911 :
考える名無しさん:2010/08/27(金) 13:18:12 0
超糞スレ常時age
912 :
考える名無しさん:2010/08/27(金) 21:49:13 0
s
913 :
考える名無しさん:2010/08/27(金) 21:54:17 0
>>892 >地球が太陽のまわりを回っているのはそれなりの物理的理由があっての
>とで、たまたまそうなっていたというのはおかしいのではないでしょうか。
だからそれは「物理的必然性」なんですよ。
そして物理法則がそのようにあること自体が「論理的に偶然的」なんです。
断っておきますが、これは哲学的思考法の初歩の初歩なので、
この思考法を理解していないと、ほぼいかなる哲学書も理解できない。
914 :
考える名無しさん:2010/08/27(金) 22:44:36 0
>そして物理法則がそのようにあること自体が「論理的に偶然的」なんです。
もし宇宙が無限に存在するのならば、そのひとつの宇宙が”そのような物理法則”
をもつことは論理的に必然です。
915 :
考える名無しさん:2010/08/27(金) 22:51:34 0
論理的に可能だなんてことはなんでもいえます。
富士山がしゃべることも論理的可能なことだから
現に富士山がしゃべらないことはたまさかのことだなんて
真顔でいわれてもはあ?って感じでしょう。
>>914 必然という言葉の意味に関して混乱しているとしか思えないよ。
>>915 その「はぁ?」という話をなぜやるのか、そこが問題でしょ。
917 :
考える名無しさん:2010/08/27(金) 23:18:42 0
日本人が一般的に、うんこを主食として暮らしていないことは
たまさかのことにすぎない
これに簡単に同意できるだろうか。無理だ。
なぜなら、うんこをたべると腹をこわす可能性がたかいのだから、
うんこを主食にしないことは理由があるから。
うんこをたべると腹をこわすという因果的関係を
前提にしたうえで、なにかをたまさかだという場合と
うんこをたべると腹をこわすという因果的関係を
偶然的関係として括弧にくくったうえで、なにかをたまさかだという
場合とでは、違ってくる。
つまりいいたいことは、なにかをたまさかのことだという
ためには、前提としてどこまで括弧にくくっているのかについて
明示しないかぎり簡単には同意できないし、すべきではないという
ことだね。
>>915 > 論理的に可能だなんてことはなんでもいえます。
どうでもいいけど、文字どおり「何でも」言えるの?
例えば、「後悔先に立たず」ならぬ「先に立つ後悔」、つまり、はじめから後悔すること(しなければ
よかったと思うこと)を目指して行為することは可能なの?
まあ、これは実際可能なのかもしれないが…
919 :
考える名無しさん:2010/08/27(金) 23:32:40 0
>どうでもいいけど、文字どおり「何でも」言えるの?
何を論理的に不可能とするかに依存しますね。
しかしいいですか?
なにが論理的に不可能だとされたとしても、
そのこと自体が論理的に偶然なこと=たまさかなこと
だといいはることができます。
だから、どんなことも論理的に可能だということができると思います。
どうでしょうか?
>>918とは別人だけど例えば
物理法則が全部うんこになるとか、
そういう事は理解不能な気がする。
一方、うんこが空を飛ぶというのは理解可能な気がする。
論理的にありえるか?ありえないか?というのは
そういう違いになるの?
921 :
考える名無しさん:2010/08/27(金) 23:49:37 0
意味が不明なこと
論理的に矛盾すること
これらは別のことです。
しかし
”物理法則が全部うんこになるとか、
そういう事は理解不能な気がする。”
ということはかならずしもないでしょう。
物理法則がうんこになるのだから、そうなったら世の中にうんこが
増える(物理法則がうんこなった分)
そして世界から物理法則は消滅する(うんこになったので)
という場合が、物理法則が全部うんこになるのひとつの解釈でしょう。
922 :
920:2010/08/27(金) 23:53:34 0
>>921 う〜んしかしその様な事態を
どう今から想定したらいいのでしょうか?
つまりそれは如何なる事態かという意味を成立させる事が
そもそも不可能ではないでしょうか?
こういうのって突き詰めたら
カントの形式・カテゴリ的な
認識可能か?不可能か?って話になりませんかね?
923 :
920:2010/08/28(土) 00:11:50 0
例えば極端に言うと時空間が存在しない事も可能だった
はありえない(認識不可能)で、時空間を前提した中では
如何に突飛な事でも認識可能な事柄はあるという違いはないですか?
意味が成立しないと論理も成立しないので
最終的にはどこまで認識出来るのかという話になるような気がする。
その認識出来るか否かがそのまま可能か否かの問題な気がするけど。
違うかな…
>>919 例えば、
「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」ということは論理的に不可能だ
と言ったとして、次に
「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」ということは論理的に不可能だ、
ということは論理的に偶然だ
なんて言われても、とりあえず意味が分からないんだが…
そんなこと、本当に言い張れるの?
925 :
考える名無しさん:2010/08/28(土) 13:20:28 0
うんこって食えんの?
カルナップって食えんの?
くだらないアホ話はスルーすべし。
読みに値しない「なんちゃって哲学」も同様にスルーすべし。
このスレに限らないけど、ほんと不毛だよな。
特に抽象度の高い哲学や文学のスレは、どうにもならない。
まさに人生の縮図。
928 :
920:2010/08/28(土) 15:50:09 0
永井均 6 【 】
咥in
>>926 ここ30レスで言うと
どれが「アホ話」で、どれが「なんちゃって哲学」なんだ?
んで読みに値するレスはどれだ?
ka-LunaTube
932 :
考える名無しさん:2010/08/28(土) 20:56:41 0
>>924 「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」
ということは論理的に矛盾するというだけの話。
矛盾することは不可能だというのはなぜかといわれれば、
たまたま世界がそうなっているだけのことで
そうなっていない世界は可能だと答えることもできるし、
矛盾することは不可能だと認識するようにわれわれの理解力が
たまたまそうなっているだけで、別のように認識できることも
ありえたということもできでしょう。
別になんの問題もありません。
そもそもこの宇宙に矛盾がないことを誰かたしかめたのでしょうか。
ひょっとしたら論理的に矛盾したできごとは起こっているのだが、
たまたまわれわれには認識できないだけかもしれません。
ようは、論理的に可能だなんてなんでもいえるのでだからなんですかって
話ではないでしょうか。
933 :
考える名無しさん:2010/08/28(土) 21:02:32 0
はっきりいって、”たまさか”とかいうのなら、
この世にできあがっているあらゆるすべてのことがたまさかにそうで
あるにすぎないのではないでしょうか。
それをわざわざある特定の事柄をとりあげて、それがわざわざ
たまさかだというのは何か意味があるのでしょうか。
あらゆることがらがたまさかなのだから、ことさらなにかをたまさか
だといってとりあげる意味はないですね。
934 :
考える名無しさん:2010/08/28(土) 21:09:29 0
もしだれかが、現代人は一般的に朝昼夜と一日三食食う傾向性があるが
それはたまさかのことで、一日100食食べることもありえるとか
いう人がいたら、だからなに?っていえばいいんですよ。
そんな話にいちいち付き合う必要はありません。
人間は一般的に子供から大人になる傾向性をもっているが、
それはたまさかのことで老人から子供になることもありえるとか
いう人がいて、だからなんなのでしょうか。
935 :
考える名無しさん:2010/08/29(日) 00:22:05 0
論理トレーニング100題常時age
>>932 そんな訳の分からんことをもし本気で言ってるのなら、まず、
「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」
ということが可能な世界とはどういうものか、説明してみろよ。
937 :
920:2010/08/29(日) 04:06:43 0
>>936 要するに認識不可能な事は無意味であって
無意味をさも意味ありげに言ってるのと
意味が規定可能でそれが認識可能なのは違うという事だよね?
それが可能・不可能の根底にあるんじゃないのかなと思ったんだけどね。
自分はそう解したけど、違う?
>>937 そんな話がどこから出てきたのか知らないが、もしそのように言うなら、
「「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」ということも可能だ」
というのは、認識不可能で無意味なのか、それとも認識可能で意味があるのか。
そして、もし後者だと言うなら、どんな認識が可能でどんな意味があるのか。
939 :
考える名無しさん:2010/08/29(日) 09:24:48 0
>>926 お前は何様だよ。
「スルー」とか言って、それはどこに対するレスなんだよ。
また、自己言及乙かよ。
940 :
考える名無しさん:2010/08/29(日) 09:29:14 0
941 :
考える名無しさん:2010/08/29(日) 09:33:51 0
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
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○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
942 :
考える名無しさん:2010/08/29(日) 09:37:30 0
日本人が一般的に、うんこを主食として暮らしていないことは
たまさかのことにすぎない
これに簡単に同意できるだろうか。無理だ。
なぜなら、うんこをたべると腹をこわす可能性がたかいのだから、
うんこを主食にしないことは理由があるから。
うんこをたべると腹をこわすという因果的関係を
前提にしたうえで、なにかをたまさかだという場合と
うんこをたべると腹をこわすという因果的関係を
偶然的関係として括弧にくくったうえで、なにかをたまさかだという
場合とでは、違ってくる。
つまりいいたいことは、なにかをたまさかのことだという
ためには、前提としてどこまで括弧にくくっているのかについて
明示しないかぎり簡単には同意できないし、すべきではないという
ことだね。
943 :
考える名無しさん:2010/08/29(日) 09:50:03 0
944 :
考える名無しさん:2010/08/29(日) 10:12:59 0
>「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」
シュレジンがーの猫の話もありますしね。
矛盾した事態が、不可能なのは、世界の性質なのか、
それが可能な事態を想像(あるいは理解)できない人間の側の
性質なのかという問題なのでしょう。
945 :
考える名無しさん:2010/08/29(日) 10:21:52 0
矛盾した事態が不可能であるとわれわれが認識するのは、
われわれの理解力がたまたま矛盾した事態を不可能と認識するようにできている
にすぎない。それはたまさかのことにすぎないのである。
永井均って、「ルサンチマン思想」「価値転換」という造語をつかってニーチェの誤読をを公表した人なの?
だれか教えて
750 :ヘ(^q^)ヘ鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ (138) :sage:2010/08/27(金) 22:31:27
>>749 ニーチェを誤読してるよな。ニーチェにとってルサンチマンは否定して乗り越えるべき感情であって、
ルサンチマンそのものに価値を見い出すような永井の思想は根本的にニーチェの思想とは相入れない。
その永井の思想をニーチェの思想として流通させてる事は犯罪的だしニーチェに対する冒涜だと思う。
774:ヘ(^q^)ヘ鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ (138) :sage:2010/08/28(土) 00:05:24
ルサンチマン自体に価値を見い出すような永井さんの主張は一介のニーチェ研究者としてあまりにも酷いと思うぜ。
俺らが批判してるのはまさにそこだし、むしろどこの世界でそんなニーチェ読解がまかり通るのか教えて貰いたい。
↑
これってどう思う?
949 :
考える名無しさん:2010/08/29(日) 18:30:21 0
>>949 それで、そういうものが研究されているということが、今までの話とどう関係するの?
951 :
考える名無しさん:2010/08/29(日) 21:57:32 0
952 :
考える名無しさん:2010/08/30(月) 14:43:12 0
うんこって食えんの?
>951-952
うんこ揚げ乙
954 :
考える名無しさん:2010/09/02(木) 16:11:13 0
講談社 〈私〉の哲学を哲学する 永井 均・著/入不二 基義・著/上野 修・著 2,310 46 9月28日 ISBN9784062165563
デカルトやウィトゲンシュタインに触発されつつ、永井均が独自に切り開いた〈私〉の哲学。今日的な課題に関わる大問題を徹底的に哲学する!
>>954 とうとう9月28日か。
あれ?青山拓央の名前が抜けてるような…
957 :
考える名無しさん:2010/09/04(土) 06:27:08 0
958 :
920:2010/09/05(日) 14:32:48 0
>>938 う〜んと、どこから出てきたというよりも
その線で突き詰めたらこうなるんじゃないかなって。
論理的推論の場合、最初に概念が確定(定義)してから
概念同士の関係を規定するという事ですよね?
そうなると、どうしても論理的に矛盾が生じてしまう様な話は
それぞれの概念の定義を変更する等しなければ矛盾は回避不可能だと思います。
ある矛盾が生じている概念定義上での論理的な理解不可能さが
どうしても無意味だとしか思えないのは
やはり結局は認識論的な認識不可能性(これも突き詰めるとカントの認識論的な、になると思う)
という問題として言えるんじゃないのかなと…
だから人間一般が考えて、理解可能な範囲と不可能な範囲(語れない範囲)
は、やっぱり明確にあるんじゃないのかなぁと。
少なくともコミュニケーションが通じる範囲の人間同士にはこれは言えるんじゃないのかな。
結局そこが、可能・不可能 の境目になってるんじゃないのかなと。
人間一般に理解可能(認識可能)なら、どんな突飛な話でも
それを可能世界的に思い描いても意味は通じますからね。
>>958 「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」
という具体例とは直接関係ない話?それとも何らかの関係があるの?
どちらにしても、論理的推論について、認識可能か不可能かが関係する、というのは、
個人的には聞いたことないんだけど。
いや、本当に関係があるなら、説明してもらえるとありがたいです。
問いも解説も、文法的正誤と論理的真偽の区別がついてからにしてくれ。