933 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 13:10:56 0
>>932 そういう類の事実を哲学者たちは
「存在が存在する」とか
「存在は存在しない」とか
いう風に表現しているのです。
独我論に問題があるとすれば、子どもが世界に目覚める時に、超越論的主観が
ある特定の人物である、という形で目覚める、という事実にあるのでしょう。
永井はほんとうに哲学者なんだろうか。
934 :
929:2010/02/27(土) 13:11:07 0
自分は冗語だとは思いません。
仮に、社会的に(=社会という観点から)冗語だとして、この社会(現代日本社会だけではありません。念のためですが)そのものが「冗談」ではない、と何を根拠に言えるのでしょうか。
あるいは、これも仮に、全宇宙的な観点からしても冗語だとして、この全宇宙=世界そのものが「冗談」ではない、と何を根拠に言えるのでしょうか。
「冗談」だとした場合、その「冗談」の主体を神か悪魔か‥‥etc.に求めたがる人もいると思いますが、自分はなぜか、そういう、主体を探求する方向には関心を持てません。
935 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 13:29:17 0
>>934 お前もひょっとして、永井教徒か?
あなたが「私」と発語したら、それはあなたという人物(人物ではなくて、自己意識でもいいが)
を指すのであって、その「私」以外の別の「私」を指すなどということはありえない。
「この」という言い方は余計です。「この私」と言ってもいいが、そのときには他の誰でもなく
この人物であるということを強調しているにすぎない。
936 :
929:2010/02/27(土) 14:19:05 0
永井均の一読者ではあります。教徒でも信者でもありません。
永井ファンにはついていけないなー、という感慨を持ちつつもあります。
>あなたが「私」と発語したら、それはあなたという人物(人物ではなくて、自己意識でもいいが)
>を指すのであって、その「私」以外の別の「私」を指すなどということはありえない。
それはその通りだと思います。
>「この」という言い方は余計です。「この私」と言ってもいいが、そのときには他の誰でもなく
>この人物であるということを強調しているにすぎない。
余計‥‥かどうかは、何とも言えません。
強調にすぎない‥‥としても、それに関心がある、と言っているのです。
自分は「私」について、さほどの関心はありません。
(もちろん、社会に生きる上で、社会的存在としての自分には、それなりの関心はあります)
「『この我』思う、故に『この我』あり」は、自分の関心を哲学(と呼ばれている分野)っぽく糊塗してみた表現です。
もっとシンプルに、
「『これ』思う、故に『これ』あり」
「A思う、故にAあり」
でもいいと思っています。
この『これ』やAが、たまたま自分(という思惟の主体)であったと。
ただこう(社会のなかで)言うと、思惟することのできない『これ』は『これ』ではないのか、同じようにAはAではないのか、といった質問に付き合わざるを得なくなるので、「『この我』思う〜」というのは、自分としては、いちおう社会というものに合わせた表現のつもりです。
‥‥書いているうちに、自分が永井均より(一面識もありませんが‥‥)社会的に変人なのではないかと思えてきましたよ。
937 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 17:01:45 0
これは別に反論でもなんでもないのですが
>(もちろん、社会に生きる上で、社会的存在としての自分には、それなりの関心はあります)
>「『この我』思う、故に『この我』あり」は、自分の関心を哲学(と呼ばれている分野)っぽく糊塗してみた表現です。
あなたのような健全な人がデカルトを読むと、その程度の理解になってしまう
わけです。別にそれでもいいのですが、それでは他人の心に関する懐疑論が
発生してしまうのです。あなたはもちろんそんなことを疑わないと思いますが、
永井は、なんだか変な妄想を作りあげて生きているのです。
938 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 23:01:37 0
俺がネタフリしたら予想通り食いついたなw
939 :
考える名無しさん:2010/02/27(土) 23:51:11 0
何も導いていないのだから、【故に】を挟むのは、まずいな。
【このことをもって】とした方がいい。
【思うということをもって、我は存在する】
肉体とは別に、思惟するものが存在するという二元論の主張になる。
929が言ってるのって永井の言ってる独在論でしょ?
永井の独在論だったら別に他人の心の懐疑は生じないでしょ
もし独我論が文字通り真実で、世界に自分の心一つしかない
(と考えている)のだとしたら、なぜこの人物が『この私』なのか
なんて疑問は生まれないじゃん
独在論は他人、というか複数の心が実在することを認めないと出てこない考え
てか独在論と独我論を混同して語る奴が多すぎ
941 :
考える名無しさん:2010/03/07(日) 19:26:46 0
独我論が真ということはありえない
なぜならこの世界が1人の意識から構成されるとするなら
なんらかの言明が誤りうること自体がありえない
つまり真偽概念が無効になるからである
>>941 君の言う意味の真偽概念自体が独我論を前提としていない以上、
無効にになるのは当然のことで、それと独我論の真偽とはまた別の話だろ。
すいません、独我論に真偽概念ってあるんですか?
よかったら定義と真理条件を教えてもらえませんか
>>943 どういう意味で「真偽概念」って使ってるの?
それを聞かれてるんじゃないの?w
つまらん
947 :
考える名無しさん:2010/03/16(火) 10:35:55 0
「我」とは何か?
948 :
929:2010/03/16(火) 17:05:11 0
>>941さんにほぼ同意です。
独我論は否定するためのものでしょう。
個人的には、独我「論」と表記したほうがいいと思いますが。
「独我論は正しい」というのは、偽文のようなもの(あくまで「のような」)でしょう。
野暮は承知の上で書きますが、独我論は、正しいかどうかでなく、どのように否定するかが面白いんでは?
何故なら、その「どのように」の部分が、その人物(無論この私も含まれます)の世界観・他者観に関わるのですから。
その「どのように」は、他人から見ると「その人らしさ」と換言・還元できるでしょう、本人がどれだけ「深く」考えているつもりでも。
未だいるのかわかりませんが、竹○信者(一部のディープな方を除く)なんか、これを言うと怒りそうですね。
>>948 観念論的に考えれば真偽なんて「そう思わざるを得ない」という心的なものだろう。
だったら独我論的世界において主体が「あれは真だ」「あれは偽だ」と思うことは可能だから
>>941は間違っていると思う。
>なんらかの言明が誤りうること自体がありえない
でいう「誤り」は、客観世界を前提として、
主観がそれと一致するというような世界のなかで成立することを指しているのだから
そのような世界を前提としない独我論を批判する方法としては見当外れなんじゃないか。
真偽概念は非独我論的概念だからね
独我論の真偽を問うても意味がない
独我論とは「つぶやき」でしかないんだよ
真に我独りであるなら、非独我概念を生じることもなく、つぶやくことも無いだろう。
動物だからアーウーくらいは言うよ
動物は独我論者じゃないし、非意味のうなり声は言語ではない。
別につぶやきが有意味である必要はないわけでね
956 :
考える名無しさん:2010/03/20(土) 22:04:11 0
>>949 理屈としてはわかるけど、
それで、あなたは独我論が正しいと思ってるの?
理屈としても成り立ってないでしょ
>>955 自分にとっても意味の通じない唸り声が、おまいにとっての独我論なん?
959 :
考える名無しさん:2010/03/20(土) 23:18:18 0
何の話してんの?
961 :
考える名無しさん:2010/03/22(月) 01:36:28 0
それではないなぁ
まだまだだなw
963 :
考える名無しさん:2010/03/22(月) 05:28:47 0
w
964 :
考える名無しさん:2010/03/22(月) 13:19:31 0
独我論は「論」として立てた時点で破綻する
>>960 追い立てられたケダモノの唸り声を聞く会。
967 :
929:2010/03/23(火) 17:27:55 0
バランスを取るために永井教徒?の悪口も書いておきましょう。
私が他の永井読者像として期待していたのは、開闢が持続する!‥‥と毎瞬毎瞬驚いているような人物なんですな。
ところが誰も彼も私私私‥‥で、食傷気味なわけです。
「<子ども>のための哲学」だけでも「独今論」なんてものが提示されているのに、独我論や独在論?ばかりに彼らの関心は集中しているように思えます。たぶん若い人間だと思いますが。
近代社会は「私」問題が語りやすい社会であるし、ましてこの日本社会は、私小説をもてはやす傾向があるでしょう。
それが歴史的に積み重なっている社会構造がある。竹田青嗣はそれにうまく乗っかった人ですね。無意識的になんでしょうが。
永井教徒?の多くも、同じライン上に存在しているように見えます。社会的にはね。
「私しかいない」も「今しかない」も禅でいうとまだ途中段階だよね。
そこから先がまだあるのだけれど、
そこにすら至っていないで批判しているのが多いね。
独我論者の仮想敵って永井信者なん?
>>967 永井ともこのスレとも全然関係ないですが
>開闢が持続する!‥‥と毎瞬毎瞬驚いている
私はこういう考え方は好きではありません。
あなたがどういう人か全然わかりませんが、
ひとりの人間としてたまたま生まれて、死んでいく
ということについてどう考えてますか。
971 :
考える名無しさん:2010/03/24(水) 19:50:51 0
いまどき、竹田がどうしたなんていってる奴が存在してるわけないだろ。
竹田本人は、もちろん存在するけど。
972 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 01:03:35 0
独我論の正しさは異常w
973 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 02:54:07 0
>>967 >私が他の永井読者像として期待していたのは、開闢が持続する!‥‥と毎瞬毎瞬驚いているような人物なんですな。
「翔太と猫のインサイトの夏休み」は哲学の教科書として大変優れたものと
私は考えていますが、哲学書としては「ソフィーの世界」の完全なパクリだ
と思っています。
あなたはどう考えますか。
ぜひ、お聞かせください。
974 :
929:2010/03/26(金) 12:14:08 0
>>970 自分の精神的な痛み、社会的な被圧迫・迫害、人生、また自分や愛する者の生や死に、意味がないのではないか、という懐疑。これによって生ずる不安は(少なくとも自覚的な)近代人が抱え込む苦悩でしょう。
また、これは永井の「これがニーチェだ」からの拝借ですが、こういった苦悩それ自体に何の意味・意義もないのではないか、という懐疑。これによって生ずる不安は、前段の苦悩の構造に自覚的な「誠実な」近代人が、さらに抱え込む苦悩でしょう。
「<子ども>のための哲学」の永井ではありませんが、義務教育のうちに、こういった「基本」を教えたほうがいいと思っています。
答になっているでしょうか。
>>971 バカにされてしまったので、一応、レスしておく。
俺、竹田は結構好きだよ。
なんだかワケわかんないこと、堂々と言ってるから。
「自分を知るための哲学入門 」を読んでもわかるけど、多くの竹田ファンは
そういうところに惹かれるのではないだろうか。
(断っておきますが、この本はいまさら読んでもどうしようもありません
でも、興味があったら、立ち読みしてください)
独我論者は独我論を否定するために独我論を志すんや!
977 :
929:2010/03/27(土) 20:56:01 0
>>973 >「翔太と猫のインサイトの夏休み」
>「ソフィーの世界」
すみません。どちらも未読です。
>>970 たぶん、私は「私」問題に関する哲学的感度が鈍い人間なんでしょう。
あなたの問いの重要ポイントは、おそらく「たまたま」の部分でしょう。
私はこの、「私」問題においての「たまたま」というような偶然性に、あまり驚きを感じ得ないんですよ。
たしかに偶然ではありますが、その偶然が無数に生じている以上、それは「たまたま」「偶然」という語義以上のものを探求する必要性を見出せない。
奇跡であるかもしれませんが、その奇跡が無数に生じている以上‥‥です。
生命は、人間の命は、その誕生は、もちろん尊ぶべきものです。
しかし、そういう話ではありませんよね。
もうこのスレのも終盤なわけですが
誰も魅力ある体系を築けなかった。
だって馬鹿なんだもん♪
でもこのスレに引きつけられる
だって馬鹿なんだもん♪
979 :
考える名無しさん:2010/03/28(日) 23:33:05 0
独我論は否定できないんだけど、何故否定する必要があるのかって方が
答えに近づけるんじゃないかな。独我論が間違いで無ければならないとする理由、
それこそが哲学的第一歩ではないだろうか。
自分が消えても世界は存在するか?がポイントじゃ無いしな。
自分が消えても世界が存在すると証明する方法が無い、これが独我論のポイントだと思うんだけどどうだろ。
馬鹿がポイントを合わせようとしても合わない。
しょせん馬鹿だから♪
馬鹿が合わせようとしたポイントもそもそもポイントでない。
しょせん馬鹿だから♪
自演我論
982 :
考える名無しさん:
真我覚醒した奴だけが独我論を理解できるはず。