1 :
考える名無しさん:
2 :
考える名無しさん:2009/07/08(水) 00:24:02 0
あれ、なんで消えたんでしょう。
削除された?
3 :
考える名無しさん:2009/07/08(水) 00:25:34 0
なんででしょうね。
なんででしょうね。
とりあえず何か多めにレスしとこう。
8月初めにまた朝日カルチャーセンター(横浜)で講義があるみたいですな。
5 :
考える名無しさん:2009/07/09(木) 01:00:38 0
『群像』8月号に川上未映子の「ヘヴン」が載っていますよ。
面白い、というかたいへん感動的です。
『これがニーチェだ』の小説版ともいえる。
6 :
考える名無しさん:2009/07/09(木) 02:12:49 0
川上未映子は嫌いだ。単なる「自分」病患者。
『これがニーチェだ』の小説版などと言われても『これがニーチェだ』を読んだものとしては
興味をもてない。
少なくとも、どのように感動的か、説明してもらえなくては。
7 :
考える名無しさん:2009/07/09(木) 02:23:22 0
大森の弟子にはろくなのがいないように、永井の弟子にはろくなのがいないと見える。
(今のところ)
8 :
考える名無しさん:2009/07/09(木) 06:41:08 0
弟子筋にあたる人なんているの?
たとえば誰よ。
9 :
考える名無しさん:2009/07/09(木) 06:53:55 0
川上未映子のスレが哲学板にたってないのっておかしいよね?
あれほど作中に、芸をこらした哲学書の引用をしてる人もいないだろうに。
青山拓央は弟子というかゼミ生だったっけ。
純粋に哲学畑で「永井さんの弟子」というような人はいないのですか。
どうみても「自分の哲学を受け継ぐやつは馬鹿だ」とか言いそうですが。
弟子とは言わないと思うけど、入不二基義はよく永井の本を取り上げてますが
13 :
考える名無しさん:2009/07/09(木) 21:30:39 0
>6
そもそも読んでないなら、文学作品を「説明」なんかしちゃったら台無しになるだろう。
「単なる「自分」病患者」なんて言っているところ見ると、君はまだ何も分かっていない。
少なくとも肝心の「ヘヴン」を読んでいないだろう。
ポイントは、ニーチェに何を読み取るか、だ。永井の理解との異同を考えたいのだ。
最初から最後まできちんと読んで(きちんと読んだ人だけ)レスしてほしい。
もちろん内在的なものなら批判でもかまわないが、読んでもいない人の一般論だけは聞きたくない。
14 :
考える名無しさん:2009/07/09(木) 23:24:26 0
その話もなかなか面白そうだけど、別の話ですが
『(13歳からの大学授業)学問のツバサ』〈水曜社〉という本が出ました
錚々たる面々が中学生相手に講義していますが
永井も「科学的に解明できない<私>の存在」という講義をしていて
特に最後のハイデガー解釈のことろとか、めずらしいことも言っていて
全体もおもしろいです
>>11 それとは逆に、哲学畑で「真っ向から永井さんを批判している人」というのは
いますか。
大庭健さん以外でですがw
16 :
考える名無しさん:2009/07/10(金) 10:46:34 0
>>13 基本的に永井流のニーチェ理解に基づくものだろう
コジマのもつ意味に二義性があるところとか
あさって12日(日)のTBSの「情熱大陸」で川上未映子が
取り上げられるようです。
「師と仰ぐ哲学者との交流」も紹介されるという記事もあるので、永井氏も
出てくる可能性大。生永井氏を未見の方はチェックしてみては。
ほほー、そりゃ見物だね・・・
19 :
考える名無しさん:2009/07/11(土) 11:59:24 0
川上の「ヘヴン」よかった!
もし川上を馬鹿にしていたり肌が合わなかったりして読んでないなら
これだけはぜひとも読んでみるべきだ
少なくとも『これがニーチェだ』の愛読者なら必ず深く深く感動できる
逆に『これがニーチェだ』の本当の意味もよく分かる
「ヘヴン」を読んでみた。
確かに「これがニーチェだ」を意識してるのではないかと思われる部分があるけど、
違うところもあるような。
というか、むしろ反対のことを言っているとも読めるような?
つまり、現実はそんなにおめでたくないぞ、と。
(評価してる人は、そこを評価してるんだろうか)
永井さん出てたなw相変わらずで何より
22 :
考える名無しさん:2009/07/12(日) 23:36:44 0
情熱大陸に永井均出てたねぇ
はじめてきゃつのツラ拝んだぜ
川上さん(キレイだった)のこと「哲学的なポイントを良く掴む」と誉めていた。
読んでみるか・・・ヘブン
30秒くらいだったけどねw
24 :
考える名無しさん:2009/07/12(日) 23:42:16 0
>>20 どこをどう読んだら反対のこと言っているなんて読めるんだ?
すべてそっくりだ。
コジマ=キリスト教の僧侶
百瀬=第1空間(一部第2空間を含む)ニーチェ
「僕」の最後=第3空間
_たり
けっこうべらんめえ口調というか、早くしゃべるね
もっとゆっくり話す人だと思ってた
録画しておいた大陸みてたら永井が出てきてびっくりした。
動いてしゃべる永井を始めてみた。なんかイメージどおりの人だったw
28 :
考える名無しさん:2009/07/13(月) 20:58:24 0
なんだか、ぼーっとした感じで、哲学者ぽかった。
>>24 ただ「反対」というのは適切ではなかったか。
気になったのは、結末で、主人公が自分の欠点(と通常考えられている点)を外科的手術によって
取り除いて、それで初めて永遠回帰に到達した(?)ように描写されていること。
それは、「これがニーチェだ」で描かれている永遠回帰とか全ての肯定とかと、うまく合うだろうか。
もちろん、自分の欠点に変にこだわって意味付けするのも、「せむし」の話のとおり問題なんだけど、
しかし、欠点を取り除いても精神に影響がないほど強い人であれば、「ヘヴン」の主人公のようには
なっていないのでは。
あるいは、全ての肯定なんて所詮絵空事で、欠点が取り除かれるくらいのことが起きなければ
肯定なんてできないのだ、という主張だとすれば、「これがニーチェだ」に対して、現実はそんなに
甘くないということを描写してみせたと読めるかもしれない。
「ヘヴン」もざっと読んだだけで「これがニーチェだ」も細かく読み返したわけではないけど、
とりあえずの感想です。
あと百瀬が第1空間的だというのは、あまりピンと来ない(のは私の個人的趣味かもしれないけど)。
第1空間的なら、もうちょっと真面目に道徳を糾弾するんじゃないかと。
また、第2空間的なら、それはそれで、「全てはパースペクティヴの押しつけ合いだ」ということを、
もっと必死に語るんじゃないかと。
百瀬の、何もかもどうでもよさそうで、その場でただ楽しんでいそうな雰囲気は、どちらかといえば
第3空間的(ただしセリフの内容は第2空間的)というのに近いような。
これも個人的感想です。
永井的に読むのなら、その百瀬が主人公に「君はなぜ自分のようにしないのか」と呼び掛けて
いるのはどういうことなのか、とかを詰めないといけませんなw
やっぱ、永井の思想は深いよね。
永井ってかつての哲学の巨匠達が残したような大作を残さないのかな。
すっげー、読んでみたいんだけどな。
32 :
考える名無しさん:2009/07/14(火) 02:55:35 0
深いよねってw
どのように深いと思ったのか解説してください。
私の感覚では、書かれた思想というものは将棋の定跡のようなもので、「深い」ということは
定跡の細部を研究していることにあたると思える。自分で考えないで「答え」が書かれてあると
思って読んでも無駄。
短い新書なのでいいから定期的に出して
自分の哲学の足跡を残してくれたらそれでいいや
「へヴン」に関して言えば、主人公が斜視の手術をすることに
そんな過大な意味づけをする理由がわからない。たかが1万5千円で
治るのなら、さっさとすればよいだけで、しない理由が何もなかろう。
主人公がいじめを受けながら反撃もせず誰にも言わない理由もわからない。
コジマはそれこそ「僧侶」みたいにそれを転倒させて自分の「強さ」に転換するとかいう
動機もあるんだろうが、主人公は別に斜視であることやいじめられることが
自分のアイデンティティだと思っているわけでもなさそうだし。
小説的に「コジマと知り合うきっかけないなった」という以外、そういう
境遇に甘んじている意味がない。
読者からすると「単なる無気力な奴」以上のものに思えない。
百瀬の語りがニーチェ的といえばニーチェ的なのかもしれないが、
百瀬の思想?が乗り越えられたわけでも何でもないので、哲学的な意味も
あまり感じられないのだが。
>>32 ここは2ちゃんの中でも良心的な人が多いのかね?
こんな風にレスついたの初めてだw
まともに話すなら、深いというのは、そうそんなに簡単に別の言葉で置き換えられるものでもないけれど
あなたがいう感覚に近いものがあるかな。あなたの場合はそのようになんとか表現できたかもしれないけれども、
オレの場合は他にたとえることが自分の無能ゆえにできぬくらいという意味かな、あえていうなれば。
まともにレスしてくれてなんかうれしいなw
褒めて逃げるパターンのレスは2ちゃんねるでは珍しいな。こんな風にレスついたの見るの初めてだw
いや、別に逃げてないけどw
あ、本人かな?
「ヘヴン」をもうちょっとだけ細かく読んでみた。
主人公が斜視にこだわっているのは、実は、本当の母親が斜視であったことが影響していたようで、
コジマが父親に同情してわざと汚くなっていたことに対応しているのではないかと思われる。
しかし、そんなことには意味がないと百瀬に宣言され、さらに最後には、コジマの道徳的な主張は
実は百瀬が言っているように、自分の都合の押しつけ合いにすぎない、と思い知った。
そこで、主人公は、道徳とか同情というものを振り捨てて手術を受けようと決意し、それで
全ての肯定に到達した。ただ、そのかわり、そんなことは語り得ないものだった。
と解釈してよければ、主人公はコジマの道徳的行動に助けられた面があるにもかかわらず、
最後にはコジマと道徳を振り捨てているわけで、実はなかなか力強い(?)と思われるw
そういう筋道だとすれば、それなりに永井の議論と合ってくるのかな。
それでも、「これがニーチェだ」にそれほど対応している気はしないけど。
40 :
考える名無しさん:2009/07/16(木) 03:42:27 0
>>39 俺もおおざっぱにいうとそう読んだな
ヘヴンは小説としてふつうに面白かった
翔太と猫のインサイトの夏休みの続きとか書いてくれないかな…。
あの本のおかげで、哲学がどうでもいい屁理屈をこねつづける学問ではないことがすごくよくわかった。
ところで、「現象的意識を持っているのは本当は私だけではないか」とか、「〈これ〉は
本当はただ一つしかないのではないか」ということが永井の議論の出発点なのだとすれば、
一人称で書かれた小説、特に心理描写なんかの部分をわがことのように読むことは、
いったい何をしてることになるんだろうか。それと永井の議論とは、うまく合うんだろうか。
と、目茶苦茶な思い付きを書いてみる。
(小説だからといってどうということはなく、永井が一人称で書いた議論を読むような場合と
特に変わらないだろうか)
43 :
考える名無しさん:2009/07/18(土) 12:38:04 0
一人称の議論なんか無いだろ。
一人称なら何を言おうと独り言に過ぎない。
永井は「心理」や「現象的意識」を持ってるのは〈私〉だけだなんて全然思っていないよ
それらの存在を全て認めたとしても、〈私〉はそれらとは全く違う在り方をしている、と思っている。
45 :
考える名無しさん:2009/07/18(土) 19:28:21 0
44が正しいと思う。
それにしても、
永井がまさに否定してる当のものである42(の最初の2行)のような考え方を、
永井のものだとみなす人がいつまでも絶えないのは実に不思議だ。
そのようなありがちな誤解を否定することこそが永井哲学のすべてだとさえいえるのに。
それは意識して「本当は」「ではないか」「出発点」という表現を使ったつもりですが…
47 :
考える名無しさん:2009/07/18(土) 20:49:13 0
>>44 そうですね。「〈私〉はそれらとは全く違う在り方をしている」ということが、他の
「私」にも成り立っているか(同型性)、ということを単に論理的な問いでなく、リアルな問い
(本気の問い)として疑ったのが、初期の永井の著作だと思う。
48 :
考える名無しさん:2009/07/18(土) 20:56:17 0
>>46 だから、まさにそれが端的に間違っていると言っているのです。
永井は、まさにその「出発点」こそを否定したのですよ。
>>47 意味不明です。
>>48 では、
1 私は他人とは全く違ったあり方をしているというのは、どういう違いだと表現したらいいんですか?
あるいは、
2 仮に「私と他人との違い方」という問題と「意識」の問題は全く別という趣旨だとすれば、
「なぜ意識は実在しないのか」で論じられているのは何だと理解したらいいのですか?
47は、永井の問いは単なる論理遊び(懐疑のための懐疑)ではなかったって言いたいんでしょ
だって私と他人が全く違う存在だというのは端的に自明なんだから
でもそれがあらゆる「私」についてあてはまってしまう、というのが永井の「出発点」だったわけで
51 :
47:2009/07/18(土) 21:27:32 0
>>48 〈私〉は永井均なんですか? 違うでしょう。
「〈私〉はそれらとは全く違う在り方をしている」という発言が意味を持つのも
永井が作った土俵にのっているからなんですよ。
52 :
考える名無しさん:2009/07/18(土) 22:21:44 0
「現象的意識」は、そうと語られてしまえば、必然的にすべての人間が持つ。
だからむしろゾンビは存在不可能である。
「現象的意識を持っているのは『本当は』私だけではないか」とか、
「〈これ〉は『本当は』ただ一つしかないのではないか」というような
認識論的懐疑とは逆に、
〈これ〉は、「本当は」どころか、現にまさしく、ただ一つなのだが、
そのことが上記のような認識論的懐疑の問題感覚に読み替えられて、
「本当は」ただ一つしかないのではないか、などと問われてしまう。
そうして、独我論の疑いなどというものが生じてしまう。
53 :
考える名無しさん:2009/07/18(土) 22:34:23 0
「あなたは現象的意識を持ってますか」
「はい、持ってます」
この意味で他人も現象的意識を持っている。
54 :
考える名無しさん:2009/07/18(土) 22:37:57 0
>>49 48ではありませんが、2については、
『<私>の言語論的存立構造の哲学的研究』に、御当人の明快な説明がありますよ。
科研費の研究報告書なので、入手しにくいかもしれませんが。
55 :
考える名無しさん:2009/07/19(日) 00:41:15 0
>>54 哲学で科研費とかあるのか。驚きだな。予算を何に使うのだろう?
図書費とか?論文の印刷費とか?哲学って、予算かかりそうにないものな。
56 :
考える名無しさん:2009/07/19(日) 08:46:20 0
むしろ自分が「現象的意識」を持っていない可能性について考えるほうが面白い
(永井的にはこれもまた可能なのだが)
57 :
考える名無しさん:2009/07/19(日) 20:51:45 0
>「あなたは現象的意識を持ってますか」
>「はい、持ってます」
>この意味で他人も現象的意識を持っている。
なにいってんの?
ゾンビの議論しってんの?
58 :
考える名無しさん:2009/07/19(日) 21:19:13 0
>>57 他人がゾンビかもしれないと思うのはあなたの勝手です。
それは、あなたの思いにすぎない。
自然科学は研究成果を積み重ねて確実に進歩している。
今までわからなかったことが実験を通じて日々明らかにされていて、
日々前進している。
哲学の場合にも、そのような過去の成果の積み重ねや、
進歩というものがあるのでしょうか?
過去には不明だったものが、誰かの研究で明らかになり、
それは研究者間で受け入れされ、それを土台にして
さらに前進していくということはあるのでしょうか?
60 :
考える名無しさん:2009/07/19(日) 21:33:16 0
勝ってだとか、思いにすぎないとかの問題じゃないんだけどね。
他人に
>「あなたは現象的意識を持ってますか」
って質問して
>「はい、持ってます」
ってこたえたから相手は現象的意識をもっているって結論づけるのは
失笑もんだよ。
ゾンビ問題をまったく理解していない。
61 :
考える名無しさん:2009/07/19(日) 21:52:15 0
>>60 私が相手に対して現象的意識を持ってないと結論付けたとしても
相手は勝手に「現象的意識」という言葉を使用するということです。
62 :
考える名無しさん:2009/07/19(日) 22:03:48 0
>ってこたえたから相手は現象的意識をもっているって結論づけるのは
私はこんなこと言っていません。「この意味で他人も現象的意識を持っている」と
私は書きました。ロボットがそう応答したとしても、ロボットは意識を持たないでしょうね。
自分も
>>53は(
>>56もだけど)気になってた。
永井スレの人がゾンビの話知らないわけないと思うので多分捻りがあると思ったんだけど。
捻りがあると思うのは俺のかってな思いにすぎないのかもしれない。
そういえば、私が言うのであれ他人が言うのであれ、「私は現象的意識を持っている」という発言が、
間違いである可能性、また間違いであることが確認される可能性はあるんだろうか?
心理的・機能的な意識なら、いくら当人が「持っている」と言っても、しかるべき機能を
果たしていない場合などには発言が間違いになるのではないかと思われるけど、現象的意識の場合、
そもそも当人が「持っている」っ言ったのにそれが間違いなんてことがあるだろうか。
と思い付いたことを書いてみたけど、永井の議論とあまり関係なかったかな…
65 :
考える名無しさん:2009/07/19(日) 22:24:17 0
>>64 それについては永井が「なぜ意識」の中で、現象判断のパラドックスとして論じていたと思いますが。
66 :
53:2009/07/19(日) 22:28:39 0
捻りなんてないですよ。それこそあなたの勝手な思いにすぎない。
>>65 どうもです。確かにそのようなことが書いてありました。
しかし改めて奇妙な話だ…
言葉で語ったり考えたりする以上、「現象的意識」と言っても、それは「心理的な「現象的意識」」という
ことになりそうだけど、そうすると、私が把握したと思ってる「現象的意識」も、実は「心理的…」だ。
しかし、それで本当に「現象的意識」を把握したことになってるのか…
68 :
考える名無しさん:2009/07/21(火) 01:17:04 0
>>67 要するに我々はゾンビだということですね。
57はわかってない。
69 :
考える名無しさん:2009/07/21(火) 01:21:42 0
今、思いついたが、
「私は現象的意識を持っている」
「はい、現象的意識を持っているのはあなただけです」
という応答は笑える。
反転ゾンビ。
なんかロボットや脳手術に比べてゾンビってつまらなく感じる。
『なぜ意識〜』より『転校生〜』のほうがはるかにおもしろい。
71 :
考える名無しさん:2009/07/21(火) 10:24:27 0
『転校生〜』より『なぜ意識〜』の方がちょっとプロ向きだね。
スパーヴィーンとか二次元意味論とかのちょっとテクニカルな議論が前提になっているから。
ちょっとよくわかなくなってきたので…
「現象的意識」あるいは「〈これ〉としか言えないもの」と言ってみても、言葉で表現して理解される以上、
「機能的な「現象的意識」」であり、誰にも・いつにもあるものにすぎない。
しかし、では、本当の現象的意識あるいは〈これ〉については、
1 そんなものは言葉では言えない
あるいは
2 実はそんなものはない
という以外に、
3 あるのだが、他人の言う「現象的意識」という言葉とは、実は無関係
という可能性はあるのだろうか?
>>72 「現象的意識」がまるっきり「現象的」というわけではなかったというだけの話。
要するに我々は相変わらずゾンビ「ではない」。
>>68はわかってない。
現象的/機能的の区別が思ったほどは使えんなーということでネッド・ブロックも最近は微妙に言い回しを変えてるとかいう噂。
74 :
考える名無しさん:2009/07/21(火) 19:43:42 0
>>73 まるっきり……というわけではなかった
とは
少しは……でないところもあった
ということですか?
そんな「程度の問題」かしらん?
75 :
考える名無しさん:2009/07/21(火) 21:51:16 0
>>73 >要するに我々は相変わらずゾンビ「ではない」。
「我々は」と言わずに「私は」といって欲しいですね。
それなら同意します。
76 :
ポール:2009/07/21(火) 22:45:22 0
>我々は相変わらずゾンビ「ではない」
といえるかぎりにおいて、われわれはゾンビでありうる。
さもなければ、ゾンビということでなにがいわれているのか
わからないというべきであろう。
ようするにきみたちはなんにもわかってないのだよ。
77 :
考える名無しさん:2009/07/21(火) 22:53:48 0
ネッド・ブロックってどんな人なの?
>>73は西洋人のおっかけなの?
78 :
考える名無しさん:2009/07/22(水) 00:00:53 0
「現象的意識」って、何のことですか。
「機能的意識」と、何がどう違うのですか。
「現象的意識」を実体視して、意味不明な議論を続けているやつがいるなw
81 :
考える名無しさん:2009/07/22(水) 18:33:29 0
現象的な質が全く欠けたふつうのゾンビはわかるけど、個別的な意識が欠けた痛みゾンビ
とかは理解できない。自分が痛みゾンビであることはわかるのか。痛みのクオリアを感じ
られないとしたら、当然それを報告するだろうから、「痛みを感じない人」であってもゾンビ
ではないことになる。
「現象的」にもふたつの意味があるということを語るための技だったのか。
82 :
し:2009/07/22(水) 18:39:33 O
自信なくなってきたわ。もう山でテント張って暮らそうかな
>>78 振り返るとだいぶ間違ってる気もしますが…
「現象的意識」という言葉のほうから考えると、言葉で他人にも理解されている以上は、
「現象的意識」と言ってみても、実は何らかの機能がある、誰にも共通するものでしかない。
機能では説明できないものは、「現象的意識」という言葉では表現できていない。
そうすると、逆に、それでも機能では説明できないものがあるのだとしたら、それは、
他人たちの言う「現象的意識」とは全然別のもので、「現象的意識」という言葉を当てはめる
ことはできないのではないか。
それで、もし仮に何かの言葉に当てはめるとした場合に、そもそも言葉に当てはめることはできない(1)
ということ以外に、言葉に当てはめたとして、それは他人たちの言う「現象的意識」ではない(3)、
ということが何らか考えられないか。
というようなことを思ったわけですが…
それはつまり「感覚E」みたいな話になるんですかね。
83付け足し
そういえば、むしろ『西田幾多朗』を読み返してみるべきだろうか?
純粋経験を自分で言語化していく、ということができるのなら、自分で何らか言語化していったものと
他人たちの言う「現象的意識」が実は一致していない、なんてことはないですかね。
言語化がなされる以上は同じですかね。
85 :
考える名無しさん:2009/07/22(水) 20:58:57 0
>>83 なんかよくわからないけど、永井の議論とは関係ないよ。チャーマーズや永井の言う
「現象的意識」は「心理的」と対比されたものではじめから万人に共通なものとして
語られることをめざしている。それを永井は「現象的」といっても「心理的な現象的」
になっていると指摘した。
>>83の議論は、むしろ「〈私〉は実在するか」という議論に
似ている。
86 :
考える名無しさん:2009/07/22(水) 21:08:37 O
おねーさんの膝まくらがいい
87 :
ポール:2009/07/22(水) 22:21:45 0
心理的な現象的という表現が意味ふめいなんだよ。
わかったきになっちゃいかんよ。
88 :
考える名無しさん:2009/07/22(水) 22:29:11 0
意味がわからないのはあなたです。
他人のことをわかった気になってはいけません。
>永井は「現象的」といっても「心理的な現象的」になっていると指摘
仮にも職業哲学者の永井がこんな曖昧で訳の判らない日本語表現をするとは思えないけど
具体的にどの著作のどのあたり?
90 :
考える名無しさん:2009/07/23(木) 15:29:11 0
「他者においても現象的と心理的の対比が成り立つことを――彼はなぜすでに知っている
のでしょうか。…言語を介したこの伝達によって、現象的なものはすでに現象的ではなくなって
心理的に、つまり心理的な概念の内部での現象的なものに、変質してしまっているはずでは
ないでしょうか」(52頁)
91 :
太極:2009/07/23(木) 18:58:16 O
太極
92 :
ポール:2009/07/23(木) 21:47:28 0
>言語を介したこの伝達によって、現象的なものはすでに現象的ではなくなって
>心理的に、つまり心理的な概念の内部での現象的なものに、変質してしまっているはずでは
>ないでしょうか
と語りうるかぎりにおいて、現象的なものの意味もまた伝達可能な
ものであるのだよ。
そうでなければ、現象的なものはすでに現象的でなくなって
なんていわれても意味がわからんからね。
よって心理的なものではない現象的なものの欠如の可能性も
また語りうるものとなる。
きみたちは本当にわかってないねえ。
93 :
考える名無しさん:2009/07/23(木) 21:57:07 0
94 :
考える名無しさん:2009/07/23(木) 22:00:59 0
「心理的なものではない現象的なもの」という心理的なものが語られてるわけです。
95 :
考える名無しさん:2009/07/23(木) 22:18:25 0
>そうでなければ、現象的なものはすでに現象的でなくなって
>なんていわれても意味がわからんからね。
実際、あなたは意味がわかってないですね。
なんだか哲学って言葉の揚げ足取りみたいだ
97 :
考える名無しさん:2009/07/24(金) 19:36:17 0
分からない人にはそう見える。
あまり吟味してない疑問ですみませんが、永井が例えば「言葉を使っている以上、私もまたゾンビだ」
というような趣旨のことを言っていることがあると思うけど、そういう場合、
言葉で語れないものは存在しない(存在するけど語れない、のではない)という前提があるんですかね。
そういうわけでもないんですかね。
99 :
考える名無しさん:2009/07/24(金) 23:57:44 0
100 :
考える名無しさん:2009/07/25(土) 16:11:54 0
言葉で語れないものは存在しない、も、言葉で語れないものは存在するけど言葉で語れない、も、
どちらも言葉では語れないのではないでしょうか?
101 :
考える名無しさん:2009/07/25(土) 21:33:43 0
どちらも言葉では語れないのではないでしょうか?
も、言葉では語れないのではないでしょうか?
102 :
考える名無しさん:2009/07/25(土) 22:15:54 0
永井がエヴァ誉めてたね
けっこう以外だった。
103 :
考える名無しさん:2009/07/25(土) 22:50:20 0
エヴァはたしかに面白いけど、永井さんもアニメ見るのか
105 :
考える名無しさん:2009/07/27(月) 21:02:33 0
よく2chの電波書き込みで「思考盗聴」とか言ってる人がいるけど
その人達に対して永井さんならどういう風に答えるんだろう
107 :
考える名無しさん:2009/07/29(水) 21:05:40 0
>>106 それと永井とどう関係あるの。
「思考盗聴」あってもいいんじゃないの。(俺は経験したことはないが)
人類補完計画によって人と人との境界がなくなってひとつになった世界では、
もとの〈私〉は消滅したことになるの?
諸星大二郎の漫画『生物都市』でも同じ疑問を感じる。
どういう内実かによるかと。
他人の過去や現在の感覚や思考を自分の現在の感覚や思考と同じように把握できるってくらいなら、
永井的〈私〉は消滅したことにはならないと思う。
統失でよくある自我障害でも同じ。
110 :
考える名無しさん:2009/07/29(水) 23:24:07 0
>人と人との境界がなくなってひとつになった世界では、
全人類が〈私〉ということになるんじゃないの?
「もとの〈私〉」は「他の〈私〉」だから、はじめからそんなものは存在してない、
概念として成立しないということになるんじゃないの?
だから「エヴァ」みたいなもんのどこを褒めてたんだよ
全人類が単一の特別なこの〈私〉になったとしても、
他の理性的存在者(カオルくんとか)にも別の〈私〉があると想定できるのかな。
113 :
考える名無しさん:2009/07/29(水) 23:54:06 0
永井的には「別の〈私〉」なんて、端的にないだろ。
114 :
ポール:2009/07/29(水) 23:57:05 0
永井の他者問題を理解できてないようだな。
やはりきみたちはなんにもわかってないね。
よくわからんけど、人と人の境界がなくなる、とかいうのは、どういうことを言ってるのかね
そもそも他の人間もそれぞれ心を持っている(私もそのような人間達の一人である)という理解の仕方が、
どうやって成り立つのか、というのを永井はいろいろ論じてる(と思う)ので
そういう理解の仕方を前提にして、さらに、他人との境界(?)がなくなるというのは、何のこと?
あるいは、そういう理解を前提にしないで、〈私〉〈これ〉というところで考えるなら、
他人というのは何なのか問題だろうし
116 :
考える名無しさん:2009/07/30(木) 00:02:56 0
ツインマン状態が全人類まで広がった状態だろ。
それは、寝る暇なくて大変だろうねw
冗談はともかく、それは、私以外の人間がみな死んでしまったという状況と、(たまたま私が
複数の体を動かせるという以外に)何か違うんだろうかね
118 :
考える名無しさん:2009/07/30(木) 00:16:18 0
なぜ、他の動植物は仲間に入れないのですか。
>>107 いや、<私>のあり方の問題として、すごい素朴な理解の仕方だなあって思うのよ
つまり自身に対して完全に情報化され得るってことでしょ?
「思考盗聴」で、特定の思考だけでなく他人(Aさん)の全思考(五感の内容とか
すべて含めて)を、自由選択でなくて強制的に感じ取るようになったとしたら、
永井的には「Aさんが私になった」ということだろ。「私が永井とAさんと
二つの肉体を持つようになった」という。
そのときに、Aさんの方では以前と何も変わらず、思考盗聴されていることも
知らないとしたら、Aさんから見たら永井は赤の他人だろ。
これって、何かおかしくないのか。
もし真面目に論じるのなら、「思考盗聴」とは何なのか明らかにすべきじゃないの?
(自分の思考が他人に読み取られている、ということじゃないの?)
というのは、永井は、その目から見え、その体を動かせ、その体を殴られると痛みを感じ…
というような表現をよく使ってると思うけど、「思考」という表現は使ってないと思うので、
永井の議論が「思考」なるものに本当に応用できるものか、考えてみないといけないだろう
122 :
考える名無しさん:2009/07/31(金) 00:39:14 0
>>120 何もおかしくないよ。
おかしいと感じるのは、あなたが〈私〉を実体化しているから。
123 :
考える名無しさん:2009/07/31(金) 00:46:18 O
ダイレクト 宝くじのロト6 ナンバーズ 当たらないんだけどね
124 :
考える名無しさん:2009/08/07(金) 20:40:03 0
『新潮』に「ヘヴン」の書評を書いていたね
読んでみた
うーむ何と言うか、さすが御本人は目のつけどころが違うと思ったw
126 :
考える名無しさん:2009/08/09(日) 20:11:39 0
御本人?
127 :
考える名無しさん:2009/08/10(月) 02:51:03 O
永井さんもへヴン面白く読んだ感じするね
森田どうじ懐かしすぎw
128 :
考える名無しさん:2009/08/10(月) 08:23:41 0
永井さんですか・・・。
私が哲学専攻の学部生だったころ、もう十数年も前です。
認識論の講義だったと思いますが、担当教員が楽をしたかったらしく、
一コマ分が (ご本人にわざわざ来校していただいて)
永井均オンステージになったことがありました。
その頃すでに彼は (業界内に限れば) 有名な人物だったようで、
彼が開口二番ぐらいに語った次のような台詞が忘れられません。
彼は今も次のように言っているでしょうか。
「私はこの【独在性の哲学】を世に問いたいから、哲学者になった。
(あまり良くない目つきで、教室中の学生を睥睨)。
・・・そうすることにしたのです。」
話がそれるようで恐縮ですが、なんだかねぇ。ここの皆さんも
上のような台詞を言う人間を見たことはありませんか?
やはり私が哲学専攻の学部生だったころ、同じ専攻に
「私は哲学の研究者になることにしたんです。ええ、高校のころ、
私はそうすることに決めたんです。」
と断固として (何だか神がかりのように) 言い放つ女の子がいて
ビックリした覚えがありますが、
かなり以前から彼女も私立大学の哲学専任教員ですし、
何だか 「消化の悪い物を食べたような感じ」 が今も残っています。
129 :
考える名無しさん:2009/08/10(月) 10:12:57 0
なんの問題もないじゃん
その「女の子」も専任教員になれたんだし
130 :
考える名無しさん:2009/08/10(月) 11:08:20 0
森田童子論はやく出ないかな
131 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 02:00:14 0
>>128 >話がそれるようで恐縮ですが、なんだかねぇ。
「なんだかねぇ」の内実がわからないのですが。
詳しく説明してもらえますか。
132 :
考える名無しさん:2009/08/11(火) 20:31:32 0
永井の<私>は実はラカンっぽいから人類補完計画で消滅するんじゃね?
>>120 その場合、「意志」はどうなっているのですか。
「Aさんが体をどう動かそうとしているか、直接わかる」のと、
「自分がAさんの体を直接動かそうとして、動く」のは、全く違うと思います。
前者にとどまっているなら、永井的にも「Aさんが私になった」とは
言えないと思います。
綾波レイは死んだの?
もし死んだならそこで失われたものはいったいなんなの?
だって世界には物理的に同じ身体と(ほぼ)同じ記憶を持った人間(3人目)
が存在し続けているわけじゃない。
137 :
考える名無しさん:2009/08/16(日) 01:59:40 0
「綾波レイ」という個体名で名指しているかぎり、
その問いに答えることはできない。
>>136 そこで失われたのは「綾波レイの自我」でしょ。
「綾波レイ2号(か3号)の自我」とはそっくりなだけで別の個体なんだから、
何も問題はない。
139 :
考える名無しさん:2009/08/16(日) 23:17:58 0
「そっくり」なら、たとえ「別の個体」でも「同じ自我」だと(も)いえるところが問題なのだ。
なぜ「自我」が個体性に随伴しなければならないのか、その根拠を問題にしている。
ゆえに138は答えにならない。問題以前の立場だ。
140 :
考える名無しさん:2009/08/17(月) 00:56:52 0
>>139 日常会話において、「同じ自我」とは身体の時空連続性に基づいて言われる。
「そっくり」とは他人からみて「ものすごく似ている」ということであって「同じ」ということではない。
141 :
考える名無しさん:2009/08/17(月) 17:56:34 0
>>140 日常会話において、「同じ自我」などという表現が使われることはまずない。
また、ここで問題になっているのは日常会話ではなく哲学的議論である。
日常会話などに逃げても駄目である。
そして哲学的議論においては、
身体の時空連続性に基づいているのは、自我ではなく、個体(個物)である。
また
>「そっくり」とは他人からみて「ものすごく似ている」ということであって「同じ」ということではない。
は、論点先取である。もしそうであるなら哲学的問題は生じないだろう。
ここでは、その「そっくり」の意味そのものが哲学的問題になっているのである。
現に最初に問題提起した136の人は、「(ほぼ)同じ記憶」という論点を出していた。
ここには、記憶の連続性と<私>の継続性の関係という根本問題が隠れているのだ。
永井的問題は、そこからやっと始まることになるわけだ。
142 :
考える名無しさん:2009/08/17(月) 21:30:57 0
>>105 商業的な媒体ではなくて、
プライベートなとこで感想っぽいものを書かれていました。
143 :
考える名無しさん:2009/08/17(月) 21:42:21 0
「同じ自我」というような観念が、哲学的概念として確立できるのだろうか。〈意識〉は
今存在するだけである。きのうの私(身体)の自我は、今の私の自我と「同じ」なのだろうか。
これに対する答えは、「同じ」だと思うことによって「同じ」であるということだろう。
私が「同じでない」と主張したところで、社会生活を営む上で、他人から「いや、同じなのだ」
と、身体の時空連続性に基づいて、指摘されるだろう。
>>140で「日常会話」と書いたのは
そういう意味だ。「同じ自我」という概念は哲学的なものではなく、社会の中に存在しているに
すぎない。「(ほぼ)同じ記憶」と言うが、「同じ記憶」と判断するのは三人称の視点にすぎない。
144 :
考える名無しさん:2009/08/17(月) 22:25:22 0
流れぶった切って悪いけど、
永井さんて本当に哲学者って自称しないでほしい。
ある読書会でお会いしたことがあるけど、本当に議論がつまらなかった。
上で〈意識〉とか時空間連続性とか言ってる人もそうだけど、
まず定義をはっきりさせてほしいよ。ほとんど無意味。
もう二度と哲学の集まりには参加しないよ。
145 :
143:2009/08/17(月) 22:33:45 0
あなたはなにがしたいのですか。
議論がしたいのですか。
無意味だとか思い込む前に、
特定の界隈でよく使われる言葉を自分がただ知らないだけだとは思わんのか。
147 :
考える名無しさん:2009/08/18(火) 16:17:16 O
文庫版『子どものための哲学対話』発売記念age
文庫版あとがきも田島正樹氏の解説も、なんか難しいな…
148 :
考える名無しさん:2009/08/18(火) 18:09:13 0
永井=okatetugakusya
149 :
考える名無しさん:2009/08/19(水) 19:11:02 0
>>136>>139 その前に「記憶」とは何を指すの?
そして、2人目と3人目の綾波レイの記憶が(ほぼ)同じである事はどうやって証明するの?
この「両者の記憶が(ほぼ)同じである」という前提が疑わしい時点で議論にならない。
150 :
考える名無しさん:2009/08/19(水) 19:16:04 0
「自我は個体性に随伴するかどうか」
それ以前に「個体性」とは何を指すか。
つまり、どこをどう判断して「個体差」を定義するのか。
仮に遺伝子が同一(クローン)であっても、それは「遺伝子が」同一なだけであって、
それが個体性の同一を示すものだとは限らない。
151 :
考える名無しさん:2009/08/19(水) 19:17:55 0
だからこそプラトンは
あらゆる固体の雛形がイデア界に存在する・・・なんて言い張る事になったんだけど
私の分裂などについてなら、永井がいろいろ論じていると思うけど、あえて「個体」や
「自我」という永井と別の用語を使っても、かえって混乱するのでは?
いや、そのような用語を使う意義があるのならいいんですが…
153 :
考える名無しさん:2009/08/19(水) 19:37:23 0
>どこをどう判断して「個体差」を定義するのか。
定義としては時空連続性だろ。
時空連続性をどう判断するかというと「いろんな理由によって」としか言いようがない。
154 :
考える名無しさん:2009/08/20(木) 03:37:32 0
>>153 両者の時空連続性の差をどう判断するの?
というか、それは「昨日の私」と「今日の私」を判断出来たとしても、
「あいつ」と「こいつ」の差を判断できるものじゃないんじゃない?
155 :
考える名無しさん:2009/08/20(木) 16:29:32 0
>>154 記憶の中のAさんと今見ているAさんがほとんど同じだったら、時空的に連続していた
と経験から帰納する。もちろん、他の証拠によってそれが否定されることもある。
>「あいつ」と「こいつ」の差を判断できるものじゃないんじゃない?
何言ってるのかわからない。AさんとBさんが同時に存在してたら、明らかに別の個体だろ。
156 :
考える名無しさん:2009/08/20(木) 16:46:09 0
>>149 なんでお前はそこで綾波レイをだすのか。
157 :
考える名無しさん:2009/08/20(木) 17:23:32 0
>>155 綾波レイは「綾波A」と「綾波B」の肉体は同時に存在していますよ。
(そして、両者の遺伝子は同一であっても、脳細胞レベルでは同一とは言えないでしょう。)
ただ、観察者の前に「同時に現れる」事は無いですけどね。
158 :
考える名無しさん:2009/08/20(木) 17:26:10 0
>>155 >経験から帰納する。もちろん、他の証拠によってそれが否定されることもある
つまり、「時空連続性」ではそれが真であるかどうかは判断できないという事ですね。
むしろ(存在の真があるとすれば)、それによって真理から遠ざかってしまう、いわば邪魔者ですね。
159 :
考える名無しさん:2009/08/20(木) 17:38:11 0
>>136>>139 その前に「記憶」とは何を指すの?
そして、2人目と3人目の綾波レイの記憶が(ほぼ)同じである事はどうやって証明するの?
この「両者の記憶が(ほぼ)同じである」という前提が疑わしい時点で議論にならない。
同一の遺伝子を持つ個体AとBであっても、それが「同時に存在する」ものである以上「別の個体」といえると仮定しよう。
その「別の個体」が、お互いに同じ(似た)記憶(経験)を得たとしても、それは
「双子の兄弟が同じ境遇で育った」というレベルの相似性でしか無いという事だろうか。
そもそも、「綾波が死んで失われたもの」とは、それを受ける観察者の主観に因るんじゃないか?
仮に観察者(シンジ)が綾波の死を情報として知る事なく暮らし続ければ「何も失われない」事にもなるだろうし。
要は、著名な文学家が「死んだ」としても、それを公言せずにゴーストライターが代筆し続けていれば
観察者(読者)にとってその文学家は「死んでいない」事にもなるという。
失われたもの=可能性
かな?
仮にシンジが3人目のレイと上手くやれたとしても、2人目のレイとの(関係の)可能性が失われている事は確かだ。
だけど、それと同じレベルで3人目のレイとの可能性を得ているわけだけど。
161 :
考える名無しさん:2009/08/20(木) 17:44:04 O
その通りだ仏蛇よ
162 :
考える名無しさん:2009/08/20(木) 20:31:38 0
>>159 >観察者(読者)にとってその文学家は「死んでいない」事にもなるという。
「とって」とはどういう意味ですか。それは「…と信じている」とどう違うのですか。
死んだと知らされたらそれを信じるんでしょ。
163 :
考える名無しさん:2009/08/20(木) 20:35:30 0
>>157 同時に別の位置にあったら別の個体であるなんて当たり前のことだろ。
164 :
考える名無しさん:2009/08/22(土) 23:17:41 0
>>162 同じじゃね?
つまり、当人が「彼女が死んだ」という情報を知らされなければ、
それに因って失われるものは、
「彼女がここにいない」という状況で失われるものと差が無いのでは?という話。
>>163 >>136がその「同時に別の位置にあったもの」を「物理的に同じ身体」と表現しているからな。
それに異を唱えるならその異論が真である事を論証しなきゃね。
165 :
考える名無しさん:2009/08/22(土) 23:26:08 0
「物理的に同じ身体」とは、ある位置にある水素原子Aと別の位置にある水素原子B
が「同じ」であると言うのと同じような意味でしょ。
166 :
考える名無しさん:2009/08/23(日) 22:23:22 0
>>165 なんでいちいち判り難く喩えるかなw
その喩えだと
(ある位置にある)「俺」と(別の位置にある)「お前」が人間であるという点においては「同じ」
程度の事しか言ってない。
だったら、綾波2号と3号の差もなければ、俺とお前の差もないという事になって当初の問い自体が矛盾する。
プラトンは「現実に同じ物質はない」といい、その雛形(完全体)がイデア界にあるのではないか・・・そう考えた。
仮にそのイデア論を前提条件として考えると、逆に「物理的に同じ身体はこの世に存在しない」という事になる。
つまり、まず「同じ身体」をどう定義するのか。
「人間」であれば「同じ」なのか。
「男」と「女」で分けるべきなのか。
「遺伝子」の違いで分けるべきなのか。
「脳細胞」の違いで分けるべきなのか。
きっと綾波2号と3号は上記の3項目までは一致するが、4項目めで差が生じるだろう。
167 :
考える名無しさん:2009/08/23(日) 22:38:02 0
脳細胞まで同じだったとしても「性質的には同じ」だったとしても
「個数的には同じ」ではないんだよ。
よく知らんけど、そろそろ永井の議論とは全然関係ないことが示されてきたようですな
168は166に向けたレスね、念のため
170 :
考える名無しさん:2009/08/23(日) 22:48:50 0
>>166 >逆に「物理的に同じ身体はこの世に存在しない」という事になる。
プラトンがそんなことを言っているとは思いません。
171 :
考える名無しさん:2009/08/23(日) 22:55:31 0
>>166 >つまり、まず「同じ身体」をどう定義するのか。
空間的位置で定義すればいいんじゃないでしょうか。
>>167 脳細胞まで同じなら「物質的に同じ」であっても「性質的に同じ」ではないんじゃないですか?
そして貴方の言う「個数的差異」とは何を指していますか?
>>168 そもそも綾波の話は永井的議論だったのでしょうか?
>>170 __________________________________________________
イデア論の概要 [編集]
イデアとは最高度に抽象的な完全不滅の実であり、感覚的事物はその影であるとする。
イデアが存在しているのがイデア界(本質界)で、その陰が投影されているのがわれわれ人間の住む現実界となる。
例えば、現実の世界に、円形をした物はたくさん存在するが、いずれも完全な円ではないし円そのものでもない。
__________________________________________________
ウィキペディアね。
異論があれば編集よろしく。
>>171 >>155>>157辺りと同じで、空間的位置で判断すれば別の身体と判断できます。
で、
>>136さんは空間的位置として別の身体である二つの身体を指して「同じ身体」と称しているわけです。
では、“どこが”同じなのか?という問いが今の段階です。
173 :
考える名無しさん:2009/08/24(月) 00:34:11 0
>>172 >貴方の言う「個数的差異」とは何を指していますか?
「翔太と猫のインサイトの夏休み」を読んでください。
>では、“どこが”同じなのか?という問いが今の段階です。
私は同じだと思わないので、
>>136さんに聞いてください。
174 :
考える名無しさん:2009/08/24(月) 00:41:39 0
ところで田島正樹氏の解説は、的を射てるでしょうかね?
正直、永井の議論自体の説明というより、田島氏なりの議論を展開しているような気が
いいんだよ田島正樹だからそれでw
177 :
考える名無しさん:2009/08/27(木) 16:42:18 0
>>174 なるほどね。
つまり、
>>136さんは「個数的差異が認められても“同じ”存在」について問いを立てているという事でしょう。
(劇中で2人目・3人目の個数的差異は認められているから)
つまり、貴方は前提条件がズレているという事です。
178 :
考える名無しさん:2009/08/27(木) 17:58:11 O
東京あきる野市っておたまじゃくしどっかのぼるの?
個数的差異が認められるのなら、たとえ“同じ”存在でも、片方が死んでも
片方は死なないのは当たり前なんだから「そこで失われたものはいったいなんなの?」
という問いはおかしくないか。
そこで失われたのは「個数的に別の綾波レイだよ」でおしまいだろ。
>>149 ハードディスクを身体とすると、「記憶」とはそのハードディスクに書き込まれている
データみたいなものじゃないかな。だからあるHDのデータをまるごとバックアップして、
それを別のHDにコピーすれば2つのHD(身体)は同じ「記憶」を持っていると言える。
ときどき綾波レイがどっかにチューブ(?)がつながっていってるでっかい水槽みたいな装置に
入っているシーンがあったけど、あれはその「記憶」のバックアップをとっていたんだと思う。
そしてその「記憶」をクローンになんらかの方法で移植すれば同じ「記憶」の人間ができる。
181 :
考える名無しさん:2009/08/27(木) 21:08:39 0
>>177 「個数的差異が認められても“同じ”存在」ってなんですか。
>>179 まぁ、俺が質問者じゃないから解らないけども、例えるならば
自分の愛する人が死んでしまった。
そこにその人と見た目と性格がそっくりな人が現れた。
その時、その人を死んでしまった人と同じように愛する事はできるのだろうか?
という話と似ている気はするよね。
>>181 視聴者である自分達は個数的差異を認める事が出来るが、
ある時点までの主人公シンジは、2人目とは物質的に違う3人目の綾波レイを「2人目の綾波レイ」だと思い込んでいた。
そういう意味で、物質的に違う(=個数的差異がある)けれども、当事者が「同じ」だと思い込んでいるという事でしょう。
>>180 うん、確かそうでしたね。
でも、何故か3人目の綾波は2人目の綾波とは“何処かが”違っていた。
それは「同じ遺伝子、同じ記憶」を持っていても魂(ガイスト)の差がそうさせていたという事なんでしょうかね。
つまり、庵野監督は実体二元論なんでしょうね。
訂正
×2人目とは物質的に違う3人目の綾波レイを「2人目の綾波レイ」だと思い込んでいた。
○綾波レイがクローンであるという事実を知らなかった
永井の論じるような私ではなく、(綾波レイとかいう)他人あるいは個人についての議論を、
しかも『翔太』そのほか関連する永井の本を読んでもいないような人が(もちろん読んでる人も
多数いるようだけど)、わざわざこのスレで続ける意味は何ですか?
いや絶対やめろとは言わないけど、少なくとも、『翔太』や『マンガは哲学する』くらいは、
読んでみればいいでしょ、文庫になってお求めやすくなってるはずだしw
確かに永井自身の議論や文言を踏まえずに、不明瞭な俺解釈で議論を続けるバカが多いな
前スレまではそんなことはなかったのだが
おかしいな。
どんな物事でも「永井的仮説」で解釈する事は可能であるはずだけど。
なのに、「物事」それ自体するとは、自ら「解釈できません」とカミングアウトしているようなもの。
ひとりの人間がどの程度まで「信念」にではなく“仮説”に基づいて生きていけるか、
限りない大海原に乗り出して行けるか、これが力の充溢を測定する最高の尺度である。
そして、ひとは知らずに偽なる発言をすることはできるが、知らずに嘘をつくことはできない。
何かやましい事を隠蔽する為に、自分に嘘を付いてはいないかい?
187 :
訂正:2009/08/29(土) 01:13:38 0
×「物事」それ自体するとは
○「物事を論じる事・論じ方」を否定するとは
188 :
考える名無しさん:2009/08/29(土) 01:16:08 0
ウンコが発生してます。
>>186 永井の本を碌に読まず、永井の論じる私論をふまえてもいないのに、「永井的」と騙っていることを問題にしているんだろ
「物事を論じる事・論じ方」を否定って一体何の話だ?
頭悪いな。
190 :
考える名無しさん:2009/08/29(土) 06:50:39 O
30年間女をくどこうとしても無駄だった。はじめに電話番号聞いてもだいたい三回目どっちからか連絡しなくなる。いきなりセックスは無料だし。昔からのことがあるから今は街声はきかない
191 :
考える名無しさん:2009/08/29(土) 06:54:26 O
あとは向こうからくることはたまにあるがこれまた時間で無理めにみる。いきなり隣にきても一時間でしらける。繋げようとする人たちはいたように思うが。
192 :
考える名無しさん:2009/08/29(土) 06:58:35 O
社会ではまず無理。だれかしらいる。青森と地元では急にきて話してあれだったが歩いてく途中でやめた。青森は野宿しておきて電車待って寝てたら隣にいて目があった。あれだけだな。あと高校時だけ。胸もんだだけだけど
193 :
考える名無しさん:2009/08/29(土) 07:09:05 O
昔から前にデルと社会人が非難の目でみる。意識するのはいい。見るのは駄目。理解するのはいい。前に出て女は駄目。その後おれは何度も辱めを受けた。まだ待て待ってろ。わからんのか?行く。出てけずっとねえ。
194 :
考える名無しさん:2009/09/01(火) 11:48:26 0
永井さんってすごいカマトト(無知を装い自分をかわいらしくみせること)ぶって
ない??そう感じるのは俺だけかな…
ジャーゴンとか使わないからじゃないかな
196 :
考える名無しさん:2009/09/02(水) 00:32:52 0
>>195 使ってるよ。
自分自身の「累進構造」とかいろいろ。
業界用語の「第二次内包」とかいろいろ。
>>194 それは昔の永井。
今ではむしろ逆の印象の方が強いな。
197 :
考える名無しさん:2009/09/02(水) 00:42:11 0
田島さんの「解説」って
始めから永井さんの「あとがき」を前提にして書かれている
ってことはない?
198 :
考える名無しさん:2009/09/05(土) 09:24:05 0
何らかの事情で、
死刑になりたいだけではなく、
人からこの上なく道徳的に非難されたいと思ったら、
ってところまではわかるけど、
199 :
考える名無しさん:2009/09/05(土) 09:26:51 O
さあな
なんか話題が出かかったようにも見えるが、関係なくてすまんけどw
「最上級の道徳的非難を受けたい人がいたら、それに値することをするほかはない」とあるけど、
それは、どういう点が特別に問題なのか、ちょっとよく分からなかった。
例えば「雷に打たれて死にたい人がいたら、実際に雷に打たれるほかはない」とかいうのと、
何か違うんだろうかw(アホな言い方ですいません)
『〈子ども〉のための哲学』では、「不道徳さこそが行為の目的という場合があるはず」
という話がちょっと出てくるけど、そのように、最上級の道徳的非難というものがあるからこそ、
その非難を目的とする場合がありうる、というようなことがあり、それが特別という意味?
201 :
考える名無しさん:2009/09/05(土) 22:39:35 0
そこまででは何も特別な問題はない、と198の人も言いかけたのではないだろうか。
特別な問題が生じるのは、他者からの非難ではなくそれが自己評価に内面化された場合だけだろう。
私的言語の有意味性さえも成立しなくなって、自己が成立しなくなるのでは?
202 :
考える名無しさん:2009/09/05(土) 23:31:05 O
団子
やはり、
>>200のところは、そこだけが特別というわけではないんですかね。
しかし、そこから先の話は、さらに分からないので…
道徳が内面化された上で悪事をして、「それでも私はやりたかったのだ」とか「その時はやりたいと
思ってしまったのだ」ではなく「自分のしたことを心の底から悪かったと思っている」
と言うのは、どういう考えによるのか?
204 :
考える名無しさん:2009/09/06(日) 22:15:31 0
「自分のしたことを心の底から悪かったと思っている」という表現が
心の底からの「満足」の表現なのだから、別に不思議なところはないだろう。
ただ「悪い」という語を適切に使うことができないというだけで。
もちろん、その「できなさ」こそが問題なのけど。
>>1-205の書き込みも
全てが記号の配列∴無限通り=全 て は 記 号 の 配 列 ゆ え に ∞ 通 り だ=すべては
きごうのはいれつゆえにむげんとおりだ=スベテハキゴウノハイレツユエニムゲントオリダ=subeteha
kigounohairetuyuenimugenntoorida=Because all are rows of
the sign, it is infinite streets.=堵愚慧螺轡簸=مبيوت تكولوجي تس
وناميتليف وكيمون طكيو =色即是空空即是色=「男」との「肌の触れ合い」を
もっと持つことです。私でよければいつでもですが、私側からの「欲求」は全く
ありませんので、誤解しないでください。=OK?DOユーUNDREA
STND?=Hannibalが自作自演を頻繁に繰り返してるカキコ=『三匹のリスザルがキーを叩いた結果
できた文章】です。
206 :
考える名無しさん:2009/09/07(月) 00:01:40 0
"堵愚慧螺轡簸"でフレーズ検索すると900件近くヒットするのは
これは率直にすごいと思うw
207 :
考える名無しさん:2009/09/07(月) 01:56:48 0
おまえのDQN具合がすごいよ。
>>206 数百回はコピペするか書き込むかしてるってことだからな
209 :
考える名無しさん:2009/09/07(月) 22:25:29 0
こういう情熱ってどこからくるんだろうね。。。
210 :
考える名無しさん:2009/09/07(月) 22:33:10 0
堵愚慧螺轡簸から来るんじゃねw
212 :
考える名無しさん:2009/09/07(月) 23:09:41 0
いや、ageろよw
案外撃たれ弱いんだな。
>>204 私が、永井がここでいう「道徳の内面化」を誤解しているのかもしれないけど…
本当に道徳を内面化していれば、そんな悪事をそもそも働かないのでは?
もし、それでも悪事を働くとすれば、例えば
「私は自分のしたことを心の底から悪かったと思っているが、それでも自分の利益・欲求等々の
ために、それをしたかった」
と言うのなら(仮に「利己的発言」と呼んでみる)、意味を理解できる。
あるいは、
「私は自分のしたことが、社会的には「心の底から悪かった」とでも表現すべきことだということは、
よくわかっているが、実は私にとっては良いこと(深い満足を得られること)なので、したのだ」
と言うのなら(仮に「「悪」の意味逆転的発言」と呼んでみる)、これも発言の意味自体は理解できると思う。
しかし、どちらでもなく、「心の底から悪かったと思っている」としか言わないというのは、
どういうことなのか?
>>213続き
もし、深い満足を他人に対して表現するという意図だけについて考えれば、「「悪」の意味逆転的発言」
のような形で表現できませんかね?
もちろん社会的には受け入れられないだろうけど。
もちろん、意味が通じないことについては、自分自身にも当てはまるという趣旨の記述があるので、
他人に通じればいいというわけではない。
しかし、逆に、自分にも意味が通じないというのは、どういうことか?
深い満足を表現する意図を持っているが、それと同時に、「心の底から悪かったと思っている」
という表現を使い、しかも文字通りに本当に悪かったと思っており(「「悪」の意味逆転的発言」で
表現されるような考えを持っているわけではない)、そして結局、悪かったという思いのほうが
残る、というようなこと?
何かだいぶ誤読してるのかもしれませんが、そのあたりが、どうも…
215 :
考える名無しさん:2009/09/08(火) 04:05:55 0
>>189 >「永井的」と騙っていることを問題にしているんだろ
誰も騙っていませんよ。
>「物事を論じる事・論じ方」を否定って一体何の話だ?
>>184が否定していますよ。
それ以前に
「永井が論じるような“私”を論じるべきだ」と前提条件を絶対化していますよ。
物事を永井的パースペクティブで自ら捉える事をせずに
他者に永井的パースペクティブに基づいて論じる事を強要しているって事だわな
哲学学者と哲学者の違いって何ですか?
哲学トリビア(歴史とも言う)を沢山しっていればそれだけで哲学者なんですか?
218 :
考える名無しさん:2009/09/10(木) 09:11:59 0
>>215 それ以前に
「「永井が論じるような“私”を論じるべきだ」と前提条件を絶対化」しないべきだ
と前提条件を絶対化してますよ。
219 :
考える名無しさん:2009/09/11(金) 01:00:19 0
>>218 >前提条件を絶対化」しないべきだ
俺のレスは「絶対化をしないべきだ」という主張ではありませんよ?
>>186に於いて
>どんな物事でも「永井的仮説」で解釈する事は可能であるはずだけど。
という可能性の提示と
>なのに「物事を論じる事・論じ方」を否定するとは 、自ら「解釈できません」とカミングアウトしているようなもの。
と、メタ的な視点で相手のレスを説明しなおしているだけですね。
220 :
考える名無しさん:2009/09/11(金) 01:04:28 0
要は永井信者は永井トリビアを数多く所持しているだけであり
永井の思想に基づいて物事を捉える術を持たないという事ですね
で、誰が何処で「永井的」と騙っているんですか?
そもそも「永井的」とは何を指しますか?それは存在者ですか?
それとも思想そのものを指しますか?
222 :
考える名無しさん:2009/09/12(土) 10:51:35 0
223 :
考える名無しさん:2009/09/12(土) 10:54:35 0
あからさまな矛盾に気づいていない
224 :
考える名無しさん:2009/09/12(土) 22:08:26 0
その「あからさまな矛盾」を指摘できない
で、「永井的」とは何を指しますか?
226 :
考える名無しさん:2009/09/15(火) 03:26:41 0
お前等は全員間違っている。
俺だけが確実に正しい。
だが、あえてその理由は説明しない。
できないんじゃない、しないだけだ。
>>226 >お前等は全員間違っている。
>俺だけが確実に正しい。
はい、永井さん本人が入りました。
大澤真幸の「恋愛の不可能性について」永井さんも解説書いてたよね。
いやなんというか御愁傷様です。
229 :
考える名無しさん:2009/09/17(木) 20:34:20 0
あれはもともとが永井が翻訳した「LOVE DE RE」の解説書だからね。
230 :
考える名無しさん:2009/09/29(火) 11:38:58 0
教えてくれてありがとう。
前と野矢さんと対談した時は噛み合ってなかったらしいけど大丈夫かな
232 :
考える名無しさん:2009/09/29(火) 18:15:00 0
その前日には、青山ブックセンターで川上未映子との対談がありますよ!
233 :
考える名無しさん:2009/09/29(火) 21:46:52 0
太田は利口そうに見えてまったくの馬鹿だからな。
ああいう種類の馬鹿がいちばん哲学に不向きだ。
自分では哲学的なつもりなんだろうけど。
哲学者としては馬鹿かもしれないが、芸人としては一流なのだからいいじゃない
え、まじでその番組に出るの…
野矢氏の時は、見るに堪えなかったけどな
(ただ本になったものを読んだら、意外なことに、野矢氏自身は結構面白がっていたみたいだが)
というか〈私〉探しという題名からして、間違ってるとしか思えんw
いったいどんなトンチンカンな話になるのやら
236 :
考える名無しさん:2009/09/30(水) 09:17:14 0
太田は芸人として優秀だし確かに面白いと思うけど、
あの番組でときたま得々と語られる自説のくだらなさには心底驚かされる。
そのくせ、自分では本気でいっぱしのことを言っているつもりになっているみたいで。
あんなに優秀な奴でもやっぱりちゃんと「勉強」をしないとこんな馬鹿になっちまうのか、
みたいなことをいつも思う。
>>233 こういうのは「わからん奴との齟齬」が面白いと思うのだが。
そもそも哲学って「わかり合うのは原理的に不可能」って立場じゃない。
太田だと3Nのなかでは
一番中島と話し合いそうだけどなあ。
最後までのこったか。
トンチンカンな題名を参考に展開を予想すると
永井…今までの著作と同様の説明をしていく
→太田…「つまり私を無理に探すことなんてない、ありのままの姿が本当の私ということでしょ!?」
とかいう感じで意味不明の断定
→永井…しまいには説明を諦める
こんな感じになると見たw
240 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 05:34:18 0
>>233 という根拠のない罵倒が一番馬鹿っぽいんだが
241 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 05:38:44 0
>>236 具体的な批判が一つもないですね。
あなたの主観に終始しているだけのレス。
俺には、あなたは「無」から叩きの材料を捏造して
強引に「勉強が必要である」という結論を導いているように見える。
太田は考える力があるが知識が無い
太田アンチは知識はあるが考える力が無い
243 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 10:36:35 0
>>239 学校の国語の授業の時には、そういうすり替えがなされた。
鷲田清一だったかな。
245 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 12:22:57 O
>>244 明確な根拠は何もないよね。
印章を語っているだけ。
そして、それは無知な人間でも容易に出来る事。
246 :
236:2009/10/04(日) 12:35:34 0
>>241 もちろん私の主観を語っているんです。
「批判」なんか全然していません。
そもそも何かを主張してる文章ではないんです。
だからもちろん「勉強が必要である」という「結論」を導いてもいない。
もっと複雑な一種の「悲しさ」を語りたかったんですが、通じないかなあ…。
文章のアイロニーを読んでほしかったんですが。
247 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 12:46:19 0
あの番組は2〜3時間話し合ったものを、30分番組(だから実質は20分ちょっと)に纏めるので、
ディレクターが、どこを取ってどこを捨て、それらをどう繋げて、どう纏めるか、によって、
全然もともとの議論の趣旨と違うものが作られてしまうんだ。
だから、今回どうなるかは、実のところは、太田がではなく、ディレクターが、
どこまで哲学を理解しているか、による、というわけだ。
248 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 12:59:28 0
247の文章、どことなく永井っぽい
永井というか、永井の本で語る猫の言い回しに近いね。
田中と猫好き同士で語ったりして
NHKなどの番組紹介を見たら、太田が「私は他人との関わりがあってこそ存在する」
というようなことを主張し、それに対して永井がいろいろな思考実験を繰り出すらしい
それなら、全然噛み合わないことはなさそうだけど、しかし新味はないかもねw
251 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 18:16:07 O
永井先生、散髪して気合い入りまくりでしたね。
ボサボサのほうが格好いいのに…
252 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 23:33:24 0
>>246 つまり「勉強が必要である」という前提条件に基づいたアイロニーですよね。
で、俺はその前提条件に胡散臭さを感じたわけです。
反論はお嫌いですか?
「太田の自説がくだらない」
という批判的な言葉を書き込んでいる以上、反論されても仕方ないですよね。
253 :
考える名無しさん:2009/10/04(日) 23:36:15 0
皮肉(アイロニー)は、いかなる種類の弟子であろうと弟子との交渉に際しての
教師の側からの教育手段として用いられてのみ、しかるべきものである。
こうした関係がないばあいには、皮肉(アイロニー)は一種の無礼であり、低俗な気取りである・・・・・・
>>239 太田…「つまり私を無理に探すことなんてない、ありのままの姿が本当の私ということでしょ!?」
永井…「<ありのままの姿>って、誰に対してですか?」
255 :
246:2009/10/05(月) 08:31:55 0
>>252 >つまり「勉強が必要である」という前提条件に基づいたアイロニーですよね。
違います。
むしろその逆で、「勉強は必要ない」という私自身の前提から出発したアイロニカルな帰結です。
また、この場合の「アイロニー」は他人対する皮肉ではなく、自己自身に対するそれです。
勉強しないともともと優秀でも馬鹿になる
勉強は必要ではない
馬鹿になりたいってことか?
それとももともと優秀でなければ勉強は必要ないってことか?
野矢茂樹がその番組に出た時の印象だと、
太田はとにかく人の話を全く聞こうとしない。
相手の主張の論旨を正確に理解しようとする姿勢がなく、
「姿勢」の問題以前に、そもそもそういう能力自体が人並み以下なんじゃなかろうか。
相手の言うことはほとんど無視か、全体ではなく一部分だけを取り出して曲解、
で、後はそこから連想した自分の思いつきを延々と喋る、
という感じだったから、そもそも会話にならない。
むしろ太田より読書量や知識レベルは下と思われる田中の方が、
「人の話をきちんと理解する能力」
「話をかみ合わせて実りある議論にする能力」
という意味では優れているように見えた。
>>257 >「人の話をきちんと理解する能力」
>「話をかみ合わせて実りある議論にする能力」
>という意味では優れているように見えた
ボケとツッコミの差だな
この番組は、「太田のものわかりが悪いからこそ」長続きしてるんだと思うが。
260 :
考える名無しさん:2009/10/05(月) 18:35:25 0
おそらく『ルサンチマンの哲学』かな
小泉との噛み合ない対談とかも入れて欲しいが
262 :
考える名無しさん:2009/10/05(月) 21:14:59 0
263 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 12:20:46 0
>>255 あぁ、それが正直な気持ちだって事ですね。
それを偽って太田叩きで現実逃避をしていたという事ですね。
264 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 12:21:57 0
>>257 そのレス自体が相手の言うことはほとんど無視か、全体ではなく一部分だけを取り出して曲解、
で、後はそこから連想した自分の思いつきを延々と喋る、
という感じだったから、そもそも会話にならない。
265 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 12:23:00 0
このスレ、というか2chがルサンチマンの王国だからなぁw
266 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 12:41:55 0
>>255 つまり、「勉強=知識を得るもの」と仮定すると
「太田は知識が足らないのに世に認められる力がある。だから自分のように知識を得ても無駄だ」
とでも言いたいのですか?(何を言っても“違う”と応えられるでしょうが)
そもそも「太田に知識がない」という前提条件が間違っているとは思いませんか?
その「知識」とは何を指しますか?
それとも貴方のいう「勉強」は「知識を得るもの」ではないのですか?
釣りは全力で釣られる魚が居てこそ機能する。
本物の釣り師は釣った後の捌き方が上手いからな。
素材の質を見抜いて、三枚におろすか焼くか揚げるか最適なチョイスが出来る。
腕の無い奴は後釣り宣言(立場が悪くなると「釣りでした」と掌を返す)しか出来ないから
その後の捌き方が適当になる。
勉強しないともともと優秀でも馬鹿になる
勉強は必要ではない
馬鹿になりたいってことか?
それとももともと優秀でなければ勉強は必要ないってことか?
テレビ(:公的な場)って
放送禁止用語はあるけど
放送禁止論理はないね
270 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 13:33:23 0
271 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 13:57:24 0
>>268 「放送禁止論理を作るべき」
という論理が禁止されているんじゃね?
建前上では公平を装っているんだから
272 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 14:00:25 0
完璧に公平・完璧に客観的な情報なんて存在しなくて、
情報というものはどう足掻いても偏向しちゃうものだよね?
なのに、表面上は公平を装わねばならない。
少しでも強い偏向が見られると、視聴者が揚げ足取りをする。
むしろ公平を装うのを辞めて、TV局毎に支持政党を公言するくらいの事はしても良いと思う。
まあ、俺が勉強するのは、自分の考えたことが既に考えられたことではないか確認するためだな。
大抵は、既に誰かによって考えられた陳腐なものだよ。
274 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 14:21:25 O
それ以前に、今の教育が
「条件反射的丸暗記=詰め込み」
を目的としている以上、
「誰かが既に考えた事を丸パクリする」
のが目的だからなあ。
275 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 14:23:28 0
別に「自分オリジナル」の考え、に固執する必要ないじゃん
ある思考がすでに別の誰かによって思惟された
ものであっても、新たに自分の言葉でそれを反復する
ことができれば十分価値のある試みだといえる。
哲学は「同じものの変容byハイデガー」なのだから
276 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 14:24:20 O
詰め込み教育だと、丸パクリだから
「トリビア冷蔵庫」
にはなれるんだけど、
その素材を使って料理が出来るわけじゃない。
みんな、素材ばかり集めて料理の腕を磨かないよね。
で、太田さんは料理が上手い。
277 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 14:27:18 O
278 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 14:29:21 O
(無駄とは)
「ある目的をある期間で達成しようとするとき,最適な,
もしくは予想上の益より,実際の益を低くしてしまう要因」
無駄の反対語は「効用」や「活用」だという。
では、人生の目的とは何でしょうか?
料理の肯定(よい)は「おいしい」否定(わるい)は「まずい」
これはアプリオリに決まっている。
だけど、人間や人生の肯定や否定(よい・わるい)はどう?
279 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 17:16:21 0
今晩11時からのNHKの番組に永井先生が出るね。
しかもテーマが<私>探し
爆笑問題の太田ははたして独在論を理解できるか。
永井の著作を全然読んだことがなければ、いきなり話を聞いて理解するのは、まず無理じゃないかと
(いきなり理解できる人って、いるんですかね)
多分、そういう予備知識なんか仕入れない形で番組を作ってるんだろうな…
281 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 19:55:30 0
>>280 理解できる人はいきなりでも理解できるし、
理解できない人は本を読んでも理解できない。
282 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 20:13:36 0
太田が人間は一人じゃ生きていけないって一回はいう。
283 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 23:27:39 O
永井さんテレビ出てるね。「ウンウン」というのが気になってしかたない。
284 :
考える名無しさん:2009/10/06(火) 23:29:37 0
このスレで話題になった綾波レイみたいな話だったねw
今見てるんだけど、これって帰結主義的に説明すべきことを、演繹的に説明しようとして論点つくっちゃってるだけなんじゃないの?
起点になる<私>がどう説明されるか?は、それ自体としてしか問えないわけではないでしょ(もしそれ自体としてしか問えないと
主張するのであれば、なぜそうであるかのを説明しなければならなくなるが、永井さんがそれを説明しているようには見えない)。
諸科学による説明に出てくるような諸要素(例えば脳)によって、<私>が帰結的に構築されると理解することは問題なく可能
(殴られて痛いのはこの<私>になることを十分説明できる)だよね。
話を聞いてると、諸要素により帰結主義的に説明される「私」(主観性)の複数性を、<私>が直接知ることはできないから、
<私>は「私」ではないと論じてしまってるように聞こえる。でも、<私>の生成がそもそも帰結主義的に説明されるような
要素で出来ているとしたら、<私>が「私」の<私>性を<私>のこととして理解できないことは、端的な所与(「私」は<私>
として知られる)としか言いようがないのでは。
答えが無いのをいい事に
太田さんの提案に対して、様々な仮定をとっかえひっかえして否定しているだけという感じ
いやあ、今までの著作を読んだことのない人が、今回の番組の内容を理解するのは無理でしょう、多分
しかし逆に、一とおり読んでるつもりで感想を言うと、実に意外なことにw、著作の内容を
あまり逸脱してなかったと思った
オンエアされてるのはごく一部らしいけど、映ってないところでは、ちゃんと説明が
なされていたんじゃないかと
ただし新味はなかったと思うw
288 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 00:00:55 0
私はあなたと出会うことで変化するの?
私は私でしかなくて、あなたは自分の夢が作り出したもの。
だから、周りの人の影響を受けて私の形が変わってしまう。
だけど「あなた」もその人にとっては「私」だから、その「あなた=私」にも夢は存在するから
「私=私」も「あなた=私」が作り出した夢の住人かもしれない。
様々な「私」の夢が無数に存在し、それが共存しているのなら、
「私=私」の夢が、「あなた=私」の夢に影響されて、変化してしまう事もありうるんじゃないの?
太田さんはそれを心配していて、「私=太田=私」の夢が「あなた=永井=私」の夢にいつのまにか影響されているんじゃないか?って事だから。
無数の夢が同時に存在すると仮定したら、それはどんな形で存在するんだろうね。
部分的に存在していて、近しいもの同士が影響を与え合っているのか、
それとも夢は全世界(?)を覆うもので、既に全ての夢同士が影響を与えているのか。
289 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 00:04:14 0
『<私>の存在の比類なさ』
でも読んでみるか。
これを読んだら今以上に理解出来るのかな?怪しいなぁ。
>>287 >>285に対してのコメントだというなら、どこが理解できてないのかちゃんと説明してみせてよ。
それに著作の内容を逸脱していないと理解できる内容だったなら、その説明で理解できる可能性はあるってことでしょ。
権威主義的な議論に訴えながら、たった一つのレスの中でそんな矛盾気味の発言をされても、支持している読者のレベルが
伺えて、かえって説得力がないように見えるだけだよ。
291 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 00:22:36 0
独在性を考える場合、前提条件を明確すれば答えはでる。
でもその前提条件が∞あるから答えも∞ある。
だから、独在性とはその∞の前提条件から「私」が選んだ
前提条件が「私」の独在性である。
292 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 00:32:19 0
>>285 287ではないけど、もし今までの著作を読んだことがなくて、かつもし興味があるなら、
まったく単純に読んでみればよいだけでは?
はっきり言って、2chなんかで説明を求めても無駄。
これはこの場合に限らず、たぶん殆どどんな場合にもいえる。
>>292 そういう議論に平気で訴えられるのであれば、永井さんが述べた意味のことを本気で支持してなんかいないと
認めてるようなものだと思うんですけど。
<私>について何を知っているか知るために、「永井」に聞かなきゃだめだというのであれば、それは「永井」が
<私>についてなんか言ってて、その語りに多少なりともひかれる人たちが、「<私>」というコトバに<私>性を
感じてなんとなくわかった気になっているということに過ぎないと認めたことでしかないわけですよね。
じゃあそういう人たちが言ってる<私>って、結局なんなんですか?
永井さんが説明しているようだが、2chでそれについて話されている場所で出てきても全くあてにならない<私>
って、ただの「私」じゃないですか。何か手探りで核心にいたれる部分があるから、多少なりとも永井さんのような
語りが許されるわけでしょ? 本を読むとか読まないとかいう問題で片付けられるのであれば、別に「私」で
何の問題もないじゃないですか。
294 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 00:43:56 0
太田が「〈私〉」を理解しているようには見えないけど、結構話かみ合ってたじゃん。
よかったよ。
永井が言ってる〈私〉はハイデガーの問いと変わらないな。
296 :
292:2009/10/07(水) 01:01:40 0
>>293 「支持」なんかもちろんしていません。
したがって(なのかどうかもわかりませんが)、
以下の文章であなたが何を言っているのか、まったく理解できませんでした。
>>296 「支持〜」以下の文章を理解できるかどうかは、「支持」しているかどうかに依存すると考える理由を説明してください。
もし「(なのかどうかもわかりませんが)」が本心なら、多分あなたは永井さんが何を言っていたかそもそも理解できてないと思いますよ。
298 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 01:10:14 0
>>296は3行目の結論が先に出来て、こじつける理由として1行目を思いついたようなレスだなw
299 :
296:2009/10/07(水) 01:15:12 0
私は永井の支持者でも理解者でもありませんよ、初めから。
支持者だとも理解者だとも言ってもいないし、
単に言っていないだけでなく、現にそうでないし。
だから、あなたが何を言っているのか、さっぱり理解できません。
301 :
考える名無しさん :2009/10/07(水) 01:16:47 0
永井はデカルトよりは進んでいると勘違いするなよオマイら
けっきょく解んねぇんだからデカルトと変わらん
邪魔だな。
303 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 01:24:20 0
>>301 いや、「進んで」はいないという点は賛成だが、「変わら」ないという点は反対だ。
むしろ、ぜんぜん関係ない可能性の方が高い思う。
304 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 01:25:42 0
ハイデガーとかケン・ウィルバーの方が進んでいる。
>>299 じゃあ、永井についてほとんど何も知らないけど、
>>292のように書いたということですか?
それなら余計なおせっかいとしか言いようがないですよ、申し訳ないですけど。
私は永井が何を考えているのか知りたかったんじゃなくて※、永井が言っていることが実際にどう理解されているのか、
その理解された内容に
>>285のような問いをぶつけたら、どういう反論が返って来るのか見たかっただけです。
この場でレスする以上は、当然そういうつもりでレスするわけですから。
※私は永井が考える問題は永井の意に反して言葉の問題だと確信しているので、永井の考えを確認すれば
よりその確信が強まるだろうという意味では永井の考えに興味がありますが、かといってそれを確認して
自身の考えの確信を非常に強めたいという欲求はさほどないので、そういう意味では興味がありません。
きつい言い方ですが、私にとっては、永井が言っている問題は「ちょっと考えればわかる勘違い」のようにしか見えませんでした。
306 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 01:30:23 0
>永井が言っている問題は「ちょっと考えればわかる勘違い」のようにしか見えません
おめえ長いよ、上の文だけでいいだろBBSでは。
307 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 02:01:10 0
>>305 >私にとっては、永井が言っている問題は「ちょっと考えればわかる勘違い」のようにしか見えませんでした。
あなたにとっての「永井が言っている問題」というのを解説してください。
309 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 02:06:23 0
>>285で言っている「<私>」というものが全く理解不能なんですが。
永井を叩いてる奴が言うんだから理解できるわけないもんなww
難しい議論を見たら、理解者を気取りたいなら「理解が難しい」批判者を気取りたいなら「理解不能」と言っておけば足りる
それが2ちゃん哲学です
>>295 ハイデガーも、「そこから世界が開ける存在」を現存在(=<私>)と言ってるしな。
テレビで永井もそんなこと言ってて、ちょっと意外だった。
313 :
287:2009/10/07(水) 06:34:17 O
>>287は、
>>285その他特定のレスに対して反論などをしようとしたわけではないのだけど、
そのように見えたのならすいません
287の趣旨を多少補足すると、本を読んだことがあれば「これはあの話で、さらにあんな
説明があるはずだな」などと、何となく補完しながら番組を見られると思うけど、読んだことの
ない人が番組内の説明だけを見ても、全然わからないような内容にしかなってないなあ、
という単純な感想なので
ついでに、私には285の内容がよくわからないので、反論などもしようがない
314 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 08:41:00 0
>>285のような問いをぶつけたら、どういう反論が返って来るのか
たしかに、肝心のその「285のような問い」が、
いくら読んでも何を言っているのかさっぱり分からないなあ。
「私」と<私>ってどういう定義だっけ?
また図書館に借りに行くの面倒だから誰か説明してくれ
316 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 09:09:40 0
だから、「2chなんかで説明を求めても無駄」なの。
手元の本を引用することもできないのか?
318 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 09:39:37 0
ものすごくながーく引用しないと駄目だから、それもまあ無理
地道に自分でいろいろと読んでみるしかないようです
こ、
これは。。。。
放送作家にまたよまれた。。。
>>285 同意します。
「かけがえのない〈私〉」を言語を介して理解しようとしても、その〈言語〉自身が「それぞれの〈私〉」に
依拠してるので理解はできないって言ってんでしょ。
対して太田さんは、「それぞれの〈私〉」ってのは、「それぞれの〈私〉」と周囲との関係、また「それぞ
れの〈私〉」と「それぞれの〈私〉自身」との関係によって形づくられて(あるいは存在して)いるのだから、
〈私〉だけを取り出すことはできないっていうようなことを言ってたんじゃいの?
かいつまめば、前者は「〈私〉は存在しているんだが、じゃあその〈私〉って何なんだ?」ってことを考え
てて、後者は「〈私〉は存在してはいないが、〈ある〉」ってことでしょ。
数学でいうところの「0(ゼロ)」の話みたいな話。
>>288 〈夢〉についての話は、知覚・認識と記憶をごっちゃにして論じてるから迷っちゃったみたい。
記憶はできないけどできる知覚・認識はできる生命体、たとえばミミズとかカブトムシなんか
にとっては、世界は存在してるけど、自分が死のうがどうなろうが、その世界がなくなったり
はしない。なぜならはじめから〈ない〉から。
〈私〉なんてもんは、合理的・効率的に記憶するために生じた基準点でしかない。
その論証は、錯覚や見間違え、または神経系の伝達時間や反射・反応などによって、
厳密な意味での「今・現在」を知覚・認識することはできないということが理解できる人なら
容易に可能です。
322 :
コルモゴロフ:2009/10/07(水) 14:30:33 0
「私」とは一般的な自我のこと
<私>とは端的な独在性のことだが、それが伝達された暁には
常にすでに「私」という在り方に頽落している
その頽落は言語の形式
に由来する(私的言語の不可能性)のだが
<私>は「私」からの絶えざる離反の内に、痕跡としてのみ、かろうじて仄みえるのだ
さてしかし、<私>は「私」を通してしか表現できないが
<私>は「私」ではない、という在り方そのものが実は
言語的形式の要請する世界の構造なのかもしれない。
永井初期の論文にハイデガーをもじって確か
こんなようなことが書かれていた。
「語りえず、そして示されもせぬ、何かがある。
それは非言語的に最も近いがゆえに言語的に最も遠い」と。
<私>とはそのような存在/非在の往環に付け
られた不可能な名の謂いに他ならない
>>322 議論としては、面白くなくはないが、
方向性としては不毛、というか袋小路だろう。
よく批判されている通り、その理論を進めていくと
〈他ではない、かけがえのない私(の意識)〉
に行き着くと思うが、これは作家や思想家などの
特殊な意識の働きを考える上では意味のある議論だが、
普通の人にとってはどうでもよいこと、
むしろ一般人にとっては、「なぜ私にとっても他人にとってもリンゴが赤く感じられるのか」、
といった共通体験が成立する前提というか基盤のほうが
議論に値すると感じられるんじゃなかろうか。
「私」が分裂している、とかは古くからある陳腐な議論だよ
高尚な連中の「特殊な意識の働き」と独在性とは特に関係ないのでは。
まぁ<私>については何を話しても「誰にでも言える自我の特殊性」
みたいな話にどうしてもずれこんでしまうから
市井の人と交わすテツガクの話題としては別のものを
選んだ方が良いかもですね
>>320 つまり
永井−独我論
太田−間主観性論
ってこと?
ま、一言でいえば 陳腐。
327 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 18:39:09 0
>>292 そりゃそうだw
それでも、2ch上であれこれ有意義な議論が出来る場もあるわけ。
あなたそれが出来ない人だというだけの話。
328 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 18:40:43 0
>>316 「2chなんかで説明を求めても無駄」
おかしいですね?「2ch」の住人が発する言葉の意味を2chの住人が説明できないなんて
329 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 18:47:01 0
>>321 >なぜならはじめから〈ない〉から。
あなたはミミズやカブトムシではないのに、なぜ<ない>と言い切れるのでしょうか?
そして、何故それはミミズやカブトムシにはなく、人間には<ある>と言い切れるのでしょうか?
>〈私〉なんてもんは、合理的・効率的に記憶するために生じた基準点でしかない。
その基準点はどう存在しているんですか?
その基準点はどこからどこまでを指しますか?脳全体?脳細胞?それとも心臓?
330 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 18:51:27 0
そういえば
「あの番組を見て理解できる奴は著作を読んだ人だけだ」
という人が居たけれど、この人のいう「理解」とは何を指すの?
「独在性」の事?
そもそも、「独在性を理解」する事なんて可能なの?
田中さんが言っていた「僕が見てるこの赤が、あなたにとって同じ赤だとは限らない」といった事と同じで、
その「僕の理解が、あなたにとって同じ理解だとは限らない」のでは?
それとも、これは
>>324さんの言う「誰にでも言える自我の特殊性」 であって、<私>の話とは別次元の話なんですか?
独在性を理解できるかできないか、なんてことではなく、単純に説明が短かすぎて
論旨を理解できないだろう、ということ
いや、もし本当にあの番組だけで何かを理解できたと言うなら、それはすごいので、
その理解を披露してみてほしいけどね
「」と<>の使い分けできてませんよ
333 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 20:33:42 0
>>331 その論旨は明文化できます?
できるなら、一言で説明してもらえます?
独在性を考えると、
あなたが理解したであろうその「論旨」が
永井さんが理解しているであろう「論旨」と同一であるとは限らないですよね?
理解なんて概ね願望に基づくもの
>>333 >
>>331 > その論旨は明文化できます?
番組を見ただけでは分からないと思うから、そう書いたんだがw
質問の趣旨がわからないのだけど
> 独在性を考えると
ところで、そこで言う「独在性」とは何?
「事実として、なぜか、そいつの目から世界が見え、そいつの体を殴られると痛く、
その体を動かせる唯一の物がある」(『なぜ意識は実在しないのか』146頁あたり参照)
ということ?
そうでないとしたら、何を指してるの?
336 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 23:08:01 0
>>335 >番組を見ただけでは分からないと思うから、そう書いたんだがw
そもそも「著作を読んでいる奴は解る」という発言者に対して質問しているんですが。
「著作を読んでいる奴には解って、読んでない奴には解らないもの」は何なの?という話。
で、貴方は「論旨」と答えた。
つまり、貴方は「著作を読んでいれば(永井の)論旨が理解できる」と言っているわけ。
それがなぜ「番組を見ただけでは分からない」となるのか。
これじゃ、論点をズラしながら様々な仮定を提示してグラグラしているだけじゃないですか。
>ところで、そこで言う「独在性」とは何?
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/hiruinai.htm <私>は「他に同じ種類のものが存在しない独自な存在者」なのだから。
しかし<私>を論じ始めるや否や、聞き手全員が各々自分のこととして理解することが前提されてしまい、
独自の<私>は複数の私一般へ転落を余儀なくされる。
独自の<私>を取り戻すにはこの等質化から再び独在的な離反をせねばならないが、
「独自な存在者一般」として必ずまた等質空間に包み込まれるだろう。
「<>という記法が示すのは、独在と頽落の終わることなきこの拮抗運動なのである。」
>>329 だから、「0(ゼロ)」なんです。「0(ゼロ)」。
なにかについて考えようとしたとき、よし、○○について考えよう、と思ってから脳の中の神経細胞
が活性化するんじゃないですよね。まず、神経細胞が活性化して、そのあと「考えよう」って認識が
生じる、ですよね。ヤカンに触れて「熱い」って認識してから手を引っ込めるんじゃなくて、まず神経
が反応して、そのあと「熱い」っていう認識が生じるのといっしょです。
認識は常に「記憶」の中にしか存在しないんです。
よい小説を読んで、その晩の夢でそれを見たとき、夢の中での〈私〉は、本を読んでいたときの〈私〉
ではなく、本から受けた刺激によって想像した世界の中にいる〈私」でしょ。本を読んでいた時に目に
映っていた、本の紙の色合いや活字の形を見ている〈私〉を夢に見ることはありません。つまり、〈私〉
が、実体験とは違う世界へ移転してるわけです。
なぜかというと、そこが記憶の基準点になってるからです。
あらゆる知覚細胞からの情報をすべて記憶することはできないので、それを効率よく合理的に記憶
するための基準点こそが、わたしたちの認識している〈私〉ということになります。
ですから記憶する機能を持たない存在には、〈私〉も〈世界〉もないんです。
338 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 23:14:50 0
番組内では、
意識と言葉・記号には大きな壁があって、「意識→記号」への変換によって失われるものがあり、
それこそが重要なんだ・・・みたいな話をしていましたよね?
(これって以前から太田さんがよく言っていた事だと思う)
そう考えると、「独在性」という言葉・記号だって、
永井さんの中で生まれた思考が言葉にエンコードされたもの「思考→言葉」であって、
それを他のものがデコード「言葉→思考」しても、基の形にはならないはずなんだけど。
339 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 23:18:52 0
>>337 >だから、「0(ゼロ)」なんです。「0(ゼロ)」。
「何が」0なんでしょうか?
その「何が」が重要なんですよ。
その「何か」が「有る」というのが。
ミミズやカエルが「無い=0」で、人間に「有る=1(?)」ものは、ズバリ何なんですか?
それは実体のあるものなんですか?
「基準点」とは具体物なんでしょうか?それとも抽象物なんでしょうか?
340 :
考える名無しさん:2009/10/07(水) 23:22:51 0
全てが脳細胞の反応であって意思が存在しないのであれば、
人間にも「私」は存在しないという事になる。
「私」なんていうものは単なる「錯覚」という話になる。
つまり、その部分ではミミズやカエルと同じです。
違うとすれば、人間には「なぜ?」と考える力がある、その位では?
ちなみに〈私〉が、自分の体の中にあるように感じるのも記憶に拠っています。
自分の知覚器官との、経験的な距離感がそう錯覚させているんです。
最近の遠隔操作技術の研究例などでは、あたかも自分がその遠隔操作している機器の
位置にいるかのような錯覚をおぼえたという報告がいくつもあります。
知覚情報を得た位置と自分との距離と、記憶の中にある「経験上の」知覚情報と自分と
の距離とを混乱させてしまうからそうなってしまうんです。
つまり、やはりこうしたことからも、〈私〉とは基準点である、ということになります。
「点」ってありますけど、それはあくまで「0(ゼロ)」ってことですから、どこまでいっても
認識することはできません。「0(ゼロ)」はどこまでいっても「0(ゼロ)」ですから。
番組で、自分とまったく同じうんぬんとかいう思考実験もどきのことを話してましたけど、
分離した瞬間にそのそれぞれが異なる記憶を持つことになるので、それぞれの基準点
は異なって当然なんです。だって分離後も記憶がまったく一緒なんてことは、論理的に
破綻してるでしょ。ね。
342 :
285:2009/10/07(水) 23:34:12 0
>>320 > 「かけがえのない〈私〉」を言語を介して理解しようとしても、…
320さんは同意してくれたようなので、多分「かけがえのない」という形容にこだわっていないと思うのですが、
そもそも、永井さんがいうような<私>についての語りをいくら積み重ねても、<私>のかけがえのなさ、
という理解には繋がらないと思います(「殴られて痛いのは<私>」を念頭において上のように書いてます)。
「かけがえのなさ」とは、「かけがえがない」ように扱う・扱われること、扱われると期待できる十分な理由が
あることと関わります。かけがえのないものとして私を論じたいなら、そこでいわれる私は、むしろ言語的な
私である必要があります。
番組中の例でいうなら、「かけがえのなさ」とは、永井さんが子供時代に自分の考えを理解してもらえなかった
ことについて、自分の考えがどうも変わっているらしい、という結論をとれていることに関わる問題です。
<私>であることがかけがえのないこと(でしかない)なら、永井さんは、そのような状況におかれた理解が、
かけがえのないものではないことを認めていることになるはずです(そこで<私>にとってのかけがえのなさを
言っても無意味です。<私>がどのように扱われうるかを、<私>は確かに認めているからです)。
永井さんは、「赤」の<赤さ>は言語化できないから、〜は「赤い」と発言することでは<赤さ>を扱えていない
という意味のことを言いますが、それは事態を履き違えています。むしろ言語が、<私>に<見える><赤さ>に、
それは「赤く」「見える」という理解を与えるのです。言語は<見える><赤さ>相互の同一性に関係なく、それを
「私」たちが共に「赤」と名指せることによって、<あれ>を「赤」とするのです。この説明が「その〈言語〉自身が
「それぞれの〈私〉」に依拠してるので理解はできない」
>>320に対応しているのかは、ちょっとわかりませんでした。
<赤>や<私>があり、それを扱う言語が機能しているという観念がそもそも誤っていると思います。
教養レベルが違う奴を相手にするのはどうかと思う
言葉の意味や使い方が共有されてない奴と話すのは不毛
>>339 何が0かとお尋ねになるということは、「0(ゼロ)」というものがおわかりでないということに
なるんですが、そんなことはないですよね?
極々噛み砕くと、記憶という機能が生じたとき、でも全ての知覚器官から入ってくる全ての
情報を永遠に記憶することはできないですよね。どうしたって取捨選択することになります。
その瞬間に〈私〉という基準点が誕生したんです。
345 :
285:2009/10/07(水) 23:45:31 0
訂正
>>342中ごろの「<私>であることがかけがえのないこと(でしかない)なら、」は削ります。
>>342 「言語としての私」とはなんなのか、って聞かれたら、私にもわからないです。確かに。
「>339」さんも、そうした意味での問いをいだかれてるのでしょうか。だとしたら、私の
説明はまったく的はずれだったかもしれません。
私からすると、その言語というのも「記憶の合理化の一部」である、という理解ですから。
〈私〉を基準点とした記憶の中に言語は存在してて、その言語の中で〈私〉はどう扱われて
るのか…、あまり深く考えたことないです。正直。
存在は全て比類なきもので、その中の人間には知性と言語があるってことよ。
348 :
285:2009/10/08(木) 00:13:20 0
>>342 「永井さんは、…かけがえのないものではないことを認めていることになる」理由を補足しておきます。
<私>であることがかけがえのないこと(でしかない)なら、永井さんは、そもそも自分の考えがどうも変わっている
らしい、という結論をとれないはずです。なぜなら、「自分の考えがどうも変わっているらしい」は、その自分の考えが
とるにたらないものとして扱われうる、ということを含意しているからです。「殴られて痛いのは<私>」という例と
類比的に書くなら、「<あれ>を思い浮かべられるのは<私>」といった記述が対応するはずで、そのような例を
考えてみたところで、そこにかけがえのなさという形容が対応する理由があるとは思えません(残念ながら<私>は
殴られうる)。
とるにたらないものとして扱われる事実を認めるときに、なお自分の考えがかけがえのないものだと信ずることは
できますし、そう信ずるに足る理由もあるかもしれません(むやみに<私>を殴ってはいけないと「私」たちが考える
理由はある)。しかし、そのことと、<私>の<あれ>がかけがえのない対象であるかどうかという問題は異なります。
むしろ<私>や<あれ>が、「私」なり「自分の考え」なりに言語化されることで、そこに「かけがえのなさ」という
形容が対応しうるはずです。
>>346 記憶・合理化等が何を指しているのか、という説明をさかのぼっていくと、それらの言葉をなぜ人々は使用できている
のか、という条件の問題にいきつきます。そこでは、所与として、あることを指し示すことが原理的に常に「一つ」である
ことが言うことになり、それにより、さまざまな説明が形成される条件を説明することになると思います。
例えば、あいうえお の、あ は、当然ですが あ として用いられますよね。同様に、記憶という語に対応するさまざまな
要素――き お く という文字、またこの場で表現できませんが音、さらに記憶という語で指し示す<あれ>――等を
考えることができます。これらが<私>に可能になっている条件を記述する場合には、そもそも記憶できていることは、
<あれ>(所与)でなければならず、そのような所与によって説明される事態が、<私>であることが帰結的に理解され
るはずだ、というのが私の考え方です。
349 :
285:2009/10/08(木) 00:16:10 0
>>348訂正 常に「一つ」であることが言うことになり、→常に「一つ」であることを言うことになり、
すみません。
350 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 00:55:49 0
>むしろ一般人にとっては、「なぜ私にとっても他人にとってもリンゴが赤く感じられるのか」、
>といった共通体験が成立する前提というか基盤のほうが
>議論に値すると感じられるんじゃなかろうか。
それが永井のやっていることだ。
答えは、永井用語で一言で言えば「累進構造」に基づく、ということになる。
テレビではこの議論をまったくやってなかった(あたりまえだけど)から、
当初の問題感覚は分かったが、肝心の永井哲学の哲学的議論の内容には触れずじまいだった。
(まあ、そこまでいくには2,3時間はかかるだろうけど)。
351 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 01:03:14 0
永井はもっとベルクソンのように科学なんかの知見を積極的に取り入れないとダメだろう
だって古典的形而上学じゃん
352 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 01:14:39 0
永井の見解に立ってるようなレスは用語を出したり理解が難しい、時間がかかるとか言ってるだけで
中身のあることは殆ど一言も述べてないのはどういうわけだ。全く説明が出来ないというのはおかしいだろ。
>>336 まず改めて私が書いたレスを特定すると、
>>287、
>>313、
>>331、
>>335 > そもそも「著作を読んでいる奴は解る」という発言者に対して質問しているんですが。
表現が精密でなかったのは申し訳ないけど、「本を読んでいる人なら、番組の論旨がわかる」とは書いてない。
また、番組の内容と関係なく、永井の論旨を一言で要約できる、なんてことも書いてない。
(それとも私以外の人に対して指摘してるの?だとしたら重ねて申し訳ない)
読んだことがあれば、「本の中ではさらに説明があるはず」と補完しながら番組を見られる、
という程度のことなら書いたけど。
実際、録画を見直してみたけど、まあ部分的にはわかりそうな所もあったけど、よくわからない部分のほうが多いと思う。
>>353 まああれだ、聞き手の太田がダメなんだよ
斎藤環のときもそうだったし
進行役はうまく聞き出してそれに対して質問していくくらいの冷静さがないと
太田は自分が目立ちたいだけだから誰が出ても同じだよ
私ってのは、「脳の機能の一つ」にしか思えないのだが
この考えがどうしてだめなのかが、どうしてもわからない。
(続き)
例えば太田の「心はどこにあるのか(脳?心臓?)。それについての医学的な研究などが、
永井の疑問に対するヒントになるのではないか」という質問に対して、永井が「そこで問題になるのは言語だ」
とした上で、「私が自分の脳を研究する場合なら、脳の状態と心の状態が直接わかるので「あれ」「これ」などと
言って研究すればいいが、それでは言語にならない」ということと、「それぞれの人が感じることと、
科学的研究の間には、飛躍があり、その飛躍を可能にしているのは言語だ」ということを言っている
(ように聞こえる)のだけど、ここなんかは、多分『なぜ意識は実在しないのか』の議論だとは思うけど、
正直、本を読んでるつもりだけど理解できない。
『なぜ意識〜』には、第〇次内包(例えば痛い時に私が感じるその痛み)・第一次内包(「痛い」
という時に感じるとされるもの)・第二次内包(ミクロ物理的変化)という三つのものの関係について
詳しく説明されているけど、番組を見る限り、その三つについてまとめてごちゃっと話しているように見えてしまう。
357 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 01:38:15 0
でも、永井のに限らず、哲学の議論をちゃんと説明するには、
そうとう長くきちんと論じていかないとならないので、
テレビの30分では全然足りてないところを、
この短いレスで補って説明するというのはかなり難しいとは思う。
36000字の普通の論文でも字数が足りなくて困ることが多いので。
2chで説明を求めても無駄というのは、要するに長さの問題もありますね。
それに、まあ、ぶっちゃけ、こんなところに匿名で書いても評価してもらえないので、
「無駄」ということもある(笑)。
だから、まともな人がまともなことを書くことはあまりないとはいえますね。
事実問題として。
358 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 01:42:23 0
>>355 誰でも脳の機能だから。
私だけじゃないから。
>>355 「脳の機能の一つ」だというならば、それが脳内においてどう機能して〈私〉を構成しているのかを
説明できないと
「〈私〉とは魂なんです」というのと同じ次元の議論になってしまうよ
>>358 「脳の機能の現れ方が違う」ってだけじゃないの?
それぞれの私が、全く異なる現れ方をしたとしても、結局は「脳の機能」に集約されるという。
>>359 脳の認識機能が、再帰的に脳が支配している肉体を認識したら、私になるような気が…
(さらに続き)
ここについては、もし永井の論旨を知りたければ『なぜ意識〜』を読むべき、としか言いようがないと思う。
(いや、もし他の人が要約可能というなら、お願いします)
それから、もし永井の論旨を問題にしたいのなら、何でわざわざ他人(三浦俊彦)の書評なんかを、
しかも比較的古い本のやつを引用するの?
『なぜ意識〜』でも『私・今・そして神』でも、まず読んでみればいいじゃないの。
それと、私に対するレスじゃないと思うので余計なことだが、意識に関する考え方とか、「〈私〉の
かけがえのなさ」(?)について、あなたが言ってることは、永井の議論とは全然違うようにしか見えない。
そのこと自体が悪いというのではないけど、それじゃ議論が全然噛み合わなくて不毛だと思う。
363 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 01:54:46 0
>>359 355ではないが、それは的外れだと思う。
なぜなら、
それが脳内においてどう機能して〈私〉を構成しているのかを説明できる、
などということはありえないから。
なぜなら、
それが脳内において〈私〉を構成している、なんてことはありえないから。
そもそも、そういう種類の問題じゃないのだ。
むしろ、単純な言い方だが、358の言っていることの方が的を射えているように思う。
脳の機能で説明できるのは、すべての人にある自己意識とか自我とかそういうものだ。
そういうものを持った人間のうちの一人がなぜ私であるか、それでは説明できない。
ここから存在論的問題が始まる。
>>361 そんなに荒っぽいこと言っちゃいかんよ
シナプスや分子生物学、脳科学…とちゃんと関連性を維持して体系的に説明できないからこそ
未だに〈私〉は大問題なんだよ
だから永井の形而上学でももちろん説明はしきれないだろうね
365 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 02:02:53 0
>>360 永井的には「それぞれの私」なんてものはない。
「全く異なる現れ方」を対等に見ることができる視点などもない。
>>361 脳の認識機能が、再帰的に脳が支配している肉体を認識したら、自己意識が生まれるだけだ。
そういう種類の問題とは無関係というところが話の出発点なのだ。
>>362 基本的に賛成。しかし、もっと初歩的なものから読まないと分からないだろうと思うが。
テレビを見た印象だけで何か言ってみても、全然見当違いな議論になっていることが多い。
というか、いまのところ、すべてそうなっているように見える。
>>363 >そういうものを持った人間のうちの一人がなぜ私であるか
宿るようなものではなくて、個々の生活習慣によって作られるのものだからでは?
367 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 02:05:13 0
自己意識と私の違いがわからん…
特権的な自己意識が、私じゃないの?
>>363>>367 お前、ぴかぁ〜だろ
独特のKY感と文章読めない感がばっちり出ているぞ
頭(コテ)隠して尻隠さずとはこのことだな(笑)
http://d.hatena.ne.jp/charis/20071211 ここの紹介が間違っていたら話にならないんですが、ここに書かれてある考え方に私なりに反論してみます。
> 「他者にも私と同様な意識はあるのか?」という問いは、永井氏によれば、奇妙な問いである。世界はどこまでも「私に」
> 現れるものであり、他者もまた「私に現れる光景の中の一要素」でしかない。だから、この光景の全体(=私の意識)が、
> 光景の中の一要素である他者に属するはずはない。「意識」を考えるとき、まずはこうした「私−他者の非対称性」を前提
> しなければならないのに、多くの人は、「意識が脳に付随する」のように、意識をあたかも世界の中の一要素である「魂」の
> ように扱っている。私の意識はつねに私に現れる世界の全体を"張って"おり、そのようなものとしての意識は、けっして
> 世界の一要素である他者には帰属しえないことが分かっていない。
私からみると、最初の問いに永井さんが「世界はどこまでも「私に」(注:このスレの文脈でいえば<私>に)現れるもので
あり、」と直ちに答え始められるかのように考えられることが奇妙です。なぜなら、<私>に対して<それ>として世界が
現れるとき、<私>が<それ>を世界に結びつけたり、そもそも<私>に対して現れると考えるべき理由がないからです。
永井さんは、単に「現れる」(ところから始まる)と記述すべきはずのところで、理由なく<私>とか<世界>という要素を
持ち込んでしまっているだけだと思います。本当は、<現れる>から、<私>も記述できるのであり、その意味で、<それ>
として名指されることがら(「私」、<私>、<世界>、「他者」などなど)の間に性質的な違いはないはずです。
永井さんが言っていることは、<現れる>ことと、<現れた><それ>を指し示せることで説明がつくのであり、そこに
<私>を持ち出す必然性はありません。
371 :
285:2009/10/08(木) 02:13:11 0
(
>>370の続き)
あまり思考実験は好きではないんですが、あえてそういう説明によるなら、私の意識(<私>)が、私の体から離れたところ
にあり、その意識が、体をコントロールする構造――ゲーム画面に映っているプレイヤーキャラに痛覚等の<私>としての
感覚が連動するが、それをコントロールする<私>は画面外におり、そこからプレイヤーキャラを操作する――という構造を
仮定したとき、プレイヤーキャラに<現れる>ことを、<私>に結びつける理由がないことは理解されると思います(その
構造では、<それ>(<私>)ではなく、<それら>(プレイヤーキャラとコントローラー)として理解され、体やプレイヤー
キャラにダメージを負うことと意識が切り離されるから)。
つまり<現れる>ことが<私>に結びつけられるのは、<現れる>構造が、どのようなものとして受け取られやすいかに
依存しているからに過ぎないということです。むしろ、脳科学が進んだりした結果、私達の意識の構造が上記のコントロー
ラーとプレイヤーに近いものだと知られるようになれば、思うように動かせない体と、思うとおりに思うことができる意識の
差の感覚が強まり、<私>という観念が「私」から来ていること、社会化された主体として必要になった「私」という理解に
結びついて生じてきた錯覚であることが、知られるようになるかもしれません。
372 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 02:18:11 0
だから、362の人が言っているように、本を読んでみるしかないと思うよ。
いろいろな人が言っているように、ここで短く説明することなんかできない。
ただ、事実として、テレビ見ただけの人はまったく的外れの理解をしている
ということだけは確実にいえるようだから。
362の人が挙げている本は上級者向きだから、文庫本の『翔太と猫のインサイトの夏休み』
(の特に第2章)を読んでみるのが簡単でいいのではないかな。
『<子ども>のための哲学』や『<私>の存在の比類なさ』も比較的わかりやすけど。
>>362の最後の部分について
285と336が同一人物だということを前提にしてしまったけど、よく見たら断定できる材料はなかったので、
違っていたらお詫びの上撤回します。
374 :
285:2009/10/08(木) 02:24:21 0
(
>>370-371の続き)
370-371のように述べることは、「意識が脳に付随する」のように、意識をあたかも世界の中の一要素である「魂」のように
扱っていることを意味しません。所与としての構造がどのようなものであるかに依存して「現れ」方が知られる、という
議論だからです。
私の意識が世界の全体を張っているという理解は、意識に対応する「体」と呼ばれる領域への「現れ」方が、「それ」
(一つ)に対して起きる、という構造に依存しています。しかし、一つだと観念している<私>の構造が、もし複数の
要素によっているとしたら(というか、実際にそういう構造であることが知られているわけですが)、その構造を、
<私>として束ねる理由はないことになります。<私>への現われを知るためには、「体」の痛みを感じる神経が
機能していなければならず、それは「世界」内の構造です。「世界」内に記述される構造が所与(<それ>)として
与えられているから、<私>が生成されるというのは、そういう意味です。
〈私〉のぉ〜お墓の前でぇ〜泣かないでください〜♪
この〈私〉って誰?
死んだ人?
死ぬ前に言ってるということ?
376 :
285:2009/10/08(木) 02:26:46 0
>>372 >>370のリンク先には永井さんの考え方が要約されていますが、この要約と永井さんの主張によほど
大きなズレがない限り、私の考えは永井さんの考えへの反論にはなっていると思います(妥当性はともかく)。
>>373 >>336は私のレスではありません。
377 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 02:27:09 0
そうですね。
それにしても、なぜみんな、まずが「原典」をしっかり読もうとしないの?
日本語で、簡単に手に入って、古典ほどは難しくもないのに。
ひとの「紹介」なんかじゃ話にならない。
どんな場合もまずは「原典」をゆっくりとしっかりと読んでからというのが哲学の常識では?
そうでないと、みんな、固有に永井的な問題に触れてもいないと思うよ。
>>374 ><私>が生成されるというのは、そういう意味です。
で、結局は<私>って何なのよ?
379 :
285:2009/10/08(木) 02:36:15 0
>>378 永井さんは番組内で「私の痛覚は私にしか知られず、それは他人の痛みと同じではない何か別の現われ方をしている」。
その現われ方のあて先を言うときに<私>という言い方がされるというだけでしょう。
>>377 ですから、そういう常識に訴えるだけで話を済ませられるのであれば、構造的に永井さんがいう<私>を主張する
理由が無くなるのではないでしょうか。
>>293
380 :
285:2009/10/08(木) 02:37:51 0
>>379の2行目、
…現われ方をしている」という意味のことをおっしゃっていましたが、 です。
>>379 永井の〈私〉はデカルトの「コギト」とは関係ないと?
>>377 「ウィトゲンシュタイン入門」と「マンガは哲学する」は読んだお。
私に関しては、「原理的にはわかり合えない」で自己解決した。
383 :
285:2009/10/08(木) 02:52:00 0
>>381 内容面で考えると質問の意図がわからないし、行動面で考えると質問の意図がくだらないことがよくわかるので、
その質問には答えません。
>>381の文章は暗に関係があると論じたがっているように読めますが、そのように論じたい
のであれば、あなたがそのように論じられる理由を示しながら私に問うべきで、1から10まで私にかかせて、文句を
つけられるところを探そうというような、見苦しいやり方に訴えるべきではないと思います。
>>383 >その現われ方のあて先を言うときに<私>という言い方がされるというだけでしょう。
まあそういう皮肉で書いたつもりではないんだけれどね
ただ上のように君は言っているでしょう。
つまり、「現れ方のあて先=私」ということだよね?
けっきょく、〈私〉の説明は完全に回避しているから多くの人と共有できそうな〈私〉を
持って来て、「これでは違いますか?」としかやりようが無いではありませんか
これじゃあ「電通宛の封筒を持って郵便局の窓口に立っている〈私〉」に向かって
「その封筒は何ですか?」と聞いて
「ああ、これは電通に宛ててのものですよ」と答えるのと一緒なんだけどね
意味は解るかな?
385 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 03:16:33 0
>>379 >
>>378 > 永井さんは番組内で「私の痛覚は私にしか知られず、それは他人の痛みと同じではない何か別の現われ方をしている」。
あのさー…
例えば『翔太と猫のインサイトの夏休み』(文庫版79〜80頁)には、
「ころんで膝頭をすりむいて泣いている子どもがいるとするね、そのときその子どもが膝頭に
感じている感覚を『痛み』と呼ぶんだよ。〔中略〕色に関しても同じだよ。消防自動車やトマトや
血のような色を、他の色から区別して、『赤』と呼ぶんだ。それが各人にどう見えているかってな
ことは、もともと考慮に入れられてないんだ。」
という説明があるの。
だから、限られた時間のテレビ番組という場での説明なんかではなくて、本の内容も踏まえないと、
まともな話になるわけないんだよ。
(そもそも番組内でも、そんなふうには言ってないと思うが。)
だから、まず本を読むべきだと言われるんだよ。
あまりにひどいと思ったから引用したが、もうこれ以上はしない。
387 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 04:59:06 0
<私>が比類ないのは分かるがかけがえのないっていうのはどっから出てくるのか
分からない。
比類なくても全く無価値のものかもしれないし。
無意味といっていい議論すれすれのところだな
言ってることはほとんど〈私〉についての神秘主義。
389 :
285:2009/10/08(木) 06:45:38 0
>>355 永井さんが問題にしている意味では、<私>に「脳の機能の一つ」という理解を直接結びつけると、答えにならないと
思います。例えば、「脳の機能として記述されたりするような構造(<それ>)が所与としてあることの現われのひとつ
として、<私>が生成する」のように答えるべきだと思います。
>>384-386 その引用部が含まれるレスは383ではなくて、
>>379ですね。
まず、「意味は解るかな?」――「意味が解らない(意義を認めないも含まれる)」ならば、解らないあなたに問題がある
という推定を及ぼす。「意味が解る」というのであれば、その正しさを判定するのは私だという前提で語る――のような
言い回しをしている時点でダメなんじゃないでしょうか。こういう種類のおかしさが解らない人に、いわゆる哲学的と
称される類の問題を理解する能力があるとも思えないです。
本題ですが、「(つまり〜だよね?を受けて)けっきょく〜としかやりようが無いではありませんか」「これじゃあ〜一緒なん
だけどね」という行文が、それぞれどうしてそういう結論になるのか、また両者がどう結びつくのか、全くわからないです。
「説明は完全に回避している」と言える理由がないですし、「多くの人と共有できそうな」という見込みのようなものがどこに
対応するかも不明です。ですから、「これじゃあ〜」となる理由も不明です。それに、そもそも私は永井さんが番組中で言っ
ていた問題の立て方に対応しているだけなので、
>>384のような仕方で理解の成否を問われてもなという話もあります。
これまでのレスを見ればわかる通り、私は<私>という観念に永井さんが言うような特別な意義は認められないという立場
です。ですから、私は<私>にまつわる理解として、ある意味では何の変哲もないことしか書けません。
>>384の文意は上の
通り不明瞭なので意図がつかめませんが、仮に、私のレス中の<私>の意味がつまらないとか、そういう意味のことをおっ
しゃっているのでしたら、それはそう解釈されることが正しい
>>370-371>>374、考える理由があることを確かめながら考えを
進めるなら、私がいうように考えるしかない、としか答えようがありません。
390 :
386:2009/10/08(木) 08:16:03 O
>>389 まず
>>386は384、385とは同一人物ではないので。
それで、あくまで、本を読まずに、あんな短い番組で永井が言った(と、あなたが理解した)ことを
「永井の問題」と称して話を続けるの?
なら何を言っても無意味だろうね。
>>389 >ですから、私は<私>にまつわる理解として、ある意味では何の変哲もないことしか書けません。
変哲もないというか・・・
285さんには、哲学で「主体」とか「実存」とか言われている事柄の意味が理解できないのでは?
ざっとしか見ていないが、
>>370あたりを見るとそんな気がする。なんか頓珍漢だ。
392 :
285:2009/10/08(木) 09:07:06 0
(>389の続き)
386の引用箇所が私の理解への反論となる理由も書かれていません。>383で指摘したように、あなたは>378-379の
ような形で相手に短い説明をさせ、それとの対応が見えづらい永井さんの文章を適当に引っ張り出してきて、
なんとなく間違いがあるかのように見せかけているだけです。
引用だけして「あのさー…」「まともな話になるわけない」「あまりにひどいと思ったから引用したが、もうこれ以上は
しない。」のように、相手が間違っているというメッセージを並べ立てるだけなら、ろくに内容を理解していなくても
できます。ただの暗示文を書いてまともな主張をしたかのような態度をとっても、理解を示したことになりません。
内容については、>342後段を見てください(>386のような人間に向けて書いても詮無いので、特に386に見るように
言っているわけではありません)。
>390
投稿制限のために上の文章(>389の続き)をレスするのが遅れました。
ところで「あまりにひどいと思ったから引用したが、もうこれ以上はしない。」と書いたのであれば、ぜひその言葉通りに
ふるまって欲しいです。まともな話にならないとあなたが考えるなら、お互いの労力を省くことにも繋がりますから、
あなたが無駄な発言をやめてください。あなたからレスがこなければ、その限りで私は自動的に無駄な話をしなくて
すみます。それから、私は「永井の問題」と称せるかどうかなんて最初から問題にしてません。それを称せるかどうかに
こだわっているのは、それにこだわらなければ体裁を保てないあなたのような人間のほうでしょう。
>391
上の通り、相手に向かって理解できてないのでは?(自分は理解できている)と暗示文だけ書いて理解したフリをしても
意味はありません。>391こそ、何も理解できてなくても書けるレスでしょう。意味が理解できているなら、その意味を
書いてどの部分がおかしいか指摘してください。あなたが指摘したい点の指摘を書かない場合、理解を示せていないのは
あなたであり、私ではありません。>370のおかしさの指摘に、「何の変哲もない」からの連想をあてる、あなたの態度を
正当化する哲学・思想がどこかにあるんですか。
393 :
391:2009/10/08(木) 09:29:44 0
>>392 >意味が理解できているなら、その意味を書いてどの部分がおかしいか指摘してください。
頓珍漢だと思ったのは例えば次のようなとこ。
>>370 >本当は、<現れる>から、<私>も記述できるのであり、その意味で、<それ>
>として名指されることがら(「私」、<私>、<世界>、「他者」などなど)の間に性質的な違いはないはずです。
<私>っていうのは本来語り得ぬものではないの?
< >の記号はそういうことを表していると永井がどこかで書いていたけど。
対象として語り得るものとは性質が違うね。
394 :
285:2009/10/08(木) 09:33:36 0
>>393 そこでいう「語り得ぬもの」とはどういう意味ですか? また「本来」と書いてある理由は何ですか?
さらに、その点の指摘が、「主体」とか「実存」とか言われている事柄とどう関わるのかも説明してください。
相手に「語り得ぬものではないの?」と質問して相手に自分の主張を考えさせようとしたり、<>について
永井がどこかで「そういうことを表している」などという説明にもならない説明でお茶を濁すのはやめてください。
395 :
391:2009/10/08(木) 09:42:30 0
>>394 実存的な思想とかで問題にされている主体は、普通に語り得る「対象」にはならないものなんだよ。
なぜなら、「語り得る対象」を語っているのが主体だから。
つまり「語られたもの」、「対象化されたもの」「意識されたもの」は、実存的思想で言われる「主体」ではない。
396 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 09:47:28 0
これを書いてるのはみんな<私>なんだな。
<私>ってすごい。
397 :
285:2009/10/08(木) 09:51:58 0
>>395 そもそも「実存的な思想とか」は、どういう理由で問題にできる(体系的に前提とできる)んですか?
その理由が確かでない限り、それを前提として「…問題にされている主体は、普通に語り得る「対象」には
ならないもの」だと結論だけ述べられても、理解のしようがありません。
「語り得る対象」を語っているのが主体だから、も説明になっていません。なぜなら、あなた自身が
「…主体だから。」と語ってしまっているからです。それは語れているのではなく、指し示しているだけだ
というのであれば、その区分はどのようになされるのか、きちんと説明してください。あなたがきちんと
説明すれば、私はそれに対して反論できますので、ぜひ前段の理由付けと関連付けながら、説明して
見せてください。
398 :
391:2009/10/08(木) 09:57:00 0
>>397 >「語り得る対象」を語っているのが主体だから、も説明になっていません。なぜなら、あなた自身が
>「…主体だから。」と語ってしまっているからです。
だから、今語られた「主体」は、実存的意味での<主体>ではないということ。
理解できないのを人のせいにされても困りますw
理解したければ勉強してください。哲学はそんなに簡単ではないよ。
399 :
285:2009/10/08(木) 10:06:01 0
>>398 私は「理解したい」からあなたに質問をしているのではなくて、あなたが私が示した理解を否定したがっている
にも関わらず、その点の説明をろくにしないから質問しているだけなんですが。これまでのレスをどう読むと、
そういう意味不明な了解をさらけ出せるのでしょうか?
>>392のように書かれてから、平然と
>>393のように書くことは、ただの恥さらしであり、私があなたにつきあって
いるのは、あなたにある程度は応じなければ、私もあなたと同じになってしまうからに過ぎないんですが。
自分がした「勉強」の妥当性に関係なく、「勉強」の内容とあっているかで理解を云々するのは哲学でもなんでも
ないでしょう。あなたが「哲学はそんなに簡単ではないよ。」とか言うのはただのギャグにしか見えませんよ。
>>394>>397の問いにきちんと答えてください。今語られた「主体」は、実存的意味での<主体>ではないという
こと、では説明になりません。あなたは、あなたが理解できておらず、説明できないから、「勉強」と口走って
ごまかしているだけでしょう。
俺は甘いものを食べれば<おいしい>と感じるけど
この<おいしい>が他人の感じる<おいしい>と同じかどうかは分からない
でも、みんな好物を食べると「おいしい」という言葉を使う
だから、俺は食べたとき「おいしい」と言う
他人は俺が甘いものを好きだと言うことを理解はできるが
俺がどんな<おいしい>を感じているのかは理解できない
せいぜい自分が感じた<おいしい>と同じだろうと推測するだけ
こんな感じの理解でいいのかしら
401 :
391:2009/10/08(木) 10:15:11 0
>>399 じゃあ主体についてもうちょっと説明してあげようか?
「世界」は、あくまでも、私にとっての世界だ。「私にとっての」世界。
それが「対象」ということ。
で、<主体>は、そういう「対象」にはならない。
「私にとっての」私もあるじゃないか、と思うかもしれない。
でも、私にとっての「私」は、意識された「私」であって、意識している<主体>ではない。
<主体>は【「私にとっての」私】の、「 」のなかの私のほうなんだよ。
402 :
285:2009/10/08(木) 10:27:51 0
>>401 説明してあげようか?みたいな態度をとられる覚えはないんですが。
あなたは議論をするときに、相手をコケにするような態度をとりながらするんですか?
率直に言って、あなたみたいな人間は、哲学がどうとかいう以前に話にならないと思うんですが。
「世界」は、あくまでも、私にとっての世界だ。「私にとっての」世界。」という主張は、すでに
>>370で扱っています
(世界はどこまでも「私に」現れるものであり、他者もまた「私に現れる光景の中の一要素」でしかない)。あなたは、
その370について、
>>393のように反発したわけですが、
>>394-399の流れを経て、結局
>>370の永井さんの行文を
お経のように繰り返しただけで終わっています。
あなたは永井さんの説明と自分の説明がどういう形でかぶるかについてのチェックすらしないんですか?
403 :
391:2009/10/08(木) 10:34:31 0
>>402 >(世界はどこまでも「私に」現れるものであり、他者もまた「私に現れる光景の中の一要素」でしかない)。
だから
>>370の
>(「私」、<私>、<世界>、「他者」などなど)の間に性質的な違いはないはずです。
は頓珍漢なのだよ。
やっとわかった?
404 :
285:2009/10/08(木) 10:42:05 0
>>403 どうして永井さんの行文を引用しただけで「だから頓珍漢」になるんですか?
その部分を読んで批判したのが
>>370なんですから、新たな説明が加えられていないのに、
その文章を読んで私が私の考えを頓珍漢と考える理由はないでしょう…。
これは哲学とかいう以前の国語の問題ですよね。「…なのだよ。」という文体といい、
再三にわたって指摘されても改められない態度といい、どうもあなたはただの馬鹿のようなので、
必要がない限り、これ以上相手にしないことにします。
あなたが
>>403で理由を書いたつもりになるのは、永井さんの文章があなたにとって経典だからに過ぎませんよ。
話になりません。
405 :
391:2009/10/08(木) 10:47:40 0
>>404 >あなたが
>>403で理由を書いたつもりになるのは、永井さんの文章があなたにとって経典だからに過ぎませんよ。
ん?
私は永井均はあまり好きではないけどね・・・w
もう少し議論したかったのに残念だね。
まぁ君の疑問が自己解決したようだから、これで終わりにしましょうか。
では。
太田のファンの痛さが身にしみるスレと化した
407 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 12:05:21 0
要するに永井がテレビなんかに出て、
そうでなくてもわかりにくくて入り組んでいて微妙な問題を含む自分の哲学を、
まるで30分で芸人にも分かるかのように語るから、それが諸悪の根源なんだな。
これまでこのスレには、一応数冊の本は(自分なりには)ちゃんと読んだ奴が来てたけど、
突如として本当に驚くほど何も分かってない、誰かが「100パーセント的外れ」と言っていたが、
そう言わざるをえないような、全く無知な連中が、大量に押し寄せてきた。
馬鹿騒ぎは早く終わってほしいとは思うが、少数でいいから、永井の本を(少なくとも数冊)きちんと読んで、
本格的な理解に達してから(これがなかなか難しいのだが)有意味な批判ができる人が出てくるといいと思う。
これはまったく真面目にそう思う。今までの所、このスレという意味ではなく、永井哲学に対する深い理解に基づいた、
本格的な批判がなされていないからね。哲学界的にも、みんな敬して遠ざけているといいうのが現状で。
誰かが難しいと言っていたが(確かにそうだが)俺的には『なぜ意識は実在しないのか』にいきなり挑戦するのがいいと思う。
しかし俺が最も面白いと思うのは『転校生とブラック・ジャック』なのだが。
完成形態、今のところ、『私・今・そして神』のとくに第二章かな? すべては読んでから。これだけは鉄則だ。
408 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 12:21:33 0
突如として多方面の連中が押し寄せてきて、常駐してる永井読者が
混乱してオロオロしてるようにしか見えないな。
409 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 12:45:36 0
>>407 それが諸悪の根源という点、賛成。
それともう一つ。
永井哲学の中身は、番組で語られていたような問題ではなく、
あそこから出発して、人称や時制や様相といった仕組みが(つまり言語が)生成して、
すべてが「語りうる」ようになっていくプロセスの解明にあると思う。
そして、翻って、あの「語り」自体が(他者への「語り」としては)、
そのプロセスの結果に依拠して初めて可能になっていた、
(しかし「累進構造」があるからどこまでも裏切られていくのだが)
ということが後から分かる、という再帰的構造の発見が面白いところなんだな。
そこまで行かないと、それこそ「子供の素朴な疑問」だけになってしまって、
まだ哲学的議論がはじまっていないので、面白くもなんともないね。
なんで普遍君が永井スレにいるんだよwww
東スレで遊んでろやw
この285は普遍君といって東スレで内容の無いだけの長文を垂れ流してたゴミ
最近見なかったけどテレビで永井みてにわかが盛り上がったかw
412 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 13:12:10 0
>>408 井の中の蛙たちが大海を知ったような状況か
413 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 14:15:48 0
要するに「大海」(=大衆)の質の問題だね。
中には、けっこう質のいいのも混じっていたと思うけどね、
汚濁流に埋もれてしまって真価を理解してもらえなかったみたいだ。
414 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 14:23:22 0
永井的には「この問題は他人に理解されるはずがなく、理解されてはならない」
んだろう?
本を書くだけならまだしも(それもおかしいが)、テレビに出てしゃべるという
意図がわからない。心境の変化でもあったのか。
なんだ普遍君だったのか
どうりで馬鹿丸出しだと思ったわい
417 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 18:17:44 0
テレビで永井均に興味を持った人のために永井の思想を簡潔に要約してみせる
ことのできる奴はいねーのか?
要約しちゃうと経典の価値が損なわれると信者は思ってるのか?
頑なに「まずは読め。話はそれからだ。」だもんな。
391みたいな屑や「どうりで」とか書く馬鹿が主な読者層でまともに理解してる奴なんていないってことだろ
>>417 というより、391=ぴかぁ〜が285=普遍君(だなどう見てもw)にボロクソに批判されて火病起こしたようにしか見えない。
ぴかぁ〜は東スレによく出現するしな。
どうひっくり返しても391に285がプライドを傷つけられた展開には見えないんですが
423 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 18:47:18 0
普遍ってさあ、粘着質のくせに頭悪いだろ
(ぴかぁ〜+純一)÷2+α=普遍QN
「頭悪いと書くだけなら頭悪い奴にも出来ます」的な台詞を何回もキメられてるのに、
>>423のように繰り返すしかない粘着の391さん
425 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 18:59:56 0
>>424 なんだオマエ、やっぱり普遍QNか(笑)
悔しくてスレから離れられないとは
お気の毒にな
391と285のレスを見て思ったこと書いただけで、普遍君なんて聞いたこともないんですけど
427 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 19:12:00 0
>>426 ははは、下手な嘘を(笑)
俺は「普遍QN」とは書いたが
「普遍君」とは書いていないぞ
それともどれがどのレスだか分らなくなったか
まあオマエの思考能力ならその程度だから諦めろや
391も285もどうでもいいんだよ、俺にはな
ただ「普遍」は馬鹿だということが言いたいわけさ
423・425の普遍QN=その上で話題になってる普遍君と受け取らないと423・425の意味が通らないんだがw
429 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 19:30:25 0
>>428 それはオマエの単なる早とちり
俺の責任では一切ない
俺は「普遍」または「普遍QN(普遍+DQN)」としか書いていない
固有名の指示詞についての問題だな
説明がスレ違いになるからここまでにしとくが
クリプキの『名指しと必然性』を読んでみるといいかもな
重要な問題だよ
430 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 19:58:07 0
>>353 つまり
「本を読んだ事があれば、TVの内容から(その続きである)本の内容を想起できる」
という事ですよね。
当たり前じゃん!
本を読んだ事が無ければ、そこから本の内容を想起できるわけないじゃん!
なんでそれが「理解」という言葉に置き換わるのかが不明(というよりそこに慢心を感じる)
431 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:00:44 0
>>334 >その瞬間に〈私〉という基準点が誕生したんです。
だから、それは「何処に」誕生したんですか?
それは「何処に」存在するんですか?
余計な理屈で誤魔化さずに明確に答えなさいよ。
それで自らの矛盾が判明しますから。
432 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:02:18 0
>>354 あそこから「太田が駄目」という結論を出せないお前が駄目なんだよ。
433 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:06:01 0
>>389 >まず、「意味は解るかな?」――「意味が解らない(意義を認めないも含まれる)」ならば、解らないあなたに問題がある
>という推定を及ぼす。「意味が解る」というのであれば、その正しさを判定するのは私だという前提で語る――のような
>言い回しをしている時点でダメなんじゃないでしょうか。こういう種類のおかしさが解らない人に、いわゆる哲学的と
>称される類の問題を理解する能力があるとも思えないです。
そうだよ。
だからこそ
「著作を読んでいれば“理解”できる」という言い方はおかしいんだよ。
434 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:08:04 0
>>407 >馬鹿騒ぎは早く終わってほしいとは思うが、少数でいいから、永井の本を(少なくとも数冊)きちんと読んで、
>本格的な理解に達してから(これがなかなか難しいのだが)有意味な批判ができる人が出てくるといいと思う。
「永井の本を読むと“本格的に理解”できる」
もうね、アホかと。
436 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:09:20 0
条件反射的丸暗記で本を読んでもバカはバカ
437 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:10:03 0
永井の本だけを読んでいれば良いとかどんだけw
438 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:11:43 0
「有意味」とは何?
そこに「意味」が「有る」かどうかは誰が決めるの?
俺にとっての「意味」がお前にとっての「意味」と一致するとでも思ってんの?
>>429さんへ
「粘着質のくせに」「悔しくてスレから離れられないとは」とも書いてあるね
説明がスレ違いになるからここまでにしとくけど、日常会話の問題だね
周りの人にとってはどうでもいいけど、429さんの治療面では重要な問題だねw
これから大変だと思いますが病院での治療がんばってね応援してます
>>421じゃなくて
>>422だったわ(あるイミ
>>421も図星なんだろうがw)
それにしても、『本格的な理解に達してから(これがなかなか難しいのだが)有意味な批判』とか正気の発言じゃねーよな
まさに信者ww
443 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:52:32 O
まず「私」が「ある」という時点でスタートが違うんじゃないの?
ミミズやカエルには「ない」けれど、人間に「ある」事が前提になっちゃって
る。
しかもその根拠は「記憶」だという。
その記憶が「有る」かどうかの判断基準すら明確になっていないのに。
太田さんいう所の
「<私>はどこに存在するのか?」
つまり心身一元論なのか性質二元論なのか実体二元論なのか、
という根本的な問いすら答えられないとは。
444 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 20:53:22 O
>>357 >それに、まあ、ぶっちゃけ、こんなところに匿名で書いても評価してもらえ
ないので、
>「無駄」ということもある(笑)。
これが本音ですか?
貴方にとって哲学の目的とは「評価される事」であって、
純粋な知的探究心や相互理解の可能性を探る事でもない。
何のことはない、このスレの永井読者はぴかぁ〜と2、3のアホな名無しぐらいしかいなかったってことだろ。
446 :
考える名無しさん :2009/10/08(木) 21:05:50 0
>>440 けきょく「私は普遍君です」と言ってるのかね?
どういう風にクリプキや墓穴から話しをそらすかにそうとう腐心したようだね
それで最後は相手を「病気」扱いする方法しか浮かばなかったとしたら
やっぱり頭が悪過ぎるんだろうなあ
ちなみに君はパラノイアではあるようだね、そして反社会性パーソナリティ障害
に発展する可能性が高い
つまり理論や思考ではなくて感情や攻撃衝動をコントロールできないということだね
池田小事件の宅間守と相似型の人格構造だと診断できる
いわゆるキレやすいタイプの危険な人間という意味だよ お大事に
285氏には期待していたんですが。。。
>>285を見る限り、285氏は意識の開闢が科学的に解明可能であると考えているように思われますが、
どうなんでしょう?
449 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 21:11:34 O
丸暗記した知識を適当に継ぎ接ぎして「勉強です」だったら楽だよな。
鉄筋等の土台を作らずに、色や模様・間取りだけを適当に組み合わせて家が建
つか?っていう。
>>370 あんた、単純に日本語ヘッタクソやん
>>430 もう一度だけ言うと、番組を見ても説明不足過ぎて意味がわからない部分が多いだろう、
というのが私の意見で、本を読んでいればわかるとは言ってない。
本を読んでいてもわからないと思う部分の具体例も書いた。(
>>356)
だから、「番組を見ただけでもこのように理解できる」という具体例な指摘でもないと、
これ以上何とも言いようがない。
>>450 言い訳がましいなあ
いちいち出て来るじゃねえよカス
氏ね
452 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 21:27:55 0
>>450 俺は「これがニーチェだ」くらいしか読んでいないが
>>285さんのいう
>話を聞いてると、諸要素により帰結主義的に説明される「私」(主観性)の複数性を、<私>が直接知ることはできないから、
><私>は「私」ではないと論じてしまってるように聞こえる。でも、<私>の生成がそもそも帰結主義的に説明されるような
>要素で出来ているとしたら、<私>が「私」の<私>性を<私>のこととして理解できないことは、端的な所与(「私」は<私>
>として知られる)としか言いようがないのでは。
という内容を論じているのだな・・・・という事くらいは判断できたつもりですが?
>だから、「番組を見ただけでもこのように理解できる」という具体例な指摘でもないと、
>これ以上何とも言いようがない。
だから、「自分の“理解”が他者にとっての“理解”と同じ形である事はありえない」と言っているんですが。
それが具体例そのものでしょう?反論という形にはなっていますが。
それとも、間違っていますか?
「独在性を理解する」という言葉自体が、ある意味語義矛盾だという事が。
にわかはまず本を読んでから来い。
それぐらいの誠実さをみせろ。
455 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 21:34:16 0
脳科学の話を振ったときに関しては
「意思→言葉・記号」に変換される時、大きなものが失われるという事を説明していたのでしょう?
つまり、決定的なものを欠いた「言葉・記号」のやり取りの中では理解しえない事があるという話でしょ?
それプラス「私」という言葉が他者へ伝わった時点で、本来的な<私>の性質が失われるから、言葉って不便だーっていう話っしょ?
457 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 21:35:35 0
>>454 キリスト教の信者に、無心論者が
「神、神ってうるさいけど、神様ってどこにいるんですか?」
と質問して
「にわかは聖書を読め」
と答えた信者みたいな話ですね。
458 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 21:37:50 0
391や普遍QNからクリプキにスリリングな跳躍をとげてる奴とかだろ、ぴかぁは
もはや正体を隠す気すらないぴかぁ〜ww
ま、pikarrrなんて、権威に頼んで勉強してこいと虚勢を張るだけが生きがいのアンポンタンだからな
285のようにネチネチ理詰めで迫ってくる奴と議論したら、こんな結末を迎えるのは当然だわなw
463 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 21:53:29 0
>>356は逆に単純な物事・根本的な物事を詳細な物事として曲解しているんじゃないの?
TV番組では根本的な事しか論じていないのに、先を急ぎすぎて詳細な議論とゴッチャになっちゃってる感じ。
穿った見方をさせてもらえば、単純に
「お前等とは違って、俺はこんな事まで知っているんだぞーーーーえっへっへー」
という自己顕示を目的としすぎて、結果的に論点がズレている感じ。
464 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 22:05:37 0
>>463 どっちもどっちだろう
「原典読め〜」と
「あくまでもテレビ見ての話し!」というように
条件やら限界をいつでも逃げれる口実として設定して
両者逃げているだけでじゃんか
ボンクラ論争だな
これ普遍の自演ならまだ救いがある
普遍信者とか存在するなら救いようがない
>>452 まず前半について
あなたは
>>285の内容が理解できるの?
私は、特に「〈私〉」と「「私」」という表現が何を指しているのか理解できない(どうも
永井の「〈私〉」とは違うようだ、くらいのことは思う)ので、285のような内容を番組で永井が
話していたのかどうかについても、多分違うと思う、というくらいしか言えない。
ここで私が指している永井の「〈私〉」は、前に書いた「なぜかその体から見え、その体が
殴られたら痛みを感じ…の唯一の物」あるいは「〈これ〉」を指す。(『なぜ意識〜』147頁)
それから、
> だから、「自分の“理解”が他者にとっての“理解”と同じ形である事はありえない」と言っているんですが。
> それが具体例そのものでしょう?
少なくとも、このようなことが番組で話題になっていないのは、明らかだと思うけど。
…いや、ひょっとして、「私の「赤」と他人の「赤」が同じであることはあり得ない」
というようなことを言いたくて、それを「独在性」と表現してるの?
467 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 22:20:05 0
っていうか
>>356に書かれている太田さんの問いは
心身一元論・二元論の話でしょ?
468 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 22:24:19 0
>>466 だから、俺が言う「独在性」とは
「私」という言葉が他者へ伝わった時点で、本来的な<私>の性質が失われるから、言葉って不便だーっていう話っしょ?
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/hiruinai.htm <私>は「他に同じ種類のものが存在しない独自な存在者」なのだから。
しかし<私>を論じ始めるや否や、聞き手全員が各々自分のこととして理解することが前提されてしまい、
独自の<私>は複数の私一般へ転落を余儀なくされる。
独自の<私>を取り戻すにはこの等質化から再び独在的な離反をせねばならないが、
「独自な存在者一般」として必ずまた等質空間に包み込まれるだろう。
「<>という記法が示すのは、独在と頽落の終わることなきこの拮抗運動なのである。」
469 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 22:27:30 0
っつーか、
>>466は
「理解しているとは思えない」
それ以前に、自分が完璧に理解しているという認識を疑えよw
470 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 22:37:01 0
基本的には
「自分は何故存在するのか」
デカルトは「自分は存在する」事を証明したが、「何故」は証明できなかった
だから私はそれを探っているっていう話でしょ?
それだけの話じゃん。
で、その探り方として「死」や「この赤が・・・」という話をおかずに喋ってるだけじゃん。
そのおかずの一つとして、「心は何処に存在するのか」という問いが出たわけ。
471 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 22:44:23 O
永井さんは脳科学者の様な「脳=心」という心身一元論的な考え方を否定した
って事じゃん?
その後は心身一元論への批判とも取れる持論を熱弁してる感じ。
・・・っていうか、永井さんは田中さんの
「私の「赤」と他人の「赤」が同じであることはあり得ない」
という言葉に対して、
「簡単に言えばそういう事です」
って言ってるじゃんw
明確に。
その後の自己分裂みたいな話は綾波レイ2号と3号の話と同じ事じゃん。
472 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 22:53:37 0
このスレを見た後に番組のVTRを見ると、物凄く判りやすく説明してくれてるね、永井さん。
こうやって記号=言葉に翻弄されずに、自分の思念(なんつーの?)に忠実であろうとする姿勢はカッコイイと思う。
わかりやすい「ちゃぶ台返し」だな。みっともなさすぎ。
>>465 単純に285と391比べたら285の方が明らかにまともに見えるし391はぴかぁ臭すぎるってだけだろ
何的外れなこと言ってんのおまえ
475 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:09:43 0
ちゃぶ台返しをしても、卓上のおかずをこぼした覚えは無い。
作法ばかり気にして、飯粒をポロポロこぼすよりはマシだと自認している。
476 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:11:35 0
> だから、「自分の“理解”が他者にとっての“理解”と同じ形である事はありえない」と言っているんですが。
> それが具体例そのものでしょう?
少なくとも、このようなことが番組で話題になっていないのは、明らかだと思うけど。
…いや、ひょっとして、「私の「赤」と他人の「赤」が同じであることはあり得ない」
というようなことを言いたくて、それを「独在性」と表現してるの?
田中「私の『赤』と他人の『赤』が同じに見えているとは限らない、そういう話ですか?」
永井「簡単に言うとそういう事です。」
477 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:14:53 0
赤が云々は<私>の話であって、「独在性」とは称されていないな。
これが「独在性」とは別物であったとすれば俺のチョイスミスだな。
どちらにせよ「独在性」云々を抜きにしても「番組の論旨」に於いては間違っていないはずなんだが。
>>476 永井も相手が相手だからかなり譲歩なり妥協して
断腸の思いでそう答えたんだろ
479 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:20:02 0
>>478 そう思うならその根拠を示さないとね
仮に君の言うように、「赤が・・・」の下りが永井の<私>論と大きくズレたものであれば、
あの番組の論旨自体が永井の著作と矛盾する存在であったと結論付ける事も可能なんだが。
>>468 >
>>466 > だから、俺が言う「独在性」とは
> 「私」という言葉が他者へ伝わった時点で、本来的な<私>の性質が失われるから、言葉って不便だーっていう話っしょ?
そこで言っている「〈私〉」と「「私」」の意味がわからない。
それと、これは半分どうでもいいことではあるが、番組をまた見直してみたけど、驚いたことに、
「〈私〉」に関する議論が他人に理解されたり当てはまるのか、という問題は、少なくとも
明示的には出てきてない。
だから、それを番組から理解できるというのは、おかしいと思う。
482 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:28:54 0
「自分が間違っているかも知れない」
という可能性を考慮しないのかね
安易な答に飛びつく奴ってこの話題に向いてるのかね
脳科学の下りでも同じ事を言ってたじゃん?
「思った事が、言葉や記号になった時に意味が変わってしまう、むしろそこで意味が作られる」
って事をさ。
つまり、「記号」として作られた「赤」を「赤」と呼んでいるだけでは、
その「赤」を見て感じているもの“そのもの”を論じる事が出来ないという話でしょ。
483 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:30:59 0
>>481 >そこで言っている「〈私〉」と「「私」」の意味がわからない。
揚げ足とりじゃねーかよ(ハリセンボン風ツッコミ)。
そこで言ってる「私」は、文中にある通り「私という言葉」だよ。
「私」を私そのものとして扱っていないのに違いも何もねーだろw
>>475 そら永井をヨイショしてればいいお前にとっちゃおかずをこぼしてないことになるわなw
485 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:35:40 0
>>481 >「〈私〉」に関する議論が他人に理解されたり当てはまるのか、という問題は、少なくとも
>明示的には出てきてない。
「明示的に出てくる」って何だよw
「言葉・記号」として出てくれば「明示的」なのかよ。
人間分裂的な話の下りで、物質的に全く同じ者でもそこに宿る<私>は絶対的に違うものだって言ってたじゃん。
それと「記号化で失われるもの、そこで作られるもの」の下りを併せて考えれば導かれる事じゃん。
486 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:42:16 O
理解も何も、そのまんまじゃん。
番組で言われてる事、そのまんま。
何、理解って。
解らない方がおかしいだろ
487 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:44:32 O
「理解」しているかどうかは「解らない」という事を「解る」という矛盾
488 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:47:59 O
理解しているかどうかは本質的には解らないが
記号としては解る
「思った事が、言葉や記号になった時に意味が変わってしまう、むしろそこで意味が作られる」んだから
このスレで言葉として記号化されたことは、最初に思ったこととは違うんだぞ
だから理解も伝達も出来ないということになるんだ。
すいません、もう明らかに不毛に思えてきたので、もう止めます。
名指しでレスされたからといって何か反応しようとしたのが間違いだった。
まず本を読むべきというのを貫くべきでした。
『なぜ意識〜』は確かに全体としては難しいのかもしれないけど、第1日については、
永井自身がとある公開講座で「第1日は読んでもらえばわかると思うので、第2日から説明します」
と言ってたぐらいなので、心身問題だの何だのに関する永井の考えについて何か言いたいのなら、
まず読んでみてよ。
491 :
考える名無しさん:2009/10/08(木) 23:59:52 0
>>490 キリスト教の信者に、無心論者が
「神、神ってうるさいけど、神様ってどこにいるんですか?」
と質問して
「にわかは聖書を読め」
と答えた信者みたいな話ですね。
その本を読んだとしても「番組で語られた事」という事実は覆されない。
事実は事実なんです。
あそこで語られた事が『なぜ意識〜』と同じ事を語っているという根拠も無いですね
(むしろ貴方は「赤い・・」の下りで「違う」と断じてすらいる)。
492 :
考える名無しさん :2009/10/09(金) 00:01:43 0
>>490 ようやく普遍君にも「自分の不毛さ」が理解できたか
むしろ遅すぎるともいえるがな
とっとと東スレで馴れ合ってろ
バーーーーーーーーーーーーカ
>>431 〈私〉=基準点=ゼロ
という説明は、おれには
すごく腑に落ちたのだが。
なぜ「何処に」にこだわる
のかがわからん。
だってゼロなんだぜ。
ゼロはゼロだろ。
>>443 いや「記憶」は明確にあるだろ。
どー考えても。
>>454 読まんでも想像がつく。
〈私〉は〈私〉なのだ、み
たいな話がぐだぐだ書
いてあんだろ。
どーせ。
この世には無脳症って
のがあって、原始反射
したりするわけ。
でもそうした子には、
<世界>も<私>も
ねーだろ。
>>492 287以下略は285=普遍君?じゃないぞ。ニワトリかお前
499 :
考える名無しさん:2009/10/09(金) 10:40:10 0
それと、永井の議論でいちばん興味深いのは、人称(私、あなた、彼(女))と
時制(現在、未来、過去)や様相(現実、未来、過去)との類比のところにあるだろう。
この「言語化」の仕組みによって初めて、永井が「言って」いるようなことが「言える」(=人に通じる)
ようになるのだが、そのことによって裏切られるものが常に残るのだが、
それと同じことが時制や様相でも同じことが起こっている、というところがいちばん面白いところだと思う。
時制には「マクタガートのパラドクス」が昔から知られていたが同じことが人称に様相にもあって、
むしろあるのが当然ということがそこからわかる。
色やクオリアの問題は、人称化の過程で出てくる問題だが、そこに例「累進構造」の議論が深く絡むので
<私>とクオリアの関係はひじょうに微妙だ。個人的には分析的というよりむしろデリダ的な感じさえする。
独在性とクオリアの関係について問題にするには、その「累進構造」の議論を踏まえなければならないが、
『なぜ意識は実在しないか』の議論の場合は、チャルマーズのいわゆる二次元意味論を基礎にしているので、
まずそれの解説の部分を理解するというハードルがある。たいして難しくはないが、関係なく感じられて面倒に思う人がいる。
しかし、それ自体でもまた白い話なので、永井にではなく事柄それ自体に興味がある人は、読んでみると面白いと思う。
永井自身の議論のステップには賛成できない点も多いが、扱われている問題が存在することはもはや疑う余地がなく、アカデミックにも承認されている。
テレビ番組で語られていた部分は、話のきっかけとしては役立つかもしれないが、哲学的に本質的な部分ではないと思う。
500 :
考える名無しさん:2009/10/09(金) 10:47:29 0
>>454 まあ、永井「教」だからな。
この対応は当然。こういうのが
気に入らない人は信者になれない。
501 :
考える名無しさん:2009/10/09(金) 12:19:10 0
>499
アカデミックな方だと思うので、一つ単純な質問をさせてほしい。(テレビの話題とは無関係)。
たくさんの(自己)意識がある中に、なぜ一つだけこの私である特殊な(自己)意識が存在するのか?
そして、この特殊な違いの本質は何か?
という問題は確かにあると思う(そこは永井に賛成)が、それとは別に、
なぜ意識というきわめて特殊なものが(物質の世界から生じて)存在しているのか、
そして、この特殊な違いの本質は何か?
という問題もまたあると思う。
第一の問題を第二の問題に還元することはできなない(そこは永井に賛成)と思うが、
だからといって、逆に、第二の問題を第一の問題に還元することができるだろうか?
いくら「言語化」とそれにともなう「累進構造」を前提にしても、それは無理ではないか?
俺の考える理由はきわめて単純で、
この世に私(つまりこの俺が)が存在しなくても意識(他人たちの)は存在するだろうから、というもの。
2ちゃんねるで説明を求めても無駄などいわずに、もしできれば教えてほしい。
ファー イースト オブ エンド(最果ての地)
505 :
考える名無しさん:2009/10/09(金) 14:46:07 O
「理解」とは、その対象が明確である事が前提。
では、ここで言う「理解」の対象とは何か?
「私は何故存在するのか」
それは今まで誰も明らかに出来ない事=理解できなくて当然
「上記の疑問への共感、上記を謎として扱う姿勢」
これは、キルケゴールがそうであったように、実存哲学の基本中の基本。
「私と〈私〉の違い」
これも番組中で普通に説明されている。
では、あなたの言う
「理解できない事」とは何か?
その対象が示されなければ理解のしようもない。
506 :
考える名無しさん:2009/10/09(金) 14:53:39 O
>>494 記憶が明確?
その記憶の形が事実(と呼ばれるもの) と必ずしも一致しないのに?
それは「記憶」ではなく悩の痕跡であって、それはその痕跡を頼りにした幻かも知れないじゃん。
その場合「明確に」存在するとは言えない。
507 :
考える名無しさん:2009/10/09(金) 14:58:37 O
もしかして、貴方の言う「理解」って
「あの場合を見た奴らが、俺と同じ事を連想する」
という事?
著作を読んでいれば「俺と同じ連想」が可能で、読まねば不可能ということ?
そんなの理解できるわけがない。
「お前があの番組から連想したこと」なんて。
アカデミックな方だと思うので、(笑)(笑)(笑)
511 :
499:2009/10/10(土) 09:01:02 0
>>501 とくに「アカデミックな方」(?)ではないが、その疑問は全く尤もだと思いますよ。
これまた『なぜ意識が実在しないのか』を精読するように言うしかないともいえるが、
そこには「意識」概念の関する(ダメットの意味での)「反実在論」という強い前提があると思います。
そのことはここでは説明できないので、ダメットを読んでもらうことにして、以下のように言えると思われる:
あなたは、「この世に私(つまりこの俺が)が存在しなくても意識(他人たちの)は存在する」
と「言う」が、その「この俺」は他者から見れば(つまり「言語的」には)一つの「(自己)意識」にすぎない。
にもかかわらず、あなたが「言おうとしている」ことは(言語的)通じはする。
たとえば永井の言うことを人が理解して、場合によっては反論したりしているのだから!
そこにすでに「独在性の概念化」とでもいうべきものが起こっていて、
実はそれこそが「(自己)意識」概念の起源で、それなしには「(自己)意識」はありえない、
という話になっているのだろう。
しかし、これが「デリダ的」と言った点で、やはり「分析的」論ではないように思うが…。
512 :
考える名無しさん:2009/10/10(土) 10:18:22 0
>>511 >その疑問は全く尤もだと思いますよ。
そうかな。
501の疑問は永井均が書いていることの文脈とは、全然ずれてるんじゃないの?
永井均はあまり知らないんだけど、少し読んだ感じでは、
彼の言っていることは、デカルト-カント-フッサールの、意識の哲学とは全く違う。
なぜなら、とくにカントを見れば分かるように、そこで言われている意識は「意識一般」だから。
たぶん永井均の文脈は、「意識」が中心になる文脈じゃなくて、「個」が中心になっているだろう。
つまり、彼が言ってることは、デカルト-カント-フッサールの文脈ではなくて、
普遍論争の「個と普遍」の文脈に近いだろう。
概念化、言語化できない「個」、という文脈。
513 :
考える名無しさん:2009/10/10(土) 10:20:51 O
なるほど
永井らしいと言えば永井らしい…か
ひっこみがつかなくなったんですね、わかります
>>512 ただ、永井氏は、「永井均」は単なる「個」だが、<私>は
単なる個ではない、と強調するんですよね。
個としての永井某とは完全に隔絶した、もっとはるかに根源的な何か
(世界自体)だ、という感じで。
(正確な意味はわからないんですが)
すべての「個」たる人間が同時に別個の「私」でもあるという理解は
言語の持つ力が産む奇跡だ、とかいう話になるのですが、
個人的には<私>だろうと「私」だろうと単なる「個」としての
人間と離れて存在できるわけではないんだから、所詮単なる「個」で
あって、言語で他人に伝わるのは、人間が言語以前に「個」を「個」として
認識できるからだろう、としか思えません。
516 :
考える名無しさん:2009/10/10(土) 10:41:14 0
>>515 >ただ、永井氏は、「永井均」は単なる「個」だが、<私>は
>単なる個ではない、と強調するんですよね。
>個としての永井某とは完全に隔絶した、もっとはるかに根源的な何か
>(世界自体)だ、という感じで。
それは「実存」と同じだと思うなぁ。
「実存」も、「個と普遍」の「個」を主張する流れの中にあるんだけど、
それも、たんなる「個」ではない。
概念化できない「個」としての主体。
517 :
考える名無しさん:2009/10/10(土) 14:09:35 O
『主体』とは与えられているものではなく、捏造され付加されたもの、背後に挿入されたものである。
解釈の背後にさらに解釈者を想定するなどということが、結局、必要であろうか?
518 :
考える名無しさん:2009/10/10(土) 14:20:38 O
ゾシマ長老の目の前で、道化者のフョードルに一杯食わされたミウーソフ、そんな所だろう。
彼はどうしても帰れないんですよ。
自分の卑しさを暴かれたあげく、恥ずかしい思いをしたんだから。
自分の頭の良さをここに居る人たちに見せ付けるまではね。
だろ?ミウーソフさん?
519 :
考える名無しさん:2009/10/10(土) 15:53:58 0
自分は哲学はシロウトなんで深い事はあまりよくわかんないけれど
しかし言語によっての支配というか、言語による概念操作や論理構築という部分が大きいなら
何故それでも、全ての経験を排除した時にも、<私>というものを強調出来るのかがよくわかんね…
この前の爆問の番組で思考実験を引き合いに出して主張してた話では
自分が分裂しても、やはり根源的な個はそこに決定的な違いとして残るんだと言うけれど
それは既に時間・空間的違いを言語的に認識した、
論理がそれぞれの主体にあるから当然じゃね?って思うのですが…
経験論的に考えれば、何も言語論理を与えられていない者は
そもそも言語支配による<私>すらないんじゃね?って思うし
やはりそれは、言語的に、後付の洗脳めいたところもあるんじゃないのかなぁ
というのがシロウトの素朴な疑問なんですが… どうなんですか?
520 :
285:2009/10/10(土) 16:46:54 0
>>447 > 285氏は意識の開闢が科学的に解明可能であると考えているように思われますが、どうなんでしょう?
私は意識の開闢を<現われ>という観点で考えるならそれは端的に所与だと考えなければならない、
という意味のことを言っているだけで、科学的に解明可能かどうかについては特に主張していないつもりです。
科学的に解明可能かは、何をもって解明とするかの定義によります。どうしてそのような<現われ>(所与)
なのか、という問い方をするのであれば、原理的に解明不可能です。
<現われ>から、所与としての構造が言語的に記述されていく中で、その構造が解明されるかどうかという
問題の立て方をするのであれば、原理的に漸進的な解明が可能と言えます。
私は<現われ>や<私>とかにまつわる本質的な問題を捕捉できるという考えには根拠がないと言っている
だけです。<現われ>の相に注目して問題を捕捉しようとした場合には、>342,348-349,370-371,374に書いた
ような方向で、科学とは別の仕方で言語的に問題が解明されるだけです。
521 :
285:2009/10/10(土) 16:51:18 0
上記引用中の
>>342には、
>>345の訂正があります。抜かしてしまいました、すみません。
それから、285が東スレの普遍君ではないかと書いている方がいらっしゃいましたが、
確かに私は東スレで普遍君というコテハンで書き込みしていた者です。
特に隠す理由もないので断っておきます。
522 :
285:2009/10/10(土) 17:21:49 0
>>520-521に書いた、科学的立場と「言語的」立場の関係について書いておいたほうが、私が何を言ってるのか伝わりやすくなるかも
しれないと思うので補足します。
すごく大雑把に言うと、科学的立場は言語を道具として要請するという原理的な前提があります。要は乳幼児(で納得いかない
「ハジメちゃん」派には、受精卵と言えばいいでしょうか)は、科学できないってことです。
しかし、科学的立場が大きく進歩した現在では、言語が科学的に記述される構造に従属するように見えてきます(科学は言語という
道具によって具体的に維持されている→その道具使用も科学的に記述される法則の支配下にある)。(記述された)科学的構造の方が、
記述のために用いる言語使用の厳密さよりも「権威」を帯びるようになっています。
このスレに関心があるような、まがりなりにも言語使用が可能になる前提を厳密に理解したがる人にとっては、そういう「権威」が
おかしいことは、ほとんど自明なことに思えるわけですよね。科学的に記述される構造が先行しているかのようにいくら言われても、
その構造を記述する言語をあなたが使えるようになる過程がなくて、どうやってその構造が先行していることを言えるんだ、何かおかしい、
となるわけです。
そのあたりの記述の仕方で永井さんのような立場と、私のような立場で大きく分かれて来るんじゃないかと思います。
523 :
447:2009/10/10(土) 18:25:16 0
>>520 丁寧なレスありがとうございます。
内容は特に私に向けてではなく、不特定多数に向けてのものであろうと思いますが、
代表してお礼を申し上げます。
それほど丁寧なレスをいただいても、正直、貴方の真意を理解できたようには思えません。
恐らく貴方は語るべき内容が多すぎて、このステージでは収まらないのでしょう。
私は東スレなど開いたこともなく、貴方の知識や言葉の使い方に付いていけないのも原因でしょう。
気が向いたら、さらに持論を披露して欲しいです。
世界理解と言語が表裏一体だというのは何となく分かりますが、
私は、意識や言語と雖も宇宙内存在であり、宇宙の構造が言語構造や意識さらに〈私〉を内包するのは明白と考えており、
漸進的といわず、飛躍的な理論の出現を期待するところです。
524 :
285:2009/10/10(土) 19:14:11 0
>>523 丁重に応じてくださりありがたいのですが、「このステージでは…」のような、オーバーな褒め方はちょっと避けて欲しいです。
> 世界理解と言語が表裏一体だというのは何となく分かります
受け取られ方としてはよくわかるんですが、上の簡略化はちょっと私の考え方の要点と離れてしまってます。
私は、>370-371,374で書いたように、<現われ>の相では「世界」を理解できると考えるべき理由がない、と考えているんです。
「世界」(<世界>でもいいですが)は、あくまで言語により帰結的に理解されるのであり、言語を使用したら直ちに「世界」理解が
始まると考えるのは誤りだ、と考えているんです。
<現われ>としての、所与としての構造が先行していることを認めるのであれば、それを世界と呼んで何か問題があるのか、
という疑問が生じるかもしれませんが、それは、さまざまな思考を「全体」としてくくれることがあまりにも自明すぎるために、
そう思いやすいだけで、そもそも、その「全体」という観念を成している条件に着目するなら、<現われ>を「全体」と直ちにおく
理由は全くないわけです。具体的に言えば、赤ん坊が最初に覚える言葉は「全体」ではなく、「まんま」だったりするわけです。
このとき、赤ん坊にとっては、「まんま」か非「まんま」しかなく、それが「世界」を成している、という意味のことを主張する人が
いますが、それは言語的に「まんま」以外の世界内要素を習得した後で獲得される、<それ>らを<それ>としてくくる操作の
名づけであり、それを操作それ自体と考えるにせよ、操作の名前と考えるにせよ、赤ん坊は操作=<それ>を「全体」として
とらえることは明らかにやっていないわけです。
そういう意味で、「世界」や「私」は、むしろ言語的に習得(生成)される構築物であり、そのような習得を可能にしている構造と
世界を=で結ぶのは、論理として正しくないと考えるのです。「宇宙内存在」という観念についても、上の「世界」と同じです。
525 :
考える名無しさん :2009/10/10(土) 19:22:54 0
526 :
考える名無しさん:2009/10/10(土) 19:31:09 0
すごいルサンチマンだなw
527 :
447:2009/10/10(土) 19:52:56 0
>>524 ひとつ「帰結的」の意味するところを教えていただくとありがたいです。
なにか微妙なニュアンスがあるようで、よく分からないのです。
さらに質問をお赦し願えるなら、“思考を「全体」としてくくる”とはいかなる作業でしょう?
また、「世界や私が言語的に修得される構築物」であるが、「修得を可能にしている構造は世界とイコールではない」
なる部分で、この「構築物」と「構造」の関連が分からないのです。
・・いや、貴方の考えを大まかにでも理解してレスを返すのは私には荷が重すぎる予感がするので、この先はROMに専念します。
また機会があればレスさせていただきます。
私には、「観念を越えてその存在が要請されるもの」があるように思われます。
認識を越えるのだが存在しなければ困る、成り立たない。
語り得ないが、沈黙する訳にはいかない。
そのようなものにいかように接近するのか。
世界理解も言語も神秘ですので、神秘的飛躍にすがるしかないのでしょうかね。
ありがとうございました。
>>526 普遍君は東スレで調子こいてた馬鹿に容赦なかったから逆恨みされてんだよ
田中が単純化していった私の赤とあなたの赤は違うという問題をかんがえるといい
単純に考えるとそう思えるが実は違うというのが永井
言葉として「赤」を使っている以上それは赤でしかありえない
これは言語的問題
セカイは認識できるかも同じく言語的問題
530 :
285:2009/10/10(土) 20:14:22 0
>>527 > 「帰結的」の意味
帰結という言葉通りの意味です。言語使用が原因となり、結果として成る、という意味です。
> 思考を「全体」としてくくる
>>524に書いた通り、<それ>らを<それ>としてくくる操作の名づけ(のうちの一つ)です。<それ>らを<それ>として
くくることが必然的に「全体」(ex.「世界」、<私>、「宇宙」※)になる、という趣旨ではありません。
※524で、「「宇宙内存在」という観念についても、上の「世界」と同じ」と書きましたが、これは間違いでした。正しくは、
「523的な「宇宙」という観念についても、…」です。
> 「世界や私が言語的に修得される構築物」であるが、「修得を可能にしている構造は世界とイコールではない」なる部分で、
> この「構築物」と「構造」の関連が分からない
「習得を可能にしている構造」=<現われ>=所与です。「構築物」は、あらゆる思考対象と=です。
後者は前者により「帰結的」に生成される関係にあります。447さんの言う、「宇宙内存在」や「宇宙」は、「構築物」です。
> 私には、「観念を越えてその存在が要請されるもの」があるように思われます。
要請されるという言い方をしていいかどうかは問題ですが、私の考え方では、「習得を可能にしている構造」=<現われ>
=所与は、観念の生成から見れば要請されると言えなくもないです。しかし、「習得を可能にしている構造」を要請するのは
何かと考えると、それは「私(たち)」ということになりそうです。その文脈で考えるなら、「私(たち)」の側から、「習得を可能
にしている構造」を要請することは端的に無意味なので、「観念を越えてその存在が要請されるもの」があるとは言えない
ことになります。
言語は本能だよ
妙に神秘化すると袋小路
>>506 「>443」で「その記憶が「有る」かどうかの判断基準すら明確になっていないのに。」
ってあるのを受けての「>494 いや「記憶」は明確にあるだろ。」でしょ。
それに対しての「>506 」は、いくらなんでもトンチンカンすぎじゃないですか?
「記憶」が「ある」のは「明確」だって話と、その記憶情報の保存精度や再現可能性が
不安定だって話は、ま〜ったく別の話です。
「記憶がある」ことの証しは、たとえばちょっと前に流行ってた「アハ体験」なんてのでも
できます。あれは「記憶がある」からこその現象であって、記憶がなかったら、目に入っ
てきた情報をそのまま認識するので「アハ」も何もありません。
>>285 ▃▃▃ ◢░ ▄▄ ▄▄ ░◣
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534 :
考える名無しさん:2009/10/12(月) 11:06:41 0
ほんの数日でピタッと止んでしまところが象徴的だな。あいつら、なんだったのだろう?
大衆はもうみな去ったのかもしないけど、そこでミネルバの梟を気取って…
>>512 501の疑問は永井均が書いていることの文脈とは全然ずれていないと思う。
501の疑問は永井が『なぜ意識は実在しないのか』で、そしてそこだけで主張していることに関係している。
一般に、永井の言っていることはデカルト-カント-フッサールの意識の哲学と違うわけではない。
永井哲学は、501の言う通り、<私>から出発してカント的な「意識一般」へ到達する方法についての哲学だろう。
その点では、501の疑問もだが、511の応答の方もかなり当を得ているように思われる。
また、その後何人かの人が注意しているように、永井の文脈が「個」を中心にしているというのは全くの誤解だ。
普遍論争の「個と普遍」の文脈からこそ最も遠い。なぜなら「個」は「この・花」という仕方で概念化・言語化できるからだ。
<私>はそれが出来ない。なぜなら、諸々の「私」たちの中で、<私>は諸「私」の一例ではなく、
それのだけが世界そのものでもある(にもかかわらず他の「私」もそう「言い」はする)から。
ここではむしろ、 デカルト-カント-フッサールの「超越論的」な哲学に近づくわけだ。
その二つをつなぐのが、何度も出てきた「累進構造」の議論だ。まずこれをつかまないと永井哲学についての議論は始まらない。
535 :
考える名無しさん:2009/10/12(月) 11:49:52 0
>>534 >なぜなら「個」は「この・花」という仕方で概念化・言語化できるからだ。
「この花」なんて、どこにでもある。
だから「この」いう指示語も、実は極めて「普遍的」なもの。
そういう普遍的な語でもって、真の「個」を言い当てたと思うなら、
普遍論争を全く理解していないことになる。
そして、「この花」がどこにでもあり、普遍的であるのは、
「私」がどこにでもいるものであり、概念化、一般化されているのと同じことだろう。
537 :
考える名無しさん:2009/10/12(月) 18:27:51 0
>>535 >「この花」なんて、どこにでもある。
>だから「この」いう指示語も、実は極めて「普遍的」なもの。
まさにその通り。だから「概念化・言語化できる」ことになる。
>そういう普遍的な語でもって、真の「個」を言い当てたと思うなら、
>普遍論争を全く理解していないことになる。
その意味で、永井的独在論の見地からすれば、「真の「個」」もまた概念的・言語的だ。
この論点は永井的独在論に固有の論点なので、普遍論争の論点とは別の問題になる。
538 :
考える名無しさん:2009/10/12(月) 18:35:16 0
>>536 >そして、「この花」がどこにでもあり、普遍的であるのは、
>「私」がどこにでもいるものであり、概念化、一般化されているのと同じことだろう。
これはむしろヘーゲルのような人の主張だろう。まさにそうではないというのが永井の主張。
この論点は、「私」よりも「今」で考えたほうが分かりやすいと個人的には思う。
どの時点もその時点にとっては「今」だが、実際の「今」は一つしかない。そこで、
「なぜこの時点が(後者の意味で)今なのか」という問いが存在論的(形而上学的)問いとなる。
そして、この「今」の二義性がマクタガート・パラドックスを引き起こすわけだが、
時制のみならず「私」や「現実」(つまり人称や様相)についても同じことがいえるというのが、
永井の論点(の一つ)だと思う。
あと「神」についてのいわゆる「存在論的証明」にも同じ論点が入り込んでいる。
こちらはハイデガーのカント解釈の中心論点で、永井も「岩波講座哲学2」で強く支持していた。
なるほど。分かりやすい
>>534 >ほんの数日でピタッと止んでしまところが象徴的だな。あいつら、なんだったのだろう?
2日しか経ってないじゃん。馬鹿ですか?
無意味に煽りたいだけの人は相応しいスレでやってくれ
だってどう見ても馬鹿じゃん・・・。
それの次に
>>534なんて書くぐらいだから当の本人なんじゃないの。
545 :
考える名無しさん:2009/10/12(月) 20:06:51 0
>>538 ヘーゲルは、言葉は普遍的なものしか表すことしかできない、語りえないものとは
ただ思いこまれただけのものにほかならない、と言っています。私は個人的には
永井の〈私〉も、ヘーゲルの「思いこまれただけのもの」も同じものだと思って
ますが、この解釈は成り立ちますかね。〈私〉が世界そのものなら、「〈私〉」
などと言わずに「世界そのもの」と言えばいいんじゃないですか。
546 :
考える名無しさん:2009/10/12(月) 21:10:44 0
>>545 <私>を「世界そのもの」と同一視する主張は「独我論」である。
<今>を「時間そのもの」と同一視する主張を永井は「独今論」と呼ぶが、分析哲学ではふつう「現在主義」と呼ばれる。
さて、問題は、「独我論」や「独今論」が正しいかどうかではなく、なぜそんな主張がそもそも可能なのか、なのだ。
たとえば「独「この花」」論など存在もしないし、意味も分からないのに。
その理由は、世界の中に、「独〜論」が「可能」ではあるようないくつかの特殊なものがあるからなのだが、
(神学的には「神」などもそうなのだろうが)それは当然それ自体としては「個と普遍」の図式に収まらない。
同種の他のものが世界の中に併在するような「個」ではないから。
それを「個と普遍」の図式で捉えるための方策こそが、人称、時制、様相といった言語の「奇跡的に素晴らしい」発明だ。
永井によれば、通常の「主ー述」図式というよりも、むしろ人称、時制、様相…といった装置こそが言語を可能ならしめる偉大な発明で、
だから、(ここからは私見だが)この言語的方策が成功している以上、ヘーゲルの主張は全面的に正しいことになるわけだ。
この議論の道筋はそれ自体が弁証法的なので、その段階に立つかによって何が真理かは変化する。
547 :
考える名無しさん:2009/10/12(月) 21:24:33 0
(続き)
ヘーゲルは『精神現象学』の冒頭の「感覚的確実性」の箇所で、
「今」に関してまさにこの「時制化」の議論をかなり素朴に展開している。
その議論と、
>どの時点もその時点にとっては「今」だが、実際の「今」は一つしかない。そこで、
>「なぜこの時点が(後者の意味で)今なのか」という問いが存在論的(形而上学的)問いとなる。
という論点とを比較してみると面白い。これこそが西洋哲学の歴史全体を貫く根本問題では?
548 :
545:2009/10/12(月) 21:30:42 0
どうもです。おもしろかったです。
549 :
考える名無しさん:2009/10/12(月) 22:18:10 0
何だこのスレ展開ww
実はほぼぴかぁ〜専用スレなのかね、ここって。
551 :
考える名無しさん:2009/10/13(火) 08:46:46 0
ぴかぁ〜がんなにアタマがいい(てか知識がある)とは思えないけどな…
552 :
536:2009/10/13(火) 14:59:40 0
>>537 >>そういう普遍的な語でもって、真の「個」を言い当てたと思うなら、
>>普遍論争を全く理解していないことになる。
>
>その意味で、永井的独在論の見地からすれば、「真の「個」」もまた概念的・言語的だ。
>この論点は永井的独在論に固有の論点なので、普遍論争の論点とは別の問題になる。
あなたがそう思うのは、「個と普遍」問題の本質を理解していないからだろう。
もし、真の「個」が、概念化、言語化可能ならば、そもそも普遍論争は生じない。
代理不可能な真の「個」を言語化することはできない。
そのような、言語化不可能な「個」を、無理に言語化しようとするから、
例えばドゥンス・スコトゥスの「このもの性」のような、奇妙な言葉になる。
永井均は『西田幾多郎』で次のように書いている。
「真の個物は、有限の一般概念をもってしては規定され尽くされない。そんなものがどこにあるのか、
と問われたなら、それはここにある、としか答えようがない。たしかにある意味では、そんなものはどこにもない。」
そして永井均は、〈私〉という表記の由来が、このような問題意識からきていることをそこで書いている。
彼は、言語において「無が有化され」、「指示対象を持ってしまう」という事態を〈 〉の記号で表示していると書いている。
だから、〈 〉の記号は、「個と普遍」問題と関連しているんです。
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555 :
537:2009/10/13(火) 18:23:23 0
>>552 西田解説書なので、当然のことながら本来の永井哲学の主張そのものがそのままなされているわけではないだろうが、
私が本来の永井哲学の立場だと思う観点から解釈するなら、その箇所は、人称、時制、様相…の、様相の問題に触れている箇所だ。
「それはここにある、としか答えようがない」の「ここ」には実際には傍点がついており、あくまでも現実の「ここ」を指している。
しかし、その「現実」性さえもが言語においては「可能」化されざるをえない。そうでなければその永井の記述自体が読めないだろうし、
「ここ」を有限個の一般概念による記述の束で置き換えれば、諸可能性による限定を束ねることによる現実への接近にならざるをえない。
西田哲学は、ここに「様相」が関与していることを強調しないだろうが、永井哲学においてはその点こそが「キモ」になる。
したがって、私の解釈では、「〈私〉という表記の由来が、このような問題意識からきている」の「このような」は、
〈私〉人称化や〈今〉の時制化とパラレルな、〈現実〉の様相化を指すことになる。言語においてこれは不可避である。
この経路を経てならば、〈 〉という記号は「個と普遍」問題ともちろん繋がる。(経なければ繋がらない)。
もちろん、〈私〉や〈今〉が「個」でないのと同様、〈現実〉もまた「個」ではない。
だが、様相化を経れば、諸可能世界はそれそれ自分を「現実世界」と呼ぶことになって、「個」になりうるわけだ。
その結果、永井のその記述もわれわれに言語で伝わることになるのだ。
557 :
534=537=538=546=547=555:2009/10/13(火) 18:43:27 0
>>556 536=552さんが「
>>537」と書いて、537の記述についての応答を求めていたからです。
誤解のないように明示しておけば、534=537=538=546=547=555
明示したところで恥ずかしいことには変わりないな。
便宜上とはいえ、田中たんを指差して「これ」とほざいてる姿をみて
がっかりした。
もう私=これ、他者=あれでいいよ。
明日から一人称「これ」で生活してみろよ。
永井先生は一度ブリッブリのギャルと語り合って、
はー何言ってんのアンタ全然分かんないんですけどおwって言われるべき。
561 :
考える名無しさん:2009/10/14(水) 10:05:57 0
>>555 それはつまり、
「個」にも「現実的個」と「可能的個」がある、ということになりますか?
違いますか?
(違うような気もするが…)
562 :
考える名無しさん:2009/10/14(水) 10:30:15 0
>>559 それって、いままさに話題になっている「個」の問題だよね?
田中を「個」と見立てる文脈だから、むしろ正確なのではないか?
564 :
考える名無しさん:2009/10/14(水) 10:52:13 0
俺は、555がいちばん興味深かったが。というのは、だとすると、
<現実>世界の中の「個」は<私>の中の「クオリア」にあたることになるから。
そして、諸「現実」世界の中の「個」も諸「私」の中の「クオリア」にあたるから、
並行関係が成り立つことになる。
時間の場合の「個」や「クオリア」にあたるのは「出来事」だろうか?
「個」の意味をずらして誤魔化してるだけじゃん。
566 :
考える名無しさん:2009/10/14(水) 10:58:27 0
普遍論争の話とは別の話として始めるなら、それはそれで良いのでは?
567 :
考える名無しさん:2009/10/14(水) 11:03:32 0
また、ぴかぁ〜の自演がはじまったか。
何で見え透いた自演をするんだろ。ばれてないと思ってるのかな。
569 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 11:17:14 0
永井って言葉遊びしてるだけで中身スカスカだよね
まあ、進歩がないね
何で教授やってんだか
571 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 19:07:46 0
言語を土台にしている以上幾らでも階層化できる。どれほど荒唐無稽であってもな。
私を細分化することも無限に可能でありなぜか造られた<私>が私を超えることもそこでは可能となる。まるで亀がアキレスを抜けるがごとく。
しかしそんな言語世界は虚構だとゴーストは囁くのさ。
572 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 19:12:56 0
永井という人物は本気で自分の提唱した<私>を信じているだろうか。
番組ではとてもそうは見えない。
こいつ自体が最初から共通の私を前提に会話しているからだ。
つまりこいつは下手な詐欺師であって、自分で信じてもいない虚構をさもそれらしく語って飯の種にしているだけなのだ。
こんな奴はさっさと首にするべきだよ。
573 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 19:19:22 0
野矢、永井の回だけ観たが、ほんとうに日本の哲学者?はどうしようもないな。
まず本気じゃないよな。全部ナンチャッテだもん。
ナンチャッテ座禅とかナンチャッテ<私>とか、いい加減恥じを知れと言いたい。
574 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 19:33:38 0
物事の順番はこうだ。
まず最初に私があった。だから私に疑問を持って<私>なるものを想像できた。
これだけのことだ。
<私>は造語だから幾らでも俺オリジナルを主張できるし改変もできる。
だがすべては私の上に成り立つ虚構だ。
いや、正確には虚構ではない。すべて私に内包されたママゴトなのだ。
これでいいだろ。
575 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 19:48:07 0
では私と語らせる主体?らしきものは何なのか。
ここでまた<私>を妄想しては駄目だ。言語世界を抜け出せない以上、主体?は捉えることができない。
だからといって私はゾンビでも真空でもない。
そうゴースト(by押井守)が囁くからね。
576 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 20:30:51 0
>永井という人物は本気で自分の提唱した<私>を信じているだろうか。
>番組ではとてもそうは見えない。
ナンセンス。
このような言い方がナンセンスだと言うことをあなたは理解できないだろう。
うっとうしいから消えてね。
577 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 20:40:33 0
ナンセンスじゃないんだな。
言動が全てだからね。
彼が彼流の<私>を少しでも信奉しているならもっと慎重に対話すべきだね。
共通了解の前提に甘えてスラスラ話されてもねぇ。
気づいてないんだろうけど。
あずまん今京橋にいるのか
駅のスタバとかで待ってればあえないかなあ
579 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 20:47:31 0
むしろ永井みたいな斜め上の妄想すら許容している私の奥深さにこそ感嘆するよ。
あんな妄想をネタにしてもそれなりに対話が成立するんだもんな。
言語万歳。永井はウンコ。
580 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 21:39:22 0
>>579 おまえは鏡は左右を反対に像を写すとか言うタイプだろw
581 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 21:43:41 0
582 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 21:51:28 0
おおっ、
信者さん必死ですな。
妄想など理解したくもないがなんとなく理解できてしまうのが言語の悲しさぞね。
583 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 21:56:36 0
永井の言う私はウロボロスなフィードバック制御系のお話です
つまり文系には理解できませんけどねw
584 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 21:57:46 0
こいつの倫理学の教科書は結構よかったぞ。
585 :
581:2009/10/15(木) 22:05:45 0
永井の「〈私〉」など存在しないのです。
これが永井を理解する、ひとつの前提。
と思いこんでいる特別な<私>なんだよ。
それがわからんからいつまでも裸踊りを人に見せて悦に逝ってるんだろうけどね。
587 :
581:2009/10/15(木) 22:12:46 0
そう思い込んでいてください。
ま、鴨がいる間は商売成り立つんだろうね。
それは否定しない。
ハイパーメディアクリエイターさんみたいにね。
俺は軽蔑するけど。
589 :
581:2009/10/15(木) 22:16:48 0
俺は軽蔑するけど。
590 :
考える名無しさん:2009/10/16(金) 11:37:47 0
そういう議論をするなら、〈私〉と《私》の区別を踏まえないと駄目だ。
中心化された現実世界の場合が〈私〉で、中心化された可能世界の場合が《私》だ。
だから、たとえば田中さんは、
俺に中心化された現実世界では「個」だが、彼に中心化された可能世界では《私》だ。
しかし、決して〈私〉ではない。
だから、ちょっと前に話題になっていたように、ここで人称の問題に様相が食い込んでくるわけだ。
永井の語りを聞くときには、彼に中心化された可能世界を現実世界として聞かなければならないので、
そこに彼の言う「累進構造」が働くことになるわけだ。そして、それこそが言語の可能性の根拠だ、と永井は言う。
はっきり言って、これが正しいか間違っているかなんて絶対にわからない。
例えば『純粋理性批判』が正しいか間違っているかなんて絶対にわからないのと同じこと。
完璧に理解したとしても、初めて世界の真相を明らかにしたともいえれば全くの絵空事ともいえる。
どんな哲学も、哲学ってしょせんそんなもんですよ。
しかし、田中さんにとっては、この世界は田中さんに中心化された現実世界であって、
可能世界ではないんでは。
俺に中心化された現実世界と田中さんに中心化された現実世界は、
常識的には一つの同じこの世界なんでは。
(ナポレオン13世に中心化された世界とか、シャーロックホームズに
現実化された世界なら可能世界かもしれない。)
592 :
考える名無しさん:2009/10/16(金) 20:12:49 0
>>590 田中が「田中が〈私〉である」といったら、それは間違っているのですか。
593 :
考える名無しさん:2009/10/16(金) 20:16:56 0
>>590 〈私〉《私》などと言わずに「自分の自我」「他人の自我」と言えばいいんじゃないですか。
そんな妙な表記を用いる理由はなんですか。
594 :
590:2009/10/16(金) 22:34:47 0
>>591 >しかし、田中さんにとっては、この世界は田中さんに中心化された現実世界であって、
>可能世界ではないんでは。
そういうふうに始めから「とっては」を入れてしまうのはすでに「個」の立場に立った世界観だろう。
世界内の諸個体の並列的存在を前提にして、それらに一つ一つに「とっては」世界がどう見えるかを問う世界観。
永井哲学は、言語の働きによって!初めて!そういう世界観が成立するまでの過程を扱うんじゃないの?
>俺に中心化された現実世界と田中さんに中心化された現実世界は、
>常識的には一つの同じこの世界なんでは。
常識的そうなのは当然。しかしこれまた当然のことながら(永井)哲学はちっとも常識的でない。
>>592 間違っていない。しかし、聞く側は決してそう聞くことはできず、必ず《私》として聞くだろう。
>>593 表記の理由は知らないが、
〈私〉と《私》の対比と、「自分の自我」と「他人の自我」の対比は、全然違うじゃん!
だって〈私〉は「自分」じゃないから。「自分」はむしろ《私》だろ?
それにしても、前から何度も話に出ていたことだが、みんなちっとも本読んでないの?
やっぱり、ある程度は自分なりに読み込んでからじゃないと話にならないと思うよ。
595 :
考える名無しさん:2009/10/17(土) 05:15:32 0
>>594 >だって〈私〉は「自分」じゃないから。「自分」はむしろ《私》だろ?
はあ? 意味不明。
田中の「田中が〈私〉である」が間違ってないのも〈私〉が「自分」だからだろ。
あなたの言う「現実世界」は初めから「現実世界一般」になっているので、
あなたは永井の問題にしていることを全くわかってないように思われる。
596 :
考える名無しさん:2009/10/17(土) 11:05:56 0
>>595 >田中の「田中が〈私〉である」が間違ってないのも〈私〉が「自分」だからだろ。
いやはや、これは驚くほどとんでもない間違いだ! 初歩の初歩から分かってなんだな!
田中のその発言が「間違っていない」のは、聞く側がそれを必ず《私》として(つまり「自分」として)「受け取る」からだ。
そしてまさにここに働いているのが「累進構造」で、それこそが永井言語哲学の根幹じゃないか?
>あなたの言う「現実世界」は初めから「現実世界一般」になっているので、
これまたとんでもない間違いだ。
「現実世界一般」は「初めから」ではなく「後から」、ちょうど〈私〉が《私》になるように、言語的に生成するんでしょ?
ただしこっちは様相の問題で、この並行性これまた永井言語哲学のキモなんじゃないの?
言っとくが、俺は永井主義者でも支持者でもないが、ほぼ全著作を読んで理解はしているつもりだ。
「自分」についての議論なんて、永井自身があんなにしつこく何度も直接やってるじゃないか!
最近著の目次にもはっきり明示されている問題を、その箇所も読まずに論じたって意味ないよ。
自我というのは後から生まれるものな。
最初に言葉、つまり世界一般があったということなんだがね。
赤ん坊でも対話は成り立つ。これが世界の凄さだな。
>>597 対話なんて成り立たないよ。
赤ん坊には生存本能のみで意図や意思もないんだから。
大人が一方的に解釈を行っているだけで、対話に必要な
二者(大人側と赤ん坊側のような両極)の構造にない。
そもそも赤ん坊側なんてものが無いのに対話もくそもないだろう。
まず最初に中心化された世界があるというのが幻想。
世界一般があってそこから分離して初めて中心が生まれるのであって逆はない。
赤ん坊は世界一般に触れなければただの肉塊として存在し朽ちるだけなんだよね。
>>598 必ず自我対自我でなければ対話でないかといえばそうではない。
反応しあえるということが対話というかコミュの原点なんだよ。
んでどんな相手ともコミュが成立する世界というのは凄いんだよ。
これは人智を超えている。
>>600 そうでない、という根拠が少しも論理的じゃない。
対話っていうのは同じ遣り取りでも間違いが起こるものなんだよ。
言い間違い、聞き違い、考え違いだが赤ん坊等にはそれがない。
反応なんてものはシンプルで間違いが一切ない。全て正解だからな。
取り違える事の無さこそが、いかなる対話をも意味的に拒絶してるんだよ。
600は「森と会話する」という対話をもとに擬人化された比喩を
一方的に自然に当てはめて成立していると見なしているに過ぎない。
>>601 だから論理を超えてるんだって。
世界一般だった赤ん坊が中心化された者との対話と通して中心化されてゆくのは事実。
>>602 説明が論理的でないって言ってるんだよ。
最初から中心化されてないっていうのは妥当な意見だと思う。
世界を川で例えるなら、中心化された世界ではまず目の前に川があって、
ある時から飛び込もうとするということになるけど実際はそうじゃない。
すでに川に流されている事にある時点で気づくことから中心化は始まる。
そこで泳ぐと言う事が対話と言う事なんだと思う。
つまり反応と対話は別物と言いたいんだよ。
川で泳ぐ事と流される事は違うだろ。そういう機微の疎さに呆れる。
>>603 川の喩えに乗るなら中心化された領域ってのは淀みのようなもんだ。
淀みに嵌れば流れも朱に染まる。
だがね、そもそも川の本流と淀みに違いはないんだよ。
泳いでいる者?そんなんいるのかね。
>>604 話をそらすんじゃない。
なんでも対話が成り立つ世界の凄さ?かなんかの話をしていて
>泳いでいる者?そんなんいるのかね。
なんて、あなたは上辺の話作りに熱中してるだけじゃないか。
対話が成立するという事に関して全く鈍感だと言ってるんだよ。
対話をなすのは言語でしょ。記号でもいいか。
>>605 淀みが言語の淀みなら言語に染まる。
それだけのことではないのか?
つか永井に対して順序が逆だよと言いたいだけなんだが。
川があって淀みがあり淀みに染まる粒子があるのであってその逆ではないんだよと。
>>607 順序が逆ってところまでは意見としていいと思うよ。
>赤ん坊でも対話は成り立つ。これが世界の凄さだな。
でもこれは蛇足だよ。
そう突っ込んだら論拠に乏しい妄想のオンパレード。
言語、意味、対話という別の話を持ち込むのは迂闊って言ってるんだよ。
609 :
595:2009/10/17(土) 17:54:55 0
>>596 あなたのおっしゃることはちんぷんかんぷんです。
610 :
考える名無しさん:2009/10/17(土) 18:09:17 0
いや、それにしても、永井スレなのに、
対立する意見のどちらもが、永井の理論をまったく理解していない、というよりそもそもちゃんと読んでもいない、
という点だけでは共通しているのは驚くほかはない。とにかくまずしっかり読まないと話にならない。
字面だけ永井用語を使ったり、永井がいいそうに見える断片を使っていても、
すべて、本質的にはぜんぜん関係ない、単に常識の範囲の議論になってしまっているぞ。
これではいくらやっても無意味だ。
いくら古典ではないといっても、一つの哲学説に関して議論するなら、
まずは理解できないセンテンスが一つもなくなるまで徹底的に熟読して、
それから構造を把握するための要約ノートをとって各著書のノートをすりあわせて「研究」しないと。、
哲学ってそうやてやるんだよ。現代日本語文献だし、まだ研究文献もないから、ぜんぜん楽にできるのに。
永井が書物に何書こうが興味ないね
時間の無駄
永井の出た番組を摘みにしてる
612 :
考える名無しさん:2009/10/17(土) 18:18:58 0
つまり永井の読者さんは、自分こそその本質を理解していると自認しているが
誰が永井をまともに理解してるのか分からないと。
そいつは傑作です。
どうやら永井哲学はオカルトのようですね。
613 :
悪魔の実の能力者:2009/10/17(土) 18:28:03 0
三階の加藤さん家の家だろ?知っているよ。
番組観た感じだと永井自身がよくわかってないで〜かもしれないと卑屈に喋ってただけじゃん。
厨二の太田と変わんないんだよな。
講談社の人類の知的遺産が並んでたのは笑ったね。
あんなもん読んでんだな。素人じゃんw
616 :
595:2009/10/17(土) 18:53:01 0
「田中が〈私〉である」は私的言語なので永井的に言えば「無意味」です。
617 :
595:2009/10/17(土) 19:22:19 0
>>610 あなたはちゃんと読んでるわけですね。
それら「対立する意見」のどこがおかしいのか指摘してもらえれば、勉強になるのですが。
永井(笑)
619 :
考える名無しさん:2009/10/17(土) 23:57:18 0
まあ、確かに、このところ、
茶々を入れるだけ人々は度外視すると、
ふつうなら相互に議論しあうこともないような、
哲学にちょっと興味をもった高校生レベル(かせいぜい学部1,2年生レベル)の人々と、
学会誌に論文の2,3本は書いていそうなオーバードクター(崩れ?)レベルの人々が、
お互いにそうと知ることなしに、蒟蒻問答のような議論をしているのが目について、
ちょっと面白いね。
茶々入れのレスがまた一つ増えましたな。
621 :
考える名無しさん:2009/10/18(日) 00:10:49 0
>>619 >哲学にちょっと興味をもった高校生レベル(かせいぜい学部1,2年生レベル)の人々
は褒めすぎだろう。「ただテレビを見ただけの人々」と言わないと。
「私・今・そして神」読みました。
面白かったです。
しかし神に下駄を預けすぎでは?とも思いました。
623 :
596:2009/10/18(日) 00:28:07 0
>>595 俺の言いたいことは、最後に書いた
>最近著の目次にもはっきり明示されている問題を、その箇所も読まずに論じたって意味ないよ。
に尽きている。明示するなら、
『なぜ意識は実在しないのか』の「「自分とは誰か」−−「私」vs「当人」」の箇所だ。
君はこの本を読んでいるか? (読んでいるならそれについて直接論じたほうが意味があるだろう。)
ところで、610は(気に入らないところもあるが)一ついいことを言っている。
>まずは理解できないセンテンスが一つもなくなるまで徹底的に熟読して、
というところだ。これは重要だと俺も思うね。
ところで、俺は「オーバードクター(崩れ?)」ではないよw
624 :
考える名無しさん:2009/10/18(日) 00:45:54 0
>>622 偉い、偉い。
まずはちゃんと本を読まないとね。
そういえば、肝心の「神」についての議論がまったく出てない…。
595と596がオーバードクターだと思う人がいるんでしょうか?
本当にみなさん自信過剰というか、自意識過剰というか。
永井の読書感想文をあーでもないこーでもないと。
これが哲学ってもんですか。
626 :
考える名無しさん:2009/10/18(日) 00:57:54 0
>>これが哲学ってもんですか。
違います。2chというものです。
627 :
考える名無しさん:2009/10/18(日) 01:25:13 0
ひょっとすると、
625は「オーバードクター」を何か偉いものだとでも思ってるんでは?
知らないんですか? この業界では「乞食」のことを言うんですよ。
だから623は「俺は乞食なんかじゃないぞ」と言いたかったんだですよ。
だから、本当は乞食かもwww
628 :
595:2009/10/18(日) 02:21:18 0
読め読め、って俺はちゃんと読んでるよ。
あなたはなにが言いたいの?
けんかはやめようぜ
永井さぁ、自分のホムペに著作うpしろよ。
そしたら読んでやるよ。
それが魂に対する態度だろ。
銭儲けは信者だけにしてくれ。
632 :
考える名無しさん:2009/10/18(日) 10:09:36 0
>>626 >>627 面白くていいね。こういう茶々が好きだね。
>>628(595)
ふつうの学会発表や学術論文のように、
読んだものに基づいて(つまり問題箇所をいちいち細かく引用しつつ)実証的に論じましょう、
ということでしょうね。その条件を満たしてないと、それだけで即座に査読で落とされるから。
>>630 図書館ならただで読めるよ。
>>631 あまりにも古すぎる。でも真ん中やつは今も通用するな。
「読んだものに基づいて」「実証的」「査読」とかいうんなら永井永井言うなや
634 :
595:2009/10/18(日) 15:31:25 0
>>632 >読んだものに基づいて(つまり問題箇所をいちいち細かく引用しつつ)実証的に論じましょう、
相手は、つぎはぎだらけで自分の思い込みを述べているだけなんだけどね。
635 :
考える名無しさん:2009/10/20(火) 23:26:28 0
636 :
考える名無しさん:2009/10/20(火) 23:30:19 0
誰か訳して。
637 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 13:22:30 0
質問スレで聞いたら、こちらで質問した方が良いと誘導されましたので
向こうで書いた文章をそのままコピペします。
例えば自分は何故自分であるのか?
などの哲学的問いがありますが、これは単に
自然法則の中で、ある時間空間の領域に
物質がその構成で誕生したら必然的に今の自分が意識を持って生まれた
と単純に理解すれば解決しませんか?他の如何なる構成ではありえない事だと。
要するに「自分は何故この自分なのか?」という問いは
人間が頭の中で事実として問えない形式の問いを生み出しただけであり
最初からそんなものは問いとして成立しない問いだったとは言えないでしょうか?
>>637 「脳は物質だから意識は必然に過ぎない」スレで質問したほうがいいと思う。
>>638 ここでも受け付けられない質問みたいですね…
わかりました。誘導ありがごうございます。
640 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 18:20:35 0
>>638 これは永井的問いだと思うが。
俺は答えようとは思わんが。
>>640 例えば永井信者ならばこれにどう答える?
参考までに。
642 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 18:38:48 0
物質の構成と〈私〉は関係ない。
643 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 18:46:58 O
>>642 関係ないと思えても、全て物質に還元して
脳内のありとあらゆる思考が説明出来たら
問題解決したのと同じではありませんか?
「関係ない」と言い張ったところで、その「関係ない」は
脳内でこれこれこういう物質が構成された時にね…その「関係ない」という思考が…
という具合に。
644 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 18:50:31 0
「思考一般」は説明されることがありえても〈私〉が説明されることはありえない。
645 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 18:55:39 O
>>644 その根源的な私は、ある時空間に構成された
物質によって必然的にたった一発の生として
生まれただけの事だとすれば
そもそも他者が私で、私が他者だったら?
などという事はありえない事なので、
事実としてそういうものだと割り切って考えられませんか?
>>645 物質の転送装置というものがあったとする。
A地点に私がおり、B地点へと転送されることを想定するとき
B地点ではA地点でスキャンした私を分解再構成することで
転送が完了したと考えた場合、B地点にいる私は当然
A地点にいた私と物質的にも記憶も同じ存在のはずである。
だが事故が起こり、A地点でスキャンされ分解されたはずの
私は分解されず、B地点にも私が存在するという事態が起こった。
どちらが私なのだろうか?同じ物質・同じ記憶・同じ自分という
性格を有しているはずのに、この二つの存在はどちらかが圧倒的に
私であることは言うまでもない。
ある時空間とか物質に還元されない絶対性なのだから
何かで相対化して説明しようとしてもすり抜けるんだよ。
647 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 19:24:48 0
>>645 私は永井はよく知らないので、スレ違いかとも思いますが、
貴方の興味は私に近いので、少しレスさせて下さい。
貴方の考える「私」が現象するためには、少なくとも、
物質とは独立の「時間」なるものが確かにあり、
各「時間」について、対応する世界が分与されており、
そのどの瞬間の世界の どの「構成物質」も、別の瞬間の、どの「構成物質」とも同一性を持たず、
しかし、時間軸に対する世界の(見かけ上の?)連続性と、それに伴う(物質由来の)意識の連続性は保証される、と
・・世界がそのような「完全無欠な四次元構造」であるなら、それもあり得るでしょう。
しかしこの方向の先には、過去世界の実在を認めなければならず、
過去世界とはなんぞ?現在とはなんぞ?なる問題も浮上します。
また、仮に世界が完全な四次元構造だとすると、なぜ、「現在」が、“この”現在なのか?
なる不可思議も発生します。
私にはとても 割り切っては考えられません。
648 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 19:45:12 0
>>646 これは現実的には今の段階で検証出来ない事なので
厳密性にかけるかもしれませんが
もし今現在の自分を構成する物質的要素をスキャンし
その構成とまったく同じ人間を自分の隣に生成しても
それは意識レベルでは自分と同一とは言えないでしょう。
これは既にコピーした時点で時空間としての絶対的な違いがあるし
ミクロの単位では自分との記憶の連続性が途絶えるからと仮定します。
そして転送装置の成功例についてですが、これも厳密に言えば
自然現象としての体内の分子の入れ替わりとは違い
一瞬にして崩壊→生成を行うので連続性が上手く保持できないと考え
意識レベルでは自分と同じとは言えないのかもしれません。
ダメでしょうか?
>>647 >過去世界とはなんぞ?現在とはなんぞ?なる問題も浮上します。
>また、仮に世界が完全な四次元構造だとすると、なぜ、「現在」が、“この”現在なのか?
>なる不可思議も発生します。
それはそういうものだからと、事実を割り切るべきだと思いますけどね…
例えば重力は何故この形式で存在しているのか?
という問いは科学的にはそもそも無意味ではないでしょうか?
649 :
647:2009/10/27(火) 20:36:58 0
なるほど。
貴方の云う重力の「形式」が何を示しているのかよく分かりませんが、
しかし「そういうものだ」との割り切りが科学であるとは思いません。
「そういうもの」なのであれば、ニュートンの重力理論など必要ありません。
ニュートンは質量と加速度と万有引力の「相関」を見出したところが偉いわけです。
地上に落ちるりんごの運動と、天体の運動が同じ原理により統制されていると発見したわけです。
一般相対論では慣性力を重力に組み込んで相対化することに成功したところが偉いわけです。
リンゴの運動自体は「そのようなもの」であり、「地上の運動学」として各論計算すればいいでしょう。
熱力学は完結した「そのようなもの」であり、分子運動論・統計力学など無用。
「過去世界」と「現在世界」は、時空四次元体なる世界に於いては同質です。
しかし、「現在」は厳然として“ここに”ある。それを可能とする何かがある、
あるいは「時空四次元体」なる概念には何かが不足している と、私は考えるのです。
そして貴方はそれを「そういうものだ」とする、ということでしょう。
まあ、いいんじゃないですか。さようなら。
650 :
考える名無しさん:2009/10/27(火) 20:53:23 0
>>649 うーん確かにその指摘を聞いてちょっと考えが浅はかだった気がしてきました。
なんだか問いを立てる事の大事さを教えられたというか。
そうなると常にある事実が理解出来ても、その事実を構成している
諸原因が何故その様になっているのか?と更に原因を追究して行くのが
本当の意味での科学なのでしょうか。
>>649 割り切るというのはちょっと早計でしたね。
ある事実が分かった結果別の疑問が生じれば
そこは更なる追求をしていけばいいのかなと思います。
まぁでも物体転送の思考実験も、細かい仕組みはまったく抜きにしての
あくまでも思考実験ですからねえ…
実際そういう実験が仮に可能になったとしても
事実としてはどうなるかは本当のところは分からないし。
もしかしたらスキャン先の再構成した自分はただの形骸と化す場合もありうるし
自分とまったく同じ物質構成で作ったコピーは
まさに意識がその両方に宿ることもありえるし…
絶対にそういう事態が起こらないとは言えないわけで。
そういう意味では今の段階ではそれらの想像は、はまだまだ絵空事なんでしょうね。
653 :
考える名無しさん:2009/10/28(水) 12:16:14 0
>>649 問いの形が「どのようにして?」という形式の問いならば
追求して行くべきではないでしょうか?
しかし「なぜ?」という形式の問いは事実判断としては
成り立たないものであると思いますので、
やはり答えが確定出来る問いとしての範疇にはないと思います。
そもそも「私はなぜ私なのか?」という問いではなく
「どのようにして私は私になったのか?」という形式でしか問えないのではないでしょうか?
それならばやはりただの事実として割り切って追っていけませんかね?
>>648 ダメだと思うよ。
思考実験の意図をよく分かってないんじゃない?
転送前後の物質構成や記憶が同じであるということを
前提とした話なんだから。
連続性や位置をも現実的な条件でそろえたいなら
双子地球の問題で考えれば良いだけの話。
双子にすると右左という位置とか、宇宙が物質的に均等化しない
とか言い出すんなら三つ子の宇宙を考えれば良い。
物質や位置が完全に見分けがつかない条件というものを
あなた自身が逆に考えてみれば良いのに。
結論は
>>646にある通り。
>>652 失敗転送後の両方が私というのは可能性としてはあり得ますね。
これは「転校生とブラックジャック」にも少し書いてあったかな。
気持ちの悪い話だけど、人間が後頭部にも目を持ったらということに
感覚としては似てくるのかな、と思うんだけど。
実際は、私の分裂的な現象になるんじゃないかな。で、分裂後の
どちらかが双子の片割れのように私から少しずつズレて行く感じ。
655 :
考える名無しさん:2009/10/28(水) 16:29:15 0
>>648 じゃあその厳密な前提条件の元で、双子の地球にしろ転送装置にしろ
完璧な物質的構成が同じモノが出来たとして
それがどちらかに完全に限定された一者となると何故言えますか?
気持ちとしては分かるけど、やはり現実的にありえない事態なので
どうもそこでの結果を確定的に決め付けるのには違和感を覚えるんです。
もしどちらかに私が限定されず両方に私が宿るのなら
それはそれでやはり、ある物質的条件、時間空間的条件、
ある物質の連続性を保てた物質構成があれば、そこに必然的に
ある私という意識が宿るという事実だけがあるだけではないでしょうか?
つまりそれはどこまで行っても事実として片付けられる問題だとも言えないでしょうかね?
殆ど永井先生の本は読んだ事がないので、問題の論点がよくわかってないのかもしれません。
ちょっと永井先生の話の具体的な内容を見てみたいのですが、何かお勧めはありますか?
この問題に色々と興味をそそられたので。
>>655 自分も永井さんの趣旨を捉え損なっている公算大なのですけど
少なくとも、物質の組成・記憶・空間的時間的同一性で決まるのは
脱人格的自我であって、それは誰にでも当てはまる自分であって
そのことは永井さんも認めていて、それでいて尚相対化する
意味を失うような地点に私を置いている風な書き口です。
私、は恐らく言語を使うが故にその相対化や均質化を起こし
永井さんが意図する私から乖離・滑落を常に生じます。
具体的な内容は一冊にまとまっているとはちょっと考えにくいです。
時間の経過とともに少しずつ変わっているかも知れませんし、
他の哲学者の考察をバックグラウンドに必要とすることも多々あります。
特にウィトゲンシュタインに対する永井式の解釈を知っておかないと、
それって一般的なことなんじゃないの?とか問題の意図するところが
よくわからないこともあろうかと思います。
とりあえず立ち読みできそうな手頃なもので
・講談社現代新書:「<子ども>のための哲学」(1996)
凄く古いですが入門書的なものです。永井タッチを
この本で捉えておいて、次の本を読むための布石に。
・ちくま学芸文庫:「翔太と猫のインサイトの夏休み」(初1995で2007文庫化)
読み易いです。永井さんが解釈するカント・ウィトなんかの概略図を手軽に手に入れる。
・岩波書店:双書現代の哲学「転校生とブラックジャック」(2001)
特に私(独在性)に特化した本ですね。立ち読みはちとつらいかも知れません。
ちょっとお高い\2800-
・講談社現代新書:「私、今、そして神」(2004)
前々から小出しになってた独在と独今とかをひとつなぎにする試み。
新書のボリュームなので永井タッチに慣れていないと読みづらいかも知れません。
・岩波書店:双書哲学塾「なぜ意識は実在しないのか」(2007)
新しめの本です。
参考になる補助本
・ちくま新書:「ウィトゲンシュタイン入門」(1995)
あとは立ち読み不向きや独在性だけというくくりでもないので割愛。
659 :
考える名無しさん:2009/10/28(水) 18:27:29 0
>>657-658 ご丁寧なレス大変ありがとうございます。
ご紹介していただいた本を見てみたいと思います。
確かにちょっとレスを読んで考えてみたら変な気がしてきました。
永井先生の著作を読まずにこんな事を言うと
また的外れなのかもしれませんが、こんな思考実験を考えてみました。
例えば、自分とある友人が居ます。
勿論、自分とその友人は別々の私という主体をもち別々の世界を見ています。
そこでもし生まれて直ぐ、この両者が入れ替えられて育ったら「私」はどの様になるでしょうか?
勿論、生まれたのは今の両親からであり、生活環境だけが入れ替わるという事です。
つまり今の自分の肉体のまま、その友人の環境でもし育てられていたら?と考えます。
その友人が辿ったのと同じ様に、生活して、学校に行き、その家族と濃密な人間関係を築き
自分とその友人がまったく入れ替わった人生を送るのです。
もしその様な事態が起こった場合、自分は限りなくその友人の私になるでしょうか?
それともこの自分自身という一者は、やはり生まれた時の固定された一者なのでしょうか?
何かそう考えると、確かに最初の発生段階での物理的条件だけの自分と、
後天的な影響下に置かれた自分が上手く結びつきません…
みなさんはこの問題をどう捉えているのでしょうか?
>>659 それは異なる問題だと思います。
身体(物質や環境)が容器で、自我が水だとすれば容器の形状が
私の自我を形成すると考えれば、同じ容器は一つも存在しないので
自我は無数の中にあれども唯一の自我であるというオリジナリティの
問題であり、結局は均一化した比較対象になり得る私のことでしょう。
また物体と一対一対応で自我を帰属させる場合、
自我というものを綿密に定義付けして、その物体には
かくかくしかじかの自我しか生じ得ないという
検証可能な手法を用いいなければ、証明には至らないと考えます。
ただ、やはりそれは永井さんのいう私から滑落した私の問題であり、
どのような初期条件、環境であれ、一般的に自分という
脱人格的自我は深い懐疑を要する問題と捉えない限り
何の問題もなく生じるものでしょう。
問題はそのそれぞれに存在する自分のうちの一つが
何故か私であり、捨て去ることもできずどうしようもなく私であり
比較の対象になり得ない地点であるというあり方が永井さんの私。
661 :
659:2009/10/28(水) 19:04:10 0
すみません補足です。
>>659の思考実験は、厳密性を高める為に
別々にまったく違う環境で育てられたクローン人間が居たとして
その別々の環境で育てられたクローン人間が
環境が入れ替わった時に「私」の状態はどうなるか?
とクローン人間で、且つ入れ替わった環境も他方のものが厳密に再現されるとした方がいいですね。
662 :
659:2009/10/28(水) 19:19:33 0
>>660 う〜んもっと抽象度の高い部分の話みたいですね…
もう少し考えてからまた書き込みしたいと思います。
>>661 それは入れ替える必要はないかもしれません。
世界が繰り返すという思考実験を行い。
一回目の世界で生じたAさんという自己をもった存在と
二回目の世界に生じたAさんという自己をもった存在が
同じ空間で同じ出来事、と考えた場合、
この両Aさんの自己は同一であるかという問題だと思います。
面白いと思いますが、これこそ永井さんの私の萌芽に近いかもしれません。
観測者として両Aを観るからこそ、それは同じにしか見えないけれども、
自分が一回目のAであるという事態に際して、比較対象のない私が地点として
生じるのではないでしょうか。
>>637 他の人の答で十分かもしれないけど、念のため
「私はなぜ私なのか?」などと表現すると、他人との区別とかに意識が行き過ぎるかもしれない
そこで、他に永井がよく使ってる(と思う)表現として、「20世紀半ばまで私は存在しておらず、
また2100年には存在しなくなるはずだが、なぜこの時代にだけ私が存在するのか」
「そもそも私などずっと存在していなくてもよかったのに、なぜ存在するのか」というのは、どうですかね
つまり、(やや私なりの敷衍があるけど)縄文時代にも江戸時代にも他の時代にも、人間という
種類のものは多数存在したはずだけど、私は存在していなかった
そのことからすると、そのままずっと私が存在しなくてもよかったはずだ
しかし、私はなぜか存在している
これはどういうことなのか?
この表現のほうが、他人との違いの問題とか、または「誰にとっても、それぞれ生まれてきて、
そのうち意識を持ち…ということは同じではないか」というような説明との違いはつかみやすいような気がする
665 :
659:2009/10/29(木) 06:31:10 O
>>663 それはいわゆるニーチェの永劫回帰みたいな世界ですよね?
>観測者として両Aを観るからこそ、それは同じにしか見えないけれども、
>自分が一回目のAであるという事態に際して、比較対象のない私が地点として
>生じるのではないでしょうか。
自分のイメージでは逆なんですけどね…
俯瞰した視点からその両者(一回目の私と二回目の私)を見るからこそ
絶対時間という名の元で、相対化出来るように感じてしまう。
しかし事実としてのその両者からの視点では
そもそも有限量の記憶と体験しかないのだから
その両者はまったく事実として同一であると(見る世界や考える事全て同じなのだから)。
だから自分の中では、本来ありえない俯瞰した客観地点から観測してしまうと
誤謬としてその両者を相対化出きると思えてしまうけど
主観地点からは、まったく絶対時間というものは存在しないので
やはり事実として両者は同一としか思えないんですよね…
うーん… やっぱりまだよく分かってないのかな…
666 :
659:2009/10/29(木) 06:33:33 O
>>664 うーん、そこも事実として割り切れませんかね?
例えば、江戸時代のある時期にあった石は
ある時空間中に、特定の分子の組み合わせ
(これは正にオリジナルな分子の組み合わせとして)
そこにあったという事実だけであって、その分子の組み合わせが
百年後に存在しようとしまいとまったく事実としては問題ないと考えられませんか?
つまりどこまで行ってもある特定物質としての組み合わせによって生じた
その自我も事実としての私であって、それは唯一のものなのだと。
(これは永劫回帰の世界でも同じ)
これじゃだめでしょうかね??
やはり自分が言いたいのは
その問いに答えが出ないのは
その問い自体が本来成り立たないものであって
問い自体が間違いなのではないのか?という事なのですが…
これは初期ウィトゲンシュタインが言った事に近いのでしょうか。
しかし哲学の専門家である永井先生はウィトゲンシュタインに凄く造詣深いでしょうし
やはり本質的な問題はその先にあるのでしょうね…
そもそもこれは論点としてはやはりずれてて
自分のこの意見は大間違いなのでしょうか?
>>665 要約すると、繰り返しの思考実験からすると
観測者の立場からすれば、時間のポジションが異なるから
二者のAは異なる自我であると考えられる。
がしかし、自分がどちらかのAであると仮定すると
自分とは異なる世界であっても同じこと(記憶・体験・出来事)が
起こっているから同一である。
という見解で間違いないですか?
669 :
659:2009/10/29(木) 16:05:57 O
>>668 簡潔に上手く纏めて下さりありがとうございます。
大体そういう解釈で間違いないと思います。
つまり物理主義的には、宇宙の物質がまったく同じ構成で
すべて再配置されれば、それは隅々まで
まったく同一の事態として捉える事が出来るのではないでしょうかね?
つまり意識や私という一者も、あくまでも物質構成や
そこからの後天的影響(これも究極的には物質的な同一性がその後も維持され続けると捉えられる)
の様々な体験やそれに従う記憶も全て同一ならば
完全に同一としての「私」があるという事実だけではないでしょうか?
>>669 その解釈はやはり客観的な同一性だと考えます。
全てが完全に同一であるという観点は、
自分にとって等しいもの同士(自分ではないもの)を
比較する場合にしか有効ではないのでしょうか?
自分と「何か」を比較する場合、どうすればその「何か」は
自分と同じであると言えるでしょうか?
もうひとつ思考実験をしてみましょう。
完全に瓜二つの双子の宇宙があったとしましょう。
あなたは片割れのAだと仮定します。
ある日もう片割れのAと出会ったとします。
談笑したり歩き回るうちに、気づけば
二人以外の誰が見ても区別が付かなくなっていました。
ですが、あなたにはもう区別は付いていることは必然です。
片割れを間違って自分であるとは言えませんよね。
この区別は物性や時空間的なポジションによって
決まることではないことはわかりますよね。
これが脱人格的自我は物理的に等質であっても唯一の
ベクトルをもった存在であるという特殊性です。
これを踏まえた上で、永井さんの私のステップが表出します。
>>670 >談笑したり歩き回る
とありますが、鏡写しのように
同じことを言い、同じ動作をすると捉えて下さい。
要は他者に区別がつかなくなる状況が発生する
ということです。
672 :
659:2009/10/29(木) 18:30:45 O
>>670 もちろん客観視点での解釈ではありますが
そもそもまったく同じ物質構成でその後の経験も同じ
つまりその後も内部的な物質の変化もまったく同じなら
そこに随伴した意識が違うと捉える合理性はあるのでしょうか?
確かにこの問題は科学的に追求する事には限界があるとは思えますが(主観的体験なので)
その繰り返しの世界での同じ構成者が同じと捉えた方が
直感的にはずっと合理的な捉え方だと思えます。
双子の宇宙に関してですが、それは厳密な意味ではやはり
物理空間にある以上「まったく同じ」とは言えないんじゃないでしょうか?
極限的に完璧に同じものを想定するならば、重なりあった宇宙というものを想定し
そしてそこに存在する自分もまったく同じ時空間に存在しなければ
「すべてが同じ」とは言えないのではないでしょうか?
そうなると必然的に、それは私レベルで同一としか言い様のない存在になってしまい
そこに存在する自分を私レベルで同一と捉える事になんの不合理もないと感じるのですが…
(現実的に同じ位置時間に重なりあう事は不可能なので、
物理空間としては、唯一として存在する一者しかありえないと思えます)
まだよく分かっていないでしょうか?
673 :
659:2009/10/29(木) 18:33:59 O
補足として自分の考えを少し書き足しますと…
1) a,b,c ⇒ x,b,c ⇒ x,y,c ⇒ x,y,z
2) a,b,c ⇒ a,b,c
3) a,b,c ⇒ x,y,z
1)は動的平衡よる入れ替わり
2)は転送装置
3)はコピー生成(二つは同時に存在)
通常人間は 1) の様に、自然現象として分子レベルでは全て入れ替わっていますよね?
自分の考えでは、この 1) のプロセスを全て保持していなければ
私レベルでは同じと言えないのではないかと考えています。
2) はまったく同じ分子の構成でそのまま、分子レベルで移動させただけなので
もしかすると私は保てる可能性もあると考えますが、3) に関しては
おそらく 1) の途中プロセスを端折ってしまっている為に私は崩壊してしまうと考えています。
ただ 2) に関しても、物理的に考えて時間ゼロでの移動は不可能と思えますので
現実的には 2) に関しても、厳密な意味で 1) と 後天的な経験レベルの違いが生じ
もしかすると私はやはり崩壊してしまうのかもしれません。
あと崩壊してしまう場合は、別の私が生じるというよりも
新たに作り出した物質構成が同じ自分は、ただの形骸になってしまう可能性もあると思えます。
>>672 やはりその解釈は、自分という存在に焦点が当たってないと考えます。
我々は他者を同定する際に、他者の外的な要素から判断を行います。
それは物質構造(遺伝子やら顔立ち)や記憶などですが、
自分自身を同定する際に、外的要素は全くの不要です。
あるとき自己で顔かたちも変わり、記憶も失ったとしても
自分であることは、外的要素でトレースする必要が皆無であり自明です。
そう言った意味で、まず自分という存在は特殊です。
>そこに随伴した意識が違うと捉える合理性はあるのでしょうか?
合理性ではなく、それぞれの意識を同定する根拠が異なるので
当然異なるはずです。なぜなら一回目のAが二回目のA
に対して
行う自分自身への同定は外的要素を用いる他ないからです。
675 :
考える名無しさん:2009/10/30(金) 01:46:31 O
>>666 > つまりどこまで行ってもある特定物質としての組み合わせによって生じた
> その自我も事実としての私であって、それは唯一のものなのだと。
そのように考えて駄目だということはないですが
まあ永井の本をまず読んでもらうのがよいと思うけど
趣旨を(私なりに)繰り返すと、特定物質の組み合わせというのは、どの人間も同じだろう
聖徳太子だって、エリザベス女王だって、それぞれ特定の分子の組み合わせだろう
しかし、そのような人々はみな私ではないし、そもそも私なんて存在しなくてもよかったはずではないか?
それなのに私が存在しているというのは、どういうことか?
特に「特定物質としての組み合わせ」というのが、よくわからんところで
>>675 これは考えがあまりまとまっていないうちに、間違って途中で送信してしまったので、忘れてください
677 :
659:2009/10/30(金) 08:18:19 O
>>674 >あるとき自己で顔かたちも変わり、記憶も失ったとしても
>自分であることは、外的要素でトレースする必要が皆無であり自明です。
話が多少ズレるかもしれませんが、ちょっとここで一つ疑問があります。
そもそも脳内の状態が急激に変化した場合(雷に打たれて記憶が無くなるなど)、
それ以後の私が以前の私と同じだとする根拠がありますかね?
それは同じ私だと言えるのでしょうか?
以前とつながりある正にこの目から見る私がそこに本当にあるのでしょうか?
>合理性ではなく、それぞれの意識を同定する根拠が異なるので
>当然異なるはずです。なぜなら一回目のAが二回目のAに対して
>行う自分自身への同定は外的要素を用いる他ないからです。
これについてはもう少し考える余地がありそうなので
じっくり考えてからまたレスしますね。
678 :
659:2009/10/30(金) 08:19:59 O
>>675 忘れてくださいとのことですが、いちおうレスしときますね。
これはやはり、聖徳太子もエリザベス女王も特定分子の組み合わせだけれども
やはり分子レベルでの発生はまったくのオリジナルだという事です。
物質レベルでみると全ては分子の組み合わせだけど
結局ある時期にある空間中にその分子の組み合わせとして生じたその特異性はやはりあると思います。
その辺りに転がっているなんの変てつもない石ころだって
ある意味唯一無二のものですし(発生段階など全ての手順を揃える事は不可能だと思います)、
人間も同じで、その特異な物質の組み合わせでそれに随伴した意識だって
唯一無二の存在であっても何の不思議もないのかな?というのがこちらの主張ですね。
>>677 >そもそも脳内の状態が急激に変化した場合(雷に打たれて記憶が無くなるなど)、
>それ以後の私が以前の私と同じだとする根拠がありますかね?
>それは同じ私だと言えるのでしょうか?
結論から言いますと、他者がトレースする私という外在情報の集積である私は、
客観的に比較可能であるから、同じや違うまたは変わったという対象足り得ます。
しかし内的に自明である私は外的要因に拠らないが故に、外的要因や
時間・空間的な差異に拠る対象足り得ません。
(内的に自明な私は今、此処、現に、という在り方しかない)
誰にとって、何が同じである必要があるのでしょうか?
外在する情報(物質・記憶)の集積から得られるのは
他者が知り得る私であり、そういった情報が変異しても
変異に至った内容が妥当なものであれば、他者にとっての
私というものは納得がいくでしょう。
しかし自分であるということは、都度一回限りのものであり、
外在する情報は他者にとっての私であったことの痕跡に過ぎません。
記憶の消失を考えずとも、睡眠を挟んだ昨日の私と今日の私を
考えれば、昨日感じた自分であるということの自明性と
今私が感じている自明性には、現実性という点において
異なるものであることは明らかで、同一保持の関係にないものです。
680 :
659:2009/10/30(金) 14:53:04 O
>>679 えーと679さんの主張をもう一度確認しておきたいと思いますが、
679さんの主張(永井先生の主張も?)の<私>というのは、
つまりどんなに何をどう入れ替えても、根本にある
常にある特定の状況下で、世界を見、感じる主体というものは
それは常にオリジナルのものとしてあり、それは如何なる
状況を想定しても、どの様な原理により、その<私>が<私>になるのかの答えが出せない、
という事でよろしいでしょうか?
>>680 その認識はやはり一般化・客観化されたもので、
どこにでもある根源的始点という話にずれていると考えます。
まず永井さんの<私>を681である私が説明するというのは
二重にも三重にも困難なことで、それが可能であるとは
恐らく<私>の特性上言い難いとお伝えしておきます。
659さんの「私」の捉え方に疑問があり、<私>の前に、
その一般的な「私」の相互認識を押さえたいです。
こちらからも少し確認させてください。
659さんは現在のところ、
自分(前述から、私・自己・自我と呼んだもの)というものは
ある特定の分子構造に生じる意識であり、それは先天的要因
(遺伝子や物理法則)と後天的要因(環境や出来事)によって
流動的に変わるものであるが、時空間における連続性を保持した
ものでなければならない。
という見解なのでしょうか?
上記をもとに、
・自分であることの原因
物理法則に従う物質と体験や記憶の集合が必然的に生み出したものであるから。
・自分であることの唯一性
上記の集合体がどれ一つとして同じではないという経験的状況から。
と現在お考えなのでしょうか?
682 :
659:2009/11/03(火) 18:22:22 O
>>681 レス非常に遅くなりました。申し訳ありません。
>自分(前述から、私・自己・自我と呼んだもの)というものは
>ある特定の分子構造に生じる意識であり、それは先天的要因
>(遺伝子や物理法則)と後天的要因(環境や出来事)によって
>流動的に変わるものであるが、時空間における連続性を保持したものでなければならない。
おそらく時空間の認識(脱人格化された素朴な認識)というのは
最初の特異な物理条件からの発生から唯一のものとして生じ
そして仰られる通り、時空間における連続性を保持したものでなければ
やはり消滅してしまうのではないでしょうか?
つまりそれを前提に先の思考実験の例を考えると、例えば
コピーの例や、転送装置の例では、まったく同じ物質構成を作り出したとしても
現実的には、時間ゼロで転送やコピーする事は出来ないので
以前の私、つまり記憶や体験の要素はコピーや転送前のオリジナルの私と同一で
コピーや転送後の人間に上手く人格が生じたとしても
瞬間的には連続しえない部分がコピーや転送時に生じますので、その部分がオリジナルの私と相違点となり、
素朴な時空間を認識する、まさにこの視点での私とは異なるものになってしまうのかもしれません。
683 :
つづき:2009/11/03(火) 18:23:08 O
>合理性ではなく、それぞれの意識を同定する根拠が異なるので
>当然異なるはずです。なぜなら一回目のAが二回目のAに対して
>行う自分自身への同定は外的要素を用いる他ないからです。
これについては、初期段階でまったく同じ物質構成(発生段階で同じ)、
体感する時間・空間的要素も同じなので基本的には「私」レベルで同じだと考えています
(その後時空間の連続性も保持されれば)。
一回目の私と二回目の私という思惟で、何かそれぞれが「私」レベルで違うと錯覚しますが
これは時間・空間的認識の違いではなく、体験による記憶レベルの相違ですので
その程度の違いであるならば「私」は保持されていると思います。
例えば、今から僕がリンゴを食べてもナシを食べても、記憶がどちらになるにしても
僕自身が「私」レベルで変わらないのと一緒だと思います。
今のところ自分の「私」に対する考え方はこんなかんじです。
哲学的な観点からみれば、まだまだ稚拙な考察かもしれませんし、
論駁されるところもあるかもしれませんが、どうでしょうか?
>>682 >そして仰られる通り、時空間における連続性を保持したものでなければ
>やはり消滅してしまうのではないでしょうか?
意味がわかりません。682さんの連続性とは何を指しているのでしょうか。
連続性というものはある私における外的・内的事象への整合性ではないのでしょうか?
また整合が取れないからといって、質的に消滅する積極的根拠が見当たりません。
自分にとって、記憶や外見などの整合性よりも、その瞬間に感じるものや考えることが
何の連続を有していなくとも自分を内的に具象化しているのではないでしょうか?
やはり682さんは「自分」という現象に対して、
>>682-683からもわかるように
他者Aの「自分」と他者Bの「自分」における自分の成立根拠と成立妥当性や
成立可能性についてお話しているように感じます。
本来「自分」という言葉に両義性が生じるのは、
「他者にとっての自分」と「自分そのもの」であり、
この「外在する兆候の集合体」と「自明たる無根拠の私」の視点を
除外していては感覚、感情、思考の確実性や現実性という点における
決定的な差異を見出せないのではないでしょうか?
新刊出たのであげときます。
巻末に川上未映子との対談が付いています。
文庫版あとがきがないのがちょっと残念。
687 :
考える名無しさん:2009/11/10(火) 00:58:02 0
しかしその対談と『子どものための哲学対話』の文庫版あとがきと、
この二つのテーマが密接につながっていて、
倫理の根底に関して、新しい重要なことが言われているように思われる。
688 :
考える名無しさん:2009/11/10(火) 01:01:42 O
あすかにや(笑)
689 :
考える名無しさん:2009/11/10(火) 02:07:01 O
>>686 巻末対談、面白かった。
でも、面白いだけであんまし新味はなかった。
永井的発言にニヤリとはするけど、どっちかというと、
昔読んだニーチェ絡みの対談のほうに、
より永井的な道徳、倫理観が表れて面白かった気がする。
対談(誰とだったっけ…)自体は噛み合ってないんだけど、
そこがよかった気がする。
690 :
考える名無しさん:2009/11/10(火) 12:02:57 0
いや、新味があると思った。
腹話術のところも面白いがカントの逆転のところが新しい。
だから「ニーチェを超える問い」なんだろう。
あるいは、現実の方が追いついてきたということなのだろうか。
>>689 「なぜ人を殺してはいけないのか?」に入ってる対談?
この本も文庫になるんだっけ?
因みに、今度の文庫でカバーの後ろに宣伝されてる、ドゥルーズの「ニーチェと哲学」では、永井さんとは反対に、カントよりもニーチェを擁護していて、読み比べると面白いかも。
>>692 おまけつき文庫化するなら、いっそのこと
仕切りなおしの二回戦と合わせた二本立てで出して欲しい。
個人的には、むしろ「悪魔」について、さらに論じてほしい
利己主義・独我論と道徳との関係については、『倫理とは何か』などで詳しく論じられていると
思うけど、悪魔(してはいけないとされることを、そうされているという理由だけで、実行する人)の話は、
もちろん道徳とは離れるし、さらに普通の利己主義とも離れるので、『倫理とは何か』などでも
あまり論じられていなくて(『〈子ども〉のための哲学』にはちょっと出てきて、文庫版『子どもの
ための哲学対話』にはまたちょっと出てきた?)、詳しく論じられれば新しい話になると思うので
今回の対談は、悪魔をある程度論じている点で、まさに文庫版『〜対話』を補完してるのではないかと
悪魔について掘り下げても、今まで散々語られてきた、
すべきだということを、そうされているからというだけで実行する人たちの話から
進展があるようには思えないのですが、、、
理屈でつめれば、結局違いは裏表、
対象は同じコインでしかないのではないでしょうか。
余り哲学にも詳しくない私の意見です。
どなたか優しい方、反論をお願いします。
696 :
694:2009/11/11(水) 21:16:29 O
私も詳しくも何ともないですが…
天使(すべきことを、そうされているというだけで実行する人)の話も、永井は今まで
あまり詳しくは論じていないんじゃないかと
今までの議論の大枠は、私の頭に今入っているところだと、
1.利己的な動機で社会契約が結ばれる(だから本当は利己的な動機で契約を破ってもおかしくない)
2.しかし、全員が必ず契約を守るよう、社会が道徳的価値を祭り上げる
3.さらに、個々の人自身が、道徳的価値を重視することもありうる(そうなってしまうと、
「道徳的価値こそが私にとって重要だから、すべきことを実行する」という意味では、
利己的にも捉えられる)
この流れだと、天使とは、特に3.の利己的な面が違うのでは。
また、たんに利己的な人間ではなく、悪魔を考えると、
1.まず利己的ではない(「自分の利益だから」という理由で行動するわけではない)
2.悪魔を祭り上げる人が(普通は)いるはずもない
3.2がない以上、自身の心の中で悪魔的なものを重視する、なんてことも起こりそうにない
と、単純に裏返せるものかわからない。
697 :
694:2009/11/11(水) 21:20:57 O
なんか無駄に長くなってしまったが、言いたかったのは、
天使も悪魔も利己的ではないのではないか。よって、今までの利己主義的な議論には、
あまり乗っかっていないのではないか。
ということです。
>>696-697 レス有難うございます。
なんだか根本的なところから読み違いをしている気がしてきました。
ここしばらく永井さんの本から遠ざかっていたので、
うろ覚えになっているせいかも、、、
ニーチェ関連で一通り読み直してみます。
天使、悪魔について余り論じないのは、
そもそも天使、悪魔が議論上ですら存在しづらいからでは?
利己主義から離れた行動なんかを突き詰めると、
自由意思の問題とか、面倒なのが芋蔓式にでてきて、
議論の元になる天使、悪魔の定義そのものが、
不安定になると思う。
↑イミフメイ
『西田幾多郎』での、他者の成立と言語の成立の同時性とか、「汝は神のごとく私の底から働く」など、かなりレヴィナスの倫理学的思考への接近を感じる。
それと、この本の98頁の図と、『なぜ人を殺してはならないのか?』第二章の終りの方で説明されている「『殺してはならない』という規範の(超規範的)存在可能性」の構造が似ている。
そこで思ったのは、『西田幾多郎』の「汝が私を殺すことによって私は私として生まれる」は永井さん的な倫理的規範とはなりえないのか、ということ。レヴィナスの「顔」の概念のように。
『道徳は復讐である』の対談を読んだ感触では、永井さんが倫理を語る土俵にはまだ「汝」が上げられていない印象を受けたんですが・・・。
レヴィナスは「存在論は根源的か」で、カントの実践哲学への親近感を述べてもいる。その辺から議論を出発させることは出来ないのかな、と。
すいません、「98頁の図」は93頁の誤りでした。
因みに僕は特別レヴィナスに傾倒している訳ではなく、あくまで一つの参照項ということで。
キリスト教の勉強もしないで、天使や悪魔の概念を的確に使用するのは無理。
永井の言う悪魔天使に宗教は本質的には関わりないんじゃ?
悪魔なのか天使なのか、その判断基準はキリスト教を超えた、
普遍的でアプリオリな善悪じゃないの?
705 :
考える名無しさん:2009/11/15(日) 10:58:42 0
というか、単純にカント的な基準なのでは?
『道徳は復讐である』98頁で「悪徳フェティシズム」とカントに絡めてサドの名が出てくるのは、ラカンの『精神分析の倫理』に示唆されてのものなんだろうか。
ジジェクの『否定的なもののもとへの滞留』によると、カント的主体は、自身の倫理的行為が道徳と一致していたとしても、純粋に道徳そのもののために為したのではなく、何かパトロギッシュな理由が隠れているのではという疑惑に、永遠に苦しめられると言っている。
これを逆に考えれば、純粋に道徳法則に逆らうことだけを目指す悪魔であることも困難だということになる。
ジジェクは、カント的主体が自らの道徳的適法性を確信した場合の極端な例としてサド的倒錯を位置づけているので(自分は他者の望みに適っているという確信による暴力性)、永井さん的悪魔とはまた違う話になるんですが。
なに小難しいこと言ってんだ?ここのオッサン達は
708 :
考える名無しさん:2009/11/23(月) 11:02:36 0
707は文学板の川上スレから覗きに来たガキの落書き
『西田幾多郎』47・65頁の「力と構造」(意図的に浅田彰の著作名と逆順にしているような)は、ニーチェ的「力」の概念と重ねられないものか。
ニーチェがその影響下にあるシューペンハウアーは、「力」の概念(物理的なそれを含む)を「意志」に吸収し、意志は主客未分、認識されたものとするものとが一体であると言っている。
ニーチェのディオニュソス的祝祭性は、西田的に言えば、私と汝が成立する場としての根底を活性化させることとして捉えられるのでは。
そう考えれば、超越論哲学から見れば「力への意志」などというものを根底に想定するのは哲学的に幼稚だ、という批判はそのまま当たるとは言えない気もします。
『マンガは哲学する』で批判的に引用されていた四コマの作者さんが、ブログに反論を載せているのをさっき発見しました。
ttp://uaa-nikki.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-c3e1.html この話、もし既出だったらすみません。
反論の、「駆け出しの頃の作品で評価されても」「他のも読んでよ」という点ですが、
永井さんの引用は、「哲学的感度の持ち主も、哲学を本格的に学ぶことでそれを殺してしまうことが多い」という話に引っかけてのものだったから、後の作品が良くなっているとは考え難いと思ったのかも。
ただ、「マンガで哲学するのではなく、マンガを哲学することを狙って描いたもの」という反論も、これはこれで尤もな面もある。
ところで、この本の文庫版に、「この本によって<私>の概念化に成功した」と書いてありますけど、
その辺は『私・今・そして神』140ページの「文」と「絵」の話と何か関係ありそう。
>>710、思いっきり間違えた。
「マンガを哲学する」→「哲学をマンガにする」
この人の本で入門書的なものではなくて濃密な思考が味わえるのを3、4冊選ぶとしたらどれになりますか?
「翔太と猫のインサイトの夏休み」
「転校生とブラック・ジャック」
「私、今、そして神」
「なぜ意識は実在しないのか」
アマゾンのレビューを参考にしてここら辺かなあと思ったんですがどうでしょう?
>>712 その4冊に加えて、永井流独我論の倫理面への応用ということで
『倫理とは何か』(産業図書)も読んでみたらいいと思う。
その4冊+1冊がいいんじゃないですかね
ただ、個人的に『転校生とブラック・ジャック』は省いてもいいのかもしれない
あと、ついでだけど『これがニーチェだ』『ウィトゲンシュタイン入門』『西田幾多郎』あたりが
手軽で簡単というわけでもないと思うので
『これがニーチェだ』に対しては「これはニーチェじゃない」という批判の矢が結構飛んでいるようですが、それを踏まえて読めば、自分で吟味して読む訓練になるのでは。
それなりにニーチェを読んでいることが前提になりますが。他の入門書については、ウィトゲンシュタインや西田の読み手はどう読んでるんでしょうね。
一見すると最も手軽に見える『マンガは哲学する』も、実は永井さん本人にとってはターニングポイントになった重要な本のよう。
そこを見極めるつもりで読むのもいいと思います。
『転校生とブラック・ジャック』どっかの文庫に入らんかな。
高いんだよなこの本。
ブックオフでも見たことないし。『夏休み』と『コウモリ』は時々見かけるんだけど。
717 :
考える名無しさん:2009/12/01(火) 22:03:26 0
>ただ、個人的に『転校生とブラック・ジャック』は省いてもいいのかもしれない
反対だ。
「入門書的なものではなくて濃密な思考が味わえる」というのを厳密に受け取るなら、
省いていいのは入門書である「翔太と猫のインサイトの夏休み」だろう。
「転校生とブラック・ジャック」は是非とも入れたい。
これと「私、今、そして神」につながるのは「西田幾多郎」で、
その前段階に位置するのが「マンガは哲学する」だ。
そして現在のところ、
「私・今・そして神」の第二章が最高の水準に示していると思う。
「なぜ意識は実在しないのか」と「倫理とは何か」は、
それぞれ「意識」「倫理」という応用問題を解いているように見える。
永井は面白いけど、数学や物理の素養が無さ過ぎるのが、致命的な欠点。
『これがニーチェだ』は引用文だけはよかったよ
あとはクズだったが
720 :
考える名無しさん:2009/12/04(金) 00:19:34 0
いやいや、引用文がいいのはじゅうぶん価値がある
他のニーチェ本はなぜか引用文さえも駄目だからw
「座右のニーチェ」の悪口は…
クロソウスキーの「ニーチェと悪循環」は引用も本文もいいよ。
クロソウスキーはニーチェとウィトゲンシュタインの翻訳もしている。
彼のものなんかと読み比べると、永井さんは差異・強度を殆ど考慮していないんだろうなと感じる。
723 :
考える名無しさん:2009/12/04(金) 09:45:59 0
クロソウスキーの「ニーチェと悪循環」も
(もう一つ、題は忘れたけど別の本も)
俺には本文も引用文もちっとも面白くなかったぞ
まあドゥルーズよりはましだったけど
よえええええええ
「ニーチェと悪循環」の引用の仕方は、ニーチェに陰謀家めいた雰囲気を与えていて面白いと思う。
本文は、ニーチェを妄想家に描いている感じだけど。
そういえば、クロがニーチェとサドを同列に論じている事について、遠藤周作がどこかで疑問を呈していたような・・・。
まぁ、ドゥルーズにせよクロにせよ、永井さんのニーチェ論よりはましだろう。
ニーチェは、そのままで十分楽しめるから、解説本とかいらんだろ。
727 :
考える名無しさん:2009/12/05(土) 10:02:34 0
>>725 いや(そこにハイデガーやバタイユを加えても)比較不可能だろう
それぞれの哲学的課題がまるっきり違っていて
それぞれ自分の観点から(勝手に?)ニーチェを読んでいるから
個人的には永井のいいところは他の人々と違ってニーチェの道徳批判を額面通りに受け取っているところ
個人的にはドゥルーズがいちばんつまらなかった
>>726 というわけで
ニーチェのある側面が異様に重視されて
さらにそこから(勝手に)展開している本は
自分にぴったりくれば物凄く(つまりナマのニーチェ以上に)おもしろいことがある
728 :
1月刊行予定:2009/12/05(土) 13:37:58 0
河出文庫 『なぜ人を殺してはいけないのか?』 永井 均 著 小泉義之 著
>>728 このタイトル刺激的だから売れるかもな。
だがこれの単行本を読んだ限りでは、小泉さんのレヴィナス観って、永井さんのニーチェ観以上に我田引水的。
『私・今・そして神』の最初の方に、デカルトが『省察』で、自我の存在証明に続いて神の存在証明を行なった理由が書かれてあるが、これの方がレヴィナスの論理と近いかも。
永井均は妻子いるんだろ?
妻子も自分の一部で人間の姿をした幻影とと思ってるんだろうか
731 :
考える名無しさん:2009/12/05(土) 21:59:20 0
永井は一般に他人はごくふつうに(意識をもって)実在すると考えている。
どの本でもはっきりとそう言っている。
独在性の問題はいわゆる独我論とはまったく別の問題。
というより、
いわゆる独我論は独在性問題の誤解によって生じたというのが永井説だろう。
独在性という語で何が言いたいのかさっぱりわかりません
733 :
考える名無しさん:2009/12/05(土) 22:30:33 0
そりゃ読まなきゃわからんよ
読んでもわからないと思うけどな
書いてる本人も訳わからなくなってるからw
「人間の姿をした幻影」って何だ?
ちゃんと説明するか、ちゃんと永井の本を読むか、少なくともどっちかをしろよな
独我論は、自分の世界以外が無いんだから、そもそも語る意味が無いし、語るべきでもない。
語る意味があり、かつ語れるものであるためには、独我論ではなく独在論と名付けた、違うものである必要があるってことだと思う。
737 :
考える名無しさん:2009/12/06(日) 11:22:40 0
ぜんぜん違う。
その種の認識論的議論とはそもそもの始めからまったく関係ない。
独在論では自分以外の心も自分以外の世界も始めからちゃんと普通に存在する。
むしろその一般的な「自分」という概念の成立こそが問題なのだ。
そこに不可避的な二義性が生じるところから問題が始まるのだ。
最初から存在論的ー意味論的な議論だろう。
738 :
考える名無しさん:2009/12/06(日) 16:08:29 0
『道徳は復讐である』って『ルサンチマンの哲学』から増補されてたりするの?
川上未映子との対談が増えただけかな。
「道徳の系譜」はシリーズとして集めてるから、できれば「道徳の系譜」版で読みたい。
>>737 「ぜんぜん違う」わけではないだろ。
独我論という、閉鎖的固有性から脱して、公的に論ずる意義のあるものにするために
独在性という概念、いわば開放的固有性を導入した。
って話なら、共有部分がある。
740 :
考える名無しさん:2009/12/06(日) 18:45:47 0
だから、そんな話ではないから「共有部分」は全くない。
したがって、「ぜんぜん違う」。
>>738 以前単行本として刊行されたもので対談は語りおろし、という説明書きなので、
他に追加はないと思う。多分。
742 :
考える名無しさん:2009/12/06(日) 21:06:40 0
その通りだが、
その対談が意外と中味があって面白いんだ。
とくにカントについてのところなんか。
これまで聞いたことがない内容が読めて。
743 :
考える名無しさん:2009/12/06(日) 23:57:49 0
>>741 どうも。
それなら「道徳の系譜」にしとく。
>>742 立ち読みしてみたんだが、カントについて聞いたことがない内容って何だ?
744 :
考える名無しさん:2009/12/07(月) 10:47:35 0
>>740 「違うんだー、ボクちゃんのが偉いんだー」といってるようにしか思えないよ
はたからみたら
747 :
考える名無しさん:2009/12/07(月) 22:45:16 0
>>744 偉くもなんともない。ただ単純に「違う」だけ。
たとえば男と女は違うと言ったとき、
どちらかが「偉い」と言っているわけではないように、
ただ「違う」だけのこと。
>>747 おまえの理解がおかしいんだろ。
永井は、「独我論者同士で接点を持つことは奇妙なこと」で
そのような消去的な独我論は放棄して、付加的なものを独在性と呼ぶと言ってる。
独我論ってのは、他者に向かって語るに値しない論だから、ダメなんだよ。
他者に向かって語るなら、別のものでないと。
749 :
考える名無しさん:2009/12/08(火) 00:41:36 0
だから、そもそも「独我論」じゃないんだよ。
そして、ふつうの認識論的な独我論もまたとくに「駄目」ということはない。
そういう独我論者どうしが議論しあうこともじゅうぶん可能で哲学的には有意義なことだ。
しかしそれは存在論的な独在性の問題とは無関係だ。
そもそも独在性は「我」とか「私」(つまり人称)だけに固有の問題ではなく、
「今」(時制)でも「現実」(様相)でも成り立つ普遍的な問題だからね。
時制の場合はマクタガートのパラドクスという形で現れるのはご存知のとおり。
まさか、ご本人?
独我論を語っていること自体が独我論を否定していることに気づいてないんだよな
752 :
749:2009/12/08(火) 10:41:00 0
>>750 光栄です
>>751 だから、独在性の問題はそもそも「独我論」なんぞとはぜんぜん 無 関 係 なの!
『西田幾多郎』で、日本語における主語の省略と西田の論理を関係づけるのって、下村寅太郎が言ってたことなんだな。
中公の「日本の名著・西田幾多郎」についてる付録の小冊子に下村が書いていた。
まぁ、永井さんの方がより詳細に論じてはいるんだが、下村の名くらいは出しておけば良かった気がする。
754 :
考える名無しさん:2009/12/08(火) 17:57:45 0
てか、だれでも言ってない?
こいつのいう独在論は素朴観念論そのまんま
756 :
考える名無しさん:2009/12/08(火) 21:47:23 0
「独在性」の問題が時制の場合には「マクタガートのパラドクス」という形で現れる、
とはどういうことですか?
また、それはどこに書かれていることですか?
そして、様相の場合は?
757 :
考える名無しさん:2009/12/08(火) 22:05:05 0
永井の言う「心理的」の意味がわからない。「私は「意識の存在はじつに不思議だ」と語る
他人の発言を「心理的」な水準でしか受け取ることができません」とはどういうことだろうか。
「感じる」や、「現象的」に「心理的/現象的」のニ通りの意味なんてないと思う。
永井はチャーマーズの言う「心理的/現象的」を、自身の哲学的テーマである「自己と他者の
根源的違い」に勝手に置き換えてしまっているだけなのではないか。
758 :
757:2009/12/08(火) 23:17:04 0
もし、全面的ゾンビでない痛みゾンビというものが存在するとしたら、それは同時二重人格
と言うべきではないか。
759 :
757:2009/12/08(火) 23:23:18 0
そしてそれは、他人からは決して発覚することはない。したがって、彼は現象的痛みを
持っているとみなされる。
760 :
考える名無しさん:2009/12/08(火) 23:46:06 0
>>756 代表的なのは『私・今・そして神』の第二章の全体(とりわけ8節以降)。
様相についても同じ。
>>757 チャーマーズの言う「心理的/現象的」の対比は源泉をたどれば自己と他者の差異に由来するしかない。
彼自身が(邦訳252頁等で)そのこと暗に認めているように。
事柄としても、そもそもそれ以外の可能性が考えられるだろうか?
>>757 「痛みゾンビ」は全く普通の一重人格者だろう。
「二重」の二つ目はどこにいる?
761 :
757:2009/12/09(水) 00:43:24 0
>>760 >「心理的/現象的」の対比は源泉をたどれば自己と他者の差異に由来するしかない。
「心理的」なものは純粋に自己の中にも認められる。例えば、脳科学がミラーニューロンの発見を
報告すれば、私は「ああそういうことだったのか」と自身の中にある心理的なものを納得する。
> 「痛みゾンビ」は全く普通の一重人格者だろう。
>「二重」の二つ目はどこにいる?
「痛い」と発言するのは、痛みゾンビ主体にとっては他者。痛みゾンビの身体は定義によって痛みの
微妙なニュアンスについても語れるのだから、そんなことをしているのは痛みゾンビ主体にとっては
他者と感じざるをえないでしょう。その他者は、人格とは言えないかもしれないが、痛みを感じる
だけの他者。私の言っていることはちょっと変かもしれないが、そもそも痛みゾンビという設定が
無理があるのだと思う。(「〈私〉のメタフィジックス」45頁にあるZ氏の想定とそっくり)
762 :
757:2009/12/09(水) 00:48:33 0
痛みゾンビ主体は、「心理的な痛み」すらも感じてないと私は考える。
763 :
考える名無しさん:2009/12/09(水) 01:45:02 0
>>761 「心理的」なものは純粋に自己の中にも認められるのは、
「自分」が物理的な身体を持つ以上、自明なことではないだろうか。
それが、「心理的/現象的」の対比は源泉をたどれば自己と他者の差異に由来するしかない、
という論点とどう関係するのかわからない。「源泉」までたどっていないように思われるが。
後半は納得した。「痛みゾンビ」ということで違うものを考えていたが、そういうものなら、
別に「変」ではないように思う。むしろ、その他者は問題なく「人格」と言えるように思われるが。
それどころか、永井的に言えば、そもそも「他者の人格」とはそういうものなのではないだろうか。
したがって、そのケースと同時二重人格のケースとの差異は端的に「ない」というべきだろう。
>>762 は、主体を二つに分けた以上(それを前提にすれば)自明と思われる。
もっとも、その前提を共有していない他の人々の観点からは、
「痛み」を感じていると「される」だろうから、
「心理的な痛み」が帰属されていることになるだろうけど。
764 :
考える名無しさん:2009/12/09(水) 10:20:10 0
そっちは痛みしか「感じ」ないんなら「人格」とは言えないんでは?
こういう場合に他者性と「ゾンビ」性が一致してしまう(⇒「ゾンビ」概念の源泉が他者性にある)
という点ではその通りだろうけれど……
どんなものが「人格」と呼べるか、となってくると、また、私と他者という全く異なるものが
同じ「人間」とか「個人」とされ、誰にでも当てはまる「人格の同一性」というような議論がなされ…
という別の問題(いや同じ問題?)が出てきて、ますますややこしくなりますかね。
私がたまたま痛みしか感じなくなり、さらに声を出したり体を動かしたりできなくなり、おまけに
私の感覚や意志と関係なく、別人格のようなものが私の体を動かすようになったとして(上の議論とずれるけど)、
だからといって、私が存在しないというわけではない、と、とりあえず言いたい。
しかし、そうであるとすれば、同じことは他者にも当てはまり、そのような他者も存在し得るのではないか。
あるいは逆に、私が存在するかどうかだって、ちゃんと感覚があって体を動かせて…という
一般的な基準によらざるを得ないのではないか。
(何か違ったらすいません)
766 :
757:2009/12/10(木) 00:10:21 0
>>763 >「心理的/現象的」の対比は源泉をたどれば自己と他者の差異に由来するしかない
まだ考えがまとまってないので、簡単に書くしかないが、私の考えでは「心理的/現象的」
とは「説明のしかた」に関係した概念なのだと思う。「痛い」という発言を「痛み」という体験で説明
したなら「現象的なもので説明した」ということであり、物理的因果性で説明したなら
「心理的に説明した」ということになる。ゾンビであるというということは、ひとりの人間の
振る舞いをすべて物理的因果性によるものにすぎないとみなすということで、つまり「ゾンビで
あるとみなすということ。だから、自分がゾンビであることも可能ということは、自分自身を
ゾンビであるとみなすことも可能ということにすぎない。永井は96頁でゾンビも痛みを
感じるかのように説明しているが、これは通常のゾンビ概念から逸脱しすぎのように思える。
チャーマーズは、意識が自然的に付随して、ゾンビであるかないかは実体的に決まっている
と信じていたから「なぜ意識」103頁のような変なことを書いてしまったが、それに
対する永井の批評は適切だっただろうか。
そもそも、ゾンビってのは、心身2元論が前提となってるんですね。
心身2元論が正しいかどうかもわかっていないのに、ゾンビなるものを措定しても意味が無いんです。
仮に、心身が1元的なものであれば、ゾンビなんて存在し得ないんですよ。
768 :
考える名無しさん:2009/12/10(木) 22:49:48 0
「なぜ意識は実在しないのか」を読めば心身が一元的であることが間違っていること
(すなわち、意識は物理的なものに論理的に付随しないこと)がわかるよ。
永井的にはそうなのかもしれないけど、現在はどちらかというと1元論が優勢(自然科学からの見地が主となるが)。
ただ、どちらが正しいか、完全に決着が付いているわけではない。
そもそも、「論理」なるものも、未だ完全には解明されていない人間が作り上げたものである以上
その論理に裁定させたことが、「完全に正しい」という根拠は論理によっては得られない。
770 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 00:40:16 0
>どちらが正しいか、完全に決着が付いているわけではない。
などと他人事にように語っているということで、あなたの哲学的センスがないことが
示されている。あなた自身はどう考えるの?
>>770 俺は1元論派だから、ゾンビは妄想の類だと思っている。
また1元論派であるからこそ、「俺がどう考えるか」と「事実がどうであるか」が一致しないことも
十分あり得ることである。
772 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 01:11:12 0
>「俺がどう考えるか」と「事実がどうであるか」が一致しないことも十分あり得ることである。
と一元論とどう関係あるの?
>>772 2元論だと、「考える主体」が肉体と別に存在するわけだろ。
1元論だと、「考える主体」が肉体と別に存在するわけではないから
「肉体とは別の考える主体、による世界」以外の世界が存在するのは、「当然」という位置付けになる。
何しろ、「肉体とは別の考える主体、による世界」という考えは、破棄されているのだから。
そこでは、「肉体とは別の考える主体、による世界」の優位性は、「自己の固有性」程度にはあるにせよ
2元論者ほど高いものではなく、「他者の世界によって示される事実」によって、その優位性は容易に転倒する。
簡単にまとめると、1元論者においては、「世界を構成している自己の<意識>」の優位性が、極めて低い(場合によっては無い)ということ。
だからこそ、自然科学者の多くが1元論者になるのかもね。
すまん、やっつけでまとめてるうちに、何かちょっとおかしい感じになってしまったな。
「肉体とは別の考える主体、による世界」という考えが破棄されているのに、優位性もクソも無いな。
悪いが、とりあえず
>>773は「無し」ってことで。
775 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 03:00:14 0
やくそくはない
そもそも永井がどこで「一元論か二元論か」なんて話をしてるの?
『なぜ意識〜』でそんな話をしてるとは思えないが
777 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 12:10:41 0
すなわち、意識は物理的なものに論理的に付随しないこと
>>776 二元論を前提にものを考えているなら、「一元論か二元論か?」なんて話はしないでしょ。
779 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 17:55:10 0
「二元論を前提に」どころか、そもそも
「一元論か二元論か?」なんて問題設定自体を否定している本でしょ?
どう読んだって。
冒頭で一般的な「意識」なんてものも一般的な「物」なんてものもない
と言っているし。
あるのは、「自−他」の累進構造だけなんでしょう?
780 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 20:36:59 0
「他者においても現象的と心理的の対比が成り立つことを、彼はなぜすでに知っているのでしょうか」(52頁)
などということが言えるならば、
なぜ永井は「誰でもが自分自身を内省して「私にはたしかに意識がある。しかし他者にもこのようなものが
あるのだろうか?」と問えるのです」(82頁)ということを知っているのでしょうか、
とも言える。
つまり、チャーマーズは「心理的/現象的」を超越論的概念としていて、永井は「累進構造」を超越論的概念
としているだけなのではないか。
なんてことを思いついたけど、そのことは155頁で「累進構造も累進する」とはっきり言ってるな。
> 「誰でもが自分自身を内省して「私にはたしかに意識がある。しかし他者にもこのようなものが
> あるのだろうか?」と問えるのです」
というか、見当識があることは本人でもまわりの人間でも確かめられるってことだろ。
永井先生は何が言いたいのやら。
>>715 あの本の題名は『これが(私にとっての)ニーチェだ』という意味だと思うから、
「こんなのニーチェじゃない」という批判はちょっと的外れじゃないかな。
783 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 22:24:29 0
>>781 あなたの言っている「見当識」は永井の言う「意識」ではありません。
永井に言わせれば、あなたは意識がないということになるのかもしれません。
785 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 22:32:20 0
>>784 「なぜ意識は実在しないのか」を読んで理解できないなら、あなたには意識がないという
ことになるんじゃないでしょうか。
787 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 22:37:23 0
「誰でもが自分自身を内省して「私にはたしかに意識がある。しかし他者にもこのようなものが
あるのだろうか?」と問えるのです」
の「誰でも」が意識主体。
引用文を読むかぎり、その「誰でも」は内省という行為の主体ですね
それが永井先生の意識の定義ですか
789 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 22:41:55 0
そうです
行為の主体というけど、実際には動作の主体と言っていいわけです
本当に動作の主体ということで、永井先生は意識を定義しておられる?
ちょっとしつこいけど、突っ込んで聞きたい
791 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 22:47:07 0
内省って動作なんですか。
わかりました
あくまで”内省”という行為の主体だと
793 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 22:48:31 0
ちがいます。
「意識」もゲームの中の一つの駒なので定義など不可能なのです。
「俺は/あいつは、さっき意識を失ってたけど今は意識を回復した」
と正当に語りうるというような
「意識ゲーム」に参加できるということ以外に、
「意識」の「定義」などありえないし、不可能なのです。
そういう点では、完全にウィトゲンシュタインの徒でしょう。
読まないで質問ばかりするのもどうかと思うが、それはまだしも、
ろくに読んでもいないくせに読んだふりして勝手なこと言うのはやめろ
何考えてんだ
「なぜ意識は実在しないのか」という雑書のほうは読んでいないが、「<魂>に対する態度」という論文集なら読んでるよ
797 :
789:2009/12/11(金) 22:57:43 0
>>793 私は「このようにして、一般的なゾンビに想定が可能になることによって、一般的な「意識」もまた
成立します」(84頁)の話をしているのです。
>>794 確かに、「意識ゲーム」ってのは酷過ぎるな。
ゲームを成立せしむるものまでも、ゲームにしてしまうなんて。
言語がゲームたりうるのは、言語を成立せしむるものがあるからだろうに。
799 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 23:06:30 0
>>797 そういう断片的な引用をしても無駄だ。
その理由は「はじめに」にはっきり書いてある。
たった3ページなんだから熟読せよ。
ある段階に一見「定義」のようなことが書かれていたとしても、
それは常にその段階における暫定的なものなのだ。
そして、暫定的でない「絶対知」はどこまでも逃れていくからこそ「累進的」なのだろう。
800 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 23:08:13 0
>言語がゲームたりうるのは、言語を成立せしむるものがあるからだろうに。
それこそまさにウィトゲンシュタインが否定した当の物だよ。
俺は「<魂>に対する態度」という論文集を2500円も出して買った
いくつかの論文を繰り返し読んだが、この先生の言うことは悪いけど議論になっていない
ほほう、と唸る考察一つない
説得力がない
こういう点をマジに考えてほしい、と思う
804 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 23:20:33 0
今どき「<魂>に対する態度」なんて話にもならない
古すぎ
永井先生の真実は古びるんだ
806 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 23:24:15 0
>>802 もちろん『哲学探究』で。
言語を「成立せしむる」ものなどはどこにもなく、
言語ゲームがただいきなり〈無根拠に〉ある、
というように。
カントの「純粋理性批判」は古びず、ヘーゲルの「精神現象学」は古びないけど、永井先生の「<魂>に対する態度」は古びる
そう理解していいんだな?
809 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 23:32:24 0
>>807 そうではない。
たとえば「純粋理性批判」が問題になっているときに、
前批判期の論文を引き合いだしたらそれは「古い」という意味だ。
批判期には批判期の固有の議論があってそれが問題になっている場面では。
そんなつまらん煽りをして楽しい?
『〈魂〉に対する態度』は、はしがきで、役割を果たして使い捨てられた論文を集めたものと
永井自身が明記してるようなものなんだが
811 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 23:38:20 0
810は誰に言っているの?
>>810 たしかに「はしがき」には「ここに収録した論文の多くは、私にとって、すでにその役割を果たし、使い捨てられたものである」とあるが、この部分を文字通りとる人がいるの?
「議論の喚起」という役目を終えたと本気で思ってる論文を出版するとは思えないんだが?
一般読者のあいだで「議論の喚起」を期待して出版してるはず
814 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 23:50:11 0
『〈魂〉に対する態度』しか読んでない人のことは無視して、話をもとに戻したほうがいいと思うよ。
>>806 それは「言語ゲーム」だろ。
ウィトゲンシュタインが、「意識ゲーム」みたいなトンデモ概念を、認めるはずがない。
816 :
考える名無しさん:2009/12/11(金) 23:58:48 0
「意識ゲーム」とは、
「意識」という語の使い方に関する「言語ゲーム」のこと。
概念、言葉の使い方が滅茶苦茶。
ウィトゲンシュタイン読んでて、よくそんな滅茶苦茶ができるな。
818 :
考える名無しさん:2009/12/12(土) 00:06:56 0
「意識」という語の使い方に関する「言語ゲーム」の以外のどこにも「意識」など存在しない、
というのは一面の真理で、
後期ウィトゲンシュタインがまさにその方向で考えていることも確かだろう。
しかし、永井はそうは考えていないだろう?
むしろその点でははっきりウィトゲンシュタインに反対しているように読めるが…
「意識ゲーム」を批判するにあたって、「意識」を「言語ゲームを成立せしむるもの」としたら
「それこそまさにウィトゲンシュタインが否定した当の物」というレスが返ってきては
何が何だか、わけがわからんのだが。
否定した当の物でゲーム?
>>782 その点は永井さん自身が明記してるから確かにそうなんだが、「ニーチェは」云々という語り口で論じている以上は言われても仕方ないのでは。
『西田幾多郎』の最初に書いてある「じつは西田の核心ではなく私(永井)の核心なのかもしれない」という意味での永井さんの核心はニーチェ論に色濃く出ていると思う。
俺としては永井さんには、柄谷さんの『内省と遡行』に書かれてあるニーチェ像を参照してもらいたいところなんだが・・・。
821 :
789:2009/12/13(日) 22:17:02 0
>>799 暫定的なことは私にも初めからわかっているよ。
読みもしないで「意識の定義」などとアホな質問をする方が悪い。
人のせいにするな
お前がアホなんだろ
823 :
789:2009/12/13(日) 22:37:21 0
どのようにアホなのかを説明してもらえなければ納得できません。
読んでもないのに質問するのは多少は失礼かもしれんが、アホとは言わないね
読んだくせに正しく答えられないお前がアホなんだよ
自分のあたまで考えずにただ本を読んでるのがまる分かり
825 :
考える名無しさん:2009/12/13(日) 22:41:02 0
だから、わかったことを説明してください。
意識をウィトゲンシュタインがどう言ってるか、永井がどう言ってるか
そんなことを文献学者みたいにフォローするより、いちど意識ということばを世間一般でどういう意味で使うのが多いのか、分析すべし
827 :
789:2009/12/13(日) 22:49:44 0
私は「なぜ意識は実在しないのか」の話をしているのですが。
その本をきっちり批判するためにそうするのだよ
829 :
考える名無しさん:2009/12/13(日) 22:57:04 0
それよりまず読まないとねw
830 :
789:2009/12/13(日) 23:21:26 0
>>829のようなことを書いて、永井を偶像化させようとする奴がこのスレには多いな。
とはいえ、永井スレだから、批判するためにも読む必要があるだろ。
832 :
789:2009/12/14(月) 00:00:02 0
読んでいるか読んでいないかはどのようにしてわかるのでしょうか。
833 :
考える名無しさん:2009/12/14(月) 00:07:19 0
むしろ偶像化なら読まなくてもできるな。
834 :
考える名無しさん:2009/12/14(月) 00:18:23 0
>>832 学術論文などで厳しく言われるのは、言及するときの文献とそのページの明記。
当該箇所をしっかり引用しながら論じればなおよい。
そうすれば少なくともその箇所は読んでることは間違いないから。
そうしたらどうか?
835 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 10:01:55 0
81-82頁では「他者に「このような」ものはないのです。だからこそ、他者なのです」としているが、
一般的な「意識」が成立し、101-102頁では「私が「他人にもこれがあるのか?」と自問したとき、
正しい答えは「その問いが客観的・公的な意味を持ちうるかぎり、私にもそれはもうない」でしょう」
としている。しかし、それは、他者も同じことを考えると永井が考えているから、つまり、永井が「他者」を
そのように定義したからに過ぎないだろう。しかし、「他者」とは、他の「私」だけではなく、犬や
イルカも「他者」である。人によっては、妖怪や神や死者も「他者」である。私は、「他の「私」」などという
抽象的なお話よりも、犬やイルカも持っているに違いない「意識」のほうに興味がある。「意識」の
第0次内包とは、〈これ〉ではなく、「これは意識を持っている、と私が思っていること」と私は考える。
(「赤さ」の第0次内包が「これは赤さを持っている、と私が感じていること」であるように)。
>>793 >「俺は/あいつは、さっき意識を失ってたけど今は意識を回復した」
>と正当に語りうるというような
>「意識ゲーム」に参加できるということ以外に、
>「意識」の「定義」などありえないし、不可能なのです。
793さんは、犬に意識はあると思ってますか?
「第一次内包は、あらかじめ第0次内包を包み込んで、それを補完している、とも言えますが、逆に、
第0次内包が、あらかじめ第一次内包を裏打ちして、それを補完している、とも言えるのです」
836 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 11:45:53 0
>他者も同じことを考えると永井が考えているから、つまり、永井が「他者」を
そのように定義したからに過ぎないだろう。
これは違うだろう。他者にも私にも同じ(公的)言語が適用されざるをえないから、だろう。
永井の恣意の問題ではなく、言語的事実で、今度はそこから出発せざるを得ないといことだろう。
>犬やイルカも「他者」である。
これは「他者」の定義によるが、永井がそう考えているとは思えない。(レヴィナスなどははっきり否定しているし)。
>人によっては、妖怪や神や死者も「他者」である。
むしろこちらの方が問題がないはずだ。そしてもちろんゾンビも、というところがポイントだろう。
>私は、「他の「私」」などという抽象的なお話よりも、犬やイルカも持っているに違いない「意識」のほうに興味がある。
それはここで問題になっている「他者」の問題とは直接は関係しないだろう。
むしろかえってより高次の構成態ということになるだろう。
>「意識」の第0次内包とは、〈これ〉ではなく、「これは意識を持っている、と私が思っていること」。
>(「赤さ」の第0次内包が「これは赤さを持っている、と私が感じていること」であるように)。
しかしまさに、その「私」とは? という点からこそ問題が開始するのでは?(永井的には)
837 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 15:12:02 0
>>836 >これは違うだろう。他者にも私にも同じ(公的)言語が適用されざるをえないから、だろう。
その「公的言語」ってなんですか。あなたは、あなたの「公的言語」の第0次内包しか知らない
わけでしょう。人は自分の第0次内包から出ることはできないのだから、その限りで永井の
言っていることは正しいと思うけど、他の第0次内包がある(と信じる)ということが「他者」
ということの本質じゃないの?
他人たちが意識を持つ存在である、という直観は「他人も、お前と同じように意識を持つんだよ」
と教わることに起源があるのではないと思う。もともと、非言語的に他人を観察して、そのように
直観しているから、その言葉を理解できるのだと思う。
838 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 19:06:44 0
>>837 >あなたは、あなたの「公的言語」の第0次内包しか知らないわけでしょう。
とんでもない。第一次内包も(場合によっては第二次内包も)知っている。
第0次には第一次の後から到達するのだから、これは自明のことでは?
>人は自分の第0次内包から出ることはできないのだから、
この言い方の前半もまた、上とは別の誤りを犯しているように思う。
これではすでに「人」の「自分」という一般論になっているから
永井的には「真に第0次的ではない」ことになるだろう。
概して837さんの意見は、普通の独我論的感覚を持つ人によくある「一般化された認識論的独我論」で、
それはそれで根拠のあるものだとは思うが、永井的問題とは根本的に違う。
また、後期ウィトゲンシュタインに由来する(「意識」に関する)反実在論を経由していない点も致命的。
839 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 19:17:22 0
>>838 >第一次内包も(場合によっては第二次内包も)知っている。
よく考えてから返答してください。
「私は」「第一次内包」の第0次内包しか知りません。
>この言い方の前半もまた、上とは別の誤りを犯しているように思う。
>これではすでに「人」の「自分」という一般論になっているから
すいません。間違えました。
「私は第0次内包から出ることはできないのだから」
に訂正します。
840 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 19:29:02 0
>>838 >この言い方の前半もまた、上とは別の誤りを犯しているように思う。
あなたは自分の第0次内包から出られるんですか。
841 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 20:22:06 0
もちろん、出られる。
それが言語の有意味性の条件で、言語による議論はすべてそこからスタートしている。
842 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 20:27:39 0
言語の有意味性はどのようにしてわかるのですか。
843 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 20:27:41 0
「出られる」というと、あたかも後から「出る」かのように聞えるが、
むしろすべての言語ゲームは「出ている」ところかしか始まらない、
しかし、後から閉ざすことは(ゲームのルールによって)可能、
というのがウィトゲンシュタインの洞察だったろう。
844 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 20:29:33 0
>>842 言語ゲームが現になされていることによって。
845 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 20:32:21 0
言語ゲームがなされていることはどのようにしてわかるのですか。
846 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 20:39:37 0
どのようにして「わかる」のか、という問いは認識論的問いにすぎない。
話は逆で、すべての「わかる」は、「わかる」という言語ゲームなのだ。
つまり、この(ウィトゲンシュタイン的)議論のポイントは、
どのようにして「わかる」かという認識論的な問いを最終審級に置くことを拒否することにあるわけだ。
847 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 20:44:19 0
>>846 あなたがそのような信仰を持つのは勝手ですが、私には全く納得できません。
848 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 21:09:36 0
いや、私はその立場をぜんぜん「信じて」いない(一定の価値のある立場だとは思うが)。
永井の議論の前提として使われている後期ウィトゲンシュタインの立場を説明しただけだ。
そして、永井自身もかなり精妙な議論を経てだが「最終的には」この立場には否定的だ。
しかし、その議論の意義を理解するためにも、いったんは後期ウィトゲンシュタインの立場
(それ自体前期思想との格闘の末に出てきている)の意義を深く理解する必要があることは間違いない。
ちなみに、私自身はその永井の議論にも賛成していない(というか議論に欠陥があると思う)のだが、
それをここで短く書くことは残念ながらできない。(短くなくてもまだできないけれど)。
849 :
考える名無しさん:2009/12/16(水) 02:19:04 0
「外界の共通に見えるもの」もまた、じつは「ブトム」の内部にあるので、じつは共通には見えて
いないのです。「ブトム箱が触れられると凹む」のが見えるということはじつは「ウブトムな」ことで、
そのときミクロ物理的変化が観察されることは「エブトムな」ことでありうるわけです。みんなが共通
に体験できるものなんか、じつはないからです。これは、単純に言って、すべては心の中にある、という
考え方です。(しかも、他人の心の中のことは誰にもわからない、そもそもそんなものが存在するか
どうかさえわからない、ということを前提とした上で、そう言われているわけです。)しかし、ある意味
では、これは単純に真実なのではないでしょうか。
850 :
835:2009/12/18(金) 14:53:10 0
>>835 >。「意識」の第0次内包とは、〈これ〉ではなく、「これは意識を持っている、と私が思っていること」と私は考える。
>(「赤さ」の第0次内包が「これは赤さを持っている、と私が感じていること」であるように)。
次のように訂正する。「主体」の第0次内包は「意識を持つと私が思うもの」で、第一次内包は「意識を持つと
一般にされているもの」。「意識」の第0次内包は「私の意識」で、第一次内包は「主体の意識と一般にされて
いるもの」。補足的に説明すれば、ここで「意識」といっているものは、主体ごとに異なるかどうかを問題に
することさえできない種類の私秘性を作り出す基になっているものです。そして、「他者」とは「私以外の主体」
である。(ただし、私のこの記述を理解するためには「私の意識」を端的に(第0次内包的に)把握していなくては
ならない。だから、781氏のような単なるアホや、769氏のような科学主義者(無自覚的唯物論者)は、私の言っている
ことを理解できないだろう。だからといって、彼らに意識がないということではもちろんない)。「赤さ」の
第0次内包は、やはり、「赤いという私の感じ」である。
851 :
835:2009/12/18(金) 14:57:14 0
「他者に「このような」ものはないのです。だからこそ、他者なのです」(81-82頁)。ここまでは正しい。
しかし、次のように付け加えなければならない。「他者には「なんだかわからないもの」があるのです。
だからこそ、単なる物理的存在ではなく、他者なのです」(ここで「なんだかわからないもの」と言っている
のは概念的に理解するしかないもので、定義上、表象することはできません)。「ゾンビ可能性」とは
「人間」と呼ばれる存在が、単なる物理的存在でもあるという当たり前の事実を指摘しているだけであって
このことは「自分」を人間であると仮定すると、自分と他人において対称的なことです。しかし、精霊
のように、身体をはっきり確定できない他者に対しては、「ゾンビ」などという想定は全く無意味です。
852 :
835:2009/12/18(金) 14:59:05 0
「私が「他人にもこれがあるのか」と自問したとき、正しい答えは「その問いが客観的・公的な意味を
持ちうるかぎり、私にもそれはもうない」でしょう」(101-102頁)。これは、永井が「他者」
ということで「永井の頭の中にある他者」を考えているからこんなことになるのであって、そうではなくて、
「他者」は既に経験的に存在してしまっているのだから(少なくとも第0次内包的には、という意味です。
「世界が存在する」ということが、じつは、単なる私の妄想であったとしても、私の「世界が存在する」
という発言が無意味になるわけではありません)、正しい答えは「その問いは客観的・公的な意味は
持ちえない」というべきでしょう。〈これ〉は定義上、他者にはないものをさすのだから。(そして、
私の定義によれば、ゾンビは「本当は」他者ではありません。本物のゾンビが存在するとしたら、それは
誰かの表象として存在するだけでしょう。もっとも、このような議論は、単なる言葉遊びであって、
あまり有益ではありません)。「われわれはゾンビである」などという結論は出てこない。「私は
「意識の存在はじつに不思議だ」と語る他人の発言を「心理的」な水準でしか受け取ることができません」
(101頁)。永井は「心理的/現象的」という語を誤解している。「「心理的」な水準」ではなく、
「「第一次内包」の水準」と言うべきであった。永井がしつこく指摘している問題(「最上段」の問題)
は確かに存在するが、チャーマーズが提起した問題とは別である。
853 :
835:2009/12/18(金) 15:01:43 0
「ゾンビ・メアリーにも「現象的体験」として位置づけられている心理的機能があるはずです。
定義上、それは物理学的知識からは推論できない位置にある」(92頁)。この箇所の議論は
まだちゃんと理解できていないが、ジャクソンは「物理学的知識からは推論できない知識(という
一般的なもの)」の存在を指摘したということなのではないだろうか。(「色とはこんなもの
だったのか」の「こんな」は一般的なものではないので、物理学的知識が「知識」であるように
それも「知識」といえるのか、という問題があるが)。
↓3行でまとめて
855 :
あめのみやつこ:2009/12/18(金) 17:26:53 0
ああ哲学的な第0次内包の主客のことですか?
「赤」は「未知」ではなく「道」があったということですよ。
「道」はすでに出来ていたのです。哲学的ゾンビはありません。
土浦の事件の金川被告に死刑判決が出たね。
でもこの人を死刑にすることに何か意味があるのかな。
罰にはまったくなっていなくて、ただ本人の望みを国がかなえてあげてるだけだよね。
857 :
考える名無しさん:2009/12/18(金) 21:55:28 0
たしかに、
司法は一見は偉そうに説教してみせているけれど、
やっぱり死刑にせざるをえないということによって、
彼が正しかったことを証明してしまうことになるな。
ひょっとしてそのことにさえ気づいていない??
858 :
835:2009/12/18(金) 22:29:24 0
「観察された脳状態はやはり意識状態なのだから脳感(内観によって脳状態を直接
感じること)と同じで、結局意識どうしの関係に過ぎないのではないか」(94頁)
もちろん、そうです。そもそも、「意識から独立の物質」などという観念は言葉
がなければ、成立するはずがありません。
「自分の脳を観察する自分とそれ以外の自分の意識を体験する自分との関係を、
一般的な第三人称視点と第一人称視点の関係として理解するという、とんでもない
巨大な飛躍が必要とされるのです」(95頁)
「巨大な飛躍」というより、言語はそのような形でしか「教える」ことはできないのです。
そもそも、コウモリが身体のことを「自分」だなどと思っているはずがないでしょう。
859 :
835:2009/12/18(金) 22:31:30 0
「「わたくしの見出した世界について」という表題のもとに、私が一冊の書物を著したとしよう。
その書物は、私の肉体について報告するであろうし、さらに肉体のどの部分が自分の意思に従い、
どの部分が従わないかなどについても語るであろう。すなわちこれは、主体を孤立化させる方法、
というより、ある重要な意味においていかなる主体も存在せぬことを教える方法なのである。
つまり、この書物の中で話題にすることができぬ唯一のもの、それが主体である」
(「論理哲学論考」5.631)
これは脳が主題ではないが、コウモリ脳科学者の話と似ていると思います(正確には、意識なんて
ある意味では存在しないと言われているわけだが)。ウィトゲンシュタインがこのような思想に達した
のは決して「自然」なことではなく(この点、永井がどう考えているか知りたいところだが)哲学病
の結果なのだと思います。あるいは、科学的方法論というものが、一種の極点に達したと言うべきか。
>>856 司法:妥当な判決を下せたので満足
金川:死刑になったので満足
遺族:態度には不満だが、死刑になるので満足
犯罪史上稀に見る凶悪事件にもかかわらず、これほど満足に満ちた裁判は稀有。
不満足なのは、控訴したアホな弁護士だけ。
つか、金川は控訴取り下げろ。
861 :
考える名無しさん:2009/12/19(土) 11:29:19 0
弁護士は仕事だから控訴するのは当然でしょう。
しかも「被告が望んでいる死刑を与えるのでは刑罰にならないから」という重要な論点もちゃんと出している。
(なぜか、テレビも新聞もこの最も重要な事実を報道してないようだが、なぜなんだろう?)
しかし、被告人自身にこの控訴を取り下げる権限があるのでこの控訴は実現しない見込みだ。
862 :
835:2009/12/21(月) 16:53:29 0
「いったい何がこの差異を成立させているのでしょうか? まずはこの問いが問われるべきでしょう」
(105頁)。永井がこのような発想をするのは、神の視点から複数の「意識」が成立していて、そのうち
ひとつが「私」である、という風に考えているからだと思う(もちろん、本気でそんなことを信じている
わけではなく、問題点を強調するために、このような言い方をしているのだと思うが)。私にできることは
他人たちが、自分の意識を指して「意識」と言っているのを「見る」ということだけです。そして、私は
いつか死ぬだけです。この永井の問いに対しては、私は、単に「意識が別だから」と答えます。
863 :
835:2009/12/21(月) 16:54:33 0
「「私のゾンビ複製体」とは、じつは、私とあらゆる点で同じなのに、ただ私ではないという点において
だけ違う人のことです」(83頁)。ここは、永井形而上学が典型的に現われているが、明らかに間違って
いると思う。「私とあらゆる点で同じなのに、ただ私ではないという点においてだけ違う」ということが
どういうことなのか、私にはさっぱりわからない。これは存在論の問題だが、永井は「あらゆる点」という
言い方で何を考えているのか。チャーマーズは「私のゾンビ双生児」を「私と同じ物理的身体を持ちながら
現象的意識は持たない存在」という風にきちんと定義していて、決して永井のような発想はしていない。
そして、人間の物理的身体がほぼ同一であることを考えると、「現象的意識」という言葉が他人においても
理解される(心理的な意味で)であろうことは、ほぼ明らかである。チャーマーズにできることはそれを「見る」
ことだけである。だから、他人がゾンビでないことがわかるなどということはありえない。これもわかりきった
話である。だからといって、「現象的」が「心理的な意味での現象的」になるわけではないでしょう。チャーマーズ
には、物理学(これは複数の人間によって公共的言語によってなされる)とは何か、という問題意識があったの
だと思う。私の感覚では「私とあらゆる点で同じ存在」は、明らかに「私」です。もちろん、「私でないという
点においてだけ違う」と「言ってみる」ことはできる。しかし、それはそういう概念を導入した、つまり、
神の視点からはそういうことがありうると考えただけの話であって、単なる妄想です。
864 :
835:2009/12/21(月) 16:56:32 0
「言語的伝達において、すでにこの対比は心理的な概念の内部での対比に格下げされている
のではないでしょうか」(52頁)と言うが、何が言いたいのかわからない。私は、高校の頃、
物理学を習った時点で、チャーマーズの言う「心理的/現象的」の概念を自力で直観していた。
「彼の議論を読んで理解する私自身においては、この対比は現実に生きて働いていますが」(52頁)。
どのように「生きて働いている」のかうまく想像できない。あえて言ってしまえば、「私
(「私」一般ではなく、永井の「私」)の心」と「他人の心」に勝手に置き換えているだけと
しか思えないが(「痛みゾンビ」などという発想を見ても、その疑いは深まる)。「じつは、
これは「しっかり」とは理解できないようにできているのです」(53頁)と永井が考えるのは
ウィトゲンシュタインに呪われた結果に過ぎないのではないか。
865 :
考える名無しさん:2009/12/22(火) 13:25:14 0
>>862 >永井がこのような発想をするのは、神の視点から複数の「意識」が成立していて、そのうち
ひとつが「私」である、という風に考えているからだと思う
全く逆のように思える。神の視点から複数の「意識」が成立していて、そのうちひとつが「私」
であるなどということがありえないということを言っているように普通に読めるが。
>私は、単に「意識が別だから」と答えます。
意識が別なのは、他人どうしでも別だから、
ここで問題にされてる差異とは関係ないと思われる。
866 :
考える名無しさん:2009/12/22(火) 13:50:18 0
>>863 >「私とあらゆる点で同じなのに、ただ私ではないという点においてだけ違う」ということがどういうことなのか、私にはさっぱりわからない。
まさに存在論的差異の問題だろう。『現象学の根本問題』等々におけるハイデガーのカント解釈の用語でいえば、
レアールには全く同じだがアクチュアリテートにおいてだけ違う、ということだろう。
>チャーマーズは「私のゾンビ双生児」を「私と同じ物理的身体を持ちながら現象的意識は持たない存在」という風にきちんと定義していて、決して永井のような発想はしていない。
したがって、この定義は(永井的には)レアリテートの内部の定義に過ぎないことになるだろう。
>そして、人間の物理的身体がほぼ同一であることを考えると、「現象的意識」という言葉が他人においても
理解される(心理的な意味で)であろうことは、ほぼ明らかである。
これは永井の議論とは関係なく論点先取ではないか。なぜ「ほぼ明らか」なのかわからない。
そして「ほぼ」とはどういうことか? 哲学の議論で「ほぼ」なんて言っちゃっていいのか?
その「ほぼ」の(と言わざるをえない)内実こそが論ずるべき問題なのでは?
>だからといって、「現象的」が「心理的な意味での現象的」になるわけではないでしょう。
でも、さっきは「「現象的意識」という言葉が他人においても理解される(心理的な意味で)」と言っていたのでは?
これは「現象的意識」が心理的な意味になってしまうという意味ではなかったのですか?
>私の感覚では「私とあらゆる点で同じ存在」は、明らかに「私」です。
この「あらゆる点」は、先ほども言ったように、明らかにレアリテートとしては、という意味でしょう。
レアリテートについてはハイデガーの他、永井の岩波哲学講座2巻に所収の論文も参照のこと。
ここは物凄く伝統的な問題と絡んでいて、この点こそが哲学的に最も興味深い問題とつながっている。
867 :
考える名無しさん:2009/12/22(火) 13:56:06 0
>>864 >と言うが、何が言いたいのかわからない。
しかし、ここがわからないと、結局永井の言っていることの根幹を掴んでいないということだろう。
>どのように「生きて働いている」のかうまく想像できない。
これも同じ。
>あえて言ってしまえば、「私(「私」一般ではなく、永井の「私」)の心」と「他人の心」に勝手に置き換えているだけと
しか思えないが
ここの議論と ま っ た く 関係ないことを言っているとしか思えないが。
868 :
835:2009/12/22(火) 15:20:18 0
>>865 >意識が別なのは、他人どうしでも別だから、
>ここで問題にされてる差異とは関係ないと思われる。
私は、私が実際に観察する他人の「意識」という発言について言っています。
あなたは「他人どうし」などというものが(本当に)存在することを、どのようにして知ったのですか。
私にとって、「他人どうし」というものは、私の頭の中にあるに過ぎません。
>>866 >そして「ほぼ」とはどういうことか?
チャーマーズが「意識する心」を書いた時点で、他人たちが同意するであろうということが予想された、
という意味です。他人たちが「あなたの言うことはさっぱりわからない」と言い出す可能性もある。
そんなことがおきたら、チャーマーズは世界観を変えなければならなかっただろう。しかし、チャーマーズは
理解された。もともと、チャーマーズと似たようなことを考えていた人がいたからです。
>でも、さっきは「「現象的意識」という言葉が他人においても理解される(心理的な意味で)」と言っていたのでは?
>これは「現象的意識」が心理的な意味になってしまうという意味ではなかったのですか?
何が言いたいのかよくわからないのですが、私の言っていることを解説すると、「理解される(心理的な意味で)」
というのは「心理的に言って、理解されるという状態が発生する」という意味ではありません。「理解される
であろう、ということが、心理的に言って当然予想される」という意味です。私は、「「現象的意識」が心理的な
意味になってしまう」というような言い方が、うまく理解できないんですよ。ちょっと解説してもらえませんか。
>>867 >しかし、ここがわからないと、結局永井の言っていることの根幹を掴んでいないということだろう。
そんな思わせぶりなことを言わないで、教えてくださいよ。
俺としては、「ゾンビ」なんかより、むしろ絵に過ぎないマンガのキャラなんかが
あたかも生きている人間であるかのように扱われる方が不思議だわ。
870 :
835:2009/12/22(火) 18:15:54 0
>>865 >全く逆のように思える。神の視点から複数の「意識」が成立していて、そのうちひとつが「私」
>であるなどということがありえないということを言っているように普通に読めるが。
「子どものための哲学対話」の中の「神さまはぼくが存在することを知らないんだ」
というような記述も、私の言ったような思想を述べていると思うが。
871 :
考える名無しさん:2009/12/22(火) 19:54:11 0
>>868 >あなたは「他人どうし」などというものが(本当に)存在することを、どのようにして知ったのですか。
私にとって、「他人どうし」というものは、私の頭の中にあるに過ぎません。
「どのようにして知ったか」は認識論的問題にすぎないだろう。この種の概念的な議論に認識論的問題を差し挟んでも意味がない。
「他人の意識」という概念を理解しているということがすべての出発点で、これは「概念」だからもちろん誰かの「頭の中」にある
ようなものではない。このあたりはフレーゲ以降の(もちろん永井を含む)哲学的議論の共通認識だと思うが、そこが認められていないと、
話を通じさせるのはかなり難しいように思う。
>しかし、チャーマーズは理解された。もともと、チャーマーズと似たようなことを考えていた人がいたからです。
そんなことでいいなら、「しかし、永井は理解された。もともと、永井と似たようなことを考えていた人がいたからです。」
ともいえることになって、何の議論にもならないが…。
どちらに関しても「理解しない」人は実在していて、それが話の出発点だから。
872 :
考える名無しさん:2009/12/22(火) 20:16:07 0
(続き)
>私は、「「現象的意識」が心理的な意味になってしまう」というような言い方が、うまく理解できないんですよ。
はっきり言ってしまえば、そこが「理解できない」のでは話にならないんだな。理解した上での反論なり批判なりなら興味深いんだが。
>そんな思わせぶりなことを言わないで、教えてくださいよ。
永井があれほど長々とよく飽きないなと思うほどしつこく繰り返し繰り返し同じことを手を変え品を変え説明しているのに、
ちょっと驚くほどまるっきり理解していないのに、こんなところで「教えてくれ」なんて言われてもそれは無理な相談。
しかし、ハイデガーのカント解釈という補助線は出しておいたので、もし興味があるなら自分で研究してみてね。
レアリテートとアクチュアリテートの差異自体がレアリテートの内部の差異に「読み替え」られる(あなたは「読み替え」
が終わったところで「理解」してしまっている)というのが(意識のみならず時間や様相や神学)に共通の構造だと思うから。
もっとも、分からない人はどんなに読んでも考えても分からないというようにできているということにも本質的な意味があるらしいけど…
873 :
835:2009/12/22(火) 21:01:56 0
>>871 >「他人の意識」という概念を理解しているということがすべての出発点で、これは「概念」だから
>もちろん誰かの「頭の中」にあるようなものではない。
私は、「他人どうし」は概念であり、「私とあなた」は現実であるという自明なことを述べている
だけです。これは、全く自明なことであり、私はそれ以上のことに興味はありません。だから、
なぜ永井があんなことを言いたがるのかもわかりません。
>>872 >はっきり言ってしまえば、そこが「理解できない」のでは話にならないんだな。
あなたが「現象的意識」という言葉をどのように理解しているのか説明してもらえませんか。
永井はデカルトを研究して「〈私〉」という問題を提示した。確かにそういう問題はあると思いますが、
そんな話と「現象的」の話は全く関係ないと言っているのです。
874 :
835:2009/12/22(火) 22:16:36 0
>>872 >理解した上での反論なり批判なりなら興味深いんだが。
>>864 >あえて言ってしまえば、「私(「私」一般ではなく、永井の「私」)の心」と
>「他人の心」に勝手に置き換えているだけとしか思えないが
私の解釈はちゃんと書いてますよ。はっきり言って、これは間違っているんですか。
>>869 それなら、小説の登場人物が生きた人間のように扱われるのは、さらに不思議であると?
何しろ文字の羅列なんて、全然人間に見えないんだからw
ゾンビのポイントは、永井的には、人間かどうかではなく、私と私でないものとの対比のはず
私と私でないもの、この今と他の今、等々は、決定的な違いがあるが、それにもかかわらず、
同じことが私でないものや他の今にも言えてしまい、私やこの今もそれらと同じものでもある、
ということになってしまう(さらに、一般的な「人間」「時点」等があるというようになる)
そこがポイントだとすれば、ゾンビについて、私と内容的には同一だという点は、実は重要ではない、
ということになると思われる
たとえ私と内容的に同一であろうと、現に私でないという違いが決定的だ(逆に内容的に多少違うもので
あったとしても、私でないものが私と同じものでもあることになるのは変わらない)から
しかしそうすると、漫画や小説の登場人物も、私ではないが、私と同じものでもあると言える点では、
変わらないことになるか?
(
>>876の続き)
そうだとすれば、ゾンビも漫画も小説も、実はみなある意味では同じようなものだ、ということになる
逆に、なぜ、漫画や小説のような見た目は全然人間に見えないものが、人間であるように理解できるのか、
という質問には、そういう方向で答えるべきだろうか
つまり、そういうものであっても、やはり私と同じものでもあると理解しうる、というのが
根本的な問題である(生きた人間に似てるかどうかなどは重要ではない)、と
例えばドラえもんやインサイトのような、珍妙な上に現実には(多分)あり得ない存在であっても、
いわば人間と同様に心を持って考えたり感じてる、と考えることは自然だろう
(いや自然じゃなかったらすみませんがw)
しかし、振り返ってみれば、なぜそんな珍妙な理解ができるかというと、つまりは、
他人に心があるという理解と本質的には変わらないからだ、と言えるのでは
と、適当なことを書いてみました
878 :
考える名無しさん:2009/12/23(水) 11:11:32 0
>>873 >私は、「他人どうし」は概念であり、「私とあなた」は現実であるという自明なことを述べている
だけです。これは、全く自明なことであり、私はそれ以上のことに興味はありません。だから、
なぜ永井があんなことを言いたがるのかもわかりません。
それでは問題が理解できるはずもない。なぜなら、それこそがは少しも「自明」でないということこそが問題の出発点だからです。
言葉が通じる以上、「私とあなた」もまた概念である(既になっている)ということがこの論題のそもそもの始まりでしょうから。
あなたが「なぜ永井があんなことを言いたがるのか」わからないのは当たり前です。
>永井はデカルトを研究して「〈私〉」という問題を提示した。確かにそういう問題はあると思いますが、
そんな話と「現象的」の話は全く関係ないと言っているのです。
第一文からして誤解でしょう。「〈私〉」なんてこの問題の一例にすぎないのですよ。繰り返して同じことを言いますが、
「現象的」はもちろん、「現在」や「現実」や「神」等々にも全く同じ問題が成立してしまうということ(だけ)が重要です。
私見では、永井は個別例について別々にしか語っていないけど、これは欠陥だと思います。
私的には、むしろ例えば「主張」(ト記号の意味ですよ)のような基礎的な論理概念で論じるべきだと思っていますが。
繰り返しますが、彼の議論で優れているのは、ハイデガー(のカント解釈における論点)と結びつけて論じたところです。
そのことを繰り返し言っているのですから、無視しないでください(知らないならぜひ研究して関連づけを学んでください)。
879 :
考える名無しさん:2009/12/23(水) 11:22:52 0
>>877 >と、適当なことを書いてみました
いやいや、「適当」ではなくて、正しいのでは? 少なくとも永井的には。
その上で「他人」の特殊性は、いわば「法的」なものなのだ、
と、永井はどこかで(カントとともに)言っていたように思う。
880 :
835:2009/12/23(水) 12:42:56 0
>>878 >言葉が通じる以上、「私とあなた」もまた概念である(既になっている)ということがこの論題の
>そもそもの始まりでしょうから。
あなたが概念にした(みなした)というだけの話でしょう。私は
>>873において「私とあなた」という
言葉を使用した。それはそれでおしまいです。私はあなたのように言葉を使用してないし、
普通の人も、あなたのようには言葉を使用していません。
>>862の永井の話は、例をあげて説明して
いて、私はそれに対する私の考えを述べた。ここには「概念」の問題は存在しません。あなたに質問
したいのですが、〈私〉は概念なんですか。
>「現在」や「現実」や「神」等々にも全く同じ問題が成立してしまうということ(だけ)が重要です。
だから、その手の話には私は基本的に興味がないのですよ。永井は「現象的」と言う言葉を、自分の
問題を説明するために利用した、あるいは、一般に使用されてる「現象的」という言葉にある問題性を
指摘したのだと思います。「犬」やなんかにもそういう問題が成り立つわけですか。
>>880 横からですみませんが、
>>878の内容に対して、そんなふうに興味が無いと断言するんだったら、
もはや『なぜ意識〜』を読んで検討する意味は無いんじゃないですかね…
むしろ心身問題一般のスレなどで議論するほうがいいのではないかと
882 :
835:2009/12/23(水) 14:53:27 0
>>881 「なぜ意識」ってそういう本だったんですか。
878氏は自分の考える論点を提示しているわけだが、あなたもそう考えるってこと?
883 :
881:2009/12/23(水) 15:35:13 O
>>882 > 「なぜ意識」ってそういう本だったんですか。
え?
もちろんそういう本ですよw(永井の他の本も合わせて読まないとわかりにくい部分もあるかもしれないが)
まさか第2日以外はきちんと読んでいないとか?
> 878氏は自分の考える論点を提示しているわけだが、あなたもそう考えるってこと?
ここも、878氏が考えるとか私が考えるとかではなく、永井の論点ですよw
(私が多少とも理解できているとすれば)
そんなふうに言われると、なぜわざわざ『なぜ意識〜』を取り上げるのか、ほんとに分からないな…
884 :
835:2009/12/24(木) 06:13:03 0
>>883 >878氏が考えるとか私が考えるとかではなく、永井の論点ですよ
そんな権威主義的な言い方では納得できません。あなたは、永井本人ではないでしょう。
あなたなりに説明してもらえるなら、少しはわからなくもないですが。永井の言う「われわれ」って
誰なんですか。
>そんなふうに言われると、なぜわざわざ『なぜ意識〜』を取り上げるのか、ほんとに分からないな…
私は「なぜ意識」を読んでおもしろいと思ったから、それを読んで考えたことを書いただけです。
885 :
878:2009/12/24(木) 12:22:51 0
>>880 >だから、その手の話には私は基本的に興味がないのですよ。
881さんもおっしゃるように、
もしそうであるなら、ここで論じる意味はないと思います。
繰り返しますが、
私が関連する最重要論点だと思う論点や、参照すべき文献もすでに挙げたので、
あくまでも「もし興味があれば」ですが、それらを研究してみてください。
そして、もしそうした事柄には興味がないのなら、永井ついて論じる意味もないでしょう。
一般的な心身問題などを普通に論じればすむことでしょう。
886 :
835:2009/12/24(木) 13:37:52 0
>>885 あなたや、881さんたちがいったい何をやっているのかということには少し興味があるのですが、
あなたたちは、なぜ、永井やハイデガーの言っていることを「理解した」と思えるのですか。
永井は、ハイデガーを読んで自分の考えたことを述べただけでしょう。私は、それを読んで
私の考えたことを述べただけです。
>あなたに質問したいのですが、〈私〉は概念なんですか。
この質問には答えてくれませんか。
887 :
835:2009/12/25(金) 09:19:57 0
私の解釈では、「なぜ意識」最大の主題は、
「その「私」は「当人」と解釈されてよいのか」(42頁)
「現象的と心理的の対比は、なぜ彼自身と他者との対比を超えて生き残る、と最初から
前提されているのでしょうか」(52頁)
「この意味での指標的要素が世界に存在しなければ、「意識」などというものありえないのだ、
と言いたいのです」(69頁)
「キモはただ一つ、私はそうであるのか、われわれはそうであるのか」(153頁)
といったところにあると思います。
私の想像では、878氏や881氏が指摘する論点は、永井にとっては単なるお遊び、さもなくば、
本当に言いたいことを言うための準備作業に過ぎないのではないのでしょうか。
君たちは、永井言語の見せる夢から出られないわけだ。別の夢を生きている人は「われわれ」
ではないわけだ。(881氏は、私がそれなりに苦労して書いたものに対して何のレスもつけずに
「もはや『なぜ意識〜』を読んで検討する意味は無い、他のスレに行け」なんて言うんだもんな)。
「転校生とブラックジャック」って面白い?
すでに読んでる「今私そして神」「マンガは哲学する」と3部作のようだから読んでみたいんだけど、
高いから文庫がでるまで待ってるんだけどなかなかでないので買っちゃう?
面白くはあるけど、他の著書を色々買ってるんだとしたら、微妙に値の張る転ブラを敢えて買えとは、俺は言い難いな。
ところで、転ブラに登場する学生さんたち(名前が全員アルファベットなので憶え難い…)はなかなか利発だが、永井さんが普段相手にしてる学生さんもあんな感じなのか、それとも永井さんの理想なのか。
>>891 どうも。文庫化されるまで待ってみます。
893 :
835:2010/01/07(木) 22:49:45 0
これで私は消えます。最後にどうでもいい独り言を書いておきます。
永井の議論(おもに「〈私〉のメタフィジックス」とこの本によるもの)には大変
啓発されましたが、私は完全に永井哲学から決別しました。
こんな無害な小人物の言っていることをまじめに検討しても何も得られないということが
ようやくはっきりとわかったからです。「私」「今」に対する考え方が私とまるで違う。
哲学に詳しい人に聞きたいのですが、これって本当に「存在論的差異」とかいうものなの?
永井先生さようなら、です。
285あたりからの批判読めば?
895 :
835:2010/01/08(金) 09:22:14 0
読んでるに決まってるだろ。
私がそんなものわざわざ研究するはずがない。
自分の言葉で語れない奴ばっかだな。
>>835あたりから読んできたけど、結局あなたが何を言いたいのか理解できなかった(私の理解力不足かもしれないが)。
ただ、ひとつ気になったのは
>>863で
>「私とあらゆる点で同じなのに、ただ私ではないという点においてだけ違う」ということが
>どういうことなのか、私にはさっぱりわからない。…(略)…私の感覚では「私とあらゆる点
>で同じ存在」は、明らかに「私」です。もちろん、「私でないという 点においてだけ違う」と
>「言ってみる」ことはできる。しかし、それはそういう概念を導入した、つまり、 神の視点からは
>そういうことがありうると考えただけの話であって、単なる妄想です。
あなたはこう言っているが、これがわからないということは永井哲学の核心を掴み損ねているということだと思う。
あなたはおそらく、永井の哲学を(永井が言うところの)「モナド論的」なものとして誤解しているのではないか。
(続く)
(続き)
永井哲学の核心を解説している文章のなかで、もっともわかりやすいと思った部分を、少し長いけど引用します。
>たとえば、ある特定の大脳状態がある特定の意識状態をつくりだしている、ということが発見されることは、
>おおいにありうることだし、現に発見されてもいるだろう。でも、ある特定の性質の集まり(大脳状態であろうと
>何であろうと)が<ぼく>をつくりだしているということが発見されることは、絶対にありえない。…(略)…
>なぜなら、<ぼく>にはただひとつの事例しかなく、同じ種類の他のものが存在しないからである。
>だから、そいつが<ぼく>であるという事実は、そいつが持っているどんな性質とも関係なく成り立っている
>と考えるほかはない。つまり、そいつの持っているどんな性質も、そいつが<ぼく>であったことを説明しないのだ。
>だから、そもそも<ぼく>が存在しなければならなかった必然性は何もない。
><ぼく>の存在はひとつの<奇跡>なのだ!
(<子ども>のための哲学p58)
私はこの点こそが永井哲学の核心となる問題であり、また同時に、ハイデガーの存在論的差異や、
カントやアンセルムスが行った「神の存在論的証明に対する批判」の中心的な論点でもあると理解しています(ここからの言語ゲーム的な読み替えこそが中心部分だ、とも言えますが……)。
(さらに続く)
もしこの問題をもっと理解していきたいと思うなら、永井の書いたものの中で、もっと簡単な書籍を読んでください。
「なぜ意識〜」はこの問題からの「応用問題」みたいなものだし、「<私>のメタフィジックス」は語り口が無意味に難解な上、<私>という表現が言語ゲームによって読み替えられていく点に関しては十分には展開されていません。
「本を読め」と言うと、「おまえがこの場所で説明してみろ」という流れになりやすいですが、永井のような、この問題を30年以上も考え続けているプロの哲学者ですら、この問題を誤解のないように説明していくのに100ページ以上のページ数を必要としているんです。
これはこのような匿名掲示板で簡単に扱えるほど生易しい問題ではないんです。
私は「私・今・そして神」を最も勧めたいですが、これは内容が非常に高度なので何らかの誤解を生む原因になりますから、まずはもっと簡単な「<子ども>のための哲学」の前半部分や「翔太と猫のインサイトの夏休み」の第二章を読むことをお勧めします。
コテハンが出没すると荒れる元なので、速攻に退散しますが、
いやあたくしもね、「子どものための哲学」と「私・今・・・神」は読ましていただいて、
永井先生の気持ちも 少しは分かるつもりなんですよ。ええ
それで、その「分かった気持ち」を伝えようとすると、これまた全く伝わらない。
もうね、ひょっとして こっちの頭の方がおかしいのか?と思うぐらい。
永井は(呼び捨てかw)、唯物論的(かどうかは俺には不明だが)な〈ぼく〉の存在の“必然性”を
否定しますよね。しかし最近思うに、必然性が無い のではなく、「可能性すら無い」のですよ。
どこかで転覆している。
ですから、永井の提示する〈わたし〉の問題は、何が問題なのかも全く理解できない人が
存在することこそ真理ではないかwと 最近ぼんやり考えたりもするのです。
それらの人にとっては問題として繋がる線が最初から無いのです。
万人に、この線(おっかしな比喩だがw)が備わっているとは限らない。もう○か×しかない。妥協点が無い。
〈ぼく〉の問題は、そもそも問題として優れているんですかね?
たまにしか覗かないのですが、ちょびっと愚痴らせていただきました。また来年。
もう来年かよw
>>888で紹介されてた対談を読んでみた
天使と悪魔についての説明があって、個人的には面白かった
(天使や悪魔は、本当に感情や目的などと無関係なのか(例えば天使については「世界をよくしたい」
という発想が密輸入されている)というくらいの話ですが)
しかしそうすると、『倫理とは何か』などの議論のうち、利己主義的な考え方からの議論
(自分の利益という観点からの議論)と、そういうものと切り離された天使や悪魔の話は、
あまりつながりがないんだろうか?
よくわかりません
『なぜ人を殺してはいけないのか?』の文庫版に、小泉さんと永井さんの小論が新たに付いてるんだけど、
特に新鮮と思えるような内容ではないな。
小泉さんのは論点がスッキリして読み易くなってるんだが、要はこの人、このテーマで議論すること自体が嫌だったのかとも思えてくる。
その文庫版追加部分を読んでみた
確かに新味はないかもしれませんが、『子どものための哲学対話』や『ルサンチマンの哲学』の
文庫版追加部分とつながりがあるようで、個人的には、細かいところでは面白そうかな、と
…と書きかけて気付いたけど、冒頭が、
「なぜ人を殺してはならないのか?一般化して、なぜ人に危害を加えてはいけ
ないのか?この問いに答えがあるかどうか、本当のところはわからない。だが
もし答えがあるとすれば」(以下略)
という表現になってる
この表現は、何か意味があるだろうか?
というのは、例えば『これがニーチェだ』28頁では
「ほんとうの答え
は、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、
やむを得ない」」
となっていて、その他今までの本では「本当は答え、理由はない」という方向で書かれていたと思うので
今回「わからない」という表現になったのは、「ない」ともいえないということ?
(いや、書き出しを問題提起的にしただけかもしれませんが)
904 :
835:2010/01/13(水) 05:18:39 0
>>898 レスがもらえてありがたい。私は「〈子ども〉のための哲学」は出版直後に買って、何度も読んでるし、
「翔太と猫のインサイトの夏休み」も何度も読んでる。「私・今・そして神」の議論はあまり興味が
持てませんでした。私は106頁における永井のハイデガー解釈は正しいのかと質問したのだが、
答えられないわけだ。まあいいや。永井が他の箇所でハイデガーをどう論じているかは知らないし、
私のインチキ哲学知識によれば、ハイデガーがそういうカント批判を行うのもわかるけど、こんなもの
間違ってるに決まってるということはすぐにわかるもの。
905 :
835:2010/01/13(水) 05:22:50 0
>>896 >これがわからないということは永井哲学の核心を掴み損ねているということだと思う。
私の「感覚」を簡単に述べておけば、「私でない存在」は「私でない存在」として立ち現われるのだから
「その点において」それは「私」と違っているではないか、ということです。対偶を取れば、「私とあらゆる
点で同じ存在」は「私」であるということになります。私もチャーマーズのように神の視点でものを考える
ことはあります。その場合には「あらゆる点」をはっきりさせておかなくては無意味でしょう。永井が
「あらゆる点」をどのように考えているかは他の本を読んでもよくわからないし、あまり興味はありません。
(
>>866の永井論文は読んでみます)。多分、そんなことを考えなくてもこれは形式的に成り立つと思って
いるのでしょう。しかし、そんな風に「私」が存在しているわけではないのは、私には自明です。世界を
自然科学的に理解したいと思ってない人(永井もそのひとり)に自然科学に興味を持てと言っても無理です。
粗雑なヘーゲル哲学みたいな「人称化」「時制化」理論に興味を持てと言われても、私には無理です。
906 :
835:2010/01/13(水) 05:24:47 0
>>897 それがあなたの考える永井哲学の核心なわけですね。あなたは「あなたの」論点を提示したわけだが、
この話はウィトゲンシュタインではっきりと終わっているんですよ。子どもの独り言としてなら理解
できるし、こういうことをわざわざ書くのはなかなか愉快ですが、こんなものが哲学説として成り立って
いるわけではもちろんありません。中期ウィトゲンシュタインの「独我論者」の発言も同じことです。
他人にも同じことが成り立っているなどと、言ったり考えたりするのはナンセンスです。「〈子ども〉
のための哲学」の中で述べられている「言語ゲーム」概念は、全くの誤解であろうと、私は勝手に
決めつけています。引用文をあなたの発言とみなしますが、「その〈ぼく〉ってなんなの」と問われたら
どうするの? 多分、あなたは
>>846と同一人物であろうと私は思っているが、これは「永井哲学」
なるものが公的にどのように論じられているかというような問題ではない。あなたがどう考えているか
述べてみよ。直ちに、ウィトゲンシュタインが正しいことが歴然とするだろう。ウィトゲンシュタインは
「読み替え」などしていません。独り言ならかまいませんが、他人の議論に勝手に「応用」などされても
困りますよ。
907 :
835:2010/01/13(水) 05:27:21 0
110-111頁の議論は明らかに間違っているので、きちんと反論したいと思ったのですが、
今の私には無理でした。簡単に書いておけば、中期ウィトゲンシュタインの議論は理解可能
だが、そのような独我論的事実が他人において存在しているなどと言ったり考えたりするのは
論理的な矛盾でしかないということです。実際には、他人たちのたまたま孤独なあり方を理解
するように努めることによって、人びとは生きているのだろう。他人とは経験世界に実在する
ものであって、「他の私」などと言う抽象概念ではないのです。
908 :
896:2010/01/18(月) 01:04:17 0
>>904 >永井のハイデガー解釈は正しいのか
あなたは永井のハイデガー解釈が正しいとしたら
ただそれだけの理由で受け入れるわけですか?
私個人の意見で言えば、死がなぜ哲学的に重要なのかは
永井の解釈以外にはありえないと思うけれど。
909 :
896:2010/01/18(月) 01:05:48 0
>>905 >「あらゆる点」をどのように考えているかは他の本を読んでもよくわからないし、あまり興味はありません。
「神は定義的に完全である。ところで、『存在する』という述語は一つの性質である。
もし神が存在しないとすれば、神はその分、性質を一つ欠くことになる。
これは『神が完全である』という定義に反する。故に、神は存在する」
もしこの証明が成り立たないと思うのであれば、定義的に存在するが"実は"存在しなかったり、
定義的に存在しないが"実は"存在する、という可能性が
あることになりますよね。(成り立つと考えても同じような問題がありますが)
つまり現実に存在するか否かは、その対象が定義的(あるいは概念的)に
「存在する」という述語を含むか否かとは独立に決定される、
と考えるほかはないわけですよね。
だとしたら、あらゆる点で同じ、
つまり「(存在するという述語も含めて)全ての性質が同一」の人物でありながら、
"実は"存在していたり"実は"存在していなかったりする(その点において異なっている)
ことがありうる、ということになりますよね。
>世界を自然科学的に理解したいと思ってない
どのような前提にも縛られないで、徹底的に知的に誠実に
己の思考のみで真理を見出そうとするのが哲学の面白いところじゃないの?
「理解したいと思ってない」ってことは、あなたは理解する方向はすでに決めていて
それに合わないなら(それだけの理由で!)排除するんだね。
まぁ、いいんじゃないの。
ちなみに私自身は自然科学的世界観を信じています。
でも永井の論じているのはもっと根本的・原理的なことであり、
それは科学的世界観が成立するためにすら必要であると思います。
910 :
896:2010/01/18(月) 01:06:41 0
>>906 >他人にも同じことが成り立っているなどと、言ったり考えたりするのはナンセンスです。
解らないのですが、こう言うということは、
<ぼく>とは何らかのものの一種ではない(ただひとつの事例しかない)
ということを認めている、ということですか?
(そもそも何を批判しようとしているのかが解らない……)
>「その〈ぼく〉ってなんなの」と問われたらどうするの?
時間を例に説明すれば、
過去にとっても、未来にとっても、その時の現在があったでしょうが、
それは本当の意味での現在ではありません。
事実として今、現に現在であるのは、<この今>です。
同様のことを人称で考えれば、
Aさんにとっても、Bさんにとっても、その人の私という自己意識があったでしょうが、
それは本当の意味での自分ではありません。
事実として今、現に私であるのは、<この私>です。
>
>>846と同一人物
違います。
911 :
896:2010/01/18(月) 01:08:21 0
>>907 >明らかに間違っているので、きちんと反論したい
本当だとしたら是非知りたいですが、
>他人とは経験世界に実在するものであって、「他の私」などと言う抽象概念ではない
このような浅はかな解釈をしている以上、
あなたの早合点でしかないでょうね。
永井が「他者は実在しない」と言っているとでも思っているんですか?
912 :
835:2010/01/19(火) 15:08:52 0
>>908 ハイデガーがそんなこと言うはずない、と言っただけです。私は、哲学を専門に勉強してないし、
インチキ知識に基づいているので、説明しろと言われても困るが。永井のハイデガー解釈を信じる
のはあなたの自由だし、それと関係のないハイデガーなど興味がないというなら、別にそれでいいの
ですが、そんな「ハイデガー」解釈が成り立つのは、永井信者の間だけでしょう。あなたが今言った
「死」ということについては微妙な問題があると思いますが、「存在論的差異」という言葉について
は間違いなくそうでしょう。
913 :
835:2010/01/19(火) 15:10:41 0
>>909 >つまり「(存在するという述語も含めて)全ての性質が同一」の人物でありながら、
>"実は"存在していたり"実は"存在していなかったりする(その点において異なっている)
私の考えを勝手に書いておくと、それは多分、「存在する」という言葉は定義せずにただ使用
するしかない、ということだと思うが。永井流の議論をするなら、「"実は"存在する」も
性質なのではないかという問題が発生すると思うが。しかし、そういう形式的な議論を
している人たちが、本気で神について考えているのかどうかを吟味することのほうが、よほど
大事だろうと私などには思われるのだが。まあ、こんなことはどうでもいいのであって、
永井が「あらゆる点」を「具体的」にどのように考えているのか知っているのなら、教えて
ください。その点、チャーマーズの議論ははっきりしてます。永井は「あらゆる点」と
いう言葉を、ただ形式的に使用しているだけだと思うのですが。
914 :
835:2010/01/19(火) 15:13:41 0
>あなたは理解する方向はすでに決めていてそれに合わないなら(それだけの理由で!)排除するんだね。
私は、世界を理解する方法を探しているだけであり、自然科学的な理解の方法は、「正しさ」の意味が
はっきりしており、有益なものであり、きわめておもしろいものだと思っています。そのような探求
に人生をかけるなどという無駄な努力をする人たちに、共感をおぼえます。永井のような世界理解
のしかた(特に「心」の理解のしかた)には興味が持てません。これは、最終的には生き方の問題でしょう。
>ちなみに私自身は自然科学的世界観を信じています。
あなたが、本気で哲学してると言うなら、なぜそんなものを信じることができたのかと訊きたいですね。
本当に自然科学に興味を持って、そのように言っているようには思えないのだが。各時代、各地域
各文化に生きている人たちが、素朴に「世界はこうなっている」と言うように、あなたもなんとなく
そう言っているようにしか見えないが。「3日目」の記述は「私の知覚世界」と「他人の語る知覚世界」
の関係について常識的なことが述べられているだけであり、こんなことでは「自然科学的世界観」
(というより、およそ「世界観」などというもの)などというものは成立しません。世間の多くの人は
「アンドロメダ銀河が存在する」「水はH2Oである」「モーツァルトが「トルコ行進曲」を作曲した」
といったことを客観的事実として信じており、それは多分永井も同じだと思うのだが、これは永井理論
によればどう説明されるのだろうか。それとも、永井は信じてないのだろうか。
915 :
835:2010/01/19(火) 15:16:15 0
>>910 ><ぼく>とは何らかのものの一種ではない(ただひとつの事例しかない)
>ということを認めている、ということですか?
私は、「独り言としては理解できる」という独り言を言っただけなので、説明しろと言われても
困ります。だから、これは「批判」ではありません。私の独り言を理解したいなら、あなたが
あの引用文をはじめて読んだ時に何がおこったのかを反省してみればよいでしょう。もっとも、
あなたが、私には理解できないような読み方をしていたという可能性もありますが。
>事実として今、現に私であるのは、<この私>です。
その「<この私>」という言葉は、あなたがふつうに使用している「私」という言葉と何か別なもの
なんですか。同じならウィトゲンシュタインが正しいということになりますし、そうでないなら
もっと説明してください。「青色本」の「ベンチ」の議論は知ってますよね。
少し話はずれますが、他人の心は「ある意味で」ちゃんと見えて存在してますが、永井が問題に
しているような自己と他者の差異は、どうしたって外界には存在しようがないのです。他人たちが
何を語ろうと同じことです。このことを永井はどう考えているのでしょうか。あなたにわかると
いうなら、教えて欲しいのですが。
まあ、永井の本を自分なりの仕方で読んで、自分が言いたいことを言うというやり方を取るのも、
自由ではあるけどさ…
できるだけ永井の議論に即して読んでいくという気が、全然ないのかねえ?
それとも、『私・今・そして神』と『なぜ意識は実在しないのか』をよく読んだ上で、本当に
>>913のようなことが全然ピンとこないの?
そうだとすれば、例えば「今」について、事実(内容)は全く同一なのに、過去になる
(今であるということだけが失われる)という点を考えてみるのはどうですかね
(『なぜ意識』66、67頁参照)
917 :
考える名無しさん:2010/01/20(水) 19:40:34 0
永井均の哲学を本格的に学びたくて、とりあえず
<子ども>のための哲学
翔太と猫のインサイトの夏休み
私・今・そして神
<私>のメタフィジックス
道徳は復讐である
なぜ人を殺してはいけないのか?
を一気に買えそろえたんだが
どういう順番で読んだらいい?
>>917 『翔太と猫のインサイトの夏休み』は哲学一般の入門書に近いから、これを最初に読んでみる。
次に永井独自の問題意識を知るのに『<子ども>のための哲学』へと進む。この本は前半と
後半に分かれているのだが、もし前半部分に興味を持ったならば『私・今・そして神』を読み、
後半部分に興味を持ったならば『道徳は復讐である』と『なぜ人を殺してはいけないのか?』
を読んでみる。
一番高い本なんだけど『<私>のメタフィジックス』は古い論文を編集したものだから、無理して
読まなくていいんじゃないかな。本人自身が自分の哲学を学術論文という形式で表現することは
難しいみたいなこといってるから。
>>918 非常に丁寧な説明ありがとう!
さっそく言われた通りに「翔太と猫の〜」から読んでみます。
そして一通り読んだあと、このスレに感想や、
疑問点などを書き込みしたいと思います。
920 :
896:2010/01/22(金) 01:51:02 0
>>913 >「"実は"存在する」も性質なのではないかという問題が発生する
まさにそのとおりで、問題は以下のように反復されます。
「神は定義的に完全である。ところで、『"実は"存在する』という述語は一つの性質である。
もし神が"実は"存在しないとすれば、神はその分、性質を一つ欠くことになる。
これは『神が完全である』という定義に反する。故に、神は"実は"存在する」
もしこの証明が成り立たないと思うのであれば、"実は"存在するが"本当は""実は"存在しなかったり、
"実は"存在しないが"本当は""実は"存在する、という可能性があることになりますよね。
けれどこの議論も、あなたが言ったように再び
「『"本当は""実は"存在する』も性質なのではないか?」
という疑問が現れて、論駁されることになります。
この、存在の偶然性が概念の必然性として理解されてしまう構造が
どこまでも続いていくということは、明らかでしょう。
だから、仮に神の存在論的証明が成り立たないという立場に立ってみれば、
「私とあらゆる点で同じなのに、ただ私ではないという点においてだけ違う」
という記述の意味は理解可能であるはずです。
しかしこの記述ももちろん、上の神の存在論的証明と同様に、
「『ただ私ではない』という性質も同一なのだから、
結局は同一人物ということになるのではないの?」
というように論駁されていきます。
しかしこの点についても、同じように問題が反復されていくことは明らかでしょう。
>「あらゆる点」を「具体的」にどのように考えているのか
>身長体重や顔かたち、遺伝子や何かの生物学的な性質、知能、性格、記憶などの
>心的性質はもちろんのこと、今どこにいて、どんな気分で、何をしているかといった
>現在の一時的な事実とか、何年何月何時何分には何をしていたかといった過去の事実
>(や、お望みなら未来の事実)も、この「性質」には全部含まれている。
「<子ども>のための哲学p54」
永井は具体的にはこう考えているようですよ。
921 :
896:2010/01/22(金) 01:51:47 0
>>914 >本気で哲学してると言うなら、なぜそんなものを信じることができたのか
私もそれを知りたいんです。
世界には複数の意識があり、意識は「脳」という物質によって発生し、物質は原子によって構成され、
……といった世界観は疑いようがなく真であるように感じます。
何でそう感じるのかというと、空間や時間や
その中にある物質、そしてその物質によって構成される人間
(あとカント的な意味で付け加えるなら因果性も)というものが、
たとえ私が知覚していなくても、私が眠ったり目をつぶったときにもそこにあり続けると感じるから、だと思うんです。
つまり客観的なものとして世界を把握するためには
知覚と実在が別々のものとして考えられるようにならなければならないと思うんですけれど、
そのためには、ただ一つしかない<私>というものをあたかも複数ありうるかのようなものとみなして、
AさんやBさんのような他人にもそれぞれ<私>というものがあって、
<私>とはその中の一例に過ぎなくて、AさんやBさんも<私>と同じように知覚している「客観的世界」というものがあるんだ
(つまり<私>が知覚していないときにも他のAさんやBさんにとっての<私>が実在を知覚しているから、
<私>が眠ってもそこに知覚していた実在はあり続ける)
という思考のプロセスを経る必要があるように思うんです。
このようなプロセスを、多分幼少の頃辿ったからこそ、
私は科学的世界観を信じているのだと思います。
知覚と実在をそれぞれ独立に成り立つものと考えて客観的世界を成立されるためには、
こういうプロセスがどうしても必要になるんじゃないかと思ったんですが、どうですか?
ただしこれと同時に<私>だけではなく<今>に関しても、開闢を既にして位置づけられたものとみなす
プロセスが必要であるとは思いますが……。
922 :
896:2010/01/22(金) 01:56:23 0
>>915 >あなたがふつうに使用している「私」という言葉と何か別なものなんですか
私が普段使っている「私」という語には二つの意味があります。
一つ目の意味は、それぞれの人が自分自身を指す、という意味での「私」です。
この一つ目の意味があるからこそ、
「彼は『私は甘いものが好きだ』と言った」のような文の意味が理解可能です。
二つ目の意味は、世界に一つしか存在していない私を指す、という意味での「私」です。
他人であるAさんの体が殴られても、痛くも痒くもないですが、
私の体が殴られれば、実際に痛みを感じます。
世界にはAさんのような普通の人間がたくさんいる中で、
殴られれば実際に痛みを感じるのは、一つしかない私の体だけです。
この二つ目の意味だけに限定したいとき、私は「私」という語を<私>と表記します。
で、この二つの意味のうち、どちらが本当の意味での私か、なんて問いは無意味で、
二つの意味のどちらが欠けても、私という語は理解できません。
なぜなら、一つ目の意味を理解するためには二つ目の意味を既に理解している必要があり、
二つ目の意味を理解するためには一つ目の意味を既に理解している必要があるからです。
例えばですね、一つ目の意味に関して言えば、AさんやBさんなどの、
それぞれの人が自分自身を指す語だ、なんて言ったって、
AさんやBさんの視点から開かれている世界、つまりAさんにとっての<私>やBさんにとっての<私>がある、
と仮定しなければ「それぞれの人が自分自身を指す語」の
「それぞれの人」が何なのか、理解できないでしょう。
逆に二つ目の意味に関して言えば、世界に一つしか存在しない<私>、なんていっても、じゃあその<私>って何かと言えば、
AさんやBさんなどの普通の人間一般が自分自身を指す「私」というものの、その中の特定の一つである、
という風にしか理解できないでしょう
(もちろん<私>とは本当は唯一それだけしか存在しないものなのだが、
概念的に理解しようとする限りではそう理解される他は無い。
これは神の存在論的証明がどこまでも正しいものになり続ける現象と同型である)。
このあたりの事情は「私・今・そして神」やその他の著作を参照してください。
923 :
896:2010/01/22(金) 01:57:40 0
>「青色本」の「ベンチ」
ウィトゲンシュタインに即して言えば、
<私>という語は傍線の引かれたベンチと同様に、
他人が使う<私>と私が使う<私>の間に違う使用方法を与えることが出来ないのだから
意味が同じである、と言わなければならない訳ですよね。
確かにこの洞察は間違っているわけではないですよ。
でもそれは、「真に実在する神」と「定義的に存在する神」に関して
その二つに違う使用方法を与えることが出来ないのだから意味が同じである
と言わなければならない、ということと同じではないですか。
「私とあらゆる点で同じなのに、ただ私ではないという点においてだけ違う」人物が
同一人物になるように、神の存在論的証明が正しくなるように、
傍線の引かれたベンチがただのベンチと同じ意味になるように、
<私>という表現もまた、他人が使う<私>と区別することは出来ません。
しかし他方では、<私>はただ唯一それだけが存在するものであり、
「定義的に存在する神」ではなく「真に実在する神」だけが存在し、
「私とあらゆる点で同じなのに、ただ私ではないという点においてだけ違う」人物は
同一人物とはならず、傍線の引かれたベンチは私的言語として意味を持ちうる
ことになるはずです。
そしてそれらの事実もまた否定されていく、という点も
>>920と同じです。
ついでに傍線ベンチのような私的言語に関してなんですが、
人間には知覚だけではなく記憶もあるので、自己内部での私的言語同士の時間的な因果関係によって、
自己内部から出ることなく私的言語の客観性(誤りうる可能性)が確保可能なので、
傍線ベンチもまた意味を持ちうるはずですよ。
もちろん神の存在論的証明が正しくなることと同様に、すぐにその事実は否定されなければならないのですが。
私的言語に関して詳しくは「私・今・そして神」の3章を読んでください。
(でも2章のカント原理のとこから読んだほうが解りやすいです)
>自己と他者の差異は、どうしたって外界には存在しようがない
「存在しようがない」かどうかは、その「外界」がどのような意味に取られるか、で決まるでしょう。
「私」に二つの意味が考えられるのだから、もちろん「外界」にも二つの意味が考えられます。
「私」を一つ目の意味で考えるなら、「外界」とは各々の人が持っている自己意識の外、
つまり心の外、という意味になります。
外界をこの意味で取るなら、自己と他者の差異は心と心ではないものの間のどこにあるか
なんて聞かれてもそんなのは意味も解らないナンセンスな質問でしょう。
しかし「私」を二つ目の意味で取るなら、「外界」とは「<私>ではないもの」と考えられます。
この意味でなら、自己と他者の差異は生き続けるはずです。
ただしこの二つ目の意味に関しても<私>の意味が、
「<私>とは世界に複数存在する私の内の"任意の一つ"である」というように理解されてしまえば、
それは既に概念的な<私>になってしまっているので、
自己と他者の端的な差異は、<私>と<私>ではないものの間にすら存在しないものとして
解釈されるほかはないはずです。
(神の存在論的証明が正しいものとして理解されてしまうことと同様に。
しかし神の存在論的証明が『一時的には』間違っていると考えられることと同様に、
自己と他者の端的な差異も『一時的には』ありうるものとして理解することが可能です)
さすがに疲れたのでもう質問するなとは言わないけど
せめて「私・今・そして神」を1回ぐらいは通読(というか熟読!)してからにしてね…
925 :
919:2010/01/22(金) 18:56:36 0
今しがた「翔太と猫のインサイトの夏休み」を読み終えました。
簡単に感想を書いておきます。他の哲学初心者の方の参考になればと。
最初にいきなり蛇足だけど、巻末に収録されてた中島義道の解説がおもしろかった(笑)
解説が上手いというより、この人と、この人の文体がおもしろかった(笑)
そして本題。
まず思ったのは、言葉自体が平易なので、
本当に中学生くらいの国語力でもとりあえずは読めるということ。これは間違いない。
衒学的な言い回しがまったくないし、専門用語なんかも少なく、
日常的な言葉の範囲で、内容が記述されているのがよかった。
しかし!これを本当に一般的な中学生が理解出来るのか?
といえば、まぁ著者も言ってる様に個人差もあるし、また書中の問題の内容にもよると思うのだけれど、
恐らく一回読んだくらいでは「分かったような気になる」だけという人が大半なのだろうと思った(自分含めて)。
著者があとがきで述べている様に、やはり、この本に書かれていること自体が
問題の本質であって、他のあらゆる学問の入門書とは、哲学自体の特殊性もあり、根本的に異なるのだと感じた。
哲学的な諸問題を、平易な文章で、飽きがこない物語調で分かりやすく説明してるのもよかった。
形而上の問題をどう捉えるか?本当に確かなこととは何か?など、
善悪の問題、客観性の問題、人間の認識の問題、自由意志の問題…
そして誰もが一度は興味を持つような漠然とした疑問の数々、
時間の始まりは?、宇宙の始まりは?、死とは?
みたいな興味をそそる諸問題を、歴史上の哲学者を上手く引き合いに出しながら
彼らの考え方を紹介すると同時に、それらをどう捉えたらいいのか?
という事が、端的に説明されているように感じた。
926 :
つづき:2010/01/22(金) 18:57:20 0
一章と四章は、恐らく哲学の知識がない人でも
ある程度は納得出来ると思うし、哲学的に物事を捉えるということが
どういうことなのかを知る上で、色々と勉強になることも多いのだと思う。
例のカントの「時間と空間は主観の形式」という話なんかは、
哲学に触れた事の無い人には、本当に目から鱗の様な話で、面白いと思う。
ただ、二章とウィトゲンシュタインの話が出てくる三章は、かなり難解だと思う。
もちろん著者は可能な限り平易な文体で分かりやすく説明しているのだけれど、
そもそも、問題とされること自体が難解なので、いくら文章を分かりやすくしても、
その問題自体の難易度が変わることがないのが、やはり本質的な難しさとしてあるのだと感じた。
全体の印象として自分が感じたのは、これは哲学一般の入門書だけれど、
やはり著者自身、つまり永井均自身の哲学という、大きなテーマにやはり括られて紹介されているという風に感じた。
話の節々に<私>の問題が見え隠れしてて、問題の核心としては、やはりそこが一番重要だし、
また、そこからは絶対に逃れられないのだ、という事が根幹にある様な気がした。
はっきり言って、自分は哲学の知識があまりないので、どこまで永井均の言っている事が
理解出来ているのかわからないのだけれど(それは不可能だと言ってる様にも感じるけれど)
端的に言うと、人間の根本にある、根本信仰みたいなものを炙りだそうとしているというか
上手く表現出来ないけれど、ありのままの世界を純粋に捉えたい!それは如何なる事で、
そうとしか言えない事だけを伝えようとしている、という感じを受けた。
なんというか、認識に隠れたイデアみたいな概念を炙りだそうとしているというか…
(はっきり言ってまだまだ理解不足なのは明白なので、的外れなのかもしれないけど)
あと本書で強調していた、
哲学は当たり前の事をそのまま当たり前に捉えていいんだと再認識する為のもの、
だというのがとても印象的だった。
とりあえず、永井均の問題の核心をもっと知りたいので
「<子ども>のための哲学」にさっそく進んでみたいと思います。
927 :
919:2010/01/24(日) 02:03:52 0
「<子ども>のための哲学」を、最初の問題、
つまり<私>に関する問題が語られている「第一の問い」を読み終えたとこです。
かなり問題が難解なので時間をかけてゆっくりと読みました。
まだ記憶が生々しく残ってる時に感想と自分が理解している事が
見当はずれではないかどうかの確認の為にここに書き込みたいと思います。
まず言いたいのは、ほのぼのとしたタイトルからは想像も出来ないくらい
全体がスリリングで、話の展開が予想を超えて二転三転し、凄く面白かったです。
というか、
「ウィトゲンシュタインをこの様に解釈しているのは
世界中で自分だけだと思うけれど、自分にはそうとしか考えられない」
みたいな記述に正直しびれました。カッコいい(笑)
ほんと本のタイトルからは想像も出来ないくらい深い話だし難解でした。
お世辞抜きで、今まで読んだ本の中でも、三本の指に入るくらい面白かったし感銘を受けましたね…
928 :
つづき:2010/01/24(日) 02:05:49 0
非常に簡単ではありますが、現在の自分の理解した?<私>についての問題点を
簡潔に述べると以下のようになります。まったくの見当はずれでもないでしょうか?
まぁこれだけでは説明不足でしょうが、とりあえず、現状確認という事で…
-------------
独在性を含んだ<私>については、如何なる言語表現も不可能であり、
それをどんなに細密に創意工夫を凝らして表現しても、相手に伝える事が出来たその瞬間、
その<私>は一般的な意味での抽象化された次元で解釈され
そこからは、独在性を含んだ唯一のこの<私>というものは消滅してしまう。
つまり、考えうる限りの如何なる言語的方法論をもってしても
その<私>の本質を他者に伝える事は、現実的にはやはり不可能であると思われる。
しかし永井均は、敢えてその掴み所のない<私>を
如何にして普遍的な言語概念に収束する問題を回避して
表現するかについて、現在も苦心している。
それはやはり、言語の範疇には収まりきれない
まさにこの<私>という存在がここにあるから。
-------------
どうでしょうか?
とりあえず「第二の問い」に読み進んでみたいと思います。
>>919さんは「なぜ意識は実在しないのか」は買ってないんだね。
個人的には「<子ども>のための哲学」以上の衝撃があった本。
是非これも読んでほしいな。
でも「私・今・そして神」の論点を前提にしている部分があるから
先にそっちも読まないと解らないかも。
普通にこのスレの285がしたような批判で終了な話だと思うがな。
てか、
>>927のカッコよさのセンスが最低杉
931 :
919:2010/01/24(日) 16:12:13 0
>>929 そうでしたか。情報ありがとう。
とりあえず手元にある本を読み終えてから
また新たに購入して読んでみたいと思います。
>>930 ごめん、あんまり哲学の知識ないから感動しやすいんだわww
あんまり日本で独自の哲学ってのを展開してる人を知らないんで
ウィトとか歴史に残ってる様な哲学者の考えに独自の視点から共感してるってカッコいいなと思って。
でも確かに色々と疑問点もあるんだけど、とりあえず
手元にある本を読んでじっくり考えてみたいと思うよ。
932 :
考える名無しさん:2010/01/24(日) 22:07:23 0
>>929 「なぜ意識は実在しないのか」はそれほどたいしたことはないよ。
第2日の後半、とりわけ「現象判断のパラドクスと神の存在証明」の議論はさすがと思ったけど。
>>930 285は意味不明だな。たぶん何も分かってない人だと思うよ。
>>930 >>285のレス見たけど、<それ>とか<それら>とか<現れ>とか独自の用語使いすぎで
永井を誤読しているのかどうかすらわからんぞ…せめて用語を定義してもらわないと…
>>371で<私>が錯覚であると発覚する事がありうる、と言っているから
誤読だろうとは思うけど
(確かに「なぜ意識」二日目のように、さそり座でゾンビだと思うことは可能ではあるんだけど、そう言っているようには読めないし)
俺のエスパー能力で推理すると、たぶん285は「複数の意識が実在する世界」を自明の前提として
「永井が言う<私>」をどのような気分のときに言いたくなるか、を解明しようとしていたんだろう
934 :
919:2010/01/25(月) 18:57:55 0
「<子ども>のための哲学」を全部読み終えました。
この人(永井均)の哲学は、
<私>と<道徳>という独自の疑問点から出発した哲学であり、
そしてそれがそのまま
<私> ウィトゲンシュタイン的認識論?
<道徳> ニーチェ的価値論?
のそれぞれの独自解釈によって新たな次元(それらが合成され一つになった)に
昇華されるところを目指しているという感じでしょうか?
<私>と<道徳>の問題は、他者というものを考えていく上では切り離せない関係であり
また問題の本質としては、まさにこの二つ自体が同じところを別角度から眺めたような
特異なものであるという点、つまり他者と共有し続ける事が不可能である、
まさにこの<世界自体>の問題であるという事に尽きるという感じでしょうか…
そしてこの思索(永井自身の)を通じて、読者に独自の<哲学>を
つまり他人には理解されない問題を考えてもよいという事を知って欲しいということが
この本の一番伝えたかったことなのでしょうか。
書中では「哲学と思想の違い」を凄く強調されてましたね…
どんなに他にない独自の哲学でも、それを他者が共有した時点でそれはもう思想なんだと。
だからそんな思想ばかりに溺れることなく、どんなバカげたものであっても
自分の純粋な疑問というものがあれば、それを徹底的に考えてもいいんだと…
全体としてのテーマは大体こんな感じでしょうか…
935 :
つづき:2010/01/25(月) 18:59:04 0
「第二の問い」のニーチェ解釈のところは面白かったですし
ニーチェ自身がキリスト教的弱者(ルサンチマンの人)であり、
だからこそ圧倒的多数の人々が居る次元が強者の次元に見えた
という話は、なるほどと思いました。まぁこれも一つのニーチェ解釈なのでしょうけれど。
でもニーチェの話は、現代日本の様に、特に唯一の信仰を持たない人々が多数を占める社会では
よく分かるというか、確かに特に変なことを言っているような気はしないですよね…
なんというかニーチェ自身は、至極当たり前の事を言っていただけだったんでしょうか。
ルサンチマン的人々が如何にして世にはびこるのか?という事に関する、叙述の部分は
説得力があったし、論理的にも明快で且つ平易に解説されてて本当にわかりやすかったですね。
ニーチェの哲学ってのはやはり、様々な理由からそういう狂信的な
ルサンチマン精神に侵された人々にこそ必要なのかもしれませんね。
(永井解釈では、逆に言うと、普通の人にはまったく必要のない読み物なんでしょうか)
最近は政治も左巻きにちょっと振れて来てるみたいなので
極端な思想を持つ人々は、こういう話を読んで、
バランス感覚を失わない様にした方がいいのかもしれません。
ところで、ちょっと思ったのですが、
時代的にはニーチェとマルクスって被ってますよね?
お互い、それぞれの思想について何か言及した事実はあるのでしょうか?
ニーチェがマルクス主義をどう思っていたのかはちょっと気になりますね。
という感じのしょうもない哲学初心者の
稚拙な感想にしかなってないレスでスレ汚してしまってすみません。
う〜ん、手元にはあと
「私・今・そして神」
「道徳は復讐である」
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
「<私>のメタフィジックス」
が残ってるけど、どれから読もうかなぁ…
936 :
835:2010/01/26(火) 04:57:48 0
>せめて「私・今・そして神」を1回ぐらいは通読(というか熟読!)してからにしてね…
とのことですが、私はあの本は完全なナンセンスに基づいたものとしか思っていませんので、
申し訳ありませんが、再読はせずにレスします。ちなみに、私の「私」「今」に対する
考え方は、大森荘蔵のものに似ています(たいして読んでいるわけではないですが)。
それから、たくさん質問をしてしまいましたが、知りたくてきいているだけであって、他意は
ないので、どうかお許しください。
937 :
835:2010/01/26(火) 05:00:19 0
>>921 やっぱり、なんとなく言っているだけだったんだなw
>……といった世界観は疑いようがなく真であるように感じます。
そんなもの、いくらでも疑えますよ。とぼけたこと言ってないで、まず疑ってください。基本ですw
>知覚と実在が別々のものとして考えられるようにならなければならない
そのような意味での「知覚と実在」が意識において(この場合、脳においてと言ってもよいのだが)
分離するということは「私は見ている」という言葉を理解した時、自動的におきるのであって、
そんなことは「客観的」とも「間主観的」とも言わないだろう。単に主観的なことだろう。
>このようなプロセスを、多分幼少の頃辿ったからこそ、
>私は科学的世界観を信じているのだと思います。
そういったことは、永井が「3日目」で述べていることであり、そんなことでは「科学的世界観」は成立
しませんよ、と私は言ったわけです。私が「世界観」と言っているのは「神が世界を創造した」とか
「人は死んだら天国や地獄に行く」とかいったことです。「地球は46億年前に形成された」とか
「ヒトという生物は突然変異と自然淘汰によって発生した」とかいう話には興味ないんですか。そういう
知識はあなたにおいてどういう位置づけになってますか。あなたは「物質は原子によって構成され」と
言いましたが、そんなこと知覚した人はどこにもいませんよ。
938 :
835:2010/01/26(火) 05:02:22 0
>>922 >一つ目の意味は、それぞれの人が自分自身を指す、という意味での「私」です。
「私」という語の一般的な意味はもちろんそういうものだが、あなたが他人の自分自身を指して「私」
などと言うことはありえないだろう。あなたが「彼は『私は甘いものが好きだ』と言った」と言ったと
しても、二重カッコの中の「私」という語を使っているのはもちろん「彼」です。
>二つ目の意味は、世界に一つしか存在していない私を指す、という意味での「私」です。
私は、あなたの使う「私」という語をはじめからそのようにしか受け取っていないし、ふつうに人は
誰でもそうでしょう。哲学的に「私」一般、すなわち「自我」について論じると言うなら話は別です。
だから、私は「私」と「<この私>」の違いを説明してくれと言ったわけです。
>AさんやBさんの視点から開かれている世界、つまりAさんにとっての<私>やBさんにとっての<私>がある
その「Aさんにとっての<私>」とあなたが他の箇所で使っている「<私>」は同じものを指しているのですか、
別のものを指しているのですか。
939 :
835:2010/01/26(火) 05:04:11 0
>>923 >他人が使う<私>と私が使う<私>の間に違う使用方法を与えることが出来ない
常識的に考えれば、あなた以外の人が使う<私>とあなたが使う<私>の使用方法は、明らかに違うでしょう。
身体が別なのだから。あなたが
>>922で「<私>」を説明する時、あなたの体に言及しましたよね。それとも、
あなたは何か別なことを言っているのでしょうか。ウィトゲンシュタインは、あなたの使う「私」と
あなたの使う「<私>」の違いを説明せよ、と言っているのであり、永井もそう解釈しています。「〈私〉の
メタフィジックス」の該当箇所を読んでください。
これはただの疑問なんですが、あなたが、
>、<私>はただ唯一それだけが存在するものであり
と思っているなら、なぜ、
><私>という表現もまた、他人が使う<私>と区別することは出来ません。
などということが問題になるのでしょうか。あなたの使う<私>とあなた以外の人の使う<私>の関係がどうしても
つかめないのですが。区別したいなら別の言葉を使えばよいし、区別したくないのなら、何の問題もないでしょう。
940 :
835:2010/01/26(火) 05:06:23 0
>>924 >この意味でなら、自己と他者の差異は生き続けるはずです。
多分、他人においてそのような自己と他者の差異が存在するということを言っていると思うのだが、
どういうことなのかわからない。あなたは「他人は<私>ではない」ということを言いたくて、「<私>」
という表記を導入したんじゃないんですか(「〈私〉のメタフィジックス」や「〈子ども〉のための
哲学」を読むかぎり、永井の場合はそういうことではないらしいが)。
私の言っていることはこういうことです。私は「私の身体」と「他人の身体」をウィトゲンシュタイン的
な仕方で区別している。一方、他人のAさんとBさんをそのような仕方で区別できるということは論理的
にありえない。しかし、他人がそのような仕方で自己と他者を区別しているということを、心的事実と
して理解することは十分可能である(関係ない話だが、幼児にはこのような心的事実はないだろう)。
しかし、そのような心的事実は(特殊な思考実験の場合を別にすれば)身体の同一性を基準にして帰属
されるしかない。しかし、私やウィトゲンシュタインは、身体や人格の同一性のことを指して「私」と
言っているのではない(同時に、「私」はひとりの人間でしかありえない)のだから、その点においては「理解
できないのでなければならない」。他人の心はちゃんと存在しているが、他人たちは「自己と他者」ゾンビ
でしかありえないわけです。そして、このことは一般的なこととして述べてよいのです。これは、人間と
いう生き物において一般的ということではなく、数学的認識が「一般的」であるような意味で「一般的」
なのです。「青色本」の「私の独我論」の議論が理解可能というのはこういう意味です。
941 :
896:2010/01/26(火) 19:48:52 0
>>936 >あの本は完全なナンセンス
せめてどこがナンセンスなのか、どういう理由でナンセンスなのか、
を語ってくれないことには、こちらとしても説明しようがなくなってしまいます…
>知りたくてきいているだけ
質問はかまわないのですが、本当にお願いだから、
先に「私・今・そして神」を"しっかりと"読んでみてください!
2章まででもいいから。
あなたはあの内容がナンセンスと言いますが、
しっかりと読めばそれがなぜナンセンス(語りえないもの)
とならなければならないか、という点も含めて書いてあるんです。
速読が出来る本ではないので、面倒だろうとは思うけれど…。
942 :
896:2010/01/26(火) 19:49:46 0
>>937 >やっぱり、なんとなく言っているだけだったんだなw
確かに客観的世界が成立したとしても、ではその世界の内部が具体的にどうなっているか
という点については難しい問題がありますから
簡単に「信じている」とか言うのは浅はかでしたね。
(確かにドラゴンがいようが魔法があろうが、客観的世界であることに
変わりはないし…(でも魔法はカテゴリーに反する…か?))
ごめんなさい。
>「私は見ている」という言葉を理解した時、自動的におきる
それは確かにそうなんですけれど、
そこには超越論的構成作用が働いているのでなければならない、
ということが「カントの比類なき洞察」なのでは?
>「科学的世界観」
申し訳ない。この点については訂正します。「客観的世界」としてください。
ただ私は、その世界の中身がおよそどんなものであれ、それが一つの世界として把握される
ものなのであれば、永井のしたような議論は前提されると考えます。
943 :
896:2010/01/26(火) 19:50:47 0
>>938 >二重カッコの中の「私」という語を使っているのはもちろん「彼」です。
確かにそうなんですけれど、それはもう既に「それぞれの人が自分自身を指す」という意味で使われている、
というかそう理解をせざるを得ない語になってしまっている、わけでしょう?
例えばこの文の「私」に対しても、あくまでも二つ目の意味に固執しつづけるとしたら
「彼は『私は甘いものが好きだ』と言った」
の文を見聞きした人物Aがいるとして、Aという人は甘いものが好きではないという設定だとしたら
この人の反応は
「いや、違うよ? 私は甘いものは好きじゃないよ?」
というような反応になるんじゃないかと思います。
つまりこのAという人は、私という語を二つ目の意味でのみ解釈する限り、
「彼は『私は甘いものが好きだ』と言った」という文と
「彼は『Aは甘いものが好きだ』と言った」という文が
違う意味だと理解できないんです。
(誰が「私」という語を使ったとしても、それはAのことだと理解されてしまう。二つ目の意味に固執する限りは!)
実際、これに類することは幼い子どもなら起こりうるでしょう。『なぜ意識』p13-14のように。
発達心理学の三山問題だとかは、このことが問題なわけでしょう?
ちなみにこのような説明も、すでにAという
"他人の目から開けている世界"を想定した説明なので
『なぜ意識』二日目の現象判断のパラドックスと同じ問題があります。
>私は、あなたの使う「私」という語をはじめからそのようにしか受け取っていないし
確かにここまでなら二つ目の意味の私ですけど、
>ふつうに人は誰でもそうでしょう
こう言ってしまったら、それはもう一つ目の意味での私になってしまっているのでは?
>「私」と「<この私>」の違い
一つ目の意味と二つ目の意味の違いです。
944 :
896:2010/01/26(火) 19:51:46 0
>>939 >あなた以外の人が使う<私>とあなたが使う<私>の使用方法は、明らかに違うでしょう。
確かに「意味が同じである」わけはないですよね…w申し訳ない。
言いたかったのは「同じ種類の文法的真理である」ということです。
だから「<私>に見えるものだけが真に見えるものである」に対するウィトの反撃は
「それは(誰もが語れる)文法的真理を述べているに過ぎない」となるんでしょうね…
ちなみに「真に実在する神」と「定義的に存在する神」って同じ意味だと思いますか?
>>940 >私の言っていることはこういうことです。…(略)…
なるほど。
でもその
>ウィトゲンシュタイン的な仕方で区別
はもう既に"誰であろうと"理解できる(原理的に理解できてしまいうる)区別であることは
暗黙の内に前提されている、わけでしょう?
例えばあなたはこの文章を私に向けて書いたのだから、"私も"理解できる
ということは前提しているわけですよね?
多分そこのところが、わたしとあなたの前提の
食い違いになってしまっているのではないか、という気がします。
前提の食い違いについて知りたいので聞くんですが
「私・今・そして神」p54の箱世界の比喩に関してはどう思います?
この比喩もナンセンスと思います?
945 :
896:2010/01/28(木) 07:47:47 0
申し訳ない。よく考えたら
>>943で
>現象判断のパラドックスと同じ問題があります。
といってますがこれは同じ問題な訳無いですね。
なぜかこれ書いてるときはAは私(896)のゾンビ複製体なんだと思ってました…。
現象判断のパラドックスには「全ての性質が同一」という前提が欠かせないけれど
Aとあなたの性質が同じなわけ無いですね。
言いたかったことは、これは他人に関する議論なので既に
心理的水準での現象的な<私>になってしまっている
ということです。
>>933 285はむしろ永井が意識の単数性を自明の前提としていておかしいと批判してるんじゃないの?
947 :
835:2010/02/02(火) 08:36:58 0
test
948 :
835:2010/02/02(火) 09:13:31 0
アク禁で書き込めませんでした。
「私・今・そして神」を探したのですが見つからないので、すみませんけど、やっぱり読まないで
レスします。
>せめてどこがナンセンスなのか、どういう理由でナンセンスなのか、を語ってくれ
私としては、
>>940のウィトゲンシュタイン解釈で、永井哲学に対する批判はきちんとできていると
考えています。はっきり言ってあなたは全くわかっていませんし、あなたのような人に簡単に
わかった気になられても困りますから、「(「青色本」も参照して)よく読んで」「気長に」自分で
考えてみてください、と言っておきますw
949 :
835:2010/02/02(火) 09:15:32 0
>>943 >それはもう既に「それぞれの人が自分自身を指す」という意味で使われている、
>というかそう理解をせざるを得ない語になってしまっている
「私」という語が、普通は代名詞として使われるということでしょう。何を問題にしたいのかまるで
わかりません。
>私という語を二つ目の意味でのみ解釈する限り、…違う意味だと理解できないんです。
これはトートロジーでしょう。
>これに類することは幼い子どもなら起こりうるでしょう。
「私」という語と固有名の区別がまだついていないということでしょう。周りの人間が正せばよいので
あって、何の問題もありません。関係ないですが、永井は「私」概念がなければ「体験」概念は成立
しないと書いていましたが、これは間違いでしょう。固有名しか使わなくても言語は成立しますし、
「体験」概念は存在するでしょう。
>"他人の目から開けている世界"を想定した説明
なんでこんな考え方するかな、と非常に不思議なので、あくまでもただの「参考」ということで、私の
考え方を述べておきます。人物は世界の内部に存在するのであって、世界は人物に帰属しないだろう。
あなたは「地球は丸い」と思っているでしょうが、そう思っているのは「私」だからといって、「私」
にそういう事実を帰属させたりしないだろう。痛がっている人をみたら、あなたは「痛みを感じている」
ということをその人に帰属させますよね。そしたらそれで十分なのであって、あなたの言うような「<私>」
を想定する必要はまるでありません。もちろん、それはあるでしょう。しかし、そう言うことに意味があるのは
他人が、自分の考える「世界」について語るからであり、それが私の考えるものと少し違っていたりするから
です。その場合でも、どちらも正しい、というわけではなく、どっちが正しいかは調べればわかります。
「他人の世界」のようなものについて真剣に想像することに意味があるのは、芸術家なんかのやっていること
を理解しようとする場合だけでしょう。もちろん、ある意味で、世界は私の世界です。しかし、これは、私は
私の知っていることしか知らない、ということを言い換えたに過ぎません。
950 :
835:2010/02/02(火) 09:17:48 0
>確かにここまでなら二つ目の意味の私ですけど、
誤解していると非常にまずいので、念のために書いておきますが、私は他人の使う「私」という
語の指示対象を身体によって識別している、と言ったに過ぎません。もちろん、ここは掲示板
ですから、あなたの身体の存在は推論されているに過ぎませんが。
>こう言ってしまったら、それはもう一つ目の意味での私になってしまっているのでは?
よくわからないのですが、私が何か文法的真理のようなものを言っている、ということでしょうか。
これは経験的事実ですよ。世の中には変な人もいます。
>一つ目の意味と二つ目の意味の違いです。
「<この私>」と言わずに、「896という人物」と言えばいいと思います。
こういう結論を避けるためには「〈子ども〉のための哲学」に書かれているような議論をすることに
なると思いますが、それについて今の私の意見を書いておくと、永井は「他の自己意識」とは何かと
いうことをきちんと考えてないのだ、という結論を出さざるを得なくなりました。正直言って、
哲学者がなんでこんな議論をするのか、まるでわかりません。
>>921の書き込みを見て思ったのですが
あなたは現象学を少しでも勉強した方がいいと思います(自分がわからなかったものを他人に勉強
させるというのもなんですが)。
951 :
835:2010/02/02(火) 09:20:13 0
>>944 >ちなみに「真に実在する神」と「定義的に存在する神」って同じ意味だと思いますか?
あなたや永井が「神」という言葉で何を言っているのかまるでわからないので、答えようが
ありません。
>例えばあなたはこの文章を私に向けて書いたのだから、"私も"理解できる
>ということは前提しているわけですよね?
何が言いたいのかわからないのですが、そんなの、私に理解できたのだから他人にも理解できる
に違いない、という勝手な思い込みに過ぎませんよ。もちろん。そもそも、ウィトゲンシュタイン
だって他人に過ぎないわけだし。あなたが何のためにわざわざ哲学書なんかを読んでいるのか、
ちょっと理解しがたいです。「ちゃんと理解できた」と思えたことの記念として、勝手に書き付けた
に過ぎません。
>>945 >他人に関する議論
普通は「架空の人物」と言うのであって、「他人」とは言いません。
>心理的水準での現象的
あなたの話と関係ないですが、私に言わせれば「心理的水準での現象的」という言い方は何の意味も
ありません。単に「他人における現象的」と言えばいいのです。「心理的」という概念は科学的言語
(認知科学、生理学、物理学)によって、行動を予言できる、あるいは、予言しうる、という事実が
あるから実質的な意味があるのです。永井は「私(永井)は他人の振る舞いや発言のうちに「現象的」
と呼ばれるものを見ている」ということをもって「心理的水準での現象的」と言っているわけですが、
そんなことを言ったって、超能力者じゃあるまいし、なにひとつできないのだから、そんな言い方が
意味を持つはずがありません。よくわからなかったのですが、この解釈は多分正しいでしょう。
952 :
896:2010/02/05(金) 00:10:42 0
>>949 >これはトートロジーでしょう。
Aと私の意味が同じだと考えるならそうなりますね。
同じではない、ということが永井哲学のキモであり
最も重要な部分だと思うのですけれど。
というか最上段(<私>や<今>や<現実>)であるという性質
そのものが累進するのだから、これは自明では?
例えば「<子ども>のための哲学」p83の「個別化された脱人格的自我」は
明らかに誰もが持てるものだけれど
これはAやBといった固有名詞で表せる人物とは違いますよね。
Aという人物が"その"個別化された脱人格的自我ではなく
"他の"個別化された脱人格的自我を持っている、という事態はありうるわけですから。
もちろんこれは認識は出来ないが理解だけ出来る区別なので
ラッセルのようにそもそも脱人格的自我なんて存在しないんだ
と論じてしまうことも出来ます(ラッセルが論じたのは過去についてだけど)。
しかし永井は認識も理解も出来ない区別と対比してその可能性を論じたわけです。
>周りの人間が正せばよいのであって、何の問題もありません
「なぜ意識」p118の「問題の本質は〜」という部分から読み直してください。
ここでの「言語を成立させない方の見方」は
言語は成立していなくとも中心化されてはいるので
「私・今・そして神」の用語でいう「カント原理」的な見方の
ことだと思ってもらって構いません。
953 :
896:2010/02/05(金) 00:11:31 0
>人物は世界の内部に存在するのであって、世界は人物に帰属しないだろう。
個別化された脱人格的自我の在り方を考えるには
世界そのものを複数化して考えるしかありませんよね。
もちろん世界(というか<私>)は一つなので
これは言語が見せる夢ですけど。
>私の考えるものと少し違っていたりするから
だからそういう「中身」の違いじゃないんですよ…。
もう説明するのも面倒なので「私・今・そして神」の
「神の意思」と「神の知性」の違いについて書いてある部分を
読んで下さい。
>>950 >「<この私>」と言わずに、「896という人物」と言えばいい
それだけに尽きない事実がある、ということが問題の「全て」です。
私は896という人物ではないこともありえたわけですから。
少なくともライプニッツ原理的にはね。
あと
>>921だけど考えてみたら間違ってますね。
統覚の超越論的構成作用は主体が一人でも成立しますから。
客観的世界を成立させる作用(統覚)と客観的世界の内部で<これ>が何であるか
が判明する作用(言語の成立)は、独立に論じるべきことでしたね。
この辺が曖昧なまま書いてました。申し訳ないです。
954 :
896:2010/02/05(金) 00:12:12 0
>>951 >「神」という言葉で何を言っているのかまるでわからない
>>909および
>>920で書いた神の存在論的証明は正しいですか?
それとも間違っていますか?
「なぜそう思うのか」という理由も添えて回答してくださいね。
>私に理解できたのだから他人にも理解できるに違いない、という勝手な思い込み
規則に私的に従うことは出来ず私的な規則に従うことしか出来ないのだから
"原理的に"私だけにしか理解できない言語はありえないでしょう。
だとしたら「ウィトゲンシュタイン的な仕方で区別」は誰であろうと理解しうる
ことは前提されるのでは。規則への従い方の水準では一致してしまうのだから。
私が言いたかったのは、それを前提してしまう限り「私・今・そして神」p54で言うように
超越性の構造を錯綜させることになるのではないか、ということです。
あと永井の私的言語論はカント原理の観点から論じられるので、私的言語は必然的に可能です。
(しかし主体の持続を前提しないライプニッツ原理的な、つまり端的な私的言語ならば不可能だけど…)
955 :
896:2010/02/05(金) 00:12:56 0
>普通は「架空の人物」と言う
架空の人物であれ、それは<私>ではないので問題の論点は失われていません。
>「心理的」という概念は科学的言語
「ナガイノシンリテキ」という独自の用語と理解してもらっていいです。
>他人の振る舞い
ではそもそも今秘性が存在しない「時間」で考えてみればいいだけでは。
>よくわからなかったのですが、この解釈は多分正しいでしょう。
よくわからないのに正しいとか言われたら困るんですけど。
「現象的―心理的」の対比そのものが累進するということが、一番重要なことなのに。
あとここから立ち去るつもりがないなら「私・今・そして神」を読んでね。
立ち読みなり借りるなり図書館なり新しく買うなり、いくらでも方法はあるでしょう。
956 :
835:2010/02/06(土) 04:40:57 0
>>952 >「なぜ意識」p118の「問題の本質は〜」という部分から読み直してください。
>ここでの「言語を成立させない方の見方」
まさにその論点について、
>>940で批判しているのです。「正当」ということの正当性について説明して
ください、と永井先生に対して言っているわけです。
>>953 >だからそういう「中身」の違いじゃないんですよ…。
「転校生とブラックジャック」は何度も読んでいるので、そんなことわかりきってますよ。そういう
考え方は間違ってますよ、ということを
>>907で言い、
>>940でちゃんと説明したのです。あなたは
なかなかわからないと思いますが、もしよかったら、気長に考えてみてください。考えたくなかったら
別にそれで結構ですが。実を言えば、私は永井先生がこのスレを見て、どこかで何らかの反応をして
くれることを期待しているのです。そんなことはないかなw
>それだけに尽きない事実がある、ということが問題の「全て」です。
>私は896という人物ではないこともありえたわけですから。
「転校生とブラックジャック」は何度も読んでいます。
「あなたという人物がそう言っているにすぎない」あるいは「あなたという人物がそう思っているに
すぎない」というのが私の答えです。
957 :
835:2010/02/06(土) 04:42:42 0
>>954 >
>>909および
>>920で書いた神の存在論的証明は正しいですか?
>それとも間違っていますか?
ここは永井スレだと思うが。でも、一応答えておきます。キリスト教のことはわからないので、神学には
全く興味がありません。そこで言われている「神」はキリスト教徒が考えている神のことを指している
わけでしょう。私は、身近な人から「神」という言葉を教わることができませんでしたが、日本人の
書いたものを読んで「神」という言葉や観念についてそれなりの理解を持っているつもりです。こう断った
上で、私のくだらない意見を書いておくと、実在しないようなものは神と呼ばないだろう、だとすると
神が実在しないということはありえないということになる(この言い方が意味を持つのは「神」をなんらか
の形で了解していることが前提になるが)。だからといって、神は実在すると「主張」するのは屁理屈
でしょう。しかし、一般にすべて屁理屈と決めつけるのは独断的でしょう。
どこかで読んだのですが、こういう議論は一種の暗号なのだそうです。そうだとすると、「これは間違って
いる」とか「あれは正しい」とか、外部から批評するのは基本的に的外れということになります。
958 :
835:2010/02/06(土) 04:44:31 0
>>955 >「ナガイノシンリテキ」という独自の用語と理解してもらっていいです。
>「現象的―心理的」の対比そのものが累進するということが、一番重要なことなのに。
あなたがたがそういう用語を採用するのは自由ですが(「心理的」という用語は永井の発明ではないので、
ひょっとしたら自由ではないかもしれないが)、単に言い換えただけだし、学問の世界や世間でそういう
言い方が使われるということはありえないでしょう。
>あとここから立ち去るつもりがないなら「私・今・そして神」を読んでね。
いやですw
959 :
896:2010/02/07(日) 17:15:53 0
>正当性について説明してください
「私・今・そして神」の3章で既に説明されています。グダグダ言ってないで読んでください。
要点だけ言えば
@私的言語も「独立した何か」に訴えかけることが出来る。
Aカント的枠組みに従うなら、客観的世界を初めて成立させる私的言語というものが考えられる。
B私の言語の中にある言語ゲームの中にある私の言語、という構造は必然的。
C私的言語の側に立てば、「(公共的)言語を成立させない方の見方」は正当である。
ということになるかと。
>
>>940でちゃんと説明した
>>944で私「なるほど」とか言っちゃってますけど実は
「他人の心はちゃんと存在している」の部分より上の文章からどうして
この文が導けるのか、どうやっても解らないんですよ…。
確かに「他人の心の中は解らない」のような命題は事実ではなく
文法的真理を語っている命題である、というところまでは解りますけど
そこから他者が実在するということはどのように導かれるんですか?
あと「理解できないのでなければならない」と言ってますけど
この文脈ならむしろ「理解だけしか出来ない」と言った方が正しいのでは?
「身体や人格の同一性ではない『私』」という誰もが持てる一般的なものについて述べているのだから。
他人であるAさんが「身体や人格の同一性ではない『私』」を持っている
という状況は理解可能ですよね。もちろん原理的に認識不可能だけど。
ウィトが言う「理解できないのでなければならないということが本質的」っていうのは
端的なライプニッツ原理に関することだから、端的でなければ理解だけは可能ですよ。
というか「「自己と他者」ゾンビ」という語の定義もないし
正直言ってこれじゃ意味不明なのですが。
960 :
896:2010/02/07(日) 17:17:11 0
>「あなたという人物がそう思っているにすぎない」
『でも、先生。いま先生がJ君に対して使われた「きみ」という代名詞は、
じつは「J」という固有名詞の代わりをするというはたらきはしていませんね?』
転校生とブラックジャック p25
>神は実在すると「主張」するのは屁理屈でしょう
他者が実在すると「主張」することが屁理屈ではない理由は何なのですか?
まぁ永井自身は他者が実在しないと「主張」はしていないけど…。
>外部から批評するのは基本的に的外れ
なぜ的外れにならなければならないのですか?
それは「存在する」という事実が、それが今現に成立しているということ以外の
どんな性質を持ち出してきても説明できないからでしょう?
だったら
>>897の言いたいことだってわかりますよね?
>いやですw
いやなら消えてね。
「私・今・そして神」は永井自身が「哲学の開闢の礎石」
とまで言うほどの自信作なのだから、これを読んでない人とは
これ以上の議論は出来ないよ。
私自身はこの本が現在の永井の著作の中で最も高水準な議論をしていると思うし、
この本にしか書かれていないことも多いのだから。
961 :
835:2010/02/08(月) 15:29:10 0
>>959 >
>>944で私「なるほど」とか言っちゃってますけど実は…
>正直言ってこれじゃ意味不明なのですが。
「気長に」と書いたのに2日やそこらでレスしないでください。私は「〈私〉のメタフィジックス」
のこの箇所読んで「つらつらと」だけど、一応数年間考えたんですよ。私は、本気で永井先生に
読んでもらえることを期待してますが、そんなことはないだろうか。私は、専門家から見て正しい
といえるようなことは書ける訳でもないし、
>>951では「勝手に書き付けた」とか言ってますが、
私の内部では正しさに確信を持ってますし、別に天才的なことを言っているわけではないので、
永井信者ではない熱心な永井読者だったら、全く読めないような文章ではないでしょう(?)。
わざと曖昧に書いたところもあるのに、「なるほど」なんて言われて、がっくりしましたが。
もし、誰かに応答してもらえれば、私が間違っていることが判明することもあるのですが。
962 :
835:2010/02/08(月) 15:30:56 0
>>960 >『でも、先生。いま先生がJ君に対して使われた「きみ」という代名詞は、
>じつは「J」という固有名詞の代わりをするというはたらきはしていませんね?』
誰が何のためにこんな引用をしたのかまるでわからないが、「私はN先生でも永井均教授でもありません」
と適当なことを書いておこう。
>他者が実在すると「主張」することが屁理屈ではない理由は何なのですか?
私は一度もそんな主張をしてませんけど。
>>907のことを言っているんですか。私は、別に哲学的主張を
したわけではなくて、コップが実在しているように、他人が実在しているので、ありのままの事実を述べた
だけです。別に、珍奇なことを言っているつもりはありませんが。
963 :
896:2010/02/09(火) 01:13:36 0
何日だろうが何年だろうがどうでもいいよ。くだらない。
>>940に対する私の批判は
>>952と
>>959で書いたように
「身体や人格の同一性ではない『私』」は誰でも持てるものだから
それは理解可能な存在者であり、永井が問題にする<私>とは異なるものである、ということに尽きる。
>わざと曖昧に書いた
あきれた。なぜそのようなことをする必要があるわけ?
結局自分の議論に深みがあるように見せかけてるだけかよ…。はぁ。
あとさ、批判の対象が私の「態度」なのはかまわないけど、それ以上に議論の「中身」に対して批判しろよ。
そうじゃなかったら何の哲学的な意味も無い。
>「私はN先生でも永井均教授でもありません」
それがどのように私に対する批判に繋がるわけ?
そういう重要な過程の部分を論証しろよ。
>コップが実在しているように、他人が実在している
ふざけてるの?
熱心にレスしてくれるものだから
重要な論点が、何かあるのかと思ったけど時間の無駄だった。
>>940以外の論点は出てきそうにないので、私からのレスはこれで終わりにする。
964 :
835:2010/02/09(火) 05:17:46 0
>それは理解可能な存在者であり
誰が理解してると言うのですかw
>なぜそのようなことをする必要があるわけ?
個人的には、永井の言葉の設定自体正しくないと考えているからです。
>それ以上に議論の「中身」に対して批判しろよ。
ちゃんと、丁寧にいくつも批判したつもりですが。こんなことを言われるのは心外です。
>ふざけてるの?
現象学を勉強してくださいw
965 :
考える名無しさん:2010/02/24(水) 12:59:56 0
独自に哲学している風を強調しているが、解釈としてはそんなに珍しいものでもない。
ひねた部類の人間にウケがいいんだろうけど、そういう人は永井思想を持ってしまうだろう。
Amazonのレビューで、「xxxという思想家には興味がない、永井の<哲学>が〜云々」という表現が多いが、こいつらは他の思想家につばを吐いて聞く耳を持たないんだろうな。
それよりこのスレのレスが異様に長いのばっかなのがキモイ
一行で何を語れると言うのか
968 :
835:2010/02/24(水) 13:40:49 0
皆さん、ウィトスレから来てくれたんですか?
>>966 キモくて悪かったですね。そんなくだらないこと言ってないで、何か意見くださいよ。
>>968 意見を書きたくなるような内容のあるレスが見当たらない
965にはかなり同意。
>今月の 30 日までにお客様にお支払する予定となっております。
おいおい、正気か? w
971 :
970:2010/02/25(木) 01:59:00 0
誤爆スマソ
,..-──- 、
/. : : : : : : : : : \
冒 /.: : : : : : : : : : : : : : ヽ
l l ,!::: : : :,-…-…-ミ: : : : :',
./〜ヽ{:: : : : :i '⌒' '⌒' i: : : : :} ________
|__| {:: : : : | ェェ ェェ |: : : : :} /
. .||ポサ.|| { : : : :| ,.、 |:: : : :;! < うわゎぁぁぁぁぁっ
/|.l ン||_.ヾ: :: :i r‐-ニ-┐| : : :ノ \
|  ̄ -!、 ゞイ! ヽ 二゙ノ イゞ‐′  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| −! \` ー一'´丿 \
ノ ,二!\ \___/ /`丶、
/\ / \ /~ト、 / l \
/ 、 `ソ! \/l::::|ハ/ l-7 _ヽ
/\ ,へi ⊂ニ''ー-ゝ_`ヽ、 |_厂 _゙:、
∧  ̄ ,ト| >‐- ̄` \. | .r'´ ヽ、
,ヘ \_,. ' | | 丁二_ 7\、|イ _/ ̄ \
i \ ハ |::::|`''ー-、,_/ /\_ _/⌒ヽ
___________________________________
このスレを見た人は、10年以内にかならず氏にます。
でも、逃れる方法はあります、
※10日以内に20箇所のスレにこれをはるのです。
すみません、僕も氏にたくないんだす
「外界の共通に見えるもの」もまた、じつは「ブトム」の内部にあるので、じつは共通には見えて
いないのです。「ブトム箱が触れられると凹む」のが見えるということはじつは「ウブトムな」ことで、
そのときミクロ物理的変化が観察されることは「エブトムな」ことでありうるわけです。みんなが共通
に体験できるものなんか、じつはないからです。これは、単純に言って、すべては心の中にある、という
考え方です。(しかも、他人の心の中のことは誰にもわからない、そもそもそんなものが存在するか
どうかさえわからない、ということを前提とした上で、そう言われているわけです。)しかし、ある意味
では、これは単純に真実なのではないでしょうか。
974 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 08:45:49 0
生きてる内はちやほやされるもんだ。
没してなお読まれるとは思えんがね。
やつの著作が全集に組み直されるほど
意義があるとは思えないね。
2ちゃんねる向け。w
976 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 12:20:41 0
>>975 池田のことを言ってんの?
君がそんなことを言うのは2chしか見てないからなんじゃないの?
「全集」がどうのとか言っているが、そんなことを言うのも
君が全集のたぐいをあがめているだけで、実際には読んでいない
からだとしか思えないが。
977 :
923:2010/03/05(金) 14:38:15 0
2ちゃんねる向け
というのは残念ながら
正しいな。
978 :
考える名無しさん:2010/03/05(金) 15:26:12 0
永井均は完全に2ch向け。
もしかしたら、やつは2chで半数以上の自演レスをしてるんじゃないか?
いや、でもそのレベル設定は正解だと思う。
貶す意味なしに。
中二病患者市場への新書本マーケティングという観点なら正解だよ。
2ちゃんねるは中二病患者の巣窟だから、ここでもてはやされて当然。
ただし独在論は処方箋には不向き。中二病患者に覚醒剤を処方するようなもん。
自己救済の道しか示し得ない独在論は、ステアウェイトゥ・ヘルだからね。
中毒信者にしてみれば、アコースティック無しのデスメタル一本じゃなくちゃ
満足できないんだろうけどさ。w
天上天下唯我独尊な独在論を捏ねくり回して飛躍したとしても、
行き着くところ、よくて「色即是空 空即是色」。
ならば、奴の説法など聞くまでもないだろ?
ちなみに978や979が思うレベル高い哲学者って誰?
純粋に知りたいです
哲学素人なもので。。。俺は永井とか野矢とか、日本のしか知らないです
>>981 イエス、モハメッド、シャカ。
この三名の誰でもいいから、完全理解ののち超越できれば、神。w
ほらなw
まこの程度のレベルのスレに
丁度ぴったりってことだ
生き方の処方箋として永井の本読むわけでもあるまいに
永井なんか読む暇があったらプラトン読め
すべての西洋哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない
お前はずっとプラトン読んでろよ
俺は永井読むけど
2ちゃんで人気あるのはニートが多いからだろうね
独在論はニートに親和的だから
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引用であることにも気づかない永井ヲタw
>>989 オマエ様の無能さをそんなに誇らしく語らなくてもいいのに。
991 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 20:11:52 0
永井って要するに中坊のころニーチェにあこがれて哲学者になったというだけの奴だろ。
欠陥を売り物にしているとか言ってるが、<無内容>を売り物にしているといったほうが正確だろう。
もともと興味のなかった話題に口出したがるし。
馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。
992 :
考える名無しさん:2010/03/06(土) 20:13:59 0
あれだけたくさんいた永井信者がどっかにいってしまったので、ちょっとつまらないな。
まあ、その見方はおおよそ正しい。
永井の態度は俺も好きじゃないな。
「あまりにも幼い」とか言っちゃってる部分は(笑)って感じ。
でも永井の本は好きだよ。
独在論は青春の一ページみたいなもん
離人症は青春の一ページみたなもん
読んでると何だか自分もすごく哲学的なことを考えている気にさせてくれる。
これが永井の魅力。いい意味でもね。このスレの信者のレスを見てるとよく分かる。
完全に哲学みたいなことを長々と書いてる。
ま、これがこのスレの結論ということで。次スレは要らないから。
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このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。