>>945 > 「本当の過去」とは「かつての今」。「非概念的なもの」という概念。
あれ、それでいいんですか?
しかしそうであれば、永井がそのような「本当の過去」を否定しているとは考えられないけど…
(少なくとも私には)
何かいろいろと理解の仕方にギャップがあるような。
947 :
考える名無しさん:2009/06/11(木) 22:08:32 0
>永井がそのような「本当の過去」を否定しているとは考えられないけど
じゃあ、「今秘性」はあるんじゃないですか?
その点のあなたの私見をお願いします。
>>942 >「過去」という言葉が有効に使われている限り「過去」という言葉の意味
>はあるのではないだろうか。
確かに「ドラゴン」とか「幽霊」という言葉は有効に使われていて
意味もわかり、なおかつそれが存在するとは通常は思われていません。
ただ、それらは仮に存在するとしても、意味が変わるわけではありません。
「身長4メートルの人間」と同じで、存在するかどうかは、経験によるわけです。
思うに「過去(未来も同じか)」が不可思議なのは、その定義上
「存在する」ことができないことです。「かつては存在したが、今は
存在しない」ものを「過去」と呼ぶわけですから、それが現に存在するのなら
それはすでに現在であって過去ではないことになります。
「定義上存在することができない」というのは、考えるとおかしな話です。
さらに「かつては存在した」については、そもそも「かつて」とは「過去には」という
意味なので、「過去」という概念は、それ自身をもってしないと定義できない、
という、さらにおかしな性質を持つことになります。直観的にわかる以外に
言葉で説明のしようがない、という意味で「意識」とか「心」と同じなのでしょうか。
もうひとつ、「過去が存在しない」という場合、「時間はあったが、何億年もの間
ずっと世界が真空だった」という意味ではないと思います。文字通り「時間そのものが
なかった」という意味だと思いますので、やはり「過去=時間」と考える
べきなのでしょうか。
何か関係があるかと、思いつくままに書いてみました。スレ違いでしたら
申し訳ありません。この問題は興味があるので、皆さんの書き込み楽しみに
しております。
949 :
考える名無しさん:2009/06/12(金) 10:52:00 0
>>948 >思うに「過去(未来も同じか)」が不可思議なのは、その定義上
>「存在する」ことができないことです。
「過去」っていう言葉が「過去の存在者」を指しているとすれば、
それは、今は現実には現実には存在せず、観念(思い出)として存在するもの。
かな?
「過去」という言葉が、「過去」という時間そのものを指しているとすれば、
それもやはり、現実には存在せず、観念として存在するもの。
かな?
(年表のような数直線的時間観念の中に、過去は存在するだろ?)
さて、私はここで「現実」と「観念」を区別したわけだが、
この辺にも問題の核心があるような気がするんだが。。。
950 :
考える名無しさん:2009/06/12(金) 21:27:20 0
>>948 >思うに「過去(未来も同じか)」が不可思議なのは、その定義上
>「存在する」ことができないことです。
それは「知覚される」ということを「存在する」こととと定義しているからだろ。
「神」とか「数」とか「法律」とか、知覚されなくても存在するものはたくさんある。
>それが現に存在するのならそれはすでに現在であって過去ではないことになります。
なぜでしょうか。あなたは「現に存在する」ということを「現在に存在する」と定義
しているだけなのではないでしょうか。
>>947 趣旨を私なりに解釈してみると、
過去の痛みを今思い出すことができる(他人の痛みを感じられないのとは違って)とすると、
逆にいえば、今思い出した痛みはそのまま過去の痛みにもなってしまい、実は過去の痛みは
違っていた(今なら痒みと呼ぶものだった)という可能性がなくなってしまい、今が全てになってしまう
というようなことだろうか。(違ってたらすいません)
それはそれで問題がありそうな気がするけど、ただ、累進構造や「非概念的なもの」という概念の話とは
また別の問題なんじゃないですかね?
例えば、「この今こそが特別だ」という言い方が全ての今に当てはまってしまう、という話は、
過去(かつての今)にも未来(これからの今)にも当てはまると思われるけど、それなのに、
過去については記憶というものがあるから当てはまらなくなってしまう、というのは変では?
さらには、仮に私が何らかのテレパシー能力を身に着けて私秘性がなくなったら、それによって
他人はゾンビになるということになるのか?(どちらかといえば逆では)
「今秘性」とは何のことですか。
「過去は存在するかもしれないし、存在しないかもしれないが、
今の時点からそれを判断することはできない。」という意味ですか。
「他人の心は存在するかもしれないし、存在しないかもしれないが、
私からそれを判断することはできない。」のと同じように。
それなら、それはその通りで、「今秘性」はある、というべきでは。
「他人の心と違って、過去は記憶という紐帯で私と直接つながっている」
と永井氏は言っていたと思いますが、記憶というのは間違えているかも
しれないし、妄想かもしれないし、それこそたった今作られたものかも
しれないので、「直接の紐帯」とはいえないのでは。
まして、私が物心がつく以前の過去(歴史的過去)などは、記憶という
紐帯がそもそもありません。
「他人の心」は「他人のふるまいとか言動という現在の事実」から
その存在が推定され、「過去」も「私の記憶とか周囲の状況や記録という
現在の事実」からその存在が推定されるので、格別違いはないと
いってはいけないのでしょうか。
「われ思うゆえにわれあり」は確実かもしれませんが、
「われ思ったゆえにわれあった」は、確実とはいえないのでは。
953 :
考える名無しさん:2009/06/13(土) 10:30:21 0
みんな混同しているようが、この主題は確実性の問題とは全く関係ない。
ヒュームでいう印象が観念化されるプロセスが介在するかどうかが問題だろう。
過去の自分の場合と違って他我認識にはこのプロセスが介在していない。
そういう細部の違いを細かく見るべき論点で、大雑把な懐疑論的論点ではないはずだ。
>>952 > 「今秘性」とは何のことですか。
他人の痛み(心)を直接感じることはできない、というのが「私秘性」で、それに対応して
他の時点の痛み(心)を私が直接感じることはできない、とでもいうようなことが「今秘性」で、
永井はそれを否定している、ということでしょう。『なぜ意識』の該当箇所による限り。
たんに「存在するかしないかわからない」というだけでまとめられるようなところではないと思う。
> 「他人の心」は「他人のふるまいとか言動という現在の事実」から
> その存在が推定され、「過去」も「私の記憶とか周囲の状況や記録という
> 現在の事実」からその存在が推定されるので、格別違いはないと
> いってはいけないのでしょうか。
そのように表現されると趣旨はよく理解できたけど、それは違うのでは。
そのように対応させるのなら、問題なのは他人の心ではなく、「他人の身体、言動、それも含めた
外界の物事全般についての私の知覚や知識は、実際の事実と対応しているだろうか」となるのでは。
(「推定」という表現も気になる)
>>954自己補足
もう少し補足すると、過去についての記憶、証拠などが仮に全て正しかったら、それ以上に
本当に過去の事実が存在するのか?なんて考えてみても意味がわからないだろう。
(本当に正しいかどうやって確かめるのかは別論として)
しかし、他人の身体、言動などについての私の知覚が仮に全て正しかったとしても、やはり、
他人の心が存在するかわからないという問題は残る(のかどうか?)と考えられるのでは。
こんなふうに区別してみるのはどうですかね。
(しかし永井の本ではそんな区別にはなっていないようだけど)
956 :
考える名無しさん:2009/06/13(土) 20:01:53 0
>>951 >仮に私が何らかのテレパシー能力を身に着けて私秘性がなくなったら、それによって
>他人はゾンビになるということになるのか?
私秘性があるということは、我々がテレパシーを使えないという経験的偶然的事情によらない。
「他者」という概念から出てくる論理的なこと。通常の五感に加えてテレパシーがあったと
しても「五感による表象」に加えて「テレパシーによる表象」があたえられるだけで他者の
心を直接知ったとは言えない。
>累進構造や「非概念的なもの」という概念の話とは
>また別の問題なんじゃないですかね?
「私秘性」という概念が「他者」という概念から必然的に出てくるのと同じように、「今秘性」
という概念が「過去自体」という概念から必然的に出てくるということです。逆に、「過去自体」
がないのなら、そこには表象と実在の分離がないので「今秘性」は存在しない。
957 :
956:2009/06/13(土) 22:41:05 0
>>955 >過去についての記憶、証拠などが仮に全て正しかったら、それ以上に
>本当に過去の事実が存在するのか?なんて考えてみても意味がわからないだろう。
それはあなたが「過去の事実」という言葉で物理的事実だけを考えているからだろう。
わたしは「過去」という言葉で、心的であろうと物的であろうとありとあらゆる事実を
考えている。〈今のこれ〉が未来においてそのまま表象されるということが考えられない
限り、「今秘性」があるということは私には自明に思える。
>>957 うーん何だかなあ?
私の書いてきたこともいろいろまずかったのかもしれないけど、もう一度『なぜ意識』107〜108頁の
意識の今秘性の話に絞ったほうがいいだろうか。
ここの箇所では、過去の痛みなどを今思い出すこと自体は可能だということが前提になっていると
思われるけど、あなたの考えだと、それがそもそも不可能だということになるんですかね?
そうだとすれば、永井の議論自体とはだいぶ離れてくるような気がするけど(それが間違いと
いうのではないけど)
それとも、思い出すことはできるが、それでも今秘性はある、ということですかね?
それならまた別の点で永井の議論自体とは離れることになる。
959 :
考える名無しさん:2009/06/14(日) 18:53:59 0
>>958 >ここの箇所では、過去の痛みなどを今思い出すこと自体は可能だということが前提になっていると
>思われるけど、あなたの考えだと、それがそもそも不可能だということになるんですかね?
過去の痛みを今思い出すということは、私秘性との対比でいえば、他人の痛みを想像する
ことにあたるということです。
960 :
959:2009/06/14(日) 19:13:27 0
やっぱり、永井の議論とずれちゃいますかね。
もともとは、なぜ永井は「今秘性」がないなどと言うのだろう、と思って
考えたことを書いただけなのですが。
無理してレスして頂かなくてもいいです。
961 :
たべぞう:2009/06/15(月) 21:46:45 0
他人の痛みを私が経験する→私が経験している以上その痛みがなんであれそれは
私の痛みだ→他者の痛みは経験できない。
過去の痛みを私が今経験する→わたしが今経験している以上その痛みがいつの
いたみであろうと今の痛みだ→過去の痛みは経験できない。
というふうに考えれば類比関係はなりたつようにおもえるけど、
問題は、過去の痛みを今思い出すや想像するという場合。
例えば、痛みの感覚について類似性をたかることが可能だとするならば、
つまり過去感じた痛みと、現在感じている痛みとの比較することが
可能かどうか。
今感じているこの痛みは、昨日感じた痛みと似ているといういいかたに
意味があたえられるなら、過去の痛みを今思い出すといういいかたにも
意味が与えられるように思う。
962 :
たべぞう:2009/06/15(月) 21:55:42 0
話がぜんぜんあってないかもしれないけど。
他人の痛みと私が感じる痛みとを類比する視点がありえないのに対して
過去の痛みと今感じている痛みは、その痛みを感じている(感じた)のが
共通の私であるという点で、他者の痛みとはちがって類比関係をかたることが
可能なのでは。
963 :
959:2009/06/15(月) 21:57:00 0
>今感じているこの痛みは、昨日感じた痛みと似ているといういいかたに
>意味があたえられるなら
意味は与えられる。これは自明。
「私のこの痛みは、彼のあの痛みと似ている」という言い方にも意味が
与えられるというのがわたしの主張。
964 :
たべぞう:2009/06/15(月) 22:26:51 0
>>963 >「私のこの痛みは、彼のあの痛みと似ている」という言い方にも意味が
>与えられるというのがわたしの主張。
でも、類似関係について語ることが意味があるのは、それらが比較可能な
場合だけなのでは。
もしこれが正しいとすれば、
他人の感覚を、わたしが感じることが可能でないかぎり、
他者の感覚とわたしの感覚を比較することができないので、
それらの類似性について語ることに意味はあたえられないのでは。
965 :
959:2009/06/15(月) 22:41:41 0
>他人の感覚を、わたしが感じることが可能でないかぎり、
過去の感覚を、今の私が感じることはできません。
966 :
959:2009/06/15(月) 22:45:59 0
>でも、類似関係について語ることが意味があるのは、それらが比較可能な
>場合だけなのでは。
他人の言葉を聞いて、それをわたしの感覚と比べることは、我々は日常的に行っています。
967 :
たべぞう:2009/06/15(月) 23:02:06 0
>>965 >過去の感覚を、今の私が感じることはできません。
いやそれはそうなのだが、なんというか。
つまり、他人の痛みと私の痛みの関係と過去の痛みと今の痛みの関係の
違いがあるとすれば、
私は他人の痛みを過去においても感じることができないのに対して、
過去の痛みについては、私が感じたことがあるという点。
つまり、私の記憶において、過去の痛みと現在の痛みを比較可能である
ように思える点で、他者の痛みの問題とは違うのではということなのだが。
他人の言葉を聞いて、それをわたしの感覚と比べることは、我々は日常的に行っています。
名前: E-mail:
>>965 >過去の感覚を、今の私が感じることはできません。
いやそれはそうなのだが、なんというか。
つまり、他人の痛みと私の痛みの関係と過去の痛みと今の痛みの関係の
違いがあるとすれば、
私は他人の痛みを過去においても感じることができないのに対して、
過去の痛みについては、私が感じたことがあるという点。
つまり、私の記憶において、過去の痛みと現在の痛みを比較可能である
ように思える点で、他者の痛みの問題とは本質的に違うのではということなのだが。
>>966 >他人の言葉を聞いて、それをわたしの感覚と比べることは、我々は日常的に行っています
そのとき比べられているのは、あくまで、感覚そのものではなくて感覚を感じる状況の類似性
なのでは。
968 :
959:2009/06/16(火) 01:51:42 0
>>967 >そのとき比べられているのは、あくまで、感覚そのものではなくて感覚を感じる状況の類似性
>なのでは。
過去の痛みと比較する時も、感覚そのものと比較しているのではないというのが私の
考えです。過去の私の痛みを一番よく知っているのは今では私ひとりですから、感覚
そのものを比較できるというような錯覚が生まれるのだと思います。
他人の言葉を聞いて、私がかつて今まで持ったことのないような感覚を持つということは
ありうることです。
1 名前:カオル ◆BBBRv/ousU
びろーん
970 :
959:2009/06/16(火) 19:34:38 0
「西田幾多郎」の16ページを見ると、永井は過去のことをゾンビ過去だと単純に
思っているわけではないということは明らかなようだ。
「「今秘性」がない」という発言の背後には、近い過去と現在の私では、従っている
私的言語規則が同じだという確信があるだろうか。
971 :
考える名無しさん:2009/06/16(火) 22:41:29 O
この板にふさわしくないかもしれませんが、もしよろしければご教示ください
中学生の頃、いわゆる独在論に対する考えが浮かび(当時は独在論について知りませんでした)、他の人に等しく、いつのまにか忘れさりましたが、28歳にして、同じ考えを抱くようになりました。
それは他者に意識は宿るのか、そしてそれは自分には証明できないという考えです。
次第にそれは観念化し、私を恐怖に陥れています。
具体的には、いわれようのない孤独感と、狂気化しないのではないかという恐怖です。
そこで質問ですが、皆さんは、独在論の考えと日常感覚のバランスをどのように保っておられますか?
972 :
考える名無しさん:2009/06/16(火) 22:48:27 0
>>971 >それは他者に意識は宿るのか、そしてそれは自分には証明できないという考えです。
>次第にそれは観念化し、私を恐怖に陥れています。
他者に意識が宿るということは証明できない。それはアプリオリなこと。それがなぜ恐怖
なのですか。
あなたは独在論を理解しているようには思えない。
大森荘蔵でも読みなさい。
973 :
考える名無しさん:2009/06/16(火) 22:56:15 0
ポール乙
個人的には、バランスを取るもへったくれもありません。
だって現にそのようになっている(と私は理解している)のだから、否定しようがない。
でもその前に、他人に意識がない(かもしれない)とはどういうことか、『なぜ意識』を
熟読して考えてみるのはどうですかね。(他の本でもいいけど)
このような本を書いている永井について、本当に意識がない(かもしれない)と言えるのか、とかw
>他人に意識がない(かもしれない)
このように考える人には、愛する人はいないんだろうか。。。
少なくとも、愛する我が子があれば、このような考えは出てくるはずがないと思うんだが。。。
976 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:05:11 0
>>975 いないんだろう。あるいは愛する人が死んでしまったとか。
自分には愛する人がいるからといって、なんだ、えらそうに。
友達も いないんだろうか。。。
(いないんだろう。)
(友達がいるからといって、なんだ、えらそうに。)
978 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:29:04 0
そういう周囲の状況によって思想が生まれると考えてる時点で、哲学的センスなさすぎ。
さようなら。
979 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:33:15 0
愛する人や友達にしか意識がないと考えてる人がいるということがわかった。
>>978 いや そうじゃないですよ。。。
もし愛する人や友達がいて、「他人に意識がない(かもしれない) 」
と考えるなら、自分が愛する人や自分の友達に意識がない(かもしれない)
と考えているはずでしょう?
そうでないと、机上の空論になるから。
で、自分が愛する人や自分の友達に意識がないと思うことって、
あり得るの?と思ったわけですよ。。。
981 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:43:43 0
>>980 ありうるよ。
大森荘蔵の「流れとよどみ」を読んでください。
>>981 貴方が説明できないなら、
あり得ないという結論で。。。
983 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:52:41 0
あなたのような想像力の足りない人に、説明しろと強要されてもかないませんな。
984 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 08:21:11 O
愛する人に意識がない可能性を否定しきれないのが、日常的苦悩なのです
>>984 そうなんですか。。。
私なら自分が、その相手の人に意識がない可能性を否定し切れなければ、
その人を「愛する人」とは呼べないでしょうね。
意識のないモノへの愛着と、人と人との愛は本質的に別だと思っているので。
986 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 09:00:14 O
なるほど。
ちなみに、論を以てして否定できますか?
論を持つならば、それは愛ではないといったところですよね…おそらく
987 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 09:06:28 O
バーバリズムやガリバニズムですね
>>986 >ちなみに、論を以てして否定できますか?
それはできません。
あくまでも私にとって「愛」の話ですから。
人形への愛と我が子への愛には、本質的な違いがない
と思っている人にとっての「愛」と、
私にとっての「愛」の意味が違うんでしょう。。。
ということになると思います。
989 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 14:24:29 0
ちょっと来ないうちに、なんだかいいスレに戻ってる、と思ったらもうスレ終わりかw
「意識」と言う一般的なものはなくても、
「これ」という固有のものに対する愛はあるような気がするが…。
なんというか魂というべきか
ガリバニズムって何?
とりあえず、どなたか次スレをお願いします。私は無理だった。
スレ立て依頼代行スレというのがあったので、そちらにでも頼んだほうがいいんだろうか。
明日、立ってなかったら俺立ててみますよ。
タイトルは現行の続きということでいいですね?
あと、テンプレ出しといてください。