そっくりだね。
>法然さんや親鸞さんはどんな人間も拒否したりしなかったと思うよ
かってに親鸞を全能者にして利用してるしね。
突っ込んでおくとさ、だったらどうして息子と義絶したんでしょう?
他力を自力にして説いたからなのでは?
そんな人が座禅だのなんだのって自力を他力という人をどうして擁護すると思う?
外道を謗るなとはいっても自力を他力という人を親鸞が認めるわけないと思いますよ。
770ベロ ◆od7XM/js :02/05/06 00:47
たぶん769さんとは他力の概念が違うんだと思う。僕は仏教には完全な自力なんか存在
しないと考えるからね。天台も禅も真言も仏教であるからには必ず仏・菩薩・の加護
を受けているんだよ。無師独悟といわれた釈尊でさえも過去七仏の古道をたどって
成道したと言われるしね。いずれにしろ渡海さんを批判してる人は独自の意見はもってない
ようだし、当たり前の答えなんか安心論題を読めばいいだけだしね。ではさいなら〜
771名無しさん@1周年:02/05/06 01:14
凡夫の未熟さまるだしだね。

君達は題目に改宗しなさい。
772渡海 難  ◆0AE5SZ4. :02/05/06 09:04
>>764
>既存の宗教団体や寺院・僧侶を叩くスレではありません。従って、教団批判や寺院批判などの叩き発言はご遠慮ください。

 坊主衆等に対せられ、仰せられ候う。坊主と云う者は、大罪人なりと、仰せられ候う。その時、皆々、迷惑申され候う。さて、仰せられ候う。罪が深ければこそ、阿弥陀如来は御たすけあれと、仰せられ候うと(聞書き 289)

>渡海難とその信者ベロはこのスレに来ないで下さい。

 人にも言い聞かする時、人の口を塞ぎ、相論を戦い勝たんが為に、全く仰せにてなき事をも、仰せとのみ申すこと、浅ましく、嘆き存じ候なり(歎異抄)。

>>767
>トラディショナルな立場に対する敵意のようなモノを感じるねぇ。
   <罪が深ければこそ、阿弥陀如来は御助けあれと、仰せられ候うと(聞書き 289)>

>>768
>良識ぶったベロみたいなのが一番危険でしょ。オウムのときにもいたじゃん。良識ぶってオウム擁護するアフォ。まさにあれだね。

 坊主は、人をさえも、勧化せられ候うに、我を勧化せられぬは、浅ましきことなりと(聞書き 280)

>>771
>君達は題目に改宗しなさい。

 上根の人の為には卑しくとも、我らが為には、最上の法にてまします。たとい自余の教法は優れたりとも、自からが為には器量及ばざれば、勤め難し。我も人も、生死を離れんことこそ、諸仏の御本意にておわしませば、御妨げあるべからず(歎異抄)。
773名無しさん
次スレに移行することさえできないのは哀れですね。
念仏宗の教義を幅広く、奥深く語るスレッドが本当に必要な人が
欲して新たなに語り合う場を生み出す事を念じつつ、
このスレは勝手ながら沈めさせて頂きます。