キリスト教で、三位一体が理解出来ない!!

このエントリーをはてなブックマークに追加
383名無しさん@1周年:02/02/15 20:05
>>382
クダランな。
しっかり知恵絞らんかい!!!
384名無しさん@1周年:02/02/15 20:22
わらた
385( ´∀`)さん:02/02/15 21:19
>380
 前半の仏教の教えは有益だと思います。後半の水は、状態変化ですから、
 三位一体の理解にはちょっと不向きではないかと思います。つまり、
 気体と液体は同時に存在できませんから、三位一体を理解できないと
 考えているのです。三位一体は、それぞれの側面が同時に存在している
 のですから。
386名無しさん@1周年:02/02/15 21:22
>>385
淋しい自作自演だな。(藁
387( ´∀`)さん:02/02/15 22:48
>386
 どこがジサクジエン?
388名無しさん@1周年:02/02/16 09:27
>:( ´∀`)さん
>神も父と子と聖霊という三つの次元があるとお考えください。

四次元は、四位一体。
一霊四魂
古代ユダヤ神話では、ヤーヴェも神々の至高神エルの子供でカナン
の地方神バアルと兄弟だって、アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神
と言うのが全部別々の名前で、キリスト教ではあまりにも都合悪すぎるので
聖書を書き換えて、何とかヤーヴエにまとめてるのが旧約聖書で...
三位一体のおかげで、聖書ってボロボロボロにされちゃったんですね
申命記の32/8なんか、それぞれの教団の訳本で全然内容が違ってるし
一神教にする為に大変な努力をしてるんですね、その努力には敬意を払い
ましょう...
僕には人間以外を全部一つの客体にするのと、日本の神話のような多神教
の違いがよくわからない...何か言葉の遊びだけの様にも思えるし
一神と言う言葉だけにこだわっている様な気がするけど
390( ´∀`)さん:02/02/16 14:45
>388 
 何を言っているのでせうか?
391イエスはナザレの大工の息子:02/02/16 20:22
>物事を単純化する見方しかできない人にはわからないでしょうが、
>一つのものが三つの側面を持っているとお考えください。

すみません、根が単純な人間ですので...

イエスさんはご自分が神であることをご存じだったのでしょうか?
ご存じであれば、なぜヨハネから悔い改めの洗礼を受けたのでしょうか?
なぜ十字架の上で「神よなぜおみ捨てになられた」と言う発言を
されたのでしょうか?
何も知らずにこの世に生を受けたのであれば、それは普通の人と
同じでしょうねぇ、昇天してから神と同質の物になったと言うので
あれば、あの世の事はどうにでもご自由にお考え下さい...

ですが、オリゲネスのロゴス:キリスト論は、神の言葉の体現
としているので、この世に生を受ける時にご自分が神であることを
ご存じなはずなんですがねぇ
392こんにちは:02/02/16 21:45
此の世にない愛の実体が父なる神で、
その愛が此の世で形をなしたのがイエス・キリストで、
人間の心のなかに注がれる愛が聖霊

どこに現われるかによって呼び方が異なるんじゃないでしょうか
393名無しさん@1周年:02/02/16 21:57
>389
意味がよく判りません。

> ・・・キリスト教ではあまりにも都合悪すぎるので聖書を書き換えて、
> 何とかヤーヴエにまとめてるのが旧約聖書で...

旧約聖書(ヘブル語)を写本してきたのはユダヤ教なんですけど・・・。
ユダヤ教は三位一体を否定しているのですけど・・・。


> 三位一体のおかげで、聖書ってボロボロボロにされちゃったんですね

何言ってるか、さっぱり判りません。ボロボロって、何か書き換えられたと言うのですか?
それとも、訳が間違っていると言うことですか。もう少し具体的に説明してください。

あぁぁ、それにしても、お付き合いも疲れるな。(−−;;
394 ◆rs2OUULQ :02/02/17 08:58
インターフェイスの違いと思う。イエスも聖霊も、霊は同じ。
我々が、虫に語っても理解してもらえない。虫に意思を伝える
ためには、その虫になって、その虫の方法で伝えるしかない。
神は、人の為に、イエスという<人>を遣わした。
395名無しさん@1周年:02/02/19 03:28
>391
> イエスさんはご自分が神であることをご存じだったのでしょうか?
> ご存じであれば、なぜヨハネから悔い改めの洗礼を受けたのでしょうか?
> なぜ十字架の上で「神よなぜおみ捨てになられた」と言う発言を
> されたのでしょうか?

三位一体論を厳密に適用すると、イエスに神としての意識はなかったことになります。
もし、神であると思っていたら、父とイエスとの区別が消滅してしまいますから。
ヨハネからのバプテスマや、エリエリレバサバクタニも三位一体論的神学から
聖書物語に付け加えられたのではないでしょうか。

多くの人は三位一体を一位一体と誤解していますが、それはサベリウスの異端であり、
3つのペルソナ(人格)は厳密に区別されなければならないのです。
396名無しさん@1周年:02/02/19 11:48
この意見が 三位三体 論のように聞こえてしまうのは気のせいか
397( ´∀`)さん:02/02/19 12:05
区別と分離を混同してはいけない。三位一体というのは、区別はしても
ある一つの側面が残りの二つを何らかの仕方で含むようなあり方を
いうのではないだろうか?イエスと神と聖霊が別々のものだと思うから
3=1と考え、誤っていると考えてしまうのではないだろうか?
398ギリシャの伽ス:02/02/20 00:29
イエス「いくぞ、聖霊、神!ジェットストリームアタックだ!」
399基主義  ◆183r1z9U :02/02/20 02:14
このスレ、わかってる人が多いのであまりつけたしカキコする気になれない(笑)
400dendo.:02/02/20 02:18
ペルソナに「人格」と併記する時点で395がDQNなのがバレバレです。
まともな人は無視するけど私は煽り屋なのでつっこんでみます。
401名無しさん@一周年:02/02/20 02:19
>>1
そんなもん。理解せんでよろしい。
402 ◆rs2OUULQ :02/02/20 07:33
>>1
そう、401さんの言うとおり。その理解、を必要とはしていない。
403名無しさん@1周年:02/02/20 19:18
>>395
違います。キリストの神性の意志においては、御父と聖霊と一つです。
何故なら、神性(神の本性)は唯一だからです。
ただし、意志は一つでも自己は三つ成り立ちます。
一方、キリストには人性における意志が別にあります。
キリストには、人性の意志と神性の意志との二つあり、
人性の意志は神性の意志に従順であり、
合い混じることなく一致するというのが正統だったと思います。
例えば、

ヨハネ福 5:30 わたしは自分では何もできない。
ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。
わたしは自分の意志ではなく、
わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

ここで言う「自分の意志」とは、人性の意志と思われ。
404( ´∀`)さん:02/02/20 22:35
>403
>意志は一つでも自己は三つ成り立ちます。
 このような表現だから誤解されたり、意味不明だと思われたりするんだよ。
 あと、意志が二つあるというと二重人格のような感じがするね。
405名無しさん@1周年:02/02/20 22:35
キリスト教と同じセム系のイスラム教では
コーランで一神教であるはずの「アラー」は自分の事を「我等」と呼んでいる。
三位一体と関係があるのだろうか?
406名無しさん@1周年:02/02/20 22:51
>>404
>>意志は一つでも自己は三つ成り立ちます。
> このような表現だから誤解されたり、意味不明だと思われたりするんだよ。
誤解されても仕方がありません。これが正統な教理ですから。
ここで位格(ペルソナ)とは、自己を成り立たせる実存と考えてください。

> あと、意志が二つあるというと二重人格のような感じがするね。
キリストの意志は二つでも神格(神の位格。人の位格を指す場合は人格)は一つです。
407( ´∀`)さん:02/02/21 00:54
>406
 いやね、中身ではなく、表現が誤解を招きやすいと言っているのです。
 誤解を招かないような表現を使わない人にも責任をあるのでは?誤解を
 招いてしまうのは、ひとえに文章の鍛錬の足らないというその人の
 怠惰もあると思うのですが。
  それと二重人格ではなく、二重人格に似ていると言っているのだが。
 同じと似ているは違うんだよ。
408名無しさん@1周年:02/02/21 01:03
>>407
誤解を招かないような好例を書きましょう。
409名無しさん@1周年:02/02/21 01:33
>>408 (三位一体をあらわすための)好例、んなモンあるわけ無いだろゴルァ !
410406:02/02/21 02:17
( ´∀`)さん。
好例が無さそうなので、まあ我慢してください。
411dendo.:02/02/21 02:22
聖パトリキウスはシロツメクサの三つ葉の葉を示したというが。
412( ´∀`)さん:02/02/21 16:23
三位一体の好例はないが、一にして多の好例ならあるよ。これは、
一つのものが複数の側面ないし多次元的な要素を持っているという意味。
で、例は、人間。
413イエスはナザレの大工の息子:02/02/26 23:06
>405
>コーランで一神教であるはずの「アラー」は自分の
>事を「我等」と呼んでいる。三位一体と関係があるのだろうか?
クルアーンにアッラーフご自身の言葉は記憶がないのですが
クルアーンの何章何節でしょうか

>395
>三位一体論を厳密に適用すると、イエスに神としての意識は
>なかったことになります。もし、神であると思っていたら、父と
>イエスとの区別が消滅してしまいますから。ヨハネからの
>バプテスマや、エリエリレバサバクタニも三位一体論的神学から
>聖書物語に付け加えられたのではないでしょうか。

聖書の成立過程から言えば全く逆です、ヨハネの洗練もサバクタニ
も三位一体論の前からあった、マルコ福音書の段階ですでに
ある物語です、むしろ三位一体論派にとってはなはだ不都合な
文章で、神楽屋はどう扱っているか存じませんが、人間イエスを
研究している者にとっては、重要なナザレの大工の息子さんの
メッセージです。
414イエスはナザレの大工の息子:02/02/26 23:31
だけど、部外者は神イエス・キリストより、歴史上のナザレの大工
の息子のイエスの方が人気があるのだ...
東照大権現様より三河の地方武士の松平元康(徳川家康)がもっと
下層階級から出た天才猿(豊臣秀吉)達との人的つばぜり合いの中
で将軍になった話の方が人気があるのだよ...
ナザレのイエス/イエスの弟のヤコブ/洗礼者ヨハネ/時の権力者
達/そしてパウロ/バルナバの立場/ゼロテ党の様な地下政治組織
/ヨゼフスのような立場の人の外証/福音書の編者としてのマタイ
教会/ルカ学派/そして三位一体のもとになったヨハネ教会/グノ
ーシス/マニ教....この程度の事が素人でも知ってる中で、三位
一体の教会で何の違和感もアリマシェーン...それはエホバの証人
が協会内で安息の場を持ってるのと対して変わらないような..
415名無しさん@1周年:02/02/27 00:27
>>414
>だけど、部外者は神イエス・キリストより、歴史上のナザレの大工
>の息子のイエスの方が人気があるのだ...
じゃあ、そういう人気の需要に合わせた、自己開発セミナーなり宗教なり興せばいい。
416405:02/02/27 01:52
>413
>クルアーンにアッラーフご自身の言葉は記憶がないのですが
>クルアーンの何章何節でしょうか

レスありがとうございます。
岩波文庫 コーラン(上) 井筒俊彦訳
*カッコ内もそのまま引用しました。

二 牝牛 2[3]節
 (その人々とは)すなわち不可知なるもの(人間の知力の近付くことのできぬ暗く深遠な神の神秘)を信じ、
 礼拝の勤めを守り、我ら(アッラーの自称。神はその威厳を示すために自らを指して複数で「我ら」という)
 の授け与えた(よき)ものを惜しみなく頒ちほどこす人々。

二 牝牛 32[34]節
 かくて我ら(アッラーの自称)天使らの向かって、「ひざまずいてアーダムを拝せよ」と言えば、
 彼等はすべて跪拝した、ただひとりイブリース(聖書のサタンに当たる)だけは

岩波文庫のコーラン(上、中、下)井筒俊彦訳では、
上にあげた以外にも、頻繁にアッラーは「我ら」と自称しています。
417あずみ ●V.9uSetc:02/02/27 02:01
話題が神の自称代名詞の事のようですけど、
エロヒムって複数形ですよね。
創世記には神が「われわれ」と複数形でご自分を言ってる箇所あり。
418405:02/02/27 18:52
>417
>創世記には神が「われわれ」と複数形でご自分を言ってる箇所あり。

創世記 : 1:26
 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。
 そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
 地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

創世記 : 3:22
 神である主は仰せられた。
 「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。
 今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
419イエスはナザレの大工の息子:02/02/27 22:42
>405・413
うっかりしてたか、我らをムハンマド達と勘違いして読んだ
のかも知れませんが、確実に神自身が我らと言っている様です...

創世記と同じように複数形(2/3はそんな感じ)かもしれません
し、天使を含んで我らと言ったのかもしれません、クルアーンには
モーセ5書と同じ様に数々の天使が登場します(例えばガブリエル
とかインマニエルなど)が、多くはキリスト教からの影響でしょう
から、旧約聖書と同じように時期的な物がだんだん一神教化を強めて
いったのではないでしょうか...
し、
420405:02/02/28 00:09
416の訂正です。
誤:かくて我ら(アッラーの自称)天使らの向かって
正:かくて我ら(アッラーの自称)天使らに向かって
421405:02/02/28 00:54
>419
>天使を含んで我らと言ったのかもしれません

まあ、「全ては神に属す」という論理を持ち出せば別ですが、
416にあげた「コーラン 2牝牛 32[34]節」では、
この場合「我ら=神」が「天使ら」に向かって語っていますので、
文章的には「我ら=神」の中に「天使ら」は含まれていないものと思われます。
422405:02/02/28 02:31
>416
>二 牝牛 32[34]節
引用が尻切れでしたので、誤解が生じないように一応32[34]節の全文を記しておきます。

 かくて我ら(アッラーの自称)天使らに向かって、「ひざまずいてアーダムを拝せよ」と言えば、
 彼等はすべて跪拝した、ただひとりイブリース(聖書のサタンに当たる)だけは
 倣岸不遜にもそれを拒み、かくして背信の徒となった。
 (この話は『旧約聖書』にはないが、ユダヤ教の「タルムード」の中に見出される)。

 p17 岩波文庫 コーラン(上) 井筒俊彦訳
423405:02/02/28 17:19
以下の節は三位一体を人体に喩えて説明しているのでしょうか?
私も勉強不足で自信ありません。ですから明確な答えは出せません。
ただ参考になれば幸いです。

コリントの信徒への手紙1 一つの体、多くの部分

12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、
その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、
一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、
そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、
そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。
もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、
頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
424405:02/02/28 17:23
大乗仏教ではふつう仏は、法身、報身、応身という三種に変化すると考えるそうです。

法身仏・・・仏教の真理そのもの   
報身仏・・・他の仏の姿になる
応身仏・・・人間の姿で教えを説く

キリスト教の三位一体と似てるような・・・
異宗教ながら、互いに似たような思想が存在することに興味があります。
蛇足ながら参考までに。
425イエスはナザレの大工の息子:02/02/28 19:45
>423
パウロはここで先に結論を言ってるのですが
12/11
これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は
望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

三位については
12/4
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12/5
務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12/6
働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさ
るのは同じ神です。

で、三位一体論的な考えからの言葉とは考えにくいので
すが...(個人的な意見)
むしろ、霊肉二元派(生まれながらにして人に宿っている)との
論争の中での説明なので、個々に霊があるのではなく、唯一の霊が
あって、それがあらゆる人に影響していると言う事を言いたいのでは
ないかと思いますが...
426405:02/02/28 19:58
この様にも考えられないでしょうか。

>三位については
>12/4
>賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。

「賜物にはいろいろあります」つまりこれが「三位」の部分。
「それをお与えになるのは同じ霊です」つまりこれが「一体」の部分。

>12/5
>務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。

「務めにはいろいろあります」つまりこれが「三位」の部分。
「それをお与えになるのは同じ主」つまりこれが「一体」の部分。

>12/6
>働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさ
>るのは同じ神です。

「働きにはいろいろあります」つまりこれが「三位」の部分。
「すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」つまりこれが「一体」の部分。

これは「三位一体」の説明にも繋がるのではないでしょうか。
まあ、どこまでも私の意見にすぎませんが。
427イエスはナザレの大工の息子:02/02/28 20:56
僕が「パウロには三位一体の概念がなかっただろう」と言うのは
神楽屋がよくやるように、聖書の一次一句を追っかけて、語感から
どうのこうのと言ってるのではありません...

パウロはコリントと言う町で、霊が個々に宿りイエスはナザレの
ラビの一人であると言う人達や、多神教徒だったり、偶像崇拝を
したり、買春をする人がいたりする中で、コリントの帰依者に
対しイエス・キリストを信じ、唯一の神を信じ、偶像を拝まず、買春
をしないように呼びかけているのが、このコリント書簡であって
1/1からはそれを綿々と訴えているものだからです。そこで
この12章の文章は、唯一の霊・唯一の神・イエスキリスト
を、コリントの帰依者に説明しているのですから、その段階で
この三位が同質のものであると言う意識がすでにあったとは考えに
くいと考えています....あくまで個人的な考えですが
428405:02/03/01 23:49
>427
>僕が「パウロには三位一体の概念がなかっただろう」と言うのは

コリントの信徒への手紙2では
 13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

と、「神、キリスト、聖霊」と並んででてきますが、これって三位一体ではないのですか?
それともパウロは「神、キリスト、聖霊」の「三位」は認めても、それらが「一体」であるとの概念はなかった・・・
という事を427さんはおっしゃりたいのでしょうか?

トンチンカンな質問でしたら許してください。
429名無しさん@1周年:02/03/01 23:56
しかし、こういうのもあるよ。
マタイ 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
430名無しさん@1周年:02/03/02 00:04
思考を捨てよ。
431405:02/03/02 06:12
>427 :イエスはナザレの大工の息子さん
>個々に霊があるのではなく、唯一の霊が
>あって、それがあらゆる人に影響していると言う事を言いたいのでは
>ないかと思いますが...

もう一度「コリントの信徒への手紙12章」を読みかえしました。
ようするに「個々の霊は一つの霊に属す」というのが言いたい事の中心だったわけですね。
確かに426の私の考えは少し強引であったのかもしれません。
432405
>430
>思考を捨てよ。

「法の華」の教祖も「考えるな、頭を取ってしまえ」と
信者を思考停止状態にしてマインドコントロールしていました。
他のカルト教団もほとんどこの手法で信者を操っています。

もちろん、あなたのおっしゃりたい事も分かります。
私も「信仰」は「思考や議論」を超えたものであると思っています。
しかし「盲信」は「思考や議論」にも劣るものではないでしょうか・・・

「信仰」は「思考や議論」を超えたものでしょう。それはわかります。
コリント1
 1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。

しかし、だからといって「思考や議論」なくしてしまってよいのでしょうか?
コリント1
 1:21 それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

ここでは「神は、たとえ愚かな行為であれ、それによって救おうと定められた」と書かれています。
「宣教のことばの愚かさ」も「思考の愚かさ」が先立たなければ成立しません。
私のような愚か者にとっては「ことばの愚かさ」や「思考の愚かさ」が必要なのだと思います。