主イエス・キリストは父なる神御自身でした。この教義こそ、商人が 探していた「高価な真珠」だったのです(マタイ13・45、46)。
∧∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (,, ) < 2ゲットしようと来てみれば .( つ | こりゃまた とんだ駄スレだなぁ オイ | , | \____________ U U
4 :
名無しさん@1周年 :02/02/04 23:43
スウェデンボルグの記述には火星人や金星人が出てきたと思うが、これってどういうこと?
ブルネルスさん、早速ありがとうございました。2番さんも駄すれでよろしければ 寄って行ってください。名無しさん、惑星のこと、またいつか。どなたか、よろしく お願いします。ボーダー住民さん、金曜日に帰りますので、よろしくお願いします。 ノアのところが良く分からなくて、引用が間に合いませんでした。すみません。明日 は4時起きで出かけます。皆さんに主の平和!
>>940 (旧スレ) >ブルネルスさん
レスありがとうございました。お役に立てて幸いです。
「み使い」への言及の有無にかかわらず
語りかけるヤハウェがすべて顕現体であるとのご意見、
確かにおっしゃるとおりです。
後に神の意思伝達は祭司・預言者・天使などによる媒介が主流になりますが、
ヨハネ福音書の神観がある意味五書に近いというのは面白い。
新スレでも皆さんの話をきかせてもらいます。
8 :
名無しさん@1周年 :02/02/05 09:02
>>3 エホ商なんかと比べたらスヴェドボリさんに失礼です。
元カンティアーネリンとして机を叩いて抗議します。
10 :
名無しさん@1周年 :02/02/05 09:36
スウェデンボルグは汎神論的異端キリスト教だろ 今のスコッチメーソンのロッヂには、「偉大なる貢献をした人物」として彼の肖像がでかでかと掲げられているそうじゃないか
11 :
名無しさん@1周年 :02/02/05 10:13
彼の文献は非常に論理的だが、書いてあることは全て虚偽だ
12 :
名無しさん@1周年 :02/02/05 10:18
そうか
13 :
dendo.(1/3) :02/02/05 10:22
徹夜あけなのでいつもにましてだらだら書くんだぞ。 前スレ941 >*そもそも「我あり」と名乗るのは、語りかける相手=人間があってこそ > 意味あるのであって、そういう意味では、顕現体としてのヤハウェにこそ、 > 「我あり」という名は相応しい。 実に興味深い。 ドイツ古典主義哲学には、自我を無制約な定立作用であるというよりは 客観の措定をまってはじめて成立する自他両極性と見なしうる議論があり ますが(vise versa: 客観の措定は主観による認識、「見る」(Sehen)ことを前提とする) 浅学非才の身、ユダヤ思想にそれと並行する箇所がある可能性は 考えてもみませんでした。 ユダヤ思想については概説的な知識しか持ちませんのでたんなる感想に とどまらざるをえませんが、某哲学者にはカントからの引用として 「『私』とはそれによって世界が開ける魔法の言葉だ」という一節があります。 (人間学か?カントデータベース自費で買うお金がないもんで) 「我あり」についてのお説をさかのぼって「はじめ」=「天と地の創造」 にも適応できる可能性はあるでしょうか?
14 :
dendo.(2/3) :02/02/05 10:23
一般に、創造神話は人間にかかわる限りでの自然を取りあつかうものだとしても 多神教神話では可感覚的世界以外の発生や創造(たとえば「掟」の女神とか)が 語られるのが普通です。しかし創世記での「創造」は、どちらの資料にせよ 超感性的世界について一切を語りません。「天」が超感性的世界なのかどうか についての明言すらない(光や星の創造がその後に来ることから超感性的世界 を考えることは可能ですが、いずれにせよこの箇所に限れば「天」を規定する ことは困難にみえます)。一方「人の住む/地」は詳細に規定される。 要約すれば、「人@地」「天」「創造主=神」がすくなくとも創世記一章には 別の規定根拠をもつ存在者として措定されている。そして天は無規定なもの として残されている。 その一方、創世記三章をはじめ、創世記においては神あるいはその御使いは しばしば人とまじわります。というより、創世記全体を通じて「神」は 人とかかわる限りでのみ理解される(一章の末尾を除く)。いいかえれば「神」 と「人=地」の関係だけがそこでは主題化される。それ自体は神話のタイプ として不自然なものではありませんのでここでは問題にしませんが、ここ からでは神が可感的形態を取る形態を排除することは困難なのではないか とも思います。 ところで、御指摘にある「我あり」は創世記にはなく出エジプト記に出現 します。同書で出てくる「偶像禁止」とともに、これは旧約全体を貫く いわば神概念の要石「存在し、かつ可感的でない神」に結びつく概念ですが、 「我あり」自体はたんなる神の自己措定であり、可感性とは独立な概念で あってもよい。モーセは芝そのものを神として崇めることも出来た、かもしれない。
15 :
dendo.(2/3) :02/02/05 10:24
芝じゃねえや、柴ね。 そろそろ長文制限くるはずなので疑問をすぱっと書きましょう。 a. 「見えない-しかも人格的な-神」という神概念が明確になったのは、むしろ 「顕現する(人格的な)神」(ヤーヴェ、あるいはその神)という規定を成立根拠と してなのではないか b. さらに、この関係は創世記一章の、可感的世界-無規定な世界-神によって はじめてユダヤ思想のなかで明確にされえたのではないか ありていにいってしまうと、表象可能な神の概念が先にあり(テラフィムなんて のも出てきましたよね、創世記には)、それと世界の関係性が問題にされていく 過程で表象不可能で規定されない神の概念(ヤハウェ)が登場し、それを世界と媒 介する表象としてかつて直接に神として理解された表象が顕現体として理解され る。その関係を構造化する際に必要だったのが、古い伝承ではさまざまに現れる 「神/の御使い」をいわば buffering する無規定な天だったのではないでしょう か。 ああっ。なんか確実に長文規制にひっかかりそうな気がしてきたので 三分割。 2chには駄弁しか書かない主義なんで読みかえさないで流しちゃうんだぞ(藁
16 :
dendo. :02/02/05 10:28
あ、numberingしまちがった。
ちょっと仮眠してくるわ。
>>15 は (3/3)ね。
17 :
名無しさん@1周年 :02/02/05 10:29
瞬間神 Augenblichsgotter って一言で言えばどう。
>>9 >>13-16 dendo さん
なんか、深夜まであちこちでご活躍と思っていると、午前中からこういう難しい
長文をものされるという、お元気なのかそれとも・・・と、ちょと心配にも思え
てきて。
>>3 についての抗議には、「いやー、悪い、悪い、あはは」です。
私も昔「視霊者の夢」くらいは演習で読んだことがありますが(いや、学生とし
て)、前スレの前の方でだか、カントはその後スエ評価を変えたとか誰か書いて
たような。それってほんとですか?元カンティアーネリンさまに、おそれつつう
かがいますです。
>>13-15 dendoさん
|a. 「見えない-しかも人格的な-神」という神概念が明確になったのは、むしろ
|「顕現する(人格的な)神」(ヤーヴェ、あるいはその神)という規定を成立根拠と
|してなのではないか
|b. さらに、この関係は創世記一章の、可感的世界-無規定な世界-神によって
|はじめてユダヤ思想のなかで明確にされえたのではないか
うん。基本的に同意。しかし、ドイツやってる人はこういう難い表現が得意で
すねえ。私だったら次のように言っちゃう。
そもそもさあ、「ある」って日本語でいうときって、「探して見つける」とい
う言語ゲームにのった用法になっていると思わない?「ない、ない」といいな
がら財布を探す――「机の上に〈ある〉よ」と教える――「ほんとだ、
あった、あった」→ 「Xはある」とは「探せ、そうすればXを見出すだろう」
ということである。(「いる」も同様のゲームだが探し方が違う:省略)
なお、日本語では、探して見出すゲームとは別の語もある:「出る」だ。月は
探しにいくわけにはいかないので、ただ待つ(立って、座って、寝て)。する
と「月が出た出た」となる。この山には「熊が出る」、この屋敷には「お化け
が出る」エトセトラエトセトラ。
また人間相手には「会う」のであって、ここには私と相手との相互性があり、
また「出会う」は探すことなしの場合をいう・・・。
「顕現体」としてのヤハウェは、「出た」んだな、つまり。
顕現体なるヤハウェがそれの顕現である〈それ〉は、探しても見いだせない
んだから、それは〈ある〉を超えた〈ない〉なんで(と否定神学)。
で、その辺のところを了解しつつ、「探して会おう」ってえのがギリシア教
父の「人間神化」テオーシスの問題で、使徒行伝17章がその走りだ。
>19の続きだ: |b. さらに、この関係は創世記一章の、可感的世界-無規定な世界-神によって |はじめてユダヤ思想のなかで明確にされえたのではないか ヨハネを離れて、モーセ五書の神学ということになれば、それはまたそれ で、おもしろいんでしょうねえ。皆知ってるのが、創世記第一章ではエロ ヒムなのが、第二章でもう一系統の創世物語りが出てきて、ヤハウェが神 の名になっているという。ヤハウィストの神学ってえ話。 マリアさんが前にヤハウェとアドナイの区別について言ってたけど、そ れってここの、エロヒムとヤハウェの違いにならないだろうかね。 第一章の世界創造は、人間がどうころんでも目撃できない視点で書かれ ている。タイムマシンで遡ったって目撃できない。まあ、創世神話なん てこんなもんさと言われりゃあそれまでだけど、それなりの神学がうか がわれるような気がする。だから、顕現体じゃない神が主体なんだと思 う。 第二章のほうは、人間に目撃可能なんじゃないか(いや、もしその場に 居合わせたら、こう記述できるような書き方)。人間との関係において、 登場するのがヤハウェ。 ヤハウィストとエロヒストだっけ?、二系統のソースが合わさって、と いう成立の話はそれとして、ここにある記述の視点の違いからして、神 が呼び分けられているのは当然と思ってしまうのだ。 パウロにも創世記解釈が彼の思想の基礎としてあると思うけど、ヨハネ にとっても重要で、だから1章冒頭は創世記冒頭と呼応させて書いてい て、創世記一章においても顕現体ヤハウェがそこに居合わせて、役割を 果たしているんだと、言いたいんじゃないか。それには箴言8章などの テーマがすでにヒントとなっているかもしれない。 *当方も長文規制違反を繰り返しているようだ。
22 :
dendo. :02/02/05 16:14
Kantianerin つっても卒論の頃の話だからブルネルスさんのほうが
下手すると読みこんでるんじゃないかなあ(爆)
>>20 いや、実をいうと、いま校正やってる原稿の鍵概念のひとつが
「受苦する神」なんですよ、だから息抜きでもあり自分の立ち
位置の確認でもある。つーか油挿しですなむしろ。
てか、自分でも書きだすまえは自分がこんなこと考えてるとは思いもしなかった。。
うう。いい加減本格的な仮眠(アンティノミーだなー)を取りたいのですが
郵便屋が来ないと眠れねえ。。なので眠けざましに書きつづけます。
私見ですが「再評価」ということはありえない。むしろ一定の点を批判し、
別の面を評価していた、ただ後者は Traums ... の問題設定とはずれる
ため書かなかったし書く必要もなかった、だがもう少し非公式な場では
後者に触れることもあった(当時読まれていたから、学生の注意を引くには
よい話題だったという側面も考えられると思われます)、ということでは
ないのかな。
再評価というのはたぶん Nachlass の言及をいってるんだと思うんですが
(たしか講義で Swedenborg に言及しています)、
Kantが評価したのは、Swed.がたとえば「天国も地獄も人の心のなかにある」
みたいなことをいう文脈においてだけであって、
知性的世界をたんなる超越としてではなく、むしろ可感的世界の認識から
遡航的に思惟可能なものとして捉える限りではなるほど両者は一致しうる。
しかし TdG は知性的世界を経験的形象によって叙述することを
批判していたはず(と記憶に頼って書く)。
そうである限りにおいてですが、(調べろよ>じぶん)
この論文は批判期の知性体認識に関する問題設定を先取りしているといえましょう。
だとすると、ここはたぶん、Kant としては絶対にゆずれない一線で、
まだヤコービの批判を検討するほうがありそうな話だと思われ。
だからTdGでの批判を撤回しての再評価なんていうのは、いいとこどりにすぎるのでわ。
あのときつっこめなかったからいまつっこんどきます。あーはやくこいこい
郵便屋。
23 :
dendo. :02/02/05 16:32
あと
>>19-20 の平易さと、自分の駄文を比べてみると
これが公募受かる人とぞうきんがけの差なのだなあと
反省してみるテスト。
もっとがんばりましょう 2点
>23 差はねえ、年の差なの。 または、英米軽薄言語哲学系とドイツ重厚観念論周辺系の差。 眠いのを我慢して、郵便屋を待っているのと、しょうもない仕事がいやで (今も何回も事務に行って交渉して、お膳立てして、をやっている)、 かといって締切りを過ぎた校正をする気にもならないので、ここで遊んで いるのの差かな。
>22 はあはあ、カントのことよく分かりました。スエを再評価したというのが デマだということで。 「受苦する神」というのも興味ある。ルターを連想してしまう(ドイツ系 に敬意を表して)。 彼の場合、「隠れた神」は「受苦と十字架に」隠れた神で、その「背後」 posteriora を見る者こそ、神学者に相応しい、のだ。 当方、これでもルター萌え(あ、言ってみたら気色悪かった――けど消さ ない)。
26 :
dendo.%ボケ担当 :02/02/05 17:22
うーん軽薄かなあ。……まあ対岸のお国に滞在の長かった某氏が デイヴィッドソンとかみんなファーストネームで呼ぶので学生が困ったとかいう 伝説があるくらいだからなあ。 でも軽薄ってのと違うでせう。日常言語によって語りうる世界に住まって いるとむしろいいたい。 重厚をきどってDQNぶりを隠蔽するドかん系よりは そういう態度のほうが好ましいと思いつつ、 「おばちゃん、なにいってるかよくわかんない」と食卓の会話で 甥%小学生につっこまれています。この前自分のサイトの文章を 文体による態度判定チェッカにかけたら 「50代、常識人だがよそよそしい態度」 っていわれちゃったよ。趣味サイトなのに(爆)
といっても受苦するのは神じゃないからなあ。正統神学では。 でもそれを「神の受苦」として捉える視点をもたないと 神の構造のなかではたぶん有限性が導出できない。 「作った」ってのはたんなる事実の陳述であって、 その構造はブラックボックスのままだしね。 その意味ではバーゼルの元教授がののしる「チュービンゲンの害毒」は チュービンゲンやましてヴォルムスやヴィッテンブルクから来たのではなく、 ニカイアから来たというのがより正しいと思はれ。 「完全な人性と神性」を並べるってのはアポリアでしかない、だから 小さなヨハネがつまづいたり、アリウス派みたいな態度が出てきたりも する。 その意味では私も正統教義の教える三位一体を、存在のまったき把握として 受けいれていないんだろうな。これから受洗を望む人間にはあるまじき態度なのかも しんないけど(藁 でもこのアポリアがなかったら、たぶん西方世界の思想の展開は こういう形にはなっていない。まあ、そのときどんなだったかを 想像するのは楽しくもないですが、グノーシスがそれを解決してる かってのに私は実は懐疑的なので、たぶんこうはおもしろくなかった のではないかな。というわけで三一性には意義がある。そしてその意義は まだ、というか永遠に汲みつくせない。 唯物論屋さんや、分析屋さんみたいにそこから立ちさっていくのじゃないかぎりは。 以上ひとりごと。くーもしかして郵便屋さんのベルを聞きもらしたのかな。 ねちゃうぞ、もう。 あ、1が当分来ないんだっけ。じゃ追随してsageときいます。
ん。いまみたら二段落目一行目の「だから」は論理的にも歴史的にも 接続しとらんな。まあいいか。こんど暇なときに埋めよっと。「神の 自己導出」としては同じ問題系に入れてもいいとは思うんだけど、 そこから先はちょいと今は手に余る。
ブルネルスさんとRomさんのレスは良かったわ。 ただ、モイゼ以前と以後では異なった価値観があったらしいと 言い伝えでは聞いているから・・・。 それ以前のものはどうやら、 日本の以前の神道の、氏神信仰と似ていると感じるのだけどね。 明治以後の中央集権政策で、かなり怪しくなりつつあるけど・・・。 ユダヤ人自身が、日本の風習や神道祭儀に妙な懐かしさを覚えるというしね。 (まぁ、あたしにこう言ったユダヤ人はゲイ=外道だったけど・・・。 「日本人になって、神道に改宗しようかな?ゲイ禁止じゃないし」とか言ってたわ) さて、言い伝えによると、 あたしのいうアドナイを、ヤハウェの顕現体と考える見方は良いと思うわね。 また、ヤハウェが天に在る神と人間に現れる神の二種類あったと考えることも可能ね。 ただ、母の先祖達は両者を分けてヤハウェを呼ばなくした・・・。 あたしはエジプトの宗教は良く知らないけど、 もし、神道のような神系列があるなら、 エジプトの秘儀の影響もあったとは考えられます。 モイゼが本当に王族に育てられていたなら、 もしくはその周りのレビ族たちも、 自分たちの秘儀にエジプトの秘儀をプラスさせて通じていたなら、 ひょっとしたらの可能性もあるわね。
31 :
ボーダー住民 :02/02/05 22:49
……うーん。なんかこう、学者って……、抑圧されてんのかねぇ。 大学の先生の飲み会って、こういう感じ? まあ、こういう会話が続くのも、おかしな客が淘汰されていいのかもね。 それなりにやりかけていることはあるのですが、三位一体論駁なんかじゃないので、 (んなことして何すんの? 三位一体反証がすべての問題を解決するというのは、主義者の妄想だ。) で、まだ、何にも……なので、とりあえず皆さんのお話を伺っています。 dendoさん、も少し「日本語」にしてね。 でも、それをブルネルスさんがミョウに意訳してくださると、そっちのほうが難しかったりするんですが。
>>20 なかなか興味深いわね。
イスラエルの民の伝承は、色んな氏族の伝承の寄せ集まったものらしいから、
その説は十分に考えられること。
神道だって色んな氏族の伝承の寄せ集めだし・・・。
天皇家は、どちらかといえば一神教に近い信仰を持ち、
それ以前からの民は、多神教信仰を持っていたし・・・。
33 :
名無しさん@1周年 :02/02/06 00:13
下記のスレにイエス・キリストを取り違えてリトル・ペブルを礼賛している者がいます。
さらにはこの者、キリスト教とは言いかねるような異端的教義による脱会者の引止めや未信者の洗脳まで計画しています。
そこでどうか、皆様にお願いです、どなたかお心ある方、この者を説得して下さい。
そして彼が現在執り憑いている一人の信者と、これから彼が洗脳するであろう幾人かの未信者の将来をLPから解放して下さい。
リトル・ペブルスレッド
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1011930126/
34 :
461改めVaisravana :02/02/06 00:24
dendo.さん、こちらで改めて質問します。 イエスによる創造についての解釈のことでしたが、少し整理します。 創造に先立って神と共に存在し、創造を行なったという新約の記述、 傍証として箴言の記述は、キリスト教的三位一体を前提にした場合納得できます。 神とイエスが同一乃至包括されない別の存在であるとすれば、 [イザヤ44:24]の記述には沿わないと思われるので、ヨハネ福音書等のイエス像が 後世の創作による神格化に過ぎないと理解できます。 それではイエスを神と同一視しないエホバの証人は、どのようにしてイエスを 神と創造を行なった創造主と理解するのでしょうか? ご意見、宜しくお願いします。
35 :
dendo. :02/02/06 09:13
>大学の先生の飲み会って、こういう感じ?
まあおおむね。で、話がころがって最近のストライクゾーンの設定は
妥当かどうかという話になったりする。
つかブルネルスさんはともかく、私は聖書解釈学プロパーじゃないので
掲示板に書くようなお気楽な話しかしてないつもりなんだが。
てか本当に論文のネタにするつもりなら 2ch になんて書きません:)
>>34 JWだとすべての創造の最初が子の創造だと教えますね。
だから子は被造物であり、かつ自分以外のすべての創造に関与する。
ただしJWの教義では「創造主」はあくまでも神だけを指し、
子が創造主と呼ばれることはなかったと思います。
詳しくはエホ証スレ(たくさんある)で聞いてね。
36 :
ボーダー住民 :02/02/06 21:15
>31 なんか、申し訳ない茶化し方をして、まずかったなと反省してます。 うちの天使が、いろいろ言うもんで、こういうのに弱いんです、私。 「先生の前ででしゃばったりして、無芸をさらけ出すんか?」とかね。 ホントに、言われりゃイチイチその通りなんで。 で、この手の予言が結構当たってるもんだから、どうやって引き際を決めるかな、 と。ビビリつつ考えた末の>31だったんですが、 いろいろ教えていただいておきながら失礼してしまいました。 エー、皆さんのことは尊敬しております。 で、あと、うちの天使が来て喋るかもしれないので、その時はよろしくお願いします。 それで、あと、マリアさん、 >あたしのいうアドナイを、ヤハウェの顕現体と考える見方は良いと思うわね。 ということですが、ヤハウェの顕現体=イエス・キリスト だとすると、「一つの神のうちに永遠に区別される三つの人格」のほうは、……?
キリスト教徒は、主と呼ばれるイエズスや聖霊によって 父を知るわけで、これは姿を現した神ということになる。 イエズスがヤハウェの顕現体であるという意味は、 イエズスが神のものであるという意味だから、 格は区別はされるけど、同じものでもあると明確に言えるでしょう。 また、この神と本体のものか?となった時、 イエズスは言葉の性格を持っていることから、 確かに同じとはいえるけれど、イエズスは父ではないとなるの。 イエズスや聖霊を通して父の意思を知ることはできるけど、 イエズスや聖霊を通さずに、父の意思を知ることは不可能だから。 人は言葉や霊を通して神の意思を知るけど、 本質そのままを、何も見ずに、聞かずに、 感じずに知ることは出来ないもの。 これは、全ての被創造物がある限り、永遠に区別されうるでしょう。 しかし、イエズスや聖霊の本質は父であるわけで、 この三つの作用は父のものであるから、 区別はされるけど、これらは常に離れることなく一体であるわね。
えーと、なんだっけ。 Xの顕現体 と Xそのもの とは同じかどうか ということかな >36 ボーダー住民さんのつっこみは? 「同じ」とはどういうことか、ということになる。 私とあなたは「同じ人間」だけど「同じ人」じゃあない。 種的に同じ、ってえのと、数的に同じ、ってえのとの違い。 だけど、こういうことって、それぞれの存在の仕方の違いによっていろいろ ちがってくる。 一年前の私と今の私とでは、細胞レベルというか、物質レベルでいえば、 相当違うものになってきている。同じというときに、対象をどう把握した うえで言っているのか、ってなことね。 で、神という超越的な存在について、高々人間のあり方をモデルにして 3者は同じなの、違うの?って言っても、背伸びしても見えない塀の向こ うを除こうとしているようなもんで。 ということで、 >37 マリアさんの見解に結局は基本的に異論なし。
>で、神という超越的な存在について、高々人間のあり方をモデルにして >3者は同じなの、違うの?って言っても、背伸びしても見えない塀の向こ >うを除こうとしているようなもんで。 ええ、あたしも本当の事をいえば結局はそんなところ。 あたしが見たものは、ただのその一面でしかない。 スウェーデンボルグが見たものも、その一面でしかない。
40 :
Vaisravana :02/02/07 00:10
>>35 >詳しくはエホ証スレ(たくさんある)で聞いてね。
えっ!?dendo.さんがこちらでって言われたから来たのに……???
41 :
dendo. :02/02/07 00:40
三位一体をはじめとするキリスト教の神概念ならこっちの話題だけど 「エホ証の神概念」だったらスレ違い。 エホ証の神概念はエホ証に語らせればいいと思われ。 (そんなものあるのか、って話はおく)
42 :
ボーダー住民 :02/02/07 21:03
>Xの顕現体 と Xそのもの とは同じかどうか >ということかな >36 ボーダー住民さんのつっこみは? うーん、ま、それもあるようにも思えるけど、ちょっと違うようにも思えるんですけど。 >で、神という超越的な存在について、高々人間のあり方をモデルにして >3者は同じなの、違うの?って言っても、背伸びしても見えない塀の向こ >うを除こうとしているようなもんで。 と言われると、もう、身も蓋もないので、そこでヨハネが食い下がるわけです。 「どうして神が解からないって言うんですか!!!」とね。 ま、それ、理性の限界ですよね。 「イエス=ヤハウェ」だとすると、 「父」「子」「聖霊」は、三人格じゃなくて、二人格になりそうなのが、普通の算数ですよね。 でも、私が、ちゃんと三位一体を理解していないのでこれが解からないんだったらもう一回勉強したいので これ、あんまり言いたかないんだけど、 「三人格」の「人格」ってのは、どう定義されるんですか? で、三が二になったり、一になったりする、とか言われていたんです、前のスレッドで。 それは、聖書的には、どういう箇所でそう言われるのかしらとか、これも勉強不足かなあ。 私、三位一体論なんて、ホントのところ、あんまり詳しくないんです。 ていうか、こんなことが世間で議論になるとはあんまり考えてなかったので、 真面目に勉強してないんです。おはずかし。 なんで、二になったり一になったりするのに、「永遠に区別される三人格」なのかしらんと思ったり。
横から入るけどごめんね。 ブルネルスさんの方がまともに答えるだろうけど・・・。 >「イエス=ヤハウェ」だとすると、 >「父」「子」「聖霊」は、三人格じゃなくて、 >二人格になりそうなのが、普通の算数ですよね。 父は本質を指し、子は父の顕現体だけど、 人の体をもった現れた顕現体であって、それ自身ではない。 人は、子や聖霊を通じて父の意思を知るからね。 >「三人格」の「人格」ってのは、どう定義されるんですか? 神が人などに伝える手段とか、 人に顕現させるとものと言い換えてもいいかもね。 言葉によって伝えたり、 霊的な技を通じて人に知らしめたりするからね・・・。 本質だけではそれと人は理解出来ないけど、 言葉や聖霊が起こす霊的体験を通してようやく理解するものだからね・・・。 まぁ、あたしは学は無いから見たものしか説明できないけどね・・・。
>>43 マリアさん、ありがとうございます
>>42 ボーダー住民さん
これまで、父と子の話(ヨハネ伝がらみの)だったので、聖霊については
言及してませんでしたが、(つまり、ここまではニカイア信条の範囲だった
のだ)、「聖霊は?」と言われれば、それはそれで言うことはいろいろ
ありまして、(そうなってやっと、コンスタンティノープル信条レベルだ
旧約における神の霊理解がどうしたこうした、それをヨハネはどうしたこう
した、です。
今日は出張先ホテルなので、ゆっくり書けませんから、また今度。
>>44 いえいえ、あたしには伝え聞いた話と体験しかないからね・・・。
46 :
ボーダー住民 :02/02/08 09:32
>「聖霊は?」と言われれば、それはそれで言うことはいろいろありまして そっりゃあもう、私だって、言いたいことはありますよ。お世話になってますからね。 だからますます、3というのがね。日本神道の3はまた別として、三人格というのは 聖書の字句をまとめるために、便宜上つけた数字じゃないかとまで思うわけです。 ていうか、聖霊のあたりは、スウェーデンボルグによって、ほぼ完全に符合しました。私としては。 >>「三人格」の「人格」ってのは、どう定義されるんですか? >神が人などに伝える手段とか、 >人に顕現させるとものと言い換えてもいいかもね。 この言い方、わりと解かり易いですよね。 でも、手段というのは人間で言うと道具になっちゃうようで、 普通に考える「人格」という言葉とはすこし違う。 けど、 >ゆっくり書けませんから、また今度。 と言われるブルネルスさんのお話を待ってもいいかも。 ブルネルスさん、よろしくお願いします。お忙しいのにすみません。 出張なんですか……。私も出張したーい。 ということで、マリアさんの見られたものには、三位一体なんかよりも、凄く興味があって その話を聞きたい気もします。 >言葉や聖霊が起こす霊的体験を通して って、霊的体験ってなになに? で、あと、「言葉」って、聖書のことですか? 聖霊は言葉ないの? お暇なときにお願いします。
47 :
小さなヨハネ :02/02/08 23:16
こんばんは。今日帰って来ました。皆さん、たくさん書いてくださって有り難う ございます。前のスレッドの最後のあたりから、少し読ませてください。
48 :
ボーダー住民 :02/02/09 13:11
空いているときには主張しておこう「宗教戦争撲滅キャンペーン」 (宗教戦争の話を蒸し返して、申し訳ありませんが、 戦争で一番被害を受けるボーダーラインとして、居住権主張のため) マリアさんの言っておられる内容の、 天之御中主神=ヤハウェ=天地創造の神 天照大神=アドナイ=民族の神 ということは、たいへん興味深いことで、いいこと教えてくださったと思います。 で、スウェーデンボルグでは、国とか民族というのは霊的には宗教の象徴である、 となっているんで、宗教戦争反対運動家?の立場として、ちょっとだけ。 つまり、狭量なキリスト教会が言っている「イエス・キリスト」は、キリストをアドナイ、 すなわちキリスト教民族の神のポジションに置いているということです。 狭量なキリスト教会の神は、自分とこの神様はアドナイなるキリストで、 真の神様だと言っているわけで、それは一面本当なんだけど、 >つまり、人に善意を教える宗教はキリストの守りの内にあり、唯一の神であるキリストは、 >心から唯一神を求める人は、神の名を何という名で呼んでも、その人の信仰心に答え、そこにご自身を置く。 と書いたんですが、「イエス・キリスト=YHWH」つまり、イエスは全世界すべての民族を創出した神であり 実は、その真の神様は、全世界のすべての民族の神である。 YHWHが、全世界のすべての民族を何と思っているかについて、 狭量なキリスト教民族は、「イエスは、キリスト教民族のアドナイであるからして、 他宗教には答えず、他宗教を憎んでいる」とする。 スウェーデンボルグは 「イエスは、YHWHであって、宗教的知識に関わらず、各宗教民族にとってもアドナイであり、 心から唯一神を求める人を愛し、その人の信仰心に答える」 と、解説している。
49 :
小さなヨハネ :02/02/09 20:19
ブルネルスさん、 前のスレッドの903以降で使徒ヨハネが主(イエス・キリスト)はエホバで あるが、さらにその背後にエホバ(主)を使わした見えない父なる神がいると 考えていたのではないか、という御主張をされているようにお見受けしました。 しかし、それはやはり不自然だと思います。 何度も申し上げますが、当時、神は一人というのが旧約の常識だったはずです。 神が二人いるなどと言ったら、まず石打ちの刑で殺されたのではないでしょう か?従って、当時の信仰とは、神はエホバ一人であり、主がエホバと信ずるか 否かしかなかったのではないかと思います。ヨハネはそれを最もよく信じた一 人であり、他のユダヤ人たちは信じなかったというだけだろうと思います。
50 :
小さなヨハネ :02/02/09 20:20
romさん、前のスレッドの935で、romさんは、主もヤハウェの使いのよう に言っておられました。なるほど、旧約にはヤハウェの使いがたびたび出て来て いたと思います。しかし、だからといって主もそうだというのは根拠が不足して いるのではないですか?主はそれらとは別格の存在として書かれてはいませんか? イザヤ7・14 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。 イザヤ9・5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。 その名は「驚くべき指導者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と唱えられる。 ヨハネ1・1、11、14 言は神であった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
51 :
小さなヨハネ :02/02/09 20:27
>48ボーダー住民さん 確かにキリスト教で主は神と言ってはいますが、個人レベルで主を本当に神と 信じているクリスチャンがどれだけいるか疑問です。(ボーダー住民さんも、 もちろんそのことはご承知の上で、婉曲に表現されたのだろうとは思いますが。) ブルネルスさんのように、主は人であったが、後に神格化されたとはっきり おっしゃる方がいます。ブルネルスさんはクリスチャンではないそうですが、 クリスチャンでもそう思っている方は多いのではないでしょうか? (クリスチャンならアリウス主義と言うのでしょうか?) 父と子と聖霊を別々の存在と認識している方は、恐らく父を神と思い、子で ある主は神ではないと思っているのではないでしょうか?
>この言い方、わりと解かり易いですよね。 >でも、手段というのは人間で言うと道具になっちゃうようで、 >普通に考える「人格」という言葉とはすこし違う。 神から見れば手段。要するに、言葉と霊は本質と共に在る存在。 人から見れば、これは人格に見えるのよ。 だって、全てを司る父と言葉を司り導く子と霊を司り導く聖霊の働きは、 それぞれ別だからね。 ヤハウェとアドナイの使われ方が違うように、 父と子と聖霊は、使われ方が違うもの。 あたし達神道の人間が、山や海に人格を当てはめるのと同じ。 子と聖霊は父のものであっても、父自身ではないからね。 それから、神道の世界では天照大神に眷属を通じて通じることが出来ても、 天之御中主神とは通じることが出来ないと考えていて、実際にそうなの。 これは、人はアドナイとは通じれるけど、ヤハウェとは通じれないのと同じ。 しかし、スウェーデンボルグは独自の解釈を取ったようね。 イエズスの本質の部分に注目して、イエズスは父だと解いたようね。 確かに、人には父は人の目の前には現れないから仕方ないと思うわ。 人が内面への探求で知りえるのはエロヒムからアドナイまで。 父の世界は、言葉と聖霊によってしか理解出来ないからね。 そのままでは、まだ理解不能な世界だから・・・。 霊的体験とは、日常の事件から宗教的な事件まで様々あるの。 実は、人間は生きていること自体が既に霊的体験を行ったり、 感じたりしているものよ。
>>49 それは常識でなく、非常識だったのが旧約の時代。
アドナイは一人というはなしだったのよ。
それから、エホバなる神は後世の創作。それははっきりさせておきます。
そういう意味で、主なる神とはアドナイの本質はヤハウェである。 とまぁ、こう言っているわけ。 イスラエルのアドナイの本質は、ヤハウェである。 それと同じように、三位一体論でも 子は人を言葉により導く、聖霊は霊によって導く、 それらの本質は父であり、父から出るもの。 また、子は言葉により霊を出し、本質と同じ働きを人に行う者。 そういったところで、これらは離されている者ではなく、 父が無ければ、無いもの。 言葉と霊の三つの働きによって本質を知り、 人は神を認知することができるから、人から見れば三位一体。 スウェーデンボルグは、 アドナイであるイエズスから本質ヤハウェを見たわけ。 しかし、彼はイエズスが現した本質である父と、 イエズスは同じものでなく父自身だと認識したということね。
>>50 それは、アドナイを指す言葉であって、
ヤハウェを指す言葉では無いとあたし達は認識するわけ。
何故なら、父とは隠語で祖を指す言葉でもある。
祖とは、一般的に先祖を指すけど、本来の意味は主<神を指すの。
一族を率いる者とか、そういう意味もあるらしいの。
そういうところから、それはヤハウェを指すものではなく、
アドナイとその本質であるヤハウェを指す。
もうユダヤ人達は、忘れてしまっているかも知れないけれどね・・・。
>>51 割り込んで悪いけど・・・
>父と子と聖霊を別々の存在と認識している方は、恐らく父を神と思い、
>子である主は神ではないと思っているのではないでしょうか?
子の本質は父ということで、子は父を現す神であると、
多くのキリスト教徒なら認識しているわ。
何だったら教会の神父さんに聞いてみてごらん。
57 :
ボーダー住民 :02/02/09 22:33
……マリちゃん、オコッテル? てことないよね。 私は、あまりユダヤ教のことは知りませんが(スウェーデンボルグのことも知りませんが) ユダヤ教というのは、わりとスウェーデンボルグ的じゃないかと思っていたが、 あまりそうでもない様子。 >51 >確かにキリスト教で主は神と言ってはいますが、個人レベルで主を本当に神と >信じているクリスチャンがどれだけいるか疑問です。 そりゃあね、あんた、違うよ。あんたのその狭い了見で、他人様の信仰を決めつけちゃ駄目だって。 三位一体は「神秘」なんだからね。とりあえず。 キリスト教会は、要するに、解からないことは解からないなりに、 分析不能でもアーメンって、それを受け入れてるんだ。 (この場合スウェーデンボルグ的解釈ではなくてだけど) 夜通し漁をして一匹も魚が取れないところに主がお出でになって 「もう一回船を出して、漁をしろ」と言われたら、 漁に不向き昼前と知り尽くしたペテロでも、非常識だと言わないで、船を出すんだよ。 そういう涙ぐましい従順でもって、主を愛そうとするんだよ。 キリスト教会は、教会なりに、神を愛したいから、 聖書に示される神の姿を受け入れたいから、三位一体の教理を生んだんだよ。 あんた、キリスト教会に行ってても、本当は解かってないよ。 あんたも、観点は迫害者たちと変わらないよ。立場が弱いだけ。
>>57 怒ってないわよ。本来がこういう口調なのよ。
よく誤解されるんだけど、普段が巫女でしょ。言葉遣いが大変なのよ。
お子様からお年寄りまで、
日々氏子さんに囲まれて生活しているわけだし。
ここに出ているときが、唯一自分を開けっぴろげにできる時間なのよ。
59 :
ボーダー住民 :02/02/09 22:57
ブルネルスさん >>「イエス=ヤハウェ」だとすると、 >>「父」「子」「聖霊」は、三人格じゃなくて、二人格になりそうなのが、普通の算数 が、 >これまで、父と子の話(ヨハネ伝がらみの)だったので、聖霊については >言及してませんでしたが、(つまり、ここまではニカイア信条の範囲だった >のだ)、「聖霊は?」と言われれば、それはそれで言うことはいろいろありまして、 というお話しに飛んでしまって、 >そっりゃあもう、私だって、言いたいことはありますよ。お世話になってますからね。 ということになってしまったんですが、どうもすみません。 「イエス=ヤハウェ」の話の最中でした。 >>「父」「子」「聖霊」は、三人格じゃなくて、二人格になりそう というのは、「聖霊」は置いといて、「父」と「子」は、一つにまとまるので、 3から1減りませんか? という話のつもりだったんです。すみません。 だから、聖霊の話は、後でいいです。でも、聞きたいです。 お仕事済まれましたか?
さて、本題に入るわね。 ユダヤと言っても色々変化しているもので、 あたしの母の先祖の時代と今のユダヤ人が 同じ信仰をしているかと言うと、多分異なってきているでしょうし、 そういう意味で、ある時期からのユダヤ神観と スウェーデンボルグは、ある意味近い部分もあるかも知れないわね・・・。 ただ、昔のユダヤ人は自分たちにアドナイがいるように、 他の民にも主神がいると考えていた。 そして、今になって日本の神道を懐かしがったり、羨ましがる。 でもそれを受け入れたら、今のユダヤ教とは整合性が無い。 そんなところから、イスラエル十支族説を出してきたのかもね。
61 :
小さなヨハネ :02/02/10 00:11
>53マリアさん
>>49 それは常識でなく、非常識だったのが旧約の時代。
>アドナイは一人というはなしだったのよ。
神が一人というのが当時非常識だった、ということはさすがにないと思います。
前のスレッドでもいくつもご紹介しましたし、皆さんもよくご存知のように、
旧約では何度も神が唯一であることは書かれています。彼らが主を神と信じ
なかったことは事実でしょうが、だからといってかれらが神を複数いると考え
ていたということにはなりません。だからこそ、主は殺されそうになったのです。
ヨハネ5・18
「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになっ
た。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神
と等しい者とされたからである。」
>それから、エホバなる神は後世の創作。それははっきりさせておきます。
それも、ちょっと、どうでしょうか?!
根拠があっておっしゃっているのですか?
62 :
小さなヨハネ :02/02/10 00:12
>54~>56マリアさん、 同質云々は「一体」、「一つの存在」という説明にはなりません。 その同質云々こそ後世の作です。それ以前の原始キリスト教会においては、主を 唯一の父なる神・エホバご本人と認めるか、否かしかなかったのです。
> そんなところから、イスラエル十支族説を出してきたのかもね。 日文研の井上助教授の研究によると、日ユ同祖論は大正期に ユダヤ資本と取り引きのあった一貿易商によって提唱されたのが 最初だとか。つか、英語な「と」話で聞いたことないですわ。 あるんでしたらその貴重な情報のソースきぼん。
64 :
ボーダー住民 :02/02/10 07:03
>52 マリアさん >人から見れば、これは人格に見えるのよ。 >だって、全てを司る父と言葉を司り導く子と霊を司り導く聖霊の働きは、 >それぞれ別だからね。 人格と見えるということと、人格であるということは、違うんではないでしょうか。 働きがそれぞれ別でも、一人三役やっていることはいくらでもあるよ。 >ヤハウェとアドナイの使われ方が違うように、 >父と子と聖霊は、使われ方が違うもの。 >あたし達神道の人間が、山や海に人格を当てはめるのと同じ。 山や海は、人格に例えられても、人格そのものではないでしょう。
65 :
ボーダー住民 :02/02/10 07:04
>小さなヨハネさん あなたには、 天界の秘義9818[28] イエスは弟子達に言われた。行って、父と子と聖霊との名においてバプテスマを 授けなさい(マタイ28・19)。 ここの「父」は神的なものそれ自体を意味し、 「子」は人間の形をとった神的なものそれ自体を意味し 「聖霊」は発出している神的なものを意味している。 一つの神的なものが在るが、しかも一つの三一性が在るのである。 主が人間の形をとった神的なものそれ自体であられることを、 主御自身ヨハネ伝に教えられている― この箇所が、マリアさんの言っていることと、どこがどう違っているかということを 示せなければね。(ちょっと高度かな……?)
66 :
小さなヨハネ :02/02/10 12:14
>65ボーダー住民さん ええ、とても高度で、ワンパターンで単純な私にはできそうもありません。 遠慮なさらず、是非ご説明ください。
67 :
小さなヨハネ :02/02/10 13:14
>57ボーダー住民さん >そういう涙ぐましい従順でもって、主を愛そうとするんだよ。キリスト教会 >は、教会なりに、神を愛したいから、聖書に示される神の姿を受け入れたい >から、三位一体の教理を生んだんだよ。 そうであることを祈ります。しかし、そうであることと、知らないこととは 別です。だからこそ、主はスウェーデンボルグやサンダー・シングを通じて 本当の主御自身を伝えようとなさったのではないでしょうか? 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこ から入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。 それを見いだす者は少ない。」(マタイ7・13,14)
68 :
小さなヨハネ :02/02/10 13:15
「この盲人(マルコ8・22)と似たような人々は今もいます。目は開いて いても、彼らの視力は半分しかありません。すべてをはっきり見ることがで きずにいます。人々が木のように見えたこの盲人と同じく、多くのクリスチ ャンはキリストが神であることを知らずにいます。(中略)多くの人は、 イエス・キリストが今も実在すること、主が救い主であり神であることを 理解してはいません。」(サンダー・シングの講演より/徳間書店/ 『イエス・キリスト封印の聖書』/P340) 「わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11・6) 「このように、人々はイエスにつまずいた。」(マルコ6・3)
69 :
ボーダー住民 :02/02/10 13:21
小さなヨハネさん >52 >それから、神道の世界では天照大神に眷属を通じて通じることが出来ても、 >天之御中主神とは通じることが出来ないと考えていて、実際にそうなの。 >これは、人はアドナイとは通じれるけど、ヤハウェとは通じれないのと同じ。 >しかし、スウェーデンボルグは独自の解釈を取ったようね。 >イエズスの本質の部分に注目して、イエズスは父だと解いたようね。 >確かに、人には父は人の目の前には現れないから仕方ないと思うわ。 >人が内面への探求で知りえるのはエロヒムからアドナイまで。 >父の世界は、言葉と聖霊によってしか理解出来ないからね。 >そのままでは、まだ理解不能な世界だから・・・。 ヨハネさん、マリアさんのこのあたりは、ちょっと、再生論的だよ。 アドナイ=真理、ヤハウェ=善、と読んでみられよ。 人はまず真理によって、再生され始める。 善とは何か、それは真理によらないでは解からないから。 真理が意志となったとき善となり、善によって、真理を判断する、とね。 マリアさんは、スウェーデンボルグと似たようなことを言っているんだよ。
70 :
ボーダー住民 :02/02/10 13:22
マリアさん >53 >それから、エホバなる神は後世の創作。それははっきりさせておきます。 どういう意味合いで言っておられるのか、ちょっと解かりません。
71 :
ボーダー住民 :02/02/10 13:23
>54 >それと同じように、三位一体論でも >子は人を言葉により導く、聖霊は霊によって導く、 >それらの本質は父であり、父から出るもの。 >また、子は言葉により霊を出し、本質と同じ働きを人に行う者。 >そういったところで、これらは離されている者ではなく、 >父が無ければ、無いもの。 >言葉と霊の三つの働きによって本質を知り、 >人は神を認知することができるから、人から見れば三位一体。 「言葉」という言葉の説明もお願いしたいですが。 まあ、観点の問題であるということは、認めない訳にはいかないです。 とどのつまり、問題は、それのどこに人称数詞を充てるか、ですよね。 「ひとり」というのは、明らかに、人格を数えるときの数詞です。 「神はただお一人である」と表現するなら、 三位一体の「一体」の部分を「人格」扱いしている。 これが、「神はただ一つである」となれば、何にも問題はないんです。 「夫婦は一心同体」などという表現では、実際問題として人格は二人いるんですから。 しかし、「一つ」ではなく「一人」という訳語を取ったからには、 神学側にもそれなりの理解なり覚悟なりがあったのでしょう? あくまでも「一体」は人格であるとする。 だけど、「永遠に区別された三つの人格」の場合は、人格は三つ。 三つの人格が一体になって一つの人格を形成するのか? そのへんに言葉の矛盾がありまして、 三位か一体かのどちらかに、人格を辞めてもらうか、 その二種類の人格の違いをもう少し明確にしていただくか。 いずれにせよ、そういう説明が欲しいのではないかと思われるのですが。 ブルネルスさーん、早く帰ってこなくちゃ、煮詰まっちゃうよ〜。
72 :
小さなヨハネ :02/02/10 13:43
(すみません、68の続きです。) 静思社/スウェーデンボルグ/天界の秘義4060 「陽は暗くなり、月はその光を放たないであろう」(マタイ24・29) は、『陽(太陽)』であるところの主への愛と、『月』であるところの隣人に 対する仁慈を意味している。『暗くなって、その光を放たないこと』は、そ れらが現れないで、かくて消え去ってしまうであろうということを意味し ている。 「星は天から落ちるであろう」(マタイ同) は、善と真理のいくたの知識は死滅するであろうということを意味している。
73 :
ボーダー住民 :02/02/10 13:54
小さなヨハネさん スウェーデンボルグは、信仰義認は、三位一体の産物だと言うんだけれど、 (dendoさん、「信仰義認」思想の発生源は、どのへんにあるんですか?) 少なくとも、三位一体を確立したアウグスティヌスは、4−5世紀の人なんよね。 で、信仰義認が市民権を得たのは、ルターの16世紀。 三位一体確立から信仰義認が導かれるまでに11世紀の時間が経っているんだよね。 で、私は、本当は、信仰義認が問題の焦点だと思うんだけど、 もし、あなたが頑張って、三位一体を論破して、 世に『イエス=父なる神』論を知らしめたとしても 「信仰義認」論破までに11世紀かかるかもしれないよ。 個人的な意見として、三位一体が発生したのは、キリスト教が政権を取ったからだと思うのな。 私はこの世のものではないと言われた方の国を、この世のものにしてしまったために、 この世の思考方法で神学が構成されたんじゃないかと推測する。 だけど、サンダ−シングが喝破した20世紀の聖公会の会衆と、 アウグスティヌスとは、同じじゃないと信じる。 どんなことでも、最初に確立した人と、 その後を追従している人との間には、それなりの格差がある。 少なくとも、三位一体を生んだときの状況は、 まあ、それなりの、神に対する愛があったと信じる。 て、これ内輪の話なんだけど、公表しちゃおう。
>>61 ええ。非常識だったのよ。残念ながら。
人はアドナイによってヤハウェを知るのだから。
また、エロヒムによってヤハウェを知ることができるの。
人はヤハウェを直接知ることは出来ない存在だからよ。
人はそんなに偉いものではないのよ。
スウェーデンボルグは、イエズスの本質に注目しただけ。
>>62 エホバこそが後世の創作。
ユダヤ人は、主をアドナイとヤハウェは分けるからね。
「この神の元で一体何が行われてきたか、
アドナイとヤハウェを人の道具にするための策略。
我々は神の名の元で生きる者、彼らは神を使役しようとする者」
・・・とまぁ、母の先祖達はこういって忌み嫌っていたのよ。
だから、当然あたしもこれに従う。
昔のキリスト教って言うのは、イエズスの福音を神から来たものと
信じていただけ。そこには諸説あったのよ。
メシア説が多かったようだけど、
預言者説や賢者説や、その他にもたくさんの説があったわけ。
アドナイや父の独り子説が定着したのは後の話しよ。
ユダヤとの分裂で、メシア説とアドナイ説を混ぜて
アドナイの性格をイエズスに移した。ということよ。
>>63 あたしの推測に過ぎないわよ。
あたしの周りにかつていたユダヤ人達や、
その人たちの周りのユダヤ人たちの態度から推測すると・・・ということよ。
>>64 人間と言うのは、
何でもある枠に当てはめないと理解出来ないということよ。
スウェーデンボルグが、あなた方が、
イエズスという枠に全てを入れなければ理解出来ないのと一緒なの。
あたし達には、父と子と聖霊という
三つの枠に神の働きを入れなければ理解出来ないということよ。
昔の人は、言葉と霊によって、神を知れると考えていたの。
言葉(神道では言霊)、霊(思い・想念の発するもの)
この二つによって本体の思いをいるということ。
ある意味、人間に置き換えて考えていたの。
この方が理解しやすいからね。
エホバという概念は、ずっと後の成立で、
ユダヤ人はヤハウェとアドナイとエロヒムよ。
その三者は、アドナイとエロヒムは人に現れるもの。
ヤハウェとアドナイを繋げるのは、
「主は神にある」という意味を示しているの。
>>69 そりゃそうよ。
見た者は見えたものが違っても、良く似た結論になるもの。
世界の神話の比較でも、違うけどよく読めばみんな似てるのだから・・・。
スウェーデンボルグは、キリスト教徒だったから
アドナイである本質であるヤハウェに注目し、
その存在をイエズスであると言ったのよ。
でも実際は、それはそれぞれの宗教の神や仏でもあるわけよ。
イエズスに全てが帰るのではなく、それぞれの神に帰ればよいのよ。
「他の民はそれぞれの神の名によって歩み、
私達は主なる神の名によって歩む(ミカ書)」
これでいいわけよ。みんな根は一緒だからね。
77 :
ボーダー住民 :02/02/10 19:03
小さなヨハネさん >76 >でも実際は、それはそれぞれの宗教の神や仏でもあるわけよ。 >イエズスに全てが帰るのではなく、それぞれの神に帰ればよいのよ。 >「他の民はそれぞれの神の名によって歩み、 >私達は主なる神の名によって歩む(ミカ書)」 >これでいいわけよ。みんな根は一緒だからね。 このマリアさんのお話なんか、スウェーデンボルグと抵触しないよ。全然。 スウェーデンボルグは、基を一つとして、それぞれの宗教を認めているんだから。 これだけ真面目に自分の宗教を納得して追及している人に、これ以上主張する必要ある? 鈴木大拙も、スウェーデンボルグを研究し尽くした結果、 スウェーデンボルグの主張に倣えば、マリアさんと同じように、 自分の慣れ親しんできた宗教を、そのまま探求していけばいいと納得したからこそ、 後半生をアメリカへの仏教宣教に賭けたんだと思うよ。 三位一体だって、それぞれのイメージがあるんだし、 神概念に3と1という数字が出てきていることでは、 「父」「子」「聖霊」は三つの枠だと言われるんで、 人格そのものであると言うよりは、一種の擬人法的なものなんだと言っておられるようだし。 (スウェーデンボルグだって、この三つは、一種の擬人法で使われていると言っている) 個人を愛し、平和を愛される神は、母の膝のように愛しているその人の宗教から その人をひっぺがして、あなたの主張の下に服させることを望んでいないよね。
78 :
名無しさん@1周年 :02/02/10 19:37
バーカ
>一人三役 ここで「人格」とよばれている persona のほうは本来は演劇用の 仮面だよね。転じて性格の意味になる。 だから三位一体というのが嫌なら神の一柱三役っていうことにしてみては いかが? :-p
小さいヨハネさん。 あなたは、いつからかのユダヤ人や、 いつからかのキリスト教徒の多くと同じで、 自分のアドナイが至上で無ければならないわけ。 それだけ熱心にヤハウェを求めているということよ。 だから、あたしがいくら母の先祖の話を持ち出したとしても 雑音にしか聞こえないと思う。それをあたしは悪いとは思わない。 しかし、イエズスの福音を理解したくないのなら、 もはやイエズスについて語ることが出来なくなるのよ。 イエズスはこう言われている。 「神を信じなさい、互いに愛し合いなさい、互いに許しあいなさい、 寛容でありなさい」 イエズスをヤハウェとするなら、これによって生きればよい。 スウェーデンボルグをイエズスとの仲介者とすれば良いの。 キリスト教徒が主イエズスをヤハウェとの仲介者とするように。 ただし、他人にその道を強制するなら、あたしは反論する。 何故なら、昔の人たちもあたしも、 イエズスにより父を知り、霊により父を知ったから。 父自体を、そのまま知ることが出来なかったから。
81 :
小さなヨハネ :02/02/11 18:09
マリアさん、 私は自分の考えを発表はしていますが、強制しているつもりはないのです。 ただ、議論するに際して、その根拠を聞いたりするのはおかしいとは思い ません。自分の思い違いで、人を惑わすことは避けたいと思いますので自分 もどうしてそう思ったのか、出来る限りその根拠を言いたいと思いますし、 人にもその方がどうしてそう思われたのか根拠をうかがって自分でもそれ を考えて確かめたいのです。人間は考え違いをしやすいと思いますし、自分 もそうだと思っています。ですから、根拠根拠と多少うるさいかもしれませ んが、どうかご容赦ください。
82 :
小さなヨハネ :02/02/11 18:10
ボーダー住民さん、 私は、上記のように、他人に強制するつもりはありません。ただ、どうも 自分で納得できないと思うときはこういう理由で納得できないと申し上げ ているだけなのです。 また、私はマリアさんに質問はしますが、マリアさんの個人的な信仰につ いて云々申し上げたつもりはありません。また、私はキリスト教について は述べていますが、神道についても、ユダヤ教についても特に批判など申 し上げていないつもりです。
>>81 あなたは、神と人が通じ合っていた
昔の話を嘘だとはっきり言っているわよ。
また、ヤハウェとアドナイの使い方を、嘘だともいっているわけ。
三位一体の根拠は聖書に在るし、
あなたが言っていることも昔から解き方ではこうであるとも
言っているけど、それを嘘だとも言っている。
そして、三位一体説は人の妄想で、父になる神説を信じないと
地獄行きであるかのように言っているわけ。
そして、これは自分のアドナイを他の人達に押し付けている
ことに、あなたは全く気付いていないわけ。
だからあたしが出てくるのよ。
また、キリスト教がユダヤと違うというなら、
キリスト教はユダヤから出ていないということになり、
またこれは大問題よ。
旧約を用いている限り、キリスト教はユダヤの血をひく教え。
両者を切ってはならない。
よそから見ると、あなたの主張は上記のように見えるわけ。 自分が得たものを至上視して、他を裁いているわけ。 だから、話にならないと去る人もいるわけ。 円というものは、丸でもあるけど、様々な形に変える事ができる。 時には三角、時には四角などね。 また、円錐を影絵で写すと丸に見えたり三角に見えたりする。 神の世界は、人間が十人十色のように、 人によって違ったものに見えるもの。 ただ、あたしは昔の人たちが考えた神の世界が見えたのだから、 新しい価値観のスウェーデンボルグの世界は、見えなかったわけ。
85 :
小さなヨハネ :02/02/11 20:32
ボーダー住民さん、 鈴木大拙博士のことですが、博士には何冊かのスウェーデンボルグの訳書が あるように、日本で初めてスウェーデンボルグを紹介したことで有名です。 私は博士の『妙好人』以外の著書を読んだことがないので、博士の仏教につ いての主張を知りません。しかし、『妙好人』を読んでいて、あれ、おかしい なと思ったことがあります。 それは、博士はどうもキリストを神とは思っておられないような様子なので、 びっくり仰天したのです。なぜならスウェーデンボルグの主張する最も主要 な教義は、キリストは父なる神その方であるということだったからです。人 が翻訳して紹介することと、その内容を理解し、受け入れることとは別なの だということを私はその時初めて知りました。
86 :
小さなヨハネ :02/02/11 20:33
また、これに関して、やはり日本におけるスウェーデンボルグの優れた研究 者であり紹介に努めた人である鳥田四郎牧師(1905〜1987)が、「予 てから私が想像していた通り、博士にはスエデンボルグは殆ど受けられてい ないことを知った」(「新教会」誌201号)、と述べておられるのを後で発見 し、ああ、同じことを感じておられるなと思いました。 以下に博士の文章を抜粋します。博士はキリストを神と呼ぶ一方で、あると きは「妙好人」(!)と呼ばれ、また「怒る神」という表現が、スウェーデン ボルグの指摘する、神は本当はそうではないが、人間の側から見えたように 記述するという「外観の法則」(天界の秘義9025他)であったという ことをご存知なかったようです。 もし、博士が真にキリストをスウェーデンボルグの教えに即して唯一の父 なる神と理解していたならば、あえて佛教に戻る理由が見つかりません。
87 :
小さなヨハネ :02/02/11 20:34
法蔵館/鈴木大拙/妙好人/P43 「人間倫理の矛盾性も、神がキリストにならなければ人間を救われなかった のも、弥陀の誓願の永劫に渉って尽くることのないのも皆、人間存在、或い は宇宙存在そのものの根源に潜在する罪業から出発するのである。」 同/P21 「或る意味で言えば、キリストもまた妙好人の一人である。 『天地の主なる父よ、われ感謝す。これらのことを、かしこき者、さとき者 にかくして、みどりごに顕したまえり。父よ、然り、かくの如きは御意に適 えるなり。すべてのものは、我が父より委ねられたり。子を知る者は父の外 になく、父を知るものは、子・・・の外になし。』(マタイ伝、11・16 及びルカ伝、10・21) このようなことをいうものは、学者でもなければ、また客観的に宗教を見て いるものでもない。キリストは一般の妙好人よりは表現の力において優勢で あり、また宣伝的精神及び殉教的気迫において尋常ならぬものがあった。が、 本質的には、彼もまた妙好人である。」
88 :
小さなヨハネ :02/02/11 20:35
同/P63 「キリスト教の神は本来の怒りの性格をいつまでも保持しているようだ。 佛教では、如来さまは「ありがたい」が、「こはい」ことは少しもない。」
89 :
ボーダー住民 :02/02/11 20:38
大体、自分の主義を主張し続ける人は、他人の主張は間違っていると思っています。 それは仕方ない。だけど、小さなヨハネ君の場合、問題なのは、ほかの人の話を聞いているという雰囲気がないのな。 キリスト教の宣教師でも、ちゃんとした人の中には、日本で宣教しようとする時、 ちゃんとした日本の大学などで仏教や神道などを勉強する人もかなりあるようです。 それが、相手の信条に踏み込む時のマナーというものなんですよ。 と、前から言っているんだけど、「押し付ける気はありません」というのは詭弁。 玄関先で3分喋るのとは違うんだから。もう長い付き合いなんだよ。(わずか2ヶ月位とはいえ) 客の要望を聞かないで、自分の一押しの商品を売ろうとすれば、どんないいものを売っても押し売り。 患者の症状を聞かないで薬を処方すれば、どんな天才でもヤブ医者。 相手の立場を解からないままで、一方的に語りつ続ければ、どんな良い宗教でも押し付けなんだ。 もし自分がそういう商売人や医者に遭遇したら、次からその店や病院に来たいと思う? 自分は、自分の立場を無視されて、一方的にものを言われた経験ない? 異邦人の非難はすべて、悪魔からの雑音なの? ヨハネを励まそうと思って来たんだよ。だけど、なんか、逆の方向に行ってしまうんだよね。
90 :
名無しさん@1周年 :02/02/11 20:40
キリストさんは仏教の影響を受けたようですね。
91 :
ボーダー住民 :02/02/11 21:25
私がずっと思ってきたのは、ヨハネ君の頑張りは、 神を知ったことの喜びから来ているのであって スウェーデンボルグを知ったことは、大きな原因ではないということです。 私は、鈴木大拙のような人は、それだけで神に拒絶されているとは思わないよ。 彼が、仏さんの中に、唯一の神を見出し、この掟に従って心を清めて安息を得、 それによって再生されたなら、それで十分だと思う。 ヨハネ君、自分の信仰だけが完全と思っている? はっきり言って、あなたのようなマリア崇拝って、マリア様、すごく迷惑なんだよ。 ほとんど、主イエスとマリア様は、同列扱いだもんね。 でも、あなたの信仰も、神は受け入れてくださっている。憐れみの内にね。 そして、神は、あなたの良いところを認めて、それを愛していてくださる。 みんな多少は間違いながら、みんな赦されて信仰しているんだよ。私もね。 完全な信仰とは、仁慈なのだよ、ヨハネ君。 教義に間違いがあっても再生はある。教義が純粋ならば、再生の純粋さの程度が顕著なだけ。 でも、純粋な教義に触れても、知識の伝達だけにこだわるなら、 そんじょそこいらのおかしな宗教と同じ。いや、それ以下。あるいは冒涜。 言いたくないけど、もしスウェーデンボルグ主義が政権を取ったら、 ヨハネ君のような人は、神道信者とか、既成キリスト教会を迫害する。
マリア崇敬には、気をつけなければならないところがある。
聖母マリアは人。神が選ばれた聖なる人と敬ってもいいけれど、
天主と同列に置き、拝んではいけない。
>>90 そこのところは分からない。
でも、結局同じ所へ帰っていくから、良く似てくるのは当たり前だと思う。
>>92 それ、最近むずかしいよね。
この前、「エキュメニカル・コーヒーパーティ」で
東方と西方の最大の問題はいまや filioque ではなくて theotokos
の位置付けなんじゃないかという話になりました。
filioque はまだ三一論の解釈の違いとして解消されうるかもしらんけど、
無原罪の御宿りってのはそれ以上に和解の道における躓きの石に
なるんじゃないかってね。
94 :
小さなヨハネ :02/02/11 22:40
>84マリアさん、 >円というものは、丸でもあるけど、様々な形に変える事ができる。 >時には三角、時には四角などね。 >また、円錐を影絵で写すと丸に見えたり三角に見えたりする。 >神の世界は、人間が十人十色のように、 >人によって違ったものに見えるもの。 これは、全くマリアさんのご指摘の通りで、スウェーデンボルグもそのことを 「外観の法則」(天界の秘義4768、6997、7632他多数)と呼んで、 彼の教義の大きなテーマの一つとなっています。そのことについては、いずれご 説明したいと考えています。 私がマリアさんからどう見えるか、どう思われるかはマリアさんにとっての 事実ですので、それについての反論や釈明をひとつひとつするのは本意では ありません。
95 :
小さなヨハネ :02/02/11 22:41
しかし、マリアさんの譬えにも、本当はその物体の形は「円錐」だったという 回答があるように、神についても真実ということはあるでしょう。ですから、 神についてもそれが本当は「円錐」なのかどうかという議論はゆるされるの ではないでしょうか?もし、神については不可知であって、神について語る ことが人間の不遜であり冒涜であるとおっしゃるなら、マリアさんご自身も 一言も神について語らなかったでしょう。 その際、マリアさんもご自分の考えを鵜呑みにしなさいと私達に要求なさって いるのではないと思います。私も根拠を示したいと思いますし、マリアさん も具体的に根拠を示していただければと思います。 一例をあげれば、「エホバこそが後世の創作」(>74)というのは、聖書のどこ かにその根拠となる文があるのか、あれば具体的にあげていただきたいですし、 「後世」とはいつ頃のことを指して言われているのか、またその根拠となる文 は何か、ということなどです。
>ボーダー氏 大学の先生の飲み会にありそうな厭味おしえてあげよっか。 「ラテン語も読めない奴が、スヴェーデンボリ研究だってよ。 嗤っちゃうよな」 しかし、実際、柳瀬訳の水準にはちと疑問がないわけでもない。 訳文も古いしな。
>>93 無原罪の御宿りは、本当に難しいわね。
聖母が本当に原罪が無かったのか、あったのかは、
残念ながらあたしも聞いた事がない。
原罪とは何を基準とするかでも、いろいろあるでしょうけどね・・・。
>>94 ならば、三位一体論は人間の妄想というのはお良しなさいな。
昔の人は、言葉と霊によってヤハウェを知ったのだから。
それはそれとして、尊重しておけばいいわけ。
>>95 あたしは、神の姿というのは一つではないと知っているの。
人のイメージした姿で現れるものだから。
それが必ずしも同じものでは無いわけ。
どれが本当の姿かという点については、どれも本当の姿なわけ。
あたし達は、円錐のある面を見て、あなたが丸であるとか
あたしが三角であるとか、そういう議論を続けているわけ。
あたしとあなたが、イエズスに「天主の姿をお示しください」といえば、
あたしには一つの中に三柱が見えて、あなたにはイエズスしか見えないわけ。
あたしが「三柱だったわ」と言っても、
あなたには「イエズスでした」と言うのよ。
だから、三柱でもあり、イエズスでもあるわけ。 他の人を連れてきたら「男と女と実体がないのがいた」とか、 「三つになったり、一つになったりしてた」とか、いろいろ言うのよ。 また、エホバ問題は、 聖書からは、あたしの言っていることを見出すのは簡単。 あなたの使っている聖書にエホバと呼ぶ箇所が、一つでもあるかしら? あるとすれば、エホバの証人の新世界訳しかないはずよ。 主なる神として、ヤハウェとアドナイとを一体にして表現はするけど、 エホバとして単体に呼ぶ伝統は、ヤハウェという言葉を忘れたから、 ソラマ読みという読み方で呼び始めたのが始まりなわけ。 これをあたしの母の先祖は非常に嫌っていたということ。 その目的に、魔術めいたことに使う人がいたらしいからね。 これが多数であったのか、小数であったのかは分からないけどね。 母の先祖達の目に付いたということね。 年代に関しては、いつのことかはもう忘れられているから分からない。 あたしは、カッバーラが流行り出した頃かもと推測するけど、 これも推測でしかないわけ。 今でもユダヤ人達は、大抵はアドナイ=主としか呼ばないのよ。
99 :
名無しさん@1周年 :02/02/11 23:43
がんばれ
ばんざい
101 :
小さなヨハネ :02/02/12 00:11
ボーダー住民さん、大拙博士について、博士が主に受け入れられないだろう などと申し上げたつもりはありません。ただ、本当に研究しつくされ、理解し ていたら、どうして佛教に戻るのだろうという単純な疑問を述べました。それ はヘレン・ケラーのエマソンに対するコメント(表象を理解していなかった) を思い出したからです。 せっかく応援いただいたのにすみません。ところで、いきなり私のマリア崇敬 が出てきたのはどうしてか分かりませんでした。 さて、明日から二泊の出張で、木曜に帰ってきます。それでは、皆さんに主の 平安がありますように。 (すみません、マリアさんの最後の文章を読まずに書いてしまいました。) ふらんちぇすこさん 図書館で借りた坂口ふみ/「<個>の誕生」/岩波書店、読了しました。 カタカナの用語がたくさんあって、難しくてよく分からないというのが率直な 感想です。それから、著者の友人のアンナさんという学者が出てきましたが、 信仰はなかったご様子で、なんとなく最後が可哀想になりました。 それから、質疑応答については、新しい内容でいつかお願いしたいと考えています。
あら、出張なの。大変ね。頑張ってね。
103 :
ブルネルス :02/02/12 00:51
>101 坂口本を読破とは、大変でしたね。とくにネストリオスを排除するいきさつなど、 今からみて、決して誉められたものではないような、といったこともあったと思われ ます。 坂口本が難しいということでしたら、うんと短くて、簡便なのを紹介してみます。 図書館に入っていればの話ですが: 岩波からでている、岩波 新 哲学講義 というシリーズが図書館にあったら、その 9巻だったか、別巻だったかに、「哲学に何ができるか」だったかな、そういう副 題の巻があります(1999年刊)。その中に 「個と言葉」 という題のものがありますが、それがニカイヤ信条およびその後のニュッサのグレ ゴリオスの思想をテーマにしたものとなってます。
104 :
kat ◆HBqDVdS. :02/02/12 00:59
だから〜 アドナイはアブナイの誤植かなんか・・・ アブナイ! ヤベー! ね!!!
105 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 01:01
>図書館に入っていればの話ですが: 昨今の自治体設置公共図書館は県立図書館と interlibrary で お取りよせしてくれるところが多いから、気長にまてばどこでも だいじょうぶと思われ。 下手すると大学間お取りよせ(あれ最低一週間は待たされるよね)より 早かったり。
>106 |昨今の自治体設置公共図書館は県立図書館と interlibrary で |お取りよせしてくれるところが多いから、気長にまてばどこでも |だいじょうぶと思われ。 そうか、そうなるとますます専門書などは「どこかの図書館に1冊あれば、市民 の需要に応えられる」ということで、売れる数が少なくなるわけね。 流通がいいことは喜んで良いのかどうか・・・・
108 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 13:34
本当に読んで欲しい論文は、出版せずにHPにアップロードすることを 進められる時代が学問の世界にも到来したのかもしれませんね。
>108 HPにアップすると、それこそ前にボーダーさんが言ってたように、学生の安易なレ ポート書きに使われそうですね。
110 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 16:18
スミマセン レポートは資料集めから始まると思っているもので こんな言い方になってしまいますが。先人の考えを読み漁 った上で、そのあと自分の結論も組み立てていこうとは願 ってます。
111 :
メフィストフェレス :02/02/12 16:47
キリスト教に入ると、仕事ない人にお金くれるって本当ですか? 本当だったら、仕事辞めて、キリスト教に入ろうと思うんですが。
112 :
226 ◆2itrRL4s :02/02/12 21:14
>>101:小さなヨハネ氏 スエーデンボルグは、あの有名な霊界ものから入ったのですか? あそこに書いてあることで、重要なのは恐らく以下の2点だと僕は感じている。 1.彼が探訪した「霊界」は、基本的には現実世界の各人の心象風景のあり様である。 ぶっちゃけた話、霊界は現実世界の延長だということ。そこに書かれたことは、 霊的な話というよりむしろ現実の人間の実相を知るうえで役に立つ類のものである。 2.彼がその中で繰り返し述べているのは、真実と偽り(偽善)についてである。 特に偽善を強く非難しているということである。無論彼独特のスタイルだが。 ここで突起しておくべきことだが、彼が生きていた18世紀北欧は、自然科学が発達 しつつあり、啓蒙思想が盛んであったが、まだまだキリスト教社会の伝統が根強かった。 その伝統はまだまだ人々の精神を強く規定していた。そうした状況の中で、当時では 最高の教育を受け、学問の世界で栄誉を独占したとも言えるスエーデンボルグにとっては、 当時のキリスト教教会のあり様は、我慢できないものだったに違いない。 分かりやすく言うと、今でいうと東大理学部教授(ほかに幾つかの学部の教授を兼ねている) で、非常にリベラルな考えをもった変なおっさんが、世界(霊界)の実相は教会で教えていることと 違う!と主張したのが例の「霊界」本。 まあ、僕的には、彼の主張は当たっている部分もあるし、常識でろ過して解釈すべきもの もあるし、無視していいものもあるし、間違っていると思われるものもある。 「偽善」に腹たつのも分かるけど、キリスト教に限らずいかなる宗教組織も、人間のために 存在するものだから、偽善に染まる部分は必ずある。 まあ、いちばん大事なのは、信じ込んで自分を失わないことだと思う。
113 :
226 ◆2itrRL4s :02/02/12 21:27
>>112 突起→特記 >>dendo.さん 同祖論の作者は、マクレオド。日本だけでなく韓国についても同祖論で取り上げている。 >>オール 三位一体についての私見 三本の紐を用意して、その三本を結び合って、一つの大きな結びを作る。 その三本の紐の一本一本に父・子・聖霊とラベリンクする。 そのときに何処に注目するかというのが、ポイントではないかと思う。 大きな結び目に注目すれば、それは唯一絶対神を意味するものだし、紐の一本一本 に注目すれば三位一体がそれぞれ別の意味合いを持ったものに見えてくる。 要は、それらは総てひとつのおおきな存在に行き着くということだと思う。 あくまで個人的な見解ですが。
114 :
ボーダー住民 :02/02/12 22:27
>85-88 ヨハネ君、わかった。では、 >鈴木大拙も、スウェーデンボルグを研究し尽くした結果、 >スウェーデンボルグの主張に倣えば、マリアさんと同じように、 >自分の慣れ親しんできた宗教を、そのまま探求していけばいいと納得したからこそ、 >後半生をアメリカへの仏教宣教に賭けたんだと思うよ。 は撤回。修正版は以下。 鈴木大拙も、スウェーデンボルグを、自分なりに研究し尽くした結果、 スウェーデンボルグの理論の本旨に従えば、マリアさんと同じように、 自分の慣れ親しんできた宗教を、そのまま探求していけばいいと納得したからこそ、 後半生をアメリカへの仏教宣教に賭けたんだと思うよ。 ヨハネ君、出張中か……。ま、いくつかあるのでぼちぼちと。 私にも、未熟ながら、仏教への思いはあった。それは遠い過去のことで、今もって涙とともにある思い出だ。 鎌倉仏教各論については門外漢の私だが、原始仏教と仏陀への思いについては、一方ならぬものもあるのだ。 スウェーデンボルグを読んだときに思い出したのは、その時の思いだった。 確かに、自分の体験によれば、自分の理解するスウェーデンボルグの結論(イエス=ヤハウェとは関係ない)と、 仏陀の出した結論には、本質的な共通点があると感じた。 鈴木大拙が、スウェーデンボルグを読んでから、仏教に確信を持ったということを読んで、 この時の自分の体験を思い出した。 それは、理論的には説明しにくいが、他の人にはないかもしれない納得が、自分にはある。そーゆーことなのよん。
115 :
ボーダー住民 :02/02/12 22:55
>90 キリストさんが仏教の影響を受けたという人あり。 はたまた、仏教がキリスト教の影響を受けたという人あり。 >96 dendoさん いつもありがとう。 まー、現代科学的発想だとは思いますね。研究するには、やはりラテン語が必要なんでしょう。 しかし、スウェーデンボルグを理解するには、ラテン語勉強しなくても、 邦訳で「読書百遍」のような方法のほうが、より有効かと。 研究者でも、あの人の言葉は解からんと言っておられます。(まさか英語で研究してないよな。) 柳瀬訳とは、静思社のことですか? 訳も悪いけど、原文も相当悪いと推察されますな。 ところで柳瀬訳で、何を読まれました?
116 :
ボーダー住民 :02/02/13 07:52
>101 >いきなり私のマリア崇敬が出てきたのはどうしてか分かりませんでした。 どうしてでしょうか。もっと言ってあげてもいいけど。 で、マリア崇拝をくさされてどういう気がした? 自分が心から愛している信条について、知りもしない他人が理詰めで物を言う時、どういう気持ちになるか 自分が言っていることが、人にどういう気持ちを味わわせているか、そういうことが解かれば、よろしい。 >図書館で借りた坂口ふみ/「<個>の誕生」/岩波書店、読了しました。 これはよろしい。よくがんばりました。 できれば、そんじょそこいらのキリスト教会付属の聖書学校とか、 既成キリスト教会神学の基礎を聴講してきたら、もう少し話しがしやすくなると思うけれどね。 それから、他宗教の本物の人の苦労話を読むとかね。 主が、各宗教を、どれほど尊重しておられるかよくわかると思う。
117 :
ボーダー住民 :02/02/13 08:12
>112 おおむねこの姿勢でよいと思いますね。ていうか、この程度が普通の人の反応だと思う。 >107 >そうか、そうなるとますます専門書などは「どこかの図書館に1冊あれば、市民 >の需要に応えられる」ということで、売れる数が少なくなるわけね。 >流通がいいことは喜んで良いのかどうか・・・・ 「・・・・」に入る言葉「身につまされますなあ」ですか(笑) ブルネルスさんのような学問しておられると、他の話と違って、需要がありますよ。 願わくば、ネット上で、タダで話を聞きたい。 時間のある時に、「聖霊論のどうした、こうした」も、お聞かせください。 論文になりそうなことまで聞きたいとは言いませんので。
118 :
dendo.@神田 :02/02/13 08:34
>>115 訳書には翻訳者の解釈が必ず入ってるのよ。
Kantみたいな翻訳が複数あるものを見比べてみたらすぐわかると思うけど
この辺の作業をやったことのない人には原典にあたることの重要性って
もしかして理解できないかもしれないね。
言によって顕される神が、言によって顕される限りの神であるのと同じく。
>>115 >>118 |訳書には翻訳者の解釈が必ず入ってるのよ。
そうそう。別スレで、小さなヨハネ氏のよろこびそうなテーマがあって、それ
が、まさに聖書のある箇所をどう翻訳するかをめぐるものだった。
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1002460211/505 つまり、次の訳は新改訳だが:
2テサロニケ1:12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、
2テサロニケ2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、
同じところが口語訳だと、
それは、わたしたちの神と主イエス・キリストとの恵みによって
どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、(略)わたしたちの父なる神とが
新共同訳だと、
それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、
わたしたちの主イエスキリスト御自身、ならびに、(略)わたしたちの父である神が
これはギリシア語の 冠詞+名詞A+カイ(&にあたる)+名詞B となっている
場合、文法的には通常、AとBとが同一の場合で(AにしてBなるもの、AであるB
などと訳す)、AとBとが別々だという意味にしたければ、名詞Bの前にも冠詞がな
ければいけない、という「グランビル・シャープの法則」に従うかどうかの問題だ。
この場合、新改訳のほうが、この文法規則に従って訳しており、他のほうは、この
規則には従ってない表現と解している。なぜ、そう解するかというと、父なる神と
イエス・キリストを同一視するような、サベリウス主義的、いや、小さなヨハネ的
思想が新約中にあるとはしたくなかったからだろう。
これ、dendo.@神田 さんの言うことの一例ね。
どう、小さなヨハネさんに都合のいい箇所でしょ! V(^0^)/~
なお、上記のなんとかいう規則については
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1002460211/510-514n に丁寧に解説されている(同スレッドにしては、真面目解説)
私の反応は:
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1002460211/546
120 :
226 ◆2itrRL4s :02/02/13 15:44
テスト
121 :
ボーダー住民 :02/02/13 22:15
>118-119dendo@神田さん、ブルネルスさん ご指摘ありがとうございます。それは、まあ、そうです。 似たような問題は、ラテン語やギリシャ語でなくても、英語でもあるし、言い方によっては 日本語でもあります。たかがこんなことに、立派な名前がついているとは知りませんでした。 >115 で「読書百遍」という言葉は、実は、その後に続く省略された部分のほうが 自分には意味があるわけですが、つまり「意、自ずから通ず」という読書方法を推薦するのは、 ただ百回読むというのでなく、テレパシーで、著者との間に意を通じさせることを 期待するものなんです。原始的でしょう。 >115 に書いたこと一つとっても、その真意は、書いた人が解き明かす以外には、 誰にもわからないわけですが、究極的な著者の本心は、誰が知っているかというと、 それはずばり著者自身に聞けば絶対でしょう。 せっかくの物凄い論議は、おもしろくてたまらないゲームで、 まあ、結論が出ないから楽しいし、だからこそ学者はご飯食べてるられるんだ、と、 前も他で言われたんですが、問題によっては、人の生き方に影響しますので、 決めてもらわないといけないこともあるように思います。 で、本当はどっちが正解かと言われたら、著者本人に聞くしかないんですよね。 ひょっとして、本人は、私たちの思いもつかない結論をもっているかもしれない。 が、スウェーデンボルグでなくても、カントでも、やっぱり本人に聞くのが一番解かると思いますが、 私たち、霊媒はしないので、死人には聞けません。 で、それを知っているのは、著者の他にもう一人神様なので、神様に聞いちゃおうと……。
122 :
ボーダー住民 :02/02/13 22:16
確かに、言葉の細かいことは、ちゃんと調べないで物を言っちゃいけないので、 研究は重要なことだと思います。神秘的な方法って、ウラが取りにくいですからね。 神秘的な方法が好きな人は誰でも、みんな、自分は神に聴いているって言うしね。 ですが、特に霊的な内容を解釈しようとした時には、 学者の言葉は、それなりに客観的な参考資料の一部として尊重しながらも、 神秘的な方法を提唱したい。 >「グランビル・シャープの法則」に従うかどうかの問題 に、従うほうが正しいか従わないほうが正しいか。を例に取ると、 ここでの結論は、小さなヨハネの思想は危ない、という、主義先行のご都合がその理由のようです。 ネストリウスのお話も、ちょっと出ましたが(あんまり詳しくないですが) 宗教会議も、愛の精神に悖る動機で、ことが運んでいった経緯もあるということですよね。 スウェーデンボルグの真理の理解方法に関して言うと、 完全な善の内に生きるようになると、すなわち完全な愛の内に生きるようになると、 善自らが真理を教える、という内容があるんですよね。 すなわち、判断において、善自らが真理を示す余地のない議決が、 宗教会議においてもなされてきたとすれば、そこには、神の真理はちゃんとは働いていない、 よって、多分その会議でなされた決議は、人間的には正しいと見えても 神的にはあまり正しくないかもしれない内容でありうる。 というのが、スウェーデンボルグ的解法の一つです。 そういう方法で、神学が進んできたのであれば、神学もほどほどに信用しておくしかないと。 残念ですが、そういうことになるんです。 それに引き換え、もし、神秘的なことを書いた人が、神の心を愛する本物だったとしたら、 学者にも知らされていない、主義先行の都合によらない、神の心が書かれているかもしれない。 そういう可能性をそこはかとなく、期待するのです。
123 :
ボーダー住民 :02/02/13 22:17
とはいえブルネルスさん 興味深いテーマを貼って下さってありがとうございます。 昔、私の先生も言っていましたが、 教会全般や神学界がいいかげんなこと言ってても、細かく聖書釈義やった人は、正確な教理を出している……。 て、うちの先生に言われるくらいだからね……。(何をもって正確とするんだ?) まー、いっか。ごめんね。
なんか面白い話になっているわね。 各支族に及ぼす神は同じだというのが、アドナイという概念の成立で、 それとヤハウェが同じでないことは、 神に理解出来て人間に理解出来ないことが多いから、あるもの。 こういう風に考えてもいいんじゃないかしら? イエズスは子であって父ではない。 本人がそういっているから、子=アドナイは人の主ということ。 父=ヤハウェは子と霊の本質。 何でこういうことになっているかといえば、 そうしなきゃ、一神教が成り立たなくなってしまって、 大昔みたいに神道のような世界観になってしまうからよ。 それじゃあ、イスラエルという一つの集団がバラバラになってしまう。 各支族の神を認めれば、各支族が違う神勅を降ろすと困るということよ。 それとキリスト教のものの考え方は、全く違うわけ。 キリスト教では、どの民にも主は他に在ってはならないと考える。 しかし、イスラエルでは他の民には他の主が在って良いとも考えていたの。 そして、イスラエルのアドナイが 世界最強のアドナイであるとも考えたいたわけ。 ユダヤは民族宗教だから、キリスト教とは捉えが多少違うのよ。 キリスト教は、他の宗教や民族を認めないけど、 ユダヤは他の宗教や民族を「下位のもの」として認めるわけ。 他の民がユダヤ人を「別のもの」と認めるのとはかなり違うけどね。
125 :
226 ◆2itrRL4s :02/02/15 07:37
>>124 昔、高橋克彦氏(有名作家なので一応実名。ホントは反則)のエッセイの中で、 ユダヤの神がバビロンの神マルドゥク?を騙して、古代バビロニアを滅ぼした という話を読んだことがある。高橋氏は、そのあと宇宙人の実在という話にもって いったようだが。 まあ、あの過酷な中東世界でのユダヤの民族神だったのだろう。ただ、様々な世界の 民族神の中でも群を抜いて強かったので、現在まで生き残っているのだと思う。 あの、ユダヤ教の偏狭なまでの唯我独尊性は、過酷な砂漠の生活のなかで自然に培われた ものであるに違いない。(そうでなければ、あの中東世界では生き残れない) いずれにしても、各民族の宗教観はその民族が生活する風土・気候を無視しては語れない。 なお、私はユダヤ教は古代中東世界の神話・宗教観・世界観・密儀の集大成ではないかと 感じている。 魔術を行うものは恐らく、そうした部分を敏感に感じ取っているからこそユダヤ教に引かれる のだろう。 こうした姿勢は、まじめな信仰者を当惑させるものであるが。 長文レスでした。
126 :
ボーダー住民 :02/02/15 08:00
>122の >完全な善の内に生きるようになると、すなわち完全な愛の内に生きるようになると、 >善自らが真理を教える、 というのは、マリアさんの「福音に従えば、すべてが解ける」といわれるのと、ほぼ同じと思います。 神は、真理であると同時に善であるので、善のないところに真理を顕わすことはできない。 だから、宗教会議を信用しすぎては駄目だ、と書いたつもりです。 佐倉哲も信用しては駄目(笑)。 スレッドが立っているとはね、なかなかの人気者なんですね。恐れ入った。
127 :
226 ◆2itrRL4s :02/02/15 10:30
>>126 >完全な善の内に生きるようになると、すなわち完全な愛の内に生きるようになると、 >善自らが真理を教える そこに行き着くまでが、大変なんだな。(溜息) まあ、良く分からないので、とりあえずは「八正道」から始めてみるとか。 仏教の「八正道」は、神の道に通じるのかも。 カラマーゾフの兄弟で言うところの「大きな道」だろうね。 行き着くところは同じだよ。
128 :
ボーダー住民 :02/02/15 18:01
>127 「八正道」でも、べつにかまわないけど、スウェーデンボルグは、「神」という存在に対する信仰については、 必要条件としているんだよね。それは、信仰っていうものをやっていくと、当然だと思うけれど、原始仏教では、 ひたすら自分が相手になるので、最終的に自分をどういうスタイルにもっていけばいいのか、詰まってしまう。 「正思」とか、「正語」とか、何をもって正しいとするのか、最終的に自分をどうとでも コントロールできるようになると、かえって、どこに基準を置くか、誰かに言ってほしくなるし。 それでいて、自分の気づかないところについては点が甘くなる。で、行き付く所は「中庸」とくる。 まあ、誰に聞いたでもなく、勝手にやっていたことであって、ちゃんと修行すればまた違うのかも。 人によるとも思いますが。 神様という対象を相手にしていると、神様も本気にして、結構叱ってくれたり、 神と交わりがあるって、嬉しい。私には、やはりキリスト教が向いていると思いました。
129 :
226 ◆2itrRL4s :02/02/15 19:50
>>128 仏教は一見緩々だけど、実は教えとしては厳しいよ、キリスト教より。 >ひたすら自分が相手になるので、最終的に自分をどういうスタイルにもっていけばいいのか、詰まってしまう。 神が示した「真理」をいわゆる「象徴」なしで見出した上で「教え」を実践していくのだから 大変だよ。 仏教は、道を踏み外さない「セルフコントロール」が最終目的だから。 >「神」という存在に対する信仰 それは言うまでも無いこと。言うだけ野暮。「神」は人間が自分に「依存」することは そんなに歓迎してないようだから。コンスタントな「信頼」は要求しているようだが。 「告解」という制度もないから、自己の罪もそのまま残る。 でも、どちらも他者への「赦し」を非常に重視している点では共通しているが。
130 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 19:52
131 :
226 ◆2itrRL4s :02/02/15 20:01
>>130 確かに馬鹿らしい。 ただ、ここで語っていることは、飯の種にもならん類の話だ。 私の意見は貴方からみても拙いのだろう。 ただ、寸評だけでなく、自分の言葉できちんと表明してほしい。 このままでは老人の愚痴と一緒。
132 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 20:03
>>131 ホントにバカラシイな。
ボケ厨オヤジと一緒にやっとけ。ドアホ!!
133 :
226 ◆2itrRL4s :02/02/15 20:38
>>132 132はアラシの「カトリック」か? 私のレスにいちいちムキになって応対してるから。 まあ、どうでもいいや。 お前相手にしてるほど、俺もトチ狂ってないから。 それより、132はもっとちゃんと反論しろ。 反論できないガキ相手にしてる暇はもうないから。 さよなら。
134 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 20:40
>133 なんだ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 猿の逃口上かぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ウジみたいな奴が嫌いなだけさ。(藁
コイツ、最低だな。>226 ◆2itrRL4s
137 :
小さなヨハネ :02/02/15 22:57
こんばんは。昨晩帰ってきました。みなさんあまりに書かれているので、 とても追いつきません。 >114ボーダー住民さん 私はボーダー住民さんの仏教に対する思い入れについて、批判するつもりなど 全くありません。それは個人的な信仰の領域ですので・・・。そうではなく、 鈴木大拙博士に関する客観的な事実関係について疑問を述べただけです。どう か、誤解なさらないようにお願いします。 実はそれについて、まだ疑問点があります。 まず、大拙博士は、アメリカで仏教を紹介したそうですが、どんな内容だった のですか?仏教といっても釈迦時代の無神論的な内容や、阿弥陀仏信仰のような 有神論的な内容など様々だろうと思います。博士の主張ないし、信仰とは具体的 にどのようなものだったのでしょう? もし、それが「禅」であったら、それはどのような内容なのでしょう?それは 有神論なのでしょうか? 博士がスウェーデンボルグの教説に従ったかどうかは、博士の主張した仏教の 内容にもよるのではないでしょうか?
138 :
小さなヨハネ :02/02/15 22:59
>103ブルネルスさん 今日、帰りに本屋さんに行ったら岩波書店『新・哲学講義別巻/哲学に何ができ るか』がありましたので、買い求めてまいりました。読ませていただきます。 >119 ギリシャ語のお話の紹介有り難うございます。
139 :
小さなヨハネ :02/02/15 23:00
>226さん >スエーデンボルグは、あの有名な霊界ものから入ったのですか? ご質問の意味がよくわからなかったのですが、私がスウェーデンボルグを 読んだきっかけは確かに、霊界に興味を持ったからでした。ただ、予期に反して それはキリスト教そのものでした。キリストが神だというので最初は、えー!? と驚いてしまいました。
140 :
小さなヨハネ :02/02/15 23:07
>98マリアさん >あたしには一つの中に三柱が見えて、あなたにはイエズスしか見えないわけ。 「一つの中に三柱が見える」とはどういうことですか?その三柱の一つは父と いうことですか?父は見えないのではないですか? >あなたの使っている聖書にエホバと呼ぶ箇所が、一つでもあるかしら? エホバとみだりに呼んではならないので、その言葉は言われなかったでしょうが、 『わたしはある』(出エジプト3・14)はエホバの意味だと思います。 >年代に関しては、いつのことかはもう忘れられているから分からない。 >あたしは、カッバーラが流行り出した頃かもと推測するけど、 >これも推測でしかないわけ。 カッバーラというのは何ですか?それが流行り出したのはいつ頃のことで、 「エホバこそ後世の創作」とはそれが出エジプト記が書かれたころという ことなのですか?
>>140 まず、神のことからね。
ヤハウェという語は、全ての創造神を意味したの。
この表記はYHWH。神聖な4文字を組み合わせたもの。
全ての元、全ての創造を司る存在。
この存在は、大きな力を持つことから、人はこの名を唱えて
自分の欲を満たそうとする向きがあったの。
こういったことは、十戒に抵触するとしたのが表向きな理由だった。
アドナイという語は、主という意味がある。この主とは人の主を意味する。
これが旧約の世界だったの。
ヤハウェはYHWHという子音しか表記されなかったから、
次第に人々はその呼び方を忘れてしまったの。
そこで、YHWHにアドナイの語の母音を取り入れて創られた概念なの。
これはソラマ読みと呼ばれる技法。昔によくあった技法なのよ。
しかし、母の家の言い伝えでは、両者は区別されていたとされているわけ。
それに照らし合わせてみると、
エホバという概念は、人の思うがままにヤハウェを操ろうとする
魔術的発想=妄想から出たものだということになるわけ。
何故なら、この概念は悪い祈り方をさせやすかったの。 例えば、あなたはこう祈っているわね。 「全てのキリスト教徒が、 父なる神はイエズスだということに気付くように」と。 これを言い伝えから解くと、あなたの心から出ているのは、 自分の信じる以外のものが、全てが消滅すれば良いという祈り方。 これはその解き方からは、自分の欲が満たされるために 神の名を用いたということになり、魔術的な使い方となるわけ。 母の先祖達の周りにいたエホバを用いるもの達は、 こういう風な使い方をしていたということね・・・。 母の先祖たちは、エホバという言葉の意味には、 このような危険なものを植え付ける悪の力が宿っていると考えたの。 カッバーラは、昔からあった秘儀だけど、伝承止めになったものも多いの。 これは、かつてはヤハウェの言葉であるアドナイによって下される ものを受ける秘儀だったの。 しかし、中世に復興された形は違っている部分も多かったの。 非常に大きな力を得ることだけ、人のために使われることが多かったの。 こういう使い方は、言い伝えでは堅く禁じられていたことなの。 一つの中に三柱が見えるとは、 あたしはイエズスの言葉を通して父を見た。 そして、聖霊の技を通してイエズス=言を見た。正確には、父を見た。 イエズスを通してみたものと、聖霊を通してみたものは真に一つであった。 よって、父と子と聖霊は一つである。そういう意味よ。 父=本質=意思は、子=言と聖霊=霊の技によって理解出来るからね。
途中気分を害する表現が多々あるけど、許してね。
144 :
ボーダー住民 :02/02/16 08:14
>129-136 226君、 すでにセルフコントロールへの道は始まっているようだね。(笑) がんばれ。なんでもいいんだよ。神は、そういう人を愛していると思う。 私の言うキリスト教とは、一言で言えば「活ける神の手に陥ること」だ。 自分で自分に点数をつけながら、セルフコントロールへの道を歩むか、 計り知れない深層真理と自我の世界にまで、神に踏み込まれて叩かれるかの違いだよ。 だけど、まあ、仏教もいいと思う。うちの近所のお坊さんなんか、本当に立派だよ。 私はね、結果さえ出してりゃ、それでいいと思うのな。いずれにせよ、それが、その人に合った宗教だと思う。 >137 小さなヨハネ君 お疲れ様。もう出張終わったんだよね。じゃ、がんばって。 高橋和夫は、鈴木大拙については、私と似た意見のようだ。 鈴木大拙は、禅思想だけど、神道も視野に入れた独創的な仏教思想論と言われているらしい。 仏教学者に言わせれば、彼は、仏教史的には優れていたが、仏教哲学の分野では、 それほどでもないという見方もある。 でも、詳しくないけれど、仏教の自我観念というのもね、我々には解からない世界。
145 :
226 ◆2itrRL4s :02/02/16 12:44
>>144 まあね(苦笑 アラシについては、2、3心当たりがある(爆 その中の1つは神国スレに書いておいた。(核爆 あとは秘密。 でも、スゲーな。 あのアラシ、俺のレスの1分あとに付けてたからな、レスを。 最後に種明かし。 俺は文学部じゃないよ。クリスチャンでもないし仏教でもない。無宗教だ。 だから、この手の話は本来はすべきではない。ただ、こうした話には興味があったから 強引に話に参加した。皆がどう思うかは抜きにして。 そういうわけで。じゃ。
146 :
ボーダー住民 :02/02/16 16:49
>226 >クリスチャンでもないし仏教でもない。無宗教だ。 >だから、この手の話は本来はすべきではない。 まあ、そう言うな。 >ただ、こうした話には興味があったから強引に話に参加した。 すばらしい。また、どっかで話したいね。外野のうるさくないところでね。 俺も、小理屈嫌い。(あんまり信じてもらえないか……) あんたみたいな人と話すのが好き。226じゃないHN考えといて。 専門何? 理系かな、って思ってたんだ。 専門の話、教えてくれる? またいつか。そういうの聞くの好きだから。
147 :
小さなヨハネ :02/02/16 22:13
>127,>129 226さん しかし、どうせなら、主イエスが唯一の神と認識して進む方が効率はよいのでは ないでしょうか。車の窓ガラスは汚れていないで、よく見える方が安全です。 神が必要なことまですでに認識されているのなら、神がどなたかを知ることまで されたらいかがですか?人間が再生の道を歩むのは、神が誰かを認識していても 難しいのに、認識していなければもっと難しいと思います。なぜなら、認識して いたら、親しく主により頼むことが出来るからです。そのためにこそ、主はスウ ェーデンボルグやサンダー・シングを私たちに遣わされたのだろうと思います。 私はそれに加えて聖母にお願いすることも極めて有効だと今は考えています。 もちろん私は仏教や他の宗教を否定しません。しかし、例えば阿弥陀仏を信仰 するならば、それは実は主イエス・キリストの別名なのだ(!)というところ まで認識した方が、あとはぐらつかずに自分との戦いに集中できるでしょう。 窓ガラスはきれいなほどよいのです。
148 :
小さなヨハネ :02/02/16 22:40
>129 226さん >「神」という存在に対する信仰 >それは言うまでも無いこと。言うだけ野暮。「神」は人間が自分に「依存」す >ることはそんなに歓迎してないようだから。コンスタントな「信頼」は要求 >しているようだが。 いいえ、主はわたしたちがご自分により頼むことを、もっともっと期待して おられると思います。もちろん、スウェーデンボルグの言うように、「信仰のみ の義認」はナンセンスです。 しかし、父親が子を思うように主は私達のことを思っておられます。 「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立 って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさ ったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あ なたたちがこの所までたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を 背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。こう言っても、あ なたたちの神、主をあなたたちは信じなかったが、この方こそ、あなた たちの先頭に道を進み、あなたたちのために宿営の場所を探し、夜は火、 昼は雲によって行く手を示された方である。」(申命記1・29−33) ご存知のように、エジプトとは、地獄のこと、現在の自分の状態のことです。 荒れ野とは試練のこと、そしてカナンの地とは再生した状態、すなわち天界 のことです。
149 :
小さなヨハネ :02/02/16 23:12
>226さん マリア・ワルトルタのシリーズ(あかし書房/全10巻)をよろしければ是非 ご覧ください。1冊だけでも実際に手に取ってご覧になることをおすすめします。 生前の主を直接この目で見たいと願わないクリスチャンはいないでしょう。この 本はその願いを叶えてくれます。主や弟子達、ラザロやマグダラのマリア、聖母、 羊飼い達がまるで映画の中に出てくるように語ります。福音書の物語もっと詳し く展開されます。主がいかに聖母を愛しておられたか、ユダを最後まで救おうと どれほど心を痛められたか、全く知らなかったことが明らかにされます。 実に素晴らしい本です。ただの小説ではなく、主からの啓示、まさに新しい福音 です。
主はイエス 神は絶対唯一 これは、間違いない。
151 :
ボーダー住民 :02/02/17 06:41
これは、>124を拝借していますが,マリアさんへのレスではありません。 >アドナイという概念の成立で、それとヤハウェが同じでないことは、 >神に理解出来て人間に理解出来ないことが多いから、あるもの。 >こういう風に考えてもいいんじゃないかしら? それはそのとおりです。 が、この場合に限っていえば、理解される神は同一である(かもしれない?)が、 理解する人間にとって違うということですよね。 たとえば、大学の先生に3歳の息子がいたとして、息子には、彼は父である。 学生にとっては彼は先生であって、それぞれにとっての存在理由としては別物であるが、同一人物。 息子が成長しが彼の大学に入って、彼の学生となったときに、先生=パパ。両者は一致する。 と言っていることに通じますよね。 これは、役割が違うだけで、人格的には一つと言われるマリアさんの三位一体論には合うのですが、 「三位は永遠に区別された別の人格」というのには、ちょっと合わないんじゃないか、と思うだけです。 (自分もよっぽど、くどいと思います) 人格とみえるのは仮想人格で、実態ではない、とか、なんとかいう人いないかしらん。 世界は結構数学的にきちんとしているので、 1(人格)+1(人格)+1(人格)=1(人格)という数学は、 微妙にでも、両辺の単位を違えないと成立しないです。
152 :
ボーダー住民 :02/02/17 06:44
まてよ。 1本のバナナ+1本のバナナ+1本のバナナ=3本と見えるが実は1房3本に切って売っている1房のバナナ あー、これでも、やっぱり左辺は本、右辺は房、やっぱり単位は違いますね。 て、いうこと自体が、3次元的発想……? 果たしてそうでしょうか? これが、1×1×1=1だと、右辺は1になりますが、 この場合の両方の1も、性格が違うということでは同じです。 1だと解からないけれど、a ,b, c で、計算すると違いがわかります。 a×b×c = abc で、左辺のaは、b,cの影響を受けていないが、 右辺のaはb,cによって性格が変わって、元の性質を保っていないんですよね。 ちなみに数学は、3次元だけで通用するのではなく、 時間まで取り扱ってしまう相対性理論も、数式で導けるんですよね。 4次元以上にも対応できる数学でも成り立たない数式を、 神秘という理由で、公認しているのが、三位一体ではないか、と。 いいのか、こんなこと言って。もう二度と申しません。 これは、マリアさんの三位一体論とは違いますので、マリアさんへの突込みとは違います。 アウグスティヌスは、どうして「永遠に」「区別」しなければならなかったのでしょうか? 教理史を勉強なさったヨハネ君としては、どう思いますか? みんな、疲れてない? やっぱり一回閉じたほうがいいような気がするけどね。
三位一体とは、いわばインターフェイスの違い。人格が三つあるんではない。
>>149 あの啓示は、確か一部は教会では非公認だったはずよ。
まだカトリック教徒として生活し体なら、気をつけて読まないといけないわ。
>>152 人は、言と霊によらないと、
永遠に神の本質を知ることが出来ないからよ。
だから、永遠に区別されているのよ。
本質が最初から分かる人はどこにもいないでしょ?
155 :
小さなヨハネ :02/02/17 19:24
>143 :マリア さん >途中気分を害する表現が多々あるけど、許してね。 とんでもありません。おつきあいいただいて感謝しています。 魔術云々にかんする反論等は考えがまとまったらまたいずれ。 >154 マリア・ワルトルタは読まれたことがありますか?
156 :
小さなヨハネ :02/02/17 19:26
>151,152ボーダー住民さん >アウグスティヌスは、どうして「永遠に」「区別」しなければならなかったの >でしょうか?教理史を勉強なさったヨハネ君としては、どう思いますか? すみません。私には教理史が理解できなかったのです。アウグスティヌスも読ん だことがないので分かりません。 ボーダー住民さんが数学の素養をこんなに素晴らしくお持ちとは存じませんでし た。右辺と左辺が違うお話、とてもよく理解できました。相対性理論とか時間 にも数式の理論が通じるのですね。 ところで、以前私の小さな頭で考えたことについて下記しますのでご批評ください。
157 :
小さなヨハネ :02/02/17 19:27
数学は(数学も)得意ではないのですが、しかしAはBに含まれ、(A⊆B)、 BもAに含まれる(A⊇B)なら、AとBとは等しい(A=B)と言えるの ではなかったかと思います。父と子の関係はまさにこれです。すなわち、わ たしが父の内におり(子⊆父)、父がわたしの内におられる(子⊇父)なら、 わたしと父とは一つに重なり、すなわちイコールになります(子=父)。 ですから三位をこのように(○=○=○)並列的に考えますと、どうしても三人 の別の神を考えてしまいます。しかし一人の神が持つ三つの性質のことを想定 すれば、つまり並列的ではなくこのように((○))重層的に考えれば分離は生じ ません。それは文字通り霊魂と身体のように一体であり、しかも三位を否定して もいません。
158 :
小さなヨハネ :02/02/17 19:28
父と子を並列的に考えますと、「わたしが父の内におり、父はわたしの内に おられる」(ヨハネ10・38、14・10)とか「わたしと父とは一つで ある」(ヨハネ10・30)という重層的な表現を一方で無視することにな ります。 「三位一体」とは主のことを意味しているのです。主は3分の1の神ではな く、主の中に3があるという意味です。3/3=1です。 1である神を3分の3と言っているだけです。
159 :
小さなヨハネ :02/02/17 19:30
主なる神の属性を3つで表したのです。「3」にはまた「完全な」という意味 があります。主の中にすべてがあるのです。 「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとっ て宿っており、・・・」(コロサイ2・9) 「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう 言われる。『わたしはアルファでありオメガである。』」(黙示録1・8) とはそのことです。そして、「この方こそ、真実の神、永遠の命」(ヨハネ第T書 5.20)なのです。主の他に「父」という神がおられるのではありません。 まさに主と父とは完全に「一つ」(ヨハネ10.30)なのです。 すなわち、「一体」とは「ご本人」という意味なのです。
160 :
小さなヨハネ :02/02/17 19:31
ボーダー住民さん >みんな、疲れてない? やっぱり一回閉じたほうがいいような気がするけどね。 そんなことをおっしゃらずにもう少し続けさせてください。出エジプトに譬え れば、まだエジプトを出たばかりか、あるいはまだパロの反対で出発してない かもしれません。出来れば聖母のことまで行きたいのです。
161 :
小さなヨハネ :02/02/17 19:33
>150 : ◆rs2OUULQ さん >主はイエス >神は絶対唯一 >これは、間違いない。 >153 >三位一体とは、いわばインターフェイスの違い。人格が三つあるんではない。 シャープなレスポンスありがとうございます。恐らくその通りだと思います。 インターフェイスという意味を知らないのですが、それは何ですか。 ところで、スウェーデンボルグも三人格と言いながら、一人の神と言う ことは、そもそもおかしいと述べています。 「三人格を口にして一人の神を口にすることは矛盾しているのである。 なぜなら人格という言葉は他のものとは明確に区別され、相違している 何らかのものを意味するからである。」(静思社/スウェーデンボルグ/ アタナシウス信条/P67) 「神性の三人格が承認されるとき、決して一人の神を承認することは 有り得ない。」(同/P99)
>>小さなヨハネ 天主が女性で、父なる神と結婚すれば、ある意味「一体」という事になる。 で、天主が三つのペルソナを持つ。 さらにいえば、父なる神が天主から分かれたものとしたら? こうしたらどーよ? これなら、父なる神・イエス・天主が分割して存在しうる。 で、天主が三位一体でも通用するわけだ。 天主が実は母なる神ってことならこれで説明つくわな。 パズルのようだd(゚ー゚*)ネッ!
163 :
小さなヨハネ :02/02/17 22:38
>162父なる神さん ・・うーん、何ともコメントのしようがないです。
164 :
小さなヨハネ :02/02/17 22:40
前にボーダー住民さんからご希望のあったアダムとイブやノアに関するスウェ ーデンボルグからの引用を少しずつ書きます。少し長いので、ご興味のある方 だけ・・・。 スウェーデンボルグ/天界の秘義4448/静思社 「最古代教会は天的なものであったため、主に対する愛の善の中におり、そ こから凡ゆる真理を認識した。 なぜなら、その教会の人たちはほとんど天使たちに似ており、天使たちと交流 し、そこからかれらの認識が生まれ、それでかれらは信仰のいかような真理 についても決して議論はしないで、ただ「それはそうである」としか言わな かったからであるが、それはかれらは信仰を口にすることすら欲しないで、 代わって仁慈を口にしたほどにも信仰の真理を天界から認識した。(202, 337,2715,2718,3446)」 天界の秘義4489 「最古代教会の人たちはこの外なるものをかえりみなかったのである。(祭儀) なぜなら、かれらは内なる人たちであり、主は内なる道によりかれらのもと へ流れ入られて、かれらに善いことを教えられたからである。」
165 :
小さなヨハネ :02/02/17 22:41
天界の秘義49 創世記第1章26節。「神は言われた、わたしたちは人間をわたしたちの像 [映像]に、わたしたちの姿に似せて作り、かれらに海の魚、天の鳥、獣、凡て の地、地を這う凡ての物を治めさせよう、と」。主は最古代教会ではその教会 の人々と面と面を会わせて語られたが、その際、主は人間として現われたも うたのである。このことに就いては多くの事を語ることが出来るが、今はそ の時ではない。そうした理由からかれらは主御自身と主に属したものを除いて は誰も『人間』と呼ばず、また彼ら自身さえも『人間』と呼ばないで、ただ 彼らが主から得ていると認めたところの―愛の凡ての善と信仰の凡ての真理 といった―かれら自身の中に在るもののみを『人間』と呼んだのである。 そうしたものをかれらはそれが主のものであるため、『人間[人]のもの』と呼 んだのである。
>>155 エホバの名を使用する教会には、エホバの証人というものがある。
彼らも魔術的な信仰をして人を惑わす。
>>157 それはあなたの理解であって、三位一体論の理解ではないの。
逆に、父と子と聖霊は別の神ではない事を言っているからね。
話が全くちぐはぐなのよ。
だから、みんなはまともに答えるのが馬鹿らしくなるわけよ。
167 :
dendo. :02/02/18 01:09
>>166 つか、何を書いてあっても自分が読みたいようにしか読まない(読めない?)
んだよね。たぶん。この人たちは。
一般読者をまどわせないためには、遊び場はどこか他所にみつけたほうが
いいかも。
168 :
ボーダー住民 :02/02/18 09:34
>164-165 小さなヨハネ君、ありがとう。 >156 誉めてもらって礼を言うのは趣味じゃないんだけど、数学はね、素養はあるよ。実力がないだけで。(笑) 数学のことを考えるとね、心は喜びにあふれるよ。数学を通して神に出会ったとも言える。 >157 >わたしが父の内におり(子⊆父)、父がわたしの内におられる(子⊇父)なら、 >わたしと父とは一つに重なり、すなわちイコールになります(子=父)。 これはいいんだけどね。 >ですから三位をこのように(○=○=○)並列的に考えますと、 >どうしても三人の別の神を考えてしまいます。 この式の立て方がね、どうも、わたしにはピンとこないんですよ。 (○=○=○)で、三位一体を表わそうとしていると思うんだけど、 数学的には、イコールで結べば、別ってことはいえない。 ですから、この式は、ヨハネ君独自の記述方法であると理解しています。 >((○))重層的に考えれば分離は生じません。 >それは文字通り霊魂と身体のように一体であり、しかも三位を否定してもいません。 ((○))というのも、三位一体論には含まれているように思うんだけど。 というより、 >(子⊇父)なら、わたしと父とは一つに重なり、すなわちイコールになります(子=父)。 ということは、言おうとすれば、三位一体論でも言ってしまえるんだ、と思うんだけど。 >166のマリアさんのコメントは、当たっているんだよ。 なんたって、相手は神秘だからね。神秘をなめちゃいかんぜよ。
169 :
ボーダー住民 :02/02/18 09:35
>162 わたしが当初より申し上げておりますのは、 (当初よりじゃない、当初は、仲良くしようと言っていただけ、実は途中から)、 一体とは何かという問題であって、一つなのは解かるんですが、 それは一人格ですか? じゃないでしょ、ということだけでございます、父なる神よ。 三人はどうがんばっても、本当の一人にはなれないんでございます、父よ。 あー、父に説教こいてもうた。
170 :
ボーダー住民 :02/02/18 09:37
>167 つか、私の場合は、なんと書いてあってもなんとでも読んでしまうことはできるということは 言っていると思います。 皆さん、心理ゲームにマインドコントロールされないようにお願いしますが、三位一体は、論 証できません。「できない」と、三位一体の教科書に書いてあります。私が言っているのは、 教科書に書いてあることです。できないことをできないと論証しています。 (佐倉みたい…(笑)。いっしょにすんなの、気分悪。) 三位一体は、論証できるものではなく、それは、理性では解明できない。啓示によって示さ れる。というのが、三位一体の論拠です。 でも、必死で論じ合っていると、何か、論戦でカタがつくような気になってるでしょ。 ですから、マリアさんのように、独自の三位一体論を啓示によってお持ちの方には、それは それで結構だと考えます。そう、何回も言ってるんだけど。 マリアさんのおっしゃっておられる三位一体は、1人格+1人格+1人格=1人格という、私 が採りあげている三位一体論とはちょっと違うんです。で、私は、その意見には、反対しません。 そのへん、ヨハネ君とは違うところです。知れるところは提供する。しかし、その人に向いた宗教はある。それを神は知っていて、導いていると、私は思います。 いずれ、マリア崇拝について、ヨハネ君を叩くかもしれません。そこまで言いたいそうなので。 1人格+1人格+1人格=1人格 という三位一体論は、アウグスティヌスが、個人的啓示に よって作り出したものです。アウグスティヌスと同じ三位一体論をお持ちの方々が、同じ啓示 を、神から受けたといわれるならば、私は、その方々の信仰を否定しません。ただ、アウグス ティヌスの尻馬に乗っているだけの人々には、そんなことで安心するのはどうか、と思うだけ。 スウェーデンボルグは、彼の神概念を啓示によって受けました。 アウグスティヌスと、立場は同じです。(まー、とりあえず)
171 :
秘密さん ◆lC687ohY :02/02/18 15:47
>>170 大昔の西洋の宗教画で、イエスを3人1列に並べて、それが「三位一体」である という絵を見たことがある。 マリア崇拝については、原始キリスト教で欠落していた「母性原理」を補完した ものだと思う。マリア崇拝があったから、西洋の一般庶民にキリスト教が広く受け いれられたと思う。人間は、父性原理だけでは生きていけないから。 なお、イスラム教もマリア崇拝みたいなものはあるらしい。
三位一体論については、元々、アタナシウスの時代から、同質論と 類質論との議論があった。(もちろん、同質)始めから、霊の、質の 問題。1+1+1の問題ではない。 アウグスティヌスの啓示によって確立されたは、疑問。(彼におい て、新プラトン主義哲学の影響ありとおもわれ。) 確かに、難しく考えれば、同質か、それとも一つが他の二つに対し て優位に、在るのか無いのかの問題は微妙だが、三つの質は同じだと 云う事は、そのレベルにおいて、誰にでも理解できる。尻馬では、決 っして、無い。
キリスト教信仰の本質は知恵ではない。言葉でもない。 全ては<行い>にある。我々の、三位一体についての正確な理解など、 神は、必要とはしとらん事を、我々は知っている。
改行失敗したな
因みに、私は、タイピングが苦手という特技を持つ、アフォでなまけもん の、キリスト教徒なので、煽らないように。(カトではない=聖人という制 度に疑問あり。けど、聖フランチェスコ好き。)
>>167 まぁ、妄想と混ぜて崇拝し始めたら、
福音さえも裁きの手段に変化してしまうと、あたしは聞いているけどね。
ここでのケースもまた、その典型的な例でもあるわね・・・。
小さなヨハネさん、
あたしがエホバの証人の件を持ち出したのは、
あたしもあなたも神と共に生きているはずの人間、
または、そのの名によって生きるはずの人間であるはずなのに、
自分の価値観、あるいは自分の信じる価値観で人を裁いてしまう癖がある。
イエズスはそういうことをしてはならないと言われている。
あなたはイエズスの名によって歩むのなら、
そのようにしなければならない。
それが福音の奥義と聞いているし、
今ではユダヤ人もスウェーデンボルグ主義者を含むキリスト教徒も
忘れ去ってしまった奥義の一部。
神の名によって生き、自らを律することは良し。
しかし、他を裁いてはならない。ヤハウェアドナイエロヒムの意思は、
「他の民を迫害してはならない」これに抵触する行為をしてはならない。
それは自らの生存のために起きる争いとは別のことである。
三位一体論に違和感をもっても、
それに対して自分の偏見によって見てはならない。
それもまた聖霊の導きであり、神からのもの。
聖霊の導き全てに対して、敬意を持たなければならない。
あなたはしてないつもりでも、あなたはこれらの罪を犯している。
罪を犯さない者がない事を、あなたもあたしも忘れてはならない。
形に囚われてはならない。形とは変化するもの。
丸は三角にも四角にも様々な形に変化することができるもの。
忘れないで。
>>170 ヤハウェとアドナイとエロヒムは別の人格を持つわよ。
同じ神であったとしてもね・・・。
それは、この世のあらゆる事象が示しているとおりよ。
ヤハウェという人格とアドナイという人格は、全く別のものよ。
しかし、神という本質は同じ。父と子と聖霊は神であるからね。
父は子や聖霊を通して理解出来る。子は父と人間の仲介者だもの。
>>171 たまにそれぞれ異なった動作や、
微妙に違う表情をしているように見えるときもある。
"ノ(-________-;)ウゥーム・・・。 グリグリ迫ってる感がある・・・。
179 :
小さなヨハネ :02/02/18 23:41
>ボーダー住民さん 拙い私の数学についてのコメントをどうも有り難うございました。 確かにゴムの紐を引っ張れば従来の(私が並列的という)三位一体論で重層的 一体論までカバーできるということは言えるのかもしれません。 しかし、「意図」ということを申し忘れていました。最初に何を言おうとしたか という点です。 理論とは得てして直観による結論が先にあって、それを説明するためのもので あることが多いと思います。つまり、従来の三位一体論が何を当初の結論とし ていたか、すなわち何を前提としていたのか、です。それは結局「父」と「子」 と「聖霊」という三つの言葉があること、つまり単純に三つは違う存在である と思い込んだということだったろうと思います。その前提を説明するための ものなのではないかということです。所謂その理論の「動機」です。それは その前提を説明するためのものなのです。それが「神は唯一・不可分」という 「公理」に反することを弁明するためのものなのです。
180 :
小さなヨハネ :02/02/18 23:42
そしてそれはそもそも無理な話であり、神秘などではなく、ただの矛盾その ものであるため、結局、無知で無学な私からは「王様は裸だ!」と言われ、 数学者のボーダー住民さんからは「右辺と左辺の単位が違う!」という指摘を 受けてしまうのです。 ですから、従来の三位一体論にも重層的三位一体論が含まれるという議論は 当初の「意図」とは相容れないことになってしまうのではないでしょうか。 「主は心によって見る」(サムエル記上16・7)
181 :
小さなヨハネ :02/02/18 23:46
スウェーデンボルグ/天界の秘義9293/静思社 人間の行為はその人間の意志とともに観察されるときは、それはそうした運 動ではなくて、眼前に示された意思の形である。なぜなら行為は意志に属し た事柄を立証するもの以外の何ものでもなく、またその霊魂または生命を意 志から得ているからである。それで運動について言われることと同じことが 行為についても言われることができるのである。すなわち、ちょうど運動に は努力がないなら生きたものは何一つないように、行為にも意志がないなら 生きたものは何一つないのである。それがそうであることもまた人間に知ら れているのである。なぜなら理知的な者は人間の行為に注意しないで、その 行為が発生してくる源泉であり、手段であり、目的でもあるその意志にのみ 注意するからである。否、賢明な者はその行為をほとんど見はしないで、そ の行為の中にある意志の性質と量のみを見るのである。捧げ物の場合も同じ であって、主が眺められるものはその捧げ物の中にある意志である。従って エホバ―すなわち、主―に捧げられた捧げ物により意志に、または心に属し た事柄が意味されているのである。人間の意志は聖言ではその『心(心情)』 と呼ばれているものである。
182 :
小さなヨハネ :02/02/18 23:48
スウェーデンボルグ/黙示録講解98/静思社 賢い者であって、人間をその行為のみから顧慮して、その意志からは顧慮し ない者があろうか。もしその意志が善良であるなら、かれはその行為を愛し はするが、しかしその意志が悪いなら、その行為を愛しはしないのである。 かれはまたその行為を見はするが、しかしそれをその意志の意図に従って解釈 するのである。ましてや霊的なものである者はその行為には留意しないで、 その意志を詮索するのである。そのことはすでに述べた以下の理由のためで ある。すなわち、行為はそれ自身では無意味であり、行為が示している凡て のものは意志から発しているのである。なぜなら行為は意志の活動であるか らである。
183 :
小さなヨハネ :02/02/18 23:49
>170ボーダー住民さん >いずれ、マリア崇拝について、ヨハネ君を叩くかもしれません。 聖母に関してはいずれまた・・・。 >150、153、172−175 ◆rs2OUULQ さん あなたは、主イエスが唯一の神と思っておられるようにお見受けしたのですが、 それは何からそう思われたのですか。スウェーデンボルグからですか?しかし、 スウェーデンボルグからですと知恵も無視はしないので・・・。
184 :
小さなヨハネ :02/02/18 23:58
今日はアダムとイブ(エバ)について短いところを引用させていただきました。 『アダム』 スウェーデンボルグ/天界の秘義64/静思社 天使たちはこのように聖言を認めているのである。かれらは文字の中に在る ものに就いては全く何事も知っていない。一つの言葉の最も近い意味すらも 知っておらず、まして聖言の歴史と予言の部分に再三現れている国、都、川、 人物の名は知っていないのである。かれらは言葉と名前とに意味されている ものを考えるに過ぎない。かくて楽園のアダムによりかれらは最古代の教会 を認めているが、しかしその教会ではなく、その教会の主に対する信仰を認 めているのである。 『イブ』 同/天界の秘義152 たれでも多少でも注意しさえするなら、女は男の肋骨から組み立てられはしな かったことを認めることができ、またここには、これ迄人の知らなかった深い アルカナが意味されていることは認めることができよう。『女』により人間自身 のものが意味されていることは、欺かれたのは女であったという事実から知る ことができよう。なぜなら人間自身のものを除いては、またそれと同一の、 自己と世への愛を除いては何ものも人間を欺きはしないからである。
185 :
小さなヨハネ :02/02/19 00:03
>176マリアさん すみません。また明日書きます。
186 :
小さなヨハネ :02/02/19 00:05
>178ver3.03 さん お久しぶりです。
>>183 思った、感じた、ではなく論理的帰結。始めは、プリゴジンとキャンベルの
宇宙観が似ている(実は、同じ)と思ったことから。後、省略。
スウェーデンボルグは知らん。知っているとは言えん。
知恵の全てを否定していない。キリスト教精神に基づく、キリスト教信仰の、
あるべき姿について言っただけ。それは、教団の教義のことではない。
っていうか、我々には、聖書があるではないか。
191 :
ボーダー住民 :02/02/19 08:51
>171 マリア崇拝は、それでいいと思います。ただ、ヨハネ君が主張するのは違うということだけ。 彼は、ここでスウェーデンボルグを紹介しているはずだと理解していますが、スウェーデンボルグの内容には マリア崇拝はありません。むしろ、彼女は、スウェーデンボルグでは、罪深い肉を代表しています。 スウェーデンボルグを紹介しているはずが、いつのまにか、ヨハネ君の個人的なカルトの混じった宗教を、 スウェーデンボルグの名を着せて語られるのは、スウェーデンボルグが誤解される元になるので反対しています。 彼が、個人的に、聖母によって多くの慰めを得ているのであれば、それはかまわないから、黙ってやっておいてほしい、 と言いたいだけ。叩かれて、せっかくの平安を失いかねないようなことはするな。 君の基盤であるスウェーデンボルグによれば、それは簡単に反論される。オレは、もう面倒なことはいや。 >172 これも、言いたいことはいろいろあるが、仕事に差し障りが出てきているので。 アウグスティヌスが、啓示によっていないことは明らか。 でも、「ギリシャ哲学から推断しました。」では、教理としての説得力がないのな。 君の理論は、1インターフェース+1インターフェース+1インターフェース=1本質 で、両辺の単位は違っているから、私の公式には合っている。 >173 >キリスト教信仰の本質は知恵ではない。言葉でもない。全ては<行い>にある。 これはいいことを言った。スウェーデンボルグ的には、あなたは神の国から遠くない。 しかし(タイピングが面倒だから省略したんだろうと解釈するが)、もう一言。 <神への信頼と清い動機による行い>と言って欲しかった。
192 :
ボーダー住民 :02/02/19 08:53
>我々の、三位一体についての正確な理解など、神は、必要とはしとらん事を、我々は知っている。 君は、それならそれでよい。この問題は、いわゆる神の個性に関する問題だからね。 神でも人間でも、自分を愛し、本当に私心ない付き合いをしてくれる人には、自分の個性を知らせ たいと思う。 いずれにせよ、行いを正すほうが先決だ。君の選択は、正しい。 そのようにして、行いと愛とが純化されていけば、いずれ真理は自明のこととして開かれる、 と、スウェーデンボルグは言っている。 だから、こんなところで三位一体を論じるのは間違いなんだよ、ヨハネ君。 て、人に言っている場合じゃないぜ。 >177 別の人格でもいいですが、同じ人格でも、別の働きはできます。別物のような顔もできます。 この世のあらゆる事象が示していることは、要素となる3つが一つになると、元の要素とは違う性質のものが出来上がるという事実です。 >179-180 久々に英断! まったく同感。 >181-182 アルカナの訳はないの? 読んでもらえないよ。あと、「霊的な者」とかいう言葉は、ちゃんと 解説しておかないと、世間ではまったく逆の意味で使われているんだよ。 ちなみに、スウェーデンボルグが「霊的な者」という時には、「善意はなくて、霊的な知識の みを求める者」といった感じの意味になります。 >184 ありがとう。 というわけで、本当に皆さんには御世話になりましたが、ちょっとROMさせていただきます。(のつもり)
>>177 組み立て式に解くのね。それはないわよ。
三柱は、互いに混じりあることがないから。
三つのものは一つのものだけど、
柱は別のものだから互いに混じらないわ。
例えを用いる時、同じ人格では時には働きが混じってしまうという欠点がある。
父と子と聖霊の場合は、働きが混じらないから、
別の人格としておいた方がある意味正解であるのよ。
ヤハウェとアドナイは、はっきりと別人格よ。
何故なら、人はヤハウェという存在を理解することは全く出来ない。
語りかけるものアドナイが介在することにより、ヤハウェを知る。
何故、神道は多神教になったか?その理由が、これよ。
イスラエルの民は、自分たちの統一を図るために、
全てをくっつけてしまわなければならなかった。
神々はその希望に答えた。
しかし、どうしても出来ないことがあった。
それは、ヤハウェとアドナイとエロヒムの区別。
エロヒムとは、元は神々という意味。古イスラエルを分かる鍵ね。
「父」を、直接知ることは出来ない。我々は、聖霊の働きと人の子とし て遣わされた、「子」イエスが示された、「キリスト教精神」(と、後世 に呼ばれる)なるものによってのみ、その本質を知ることが出来る。つま り、聖霊の働きとイエスが、人の、神を知る為の、インターフェイスの役 割を担っている。 これは、(過去に作られた)教理では無く、一つの論理的帰結である。 しかし、この理論の重要な点は、 1.父の本質の認識には、限定的可能性しか無い事、 2.「キリスト教精神」の、普遍的存在性、 3.人の主観によって定義される、神の御業、聖霊の働きの普遍的存在性、 という、三つの前提の存在の下にのみ、成り立つということです。 (重要ではあるが、2.の「キリスト教精神」の定義と3.の説明は省略) 私には、上記三つの前提無しには、理論を構築する事は出来ん。 私は、一般的に言われている意味での、神の啓示などは、信じていない。 先人達は理論の構築に失敗したと思う。プラトン主義神学には、始めから、 混乱が内在していた。(その混乱の遺産が、我々、プロテスタント界の混 乱にあると思う。なんと異質なもの達が、一語の下にあるのだろう。) 先人達に、最終的解答は求めず、私の、「キリスト教精神」の働きに導 かれた思考の、結論です。
>>194 への追記。
イエスが父なる神である、という事に関して、その認識が、我々が「父」を
直接的には不可能だからである。我々の限られた精神は、主観によって、客
体たるイエスに、その、示される父の本質を確定し、復活されたイエスを、
父とする権利(赦しか?)を得たのである、 と思う。
因みに、漏れは、これから仕事だ〜。 みんなも喜んで働きましょう。労働は、神の求めるところのものです。 (と、自分に言い聞かせる。) ageてみる。
それから、良く考えてみれば忘れていたわね。 預言書の「父」という表現は、人格の「父」のを指すものであって 神格の「父」を指すものではない。人は良く混合してしまう。 あたしと先祖の巫女達を重ねたり、 老人ホームや病院で働いていたからといって、 聖武帝の皇后光明子を重ね合わせる土地のお年寄りは多いけど、 本当に困ったものよ。 「あなたは私達に降りてきた神様です」と言うのよ。何もしやしないのに。 「私は確かに神様に導かれて、ここに来たとは思っていますが、 私はそのようなものではありません」 といっても聞き入れてくれやしないのだから。 それと同じ。本当に困ったものよ。
後、聖霊の導きなるものは、日々色々と起こっているからね。 アウグスティヌスのものもその一つよ。 古代イスラエルの預言といっても、 基本はそんなところのものもあったらしくてね。実はね・・・。 (ちょっとバラしたくなったことだけど・・・)
200 :
名無しさん@1周年 :02/02/19 22:38
ひさびさに2ch来てみたけどさ、 よく続いてるよな、このスレ。 感心するなあ…。
201 :
小さなヨハネ :02/02/20 00:17
>マリアさん(すみません、直前の書き込みを見ないで書いてしまいました。) なかなか議論がかみ合いませんね。私の意図するところは、三位一体説、信仰 義認論、刑罰代償説などの非合理的な教義が私達を主イエス・キリストから遠 ざけているのを見て、それらの障害を取り除き、もっと人が主に近づけるよう にしたいということにあります。私自身がそれらのために主に近づくことがで きなかったからです。人を主に近づけることが人を惑わすこととは思いません。 もちろんそれが魔術などとは!魔術なら逆に人を主から遠ざけるものでしょう。 これらの教義は率直に申し上げて、人の良識や正義感に反しています。良識や 正義に反するものは神から来るものではないと思います。 そもそも、神が三人もおられるでしょうか?信ずるだけで救われるでしょうか? 主が身代わりとなってくださったので、なぜ悪人の罪が許されるのでしょうか? そんな馬鹿な話はありません。 それらの元となっている最大のものは三位一体論です。主が神と思っていないの です。神を三人格に分けたら、もうすでに主が神であることを否定しています。 神は一人であり、主を神と認めるなら他に神はいないのです。と言うよりも、 主を神と思わないことから三位一体論は発生したとも言えます。
202 :
小さなヨハネ :02/02/20 00:18
福音書にこういうくだりがあります。 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たち はこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われ た。『子供たちをわたしのところに来させなさい、妨げてはならない。神の 国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神 の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、 子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(マルコ10・13〜16) 「小さな子供」により無垢が意味されています。誰一人無垢を多少なりと 持たない限り、天界へ入ることは出来ません(天界の秘義5608)。 「弟子」とは普通、真理や教義を意味するそうですが、ここでは逆に誤謬の意味 でしょう。これらの非合理的な教義も、主から、神を求める人たちを遠ざける 原因となっています。
203 :
小さなヨハネ :02/02/20 00:20
>190 ◆rs2OUULQ さん アダムとイブの解説ですが、記憶からで申し訳ありません。人間のそばにいる 天使たちも人間が聖書を読むとき、その聖言を聞きますが、かれらには「アダ ム」という言葉、名前は人の名を意味しているのではなく、最古代教会(大洪 水以前の大昔の教会)を意味しているということだったと思います。聖書に出 てくる人名や地名、国名などはすべて抽象的な霊的な意味を持っており天界の 天使には地上の名前ではなく、それらが表象している霊的な意味だけが伝わる のだそうです。 イブ(女)とはここでは人間自身のもの、すなわち自己愛や世間愛、つまり支 配欲や物欲などを意味しているというのです。(その他にも「女」には色々な意 味があります。悪い意味だけではありません。)それらの欲が人間を騙すという ことです。
204 :
小さなヨハネ :02/02/20 00:21
>ボーダー住民さん > ◆rs2OUULQ さん すみません、明日またゆっくり書きます。
205 :
名無しさん@1周年 :02/02/20 00:22
ま
207 :
ボーダー住民 :02/02/20 08:47
もう来れないと言った手前、もう来れないんだけどね。 >193 マリアさん 働きが混じり合っては、いけないのでしょうか。 本当に混ざり合わさってはいけないのは、善と悪、光と闇、罪と義のようなものでしょう。 善である働きなら、同じ人格によって、どんな働きがなされてもいいでしょう。 人間に理解できないものと、理解できるものは、1つの人格の中に共存している。 たとえば、マリアさんのオカマであるという個性を、私たちは理解できない。 しかし、一人の普通に生活する人間として理解できる面はたくさんある。 マリアさん独自の、一般には理解されない部分と、一般に解かる部分の両方を、 マリアさんなりに、納得のいくものとしようとした結果、 今のようなマリアさんのあり方(働き、表現)が生まれた。 それが、ここまでの宗教家に育てたのだと、私は個人的には思っています。 誰でも、一人の人格の内に、自分にしか解からないものと、他人と共通するものを持っている。 自分独自のものに、社会性を与えて、他者にも理解できる形にしようとするとき、何らかの作業が出てくる。 神は、もとから神独自のものと、人間的なものを持っていて、人間的なものを用いて人を造られた。 神としての部分は理解されない。しかし、人にご自身を知らせたい。それをなんとか解からせようと働かれた。 これが、スウェーデンボルグの言うところの父、子、聖霊の、3と1の関係を表わしているんです。 難しくないと思います。 むしろ、人格別に働きを分けるほうが、よほど不自然ですよね。 人間でさえ、人格には、いくつもの働きをこなすほどの幅も力量もある。 まして神ならば。 ではでは。
>>207 始めてここに書きます。人格別に分けるというのは、八方美人とどこか似ている記がします。
>>201 話がかみ合わないのは当たり前。
何故なら、あなた方はあなた方のアドナイである
スウェーデンボルグによる道を歩み、
あたしたちは古代から伝わる流れの中で歩んでいる民。
あたし達から見れば、あなた方は魔術的行為をしていることになる。
ヤハウェを人に近づけたいという「思い」が
既にイスラエルの伝承の世界では、魔術に属するものだということよ。
アドナイとエロヒムによって、人はヤハウェの存在を知る。
その道のりをあなた方は否定し、嘘だと言い放つ。
まさに伝承の流れから言えば、これはまさに魔術であるの。
>これらの教義は率直に申し上げて、人の良識や正義感に反しています。
>良識や正義に反するものは神から来るものではないと思います。
本当にそうだと言い切れる?人と神とは違うわよ。
何が正義か、何が良識か、そんなものは人それぞれだし、
文化やそこから派生した宗教が違えば変わるのよ。
あるものを否定するなら、それもある人たちによって否定される。
>それらの元となっている最大のものは三位一体論です。主が神と思っていないの >です。神を三人格に分けたら、もうすでに主が神であることを否定しています。 >神は一人であり、主を神と認めるなら他に神はいないのです。と言うよりも、 >主を神と思わないことから三位一体論は発生したとも言えます。 ヤハウェとアドナイとエロヒムは同じものであり、別のもの。 イスラエルの伝承ではこうなのだから仕方がないわよ。 文句があるなら、イスラエルの神に言うことよ。 「何故そういう、私達に理解出来ない伝承を認めさせたのか?」とね。 三位一体論に従う人達に言っても始まらないわよ。 違うものを一つにしたいのがあなた達の欲望。 ヤハウェを人間に近づけ、ヤハウェを人と同等にみなし、 アドナイとエロヒムの存在価値を消し去りたいという欲望が 知らず知らずの内に注入されているの。 エホバの名によって歩む者は、いつもこういうことをする。 伝承によって解かず、伝承を無用の長物として捨てる。 それがどれだけの人を惑わし、対立させるのか全く自覚がない。
ま、神にとってかわりたいって奴は多いな。 とってかわってなにするつもり?ってのがあるんだけどね。 利用したい、とか〜。威張ってみたい、とか〜。崇められたい、とか〜。 この手かな? でも、神には神の苦労があるだろうしね。 代われるものなら代わって欲しい、って思ってるかもよ? でも、「じゃ、俺がやりたい」って奴は絶対ダメなんだよね(苦笑)。 本音のレベルだから隠しても無駄だしね〜。 真意の奥のそのまた真意。 心の奥底に何があるかで神々は人間をはかるからね。 口先でどんな立派な事言っても無駄な話。 関係ない話で、スマヌ。
212 :
小さなヨハネ :02/02/20 19:35
>209、>210マリアさん イエスは言われた。 「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでも ない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝してい る。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、 霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父 はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、 神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っ ています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくだ さいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたし である。」(ヨハネ4・21−26)
キリスト=メシア=イエス これは動かないな、確かに。
214 :
小さなヨハネ :02/02/20 19:36
キリスト教の要諦は主イエス・キリストを唯一の神、父なる神と信じられるか どうかです。そしてそれこそが、スウェーデンボルグの言う「救う信仰」なの です。 もちろん救われるためには「信仰のみ」ではだめで、「行い」が必要です。 「行い」とは父の掟を守ることです。すなわちそれは「十戒」を守ることであり、 「主を愛し隣人を愛する」(マタイ22・37,39)ことであり、「正義、慈悲、 誠実」 (マタイ23・23) を行うことです。(十戒の「十」とは「すべての」と 言う意味であり、唯一の神から人類に与えられた共通のものなのです。) しかし、私たちはまず父なる神が私たちを本当に愛してくださっているという ことを理解する必要があります。 親に愛されなければ子供が非行に走ることは大いにあるでしょう。親に愛され ないのに子供が親の言いつけを心から守ろうとするでしょうか?それと全く同 様です。私たちも「父」の御心を進んで「行う」ためには「父」から愛されて いるということを確信する必要があるのです。そしてそれは、主イエスを「父」 ご本人と信じることに他ならないのです。
215 :
小さなヨハネ :02/02/20 19:40
イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上 のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に 属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、 わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、 あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(ヨハネ8・23,24) 『わたしはある』とは「エホバ」のことです。 天界の秘義10579[6] 「なぜなら『わたしはわたしはいます』はエホバであるからである。(出エジ プト3・14)」 天界の秘義10579[6] 「なぜなら『わたしはわたしはいます』はエホバであるからである。(出エジ プト3・14)」 父なる神が子なる神を派遣して、子なる神が犠牲になったので人類を許した・・・?そんな馬鹿げた話があるでしょうか?!神はそんな奇妙な趣味をお持ちなのでしょうか? そんな神が私達を愛しているなんて、信じられるでしょうか?常識のある人なら信じません。一体どこにそんな親がいますか?
217 :
小さなヨハネ :02/02/21 00:19
>191ボーダー住民さん >彼は、ここでスウェーデンボルグを紹介しているはずだと理解していますが、 >スウェーデンボルグの内容にはマリア崇拝はありません。むしろ、彼女は、 >スウェーデンボルグでは、罪深い肉を代表しています。 スウェーデンボルグが聖母について述べている内容は知っています。しかし、 最近私は聖母に違う意義を認めるようになりました。それはまたその時に・・。 いつになるか分かりませんが。 >いずれにせよ、行いを正すほうが先決だ。 >そのようにして、行いと愛とが純化されていけば、いずれ真理は自明のことと >して開かれる、と、スウェーデンボルグは言っている。 >だから、こんなところで三位一体を論じるのは間違いなんだよ、ヨハネ君。 そんなことはありません。主はこう言っておられます。 「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」 (ヨハネ15・27) 天界の秘義9818〔26〕 『主について証しをすること』はその霊的な意義では主について教えること を意味している。
218 :
小さなヨハネ :02/02/21 00:25
(続き) >ボーダー住民さん >181-182 >アルカナの訳はないの? 読んでもらえないよ。あと、「霊的な者」とかいう言 >葉は、ちゃんと解説しておかないと、世間ではまったく逆の意味で使われてい >るんだよ。 >ちなみに、スウェーデンボルグが「霊的な者」という時には、「善意はなくて、 >霊的な知識のみを求める者」といった感じの意味になります。 アルカナ出版ではまだ全部出ていないのではないでしょうか? 「霊的」とはスウェーデンボルグは「天的」に比べると劣るものという意味に 使っていますが、「自然的」に比べると良い意味で使っているのではないですか? 例えば次の1番目の例は「天的に比べると劣る」意味で、2番目と3番目は良 い意味で使っています。 (1).天界の秘義2715 霊的な人間の意志の部分は悪以外の何物でもなく、悪がそこから不断に知的 な部分、すなわち思考の中へ流れ入ってくる。霊的な者は天的な者のように は主に対する愛を持っていない。
219 :
小さなヨハネ :02/02/21 00:27
(2).天界の秘義5965/静思社/スウェーデンボルグ 天界の光の中にあるものは霊的なものと呼ばれている。なぜならこの光の中 にあるものはその中に善の情愛と真理の認識を持っているからである。 (3).天界の秘義5639 霊的なものは自然的なものに対してはいかようなものであるかをさらにかん たんに言っておかなくてはならない。なぜなら基督教世界にいる者たちの大 半は霊的なものの何であるかを全く知ってはいないからであり、その言葉を 聞くとためらって、たれもその何であるかを知らないと独り言を言うのであ る。霊的なものは、人間にあっては、その本質は、自己のためではなくて、 善と真理とのために善と真理とを求める情愛そのものであり、また自己のた めではなくて、公正で公平なもののために公正で公平なものを求める情愛で ある。人間がこれらの情愛から自分自身の中に歓喜と楽しさとを感じるなら、 ましてや幸福と祝福とを感じるなら、それはかれにおける霊的なものであり、 それは自然界から来ないで、霊界から、または天界から来ており、すなわち、 天界を経て、主から来ているのである。
220 :
小さなヨハネ :02/02/21 00:30
>192ボーダー住民さん >というわけで、本当に皆さんには御世話になりましたが、ちょっとROMさせ >ていただきます。(のつもり) ボーダー住民さん、本当に有り難うございました。非力な私の支えとなってくださ いました。私の留守中にも大変お世話になりました。さぞお疲れになったことと存 じます。 「数学のことを考えるとね、心は喜びにあふれるよ。数学を通して神に出会った とも言える」(>168) というとても素敵な言葉がありましたね。そのことについてお聞かせ願えればと 思っていました。お時間が出来たら是非またよろしくお願いします。
221 :
小さなヨハネ :02/02/21 00:32
>196 : ◆rs2OUULQ さん
>>194 への追記。
>イエスが父なる神である、という事に関して、その認識が、我々が「父」を
>直接的には不可能だからである。我々の限られた精神は、主観によって、客
>体たるイエスに、その、示される父の本質を確定し、復活されたイエスを、
>父とする権利(赦しか?)を得たのである、 と思う。
またこんな時間になってしまいました。 ◆rs2OUULQ さんが単純に主を父ご本人
と認識されておられるのかどうかお聞きしたいと思っていたのですが・・。
>206 : ◆rs2OUULQ さん
>>201 、
>>202 >あなたの疑いは、私を困惑させる。
どんなことで「困惑」されたのでしょうか?
>>215 神はイエスの受難、復活以前においても常に、我々を、許し続けていた。
人の子(としての)イエスの派遣は、まさに、愛ゆえ。怒りゆえではない。
罪ある我々に対して、御業を行い、義を示された。これが、新約であり、
義とは、神との正しい関係の事である。
ただし、イエスを父とする点については、私は、異論はない。(微妙という
か、あるいは、全く違うというか... とにかく、いかなるアプローチであれ。
理由は、前述。)
223 :
小さなヨハネ :02/02/21 00:40
>216 ◆rs2OUULQ さん
>>214 >括弧内の十戒の説明(解釈)に共感。
引用なしですみません。
◆rs2OUULQ さんはヤコブやフランチェスコがお好きなご様子。労働も、神の
求めるところのもの(>197)とのこと。スウェーデンボルグの健全さに
相通じるものを感じました。
私は、神は(イエス)は、我々の言葉、精神にあわせて、語られた(示された) と思うので、S博士のごとき、深読みした解釈はしてないし、必要とも思ってい ないです。にもかかわらず、上記の結論に達しました。
>>221 非合理的ですか?
人間の限界性により、我々の、認識行為の結果は(その内実は)、父=イエス
であるという事。あなたのいう単純にあてはまるかどうかは知らない。
けど、これは、単純です。イエスの様に、私は語る能力がないため。
>>217 >だから、こんなところで三位一体を論じるのは間違いなんだよ、ヨハネ君。
というのは、私の思いを想像したものと思われる。その思いは確かにある。し
かし、それは、全てのキリスト者を対象とする。
>て、人に言っている場合じゃないぜ。(
>>192 )その通り。しかし、私の罪
ある精神は、私の思考が停止してないことを、人の表したいとの衝動をおさえ
られなかったのです。
>>223 前にも書きましたが、私は、アフォで怠け者で「行い」の伴わない、
不信仰な人間です。が故に、私の発言は、罪なんです。
本来は、別の板にいたのですが、それらでは戦闘員、あるいは偉そ
うな回答者をしていました。(2ちゃんねらーですよ、所詮。)
しかし、ここは、”教会”なんで...(キリスト者が集う所にある、
見えない教会。
>>207 >本当に混ざり合わさってはいけないのは、
>善と悪、光と闇、罪と義のようなものでしょう。
残念ながら、これらは常に交じり合っているのよ。
一見悪に見えるものの中には善がいたり、
一見善に見えるものの中に悪がいたりいるのよ。
何をもって善とするのか、何をもって悪とするのかは、
なかなか決着のつくものではない。
何を基準に委ねるかで、どのようにも変化するものなの。
その中に放り込まれるのも、また神の技だからね。
しかし、神の本質と言と霊には明確な区別があるの。
霊と言によってでしか、神は理解出来ないものだからよ。
本質と霊と言の役割には明確な区別がある。
互いに交じり合うことはないの。
何故なら、人は霊の導きにより言を知り、それを神のものと知るわけ。
霊と言の関係はいつも分離されているし、混合することはないの。
>>212 伝承によって解くなら、
この知らせる者とは、イエズスのことであるわけ。
ヤハウェ自身ではないわ。本人がはっきりとそう言っているからね。
メシア=ヤハウェではないからよ。メシアは遣わされる者。
遣わした本人を指さない。そして、それは彼の言葉によって伝えられる。
昔の秘儀の概念でもやはり、ヤハウェとアドナイとエロヒムは
分けられていた概念だったからよ。
>>214 あなたの捉えは、スウェーデンボルグの捉えに重ねたものであって、
それは創生の時からの伝承と秘儀とはあまり関わりもないものよ。
あなた方のような者のために用意された新しい概念であって、
キリスト教徒にとっては何にも関係ないものなのよ。
また、昔のイスラエルでは、他の民を認めた。
自分たちはアドナイによって歩む民。
他の民は他の神によって歩めば良い。こういう考え方をしていたの。
イスラエルの十戒が及ぶ範囲は、イスラエルの民のみなのね。
他の民に及ぼそうだなんて、そんなことは考えなかった。
後のサマリア人への対応を見てもそうだけど、あまり考えてなかったのよ。
改宗という行為は、あまり理解出来なかったの。
だから、今でもユダヤ人というのは民族宗教なわけ。
あなたやキリスト教徒は、イスラエルの契約を 他の人にも及ぼそうとしているけど、 これは秘儀によって解く場合は、大きな間違えも含まれている。 確かに、「愛と許しと寛容」によって歩むことをイエズスは、 説いている訳で、これだけであるなら万国共通の概念にできる。 何故なら、この福音とは全ての宗教の核となれるだけの価値があるから。 しかし、他の民には他の神がある。これによって他の民は歩む。 これを破壊しない形で、キリストの福音を述べ伝えればよかったものを、 昔の伝承を破って、人を迫害し「他の神は間違えだ!」といって 他の人を、神を殺してきたわけ。これは、契約違反よ。 その他の神も、アドナイが他の神としてその民に現れた 姿である場合もあるのに、ヤハウェをある角度から見たものであるのに、 エロヒムをある角度から見たものであるのに、その神々を殺す。 あなた方はキリスト教徒が犯した過ちをまた行おうとしている。 いや、それより酷いわね。全く太古よりの伝承に配慮しない、 自己中心的解釈によってすべての伝承を 偽者呼ばわりして闇に葬り去ろうとばかりする。 全く、次から次へと変なものばかりが出てくるものね・・・。
231 :
名無しさん@1周年 :02/02/21 15:01
突然で悪いが、聖書中でイエスは父は自分よりも偉大といい、 自分は父よりも劣ると本人が発言してるんだがこれはどういうこと? 小さなヨハネ君、是非答えてもらいたい
232 :
dendo. :02/02/21 15:44
>改宗という行為は、あまり理解出来なかったの。 ん。異論。改宗者はエジプトのアレクサンドレイアとかコリントスとかには けっこういたと思われ。
いいえ、大昔の話よ。 他からの改宗が進んできたのは、 それは状況が落ち着いてからのことよ。 契約の内容について、他の民からの改宗者を受け入れてよいと 判断したときから。 それ以前は、異邦人の血を入れることを非常に忌み嫌っていたらしい。 元々は、自分たちだって色んな種族の混血人種だというのに・・・。 そういうところは、日本人と良く似てるけどね。
234 :
ボーダー住民 :02/02/21 17:10
あのー、マリアさん 一応、「あなたがた」とおっしゃる時、私のことは除けといてね。 今のところ、まだボーダーライン上に住んでいるので。
ええ。もちろんよ。 自分のものだけが完全無欠に正しくて、 他のものは何も正しくないという説を唱えるのが、 神の世界では一番正しくない理屈なのよ。 自分たちは自分たちの道を歩めばよい。 他の世界を忌み嫌うなら、自らも他の世界から忌み嫌われる。 ひいては神から嫌われるのだから。 非常に簡単なはなしよ。福音もその視点から話されている。 不寛容からは良い信仰は出ないのだから。 三位一体論は、古代からの流れにあるもの。 旧約も新約も、聖書は三柱の流れを意識した流れで記されている。 それを理解したくないなら、理解しなくても良い。 ただ、理解出来ないからといって裁くなら、 それはそこまで。試す者に負けてしまっている。 あれ以来、人は常に試されている。それを忘れてはならない。 彼らの世界は、伝承の世界では、まだ一歩目に過ぎない理論。 内面だけで外面を見ていない。 内面から見るもののみに囚われれば、外の世界が理解出来ない。 内の世界を理解し、外の世界を理解し、 その後ようやく、内と外の調和が形作られる。 イスラエルも、クリスチャンも、 いつの間にか内の世界に篭ってしまった。 神は、全てであるヤハウェ一柱、民の主であるアドナイ一柱、 各個人の神であるエロヒム一柱の三柱を示したのに、 多くの者は、この三柱の意味を理解せずにいる。 これによって自分たちの神と他の神を解けば 誰とも争わなくて済むものを、 自我に流されて解き方を理解しようとしない。 三柱の意味を早く思い出してくれる日が来ることを、待ち望むのみ。
236 :
dendo. :02/02/21 18:37
>>233 了解。士師記やエズラ記の頃のことをいってるのね。
>>235 >自分のものだけが完全無欠に正しくて、
>他のものは何も正しくないという説を唱えるのが、
>神の世界では一番正しくない理屈なのよ。
といいながら
>神は、全てであるヤハウェ一柱、民の主であるアドナイ一柱、
>各個人の神であるエロヒム一柱の三柱を示したのに、
>多くの者は、この三柱の意味を理解せずにいる。
あなたは理解しているが他の人は理解していないというわけ?
思い出す可能性はゼロに近い。 思い出す所か切り捨てる方向に突っ走ってるよ、今も。 煽りくらったしね、俺も。 でも、別になんとも思わないな。 自ら選択したことだし。他人がどうこういう事じゃない。 自らの道を自らがそれぞれ選択することも『理』の一つ。 好きにすればいいのさ。
239 :
小さなヨハネ :02/02/21 23:58
>231 :名無しさん >突然で悪いが、聖書中でイエスは父は自分よりも偉大といい、 >自分は父よりも劣ると本人が発言してるんだがこれはどういうこと? >小さなヨハネ君、是非答えてもらいたい 私自身よく分かりませんが、ご参考までに・・・。 天界の秘義1999[2] 主は主の父エホバを崇拝され、エホバに祈られたこと、また主は、エホバは主 の中におられたけれども、あたかも、主御自身とは相違した方に祈られるかの ように祈られたことも福音書の聖言から知られている。しかし主がこれらのと きその中におられた状態は主の卑下の状態であり、その性質は第一部に述べら れたところである。すなわち、主はそのとき母から来ている弱い人間的なもの のうちにおられたのであるが、しかしそれを脱ぎ棄てて、神的なものを着けら れるに応じて、主の栄化の状態と呼ばれている他の状態の中におられたのであ る。前の状態の中では主はエホバを、エホバは主御自身の中におられたけれども、 御自身とは異なった方として崇められたのである。なぜならすでに言ったように、 主の内なる人はエホバであったからである。しかし後の状態では、すなわち、そ の栄化の状態では、自分自身と話されるものとしてエホバと話されたのである。 なぜなら主はエホバ御自身であられるからである。
240 :
小さなヨハネ :02/02/21 23:59
天界の秘義1999[5] しかし主の内なるものはエホバ御自身であった。なぜなら主は、エホバからみ ごもられたもうたために、エホバ御自身であられて、人間の父からみごもる息子 の場合とは異なって、(父から)分離されて、他のものとなることはできないか らである。なぜなら神的なものは人間的なものとは異なって、分割できないもの であり、同一のものであり、また同一のものとして存続するからである。この 内なるものに主はその人間的な本質を結合されたのであり、そして主の内なる ものはエホバであったため、それは人間の内なるもののような生命を受容する 形ではなく生命そのものであったのである。主の人間的な本質もまた合一によ り同じように生命になされたのであって、そのため主は御自身が生命であると 極めてしばしば言われたのである。
241 :
名無しさん@1周年 :02/02/21 23:59
ふ〜〜ん。お前が考えた文章か?
242 :
小さなヨハネ :02/02/22 00:00
例えばヨハネ伝には― 父は御自身の中に生命を持たれるように、子にも子自身の中に生命を持たせら れた(5・26)。 その他その同じ福音書の中に他の記事が記されている(ヨハネ1・4、5・21、 6・33、35、48、11・25)。 それ故主は母から遺伝により受けられた人間的なものの中におられたに比例し て、主はエホバとは明確に区別されるものとして現れ、エホバを御自身とは異 なった者として崇められたのである。しかし主がこの人間的なものを脱ぎ棄て られたに応じ、エホバとは区別されないで、エホバと一つの者であられたので ある。前の状態は、前に言ったように、主の卑下の状態であったが、しかし後 のものは主の栄化の状態であったのである。
243 :
小さなヨハネ :02/02/22 00:02
静思社/スウェーデンボルグ/天界の秘義2000 「神はかれと話されて言われた」。これは認識の一つの度を意味していること はエホバが『言われること』の意義が認識することであることから明白である (1898,1899番)。ここではそれが認識の一つの度を意味しているのは、 主は卑下の、または崇拝の状態の中におられ、その中で主はその卑下の度に応 じてエホバに連結し、結合されたためである。なぜなら卑下にはこのことが伴 っているからである。(認識は益々内的なものになることは前の1616番に認 めることができよう)。
244 :
小さなヨハネ :02/02/22 00:08
あまり関係ありませんが、こんなところもありました・・・。 静思社/スウェーデンボルグ/天界の秘義624 教会が無い所には『神』が用いられる言葉であり、教会が在る所には 『エホバ』が用いられている。例えば教会が存在しなかった創世記第一章 には『神』と言われているが、第二章には教会が存在した時、『神エホバ』 と言われているのである。『エホバ』という名は非常に聖くて、教会にのみ 属しているが、しかし『神』という名はそれ程聖くはないのである。なぜな ら神々を持たない国民は無く、それ故神という名はそれ程聖くはなかった からである。たれでも真の信仰を知らない限り『エホバ』という名を語る ことは許されなかったが、しかしたれでも『神』という名は語っても良い のである。
245 :
名無しさん@1周年 :02/02/22 00:08
それで?
246 :
名無しさん@1周年 :02/02/22 00:09
>>こんなところ なら・・・出すな!バカ者めが
247 :
名無しさん@1周年 :02/02/22 00:11
ところでこれはハリポッターに勝てるような内容なんですか?
248 :
名無しさん@1周年 :02/02/22 00:15
>>244 これらの中の「しかしたれでも・・」は気に入らないな。
しかし誰でもだろうが・・。
キーボードもまともに打てないなんて頭脳足りないですな。
249 :
dendo. :02/02/22 00:15
萌えがすくないからねえ。 でもルイス・ホルス・ボルヘスが取りあげてるくらいだから 萌え要素がないわけじゃないみたい。 そうだねえ。冬コミならまず落とされるがレヴォなら通るくらいじゃないかな。 そもそも宗教ジャンルってみたことないし。 やっぱりあれかね、末×ルターとかだったりするのかね(超不謹慎)
250 :
名無しさん@1周年 :02/02/22 00:17
結局、金は金で在らず?
251 :
dendo. :02/02/22 00:17
ちなみに、コメントもなしに引用するのは出典が明示されていても 「転載」であり、著作権者の許諾がなければ違法行為だということを そろそろだれか小さなヨハネに教えてやらんのかね。(傍観者もぉど)
>>237 民を操る者達は、宗教の名の元に
他を滅ぼすために、神の力を仰ぐ者が多い。
何故このようになってしまったのか?
他は他の道へ行けば良いと、そう考えていたのに、
何故そうなってしまったのか?何故大切な伝承のひとつを忘れたのか?
あたしも最近忘れつつあったから、自分への戒めとしても、
考えなければならないから、わざと書いた。
>>238 それは分かっているのよ。
しかし、それをするなら彼らとて神が何であるのか分からなくなる。
神は敵を滅ぼすだけの便利な存在なのか?
そうでないことは、彼らとてみんな知っているわよ。
彼らは神を求め、日々悲しみに暮れながらも感謝し、精一杯生きている。
日々平和が来ることを祈っているわ。
あたしはヤハウェの法則の前に何も出来ないけど、祈ることはできる。
最後まで希望は持ちつづけなければならない。
そうイエズス自身が言っているからね。
253 :
小さなヨハネ :02/02/22 00:47
>224 : ◆rs2OUULQ さん >私は、神は(イエス)は、我々の言葉、精神にあわせて、語られた(示された) >と思うので、S博士のごとき、深読みした解釈はしてないし、必要とも思ってい >ないです。にもかかわらず、上記の結論に達しました。 これはすごいですね。今すぐ引用できないのですが、主は人間の感覚に合わ せて話されたということをスウェーデンボルグも言っています(『外観の法則』、 あるいは『感覚の迷妄』)。 それから、スウェーデンボルグは自分がなぜこれほど書くかというと、皆さん が信じないからだ、単純に信じられる人には(自分の書いたものは)不要だと いう趣旨のことを言っていたように記憶しています(出典個所は失念しました)。 私はスウェーデンボルグによって初めて主(イエス・キリスト)が神である ことを知りました。私は主はただの人間と思っていたのです。私には父なる 神と子なる神を分ける意識はありませんでしたので、神ということが分かれ ば、主が父なる神御自身であったというのは全く抵抗なく受け入れることが できました。(神が唯一というのは私にも分かりますので・・・。) ですから、 ◆rs2OUULQ さんがスウェーデンボルグ無しでそのことを認識され たということにとても驚きを感じます。しかし、それは宇宙論から気づかれたの ですか?
254 :
小さなヨハネ :02/02/22 01:02
>251 名前:dendo. さん >ちなみに、コメントもなしに引用するのは出典が明示されていても >「転載」であり、著作権者の許諾がなければ違法行為だということを >そろそろだれか小さなヨハネに教えてやらんのかね。(傍観者もぉど) それはすみません。以後気を付けます。どうしたらよいのでしょう? 聖書もだめですか?
255 :
青眼 ◆.t4dJfuU :02/02/22 01:03
>>254 スウェデンボルグの原書は既に版権が切れています。
貴方が御自身で訳されて掲載されてはいかがですか?
256 :
小さなヨハネ :02/02/22 01:21
>255 名前:青眼 さん
>>254 >スウェデンボルグの原書は既に版権が切れています。
>貴方が御自身で訳されて掲載されてはいかがですか?
有り難うございます。しかし、英語も出来ないのにラテン語とは・・・。
>>252 たとえ死ぬ間際であっても、ちゃんと悔い改める者は救う。
と、俺の知る神は言っていたよ(苦笑)。
至高界から降りてきた祖神、と名乗ってたぜ。ホントかウソか知らんけど。
あ、国津も天津も彼は区別はしないそうだ(笑)。
来た順番がどっちが先かってだけの違いだってよ。
でも、この地を荒らす者には容赦はしないらしいねぇ。
>>253 そうですね、宇宙論もその一つです。事象の地平線は、我々の理性の限界であ
り、そして、その、向こう側にある、0=∞としか、我々の理性では表せられ
ない超事象を、神としても良いと思いました。そして、宇宙は膨張しつづけて
います。神の天地創造の御業は永続するのです。(これについては、母宇宙、
子宇宙の考えを是とすることを、前提とします。想像の域を出ませんが。)
あと、新約(という事)を重視すべきと考えています。
>>234 ボーダーさんは、何が、引っ掛ってるんですか?
ここで見る限り、既に、キリストを受け入れてると思われているのですが。
>>256 ヨハネさんは、何でカトリックにしたんですか?((その1)も一応、チェック
しましたが、興味をそそりますね。プロテスタントのほうが、自由に、自らの思
考の結果を行い易いと、思うのですが。色々在り過ぎるけど。)
これは、興味本位の質問です。私は、<キリスト教精神><行い>を第一と思う
ので、教団にはこだわってないです。
>>231 それは、新約以前の事。「人の子」イエスの言葉です。
ageでみる
262 :
ボーダー住民 :02/02/22 09:05
>223 ◆rs2OUULQ さんが、この判断は論理的帰結です。と言ったが、それは、かなり当然です。 主義者に聞いてもらいたいが、スウェーデンボルグしか読まないで、普通のキリスト 教会の内情を知らない人には、こういう健全な判断は、スウェーデンボルグを理解で きる人にしかできないように思う人もあるのではないかと思う。 しかし、現代のキリスト教会は、かつてのキリスト教会とは違います。特に日本では、 キリスト教会の市民権は、大したことないし、世間に理解されるためには、健全な判断は 必須と分かっている。 スウェーデンボルグの時代の指導者たちというのは、金があって、頭があって、 チャンスがあって、信仰は飛びぬけていなくても、とりあえず、学位を取ったついでに 聖職者の資格も取っておくか、とか、それに近い状況の時代だった。苦労といっても 大した苦労もせずにすむ人が多く、神様としても、指導者を選ぶのに選ぶ自由がなかった時代でした。 しかし、今は、普通にクリスチャンになれる国であれば、職業選択の自由は多くの人に 開かれ、神様としても、人を選べる時代になっているわけで、神様の方で指導者に選んだ 人には、それなりの神様からの強制力もある。神が人の自由を認めているわりには、 本当に選ばれて指導者になった人には、職業選択の自由は、ほぼ、ない。神は、現代では、 かなり信用できる筋の人を選ぶことができるので、脱線も、かつてのようではないのです。 三位一体だけによってではなく、世間の目や、歴史の反省に立って、正しいキリスト教精神を 築いていこうとしています。正確には、良識を基盤に据えて、それに聖書理解を被せて キリスト教主義的精神を作り出そうとしている。(笑)と思う。 広い心を持って見て下さい。偏屈にならないように。 ちなみに、小さなヨハネ君が偏屈だと言っているのではありませんよ。もっと過激な人たちにお願いしました。
本当にイエズスの道を歩むなら、福音に接し、 それによって一つずつ解いていけば良い。それには神観はいらない。 神観は鍵ではなく、道が鍵であるから。 彼の伝えたことの中には古い伝承を解く鍵がある。 もしその伝えたことを無視して解くなら、別の鍵で解くことになり、 これでは偶像崇拝になってしまう。 これまでも、人は道を踏み外してきたけれど、 彼はそれを「人ゆえのこと」と許してきたし、 多くの人にそれを見せ、自分へ導いて正常化させてきた。これからもそう。 鍵は歴史の中にもある。過去を神は変えない。大切なものだから。 人は都合に応じて過去を変えようとするけれどね・・・。 三位一体は、太古の流れによるもの。 スウェーデンボルグには、それに満足できない人たちに与えられたもの。 それで満足するのなら、それに満足すれば良い。 鍵は他の扉を壊すものではない。ある扉を開けるためにあるもの。 気をつけなければならないのは、鍵穴に合わない鍵で 扉を開けることはできない。鍵穴に合う鍵によってしか扉は開かないもの。 あたしはスウェーデンボルグの鍵は持っていないから、 その扉は開くことが出来ない。
では、俺も、ちょっと纏めてみよう。 イエス=キリスト、彼はメシア。主の使わされた御使いね。 彼の言葉が天主の意思を示すもの。人間に対しての、ね。 だから、イエスの言葉=天主の言葉でもおっけーなんだが、イエス=天主ってのは間違いね。 で、三位一体にはマリアさんの言う意味もあるのね。ヤハウェ・アドナイ・エロヒムね。 でも、俺の理解の中には、天主自体が三つの性質を持つってのもあるのだな。 三人寄れば文殊の知恵、って言うじゃん。あんな感じ(笑)。 が、これはキリスト教的な三位一体とは関係無いからほっといて。 さ〜、ここからデンパだぞ(笑)。 そんで、ま〜、神様って本当に一杯いるのだな。至る所に。 ええっ、っていうくらい多いわけ。 中には、人間から、殆ど完璧に忘れられちゃった神々もいる(笑)。 いまだにいるんだけどね。 人間の都合に合わないから捨てられたわけ(苦笑)。 捨てられても健気に頑張ってるんだけど、いないことになってるから力は弱い。 また、声が聞こえる人も殆どいなくなった。 で、社会は「勝ち組」(ってことになってる)連中に占められてるわけ。 人間も神々もね。 キリスト教も勝ち組かな? でも、イエス自身は負け組かもね。事実上、無視されてると同じだし。 更に言えば、日本の・・・ゴホッゴホッ。 ま、色々あるわけだ。 歴史って人が作るものだし。嘘もしつこく唱えればそれがホントってことになる。 これ以上はご勘弁を。 さ〜、議論続けて頂戴。 (言っとくが俺は民間人。神社仏閣には縁も縁もありませぬ。)
265 :
ボーダー住民 :02/02/22 21:53
>260 ◆rs2OUULQ さん
>>234 無視していたんじゃないんだけど、どう答えていいかわからなかったので。
なんか、あなた、頭いいのか抜けているのか分からないんだけど、私とキャラがカブりそうで……(苦笑)
いえいえ、あなたは頭よく、私のほうは抜けている……(笑)。
私の場合、
>何が、引っ掛ってるんですか?
と
>既に、キリストを受け入れてる
のは、ほぼ無関係です。
ここで問題になっているのは、スウェーデンボルグに対してどういう姿勢かということだけなんですよ。
しかし、繰り返しますが、忙しいフリをしていますので、御了承ください。
266 :
小さなヨハネ :02/02/23 00:06
皆さんに、主の平和。 >260 : ◆rs2OUULQ さん >ヨハネさんは、何でカトリックにしたんですか?((その1)も一応、チェック >しましたが、興味をそそりますね。プロテスタントのほうが、自由に、自らの >思考の結果を行い易いと、思うのですが。色々在り過ぎるけど。) >これは、興味本位の質問です。私は、<キリスト教精神><行い>を第一と思 >うので、教団にはこだわってないです。 私がカトリックにしたのは、「聖体拝領」が最大の理由でした(前スレッド 158)。スウェーデンボルグを通じて主イエスを知ってから、どこかの教会 に行きたいとは思っていたのですが、どこの教会に行ったらいいか全くわかり ませんでした。スウェーデンボルグを読んでいる限り、従来の教会に行く気に はなりません。といって、スウェーデンボルグ系の教会も今ひとつ興味を持て ませんでした。なぜなら説教をわざわざ聴きに行くなら、自分でスウェーデン ボルグの本を読めばよいと思ったからです。 今から3年くらい前、高橋保行著『ギリシャ正教』講談社学術文庫を読むと、 「聖体礼儀」こそ教会の中心であり、それを中心に集まったものが教会なのだ とあり(P82、P313)、それで「聖体拝領」に興味を持ちました。 確かに、トマス・ア・ケンピスも『キリストに倣いて』の中で、「聖体拝領」 について大きなスペースを割いて解説していました。それ以外にも『聖母から 司祭へ』、ヴァッスーラ、ルイザ・ピッカレータ、デボラ、ピオ神父、アルス の司祭、等々聖体拝領について触れているものはたくさんありました。
267 :
小さなヨハネ :02/02/23 00:08
また、スウェーデンボルグ自身も「聖体拝領」を認めていました。彼は実に 「聖体拝領」を「礼拝の最も清いもの」(新しいエルサレムの教義210)、 「主と連結させるもの」(同213)、「人はすべて悔改めの業を始めつつある 時は主のみを見上げるように主は聖餐を定められた、聖餐において各人の視線 は主のみに向けられる」(神の摂理122)、「聖餐は天界に至る門、ゴール」 (真の基督教721)とも言っています。 それに、そもそも聖体拝領は福音書の中で主がお定めになったことです(ルカ 22・15,19)。そんな訳で私も聖体拝領によって主と繋がりたいと切に願う ようになりました。ギリシャ正教でも良かったのですが、近くになく、結局カト リックにしました。また『聖母から司祭へ』のなかで聖母が「カトリックのう ちに教会は再一致する」と言われていたことも印象にありました。主の作られた 教会は確かにもとは一つだったのです。 私は毎週ミサに行き、聖体拝領に預かります。それは宗派や組織がどうとか、 教義がどうというのではなく、主と直接繋がる時を持つのが目的です。それは やはりとても良いものです。
その1を読みました。(ざっとです。) ボーダーさんもマリアさんもVer.(神)さんもヨハネさんも(その他のひとも) 私が、”DQNな厨房はマタ〜リと逝って良し(藁)”とやってた時に、神につい て語っていたとは....恥ずかしい限りです。
けど、やめない。
あげ
272 :
小さなヨハネ :02/02/23 20:17
>268 : ◆rs2OUULQ さん >(やっと、その1を読み終えました。)>主と直接繋がる時を持つのが目的です。 >エイメン。 有り難うございます。 >269 >ボーダーさんもマリアさんもVer.(神)さんもヨハネさんも(その他のひとも) >私が、”DQNな厨房はマタ〜リと逝って良し(藁)”とやってた時に、神につい >て語っていたとは....恥ずかしい限りです。 ◆rs2OUULQ さんの謙遜さを主は嘉したもうでしょう。
273 :
小さなヨハネ :02/02/23 22:16
そんな訳で私はカトリック教会に行きました。カトリック教会から聖体拝領の 機会を与えていただいていることに感謝しています。 スウェーデンボルグは異端だと言われるだろうくらいは分かっていますので、 それについて秩序を乱すようなことは教会ではとくに何も言いません。私は教会 へ通ったことがなかったので、プロテスタント教会を知りませんが、ボーダー 住民さんも言っておられましたが(前スレッド790)、カトリックの信徒の方々 はとても素朴で従順な感じで、また教会自体も寛容であり、私は全体に良い印象 を抱いています。 ですから、ここでは遠慮なく意見を言わせて頂いておりますが、カトリックの 皆様、どうか主の愛に免じて、異邦人の私を追い出さないでください。私は ご聖体を片膝を付いて口で受け、毎日朝昼晩にロザリオを唱えています。 「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただ くのです。」(マタイ15・27) 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに 来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネ6・37)
274 :
ボーダー住民 :02/02/23 22:23
>>254 :小さなヨハネさん
>251 名前:dendo. さん
>ちなみに、コメントもなしに引用するのは出典が明示されていても「転載」であり、著作権者の許諾がなければ違法行為
ちなみに、コメントを入れて引用すれば、とりあえず合法だということを、dendoさんはアドバイスしてくださっている。
あら、忘れてたことを一つ思い出したわ。 ある噂話では、イスラエルの神の概念の成立には、 まず、最初の時代からエロヒムと呼ばれるもの、 その次にアドナイと呼ばれるもの、 そしてヤハウェと呼ばれるものが出来たという過程があるとも・・・。 一見、神の進化説みたいなものだけど、 人間の進化(理解)と共に知らされてきた、 神により下されたものという感じ。 エロヒムとは、ある個人個人の神を指し、 アドナイとは自分たちの集団の神を指し、 ヤハウェとは自分たちの創造の神(これは記憶違いかも?)を指す。 とかいう話を聞いた事があるわね。 民は、エロヒムからアドナイを知り、 アドナイによりヤハウェを知ったともなる。 三位一体の考え方は、ある意味この三者を混合した形とも言えるわ。 イエズスの神格化には、これとよく似た動きがあるわね。 これによって解くと面白いものよ。 あたしの母の先祖達のような初期キリスト教徒のエロヒムの属性から、 後のキリスト教徒説のアドナイの属性に引き上げられ、今はこれが通説。 その後に出てきたのが、スウェーデンボルグ説のヤハウェの属性。
>>273 私が、あなたほどのキリスト者になるのは難しいと思います。
>>272 しかし、
>>270 は、読みました?−w
私も、S博士の文献にあたろうと思います。聖体拝領に、それほどの意義を
認められているとは、目からうろこです。私も、今一度考えてみようと思い
ます。聖餐の意義(判ってたつもりですけど)と聖体拝領について。聖体拝
領は、我々の教会には無いんですが。(聖餐はあります。当然ですが。)
>>275 これは、受け入れ易いですね。
ageてみる。
278 :
小さなヨハネ :02/02/24 12:50
>>274 :ボーダー住民 さん
>ちなみに、コメントを入れて引用すれば、とりあえず合法だということを、
>dendoさんはアドバイスしてくださっている。
ああ、なるほど!
しかし、私はコメントできるほど文章を要約する能力がないので、ついそのまま
転載してしまうのです。それから、私が間違ったコメントをするより、日本語訳
の原文を皆さんに読んでいただく方が確実と思っているのです・・・。
長くても、コメントがあればいいのでしょうか?
279 :
小さなヨハネ :02/02/24 15:39
>>275 :マリアさん
>一見、神の進化説みたいなものだけど、
>人間の進化(理解)と共に知らされてきた、
>神により下されたものという感じ。
マリアさん、これはとても良いご指摘です。
そうです。私の言うのもこの理屈で説明できます。つまり、唯一の神(父、主、
エホバ、イエス・キリスト)は見る者の理解の進展にあわせて徐々に啓示され
たので、その段階においてそれぞれの名が付けられ、違う神のように思われて
しまったのです。あるいは一つの存在であることを認めるなら、見る者からす
ればそれは相手(神)が変身(進化)して行くように見えるのです。
>イエズスの神格化には、これとよく似た動きがあるわね。
そうです。イエスも現在は人なのか神なのかよく分からない、あいまいな存在
として捉えられていますが、それは人間の理解に合わせて啓示されているのです。
280 :
小さなヨハネ :02/02/24 15:41
なぜ福音書中で「父と子と聖霊」と表現されたかというと、それは(当時も今も) 人々が天地を造られた神が人となられてこの世に降ることをなかなか理解し、 信じることはできなかったのですが、しかし、完全に私たちが主の神性を否定 してしまうと主との連結がなくなってしまうので、あいまいな形であれ、私たち の理解に合わせ、それが受け入れられるように、主の神性が幾分でも肯定される ような表現を使われたということのようです。 (静思社/スウェーデンボルグ/天界の秘義6993、アタナシウス信条 について/P65ご参照) しかし、今主は唯一の父なる神であることがスウェーデンボルグや他の預言者 によって明らかに啓示されつつあります。そのことを次の聖句は語っているの ではないかと思います。
281 :
小さなヨハネ :02/02/24 15:42
ヨハネ16・12 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解 できない。」 ヨハネ17・26 「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。」 ヨハネ16・25−27 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによ らず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたは わたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願っ てあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるので ある。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを 信じたからである。」
282 :
小さなヨハネ :02/02/24 15:44
この『神のもとから出て来る』とは、「神的なものそれ自身が人間的なものを 取りたもうたことが意味され、『世に来ること』により主は人間として存在 されたことが意味され、主が『再び父に行くこと』により主はその人間的な 本質[人間の本質]を神的な本質[神の本質]に結合されるであろうということが 意味されている」のだそうです(天界の秘義3736)。 さらに『父のもとに行く』ことは「合一」を意味しており、この合一は、 「単に愛によってのみ連結している二人の者の合一として、父が息子を 息子が父を愛している時のその父と子との合一として、または兄弟が兄弟 を、または友が友を愛するときのような合一」ではなく、「真に一つのもの に合一することであり、それらは一つのものであるため、それで主の人間的 なもののすべては神的な存在であり、またはエホバなのである」とスウェー デンボルグは述べています(天界の秘義3737)。
283 :
小さなヨハネ :02/02/24 16:02
>>276 ◆rs2OUULQ さん
>>273 >私が、あなたほどのキリスト者になるのは難しいと思います。
>>272 >しかし、
>>270 は、読みました?−w
とんでもありません。頑張ってください。真理に対する愛こそ人を再生に
導くものであり、神からの祝福です。
>私も、S博士の文献にあたろうと思います。聖体拝領に、それほどの意義を
>認められているとは、目からうろこです。私も、今一度考えてみようと思い
>ます。聖餐の意義(判ってたつもりですけど)と聖体拝領について。聖体拝
>領は、我々の教会には無いんですが。(聖餐はあります。当然ですが。)
ほんとうに。私もスウェーデンボルグが聖体拝領(聖餐)をこれほど評価し
ていることに後から気が付きました。「礼拝を完成させるもの」(新しい
エルサレムの教義214)とも言っています。
ところで「聖餐」と「聖体拝領」というのは違うのですか?
284 :
小さなヨハネ :02/02/24 16:12
>>257 :ver3.03 ◆R7T/U4qc さん
>>252 >たとえ死ぬ間際であっても、ちゃんと悔い改める者は救う。
>と、俺の知る神は言っていたよ(苦笑)。
>至高界から降りてきた祖神、と名乗ってたぜ。ホントかウソか知らんけど。
>あ、国津も天津も彼は区別はしないそうだ(笑)。
>来た順番がどっちが先かってだけの違いだってよ。
>でも、この地を荒らす者には容赦はしないらしいねぇ。
ver3.03 さんは霊感がおありなんですね?それで神が一杯いる(
>>264 )とおっしゃ
るのかなと想像しました。
>>284 霊感・・・。うん、ま、そんな所です。
つーても、怪しいもんだ。正神かどうかは。
が、見えず触れずの怪しきものがおるなら神もおるでしょう。
元々、筋金入りの無神論者だったからね。
神・・・?? ⇒ _・)ぷっ ⇒ ヾ(^▽^*おわはははっ!!
って、感じだったな(笑)。
それでも信じるに至った、って事です。
まぁ、霊感はマリアさんとかと違って全然貧弱だよ。
殆ど見えも聞こえもしないしね。
ただ・・、感じはする。人界か神域か、そう言った区別はつく感じだ。
神域ってあるんだよ。所々に。
だから俺の言葉は狐狸の妄言としておいてもいいが、いるはいるって感じ。
俺にとってはもはや殆ど実在の存在です、神は。
で、その中に、イエス=メシアも天主も言及がある、と。
つまりはそういう事。
このスレに時々参加するデムパか道化師と受け取ってくれ(笑)。
興味深く見てますんで。
286 :
小さなヨハネ :02/02/24 20:07
>>285 :ver3.04 さん
>が、見えず触れずの怪しきものがおるなら神もおるでしょう。
なるほど・・・。
>元々、筋金入りの無神論者だったからね。
>神・・・?? ⇒ _・)ぷっ ⇒ ヾ(^▽^*おわはははっ!!
>って、感じだったな(笑)。
>それでも信じるに至った、って事です。
>まぁ、霊感はマリアさんとかと違って全然貧弱だよ。
>殆ど見えも聞こえもしないしね。
私も以前は神のことなど全く念頭にありませんでした・・・。
287 :
小さなヨハネ :02/02/24 20:09
>>285 :ver3.04 さん (続き)
>ただ・・、感じはする。人界か神域か、そう言った区別はつく感じだ。
>神域ってあるんだよ。所々に。
>だから俺の言葉は狐狸の妄言としておいてもいいが、いるはいるって感じ。
>俺にとってはもはや殆ど実在の存在です、神は。
>で、その中に、イエス=メシアも天主も言及がある、と。
>つまりはそういう事。
なるほど。わたしも霊感は全くないのですが、主や聖母が守ってくだ
さっているということは、不思議と確信できるようになりました。
ですから、逆に、何かちょっと悪いことをすると、余計恥ずかしい気持
ちもするようになりました。(今でもそうですが、昔は厚顔無恥の固まり
でした!)
>このスレに時々参加するデムパか道化師と受け取ってくれ(笑)。
>興味深く見てますんで。
了解しました。有り難うございます!
290 :
ボーダー住民 :02/02/25 13:51
あはは、小さなヨハネ君、うまいうまい。
>>278 って言ってる割には、
>>279 ―
>>282 いい線いっているよ。いやあ、成長したね。がんばれよ。ちょっとずつでも、自分の言葉でね。
>>289 おもしろいでしょ?
このように、人というものは、自分の神をいかに他の民の神より
高く上げるかを競ってしまうものよ。
人間の知る限りで、
ヤハウェ以上に引き上げることが出来なくなったから、
それ以上引き上げることがなかったのよ。
ただし、これは逆に言えばエロヒムやアドナイでしかない神を
ユダヤ人がヤハウェに引き上げてしまったという意味でもあるのよ。
これで、何故ヤハウェの名を呼ばないようにしたのかは、
アドナイやエロヒムのように使うのが目に見えていたからよ。
これは、アドナイやエロヒムと違って、
人には理解出来ない存在。どういう意志をもっているのか
分からない存在だからよ。
そうなったら、何が起こるか分からないと危惧したの。
こういったやり方は、東洋ではよく一般的に行われる手法なの。
神さえも、人の思うがままにされているということ。
だから、ヤハウェとアドナイを混ぜたらどんなことが起こるか?
ヤハウェの怒りが下ってしまう。
順番を逆にしてしまっては、神は解けないから。
あたしは偶然ユダヤ・キリスト・神道と三つの流れを
知ったのだけど、どこもそうよ。神を解くには順番があるのよ。
よって、イエズス本人は、自分によって父を知るようにと勧めている。
自分が理解出来れば、父を理解出来る。
父を理解出来れば、人は父と交われるということ。
これは、父からイエズスを理解しないようにせよという意味でもあるの。
人は必ずそうやりたがるからね・・・。
神を知るには、この順番は必ず守らなければならない。
そういう意味で、スウェーデンボルグが見た世界は、
中世以来のカッバーラを操るエホバ主義者の世界かも知れないわね。
ちなみに俺はデムパだからな。 誰にも理解されない存在・・・(ノ_・、)シクシク。 第2の某スレでは、とうとうサイコパスの称号をいただいたぞ・・・(T-T)。 憎まれたもんじゃな〜。
>>292 あたしが昔の伝承の話をしても、
誰も信憑性がないというわよ。変わってるのだから。
どこでもそんな扱いよ。それでもいいのよ。
何でも書いてみるということはいいことよ。
294 :
名無しさん@1周年 :02/02/25 17:01
ところで小さなヨハネ君、父なる神の名をエホバと呼ぶのは別にいいんだが、 エホバだと通りすがりの人はものみの塔と勘違いしてしまう可能性があるよ
295 :
名無しさん@1周年 :02/02/25 17:30
素朴な疑問、キリストが神自身だとか、神はヤーウェだとか思ってるのは構わないけど インドやネパールのように人口の殆どがヒンドゥーの国の人間はどうなるの?同一の神とはいえ、イスラム教国も。 少なくとも、クリスチャンが思い込んでるような受洗すれば特別の賜物があるみたいな概念は不平等だね。 宗教を選べない人たちの存在を無視してるもんな。
ヤハウェの呼び方は、何でもいいのよ。 探せば、各宗教にはそれに応じた神があるもの。 昔のユダヤは他の民の神をエロヒムの一種と認めていたけど、 ある時期から認めなくなってしまった。 キリスト教も認めない。 他の神は偽者であるとなってしまった。 カトリックでは、他にも一定の真理があると 他を認めはするけど、偽者という姿勢には変わりなし。 プロテスタントになれば、 福音派の原理主義系や聖霊派のように、 他は悪霊のものという派もあるわね。 正教はどうだったかしらね? スウェーデンボルグ論は、その最たる変態を遂げた形。 しかし、この論では他を無視していないようね。
>>295 あえて、違いますと言いましょう。
カルヴァンは否定してますが、ツヴィングリは、善なる人は神に受け入れられる
と主張しました。私もそう思います。
ageてみる
298 :
ボーダー住民 :02/02/25 22:51
宗教には、一種、味の好みのようなものがあって、おふくろの味でないと我慢できない人や、 甘党辛党さまざまあります。体にいいとかいう理屈だけでは解決できない、 動かしようのないものについて、あれこれ言われるのは、誰しも好まないものですよね。 地球上の共働生活で仲良くやっていこうとすると、自分の味を主張するには ほかの人の嗜好を尊重した上でなければやっていけません。 マリアさんも、鈴木大拙も、小さなヨハネも、ボーダーも、それぞれに皆、 自分の心を捉えて放さない味を持っています。 他の人が、マリアさんのお話にあまり批判しないのも、正しいと理解しているからではなく、 マリアさんが傾聴に値する資料を持っておられるからでしょう。 しかし、マリアさんの持っておられる伝承も、それがどこまで確実なものか、誰にもわかりません。 正倉院焼失以前の歴史は、公的に語られるには資料不足ですし、公的な歴史がそのまま正確な 記述であるという保証もありません。 マリアさんの体験も、具体的にここで披露されているわけではないので、 (そういうことをべらべら人に言うもんではないと、自分なりに解かりますので、あえて聞きません) 誰も、その真偽を確認することはできないし、 「見た」と言われるならば、それは、ほかの宗教の人々は、また別のものを見ているわけで、 残念ながら、御説は、科学的には検証に耐えるものではないです。 そして、スウェーデンボルグも、彼の論を進めるにあたって、よく引き合いに出す言葉に 「正しい常識をもっている人なら、このように判断することは難しくないであろう」 などと言います。あれほどのことを言うのに、科学的な検証の言葉ではなくて、 あまりにも頼りない人間の理性に反応を求めているのです。 以前も言われていたように、彼は、当時としては一流中の一流の科学者であったのにです。
299 :
ボーダー住民 :02/02/25 22:52
私が、各宗教の人々に熱心に改宗を求めないのは、実は、マナーを守っているからです。 マリアさんの宗教についても尊重しています。しかし、誰でも、やはり自分が信じているのは、 それが正しいと確信できたからであって、私も例外ではありません。 宗教は、ちゃんと信じているなら、必ず、自分の信じているものは正しいと主張できるものであるはずで、 真剣に求めた人ほど、そういう姿勢が強いことは当然の帰結です。 また、愛というものは、相手に働きかけて、相手に自らを与えて一致しようとする性格を持っていますので、 ある宗教によって、自分が本当に幸せになったと確信でき、愛のある人は、 相手に自分の持っているものを提供して幸せになってほしいと願ってそれを与えようとするのは当然です。 むしろ、ボーダーなどは冷たい人間であり、ヨハネの熱さををれなりに尊敬しているが、 若くはないし、経験もあるのでマナーを守って話すということを行ないます。 その他、ある種の状況判断により、ここでは、過度に積極的に宣教を進める気はありません。 私には切実な問題として理解されるテーマで、スウェーデンボルグが言っていることの一つは、 そのそれぞれの味に市民権を与えたということでしょう。 どの味(宗教)でも、有害でなければ、それなりの好みを持っていることによって、 人権を奪われることがない。 家庭で言えば、ママは、家族全員の味の好みをわかっていますよ。 でも、本当は健康上の理由から言えば、これがいいのだけど、 とスウェーデンボルグは、彼なりの啓示によって、彼に与えられたままの宗教理解を薦めている訳で、 じつは、それ自体が神が人の自由を尊重してくださる愛の絶大な表現のひとつだと思います。
ヨハネさんに今一度、申し上げます。
私が、
>>194 >>196 >>258 にて、調子こいて色々書きましたが、決して、決して、
神が、人格なる要素を持たず、質とか量とか、何かで測れる存在、あるいは、
エネルギーの如き存在である、とか私が思ってる訳では、ありません。
私が、求道者であったころ、その様に思っていました。その時の、私に、突き
付けられていた問題は、”神は思うか”でした。詳細は省きますが、神は、
”総て”であります。
実存主義とよばれた哲学者の一人、マルセルは、
「目に見えないものの明証性は、その信仰にある。」
と言いました。この言葉は、私の大きな支えとなりました。
>>299 それが出来ないのはなぜか?
人のものを悪いとしか解けないのは何故か?
それは、自分の正しさを優先するあまり他を裁いているからよ。
キリスト教の歴史は、イエズスを求めながらも
他を裁くことに命を賭けてきた歴史であるわけ。
また、スウェーデンボルグやその伝承に基づいて生きる者もそう。
自分たちの正しさを優先するがために、三位一体の神観を裁いた。
両者とも、福音に鍵によって解く事を忘れてしまってた時があった。
まぁ、これは人には良くあること。
時の流れで修正していけば良い。時と共に神は教えてくれる。
足らないものは、補えばよい。
古イスラエルでは他の神をエロヒムの一種と解き、
アドナイは十戒でも彼らを迫害するなと言っている。
神道の伝承では、神観の違いは良くあることなのよ。
過去の天皇家の伝承は一神教に近く、我々の伝承はそうではなかった。
今でも少々の違いはあれども、互いに裁き合うことはない。
イエズスの道に反することは、 その民はもうそろそろやめなければならない。 彼をヤハウェやアドナイと呼び、その道に帰ったのならね。 神へ向かう道には色んな道がある。 しかし、自分の道だけ正しく、他の道が正しくないと解いた時、 既にそこには神の道はない。霊的に死の道がそこにあるわけ。 一旦休憩してから、おかしくなる前の地点に確実に戻らないと。 その判断は、自分だけでは出来ないもの。厳しい世界なのよ。 イエズスからの伝承やイスラエルの伝承を持ち出すのなら、 責任ある態度を示さなければ、それは偶像崇拝となる。 伝承を否定する解釈で解くなら、伝承を捻じ曲げて解いてはならない。 新しいもので解きたいなら、聖書を用いることなく、 新しいものによって解かねばならない。 聖書は、参考文献として神観の部分に触れなければ良い。 そこから無理に自分たちの理屈につなげるから、争いが生じる。
スウェーデンボルグが見たイエズスと、 あたしの母の先祖が見たイエズス、キリスト教会成立後のイエズス、 これらは違って見えていてもおかしくはないものよ。 あなた方は、古い皮袋と古いぶどう酒に囚われず、 新しい皮袋に、新しいぶどう酒を入れるべきよ。 新しいものは新しいもので美味しく、 古いものは古いもので、また深い味があって良し。 一致を図りたければ、イエズスが説いたことについて 共通の認識をもてれば良し。 それ以上のもので一致指せようと考えるのは、人間の驕り。 エロヒムという意味の古い意味を知られよ。
305 :
小さなヨハネ :02/02/25 23:45
>>297 ―
>>301 ◆rs2OUULQ さん、ボーダー住民さん
すみません、見ずに書いてしまいました。とりあえず送ります。
これについてはまた明日。
306 :
小さなヨハネ :02/02/25 23:47
うわ!マリアさんも。
307 :
小さなヨハネ :02/02/25 23:48
>>296 マリアさん
>スウェーデンボルグ論は、その最たる変態を遂げた形。
>しかし、この論では他を無視していないようね。
ええ、無視するどころか、驚くほど愛と良識に満ちています。それは次の295
さんのご質問に対する回答のとおりです。
308 :
小さなヨハネ :02/02/25 23:49
>>295 名無しさん
>素朴な疑問、キリストが神自身だとか、神はヤーウェだとか思ってるのは構わ
>ないけどインドやネパールのように人口の殆どがヒンドゥーの国の人間はどう
>なるの?同一の神とはいえ、イスラム教国も。
>少なくとも、クリスチャンが思い込んでるような受洗すれば特別の賜物がある
>みたいな概念は不平等だね。宗教を選べない人たちの存在を無視してるもんな。
異教徒、異邦人は、主を知りません。主がなくては救いが無いので、かれ
らは救われないと一般に考えられることがあるようです。しかしかれらも救
われるとスウェーデンボルグは断言しています。なぜなら、主の慈悲は普遍的
なものであり、人間すべてに及び、かれらが主を知らないことはかれらのせい
ではないからです(天界の秘義2589)。
かれらの宗教に従い、神を信じて、良心を持ち、道徳的に正しく、相互愛に
生きた者たちは皆天界に受け入れられると言います。むしろかれらの方が救
われるとも言います。
なぜなら、彼らは死後、天使たちから教えられるのだそうですが、かれらは、
悪い生活を送った基督教徒たちよりも、取り払ってしまわなくてはならない
信仰の誤謬を持っておらず、主に対してかれらをつまずかせるものは何一つ
無いので、かえって容易に教えを受け入れるからだそうです。
(天界の秘義2590、10765他)
>>302 確かにそうなんですが、
>キリスト教の歴史→キリスト教団の歴史
として欲しい。
310 :
小さなヨハネ :02/02/25 23:50
>>294 :名無しさん
>ところで小さなヨハネ君、父なる神の名をエホバと呼ぶのは別にいいんだが、
>エホバだと通りすがりの人はものみの塔と勘違いしてしまう可能性があるよ
・ ・・そうですね。柳瀬氏訳がエホバとなっていたものですからエホバに
抵抗がなかったのです。私自身はとくにこだわってはおりません。標準に近
いのがヤハウェであればそれに従います。
また、スウェーデンボルグの読み方も色々ありますが、スウェーデンの
スウェーデンボルグが一番単純で私たち日本人に呼びやすいかと思い、
そうしています。これも特にこだわってはいません。
311 :
小さなヨハネ :02/02/25 23:51
>>292 :ver3.04 さん
>ちなみに俺はデムパだからな。
>誰にも理解されない存在・・・(ノ_・、)シクシク。
>第2の某スレでは、とうとうサイコパスの称号をいただいたぞ・・・(T-T)。
>憎まれたもんじゃな〜。
>>293 :マリア さん
>
>>292 あたしが昔の伝承の話をしても、
>誰も信憑性がないというわよ。変わってるのだから。
>どこでもそんな扱いよ。それでもいいのよ。
>何でも書いてみるということはいいことよ。
私もアホだのヴォケだの異端だのと皆さんから大変可愛がっていただいています!
312 :
小さなヨハネ :02/02/25 23:53
>>291 :マリア さん
>
>>289 おもしろいでしょ?
>このように、人というものは、自分の神をいかに他の民の神より
>高く上げるかを競ってしまうものよ。
ははは、マリアさん、そんな訳ではありません。
多神教の成立した経緯などの説明もありますが、いずれまた書きます。
>そういう意味で、スウェーデンボルグが見た世界は、
>中世以来のカッバーラを操るエホバ主義者の世界かも知れないわね。
カッバーラが何か知りませんが、恐らくそんなものでもないでしょう。
お読みになったら分かると思いますが、スウェーデンボルグのものは驚くほど
健全な内容です。かれ自身も、立派な社会生活を送った紳士であり、学者
であり、技師であり、議員です。かれの教説はプロテスタントのスウェーデン
では受け入れられませんでしたが、スウェーデン王家からの信頼も厚く、
スウェーデンボルグ個人に対する批判はついぞなかったそうです。
313 :
小さなヨハネ :02/02/25 23:54
>>290 :ボーダー住民 さん
>あはは、小さなヨハネ君、うまいうまい。
>
>>278 って言ってる割には、
>
>>279 ―
>>282 いい線いっているよ。いやあ、成長したね。がんばれよ。
>ちょっとずつでも、自分の言葉でね。
ありがとうございます、ボーダー住民さん。でも、わたしは口下手なのです。
314 :
小さなヨハネ :02/02/25 23:56
>>288 ◆rs2OUULQ さん
>ちょっと、不安になったんで書きますが、(
>>279 、
>>280 )
>イエスは、父なる神です。
おお、そうです。その通りです。その認識さえあれば聖書は馬で駈けるように
分かって来ます。主が父なる神であるという意識でヨハネ伝などを読むと
まさに目からうろこです。
・・・何を不安に思われたのかよくわかりませんでしたが。
>>314 >かれの教説はプロテスタントの〜、→当時のプロテスタント〜
として欲しい。
>>314 杞憂のようですね。慎重派なんで。
かえって、惑わした。疑いを持たせた。わたしがサタンになったかと
思った。
ageてみる
>>312 残念ながら、イスラエルの伝承の歴史はそうなのよ。
自を高めるために他を降ろしたの。
同じヤハウェやアドナイやエロヒムに相当する神を
知っていたことは理解出来ていても、その神々を降ろしたのよ。
あなたたちは新しい伝承に生きる者。
あたしは古い伝承に生きる者。
古い話はあたし達の方が、この世にあった事については正確よ。
あなたたちはエホバという我々が忌み嫌う概念を
押し付けようとしているのよ。
それが、福音との整合性があるのか否か?と言っているわけ。
そういう行為が、あなた方が魔術的である証拠だといっているのよ。
318 :
小さなヨハネ :02/02/26 00:13
>>315 : ◆rs2OUULQ さん
>>314 >かれの教説はプロテスタントの〜、→当時のプロテスタント〜
として欲しい。
了解しました。それで結構です。
訂正:
>>312 >かれの教説はプロテスタントの〜、→当時のプロテスタント〜
>>311 あなたは他を押さえ込もうとしている。
その技はまさに魔術であるの。魔術でない話し方を考えなさい。
だから、そのような言い方をされるわけ。
あなたが福音に反する魔術を行うから、
あたしはその魔術に反対しなければならなくなる。
その根拠として、数々の伝承を
魔術への批判に用いなければならなくなる。
あたしは最初に言っているように、
あなたがそれで理解出来るなら、それでいい。
でも、あたしや他説を魔術的思想によって
押さえつけてる部分が多い。
キリスト者なら、福音によって解くことが大切なんじゃない?
320 :
小さなヨハネ :02/02/26 00:17
>>319 なぜ、そうも、あなたは、攻撃的なのか・・・
イエスの復活は、旧約を成就する為の、神の御業です。それによって、
我々に義を示されました。新約です。新約によってキリスト教は生まれ
ました。正典は、旧約、新約の両聖書ですが、一般には、新約聖書の事
です。新約聖書は、イエスの証言であり、イエスの言葉であり、それは、
人間側の前提は要りません。しかし、新約後において、旧約聖書は、イ
エスに対する信仰を前提として読むべきものとなりました。
その総てが、イエスの復活を目的としている、と把握されるのです。
さすれば、それは、理性=良識によって読まれる事になります。その世
界には、単なる歴史の記述、迷信、その当時における処世の指針、が故
の矛盾点、等の、雑多な要素が含まれている、と、我々は、理解してい
ます。
ですから、旧約聖書を全肯定し、更に、新約聖書を全肯定する、と言
った、”魔術的”な事はしていないつもりです。
我々は、「世の光であり」、「枡の下に置く」ものではありません。
我々には、伝道すべき義務があります。イエスは、「荒野で悪魔に試み
られ」ました。そこで、聖句で戦われる事を示された。我々は、その信
仰に誇りを持つべきとされています。「新しいぶどう酒は、新しい皮袋
に入れるべきである。」とは、新約後の、キリスト者たろうたる、我々
の精神には、イエスの教えがふさわしいと言う事であります。古い皮袋
は、いずれ張り裂け、古いぶどう酒は地に流れ出てしまうのです。
323 :
ボーダー住民 :02/02/26 08:15
>>318 マリアさん
>古い話はあたし達の方が、この世にあった事については正確よ。
お気持ちはわかりますが、やはり、こういう言い方も、すでにfairではないです。
正確かどうかは、真理をもってこの世をお造りになった神しか御存知ありません。
ヨハネはまだ若くて、どこまでが弁証で、どこからが押し付けか、わかっていないのです。
お許しください。決して魔術のようなつもりはないし、エホバとヤハウェの違いも、
本当には知らないままで、訳本に載っているだけの理由で使っています。
ヨハネ君も、「結論からものを言わない」ということを学ばねばならないでしょう。
ただでさえ、スウェーデンボルグを理解する人は少ないのです。一流の科学者が立証しようとして
世界に高々5万人の賛同者を得たような説を、こんなところで披露するのですから、
証拠や理由を十分にあげて、正常な理性に訴えるように話してください。
それから、これからは、「エホバ」ではなくて「ヤハウェ」を使うようにしましょう。
はっきり言いますが、「エホバ」という呼び方は間違いです。
324 :
事務所(のリサちゃん)からお願い :02/02/26 08:25
小さなヨハネさん、今日はビジネスをしてください。 〆切は明日とお伺いしております。 こちらには、皆さんおられますが、お仕事には、 小さなヨハネさんにしかできないことがあります。 皆様、いつもお世話になっておりますが、本日は 小さなヨハネさんは、こちらに来られません。(ダメ!) では皆様、明日までご機嫌よう。
>>323 マリアさんは、ユダヤ人の子孫らしいから。 口伝えの伝承を聞いている人だから。一種、現場感覚で述べているんだと思う。 現場感覚で見たら、そういう視点になると思う。 実際のところは、正直よく分らない。ただ、言えるのは58面ブリリアントカットの 真理のダイヤモンドの一面をマリアさんが指摘すれば、おなじダイアモンドの別の一面 をボーダー住民さんが指摘しているだけだと思う。 >どこまでが弁証で、どこからが押し付けか、わかっていないのです。 僕なんかもっと分っていない(笑。僕のレスは、押し付けしか見当たらない。(特に神国スレ) ヨハネさんの書き込みを読んで、そのように感じたんだと思う。 それにつけても、あまりにも見事な弁証は、押し付けとそう変わらないような気もするが。 >>322 確かに攻撃的だけど、僕よりはずっとマシだよ。(マジで
326 :
dendo. :02/02/26 16:04
>あまりにも見事な弁証
どのへんが?
たまたま思想書を読もうというそれ自体は殊勝な心掛けで
最初に手にしたのがスヴェドボリだった、という、
純真だけどDQNな
>>1 とそのまわりにいる大人たち、
という某氏(はそこまでいってないですよ、念のため)の説明に
つきていると思うがね。
攻撃的なのは、一神教の基本姿勢ではなかった? あたしはあなた方の性質をよく知っている。 古い伝承に沿って解けば、あなた方は新しい伝承によって否定する。 そこには決して交わりはない。何事も1という基準があるから。 実は、イエズスは何も新しいことを告げに来たのではない。 新しいけど古いこと。 新しい皮袋の件は、あなたが言うこともあるけれど、 それは、人は神に与えられた伝承によって解かず、 人に与えられた権威によって解くからよ。 だから、新しい皮袋と新しいぶどう酒が必要なの。 あなた方は、ある一面は世の光だが、 そうではないことも知らねばならない。 あなた方は人に仕える者であることを忘れてはならない。 ユダヤ人達は自分たちが支配者に置く癖がある。 そして、あなた方も自分たちのみが神の栄光を 現すことができると知らず知らずに内に思い込んでいる。 古い伝承が再び表に出た時、全てが何を指していたのかを知る。
>>323 自分の優位を示すのに、
彼は必死であるから書いているのよ。
「この古い伝承を、あなたは受け入れられないでしょ?
あなたも他の人たちに同じ事をしているのよ」
という意味もあるの。
自は自の伝承が、他には他の伝承があるという
意味を理解出来ない内は、あたしはもっと言うわよ。
キリスト教はこうでなければならないというのは、
イエズスの道、福音に生きるということであって、
神観うんぬんは超えているはずよ。
争いの仕組みを理解出来ない内は、やるところまでやらないと、
人は分からないものよ。
あたしと彼の話は、決着なんかつかないものよ。
>>325 わざと古い伝承を持ち出して煽ってるんだって。
物事を良く分かるように。
さて、ここで一つ問題です。 わたしは本物だろうか? @ ただのデンパ A 神の名を騙るもののけ B 殆ど無さそうだがホンモノ C ただの煽り
332 :
名無しさん@1周年 :02/02/26 17:37
みんな信じてるほうが幸せだろうけど、キチガイだね。この世に腐るほどある聖典・啓典から自分が信じたいものを信じてるだけ。
さて、どれかしらね?色んなのがいるからね。
>>332 まぁいうと、そんなところよ。
そういうことを分かれるようになれば、
どうでも良くなるのよ。
335 :
ボーダー住民 :02/02/26 19:18
時間をかけて成長するまで、子供でしか有り得ない子供に向かって あなたはどうして大人じゃないの? と言って糾弾するのも、大人のすること……? 本当の大人はね、子供の言うことの外形を笑ったりしないで、 内容に真顔で心から耳を傾けて、ばかになって相槌を打ってやるもんなんだよ。 子供の言っていることには、案外、大人の気づかないことがあるもんだ。 子供の言うことがうるさいだけなら、その人は本当の大人じゃない。 子供は、理解してくれていると思う人の言葉しか聞かないよ。
>>326 一般論のつもりで書いたんだけど。でも、誤解を招く表現だと思う。 ヨハネさんの弁証は見事でもなんでもない。あれは、弁証というより個人的意見。 >>327 科学教徒(人文系含む)は、古い考えを否定するのが教義だから。 学者と議論するときは、一応は、彼が科学教徒であると考えると間違いないと思う。 俺も一応、科学教徒だから。実際、科学教徒は、傲慢なところがあるから。 なお、ユダヤ人はかなりの割合で科学教徒の信徒がいると思う。(個人的な勝手な推測) >>330 分りました。俺は煽りなるべく控えます。 >>332 君もあと一歩で科学教徒だ。おめでとう。
>>335 >時間をかけて成長するまで、子供でしか有り得ない子供に向かって >あなたはどうして大人じゃないの? と言って糾弾するのも、大人のすること……? 10代とか20代前半だったら、まあ分る。糾弾しすぎるのも考え物。 でも、30代とか40代になっても、精神的に子供のままの人間に対しては、 「こらあ、いいかげんにしろ!」といいたくもなると思うが。 >本当の大人はね、子供の言うことの外形を笑ったりしないで、 >内容に真顔で心から耳を傾けて、ばかになって相槌を打ってやるもんなんだよ。 捉え方によっては子供を舐めているとも受け取られる発想。 子供は何故か大人の作為を見破ることも多いんだ。発想自体は単純で幼稚なんだけど。 場合によっては、厳しい態度で臨むことも必要。無論、愛情と冷静さの裏打ちは必要だが。 >子供の言っていることには、案外、大人の気づかないことがあるもんだ。 それはその通りだと思う。ただ、大人はきちんと受け止めかねてるな。 私も貴方も。 >子供の言うことがうるさいだけなら、その人は本当の大人じゃない。 その通り。 >子供は、理解してくれていると思う人の言葉しか聞かないよ。 実際そうだと思う。ただ、自分を理解してくれない人でも、心に残る言葉は 結構覚えているもんだ。私は、自分の言葉がそういうものであってほしいと 思って掛けている。たとえ、理解してくれなくても。 余計なお世話大会かもしれないが・・・。
>>335 立派に成人している人に向かって、
仕事を持っている人に向かって、あたしは子ども扱いはしない。
だから、あたしはあえてそういう手法は使わない。
自らを絶対といって他を裁くなら、他によって裁かれる。
それが理解出来ない内は、永遠に互いを裁き合うのみ。
信仰の世界は、いつもそれがついてまわるもの。
それからどうすれば脱却できるのか?
それは子供の方が良く知っていて、大人が知らないものよ。
そういう意味からも、彼は一人前の大人です。
そうそう、小さなヨハネさん。 スウェーデンボルグが多神教の始まりについて どう考えていたか教えてちょうだい。 あたしは先祖からの伝承があって、 それに基づいて回答するから。
とりあえず、マリアさんに於いては、我々の立場の前提は、理解して いただいたと思う。 ageてみる
341 :
ボーダー住民 :02/02/27 08:37
マリアさん
あなたほどの人が、ムキになるようなことなのか……。ちょっとがっかり。
やっぱり宗教が違うと、霊の成長プロセスというものも違ってくるのかなあ。
俺にはヨハネの気持ちがわかるよ。霊的な成長過程ということにおいて、
あの子の時代にはあの子の時代にしか言えないことがある。
もう年をとってしまった私たちには、決して帰って行けないものだ。
でも、まりあさんの気持ちもよくわかるつもり。
>>325 マリアさんとボーダーさんは同じことを指摘しているのだと思う
なんて、いつ、私がマリアさんと違うことを言った?
ごく最近まで、ほぼ同じだった。
>>322 も、とてもなつかしい。そして、感動的だ。
>>340 >我々の立場の前提
誰と誰が、「我」と「々」?
>>341 イチャモンをつける形のレスをつけて申し訳ありません。 子供についての考えが少し違っていたので。 マリアさんについて知りたければ、マリアスレッドか神国スレ1、2に行くと分ります。
>>341 我は、俺。々は、一般的なキリスト教徒。
もっとも、プロテスタントの主流派(と思う)の事ですが。
今日は仕事が無いのでマタ〜リ♪♪♪♪♪
☆緊急討論☆ 最近、ヨハネ氏の書き込みが、なんとなく、HIGHな理由。 1.なんか良い事があった。 2.いやいや、仕事も押してるし、実は、実生活は大変なのだ。 (3.逝ってしまわれた。) どれでしょう?
とか、独りで遊んどらんで、買い物に逝ってこよう.....
>>341 あたしは、彼を試さなければならなくなった。
ボケたお爺やお婆の方が、知らない振りをして良く知っていることよ。
この世界は優しいが険しいもの。
道を切り開くには、ヤハウェにたどり着くには、
彼が産み出したもの、ありとあらゆるものを知り、解かねばならない。
それが出来ないなら、それをしたくないのなら、
彼はそこまでの人だということ。
また、ここでは一神教の世界を扱うからね。
古い伝承を否定し、新しい伝承のみを肯定するなら、
ある時期からヤハウェが消滅し、アドナイにその座を譲って
交代してしまったことになる。これは否定しなければならない。
イエズスにとって、ヤハウェは永遠に父だからね。
彼は人の主であり父ではあるが、彼が言う通りに彼にも父がいるから。
ヤハウェとは、全てで無ければならない。
彼がヤハウェなら、この世は人のみで生まれ動く世となる。
それは良いことか悪いことか?どちらともいえ、どちらともいえない。
が、我々は「それは良いことではない」と解く。
ヤハウェを無視し、アドナイのみによって解くなら、
アドナイはもはや、我らに滅びの日しか約束しないことを知っているから。
我々イスラエルが過去に犯した過ちを、
再び繰り返すことは避けねばならないのが、我々の使命だから。
アドナイとは主である。主は人の父である。
父と子と聖霊をそれによって解くなら、
それはアドナイの中の性格を解いたものとなるからね。
それはそれで、間違ってはいない。
348 :
小さなヨハネ :02/02/28 00:18
主の平和!
こんばんは。昨日は仕事の関係で来られませんでした。「事務所のリサちゃん」
から禁足を頂だいてしまいました。ちなみにリサちゃんは私の頼もしい友です。
(
>>345 : ◆rs2OUULQ さん、回答になったでしょうか?)
さて、あまりにたくさん書いてくださって頭が付いてゆけません。ほんの
少ししか書けませんが・・・。
>>347 マリアさん
>道を切り開くには、ヤハウェにたどり着くには、
あれれ?マリアさんはエホバという概念を忌み嫌うとおっしゃっていませんで
したか?(>317)
エホバとヤハウェは違うのですか?
349 :
小さなヨハネ :02/02/28 00:20
>>342 秘密さん、こんにちは。はじめまして。今後ともよろしくお願いします。
>>341 ボーダー住民さん
>俺にはヨハネの気持ちがわかるよ。霊的な成長過程ということにおいて、
>あの子の時代にはあの子の時代にしか言えないことがある。
ご理解していただいてありがとうございます。
でも、「あの子」とは!。48でもよろしければ・・・。
>>339 :マリア さん
>そうそう、小さなヨハネさん。
>スウェーデンボルグが多神教の始まりについて
>どう考えていたか教えてちょうだい。
>あたしは先祖からの伝承があって、
>それに基づいて回答するから。
少しお時間を下さい。お先にどうぞ。
350 :
小さなヨハネ :02/02/28 00:21
>>337 :秘密さん
>でも、30代とか40代になっても、精神的に子供のままの人間に対しては、
>「こらあ、いいかげんにしろ!」といいたくもなると思うが。
幼稚ですみません。でもこんな聖句もあります。私の幼稚はそうではないという
ことなのでしょうね。
「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように
神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」
(マルコ10・15)。
>>348 ええ、違うわよ。これまでにも書いたわよ。
>>349 いいえ。あたしはそちらを待つわ。
あたしは現場の人間だから、
現場でない人の評価を見てみたいしね。
(因みに、私は、神はデウスで十分と思っています。) ボーダーさん、マリアさん、ヨハネさん、秘密さん、ガンガン薦めてちょ。
354 :
ボーダー住民 :02/02/28 09:28
>>353 ボーダーは、争うために来たのではなく、争いを止めに来たので、もうそろそろ引退したいと思っています。
(前よそでも1ヶ月目からそう言って、結局半年居たことがある)
とりあえず、自分の所期の目的は達したと思うので。
で、余計な火種を作らぬように言いたいのですが、
私は
A「自分の宗教だけが正しくて、よそは間違いと言っては駄目だ」とは申しますが、
B「自分の宗教だけが正しくて、よそは間違いと言う人は駄目だ」とは申しません。
ましてや
C「自分の宗教だけが正しいという人は、ことごとく駄目だ」などとは、口が裂けても申しません。
D「自分の宗教だけが正しくて、よそは間違いだと言う宗教」も、駄目だとは、とりあえず申しません。
その理由はすでに書いてきたつもりですが、またそれを書いていると、面倒になりそうなのでやめます。
???(傍観者モードに入ってるんで。)
356 :
ボーダー住民 :02/02/28 18:16
>>355 ごめん。
>>353 へのレスは最初の3行だけ。いやー、すんません。
>>354 「で、」以下
Aはマナーの問題
B、Cは人権の問題
Dは個人的な宗教観です。
また、おもしろそうな話があったら来るからね。
◆rs2OUULQさん、傍観してないでがんばってよ。
スウェーデンボルグ、たくさんあるから読むの大変だよ。
ヨハネさん、どういうのがいいか、一冊お勧めしてください。
是非一冊読んでください。
目ん玉飛び出るからね。
(でも、なんか、いろいろ読んでそうだから、そうでもないかな?)
秘密さんも、がんばって煽って、煽って。
科学教の話もしてよ。おれ、昔、科学教論者を叩いてたんだよ、これでも。
357 :
小さなヨハネ :02/02/28 21:55
>>356 :ボーダー住民さん
>スウェーデンボルグ、たくさんあるから読むの大変だよ。
>ヨハネさん、どういうのがいいか、一冊お勧めしてください。
・・・うーん、何がいいのか難しいですね。
『神の摂理』が何となく気に入って2回読みましたが、もう覚えていません。
私は主が神であることを知らなかったので、主はきっと私にスウェーデンボルグ
を読ませてくださったのだと思います。しかし、すでに主が父なる神であること
を充分認識されていらっしゃる方に、いまさらスウェーデンボルグお薦めする
勇気は私にはありません。
358 :
小さなヨハネ :02/02/28 21:56
>>354 :ボーダー住民さん
>ボーダーは、争うために来たのではなく、争いを止めに来たので、
>もうそろそろ引退したいと思っています。
まだまだです。ボーダーさん。頑張ってください。
「死にいたるまで忠実であれ!」(黙示録2・10)
鮭が途中で川を下るでしょうか?
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えて
いたらと、どんなに願っていることか。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12・49、51)
主が世に来られる以前は誤謬と悪以外に無く、真理と善との間の争闘は
存在しませんでした。主が来られて真理と善のベールがはがされたとき
はじめて争闘が可能となり、争闘を経てはじめて改良されるのです。
(黙示録講解504)
359 :
小さなヨハネ :02/02/28 21:58
>>328 :マリアさん
>キリスト教はこうでなければならないというのは、
>イエズスの道、福音に生きるということであって、
>神観うんぬんは超えているはずよ。
マリアさん、「神観」抜きの宗教などというものはないのです。主に対する
正しい認識抜きに福音に生きるなどということはあり得ません。
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格
を与えた。」(ヨハネ1・11,12)
ボーダーさん、すみません。まるっきり、誤解しました。 引退しないでよ。(マジで) 少なくとも、読んではくれますよね?
>>347 >
また、ここでは一神教の世界を扱うからね。
古い伝承を否定し、新しい伝承のみを肯定するなら、
ある時期からヤハウェが消滅し、アドナイにその座を譲って
交代してしまったことになる。これは否定しなければならない。
イエズスにとって、ヤハウェは永遠に父だからね。
彼は人の主であり父ではあるが、彼が言う通りに彼にも父がいるから。
イエスの復活を信じて無いようですね。少なくとも、その意義を軽視している。
>>336 私も、結構、科学教徒です。
ageてみる
363 :
brown :02/02/28 23:24
ところでアドナイさんって誰ですか?
364 :
小さなヨハネ :02/03/01 07:03
>>363 :brown さん
>ところでアドナイさんって誰ですか?
唯一の神、主イエス・キリストのことです。
主イエスは父なる神、ヤハウェその方です。
普通はイエスは神でもなく、もちろんヤハウェでもないと思われています。
しかし、実はヤハウェも父も主(アドナイ)も主イエス・キリストも同一の神なの
ですが、別の神と勘違いされてしまったのです。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』
この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとりです。
『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のよ
うに愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」
と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12.29−34)
まず、神観があり、それから実行です。
365 :
ボーダー住民 :02/03/01 08:56
>>360 やさしいこと言ってくれてありがとう。
>>358 キビシーこと言ってくれてありがとう。
このスレッド、好きなんだけど、実は、ある人への誠意のためにという理由で、
ボーダー住民という名前をお返ししないといけないんだ。
だから、ボーダーではもう来れないと思うけど、また来るからね。
>>359 だから、人はイエズスの言葉を理解しない。
ヤハウェとアドナイとエロヒムの意味を正しく理解しないから、
自分は良くて他は悪いといった錯覚に陥るわけ。
だから三位一体論を裁きたくなるのよ。
また神観を重要視するのなら、ユダヤの伝承で解かなきゃ意味がない。
スウェーデンボルグによって解ける範囲は、
彼もあなたも自分で言うように、
イエズスまでというところに気付かないと。
その後は、イエズスによってヤハウェを理解しないといけない。
イエズスはアドナイである。アドナイは主であり、人の父である。
しかし、主である神イエズスを人に遣わした父ではない。ということよ。
証拠は他にもある。天主は必ず自分のことを「我々」と呼ぶ。
この「我々」とはキリスト教でいう父と子と聖霊、
ユダヤ教においては、ヤハウェ・アドナイ・エロヒムを指す。
これによって、天主は一つなの。
どれが欠けでも、天主としては機能しないからね。
ヤハウェがなくなって、アドナイだけになるなら、
霊はアドナイから出ることはない。
ヤハウェがあるからアドナイは霊を出せる。
もし、本当に天主が唯一ではないのなら、「我々」とは自分を呼ばない。
この意味は、今のあなたには分からないということ。
眼が何かによって曇らせられているからね。
それと、また誰かが良く似た手で何かをしそうだから困るのだけど、
エホバというのは、ヤハウェとアドナイを単にくっ付けたものではない。
神聖文字を自分のアドナイによって切り刻み、
バラバラにした上で意味のないものに変えて、
ヤハウェとは、何であるのが分からなくしてしまう錯覚を起こさせるもの。
だから、魔術とあたし達は呼ぶわけ。
367 :
事務所のリサです :02/03/01 12:50
今日は事務的な用事はありません。 小さなヨハネさんが、あそびに(あおりに)来てもいいよって言って下さったので。 前からいっぺん聞いてみたかったんですけど、 >ageてみる って、どういう意味なんですか?
368 :
名無しさん@1周年 :02/03/01 12:52
こうする事だよ。
369 :
◆oBmPl5.U :02/03/01 12:56
370 :
事務所のリサです :02/03/01 18:03
誰でもいいから、時々ageてください。
ボーダーさん、名前、変わったら教えてください。
373 :
小さなヨハネ :02/03/01 23:20
>>367 :事務所のリサです
おお、リサちゃん、よく来てくれました!
皆さん、私の友人、リサちゃんをよろしくお願いします。彼女は可愛くて、
しかもしっかり者です。私はいつも彼女に助けていただいています。
うーん、ageというのは書き込むとスレッドが上に来て、注目、とかご意見を
どうぞということでしょうか?
375 :
小さなヨハネ :02/03/01 23:47
>>365 ボーダー住民 さん
>>360 >やさしいこと言ってくれてありがとう。
>>358 >キビシーこと言ってくれてありがとう。
どういたしまして。
>このスレッド、好きなんだけど、実は、ある人への誠意のためにという理由で、
>ボーダー住民という名前をお返ししないといけないんだ。
>だから、ボーダーではもう来れないと思うけど、また来るからね。
・・・ボーダーのものはボーダーへ?!
そうです、わたしたちはエフネの子カレブ(民数記13・30、申命記1・36)
となって、ヌンの子ヨシュアとともにカナンへ入るのです。
ヨハネさん。また、難しいところを引用しましたね。(感心)
ヨハネさん、そろそろ、聖母についての見解をおねがいします。 恐らく、私とは、相違なる見解となるでしょうが。別スレで、人は皆平等、 聖母は崇拝すべきでない、との旨を書き込んだら、「異端」といわれまし た。
378 :
小さなヨハネ :02/03/02 00:20
>>366 :マリアさん
>イエズスはアドナイである。アドナイは主であり、人の父である。
>しかし、主である神イエズスを人に遣わした父ではない。ということよ。
マリアさん、神が二人も三人もおられるというのはおかしいのですよ。神は
お一人です。前にも言いましたが、天皇陛下が3人おられると言ったらおかし
いように、ましてや万物の創造主・神はお一人なのです。
「律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとりです。
『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。」
(マルコ12・32)
神がお一人であることは自明であり、もし、聖書にそれと異なる表現が出てきた
としても、そこには必ず何らかの別の意味があるのです。聖書は文字通り解釈
するだけでは意味が通らないことがたくさんあるのです。
>証拠は他にもある。天主は必ず自分のことを「我々」と呼ぶ。
具体的にそれが聖書のどこのことかお教えください。もし、創世記、出エジプト
記の中のものでしたら、スウェーデンボルグは一字一句釈義をしていますので、
それを御紹介できるかと思います。
聖書を最初から読んでご覧。 ヤハウェとアドナイとエロヒムの三つが揃ってはじめて一神なのよ。
関係ないんですが、 ヨハネさんの使っている聖書は新共同訳ですか? (私は、’54、’55年改訳を使ってます。)
こういう言い方が難しいなら、唯一と一人は違う。 スウェーデンボルグはイエズスを見てこれを一人と解いただけ。
382 :
小さなヨハネ :02/03/02 00:37
>>377 ◆rs2OUULQ さん
>ヨハネさん、そろそろ、聖母についての見解をおねがいします。
>恐らく、私とは、相違なる見解となるでしょうが。別スレで、人は皆平等、
>聖母は崇拝すべきでない、との旨を書き込んだら、「異端」といわれました。
ああ、ほんとうにそうですね。まだ先と思っていましたが、五合目を
過ぎた方にはそれは必要なことですね。
了解しました。明日また書きます。
ヤハウェ・アドナイ・エロヒムを伝承によって解いてご覧。 ユダヤ教を勉強してご覧。 それが分からなかったら、キリスト教は分からないから。
384 :
小さなヨハネ :02/03/02 00:45
>>380 ◆rs2OUULQ さん
>関係ないんですが、
>ヨハネさんの使っている聖書は新共同訳ですか?
>(私は、’54、’55年改訳を使ってます。)
ええ、新共同訳聖書を使っています。
それではまた。皆さんに主の平和!
385 :
元ボーダー住民 :02/03/02 08:06
>>372 ありがとう。またね。
皆さん、またね。
小さなヨハネさん、ありがとう。お仕事の邪魔しないように気をつけます。
ああ、でも、もう被ったコアラの皮が破れそう。今回、皮が薄かったみたい。
>>383 マリアさんは、どこでユダヤ教を勉強されたんですか?
ラビにそのお話されたことがあるのですか?
>>383 少なくとも、キリスト教精神の実践に於いて、ユダヤ教理解は、
必要では無い。
ageてみる
>>386 これはうちの言い伝え。あたし達はラビとは会わない。
彼らが解くまで、彼らとは会わない。
しかし、ヤハウェを切り刻んでアドナイを混ぜ込んで
エホバと呼ぶユダヤ人はいないわよ。
少々知識のある人は、あたしと同じことを言うわよ。
カッバーラにおいても、まともな人は三つを並べて一神とするわよ。
>>387 イエズスの道には彼の説いたことが重要ではある。
しかし、それなら、新約は旧約を成就しない。
キリスト教徒は、新約を別のものと認めるべきよ。
しかし、神観が重要なのならば、ヤハウェを読みたいからといって
アドナイと混ぜてエホバと読みたいのなら、
それはヤハウェを犯すこと。
アドナイを高めてヤハウェを消すなら、それは人のもの。
彼を見たものはヤハウェを知る。
彼自身は人の主であるアドナイであるけど、ヤハウェではない。
小さなヨハネさん、
スウェーデンボルグは、人の主であるのか、どうなのかしらね?
>>387 えー? そぅお? あのねぇ、ユダヤ教の本もちょっとしか読んでないけど、
ユダヤ教もね、素晴らしいよ、やっぱ。理解していなから『ヴェニスの商人』
的思想、みたいなのが出来ちゃったんだし。
ユダヤ教とキリスト教は対立しながらやってきて、今は対話しようとしてるけど
そういう姿勢のものを読んでいると、結構教えられるところあるのよ。
ヨーロッパでは宗教活動できなかったから、その分、思想的にすごく深いらしいし。
今度読んでみて、ミルトン・スタインバーグ著「ユダヤ教の考え方」ミルトス
リサは、相当感動した。
>>388 マリアさん、小さなヨハネさんには押し付けはいけないって、さんざん言っていたけど
>>388 >これはうちの言い伝え。あたし達はラビとは会わない。
>彼らが解くまで、彼らとは会わない。
これって、はっきり言って、押し付け以下じゃない?
マリアさん、全然、論証していないもん。
>だから、人はイエズスの言葉を理解しない。
>ヤハウェとアドナイとエロヒムの意味を正しく理解しないから、
>自分は良くて他は悪いといった錯覚に陥るわけ。
>だから三位一体論を裁きたくなるのよ。
だから、どうして自分とこだけが正しいって言えるの?
…って、この前小さなヨハネさんに説教してたでしょ?
>また神観を重要視するのなら、ユダヤの伝承で解かなきゃ意味がない。
どうして意味がないの?
>スウェーデンボルグによって解ける範囲は、
>彼もあなたも自分で言うように、
>イエズスまでというところに気付かないと。
>その後は、イエズスによってヤハウェを理解しないといけない。
スウェーデンボルグの本読んだの? ね? おかしいです。
スウェーデンボルグがどう解いているか、自分で同じように
解いてみてから改めて変だって言えばいいんじゃないかな…と思う。Jimuinsan said.
383 :マリア :02/03/02 00:40
>>383 >ヤハウェ・アドナイ・エロヒムを伝承によって解いてご覧。
>ユダヤ教を勉強してご覧。
>それが分からなかったら、キリスト教は分からないから。
って言っておいて、自分はどうして正当なユダヤ教の話を否定するの?
もしヨハネさんがユダヤ教を勉強したとしたら、
>>388 >これはうちの言い伝え。あたし達はラビとは会わない。
>彼らが解くまで、彼らとは会わない。
この言葉に責任とれるの?
マリアさんの言うユダヤ教って、どこで勉強したら勉強できるの?
(これは、もし違っていたら訂正してください。 ただし、日本神道の伝承によってではなく、ね。) 「エホバ」と「ヤハウェ」は、一般的には一緒ですが、 現代では「エホバ」と呼ぶのは間違いだったとわかっているらしいです。 昔ユダヤ人たちはヤハウェと呼んでいましたが、厳密な戒律主義に陥り、 十戒の第3戒「主の名をみだりに唱えてはならない」から、 「ヤハウェ」の名を口に出すことをやめてしまい、聖書からも、母音をとって しまいました。YaHaWeH(ヤハウェ、ヤーヴェ)と呼んでいたのに、 聖書の記述をYHWHと書くようにしたそうです。 それで、かなり最近まで「ヤハウェ」か「ヤーヴェ」か「エホバ」かは、 謎だったと聞いています。 「エホバ」というのは、ユダヤ人が人間の主人を呼ぶ時に使う「アドナイ」 の母音をとって、「YHWH」につけたもので、16世紀ごろ(? あやしい) 聖書研究のためには、名前を呼べないのは不便だとかいうので 便宜上つけられたものだったとか聞いています。(チョー、あやしい) ここまでは、昔々のキリスト教学の授業で聞きましたが、 細かいところは違っているかもしれません。(違ってたら教えてね) しかし、近頃文献上の研究が進んできて、確か、イスラエルではない、外国の 文献で、イスラエルの神様の名前を「ヤハウェ、ヤーヴェ」と呼んでいる資料が 発見されたのでした。 これは、わりと最近聞いたように思います。でもやっぱりあやしい。 ですから、今では、「エホバ」は、間違いということになっています。しかし、 静思社の本が書かれた時には、まだそういうことはわかっていなかったはずですし、 スウェーデンボルグの時代も、「エホバ」が普通だったのかもしれません。(あやしー、あやしー) 小さなヨハネさんは、最近まで無宗教だったので、知らないで「エホバ」と言って おられたのだと思います。難しい悪意があるわけではないと思います。 小さなヨハネさんは、ほんとに、あのとおりの方なんですよ。
>小さなヨハネさんは、ほんとに、あのとおりの方なんですよ。 最初から付き合ってるので、よく存じております。 悪意はありませんが、熱意がありすぎるようで(笑)。
すみません、つい御局モードになりましたが、別に悪気はないんです。
ええ、それも存じております(笑)。
396 :
小さなヨハネ :02/03/02 20:50
リサさん、ありがとう。 主はあなたの熱意を嘉したもうでしょう。 お疲れさまでした。
397 :
小さなヨハネ :02/03/02 20:57
>>388 マリアさん
>小さなヨハネさん、
>スウェーデンボルグは、人の主であるのか、どうなのかしらね?
スウェーデンボルグは主の預言者の一人に過ぎません。
人の主は主イエス・キリストすなわち天主お一人です。
>>392 その通りでしょう。しかし、旧約聖書は、読めば判りますが、同じ事
の繰り返し構造となっています。一方では、ヤハウェを主とし、他方
では、イェホバを主としています。(ヤハウェ資料、イェホバ資料、
と呼ばれています。)そして、それは、約2000年かけて、様々な、状
況、思想のもとに書き継がれたものです。そこには、他の民族の神話
の影響、移し替えもみられます。歴史記述についても考古学上の成果
との相違も、発見されています。
つまり、そこに、統一された意思を見出そうというのは、無理な事だ
と思います。
という訳で、400ゲット。
キリスト教徒にとっては、デウス(ギ語:神)、唯一、絶対の、人の子 イエス・キリストの父なる神あるのみです。
本当に、申し訳ないと思いますが、あえて、ヨハネさんに問いたい のですが、(以上の様な議論を続けられているので) イエスの復活を信じていますか? そして、それによって、神が立てられた”新しい契約”を理解していますか? (偉そうにしてすみません。エイメン。)
403 :
小さなヨハネ :02/03/02 23:27
>>377 : ◆rs2OUULQ さん
>ヨハネさん、そろそろ、聖母についての見解をおねがいします。
今はまだ結論だけです。
主が父なる神御自身であるという教義、それは教義中の教義であり、最も
大切な教義です。
そして、聖母マリアはこの教義を表象するものということなのでしょう。
ですから、今まで主が父なる神御自身であるという教義は隠されて来まし
たが、聖母もその意義を表象していながら、無視されて来たこととパラレル
の関係にあります。今、聖母のご出現がキリスト教社会で話題になりますが、
それはいよいよ主イエスが父なる神御自身であることが明らかにされつつ
あることを意味していると思います。
聖母はもちろん被造物であり、神ではありません。しかし、上記のような
特別な役割りを担っておられます。そして、聖母は「教会の一致」に関し、
重要な意味を持つのではないかと思います。
スウェーデンボルグ自信は聖母について全く評価しておりません。むしろ、
主が脱ぎ去った人間の遺伝悪を持っていた者という捉え方をしています。
しかし、これにも何らかの特別な理由があったのだと私は考えています。
404 :
小さなヨハネ :02/03/02 23:31
失礼しました。
>>403 スウェーデンボルグ自信→スウェーデンボルグ自身
>>390 さて、良いところをついているわ。
小さいヨハネさんも、読んでちょうだい。
>マリアさん、小さなヨハネさんには
>押し付けはいけないって、さんざん言っていたけど
それが味噌よ。
>これって、はっきり言って、押し付け以下じゃない?
>マリアさん、全然、論証していないもん。
そうよ。それが味噌なのよ。
何故三位一体が正しいのか?ということは横においてね。
>スウェーデンボルグの本読んだの? ね? おかしいです。
>スウェーデンボルグがどう解いているか、自分で同じように
>解いてみてから改めて変だって言えばいいんじゃないかな…と思う。
読まなくても分かる。彼の見たもの、得たもの、知ったものはね。
彼はアドナイであるイエズスを知った。
>>391 >って言っておいて、自分はどうして正当なユダヤ教の話を否定するの?
それは、彼らがある伝承に沿ってはいないから。それを無視しているから。
時が来るまで、あたし達は待たなければならない。
何が正しく、何が正しくないか、
そしてそれが良いことなのか、悪いことなのか。
あたしは小さいヨハネさんの考えを否定し、
小さいヨハネさんがあたしを否定すれば、
あたしが何を言っているのか、いずれ小さいヨハネさんは
得られるものがあるということよ。
>この言葉に責任とれるの?
ええ。責任は充分取れるわよ。
>マリアさんの言うユダヤ教って、どこで勉強したら勉強できるの?
これは、ヤハウェ・アドナイ・エロヒムを理解すれば分かる。
エロヒムは、キリスト教では天使といわれる。
そうであり、そうでなく、そうであるからよ。
これが分かるようになれば、面白いものよ。
>>392 母の先祖たちは、昔からヤハウェや
ヤーヴェに近い発音なのは知っていたの。
エホバという概念が出てきた時も、周りに言わずに反対した。
これを周囲にいうことは出来なかった。
しかし、これも神の思し召しだったから。時が来ることも知った。
それゆえに沈黙を守った。一族はエホバという名を呼ばないようにした。
>>399 読み方がややこしいからなんだけど、
ヤハウェがアドナイということはなく、アドナイはアドナイ。
言はアドナイではあるが、ヤハウェはアドナイであり、
そうではなく、そうではない。といったことであって一種の暗号。
こうしてしまったのは、問題でもあり、当然のことだからややこしいのよ。
エホバが出てきたのは、人の側に色んな問題と事情があったから。
それから繰り返すのは、この世の摂理との関わりがある。
>>397 それでよろしい。
いつかあなたはイエズスの父ヤハウェが分かるでしょう。
それと、イエズスの母マリアを理解できるのならね。
407 :
小さなヨハネ :02/03/02 23:35
>>402 ◆rs2OUULQ さん
>本当に、申し訳ないと思いますが、あえて、ヨハネさんに問いたい
>のですが、(以上の様な議論を続けられているので)
>イエスの復活を信じていますか?
信じています。主は父御自身であり、主は自ら復活出来る唯一の方です。
408 :
小さなヨハネ :02/03/02 23:38
>>402 名前: ◆rs2OUULQ さん
>そして、それによって、神が立てられた”新しい契約”を理解していますか?
>(偉そうにしてすみません。エイメン。)
面目ありません。それはどういう意味ですか?
411 :
小さなヨハネ :02/03/03 00:33
>>410 : ◆rs2OUULQ さん
>>408 >すみませんが、
>>222 、
>>322 を読んで下さい。(タイプが苦手なんで・・・)
拝見しました。うーん、今一つよく分かりません。
原典に当っていないので、私の記憶と推測で申し上げますが、「契約」とは
「神との連結」を意味します。神と連結するとは、「再生」して天界に受け入れられる
ことです。しかし、神的なものそれ自身(これを「父」と呼びますが)と連結する
ことはできず、(なぜなら、誰も神的なものそれ自身を把握することはできないから
です)神的な人間的なものは把握出来、それによって神と連結することが可能となる
なのです。
この神的なものそれ自身(父)と神的な人間的なもの(子)の連結も契約であり、
神の人間性それ自身が「契約」、「連結」そのものなのです。そして私たちは
その主の神的な人間的ものを思考の中で把握し、愛の中に神のその人間性と結ばれ
て、再生することができること、これが連結であり契約です。
旧約と新約の区別は今失念しました。以前は天界を通って流入する主からのもので
人間がそれと連結できたのですが、人間がその流入を斥けるようになったため、主が
直接世に降られて、人間の身体を遺伝的に身にまとうことにより、人間に近づく
ことが可能となったのが新約だったかもしれません。
新約は、イエスの受難、復活の後の、人と神の関係です。 イエスの復活によって、律法は成就され、新しい関係になったのです。 イエスは、それまで「人の子」として、つまり、我々と同様の、人と しての精神、肉体のくびきのもとにあったのです。それは、我々の、 神に対する義を再認識させるための、愛でした。そして、神のひとり 子イエスを十字架にかけさせる、そして、復活させることで、神から、 我々に「義」を示された。これは、更なる愛です。その御業によって 打建てられたのが、新しい契約、新約です。
我々は、旧約のもとでの神との関係とは違う、新しい関係のもとにあるのです。
イエスがキリストであった事を示されたのです。
新約については、決して、私、固有の考えではないのですが・・・ 聖母については、自分で考えてみます。
みんな、自分の教義から一歩も出ないで、自分の教義の専門用語をそのまんま使って、 それでなんとかなると思っている。 ◆rs2OUULQ さん、小さなヨハネさんは、キリスト教会に身を置いたことはないし、 教理を勉強したことはないし、「契約」も「旧約」も「新約」も、キリスト教会の 教理とは、全く違った概念なのよ。根本的に違っているの。徹底的に違っているの。 マリアさんも、理解されようというものの言い方は全然する気がないらしいし。 もちろん小さなヨハネさんも、皆さんからそう言われつづけてきておられるので、 リサも、諸事情に関して、少しずつはお手伝いさせて頂きます。 ここでの会話は、例えば、江戸時代の人間が21世紀にやってきて、普通に暮らそうとして いるみたいなものなのよ。 似たような言葉を使っていても、全然違う世界の常識をもっている人同士なのよ。 双方をずぶの初心者だと思って、相手にわかるように言わなきゃ分かるわけないのに 自分の前提は当然と思って話してる。 教会学校の幼児科に行って、話し方を勉強してきたらどうかしら。 ボーダーさんが疲れたのもわかる。
>>416 スレッドを通して、用語には説明を付けました。私はヨハネ氏を、むしろ、
私より良識のある方と思ってます。
>、「契約」も「旧約」も「新約」も、キリスト教会の
教理とは、全く違った概念なのよ。根本的に違っているの。徹底的に違っているの。
そうでは無いと思いたいのですが、これに限っては、総ての基本なので・・・
マリアさんには、説明が必要と思ったのですが・・・
>自分の前提は当然と思って話してる。
いやいや、むしろ、知るべき、知っておくべきと思います。我々は啓典の民です。
>>403 >聖母マリアはこの教義を表象するものということなのでしょう。
ここを、ちょっと、説明、お願いします。
(念の為言いますと、私は、聖母の位置付けについて、ほとんど、結論
が出ていません。)
>>、「契約」も「旧約」も「新約」も、キリスト教会の
>>教理とは、全く違った概念なのよ。根本的に違っているの。徹底的に違っているの。
>>417 >そうでは無いと思いたいのですが、これに限っては、総ての基本なので・・・
そうよねぇ。だと思う。読んでビックリ、「目ん玉飛び出る」かどうか知らないけど。
スウェーデンボルグの救済論には、「血による贖い」なんてないのよ。
(ビックリした? ね? ねー!! 一体何が救いなんだか、分かる?)
だからね、読まなきゃ分からないのよ。
読まないでも分かるなんて言っている人は、了見が狭い。
むしろ、スウェーデンボルグ読むと、ああ、あの日本神道の言い分は、
スウェーデンボルグでいえば、このあたりまでのことを言っているのかな、
その程度のもんかな、という感じ。
用語の説明もないし、三位一体も、半分キリスト教からとってきて、
自分の教理の不明瞭なところだけ、キリスト教神学の三位一体論で辻褄あわせて
補強しようとしてるだけのように聞こえるのよね、今のところの説明では。
ま、説明があまり分からないからでもあると思うけど。
あーん、リサちゃん、もっとかわいい人なのに。
イケズババに成りすましたまんまで年をとるのはいや。(泣)
この際、リサの頭に合わせてくれないかしら…。
でも、スウェーデンボルグの方も、たいして説明されてないんです。
それは認めます。小さなヨハネさん、頑張ってください。
本来、組織神学的に体系づけて説明できるくらいまとまっている宗教なんて、
そんなに沢山ないんじゃないの? キリスト教と、仏教と、あと、知らない。
ご存じですか?
>>408 .
>>410 .
>>411 それは、全然、わからないと思います。
◆rs2OUULQ さん「新しい契約」とは、一種、「信仰義認」ですか?
でも、この言葉を、スウェーデンボルグ主義者に提示するときには、
チョー細心の注意が必要なんですよね。(笑)
スウェーデンボルグ主義者は、この言葉に、過剰反応しますからね。
でも、その議論の前提は長いので、
この議論に嵌ると、フィニッシュは永遠に決まらないです。
聖書論から入って、(旧新約各66巻が等しく決定的な神の言葉だとも言わないし)
十字架と復活よりも、受肉そのものに意義をおくし、
「信仰とはなにか」も問われないといけないし、いろいろありすぎます。
リサは、キリスト教会の説教事情をちゃんと把握すると、それほど目くじら立てる
ことでもないな、と思っているんですけど、総合的に考えていかないと、永遠に
解決がないのではないかと思えるくらい、スウェーデンボルグは、この教理に対して
きびしいのです。
(ひょっとして、カルヴィニズムの方だったらごめんなさい。
予定説なんて、口にしちゃ駄目よ。小さなヨハネさんは優しいからいいけど、
スウェーデンボルグ原理主義のひとたちに、絞め殺されちゃうよ。)
421 :
名無しさん@1周年 :02/03/03 17:03
ほてれえい
422 :
dendo. :02/03/03 18:44
>聖書からも、母音をとってしまいました ここだけ間違い。ヘブライ語の正書法ではそもそも母音記号をつけない。
423 :
小さなヨハネ :02/03/03 19:43
>>416 :リサさん
>◆rs2OUULQ さん、小さなヨハネさんは、キリスト教会に身を置いたことは
>ないし、教理を勉強したことはないし、「契約」も「旧約」も「新約」も、
>キリスト教会の教理とは、全く違った概念なのよ。根本的に違っているの。
>徹底的に違っているの。
>もちろん小さなヨハネさんも、皆さんからそう言われつづけてきておられる
>ので、リサも、諸事情に関して、少しずつはお手伝いさせて頂きます。
ありがとう、リサさん。田舎者で異邦人の私にそう言ってくださって・・。
>>420 リサさん
>(ひょっとして、カルヴィニズムの方だったらごめんなさい。
>予定説なんて、口にしちゃ駄目よ。小さなヨハネさんは優しいからいいけど、
>スウェーデンボルグ原理主義のひとたちに、絞め殺されちゃうよ。)
あはは!おもしろ過ぎます。
424 :
小さなヨハネ :02/03/03 19:45
>>420 (続き)
>でも、その議論の前提は長いので、この議論に嵌ると、フィニッシュは永遠に
>決まらないです。聖書論から入って、(旧新約各66巻が等しく決定的な神の
>言葉だとも言わないし)十字架と復活よりも、受肉そのものに意義をおくし、
>「信仰とはなにか」も問われないといけないし、いろいろありすぎます。
確かに前提を紹介するだけでも大変です。私はただの信徒ですが、学究の徒
を標榜される方々が、スウェーデンボルグを無視しないで研究なさると新しい
進歩があると思うのですが・・・。
いずれスウェーデンボルグはもっともっと注目される時が来ると思います。
425 :
小さなヨハネ :02/03/03 19:51
>>418 : ◆rs2OUULQ さん
>>403 >聖母マリアはこの教義を表象するものということなのでしょう。
>ここを、ちょっと、説明、お願いします。
>(念の為言いますと、私は、聖母の位置付けについて、ほとんど、結論
>が出ていません。)
私もまだ途中です。
しかし、ほんの少し分かって来たような気がします。私は二つの道から聖母
に出会いました。
(前のスレッドの151−159と重複しますが・・・)
一つは自分の必要からでした。
私はスウェーデンボルグを通じて初めて神を知り、そして、その神とは
主イエス・キリストであることを知りました。それまで神については
考えたこともなく、イエス・キリストという人はただの人間としか思って
いなかったのです。しかし、自分で痛悔することがあり、苦しんでいたとき
谷口雅春氏の本を読み、それがきっかけで霊界に興味をもち、スウェーデン
ボルグを読むことになったのです。
426 :
小さなヨハネ :02/03/03 19:57
(続き) スウェーデンボルグによって、私の霊的な目は開かれました。霊的な知識を 学び、知るようになったのです。主が神であること、私たちは死後も生きる こと、天界と地獄があること、人間は悔改めて旧来の自分を改善することに よって「再生」し、そして天界へ行けること、悪を好めば地獄へ自ら行くこ となどなどです。あるいは、聖言によって人間は天使や天界とつながり、そ れによって私たちは主とつながり、生きていること、聖言には字義上の自然 的な意義の他に、それが表象する霊的な意義(内意)を持っていること、など まことに膨大な知識を主はスウェーデンボルグを通じて私に与えて下さいまし た。(もう殆ど忘れていますが・・。) それらを読むのに何年かを費しました。しかし、残念ながら、肝心な私自身 の霊的な進歩、改善は全くありませんでした。あいかわらず、傲慢、欲望、 冷酷、怒りやすさそのものでした。むしろ、知識を得て余計その傾向に拍車が かかりました。これではいけないと思っていましたがどうしてよいのか分かり ませんでした。そのころあこがれていたインドのサンダー・シング(1889 ―1929)の伝記の中でトマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』を 知りました。
427 :
小さなヨハネ :02/03/03 20:01
(続き) 『キリストにならいて』を読んで、本当にがつーんと頭を殴られたような気 がしました。それまでの知識だけの悔改めでは話にならないということが分 かったのです。そこには自分を砕くとはどういうことなのか、具体的な事柄 が主の直接のお言葉で書かれていました。(私はこの本がトマス・ア・ケンピス の創作とは思いません。主からの啓示そのものだと思います。つまり聖言です。) この本を10回以上読みました。そして少しでも実践しようと努めた結果、 確かに精神的な霊的な変化が現れました。例えばへりくだることを以前は 全く知りませんでした。それを読んでからは、もちろん充分にへりくだれる わけではないのですが、少なくとも、それが大切であることを知りました。 ですから、傲慢になったとしても、その後で、ああ、いけないと反省が生じ ます。 しかしながら、スウェーデンボルグによる真理の学習とトマス・ア・ケンピス による実践修行は、ただただ苦しくて、うるおい、喜びがありませんでした。 真理を知る喜び、多少自分が変化する喜びはありましたが、それだけで日常を 乗り切るのはやはりつらかったのです。
428 :
小さなヨハネ :02/03/03 20:17
(続き) そういう喜びは最初のうちだけで、それもすぐに消えてしまいます。どうし ようもなくなったとき、主は私にマリア・ワルトルタを読ませてくださいま した。(と、私は信じています。) これを読んで本当にびっくりしました。この本はマリア・ワルトルタ (1896−1961)というイタリアの女性が、病床で主から福音書の 内容を、その場にいるようにヴィジョンを与えられ、彼女が見たままを書き 記したものです。(同様なものとしてエンメリックという人の本も出ています が、もっと迫力とボリュームがあるのではないかと思います。) (続く)
429 :
神聖神まるっ。 :02/03/03 20:21
>>399 >一方では、ヤハウェを主とし、他方
>では、イェホバを主としています。(ヤハウェ資料、イェホバ資料、
>と呼ばれています。)
イェホバ資料なんて無いでし。
使われてる神名はヤハウェとエロヒームでし。
だからエロヒム資料でし。
>>429 そうなんですか。知らんかった。けど、大学の神学の授業で
そう習ったんですが・・
>>420 リサさん
カルヴィニストです。(どっちかといえば、)予定説もカルヴァンとは
違う論理で支持します。(予定説といえるかどうか・・・)
ヨハネさん、ぜひ、続けて下さい。実に興味深い!!!(ありがとうございます)
しかし、新約についての認識ですが、かなり単純で、かなり基本 とおもうのですが、なぜ、ヨハネさん&リサさんに理解していた だいていないのか、かなり疑問におもう今日この頃です。
>>422 :dendoさん
恐縮です。よろしくお願いします。
>>406 マリアさんのお話は、個人的には聞くに値するけれど、正統主義のユダヤ教徒から
見て、正統的キリスト教会に対する、エホバの証人くらいのレベルでしか受け入れ
られないのだろうと思います。(ごめんね、はっきり言うけど)
別の言い方をすれば、正統的キリスト教会に対する、スウェーデンボルグ主義く
らいのレベル、と言ったら、もっと譲歩的な感じが出るかしら。
正統主義ユダヤ教も正統主義キリスト教も、それぞれの研鑚にプライドをもって
いるし、もしマリアさんの伝承がユダヤ教として、あるいはスウェーデンボルグが
キリスト教として正しいとしても、それを正しいと思っている人たちの物なのよね。
「いつか、自分が正しいとわかる」って、宗教を持つ人は、未来の立証性に望み
をかけるしかないもんね。その未来って、現世ではない。
だけど、スウェーデンボルグの語るヤハウェは、そういうひたすらな宗教心を尊ん
でくれる神なのね。だから、もし自分が、これこそ絶対的に正しいと信じていて、
それによって安心立命できる宗教を持っているなら、他の宗教の預言者がヤハウェ
という方をそういう、あなたのことを尊んでくださる方だと表現していることに
満足したっていいんじゃないか、と思うの。
ヤハウェは絶対に人間にはわからない方だ、って頑張ってもいいけどさ。
自分の中での価値観は絶対でも、この世がその絶対を認めるわけなんてないんだし。
(しまった、ボーダーの霊に乗り移られている…。
だけど、リサちゃん、ほんとはそういう感じなの。ごめんね。
リサ、スウェーデンボルグ歴は浅いです。)
>>419 私を了見が狭いと言っていますが、元々、唯物主義者で科学教徒だった
私が、どれほどの紆余曲折を経て、神にたどり着いたか考えていただき
たい。私には、スウェーデンボルグ以外の導きがあったのです。
そして、私は、初めから、スウェーデンボルグに与するつもりは、あり
ません。そう、今では、「聖書のみ」です。(プロテスタントらしいで
しょ?)
>>432 >しかし、新約についての認識ですが、かなり単純で、かなり基本
>とおもうのですが、なぜ、ヨハネさん&リサさんに理解していた
>だいていないのか、かなり疑問におもう今日この頃です。
小さなヨハネさんはどうかしら? リサは、ぜんぜん理解してます。
痛いほど理解してます。◆rs2OUULQさんが、理解してないだけ。
キリスト教会の教理は、美しく、体系的で、比類なき完全性を整えている。
その美はまさに神の美だ、と、言い続けたいくらい。
スウェーデンボルグの理解は、人を唖然とさせ、どうしてそうなってるのか、
なんでそんなことを神さまはしたのか、ちょっとやそっとでは分からない、
とも言いたいくらい。
でもね、説明すると言いながら、ずっと教会方言で喋ってるのよ、あなた。
日本人と中国人が英語で喋るくらいの気持ちで説明しないと、キリスト教の
下地がない人にはわからないし、スウェーデンボルグの人には、キリスト教会歴が
あまりない人が多い。と思っていますけど。
>>435 それは、前提が異なりますね。私は、当初から、キリスト者に対して
発言しているのです。そう、初めから「教会方言」で語っているので
す。「新約」もキリスト教の上での「新約」の事です。
>>434 ◆rs2OUULQ さま
>>419 私を了見が狭いと言っていますが、
ちょいとお待ち。
>読まないでも分かるなんて言っている人は、了見が狭い。
って言ったけど、
◆rs2OUULQさんが、了見が狭いと言ったことはなくて、
◆rs2OUULQさんが、もし「読まなくてもスウェーデンボルグは分かる」
と言われるなら、その範疇に該当しますけど。
>元々、唯物主義者で科学教徒だった
>私が、どれほどの紆余曲折を経て、神にたどり着いたか考えていただき
>たい。私には、スウェーデンボルグ以外の導きがあったのです。
無茶苦茶理解できます。
>そして、私は、初めから、スウェーデンボルグに与するつもりは、あり
>ません。そう、今では、「聖書のみ」です。(プロテスタントらしいでしょ?)
全然理解できます。尊いと思います。
特に、行ないを強調されている信仰はハズレのないもので、リサ流に言えば
「ほらね、スウェーデンボルグ主義者さんたち、ご心配なく。
既成のキリスト教会に行ったって、 普通にまじめに聖書読んで、
ちゃーんとこういう人が出来るのよ」って、ちょっと見せびらかしたい。
リサは、今のところ、プロテスタンティズムも、カトリシズムも、スウェーデンボルグも
全部認めます。神さまは、どの教えに従う人もほったらかしになんてしていないと、
心から確信しています。
>>437 すみません。誤解しました。
ageてみる
>>436 ◆rs2OUULQ さん
>>435 >それは、前提が異なりますね。
そーなんです。だけど、一言では解説できません。
どうも、リサさんの登場で最近、判ってきたのですが、ヨハネさんは、 我々とは、だいぶ、下地が違うらしい・・・
ってゆうか、サーバー、鬼のように重いんですけど、気のせい?
>>416 そういうことよ。
それが小さいヨハネさんやあなたに理解出来ない内は、
互いに互いを間違えとしかいいようがないわけ。
分かるかしら?
>>419 スウェーデンボルグを基本に置かねばならないということでしょ?
それをしてみるとね、逆にアドナイ止まりだという事が分かるだけなの。
読まないでも分かるというのは、既にイエズスについての位置付け、
その内容で、ここでの趣旨に沿うなら、
これはアドナイを解いたというのが分かるから。
ここでの趣旨は、ヤハウェ=イエズスのいう「父」という神が
イエズスであるという話についてどうなのか?という話しなわけ。
話を整理していけば、
まず、エホバというのはアドナイをヤハウェ化した概念であるわけ。
ヤハウェで充分なら、アドナイやエロヒムという言葉を呼ばせるような
姑息な手段は取らない。
スウェーデンボルグがいうイエズスはエホバであるという意味も、 そういうものであるということも、小さいヨハネさんは きちんとスウェーデンボルグの説から説明してくれているからね。 エホバというのは、アドナイをヤハウェ化させたものだという概念ともね。 ここからは、ヤハウェ=イエズスではないと分かる訳。 しかし、あなた方はアドナイがヤハウェであると思っているわけ。 これは「そうであり、そうでなく、そうである」という 解き方を理解出来れば分かるのだけど、それは難しい。 だから、イエズスは簡単に「父」という言葉用いているわけ。 当然のことながら、イエズスがいう「父」を理解する 三位一体説の方が有利になってしまうということになるわね。
マリアさんのレスに一貫して出てくる主張 「あなたたちには分かってない」 ボーダーさんもそうだったけど、 愛があったら、「あなたが理解してない」と言う前に 「自分があなたを理解してない」と言えるのよ。 私には、あなたの御言葉はわかりませんので 「わかっていない」と言われるお言葉を否定する気はありません。
445 :
名無しさん@1周年 :02/03/04 09:08
リサに真珠は似合わない。
446 :
元ボーダー住民 :02/03/04 17:10
リサさん あなたの教会はとてもよい教会ですね。(あっちの板) 皆さん、リサさんは、ほとんど預言者です。 私が先に出ていたので、やりにくいのでしょう。ご迷惑をおかけしてすみません。 ですが、私も主から語られたとおり、ここに来られるある人には、 私たちに与えられた思いは決して通じないのです。あなたもご存知のとおりです。
447 :
名無しさん@1周年 :02/03/04 19:52
LPに帰りなさい。
448 :
元ボーダー住民 :02/03/04 21:19
リサさん まだかな? あのね、事務員さんもいいけど、あんまり似合ってないんじゃない? 絶対キャラに無理がある。もしやるんなら、もうちょっとはっきり「忍玉学園の食堂のおばちゃん」とか、どう? (食堂のおばちゃんって、じつは、学園の先生たちよりも全然強い忍術使いなんだよね)
ヨハネさん、ヘブル人への手紙を、どう読みます?
ボーダーさん すみません。ありがとう。教会をご存知なら、ぜひ一度お越しください。 いろいろ教えてください。 いい教会でしょ? 本当に、そう思います。小さなヨハネさんのお人柄のおかげです。
451 :
小さなヨハネ :02/03/04 22:59
皆さんたくさん書き込んでくださって有り難うございます。 何となく場違いですみません。「聖母との出会い」の続きを少し書き ましたので送らせて下さい。 (428からの続き) この本の中で、とても驚いたのは主が聖母を大変愛しておられたことです。 福音書では聖母が訪ねて来たシーン(マタイ12・46)や、カナの婚礼の シーン(ヨハネ2・4)など、主は聖母に対し、どこか冷淡で不自然な印象 を私は受けていました。しかし、マリア・ワルトルタを読むとそれは全く 違うことが分かりました。冷淡どころか、主は本当に聖母を愛しておられ、 また聖母も主を、神として、また子として心から愛し、敬っておられた様子 が描かれていました。お二人は本当にうるわしい母と子の関係だったのです。 私は、ああ、これが本当だったのだろうと思いました。愛の手本を見せて くださった主が母に冷淡な筈がないと思ったからです。
452 :
小さなヨハネ :02/03/04 23:01
そして主は聖母をもっとも信頼し、相談相手ともしておられました。弟子た ちも聖母を敬愛しており、主は弟子たちや心に傷を負った者たちを聖母のも とへ連れて来られては、聖母の愛に委ねるのでした。まさに聖母は「教会」 の中心でした。 私はこの本を読んで聖母を初めて知りました。そしてこの本をきっかけに、 聖母に興味を抱き、ルルド、ファティマ、ガラバンダル、メジュゴリエ、 『愛の炎』など、一連の聖母出現の本や、ベルナルド/『聖母の歌手』、 ゴッビ神父/『聖母から司祭へ』、グリニョン・ド・モンフォール/『聖母 マリアへのまことの信心』、トマス・ア・ケンピス/『マリアにならう』 等々の本を通じて聖母を知るにつれ、さらに深く愛するようになりました。 それから聖母は私のまことの霊的な母となりました。そしてようやく私は 霊的に満たされ、幸福感に溢れるようになったのです。それは、使徒ヨハネ が主に従ってゴルゴタの丘に登り、最後に主から聖母を与えられたこと (ヨハネ19・26)が意味していることのように感じました。 (続く)
453 :
小さなヨハネ :02/03/04 23:18
>>449 名前: ◆rs2OUULQ さん
>ヨハネさん、ヘブル人への手紙を、どう読みます?
実は、以前、パウロの手紙が苦手で、手紙類はあまり読んでいませんでした。
しかし最近ようやく抵抗がなくなり、むしろおもしろいと思うようになりま
した。
ですから、あまりよく知らないのですが、ヘブライ人への手紙というのは
少し他の手紙類と雰囲気が違い、どこかヨハネの福音書にも似ているし、
かなり格調の高い内的な内容を取り扱っているな、という印象はあります。
◆rs2OUULQ さんのご感想もお聞かせいただければ幸いです。
場違いではありません。書き込みは、間のつなぎとでも思って下さい。
>>453 そうです。そうです!
ヨハネ文書との関連もいわれますが、マタイの福音書、ヤコブの手紙、ヘブル人
への手紙は、実は、私のお気に入りなんですが、この三文書は、実に実に、重厚
で格調高い荘厳な感じのするものです。
私に対する聖書学習で、何度も、参照するように、との指導がありました。
そして、そこに、神による”新しい契約”について、はっきりと書かれて いるのですが。
私の神に対する態度が、かなり反映されているとおもいます。
この三文書に共通することは、ヘブライ人が常に意識されていることです。
”この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は 御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉を もって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、い と高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。” こんな、すばらしい聖句はあるでしょうか。 イエスは父なる神です!!! 私たちは、その新しい世界にいるのです!!! (因みに、この部分については、上記の改訳聖書の訳は、新共同訳の文より良 いとおもいませんか?)
うーん。少し興奮してしまったな。
>459 ヘブル人への手紙1:3-4の引用からは |イエスは父なる神です という結論は出る余地がないとおもうけどね。 明確に区別しているじゃない! 神と、その栄光の放射、 神と、その実体の刻印 という差は、パウロがしている、神と神の似姿(エイコーン)という 区別と通じるところがある。 ヘブル人を使うんだったら、むしろ1:9-12のほうが、まだ根拠になり 得るだろう。
462 :
小さなヨハネ :02/03/05 00:25
◆rs2OUULQ さん、ブルネルスさん 有り難うございます。 うーん、一度読み直してみます。
>>461 そこの引用とは関係なく書いたんですけど・・・
”イエスは父なる神です”は以前のレスで申したのが根拠になってます。
465 :
dendo. :02/03/05 00:41
>
>>422 :dendoさん
> 恐縮です。よろしくお願いします。
お断わりします。
>>429 英米文学系のお年を召した方にはヤーウェ資料を J資料という人がいる。
なので昔はイェホバ資料といういい方がほんとにあったのかも。
>昔はイェホバ資料といういい方がほんとにあったのかも ヤハウィスト資料とエロヒスト資料を編纂した編集者団のことを 通常エホウィスト(JE)と呼んでいるが、このことを言っているのかもね。 もちろんヤハウィストとはまったく別概念だけど。
>>461 >463>464と書いたけど、私的には結論はでるな。
あら。予告も無しにかなり長い間、法事や何やらで留守の間に すごい展開になっているけど、別人マリアさんは、腕を上げてるわね。 前置きはこのくらいにしておいて・・・と。 三位一体論を妄想というのは、やっぱり止めて欲しいわね。 これは、聖書で語られている世界のものだから。 聖書はそういう前提によって語られているから、 そこのところは配慮して欲しいわね。 昨日、間良く宗教マニアの知り合いから電話がかかって来て、 スウェーデンボルグの概要を聞いてみたけど、 スウェーデンボルグの見たものって、神智と人智の間のような感じね。 エホバという概念は、ヤハウェとアドナイの中間的 存在として位置しているのだけど、そんな感じね。 (これは人智で作り出されたものであるとして、 うちの一族では、確かに否定するけどね。魔術と呼ぶのよ・・・。 ゴーレムというものを、昔のユダヤ人の一部は作ったりしたのよ・・・) そして、父なる神というのは、確かに人に対しての父なら、 あたし達のいうアドナイに相当するわね・・・。 そうなると、父なる神はイエズスだという主張にも、一理はある。ええ・・・。 ただし、イエズスが父と呼んだ神となると、イエズス自身ではなく、 アドナイの親であるヤハウェであるとあたし達は解くからね。 その点は、三位一体論とスウェーデンボルグの三位一柱論の違いね。 あたし達にあって、スウェーデンボルグ論に無いものね。
それから、ボーダーさんの話し、スウェーデンボルグの 真理によって善が分かるという概念は、あたし達とは逆ね。 うちの一族の考え方では、善によって真理が分かると解くの。 また、悪によって善が分かることもあるという概念もあって、 真理は悪を従属させるとも考えているのよ。 それは、ルシフェルが天主に反逆した事に関わりがのだけど、 これも天主のご計画の一つだったと言われていて、 サタンは「試す者」とも言われるのだけど、 これらは、人を試す時には、天主の許可を得て試すとも・・・。 そうなったら、キリスト教にとってもダメージ大きいかしらね・・・。 母の先祖たちが、パウロ説に反対して、 シモン・ペトロに上訴したことがあるのだけど、 パウロ説では、悪ととことん対決するような姿勢があったらしい。 一方ペトロは、それに対して 「主はわしらが「先生の名前を使って悪霊払いを しておる連中がおるんじゃ。 ちょっくら行ってやめさせてくる」と言ったら、 「やらせておけよ。わしの名を使う奴らは敵じゃねえよ」 と言われたんじゃ。あいつは悪い奴じゃあないよ。仲間だよ」 と言って戒めたそうよ。で、結局後にパウロ説の天下となったと・・・。
それから、母の先祖がイエズス主義に傾いたかといえば、 自分達の保持していた秘儀と、イエズスの福音が合致していたから。 人が定める善悪を超える考え方だったから。 パウロの改良した福音は、今のキリスト教の根幹で、 善に沿うものだけど、 イエズスの福音というのは、悪をも受け止めて、 真理を知れるものであったようよ。
471 :
dnedo. :02/03/05 14:13
>これらは、人を試す時には、天主の許可を得て試すとも・・・。 >そうなったら、キリスト教にとってもダメージ大きいかしらね・・・。 もしそうなら正典にヨブ記を入れている意味がないと思はれ。 究極のところでは、彼らもまた被造物。神の定めた秩序からは出ていけない。
あら、typo。
>>471 一見秩序から出ているように見えるけど、出ていないのよ。
悪は繰り返し出てくるけど、その悪によって何を見る事が出来るかが、
大切ならしいわ。
「然りであり、否であり、然りである」とか言っていたわね。
善と悪との間には、対立があって対立は無いとか、
昔は何だか訳の分からない話だったけど。
でも、これは神道では、普通に理解出来る話なのよね・・・。
まちがえた・・・。善は「然りであり、否であり、然りである」 悪は「否であり、然りであり、否である」
マリアさん、別人だったんですか。すみませんでした。見抜けませんでした。 悪いけど、あのマリアとこっちのマリアさんと全然違う。
>>昔は何だか訳の分からない話だったけど。 そうかなあ。神は端的な肯定、実在的にいえば存在、 いっぽう悪は端的な欠如を倫理的尺度から見たもの、存在論的には むしろ非存在として定義される。個別的存在者が存在の秩序から離間して いくことが悪であり罪である。 しかしそもそも存在がなければそれについての否定性も不可能。 否定性をいうこと自体、肯定を前提としている。明解だと思うけど?
477 :
小さなヨハネ :02/03/06 00:34
>>459 : ◆rs2OUULQ さん
「右手に座る」という表現ですが、スウェーデンボルグによれば、「手」とは
人間の力を意味し、「右手」でその力が発揮されるため、それは彼自身のこと
を意味しており、特にこの言葉が神の右手について言われると、それは神御
自身の全能を意味します。「父の右手に座る」は父における凡てであり、かく
て父御自身という意味なのだそうです。
それはまた「主は父の中に、父は主の中にある」(ヨハネ14・11)ことと
同じであり、「主のものは凡て父のものであり、父のものは凡て主のものであ
る」(ヨハネ17・10)ことと同じです。(天界の秘義9133他)
従って、「右手に座る」ことは文字通り右手に座ることを意味するのでは
なく、主が世で取られた人間性による神の全能を意味しており、主はこの
人間性によって地獄に入り、これを征服し、またこれによって天界に秩序
ある排列をもたらしました。従って主はこれによって人間と天使とを永久
に贖われたという意味です(真のキリスト教136)。
478 :
小さなヨハネ :02/03/06 00:37
しかし、このことはギリシャ正教でも言われるようです。『ギリシャ正教』 /高橋保行司祭著/講談社学術文庫を読んだ限りですが、例えばキリスト のことを「唯一の神が、天より降り人となった」(/P215)、「知ること のできぬ神が人となり、イエスと呼ばれてこの世に住み」、「アブラハム、 イサク、ヤコブの神、あってある者、生ける者の神が、人との交わりの ために、あえて人となり、みずからを人に知ることのできる神とした」 (同P242)と言います。 さらに、 「神父(かみちち)の右手に座したというこの条項は、キリストが神の 『利き手』であることを意味している/右手は器用さを表すから、神の 右手に座すという表現はキリストが神の力をもつ者であることを明らか にする」(同P34)とも言っています。 私の理解が正しいかは疑問ですが、スウェーデンボルグの言っている こととほぼ同じように思え、驚きました。
>>475 小さなヨハネさんの知り合いなのね。
彼をよろしく頼むわね。
あたしの結論では、うちの説と相対化させるとこのようになったのよ。
1,アドナイは人の父であることは明らかである。
よって、真理から善を知るというのは、言よりアドナイを知るという
発想と同等であることは理解出来る。けど、どうかしら?
よって、主イエズスは人に言を与えた。これには同意できる。
2,エホバは我々にとっては、悪の権化であり許される概念ではない。
しかし、スウェーデンボルグの概念は、点検すれば神智に向かう途中の
人智から来ているように思う。
だが、ヤハウェ化させたアドナイということは伝承上受け入れられない。
そして、三位一体論やユダヤの伝承を裁いたことには問題あり。
他の伝承の流れということを、感じ取って欲しかったと残念に思う。
3,ヤハウェの取り扱いについては、今後の課題を要する。
神道であれ、ユダヤであれ、どのような宗教にも、
その上の存在が見受けられる。
我々の伝承で解くなら、スウェーデンボルグは預言者であり、
他の預言者同様に、アドナイより言を頂く訳であり、
ヤハウェというその言の本質については、
言はヤハウェからというので、時々混乱をきたすことがある。
それは人に現れて話すのは、イエズスだからである。
481 :
小さなヨハネ :02/03/06 00:51
ヘブライ人への手紙を今日ざっと読みましたが、不確かな感想ですが、 まず、この著者は生前の主御自身から教えを受けているように思える ということ、非常によくアルカナ(スウェーデンボルグの言う「秘義」) を分かっていること、相当な知性を感じさせることなどです。 マリア・ワルトルタは12人の弟子を見た範囲で描いていますが、知性、 剛毅という点で、その中の一人、熱心者(党)のシモンを思いおこさせ ました。
>>476 悪は善を理解するために必要悪なものであって、
否定形ではなく、肯定形という感じね。
ヤハウェが今後の目的のために、
ルシフェルに悪意を注いで悪をも生み出したということで、
非常に異端的な考え方にもなる。
善と悪とを超えると、そこには真理があり、
善も悪も神の計画の一つといったような感じでもあり、
またそうでもなく・・・といったような、訳の分からないもの。
>>478 そうね。しかし、それは言であるアドナイが
下ったことを意味すると捉えるのよ。
正教では、イエズスからは聖霊は発出しないと解くからね。
西方では、父と子は同じ神だから聖霊が発出すると解くけど。
>>481 この書のなかに、御子イエスと主イエスの区別、新約の意義、そして、イ
エスのみを仲立ちとして神に接するという事の意味を、読み取ってほしい
のですが。
>>485 それは無理じゃない?
元々スウェーデンボルグからキリスト教に入ったわけで、
正統理解を理解させようとすれば、この人たちは反発するだけよ。
あなた達やあたし達一族に、歩み寄れといっているわけなのだから。
何だか、ここではイエズスも人間によってアドナイから ヤハウェを勝手に昇格させられそうだけど、 当のご本人は沈黙を保ってらっしゃるわね。
>>486 そうかも知れません。しかし、それでは、キリスト教はどうなるでしょう。
聖書の権威は。スウェーデンボルグについては、私は、外観しか知らない
んで、マリアさんのいわれる”魔術的”の意味も、最近、感じてきてもい
るんですが。そして、ヨハネさんは、(少なくとも形のうえでも)、受洗
され聖霊の降りている身なんです。
>>488 あたしの先祖は、パウロとは非常に嫌っていた。
でも、ペトロはそれを受け入れるように
主から言われたことを伝えたのよ。
少なくとも、敵ではないと見ることでしょう。
今でもおかげで、一族の者達はパウロの洗礼名を用いないけれど。
あたしが堅信名にパウロをつけようとした時も、反対されたわ。
カトリックとプロテスタントは、
ある時より別れて別々の伝承を持つに至ったけど、
それらは全てイエズス・キリストによって結ばれている。
小さなヨハネさんは、カトリックの信仰を受け入れたわけではないわ。
彼が受け入れているものは、あくまでスウェーデンボルグ論。
ユダヤに起源があり、イエズスから始まって、
ペトロの権威とパウロの教義から生まれた伝承の流れは
明確に否定されているわけで、
カトリック的には、霊的には有効な洗礼ではない可能性があるわね。
「退ける」と誓ったものを、受け入れているわけだから。
これを解決するのは、福音による歩み方や考え方によって 消化する事ではあるのだけど、うちの一族の福音の捉えと 主流キリスト教が奉じるパウロによる福音解釈とも微妙に違うのよ。 スウェーデンボルグのものも、 また違うようなことをマニアの人が言っていたわよ。
カトリックもプロテスタントも、その枝葉にこだわっているだけだと 思いたいです。そして、新約聖書も外から、俯瞰的(神学的)にみれ ば、三つに分かれている様に読めますが、にもかかわらず、キリスト 教徒としては、そこに、飛び込んで、一つの書として、読むべきもの であると思うのです。
>>490 それは、人間の自由意志によって決めることで、
あたし達がとやかく言って決めさせるものではないからね。
彼の決定をあたし達は重視しないと、正統的福音に沿わない。
イエズスは、御自分の名によって歩む者を見捨てはしない。
聖霊によって、福音に歩むように導かれるはずよ。
心配は要らないと思うわ。
彼らが、あなた方やあたしの一族や
エホバによっヤハウェを裁かないようになれば、それでいいと思う。
って、ことで、俺もヤハウェの為に祈ろう。 彼は目下苦労しとるからな。 みなさんも一緒にどうぞ。
スウェーデンボルグの良識に期待します。
>>492 ええ。カトリックは教義を定めすぎたし、
プロテスタントは独自の解釈を作りすぎた。
新約は三つに分かれていることも事実であるけど、
一つの書として読むのもまだ事実であるわけ。
両方とも、本当のことよ。
その両方によって解けばよいと考えるわね。うちではね。
>>494 本当にね。ヤハウェはイスラエルから遠い国に隠れて、
自分の民が伝承によって解く時を待っているでしょうね。
それが出来なければ、エホバがヤハウェとなってしまうしね。
>>496 そう。それで良し。
後は、スウェーデンボルグ主義者が、どう解いて見せてくれるか。
何年かかってもいいわ。
このスレッドでは、私は、(とにかく、とりあえず)キリスト教徒 としてのスタンスで語ります。(落ちます。おやすみなさい。)
すべては言葉です。 過去の教義は、終わっています。 ですが、ここでは言葉でしか伝えることはできません。 だったら、最もシンプルな言葉で表現しましょう。 「神は全てであり、全ては神です」 つまり、あなたは主イエスであり、 主イエスは父なる神であり、あなたこそ、父なる神なのです。 「全ては一つです」 これは、理屈ではありません。 眠りに入る直前と、目覚めた直後に、 「それ」を体験されることを。
>>499 それでいいわ。
互いを知って、互いにイエズスによって結ばれていることを
理解できて互いに裁き合わねば、
イエズスはそれを良しとされるでしょう。
>>500 新しいものは、古いものを完成させるもの。
終わりではなく、再び始まりを告げるもの。
新しいものは、人が忘れた伝承である古いもの。
というのが、あたしの母の一族のもの。
聖書の描かれ方からも、そうなるわね・・・。
アドナイはヤハウェではなく、ヤハウェと共に在るもの。
人は霊によって導かれ、アドナイによって目覚め、
それによってヤハウェを知って全てを理解する。と考えるわね。
これは理屈でなく、神によって目覚めた人はみんなそうだから。
>>501 一応の手は打ってある。後は人々の問題だな。
それではおやすみ<みなさま
503 :
dendo. :02/03/06 12:59
>ヤハウェが今後の目的のために、 > ルシフェルに悪意を注いで悪をも生み出したということで、 > 非常に異端的な考え方にもなる。 予定説だとそう解釈されうるのかな。 自由意志を認めるなら、秩序にとどまるかとどまらないかは究極には 個々の存在者の自由。 端的に積極的な肯定として神自体をおくなら、 そこには否定性を生みだす契機がない。否定性は「神の外部」を仮定するか もしくは「神ならぬもの」を神のうちに仮定するかしないと導出できないだろう。 ルシフェルが端的な否定たりうるのは「自ら離間していく」からであって、 それが神の意志によるものなら端的とはいえねーよな、と思へり。 もっとも「神のうちなる自然」とかいいだすと正統派からは異端扱いされるかな。 某哲学者は「キリスト教の癩病」とまで云われてたしね:)
504 :
dendo. :02/03/06 13:01
>新約は三つに分かれていることも事実であるけど、 正教だと四つに分けますな。 福音・歴史・書簡(使徒経)・啓示。
そういう分け方もあるんですけど、異邦人伝道者系、ヘブライ人キリスト 教会系、対抗グノーシス系、の三つです。(ただ、いわゆる、学説にも色 々あるので、大体ということですが。)
とりあえず、ヨハネさんに於いては、是非、聖母に関する話を続けて いただきたいと思います。お願いします。
>>503 予定説は、あたし達の中では否定されるわね。
悪を越えてこそ一歩づつ神を知れるのであって、
悪に対して敏感すぎてはいけない。
超えるものであって、滅ぼせば終わりではない。
滅ぼせばその呪いが我らに降りかかる。が基本と解く。
天使は善悪を見分けられるけど、それは神からのものであって、
自由意志ではない。と考えてもいるようね。
ルシフェルには、自由意志はなく首位の天使ゆえに
与えられた権能が「神からの離反」であるとも。
自分では、自分の自由意志だと思っているかも知れないけどね。
というような考え方がある。
天使は神と共に在り、神にのみ従うとの考えがその中にあるわけ。
しかし、民を取り巻く環境上、悪との対決を重視しなければ生き残れないから、
ルシフェルらは自由意志で天から離れていった、と修正されたとも・・・。
>>503 追加、神道説では、かなり正統だけどね。
自然にあるものは、全て悪いものではないからね・・・。
509 :
一年ぶりにきてみた :02/03/06 15:44
予定説とか嫌いな人が多いね。 水子はどうなの? 生まれる前に母親におろされた赤ん坊って天国に逝けるなら、私からみたらずるい。 生まれつき体が不自由だとか恵まれない環境にいた人が悪の道に走ったとして 改心しないで復讐して生きたとすると、それで永遠の地獄に落とされるのって結局、なんのために存在したのかわからない。 だったら、水子のほうがよっぽど幸せじゃない、試されず楽園に逝けて。 それと、恵まれた一生でしかも心のきれいな人、しかも天国に逝けるとしたら、そういう魂に創ったのは誰なんだ、って気がする。 キリスト教の教義では納得いかないことが多い・・・。
キリスト教は、信仰に「契約」という形をとる。
その契約から外れるなら、契約不履行となるわよ。
契約に外れなければ、天国へいけるということだからね。
>>509 さん、キリスト教なんかやめておきなさい。
あなたには合わないから。
511 :
名無しさん@1周年 :02/03/06 17:19
>生まれる前に母親におろされた赤ん坊って天国に逝けるなら、私からみたらずるい。 >だったら、水子のほうがよっぽど幸せじゃない、試されず楽園に逝けて。 天国どころかリンボ(地獄のすぐそば)行きじゃなかった? カトリックでは。 洗礼受けていないから。 プロテスタントではどう考えているのだろう?
512 :
名無しさん@1周年 :02/03/06 17:25
>リンボ(地獄のすぐそば) つーても、リンボはアブラハムもプラトンもいた場所だというから 地獄とは天と地ほどの差があるんではないの?
513 :
名無しさん@1周年 :02/03/06 17:27
洗礼受けてなくて、地獄逝き、だったら、イランとかイスラム教国に生まれただけで地獄逝きになってしまう。
514 :
名無しさん@1周年 :02/03/06 17:42
イスラムの掟を一生にわたって守り通した人は、当然ですが天国へ行くでしょう。
515 :
名無しさん@1周年 :02/03/06 17:47
>>513 福音を伝えられながら拒否すれば地獄行きです
イランなんか教会があるのにあえてムスリムやってれば地獄行きです
516 :
名無しさん@1周年 :02/03/06 18:08
↑何で決めつけんだよ!? お前が神か!? 漏れはキリスト教だが、そこまで言えないぞ
517 :
名無しさん@1周年 :02/03/06 18:12
>>515 世界中すべての国は西洋諸国と同じではない。
基本的には、イスラム教国で改宗したら死刑だよ、イランなんか特に厳しい国だ。
男同士でキスしただけで鞭打ちとか、ホモ行為で石打ちの刑にするような国ですよ?
どれだけの社会的迫害を受けるか考えてください。
インドだって、自分勝手にひとりで宗教を選べるものではない、宗教は一家全員、先祖まで続く。
ヒンドゥーのブラーミンでキリスト教徒になんてなる奴はいません。クリスチャンになるのはアウトカーストだけです。
そんなことをしたら社会からドロップアウトするんだから。
日本のように世界中すべての国の個人に「宗教の自由」があると思ってもらっては困る。
518 :
名無しさん@1周年 :02/03/06 18:17
イランのような厳しいイスラム国で当地の人をキリストに導くためには 具体的にはどのようにすればよいのでしょうか。
イスラムでは、既に福音はイスラムであるから、 キリスト教へ改宗する必要はないと考えているからね。 イスラムではイエズスは預言者の一人として崇敬されているもの。
>>480 ありがとうございます。これを読む限りにおいては、あの、替え玉(自称)マリア
さんの言われることも、全部が全部うそというわけではないのですね。
もっとも、私はマリアさんがどこらあたりまでご自分で書いて下さったか分から
ないので、もしよろしければ、どのあたりまでご本人だったか教えてください。
(暇があったら)
私が頭にきたのは、もちろん日本神道の問題ではなく、替え玉さんが自己矛盾に
満ちて自説を展開しておられたのが気になっただけです。
マリアさんのところでは、神道でも洗礼があるのですか?
マリアさんのところの神道では、主イエスとはどのような位置付けなのですか?
それから
>神智に向かう途中の人智
というのは、もうすこし言葉を変えていただくとどうなりますか?
>>480 を読ませていただいただけでも、スウェーデンボルグとは
東が西に遥か遠いように、いかようにも説明のし難いものを感じます。
とは言いますが、私、まだスウェーデンボルグ歴は浅いんです。
ただ、受け入れる気にはなりました。受け入れた結果いろいろと変化もありました。
しかし、著作が多すぎるので、全然はかどらず、こんな場で論じるにはあまりにも
アバウトで、あまり語る気になりません。
>>480 >よって、真理から善を知るというのは、言よりアドナイを知るという
>発想と同等であることは理解出来る。けど、どうかしら?
同等と言われるのは、「同じ」ですか「似ている」のですか?
>よって、主イエズスは人に言を与えた。
ずっと、これが問われていたんですが、「言」とは何なのですか? 聖書ですか?
このあたり、替え玉さんではどうしても答えていただけなかったのだと思います。
実際、私は教理的な釈義を聞きたいのではなく、マリアさんのお答えを聞きたいです。
(でも、むずかしい釈義も知っておられたら一緒に教えてください)
522 :
小さなヨハネ :02/03/06 23:11
(聖母との出会い、452の続きです。) このマリア・ワルトルタの本(原題:神と人なるキリストの詩/フェデリコ・ バルバロ神父訳/全10巻/あかし書房)はまさに「新しい啓示」であり、 「新しい福音書」だと思います。どこを読んでもその素晴らしさに感動してし まいます。 私は10巻を2回と少し読みましたが、何十回泣いたか分かりません。家で はもちろん、電車の中でもどこでも、読んでいるとつい涙がぼとぼととしたた り落ちるのです。スウェーデンボルグでは驚きはありましたが、感動して泣く ことはありませんでした。 しかしこの本は本当に感動のあまり泣いてしまうのです。主を愛してやまない 人、主を信じない人、プロテスタント、ギリシャ正教、カトリック、スウェー デンボルグ読者、他の宗教の人、とにかくすべての人にお奨めします。そこに は本当に生きているありのままの主イエスをこの目で「見る」ことができるの です。そして聖母や弟子達も・・。
523 :
小さなヨハネ :02/03/06 23:13
すでにお読みなった方もたくさんいらっしゃるでしょうが、この本をご紹介す ることが出来ただけでも、このスレッドを立てさせていただいた意義があった と思います。私はこの本によって、主をさらによく知ることが出来、また聖母 を初めて知ることが出来、非常に満たされたのです。 私は主が御自分が降誕されたときに見舞ってくれた忠実な羊飼いたちを、30 年後、公生活入られる前、真っ先に彼らを一人一人探して訪ねられるシーンに 最も感激しました。彼らは主を証ししたために迫害を受け、家族を殺されたり、 奴隷となったり、病気になったりしながら、それでも幼子の主の面影を頼りに 主をも人をも怨むことなく生きているのです。そしてその主が自分たちのこ とを忘れずに訪ねて下さって、今、その労苦をねぎらおうと目の前に立ってお られる…!!
524 :
小さなヨハネ :02/03/06 23:15
主とユダとのやり取り…。主はユダを回心させようとしてどれほど胸を痛め、 心を尽くされたことか。主はユダを思って何度も泣かれます。神はどこまでも 愛なのです。そして父なる神はこれほどまでに苦しまれた…。ああ、父は理解 できない存在と思っておられる方々の何と不幸なことか…。 癩病を癒していただく奇跡、マグダラのマリアとのやり取り、ラザロの復活。 最後のエルサレム入城の際の、頬が上気して燃え上がるような大歓声…。 十字架上の主のお苦しみ。ロンジーノと聖母とのやり取り。 そして復活までの聖母のお苦しみ。復活の喜び。今やまさに神としての神々 しい御姿…。 どんな映画も小説も、これほどの感動と興奮を伝えることは不可能です。 私は実体験による人の「証し」を読むのは好きです。なぜならそこに神の 奇跡を見るからです。しかし、私が遠藤周作さんのものであれ、何であれ、 「小説」をもう読む気になれないのは、こういう理由によります。つまり、 本当の本物を知ってしまうと、それらはもう色褪せてしまうからです。
525 :
小さなヨハネ :02/03/06 23:16
ただ誤解しないで頂きたいのは、それらの小説の存在意義を否定している のではないということです。それらは途中の段階として有意義です。なぜ なら途中の段階のものを経てしか最後のものに到達できないからです。宇宙 に到達する「3段ロケット」のように、途中のロケットは無ければなりませ んが、役割を果たしたら切り離されるのです。主は我々の霊的な発達の段階 に応じて、我々の興味にあわせて導いて下さるのです。 「あなた方の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」 (マタイ6・8、同6・32)) わたしがマリアさんのおっしゃる「伝承」というものに魅力や興味を感じないの もまた同じ理由によります。神からの啓示そのものによる「聖書」や、スウェー デンボルグやトマス・ア・ケンピス、マリア・ワルトルタなどの「新しい啓示群」 を知ってしまうと、もうあやふやな人の「伝承」や、訳の分からない「理論」に 惹かれたり、興味を抱いたりすることはなくなるのです。ですから何かを霊眼で 見ることが出来る人が仮におられたとしても、別にそれをうらやましいことだと も思わなくなりました。
526 :
小さなヨハネ :02/03/06 23:18
何であれ、それらが真の神に導いて、その人を「再生」させ、「平安」に導いて くれるものであるならば、それは良いものです。しかし、真の神に導いてくれ ないものなら、意味はありません。それらは人によって異なるでしょう。主は 色々な方法で私たちを導かれるからです。 マリアさん(別人?)がそれらの不明確な「伝承」を主張なさるなら、それに よってどのようにマリアさんが「悔改」め、「再生」し、「平安」に導かれたかと いう「証し」をして下さい。 学徒を標榜する皆さんが「知への誠意」と言うのなら、自分達の「理論」という 「製品」に責任を持たねばなりません。自分達がそれを「食べて」どう幸福にな ったのか、「証し」をされることが必要だと思います。
>>520 確か、2月14日辺りと思うけどね。
いろいろ呼ばれて集落を回るから、記憶は怪しいけどね。
ユダヤ教は、自己矛盾に満ちた宗教よ。
民族が主であるわけだから、それは仕方がないものよ。
それを責めてはならない。天主はその矛盾の中にもいるからね。
キリスト教も、寛容を説きながら一方で人を裁くために
神を用いる場合が多々ある。宗教は人の組織だから、仕方ない。
それを天主は良く知っておられるもの。
だから、怒りはせずに時間と共にそれを導いていく。
神道には、洗礼という儀式はないわね。
人は生まれながらに、神の御分霊を宿している存在だから。
ただ、お宮参りというものがあるわね。
そこの土地の神様にご挨拶に行くのよ。
>神智に向かう途中の人智
そうね。他の言葉に代えるとすれば、
人の中に宿る良心の源である「神の御分霊」から
導いたものから抜け出す途中のもの。となるわね。
スウェーデンボルグは、自分の御霊によって解いたのであって、 他の人たちとは違っていても、何ら仕方がないわ。 ユダヤと神道は文化の境遇の違いで、同じものを見ていても、 全く違う解き方をしたわけなのだから。 スウェーデンボルグの解き方が、あなたに合っていたのであって、 あたしは古い伝承の中にいたのだから、合うわけがない。 しかし、それを否定することは伝承に反する行為になるからしない。 あなた方が、あたし達の存在を忌むべき存在と否定するのなら、 あたし達は伝承から、その心を天主のものでは無いと疑問を投げる。 それをすることは、一族の伝承では許されているからね。
>>521 教義的な解釈でなく、あたしの話を聞きたいというのなら、
それは主を犯すことになるから、そのようなことは出来ないわ。
ただ、言とは、確かに狭義には聖書の言葉を指すわね。
>>525 興味がないのなら、それはそれでいいのだけど、
あなたは新しい啓示をあたし達やキリスト教徒を倒すために使うから、
あたしはその使い方には反対する。それは天主への冒涜だからね。
新しい啓示に人は群がる。
しかし、それには審神とその趣旨を正確に知らなければ、
役には立たないものよ。
>>526 代わりにあたしが答えましょう。
あたしは、伝承により生きる民。すなわち、伝承が全てだからね。
生まれてから今までの生活そのものが
「神と共に生きる」ことだからね。
ただ、導かれるままに生きてきたからね。
道を外そうとしても、神様が引き戻してくれるから。
それに何度も逆らったけど、逃げられなかったわ。
>何であれ、それらが真の神に導いて、その人を「再生」させ、「平安」に導いて >くれるものであるならば、それは良いものです。しかし、真の神に導いてくれ >ないものなら、意味はありません。それらは人によって異なるでしょう。主は >色々な方法で私たちを導かれるからです。 矛盾しているわよ。 そう思うなら、何故あたし達やキリスト教徒を裁くの?
あたしが本当に言いたいことは、 イエズスの言葉をどう理解しているか?ということ。 イエズスの言葉によって他を裁く行為は、 イエズスは求めておられない。 イエズスの言葉は一致させること。 イエズスのいう分裂とは、人による裁きという行為から 人を分裂させること。人を裁く人と裁かれる人を分裂させること。 神のものでは無い裁きには、常にサタンが介在しているからね。 イエズスの言っていることについて、 誰も反論することができなかった。 それゆえに、当時の人は人によって裁く道を選んだ。 自分達の伝承を守るために、イエズスを裁いた。 こういう行為は、あってはならないこと。 裁く者は天主のみ。それを忘れてしまったからね。 でも、天主はこのような者も許された。人だからね。
我々が幸福である必要があるでしょうか。しかし、私は幸せであると言いま しょう。私は、こうして生きてます。そして、我々に神は「息」を入れて下 さいました。我々には感情以上のものを備えて下さったのです。 夜空を見上げれば、神の御業を見ます。様々な時間の光が降り注いでいる。 実に、感慨深い事です。今、この時に居ながら、地球が存在する以前の光を、 人類が文明を起こし始めた頃の光を・・・、同時に感覚するのです。 そして、「終わりの時」に見られるであろう光も、この宇宙のどこかで、 ”今”、発せられているはずです。 これらこそ、「聖霊の働き」ではないでしょうか。「神の御業」ではない でしょうか。神は、我々にとっての”同じ時”において、過去にも居り未来 にも居るのです。 神の御業の下にあって、我々の存在とは何と小さなものでしょう、我々の 時間とは何と貧弱な観念なのでしょう。我々に未来の事は解りません。神は、 今もその時にもあの時にも居られるのです。我々の中にある「神の息」のみ で神を知ることは出来ません。我々の「終りの時」は必ず訪れます。「神の 息」によって、それを知っています。 にもかかわらず、我々は行き続けなければなりません。その時まで。生きる 事に目的があるのではなく、生きる事そのものが目的のはずです。公園の花 壇に生える雑草は、引き抜かれる為に生えるのでしょうか。
我々の中にある「神の息」、そして、それを躍動させる「聖霊の働き」を 神は与えて下さいました。その事を「御子イエス」(人の子イエス)によっ て示され、我々は神の恵みを知り、その愛の大きさを知ります。そう、”そ れを”知る事、知り得る事そのものが喜びです。そして、我々は被造物であ りながら、”それに”よる被造物は知り得る事が出来ます。そこには、なん とすばらしい調和があるのでしょう。”その”調和の中に我々はあります。 そして、自らを振り返れば、生きている事を知ります。それは、喜びです。 (繰り返しますが、)「恵み」と「愛」を知るのです。「神の息」の無いも の達が、それを”知る”事があるでしょうか。
私は、主となられた「御子イエス」に対し、その「契約」の下の責任を果た すべく努力を決心しました。 イエスのみを神との「仲保者」とし、その「証言」であり「言葉」である、 聖書の”権威”を尊重します。それは、「エデンの園」であり「荒野」であ る、この世界を「聖句」という”剣”を持って、”その時”まで、「神の計 画」の下、生き抜く事です。 (あなたは、どうでしょうか?) 神の御計画がどの様なものであってもです。それは解りません。神を知る 事は出来ません。 そこに、幸福も不幸もあるでしょうか。あなたの”神の実存””幸福の実 存”は尊重しますが。
因みに、興味のある方々へ、私が支持する「予定説」は、(もはや、予定説 とは云えないんでしょうが)上記の様な、神の時間的普遍存在を前提としてい ます。もはや、カルヴァンの時代ではないのです。
>536 行き続ける→生き続ける ageてみる
納得いかないかもしれませんが、「証し」のかわりとします。
明日が休みでよかった♪
<追記> 私にとっての神は、荒野の中でのトランキライザーの代わりでは、ありません。
小さなヨハネさん 「再生」という言葉は、キリスト教では使いませんので、説明が必要なんです。 「平安」「悔改め」は、スウェーデンボルグと同様に使われていますので大丈夫。 ていうか、「再生」って、聖化のことですが。 マリアさん マリアさんとこの神道は、 諏訪大社の御頭祭などの伝承を、どう評価しているのですか? 日本国内では各神社にある伝承は、一致するのですか? マリアさんたちから見て、いわゆる現代イスラエルが保っている 正統派ユダヤ教について、主にどういったことが問題だと思われますか? 替え玉さん マリアさんの言われているあたりから読みなおしてみましたが、 はじめのあたりについては全然見分けがつきません。お見事ですね。 今度はご自分のお名前でお願いします。
それから、余談ですが、マリアさんでも替え玉さんでもいいんですが 「亀」って、なにか特別な意味があるんですか? 今私のところに出入りしているある月刊紙には、日本の宗教が載っているんですが、 やっぱり、「亀」出てくるんですよね。行事の中で、でっかい「亀」のはりぼてが 担がれて出てくるんです。 で、三柱の鳥居のところにも、亀の置物があったとか、そういうことを言っていた 人がいまして、中国の景教の碑も、亀の上に乗っているんですよね。 で、「亀」ってなんだろうねえ、って。 本題とは関係ないかもしれませんが、私の周りには、そこまで神道に詳しい人 いないので、この際、もしご存知でしたらよろしくお教えください。
546 :
小さなヨハネ :02/03/07 22:34
>>544 :リサさん :02/03/07 16:04
>「再生」という言葉は、キリスト教では使いませんので、説明が必要なんです。
>「平安」「悔改め」は、スウェーデンボルグと同様に使われていますので大丈夫。
>ていうか、「再生」って、聖化のことですが。
ああ、なるほど。では「聖化」とは、どう説明されていますか?
547 :
小さなヨハネ :02/03/07 23:08
>>541 ◆rs2OUULQ さん
>納得いかないかもしれませんが、「証し」のかわりとします。
どうもありがとうございました。
>>538 ◆rs2OUULQ さん
>イエスのみを神との「仲保者」とし、その「証言」であり「言葉」である、
>聖書の”権威”を尊重します。
よく分からなかったのですが、イエスを神ご本人とは思われないのですか?
> 神の御計画がどの様なものであってもです。それは解りません。神を知る
>事は出来ません。
・・・うーん。神を知ることはできませんか?
以下の聖句にあるように、私たちが神を「知る」ことは全くできないとは
言っていないと思いますが。(「見る」とあるのは「理解する」「知る」と
いう意味だそうです。)
マタイ11・27
子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
マタイ5・8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
548 :
小さなヨハネ :02/03/07 23:10
ヨハネ8・19 もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。 ヨハネ14・7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。 今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。 ヨハネ14・9 フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。 わたしを見た者は、父を見たのだ。 ヨハネ14・24 あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わし になった父のものである。 ヨハネ16・25 わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえに よらず、はっきり父について知らせる時が来る。 ヨハネ17・3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わし になったイエス・キリストを知ることです。 ヨハネ17・26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。
549 :
dendo. :02/03/07 23:14
>生まれつき体が不自由だとか恵まれない環境にいた人が悪の道に走ったとして 筋ジストロフィーで予後不良を宣告されてるけど一般入試で大学に現役合格し 見事に四年で卒業しそうな人をひとり知っている。 環境に恵まれていない人の困難さはわからないではないけど、 環境が人のすべてを決めるわけじゃないよ。 自分の行動を決めるのはあくまでも自らの意志。 救われたいと思い、そのように祈れば、きっかけはいたるところにみつかるはず。
御子イエスは「仲保者」であります。 主イエスは父であります。 父の”総て”は知り得ません。
551 :
小さなヨハネ :02/03/07 23:33
>>536 : ◆rs2OUULQ さん
>我々が幸福である必要があるでしょうか。しかし、私は幸せであると言いま
>しょう。私は、こうして生きてます。そして、我々に神は「息」を入れて下
>さいました。我々には感情以上のものを備えて下さったのです。
スウェーデンボルグは神が宇宙を創造されたのは、人類からなる天界が生ま
れるためであり、また、神の愛は人間の永遠の幸福以外には何物も目的とし
ていないと言います。(天界の秘義6697、真の基督教13)
確かに、人間の親も子の幸福を願っています。人間の親もそうだとすれば、
創造主もそうでしょう。そうだとすれば、我々が幸福であることは必要な
ことだと思います。それが創造主の愛に答えることではないでしょうか?
>人間の親もそうだとすれば創造主もそうでしょう 何故?
553 :
小さなヨハネ :02/03/07 23:52
>>550 : ◆rs2OUULQ さん
>御子イエスは「仲保者」であります。
>主イエスは父であります。
でも、イエスはお一人でいいのでしょう?それならイエスは父ご本人では
ないのですか?
>父の”総て”は知り得ません。
それはそうですね。でも、上のたくさんの聖句にもあるように、主は
私たちに、神御自身を知ることを求めておられるように思われます。
それは確かに「総て」を知ることを求めておられるわけではないと思
います。しかし神が一部でも知ることを求めておられるなら、それは
私たちにとって可能であることが前提なのではないでしょうか?
>>553 ですから、新約の意義が重要になるのです。復活が。
556 :
小さなヨハネ :02/03/08 00:15
>>552 名前: ◆rs2OUULQ さん
>人間の親もそうだとすれば創造主もそうでしょう
>何故?
「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1・27)からです。
そして
「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を
与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い
物をくださるにちがいない」(マタイ7・11)からです。
>>556 なるほど!しかし、それは、「恵み」であるとおもいます。
>>557 は訂正、「良いもの」はルカでは、聖霊といってました。
つまり、キリスト教徒におりる聖霊ですね。
559 :
小さなヨハネ :02/03/08 00:33
>>554 ◆rs2OUULQ さん
>>553 ですから、新約の意義が重要になるのです。復活が。
>>555 >>554 の続きですが、
>>194 三位一体論の、私の解釈においての
前提に挙げたんですが・・・(
>>553 の下段について)
194拝見しました。うーん。よく分かりません。
私がお聞きしたかったのは、イエスを父ご本人だったと思われますか?
という単純な質問です。
たとえば、私が ◆rs2OUULQ さんにお会いしたとします。 ◆rs2OUULQ さん
の内面、霊魂、本質(父)のすべては、私には当然分かりません。しかし私の目
の前にいらっしゃる ◆rs2OUULQ さんが ◆rs2OUULQ さんご本人であるとは
思います。
そういう意味です。(すみません、また明日。)
560 :
小さなヨハネ :02/03/08 00:43
>>531 マリアさん
>道を外そうとしても、神様が引き戻してくれるから。
>それに何度も逆らったけど、逃げられなかったわ。
それで、マリアさんは結局救われたのかどうか、また教えてください。
おやすみなさい。
復活後、新約においての世界のイエスは、我々の主です。父なる方です。
主イエスは御子イエスでありました。「人の子」イエス(御子イエス)は
父を示す為に地上に来られました。
>たとえば、私が ◆rs2OUULQ さんにお会いしたとします。 ◆rs2OUULQ さん
の内面、霊魂、本質(父)のすべては、私には当然分かりません。しかし私の目
の前にいらっしゃる ◆rs2OUULQ さんが ◆rs2OUULQ さんご本人であるとは
思います。
そうです。そうです。
>>196 の
>イエスが父なる神である、という事に関して、その認識が、我々が「父」を
直接的には不可能だからである。我々の限られた精神は、主観によって、客
体たるイエスに、その、示される父の本質を確定し、復活されたイエスを、
父とする権利(赦しか?)を得たのである、 と思う。
とは、そう云う事です。
そして、”客体たるイエス”は、御子・人の子イエスです。 ”復活されたイエス”は、主イエスです。
今日、考えたんですが、認めたくはないんですが、教派による思考の傾向があ るんでしょうか。 しかし、もちろん、”真”であるとは、思っています。 即ち、我々にとっての幸福とは、「聖霊の降りている事」「生がある事」のみ なんです。それ以上は神に委ねるという態度であるべき、としています。
564 :
小さなヨハネ :02/03/08 23:11
>>563 : ◆rs2OUULQ さん
>即ち、我々にとっての幸福とは、「聖霊の降りている事」「生がある事」のみ
>なんです。それ以上は神に委ねるという態度であるべき、としています。
その二つの意味はどういうことですか?
そのままなんですけど・・・・
ちょっと、使いずらいんでageます。
わーageてない!!!やりなおし!
568 :
小さなヨハネ :02/03/09 07:40
>>565 : ◆rs2OUULQ
>そのままなんですけど・・・・
出来れば、もっと詳しく、具体的に説明してください。
そうでないと、何をお話したらいいのか分からないのです。
569 :
小さなヨハネ :02/03/09 07:43
>568
失礼しました。さんが抜けました。
>>565 ◆rs2OUULQ さんへ。
>>544 神道といっても、中身は統一されているものではないのよ。
明治にキリスト教思想を取り入れて、ある程度統合された部分はあるけど、
氏族によって伝承が異なっているところは多々あるわよ。
同じ祖を持つ氏族の間でも、伝承が異なっている場合もあるわ。
ある氏族や祖神にとっては、ある氏族のそれは、
怒りや悲しみを思い出させたりする場合もあるわよ。
ユダヤ教は、いつしか自分達の神理解のみが正しく、
他の理解は正しくないと解いてしまったわね。
自分達にとって正しくても、他の民には関係がないことを忘れた。
自分達のアドナイのみが本当の神で、他の民の神は偽者と解いた。
伝承ではそうではないのに。
「他の民の神は、自分達のアドナイである神ではないが、
他の民の神であり、他の民の神として尊ばなければならない、
しかし、その神は他の民の神なので自分達のアドナイではない」
と、そう解かねばならないのよ。その点が、薄れてるところね。
それより性質が悪いのが、
福音を知りながら他を「悪霊」などと拒絶する
一部の狂信的キリスト教徒。これは、かなり問題があると思うわね。
それから亀については、あたしの家の方では長寿の象徴なの。
他にも、亀の甲羅の亀甲紋にもヒントはあるわね。
それが、長寿と関係があるとも考えているわ。
>>560 あたしの答えは、あなたにとってみれば不十分かもね?
人は何故救いを得たがるのかしら?
あたしは、昔はすごくこれが謎でね。
その鍵って、いつもそこら辺にたくさん落ちているものだから、
意識してなかったのよ。良いことも、悪いことも「鍵」だからね。
伝承の中で生きていると、それが当然のようになるのよ。
そういったことは極普通のことだから、
生があることを感謝することに置くわね。
他の人より自分の方が救いが多いという、
キリスト者もたくさん見たわ。
キリスト者はキリストによる救いを感じなければ、
意味がないという人も多くいた。果たしてそうかしら?
「生きている」こと以上に何があるかしら?
「救いを感じた」のであれば、
それによって人を裁く資格を人は神から得ることが出来るのかしら?
イエズスも、伝承も、そういうことは明確に否定するわね。
神は差別しません。 自分達の方が偉いに違いない、とか 自分達の方が救われるに違いない、とか そんな事を口々にうれしそうに言う人々を見て神々は、 はぁ・・・・ と、溜息をつき、 まだまだ人間ってアホなんだな〜、って思うものだそうです。 あ、これもデンパ話ですね。 スマソ
>>570 >福音を知りながら他を「悪霊」などと拒絶する
>一部の狂信的キリスト教徒。これは、かなり問題があると思うわね。
と思いますね。私も。
というか、その姿勢が結果的に余計な戦いを招いているんですよ。
>>515 さん、知らんじゃろ。
…というのがスウェーデンボルグによる理解になります。
スウェーデンボルグを読むならば、ぜひそういった、
霊のメカニズムの解明のところを読んでほしいものです。
私としては、スウェーデンボルグのそういった面が信用できたら、
神論はそのとき判断すればいいと思うのですが。
キリスト教会の教理を理解する私としては、ただでさえ
>スウェーデンボルグの理解は、人を唖然とさせ、どうしてそうなってるのか、
>なんでそんなことを神さまはしたのか、ちょっとやそっとでは分からない、
>とも言いたいくらい。
と思っています。先にキリスト教会の教理を理解している人に、
スウェーデンボルグを神論から聞いてもらうのは…無理…なんです…。
>>573 あたしはユダヤと神道の伝承の中にいたから、
他への理解は、一般のキリスト教徒よりはしやすいかも知れない。
神道で異端というのは、審神の結果おかしければ異端とされる程度ね。
外圧等の要因があって、神道がキリスト教化された影響で、
その「審神」が出来る人が不足しているから、変な宗教が流行るのだけどね。
>先にキリスト教会の教理を理解している人に、
>スウェーデンボルグを神論から聞いてもらうのは…無理…なんです…。
これについては、イエズスと父なる神という捉えが
あたし達やキリスト教徒とはかなり異質であるから、
そりゃ、無理ってものよ。
他の話しだって、あたしは今は神道の伝承を
主に受け入れているから良いけど、
正統キリスト教では、あなた達の考え方は神道のような凡神論だから、
絶対に受け入れられる内容ではないわね。
パウロ説が主流になってから、
ユダヤ人のようになってしまったらしいから。
またそれも何故そうなったかは、まぁ、色んな理由があるものよ。
575 :
小さなヨハネ :02/03/09 19:23
>>573 :リサ さん
>先にキリスト教会の教理を理解している人に、
>スウェーデンボルグを神論から聞いてもらうのは…無理…なんです…。
うーん、なるほど。リサさん、そうかもしれませんね。
まあ、ただ私は霊的な救いを求めておられて、これを読んでいただいているだけの
方も対象としているのです。
576 :
小さなヨハネ :02/03/09 19:27
>>574 名前:マリア さん
>正統キリスト教では、あなた達の考え方は神道のような凡神論だから、
>絶対に受け入れられる内容ではないわね。
「汎神論」・・・?
577 :
小さなヨハネ :02/03/09 19:37
>>571 :マリア さん
>>560 あたしの答えは、あなたにとってみれば不十分かもね?
>人は何故救いを得たがるのかしら?
・・・うーん、不十分ですね。人間が「救い」を得たがるのは、「救い」
が現にあるからです。それは素晴らしいものです。主は人間に「救い」
という状態を得させようとされます。
「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは
光として世に来た。」(ヨハネ12222・46)
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るため
である。」(ヨハネ16・33)
「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ち
あふれるようになるためです。」(同17・13)
だから主を私たちの「救い主」と呼ぶのです。
>そういったことは極普通のことだから、
>生があることを感謝することに置くわね。
>「生きている」こと以上に何があるかしら?
では死んだらどうなのですか?
>>577 やはりね。あなたは、生とは何か?
何故この世にいるのか、そういったことは関心がない。
あなたにとって関心があることは、自分が救われるか否か。
また、自分が救われたか否か。だけど、それは悪いことではない。
それを乗り越えた後に、あたしの言っていることを知ることが出来るから。
>では死んだらどうなのですか?
生きているという事がどういうことなのか分からない内は、
死んだらどうなのか?なんて考えても同じ事。
579 :
小さなヨハネ :02/03/09 19:56
>「救いを感じた」のであれば、それによって人を裁く資格を人は神から得る >ことが出来るのかしら?イエズスも、伝承も、そういうことは明確に否定す >るわね。 裁くのは主のみです。 「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せられておられる。」(ヨハネ5・ 22)。 そしてそれも実はその人間が、あるいは彼の行いがその人間自身を裁くの です。 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。」 (ヨハネ3・18) 「彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。」(黙示録20・13)
580 :
小さなヨハネ :02/03/09 19:58
私は「証し」をして主を告げているだけです。 「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするので ある。」(ヨハネ15・27) 「主について証しをする」とは「主について教える」ことです(天界の秘義 9818)。なるほど、一見「審く」ように見えるかもしれません。なぜな ら「審く」には「真理を教える、善いことを教える」という霊的な意味があ るからです(天界の秘義2372)。 そしてこれもまた主のご命令です。 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」 (マルコ16・15)
581 :
小さなヨハネ :02/03/09 20:13
>
>>577 やはりね。あなたは、生とは何か?
>何故この世にいるのか、そういったことは関心がない。
関心があったから、こうなったのですよ。
>あなたにとって関心があることは、自分が救われるか否か。
>また、自分が救われたか否か。だけど、それは悪いことではない。
>それを乗り越えた後に、あたしの言っていることを知ることが出来るから。
マリアさんは何を言っていたのですか?
>>では死んだらどうなのですか?
>生きているという事がどういうことなのか分からない内は、
>死んだらどうなのか?なんて考えても同じ事。
私がお聞きしたかったのは、マリアさんは「生きている」ことが幸福という
ことのようだったので、ではマリアさんは死んだら幸福ではないのですか?
ということです。
それとも>生きているという事がどういうことなのか分からない内は、
というのは、マリアさんが、まだ生きているという事が分からないという意味
ですか?
582 :
名無しさん@1周年 :02/03/09 20:20
エミちゃんねる!?
>>568 確かに、具体的といわれると考えてしまいます。
「聖霊が降りている事」とは、クリスチャン(実は、この表現は好きでは
ないんでキリスト教徒としますが、)となること、です。
「生があること」とは、生きている、生命があることです。
なぜ考えてしまうかというと、キリスト教徒となることの意味が、あまり
に広く、大きいのと、その二つの幸福観との関係が再帰的になるからです。
けど、この幸福観はさして重要ではないと思うんです。というのは、人の
選択的なものであるし、(またまた、私の傾向が現れるのですが・・・w)
幸福に対する想いが正しければ神は答えていただけるし、そうでなければ、
沈黙(あるいは、懲らしめ)をされると思うからです。
>>581 あらあら、やっぱりね。
>裁くのは主のみです。
そういうなら、何故禁じ手を用いてまで証しようとするの?
主に全てを委ねて御覧なさい。
委ねきれていないから、他を邪な目で見る。
>そしてそれも実はその人間が、
>あるいは彼の行いがその人間自身を裁くのです。
いいえ。人が人を裁いてはならない。
人は死ぬ時に自分の全てを知るのだから、主に任せておけば良い。
息を吹きかけられたのは、天主だからね。息は天主の御分霊。
人々は皆、神の子である。
エロヒムが複数形なのも、これとも関連している。
こういう話は、所詮あなたにとっては古臭い話だったわね・・・。
主の元へ帰ったのなら、主にお任せなさい。
スウェーデンボルグは、キリスト教徒より他の人たちの方が
救いが多いと解いた。それは、常に寛容を心がけて
裁いてはならないはずのキリスト教徒が、人を裁くことに熱心だからよ。
他の人たちは、自分達の道に照らし合わせて 福音を受け入れられるのに、それを理解出来ない。 理解すれば、異端となってしまうから常に恐れている。 そしてあなたも、あたし達一族やキリスト教徒を理解することを、 自分でも気付かない内に恐れている。それが人の理解の恐ろしさ。 >マリアさんは何を言っていたのですか? いずれ時が来るから、それまで静かにお待ちなさい。 それが分かった時に、スウェーデンボルグ説も理解出来るでしょう。 また、この説を良く知りたいなら、神道も理解すれば早いかもね。 証しをすることは、人を裁くために証することではないもの。 それは、神に唾する行為。それは、狂信的なカルト信者と同じ。 他にも神からの賜物があることを知らねばならない。 それを忘れた時、人は人を裁いてしまう。 人を裁く者は、神によって裁かれる。 神というは、人の持つ良心にその欠片があるの。 天主に息を吹きかけられたから、人は生きていることは知っているはず。 >私がお聞きしたかったのは、マリアさんは「生きている」ことが >幸福ということのようだったので、 >ではマリアさんは死んだら幸福ではないのですか?ということです。 あなたは、こんなことは聞きたくもなかったはず。 >マリアさんが、まだ生きているという事が >分からないという意味ですか? 何故なら、あなたが本当にあたしに言いたいことは、これだもの。 あたしは怒ってはいない。人はそんな時もあるから。 一生懸命、証しようとするから、力が入りすぎるのよね。
ですから、祈りも、いわゆる「神への要求」は、私は慎みます。
ただ、現状報告するのみです。しかし、神は当然それを知っています。
ですから、それは、結果として、「自らを振り返る」事です。
そして、誤解の無い様に。
>>538 の”剣”は、自らを斬るものです。
自らの罪を自覚し、御子イエスがされたように、自らの十字架を背負う
のです。
私は、多少、冷静さを失いました。その点をお詫びします。「証し」を
しめせと”挑戦を挑まれたと曲解したからです。
<続く>
587 :
名無しさん@1周年 :02/03/09 22:06
男は手を上げて、天地を造られた主に、祈ればいいのです。 それだけで主は願いを聞き届けられると思います。 言葉がなくても、神は必要なものをあらかじめご存知で、 我々のために備えてくださるのです。異論がある方はどうぞ。
神の世界を知るには、 他を越えようとすれば、他によって越えられる。 自を超えようとするなら、自を超えられる。 他を理解出来るなら、他を越えられる。
>自らの罪を自覚し、御子イエスがされたように、自らの十字架を背負う >のです。 言葉にしてしまうには、あまりに重いと思う。こんなことは書き込まない 方がいいとちゃいますか?2CHですしねー。
<続き> しかし、また、我々の信仰に立つ立場が理解されたと思います。 我々、そして、私がキリスト教徒となるのには、かなり厳しい(と感じた んですが、)”決心”が必要とされ、また、実際、そうであるからです。 それを、私は、「何故、理解していただけないのか!」と説明もしてなか ったくせに思ったんです。
>「主について証しをする」とは「主について教える」ことです (天界の秘義 9818)。 >なるほど、一見「審く」ように見えるかもしれません。 >なぜなら「審く」には「真理を教える、善いことを教える」 >という霊的な意味があるからです(天界の秘義2372)。 >そしてこれもまた主のご命令です。 いいえ。あなたの解き方は、他を否定し、他の神性を蔑ろにする イエズスの福音とは全く関係ない自己正当化の手法。 注意深く気をつけて読み進めていきなさい。 神道の「審神」という意味について勉強してご覧。
592 :
小さなヨハネ :02/03/09 22:28
>>583 : ◆rs2OUULQ さん
>>568 >確かに、具体的といわれると考えてしまいます。
>「聖霊が降りている事」とは、クリスチャン(実は、この表現は好きでは
>ないんでキリスト教徒としますが、)となること、です。
>「生があること」とは、生きている、生命があることです。
・・・なるほど。それが幸福ということですね。(
>>563 )
では、死んだらどうなるとお思いですか?
我々に求められるのは、徹底的な服従です。
>>594 の続き とはいっても、「行い」に表れてないんですけど・・・
596 :
名無しさん@1周年 :02/03/09 22:49
単純でいいの〜↑それで満足できてるんなら。
>>593-594 その通りね。キリスト教世界では。
それは非常に良いことでしょう。それは、そういう道なのだから。
あたしは神道でもあるから、全ての人は幽界へ行く。
主が、行くべきところへ行かせてくださる。
あたしは、それがどこであろうと、それが自分の位置だから、
喜んでそれを受け入れるわ。
598 :
小さなヨハネ :02/03/09 23:00
>>586 名前: ◆rs2OUULQ さん
>ですから、祈りも、いわゆる「神への要求」は、私は慎みます。
>ただ、現状報告するのみです。しかし、神は当然それを知っています。
>ですから、それは、結果として、「自らを振り返る」事です。
私の場合は、自らは振り返りますが、神へのお願い、祈りはまだまだ足らない
な、と思っています。 主との連結がまだ薄く、主の言葉が私の内にあまりない
からでしょう。
「あなたがたが、わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内に
いつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
(ヨハネ15・7)
「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
(同16・24)
>私は、多少、冷静さを失いました。その点をお詫びします。「証し」を
>しめせと”挑戦を挑まれたと曲解したからです。
あ、いえ、全然。とんでもありません。
>>597 けど、そうは思わないキリスト教徒もいるんです。教団によっては。
>>593-594 全てを主の御元へ返したのだから、
主に全てを委ねるということ。
そして、主の福音、契約に従って生きるということよね。
死後のことは、主に全てを委ねる。
これがキリスト教徒の道。
あたしは、神道だから祖神の元へ帰る。それだけ。
幽界に帰って、後はどこへ行くのかは神次第。
あたしは、主が示される場所へ行く。
あたしは、それを喜んで受け入れる。本当にありがたいことよ。
601 :
名無しさん@1周年 :02/03/09 23:10
ヨハネさん そういえば、今日は私の誕生日です。 怠け者のうお座です(藁)。私が「行」える様に祈ってください。
表現悪かったかもしれないから、少し書き換えたわ。
>>599 まぁ、それはそれ。別にいいんじゃない?
その人たちは、その人たちの行く世界があるのでしょうし。
605 :
名無しさん@1周年 :02/03/09 23:19
>「他の民の神は、自分達のアドナイである神ではないが、 >他の民の神であり、他の民の神として尊ばなければならない、 >しかし、その神は他の民の神なので自分達のアドナイではない」 >と、そう解かねばならないのよ。その点が、薄れてるところね。 まあ、そう解かなければならないと伝えるのが日本神道のアドナイだ、 とユダヤ教者なら言うのでしょうね。 マリアさんのところの伝承では、「永遠の生命」に関してはどうなのですか? 私たちは、具体的にはマリアさんのおっしゃられる伝承を、まとまった形で 学ぶことができないのですが、文書化されたものはないのですか? (マリア・スレッドって、どこにあるんですか?) キリスト教のアドナイについて一言弁護させていただければ、やはり、 彼は民のために死にましたから。そして、復活して、昇天した。これは 手の込んだ救済方法だと思います。ただ教えるだけなら、来て、教えて、 崇拝されて、死ねばよかったのです。そういう「人の主」はいくらでも いるでしょう。 キリスト者が、キリスト教のアドナイには、救済法として他にはない ものがあり、他にない奇跡と情熱をがあったとして、自分のアドナイを 世界に唯一の救済者として誇るのを、聞くのは、他の宗教者にとって気分が 悪いでしょうが、その誇りにふさわしいだけのことは、このアドナイはして いると思います。 ちなみに、ユダヤ教のアドナイも、シナイ山で立てた契約を歴史の中できっちり 守って、するだけのことはしているし、ユダヤ人が、この神をすべてのアドナイに 勝る、唯一の神と信じているのは、まあ、仕方のないことだと思いますよ。
>>604 あたしにはあたしの行くべきところがあり、
あなたにはあなたの行くべきところがある。
小さなヨハネさんにも行くべきところがあるからね。
主は全てを知っておられるし、間違えはないもの。
その通りに生きれば良いのよ。
>>607 どの神も色々と働いてるのさ。
人が知ってるかどうか、って問題だよ、それは。
【まるで関係無いデンパ話】
え〜、私の元を最近幼き少女の神が訪問してまいります。
で、ですね。
さきほど私がつい泣き言を申した所・・・。
・・怯えたらしいのです(爆)。くっついて離れません。
どうやら泣き言もうかつに言えないらしいです。
と、言うわけでやはり前向きに。
みなさん!!神々は人の子達を常に見守ってらっしゃいます。
必死に呼びかけているのですよ。
えー、やりますとも。
○○○の○○もちゃんと張り倒します。
心配は無用です。ちょっと駄々っただけです。
うかつに見てしまって、ヒイィィィ!!!!(゚ロ゚ノ)ノとなった方々、
お騒がせしましたm(_ _)m
610 :
迷惑なんですけど :02/03/09 23:39
>>607 イスラエルのアドナイ自身が、そういっているからね。
他の民を迫害するなと。あなた達も迫害されてきたのだから、
他を迫害するなとね。
他の民は他の神の名によって歩むとも。
これは「我々には他は関係はない」と解く方法。
自分達の神が他の神より上であると考えるのは、どこでも同じ。
日本神道の捉えでは、全て同じ一つのものが出てると解くから、
全ての神は元は家族なのよ。
ただし、同じ家にはいないから、よく似たことをする。
他は他の伝承があるのは良しとする。
神道では、先祖が神となるからね。
カトリックの聖人達のように、崇敬の対象とされる。
キリスト教のアドナイについてもそう。
その民にとっては絶対の神。それはそれで良い。
その民にとっては、他の神を拝むことはおかしいからね。
しかし、他の民を迫害するなとも定められているのだから、
それを行えば、重大な契約違反を犯すことになる。
自分の神が、他の神より優位であるように、
他の神の民から見れば、その民の神が自分の神より優位であると
信じていることを知らなければならないわね。
あたしは、両方の中で生活してきているから、
それもまた良いこと。
ちなみに、うちのものに関しては、全て口伝え。
文書はアメリカに行けばあるかもしれないけど、
向こうは、今では白人優位主義者に変わったから、
ひょっとしたらもうないのかも知れないわね・・・。
613 :
名無しさん@1周年 :02/03/10 00:02
614 :
小さなヨハネ :02/03/10 00:06
>>602 : ◆rs2OUULQ さん
>ヨハネさん そういえば、今日は私の誕生日です。
>怠け者のうお座です(藁)。私が「行」える様に祈ってください。
・・・ああ、それはおめでとうございます!!
◆rs2OUULQ さんが主のみ旨をよく行えますように。
お差支えなかったら、何回目のお誕生日なのでしょう?
恥ずかしながら、参拾数回目です。ありがとうございます。
>>615 おめでとうございます。
>恥ずかしながら、参拾数回目です。
俺もそんなトコです。
ver3.04 ◆0PoPNzcc さんもありがとうございます。
けど、年々嬉しくなくなってくるのは何故?
>>618 年でしょうな。俺もそうだし。
おっと・・。
俺が参加すると話がどんどんあさってに・・・・。
ってことでROMに戻ります(苦笑)。
神道の捉えでは、神様はみんな兄弟姉妹、とか親子とか、 そんな感じに捉えるわね。多神教だから。
◆rs2OUULQさん。 あら、そうだ。忘れてた。お誕生日おめでとう。 「まだまだ若いわよ」って、うちの集落の御年寄りなら言いそうね。 年々嬉しくなるのは、それだけ年とともに いろんなものが良い方に重なってきたからかもね。
マリアさんもありがとうございます。最近のそちらの話題は、少し 高いところへ移動してて、参考になってます。それについては、私 は、傍観者ですけど。
落ちます。おやすみなさい。
624 :
小さなヨハネ :02/03/10 19:19
>>615 : ◆rs2OUULQ さん
恥ずかしながら、参拾数回目です。ありがとうございます。
お答えいただき、ありがとうございました。私が神に目覚めたのは40で
した。ですから、 ◆rs2OUULQ さん は早いなと思います。
しかし、スウェーデンボルグはある程度年をとらないと「再生」は不可能だと
言っていたと思います。それはやはり、いろいろな知識、あるいは体験も通じ
た知識が備えられることを必要とするから、とのことでした。
>>618 けど、年々嬉しくなくなってくるのは何故?
最近は、年をとるのが嬉しくなりました。昔は頭の中が暗かったですが、
今は随分明るくなりました。ですから若い頃に戻りたいとは全く思わなく
なりました。
創世記の「光あれ」とはそのようなことを言っていたと思います。創世記
の冒頭は、地球の創造ではなく、人間の霊的な「再生」のことについて比
喩的に語っているのだそうです。
◆rs2OUULQさんもこれから年をおとりになるのが嬉しくなるでしょう。
625 :
小さなヨハネ :02/03/10 19:28
さて、今日は神観について少し書きました。神観すなわち主イエスは誰かに関す る論議は、当初の初代教会(原始キリスト教会、使徒的教会)から時を経るに従 って、変質していったものと思われます。もちろん、人間の神観が変わったから とて、神が変質した訳ではありませんけれど。 変質した証拠として、次のことがあげられます。 1.唯一の神を奉じる当時のユダヤ社会に生まれた初代教会では主イエスを万物 の創造者、父、唯一の神と認めていたと思われること。 2.三位一体論は歴史的にも後世の作であること。(初代教会の人間は後世の三位 一体論など想像もしていなかったはずです。) 3.初代教会の伝統に忠実と言われるギリシャ正教の神観と、現行のカトリック、 プロテスタントの神観には明らかに違いが見られること。
626 :
小さなヨハネ :02/03/10 19:30
1.については 例えば前のスレッドでも申し上げましたが(下記ご参照)、「栄光の賛歌」に見 られるように、主イエスを「天の王」、「全能の父なる神」と呼んでいるからです。 451 :小さなヨハネ :01/12/28 21:49 6.著作年代が下がるほど、イエスの神格化が進むという常識的推測と のことですが(408,410)、(著作年代が何年頃までなのか知り ませんが)認識はむしろ逆で、主御在世当時の人ほど主は唯一の父なる 神と思っていたのではないでしょうか?時代が下るにつれて、それが信 じられなくなったので、公会議が開かれる必要が出たのではないですか? ミサの中で唱える「栄光の賛歌」にこうあります。 「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ。 われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大い なる栄光のゆえに感謝したてまつる。神なる主、天の王、全能の 父なる神よ。主なる御ひとり子、イエス・キリストよ。神なる主、 神の子羊、父の御子よ。・・・」 原語ではどうなのか知りませんが、この日本語を素直に読む限り、「神で ある主。天の王であり、全能の父なる神である方よ。そして、その主で ある御ひとり子、イエス・キリストよ」と、主を父なる神と呼び、その主 であるイエス・キリストよ、と言っています。つまりイエス・キリストを 主であり父なる神であると言っています。 この賛歌はルカ2・14に冒頭部分が載っていますが、キリスト御降誕の 夜、ベツレヘムで天使の大軍が羊飼いたちに告げたものと言われています。 これはおそらく古いそのままの形が残っているのではないかと思われます。 羊飼いたちが主を礼拝しなかったとは思えません。(409)
627 :
小さなヨハネ :02/03/10 19:33
2. については 後の公会議で三位一体論が採用された経緯は私よりも皆さんの方がよくご存知です。 (坂口ふみ/<個>の誕生/岩波書店/P35より) (1). 西暦325年6月―8月 ニカイア (2). 同 381年5月―7月 コンスタンチノポリス (3). 同 451年9月―10月 カルケドン (4). 同 553年5月―6月 コンスタンチノポリス
628 :
小さなヨハネ :02/03/10 19:34
3.については、 前述のギリシャ正教の引用(478)から見られるように、ギリシャ正教は初代教 会のように、主を「唯一の神」と認めているようであり、現行のカトリックやプ ロテスタントの並列的三位一体論の理解とは明らかに違っています。 478 :小さなヨハネ :02/03/06 00:37 しかし、このことはギリシャ正教でも言われるようです。『ギリシャ正教』 /高橋保行司祭著/講談社学術文庫を読んだ限りですが、例えばキリスト のことを「唯一の神が、天より降り人となった」(/P215)、「知ること のできぬ神が人となり、イエスと呼ばれてこの世に住み」、「アブラハム、 イサク、ヤコブの神、あってある者、生ける者の神が、人との交わりの ために、あえて人となり、みずからを人に知ることのできる神とした」 (同P242)と言います。 さらに、 「神父(かみちち)の右手に座したというこの条項は、キリストが神の 『利き手』であることを意味している/右手は器用さを表すから、神の 右手に座すという表現はキリストが神の力をもつ者であることを明らか にする」(同P34)とも言っています。 私の理解が正しいかは疑問ですが、スウェーデンボルグの言っている こととほぼ同じように思え、驚きました。
629 :
小さなヨハネ :02/03/10 19:36
私の推測ですが、恐らく、初代教会の主イエスは父なる神御自身という単純な 理解、次にギリシャ正教の理解、最後に主イエスが神御自身とは信じられなく なってしまったカトリック、プロテスタントの「並列的三位一体論」という順 に認識が変わったと思われます。 要するに認識が段々と不明確になっていったのです。私は主は人であったが、 徐々に神格化されたという説には反対です。主は最初は神と認識されておられ たのに、徐々にただの人にされてしまったというのが本当だろうと思います。 ですから、もしそうであれば、現行のキリスト教会の信仰は当初のものとは 全く異質、別のものと言えます。なぜなら、神観が異なれば、それは宗教とし ては別のもの同然だからです。
630 :
名無しさん@1周年 :02/03/10 19:38
こんなつまらないスレッド消えてくんない?
631 :
小さなヨハネ :02/03/10 19:39
そして、「並列的三位一体論」が取り入れられた理由とは、主の神性を完全に 否定するアリウス派を排除するためでしたが、実はそれが正しいからではなく て、天地万物を創造された神御自身が人間のためにこの世に降って下さった ことを信じられなくなってしまった、すなわち「重層的三位一体論」を信じ られなくなってしまった後世の人々に対して、主の神的慈悲から、あえてそれ が許されたということです。 それはいくらかでも主を神と思う心が残らなければ、主の救いに預かれなく なってしまうからです。 「救い」とは「ぶどうの木の譬え」(ヨハネ15・1−8)にあるように、主と 人との「霊的な連結」だからです。その連結とは、「行い」は当然必要ですが、 「主を神と信ずる」ことに基礎があるのです。「あなたはペトロ。わたしはこ の岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16・18)とはそのことを意味 しています。「ペテロ」は霊的には「信仰」、「真理」、「教義」を意味している からです(天界の秘義2760の手前・第3部序文ご参照)。
632 :
小さなヨハネ :02/03/10 19:42
そのことは、アタナシウス信条がどちらの説によっても、その人の思っている 通りに受け取れるように書かれていることが表しています。いわば「だまし絵」 のように書かれているのです。見る人の主観によって「少女」とも「老婆」と も見えるように作られているのです。そのことを神なる主はあえて許されたの です。離縁の律法は神なる主がそれを望んだのではなく、人が冷淡だからあえ て許されて律法化されたのと同様な関係です。 ですから、「並列的三位一体論」も、「正しい」のではなく、あえて「許され」 ているだけなのです(静思社/スウェーデンボルグ/アタナシウス信条につい て/P65ご参照)。
633 :
名無しさん@1周年 :02/03/10 19:46
キチガイは氏ね
634 :
小さなヨハネ :02/03/10 19:51
神はお一人なのです。民族の数だけ神がいるというのは、民族によりその表現 の仕方が様々であって、神そのものが複数であるという意味ではありません。 唯一の神の呼び名が違うというだけです。 旧約聖書では「神は唯一」という概念は数限りなく言われていること、新約聖書 にもそれは書かれていること、手紙類にも書かれていること、黙示録でも「初め であり、終わりであるもの」「アルファであり、オメガであるもの」と言われて いることからも神はお一人というのは明らかと思います。 ですから、「同質」の神が三人おられるという観念自体が、すべて「譬え」で語 られたという、擬人化されて説かれる、聖書独特の「用語法」から来た単なる 「勘違い」であることをそろそろ理解しなければならないのではないかと思い ます。
なるほど。しかし、プロテスタントについては、多少、違います。 カルヴァン派については、ですが。 予定説や聖人を認めないと言う姿勢と共通の前提にある、神の総ては 解らない、というものですが、それ故、神の質的な事は、我々は、留 保しています。私の書いてきた事もそうです。 認識論に留まっています。ですから、マリアさんとの議論には傍観者 にならざろう得ないのです。人の子イエスをもって父とする(しかな い)のです。
つまり、それらの、そして、それらと人との関係は語りますが、そのもの については、何も言えません。 そして、神がイエスを遣わされた意味を考えると、神そのものを知る必要 は感じないのですが・・・
ところで、一応、またまた書きますが、主イエスは父ですよ。 我々は、主イエスと御子イエスの区別ははっきりさせています。
ですから、主イエスを神と信じられなくなったんではなく、御子イエス を信じられなくなったとするのが正しいでしょう。
三位一体論は、今の時代についての議論ではありません。子イエスは、受難 →復活によって主となられたからです。そして、それが新約を建てられた証 でもあります。今は新約の時代です。三位一体論は、御子イエスの時期につ いての議論です。ではなぜそれが重要視されたかというと、(やはり、御子 イエスを信じられなくなったのでしょう、)聖書は(特に福音書は)、御子 イエスについて書かれているからです。
そして、我々は、御子イエスが語ったり行ったりして示した事に父の意思を 見るのです。その最大のものが復活です。
641 :
小さなヨハネ :02/03/10 23:11
>>636 : ◆rs2OUULQ さん
>そして、神がイエスを遣わされた意味を考えると、神そのものを知る必要
>は感じないのですが・・・
では、主が次のようにおっしゃるのはなぜですか?主は神を知ることは必要ない
とはおっしゃっていないように私には思われますが?
マタイ5・8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
ヨハネ8・19
もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。
ヨハネ17・3
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わし
になったイエス・キリストを知ることです。
642 :
小さなヨハネ :02/03/10 23:13
>>637 : ◆rs2OUULQ さん
>ところで、一応、またまた書きますが、主イエスは父ですよ。
>我々は、主イエスと御子イエスの区別ははっきりさせています。
「主イエス」と「御子イエス」とはどう違うのですか?
栄化の前の(復活の前の)主イエスを「御子イエス」、栄化の後の(復活後の)
主イエスを「主イエス」と呼ばれておられるのですか?
643 :
小さなヨハネ :02/03/10 23:16
>>638 : ◆rs2OUULQ さん
>ですから、主イエスを神と信じられなくなったんではなく、御子イエス
>を信じられなくなったとするのが正しいでしょう。
「御子イエス」を信じられないとはどういう意味なのか分からないのですが?
>>641 神そのものを知る必要は無いということです。なんといえばいいでしょうか。
その質的なことをです。
神の意思とか思いとか望むものとかは勿論、しるべきです。
647 :
小さなヨハネ :02/03/10 23:53
> ◆rs2OUULQ さん ・・・うーん、おっしゃる意味が分かりません。 御子から主へ、存在としての連続性を認めないという意味ですか? もし、そうであるなら、私は次のように考えています。 すなわち、例えば、青虫が蝶に羽化しますが、確かに存在の状態としての 連続性はありませんが、同一の存在、同一の生命であったことは事実です。 それは白い小さな卵のときから同一の生命、存在です。 私たちが受胎したときと今とは体の大きさ、形は全く違うでしょう。しかし それは、「状態」が違うだけで、私たち「本人」に変わりはありません。 ですから、主はこの世に来られる前も、来られてからも、復活の後も、 ヤハウェ御自身であることに変わりはないという意味です。まとって おられる状態の変化はあるにしても・・・。
>>628 ,
>>629 ,
>>631 小さなヨハネさん、
歴史についての認識が逆ですね。
新約聖書を書いた人たちの信念がどうだったかはともかく、
東方教会と西方教会の三位一体についてのあなたの理解は
全く倒錯していると思います。
東方教会のほうが、3に傾く説明をするのです。パウロと
テモテとバルナバが別々であるように、父と子と霊は別々
だ、というように。そして、その上で、この3者がいかに
して一つであるかを説明しようとするのです。
西方教会のほうが、神の唯一性をまず主張し、次にいかに
して3であるかを説明しようとします。だから、一人の人
における精神と言葉と愛というようなことを引き合いにだ
すわけでね。
この辺のところ、何度言っても通じないとは思うけど、一応
指摘しときます。
>>647 違います。違います。
天地創造の神は主イエスです。新約を建てるために、その時、我々にも
理解出来る様に人の形を、神が、とられたのが御子イエスです。けど、
それを信じない人もいたし、ただの預言者としか見ない人がいるのを、
知っておられたので、神である事の証と、新しい時代、世界(それは神
との新しい関係)を建てるという古い約束を果たす、という二つの意思
をもって、復活という御業を示されたのです。
>>649 の続き
そしてまた主として君臨されているのですが、御子であった時、主でなかった
訳ではないし聖霊でなかった訳ではないので、三位一体なんです。
あのう、私のことを心配してくださる方から?メール頂きましたが、
私、
>>385 以降には出ていませんので。
ちなみに、私、今のところ身代わりは募集しておりません。
今度来るときは、私が元ボーダーの○○ですと申し上げて来ますので、よろしくお願いします。
実は、今日書き込もうかと思いましたが、雰囲気が落ち着いているので、またいずれ。
私は、宗教戦争反対、内乱鎮圧以外には、あまり関心がありません。
くどいのですが、もう一つ訂正しとかないとね。
>>651 (誤)関心がありません。
(正)関心がないふりをするように心がけています。じゃないと、仕事に障るので。
毎日、皆さんのを読ませていただいています。
がんばってください。では。
小さなヨハネさん、すみません、 「聖化」は、難しいです。教団教派によっても、相当言い方の異なるものだと 思います。カトリックで言えば、多分、聖体拝領が重要なのでしょう。 でも、カトリックについては特に、ですが、詳しいことは全く知りません。 「聖化論」は、教派の数だけ、あるいは、指導者の数だけあると言ってもいいのか もしれません。 (ただ、現代の各キリスト教会がどれだけ聖化を語っているかは知りません) ただし、本当の聖化は一つだけです。それはスウェーデンボルグの再生論だと 思います。 と言うと、護教的に聞こえるかもしれませんが、つまりは、教理でどのように 言われていても、結果的に清いたましいと見られる人のことを、キリスト教会では 「キリストによって変えられた」と表現してしまいます。生まれつき温厚な人も、 そう言わなければならないことになっています。 本当には、どのようにして清められるかなど、それほど分かっていないのです。 また、聖化論にいろいろあるというのは、その状況を本人や、指導者が どう自覚しているかにも、様々あるからです。 本当に聖化されていく人で、これをやってさえいれば清められると、正確に把握し ている人など、いないのではないでしょうか。主のご計画としても、これさえやれば 清められるから、とその人に断って聖化をなさったりはしないです。 こういうものは、人間的な意図が働くとかえって不純になりやすく、主の計画の 妨げになるものです。
スウェーデンボルグには、「再生とはどういう現象か」ということは書いてあり、 それは詳しく詳しく書いてありますが、それでは、その現象を体験するにはどうする かというと、小さなヨハネさんも体験されたように、トマス・ア・ケンピスなど、 旧来の方法論を実践するとか、聖句の命令事項を自然的に単純に実行するとかいう のが代表的な正解だと思います。 それが、実はスウェーデンボルグにはないのです。再生されていくと、どうなって いくのか、という状況説明だけがあります。 実際には、スウェーデンボルグ主義の人が、スウェーデンボルグに書かれている 現象の知識にとらわれ、主の手の内に素直にならないとすれば、それだけ、 聖化(=再生)を失いやすくなっていると思います。 と思いますが、ご意見のある方は教えてください。
>>649 etc. ◆rs2OUULQ さん
「主イエス」と「御子イエス」の使い分けについて、ユニークな
解説をなさっているように思われますが、どのような根拠で、そ
ういう考えを主張なさるのですか?
新約聖書中でそのように使い分けられている、ということでしょ
うか?もしそうなら、具体的に使い分けを提示してくれませんか。
657 :
小さなヨハネ :02/03/11 23:54
>>654 ,
>>655 リサさん
ありがとう。そうですか。その「聖化」の仕組みというのはあまり分かっていない
のですね。十字架のヨハネや「無名の巡礼者」にある程度書かれていたのかと思います
が、私も忘れてしまいました。
もし、あまり詳しく分かっていないならば、スウェーデンボルグの解説は従来のクリ
スチャンにも有効かと思います。確かにスウェーデンボルグにはその方法論はありま
せん。しかし、「聖化」、「再生」とは何かについて学べる点で素晴らしいものがある
と思います。もちろん、ご指摘のように、知っただけではだめですが。
>>656 ユニークですか・・普通にそう思ってるんですが・・
>>657 スウェーデンボルグは、有効だとおもいます。よくはしりませんが、
ちょっと、調べてみて、結果というかその理念というか、はさほど、
矛盾してないとおもうんですが・・(逆に言えば、その程度しかしら
ないともいえますが・・)ただ、多少、勇み足と深読みがみられるか
とはおもいますが。
659 :
小さなヨハネ :02/03/12 00:15
ボーダーさん、こんにちは。 スウェーデンボルグは膨大で、私一人ではとても追いつきません。 ボーダーさんも早く戻って来て、何かレクチャーを担当してください! また、どなたでも、ご自分の得意なところを紹介いただけるスウェーデン ボルグ読者がおられたら嬉しいのですが。
661 :
小さなヨハネ :02/03/12 01:10
>◆rs2OUULQ さん、ブルネルスさん ありがとうございます。 書いてもエラーばかりで、なかなか送れません。
662 :
ブルネルス :02/03/12 01:18
>>658 | ユニークですか・・普通にそう思ってるんですが・・
とくに調べたわけではなく、頭からそう思っているのでしたら、
間違いではないかと、思い返して見てはいかが。
「御子イエス」は、父なる神との関係でイエスの位置を規定する表現ですから、
永遠において妥当する規定です。
「主イエス」は、被造物、特に人間に対する関係で、イエスの位置を規定して
いるので、被造世界に相対的な表現とみることができないわけではありません。
こう考えると、 ◆rs2OUULQ さんの説明とは逆になるようにも思えるのですが。
#フィリピ2章においては、イエスの復活と高挙において、すべてのものの主で
あることが宣せられますね。そういった表現をどう理解しておられるのか、と
いう話になります。
いや、とくに答えてくださらなくても結構ですよ。
>>662 >「御子イエス」は、父なる神との関係でイエスの位置を規定する表現ですから、
永遠において妥当する規定です。
イエスが実際におられた時代においての、人の”認識”としては、永遠において
妥当する規定です。
>「主イエス」は、被造物、特に人間に対する関係で、イエスの位置を規定して
いるので、被造世界に相対的な表現とみることができないわけではありません。
そうは見てません。天地創造の源、特異点の中心、つまり、事象の地平線の向こ
う側にあるもの、我々の理性を超えた存在を、そう表現したものとします。
つまり、絶対的です。それは総てのものの主です。
聖書は主について、直接書いていません。御子を通してのみです。 我々は御子を通して主を知るのみです。
私の考えが誤りである余地はあります。
>>194 で示した、三つの前提が否定されたときです。
>>637 >我々は、主イエスと御子イエスの区別ははっきりさせています。
あなたの教会としての解釈ですか? それとも、正統派キリスト教会全体の考え方だと思いますか?
我々っていうのが気になるので。
667 :
ブルネルス :02/03/12 18:36
>>663 | 天地創造の源、特異点の中心、つまり、事象の地平線の向こ
| う側にあるもの、我々の理性を超えた存在を、そう表現したものとします。
| つまり、絶対的です。それは総てのものの主です。
「そう表現した」とは「主」と表現したという意味ですよね。
一体誰が、あるいはどういう根拠で「主と表現したものとし」たのですか?
「つまり、絶対的です。それは総てのものの主です」――私には理解不能
な論理です。「絶対的」だといったその次に「絶対的」という規定とは
矛盾することが言われるからです。
つまり「総てのものの主」というのなら、「主」という語は「関係的」な
語であるとして使っているからです。「総てのもの」というものがあって
はじめて「主」という規定が成り立つということを前提したことをおっ
しゃっているからです。
668 :
死んではなりません :02/03/12 23:32
>>648 :ブルネルス さん
>>628 ,
>>629 ,
>>631 >東方教会のほうが、3に傾く説明をするのです。パウロと
>テモテとバルナバが別々であるように、父と子と霊は別々
>だ、というように。そして、その上で、この3者がいかに
>して一つであるかを説明しようとするのです。
>西方教会のほうが、神の唯一性をまず主張し、次にいかに
>して3であるかを説明しようとします。だから、一人の人
>における精神と言葉と愛というようなことを引き合いにだ
>すわけでね。この辺のところ、何度言っても通じないとは
>思うけど、一応指摘しときます。
これについて、スウェーデンボルグが何かを言っていたか記憶はありません。
しかし、思うのですが、ではなぜ高橋司祭はああいう風に述べておられるので
すか?あの文章を読む限り、ギリシャ正教の方が、一体というか、父なる神
ご本人と言っているように受け取れますが?
>>478 :小さなヨハネ :02/03/06 00:37
>しかし、このことはギリシャ正教でも言われるようです。『ギリシャ正教』
>/高橋保行司祭著/講談社学術文庫を読んだ限りですが、例えばキリスト
>のことを「唯一の神が、天より降り人となった」(/P215)、「知ること
>のできぬ神が人となり、イエスと呼ばれてこの世に住み」、「アブラハム、
>イサク、ヤコブの神、あってある者、生ける者の神が、人との交わりの
>ために、あえて人となり、みずからを人に知ることのできる神とした」
>(同P242)と言います。
669 :
小さなヨハネ :02/03/12 23:35
あらら・・・。
670 :
ブルネルス :02/03/13 00:19
>>668 引用されている高橋司祭のことばのどこにも
「父なる神が天より降り人となった」
とは書いてません。
「唯一の神が・・・」
とあるのです。そして三位一体を主張する人々は、このような表現を
することに、とくに反対はしないでしょう。西方も人もこの点で
変わりないと思います。
671 :
小さなヨハネ :02/03/13 21:26
>>670 :ブルネルス さん
>>668 >引用されている高橋司祭のことばのどこにも
>「父なる神が天より降り人となった」
>とは書いてません。
>「唯一の神が・・・」とあるのです。
しかし、私には「父なる神」も「唯一の神」も同じなのですが…。
「唯一の神」とは「父なる神」ではないのですか?それに「唯一の神」以外に
「父なる神」がおられるとしたら、論理的な矛盾ではないのですか?
672 :
小さなヨハネ :02/03/13 21:27
>そして三位一体を主張する人々は、このような表現を >することに、とくに反対はしないでしょう。西方も人もこの点で >変わりないと思います。 いえ、大いに反対なのではないでしょうか? 「父」と「子」とは別で、「父は子を遣わした」と一般に思っているのです。 ですから、「子」が「父」ならば、世に降られている間、天界は留守に なったのか?という質問がされるのです。 (前スレッド>122、134、677ご参照) あるいは「刑罰代償説」が言われるのも「父」と「子」とは別の存在という ことが前提になっているからに他なりません。
すみません。恥ずかしいんですが、突込みではなくて、愚問です。
やっぱり神学者のお話は、リサには無理なんです。素人の中でも相当あばうと〜な頭の
おリサおばさんにもついていけるように、なんとかもう一声お願いしたいですが、だめでしょうか…。
>>662 >「主イエス」は、被造物、特に人間に対する関係で、イエスの位置を規定して
いるので、被造世界に相対的な表現とみることができないわけではありません。
に対する
>>663 そうは見てません。天地創造の源、特異点の中心、つまり、事象の地平線の向こ
う側にあるもの、我々の理性を超えた存在を、そう表現したものとします。
つまり、絶対的です。それは総てのものの主です。
は、なんとな〜く、分かるように思えてしまって、
>>667 >つまり「総てのものの主」というのなら、「主」という語は「関係的」な
>語であるとして使っているからです。「総てのもの」というものがあって
>はじめて「主」という規定が成り立つということを前提したことをおっ
>しゃっているからです。
と言われるのはなぜなのか、もうひとつ分からないんです。すみません、先生。補講料が払えません…。
674 :
ブルネルス :02/03/14 00:45
>>671-672 小さなヨハネさん
あなたはいつまでたっても三位一体説を理解しようとせず、自分が
理解した=誤解した三位説に基づいて話されます。
三位一体説は、三つのペルソナを主張するだけでなく、一体である
ことをも主張します。
ですから、子なる神がこの世にこられたことを、「唯一の神がこの
世に・・・」と言ったとしても、とくに問題ではないし、それは
決して、子=父という考えを含意しません。
引用されているギリシア正教についての説明も、決してあなたが
期待されるような考えを含んでないし、万一含んでいるとしたら
その解説者がギリシア正教を正しく理解していないということに
過ぎません。
675 :
ブルネルス :02/03/14 00:49
>>673 「主」という語はそもそも、誰かに対して主という関係であることを
表現する語ではないですか。
例えば「大きい」という語も比べる相手がいなければ成り立たないし
「子」は誰か親がいて、初めて子ということがいえるのです。
ですから、
「すべてのものの主」という場合、「すべてのもの」がなければ
「主」にならない。被造物の存在を前提しなければ「主」という
称号は意味をなさない、
ということを言おうとしました。
難しいですか?
>>675 ありがとうございます。
つまり「主」は「従」に対して相対的に主なのであって、相互関係を前提としている
ということを言われているのだと思います。
それで、「絶対的」とは、対立者を絶するものですが、天地を造られた主には、
対立者など、なくても当然であると思うのですが…。
もともと、主と被造物の関係は対立する2者ではなく、「絶対的」という言葉に
おいて「主」と「従」の関係を表現できていると思うのですが。
何かどこかで思い違いをしていたら、困るんですけど。問題の所在が…、わかりません…。
主イエスの在世当時、父なる神はどこにいたか。これが問題の焦点ですね。 天界の秘儀1733を読み、スウェーデンボルグによる理解をこのようにまとめました。(これは、お味噌!) まず、主イエスの体を、A霊=最内奥、B魂=内なる人、C肉体=外なる肉、と分けます。 Aは、A1とA2に別れています。A1は、ヤハウェ、神の神性です。A2は、アドナイ、神の人性です。 Bの魂は、脳の支配を受けています。脳は、C肉の支配下にり、母マリアからもらった遺伝子によって 支配されており、Bは罪の性質です。 主イエスの罪の人性Bは、在世当時、Aによって教育を受け、十字架の死に至って完全な神性と一致しました。 復活以後は、マリアから受けた魂は残っていませんが、それまでは、罪深い存在であったがために、Aに向って、 謙遜の姿勢を表明して、あたかも他人のように自分のうちにおられる父なる神に祈られました。復活後は、完全な 神性を身につけて、人々から神としてあがめられることを当然とされましたが、それまでは、完全な神性を最内奥 に宿し、その外に肉の魂を宿していたがために、表出されるあり方は、時に応じてヤハウェ−アドナイ的態度の場 合と、人間的態度の場合とが出てきてしまいます。 私たちも、完全に聖霊に支配されている時と、聖霊にゆだねていない時では、同じ人であるにもかかわらず、そ の存在感が異なってしまうわけですが、外見的にはそのことと似た現象となって表れるのでしょう。 こうして、主イエスとヤハウェは、一つからだの中におられ、ヤハウェと人間性主イエスは、罪という全く相容 れない性質のゆえに別物であるからして見えない相手に祈るにあたっては他人行儀であったが、その実体と目的に おいては全く同じ一人の内におられ、主イエスと父は一つであった。
ヤハウェの性質は、人には理解できない異質なものであり、救いとしてそれをそのまま人に与えることはできな い。神的人性アドナイとは、その神的神性を人間に通用する表現方法に直した姿、形、方法論(このニュアンス …)であると、今のところ理解しています。しかし、その神的人性も、人に直接与えるにはまだ無理があるので、 神は、人間に、さらに分かり易いようにと、マリアによる肉の性質をとり、それに、神的人性を影響し尽くすこと によって、人間に受け入れられる完全性の魂を、主イエスの肉の内で新たに創造された。 主イエスを信じる人には、信仰という主イエスに向けて開かれた心によって、その完全性を備えた魂の影響力を 受け、それによって、人は神を知り、清められる。 それは、「主イエスの肉が、単に代理となって罰を受けたので、私たちの罰が取り去られた」のでもなく、「彼 の義がそのまま私たちに転嫁される」のでもない。 「信仰によって、神の子とされる特権を受ける」というのは、子とされたらそのまま永遠の命を保持し、何があ っても堅持されるというのではなく、子として、親の持つ富である聖なる影響力を受ける権利を与えられたという 意味。 「罪が取り除かれる」というのは、罪が全く無くなるのではなく、罪の想念と行ないが人から遠ざけられた状態 である。不断の信仰姿勢が、そのような状態を演出し、主への愛とともにその状態に留まるにおいて教育され、魂 は、その清い状態を愛するものとなり、天国にふさわしいものとなる。が、堕落する可能性は十分あり、信じたそ の日から何があっても絶対に天国が約束されているというわけではありません。 聖霊とは、ヤハウェでありアドナイであるイエスが、罪人に救いを与えようとして行った一切の働きであって、 また、その働きの結果現れた真理の思想である。よって、主イエスが洗礼を受けた時の鳩も、広義では聖霊。処女 懐胎のときも、聖霊による。信者が信仰によって受ける霊的教育も聖霊。 詳しい方、間違っているところは訂正してください。
>>677-
>>678 しまった。入力する分を間違えました。これ、個人的レポートの方です。
会話調に修正した分を入力するはずでしたが、つっけんどんな語調になっていて、申し訳ありません。
平にご容赦ください。(また、おばさまに怒られる〜ぅ〜。涙…)
680 :
dendo. :02/03/14 20:46
>あの文章を読む限り、ギリシャ正教の方が、一体というか、父なる神 > ご本人と言っているように受け取れますが? 正教会はいまもかつても父と子と聖神、一体にして分れざる聖三者を告白してきました。 これからもそうでしょう。子がただちに父であるというのは、正教会の教義から すれば異端思想です。
681 :
dendo. :02/03/14 20:49
ブルネルスさん、あれだけ丁寧に書いてわからないんだから、 何をいってもいいように利用されるだけだと思うよ。 豚に真珠とはこのことかな。 ……たぶん永遠(絶対的永遠)と永世(時間的無限性)の区別も付かないんちゃうかな。 この人たち。
682 :
小さなヨハネ :02/03/14 23:11
>>680 :dendo. さん
>正教会はいまもかつても父と子と聖神、一体にして分れざる聖三者を告白
>してきました。これからもそうでしょう。子がただちに父であるというのは、
>正教会の教義からすれば異端思想です。
dendoさん、こんにちは。
では、dendoさんご自身は、主イエス・キリストは誰だと思うのですか?
683 :
小さなヨハネ :02/03/14 23:12
>>681 :dendo. さん
>ブルネルスさん、あれだけ丁寧に書いてわからないんだから、
>何をいってもいいように利用されるだけだと思うよ。
>豚に真珠とはこのことかな。
ハハハ。ところで、
ブルネルスさんは主をただの人間と考えておられたのではないかと思います。
パウロも主を神と思っていないと言われていました(>前スレッド508)。
ですからブルネルスさんはご自身をクリスチャンではないとおっしゃっていま
した(>同550)。
dendoさんはブルネルスさんの肩を持たれるようですが、dendoさんは
クリスチャンなのですか?
>たぶん永遠(絶対的永遠)と永世(時間的無限性)の区別も付かないんちゃうかな。
>この人たち。
ハハハ。ええ、何のことか分かりません。よろしかったら教えてください。
684 :
小さなヨハネ :02/03/14 23:14
>>676 :リサ さん
>それで、「絶対的」とは、対立者を絶するものですが、天地を造られた主には、
>対立者など、なくても当然であると思うのですが…。
>もともと、主と被造物の関係は対立する2者ではなく、「絶対的」という言葉に
>おいて「主」と「従」の関係を表現できていると思うのですが。
おお!!リサさんがこんなに哲学者だったとは・・・!
うーん。なるほどそうですよね。「ありてある者」なのですから、被造物が無けれ
ば存在できないというはずはないですよね。
その存在を後から「主」と呼んだからと言って悪いことはないでしょう。実際私
たちの主人なのですから。
685 :
小さなヨハネ :02/03/14 23:15
>>677 リサさん
私も正直なところスウェーデンボルグの言う「内なる人」「外なる人」という
のがまだよく分かっていません。主の場合も、ああ、きっとそうなのだろうな
と思うだけです。でも、リサさんのご説明、とても参考になりました。
>私たちも、完全に聖霊に支配されている時と、聖霊にゆだねていない時では、
>同じ人であるにもかかわらず、その存在感が異なってしまうわけですが、外
>見的にはそのことと似た現象となって表れるのでしょう。
わたしも例えば「良心」というのは、「自分」とは違う存在のように感じます。
>>678 ・・・うーん。リサさんのおっしゃっていることは恐らく間違っていないだろ
うと思います。
686 :
小さなヨハネ :02/03/14 23:17
>>674 :ブルネルス さん
>三位一体説は、三つのペルソナを主張するだけでなく、一体である
>ことをも主張します。
>ですから、子なる神がこの世にこられたことを、「唯一の神がこの
>世に・・・」と言ったとしても、とくに問題ではないし、それは
>決して、子=父という考えを含意しません。
なかなかかみ合いませんね。細かいことを言えばいろいろありますが、
一つだけ申し上げるとすれば、主張するからと言って、それが正しい
という理屈にはならないのです。
687 :
小さなヨハネ :02/03/14 23:27
>ブルネルスさん ブルネルスさんは、前のスレッドの550で、「壮大な虚構の体系」とおっ しゃっておられましたが、何を指して「壮大な虚構の体系」と言われたの ですか? 「イエス=メシア論」のことですか、あるいは「三位一体」も含めた 「キリスト教」全体のことですか?
久しぶりに参加。が、俺の主張はかわらぬ。 イエス=天主の御使い=メシア 天主=三位一体であり、唯一の主。 で、 ヤハウェ=ヘブライ正統の神。ちゃんとした神様。 エホバ=どっかのバカどもがでっち上げたもの。いるとしたら、多分もののけ。 俺としては、これ。さ〜、話しつづけて頂戴。 息切れしたら雑談振って。雑談なら応じよう。 俺は教義ってわかんないんだよな〜(苦笑)。 そんじゃ。
補足 俺の言う、三位一体、って、父と子と聖霊ってのとはちと違う。 が、父と子と聖霊の御名において、ってのも正しい、っても俺の認識。 父自体も、三位一体であり、唯一って考えてちょうだいな。 でわ。
690 :
ブルネルス :02/03/15 00:18
リサさん、小さなヨハネさん 話がどんどんずれていくのはなぜなんだ? |うーん。なるほどそうですよね。「ありてある者」なのですから、 |被造物が無ければ存在できないというはずはないですよね。 おいおい、誰かが「ヤハウェは被造物がなければ存在できない」などという とんちきなことを主張したのかね? 「主イエス」と「御子イエス」という称号というか呼び分けについての 誰かさんのユニークな、根拠のない勝手な使い方を指摘するために、 「御子イエス」というほうは父との関係において言われることだから、 永遠に妥当するとしても、「主」のほうは被造物があってはじめて、成 り立つ関係を語る呼び名だから、相対的ということにならないか?と 言っただけなんですよ。これは呼び名の問題、カテゴリー論の問題な のであって、神の存在が相対的だなどというとんちきな主張を妄想して 欲しくはないのだ。
691 :
ブルネルス :02/03/15 00:21
dendo.さん 声をかけていただき、ありがとうね。 なんか、賽の河原で石を積んでいる感じです。
ブルネルスさん、dendo.さん、すみません。 リサさんは、学がないのでわかりません。いつもイメージでお話しています。 スウェーデンボルグのことも、イメージです。 ただ、キリスト教的体験がありますので、体験を参考にすると、こんな感じかな? と思っています。 哲学なんて誰がなんて言ったのか、さっぱりなんです。ただ、キリスト教会は、 言葉にこだわるところだと思っていまして、リサ流に言葉にこだわると、こうかな? って感じなんです。というか、リサのイメージには、ブルネルス先生のお話よりも、 ◆rs2OUULQ さんのお話の方が、なんとなく合うように思えて、よくわからないんです。 ていうか、◆rs2OUULQ さんもリサと似たようなイメージを持っているのかもしれません。 だから、もしもう少し分かるように教えていただけたら、あなたの学生さんたちの中でも リサのような勘違いをしている人を救えるかもしれないんですけど…。 少なくとも、ここに最近書き込んでいる人を約10名と概算して、約20%の人は、 リサと同じイメージを持っている可能性があります。 dendo.さんでも、いいえ、他のROMERさんがた、よろしければリサを助けてください。 御礼はできませんが…。スウェーデンボルグの味方をしてくださいと言っているのではないので。 ごめんなさい…。
694 :
dendo. :02/03/15 10:25
>声をかけていただき、ありがとうね。 いいええ。わたくしでよろしければ。 成績提出はお済みになりましたか? 私の周りは「まだ手をつけてない」方がほとんどです(ぉぃ さて準確定申告いってこよ。
695 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 14:25
小さなヨハネさん。 三位一体論については西方と東方では違います。 西方は唯一性を強調しています。 その結果父と子から聖霊が発出すると考えます。 東方は父からしか聖霊は発出せずに御子 イェーススからは発しないと考えます。 唯一性を認めながらも父と子は明確に分離されています。 よって西方教会の考え方はあなたの感想と逆です。 西方の人たちが天がお留守になると言うのは あなた達が言を父と言っているからでしょう。 イェーススは父の言が人に変化したものです。 父の言が地に降りたと一般の教会は考えています。 よって父と言は同じ神と考えています。 結論としては色んな方の言うようにあまり変わりはありません。 しかし、違うところは言が人の姿で現れた御子に対し あなた方は父自身であると呼ぶことです。 確かにそうに違いありませんが、イェースス本人が言うように
696 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 14:25
父という存在があるという意識はそこにはありません。 イェースス本人が「父」であるという捉え方です。 マリアさんはヤハウェとアドナイとエロヒムを分けていますが 同時に同じ神だということも分かっていなければ成り立たないです。 天地創造の神でもあり、皆の主なる神でもあり、 私の神である。ということですから。 天地創造の神・主なる神・私(達)の神、この三つは同じですか? あなたは同じと言うでしょうし、他のキリスト教徒も同じといいます。 まさに父と子と聖霊は同じ神であると言っているのです。 それが三位一体という概念の基本です。 これらは唯一の神である父と子と聖霊の神の属性です。 あなたがはこれを並立と決め付けていますが実は重層的理解です。 しかし、あなたの理解ではキリスト教徒から見れば 父を打ち消して子を父と呼んでいると見えます。 子を父と呼ぶからです。子は父ではないと考えます。 あくまで子は父の言だからです。父の言は父の御言葉だと考えます。 よって、キリスト教徒はイェーススによってしか御父を知れないと考えます。 聖霊の導きによって言であるイェーススを知り、 言であるイェーススによって御父を知るのです。 結論としては、イェーススと御父は同じ神ということを言っています。
697 :
ブルネルス :02/03/15 14:38
>>694 dendo.さん
|成績提出はお済みになりましたか?
|私の周りは「まだ手をつけてない」方がほとんどです(ぉぃ
私の周囲の人間で原稿の締切りを守る人はいませんが、
成績提出が遅れる人もいません(電算化されて、遅れること
ができなくなった)。2月中旬、締切り日の午後7時に最後の
成績表をもちこんだら、「これで哲学はすべてそろいました」
と言われました。
|さて準確定申告いってこよ。
私の同僚の一人は昨日行ったそうです。研究科長は今日午後いきます。
私は・・・・まあ、3月中に出せばいいだろう、あはは v(^^;)/~
698 :
ブルネルス :02/03/15 14:46
>>692 リサさん、
>>690 がムネオ的大声に聞こえたのでしたら、
ごめんなさい。リサさんにいらだったわけではないのです。
遺伝子がどうしたこうしたとお書きになってましたが、よく
意味が分からなかったので、読み飛ばしてました。
>>695-696 やっとまともな理解が提示されて、ほっとしてます。ついでに受け付けを
代わっていただけませんか。
なにしろ、私が説明しても「信じてもいないことを説明するのか」と否定
され、それに賛同する意見は「信じてもいない人の肩をもつのか」と疑わ
れる昨今ですので。
ブルネルスさん
>
>>692 リサさん、
>>690 がムネオ的大声に聞こえたのでしたら、
>ごめんなさい。リサさんにいらだったわけではないのです。
とんでもない、そうは聞こえませんでした。気を遣って頂き申し訳ありません。
いつも忍耐もって教えてくださるので感謝しています。
>>695-696 は、分かりますよ。それなりに。
ただでさえ読むものたくさんあって、大変だと思います。
>>677 −
>>678 お暇になったら読んでください。リサの力作です。あはは。
>>676 、
>>690 とは全然関係ありませんので。
700 :
ふらんちぇすこ :02/03/15 15:30
むう。まだやっていたんだこのスレ。
無限のループ、思考のトポスだな。
アウグスチヌスがガキに「海の水を匙ですくうがごとし。」
と、言われたエピソードを思い出すよ。
互いの論が一致することはないだろうな。
ま、それでいいんだろう。
>>690 ブルネルスの
>これは呼び名の問題、カテゴリー論の問題
に尽きると思うんだけどね。
をれは忍耐力がないし、論理学的なことは疲れるし、任でもないから、
随分前に参加する気が失せちゃったんだが、小さなヨハネもブルネルスも
偉いなぁ。驚いたよ。
しかし、ブルネルス…自己属性…カミングアウトしちゃったんだね。
701 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 17:54
ところで、初期教会ではイエスはメシアや預言者としては 信じられていたようですが、 主なる神とまでは信じていなかったようです。 グノーシス説は案外正しかったのかも・・・。
702 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 18:24
>>700 史実は歪められていくこともあります。
それもまた面白いかとも思います。
703 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 18:46
>>598 私の理解は信徒の一般的な理解の域を超えません。
不可能かとも思います。
スウェーデンボルグ説に対する反証は不可能です。
そういうものを本人が見たのならばそれはそれで良いのでは?
イェーススは人が人を裁くことを良いことだとは言われていません。
私も三位一体説には違和感がありますし・・・。
ヤハウェとアドナイとエロヒムの三位一体説は支持できますが、
父とイェーススと聖霊の三位一体説には違和感があります。
史実的にもイェーススはメシアや預言者として受け入れられています。
マリアさんを最近見かけませんが、
その昔に町にいた元ユダヤ人を名乗る中東系の老人に
似たような話を聞いたことがあるので興味があります。
善と悪についてなど・・・。悪も用意されたものであるなどと。
悪を憎むなとも・・・。
704 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 19:09
>>681 私も同意いたします。
この人たちは自分達の正当性を
他の人に押し付けたいだけなのでしょう。
又、小さいヨハネさん。
あなたの発言について当のスウェーデンボルグはどう思うのでしょうかね?
まだまだ修行が足りませんな。精進、精進です。
自分の世界に引きこもらないようにイェーススは言っております。
「寛容であれ」「人を自分のように愛しなさい」「許せ」「裁くな」。
これらを実行したら開けてくるようですよ。別の世界も見えない世界も。
>>704 もし、押し付けと読んでくださったら、それは残念です。
リサは、とりあえず、ここではスウェーデンボルグに関して正確に、ということを心がけています。
それから、分からないことは知っている人に聞くという、自分の習性に従っています。
説得とか、反証とかを達成することには、あまり興味がありません。
本当は、議論の勝ち負けを見るのは嫌いなの。議論だけでことを進めるのも好きじゃないです。
706 :
dendo. :02/03/15 23:23
>しかし、ブルネルス…自己属性…カミングアウトしちゃったんだね。 え。とっくにカムアウトしてたじゃん。de facto には。
707 :
小さなヨハネ :02/03/15 23:34
スウェーデンボルグがはっきりこう言っていた、ではなく、私の感想ですが、 「言(ことば)」とは、やはり、「比喩的表現」なのだろうと思います。 それは「語るもの」です。つまり本質を「語る」もの、「表わす」ものという 意味です。 私たちの本質は「魂(霊魂)」だとしましょう。少なくとも「身体」ではない はずです。 なぜなら「身体」だとすると、「片手」を失えば「私」でなくなるかというと、 そうではありません。あるいは、「両手、両足」を失っても、生きている限り 私は「私」です。 それはやはり、「私」とは物理的な身体ではなく「魂」あるいは「生命(いの ち)」だからです。 しかし、この世ではこの肉の身体がなければ、私は見えません。また働きも 出来ません。すなわち、私はこの「身体」を通じて「私」を「語る」、「表わ す」のです。 そして、私のこの「姿」である生きている「身体」を見て誰もが「私本人」 であると認めます。「霊魂」という私と、「身体」という私と二人の「私」が いるのではなく、「私」はやはり一人です。その「私」とは「霊魂」と 「身体」が一体となっているのです。
708 :
小さなヨハネ :02/03/15 23:35
主もそうです。主のその「霊魂」を「父」と言い、その姿である「身体」 (キリストとしてのお姿)を「子」というのです。それは主の「霊魂」、「魂」 (父)を語るものです。ですから父(霊魂)と子(身体)はまさに一体であ り、神「ご本人」、父「ご本人」なのです。 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを 信じなさい」(ヨハネ14・11)。 「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)。 とはそのことです。ですから主イエス・キリストは父「ご本人」ですと申し 上げるのです。 私を見たら皆さんは私「本人」だと思われるでしょう。そして「私」を 「見た」とおっしゃるでしょう。しかし、主の場合は主御自身つまり神 「ご本人」とは思わないのです。そのことを固く否定します。 主は言われます。 「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」(ヨハネ6・36)。 「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14・9)。
709 :
(´ー`。) :02/03/15 23:37
ヘレンケラーが幸福だったのは、スウェーデンボルグを信じてたからです。 彼女は死後の幸福だけを希望に信じて生きてた。ぁぅぁぅ
710 :
小さなヨハネ :02/03/16 00:00
聖書は「比喩的表現」に満ち溢れているということを忘れてはなりません。 「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを 説明された」(マルコ4・33、34)。
711 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 00:30
>>700 、
>>706 いやあ、dendo.さんに身分というか専門というかを聞いちゃったのがまずかった。
答えたうえで「で、そちらは?」と聞き返されると、答えざるをえなかった。
でも、ふらんちぇすこよ、まだ個体識別はされてないつもりでいるんで、そこん
とこよろしく。
712 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 00:39
>>705 「残念」と本来書いていいのは三位一体論者やマリアさんですよ。
小さなヨハネさんは史実や現実を歪めていますが
「神の名を使えば何でも正しい」的発想は最悪です。
特に、西方教会についての意見は唖然とします。
全てのレスが自分の勝手な誤解を正当化することを主としています。
特に西方と東方両教会についての勝手な憶測に基づく
勝手な誤解を正当化するものの考え方は心療内科での治療が必要でしょう。
>説得とか、反証とかを達成することには、あまり興味がありません。
>本当は、議論の勝ち負けを見るのは嫌いなの。
>議論だけでことを進めるのも好きじゃないです。
もう嘘はやめましょうよ。
私はキリスト教徒じゃありませんからはっきり言いますよ。
あなた方は自分達が勝利しているはずだと信じています。
それは大きな勘違いですね。
それにボルグ主義者には神道を勉強した方が良いように思いますね。
キリスト教を勉強するよりはいいと思います。
神道では教義もなく「ありのまま」なんですよ。
多くのキリスト教徒は「中身がない」と嘲笑しますがね。
ボルグ主義者から見てもそのようですがね。
713 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 00:45
>>708 そんなことを言ってもキリスト教徒には関係ないことですよ。
そろそろ脅しはやめられて、本来行くべきところへいかれてはどうですか?
ここで妄想を増幅させているだけならボルグ主義なんかやってる意味ないですよ。
714 :
dendo. :02/03/16 00:51
逆に学生あたりに coming out しておいたらいかがです? :) うちの研究室2ちゃんねる読んでる奴多いけど宗教板は私だけみたいだなあ。 人文系はこーレヴェルなんだかななところが多いので、みんな読んでない (だいたい某お米の国の学会の ML からして常時 flame で人格攻撃だもんなあ。 とほほ) むしろ料理板とか園芸板とか読んでるみたいで。みんな。
>ボルグ主義者 なんしか キング夫人主義者とか マッケンロー主義者とか エドベリ主義とか そういう連想が働く語ですな。
まず、理解してください。ご賛同は別に…、無理でしょう。 リサは、この神にお出会いして38年、プロテスタンティズムとして23年。 しかも、ただ日曜日に会堂の椅子を暖めただけではありません。 大学時代には、バリバリの自由主義の先生から、ご自分の母校に進むことも ご配慮頂きました。 スウェーデンボルグを理解してみて、思うことは、 プロテスタンティズム文化は偉大だということです。 自分は、聖書の神さまを信じていると思っていましたが、 プロテスタントの神を信じていたのだということがよく分かりました。 今もって、スウェーデンボルグに感心しても、わが母なるプロテスタンティズムを こき下ろしているものに、快感はありません。ただ、理解はしなければなりません。 理解すること。小さなヨハネさんもです。 きっと、ここでやっていることも、何かの役に立つのでしょう。 何かを経験しなければならないから、ここに頑張っているのでしょう。 本当に理解すれば、憎しみは減ります。 小さなヨハネさんは、理解されることは無理だということを 理解した上でお話されるべきなのです。愛によって語れないなら止めるべきです。 毎朝1時間祈ることをお勧めします。だんだん、偏屈な人になっています。
717 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 11:46
>>716 信じている人には理解出来るでしょう。
信じていない人には理解出来ないということを理解しましょうよ。
そして私が神道を持ち出してくるのも理解しましょうね。
何故なら、神道が分からなければ
スウェーデンボルグ説を理解するのは非常に無理かも・・・。
しかし、神道とスウェーデンボルグの違いもあります。
神道は他をこき下ろすことはしないということです。
他も「ありのまま」に在るからです。
人の悪い技によって気が枯れているなら、神様が良い人を導くからです。
小さなヨハネさん。
あなたはまだまだ修行中の身ですよ。
裁く権利は神様からもらってないはずですね。
スウェーデンボルグからイェーススの愛を知りましょうね。
イェーススの愛が体得出来たら、
後は自然に在りて在るもの全てが理解出来ますよ。
今あなたが置かれている状況は良くないですよ。
聖霊<神様のくれた魂を汚す行為です。
聖霊を汚したら気が枯れていきます。
これは大切なものから目を閉じさせるサタンの仕業。
神様に懺悔しましょうね。
神様はこうやって人を使って教えてくれます。
でもあなたは悪いように取ってしまっています。
もうそれはしてはいけませんよ。善意に解釈してみましょうね。
そうしたら、イェーススの言ったことが分かってきますよ。
イェーススはここに在る全ての人の発言と共にいますから。
718 :
dendo. :02/03/16 20:44
>>697 ブルネルスさんが気がつかなかったのか意図してかわしたのかはともかく
わたくしこの話題を実は前スレでも書いております。
それに対する「小さなヨハネ」某の返事は
「……は書き終わりましたか? はやく私の質問に答えてください」
でした。
一方普通の人の反応、というかキリスト者の反応はこうなんだよね↓
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/993607719/617 …… 1 には connotation を読む能力が皆無なんですよ。たぶん。
どころか字面だけでも読めているのかどうかもあやしいと私は思う。
なので賽の河原状態になってしまうのではないでしょうか。
719 :
小さなヨハネ :02/03/16 21:38
私が至らないために、リサさんにまでご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳 ありません。確かに私は、キリスト教の何の素養も経験も無くここへ来てし まいました。わたしは従来のプロテスタント、カトリック、正教、スウェー デンボルグ派の伝統を否定するものではなく、敬意を表しています。なぜな らそれぞれの中で「再生」を遂げた誠実なクリスチャンは大勢おられるから です。 一方で、私は今までキリストが神であることを知りませんでした。しかし、 それを知ってから世界観が変わりました。すぐに行いにまで行きませんでし たが、それには時間がかかることでした。 私が今なぜここへ来ているかというと、各派の方でまだそれをよく知らない 方に伝えたいのみならず、私のようにキリスト教に縁のなかった人で、ある いはキリスト教を敬遠していた人で、救いを求めておられる方にも伝えたい からです。数としてはそういう方の方が多いのではないかと思います。私は 一応『一にして公』と言われるカトリックでご聖体をいただいていますが、 どの教派というよりも、むしろただのクリスチャンです。 そして、これからは教派はそのまま存続するとしても、教派間の比較をして どこが正統とか言うより、主イエス・キリストを神と崇拝することにおいて クリスチャンが一致できればよいのではないかと思っています。 皆様、リサさんは私とは違い、クリスチャンとしての経歴も長く、大変な勉 強家です。そして、二人して「スウェーデンボルグ主義」の宣伝をしようと している訳ではありませんし、違う見解もあります。温かく見守ってあげて ください。
720 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 21:44
>>718 様子を見てみましょうよ。
ここで既に明らかになっているのは
スウェーデンボルグの神への捉えは
西方神学の延長線上にあるということです。
本人が興味があるとかないとかに関わり無くですよ。
本人は勝手な妄想を撒き散らしていますがね。
ブルネルスさんにも悪いけど、
私は神道的解釈によるヤハウェ・アドナイ・エロヒム
の三位一体は支持しますが、
ヤハウェ・イェースス・聖霊の三位一体は支持できませんし
基本的な部分は三位一体説とほとんど変わらないということの
指摘を何度されてもわざわざ退けているくらいですから、
この人たちに何を言っても無理だろうなとも思います。
せめて「他が悪い」「自分達だけが正しい集団」という
「イスラエルの過ち」から早く抜け出して欲しいですね。
そしてスウェーデンボルグ説をよく知って
スウェーデンボルグを超えていって欲しいですね。
彼はまだ語っていない部分がたくさんありますよ。
721 :
小さなヨハネ :02/03/16 21:45
>>718 名前:dendoさん
どういう事情がおありか何も存じませんでした。もう大丈夫ですか?
早く質問に答えてくださいではなく、よろしかったら教えてください
と書いたつもりですが、大変申し訳ありませんでした。
(>前スレッド643)
722 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 21:59
>>720 ならね、君のすべきことは
三位一体説の否定であってはならないね。
そこにいる人間だからといってそこにいる人はみんな悪人かね?
善人も悪人もいるよ。
それを否定して「新しいものだけでいい。
あんた達の昔の伝承なんて古いものだから役立たず」
と言いたげなその態度は改めた方がいいね。
新しいものも古いものも神が降ろしたんだよ。
イェーススと旧約の神とは性格が全く違う。
だけど同じ神なんだよ。イスラムも同じ神なんだよ。
一見支離滅裂で違うけど同じなんだよ。
神道だって仏教だってそうだよ。みんな同じなんだよ。
>>712 >それにボルグ主義者には神道を勉強した方が良いように思いますね。
>キリスト教を勉強するよりはいいと思います。
>神道では教義もなく「ありのまま」なんですよ。
>多くのキリスト教徒は「中身がない」と嘲笑しますがね。
>ボルグ主義者から見てもそのようですがね。
神道はね、勉強したいんですが、どこで勉強できるんでしょうか? 今度HPをアップしてください。
確かに、私たち「教義なき日本神道」としか聞いていなかったので、今回ここで、
こんなにいろんな風に伝承があるんだと聞いて大変興味をそそられます。
私の友達なんかも、知らないんじゃないかしら。聞いたことないもの。教えていただけたらスクープよね。
昔、母が大本教に誘われていたことがあって、1回だけ総本山みたいなところについて行ったことがあるの。
小学校1年生のときのことで、もう覚えていないけど、でっかいお堂みたいなところに集合してね、
祝詞を延々と1時間くらい上げる中に座らされてました。もうその時、私はキリスト教化されつつあったんだけど、
あれは凄かったよね。凄い雰囲気があって、なんて言うか、のまれそうでした。ひょっとして、ものすごいっぽい、って
今もって、あれは忘れられないよ。ここと関係なく、よく思い出します。
わたしはね、神社で、聖書の神にお会いしたの。初めて。もちろん聖書を持っていたわけではないよ。
忘れることができない。それ書いてもいいけど、長い。神社のお御籤もよく引いたよ。よく当たるよね。
聖書を読み始めたときでしたが、聖書はわからなくても、お御籤は分かった。とても頼りにしてました。
どうもお世話になりました。
>>720 スウェーデンボルグでは、何を読まれましたか?
正直なところ、小さなヨハネさんの説明から、スウェーデンボルグを理解するのは
本当は、結構不可能のような…。ごめんね、小さなヨハネさん、私、ヨハネさんのを読んでいて
さっぱり分からないの多かった。あの、教皇さまのたとえ話がよかったな。
いつも、他の聖書解釈のところは、とても上手に教えてくださるのにね。
>>722 >イェーススと旧約の神とは性格が全く違う。
>だけど同じ神なんだよ。イスラムも同じ神なんだよ。
>一見支離滅裂で違うけど同じなんだよ。
>神道だって仏教だってそうだよ。みんな同じなんだよ。
全く問題なし。また、教えてくださいね。
人に聞くのは好きでも、自分ではあまり勉強しないので。ごめんね。
725 :
名無しさん@1周年 :02/03/17 17:56
今日は聖パトリックの祭日ですね。 パレードが見てみたいです。特にアイリッシュ・アメリカンの パレードが好いです。緑のタータンとインヴァネスを着用して、 GHBを鳴らして行進するのは、ちょっと違和感を感じますけど。 私にとって、バグパイプとハープによる音楽さえあれば、けっ こう幸せを感じられます。 音楽というのは、本当に不思議なものです。神の恵みをその中 に感じます。当初から、礼拝には歌が用いられていたそうです が、素晴らしいことだと思います。
神が、わざわざ人(生物学的にも)になられて地上にこられて、 奇跡を行い、御自身について示された事を信じます。 人の子に父を見ます。
>>725 ご親切に、ありがとうございます。大本さんは、母親の管轄なのですが…。
あれ以来、母は、宗教はもうたくさんと言っておりましたが…、
なぜでしょう、何年か後には写経しておりました…。
だけど、スウェーデンボルグって、結構いろんな人にいろんな風に引用されているんでしょ?
あまり詳しくないですけど。
>>667 神の総ては解らない
の原則が(わたしには)あります。被造物には解りえない部分があるのです。
ですから、被造物は、その部分の存在を推定しつつ(勿論、完全ではありえ
ないでしょうが)、理解可能な範囲において、関係を求める、という状況は
あの表現でかまわないと思います。
730 :
小さなヨハネ :02/03/18 00:14
皆さん、こんばんは。
いろいろと、ご指摘いただき有り難うございます。
ところで、
>>695 ,696,702,703,704,712,713,717,720,さん
これは皆同一の方のご発言ですか?
これまでに、このスレッドで発言された方ですか?
できれば、HNでお願いします。
そして、あなたの信じている神と主イエスとの関係についてもう少し詳しく
ご説明していただけませんか?
>729の続き そして、このような”認識論”において客体の認識の前提は、我々の”認識 行為”が前提に存在せざるを得ません。
>>690 人の子としてのイエスと神御自身の区別は人の主観によって
現に存在しとるではないか。にもかかわらず、人の子は、神
と見るというのが、キリスト教。
さらに、「ヤハウェは被造物がなければ存在できない」
というのは、認識論においては、観察者の有無で否定されえ
ない事はない。
733 :
小さなヨハネ :02/03/18 01:04
>>726 : ◆rs2OUULQ さん
>音楽というのは、本当に不思議なものです。神の恵みをその中
>に感じます。当初から、礼拝には歌が用いられていたそうです
>が、素晴らしいことだと思います。
主の御降誕のとき、天使の大軍が神を讃美して「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2・14)と言ったとあります。それは
恐らく歌だったのだろうと思います。スウェーデンボルグにも天界で天使たちが歌う場面
は何度かあったように記憶しています。またスウェーデンボルグが音楽を聞いている間、
悪霊たちが活動を止めたという話があったように思います(霊界日記?)。
マリア・ワルトルタでも、主の一行がエルサレムに登るとき、詩篇の一節を歌いながら
行くシーンがありました。
734 :
小さなヨハネ :02/03/18 01:09
>>727 名前: ◆rs2OUULQ さん
>神が、わざわざ人(生物学的にも)になられて地上にこられて、
>奇跡を行い、御自身について示された事を信じます。
>人の子に父を見ます。
おお、そうです!その通りです。
いつか、マリア・ワルトルタを読まれることをお薦めします。
本当にそのことを実感し、感動してしまいます。
735 :
名無しさん@1周年 :02/03/18 16:05
>>723 神道は勉強なんていりませんよ。
日々の生活が既に神々と共に送っているのですから必要ありません。
特別なことを知りたいなら学研の本でも買えば基本が解るでしょう。
それ以上のことは望めば導かれていきますよ。
それから聖書の神が降りてきたと感じた理由についてお答えします。
聖書の神があなたの神だからですよ。
もし宗旨が変化すればその神が降りてくるように感じます。
特殊なのはマリアさんのケースですね。
以前「私はいつもあなたと共にいる」という
イェーススとの合一経験があったようです。
かと思えば先祖の神々などの日本の神々との通じ合いもあるようです。
>>724 あの世で会いました。と言ったらどうします?(笑)
>>730 あなたはどうしてそんな問いしか出来ないのですか?
そして、何故そういう問いが自分から出てきたか
よく考えてみてください。
>>734 マリア・ワルトルタですか…。
これは彼女の所属していたカトリック教会からも認められていませんね。
誰かも言っていましたが
これをキリスト教徒に勧めるのは良い行為だと思えませんね。
あなたは他に敬意を持っているといいながら、
実はまったく下位に見ているのです。
自分の心がどこにあるのかひとまずは良く知ることです。
正直、 イエスキリストは父なる神 これは、無い話。 無いものは無いんだからしょうがないんだがな〜〜。
737 :
名無しさん@1周年 :02/03/18 20:33
>>727 ちょっとすいません。
「人の子から父を見た」というのが、三位一体論での捉え方です。
イエスの聖書の言葉から、導き出しているわけなのですが・・・。
そちらの教派では、より一体化させているように見受けられますね。
よりスウェーデンボルグ説に近いようですね。
738 :
名無しさん@1周年 :02/03/18 20:49
追加:三位一体説は「言により、ヤハウェを知る」 というカッバーラの基本との共通項もあるように思われます。 ヨハネの福音書の筆者が描くイエスの発言からは、 カッバーラにも通じていたと思われる節がたくさんあります。 面白いです。 スウェーデンボルグは、イエスがヤハウェだと言っていますが、 大変な注意を要します。 この考え方では仏教では釈迦がヤハウェとなり、 日本なら、天皇家祖神の大日霊女(天照大神と合一し、 天照皇大神と呼ばれている巫女)がヤハウェとなってしまいます。 人として現れた存在全てがヤハウェとなりますので、 聖書からも明確に否定されますね。
739 :
名無しさん@1周年 :02/03/18 21:50
◆◆産経新聞◆2002年3月17日『談話室《アピール》』◆◆ ■ キリスト教会は『反日』を改めて 会社員 上田真弓 42(神奈川県伊勢原市) 日本人の中には平和運動を反日運動と勘違いしている向きがあるが、日本の キリスト教会にもその傾向が強いと言わざるを得ず、クリスチャンである私は 心を痛めている。 日本の過去の謝罪や補償を求める、自衛隊の米軍支援反対、天皇制反対、日 の丸・君が代反対、首相の靖国神社参拝反対、新しい歴史教科書反対など、教 会によって違うであろうが、左よりの政党やマスコミと同じ思想が幅をきかせ ており、わたしは教会でこのような話が出るたびに嫌気がしてくる。 キリストの教えを学ぶ教会なのか、反日団体の集まりなのか、悩むことが多 い。 わたしは何度か南米の国々を旅行したが、ほとんどの国民がカトリック教徒 であり、大きな町はヨーロッパ風で、いくつもの教会が立つ光景をいたるとこ ろで目にした。 ガイドブックは「コロニアル風の町」などときれいな書き方をしているが、 私は胸が痛くなった。これらはかつてヨーロッパのキリスト教国が南米を侵略 し住民を虐殺し、自分達の国と同じ町をつくった跡である。 実際、ある博物館では、白人が銃で原住民狩りをしている写真を見て衝撃を 受けた。 キリスト教国の侵略と虐殺は、そんなに遠くない昔の出来事なのである。私 はキリスト教会にこのような過去を謝罪せよ、などと言いたいのではない。ど こにでもそのような歴史がある、と言いたいのである。 日本のキリスト教会は、次のキリストの言葉を改めて考えてほしい。 「人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁くその裁きで自 分も裁かれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろ う。なぜ兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目に梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取 らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのける がよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り のけることができるだろう」 新約聖書マタイによる福音書第七章一節〜五節 ◆◆産経新聞 2002年3月17日12版◆◆
740 :
小さなヨハネ :02/03/18 23:58
>>735 :名無しさん
>
>>730 あなたはどうしてそんな問いしか出来ないのですか?
>そして、何故そういう問いが自分から出てきたか
>よく考えてみてください。
>
>>734 マリア・ワルトルタですか…。
>これは彼女の所属していたカトリック教会からも認められていませんね。
>誰かも言っていましたが
>これをキリスト教徒に勧めるのは良い行為だと思えませんね。
>あなたは他に敬意を持っているといいながら、
>実はまったく下位に見ているのです。
>自分の心がどこにあるのかひとまずは良く知ることです。
あなたは、なぜHNを使えないのですか?
マリアさんを偽っておられたのはあなたですね?
なぜそんなことをなさるのですか?
あなたはマリア・ワルトルタを読んだことがあるのですか?
741 :
小さなヨハネ :02/03/19 00:56
>>736 :ver3.04 ◆0PoPNzcc さん
>正直、
>イエスキリストは父なる神
>これは、無い話。
>無いものは無いんだからしょうがないんだがな〜〜。
ははは。もしよろしかったら、ver3.04 さんにもマリア・ワルトルタをお薦めし
ます。10冊ありますが、そのうちの1冊『マグダラのマリア』などよいかも
しれません。とにかく素敵なのです。
ラザロはベタニアの大金持ちの青年で、その妹はマルタとマリアです。父、母は
亡くなり、末の妹マリアは奔放で、家を出て、ローマ人相手の高級娼婦となって
います。兄のラザロは心を痛めて主イエスに、妹を救ってくださいとお願いします。
主はマリアに近づいても何げない素振りで、マリアの方から回心してくるのをじっと
待ちます。マリアの回心、聖母との出会い、主の一行に加わって旅をするところ、
ラザロが死んでも主を信頼するマリア、主の復活までの気丈なマリア。主を裏切った
ペテロがいつまでもめそめそするのを叱り飛ばすマリア・・・。
本当に感動しました。
742 :
名無しさん@1周年 :02/03/19 01:02
三位一体「説」って言われちゃーなぁー。 君に異端宣告します。
743 :
小さなヨハネ :02/03/19 01:12
以前、スウェーデンボルグを読み始めたころは誰彼となく、スウェーデンボルグ を薦めては、周りを辟易させたものです。私の話はすべてスウェーデンボルグ に負っていますが、今はどういう訳か、あまり人に薦める気まではしません。 その代わり、マリア・ワルトルタをお薦めするようになりました。押し付けは しませんけれど、本当に素晴らしいのです。735の名無しさんも、まだなら よろしかったらお読みください。あなたの嫌いなカトリックがそれを許可して いない(?)から読まないというのは変な理屈です。読まないで批判するより 読まれたほうがきっとお得です。
744 :
小さなヨハネ :02/03/19 01:19
>>742 名前:名無しさん@1周年 :02/03/19 01:02
>三位一体「説」って言われちゃーなぁー。
>君に異端宣告します。
・・・?もっと詳しくおっしゃってください。議論ならウェルカムです。
745 :
名無しさん@1周年 :02/03/19 09:37
>>740 どうして話をすりかえるのですか?
また、マリアを名乗り出て来る意味は私にはありません。
私には名前は必要はないからです。
>>753 いつ私がカトリックが嫌いだといいましたか?
私が言いたいことはマリア・ワルトルタを
キリスト教徒に勧めるということが
どういうことなのかをあなたは分かっていないということです。
他を尊重するなら敬意を示しているなら
他を混乱に陥れる手法は取るべきではありません。
混乱させて良いのは神のみです。
あなたはキリスト教の主神イェーススではありません。
その資格はありません。
カトリックの聖伝からは彼女の見たビジョンは拒否されます。
それがどういったことを指しているのか分かりますか?
自己中心に相手を下位に見る癖はやめるべきです。
そういうところを直さないとここにあなたは出て来る資格はありません。
いたずらにボルグ主義とキリスト教主義が対立するだけです。
新約の歴史見解についても身勝手な見解を載せていますが、
そんなものはきちんと歴史を調べてみてください。
イェーススを神だという説が出てきたのは後々のことです。
勝手な思い込みで語るなら、新興宗教の教祖達と変わりありません。
746 :
名無しさん@1周年 :02/03/19 09:55
イエスって神自身ではないんじゃない?神になった、っていうのならわかるんだけど。 だって、天の父に祈ってるし。 ただ、神自身だったら、なんて素晴らしいんだろう、って思うけどね。
747 :
名無しさん@1周年 :02/03/19 10:12
>>746 神になったというより、神に祭り上げられたが正解かも・・・。
748 :
名無しさん@1周年 :02/03/19 10:15
キリスト=法則=神 法則 / \ キリスト――――神 イエスは神(法則)を伝える キリスト(救世主)であった。
749 :
名無しさん@1周年 :02/03/19 10:38
まぁ、そんなとこかも。
750 :
名無しさん@1周年 :02/03/19 11:08
>>746 誰かが言った夢想や理想を一般論として受け止めて
後から理論武装しては真実から離れていくだけだと思うよ
751 :
名無しさん@1周年 :02/03/19 13:57
そだね。
イエス・キリストは、確かに神霊を持ってこの地に生まれた。 それは、俺の理解にもある。 ・・・が。 父なる神=イエス・キリストでは無い。 大体、イエス自身が父なる神ならば、何故父なる神に祈るのか? 父なる神=天主orこの地の最高位の神 ならば、イエスはそうではないよ。 ただ、彼の言葉は、主その人から出たもの。 それはそうなんだがな・・・。
753 :
小さなヨハネ :02/03/19 23:25
>>752 :ver3.04 さん
>大体、イエス自身が父なる神ならば、何故父なる神に祈るのか?
確かに非常に難しい問題です。私にも詳しくは分かりません。でも、人が祈る
なら、人となられた神が祈られても良いではないですか?
マリア・ワルトルタの中に、主がユダに、なぜ主は(神は)人となられたか
説明されるシーンがありました。内容は忘れてしまいました(!)が、迫真の
場面でした。
主はやはり、人となられ、人の苦しみを本当に苦しまれたようです。それは、
神だから何でも出来たのだ、自分たちとは違うと、人間に言わせないように、
だったかと思います。
スウェーデンボルグは主は(神は)あえて不完全な人を身に着けられ、その身を
完全にして遂に本来のヤハウェへと純化される過程が主の試練の過程であり、
人間の試練の過程に相応していると述べていました。また、そのことを通じて
(表象・相応の関係を通じて)人間も試練を克服できるようにされたとあったと
思います。そして人間が祈るのは内心のうちに神に祈るが、主の場合は内心のうち
のご自身、すなわち神(ヤハウェ)ご自身に祈られたとありました。
754 :
小さなヨハネ :02/03/19 23:30
そして、主の試練は生まれたときから死ぬまでの一生涯が試練の連続であった ということを、スウェーデンボルグ、サンダー・シング、トマス・ア・ケンピス も言っていました。
755 :
小さなヨハネ :02/03/19 23:34
>>748 名前:名無しさん
>キリスト=法則=神
法則
/ \
キリスト――――神
>イエスは神(法則)を伝える
>キリスト(救世主)であった。
・・うーん。絵はお上手なのですが、ちょっと、違う。
756 :
小さなヨハネ :02/03/19 23:37
>>747 名前:名無しさん
>
>>746 神になったというより、神に祭り上げられたが正解かも・・・。
・・うんうん。ブルネルス説ですね。
757 :
小さなヨハネ :02/03/19 23:53
>>746 :名無しさん
>ただ、神自身だったら、なんて素晴らしいんだろう、って思うけどね。
・・・おお!その言葉を待っていました!
その素晴らしいことがおこったのです!!
それほどまでに父は私たちを愛してくださったのです!
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)。
これです。これは天の父が子を派遣された、のではなく、父おん自ら人の姿(子)
となって、来られたという意味です。それほど、父は私たちを愛して下さったのです。
だからこそ、当時の人々は信じたのです。そうでなければ、ありがたみなどある訳が
ないではないですか!キリスト教が迫害を受けても生き残り、これほど広まっている
のは、この真実を知った人々の信念(信仰)によるのです。
758 :
小さなヨハネ :02/03/20 00:01
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが わたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな 愛はない」(ヨハネ15・12,13)。 父なる神はなんと、そのお言葉の通りになさったのです・・・!! なんということ・・・!!
759 :
名無しさん@1周年 :02/03/20 00:02
法則 / \ キリスト――――神 三角形の面積は?
760 :
小さなヨハネ :02/03/20 00:12
「父なる神は御自分の子を派遣して、その子が人間のために自らを犠牲にした ので、父はそのことをよしとされ、人間を許された・・・。」 すなわち、「刑罰代償説」です。しかし、そんな馬鹿な話がありますか? そんな、親がどこにいますか?非常識もはなはだしい! 主が父御自身なら、御自分が御自分を犠牲にしたら、御自分が許された などという馬鹿げた理屈は成り立たなくなります。
761 :
小さなヨハネ :02/03/20 00:15
>>759 名前:名無しさん
>法則
/ \
キリスト――――神
>三角形の面積は?
おー、ヨハネは英語も算数もだめなのです。
762 :
名無しさん@1周年 :02/03/20 00:19
>761 よくわかりました。ご指導に感謝!
763 :
小さなヨハネ :02/03/20 00:45
>762 いえいえ。どういたしまして。
764 :
小さなヨハネ :02/03/20 00:46
>>745 :名無しさん
>また、マリアを名乗り出て来る意味は私にはありません。
・・残念、はずれですか。
>私には名前は必要はないからです。
あなたに必要なくとも、こちらが不便なのです。
それに、あなたが説教しようとする馬鹿なヨハネでさえHNを使っているのに、
説教しようとするあなたがHNを使えないとは・・・。
>いつ私がカトリックが嫌いだといいましたか?
>私が言いたいことはマリア・ワルトルタを
>キリスト教徒に勧めるということが
>どういうことなのかをあなたは分かっていないということです。
・・・あら、カトリックはお好きでしたか?失礼しました。
マリア・ワルトルタを薦めるのはどういうことなのですか?
マリア・ワルトルタは当時の教皇ピオ12世が、この原稿の通り、一字一句
違わずそのまま出版しなさいと言われたそうですけど・・・。
765 :
小さなヨハネ :02/03/20 00:47
>あなたはキリスト教の主神イェーススではありません。 >その資格はありません。 ・・・当たり前です。 >カトリックの聖伝からは彼女の見たビジョンは拒否されます。 >それがどういったことを指しているのか分かりますか? ・・・分かりません。 >自己中心に相手を下位に見る癖はやめるべきです。 >そういうところを直さないとここにあなたは出て来る資格はありません。 ・・・? あなたも、HNをつけてまたいらして下さい。 >いたずらにボルグ主義とキリスト教主義が対立するだけです。 ・・・キリスト教主義? >新約の歴史見解についても身勝手な見解を載せていますが、 >そんなものはきちんと歴史を調べてみてください。 >イェーススを神だという説が出てきたのは後々のことです。 ・・・ああ、あなたもブルネルス説なのですね。 ・・・え、まさか!!
人に教えているつもりだろうが、 「よく分かっていません」とか 「よく覚えていません」とか 「そこまでは知りませんでした」とか こういう発言がやたら多いんだよね。 それも、自分の主張している説について! こういうこと言える人、人に教えて、何教える? もっと分かってから教えたら? 戦いっていうのは、何もすぐに実戦に出ることではないよ。 自分の内にある無知と戦い、すべての人に気持ちよく聞いてもらえる十分な内容を備えるために、 まず自分と戦う、ということを、知らないのだ。 敵に当たるのに、自分の戦力を計算してからにしろ、って、あなたの好きな聖書にあるでしょ。 (もちろん、私自身は、皆さんを敵とは思いません。)
767 :
名無しさん@1周年 :02/03/20 08:33
それで、
>>743 >以前、スウェーデンボルグを読み始めたころは誰彼となく、スウェーデンボルグ
>を薦めては、周りを辟易させたものです。私の話はすべてスウェーデンボルグ
>に負っていますが、今はどういう訳か、あまり人に薦める気まではしません。
>その代わり、マリア・ワルトルタをお薦めするようになりました。押し付けは
>しませんけれど、本当に素晴らしいのです。
とくる。
ほんなら、なんで、スウェーデンボルグについて説教すんねん。
始めっからマリア・ワルトルタにしとけの。自分が言うてることがわかっとんか?
あなたはスウェーデンボルグを伝えたいのと違うんだよ、ヨハネ君。
そうではなくて、あなたを救った神を伝えたいの。それも、信仰のない人に。
信仰と関係ないところに書き込みに行きな。
マリアさんには、本当に申し訳ないことをしたと思います。
あれだけ付き合っていただいたのに。最終的には、あなたの話をちゃんと聞いてなくて。
お詫びしておいてください。
もう、いいですから、誰も相手をしないでください。ほっときましょう。
自分では従っているつもりだろうが、相当、面汚しされた。 スウェーデンボルグをただの宗教にするなの。 そういう人間しかできないから、この理論は世に伝わらない。 本当は、封印されて然るべきなのです。 スウェーデンボルグは、自分の説は、いずれ世に広まるだろうと予想した。 しかし、200年以上たっても、この通りだ。 どんな預言が当たっているとしても、これだけは外れている。 今後も広まる可能性はない。それは、神が見て、広めないことをよしとされたからなのだ。
神がイスラエルに、こと細かな律法を与えた。 その律法に従えばよかった。人間は従えなかった。 神は、スウェーデンボルグを与えた。 その書いていることに正しい心ですべて従えるならば、人間には有益だ。 しかし、大抵の人間には、そんなことはできない。無理なのだ。 いいかげんな宗教も世にはできた。 それは、いいかげんな現代人にはとても良い。それくらいなら、従える。 そして、身勝手に信仰箇条を設定して、それなりの良心に従えば、それなりの良い人間になる。 そして、主は、それらの人を受け入れられる。ありがたいことだ。
この人が、人の話を聞けないのは、本人の能力に限界があるというより 神が、その耳を開いていないのです。 私は、よりによって、昨日まで、それを知りませんでした。 昨日教えていただき、ビックリでした。 そういうわけで、今後も、この人が人様の話を聞けるようになる見込みはありませんからね。 説得してくださる人は、そこのところを良くお考えくださって、適当に対処してください。 この人が、この人の神によって、説教に召されているのも本当です。今のところはそのようです。 神のご計画は分かりません。 疲れました。
>>770 訂正
(誤)この人が、この人の神によって、説教に召されている
(正)この人の宣教に対して、神がその意欲に報いたいと思っておられる
間違っていた。
772 :
名無しさん@1周年 :02/03/20 12:40
>>764-765 はっきりいって話になりませんね。
そのことも分からないならイェーススのことをあなたは永遠に理解できません。
彼が何を言っているのか全く理解することをないでしょう。
あなたにとってのイェーススはあなたのためだけに存在する
あなたに都合のよい主なる神なのです。
皆の主なる神ではありません。自分だけの主なのです。
それからイェーススについてはきちんと文献を調べてみてください。
福音書や使徒書簡の成立がいつのことなのか調べてみてください。
といってもあなたにはそんなことはどうでもいいことで、
自分さえ良ければどうでも良いことなんでしょうがね。
マリア・ワルトルタをキリスト教徒に勧めることはやめなさい。
カトリックに興味のある人たちは喜ぶでしょうが
それ以外の人にとってははっきり言って偽書です。
勧めるなら、イェーススの述べた福音を
正確に理解して述べ伝えることです。
それが今のこの時のキリスト教徒には今非常に必要なことなのです。
時は一歩一歩近づいているからです。
私が名を明かさないのはあなたが私を理解できないからです。
私が分かるようになれば私が誰だか分かるようになるかもしれません。
773 :
名無しさん@1周年 :02/03/20 12:57
訂正:カトリックに興味のある人たちは喜ぶでしょうが ↓ カトリックの奇蹟に興味のある人たちは喜ぶでしょうが
>>772 しかし、あんさんの話の筋にも、かなり無理がありますなぁ。
>それにボルグ主義者には神道を勉強した方が良いように思いますね。
と言いながら、
>神道はね、勉強したいんですが、どこで勉強できるんでしょうか?
と聞かれると、
>神道は勉強なんていりませんよ。
>日々の生活が既に神々と共に送っているのですから必要ありません。
とは、どんだけ無茶か。
Whyに、Becauseで答えようとするから、変な理屈を幾つも重ねんとならんなるし。
やっぱりあんさんには、マリアさんの代理は無理やねんなぁ。
今度、新しい名前、「ムリヤ」さんにしたらどうでしょう。
(笑)これに、自分で受けたので、ちょっと書き込んでしまいました。
すません。別に敵愾心はありません。
あんさんには牙がある。マリアさんには、そういう牙はあれへん。
それだけは、隠されへん。
しかし、それもマリアさんへの思いやりから来ているんだと信じたい。
けど、どうかなぁ……???
別に誰に荷担しているわけでもありません。
ヨハネさんに荷担しているわけではありませんので、尻馬に乗られぬ様。あしからず。
775 :
名無しさん@1周年 :02/03/20 19:28
>>774 神道はキリスト教なんかと違う世界のものなんです。
教義や聖伝を勉強して得るようなものではありません。
日々の生活を神と共に送っているということが重要なのです。
しかし一神教系の人には神道を知るにはそこを理解する勉強が必要です。
一神教系で捉える勉強とは全く違ったものが在るからです。
スウェーデンボルグを本当に知りたいのなら
キリスト教の勉強をするより、同じ種類の神を持つ
神道の勉強をした方がはるかに得るものが多いのです。
神道からいってもスウェーデンボルグはまだ途中です。
天照大神をヤハウェだといっているような程度のものだからです。
マリアさんへの思いやり?はっきり言ってありませんね。
疑問点も多くあります。神道の巫女として祖神に仕えながらも
ユダヤの家の伝承とも共に生きているということが最大の疑問点ですね。
血筋に敬意を表することは宜しいことだとは思いますがね。
あとはヤハウェ・アドナイ・エロヒームを切り離しているとも
取りかねない話をするところですかね?
ユダヤ教理解ではこの三つは同じ神だということを
言っているわけですからね。
エロヒームが複数形になっているのはこの神が重層であるからです。
三位一体論でも父という神と御子イェーススの神性は
父と同じものであると言っているわけですしね。
これはヤハウェとアドナイはヤハウェと同じものということと同じですね。
小さいヨハネさんの現状は
自分の都合のいい神だけ解ければそれでいい人なんです。
イェーススもスウェーデンボルグもここにレスする全ての人も
彼の理屈に利用されているのです。
精々頑なになれるところまで頑なになればいいのです。
そこから得るものは妄想だけといつかは気付くと思いますね。
まさに「捨てる神あれば拾う神」ありですよ。
私が誰かなんて、その時になれば分かりますよ。
776 :
小さなヨハネ :02/03/21 00:05
・・・うーん。明日また書きます。
777 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 00:35
ヤハウェ・アドナイ・エロヒームを並べてみましょう。 ヤハウェは4つの神聖文字。これは始まりと終わりなど、 色んなものがこれに当てはまります。 すなわち在りて在るという神格を指します。 アドナイは主という神格であります。 エロヒームとは異教に対するものは神々という神格ですが、 ユダヤの伝承はそうとは扱いません。 他の神々より高いという意味もあります。 すなわち、在りて在る神であり、主なる神、 いと高き本物の神であるということを言っています。 一例での解釈は、在りて在る神である主なる神である アブラハム・イサク・ヤコブの神である イスラエルの民の神ということです。 他にもこの大意に当てはめるならどのような解釈を行うことも可能です。 これを三位一体説は簡単に父と子と聖霊と表しているだけに過ぎません。 しかし、スウェーデンボルグ解釈では同じことを言いながらも これを認めずにおかしな理屈をつけて古くからの伝承を裁いているわけで、 結論としては同じことを言っていることに全く気付いていないわけで、 これを知ることが後世の人間に求められるわけです。 スウェーデンボルグを至上視してはいけません。 彼も人ですからまだ分からないことも多かったのです。
778 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 00:46
小さなヨハネさん、あなたにとっては 今は妄想を撒き散らす時期なのでしょう。 しかし、いずれその妄想から覚めなければならない時期が 来ることも忘れてはいけません。 イェーススが人に求めたことを本当に理解しなければ意味がありません。 人とは皆弱いものです。人は弱さがあるので人を裁きます。 しかし、イェーススはそのような行いを良しとはしていません。 イェースス=クリストゥスを理解したいのならば、 イェーススの教えを理解することです。 それが出来ないのならば、スウェーデンボルグやキリスト教を 正しく語ることは出来ません。 イェーススに唾する行為を犯すことになります。 しかし、イェーススはそんなあなたを見放すことはしません。 あなたが自分の中の理解に閉じこもって他を裁いたとしても。 シモン=ペトルスが三度イェーススを知らないといっても イェーススは見放しませんでした。忘れないで下さい。
なんか、仲間割れの原因になってないよね、ここのスレッド。
悪かったな。仲良くしてよ。
>>777-
>>778 ありがとう、今までので一番良かったね。
いつも、そういうふうに説教してね。
まあ、そういうわけで、このスレッドは忘れてください。
一生懸命やっていると腹立つだけだし。
小さなヨハネさん
ここ止めて、メルマガとかにしたら? あれなら、一般の反応は公表されないしね。
受けたレスで、気に入ったこと言ってくれる人には、気に入ったように言えるし。
それなりに突っ込んだ話にできるし。不評なら数字に出るし。
いやなこと言ってくる人は無視してれば良いし。
ま、俺の話が聞き取れればのことです。
主があなたのことを祝福してくださるように、心から祈ります。
780 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 08:30
新エルサレム教会って日本にもあるの?
781 :
小さなヨハネ :02/03/21 11:24
>>780 さん
あります。
スウェーデンボルグの神学関係の本の殆どを翻訳出版された静思社の柳瀬芳意牧師が
始められた宗教法人「日本新エルサレム教会」が東京にあります。ただ、柳瀬牧師が
亡くなられて、現在は牧師の方はいらっしゃらないのではないかと思います。
あともう一つスウェーデンボルグ系の教会が同じく東京にあります。こちらにはアメ
リカのスウェーデンボルグ系の神学大学を出られた牧師の方がいらっしゃいます。
全国にはその他にスウェーデンボルグの影響を受けた教会があるかもしれませんが、
詳しくは存じません。
782 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 13:45
>>779 聖なる伝承を理解せずに裁く者に対しては私は容赦はありませんよ。
これからもどんどん出てきますよ。
悪いですが腹なんか立ちませんよ。逆に再確認に利用できていますから。
あらあら、まぁ小さなヨハネさんは自分の殻から抜け出しなさいよ。 キリスト教徒も同様に、イエズスの教えを そろそろ再確認する時期が来たんじゃないかしら? いつまでもあたし達ユダヤの悪習にしがみついて 神の代理人気分に浸ってると、福音が意味の無いものになってしまう。 正確に福音を理解しないと、これからは厳しいわよ。 どんどん地球が人間にとっては狭くなってきたんだからね。
>>775 あたしは分離させている気は無いけどね?
ただ、多神教ではこれを分離させるけど、
ユダヤでは分離しないだけのことよ。
785 :
小さなヨハネ :02/03/21 17:07
>>783 :マリア さん
>あらあら、まぁ小さなヨハネさんは自分の殻から抜け出しなさいよ。
ありがとうございます。マリアさんも・・・。
786 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 17:08
-------------------------------------------------------------------------------- ビクッ. ∧ ∧ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ Σ(゚Д゚;≡;゚д゚) < うお!なんかすごいところに迷い込んじまったぞゴルァ! ./ つ つ \______________________ 〜(_⌒ヽ ドキドキ )ノ `Jззз
787 :
小さなヨハネ :02/03/21 17:10
>>782 名前:名無しさん@1周年 さん
>
>>779 聖なる伝承を理解せずに裁く者に対しては私は容赦はありませんよ。
>これからもどんどん出てきますよ。
>悪いですが腹なんか立ちませんよ。逆に再確認に利用できていますから。
「聖なる伝承 」とは何のことですか?
>>785 残念ながら、あたしはどうでもいいのよ。
あたしは、あなたではないからね。
このスレで肝心なのは、あなたがどこへ行くかだから。
あなたの現状は、みんなに自分の神を押し付けたいだけ。
自分に酔っているのね。でも、いずれ目を覚まさないとね。
>>787 それぞれの宗教は、みんな伝承というものを持っているの。
あなたは、それを否定するのに必死だけど、
そうはしない方法があるわけで、それを探せという暗示かもよ。
790 :
小さなヨハネ :02/03/21 17:23
>>779 名前: :さん
>小さなヨハネさん
>ここ止めて、メルマガとかにしたら? あれなら、一般の反応は公表されないしね。
>受けたレスで、気に入ったこと言ってくれる人には、気に入ったように言えるし。
>それなりに突っ込んだ話にできるし。不評なら数字に出るし。
>いやなこと言ってくる人は無視してれば良いし。
>ま、俺の話が聞き取れればのことです。
>主があなたのことを祝福してくださるように、心から祈ります。
ありがとうございます。
ところでメルマガというのはよく知りませんが、でも、人に知ってもらわね
ば意味がありませんので・・・。
それに、
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに
済むものはない。」(ルカ12・2)
あるいは、
「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の
方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが
神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
(ヨハネ3・20,21)
と、ありますから。
>>790 あなたにとっては、他のものは悪いものなのね・・・。
知り合いに聞いた話とはまるで違うのだけどね?
792 :
小さなヨハネ :02/03/21 17:39
>>778 :名無しさん@1周年 さん
>小さなヨハネさん、あなたにとっては
>今は妄想を撒き散らす時期なのでしょう。
>しかし、いずれその妄想から覚めなければならない時期が
>来ることも忘れてはいけません。
>イェーススが人に求めたことを本当に理解しなければ意味がありません。
>人とは皆弱いものです。人は弱さがあるので人を裁きます。
>しかし、イェーススはそのような行いを良しとはしていません。
>イェースス=クリストゥスを理解したいのならば、
>イェーススの教えを理解することです。
>それが出来ないのならば、スウェーデンボルグやキリスト教を
>正しく語ることは出来ません。
>イェーススに唾する行為を犯すことになります。
>しかし、イェーススはそんなあなたを見放すことはしません。
>あなたが自分の中の理解に閉じこもって他を裁いたとしても。
>シモン=ペトルスが三度イェーススを知らないといっても
>イェーススは見放しませんでした。忘れないで下さい。
・・・あなたは、主イエスを信じていないのでしたね?
ただの人と思っておられるのではなかったですか?
それなのに、どうしてこうおっしゃるのか意味がよく分かりません。
それから、「壮大な虚構の体系」とは何のことですか?
793 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 17:40
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;, ;, | スケルdでも! ____
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;, ;  ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄|
>>1 さんへの愛は変わらない!
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794 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 17:42
>>792 あなたはイェーススを神として信じているのではないのですか?
信じているならその言うことに忠実に歩むのが道ではないのですか?
私はキリスト教徒ならそうするでしょう。
795 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 17:45
それともやはりイェースス=クリストゥスは あなただけのために存在している あなたにとっての都合のいい神であればいいのでしょうか? スウェーデンボルグもあなたに都合のいいだけの 預言者であればそれでいいのでしょうか?
イエスは、主じゃないんだって。主は色々忙しいの。 ここは局地戦の場所なんだからさ。 最高司令官が指揮棒振ったらおかしいでしょうが。
797 :
小さなヨハネ :02/03/21 17:46
>>788 名前:マリア さん
>
>>785 残念ながら、あたしはどうでもいいのよ。
>あたしは、あなたではないからね。
私も同感です・・・。
>>797 そうでしょ?それでいいのよ。
みんなそうなんだからね。
互いに神の御地の中にいることだけ知っていればいいのよ。
それを否定するなら、否定されるだけだからね。
自分の道を人に歩ませようだなんて、それは無理よ。
799 :
小さなヨハネ :02/03/21 17:57
>>794 名前:名無しさん@1周年 さん
>
>>792 あなたはイェーススを神として信じているのではないのですか?
>信じているならその言うことに忠実に歩むのが道ではないのですか?
>私はキリスト教徒ならそうするでしょう。
・・・おお、もちろん主を信じています!
だからこそ「証し」をしているのです。
「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするので
ある。」(ヨハネ15・27)
あなたもそうおっしゃるなら、誠実に「壮大な虚構の体系」を説明してく
ださい。
800 :
小さなヨハネ :02/03/21 18:00
>>798 名前:マリア さん
>
>>797 そうでしょ?それでいいのよ。
>みんなそうなんだからね。
>互いに神の御地の中にいることだけ知っていればいいのよ。
>それを否定するなら、否定されるだけだからね。
>自分の道を人に歩ませようだなんて、それは無理よ。
マリアさんも・・・。
801 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 18:01
>>799 それは私のレスの中では出てきません。無関係です。
証をするのに人を裁いてよいとは、聖書にあるでしょうか?
受け入れられなければどのようにせよと、イェーススは言っていますか?
「押し付けよ。聞かない者は駄目な者だから」と言っていますか?
>>800 あなたが三位一体論の勝手な決めつけによる否定や
ユダヤや歴史を勝手な決めつけによる歪曲をしなかったら、
あたしは歴史や伝承の説明なんてしなかったわよ。
803 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 18:06
>>801 追加です。受け入れなければ脅迫してもよいと言ってますか?
>>800 あなたの論はいつもこう。
「自分の言っていることは、古い伝承や歴史=時の流れより正しいはず」
神とて過去の時は変えられない。過去も自分自身のものだから。
それを変えさせようとしているあなたに取り憑く神の正体は、
一体何なのかしらね?
俺の出番が来たようだ・・・、って。 あのな、イエスは俺じゃない。また、天主でもないぞ。 確かに仲間っていうか、メシアなんだがな、イエスは。 個人的な思い込みは思い込みでしかないんだぜ? 【小さなヨハネの心的過程】 イエスが好き。 ↓ イエスが主であってもいいはずだ。 ↓ イエスが主に違いない。 ↓ キタ━━(゚∀゚)━━( ゚∀)━━( ゚)━━( )━━( )━━(゚ )━━(∀゚ )━━(゚∀゚)━━━!!! ↓ 主は自らこの地にイエスキリストとなって降りてこられたのです、と説いてまわる。 他人からは、こう(↑)見えるぞ
806 :
小さなヨハネ :02/03/21 18:15
>>801 名前:名無しさん@1周年 さん
>
>>799 それは私のレスの中では出てきません。無関係です。
>証をするのに人を裁いてよいとは、聖書にあるでしょうか?
>受け入れられなければどのようにせよと、イェーススは言っていますか?
>「押し付けよ。聞かない者は駄目な者だから」と言っていますか?
あなたではなかったのですか・・・?
(しかし、HNを付けていただきたいのですが・・・。)
でも、あなたは主を信じておられないのでしょう?
あなたは誰を信じているのですか?
それからあなたのおっしゃる「聖なる伝承」とは何を指していっておられるのですか?
807 :
小さなヨハネ :02/03/21 18:20
>>803 名前:名無しさん@1周年 さん
>
>>801 追加です。受け入れなければ脅迫してもよいと言ってますか?
・・・脅迫?!
808 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 18:21
>>806 聖なる伝承とは神から与えられた伝承ですよ。
今更何を言っているんですか。
そういうものがどの宗教にもあるんですよ。
文化や気候や人の気質に合わせたものが出来上がっているんです。
私が何を信じてようと関係ありません。
要はあなたが本気でイェースス=キリストを受け入れているかです。
聖書の言葉を自分の都合に合わせて解釈しているのは
キリスト教の聖伝承からみて非常に異質ですよ。
あの世にいるスウェーデンボルグがあなたのそばに来たなら怒りますよ。
809 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 18:23
>>807 自分のいっていることを
受け入れなければ意味が無いと
はっきり言っているではありませんか。
そういうのを脅迫というのですよ。
810 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 18:30
>>802 私もそれらを肯定した上でのスウェーデンボルグ主義が
聞きたかったのに残念だと思いました。
スウェーデンボルグ主義とは、本来はそういう主義なのですよ。
811 :
小さなヨハネ :02/03/21 18:39
>>805 名前:父なる神 さん
>俺の出番が来たようだ・・・、って。
>あのな、イエスは俺じゃない。また、天主でもないぞ。
>確かに仲間っていうか、メシアなんだがな、イエスは。
>個人的な思い込みは思い込みでしかないんだぜ?
>【小さなヨハネの心的過程】
>イエスが好き。
↓
>イエスが主であってもいいはずだ。
↓
>イエスが主に違いない。
↓
>キタ━━(゚∀゚)━━( ゚∀)━━( ゚)━━( )━━( )━━(゚ )━━(∀゚ )━━(゚∀゚)━━━!!!
↓
>主は自らこの地にイエスキリストとなって降りてこられたのです、と説いてまわる。
>他人からは、こう(↑)見えるぞ
ありがとうございます。でも、次の聖句はなかなか動かしがたいと思うのです。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は「驚くべき指導者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と唱えられる。」
(イザヤ9・5)
もちろん、信じない方に「押し付け」やまして「脅迫」などしているつもり
はありません。信じる方だけが信じたらよいのです。私としては、こういう
見方もあるのですと紹介しているのです。そこで多少の議論になるのは仕方
ないのではないでしょうか?信じなくとも構わないですし、他宗教の方も
天国に行けるとスウェーデンボルグも明言しています。
812 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 18:40
┌─┐ |も.| |う | │来│ │ね│ │え .| │よ .| バカ ゴルァ │ !!.│ └─┤ プンプン ヽ(`Д´)ノ ヽ(`Д´)ノ (`Д´)ノ ( `Д) | ̄ ̄ ̄|─| ̄ ̄ ̄|─| ̄ ̄ ̄|─□( ヽ┐U 〜 〜  ̄◎ ̄ . ̄◎ ̄  ̄◎ ̄ ◎−>┘◎ オシリペンペン! ☆ / (`Д´)_ ( )) 彡 −☆ く く
813 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 18:43
>>811 嘘を言いなさい。
三位一体論を勝手に否定することはどういうことですか?
理解出来なければ否定してもよいと言うことなのですか?
それが、あなたによる身勝手な神の正体だということに何故気付きませんか?
814 :
小さなヨハネ :02/03/21 18:49
>>810 名前:名無しさん@1周年 さん
>
>>802 私もそれらを肯定した上でのスウェーデンボルグ主義が
>聞きたかったのに残念だと思いました。
>スウェーデンボルグ主義とは、本来はそういう主義なのですよ。
え!あなたはスウェーデンボルグを読んだことがあるのですか・・・?
815 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 18:50
>「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 >ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 わたしたちは、この地の者達の事を指す。 与えられた、ってことは与えた奴がいるってことだ。l >権威が彼の肩にある。 そりゃそうだ。が、権威ってのは誰かさんから授与されるもんだぜ? >その名は「驚くべき指導者、力ある神、 >永遠の父、平和の君」と唱えられる。」 驚くべき指導者。そりゃそうだ。神界の知識と力、度量と見識があるんだから。 力ある神。これもな、そうよ。俺ほどではないが相当なもんだ。 永遠の父。この地のものにとってはな。そうなるぜ〜。 平和の君。当時のあそこの状況をかんがみりゃ当然だろ。 天主=イエスにはどっちにしてもならん、て。 全部、然り、って言ってもな。 偉大な存在で、力ある神で、指導者。 これが動かないだけだろ。 偉大な存在って結構多いのよ。神も指導者もな。 そこら中にウロウロしてるもんでもないんだけどな。 イエスはイエスとして偉大な存在。 しかし、主じゃないの。
817 :
小さなヨハネ :02/03/21 18:55
>>813 名前:名無しさん@1周年 さん
>
>>811 嘘を言いなさい。
>三位一体論を勝手に否定することはどういうことですか?
>理解出来なければ否定してもよいと言うことなのですか?
>それが、あなたによる身勝手な神の正体だということに何故気付きませんか?
・・・あれ?あなたもいわゆる三位一体論は否定しているのでしょう?
なぜなら、主をただの人だと思っておられるのではなかったですか?
818 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 18:59
>>817 私はキリスト教徒に対しては否定しませんよ。
キリスト教徒も私に対してその見解を否定することはありません。
しかし、あなたはキリスト教徒に対して否定する。
わざわざ彼らの歴史を捻じ曲げてね。
819 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 19:03
私の理解は、初期に出現していた理解に基づくものです。 イェーススはユダヤの神から遣わされた ユダヤの民のメシアであり預言者であった。 40日の荒れ野での修行で悪霊の技を退け ユダヤの神と合一し宣教を始めたという考え方です。
820 :
小さなヨハネ :02/03/21 19:09
>>818 名前:名無しさん@1周年 さん
>
>>817 私はキリスト教徒に対しては否定しませんよ。
>キリスト教徒も私に対してその見解を否定することはありません。
>しかし、あなたはキリスト教徒に対して否定する。
>わざわざ彼らの歴史を捻じ曲げてね。
でも、心で否定されるなら同じではないですか・・・?
わたしは誰に対しても同じことを言っているのです。
あなたは「壮大な虚構の体系」説についてはどう思われるのですか?
821 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 19:16
>>820 いや、はっきりと否定した上で
「私はキリスト教徒にはなれません」と言ってますよ。
しかし、三位一体論が悪いものだとは思いません。
キリスト教徒に示された真理ですからそれはそれでいいのですよ。
あなたの場合はキリスト教徒でありながら否定していることです。
否定しながら聖体を頂いているのです。
カトリック教徒に示された神の真理を
嘲笑して聖体を受け取っているのです。
壮大な虚構の体系とは、全てがそうでありそうではないのですよ。
それが分からない限り、他を理解することなんて出来ません。
つーか、主は三位一体だぞ。
823 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 19:21
>>822 ユダヤ教の理解でも話は違いますがそんな感じですね。
私はそれは最もだと思いますね。
>>823 ちなみに、この地の最高神は『おのこのかぎり』だぞ(笑)。
825 :
名無しさん@1周年 :02/03/21 19:25
ハァ・・・。面白かったです。
三位一体論を壮大な虚構というのは、 両者は同じようなことを言っているから、もはや意味は無いわね。 それに、虚構という語は否定形だから、 母のほうの伝承では、全てがそうでなく、そうであり、そうではないと解く。 これは、全ては虚構でなく、虚構であり、全ては正統であるという意味。 自分達から見れば自分達のものは正統。 しかし、他から見ればそれは正統ではない。 しかし、両者のものはよく調べてみれば同じようなことを言っている。 スウェーデンボルグには、このような考え方がないのなら、 やはりそれは、特に新しい考え方ではないわけ。 言へ至る道までしか、彼は解いていないとなるわね。あたし達から見るならね。 あたし達一族は、スウェーデンボルグから得るものは少ないと見る。 スウェーデンボルグを既に、時代は追い越してしまったというのもあるけどね。 ユダヤやカトリックと神道の伝承を、冷静に検証すれば、 両者が別の角度から、同じものを見ていることがよく分かるから、 それによって解いた方が良いように映るわね。 ただ、この助けにスウェーデンボルグを使うことは、 頑なになってしまった一神教には、良いかも知れないとも最近は思うわね。
キリストが浸礼したときに天からの声があったじゃん。 確か、これは私の子とかなんとか言ったはず。 キリストが神ってことは、キリストは人間騙しってこと? だって一人二役やったってことになるでしょ?
>>827 それも文字通りにはとらないという法則があってね・・・。
829 :
名無しさん@1周年 :02/03/22 09:59
>>790 http://www.mag2.com/ http://www.mag2.com/crecre/ >>826 マリアさん、皆さん
>自分達から見れば自分達のものは正統。
>しかし、他から見ればそれは正統ではない。
>しかし、両者のものはよく調べてみれば同じようなことを言っている。
>スウェーデンボルグには、このような考え方がないのなら、
>やはりそれは、特に新しい考え方ではないわけ。
こんな極論を真に受けられて判断されて、悔しいです。
まことのスウェーデンボルグは、各宗教の自立を尊重しています。
まことのスウェーデンボルグは、各宗教の自立を尊重しています。
まことのスウェーデンボルグは、各宗教の自立を尊重しています。
スウェーデンボルグ本人は、誰にも改宗を求めませんでした。
スウェーデンボルグの救済論は大きく分けて2段階、もう一つ分けると3段階になっています。
小さなヨハネさんは、その中のキリストによる救いだけしか救いがないかのように説いています。
しかし、他宗教によっても救いがあります。
スウェーデンボルグ自身は、キリスト教ですから、彼の説いたキリスト教による救いが一番に来るのは
当然です。しかし、キリスト教と自称するキリスト教の中で、スウェーデンボルグほどはっきり
他宗教による救いの有効性を語っているキリスト教はないのではないかと思います。
この際はっきり言っときます!
ここで語られているのは、聖母が神格化され、救いの門が極端に狭い
スウェーデンボルグを自分勝手に応用した「小さなヨハネ教」という新しい宗教です。
聖母が偶像化されて出てくるだけでも、全くスウェーデンボルグ主義とは言えないのに、
自分の半端な理解を押し付けて、スウェーデンボルグを名乗るとは何事か。
830 :
名無しさん@1周年 :02/03/22 11:27
スウェーデンボルグでは「連結」ということを言います。 すなわち、自分が信仰を持つ対象と内的に連結して、その対象から影響を受けると いいます。これを「流入」といいます。 「流入」にもいろいろあり、被造物は、一般恩寵として常にある種の神からの命の 流入を得ていますが、キリストを救い主として信じることにより、さらに積極的に、 キリストの完成された人格の影響を「流入」され、それによって、個人の人格の改善 を達成することを救いとします。 三位一体が嫌われているのは、日本神道的三位一体論とは関係なく、父と子と聖霊 が別神格であるとする理解により、実質的に人の心に三人の神が神像として、人の心 に描かれてしまうことを問題としています。 人間は、弱いもので、「三位一体の神は一人」と言っていても、父とか子とか、人 間に模した表現がなされていることから、これに具体性を持たせると、三人の神にな ってしまう可能性を否定できないことを問題としています。神はお一人なので、心に 三人の神の像を描いた信者に答えようとしても、他の二神格については、実質上空席 で、そこに他の霊が入り込んで、それと連結し、キリストの人格からの影響力に被害 を及ぼす可能性を懸念します。
831 :
名無しさん@1周年 :02/03/22 11:28
さて、目下のところ問題は日本神道ではなく、小さなヨハネさんです。 小さなヨハネさんは、イエスを主としながら、実質上聖母マリアも偶像として持って おり、主イエスに連結しながら、聖母マリアにも連結しています。聖母マリアを愛し ておられる方には申し訳ありませんが、スウェーデンボルグによれば、聖母マリアは 主イエスの救済計画のために主イエスに遺伝悪を授与した者、単なる人間です。 よって、小さなヨハネさんは、主イエスを信じて連結すれば、主イエスから正しい 流入を得ますが、聖母と連結しているときには、聖なる人格ではなく遺伝悪の流入 を得ることになります。 霊の感動によって語っているとしても、二つの霊によって語ることになり、その一 つは罪ある人間性です。 それが、小さなヨハネさんの本来持っている、人の説を勝手に自己流に解釈し直し ても平気という肉と相応し、勝手にスウェーデンボルグを曲解して、このような異 端的な宣教を展開することを良しとすることになっているとしてもおかしくありま せん。 と言っても、どうせ本人には分からないのですが、本人以外の方には分かって頂けれ ばと思います。よろしくお願いいたします。 小さなヨハネさんに、主の憐れみを祈ります。
832 :
名無しさん@1周年 :02/03/22 11:45
小さなヨハネよ 「死に至るまで忠実であれ」とは、 自分の思い込みを死に至らせても、不愉快な思いをあえてしても、 自分の勝手な信念を捨てて、語られている師の理解のもとに 自我を没してみよということではないのか。
>>829 あたしがここで出してきた話は、
母の家の伝承で神道のものではないのよ。
他の民を見て判断する時に、魔性のものかそうでないものかを
見分けるために用いた技法なのだけどね。
聖母マリアはカトリックでも神格化はされていない。
彼女はその信仰が素晴らしかったために、
ヤハウェは彼女に御一人子を与えた。というのが東方説。
西方説では、マリアは無原罪であり新しいエバとなった女性。
とは捉えるけど、それもやはり信仰深い人という捉えね。
>>830 スウェーデンボルグのその考え方は、
悪いけどやはり足りていないわ。人だからそれでいいけどね。
あたしも足りているわけではないからね。
三位一体論を悪いというのは、
それはスウェーデンボルグの見解だということね。
父と子と聖霊は役割は違うが、同じ神であるといっているわけ。
イエズスは人として現れ、彼自身が父という神があり、
人の子という自分が在るといっているからよ。
何故彼が自分のことを神と呼ばないかというと、
それは人でいる内は人だからなのよ。
自分のことを神という人がいるなら、その人は怪しいわけよ。
神道理解の三位一体論は、三柱論といって、
三柱の神よりこの世の色んな神々(存在=もの)が生まれていった。
ということになっていくわけ。それは、すぐにどこかへ隠れたの。
現在の科学の仮説と非常に良く似た話が、そこに描かれているのよ。
神道の神系譜は、進化を示すものだからね。
途中までは無性生殖だけど、途中からは女神と男神が産まれるの。
>>831 イエズスの母マリアに関する考え方は、
プロテスタントの考え方の進化系ね。
初代教会では、彼女は発言は何もしなかったけど、
イエズスの母=師の母ということで一定の信頼を得ていたらしいわ。
だから、余計に彼女は何も発言しなかったらしいけどね。
母マリアは女性だから、逆にユダヤでいうところの
地の属性として考えられているから、従順な女性として描かれる。
地は、天のものを無条件で何でも受け入れるからね。
あたしも別の意味で、集落のことは滅多に発言しないわよ。
あたしはこの土地では神を現す者だから。
この土地の人から見れば、あたしは天皇さんに次ぐ存在よ。
雲の上の人よ。
だけど、そこには共通点もあるわ。人からの信頼は重いということよ。
その点、あたしには2ちゃんねるという逃れ場があるけどね。
そこから考えると、マリアの出現というのは
地母神が化けたものであろう?と考えてしまうのだけど、
神というのは、その人、その時代が
求めるものに応じた姿に変化するということ。
新しくて古いあの神が出現する準備ね。
スウェーデンボルグは、そのつなぎのために神に用いられた人かもね。
836 :
小さなヨハネ :02/03/22 23:15
>>829-
>>831 さん
スウェーデンボルグ読者からのご批判を歓迎致します。私は皆さんが出て来てくださる
ことを待っていました。このスレッドは私の個人的な色彩が強く、皆さんが発言しにく
だろうなと、申し訳なく思っていました。できればスウェーデンボルグ・スレッドとい
う公式なスレッドを立てることが出来ればと考えていました。そうすれば、スウェーデ
ンボルグ読者の方が自由に発言でき、また一般の方のご質問も受けられるだろうと思っ
たからです。ただ私にはそれを維持をする任でもないので躊躇していました。しかし
あなたのような方がたくさんいらっしゃれば、可能だと思います。いかが思われますか?
837 :
名無しさん@1周年 :02/03/22 23:18
>>836 あなたはそうやって、またスウェーデンボルグをいいように利用するだけなのだ。
838 :
小さなヨハネ :02/03/22 23:21
>>829 さん
メルマガの記事ありがとうございました。
839 :
名無しさん@1周年 :02/03/22 23:22
メルマガをどうぞおやり下さい。期待してます。
840 :
小さなヨハネ :02/03/22 23:26
>>837 名前:名無しさん@1周年 さん
>
>>836 あなたはそうやって、またスウェーデンボルグをいいように利用する
>だけなのだ。
ははは。また明日お願いします。
841 :
名無しさん@1周年 :02/03/22 23:28
了解。
842 :
小さなヨハネ :02/03/22 23:42
マリアさんもたくさん書いて下さって有り難うございます。
843 :
名無しさん@1周年 :02/03/22 23:43
好きに解釈してくれていいですよ。マリアさんのは。
844 :
小さなヨハネ :02/03/23 12:49
>>843 :名無しさん@1周年
>好きに解釈してくれていいですよ。マリアさんのは。
・・・・?
845 :
小さなヨハネ :02/03/23 12:59
>>839 名前:名無しさん@1周年
>メルマガをどうぞおやり下さい。期待してます。
私はメルマガというのより、2チャンネルの方がよりオープンで簡単そうで
好きなのです。
846 :
小さなヨハネ :02/03/23 13:09
>>829 :名無しさん@1周年
>スウェーデンボルグの救済論は大きく分けて2段階、もう一つ分けると3段階に
>なっています。
すみません。皆さんにも分からないと思いますし、私にも復習の意味でご説明して
いただけませんか?具体的に何を指しておっしゃっているのか私も分かりません。
847 :
小さなヨハネ :02/03/23 13:22
>>829 :名無しさん@1周年
>小さなヨハネさんは、その中のキリストによる救いだけしか救いがないかのように
>説いています。しかし、他宗教によっても救いがあります。
私は、キリストによる救いだけしかないと申し上げたことはありません。他宗教で
も救われるとスウェーデンボルグも明言していますし、私も、きっとそうだろうと
思います。
>しかし、キリスト教と自称するキリスト教の中で、スウェーデンボルグほどはっき
>り他宗教による救いの有効性を語っているキリスト教はないのではないかと思いま
>す。
・・・全く同感です。
848 :
小さなヨハネ :02/03/23 13:35
>>829 :名無しさん@1周年
>ここで語られているのは、聖母が神格化され、救いの門が極端に狭いスウェーデン
>ボルグを自分勝手に応用した「小さなヨハネ教」という新しい宗教です。
>聖母が偶像化されて出てくるだけでも、全くスウェーデンボルグ主義とは言えない
>のに、自分の半端な理解を押し付けて、スウェーデンボルグを名乗るとは何事か。
私は聖母を神格化していません。神は主イエス・キリストお一人です。聖母は人間
です。しかし、聖母には、これまでに秘されて来た特殊な意味があると考えています。
それについてはおいおい述べさせていただきたいと思います。
ご指摘のように、私は「スウェーデンボルグのみ」主義ではありません。ですから、
スウェーデンボルグを基礎としていますが、従来の意味の「スウェーデンボルグ主
義者」ではないと思います。特に聖母に関してその通りです。
849 :
名無しさん@1周年 :02/03/23 16:41
「新しい天」はキリスト教徒から発している新しい天界であり、「新しいエルサレ ム」は、地上の新しい教会であって、これはかの新しい天界と一つのものとなって 活動するのである。 「子羊」は神的な人間的なもの[神的人間性または神の人間性]の方面の主である。 このことに若干解説のために附加しよう。そのキリスト教天界は古代の諸天界の下 に存在している。その中へ、主がおられた時から、一人の神を三人格の下に拝する と同時に、三人の神を考えはしなかった者たちが入れられたのであるが、これは三 人格の単一性が全キリスト教界に受け入れられているためである。 しかし、主の人間的なもの[人間性]を他の人間の人間的なものとしか考えなかっ た者らは新しいエルサレムの信仰を、すなわち、主がただ一人の神であられて、そ の中に三一性が存在しているという信仰を受けることができなかったのである。こ れらの者らはそうした理由から分離されて、辺境へ追われたのである。 以上は、スウェーデンボルグによる黙示録解説の中の文章です。 読みづらくて申し訳ありませんが、ぜひお読みください。天国に入る人々について 述べられています。スウェーデンボルグは、三位一体論は、正確に神像を捉えたも のではないが、では、そのゆえに三位一体論を持っている人々は天国に入れないか と言うとそうとは言っていません。
850 :
名無しさん@1周年 :02/03/23 16:42
「三人格の単一性が全キリスト教界に受け入れられているため」、主の在世当時 以降、三位一体論を持った人々が天国から除外されるならば、天国には誰ひとり入 ることができないという、現代の神学事情をご存知であり、そのような論議よりも、 信仰により善を実行する人々を得ることを本質としておられるため、三位一体論を もって神を愛する人々も、イエス=ヤハウェ論をもって神を愛する人々も、天国に は受け入れられていると述べているのです。 この辺りを、小さなヨハネさんはどのように読んでおられるのでしょうか。ある いは読んでおられないかもしれません。 ですから、現代において、三位一体論が問題で天国に入れないようなことはあり ません。もっとも、これを頑迷に三神と捉えてゆずらなかった一部の人々は無理で あったと解釈できるような記述は他にあります。また、イエスを人間であると捉え ている人にも、天国の門は開かれるのは難しいとあるのですが、それも、他の箇所 と並べて読むと、また、天国への可能性はあると解釈できます。 ただ、神概念を修正することによって、その人の信仰姿勢に影響の出ることはあ ります。 そのことを、先日申しました。
851 :
名無しさん@1周年 :02/03/23 16:43
もし、三位一体が本当に問題で、人が天国に入れないとしたら、主は、真面目に キリスト教会に集っている人すべてに天国を約束すると言いながら、全人類を欺い てきたのであって、それはもう愛の神とは程遠い悪魔の仕業です。もし三位一体が 本当に問題であるならば、この2000年間、キリスト教会を愛すると言って愛と 奇跡の業を行ない続けて来られた神は何だったのでしょうか。 よって、三位一体かどうかを宣教することは、スウェーデンボルグの本論からは 外れています。神は、今更、現代人に三位一体云々を語るよりも、さらに重要な問 題、すなわち本当に信仰を実行する気があるかどうか、人間の善良であるか否かに 着目しておられます。 ですから、もちろんキリスト教会以外の方々にも、善良であるか否かを、重要な こととしておられると解釈するのが普通のスウェーデンボルグの読みかたであると 理解しています。
852 :
dendo. :02/03/23 23:22
>一人の神 形容矛盾では。一柱とか一体とか他の単位使えないの?
853 :
名無しさん@1周年 :02/03/23 23:24
揚げ足とるな。
854 :
小さなヨハネ :02/03/24 00:40
>>850 :名無しさん@1周年
>この辺りを、小さなヨハネさんはどのように読んでおられるのでしょうか。ある
いは読んでおられないかもしれません。
これは、「啓示による黙示録解説」でしょうか?実は私は「啓示による黙示録解説」
は読んでおりません。「黙示録講解」の方を読んだので、そちらは後回しにしたきり、
そのままとなってしまいました。もしよろしければ何番か教えてください。手元には
持っています。
おっしゃるご趣旨は「三位一体論の人間でも、主を三人の神として拝せず、一人の
神として拝して、善良に信仰を実行した人は天界へ入れる」ということかと思いま
す。それは全くその通りです。そのことは、しばしばスウェーデンボルグは言って
います。
私は、それなら最初から三位一体を正確に把握したらもっと良いではないかと言っ
ているだけです。そのために主はわざわざスウェーデンボルグに聖言の内意を明ら
かに啓示されたのではないですか?
でも、
855 :
名無しさん@1周年 :02/03/24 00:56
悪いけど、スウェーデンボルグ主義者の理論も限界ありだね。 それはイェースス・クリストゥスという枠に囚われているから。 その枠を取っ払えば簡単な話しなんだが キリスト教というペトロの権威とパウロの教義が 作り出したものからはやはり逃れられなかったようだ。 スウェーデンボルグが言わんとしていることは 古くからのカトリック教会の見解とあまり変わらないわけだよ。 あそこはその昔に仏陀を聖人と認めていたくらいだからね。 カトリック教会は真理を持っている。 ただし他の宗教にも真理のいくつかはある。 他の宗教であるからといって救われないということは無い。 ・・・昔からカトリック教会はこう考えているわけさ。 三位一体論への批判もどういうわけか カト・プロの三位一体論と言っていることは結論は同じ。 でも違うのは地上に現れたイエスが御父自身であると言っていること。 聖書に記述に沿う「神の言がイエス」という見解のカト・プロとは違う。 神道ならもっと正確にヤハウェを理解することが出来る。 マリアさんがよく引き合いに出すミカの預言書の一説は良いね。 「全ての民は皆自分の神の名によって歩むが 私達は(神聖至高なる)主なる神の名によって歩む」 (神聖至高なる)主なる神とこの「自分の神」とは 一見切り離しているが同義語であるという暗示とも見ることが出来る。 ここに神道の相対化させる神観を導入すれば スウェーデンボルグが分かっていて キリスト教であったために書けなかったことが現れて来るわけだ。
856 :
小さなヨハネ :02/03/24 00:56
>>768 : :さん
>自分では従っているつもりだろうが、相当、面汚しされた。
>スウェーデンボルグをただの宗教にするなの。
>そういう人間しかできないから、この理論は世に伝わらない。
>本当は、封印されて然るべきなのです。
>スウェーデンボルグは、自分の説は、いずれ世に広まるだろうと予想した。
>しかし、200年以上たっても、この通りだ。
>どんな預言が当たっているとしても、これだけは外れている。
>今後も広まる可能性はない。それは、神が見て、広めないことをよしとされた
>からなのだ。
それはおかしいと思います。主がなぜ封印されるべきものをわざわざスウェーデン
ボルグに啓示されたのですか?神のなさることに目的のないことは一つも無いはず
です。それが「神の摂理」ではないですか?
スウェーデンボルクは、聖絶についてどう考えているのだろうか?
858 :
名無しさん@1周年 :02/03/24 01:04
>>852 一柱は一人と同じ意味。
ユダヤの神観とキリスト教の三位一体の神と
神道の造化三柱神は良く似た意味があるね。何故だろうね?不思議。
859 :
小さなヨハネ :02/03/24 01:06
>>855 名前:名無しさん@1周年 悪いけど、スウェーデンボルグ主義者の
>理論も限界ありだね。
>それはイェースス・クリストゥスという枠に囚われているから。
>その枠を取っ払えば簡単な話しなんだが
>キリスト教というペトロの権威とパウロの教義が
>作り出したものからはやはり逃れられなかったようだ。
>スウェーデンボルグが言わんとしていることは
>古くからのカトリック教会の見解とあまり変わらないわけだよ。
>あそこはその昔に仏陀を聖人と認めていたくらいだからね。
・・・?
あなたが何をおっしゃりたいのか、さっぱり分かりません。
カトリックが釈迦を聖人と認めていた(?!)こととスウェーデンボルグと
何の関係があるのですか?
860 :
小さなヨハネ :02/03/24 01:09
>>857 名前:T氏の落書き ◆RSrQg8hk さん
>スウェーデンボルクは、聖絶についてどう考えているのだろうか?
すみません。「聖絶」というのは何ですか?
861 :
名無しさん@1周年 :02/03/24 01:25
>>859 分からない?君達スウェーデンボルグ主義者は、
基本的にカトリックと大して何も変わらないことを言っているのに、
自分達がさもカトリックより上位にいると勘違いしているということ。
君達より上位にいるのは、まともな教えとなら相対化できる
神道の神観だということ。
>>860 落書きなんかほっとけ。
殺人に美学を感じている害基地だから。
862 :
小さなヨハネ :02/03/24 10:30
>>861 :名無しさん@1周年
>
>>859 分からない?君達スウェーデンボルグ主義者は、
>基本的にカトリックと大して何も変わらないことを言っているのに、
>自分達がさもカトリックより上位にいると勘違いしているということ。
>君達より上位にいるのは、まともな教えとなら相対化できる
>神道の神観だということ。
ええ、本当に何をおっしゃっているのか訳が分かりません。
それと、率直な感想ですけれど、私などどうでもいいですが、私のように理解
力も表現力も無い者の言うことでスウェーデンボルグを判断されるのは間違
いの元だと思います。やはり原典をお読みになった方が確実です。せめて「真
の基督教」くらいは。そして、もしあなたが学者であって、学者としてスウェ
ーデンボルグについて批判されるなら、「天界の秘義」を通読しなければ、お
話にならないだろうと思います。なぜなら、スウェーデンボルグの真価は「表象
・相応」の解説にあると思うからです。それには「天界の秘義」を読まなければ
なりません。
しかし、それによって得られるものは計り知れません。新しい発見が必ずその中に
あるでしょう。人の話で間接的に知って、スウェーデンボルグをコメントしたりす
ると、後で赤恥を掻くことになるような気がします。それはあなたもそうですし、
マリアさん(偽?)も同様です。
we'll go to next sled.
865 :
小さなヨハネ :02/03/24 11:19
>>864 :名無しさん@1周年
>>682 >「天国と地獄」はどうですか。
・・・うーん。スウェーデンボルグの基督教を批判なさるなら「真の基督教」が
良いかなと思ったのです。「天界と地獄」も神を信じられなくて、死ぬのが怖い
人には最適かもしれませんね。
すみません、これからお花見に行ってきます・・・。
866 :
名無しさん@1周年 :02/03/24 12:36
false:you write 〜 ↓ true:you cannot write〜 sorry.
868 :
名無しさん@1周年 :02/03/24 13:50
>>862 残念ながら、どこををどう読んでもでも
カトリック説を基準に神道の息吹を入れた程度の説でしかないからだよ。
日本人にはそんな説を超えたものを知っているから流行らない。
マリアのようにユダヤからカトリックの伝承に馴染んだ後に
神道の伝承の中で生きる人間には非常に中途半端に見えることだろう。
山里に隠れ住んでいるせいか本屋もないのかも知れないが、
読む気もせずに宗教マニアに基本を解説して貰うとは、
もはや得るものがそこに無いということを知っているのかもね?
スウェーデンボルグの説は最終ではないのさ。
彼は人であるのでその「人の理解の限界」を示している書であるわけさ。
「パウルスは地獄にいる」とかも平気で言っているが、
それがどういう意味が考えたことがあるかね?
彼もまだユダヤ・キリスト教的な「神の代理として人を裁いても良い」から
逃れられなかったということさ。
彼の理論はキリスト教から見ても中途半端だし、
神道から見ても中途半端となる。
一見中庸に見えるが、そうでもない。
全ての宗教をキリスト教化しようとする旧約の魔神の謀略だよ。
他を凌駕したいと狙い他を潰してきた悪しき神。
イェーススはその妬む神からの解放者だった。
しかしパウルスを使ってまた元の妬む神を
愛の神として拝むように仕向けたのだよ。
スウェーデンボルグはこれに反発して振りをしているが同じだよ。
869 :
小さなヨハネ :02/03/24 20:55
>>866 :名無しさん@1周年
>i build the 3rd sled.
・・・ありがとうございます。まだ800番台なのに申し訳ありません。
了解しました。早速移ります。
>>868 :名無しさん@1周年
>残念ながら、どこををどう読んでもカトリック説を基準に神道の息吹を
>入れた程度の説でしかないからだよ。
おお、では、何を読まれてそうおっしゃるのか、新しいスレッドでお聞か
せください。
870 :
名無しさん@1周年 :02/03/25 07:29
>>836 >あなたのような方がたくさんいらっしゃれば、可能だと思います。いかが思われますか?
たくさんいません。
>>852 dendo.さん
実は、近頃このスレッドを読んでいて一つ分かったことがあります。
三位一体そのものが問題なのではないということです。
神とは、一人なのか、一柱なのか、一体なのか。
ヨハネ君には、そのような高度なことは分かっていません…。か?
>>853 さん、
>>852 のご指摘は、実に話の的を突いた疑問、揚げ足ではないです。
少なくとも、この場ではそうです。
スウェーデンボルグの主張は三位をもって表わされる神は「一人」だということを執拗に強調しているのです。
なんか、すごくわかってきちゃったなぁ。ふむふむ。
神道ではおそらく、三位をもって表わされる神は「不可知の存在」だから、柱のような抽象的な存在なのだ。
キリスト教理では「一体」つまり一グループ的一体。
>>856 >私は、それなら最初から三位一体を正確に把握したらもっと良いではないかと言っているだけです。
もしそれを把握させることができるとしたら、神はとっくに君のようなあまりわかっていない人ではなくて
もっとわかりやすくものを言える人々を遣わしていると思います。
もし本当に神が説得したかったら、マザーテレサにもキング牧師にも語らせていました。
単に議論を引き起こして、宗教の本質を分からなくさせ、人心の改良に悪影響を与えると判断されたから、
神は、2000年の間、これを説得することを放棄されて、三位一体を受け入れる人を天国に入れることにされたのです。
あなたのような人が、ごちゃごちゃ言うと、ただでさえ宗教的でない人々は、
議論を見ただけで信仰を求めることを嫌うのです。かえって躓きになるのです。
あまり宣教の経験がないからわからないのでしょう。
871 :
名無しさん@1周年 :02/03/25 09:25
>>856 >それはおかしいと思います。主がなぜ封印されるべきものをわざわざスウェーデン
>ボルグに啓示されたのですか?神のなさることに目的のないことは一つも無いはず
>です。それが「神の摂理」ではないですか?
神の摂理によって、あなたのようなキリスト教会の教理では理解しない人のために、あるいは、
論争好きな宗教の内には、真理を見出す気になれない人たちのために、神はスウェーデンボルグを用いたのです。
キリスト教会が世に躓きを与えていることは事実であって、そのために聖書やキリストには興味があっても
神を求めることのできない人々で、スウェーデンボルグであればキリストを神と認めることのできる人々のために
与えられたのです。50億人のうち5万人を救えたのです。その他の人々には、その他の宗教があります。
あなたは、昔、信仰を持たなかった時代に、このような論争をしている人々を見て、
その人々の内の誰かの主張する宗教は絶対的に真理なのだと思って、
その人々の内の誰かの主張の中から真理を見つけようとして、その論争の行方を真剣に見つめましたか?
それとも、なんだか善行をして、なんとなく仲良くやっている集団を見て、その人々に好意を持ちましたか?
その人々が本当に愛しあっているのを見たら、それがキリストの弟子の証拠です。
とヨハネの福音書で、主は言われていますね。
スウェーデンボルグの教えは、むしろすべての宗教論争を止めさせるものです。
もし、あなたが他の宗教を持っている人を尊敬していると言われるなら
なぜ尊敬している人に説教するのですか? 私は、尊敬している人に説教している人を、
見たことがありません。尊敬できるかできないか、よく分かりもしない人々にどうして説教するのですか?
信仰を持っていない人のために語るのなら、信仰を持っている人を当て馬にするようなことをするべきですか?
自分のしていることが、有効に未信者の心を打つと思っていますか? もし自分ならどうですか?
872 :
名無しさん@1周年 :02/03/25 11:18
私が、スウェーデンボルグの書を読んで欲しくないと思うのは、 一つには、それがあまりにも、既成キリスト教に対して批判的過ぎるからです。 このスレッドに出てきた極端な人たちを見たでしょう。 キリスト教会の内情を知らずにスウェーデンボルグだけを読む人は、あのような錯覚に陥って当然です。 あなたも、心の中では、キリスト教会とはひどいところだと思っているのではないですか? スウェーデンボルグのキリスト教会批判は、キリスト教会への憎しみを形成するに十分です。 憎んでいなかった人にも、新たに憎しみを持たせるものです。 スウェーデンボルグの時代は、確かに、彼の言うところの最後の審判の時代だったのです。 キリスト教会がにっちもさっちも行かない、裁かれる以外にない時代を批判しているのです。 ある人間が10代に非行少年だったとしても、それを反省して立派な社会人になることはよくあることです。 それを、いくつになっても、10代のことばかりでその人を判断するべきではないでしょう。 自分が薩摩の出身なら、平成の世になっても、長州と手を組んで政府を倒すことを目論むでしょうか。 時代錯誤なスウェーデンボルグ読者は、キリスト教会2000年に変わらず存在する、決定的な悪の巣窟と判断します。 自己批判と反省のために、キリスト教会の人間がそれを読むならよろしい。 キリストなきキリスト教会時代のために、スウェーデンボルグは書いたのです。 しかし、教会外の人には、ただ、知らないものへの憎しみを募らせるだけなのです。 それを読むには、ちゃんとした指導の下に読まなければならないのです。 しかし、日本にはそれほどの指導者はいません。 アルカナから出ている三冊の説教集計156篇には、三位一体論を批判攻撃したテーマのものはありません。
873 :
名無しさん@1周年 :02/03/25 11:52
その他にも問題はあります。 人間の心について、記述が厳密過ぎるのです。 「××であることを、△△であるかのように本心から考えて、それを心から○○するべきである」 という具合に、信仰的心理学を語っているところがたくさんあります。 それは本当なのですが、現実的には、そう書いてあることは、実行が大変むずかしいのです。 あなたも、スウェーデンボルグを読んだだけでは、自分の心に何の変化もなく、 ただ苦しんだだけだと言っておられました。 たとえば、「人の顔にはこういう筋肉がこのように付いていて、笑う時にはどの筋肉がどのように動く」 と、演劇の基礎で習うそうです。ところが、人間の微妙な笑いを表現する時には、どの筋肉を動かそう考えるよりも、 その筋肉のことを考えるよりも、その状況で笑うことを本気で考えた方が、ずっと正確に簡単に笑えるのです。 スウェーデンボルグの記述は、人の心が「だいたいこんなもの」ということを考えていないように思えます。 その記述にこだわりすぎると、かえって自然な心のあり方を阻害し、 わかっているようで、何かモノになっていない、それでいて、理屈だけでは分かったような おかしな人間性を演出するように思えます。 信仰心を持って、あとで反省するには、とても良いと思います。 しかし、信仰を持つ前に、あのような心理学を提示されたら、 私なら、信仰を持つことはできなかっただろうと思います。
874 :
名無しさん@1周年 :02/03/25 15:30
>>870 ユダヤ教も神は柱なんだよ。エロヒムは柱の数で数える。
ヤハウェの柱とアドナイの柱とエロヒムの柱で主なる神となるんだ。
この柱は重層的複数形であるということなんだよ。
ヤハウェ・エロイとアドナイ・エロイとエロヒム・エロイで神になる。
キリスト教の三位一体説も父という柱と子という柱と聖霊という柱で
天主という理解を示す。
もっとも小さなヨハネさんには分からない話だし、
時代遅れの過去の遺物でしょうがねぇ・・・。
スウェーデンボルグは説からは、
彼自身がキリスト教の三位一体論について
理解していないから三位一体を退けているようにしか読めないね。
同じことを言っているのに違うと言っている訳だし、
私がキリスト教徒だったら???が飛んでしまう。
そういうわけで中途半端。
>>869 どこをどう読んでもキリスト教の域からも出ていない。
また、神道の概念をちょっと拝借しているだけの域からも出ない。
ヤハウェであるアドナイなるエロヒムは、
イエスでもあり、全ての神であるという説ではないからね。
まずスウェーデンボルグのイエスありきであって、
他の神はその下位に存在するという説だから、
これは従来のキリスト教徒ほとんど変わりは無い。
まともに考えたら分かってくるはずさ。
スウェーデンボルグのイエスも、
キリスト教の三位一体の神も、
ヤハウェであるアドナイなるエロヒムも、
釈迦と話をしたブラフマンも、神道の造化三柱の神も、
みんな同じ存在を指しているってことさ。
同じだけど違い、違うけど同じ。そういうことなのさ。
875 :
dendo. :02/03/25 16:42
>スウェーデンボルグの主張は三位をもって表わされる神は「一人」だということを執拗に強調しているのです。 スヴェドボリはちゃんと読んでないからウロ覚えなんだけど 彼自身の表現は"unum"じゃなかったっけ。 柳瀬訳がどうだったかは覚えてない。 ただキリストの人性を三一性自体に適応してその存在様態を理解してるとすると 「一人」という表現になるだろうということは御指摘でふと思へり。 キリストは人性持ってるけど、三位一体の一位格としてはもちろん神なんだよね。 神であり人であるのであって、神そのもの(聖三者)が人になっているわけじゃないのだ。 でもそれを認めたくない人々は古代にもいたし、いまもいる(やうだ)。 おそらくこれからもいるだろう。 私としてはキリスト教や西洋哲学史に疎い人がうっかりこのスレを見て 「へーそうなんだ。なるほど」(ぽん) とか騙されなければそれで満足です:)
876 :
小さなヨハネ :02/03/26 07:09
>>875 :dendo. さん
>神であり人であるのであって、神そのもの(聖三者)が人になっているわけじゃな
>いのだ。
いいえ、違います。神そのものが人になられたのです。では、dendoさん、下記の
高橋司祭の文章に反論してください。
>478 :小さなヨハネ :02/03/06 00:37
>しかし、このことはギリシャ正教でも言われるようです。『ギリシャ正教』
>/高橋保行司祭著/講談社学術文庫を読んだ限りですが、例えばキリスト
>のことを「唯一の神が、天より降り人となった」(/P215)、「知ること
>のできぬ神が人となり、イエスと呼ばれてこの世に住み」、「アブラハム、
>イサク、ヤコブの神、あってある者、生ける者の神が、人との交わりの
>ために、あえて人となり、みずからを人に知ることのできる神とした」
>(同P242)と言います。
>さらに、
>「神父(かみちち)の右手に座したというこの条項は、キリストが神の
>『利き手』であることを意味している/右手は器用さを表すから、神の
>右手に座すという表現はキリストが神の力をもつ者であることを明らか
>にする」(同P34)とも言っています。
>私の理解が正しいかは疑問ですが、スウェーデンボルグの言っている
>こととほぼ同じように思え、驚きました。
877 :
名無しさん@1周年 :
02/03/26 10:14 >>875 dendo.さん
どのへんを読まれました? unumって何?
てか、私もどこかにポケット版のラテン語辞書があるんですが、
別に勉強するために買ったんじゃなくて、合唱団にいたころ、
ラテン語の歌を解釈するので買ったんですよね。とほほ。
>>874 これまでのところがキリスト教理解から出ない、というのは、
そういうところまでしかまだ語られていないからでしょう。
スウェーデンボルグは、「神とは人間だ」と言っていますよね。
「神こそ真の人間だ」とね。この辺はどうですか? 普通のキリスト教?
これは、実にはっきりと明言されているんですが、これはもう論証の域を出ます。
いや、私ごときの稚拙な理解力には、です。
三位一体かどうか、神が人間かどうか、人間とはどういう意味か、
多分、小さなヨハネさんも、あなたに納得のいく説明をしてくれないです。
信じるか信じないか、イエスかノーか、押し問答の世界がこれからも延々と続き、
その中で、彼はただ、自分の信仰告白をこの場でしていくのです。
彼はそのためにこのスレッドを立てたのです。
人の話を聞くためにではなく、自分の話をするために。
しかし、信仰とはまた、そういう面もあるわけで、それが彼の持ち味なのです。